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一 大震雑記
一
大正十二年八月、僕は一游亭《いちいうてい》と鎌倉へ行《ゆ》き、平野屋《ひらのや》別荘の客となつた。僕等の座敷の軒先《のきさき》はずつと藤棚《ふぢだな》になつてゐる。その又藤棚の葉の間《あひだ》にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架《こうか》の窓から裏庭を見ると、八重《やへ》の山吹《やまぶき》も花をつけてゐる。
山吹を指《さ》すや日向《ひなた》の撞木杖《しゆもくづゑ》 一游亭
(註に曰《いはく》、一游亭は撞木杖をついてゐる。)
その上又珍らしいことは小町園《こまちゑん》の庭の池に菖蒲《しやうぶ》も蓮《はす》と咲き競《きそ》つてゐる。
葉を枯れて蓮《はちす》と咲ける花あやめ 一游亭
藤、山吹、菖蒲《しやうぶ》と数へてくると、どうもこれは唯事《ただごと》ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来《じらい》人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も真《ま》に受けない。久米正雄《くめまさを》の如きはにやにやしながら、「菊池寛《きくちくわん》が弱気になつてね」などと大いに僕を嘲弄《てうろう》したものである。
僕等の東京に帰つたのは八月二十五日である。大《だい》地震はそれから八日《やうか》目に起つた。
「あの時は義理にも反対したかつたけれど、実際君の予言は中《あた》つたね。」
久米も今は僕の予言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白状しても好《よ》い。――実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ。
二
「浜町河岸《はまちやうがし》の舟の中に居《を》ります。桜川三孝《さくらがはさんかう》。」
これは吉原《よしはら》の焼け跡にあつた無数の貼《は》り紙の一つである。「舟の中に居《を》ります」と云ふのは真面目《まじめ》に書いた文句《もんく》かも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行《いちぎやう》の中に秋風《しうふう》の舟を家と頼んだ幇間《ほうかん》の姿を髣髴《はうふつ》した。江戸作者の写した吉原《よしはら》は永久に還《かへ》つては来ないであらう。が、兎《と》に角《かく》今日《こんにち》と雖《いへど》も、かう云ふ貼り紙に洒脱《しやだつ》の気を示した幇間《ほうかん》のゐたことは確かである。
三
大《だい》地震のやつと静まつた後《のち》、屋外《をくぐわい》に避難した人人は急に人懐しさを感じ出したらしい。向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨《なし》をすすめ合つたり、互に子供の守《も》りをしたりする景色は、渡辺町《わたなべちやう》、田端《たばた》、神明町《しんめいちやう》、――殆《ほとん》ど至る処に見受けられたものである。殊に田端《たばた》のポプラア倶楽部《クラブ》の芝生《しばふ》に難を避けてゐた人人などは、背景にポプラアの戦《そよ》いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何《いか》にも楽しさうに打ち解《と》けてゐた。
これは夙《つと》にクライストが「地震」の中に描《ゑが》いた現象である。いや、クライスト[#「クライスト」は底本では「クイラスト」]はその上に地震後の興奮が静まるが早いか、もう一度平生の恩怨《おんゑん》が徐《おもむ》ろに目ざめて来る恐しささへ描《ゑが》いた。するとポプラア倶楽部《クラブ》の芝生《しばふ》に難を避けてゐた人人もいつ何時《なんどき》隣の肺病患者を駆逐《くちく》しようと試みたり、或は又向うの奥さんの私行を吹聴《ふいちやう》して歩かうとするかも知れない。それは僕でも心得てゐる。しかし大勢《おほぜい》の人人の中にいつにない親しさの湧《わ》いてゐるのは兎《と》に角《かく》美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。
四
僕も今度は御多分《ごたぶん》に洩《も》れず、焼死した死骸《しがい》を沢山《たくさん》見た。その沢山の死骸のうち最も記憶に残つてゐるのは、浅草《あさくさ》仲店《なかみせ》の収容所にあつた病人らしい死骸である。この死骸も炎《ほのほ》に焼かれた顔は目鼻もわからぬほどまつ黒だつた。が、湯帷子《ゆかた》を着た体や痩《や》せ細つた手足などには少しも焼け爛《ただ》れた痕《あと》はなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ為ばかりではない。焼死した死骸は誰も云ふやうに大抵《たいてい》手足を縮《ちぢ》めてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふ訣《わけ》か、焼け残つたメリンスの布団《ふとん》の上にちやんと足を伸《の》ばしてゐた。手も亦《また》覚悟を極《き》めたやうに湯帷子《ゆかた》の胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみ悶《もだ》えた死骸ではない。静かに宿命を迎へた死骸である。もし顔さへ焦《こ》げずにゐたら、きつと蒼《あを》ざめた脣《くちびる》には微笑に似たものが浮んでゐたであらう。
