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理性が万物の根拠でありそして万物が・理性あるならば
若し理性を棄て理性を憎むことが不幸の最大なものであるならば……。
――シェストフ――
なるべく、夜更《よふ》けに着く汽車を選びたいと、三日間の収容所を出ると、わざと、敦賀《つるが》の町で、一日ぶらぶらしてゐた。六十人余りの女達とは収容所で別れて、税関の倉庫に近い、荒物屋兼お休み処《どころ》といつた、家をみつけて、そこで独りになつて、ゆき子は、久しぶりに故国の畳に寝転ぶことが出来た。
宿の人々は親切で、風呂をわかしてくれた。小人数で、風呂の水を替へる事もしないとみえて、濁つた湯だつたが、長い船旅を続けて来たゆき子には、人肌の浸《し》みた、白濁した湯かげんも、気持ちがよく、風呂のなかの、薄暗い煤《すゝ》けた窓にあたる、しやぶしやぶしたみぞれまじりの雨も、ゆき子の孤独な心のなかに、無量な気持ちを誘つた。風も吹いた。汚れた硝子窓《ガラスまど》を開けて、鉛色の雨空を見上げてゐると、久しぶりに見る、故国の貧しい空なのだと、ゆき子は呼吸《いき》を殺して、その、窓の景色にみとれてゐる。小判型の風呂のふちに両手をかけると、左の腕に、みみずのやうに盛りあがつた、かなり大きい刀傷が、ゆき子をぞつとさせる。そのくせ、その刀傷に湯をかけながら、ゆき子はなつかしい思ひ出の数々を瞑想《めいさう》して、今日からは、どうにもならない、息のつまるやうな生活が続くのだと、観念しないではなかつた。退屈だつた。潮時《しほどき》を外《は》づした後は、退屈なものなのだと、ゆき子は汚れた手拭ひで、ゆつくり躯《からだ》を洗つた。煤けた狭い風呂場のなかで、躯を洗つてゐる事が、嘘のやうな気がした。肌を刺す、冷い風が、窓から吹きつけて来る。長い間、かうした冷い風の触感を知らなかつただけに、ゆき子は、季節の飛沫《ひまつ》を感じた。湯から上つて部屋へ戻ると、赤茶けた畳に、寝床が敷いてあり、粗末な箱火鉢には炎をたてて、火が熾《おこ》つてゐた。火鉢のそばには、盆が出てゐて、小さい丼《どんぶり》いつぱいにらつきようが盛つてある。ぐらぐらと煮えこぼれてゐるニュームのやかんを取つて、茶を淹《い》れる。ゆき子はらつきようを一つ頬張《ほゝば》つた。障子の外の廊下を、二三人の女の声で、どやどやと隣りの部屋へ這入《はい》つて行く気配がした。ゆき子はきき耳をたてた。襖《ふすま》一重《ひとへ》へだてた部屋では、一緒の船だつた、芸者の幾人かの声がしてゐる。
「でも、帰りさへすればいゝンだわ。日本へ着いた以上は、こつちの躯よ、ねえ……」
「本当に寒くて心細いわ。……あたい、冬のもの、何も持つてやしないもンね。これから、まづ身支度が大変だよ」
口ほどにもなく、案外陽気なところがあつて、何がをかしいのか、くすくす笑つてばかりゐる。
ゆき子は所在なく寝床へ横になつて、暫《しばら》く呆《ぼ》んやりしてゐたが、気が滅入《めい》つて、くさくさして仕方がなかつた。それに、何時《いつ》までたつても、隣室の騒々しさはやまなかつた。べとついた古い敷布に、ほてつた躯を投げ出してゐるのは、気持ちのいゝことであつたが、これからまた、長い汽車旅につくといふことは、心細くもあつた。肉親の顔を見るのも、いまではさして魅力のある事ではなくなつてゐる。ゆき子は、このまゝまつすぐ東京へ出て、富岡を尋ねてみようかとも思つた。富岡は運よく五月に海防《ハイフォン》を発《た》つてゐた。先へ帰つて、すべての支度をして、待つてゐると約束はしてゐたのだが、日本へ着いてみて、現実の、この寒い風にあたつてみると、それも浦島太郎と乙姫《おとひめ》の約束事のやうなもので、二人が行き合つてみなければ、はつきりと、確かめられるわけのものでもない。船が着くなり、富岡のところへ電報も打つた。三日間を引揚げの寮に過して、調べが済むと、同時に、船の者達は、それぞれの故郷へ発つて行くのだ。三日の間に、富岡からは返電は来なかつた。これが逆であつてみても、同じやうな事になつてゐるのかもしれないと、ゆき子は何となく、あきらめてきてもゐた。ひとねいりしたが、まだ時間はあまりたつてゐない。障子が昏《くら》くなり、部屋のなかに、燈火がついてゐる。隣りでは、食事をしてゐる様子だつた。ゆき子も腹が空いてゐた。枕許《まくらもと》のリュックを引き寄せて、船で配給された弁当《レイション》を出した。茶色の小さい箱のなかに、四本入りのキャメルの煙草や、ちり紙、乾パン、粉末スープ、豚と馬鈴薯《ばれいしよ》の罐詰なぞが、きちんとはいつてゐる。その中からチョコレートを出して、ゆき子は、腹這《はらば》つたまゝ齧《か》じつた。少しも甘美《おいし》くはなかつた。
――ドウソン湾の紅黄《あかきい》ろい海の色が、なつかしく瞼《まぶた》に浮ぶ。ドウソンの岬の、白い燈台や、ホンドウ島のこんもりした緑も、生涯見る事はないだらうと、ゆき子は、船から焼きつくやうに、この景色に眼をとめてはゐたが、そんな、異郷の景色もすつかり色あせてきて、思ひ出すのも億《おく》くふであつた。隣室の女達は、夜汽車で発つのか、食事が終ると、宿のおかみさんに、勘定を払つてゐる様子だつた。ゆき子は騒がしい隣室の様子を聞きながら、粉末スープを湯呑みにあけて、煮えた湯をそゝいで飲んだ。残りのらつきようも食べた。軈《やが》て女達は、お世話さまになりましたと、口々に云ひながら、おかみさんの後から廊下を賑《にぎ》やかに通つて行つた。女の声を聞いてゐると、ゆき子は、あの女達も、それぞれの故郷へ戻つて行くのだらうと、誘はれる気がした。ゆき子が、船で聞いたところによると、芸者達は、プノンペンの料理屋で働いてゐたのださうで、二年の年期で来てゐた。芸者とは云つても、軍で呼びよせた慰安婦である。――海防の収容所に集つた女達には、看護婦や、タイピストや、事務員のやうな女もゐたが、おほかたは慰安婦の群であつた。こんなにも、沢山《たくさん》日本の女が来てゐたのかと思ふほど、それぞれの都会から慰安婦が海防へ集つて来た。――幸田ゆき子はダラットとドュランの間にある、パスツール研究所の、規那園《キナゑん》栽培試験所のタイピストとして働いてゐた。昭和十八年の秋、ダラットに着いたのである。この地は海抜高一・六〇〇米《メートル》位で、気温も最高二五度、最低六度位で、高原地帯のせゐか、非常に住みいゝところであつた。仏蘭西《フランス》人で茶園を経営してゐるものが多く、澄んだ高原の空に、甘い仏蘭西の言葉を聞くのは、ゆき子には珍しかつた。
ゆき子はふつと、富岡へ手紙を書かうと思つた。どんな事を書いていゝかは、判らなかつたけれども、書いて行くうちには、何とか心がまとまつて来さうであつた。富岡と同じ土の上に着いてゐるのだと思ふと、海防の収容所で、心細く虚無的になつてゐた気持ちも、少しづつ立ちなほつてきさうである。ゆき子は店の子供に頼んで、レターペエパアと封筒を買つた。
ゆき子は気が変つて来た。ゆき子は、まつすぐ東京へ出て伊庭《いば》を尋ねてみようと思つた。焼けてさへゐなければ、富岡に逢へるまで、まづ伊庭の処へ厄介になつてもいゝのだ。厭な記憶しかないが、仕方がない。静岡には何のたよりもしなかつたので、自分の帰りを待つてくれる筈《はず》もない。――夜更けの汽車で、ゆき子は敦賀を発つた。船で一緒だつた男の顔も二人ばかり、暗いホームで見掛けたけれども、ゆき子は、わざとその男達から[#「男達から」は底本では「男達たちから」]離れて後の列車に乗つた。驚くほどの混雑で、ホームの人達はみんな窓から列車に乗り込んでゐる。ゆき子も、やつとの思ひで窓から乗車する事が出来た。何も彼もが、俊寛のやうに気後《きおく》れする気持ちだつた。南方からの引揚げらしい、冬支度でないゆき子を見て、四囲の人達がじろじろゆき子を盗見してゐる。如何《いか》にも敗戦の形相《ぎやうさう》だと、ゆき子もまた立つて揉《も》まれながら、四囲を眺めてゐた。夜のせゐか、どの顔にも気力がなく、どの顔にも血色がない。抵抗のない顔が狭い列車のなかに、重なりあつてゐる。奴隷列車のやうな気もした。ゆき子はまた、少しづつこの顔から不安な反射を受けた。日本はどんな風になつてしまつたのだらう……。旗の波に送られた、かつての兵士の顔も、いまは何処にもない。暗い車窓の山河にも、疲労の跡のすさまじい形相だけが、るゐるゐと連《つ》らなつてゐた。
東京へ着いたのは、翌日の夜であつた。雨が降つてゐた。品川で降りると、省線のホームの前に、ダンスホールの裏窓が見えて、暗い燈火の下で、幾組かが渦《うづ》をなして踊つてゐる頭がみえた。光つて降る糠雨《ぬかあめ》のなかに、物哀しいジャズが流れてゐる。ゆき子は寒くて震へながら、崖《がけ》の上のダンスホールの窓を見上げてゐた。光つた白い帽子をかぶつた、背の高いMPが二人、ホームのはづれに立つてゐる。ホームは薄汚れた人間でごつた返してゐる。ジャズの音色を聞いてゐると、張りつめた気もゆるみ、投げやりな心持ちになつて来る。そのくせ、明日から、生きてゆけるものなのかどうかも判らない懼《おそ》れで、胸のなかが白けてゐた。ホームに群れだつてゐるものは、おほかたがリュックを背負つてゐた。時々、思ひもかけない、唇の紅い女が、外国人と手を組んで、階段を降りて来るのを見ると、ゆき子は、珍しいものでも見るやうに、じいつとその派手なつくりの女を見つめた。かつての東京の生活が、根こそぎ変つてしまつてゐる。
ゆき子が、西武線の鷺《さぎ》の宮《みや》で降りた時、その電車が終電車であつた。踏み切りを渡つて、見覚えの発電所の方へ行く、広い道を歩いてゐると、三人ばかりの若い女が、雨のなかを急ぎ足にゆき子のそばを通り抜けて行つた。三人とも、派手な裂地《きれぢ》で頬かぶりをして、長い外套《ぐわいたう》の襟をたててゐた。
「今日、横浜まで送つて行つたのよオ。どうせ、ねえ、向うには奥さんもあるンでせう……。でも、人間つて、瞬間のものだわねえ。それでいゝンだらう……。友達を紹介して行つてくれたンだけどさア、何だか変なものよねえ。自分の女にさア、友達をおつつけて行くなンて、日本人には判らないわ……」
「あら、だつて、いゝぢやないの。どうせ、別れてしまへば、二度と、その人と逢へるもンでもないしさア、気を変へちやふのよオ。あたしだつて、もうぢき、あの人かへるでせう……。だからさア、厚木へ通ふのも大変だしね、そろそろ、あとのを探さうかと思つてンのよ……」
ゆき子は、賑《にぎ》やかな女達の後から足早やについて行つた。そして、声高《こわだか》に話してゐる女達から聞く話に、日本も、そんな風に変つてしまつてゐるのかと、妙な気がしてきた。
軈《やが》て女達は、ポストの処から右へ這入つて行つてしまつた。ゆき子はすつかり濡れ鼠になつて疲れてゐた。此のあたりは、南へ出発の時と少しも変つてはゐなかつた。細川といふ産婆の看板を左へ曲つて二軒目の、狭い路地を突きあたつたところに、伊庭の家がある。自分の、このみじめな姿を見せたら、みんな驚くに違ひない。ゆき子は石の門の前に立つて、暗い街燈の下で身づくろひをした。ずつぷりと髪も肩も濡れてゐる。落ちぶれ果てたものだと思つた。ベルを押してゐると、仏印へなぞ行つてゐた事が、嘘のやうな気がして来た。玄関の硝子戸に燈火が射して、すぐ大きい影が、土間に降りたつたやうだ。ゆき子は動悸《どうき》がした。男の影だけれど、伊庭ではない。
「どなた?」
「ゆき子です……」
「ゆき子? どちらの、ゆき子さんですか?」
「仏印へ行つてました、幸田ゆき子です」
「はア……。どなたをお尋ねですか?」
「伊庭杉夫はをりませんでせうか?」
「伊庭さんですか? あのひとは、まだ疎開地から戻つてはをられませんですよ」
その影の男は、やつと、億くふさうに鍵を開けてくれた。濡れ鼠になつて、外套も着ないで、リュックを背負つてゐる若い女を見て、寝巻きを着た男は、吃驚《びつくり》したやうな様子で、ゆき子を眺めた。
「伊庭の親類のもので、今日、戻つて来たものですから……」
「まア、おはいり下さい。伊庭さんは、三年ほど前から、静岡の方へ疎開していらつしやるンですがね」
「ぢやア、こゝはもう、伊庭はすつかり引揚げてゐるンでせうか?」
「いや、伊庭さんの代りにはいつてゐるンですが、伊庭さんの荷物は来てゐますよ」
ゆき子達の話声を聞いて、その男の細君らしいのが、赤ん坊をかかへて玄関へ出て来た。ゆき子は仏印から引揚げて来た事情を話した。伊庭と、この男との間は、家の問題でいざこざがある様子で、あまりいゝ顔はしなかつたが、それでも、こゝは寒いから座敷へ上れと云つてくれた。
敦賀の宿で、握り飯を一食分だけ特別につくつてくれた以外は、飲まず食はずの汽車旅だつたので、ゆき子は躯が宙に浮いてゐるやうだつた。廊下のミシンにぶつつかつたりして、座敷へ通ると、伊庭の一家が何時《いつ》も寝室に使つてゐた六畳間で、荷造りした荷物が畳もへこんでしまふ程積み重ねてあつた。仏印から引揚げて来たと聞いて、細君は同情したのか、茶を淹《い》れたり、芋干しを出したりした。男は四十年配で、躯の大きい、軍人あがりの、武骨なところがあつた。細君は小柄で色の白い、そばかすの浮いた顔をしてゐたが、笑ふと愛嬌《あいけう》のいゝ笑靨《ゑくぼ》が浮いた。
その夜、蒲団を二枚借りて、伊庭の荷物の積み重ねてある狭いところへ、ゆき子は一夜の宿をとる事が出来た。ゆき子はリュックからレイションを二箱出して細君へ土産《みやげ》代りに出した。
床にはいつて、寝ながら、こも包みの荷の中へ指を差しこんでみると、厚い木でがんじやうに打ちつけてあるので、なかに何がはいつてゐるのかさつぱり判らない。話によると、暮までには伊庭が上京して来るので、二部屋ばかり空《あ》けなければならないと細君は云つてゐた。六人家内なので、いまのところ、どの部屋を空けるかが問題だけれど、自分達は空襲時代、一生懸命にこの家を護《まも》つたのだから、急にどいてくれと云はれても、どくところはないし、そんな事は、道に外《は》づれてゐると云つた。伊庭も、何時までも田舎暮《ゐなかぐら》しも出来ないので、苛々《いらいら》してゐるのだらうと、ゆき子は、早々と荷物を送りつけて来てゐる伊庭一家の気持が察しられた。みんな丈夫でゐるらしい事も判つて、かへつてゆき子は拍子抜けのするやうな気持ちだつた。
幸田ゆき子が仏印のダラットに着いたのは、昭和十八年の十月も半ば過ぎであつた。農林省の茂木技師一行に連れられて、四人のタイピストがまづ海防《ハイフォン》に着いた。――茂木技師は、仏印の林業調査に軍から派遣される事になり、同じ農林省で働いてゐるタイピストを募《つの》つて、それぞれの部署に一人づつのタイピストを置いて来る事になつてゐた。志願者は五人ばかりあつたが、幸田ゆき子も志願して一行に加はつた。――病院船で海防に着き、軍の自動車で河内《ハノイ》へ出て、河内で、三人のタイピストが勤め先きを持つた。幸田ゆき子は高原のダラッ卜へきまり、もう一人の篠井春子はサイゴンに職場を得た。一番貧乏くじを引いたのは幸田ゆき子である。地味で、一向に目立たない人柄が、さうしたところに追ひやつたのかも知れない。額の広い割に、眼が細く、色の白い娘だつたが、愛嬌にとぼしく、何処《どこ》となく淋しみのある顔立ちが人の眼を惹《ひ》かなかつた。軍の証明書に張つてある彼女の写真は、年よりは老けて、二十二歳とは見えなかつた。白い襟つきの服が似合ふ以外に、何を着てゐても、何時も同じやうな服装をしてゐる女にしかみえない。サイゴンに行く篠井春子は、五人のなかでも一番美人で、一寸李香蘭《りかうらん》に似た面差《おもざ》しがあつたので、幸田ゆき子なぞの存在は、誰にも注意されなかつたのだ。――二台の自動車で、一行は河内《ハノイ》を発つたが、タンノア、フウキ、ビンと走つて、最初の夜はビンに泊つた。河内から南部印度支那のビンまでは、自動車で三百五十キロ走つた。ビンのグランド・ホテルに宿を取つた。道々の野山は、野火の跡で黒くくすぶつてゐたり、またあるところでは、むくむくと黄ろい煙をたてて燃えてゐる林野もあつた。油桐や松の造林地帯がほとんどで、行けども行けども森林地帯のせゐか、篠井春子は、幾度も太い溜息《ためいき》をついて、わざと心細がつてみせてゐるところもあつた。ゆき子は馴《な》れない長途の旅で、へとへとに疲れてゐた。タンノアといふところを出てから、長く続いてゐる黄昏《たそがれ》の道を、自動車はかなりのスピードで走つたが、ビンへ近くなつてからは、昏《くら》くなつた四囲に、大きな蛾《が》が飛び立つてゐて、自動車のヘッドライトに明るく照し出された道の方へ、紙片を散らしたやうに、白い蛾《が》が群れだつて寄つて来た。
ホテルの左手には、運河でもあるのか、水に反響する安南人の船頭の声がしてゐた。食用蛙がやかましく啼《な》きたててゐる。ビンロウや、ビルマネムの植込みのなかへ自動車を置いて、一行はホテルの部屋へ案内された。運河の見える、こざつぱりした階下の部屋に、篠井春子と幸田ゆき子は通された。
春子は窓を開けた。運河の水音がしてゐる。橙色《だいだいいろ》の燈のついた卓子には、二人の貧弱なトランクが並んでゐた。桃色の花模様の壁紙や、柔い水色毛布のかゝつてゐるダブルベッドは、如何《いか》にも仏蘭西《フランス》人の趣味らしく、清潔で可愛いかつた。戦争下の日本で、長らく貧しい生活にあつた二人にとつて、これはまるでお伽話《とぎばなし》の世界である。顔を洗つて、食堂で遅い晩食をとつてゐると、腕に憲兵の白い布を巻いた兵隊が、わざわざ女二人の身分証明書を見に来たりした。若い憲兵は、日本の女が珍しくなつかしかつたのだらう。――その夜、ゆき子も春子も、仲々寝つかれなかつた。日本を発《た》つ時は、うそ寒い陽気だつたのに、海防から、河内、タンノアと南下して来るにつれて、急に季節はまた夏の方へ逆もどりしてゐた。柔《やはらか》い、弾力のあるベッドに寝てゐると、仲々寝つかれない。太棹《ふとざを》の三味線でも聴いてゐるやうに、食用蛙が、ぽろんぽろんと雨滴のやうに何時までも二人の耳についてゐた。
東京を発つ時の、伊庭の家での事や、友人達との壮行会や、陸軍省でのあわたゞしい注射の日が、夢うつゝに浮んで、ゆき子は、仏印にまで来るなぞとは夢にも考へられなかつた運命が、自分でも不思議でならなかつた。――伊庭杉夫は姉のかたづいたさきの伊庭鏡太郎の弟であつたが、杉夫には妻も子供もあつた。東京へ家を持つてゐる唯一の親類さきで、ゆき子は静岡の女学校を出るとすぐ、伊庭杉夫の家へ寄宿して、神田のタイピスト学校へ行つた。杉夫は保険会社の人事課に勤めてゐて、実直な男だと云ふ評判であつたが、ゆき子が寄宿して、丁度《ちやうど》一週間目の或夜、ゆき子は杉夫の為に犯されてしまつた。女中部屋の三畳にゆき子は寝てゐた。何となく眠れない夜で、杉夫が台所に水を飲みに行つてゐる物音をゆき子はうとうと聴いてゐたが、軈《やが》て、すつと女中部屋の障子が開いた。ゆき子は、それを夢うつゝに聴いてゐた。その障子はまた静かに閉まつて、みしみしと畳をふむ音がした。重くかぶつてくる男の体重に胸を押されて、ゆき子ははつとして、暗闇《くらやみ》に眼を開いた。革臭《かはくさ》い匂ひがして、杉夫が何か小さい声で云つたのが、ゆき子には判らなかつた。蒲団の中に、肌の荒い男の脚が差し寄せられて、初めて、ゆき子は声をたてようとした。そのくせ、声をたてるわけにもゆかないものを感じて、ゆき子は身を固くして黙つてゐた。
その夜の事があつて以来、ゆき子は、杉夫の妻の真佐子に、顔むけのならないやうな気がしてゐたけれども、ゆき子は、夜になると、杉夫の来るのが何となく待ちどほしい気がしてならなかつた。杉夫は来るたびに、ハンカチをゆき子の口のなかへ押し込むやうにした。美人で、機智のある妻の真佐子をさしおいて、目立たない自分のやうな女に、どうして杉夫がこんな激しい情愛をみせてくれるのか、ゆき子は不思議だつた。――ゆき子は三年を伊庭のところで暮した。タイピスト学校を出て、農林省へ勤めてゐた。真佐子は杉夫とゆき子の情事は少しも知らない様子だつた。たまに、真佐子が子供づれで横浜の実家へ泊りに行つたりすると、杉夫は早くから寝床へ就《つ》いて、ゆき子を呼んだりした。ゆき子は、只、黙つて杉夫の意のまゝにしたがふより仕方がない。将来に就いて語りあふといふでもなく、まるで娼婦《しやうふ》をあつかふやうなしぐさで、杉夫は、ゆき子をあつかつた。――ゆき子が、仏印行きの決心を固めたのも、かうした不倫から自分を抜けきりたい気持ちで、事がきまるまでは、伊庭夫婦にも、静岡の母にも、姉弟《きやうだい》にも打ちあけなかつたのだ。いよいよ、仏印行きが本当にきまつてから、ゆき子は肉親にも知らせ、伊庭夫婦にも打ちあけた。杉夫は別に顔色も変へなかつた。
ゆき子は、案外冷たい表情でゐる杉夫を盗み見て、心のなかに噴《ふ》きあげるやうな侮辱を感じてゐたが、自分が伊庭の家を出る事によつて、伊庭の心のなかに、太い釘を差し込むやうな、気味のいゝものも感じた。真佐子に対しても、ゆき子はかへつて憎しみを持つやうになり、時々、真佐子の口から、「このごろ、ゆきさんはすぐふくれるやうになつたのね。早くお嫁さんにやらなくちや駄目だわ」と冗談《じようだん》にも、皮肉にもとれるやうな事を云つたりする。杉夫は、ゆき子がいよいよ二三日うちに仏印出発と聞くと、薬や、ハンドバッグや、下着の類を買ひとゝのへて来た。ゆき子は杉夫にそんな事をして貰ふのが口惜《くや》しくてたまらなかつた。真佐子は真佐子で、ゆき子に対して、杉夫のさうした心づかひが不思議で、反撥《はんぱつ》するものを持つてゐる様子だつた。
ゆき子は明け方になつて、杉夫の夢を見た。遠い旅に出たせゐか、妙に人肌恋しくて、奈落に沈んでゆくやうな淋しさになる。ここまで来てゐながら、日本へ帰りたい気がしてならなかつた。ハンカチを口へ押し込む時の、気忙《きぜ》はしい杉夫の息づかひが、耳について離れない。厭だと思ひ続けてゐた杉夫が、こんなに遠いところへ来て、急に恋しくなるのは変だと、ゆき子は、杉夫との情事ばかりを想ひ出してゐた。きつと、杉夫は淋しがつてゐるに違ひない。只、あのひとは無口だつたから、別に、こみいつた事も云はなかつたけれども、仏印へ発つ日まで、二人の関係が続いてゐた。三年も関係が続いてゐて、どうして子供が生れなかつたのだらう……。そのくせ、三年の間に、真佐子の方には男の子が生れた。
ゆき子は果てしもなく、いろいろな記憶がもつれて来る事に、やりきれなくなつて、そつと起きた。ヴェランダへ通じる硝子戸《ガラスど》を開けると、運河はすぐ眼の前に光つてゐた。ビルマネムの大樹が運河添ひに並木をなして、珍しい小禽《ことり》の声が騒々しくさへづつてゐた。もやの淡く立ちこめた運河の上に、安南人の小船がいくつももやつてゐる。石造りのヴェランダに凭《もた》れて、朝風に吹かれてゐると、何ともいへないいゝ気持ちだつた。地球の上には、かうした夢のやうな国もあるものだと、ゆき子は、小禽《ことり》のさへづりを聴いたり、運河の水の上を呆《ぼ》んやり眺めてゐたりした。燕も群れをなして飛んでゐる。海防《ハイフォン》の濁つた海の色を境にして、何も彼《か》も虚空の彼方《かなた》に消えてゆき、これから、どんな人生が待つてゐるのか、ゆき子には予測出来なかつた。
早い朝食が済んで、また自動車に乗り、南部仏印での古都である、ユヱへの街を指して、一行は発《た》つて行つた。木麻黄《もくまわう》の並木路を透《す》かして、運河ぞひの苫屋《とまや》からも、のんびりと炊煙があがつてゐた。広い植民道路を、黄色に塗つたシトロエンが、シュンシュンとアスファルトの道路に吸ひつくやうな音をたてて走つてゐる。
ビンの街は、人口二万五千あまりで、北部安南でもかなり重要な街だと、一行での男連中の話である。軈《やが》て、植民道路は高原のラオスにはいつて行く路と二つに分れた。時々、野火が右手の森林から煙を噴いてゐる。広い森林地帯の中のユヱへの植民道路をかなり走つてから、やつと四囲に薄陽《うすび》が射《さ》し始め、晴々と夜が明けて来た。陽が射して来ると、空気がからりと乾いて、空の高い、爽涼《さうりやう》な夏景色が展《ひら》けて来た。
