三蔵経蔵(Sutta)長部(D)マハーヴァッガパーリ2 大因縁経2.1 縁起Eevame2025/7/30このように私は聞きました。ある時、世尊はクル族において、カンマーサダンマというクル族の町におられました。その時、尊者アーナンダは世尊のもとに近づき、近づいて世尊に挨拶し、わきに座りました。わきに座った尊者アーナンダは世尊にこう言いました— 「驚くべきことです、尊者よ。稀有なことです、尊者よ。この縁起はなんと深く、その現れもまた深いことでしょう。しかし、私には、それはまるで平易なことのように思われます」 「アーナンダよ、そう言ってはいけない。アーナンダよ、そう言ってはいけない。アーナンダよ、この縁起は深く、その現れもまた深い。アーナンダよ、この法を理解せず、悟ることができないので、人々は混乱した糸玉のようになり、絡み合った糸のようになり、イバラの茂みのようになり、不幸、悪趣、破滅、輪廻を超えられないのです。 「アーナンダよ、『老いと死は、これこれを縁として存在する』と問われたならば、『存在する』と答えるべきです。もし『老いと死は何を縁とするのか』と問われたならば、『生を縁として老いと死がある』と答えるべきです。 「アーナンダよ、『生は、これこれを縁として存在する』と問われたならば、『存在する』と答えるべきです。もし『生は何を縁とするのか』と問われたならば、『有を縁として生がある』と答えるべきです。 「アーナンダよ、『有は、これこれを縁として存在する』と問われたならば、『存在する』と答えるべきです。もし『有は何を縁とするのか』と問われたならば、『執着を縁として有がある』と答えるべきです。 「アーナンダよ、『執着は、これこれを縁として存在する』と問われたならば、『存在する』と答えるべきです。もし『執着は何を縁とするのか』と問われたならば、『渇愛を縁として執着がある』と答えるべきです。 「アーナンダよ、『渇愛は、これこれを縁として存在する』と問われたならば、『存在する』と答えるべきです。もし『渇愛は何を縁とするのか』と問われたならば、『感受を縁として渇愛がある』と答えるべきです。 「アーナンダよ、『感受は、これこれを縁として存在する』と問われたならば、『存在する』と答えるべきです。もし『感受は何を縁とするのか』と問われたならば、『接触を縁として感受がある』と答えるべきです。 「アーナンダよ、『接触は、これこれを縁として存在する』と問われたならば、『存在する』と答えるべきです。もし『接触は何を縁とするのか』と問われたならば、『名色を縁として接触がある』と答えるべきです。 「アーナンダよ、『名色は、これこれを縁として存在する』と問われたならば、『存在する』と答えるべきです。もし『名色は何を縁とするのか』と問われたならば、『識を縁として名色がある』と答えるべきです。 「アーナンダよ、『識は、これこれを縁として存在する』と問われたならば、『存在する』と答えるべきです。もし『識は何を縁とするのか』と問われたならば、『名色を縁として識がある』と答えるべきです。 このように、アーナンダよ、名色を縁として識があり、識を縁として名色があり、名色を縁として接触があり、接触を縁として感受があり、感受を縁として渇愛があり、渇愛を縁として執着があり、執着を縁として有があり、有を縁として生があり、生を縁として老いと死、悲しみ、嘆き、苦しみ、憂い、絶望が生じるのです。このようにして、この苦しみの集積全体が生じるのです。 「『生を縁として老いと死がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、生を縁として老いと死があるということです。アーナンダよ、もし生が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、たとえば、神々にとっての神々の生、ガンダルヴァにとってのガンダルヴァの生、ヤッカにとってのヤッカの生、鬼神にとっての鬼神の生、人間にとっての人間の生、四つ足の獣にとっての四つ足の獣の生、鳥にとっての鳥の生、爬虫類にとっての爬虫類の生、それらのそれぞれの生き物にとって、その存在としての生がなかったならば、全く生がない場合、生の滅尽によって、老いと死が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが老いと死の条件なのです。すなわち、生です」 「『有を縁として生がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、有を縁として生があるということです。アーナンダよ、もし有が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、たとえば、欲有、色有、無色有がなかったならば、全く有がない場合、有の滅尽によって、生が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが生の条件なのです。すなわち、有です」 「『執着を縁として有がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、執着を縁として有があるということです。アーナンダよ、もし執着が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、たとえば、欲への執着、見解への執着、戒律への執着、自我説への執着がなかったならば、全く執着がない場合、執着の滅尽によって、有が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが有の条件なのです。