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万葉集は我国《わがくに》の大切な歌集で、誰でも読んで好いものとおもうが、何せよ歌の数が四千五百有余もあり、一々注釈書に当ってそれを読破しようというのは並大抵のことではない。そこで選集を作って歌に親しむということも一つの方法だから本書はその方法を採った。選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、数は先ず全体の一割ぐらいの見込で、長歌は罷《や》めて短歌だけにしたから、万葉の短歌が四千二百足らずあるとして大体一割ぐらい選んだことになろうか。
本書はそのような標準にしたが、これは国民全般が万葉集の短歌として是非知って居らねばならぬものを出来るだけ選んだためであって、万人向きという意図はおのずから其処《そこ》に実行せられているわけである。ゆえに専門家的に漸《ようや》く標準を高めて行き、読者諸氏は本書から自由に三百首選二百首選一百首選乃至《ないし》五十首選をも作ることが出来る。それだけの余裕を私は本書のなかに保留して置いた。
そうして選んだ歌に簡単な評釈を加えたが、本書の目的は秀歌の選出にあり、歌が主で注釈が従、評釈は読者諸氏の参考、鑑賞の助手の役目に過ぎないものであって、而《しか》して今は専門学者の高級にして精到な注釈書が幾つも出来ているから、私の評釈の不備な点は其等《それら》から自由に補充することが出来る。
右のごとく歌そのものが主眼、評釈はその従属ということにして、一首一首が大切なのだから飽くまで一首一首に執着して、若し大体の意味が呑込《のみこ》めたら、しばらく私の評釈の文から離れ歌自身について反復熟読せられよ。読者諸氏は本書を初から順序立てて読まれても好《よ》し、行き当りばったりという工合に頁《ページ》を繰って出た歌だけを読まれても好し、忙しい諸氏は労働のあいま田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前等々に於て、一、二首或は二、三首乃至十首ぐらいずつ読まれることもまた可能である。要は繰返して読み一首一首を大切に取扱って、早読して以て軽々しく取扱われないことを望むのである。
本書では一首一首に執着するから、いわゆる万葉の精神、万葉の日本的なもの、万葉の国民性などいうことは論じていない。これに反して一助詞がどう一動詞がどう第三句が奈何《いかん》結句が奈何というようなことを繰返している。読者諸氏は此等《これら》の言に対してしばらく耐忍せられんことをのぞむ。万葉集の傑作といい秀歌と称するものも、地を洗って見れば決して魔法のごとく不可思議なものでなく、素直で当り前な作歌の常道を踏んでいるのに他ならぬという、その最も積極的な例を示すためにいきおいそういう細かしきことになったのである。
本書で試みた一首一首の短評中には、先師ほか諸学者の結論が融込《とけこ》んでいること無論であるが、つまりは私の一家見ということになるであろう。そうして万人向きな、誰《たれ》にも分かる「万葉集入門」を意図したのであったのだけれども、いよいよとなれば仮借しない態度を折に触れつつ示した筈《はず》である。昭和十三年八月二十九日斎藤茂吉。
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参照注釈書略表
抄…………仙覚「万葉集抄」
拾穂抄……北村季吟「万葉拾穂抄」
代匠記……契沖「万葉代匠記」
僻案抄……荷田春満「万葉集僻案抄」
考…………賀茂真淵「万葉考」
槻落葉……荒木田久老「万葉考槻落葉」
略解………橘千蔭「万葉集略解」
燈…………富士谷御杖「万葉集燈」
攷證………岸本由豆流「万葉集攷證」
檜嬬手……橘守部「万葉集檜嬬手」
緊要………橘守部「万葉集緊要」
古義………鹿持雅澄「万葉集古義」
美夫君志…木村正辞「万葉集美夫君志」
註疏………近藤芳樹「万葉集註疏」
新釈………伊藤左千夫「万葉集新釈」
新考………井上通泰「万葉集新考」
選釈………佐佐木信綱「万葉集選釈」
新解………武田祐吉「万葉集新解」
新講………次田潤「万葉集新講」
講義………山田孝雄「万葉集講義」
総釈………楽浪書院版「万葉集総釈」
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たまきはる宇智《うち》の大野《おほぬ》に馬《うま》並《な》めて朝《あさ》踏《ふ》ますらむその草《くさ》深野《ふかぬ》 〔巻一・四〕 中皇命
舒明《じょめい》天皇が、宇智野《うちぬ》、即《すなわ》ち大和宇智《うち》郡の野(今の五条町の南、阪合部《さかあいべ》村)に遊猟したもうた時、中皇命《なかちすめらみこと》が間人連老《はしびとのむらじおゆ》をして献《たてまつ》らしめた長歌の反歌である。中皇命は未詳だが、賀茂真淵《かものまぶち》は荷田春満《かだのあずままろ》の説に拠《よ》り、「皇」の下に「女」を補って、「中皇女命《なかつひめみこのみこと》」と訓《よ》み、舒明天皇の皇女で、のち、孝徳天皇の后に立ちたもうた間人《はしびと》皇后だとし、喜田博士は皇后で後天皇になられた御方だとしたから、此処では皇極《こうぎょく》(斉明《さいめい》)天皇に当らせられる。即ち前説に拠れば舒明の皇女、後説に拠れば舒明の皇后ということになる。間人連老は孝徳天皇紀白雉《はくち》五年二月遣唐使の判官に「間人連老」とあるその人であろう。次に作者は中皇命か間人連老か両説あるが、これは中皇命の御歌であろう。縦《よ》しんば間人連老の作という仮定をゆるすとしても中皇命の御心を以て作ったということになる。間人連老の作だとする説は、題詞に「御歌」となくしてただ「歌」とあるがためだというのであるが、これは編輯《へんしゅう》当時既に「御」を脱していたのであろう。考《こう》に、「御字を補ひつ」と云ったのは恣《ほしいまま》に過ぎた観があっても或《あるい》は真相を伝えたものかも知れない。「中大兄三山歌」(巻一・一三)でも「御」の字が無い。然るにこの三山歌は目録には「中大兄三山御歌」と「御」が入っているに就き、代匠記には「中大兄ハ天智天皇ナレバ尊《みこと》トカ皇子《みこ》トカ有《あり》ヌベキニヤ。傍例ニヨルニ尤《もっとも》有《ある》ベシ。三山ノ下ニ目録ニハ御ノ字アリ。脱セルカ」と云っている如く、古くから本文に「御」字の無い例がある。そして、「万葉集はその原本の儘《まま》に伝はり、改刪《かいさん》を経ざるものなるを思ふべし」(講義)を顧慮すると、目録の方の「御」は目録作製の時につけたものとも取れる。なお、この「御字」につき、「御字なきは転写のとき脱せる歟《か》。但天皇に献り給ふ故に、献御歌とはかゝざる歟《か》なるべし」(僻案抄《へきあんしょう》)、「御歌としるさざるは、此は天皇に対し奉る所なるから、殊更に御ノ字をばかゝざりしならんか」(美夫君志《みぶくし》)等の説をも参考とすることが出来る。
それから、攷證《こうしょう》で、「この歌もし中皇命の御歌ならば、そを奉らせ給ふを取次せし人の名を、ことさらにかくべきよしなきをや」と云って、間人連老の作だという説に賛成しているが、これも、老《おゆ》が普通の使者でなくもっと中皇命との関係の深いことを示すので、特にその名を書いたと見れば解釈がつき、必ずしも作者とせずとも済むのである。考の別記に、「御歌を奉らせ給ふも老は御乳母の子などにて御睦《むつまじ》き故としらる」とあるのは、事実は問わずとも、その思考の方嚮《ほうこう》には間違は無かろうとおもう。諸注のうち、二説の分布状態は次の如くである。中皇命作説(僻案抄・考・略解《りゃくげ》・燈《ともしび》・檜嬬手《ひのつまで》・美夫君志・左千夫新釈・講義)、間人連老作説(拾穂抄《しゅうすいしょう》・代匠記・古義・攷證《こうしょう》・新講・新解・評釈)。「たまきはる」は命《いのち》、内《うち》、代《よ》等にかかる枕詞であるが諸説があって未詳である。仙覚・契沖《けいちゅう》・真淵らの霊極《たまきはる》の説、即ち、「タマシヒノキハマル内の命」の意とする説は余り有力でないようだが、つまりは其処に落着くのではなかろうか。なお宣長《のりなが》の「あら玉来経《きふ》る」説、即ち年月の経過する現《うつ》という意。久老《ひさおい》の「程《たま》来経《きふ》る」説。雅澄《まさずみ》の「手纏《たま》き佩《は》く」説等がある。宇智《うち》と内《うち》と同音だからそう用いた。
一首の意は、今ごろは、〔たまきはる〕(枕詞)宇智の大きい野に沢山の馬をならべて朝の御猟をしたまい、その朝草を踏み走らせあそばすでしょう。露の一ぱいおいた草深い野が目に見えるようでございます、という程の御歌である。代匠記に、「草深キ野ニハ鹿ヤ鳥ナドノ多ケレバ、宇智野ヲホメテ再《ふたたび》云也《いふなり》」。古義に、「けふの御かり御獲物《えもの》多くして御興尽《つき》ざるべしとおぼしやりたるよしなり」とある。
作者が皇女でも皇后でも、天皇のうえをおもいたもうて、その遊猟の有様に聯想《れんそう》し、それを祝福する御心持が一首の響に滲透《しんとう》している。決して代作態度のよそよそしいものではない。そこで代作説に賛成する古義でも、「此題詞《ハシツクリ》のこゝろは、契沖も云るごとく、中皇女のおほせによりて間人連老が作《ヨミ》てたてまつれるなるべし。されど意はなほ皇女の御意を承りて、天皇に聞えあげたるなるべし」と云っているのは、この歌の調べに云うに云われぬ愛情の響があるためで、古義は理論の上では間人連老の作だとしても、鑑賞の上では、皇女の御意云々を否定し得ないのである。此一事軽々に看過してはならない。それから、この歌はどういう形式によって献られたかというに、「皇女のよみ給ひし御歌を老《オユ》に口誦《クジユ》して父天皇の御前にて歌はしめ給ふ也」(檜嬬手)というのが真に近いであろう。
一首は、豊腴《ほうゆ》にして荘潔、些《いささか》の渋滞なくその歌調を完《まっと》うして、日本古語の優秀な特色が隈《くま》なくこの一首に出ているとおもわれるほどである。句割れなどいうものは一つもなく、第三句で「て」を置いたかとおもうと、第四句で、「朝踏ますらむ」と流動的に据えて、小休止となり、結句で二たび起して重厚荘潔なる名詞止にしている。この名詞の結句にふかい感情がこもり余響が長いのである。作歌当時は言語が極《きわ》めて容易に自然にこだわりなく運ばれたとおもうが、後代の私等には驚くべき力量として迫って来るし、「その」などという続けざまでも言語の妙いうべからざるものがある。長歌といいこの反歌といい、万葉集中最高峰の一つとして敬うべく尊むべきものだとおもうのである。
この長歌は、「やすみしし吾《わが》大王《おほきみ》の、朝《あした》にはとり撫《な》でたまひ、夕《ゆふべ》にはい倚《よ》り立たしし、御執《みと》らしの梓弓《あずさのゆみ》の、長弭《ながはず》(中弭《なかはず》)の音すなり、朝猟《あさかり》に今立たすらし、暮猟《ゆふかり》に今立たすらし、御執《みと》らしの梓弓の、長弭(中弭)の音すなり」(巻一・三)というのである。これも流動声調で、繰返しによって進行せしめている点は驚くべきほど優秀である。朝猟夕猟と云ったのは、声調のためであるが、実は、朝猟も夕猟もその時なされたと解することも出来るし、支那の古詩にもこの朝猟夕猟と続けた例がある。梓弓はアヅサユミノと六音で読む説が有力だが、「安都佐能由美乃《アヅサユミノ》」(巻十四・三五六七)によって、アヅサノユミノと訓んだ。その方が口調がよいからである。なお参考歌には、天武天皇御製に、「その雪の時なきが如《ごと》、その雨の間なきが如《ごと》、隈《くま》もおちず思ひつつぞ来る、その山道を」(巻一・二五)がある。なお山部赤人の歌に、「朝猟に鹿猪《しし》履《ふ》み起し、夕狩に鳥ふみ立て、馬並《な》めて御猟ぞ立たす、春の茂野《しげぬ》に」(巻六・九二六)がある。赤人のには此歌の影響があるらしい。「馬なめて」もよい句で、「友なめて遊ばむものを、馬なめて往《ゆ》かまし里を」(巻六・九四八)という用例もある。
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山越《やまごし》の風《かぜ》を時《とき》じみ寝《ぬ》る夜《よ》落《お》ちず家《いへ》なる妹《いも》をかけて偲《しぬ》びつ 〔巻一・六〕 軍王
舒明天皇が讃岐《さぬき》国安益《あや》郡に行幸あった時、軍王《いくさのおおきみ》の作った長歌の反歌である。軍王の伝は不明であるが、或は固有名詞でなく、大将軍《いくさのおおきみ》のことかも知れない(近時題詞の軍王見山を山の名だとする説がある)。天皇の十一年十二月伊豫の温湯《ゆ》の宮《みや》に行幸あったから、そのついでに讃岐安益郡(今の綾歌《あやうた》郡)にも立寄られたのであっただろうか。「時じみ」は非時、不時などとも書き、時ならずという意。「寝る夜おちず」は、寝る毎晩毎晩欠かさずにの意。「かけて」は心にかけての意である。
一首の意は、山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕うた、というのである。言葉が順当に運ばれて、作歌感情の極めて素直にあらわれた歌であるが、さればといって平板に失したものでなく、捉《とら》うべきところは決して免《の》がしてはいない。「山越しの風」は山を越して来る風の意だが、これなども、正岡子規が嘗《かつ》て注意した如く緊密で巧《たくみ》な云い方で、この句があるために、一首が具体的に緊《し》まって来た。この語には、「朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を山越《やまごし》に置きて」(巻四・四九五)の例が参考となる。また、「かけて偲ぶ」という用例は、その他の歌にもあるが、心から離さずにいるという気持で、自然的に同感を伴うために他にも用例が出来たのである。併しこの「懸く」という如き云《い》い方はその時代に発達した云い方であるので、現在の私等が直ちにそれを取って歌語に用い、心の直接性を得るという訣《わけ》に行かないから、私等は、語そのものよりも、その語の出来た心理を学ぶ方がいい。なおこの歌で学ぶべきは全体としてのその古調である。第三句の字余りなどでもその破綻《はたん》を来さない微妙な点と、「風を時じみ」の如く圧搾《あっさく》した云い方と、結句の「つ」止めと、そういうものが相待って綜合《そうごう》的な古調を成就しているところを学ぶべきである。第三句の字余りは、人麿の歌にも、「幸《さき》くあれど」等があるが、後世の第三句の字余りとは趣がちがうので破綻云々《うんぬん》と云った。「つ」止めの参考歌には、「越の海の手結《たゆひ》の浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ」(巻三・三六七)等がある。
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秋《あき》の野《ぬ》のみ草苅《くさか》り葺《ふ》き宿《やど》れりし兎道《うぢ》の宮処《みやこ》の仮廬《かりいほ》し思《おも》ほゆ 〔巻一・七〕 額田王
額田王《ぬかだのおおきみ》の歌だが、どういう時に詠《よ》んだものか審《つまびら》かでない。ただ兎道《うじ》は山城の宇治で、大和と近江との交通路に当っていたから、行幸などの時に仮の御旅宿を宇治に設けたもうたことがあったのであろう。その時額田王は供奉《ぐぶ》し、後に当時を追懐して詠んだものと想像していい。額田王は、額田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は鏡王《かがみのおおきみ》の女で、鏡女王《かがみのおおきみ》の妹であったようだ。初め大海人皇子《おおあまのみこ》と御婚《みあい》して十市皇女《とおちのひめみこ》を生み、ついで天智天皇に寵《ちょう》せられ近江京に行っていた。「かりいほ」は、原文「仮五百《かりいほ》」であるが真淵の考《こう》では、カリホと訓んだ。
一首の意。嘗《かつ》て天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の野のみ草(薄《すすき》・萱《かや》)を刈って葺《ふ》いた行宮《あんぐう》に宿《やど》ったときの興深かったさまがおもい出されます。
この歌は、独詠的の追懐であるか、或は対者にむかってこういうことを云ったものか不明だが、単純な独詠ではないようである。意味の内容がただこれだけで取りたてていうべき曲が無いが、単純素朴のうちに浮んで来る写象は鮮明で、且つその声調は清潔である。また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わって来るのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。
歌の左注に、山上憶良《やまのうえのおくら》の類聚歌林《るいじゅうかりん》に、一書によれば、戊申年《つちのえさるのとし》、比良宮に行幸の時の御製云々とある。この戊申の歳を大化四年とすれば、孝徳天皇の御製ということになるが、今は額田王の歌として味うのである。題詞等につき、万葉の編輯当時既に異伝があったこと斯くの如くである。
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熟田津《にぎたづ》に船乗《ふなの》りせむと月待《つきま》てば潮《しほ》もかなひぬ今《いま》は榜《こ》ぎ出《い》でな 〔巻一・八〕 額田王
斉明天皇が(斉明天皇七年正月)新羅《しらぎ》を討ちたまわんとして、九州に行幸せられた途中、暫時伊豫の熟田津《にぎたづ》に御滞在になった(熟田津石湯《いわゆ》の行宮)。其時お伴をした額田王の詠んだ歌である。熟田津という港は現在何処かというに、松山市に近い三津浜だろうという説が有力であったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地(御幸寺山附近)だろうということになっている。即ち現在はもはや海では無い。
一首の意は、伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに都合好くなった。さあ榜ぎ出そう、というのである。
「船乗り」は此処ではフナノリという名詞に使って居り、人麿の歌にも、「船乗りすらむをとめらが」(巻一・四〇)があり、また、「播磨国より船乗して」(遣唐使時奉幣祝詞)という用例がある。また、「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満始るから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる、また書紀の、「庚戌泊二于伊豫熟田津石湯行宮一」とある庚戌《かのえいぬ》は十四日に当る。三津浜では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合満となり午後九時前後に満潮となるから、此歌は恰《あたか》も大潮の満潮に当ったこととなる。すなわち当夜は月明であっただろう。月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。そして五句とも句割がなくて整調し、句と句との続けに、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」等の助詞が極めて自然に使われているのに、「船乗せむと」、「榜ぎいでな」という具合に流動の節奏を以て緊《し》めて、それが第二句と結句である点などをも注意すべきである。結句は八音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い語である。この結句は命令のような大きい語気であるが、縦《たと》い作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである。供奉応詔歌の真髄もおのずからここに存じていると看《み》ればいい。
結句の原文は、「許芸乞菜」で、旧訓コギコナであったが、代匠記初稿本で、「こぎ出なとよむべきか」という一訓を案じ、万葉集燈でコギイデナと定めるに至った。「乞」をイデと訓《よ》む例は、「乞我君《イデアギミ》」、「乞我駒《イデワガコマ》」などで、元来さあさあと促がす詞《ことば》であるのだが「出で」と同音だから借りたのである。一字の訓で一首の価値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。また初句の「熟田津に」の「に」は、「に於《おい》て」の意味だが、橘守部《たちばなのもりべ》は、「に向って」の意味に解したけれどもそれは誤であった。斯《か》く一助詞の解釈の差で一首の意味が全く違ってしまうので、訓詁《くんこ》の学の大切なことはこれを見ても分かる。
なお、この歌は山上憶良の類聚歌林に拠《よ》ると、斉明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから斉明天皇の九年に二たび伊豫の湯に御いでになられて、往時を追懐遊ばされたとある。そうならば此歌は斉明天皇の御製であろうかと左注で云っている。若しそれが本当で、前に出た宇智野の歌の中皇命が斉明天皇のお若い時(舒明皇后)だとすると、この秀歌を理会するにも便利だとおもうが、此処では題どおりに額田王の歌として鑑賞したのであった。
橘守部は、「熟田津に」を「に向って」と解し、「此歌は備前の大伯《オホク》より伊与の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」と云ったが、それは誤であった。併し、「に」に方嚮《ほうこう》(到着地)を示す用例は無いかというに、やはり用例はあるので、「粟島《あはしま》に漕ぎ渡らむと思へども明石《あかし》の門浪《となみ》いまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。この歌の「に」は方嚮を示している。
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紀《き》の国《くに》の山《やま》越《こ》えて行《ゆ》け吾《わ》が背子《せこ》がい立《た》たせりけむ厳橿《いつかし》がもと 〔巻一・九〕 額田王
紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之《ワガセコガ》、射立為兼《イタタセリケム》、五可新何本《イツカシガモト》」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂《い》っていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿《いつかし》が本《もと》」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿《いつかし》は厳《おごそ》かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗《かつ》て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以二倭姫命一為二御杖一貢二奉於天照大神一是以倭姫命以二天照大神ヲ一鎮二坐磯城ノ厳橿之本一とあり、古事記雄略巻に、美母呂能《ミモロノ》、伊都加斯賀母登《イツカシガモト》、加斯賀母登《カシガモト》、由由斯伎加母《ユユシキカモ》、加志波良袁登売《カシハラヲトメ》、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、橿原《かしはら》の畝火《うねび》の山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木《ゆき》なれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。
さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、|古兄湯気《コエテユケ》だとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀に依《よる》に、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝに囂《サヤギ》なき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而《トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ》、中洲之地無風塵《ウチツクニハヤスラケシ》てふと同意なるにて知《しり》ぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国を差《さす》也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃《キノクニノ》と訓《よむ》べし。又右の紀に、辺土と中州を対《むかへ》云《いひ》しに依ては、此五字を外《ト》つ国のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは此哥《このうた》にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶《なほ》上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは荷田大人《かだのうし》のひめ哥《うた》也。さて此哥の初句と、斉明天皇紀の童謡《ワザウタ》とをば、はやき世よりよく訓《ヨム》人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田ノ信名《のぶな》ノ宿禰《すくね》に伝へられき。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に問《とふ》に、全く古大人の訓に均《ひと》しといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功も徒《いたづら》に成《なり》なんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国《かたくに》の可怜国《うましくに》なり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。
古義では、「三室《みもろ》の大相土見乍湯家《ヤマミツツユケ》吾が背子がい立たしけむ厳橿が本《もと》」と訓み、奠器円レ隣(メグラス)でミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登《ミモロノイツカシガモト》を参考とした。そして真淵説を、「紀ノ国の山を超て何処《イヅク》に行とすべけむや、無用説《イタヅラゴト》といふべし」と評したが、併《しか》しこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田久老《ひさおい》が信濃漫録《しなのまんろく》で云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処か弛《たる》んでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子《おおあまのみこ》(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。
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吾背子《わがせこ》は仮廬《かりほ》作《つく》らす草《かや》なくば小松《こまつ》が下《した》の草《かや》を苅《か》らさね 〔巻一・一一〕 中皇命
中皇命が紀伊の温泉に行かれた時の御歌三首あり、この歌は第二首である。中皇命は前言した如く不明だし、前の中皇命と同じ方かどうかも分からない。天智天皇の皇后倭姫命だろうという説(喜田博士)もあるが未定である。若し同じおん方だろうとすると、皇極天皇(斉明天皇)に当らせ給うことになるから、この歌は後崗本宮《のちのおかもとのみや》御宇天皇(斉明)の処に配列せられているけれども、或は天皇がもっとお若くましました頃の御歌ででもあろうか。
一首の意は、あなたが今旅のやどりに仮小舎をお作りになっていらっしゃいますが、若し屋根葺く萱草《かや》が御不足なら、彼処《あそこ》の小松の下の萱草をお刈りなさいませ、というのである。
中皇命は不明だが、歌はうら若い高貴の女性の御語気のようで、その単純素朴のうちにいいがたい香気のするものである。こういう語気は万葉集でも後期の歌にはもはや感ずることの出来ないものである。「わが背子は」というのは客観的のいい方だが、実は、「あなたが」というので、当時にあってはこういう云い方には深い情味をこもらせ得たものであっただろう。そのほか穿鑿《せんさく》すればいろいろあって、例えばこの歌には加行の音が多い、そしてカの音を繰返した調子であるというような事であるが、それは幾度も吟誦すれば自然に分かることだから今はこまかい詮議立《せんぎだて》は罷《や》めることにする。契沖は、「我が背子」を「御供ノ人ヲサシ給ヘリ」といったが、やはりそうでなく御一人をお指《さ》し申したのであろう。また、この歌に「小松にあやかりて、ともにおひさきも久しからむと、これ又長寿をねがふうへにのみして詞をつけさせ給へるなり」(燈)という如き底意があると説く説もあるが、これも現代人の作歌稽古のための鑑賞ならば、この儘で素直に受納《うけい》れる方がいいようにおもう。
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吾《わ》が欲《ほ》りし野島《ぬじま》は見《み》せつ底《そこ》ふかき阿胡根《あこね》の浦《うら》の珠《たま》ぞ拾《ひり》はぬ 〔巻一・一二〕 中皇命
前の続きで、中皇命の御歌の第三首である。野島は紀伊の日高郡日高川の下流に名田村大字野島があり、阿胡根の浦はその海岸である。珠《たま》は美しい貝又は小石。中には真珠も含んで居る。「紀のくにの浜に寄るとふ、鰒珠《あはびだま》ひりはむといひて」(巻十三・三三一八)は真珠である。
一首の意は、わたくしの希《ねが》っていた野島の海浜の景色はもう見せていただきました。けれど、底の深い阿胡根浦の珠はいまだ拾いませぬ、というので、うちに此処《ここ》深海の真珠が欲しいものでございますという意も含まっている。
「野島は見せつ」は自分が人に見せたように聞こえるが、此処は見せて頂いたの意で、散文なら、「君が吾に野島をば見せつ」という具合になる。この歌も若い女性の口吻《こうふん》で、純真澄み透るほどな快いひびきを持っている。そして一首は常識的な平板に陥らず、末世人が舌不足と難ずる如き渋みと厚みとがあって、軽薄ならざるところに古調の尊さが存じている。これがあえて此種の韻文のみでなく、普通の談話にもこういう尊い香気があったものであろうか。この歌の稍主観的な語は、「わが欲りし」と、「底ふかき」とであって、知らず識《し》らずあい対しているのだが、それが毫も目立っていない。
高市黒人《たけちのくろひと》の歌に、「吾妹子に猪名野《ゐなぬ》は見せつ名次山《なすぎやま》角《つぬ》の松原いつか示さむ」(巻三・二七九)があり、この歌より明快だが、却って通俗になって軽くひびく。この場合の「見せつ」は、「吾妹子に猪名野をば見せつ」だから、普通のいい方で分かりよいが含蓄が無くなっている。現に中皇命の御歌も、或本には、「わが欲りし子島は見しを」となっている。これならば意味は分かりよいが、歌の味いは減るのである。第一首の、「君が代も我が代も知らむ(知れや)磐代《いはしろ》の岡の草根《くさね》をいざ結びてな」(巻一・一〇)も、生えておる草を結んで寿を祝う歌で、「代」は「いのち」即ち寿命のことである。まことに佳作だから一しょにして味うべきである。以上の三首を憶良の類聚歌林には、「天皇御製歌」とあるから、皇極(斉明)天皇と想像し奉り、その中皇命時代の御作とでも想像し奉るか。
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香具山《かぐやま》と耳梨山《みみなしやま》と会《あ》ひしとき立《た》ちて見《み》に来《こ》し印南国原《いなみくにはら》 〔巻一・一四〕 天智天皇
中大兄《なかちおひね》(天智天皇)の三山歌の反歌である。長歌は、「香具山《かぐやま》は畝傍《うねび》を愛《を》しと、耳成《みみなし》と相争ひき、神代より斯くなるらし、古《いにしへ》も然《しか》なれこそ、現身《うつそみ》も妻を、争ふらしき」というのであるが、反歌の方は、この三山が相争った時、出雲の阿菩大神《あほのおおかみ》がそれを諫止《かんし》しようとして出立し、播磨《はりま》まで来られた頃《ころ》に三山の争闘が止んだと聞いて、大和迄行くことをやめたという播磨風土記《ふどき》にある伝説を取入れて作っている。風土記には揖保《いぼ》郡の処に記載されてあるが印南の方にも同様の伝説があったものらしい。「会ひし時」は「相戦った時」、「相争った時」という意味である。書紀神功皇后巻に、「いざ会はなわれは」とあるは相闘う意。毛詩に、「肆伐二大商一会朝清明」とあり、「会える朝」は即ち会戦の旦也と注せられた。共に同じ用法である。この歌の「立ちて見に来し」の主格は、それだから阿菩大神になるのだが、それが一首のうえにはあらわれていない。そこで一読しただけでは、印南国原が立って見に来たように受取れるのであるが、結句の「印南国原」は場処を示すので、大神の来られたのは、此処の印南国原であった、という意味になる。
一首に主格も省略し、結句に、「印南国原」とだけ云って、その結句に助詞も助動詞も無いものだが、それだけ散文的な通俗を脱却して、蒼古《そうこ》とも謂《い》うべき形態と響きとを持っているものである。長歌が蒼古峻厳《しゅんげん》の特色を持っているが、この反歌もそれに優るとも劣ってはいない。この一首の単純にしてきびしい形態とその響とは、恐らくは婦女子等の鑑賞に堪えざるものであろう。一首の中に三つも固有名詞が入っていて、毫も不安をおぼえしめないのは衷心驚くべきである。後代にしてかかるところを稍《やや》悟入し得たものは歌人として平賀元義ぐらいであっただろう。「中大兄」は、考ナカツオホエ、古義ナカチオホエ、と訓んでいる。
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渡津海《わたつみ》の豊旗雲《とよはたぐも》に入日《いりひ》さし今夜《こよひ》の月夜《つくよ》清明《あきら》けくこそ 〔巻一・一五〕 天智天皇
此歌は前の三山の歌の次にあるから、やはり中大兄の御歌(反歌)の一つに取れるが、左注に今案不レ似二反歌一也とあるから編輯当時既に三山の歌とすることは疑われていたものであろう。併し三山の歌とせずに、同一作者が印南野海浜あたりで御作りになった叙景の歌と看做《みな》せば解釈が出来るのである。
大意。今、浜べに立って見わたすに、海上《かいじょう》に大きい旗のような雲があって、それに赤く夕日《ゆうひ》の光が差している。この様子では、多分今夜《こんや》の月は明月《めいげつ》だろう。
結句の原文、「清明己曾」は旧訓スミアカクコソであったのを、真淵がアキラケクコソと訓んだ。そうすれば、アキラケクコソアラメという推量になるのである。山田博士の講義に、「下にアラメといふべきを略せるなり。かく係助詞にて止め、下を略するは一種の語格なり」と云ってある。「豊旗雲」は、「豊雲野神《とよくもぬのかみ》」、「豊葦原《とよあしはら》」、「豊秋津州《とよあきつしま》」、「豊御酒《とよみき》」、「豊祝《とよほぎ》」などと同じく「豊」に特色があり、古代日本語の優秀を示している一つである。以上のように解してこの歌を味えば、荘麗ともいうべき大きい自然と、それに参入した作者の気魄《きはく》と相融合して読者に迫って来るのであるが、如是荘大雄厳の歌詞というものは、遂に後代には跡を断った。万葉を崇拝して万葉調の歌を作ったものにも絶えて此歌に及ぶものがなかった。その何故であるかを吾等は一たび省《かえりみ》ねばならない。後代の歌人等は、渾身《こんしん》を以て自然に参入してその写生をするだけの意力に乏しかったためで、この実質と単純化とが遂に後代の歌には見られなかったのである。第三句の、「入日さし」と中止法にしたところに、小休止があり、不即不離に第四句に続いているところに歌柄の大きさを感ぜしめる。結句の推量も、赤い夕雲の光景から月明を直覚した、素朴で人間的直接性を有《も》っている。(願望とする説は、心が稍《やや》間接となり、技巧的となる。)
「清明」を真淵に従ってアキラケクと訓んだが、これには諸訓があって未だ一定していない。旧訓スミアカクコソで、此は随分長く行われた。然るに真淵は考でアキラケクコソと訓み、「今本、清明の字を追て、すみあかくと訓しは、万葉をよむ事を得ざるものぞ、紀にも、清白心をあきらけきこゝろと訓し也」と云った。古義では、「アキラケクといふは古言にあらず」として、キヨクテリコソと訓み、明は照の誤写だろうとした。なおその他の訓を記せば次のごとくである。スミアカリコソ(京大本)。サヤケシトコソ(春満)。サヤケクモコソ(秋成)。マサヤケクコソ(古泉千樫)。サヤニテリコソ(佐佐木信綱)。キヨクアカリコソ(武田祐吉・佐佐木信綱)。マサヤケミコソ(品田太吉)。サヤケカリコソ(三矢重松・斎藤茂吉・森本治吉)。キヨラケクコソ(松岡静雄・折口信夫)。マサヤカニコソ(沢瀉久孝)等の諸訓がある。けれども、今のところ皆真淵訓には及び難い感がして居るので、自分も真淵訓に従った。真淵のアキラケクコソの訓は、古事記伝・略解・燈・檜嬬手・攷證・美夫君志・註疏《ちゅうそ》・新考・講義・新講等皆それに従っている。ただ、燈・美夫君志等は意味を違えて取った。
さて、結句の「清明己曾」をアキラケクコソと訓んだが、これに異論を唱える人は、万葉時代には月光の形容にキヨシ、サヤケシが用いられ、アカシ、アキラカ、アキラケシの類は絶対に使わぬというのである。成程万葉集の用例を見れば大体そうである。けれども「絶対に」使わぬなどとは云《い》われない。「日月波《ヒツキハ》、安可之等伊倍騰《アカシトイヘド》、安我多米波《アガタメハ》、照哉多麻波奴《テリヤタマハヌ》」(巻五・八九二)という憶良の歌は、明瞭に日月の光の形容にアカシを使っているし、「月読明少夜者更下乍《ツクヨミノアカリスクナキヨハフケニツツ》」(巻七・一〇七五)でも月光の形容にアカリを使っているのである。平安朝になってからは、「秋の夜の月の光しあかければくらぶの山もこえぬべらなり」(古今・秋上)、「桂川月のあかきにぞ渡る」(士佐日記)等をはじめ用例は多い。併し万葉時代と平安朝時代との言語の移行は暫時的・流動的なものだから、突如として変化するものでないことは、この実例を以ても証明することが出来たのである。約《つづ》めていえば、万葉時代に月光の形容にアカシを用いた。
次に、「安我己許呂安可志能宇良爾《アガココロアカシノウラニ》」(巻十五・三六二七)、「吾情清隅之池之《アガココロキヨスミノイケノ》」(巻十三・三二八九)、「加久佐波奴安加吉許己呂乎《カクサハヌアカキココロヲ》」(巻二十 四四六五)、「汝心之清明《ミマシガココロノアカキコトハ》」、「我心清明故《アガココロアカキユヱニ》」(古事記・上巻)、「有リ二清心《キヨキココロ》一」(書紀神代巻)、「浄伎明心乎持弖《キヨキアカキココロヲモチテ》」(続紀・巻十)等の例を見れば、心あかし、心きよし、あかき心、きよき心は、共通して用いられたことが分かるし、なお、「敷島のやまとの国に安伎良気伎《アキラケキ》名に負ふとものを心つとめよ」(巻二十・四四六六)、「つるぎ大刀いよよ研ぐべし古へゆ佐夜気久於比弖《サヤケクオヒテ》来にしその名ぞ」(同・四四六七)の二首は、大伴家持の連作で、二つとも「名」を咏《よ》んでいるのだが、アキラケキとサヤケキとの流用を証明しているのである。そして、「春日山押して照らせる此月は妹が庭にも清有家里《サヤケカリケリ》」(巻七・一〇七四)は、月光にサヤケシを用いた例であるから、以上を綜合《そうごう》して観《み》るに、アキラケシ、サヤケシ、アカシ、キヨシ、などの形容詞は互に共通して用いられ、互に流用せられたことが分かる。新撰字鏡《しんせんじきょう》に、明。阿加之《アカシ》、佐也加爾在《サヤカニアリ》、佐也介之《サヤケシ》、明介志《アキラケシ》(阿支良介之《アキラケシ》)等とあり、類聚名義抄《るいじゅうみょうぎしょう》に、明可在月 アキラカナリ、ヒカル等とあるのを見ても、サヤケシ、アキラケシの流用を認め得るのである。結論、万葉時代に月光の形容にアキラケシと使ったと認めて差支ない。
次に、結句の「己曾」であるが、これも万葉集では、結びにコソと使って、コソアラメと云った例は絶対に無いという反対説があるのだが、平安朝になると、形容詞からコソにつづけてアラメを省略した例は、「心美しきこそ」、「いと苦しくこそ」、「いとほしうこそ」、「片腹いたくこそ」等をはじめ用例が多いから、それがもっと時代が溯《さかのぼ》っても、日本語として、絶対に使わなかったとは謂えぬのである。特に感動の強い時、形式の制約ある時などにこの用法が行われたと解釈すべきである。なお、安伎良気伎《アキラケキ》、明久《アキラケク》、左夜気伎《サヤケキ》、左夜気久《サヤケク》は謂《いわ》ゆる乙類の仮名で、形容詞として活用しているのである。結論、アキラケク・コソという用法は、アキラケク・コソ・アラメという用法に等しいと解釈して差支ない。(本書は簡約を目的としたから大体の論にとどめた。別論がある。)
以上で、大体解釈が終ったが、この歌には異った解釈即ち、今は曇っているが、今夜は月明になって欲しいものだと解釈する説(燈・古義・美夫君志等)、或は、第三句までは現実だが、下の句は願望で、月明であって欲しいという説(選釈・新解等)があるのである。而して、「今夜の月さやかにあれかしと希望《ネガヒ》給ふなり」(古義)というのは、キヨクテリコソと訓んで、連用言から続いたコソの終助詞即ち、希望のコソとしたから自然この解釈となったのである。結句を推量とするか、希望とするか、鑑賞者はこの二つの説を受納《うけい》れて、相比較しつつ味うことも亦《また》可能である。そしていずれが歌として優るかを判断すべきである。
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三輪山《みわやま》をしかも隠《かく》すか雲《くも》だにも情《こころ》あらなむ隠《かく》さふべしや 〔巻一・一八〕 額田王
この歌は作者未定である。併し、「額田王下二近江一時作歌、井戸王即和歌」という題詞があるので、額田王作として解することにする。「味酒《うまざけ》三輪の山、青丹《あをに》よし奈良の山の、山のまにい隠るまで、道の隈《くま》い積《つも》るまでに、委《つばら》にも見つつ行かむを、しばしばも見放《みさ》けむ山を、心なく雲の、隠《かく》さふべしや」という長歌の反歌である。「しかも」は、そのように、そんなにの意。
一首の意は、三輪山をばもっと見たいのだが、雲が隠してしまった。そんなにも隠すのか、縦《たと》い雲でも情《なさけ》があってくれよ。こんなに隠すという法がないではないか、というのである。
「あらなむ」は将然言《しょうぜんげん》につく願望のナムであるが、山田博士は原文の「南畝」をナモと訓み、「情《こころ》アラナモ」とした。これは古形で同じ意味になるが、類聚古集に「南武」とあるので、暫《しばら》く「情アラナム」に従って置いた。その方が、結句の響に調和するとおもったからである。結句の「隠さふべしや」の「や」は強い反語で、「隠すべきであるか、決して隠すべきでは無い」ということになる。長歌の結末にもある句だが、それを短歌の結句にも繰返して居り、情感がこの結句に集注しているのである。この作者が抒情詩人として優れている点がこの一句にもあらわれており、天然の現象に、恰《あたか》も生きた人間にむかって物言うごとき態度に出て、毫《ごう》も厭味《いやみ》を感じないのは、直接であからさまで、擬人などという意図を余り意識しないからである。これを試《こころみ》に、在原業平《ありわらのなりひら》の、「飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端《は》逃げて入れずもあらなむ」(古今・雑上)などと比較するに及んで、更にその特色が瞭然《りょうぜん》として来るのである。
カクサフはカクスをハ行四段に活用せしめたもので、時間的経過をあらわすこと、チル、チラフと同じい。「奥つ藻を隠さふなみの五百重浪」(巻十一・二四三七)、「隠さはぬあかき心を、皇方《すめらべ》に極めつくして」(巻二十・四四六五)の例がある。なおベシヤの例は、「大和恋ひいの寝らえぬに情《こころ》なくこの渚《す》の埼に鶴《たづ》鳴くべしや」(巻一・七一)、「出でて行かむ時しはあらむを故《ことさ》らに妻恋しつつ立ちて行くべしや」(巻四・五八五)、「海《うみ》つ路《ぢ》の和《な》ぎなむ時も渡らなむかく立つ浪に船出すべしや」(巻九・一七八一)、「たらちねの母に障《さは》らばいたづらに汝《いまし》も吾も事成るべしや」(巻十一・二五一七)等である。
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あかねさす紫野《むらさきぬ》行《ゆ》き標野《しめぬ》行《ゆ》き野守《ぬもり》は見《み》ずや君《きみ》が袖《そで》振《ふ》る 〔巻一・二〇〕 額田王
天智天皇が近江の蒲生《がもう》野に遊猟(薬猟)したもうた時(天皇七年五月五日)、皇太子(大皇弟、大海人皇子《おおあまのみこ》)諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。額田王ははじめ大海人皇子に婚《みあ》い十市皇女《とおちのひめみこ》を生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。この歌は、そういう関係にある時のものである。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は染色の原料として紫草《むらさき》を栽培している野。「標野」は御料地として濫《みだ》りに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。「野守」はその御料地の守部《もりべ》即ち番人である。
一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。それが不安心でございます、というのである。
この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよ/\とをかしげなるをいふ」(攷證)。「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからにゑましきにとなり」(講義)等である。併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。
この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な媚態《びたい》をも感じ得るのである。「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、寧《むし》ろ皇太子に愬《うった》えているのだと解して好い。そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」の方を後に置いた。併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と対手《あいて》の行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるので嫉《ねた》ましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れに諭《さと》すような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美な愬《うった》えに触れたためであろう。
「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「凡《おほ》ならばかもかも為《せ》むを恐《かしこ》みと振りたき袖を忍《しぬ》びてあるかも」(巻六・九六五)、「高山の岑《みね》行く鹿《しし》の友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。
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紫草《むらさき》のにほへる妹《いも》を憎《にく》くあらば人嬬《ひとづま》ゆゑにあれ恋《こ》ひめやも 〔巻一・二一〕 天武天皇
右(二〇)の額田王の歌に対して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答えられた御歌である。
一首の意は、紫の色の美しく匂《にお》うように美しい妹《いも》(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋する筈《はず》はないではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。
この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからと云《い》って」というのでなく、「人妻に由《よ》って恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひ痩《や》せぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉に甚《はなは》だ多い。恋人を花に譬《たと》えたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。
この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、然《し》かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「憎《にく》くあらなくに」、「憎《にく》からなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌には縦《たと》い切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。
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河上《かはかみ》の五百箇《ゆつ》磐群《いはむら》に草《くさ》むさず常《つね》にもがもな常処女《とこをとめ》にて 〔巻一・二二〕 吹黄刀自
十市皇女《とおちのひめみこ》(御父大海人皇子、御母額田王)が伊勢神宮に参拝せられたとき、皇女に従った吹黄刀自《ふきのとじ》が波多横山《はたよこやま》の巌《いわお》を見て詠んだ歌である。波多《はた》の地は詳《つまびらか》でないが、伊勢壱志《いちし》郡八太村の辺だろうと云われている。
一首の意は、この河の辺《ほとり》の多くの巌には少しも草の生えることがなく、綺麗《きれい》で滑《なめら》かである。そのようにわが皇女の君も永久に美しく容色のお変りにならないでおいでになることをお願いいたします、というのである。
「常少女」という語も、古代日本語の特色をあらわし、まことに感歎せねばならぬものである。今ならば、「永遠処女」などというところだが、到底この古語には及ばない。作者は恐らく老女であろうが、皇女に対する敬愛の情がただ純粋にこの一首にあらわれて、単純古調のこの一首を吟誦すれば寧ろ荘厳の気に打たれるほどである。古調という中には、一つ一つの語にいい知れぬ味いがあって、後代の吾等は潜心その吟味に努めねばならぬもののみであるが、第三句の「草むさず」から第四句への聯絡《れんらく》の具合、それから第四句で切って、結句を「にて」にて止めたあたり、皆繰返して読味うべきもののみである。この歌の結句と、「野守は見ずや君が袖ふる」などと比較することもまた極《きわ》めて有益である。
「常」のついた例には、「相見れば常初花《とこはつはな》に、情《こころ》ぐし眼ぐしもなしに」(巻十七・三九七八)、「その立山に、常夏《とこなつ》に雪ふりしきて」(同・四〇〇〇)、「白砥《しらと》掘《ほ》ふ小新田《をにひた》山の守《も》る山の末《うら》枯れ為無《せな》な常葉《とこは》にもがも」(巻十四・三四三六)等がある。
十市皇女は大友皇子(弘文天皇)御妃として葛野王《かどののおおきみ》を生んだが、壬申乱《じんしんのらん》後大和に帰って居られた。皇女は天武天皇七年夏四月天皇伊勢斎宮に行幸せられんとした最中に卒然として薨ぜられたから、この歌はそれより前で、恐らく、四年春二月参宮の時でもあろうか。さびしい境遇に居られた皇女だから、老女が作ったこの祝福の歌もさびしい心を背景としたものとおもわねばならぬ。
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うつせみの命《いのち》を惜《を》しみ波《なみ》に濡《ぬ》れ伊良虞《いらご》の島《しま》の玉藻《たまも》苅《か》り食《を》す 〔巻一・二四〕 麻続王
麻続王《おみのおおきみ》が伊勢の伊良虞《いらご》に流された時、時の人が、「うちそを麻続《をみ》の王《おほきみ》海人《あま》なれや伊良虞が島の玉藻《たまも》刈ります」(巻一・二三)といって悲しんだ。「海人なれや」は疑問で、「海人だからであろうか」という意になる。この歌はそれに感傷して和《こた》えられた歌である。自分は命を愛惜してこのように海浪に濡れつつ伊良虞《いらご》島の玉藻を苅って食べている、というのである。流人でも高貴の方だから実際海人のような業をせられなくとも、前の歌に「玉藻苅ります」といったから、「玉藻苅り食す」と云われたのである。なお結句を古義ではタマモカリハムと訓み、新考(井上)もそれに従った。この一首はあわれ深いひびきを持ち、特に、「うつせみの命ををしみ」の句に感慨の主点がある。万葉の歌には、「わたつみの豊旗雲に」の如き歌もあるが、またこういう切実な感傷の歌もある。悲しい声であるから、堂々とせずにヲシミ・ナミニヌレのあたりは、稍小きざみになっている。「いのち」のある例は、「たまきはる命惜しけど、せむ術《すべ》もなし」(巻五・八〇四)、「たまきはる命惜しけど、為むすべのたどきを知らに」(巻十七・三九六二)等である。
麻続王が配流《はいる》されたという記録は、書紀には因幡《いなば》とあり、常陸風土記には行方郡板来《なめかたのこおりいたく》村としてあり、この歌によれば伊勢だから、配流地はまちまちである。常陸の方は伝説化したものらしく、因幡・伊勢は配流の場処が途中変ったのだろうという説がある。そうすれば説明が出来るが、万葉の歌の方は伊勢として味ってかまわない。
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春《はる》過《す》ぎて夏来《きた》るらし白妙《しろたへ》の衣《ころも》ほしたり天《あめ》の香具山《かぐやま》 〔巻一・二八〕 持統天皇
持統天皇の御製で、藤原宮址は現在高市郡鴨公《かもきみ》村大字高殿小学校隣接の伝説地土壇を中心とする敷地であろうか。藤原宮は持統天皇の四年に高市皇子御視察、十二月天皇御視察、六年五月から造営をはじめ八年十二月に完成したから、恐らくは八年以後の御製で、宮殿から眺めたもうた光景ではなかろうかと拝察せられる。
一首の意は、春が過ぎて、もう夏が来たと見える。天の香具山の辺には今日は一ぱい白い衣を干している、というのである。
「らし」というのは、推量だが、実際を目前にしつついう推量である。「来《きた》る」は良《ら》行四段の動詞である。「み冬つき春は吉多礼登《キタレド》」(巻十七・三九〇一)「冬すぎて暖来良思《ハルキタルラシ》」(巻十・一八四四)等の例がある。この歌は、全体の声調は端厳とも謂うべきもので、第二句で、「来るらし」と切り、第四句で、「衣ほしたり」と切って、「らし」と「たり」で伊列の音を繰返し一種の節奏を得ているが、人麿の歌調のように鋭くゆらぐというのではなく、やはり女性にまします御語気と感得することが出来るのである。そして、結句で「天の香具山」と名詞止めにしたのも一首を整正端厳にした。天皇の御代には人麿・黒人をはじめ優れた歌人を出したが、天皇に此御製あるを拝誦すれば、決して偶然でないことが分かる。
この歌は、第二句ナツキニケラシ(旧訓)、古写本中ナツゾキヌラシ(元暦校本・類聚古集)であったのを、契沖がナツキタルラシと訓んだ。第四句コロモサラセリ(旧訓)、古写本中、コロモホシタリ(古葉略類聚抄《こようりゃくるいじゅうしょう》)、コロモホシタル(神田本)、コロモホステフ(細井本)等の訓があり、また、新古今集や小倉百人一首には、「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふあまの香具山」として載っているが、これだけの僅かな差別で一首全体に大きい差別を来すことを知らねばならぬ。現在鴨公村高殿の土壇に立って香具山の方を見渡すと、この御製の如何に実地的即ち写生的だかということが分かる。真淵の万葉考に、「夏のはじめつ比《ころ》、天皇埴安《はにやす》の堤の上などに幸《いでま》し給ふ時、かの家らに衣を懸《かけ》ほして有《ある》を見まして、実に夏の来たるらし、衣をほしたりと、見ますまに/\のたまへる御歌也。夏は物打しめれば、万づの物ほすは常の事也。さては余りに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし。古への歌は言には風流なるも多かれど、心はただ打見打思ふがまゝにこそよめれ」と云ってあるのは名言だから引用しておく。なお、埴安の池は、現在よりももっと西北で、別所の北に池尻という小字があるがあのあたりだかも知れない。なお、橋本直香《ただか》(私抄)は、香具山に登り給うての御歌と想像したが、併し御製は前言の如く、宮殿にての御吟詠であろう。土屋文明氏は明日香《あすか》の浄御原《きよみはら》の宮から山の陽《みなみ》の村里を御覧になられての御製と解した。
参考歌。「ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも」(巻十・一八一二)、「いにしへの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山」(巻七・一〇九六)、「昨日こそ年は極《は》てしか春霞春日の山にはや立ちにけり」(巻十・一八四三)、「筑波根に雪かも降らる否をかも愛《かな》しき児ろが布《にぬ》ほさるかも」(巻十四・三三五一)。僻案抄《へきあんしょう》に、「只白衣を干したるを見そなはし給ひて詠給へる御歌と見るより外有べからず」といったのは素直な解釈であり、燈に、「春はと人のたのめ奉れる事ありしか。又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、それが期《とき》を過ぎたりければ、その人をそゝのかし、その期おくれたるを怨《うら》ませ給ふ御心なるべし」と云ったのは、穿《うが》ち過ぎた解釈で甚だ悪いものである。こういう態度で古歌に対するならば、一首といえども正しい鑑賞は出来ない。
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ささなみの志賀《しが》の辛崎《からさき》幸《さき》くあれど大宮人《おほみやびと》の船《ふね》待《ま》ちかねつ 〔巻一・三〇〕 柿本人麿
柿本人麿が、近江の宮(天智天皇大津宮)址《あと》の荒れたのを見て作った長歌の反歌である。大津宮(志賀宮)の址は、現在の大津市南滋賀町あたりだろうという説が有力で、近江の都の範囲は、其処から南へも延び、西は比叡山麓、東は湖畔迄《まで》至っていたもののようである。此歌は持統三年頃、人麿二十七歳ぐらいの作と想像している。「ささなみ」(楽浪)は近江滋賀郡から高島郡にかけ湖西一帯の地をひろく称した地名であるが、この頃には既に形式化せられている。
一首は、楽浪《ささなみ》の志賀の辛崎は元の如く何の変《かわり》はないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊をした大宮人も居なくなった。それゆえ、志賀の辛崎が、大宮人の船を幾ら待っていても待ち甲斐《がい》が無い、というのである。
「幸《さき》くあれど」は、平安無事で何の変はないけれどということだが、非情の辛崎をば、幾らか人間的に云ったものである。「船待ちかねつ」は、幾ら待っていても駄目だというのだから、これも人間的に云っている。歌調からいえば、第三句は字余りで、結句は四三調に緊《し》まっている。全体が切実沈痛で、一点浮華の気をとどめて居らぬ。現代の吾等は、擬人法らしい表現に、陳腐《ちんぷ》を感じたり、反感を持ったりすることを止めて、一首全体の態度なり気魄《きはく》なりに同化せんことを努むべきである。作は人麿としては初期のものらしいが、既にかくの如く円熟して居る。
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ささなみの志賀《しが》の大曲《おほわだ》よどむとも昔《むかし》の人《ひと》に亦《また》も逢はめやも 〔巻一・三一〕 柿本人麿
右と同時に人麿の作ったもので、一首は、近江の湖水の大きく入り込んだ処、即ち大曲《おおわだ》の水が人恋しがって、人懐かしく、淀《よど》んでいるけれども、もはやその大宮人等に逢うことが出来ない、というのである。大津の京に関係あった湖水の一部の、大曲の水が現在、人待ち顔に淀んでいる趣である。然るに、「オホワダ」をば大海《おおわだ》即ち近江の湖水全体と解し、湖の水が勢多《せた》から宇治に流れているのを、それが停滞して流れなくなるとも、というのが、即ち「ヨドムトモ」であると仮定的に解釈する説(燈)があるが、それは通俗理窟《りくつ》で、人麿の歌にはそういう通俗理窟で解けない歌句が間々あることを知らねばならぬ。ここの「淀むとも」には現在の実感がもっと活《い》きているのである。
この歌も感慨を籠めたもので、寧ろ主観的な歌である。前の歌の第三句に、「幸くあれど」とあったごとく、この歌の第三句にも、「淀むとも」とある、そこに感慨が籠められ、小休止があるようになるのだが、こういう云い方には、ややともすると一首を弱くする危険が潜むものである。然るに人麿の歌は前の歌もこの歌も、「船待ちかねつ」、「またも逢はめやも」と強く結んで、全体を統一しているのは実に驚くべきで、この力量は人麿の作歌の真率《しんそつ》的な態度に本づくものと自分は解して居る。人麿は初期から斯《こ》ういう優れた歌を作っている。
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いにしへの人《ひと》にわれあれや楽浪《ささなみ》の故《ふる》き京《みやこ》を見《み》れば悲《かな》しき 〔巻一・三二〕 高市古人
高市古人《たけちのふるひと》が近江の旧都を感傷して詠《よ》んだ歌である。然るに古人の伝不明で、題詞の下に或書云高市連黒人《たけちのむらじくろひと》と注せられているので、黒人の作として味う人が多い。「いにしへの人にわれあれや」は、当今の普通人ならば旧都の址《あと》を見てもこんなに悲しまぬであろうが、こんなに悲しいのは、古の世の人だからであろうかと、疑うが如くに感傷したのである。この主観句は、相当によいので棄て難いところがある。なお、巻三(三〇五)に、高市連黒人の、「斯《か》くゆゑに見じといふものを楽浪《ささなみ》の旧き都を見せつつもとな」があって、やはり上の句が主観的である。けれども、此等の主観句は、切実なるが如くにして切実に響かないのは何故であるか。これは人麿ほどの心熱が無いということにもなるのである。
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山川《やまかは》もよりて奉《つか》ふる神《かむ》ながらたぎつ河内《かふち》に船出《ふなで》するかも 〔巻一・三九〕 柿本人麿
持統天皇の吉野行幸の時、従駕《じゅうが》した人麿の献《たてまつ》ったものである。持統天皇の吉野行幸は前後三十二回(御在位中三十一回御譲位後一回)であるが、万葉集年表(土屋文明氏)では、五年春夏の交《こう》だろうと云っている。さすれば人麿の想像年齢二十九歳位であろうか。
一首の意は、山の神(山祇《やまつみ》)も川の神(河伯《かわのかみ》)も、もろ共に寄り来って仕え奉る、現神《あきつがみ》として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の滝《たぎ》の河内《かふち》に、群臣と共に船出したもう、というのである。
「滝《たぎ》つ河内《かふち》」は、今の宮滝《みやたき》附近の吉野川で、水が強く廻流している地勢である。人麿は此歌を作るのに、謹んで緊張しているから、自然歌調も大きく荘厳なものになった。上半は形式的に響くが、人麿自身にとっては本気で全身的であった。そして、「滝つ河内」という現実をも免《のが》していないものである。一首の諧調音を分析すれば不思議にも加行の開口音があったりして、種々勉強になる歌である。先師伊藤左千夫先生は、「神も人も相和して遊ぶ尊き御代の有様である」(万葉集新釈)と評せられたが、まさしく其通りである。第二句、原文「因而奉流」をヨリテ・ツカフルと訓んだが、ヨリテ・マツレルという訓もある。併しマツレルでは調《しらべ》が悪い。結句、原文、「船出為加母」は、フナデ・セスカモと敬語に訓んだのもある。
補記、近時土屋文明氏は「滝つ河内」はもっと下流の、下市《しもいち》町を中心とした越部、六田あたりだろうと考証した。
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英虞《あご》の浦《うら》に船乗《ふなの》りすらむをとめ等《ら》が珠裳《たまも》の裾《すそ》に潮《しほ》満《み》つらむか 〔巻一・四〇〕 柿本人麿
持統天皇が伊勢に行幸(六年三月)遊ばされた時、人麿は飛鳥浄御原《あすかのきよみはら》宮(持統八年十二月六日藤原宮に遷居し給う)に留まり、その行幸のさまを思いはかって詠んだ歌である。初句、原文「嗚呼見浦爾」だから、アミノウラニと訓むべきである。併し史実上で、阿胡行宮《あごのかりみや》云々とあるし、志摩に英虞郡《あごのこおり》があり、巻十五(三六一〇)の古歌というのが、「安胡乃宇良《アゴノウラ》」だから、恐らく人麿の原作はアゴノウラで、万葉巻一のアミノウラは異伝の一つであろう。
一首は、天皇に供奉《ぐぶ》して行った多くの若い女官たちが、阿虞の浦で船に乗って遊楽する、その時にあの女官等の裳の裾が海潮に濡《ぬ》れるであろう、というのである。
行幸は、三月六日(陽暦三月三十一日)から三月二十日(陽暦四月十四日)まで続いたのだから、海浜で遊楽するのに適当な季節であり、若く美しい女官等が大和の山地から海浜に来て珍しがって遊ぶさまが目に見えるようである。そういう朗かで美しく楽しい歌である。然《し》かも一首に「らむ」という助動詞を二つも使って、流動的歌調を成就《じょうじゅ》しているあたり、やはり人麿一流と謂《い》わねばならない。「玉裳」は美しい裳ぐらいに取ればよく、一首に親しい感情の出ているのは、女官中に人麿の恋人もいたためだろうと想像する向もある。
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潮騒《しほさゐ》に伊良虞《いらご》の島辺《しまべ》榜《こ》ぐ船《ふね》に妹《いも》乗《の》るらむか荒《あら》き島回《しまみ》を 〔巻一・四二〕 柿本人麿
前の続きである。「伊良虞《いらご》の島」は、三河渥美《あつみ》郡の伊良虞崎あたりで、「島」といっても崎でもよいこと、後出の「加古の島」のところにも応用することが出来る。
一首は、潮が満ちて来て鳴りさわぐ頃、伊良虞の島近く榜《こ》ぐ船に、供奉してまいった自分の女も乗ることだろう。あの浪の荒い島のあたりを、というのである。
この歌には、明かに「妹」とあるから、こまやかな情味があって余所余所《よそよそ》しくない。そして、この「妹乗るらむか」という一句が一首を統一してその中心をなしている。船に慣れないことに同情してその難儀をおもいやるに、ただ、「妹乗るらむか」とだけ云っている、そして、結句の、「荒き島回を」に応接せしめている。
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吾背子《わがせこ》はいづく行《ゆ》くらむ奥《おき》つ藻《も》の名張《なばり》の山《やま》を今日《けふ》か越《こ》ゆらむ 〔巻一・四三〕 当麻麿の妻
当麻真人麿《たぎまのまひとまろ》の妻が夫の旅に出た後詠んだものである。或は伊勢行幸にでも扈従《こじゅう》して行った夫を偲《しの》んだものかも知れない。名張山は伊賀名張郡の山で伊勢へ越ゆる道筋である。「奥つ藻の」は名張へかかる枕詞で、奥つ藻は奥深く隠れている藻だから、カクルと同義の語ナバル(ナマル)に懸けたものである。
一首の意は、夫はいま何処を歩いていられるだろうか。今日ごろは多分名張の山あたりを越えていられるだろうか、というので、一首中に「らむ」が二つ第二句と結句とに置かれて調子を取っている。この「らむ」は、「朝踏ますらむ」あたりよりも稍軽快である。この歌は古来秀歌として鑑賞せられたのは万葉集の歌としては分かり好く口調も好いからであったが、そこに特色もあり、消極的方面もまたそこにあると謂っていいであろうか。併しそれでも古今集以下の歌などと違って、厚みのあるところ、名張山という現実を持って来たところ等に注意すべきである。
この歌は、巻四(五一一)に重出しているし、又集中、「後れゐて吾が恋ひ居れば白雲《しらくも》の棚引く山を今日か越ゆらむ」(巻九・一六八一)、「たまがつま島熊山の夕暮にひとりか君が山路越ゆらむ」(巻十二・三一九三)、「息《いき》の緒《を》に吾が思《も》ふ君は鶏《とり》が鳴く東《あづま》の坂を今日か越ゆらむ」(同・三一九四)等、結句の同じものがあるのは注意すべきである。
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阿騎《あき》の野《ぬ》に宿《やど》る旅人《たびびと》うちなびき寐《い》も寝《ぬ》らめやも古《いにしへ》おもふに 〔巻一・四六〕 柿本人麿
軽皇子《かるのみこ》が阿騎野(宇陀郡松山町附近の野)に宿られて、御父日並知皇子《ひなみしのみこ》(草壁皇子)を追憶せられた。その時人麿の作った短歌四首あるが、その第一首である。軽皇子(文武《もんむ》天皇)の御即位は持統十一年であるから、此歌はそれ以前、恐らく持統六、七年あたりではなかろうか。
一首は、阿騎の野に今夜旅寝をする人々は、昔の事がいろいろ思い出されて、安らかに眠りがたい、というのである。「うち靡き」は人の寝る時の体の形容であるが、今は形式化せられている。「やも」は反語で、強く云って感慨を籠めている。「旅人」は複数で、軽皇子を主とし、従者の人々、その中に人麿自身も居るのである。この歌は響に句々の揺ぎがあり、単純に過ぎてしまわないため、余韻おのずからにして長いということになる。
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ひむがしの野《ぬ》にかぎろひの立《た》つ見《み》えてかへり見《み》すれば月《つき》かたぶきぬ 〔巻一・四八〕 柿本人麿
これも四首中の一つである。一首の意は、阿騎野にやどった翌朝、日出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。その時西の方をふりかえると、もう月が落ちかかっている、というのである。
この歌は前の歌にあるような、「古へおもふに」などの句は無いが、全体としてそういう感情が奥にかくれているもののようである。そういう気持があるために、「かへりみすれば月かたぶきぬ」の句も利《き》くので、先師伊藤左千夫が評したように、「稚気を脱せず」というのは、稍《やや》酷ではあるまいか。人麿は斯く見、斯く感じて、詠歎し写生しているのであるが、それが即ち犯すべからざる大きな歌を得る所以《ゆえん》となった。
「野に・かぎろひの」のところは所謂《いわゆる》、句割れであるし、「て」、「ば」などの助詞で続けて行くときに、たるむ虞《おそれ》のあるものだが、それをたるませずに、却って一種渾沌《こんとん》の調を成就しているのは偉いとおもう。それから人麿は、第三句で小休止を置いて、第四句から起す手法の傾《かたむき》を有《も》っている。そこで、伊藤左千夫が、「かへり見すれば」を、「俳優の身振めいて」と評したのは稍見当の違った感がある。
此歌は、訓がこれまで定まるのに、相当の経過があり、「東野《あづまの》のけぶりの立てるところ見て」などと訓んでいたのを、契沖、真淵等の力で此処まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである。守部此歌を評して、「一夜やどりたる曠野のあかつきがたのけしき、めに見ゆるやうなり。此かぎろひは旭日の余光をいへるなり」(緊要)といった。
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日並《ひなみし》の皇子《みこ》の尊《みこと》の馬《うま》並《な》めて御猟立《みかりた》たしし時《とき》は来向《きむか》ふ 〔巻一・四九〕 柿本人麿
これも四首中の一つで、その最後のものである。一首は、いよいよ御猟をすべき日になった。御なつかしい日並皇子尊が御生前に群馬を走らせ御猟をなされたその時のように、いよいよ御猟をすべき時になった、というのである。
この歌も余り細部にこだわらずに、おおように歌っているが、ただの腕まかせでなく、丁寧にして真率な作である。総じて人麿の作は重厚で、軽薄の音調の無きを特色とするのは、応詔、献歌の場合が多いからというためのみでなく、どんな場合でもそうであるのを、後進の歌人は見のがしてはならない。
それから、結句の、「来向ふ」というようなものでも人麿造語の一つだと謂っていい。「今年経て来向ふ夏は」「春過ぎて夏来向へば」(巻十九・四一八三・四一八〇)等の家持の用例があるが、これは人麿の、「時は来向ふ」を学んだものである。人麿以後の万葉歌人等で人麿を学んだ者が一人二人にとどまらない。言葉を換えていえば人麿は万葉集に於て最もその真価を認められたものである。後世人麿を「歌聖」だの何のと騒いだが、上《うわ》の空の偶像礼拝に過ぎぬ。
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※女《うねめ》[#「女+釆」、上-44-9]の袖《そで》吹《ふ》きかへす明日香風《あすかかぜ》都《みやこ》を遠《とほ》みいたづらに吹く 〔巻一・五一〕 志貴皇子
明日香《あすか》(飛鳥)の京から藤原《ふじわら》の京に遷《うつ》られた後、明日香のさびれたのを悲しんで、志貴皇子《しきのみこ》の詠まれた御歌である。遷都は持統八年十二月であるから、それ以後の御作だということになる。※女《うねめ》[#「女+釆」、上-44-13](采女)は諸国から身分も好く(郡の少領以上)容貌も端正な妙齢女を選抜して宮中に仕えしめたものである。駿河※[#「女+釆」、上-44-14]女(巻四)駿河采女(巻八)の如く両方に書いている。
一首は、明日香に来て見れば、既に都も遠くに遷《うつ》り、都であるなら美しい采女等の袖をも飜《ひるがえ》す明日香風も、今は空しく吹いている、というぐらいに取ればいい。
「明日香風」というのは、明日香の地を吹く風の意で、泊瀬《はつせ》風、佐保《さほ》風、伊香保《いかほ》風等の例があり、上代日本語の一特色を示している。今は京址となって寂《さび》れた明日香に来て、その感慨をあらわすに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を聯想して歌っているし、それを明日香風に集注せしめているのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉えどころということになるのであろうが、当時は感動を主とするから自然にこうなったものであろう。采女の事などを主にするから甘《あま》くなるかというに決してそうでなく、皇子一流の精厳ともいうべき歌調に統一せられている。ただ、「袖ふきかへす」を主な感じとした点に、心のすえ方の危険が潜んでいるといわばいい得るかも知れない。この、「袖ふきかへす」という句につき、「袖ふきかへしし」と過去にいうべきだという説もあったが、ここは楽《らく》に解釈して好い。
初句は旧訓タヲヤメノ。拾穂抄タハレメノ。僻案抄ミヤヒメノ。考タワヤメノ。古義ヲトメノ等の訓がある。古鈔本中元暦《げんりゃく》校本に朱書で或ウネメノとあるに従って訓んだが、なおオホヤメノ(神)タオヤメノ(文)の訓もあるから、旧訓或は考の訓によって味うことも出来る。つまり、「采女《ウネメ》は官女の称なるを義を以てタヲヤメに借りたるなり」(美夫君志)という説を全然否定しないのである。いずれにしても初句の四音ウネメノは稍不安であるから、どうしてもウネメと訓まねばならぬなら、或はウネメラノとラを入れてはどうか知らん。
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引馬野《ひくまぬ》ににほふ榛原《はりはら》いり乱《みだ》り衣《ころも》にほはせ旅《たび》のしるしに 〔巻一・五七〕 長奥麿
大宝二年(文武)に太上天皇《おおきすめらみこと》(持統)が参河《みかわ》に行幸せられたとき、長忌寸奥麿《ながのいみきおきまろ》(伝不詳)の詠んだ歌である。引馬野は遠江敷智《ふち》郡(今浜名郡)浜松附近の野で、三方原《みかたがはら》の南寄に曳馬《ひくま》村があるから、其辺だろうと解釈して来たが、近時三河宝飯《ほい》郡御津《みと》町附近だろうという説(今泉忠男氏、久松潜一氏)が有力となった。「榛原《はりはら》」は萩原《はぎはら》だと解せられている。
一首の意は、引馬野に咲きにおうて居る榛原(萩原)のなかに入って逍遙しつつ、此処まで旅し来った記念に、萩の花を衣に薫染せしめなさい、というのであろう。
右の如くに解して、「草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける芽子《はぎ》かも」(巻八・一五三二)の歌の如く、衣に薫染せしめる事としたのであるが、続日本紀《しょくにほんぎ》に拠《よ》るに行幸は十月十日(陽暦十一月八日)から十一月二十五日(陽暦十二月二十二日)にかけてであるから、大方の萩の花は散ってしまっている。ここで、「榛原」は萩でなしに、榛《はん》の木原で、その実を煎《せん》じて黒染(黄染)にする、その事を「衣にほはせ」というのだとする説が起って、目下その説が有力のようであるが、榛の実の黒染のことだとすると、「入りみだり衣にほはせ」という句にふさわしくない。そこで若し榛原は萩原で、其頃萩の花が既に過ぎてしまったとすると、萩の花でなくて萩の黄葉《もみじ》であるのかも知れない。(土屋文明氏も、萩の花ならそれでもよいが、榛の黄葉、乃至は雑木の黄葉であるかも知れぬと云っている。)萩の黄葉は極めて鮮かに美しいものだから、その美しい黄葉の中に入り浸って衣を薫染せしめる気持だとも解釈し得るのである。つまり実際に摺染《すりぞめ》せずに薫染するような気持と解するのである。また、榛は新撰字鏡《しんせんじきょう》に、叢生曰レ榛とあるから、灌木の藪をいうことで、それならばやはり黄葉《もみじ》の心持である。いずれにしても、榛《はん》の木ならば、「にほふはりはら」という気持ではない。この「にほふ」につき、必ずしも花でなくともいいという説は既に荷田春満《かだのあずままろ》が云っている。「にほふといふこと、〔葉〕花にかぎりていふにあらず、色をいふ詞なれば、花過ても匂ふ萩原といふべし」(僻案抄)。