第二泊目はユヱで泊つた。こゝでも、一行はグランド・ホテルに旅装をといた。日本の兵隊がかなり駐屯してゐる。ホテルの前に、広いユヱ河が流れてゐた。クレマンソウ橋が近い。ゆき子は、こんなところまで、日本軍が進駐して来てゐる事が信じられない気がしてゐた。無理押しに、日本兵が押し寄せて来てゐるやうな気がした。このまゝでは果報でありすぎると思つた。そのくせ、このまゝ長く、この宝庫を占領出来るものなのかどうかも、ゆき子は考へてゐるいとまもないのだ。自動車が走つてゆくまゝに、身をゆだねて、あなた任せにしてゐるより仕方がない、単純な気持ちだけで旅をしてゐた。かうしたところで見る、日本の兵隊は、貧弱であつた。躯《からだ》に少しもぴつたりしない服を着て、大きい頭に、ちよんと戦闘帽をつけてゐる姿は、未開の地から来た兵隊のやうである。街をゆく安南人や、ときたま通る仏蘭西《フランス》人の姿の方が、街を背景にしてはぴつたりしてゐた。華僑《くわけう》の街も文化的である。都心の街路には、樟《くす》の木の並木が鮮《あざや》かで、朝のかあつと照りつける陽射しのなかに、金色の粉《こ》を噴いて若芽を萌《きざ》してゐた。赤煉瓦《あかれんぐわ》の王城のあたりでは、若い安南の女学生が、だんだらの靴下をはいて、フットボールをしてゐるのなぞ、ゆき子には珍しい眺めだつた。河のほとりの遊歩場には、花炎木《くわえんぼく》や、カンナの花が咲いてゐた。河は黄濁して水量も多く、なまぐさい河風を朝の街へ吹きつけてゐた。
旅空にあるせゐか、一行は七人ばかりであつたが、かなり自由に、解放された気持ちになつてゐる様子だつた。鉱山班の瀬谷といふ老人は、河内からずつと女連の自動車の方へばかり乗り込んで、篠井春子のそばへ腰をかける習慣になつてゐた。わざと春子の肩や膝頭《ひざがしら》に躯をくつつけて、汗のにちやつくのもかまはずに、図々しくみだらな話をしてゐる。――サイゴンは小巴里《パリ》だと云はれる程、巴里的な街だと聞いて、ゆき子は篠井春子が妬《ねた》ましかつた。自分もそんな美しい街へポストを持ちたかつた。きまつてしまつたものは仕方がないけれども、さうした命令が、女にとつては、顔かたちの美醜にある事も、ゆき子はよく知つてゐる。ダラットといふ、聞いた事も見た事もない、高原の奥深いところで、平凡な勤めに就く運命が、ゆき子には何となく情けない気持ちだつた。若い女にとつて、平凡といふ事位苦しいものはない。一年はどうしても勤めなければならない事も、心には重荷であつた。
東京を発《た》つ時、杉夫が、仏印がいゝところだつたら、俺達も呼んでくれないか、せめて内地の戦時世相から解放されたいと冗談を云つてゐたけれども、杉夫も、保険会社なんかやめて、志願してでも仏印へ来てくれるといゝと空想した。
ユヱで一泊して、海辺のツウフン駅から、一行はサイゴン行きの汽車へ乗つた。狭い可愛い車体だつたが、二等車は案外、贅沢《ぜいたく》な設備がしてあつた。ソファや、小卓があり、小さい扇風機も始終《しじゆう》気忙《きぜ》はしく車室をかきまはしてゐる。部屋の隣りには、シャワーの設備もあつて、自動車の旅よりはずつと快よかつた。コオヒイを注文すると、まるで花壺のやうな、深い茶碗に、安南人のボーイが持つて来てくれる。こゝで、初めて、ゆき子は篠井春子と二人きりの部屋にをさまる事が出来たのだ。汽車は動揺が激しく、コオヒイ茶碗の花壺のやうなしかけも、この動揺の為なのだと判つた。自動車の旅と少しも変らない程、砂塵《さぢん》が何処からか吹き込んで来るのには、二人とも閉口だつた。どんな贅沢《ぜいたく》な設備も、黄ろい砂塵の吹きこむ列車は不潔である。春子は何時《いつ》の間にどうした手段で求めたのか、絹靴下をはき、洒落《しや》れたラバソールをつつかけてゐた。そして、汽車に乗る時から気にかけてはゐたのだけれども、春子は、匂ひの甘い香水をつけてゐた。ゆき子は自分が惨《みじ》めに敗《ま》けてしまつた気で、学校時代のサージの制服を仕立てなほした洋袴《ズボン》に、爪先きのふくらんだ、汚れた黒靴をはいてゐる事に、いまいましいものを感じてゐる。長い旅路で、紺の洋袴はかなり汚れて来てゐる。春子の化粧の濃くなつたのを妬《ねた》まし気に眺めながらゆき子は、
「篠井さんはサイゴンに落ちつくなんて幸福だわね」と、云つた。
「あら、いゝところなのか、悪いところなのかは、行つてみなくちや判らないわ。幸田さんこそ、パスツウルの規那園《キナゑん》なンて、とてもハイカラぢやないの? 貴女《あなた》は勉強家だから、すぐ、仏蘭西語も、安南語も覚えちやふでせう。とても、第一級のところぢやないの? 私、さう思ふわ。涼しくて、いゝ処なンですつてね……」
ゆき子は、春子が心のゆとりを持つて、慰めてくれてゐる事は、よく判つてゐた。
「でも、人間の数の少ないところつて、淋しいわ。第一、苦労をともにして来た貴女たちに別れて、誰も知らない山の中へ行くなンて、淋しいのよ。退屈だらうと思ふの……」
行けども行けども、山野の波間を、汽車は激しい動揺で走つてゐる。
サイゴンに着いたのは夜であつた。
ゆき子は、かうした旅に馴《な》れなかつたせゐか、へとへとに疲れてゐた。どうかすると、一日のうちに、幾度かわけのわからない熱の出る時もあつた。サイゴンでは、五日ほど暮す事になり、こゝでまた軍への手続きが相当手間どつで、独《ひと》りになつて街を見物するゆとりは許されなかつた。サイゴンでは、軍の指定した旅館で、海防を出て以来、初めて、身分相当な貧しい旅館に落ちついた。四日目に、篠井春子は、軍報道部に働く中渡といふ男に連れられて、勤めさきの宿舎へ変つて行つた。ゆき子たちの旅館は、以前は華僑の住宅ででもあつたらしく、飾りつけの何もないがらんとした部屋々々に、折りたゝみ式のベッドがあるだけのもので、安南人の女が二人、ものうさうに部屋々々の掃除をしてまはつてゐる。茂木技師も、黒井技師も、瀬谷も、ゆき子と一緒にダラットへ出掛ける連中なので、食堂は何時《いつ》も、此のグループだけが部屋の隅に集つた。しつくひ塗りの青い壁に、粗末な大きい地図が張りつけてある。紫檀《したん》の背の高い卓子が三つほど並び、それぞれの用向きを持つて泊つてゐる連中が、こゝで食事をする。食堂へ来る顔ぶれは何時も流れるやうに変つてゐた。――離合集散の激しい食堂で、窓ぎはの涼しい場所に、何時も変らない顔が一人だけあつた。ふつと、ゆき子はこの男に注意を惹《ひ》いた。食事中も、いつも本を読むとか、新聞を読んでゐた。別に、連れがあるらしくもなく、そこへ腰をかける時間も、場所も、判で押したやうだつた。色は青黒く、髪の毛の房々とした、面長《おもなが》な顔立ちで、じいつと本を読んでゐる横顔は、死人のやうに生気のない表情をしてゐた。夜になると、何処《どこ》からか戻つて来て、誰もゐない食堂で、ウィスキーの壜《びん》を前に置いて酒を飲んでゐる。シャフスキンの半袖シャツを着て、茶色の洋袴《ズボン》をはいてゐるところは、ゆき子には安南人のやうにも見えた。ゆき子は熱があつたので、時々食堂へ氷を貰ひに行つたが、その男は、何時でも食堂の椅子《いす》に膝をたてた、不作法な腰のかけ方で酒を飲んでゐた。ゆき子が食堂へはいつて行つても、別に、ゆき子の方を注意するでもなく、ゆつくり孤独を愉《たの》しんでゐるやうな茫洋《ばうやう》とした風貌《ふうばう》をして、酒を飲んでゐる。此の宿舎の近くには、夜でも賑《にぎ》やかに、レコードやラジオを鳴らしてゐる華僑の飲食店が並んでゐた。風のむきで、遠くかすかに、食堂のなかへ、父よあなたは強かつたの日本の曲なぞが流れて来る。食堂の隅で、薬を飲んでゐると、ふつと、ゆき子はこの曲に誘はれた。何といふ事もなく、酒を飲んでゐる男と話をしてみたい、冒険的な気持ちになつてきた。ゆき子は、男といふものは、みんな杉夫のやうな性癖を持つてゐるやうであり、旅空のせゐか、誰の紹介もなく話しかけてもかまはないのではないかとも考へる気分になり、そこに散らかつてゐる日本新聞なぞを、ゆつくり読み耽《ふけ》つてゐたりした。
男は、何ものにもとんちやくしない太々しさで、本を読みながら、酒を飲んでゐる。酒を飲むと、肌に赤味がさして、白い半袖からむき出した、すくすくとのびた腕が、ゆき子の眼をとらへる。三十四五になつてゐるであらうか。名前も知らなければ、職業も判らないまゝで、別れるひとなのだと思ふにつけ、ゆき子は一人寝の、狭いベッドへ這入《はい》つてからも、その男の事が始終瞼《まぶた》を離れなかつた。
五日目に、ダラットへ行くトラックの便《びん》があるといふので、茂木技師一行について、ゆき子はまた旅支度をした。――サイゴンは、昔、クメール族の名づけで、プレイ・ノコールと云つてゐた。森の都と云ふ意味である。トラックの上から見る、サイゴンの大通りは、ヨウの大樹の並木が、亭々《ていてい》と並んでゐて、その樹下のアスハルトの滑《すべ》つこい大通りを、輪タクに似たシクロが昆虫のやうに走つてゐた。繁華なカチナ通りの、タマリンドウの街路樹の下に、水色の服を着た仏蘭西人の子供の遊んでゐるところなぞは、絵を見るやうだつた。タマリンドウの梨のやうな果実が、るゐるゐと実つて、まるで田園の感じである。道はちりつぱ一つなく、大樹の並木の下を、悠々《いういう》と往来してゐる安南人や、華僑《くわけう》の服装は、貧弱な日本の服装を見馴れたゆき子には驚異であつた。急に篠井春子が羨《うらやま》しかつた。こんな美しい都にとゞまつてゐられる事自体が妬《ねた》ましいのだ。陽をさへぎつた、うつさうとした並木の下を、日本の兵隊が歩いてゐる。兵隊は、日本といふ故郷や、軍隊の背景も感じられない、孤独なたよりなさで群れ歩いてゐた。歩いてゐるといふよりは、そこへ投げ出されてゐるといつた方がいゝかも知れない。トラックの上にゐる一行の顔も、長途の旅疲れもあるせゐか、膏《あぶら》の浮いた貧しい顔をしてゐた。ゆき子は、自分も亦《また》その一人なのだと思ひ、何のほこりもない、日傭《ひやと》ひ人夫の娘にでもなつたやうな佗《わび》しいものが心をよぎつた。ゆき子は内地へかへりたかつた。ダラットがどのやうな土地なのか、もう、どうでもいゝのだ。人恋しくて、たつた独りでダラットの高原へなぞ、住んではゐられない気がする。篠井春子と別れた鉱山班の瀬谷は、手の裏を返すやうに、ゆき子へにこにこした顔をむけた。
「厭に悄気《しよげ》てゐるンだね。元気を出すんだよ。何処へ行つたつて、日本の兵隊がゐるンだ。何も心配する事はない。しかもだね、たつた一人の日本女性として、責任は重大なりだ。皇軍とともに働いて貰はなくちやいけない。ね、さうぢやないかね……」
ダラットにあと十六キロといふ、プレンといふ部落から曲りくねつた勾配になり、ランビァン高原への九十九折《つづらをり》のドライヴウ※[#小書き片仮名ヱ、239-上-2]イをトラックはぐうんぐうんと唸《うな》りながら登つた。夕方であつたが、時々沿道の森蔭に白い孔雀《くじやく》がすつと飛び立つて一行を驚かせた。
夕もやのたなびいた高原に、ひがんざくらの並木が所々トラックとすれ違ひ、段丘になつた森のなかに、別荘風な豪華な建物が散見された。いかだかづらの牡丹色《ぼたんいろ》の花ざかりの別荘もあれば、テニスコートのまはりに、ミモザを植ゑてあるところもある。金色の花をつけたミモザの木はあるかなきかの匂ひを、そばを通るトラックにたゞよはせてくれた。ゆき子は夢見心地であつた。森の都サイゴンの比ではないものを、この高原の雄大さのなかに感じた。三角のすげ笠をかぶつた安南の百姓女が、てんびんをかついでトラックに道をゆづるのもゐた。
高原のダラットの街は、ゆき子の眼には空に写る蜃気楼《しんきろう》のやうにも見えた。ランビァン山を背景にして、湖を前にしたダラットの段丘の街はゆき子の不安や空想を根こそぎくつがへしてくれた。以前は市の駐在部であつたといふ白堊《はくあ》の建物の庭にトラックがはいつてゆくと、庭の真中に日の丸の旗が高くあげてあつた。地方山林事務所と書いた新しい看板が石門に打ちつけてある。その下に、安南語と仏蘭西語で小さく墨の文字で書いた板も打ちつけてあつた。湖の見える応接間で、一行は事務所長の牧田氏に会つた。ゆき子はこゝに当分働く事になり、ゆき子だけ安南人の女中に案内されて自分にあてがはれた部屋へ行つた。二階の一番はづれの部屋で、湖や街の見晴しはなかつたが、北の窓からはランビァンの山が迫つてみえた。庭にはいかだかづらの花が盛りで、毛の房々した白い犬が芝生にたはむれてゐた。
ゆき子は長い旅の果てに、やつと自分の部屋に落ちついたのである。チーク材の床には敷物もなかつたが、かへつて涼しさうだつた。何処《どこ》からか運んで来たのであらう、粗末なベッドに、腰高な机と椅子が一つ。白いペンキ塗りの狭い洋服箪笥《だんす》が、暗い部屋の調和を破つてゐた。ねぐらを求めて小禽《ことり》が、夕あかりの黄昏《たそがれ》のなかに騒々しくさへづつてゐた。茂木技師や、瀬谷たちは、ダラット第一級のホテルである、ランビァン・ホテルに牧田氏の自動車で引きあげて行つた。牧田喜三は、鳥取の林野局をふりだしに、農林省へはいつた人物ださうで、四十年配の太つた小柄な男であつた。昭和十七年の暮に、軍属として、赴任して来た。部下は四人ばかりあつたが、みんなそれぞれが、山の分担区に視察に出掛けてゐる様子で、安南人の通訳が二人と、林務官一人、混血児だといふ女の事務員が一人ゐる。――ゆき子はへとへとに疲れてゐた。ランビァン・ホテルへ一行とともに夕食の案内を受けたが、気分が悪くて行く気がしなかつた。ベッドの毛布の上に転がつてゐると、トラックの震動がまだ続いてゐるやうで、耳の中がふたをしたやうに重苦しかつた。昏々《こんこん》と眠りたかつた。眼を[#「眼を」は底本では「眠を」]閉ぢると、蝉の啼《な》きごゑのやうな、森林のそよぎが耳底に消えなかつた。洋服箪笥のペンキの匂ひが鼻につく。
その夜、ゆき子は、安南人の女中のつくつてくれた日本食を、広い食堂で一人で食べた。中央には岩のやうなシュミネがあり、入口近いところにピアノが一台光つてゐた。のりのきいたテーブルクロースの白い布に手を置くと、黄色の手が、安南人の女中の手よりも汚れた感じだつた。ガラスのフィンガボールにいかだかづらの花が浮かしてある。ソーセイジのやうな赤黒いかまぼこや、豆腐汁がゆき子には珍しかつた。女中はもう三十は過ぎてゐる年配であるらしかつたが、眼の綺麗な女だつた。額は禿《は》げあがり、渋紙色の凹凸《あふとつ》のない顔に、粉《こ》を噴いたやうな化粧をして、ねり玉の青い耳輪をはめてゐる。彼女は、かたことの日本語を少し話した。網戸をおろした広い窓へ、白い蛾《が》の群れが貼《は》りついてゐた。食事を終つた頃、突然、前庭の方で、自動車のエンジンの音がした。牧田所長がもう戻つて来たのかと思つたが、それにしては馬鹿に帰りが早いと、ゆき子はきゝ耳をたててゐた。女中が走つて出て、甘い声で、ボンソアと庭口へ呼んだ。軈《やが》て、男の声で何事か、ごやごやと話す声と足音がして、ぱつと食堂へ這入つて来たのは、サイゴンの宿舎で会つた、ゆき子の注意を惹《ひ》いてゐた、あの男であつた。背の高い、さくさくした足どりで食堂へ這入《はい》つて来るなり、ゆき子を見て、一寸《ちよつと》驚いた風で、軽く眼で挨拶をして、また、さつさと廊下へ出て行つた。
ゆき子の食事が終つてからも、女中は仲々食堂へは戻つて来なかつた。ゆき子は赧《あか》くなつてその男に挨拶を返したが、部屋を出て行つたきり、一向に戻つて来る気配もない様子に、苛苛《いらいら》してゐた。いままで死んだやうにぐつたりしてゐた気持ちのなかに、急に火を吹きつけられたやうな切ないものを感じた。あわてて、しのび足で部屋へ戻り、ゆき子は洋服箪笥の鏡の中をのぞいて、濃く口紅をつけた。髪をくしけづり、粉白粉《こなおしろい》もつけて、また、急いで食堂へ戻つたが、網戸を叩《たた》く白い蛾の気忙《きぜ》はしい羽音だけで、広い食堂は森閑《しんかん》としてゐる。暫《しばら》くして、女中がコオヒイを持つて来たが、すぐ、女中はコオヒイを置いて去つて行つた。いくら待つても、男はつひに食堂へは出て来なかつた。ゆき子は気抜けしたやうな気持ちで部屋へ戻つて行つた。広い階段を誰かが上つて来る。ゆき子は激しい動悸《どうき》をおさへて、扉に耳をあててゐた。ゆき子は物音が消えると、また食堂へ降りて行つた。所在なくピアノの蓋《ふた》をとり、女学校時代よく弾《ひ》いてゐた浜辺の歌を片手でぽつんぽつんと鍵を叩いてみた。壁には森林に就いての統計のやうなものが硝子縁のなかにはいつてゐる。カッチヤ松とか、メルクシ松、ヨウ、カシ、クリカシなぞの標本図をたどつてゆくと、ゆき子はつくづく遠いところに来たやうな気持ちがした。誰も食堂へはやつて来さうもないので、ゆき子は庭に出てみた。星が澄んできらめき渡り、ゴム風船をすりあふやうな、透明な夜風がゆき子の絹ポプリンの重たいスカートを吹いた。何処からともなく、香《かん》ばしい花の匂ひが来る。小径《こみち》の方で、ボンソア……と挨拶《あいさつ》してゐる女の声がしてゐる。薄い雲が星をかいくゞつて流れてゐる。湖は見えない。部屋へ戻つて窓に凭《もた》れてゐると、暫くしてから、階下の何処かで電話のベルがけたゝましく鳴り、それからすぐ、牧田所長の自動車が戻つて来た様子だつた。急に階下がざわめきたち、数人の男達の笑ふ声が聞えた。
夜明けに吹く山風で、ゆき子は松風の音を聴いた。朝の寝覚めに、あの男と、広い芝生でテニスをしてゐる夢をみて、なつかしかつたが、その夢は思ひ出さうとしてもとりとめがなかつた。またすぐ、こゝを発《た》つて行くひとだらうか……。それにしても、同じ屋根の下に二度も吹き寄せられる人間の奇遇を、ゆき子は愉《たの》しいものに思つた。念入りに化粧をして、粗末な布地ではあつたが、白絹のワンピースを着て、朝の食堂に降りて行くと、牧田氏と、あの男が、網戸をあげた、広い窓辺でコオヒイを飲んでゐた。血色のいゝ牧田氏は、にこにこして朝の挨拶をしてくれたが、あの男はゆき子に対して一べつもくれなかつた。窓へ足をあげて、不作法な腰掛けかたで、もやでかすんでゐる湖を見てゐた。情《じやう》のないしぐさで、そんな風なスタイルを見せる一種のポーズが、ゆき子には、中学生のやうながんこさに見えた。
「どうです? 幸田さん、こつちへいらつしやい。道中が長いンで疲れたでせう? サイゴンでは、富岡君と同じ宿舎だつたンださうですね?」
ゆき子がその男の方を不安さうに見たので、牧田氏は、小さい声で、
「君、幸田君つてね、これから、当分こゝで、タイプの方をやつて貰ふひとなンだよ。半年位して、パスツウルの方へまはつて貰ふンだがね……」と、云つた。
男は初めて、幸田ゆき子の方へ躯《からだ》を向けた。それでも腰かけたなりで、「僕、富岡です」と挨拶した。
「何だ、初めてなのかい? 紹介済みかと思つてたンだよ。こちらは富岡兼吾君、やつぱり本省の方から来たひとで、三ヶ月程前にボルネオから転任して来たンだ。――日本の女のひとは珍しいから、もてて仕様がないだらう……。ここぢや、幸田さん一人だからね」
ゆき子は、革張《かはば》りのソファに遠く離れて腰をかけた。昨夜、ホテルのロビーで、瀬谷が、ゆき子の事を、地味な女だから、かへつて、仕事にはいゝだらう。サイゴンに置いて来た篠井といふ女は、これは一寸美人だから問題を起しはしないかと心配してゐるンだと話してゐたが、かうして遠くから見る幸田ゆき子の全景は、瀬谷の云ふほど地味な女にも見えなかつた。珍しくパアマネントをかけてゐないのも気に入つた。第一、つゝましい。きちんとそろへたむき出しの脚は、スカートの下からぼつてりとした肉づきで、これは故国の練馬大根なりと微笑された。畳や障子を思ひ出させるなつかしさで、なだらかな肩や、肌の蒼《あを》く澄んだ首筋に、同族のよしみを感じ合掌《がつしやう》したくなつてゐた。少々額の広いのも、女中のニウよりは数等見ばえがした。混血児のマリーのやうに、六角眼鏡をかけてゐないのも気に入つた。日本の若い女が、はるばるとこの高原へ来て呉れた事が牧田氏には夢のやうなものであつた。昔は海外へなぞ出て行く女に対して、あまりいゝ気持ちは持てなかつたのだが、幸田ゆき子は、牧田氏には案外印象がよかつた。化粧も案外上手である。瀬谷の云ふほどの女ではなかつた事が牧田氏を幸福にした。大きな卓上にはカンナの花が活《い》けてあつた。牧田氏は至つて機げんよく富岡と専門的な話をしてゐた。ゆき子はうつとりして、明るい窓の方を見てゐたが、心はとりとめもなく流れてゐた。富岡は煙草をくゆらしながら、両腕を椅子の後に組んで、後頭部を凭《もた》れさしてゐた。左腕の黒い文字板の時計に、赤い秒針が動いてゐた。アイロンのきいた茶色の防暑服を着て、涼し気なプラスチックの硝子めいた細いバンドを締めてゐる。剃《そ》りたての襟筋が青々としてゐた。軈《やが》て食堂のベルが鳴つた。牧田を先にたててゆき子が富岡の後から食堂へ這入つて行くと、白いテーブルクロースの上に、白や紫の珍しい花が硝子の鉢に盛られ、アルマイトの赤い器に、豆腐の味噌汁が出てゐた。玉子焼や、桃色のあみの塩辛なぞが次々に運ばれた。ゆき子は富岡と並んで牧田氏の前に腰をかけた。ホテルに泊つた茂木、瀬谷、黒井なぞはまだ事務所に顔をみせない。天井にしつらへてある扇風機が厭な音で軋《きし》つてゐた。牧田氏は味噌汁をずるずるとすゝりながら、
「内地は段々住み辛《づら》くなつてるさうですが、こゝにゐれば極楽《ごくらく》みたいでせう?」
と、ゆき子へ話しかけて来た。極楽にしても、ゆき子はかつてこんな生活にめぐまれた事がないだけに、極楽以上のものを感じてかへつて不安であつた。富豪の邸宅の留守中に上り込んでゐるやうな不安で空虚なものが心にかげつて来る。
時々、富岡は、サイゴンの農林研究所の話や、山林局の仏人局長に対する日本の乱暴なやりかたに就いてひなんをしてゐた。第一、貧弱な日本人が、コンチネンタル・ホテルなぞにふんぞりかへつてゐる柄《がら》でないなぞと、牧田氏も小さい声で相槌《あいづち》打ちながら、あんな大ホテルを兵站《へいたん》宿舎なぞにして、軍人が引つかきまはしてゐる事は、占領政策としても、かへつて反感を呼ぶ事ではないかと話した。
「我々は幸福と云ふものだ。軍の目的は兎《と》に角《かく》として、我々は自分の職分にしたがつて森林を護《まも》つてやればいゝンですよ。充分にめぐまれた仕事として、それだけは感謝してゐるからね……」
富岡は、十日ばかりをサイゴンに暮し、ルウソウ街にある農林研究所で、ガス用木炭に関する研究を行つてゐた。富岡は、パン食であつた。ふつと、手をのばして、バターの皿を取つてくれた幸田ゆき子の手を見た。肉づきのいゝ日本の女の手を、珍しさうに見た。
美しい優しい手だと思つた。
生毛《うぶげ》が生えてゐる。
「四五日うちに、ランハンに行きたいと思つてゐます。竹筋混凝土《ちくきんコンクリート》の研究を、一寸見て来ようと思つてゐます。加野君が、薪炭林の中間作業に就いての詳細をよこしてゐましたが、御覧になりましたか。――木炭自動車も仲々馬鹿になりませんね。もう、内地でも木炭自動車にどんどん切りかへてゐるさうですが、こつちぢやア早くからやつてゐるンですからね――。加野君の書いたもの、いつぺん眼を通しといて下さいませんか。トラングボムの研究所にも行つて、加野君にも逢つてやりたいと思つてゐます……」
富岡はぼそりと、そんな事を云つて、さつさと先に応接間へ戻つて行つた。
「随分変つた方ですのね……」
無遠慮に部屋を去つて行つた富岡に対して、思はずゆき子は牧田氏に、こんな事を云つた。