僕はこの死骸をもの哀《あは》れに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」と云つた。成程《なるほど》さう云はれて見れば、案外《あんぐわい》そんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである。
五
僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛《きくちくわん》はこの資格に乏しい。
戒厳令《かいげんれい》の布《し》かれた後《のち》、僕は巻煙草を啣《くは》へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤《もつと》も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣《わけ》ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉《まゆ》を挙げながら、「|《うそ》だよ、君」と一喝《いつかつ》した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや
だらう」と云ふ外《ほか》はなかつた。しかし次手《ついで》にもう一度、何《なん》でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「
さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも
か」と忽ち自説(?)を撤回《てつくわい》[#ルビの「てつくわい」は底本では「てつくわ」]した。
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装《よそほ》はねばならぬものである。けれども野蛮《やばん》なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似《まね》もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄《はうき》したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団《じけいだん》の一員たる僕は菊池の為に惜《をし》まざるを得ない。
尤《もつと》も善良なる市民になることは、――兎《と》に角《かく》苦心を要するものである。
六
僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処《ここ》を通るのは二度目である。この前来た時には馬場先《ばばさき》の濠《ほり》に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覚えのある濠《ほり》の向うを眺めた。堀の向うには薬研《やげん》なりに石垣の崩《くづ》れた処がある。崩れた土は丹《に》のやうに赤い。崩れぬ土手《どて》は青芝の上に不相変《あひかはらず》松をうねらせてゐる。其処《そこ》にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興《すゐきやう》に泳いでゐる訣《わけ》ではあるまい。しかし行人《かうじん》たる僕の目にはこの前も丁度《ちやうど》西洋人の描《ゑが》いた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日《けふ》もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層《いつそう》平和に見えた位である。
僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐《なつか》しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間《あひだ》にいつか僕を捉《とら》へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。
芸術は生活の過剰《くわじよう》ださうである。成程《なるほど》さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧《たく》みにその過剰を大いなる花束《はなたば》に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。
僕は丸《まる》の内《うち》の焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦《また》焼き難い何ものかだつた。
二 大震日録
八月二十五日。