そして榛の実の黒染説は、続日本紀の十月十一月という記事があるために可能なので、この記事さへ顧慮しないならば、萩の花として素直に鑑賞の出来る歌なのである。また続日本紀の記載も絶対的だともいえないことがあるかも知れない。そういうことは少し我儘《わがまま》過ぎる解釈であろうが、差し当ってはそういう我儘をも許容し得るのである。
さて、そうして置いて、萩の花を以て衣を薫染せしめることに定めてしまえば、此の歌の自然で且つ透明とも謂うべき快い声調に接することが出来、一首の中に「にほふ」、「にほはせ」があっても、邪魔を感ぜずに受納《うけい》れることも出来るのである。次に近時、「乱」字を四段の自動詞に活用せしめた例が万葉に無いとして「入り乱れ」と訓んだ説(沢瀉氏)があるが、既に「みだりに」という副詞がある以上、四段の自動詞として認容していいとおもったのである。且つ、「いりみだり」の方が響としてはよいのである。
次に、この歌は引馬野にいて詠んだものだろうと思うのに、京に残っていて供奉の人を送った作とする説(武田氏)がある。即ち、武田博士は、「作者はこの御幸には留守をしてゐたので、御供に行く人に与へた作である。多分、御幸が決定し、御供に行く人々も定められた準備時代の作であらう。御幸先の秋の景色を想像してゐる。よい作である。作者がお供をして詠んだとなす説はいけない」(総釈)と云うが、これは陰暦十月十日以後に萩が無いということを前提とした想像説である。そして、真淵《まぶち》の如きも、「又思ふに、幸の時は、近き国の民をめし課《オフス》る事紀にも見ゆ、然れば前《さき》だちて八九月の比《ころ》より遠江へもいたれる官人此野を過る時よみしも知がたし」(考)という想像説を既に作っているのである。共に、同じく想像説ならば、真淵の想像説の方が、歌を味ううえでは適切である。この歌はどうしても属目の感じで、想像の歌ではなかろうと思うからである。私《ひそ》かにおもうに、此歌はやはり行幸に供奉して三河の現地で詠んだ歌であろう。そして少くも其年は萩がいまだ咲いていたのであろう。気温の事は現在を以て当時の事を軽々に論断出来ないので、即ち僻案抄に、「なべては十月には花も過葉もかれにつゝ(く?)萩の、此引馬野には花も残り葉もうるはしくてにほふが故に、かくよめりと見るとも難有《なんある》べからず。草木は気運により、例にたがひ、土地により、遅速有こと常のことなり」とあり、考にも、「此幸は十月なれど遠江はよに暖かにて十月に此花にほふとしも多かり」とあるとおりであろう。私は、昭和十年十一月すえに伊香保温泉で木萩の咲いて居るのを見た。其の時伊香保の山には既に雪が降っていた。また大宝二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れば、恐らくその年はそう寒くなかったのかも知れないのである。
また、「古にありけむ人のもとめつつ衣に摺りけむ真野の榛原」(巻七・一一六六)、「白菅の真野の榛原心ゆもおもはぬ吾し衣《ころも》に摺《す》りつ」(同・一三五四)、「住吉の岸野の榛に染《にほ》ふれど染《にほ》はぬ我やにほひて居らむ」(巻十六・三八〇一)、「思ふ子が衣摺らむに匂ひこせ島の榛原秋立たずとも」(巻十・一九六五)等の、衣摺るは、萩花の摺染《すりぞめ》ならば直ぐに出来るが、ハンの実を煎じて黒染にするのならば、さう簡単には出来ない。もっとも、攷證では、「この榛摺は木の皮をもてすれるなるべし」とあるが、これでも技術的で、この歌にふさわしくない。そこでこの二首の「榛」はハギの花であって、ハンの実でないとおもうのである。なお、「引き攀《よ》ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入《こき》れつ染《し》まば染《し》むとも」(巻八・一六四四)、「藤浪の花なつかしみ、引よぢて袖に扱入《こき》れつ、染《し》まば染《し》むとも」(巻十九・四一九二)等も、薫染の趣で、必ずしも摺染めにすることではない。つまり「衣にほはせ」の気持である。なお、榛はハギかハンかという問題で、「いざ子ども大和へはやく白菅の真野の榛原手折りてゆかむ」(巻三・二八〇)の中の、「手折りてゆかむ」はハギには適当だが、ハンには不適当である。その次の歌、「白菅の真野の榛原ゆくさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」(同・二八一)もやはりハギの気持である。以上を綜合《そうごう》して、「引馬野ににほふ榛原」も萩の花で、現地にのぞんでの歌と結論したのであった。以上は結果から見れば皆新しい説を排して旧《ふる》い説に従ったこととなる。
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いづくにか船泊《ふなはて》すらむ安礼《あれ》の埼《さき》こぎ回《た》み行《ゆ》きし棚無《たなな》し小舟《をぶね》 〔巻一・五八〕 高市黒人
これは高市黒人《たけちのくろひと》の作である。黒人の伝は審《つまびらか》でないが、持統文武両朝に仕えたから、大体柿本人麿と同時代である。「船泊《ふなはて》」は此処では名詞にして使っている。「安礼の埼」は参河《みかわ》国の埼であろうが現在の何処《どこ》にあたるか未だ審でない。(新居《あらい》崎だろうという説もあり、また近時、今泉氏、ついで久松氏は御津《みと》附近の岬だろうと考証した。)「棚無し小舟」は、舟の左右の舷《げん》に渡した旁板《わきいた》()を舟棚《ふなたな》というから、その舟棚の無い小さい舟をいう。
一首の意は、今、参河の安礼《あれ》の埼《さき》のところを漕《こ》ぎめぐって行った、あの舟棚《ふなたな》の無い小さい舟は、いったい何処に泊《とま》るのか知らん、というのである。
この歌は旅中の歌だから、他の旅の歌同様、寂しい気持と、家郷(妻)をおもう気持と相纏《あいまつわ》っているのであるが、この歌は客観的な写生をおろそかにしていない。そして、安礼の埼といい、棚無し小舟といい、きちんと出すものは出して、そして、「何処にか船泊すらむ」と感慨を漏らしているところにその特色がある。歌調は人麿ほど大きくなく、「すらむ」などといっても、人麿のものほど流動的ではない。結句の、「棚無し小舟」の如き、四三調の名詞止めのあたりは、すっきりと緊縮させる手法である。
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いざ子《こ》どもはやく日本《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の浜松《はままつ》待《ま》ち恋《こ》ひぬらむ 〔巻一・六三〕 山上憶良
山上憶良《やまのうえのおくら》が大唐《もろこし》にいたとき、本郷《ふるさと》(日本)を憶って作った歌である。憶良は文武天皇の大宝元年、遣唐大使粟田真人《あわたのまひと》に少録として従い入唐し、慶雲元年秋七月に帰朝したから、この歌は帰りの出帆近いころに作ったもののようである。「大伴」は難波の辺一帯の地域の名で、もと大伴氏の領地であったからであろう。「大伴の高師の浜の松が根を」(巻一・六六)とあるのも、大伴の地にある高師の浜というのである。「御津」は難波の湊《みなと》のことである。そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺であろうといわれている。
一首の意は、さあ皆のものどもよ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の浜のあの松原も、吾々を待ちこがれているだろうから、というのである。やはり憶良の歌に、「大伴の御津の松原かき掃きて吾《われ》立ち待たむ早帰りませ」(巻五・八九五)があり、なお、「朝なぎに真楫《まかぢ》榜《こ》ぎ出て見つつ来し御津の松原浪越しに見ゆ」(巻七・一一八五)があるから、大きい松原のあったことが分かる。
「いざ子ども」は、部下や年少の者等に対して親しんでいう言葉で、既に古事記応神巻に、「いざ児ども野蒜《ぬびる》つみに蒜《ひる》つみに」とあるし、万葉の、「いざ子ども大和へ早く白菅の真野《まぬ》の榛原《はりはら》手折りて行かむ」(巻三・二八〇)は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行している。「白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競《きほ》ひて萩の遊びせむ」(巻十・二一七三)もまたそうである。「いざ児ども香椎《かしひ》の潟《かた》に白妙の袖さへぬれて朝菜採《つ》みてむ」(巻六・九五七)は旅人の歌で憶良のよりも後れている。つまり、旅人が憶良の影響を受けたのかも知れぬ。
この歌は、環境が唐の国であるから、自然にその気持も一首に反映し、そういう点で規模の大きい歌だと謂うべきである。下の句の歌調は稍弛《たる》んで弱いのが欠点で、これは他のところでも一言触れて置いたごとく、憶良は漢学に達していたため、却って日本語の伝統的な声調を理会することが出来なかったのかも知れない。一首としてはもう一歩緊密な度合の声調を要求しているのである。後年、天平八年の遣新羅国使等の作ったものの中に、「ぬばたまの夜明《よあか》しも船は榜《こ》ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ」(巻十五・三七二一)、「大伴の御津の泊《とまり》に船泊《は》てて立田の山を何時か越え往《い》かむ」(同・三七二二)とあるのは、この憶良の歌の模倣である。なお、大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》の歌に、「ひさかたの天の露霜置きにけり宅《いへ》なる人も待ち恋ひぬらむ」(巻四・六五一)というのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。斯くの如く憶良の歌は当時の人々に尊敬せられたのは、恐らく彼は漢学者であったのみならず、歌の方でもその学者であったからだとおもうが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識的に合理化した声調となったためとも解釈することが出来る。即ち憶良のこの歌の如きは、細かい顫動《せんどう》が足りない、而してたるんでいるところのあるものである。
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葦《あし》べ行く鴨の羽《は》がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 〔巻一・六四〕 志貴皇子
文武天皇が慶雲三年(九月二十五日から十月十二日まで)難波《なにわ》宮に行幸あらせられたとき志貴皇子《しきのみこ》(天智天皇の第四皇子、霊亀二年薨)の詠まれた御歌である。難波宮のあったところは現在明かでない。
大意。難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の翼《はね》に、霜降るほどの寒い夜には、大和の家郷がおもい出されてならない。鴨でも共寝をするのにという意も含まれている。
「葦べ行く鴨」という句は、葦べを飛びわたる字面であるが、一般に葦べに住む鴨の意としてもかまわぬだろう。「葦べゆく鴨の羽音のおとのみに」(巻十二・三〇九〇)、「葦べ行く雁の翅《つばさ》を見るごとに」(巻十三・三三四五)、「鴨すらも己《おの》が妻どちあさりして」(巻十二・三〇九一)等の例があり、参考とするに足る。
志貴皇子の御歌は、その他のもそうであるが、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雑に陥るということがない。この歌でも、鴨の羽交《はがい》に霜が置くというのは現実の細かい写実といおうよりは一つの「感」で運んでいるが、その「感」は空漠《くうばく》たるものでなしに、人間の観察が本となっている点に強みがある。そこで、「霜ふりて」と断定した表現が利くのである。「葦べ行く」という句にしても稍《やや》ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全体としての写象はただのぼんやりではない。
集中には、「埼玉《さきたま》の小埼の沼に鴨ぞ翼《はね》きる己が尾に零《ふ》り置ける霜を払ふとならし」(巻九・一七四四)、「天飛ぶや雁の翅《つばさ》の覆羽《おほひは》の何処《いづく》もりてか霜の降りけむ」(巻十・二二三八)、「押し照る難波ほり江の葦べには雁宿《ね》たるかも霜の零《ふ》らくに」(同・二一三五)等の歌がある。
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あられうつ安良礼松原《あられまつばら》住吉《すみのえ》の弟日娘《おとひをとめ》と見《み》れど飽《あ》かぬかも 〔巻一・六五〕 長皇子
長皇子《ながのみこ》(天武天皇第四皇子)が、摂津の住吉海岸、安良礼松原で詠まれた御歌で、其処にいた弟日娘《おとひおとめ》という美しい娘と共に松原を賞したもうた時の御よろこびである。この歌の「と」の用法につき、あられ松原と弟日娘と両方とも見れど飽きないと解く説もある。娘は遊行女婦《うかれめ》であったろうから、美しかったものであろう。初句の、「あられうつ」は、下の「あられ」に懸けた枕詞で、皇子の造語と看做《みな》していい。一首は、よい気持になられての即興であろうが、不思議にも軽浮に艶めいたものがなく、寧ろ勁健《けいけん》とも謂《い》うべき歌調である。これは日本語そのものがこういう高級なものであったと解釈することも可能なので、自分はその一代表のつもりで此歌を選んで置いた。「見れど飽かぬかも」の句は万葉に用例がなかなか多い。「若狭《わかさ》なる三方の海の浜清《きよ》みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(巻七・一一七七)、「百伝ふ八十《やそ》の島廻《しまみ》を榜《こ》ぎ来れど粟の小島し見れど飽かぬかも」(巻九・一七一一)、「白露を玉になしたる九月《ながつき》のありあけの月夜《つくよ》見れど飽かぬかも」(巻十・二二二九)等、ほか十五、六の例がある。これも写生によって配合すれば現代に活かすことが出来る。
この歌の近くに、清江娘子《すみのえのおとめ》という者が長皇子に進《たてまつ》った、「草枕旅行く君と知らませば岸《きし》の埴土《はにふ》ににほはさましを」(巻一・六九)という歌がある。この清江娘子は弟日娘子《おとひおとめ》だろうという説があるが、或は娘子は一人のみではなかったのかも知れない。住吉の岸の黄土で衣を美しく摺《す》って記念とする趣である。「旅ゆく」はいよいよ京へお帰りになることで、名残を惜しむのである。情緒が纏綿《てんめん》としているのは、必ずしも職業的にのみこの媚態《びたい》を示すのではなかったであろう。またこれを万葉巻第一に選び載せた態度もこだわりなくて円融《えんゆう》とも称すべきものである。
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大和《やまと》には鳴《な》きてか来《く》らむ呼子鳥《よぶこどり》象《きさ》の中山《なかやま》呼《よ》びぞ越《こ》ゆなる 〔巻一・七〇〕 高市黒人
持統天皇が吉野の離宮に行幸せられた時、扈従《こじゅう》して行った高市連黒人《たけちのむらじくろひと》が作った。呼子鳥はカッコウかホトトギスか、或は両者ともにそう云われたか、未だ定説が無いが、カッコウ(閑古鳥)を呼子鳥と云った場合が最も多いようである。「象の中山」は吉野離宮のあった宮滝の南にある山である。象《きさ》という土地の中にある山の意であろう。「来らむ」は「行くらむ」という意に同じであるが、彼方《かなた》(大和)を主として云っている(山田博士の説)。従って大和に親しみがあるのである。
一首の意。(今吉野の離宮に供奉して来ていると、)呼子鳥が象の山のところを呼び鳴きつつ越えて居る。多分大和の京(藤原京)の方へ鳴いて行くのであろう。(家郷のことがおもい出されるという意を含んでいる。)
呼子鳥であるから、「呼びぞ」と云ったし、また、ただ「鳴く」といおうよりも、その方が適切な場合もあるのである。而してこの歌には「鳴く」という語も入っているから、この「鳴きてか」の方は稍間接的、「呼びぞ」の方が現在の状態で作者にも直接なものであっただろう。「大和には」の「に」は方嚮《ほうこう》で、「は」は詠歎の分子ある助詞である。この歌を誦しているうちに優れているものを感ずるのは、恐らく全体が具象的で現実的であるからであろう。そしてそれに伴う声調の響が稍渋りつつ平俗でない点にあるだろう。初句の「には」と第二句の「らむ」と結句の「なる」のところに感慨が籠って居て、第三句の「呼子鳥」は文法的には下の方に附くが、上にも下にも附くものとして鑑賞していい。高市黒人は万葉でも優れた歌人の一人だが、その黒人の歌の中でも佳作の一つであるとおもう。
普通ならば「行くらむ」というところを、「来らむ」というに就いて、「行くらむ」は対象物が自分から離れる気持、「来らむ」は自分に接近する気持であるから、自分を藤原京の方にいるように瞬間見立てれば、吉野の方から鳴きつつ来る意にとり、「来らむ」でも差支がないこととなり、古来その解釈が多い。代匠記に、「本来の住所なれば、我方にしてかくは云也」と解し、古義に「おのが恋しく思ふ京師辺《アタリ》には、今鳴きて来らむかと、京師を内にしていへるなり」と解したのは、作者の位置を一瞬藤原京の内に置いた気持に解したのである。けれどもこの解は、大和を内とするというところに「鳴きてか来らむ」の解に無理がある。然るに、山田博士に拠ると越中地方では、彼方を主とする時に「来る」というそうであるから、大和(藤原京)を主として、其処に呼子鳥が確かに行くということをいいあらわすときには、「呼子鳥が大和京へ来る」ということになる。「大和には啼きてか来らむ霍公鳥《ほととぎす》汝が啼く毎に亡き人おもほゆ」(巻十・一九五六)という歌の、「啼きてか来らむ」も、大和の方へ行くだろうというので、大和の方へ親しんで啼いて行く意となる。なお、「吾が恋を夫《つま》は知れるを行く船の過ぎて来《く》べしや言《こと》も告げなむ」(巻十・一九九八)の「来べしや」も「行くべしや」の意、「霞ゐる富士の山傍《やまび》に我が来《き》なば何方《いづち》向きてか妹が嘆かむ」(巻十四・三三五七)の、「我が来なば」も、「我が行かば」という意になるのである。
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み吉野《よしぬ》の山《やま》のあらしの寒《さむ》けくにはたや今夜《こよひ》も我《わ》がひとり寝《ね》む 〔巻一・七四〕 作者不詳
大行天皇《さきのすめらみこと》(文武)が吉野に行幸したもうた時、従駕の人の作った歌である。「はたや」は、「またも」に似てそれよりも詠歎が強い。この歌は、何の妙も無く、ただ順直にいい下しているのだが、情の純なるがために人の心を動かすに足るのである。この種の声調のものは分かり易いために、模倣歌を出だし、遂に平凡になってしまうのだが、併しそのために此歌の価値の下落することがない。その当時は名は著しくない従駕の人でも、このくらいの歌を作ったのは実に驚くべきである。「ながらふるつま吹く風の寒き夜にわが背の君はひとりか寝《ね》らむ」(巻一・五九)も選出したのであったが、歌数の制限のために、此処に附記するにとどめた。
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ますらをの鞆《とも》の音《おと》すなりもののふの大臣《おほまへつぎみ》楯《たて》立《た》つらしも 〔巻一・七六〕 元明天皇
和銅元年、元明《げんめい》天皇御製歌である。寧楽《なら》宮遷都は和銅三年だから、和銅元年には天皇はいまだ藤原宮においでになった。即ち和銅元年は御即位になった年である。
一首の意は、兵士等の鞆の音が今しきりにしている。将軍が兵の調練をして居ると見えるが、何か事でもあるのであろうか、というのである。「鞆」は皮製の円形のもので、左の肘《ひじ》につけて弓を射たときの弓弦の反動を受ける、その時に音がするので多勢のおこすその鞆の音が女帝の御耳に達したものであろう。「もののふの大臣《おほまへつぎみ》」は軍を統《す》べる将軍のことで、続紀に、和銅二年に蝦夷《えみし》を討った将軍は、巨勢麿《こせのまろ》、佐伯石湯《さへきのいわゆ》だから、御製の将軍もこの二人だろうといわれている。「楯たつ」は、楯は手楯でなくもっと大きく堅固なもので、それを立てならべること、即ち軍陣の調練をすることとなるのである。
どうしてこういうことを仰せられたか。これは軍の調練の音をお聞きになって、御心配になられたのであった。考に、「さて此御時みちのく越後の蝦夷《エミシ》らが叛《ソム》きぬれば、うての使を遣さる、その御軍《みいくさ》の手ならしを京にてあるに、鼓吹のこゑ鞆の音など(弓弦のともにあたりて鳴音也)かしかましきを聞し召て、御位の初めに事有《ことある》をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。此大御哥《おほみうた》にさる事までは聞えねど、次の御こたへ哥と合せてしるき也」とある。
御答歌というのは、御名部皇女《みなべのひめみこ》で、皇女は天皇の御姉にあたらせられる。「吾が大王《おほきみ》ものな思ほし皇神《すめかみ》の嗣《つ》ぎて賜へる吾無けなくに」(巻一・七七)という御答歌で、陛下よどうぞ御心配あそばすな、わたくしも皇祖神の命により、いつでも御名代になれますものでございますから、というので、「吾」は皇女御自身をさす。御製歌といい御答歌といい、まことに緊張した境界で、恋愛歌などとは違った大きなところを感得しうるのである。個人を超えた集団、国家的の緊張した心の世界である。御製歌のすぐれておいでになるのは申すもかしこいが、御姉君にあらせられる皇女が、御妹君にあらせらるる天皇に、かくの如き御歌を奉られたというのは、後代の吾等拝誦してまさに感涙を流さねばならぬほどのものである。御妹君におむかい、「吾が大王ものな思ほし」といわれるのは、御妹君は一天万乗の現神《あきつかみ》の天皇にましますからである。
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飛《と》ぶ鳥《とり》の明日香《あすか》の里《さと》を置《お》きて去《い》なば君《きみ》が辺《あたり》は見《み》えずかもあらむ 〔巻一・七八〕 作者不詳
元明天皇、和銅三年春二月、藤原宮から寧楽《なら》宮に御遷りになった時、御輿《みこし》を長屋原《ながやのはら》(山辺郡長屋)にとどめ、藤原京の方を望みたもうた。その時の歌であるが作者の名を明記してない。併《しか》し作者は皇子・皇女にあらせられる御方のようで、天皇の御姉、御名部皇女《みなべのひめみこ》(天智天皇皇女、元明天皇御姉)の御歌と推測するのが真に近いようである。
「飛ぶ鳥の」は「明日香《あすか》」にかかる枕詞。明日香(飛鳥)といって、なぜ藤原といわなかったかというに、明日香はあの辺の総名で、必ずしも飛鳥浄御原宮《あすかのきよみはらのみや》(天武天皇の京)とのみは限局せられない。そこで藤原京になってからも其処と隣接している明日香にも皇族がたの御住いがあったものであろう。この歌の、「君」というのは、作者が親まれた男性の御方のようである。
この歌も、素直に心の動くままに言葉を使って行き、取りたてて技巧を弄《ろう》していないところに感の深いものがある。「置きて」という表現は、他にも、「大和を置きて」、「みやこを置きて」などの例もあり、注意すべき表現である。結句の、「見えずかもあらむ」の「見えず」というのも、感覚に直接で良く、この類似の表現は万葉に多い。
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うらさぶる情《こころ》さまねしひさかたの天《あめ》の時雨《しぐれ》の流《なが》らふ見《み》れば 〔巻一・八二〕 長田王
詞書《ことばがき》には和銅五年夏四月長田王《ながたのおおきみ》(長親王《ながのみこ》の御子か)が、伊勢の山辺《やまべ》の御井《みい》(山辺離宮の御井か壱志郡新家村か)で詠まれたようになっているが、原本の左注に、この歌はどうもそれらしくない、疑って見れば其当時誦した古歌であろうと云っているが、季節も初夏らしくない。ウラサブルは「心寂《こころさび》しい」意。サマネシはサは接頭語、マネシは「多い」、「頻《しき》り」等の語に当る。ナガラフはナガルという良《ら》行下二段の動詞を二たび波《は》行下二段に活用せしめた。事柄の時間的継続をあらわすこと、チル(散る)からチラフとなる場合などと同じである。
一首の意は、天から時雨《しぐれ》の雨が降りつづくのを見ると、うら寂《さび》しい心が絶えずおこって来る、というのである。
時雨は多くは秋から冬にかけて降る雨に使っているから、やはり其時この古歌を誦したものであろうか。旅中にあって誦するにふさわしいもので、古調のしっとりとした、はしゃがない好い味いのある歌である。事象としては「天の時雨の流らふ」だけで、上の句は主観で、それに枕詞なども入っているから、内容としては極く単純なものだが、この単純化がやがて古歌の好いところで、一首の綜合がそのために渾然《こんぜん》とするのである。雨の降るのをナガラフと云っているのなども、他にも用例があるが、響きとしても実に好い響きである。
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秋《あき》さらば今《いま》も見《み》るごと妻《つま》ごひに鹿《か》鳴《な》かむ山《やま》ぞ高野原《たかぬはら》の上《うへ》 〔巻一・八四〕 長皇子
長皇子《ながのみこ》(天武天皇第四皇子)が志貴皇子《しきのみこ》(天智天皇第四皇子)と佐紀《さき》宮に於て宴せられた時の御歌である。御二人は従兄弟《いとこ》の関係になっている。佐紀宮は現在の生駒郡平城《へいじょう》村、都跡《みあと》村、伏見村あたりで、長皇子の宮のあったところであろう。志貴皇子の宮は高円《たかまと》にあった。高野原は佐紀宮の近くの高地であっただろう。
一首の意は、秋になったならば、今二人で見て居るような景色の、高野原一帯に、妻を慕って鹿が鳴くことだろう、というので、なお、そうしたら、また一段の風趣となるから、二たび来られよという意もこもっている。
この歌は、「秋さらば」というのだから現在は未だ秋でないことが分かる。「鹿鳴かむ山ぞ」と将来のことを云っているのでもそれが分かる。其処に「今も見るごと」という視覚上の句が入って来ているので、種々の解釈が出来たのだが、この、「今も見るごと」という句を直ぐ「妻恋ひに」、「鹿鳴かむ山」に続けずに寧ろ、「山ぞ」、「高野原の上」の方に関係せしめて解釈せしめる方がいい。即ち、現在見渡している高野原一帯の佳景その儘に、秋になるとこの如き興に添えてそのうえ鹿の鳴く声が聞こえるという意味になる。「今も見るごと」は「現在ある状態の佳き景色の此の高野原に」というようになり、単純な視覚よりももっと広い意味になるから、そこで視覚と聴覚との矛盾を避けることが出来るのであって、他の諸学者の種々の解釈は皆不自然のようである。
この御歌は、豊かで緊密な調べを持っており、感情が濃《こま》やかに動いているにも拘《かかわ》らず、そういう主観の言葉というものが無い。それが、「鳴かむ」といい、「山ぞ」で代表せしめられている観があるのも、また重厚な「高野原の上」という名詞句で止めているあたりと調和して、万葉調の一代表的技法を形成している。また「今も見るごと」の入句があるために、却って歌調を常識的にしていない。家持が「思ふどち斯くし遊ばむ、今も見るごと」(巻十七・三九九一)と歌っているのは恐らく此御歌の影響であろう。
この歌の詞書は、「長皇子与志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあり、左注、「右一首長皇子」で、「御歌」とは無い。これも、中皇命の御歌(巻一・三)の題詞を理解するのに参考となるだろう。目次に、「長皇子御歌」と「御」のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かったものであろう。
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秋《あき》の田《た》の穂《ほ》のへに霧《き》らふ朝霞《あさがすみ》いづへの方《かた》に我《わ》が恋《こひ》やまむ 〔巻二・八八〕 磐姫皇后
仁徳天皇の磐姫《いわのひめ》皇后が、天皇を慕うて作りませる歌というのが、万葉巻第二の巻頭に四首載っている。此歌はその四番目である。四首はどういう時の御作か、仁徳天皇の後妃八田《やた》皇女との三角関係が伝えられているから、感情の強く豊かな御方であらせられたのであろう。
一首は、秋の田の稲穂の上にかかっている朝霧がいずこともなく消え去るごとく(以上序詞)私の切ない恋がどちらの方に消え去ることが出来るでしょう、それが叶《かな》わずに苦しんでおるのでございます、というのであろう。
「霧らふ朝霞」は、朝かかっている秋霧のことだが、当時は、霞といっている。キラフ・アサガスミという語はやはり重厚で平凡ではない。第三句までは序詞だが、具体的に云っているので、象徴的として受取ることが出来る。「わが恋やまむ」といういいあらわしは切実なので、万葉にも、「大船のたゆたふ海に碇《いかり》おろしいかにせばかもわが恋やまむ」(巻十一・二七三八)、「人の見て言《こと》とがめせぬ夢《いめ》にだにやまず見えこそ我が恋やまむ」(巻十二・二九五八)の如き例がある。
この歌は、磐姫皇后の御歌とすると、もっと古調なるべきであるが、恋歌としては、読人不知の民謡歌に近いところがある。併し万葉編輯当時は皇后の御歌という言伝えを素直に受納れて疑わなかったのであろう。そこで自分は恋愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである。他の三首も皆佳作で棄てがたい。
君が行日《ゆきけ》長《なが》くなりぬ山尋《たづ》ね迎へか行かむ待ちにか待たむ (巻二・八五)
斯くばかり恋ひつつあらずは高山《たかやま》の磐根《いはね》し枕《ま》きて死なましものを (同・八六)
在りつつも君をば待たむうち靡《なび》く吾が黒髪に霜の置くまでに (同・八七)
八五の歌は、憶良の類聚歌林に斯く載ったが、古事記には軽太子《かるのひつぎのみこ》が伊豫の湯に流された時、軽の大郎女《おおいらつめ》(衣通《そとおり》王)の歌ったもので「君が行日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」となって居り、第三句は枕詞に使っていて、この方が調べが古い。八六の「恋ひつつあらずは」は、「恋ひつつあらず」に、詠歎の「は」の添わったもので、「恋ひつつあらずして」といって、それに満足せずに先きの希求をこめた云い方である。それだから、散文に直せば、従来の解釈のように、「……あらんよりは」というのに帰着する。
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妹《いも》が家《いへ》も継《つ》ぎて見ましを大和《やまと》なる大島《おほしま》の嶺《ね》に家《いへ》もあらましを 〔巻二・九一〕 天智天皇
天智天皇が鏡王女《かがみのおおきみ》に賜わった御製歌である。鏡王女は鏡王の女、額田王の御姉で、後に藤原鎌足《かまたり》の嫡妻《ちゃくさい》となられた方とおもわれるが、この御製歌はそれ以前のものであろうか、それとも鎌足薨去(天智八年)の後、王女が大和に帰っていたのに贈りたもうた歌であろうか。そして、「大和なる」とことわっているから、天皇は近江に居給うたのであろう。「大島の嶺」は所在地不明だが、鏡王女の居る処の近くで相当に名高かった山だろうと想像することが出来る。(後紀大同三年、平群《へぐり》朝臣の歌にあるオホシマあたりだろうという説がある。さすれば現在の生駒郡平群村あたりであろう。)
一首の意は、あなたの家をも絶えずつづけて見たいものだ。大和のあの大島の嶺にあなたの家があるとよいのだが、というぐらいの意であろう。
「見ましを」と「あらましを」と類音で調子を取って居り、同じ事を繰返して居るのである。そこで、天皇の御住いが大島の嶺にあればよいというのではあるまい。若しそうだと、歌は平凡になる。或は通俗になる。ここは同じことを繰返しているので、古調の単純素朴があらわれて来て、優秀な歌となるのである。前の三山の御歌も傑作であったが、この御製になると、もっと自然で、こだわりないうちに、無限の情緒を伝えている。声調は天皇一流の大きく強いもので、これは御気魄《おんきはく》の反映にほかならないのである。「家も」の「も」は「をも」の意だから、無論王女を見たいが、せめて「家をも」というので、強めて詠歎をこもらせたとすべきであろう。
この御製は恋愛か或は広義の往来存問か。語気からいえば恋愛だが、天皇との関係は審《つまびら》かでない。また天武天皇の十二年に、王女の病篤《あつ》かった時天武天皇御自ら臨幸あった程であるから、その以前からも重んぜられていたことが分かる。そこでこの歌は恋愛歌でなくて安否を問いたもうた御製だという説(山田博士)がある。鎌足歿後の御製ならば或はそうであろう。併し事実はそうでも、感情を主として味うと広義の恋愛情調になる。
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秋山《あきやま》の樹《こ》の下《した》がくり逝《ゆ》く水《みづ》の吾《われ》こそ益《ま》さめ御思《みおもひ》よりは 〔巻二・九二〕 鏡王女
右の御製に鏡王女の和《こた》え奉った歌である。
一首は、秋山の木の下を隠れて流れゆく水のように、あらわには見えませぬが、わたくしの君をお慕い申あげるところの方がもっと多いのでございます。わたくしをおもってくださる君の御心よりも、というのである。
「益さめ」の「益す」は水の増す如く、思う心の増すという意がある。第三句までは序詞で、この程度の序詞は万葉には珍らしくないが、やはり誤魔化《ごまか》さない写生がある。それから、「われこそ益《ま》さめ御思《みおもひ》よりは」の句は、情緒こまやかで、且つおのずから女性の口吻《こうふん》が出ているところに注意せねばならない。特に、結句を、「御思よりは」と止めたのに無限の味いがあり、甘美に迫って来る。これもこの歌だけについて見れば恋愛情調であるが、何処か遜《へりくだ》ってつつましく云っているところに、和え歌として此歌の価値があるのであろう。試みに同じ作者が藤原鎌足の妻になる時鎌足に贈った歌、「玉くしげ覆《おほ》ふを安《やす》み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)の方は稍《やや》気軽に作っている点に差別がある。併し「君が名はあれど吾が名し惜しも」の句にやはり女性の口吻が出ていて棄てがたいものである。
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玉《たま》くしげ御室《みむろ》の山《やま》のさなかづらさ寝《ね》ずは遂《つひ》にありがつましじ 〔巻二・九四〕 藤原鎌足
内大臣藤原卿(鎌足)が鏡王女に答え贈った歌であるが、王女が鎌足に「たまくしげ覆《おほ》ふを安み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)という歌を贈った。櫛笥《くしげ》の蓋《ふた》をすることが楽《らく》に出来るし、蓋を開《あ》けることも楽《らく》だから、夜の明けるの「明けて」に続けて序詞としたもので、夜が明けてからお帰りになると人に知れてしまいましょう、貴方には浮名が立ってもかまわぬでしょうが、私には困ってしまいます、どうぞ夜の明けぬうちにお帰りください、というので、鎌足のこの歌はそれに答えたのである。
「玉くしげ御室の山のさなかづら」迄は「さ寝」に続く序詞で、また、玉匣《たまくしげ》をあけて見んというミから御室山のミに続けた。或はミは中身《なかみ》のミだとも云われて居る。御室山は即ち三輪山で、「さな葛」はさね葛、美男かずらのことで、夏に白っぽい花が咲き、実は赤い。そこで一首は、そういうけれども、おまえとこうして寝ずには、どうしても居られないのだ、というので、結句の原文「有勝麻之自」は古来種々の訓のあったのを、橋本(進吉)博士がかく訓んで学界の定説となったものである。博士はカツと清《す》んで訓んでいる。ガツは堪える意、ガテナクニ、ガテヌカモのガテと同じ動詞、マシジはマジという助動詞の原形で、ガツ・マシジは、ガツ・マジ、堪うまじ、堪えることが出来ないだろう、我慢が出来ないと見える、というぐらいの意に落着くので、この儘こうして寝ておるのでなくてはとても我慢が出来まいというのである。「いや遠く君がいまさば有不勝自《アリガツマシジ》」(巻四・六一〇)、「辺にも沖にも依勝益士《ヨリガツマシジ》」(巻七・一三五二)等の例がある。
鏡王女の歌も情味あっていいが、鎌足卿の歌も、端的で身体的に直接でなかなかいい歌である。身体的に直接ということは即ち心の直接ということで、それを表わす言語にも直接だということになる。「ましじ」と推量にいうのなども、丁寧で、乱暴に押《おし》つけないところなども微妙でいい。「つひに」という副詞も、強く効果的で此歌でも無くてならぬ大切な言葉である。「生けるもの遂《つひ》にも死ぬるものにあれば」(巻三・三四九)、「すゑ遂《つひ》に君にあはずは」(巻十三・三二五〇)等の例がある。
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吾はもや安見児《やすみこ》得《え》たり皆人《みなひと》の得《え》がてにすとふ安見児《やすみこ》得《え》たり 〔巻二・九五〕 藤原鎌足
内大臣藤原卿(鎌足)が采女《うねめ》安見児を娶《めと》った時に作った歌である。
一首は、吾は今まことに、美しい安見児を娶った。世の人々の容易に得がたいとした、美しい安見児を娶った、というのである。
「吾はもや」の「もや」は詠歎の助詞で、感情を強めている。「まあ」とか、「まことに」とか、「実に」とかを加えて解せばいい。奉仕中の采女には厳しい規則があって濫《みだ》りに娶ることなどは出来なかった、それをどういう機会にか娶ったのだから、「皆人の得がてにすとふ」の句がある。もっともそういう制度を顧慮せずとも、美女に対する一般の感情として此句を取扱ってもかまわぬだろう。いずれにしても作者が歓喜して得意になって歌っているのが、率直な表現によって、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返しているところにあらわれている。
この歌は単純で明快で、濁った技巧が無いので、この直截性が読者の心に響いたので従来も秀歌として取扱われて来た。そこで注釈家の間に寓意説、例えば守部《もりべ》の、「此歌は、天皇を安見知し吾大君と申し馴て、皇子を安見す御子と申す事のあるに、此采女が名を、安見子と云につきて、今吾レ安見子を得て、既に天皇の位を得たりと戯れ給へる也。されば皆人の得がてにすと云も、采女が事のみにはあらず、天皇の御位の凡人に得がたき方をかけ給へる御詞也。又得たりと云言を再びかへし給へるも、其御戯れの旨を慥《たし》かに聞せんとて也。然るにかやうなるをなほざりに見過して、万葉などは何の巧《たくみ》も風情もなきものと思ひ過めるは、実におのれ解く事を得ざるよりのあやまりなるぞかし」(万葉緊要)の如きがある。けれどもそういう説は一つの穿《うが》ちに過ぎないとおもう。この歌は集中佳作の一つであるが、興に乗じて一気に表出したという種類のもので、沈潜重厚の作というわけには行かない。同じく句の繰返しがあっても前出天智天皇の、「妹が家も継ぎて見ましを」の御製の方がもっと重厚である。これは作歌の態度というよりも性格ということになるであろうか、そこで、守部の説は穿ち過ぎたけれども、「戯れ給へる也」というところは一部当っている。
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わが里《さと》に大雪《おほゆき》降《ふ》れり大原《おほはら》の古《ふ》りにし里《さと》に降《ふ》らまくは後《のち》 〔巻二・一〇三〕 天武天皇
天武天皇が藤原夫人《ふじわらのぶにん》に賜わった御製である。藤原夫人は鎌足の女《むすめ》、五百重娘《いおえのいらつめ》で、新田部皇子《にいたべのみこ》の御母、大原大刀自《おおはらのおおとじ》ともいわれた方である。夫人《ぶにん》は後宮に仕える職の名で、妃に次ぐものである。大原は今の高市《たかいち》郡飛鳥《あすか》村小原《おはら》の地である。
一首は、こちらの里には今日大雪が降った、まことに綺麗だが、おまえの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だろう、というのである。
天皇が飛鳥の清御原《きよみはら》の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂わば即興の戯れであるけれども、親しみの御語気さながらに出ていて、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。然かもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌には無くなっている。つまり人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっているのである。
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わが岡《をか》の|神《おかみ》に言《い》ひて降《ふ》らしめし雪《ゆき》の摧《くだけ》し其処《そこ》に散《ち》りけむ 〔巻二・一〇四〕 藤原夫人
藤原夫人《ふじわらのぶにん》が、前の御製に和《こた》え奉ったものである。|神《おかみ》というのは支那ならば竜神のことで、水や雨雪を支配する神である。一首の意は、陛下はそうおっしゃいますが、そちらの大雪とおっしゃるのは、実はわたくしが岡の
神に御祈して降らせました雪の、ほんの摧《くだ》けが飛ばっちりになったに過ぎないのでございましょう、というのである。御製の御揶揄《やゆ》に対して劣らぬユウモアを漂わせているのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。歌としては御製の方が優るが、天皇としては、こういう女性的な和え歌の方が却って御喜になられたわけである。
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我《わ》が背子《せこ》を大和《やまと》へ遣《や》ると小夜《さよ》更《ふ》けてあかとき露《つゆ》にわが立《た》ち霑《ぬ》れし 〔巻二・一〇五〕 大伯皇女
大津皇子《おおつのみこ》(天武天皇第三皇子)が窃《ひそ》かに伊勢神宮に行かれ、斎宮大伯皇女《おおくのひめみこ》に逢われた。皇子が大和に帰られる時皇女の詠まれた歌である。皇女は皇子の同母姉君の関係にある。
一首は、わが弟の君が大和に帰られるを送ろうと夜ふけて立っていて暁の露に霑れた、というので、暁は、原文に鶏鳴露《アカトキツユ》とあるが、鶏鳴《けいめい》(四更丑刻《うしのこく》)は午前二時から四時迄であり、また万葉に五更露爾《アカトキツユニ》(巻十・二二一三)ともあって、五更《ごこう》(寅刻《とらのこく》)は午前四時から六時迄であるから、夜の更《ふけ》から程なく暁《あかとき》に続くのである。そこで、歌の、「さ夜ふけてあかとき露に」の句が理解出来るし、そのあいだ立って居られたことをも示して居るのである。
大津皇子は天武天皇崩御の後、不軌《ふき》を謀ったのが露《あら》われて、朱鳥《あかみとり》元年十月三日死を賜わった。伊勢下向はその前後であろうと想像せられて居るが、史実的には確かでなく、単にこの歌だけを読めば恋愛(親愛)情調の歌である。併し、別離の情が切実で、且つ寂しい響が一首を流れているのをおもえば、そういう史実に関係あるものと仮定しても味うことの出来る歌である。「わが背子」は、普通恋人または夫《おっと》のことをいうが、この場合は御弟を「背子」と云っている。親しんでいえば同一に帰着するからである。「大和へやる」の「やる」という語も注意すべきもので、単に、「帰る」とか「行く」とかいうのと違って、自分の意志が活《はたら》いている。名残惜しいけれども帰してやるという意志があり、そこに強い感動がこもるのである。「かへし遣る使なければ」(巻十五・三六二七)、「この吾子《あこ》を韓国《からくに》へ遣るいはへ神たち」(巻十九・四二四〇)等の例がある。
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二人《ふたり》行《ゆ》けど行《ゆ》き過《す》ぎがたき秋山《あきやま》をいかにか君《きみ》がひとり越《こ》えなむ 〔巻二・一〇六〕 大伯皇女
大伯皇女《おおくのひめみこ》の御歌で前の歌の続と看做《みな》していい。一首の意は、弟の君と一しょに行ってもうらさびしいあの秋山を、どんな風《ふう》にして今ごろ弟の君はただ一人で越えてゆかれることか、というぐらいの意であろう。前の歌のうら悲しい情調の連鎖としては、やはり悲哀の情調となるのであるが、この歌にはやはり単純な親愛のみで解けないものが底にひそんでいるように感ぜられる。代匠記に、「殊ニ身ニシムヤウニ聞ユルハ、御謀反ノ志ヲモ聞セ給フベケレバ、事ノ成《なり》ナラズモ覚束《おぼつか》ナク、又ノ対面モ如何ナラムト思召《おぼしめす》御胸ヨリ出レバナルベシ」とあるのは、或は当っているかも知れない。また、「君がひとり」とあるがただの御一人でなく御伴もいたものであろう。
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あしひきの山《やま》の雫《しづく》に妹《いも》待《ま》つとわれ立《た》ち沾《ぬ》れぬ山《やま》の雫《しづく》に 〔巻二・一〇七〕 大津皇子
大津皇子が石川郎女《いしかわのいらつめ》(伝未詳)に贈った御歌で、一首の意は、おまえの来るのを待って、山の木の下に立っていたものだから、木からおちる雨雫にぬれたよ、というのである。「妹待つと」は、「妹待つとて」、「妹を待とうとして、妹を待つために」である。「あしひきの」は、万葉集では巻二のこの歌にはじめて出て来た枕詞であるが、説がまちまちである。宣長の「足引城《あしひきき》」説が平凡だが一番真に近いか。「足《あし》は山の脚《あし》、引は長く引延《ひきは》へたるを云。城《き》とは凡て一構《ひとかまへ》なる地《ところ》を云て此は即ち山の平《たひら》なる処をいふ」(古事記伝)というのである。御歌は、繰返しがあるために、内容が単純になった。けれどもそのために親しみの情が却って深くなったように思えるし、それに第一その歌調がまことに快いものである。第二句の「雫に」は「沾れぬ」に続き、結句の「雫に」もまたそうである。こういう簡単な表現はいざ実行しようとするとそう容易にはいかない。
右に石川郎女の和《こた》え奉った歌は、「吾《あ》を待つと君が沾《ぬ》れけむあしひきの山《やま》の雫《しづく》にならましものを」(巻二・一〇八)というので、その雨雫になりとうございますと、媚態を示した女らしい語気の歌である。郎女の歌は受身でも機智が働いているからこれだけの親しい歌が出来た。共に互の微笑をこめて唱和しているのだが、皇子の御歌の方がしっとりとして居るところがある。
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古《いにしへ》に恋《こ》ふる鳥《とり》かも弓弦葉《ゆづるは》の御井《みゐ》の上《うへ》より鳴《な》きわたり行《ゆ》く 〔巻二・一一一〕 弓削皇子
持統天皇が吉野に行幸あらせられた時、従駕の弓削皇子《ゆげのみこ》(天武天皇第六皇子)から、京に留まっていた額田王に与えられた歌である。持統天皇の吉野行幸は前後三十二回にも上るが、杜鵑《ほととぎす》の啼《な》く頃だから、持統四年五月か、五年四月であっただろう。
一首の意は、この鳥は、過去ったころの事を思い慕うて啼く鳥であるのか、今、弓弦葉《ゆづるは》の御井《みい》のほとりを啼きながら飛んで行く、というのである。
「古《いにしへ》」即ち、過去の事といふのは、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、また額田王とも御関係の深かったことであるから、そこで杜鵑を機縁として追懐せられたのが、「古に恋ふる鳥かも」という句で、簡浄の中に情緒《じょうちょ》充足し何とも言えぬ句である。そしてその下に、杜鵑の行動を写して、具体的現実的なものにしている。この関係は芸術の常道であるけれども、こういう具合に精妙に表われたものは極く稀《まれ》であることを知って置く方がいい。「弓弦葉の御井」は既に固有名詞になっていただろうが、弓弦葉(ゆずり葉)の好い樹が清泉のほとりにあったためにその名を得たので、これは、後出の、「山吹のたちよそひたる山清水」(巻二・一五八)と同様である。そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られているのである。「上より」は経過する意で、「より」、「ゆ」、「よ」等は多くは運動の語に続き、此処では「啼きわたり行く」という運動の語に続いている。この語なども古調の妙味実に云うべからざるものがある。既に年老いた額田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけったことは既に言うことを須《もち》いない。この歌は人麿と同時代であろうが、人麿に無い簡勁《かんけい》にして静和な響をたたえている。
額田王は右の御歌に「古《いにしへ》に恋ふらむ鳥は霍公鳥《ほととぎす》けだしや啼きしわが恋ふるごと」(同・一一二)という歌を以て和《こた》えている。皇子の御歌には杜鵑《ほととぎす》のことははっきり云ってないので、この歌で、杜鵑を明かに云っている。そして、額田王も亦《また》古を追慕すること痛切であるが、そのように杜鵑が啼いたのであろうという意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選抜しなかった。併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。なぜ皇子の歌に比して遜色《そんしょく》があるかというに、和え歌は受身の位置になり、相撲ならば、受けて立つということになるからであろう。贈り歌の方は第一次の感激であり、和え歌の方はどうしても間接になりがちだからであろう。
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人言《ひとごと》をしげみ言痛《こちた》みおのが世《よ》にいまだ渡《わた》らぬ朝川《あさかは》わたる 〔巻二・一一六〕 但馬皇女
但馬皇女《たじまのひめみこ》(天武天皇皇女)が穂積皇子《ほづみのみこ》(天武天皇第五皇子)を慕われた歌があって、「秋の田の穂向《ほむき》のよれる片寄りに君に寄りなな言痛《こちた》かりとも」(巻二・一一四)の如き歌もある。この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、窃《ひそ》かに穂積皇子に接せられたのが露《あら》われた時の御歌である。
「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるのが人の心を牽《ひ》く。特に皇女が皇子に逢うために、秘《ひそ》かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。普通女が男の許に通うことは稀だからである。
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石見《いはみ》のや高角山《たかつぬやま》の木《こ》の間《ま》よりわが振《ふ》る袖《そで》を妹《いも》見《み》つらむか 〔巻二・一三二〕 柿本人麿
柿本人麿が石見《いわみ》の国から妻に別れて上京する時詠んだものである。当時人麿は石見の国府(今の那賀《なか》郡下府上府《しもこうかみこう》)にいたもののようである。妻はその近くの角《つぬ》の里《さと》(今の都濃津《つのつ》附近)にいた。高角山は角の里で高い山というので、今の島星山《しまのほしやま》であろう。角の里を通り、島星山の麓を縫うて江川《ごうのがわ》の岸に出たもののようである。
大意。石見の高角山の山路を来てその木の間から、妻のいる里にむかって、振った私の袖を妻は見たであろうか。
角の里から山までは距離があるから、実際は妻が見なかったかも知れないが、心の自然的なあらわれとして歌っている。そして人麿一流の波動的声調でそれを統一している。そしてただ威勢のよい声調などというのでなく、妻に対する濃厚な愛情の出ているのを注意すべきである。
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小竹《ささ》の葉《は》はみ山《やま》もさやに乱《みだ》れども吾《われ》は妹《いも》おもふ別《わか》れ来《き》ぬれば 〔巻二・一三三〕 柿本人麿
前の歌の続きである。人麿が馬に乗って今の邑智《おおち》郡の山中あたりを通った時の歌だと想像している。私は人麿上来の道筋をば、出雲路、山陰道を通過せしめずに、今の邑智郡から赤名越《あかなごえ》をし、備後《びんご》にいでて、瀬戸内海の船に乗ったものと想像している。
大意。今通っている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめき乱《みだ》れていても、わが心はそれに紛《まぎ》れることなくただ一向《ひたすら》に、別れて来た妻のことをおもっている。
今現在山中の笹の葉がざわめき乱れているのを、直ぐ取りあげて、それにも拘《かか》わらずただ一筋に妻をおもうと言いくだし、それが通俗に堕せないのは、一首の古調のためであり、人麿的声調のためである。そして人麿はこういうところを歌うのに決して軽妙には歌っていない。飽くまで実感に即して執拗《しつよう》に歌っているから軽妙に滑《すべ》って行かないのである。
第三句ミダレドモは古点ミダルトモであったのを仙覚はミダレドモと訓んだ。それを賀茂真淵はサワゲドモと訓み、橘守部はサヤゲドモと訓み、近時この訓は有力となったし、「ササの葉はみ山もサヤにサヤげども」とサ音で調子を取っているのだと解釈しているが、これは寧《むし》ろ、「ササの葉はミヤマもサヤにミダレども」のようにサ音とミ音と両方で調子を取っているのだと解釈する方が精《くわ》しいのである。サヤゲドモではサの音が多過ぎて軽くなり過ぎる。次に、万葉には四段に活かせたミダルの例はなく、あっても他動詞だから応用が出来ないと論ずる学者(沢瀉博士)がいて、殆ど定説にならんとしつつあるが、既にミダリニの副詞があり、それが自動詞的に使われている以上(日本書紀に濫・妄・浪等を当てている)は、四段に活用した証拠となり、古訓法華経の、「不二妄《ミダリニ》開示一」、古訓老子の、「不レ知レ常妄《ミダリニ》作シテ凶ナリ」等をば、参考とすることが出来る。即ち万葉時代の人々が其等をミダリニと訓んでいただろう。そのほかミダリガハシ、ミダリゴト、ミダリゴコチ、ミダリアシ等の用例が古くあるのである。また自動詞他動詞の区別は絶対的でない以上、四段のミダルは平安朝以後のように他動詞に限られた一種の約束を人麿時代迄溯《さかのぼ》らせることは無理である。また、此の場合の笹の葉の状態は聴覚よりも寧ろ聴覚を伴う視覚に重きを置くべきであるから、それならばミダレドモと訓む方がよいのである。若しどうしても四段に活用せしめることが出来ないと一歩を譲って、下二段に活用せしめるとしたら、古訓どおりにミダルトモと訓んでも毫《ごう》も鑑賞に差支《さしつかえ》はなく、前にあった人麿の、「ささなみの志賀の大わだヨドムトモ」(巻一・三一)の歌の場合と同じく、現在の光景でもトモと用い得るのである。声調の上からいえばミダルトモでもサヤゲドモよりも優《ま》さっている。併しミダレドモと訓むならばもっとよいのだから、私はミダレドモの訓に執着するものである。(本書は簡単を必要とするからミダル四段説は別論して置いた。)
巻七に、「竹島の阿渡白波は動《とよ》めども(さわげども)われは家おもふ廬《いほり》悲しみ」(一二三八)というのがあり、類似しているが、人麿の歌の模倣ではなかろうか。
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青駒《あをこま》の足掻《あがき》を速《はや》み雲居《くもゐ》にぞ妹《いも》があたりを過《す》ぎて来《き》にける 〔巻二・一三六〕 柿本人麿
これもやはり人麿が石見から大和へのぼって来る時の歌で、第二長歌の反歌になっている。「青駒」はいわゆる青毛の馬で、黒に青みを帯びたもの、大体黒馬とおもって差支ない。白馬だという説は当らない。「足掻を速み」は馬の駈《か》けるさまである。
一首の意は、妻の居るあたりをもっと見たいのだが、自分の乗っている青馬の駈けるのが速いので、妻のいる筈の里も、いつか空遠《そらとお》く隔ってしまった、というのである。
内容がこれだけだが、歌柄が強く大きく、人麿的声調を遺憾なく発揮したものである。恋愛の悲哀といおうより寧ろ荘重の気に打たれると云った声調である。そこにおのずから人麿的な一つの類型も聯想せられるのだが、人麿は細々《こまごま》したことを描写せずに、真率《しんそつ》に真心をこめて歌うのがその特徴だから内容の単純化も行われるのである。「雲居にぞ」といって、「過ぎて来にける」と止めたのは実に旨い。もっともこの調子は藤原の御井の長歌にも、「雲井にぞ遠くありける」(巻一・五二)というのがある。この歌の次に、「秋山に落つる黄葉《もみぢば》しましくはな散り乱《みだ》れそ妹《いも》があたり見む」(巻二・一三七)というのがある。これも客観的よりも、心の調子で歌っている。それを嫌う人は嫌うのだが、軽浮に堕ちない点を見免《みのが》してはならぬのである。この石見から上来する時の歌は人麿としては晩年の作に属するものであろう。
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磐代《いはしろ》の浜松《はままつ》が枝《え》を引《ひ》き結《むす》び真幸《ささき》くあらば亦《また》かへり見《み》む 〔巻二・一四一〕 有間皇子
有間皇子《ありまのみこ》(孝徳天皇皇子)が、斉明天皇の四年十一月、蘇我赤兄《そがのあかえ》に欺《あざむ》かれ、天皇に紀伊の牟婁《むろ》の温泉(今の湯崎温泉)行幸をすすめ奉り、その留守に乗じて不軌《ふき》を企てたが、事露見して十一月五日却って赤兄のために捉《とら》えられ、九日紀の温湯《ゆ》の行宮《あんぐう》に送られて其処で皇太子中大兄の訊問《じんもん》があった。斉明紀四年十一月の条に、「於レ是皇太子、親間二有間皇子一曰、何故謀反、答曰、天与二赤兄一知、吾全不レ解」の記事がある。この歌は行宮へ送られる途中磐代(今の紀伊日高郡南部町岩代)海岸を通過せられた時の歌である。皇子は十一日に行宮から護送され、藤白坂で絞《こう》に処せられた。御年十九。万葉集の詞書には、「有間皇子自ら傷《かな》しみて松が枝を結べる歌二首」とあるのは、以上のような御事情だからであった。
一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで来たが、いま浜の松の枝を結んで幸を祈って行く。幸に無事であることが出来たら、二たびこの結び松をかえりみよう、というのである。松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがう信仰があった。
無事であることが出来たらというのは、皇太子の訊問に対して言い開きが出来たらというので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。「天と赤兄と知る」という御一語は悲痛であった。けれども此歌はもっと哀切である。こういう万一の場合にのぞんでも、ただの主観の語を吐出《はきだ》すというようなことをせず、御自分をその儘《まま》素直にいいあらわされて、そして結句に、「またかへり見む」という感慨の語を据えてある。これはおのずからの写生で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと謂《い》っていいほどである。作者はただ有りの儘に写生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云われる。例えば第三句で、「引き結び」と云って置いて、「まさきくあらば」と続けているが、そのあいだに幾分の休止あること、「豊旗雲に入日さし」といって、「こよひの月夜」と続け、そのあいだに幾分の休止あるのと似ているごときである。こういう事が自然に実行せられているために、歌調が、後世の歌のような常識的平俗に堕《おち》ることが無いのである。
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家《いへ》にあれば笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を草枕《くさまくら》旅《たび》にしあれば椎《しひ》の葉《は》に盛《も》る 〔巻二・一四二〕 有間皇子
有間皇子の第二の歌である。「笥」というのは和名鈔に盛食器也とあって飯笥《いいけ》のことである。そしてその頃高貴の方の食器は銀器であっただろうと考証している(山田博士)。
一首は、家(御殿)におれば、笥(銀器)に盛る飯をば、こうして旅を来ると椎の葉に盛る、というのである。笥をば銀の飯笥とすると、椎の小枝とは非常な差別である。
前の御歌は、「真幸《まさき》くあらばまたかへりみむ」と強い感慨を漏らされたが、痛切複雑な御心境を、かく単純にあらわされたのに驚いたのであるが、此歌になると殆ど感慨的な語がないのみでなく、詠歎的な助詞も助動詞も無いのである。併し底を流るる哀韻を見のがし得ないのはどうしてか。吾等の常識では「草枕旅にしあれば」などと、普通|旅《きりょ》の不自由を歌っているような内容でありながら、そういうものと違って感ぜねばならぬものを此歌は持っているのはどうしてか。これは史実を顧慮するからというのみではなく、史実を念頭から去っても同じことである。これは皇子が、生死の問題に直面しつつ経験せられた現実を直《ただち》にあらわしているのが、やがて普通の
旅とは違ったこととなったのである。写生の妙諦《みょうてい》はそこにあるので、この結論は大体間違の無いつもりである。
中大兄皇子の、「香具《かぐ》山と耳成《みみなし》山と会ひしとき立ちて見に来し印南《いなみ》国原」(巻一・一四)という歌にも、この客観的な荘厳があったが、あれは伝説を歌ったので、「嬬《つま》を争ふらしき」という感慨を潜めていると云っても対象が対象だから此歌とは違うのである。然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして、斯《かか》る客観的荘厳を成就《じょうじゅ》せられた。
皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、「磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも」(巻二・一四三)、「磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ」(同・一四四、長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》)、「つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」(同・一四五、山上憶良)、「後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも」(同・一四六、人麿歌集)等がある。併し歌は皆皇子の御歌には及ばないのは、心が間接になるからであろう。また、穂積朝臣老《ほづみのあそみおゆ》が近江行幸(養老元年か)に供奉《ぐぶ》した時の「吾が命し真幸《まさき》くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪」(巻三・二八八)もあるが、皇子の歌ほど切実にひびかない。
「椎の葉」は、和名鈔は、「椎子和名之比」であるから椎《しい》の葉《は》であってよいが、楢《なら》の葉《は》だろうという説がある。そして新撰字鏡に、「椎、奈良乃木《ナラノキ》也」とあるのもその証となるが、陰暦十月上旬には楢は既に落葉し尽している。また「遅速《おそはや》も汝《な》をこそ待ため向つ峰《を》の椎の小枝《こやで》の逢ひは違《たげ》はじ」(巻十四・三四九三)と或本の歌、「椎の小枝《さえだ》の時は過ぐとも」の椎《しい》は思比《シヒ》、四比《シヒ》と書いているから、楢《なら》ではあるまい。そうすれば、椎の小枝を折ってそれに飯を盛ったと解していいだろう。「片岡の此《この》向《むか》つ峯《を》に椎《しひ》蒔かば今年の夏の陰になみむか」(巻七・一〇九九)も椎《しい》であろうか。そして此歌は詠レ岳だから、椎の木の生長のことなどそう合理的でなくとも、ふとそんな気持になって詠んだものであろう。
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天《あま》の原《はら》ふりさけ見《み》れば大王《おほきみ》の御寿《みいのち》は長《なが》く天足《あまた》らしたり 〔巻二・一四七〕 倭姫皇后
天智天皇御不予《ふよ》にあらせられた時、皇后(倭姫王)の奉れる御歌である。天皇は十年冬九月御不予、十月御病重く、十二月近江宮に崩御したもうたから、これは九月か十月ごろの御歌であろうか。
一首の意は、天を遠くあおぎ見れば、悠久にしてきわまりない。今、天皇の御寿《おんいのち》もその天の如くに満ち足っておいでになる、聖寿無極である、というのである。
天皇御不予のことを知らなければ、ただの寿歌、祝歌のように受取れる御歌であるが、繰返し吟誦し奉れば、かく御願い、かく仰せられねばならぬ切な御心の、切実な悲しみが潜むと感ずるのである。特に、結句に「天足らしたり」と強く断定しているのは、却ってその詠歎の究竟《きゅうきょう》とも謂うことが出来る。橘守部《たちばなのもりべ》は、この御歌の「天の原」は天のことでなしに、家の屋根の事だと考証し、新室を祝う室寿《むろほぎ》の詞の中に「み空を見れば万代にかくしもがも」云々とある等を証としたが、その屋根を天に準《たと》えることは、新家屋を寿《ことほ》ぐのが主な動機だから自然にそうなるので、また、万葉巻十九(四二七四)の新甞会《にいなめえ》の歌の「天《あめ》にはも五百《いほ》つ綱はふ万代《よろづよ》に国知らさむと五百つ綱延《は》ふ」でも、宮殿内の肆宴《しえん》が主だからこういう云い方になるのである。御不予御平癒のための願望動機とはおのずから違わねばならぬと思うのである。縦《たと》い、実際的の吉凶を卜《ぼく》する行為があったとしても、天空を仰いでも卜せないとは限らぬし、そういう行為は現在伝わっていないから分からぬ。私は、歌に「天の原ふりさけ見れば」とあるから、素直に天空を仰ぎ見たことと解する旧説の方が却って原歌の真を伝えているのでなかろうかと思うのである。守部説は少し穿過《うがちす》ぎた。
この歌は「天の原ふりさけ見れば」といって直ぐ「大王の御寿は」と続けている。これだけでみると、吉凶を卜して吉の徴でも得たように取れるかも知れぬが、これはそういうことではあるまい。此処に常識的意味の上に省略と単純化とがあるので、此は古歌の特徴なのである。散文ならば、蒼天の無際無極なるが如く云々と補充の出来るところなのである。この御歌の下の句の訓も、古鈔本では京都大学本がこう訓み、近くは略解《りゃくげ》がこう訓んで諸家それに従うようになったものである。
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青旗《あをはた》の木幡《こはた》の上を通《かよ》ふとは目《め》には見《み》れども直《ただ》に逢《あ》はぬかも 〔巻二・一四八〕 倭姫皇后
御歌の内容から見れば、天智天皇崩御の後、倭姫皇后の御作歌と看做してよいようである。初句「青旗の」は、下の「木旗」に懸《かか》る枕詞で、青く樹木の繁っているのと、下のハタの音に関聯せしめたものである。「木幡」は地名、山城の木幡《こはた》で、天智天皇の御陵のある山科《やましな》に近く、古くは、「山科の木幡《こはた》の山を馬はあれど」(巻十一・二四二五)ともある如く、山科の木幡とも云った。天皇の御陵の辺を見つつ詠まれたものであろう。右は大体契沖の説だが、「青旗の木旗」をば葬儀の時の幢幡《どうばん》のたぐいとする説(考・檜嬬手・攷證)がある。自分も一たびそれに従ったことがあるが、今度は契沖に従った。
一首の意。〔青旗の〕(枕詞)木幡山の御墓のほとりを天がけり通いたもうとは目にありありとおもい浮べられるが、直接にお逢い奉ることが無い。御身と親しく御逢いすることがかなわない、というのである。
御歌は単純蒼古で、徒《いたず》らに艶《つや》めかず技巧を無駄使せず、前の御歌同様集中傑作の一つである。「直に」は、現身と現身と直接に会うことで、それゆえ万葉に用例がなかなか多い。「百重《ももへ》なす心は思へど直《ただ》に逢はぬかも」(巻四・四九六)、「うつつにし直にあらねば」(巻十七・三九七八)、「直にあらねば恋ひやまずけり」(同・三九八〇)、「夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに」(巻十二・二九五九)などである。「目には見れども」は、眼前にあらわれて来ることで、写象として、幻《まぼろし》として、夢等にしていずれでもよいが、此処は写象としてであろうか。「み空ゆく月読《つくよみ》男《をとこ》ゆふさらず目には見れども寄るよしもなし」(巻七・一三七二)、「人言《ひとごと》をしげみこちたみ我背子《わがせこ》を目には見れども逢ふよしもなし」(巻十二・二九三八)の歌があるが、皆民謡風の軽さで、この御歌ほどの切実なところが無い。
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人《ひと》は縦《よ》し思《おも》ひ止《や》むとも玉《たま》かづら影《かげ》に見《み》えつつ忘《わす》らえぬかも 〔巻二・一四九〕 倭姫皇后
これには、「天皇崩じ給ひし時、倭太后《やまとのおほきさき》の御作歌一首」と明かな詞書《ことばがき》がある。倭太后は倭姫皇后のことである。
一首の意は、他の人は縦《たと》い御崩《おかく》れになった天皇を、思い慕うことを止めて、忘れてしまおうとも、私には天皇の面影がいつも見えたもうて、忘れようとしても忘れかねます、というのであって、独詠的な特徴が存している。
「玉かづら」は日蔭蔓《ひかげかずら》を髪にかけて飾るよりカケにかけ、カゲに懸けた枕詞とした。山田博士は葬儀の時の華縵《けまん》として単純な枕詞にしない説を立てた。この御歌には、「影に見えつつ」とあるから、前の御歌もやはり写象のことと解することが出来るとおもう。「見し人の言問ふ姿面影にして」(巻四・六〇二)、「面影に見えつつ妹は忘れかねつも」(巻八・一六三〇)、「面影に懸かりてもとな思ほゆるかも」(巻十二・二九〇〇)等の用例が多い。
この御歌は、「人は縦し思ひ止むとも」と強い主観の詞を云っているけれども、全体としては前の二つの御歌よりも寧《むし》ろ弱いところがある。それは恐らく下の句の声調にあるのではなかろうか。
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山吹《やまぶき》の立《た》ちよそひたる山清水《やましみづ》汲《く》みに行《ゆ》かめど道《みち》の知《し》らなく 〔巻二・一五八〕 高市皇子
十市皇女《とおちのひめみこ》が薨ぜられた時、高市皇子《たけちのみこ》の作られた三首の中の一首である。十市皇女は天武天皇の皇長女、御母は額田女王《ぬかだのおおきみ》、弘文天皇の妃であったが、壬申《じんしん》の戦後、明日香清御原《あすかのきよみはら》の宮(天武天皇の宮殿)に帰って居られた。天武天皇七年四月、伊勢に行幸御進発間際に急逝せられた。天武紀に、七年夏四月、丁亥朔、欲レ幸二斎宮一、卜レ之、癸巳食レ卜、仍取二平旦時一、警蹕既動、百寮成レ列、乗輿命レ蓋、以未レ及二出行一、十市皇女、卒然病発、薨二於宮中一、由レ此鹵簿既停、不レ得二幸行一、遂不レ祭二神祇一矣とある。高市皇子は異母弟の間柄にあらせられる。御墓は赤穂にあり、今は赤尾に作っている。
一首の意は、山吹の花が、美しくほとりに咲いている山の泉の水を、汲みに行こうとするが、どう通《とお》って行ったら好いか、その道が分からない、というのである。山吹の花にも似た姉の十市皇女が急に死んで、どうしてよいのか分からぬという心が含まれている。
作者は山清水のほとりに山吹の美しく咲いているさまを一つの写象として念頭に浮べているので、謂わば十市皇女と関聯した一つの象徴なのである。そこで、どうしてよいか分からぬ悲しい心の有様を「道の知らなく」と云っても、感情上毫《すこ》しも無理ではない。併し、常識からは、一定の山清水を指定しているのなら、「道の知らなく」というのがおかしいというので、橘守部の如く、「山吹の立ちよそひたる山清水」というのは、「黄泉」という支那の熟語をくだいてそういったので、黄泉まで尋ねて行きたいが幽冥界を異にしてその行く道を知られないというように解するようになる。守部の解は常識的には道理に近く、或は作者はそういう意図を以て作られたのかも知れないが、歌の鑑賞は、字面にあらわれたものを第一義とせねばならぬから、おのずから私の解釈のようになるし、それで感情上決して不自然ではない。
第二句、「立儀足」は旧訓サキタルであったのを代匠記がタチヨソヒタルと訓んだ。その他にも異訓があるけれども大体代匠記の訓で定まったようである。ヨソフという語は、「水鳥のたたむヨソヒに」(巻十四・三五二八)をはじめ諸例がある。「山吹の立ちよそひたる山清水」という句が、既に写象の鮮明なために一首が佳作となったのであり、一首の意味もそれで押とおして行って味えば、この歌の優れていることが分かる。古調のいい難い妙味があると共に、意味の上からも順直で無理が無い。黄泉云々の事はその奥にひそめつつ、挽歌としての関聯を鑑賞すべきである。なぜこの歌の上の句が切実かというに、「かはづ鳴く甘南備《かむなび》河にかげ見えて今か咲くらむ山吹の花」(巻八・一四三五)等の如く、当時の人々が愛玩した花だからであった。
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北山《きたやま》につらなる雲《くも》の青雲《あをぐも》の星離《ほしさか》りゆき月《つき》も離《さか》りて 〔巻二・一六一〕 持統天皇
天武天皇崩御の時、皇后(後の持統天皇)の詠まれた御歌である。原文には一書曰、太上天皇御製歌、とあるのは、文武天皇の御世から見て持統天皇を太上天皇と申奉った。即ち持統天皇御製として言伝えられたものである。
一首は、北山に連《つらな》ってたなびき居る雲の、青雲の中の(蒼き空の)星も移り、月も移って行く。天皇おかくれになって万《よろ》ず過ぎゆく御心持であろうが、ただ思想の綾《あや》でなく、もっと具体的なものと解していい。
大体右の如く解したが、此歌は実は難解で種々の説がある。「北山に」は原文「向南山」である。南の方から北方にある山科の御陵の山を望んで「向南山」と云ったものであろう。「つらなる雲の」は原文「陣(陳)雲之」で旧訓タナビククモノであるが、古写本中ツラナルクモノと訓んだのもある。けれども古来ツラナルクモという用例は無いので、山田博士の如きも旧訓に従った。併しツラナルクモも可能訓と謂われるのなら、この方が型を破って却って深みを増して居る。次に「青雲」というのは青空・青天・蒼天などということで、雲というのはおかしいようだが、「青雲のたなびく日すら霖《こさめ》そぼ降る」(巻十六・三八八三)、「青雲のいでこ我妹子」(巻十四・三五一九)、「青雲の向伏すくにの」(巻十三・三三二九)等とあるから、晴れた蒼天をも青い雲と信じたものであろう。そこで、「北山に続く青空」のことを、「北山につらなる雲の青雲の」と云ったと解し得るのである。これから、星のことも月のことも、単に「物変星移幾度秋」の如きものでなく、現実の星、現実の月の移ったことを見ての詠歎と解している。
面倒な歌だが、右の如くに解して、自分は此歌を尊敬し愛誦している。「春過ぎて夏来るらし」と殆ど同等ぐらいの位置に置いている。何か渾沌《こんとん》の気があって二二ガ四と割切れないところに心を牽《ひ》かれるのか、それよりももっと真実なものがこの歌にあるからであろう。自分は、「北山につらなる雲の」だけでももはや尊敬するので、それほど古調を尊んでいるのだが、少しく偏しているか知らん。
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神風《かむかぜ》の伊勢《いせ》の国《くに》にもあらましを何《なに》しか来《き》けむ君《きみ》も有《あ》らなくに 〔巻二・一六三〕 大来皇女
大津皇子が薨じ給うた後、大来《おおく》(大伯)皇女が伊勢の斎宮から京に来られて詠まれた御歌である。御二人は御姉弟の間柄であることは既に前出の歌のところで云った。皇子は朱鳥《あかみとり》元年十月三日に死を賜わった。また皇女が天武崩御によって斎王《いつきのおおきみ》を退き(天皇の御代毎に交代す)帰京せられたのはやはり朱鳥元年十一月十六日だから、皇女は皇子の死を大体知っていられたと思うが、帰京してはじめて事の委細を聞及ばれたものであっただろう。
一首の意。〔神風の〕(枕詞)伊勢国にその儘とどまっていた方がよかったのに、君も此世を去って、もう居られない都に何しに還って来たことであろう。
「伊勢の国にもあらましを」の句は、皇女真実の御声であったに相違ない。家郷である大和、ことに京に還るのだから喜ばしい筈なのに、この御詞のあるのは、強く読む者の心を打つのである。第三句に、「あらましを」といい、結句に、「あらなくに」とあるのも重くして悲痛である。
なお、同時の御作に、「見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)がある。前の結句、「君もあらなくに」という句が此歌では第三句に置かれ、「馬疲るるに」という実事の句を以て結んで居るが、、この結句にもまた愬《うった》えるような響がある。以上の二首は連作で二つとも選《よ》っておきたいが、今は一つを従属的に取扱うことにした。