「風変りな人間でね、だが、あれで、仲々情の深い男なンですよ。三日に一度、きちんと細君に手紙を書いてをる……。私には仲々そんな真似は出来ない。責任感の強い男で、一度引き受けたら、一つとして間違つた事がない奴ですよ……」
三日に一度、細君に手紙を書いてゐるといふ事が、何故だか、ゆき子にはがんと胸にこたへた。
二日目の夕方、牧田氏は急用で、サイゴンからプノンペンまで事務上の用事で十日ほど出張する事になつた。丁度、帰途をともにする瀬谷老人と二人で、一行はトラックで出発した。茂木や黒井は、安南人の通訳の案内で、分担区へ視察に出てゐて、あとへ残つたのは、富岡とゆき子だけであつた。富岡は、二階の中央にある東側の一番いゝ部屋を持つてゐた。一番いゝ部屋といつても、清潔な病室のやうな部屋であつた。三日おきには、細君に手紙を書いてゐる富岡に対して、ゆき子は、妙に白々《しらじら》しい感情になつてゐた。食堂であつても、富岡は「おはよう」とか、「やア」とか云ふ位で、タイプの仕事は、マリーの方へまはしてゐるやうだつた。タイピストのマリーは、仕事に飽きて来ると、食堂へ行つてはピアノを弾《ひ》いてゐた。その音色は高原のせゐもあつたが、仲々いゝタッチで、ゆき子には曲目は判らなかつたけれども、時々きゝほれてしまつた。富岡も、音楽が好きとみえて、仕事机で、呆《ぼ》んやりピアノに耳をかたむけてゐる。マリーは二十四五歳にはなつてゐるらしかつたが、眼鏡のせゐか老《ふ》けてみえた。几帳面《きちやうめん》な家庭の娘だといふ話である。羚羊《かもしか》のやうなすんなりした脚で、何時《いつ》もネビイブルウのソックスに、白い靴をはいてゐた。腰の線がかつちりしてゐて、後から見る姿は楚々《そゝ》とした美しさだつた。髪は薄い金茶色で、ゆるいウェーブをかけた断髪が、肩で重たく波打つてゐる。何の芸もないゆき子は、マリーのピアノを聴くたび、人種的な貧弱さを感じさせられた。マリーは英語も仏蘭西語も、安南語も達者で、仕事もてきぱきしてゐた。何もわざわざ、この遠い仏印の高原にまで、ゆき子のやうな無能な女が呼びよせられる必要もないではないかと、ゆき子はふつとそんな事を考へる時があつた。ゆき子の仕事は邦文タイプを打つ仕事で、或ひは秘密な書類をつくる仕事に重要なのかも知れないと、自らを慰めて、無為な時間を過すのだつた。
牧田氏が急に旅立つたので、富岡のランハン行きは延びたが、五日ほどたつた或日、トラングボムから加野久次郎が、ひよつこり安南人の助手を一人連れてダラットへ戻つて来た。
加野は戻つて来るなり、事務所の幸田ゆき子を見て、吃驚《びつくり》した表情で、顔を赧《あか》らめた。富岡の紹介で加野とゆき子は挨拶しあつた。物事に精根をかたむけ尽しさうな、ひたむきな青年らしさで、すぐ、富岡と椅子を寄せあつて、仕事の話を始めてゐる。
「何かい、少しは長くゐられるの?」
「どうも、下痢《げり》ばかりしちやつて、あまり工合もよくないしね、それに、ダラットの文明も恋しかつたンだ。富岡さんが戻つてるとは思はなかつた……」
長い話のあと、二人はこんな事を云つて、コオヒイを女中に持つて来させて、如何《いか》にもなつかしさうな間柄のやうであつた。加野は富岡よりは若く見えた。男にしては色が白く小柄で、紺の開襟シャツに白い半洋袴《はんズボン》をはいて、スポーツ選手のやうな軽快さがあつた。躯つきとは反対に眼の色はいつもおどおどしてゐて、相手の顔を正しく正視出来ない気の弱さがある。
晩餐《ばんさん》の食堂で、久しぶりに賑《にぎ》やかな食事が始まつた。アペリチーフに、富岡がサイゴンから手に入れた、白葡萄酒《しろぶだうしゆ》を抜いた。ゆき子にもさされた。
「幸田君は、千葉かい?」
酒に酔つたせゐか、無口な富岡がふつと、ゆき子に、こんな事を尋ねた。
「あら、千葉ぢやないわ。失礼ね……」
「え、さうかなア、千葉型だと思つたンだがね。ぢやア何処?」
「東京ですわ……」
「東京? 嘘つけ。東京生れには、幸田君のやうなのはないよ。あれば、葛飾《かつしか》、四つ木あたりかな……」
「まア! ひどい方ね」
ゆき子は侮辱されたやうでむつとした。
加野がみかねて、
「富岡さんは無類の毒舌家なンだから、気にかけないでいらつしやい。これが、このひとの病《やまひ》なンですよ……」
「さうかなア、東京かなア……。江戸ツ子にしちやア訛《なまり》があるよ。幸田君はいくつ?」
「いくつでもいゝわ……」
「二十四五かな……」
「あら、私、これでも二十二なンですよ。本当にひどい方ねえ、富岡さんて……」
「あゝさうか、二十二ね、女のひとが二十四五に見えるつてのは、利巧《りかう》だつて云ふ事だよ。若く見て貰ひたいなンて愚《おろ》かな事だ」
富岡は今度は、コアントロウの瓶《びん》を出して来て、栓《せん》を開けた。加野は富岡と同じ東京高農の出で、先輩の富岡と安永教授の引きで仏印へ森林業の研究に赴任して来たのである。富岡も加野も文学好きで、富岡はトルストイファンであり、加野は漱石信者であり、武者小路の心酔者でもあつた。
「はるばると仏印のダラットへ進駐して来た、幸田女史の為に乾杯!」
加野がさう云つて、グラスをゆき子の前へ差し出した。ゆき子は涙ぐんでゐた。抵抗したい気持ちだつた。富岡は酔つた眼に、ゆき子の涙を浮べてぎらぎら光る眼差《まなざ》しを見た。その眼の色のなかには、不思議な魔力があつた。女房の眼のなかにも、時々こんな光りがあつたと思つた。わけのわからないとまどひで、富岡はコアントロウをぐつとあふつた。ゆき子は此の場に耐へられなくて、そつと椅子をずらして部屋を出た。二階の自分の部屋に上つて行くには、あまりに戸外は美しい夜であつた。ゆき子は夜露に光つた広い路を降りて、あてどなく歩いた。
「気にして、出ちやつたよ……」
加野は、ゆき子を二階まで追つて行き、ゆき子の部屋の扉を叩いたが、返事がなかつた。鍵が開いてゐたので、ノブをまわすと、燈火がかうかうとついたベッドの上に、女学生のはく、黒いパンツがぬぎすててある。加野は暫《しばら》くそこに立つてゐた。
食堂へ戻つてからも、加野は、黒いパンツが瞼にちらついた。
「取り澄ましてる女ぢやないか?」
富岡が吐き捨てるやうに云つた。加野は外へ出て行つたらしいゆき子を考へて、探しに行つてやりたい気持ちだつた。
「三宅邦子つて女優に似てゐないかね?」
加野が云つた。
「そんなの知らないよ。若い女がこんな処まで来るのは厭だね」
「案外古いンだなア……。僕はダラットが一寸《ちよつと》よくなつて来た……」
「幸田ゆき子は、加野には似合はないよ」
加野は、コアントロウを手酌《てじやく》でやりながら、血走つた眼で、天井の動かない扇風機の白いプロペラを見上げてゐた。富岡は如何にもものうさうに金網の窓ぶちに足をあげて、椅子の背に頭を凭《もた》れさしてゐた。
「何時《いつ》まで、この生活が続くかなア……」
溜息《ためいき》まじりに富岡が云つた。
「勝つとは思へないよ」
加野はけゞんさうな顔を富岡へ向けた。
「サイゴンで、そんな風に思つたンだ。ねえ、大きい声ぢや云へないが、来年の春がやまぢやないかね?」
「奥地へ這入つてると、何も判らンが、そんな気配があるの? 何かニュースあつた?」
「絶対に勝てやしないよ。それだけだよ」
「さうかねえ、俺は大丈夫だと、信じてゐるンだ。日本の海軍つてものは、どうしてるンだらう……」
「策はあるンだらう……。戦果が毎日挙《あが》つてるぢやないか」
加野は、黒いパンツを瞼から取り去れないもどかしさで、立つて、扇風機のスイッチを入口へ押しに行つた。白いプロペラは、ネヂがきりきりとまはるとみるまに、ぶうんと唸《うな》り始めた。卓上の花が風に強くゆるぎだした。
幸田ゆき子は暫くたつても戻つて来なかつた。富岡は扇風機の風に吹かれて、椅子の背に頭を凭《もた》れさしたまゝ眠つてゐる。
加野は扇風機をとめた。そして、静かに食堂を出て行つて、ゆき子を探しに戸外へ出てみた。ヒガンザクラのこんもりした暗い並木のあたりで、夜烏が啼《な》いた。濡《ぬ》れて、ぴたりと動きがとまつたやうな空だつた。淡い燈かげが、樹間にちらついてゐる。山林事務所のすぐ下の方に、華僑《くわけう》の別荘風な、でこでこした建物があつた。暫く人も住まないと見えて、庭は荒れてゐたが、南洋バラとでもいふのか、雪のやうに小さい花をつけた、生垣の中に、かすかに歌声が聞えた。日本の歌だ。あつ、このなかにゆき子がゐるのだなと、加野は芝生の方から這入つて行つた。虫がしきりに啼きたててゐる。背中の反《そ》つた、ゆつたりした木のベンチに、ゆき子が腰をかけて、歌つてゐる。
ゆき子は加野だと判つてゐた。歌をやめて、暗い庭を透《す》かすやうにして、立ちあがつた。
「どうしたの? 怒つたの?」
「何でもないのよ……」
「帰らない? 夜露にあたつちや毒だ。こんなところで、蚊にでもさゝれて、病気しちやア毒だよ……」
「あとで、一人で帰ります……」
「あいつはね、いゝ人間なンだけど、毒舌家なンだ。一つは神経衰弱もあるかも知れないね……」
加野は、ゆき子の肩へ手をかけたが、薄い絹地をとほして、案外柔い女の肉づきに、全身が熱くなつた。酒の酔ひがまはつたせゐか、自制するにはあまりに辛く、加野はゆき子の柔い肩の肉を、二三度熱い手でつかんだ。ゆき子は、くるりと加野の手をすり抜けたが、ゆき子自身も、自制出来ないやうな胸苦しさになつてゐる。本能的に、毒舌家の富岡を、ひどいめにあはせてしまひたいやうな、反抗の気が湧《わ》いた。こんな、白い肉の男なぞ、少しも興味はないのだ。ゆき子は黙つて立つてゐた。加野は、もう一度、不器用に、ゆき子のそばへ寄つて来た。遠くで、ホテル行きの、自動車のエンジンがかすかに唸《うな》つて、往来してゐる。
今日、トラングボムから戻つて来たばかりで、ゆき子に惹《ひ》かれる気持ちは、これは慾情だけなのかと、加野はちらりと、その思ひにかすめられたが、現在をおいては、他に此の女を得る機会がないやうな気がしてゐた。加野はもう一度、ぴつたりゆき子に躯《からだ》を寄せてみた。ゆき子はぎらぎら光つた眼差《まなざ》しで、加野を見つめた。むれた雑草や、花の匂ひが夜気にこもつてゐる。時々、ちいつと草の茎が鳴つた。
「加野さん、私ね、内地では、どうにも仕様がなくつて、こゝへ志願して来たンですの……。加野さんは、お判りになるでせう? あの戦争のなかで、若い女が、毎日、一億玉砕の精神で、どうして暮してゆけて? 私、気まぐれで、こんな遠いところへ、来たンぢやないのよ……。何処かへ、流れて行きたかつたの。――それを、富岡さんに、あんな、意地悪な事を云はれて、……心にこたへない筈《はず》つてないでせう? 三人とも、日本人ですよ。――葛飾《かつしか》だつて、四ツ木だつて、よけいなお世話だわ。生き苦しい気持ちで辿《たど》りついたものを、高いところから、せゝら笑ふなンて失礼よ……」
突然、ゆき子が甲高《かんだか》い声で云つた。加野は、激情を宙に浮かしたまゝ、獣のやうに光つたゆき子の眼を覗《のぞ》き込んでゐたが、生き苦しくて、こゝへ来たのだと云はれて、ゆき子の背景にある、内地の状態がぐるりと眼に浮んだ。
「富岡は、酒に酔つてるンだよ……」
加野はさう云つて、また、大胆に、ゆき子の二の腕を、両の手で強く握り締めた。
「厭ツ! 加野さんも、酒に酔つていらつしやるのねッ、私は、違ふのよ……」
ゆき子は固くなつて、云つた。眼を閉ぢたが、別に加野の手をふりほどきもしなかつた。矢庭に熱い加野の唇が頬に触れた。咄嗟《とつさ》に、ゆき子が顔を動かした。加野の唇はゆき子の頬に突きあたつて、あへなく離れた。
道の方で、「おーい、加野君!」と呼んでゐる、富岡の声がした。加野は小さい声で、ゆき子に、
「貴女も、後から戻つていらつしやい」
と、云つて、素直に加野は、すたすたと草の中を分けて、道へ出て行つた。富岡は、黙つて草の中から出て来た加野に、急に不快なものを感じてゐる。加野は云ひわけめいた事も云はずに、黙つて、富岡と歩調をあはせて、相手の不快らしい反射を浴びたまゝ、事務所の方へ戻つて行つた。夜気は涼しく、夜露で、靴がアスハルトに滑りさうだつた。
「内地はそろそろ雪だね……」
富岡が生あくびのあと、ぼつりと云つた。
「あゝ、帰りたい。一度でいゝから帰りたいなア……」
加野は、息苦しくて、流れて来たのだと云つたゆき子の、思ひ詰めた、さつきの言葉が胸に引つかゝつて返事もしなかつた。
「幸田ゆき子は、相当怒つてるの?」
富岡が何気なく、煙草を出して、長い紐《ひも》つきのライタアを、指の先きで弾《はじ》きながら云つた。
「あゝ、怒つてるね」
「さうか……」
「いゝ娘だよ」
「ほう……いゝ娘かね? 彼女は、娘なのかね……」
「娘だよ。手ひどくやつつけられた」
かへつて、現在白状しておく方が好都合だと、加野は正直に告白した。富岡は、煙草を吸ひながら黙つて歩いた。
「君は、内地に好きなひとはなかつたのかい?」
「なくもないさ……」
「ふうん……」
加野は、曲り道で、後を振りかへつて見たが、ゆき子の姿は坂の下には見えなかつた。
「おい、明日、フイモンまで、自動車で釣りに行かないか?」
富岡の道楽は釣りであつた。フイモン附近には、四つの飛瀑《ひばく》があり、富岡はフイモンは馴染《なじ》みの場所である。加野は釣りに行く気はない。そんな悠々とした気持ちにはなれなかつた。久しぶりに山の中から戻つて来たのである。人間が見たかつたし、切《せつ》ない感情が胸の中に渦《うづ》を巻いて、ここまで、戻つてゐるのだつた。久しぶりに富岡に逢つた事も嬉しかつたが、思ひがけない幸田ゆき子との出逢ひは、野火のやうに火を噴いた。黒いパンツを見た時の、脚のすくむ感情は、現在、加野にとつて、どうしやうもないのである。加野は返事もしないで、ぴゆつと犬を呼ぶ時の口笛を吹いた。自動車小舎《ごや》の方で、微《かす》かに犬が吠えた。
「牧田さんはうまい事したなア、サイゴンとプノンペンでは、久しぶりのオアシスだね……」
「うん」
「富岡さん、サイゴンで、面白い事あつたの?」
「面白い事なンかあるもンか」
「さうかなア……。さうでもないだらう?」
「君も、トラングボムへ帰る迄に、一度、サイゴンへ行つて、さつぱりして来るンだね……」
「サイゴンか……。久しく行かないなア……」
加野は、サイゴンなんか、どうでもよくなつてゐた。今夜の、星あかりに見た、ゆき子の、獣のやうな眼の光りが忘れられなかつた。どうしても話しあつてみたかつた。そして、あの淋しさを慰めてやりたかつた。少し夜風に吹かれたせゐか、さつきの激しい動悸《どうき》もをさまり、自分のせつかちな乱暴さが、後悔された。気まぐれで、こゝへ流されて来たのではないと、泣きさうになつて云つた、あの思ひは、考へてみると、自分にも通じるものがあつた。兵隊に行くよりはいゝのだ。あの言葉は、忘れ去つてゐた古傷に、さはられたやうな痛さである。赤羽の工兵隊に召集されて、南京《ナンキン》攻略に行つた時の、あの憂欝《いううつ》な戦争が、脳裡《なうり》をかすめた。何といふ湖だつたか、暗い夜、船の中に女をしのばせて、あわただしいあそびかたをした思ひ出が、影絵のやうに加野の瞼《まぶた》に浮んだ。
富岡は面白くもなかつたので、食堂の前で加野に別れると、さつさと二階へ上つて行つた。夜光時計を見ると、十一時をかなりまはつてゐた。部屋へ這入ると、女中のニウが、富岡の洗濯物を整理して、棚へしまつてゐた。にぶい動作で、片づけてゐる。富岡はゆつくり片づけてゐる、ニウの様子にやりきれない淋しさになり、裏梯子《うらばしご》から標本室の方へ降りて行つた。標本室に燈火をつけて、円い木の椅子に、腰を掛けた。陳列に並んだ、乾いた標本を、ひとわたり眺めながら、何のために、こんなところに所在なく腰を掛けてゐるのか、自分で自分が判らなくなつてゐた。
部屋へ戻つて、久しぶりに妻へ手紙を書かうと思つた。サイゴンへ旅をして、十日あまり、故国へは音信もしてゐない。しみじみした淋しさの思ひは、妻へだけは云へるやうな気がした。あらゆるものの乏しい内地にあつて、云ふに云へない苦労を、一人で続けてゐるであらう妻の姿が、はうふつとして浮んで来る。サイゴンで買つた、ミッチェルの口紅や、粉白粉《こなおしろい》を、近々好便を選んで内地へ送つてやりたいと、富岡は妻の邦子に、そんな事も書き添へてやりたかつた。
咽喉《のど》が乾いたので、標本室を出て、食堂へ行つた。加野がまだ食堂で残りのコアントロウをかたむけてゐた。
「幸田女史は戻つたやうかね?」
「あゝ、戻つて、自分の部屋へ行つた」
富岡は、水を飲み、またゆつくりと二階へ上つて行つた。部屋には、もうニウはゐなかつた。富岡は扉に鍵をかけて、ベッドへ後ざまに寝転んだ。バネがきしきしとたわむ音を聞きながら、じいつと、天井のくもり硝子《ガラス》の電燈を見つめてゐた。心に去来するものは、何もなかつた。水のやうな、淋しさのみが、しいんと、濡れ手拭のやうに、額に重くかぶさつて来る。横になつてしまふと、妻へ手紙を書く事も、ひどく、億《おく》くふになつて来た。軈《やが》て、富岡は黄ろいパジャマに着替へた。思ひをこめて洗濯してある、アイロンのすつきりしてゐる寝巻き……。ニウの情けが哀れであつた。
毛布を蹴つて、シーツに楽々と横になる。――食堂の扉がきいつと軋《きし》んで、ゆつくり二階へ上つて来る加野の足音がした。加野の奴、加野の奴と、ふつと、そんな言葉を胸のなかで富岡はつぶやく。幸田ゆき子のすくすくした躯《からだ》つきが、妻の邦子に何処《どこ》か似てゐた。第一に、言葉のニュウアンスが通じたといふ、妙な発見が、富岡の心に響いた。同じ人種の男女に丈《だけ》、通じあふ、言葉や、生活の、馴々《なれなれ》しさが、こゝに一人現はれた、幸田ゆき子によつて示されたかたちだつた。――加野は、今夜は仲々眠れないと、富岡は、ふつと微笑した。軈《やが》て隣りの部屋では、乱暴に椅子を引き寄せたり、洋服箪笥を開けたりしてゐる、加野の苛々《いらいら》した気配が聞えてゐた。
富岡は寝つかれなかつた。標木室の電燈を消す事を忘れてゐたやうな気がして、富岡はまた、のこのこ起き出して、廊下へ出て行つた。階下へ降りると、ニウが水色の部屋着を着て、標本室の入口に立つてゐた。
「燈火を、消し忘れたンで、降りて来たンだ」
富岡が、安南語でさゝやくやうに云つた。
「私も、いま、燈火を消しに来たのです」
ニウはさう云つて、自分で、長い部屋着の裾《すそ》を前でつまむやうにして、背延びをして、壁のスイッチを切つた。富岡は重たくぶつつかつて来る女の躯を抱きしめた。ニウが何か云ひさうだつたので、富岡はあわてて、ニウの唇に接吻した。長い接吻のあと、小柄な女の躯を壁に立てかけるやうにして、富岡は二階へ上つたが、ニウが、かすかに笑ひ声をたてたやうな気がした。二階の梯子《はしご》を上りながら、富岡は銅像の団十郎のやうに、眼をむきながら、ゆつくりと部屋へ這入つた。
静かな晩である。
風の吹く日は、山鳴りのやうな、松の唸《うな》りがするものなのだが、今夜は松の唸りも聞えなかつた。富岡は、松の森林を瞼《まぶた》に描いてみた。馬尾松の房のやうに、長い葉の頼りなさや、メルクシ松の箒《はうき》のやうな形状、カッチヤ松の淡い色彩。小旗のやうな破れかぶれの枝工合なぞが、次々と瞼に現はれては消える。――南ボルネオの山林に、メルクシ松をたづねて歩いた時の山野の思ひ出が、また瞼にかけめぐつて来る。バンヂャルマシンの町で見た、五月《さつき》信子の、慰問の芝居なぞがなつかしかつた。演《だ》しものは、「時の氏神」だつたかな……。海のやうに広い、黄濁した河幅いつぱいに、ヒヤシンスに似た、イロンイロンの大群の水草の流れには、富岡は驚いたものだつた。あれもこれも、過ぎ去つた一夢であらうか……。植物は、その土地についたものでなければ、うまく育たないものなのだと、現に、このグラットの、山林事務所の庭先に、植栽されてゐる、日本の杉の育ちの悪さを、富岡は、民族の違ひも、また、植物と同じやうなものだと当てはめて考へてみる。植物は、その民族の土地々々にしつかり根づいたものではないのかと、妙な事を考へ始め出した。――ダラット近辺の、メルクシ松の分布図面では、メルクシ松が、三五、〇〇〇ヘクタールと云つたところで、どさくさで這入りこんだ、こんな、鈍才の日本の一山林官が、いつたい、どんな風に、よその土地の数字をのみこめると云ふのだ……。幹形、木理《もくめ》麗《うる》はしいと云つたところで、大森林のメルクシ松を、世界の何処へ売り出さうと云ふのだ……。長年かゝつて成育させた、人の財宝を、突然ひつかきまはしに来た、自分達は、よそ者に過ぎなからうではないか……。いつたい、これだけの雄大な山林を、日本人がどう処理してしまふのだらう……。人間の心は自由である。富岡はうつらうつらと、とりとめもない、幼い事を考へてゐた。一向に眠れない。
富岡は燈火を消した。
燈火を消すと同時に、隣室の加野が、ドアを開けて、また、ゆつくりした足音をたてて、階段を降りて行つた。……まさかと、妙な考へを打ち消しながら、富岡は耳をそばだててゐた。――暫くして、深い井戸に、水滴のしたゝるやうな音階で、食堂のピアノがぽつん、ぽつんと鳴つた。長い間の、山歩きの禁慾生活が、加野を物狂ほしくしてゐるのだと、富岡はきゝ耳をたててゐた。頭をしづかに枕に沈ませる。さつき、ニウとひそかに接吻した、自分のいやらしさが、急にむかついて来た。加野も自分も、恋ではないものを恋してゐるのだ。二人とも、内地にゐた時の、旺盛なエスプリを失つてしまつてゐる。ダラットの高原に移植されて、枯れかけてゐる日本の杉のやうなものになりつつある。自分達を、富岡は、何気なく、南洋呆《ぼ》けかなと、咽喉《のど》もとでつぶやいてみるのだつた。
「ボンヂュウル……」
マリーの柔い、朝の挨拶が、階下の踊り場で聞えた。重い頭を枕から持ち上げて、富岡は、腕時計を眺めた。九時を指してゐる。そんな時間なのかと、ゆつくり起きて、富岡は暫《しばら》くベッドで煙草を吸つた。づきづきと頭が痛んだ。何をしたらいゝのか、一向に、躯は動きたがらない。すべてが茫々《ばうばう》としてゐる。小禽《ことり》が可愛くさへづつてゐた。ゆつくりと窓を開けると、かあつとした高原の空と、緑は、お互ひに、上と下とが反射しあつてゐるかのやうな爽涼《さうりやう》さであつた。渋色の、光つて冷たさうな服を着た、ニウが、広い庭隅の花畑に立つてゐた。疲れを知らない、女の健康さが、富岡は憎くもある。長い接吻をしたあと、昆虫のやうな笑ひ声をたてた、ニウの心の中が、富岡には不思議であつた。思ひきりのびをして、また、ゆつくりと、ベッドに腰をかける。躯を動かす事自体に無意味なものを感じる。
富岡は、顔を洗ひに洗面所へ出て行つたが、その序《ついで》に、加野の扉を叩《たた》いてみた。返事がなかつた。ノブに手をかけると、扉はニスの匂ひをさせてすつと開いた。窓は開けつぱなし、床には服をぬぎすてたまゝ、加野は茶縞《ちやじま》のだんだら模様のパンツ一つで、裸でベッドに寝てゐた。むきたての玉子のやうな、蒼味《あをみ》がかつたすべすべした肌で、うつぶせになつて眠つてゐる。唇は開いたまゝ時々、樋《とひ》に水の溜るやうないびきをあげてゐる。天地無情の姿かなと、富岡は、加野の冷い肩を大きくゆすぶつて起した。加野はにぶく眼を開けた。昨夜の痴情の為か、眼が血走り、視線がさだまらない様子だつた。
富岡は、そのまゝ洗面所に行き、冷たいシャワーを浴びた。朝になつたのだ、何事もないぢやないか……。昨夜の妖怪変化《えうくわいへんげ》は雲散霧消《うんさんむせう》してしまつたのだ。大判のタオルにくるまり、急いで二階へ馳《か》け上る元気が出た。アイロンのきいた、白い半袖の上着に、ギャバヂンの茶色の長洋袴《ながズボン》をはいて、鏡の前で苦手な髯剃《ひげそ》り作業にかゝる。コオヒイの香ばしい匂ひが二階までのぼつて来た。教会の鐘が鳴り始める。
身支度をとゝのへて、食堂へ降りて行くと、窓ぎはに、幸田ゆき子が、独りで食事をしてゐた。
「お早よう……」