一游亭《いちいうてい》と鎌倉より帰る。久米《くめ》、田中《たなか》、菅《すが》、成瀬《なるせ》、武川《むかは》など停車場へ見送りに来《きた》る。一時ごろ新橋《しんばし》着。直ちに一游亭とタクシイを駆《か》り、聖路加《せいろか》病院に入院中の遠藤古原草《ゑんどうこげんさう》を見舞ふ。古原草は病殆《ほとん》ど癒《い》え、油画具など弄《もてあそ》び居たり。風間直得《かざまなほえ》と落ち合ふ。聖路加病院は病室の設備、看護婦の服装等《とう》、清楚《せいそ》甚だ愛すべきものあり。一時間の後《のち》、再びタクシイを駆りて一游亭を送り、三時ごろやつと田端《たばた》へ帰る。
八月二十九日
暑気甚《はなはだ》し。再び鎌倉に遊ばんかなどとも思ふ。薄暮《はくぼ》より悪寒《をかん》。検温器を用ふれば八度六分の熱あり。下島《しもじま》先生の来診《らいしん》を乞ふ。流行性感冒のよし。母、伯母《をば》、妻、児等《こら》、皆多少風邪《ふうじや》の気味あり。
八月三十一日。
病聊《いささ》か快《こころよ》きを覚ゆ。床上「澀江抽斎《しぶえちうさい》」を読む。嘗て小説「芋粥《いもがゆ》」を艸《さう》せし時、「殆《ほとん》ど全く」なる語を用ひ、久米に笑はれたる記憶あり。今「抽斎」を読めば、鴎外《おうぐわい》先生も亦《また》「殆ど全く」の語を用ふ。一笑を禁ずる能《あた》はず。
九月一日。
午《ひる》ごろ茶の間《ま》にパンと牛乳を喫《きつ》し了《をは》り、将《まさ》に茶を飲まんとすれば、忽ち大震の来《きた》るあり。母と共に屋外《をくぐわい》に出《い》づ。妻は二階に眠れる多加志《たかし》を救ひに去り、伯母《をば》は又梯子段《はしごだん》のもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、既《すで》にして妻と伯母と多加志を抱《いだ》いて屋外に出づれば、更《さら》に又父と比呂志《ひろし》とのあらざるを知る。婢《ひ》しづを、再び屋内《をくない》に入り、倉皇《さうくわう》比呂志を抱《いだ》いて出づ。父亦《また》庭を回《めぐ》つて出づ。この間《かん》家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。屋瓦《をくぐわ》の乱墜《らんつゐ》するもの十余。大震漸く静まれば、風あり、面《おもて》を吹いて過ぐ。土臭殆《ほとん》ど噎《むせ》ばんと欲す。父と屋《をく》の内外を見れば、被害は屋瓦の墜《お》ちたると石燈籠《いしどうろう》の倒れたるのみ。
円月堂《ゑんげつだう》、見舞ひに来《きた》る。泰然自若《じじやく》たる如き顔をしてゐれども、多少は驚いたのに違ひなし。病を力《つと》めて円月堂と近鄰《きんりん》に住する諸君を見舞ふ。途上、神明町《しんめいちやう》の狭斜《けふしや》を過ぐれば、人家の倒壊せるもの数軒を数ふ。また月見橋《つきみばし》のほとりに立ち、遙《はる》かに東京の天を望めば、天、泥土《でいど》の色を帯び、焔煙《えんえん》の四方に飛騰《ひとう》する見る。帰宅後、電燈の点じ難く、食糧の乏しきを告げんことを惧れ、蝋燭《らふそく》米穀《べいこく》蔬菜《そさい》罐詰《くわんづめ》の類を買ひ集めしむ。
夜《よる》また円月堂の月見橋のほとりに至れば、東京の火災愈《いよいよ》猛に、一望大いなる熔鉱炉《ようくわうろ》を見るが如し。田端《たばた》、日暮里《につぽり》、渡辺町等《わたなべちやうとう》の人人、路上に椅子《いす》を据ゑ畳を敷き、屋外《をくぐわい》に眠らとするもの少からず。帰宅後、大震の再び至らざるべきを説き、家人を皆屋内に眠らしむ。電燈、瓦斯《ガス》共に用をなさず、時に二階の戸を開けば、天色《てんしよく》常に燃ゆるが如く紅《くれなゐ》なり。
この日、下島《しもじま》先生の夫人、単身《たんしん》大震中の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするを支《ささ》ふ。為めに出火の患《うれひ》なきを得たり。胆勇《たんゆう》、僕などの及ぶところにあらず。夫人は澀江抽斎《しぶえちうさい》の夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし。
九月二日。
東京の天、未《いま》だ煙に蔽《おほ》はれ、灰燼《くわいじん》の時に庭前に墜《お》つるを見る。円月堂《ゑんげつだう》に請ひ、牛込《うしごめ》、芝等《しばとう》の親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南《しやうなん》地方全滅の報あり。鎌倉に止《とど》まれる知友を思ひ、心頻《しき》りに安からず。薄暮《はくぼ》円月堂の帰り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土《せうど》と化せりと云ふ。姉《あね》の家、弟の家、共に全焼し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。