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現身《うつそみ》の人《ひと》なる吾《われ》や明日《あす》よりは二上山《ふたかみやま》を弟背《いろせ》と吾《わ》が見《み》む 〔巻二・一六五〕 大来皇女
磯《いそ》の上《うへ》に生《お》ふる馬酔木《あしび》を手折《たを》らめど見《み》すべき君《きみ》がありと云《い》はなくに 〔巻二・一六六〕 同
大津皇子を葛城《かずらき》の二上山に葬った時、大来皇女《おおくのひめみこ》哀傷して作られた御歌である。「弟背《いろせ》」は原文「弟世」とあり、イモセ、ヲトセ、ナセ、ワガセ等の諸訓があるが、新訓のイロセに従った。同母兄弟をイロセということ、古事記に、「天照大御神之伊呂勢《イロセ》」、「其伊呂兄《イロセ》五瀬命」等の用例がある。
大意。第一首。生きて現世に残っている私は、明日からはこの二上山をば弟の君とおもって見て慕い偲《しの》ぼう。今日いよいよ此処に葬り申すことになった。第二首。石のほとりに生えている、美しいこの馬酔木の花を手折もしようが、その花をお見せ申す弟の君はもはやこの世に生きて居られない。
「君がありと云はなくに」は文字どおりにいえば、「一般の人々が此世に君が生きて居られるとは云わぬ」ということで、人麿の歌などにも、「人のいへば」云々とあるのと同じく、一般にそういわれているから、それが本当であると強めた云い方にもなり、兎《と》に角《かく》そういう云い方をしているのである。馬酔木については、「山もせに咲ける馬酔木の、悪《にく》からぬ君をいつしか、往きてはや見む」(巻八・一四二八)、「馬酔木なす栄えし君が掘りし井の」(巻七・一一二八)等があり、自生して人の好み賞した花である。
この二首は、前の御歌等に較べて、稍しっとりと底深くなっているようにおもえる。「何しか来けむ」というような強い激越の調がなくなって、「現身の人なる吾や」といって、諦念《ていねん》の如き心境に入ったもののいいぶりであるが、併し二つとも優れている。
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あかねさす日《ひ》は照《て》らせれどぬばたまの夜《よ》渡《わた》る月《つき》の隠《かく》らく惜《を》しも 〔巻二・一六九〕 柿本人麿
日並皇子尊《ひなみしのみこのみこと》の殯宮《あらきのみや》の時、柿本人麿の作った長歌の反歌である。皇子尊《みこのみこと》と書くのは皇太子だからである。日並皇子尊(草壁皇子《くさかべのみこ》)は持統三年に薨ぜられた。
「ぬばたまの夜わたる月の隠らく」というのは日並皇子尊の薨去なされたことを申上げたので、そのうえの、「あかねさす日は照らせれど」という句は、言葉のいきおいでそう云ったものと解釈してかまわない。つまり、「月の隠らく惜しも」が主である。全体を一種象徴的に歌いあげている。そしてその歌調の渾沌《こんとん》として深いのに吾々は注意を払わねばならない。
この歌の第二句は、「日は照らせれど」であるから、以上のような解釈では物足りないものを感じ、そこで、「あかねさす日」を持統天皇に譬《たと》え奉ったものと解釈する説が多い。然るに皇子尊薨去の時には天皇が未だ即位し給わない等の史実があって、常識からいうと、実は変な辻棲《つじつま》の合わぬ歌なのである。併し此処は真淵《まぶち》が万葉考《まんようこう》で、「日はてらせれどてふは月の隠るるをなげくを強《ツヨ》むる言のみなり」といったのに従っていいと思う。或はこの歌は年代の明かな人麿の作として最初のもので、初期(想像年齢二十七歳位)の作と看做していいから、幾分常識的散文的にいうと腑《ふ》に落ちないものがあるかも知れない。特に人麿のものは句と句との連続に、省略があるから、それを顧慮しないと解釈に無理の生ずる場合がある。
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島《しま》の宮《みや》まがりの池《いけ》の放《はな》ち鳥《どり》人目《ひとめ》に恋《こ》ひて池《いけ》に潜《かづ》かず 〔巻二・一七〇〕 柿本人麿
人麿が日並皇子尊殯宮の時作った中の、或本歌一首というのである。「勾《まがり》の池」は島の宮の池で、現在の高市《たかいち》郡高市村の小学校近くだろうと云われている。一首の意は、勾の池に放《はな》ち飼《がい》にしていた禽鳥《きんちょう》等は、皇子尊のいまさぬ後でも、なお人なつかしく、水上に浮いていて水に潜《くぐ》ることはないというのである。
真淵は此一首を、舎人《とねり》の作のまぎれ込んだのだろうと云ったが、舎人等の歌は、かの二十三首でも人麿の作に比して一般に劣るようである。例えば、「島の宮上《うへ》の池なる放ち鳥荒びな行きそ君坐《ま》さずとも」(巻二・一七二)、「御立《みたち》せし島をも家と住む鳥も荒びなゆきそ年かはるまで」(同・一八〇)など、内容は類似しているけれども、何処か違うではないか。そこで参考迄に此一首を抜いて置いた。
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東《ひむがし》の滝《たぎ》の御門《みかど》に侍《さもら》へど昨日《きのふ》も今日《けふ》も召《め》すこともなし 〔巻二・一八四〕 日並皇子宮の舎人
あさ日《ひ》照《て》る島《しま》の御門《みかど》におぼほしく人音《ひとおと》もせねばまうらがなしも 〔巻二・一八九〕 同
日並の皇子尊に仕えた舎人等が慟傷《どうしょう》して作った歌二十三首あるが、今その中二首を選んで置いた。「東の滝の御門」は皇子尊の島の宮殿の正門で、飛鳥《あすか》川から水を引いて滝をなしていただろうと云われている。「人音もせねば」は、人の出入も稀に寂《さび》れた様をいった。
大意。第一首。島の宮の東門の滝の御門に伺候して居るが、昨日も今日も召し給うことがない。嘗《かつ》て召し給うた御声を聞くことが出来ない。第二首。嘗て皇子尊の此世においでになった頃は、朝日の光の照るばかりであった島の宮の御門も、今は人の音ずれも稀になって、心もおぼろに悲しいことである、というのである。
舎人等の歌二十三首は、素直に、心情を抒《の》べ、また当時の歌の声調を伝えて居る点を注意すべきであるが、人麿が作って呉れたという説はどうであろうか。よく読み味って見れば、少し楽《らく》でもあり、手の足りないところもあるようである。なお二十三首のうちには次の如きもある。
朝日てる佐太の岡べに群れゐつつ吾が哭《な》く涙やむ時もなし(巻二・一七七)
御立せし島の荒磯《ありそ》を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも(同・一八一)
あさぐもり日の入りぬれば御立せし島に下りゐて嘆きつるかも(同・一八八)
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敷妙《しきたへ》の袖交《そでか》へし君《きみ》玉垂《たまだれ》のをち野《ぬ》に過《す》ぎぬ亦《また》も逢《あ》はめやも 〔巻二・一九五〕 柿本人麿
この歌は、川島《かわしま》皇子が薨《こう》ぜられた時、柿本人麿が泊瀬部《はつせべ》皇女と忍坂部《おさかべ》皇子とに献《たてまつ》った歌である。川島皇子(天智天皇第二皇子)は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは御兄妹の御関係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御両人に同時に御見せ申したと解していい。「敷妙の」も、「玉垂の」もそれぞれ下の語に懸《かか》る枕詞である。「袖交《か》へし」のカフは波《は》行下二段に活用し、袖をさし交《かわ》して寝ることで、「白妙の袖さし交《か》へて靡《なび》き寝《ね》し」(巻三・四八一)という用例もある。「過ぐ」とは死去することである。
一首は、敷妙の袖をお互に交《か》わして契りたもうた川島皇子の君は、今越智野《おちぬ》(大和国高市郡)に葬られたもうた。今後二たびお逢いすることが出来ようか、もうそれが出来ない、というのである。
この歌は皇女の御気持になり、皇女に同情し奉った歌だが、人麿はそういう場合にも自分の事のようになって作歌し得たもののようである。そこで一首がしっとりと充実して決して申訣《もうしわけ》の余所余所《よそよそ》しさというものが無い。第四句で、「越智野に過ぎぬ」と切って、二たび語を起して、「またもあはめやも」と止めた調べは、まことに涙を誘うものがある。
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零《ふ》る雪《ゆき》はあはにな降《ふ》りそ吉隠《よなばり》の猪養《ゐがひ》の岡《をか》の塞《せき》なさまくに 〔巻二・二〇三〕 穂積皇子
但馬《たじま》皇女が薨ぜられた(和銅元年六月)時から、幾月か過ぎて雪の降った冬の日に、穂積皇子が遙かに御墓(猪養の岡)を望まれ、悲傷流涕《りゅうてい》して作られた歌である。皇女と皇子との御関係は既に云った如くである。吉隠《よなばり》は磯城《しき》郡初瀬町のうちで、猪養の岡はその吉隠にあったのであろう。「あはにな降りそ」は、諸説あるが、多く降ること勿《なか》れというのに従っておく。「塞《せき》なさまくに」は塞《せき》をなさんに、塞《せき》となるだろうからという意で、これも諸説がある。金沢本には、「塞」が「寒」になっているから、新訓では、「寒からまくに」と訓んだ。
一首は、降る雪は余り多く降るな。但馬皇女のお墓のある吉隠の猪養の岡にかよう道を遮《さえぎ》って邪魔になるから、というので、皇子は藤原京(高市郡鴨公村)からこの吉隠(初瀬町)の方を遠く望まれたものと想像することが出来る。
皇女の薨ぜられた時には、皇子は知太政官事《ちだいじょうかんじ》の職にあられた。御多忙の御身でありながら、或雪の降った日に、往事のことをも追懐せられつつ吉隠の方にむかってこの吟咏をせられたものであろう。この歌には、解釈に未定の点があるので、鑑賞にも邪魔する点があるが、大体右の如くに定めて鑑賞すればそれで満足し得るのではあるまいか。前出の、「君に寄りなな」とか、「朝川わたる」とかは、皆皇女の御詞であった。そして此歌に於てはじめて吾等は皇子の御詞に接するのだが、それは皇女の御墓についてであった。そして血の出るようなこの一首を作られたのであった。結句の「塞なさまくに」は強く迫る句である。
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秋山《あきやま》の黄葉《もみぢ》を茂《しげ》み迷《まど》はせる妹《いも》を求《もと》めむ山道《やまぢ》知らずも 〔巻二・二〇八〕 柿本人麿
これは人麿が妻に死なれた時詠《よ》んだ歌で、長歌を二つも作って居り、その反歌の一つである。この人麿の妻というのは軽《かる》の里《さと》(今の畝傍町大軽和田石川五条野)に住んでいて、其処に人麿が通ったものと見える。この妻の急に死んだことを使の者が知らせた趣《おもむき》が長歌に見えている。
一首は、自分の愛する妻が、秋山の黄葉《もみじ》の茂きがため、その中に迷い入ってしまった。その妻を尋ね求めんに道が分からない、というのである。
死んで葬られることを、秋山に迷い入って隠れた趣に歌っている。こういう云い方は、現世の生の連続として遠い処に行く趣にしてある。当時は未だそう信じていたものであっただろうし、そこで愛惜の心も強く附帯していることとなる。「迷はせる」は迷いなされたという具合に敬語にしている。これは死んだ者に対しては特に敬語を使ったらしく、その他の人麿の歌にも例がある。この一首は亡妻を悲しむ心が極《きわ》めて切実で、ただ一気に詠みくだしたように見えて、その実心の渦が中にこもっているのである。「求めむ」と云ってもただ尋ねようというよりも、もっと覚官的に人麿の身に即したいい方であるだろう。
なお、人麿の妻を悲しんだ歌に、「去年《こぞ》見てし秋の月夜は照らせども相見し妹《いも》はいや年さかる」(巻二・二一一)、「衾道《ふすまぢ》を引手《ひきて》の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし」(同・二一二)がある。共に切実な歌である。二一一の第三句は、「照らせれど」とも訓んでいる。一周忌の歌だろうという説もあるが、必ずしもそう厳重に穿鑿《せんさく》せずとも、今秋の清い月を見て妻を追憶して歎く趣に取ればいい。「衾道を」はどうも枕詞のようである。「引手山」は不明だが、春日《かすが》の羽易《はがい》山の中かその近くと想像せられる。
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楽浪《ささなみ》の志我津《しがつ》の子《こ》らが罷道《まかりぢ》の川瀬《かはせ》の道《みち》を見ればさぶしも 〔巻二・二一八〕 柿本人麿
吉備津采女《きびつのうねめ》が死んだ時、人麿の歌ったものである。「志我津《しがつ》の子ら」とあるから、志我津《しがつ》即ち今の大津あたりに住んでいた女で、多分吉備の国(備前備中備後美作《みまさか》)から来た采女で、現職を離れてから近江の大津辺に住んでいたものと想像せられる。「子ら」の「ら」は親愛の語で複数を示すのではない。「罷道《まかりぢ》」は此世を去って死んで黄泉《よみ》の国へ行く道の意である。
一首は、楽浪《ささなみ》の志我津《しがつ》にいた吉備津采女《きびつのうねめ》が死んで、それを送って川の瀬を渡って行く、まことに悲しい、というのである。「川瀬の道」という語は古代語として注意してよく、実際の光景であったのであろうが、特に「川瀬」とことわったのを味うべきである。川瀬の音も作者の心に沁《し》みたものと見える。
この歌は不思議に悲しい調べを持って居り、全体としては句に屈折・省略等も無く、むつかしくない歌であるが、不思議にも身に沁みる歌である。どういう場合に人麿がこの采女の死に逢ったのか、或は依頼されて作ったものか、そういうことを種々問題にし得る歌だが、人麿は此時、「あまかぞふ大津《おほつ》の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔《くや》しき」(巻二・二一九)という歌をも作っている。これは、生前縁があって一たび会ったことがあるが、その時にはただ何気なく過した。それが今となっては残念である、というので、これで見ると人麿は依頼されて作ったのでなく、采女は美女で名高かった者のようでもあり、人麿は自ら感激して作っていることが分かる。
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妻《つま》もあらば採《つ》みてたげまし佐美《さみ》の山野《やまぬ》の上《へ》の宇波疑《うはぎ》過《す》ぎにけらずや 〔巻二・二二一〕 柿本人麿
人麿が讃岐《さぬき》狭岑《さみね》島で溺死者を見て詠んだ長歌の反歌である。今仲多度郡に属し砂弥《しゃみ》島と云っている。坂出《さかいで》町から近い。
一首の意は、若し妻が一しょなら、野のほとりの兎芽子《うはぎ》(よめ菜)を摘んで食べさせようものを、あわれにも唯一人こうして死んでいる。そして野の兎芽子《うはぎ》はもう季節を過ぎてしまっているではないか、というのである。
タグという動詞は下二段に活用し、飲食することである。人麿はこういう種類の歌にもなかなか骨を折り、自分の身内か恋人でもあるかのような態度で作歌して居る。それゆえ軽くすべって行くようなことがなく、飽くまで人麿自身から遊離していないものとして受取ることが出来るのである。
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鴨山《かもやま》の磐根《いはね》し纏《ま》ける吾《われ》をかも知《し》らにと妹《いも》が待《ま》ちつつあらむ 〔巻二・二二三〕 柿本人麿
人麿が石見国にあって死なんとした時、自ら悲しんで詠んだ歌である。当時人麿は石見国府の役人として、出張の如き旅にあって、鴨山のほとりで死んだものであろう。
一首は、鴨山の巌《いわお》を枕として死んで居る吾をも知らずに、吾が妻は吾の帰るのを待ち詫《わ》びていることであろう、まことに悲しい、という意である。
人麿の死んだ時、妻の依羅娘子《よさみのおとめ》が、「けふけふと吾が待つ君は石川《いしかは》の峡《かひ》に(原文、石水貝爾)交《まじ》りてありといはずやも」(巻二・二二四)と詠んで居り、娘子は多分、角《つぬ》の里《さと》にいた人麿の妻と同一人であろうから、そうすれば「鴨山」という山は、石川の近くで国府から少くも十数里ぐらい離れたところと想像することが出来る。そこで自分は昭和九年に「鴨山考」を作って、石川を現在の江川《ごうのがわ》だと見立て、邑智《おおち》郡粕淵《かすぶち》村の津目山《つのめやま》を鴨山だろうという仮説を立てたのであったが、昭和十二年一月、おなじ粕淵村の大字湯抱《ゆかかえ》に「鴨山」という名のついた実在の山を発見した。これは二つ峰のある低い山(三六〇米)で津目山より約半里程隔っている。この事は「鴨山後考」(昭和十三年「文学」六ノ一)で発表した。
この歌は、謂わば人麿の辞世の歌であるが、いつもの人麿の歌程威勢がなく、もっと平凡でしっとりとした悲哀がある。また人麿は死に臨んで悟道めいたことを云わずに、ただ妻のことを云っているのも、なかなかよいことである。次に人麿の歿年はいつごろかというに、真淵は和銅三年ごろだろうとしてあるが、自分は慶雲四年ごろ石見に疫病の流行した時ではなかろうかと空想した。さすれば真淵説より数年若くて死ぬことになるが、それでも四十五歳ぐらいである。
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大君《おほきみ》は神《かみ》にしませば天雲《あまぐも》の雷《いかづち》のうへに廬《いほり》せるかも 〔巻三・二三五〕 柿本人麿
天皇(持統天皇)雷岳《いかずちのおか》(高市郡飛鳥村大字雷)行幸の時、柿本人麿の献《たてまつ》った歌である。
一首の意は、天皇は現人神《あらひとがみ》にましますから、今、天に轟《とどろ》く雷《いかずち》の名を持っている山のうえに行宮《あんぐう》を御造りになりたもうた、というのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神随《かむながら》にましますというのである。
これは供奉《ぐぶ》した人麿が、天皇の御威徳を讃仰し奉ったもので、人麿の真率《しんそつ》な態度が、おのずからにして強く大きいこの歌調を成さしめている。雷岳は藤原宮(高市郡鴨公村高殿の伝説地)から半里ぐらいの地であるから、今の人の観念からいうと御散歩ぐらいに受取れるし、雷岳は低い丘陵であるから、この歌をば事々しい誇張だとし、或は、「歌の興」に過ぎぬと軽く見る傾向もあり、或は支那文学の影響で腕に任せて作ったのだと評する人もあるのだが、この一首の荘重な歌調は、そういう手軽な心境では決して成就し得るものでないことを知らねばならない。抒情詩としての歌の声調は、人を欺くことの出来ぬものである、争われぬものであるということを、歌を作るものは心に慎《つつし》み、歌を味うものは心を引締めて、覚悟すべきものである。現在でも雷岳の上に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに眼界に入れることが出来る。人暦は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であったということを、吾等もようやくにして知るに近いのであるが、賀茂真淵此歌を評して、「岳の名によりてただに天皇のはかりがたき御いきほひを申せりけるさまはただ此人のはじめてするわざなり」(新採百首解)と云ったのは、真淵は人麿を理会し得たものの如くである。結句の訓、スルカモ、セスカモ等があるが、セルカモに従った。此は荒木田久老《ひさおい》(真淵門人)の訓である。
この歌、或本には忍壁皇子《おさかべのみこ》に献ったものとして、「大君は神にしませば雲隠る雷山《いかづちやま》に宮敷《みやし》きいます」となっている。なお「大君は神にしませば赤駒のはらばふ田井《たゐ》を京師《みやこ》となしつ」(巻十九・四二六〇)、「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼《みぬま》を皇都《みやこ》となしつ」(同・四二六一)、「大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも」(巻三・二四一)等の参考歌がある。
右のうち巻十九(四二六〇)の、「赤駒のはらばふ田井」の歌は、壬申乱《じんしんのらん》平定以後に、大将軍贈右大臣大伴卿の作である。この大将軍は即ち大伴御行《おおとものみゆき》で大伴安麿の兄に当り、高市大卿ともいい、大宝元年に薨じ右大臣を贈られた。壬申乱に天武天皇方の軍を指揮した。此歌は飛鳥の浄見原の京都を讃美したもので、「赤駒のはらばふ」は田の辺に馬の臥《ふ》しているさまである。此歌は即ち人麿の歌よりも前であるし、古調でなかなかいいところがあるので、巻十九で云うのを此処で一言費すことにした。四二六一は異伝で童謡風になっている。四二六〇の歌が人麿の歌より前だとすると、人麿に影響したとも取れるが、この歌をはじめて聞いたのは、天平勝宝四年二月二日だとことわってあるから、その辺の事情は好く分からない。
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否《いな》といへど強《し》ふる志斐《しひ》のが強《し》ひがたりこの頃《ごろ》聞《き》かずてわれ恋《こ》ひにけり 〔巻三・二三六〕 持統天皇
否《いな》といへど語れ語れと詔《の》らせこそ志斐《しひ》いは奏《まを》せ強語《しひがたり》と詔《の》る 〔巻三・二三七〕 志斐嫗
この二つは、持統天皇と志斐嫗《しいのおみな》との御問答歌である。此老女は語部《かたりべ》などの職にいて、記憶もよく話も面白かったものに相違ない。第一の歌は御製で、話はもう沢山だといっても、無理に話して聞かせるお前の話も、このごろ暫く聞かぬので、また聞きたくなった。第二の歌は嫗の和《こた》え奉った歌で、もう御話は止しましょうと申上げても、語れ語れと御仰せになったのでございましょう。それを今無理強いの御話とおっしゃる、それは御無理でございます。二つは諧謔《かいぎゃく》的問答歌であるから、即興的であり機智的でもある。その調子を詞の繰返しなどによって知ることが出来る。しかし、お互の御親密の情がこれだけ自由自在に現われるということは、後代の吾等には寧ろ異といわねばならぬ程である。万葉集の歌は千差万別だが、人麿の切実な歌などのあいだに、こういう種類の歌があるのもなつかしく、尊敬せねばならぬのである。この第一の歌の題詞はただ「天皇」とだけあるが、諸家が皆持統天皇であらせられると考えている。さすれば天皇の歌人としての御力量は、「春過ぎて夏来るらし」の御製等と共に、近臣の助力云々などの想像の、いかに当らぬものだかということを証明するものである。「志斐い」の「い」は語調のための助詞で、「紀の関守い留めなむかも」(巻四・五四五)などと同じい。山田博士は、「このイは主格を示す古代の助詞」だと云っている。
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大宮《おほみや》の内《うち》まで聞《きこ》ゆ網引《あびき》すと網子《あご》ととのふる海人《あま》の呼《よ》び声《ごゑ》 〔巻三・二三八〕 長意吉麻呂
長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》が詔に応《こた》え奉った歌であるが、持統天皇か文武天皇か難波宮(長柄豊崎宮《ながらのとよさきのみや》。現在の大阪豊崎町)に行幸せられた時の作であろう。
海岸で網を引上げるために、網引く者どもの人数を揃《そろ》えいろいろ差図手配する海人《あま》のこえが、離宮の境内まで聞こえて来る、という歌である。応詔の歌だから、調べも謹直であるが、ありの儘を詠んでいる。併しありの儘を詠んでいるから、大和の山国から海浜に来た人々の、喜ばしく珍しい心持が自然にあらわれるので、強《し》いて心持を出そうなどと意図しても、そう旨《うま》く行くものでは無い。
また、この歌は応詔の歌であるが、特に帝徳を讃美したような口吻もなく、離宮に聞こえて来る海人等の声を主にして歌っているのであるが、それでも立派に応詔歌になっているのを見ると、万葉集に散見する献歌の中に、強いて寓意《ぐうい》を云々するのは間違だとさえおもえるのである。例えば、「うち手折《たを》り多武《たむ》の山霧しげみかも細川の瀬に波のさわげる」(巻九・一七〇四)という、舎人皇子《とねりのみこ》に献った歌までに寓意を云々するが如きである。つまり、同じく「詔」でも、属目《しょくもく》の歌を求められる場合が必ずあるだろうとおもうからである。
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滝《たぎ》の上《うへ》の三船《みふね》の山《やま》に居《ゐ》る雲《くも》の常《つね》にあらむとわが思《も》はなくに 〔巻三・二四二〕 弓削皇子
弓削皇子《ゆげのみこ》(天武天皇第六皇子、文武天皇三年薨去)が吉野に遊ばれた時の御歌である。滝《たぎ》は宮滝の東南にその跡が残っている。三船山はその南にある。
滝の上の三船の山には、あのようにいつも雲がかかって見えるが、自分等はああいう具合に常住ではない。それが悲しい、というので、「居る雲の」は、「常」にかかるのであろう。「常にあらむとわが思はなくに」の句に深い感慨があって、人麿の、「いさよふ波の行方しらずも」などとも一脈相通ずるものがあるのは、当時の人の心にそういう共通な観相的傾向があったとも解釈することが出来る。なお集中、「常にあらぬかも」、「常ならめやも」の句ある歌もあって参考とすべきである。いずれにしても此歌は、景を叙しつつ人間の心に沁み入るものを持って居る。此御歌に対して、春日王《かすがのおおきみ》は、「大君は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」(巻三・二四三)と和《こた》えていられる。
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玉藻《たまも》かる敏馬《みぬめ》を過《す》ぎて夏草《なつくさ》の野島《ぬじま》の埼《さき》に船《ふね》ちかづきぬ 〔巻三・二五〇〕 柿本人麿
これは、柿本朝臣人麻呂|旅《きりょ》歌八首という中の一つである。
旅八首は、純粋の意味の連作でなく、西へ行く趣の歌もあり、東へ帰る趣の歌もある。併し八首とも船の旅であるのは注意していいと思う。敏馬は摂津武庫郡、小野浜から和田岬までの一帯、神戸市の灘区に編入せられている。野島は淡路の津名郡に野島村がある。
一首の意は、〔玉藻かる〕(枕詞)摂津の敏馬《みぬめ》を通《とお》って、いよいよ船は〔夏草の〕(枕詞)淡路の野島の埼に近づいた、というのである。
内容は極めて単純で、ただこれだけだが、その単純が好いので、そのため、結句の、「船ちかづきぬ」に特別の重みがついて来ている。一首に枕詞が二つ、地名が二つもあるのだから、普通謂う意味の内容が簡単になるわけである。この歌の、「船近づきぬ」という結句は、客観的で、感慨がこもって居り、驚くべき好い句である。万葉集中では、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(巻一・四八)、「風をいたみ奥《おき》つ白浪高からし海人《あま》の釣舟浜に帰りぬ」(巻三・二九四)、「あらたまの年の緒ながく吾が念《も》へる児等に恋ふべき月近づきぬ」(巻十九・四二四四)等の例があり、その結句は、文法的には客観的であって、感慨のこもっているものである。第三句、「夏草の」を現実の景と解する説もあるが、これは、「夏草の靡き寝《ぬ》」の如きから、「寝《ぬ》」と「野《ぬ》」との同音によって枕詞となったと解釈した。またこう解すれば、「奴流」(寝)は「奴島」(巻三・二四九)のヌと同じく、時には「努」(野)とも通用したことが分かるし、阿之比奇能夜麻古要奴由伎《アシヒキノヤマコエヌユキ》(巻十七・三九七八)の、「奴由伎」は「野ゆき」であるから、「奴」、「努」の通用した実例である。即ち甲類乙類の仮名通用の例でもあり、野の中間音でヌと発音した積極的な例ともなり、ノと書くことの間違だということも分かるのである。また現在淡路三原郡に沼島《ぬしま》村があるのは、野島の変化だとせば、野島をヌシマと発音した証拠となる。
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稲日野《いなびぬ》も行《ゆ》き過《す》ぎがてに思《おも》へれば心《こころ》恋《こほ》しき可古《かこ》の島《しま》見《み》ゆ 〔巻三・二五三〕 柿本人麿
人麿作、これも八首中の一つである。稲日野《いなびぬ》は印南野《いなみぬ》とも云い、播磨の印南郡の東部即ち加古川流域の平野と加古・明石《あかし》三郡にわたる地域をさして云っていたようである。約《つづ》めていえば、稲日野は加古川の東方にも西方にも亙《わた》っていた平野と解釈していい。可古島は現在の高砂《たかさご》町あたりだろうと云われている。島でなくて埼でも島と云ったことは、伊良虞《いらご》の島《しま》の条下《じょうか》で説明し、また後に出て来る、倭島《やまとしま》の条下でも明かである。加古は今は加古郡だが、もとは(明治二十二年迄)印南郡であった。
一首の意は、広々とした稲日野《いなびぬ》近くの海を航していると、舟行が捗々《はかばか》しくなく、種々ものおもいしていたが、ようやくにして恋しい加古の島が見え出した、というので、西から東へ向って航している趣《おもむき》の歌である。
「稲日野も」の「も」は、「足引のみ山も清《さや》に落ちたぎつ」(巻六・九二〇)、「筑波根《つくばね》の岩もとどろに落つるみづ」(巻十四・三三九二)などの「も」の如く、軽く取っていいだろう。「過ぎがてに」は、舟行が遅くて、広々した稲日野の辺を中々通過しないというので、舟はなるべく岸近く漕《こ》ぐから、稲日野が見えている趣なのである。「思へれば」は、彼此《かれこれ》おもう、いろいろおもうの意で、此句と、前の句との間に小休止があり、これはやはり人麿的なのであるから、「ものおもふ」ぐらいの意に取ればいい。つまり旅の難儀の気持である。然るに従来この句を、稲日野の景色が佳いので、立去り難いという気持の句だと解釈した先輩(契沖以下殆ど同説)の説が多い。併しこの場合にはそれは感服し難い説で、そうなれば歌がまずくなってしまうと思うがどうであろうか。また用語の類例としては、「繩の浦に塩焼くけぶり夕されば行き過ぎかねて山に棚引く」(巻三・三五四)があって、私の解釈の無理でないことを示している。
この歌は旅中の感懐であって、風光の移るにつれて動く心の儘を詠じ、歌詞それに伴うてまことに得難い優れた歌となった。そして、「心恋《こほ》しき加古の島」あたりの情調には、恋愛にかようような物懐しいところがあるが、人麿は全体としてそういう抒情的方面の豊かな歌人であった。
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ともしびの明石《あかし》大門《おほと》に入《い》らむ日《ひ》や榜《こ》ぎ別《わか》れなむ家《いへ》のあたり見《み》ず 〔巻三・二五四〕 柿本人麿
人麿作、旅八首中の一。これは西の方へ向って船で行く趣である。
一首の意は、〔ともしびの〕(枕詞)明石《あかし》の海門《かいもん》を通過する頃には、いよいよ家郷の大和《やまと》の山々とも別れることとなるであろう。その頃には家郷の大和も、もう見えずなる、というのである。「入らむ日や」の「や」は疑問で、「別れなむ」に続くのである。
歌柄の極めて大きいもので、その点では万葉集中稀《まれ》な歌の一つであろうか。そして、「入らむ日や」といい、「別れなむ」というように調子をとっているのも波動的に大きく聞こえ、「の」、「に」、「や」などの助詞の使い方が実に巧みで且つ堂々としておる。特に、第四句で、「榜ぎ別れなむ」と切って、結句で、「家のあたり見ず」と独立的にしたのも、その手腕敬憬《けいけい》すべきである。由来、「あたり見ず」というような語には、文法的にも毫も詠歎の要素が無いのである。「かも」とか、「けり」とか、「はや」とか、「あはれ」とか云って始めて詠歎の要素が入って来るのである。文法的にはそうなのであるが、歌の声調方面からいうと、響きから論ずるから、「あたり見ず」で充分詠歎の響があり、結句として、「かも」とか、「けり」とかに匹敵するだけの効果をもっているのである。この事は、万葉の秀歌に随処に見あたるので、「その草深野」、「棚無し小舟」、「印南《いなみ》国原」、「厳橿《いつかし》が本」という種類でも、「月かたぶきぬ」、「加古の島見ゆ」、「家のあたり見ず」でも、また、詠歎の入っている、「見れど飽かぬかも」、「見れば悲しも」、「隠さふべしや」等でも、結局は同一に帰するのである。そういうことを万葉の歌人が実行しているのだから、驚き尊敬せねばならぬのである。こういう事は、近く出す拙著、「短歌初学門」でも少しく説いて置いた筈である。
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天《あま》ざかる夷《ひな》の長路《ながぢ》ゆ恋《こ》ひ来れば明石《あかし》の門《と》より倭島《やまとしま》見《み》ゆ 〔巻三・二五五〕 柿本人麿
人麿作、旅八首中の一。これは西から東へ向って帰って来る時の趣で、一首の意は、遠い西の方から長い海路を来、家郷恋しく思いつづけて来たのであったが、明石の海門まで来ると、もう向うに大和が見える、というので、
旅の歌としても随分自然に歌われている。それよりも注意するのは、一首が人麿一流の声調で、強く大きく豊かだということである。そしていて、浮腫《ふしゅ》のようにぶくぶくしていず、遒勁《しゅうけい》とも謂《い》うべき響だということである。こういう歌調も万葉歌人全般という訣《わけ》には行かず、家持の如きも、こういう歌調を学んでなおここまで到達せずにしまったところを見れば、何《なん》の彼《か》のと安易に片付けてしまわれない、複雑な問題が包蔵されていると考うべきである。この歌の、「恋ひ来れば」も、前の、「心恋《こほ》しき」に類し、ただ一つこういう主観語を用いているのである。一、二参考歌を拾うなら、「旅にして物恋《ものこほ》しきに山下の赤《あけ》のそほ船沖に榜《こ》ぐ見ゆ」(巻三・二七〇)は黒人作、「堀江より水脈《みを》さかのぼる楫《かぢ》の音の間なくぞ奈良は恋しかりける」(巻二十・四四六一)は家持作である。共に「恋」の語が入っている。
なお、人麿の旅歌には、「飼飯《けひ》の海の庭《には》よくあらし苅《かり》ごもの乱《みだ》れいづ見ゆ海人《あま》の釣船」(巻三・二五六)というのもあり、棄てがたいものである。飼飯の海は、淡路西海岸三原郡湊《みなと》町の近くに慶野松原がある。其処《そこ》の海であろう。なお、人麿が筑紫《つくし》に下った時の歌、「名ぐはしき稲見《いなみ》の海の奥つ浪千重《ちへ》に隠《かく》りぬ大和島根は」(同・三〇三)、「大王《おほきみ》の遠《とほ》のみかどと在り通ふ島門《しまと》を見れば神代し念《おも》ほゆ」(同・三〇四)があり、共に佳作であるが、人麿の歌が余り多くなるので、従属的に此処《ここ》に記すこととした。新羅《しらぎ》使等が船上で吟誦した古歌として、「天離《あまざか》るひなの長道《ながぢ》を恋ひ来れば明石の門より家の辺《あたり》見ゆ」(巻十五・三六〇八)があるが、此は人麿の歌が伝わったので、人麿の歌を分かり好く変化せしめている。
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矢釣山《やつりやま》木立《こだち》も見《み》えず降《ふ》り乱《みだ》る雪《ゆき》に驟《うくつ》く朝《あした》たぬしも 〔巻三・二六二〕 柿本人麿
柿本人麿が新田部《にいたべ》皇子に献《たてまつ》った長歌の反歌で、長歌は、「やすみしし吾大王《おほきみ》、高耀《ひか》る日《ひ》の皇子《みこ》、敷《し》きいます大殿《おほとの》の上に、ひさかたの天伝《あまづた》ひ来る、雪じもの往きかよひつつ、いや常世《とこよ》まで」という簡浄なものである。この短歌の下の句の原文は、「落乱、雪驪、朝楽毛」で、古来種々の訓があった。私が人麿の歌を評釈した時には、新訓(佐佐木博士)の、「雪に驪《こま》うつ朝《あした》たぬしも」に従ったが、今回は、故生田耕一氏の「雪に驟《うくつ》く朝楽しも」に従った。ウクツクとは、新撰字鏡に、驟也、宇久豆久《ウクヅク》とあって、馬を威勢よく走らせることである。矢釣山は、高市郡八釣村がある、そこであろう。この歌は、大体そう訓んで味うと、なかなかよい歌で棄てがたいのである。「矢釣山木立も見えず降りみだる」あたりの歌調は、人麿でなければ出来ないものを持っている。結句の訓も種々で考《こう》のマヰリクラクモに従う学者も多い。山田博士は、「雪にうくづきまゐり来らくも」と訓み、「古は初雪の見参といふ事ありて、初雪に限らず、大雪には早朝におくれず祗候《しこう》すべき儀ありしなり」(講義)と云っている。なお吉田増蔵氏は、「雪に馬並《な》めまゐり来らくも」と訓んだ。また、「乱」をマガフ、サワグ等とも訓んでいる。これは、四段の自動詞に活用しないという結論に本《もと》づく根拠もあるのだが、私は今回もミダルに従った。若し、マヰリクラクモと訓むとすると、「ふる雪を腰になづみて参《まゐ》り来し験《しるし》もあるか年のはじめに」(巻十九・四二三〇)が参考となる歌である。
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もののふの八十《やそ》うぢ河《がは》の網代木《あじろぎ》にいさよふ波《なみ》のゆくへ知《し》らずも 〔巻三・二六四〕 柿本人麿
柿本人麿が近江から大和へ上ったとき宇治川のほとりで詠んだものである。「もののふの八十氏《やそうぢ》」は、物部《もののふ》には多くの氏《うじ》があるので、八十氏《やそうじ》といい、同音の宇治川《うじがわ》に続けて序詞とした。網代木《あじろぎ》は、網の代用という意味だが、これは冬宇治川の氷魚《ひお》を捕るために、沢山の棒杭を水中に打ち、恐らく上流に向って狭くなるように打ったと思うが、其処が水流が急でないために魚が集って来る、それを捕るのである。其処の棒杭に水が停滞して白い波を立てている光景である。
この歌も、「あまざかる夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ」の歌のように、直線的に伸々《のびのび》とした調べのものである。この歌の上の句は序詞で、現代歌人の作歌態度から行けば、寧ろ鑑賞の邪魔をするのだが、吾等はそれを邪魔と感ぜずに、一首全体の声調的効果として受納れねばならぬ。そうすれば豊潤で太い朗かな調べのうちに、同時に切実峻厳、且つ無限の哀韻を感得することが出来る。この哀韻は、「いさよふ波の行方《ゆくへ》知らず」にこもっていることを知るなら、上の句の形式的に過ぎない序詞は、却って下の句の効果を助長せしめたと解釈することも出来るのである。この限り無き哀韻は、幾度も吟誦してはじめて心に伝わり来るもので、平俗な理論で始末すべきものではない。
この哀韻は、近江旧都を過ぎた心境の余波だろうとも説かれている。これは否定出来ない。なおこの哀韻は支那文学の影響、或は仏教観相の影響だろうとも云われている。人麿ぐらいな力量を有《も》つ者になれば、その発達史も複雑で、支那文学も仏教も融《と》けきっているとも解釈出来るが、この歌の出来た時の人麿の態度は、自然への観入・随順であっただけである。その関係を前後混同して彼此《かれこれ》云ったところで、所詮《しょせん》戯論に終わるので、理窟は幾何《いくら》精《くわ》しいようでも、この歌から遊離した上《うわ》の空《そら》の言辞ということになるのである。或人はこの歌を空虚な歌として軽蔑するが、自分はやはり人麿一代の傑作の一つとして尊敬するものである。
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苦《くる》しくも降《ふ》り来《く》る雨《あめ》か神《みわ》が埼《さき》狭野《さぬ》のわたりに家《いへ》もあらなくに 〔巻三・二六五〕 長奥麻呂
長忌寸奥麻呂《ながのいみきおきまろ》(意吉麻呂)の歌である。神が埼(三輪崎)は紀伊国東牟婁《むろ》郡の海岸にあり、狭野《さぬ》(佐野)はその近く西南方で、今はともに新宮市に編入されている。「わたり」は渡し場である。第二句で、「降り来る雨か」と詠歎して、愬《うった》えるような響を持たせたのにこの歌の中心があるだろう。そして心が順直に表わされ、無理なく受納れられるので、古来万葉の秀歌として評価されたし、「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」という如き、藤原定家の本歌取の歌もあるくらいである。それだけ感情が通常だとも謂えるが、奥麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。弁基《べんき》(春日蔵首老《かすがのくらびとおゆ》)の歌に、「まつち山ゆふ越え行きていほさきの角太河原《すみたかはら》にひとりかも寝む」(巻三・二九八)というのがあるが、この頃の人々は、自由に作っていて感のとおっているのは気持が好い。
近時土屋文明氏は、「神之埼」をカミノサキと訓む説を肯定し、また紀伊新宮附近とするは万葉時代交通路の推定から不自然のようにおもわれることを指摘し、和泉《いずみ》日根郡の神前を以て擬するに至った。また佐野も近接した土地で共に万葉時代から存在した地名と推定することも出来、和泉ならば紀伊行幸の経路であるから、従駕の作者が詠じたものと見ることが出来るというのである。
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淡海《あふみ》の海《うみ》夕浪《ゆふなみ》千鳥《ちどり》汝《な》が鳴《な》けば心《こころ》もしぬにいにしへ思《おも》ほゆ 〔巻三・二六六〕 柿本人麿
柿本人麿の歌であるが、巻一の近江旧都回顧の時と同時の作か奈何《どう》か不明である。「夕浪千鳥」は、夕べの浪の上に立ちさわぐ千鳥、湖上の低い空に群れ啼いている千鳥で、古代造語法の一つである。一首の意は、淡海《おうみ》の湖に、その湖の夕ぐれの浪に、千鳥が群れ啼いている。千鳥等よ、お前等の啼く声を聞けば、真《しん》から心が萎《しお》れて、昔の都の栄華のさまを偲ばれてならない、というのである。
この歌は、前の宇治河の歌よりも、もっと曲折のある調べで、その中に、「千鳥汝が鳴けば」という句があるために、調べが曲折すると共に沈厚なものにもなっている。また独詠的な歌が、相手を想像する対詠的歌の傾向を帯びて来たが、これは、「志賀の辛崎幸《さき》くあれど」とつまりは同じ傾向となるから、ひょっとしたら、巻一の歌と同時の頃の作かも知れない。
巻三(三七一)に、門部王《かどべのおおきみ》の、「飫宇《おう》の海の河原の千鳥汝が鳴けば吾が佐保河の念ほゆらくに」があり、巻八(一四六九)に沙弥《さみ》作、「足引の山ほととぎす汝が鳴けば家なる妹し常におもほゆ」、巻十五(三七八五)に宅守《やかもり》の、「ほととぎす間《あひだ》しまし置け汝が鳴けば吾《あ》が思《も》ふこころ甚《いた》も術《すべ》なし」があるが、皆人麿のこの歌には及ばないのみならず、人麿の此歌を学んだものかも知れない。
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|鼠《むささび》は木《こ》ぬれ求《もと》むとあしひきの山《やま》の猟夫《さつを》にあひにけるかも 〔巻三・二六七〕 志貴皇子
志貴皇子《しきのみこ》の御歌である。皇子は天智天皇第四皇子、持統天皇(天智天皇第二皇女)の御弟、光仁天皇の御父という御関係になる。
一首の意は、|鼠《むささび》が、林間の梢《こずえ》を飛渡っているうちに、猟師に見つかって獲《と》られてしまった、というのである。
この歌には、何処かにしんみりとしたところがあるので、古来寓意説があり、徒《いたず》らに大望を懐《いだ》いて失脚したことなどを寓したというのであるが、この歌には、鼠の事が歌ってあるのだから、第一に
鼠の事を詠み給うた歌として受納れて味うべきである。寓意の如きは奥の奥へ潜《ひそ》めて置くのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。そうして味えば、この歌には皇子一流の写生法と感傷とがあって、しんみりとした人生観相を暗指《あんじ》しているのを感じ、選ぶなら選ばねばならぬものに属している。寓意説のおこるのは、このしみじみした感傷があるためであるが、それをば寓意として露骨にするから、全体を破壊してしまうのである。天平十一年大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》の歌に、「ますらをの高円《たかまと》山に迫《せ》めたれば里に下《お》りける|
鼠《むささび》ぞこれ」(巻六・一〇二八)というのがあり、これは実際この小獣を捕えた時の歌で寓意でなく、この小獣に注して、「俗に牟射佐妣《むささび》といふ」とあるから愛すべき小獣として人の注目を牽《ひ》いたものであろう。略解《りゃくげ》に、「此御歌は人の強《し》ひたる物ほしみして身を亡すに譬《たとへ》たまへるにや。此皇子の御歌にはさる心なるも又見ゆ。大友大津の皇子たちの御事などを御まのあたり見たまひて、しかおぼすべきなり」とあるなどは寓意説に溺れたものである。(檜嬬手《ひのつまで》も全く略解の説を踏襲している。)
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旅《たび》にしてもの恋《こほ》しきに山下《やました》の赤《あけ》のそほ船《ぶね》沖《おき》に榜《こ》ぐ見《み》ゆ 〔巻三・二七〇〕 高市黒人
高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の旅八首中の一つである。この歌の、「山下《やました》の」は、「秋山の下《した》ぶる妹」(巻二・二一七)などの如く、紅葉の美しいのに関係せしめて使って居るから、「赤」の枕詞に用いたものらしい。「そほ」は赭土《しゃど》から取った塗料で、赭土といっても、赤土、鉄分を含んだ泥土、粗製の朱等いろいろであった。その精品を真朱《まそほ》といって、「仏つくる真朱《まそほ》足らずは」(巻十六・三八四一)の例がある。「赤のそほ船」は赤く塗った船である。「沖ゆくや赤羅《あから》小船」(同・三八六八)も赤く塗った船のことである。そこで一首の意味は、旅中にあれば何につけ都が恋しいのに、沖の方を見れば赤く塗った船が通って行く、あれは都へのぼるのであろう。羨しいことだ、というので、今から見れば
旅の歌の常套《じょうとう》手段のようにも取れるが、当時の歌人にとっては常に実感であったのであろう。黒人の歌は具象的で写象も鮮明だが、人麿の歌調ほど切実でないから、「もの恋しき」と云ったり、「古への人にわれあれや」等と云っても、稍通俗に感ぜしめる余裕がある。巻一(六七)に、「旅にしてもの恋《こほ》しぎの鳴くことも聞えざりせば恋ひて死なまし」は持統天皇難波行幸の時、高安大島《たかやすのおおしま》の作ったものだが、上の句が似ている。
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桜田《さくらだ》へ鶴《たづ》鳴《な》きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干《しほひ》にけらし鶴《たづ》鳴《な》きわたる 〔巻三・二七一〕 高市黒人
黒人作。旅八首の一。「桜田《さくらだ》」は、和名鈔の尾張国愛知郡作良《さくら》郷、現在熱田の東南方に桜がある。その桜という海浜に近い土地の田の事である。或は桜田という地名だという説もある。「年魚市《あゆち》潟」は、和名鈔に尾張国愛知郡阿伊智《あいち》とあり、熱田南方の海岸一帯が即ち年魚市(書紀に吾湯市)潟で、桜はその一部である。今の熱田新田と称する辺も古《いにし》えは海だったろうと云われている。一首の意味は、陸の方から海に近い桜の田の方へ向って、鶴が群れて通って行くが、多分年魚市潟一帯が潮干になったのであろう、というのである。一首の中に地名が二つも入って居て、それに「鶴鳴きわたる」を二度繰返しているのだから、内容からいえば極く単純なものになってしまった。併し一首全体が高古の響を保持しているのは、内容がこせこせしない為めであり、「桜田へ鶴鳴きわたる」という唯一の現在的内容が却って鮮明になり、一首の風格も大きくなった。そのあいだに、「年魚市潟潮干にけらし」という推量句が入っているのだが、この推量も大体分かっている現実的推量で、ただぼんやりした想像ではないのが特色である。けれどもこの歌は、桜田が主で、桜田を眺める位置に作者が立っている趣で、あゆち潟というのはもっと離れているところであろう。一首の形態からいうと、前出の、「吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり」(巻二・九五)などと殆ど同じである。また内容からいうと、「年魚市潟潮干にけらし知多《ちた》の浦に朝榜《こ》ぐ舟も沖に寄る見ゆ」(巻七・一一六三)「可之布江《かしふえ》に鶴鳴きわたる志珂《しか》の浦に沖つ白浪立ちし来らしも」(巻十五・三六五四)など類想の歌が多い。おなじ黒人の歌でも、「住吉《すみのえ》の得名津《えなつ》に立ちて見渡せば武庫の泊《とまり》ゆ出づる舟人」(巻三・二八三)は、少しく楽《らく》過ぎて、人麿の「乱れいづ見ゆあまの釣舟」(同・二五六)には及ばない。けれども黒人には黒人の本領があり、人麿の持っていないものがあるから、それを見のがさないように努むべきである。
此処の、「四極《しはつ》山うち越え見れば笠縫《かさぬひ》の島榜ぎかくる棚無し小舟《をぶね》」(同・二七二)も佳作で、後年山部赤人に影響を与えたものである。四極《しはつ》山、笠縫《かさぬい》島は参河《みかわ》という説と摂津という説とあるが、今は仮りに契沖以来の、参河国幡豆《はず》郡磯泊(之波止《シハト》)説に従って味うこととする。また、「妹も吾も一つなれかも三河なる二見《ふたみ》の道ゆ別れかねつる」(同・二七六)というのもある。三河の二見は御油《ごゆ》から吉田《よしだ》に出る二里半余の道だといわれている。「妹《いも》」は、かりそめに親しんだそのあたりの女であろう。上句は、お前も俺《おれ》も一体だからだろうと気転を利かしたいい方である。黒人のには上半にこういう主観句のものが多い。それが成功したのもあればまずいのもある。
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何処《いづく》にか吾《われ》は宿《やど》らむ高島《たかしま》の勝野《かちぬ》の原《はら》にこの日《ひ》暮《く》れなば 〔巻三・二七五〕 高市黒人
黒人作。旅歌つづき。「高島の勝野」は、近江《おうみ》高島郡三尾のうち、今の大溝町である。黒人の
旅の歌はこれを見ても場処の移動につれ、その時々に詠んだことが分かる。これは勝野の原の日暮にあって詠んだので、それが現実的内容で、「何処にか吾は宿らむ」はそれに伴う自然的詠歎である。かく詠歎を初句第二句に置くのは、黒人の一つの傾向とも謂うことが出来るであろう。この詠歎は率直簡単なので却って効果があり、全体として旅中の寂しい心持を表現し得たものである。黒人作で、近江に関係あるものは、「磯の埼榜《こ》ぎたみゆけば近江《あふみ》の海《み》八十《やそ》の湊《みなと》に鶴《たづ》さはに鳴く」(巻三・二七三)、「吾が船は比良《ひら》の湊に榜ぎ泊《は》てむ沖へな放《さか》りさ夜《よ》ふけにけり」(同・二七四)がある。「沖へな放かり」というのは、余り沖遠くに行くなというので特色のある句である。「わが舟は明石《あかし》の浦に榜ぎはてむ沖へな放《さ》かりさ夜ふけにけり」(巻七・一二二九)というのは、黒人の歌が伝誦のあいだに変化し、勝手に「明石」と直したものであろう。
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疾《と》く来《き》ても見《み》てましものを山城《やましろ》の高《たか》の槻《つき》村《むら》散《ち》りにけるかも 〔巻三・二七七〕 高市黒人
黒人旅八首の一つ、これは山城の旅になっている。原文の「高槻村」は、旧訓タカツキムラノであったのを、槻落葉《つきのおちば》でタカツキノムラと訓み、「高く槻の木の生たる木群《こむら》をいふ成《なる》べし」といって学者多くそれに従ったが、生田耕一氏が、高は山城国綴喜《つづき》郡多賀郷のタカで、今の多賀・井手あたりであろうという説をたて、他の歌例に、「山城の泉《いづみ》の小菅」、「山城の石田《いはた》の杜《もり》」などあるのを参考し、「山城の高《たか》の槻村」だとした。爾来《じらい》諸学者それを認容するに至った。
一首の意は、もっと早く来て見れば好かったのに、今来て見れば此処の山城の高《たか》という村の槻の林の黄葉《もみじ》も散ってしまった、というので、高(多賀郷)の槻の林というものはその当時も有名であったのかも知れない。或は高というのは郷の名でも、作者の意識には、「高い槻の木」ということをほのめかそうとしたのであったのかも知れない。そうすれば、従来槻落葉の説に従って味って来たようにして味うことも出来る。この歌では、「山城の高の槻村散りにけるかも」という詠歎が主眼なのだが、沁みとおるような響が無い。また、「疾く来ても見てましものを」と云っても、いかにもあっさりして居る。是は単に旅の歌だから自然この程度の感慨になるのだが、つまりは黒人流なのだということになるのであろう。
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此処《ここ》にして家《いへ》やもいづく白雲《しらくも》の棚引《たなび》く山《やま》を越《こ》えて来《き》にけり 〔巻三・二八七〕 石上卿
志賀に行幸あった時、石上卿《いそのかみのまえつきみ》の作ったものであるが、作者の伝は不明で、行幸せられた天皇も、荒木田久老《ひさおい》は、大宝二年太上天皇《おおきみすめらみこと》(持統天皇)が三河美濃に行幸あった時、近江にも立寄られたのだろうと云っている。そうすれば石上麻呂であるかも知れない。左大臣石上麻呂は養老元年三月に薨じているから、後人が題詞を書いたとせば、「卿」でもよいのである。併し養老元年九月の行幸(元正天皇)の時だとすると、やはり槻落葉《つきのおちば》でいったごとく石上豊庭《いそのかみのとよにわ》だろうということとなる。この豊庭説が有力である。
旅を遙々来た感じで、直線的にいい下して、相当の感情を出している歌である。大伴旅人の歌に、「此処にありて筑紫《つくし》や何処《いづく》白雲の棚引く山の方《かた》にしあるらし」(巻四・五七四)というのがあって、形態が似ている。これは旅人の歌よりも早いものであるが、只今は二つ並べて鑑賞することとする。この歌の、「白雲の棚引く山を越えて来にけり」も、近江で詠んだのだから、直接性があるし、旅人のは京《みやこ》にあって筑紫を詠んだのだから、間接のようだが、これは筑紫に残っている沙弥満誓《さみのまんぜい》に和《こた》えた歌だから、そういう意味で心に直接性があるのである。
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昼《ひる》見《み》れど飽《あ》かぬ田児《たご》の浦《うら》大王《おほきみ》のみことかしこみ夜《よる》見《み》つるかも 〔巻三・二九七〕 田口益人
田口益人《たぐちのますひと》が和銅元年上野国司《かみつけぬのくにのつかさ》となって赴任《ふにん》の途上駿河《するが》国浄見《きよみ》埼を通って来た時の歌である。国司は守《かみ》・介《すけ》・掾《じょう》・目《さかん》ともに通じていうが、ここは国守である。浄見埼は廬原《いおはら》郡の海岸で今の興津《おきつ》清見寺あたりだといわれている。この歌の前に、「廬原《いほはら》の清見が埼の三保の浦の寛《ゆた》けき見つつもの思ひもなし」(巻三・二九六)というのがある。三保は今は清水市だが古えは廬原郡であった。「清見が埼の」も、「三保の浦の」も共に「寛けき」に続く句法である。「田児浦」は今は富士郡だが、古《いにし》えは廬原郡にもかかった範囲の広かったもので、東海道名所図絵に、「都《すべ》て清見興津より、ひがし浮島原迄の海浜の惣号《そうがう》なるべし」とある。
さて、此一首は、昼見れば飽くことのない田児浦のよい景色をば、君命によって赴任する途上だから夜見た、というので、昼見る景色はまだまだ佳いのだという意が含まっているのである。そして、なぜ夜見たとことわったかというに、山田(孝雄)博士の考証がある(講義)。駿河国府(静岡)を立って、息津《おきつ》、蒲原《かんばら》と来るのだが、その蒲原まで来るあいだに田児浦がある。静岡から息津まで九里、息津から蒲原まで四里、それを一日の行程とすると、蒲原に着くまえに夜になったのであろう、というのである。
この歌は右の如く、事実によって詠んだものであるが、この歌を読むといつも不思議な或るものを感じて今日まで来たのであった。それは、「夜見つるかも」という句にあって、この「夜」というのに、特有の感じがあると思うのである。作者は、「夜の田児浦」をばただ事実によってそういっただけだが、それでもその夜の感動が後代の私等に伝わるのかも知れないのである。
補記。近時沢瀉《おもだか》久孝氏は田児浦を考証し、「|薩《さった》峠の東麓より、由比、蒲原を経て吹上浜に至る弓状をなす入海を上代の田児浦とする」とした。
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田児《たご》の浦ゆうち出でて見れば真白《ましろ》にぞ不尽《ふじ》の高嶺《たかね》に雪《ゆき》は降《ふ》りける 〔巻三・三一八〕 山部赤人
山部宿禰赤人《やまべのすくねあかひと》が不尽山《ふじのやま》を詠んだ長歌の反歌である。「田児の浦」は、古《いにし》えは富士・廬原の二郡に亙った海岸をひろく云っていたことは前言のとおりである。「田児の浦ゆ」の「ゆ」は、「より」という意味で、動いてゆく詞語に続く場合が多いから、此処は「打ち出でて」につづく。「家ゆ出でて三年がほどに」、「痛足《あなし》の川ゆ行く水の」、「野坂の浦ゆ船出して」、「山の際《ま》ゆ出雲《いづも》の児ら」等の用例がある。また「ゆ」は見渡すという行為にも関聯しているから、「見れば」にも続く。「わが寝たる衣の上ゆ朝月夜《あさづくよ》さやかに見れば」、「海人《あま》の釣舟浪の上ゆ見ゆ」、「舟瀬《ふなせ》ゆ見ゆる淡路島」等の例がある。前に出た、「御井《みゐ》の上より鳴きわたりゆく」の「より」のところでも言及したが、言語は流動的なものだから、大体の約束による用例に拠って極めればよく、それも幾何学の証明か何ぞのように堅苦しくない方がいい。つまり此処で赤人はなぜ「ゆ」を使ったかというに、作者の行為・位置を示そうとしたのと、「に」とすれば、「真白にぞ」の「に」に邪魔をするという微妙な点もあったのであろう。
赤人の此処の長歌も簡潔で旨《うま》く、その次の無名氏(高橋連《むらじ》虫麿か)の長歌よりも旨い。また此反歌は古来人口に膾炙《かいしゃ》し、叙景歌の絶唱とせられたものだが、まことにその通りで赤人作中の傑作である。赤人のものは、総じて健康体の如くに、清潔なところがあって、だらりとした弛緩《しかん》がない。ゆえに、規模が大きく緊密な声調にせねばならぬような対象の場合に、他の歌人の企て及ばぬ成功をするのである。この一首中にあって最も注意すべき二つの句、即ち、第三句で、「真白にぞ」と大きく云って、結句で、「雪は降りける」と連体形で止めたのは、柿本人麿の、「青駒の足掻《あがき》を速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける」(巻二・一三六)という歌と形態上甚だ似ているにも拘《かか》わらず、人麿の歌の方が強く流動的で、赤人の歌の方は寧ろ浄勁《じょうけい》とでもいうべきものを成就《じょうじゅ》している。古義で、「真白くぞ」と訓み、新古今で、「田子の浦に打出て見れば白妙の富士の高根に雪は降りつつ」として載せたのは、種々比較して味うのに便利である。また、無名氏の反歌、「不尽《ふじ》の嶺《ね》に降り置ける雪は六月《みなづき》の十五日《もち》に消ぬればその夜降りけり」(巻三・三二〇)も佳い歌だから、此処に置いて味っていい。(附記。山田博士の講義に、「田児浦の内の或地より打ち出で見ればといふことにて足る筈なり。かくてその立てる地も田子浦の中たるなり」と説明して居る。)
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あをによし寧楽《なら》の都《みやこ》は咲《さ》く花《はな》の薫《にほ》ふがごとく今《いま》盛《さかり》なり 〔巻三・三二八〕 小野老
太宰少弐小野老朝臣《だざいのしょうにおぬのおゆのあそみ》の歌である。老《おゆ》は天平十年(続紀には九年)に太宰大弐《だざいのだいに》として卒《そっ》したが、作歌当時は大伴旅人が太宰帥《だざいのそち》であった頃その部下にいたのであろう。巻五の天平二年正月の梅花歌中に「小弐小野大夫《おぬのまえつきみ》」の歌があるから、この歌はその後、偶々《たまたま》帰京したあたりの歌ででもあろうか。歌は、天平の寧楽《なら》の都の繁栄を讃美したもので、直線的に云い下して毫《ごう》も滞《とどこお》るところが無い。「春花のにほえ盛《さか》えて、秋の葉のにほひに照れる」(巻十九・四二一一)などと云って、美麗な人を形容したのがあるが、此歌は帝都の盛大を謳歌《おうか》したのであるから、もっと内容が複雑宏大《こうだい》となるわけである。併し同時に概念化してゆく傾向も既に醸《かも》されつつあるのは、単にこの歌のみでなく、一般に傾向文学の入ってゆかねばならぬ運命でもあるのである。またこの歌の作風は旅人の歌にあるような、明快で豊かなものだから、繰返しているうちに平板通俗にも移行し得るのである。人麿以前の歌調などと較べるとその差が既に著しい。「梅の花いまさかりなり思ふどち|頭《かざし》にしてな今さかりなり」(巻五・八二〇)という歌を参考とすることが出来る。
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わが盛《さかり》また変若《をち》めやもほとほとに寧楽《なら》の京《みやこ》を見ずかなりなむ 〔巻三・三三一〕 大伴旅人
太宰帥大伴旅人《だざいのそちおおとものたびと》が、筑紫太宰府にいて詠んだ五首中の一つである。旅人は六十二、三歳頃(神亀三、四年)太宰帥に任ぜられ、天平二年大納言になって兼官の儘上京し、天平三年六十七歳で薨じている。そこで此歌は、六十三、四歳ぐらいの時の作だろうと想像せられる。
一首の意は、吾が若い盛りが二たび還って来ることがあるだろうか、もはやそれは叶《かな》わぬことだ。こうして年老いて辺土に居れば、寧楽《なら》の都をも見ずにしまうだろう、というので、「をつ」という上二段活用の語は、元へ還ることで、若がえることに用いている。「昔見しより変若《をち》ましにけり」(巻四・六五〇)は、昔見た時よりも却って若返ったという意味で、旅人の歌の、「変若」と同じである。
旅人の歌は、彼は文学的にも素養の豊かな人であったので、極めて自在に歌を作っているし、寧ろ思想的抒情詩という方面にも開拓して行った人だが、歌が明快なために、一首の声調に暈《うん》が少いという欠点があった。その中にあって此歌の如きは、流石《さすが》に老に入った境界の作で、感慨もまた深いものがある。
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わが命《いのち》も常《つね》にあらぬか昔《むかし》見《み》し象《きさ》の小河《をがは》を行《ゆ》きて見むため 〔巻三・三三二〕 大伴旅人
旅人作の五首中の一首である。一首の意は、わが命もいつも変らずありたいものだ。昔見た吉野の象の小川を見んために、というので、「常にあらぬか」は文法的には疑問の助詞だが、斯く疑うのは希《ねが》う心があるからで、結局同一に帰する。「苦しくも降りくる雨か」でも同様である。この歌も分かり易い歌だが、平俗でなく、旅人の優れた点をあらわし得たものであろう。哀韻もここまで目立たずに籠《こも》れば、歌人として第一流と謂っていい。やはり旅人の作に、「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも」(巻三・三一六)というのがある。これは吉野宮行幸の時で、聖武天皇の神亀元年だとせば、「わが命も」の歌よりも以前で、未だ太宰府に行かなかった頃の作ということになる。
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しらぬひ筑紫《つくし》の綿《わた》は身《み》につけていまだは着《き》ねど暖《あたた》けく見ゆ 〔巻三・三三六〕 沙弥満誓
沙弥満誓《さみのまんぜい》が綿《わた》を詠じた歌である。満誓は笠朝臣麻呂《かさのあそみまろ》で、出家して満誓となった。養老七年満誓に筑紫の観世音寺を造営せしめた記事が、続日本紀《しょくにほんぎ》に見えている。満誓の歌としては、「世の中を何《なに》に譬《たと》へむ朝びらき榜《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきが如《ごと》(跡なきごとし)」(巻三・三五一)という歌が有名であり、当時にあって仏教的観相のものとして新しかったに相違なく、また作者も出家した後だから、そういう深い感慨を意識して漏らしたものに相違なかろうが、こういう思想的な歌は、縦《たと》い力量があっても皆成功するとは限らぬものである。この現世無常の歌に較べると、筑紫の綿の方が一段上である。
この綿は、真綿《まわた》(絹綿)という説と棉《わた》(木綿《もめん》・もめん綿)という説とあるが、これは真綿の方であろう。真綿説を唱えるのは、当時木綿は未だ筑紫でも栽培せられていなかったし、題詞の「緜」という文字は唐でも真綿の事であり、また、続日本紀《しょくにほんぎ》に「神護景雲三年三月乙未、始毎年、運二太宰府綿二十万屯《モチ》一、以輸二京庫一」とあるので、九州が綿の産地であったことが分かるが、その綿が真綿だというのは、三代実録、元慶八年の条に、「五月庚申朔、太宰府年貢綿十万屯、其内二万屯、以レ絹相転進レ之」とあるによって明かである。以レ絹相転進レ之は、在庫の絹を以て代らした意である。また支那でも印度から木綿の入ったのは宋の末だというし、我国では延暦《えんりゃく》十八年に崑崙《こんろん》人(印度人)が三河に漂着したが、其舟に木綿の種があったのを栽培したのが初だといわれている。また、木綿説を唱える人は、神護景雲三年の続日本紀の記事は木綿で、恐らく支那との貿易によったもので、支那との貿易はそれ以前から行われていただろうというのである。それに対して山田博士云、「遣唐使の派遣が大命を奉じて死生を賭《と》して数年を費《ついや》して往復するに、綿のみにても毎年二十万屯づつを輸入せりとすべきか」(講義)と云った。
一首の意は、〔白縫〕(枕詞)筑紫の真綿《まわた》は名産とはきいていたが、今見るとなるほど上品だ。未だ着ないうちから暖かそうだ、というので、「筑紫の綿は」とことわったのは、筑紫は綿の名産地で、作者の眼にも珍らしかったからに相違ない。何十万屯(六両を一屯とす)という真白な真綿を見て、「暖けく見ゆ」というのは極めて自然でもあり、歌としては珍らしく且つなかなか佳い歌である。
そういう珍重と親愛とがあるために、おのずから覚官的語気が伴うと見え、女体と関聯する寓意《ぐうい》があろうという説もある。例えば、「満誓、女など見られてたはぶれに詠れたるにて、かの綿を積かさねなどしたるが、暖げに見ゆるを女によそへられたるなるべし」(攷證)というたぐいである。この寓意説は駄目だが、それだけこの歌が肉体的なものを持っている証拠ともなり、却ってこの歌を浅薄な観念歌にしてしまわなかった由縁とも考え得るのである。即ち作歌動機は寓目即事でも、出来上った歌はもっと暗指的な象徴的なものになっている。結句、旧訓アタタカニミユであったのを、宣長はアタタケクミユと訓んだ。なおこの歌につき、契沖は、「綿ヲ多ク積置ケルヲ見テ綿ノ功用ヲホムルナリ」(代匠記精撰本)「綿の見るより暖げなりといふに心を得ば、慈悲ある人には慈悲の相あらはれ、|慢《けうまん》の人には
慢の相《さう》あらはれ、よろづにかゝるべきことはりなれば、いましめとなりぬべき哥《うた》にや」(代匠記初稿本)と云ったが、真淵は、「さまでの意はあるべからず、打見たるままに心得べし」(考)と云った。
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憶良等《おくらら》は今《いま》は罷《まか》らむ子《こ》哭《な》くらむその彼《か》の母《はは》も吾《わ》を待《ま》つらむぞ 〔巻三・三三七〕 山上憶良
山上憶良臣《やまのうえのおくらのおみ》宴《うたげ》を罷《まか》る歌一首という題がある。憶良は、大宝元年遣唐使に従い少録として渡海、慶雲元年帰朝、霊亀二年伯耆《ほうき》守、神亀三年頃筑前守、天平五年の沈痾自哀《ちんあじあい》文(巻五・八九七)には年七十四と書いてある。この歌は多分筑前守時代の作で、そして、この前後に、大伴旅人、沙弥満誓、防人司佑大伴四綱《さきもりのつかさのすけおおとものよつな》の歌等があるから、太宰府に於ける宴会の時の歌であろう。
一首の意味は、この憶良はもう退出しよう。うちには子どもも泣いていようし、その彼等の母(即ち憶良の妻)も待っていようぞ、というのである。「其彼母毛」は、ソノカノハハモと訓み、「その彼《か》の(子供の)母も」という意味になる。
憶良は万葉集の大家であるが、飛鳥《あすか》朝、藤原朝あたりの歌人のものに親しんで来た眼には、急に変ったものに接するように感ぜられる。即ち、一首の声調が如何にもごつごつしていて、「もののふの八十《やそ》うぢがはの網代木《あじろぎ》に」というような伸々《のびのび》した調子には行かない。一首の中に、三つも「らむ」を使って居りながら、訥々《とつとつ》としていて流動の響に乏しい。「わが背子は何処ゆくらむ沖つ藻《も》の名張《なばり》の山をけふか越ゆらむ」(巻一・四三)という「らむ」の使いざまとも違うし、結句に、「吾を待つらむぞ」と云っても、人麿の「妹見つらむか」とも違うのである。そういう風でありながら、何処かに実質的なところがあり、軽薄平俗になってしまわないのが其特色である。またそういう滑《なめら》かでない歌調が、当時の人にも却って新しく響いたのかも知れない。憶良は、大正昭和の歌壇に生活の歌というものが唱えられた時、いち早くその代表的歌人のごとくに取扱われたが、そのとおり憶良の歌には人間的な中味があって、憶良の価値を重からしめて居る。
諧謔《かいぎゃく》微笑のうちにあらわるる実生活的直接性のある此歌だけを見てもその特色がよく分かるのである。この一首は憶良の短歌ではやはり傑作と謂うべきであろう。憶良は歌を好み勉強もしたことは類聚歌林《るいじゅうかりん》を編んだのを見ても分かる。併し大体として、日本語の古来の声調に熟し得なかったのは、漢学素養のために乱されたのかも知れない。巻一(六三)の、「いざ子どもはやく大和《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の浜松待ち恋ひぬらむ」という歌は有名だけれども、調べが何処か弱くて物足りない。これは寧ろ、黒人の、「いざ児ども大和へ早く白菅《しらすげ》の真野《まぬ》の榛原《はりはら》手折《たを》りて行かむ」(巻三・二八〇)の方が優《まさ》っているのではなかろうか。そういう具合であるが、憶良にはまた憶良的なものがあるから、後出の歌に就いて一言費す筈である。
大伴家持の歌に、「春花のうつろふまでに相見ねば月日数《よ》みつつ妹待つらむぞ」(巻十七・三九八二)というのがある。此は天平十九年三月、恋緒を述ぶる歌という長短歌の中の一首であるが、結句の「妹待つらむぞ」はこの憶良の歌の模倣である。なお「ぬばたまの夜渡る月を幾夜経《ふ》と数《よ》みつつ妹《いも》は我待つらむぞ」(巻十八・四〇七二)、「居りあかし今宵は飲まむほととぎす明けむあしたは鳴きわたらむぞ」(同・四〇六八)というのがあり、共に家持の作であるのは吾等の注意していい点である。
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験《しるし》なき物《もの》を思《おも》はずは一坏《ひとつき》の濁《にご》れる酒《さけ》を飲《の》むべくあるらし 〔巻三・三三八〕 大伴旅人
太宰帥大伴旅人の、「酒を讃《ほ》むる歌」というのが十三首あり、此がその最初のものである。「思はずは」は、「思はずして」ぐらいの意にとればよく、従来は、「思はむよりは寧ろ」と宣長流に解したが、つまりはそこに落着くにしても、「は」を詠歎の助詞として取扱うようになった(橋本博士)。
一首の意は、甲斐ない事をくよくよ思うことをせずに、一坏の濁酒《にごりざけ》を飲むべきだ、というのである。つまらぬ事にくよくよせずに、一坏の濁醪《どぶろく》でも飲め、というのが今の言葉なら、旅人のこの一首はその頃の談話言葉と看做《みな》してよかろう。即ち、そういう対人間的、会話的親しみが出ているのでこの歌が活躍している。独り歌った如くであって相手を予想する親しみがある。その直接性があるために、私等は十三首の第一にこの歌を置くが、旅人の作った最初の歌がやはりこれでなかっただろうか。
酒の名を聖《ひじり》と負《おほ》せし古《いにしへ》の大《おほ》き聖《ひじり》の言《こと》のよろしさ (巻三・三三九)
古《いにしへ》の七《なな》の賢《さか》しき人等《ひとたち》も欲《ほ》りせしものは酒《さけ》にしあるらし (同・三四〇)
賢《さか》しみと物《もの》言《い》ふよりは酒《さけ》飲みて酔哭《ゑひなき》するし益《まさ》りたるらし (同・三四一)
言《い》はむすべせむすべ知らに(知らず)極《きは》まりて貴《たふと》きものは酒《さけ》にしあるらし (同・三四二)
なかなかに人《ひと》とあらずは酒壺《さかつぼ》に成りてしかも酒《さけ》に染《し》みなむ (同・三四三)
あな醜《みにく》賢《さか》しらをすと酒《さけ》飲《の》まぬ人をよく見《み》れば猿《さる》にかも似《に》る(よく見ば猿にかも似む) (同・三四四)
価《あたひ》無《な》き宝《たから》といふとも一坏《ひとつき》の濁《にご》れる酒《さけ》に豈《あに》まさらめや (同・三四五)
夜《よる》光《ひか》る玉《たま》といふとも酒《さけ》飲《の》みて情《こころ》を遣《や》るに豈《あに》如《し》かめやも (同・三四六)
世《よ》の中《なか》の遊《あそ》びの道《みち》に冷《すず》しきは酔哭《ゑひなき》するにありぬべからし (同・三四七)
この代《よ》にし楽《たぬ》しくあらば来《こ》む世《よ》には虫《むし》に鳥《とり》にも吾《われ》はなりなむ (同・三四八)
生者《いけるもの》遂《つひ》にも死《し》ぬるものにあれば今世《このよ》なる間《ま》は楽《たぬ》しくをあらな (同・三四九)
黙然《もだ》居《を》りて賢《さか》しらするは酒《さけ》飲《の》みて酔泣《ゑひなき》するになほ如《し》かずけり (同・三五〇)
残りの十二首は即ち右の如くである。一種の思想ともいうべき感懐を詠じているが、如何に旅人はその表現に自在な力量を持っているかが分かる。その内容は支那的であるが、相当に複雑なものを一首一首に応じて毫も苦渋なく、ずばりずばりと表わしている。その支那文学の影響については先覚の諸注釈書に譲るけれども、顧《かえりみ》れば此等の歌も、当時にあっては、今の流行語でいえば最も尖端的なものであっただろうか。けれども今の自分等の考から行けば、稍遊離した態度と謂うべく、思想的抒情詩のむつかしいのはこれ等大家の作を見ても分かるのである。今、選抜の歌に限あるため、一首のみを取って全体を代表せしめることとした。
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武庫《むこ》の浦《うら》を榜《こ》ぎ回《た》む小舟《をぶね》粟島《あはしま》を背向《そがひ》に見《み》つつともしき小舟《をぶね》 〔巻三・三五八〕 山部赤人
山部赤人の歌六首中の一首である。「武庫の浦」は、武庫川の河口から西で、今の神戸あたり迄一帯をいった。「粟島」は巻九(一七一一)に、「粟の小島し見れど飽かぬかも」とある、「粟の小島」と同じ場処であろうが、現在何処に当るか不明である。淡路の北端あたりだろうという説がある。一首の意は、武庫の浦を榜ぎめぐり居る小舟よ。粟島を横斜に見つつ榜ぎ行く、羨しい小舟よ、というので、「小舟」を繰返していても、あらあらしくないすっきりした感じを与えている。あとの五首も大体そういう特色のものだから、此一首を以て代表せしめた。
繩《なは》の浦ゆ背向《そがひ》に見ゆる奥《おき》つ島榜《こ》ぎ回《た》む舟は釣し(釣を)すらしも (巻三・三五七)
阿倍《あべ》の島鵜《う》の住む磯に寄する浪間《ま》なくこのごろ大和し念《おも》ほゆ (同・三五九)
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吉野《よしぬ》なる夏実《なつみ》の河《かは》の川淀《かはよど》に鴨《かも》ぞ鳴《な》くなる山《やま》かげにして 〔巻三・三七五〕 湯原王
湯原王《ゆはらのおおきみ》が吉野で作られた御歌である。湯原王の事は審《つまびらか》でないが、志貴皇子《しきのみこ》の第二子で光仁天皇の御兄弟であろう。日本後紀に、「延暦廿四年十一月(中略)壱志濃王薨、田原天皇之孫、湯原親王之第二子」云々とある。「夏実」は吉野川の一部で、宮滝の上流約十町にある。今菜摘と称している。(土屋氏に新説ある。)
一首の意は、吉野にある夏実の川淵に鴨が鳴いている。山のかげの静かなところだ、というので、これは現に鴨の泳いでいるのを見て作ったものであろう。結句の、「山かげにして」は、鴨の泳いでいる夏実の淀淵の説明だが、結果から云えば一首に響く大切な句で、作者の感慨が此処にこもり、意味は場処の説明でも、一首全体の声調からいえばもはや単なる説明ではなくなっている。こういう結句の効果については、前出の人麿の歌(巻三・二五四)の処でも説明した。此歌は従来叙景歌の極致として取扱われたが、いかにもそういうところがある。ただ佳作と評価する結論のうちに、抒情詩としての声調という点を抜きにしてはならぬのである。また此歌の有名になったのは、一面に万葉調の歌の中では分かり好いためだということもある。一首の中に、「なる」の音が二つもあり、加行の音の多いのなども分析すれば分析し得るところである。
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軽《かる》の池《いけ》の浦《うら》回行《みゆ》きめぐる鴨《かも》すらに玉藻《たまも》のうへに独《ひと》り宿《ね》なくに 〔巻三・三九〇〕 紀皇女