ゆき子は泣き腫《は》れたやうな眼で、富岡の挨拶に微笑しただけであつた。富岡は、ゆき子の優しい表情を見て、照れ臭かつた。そのまゝ怒つたやうに、自分の席へ行き、さつさと食事を始めた。食事を運ぶニウも、まるきり人が変つてしまつてゐる。仏像のやうな表情のない顔で、コオヒイや、トーストを運んで来る。事務所の方では、マリーの打つタイプの音が忙《せ》はしさうだつた。
食事を済まして、富岡は漂然《へうぜん》と、四キロほど離れた、マンキンへ行く気になつた。安南王の陵墓附近の、林野巡視の駐在所まで、一人で出掛けて行つた。気持ちが屈してゐる時は、釣りに出て行くよりも、むしろ、森林を相手に自問自答した方が快適であらう。――ダラットの部落々々には、大小様々の製材所があつた。キイッと、耳をつんざく、裂かれる樹木の悲鳴を聞きながら、曲りくねつた、勾配のある自動車道を、富岡は黙々として歩いた。沿道は巨大なシヒノキや、オブリカスト、ナギや、カッチヤ松の森で、常緑濶葉樹林《くわつえふじゆりん》が、枝を組み、葉を唇《くち》づけあつて、朝の太陽を欝蒼《うつさう》とふさいでゐた。空は切り開いた森の中を、河のやうに青く流れてゐた。人の歩いて来る気配で、富岡が、ふつと後を振り返ると、意外な事には、幸田ゆき子が、白いスカートをなびかせながら、急ぎ足で歩いて来てゐた。
富岡は、自分の眼のあやまりではないかと思つた。立ち停つてやつた。ゆき子は、息をはずませながら近寄つて来た。
「どうしたの?」
「私、今日の仕事、何をすればいゝンでせう?」
「仕事?」
「えゝ……」
「加野君は?」
「とてもよく眠つていらつしやいますわ」
安南人の林務官がゐる筈だが、来たばかりの幸田ゆき子には言葉が判らないのだ。
「牧田さん、何か、仕事を云ひつけてゆかなかつたの?」
「いゝえ、何もおつしやいませんわ……」
二人は自然に、マンキンの方へ歩を運んだ。富岡は黙つて歩いた。ゆき子も黙つて富岡の後からついて行つた。時々、軍のトラックや、自動車が通る。運転してゐる兵隊が、日本の女を見て、はつと驚いたやうな表情で通り過ぎて行つた。ゆき子は富岡からわざと離れて歩いてゐる。
何時《いつ》までも富岡がものを云はないので、ゆき子は、もう一度、小さい声で、「どうしたらいゝンでせう?」と訊《き》いてみた。
富岡はゆつくり振り返つて、
「この先に、安南王の墓があるンですがね。見物したらどうです?」と、怒つたやうに云つた。
富岡は大股《おほまた》に歩いてゐる。ゆき子には、富岡が親切なのかどうか、少しも、判らなかつた。後姿を、ゆき子は卑《いや》しいと思つた。富岡は、ヘルメット帽子を手にぶらぶら振つてゐる。音のしないラバソールの靴が気持ちよささうだつた。ゆき子も、やつとの思ひで、サイゴンで安い白靴を買ひ、いまもそれをはいてゐるのだ。
路が二つに岐《わか》れた。狭い人道の方へ這入つて、暫く行くと、何時の間にか、富岡の歩調はにぶくなり、ゆき子と肩を並べる位になつた。ゆき子は、あゝ自動車道路は、軍の自動車が通るので、あんなに大股に歩いたのかと、富岡の考へに思ひ当つた。
「昨夜は怒つたンだつて?」
「あら、何をですの……」
「加野がね、幸田君がとても、僕を怒つてるつて云つた……」
「えゝ、とても、こたへちやつたンです」
富岡は、ヘルメットをかぶり、腰の図嚢《ずなう》から植林地図を出して、それを拡げながら歩いた。森の中で、山鳩が近々と啼《な》き始めた。白い地図の反射を受けて、富岡は思ひついたやうに、胸のポケットから、薄紅いサングラスを出して高い鼻にかけた。地図は急に薄紅く染つた。空の細い隙間《すきま》から、高原の強い日光がぎらぎらと道に降りそゝいでゐる。富岡は、日本の女と歩く事に、何となく四囲に気を兼ねてゐた。内地の習慣が、遠い地に来てゐても、富岡の日本人根性《こんじやう》をおびえさせてゐるのだ。
かうして歩いてゐる事も、気紛《きまぐ》れのやうな気がしたが、何しろ、四囲は稀《まれ》な巨木の常緑濶葉樹が欝蒼《うつさう》として繁つてゐる。甘つたるく、ねばつこい花粉にとりかこまれてゐるやうな気配が立ちこめてゐて、二人とも黙つて歩くには息苦しい。飛行機が森林の上を姿もみせずに、唸つて飛んで行つた。陵墓附近は原生林が昏《くら》く続き、カッチヤ松や、ナギが亭々と原生林のなかに混生してゐる。この原生林を突き抜けると、十二三ヘクタアルのカッチヤ松の、人工播種《はしゆ》造林地帯になる。このあたりの民家では、炭焼きのかまども見られた。
ゆき子は歩き疲れてゐた。昨夜はよく眠れなかつたせゐか、歩くと、息が切れさうに、背中がづきづきと痛んだ。だが、時々深呼吸をすると、馬鹿に胸の中がせいせいと、涼しい空気でふくらんで来る。そのくせ、ゆき子は森林地帯には少しも興味はなかつた。只富岡の背の高い後姿に心は惹《ひ》かれてゆく。もつと、互ひに近しくなりたい孤独な甘さだけで、ゆき子は歩いてゐた。ファンタスチックな感情が、ゆき子をわざと孤独な風に化粧させてしまふ……。何時、富岡に振り返られても、旅空の女の淋しさを、上手にみせる哀愁の面紗《ベール》を、ゆき子はじいつとかぶつてゐた。その面紗の後で、ゆき子はひとりで昂奮《かうふん》して、やるせなげに溜息《ためいき》をついてゐるのだ。
富岡は振り返つた。
「疲れたでせう……」
「えゝ」
「僕は半日で、十二キロ位は平気だね。森の中はいくら歩いても、案外疲れないし、夜はよく眠れるンだけどなア」
「あのう、加野さんは、ずつと、こちらにいらつしやいますの?」
「まだ、当分はゐるかもしれないね……」
「私、加野さんつて気味が悪いわ」
「何故? 荒れてゐるせゐかね……」
「昨夜、ひどく、お酒に酔つて、いらつしたンですのよ。怖《こは》いわ」
富岡は黙つて、ゆつくり歩いた。自分にしても、何となく寝苦しい一夜だつた昨夜の事が、唐突《たうとつ》に、その原因に関聯があるやうな気がしてきて、一種の憎悪を持つて、加野を考へてゐた――。富岡は自分の後に近々と歩いて来てゐるゆき子に、歩調を合せるべく立ちどまつたが、無意識に、自然に寄つて来たゆき子の肩をつかんで、小暗いナギの大樹の下で、強く抱き締めてゐた。ゆき子も案外自然であつた。ゆき子は激しい息づかひで、富岡の胸に顔をすりつけて来た。呆気《あつけ》なかつたが、富岡はゆき子の顔を胸から引きはなして、ぼつてりした唇を近々に見つめた。言葉の隅々まで通じあふ、同種族の女のありがたさが、昨夜のニウとの接吻とは、はるかに違ふものを発見した。気兼ねのない、楽々とした放心さで、富岡はゆき子の赧《あか》らんだ顔を眺めた。眼をつぶつて、荒い息づかひを殺してゐるゆき子の顔面が、ひどく妻の顔に似通つてゐた。麻痺《まひ》した心の流れが、現実には、ゆき子の重たい顔をかゝへてゐながら、とりとめもなく千里を走り、もつと違ふものへの希求に、焦《あせ》つてゐる心の位置を、富岡はどうする事も出来ない。南方へ来て、清潔に女を愛する感情が、呆《ぼ》けてしまつたやうな気がした。森林のなかの獅子が、自由に相手を選んでゐた境涯《きやうがい》から、狭い囚《とら》はれのをりの中で、あてがはれた牝《めす》をせつかちに追ひまはすやうな、空虚な心が、ゆき子との接吻のなかに、どうしても邪魔つけで取りのぞきやうがないのだ。富岡は、何時までも長く、ゆき子を接吻してゐた。ゆき子は、すつかり上気して、富岡の肩に爪をたてて苛《じ》れてゐる。少しづつ、心が冷えて来た富岡には、ゆき子の苛れた心に並行して、これ以上の行為に出る情熱はすでに薄れてゐた。野生の小柄な白孔雀《しろくじやく》が、ばたばたと森の中を飛んで消えた。
二人は暫く、森や部落や、広い農園のあたりを歩いて、昼もかなり過ぎてから事務所へ戻つた。富岡はすぐ部屋へ行つてタオルをかゝへて、シャワーを浴びに行つたが、ゆき子は何気なく事務室を覗《のぞ》いた。加野がたつた一人で窓ぎはの広いデスクに凭《もた》れて、書きものをしてゐた。扇風機がとまつてゐるので、部屋の中は蒸し暑かつた。加野は、ゆき子を見むきもしないで、ペンを走らせてゐる。マリーは仕事を済ませて戻つたのか、タイプライターにカヴァがかけてあつた。ゆき子はそのまゝ事務室を出て、二階へ上り、自分の部屋に行つたが、自分の部屋の扉が開いたまゝになつてゐるのが、厭な気持ちだつた。誰かが、自分の部屋をみまはしたやうな気がして、ゆき子はじいつと、ベッドや机の上を眺めてゐた。ベッドへ誰かが腰をかけてゐたやうな、深いくぼみが眼につくと、ゆき子は何となく、不安な気がしてならなかつた。扉の鍵を閉めて、そつと靴のまゝベッドに寝転んでみたが、少しも落ちつかない。開いた窓には、青い空だけが見えた。こんなところへ、何をしに来たのかと苛責《かしやく》に似た気持ちも感じられて、一日一日気忙《きぜ》はしく戦争に追ひたてられてゐる、内地の様子が、意味もなく、ゆき子の頭の中に、泡《あは》のやうに浮いては消えてゐる。この現実には、さうした、追はれるやうな気忙はしさはなかつたけれども、石のやうに重たい淋しさや、孤独が、躯の芯《しん》にまで喰ひ込んで来た。ゆき子は、時々微笑が湧《わ》いた。深いちぎりとまではゆかないけれども、一人の男の心を得た自信で、豊かな気持ちであつた。もう、遠い伊庭の事などはどうでもいゝ。富岡の一切が噴きこぼれるやうな魅力なのだ。川のやうに涙を流して愛しきれる気がした。冷酷をよそほつてゐて、少しも冷酷でなかつた男の崩れかたが、気味がよかつたし、皮肉で、毒舌家で、細君思ひの男を素直に自分のものに出来た事は、ゆき子にとつては無上の嬉しさである。富岡の冷酷ぶりに打ち克《か》つた気がした。昨夜、たやすく、加野の情熱に溺《おぼ》れてゆかなかつた強さが、今日の幸福を得たやうな気がして、ゆき子は何時《いつ》の間にか、満足してうとうと眠りに落ちてゐた。
シャワーを浴びた富岡は、こざつぱりと服を替へて、階下の食堂へ降りて行くと、加野が、ヴ※[#小書き片仮名ヱ、255-下-17]ランダに向つて、木椅子に呆《ぼ》んやり腰をかけてゐた。富岡はシュバリヱの植物誌の重い本をかかへて、加野の横の木椅子に腰をかけた。正面にランビァンの山を眺め、眼の下に湖が白く光つてゐた。誰もゐない後の部屋では、からからと扇風機が鳴つてゐる。富岡に命じられて、ニウが冷いビールと鴨《かも》の冷肉を大皿に盛りあはせて持つて来た。
「一杯どうだ!」
富岡が加野に声をかけると、加野はものうげにコップを手に取つた。小禽が騒々しく四囲にさへづつてゐる。ビールを飲みながら、景色を見てゐると、山の色が太陽の光線の工合で、少しづつ色が変つていつた。加野が黙つてビールを飲んでくれる事も富岡には幸だつた。山も湖も、空も亦《また》異郷の地でありながら、富岡は、仏蘭西人のやうにのびのびと、この土地を消化しきれないもどかしさがある。この土地には、日本の片よつた狭い思想なぞは受けつけない広々とした反撥があつた。おほやうにふるまつてはゐても、富岡達日本人のすべては、此の土地では、小さい異物に過ぎないのだ。何の才能もなくて、只《たゞ》、この場所に坐らされてゐる心細さが、富岡には此頃とくに感じられた。貧弱な手品を使つてゐるに過ぎない。いまに見破られてしまふだらう……。だが、眼の前に見る湖の景色は、永久に心に残る美しさだつた。誰も彼も日本人なぞには見むきもしてゐない土地で、日本人は蟻《あり》のやうに素早く、あくせくと、人の土地を動きまはつてゐるだけだ。極めて巧妙に実際的《プラクチカル》な顔をして、日本人はこゝまで流れて来てはゐるけれども。カッチャ松の樹齢は五六十年に達する筈なのだが、何の用意もなく、どしどし伐採して、伐採の数字だけを軍へ報告する。数字は笑つてゐるのだ。モイ族を使つて、ダニムの河に流したり汽車で運んだりはしてゐるが、富岡に云はせると、伐採された木材が少しも自由に動いてないのであつた。伐採された木材は、貨車に溜つたまゝだつたし、ダニムの流れには、切り口の生々しいカッチヤ松や、オプリカスト・ナギなぞの大木が、川添ひにごろごろしたまゝで、伐採の数字だけが机から机を動いてゐるだけだつた。素朴《そぼく》で不器用なモイ族を怠惰《たいだ》な奴隷として、日本の軍隊は忙《せ》はしく酷使してゐた。――ビールを飲みながら、富岡は植物誌を読み出した。何十年となく此の地にとどまつて、印度支那産物誌や、植物誌を書いた仏蘭西人のクレボーや、シュバリヱの著述は、富岡にとつては仲々得がたいものであり、仏印の林業を知る上には、この書物は、此の上ない不朽《ふきう》の名著であつた。
加野も幾分酔ひがまはつて来たのか、さつきの不機嫌さが表情から消えて、思ひ出したやうに大きい声で、
「幸田女史は眠つてゐるのかな?」と云つた。
「さア……。何をしてるのかね」
「さつき、マンキンへ幸田君連れて行つたンでせう?」
「いや、後から来たから、一緒に見物の相手をしたまでさ……」
「僕はあのひとに惚《ほ》れてるンだ。承知しといて下さいよ……」
「ほう……」
「こだはるわけぢやないが、さつき、工兵隊の将校が来て、富岡さんとよろしく歩いてゐた日本の女は、何者だと聞いてゐたンで、早いなと思つたンですよ」
「厭にこだはるなア。……只、歩いてゐただけだよ。車輛部《しやりやうぶ》の少尉だらう? そんな事を云つたのは……」
「僕もすぐマンキンまで行つたンですよ。随分探したンだが、判らなかつた……」
富岡は湖の方にひそかに眼をむけてゐた。わざと森の小径《こみち》へはいつて行つた事を知つたらどうだらうと、ぞくつとしながら、
「誰でも女には眼が早いもンねえ……」と、何気なく云つた。
「いや、富岡さんの素早いのには驚いた。寝てる間に幸田君とマンキンへ行くなンざア、よろしくありませんよ。女つてものは、瞬間の雰囲気《ふんゐき》が勝負なンだから、いかに毒舌家の富岡さんでも信用はならない」
「後からついて来たンだよ。所長が仕事をいひつけて行かなかつたし、君は寝てるンで、僕に何をしたらいゝか訊《き》きに来たと云つたから、見物でもしたらいゝだらうと、一緒に案内したわけだ。それきりだよ。別に約束して、行つたわけでも何でもないさ……」
「まア、いゝですよ。僕は惚れたンだから、何とか、彼女にぶちあたつてゆくまでだ」
邪魔をしないでくれといつた、はにかんだ微笑で、加野は自分でビールを二つのコップについだ。富岡は煙草に火をつけて、ゆつくり煙を吐きながら、心のなかで、もう遅いよと独白《どくはく》してゐる。だが、考へてみると、遅くもない気がした。あの場合、ゆき子の感情を生殺《なまごろ》しのまゝでやり過した、自分の疲れかたは、只事ではないやうな気もして来る。サイゴンへ旅立つ日まで、ニウとの毎夜の逢ふ瀬は、加野のやうな、肉体の兇暴さからは救はれてゐた。ニウとの情交も、かりそめのもので、富岡は妻の邦子以外に、心の恋情は発芽しなかつたのだ。所長の牧田氏も、富岡とニウとの間を薄々には知つてゐる様子だつた。だが、牧田氏は所員の不始末に就いて、自分で責任を持つ限りにはあまり文句を云ふ人物でもない。富岡は牧田氏のそのおだやかさに甘えきつてもゐるのだつた。
何時の間にか、太陽はオレンヂ色をふちどりして、ランビァンの山の方へかたむきかけてゐた。湖が金色の針をちりばめたやうに、こまかに小波《さゞなみ》をたててゐる。食堂の奥から油臭い匂ひがたゞよつて来た。夕暮の美しさは、ひとしほ、二人の男に考へ深いものを誘つた。
「これで、こゝは平穏だが、内地は大変なンだらうなア……。恋愛をするなんざアぜいたくかな……」と加野が云つた。
「この戦争は勝つと思ふかね?」
「そりア勝つにきまつてゐますよ。いまさら、敗《ま》けツこはないでせう……。こゝまで来て敗けたりしちやア眼もあてられない。私は、敗けるなンざア考へてもみない。牧田さんもあんたも、妙な、不安にとりつかれてゐるが、もし、万が一にも、敗けたとなれば、私はその場所で腹を切つてしまふ……」
「さう簡単には腹を切れないよ。敗けるとは思ひたくないが、敗ける可能性は、君、あるらしいンだぜ。なるべく、さうした問題には触れたくはないが、どうも、耳にはいるニュースはいゝ面ばかりぢやない。此の土地のものが一番敏感だからね。一種の日本人的スタイルで、強引には押してはゐるが、手持ちの金も銀も飛車もありやアしないンだ。何となく日本的表象の影が薄くなつたね。円熟しないまゝで途方に暮れて、そこらを引つかきまはしてゐるのさ……。戦争を合理化する為に、色々と策はねつてゐるンだらうが、それからさきの才能がとぼしいンだ。何しろ、猿に刃物的なところもあるンだよ……」
「あんまり無意味な事を云はないで下さいよ。まア矛盾もあるにはあるでせうが、乗るかそるかやつてみない事にはね。結局、最悪の場合は、玉砕だ。死にやアいゝでせう、死にやア……」
「無責任だね」
富岡は吐き捨てるやうに云つて、トイレットに立つて行つた。富岡が食堂を出て行くとすぐ、入れかはりに、幸田ゆき子が、寝たりた顔で食堂へはいつて来た。ギンガムの紅《あか》い格子のワンピースを着て、ひどくめかしこんでゐた。髪をブルウの細いリボンで結んでゐた。加野ははつとして、暫く振り返つて、ゆき子を眺めてゐた。
「昼御飯も食べないで、おなかが空《す》いたでせう?」
加野が椅子をすゝめながら云つた。ゆき子は素直に、加野のそばの椅子に腰をかけて、素肌《すはだ》の脚を組んだ。金色の太陽の光線で、ゆき子の顔がぼおつと浮いてみえる。唇が血を吸つたやうに紅《あか》く光つてゐる。日本的な香料の匂ひがした。加野はなつかしい気がして、何の匂ひだらうかと鼻をうごめかしてゐたが、椿油《つばきあぶら》の匂ひだと思ひ当つた。ゆき子の髪が艶々《つやつや》と光つてゐた。加野はポケットから部厚い角封筒を出して、素早くゆき子の膝に置いた。
「あとで、読んで下さい」
とつさに、ゆき子はその封書を白いハンケチにくるんだ。富岡がのつそりとトイレットから戻つて来た。わざとゆき子の方に一べつもくれないで、金色の太陽をまぶしさうに暫く眺めてゐた。加野は食堂からコップとビールを持つて来て、ビールをついで、ゆき子に渡した。
ぎこちない沈黙が暫く続いたが、軈《やが》て、富岡は重いシュバリヱの本をかゝへて、黙つて椅子を離れて食堂を出て行つた。加野は、富岡が素直に気を利かせてくれたのだと思ひ込んでゐる。
雨は土砂降《どしやぶ》りになつた様子だ。
樋《とひ》をつたふ雨声が滝のやうに激しくなり、ゆき子はふつとまた現実に呼び戻される。くさくさして、仲々寝つかれない。仏印での華やかな思ひ出が、走馬燈のやうに頭のなかに浮きつ沈みつしてゐる。夜更けてずんと冷えて来たせゐか、一枚の蒲団だけでは寒くて寝つかれなかつた。泥のやうに疲れてゐながら、露営をしてゐるやうな落ちつきのなさである。誰も力になつてくれるもののない抵抗しやうのない淋しさで、暗がりに眼を開いたまゝ、ゆき子はじつと激しい雨の音に耳をかたむけてゐた。伊庭がこの家にゐなかつた事は倖《しあはせ》であつた。もう一度、昔のむしかへしはないけれども、伊庭との間に四ヶ年の月日の空間を置いた事は、ゆき子にとつて有難いのであつた。誰も顔見知りのないところで、ごろりと寝転んでゐる。ゆき子には仏印でそんな習慣には馴れきつてゐた。海防《ハイフォン》の収容所では、篠原春子とも逢はなかつたし、春子の様子を知つてゐる女達とは誰にも逢ふ機会がなかつた。加野は終戦前にサイゴンの憲兵隊へ連れて行かれたまゝだつたし、最後までゐた富岡は、幸運にも、五月の船でゆき子より一足さきに内地へ引揚げて行つた。五月から今日まで、富岡の心が、どんな風に変つてゐるかは判らなかつたが、逢ひさへすれば、二人の間は解決するのだと、ゆき子は自信を持つてゐた。自信を持つ事が気が楽だつたせゐもある。
その翌朝、雨は霽《は》れてゐた。からりとした初冬の空が、雨あがりの湿気を吹きはらつてゐた。荒れた狭い庭の柿の木には霜《しも》を置いたやうな小粒な渋柿《しぶがき》がいくつか実つてゐた。柿の木が大きくそだつてゐる事に、四年の歳月があつたのだとゆき子はうなづいた。同居人の細君は、真黒い麦飯だけれど召し上つて下さいと云つて、朝の卓にゆき子を呼んでくれた。主人公は夜明けに早く出て行つた様子だつたが、細君の話では、信州へリンゴを買ひに行つたのだと云つた。郷里が信州なので、このごろリンゴのブロオカーを始めたのだが、早晩、果実の統制がはづれる様子だから、静岡へ塩を買ひに行つて、塩を信州へ持つてゆき、信州から味噌を持つて来てみようかと思ふとも云つた。
「伊庭さんとの間がうまくいつてましたら、伊庭さんにお世話願つて、塩を手に入れたいのですけれど、何しろ、うちのひとときたら伊庭さんにいゝ気持ち持つてませんのでね。何処か、塩を売つてくれる処、御ぞんじぢやありません?」
ゆき子は一向にそんなところは知らなかつた。食卓には八ツの男の子を頭《かしら》に、七ツの女の子と三ツの男の子と赤ん坊がゐる。主人の末弟が同居してゐるのだが、今日は二人でリンゴを取りに行つたのださうだ。
ゆき子は何でもして働く気持ちもないではなかつたが、富岡に逢つてから方針をきめたいと思つた。伊庭の荷物のある部屋でよければ当分ゐてもいゝと細君が云つてくれたので、ゆき子は吻《ほ》つとして、その好意に感謝した。――以前の職場に戻れるものかどうかもいまのところは判然《はつき》りとはしない。かへつてゆき子は、以前の職場へ戻りたい気は少しもないのであつた。朝食後、細君に教はつて、近所の酒の配給所に電話を借りに行つた。農林省の富岡のデスクに電話を掛けてみたが、女の声で、富岡といふ人は省をやめてしまつてゐると教へてくれた。ゆき子は思ひ切つて、上大崎の富岡のアドレスを頼りに尋ねてみる気になり、出むいて行つた。目黒の駅を降りて、切通しの下を省線の走つてゐる道添ひに、人に聞きながら歩いて行つた。伏見之官邸の前を通り、焼け残つた邸町を、番地を頼りに歩いた。電車で見る窓外の景色は大半が焼け野原で、何も彼《か》も以前の姿は崩れ果ててしまつてゐるやうな気がした。やつとその番地を探しあてて富岡の名刺の張りつけてある玄関を眼の前にして、ゆき子は妙に気おくれがしてならなかつた。同居してゐるらしく、別の名札が二つばかり出てゐた。荒れ果てた家でどの硝子《ガラス》にも細いテープでつぎたしてあつた。夜来の雨で洗はれた矢竹が、箒《はうき》のやうに、こはれた板塀《いたべい》に凭《もた》れかゝつてゐる。細君に顔をあはせるのが厭であつたが、電報を打つても返事も来ないところをみると、自分で尋ねてゆくより方法がない。ゆき子は思ひ切つて硝子のはまつた格子戸を開け、農林省からの使ひだと案内を乞うた。五十年配の品のいゝ老婦人が出て来て、すぐ奥へ引つこんだが、思ひがけなく着物姿の背の高い富岡がのつそり玄関へ出て来た。富岡はさほど驚いた様子もなく、下駄をつつかけて外へ出ると、黙つてゆつくり歩き出した。ゆき子も後を追つた。知らない小道をいくつか曲つて、焼跡の続いた淋しい通りへ出ると、富岡は初めて、ゆき子を振り返つて、
「元気だね」と云つた。
「電報、御覧になつて」
「あゝ」
「何故《なぜ》、返事くれないの?」
「どうせ、東京へ出て来ると思つた」
「お勤めは、おやめになつてるのね?」
「七月にやめた」
「いま、何をしてるの?」
「親父の仕事を手伝つてる……」
「さつきの方、お母さま?」
「うん」
「よく似ていらつしたから、さうぢやないかと思つたわ」
「君、何処にゐるの?」
「鷺の宮の親類の家……」
「君、こゝで一寸待つてるかい?」
「えゝ、待つてゐます」
富岡は支度をして来ると云つて、もと来た道へ引返して行つた。紺飛白《こんがすり》の着物を着た後姿に、人が違つてしまつたやうな妙な気配が感じられた。ゆき子は焼跡の石塀のこはれたのに腰をかけて、暫く寒い風に吹かれてゐた。黒いサージの洋袴《ズボン》に、同居の細君に借りて来たブルウの疲れたジャケツ姿の自分が、ひどく荒涼としたその景色にしつくりしてゐた。危険な訪問だつたと、今頃になつて顔が火照《ほて》つて来た。