この日、避難民の田端《たばた》を経《へ》て飛鳥山《あすかやま》に向《むか》ふもの、陸続《りくぞく》として絶えず。田端も亦《また》延焼せんことを惧《おそ》れ、妻は児等《こら》の衣《い》をバスケツトに収め、僕は漱石《そうせき》先生の書一軸を風呂敷《ふろしき》に包む。家具家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人慾素《もと》より窮《きは》まりなしとは云へ、存外《ぞんぐわい》又あきらめることも容易なるが如し。夜《よ》に入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○あり。僕は頭重うして立つ能《あた》はず。円月堂、僕の代りに徹宵《てつせう》警戒の任に当る。脇差《わきざし》を横たへ、木刀《ぼくたう》を提《ひつさ》げたる状、彼自身宛然《ゑんぜん》たる○○○○なり。
三 大震に際せる感想
地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記《しる》してやむべし。幸ひに孟浪《まんらん》を咎《とが》むること勿《なか》れ。
この大震を天譴《てんけん》と思へとは渋沢《しぶさは》子爵の云ふところなり。誰か自《みづか》ら省れば脚に疵《きず》なきものあらんや。脚に疵あるは天譴《てんけん》を蒙《かうむ》る所以《ゆゑん》、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以《ゆゑん》なるべし、されど我は妻子《さいし》を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂《いはゆる》天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若《し》かざるべし。否《いな》、天の蒼生《さうせい》に、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。
自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分《わか》たず。猛火は仁人《じんじん》と溌皮《はつぴ》とを分たず。自然の眼には人間も蚤《のみ》も選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり。のみならず人間の中《うち》なる自然も、人間の中なる人間に愛憐《あいれん》を有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷《ひびや》公園の池に遊べる鶴と家鴨《あひる》とを食《くら》はしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉を食《くら》ひしやも知るべからず。
日比谷《ひびや》公園の池に遊べる鶴と家鴨《あひる》とを食《くら》はしめし境遇の惨《さん》は恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉を食《くら》ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中《うち》なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂《た》るることなければなり。鶴と家鴨とを食《くら》へるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、――惹《ひ》いては一切人間を禽獣《きんじう》と選ぶことなしと云ふは、畢竟《ひつきやう》意気地《いくぢ》なきセンテイメンタリズムのみ。
自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑《けいべつ》すべからず。人間たる尊厳を抛棄《はうき》すべからず。人肉を食《くら》はずんば生き難しとせよ。汝《なんぢ》とともに人肉を食《くら》はん。人肉を食《くら》うて腹鼓然《こぜん》たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇《ちうちよ》することなかれ。その後《のち》に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。
誰か自《みづか》ら省れば脚に疵《きず》なきものあらんや。僕の如きは両脚《りやうきやく》の疵、殆《ほとん》ど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴《てんけん》なりと思ふ能《あた》はず。況《いは》んや天譴《てんけん》の不公平なるにも呪詛《じゆそ》の声を挙ぐる能はず。唯姉弟《してい》の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已《や》み難き遺憾《ゐかん》を感ずるのみ。我等は皆歎《なげ》くべし、歎きたりと雖《いへど》も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。
同胞よ。面皮《めんぴ》を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿《なか》れ。僕のこの言《げん》を倣《な》す所以《ゆゑん》は、渋沢《しぶさは》子爵の一言《いちげん》より、滔滔《たうたう》と何《なん》でもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷《どれい》となること勿《なか》れ。