紀皇女《きのひめみこ》の御歌で、皇女は天武天皇皇女で、穂積皇子《ほづみのみこ》の御妹にあられる。一首の意は、軽の池の岸のところを泳ぎ廻っているあの鴨でも、玉藻の上にただ一つで寝るということがないのに、私はただ一人で寝なければならぬ、というのである。万葉では、譬喩歌《ひゆか》というのに分類しているが、内容は恋歌で、鴨に寄せたのだといえばそうでもあろうが、もっと直接で、どなたかに差し上げた御歌のようである。単に内容からいえば、読人知らずの民謡的な歌にこういうのは幾らもあるが、この歌のよいのは、そういう一般的でない皇女に即した哀調が読者に伝わって来るためである。土屋文明氏の万葉集年表に、巻十二(三〇九八)に関する言《い》い伝《つたえ》を参照し、恋人の高安王《たかやすのおおきみ》が伊豫に左遷せられた時の歌だろうかと考えている。
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陸奥《みちのく》の真野《まぬ》の草原《かやはら》遠《とほ》けども面影《おもかげ》にして見《み》ゆとふものを 〔巻三・三九六〕 笠女郎
笠女郎《かさのいらつめ》(伝不詳)が大伴家持《やかもち》に贈った三首の一つである。「真野」は、今の磐城相馬郡真野村あたりの原野であろう。一首の意は、陸奥の真野の草原《かやはら》はあんなに遠くとも面影に見えて来るというではありませぬか、それにあなたはちっとも御見えになりませぬ、というのであるが、なお一説には「陸奥の真野の草原《かやはら》」までは「遠く」に続く序詞で、こうしてあなたに遠く離れておりましても、あなたが眼前に浮んでまいります。私の心持がお分かりになるでしょう、と強めたので、「見ゆとふものを」は、「見えるというものを」で、人が一般にいうような云い方をして確《たしか》めるので、この云い方のことは既に云ったごとく、「見ゆというものなるを」、「見ゆるものなるを」というに落着くのである。女郎《いらつめ》が未だ若い家持に愬《うった》える気持で甘えているところがある。万葉末期の細みを帯びた調子だが、そういう中にあっての佳作であろうか。また序詞などを使って幾分民謡的な技法でもあるが、これも前の紀皇女《きのひめみこ》の御歌と同じく、女郎《いらつめ》に即したものとして味うと特色が出て来るのである。
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百《もも》伝《つた》ふ磐余《いはれ》の池《いけ》に鳴《な》く鴨《かも》を今日《けふ》のみ見《み》てや雲隠《くもがく》りなむ 〔巻三・四一六〕 大津皇子
題詞には、大津皇子被レ死之時、磐余池般《ツツミ》流レ涕《ナミダ》御作歌一首とある。即ち、大津皇子の謀反《むほん》が露《あら》われ、朱鳥《あかみとり》元年十月三日訳語田舎《おさだのいえ》で死を賜わった。その時詠まれた御歌である。持統紀に、庚午賜二死皇子大津於訳語田舎一、時ニ年二十四。妃皇女山辺《ヤマノベ》被レ髪徒跣奔赴殉焉。見者皆歔欷とある。磐余の池は今は無いが、磯城郡安倍村大字池内のあたりだろうと云われている。「百伝ふ」は枕詞で、百《もも》へ至るという意で五十《い》に懸け磐余《いわれ》に懸けた。
一首の意は、磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのであるか、というので、「雲隠る」は、「雲がくります」(巻三・四四一)、「雲隠りにき」(巻三・四六一)などの如く、死んで行くことである。また皇子はこのとき、「金烏臨二西舎一、鼓声催二短命一、泉路無二賓主一、此夕離レ家向」という五言臨終一絶を作り、懐風藻《かいふうそう》に載った。皇子は夙《はや》くから文筆を愛し、「詩賦の興《おこり》は大津より始まる」と云われたほどであった。
この歌は、臨終にして、鴨のことをいい、それに向って、「今日のみ見てや」と歎息しているのであるが、斯く池の鴨のことを具体的に云ったために却って結句の「雲隠りなむ」が利いて来て、「今日のみ見てや」の主観句に無限の悲響が籠ったのである。池の鴨はその年も以前の年の冬にも日頃見給うたのであっただろうが、死に臨んでそれに全性命を托された御語気は、後代の吾等の驚嘆せねばならぬところである。有間皇子は、「ま幸くあらば」といい、大津皇子は、「今日のみ見てや」といった。大津皇子の方が、人麿などと同じ時代なので、主観句に沁むものが出来て来ている。これは歌風の時代的変化である。契沖は代匠記で、「歌ト云ヒ詩ト云ヒ声ヲ呑テ涙ヲ掩《おほ》フニ遑《いとま》ナシ」と評したが、歌は有間皇子の御歌等と共に、万葉集中の傑作の一つである。また妃山辺皇女《やまべのひめみこ》殉死の史実を随伴した一悲歌として永久に遺されている。因《ちなみ》に云うに、山辺皇女は天智天皇の皇女、御母は蘇我赤兄《あかえ》の女《むすめ》である。赤兄大臣は有間皇子が、「天与二赤兄一知」と答えられた、その赤兄である。
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豊国《とよくに》の鏡《かがみ》の山《やま》の石戸《いはと》立《た》て隠《こも》りにけらし待《ま》てど来《き》まさぬ 〔巻三・四一八〕 手持女王
石戸《いはと》破《わ》る手力《たぢから》もがも手弱《たよわ》き女《をみな》にしあれば術《すべ》の知《し》らなく 〔巻三・四一九〕 同
河内王《かふちのおおきみ》を豊前国鏡山(田川郡香春町附近勾金村字鏡山)に葬った時、手持女王《たもちのおおきみ》の詠まれた三首中の二首である。河内王は持統三年に太宰帥《だざいのそち》となった方で、持統天皇八年四月五日賻物《はふりもの》を賜った記事が見えるから、その頃卒せられたものと推定せられる(土屋氏)。手持女王の伝は不明である。「石戸」は石棺を安置する石槨《せっかく》の入口を、石を以て塞ぐので石戸というのである。これ等の歌も追悼するのに葬った御墓のことを云っている。第一の歌では、「待てど来まさぬ」の句に中心感情があり、同じ句は万葉に幾つかあるけれども、この句はやはりこの歌に専属のものだという気味がするのである。第二の歌の、「石戸わる手力もがも」は、その時の心その儘であろう。二つとも女性としての云い方、その語気が自然に出ていて挽歌としての一特色をなしている。共に悲しみの深い歌で、第二の歌の誇張らしいのも、女性の心さながらのものだからであろう。
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八雲《やくも》さす出雲《いづも》の子等《こら》が黒髪《くろかみ》は吉野《よしぬ》の川《かは》の奥《おき》になづさふ 〔巻三・四三〇〕 柿本人麿
出雲娘子《いずものおとめ》が吉野川で溺死した。それを吉野で火葬に附した時、柿本人麿の歌った歌二首の一つで、もう一つのは、「山の際《ま》ゆ出雲の児等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(巻三・四二九)というので、当時大和では未だ珍しかった火葬の烟《けむり》の事を歌っている。この歌の、「八雲さす」は「出雲」へかかる枕詞。「子等」の「等」は複数を示すのでなく、親しみを出すために附けた。生前美しかった娘子の黒髪が吉野川の深い水に漬《つか》ってただよう趣で、人麿がそれを見たか人言に聞きかしたものであろう。いずれにしてもその事柄を中心として一首を纏《まと》めている。そして人麿はどんな対象に逢着しても熱心に真心を籠めて作歌し、自分のために作っても依頼されて作っても、そういうことは殆ど一如にして実行した如くである。
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われも見《み》つ人《ひと》にも告げむ葛飾《かつしか》の真間《まま》の手児名《てこな》が奥津城処《おくつきどころ》 〔巻三・四二三〕 山部赤人
山部赤人が下総葛飾の真間娘子《ままのおとめ》の墓を見て詠んだ長歌の反歌である。手児名《てこな》は処女《おとめ》の義だといわれている。「手児」(巻十四・三三九八・三四八五)の如く、親の手児という意で、それに親しみの「な」の添《そ》わったものと云われている。真間に美しい処女《おとめ》がいて、多くの男から求婚されたため、入水した伝説をいうのである。伝説地に来ったという旅情のみでなく、評判の伝説娘子に赤人が深い同情を持って詠んでいる。併し徒《いたず》らに激しい感動語を以てせずに、淡々といい放って赤人一流の感懐を表現し了せている。それが次にある、「葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻苅りけむ手児名しおもほゆ」(巻三・四三三)の如きになると、余り淡々とし過ぎているが、「われも見つ人にも告げむ」という簡潔な表現になると赤人の真価があらわれて来る。後になって家持が、「万代の語《かたら》ひ草と、未だ見ぬ人にも告げむ」(巻十七・四〇〇〇)云々と云って、この句を学んで居る。赤人は富士山をも詠んだこと既に云った如くだから、赤人は東国まで旅したことが分かる。
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吾妹子《わぎもこ》が見《み》し鞆《とも》の浦《うら》の室《むろ》の木《き》は常世《とこよ》にあれど見《み》し人《ひと》ぞ亡《な》き 〔巻三・四四六〕 大伴旅人
太宰帥《だざいのそち》大伴旅人が、天平二年冬十二月、大納言になったので帰京途上、備後《びんご》鞆の浦を過ぎて詠んだ三首中の一首である。「室の木」は松杉科の常緑喬木、杜松(榁)であろう。当時鞆の浦には榁《むろ》の大樹があって人目を引いたものと見える。一首の意は、太宰府に赴任する時には、妻も一しょに見た鞆の浦の室《むろ》の木《き》は、今も少しも変りはないが、このたび帰京しようとして此処を通る時には妻はもう此世にいない、というので、「吾妹子」と、「見し人」とは同一人である。「人」は後に、「根はふ室の木見し人」、「人も無き空しき家」といってある如く、妻・吾妹子の意味に「人」を用いている。旅人の歌は明快で、顫動《せんどう》が足りないともおもうが、「見し人ぞ亡き」に詠歎が籠っていて感深い歌である。
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妹《いも》と来《こ》し敏馬《みぬめ》の埼《さき》を還《かへ》るさに独《ひとり》して見《み》れば涙《なみだ》ぐましも 〔巻三・四四九〕 大伴旅人
前の歌と同様、旅人が帰京途上、摂津の敏馬海岸を過ぎて詠んだものである。「涙ぐましも」という句は、万葉には此一首のみであるが、古事記(日本紀)仁徳巻に、「やましろの筒城《つつき》の宮にもの申すあが背《せ》の君《きみ》は(吾兄《わがせ》を見れば)泪《なみだ》ぐましも」の一首がある。この句は、この時代に出来た句だから、大体の調和は古代語にある。そこで、近頃、散文なり普通会話なりに多く用いる、「涙ぐましい」という語は不調和である。
この歌は、余り苦心して作っていないようだが、声調にこまかいゆらぎがあって、奥から滲出で来る悲哀はそれに本づいている。旅人の歌は、あまり早く走り過ぎる欠点があったが、この歌にはそれが割合に少く、そういう点でもこの歌は旅人作中の佳作ということが出来るであろう。旅人は、讃酒歌《さけをほむるうた》のような思想的な歌をも自在に作るが、こういう沁々《しみじみ》としたものをも作る力量を持っていた。なおこの時、「往くさには二人吾が見しこの埼をひとり過ぐれば心悲しも」(巻三・四五〇)という歌をも作った。やはり哀《あわれ》深い歌である。
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妹《いも》として二人《ふたり》作《つく》りし吾《わ》が山斎《しま》は木高《こだか》く繁《しげ》くなりにけるかも 〔巻三・四五二〕 大伴旅人
旅人が家に帰って来て、妻のいない家を寂しみ、太宰府で亡くした妻を悲しむ歌で、このほかに、「人もなき空《むな》しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」(巻三・四五一)、「吾妹子《わぎもこ》がうゑし梅の木見る毎に心むせつつ涕《なみだ》し流る」(同・四五三)の二首を作っているが、共にあわれ深い。
此一首の意は、亡くなった妻と一しょになって、二人で作った庭は、こんなにも木が大きくなり、繁茂するようになったというので、単純明快のうちに尽きぬ感慨がこもっている。結句の、「なりにけるかも」というのは、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「竹敷《たかしき》のうへかた山は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)、「石ばしる垂水《たるみ》のうへのさ蕨《わらび》の萌《も》えいづる春になりにけるかも」(巻八・一四一八)等の如くに成功している。同じく旅人が、「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよいよ清《さや》けくなりにけるかも」(巻三・三一六)という歌を作っていて効果をおさめているのは、旅人の歌調が概《おおむ》ね直線的で太いからでもあろうか。
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あしひきの山《やま》さへ光《ひか》り咲《さ》く花《はな》の散《ち》りぬるごとき吾《わ》が大《おほ》きみかも 〔巻三・四七七〕 大伴家持
天平十六年二月、安積皇子《あさかのみこ》(聖武天皇皇子)薨じた時(御年十七)、内舎人《うどねり》であった大伴家持の作ったものである。此時家持は長短歌六首作って居る。一首の意は、満山の光るまでに咲き盛っていた花が一時に散ったごとく、皇子は逝《ゆ》きたもうた、というのである。家持の内舎人になったのは天平十二年頃らしく、此作は家持の初期のものに属するであろうが、こころ謹しみ、骨折って作っているのでなかなか立派な歌である。家持は、父の旅人があのような歌人であり、夙《はや》くから人麿・赤人・憶良等の作を集めて勉強したのだから、此等六首を作る頃には、既に大家の風格を具《そな》えているのである。
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山《やま》の端《は》に味鳬《あぢ》群騒《むらさわ》ぎ行《ゆ》くなれど吾《われ》はさぶしゑ君《きみ》にしあらねば 〔巻四・四八六〕 舒明天皇
岳本天皇《おかもとのすめらみこと》御製一首並短歌とある、その短歌である。岳本天皇は即ち舒明天皇を申奉るのであるが、御製歌には女性らしいところがあるので、左注には後岳本天皇《のちのおかもとのすめらみこと》即ち斉明《さいめい》天皇の御製ではなかろうかと疑問を附している。それだから此疑問は随分古いものだということが分かるが、その精しい考証は現在の私には不可能である。攷證では、「この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて」と明かにしている。
一首の意は、山の端をば味鴨《あじがも》が群れ鳴いて、騒ぎ飛行くように、多くの人が通り行くけれども、私は寂しゅうございます、その人々はあなたではありませぬから、というので、やはり女性の歌として解釈するのである。そんなら作者は後岳本天皇即ち斉明天皇にましますかというに、それも私にはよく分からぬ。ただ岳本天皇御製とあるのだから、天皇がこういう恋愛情調をたたえた民謡風な抒情詩を御作りになったと解釈申上げてもよく、或は岳本天皇時代のこの抒情詩が、天皇御製歌として伝誦せられ来ったとも解釈することが出来るのである。いずれにしても歌は女性の口吻《こうふん》であること既に前賢が注意したごとくである。次に、この歌の、「あぢ群さわぎ行くなれど」の句をば、実際あじ鴨の群が飛んでゆくのを御覧になったのか、それとも譬喩《ひゆ》で、あじ鴨が騒いで飛行くように人が群れ騒ぎ行くというのか、先輩の解釈にも二とおりある。けれども私は「山の端にあぢ群さわぎ」は、「行く」に続く意味のある序詞だと解した。そして誰が「行く」のかといえば、「人」が行くのであって、これは長歌の方で、「人さはに国には満ちて、あぢ群の去来《ゆきき》は行けど、吾が恋ふる君にしあらねば」とあるのに拠っても分かる。即ち、あじ群の騒ぎ行くように人等が行くけれどもと解釈したのであって、その方が寧ろ古調だとおもうのである。
私はこの御製を、素朴な抒情詩の優れたものとして選んだ。特に、「あぢむら騒ぎ」という句に心を牽《ひ》かれたのであった。こういう実景を見つつ、その写象によって序詞を作ったのを感心したためであった。もっとも、此用法は、「奥べには鴨妻喚《よ》ばひ、辺《へ》つべに味《あぢ》むら騒ぎ」(巻三・二五七)、「なぎさには味むら騒ぎ」(巻十七・三九九一)の如く実際味むらの居る処として表わしたものもあり、「あぢむらの騒ぎ競《きほ》ひて浜に出でて」(巻二十・四三六〇)のごとく、実際あじ群の居るのでなく、枕詞に使った処もあるが、いずれにしても古風な気持の好い用い方である。ことに、短歌の方で、単に「行くなれど」と云って、長歌の方の、「人さはに」という主格をも含めた用法にも感心したのであった。この歌に比べると、「秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども不楽《さぶ》し君にしあらねば」(巻十・二二九〇)、「み冬つぎ春は来れど梅の花君にしあらねば折る人もなし」(巻十七・三九〇一)などは、調子が弱くなって、もはや弛《たる》んでいる。また、「うち日さす宮道《みやぢ》を人は満ちゆけど吾が念《おも》ふ公《きみ》はただ一人のみ」(巻十一・二三八二)という類似の歌もあるが、この方はもっと分かりよい。
この次に、「淡海路《あふみぢ》の鳥籠《とこ》の山なるいさや川日《け》の此頃《このごろ》は恋ひつつもあらむ」(巻四・四八七)という歌があり、上半は序詞だが、やはり古調で佳い歌である。そしてこの方は男性の歌のような語気だから、或はこれが御製で、「山の端に」の歌は天皇にさしあげた女性の歌ででもあろうか。
以上、「あぢむら騒ぎ」までを序詞として解釈したが、「夏麻《なつそ》引く海上潟《うなかみがた》の沖つ洲に鳥はすだけど君は音《おと》もせず」(巻七・一一七六)、「吾が門の榎《え》の実《み》もり喫《は》む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」(巻十六・三八七二)というのがあって、これは実際鳥の群集する趣だから、これを標準とせば、「あぢむら騒ぎ」も実景としてもいいかも知れぬが、この巻七の歌も巻十六の歌もよく味うと、やはり海鳥を写象として、その聯想によって「すだけど」、或は「来れど」と云っているのだということが分かり、属目光景では無いのである。
この御製を、女性らしい御語気だと云ったが、代匠記では男の歌とし、毛詩鄭風《ていふう》の、出バ二其東門ヲ一、有レ女如シレ雲、雖二則如シト一レ雲、匪ズ二我思ノ存スルニ一を引いている。即ち「君」を女と解している。攷證でも、「この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて」、「吾は君とは違ひて、誘《サソ》ふ人もあらざれば、いとさびしとのたまふにて、君は定めて誘ふ人もあまたありぬべしとの御心を、味村の飛ゆくさまをみそなはして、つゞけ給へる也」と云っている。どちらが本当か、後賢の判断を俟《ま》っている。
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君《きみ》待《ま》つと吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の簾《すだれ》うごかし秋《あき》の風《かぜ》吹《ふ》く 〔巻四・四八八〕 額田王
額田王《ぬかだのおおきみ》が近江天皇(天智天皇)をお慕いもうして詠まれたものである。王ははじめ大海人皇子《おおあまのみこ》(天武天皇)の許《もと》に行かれて十市皇女《とおちのひめみこ》を生み、のち天智天皇に寵《ちょう》せられたことは既に云ったが、これは近江に行ってから詠まれたものであろう。
一首の意は、あなたをお待申して、慕わしく居りますと、私の家の簾を動かして秋の風がおとずれてまいります、というのである。
この歌は、当りまえのことを淡々といっているようであるが、こまやかな情味の籠った不思議な歌である。額田王は才気もすぐれていたが情感の豊かな女性であっただろう。そこで知らず識らずこういう歌が出来るので、この歌の如きは王の歌の中にあっても才鋒《さいほう》が目立たずして特に優れたものの一つである。この歌でただ、「簾動かし秋の風吹く」とだけ云ってあるが、女性としての音声さえ聞こえ来るように感ぜられるのは、ただ私の気のせいばかりでなく、つまり、結句の「秋の風ふく」の中に、既に女性らしい愬《うった》えを聞くことが出来るといい得るのである。また、風の吹いて来るのは恋人の来る前兆だという一種の信仰のようなものがあったと説く説(古義)もあるがどういうものであるか私には能《よ》く分からない。ただそうすれば却って歌柄《うたがら》が小さくなってしまうようだから、此処は素直に文字どおりにただ天皇をお慕い申す恋歌として受取った方が好いようである。
この歌の次に、鏡王女《かがみのおおきみ》の作った、「風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし待たば何か歎かむ」(巻四・四八九)という歌が載っている。王女は額田王の御姉に当る人で、はじめ天智天皇に寵せられ、のち藤原鎌足《かまたり》の正室になった人だから、恐らく此時近江の京に住んでいたのであろう。そして、額田王の此歌を聞いて、額田王にやったものであろう。この歌にも広い意味の贈答歌の味いがあり、姉妹のあいだの情味がこもっている。併し万葉集には、妹に和《こた》えた歌とは云っていない。
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今更《いまさら》に何《なに》をか念《おも》はむうち靡《なび》きこころは君《きみ》に寄《よ》りにしものを 〔巻四・五〇五〕 安倍女郎
安倍女郎《あべのいらつめ》(伝不詳)の作った二首中の一つである。女性の声の直接伝わり来るような特色ある歌として選んだが、そうして見ると、素直でなかなか佳いところがある。前に既に「君に寄りななこちたかりとも」(巻二・一一四)の歌を引いたが、この歌はもっと分かり易くなって来て居る。
なお、この歌の次に「吾背子は物な念《おも》ほし事しあらば火にも水にも吾無けなくに」(巻四・五〇六)という歌があって、やはり同一作者だが、女性の情熱を云っている。併しこれも女性の語気として受取る方がよく、此時代になると、感情も一般化して分かりよくなっている。寧ろ、「事しあらば小泊瀬山《をはつせやま》の石城《いはき》にも籠《こも》らば共にな思ひ吾が背《せ》」(巻十六・三八〇六)の方が、古い味いがあるように思える。巻十六の歌は後に選んで置いた。
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大原《おほはら》のこの市柴《いつしば》の何時《いつ》しかと吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》に今夜《こよひ》逢《あ》へるかも 〔巻四・五一三〕 志貴皇子
志貴皇子の御歌で「市柴《いつしば》」は巻八(一六四三)に「この五柴《いつしば》に」とあるのと同じく、繁った柴のことだといわれている。「いつしかと」に続けた序詞だが、実際から来ている序詞である。「大原」は高市郡小原の地なることは既に云った。この歌で心を牽《ひ》いたのは、「今夜逢へるかも」という句にあったのだが、この句は、巻十(二〇四九)に、「天漢《あまのがは》川門《かはと》にをりて年月を恋ひ来し君に今夜《こよひ》逢へるかも」というのがある。
なお、この巻(五二四)に、「蒸《むし》ぶすまなごやが下に臥せれども妹とし寝《ね》ねば肌《はだ》し寒しも」という藤原麻呂の歌もあり、覚官的のものだが、皇子の御歌の方が感深いようである。此等の歌は取立てて秀歌という程のものでは無いが、ついでを以て味うの便となした。
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庭《には》に立《た》つ麻手《あさて》刈《かり》り干《ほ》ししき慕《しぬ》ぶ東女《あづまをみな》を忘《わす》れたまふな 〔巻四・五二一〕 常陸娘子
藤原宇合《うまかい》(藤原不比等第三子)が常陸守になって任地に数年いたが、任果てて京に帰る時、(養老七年頃か)常陸娘子《ひたちのおとめ》が贈った歌である。娘子は遊行女婦《うかれめ》のたぐいであろう。「庭に立つ」は、庭に植えたという意。「麻手」は麻のことで、巻十四(三四五四)に、「庭に殖《た》つ麻布《あさて》小ぶすま」の例がある。類聚古集に拠《よ》って「手」は「乎」だとすると分かりよいことは分かりよい。「刈り干し」までは、「しきしぬぶ」の序のようだが、これは意味の通ずる序だから、序詞をも意味の中に取入れていい。地方にいる遊行女婦が、こうして官人を持成《もてな》し優遇し、別れるにのぞんでは纏綿《てんめん》たる情味を与えたものであろう。そして農家のおとめのような風にして詠んでいるが、軽い諧謔《かいぎゃく》もあって、女らしい親しみのある歌である。「東女《あづまをみな》」と自ら云うたのも棄てがたい。
巻十四(三四五七)に、「うち日さす宮の吾背《わがせ》は大和女《やまとめ》の膝枕《ひざま》くごとに吾《あ》を忘らすな」というのがある。これは古代の東歌というよりも、京師から来た官人の帰還する時に詠んだ趣《おもむき》のものでこの歌に似ている。遊行女婦あたりの口吻だから、東歌の中にはこういう種類のものも交っていることが分かる。
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ここにありて筑紫《つくし》やいづく白雲《しらくも》の棚引《たなび》く山《やま》の方《かた》にしあるらし 〔巻四・五七四〕 大伴旅人
大伴旅人が大納言になって帰京した。太宰府に残って、観世音寺造営に従っていた沙弥満誓《さみのまんぜい》から「真十鏡《まそかがみ》見飽《みあ》かぬ君に後《おく》れてや旦《あした》夕《ゆふべ》にさびつつ居らむ」(巻四・五七二)等の歌を贈った。それに和《こた》えた歌である。旅人の歌調は太く、余り剽軽《ひょうきん》に物をいえなかったところがあった。讃酒歌《さけをほむるうた》でも、「猿にかも似る」といっても、人を笑わせないところがある。旅人の歌調は、顫《ふるえ》が少いが、家持の歌調よりも太い。
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君《きみ》に恋《こ》ひいたも術《すべ》なみ平山《ならやま》の小松《こまつ》が下《した》に立《た》ち嘆《なげ》くかも 〔巻四・五九三〕 笠女郎
笠女郎《かさのいらつめ》が大伴家持に贈った廿四首の中の一つである。平山《ならやま》は奈良の北にある那羅山《ならやま》で、其処に松が多かったことは、「平山《ならやま》の小松が末《うれ》の」(巻十一・二四八七)等の歌によっても分かる。これは家持に向って愬《うった》えているので、分かりよい、調子のなだらかな歌である。この歌の次に、「わが屋戸《やど》の夕影草《ゆふかげぐさ》の白露の消ぬがにもとな念《おも》ほゆるかも」(巻四・五九四)というのもあり、極めて流暢《りゅうちょう》に歌いあげている。相当の才女であるが、この時代になると、歌としての修練が既に必要になって来ているから、藤原朝あたりのものとも違って、もっと文学的にならんとしつつあるのである。併し此等の歌でも如何に快いものであるか、後代の歌に較べて、いまだ万葉の実質の残っていることをおもわねばならない。
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相《あひ》念《おも》はぬ人《ひと》を思《おも》ふは大寺《おほてら》の餓鬼《がき》の後《しりへ》にぬかづく如《ごと》し 〔巻四・六〇八〕 笠女郎
笠女郎が家持に贈ったものである。当時の大寺には種々の餓鬼が画図として画かれ、或は木像などとして据えてあったものであろうか。あなたのように幾ら思っても甲斐ない方は、伽藍《がらん》の中に居る餓鬼像を後ろから拝むようなものではありませんか、というので、才気のまさった諧謔《かいぎゃく》の歌である。仏教の盛な時代であるから、才気の豊かな女等はこのくらいの事は常に云ったかも知れぬが、後代の吾等にはやはり諧謔的に心の働いた面白いものである。そしてこの歌でよいのは女の語気を直接に聞き得るごとくに感じ得る点にある。
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沖《おき》へ行《ゆ》き辺《へ》に行《ゆ》き今《いま》や妹《いも》がためわが漁《すなど》れる藻臥束鮒《もふしつかふな》 〔巻四・六二五〕 高安王
高安王《たかやすのおおきみ》が鮒の土産《みやげ》を娘子《おとめ》に呉れたときの歌である。高安王は天平十四年正四位下で卒した人で、十一年大原真人《おおはらのまひと》の姓を賜わっている。一首の意味は、この鮒は、深いところから岸の浅いところ方々《ほうぼう》歩いて、つかまえた藻の中にいた大鮒だが、おまえに持って来た、というぐらいの意で、「藻臥」は藻の中に住む、藻の中に潜むの意。「束鮒」は一束《ひとつか》、即ち一握《ひとにぎ》り(二寸程)ぐらいの長さをいう。この結句の造語がおもしろいので選んで置いた。巻十四(三四九七)の、「河上の根白高萱《ねじろたかがや》」などと同じ造語法である。
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月読《つくよみ》の光《ひかり》に来《き》ませあしひきの山《やま》を隔《へだ》てて遠《とほ》からなくに 〔巻四・六七〇〕 湯原王
湯原王《ゆはらのおおきみ》の歌だが、娘子《おとめ》が湯原王に贈った歌だとする説(古義)のあるのは、この歌に女性らしいところがあるためであろう。併しこれはもっと楽《らく》に解して、女にむかってやさしく云ってやったともいうことが出来るだろう。また程近い処であるから女に促してやったということも云い得るのである。和《こた》うる歌に、「月読の光は清く照らせれどまどへる心堪へず念ほゆ」(巻四・六七一)とあるのは、女の語気としてかまわぬであろう。
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夕闇《ゆふやみ》は路《みち》たづたづし月《つき》待《ま》ちて行《ゆ》かせ吾背子《わがせこ》その間《ま》にも見《み》む 〔巻四・七〇九〕 大宅女
豊前国の娘子大宅女《おおやけめ》の歌である。この娘子の歌は今一首万葉(巻六・九八四)にある。「道たづたづし」は、不安心だという意になる。「その間にも見む」は、甘くて女らしい句である。此頃になると、感情のあらわし方も細《こまか》く、姿態《しな》も濃《こま》やかになっていたものであろう。良寛の歌に「月読の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに」とあるのは、此辺の歌の影響だが、良寛は主に略解《りゃくげ》で万葉を勉強し、むずかしくない、楽《らく》なものから入っていたものと見える。
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ひさかたの雨《あめ》の降《ふ》る日《ひ》をただ独《ひと》り山辺《やまべ》に居《を》れば欝《いぶ》せかりけり 〔巻四・七六九〕 大伴家持
大伴家持が紀女郎《きのいらつめ》に贈ったもので、家持はいまだ整わない新都の久邇《くに》京にいて、平城《なら》にいた女郎に贈ったものである。「今しらす久邇《くに》の京《みやこ》に妹《いも》に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な」(巻四・七六八)というのもある。この歌は、もっと上代の歌のように、蒼古《そうこ》というわけには行かぬが、歌調が伸々《のびのび》として極めて順直なものである。家持の歌の優れた一面を代表する一つであろうか。
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世《よ》の中《なか》は空《むな》しきものと知《し》る時《とき》しいよよますます悲《かな》しかりけり 〔巻五・七九三〕 大伴旅人
大伴旅人《おおとものたびと》は、太宰府に於て、妻大伴郎女《おおとものいらつめ》を亡くした(神亀五年)。その時京師から弔問が来たのに報《こた》えた歌である。なおこの歌には、「禍故重畳《ちようでふ》し、凶問累《しきり》に集る。永く崩心の悲みを懐《いだ》き、独り断腸の泣《なみだ》を流す。但し両君の大助に依りて、傾命纔《わづか》に継ぐ耳《のみ》。筆言を尽さず、古今の歎く所なり」という詞書が附いている。傾命は老齢のこと。両君は審《つまびら》かでない。
一首の意は、世の中が皆空・無常のものだということを、現実に知ったので、今迄よりもますます悲しい、というのである。
「知る時し」は、知る時に、知った時にという事であるが、今迄は経文により、説教により、万事空寂無常のことは聞及んでいたが、今現《げん》に、自分の身に直接に、眼《ま》のあたりに、今の言葉なら、体験したという程のことを、「知る」と云ったのである。同じ用例には、「うつせみの世は常無《つねな》しと知るものを」(巻三・四六五。家持)、「世の中を常無きものと今ぞ知る」(巻六・一〇四五。不詳)、「世の中の常無きことは知るらむを」(巻十九・四二一六。家持)等がある。そこで「いよよますます」という語に続くのである。この歌には、仏教が入っているので、「空しきものと知る」というだけでも、当時にあっては、深い道理と情感を伴う語感を持っていただろう。一口にいえば思想的にも新しく且つ深かったものだろう。それが年月によって繰返されているうち、その新鮮の色があせつつ来たのであるが、旅人のこの歌頃までは、いまだ諳記《あんき》してものを云っているようなところのないのを鑑賞者は見免《みのが》してはならぬだろう。その証拠には、此処に引いた用例は皆旅人以後で、旅人の口吻の模倣といってよいのである。それから、結句の、「悲しかりけり」であるが、これは漢文なら、「独り断腸の泣《なみだ》を流す」というところを、日本語では、「悲しかりけり」というのである。これを以て、日本語の貧弱を云々してはならぬ。短詩形としての短歌の妙味もむずかしい点も此処に存するものだからである。大体以上の如くであるが、後代の吾等から見れば、此歌を以て満足だというわけには行かぬ。それはなぜかというに、思想的抒情詩はむずかしいもので、誰が作っても旅人程度を出で難いものだからである。併しそれを正面から実行した点につき、この方面の作歌に一つの基礎をなした点につき、旅人に満腔《まんこう》の尊敬を払うて茲《ここ》に一首を選んだのであった。
旅人の妻、大伴郎女の死した時、旅人は、「愛《うつく》しき人《ひと》の纏《ま》きてし敷妙《しきたへ》の吾が手枕《たまくら》を纏《ま》く人あらめや」(巻三・四三八)等三首を作っているが、皆この歌程大観的ではない。序にいうが、巻三(四四二)に、膳部王《かしわでべのおおきみ》を悲しんだ歌に、「世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月は満闕《みちかけ》しける」という作者不詳の歌がある。王の薨去は天平元年だから、やはり旅人の歌の方が早い。
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悔《くや》しかも斯《か》く知《し》らませばあをによし国内《くぬち》ことごと見《み》せましものを 〔巻五・七九七〕 山上憶良
大伴旅人の妻が死んだ時、山上憶良《やまのうえのおくら》が、「日本挽歌」(長歌一首反歌五首)を作って、「神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良上」として旅人に贈った。即ちこの長歌及び反歌は、旅人の心持になって、恰《あたか》も自分の妻を悼《いた》むような心境になって、旅人の妻の死を悼んだものである。それだから、この「山上憶良上」云々という注が無ければ、無論憶良が自分の妻の死を悼んだものとして受取り得る性質のものである。因《よ》って鑑賞者は、この歌の作者は憶良でも、旅人の妻即ち大伴郎女《おおとものいらつめ》の死を念中に持って味うことが必要なのである。
一首の意は、こうして妻に別れねばならぬのが分かっていたら、筑紫の国々を残るくまなく見物させてやるのであったのに、今となって残念でならぬ、というのである。
この歌の「知る」は前の歌の「知る」と稍違って、知れている、分かっている程の意である。次に、「あをによし」という語は普通、「奈良」に懸る枕詞であるのに、憶良は「国内」に続けている。そんなら、「国内」は大和・奈良あたりの意味かというに、そう取っては具合が悪い。やはり筑紫の国々と取らねばならぬところである。そこで種々説が出たのであるが、憶良は必ずしも伝統的な日本語を使わぬ事があるので、或は、「あをによし」の意味をただ山川の美しいというぐらいの意に取ったものと考えられる。(憶良は、「あをによし奈良の都に」(巻五・八〇八)とも使っている。)次に、この歌は、初句から、「くやしかも」と置いているのは、万葉集としては珍らしく、寧ろ新古今集時代の手法であるが、憶良は平然としてこういう手法を実行している。もっともこの手法は、「苦しくも降り来る雨か」などという主観句の短いものと看做《みな》せば説明のつかぬことはない。
この歌を味うと、内容に質実的なところがあるが、声調が訥々《とつとつ》としていて、沁《し》み透《とお》るものが尠《すくな》いので、つまりは常識の発達したぐらいな感情として伝わって来る。併し声調が流暢《りゅうちょう》過ぎぬため、却って軽佻《けいちょう》でなく、質朴の感を起こさせるのである。家持の歌に、「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」(巻十七・三九五九)というのがある。これは弟の書持《ふみもち》の死を悼《いた》んだものであるが、この憶良の歌から影響を受けているところを見ると、大伴家に伝わった此等の歌をも読味ったことが分かる。
この日本挽歌一首(長歌反歌)は、憶良が旅人の心になって、旅人の心に同感して、旅人の妻の死を哀悼《あいとう》したという説に従ったが、これは、憶良の妻の死を、憶良が直接悼んでいるのだと解釈する説があり、岸本由豆流《ゆずる》の万葉集攷證《こうしょう》にも、「或人の説に、こは憶良の妻身まかりしにはあるべからず、こは大伴卿の心になりて、憶良の作られけるならんといへれど、さる証もなければとりがたし」と云っている程である。(なお、大柳直次氏の同説がある。)併し、歌の中の妻の死んだのも夏であり、その他の種々の関係が、旅人の妻の死を悼んだ歌として解釈する方が穏《おだや》かのように思える。「筑前国守山上憶良上」をば、憶良自身の妻の死を悼んだ歌を旅人に示したものとして、「大伴卿も同じ思ひに歎かるゝころなれば、かの卿に見せられけるなるべし」(攷證)というのであるが、ただそれだけでは証拠不充分であるし、憶良の妻が筑紫で歿したという記録が無いのだから、これを以て直ぐ憶良の妻の死を悼んだのだと断定するわけにも行かぬのである。併し全体が、自分の妻を哀悼するような口吻であるから、茲に両説が対立することとなるのであるが、鑑賞者は、憶良が此歌を作っても、旅人の妻の死を旅人が歎いているという心持に仮りになって味えば面倒ではないのである。
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妹《いも》が見《み》し楝《あふち》の花《はな》は散《ち》りぬべし我《わ》が泣《な》く涙《なみだ》いまだ干《ひ》なくに 〔巻五・七九八〕 山上憶良
前の歌の続《つづき》で、憶良が旅人の心に同化して旅人の妻を悼んだものである。楝《おうち》は即ち栴檀《せんだん》で、初夏のころ薄紫の花が咲く。
一首の意は、妻の死を悲しんで、わが涙の未だ乾かぬうちに、妻が生前喜んで見た庭前の楝《おうち》の花も散ることであろう、というので、逝《ゆ》く歳月の迅《はや》きを歎じ、亡妻をおもう情の切なことを懐《おも》うのである。
この楝の花は、太宰府の家にある楝であろう。そして、作者の憶良も太宰府にいて、旅人の心になって詠んだからこういう表現となるのである。この歌は、意味もとおり言葉も素直に運ばれて、調べも感動相応の重みを持っているが、飛鳥・藤原あたりの歌調に比して、切実の響を伝え得ないのはなぜであるか。恐らく憶良は伝統的な日本語の響に真に合体し得なかったのではあるまいか。後に発達した第三句切が既にここに実行せられているのを見ても分かるし、「朝日照る佐太《さだ》の岡辺に群れゐつつ吾が哭《な》く涙止む時もなし」(巻二・一七七)、「御立《みたち》せし島を見るとき行潦《にはたづみ》ながるる涙止めぞかねつる」(巻二・一七八)ぐらいに行くのが寧ろ歌調としての本格であるのに、此歌は其処までも行っていない。この歌は、従来万葉集中の秀歌として評価せられたが、それは、分かり易い、無理のない、感情の自然を保つ、挽歌らしいというような点があるためで、実は此歌よりも優れた挽歌が幾つも前行しているのである。
天平十一年夏六月、大伴家持は亡妾を悲しんで、「妹が見し屋前《やど》に花咲き時は経ぬわが泣く涙いまだ干なくに」(巻三・四六九)という歌を作っている。これは明かに憶良の模倣であるから、家持もまた憶良の此一首を尊敬していたということが分かるのである。恐らく家持は此歌のいいところを味い得たのであっただろう。(もっとも家持は此時人麿の歌をも多く模倣して居る。)
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大野山《おほぬやま》霧《きり》たちわたる我《わ》が嘆《なげ》く息嘯《おきそ》の風《かぜ》に霧《きり》たちわたる 〔巻五・七九九〕 山上憶良
此歌も前の続である。「大野山」は和名鈔《わみょうしょう》に、「筑前国御笠郡大野」とある、その地の山で、太宰府に近い。「おきそ」は、宣長は、息嘯《おきうそ》の略とし、神代紀に嘯之時《ウソブクトキニ》迅風忽起とあるのを証とした。
一首の意は、今、大野山を見ると霧が立っている、これは妻を歎く自分の長大息の、風の如く強く長い息のために、さ霧となって立っているのだろう、というので、神代紀に、「吹きうつる気噴《いぶき》のさ霧に」、万葉に、「君がゆく海べの屋戸に霧たたば吾《あ》が立ち嘆く息《いき》と知りませ」(巻十五・三五八〇)、「わが故に妹歎くらし風早《かざはや》の浦の奥《おき》べに霧棚引けり」(同・三六一五)、「沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを」(同・三六一六)等とあるのと同じ技法である。ただ万葉の此等の歌は憶良のこの歌よりも後であろうか。
此一首も、「霧たちわたる」を繰返したりして強く云っていて、線も太く、能働的であるが、それでもやはり人麿の歌の声調ほどの顫動が無い。例えば前出の、「ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎわかれなむ家のあたり見ず」(巻三・二五四)あたりと比較すればその差別もよく分かるのであるが、憶良は真面目になって骨折っているので、一首は質実にして軽薄でないのである。なお、天平七年、大伴坂上郎女が尼理願《りがん》を悲しんだ歌に、「嘆きつつ吾が泣く涙、有間山雲居棚引き、雨に零《ふ》りきや」(巻三・四六〇)という句があり、同じような手法である。
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ひさかたの天道《あまぢ》は遠《とほ》しなほなほに家《いへ》に帰《かへ》りて業《なり》を為《し》まさに 〔巻五・八〇一〕 山上憶良
山上憶良は、或る男が、両親妻子を軽んずるのをみて、その不心得を諭《さと》して、「惑情を反《かへ》さしむる歌」というのを作った、その反歌がこの歌である。長歌の方は、「父母を見れば尊し、妻子《めこ》見ればめぐし愛《うつく》し、世の中はかくぞ道理《ことわり》」、「地《つち》ならば大王《おほきみ》います、この照らす日月の下は、天雲《あまぐも》の向伏《むかふ》す極《きはみ》、谷蟆《たにぐく》のさ渡る極、聞《きこ》し食《を》す国のまほらぞ」というのが、その主な内容で、現実社会のおろそかにしてはならぬことを云ったものである。
反歌の此一首は、おまえは青雲の志を抱いて、天へも昇るつもりだろうが、天への道は遼遠《りょうえん》だ、それよりも、普通並に、素直に家に帰って、家業に従事しなさい、というのである。「なほなほに」は、「直直《なほなほ》に」で、素直に、尋常に、普通並にの意、「延《は》ふ葛の引かば依り来ね下《した》なほなほに」(巻十四・三三六四或本歌)の例でも、素直にの意である。結句の、「業《なり》を為《し》まさに」は、「業《なり》を為《し》まさね」で、「ね」と「に」が相通い、当時から共に願望の意に使われるから、この句は、「業務に従事しなさい」という意となる。
この歌も、その声調が流動性でなく、寧《むし》ろ佶屈《きっくつ》とも謂《い》うべきものである。然るに内容が実生活の事に関しているのだから、声調おのずからそれに同化して憶良独特のものを成就《じょうじゅ》したのである。事が娑婆《しゃば》世界の実事であり、いま説いていることが儒教の道徳観に本《もと》づくとせば、縹緲《ひょうびょう》幽遠な歌調でない方が却って調和するのである。由来儒教の観相は実生活の常識であるから、それに本づいて出来る歌も亦結局其処に帰着するのである。憶良は、伝誦されて来た古歌謡、祝詞《のりと》あたりまで溯《さかのぼ》って勉強し、「谷ぐくのさわたるきはみ」等というけれども、作る憶良の歌というものは何処か漢文的口調のところがある。併し、万葉集全体から見れば、憶良は憶良らしい特殊の歌風を成就したということになるから、その憶良的な歌の出来のよい一例としてこれを選んで置いた。
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銀《しろがね》も金《くがね》も玉《たま》もなにせむにまされる宝《たから》子《こ》に如《し》かめやも 〔巻五・八〇三〕 山上憶良
山上憶良は、「子等を思ふ歌」一首(長歌反歌)を作った。序は、「釈迦如来、金口《こんく》に正しく説き給はく、等しく衆生《しゆじやう》を思ふこと、|羅羅《らごら》の如しと。又説き給はく、愛は子に過ぎたるは無しと。至極の大聖すら尚ほ子を愛《うつく》しむ心あり。況《ま》して世間《よのなか》の蒼生《あをひとぐさ》、誰か子を愛《を》しまざらめや」というものであり、長歌は、「瓜《うり》食《は》めば子等《こども》思ほゆ、栗《くり》食《は》めば況してしぬばゆ、何処《いづく》より来《きた》りしものぞ、眼交《まなかひ》にもとな懸《かか》りて、安寝《やすい》し為《な》さぬ」というので、この長歌は憶良の歌としては第一等である。簡潔で、飽くまで実事を歌い、恐らく歌全体が憶良の正体と合致したものであろう。
この反歌は、金銀珠宝も所詮《しょせん》、子の宝には及ばないというので、長歌の実事を詠んだのに対して、この方は綜括《そうかつ》的に詠んだ。そして憶良は仏典にも明るかったから、自然にその影響がこの歌にも出たものであろう。「なにせむに」は、「何かせむ」の意である。憶良の語句の仏典から来たのは、「古日《ふるひ》を恋ふる歌」(巻五・九〇四)にも、「世の人の貴み願ふ、七種《ななくさ》の宝も我は、なにせむに、我が間《なか》の生れいでたる、白玉の吾が子古日《ふるひ》は」とあるのを見ても分かる。七宝は、金・銀・瑠璃《るり》・|《しゃこ》・碼碯《めのう》・珊瑚《さんご》・琥珀《こはく》または、金・銀・琉璃《るり》・|頗
《はり》・車渠《しゃこ》・瑪瑙・金剛《こんごう》である。そういう仏典の新しい語感を持った言葉を以て、一首を為立《した》て、堅苦しい程に緊密な声調を以て終始しているのに、此一首の佳い点があるだろう。けれども長歌に比してこの反歌の劣るのは、後代の今となって見れば言語の輪廓として受取られる弱点が存じているためである。併し、旅人の讃《ホムル》レ酒ヲ歌にせよ、この歌にせよ、後代の歌人として、作歌を学ぶ吾等にとって、大に有益をおぼえしめる性質のものである。
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常知《つねし》らぬ道《みち》の長路《ながて》をくれぐれと如何《いか》にか行《ゆ》かむ糧米《かりて》は無《な》しに 〔巻五・八八八〕 山上憶良
肥後国益城《ましき》郡に大伴君熊凝《おおとものきみくまこり》という者がいた。天平三年六月、相撲部領使《すまいのことりづかい》某の従者として京へ上る途中、安芸国佐伯郡高庭《たかにわ》駅で病死した。行年十八であった。そして、死なんとした時自ら歎息して此歌を作ったとして、山上憶良が此歌を作った。この歌の詞書に次の如くに書いてある。「臨死《みまから》むとする時、長歎息して曰く、伝へ聞く仮合《けがふ》の身滅び易く、泡沫《はうまつ》の命駐《とど》め難し。所以《ゆゑ》に千聖已《すで》に去り、百賢留らず、況して凡愚の微《いや》しき者、何ぞも能《よ》く逃避せむ。但《ただ》我が老いたる親並《ならび》に菴室《あんしつ》に在り。我を待つこと日を過さば、自ら心を傷《いた》むる恨あらむ。我を望みて時に違《たが》はば、必ず明《めい》を喪《うしな》ふ泣《なみだ》を致さむ。哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母、一身死に向ふ途を患《うれ》へず、唯二親世に在《いま》す苦を悲しぶ。今日長く別れなば、何れの世にか覲《み》ることを得む。乃《すなは》ち歌六首を作りて死《みまか》りぬ。其歌に曰く」というのである。そして長歌一首短歌五首がある。併しこれは、前言のごとく、熊凝《くまこり》が自ら作ったのではなく、憶良が熊凝の心になって、熊凝臨終のつもりになって作ったのである。
一首の意は、嘗て知らなかった遙かな黄泉の道をば、おぼつかなくも心悲しく、糧米《かて》も持たずに、どうして私は行けば好いのだろうか、というのである。「くれぐれと」は、「闇闇《くれくれ》と」で、心おぼろに、おぼつかなく、うら悲しく等の意である。この歌の前に、「欝《おぼほ》しく何方《いづち》向きてか」というのがあるが、その「おぼほしく」に似ている。
この歌は六首の中で一番優れて居り、想像で作っても、死して黄泉へ行く現身《げんしん》の姿のようにして詠んでいるのがまことに利いて居る。糧米も持たずに歩くと云ったのも、後代の吾等の心を強く打つものである。糧米をカリテと訓むは、霊異記《りょういき》下巻に糧(可里弖)とあるによっても明かで、乾飯直《カレヒテ》の義(攷證)だと云われている。一に云、「かれひはなしに」とあるのは、「餉《かれひ》は無《な》しに」で意味は同じい。カレヒは乾飯《カレイヒ》である。憶良の作ったこのあたりの歌の中で、私は此一首を好んでいる。
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世間《よのなか》を憂《う》しと恥《やさ》しと思《おも》へども飛《と》び立《た》ちかねつ鳥《とり》にしあらねば 〔巻五・八九三〕 山上憶良
山上憶良の「貧窮問答の歌一首并に短歌」(土屋氏云、憶良上京後、即ち天平三年秋冬以後の作であろう。)の短歌である。長歌の方は、二人貧者の問答の体で、一人が、「風雑《まじ》り雨降る夜の、……如何にしつつか、汝《な》が世は渡る」といえば、一人が、「天地は広しといへど、あが為《ため》は狭《さ》くやなりぬる、……斯くばかり術《すべ》無きものか、世間《よのなか》の道」と答えるところで、万葉集中特殊なもので、また憶良の作中のよいものである。
この反歌一首の意は、こう吾々は貧乏で世間が辛《つら》いの恥《はず》かしいのと云ったところで、所詮《しょせん》吾々は人間の赤裸々で、鳥ではないのだからして、何処ぞへ飛び去るわけにも行くまい、というのである。「やさし」は、恥かしいということで、「玉島のこの川上に家はあれど君を恥《やさ》しみ顕《あらは》さずありき」(巻五・八五四)にその例がある。この反歌も、長歌の方で、細かくいろいろと云ったから、概括的に締めくくったのだが、やはり貧乏人の言葉にして、その語気が出ているのでただの概念歌から脱却している。論語に、邦有レ道、貧且賤焉耻也とあり、魏文帝の詩に、願レ飛安ゾ得ンレ翼、欲レ済《ワタラント》河無レ梁《ハシ》とあるのも参考となり、憶良の長歌の句などには支那の出典を見出し得るのである。
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慰《なぐさ》むる心《こころ》はなしに雲隠《くもがく》り鳴《な》き往《ゆ》く鳥《とり》の哭《ね》のみし泣《な》かゆ 〔巻五・八九八〕 山上憶良
山上憶良の、「老身重病経レ年辛苦、及思二児等一歌七首長一首短六首」の短歌である。長歌の方は、人間には老・病の苦しみがあり、長い病に苦しんで、一層死のうとおもうことがあるけれども、児等のことを思えば、そうも行かずに歎息しているというのである。
この短歌は、そういう風に老・病のために苦しんで、慰めん手段もなく、雲隠れに貌《すがた》も見えず鳴いてゆく鳥の如く、ただ独りで忍び泣きしてばかりいる、というので、長歌の終に、「彼《か》に此《かく》に思ひわづらひ、哭《ね》のみし泣かゆ」と止めたのを、この短歌で繰返している。
このくらいの技巧の歌は、万葉には幾つもあるように思う程、取り立てて特色のあるものでないが、何か悲しい響があるようで棄て難かったのである。
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術《すべ》もなく苦《くる》しくあれば出《い》で走《はし》り去《い》ななと思《も》へど児等《こら》に障《さや》りぬ 〔巻五・八九九〕 山上憶良
同じく短歌。もう手段も尽き、苦しくて為方がないので、走り出して自殺でもしてしまおうと思うが、児等のために妨げられてそれも出来ない、というので、此は長歌の方で、「年長く病みし渡れば、月累《かさ》ね憂ひ吟《さまよ》ひ、ことごとは死ななと思へど、五月蠅《さばへ》なす騒ぐ児等を、棄《うつ》てては死《しに》は知らず、見つつあれば心は燃えぬ」云々というのが此短歌にも出ている。「障《さや》る」は、障礙《しょうがい》のことで、「百日《ももか》しも行かぬ松浦路《まつらぢ》今日行きて明日は来なむを何か障《さや》れる」(巻五・八七〇)にも用例がある。
この歌の好いのは、ただ概括的にいわずに、具体的に云っていることで、こういう場面になると、人麿にも無い人間の現実的な姿が現出して来るのである。「出ではしり去ななともへど」というあたりの、朴実とでも謂うような調べは、憶良の身に即《つ》き纏《まと》ったものとして尊重していいであろう。なお此処《ここ》に、「富人《とみびと》の家《いへ》の子等《こども》の着る身無《みな》み腐《くた》し棄つらむ絹綿らはも」(巻五・九〇〇)、「麁妙《あらたへ》の布衣《ぬのぎぬ》をだに着せ難《がて》に斯くや歎かむ為《せ》むすべを無み」(同・九〇一)という歌もあるが、これも具体的でおもしろい。そして、これだけの材料を扱いこなす意力をも、後代の吾等は尊重すべきである。この歌の「絹綿」は原文「※[#「糸+包」、U+2B0E0、上-188-1]綿」で、真綿の意であろうが、当時筑紫の真綿の珍重されたこと、また名産地であったことは沙弥満誓の歌のところで既に云ったとおりである。
憶良は娑婆界の貧・老・病の事を好んで歌って居り、どうしても憶良自身の体験のようであるが、筑前国司であった憶良が実際斯くの如く赤貧困窮であったか否か、自分には能く分からないが、自殺を強いられるほどそんなに貧窮ではなかったものと想像する。そして彼は彼の当時教えられた大陸の思想を、周辺の現実に引き移して、如上《じょじょう》の数々の歌を詠出したものとも想像している。
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稚《わか》ければ道行《みちゆ》き知《し》らじ幣《まひ》はせむ黄泉《したべ》の使《つかひ》負《お》ひて通《とほ》らせ 〔巻五・九〇五〕 山上憶良
「男子《をのこ》名は古日《ふるひ》を恋ふる歌」の短歌である。左注に此歌の作者が不明だが、歌柄から見て憶良だろうと云って居る。古日《ふるひ》という童子の死んだ時弔った歌であろう。そして憶良を作者と仮定しても、古日という童子は憶良の子であるのか他人の子であるのかも分からない。恐らく他人の子であろう。(普通には、古日は憶良の子で、この時憶良は七十歳ぐらいの老翁だと解せられている。なお土屋氏は、古日はコヒと読むのかも知れないと云って居る。)
一首の意は、死んで行くこの子は、未だ幼《おさな》い童子で、冥土《めいど》の道はよく分かっていない。冥土の番人よ、よい贈物をするから、どうぞこの子を背負って通してやって呉れよ、というのである。「幣《まひ》」は、「天にます月読壮子《つくよみをとこ》幣《まひ》はせむ今夜《こよひ》の長さ五百夜《いほよ》継ぎこそ」(巻六・九八五)、「たまぼこの道の神たち幣《まひ》はせむあが念ふ君をなつかしみせよ」(巻十七・四〇〇九)等にもある如く、神に奉る物も、人に贈る物も、悪い意味の貨賂《かろ》をも皆マヒと云った。
この一首は、童子の死を悲しむ歌だが、内容が複雑で、人麿の歌の内容の簡単なものなどとは余程その趣が違っている。然かも黄泉の道行をば、恰《あたか》も現実にでもあるかの如くに生々《なまなま》しく表現して居るところに、憶良の歌の強味がある。歌調がぼきりぼきりとして流動的波動的に行かないのは、一面はそういう素材如何にも因《よ》るのであって、こういう素材になれば、こういう歌調をおのずから要求するものともいうことが出来る。
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布施《ふせ》置《お》きて吾《われ》は乞《こ》ひ祷《の》む欺《あざむ》かず直《ただ》に率行《ゐゆ》きて天路《あまぢ》知《し》らしめ 〔巻五・九〇六〕 山上憶良
これも同じ歌で、「布施」は仏教語で、捧げ物の事だから、前の歌の、「幣」と同じ事に落着く。この歌も、童子の死にゆくさまを歌っているが、この方は黄泉でなく、天路のことを云っている。共に死者の往く道であるが、この方は稍《やや》日本的に云っている。初句原文「布施於吉弖」は旧訓フシオキテであるが、略解《りゃくげ》で、「布施はぬさと訓べし。又たゞちにふせとも訓べき也。こゝに乞《こひ》のむといへるは、仏に乞《こふ》にて、神に祷《いの》るとは事異なれば、幣《ヌサ》とはいはで、布施と言へる也。施をの誤として、ふしおき(臥起)てとよめるはひがこと也」と云った。いかにもその通りで、「伏し起きて」では意味を成さない。この歌もこれだけの複雑なことを云っていて、相当の情調をしみ出でさせるのは、先ず珍とせねばなるまい。
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山《やま》高《たか》み白木綿花《しらゆふはな》に落《お》ちたぎつ滝《たぎ》の河内《かふち》は見《み》れど飽《あ》かぬかも 〔巻六・九〇九〕 笠金村
元正《げんしょう》天皇、養老七年夏五月芳野離宮に行幸あった時、従駕の笠金村《かさのかなむら》が作った長歌の反歌である。「白木綿」は栲《たえ》、穀《かじ》(穀桑楮)の皮から作った白布、その白木綿《しらゆう》の如くに水の流れ落つる状態である。「河内《かふち》」は、河から繞《めぐ》らされている土地をいう。既に人麿の歌に、「たぎつ河内《かふち》に船出《ふなで》するかも」(巻一・三九)がある。また、「見れど飽かぬかも」という結句も、人麿の、「珠水激《いはばし》る滝の宮処《みやこ》は、見れど飽かぬかも」(巻一・三六)のほか、万葉には可なりある。
この一首は、従駕の作であるから、謹んで作っているので、その歌調もおのずから華朗《かろう》で荘重である。けれどもそれだけ類型的、図案的で、特に人麿の歌句の模倣なども目立つのである。併し、この朗々とした荘重な歌調は、人麿あたりから脈を引いて、一つの伝統的なものであり、万葉調といえば、直ちに此種のものを聯想し得る程であるから、後代の吾等は時を以て顧《かえりみ》るべき性質のものである。巻九(一七三六)に、「山高み白木綿花《しらゆふはな》に落ちたぎつ夏実《なつみ》の河門《かはと》見れど飽かぬかも」というのがあるのは、恐らく此歌の模倣であろうから、そうすれば金村のこの形式的な一首も、時に人の注意を牽《ひ》いたに相違ない。
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奥《おき》つ島《しま》荒磯《ありそ》の玉藻《たまも》潮《しほ》干満《ひみ》ちい隠《かく》れゆかば思《おも》ほえむかも 〔巻六・九一八〕 山部赤人
聖武《しょうむ》天皇、神亀《じんき》元年冬十月紀伊国に行幸せられた時、従駕の山部赤人の歌った長歌の反歌である。「沖つ島」は沖にある島の意で、此処は玉津島《たまつしま》のことである。
一首の意は、沖の島の荒磯に生えている玉藻刈もしたが、今に潮が満ちて来て荒磯が隠れてしまうなら、心残りがして、玉藻を恋しくおもうだろう、というのである。長歌の方で、「潮干れば玉藻苅りつつ、神代より然ぞ尊き、玉津島山」とあるのを受けている。
第四句、板本《はんぽん》、「伊隠去者」であるから、「い隠《かく》れゆかば」或は「い隠《かく》ろひなば」と訓んだが、元暦校本・金沢本・神田本等に、「※[#「にんべん+弖」、U+2B88F、上-192-12]隠去者」となっているから、「※[#「にんべん+弖」、U+2B88F、上-192-12]」を上につけて「潮干みちて隠《かく》ろひゆかば」とも訓んでいる。これは二つの訓とも尊重して味うことが出来る。
この歌は、中心は、「潮干満ちい隠れゆかば思ほえむかも」にあり、赤人的に清淡の調であるが、なかに情感が漂《ただよ》っていて佳い歌である。海の玉藻に対する係恋《けいれん》とも云うべきもので、「思ほえむかも」は、多くは恋人とか旧都などに対して用いる言葉であるが、この歌では「玉藻」に云っている。もっとも集中には、例えば、「飼飯《けひ》の浦に寄する白浪しくしくに妹が容儀《すがた》はおもほゆるかも」(巻十二・三二〇〇)、「飫宇海《おうのうみ》の河原の千鳥汝が鳴けばわが佐保河《さほかは》のおもほゆらくに」(巻三・三七一)の如きがあって、共通して使われている。行幸に供奉《ぐぶ》し、赤人は歌人としての意識を以てこの歌を作ったのだろうが、必ずしも「宮廷歌人」などという意図が目立たずに、自由に個人としての好みを吐露《とろ》しているようである。一般が自由でこだわりのなかった聖世を反映していると謂っていい。また、「宮廷歌人」などと云っても、現代の人々の持っている「宮廷歌人」の西洋まがいの概念と違った気持で供奉《ぐぶ》したことをも知らねばならぬのである。
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若《わか》の浦《うら》に潮《しほ》満《み》ち来《く》れば潟《かた》を無《な》み葦辺《あしべ》をさして鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る 〔巻六・九一九〕 山部赤人
赤人の歌続き。「若の浦」は今は和歌の浦と書くが、弱浜《わかはま》とも書いた(続紀)。また聖武天皇のこの行幸の時、明光の浦と命名せられた記事がある。「潟」は干潟《ひがた》の意である。
一首の意は、若の浦にだんだん潮が満ちて来て、干潟が無くなるから、干潟に集まっていた沢山の鶴が、葦の生えて居る陸の方に飛んで行く、というのである。
やはり此歌も清潔な感じのする赤人一流のもので、「葦べをさして鶴《たづ》鳴きわたる」は写象鮮明で旨いものである。また声調も流動的で、作者の気乗していることも想像するに難くはない。「潟をなみ」は、赤人の要求であっただろうが、微かな「理」が潜んでいて、もっと古いところの歌ならこうは云わない。例えば、既出の高市黒人作、「桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干《しほひ》にけらし鶴鳴きわたる」(巻三・二七一)の如きである。つまり「潟をなみ」の第三句が弱いのである。これはもはや時代的の差違であろう。この歌は、古来有名で、叙景歌の極地とも云われ、遂には男波・女波・片男波の聯想にまで拡大して通俗化せられたが、そういう俗説を洗い去って見て、依然として後にのこる歌である。万葉集を通読して来て、注意すべき歌に標《しるし》をつけるとしたら、従来の評判などを全く知らずにいるとしても、標のつかる性質のものである。一般にいってもそういういいところが赤人の歌に存じているのである。ただこの歌に先行したのに、黒人の歌があるから黒人の影響乃至模倣ということを否定するわけには行かない。
巻十五に、「鶴が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづし独《ひとり》さ寝《ぬ》れば」(三六二六)、「沖辺より潮満ち来らし韓《から》の浦に求食《あさ》りする鶴鳴きて騒ぎぬ」(三六四二)等の歌があり、共に赤人の此歌の模倣であるから、その頃から此歌は尊敬せられていたのであろう。
なお、「難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴《たづ》わたる見ゆ」(巻七・一一六〇)、「円方《まとかた》の湊の渚鳥《すどり》浪立てや妻呼び立てて辺《へ》に近づくも」(同・一一六二)、「夕なぎにあさりする鶴《たづ》潮満てば沖浪《おきなみ》高み己妻《おのづま》喚《よ》ばふ」(同・一一六五)というのもあり、赤人の此歌と共に置いて味ってよい歌である。特に、「妻呼びたてて辺に近づくも」、「沖浪高み己妻喚《よ》ばふ」の句は、なかなか佳いものだから看過《かんか》しない方がよいとおもう。
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み芳野《よしぬ》の象山《きさやま》の際《ま》の木末《こぬれ》には幾許《ここだ》も騒《さわ》ぐ鳥《とり》のこゑかも 〔巻六・九二四〕 山部赤人
聖武天皇神亀二年夏五月、芳野離宮に行幸の時、山部赤人の作ったものである。「象山《きさやま》」は芳野離宮の近くにある山で、「際《ま》」は「間《ま》」で、間《あいだ》とか中《なか》とかいう意味になる。「奈良の山の山の際《ま》にい隠るまで」(巻一・一七)という額田王の歌の「山の際」も奈良山の連なって居る間にという意。此処では、象山の中に立ち繁っている樹木というのに落着く。
一首の意は、芳野の象山の木立の繁みには、実に沢山の鳥が鳴いて居る、というので、中味は単純であるが、それだけ此処に出ている中味が磨《みがき》をかけられて光彩を放つに至っている。この歌も前の歌の如く下半に中心が置かれ、「ここだも騒ぐ鳥の声かも」に作歌衝迫《しょうはく》もおのずから集注せられている。この光景に相対《あいたい》したと仮定して見ても、「ここだも騒ぐ鳥の声かも」とだけに云い切れないから、此歌はやはり優れた歌で、亡友島木赤彦も力説した如く、赤人傑作の一つであろう。「幾許《ここだ》」という副詞も注意すべきもので、集中、「神柄《かむから》か幾許《ここだ》尊き」(巻二・二二〇)「妹が家《へ》に雪かも降ると見るまでに幾許《ここだ》もまがふ梅の花かも」(巻五・八四四)、「誰《た》が苑《その》の梅の花かも久方の清き月夜《つくよ》に幾許《ここだ》散り来る」(巻十・二三二五)等の例がある。この赤人の「幾許も騒ぐ」は、主に群鳥の声であるが、鳥の姿も見えていてかまわぬし、若干の鳥の飛んで見える方が却っていいかも知れない。また、結句の「かも」であるが、名詞から続く「かも」を据えるのはむずかしいのだけれども、この歌では、「ここだも騒ぐ」に続けたから声調が完備した。そういう点でも赤人の大きい歌人であることが分かる。
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ぬばたまの夜《よ》の深《ふ》けぬれば久木《ひさき》生《お》ふる清《きよ》き河原《かはら》に千鳥《ちどり》しば鳴《な》く 〔巻六・九二五〕 山部赤人
赤人作で前歌と同時の作である。「久木」は即ち歴木、楸《しゅう》樹で赤目柏《あかめがしわ》である。夏、黄緑の花が咲く。一首の意は、夜が更けわたると楸樹《ひさぎ》の立ちしげっている、景色よい芳野川の川原に、千鳥が頻《しき》りに鳴いて居る、というのである。
この歌は夜景で、千鳥の鳴声がその中心をなしているが、今度の行幸に際して見聞した、芳野のいろいろの事が念中にあるので、それが一首の要素にもなって居る。「久木生ふる清き河原」の句も、現にその光景を見ているのでなくともよく、写象として浮んだものであろう。或は月明の川原とも解し得る、それは「清き」の字で補充したのであるが、月の事がなければやはりこの「清き」は川原一帯の佳景という意味にとる方がいいようである。併しこの歌は、そういう詮議《せんぎ》を必要としない程統一せられていて、読者は左程《さほど》解釈上思い悩むことが無くて済んでいるのは、視覚も聴覚も融合した、一つの感じで無理なく綜合《そうごう》せられて居るからである。或は、この歌は、深夜の千鳥の声だけでは物足りないのかも知れない。「久木生ふる清き河原」という、視覚上の要素が却って必要なのかも知れない。その辺の解明が能く私に出来ないけれども、全体として、感銘の新鮮な歌で、供奉歌人の歌として、人麿の、「見れど飽かぬ吉野《よしぬ》の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなくまたかへり見む」(巻一・三七)とも比較が出来るし、また、笠金村《かさのかなむら》とも同行したのだから、金村の、「万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ」(巻六・九二一)、「皆人の寿《いのち》も吾《われ》もみ吉野の滝の床磐《とこは》の常ならぬかも」(同・九二二)の二首とも比較することが出来る。比較して見ると、赤人の歌の方が具体的で、落着いて写生している。なお、声調のうち、第三句の「久木生ふる」という伸びた句と、結句の「しば鳴く」と端的に止めたのを注意していいだろう。
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島隠《しまがく》り吾《わ》が榜《こ》ぎ来《く》れば羨《とも》しかも大和《やまと》へのぼる真熊野《まくまぬ》の船《ふね》 〔巻六・九四四〕 山部赤人
山部赤人が、辛荷《からに》島を過ぎて詠んだ長歌の反歌である。辛荷島は播磨国室津の沖にある島である。一首の意は、島かげを舟に乗って榜《こ》いで来ると、羨《うらやま》しいことには、大和へのぼる熊野の舟が見える、というので、旅にいて家郷の大和をおもうのは、今から見ればただの常套《じょうとう》手段のように見えるが、当時の人には、そういう常套語が、既に一種の感動を伴って聞こえて来たものと見える。「真熊野の舟」は、熊野舟で、熊野の海で多く乗ったものであろう。攷證に、「紀州熊野は良材多かる所なれば、その材もて作りたるよしの謂《いひ》か。さればそれを本にて、いづくにて作れるをも、それに似たるをば熊野舟といふならん。集中、松浦船《まつらぶね》・伊豆手船《いづてぶね》・足柄小船《あしがらをぶね》などいふあるも、みなこの類とすべし」とあり、「浦回《うらみ》榜ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし」(巻十二・三一七二)の例がある。「羨しかも」は、「羨しきかも」と同じだが当時は終止言からも直ぐ続けた。結句は、「真熊野の船」という名詞止めで、「棚無し小船」などの止めと同じだが、「の」が入っているので、それだけの落着《おちつき》がある。第三句の、「羨しかも」は小休止があるので、前の歌の「潟を無み」などと同様、幾らか此処で弛《たる》むが、これは赤人的手法の一つの傾向かも知れない。一首は、|旅《きりょ》の寂しい情を籠《こ》めつつ、赤人的諧調音で統一せられた佳作である。この時の歌に、「玉藻苅る辛荷の島に島回《しまみ》する鵜《う》にしもあれや家思《も》はざらむ」(巻六・九四三)というのがある。これは若し鵜ででもあったら、家の事をおもわずに済むだろう、というので「羨しかも」という気持と相通じている。鵜を捉《とら》えて詠んでいるのは写生でおもしろい。
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風《かぜ》吹《ふ》けば浪《なみ》か立《た》たむと伺候《さもらひ》に都多《つた》の細江《ほそえ》に浦《うら》隠《がく》り居《を》り 〔巻六・九四五〕 山部赤人
赤人作で前歌の続である。「都多《つた》の細江」は姫路から西南、現在の津田・細江あたりで、船場川《せんばがわ》の川口になっている。当時はなるべく陸近く舟行《しゅうこう》し、少し風が荒いと船を泊《と》めたので、こういう歌がある。一首の意は、この風で浪が荒く立つだろうと、心配して様子を見ながら、都多《つた》の川口のところに船を寄せて隠れておる、というのである。第三句、原文「伺候爾」は、旧訓マツホドニ。代匠記サモラフニ。古義サモラヒニ。この「さもらふ」は、「東の滝の御門にさもらへど」(巻二・一八四)の如く、伺候する意が本だが、転じて様子を伺うこととなった。「大御舟《おほみふね》泊《は》ててさもらふ高島の三尾《みを》の勝野《かちぬ》の渚《なぎさ》し思ほゆ」(巻七・一一七一)、「朝なぎに舳《へ》向け榜《こ》がむと、さもらふと」(巻二十・四三九八)等の例がある。
この歌も、|旅《きりょ》の苦しみを念頭に置いているようだが、そういう響はなくて、寧ろ清淡とも謂うべき情調がにじみ出でている。ことに結句の、「浦隠り居り」などは、なかなか落着いた句である。そして読過のすえに眼前に光景の鮮かに浮んで来る特徴は赤人一流のもので、古来赤人を以て叙景歌人の最大なものと称したのも偶然ではないのである。吾等は短歌を広義抒情詩と見立てるから、叙景・抒情をば截然《せつぜん》と区別しないが、総じて赤人のものには、激越性が無く、静かに落着いて、物を観《み》ている点を、後代の吾等は学んでいるのである。
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ますらをと思《おも》へる吾《われ》や水茎《みづくき》の水城《みづき》のうへに涕《なみだ》拭《のご》はむ 〔巻六・九六八〕 大伴旅人
大伴旅人が大納言に兼任して、京に上る時、多勢の見送人の中に児島《こじま》という遊行女婦《うかれめ》が居た。旅人が馬を水城《みずき》(貯水池の大きな堤)に駐《と》めて、皆と別を惜しんだ時に、児島は、「凡《おほ》ならば左《か》も右《か》も為《せ》むを恐《かしこ》みと振りたき袖を忍《しぬ》びてあるかも」(巻六・九六五)、「大和道《やまとぢ》は雲隠《くもがく》りたり然れども我が振る袖を無礼《なめし》と思ふな」(同・九六六)という歌を贈った。それに旅人の和《こた》えた二首中の一首である。
一首の意は、大丈夫《ますらお》だと自任していたこの俺《おれ》も、お前との別離が悲しく、此処《ここ》の〔水茎の〕(枕詞)水城《みずき》のうえに、涙を落すのだ、というのである。
児島の歌も、軽佻《けいちょう》でないが、旅人の歌もしんみりしていて、決して軽佻なものではない。「涙のごはむ」の一句、今の常識から行けば、諧謔《かいぎゃく》を交《まじ》えた誇張と取るかも知れないが、実際はそうでないのかも知れない、少くとも調べの上では戯れではない。「大丈夫《ますらお》とおもへる吾や」はその頃の常套語で軽いといえば軽いものである。当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目《まじめ》にその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である。
「真袖もち涙を拭《のご》ひ、咽《むせ》びつつ言問《ことどひ》すれば」(巻二十・四三九八)のほか、「庭たづみ流るる涙とめぞかねつる」(巻二・一七八)、「白雲に涙は尽きぬ」(巻八・一五二〇)等の例がある。
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千万《ちよろづ》の軍《いくさ》なりとも言挙《ことあげ》せず取《と》りて来《き》ぬべき男《をのこ》とぞ念《おも》ふ 〔巻六・九七二〕 高橋虫麿
天平《てんぴょう》四年八月、藤原宇合《うまかい》(不比等の子)が西海道節度使《さいかいどうのせつどし》(兵馬の政を掌《つかさど》る)になって赴任する時、高橋虫麿《たかはしのむしまろ》の詠んだものである。「言挙せず」は、「神ながら言挙せぬ国」(巻十三・三二五三)、「言挙せず妹に依り寝む」(巻十二・二九一八)等の例にもある如く、彼此《かれこれ》と言葉に出していわないことである。
一首の意は、縦《たと》い千万の軍勢なりとも、彼此と言葉に云わずに、前触《まえぶれ》などせずに、直ちに討取って来る武将だとおもう、君は、というので、威勢をつけて行を盛《さかん》にしたものである。虫麿の此処の長歌も技法に屈折のあるものだが、虫麿歌集の長歌にもなかなか佳作があって、作者の力量をおもわしめるが、この短歌一首も、調べを強く緊《し》めて、武将を送るにふさわしい声調を出している。彼此いっても、この万葉調がもはや吾等には出来ない。
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丈夫《ますらを》の行くとふ道ぞ凡《おほ》ろかに念《おも》ひて行《ゆ》くな丈夫《ますらを》の伴《とも》 〔巻六・九七四〕 聖武天皇
聖武天皇御製。天平四年八月、節度使の制を東海・東山・山陰・西海の四道に布《し》いた。聖武天皇が其等の節度使等が任に赴《おもむ》く時に、酒を賜わり、この御製を作りたもうた。その長歌の反歌である。
一首は、今出で立つ汝等節度使の任は、まさに大丈夫の行くべき行旅である。ゆめおろそかに思うな、大丈夫の汝等よ、と宣うので、功をおさめて早く帰れという大御心が含まれている。「行くとふ」の「とふ」は「といふ」で、天地のことわりとして人のいう意である。「おほろかに」は、おおよそに、軽々しく、平凡にぐらいの意で、「百種《ももくさ》の言《こと》ぞ隠《こも》れるおほろかにすな」(巻八・一四五六)、「おほろかに吾し思はば斯くばかり難き御門《みかど》を退《まか》り出《で》めやも」(巻十一・二五六八)等の例がある。御製は、調べ大きく高く、御慈愛に満ちて、闊達《かったつ》至極のものと拝誦し奉る。「大君の辺にこそ死なめ」の語のおのずからにして口を漏るるは、国民の自然のこえだということを念《おも》わねばならぬ。短歌はかくの如くであるが、長歌は、「食国《をすくに》の遠《とほ》の御朝廷《みかど》に、汝等《いましら》が斯《か》く罷《まか》りなば、平らけく吾は遊ばむ、手抱《たうだ》きて我は御在《いま》さむ、天皇《すめら》朕《わ》がうづの御手《みて》もち、掻撫《かきな》でぞ労《ね》ぎたまふ、うち撫でぞ労《ね》ぎたまふ、還《かへ》り来む日相《あい》飲《の》まむ酒《き》ぞ、この豊御酒《とよみき》は」というのであり、「平らけく吾は遊ばむ、手抱きて我はいまさむ」とは、慈愛遍照《へんしょう》する現神《あきつかみ》のみ声である。