すなわち、執着です」 「『渇愛を縁として執着がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、渇愛を縁として執着があるということです。アーナンダよ、もし渇愛が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、たとえば、色への渇愛、音への渇愛、匂いへの渇愛、味への渇愛、触への渇愛、法への渇愛がなかったならば、全く渇愛がない場合、渇愛の滅尽によって、執着が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが執着の条件なのです。すなわち、渇愛です」 「『感受を縁として渇愛がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、感受を縁として渇愛があるということです。アーナンダよ、もし感受が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、たとえば、眼による接触から生じる感受、耳による接触から生じる感受、鼻による接触から生じる感受、舌による接触から生じる感受、身体による接触から生じる感受、意による接触から生じる感受がなかったならば、全く感受がない場合、感受の滅尽によって、渇愛が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが渇愛の条件なのです。すなわち、感受です」 このように、アーナンダよ、感受を縁として渇愛があり、渇愛を縁として探求があり、探求を縁として獲得があり、獲得を縁として決定があり、決定を縁として欲望と愛着があり、欲望と愛着を縁として耽溺があり、耽溺を縁として所有があり、所有を縁として貪欲があり、貪欲を縁として防衛があります。防衛を原因として、刑罰の執行、武器の奪い合い、争い、けんか、口論、悪口、中傷、嘘など、多くの悪い不善なことが生じるのです。 「『防衛を原因として、刑罰の執行、武器の奪い合い、争い、けんか、口論、悪口、中傷、嘘など、多くの悪い不善なことが生じる』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、防衛を原因として、刑罰の執行、武器の奪い合い、争い、けんか、口論、悪口、中傷、嘘など、多くの悪い不善なことが生じるということです。アーナンダよ、もし防衛が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、全く防衛がない場合、防衛の滅尽によって、刑罰の執行、武器の奪い合い、争い、けんか、口論、悪口、中傷、嘘など、多くの悪い不善なことが生じると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが刑罰の執行、武器の奪い合い、争い、けんか、口論、悪口、中傷、嘘など、多くの悪い不善なことの条件なのです。すなわち、防衛です」 「『貪欲を縁として防衛がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、貪欲を縁として防衛があるということです。アーナンダよ、もし貪欲が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、全く貪欲がない場合、貪欲の滅尽によって、防衛が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが防衛の条件なのです。すなわち、貪欲です」 「『所有を縁として貪欲がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、所有を縁として貪欲があるということです。アーナンダよ、もし所有が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、全く所有がない場合、所有の滅尽によって、貪欲が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが貪欲の条件なのです。すなわち、所有です」 「『耽溺を縁として所有がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、耽溺を縁として所有があるということです。アーナンダよ、もし耽溺が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、全く耽溺がない場合、耽溺の滅尽によって、所有が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが所有の条件なのです。すなわち、耽溺です」 「『欲望と愛着を縁として耽溺がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、欲望と愛着を縁として耽溺があるということです。アーナンダよ、もし欲望と愛着が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、全く欲望と愛着がない場合、欲望と愛着の滅尽によって、耽溺が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが耽溺の条件なのです。すなわち、欲望と愛着です」 「『決定を縁として欲望と愛着がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、決定を縁として欲望と愛着があるということです。