四 東京人
東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでゐる僕は未《いま》だ嘗《かつ》て愛郷心なるものに同情を感じた覚えはない。又同情を感じないことを得意としてゐたのも確かである。
元来愛郷心なるものは、県人会の世話にもならず、旧藩主の厄介《やくかい》にもならない限り、云はば無用の長物である。東京を愛するのもこの例に洩《も》れない。兎角《とかく》東京東京と難有《ありがた》さうに騒ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舎者《ゐなかもの》に限つたことである。――さう僕は確信してゐた。
すると大《だい》地震のあつた翌日、大彦《だいひこ》の野口《のぐち》君に遇《あ》つた時である。僕は一本のサイダアを中に、野口君といろいろ話をした。一本のサイダアを中になどと云ふと、或は気楽さうに聞えるかも知れない。しかし東京の大火の煙は田端《たばた》の空さへ濁《にご》らせてゐる。野口君もけふは元禄袖《げんろくそで》の紗《しや》の羽織などは着用してゐない。何《なん》だか火事頭巾《づきん》の如きものに雲龍《うんりゆう》の刺《さし》つ子《こ》と云ふ出立《いでた》ちである。僕はその時話の次手《ついで》にもう続続《ぞくぞく》罹災民《りさいみん》は東京を去つてゐると云ふ話をした。
「そりやあなた、お国者《くにもの》はみんな帰つてしまふでせう。――」
野口君は言下《ごんか》にかう云つた。
「その代りに江戸《えど》つ児《こ》だけは残りますよ。」
僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心強さを感じた。それは君の服装の為か、空を濁らせた煙の為か、或は又僕自身も大地震に悸《おび》えてゐた為か、その辺の消息《せうそく》ははつきりしない。しかし兎《と》に角《かく》その瞬間、僕も何か愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。やはり僕の心の底には幾分か僕の軽蔑してゐた江戸つ児の感情が残つてゐるらしい。
五 廃都東京
加藤武雄《かとうたけを》様。東京を弔《とむら》ふの文を作れと云ふ仰《あふ》せは正に拝承しました。又おひきうけしたことも事実であります。しかしいざ書かうとなると、|忙《そうばう》の際でもあり、どうも気乗りがしませんから、この手紙で御免《ごめん》を蒙《かうむ》りたいと思ひます。
応仁《おうにん》の乱か何かに遇《あ》つた人の歌に、「汝《な》も知るや都は野べの夕雲雀《ゆふひばり》揚《あが》るを見ても落つる涙は」と云ふのがあります。丸《まる》の内《うち》の焼け跡を歩いた時にはざつとああ云ふ気がしました。水木京太《みづききやうた》氏などは銀座《ぎんざ》を通ると、ぽろぽろ涙が出たさうであります。(尤も全然センテイメンタルな気もちなしにと云ふ断《ことわ》り書があるのですが)けれども僕は「落つる涙は」と云ふ気がしたきり、実際は涙を落さずにすみました。その外《ほか》不謹慎の言葉かも知れませんが、ちよいともの珍しかつたことも事実であります。
「落つる涙は」と云ふ気のしたのは、勿論こんなにならぬ前の東京を思ひ出した為であります。しかし大いに東京を惜しんだと云ふ訣《わけ》ぢやありません。僕はこんなにならぬ前の東京に余り愛惜《あいじやく》を持たずにゐました。と云つても僕を江戸趣味の徒《と》と速断《そくだん》してはいけません、僕は知りもせぬ江戸の昔に依依恋恋《いいれんれん》とする為には余りに散文的に出来てゐるのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳の植《うわ》つてゐた、汁粉屋《しるこや》の代りにカフエの殖《ふ》えない、もつと一体に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麦稈帽《むぎわらばう》はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失《う》せたのですから、同じ東京とは云ふものの、何処《どこ》か折り合へない感じを与へられてゐました。それが今焦土《せうど》に変つたのです。僕はこの急劇な変化の前に俗悪な東京を思ひ出しました。が、俗悪な東京を惜しむ気もちは、――いや、丸の内の焼け跡を歩いた時には惜しむ気もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその辺《へん》はぼんやりしてゐます。僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな気がしますから。つまり一番確かなのは「落つる涙は」と云ふ気のしたことです。僕の東京を弔《とむら》ふ気もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる涙は」、――これだけではいけないでせうか?