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士《をのこ》やも空《むな》しかるべき万代《よろづよ》に語《かた》りつぐべき名《な》は立《た》てずして 〔巻六・九七八〕 山上憶良
山上憶良の痾《やまい》に沈《しず》める時の歌一首で、巻五の、沈痾自哀文と思二子等一歌は、天平五年六月の作であるから、此短歌一首もその時作ったものであろう。また此歌の左注に、憶良が病んだ時、藤原朝臣八束《ふじわらのあそみやつか》(藤原真楯《またて》)が、河辺朝臣東人《あずまびと》を使として病を問わしめた、その時の作だとある。
一首の意は、大丈夫たるものは、万代の後まで語り伝えられるような功名もせず、空しく此世を終るべきであろうか、というので、名も遂げずに此儘《このまま》死するのは残念だという意である。憶良は渡海して支那文化に直接接したから、此思想も彼には身に即《つ》いていて切実なものであったに相違ない。そこで此一首の調べも、重厚で、浮々していないし、また憶良の歌にしては連続流動的声調を持っているが、ただ後代の吾等にとっては稍大づかみに響くというだけである。結句原文、「名者不立之而」は旧訓ナハ・タタズシテであったのを、古義でナハ・タテズシテと訓んだ。旧訓の方が古調のようである。
巻十九に、大伴家持が此歌に追和した長歌と短歌が載っている。長歌の方に、「あしひきの八峯《やつを》踏み越え、さしまくる情《こころ》障《さや》らず、後代《のちのよ》の語りつぐべく、名を立つべしも」(四一六四)とあり、短歌の方に、「丈夫《ますらを》は名をし立つべし後の代に聞き継ぐ人も語りつぐがね」(四一六五)とある。家持は憶良の此一首をも尊敬していたことが分かる。
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振仰《ふりさ》けて若月《みかづき》見《み》れば一目《ひとめ》見《み》し人《ひと》の眉引《まよびき》おもほゆるかも 〔巻六・九九四〕 大伴家持
大伴家持の作った、初月《みかづき》の歌である。大伴家持の年代の明かな歌中、最も早期のもので、家持十六歳ぐらいの時だろうといわれている。「眉引《まよびき》」は眉墨を以て眉を画くことで、薬師寺所蔵の吉祥天女、或は正倉院御蔵の樹下美人などの眉の如き最も具体的な例である。書紀仲哀巻に、譬如二美女之※[#「目+碌のつくり」、U+7769、上-205-3]一、有二向津国一。※[#「目+碌のつくり」、U+7769、上-205-3]、此云二麻用弭枳《マヨビキ》一。古事記中巻、応神天皇御製歌に、麻用賀岐許邇加岐多礼《マヨカキコニカキタレ》、和名鈔《わみょうしょう》容飾具に、黛、和名万由須美《マユスミ》。集中の例は、「おもはぬに到らば妹が嬉しみと笑《ゑ》まむ眉引《まよびき》おもほゆるかも」(巻十一・二五四六)、「我妹子が笑まひ眉引《まよびき》面影にかかりてもとな思ほゆるかも」(巻十二・二九〇〇)等がある。
一首の意は、三日月を仰ぎ見ると、ただ一目見た美人の眉引のようである、というので、少年向きの美しい歌である。併し家持は少年にして斯く流暢《りゅうちょう》な歌調を実行し得たのであるから、歌が好きで、先輩の作や古歌の数々を勉強していたものであろう。この歌で、「一目見し」に家持は興味を持っている如くであるが、「一目見し人に恋ふらく天霧《あまぎ》らし零《ふ》り来る雪の消《け》ぬべく念ほゆ」(巻十・二三四〇)、「花ぐはし葦垣《あしがき》越《ご》しにただ一目相見し児ゆゑ千たび歎きつ」(巻十一・二五六五)等の例が若干ある。家持の歌は、斯く美しく、覚官的でもあるが、彼の歌には、なお、「なでしこが花見る毎に処女らが笑《ゑま》ひのにほひ思ほゆるかも」(巻十八・四一一四)、「秋風に靡《なび》く川びの柔草《にこぐさ》のにこよかにしも思ほゆるかも」(巻二十・四三〇九)の如き歌をも作っている。「笑《ゑま》ひのにほひ」は青年の体に即《つ》いた語でなかなか旨《うま》いところがある。併し此等の歌を以て、万葉最上級の歌と伍《ご》せしめるのはいかがとも思うが、万葉鑑賞にはこういう歌をもまた通過せねばならぬのである。
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御民《みたみ》われ生《い》ける験《しるし》あり天地《あめつち》の栄《さか》ゆる時《とき》に遇《あ》へらく念《おも》へば 〔巻六・九九六〕 海犬養岡麿
天平《てんぴょう》六年、海犬養岡麿《あまのいぬかいのおかまろ》が詔に応《こた》えまつった歌である。一首の意は、天皇の御民である私等は、この天地と共に栄ゆる盛大の御世に遭遇《そうぐう》して、何という生《い》き甲斐《がい》のあることであろう、というのである。「験《しるし》」は効験、結果、甲斐等の意味に落着く。「天ざかる鄙《ひな》の奴《やつこ》に天人《あめびと》し斯《か》く恋すらば生ける験《しるし》あり」(巻十八・四〇八二)という家持の用例もある。一首は応詔歌であるから、謹んで歌い、荘厳の気を漲《みなぎ》らしめている。そして斯く思想的大観的に歌うのは、此時代の歌には時々見当るのであって、その恩想を統一して一首の声調を完《まっと》うするだけの力量がまだこの時代の歌人にはあった。それが万葉を離れるともはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみを辛《かろ》うじて作るに止《とどま》る状態となった。此の歌などは、万葉としては後期に属するのだが、聖武《しょうむ》の盛世《せいせい》にあって、歌人等も競《きそ》い勉《つと》めたために、人麿調の復活ともなり、かかる歌も作らるるに至った。
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児等《こら》しあらば二人《ふたり》聞《き》かむを沖《おき》つ渚《す》に鳴《な》くなる鶴《たづ》の暁《あかとき》の声《こゑ》 〔巻六・一〇〇〇〕 守部王
聖武天皇天平六年春三月、難波宮《なにわのみや》に行幸あった時、諸人が歌を作った。此一首は守部王《もりべのおおきみ》(舎人親王《とねりのみこ》の御子)の歌である。一首は、若《も》し奈良に残して来た嬬《つま》も一しょなら、二人で聞くものを、沖の渚《なぎさ》に鳴いて居る鶴の暁のこえよ、何とも云えぬ佳《よ》い声よ、という程の歌である。なぜ私は此一首を選んだかというに、特に集中で秀歌というのでなく、結句が「鳴くなる鶴《たづ》の暁《あかとき》のこゑ」の如く名詞止めであるのみならず、後世新古今時代に発達した、名詞止めの歌調が此歌に既にあって、新古今調と違った、重厚なゆらぎを有《も》っているのに目を留めたゆえであった。なお、巻十九(四一四三)に、「もののふの八十《やそ》をとめ等が|《く》みまがふ寺井《てらゐ》のうへの堅香子《かたかご》の花」、巻十九(四一九三)に、「ほととぎす鳴く羽触《はぶり》にも散りにけり盛過ぐらし藤浪の花」という歌の結句も、上代の古調歌には無い名詞止めの歌である。
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春日山《かすがやま》おして照《て》らせるこの月《つき》は妹《いも》が庭《には》にも清《さや》けかりけり 〔巻七・一〇七四〕 作者不詳
作者不詳、雑歌、詠レ月である。一首の意は、春日山一帯を照らして居る今夜の月は、妹《いも》の庭にもまた清《きよ》く照って居る、というのである。作者は現在通《かよ》って来た妹の家に居る趣で、春日山の方は一般の月明(通《かよ》って来る道すがら見た)を云っているのである。ただ妹の家は春日山の見える処にあったことは想像し得る。伸々《のびのび》とした濁りの無い快い歌で、作者不明の民謡風のものだが、一定の個人を想像しても相当に味われるものである。やはり、「妹が庭にも清けかりけり」という句が具体的で生きているからであろう。
「この月」は、現に照っている今夜の月という意味で、此巻に、「常は嘗《かつ》て念はぬものをこの月の過ぎ隠れまく惜しき宵《よひ》かも」(一〇六九)、「この月の此処に来《きた》れば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ」(一〇七八)があり、巻三に、「世の中は空《むな》しきものとあらむとぞこの照る月は満ち闕《か》けしける」(四四二)がある。「おして照らせる」の表現も万葉調の佳いところで、「我が屋戸《やど》に月おし照れりほととぎす心あらば今夜《こよひ》来鳴き響《とよ》もせ」(巻八・一四八〇)、「窓越しに月おし照りてあしひきの嵐《あらし》吹く夜は君をしぞ思ふ」(巻十一・二六七九)等の例がある。此歌で、「この月は」と、「妹が庭にも」との関係に疑う人があったため、古義のように、「妹が庭にも清《さや》けかるらし」の意だろうというように解釈する説も出でたが、これは作者の位置を考えなかった錯誤《さくご》である。
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海原《うなばら》の道《みち》遠《とほ》みかも月読《つくよみ》の明《あかり》すくなき夜《よ》はふけにつつ 〔巻七・一〇七五〕 作者不詳
作者不詳、海岸にいて、夜更《よふけ》にのぼった月を見ると、光が清明でなく幾らか霞《かす》んでいるように見える。それをば、海上遙かなために、月も能《よ》く光らないと云うように、作者が感じたから、斯《こ》ういう表現を取ったものであろう。巻三(二九〇)に、「倉橋の山を高みか夜《よ》ごもりに出で来る月の光ともしき」とあるのも全体が似て居るが、この巻七の歌の方が、何となく稚《おさな》く素朴に出来ている。それだけ常識的でなく、却って深みを添えているのだが、常識的には理窟に合わぬところがあると見えて、解釈上の異見もあったのである。
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痛足河《あなしがは》河浪《かはなみ》立《た》ちぬ巻目《まきむく》の由槻《ゆつき》が岳《たけ》に雲居《くもゐ》立《た》てるらし 〔巻七・一〇八七〕 柿本人麿歌集
柿本人麿歌集にある歌で、詠雲《くもをよめる》の中に収められている。痛足河《あなしがわ》は、大和磯城郡纏向《まきむく》村にあり、纏向山(巻向山)と三輪山との間に源《みなもと》を発し、西流している川で今は巻向川と云っているが、当時は痛足《あなし》川とも云っただろう。近くに穴師《あなし》(痛足)の里がある。由槻《ゆつき》が岳《たけ》は巻向山の高い一峰だというのが大体間違ない。一首の意は、痛足河に河浪が強く立っている。恐らく巻向山の一峰である由槻が岳に、雲が立ち雨も降っていると見える、というので、既に由槻が岳に雲霧の去来しているのが見える趣《おもむき》である。強く荒々しい歌調が、自然の動運をさながらに象徴すると看《み》ていい。第二句に、「立ちぬ」、結句に「立てるらし」と云っても、別に耳障《みみざわ》りしないのみならず、一首に三つも固有名詞を入れている点なども、大胆《だいたん》なわざだが、作者はただ心の儘《まま》にそれを実行して毫《ごう》もこだわることがない。そしてこの単純な内容をば、荘重な響を以て統一している点は実に驚くべきで、恐らくこの一首は人麿自身の作だろうと推測することが出来る。結句、原文「雲居立有良志」だから、クモヰタテルラシと訓んだが、「有」の無い古鈔本もあり、従ってクモヰタツラシとも訓まれている。この訓もなかなか好いから、認容して鑑賞してかまわない。
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あしひきの山河《やまがは》の瀬《せ》の響《な》るなべに弓月《ゆつき》が岳《たけ》に雲《くも》立《た》ち渡《わた》る 〔巻七・一〇八八〕 柿本人麿歌集
同じく柿本人麿歌集にある。一首の意は、近くの痛足《あなし》川に水嵩《みずかさ》が増して瀬の音が高く聞こえている。すると、向うの巻向《まきむく》の由槻《ゆつき》が岳《たけ》に雲が湧《わ》いて盛に動いている、というので、二つの天然現象を「なべに」で結んでいる。「なべに」は、と共に、に連《つ》れて、などの意で、「雁がねの声聞くなべに明日《あす》よりは春日《かすが》の山はもみぢ始《そ》めなむ」(巻十・二一九五)、「もみぢ葉を散らす時雨《しぐれ》の零《ふ》るなべに夜《よ》さへぞ寒き一人し寝《ぬ》れば」(巻十・二二三七)等の例がある。
この歌もなかなか大きな歌だが、天然現象が、そういう荒々しい強い相として現出しているのを、その儘さながらに表現したのが、写生の極致ともいうべき優《すぐ》れた歌を成就《じょうじゅ》したのである。なお、技術上から分析すると、上の句で、「の」音を続けて、連続的・流動的に云いくだして来て、下の句で「ユツキガタケニ」と屈折せしめ、結句を四三調で止めて居る。ことに「ワタル」という音で止めて居るが、そういうところにいろいろ留意しつつ味うと、作歌稽古《けいこ》上にも有益を覚えるのである。次に、此歌は河の瀬の鳴る音と、山に雲の動いている現象とを詠んだものだが、或は風もあり雨も降っていたかも知れぬ。併し其風雨の事は字面には無いから、これは奥に隠して置いて味う方が好いようである。そういう事をいろいろ詮議《せんぎ》すると却って一首の気勢を損ずることがあるし、この歌の季《き》についても亦同様であって、夏なら夏と極《き》めてしまわぬ方が好いようである。この歌も人麿歌集出だが恐らく人麿自身の作であろう。巻九(一七〇〇)に、「秋風に山吹の瀬の響《とよ》むなべ天雲《あまぐも》翔《がけ》る雁に逢へるかも」とあって、やはり人麿歌集にある歌だから、これも人麿自身の作で、上の句の同一手法もそのためだと解釈することが出来る。
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大海《おほうみ》に島《しま》もあらなくに海原《うなばら》のたゆたふ浪《なみ》に立《た》てる白雲《しらくも》 〔巻七・一〇八九〕 作者不詳
作者不明だが、「伊勢に駕《が》に従へる作」という左注がある。代匠記に、「持統天皇朱鳥六年ノ御供ナリ」と云ったが、或はそうかも知れない。一首の意は、大海《だいかい》のうえには島一つ見えない、そして漂動《ひょうどう》している波には、白雲が立っている、というので、「たゆたふ」は、進行せずに一処に猶予している気持だから、海上の波を形容するには適当であり、第一その音調が無類に適当している。それから、「あらなくに」は、「無いのに」という意で、其処に感慨をこもらせているのだが、そう口訳すると、理に堕《お》ちて邪魔するところがあるから、今の口語ならば、「島も見えず」、「島も無くして」ぐらいでいいとおもう。つまり、島一つ無いというのが珍らしく、其処に感動が籠《こも》っているので、「なくに」が、「立てる白雲」に直接続くのではない。若し関聯せしめるとせば、普段《ふだん》大和で山岳にばかり雲の立つのを見ていたのだから、海上のこの異様の光景に接して、その儘、「大海に島もあらなくに」と云ったと解することも出来る。調子に流動的に大きいところがあって、藤原朝の人麿の歌などに感ずると同じような感じを覚える。ウナバラノ・タユタフ・ナミニあたりに、明かにその特色が見えている。普通従駕《じゅうが》の人でなおこの調《しらべ》をなす人がいたというのは、まことに尊敬すべきことである。
「見まく欲《ほ》り吾がする君もあらなくに奈何《なにし》か来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)、「磯の上に生ふる馬酔木《あしび》を手折《たを》らめど見すべき君がありといはなくに」(同・一六六)、「かくしてやなほや老いなむみ雪ふる大あらき野の小竹《しぬ》にあらなくに」(巻七・一三四九)等、例が多い。皆、この「あらなくに」のところに感慨がこもっている
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御室《みもろ》斎《つ》く三輪山《みわやま》見《み》れば隠口《こもりく》の初瀬《はつせ》の檜原《ひはら》おもほゆるかも 〔巻七・一〇九五〕 作者不詳
山を詠んだ、作者不詳の歌である。「御室《みもろ》斎《つ》く」は、御室《みむろ》に斎《いつ》くの意で、神を祀《まつ》ってあることであり、三輪山の枕詞となった。「隠口《こもりく》」は、隠《こも》り国《くに》の意で、初瀬の地勢をあらわしたものだが、初瀬の枕詞となった。一首の意は、神を斎《いつ》き祀《まつ》ってある奥深い三輪山の檜原《ひはら》を見ると、谿谷《けいこく》ふかく同じく繁っておる初瀬の檜原をおもい出す、というので、三輪の檜原、初瀬の檜原といって、檜樹の密林が欝蒼《うっそう》として居り、当時の人の尊崇していたものと見える。上の句と下の句との聯絡が、「おもほゆるかも」で収めてあるのは、古代人的に素朴簡浄で誠によいものである。なお此種《このしゅ》の簡潔に山を詠んだ歌は幾つかあるが、いまは此一首を以て代表せしめた。
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ぬばたまの夜《よる》さり来《く》れば巻向《まきむく》の川音《かはと》高《たか》しも嵐《あらし》かも疾《と》き 〔巻七・一一〇一〕 柿本人麿歌集
柿本人麿歌集にある、詠メルレ河ヲ歌である。一首の意は、夜になると、巻向川の川音が高く聞こえるが、多分嵐が強いかも知れん、というので、内容極めて単純だが、この歌も前の歌同様、流動的で強い歌である。無理なくありの儘に歌われているが、無理が無いといっても、「ぬばたまの夜《よる》さりくれば」が一段、「巻向の川音高しも」が一段、共に伸々とした調《しらべ》であるが、結句の、「嵐かも疾き」は、強く緊《し》まって、厳密とでもいうべき語句である。おわりが二音で終った結句は、万葉にも珍らしく、「独りかも寝む」(巻三・二九八等)、「あやにかも寝も」(巻二十・四四二二)、「な踏みそね惜し」(巻十九・四二八五)、「高円の野ぞ」(巻二十・四二九七)、「実の光《て》るも見む」(巻十九・四二二六)、「御船《みふね》かも彼《かれ》」(巻十八・四〇四五)、「櫛造る刀自《とじ》」(巻十六・三八三二)、「やどりする君」(巻十五・三六八八)等は、類似のものとして拾うことが出来る。この歌も前の歌と共通した特徴があって、人麿を彷彿《ほうふつ》せしむるものである。
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いにしへにありけむ人《ひと》も吾《わ》が如《ごと》か三輪《みわ》の檜原《ひはら》に|頭《かざし》折《を》りけむ 〔巻七・一一一八〕 柿本人麿歌集
詠メルレ葉ヲ歌、人麿歌集にある。一首の意は、古人も亦、今の吾のように、三輪山の檜原に入来《いりき》て、|頭《かざし》を折っただろう、というので、品佳く情味ある歌である。巻二(一九六)の人麿の歌に、「春べは花折り|
頭《かざし》し、秋たてば黄葉《もみぢば》|
頭《かざ》し」とある如く、梅も桜も萩も瞿麦《なでしこ》も山吹も柳も藤も
頭にしたが、檜も梨もその小枝を
頭にしたものと見える。詠レ葉とことわっていても、題詠でなく、広義の恋愛歌として、象徴的に歌ったものであろう。人麿の歌に、「古にありけむ人も吾が如《ごと》か妹《いも》に恋ひつつ宿《い》ねがてずけむ」(巻四・四九七)というのがある。さすれば此は伝誦の際に民謡風に変化したものか、或は人麿が二ざまに作ったものか、いずれにしても、二つ並べつつ鑑賞して好い歌である。
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山《やま》の際《ま》に渡《わた》る秋沙《あきさ》の行《ゆ》きて居《ゐ》むその河《かは》の瀬《せ》に浪《なみ》立《た》つなゆめ 〔巻七・一一二二〕 作者不詳
詠メルレ鳥ヲ、作者不明。「秋沙《あきさ》」は、鴨の一種で普通秋沙鴨《あいさがも》、小鴨《こがも》などと云っている。一首の意は、山のあいを今飛んで行く秋沙鴨が、何処かの川に宿るだろうから、その川に浪立たずに呉れ、というので、不思議に象徴的な匂いのする歌である。作者はほんのりと恋愛情調を以て詠んだのだろうが、情味が秋沙鴨に対する情味にまでなっている。これならば近代人にも直ぐ受納《うけい》れられる感味で、万葉にはこういう歌もあるのである。「行きて居《ゐ》む」の句を特に自分は好んでいる。「明日香《あすか》川七瀬《ななせ》の淀《よど》に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ」(巻七・一三六六)は、寄スルレ鳥ニの譬喩歌《ひゆか》だから、此歌とは違うが、譬喩は譬喩らしくいいところがある。
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宇治川《うぢがは》を船《ふね》渡《わた》せをと喚《よ》ばへども聞《きこ》えざるらし楫《かぢ》の音《と》もせず 〔巻七・一一三八〕 作者不詳
「山背《やましろ》にて作れる」歌の一首である。「渡せを」の「を」は呼びかける時、命令形に附く助詞で、「よ」に通う。一首は、宇治河の岸に来て、船を渡せと呼ぶけれども、呼ぶのが聞こえないらしい、榜《こ》いで来る櫂《かい》の音がしない、というので、多分夜の景であろうが、宇治の急流を前にして、規模の大きいような、寂しいような変な気持を起させる歌である。これは、「喚ばへども聞《きこ》えざるらし」のところにその主点があるためである。
なお此歌の処に、「宇治河は淀瀬《よどせ》無からし網代人《あじろびと》舟呼ばふ声をちこち聞ゆ」(巻七・一一三五)、「千早人《ちはやびと》宇治川浪を清みかも旅《たび》行《ゆ》く人の立ち難《がて》にする」(同・一一三九)等の歌もある。網代人は網代の番をする人。千早《ちはや》人は氏《うじ》に続き、同音の宇治《うじ》に続く枕詞である。皆、旅中感銘したことを作っているのである。
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しなが鳥《どり》猪名野《いなぬ》を来《く》れば有間山《ありまやま》夕霧《ゆふぎり》立《た》ちぬ宿《やど》は無《な》くして 〔巻七・一一四〇〕 作者不詳
摂津にて作れる歌である。「しなが鳥」は猪名《いな》につづく枕詞で、しなが鳥即ち鳰鳥《におどり》が、居並《いなら》ぶの居《い》と猪《い》とが同音であるから、猪名の枕詞になった。猪名野は摂津、今の豊能川辺両郡に亙《わた》った、猪名川流域の平野である。有間山は今の有馬温泉のあるあたり一帯の山である。結句の「宿はなくして」は、前出の、「家もあらなくに」などと同一筆法だが、これは旅の実際を歌ったもののようである。それだから作者不明でも、誰の心にも通ずる真実性があると看《み》ねばならぬ。それから現在吾々が注意するのは、「有間山夕霧たちぬ」と切ったところにある。有間山は万葉にはただ二カ処だけに出ているが、後になると、「有間山猪名の笹原かぜふけばいでそよ人を忘れやはする」などの如く歌名所になった。
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家《いへ》にして吾《われ》は恋《こ》ひむな印南野《いなみぬ》の浅茅《あさぢ》が上《うへ》に照《て》りし月夜《つくよ》を 〔巻七・一一七九〕 作者不詳
|旅《きりょ》の歌。印南野で見た、浅茅《あさぢ》の上の月の光を、家に帰ってからもおもい出すことだろうというので、印南野を過ぎて来てからの口吻《こうふん》のようだが、それは「照りし月夜を」にあるので、併し縦《たと》い過ぎて来たとしても、印象が未だ新しいのだから、「照れる月夜を」ぐらいの気持で味ってもいい歌である。
いずれにしても、広い印南野の月光に感動しているところで、「恋ひむな」といっても、天然を恋うるので、そこにこの歌の特色がある。この歌の側に、「印南野は行き過ぎぬらし天《あま》づたふ日笠《ひがさ》の浦に波たてり見ゆ」(巻七・一一七八)というのがあるが、これも佳い歌である。
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たまくしげ見諸戸山《みもろとやま》を行《ゆ》きしかば面白《おもしろ》くしていにしへ念《おも》ほゆ 〔巻七・一二四〇〕 作者不詳
「見諸戸《みもろと》山」は、即ち御室処《みむろと》山の義で、三輪山のことである。「面白し」は、感深いぐらいの意で、万葉では、※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-5]怜とも書いて居る。「生《い》ける世に吾《あ》はいまだ見ず言絶《ことた》えて斯く※怜《おもしろ》[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-5]く縫へる嚢《ふくろ》は」(巻四・七四六)、「ぬばたまの夜わたる月を※怜《おもしろ》[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-6]み吾が居る袖に露ぞ置きにける」(巻七・一〇八一)、「おもしろき野をばな焼きそ古草《ふるくさ》に新草《にひくさ》まじり生《お》ひは生《お》ふるがに」(巻十四・三四五二)、「おもしろみ我を思へか、さ野《ぬ》つ鳥来鳴き翔《かけ》らふ」(巻十六・三七九一)等の例があり、現代の吾等が普段いう、「面白い」よりも深みがあるのである。そこで、此歌は、三輪山の風景が佳くて神秘的にも感ぜられるので、「いにしへ思ほゆ」即ち、神代の事もおもわれると云ったのである。平賀元義の歌に、「鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と歌ひけるかも」というのがあるが、この歌の「面白」も、「おもしろくして古《いにしへ》おもほゆ」の感と相通じているのである。
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暁《あかとき》と夜烏《よがらす》鳴けどこの山上《をか》の木末《こぬれ》の上《うへ》はいまだ静けし 〔巻七・一二六三〕 作者不詳
第三句、「山上《をか》」は代匠記に「みね」とも訓んだ。もう夜が明けたといって夜烏《よがらす》が鳴くけれど、岡の木立《こだち》は未だひっそりとして居る、というのである。「木末《こぬれ》の上」は、繁っている樹木のあたりの意、万葉の題には、「時に臨《のぞ》める」とあるから、或る機《おり》に臨んで作ったものであろう。そして、烏《からす》等は、もう暁天《あかつき》になったと告げるけれども、あのように岡の森は未だ静かなのですから、も少しゆっくりしておいでなさい、という女言葉のようにも取れるし、或は男がまだ早いからも少しゆっくりしようということを女に向って云ったものとも取れるし、或は男が女の許から帰る時の客観的光景を詠んだものとも取れる。いずれにしても、暁はやく二人が未だ一しょにいる時の情景で、こういう事をいっているその心持と、暁天の清潔とが相待って、快い一首を為上《しあ》げて居る。鑑賞の時、どうしても意味を一つに極《き》めなければならぬとせば、やはり女が男にむかって云った言葉として受納《うけい》れる方がいいのではあるまいか。略解《りゃくげ》にも、「男の別れむとする時、女の詠めるなるべし」と云っている。
次手《ついで》に云うと、この歌の一つ前に、「あしひきの山椿《やまつばき》咲く八峰《やつを》越え鹿《しし》待つ君が斎《いは》ひ妻《づま》かも」(巻七・一二六二)というのがある。これは、猟師が多くの山を越えながら鹿《しし》の来るのを、心に期待して、隠れ待っている気持で、そのように大切に隠して置く君の妻よというのである。「斎《いは》ひ妻」などいう語は、現代の吾等には直ぐには頭に来ないが、繰返し読んでいるうちに馴れて来るのである。つまり神に斎《いつ》くように、粗末にせず、大切にする妻というので、出て来る珍らしい獲物《えもの》の鹿を大切にする気持と相通じて居る。「鹿待つ」までは序詞だが、こういう実際から来た誠に優れた序詞が、万葉になかなか多いので、その一例を此処に示すこととした。
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巻向《まきむく》の山辺《やまべ》とよみて行《ゆ》く水《みづ》の水泡《みなわ》のごとし世《よ》の人《ひと》吾《われ》は 〔巻七・一二六九〕 柿本人麿歌集
人麿歌集にある歌で、「児等《こら》が手を巻向《まきむく》山は常《つね》なれど過ぎにし人に行き纏《ま》かめやも」(巻七・一二六八)と一しょに載っている。これで見ると、妻の亡くなったのを悲しむ歌で、「行き纏かめやも」は、通って行って一しょに寝ることがもはや出来ないと歎くのだから、この「水泡の如し」の歌も、妻を悲しんだ歌なのである。
一首の意は、巻向山の近くを音たてて流れゆく川の水泡《みなわ》の如くに果敢《はか》ないもので吾身があるよ、というのである。
この歌では、自身のことを詠んでいるのだが、それは妻に亡くなられて悲しい余りに、自分の身をも悲しむのは人の常情《じょうじょう》であるから、この歌は単に大観的に無常を歌ったものではないのである。其処をはっきりさせないと、結論に錯誤《さくご》を来すので、「もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波の行方《ゆくへ》知らずも」(巻三・二六四)でもそうであるが、この歌も、単に仏教とか支那文学とかの影響を受け、それ等の文句を取って其儘《そのまま》詠んだというのでなく、巻向川(痛足《あなし》川)の、白く激《たぎ》つ水泡《みなわ》に観入して出来た表現なのである。恐らく此歌は人麿自身の作として間違は無いとおもうが、一寸見《ちょっとみ》には、ただ口に任せて調子で歌っているようにも聞こえるがそうではないのである。巻二に、人麿の妻を痛む歌があるが、この歌もああいう歌と関聯があるのかも知れず、又紀伊の海岸で詠んだ歌も妻を悲しみ追憶した歌だから、一しょにして味ってもいいだろう。
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春日《はるひ》すら田《た》に立《た》ち疲《つか》る君《きみ》は哀《かな》しも若草《わかくさ》の|※《つま》[#「女+麗」、U+5B4B、上-222-12]無《な》き君《きみ》が田《た》に立《た》ち疲《つか》る 〔巻七・一二八五〕 柿本人麿歌集
此処に、柿本人麿歌集に出づという旋頭歌《せどうか》が二十三首あるが、その一首だけ抜いて見た。旋頭歌は万葉にも数が少く、人麿でも人麿作と明かにその名の見えているのは一首も無い。けれども此処《ここ》の旋頭歌も、巻十一巻頭の旋頭歌も人麿歌集に出づというのであるから、人麿はこの形態の歌をも作ったのかも知れず、技法はなかなかの力量を思わしめるものである。併し内容は殆ど民謡的恋愛歌だから、そういう種類の古歌謡を人麿が整理したのだとも考えることが出来る。
この一首は、この長閑《のどか》な春の日ですら、お前は田に働いて疲れる、妻のいない一人ぽっちの、お前は田に働いて疲れる、というので、民謡でも労働歌というのに類し、旋頭歌だから、上の句と、下の句とどちらから歌ってもかまわないのである。「君がため手力《たぢから》疲れ織りたる衣《きぬ》ぞ、春さらばいかなる色に摺《す》りてば好《よ》けむ」(巻七・一二八一)なども、女の気持であるが、やはり労働歌で、機《はた》織りながらうたう女の歌の気持である。
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冬《ふゆ》ごもり春《はる》の大野《おほぬ》を焼《や》く人《ひと》は焼《や》き足《た》らねかも吾《わ》が情《こころ》熾《や》く 〔巻七・一三三六〕 作者不詳
譬喩歌《ひゆか》で、「草に寄する」歌であるが、劇しい恋愛の情をその内容として居る。「冬ごもり」は春の枕詞。一首の意は、こんなに胸が燃えて苦しくて為方《しかた》ないのは、あの春の大野を焼く人達が焼き足りないで、私の心までもこんなに焼くのか知らん、というので、譬喩的にいったから、おのずからこういう具合に聯想の歌となるのである。この聯想はただ軽く気を利《き》かして云ったもののようにもおもえるが、繰返して読めば必ずしもそうでないところがある。つまり恋情と、春の野火との聯想が、ただ軽くつながって居るのでなく、割合に自然に緊密につながっているというのである。そんならなぜ軽くつながっているように取られるかというに、「焼く人は」と、「吾が情《こころ》熾《や》く」と繰返されているために、其処が調子が好過ぎて軽く響くのである。併しこれは民謡風のものだから自然そうなるので、奈何《いかん》ともしがたいのである。この歌は明治になってから古今の傑作のように評価せられたが、今云ったように民謡風なものの中の佳作として鑑賞する方が好いであろう。
家持が、坂上大嬢《さかのうえのおおいらつめ》に贈ったのに、「夜のほどろ出でつつ来らく遍多数《たびまね》くなれば吾が胸截《た》ち焼《や》く如し」(巻四・七五五)というがあり、「わが情《こころ》焼くも吾なりはしきやし君に恋ふるもわが心から」(巻十三・三二七一)、「我妹子に恋ひ術《すべ》なかり胸を熱《あつ》み朝戸あくれば見ゆる霧かも」(巻十二・三〇三四)というのがあるから、参考として味うことが出来る。
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秋津野《あきつぬ》に朝《あさ》ゐる雲《くも》の失《う》せゆけば昨日《きのふ》も今日《けふ》も亡《な》き人《ひと》念《おも》ほゆ 〔巻七・一四〇六〕 作者不詳
挽歌の中に載せている。吉野離宮の近くにある秋津野に朝のあいだ懸《か》かっていた雲が無くなると(この雲は火葬の烟《けむり》である)、昨日も今日も亡くなった人がおもい出されてならない、というのである。人麿が土形娘子《ひじかたのおとめ》を泊瀬《はつせ》山に火葬した時詠んだのに、「隠口《こもりく》の泊瀬の山の山の際《ま》にいさよふ雲は妹にかもあらむ」(巻三・四二八)とあるのは、当時まだ珍しかった、火葬の烟をば亡き人のようにおもった歌である。また出雲娘子《いずものおとめ》を吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲《いづも》の児等は霧なれや吉野の山の嶺《みね》に棚引《たなび》く」(同・四二九)とも詠んでいるので明かである。此一首は取りたてて秀歌と称する程のものでないが、挽歌としての哀韻と、「雲の失せゆけば」のところに心が牽《ひ》かれたのであった。
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福《さきはひ》のいかなる人《ひと》か黒髪《くろかみ》の白《しろ》くなるまで妹《いも》が音《こゑ》を聞《き》く 〔巻七・一四一一〕 作者不詳
自分は恋しい妻をもう亡《な》くしたが、白髪になるまで二人とも健《すこや》かで、その妻の声を聞くことの出来る人は何と為合《しあわ》せな人だろう、羨《うらやま》しいことだ、というので、「妹が声を聞く」というのが特殊でもあり一首の眼目でもあり古語のすぐれたところを示す句でもある。現代人の言葉などにはこういう素朴で味のあるいい方はもう跡を絶ってしまった。
一般的なようなことを云っていて、作者の身と遊離しない切実ないい方で、それから結句に、「こゑを聞く」と結んでいるが、「聞く」だけで詠歎の響があるのである。文法的には詠歎の助詞も助動詞も無いが、そういうものが既に含まっているとおもっていい。
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吾背子《わがせこ》を何処《いづく》行《ゆ》かめとさき竹《たけ》の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔《くや》しも 〔巻七・一四一二〕 作者不詳
これも挽歌の中に入っている。すると一首の意は、私の夫《おっと》がこのように、死んで行くなどとは思いもよらず、生前につれなくして、後《うし》ろを向いて寝たりして、今となってわたしは悔《くや》しい、ということになるであろう。「さき竹の」は枕詞だが、割った竹は、重ねてもしっくりしないので、後ろ向に寝るのに続けたものであろう。また、「背向《そがひ》に宿《ね》しく」は、男女云い争った後の行為のように取れて一層哀れも深いし、女らしいところがあっていい。
然るに、巻十四、東歌《あずまうた》の挽歌の個処に、「愛《かな》し妹を何処《いづち》行かめと山菅《やますげ》の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔しも」(三五七七)というのがあり、二つ共似ているが、巻七の方が優っている。巻七の方ならば人情も自然だが、巻十四の方は稍《やや》調子に乗ったところがある。おもうに、巻七の方は未だ個人的歌らしく、つつましいところがあるけれども、それが伝誦せられているうち民謡的に変形して巻十四の歌となったものであろう。気楽に一しょになってうたうのには、「かなし妹を」の方が調子に乗るだろうが、切実の度が薄らぐのである。
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石激《いはばし》る垂水《たるみ》の上《うへ》のさ蕨《わらび》の萌《も》え出《い》づる春《はる》になりにけるかも 〔巻八・一四一八〕 志貴皇子
志貴皇子《しきのみこ》の懽《よろこび》の御歌である。一首の意は、巌の面を音たてて流れおつる、滝のほとりには、もう蕨《わらび》が萌え出づる春になった、懽《よろこ》ばしい、というのである。「石激《いはばし》る」は「垂水《たるみ》」の枕詞として用いているが、意味の分かっているもので、形状言の形式化・様式化・純化せられたものと看做《みな》し得る。「垂水《たるみ》」は垂る水で、余り大きくない滝と解釈してよいようである。「垂水の上」の「上」は、ほとりというぐらいの意に取ってよいが、滝下《たきしも》より滝上《たきかみ》の感じである。この初句は、「石激」で旧訓イハソソグであったのを、考《こう》でイハバシルと訓《よ》んだ。なお、類聚古集《るいじゅうこしゅう》に「石灑」とあるから、「石《いは》そそぐ」の訓を復活せしめ、「垂水」をば、巌の面をば垂れて来る水、たらたら水の程度のものと解釈する説もあるが、私は、初句をイハバシルと訓《よ》み、全体の調子から、やはり垂水《たるみ》をば小滝ぐらいのものとして解釈したく、小さくとも激湍《げきたん》の特色を保存したいのである。
この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、然かも平板《へいばん》に堕《おち》ることなく、細かい顫動《せんどう》を伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御懽びの心が即ち、「さ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」という一気に歌いあげられた句に象徴せられているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この「けるかも」と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない。集中、「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも」(巻三・三一六)、「妹として二人作りし吾が山斎《しま》は木高《こだか》く繁くなりにけるかも」(巻三・四五二)、「うち上《のぼ》る佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも」(巻八・一四三三)、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「萩が花咲けるを見れば君に逢はず真《まこと》も久になりにけるかも」(巻十・二二八〇)、「竹敷のうへかた山は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)等で、皆一気に流動性を持った調べを以て歌いあげている歌であるが、万葉の「なりにけるかも」の例は実に敬服すべきものなので、煩《はん》をいとわず書抜いて置いた。そして此等の中にあっても志貴皇子の御歌は特にその感情を伝えているようにおもえるのである。此御歌は皇子の御作中でも優《すぐ》れており、万葉集中の傑作の一つだと謂《い》っていいようである。
大体以上の如くであるが、「垂水」を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名も摂津《せっつ》豊能《とよの》郡の垂水《たるみ》、播磨《はりま》明石《あかし》郡の垂水《たるみ》の両説がある。若し地名だとしても、垂水即ち小滝を写象の中に入れなければ此歌は価値が下るとおもうのである。次に此歌に寓意《ぐうい》を求める解釈もある。「此御歌イカナル御懽有テヨマセ給フトハシラネド、垂水ノ上トシモヨマセ給ヘルハ、若《もし》帝ヨリ此処ヲ封戸《ふご》ニ加へ賜ハリテ悦バセ給ヘル歟《か》。蕨ノ根ニ隠リテカヾマリヲレルガ、春ノ暖気ヲ得テ萌出ルハ、実ニ悦コバシキ譬《たとへ》ナリ。御子白壁王不意ニ高御座《ミクラ》ニ昇《ノボ》ラセ給ヒテ、此皇子モ田原天皇ト追尊セラレ給ヒ、皇統今ニ相ツヾケルモ此歌ニモトヰセルニヤ」(代匠記)といい、考・略解《りゃくげ》・古義これに従ったが、稍《やや》穿鑿《せんさく》に過ぎた感じで、寧《むし》ろ、「水流れ草もえて万物の時をうるを悦び給へる御歌なるべし」(拾穂抄《しゅうすいしょう》)の簡明な解釈の方が当っているとおもう。なお、「石走《いはばし》る垂水の水の愛《は》しきやし君に恋ふらく吾が情《こころ》から」(巻十二・三〇二五)という参考歌がある。
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神奈備《かむなび》の伊波瀬《いはせ》の杜《もり》の喚子鳥《よぶこどり》いたくな鳴《な》きそ吾《わ》が恋《こひ》益《まさ》る 〔巻八・一四一九〕 鏡王女
鏡王女《かがみのおおきみ》の歌である。鏡王女は鏡王《かがみのおおきみ》の女《むすめ》で額田王《ぬかだのおおきみ》の御姉に当り、はじめ天智天皇の御寵《おんちょう》を受け、後藤原鎌足《ふじわらのかまたり》の正妻となった。此処《ここ》の神奈備《かむなび》は竜田《たつた》の神奈備で飛鳥《あすか》の神奈備ではない。生駒《いこま》郡竜田町の南方に車瀬という処に森がある。それが伊波瀬の森である。喚子鳥《よぶこどり》は大体閑古鳥《かんこどり》の事として置く。一首の意は、神奈備の伊波瀬の森に鳴く喚子鳥よ、そんなに鳴くな、私の恋しい心が増すばかりだから、というのである。
「いたく」は、強く、熱心に、度々、切実になどとも翻《ほん》し得、口語なら、「そんなに鳴くな」ともいえる。喚子鳥の声は、人に愬《うった》えて呼ぶようであるから、その声を聞いて自分の身の上に移して感じたものである。この聯想《れんそう》から来る感じは万葉の歌に可なり多いが、当時の人々は何時《いつ》の間《ま》にか斯《こ》う無理なく表現し得るようになっていたのだろう。人麿の、「夕浪千鳥汝《な》が鳴けば」でもそうであった。それだから此歌でも、現代の読者にまでそう予備的な心構えがなくも受納《うけい》れられ、極《ご》く単純な内容のうちに純粋な詠歎のこえを聞くことが出来るのである。王女は額田王の御姉であったから、額田王の歌にも共通な言語に対する鋭敏がうかがわれるが、額田王の歌よりももっと素直で才鋒《さいほう》の目だたぬところがある。また時代も万葉上期だから、その頃《ころ》の純粋な響・語気を伝えている。巻八(一四六五)に、藤原夫人《ふじわらのぶにん》の、「霍公鳥《ほととぎす》いたくな鳴きそ汝が声を五月《さつき》の玉に交《あ》へ貫《ぬ》くまでに」があるが、女らしい気持だけのものである。また、やはり此巻(一四八四)に、「霍公鳥《ほととぎす》いたくな鳴きそ独《ひと》りゐて寐《い》の宿《ね》らえぬに聞けば苦しも」という大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》の歌があるが、「吾が恋まさる」の簡浄《かんじょう》な結句には及ばない。これは同じ女性の歌でももはや時代の相違であろうか。
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うち靡《なび》く春《はる》来《きた》るらし山《やま》の際《ま》の遠《とほ》き木末《こぬれ》の咲《さ》きゆく見れば 〔巻八・一四二二〕 尾張連
尾張連《おわりのむらじ》の歌としてあるが、伝不明である。一首は、山のあいの遠くまで続く木立に、きのうも今日も花が多くなって見える、もう春が来たというので、「咲きゆく」だから、次から次と花が咲いてゆく、時間的経過を含めたものだが、其処に読者を迷わせるところもなく、ゆったりとした迫らない響を感じさせている。そして、春の到来に対する感慨が全体にこもり、特に結句の「見れば」のところに集まっているようである。「木末の咲きゆく」などという簡潔ないいあらわしは、後代には跡を断《た》った。それは、幽玄とか有心《うしん》とか云って、深みを要求していながら、歌人の心の全体が常識的に分化してしまったからである。
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春《はる》の野《ぬ》に菫《すみれ》採《つ》みにと来《こ》し吾《われ》ぞ野《ぬ》をなつかしみ一夜《ひとよ》宿《ね》にける 〔巻八・一四二四〕 山部赤人
山部赤人の歌で、春の原に菫《すみれ》を採《つ》みに来た自分は、その野をなつかしく思って一夜宿《ね》た、というのである。全体がむつかしくない、赤人的な清朗な調べの歌であるが、菫咲く野に対する一つの係恋《けいれん》といったような情調を感じさせる歌である。即ち極く広義の恋愛情調であるから、説く人によっては、恋人のことを歌ったのではないかと詮議《せんぎ》するのであるが、其処《そこ》まで云わぬ方が却《かえ》っていい。また略解は「菫つむは衣摺《すら》む料なるべし」とあるが、これも主要な目的ではないであろう。本来菫を摘むというのは、可憐な花を愛するためでなく、その他の若草と共に食用として摘んだものである。和名鈔《わみょうしょう》の菫菜で、爾雅《じが》に、※[#「さんずい+(勹<一)」、U+6C4B、下-6-6]食レ之滑也。疏可レ食之菜也とあるによって知ることが出来る。併《しか》し此処は、「春日野に煙立つ見ゆ※嬬《をとめ》[#「女+感」、下-6-7]らし春野の菟芽子《うはぎ》採みて煮らしも」(巻十・一八七九)という歌のように直ぐ食用にして居る野菜として菫を聯想せずに、第一には可憐な菫の花の咲きつづく野を聯想すべきであり、また其処に恋人などの関係があるにしても、それは奥に潜《ひそ》める方が鑑賞の常道のようである。
この歌で、「吾ぞ」と強めて云っていても、赤人の歌だから余り目立たず、「野をなつかしみ」といっても、余り強く響かず、従って感情を強いられるような点も少いのだが、そのうちには少し甘くて物足りぬということが含まっているのである。赤人の歌には、「潟《かた》をなみ」、「野をなつかしみ」というような一種の手法傾向があるが、それが清潔な声調で綜合《そうごう》せられている点は、人の許す万葉第一流歌人の一人ということになるのであろうか。併しこの歌は、富士山の歌ほどに優れたものではない。巻七(一三三二)に、「磐が根の凝《こご》しき山に入り初《そ》めて山なつかしみ出でがてぬかも」という歌があり、これは寄レ山歌だからこういう表現になるのだが、寧《むし》ろ民謡風に楽《らく》なもので、赤人の此歌と較《くらべ》れば赤人の歌ほどには行かぬのである。また、巻十(一八八九)の、「吾が屋前《やど》の毛桃《けもも》の下に月夜《つくよ》さし下心《したごころ》よしうたて此の頃」という歌は、譬喩《ひゆ》歌ということは直ぐ分かって、少しうるさく感ぜしめる。此等と比較しつつ味うと赤人の歌の好いところもおのずから分かるわけである。なお、赤人の歌には、この歌の次に、「あしひきの山桜花日《け》ならべて斯《か》く咲きたらばいと恋ひめやも」(巻八・一四二五)ほか二首があり、清淡でこまかい味《あじわ》いであるが、結句は、やはり弱い。なお、「恋しけば形見にせむと吾が屋戸《やど》に植ゑし藤浪いま咲きにけり」(同・一四七一)があり、これを模して家持《やかもち》が、「秋さらば見つつ偲《しの》べと妹が植ゑし屋前《やど》の石竹《なでしこ》咲きにけるかも」(巻三・四六四)と作っているが、共に少し当然過ぎて、感に至り得ないところがある。赤人の歌でも、「今咲きにけり」が弱いのである。なお参考句に、「春の野に菫を摘むと、白妙の袖折りかへし」(巻十七・三九七三)がある。
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百済野《くだらぬ》の萩《はぎ》の古枝《ふるえ》に春《はる》待《ま》つと居《を》りし鶯《うぐいす》鳴《な》きにけむかも 〔巻八・一四三一〕 山部赤人
山部赤人の歌で、春到来の心を詠んでいる。百済野は大和《やまと》北葛城《きたかつらぎ》郡百済《くだら》村附近の原野である。「萩の古枝」は冬枯れた萩の枝で、相当の高さと繁みになったものであろう。「春待つと居りし」あたりのいい方は、古調のいいところであるが、旧訓スミシ・ウグヒスであったのを、古義では脱字説を唱え、キヰシ・ウグヒスと訓《よ》んだ。併し古い訓(類聚古集・神田本)の、ヲリシウグヒスの方がいい。この歌も、何でもないようであるが、徒《いたず》らに興奮せずに、気品を保たせているのを尊敬すべきである。これも期せずして赤人の歌になったが、選んで来て印をつけると、自然こういう結果になるということは興味あることで、もっと先きの巻に於ける家持の歌の場合と同じである。
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蝦《かはづ》鳴《な》く甘南備河《かむなびがは》にかげ見《み》えて今《いま》か咲《さ》くらむ山吹《やまぶき》の花《はな》 〔巻八・一四三五〕 厚見王
厚見王《あつみのおおきみ》の歌一首。厚見王は続紀《しょくき》に、天平勝宝《てんぴょうしょうほう》元年に従五位下を授けられ、天平宝字《てんぴょうほうじ》元年に従五位上を授けられたことが記されている。甘南備河《かむなびがわ》は、甘南備山が飛鳥《あすか》(雷丘《いかずちのおか》)か竜田《たつた》かによって、飛鳥川か竜田川かになるのだが、それが分からないからいずれの河としても味うことが出来る。一首は、蝦《かわず》(河鹿《かじか》)の鳴いている甘南備河に影をうつして、今頃山吹の花が咲いて居るだろう、というので、こだわりの無い美しい歌である。
此歌が秀歌として持てはやされ、六帖や新古今に載ったのは、流麗な調子と、「かげ見えて」、「今か咲くらむ」という、幾らか後世ぶりのところがあるためで、これが本歌《ほんか》になって模倣せられたのは、その後世ぶりが気に入られたものである。「逢坂の関の清水にかげ見えて今や引くらむ望月の駒」(拾遺・貫之《つらゆき》)、「春ふかみ神なび川に影見えてうつろひにけり山吹の花」(金葉集)等の如くに、その歌調なり内容なりが伝播《でんぱ》している。この歌は、全体としては稍《やや》軽いので、実際をいえば、このくらいの歌は万葉に幾つもあるのだが、この種類の一代表として選んだのである。参考歌に、「安積香《あさか》山影さへ見ゆる山井《やまのゐ》の浅き心を吾が念《も》はなくに」(巻十六・三八〇七)がある。
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平常《よのつね》に聞《き》くは苦《くる》しき喚子鳥《よぶこどり》こゑなつかしき時《とき》にはなりぬ 〔巻八・一四四七〕 大伴坂上郎女
大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》が、天平《てんぴょう》四年三月佐保《さお》の宅《いえ》で詠んだ歌である。普段には、身につまされて寧《むし》ろ苦しいくらいな喚子鳥の声も、なつかしく聞かれる春になった、というので、奇もなく鋭いところもないが、季節の変化に対する感じも出ており、春の女心に触れることも出来るようなところがある。「時にはなりぬ」だけで詠歎《えいたん》のこもることは既《すで》にいった。佐保の宅というのは、郎女《いらつめ》の父大伴安麿《やすまろ》の宅である。「春日なる羽易《はがひ》の山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰《たれ》喚子鳥」(巻十・一八二七)、「答へぬにな喚び響《とよ》めそ喚子鳥佐保の山辺を上《のぼ》り下《くだ》りに」(同・一八二八)、「卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥《ほととぎす》佐保の山辺に来鳴き響《とよ》もす」(巻八・一四七七)等があって、佐保には鳥の多かったことが分かる。
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波《なみ》の上《うへ》ゆ見《み》ゆる児島《こじま》の雲《くも》隠《がく》りあな気衝《いきづ》かし相《あひ》別《わか》れなば 〔巻八・一四五四〕 笠金村
天平五年春閏《うるう》三月、入唐使(多治比真人広成《たじひのまひとひろなり》)が立つ時に、笠金村《かさのかなむら》が贈った長歌の反歌である。一首は、あなたの船が出帆して、波の上から見える小島のように、遠く雲がくれに見えなくなって、いよいよお別れということになるなら、嗚呼《ああ》吐息《といき》の衝《つ》かれることだ、悲しいことだ、というのである。此処でも、「波の上ゆ見ゆる」と「ゆ」を使っている。児島は備前児島だろうという説があるが、序の形式だから必ずしも固有名詞とせずともいい。「気衝《いきづ》かし」は、息衝《いきづ》くような状態にあること、溜息《ためいき》を衝《つ》かせるようにあるというので、いい語だとおもう。「味鴨《あぢ》の住む須佐《すさ》の入江の隠《こも》り沼《ぬ》のあな息衝《いきづ》かし見ず久《ひさ》にして」(巻十四・三五四七)の用例がある。訣別《けつべつ》の歌だから、稍《やや》形式になり易いところだが、海上の小島を以て来てその気持を形式化から救っている。第四句が中心である。
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神名火《かむなび》の磐瀬《いはせ》の杜《もり》のほととぎすならしの岳《をか》に何時《いつ》か来鳴《きな》かむ 〔巻八・一四六六〕 志貴皇子
志貴皇子の御歌。磐瀬《いわせ》の杜《もり》は既にいった如く、竜田町の南方車瀬にある。ならしの丘《おか》は諸説あって一定しないが、磐瀬の杜の東南にわたる岡だろうという説があるから、一先《ひとま》ずそれに従って置く。この歌は、「ならしの丘に何時か来鳴かむ」と云って、霍公鳥《ほととぎす》の来ることを希望しているのだが、既に出た皇子の御歌の如く、おおどかの中に厳《おごそ》かなところがあり、感傷に淫《いん》せずになお感傷を暗指《あんじ》している点は独特の御風格というべきである。他の皇子の御歌と較《くら》べるから左程に思わぬが、そのあたりの歌を読んで来ると、やはり選は此歌に逢着《ほうちゃく》するのである。此歌は一首に三つも地名が詠込《よみこ》まれている。「朝霞たなびく野べにあしひきの山ほととぎすいつか来鳴かむ」(巻十・一九四〇)の例があるが、民謡風だから「個」の作者が隠れて居り、それだけ呑気《のんき》である。この近くにある、「もののふの磐瀬の杜《もり》の霍公鳥いまも鳴かぬか山のと陰に」(巻八・一四七〇)でも内容が似ているが、これも呑気である。
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夏山《なつやま》の木末《こぬれ》の繁《しじ》にほととぎす鳴《な》き響《とよ》むなる声《こゑ》の遙《はる》けさ 〔巻八・一四九四〕 大伴家持
大伴家持《おおとものやかもち》の霍公鳥《ほととぎす》の歌であるが、「夏山の木末の繁《しじ》」は作者の観《み》たところであろうが、前出の、「山の際の遠きこぬれ」の方が旨《うま》いようにもおもう。「こゑの遙けさ」というのが此一首の中心で、現実的な強味がある。この巻(一五五〇)に、湯原王《ゆはらのおおきみ》の、「秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遙けさ」も家持の歌に似ているが、家持の歌のまさっているのは、実際的のひびきがあるためである。然るに巻十(一九五二)に、「今夜《このよひ》のおぼつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遙けさ」というのがあり、家持はこれを模倣しているのである。併し、「夏山の木末の繁に」といって生かしているのを後代の吾等は注意していい。「繁《しじ》に」は槻落葉《つきのおちば》にシゲニと訓《よ》んでいる。
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夕《ゆふ》されば小倉《をぐら》の山《やま》に鳴《な》く鹿《しか》は今夜《こよひ》は鳴《な》かず寝宿《いね》にけらしも 〔巻八・一五一一〕 舒明天皇
秋雑歌《ぞうか》、崗本《おかもと》天皇(舒明《じょめい》天皇)御製歌一首である。小倉山は恐らく崗本宮近くの山であろうが、その辺に小倉山の名が今は絶えている。一首の意は、夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろうというのである。いつも妻をもとめて鳴いている鹿が、妻を得た心持であるが、結句は、必ずしも率寝《いね》の意味に取らなくともいい。御製は、調べ高くして潤《うるお》いがあり、豊かにして弛《たる》まざる、万物を同化包摂《ほうせつ》したもう親愛の御心の流露《りゅうろ》であって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だとおもうのである。第四句で、「今夜は鳴かず」と、其処に休止を置いたから、結句は独立句のように、豊かにして逼《せま》らざる重厚なものとなったが、よく読めばおのずから第四句に縷《いと》の如くに続き、また一首全体に響いて、気品の高い、いうにいわれぬ歌調となったものである。「いねにけらしも」は、親愛の大御心であるが、素朴・直接・人間的・肉体的で、後世の歌にこういう表現のないのは、総べてこういう特徴から歌人の心が遠離して行ったためである。此御歌は万葉集中最高峰の一つとおもうので、その説明をしたい念願を持っていたが、実際に当ると好い説明の文を作れないのは、この歌は渾一体《こんいったい》の境界にあってこまごましい剖析《ぼうせき》をゆるさないからであろうか。
此歌の第三句、旧板本「鳴鹿之」となっているから、訓は「ナクシカノ」である。然るに古鈔本(類・神・西・温・矢・京)には、「之」の字が「者」となって居り、また訓も「ナクシカハ」(類・神・温・矢・京)となって居るのがある。注釈書では既に拾穂抄でこれを注意し、代匠記で、官本之作レ者、点云、ナクシカハ。別校本或同レ此。幽斎本之作レ者、点云、ナクシカノ、と注した。そこで近時、「ナクシカハ」の訓に従うようになったが、古今六帖には、「鳴く鹿の」となって居り、又幽斎本では鳴鹿者と書いて、「ナクシカノ」と訓んで、また旧板本は鳴鹿之であるから、「ナクシカノ」という訓も古くからあったことが分かる。もっとも、「鳴鹿之」は巻九巻頭の、「臥鹿之」の「之」に拠《よ》って直したとも想像することも出来るが、兎も角長い期間「鳴く鹿の」として伝わって来ている。今となって見れば、「鳴く鹿は」の方は、「今夜は」と続いて、古調に響くから、「鳴く鹿は」の方が原作かも知れないけれども、「鳴く鹿の」としても、充分味うことの出来る歌である。
なお、一寸《ちょっと》前言した如く、巻九(一六六四)に、雄略天皇御製歌として、「ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜《こよひ》は鳴かず寐《い》ねにけらしも」という歌が載《の》っていて、二つとも類似歌であるがどちらが本当だか審《つまびらか》でないから、累《かさ》ねて載せたという左注がある。併し歌調から見て、雄略天皇御製とせば少し新し過ぎるようだから、先ず舒明天皇御製とした方が適当だろうという説が有力である。なお小倉山であるが、「白雲の竜田の山の、滝の上の小鞍《をぐら》の峯」(巻九・一七四七)は、竜田川(大和川)の亀の瀬岩附近、竜田山の一部である。それから、この(一六六四)が雄略天皇の御製とせば、朝倉宮近くであるから、今の磯城《しき》郡朝倉村黒崎に近い山だろうということも出来る。それに舒明天皇の高市崗本宮近くにある小倉山と、仮定のなかに入る小倉山が三つあるわけである。併し、舒明天皇の御製でも、若《も》しも行幸でもあって竜田の小鞍峯あたりでの吟咏《ぎんえい》とすると、小倉山考証の疑問はおのずから冰釈《ひょうしゃく》するわけであるけれども、「今夜は鳴かず」とことわっているから、ふだんにその鹿の声を御聞きになったことを示し、従って崗本宮近くに小倉山という名の山があったろうと想像することとなるのである。
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今朝《けさ》の朝《あさ》け雁《かり》がね聞《き》きつ春日山《かすがやま》もみぢにけらし吾《わ》がこころ痛《いた》し 〔巻八・一五二二〕 穂積皇子
穂積皇子《ほづみのみこ》の御歌二首中の一つで、一首の意は、今日の朝に雁の声を聞いた、もう春日山は黄葉《もみじ》したであろうか。身に沁《し》みて心悲しい、というので、作者の心が雁の声を聞き黄葉を聯想しただけでも、心痛むという御境涯にあったものと見える。そしてなお推測すれば但馬皇女《たじまのひめみこ》との御関係があったのだから、それを参考するとおのずから解釈出来る点があるのである。何《いず》れにしても、第二句で「雁がね聞きつ」と切り、第四句で「もみぢにけらし」と切り、結句で「吾が心痛し」と切って、ぽつりぽつりとしている歌調はおのずから痛切な心境を暗指するものである。前の志貴皇子の「石激る垂水の上の」の御歌などと比較すると、その心境と声調の差別を明らかに知ることが出来るのである。もう一つの皇子の御歌は、「秋萩は咲きぬべからし吾が屋戸《やど》の浅茅が花の散りぬる見れば」(巻八・一五一四)というのである。なお、近くにある、但馬皇女の、「言《こと》しげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを」(同・一五一五)という御歌がある。皇女のこの御歌も、穂積皇子のこの御歌と共に読味うことが出来る。共に恋愛情調のものだが、皇女のには甘く逼《せま》る御語気がある。
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秋《あき》の田《た》の穂田《ほだ》を雁《かり》がね闇《くら》けくに夜《よ》のほどろにも鳴《な》き渡《わた》るかも 〔巻八・一五三九〕 聖武天皇
天皇御製とあるが、聖武《しょうむ》天皇御製だろうと云われている。「秋の田の穂田を」までは序詞で、「刈り」と「雁」とに掛けている。併しこの序詞は意味の関聯があるので、却って序詞としては巧みでないのかも知れない。御製では、「闇《くら》けくに夜のほどろにも鳴きわたるかも」に中心があり、闇中《あんちゅう》の雁、暁天に向う夜の雁を詠歎したもうたのに特色がある。「夜のほどろ我が出《いで》てくれば吾妹子が念へりしくし面影に見ゆ」(巻四・七五四)等の例がある。
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夕月夜《ゆふづくよ》心《こころ》も萎《しぬ》に白露《しらつゆ》の置《お》くこの庭《には》に蟋蟀《こほろぎ》鳴《な》くも〔巻八・一五五二〕 湯原王
湯原王《ゆはらのおおきみ》の蟋蟀《こおろぎ》の歌で、夕方のまだ薄い月の光に、白露のおいた庭に蟋蟀が鳴いている。それを聞くとわが心も萎々《しおしお》とする、というのである。後世の歌なら、助詞などが多くて弛《たる》むところであろうが、そこを緊張せしめつつ、句と句とのあいだに、間隔を置いたりして、端正で且つ感の深い歌調を全《まっと》うしている。「心も萎《しぬ》に」は、直ぐ、「白露の置く」に続くのではなく、寧ろ、「蟋蟀鳴く」に関聯しているのだが、そこが微妙な手法になっている。いずれにしても、分かりよくて、平凡にならなかった歌である。
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あしひきの山《やま》の黄葉《もみぢば》今夜《こよひ》もか浮《うか》びゆくらむ山川《やまがは》の瀬《せ》に 〔巻八・一五八七〕 大伴書持
大伴書持《ふみもち》の歌である。書持は旅人の子で家持の弟に当る。天平十八年に家持が書持の死を痛んだ歌を作っているから大体その年に死去したのであろう。此一首は天平十年冬、橘宿禰奈良麿《たちばなのすくねならまろ》の邸で宴をした時諸人が競《きそ》うて歌を詠《よ》んだ。皆黄葉《もみじ》を内容としているが書持の歌い方が稍《やや》趣《おもむき》を異《こと》にし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく写象を心に浮べて、「今夜《こよひ》もか浮びゆくらむ」と詠歎している。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない穉拙《ちせつ》のようなところがあって、何時《いつ》か私の心を牽《ひ》いたものだが、今読んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておもしろい。また所謂《いわゆる》万葉的常套《じょうとう》を脱しているのも注意せらるべく、万葉末期の、次の時代への移行型のようなものかも知れぬが、そういう種類の一つとして私は愛惜《あいせき》している。そして天平十年が家持《やかもち》二十一歳だとせば、書持はまだ二十歳にならぬ頃に作った歌ということになる。
書持の兄、家持が天平勝宝二年に作った歌に、「夜くだちに寝覚《ねさ》めて居れば河瀬《かはせ》尋《と》め情《こころ》もしぬに鳴く千鳥かも」(巻十九・四一四六)というのがある。この「河瀬尋め」あたりの観照の具合に、「浮びゆくらむ」と似たところがあるのは、この一群歌人相互の影響によって発育した歌境だかも知れない。
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大口《おほくち》の真神《まがみ》の原《はら》に降《ふ》る雪《ゆき》はいたくな降《ふ》りそ家《いへ》もあらなくに 〔巻八・一六三六〕 舎人娘子
舎人娘子《とねりのおとめ》の雪の歌である。舎人娘子の伝は未詳であるが、巻二(一一八)に舎人皇子《とねりのみこ》に和《こた》え奉った歌があり、大宝二年の持統天皇参河《みかわ》行幸従駕の作、「丈夫《ますらを》が猟矢《さつや》たばさみ立ち向ひ射る的形《まとかた》は見るにさやけし」(巻一・六一)があるから、持統天皇に仕えた宮女でもあろうか。真神《まがみ》の原は高市郡飛鳥にあった原で、「大口の」は、狼(真神)の口が大きいので、真神の枕詞とした。
この歌は、独詠歌というよりも誰かに贈った歌の如くである。そして、持統天皇従駕《じゅうが》作の如くに、儀容を張らずに、ありの儘に詠んでいて、贈った対者に対する親愛の情のあらわれている可憐な歌である。「家もあらなくに」の結句ある歌は既に記した。
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沫雪《あわゆき》のほどろほどろに零《ふ》り重《し》けば平城《なら》の京師《みやこ》し念《おも》ほゆるかも 〔巻八・一六三九〕 大伴旅人
大伴旅人《おおとものたびと》が筑紫太宰府にいて、雪の降った日に京《みやこ》を憶《おも》った歌である。「ほどろほどろ」は、沫雪《あわゆき》の降った形容だろうが、沫雪は降っても消え易く、重量感からいえば軽い感じである。厳冬の雪のように固着の感じの反対で消え易い感じである。そういう雪を、ハダレといい、副詞にしてハダラニともいい、ホドロニと転じたものであろうか。「夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり」(巻十・二三一八)とあって、一に云う、「庭もほどろに雪ぞ降りたる」とあるから、「はだらに」、「ほどろに」同義に使ったもののようである。また、「吾背子を今か今かと出で見れば沫雪ふれり庭もほどろに」(同・二三二三)とあり、軽く消え易いように降るので、分量の問題でなく感じの問題であるようにおもえる。沫雪は消え易いけれども、降る時には勢いづいて降る。そこで、旅人の此歌も、「ほどろほどろに」と繰返しているのは、旅人はそう感じて繰返したのであろうから、分量の少い、薄く降るという解釈とは合わぬのである。特に「零り重《し》けば」であるから、単に「薄い雪」をハダレというのでは解釈がつかない。また、「はだれ降りおほひ消《け》なばかも」(同・二三三七)の例も、薄く降るというよりも盛に降る心持である。そこで、ハダレは繊細に柔かに降り積る雪のことで、ホドロホドロニは、そういう柔かい感じの雪が、勢いづいて降るということになりはしないか。ホドロホドロと繰返したのは旅人のこの一首のみで、模倣せられずにしまった。
この一首は、前にあった旅人の歌同様、線の太い、直線的な歌いぶりであるが、感慨が浮調子《うわちょうし》でなく真面目《まじめ》な歌いぶりである。細かく顫《ふる》う哀韻を聴き得ないのは、憶良《おくら》などの歌もそうだが、この一団の歌人の一つの傾向と看做《みな》し得るであろう。
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吾背子《わがせこ》と二人《ふたり》見《み》ませば幾許《いくばく》かこの零《ふ》る雪《ゆき》の懽《うれ》しからまし 〔巻八・一六五八〕 光明皇后
藤皇后《とうこうごう》(光明《こうみょう》皇后)が聖武天皇に奉られた御歌である。皇后は藤原不比等《ふひと》の女、神亀元年二月聖武天皇夫人。ついで、天平元年八月皇后とならせたまい、天平宝字四年六月崩御せられた。御年六十。この美しく降った雪を、若しお二人で眺めることが叶《かな》いましたならば、どんなにかお懽《うれ》しいことでございましょう、というのである。斯《か》く尋常に、御おもいの儘、御会話の儘を伝えているのはまことに不思議なほどである。特に結びの、「懽《うれ》しからまし」の如き御言葉を、皇后の御生涯と照らしあわせつつ味い得るということの、多幸を私等はおもわねばならぬのである。「見ませば」は、「草枕旅ゆく君と知らませば」(巻一・六九)、「悔しかも斯く知らませば」(巻五・七九七)、「夜わたる月にあらませば」(巻十五・三六七一)等の例と同じく、マセはマシという助動詞の将然段に条件づけた云い方で、知らましせば、あらましせば、見ましせばぐらいの意であろうか。精《くわ》しいことは専門の書物にゆずる。なお「あしひきの山より来《き》せば」(巻十・二一四八)も参考になろうか。ウレシという語も、「何すとか君を厭《いと》はむ秋萩のその初花の歓《うれ》しきものを」(同・二二七三)などの用法と殆ど同じである。
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巨椋《おほくら》の入江《いりえ》響《とよ》むなり射部人《いめびと》の伏見《ふしみ》が田居《たゐ》に雁《かり》渡《わた》るらし 〔巻九・一六九九〕 柿本人麿歌集
宇治河にて作れる歌二首の一つで、人麿歌集所出の歌である。巨椋《おおくら》の入江は山城久世郡の北にあり、今の巨椋《おぐら》池である。「射部人《いめびと》」は、鹿猟の時に、隠れ臥して弓を射るから、「伏」に聯《つら》ねて枕詞とした。「高山の峯のたをりに、射部《いめ》立てて猪鹿《しし》待つ如」(巻十三・三二七八)の例がある。一首の意は、いま巨椋《おおくら》の入江に大きい音が聞こえている。これは群雁が伏見の水田の方に渡ってゆく音らしい、というので、「入江響《とよ》むなり」と、ずばりと云い切って、雁の群れ立つその羽音と鳴声とを籠《こ》めているのも古調のいいところである。そして、斯《こ》ういう使い方は万葉にも少く、普通は、鳴きとよむ、榜《こ》ぎとよむ、鳥が音とよむ等、或は「山吹の瀬の響《とよ》むなべ」(巻九・一七〇〇)、「藤江の浦に船ぞ動《とよ》める」(巻六・九三九)ぐらいの用例である。それも響、動をトヨムと訓むことにしての例である。そうして見れば、「入江響むなり」の用例は簡潔で巧《たくみ》なものだと云わねばならない。この句は旧訓ヒビクナリであったのを、代匠記で先ず注意訓をして「響ハトヨムトモ読ベシ」と云い、略解《りゃくげ》から以降こう訓むようになったのである。調べが大きく、そして何処かに鋭い響を持っているところは、或は人麿的だと謂《い》うことが出来るであろう。ついでに云うと、この歌の、「田居に」の「に」は方嚮《ほうこう》をも含んでいる用例で、「小野《をぬ》ゆ秋津に立ちわたる雲」(巻七・一三六八)、「京方《みやこべ》に立つ日近づく」(巻十七・三九九九)、「山の辺にい行く猟師《さつを》は」(巻十・二一四七)等の「に」と同じである。
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さ夜中《よなか》と夜《よ》は深《ふ》けぬらし雁《かり》が音《ね》の聞《きこ》ゆる空《そら》に月《つき》渡《わた》る見《み》ゆ 〔巻九・一七〇一〕 柿本人麿歌集
弓削皇子《ゆげのみこ》に献《たてまつ》った歌三首中の一つで、人麿歌集所出である。一首は、もう夜が更けたと見え、雁の鳴きつつとおる空に、月も低くなりかかっている、というので、「月わたる」は、月が段々移行する趣で、傾きかかるということになる。ありの儘に淡々といい放っているのだが、決してただの淡々ではない。これも本当の日本語で日本的表現だということも出来るほどの、流暢《りゅうちょう》にしてなお弾力を失わない声調である。先学《せんがく》はこの歌にも寓意を云々《うんぬん》し、「弓削皇子にたてまつる歌なれば、をのをのふくめる心あるべし」(代匠記初稿本)、「いかで早く御恩沢を下したまへかし。と身のほどを下心に訴るならむ」(古義)等と云うが、これだけの自然観照をしているのに、寓意寓意といって、官位の事などを混入せしめるのは、歌の鑑賞の邪魔物である。
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うちたをり多武《たむ》の山霧《やまきり》しげみかも細川《ほそかは》の瀬《せ》に波《なみ》の騒《さわ》げる 〔巻九・一七〇四〕 柿本人麿歌集
舎人皇子《とねりのみこ》に献った歌二首中の一首で、「手折」をウチタヲリと訓むにつき未だ精確な考証はない。「打手折撓《うちたをりた》む」という意から、同音の、「多武《たむ》」に続けた。多武峰は高市郡にある、今の塔の峯、談山《たんざん》神社のある談山《たんざん》である。細川は飛鳥川の支流、多武峰の西にあって、細川村と南淵村の間を過ぎて飛鳥川に注いでいる。一首の意は、多武の峰に雲霧しげく風が起って居るのか、細川の瀬に波が立って音が高い、というのである。
こういう自然観入は、既に、「弓月《ゆつき》が岳に雲たちわたる」の歌でも云った如く、余程鋭敏に感じたものと見える。そして人麿歌集所出の歌だから、恐らく人麿の作であろう。なおこの歌の傍に、「ぬばたまの夜霧《よぎり》は立ちぬ衣手《ころもで》を高屋《たかや》の上に棚引くまでに」(巻九・一七〇六)という舎人皇子の御歌がある。「衣手を」を、枕詞として「たか」に続けたのは、タク(カカグ)という意だろうという説がある。高屋は地名であろうが、その存在は未詳である。この御歌の調べ高いのは、やはり時代的関係で人麿などを中心とする交流のためだかも知れない。この歌にも寓意を考え、「此歌上句ハ佞人《ねいじん》ナドノ官ニ在テ君ノ明ヲクラマシテ恩光ヲ隔ルニ喩《たと》へ、下句ハソレニ依テ細民ノ所ヲ得ザルヲ喩フル歟」(代匠記)等というが、こういう解釈の必要は毫も無い。
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御食《みけ》むかふ南淵山《みなぶちやま》の巌《いはほ》には落《ふ》れる斑雪《はだれ》か消《き》え残《のこ》りたる 〔巻九・一七〇九〕 柿本人麿歌集
弓削皇子《ゆげのみこ》に献った歌一首という題があり、人麿歌集所出の歌である。「御食《みけ》むかふ」は、御食《みけ》に供える物の名に冠らせる詞で、此処の南淵山《みなぶちやま》に冠らせたのは、蜷貝《みながい》か、御魚《みな》かのミナの音に依《よ》ってであろう。当時は蜷貝を食用としたから、こういう枕詞が出来たものである。南淵山は高市郡高市村字冬野から稲淵にかけた山である。
一首の意は、南淵山を見ると、巌の上に雪が残っておる、これは先《さき》ごろ降った春の斑雪《はだれ》であろう、というので、叙景の歌で、こういう佳景を歌に詠んで、皇子に献じたもので、寓意などは無かろうのに、先学等は「下心《したごころ》あるべし」などと云って、寓意を「皇子の御恩光にもれしを訴るやうによみて献れるにや、さてこの作者南淵氏の人などにてありしにや」(古義)と云々しているのは、学者等の一つの迷いである。この歌は叙景歌として、しっとりと落着いて、重厚にして単純、清厳《せいげん》とも謂うべき一首の味いである。「巌には」の「には」、「降れる斑雪か」の「か」のあたりに、微《かす》かに息《いき》を休めてしずかな感情を湛《たた》え、結句の、「消え残りたる」は、迫らない静かなゆらぎを持った句で、清厳の気は大体ここに発している。
この歌は、結局原本、「削遺有」とあるので、旧訓チルナミ・タレカ・ケヅリ・ノコセルであったのを、真淵の考で、千蔭の説により、「削」は「消」だとして、フレルハダレカ・キエノコリタルと訓んだ。この真淵の訓以前は、甚だしく面倒な解釈をしていたので、無理が多くて、一首の妙味を発揮することの出来なかったものである。作者と南淵山との位置関係は、「弓削皇子ノオハシマス宮ヨリ南淵山ノマヂカク指向ヒテ見ユル」(代匠記)ところであったかとおもう。
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落《お》ちたぎち流《なが》るる水《みづ》の磐《いは》に触《ふ》り淀《よど》める淀《よど》に月《つき》の影《かげ》見《み》ゆ 〔巻九・一七一四〕 作者不詳
芳野宮に行幸あった時の歌だが、その御代も不明だし作者もまた不明である。一首の意は、いきおいよく激《たぎ》って流れて来た水が、一旦巌石に突当って、其処に淵をなしている。その淵に月影が映っている、というので、水面の月光を現に見て居る光景だが、その水面の説明をも加えている。淵の出来ている具合と、激流との関係をも叙しているから、全体が益々《ますます》印象明瞭となった。前半を直線的に云い下したから、「淀める淀」と云って曲線的に緊《し》めている。以前この「淀める淀」という繰返しを気にしたが、或はこれが自然的な技法なのかも知れないし、それから「水の磐に触り」の「の」などもやはり、「の」が最も適切な助詞として受取るべきもののようである。結句もまた落付いていて大家の風格を持ったものである。此歌と一しょにある一首は、「滝の上の三船《みふね》の山ゆ秋津《あきつ》べに来鳴きわたるは誰《たれ》喚子鳥《よぶこどり》」(巻九・一七一三)というのだが、これも相当な作で、恐らく藤原宮時代のものであろうか。真淵などもこの二首を人麿作ではなかろうかとさえ云っているほどである。