三十分も待つた頃、富岡が洋服姿でやつて来た、幾分かは昔のおもかげがあつたけれども、疲れた冬服のせゐか、ダラットで見た頃の若々しさが失はれて、何となく、くすぼつて見えた。ひどく痩《や》せてもゐた。石塀の崩れた処へ腰を降ろしてゐるゆき子を、遠くから眺めて、富岡は、何の感動もなかつた。舞台がすつかり変つてしまつてゐるこの廃墟では、ダラットでの夢をもう一度くりかへしてみたいといふ気はしなかつた。苛《い》ら立つた心をおさへて、もう終末の来る断定だけで、富岡はゆき子のそばへ歩み寄つた。鸚鵡《あうむ》のやうにもう一度、
「元気だね」と云つた。
「えゝ、あなたに逢ひたい一念で戻つたのですもの、元気でなくちや」
ゆき子は念を押すやうにして、まぶしさうに下から富岡をしみじみと眺めた。富岡は唇に微笑を浮べて、返事もしなかつた。別れるといふ断定が、二人の間に挾《はさ》まつてゐるのを、引揚げたばかりのゆき子には見えないに違ひない。電報を見て以来、富岡はあまりいゝ気持ちはしてゐなかつたが、それでも責任だけは果さなければなるまいと考へてゐた。あんまり悪党だと思はれないうちにとも考へてゐたが、現実にゆき子に逢つてみると、そんな考へもいまは必要ではなく、あつさり、今夜一晩で別れられるやうな決断力が出た。「何処《どこ》へ行くかね?」ゆき子に聞いてみたが、ゆき子は何処も知る筈がない。このごろ、池袋に小さい旅館が出来てゐると誰かに聞いてゐたのを思ひ出して、富岡は池袋へ行つた。煎餅《せんべい》のやうな生木の薄いバラック旅館が、いくつも建ちかけてゐた。気儘《きまゝ》放題に家が建ち並んでゐる。市場《マァケット》あり小料理屋あり。ひしめきあつてゐる急速の混雑状態が、かへつて女を連れてかくれるには、かつかうの市街であつた。看板だけはホテルと名のついてゐる、木造の小さい旅館に、富岡は硝子戸を開けて這入つて行つた。髪ふり乱した蒼《あを》い顔の女が、チュウインガムをくちやくちややりながら、靴をはいてゐたが、ろくろく紐《ひも》も結ばずに、扉に躯《からだ》をぶつつけるやうに戸外へ出て行つた。ゆき子は寒々とした気になつてゐる。――二人が案内された部屋は、市場が真下に見える二階の四畳半だつた。畳は汚れ、点々と煙草の焼け跡があつた。床の間も何もない。緑色の壁には幾つも引つかいた筋がついてゐた。部屋の隅に汚れた赤い無地の蒲団が、二枚積み重ねてあつた。その蒲団の上に、覆ひのない枕のサラサは油でべとべとに光つてゐた。
富岡は金を出して、ワンタンと酒を注文した。卓子も火鉢もないがらんとした部屋では、二人とも取りつきばもないのだ。富岡は壁に凭《もた》れて、長い膝小僧を抱いた。ゆき子は蒲団に片肘《かたひぢ》ついて横坐りになると、ジャケツの胸の上から大きなまるい乳房を、叩《たゝ》くやうにして掻《か》いてゐる。
「世の中つて、こんなに変つてるとは思はなかつたわ」
「敗戦だもの、変らないのがどうかしてるさ……」
「さうね……。あゝ、でも、私、とつても、あなたに逢ひたかつたのよ。あなた、いやに冷《つめた》いのね。引揚げて来たものなンか、もう同情しないンでせう?」
「馬鹿云つちやアいけない。俺だつて引揚げだよ。君ばかりぢやない。沢山俺達のやうなのはゐる」
何もさう、引揚げだからと、自分だけが偉いもののやうに、気負つてゐる云ひかたをするゆき子の不作法なのが、富岡にはあまりいゝ気持ちではなかつた。いきなり泥水のなかへ寝転んで動かうともしないゆき子の馴々しさが、富岡にはなじめない。ゆき子は、激しい男の感情を待つてゐた。誰も見てゐない、たつた二人きりのこの囲ひのなかで、最初に逢つた時のやうなよそよそしさでゐる富岡の心が判らなかつた。ダラットでの二人きりの理解はこんなに時がたてば儚《はかな》いものだつたのだらうか……。些細《ささい》な事にはこだはつてはゐられない、荒波のしぶきに鍛《きた》へられて、ゆき子は大胆ににじり寄つて行つて、富岡の膝小僧にあごをすゑた。
「どうして、そんなに知らないふりしてるの?」
「何を?……」
「私が、厭なのでせう?」
「何を云つてるンだい。女つて呑気《のんき》だね……」
「呑気ぢやないわ。私、捨てられるンだつたら、こんなにして戻つては来ない、加野さんと一緒に戻つて来たわ。――私、判つたのよ、富岡さんの気持ちが……」
「馬鹿な事を云ふもンぢやない。加野は加野だ。君があんな風にしむけた罪があるンだ。女は誰にでも尻尾《しつぽ》を振つてゆく気があるンだ。あんな処では、女は無上の天国だからね……。誰にも愛されるのは、女にとつて、いゝ気持ちだらう……」
「まア……。今頃、そんな事言つて、厭! 急にそんな事言つて、私をいぢめるのでせう。もう、私に愛情もないンぢやありませんか……。いゝわ、私だつて、さつき、こゝの玄関で見た女みたいになつてみせるわ。もう誰にも遠慮しないで、私はどろどろにおつこちて行きます……」
「そんなにヒステリックになるもンぢやない。俺だつて、内地へ戻れば、ダラットの時のやうな、責任のない暮しは出来ないよ。只、ダラットの生活の続きを内地で持たうといふ事は無理だと云ひたかつたンだ。君の生活に就《つ》いても大いに力になつてあげようし、俺だつて、その位の責任は持つ気だよ」
「どんな責任?」
酒に酔つて来た為か、富岡は少しづつ気持ちが明るくなり、曖昧《あいまい》な心のわだかまりから、解放されて、このまゝまた元通りの危険な関係に墜《お》ち込んでゆく勇気が出た。家庭とか幸田ゆき子の問題とか、そんなごみごみした現実からは、飛び離れた空想でいつぱいになりながらも、自分の躯《からだ》のなかの人間的な淋しさは、自分の考へなぞはふり捨ててしまつて、やつぱり、そこに横になつて、泣いてゐる女を、抱きかゝへたくなつてゐる。日本に戻つて来ると同時に、ゆき子への思ひ出を否認しつゞけて、少しづつ記憶が薄れかけて来てゐる処へ、また、かうして眼の前に幸田ゆき子を見ると、富岡は何の準備もなく、己れの運命の断層を見せられた気がした。富岡は、今度は、自分の方からにじり寄つて行つて、ゆき子のそばへ肩を並べた。
「私、思ひ出すわ。いろんなこと……。あの頃つて、私も、あなたも狂人みたいだつたわね。チャンボウの保存林を視察に行く時、牧田さんと、内地から来た何とかと云ふ少佐のひとと、あなたと、自動車に乗る時、急に、あなたが、幸田さんも行きませんかつて云つてくれて、少佐のひとも、さうださうだ、幸田嬢も連れて行かうつて云つて、四人でチャンボウへ行つたでせう? 何ていふ宿屋だつたかしら、安南のホテルに泊つて、ランプで御飯を食べて、みんなお酒を飲んで、酔つて、眠つたのよ。一番はづれの部屋があなたのところだつて、覚えておいて、私、夜中に、裸足《はだし》で、あなたの部屋へ行つたわね。並んだ部屋の前は沼になつてゐて、森で気味の悪い鳥の啼き声がしたわ。ドアには鍵もおりてなかつたので、そつとノブをまはすと、安南人の番人が庭に立つてゐたンで、吃驚《びつくり》しちやつた……。でも、あの時が、あなたとは、初めてだつたでせう?」
ゆき子が、富岡の手を取つて、指をからませながら、こんな事を云つた。富岡は、あゝそんな事件もあつたと思つた。兵隊が血を流して死んでゆく最中に、女と二人でたはむれてゐた当時の気の狂つた日常が、富岡には夢物語のやうでもある。
馬小舎《うまごや》のやうに、境の壁がついたて式になつてゐたので、どんな物音も筒抜けに聞える粗末な部屋だつた。眼を閉ぢるとすぐ、さうした二人でだけ知つてゐる思ひ出が、瞼の中に走つて来た。カッチヤ松の林床には、カルカヤや、チガヤが繁り、ところどころに、ボタンやヤマモ丶や、ユーゲニヤが点じてゐて、富岡にしても、チャンボウの森林はなつかしい土地である。二人の苦力《クーリー》が組になつて、伐倒や玉切りをして、一日やつと立木四本位を切り倒す位だつたかなと、森林官としてチャンボウへ出張してゐた頃を富岡は思ひ出してゐた。このあたりの樵人《きこり》は、おもにモイ族とか、安南人を使つてゐたが、みんなマラリヤを怖れて、募集の布告を出しても、仲々あつまりが悪く、富岡は率先して、自分で、苦力を募《つの》つてチャンボウへ何日も出掛けて行つたものだつた。山の中では、手挽《てびき》の製材小舎を建てて、そこで小角物や板材に挽いてダラットへ軍のトラックで送り出した。苦力の日給は全く安い比弗《ピアストル》でこきつかつたものだつたが、終戦寸前も、あの苦力達は、富岡になついて、日本の敗戦を薄々と知りながらもよく働いてゐたものだ。
「ねえ、もう、私達、二度と、あんな仏印の山奥なンて、行ける時ないでせうね。あすこで、二人で一生苦力になつて、木を切つて暮してもいゝつて話し合つてたわね」
「うん……」
「あなたが、そんな事云ひ出したンだわ」
「もう、二度と行けやしないよ」
「さうね。行けやしないわね。加野さんが、あんな事件を起さなければ、二人は、終戦の時に、あのチャンボウへ逃げ込んでたかも知れなくてよ。人間つて、何処でも、自由に住めるつてわけにゆかないものなのね。自然と人間がたはむれて、楽しく暮すつてわけにゆかないものなのかしら?」
富岡にしたところで、かうしたごみごみした敗戦下の日本で、あくせく息を切らして暮す気はしないのである。野性の呼び声のやうなものが、始終胸のなかに去来してゐた。イエスの故郷が本来はナザレであるやうに、富岡は、自分の魂の故郷があの大森林なのだと、時々恋のやうに郷愁に誘はれる時がある。
何時の間にか夕方になつた。
窓の下の市場は喧噪《けんさう》をきはめて、燈火が賑《にぎ》やかに光り出した。ゆき子は一人で部屋を出て行つて、寿司《すし》と、カストリ酒をビール壜《びん》一本買つて来た。帰るところも、行くところもないゆき子にとつては、一寸でも長く富岡と一緒に話してゐたかつた。二人ともカストリの酔ひがまはるにつれ、このまゝ泥々に溺れこんでも仕方がない気持ちになつて来るのだ。――富岡は自然に、ゆき子に触れた。何の感動もなく、昼間から敷き放しの蒲団に二人は寄りそつて、こほろぎの交尾のやうな、はかない習慣に落ちてしまふのである。日の落ちるのを眼の前にして、ゲッセマネに於いての、残酷なほどの痛ましい心の苦闘を、もう一人の分身として、そこに放り出されてゐる現実の己れに富岡は委《ゆだ》ねてみる。神若《も》し我等の味方ならば、誰か我等に敵せんやである。この女と共に行くべきであるとも、富岡は想ふ。両親も家庭も、かりそめの垣根でしかあり得ない気がして、もう一度、その垣根を乗り越えて、この女と人生を共にすべきだと、富岡は酔ひのなかで、誰かの声を聞くのだつた。日本人の萠芽期《はうがき》はすでに去つたのだと、彼は自分の酔ひのなかで、自分で大演説をしなければならないやうな錯覚《さくかく》にとらはれてゐるゆき子を抱きかゝへて、久々で二人はしみじみと唇を噛《か》み合はせてゐた。
夜になつてからは、旅館のなかも少しづつ騒々しくなり、時々は、無作法な夜の女が、部屋を間違へて、ゆき子達の襖《ふすま》を開けたりする。二人は平気で離れなかつた。風のかげんか、省線の電車の音が轟々《がうがう》と耳につく。蒲団の上にぬぎつぱなしの二人の洋袴《ズボン》が、人間よりもかへつて生々とみだらにみえた。
ゆき子は、富岡の躯にあたゝめられながらも、もつと、何か激しいものが欲しく、心は苛《いら》だつてゐた。こんな行為は男の一時しのぎのやうな気もした。伊庭との秘密な三年間にも、こんな気持ちがあつたのを、ゆき子は思ひ出してゐる。もつと力いつぱいのものが欲しいといつたもどかしさで、ゆき子は富岡から力いつぱいのものを探し出したい気で焦《あせ》つてゐた。富岡も亦、女を抱いてゐながら、灰をつくつてゐるやうな淋しさで、時々手をのばしてはビール壜《びん》のカストリを、小さい硝子の盃《さかづき》にあけてはあほつた。時々、ゆき子も一息いれては、寿司《すし》をつまんだ。まだ、夜がいつぱいあるやうな気がして、寿司を舌の上にくちやくちやと噛みしめながら、ゆき子は、畳の上に火照《ほて》つた脚を投げ出したりしてゐる。夥《おびただ》しい二人だけの思ひ出がありながら、実際には、必死になつてゆくほど、相反する二人の心が、無駄なからまはりをしてゐるに過ぎないのだつた。これからの、先途について、二人は語りあふでもなく、一切の現実を忘れて、ひたすら、昔の情熱を、もう一度呼び水する為の作業を試みてゐるやうなものであつた。時々、二人は力が抜けるやうな淋しい気になり、この貧弱な環境のせゐなのだと、そつと、お互ひに鼻を寄せあつて、相手の息の臭さにやりきれなくなつてゐるのだつた。
「あなた、とても痩《や》せたわね」
「美味《おいし》いもの食はないせゐだよ」
「私も痩せたでせう?」
「さうでもない……」
「だつて、抱いてみて違はない? 奥さんとどつちが太つてゐる?」
富岡はまた手をのばして、盃の酒を唇のなかへかつとあけた。
富岡は、お互ひの噴火はすでに終つてゐるのだと思つた。二人とも見誤つてゐるのだ。本質的に二人とも、この敗戦の底にずんずん沈みこんで、噴出する火を持たなくなつてしまつてゐる。只忘れてゐる。
「ねえ、加野さんには、私、可哀想な事をしたつて思つてゐるわ。あなたがあんまり、私を可愛がつてくれるから、私、加野さんをからかつてしまつたのよ。――でも、加野さんなら、私とよろこんで死んでくれる人ね。あの人は本当にうたがふつて気持ちのない人ですもの。……戦争だつて、あの位、日本が勝つつて信じこんでた人もないでせう? いゝ人だつたわね。二人の伴奏者としては申し分ない人物よ」
「君はひどい女だね」
「さうかしら……。でも、女つて、そんなところもあるンぢやない?」
富岡はなるべく加野の事を思ひ出したくなかつた。時々、加野の事を云ひ出すゆき子の心理には、何時までも加野を伴奏者として、二人の昔の情熱の呼び水にしてゐる悪い好みがないとは云へない。富岡は疲れてしまつた。ゆき子は少しも疲れないで、寿司をつまんでゐる。色がはりした、黒いまぐろをつまんで、平気でお喋舌《しやべ》りしてゐる。没落しつこのない原始的な女の強さが、富岡には憎々しかつた。赤い蒲団から、洗つたやうな艶のいゝ顔を出してゐる女の顔が卑《いや》しく見えた。
「何を考へてゐるの?」
「何も考へてはゐない」
「奥さんの事でせう?」
「馬鹿!」
「えゝ、私は馬鹿よ。女は馬鹿が多いのよ。男はみんな偉いンでせう? 馬鹿に責任を持つなンて気の毒みたいだわ。未来の事なんか考へないで、かうして、眼のさきのあなたにすがりついてるなンて、馬鹿以外の何ものでもないわ。ね、さうでせう……。はるばる戻つて来て、でも、逢へて、とても嬉しいのよ。それだけなのよ。――でも、私、海防《ハイフォン》で、あなたが奥さんと逢つてるところ考へて、とても厭だつたの……。奥さんつて、どんな方? 美しい人なンでせうね。教養があつて、綺麗で……」
ゆき子は眼の前に呆んやり、富岡の妻を描いてみた。申し分のない美人の楚々《そそ》とした姿が眼の前に現はれて来る。富岡はゆき子のおしやべりを聞きながらうとうとしてゐた。
「君が帰るまでには、きちんと解決して、奥さんとも別れてしまつて、さつぱりして、君を迎へるつて云つたのは嘘ね。男つて嘘吐《うそつ》きよ。女を口の先でまるめて、自分の境界《きやうがい》はちやんとしておくのね。私を、こんなところへ連れて来て、思ひ知らせるなンてひどいわ。日本へかへつたら、何も彼も昔の生活をきれいにして、君と二人で、日傭《ひやと》ひ人夫でもして生きようなンて云つて……」
ゆき子は涙をいつぱい溜めた眼を閉ぢて、富岡の肌をなでてゐた。腰骨がごつごつしてゐた。美味《うま》いものを食はないからと云つた男のざらついた肌が哀れだつた。ゆき子は自分の下腹に手をやり、すべすべしたなめらかな肌ざはりに神秘なものを感じてゐた。どうして、こんなに生きた女の肌はつるつるしてるのかと不思議だつた。国が敗けたつて、若い女の肌には変りはないものかしら……。もう一度、そつと、富岡の下腹にゆき子は手を触れてみた。
「明日になつたら、右と左に別れて、また、こんなとこで逢つて、あなたは酔つて眠つてしまふンでせう……。遠いところから戻つて来ても、あなたは少しも何とも思つちやゐないンだわ。私が、はるばる戻つて来るなンて奇蹟《きせき》ぢやないの。色んな事心配して、ダラットの時のやうに可愛がつてくれなくちや厭! ねえ、起きてよ。眠つてしまふなンてひどいわ。眠るなンて厭よッ!」
ゆき子は富岡の肌をきゆつとつねつた。
富岡はうとうとしてゐたが、つねられて酔眼を開いた。不思議なところにゐる気がして、四囲を眺めた。だが、睡魔はおそつて来る。また落ちくぼんだ眼を深く閉ぢ、「うるさいねえ、もう、君も疲れてるから、少し眠るといゝよ。何時までも、昔の事なんか考へたつて仕方がないよ」と云つた。
「まア! 随分薄情な人だわ。昔の事があなたと私には重大なンだわ。それをなくしたら、あなたも私も何処にもないぢやないンですか? まだ若いくせに、年寄りみたいになつて、栄養不良で、元気がなくて、疲れてるつて厭だわ。日本は自由になつたつて云ふンぢやないの? 隣りの部屋では、あんなに、甘つたれてゐるぢやないのよ……。起きて、そんなお爺さんみたいな疲れかたしないでよ。――起きないのなら、私は明日奥さんのところへ話しに行つてよ。いゝ?」
富岡と別れて、ゆき子が鷺《さぎ》の宮《みや》の伊庭の家へ戻つて来たのは、翌日の昼過ぎであつた。
判然《はつき》りした約束を取り交はしたわけではなかつたが、二人が、一緒になるにしても、一応、時をかけなければ、うまくはゆかないと云ひきかされて、ゆき子は仕方がないと思つた。
近いうちに、兎に角、ゆき子の落ちつき場所をみつけてくれると云ふ事と、さつそく、まとまつた金も作らうと富岡が云つた。男の一時のがれのやうな気がしないでもなかつたが、かうした出逢ひのなかでは、富岡の言葉を信用しないわけにはゆかない。
池袋の駅で富岡に別れたが、富岡はすぐ雑沓《ざつたふ》の中へまぎれ込んで行つた。ゆき子は心細い気がして、暫くホームの柱に凭《もた》れて、電車から吐き出される人や、乗り込む人の波をみつめてゐた。長い間の戦争に扱使《こきつか》はれてゐた、栄養のない顔が、犇《ひしめ》きあつて、ゆき子の周囲を流れてゐる。
ゆき子は目的《あて》もなかつた。
鷺の宮へ戻つたところで、別に、誰もゆき子を待つてくれる人もない。静岡へこのまゝ戻つてみようかとも考へたが、東京を去るには、やはり富岡に強く心が残つてゐる。その執着は、初めて富岡に逢《あ》つてみて、形の違ふものになつて来てゐたが、ゆき子は、一応、富岡に逢へた事は嬉しかつた。それにしても、ゆき子も亦、このまゝでは、富岡の重荷になるだけだと、心の中にひそかに承知してゐるところもあるのだ。まづ、この群衆の生活のなかに、自分も這入つて行つて、働く道を求めなければならないのだと思ひ、ふつと、品川の駅で見たダンスホールを思ひ出してゐた。何と云ふ事もなく、ダンサアになつてみようかと思つた。
華やかな音楽の流れのなかに、化粧をした変つた自分の姿を置いてみるのだけれども、現在の自分の姿からは、さうした職業は実感としては不可能のやうな気がした。
富岡から、ほんのわづかな小遣ひを貰つてゐたので、ゆき子は新宿へ出てみた。何年ぶりかで見る新宿は、相変らずの雑沓だつた。知つた顔は一人もないのが、ゆき子には他郷を歩いてゐるやうな気がした。新型の自動車が走り、しわしわした寒い歩道を、群衆は着ぶくれして歩いてゐる。硝子のない巨《おほ》きな建物の前へ来ると、あゝこゝが三越だつたのだと、ゆき子は高いビルを見上げた。ビルにそつて右へ曲ると、いくつもの小路のなかに、地べたに店を拡げてゐる露店市が、ぎつしりと並んでゐた。鰯《いわし》を石油鑵から掴《つか》み出して売つてゐる。小さい硝子箱には飴《あめ》もある。ピラミッドのやうに積み上げた蜜柑を売る店、ゴム靴屋、一ぱい五円の冷凍烏賊《いか》を並べてゐる店、どんな路地の中にも、さうした露店市が路上にあふれてゐた。荒凉とした焼跡の瓦礫《ぐわれき》には、汚ない子供達がかたまつて煙草を吸つてゐた。
ゆき子は、一山二拾円の蜜柑を買つて、瓦礫の山へ登り、そこへ腰をかけて、蜜柑をむいて食べた。旧弊で煩瑣《はんさ》なものは、みんなぶちこはされて、一種の革命のあとのやうな、爽凉《さうりやう》な気がゆき子の孤独を慰めてくれた。何処よりも居心地のよさを感じて、酸つぱい蜜柑の袋をそこいらへ吐き散らした。
かうした形の革命は、容赦なく人の心を改革するものなのか、流れのやうに歩いてゐる群衆の顔が、ゆき子にはみんな肉親のやうになつかしかつた。
いまごろは、富岡はあの家へ戻つて、細君に、一夜の外泊をどんな風に云いわけしてゐるのかとをかしかつた。富岡の事だから、何気なくふるまつてゐるに違ひない。家族のものは、富岡に対して、不安を持たないだらう。ゆき子はさうした事が妬《ねた》ましく考へられた。内地へ戻つて来たら、その日にも、富岡が迎へに出てゐて、二人で新居にうつれるものと空想してゐた甘さが、ゆき子には口惜しかつた。
昼過ぎになつて、ゆき子は鷺の宮へ戻つた。二つばかり残つた蜜柑を、子供達へくれて、伊庭の荷物のある部屋へ這入つたが、人気のない部屋は寒くて淋しかつた。
ふつと思ひついたやうに、ゆき子は伊庭の荷物を眺め、何かめぼしいものを探して売つてしまひたい気がした。さうした事が、伊庭へ対するふくしうのやうな気がした。めぼしいものを売つて、当分の生活費にして暮しても悪くはないやうな気がした。荷物をほどくにしても、自分の預けてあるものを探すのだと云へば、此の家の人達は怪しまないだらう。また、たとへ、伊庭が来て、荷物がなくなつてゐるのを知つても、ゆき子のやつた事ならば、とがめるわけにもゆくまいと思へた。
夕方になつて、ゆき子は此の家の人からさつま芋を分けて貰つて、一緒にふかして貰つた。
芋《いも》を食べながら、猫間障子《ねこましやうじ》の硝子越しに狭い庭を見てゐると、汚れた躑躅《つゝじ》の植込みに、小さい痩《や》せた三毛猫がじいつと何かをうかがつてゐた。春さき、牡丹色《ぼたんいろ》の花が咲いた躑躅を思ひ出して、昔のことが、まるで昨日のやうに思へた。猫は暫くしてから、のそのそとものうげに垣根のそばの、枇杷《びは》の木の下をくゞつて外へ出て行つた。
ゆき子は障子を開けて、廊下へ出て行き、猫を呼んでみたが、仔猫は戻つては来なかつた。
富岡は、二三日はゆき子の事を考へてゐたが、ゆき子を落ちつかせるべき家の事も、金をつくる事も何時か忘れるともなく忘れて、このまゝで、ゆき子との交渉は途切れてしまひたい気持ちでゐた。窒息しさうな程、ゆき子との邂逅《かいこう》は息苦しく、ゆき子がこのまゝ自由に自分の方向へ進んで行つてくれる事を祈つた。
富岡は、このごろ材木商の知人と共同で、山へ木材の買ひ出しにかかつてゐた。近々、北信州の田舎《ゐなか》に出掛けて、杉材の仕入れにかゝりたかつたのだが、知人の資金関係が仲々うまくゆかなかつたし、木材の流筏《いかだ》が、山からの荷出しには、相当の困難だつたので、毎日のびのびになつてゐた。それさへうまくゆけば、多少の金も手にはいつたし、闇の材木は飛ぶやうに高価で売れてゆく時勢だつたので、少々の冒険はやつてみたい気持ちでいつぱいだつた。日本へ戻つて来て、富岡は、つくづく官吏生活には厭気がさしてゐたので、この機会をとらへて、自分の人生を変へてみたいとも考へてゐた。
今日も、知人の材木商の田所に、電話してみたが、資金があと、四五日は日数がかゝると聞いて、がつかりして戻つて来た。帰るなり、妻の邦子が、女のひとが尋ねて来ましたと報告した。明日、池袋のほてい商会まで、お出で願ひたいと、云ひおいて戻つたと聞いて、ゆき子だなと思つた。
ほてい商会と云ふのは、池袋で泊つたホテイ・ホテルの事だつた。富岡は一寸厭な気がして浮かない顔つきだつた。邦子は、何も知らない様子で、
「あの女のひと、私のことを、奥様でいらつしやいますかつて聞きますのよ。何ですの? 田所さんのところに何か御関係のある方ですか?」と、聞いた。