何《なん》だかとりとめもない事ばかり書きましたが、どうか悪《あ》しからず御赦《おゆる》し下さい。僕はこの手紙を書いて了《しま》ふと、僕の家に充満した焼け出されの親戚《しんせき》故旧《こきう》と玄米の夕飯《ゆふめし》を食ふのです。それから堤燈《ちやうちん》に蝋燭《らふそく》をともして、夜警《やけい》の詰所《つめしよ》へ出かけるのです。以上。
六 震災の文芸に与ふる影響
大《だい》地震の災害は戦争や何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地《だいち》の動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災の我我作家に与へる影響はさほど根深くはないであらう。すくなくとも、作家の人生観を一変することなどはないであらう。もし、何か影響があるとすれば、かういふことはいはれるかも知れぬ。
災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我我作家の心にも大きな動揺を与へた。我我ははげしい愛や、憎しみや、憐《あはれ》みや、不安を経験した。在来、我我のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新《あらた》に加はるやうになるかも知れない。勿論《もちろん》その感情の波を起伏《きふく》させる段取りには大地震や火事を使ふのである。事実はどうなるかわからぬが、さういふ可能性はありさうである。
また大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景《さつぷうけい》をきはめるだらう。そのために我我は在来のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我我自身の内部に、何か楽みを求めるだらう。すくなくとも、さういふ傾向の人は更《さら》にそれを強めるであらう。つまり、乱世に出合つた支那の詩人などの隠棲《いんせい》の風流を楽しんだと似たことが起りさうに思ふのである。これも事実として予言は出来ぬが、可能性はずゐぶんありさうに思ふ。
前の傾向は多数へ訴《うつた》へる小説をうむことになりさうだし、後《のち》の傾向は少数に訴へる小説をうむことになる筈である。即ち両者の傾向は相反してゐるけれども、どちらも起らぬと断言しがたい。
七 古書の焼失を惜しむ
今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に残念に思ふ。表慶館《へいけいくわん》に陳列されてゐた陶器類は殆《ほとん》ど破損したといふことであるが、その他にも損害は多いにちがひない。然し古美術品のことは暫らく措《お》き古書のことを考へると黒川家《くろかはけ》の蔵書も焼け、安田家《やすだけ》の蔵書も焼け大学の図書館《としよかん》の蔵書も焼けたのは取り返しのつかない損害だらう。商売人でも村幸《むらかう》とか浅倉屋《あさくらや》とか吉吉《よしきち》だとかいふのが焼けたからその方の罹害《りがい》も多いにちがひない。個人の蔵書は兎《と》も角《かく》も大学図書館の蔵書の焼かれたことは何んといつても大学の手落ちである。図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところと接近してゐるのも宜敷《よろし》くない。休日などには図書館に小使位しか居ないのも宜《よろ》しくない、(その為めに今度のやうな火災にもどういふ本が貴重かがわからず、従って貴重な本を出すことも出来なかつたらしい。)書庫そのものの構造のゾンザイなのも宜敷《よろし》くない。それよりももつと突き詰めたことをいへば、大学が古書を高閣《かうかく》に束《つか》ねるばかりで古書の覆刻《ふくこく》を盛んにしなかつたのも宜敷《よろし》くない。徒《いたづ》らに材料を他に示すことを惜んで竟《つひ》にその材料を烏有《ういう》に帰せしめた学者の罪は鼓《つづみ》を鳴らして攻むべきである。大野洒竹《おほのしやちく》の一生の苦心に成つた洒竹《しやちく》文庫の焼け失《う》せた丈《だ》けでも残念で堪らぬ。「八九間雨柳《はつくけんやなぎ》」といふ士朗《しらう》の編んだ俳書などは勝峯晉風《かつみねしんぷう》氏の文庫と天下に二冊しかなかつたやうに記憶してゐるが、それも今は一冊になつてしまつた訣《わけ》だ。
(大正十二年九月)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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