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楽浪《ささなみ》の比良山風《ひらやまかぜ》の海《うみ》吹《ふ》けば釣《つり》する海人《あま》の袂《そで》かへる見ゆ 〔巻九・一七一五〕 柿本人麿歌集
槐本歌一首とあるもので、槐本《えにすのもと》は柿本の誤写で人麿の作だろうという説がある。一首の意は、近江《おおみ》の楽浪《ささなみ》の比良《ひら》山を吹きおろして来る風が、湖水のうえに至ると、釣している漁夫の袖の翻るのが見える、という極く単純な内容であるが、張りある清潔音の連続で、ゆらぎの大きい点も人麿調を聯想せしめるし、人麿歌集出の歌だから、先ず人麿作と云っていいものであろう。この歌の上の句ほどの程度の、諧調音でも吾々が作るとなれば、なかなか容易のわざではない。
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泊瀬河《はつせがは》夕《ゆふ》渡《わた》り来《き》て我妹子《わぎもこ》が家《いへ》の門《かなど》に近づきにけり 〔巻九・一七七五〕 柿本人麿歌集
舎人皇子《とねりのみこ》に献った歌二首中の一つで、人麿歌集に出でたものである。「門」をカナドと訓んだのは、「金門《かなと》にし人の来立てば」(巻九・一七三九)等の例に拠《よ》ったので、「金門《かなと》」で単に「門」という意味に使っている。一首の意味は、恋歌で、恋しい女の家に近づいた趣だが、快い調子を持って居り、伸々《のびのび》と、無理なく情感を湛えている点で、選ぶとせば選ばれる歌である。ただ舎人皇子に献った歌だというので、何か寓意を考え、「此歌モ亦下意アル歟。君ガ恩恵ヲ近ク蒙ルベキ事ハ、譬《たと》ヘバ人ノ夕去バ必ラズ逢ハムト契《ちぎ》リタラムニ、泊瀬川ノ早キ瀬ヲカラウジテ渡リ来テ其家近ク成タルガ如シトヨメル歟」(代匠記)等と詮索しがちであるが、これは何かの機に作ったもので、自分でも稍出来の好い歌だというので、皇子に献ったものででもあろうか。さすれば、普通の恋歌として味っていいわけである。泊瀬川《はつせがわ》は長谷の谿《たに》を流れ、遂に佐保川に合する川である。
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旅人《たびびと》の宿《やど》りせむ野《ぬ》に霜《しも》降《ふ》らば吾《わ》が子《こ》羽《は》ぐくめ天《あめ》の鶴群《たづむら》 〔巻九・一七九一〕 遣唐使随員の母
天平五年夏四月、遣唐使(多治比真人広成《たじひのまひとひろなり》)の船が難波を出帆した時、随行員の一人の母親が詠んだ歌である。長歌は、「秋萩を妻問《ど》ふ鹿《か》こそ、一子《ひとりご》に子持《も》たりといへ、鹿児《かこ》じもの吾が独子《ひとりご》の、草枕旅にし行けば、竹珠《たかだま》を繁《しじ》に貫《ぬ》き垂り、斎戸《いはひべ》に木綿《ゆふ》取《と》り垂《し》でて、斎《いは》ひつつ吾が思ふ吾子《あこ》、真幸《まさき》くありこそ」(巻九・一七九〇)というのである。
この短歌の意は、私の一人子《ひとりご》が、遠く唐に行って宿るだろう、その野原に霜が降ったら、天の群鶴よ、翼を以て蔽《おお》うて守りくれよ、というのである。この歌の「はぐくむ」は翼で蔽うて愛撫する意だが、転じて養育することとなった。史記周本紀に、「飛鳥其翼を以て之を覆薦《ふせん》す」の例がある。「武庫の浦の入江の渚鳥《すどり》羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし」(巻十五・三五七八)、「大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみもちて行かましものを」(同・三五七九)があり、新羅《しらぎ》に行く使者等の歌だから同じような心持があらわれている。なお、「天《あま》飛ぶや雁のつばさの覆羽《おほひば》の何処《いづく》漏りてか霜の零《ふ》りけむ」(巻十・二二三八)の例がある。
母親がひとり子の遠い旅を思う心情は一とおりでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むというのは、今ならば文学的の技巧を直ぐ聯想《れんそう》するし、実際また詩的に表現しているのである。けれども当時の人々は吾々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない。それは万葉の他の歌を見ても分かるし、物に寄する歌でも、序詞のある歌でも、吾等の考えるよりももっと直接に感じつつああいう技法を取ったものに相違ない。そこで此歌でも、毫《ごう》もこだわりのない純粋な響を伝えているのである。もの云いに狐疑《こぎ》が無く不安が無く、子をおもうための願望を、ただその儘に云いあらわし得たのである。併《しか》し、歌調は天平に入ってからの他の歌とも共通し、概して分かりよくなっている。
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潮気《しほけ》たつ荒磯《ありそ》にはあれど行《ゆ》く水《みづ》の過《す》ぎにし妹《いも》が形見《かたみ》とぞ来《こ》し 〔巻九・一七九七〕 柿本人麿歌集
「紀伊国にて作れる歌四首」という、人麿歌集出の歌があるが、その中の一首である。「行く水の」は、「過ぎ」に続く枕詞。「過ぐ」は死ぬる事である。一首の意は、潮煙の立つ荒寥《こうりょう》たるこの磯に、亡くなった妻の形見と思って来た、というのだが、句々緊張して然かも情景ともに哀感の切なるものがある。この歌は、巻一(四七)の人麿作、「真草苅る荒野にはあれど黄葉《もみぢば》の過ぎにし君が形見《かたみ》とぞ来し」というのと類似しているから、その手法傾向の類似によって、此歌も亦人麿作だろうと想像することが出来るであろう。巻二(一六二)に、「塩気《しほけ》のみ香《かを》れる国に」の例がある。
他の三首は、「黄葉《もみぢば》の過ぎにし子等と携《たづさ》はり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六)、「古に妹と吾が見しぬばたまの黒牛潟《くろうしがた》を見ればさぶしも」(同・一七九八)、「玉津島《たまつしま》磯の浦回《うらみ》の真砂《まさご》にも染《にほ》ひて行かな妹が触りけむ」(同・一七九九)というので、いずれも哀深いものである。
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ひさかたの天《あめ》の香具山《かぐやま》このゆふべ霞《かすみ》たなびく春《はる》立《た》つらしも 〔巻十・一八一二〕 柿本人麿歌集
春雑歌、人麿歌集所出である。この歌は、香具山を遠望したような趣である。少くも歌調からいえば遠望であるが、香具山は低い山だし、実際は割合に近いところ、藤原京あたりから眺めたのであったかも知れない。併し一首全体は伸々としてもっと遠い感じだから、現代の人はそういう具合にして味ってかまわぬ。それから、「この夕べ」とことわっているから、はじめて霞がかかった、はじめて霞が注意せられた趣である。春立つというのは暦の上の立春というのよりも、春が来るというように解していいだろう。
この歌は或は人麿自身の作かも知れない。人麿の作とすれば少し楽に作っているようだが、極めて自然で、佶屈《きっくつ》でなく、人心を引入れるところがあるので、有名にもなり、後世の歌の本歌ともなった。併しこの歌は未だ実質的で写生の歌だが、万葉集で既にこの歌を模倣したらしい形跡の歌も見つかるのである。
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子等《こら》が名《な》に懸《か》けのよろしき朝妻《あさづま》の片山《かたやま》ぎしに霞《かすみ》たなびく 〔巻十・一八一八〕 柿本人麿歌集
人麿歌集出。朝妻山は、大和南葛城郡葛城村大字朝妻にある山で、金剛山の手前の低い山である。「片山ぎし」は、その朝妻山の麓《ふもと》で、一方は平地に接しているところである。「子等が名に懸けのよろしき」までは序詞の形式だが、朝妻という山の名は、いかにも好い、なつかしい名の山だというので、この序詞は単に口調の上ばかりのものではないだろう。この歌も一気に詠んでいるようで、ゆらぎのあるのは或は人麿的だと謂《い》っていいだろう。気持のよい、人をして苦を聯想せしめない種類のもので、やはり万葉集の歌の一特質をなしているものである。
この歌と一しょに、「巻向の檜原《ひはら》に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも」(巻十・一八一三)というのがある。これは、上半を序詞とした恋愛の歌だが、やはり巻向の檜原を常に見ている人の趣向で、ただ口の先の技巧ではないようである。それが、「おほ」という、一方は霞がほんのりとかかっていること、一方はおろそかに思うということの両方に掛けたので、此歌も歌調がいかにも好く棄てがたいのであるから、此処《ここ》に置いて味《あじわ》うことにした。
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春霞《はるがすみ》ながるるなべに青柳《あをやぎ》の枝《えだ》くひもちて鶯《うぐひす》鳴《な》くも 〔巻十・一八二一〕 作者不詳
春雑歌、作者不詳。春霞が棚引きわたるにつれて、鶯が青柳の枝をくわえながら鳴いているというので、春の霞と、萌《も》えそめる青柳と、鶯の声とであるが、鶯が青柳をくわえるように感じて、その儘こうあらわしたものであろうが、まことに好い感じで、細かい詮議《せんぎ》の立入る必要の無いほどな歌である。併し、少し詮議するなら、はやくも萌えそめた柳を鶯が保持している感じである。柳の萌えに親しんで所有する感じであるが、鶯だから啄《ついば》んで持つといったので、「くひもつ」は鶯にかかるので、「鳴く」にかかるのではない。また、ただ鶯といわずに、青柳の枝を啄《くわ》えている鶯というのだから、写象もその方が複雑で気持がよい。その鶯がうれしくて鳴くというのである。詮議すればそうだが、それを単純化してかく表わすのが万葉の歌の一つの特色でもあり、佳作の一つと謂《い》うべきである。この歌と一しょに、「うち靡《なび》く春立ちぬらし吾が門の柳の末《うれ》に鶯鳴きつ」(巻十・一八一九)があるが、平凡で取れない。また、「うち靡く春さり来れば小竹《しぬ》の末《うれ》に尾羽《をは》うち触《ふ》りて鶯鳴くも」(同・一八三〇)というのもあり、これも鶯の行為をこまかく云っている。鶯に親しむため、「尾羽うち触り」などというので、「枝くひもちて」というのと同じ心理に本づくのであろう。
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春《はる》されば樹《き》の木《こ》の暗《くれ》の夕月夜《ゆふづくよ》おぼつかなしも山陰《やまかげ》にして 〔巻十・一八七五〕 作者不詳
作者不詳。春になって木が萌え茂り、またそれが山陰であるので、そうでなくとも光のうすい夕月夜が、一層薄くほのかだという歌である。巧みでない寧《むし》ろ拙な部分の多い歌であるが、「おぼつかなしも」の句に心ひかれて此歌を抜いた。「この夜《よひ》のおぼつかなきに霍公鳥《ほととぎす》」(巻十・一九五二)の例がある。
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春日野《かすがぬ》に煙《けぶり》立《た》つ見《み》ゆ※嬬等《をとめら》[#「女+感」、下-35-10]し春野《はるぬ》の菟芽子《うはぎ》採《つ》みて煮《に》らしも 〔巻十・一八七九〕 作者不詳
菟芽子《うはぎ》は巻二の人麿の歌にもあった如く、和名鈔《わみょうしょう》に薺蒿《せいこう》で、今の嫁菜《よめな》である。春日野は平城《なら》の京から、東方にひろがっている野で、その頃人々は打連れて野遊に出たものであった。「春日野の浅茅《あさぢ》がうへに思ふどち遊べる今日は忘らえめやも」(巻十・一八八〇)という歌を見ても分かる。この歌で注意をひいたのは、野遊に来た娘たちが、嫁菜を煮て食べているだろうというので、嫁菜などは現代の人は余り珍重しないが、当時は野菜の中での上品であったものらしい。和《なごや》かな春の野に娘等を配し、それが野菜を煮ているところを以て一首を作っているのが私の心を牽《ひ》いたのであった。
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百礒城《ももしき》の大宮人《おほみやびと》は暇《いとま》あれや梅《うめ》を|頭《かざ》してここに集《つど》へる 〔巻十・一八八三〕 作者不詳
「百礒城の」は大宮にかかる枕詞で、百石城《ももしき》即ち、多くの石を以て築いた城という意で大宮の枕詞とした。一首の意は、今日は御所に仕え申す人達も、お閑《ひま》であろうか、梅花を|頭《かざし》にして、此処の野に集っていられる、というので、長閑《のどか》な光景の歌である。「大宮人は暇《いとま》あれや」の「は」は、一寸《ちょっと》聞くと、御役人などというものは暇《ひま》なものであるだろう、というように取れるが、実はそういう意味でなく、現在大宮人の野遊を見て推量したのだから、「今日は御役人は暇があるのか」ぐらいに解釈すべきところで、奈良朝の太平豊楽を讃美する気持が作歌動機にあるのである。
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春雨《はるさめ》に衣《ころも》は甚《いた》く通《とほ》らめや七日《なぬか》し零《ふ》らば七夜《ななよ》来《こ》じとや 〔巻十・一九一七〕 作者不詳
これは、女から男にやった歌の趣で、あなたは春雨が降ったので来られなかったと仰しゃるけれど、あのくらいの雨なら、そんなに衣が沾《ぬ》れ通るという程ではございますまい。そういう事なら、若し雨が七日間降りつづいたら、七晩とも御いでにならぬと仰しゃるのでございますか、というのである。女が男に迫る語気まで伝わる歌で、如何にもきびきびと、才気もあっておもしろいものである。こういう肉声をさながら聴き得るようなものは、平安朝になるともう無い。和泉式部《いずみしきぶ》がどうの、小野小町がどうのと云っても、もう間接な機智の歌になってしまって居る。
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卯《う》の花《はな》の咲《さ》き散《ち》る岳《をか》ゆ霍公鳥《ほととぎす》鳴《な》きてさ渡《わた》る君《きみ》は聞《き》きつや 〔巻十・一九七六〕 作者不詳
問答歌で、この歌は問で、答歌は「聞きつやと君が問はせる霍公鳥《ほととぎす》しぬぬに沾《ぬ》れて此《こ》ゆ鳴きわたる」(巻十・一九七七)というのであるが、問の方がやはり旨《うま》く、答の方は「鳴きわたる」などを繰返しているが、余程劣るようである。問答歌で、相手があるのだから、「君は聞きつや」で好い筈《はず》だが、こう単純にはなかなか行かぬものである。また、「卯《う》の花の咲き散る岳《をか》ゆ」と云って印象を鮮明にしているのも、技巧がなかなか旨《うま》いのである。「岳ゆ」の「ゆ」は、「より」の意で、「鳴きてさ渡る」という運動してゆく語に続いている。「咲き散る」という云いあらわし方も、時間を含めたもので、咲くのもあり散るのもあるからであるが、簡潔で旨い。「梅の花咲き散る苑《その》にわれ行かむ」(同・一九〇〇)、「秋萩の咲き散る野べの夕露に」(同・二二五二)等の例がある。普通は、「梅の花わぎへの苑に咲きて散る見ゆ」(巻五・八四一)という具合に、「て」の入っているのが多い。
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真葛原《まくずはら》なびく秋風《あきかぜ》吹くごとに阿太《あた》の大野《おほぬ》の萩《はぎ》が花《はな》散《ち》る 〔巻十・二〇九六〕 作者不詳
「阿太の野」は、今の吉野、下市町の西に大阿太村がある。その附近一帯の原野であっただろう。葛《くず》の生繁《おいしげ》っているのを靡《なび》かす秋風が吹く度毎に、阿太の野の萩が散るというのだが、二つとも初秋のものだし、一方は広葉の翻《ひるが》えるもの、一方はこまかい紅い花というので、作者の頭には両方とも感じが乗っていたものである。それを、「吹く毎に」で融合させているので、穉拙《ちせつ》なところに、却って古調の面目があらわれて居る。特に、「阿太の大野の萩が花散る」の、諧調音はいうに云われぬものである。
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秋風《あきかぜ》に大和《やまと》へ越《こ》ゆる雁《かり》がねはいや遠《とほ》ざかる雲《くも》がくりつつ 〔巻十・二一二八〕 作者不詳
「大和へ越ゆる」であるから、大和に接した国、山城とか、紀伊とか、或は旅中にあって、遠く大和の方へ行く雁を見つつ詠んだものであろう。空遠く段々見えなくなる光景で、家郷をおもう情がこもっているのである。初句の、「秋風に」という云い方は、簡潔で特色のあるものだが、後世こういう云い方が繰返されたので陳腐《ちんぷ》になった。やはりこの巻(二一三六)に、「秋風に山飛び越ゆる雁がねの声遠ざかる雲隠るらし」というのがあるが、この方は声を聞いて、「雲がくるらし」と推量しているので、伝誦のあいだに変化して通俗的に分かりよくなったものであろう。即ち二一三六の方が劣るのである。
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朝《あさ》にゆく雁《かり》の鳴《な》く音《ね》は吾《わ》が如《ごと》くもの念《おも》へかも声《こゑ》の悲《かな》しき 〔巻十・二一三七〕 作者不詳
作者不明。初句、旧訓ツトニユク、古鈔本中、ケサ又はアサと訓んだのがある。いま朝早く、飛んで行く雁の鳴く声は、何となく物悲しい。彼等もまた私のように物思《ものおもい》しているからだろう、というのである。どういう物思かというに、妻恋《つまこい》をして、妻を慕いつつ飛んで行くという気持で、自分の心持を雁に引移して感じて居るのである。この歌の、「朝に」は時間をあらわすので、「朝《あさ》に日《け》に出で見る毎に」(巻八・一五〇七)、「朝な夕なに潜《かづ》くちふ」(巻十一・二七九八)等の「に」と同じい。「物念へかも」は疑問の「かも」である。そう大した歌でないようでも、惻々《そくそく》とした哀韻があって棄てがたい。「鳴く音は」、「声の悲しき」で重複しているようだが、前は稍《やや》一般的、後は実質的で、他にも例がある。旅人《たびと》の歌に、「湯の原に鳴く葦鶴《あしたづ》はわが如く妹《いも》に恋ふれや時分かず鳴く」(巻六・九六一)というのがある。
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山《やま》の辺《べ》にい行《ゆ》く猟夫《さつを》は多《おほ》かれど山《やま》にも野《ぬ》にもさを鹿《しか》鳴《な》くも 〔巻十・二一四七〕 作者不詳
作者不明。野にも山にもしきりに牡鹿《おじか》が鳴いている。山のべに行く猟師は随分多いのだが、というので、猟師は恐ろしいものだが、それでも妻恋しさにあんなに鳴いているという、哀憐のこころで詠んだもので、西洋的にいうと、恋の盲目とでもいうところであろうか。そのあわれが声調のうえに出ている点がよく、第三句で、「多かれど」と感慨を籠《こ》めている。結句の、「鳴くも」の如きは万葉に甚だ多い例だが、古今集以後、この「も」を段々嫌って少くなったが、こう簡潔につめていうから、感傷の厭味《いやみ》に陥《おちい》らぬとも謂《い》うことが出来る。この歌の近くに、「山辺には猟夫《さつを》のねらひ恐《かしこ》けど牡鹿《をじか》鳴くなり妻の眼《め》を欲《ほ》り」(巻十・二一四九)というのがあるが、この方は常識的に露骨で、まずいものである。
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秋風《あきかぜ》の寒《さむ》く吹《ふ》くなべ吾《わ》が屋前《やど》の浅茅《あさぢ》がもとに蟋蟀《こほろぎ》鳴《な》くも 〔巻十・二一五八〕 作者不詳
「吹くなべ」は、吹くに連れてという意味なること、既に云った。この歌は既《すで》に選出した、「夕月夜《ゆふづくよ》心もしぬに白露のおくこの庭に蟋蟀《こほろぎ》鳴くも」(巻八・一五五二)に似ているが、「浅茅がもとに」というのが実質的でいいから取って置いた。結句の「も」は「さを鹿鳴くも」の「も」に等しい。万葉にはこの種類の歌がなかなか多いが皆相当なものだというのは、実質的で誤魔化《ごまか》さぬのと、奥に恋愛の心を潜《ひそ》めているからであるだろう。
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秋萩《あきはぎ》の枝《えだ》もとををに露霜《つゆじも》置《お》き寒《さむ》くも時《とき》はなりにけるかも 〔巻十・二一七〇〕 作者不詳
初冬の寒露のことをツユジモと云った。宣長は玉勝間《たまかつま》で単にツユのことだと考証しているが、必ずしもそう一徹に極《き》めずに味うことの出来る語である。萩の枝が撓《しな》うばかりに露の置いた趣《おもむき》で、そう具体的に眼前のことを云って置いて、そして、「寒くも時はなりにけるかも」と主観を云っているが、感の深い云い方であるのは、「も」、「は」などの助詞を持っているからである。
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九月《ながつき》の時雨《しぐれ》の雨《あめ》に沾《ぬ》れとほり春日《かすが》の山《やま》は色《いろ》づきにけり 〔巻十・二一八〇〕 作者不詳
この歌も伸々《のびのび》として、息をふかめて歌いあげて居る。「時雨のあめに沾《ぬ》れ通り」の句がこの歌を平板化から救って居るし、全体の具合から作者はこう感じてこう云って居るのである。「君が家の黄葉《もみぢ》の早く落《ち》りにしは時雨の雨に沾れにけらしも」(巻十・二二一七)という歌があるが平板でこの歌のように直接的なずばりとしたところがない。また「霍公鳥《ほととぎす》しぬぬに沾《ぬ》れて」(同・一九七七)等の例もあり人間以外の沾《ぬ》れた用例の一つである。結句の「色づきにけり」というのは集中になかなか例も多く、「時雨の雨間《ま》なくし零《ふ》れば真木《まき》の葉もあらそひかねて色づきにけり」(同・二一九六)もその一例である。
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大坂《おほさか》を吾《わ》が越《こ》え来《く》れば二上《ふたがみ》にもみぢ葉《ば》流る時雨《しぐれ》零《ふ》りつつ 〔巻十・二一八五〕 作者不詳
大坂は大和北葛城《きたかつらぎ》郡下田村で、大和から河内《かわち》へ越える坂になっている。二上山が南にあるから、この坂を越えてゆくと、二上山辺の黄葉が時雨に散っている光景が見えたのである。「もみぢ葉ながる」の「ながる」は水の流ると同じ語原で、流動することだから、水のほかに、「沫雪ながる」というように雪の降るのにも使っている。併し、水の流るるように、幾らか横ざまに斜に降る意があるのであろう。「天の時雨の流らふ見れば」(巻一・八二)、「ながらふるつま吹く風の」(同・五九)を見ても、雨・風にナガルの語を使っていることが分かる。「二上に」と云って、「二上山に」と云わぬのもこの歌の一特色をなしている。
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吾《わ》が門《かど》の浅茅《あさぢ》色《いろ》づく吉隠《よなばり》の浪柴《なみしば》の野《ぬ》のもみぢ散《ち》るらし 〔巻十・二一九〇〕 作者不詳
「吉隠《よなばり》の浪柴《なみしば》の野《ぬ》」は、大和磯城《しき》郡、初瀬《はせ》町の東方一里にあり、持統天皇もこの浪芝野《なみしばぬ》のあたりに行幸あらせられたことがある。自分の家の門前の浅茅が色づくを見ると、もう浪柴の野の黄葉が散るだろうと推量するので、こういう心理の歌が集中なかなか多いが、浪柴の野は黄葉の美しいので名高かったものの如く、また人の遊楽するところでもあったのであろう。そこでこの聯想も空漠《くうばく》でないのだが、私は、「浪柴の野のもみぢ散るらし」という歌調に感心したのであった。そして、「もみぢ散るらし」という結句の歌は幾つかあるような気がしていたが、実際当って見ると、この歌一首だけのようである。
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さを鹿《しか》の妻《つま》喚《よ》ぶ山《やま》の岳辺《をかべ》なる早田《わさだ》は苅《か》らじ霜《しも》は零《ふ》るとも 〔巻十・二二二〇〕 作者不詳
早稲田《わさだ》だからもう稔《みの》っているのだが、牡鹿《おじか》が妻喚ぶのをあわれに思って、それを驚かすに忍びないという歌である。それをば、「霜は降るとも」と念を押して、あわれに思うとか、同情してとかいう、主観語の無いのをも注意していい。岡辺という語は、「竜田路《たつたぢ》の岳辺《をかべ》の道に」(巻六・九七一)、「岡辺なる藤浪見には」(巻十・一九九一)等の例にある。こういう人間的とも謂うべき歌は万葉には多い。人間的というのは、有情非情に及ぼす同感が人間的にあらわれるという意味である。
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思《おも》はぬに時雨《しぐれ》の雨《あめ》は零《ふ》りたれど天雲《あまぐも》霽《は》れて月夜《つくよ》さやけし 〔巻十・二二二七〕 作者不詳
思いがけず時雨が降ったけれど、いつのまにか天雲が無くなって、月明となったというだけのものであるが、言葉がいかにも精煉《せいれん》せられているようにおもう。それも専門家的の苦心惨憺《さんたん》というのでなくて、尋常《じんじょう》の言葉で無理なくすらすらと云っていて、これだけ充実したものになるということは時代の賜《たまもの》といわなければならない。
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さを鹿《しか》の入野《いりぬ》のすすき初尾花《はつをばな》いづれの時《とき》か妹《いも》が手《て》まかむ 〔巻十・二二七七〕 作者不詳
この歌は、「いづれの時か妹が手まかむ」だけが意味内容で、何時になったら、恋しいあの児の手を纏《ま》いて一しょに寝ることが出来るだろうか、という感慨を漏《も》らしたものだが、上は序詞で、鹿の入って行く入野、入野は地名で山城乙訓《おとくに》郡大原野村上羽に入野神社がある。その入野の薄《すすき》と初尾花《はつおばな》と、いずれであろうかと云って、いずれの時かと続けたので、随分煩《うるさ》いほどな技巧を凝《こ》らしている。こういう凝った技巧は今となっては余り感心しないものだが、当時の人は骨折ったし、読む方でも満足した。併しこの歌で私の心を引いたのは、そういう序詞でなく、「いづれの時か妹が手纏かむ」の句にあったのである。聖徳太子の歌に、「家にあらば妹が手纏《ま》かむ草枕旅に臥《こや》せるこの旅人《たびと》あはれ」(巻三・四一五)があった。
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あしひきの山《やま》かも高《たか》き巻向《まきむく》の岸《きし》の子松《こまつ》にみ雪《ゆき》降《ふ》り来《く》る 〔巻十・二三一三〕 柿本人麿歌集
巻向《まきむく》は高い山だろう。山の麓《ふもと》の崖《がけ》に生えている小松にまで雪が降って来る、というので、巻向は成程《なるほど》高い山だと感ずる気持がある。「岸《きし》」は前にもあったが、川岸などの岸と同じく、山と平地との境あたりで、なだれになっているのを云うのである。「山かも高き」というような云い方は既に幾度も出て来て、常套《じょうとう》手段の如き感があるが、当時の人々は、いつもすうっとそういう云い方に運ばれて行ったものだろうから、吾々もそのつもりで味う方がいいだろう。「岸の小松にみ雪降り来る」の句を私は好いているが、小松は老松ではないけれども相当に高くとも小松といったこと、次の歌がそれを証している。
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巻向《まきむく》の檜原《ひはら》もいまだ雲《くも》ゐねば子松《こまつ》が末《うれ》ゆ沫雪《あわゆき》流る 〔巻十・二三一四〕 柿本人麿歌集
巻向の檜林《ひのきばやし》は既に出た泊瀬《はつせ》の檜林のように、広大で且つ有名であった。その檜原に未だ雨雲が掛かっていないに、近くの松の梢《こずえ》にもう雪が降ってくる、という歌で、「うれゆ」の「ゆ」は、「ながる」という流動の動詞に続けたから、現象の移動をあらわすために「ゆ」と使った。消え易いだろうが、勢いづいて降ってくる沫雪の光景が、四三調の結句でよくあらわされている。この歌は人麿歌集出の歌だから、恐らく人麿自身の作であろう。
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あしひきの山道《やまぢ》も知《し》らず白橿《しらかし》の枝《えだ》もとををに雪《ゆき》の降《ふ》れれば 〔巻十・二三一五〕 柿本人麿歌集
これも人麿歌集出で、「山道も知らず」は道も見えなくなるまで盛に雪の降る光景だが、近くにある白橿《しらかし》の樹の枝の撓《たわ》むまで降るのを見ている方が、もっと直接だから、そういう具合にひどく雪が降ったというのを原因のようにして、それで山道も見えなくなったと云いあらわしている。前に人麿の、「矢釣山《やつりやま》木立《こだち》も見えず降りみだる」(巻三・二六二)云々の歌があったが、歌調に何処かに共通の点があるようである。この一首は、或本には三方沙弥《みかたのさみ》の作になっているという左注がある。
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吾《わ》が背子《せこ》を今《いま》か今《いま》かと出《い》で見《み》れば沫雪《あわゆき》ふれり庭《には》もほどろに 〔巻十・二三二三〕 作者不詳
「庭もほどろに」は、「夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり」(巻十・二三一八)とあって、一云、「庭もほどろに雪ぞ降りたる」となって居るから、ハダラニ、ホドロニ同義であろう。既に旅人《たびと》の歌のところで解釈した如く、柔かく消え易いような感じに降ったのをハダラニ、ホドロニというのであって、ただ「薄《うっ》すらと」というのとは違うようである。「ハダレ霜」と熟したのも、消ゆるという感じと関聯している云いあらわしであろう。またハダラニ、ホドロニの例は、単に雪霜の形容であろうが、対手《あいて》を憶《おも》い、慕い、なつかしむような場合に使っているのは注意すべきで、これも消え易いという特色から、おのずから其処に関聯《かんれん》せしめたものであろうか。この一首も、女が男の来るのを、今か今かと思って屡《しばしば》家から出て見る趣であるが、男が来ずに、夜にもなり、庭には、うら悲しいような、消え易いような、柔かい雪が降っている、というのである。どうしても、この「ほどろに」には、何かを慕い、何かを要求し、不満を充《み》たそうとねがうような語感のあるとおもうのは、私だけの錯覚であろうか。「今か今か」と繰返したのも、女の語気が出ていてあわれ深い。
巻十二(二八六四)に、「吾背子を今か今かと待ち居るに夜の更《ふ》けぬれば嘆《なげ》きつるかも」。巻二十(四三一一)に、「秋風に今か今かと紐《ひも》解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ」がある。
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はなはだも夜《よ》深《ふ》けてな行《ゆ》き道《みち》の辺《べ》の五百小竹《ゆざさ》が上《うへ》に霜《しも》の降《ふ》る夜《よ》を 〔巻十・二三三六〕 作者不詳
「五百小竹《ゆざさ》」は繁った笹のことで、五百小竹《いおささ》の意だと云われている。もう繁った笹に霜が降ったころです、こんなに夜更《よふけ》にお帰りにならずに、暁になってからにおしなさい、といって、女が男の帰るのを惜しむ心持の歌である。全体が民謡風で、万人の唄《うた》うのにも適《かな》っているが、はじめは誰か、女一人がこういうことを云ったものであろう、そこに切にひびくものがあり、愛情の纏綿《てんめん》を伝えている。女が男の帰るのを惜しんでなるべく引きとめようとする歌は可なり万葉に多く、既に評釈した、「あかときと夜烏《よがらす》鳴けどこのをかの木末《こぬれ》のうへはいまだ静けし」(巻七・一二六三)などもそうだが、万葉のこういう歌でも実質的、具体的だからいいので、後世の「きぬぎぬのわかれ」的に抽象化してはおもしろくないのである。
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新室《にひむろ》を踏《ふ》み鎮《しづ》む子《こ》し手玉《ただま》鳴《な》らすも玉《たま》の如《ごと》照《て》りたる君《きみ》を内《うち》へと白《まを》せ 〔巻十一・二三五二〕 柿本人麿歌集
旋頭歌《せどうか》で、人麿歌集所出である。一首の意は、新しく家を造るために、その地堅め地鎮の祭を行うので、大勢の少女《おとめ》等が運動に連れて手飾《てかざり》の玉を鳴らして居るのが聞こえる。あの玉のように立派な男の方をば、この新しい家の中へおはいりになるように御案内申せ、というのである。この歌は大勢の若い女の心持が全体を領しているのであるが、そこに一人の美しい男を点出して、その男を中心として大勢の女の体も心も運動循環《じゅんかん》する趣である。一首の形式は、旋頭歌だから、「手玉鳴らすも」で休止となる。短歌なら第三句で序詞になるところであろうが、旋頭歌では第四句から新《あらた》に起す特色がある。民謡風な労働につれてうたう労働歌というようなもので、重々しい調べのうちに甘い潤《うるお》いもあり珍しいものだが、明かに人麿作と記されている歌に旋頭歌は一つもないのに、人麿歌集には纏《まと》まって旋頭歌が載《の》って居り、相当におもしろいものばかりであるのを見れば、或は人麿自身が何かの機縁にこういう旋頭歌を作り試みたものであったのかも知れない。
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長谷《はつせ》の五百槻《ゆつき》が下《もと》に吾《わ》が隠《かく》せる妻《つま》茜《あかね》さし照《て》れる月夜《つくよ》に人《ひと》見《み》てむかも 〔巻十一・二三五三〕 柿本人麿歌集
旋頭歌。人麿歌集出。長谷《はつせ》は今の磯城郡初瀬《はせ》町を中心とする地、泊瀬《はつせ》。五百槻《ゆつき》は五百槻《いおつき》のことで、沢山の枝ある槻《けやき》のことである。そこで、一首の意は、長谷《はつせ》(泊瀬)の、槻の木の茂った下に隠して置いた妻。月の光のあかるい晩に誰かほかの男に見つかったかも知れんというので、上と下と意味が関聯している。併し旋頭歌だから、下から読んでも意味が通じるのである。この歌も民謡的だが、素朴《そぼく》でいかにも当時の風俗が分かっておもしろい。旋頭歌の調子は短歌の調子と違ってもっと大きく流動的にすることが出来る。内容もまた複雑にすることが出来るが、それをするといけない事を意識して、却《かえ》って単純にするために繰返しを用いている。
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愛《うつく》しと吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》は早《はや》も死《し》ねやも生《い》けりとも吾《われ》に依《よ》るべしと人《ひと》の言《い》はなくに 〔巻十一・二三五五〕 柿本人麿歌集
旋頭歌。人麿歌集出。一首の意。可哀《かあい》くおもう自分のあの女は、いっそのこと死んでしまわないか、死ぬ方がいい。縦《たと》い生きていようとも、自分に靡《なび》き寄る見込が無いから、というので、これも旋頭歌だからどちらから読んでもいい。強く愛している女を独占しようとする気持の歌で、今読んでも相当におもしろいものである。「うつくし」は愛することで、「妻子《めこ》みればめぐしうつくし」(巻五・八〇〇)の例がある。「死ねやも」は、「雷神《なるかみ》の少し動《とよ》みてさしくもり雨も降れやも」(巻十一・二五一三)と同じである。併しこの訓には異説もある。この愛するあまり、「死んでしまえ」と思う感情の歌は後世のものにもあれば、俗謡にもいろいろな言い方になってひろがって居る。
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朝戸出《あさとで》の君《きみ》が足結《あゆひ》を潤《ぬ》らす露原《つゆはら》早《はや》く起《お》き出《い》でつつ吾《われ》も裳裾《もすそ》潤《ぬ》らさな 〔巻十一・二三五七〕 柿本人麿歌集
同前。朝早くお帰りになるあなたの足結《あゆい》を潤《ぬ》らす露原よ。私も早く起きてその露原で御一しょに裳《も》の裾《すそ》を潤《ぬ》らしましょう、というのである。別《わかれ》を惜しむ気持でもあり、愛着する気持でもあって、女の心の濃《こま》やかにまつわるいいところが出て居る。「吾妹子が赤裳《あかも》の裾の染《し》め湿《ひ》ぢむ今日の小雨《こさめ》に吾さへ沾《ぬ》れな」(巻七・一〇九〇)は男の歌だが同じような内容である。
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垂乳根《たらちね》の母《はは》が手放《てはな》れ斯《か》くばかり術《すべ》なき事《こと》はいまだ為《せ》なくに 〔巻十一・二三六八〕 柿本人麿歌集
人麿歌集出。正述心緒《ただにおもいをのぶ》という歌群の中の一つである。一首の意は、物ごころがつき、年ごろになって、母の哺育《ほいく》の手から放れて以来、こんなに切ないことをしたことはない、というので、恋の遣瀬無《やるせな》いことを歌ったものである。これは、男の歌か女の歌か字面だけでは分からぬが、女の歌とする方が感に乗ってくるようである。術《すべ》なき事というのは、どうしていいか為方《しかた》の分からぬ気持で、「術《すべ》なきものは」、「術《すべ》の知らなく」、「術《すべ》なきまでに」等の例があり、共に心のせっぱつまった場合を云っている。下の句の切実なのは読んでいるうち分かるが、上の句にもやはりその特色があるので、此上の句のためにも一首が切実になったのである。憶良《おくら》が熊凝《くまこり》を悲しんだものに、「たらちしや母が手離れ」(巻五・八八六)といったのは、此歌を学んだものであろう。なお、「黒髪に白髪《しろかみ》まじり老ゆるまで斯《かか》る恋にはいまだ逢はなくに」(巻四・五六三)という類想の歌もある。第二句、「母之手放」は、ハハノテソキテ、ハハガテカレテ等の訓もあるが、今契沖《けいちゅう》訓に従った。
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人《ひと》の寐《ね》る味宿《うまい》は寐《ね》ずて愛《は》しきやし君《きみ》が目《め》すらを欲《ほ》りて歎《なげ》くも 〔巻十一・二三六九〕 柿本人麿歌集
同上、人暦歌集出。一首の意は、このごろはいろいろと思い乱れて、世の人のするように安眠が出来ず、恋しいあなたの眼をばなお見たいと思って歎いて居ります、というので、これも女の歌の趣である。「目すら」は「目でもなお」の意で、目を強めている。今の口語になれば、「目でさえも」ぐらいに訳してもいい。「言問《ことと》はぬ木すら妹《いも》と背《せ》ありとふをただ独《ひと》り子《ご》にあるが苦しさ」(巻六・一〇〇七)がある。一首は、取りたててそう優れているという程ではないが、感情がとおって居り、「目すらを」と云って、「目」に集注したいい方に注意したのであった。こういういい方は、憶良の、「たらちしの母が目見ずて」(巻五・八八七)はじめ、他にも例があり、なお、「人の寝る味眠《うまい》は寝ずて」(巻十三・三二七四)等の用例を参考とすることが出来る。
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朝影《あさかげ》に吾《わ》が身《み》はなりぬ玉《たま》耀《かぎ》るほのかに見《み》えて去《い》にし子《こ》故《ゆゑ》に 〔巻十一・二三九四〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。「朝影」というのは、朝はやく、日出後間もない日の光にうつる影が、細長くて恰《あたか》も恋に痩せた者のようだから、そのまま取って、「朝影になる」という云い方をしたのである。その頃の者は朝早く女の許《もと》から帰るので、こういう実際を幾たびも経験してこういう語を造るようになったのは興味ふかいことである。「玉かぎる」は玉の光のほのかな状態によって、「ほのか」にかかる枕詞とした。一首は、これまでまだ沁々《しみじみ》と逢ったこともない女に偶然逢って、その後逢わない女に対する恋の切ないことを歌ったものである。「玉かぎるほのかにだにも見えぬおもへば」(巻二・二一〇)、「玉かぎるほのかに見えて別れなば」(巻八・一五二六)等の例がある。この歌は男の心持になって歌っている。
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行《ゆ》けど行《ゆ》けど逢《あ》はぬ妹《いも》ゆゑひさかたの天《あめ》の露霜《つゆじも》に濡《ぬ》れにけるかも 〔巻十一・二三九五〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。行きつつ幾ら行っても逢う当《あて》のない恋しい女のために、こうして天の露霜に濡れた、というのである。苦しい調子でぽつりぽつりと切れるのでなく、連続調子でのびのびと云いあらわしている。それは謂《いわ》ゆる人麿調ともいい得るが、それよりも寧《むし》ろ、この歌は民謡的の歌だからと解釈することも出来るのである。併し、この種類の歌にあっては目立つものだから、その一代表のつもりで選んで置いた。「ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露《やましたつゆ》に沾《ぬ》れにけるかも」(巻七・一二四一)などと較べると、やはり此歌の方が旨い。
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朱《あか》らひく膚《はだ》に触《ふ》れずて寝《ね》たれども心《こころ》を異《け》しく我《わ》が念《も》はなくに 〔巻十一・二三九九〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。一首の意は、今夜は美しいお前の膚《はだ》にも触れずに独寝《ひとりね》したが、それでも決して心がわりをするようなことはないのだ、今夜は故障があってついお前の処に行かれず独りで寝てしまったが、私の心に別にかわりがない、というのであろう。「心を異しく」は、心がわりするというほどの意で、集中、「逢はねども異《け》しき心をわが思はなくに」(巻十四・三四八二)、「然れども異《け》しき心をあがおもはなくに」(巻十五・三五八八)等の例がある。女の美しい膚のことをいい、覚官的に身体的に云っているのが、ただの平凡な民謡にしてしまわなかった原因であろう。アカラヒク・ハダに就き、代匠記初稿本に、「それは紅顔のにほひをいひ、今は肌《はだへ》の雪のごとくなるに、すこし紅のにほひあるをいへり」といい、精撰本に、「朱引秦《アカヲヒクハダ》トハ、紅顔ニ応ジテ肌モニホフナリ」と云ったのは、契沖の文も覚官的で旨《うま》い。
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恋《こ》ひ死《し》なば恋《こ》ひも死《し》ねとや我妹子《わぎもこ》が吾家《わぎへ》の門《かど》を過《す》ぎて行《ゆ》くらむ 〔巻十一・二四〇一〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。一首の意は、恋死《こいじに》をするなら、勝手にせよというつもりで、あの恋しい女はおれの家の門を素通りして行くのだろう、というのである。こういうのも恋の一心情で、それを自然に誰の心にも這入《はい》って行けるように歌うのが民謡の一特徴であるが、鋭敏に心の働いたところがあるので、共鳴する可能性も多いのである。「恋ひ死なば恋も死ねとや玉桙《たまぼこ》の道ゆく人にことも告げなく」(巻十一・二三七〇)、「恋ひ死なば恋も死ねとや霍公鳥《ほととぎす》もの念《も》ふ時に来鳴き響《とよ》むる」(巻十五・三七八〇)等のあるのは、やはり模倣だとおもうが、こう比較してみると、人麿歌集のこの歌の方が旨い。
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恋《こ》ふること慰《なぐさ》めかねて出《い》で行《ゆ》けば山《やま》も川《かは》をも知《し》らず来《き》にけり 〔巻十一・二四一四〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。一首の意は、この恋の切ない思を慰めかね、遣《や》りかねて出でて来たから、山をも川をも夢中で来てしまった、というのである。「いで行けば」といったり、「来にけり」と云ったりして、調和しないようだが、そういう巧緻《こうち》でないようなところがあっても、真率《しんそつ》な心があらわれ、自分の心をかえりみるような態度で、「来にけり」と詠歎したのに棄てがたい響がある。第二句、「こころ遣《や》りかね」とも訓んでいる。これは、「おもふどち許己呂也良武等《ココロヤラムト》」(巻十七・三九九一)等の例に拠《よ》ったものであるが、「恋しげみ|奈具左米可禰《ナグサメカネテ》」(巻十五・三六二〇)の例もあるから、いずれとも訓み得るのである。今旧訓に従って置いた。それから、「ゆく」も「くる」も、主客の差で、根本の相違でないことがこの例でも分かるし、前出の、「大和には鳴きてか来らむ呼子鳥」(巻一・七〇)の歌を想起し得る。石上《いそのかみ》卿の、「ここにして家やもいづく白雲の棚引く山を越えて来にけり」(巻三・二八七)の例がある。
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山科《やましな》の木幡《こはた》の山《やま》を馬《うま》はあれど歩《かち》ゆ吾《わ》が来《こ》し汝《な》を念《おも》ひかね 〔巻十一・二四二五〕 柿本人麿歌集
寄レ物陳レ思という部類の歌に入れてある。人麿歌集出。「山科の木幡の山」は、山城宇治郡、現在宇治村木幡で、桃山御陵の東方になっている。前の歌に、強田《こはだ》とあったのと同じである。一首の意は、山科の木幡の山道をば徒歩でやって来た。おれは馬を持っているが、お前を思う思いに堪えかねて徒歩で来たのであるぞ、というのである。旧訓ヤマシナノ・コハダノヤマニ。考ヤマシナノ・コハダノヤマヲ。つまり、「木幡の山を歩み吾が来し」となるので、なぜ、「馬はあれど」と云ったかというに、馬の用意をする暇もまどろしくて、取るものも取《とり》あえず、というのであろう。本来馬で来れば到着が早いのであるが、それは理論で、まどろしく思う情の方は直接なのである。詩歌では情の直接性を先にするわけになるから、こういう表現となったものである。女にむかっていう語として、親しみがあっていい。
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大船《おほふね》の香取《かとり》の海《うみ》に碇《いかり》おろし如何《いか》なる人《ひと》か物《もの》念《おも》はざらむ 〔巻十一・二四三六〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。「大船の香取の海に碇おろし」までは、「いかり」から「いかなる」に続けた序詞であるから、一首の内容は、「いかなる人か物念はざらむ」、即ち、おれはこんなに恋に苦しんで居るが、世の中のどんな人でも恋に苦しまないものはあるまい、というだけの歌である。序詞は意味よりも声調にあるので、何か重々しいような声調で心持を暗指するぐらいに解釈すればいい。「香取の海」は、近江にも下総にもあるが、「高島の香取の浦ゆ榜ぎでくる舟」(巻七・一一七二)とある近江湖中の香取の浦としていいだろう。なおこの巻(二七三八)に、「大船のたゆたふ海に碇《いかり》おろし如何にせばかも吾が恋ひ止まむ」とあるのと類似して居り、この二七三八の方は異伝であろう。
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ぬばたまの黒髪山《くろかみやま》の山菅《やますげ》に小雨《こさめ》零《ふ》りしきしくしく思《おも》ほゆ 〔巻十一・二四五六〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。この歌の内容は、ただ、「しくしく思ほゆ」だけで、そのうえは序詞である。ただ黒髪山の山菅《やますげ》に小雨の降るありさまと相通ずる、そういううら悲しいような切《せつ》なおもいを以て序詞としたものであろう。山菅は山に生えるスゲのたぐい、或はヤブラン、リュウノヒゲ一類、どちらでも解釈が出来、古人はそういうものを一つ草とおもっていたものと見えるから、今の本草学の分類などで律しようとすると解釈が出来なくなって来るのである。この歌も取りわけ秀歌という程のものでないが、ただ結句だけで内容とする歌も珍しいので選んで置いた。
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我背子《わがせこ》に吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の草《くさ》さへ思《おも》ひうらがれにけり 〔巻十一・二四六五〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。一首の意は、私の夫を待遠しく恋しがって居ると、家の庭の草さえも思い悩んで枯れてしまいました、というので女の歌である。「吾が恋ひ居れば吾が屋戸の」という具合に、「わが」を繰返しているのは、意識的らしく、少しく軽く聞こえるが、「草さへ思ひうらがれにけり」という息の長い、伸々した調《しらべ》によって落着《おちつき》を得ているのは注意すべきである。特にこの下の句は伸びているうちに、悲哀の感動を含めたものだから、上の句の稍《やや》小きざみになったのは自然の調べなのか、よく分らないが、「我が」を三つも繰返したのは感心しない。そこに行くと、「君待つと吾が恋ひ居ればわが屋戸《やど》の簾《すだれ》うごかし秋の風吹く」(巻四・四八八)の方が旨《うま》い。似ているが初句の「君待つと」で緊《しま》っている。結句は、近時橋本氏によって、ウラブレニケリの訓が唱えられた。
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山萵苣《やまちさ》の白露《しらつゆ》おもみうらぶるる心《こころ》を深《ふか》み吾《わ》が恋《こ》ひ止《や》まず 〔巻十一・二四六九〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。山萵苣《やまちさ》は食用にする萵苣《ちさ》で、山に生えるのを山萵苣といったものであろう。エゴの木だという説もあるが、白露おくという草に寄せた歌だから、大体食用の萵苣と解釈していいようである。露のために花のしなっているように心の萎《しな》える心持で序詞とした。この歌も取りたてていう程のものでないが、「心を深みわが恋ひ止まず」の句が棄てがたいから選んで置いたし、萵苣は食用菜で、日常生活によって見ているものを持って来たのがおもしろいと思ったのである。
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垂乳根《たらちね》の母《はは》が養《か》ふ蚕《こ》の繭隠《まよごも》りこもれる妹《いも》を見《み》むよしもがも 〔巻十一・二四九五〕 柿本人麿歌集
同上、人麿歌集出。第三句迄は序詞で、母の飼っている蚕《かいこ》が繭《まゆ》の中に隠《こも》るように、家に隠って外に出ない恋しい娘を見たいものだ、というので、この繭のことを云うのも日常生活の経験を持って来ている。蚕に寄する恋といっても、題詠ではなく、斯《こ》ういう歌が先ず出来てそれから寄レ物恋と分類したものである。この歌は序詞のおもしろみというよりも、全体が実生活を離れず、特に都会生活でない農民生活を示すところがおもしろいのである。巻十二(二九九一)に、「垂乳根の母が養《か》ふ蚕《こ》の繭隠《まよごも》りいぶせくもあるか妹にあはずて」というのがあり、巻十三(三二五八)の長歌に、「たらちねの母が養ふ蚕の、繭隠り気衝《いきづ》きわたり」というのがあるが、やはり此歌の方が旨い。「いぶせく」では続きが突如としても居り、不自然で妙味がないようである。
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垂乳根《たらちね》の母《はは》に障《さは》らばいたづらに汝《いまし》も吾《われ》も事《こと》成《な》るべしや 〔巻十一・二五一七〕 作者不詳
正述二心緒一。作者不明。一首の意は、母に遠慮して気兼してぐずぐずしているなら、お前も私もこの恋を遂げることが出来んではないかというので、男が女を促す趣の歌である。男が気を急いで女に向って斯《か》くまで強いことをいうのも或《ある》場合の自然であり、娘の方で母のことをいろいろ気を揉《も》むことも背景にあって、なかなかおもしろい歌である。やはりこの巻(二五五七)に、「垂乳根の母に申さば君も我も逢ふとはなしに年ぞ経ぬべき」というのもあるが、これも母に話して承諾を得る趣で、これも娘心であるが、「母に障《さは》らば」という方が直截《ちょくせつ》でいい。
この「障らば」をば、母の機嫌《きげん》を害《そこな》うならばと解する説がある。これは「障《さはり》」の用例に本づく説であるが、「障《さは》りあらめやも」、「障《さは》り多み」、「障《さは》ることなく」等だけに拠《よ》るとそうなるかも知れないが、「石《いそ》の上《かみ》ふるとも雨に関《さは》らめや妹に逢はむと云ひてしものを」(巻四・六六四)。「他言《ひとごと》はまこと煩《こちた》くなりぬともそこに障《さは》らむ吾ならなくに」(巻十二・二八八六)。「あしひきの山野さはらず」(巻十七・三九七三)等は、巻四の例に「関」の字を当てた如く、「それに拘わることなく、関係することなく」の意があるので、「山野さはらず」の如くに、そのために礙《さまた》げらるることなくというのは第二に導かれる意味になるのであるから、この歌はやはり、「母に関《かか》わることなく、拘泥《こうでい》することなく」と解釈していいと思う。また歌もそう解釈する方がおもしろい。
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苅薦《かりごも》の一重《ひとへ》を敷《し》きてさ寐《ぬ》れども君《きみ》とし寝《ぬ》れば寒《さむ》けくもなし 〔巻十一・二五二〇〕 作者不詳
作者不明。薦蓆《こもむしろ》をただ一枚敷いて寝ても、あなたと御一しょですから、ちっともお寒くはありません、「君とし」とあるから大体女の歌として解していいであろう。第四句原文が、「君共宿者」であるから、キミガムタ。キミトモ。等の訓があるが、「伎美止之不在者《キミトシアラネバ》」(巻十八・四〇七四)などを参考して、平凡にキミトシヌレバと訓むのに従った。これも民謡風に率直に覚官的にいいあらわしている。「蒸被《むしぶすま》なごやが下《した》に臥《ふ》せれども妹とし宿《ね》ねば肌し寒しも」(巻四・五二四)というのは、同じような気持を反対に云ったものだが、この歌の方が、寧《むし》ろ実際的でそこに強みがあるのである。
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振分《ふりわけ》の髪《かみ》を短《みじか》み春草《はるくさ》を髪《かみ》に綰《た》くらむ妹《いも》をしぞおもふ 〔巻十一・二五四〇〕 作者不詳
振分髪というのは、髪を肩のあたり迄《まで》垂らして切るので、まだ髪を結ぶまでに至らない童女、また童男の髪の風を云う。「綰《た》く」は加行下二段の動詞で、髪を束《たば》ねあげることである。一首の意は、あの児は短い振分髪で、まだ髪を結えないので、春草を足して髪に束ねてでもいるだろうか、可哀《かあ》いいあどけないあの児のことがおもいだされる、というくらいの意とおもう。童女のことを歌っているのが珍しいのであるが、あの時代には随分小さくて男女の関係を結んだこともあったと見做《みな》してこの歌を解釈することも出来る。真間の手児名なども、ようやくおとめになったかならぬころではなかっただろうか。いずれにしても珍しい歌である。第三句流布本《るふぼん》「青草《ワカクサ》」であったのを古義で「春草」としたが、古鈔本中(温・京)に「春」とあるし、契沖既に注意している。
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念《おも》はぬに到《いた》らば妹《いも》が歓《うれ》しみと笑《ゑ》まむ眉引《まよびき》おもほゆるかも 〔巻十一・二五四六〕 作者不詳
作者不明。一首の意。突然に女のところに行ったら、嬉《うれ》しいと云ってにこにこする様子が想像せられて云いようなく楽しい、というので、昔も今もかわりない人情の機微が出て居る歌である。ただ現代語と違って古語だから、軽薄に聞こえずに濃厚に聞こえるのである。おもいがけず、突然に、というのを「念はぬに」という。「念はぬに時雨の雨は降りたれど」(巻十・二二二七)。「念はぬに妹が笑《ゑま》ひを夢に見て」(巻四・七一八)等の例がある。「歓《うれ》しみと」の「と」の使いざまは、「歓《うれ》しみと紐の緒解きて」(巻九・一七五三)とある如く、「と云って」の意である。にこにこと匂《にお》うような顔容をば、「笑まむ眉引」というのも、実に旨いので、古語の優れている点である。やはり此巻(二五二六)に、「待つらむに到らば妹が歓《うれ》しみと笑《ゑ》まむすがたを行きて早見む」というのがあり、大《おおい》に似ているが、この方は常識的で、従って感味が浅い。なお、巻十二(三一三八)に、「年も経ず帰り来《こ》なむと朝影に待つらむ妹が面影に見ゆ」というのもある。
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斯くばかり恋ひむものぞと念《おも》はねば妹《いも》が袂《たもと》を纏《ま》かぬ夜もありき 〔巻十一・二五四七〕 作者不詳
作者不明。こんなに恋しいものだとは思わなかったから、妹といっしょに寝ない晩もあったのだが、こうして離れてしまうと堪えがたく恋しい。容易《たやす》く逢われた頃になぜ毎晩通わなかったのか、と歎く気持の歌である。当時の男女相逢う状態を知ってこの歌を味うとまことに感の深いものがある。ただこのあたりの歌は作者不明で皆民謡的なものだから、そのつもりで味うこともまた必要である。巻十二(二九二四)に、「世のなかに恋繁《しげ》けむと思はねば君が袂《たもと》を纏《ま》かぬ夜もありき」というのがあり、どちらかが異伝だろうが、巻十一の此歌の方が稍《やや》素直《すなお》である。
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相《あひ》見《み》ては面《おも》隠《かく》さるるものからに継《つ》ぎて見《み》まくの欲《ほ》しき君《きみ》かも 〔巻十一・二五五四〕 作者不詳
作者不明。お目にかかれば、お恥かしくて顔を隠したくなるのですけれど、それなのに、度々あなたにお目にかかりたいのです、という女の歌である。つつましい女が、身を以《もっ》て迫《せま》るような甘美なところもあり、なかなか以て棄てがたい歌である。「面隠さるる」は面隠《おもがくし》をするように自然になるという意。「玉勝間《たまかつま》逢はむといふは誰なるか逢へる時さへ面隠《おもがくし》する」(巻十二・二九一六)の例がある。「ものからに」は、「ものながらに」、「ものであるのに」の意。「路《みち》遠み来じとは知れるものからに然《し》かぞ待つらむ君が目を欲《ほ》り」(巻四・七六六)の「ものからに」も同様で、おいでにならないとは承知していますのに、それでも私はあなたをお待ちしていますという歌である。白楽天の琵琶行に、猶抱二琵琶一半遮レ面の句がある。
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人《ひと》も無《な》き古《ふ》りにし郷《さと》にある人《ひと》を愍《めぐ》くや君《きみ》が恋《こひ》に死《し》なする 〔巻十一・二五六〇〕 作者不詳
作者不明であるが、旧都にでもなったところに残り住んでいる女から、京にいる男にでも遣った歌のように受取れる。もう寂しくなって人も余り居らないこの旧都に残って居ります私に、可哀《かあい》そうにも恋死をさせるおつもりですか、とでもいうのであろう。「めぐし」は、「妻子《めこ》見ればめぐし愛《うつく》し」(巻五・八〇〇)、「妻子《めこ》見ればかなしくめぐし」(巻十八・四一〇六)等の「めぐし」は愛情の切なことをあらわしているが、「今日のみはめぐしもな見そ言も咎むな」(巻九・一七五九)、「こころぐしめぐしもなしに」(巻十七・三九七八)の「めぐし」は、むごくも可哀想にもの意で前と意味が違う、その意味は此処でも使っている。語原的にはこの方が本義で、心ぐし、目ぐしの「ぐし」も皆同じく、「目ぐし」は、目に苦しいまでに附くことから来たものであろうか。結句従来シナセムであったのを、新考でシナスルと訓んだ。
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偽《いつはり》も似《に》つきてぞする何時《いつ》よりか見《み》ぬ人《ひと》恋《こ》ふに人《ひと》の死《しに》せし 〔巻十一・二五七二〕 作者不詳
一首の意。嘘をおっしゃるのも、いい加減になさいまし、まだ一度もお逢いしたことがないのに、こがれ死《じに》するなどとおっしゃる筈《はず》はないでしょう。何時の世の中にまだ見ぬ恋に死んだ人が居りますか、というような意味のことを、こういう簡潔な古語でいいあらわしているのは実に驚くべきである。「偽《いつはり》も似つきてぞする」は、偽をいうにも幾らか事実に似ているようにすべきだ、余り出鱈目《でたらめ》の偽では困る、というようなことを、斯う簡潔にいうので日本語の好いところが遺憾なく出ているのである。一首全体が、きびきびとした女の語気から成り皮肉のような言葉のうちに男に寄ろうとする親密の心をも含めて、まことに珍しい歌の一つである。結句、古鈔本中、ヒトノシニスルの訓あり、略解《りゃくげ》でヒトノシニセシと訓《よ》んだ。第四句コフルニ(沢潟《おもだか》)の訓がある。
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早《はや》行《ゆ》きて何時《いつ》しか君《きみ》を相《あひ》見《み》むと念《おも》ひし情《こころ》今《いま》ぞ和《な》ぎぬる 〔巻十一・二五七九〕 作者不詳
いそいで行って、一時もはやくお前に逢いたいとおもっていたのだったが、こうしてお前を見るとやっと心が落着いた、というのだろうが、「君」を男とすると、解釈が少し不自然になるから、やはり此歌は、男が女に向って「君」と呼んだことに解する方が好いだろう。私は、「今ぞ和ぎぬる」という句に非常に感動してこの歌を選んだ。このナギヌルの訓は従来からそうであるが、嘉暦《かりゃく》本にはイマゾユキヌルと訓んでいる。「あが念《も》へる情《こころ》和《な》ぐやと、早く来て見むとおもひて」(巻十五・三六二七)、「相見ては須臾《しま》しく恋は和《な》ぎむかとおもへど弥々《いよよ》恋ひまさりけり」(巻四・七五三)、「見る毎に情《こころ》和ぎむと、繁山《しげやま》の谿《たに》べに生《お》ふる、山吹を屋戸《やど》に引植ゑて」(巻十九・四一八五)、「天《あま》ざかる鄙《ひな》とも著《しる》く許多《ここだ》くもしげき恋かも和《な》ぐる日もなく」(巻十七・四〇一九)等の例に見るごとく、加行上二段に活用する動詞である。
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面形《おもがた》の忘《わす》るとならばあ|ぢ《イづ》きなく男《をのこ》じものや恋《こ》ひつつ居《を》らむ 〔巻十一・二五八〇〕 作者不詳
あの女の顔貌《かおかたち》が忘られてしまうものなら、男子たるおれが、こんなに甲斐《かい》ない恋に苦しんで居ることは無いのだが、どうしてもあの顔を忘れることが出来ぬ、というのである。「男じもの」の「じもの」は「何々の如《ごと》きもの」というので、「鹿《しし》じもの」は鹿の如きもの、でつまりは、鹿たるものとなるから、「男《をのこ》じもの」は、男の如きもの、男らしきもの、男子たるもの、男子として、大丈夫たるもの等の言葉に訳することも出来るのである。結句の「居らむ」は形は未来形だが、疑問があり詠歎に落着く語調である。この歌の真率であわれな点が私の心を牽《ひ》いたので選んで置いた。単に民謡的に安易に歌い去っていない個的なところのある歌である。それから、「面形《おもがた》」云々という用語も注意すべきであるが、これは、「面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろに棚引く雲を見つつ偲《しぬ》ばむ」(巻十四・三五二〇)という歌もあり、一しょにして味うことが出来る。
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あ|ぢ《イづ》き無《な》く何《なに》の枉言《たはこと》いま更《さら》に小童言《わらはごと》する老人《おいびと》にして 〔巻十一・二五八二〕 作者不詳
枉言はマガコトと訓《よ》んでいたが、略解で狂言としてタハコトと訓んだ。一首は、何という愚《おろか》な戯痴《たわけ》たことを俺《おれ》は云ったものか、この老人が年甲斐《としがい》もなく、今更小供等のような真似《まね》をして、というので、それでも、あの女が恋しくて堪えられないという意があるのである。これは女に対《むか》って恋情を打明けたのちに、老体を顧《かえり》みた趣の歌だが、初句に、「あぢきなく」とあるから、遂げられない恋の苦痛が一番強く来ていることが分かる。これは老人の恋でまことに珍らしいものである。「あぢきなく」は「あづきなく」ともいい、「なかなかに黙《もだ》もあらましをあぢきなく相見始《そ》めても吾は恋ふるか」(巻十二・二八九九)の例がある。実に甲斐のない、まことにつまらないという程の語である。「わらは」は童男童女いずれにもいい、「老人《おいびと》も女童児《をみなわらは》も、其《し》が願ふ心足《だら》ひに」(巻十八・四〇九四)の例がある。
恋愛の歌は若い男女のあいだの独占で、それゆえ寒山詩にも、老翁娶二少婦一、髪白婦不レ耐、老婆嫁二少夫一、面黄夫不レ愛、老翁娶二老婆一、一一無二棄背一、少婦嫁二少夫一、両両相憐態、とあるのだが、万葉には稀《まれ》にこういう老人の恋の歌もあるのは、人間の実際を虚偽なく詠歎したのが残っているので、賀茂真淵《かものまぶち》が、「古《いにし》への世の歌は人の真心なり」云々《うんぬん》というのは、こういうところにも触れているのである。なお万葉には、竹取《たかとりの》翁と娘子等の問答(巻十六)のほかに、石川女郎《いしかわのいらつめ》の、「古りにし嫗《おむな》にしてや斯くばかり恋にしづまむ手童《たわらは》の如《ごと》」(巻二・一二九)があり、「いそのかみ布留《ふる》の神杉《かむすぎ》神《かむ》さびて恋をも我は更にするかも」(巻十一・二四一七)、「現《うつつ》にも夢《いめ》にも吾は思《も》はざりき旧《ふ》りたる君に此処に会《あ》はむとは」(同・二六〇一)等があり、老人の恋でおもしろい。
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奥山《おくやま》の真木《まき》の板戸《いたど》を音《おと》速《はや》み妹《いも》があたりの霜《しも》の上《へ》に宿《ね》ぬ 〔巻十一・二六一六〕 作者不詳
「音速み」は、音がひどいのでの意で、今なら音響の鋭敏などというところを、「音速み」と云っているのは旨いものである。「奥山の真木の」までは序詞。一首の意は、折角女の家まで行って板戸をたたいたが、その音が余り大きく響くので、家人に気づかれるのを怖れて、近くの霜の上に寝た、というので、民謡風のものだが、そう簡単に片付けてしまわれぬものがある。「霜の上に寝ぬ」は民謡的に誇張があり文学的ないい方である。けれどもそれをただの誇張として素通り出来ぬものを感ずるのはどういうわけであろうか。「妹ガ閨《ねや》ノ板戸ヲ開ムトスレバ、音ノ高クテ人ノ聞付ム事ヲ恐レ、サリトテ帰リモエヤラデ其アタリノ霜ノ上ニ一夜寝タルトナリ」(代匠記)の解は簡潔でよいから記して置く。新考で、「音速」を、「押し難み」だろうといったが、それは古今集ばり常識である。
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月夜《つくよ》よみ妹に逢はむと直道《ただぢ》から吾は来つれど夜ぞふけにける 〔巻十一・二六一八〕 作者不詳
「直道」は、真直な道、まわり道しない道のこと、近道。「から」は「より」と同じで、「之乎路《しをぢ》から直越《ただこ》え来れば羽咋《はぐひ》の海朝なぎしたり船楫《ふねかぢ》もがも」(巻十七・四〇二五)、「直《ただ》に行かず此《こ》ゆ巨勢路《こせぢ》から石瀬《いはせ》踏み求《と》めぞ吾が来し恋ひて術《すべ》なみ」(巻十三・三三二〇)、「ほととぎす鳴きて過ぎにし岡傍《をかび》から秋風吹きぬよしもあらなくに」(巻十七・三九四六)などの「から」は皆「より」の意味だから、只今私等の使う「から」は既にこの頃からあったのである。この歌は、急いでまわり道もせずに来たが、それでも夜が更《ふ》けたという、そこに感慨があるのである。直接に女に愬《うった》えていない客観的ないい方だけれども民謡的な特徴が其処《そこ》に存じている。
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燈《ともしび》のかげに耀《かがよ》ふうつせみの妹《いも》が咲《ゑまひ》しおもかげに見ゆ 〔巻十一・二六四二〕 作者不詳
寄レ物述レ思の中に分類せられている。自分の恋しい女が燈火のもとにいて、嬉しそうににこにこしていた時の、何ともいえぬ美しく耀《かがや》くような現身《うつせみ》即ち体《からだ》そのものの女が、今おもかげに立って来ている、というのである。この歌は嬉しい心持で女身を讃美しているのだから、幾分誇張があって、美麗過ぎる感があるけれども、本人は骨折っているのだからそれに同情して味う方がいい。「年も経ず帰り来《こ》なむと朝影に待つらむ妹が面影に見ゆ」(巻十二・三一三八)などと較べると、「燈のかげに」の方は覚官的に直接に云っている。
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難波人《なにはびと》葦火《あしび》焚《た》く屋《や》の煤《す》してあれど己《おの》が妻こそ常《とこ》めづらしき 〔巻十一・二六五一〕 作者不詳
寄レ物述レ思の一首。難波の人が葦火《あしび》を焚くので家が煤《すす》けるが、おれの妻もそのようにもう古び煤けた。けれどもおれの妻はいつまで経《た》っても見飽きない、おれの妻はやはりいつまでも一番いい、というので、若い者の甘い恋愛ともちがって落着いたうちに無限の愛情をたたえている。軽い諧謔《かいぎゃく》を含めているのも親しみがあって却《かえ》って好いし、万葉の歌は万事写生であるから、縦《たと》い平凡のようでも人間の実際が出ているのである。「青山の嶺《みね》の白雲朝にけに常に見れどもめづらし吾君」(巻三・三七七)、「住吉の里行きしかば春花のいやめづらしき君にあへるかも」(巻十・一八八六)等の例がある。結句ツネメヅラシキと訓んで居り、いずれでも好い。
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馬《うま》の音《と》のとどともすれば松蔭《まつかげ》に出《い》でてぞ見《み》つる蓋《けだ》し君かと 〔巻十一・二六五三〕 作者不詳
結句、原文「若君香跡」で、旧訓モシハ・キミカト、考モシモ・キミカトであったのを古義でケダシ・キミカトと訓んだ。「若雲《ケダシクモ》」(巻十二・二九二九)、「若人見而《ケダシヒトミテ》」(巻十六・三八六八)の例がある。なお額田王の「古《いにしへ》に恋ふらむ鳥は霍公鳥《ほととぎす》蓋《けだ》しや鳴きし吾が恋ふるごと」(巻二・一一二)があること既にいった。一首は女が男を待つ心で何の奇も弄《ろう》しない、つつましい佳《よ》い歌である。そしていろいろと具体的に云っているので、読者にもまたありありと浮んで来るものがあっていい。なおこの歌の次に、「君に恋ひ寝《い》ねぬ朝明《あさけ》に誰《た》が乗れる馬の足音《あのと》ぞ吾に聞かする」(巻十一・二六五四)、「味酒《うまさけ》の三諸《みもろ》の山に立つ月の見《み》が欲《ほ》し君が馬の音《おと》ぞする」(同・二五一二)の例がある。
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窓《まど》ごしに月《つき》おし照《て》りてあしひきの嵐《あらし》吹《ふ》く夜《よ》は君《きみ》をしぞ念《おも》ふ 〔巻十一・二六七九〕 作者不詳
第二句原文「月臨照而」で、旧訓ツキサシイリテであったのを、契沖がツキオシテリテと訓んだ。窓から月が部屋《へや》までさし込んで、嵐の吹いてくる今晩は、身に沁みてあなたが恋しゅうございます、というので、月の光と山の風とが特に恋人をおもう情を切実にすることを云っている。私はこの歌で、「窓ごしに月おし照りて」の句に心を牽《ひ》かれている。普通「窓越しに月照る」というと、窓外の庭あたりに月の照る趣のように解するが、「おし照る」が作用をあらわしたから、月光が窓から部屋までさし込んでくることとなり、まことに旨《うま》い云いかたである。月光を機縁とした恋の歌に、「吾背子がふり放《さ》け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲な棚引き」(巻十一・二六六九)、「真袖もち床うち払ひ君待つと居りし間《あひだ》に月かたぶきぬ」(同・二六六七)等がある。
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彼方《をちかた》の赤土《はにふ》の小屋《をや》に霖《こさめ》降《ふ》り床《とこ》さへ沾《ぬ》れぬ身に副《そ》へ我妹《わぎも》 〔巻十一・二六八三〕 作者不詳
これは寄レ雨歌だから、こういう云い方をするようになったもので、「赤土の小屋」即ち、土のうえに建ててある粗末な家に小雨が降って来て床までも沾れた趣である。そこで結句が導かれるわけで、つまりは、「身に副へ我妹」が一首の主眼となるのである。上の句などは大体の意味を心中に浮べて居れば好いので、小説風に種々解釈する必要はなかろうとおもう。民謡的で、労働に携わりながらうたうことも出来る歌である。
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潮《しほ》満《み》てば水沫《みなわ》に浮《うか》ぶ細砂《まなご》にも吾《われ》は生《い》けるか恋《こ》ひは死《し》なずて 〔巻十一・二七三四〕 作者不詳
海の潮が満ちて来ると、水《みず》の沫《あわ》に浮んでいる細《こま》かい砂の如くに、恋死《こいじに》もせずに果敢《はか》なくも生きているのか、というので、物に寄せた歌だから細砂のことなどを持って来たものだろうとおもうが、この点はひどく私の心をひいている。近代の象徴詩などというと雖《いえども》、かくの如くに自然に行かぬものが多い。「細砂《まなご》にも」をば、細砂《まなご》にも自分の命を托して果敢無《はかな》くも生きていると解するともっと近代的になる。真淵は「み沫《ナワ》の如く浮ぶまさごといひて、我生《イキ》もやらず死もはてず、浮きてたゞよふこゝろをたとへたり」(考)といっている。
この第四句は、原文「吾者生鹿」で、旧訓ワレハナリシカ、代匠記ワレハナレルカ。略解《りゃくげ》ワレハイケルカである。この句を旧訓に従って、ナリシカと訓み、解釈を「細砂になりたいものだ」とする説もある(新考)。いずれにしても、細砂の中に自分の命を托する意味で同一に帰着する。「解衣《ときぎぬ》の恋ひ乱れつつ浮沙《うきまなご》浮きても吾はありわたるかも」(巻十一・二五〇四)、「白細砂《しらまなご》三津の黄土《はにふ》の色にいでて云はなくのみぞ我が恋ふらくは」(同・二七二五)等の中には、「浮沙」、「白細砂」とあって、やはり砂のことを云っているし、なお、「八百日《やほか》ゆく浜の沙《まなご》も吾が恋に豈《あに》まさらじか奥《おき》つ島守」(巻四・五九六)、「玉津島磯の浦廻《うらみ》の真砂《まなご》にも染《にほ》ひて行かな妹が触《ふ》りけむ」(巻九・一七九九)、「相模路《さがむぢ》の淘綾《よろぎ》の浜の真砂《まなご》なす児等《こら》は愛《かな》しく思はるるかも」(巻十四・三三七二)等の例がある。皆相当によいもので、万葉歌人の写生力・観入態度の雋敏《しゅんびん》に驚かざることを得ない。
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朝柏《あさがしは》閏《うる》八河辺《はかはべ》の小竹《しぬ》の芽《め》のしぬびて宿《ぬ》れば夢《いめ》に見えけり 〔巻十一・二七五四〕 作者不詳
此歌は「しぬびて宿《ぬ》れば夢《いめ》に見えけり」だけが意味内容で、その上は序詞である。やはり此巻に、「秋柏潤和川辺《うるわかはべ》のしぬのめの人に偲《しぬ》べば君に堪《た》へなく」(巻十一・二四七八)というのがある。この「君に堪へなく」という句はなかなか佳句であるから、二つとも書いて置く。このあたりの歌は、序詞を顧慮しつつ味う性質のもので、取りたてて秀歌というほどのものではない。
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あしひきの山沢《やまさは》回具《ゑぐ》を採《つ》みに行かむ日だにも逢はむ母は責むとも 〔巻十一・二七六〇〕 作者不詳
山沢に生《は》えている回具《えぐ》を採《つ》みにゆく日なりと都合してあなたにお逢いしましょう。母に叱《しか》られても、というので、当時も母が娘をいろいろ監視していたことが分かる。結句の、「母は責むとも」は、前にあった、「母に障らば」などと同じ気持である。新考で、「逢はせ」と訓み、新訓で其《それ》に従ったが、そうすると、男の方で女にむかっていうことになる。「逢ってください」となるが、少し智的になるだろう。新考のアハセ説は、第四句の「相将」が、古鈔本中(嘉・類)に、「相為」になっているためであった。