「いや、田所とは別に何の関係もない。此の頃、やつぱり事業の方で知りあつたホテイ商会の細君ぢやないのかね……」
「さうですか。それにしても、あまり感じのいゝ女の方ぢやございませんのね。終戦以来、色々な人が出来たのですね。何だか、好意の持てない、私の厭な型の女の人でしたわ。――何処へいらしたンだらうとか、何時頃、お帰りでせうとか、不作法な程、とても馴々《なれなれ》しいンですのよ」
女の直感と云ふものは、すぐ反射しあふものがあるのに違ひないと、富岡は心中ひそかに恐れをなした。
邦子はゆき子に対して、直感で、一種の膚触《はだざは》りが感じられたのだらう。富岡は、辛《つら》い気がした。いまのうちに、ゆき子の事を告白してしまつておいた方がいゝのではないかとも考へられたが、モンペの膝に、縫物をひろげて、冬の蒲団の手入れをしてゐる妻に対して、外地での色恋沙汰を報告するには、あまりにも気の毒な気がした。罪もない邦子にさうした告白をして、深い傷口をつくる事は、富岡にはたうてい忍びないのである。邦子は、富岡の両親のもとで、とぼしい生活によく耐へて、良人を待つてゐたのだ。
翌日、昼過ぎ、富岡は、ホテイ・ホテルに出向いて行つた。ゆき子は待つてゐた。海老茶《えびちや》色の外套《ぐわいたう》を着て、髪を思ひきり額にさげた、見違へるやうに派手なかつかうをして、火鉢に凭《もた》れてゐた。
「昨日、うかゞつたのよ……」
「うん……」
「奥さまつて、とても、おとなしさうな方ね」
「君、馬鹿に、お洒落《しやれ》になつたンだね」
「えゝ、此の外套買つたンだけど似合つて?」
「どうしたンだ」
「私、親類のものを黙つて売つちまつて、これ買つたのよ。あまり寒かつたし、淋しくて仕様がなかつたから……」
「そんな事していゝのかい?」
「よくはないけど、仕方がないわ」
富岡はまじまじと、派手なゆき子の姿を眺めてゐた。懈《だる》いやうな、ものうい姿でゐるゆき子の変化が、そゞろに哀れで、富岡は、昔歌舞伎で観た、朝顔日記の大井川だつたか、棒杭《ぼうくひ》に抱きついて、嘆いてゐた深雪《みゆき》の狂乱が、瞼《まぶた》に浮んだ。自分が、こゝで此の女を突き放してしまへば、そのまゝ廃頽《はいたい》の淵《ふち》に落ち込むのが見えてゐるのだ。棄て鉢にさせたら、どんな事になるかと、富岡はさうした不安もあつた。
「何を考へていらつしやるの?」
「別に、考へてもゐないが、これから、二人とも大変だね……」
「さうね、纏《まとま》りやうがないつて思つてるンでせう? 悉皆《すつかり》、私はあきらめてもゐるのよ。奥さんを見たら、とても悲しくなつて、歩きながら、思ひ詰めちやつたわ。旦那さまに安心してゐる奥さまつて、清潔で綺麗ね。善いひとを不幸にするのは怖《こは》いわ……」
富岡は本気でそんな事を云つてゐるのかと、じいつとゆき子をみつめた。家の前を彷徨《うろつ》いてゐたのだらうゆき子の姿が眼に浮んで来る。ゆき子はハンカチを外套のポケットから出して眼を拭いた。思ひがけなく、そのハンカチは、富岡がダラットで使つてゐたものであつた。
「貴方《あなた》は、私なンか捨ててしまひたいのね? さふだと思ふわ。もう、私の事なンかどうでもよくなつてゐるのよ。私つてものが、貴方には苦痛になつてるのね。私は、貴方に見放されたら地獄へ落ちて行つてしまふのよ。灰になつて吹き飛んでしまふきりなのよ。貴方の影だけを見てては生きてはゆけないぢやありませんか。奥さんを愛していらつしやる、そのおあまりを、乞食《こじき》みたいに貰ふ愛情なンて厭だわ……」
「何云つてるンだ。馬鹿だね。愛情なンか、いまごろ持ち出すなンて変だぜ。それどころぢやなく、俺だつて、色々と考へてゐるンだ。何とか、方法を考へてゆかない事には、君だつて困ると思ふから、かうして、今日も忙しいのにやつて来てゐるンだ」
「厭! そんなに恩を被《き》せないで……。私の云つてる気持ちが、貴方にはよく判つて貰へないンだわ。私は、どうして、我まゝいつぱいに貴方に甘えてゆけないの? 貴方は、いまでも他の事を考へてゐるンぢやありませんか。――でもね、無理な事は云ひませんから、何とか私の住むところをみつけて、時々逢つて下さい……。私、すぐにでも働きたいのよ。私は、貴方の本当の奥さんにはなれないやうに生れついてゐるンだわね」
富岡は冷い茶をすゝり乍《なが》ら、寒いので、膝を貧乏ゆすりして、ゆき子のヒステリックな口説《くぜつ》を聞いてゐた。ゆき子は三日も放つておかれた淋しさで、富岡の顔を見るなり、あれもこれも喋舌《しやべ》りたかつた。
「部屋は探して下すつてるンですの?」
「探してゐるさ。部屋一つ位と思ふだらうが、こんなに焼けたンだもの、仲々みつかるもンぢやない。たとへみつかつても、何万円と権利金が要るンだ。もう、一寸《ちよつと》待つてくれよ……」
「そりやァ、貴方は一軒の家に住んでいらつしやるから、何となく落ちついていらつしやるけど、私は宿無しなのよ。現在泊つてゐる処は、私の住める義理合のない家にゐるンですもの。……早く、私だけの居場所が欲しいのよ。親類が疎開しちやつて、その後を知らない人達が住んでる、その家へ、ほんの数日と云ふ事で借りてるンですもの、辛くて仕方がないわ……」
「いまに、何か見つけてやるよ。俺だつてぐづぐづしてゐるわけぢやないンだ。家と云ふものは、此の時勢ぢやア仲々ないものなンだ。ところで、此の宿ぢや、火はくれないのかね? 馬鹿に寒いな……」
「さうね、また、此の間みたいに、私、宿で壜《びん》を借りて、カストリ買つて来ませうか?」
ゆき子は気が変つたのか、手提げを引き寄せてもそもそと袋のなかを探し始めた。やつと財布を探し出すと、気軽るに立ちあがつた。
「おい、少しでいゝよ。沢山は飲みたくないな……」
「今日は早く帰るの?」
「別に早く帰らなくてもいゝ……」
「泊つてかないの? 私、お金あるわよ」
「今日は泊れないね」
「さう、つまらない。どうして? 此の間、叱られたンですか?」
「子供ぢやあるまいし、誰も叱りやアしないよ。今日は駄目だ……」
ゆき子は無理に強制するでもなく、そのまゝ部屋を出て行つた。此の間の部屋とは違つてゐたが、部屋のなかが馬鹿に寒く、目の荒い畳の汚れてゐるのも陰気だつた。
富岡は煙草を出して一服つけながら、邦子が、ゆき子の事を、最も厭な女だと云つたのを思ひ出してゐた。
かうした荒れた旅館の一室で、秘密な女と逢つてゐる事よりも、家の茶の間で、しゆんしゆんと湯のたぎる音をきいて、邦子のそばで新聞に眼をとほしてゐる時の方が愉《たの》しいと思へた。何と云ふ事もなく、何故、ゆき子は仏印で死んでくれなかつたのだらうと、怖ろしい事も考へるのだつた。すべて人間の心のなかには、どんな時にも、二つの祈願が同時に存在してゐて、一つはサタンに向ふと云ふ心理があるものだと、富岡は何かで読んだ記憶があつた。
富岡は、煙草の煙を眼で追ひながら、ふつと、ゆき子のふくらんだ手提げに眼がとまつた。手をのばしてそれを引きよせてみた。フェルトで出来た汚れた手提げのなかには、紫の風呂敷に包んだ反物のやうな固いものがはいつてゐた。その他には化粧品だとか、富岡がサイゴンで買つた、ブルーダイヤのマークのはいつたパアカーの万年筆や、ピースの煙草や、手拭や石けんがごたごたとはいつてゐた。静岡の肉親にあてた手紙も二通ほどあつた。富岡は、軈《やが》て、また、もとどほりにその手提げを戻して、煙草を火鉢の固い灰に突き差したが、自分の心のなかからはみ出しさうになつてゐるゆき子に対して、何となく済まない気がして来た。善き半身である処の邦子のおだやかな容子《ようす》を考へて、その妻を犠牲にしながら、自分だけはこんなところに彷徨《はうくわう》してゆき子に搦《から》まり、現在の生活の淋しさを、ゆき子によつて遁《のが》れようと、秘密な誘惑に頼らうとしてゐる自分の身勝手さが、背筋に冷い汗のやうに走つた。
富岡は人妻だつた邦子をさらつて、自分の妻とした当時の事を思ひ出してゐた。悪い事を重ねては、新しい罪をまた重ねてゆく自分の勝手な心の移りかたが、いまでは宿命のやうにさへ感じられた。ダラットに残して来た女中のニウは、富岡の子供をみごもつて田舎《ゐなか》へ戻つて行つた。まとまつた金を与へただけで、一切済んだ気でゐた気持ちが、妙に痛んで、時々、ニウの夢を見る時があつた。もう、ニウはすでに赤ん坊を産んだに違ひないのだ。混血児を生んで、肩身の狭い思ひをしてゐるだらうと、富岡はなつかしい仏印での生活を思ひ浮べてゐた。
暫くして、ゆき子が冷い風に吹かれたのか、赧《あか》い顔をして戻つて来た。
「ねえ、またお寿司《すし》買つて来ちやつた。お酒も、ほら、壜《びん》にいつぱい分けて貰つたのよ」
ゆき子はビール壜を窓に透かすやうにして、富岡へ見せた。ゆき子は、冷い残りの茶を、乱暴にも、火鉢の隅へあけて、それへ酒をついだ。
「私が、初めに、お毒見よ」と、茶碗に唇をつけて、半分ほどぐつと、飲んだ。
「あゝ、おいしい。胸も、おなかも焼けつくやうだわ」
富岡は酌をされて、これも息もつかずに、一息に酒を飲んでしまつた。ゆき子はまた茶碗へ酒をついだ。
「ねえ、今夜、泊つて……いけないかしら。もう、今度だけで、無理を云ひませんわ。もし、この家が厭だつたら、何処へでもいゝわ。お金が足りなかつたら、私、いゝものこゝに持つてるから、もつと気持ちのいゝところに泊つてもいゝわ」
急に熱いものがこみあげて来て、富岡は、ゆき子の手を握つた。どんな感情も心にしまつてはおけないゆき子の野性的な性格が、愛らしかつた。家庭を背負つた、重い環境に押しひしがれてゐた気持ちから解放されて、酒の勢ひを借りたせゐか、富岡はゆき子の手の指を唇に噛《か》んだ。
「もつと、ひどく、ひどく噛んでよ」
富岡は、ゆき子の指を小刻みに噛んだ。ゆき子は耐へられなくなつたのか、富岡のゆすぶつてゐる膝へ顔を伏せて、くつくつと泣いた。
「私は、こんな女になつてしまつて、自分でも、判らなくなつてゐるンです。何《ど》うかしてしまつて下さい。どうでもしてしまつて下さい……」
ゆき子は泣きながら、両の手で、富岡の膝をさすりながら云つた。部屋の中は暗くなり始めてゐる。賑やかな市場の呼び声が風の工合か判然《はつき》りと聞える。富岡はゆき子の頭髪に唇をつけたが、自分の心にはさうした事が、芝居じみてむなしい事をしてゐるやうに思へた。
妻の邦子にはない、野性な女の感情が、富岡には酒を飲んだ時にだけ、ぱあつと反射燈を顔に当てられたやうに判然りするのだつた。
「私、奥さんを見なければよかつたわ。いゝ人なのね。でも、貴方の奥さんと思ふと、やつぱりあの顔は憎い。私、お宅へうかゞつてから、何時も、あの奥さんの顔がちらちらと胸の中へ刺しに来るの……。奥さんは、きつと、私の事を感じてお出でだわ。ね、おつしやつたでせう?」
「何も云はないよ」
「嘘よ。私、とても、ひどい表情をして、奥さんを睨《にら》んでたの。不思議さうに私の顔を見て、奥さんてば、私の足もとから、頭のてつぺんまでじろじろ見てて、とても、厭な笑ひ方をしたの。たまらない気味の悪い、笑ひ方だつたわ。金歯が光つたのよ、その時ね……。どうして、前歯に、金なンかはめてるのかしら……」
ゆき子は顔をあげて、にやにや笑ひながら云つた。泣いた顔が洗つたやうに化粧がとれて、かへつて生々してみえた。額にさげた前髪が乱れて、初めて見るやうななまめかしさだつた。酔眼で見るせゐか、遠近の調子が、まるで映画の速度のやうに、眼の前でゆき子の顔がゆれて、濃く淡く見える。
「でも、私より、ずつと年上の方ね……」
「いやに搦《から》むね?」
「さうなのよ。貴方を一人占めしてるのいけないわよ。唇の正面に金歯なンか入れてる奥さんとキッスするひとつて、ぞつとするわ……」
富岡は邦子の欠点をづけづけと差される事は、あまりいゝ気持ちではなかつた。部屋の隅に蒲団がつんであるのを富岡は一枚引きずつてきて、膝へかけた。汚れてべとついた冷い蒲団だつた。
「炬燵《こたつ》ね。私も、こつちから足を入れていゝ?」
ゆき子は酔つてゐた。
「働くつて、何をするつもりだ?」
もう、三四杯目の酒をひつかけて、富岡が聞いた。ゆき子は一寸真面目な顔になつて、
「ダンサアになりたいンだけど、いけないかしら……」
と、眼の底から光るやうななまめかしい表情で云つた。富岡はそれもいゝだらうと思つたが、それに就いてはいゝとも悪いとも云はなかつた。
軈《やが》て、十時近くになり、富岡は、
「さて、帰るかな……」
と、つぶやくやうに云つて、外套《ぐわいたう》の内ポケットから、まるめたやうな札束を出して、そのまゝゆき子の膝へ置いた。
「千円ある。これのあるうちに、働く処を何処でもみつけなさい。部屋は、みつけ次第知らせる。明日の晩、一寸、信州へ発つので、十日位は逢へないが、それまで、その家へいくらか金を出して、置いて貰ひなさい……」と、こんな事を云つた。
ゆき子は、千円の金を手にして、そのまゝつつ放されたやうな気がした。
「私、お金いらないわ。それより、泊つて行けない? このまゝ別れるの淋しい。厭だわ。信州へ十日も行くなンて、逃げて行くのよ。さうだわ。きつと、さうだわ。正直に――気持ちを云つて……」
残りの酒をぐつと飲んで、富岡は、また思ひ出したやうに、膝小僧を苛々《いらいら》と貧乏ゆすりしながら、
「いや、さうぢやない。君に申し訳ないンだ。ね、正直に云へば、僕達は、あんな美しい土地に住んでから夢を見てゐたのさ。そんな事を云ふと、君に叱られさうだが、日本へ戻つて来て、まるきり違ふ世界を見ては、家の者達をこれ以上苦しめるのは酷《こく》だと思つたンだ。みんなひどい苦しみ方をして来たのに、さうしたなかに、兎に角耐へて来てゐたンだ。僕を待つてゐてくれた人達に、ひどい別れ方は出来なくなつてしまつたンだよ。約束を破つたやうになつたが、君が、倖《しあは》せになるまで、僕はどうにでもする。真心こめて考へる……。君は好きなンだよ。それでゐて、どうにも一緒になれないのは、僕の弱いところなンだ。今夜も、泊れない事はないが、もう、君を偽《いつは》つては悪い気がして、僕はさつきから早く帰るべきだと、自分に云ひきかしてゐた。信州へ行くのは本当なンだ。旅から戻つて、君にこの気持ちを話さうと考へてゐたが、急に、いま、ぶちまけたくなつた。本当に別れるとなると、僕は、きつと君が不憫《ふびん》になるにきまつてゐる。そのくせ、現在の家から、自分一人丈抜けて出る事は不可能なンだよ。みんなが、僕一人を頼りにして生きてゐるンだからね……」
性急に、ゆき子は首を振り、両の耳を手でおほふた。きらきらと光る眼で、富岡の唇《くち》もとを睨みつけながら。――富岡は静かに蒲団を片寄せて、ゆき子の膝に両手をかけてうめくやうに、
「別れてしまふより方法はない」と云つた。
「厭! それでは、貴方たちだけが幸福になる為に私の事はどうでもいゝの? こんなお金なンかいらないッ。私は、お金を貴方から貰つて幸福だとは思はないわ。私は、貴方の都合のいゝやうにおとなしくはしてゐられないわ。私にだつて、云ひたい事を云へる権利があるなら、奥さんも私も同じだつて事だわ。奥さんを幸福にする為に、私なンかどうにでもなると思つてるンでせう……。何故、初めに、私が尋ねて行つた時、玄関で、さう云はなかつたの?」
ゆき子は一時に酔ひが発して来た。何を云つてゐるのか、自分でもよくは判らなかつたが、富岡の勝手な云ひ分が気に食はなかつた。
仏印では、あんなに伸々《のびのび》としてゐた男が、日本へ戻つてから急に萎縮《ゐしゆく》して、家や家族に気兼ねしてゐる弱さが、ゆき子には気に入らなかつた。ゆき子は、富岡の両の手を取つて力いつぱいゆすぶつた。そして、急に左の腕をまくり、太いみゝず腫《ば》れの縦に長い傷痕《きずあと》をみせて、
「これ、覚えてゐるでせう? みんな、貴方が、加野さんに嘘をついてゐたからだわ。ニウにいたづらしたのも、私、みんな知つてるのよ。貴方は、人間の一生懸命な気持ちつて、狂人みたいに思つてるンぢやありませんか? 誰でも、すぐ、貴方のやうな人を信用して、加野さんや、私のやうなものは、ノーマルぢやないつて信用されないのよ。――でも、あの時は、貴方は私には贋物《にせもの》には見えなかつた。別れてくれつておつしやれば、仕方がないけれど、それでもいゝものなのかしら……。家を立派にして、家族のひとたちをよろこばせて、自分の胸の中がすつとしたつて、貴方のその幸福をつくる為には、幾人かを犠牲にしてる事になるわ。それを知らん顔するなンてひどい。そんなに、家や奥さんが大切だつたら、初めつから、石塊《いしころ》になつてればいいのよ。――私、別に、貴方の奥さんを追ひ出したいなンて思はないけど、でも、もう少しいゝ事考へ過ぎてたのね。私は、今夜はこゝへ泊りますから、貴方は自由に帰つて下さいッ……」
眼が据《すわ》つてゐた。そして、富岡の手を放すと、ゆき子は、そこにある蒲団を頭から被《かぶ》つてごろごろと畳を転げまはつた。ゆき子の自暴自棄な姿を眼にして、富岡は森閑《しんかん》とそこに坐つたまゝだつた。
四日ばかりして、不意に伊庭が上京して来た。
ゆき子は出掛けようとして、路地の出逢頭《であひがしら》に、向うからほつほつやつて来る伊庭に会つた時は、初め、伊庭ではなく、伊庭の兄かと思つた。伊庭も吃驚《びつくり》したやうだつた。
「おう、ゆきちやんぢやないか?」
ゆき子は突然だつたので顔を赧《あから》めた。
「何時《いつ》、戻つたンだい? 静岡へ何故、先に戻つて来ないンだ。やつぱりゆきちやんだつたンだね……」
伊庭は四年も見ないうちに、すつかり老《ふ》けこんで人相も変つてゐた。
「私がこゝへ来てるの、どうして知つてて?」
伊庭は黒い外套の襟を立ててくるりと、後がへりの姿で、
「家ぢやこみいつた話も出来ないから、何処かで休みながら茶でも飲むか……」
さう云つて、ぴゆうぴゆう寒い風の吹く、からからに乾いた広い道の方へ出て行つた。ゆき子も、伊庭の疲れたやうな後姿を珍しいものでも見るやうに眺めながら、黙つてついて行つた。踏切を渡つて、伊庭は駅へは這入らないで、かまはずに道をまつすぐ行つて、丁度駅からは、はすかひに見える蕎麦屋《そばや》ののれんをくゞつた。薄暗い家のなかには火の気もなく、たゝきに並んでゐる卓子の上は白い埃が浮いてゐた。隅の方に二人は腰をかけてむきあつたが、二人ともあまり寒いので、足をたゝきから浮かせるやうにしてゐた。それに硝子戸の外はこまかい格子だつたので、その一隅は特別薄暗く寒かつた。
「こゝは、蕎麦は出来ませんか?」
伊庭が尋ねた。ガーゼのマスクをした、桃割《もゝわれ》に結ひたての娘が、蕎麦はまだやかましくて出来ないのだと云つた。こゝで出来るものはと尋ねると、紅茶と、汁粉《しるこ》と、ソーダ水だけだと云つた。この寒いのにソーダ水なンか飲めるものかと、伊庭は、汁粉を二つ、とりあへず注文した。昔ながらの蕎麦屋で、如何《いか》にも宿場の食べもの屋の感じである。伊庭はポケットから煙草を出して、一服つけた。一服つけて光の箱をまたポケットへしまひかけると、ゆき子が寒さうに肩をふるはせながら、
「私にも一本吸はせて」と云つた。
「お前、喫《の》むのかい?」
「あんまり寒いから、一寸吸つてみたいのよ。煙を吸ひこんだら、あつたまりさうだから……」
ゆき子は一本唇に咥《くは》へて、伊庭にマッチをつけて貰つた。伊庭はうるさい程、いろいろな事を尋ねた。軈《やが》て、ズルチン入りのどろりとした汁粉が運ばれた。椀の蓋《ふた》を取ると、蓋に汗をかいてはゐるが、汁粉の色が飴色《あめいろ》をしてゐた。団子の小さい塊りが二つ浮いてゐる。
「お前、勝手にうちの荷をほどいたンだつてね?」
伊庭が、うつむいて、汁粉の団子を箸《はし》でつまみあげながら云つた。ゆき子は黙つてゐた。伊庭と同じやうに団子を箸でつまんで口に入れながら、家の者が密告したのに違ひないと思つた。
「家へ行つて、荷物を調べれば判るンだが、どうして、そんな勝手な真似をするンだね。金がいるのなら、そのやうに云つてくれれば何とかするンだよ。それよりも、東京へ戻つて、静岡へ知らさないと云ふのはをかしいね……。或る人から手紙で知らせて来たンだが、大分売り飛ばしてるつて本当かね?」
伊庭は、消えかけた煙草に火をつけて、すぱすぱと力いつぱい煙草を吸ひながら云つた。ゆき子はいまは、伊庭に対して何の感情もなかつた。
「あんまり、寒かつたンで、お義兄《にい》さんとこの荷をほどいて、二三枚拝借したのよ」
「ふうん。売つたのかい?」
「えゝ、まアね、悪いと思つたけど、焼けた人もあるンだから、その位はいゝと思つて、義兄さん許してくれると思つて、この外套を、そのお金で買つたの」
「どうして、まつさきに静岡へ戻らないンだ?」
「帰りたくなかつたのよ。それに、一緒に戻つて来た友達もあつたし、これから働く場所も早く探したかつたから、落ちついてから帰るつもりだつたの……」
さう云つて、ゆき子は、手提げから、故郷へ書いた手紙を二通出してみせた。もう、四五日前に書いたまゝ、出し忘れてゐた手紙だつた。
「何と何を売つたンだ?」
「絽縮緬《ろちりめん》二枚と、反物《たんもの》が少しあつたから売つちやつた」
「お前、そんな乱暴な事をしていゝのかね? あつちへ行つて、人柄が変つたね」
ゆき子は黙つてゐた。
「銀行をやめて、ずつと田舎《ゐなか》で百姓をしてゐたンだが、やつぱり都会で暮したものは、田舎には住みつけない。それで、此の暮にはみんなで出て来るつもりで、荷物を送つておいたンだ。めぼしいものは今いゝ価になるから、そいつを売つて、商売のたしにでもするつもりでゐたンだよ。お前、外套は田舎にあづけてある筈ぢやないか?」
「えゝ、だから、あつちの方を売つて下すつてもいゝわ。私のもの、みんな売つて貰つてもかまはないわ。私ね、結婚するつもりで、今度、それで先へ東京へ来たンです」
「ほう、何時結婚するンだ?」
「うゝん、それがうまくゆかなかつたの。そつちには奥さんも親もあるンで、日本へ帰つたら、みんな駄目になつちやつたのよ」
「何をする男だ?」
「やつぱり農林省の人で、あつちでは一緒に働いてた人なの。こつちへ戻つて、いまは、材木の方をやつてるつて云つたわ」
「いくつだい?」
「義兄さんよりはずつと若いわ」
「欺《だま》されたンだな……」
「いゝえ、欺されたわけぢやないけど、別れるやうになつちやつたのよ……」
伊庭は、無口でおとなしい娘だつたゆき子が、すつかり人柄が変つてしまつてゐる事が珍しかつた。すつかり大人らしくなつて、云ふ事もはきはきしてゐた。寒いので、ゆき子は紫の風呂敷で頬かぶりしてゐたが、地肌が白いので、その紫が顔に影をつくつてよく似合つてゐた。
「義兄さん、ずつとこれからゐるの?」
「うん、三四日泊つて、一寸、あつちこつち東京の友人も尋ねたり視察したりして、帰るつもりだ。一緒に戻つてもいゝよ」
「荷物はないの?」
「いや、角の産婆さんに預けてあるンだ。産婆さんがお前の事を知らせてくれたンだよ」
「さう……」
二人は蕎麦屋を出たが、別に行くところもないので、伊庭もゆき子も駅の前のこはれた自働電話の箱の前で立ち話をした。
「私はこれから、新宿まで出るから、どうぞ、勝手に調べてみてよ」
ゆき子は悪びれた容子《ようす》もなく云つた。
伊庭は、寒さうに風のあたらない方へ、背を向けて立つてゐたが、「一緒に行つてみよう」と、ゆき子と並んで駅へはいつて行き、二枚の切符を買つた。
二人は新宿へ出て行つた。伊庭はゆき子が妙にはきはきしてゐるのが不安だつた。何を考へてゐるのかさつぱり見当がつかない。薄陽《うすび》の射した天気だつたが、馬鹿に風の強い日だつた。電車の中も、硝子はあらかたこはれてゐたので、氷の室が走つてゐるやうに寒かつた。
「随分、やられたものだなァ」
駅々の間の、荒凉とした焼跡に眼をとめて、伊庭はそれでも珍しさうに窓外を見てゐる。
「ね、義兄さん、私、ダンサアになりたいンだけど、私にやれるかしら?」
ふつと、何気なくゆき子が云つた。伊庭はゆき子の突拍子もない話に驚いたらしく、すぐには返事もしなかつたが、