アーナンダよ、もし決定が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、全く決定がない場合、決定の滅尽によって、欲望と愛着が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが欲望と愛着の条件なのです。すなわち、決定です」 「『獲得を縁として決定がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、獲得を縁として決定があるということです。アーナンダよ、もし獲得が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、全く獲得がない場合、獲得の滅尽によって、決定が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが決定の条件なのです。すなわち、獲得です」 「『探求を縁として獲得がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、探求を縁として獲得があるということです。アーナンダよ、もし探求が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、全く探求がない場合、探求の滅尽によって、獲得が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが獲得の条件なのです。すなわち、探求です」 「『渇愛を縁として探求がある』と、このように言いましたが、アーナンダよ、これはこの方法によっても理解されるべきです。すなわち、渇愛を縁として探求があるということです。アーナンダよ、もし渇愛が全くなかったならば、誰にとっても、何についても、いかなる場合にも、たとえば、欲への渇愛、有への渇愛、無有への渇愛がなかったならば、全く渇愛がない場合、渇愛の滅尽によって、探求が存在すると言えるでしょうか」 「いいえ、尊者よ」。「それゆえ、アーナンダよ、これがまさに原因であり、これが根源であり、これが生起であり、これが探求の条件なのです。すなわち、渇愛です。このように、アーナンダよ、これらの二つの法は、二つによって、すなわち感受によって、一つに合流するのです」 「触を縁として感受がある」と、アーナンダよ、このように言われているが、このことについて、触を縁として感受があるように、このように理解されるべきである。アーナンダよ、もしあらゆる点で、あらゆる意味で、誰にとっても何らかの意味で触がなかったとしたら、例えば、眼の触、耳の触、鼻の触、舌の触、身体の触、意の触が全くなかったとしたら、触がなければ、触が滅びれば、感受が生じるだろうか」 「いいえ、尊者」。「それゆえ、アーナンダよ、触こそが感受の理由であり、根源であり、生起であり、条件なのである」 「名色を縁として触がある」と、アーナンダよ、このように言われているが、このことについて、名色を縁として触があるように、このように理解されるべきである。アーナンダよ、どのような様相、どのような特徴、どのような兆候、どのような名称によって名身の認識が生じるのか。そのような様相、そのような特徴、そのような兆候、そのような名称がなければ、色身に接触の認識が生じるだろうか」 「いいえ、尊者」。「アーナンダよ、どのような様相、どのような特徴、どのような兆候、どのような名称によって色身の認識が生じるのか。そのような様相…(中略)…そのような名称がなければ、名身に反発の接触が生じるだろうか」 「いいえ、尊者」。「アーナンダよ、どのような様相…(中略)…どのような名称によって名身と色身の認識が生じるのか。そのような様相…(中略)…そのような名称がなければ、接触または反発の接触が生じるだろうか」 「いいえ、尊者」。「アーナンダよ、どのような様相…(中略)…どのような名称によって名色の認識が生じるのか。そのような様相…(中略)…そのような名称がなければ、触が生じるだろうか」 「いいえ、尊者」。「それゆえ、アーナンダよ、名色こそが触の理由であり、根源であり、生起であり、条件なのである」 「識を縁として名色がある」と、アーナンダよ、このように言われているが、このことについて、識を縁として名色があるように、このように理解されるべきである。アーナンダよ、もし識が母胎に宿らなかったとしたら、名色は母胎の中で凝集するだろうか」 「いいえ、尊者」。「アーナンダよ、もし識が母胎に宿ってから離れていったとしたら、名色は現在の状態に形成されるだろうか」 「いいえ、尊者」。「アーナンダよ、もし識が幼い子供、男の子または女の子から断絶されたとしたら、名色は成長、増大、拡大するだろうか」 「いいえ、尊者」。「それゆえ、アーナンダよ、識こそが名色の理由であり、根源であり、生起であり、条件なのである」 「名色を縁として識がある」と、アーナンダよ、このように言われているが、このことについて、名色を縁として識があるように、このように理解されるべきである。アーナンダよ、もし識が名色に拠り所を得なかったとしたら、未来において、生、老、死、苦の集起、発生が生じるだろうか」 「いいえ、尊者」。「それゆえ、アーナンダよ、名色こそが識の理由であり、根源であり、生起であり、条件なのである。アーナンダよ、まさにこの範囲内で生まれ、老い、死に、滅び、生まれ変わるのである。まさにこの範囲内で呼称の道があり、まさにこの範囲内で言語表現の道があり、まさにこの範囲内で認識の道があり、まさにこの範囲内で智慧の領域があり、まさにこの範囲内で輪廻が回転し、現在の状態が認識される。すなわち、識を伴った名色が相互に依存し合って存在するのである」240JACommentslogin and startStartpost