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蘆垣《あしがき》の中《なか》の似児草《にこぐさ》莞爾《にこよか》に我《われ》と笑《ゑ》まして人《ひと》に知《し》らゆな 〔巻十一・二七六二〕 作者不詳
「似児草《にこぐさ》」は箱根草、箱根歯朶《しだ》という説が有力である。「に」の音で「にこよか」(莞爾)に続けて序詞とした。「我と笑まして」は吾と顔合せてにこにこして、吾と共ににこにこしての意。一首の意は、わたしと御一しょにこうしてにこにこしておいでになるところを、人に知られたくないのです、というので、身体的に直接な珍らしい歌である。此は民謡風な読人不知《よみびとしらず》の歌だが、後に大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》が此歌を模倣して、「青山を横ぎる雲のいちじろく吾と笑《ゑ》まして人に知らゆな」(巻四・六八八)という歌を作った。これも面白いが、巻十一の歌ほど身体的で無いところに差違があるから、どちらがよいか鑑別せねばならない。
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道のべのいつしば原《はら》のいつもいつも人の許さむことをし待《ま》たむ 〔巻十一・二七七〇〕 作者不詳
この歌は、「人の許《ゆる》さむことをし待たむ」というのが好いので選んだ。男が女の許すのを待つ、気長に待つ気持の歌で、こういう心情もまた女に対する恋の一表現である。この巻の、「梓弓《あづさゆみ》引きてゆるさずあらませばかかる恋にはあはざらましを」(巻十一・二五〇五)は、女の歌で、やはり身を寄せたことを「許す」と云っている。なお、巻十二(三一八二)に、「白妙の袖の別《わかれ》は惜しけども思ひ乱れて赦《ゆる》しつるかも」というのがある。この、「赦す」は稍《やや》趣《おもむき》が違うが、つまりは同じことに帰着するのである。
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神南備《かむなび》の浅小竹原《あさしぬはら》のうるはしみ妾《わ》が思《も》ふ君《きみ》が声《こゑ》の著《しる》けく 〔巻十一・二七七四〕 作者不詳
一首の、「神南備の浅小竹原《あさしぬはら》のうるはしみ」は下の「うるはしみ」に続いて序詞となった。併《しか》し現今も飛鳥《あすか》の雷岳《いかずちのおか》あたり、飛鳥川沿岸に小竹林があるが、そのころも小竹林は繁《しげ》って立派であったに相違ない。当時の人(この歌の作者は女性の趣)はそれを観察していて、「うるはし」に続けたのは、詩的力量として観察しても驚くべく鋭敏で、特に「浅小竹原」と云ったのもこまかい観察である。もっとも、この語は古事記にも、「阿佐士怒波良《アサジヌハラ》」とある。併しそれよりも感心するのは、一首の中味である、「妾《わ》が思ふ君が声の著《しる》けく」という句である。自分の恋しくおもう男、即ち夫《おっと》の声が人なかにあってもはっきり聞こえてなつかしいというので、何でもないようだが短歌のような短い抒情詩の中に、こう自由にこの気持を詠み込むということはむつかしい事なのに、万葉では平然として成し遂げている。
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さ寝《ね》かにば誰《たれ》とも宿《ね》めど沖《おき》つ藻《も》の靡《なび》きし君《きみ》が言《こと》待《ま》つ吾《われ》を 〔巻十一・二七八二〕 作者不詳
おれと一しょに寝《い》ね兼《か》ねるというのなら、おれは誰とでも寝よう。併し一旦《いったん》おれに靡《なび》き寄ったお前のことだから、お前の決心を待っていよう、もう一度思案して、おれと一しょに寝ないかというので、男が女にむかっていうように解釈した。そうすれば「君」は女のことで、今の口語なら、「お前」ぐらいになる。この歌もなかなか複雑している内容だが、それを事も無げに詠《よ》み了《おお》せているのは、大体そのころの男女の会話に近いものであったためでもあろうが、それにしても吾等にはこうは自由に詠みこなすことが出来ないのである。初句、「さ寝かにば」は、「さ寝兼ねば」で、寝ることが出来ないならばである。結句の「吾を」の「を」は「よ」に通う詠歎の助詞である。
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山吹《やまぶき》のにほへる妹《いも》が唐棣花色《はねずいろ》の赤裳《あかも》のすがた夢《いめ》に見えつつ 〔巻十一・二七八六〕 作者不詳
この歌は、一首の中に山吹と唐棣《はねず》即ち庭梅《にわうめ》とを入れてそれの色彩を以て組立てている歌だが、少しく単純化が足りないようである。それにも拘《かか》わらず此歌を選んだのは、夢に見た恋人が、唐棣《はねず》色の赤裳を着けていたという、そういう色までも詠み込んでいるのが珍しいからである。万葉集の歌は夢をうたうにしても、かく具体的で写象が鮮明であるのを注意すべきである。
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こもりづの沢《さは》たづみなる石根《いはね》ゆも通《とほ》しておもふ君《きみ》に逢《あ》はまくは 〔巻十一・二七九四〕 作者不詳
この歌も、谿間《たにま》の水の具合をよく観ていて、それを序詞としたのに感心すべく、隠れた水、沢にこもり湧く水が、石根をも通し流れるごとくに、一徹におもっております、あなたに逢うまでは、というので山の歌らしくおもえる。この巻に、「こもりどの沢泉《さはいづみ》なる石根をも通してぞおもふ吾が恋ふらくは」(巻十一・二四四三)というのがあるが、二四四三の方が原歌で、二七九四の方は分かり易く変化したものであろう。そうして見れば、「石根ゆも」は「石根をも」と類似の意味か。
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人言《ひとごと》を繁《しげ》みと君《きみ》を鶉《うづら》鳴《な》く人《ひと》の古家《ふるへ》に語《かた》らひて遣《や》りつ 〔巻十一・二七九九〕 作者不詳
人の噂《うわさ》がうるさいので、鶉鳴く古い空家のようなところに連れて行って、そこでいろいろとお話をして帰したというので、「君」をば男と解釈していいだろう。この歌で、「語らひて遣りつ」の句は、まことに働きのあるものである。訓は大体考《こう》・略解《りゃくげ》に従った。
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あしひきの山鳥《やまどり》の尾《を》の垂《しだ》り尾《を》の長《なが》き長夜《ながよ》を一人《ひとり》かも宿《ね》む 〔巻十一・二八〇二〕 作者不詳
この歌は、「念《おも》へども念ひもかねつあしひきの山鳥の尾の永きこの夜を」(巻十一・二八〇二)の別伝として載《の》っているが、拾遺集恋に人麿作として載り小倉百人一首にも選ばれたから、此処に選んで置いた。内容は、「長き長夜をひとりかも寝む」だけでその上は序詞であるが、この序詞は口調もよく気持よき聯想を伴《ともな》うので、二八〇二の歌にも同様に用いられた。なお、「あしひきの山鳥の尾の一峰《ひとを》越え一目《ひとめ》見し児に恋ふべきものか」(同・二六九四)の如き一首ともなっている。「尾《を》の一峰《ひとを》」と続き山を越えて来た趣になっている。この「あしひきの山鳥の尾の」の歌は序詞があるため却って有名になったが、この程度の序詞ならば万葉に可なり多い。
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わが背子が朝《あさ》けの形《すがた》能《よ》く見《み》ずて今日《けふ》の間《あひだ》を恋《こ》ひ暮《く》らすかも 〔巻十二・二八四一〕 柿本人麿歌集
私の夫が朝早くお帰りになる時の姿をよく見ずにしまって、一日じゅう物足りなく心寂しく、恋しく暮しております、というのである。「朝明《あさけ》の形《すがた》」という語は、朝別れる時の夫の事をいうのだが、簡潔に斯ういったのは古語の好い点である。「今日のあひだ」という語も好い語で、「梅の花折りてかざせる諸人《もろびと》は今日の間《あひだ》は楽しくあるべし」(巻五・八三二)、「真袖もち床うち払ひ君待つと居りし間に月かたぶきぬ」(巻十一・二六六七)、「行方《ゆくへ》無みこもれる小沼《をぬ》の下思《したもひ》に吾ぞもの思ふ此の頃の間」(巻十二・三〇二二)等の例がある。なお、「朝戸出《あさとで》の君が光儀《すがた》をよく見ずて長き春日を恋ひや暮らさむ」(巻十・一九二五)があって、外形は似ているが此歌に及ばないのは、此歌は未《いま》だ個的なところが失せないからであろうか。
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愛《うつく》しみ我《わ》が念《も》ふ妹《いも》を人《ひと》みなの行《ゆ》く如《ごと》見《み》めや手《て》に纏《ま》かずして 〔巻十二・二八四三〕 柿本人麿歌集
おれの恋しくおもう女が、今彼方《かなた》を歩いているが、それをば普通並の女と一しょにして平然と見て居られようか、手にも纏くことなしに、というのである。あの女を手にも纏かずに居るのはいかにも辛《つら》いが、人目が多いので致し方が無いということが含まっている。これだけの意味だが、こう一首に為上《しあ》げられて見ると、まことに感に乗って来て棄てがたいものである。「人皆の行くごと見めや」の句は強くて情味を湛《たた》え、情熱があってもそれを抑《おさ》えて、傍観しているような趣が、この歌をして平板から脱却せしめている。無論民謡風ではあるが、未だ語気が求心的である。
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山河《やまがは》の水陰《みづかげ》に生《お》ふる山草《やますげ》の止《や》まずも妹《いも》がおもほゆるかも 〔巻十二・二八六二〕 柿本人麿歌集
上句は序詞で、中味は、「やまずも妹がおもほゆるかも」だけの歌で別に珍らしいものではない。また、「山菅のやまずて君を」、「山菅のやまずや恋ひむ」等の如く、「山菅の・やまず」と続けたのも別して珍らしくはない。ただ、山中を流れている水陰《みずかげ》にながく靡《なび》くようにして群生している菅《すげ》という実際の光景、特に、「水陰」という語に心を牽《ひ》かれて私はこの歌を選んだ。この時代の人は、幽玄などとは高調しなかったけれども、こういう幽かにして奥深いものに観入していて、それの写生をおろそかにしてはいないのである。此歌は人麿歌集出だから人麿或時期の作かも知れない。「あまのがは水陰《みづかげ》草の」(巻十・二〇一三)とあるのも、こういう草の趣であろうか。
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朝《あさ》去《ゆ》きて夕《ゆふべ》は来《き》ます君《きみ》ゆゑにゆゆしくも吾《あ》は歎《なげ》きつるかも 〔巻十二・二八九三〕 作者不詳
「君ゆゑに」は、屡《しばしば》出てくる如く、「君によって恋うる」、即ち「君に恋うる」となるのだが、もとは、「君があるゆえにその君に恋うる」という意であったのであろうか。一首の意は、朝はお帰りになっても夕方になるとまたおいでになるあなたであるのに、我ながら忌々《いまいま》しくおもう程に、あなたが恋しいのです、待ちきれないのです、という程の歌で、此処の「ゆゆし」は忌々《いまいま》し、厭《いと》わしぐらいの意。「言《こと》にいでて言はばゆゆしみ山川の激《たぎ》つ心をせかへたるかも」(巻十一・二四三二)の如き例がある。この巻十一の歌の結句訓は、「せきあへてけり」(略解)、「せきあへにたり」(新訓)、「せきあへてあり」(総釈)等がある。「ゆゆし」は、慎《つつ》しみなく、憚《はばか》らずという意もあって、結局同一に帰するのだから、此歌の場合も、「慎しみもなく」と翻《ほん》してもいいが、忌々しいの方がもっと直接的に響くようである。
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玉勝間《たまかつま》逢《あ》はむといふは誰《たれ》なるか逢《あ》へる時《とき》さへ面隠《おもがく》しする 〔巻十二・二九一六〕 作者不詳
「玉勝間」は逢うの枕詞で、タマは美称、カツマはカタマ(籠・筐)で、籠には蓋《ふた》があって蓋と籠とが合うので、逢うの枕詞とした。一首の意は、一体逢おうといったのは誰でしょう。それなのに折角《せっかく》逢えば、顔を隠したり何かして、というので、男女間の微妙な会話をまのあたり聞くような気持のする歌である。これは男が女に向っていっているのだが、云われて居る女の甘い行為までが、ありありと眼に見えるような表現である。女の男を回避するような行為がひどく覚官的であるが、それが毫《ごう》も婬靡《いんび》でないのは簡浄《かんじょう》な古語のたまものである。前にも、「面隠さるる」というのがあったが、また、「面無《おもな》み」というのもあり、実体的で且《か》つ微妙な味いのあるいい方である。
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幼婦《をとめご》は同《おな》じ情《こころ》に須臾《しましく》も止《や》む時《とき》も無《な》く見《み》むとぞ念《おも》ふ 〔巻十二・二九二一〕 作者不詳
この幼婦《おとめ》のわたくしも、あなた同様、暫《しば》らくも休むことなく、絶えずあなたにお逢いしたいのです、というのであるが、男から、絶えずお前を見たいと云って来たのに対して、こういうことを云ったものであろう。この歌では、「同じこころに」と云ったのが好い。「死《しに》も生《いき》も同じ心と結びてし友や違《たが》はむ我も依りなむ」(巻十六・三七九七)、「紫草《むらさき》を草と別《わ》く別《わ》く伏す鹿の野は異《こと》にして心は同じ」(巻十二・三〇九九)等が参考になるだろう。なお、この歌で注意すべきは、「幼婦《をとめご》は」といったので、これは「わたくしは」というのと同じだが、客観的に「幼婦は」というのに却《かえ》って親しみがあるようであり、「幼婦《をとめご》」というから此歌がおもしろいのである。
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今《いま》は吾《あ》は死《し》なむよ我背《わがせ》恋《こひ》すれば一夜《ひとよ》一日《ひとひ》も安《やす》けくもなし 〔巻十二・二九三六〕 作者不詳
一首の意は、あなたよ、もう私は死んでしまう方が益《ま》しです、あなたを恋すれば日は日じゅう夜は夜じゅう心の休まることはありませぬ、というので、女が男に愬《うった》えた趣《おもむき》の歌である。「死なむよ」は、「死なむ」に詠歎の助詞「よ」の添わったもので、「死にましょう」となるのであるが、この詠歎の助詞は、特別の響を持ち、女が男に愬える言葉としては、甘くて女の声その儘《まま》を聞くようなところがある。この歌を選んだのは、そういう直接性が私の心を牽《ひ》いたためであるが、後世の恋歌になると、文学的に間接に堕《お》ち却って悪くなった。
巻四(六八四)、大伴坂上郎女の、「今は吾は死なむよ吾背生けりとも吾に縁《よ》るべしと言ふといはなくに」という歌は、恐らく此歌の模倣だろうから、当時既に古歌として歌を作る仲間に参考せられていたことが分かる。なお集中、「今は吾は死なむよ吾妹《わぎも》逢はずして念《おも》ひわたれば安けくもなし」(巻十二・二八六九)、「よしゑやし死なむよ吾妹《わぎも》生けりとも斯くのみこそ吾が恋ひ渡りなめ」(巻十三・三二九八)というのがあり、共に類似の歌である。「死なむよ」の語は、前云ったように直接性があって、よく響くので一般化したものであろう。併し、「死なむよ我背」と女のいう方が、「死なむよ我妹」と男のいうよりも自然に聞こえるのは、後代の私の僻眼《ひがめ》からか。ただ他の歌が皆この歌に及ばないところを見ると、「今は吾は死なむよ我背」が原作で、従って、「死なむよ我背」が当時の人にも自然であっただろうと謂《い》うことが出来る。
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吾《わ》が齢《よはひ》し衰《おとろ》へぬれば白細布《しろたへ》の袖《そで》の狎《な》れにし君《きみ》をしぞ念《おも》ふ 〔巻十二・二九五二〕 作者不詳
一首の意は、おれも漸《ようや》く年をとって体も衰えてしまったが、今しげしげと通わなくとも、長年狎《な》れ親しんだお前のことが思出されてならない、という程の意で、「君」というのを女にして、男の歌として解釈したのであった。無論民謡的にひろがり得る性質の歌だから、「君」をば男にして女の歌と解釈することも出来るが、やはり老人の述懐的な恋とせば男の歌とする方が適当ではなかろうか。さすれば、女のことを「君」といった一例である。それから、「白細布の袖の」までは「狎れ」に続く序詞であるが、やはり意味の相関聯するものがあり、衣の袖を纏《ま》き交《かわ》した時の情緒《じょうしょ》がこの序詞にこもっているのである。
万葉に老人の恋を詠んだ歌のあることは既に前にも云ったが、なお巻十三には、「天橋《あまはし》も長くもがも、高山も高くもがも、月読《つくよみ》の持《も》たる変若水《をちみづ》、い取り来て君に奉《まつ》りて、変若《をち》得しむもの」(三二四五)、反歌に、「天《あめ》なるや月日の如く吾が思《も》へる公《きみ》が日にけに老ゆらく惜しも」(三二四六)があり、なお、「沼名河《ぬながは》の底なる玉、求めて得し玉かも、拾《ひり》ひて得し玉かも、惜《あたら》しき君が、老ゆらく惜しも」(三二四七)というのもある。これは女が未だ若く、男の老いゆく状況の歌であるが、男を玉に比したり、日月に比したりして大切にしている女の心持が出ていて珍しいものである。なお、「悔しくも老いにけるかも我背子が求むる乳母《おも》に行かましものを」(巻十二・二九二六)というのもある。これは女の歌だが、諧謔《かいぎゃく》だから、女はいまだ老いてはいないのであろう。略解《りゃくげ》に、「袖のなれにしとは、年経て袖のなれしと、その男の馴来《なれこ》しとを兼《かね》言ひて、君も我も齢《よはひ》のおとろへ行につけて、したしみのことになれるを言へり」とあって、女の作った歌の趣にしているのは契沖以来の説である。
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ひさかたの天《あま》つみ空《そら》に照《て》れる日《ひ》の失《う》せなむ日《ひ》こそ吾《わ》が恋《こひ》止《や》まめ 〔巻十二・三〇〇四〕 作者不詳
この恋はいつまでも変らぬ、空の太陽が無くなってしまうならば知らぬこと、というのであるが、恋に苦しんでいるために、自然自省的なような気持で、こういう云い方をしているのである。後代の読者には、何か思想的に歌ったようにも感ぜられるけれども、いい方《かた》の動機はそういうのではなく、もっと具体的な気持があるのである。この種のものには、「天地《あめつち》に少し至らぬ丈夫《ますらを》と思ひし吾や雄心《をごころ》もなき」(巻十二・二八七五)、「大地《おほつち》も採《と》らば尽きめど世の中に尽きせぬものは恋にしありけり」(巻十一・二四四二)、「六月《みなつき》の地《つち》さへ割《さ》けて照る日にも吾が袖乾《ひ》めや君に逢はずして」(巻十・一九九五)等は、同じような発想の為方《しかた》の歌として味うことが出来る。心持が稍《やや》間接だが、先ず万葉の歌の一体として珍重《ちんちょう》していいだろう。なお、「外目《よそめ》にも君が光儀《すがた》を見てばこそ吾が恋やまめ命死なずは」(巻十二・二八八三)があり、「わが恋やまめ」という句が入って居る。
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能登《のと》の海《うみ》に釣《つり》する海人《あま》の漁火《いさりび》の光《ひかり》にい往《ゆ》く月《つき》待《ま》ちがてり 〔巻十二・三一六九〕 作者不詳
まだ月も出ず暗いので、能登の海に釣している海人《あま》の漁火《いさりび》の光を頼りにして歩いて行く、月の出を待ちながら、というので、やはり相聞《そうもん》の気持の歌であろう。男が通ってゆく時の或時の逢遭《ほうそう》を詠《よ》んだものと解釈していいだろうが、比較的独詠的な分子がある。「光に」の「に」という助詞は此歌の場合には注意していいもので、「み空ゆく月の光にただ一目あひ見し人し夢にし見ゆる」(巻四・七一〇)、「玉だれの小簾《をす》の隙《すけき》に入りかよひ来《こ》ね」(巻十一・二三六四)、「清き月夜に見れど飽かぬかも」(巻二十・四四五三)、「夜のいとまに摘める芹《せり》これ」(同・四四五五)等の「に」と同系統のもので色調の稍ちがうものである。なお、「夕闇は道たづたづし月待ちて往《ゆ》かせ吾背子その間にも見む」(巻四・七〇九)と此歌と気持が似て居る。いずれにしても燈火を余り使わずに女のもとに通ったころのことが思出されておもしろいものである。
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あしひきの片山雉《かたやまきぎし》立《た》ちゆかむ君《きみ》におくれて顕《うつ》しけめやも 〔巻十二・三二一〇〕 作者不詳
旅立ってゆく男にむかって女の云った歌の趣である。「片山雉」までは「立つ」につづく序詞である。旅立たれるあなたと離れて私ひとりとり残されて居るなら、もう心もぼんやりしてしまいましょう、というので、「顕《うつ》しけめやも」、現《うつつ》ごころに、正気で、確《しっか》りして居ることが出来ようか、それは出来ずに、心が乱れ、茫然《ぼうぜん》として正気《しょうき》を失うようになるだろうという意味に落着くのである。この雉を持って来た序詞は、鑑賞の邪魔をするようでもあるが、私は、意味よりも音調にいいところがあるので棄《す》て難かったのである。「偽《いつわ》りも似つきてぞする現《うつ》しくもまこと吾妹子われに恋ひめや」(巻四・七七一)、「高山と海こそは、山ながらかくも現《うつ》しく」(巻十三・三三三二)、「大丈夫《ますらを》の現心《うつしごころ》も吾は無し夜昼といはず恋ひしわたれば」(巻十一・二三七六)等が参考となるだろう。なお、「春の日のうらがなしきにおくれゐて君に恋ひつつ顕《うつ》しけめやも」(巻十五・三七五二)という、狭野茅上娘子《さぬのちがみのおとめ》の歌は全くこの歌の模倣である。おもうに当時の歌人等は、家持《やかもち》などを中心として、古歌を読み、時にはかく露骨に模倣したことが分かり、模倣心理の昔も今もかわらぬことを示している。「丹波道《たにはぢ》の大江《おほえ》の山の真玉葛《またまづら》絶えむの心我が思はなくに」(巻十二・三〇七一)というのも序詞の一形式として書いておく。
以上で巻十二の選は終ったが、従属的にして味ってもいいものが若干首あるから序《ついで》に書記《かきしる》しておこう。たいして優れた歌ではない。
死なむ命此《ここ》は念《おも》はずただにしも妹に逢はざる事をしぞ念《おも》ふ (巻十二・二九二〇)
各自《おのがじし》ひと死《しに》すらし妹に恋ひ日《ひ》に日《け》に痩《や》せぬ人に知らえず (同・二九二八)
うまさはふ目には飽けども携《たづさ》はり問はれぬことも苦しかりけり (同・二九三四)
思ふにし余りにしかば術《すべ》を無み吾はいひてき忌《い》むべきものを (同二九四七)
現身《うつせみ》の常の辞《ことば》とおもへども継《つ》ぎてし聞けば心惑《まど》ひぬ (同・二九六一)
あしひきの山より出づる月待つと人にはいひて妹待つ吾を (同・三〇〇二)
夕月夜《ゆふづくよ》あかとき闇のおぼほしく見し人ゆゑに恋ひわたるかも (同・三〇〇三)
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相坂《あふさか》をうち出《い》でて見《み》れば淡海《あふみ》の海《み》白木綿花《しらゆふはな》に浪《なみ》たちわたる 〔巻十三・三二三八〕 作者不詳
長歌の反歌で、長歌は、「山科《やましな》の石田《いはた》の森の、皇神《すめがみ》に幣帛《ぬさ》とり向けて、吾は越えゆく、相坂《あふさか》山を」云々。もう一つのは、「我妹子に淡海《あふみ》の海《うみ》の、沖つ浪来寄す浜辺を、くれぐれと独ぞ我が来し、妹が目を欲り」云々というので、大和から近江の恋人の処に通う趣の歌である。この短歌の意味は、相坂《おうさか》(逢坂)山を越えて、淡海《おうみ》の湖水の見えるところに来ると、白木綿《しらゆう》で作った花のように白い浪が立っている、というので、大きい流動的な調子で歌っている。この調子は、はじめて湖の見え出した時の感じに依るもので、従って恋人に近づいたという情緒《じょうちょ》にも関聯するのである。そこで、「うち出でて見れば」と云って、「浪たちわたる」と結んでいるのである。即ちこの歌では「見れば」が大切だということになり、源実朝《みなもとのさねとも》の、「箱根路をわが越え来れば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」との比較の時にも伊藤左千夫がそう云っている。実際、万葉の此歌に較《くら》べると実朝の歌が見劣《みおと》りのするのは、第一声調がこの歌ほど緊張していないからであった。この歌は、「白木綿花(神に捧げる幣《ぬさ》の代用とした造花)に」などと現代の人の耳に直ぐには合わないような事を云っているが、はじめて見え出した湖に対する感動が極めて自然にあらわれているのが好いのである。第三句は、アフミノミでもアフミノウミでもどちらでも好い。それから、「淡海の海」と、「伊豆の海や」との比較にもなるのであるが、やはり「淡海の海」とした方がまさっているだろう。次にこの歌では、「相坂をうち出でて見れば」と云っているが、これを赤人の、「田児の浦ゆうち出でて見れば」と比較することも出来る。「打出でて見れば」は「打出の浜」という名とは関係なく、若《も》しあっても後世の命名であろう。
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敷島《しきしま》の日本《やまと》の国《くに》に人《ひと》二人《ふたり》ありとし念《も》はば何《なに》か嗟《なげ》かむ 〔巻十三・三二四九〕 作者不詳
一首の意は、若しもこの日本の国にあなたのような方がお二人おいでになると思うことが出来ますならば、何《どう》してこんなに嗟《なげ》きましょう。恋しいあなたが唯《ただ》お一人のみゆえこんなにも悲しむのです、というので、この歌の「人」は貴方《あなた》というぐらいの意味である。この歌は女としての心の働き方が特殊で、今までの相聞歌の心の動き方と違うところがあっていい。この歌の長歌は、「敷島の大和の国に、人さはに満ちてあれども、藤波の思ひ纏《まつ》はり、若草の思ひつきにし、君が目に恋ひやあかさむ、長きこの夜を」(三二四八)というので、この反歌と余り即《つ》き過ぎぬところが旨《うま》いものである。この長歌の「人」は人間というぐらいの意だが、やはり男という意味が勝っているであろう。
略解《りゃくげ》で、「わがおもふ人のふたりと有ものならば、何かなげくべきと也」と云ったのは簡潔でいい。なお、この短歌の、「人二人」云々につき、代匠記で遊仙窟《ゆうせんくつ》の「天上無レ双《ナラビ》人間《ヨノナカニ》有レ一《ヒトリノミ》」という句を引いていたが、この歌の作られた頃に、遊仙窟が渡来したか奈何《どうか》も定めがたいし、「人二人ありとし念はば」というようないい方は相聞心の発露としてそのころでも云い得たものであろう。明治新派和歌のはじめの頃、服部躬治《はっとりもとはる》氏は、「天地の間に存在せるはたゞ二人のみ。二人のみと観ぜむは、夫婦それ自身の本能なり。観ぜざるべからざるにあらず、おのづからにして観ずべしとす。夫婦はしかも一体なり。大なる我なり。我を離れて天地あらず、天地の相は我の相なり。既に我の相を自識し、我の存在を自覚せらば、何をもとめて何かなげかむ。我は長《とこし》へに安かるべく、世は時じくに楽しかるべし。蓋《けだ》しこの安心は絶対なり」(恋愛詩評釈)と解釈し、古義の解釈を、「何ぞそれ鑑識のひくきや」等と評したのであったが、やはり従来の解釈(略解・古義等)の方が穏当であった。併し新派和歌当時の万葉鑑賞の有様を参考のために示そうとしてここに引用したのである。
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川《かは》の瀬《せ》の石《いし》ふみ渡《わた》りぬばたまの黒馬《くろま》の来《く》る夜《よ》は常《つね》にあらぬかも 〔巻十三・三三一三〕 作者不詳
長歌の反歌で、長歌は、「こもりくの泊瀬小国《はつせをぐに》に、よばひせす吾がすめろぎよ」云々という女の歌である。この短歌は、川瀬の石を踏渡って私のところに黒馬の来る晩はいつでも変らずこうあらぬものか、毎晩御通いになることを御願しております、というので、「常にあらぬかも」は疑問をいって、願望になっているのである。「我が命も常にあらぬか昔見し象《きさ》の小河《をがは》を行きて見むため」(巻三・三三二)の「常にあらぬか」がやはりそうである。巻四(五二五)、坂上郎女《さかのうえのいらつめ》の、「佐保河の小石《こいし》[#「小石」の左に「さざれ」の注記]踏み渡りぬばたまの黒馬の来る夜は年にもあらぬか」は、恐らくこの歌の模倣だろうと想像すれば、既に古歌として伝誦せられ、作歌の時の手本になったものと見える。「黒馬」といったのは印象的でいい。
巻十三から選んだ短歌は以上のごとく少いが、巻十三は長歌で特色のあるものが多い。然るにこの選は長歌を止めたから、その結果がかくのごとくになった。
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夏麻《なつそ》引《ひ》く海上潟《うなかみがた》の沖《おき》つ渚《す》に船《ふね》はとどめむさ夜《よ》ふけにけり 〔巻十四・三三四八〕 東歌
この巻十四は、いわゆる「東歌《あずまうた》」になるのであるが、東歌は、東国地方に行われた、概して民謡風な短歌を蒐集《しゅうしゅう》分類したもので、従って巻十・十一・十二あたりと同様作者が分からない。併し、作者も単一でなく、中には京から来た役人、旅人等の作もあろうし、京に住んだことのある遊行女婦《うかれめ》のたぐいも交っていようし、或は他から流れこんだものが少しく変形したものもあり、京に伝達せられるまで、(折口博士は、大倭宮廷に漸次に貯留せられたものと考えている。)幾らか手を入れたものもあるだろう。そういう具合に単一でないが、大体から見て東国の人々によって何時《いつ》のまにか作られ、民謡として行われていたものが大部分を占めるようである。従って巻十四の東歌だけでも、年代は相当の期間が含まれているものの如く、歌風は、大体訛語《かご》を交えた特有の歌調であるが、必ずしも同一歌調で統一せられたものではない。
「夏麻《なつそ》ひく」は夏《なつ》の麻《あさ》を引く畑畝《はたうね》のウネのウからウナカミのウに続けて枕詞とした。「海上潟」は下総《しもうさ》に海上《うなかみ》郡があり、即ち利根《とね》川の海に注ぐあたりであるが、この東歌で、「右一首、上総国《かみつふさのくに》の歌」とあるのは、古《いにし》え上総にも海上郡があり、今市原郡に合併せられた、その海上《うなかみ》であろう。そうすれば東京湾に臨《のぞ》んだ姉ヶ崎附近だろうとせられて居る。一首の意は、海上潟の沖にある洲《す》のところに、船を泊《と》めよう、今夜はもう更《ふ》けてしまった、というのである。単純素朴で古風な民謡のにおいのする歌である。「船はとどめむ」はただの意嚮《いこう》でなく感慨が籠っていてそこで一たび休止している。それから結句を二たび起して詠歎の助動詞で止めているから、下の句で二度休止がある。此歌は、伸々《のびのび》とした歌調で特有な東歌ぶりと似ないので、略解《りゃくげ》などでは、東国にいた京役人の作か、東国から出でて京に仕えた人の作ででもあろうかと疑っている。また巻七(一一七六)に、「夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず」というのがあって、上の句は全く同一である。この巻七の歌も古い調子のものだから、どちらかが原歌で他は少し変化したものであろう。巻七の歌も「旅にて作れる」の中に集められているのだから、東国での作だろうと想像せられるにより、二つとも伝誦せられているうち、一つは東歌として蒐集せられたものの中に入ったものであろう。二つ較べると巻七の方が原歌のようでもある。
この歌の次に、「葛飾《かつしか》の真間の浦廻《うらみ》を榜《こ》ぐ船の船人さわぐ浪立つらしも」(巻十四・三三四九)という東歌(下総国歌)があるのに、巻七(一二二八)に、「風早の三穂の浦廻を傍ぐ船の船人さわぐ浪立つらしも」という歌があって、下の句は全く同じであり、風早の三穂は風早を風の強いことに解し、三穂を駿河《するが》の三保だとせば、どちらかが原歌で、伝誦せられて行った近国の地名に変形したもので、巻七の歌の方が原歌らしくもある。併《しか》し、此等の東歌というのも、やはり東国で民謡として行われていたことは確かであろう。仙覚抄《せんがくしょう》に、「ヨソヘヨメル心アルベシ」云々とあるのは、民謡的なものに感じての説だとおもう。
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筑波嶺《つくばね》に雪《ゆき》かも降《ふ》らる否《いな》をかも愛《かな》しき児《こ》ろが布《にぬ》乾《ほ》さるかも 〔巻十四・三三五一〕 東歌
常陸国《ひたちのくに》の歌という左注が附いている。一首の意は、白く見えるのは筑波山にもう雪が降ったのか知ら、いやそうではなかろう、可哀《かあ》いい娘が白い布《ぬの》を干しているのだろう、というほどの意で、「否をかも」は「否かも」で「を」は調子のうえで添えたもの、文法では感歎詞の中に入れてある。「相見ては千歳や去《い》ぬる否《いな》をかも我や然《しか》念ふ君待ちがてに」(巻十一・二五三九)の「否をかも」と同じである。古樸《こぼく》な民謡風のもので、二つの聯想《れんそう》も寧《むし》ろ原始的である。それに、「降れる」というところを「降らる」と訛《なま》り、「乾せる」というところを「乾さる」と訛り、「かも」という助詞を三つも繰返して調子を取り、流動性進行性の声調を形成しているので、一種の快感を以て労働と共にうたうことも出来る性質のものである。「かなしき」は、心の切《せつ》に動く場合に用い、此処では可哀《かあ》いくて為方《しかた》のないという程に用いている。「児ろ」の「ろ」は親しんでつけた接尾辞で、複数をあらわしてはいない。この歌はなかなか愛すべきもので、東歌の中でもすぐれて居る。
ニヌは原文「爾努」で旧訓ニノ。仙覚抄でニヌと訓《よ》み、考《こう》でニヌと訓んだ。布《ぬの》の事だが、古鈔本中、「爾《ニ》」が「企《キ》」になっているもの(類聚古集《るいじゅうこしゅう》)があるから、そうすれば、キヌと訓むことになる。即ち衣《きぬ》となるのである。
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信濃《しなぬ》なる須賀《すが》の荒野《あらの》にほととぎす鳴《な》く声《こゑ》きけば時《とき》過《す》ぎにけり 〔巻十四・三三五二〕 東歌
「すがの荒野」を地名とすると、和名鈔《わみょうしょう》の筑摩郡苧賀《ソガ》郷で、梓《あずさ》川と楢井《ならい》川との間の曠野《こうや》だとする説(地名辞書)が有力だが、他にも説があって一定しない。元は普通名詞即ち菅の生えて居る荒野という意味から来た土地の名だろうから、此処は信濃の一地名とぼんやり考えても味うことが出来る。一首の意は、信濃の国の須賀の荒野に、霍公鳥《ほととぎす》の鳴く声を聞くと、もう時季が過ぎて夏になった、というのである。霍公鳥の鳴く頃になったという詠歎《えいたん》で、この季節の移動を詠歎する歌は集中に多いが、この歌は民謡風なものだから、何か相聞的な感じが背景にひそまっているだろう。「秋萩の下葉の黄葉《もみぢ》花につぐ時過ぎ行かば後《のち》恋ひむかも」(巻十・二二〇九)、次に評釈する、「このくれの時移りなば」(巻十四・三三五五)、「わたつみの沖つ繩海苔《なはのり》来る時と妹が待つらむ月は経につつ」(巻十五・三六六三)、「恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物思《も》ふ時に来鳴き響《とよ》むる」(同・三七八〇)等の心持を参照すれば、此歌の背後にある恋愛情調をも感じ得るのである。つまり誰かを待つという情調であろう。そして信濃国でこういう歌が労働のあいまなどに歌われたものであろう。民謡だから自分等のうたう歌に地名を入れるので、他にも例が多く、必ずしも旅にあって詠んだとせずともいいであろう。「アラノ」(安良能)といって「アラヌ」(安良努)と云わなかったのは、この歌ではアラノと発音していたことが分かる。一種の地方訛《なまり》であっただろう。この歌の調子はほかの東歌と似ていないが、こういう歌をも信濃でうたっていたと解釈すべきで、共に日本語だから共通していて毫《ごう》もかまわぬのである。賀茂真淵《かものまぶち》が、この歌を模倣して、「信濃なる菅の荒野を飛ぶ鷲《わし》の翼《つばさ》もたわに吹く嵐《あらし》かな」と詠《よ》んだが、未だ万葉調になり得なかった。「吹く嵐かな」などという弱い結句は万葉には絶対に無い。
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天《あま》の原《はら》富士《ふじ》の柴山《しばやま》木《こ》の暗《くれ》の時《とき》移《ゆつ》りなば逢《あ》はずかもあらむ 〔巻十四・三三五五〕 東歌
これは駿河国歌で相聞として分類している。「天のはら富士の柴山木の暗《くれ》の」までは「暮《くれ》」(夕ぐれ)に続く序詞で、空に聳《そび》えている富士山の森林のうす暗い写生から来ているのである。一首の意は夕方に逢おうと約束したから、こうして待っているがなかなか来ず、この儘《まま》時が移って行ったら逢うことが出来ないのではないか知らん、というので、この内容なら普通であるが、そのあたりで歌った民謡で、富士の森林を入れてあるし、ウツリ(移り)をユツリと訛《なま》っていたりするので、東歌として集められたものであろう。この歌の、「時移りなば」の句は、時間的には短いが、その気持は、前の「信濃なる」の歌を解釈する参考となるものである。取りたてていう程の歌でないが、「妹が名も吾が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺《たかね》の燃えつつわたれ」(巻十一・二六九七)などと共に、富士山を詠みこんでいるので注意したのであった。
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足柄《あしがら》の彼面此面《をてもこのも》に刺《さ》す羂《わな》のかなる間《ま》しづみ児《こ》ろ我《あれ》紐《ひも》解《と》く 〔巻十四・三三六一〕 東歌
相模国《さがむのくに》歌で、足柄は範囲はひろかったが、此処は足柄山とぼんやり云っている。「彼面此面《をてもこのも》」は熟語で、あちらにもこちらにもというのであろう。下に、「筑波嶺《つくばね》のをてもこのもに」(三三九三)という例があり、東歌的訛《なまり》の口調である。巻十七(四〇一一)の長歌で家持が、「あしひきのをてもこのもに鳥網《となみ》張り」云々《うんぬん》と使ったのは、此歌の模倣で必ずしも都会語ではなかっただろう。「かなる間しづみ」はよく分からない。代匠記では鹿鳴間沈《カナルマシヅミ》で、鹿の鳴いて来る間に屏息《へいそく》して待っている意に取ったが、或は、「か鳴る間しづみ」で、羂《わな》に動物がかかって音立てること、鳴子《なるこ》のような装置でその音響を知ることで、「か鳴る」の「か」は接頭辞であろう。その動物のかかる問、じっと静かにして、息をこらしてということになるであろう。
一首の意は、「かなる間しづみ」までは序詞で、いろいろとうるさい噂《うわさ》などが立つが、じっとこらえて、こうしてお前とおれは寝るのだよ、というのである。代匠記に、「シノビテ通フ所ニモ皆人ノ臥《ふし》シヅマルヲ待テ児等モ吾モ共ニ下紐解トナリ」と云っている。結句の、八音の中に、「児ろ吾《あれ》紐解く」即ち、可哀い娘と己《おれ》とがお互に着物の紐を解いて寝る、という複雑なことを入れてあり、それが一首の眼目なのだから、調子がつまってなだらかに伸《の》びていない。それに上の方も順じて調子がやはり重く圧搾《あっさく》されているが、全体としては進行的な調子で、労働歌の一種と感ずることが出来る。恐らく足柄山中の樵夫《きこり》などの間に行われたものであっただろう。調子も古く感じ方材料も古樸《こぼく》でおもしろいものである。
「荒男《あらしを》のい小箭《をさ》手挾《たばさ》み向ひ立ちかなる間《ま》しづみ出でてと我《あ》が来る」(巻二十・四四三〇)は「昔年《さきつとし》の防人《さきもり》の歌」とことわってあるが、此歌にも、「かなる間しづみ」という語が入っている。併し此語は巻十四の歌語を踏まえて作ったものと看做《みな》すことも出来るから、この語の原意は巻十四の方にあるだろう。なお、「はろばろに家を思ひ出《で》、負征箭《おひそや》のそよと鳴るまで、歎きつるかも」(巻二十・四三九八)、「この床のひしと鳴るまで嘆きつるかも」(巻十三・三二七〇)がある。
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ま愛《がな》しみさ寝《ね》に吾《わ》は行《ゆ》く鎌倉《かまくら》の美奈《みな》の瀬河《せがは》に潮《しほ》満《み》つなむか 〔巻十四・三三六六〕 東歌
相模国歌で、「みなの瀬河」は今の稲瀬川で坂の下の東で海に入る小川である。一首は、恋しくなってあの娘の処に寝に行くが、途中の鎌倉のみなのせ川に潮が満ちて渡りにくくなっているだろうか、というのである。「潮満つなむか」は、「潮満つらむか」の訛《なまり》である。内容は古樸な民謡で取りたてていう程のものではないが、歌調が快く音楽的に運ばれて行くのが特色で、こういう独特の動律《どうりつ》で進んでゆく歌調は、人麿の歌などにも無いものである。例えば、「玉裳の裾に潮みつらむか」(巻一・四〇)でもこう無邪気には行かぬところがある。また、「ま愛《がな》しみ寝《ね》らく愛《はし》けらくさ寝《な》らくは伊豆の高嶺《たかね》の鳴沢《なるさは》なすよ」(三三五八或本歌)などでも東歌的動律だが、この方には繰返しが目立つのに、鎌倉の歌の方はそれが目立たずに快い音のあるのは不思議である。
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武蔵野《むさしぬ》の小岫《をぐき》が雉《きざし》立《た》ち別《わか》れ往《い》にし宵《よひ》より夫《せ》ろに逢《あ》はなふよ 〔巻十四・三三七五〕 東歌
「岫」は和名鈔《わみょうしょう》に山穴似レ袖云々といっているが、小山に洞《ほら》などがあって雉子の住む処を聯想せしめる。雉が飛立つので、「立ち別れ」に続く序詞とした。「逢はなふよ」は「逢わず・よ」「逢わぬ・よ」、「逢わない・よ」である。一首の意は、あの晩に別れたきり、いまだに恋しい夫に逢《あ》わずに居ります、という女の歌であるが、結句の訛《なまり》と、「よ」なども特殊なものにしている。東歌には、結句に、「鳴沢《なるさは》なすよ」などもあり、他に余りない結句である。この歌の結句は、「崩岸辺《あずへ》から駒の行《ゆ》こ如《の》す危《あや》はども人妻《ひとづま》児《こ》ろをまゆかせらふも」(巻十四・三五四一)(目ゆかせざらむや)のに似ている。一首全体として見れば、武蔵野と丘陵と雉の生活と、別れた夫を慕う心と合体《がったい》して邪気の無い快い歌を形成している。
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鳰鳥《にほどり》の葛飾《かづしか》早稲《わせ》を饗《にへ》すとも其《そ》の愛《かな》しきを外《と》に立《た》てめやも 〔巻十四・三三八六〕 東歌
下総国の歌。鳰鳥(かいつぶり)は水に潜《かず》くので、葛飾《かずしか》のかずへの枕詞とした。葛飾は今の葛飾《かつしか》区一帯。「饗《にえ》」は神に新穀を供え祭ること、即ち新嘗《にいなめ》の祭をいう。「にへ」は贄《にえ》で、「にひなめ」は、「にへのいみ」(折口博士)の義だとしてある。一首の意は、今は縦《たと》い葛飾で出来た早稲の新米を神様に供えてお祭をしている大切な、身を潔《きよ》くしていなければならない時であっても、あの恋《いと》しいお方のことですから、空《むな》しく家の外に立たせては置きませぬ、というので、「その愛しき」の「その」は憶良の歌にもあった、「そのかの母も」(巻三・三三七)の場合と同じである。軽く「あの」ぐらいにとればいい。それにしても、自分の恋しいあのお方ということを、「その愛《かな》しきを」という、簡潔でぞくぞくさせる程の情味もこもりいる、まことに旨《うま》い言葉である。農業民謡で、稲扱《いねこき》などをしながら大勢して歌うこともまた可能である。
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信濃路《しなぬぢ》は今《いま》の墾道《はりみち》刈株《かりばね》に足《あし》踏《ふ》ましむな履《くつ》著《は》け我《わ》が夫《せ》 〔巻十四・三三九九〕 東歌
信濃国歌。「今の墾道《はりみち》」は、まだ最近の墾道というので、「新治《にひばり》の今つくる路《みち》さやかにも聞きにけるかも妹が上のことを」(巻十二・二八五五)が参考になる。一首の意は、信濃の国の此処《ここ》の新開道路は、未だ出来たばかりで、木や竹の刈株があってあぶないから、踏んで足を痛めてはなりませぬ、吾が夫よ、履《くつ》をお穿《は》きなさい、というのである。履は藁靴《わらぐつ》であっただろう。これも、旅人の気持でなく、現在其処《そこ》にいても、「信濃路は」といっていること、前の、「信濃なる須賀の荒野に」と同じである。山野を歩いて為事《しごと》をする夫の気持でやはり農業歌の一種と看《み》ていい。「かりばね」は「苅れる根を言ふべし」(略解)だが、原意はよく分からぬ。近時「刈生根《かりふね》」の転(井上博士)だろうという説をたてた。私の郷里では足を踏むことをカックイ・フムといっている。
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吾《あ》が恋《こひ》はまさかも悲《かな》し草枕《くさまくら》多胡《たこ》の入野《いりぬ》のおくもかなしも 〔巻十四・三四〇三〕 東歌
上野国《かみつけぬのくに》歌。「多胡」は上野国多胡《たこ》郡。今は多野《たの》郡に属した。「草枕」を「多胡」の枕詞としたのは、タビのタに続けたので変則の一つである。垂水之水能早敷八師《タルミノミヅノハシキヤシ》(巻十二・三〇二五)で、ハヤシのハとハシキヤシのハに続けたたぐいである。「入野」は山の方へ深く入りこんだ野という意味であろう。「まさか」は「正《まさ》か」で、まさしく、現に、今、等の意に落着くだろう。「梓弓《あづさゆみ》すゑはし知らず然れどもまさかは君に縁《よ》りにしものを」(巻十二・二九八五)、「しらがつく木綿《ゆふ》は花物ことこそは何時《いつ》のまさかも常忘らえね」(同・二九九六)、「伊香保ろの傍《そひ》の榛原《はりはら》ねもころに奥をな兼ねそまさかし善かば」(巻十四・三四一〇)、「さ百合《ゆり》花後《ゆり》も逢はむと思へこそ今のまさかも愛《うるは》しみすれ」(巻十八・四〇八八)等の例がある。一首の意は、自分の恋は、いま現《げん》にこんなにも深く強い。多胡の入野のように(序詞)奥の奥まで相かわらずいつまでも深くて強い、というのである。「まさかも」、それから、「おくも」と続いており、「かなし」を繰返しているが、このカナシという音は何ともいえぬ響を伝えている。民謡的に誰がうたってもいい。多胡郡に働く人々の口から口へと伝わったものと見えるが、甘美でもあり切実の悲哀もあり、不思議にも身に沁《し》みるいい歌である。この歌は男の歌か女の歌か、略解も古義も女の歌として居り、「夫の旅別の其際《そのきは》もかなし、別《わかれ》て末に思はむも悲しといふ也」(略解)とあるが、却《かえ》って男の歌として解し易《やす》いようでもある。併しこういうのになると、男でも女でも、その境界を超えたひびきがあり、無論作者がどういう者だろうかなどという個人を絶してしまっている。
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上毛野《かみつけぬ》安蘇《あそ》の真麻《まそ》むら掻《か》き抱《むだ》き寝《ぬ》れど飽《あ》かぬを何《あ》どか吾《あ》がせむ 〔巻十四・三四〇四〕 東歌
上野国歌。「安蘇」は下野《しもつけ》安蘇郡であろうが、もとは上野《こうずけ》に入っていたと見える。この巻に、「下毛野《しもつけぬ》安素《あそ》の河原よ」(三四二五)とあるのは隣接地で下野にもかかっていたことが分かる。「真麻《まそ》むら」は、真麻《まあさ》の群《むれ》で、それを刈ったものを抱きかかえて運ぶから、「抱《むだ》き」に続く序詞とした。一首の意は、真麻むらの麻の束を抱《だ》きかかえるように(序詞)可哀いお前を抱いて寝たが、飽きるということがない、どうしたらいいのか、というのである。これも農民のあいだに伝わったものであろうが、序詞も無理でなく、実際生活を暗指《あんじ》しつつ恋愛情緒《れんあいじょうしょ》を具体的にいって、少しもみだらな感を伴《ともな》わず、嫉《ねた》ましい感をも伴わないのは、全体が邪気《じゃき》なく快《こころよ》いものだからであろう。それにはアドカ・アガセムという訛《なまり》も手伝っているらしく思われるけれども、単にそれのみでなく、「何《あど》か吾がせむ」という切実な句が此歌の価値を高めているからであろう。この句は万葉に「あどせろとかもあやに愛《かな》しき」(巻十四・三四六五)の例があるのみで、ほかは、「家に行きて如何にか吾がせむ枕づく嬬屋《つまや》さぶしく思ほゆべしも」(巻五・七九五)、「斯くばかり面影のみに思ほえばいかにかもせむ人目繁くて」(巻四・七五二)、「今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむ為《す》るすべのなさ」(巻十七・三九二八)等の例があるのみである。東歌の中でも私はこの歌を愛している。
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伊香保《いかほ》ろのやさかの堰《ゐで》に立《た》つ虹《ぬじ》の顕《あらは》ろまでもさ寝《ね》をさ寝《ね》てば 〔巻十四・三四一四〕 東歌
「やさかの堰《ゐで》」は八坂という処にあった河水を湛《たた》え止めた堰(いぜき・せき・つつみ)であろう。八坂は今の伊香保温泉の東南に水沢という処がある、其処だろうと云われている。一首の意は、伊香保の八坂の堰《せき》に虹があらわれた(序詞)どうせあらわれるまでは(人に知れるまでは)、お前と一しょにこうして寝ていたいものだ、というのであるが、これも「さ寝をさ寝てば」などと云っても、不潔を感ぜぬのみならず、河の井堰《いぜき》の上に立った虹の写象と共に、一種不思議な快いものを感ぜしめる。虹の歌は万葉集中此一首のみだからなお珍重すべきものである。虹は此歌では、努自《ヌジ》と書いてあるが、能自《ノジ》、禰自《ネジ》、爾自《ニジ》等と変化した。古事記に、「うるはしとさ寝しさ寝てば苅薦《かりごも》の乱れば乱れさ寝しさ寝てば」という歌謡があり、この巻にも、「河上《かはかみ》の根白《ねじろ》高萱《たかがや》あやにあやにさ寝さ寝てこそ言《こと》に出《で》にしか」(三四九七)というのがあって参考になる。「顕《あらは》ろまで」は、「顕るまで」の訛《なまり》で、こういう訛もまた一首の鑑賞に関係あらしめている。虹の如き鮮明な視覚写象と、男女相寝るということとの融合は、単に常識的合理な聯想に依らぬ場合があり、こういう点になると古代人の方が我々よりも上手《うわて》のようである。
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下毛野《しもつけぬ》みかもの山《やま》の小楢《こなら》如《の》す目細《まぐは》し児《こ》ろは誰《た》が笥《け》か持《も》たむ 〔巻十四・三四二四〕 東歌
下毛野《しもつけぬ》安蘇《あそ》の河原《かはら》よ石《いし》踏《ふ》まず空《そら》ゆと来《き》ぬよ汝《な》が心《こころ》告《の》れ 〔巻十四・三四二五〕 東歌
下野歌を二つ一しょに此処に書いた。第一の歌、「みかも」は、延喜式《えんぎしき》の都賀郡三鴨駅、今、下都賀郡、岩舟駅の近くにある。下野の三鴨の山に茂っている小楢の葉の美しいように、美しく可哀《かあい》らしいあの娘は、誰の妻になって、食事の器を持つだろう、御飯の世話をするだろう、というのだが、やはりつまりはおれの妻になるのだということになる。疑問に云っているがつまりは自らに肯定する云い方である。古代民謡は、ただ悲観的に反省し諦念《ていねん》してしまわないのが普通だからである。それからこの小楢の如く美しいというのは、楢の若葉の感じである。結句多賀家可母多牟《タカケカモタム》は、「手カケカモタム」(仙覚抄)、「高キカモタムニテ、高キハ夫ナリ。夫ハ妻ノタメニハ天ナレバ高キト云ヘリ」(代匠記)等と解したが、大神真潮《おおみわのましお》が、誰笥歟将持《タガケカモタム》の意に解し、古義で紹介した。「香具山は畝火を愛《を》しと」の解と共に永久不滅である。但し、拾穂抄《しゅうすいしょう》に既に、「誰が家《け》か持たむ」の説があるが、「笥」までは季吟《きぎん》も思い及ばなかったのである。
第二の歌は、前にあった安蘇と同じ土地で、そこの河である。安蘇河の河原の石も踏まず、空から飛んでお前のところにやって来たのだ、何が何だか分からず宙を飛ぶような気持でやって来たのだから、これ程おもう俺《おれ》にお前の気持をいって呉れ、というので、「空ゆと来ぬ」が特殊ないい方で、今の言葉なら、「宙を飛んで来た」ぐらいになる。巻十二(二九五〇)に、「吾妹子が夜戸出《よとで》の光儀《すがた》見てしよりこころ空《そら》なり地《つち》は踏めども」も、足が地に着かず、宙を歩いているような気持をあらわしている。
こういう歌は、当時の人々は楽々と作り、快く相伝えていたものとおもうが、現在の吾々は、ただそれを珍らしいと思うばかりでなく、技巧的にもひどく感心するのである。小楢の若葉の日光に透きとおるような柔かさと、女の膚膩《ふじ》の健康な血をとおしている具合とを合体せしめる感覚にも感心せしめられるし、「誰が笥か持たむ」という簡潔で、女の行為が男に接触する程な鮮明を保持せしめているいい方も、石も踏まずとことわって、さて虚空を飛んで来たという云い方も、一体何処にこういう技法力があるのだろうとおもう程である。ただもともと民謡だから、全体が軽妙に運ばれたもので、そこが個人的独詠歌などと違う点なのである。
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鈴《すず》が音《ね》の早馬駅《はゆまうまや》の堤井《つつみゐ》の水《みづ》をたまへな妹が直手《ただて》よ 〔巻十四・三四三九〕 東歌
雑歌。「早馬駅《はゆまうまや》」は、早馬《はやうま》を準備してある駅《うまや》という意。「堤井」は、湧いている泉を囲った井で、古代の井は概《おおむ》ねそれであった。一首の意は、鈴の音の聞こえる、早馬のいる駅(宿場)の泉の水は、どうか美しいあなたの直接の手でむすんで飲ましてください、というのである。この歌も、早馬を引く馬方などの口でうたわれたものか、少くともそういう場処が作歌の中心であっただろう。そして駅には古《いにしえ》もかわらぬ可哀《かあい》い女がいただろうから、そこで、「妹が直手《ただて》よ」という如き表現が出来るので、実にうまいものである。「直手よ」の「よ」は「より」で、直接あなたの手からというのである。いずれにしても快い歌である。
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おもしろき野《ぬ》をばな焼《や》きそ古草《ふるくさ》に新草《にひくさ》まじり生《お》ひは生《お》ふるがに 〔巻十四・三四五二〕 東歌
こころよいこの春の野を焼くな。去年の冬枯れた古草にまじって、新しい春の草が生えて来るから、というので、「生ふるがに」は、生うべきものだからというぐらいの意である。「おもしろし」も今の語感よりも、もっと感に入る語感で、万葉で※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、下-120-6]怜の字を当てているのを以ても分かる。こころよい、なつかしい、身に沁《し》みる等と翻《ほん》していい場合が多い。※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、下-120-7]怜を「あはれ」とも訓むから、その情調が入っているのである。この歌の字面はそれだけだが、この歌は民謡で、野の草を哀憐《あいれん》する気持の歌だから、引いて人事の心持、古妻《ふるづま》というような心持にも聯想《れんそう》が向くのであるが、現在の私等はあっさりと鑑賞して却って有益な歌なのかも知れない。
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稲《いね》舂《つ》けば皹《かが》る我《あ》が手《て》を今宵《こよひ》もか殿《との》の稚子《わくご》が取《と》りて嘆《なげ》かむ 〔巻十四・三四五九〕 東歌
「皹《かが》る」は、皹《ひび》のきれることで、アカガリ、アカギレともいう。「殿の稚子《わくご》」は、地方の国守とか郡守とか豪族とかいう家柄の若君をいうので、歌う者はそれよりも身分の賤《いや》しい農婦として使われている者か、或は村里の娘たちという種類の趣《おもむき》である。一首の意は、稲を舂《つ》いてこんなに皹《ひび》の切れた私の手をば、今夜も殿の若君が取られて、可哀そうだとおっしゃることでしょう、御一しょになる時にお恥しい心持もするという余情がこもっている。内容が斯《か》く稍《やや》戯曲的であるから、いろいろ敷衍《ふえん》して解釈しがちであるが、これも農民のあいだに行われた労働歌の一種で、農婦等がこぞってうたうのに適したものである。それだから「殿の若子《わくご》」も、この「我が手」の主人も、誰《たれ》であってもかまわぬのである。ただこの歌には、身分のいい青年に接近している若い農小婦の純粋なつつましい語気が聞かれるので、それで吾々は感にたえぬ程になるのだが、よく味えばやはり一般民謡の特質に触れるのである。併しこれだけの民謡を生んだのは、まさに世界第一流の民謡国だという証拠《しょうこ》である。なおこの巻に、「都武賀野《つむがぬ》に鈴が音《おと》きこゆ上志太《かむしだ》の殿の仲子《なかち》し鳥狩《とがり》すらしも」(三四三八)というのがあって、一しょにして鑑賞することが出来る。「仲子」は次男のことである。
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あしひきの山沢人《やまさはびと》の人多《ひとさは》にまなといふ児《こ》があやに愛《かな》しさ 〔巻十四・三四六二〕 東歌
「足引の山沢人の」までは「人さはに」に続く序詞で、山の谿沢《たにさわ》に住んで居る人々、樵夫《きこり》などのたぐいをいう。「まなといふ児」は、可哀《かあい》いと評判されている娘ということである。そこで一首は、山沢人だち(序詞)おおぜいの人々が美しい可哀いと評判しているあの娘は、私にはこの上もなく可哀い、恋しい、というのである。この歌も普通と違ったところがある。自分の恋しているあの娘は人なかでも評判がいいというので内心喜ぶ心持もあり、人なかで評判のいい娘を私も恋しているので不安で苦しくもあるという気持もあるのである。山間に住《すみ》ついて働く人々の中にこういう民謡があったものと見える。「多麻河に曝《さら》す手作《てづくり》さらさらに何《なに》ぞこの児のここだ愛《かな》しき」(巻十四・三三七三)、「高麗錦《こまにしき》紐《ひも》解《と》き放《さ》けて寝《ぬ》るが上《へ》に何《あ》ど為《せ》ろとかもあやに愛《かな》しき」(同・三四六五)、「垣越《くへご》しに麦食《は》む小馬《こうま》のはつはつに相見し児らしあやに愛《かな》しも」(同・三五三七)等の例がある。
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植竹《うゑたけ》の本《もと》さへ響《とよ》み出《い》でて去《い》なば何方《いづし》向《む》きてか妹《いも》が嘆《なげ》かむ 〔巻十四・三四七四〕 東歌
「植竹の」は竹林のことで、竹の根本《ねもと》から「本」への枕詞とした。家じゅう大騒ぎして私が旅立ったら、妻は嘸《さぞ》歎き悲しむことだろう、というので、代匠記以来、防人《さきもり》などに出立の時の歌ででもあろうかといっている。この巻に、「霞ゐる富士の山傍《やまび》に我が来なば何方《いづち》向きてか妹が歎かむ」(三三五七)の例がある。この歌を私は嘗《かつ》て、女と言い争うか何かして、あらあらしく騒いで女の家を立退《たちの》く趣《おもむき》に解したことがある。即ち植竹の幹の本迄響くように荒々しく怒って立退くあとで、妹を可哀くおもって反省した趣にしたのであった。そして、「背向《そがひ》に寝《ね》しく今しくやしも」(巻七・一四一二)などをも参照にしたのであったが、今回は契沖以下の先輩の注釈書に従うことにしたけれども、必ずしも防人出立とせずに、民謡的情事の一場面としても味うことが出来るのである。
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麻苧《あさを》らを麻笥《をけ》に多《ふすさ》に績《う》まずとも明日《あす》来《き》せざめやいざせ小床《をどこ》に 〔巻十四・三四八四〕 東歌
麻苧《あさお》の糸を娘が績《う》んでいるのに対《むか》って男がいいかける趣の歌で、「ら」は添えたものである。「ふすさに」は沢山《たくさん》の意。巻八(一五四九)にある、「なでしこの花ふさ手折り吾は去なむ」の「ふさ」、巻十七(三九四三)にある、「我背子がふさ手折りける」の「ふさ」も同じ語であろうか。一首は、麻苧をそんなに沢山笥《おけ》に紡《つむ》がずとも、また明日が無いのではないから、さあ小床《おどこ》に行こう、というのである。「いざせ」の「いざ」は呼びかける語、「せ」は「為《せ》」で、この場合は行こうということになる。「明日きせざめや」を契沖は、「明日着セザラメヤ」と解《と》いたが、それよりも「明日来せざらめや也。明日来といふは、凡《すべ》て月日の事を来歴《きへ》ゆくと言ひて、明日の日の来る事也」という略解《りゃくげ》(宣長説)の穏当を取るべきであろう。これも田園民謡で、直接法をしきりに用いているのがおもしろく、特に結句の「いざ・せ・小床に」というのはただの七音の中にこれだけ詰めこんで、調子を破らないのは、なかなか旨《うま》いものである。
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児《こ》もち山若《やまわか》かへるでの黄葉《もみづ》まで寝《ね》もと吾《わ》は思《も》ふ汝《な》は何《あ》どか思《も》ふ 〔巻十四・三四九四〕 東歌
「児持山」は伊香保温泉からも見える山で、渋川町の北方に聳《そび》えている。一首は、あの子持山の春の楓《かえで》の若葉が、秋になって黄葉《もみじ》するまでも、お前と一しょに寝ようと思うが、お前はどうおもう、というので、誇張するというのは既に親しんでいる証拠でもあり、その親しみが露骨でもあるから、一般化し得る特色を有《も》つのである。「汝は何《あ》どか思ふ」と促すところは、会話の語気その儘《まま》であるので感じに乗ってくるのである。「吾をぞも汝に依《よ》すとふ、汝はいかに思《も》ふや」(巻十三・三三〇九)という長歌の句は、この東歌に比して間が延びて居るように感ずるのである。
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高《たか》き峰《ね》に雲《くも》の着《つ》く如《の》す我《われ》さへに君《きみ》に着《つ》きなな高峰《たかね》と思《も》ひて 〔巻十四・三五一四〕 東歌
高い山に雲が着くように、私までも、あなたに着きましょう、あなたを高い山だとおもって、というので、何か諧謔《かいぎゃく》の調のあるのは、親しみのうちに大勢してうたえるようにも出来ており、民謡特有の無遠慮な直接性があるのである。高峰を繰返してもいるが、結句の「高峰ともひて」には親しい甘いところがあっていい。
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我《あ》が面《おも》の忘《わす》れむ時《しだ》は国《くに》溢《はふ》り峰《ね》に立《た》つ雲《くも》を見《み》つつ偲《しぬ》ばせ 〔巻十四・三五一五〕 東歌
あなたが旅にあって、若《も》しも私の顔をお忘れになるような時は、国に溢《あふ》れて立つ雲の峰を御覧になっておもい出して下さいませ、というので、これは寄レ雲恋というように分類しているが、雲の峰を常に見ているのでこういう聯想になったものであろう。この誇張らしいいい方《かた》は諧謔《かいぎゃく》でない重々しいところがあるので感が深いようである。この歌の次の、「対馬《つしま》の嶺《ね》は下雲《したぐも》あらなふ上《かむ》の嶺《ね》にたなびく雲を見つつ偲ばも」(巻十四・三五一六)は、男の歌らしいから、防人《さきもり》の歌ででもあって、前のは防人の妻ででもあろうか。なお、「面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろにたなびく雲を見つつ偲ばむ」(同・三五二〇)も類似の歌であるが、この「国溢り」の歌が一番よい。なお、「南吹き雪解《ゆきげ》はふりて、射水がはながる水泡《みなわ》の」(巻十八・四一〇六)、「射水《いみづ》がは雪解溢《はふ》りて、行く水のいやましにのみ、鶴《たづ》がなくなごえの菅《すげ》の」(同・四一一六)の例もあり、なお、「君が行く海辺の宿に霧立たば吾《あ》が立ち嘆く息と知りませ」(巻十五・三五八〇)等、類想のものが多い。
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昨夜《きそ》こそは児《こ》ろとさ宿《ね》しか雲《くも》の上《うへ》ゆ鳴《な》き行《ゆ》く鶴《たづ》の間遠《まどほ》く思《おも》ほゆ 〔巻十四・三五二二〕 東歌
「雲の上ゆ鳴き行く鶴の」は「間遠く」に続く序詞であるから、一首は、あの娘とは昨晩寝たばかりなのに、だいぶ日数が立ったような気がするな、というので、こういう発想は東歌でないほかの歌にもあるけれども、「雲の上ゆ鳴き行く鶴の」は、なかなかの技巧である。
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防人《さきもり》に立《た》ちし朝《あさ》けの金門出《かなとで》に手放《たばな》れ惜《を》しみ泣《な》きし児《こ》らはも 〔巻十四・三五六九〕 東歌・防人
未勘国《いまだかんがえざるくに》防人の歌。「金門《かなと》」は既にあったごとく「門《かど》」である。「手放れ」は手離で、別れることだが、別れに際しては手を握ったことが分かる。これは人間の自然行為で必ずしも西洋とは限らぬ。そこで、此処は、「た」は添辞とせずに、「手」に意味を持たせるのである。併しそれは字面の問題で、実際の気持は別《わかれ》を惜しむことで、そこで、「泣きし児らはも」が利《き》くのである。これは、君命を帯びて辺土の防備に行くのだが、その別を悲しむ歌である。これも彼等の真実の一面、また、「大君の辺《へ》にこそ死なめ和《のど》には死なじ」も真実の一面である。全体がめそめそばかりではないのである。
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葦《あし》の葉《は》に夕霧《ゆふぎり》立《た》ちて鴨《かも》が音《ね》の寒《さむ》き夕《ゆふべ》し汝《な》をば偲《しぬ》ばむ 〔巻十四・三五七〇〕 東歌・防人
これも防人の歌で、葦の葉に夕霧が立って、そこに鴨が鳴く、そういう寒い晩には、というので、具象的にいっている。そして、「汝をば偲ばむ」というのだから、いまだそういう場合にのぞまない時の歌である。東歌の歌調に似ない巧なところがあるから、幾らか指導者があったのかも知れない。併しもとの作はやはり防人《さきもり》本人で、哀韻の迫ってくるのはそのためであろう。「葦《あし》べゆく鴨の羽交《はがひ》に霜ふりて寒き夕は大和《やまと》しおもほゆ」(巻一・六四)という志貴皇子の御歌に似ている。
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東歌の選鈔《せんしょう》は大体右の如くであるが、東歌はなお特殊なものは幾つかあり、秀歌という程でなくとも、注意すべきものだから次に記し置くのである。
さ寝《ぬ》らくはたまの緒《を》ばかり恋ふらくは富士の高嶺《たかね》の鳴沢《なるさは》の如《ごと》 (巻十四・三三五八)
足柄《あしがり》の土肥《とひ》の河内《かふち》に出づる湯の世にもたよらに児ろが言はなくに (同・三三六八)
入間道《いりまぢ》の大家《おほや》が原のいはゐづら引かばぬるぬる吾《わ》にな絶えそね (同・三三七八)
我背子《わがせこ》を何《あ》どかもいはむ武蔵野のうけらが花の時無きものを (同・三三七九)
筑波嶺にかが鳴く鷲《わし》の音《ね》のみをか鳴き渡りなむ逢ふとは無しに (同・三三九〇)
小筑波の嶺《ね》ろに月立《つくた》し逢ひだ夜は多《さはだ》なりぬをまた寝てむかも (同・三三九五)
伊香保ろの傍《そひ》の榛原《はりはら》ねもころに奥をな兼ねそまさかし善《よ》かば (同・三四一〇)
上毛野《かみつけぬ》伊奈良《いなら》の沼の大藺草《おほゐぐさ》よそに見しよは今こそまされ (同・三四一七)
薪《たきぎ》樵《こ》る鎌倉山の木垂《こだ》る木をまつと汝《な》が言はば恋ひつつやあらむ (同・三四三三)
うらも無く我が行く道に青柳《あおやぎ》の張りて立てればもの思《も》ひ出《づ》つも (同・三四四三)
草蔭の安努《あぬ》な行かむと墾《は》りし道阿努《あぬ》は行かずて荒草立《あらくさだ》ちぬ (同・三四四七)
ま遠《どほ》くの野にも逢はなむ心なく里の真中《みなか》に逢へる夫《せな》かも (同・三四六三)
佐野《さぬ》山に打つや斧音《をのと》の遠かども寝《ね》もとか子ろが面《おも》に見えつる (同・三四七三)
諾児汝《うべこな》は吾《わぬ》に恋ふなも立《た》と月《つく》の流《ぬが》なへ行けば恋《こふ》しかるなも (同・三四七六)
橘の古婆《こば》のはなりが思ふなむ心愛《うつく》しいで吾《あれ》は行かな (同・三四九六)
河上《かはかみ》の根白高萱《ねじろたかがや》あやにあやにさ宿《ね》さ寐《ね》てこそ言《こと》に出《で》にしか (同・三四九七)
岡に寄せ我が刈る草《かや》の狭萎草《さねがや》のまこと柔《なごや》は寝《ね》ろとへなかも (同・三四九九)
安斉可潟《あせかがた》潮干の緩《ゆた》に思へらば朮《うけら》が花の色に出めやも (同・三五〇三)
青嶺《あをね》ろにたなびく雲のいさよひに物をぞ思ふ年のこの頃 (同・三五一一)
一嶺《ひとね》ろに言はるものから青嶺《あをね》ろにいさよふ雲のよそり妻はも (同・三五一二)
夕さればみ山を去らぬ布雲《にぬぐも》の何《あぜ》か絶えむと言ひし児ろはも (同・三五一三)
沼二つ通は鳥が巣我《あ》がこころ二行《ふたゆ》くなもと勿《な》よ思《も》はりそね (同・三五二六)
妹をこそあひ見に来《こ》しか眉曳《まよびき》の横山辺《へ》ろの鹿《しし》なす思《おも》へる (同・三五三一)
垣越《くへご》しに麦食むこうまのはつはつに相見し子らしあやに愛《かな》しも (同・三五三七)
青柳のはらろ川門《かはと》に汝を待つと清水《せみど》は汲まず立所《たちど》平《なら》すも (同・三五四六)
たゆひ潟潮満ちわたる何処《いづ》ゆかも愛《かな》しき夫《せ》ろが吾許《わがり》通はむ (同・三五四九)
塩船《しほぶね》の置かれば悲しさ寝つれば人言《ひとごと》しげし汝《な》を何《ど》かも為《し》む (同・三五五六)
悩《なやま》しけ人妻《ひとづま》かもよ漕《こ》ぐ船の忘れは為無《せな》な弥《いや》思《も》ひ増すに (同・三五五七)
彼《か》の児ろと宿《ね》ずやなりなむはた薄裏野《すすきうらぬ》の山に月《つく》片寄《かたよ》るも (同・三五六五)
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あをによし奈良《なら》の都《みやこ》にたなびける天《あま》の白雲《しらくも》見《み》れど飽《あ》かぬかも 〔巻十五・三六〇二〕 作者不詳
新羅《しらぎ》に使に行く入新羅使以下の人々が、出帆の時には別《わかれ》を惜しみ、海上にあっては故郷を懐《おも》い、時には船上に宴を設けて「古歌」を吟誦した。その古歌幾つかが纏《まと》まって載っているが、此歌もその一つで雲を詠じた歌だと注してある。一首は、奈良の都の上にたなびいて居る、天の白雲の豊大な趣を讃美した歌であるが、作者も分からず、どういう時に詠《よ》んだものかも分かっていない。ただ雲を詠んだものとして、豊かな大きい調子があるので吟誦にも適し、また奈良の家郷を偲《しの》ぶのにふさわしいものとして選ばれたものであろう。この新羅使は天平八年であるが、その時にもうこの歌の如きは古調に響いたのであったのかも知れない。此処に、人麿作五つばかり幾らか変化しつつ載って居り、左注でその事を注意しているところを見ると、この歌も、上の句の、「あをによし奈良の都に」の句は変化したもので、原作は、「奈良の都に」などでなく、山のうえとか海上とか、或は序詞などで続けたものか、そういうものだったかも知れない。いずれにしても、「天の白雲見れど飽かぬかも」の句は形式的な感じもあるが、なかなかよいものである。
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わたつみの海《うみ》に出《い》でたる飾磨河《しかまがは》絶《た》えむ日にこそ吾《あ》が恋《こひ》止《や》まめ 〔巻十五・三六〇五〕 作者不詳
この歌も新羅使の一行が、船上で「古歌」として吟誦したもので、恋の歌と注してある。「飾磨《しかま》河」は播磨《はりま》で、今姫路市を流れる船場川だといわれている。巻七(一一七八)の或本歌に、「飾磨江《しかまえ》は漕ぎ過ぎぬらし天づたふ日笠の浦に波立てり見ゆ」とあるのも同じ場処であろう。一首の意は、海にそそぐ飾磨川の流は絶ゆることは無いが、若し絶ゆることがあったら、はじめて俺の恋は止《や》まるだろう、というので、「ひさかたの天つみ空に照れる日の失せなむ日こそ吾が恋ひ止まめ」(巻十二・三〇〇四)をはじめ同じ結句の歌は数首ある。そして此程度の歌ならば、他の巻には幾らもあると思うが、当時既に古歌として取扱った歌として、また、第二句「海にいでたる」の句の穉拙《ちせつ》愛すべき特色とを以て選出して置いた。
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百船《ももふね》の泊《は》つる対馬《つしま》の浅茅山《あさぢやま》時雨《しぐれ》の雨《あめ》にもみだひにけり 〔巻十五・三六九七〕 新羅使
新羅使の一行が、対馬《つしま》の浅茅浦《あさじのうら》に碇泊《ていはく》した時、順風を得ずして五日間逗留《とうりゅう》した。諸人の中で慟《なげ》いて作歌した三首中の一つである。浅茅浦は今俗に大口浦といっている。モミヅは其頃多《た》行四段にも活用し其《それ》をまた波《は》行に活用せしめた。「もみだひにけり」は時間的経過をも含ませている。歌は平凡で取立てていうほどではないが、実際に当って作ったという争われぬ強みがあるので、読後身に沁《し》むのである。
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天離《あまざか》る鄙《ひな》にも月《つき》は照《て》れれども妹《いも》ぞ遠《とほ》くは別《わか》れ来にける 〔巻十五・三六九八〕 新羅使
前の歌の続きであるが、五日滞在のうちには時雨《しぐれ》も晴れて月の照った夜もあったのであろう。「鄙にも月は照れれども」という句に哀韻があるのは、都の月光という相対的な感じもあり、いつのまにか秋になった感じもあり、都の月光と相愛の妻との関係などもあって、そういう哀韻を伴うのであろうか。此歌とても特に秀歌というものではないが、不思議に心をひくのは、実地の作だからであろう。人麿の歌に、「去年《こぞ》見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年さかる」(巻二・二一一)がある。
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竹敷《たかしき》のうへかた山《やま》は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色《いろ》になりにけるかも 〔巻十五・三七〇三〕 新羅使(大蔵麿)
一行が竹敷《たかしき》浦(今の竹敷港)に碇泊した時の歌が十八首あるその一つで、小判官大蔵忌寸麿《おおおくらのいみきまろ》の作である。「うへかた山」は上方《うえかた》山で今の城山であろう。「八入の色」は幾度も染めた真赤な色というのである。単純だが、「くれなゐの八入《やしほ》の色」で統一せしめたから、印象鮮明になって佳作となった。「くれなゐの八入《やしほ》の衣朝な朝な穢《な》るとはすれどいや珍しも」(巻十一・二六二三)がある。この時の十八首の中には、大使阿倍継麿《あべのつぎまろ》が、「あしひきの山下《やました》ひかる黄葉《もみぢば》の散りの乱《まがひ》は今日にもあるかも」(巻十五・三七〇〇)、副使大伴三中《みなか》が、「竹敷《たかしき》の黄葉を見れば吾妹子《わぎもこ》が待たむといひし時ぞ来にける」(同・三七〇一)、大判官壬生宇太麻呂《みぶのうだまろ》が、「竹敷の浦廻《うらみ》の黄葉《もみぢ》われ行きて帰り来るまで散りこすなゆめ」(同・三七〇二)という歌を作って居り、対馬娘子《つしまのおとめ》、玉槻《たまつき》という者が、「もみぢ葉の散らふ山辺《やまべ》ゆ榜《こ》ぐ船のにほひに愛《め》でて出でて来にけり」(同・三七〇四)という歌を作ったりしている。天平八年夏六月、武庫浦《むこのうら》を出帆したのが、対馬《つしま》に来るともう黄葉が真赤に見える頃になっている。彼等が月光を詠じ黄葉を詠じているのは、単に歌の上の詩的表現のみでなったことが分かる。対馬でこの玉槻という遊行女婦《うかれめ》などは唯一の慰めであったのかも知れない。この一行のある者は帰途に病み、大使継麿のごときは病歿している。また新羅との政治的関係も好ましくない切迫した背景もあって注意すべき一聯《いちれん》の歌である。帰途に、「天雲のたゆたひ来れば九月《ながつき》の黄葉《もみぢ》の山もうつろひにけり」(同・三七一六)、「大伴の御津《みつ》の泊《とまり》に船泊《は》てて立田の山を何時か越え往《い》かむ」(同・三七二二)などという歌を作って居る。
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あしひきの山路《やまぢ》越《こ》えむとする君《きみ》を心《こころ》に持《も》ちて安《やす》けくもなし 〔巻十五・三七二三〕 狭野茅上娘子