「タイプの仕事をするのは厭なのかい?」
と聞いた。
「もう、あんな仕事は飽きちやつたわ。サラリーも少ないつて云ふンだし、進駐軍専門のホールだと、とてもいろんな面で収入がいゝつて云ふわね」
「うん、それもさうだらうが、長続きするか、どうかね……」
二人は新宿へ出て、何の目的もないので、暫く歩いて、武蔵野館でキュウリイ夫人と云ふ映画を観《み》にはいつた。何年ぶりかで、西洋映画を見る気がした。ぼろぼろになつた椅子に、二人は並んで腰をかけたが、映画館の中もとても寒かつた。荒れ果てて昔のおもかげもない、むさくるしい小舎《こや》の中で、初めて観る西洋映画は、現実からはづれたやうな奇妙な感じだつた。
伊庭は何を考へてか、ゆき子の手を暗がりのなかで握つた。熱い手だつた。ゆき子は厭な気持ちだつたが我まんして、伊庭に手を握られたまゝにしてゐた。銀色に光るスクリーンの反射で、伊庭の横顔が死人のやうに見えた。ゆき子は、富岡とのこの間の別れが胸に来て、こんな淋しい思ひをするのも、みんな富岡の為なのだと、いまごろになつて涙が溢《あふ》れて来る。
映画館を出た時は薄暗くなつてゐた。
すつかり、露店もなくなり、四囲はいやに淋しくなつてゐた。廃墟の角々に外燈がついてゐるのが、いつそう敗戦のみじめさを思はせた。凍つたやうな冷い風が吹いた。二人は電車通りへ出た。まるで小舎《こや》のやうなバラックの商店が並んでゐたが、それも早々に店を閉してゐた。このごろは強盗おひはぎのたぐひが街に横行してゐたので、日の暮れには、どの商店も早い店じまひをしてゐる。
ゆき子は二度ばかり来た事のある、角筈《つのはず》の電車通りに出来た、中華蕎麦の小さいバラックの店へ、伊庭を連れて行つた。夜になると、ゆき子は強い酒が飲みたかつた。荒れ果てた心のなかに、強い酒でもそゝぎこまなければやりきれない気持ちだつた。竹の子蕎麦を注文して、二人は珍しく小さいストーヴの燃えるそばへ腰を降した。ストーヴが勢よく燃えてゐるのを見るのは、何年ぶりだらうと、ゆき子は青く光つた錻力《ブリキ》の煙突に、ちよいちよいと指先で触れてみた。
「ダンサアなンてのは賛成しないね」
伊庭が煙草を吸ひながら云つた。ゆき子は、さつき手を握つてゐた伊庭の厚かましさがいやらしくて返事もしなかつた。伊庭はゆき子の派手な化粧をしてゐる顔を珍しさうに眺めながら、
「ずつと、お前の事は心配しづめだつた。うまく帰れるものなのかどうかも心配だつた。日本もいまは大変だ。みんな偉い人達はつかまつたし、世の中がひつくり返つたやうなものだ。昔、偉くかまへてゐた人間が、いまはみんな落ちぶれてね、小気味がいゝ位に世の中が変つた」
しんみりと、伊庭はそんな事を云つた。
「あんまりのぼせかへつたのよ。もう、これから戦争がないだけでも清々していゝわ。でも、よく義兄《にい》さんは兵隊にとられなかつたわね?」
「うん、そればかり心配してゐたンだ。浜松の軍の工場に勤めたのも兵隊のがれだつたが、いまから思へば、夢のやうなものさ……。浜松もやられて、それからずつと百姓をしてゐたが、よく兵隊にとられなかつたと、不思議な位だ。終戦になつて、一番、心配したのは、お前の事だつたが、かうして楽々と戻つて来ようなぞとは思はなかつたな……」
熱い蕎麦が来たので、二人は丼を抱へこんで食べた。珍しく赤く染めた竹の子がはいつてゐた。
「美味《うま》い……」
「こゝ、とても美味いのよ。第三国人がやつてるのね。とても量が沢山あつて安いのよ」
ゆき子は、ふつと、池袋のホテイ・ホテルの事を思ひ出して、このまゝ伊庭と鷺《さぎ》の宮《みや》へ戻つて、あの狭い部屋で、二人で寄り添つて寝るのは厭だと思つた。自分が求めてゐるものは何も与へられないで、求めてゐないものは、運命的に、自分の周囲にまつはりつかれる気がして、心のなかでからからに乾いてゆく感じだつた。
「今夜、家で泊るの?」
「うん」
「部屋がないでせう?」
「お前は、どの部屋で寝てるンだ?」
「茶の間。荷物がいつぱいね」
「一緒に寝ればいゝよ」
「食べるものなくてよ」
「米は三升ばかり持つて来てゐる。なあに自分の家だもの、自由に台所を使つて、煮焚きすればいゝさ。何も遠慮する事はない。蒲団もいゝ方の奴が一組送つてある。帰つて荷ほどきをするよ」
「ぢやア、私は、池袋に泊るところがあるから、そこへ行くわ」
「馬鹿に警戒するンだね」
「さうぢやないけど、私、今夜は、仕事の事で、どうしてもお友達と打ち合せしなくちやならないもの、また、明日、わざわざ出掛けるの億くふだから……」
「今夜は、久しぶりに逢つたンだよ。まだ、色々話もある。一緒に帰ンなさい。お前が、着物をどれだけ売つてるのか知らンが、叱りはしないよ」
「えゝ、その事は、どんなに叱られてもかまはないのよ。……仕事の話で、友達の処へ行きたいンだわ」
伊庭と添寝する事は、思つてもぞつとした。
富岡は信州行きがのびて、一向に田所の処の話が埒《らち》があかなかつた。何でも素早く立ちまはらなければ、世の中はどんどん変つて行くのだ。金の価値もすつかり変つてしまふと云ふ風評も飛んだ。いまのうちに、材木をしこたま予約しておきたかつたし、此の頃、紙の闇も激しいと聞いて、その方にも手をのばしたかつた。だが、かうして、世の中に独りでごろりと放《はふ》り出されてみると、富岡は自分の無力さを悟るのだつた。誰も信用出来るやうな顔でゐて、ひそひそ語りあひながら、その実、胸の中には自分一人で胸算用《むなざんよう》をしてゐる……。敗戦だとか何とか云つたところで、みんな、不安な方へ考へを持つて行かうとはしてゐないのだ。このどさくさに、何とか力頼みなものが自分の周囲にだけ転がつてゐるやうに、無雑作《むざうさ》に考へたがる……。戦争をしてゐる時よりは、この革命的な、スリルのある時代の方が誰にも好ましかつた。人間はすぐ退屈する動物だ。どんな変形でもいゝ、変化のある世代がぐるぐる廻つてゆく方が刺戟《しげき》があつた。
富岡は、まづ、さうした事業の手始めに、家を売つて資金をこしらへるより術《すべ》はないと考へた。まづ、五六十万の現金さへつくれば、その金を土台にして、あとは何とか出来てゆくやうな気がした。このまゝ手をつかねて、この時代をやりすごすには忍びないのだつた。
或朝、食事の時に邦子が、ふつと、こんな事を云つた。
「ねえ、この間、尋ねてみえました、ほてい商会の女の方ですね、私、昨夜、家の近所でおめにかゝりましたけれど、あの方、このお近くにお知りあひでもございますのかしら……」
富岡は、忘れようとしてゐたゆき子のおもかげをふつと瞼《まぶた》に浮べた。黙つて味噌汁をすゝつてゐると、この近くをうろうろしてゐるゆき子の苛々《いらいら》した顔つきが心にこたへて来る。
「御主人は、何時頃、信州からお帰りでせうかつておつしやるものだから、私、どう云つてお返事していゝか判りませんので、もしも、帰りの道で、貴方《あなた》にお逢ひになつては工合が悪いと思ひまして、昨日、戻つて参りましたつて云ひましたのよ……。何か、御用でございましたら、伝へますつて申しましたら、御近所まで来たとおつしやつて、いまずつとほてい商会に住んでゐますから、夜分にでも是非お出掛け下さいと伝へてくれつておつしやるンですの……。そして、先日お立替したものをお返し願ひたいとおつしやれば富岡さん御承知ですつて、そのまゝさつさと行つておしまひになりましたのよ。とても派手な化粧をした方ですのね」
息苦しい気持ちで、富岡はゆき子のその後の消息を知らされた。それでは、住むところもなく、あのホテルに居着いてゐるのかも知れないと思はれる。あの時、千円の金はどうしても取らないと云つて、池袋の駅で、無理矢理突つ返されてしまつたが、ゆき子が、泣きながら、自分だけが幸福になる為に、人を犠牲にするのかと云つた事が、いまでも判然《はつき》りと富岡の耳についてゐた。
生一本《きいつぽん》な加野を、狂人のやうにしてしまつてまで、あの時は、富岡はゆき子を得た。その為に、ゆき子は加野から傷つけられたが、あの時は無雑作に二人は結婚出来ると考へてゐたし、また二人はそれだけの心の準備をしたつもりだつた。富岡は急に味のなくなつた朝の食卓から、早く箸《はし》を置いた。ゆき子の不幸な姿に済まなさを感じた。旅空での、男の無責任さが反省されもした。此の家を売るとなれば、両親にも妻にもそれぞれ金を与へて、自分は無一文で、ゆき子と一緒になるべきではないかとも空想したが、その空想は少しも慰さめにはならなかつた。
「お金でも、その商会でお借りになつたンでございますの?」
白粉気《おしろいけ》のない邦子が不安さうに訊《き》いた。
「昨夜、何時頃だ」
「七時頃でせうか。買ひ物に参りましての帰りでしたわ。貴方が遅くお帰りでしたので、つい、申し上げるの忘れてゐましたけれど、今朝、ラジオの尋ね人で、ほていと云ふ名が出ましたので思ひ出しましたけど、ほてい商会つて、何の御商売なさる処なンですかしら……」
富岡は返事もしなかつた。何時も朝の遅い食事だつたので、父も母も他の部屋にゐた。邦子は新聞をたゝみながら、「私が、参りましてはいけないでせうか?」と云つた。
憑《つ》かれたやうに、富岡は邦子の細面の顔を見てゐた。この秘密を妻に何も彼《か》も打ちあけたい気がした。富岡は疲れてへとへとな気持ちだつた。妻に、自分の秘密を洞察《どうさつ》して貰ひたかつた。この不安を長く続ける勇気もないくせに、ゆき子の問題には何一つ親身になつてやらうとしない身勝手さが、富岡には自分でよく判つてゐた。みんな自分のやつた事なのだ。日本へ戻つてからといふもの、富岡はまるで人が変つたやうに、固い仮面を被つて、自分の感情をおもてに現はす事を好まなくなつてゐた。邦子はさうした良人に対して、もどかしく水臭いものを感じて、あの派手な化粧の女とのつながりが、無関係ではないやうに思へ、不安で暗いものを直感した。このごろの富岡は、眼には落ちつきがなく、邦子を愛撫し、抱擁《はうよう》してゐても、突然その動作を打ち切つて深く溜息をつくやうになつてゐた。昔のやうな強烈な力を使ひ果さないうちに、富岡はあきらめたやうに、冷く邦子を突き放す時があつた。
「貴方は、仏印からお帰りになつて、とつてもお変りになつたわ……」
と、富岡が帰つて来た早々に邦子が不思議さうに云つた事があつた。富岡も自分の変化はよく判つてゐた。朝々髭《ひげ》を剃《そ》るたび、鏡の中の自分の顔が、スタヴローギン的な厭らしさを感じないではない。絵に描いた美男子ではなかつたが、それに、唇は珊瑚《さんご》の色でもなく、顔色は白く優しくもなかつたが、このまるきり違つた東洋の蒼《あを》ぶくれの男が、何となく、悪霊《あくりやう》のなかのスタヴローギンのいやらしい外貌《ぐわいばう》に似てゐる気がして気持ちが悪かつた。
田所が、このごろ、厭によそよそしてゐるのも、かうした心を見抜いての疎遠なのではあるまいかとも考へてみる。邦子と一緒になつた時にも、田所には多くの迷惑をかけてゐた。そのくせ苦労人の田所は、少しも富岡に対して迷惑がつた顔色もみせないで、仏印から戻つた孤独な自分に、協力の手を差しのべてくれた事を思ふと、田所だけを責めるわけにもゆかないのだ。
「私、あんな女の方に、家のまはりを歩かれるのは厭です。何か、おありになるンぢやありませんの……。とても、貴方の御容子《ごようす》が以前とはまるきり違つて来てゐるンですもの」
「馬鹿な事を云ふもンぢやない。何も変つてはゐないよ」
「それでは、私が、そのお立替のお返しに参りましてはいけないンでせうか?」
「男のやる事に、よけいな心配はしないがいゝ」
「でも、何だか、私、腑《ふ》に落ちないンですもの……」
「本人の僕が、心配をするなと云つてゐるンだから信じたらいゝだらう」
「えゝ、それは、さうでせうけれど。貴方は、あの女の方に、何か負目《おひめ》がおありになるンぢやありません。あの方の話が出ると、急に怒りつぽくおなりになるわ」
「君がつまらん疑ひを持つから怒りつぽくなるンだ。僕は仕事の事で、田所の方の仕事もおさきまつくらで思ひ悩んでゐるンだ。よけいな不安は口にしない方がいゝね」
富岡は、もう一度、しみじみと仏印の山林に出掛けてみたい気がしてゐた。山林以外には、どうした事業も身には添はない気がして、親も妻も家も、みんなわづらはしい気がした。あの大森林のなかで、一生涯を苦力《クーリー》で暮してゐる方が、いまの生活よりはるかに幸福に思へた。
干潟《ひがた》の泥土の中に、まるで錨《いかり》を組みあはせたやうな紅樹林の景観が、どつと思ひ出の中から色あざやかに浮んで来る。ぎらぎらと天日に輝く油つこい葉、幹を支へる蛸《たこ》のやうな枝根の紅樹林の壁が、海防でも、サイゴンでも港湾の入口につらなつてゐた。ビロードのやうなその樹林の帯を、富岡は忘れる事が出来なかつた。もう一度、南方へ行つてみたい。
今度こそ、あの戦争中の狂人沙汰な気持ちから頭を冷《ひや》して、静かに研究出来るやうな気がした。だが、幾度その思ひ出に耽《ふけ》つてみたところで、身動きもならない身では、その考へもいたづらに心身を疲れさすだけだつた。
海を渡る事が出来ないとなれば、泳いでも渡つてゆきたかつた。家の問題も、富岡にはどうでもよかつた。このまゝ消えてゆけるものならば、この息苦しさから抜けて、南方へ行く密輸船にでも身を託してみたいのである。
邦子は、不機嫌に黙りこんだ良人の冷い顔を見てゐたが、急に涙が溢れて来た。
「何を泣いてるンだ?」
「私、苦しい。とても苦しいのです。いまごろになつて、私は、罰があたつたのだと思つてゐます。人の罰が当つたのですわ」
「小泉君の事でも思ひ出したのか?」
「いゝえ、そんな、あのひとの事なンか。……貴方がこのごろ、私と別れたいと思つていらつしやるのだと思つて、いろんな罰を受けてゐる気がします」
「暮しが苦しいから、君はそんな苛々《いらいら》した気になるンだ。別れるなんて、僕は少しも考へてはゐない……」
富岡は嘘をついてゐる自分にやりきれなくなつてゐた。自分の嘘の塊が、ざくろの実のやうに、くわつと口を開いて自分を笑つてゐるやうに思へた。
このごろ、馬鹿に涙もろくなつてしまつて、これは気が狂ひ始めてゐるのではないかと思ふ時があつた。泣いてゐると、これからさきの行末に就いての直感が、不安な暗い影になつて、ゆき子の瞼《まぶた》に現はれて来る。その直感は、かならずその通りになるものだと判断をする。その判断には狂ひはないと思へる。何一つ強い背景になるべき柱がない以上は自分は小石のやうに誰かに蹴飛ばされて生きてゆかなければならない。
富岡への愛は、やつぱり富岡の現在考へてゐるとほりのもので、ゆき子自身もいまではそれに同化して来てゐるやうになり、お互ひに逢つて、誰かに責められてゐるやうな薄手な感情に色あせつゝあるのを感じる。無理な工面《くめん》をして逢ふ、そして、二人だけの共通のなかにある遠い思ひ出をたぐり寄せて、色も香も失せつゝあるその思ひ出に酔つぱらつてみたくなつてゐる感情の始末の悪さ……。只、それだけの事なのに、一度、二度、三度とゆき子は富岡に逢ひたがつてゐる。さうして逢へば、その思ひ出も、色があせつゝあるのを知らされるだけのものだつた。この敗戦の現実からは、二人の心のなかにある、遠い思ひ出なぞは、少しも火の気を呼ばないのだつた。
愛しあつたら、その場ですぐ一緒にならなければ、永遠に悔いを残すものだと、ダラットにゐた時に、富岡が云つた事がある。今になつてみると、富岡の云つた事が現実のなかでは、本当の答へになつて現はれたのだと思ひ知らされるだけだつた。
池袋の宿屋の払ひも長く続くわけではなく、ゆき子はまた、鷺の宮の伊庭の家へ舞ひ戻つたが、伊庭は静岡に帰つて、二三日して、いよいよ東京へ引揚げて来ると云ふので、六畳の茶の間と、四畳半の応接室を空けて貰つてゐた。応接室と云つたところで、屋根だけが赤瓦で、部屋は坊主畳を敷いた、床の間も押入れもない部屋である。
ゆき子は、そこで一晩泊つた。伊庭からは置手紙があつた。荷物を調べてみた。別に怒るわけではないが、売つたものは仕方がないとしても、これ以上迷惑をかけられる事は困るのだ。部屋も狭いので、引揚げて来てからも、君をこゝへ置くわけにはゆかない。何処へでも行つてくれ。行く処がなかつたら、一度田舎へ戻つて君の将来をみんなに相談して貰ふ事だ。留守の間に、また荷物に手をかけるやうな事があつたら、こちらにも考へがあるからそのつもりでと書いてあつた。
どの荷物もがんじがらめな荷造りにされて、紙で封印がしてあつた。ゆき子はをかしくてたまらなかつた。鋏《はさみ》でぷつぷつと細引を切つてしまひたい気がしてゐた。
男といふものは、みんな逃げる気なのだと、ゆき子はつくづくと物慾の深い男心にいやらしいものを感じてゐた。考へがあるものなら、その考へにしたがふのも愉快な気がして、ゆき子は、一晩だけ泊つて今度は、伊庭の蒲団包みを近所の運送屋に頼んで、池袋のホテイ・ホテルに運んだ。留守の人達は別にとがめだてもしなかつた。伊庭とは仲が悪かつたので、ゆき子の行動に就いては中立を守り、何一つ口出しはしなかつた。むしろ、心のなかでは、何でもやんなさいと云つたところを無言の表情に現はしてゐた。
池袋の旅館で、蒲団包みを開くと、なかから伊庭の褞袍《どてら》や、かなり古いインバネスや、小豆《あづき》の袋が包みこんであつた。小豆は五升ばかりはいつてゐた。蒲団の包みは、木綿の敷蒲団が二枚、毛布が一枚、ガス銘仙《めいせん》の上蒲団が一枚、ゆき子は、胸のなかがぬくぬくとする感じで、さつそく、インバネスと小豆は、駅のそばのマアケットで売り払つた。盗みをするといふ事は仲々面白いものだと思つた。伊庭の荷物から、これだけのものがなくなつたところで大した事はないのだ。自分は三年もあの男にもてあそばれてゐたのだと思ふと、いまごろになつて、ぐつと、噴きあげる怒りの気持ちが湧いて来た。もつと、みんな盗んで来てやればよかつたやうな気がした。
ホテイ・ホテルの主人の世話で、翌日、ゆき子は近所の荒物屋の古い物置を借りる事が出来た。その荒物屋は家の横に新しく家を建ててゐた。
物置きは、三坪ばかりで、部屋の部分は、新しい錻力《ブリキ》の巻いたのがしまひ込んであつた。天窓が一つあるきりで、電気も水もない。荒物屋では、古い畳を二畳ほど敷いてくれた。女独りで寝るには充分である。ゆき子は自分独りで住める部屋をみつけると、急にまた富岡に逢ひたくなつてきた。ゆき子は敷蒲団の一枚をホテイ・ホテルに買つて貰つて、その金で、鍋釜《なべかま》や七輪を買ひ、初めて、マアケットで闇《やみ》の米を一升と炭を少しばかり買つて来た。金気臭《かなけくさ》い新しいニュームの鍋で飯を焚《た》き、残りの火を炬燵《こたつ》に入れて、熱い飯に生玉子をぶつかけて食べた時は、ゆき子はしみじみと自炊の有難さを感じた。たらふく白米の飯を食べて、呆《ぼ》んやり炬燵にあたつてゐると、食慾だけでは満たされない淋しい感情が、雨のやうに心に降りかゝつて来て、ゆき子は、蒲団の縫目を数へてみたり、只、荒く木を削つただけの壁をみつめたりした。ローソクの灯が板壁の隙間風にゆらゆらとゆれて、時々消えかける。心細くなつて、ゆき子はかうした独り住居に耐へて行けるかどうかを考へるのだつた。部屋の隅に水を汲んだバケツが置いてあるのも寒々としてゐた。これだけでも生きてはゐられるものだと、小さい幸福らしいものは感じるのだつたが、心もとない幸福らしさで、明日の事は少しも判らないのである。
翌朝は雨であつた。
ゆき子は遅く起きて、富岡に手紙を出しに行き、銭湯へ行つた。銭湯の帰り、駅へ行つて新聞を買つて来て、職業欄をひらいてみたが、タイピスト募集のところだけが眼にちらついて来る。明日でも働きたいと思ひながら、慾も得もないやうな、躯《からだ》も心もうつろになつた気がして、薄暗い小舎《こや》の中で、終日うとうとして過してしまふのであつた。
かうした気持ちのなかで、四五日は過ぎたが、富岡はやつて来なかつた。長野から戻つてゐさうなものだと思ひながらも、やつて来ないところを見ると、あの手紙は富岡の手にはいつてゐないのかも知れないとも考へられる。
ゆき子は目的のない気持ちで、新宿へ出てみた。夕方で寒い風が吹いてゐた。露店もあらかた店をしまつた新宿は、淋しい砂漠の街のやうなところであつた。如何《いか》にも用事あり気に歩いてはみたが、少しも心は満たされはしなかつた。静岡へ戻つてみようかとも考へないではなかつたが、折角、あの小舎を得られたのだから、あの小舎から、自分の人生が始まつてゆくのもいゝのではないかと、ゆき子はそんな事を考へて、伊勢丹のところまで歩いて来ると、背の高い外国人に呼びとめられた。何処へ行くのかと聞かれたが、とつさの事だつたので、ゆき子は笑つて立ち停つてゐた。外国人はゆき子と並んで歩き出した。ゆき子は大胆になつてゐた。外国人は早口で喋《しやべ》りかけて来たが、ゆき子は黙つて、外国人に躯を寄せて歩くきりだつた。運命が、少しづつ何処かへ向けて進行していつてゐるやうな気がした。お互ひの衝動が、このゆきずりの二人の心のなかに一種の生気をもたらして来る。
外国人は時々背をかゞめるやうにして、ゆき子の顎《あご》に手を触れて早口にしやべつた。ゆき子はダラットで安南人と話した、仏蘭西語や英語のミックスされた言葉を使つてゐた生活を、いま急に呼びさまされたやうな気がして、少しづつ片言でしやべつた。
「目的もなく歩いてゐるのよ」
「それは好都合だ。私もいま、目的もなく歩いてゐたのだ」
二人は何時の間にか腕を組んで歩いてゐた。をかしくもないのに、ゆき子は声をたてて酔つたやうに笑つて許《ばか》りゐた。
ゆき子は外国人と腕を組んで新宿駅に行き、珍しい外人専用車の省線の電車に乗せて貰つた。ゆき子は晴れがましい気持ちで、小さくなつて、自分の道づれに寄り添つてゐた。
サイゴンの街を想《おも》ひ出して、その昔に戻つたやうな気がしないでもない。――ゆき子は、自分のみすぼらしい小舎へ、その外国人を連れて帰つた。小舎の天井にとゞくやうな、背の高い外国人は、火のない炬燵《こたつ》に、不器用に長い膝《ひざ》を入れて、四囲を珍しさうに眺めてゐる。ローソクの灯にゆらぐ、淡い明るさのなかで、ゆき子は七輪に火を起し始めた。煙がもうもうと渦をなして、小舎の中へ立ちこめたので、ゆき子は天窓を差して、「ウィンドウ・ゲット・アップ」と外国人に命じた。外国人は気軽るに、天窓を明けてくれた。煙は束ねた煙を、天窓へ勢よく吸ひあげていつた。
その翌日の昼すぎ、外国人はまたやつて来た。グリンのボストンバッグをさげて、天井の低い小舎へ這入つて来た。バッグを開けて、一つ一つ土産を出しながら早口でしやべつた。大きな枕や、重い小箱やレイションや菓子を並べた。小箱は電池のはいつたラジオで、外国人がスイッチをまはすと、甘いダンス曲が流れて来た。ゆき子は小さいラジオに耳をあてて子供のやうに喜んでみせた。激しい歴史のうつりかはりが感じられて、その音色《ねいろ》から、超然とした運命が流れ出てゐるやうに思へる。言葉は充分ではなかつたが、お互ひの人間らしさは、肉体で了解しあつてゐる気安さで、ゆき子は、何事にも恐れのない生活に踏み出して行ける自信がついたやうな気がした。大きい枕は二人にとつて、何を物語つてゐるのだらう……。ゆき子は枕の白いカヴアの清潔さにみとれて涙ぐんでしまつた。