中臣朝臣宅守《なかとみのあそみやかもり》が、罪を得て越前国に配流された時に、狭野茅上娘子《さぬのちがみのおとめ》の詠んだ歌である。娘子の伝は審《つまびら》かでないが、宅守と深く親んだことは是等一聯の歌を読めば分かる。目録に蔵部女嬬《にょじゅ》とあるから、低い女官であっただろう。一首の意は、あなたがいよいよ山越をして行かれるのを、しじゅう心の中に持っておりまして、あきらめられず、不安でなりませぬ、という程の歌である。「君を心に持つ」は貴方をば心中に持つこと、心に抱き持つこと、恋しくて忘れられぬこと、あきらめられぬことというぐらいになるが、「君を心に持つ」と具体的に云ったので、親しさが却って増したようにおもわれる。「吾妹子《わぎもこ》に恋ふれにかあらむ沖に住む鴨《かも》の浮宿《うきね》の安けくもなし(なき)」(巻十一・二八〇六)、「今は吾は死なむよ吾妹逢はずして念《おも》ひわたれば安けくもなし」(巻十二・二八六九)等、用例は可なりある。
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君《きみ》が行《ゆ》く道《みち》の長路《ながて》を繰《く》り畳《たた》ね焼《や》き亡《ほろ》ぼさむ天《あめ》の火《ひ》もがも 〔巻十五・三七二四〕 狭野茅上娘子
同じく続く歌で、あなたが、越前の方においでになる遠い路をば、手繰《たぐ》りよせてそれを畳《たた》んで、焼いてしまう天火《てんか》でもあればいい。そうしたならあなたを引き戻《もど》すことが出来ましょう、という程の歌で、強く誇張していうところに女性らしい語気と情味とが存じている。娘子《おとめ》は古歌などをも学んだ形跡があり、文芸にも興味を持つ才女であったらしいから、「天の火もがも」などという語も比較的自然に口より発したのかも知れない。そして、「焼き亡ぼさむ天の火もがも」という句は、これだけを抽出してもなかなか好い句である。天火《てんか》は支那では、劫火《ごうか》などと似て、思いがけぬところに起る火のことを云って居る。史記孝景本記に、「三年正月乙巳天火燔二陽東宮大殿城室一」とあり、易林に「天火大起、飛鳥驚駭」とある如きである。併《しか》しその火が天に燃えていてもかまわぬだろう。いずれにしても「天《あめ》の火《ひ》」とくだいたのは好い。なお娘子には、「天地の至極《そこひ》の内《うち》にあが如く君に恋ふらむ人は実《さね》あらじ」(巻十五・三七五〇)というのもある程だから、情熱を以て強く宅守に迫って来た女性だったかも知れない。また贈答歌を通読するに、宅守よりも娘子の方が巧《たくみ》である。そしてその巧なうちに、この女性の息吹《いぶき》をも感ずるので宅守は気乗《きのり》したものと見えるが、宅守の方が受身という気配《けはい》があるようである。
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あかねさす昼は物思《ものも》ひぬばたまの夜はすがらに哭《ね》のみし泣かゆ 〔巻十五・三七三二〕 中臣宅守
これは中臣宅守《なかとみのやかもり》が娘子《おとめ》に贈った歌だが、この方は気が利《き》かない程地味で、骨折って歌っているが、娘子の歌ほど声調にゆらぎが無い。「天地の神なきものにあらばこそ吾《あ》が思《も》ふ妹に逢はず死《しに》せめ」(巻十五・三七四〇)、「逢はむ日をその日と知らず常闇《とこやみ》にいづれの日まで吾《あれ》恋ひ居らむ」(同・三七四二)などにあるように、「天地の神」とか、「常闇」とか詠込んでいるが、それほど響かないのは、おとなしい人であったのかも知れない。
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帰《かへ》りける人《ひと》来《きた》れりといひしかばほとほと死《し》にき君かと思ひて 〔巻十五・三七七二〕 狭野茅上娘子
娘子《おとめ》が宅守《やかもり》に贈った歌であるが、罪をゆるされて都にお帰りになった人が居るというので、嬉しくて死にそうでした、それがあなたかと思って、というのであるが、天平十二年罪を赦《ゆる》されて都に帰った人には穂積朝臣老《ほづみのあそみおゆ》以下数人いるが、宅守はその中にはいず、続紀《しょくき》にも、「不レ在二赦限一」とあるから、此時宅守が帰ったのではあるまい。この「殆《ほとほ》と死にき」をば、殆《あやう》しの意にして、胸のわくわくしたと解する説もあり、私も或時《あるとき》にはそれに従った。併し、「天の火もがも」を肯定するとすると、「ほとほと死にき」を肯定してもよく、その方が甘く切実で却っておもしろいと思って今回は二たびそう解釈することとした。この歌は以上選んだ娘子の歌の中では一番よい。
「ほとほとしにき」は、原文「保等保登之爾吉」であって、「ホトホトシニキハ、驚テ胸ノホトバシルナリ」(代匠記精撰本)というのが第一説で、古義もそれに従った。鈴屋答問録《すずのやとうもんろく》に、「ほと」は俗言の「あわ(は)てふためく」の「ふた」に同じいとあるのも参考となるだろう。それから、「ほとんど死《しに》たりとなり。うれしさのあまりになるべし」(拾穂抄《しゅうすいしょう》)は第二説で、「殆将死なり。あまりてよろこばしきさまをいふ」(考)、「しにきは死にき也」(略解)。古事記伝、新考、新訓等もこの第二説である。集中、「君を離れて恋に之奴倍之《シヌベシ》」(巻十五・三五七八)があるから、「之爾」を「死に」と訓んで差支のないことが分かる。
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春《はる》さらば|頭《かざし》にせむと我《わ》が思《も》ひし桜《さくら》の花《はな》は散《ち》りにけるかも 〔巻十六・三七八六〕 壮士某
むかし桜子《さくらこ》という娘子《おとめ》がいたが、二人の青年に挑《いど》まれたときに、ひとりの女身《にょしん》を以て二つの門に往き適《かの》う能《あた》わざるを嘆じ、林中に尋ね入ってついに縊死《いし》して果てた。二人の青年がそれを悲しみ作った歌の一つである。桜子という娘の名であったから、桜の花の散ったことになして詠んだ、取りたてていう程のものでない、妻争い伝説歌の一つに過ぎないが、素直《すなお》に歌ってあるので見本として選んで置いた。この伝説は真間《まま》の手児名《てこな》、葦屋《あしや》の菟原処女《うなひおとめ》の伝説などと同じ種類のものである。「かざしにせんとは、我妻にせんとおもひしと云心也」(宗祇抄《そうぎしょう》)とある如く、また桜児という名であったから、「散りにけるかも」と云った。
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事《こと》しあらば小泊瀬山《をはつせやま》の石城《いはき》にも隠《こも》らば共《とも》にな思《おも》ひ吾背《わがせ》 〔巻十六・三八〇六〕 娘子某
むかし娘がいたが、父母に知らせず窃《ひそ》かに一人の青年に接した。青年は父母の呵嘖《かしゃく》を恐れて、稍《やや》猶予のいろが見えた時に、娘が此歌を作って青年に与えたという伝説がある。「小泊瀬山」の「を」は接頭詞、泊瀬山、今の初瀬《はせ》町あたり一帯の山である。「石城《いはき》」は石で築いた廓《かく》で此処は墓のことである。この歌も普通の歌で、男がぐずぐずしているのに、女が強くなる心理をあらわしたものである。前の歌は実徳の上からいえば、貞になり、これもまた貞の一種になるかも知れない。親をも措《お》いて男に従うという強い心に感動せられて伝説が成立すること、他の歌の例を見ても明かである。「な思ひ、我が背」の口調は強いが、女らしい甘い味いがある。毛詩に、「死則同セムレ穴」とあるのは人間共通の合致《がっち》であるだろう。
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安積山《あさかやま》影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾が思《も》はなくに 〔巻十六・三八〇七〕 前の采女某
葛城王《かずらきのおおきみ》が陸奥国《みちのくのくに》に派遣せられたとき、国司の王を接待する方法がひどく不備だったので、王が怒って折角《せっかく》の御馳走にも手をつけない。その時、嘗《かつ》て采女《うねめ》をつとめたことのある女が侍していて、左手に杯《さかずき》を捧げ右手に水を盛った瓶子《へいし》を持ち、王の膝《ひざ》をたたいて此歌を吟誦したので、王の怒が解けて、楽飲すること終日であった、という伝説ある歌である。葛城王は、天武天皇の御代に一人居るし、また橘諸兄《たちばなのもろえ》が皇族であった時の御名は葛城王であったから、そのいずれとも不明であるが、時代からいえば天武天皇の御代の方に傾くだろう。併し伝説であるから実は誰であってもかまわぬのである。また、「前《さき》の采女」という女も、嘗《かつ》て采女として仕えたという女で、必ずしも陸奥出身の女とする必要もないわけである。「安積《あさか》山」は陸奥国安積郡、今の福島県安積郡日和田町の東方に安積山という小山がある。其処だろうと云われている。木立などが美しく映っている広く浅い山の泉の趣で、上の句は序詞である。そして「山の井の」から「浅き心」に連接せしめている。「浅き心を吾が思はなくに」が一首の眼目で、あなたをば深く思いつめて居ります、という恋愛歌である。そこで葛城王の場合には、あなたを粗略にはおもいませぬというに帰着するが、此歌はその女の即吟か、或は民謡として伝わっているのを吟誦したものか、いずれとも受取れるが、遊行女婦《うかれめ》は作歌することが一つの款待《かんたい》方法であったのだから、このくらいのものは作り得たと解釈していいだろうか。この一首の言伝《いいつた》えが面白いので選んで置いたが、地方に出張する中央官人と、地方官と、遊行女婦とを配した短篇のような趣があって面白い歌である。伝説の文の、「右手持レ水、撃二之王膝一」につき、種々の疑問を起しているが、二つの間に休止があるので、水を持った右手で王の膝をたたくのではなかろう。「之」は助詞である。
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寺寺《てらでら》の女餓鬼《めがき》申《まを》さく大神《おほみわ》の男餓鬼《をがき》賜《たば》りて其《そ》の子《こ》生《う》まはむ 〔巻十六・三八四〇〕 池田朝臣
池田朝臣《いけだのあそみ》(古義では真枚《まひら》だろうという)が、大神朝臣奥守《おおみわのあそみおきもり》に贈った歌である。一首の意は、寺々に居る女の餓鬼どもは大神《おおみわ》の男餓鬼《おとこがき》を頂戴してその子を生みたいと申しておりますよ、というので、大神奥守は痩男《やせおとこ》だったのでこの諧謔《かいぎゃく》が出たのであろう。「寺々の女餓鬼」というのは、その頃寺院には、画だの木像だのがあって、三悪道の一なる餓鬼道を示したものがあったと見える。前に、「相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額《ぬか》づく如し」(巻四・六〇八)とあったのを参考すれば、木像のようにおもわれる。何れにせよ、この諧謔が自然流露の感じでまことに旨《うま》い。古今集以後ならば俳諧歌《はいかいか》、滑稽歌《こっけいか》として特別扱をするところを、大体の分類だけにして、特別扱をしないのは、万葉集に自由性があっていい点である。また、当時は仏教興隆時代だから、餓鬼などということを人々は新事物として興味を感じていたものであっただろう。ウマハムはウマムという意でウマフという四段活用の動詞である。
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仏《ほとけ》造《つく》る真朱《まそほ》足《た》らずは水《みづ》たまる池田《いけだ》の朝臣《あそ》が鼻《はな》の上《うへ》を穿《ほ》れ 〔巻十六・三八四一〕 大神朝臣
これは大神朝臣《おおみわのあそみ》が池田朝臣に酬《むく》いた歌である。「真朱《まそほ》」は仏像などを彩色するとき用いる赤の顔料で、朱(丹砂、朱砂)のことである。「水たまる」は池の枕詞に使った。応神紀に、「水たまるよさみの池に」の用例がある。また池田の朝臣の鼻は特別に赤かったので、この諧謔の出来たことが分かる。前には餓鬼のことをいったから、此歌でも仏教関係の事物を持って来た。前の歌も旨いが、この歌も諧謔の上乗《じょうじょう》である。
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法師《ほふし》らが鬚《ひげ》の剃杭《そりぐひ》馬《うま》つなぎいたくな引《ひ》きそ法師《ほふし》半《なから》かむ 〔巻十六・三八四六〕 作者不詳
僧侶にからかった歌で、鬚がいい加減に延びた、今謂《い》う無精鬚《ぶしょうひげ》というのを捉《とら》えて、それを「剃杭」といって、その杭《くい》に馬を繋《つな》いでも、ひどく引っぱるなよ、法師が半分になってしまうだろうから、というのである。この歌の結句は、原文、「僧半甘」と書いてあり、旧訓ナカラカモ。拾穂抄・代匠記・考も同訓である。代匠記初稿本に、「なからにならんといふ心なり」、考に「法師引かされ半分にならんと云」と解し、略解でホフシ・ナカラカムと訓《よ》み(古義同訓)、「なからは半分の意にて、なからにならんと戯れ言ふ也」と解した。然るに、古義が報じた一説に「法師は泣かむ」と訓んだのもあり、黒川春村はホフシ・ナカナム、と訓み、敷田年治ホフシハ・ナカムと訓み、井上(通泰)博士はホフシ・ナゲカムと訓んだ。近時新注釈書はホフシハ・ナカムの訓を採用して殆ど定説になろうとしている。
けれども、「法師は泣かむ」では諧謔歌《かいぎゃくか》としては平凡でつまらぬ。そこで、「法師半《なから》かむ」と訓み、代匠記初稿本や考の解釈の如く、「半分になってしまうだろう」と解釈する方が一番適切のようにおもえる。そんならどうしてこういう動詞が出来たかというに、「半《なから》」という名詞を「半《なから》かむ」と活用せしめたので、恰《あたか》も「枕《まくら》」という名詞を、「枕《まくら》かむ」と活用せしめたのと同じである。然《しか》らば、半《なから》き・半《なから》く等の活用形がある筈《はず》だろうといわんが、其処が滑稽歌《こっけいか》の特色で、普通使わない語を用いたのであっただろう。それゆえ、この歌に応《こた》えた、「檀越《だむをち》や然《し》かもな言ひそ里長《さとをさ》らが課役《えつき》徴《はた》らば汝《なれ》も半《なから》かむ」(巻十六・三八四七)という歌の例と、万葉にただ二例あるのみである。この応え歌は、「檀那《だんな》よ、そう威張りなさるな、若し村長さんが来て、税金や労役の事でせめ立てるなら、あなたも半分になってしまいましょう。どうです」というので、二つとも結句は、「半《なから》かむ」でなくては面白くない。またいずれの古鈔本も「半甘」で、他の書き方のものはない。愚案は、昭和十三年一月アララギ、童馬山房夜話参看。
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吾《わ》が門《かど》に千鳥《ちどり》しば鳴《な》く起《お》きよ起《お》きよ我《わ》が一夜《ひとよ》づまひとに知らゆな 〔巻十六・三八七三〕 作者不詳
もう門のところには、千鳥がしきりに鳴いて夜が明けました。あなたよ、起きなさい。私がはじめてお会したあなたよ、人に知られぬうちにお帰りください。原文には、「一夜妻」とあるから、男の歌で女に向って「一夜妻」といったようにも取れるが、全体が男を宿《と》めた女の歌という趣にする方がもっと適切だから、そうすれば、「一夜夫《づま》」ということになる。この歌は民謡風な恋愛歌で作者不明のものだから、無名歌として掲《かか》げているのである。「千鳥しば鳴く起きよ起きよ」のところは巧《たくみ》で且《か》つ自然である。「一夜夫」と解するのは考・古義の説で、「妻はかり字、夫《ツマ》也。初て一夜逢し也」(考)とあるが、これは遠く和歌童蒙抄《わかどうもうしょう》の説まで溯《さかのぼ》り得る。あとは多く「一夜妻」説である。「人ノ妻ヲ忍ビテアリケルニ」(仙覚抄)、「一夜妻はかりそめに女を引き入れて逢ひしなり」(新考)云々《うんぬん》。
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あしひきの山谷《やまだに》越えて野《ぬ》づかさに今《いま》は鳴《な》くらむ鶯《うぐひす》のこゑ 〔巻十七・三九一五〕 山部赤人
山部宿禰赤人《やまべのすくねあかひと》詠二春※[#「嬰」の「女」に代えて「鳥」、U+9E0E、下-147-5]一歌一首であるが、明人と書いた古写本もある(西本願寺本・神田本等)。「野づかさ」は野にある小高い処、野の丘陵をいう。「野山づかさの色づく見れば」(巻十・二二〇三)の例がある。一首は、もう春だから、鶯《うぐいす》等は山や谷を越え、今は野の上の小高いところで鳴くようにでもなったか、というので、一般的な想像のように出来て居る歌だが、不思議に浮んで来るものが鮮《あざや》かで、濁りのない清淡とも謂《い》うべき気持のする歌である。それだから、家の内で鶯の声を聞いて、その声の具合でその場所を野づかさだと推量する作歌動機と解釈することも出来るし、そうする方が「山谷越えて」の句にふさわしいようにもおもうが、併しこの辺のことはそう穿鑿《せんさく》せずとも鑑賞し得る歌である。「ひさぎ生ふる清き河原に」の時にも少し触れたが、つまりあのような態度で味うことが出来る。巻十七の歌をずうっと読んで来て、はじめて目ぼしい歌に逢着《ほうちゃく》したとおもって作者を見ると赤人の作である。赤人の作中にあっては左程でもない歌だが、その他の人の歌の中にあると斯くの如く異彩を放つ、そういう相待上《そうたいじょう》の価値ということをも吾等は知る必要があるのである。
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降《ふ》る雪《ゆき》の白髪《しろかみ》までに大君《おほきみ》に仕《つか》へまつれば貴《たふと》くもあるか 〔巻十七・三九二二〕 橘諸兄
聖武天皇の天平《てんぴょう》十八年正月の日、白雪が積って数寸に至った。左大臣橘諸兄《たちばなのもろえ》が大納言藤原豊成《ふじわらのとよなり》及び諸王諸臣を率《い》て、太上天皇《おおきすめらみこと》(元正天皇)の御所に参候して雪を掃《はろ》うた。時に詔《みことのり》あって酒を賜《たま》い肆宴《とよのあかり》をなした。また、「汝諸王卿等聊《いささ》か此の雪を賦《ふ》して各《おのおの》その歌を奏せよ」という詔があったので、それに応《こた》え奉った、左大臣橘諸兄の歌である。「降る雪の」は正月のめでたい雪に縁《よ》ってこの語があるのだが、「白髪」の枕詞の格に用いた。「白髪までに」は白髪になるまでということで簡潔ないい方《かた》である。「貴くもあるか」は、貴く畏《かしこ》くありがたいというので、自身を貴く感ずるというのはやがて大君を貴み奉るその結果となるので、これも特有のいい方である。この歌は、謹んで作っているので、重厚なひびきがあり、結句の「貴くもあるか」が一首の中心句をなして居る。この時、紀朝臣清人《きのあそみきよひと》は、「天の下すでに覆《おほ》ひて降る雪の光を見れば貴くもあるか」(巻十七・三九二三)を作り、紀朝臣男梶《おかじ》は、「山の峡《かひ》そことも見えず一昨日《をとつひ》も昨日も今日も雪の降れれば」(同・三九二四)を作り、大伴家持は、「大宮の内にも外《と》にも光るまで零《ふ》らす白雪見れど飽かぬかも」(同・三九二六)を作って居る。
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たまくしげ二上山《ふたがみやま》に鳴《な》く鳥《とり》の声《こゑ》の恋《こひ》しき時《とき》は来《き》にけり 〔巻十七・三九八七〕 大伴家持
大伴家持は、天平十九年春三月三十日、二上山の賦《ふ》一首を作った、その反歌である。この二上山は越中射水《いみず》郡(今は射水・氷見両郡)今の伏木町の西北に聳《そび》ゆる山である。もう一つの反歌は、「渋渓《しぶたに》の埼の荒磯《ありそ》に寄する波いやしくしくに古《いにし》へ思ほゆ」(巻十七・三九八六)というのであるが、この「たまくしげ」の歌は、毫《ごう》も息を張ることなく、ただ感を流露《りゅうろ》せしめたという趣の歌である。「興に依りて之を作る」と左注にあるが、興の儘《まま》に、理窟《りくつ》で運ばずに家持流の語気で運んだのはこの歌をして一層なつかしく感ぜしめる。既に出した、大伴坂上郎女の歌に、「よの常に聞くは苦しき喚子鳥《よぶこどり》声なつかしき時にはなりぬ」(巻八・一四四七)と稍《やや》似て居るが、家持の方が単純で素直である。
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婦負《めひ》の野《ぬ》の薄《すすき》おし靡《な》べ降《ふ》る雪《ゆき》に宿《やど》借《か》る今日《けふ》し悲《かな》しく思《おもほ》|ほ《イは》ゆ 〔巻十七・四〇一六〕 高市黒人
これは、高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の歌だが、天平十九年に三国真人五百国《みくにのまひといおくに》という者が誦し伝えたのを、越中にいた家持が録しとどめたもので、「婦負の野」は、和名鈔《わみょうしょう》には禰比《ネヒ》とあり、今でも婦負郡をネイグンといっている。婦負の野は現在射水郡小杉町から呉羽山にわたる間の平地だろうと云われている。黒人は人麿などと同時代の歌人だが、地名を詠込んであるのを見ると、越中まで来たと考えていいであろう。この一首で、「悲しく思ほゆ」の句が心を牽《ひ》く。当時の|旅《きりょ》の実際からこの句が来たからであろう。山部赤人の歌に、「印南野《いなみぬ》の浅茅《あさぢ》おしなべさ宿《ぬ》る夜の日長《けなが》くあれば家し偲ばゆ」(巻六・九四〇)というのがあるが、此歌と関係あるとすると、黒人の此一首も軽々に看過出来ないこととなる。結句は原文「於毛倍遊」でオモハユとも訓んでいる。そうすれば、「おもはる」と同じで、「はろばろに於忘方由流可母《オモハユルカモ》」(巻五・八六六)、「かぢ取る間なく京師《みやこ》し於母倍由《オモハユ》」(巻十七・四〇二七)等の例もあるが、四〇二七の「倍」は「保」とも書かれて居り、また「おもほゆ」の用例の方が大部分を占めている。
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珠洲《すす》の海《うみ》に朝びらきして漕《こ》ぎ来《く》れば長浜《ながはま》の浦《うら》に月《つき》照《て》りにけり 〔巻十七・四〇二九〕 大伴家持
大伴家持作。「珠洲郡より発船《ふなで》して治布《ちふ》に還《かへ》りし時、長浜湾《ながはまのうら》に泊《は》てて、月光を仰ぎ見て作れる歌一首」という題詞と、「右件《みぎのくだり》の歌詞は、春の出挙《すいこ》に依りて諸郡を巡行す。当時属目《しょくもく》する所之を作る」という左注との附いている歌である。治布は治府即ち国府か(全釈)。左注の「出挙」は春、官の稲を貸すこと。「朝びらき」は、朝に船が港を出ることで、「世の中を何に譬《たと》へむ朝びらき榜《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきごとし」(巻三・三五一)という沙弥満誓《さみのまんぜい》の歌があること既にいった如くである。この歌も、何の苦も無く作っているようだが、うちに籠《こも》るものがあり、調《しらべ》ものびのびとこだわりのないところ、家持の至りついた一つの境界《きょうがい》であるだろう。特に結句の、「月照りにけり」は、ただ一つ万葉にあって、それが家持の句だということもまた注目に値《あたい》するのである。
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あぶら火《び》の光《ひかり》に見《み》ゆる我《わ》が縵《かづら》さ百合《ゆり》の花の笑《ゑ》まはしきかも 〔巻十八・四〇八六〕 大伴家持
天平感宝《てんぴょうかんぽう》元年五月九日、越中国府の諸官吏が、少目《さかん》の秦伊美吉石竹《はたのいみきいわたけ》の官舎で宴を開いたとき、主人の石竹が百合の花を鬘《かずら》に造って、豆器《ずき》という食器の上にそれを載せて、客人に頒《わか》った。その時大伴家持の作った歌である。結句の、「笑まはしきかも」は、美しく楽しくて微笑せしめられる趣である。美しい百合花をあらわすのに、感覚的にいうのも家持の一特徴だが、「あぶら火の光に見ゆる」と云ったのは、流石《さすが》に家持の物を捉える力量を示すものである。「我が縵《かづら》」といったのは、自分の分として頂戴《ちょうだい》した縵という意味である。
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天皇《すめろぎ》の御代《みよ》栄《さか》えむと東《あづま》なるみちのく山《やま》に金花《くがねはな》咲《さ》く 〔巻十八・四〇九七〕 大伴家持
大伴家持は、天平感宝元年五月十二日、越中国守の館で、「陸奥《みちのく》国より金《くがね》を出せる詔書を賀《ことほ》ぐ歌一首并《ならび》に短歌」を作った。長歌は百七句ばかりの長篇で、結構も言葉も骨折ったものであり、それに反歌三つあって、此は第三のものである。一首の意は、天皇(聖武)の御代は永遠に栄える瑞象《ずいしょう》としてこのたび東《あずま》の陸奥の山から黄金が出た、というので、それを金の花が咲いたと云った。この短歌は余り細かく気を配らずに一息《いき》にいい、言葉の技法もまた順直だから荘重に響くのであって、賀歌としてすぐれた態《たい》をなしている。結句に「かも」とか「けり」とか「やも」とかが無く、ただ「咲く」と止めたのも此《この》場合甚《はなは》だ適切である。此等の力作をなすに当り、家持は知《し》らず識《し》らず人麿・赤人等先輩の作を学んで居る。
続紀《しょくき》には、天平二十一年二月、陸奥《みちのく》始めて黄金を貢《みつ》いだことがあり、これは東大寺大仏造営のために役立ち、詔にも、開闢《かいびゃく》以来我国には黄金は無く、皆外国からの貢《みつぎ》として得たもののみであったのに、朕《ちん》が統治する陸奥の少田《おた》郡からはじめて黄金を得たのを、驚き悦び貴《とうと》びたもう旨が宣せられてある。また長歌には、「大伴の遠つ神祖《かむおや》の、其の名をば大来目主《おほくめぬし》と、負《お》ひ持ちて仕へし官《つかさ》、海行かば水漬《みづ》く屍《かばね》、山ゆかば草むす屍、おほきみの辺《へ》にこそ死なめ、顧《かへり》みはせじと言立《ことだ》て」(巻十八・四〇九四)云々とあるもので、家持は生涯の感激を以て此の長短歌を作っているのである。
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この見《み》ゆる雲《くも》ほびこりてとの曇《ぐも》り雨《あめ》も降《ふ》らぬか心《こころ》足《だら》ひに 〔巻十八・四一二三〕 大伴家持
天平感宝元年閏《うるう》五月六日以来、旱《ひでり》となって百姓が困っていたのが、六月一日にはじめて雨雲の気を見たので、家持は雨乞《あまごい》の歌を作った。此はその反歌で、長歌には、「みどり児の乳乞《ちこ》うがごとく、天《あま》つ水仰ぎてぞ待つ、あしひきの山のたをりに、彼《こ》の見ゆる天《あま》の白雲、海神《わたつみ》の沖つ宮辺《みやべ》に、立ち渡りとの曇《ぐも》り合ひて、雨も賜はね」云々とあるものである。「この見ゆる」の「この」は「彼の」、「あの」という意である。「ほびこり」は「はびこり」に同じく、「との曇り」は雲の棚びき曇るである。「心足らひに」は心に満足する程に、思いきりというのに落着く。一首は大きくゆらぐ波動的声調を持ち、また海神にも迫るほどの強さがあって、家持の人麿から学んだ結果は、期せずしてこの辺にあらわれている。
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雪《ゆき》の上《うへ》に照《て》れる月夜《つくよ》に梅《うめ》の花《はな》折《を》りて贈《おく》らむ愛《は》しき児《こ》もがも 〔巻十八・四一三四〕 大伴家持
天平勝宝元年十二月、大伴家持の作ったもので、越中の雪国にいるから、「雪の上に照れる月夜に」の句が出来るので、こういう歌句の人麿の歌にも無いのは、人麿はこういう実際を余り見なかったせいもあるだろう。作歌のおもしろみは這般《しゃはん》の裡《うち》にも存じて居り、作者生活の背景ということにも自然関聯《かんれん》してくるのである。下の句もまた、越中にあって寂しい生活をしているので、都をおもう情と共にこういう感慨がおのずと出たものと見える。
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春《はる》の苑《その》くれなゐにほふ桃《もも》の花《はな》した照《て》る道《みち》に出《い》で立《た》つ※嬬《をとめ》[#「女+感」、U+218B3、下-156-4] 〔巻十九・四一三九〕 大伴家持
大伴家持が、天平勝宝二年三月一日の暮に、春苑《はるのその》の桃李花《ももすもものはな》を見て此歌を作った。「くれなゐにほふ」は赤い色に咲き映《は》えていること、「した照る道」は美しく咲いている桃花で、桃樹の下かげ迄《まで》照りかがやくように見える、その下かげの道をいう。「橘のした照る庭に殿立てて酒宴《さかみづき》いますわが大君かも」(巻十八・四〇五九)、「あしひきの山下《やました》ひかる黄葉《もみぢば》の散りのまがひは今日にもあるかも」(巻十五・三七〇〇)の例がある。春園に赤い桃花が満開になっていて、其処《そこ》に一人の※嬬《おとめ》[#「女+感」、U+218B3、下-156-4]の立っている趣の歌で、大陸渡来の桃花に応じて、また何となく支那の詩的感覚があり、美麗にして濃厚な感じのする歌である。こういう一種の構成があるのだから、「いで立つをとめ」と名詞止にして、堅く据えたのも一つの新工夫であっただろう。そしてこういう歌風は時代的に漸次に発達したと考えられるが、家持あたりを中心とした一団の作者によって進展したものと考える方がよいようであるし、支那文学乃至美術の影響がようやく浸潤したようにおもえるのである。曹子建の詩に、「南国に佳人あり、容華桃李の若《ごと》し」の句がある。なおこういう感覚的な歌には、「なでしこが花見る毎にをとめ等が笑《ゑま》ひのにほひ思ほゆるかも」(巻十八・四一一四)、「秋風に靡《なび》く河傍《かはび》の和草《にこぐさ》のにこよかにしも思ほゆるかも」(巻二十・四三〇九)などがあり、共に家持の歌だから、この桃の花の歌同様家持の歌の一傾向であったと謂《い》い得るとおもう。
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春《はる》まけて物《もの》がなしきにさ夜《よ》更《ふ》けて羽《は》ぶき鳴《な》く鴫《しぎ》誰《た》が田《た》にか住《す》む 〔巻十九・四一四一〕 大伴家持
天平勝宝二年三月一日、大伴家持が、「飜《と》び翔《かけ》る鴫《しぎ》を見て」作った歌である。一首の意は、春になって何となく憂愁をおぼえるのに、この夜更《よふけ》に羽ばたきをしながら鴫が一羽鳴いて行った。あゝあの鴫は誰《たれ》の田に住んでいる鴫だろうか、というのである。「誰が田にか住む」の一句は、恋愛情調にかようものだが、民謡的な一般性を脱して個的な深みが加わって居り、この細みある感傷は前にも云ったように、家持に至って味われる万葉の新歌境なのである。そして家持は娘子《おとめ》などと贈答している歌よりこういう独居的歌の方が出来のよいのは、心の沈潜によるたまものに他ならぬのである。
この歌の近くに、「春まけてかく帰るとも秋風に黄葉《もみ》づる山を超《こ》え来《こ》ざらめや」(巻十九・四一四五)、「夜くだちに寝覚めて居れば河瀬《かはせ》尋《と》め情《こころ》もしぬに鳴く千鳥かも」(同・四一四六)という歌があり、共に家持の歌であるが、やはり同様の感傷の細みが出来て来ている。「山を超え来ざらめや」、「河瀬尋め」のあたりの語気は、中世紀の幽玄歌に移行するようでも、まだまだ実質を保って、空虚な観念に墜落していない。
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もののふの八十《やそ》をとめ等《ら》が汲《く》み乱《まが》ふ寺井《てらゐ》の上《うへ》の堅香子《かたかご》の花《はな》 〔巻十九・四一四三〕 大伴家持
大伴家持作、堅香子《かたかご》草の花を攀《よ》ぢ折る歌一首という題詞がある。堅香子は山慈姑《かたくり》で薄紫の花咲き、根から澱粉《でんぷん》の上品を得る。寺に泉の湧《わ》くところがあって、其《その》ほとりに堅香子の花が咲いている。これは単独でなく群生している。その泉に多くの娘たちが水を汲みに来て、清くとおる声で話しあう、それが可憐《かれん》でいかにも楽しそうである。物部《もののふ》が多くの氏に分かれているので、「八十」の枕詞とした。此処の「八十をとめ」は、多くの娘たちということ、「まがふ」は、入りまじることだから、此処は入りかわり立ちかわり水汲みに来る趣である。これも前の桃の花の歌に同じく、我妹子にむかって情を告白するのでなく、若い娘等の動作にむかって客観的の美を認めて、それにほんのりした情を抒《の》べているのである。こういう手法もまた家持の発明と解釈することが出来る。前にあった、「かはづ鳴く甘南備《かむなび》河にかげ見えて今か咲くらむ山振《やまぶき》の花」(巻八・一四三五)もまた名詞止だが、幾分色調の差別があるようだ。
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あしひきの八峰《やつを》の雉《きぎし》なき響《とよ》む朝けの霞見ればかなしも 〔巻十九・四一四九〕 大伴家持
大伴家持作、暁に鳴く雉《きぎし》を聞く歌、という題詞がある。山が幾重にも畳《たた》まっている、その山中の暁に雉《きじ》が鳴きひびく、そして暁の霧がまだ一面に立ち籠《こ》めて居る。その雉の鳴く山を一面にこめた暁の白い霧を見ると、うら悲しく身に沁《し》むというのである。この悲哀の情調も、恋愛などと相関した肉体に切《せつ》なものでなく、もっと天然に投入した情調であるのも、人麿などになかった一つの歌境と謂《い》うべきで、家持の作中でも注意すべきものである。「八岑《やつお》越え鹿《しし》待つ君が」(巻七・一二六二)、「八峰には霞たなびき、谿《たに》べには椿花さき」(巻十九・四一七七)等の如く、畳まる山のことである。なお集中、「神さぶる磐根《いはね》こごしきみ芳野《よしぬ》の水分《みくまり》山を見ればかなしも」(巻七・一一三〇)、「黄葉の過ぎにし子等と携《たづさ》はり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六)、「朝鴉《あさがらす》はやくな鳴きそ吾背子が朝けの容儀《すがた》見れば悲しも」(巻十二・三〇九五)等の例があるが、家持のには家持の領域があっていい。
この歌の近くに、「朝床に聞けば遙けし射水《いみづ》河朝漕《こ》ぎしつつ唱《うた》ふ船人」(巻十九・四一五〇)という歌がある。この歌はあっさりとしているようで唯《ただ》のあっさりでは無い。そして軽浮の気の無いのは独り沈吟の結果に相違ない。
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丈夫《ますらを》は名《な》をし立《た》つべし後《のち》の代《よ》に聞《き》き継《つ》ぐ人《ひと》も語《かた》り継《つ》ぐがね 〔巻十九・四一六五〕 大伴家持
大伴家持作、慕レ振二勇士之名一歌一首で、山上憶良《やまのうえのおくら》の歌に追和したと左注のある長歌の反歌である。憶良の歌というのは、巻六(九七八)の、「士《をのこ》やも空《むな》しかるべき万代《よろづよ》に語り継ぐべき名は立てずして」というのであった。憶良の歌は病牀にあって歎いたものだが、家持のは、父祖の功績をおもい現在自分の身上を顧みての感慨を吐露したものである。長歌には、「ますらをや空しくあるべき」という句が入ったり、「足引の八峰踏み越え、さしまくる心さやらず、後の代の語りつぐべく、名を立つべしも」という句が入ったり、兎《と》に角《かく》憶良の歌を模倣しているのは、憶良の歌を読んで感奮したからであろう。
一首の意は、大丈夫たるものは、まさに名を立つべきである。後代その名を聞く人々が、またその名を人々に語り伝えるように、そうありたいものだ、というのである。「がね」は、そういうようにありたいと希望をいい表わしている。「里人も謂《い》ひ継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならめや」(巻十二・二八七三)、「白玉を包みてやらば菖蒲《あやめぐさ》花橘にあへも貫《ぬ》くがね」(巻十八・四一〇二)等の例がある。なお笠金村《かさのかなむら》が塩津山で作った歌、「丈夫《ますらを》の弓上《ゆずゑ》ふり起し射つる矢を後見む人は語り継ぐがね」(巻三・三六四)があって、家持はそれをも取入れて居る。つまり此一首は憶良の歌と金村の歌との模倣によって出来ていると謂ってもいい程である。家持は先輩の作歌を読んで勉強し、自分の力量を段々と積みあげて行ったものであるが、彼は先輩の歌のどういうところを取り用いたかを知るに便利で且つ有益なる歌の一つである。憶良の歌の、「空しかるべき」は切実な句であるが、それは長歌の方に入れたから、これでは「名をし立つべし」とした。憶良の歌に少し及ばないのは既にこの二句の差に於《おい》てあらわれている。
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この雪《ゆき》の消《け》のこる時《とき》にいざ行《ゆ》かな山橘《やまたちばな》の実《み》の照《て》るも見《み》む 〔巻十九・四二二六〕 大伴家持
大伴家持が、天平勝宝二年十二月雪の降った日にこの歌を作った。山橘は藪柑子《やぶこうじ》で赤い実が成るので赤玉ともいっている。一首は、この大雪が少くなった残雪の頃《ころ》にみんなして行こう。そして山橘の実が真赤に成っているのを見よう、というので、雪の中に赤くなっている藪柑子の実に感興を催したものである。「いざ行かな」と促した語気に、皆と共に行こうという、気乗のしたことがあらわれているし、「実の照るも見む」は美しい句で、家持の感覚の鋭敏を示すものである。なお、家持には、「消《け》のこりの雪にあへ照る足引の山橘を裹《つと》につみ来《こ》な」(巻二十・四四七一)という歌もあって、山橘に興味を持っていることが分かる。この巻十九の歌の方が優《まさ》っている。
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韓国《からくに》に往《ゆ》き足《た》らはして帰《かへ》り来《こ》む丈夫武男《ますらたけを》に御酒《みき》たてまつる 〔巻十九・四二六二〕 多治比鷹主
天平勝宝四年閏《うるう》三月、多治比《たじひ》真人鷹主《たかぬし》が、遣唐副使大伴胡麿宿禰《こまろのすくね》を餞《うまのはなむけ》して作った歌である。「行き足らはして」は遣唐の任務を充分に果してという意。「御酒」は、祝杯をあげることで、キは酒の古語で、「黒酒《くろき》白酒《しろき》の大御酒《おほみき》」(中臣寿詞《なかとみのよごと》)などの例がある。この一首は、真面目に緊張して歌っているので、こういう寿歌の体《たい》を得たものである。この歌で注意すべきは、「行き足らはして」の句と、「御酒たてまつる」という四三調の結句とであろう。この作者の歌はただ一首万葉集に見えている。
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新《あらた》しき年《とし》の始《はじめ》に思《おも》ふどちい群《む》れて居《を》れば嬉《うれ》しくもあるか 〔巻十九・四二八四〕 道祖王
天平勝宝五年正月四日、石上《いそのかみ》朝臣宅嗣《やかつぐ》の家で祝宴のあった時、大膳大夫道祖王《ふなとのおおきみ》が此歌を作った。初句、「あらたしき」で安良多之《アラタシ》の仮名書の例がある。この歌は、平凡な歌だけれども、新年の楽宴の心境が好《よ》く出ていて、結句で、「嬉しくもあるか」と止めたのも率直で効果的である。それから、「おもふどちい群れてをれば」も、心の合った親友が会合しているという雰囲気《ふんいき》を籠《こ》めた句だが、簡潔で日本語のいい点をあらわしている。類似の句には、「何すとか君を厭《いと》はむ秋萩のその初花《はつはな》のうれしきものを」(巻十・二二七三)がある。
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春《はる》の野《ぬ》に霞《かすみ》たなびきうらがなしこの夕《ゆふ》かげにうぐひす鳴《な》くも 〔巻十九・四二九〇〕 大伴家持
天平勝宝五年二月二十三日、大伴家持が興に依って作歌二首の第一である。一首は、もう春の野には霞がたなびいて、何となくうら悲しく感ぜられる。その夕がたの日のほのかな光に鶯が鳴いている、というので、日の入った後の残光と、春野に「おぼほし」というほどにかかっている靄《もや》とに観入して、「うら悲し」と詠歎したのであるが、この悲哀の情を抒《の》べたのは既に、人麿以前の作歌には無かったもので、この深く沁《し》む、細みのある歌調は家持あたりが開拓したものであった。それには支那文学や仏教の影響のあったことも確かであろうが、家持の内的「生」が既にそうなっていたとも看《み》ることが出来る。「うらがなし」を第三句に置き休止せしめたのも不思議にいい。
「朝顔は朝露おひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」(巻十・二一〇四)、「夕影に来鳴くひぐらし幾許《ここだく》も日毎に聞けど飽かぬ声かも」(同・二一五七)などの例がある。なお、「醜霍公鳥《しこほととぎす》、暁《あかとき》のうらがなしきに」(巻八・一五〇七)は同じく家持の作だから同じ傾向のものと看《み》るべく、「春の日のうらがなしきにおくれゐて君に恋ひつつ顕《うつ》しけめやも」(巻十五・三七五二)は狭野茅上娘子《さぬのちがみのおとめ》の歌だから、やはり同じ傾向の範囲と看ることが出来、「うらがなし春の過ぐれば、霍公鳥いや敷き鳴きぬ」(巻十九・四一七七)もまた家持の作である。
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わが宿《やど》のいささ群竹《むらたけ》吹《ふ》く風《かぜ》の音《おと》のかそけきこの夕《ゆふべ》かも 〔巻十九・四二九一〕 大伴家持
同じく第二首である。「いささ群竹」はいささかな竹林で、庭の一隅《いちぐう》にこもって竹林があった趣である。一首は、私の家の小竹林に、夕がたの風が吹いて、幽《かす》かな音をたてている。あわれなこの夕がたよ、というので、これも後世なら、「あわれ」とでもいうところで、一種の寂しい悲しい気持である。この歌は結句で、「この夕《ゆふべ》かも」と名詞に「かも」をつづけているが、これも晩景を主としたいい方で、この歌の場合やはり動かぬものかも知れない。「つるばみの解洗《ときあら》ひ衣《ぎぬ》のあやしくも殊に着欲《きほ》しきこの夕《ゆふべ》かも」(巻七・一三一四)という前例がある。
小竹に風の渡る歌は既に人麿の歌にもあったが、竹の葉ずれの幽かな寂しいものとして観入したのは、やはりこの作者独特のもので、中世紀の幽玄の歌も特徴があるけれども、この歌ほど具象的でないから、真の意味の幽玄にはなりがたいのであった。「梅の花散らまく惜しみ吾が苑《その》の竹の林に鶯鳴くも」(巻五・八二四)は天平二年大伴旅人の家の祝宴で阿氏奥島《おきしま》の作ったものであるから此歌に前行して居り、「御苑生《みそのふ》の竹の林に鶯はしば鳴きにしを雪は降りつつ」(巻十九・四二八六)は此歌の少し前即ち一月十一日家持の作ったものである。
鹿持雅澄《かもちまさずみ》の古義では、「いささ群竹」を「いささかの群竹」とせずに、「五十竹葉群竹《イササムラタケ》」と解し、また近時沢瀉《おもだか》博士は「い笹群竹」と解し、「ゆざさの上に霜の降る夜を」(巻十・二三三六)の「ゆざさ」などの如く、「笹」のこととした。なお少しく増補するに、古今集物名《ぶつめい》に、「いささめに時まつ間にぞ日は経ぬる心ばせをば人に見えつつ」とあるのは、「笹」を咏込《よみこ》むために、「いささめ」を用いた。但しこれは平安朝の例である。
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うらうらに照《て》れる春日《はるび》に雲雀《ひばり》あがり情《こころ》悲《かな》しも独《ひとり》しおもへば 〔巻十九・四二九二〕 大伴家持
同じく家持が天平勝宝五年二月二十五日に作ったものである。一首は、麗《うら》らかに照らしておる春の光の中に、雲雀《ひばり》が空高くのぼる、独居して、物思うとなく物思えば、悲しい心が湧《わ》くのを禁じ難い、というので、万葉集の大部分の歌が対詠歌、相待《そうたい》的な愬《うった》えの歌であるのに、この歌は、不思議にも独詠的な歌である。歌に、「独しおもへば」というのが其《それ》を証しているが、独居沈思の態度は既に支那の詩のおもかげでもあり、仏教的静観の趣でもある。これも家持の到《いた》り着いた一つの歌境であった。
前言にもいった天平二年の旅人宅の歌に、山上憶良の、「春されば先づ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日くらさむ」(巻五・八一八)には、ややこの歌と類似点があるが、それ以外のものの多くは恋愛情調で、対者(男女)を予想したものが多い、従って人間的肉体的なものが多い。然るにこの歌になると、すでにその趣がちがって、自然観入による、その反応としての詠歎になっている。
巻十九(四一九二)の霍公鳥并《ならびに》藤花を詠じた長歌に、「夕月夜かそけき野べに、遙遙《はろばろ》に鳴く霍公鳥」とあるのも亦《また》家持の作、「雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく」(巻二十・四四三四)も亦家持の作で、この方は巻十九のよりも制作年代が遅い(天平勝宝七歳《さい》三月三日)のは注意すべきである。なお、その三月三日には安倍沙美麿《さみまろ》が、「朝な朝《さ》なあがる雲雀《ひばり》になりてしか都に行きてはや帰り来む」(同・四四三三)という歌を作っているが、やはり家持の影響とおもわれるふしがある。
この歌の左に、「春日遅遅として、|《ひばり》正に啼《な》く。悽惆《せいちう》の意、歌に非《あら》ずば、撥《はら》ひ難し。仍《よ》りて此の歌を作り、式《も》ちて締緒《ていしよ》を展《の》ぶ」云々という文が附いている。
は雲雀《ひばり》と訓《よ》ませており、和名鈔でもそうだが、実は鶯《うぐいす》に似た鳥だということである。
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あしひきの山《やま》行《ゆ》きしかば山人《やまびと》の朕《われ》に得《え》しめし山《やま》づとぞこれ 〔巻二十・四二九三〕 元正天皇
大和国添上《そふのかみ》郡山村《やまむら》(今の帯解町辺)に行幸(元正天皇)あらせられた時、諸王臣に和歌を賦して奏すべしと仰せられた。その時御みずから作りたもうた御製である。(この御製歌は天平勝宝五年五月はじめて輯録《しゅうろく》されたから、孝謙天皇の御代になって居り、従って万葉集には元正天皇を先ノ太上天皇《おおきすめらみこと》と記し奉っている。そして此歌の次に舎人親王《とねりのみこ》の和《こた》え奉った御歌が載って居り、親王は聖武天皇の天平七年に薨去せられたから、此行幸はそれ以前で元正天皇御在位中のことということになる。)
一首の意は、朕《ちん》が山に行ったところが山に住む仙人どもがいろいろと土産《みやげ》を呉れた。此等はその土産である、というので、この山裹《やまづと》というのは、山の仙人の持つようなものをぼんやりと聯想《れんそう》し得るのであるが、宣長は、「山づとぞ是とのたまへるは、即御歌を指して、のたまへる也」(略解)と云ったのは、「それ諸王卿等、宜しく和歌を賦して奏すべしと、即ち御口号に曰く」と詞書にある、その「御口号」をば直ぐ山裹と宣長が取ったからこういう解釈になったのであろう。併し山裹の内容はただ山の仙人に関係ある物ぐらいにぼんやり解く方がいいのではあるまいか。そこで下の舎人親王の「心も知らず」の句も利《き》くのである。舎人親王の和《こた》え御歌は、「あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰《たれ》」(巻二十・四二九四)というので、前の「山人」は天皇の御事、後の「山人」は土産をくれた山の仙人の事であろう。そこで、「山に御いでになった陛下はもはや仙人でいらせられるから俗界の私どもにはもはや御心の程は分かりかねます。一体その山裹と仰せられるのは何でございましょう。またそれを奉った仙人というのは誰でございましょう」というので、御製歌をそのまま受けついで、軽く諧謔《かいぎゃく》せられたのであった。御製歌は、「山村」からの聯想で、直ぐ「山人」とつづけ、神仙的な雰囲気《ふんいき》をこめたから、不思議な清く澄んだような心地よい御歌になった。
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木《こ》の暗《くれ》の繁《しげ》き尾《を》の上《へ》をほととぎす鳴《な》きて越《こ》ゆなり今《いま》し来《く》らしも 〔巻二十・四三〇五〕 大伴家持
大伴家持が霍公鳥《ほととぎす》を詠《よ》んだもので、鬱蒼《うっそう》と木立《こだち》の茂っている山の上に霍公鳥が今鳴いている、あの峰を越して間も無く此処にやって来るらしいな、というので、気軽に作った独詠歌だが、流石《さすが》に練れていて旨《うま》いところがある。それは、「鳴きて越ゆなり」と現在をいって、それに主点を置いたかと思うと、おのずからそれに続くべき、第二の現在「今し来らしも」と置いて、一首の一番大切な感慨をそれに寓《ぐう》せしめたところが旨いのである。霍公鳥の歌は万葉には随分あるが、此歌は平淡でおもしろいものである。家持の作った歌の中でも晩期のものだが、稍《やや》自在境に入りかかっている。
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我《わ》が妻《つま》も画《ゑ》にかきとらむ暇《いつま》もが旅行《たびゆ》く我《あれ》は見つつ偲《しぬ》ばむ 〔巻二十・四三二七〕 防人
天平勝宝七歳二月、坂東《ばんどう》諸国の防人《さきもり》を筑紫《つくし》に派遣して、先きの防人と交替せしめた。その時防人等が歌を作ったのが一群となって此処に輯録せられている。此歌は長下《ながのしも》郡、物部古麿《もののべのふるまろ》という者の作ったものである。一首は、自分の妻の姿をも、画にかいて持ってゆく、その描《か》く暇が欲しいものだ。遙々《はるばる》と辺土の防備に行く自分は、その似顔絵を見ながら思出したいのだ、というので、歌は平凡だが、「我が妻も画にかきとらむ」という意嚮《いこう》が珍らしくもあり、人間自然の意嚮でもあろうから、此に選んで置いた。「父母も花にもがもや草枕旅は行くとも|《ささ》ごて行かむ」(巻二十・四三二五)も意嚮は似ているが、この方には類想のものが多い。また、「母刀自《ははとじ》も玉にもがもや頂《いただ》きて角髪《みづら》の中にあへ纏《ま》かまくも」(同・四三七七)というのもある。
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大君《おほきみ》の命《みこと》かしこみ磯《いそ》に触《ふ》り海原《うのはら》わたる父母《ちちはは》を置《お》きて 〔巻二十・四三二八〕 防人
これも防人の歌で、助丁《すけのよぼろ》、丈部造人麿《はせつかべのみやつこひとまろ》という者が作った。一首は、天皇の命を畏《かし》こみ体して、船を幾たびも磯に触れあぶない思をし、また浪あらく立つ海原をも渡って防人に行く。父も母も皆国元に残して、というのであるが、かしこみ、触り、わたる、おきてという具合に稍《やや》小きざみになっているのは、作歌的修練が足りないからである。併《しか》し此歌では、「磯に触り」という語と、「父母を置きて」という語に心を牽《ひ》かれて取っておいた。この男は妻のことよりも「父母」のことが第一身に応《こた》えたのであっただろう。また「磯に触り」の句は、「大船を榜《こ》ぎの進みに磐《いは》に触り覆《かへ》らば覆《かへ》れ妹によりてば」(巻四・五五七)という例があるが、「磯毎《ごと》にあまの釣舟泊《は》てにけり我船泊てむ磯の知らなく」(巻十七・三八九二)があるから、幾度も碇泊《ていはく》しながらという意もあるだろう。しかし「触り」に重きを置いて解釈してかまわない。一寸前にも云ったが、防人の歌に父母のことを云ったのが多い。「水鳥の立ちのいそぎに父母に物言《ものは》ず来《け》にて今ぞ悔しき」(巻二十・四三三七)、「忘らむと野行き山行き我来れど我が父母は忘れせぬかも」(同・四三四四)、「橘の美衣利《みえり》の里に父を置きて道の長道《ながて》は行きがてぬかも」(同・四三四一)、「父母が頭《かしら》かき撫《な》で幸《さ》く在れていひし言葉ぞ忘れかねつる」(同・四三四六)等である。
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百隈《ももくま》の道《みち》は来《き》にしをまた更《さら》に八十島《やそしま》過《す》ぎて別《わか》れか行《ゆ》かむ 〔巻二十・四三四九〕 防人
防人、助丁刑部直三野《すけのよぼろおさかべのあたいみぬ》の詠んだ歌である。一首の意は、これまで陸路を遙々《はるばる》と、いろいろの処を通って来たが、これからいよいよ船に乗って、更に多くの島のあいだを通りつつ、とおく別れて筑紫へ行くことであろうというので、難波から船出するころの歌のようである。専門技倆《ぎりょう》的に巧でないが、真率《しんそつ》に歌っているので人の心を牽《ひ》くものである。この歌には言語の訛《なまり》が目立たず、声調も順当である。
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蘆垣《あしがき》の隈所《くまど》に立《た》ちて吾妹子《わぎもこ》が袖《そで》もしほほに泣《な》きしぞ思《も》はゆ 〔巻二十・四三五七〕 防人
上総市原郡、上丁刑部直千国《かみつよぼろおさかべのあたいちくに》の作である。出立のまぎわに、蘆《あし》の垣根の隅《すみ》の処に立って、袖もしおしおと濡《ぬ》れるまで泣いた、妻のことが思出されてならない、というので、「蘆垣の隈所」というあたりは実際であっただろう。また、「泣きしぞ思はゆ」も上総の東国語であるだろう。或は前にも「おも倍由」というのがあったから、必ずしも訛でないかも知れぬが、「泣きしぞ思ほゆる」というのが後の常識であるのに、「ぞ」でも「思はゆ」で止めている。「しほほ」も特殊で、濡れる形容であろうが、また、「しおしおと」とか、「しぬに」とも通うのかも知れない。
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大君《おほきみ》の命《みこと》かしこみ出《い》で来《く》れば我《わ》ぬ取《と》り着《つ》きていひし子《こ》なはも 〔巻二十・四三五八〕 防人
上総周淮《すえ》郡、上丁物部竜《もののべのたつ》の作。下の句は、「我《わ》に取り着きて言ひし子ろはも」というのだが、それが訛《なま》ったのである。「我ぬ取り着きていひし子なはも」の句は、現実に見るような生々《いきいき》したところがあっていい。当時にあっては今の都会の女などに比して、感動の表出が活溌で且つ露骨であったとおもうのは、抑制が社会的に洗練せられないからであるが、歌として却って面白いのが残っている。「道のべの荊《うまら》の末《うれ》に這《は》ほ豆のからまる君を離《はか》れか行かむ」(同・四三五二)も同じような場面だが、この豆蔓《まめづる》の方は間接に序詞を使って技巧的であるが、それでも、豆蔓のからまるところは流石《さすが》に真実でおもしろい。
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筑波嶺《つくばね》のさ百合《ゆる》の花《はな》の夜床《ゆどこ》にも愛《かな》しけ妹《いも》ぞ昼《ひる》もかなしけ 〔巻二十・四三六九〕 防人
常陸那賀郡、上丁大舎人部千文《おおとねりべのちぶみ》の作である。「夜床《よどこ》」をユドコと訛ったから、「百合《ゆる》」のユに連続せしめて序詞とした。併し、「筑波嶺のさ百合の花の」までは、ただの空想でなく郷土的実際の見聞を本《もと》としたのが珍らしいのである。「かなしけ」は、「かなしき」の訛。一首の意は、夜の床でも可哀いい妻だが、昼日中でもやはり可哀《かあ》いくて忘れられない、というので、その言い方が如何にも素朴直截《ちょくせつ》で愛誦するに堪《た》うべきものである。このいい方は巻十四の東歌に見るような民謡風なものだから、或はそういう既にあったものを書き記して通告したとも取れるが、若しこの千文《ちぶみ》という者が作ったとすると、東歌なども東国の人々によって作られたことが分かり、興味も亦《また》深いわけである。「旅行《たびゆき》に行くと知らずて母父《あもしし》に言申《ことまを》さずて今ぞ悔《くや》しけ」(巻二十・四三七六)の結句が、「悔しき」の訛で、「かなしき」を「かなしけ」と云ったのと同じである。
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あられ降《ふ》り鹿島《かしま》の神《かみ》を祈《いの》りつつ皇御軍《すめらみくさ》に吾《われ》は来《き》にしを 〔巻二十・四三七〇〕 防人
前と同じ作者である。鹿島の神は、現在茨城県鹿島郡鹿島町に鎮座《ちんざ》する官幣大社鹿島神宮で、祭神は武甕槌命《たけみかづちのみこと》にまします。千葉県香取郡香取町に鎮座する官幣大社香取神宮(祭神経津主命《ふつぬしのみこと》即ち伊波比主命《いわいぬしのみこと》)と共に、軍神として古代から崇敬《すうけい》至ったものであった。防人《さきもり》等は九州防衛のため出発するのであるが、出発に際しまた道すがらその武運の長久を祈願したのであった。土屋文明氏によれば、常陸の国府は今の石岡町にあったから、そこから鹿島郡軽野を過ぎ、下総国海上郡に出たようだから、途中鹿島の神に参拝することが出来たのである。
一首の意は、武神にまします鹿島の神に、武運をば御いのりしながら、天皇の御軍勢のなかに私は加わりまいりましたのでござりまする、というのである。
結句の「を」は感歎の助詞で、それを以て感奮の心を籠《こ》めて結句としたものである。併し若《も》しこの「来にしを」を、「来たものを」、「来たのに」というように余言を籠もらせたと解釈するなら、「皇御軍のために我は来しますらをなるを、夜昼ともに悲しと思ひし妻を留めて置つれば心弱く顧せらるゝ事を云ひ残して含めるなるべし」(代匠記)か「鹿島の神に祈願《こひいのり》て官軍《すめらみいくさ》に出《いで》て来しものをいかでいみじき功勲《いさを》を立てずして帰り来るべしや」(古義)かのいずれにかになる。「あられ降り」を「鹿島」の枕詞にしたのは、霰《あられ》が降って喧《かしま》しいから、同音でつづけた。カマカマシ、カシカマシ、カシマシとなったのだろうと云われて居る。こういう技巧も既に一部に行われていたものか、或はこの作者の発明か。
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ひなぐもり碓日《うすひ》の坂《さか》を越《こ》えしだに妹《いも》が恋《こひ》しく忘《わす》らえぬかも 〔巻二十・四四〇七〕 防人
他田部子磐前《おさたべのこいわさき》という者の作。「ひなぐもり」は、日の曇り薄日《うすび》だから、「うすひ」の枕詞とした。一首は、まだようやく碓氷峠《うすいとうげ》を越えたばかりなのに、もうこんなに妻が恋しくて忘れられぬ、というのであろう。当時は上野からは碓氷峠を越して信濃《しなの》に入り、それから美濃《みの》路へ出たのであった。この歌は歌調が読んでいていかにも好く、哀韻さえこもっているので此辺《このへん》で選ぶとすれば選に入るべきものであろう。「だに」という助詞は多くは名詞につくが、必ずしもそうでなく、「棚霧《たなぎ》らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代《しろ》に添へてだに見む」(巻八・一六四二)、「池のべの小槻《をつき》が下の細竹《しぬ》な苅りそね其をだに君が形見に見つつ偲ばむ」(巻七・一二七六)等の例がある。
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防人《さきもり》に行くは誰《た》が夫《せ》と問《と》ふ人《ひと》を見《み》るが羨《とも》しさ物思《ものも》ひもせず 〔巻二十・四四二五〕 防人の妻
昔年《さきつとし》の防人《さきもり》の歌という中にあるから、天平勝宝七歳よりもずっと前のものだということが分かる。またこれは防人の妻の作ったもののようである。一首は、見おくりの人だちの立《たち》こんだ中に交って、防人に行くのは誰ですか、どなたの御亭主ですか、などと、何の心配もなく、たずねたりする人を見ると羨《うらやま》しいのです、というので、そういう質問をしたのは女であったことをも推測するに難くはない。まことに複雑な心持をすらすらと云って除《の》けて、これだけのそつの無いものを作りあげたのは、そういう悲歎と羨望《せんぼう》の心とが張りつめていたためであろう。「物思ひもせず」と止めた結句も不思議によい。
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小竹《ささ》が葉《は》のさやぐ霜夜《しもよ》に七重《ななへ》着《か》る衣《ころも》にませる子《こ》ろが膚《はだ》はも 〔巻二十・四四三一〕 防人
これも昔年の防人歌だと注せられている。一首は、笹の葉に冬の風が吹きわたって音するような、寒い霜夜に、七重もかさねて着る衣の暖かさよりも、恋しい女の膚《はだ》の方が暖い、というので、膚を中心として、「膚はも」と詠歎したのは覚官的である。また当時の民間では、七重の衣という言葉さえ羨《うらやま》しい程のものであっただろうから、こういう云い方も伝わっているのである。この歌も民謡風で防人が出発する時の歌などに似ないこと、前に出した、「かなしけ妹ぞ昼もかなしけ」(巻二十・四三六九)の場合と同じである。ただの東歌に類した民謡をば、蒐集《しゅうしゅう》した磐余伊美吉諸君《いわれのいみきもろきみ》が、進上された儘《まま》に防人の歌としたものであろう。
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雲雀《ひばり》あがる春《はる》べとさやになりぬれば都《みやこ》も見《み》えず霞《かすみ》たなびく 〔巻二十・四四三四〕 大伴家持
これは家持作だが、天平勝宝七歳三月三日、防人《さきもり》を|校《けんぎょう》する勅使、并《ならび》に兵部使人等、同《とも》に集《つど》える飲宴《うたげ》で、兵部少輔大伴家持の作ったものである。一首は、雲雀《ひばり》が天にのぼるような、春が明瞭《めいりょう》に来たのだから、都も見えぬまでに霞も棚びいている、というので、調《しらべ》がのびのびとして、苦渋が無く、清朗とでもいうべき歌である。「さやに」は清に、明かに、明瞭に、はっきりと、などの意で、この句はやはり一首にあっては大切な句である。なぜ家持はこういう歌を作ったかというに、その時来た勅使(安倍沙美麿《さみまろ》)が、「朝なさな揚《あが》る雲雀になりてしか都に行きてはや帰り来む」(巻二十・四四三三)という歌を作ったので其《それ》に和したものである。勅使の歌が形式的申訣《もうしわけ》的なので家持の歌も幾分そういうところがある。併し勅使の歌がまずいので、家持の歌が目立つのである。なお此時家持は、「含《ふふ》めりし花の初めに来しわれや散りなむ後に都へ行かむ」(同・四四三五)という歌をも作っているが、下の句はなかなか旨《うま》い。
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剣刀《つるぎたち》いよよ研《と》ぐべし古《いにしへ》ゆ清《さや》けく負《お》ひて来《き》にしその名《な》ぞ 〔巻二十・四四六七〕 大伴家持
大伴家持は、天平勝宝八歳、「族《やから》に喩《さと》す歌」長短歌を作った。これは淡海真人三船《おうみのまひとみふね》の讒言《ざんげん》によって、出雲守大伴古慈悲《こじひ》が任を解かれた、古慈悲は大伴の一家で宝亀八年八月に薨じた者だが、出雲守を罷《や》めさせられた時に家持がこの歌を作った。歌は句々緊張し、寧《むし》ろ悲痛の声ということの出来る程であり、長歌には、「聞く人の鑒《かがみ》にせむを、惜《あたら》しき清きその名ぞ、凡《おほろか》に心思ひて、虚言《むなこと》も祖《おや》の名断《た》つな、大伴の氏《うぢ》と名に負《お》へる、健男《ますらを》の伴《とも》」というような句がある。この一首は、剣太刀《つるぎたち》をば愈《いよいよ》ますます励《はげ》み研《と》げ、既に神の御代から、清《さや》かに武勲の名望を背負い立って来たその家柄であるぞ、というので、「清《さや》けく」は清く明かにの意である。この短歌は、長歌の方でいろいろ細かく云ったから、大要的に結論を云ったようなものだが、やはり句々が緊張していていい。大伴家の家運が下降の向きにある時だったので、ことに悲痛の響となったのであろう。この短歌も威勢のよいのと同時に底に悲哀の韻をこもらせているのはそのためである。
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現身《うつせみ》は数《かず》なき身《み》なり山河《やまかは》の清《さや》けき見《み》つつ道《みち》を尋《たづ》ねな 〔巻二十・四四六八〕 大伴家持
大伴家持が、「病に臥して無常を悲しみ修道を欲《ほり》して作れる歌」二首の一つである。「数なき」は、年齢の数の無いということ、年寿の幾何《いくら》もないこと、幾ばくも生きないことである。人間というものはそう長生をするものではない。よって、濁世を厭離《えんり》し、自然山川の清い風光に接見しつつ、仏道を修めねばならぬ、というのである。「道を尋ねな」と日本語流にくだいたのも、既に当時の人の常識になっていたともおもうが、なかなかよい。この歌には前途の安心《あんじん》を望むが如くであって、実は悲哀の心の方が深く滲《し》みこんでいる。また仏教的の本性清浄観《しょうじょうかん》をただ一気にいっているようで、実は病痾《びょうあ》を背景とする実感が強いのであるから、読者はそれを見のがしてはならない。この歌と並んで、「渡る日のかげに競《きほ》ひて尋ねてな清きその道またも遇《あ》はむため」(巻二十・四四六九)という歌をも作っている。「わたる日の影に競ひて」は、日光のはやく過ぎゆくにも負けずに、即ち光陰を惜しんでの意。「またも遇はむため」は来世にも亦この仏果《ぶっか》に逢わんためという意で、やはり力づよいものを持っている。こういうものになると一種の思想的抒情詩であるからむずかしいのだが、家持は一種の感傷を以てそれを統一しているのは、既に古調から脱却せんとしつつ、なお古調のいいものを保持しているのである。
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いざ子《こ》ども戯《たは》わざな為《せ》そ天地《あめつち》の固《かた》めし国《くに》ぞやまと島根《しまね》は 〔巻二十・四四八七〕 藤原仲麿
天平宝字元年十一月十八日、内裏《だいり》にて肆宴《とよのあかり》をしたもうた時、藤原朝臣仲麿の作った歌である。仲麿は即ち恵美押勝《えみのおしかつ》であるが、橘奈良麿等が仲麿の専横を悪《にく》んで事を謀《はか》った時に、仲麿の奏上によってその徒党を平《たいら》げた。その時以後の歌だから、「いざ子ども」は、部下の汝等よ、というので、「いざ子どもはやく日本《やまと》へ」(巻一・六三)、「いざ子ども敢《あ》へて榜《こ》ぎ出む」(巻三・三八八)、「いざ子ども香椎の潟に」(巻六・九五七)等諸例がある。「戯《たは》わざなせそ」は、戯《たわ》れ業《わざ》をするな、巫山戯《ふざけ》たまねをするな、というので、「うち靡《しな》ひ縁《よ》りてぞ妹は、戯《たは》れてありける」(巻九・一七三八)の例がある。一首は、ものどもよ、巫山戯たことをするなよ、この日本の国は天地の神々によって固められた御国柄であるぞ、というので、強い調子で感奮して作っている歌である。併し、「戯《たは》わざな為《せ》そ」という句は、悪い調子を持っていて慈心《じしん》が無い。とげとげしくて増上《ぞうじょう》の気配《けはい》があるから、そこに行くと家持の歌の方は一段と大きく且《か》つ気品がある。「剣大刀《つるぎたち》いよよ研《と》ぐべし」や、「丈夫《ますらを》は名をし立つべし」の方が、同じく発奮でも内省的なところがあり、従って慈味が湛《たた》えられている。仲麿は作歌の素人《しろうと》なために、この差別があるともおもうが、抒情詩の根本問題は、素人《しろうと》玄人《くろうと》などの問題などではない。よって此歌を選んで置いた。
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大《おほ》き海《うみ》の水底《みなそこ》深《ふか》く思《おも》ひつつ裳引《もび》きならしし菅原《すがはら》の里《さと》 〔巻二十・四四九一〕 石川女郎
「藤原宿奈麿《すくなまろ》朝臣の妻、石川女郎《いらつめ》愛薄らぎ離別せられ、悲しみ恨《うら》みて作れる歌年月いまだ詳《つまびらか》ならず」という左注のある歌である。宿奈麿は宇合《うまかい》の第二子、後内大臣まで進んだ。「菅原の里」は大和国生駒《いこま》郡、今の奈良市の西の郊外にある。昔は平城京の内で、宿奈麿の邸宅が其処《そこ》にあったものと見える。一首は、大海の水底のように深く君をおもいながら、裳《も》を長く引き馴《な》らして楽しく住んだあの菅原の里よ、というので、こういう背景のある歌として哀《あわれ》深いし、「裳引ならしし菅原の里」あたりは、女性らしい細みがあっていい。ただこういう背景が無いとして味えば、歌柄の稍《やや》軽いのは時代と相関のものであろう。
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初春《はつはる》の初子《はつね》の今日《けふ》の玉箒《たまばはき》手《て》に取《と》るからにゆらぐ玉《たま》の緒《を》 〔巻二十・四四九三〕 大伴家持
天平宝字二年春正月三日、孝謙天皇、王臣等を召して玉箒《たまばはき》を賜い肆宴《とよのあかり》をきこしめした。その時右中弁大伴家持の作った歌である。正月三日(丙子《ひのえね》)は即ち初子の日に当ったから「初子《はつね》の今日」といった。玉箒は玉を飾った箒で、目利草《めどぎぐさ》(蓍草)で作った。古来農桑を御奨励になり、正月の初子《はつね》の日に天皇御躬《み》ずから玉箒を以て蚕卵紙を掃《はら》い、鋤鍬《すきくわ》を以て耕す御態をなしたもうた。そして豊年を寿《ことほ》ぎ邪気を払いたもうたのちに、諸王卿等に玉箒を賜わった。そこでこの歌がある。現に正倉院御蔵の玉箒の傍《かたわら》に鋤があってその一に、「東大寺献天平宝字二年正月」と記してあるのは、まさに家持が此歌を作った時の鋤《すき》である。「ゆらぐ玉の緒」は玉箒の玉を貫《ぬ》いた緒がゆらいで鳴りひびく、清くも貴い瑞徴《ずいちょう》として何ともいえぬ、というので、家持も相当に骨折ってこの歌を作り、流麗《りゅうれい》な歌調のうちに重みをたたえて特殊の歌品を成就《じょうじゅ》している。結句は全くの写生だが、音を以て写生しているのは旨《うま》いし、書紀の|瓊音※々《けいおんそうそう》[#「王+倉」、U+7472、下-183-13]などというのを、純日本語でいったのも家持の力量である。但し此歌は其時中途退出により奏上せなかったという左注が附いている。
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水鳥《みづどり》の鴨《かも》の羽《は》の色《いろ》の青馬《あをうま》を今日《けふ》見《み》る人《ひと》はかぎり無《な》しといふ 〔巻二十・四四九四〕 大伴家持
同じく正月七日の侍宴(白馬の節会《せちえ》)の為めに、大伴家持が兼ねて作った歌だと左注にある。「水鳥の鴨の羽の色の」は「青」と云わんための序である。「青馬」は公事根源《くじこんげん》に、「白馬の節会をあるひは青馬の節会とも申すなり。其の故は馬は陽の獣なり。青は春の色なり。これによりて、正月七日に青馬を見れば、年中の邪気を除くという本文侍《はべ》るなり」とある。馬の性は白を本とするといったから、当時アヲウマと云って、白馬を用いていたという説もあるが、私には精《くわ》しい事は分からない。「限りなしといふ」とは、寿命が限《かぎり》無いというのであるが、この結句は一首の中心をなすものであり、据わりも好いし、恐らく、これと同じ結句は万葉にはほかになかろうか。中味は、「今日見る人は」とこの句のみだが、割合に落着いていて佳《よ》い歌である。家持は、こういう歌を前以て作っていたということを正直に記してあるのも興味あり、このくらいの歌でも、即興的に口を突いて出来るものでないことは実作家の常に経験するところであるが、このあたりの家持の歌の作歌動機は、常に儀式的なもののみであるのも、何かを暗指しているような気がしてならない。「いふ」で止めた例は、「赤駒を打ちてさ緒《を》引き心引きいかなる兄《せな》か吾許《わがり》来むと言ふ」(巻十四・三五三六)、「渋渓《しぶたに》の二上山に鷲《わし》ぞ子産《こむ》とふ翳《さしは》にも君が御為に鷲ぞ子生《こむ》とふ」(巻十六・三八八二)があるのみである。
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池水《いけみづ》に影《かげ》さへ見《み》えて咲《さ》きにほふ馬酔木《あしび》の花《はな》を袖《そで》に扱入《こき》れな 〔巻二十・四五一二〕 大伴家持
大伴家持の山斎属目《さんさいしょくもく》の歌だから、庭前の景をそのまま詠《よ》んでいる。「影さへ見えて」の句も既にあったし、家持苦心の句ではない。ただ、「馬酔木の花を袖に扱入《こき》れな」というのが此歌の眼目で佳句であるが、「引き攀《よ》ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入《こき》れつ染《し》まば染《し》むとも」(巻八・一六四四)の例もあり、家持も「白妙の袖にも扱入れ」(巻十八・四一一一)、「藤浪の花なつかしみ、引き攀ぢて袖に扱入《こき》れつ、染《し》まば染《し》むとも」(巻十九・四一九二)と作っているから、あえて此歌の手柄ではないが、馬酔木《あしび》の花を扱入《こき》れなといったのは何となく適切なようにおもわれる。併し全体として写生力が足りなく、諳記《あんき》により手馴れた手法によって作歌する傾向が見えて来ている。そして其《それ》に対して反省せんとする気魄《きはく》は、そのころの家持にはもう衰えていたのであっただろうか。私はまだそうは思わない。
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あらたしき年《とし》の始《はじ》めの初春《はつはる》の今日《けふ》降《ふ》る雪《ゆき》のいや重《し》け吉事《よごと》 〔巻二十・四五一六〕 大伴家持
天平宝字三年春正月一日、因幡《いなば》国庁に於て、国司の大伴家持が国府の属僚郡司等に饗《あえ》した時の歌で、家持は二年六月に因幡守に任ぜられた。「新しき」はアラタシキである。新年に降った雪に瑞兆《ずいちょう》を託しつつ、部下と共に前途を祝福した、寧《むし》ろ形式的な歌であるが、「の」を以て続けた、伸々《のびのび》とした調べはこの歌にふさわしい形態をなした。「いや重《し》け吉事《よごと》」は、益々吉事幸福が重なれよというので、名詞止めにしたのも、やはりおのずからなる声調であろうか。また、「吉事《よごと》」という語を使ったのも此歌のみのようである。謝恵連の雪賦に、盈レ尺ニ則呈二瑞ヲ於豊年一云々の句がある。
此歌は新年の吉祥歌であるばかりでなく、また万葉集最後の結びであり、万葉集編輯の最大の功労者たる家持の歌だから、特に選んで置いたのであるが、この「万葉秀歌」で、最初に選んだ、「たまきはる宇智の大野に馬なめて」の歌に比して歌品の及ばざるを私等は感ぜざることを得ない。家持の如く、歌が好きで勉強家で先輩を尊び遜《へりくだ》って作歌を学んだ者にしてなお斯《か》くの如くである。万葉初期の秀歌というもののいかなるものだかということはこれを見ても分かるのである。
万葉後期の歌はかくの如くであるが、若しこれを古今集以後の幾万の歌に較《くら》べるならば、これはまた徹頭徹尾較《くら》べものにはならない。それほど万葉集の歌は佳いものである。家持のこの歌は万葉集最後のものだが、代匠記に、「抑《そもそも》此集、初《はじめ》ニ雄略舒明両帝ノ民ヲ恵マセ給ヒ、世ノ治マレル事ヲ悦ビ思召ス御歌ヨリ次第ニ載《のせ》テ、今ノ歌ヲ以テ一部ヲ祝ヒテ終《ヲ》ヘタレバ、玉匣《たまくしげ》フタミ相称《カナ》ヘル験《しるし》アリテ、蔵ス所《ところ》世ヲ経テ失《うせ》サルカナ」と云っている。
底本:「万葉秀歌 上巻」岩波新書、岩波書店
1938(昭和13)年11月20日第1刷発行
1953(昭和28)年7月23日第22刷改版発行
1968(昭和43)年11月25日第44刷改版発行
2002(平成14)年8月26日第92刷発行
「万葉秀歌 下巻」岩波新書、岩波書店
1938(昭和13)年11月20日第1刷発行
1948(昭和23)年1月20日第10刷改版発行
1954(昭和29)年1月7日第23刷改版発行
1968(昭和43)年12月25日第41刷改版発行
2002(平成14)年9月5日第87刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2008年7月23日作成
2020年9月12日修正
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「女+釆」
上-44-9、上-44-13、上-44-14

-->
「糸+包」、U+2B0E0
上-188-1

-->
「にんべん+弖」、U+2B88F
上-192-12、上-192-12

-->
「目+碌のつくり」、U+7769
上-205-3、上-205-3

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「りっしんべん+可」、U+2AAE7
上-219-5、上-219-5、上-219-6、下-120-6、下-120-7

-->
「女+麗」、U+5B4B
上-222-12

-->
「さんずい+(勹<一)」、U+6C4B
下-6-6

-->
「女+感」
下-6-7、下-35-10

-->
「嬰」の「女」に代えて「鳥」、U+9E0E
下-147-5

-->
「女+感」、U+218B3
下-156-4、下-156-4

-->
「王+倉」、U+7472
下-183-13

-->
●図書カード