孤独で飢ゑてゐるものにとつて、その大きい枕は特別な意味を持つて、ゆき子の生活を再起させようとしてゐるかのやうだ。ゆき子は少しも恥づかしいとは思はなかつた。枕を持つて来た男の心持ちが立派だと思へた。――懐しき君よ。今は凋《しぼ》み果てたれど、かつては瑠璃《るり》の色、いと鮮かなりしこの花、ありし日の君と過せし、楽しき思ひ出に似て、私の心に告げるよ。――外国人はジョオと云ふ名前だと云つた。ラジオのわすれな草を小さい声でくちずさみながら、紙片に英語で書きつけて、今度来るまでは、この歌を覚えておくといゝとゆき子に渡した。ゆき子は一つ一つのスペルを指でさしてゆきながら、発音を教はつて口へ出して歌つてみた。大陸的な豊饒《ほうぜう》な男の性質に打たれて、何処にゐても自由にふるまへる民族性に、ゆき子は富岡にはなかつた明るいものを感じた。富岡に逢つてゐる時の胸を射すやうな淋しさはなかつた。誤まつた焦点《せうてん》のなかに、心をかきみだされる事もない。すべてが、のびのびとふるまへるのは、お互ひの心の詮索《せんさく》が不必要なせゐだらうかとも思へた。独りで鳴るラジオはゆき子には珍しい玩具《おもちや》だつた。夕方、ジョオが戻つて行つてから、ゆき子は貰つた石けんを持つて銭湯に行つた。サイゴンで買つた、パアモリイヴと云ふ名前の石けんだつたのがひどく心にこたへてゐた。富岡がこのまゝ来てくれなくても、ゆき子は自分一人で生きてゆける自信があつた。心を引つかきまはされるやうな男を待つてゐるよりも、現在のまゝで生きてゆくのも愉《たの》しいと思へた。だが、その愉しさはまるで泡雪《あはゆき》のやうなたよりないものである事も承知だつた。
小舎《こや》へ越して、十日あまりたつた或日の夕方富岡が尋ねて来た。ジョオが来たのだと思つて、ゆき子はあわてて扉のところに出て行つたが、思ひがけなく、そこに富岡が寒さうに立つてゐるのを見てゆき子は吃驚《びつくり》した様子で、「まア! あなただつたの?」と云つた。
富岡も驚いてゐた。黄昏《たそがれ》の薄明りに見るゆき子は、すつかり人が変つたやうに華やかに化粧してゐた。髪はこつてりと油に光つて、アップに結ひあげ、眉《まゆ》は細く剃り、眼には墨を入れてゐた。人造ダイヤの耳飾りをつけてはゐたが、足はこの寒さに、足袋もはかずに汚れた素足でサンダルをつつかけてゐる。
「面白いところに引越したものだね」
「さうかしら、でも、私にとつては宮殿みたいよ」
壁は白い紙で張りめぐらして、壁の釘《くぎ》には花籠が吊つてあり、菊の花が活けてあつた。小さい茶餉台《ちやぶだい》の上に、ローソクがゆらめき、小さい箱からラジオが鳴つてゐた。華やかなチョコレートの箱に、食べ荒した銀紙がローソクの灯できらきら光つてゐた。富岡は坐りもしないで、四囲を眺め、この数日の間の女の身の上の移り変りを察した。
「ハイカラなものがあるね?」
「あら、さうかしら?」
ラジオはダンス曲を鳴らしてゐる。ゆき子は、富岡の立つたなりの姿を見上げて、子供がいたづらをみつかつた時のやうな笑ひ方で炬燵《こたつ》に膝を入れた。
「信州から、何時《いつ》、戻つて来たの?」
「二日ほど前かな……」
「さう、手紙を見た?」
「手紙を見たから来たンだ」
「炬燵にはいつたらどうなの?」
富岡は帽子をあみだにして、どつかと炬燵に膝を入れた。白い大きい枕がいやに目立つて何時もジョオの坐るところにある。富岡はまじまじとその大きい枕に眼をとめてゐた。
「幸福さうだね?」
「さう見える? ひぼしにならなかつたと云ふだけね……」
富岡は釘をさしこまれた気がして黙つて、ゆき子の顔を見た。ローソクの灯に照らされてゐるゆき子の顔が、ニウのおもざしに似てゐる。女自身の個性の強さが、ぐつと大きく根を張つてゐるやうに見えた。何ものにも影響されない、独得な女の生き方に、富岡は羨望《せんばう》と嫉妬《しつと》に似た感情で、ゆき子の変貌《へんばう》した姿をみつめた。女といふものに、天然にそなはり附与されてゐる生活力を見るにつけ、現在の貧弱な自分の位置に就いて、富岡は心細いものをひそかに感じてゐた。絶対に二元性を持つてゐる自由な女の生き方に、こんな道もあつたのかと思はないわけにはゆかない。その癖、この間まで、女を荷厄介《にやくかい》に考へてゐた、あの卑怯《ひけふ》な感情はもうすつかり消えてしまつて、富岡はむしろ逃げてゆく魚に対してのすさまじい食慾すら感じてゐるのだつた。
「羨《うらや》ましいなア……」
そんな言葉が口をついて出た。
「まア! 何云つてるのよ。何が羨《うらやま》しいの? こんな暮しの何処が羨しいの? あなたは次々に云ふ事が変つてゆく人なのね?」
「いや気にさはつたら御免。只《たゞ》、さう思つたンだ。何も彼《か》もうまくゆかないとなると、人の暮しは羨しいと思ふンだね」
「人を馬鹿にしてゐる。男つて、みんなあなたみたいなのね。日本の男つて、肚《はら》のなかまで勝手なものだわ。自分の都合のいゝ事ばかり考へてる……」
ゆき子は苛々《いらいら》してゐた。富岡は炬燵《こたつ》のなかで膝を貧乏ゆすりしながら、ラジオの小箱を手にとつて、幾度もダイヤルをまはした。ゆき子は戸外へ出て行つた。ジョオが来たら、今夜は遠慮して貰ふつもりで暫く駅のところに立つてゐたが、三十分ばかりしてもジョオの姿は現はれなかつた。思ひあきらめて、ゆき子は、マアケットでカストリをビール壜に分けて貰つて小舎《こや》へ戻つた。富岡は炬燵につつぷしてうとうとしてゐた。その後姿は、妙に影が薄くて、ダラットで生活してゐた男の逞《たくま》しさなぞは少しもなかつた。
「お酒を買つて来たから、飲まない?」
「あゝ、御馳走してくれるのかい」
買つて来たローソクを新しく変へて、コップに並々と酒をついで、ゆき子もコップに唇をつけた。
「お仕事の方はうまくいつて?」
「仲々、思ふやうにはゆかない。いよいよ家を売るところにこぎつけて、乗るかそるかでやつてみるンだ」
「御家族はどうなさるの?」
「浦和に、叔母の家があるンで、みんなそつちへ引越しだ。やつてみるのさ……。人のふところを当てには出来なくなつてるンでね」
「大変ね……」
「いやに、よそよそしいンだな。案外落ちついて、馬鹿に調子よくやつてるンで、感心してしまつた……」
「皮肉ですか?」
ゆき子は酒に刺戟《しげき》されて、ジョオが来やうとどうしやうとかまふことはないと肚《はら》が据《すわ》つて来た。やりばのない、明日をも判らぬ、一時しのぎの傾向が、自分の本当の生活なのだと、ゆき子は大胆になつて、富岡の顔をじつとみつめた。埃臭《ほこりくさ》い男の体臭が、かへつて哀れに思へて、ゆき子は、環境で変つてゆく人間の生活の流れを不思議なものと悟る。少しづつさうした眼力が肥《こ》えてゆく事も淋しいとも思はずにゆき子は高見に立つて、富岡を見くだしてゐる気位を示してゐた。
富岡は、少しばかり金の工面《くめん》もして来てゐた。もそもそと内ポケットをさぐつて、ハトロンの封筒包みになつた金を出して、投げ出すやうに、炬燵の上へ置いた。
「少しなンだけど、君が困つてやしないかと思つてね……」
ゆき子は、そのハトロンの包みを見て、別に動じた様子もなく、
「私、日本へ戻つて、このごろ、色んな事が少しづつ判つて来たのよ。本当に日本が戦争に敗けてしまつた事も判つたのよ。これが現実だと思つたら、このごろ、富岡さんを恨《うら》む気もしなくなつたわ……」
ゆき子は七輪に炭をついで、するめを焼きながら云つた。焼いたするめを皿に小さく裂きながら、自分の指さきに、きらきら光るやうな安易な幸福を感じてゐた。人生はうまくゆくものだと云つた、そんな目の先の幸福がするめの匂ひのなかにこもつてゐるやうで、ゆき子は肚《はら》のなかでくすくす笑つてゐる。私は、うまく暮してるけど、いつたい、あなたはどうなのよ……。泥鰌《どぢやう》のやうに泡を噴いてるぢやないの? ゆき子はそんな気持ちだつた。
地響きをたてて省線の電車の音がしてゐる。ゆき子はあわてて入口の鍵をかけた。酒の酔ひがまはるにつれ、富岡もゆき子も、自然にものがなしく心が奈落に沈んで行つた。
「ダラットに残つて、あつちで暮すンだつたね?」
富岡が思ひついたやうに云つた。
「さうね、でも、かうして、戻つて来たのもいゝぢやないの? 私やつぱり、戻つて来てよかつたと思つてるわ。あのまゝダラットに住んでたつて、二人とも幸福ぢやないわ。昔のやうに、いい生活は出来つこはないし、敗けた国の人間として、無一文で暮すには、とても、二人とも我慢ならないぢやないの。やつぱり、かうして、みんなとみじめになつてゆくのが本当だわ……」
さうかしら……自分は本当の事を云つてゐるのかしらと、ゆき子は自分の言葉を、自分がむしかへして考へ、何となくずるいものを己れの言葉のなかに感じてもゐる。
人間の考へと云ふものは、何でも正確なものを欠いてゐる気がした。都合のいゝやうな事をうまく云ひたい為の行為だけが、人間の考へのなかの答へなのだと、ゆき子はするめを頬ばりながら、するめ臭い四囲の空気に、日本へ戻つてからの自分の勇気を味気なく考へてゐる。
富岡は、ラジオの箱を引き寄せて、スイッチをひねつた。歯切れのいゝアナウンサーのニュースが流れて来た。だがそのニュースはいんさんな気がした。
富岡は聞いてゐるに耐へない様子で、スイッチを切ると、思ひついたやうに、
「加野が戻つて来たらしいンだがね」と云つた。
「へえ……本当? 何時ですの?」
「此の間、鳥取の林野局の友人に久しぶりに逢つたら、そんな事を云つてゐた」
「まア! さうなの……元気かしら?」
「逢ひたいかい?」
「えゝ、やつぱり逢ひたいわ。あなたと違つて、正直ないゝ人だつたから」
「さうだらうね……」
加野が戻つて来たらしいと聞いて、ゆき子は急にまた仏印がなつかしく瞼《まぶた》に浮んで来た。一生のうちに、あのやうな青春の思ひ出は再びないだらうと思ふにつけ、富岡と自分の間には、加野と云ふ人物はなくてはならぬ人間なのである。突然、扉がこつこつと鳴つた。ゆき子は素早く立つて、扉を開けるなり戸外へ出て行つた。ジョオが立つてゐた。ゆき子はジョオを押すやうにして、今日は故郷から親類のものが来てゐるので、明日にしてくれと云つて、駅までジョオを送つて行つた。富岡は、肩のあたりに重いものを被《かぶ》せられたやうな胸苦しさで扉の外の外国の言葉を聞いてゐた。どのやうなきつかけでゆき子が、さうした外国人と知りあつたかが知りたかつた。大きな枕を眼にして富岡は、このまゝゆき子とは別れ去つてしまふやうな気がした。一時間位もして、ゆき子は一人で戻つて来た。
「邪魔だつたンぢやないのかい?」
「いゝのよ、帰したンだから……」
「どうして、知りあつたンだ?」
「そんな事、どうだつていゝでせう? あの人も淋しいのよ。あなたが、ニウを可愛いがつてた気持ちと同じよ……」
「妙な事を云ひなさンな……」
「私も、これから変つて行くのね……」
「さうだなア。それもいゝさ。何も云ふ事はないものね」
「私に、歌を教へてくれる程、若くて親切な人なのよ」
「ふうん……」
「とても、いゝ人だわ。でも、二ヶ月位したら、故郷へ戻るンだつて」
「また、次を探すンだね」
「まア! あなたつて厭な事を云ふわねえ……。私が、生きるか死ぬるかつていふ時に、めぐりあつた人なのよ。あなたは、女つてものをそんなものに考へてるンでせう? 満足に何一つ出来もしないで、私を馬鹿にしないで頂戴。――自分の都合のいゝ事ばつかり考へてて、その程度で女をどうにかする気持ちつて貧弱なもンだわ。あいまいな気持ちで、私の考へのなかにまで踏み込まないでよ」
ローソクの灯が消えた。天窓が馬鹿に明るい。ゆき子は手さぐりでローソクを探してマッチをすつた。
「このまゝで、引つこんでもいゝつて気持ちで、さつきみたいな事を云つたンでせう?」
ゆき子が、腹をたててゐる様子なので、富岡は残りの酒をあふり、帽子をぬいで畳に置いた。帰りたくない気持ちだつた。酒の酔ひは一時しのぎなものだつたが、一切の習慣をふり捨て、冒険的な淵《ふち》へ飛び込んでゆける力が湧《わ》いて来る。目的もなにもない酔ひと云ふものは気安くて、多勢の友人にとりかこまれたやうな賑やかなものを身につけてしまふ。逞《たくま》しくなつて来る。
刹那《せつな》の積み重つた甘さでもある。女を眼の前に坐らせて、これから起つて来る刹那に就いて、富岡は自分のいやらしさをためしてみたかつた。貂《てん》のやうな女の光つた眼が、酒の酔ひで、昔のエールを発散しはじめてゐる。日本へ戻つて来て、お互ひに、太陽の光線にも堪へられぬ程の心の衰へに到つてゐながら、酒の酔ひのなかから呼びに来る刹那の声は、少々の苦痛にはへこたれもしない力の強いものを、身内にみなぎらせて来る。
「今夜、泊つてもいゝかい?」
「泊るつもりで来たンぢやなかつたの?」
「泊るつもりさ……」
「嘘云つてるツ。急に泊りたくなつたンでせう? 判るわ。私、一つりかうになつた。あなたつて、やつぱり、そんな人だつたンだわ。偉い事云つて、私をすつかりくらましたつもりでゐて、やつぱり、日本の男なのね、泊つて行くといゝわ。一晩ぢゆう、私はあなたと起きていぢめてあげる……」
「いや、そんな気持ちで云つてるンぢやないよ。泊つていけなきやア泊らないさ。――どうも、気持ちが荒れちやつて、どうにもならないンだ……」
ゆき子がラジオをひねると、富岡はおつかぶせるやうに、
「外国のでもやつてくれよ。ダンス曲でもやつてないかね? 日本のラジオは胸に痛いンだ。聞いてはゐられないぢやアないか。やめてくれよ」
ラジオは戦犯の裁判に就いての模様だつた。ゆき子はそのラジオを意地悪く炬燵《こたつ》の上に置いた。富岡は急にかつとして、そのラジオのスイッチをとめて、床板の上に乱暴に放つた。
「何をするのよツ」
「聞きたくないンだ」
「よく聞いておくもンだわ。誰の事でもありやしないでしよ? 私達の事を問題にされてゐるンでせう? だから、あなたつて、駄目ツ。甘いのねえ……」
それでも、ゆき子は別に、ラジオの小箱を取りあげるでもなく、コップに唇をつけて富岡を睨んだ。戦争中の狂乱怒濤《どたう》が、すつかりおさまりかへつて、波一つない卑屈なまでの平坦《へいたん》さが、ゆき子には喜劇のやうに思へた。その喜劇のかたわれが二人で、この小さいあばら家にさしむかひに坐つてゐるのだ。富岡は臭いくつ下をぬいで、外套のまゝ横になつた。真白いふくふくした大きな枕があつたが、富岡は手枕のまゝ知らん顔をしてゐたし、ゆき子も、その枕には無関心でゐる。何にも束縛されない女の逞《たくま》しさを富岡はそこに見るのだ。
「やつぱり、あなたの力ではどうにもならないンでせう? 私と一緒に暮す事が出来なければ、私の生活は私でやつてゆくンですから、そのつもりでゐて下さいね」
「邪魔はしないさ。邪魔はしないが時々は遊びに来てもいゝだらう?」
「厭! 今夜だつて邪魔してるわ」
「営業妨害かね?」
「まア! それが、あなたの心なのね? あなたは、何時でもいゝ子になつて、人の弱点を笑ひたいのでせう? 加野さんも私も、あなたのそのわなに引つかゝつたンだわ」
「ぢやア、君は、僕にだまされたとでも云ふのかい?」
ゆき子は黙つてしまつた。五分五分な気持ちでつながつてゐたとは思はない。むしろ、自分の方が、富岡を熱愛してゐたのかも知れないのだ。ゆき子は口の中でもぐもぐやつてゐたするめの噛《か》みかけを、ぷつと掌《てのひら》に吐き捨てて叫ぶやうに云つた。
「私が、私が、あなたに惚《ほ》れてしまつたのですよ。さうでせう? 私がいけないのでせう?」
さう云つて、ゆき子は、するめの吐いたのを、七輪の中へぶつつけた。青い炎をたててた火の中で、するめはいぶつて匂つた。
その夜遅く、富岡は泊らないで帰つて行つた。まるで喧嘩別れのやうな帰り方であつた。ゆき子は、じいつと息を殺して、富岡の足の遠ざかるのを聞いてゐたが、急に切なくなり、ゆき子は扉を押して外へ出て行つた。星屑が空いちめんに拡がり、霜冷えする寒い道であつた。ゆき子は暗くなつたマアケットの裏を通つて、駅の方へ走つて行つてみた。富岡の姿は見えなかつた。
急に涙が溢《あふ》れ、行き場のないやりきれなさで、ゆき子は泣きながら小舎《こや》へ戻つた。三本目のローソクは誰もゐない部屋でゆらめきゆらめき小さくなつてゐた。乱暴な事を云つたのが後悔された。あとからあとからほとばしつて出て来る言葉のトゲは、けつして、富岡一人を責めたててゐる言葉ではないのだつたが、富岡は、「もう、君に、それ程までやつつけられては、泊る気もしないよ」と云つて、ゆつくりくつ下をはき、立ちあがつたのだ。ゆき子ははつとして、富岡の顔を見上げたけれども、口をついて出る言葉は、あとへ引けなかつた。ゆき子は泊つてほしい気持ちだつた。泊つて貰つて、淋しさを分けあひたい思ひだつた。
ゆき子はローソクの灯を吹き消した。そのまゝ炬燵にもぐり込んで、獣のやうに身を揉《も》んで泣いた。
富岡は遅く家へ戻つて来たが、ゆき子と厭な別れをして来た事が胸から離れなかつた。邦子は遅くまで荷造りをしてゐる様子だつた。長く住んだ此の家を売るとなると、いつそ焼けてしまつてゐた方がさばさばしてよかつたのではないかとも思へる。
自分の周囲をとりまくものが、何一つなくなつてしまひつゝあるのだ。仮定のなかに生きて行くものにとつて、これだけの家族は富岡にとつては、堅固な石の中に詰められて息も出ない苦しさだつた。ゆき子の生き方が羨《うらやま》しくもあつた。そのくせ、無性に、ゆき子の大胆な生活が哀れにさへ思へる。あの女をかばつて立つだけの力のなさが、自分でもはがゆい位だつた。近いうちに、もう一度逢つて、あの荒くけば立つた心をたしかめてから本当の別れをしなければ、このまゝでは、自分の方が敗北だと考へられた。このまゝで、ずるずるに逢つてゐるだけでは、自分と女の間に、何の結論も得られないのだ。だが、いつたい結論とは何を指して云ふのだらうかと、富岡は対立してしまつた、ゆき子と自分の感情を、これは何故なのかともじいつと考へてみる。日本へ戻つてみて、始めて微妙な女心を見たやうな気がしたが、また、自分の変化した心の転移にも、富岡はひそかに幻滅を感じないではゐられなかつた。人間の精神とは果敢《はか》ないものであり、その時々の、環境の培養菌《ばいやうきん》によつて、どんなにでも、精神は変化してしまふのだと、富岡は自分にうなだれてしまふ。千万の誓ひの言葉や、鋲《びやう》のやうにしつかりとめた筈の純粋さなぞは、泥土にまみれて平気なのであらう……。このまゝ別れてもいゝのだと思ふ気もあつたが、いや、今一度逢つて、たしかめてからにしても遅くはないと云つた、自分勝手な我儘《わがまゝ》な感情が、富岡の胸のなかには色模様をなして明滅した。
ゆき子は夜明けになつて、ダラットの官舎の夢を見てゐた。加野と二人でベランダに腰をかけて、抱きあつてゐるやうな、妙になまぐさい切ない夢であつた。
夢がさめてからも、ゆき子は、オントレーの茶園の一日が瞼《まぶた》に浮んで来た。加野と富岡と三人で、アルプル・プロイの茶園を見に行つた日の事だ。正月で、安南人の上流の者たちは、黒い上着の下から、白絹のズボンをのぞかせて、小高いオントレーの中央にある教会にお参りしてゐた。大森林に囲まれたオントレーの部落が、油絵のやうに美しかつた。
海抜高一、六○○米、気温は最高二五度、最低六度のところで、玄武岩質の赤土地帯で、茶の生育には、気候条件の不利を償《つぐな》つてあまりある由なのだと、富岡が説明してくれた。高原で低温地のせゐか、樹形《じゆけい》が横拡りになるのださうで、碁盤《ごばん》の目のやうに広々と植ゑられた茶園の間道を、ゆき子はレースのふちどりした白いワンピースで、富岡の腕に凭《もた》れて歩いてゐた。加野は時々、不愉快な顔をして立ちどまつた。そして云つた。
「僕は、さつきから、苦しくて、鼻血が出さうだ……」
妙な事を云ひ出したので、富岡も、ゆき子も立ち止つて加野を見た。
「どうなすつて? 気持ちが悪いンですの?」
「ゆき子さん、貴女は全く、ひどいひとだ。僕をなぶりものにしたい為に、こんなところへ、僕を連れ出したンですか?」
「あら、何故《なぜ》なの? 私別に……」
ゆき子が赤くなつて、何か云ひかけようとすると、加野は妙な笑ひかたをして、「富岡と腕を組まないでほしいンですよ」と云つた。
富岡は、加野が気でも狂つたのではないかと思つた。ゆき子はあわてて富岡から腕を放した。
富岡は急にあつはつはと笑つた。案内の安南人は、富岡の笑ひ声に吃驚《びつくり》して、自分に何か落度でもあるのかと不安な顔をしてゐた。
三人は離れて歩き始めた。
「十八ヶ月位たちました丈夫な苗《なへ》を植付けます。草を取つたり、中耕は年に五六回位で、施肥《せひ》は、一ヘクタールあたり、窒素が三十キロ、憐酸四十キロ、加里《カリ》が五十キロ位を標準としまして、隔年に施肥するわけでございます。植付けの後、二年位から摘葉《てきえふ》しまして、六年七年頃から、茶の収量は経営費を償ひ得るやうになり、十年たちますと、成年期になりますやうなわけで……」
ゆき子は案内人から、茶園の説明を聞いてゐるうちに、さうした長い歳月をかけて、根気よく茶の植付けに情熱をかたむけてゐる、仏蘭西人の大陸魂と云ふものに怖れを感じ始めた。説明や理窟ではくはしく判らなかつたが、それでも、眼の前の茶園の歴史が、そんなに長い月日をかけて植ゑられてゐるものとは、考へてみなかつただけに、短日月で、この広い茶園までも自由にしようとしてゐる日本人の腰掛け的なものの考へ方が、ひどく恥づかしくもあつた。
営々と続けられてゐる、他人の汗のあふれた土地の上を、狭い意地の悪さで歩いてゐる、野良猫のやうな自分のあさましさが反省された。加野に、腕をはなして歩いてくれと云はれた事が、ゆき子は妙に胸に引つかゝつて来た。案内人は、まだ、長々と説明をやめなかつたが、ゆき子は、そんなに長く日本人が何十年も、この仏印の土地に住みつけるとは思へなかつた。いまに、何かの形で、ひどい報《むく》いが来るやうな気もして来る。
「大軍の日本兵が押し寄せて来たところで、この広大な茶園やキナ事業は、一朝一夕《いつせき》には日本でやつてゆけるものぢやない。盗んで、汚なく、そこいらへ吐き捨てるのが関の山だね……」
富岡がつつぱなすやうに云つた。加野は返事もしないで、安南人の胸の、象牙《ざうげ》の大官章をむしり取つて、自分の胸に吊《つる》してゐる。ゆき子は厭な気持ちだつた。その夜、酒に酔つた加野にゆき子は腕を傷つけられたのだ。
みんな過ぎた思ひ出になつてしまつた。そして、あの美しい土地にごみごみと散らばつてゐた日本人は、みんな日本に追ひ返へされてしまつたのだ。
あたり前なのだわと、ゆき子は、ぱつちりと眼を開いて、夜の明けた天窓の雨もよひの空を、じいつとみつめた。
ふはふはとした大きい枕だけが、ひどくゆき子を慰めてくれる、昨夜、この小舎に富岡が尋ねて来た事も、それも夢のやうに思へた。
ゆき子が、ラジオを手に取つて、スイッチをひねると、突然、扉がこつこつと鳴つた。朝早く来る人がないだけに、ホテイ・ホテルの誰かなのかもしれないと、そのまゝ立つて扉を開けると、思ひがけなく伊庭が怖《おそろ》しい顔をして立つてゐた。後に、ホテイ・ホテルの女中がついて来てゐたが、何も云はずに、女中は路地の中を出て行つた。
「こんな事だらうと思つたよ」
靴をぬいで、づかづかと伊庭は上つて来た。ゆき子は震《ふる》へてものも云へなかつた。
「まさか、こゝまで探して来るとは考へなかつただらう? お前も、随分、人柄が変つたものだね……」
「あんまり大きい声しないでよ」
「生意気な事云ふなツ」
「何を、そんなに怒るのよ?」
「怒るのがあたり前ぢやないかツ。運送屋を探したンだよ。盗人をして、おまけに、蒲団を宿屋へ売つたりしてるのは、怒る事にならないかね。パンパンをしてゐるンださうだね……」
ゆき子は怒りで唇《くち》もきけなかつた。伊庭の猛《たけだけ》々しい態度に吐き気が来た。なる事ならば、このまゝ消えてしまひたい気持ちだつた。
「生きてゆく為には、仕方がないわ。蒲団位何なのよツ」
「蒲団がなければ稼《かせ》げないのかい?」
「いつたい、どうすればいゝのよツ。そんな大きな声をだして、私があんたの蒲団位貰つたつて、どうして、それが悪いの? 三年も私を玩具《おもちや》にしててその位の事が何だつて云ふのよ。欲しかつたら持つて行くといゝンだわ」
「汚ないが、貰つて行くよ。洗濯をすればまた使へる。貴重なものなンだからね」
伊庭は毒舌《どくぜつ》を吐きながら、煙草を出して咥《くは》へると、マッチを探す様子で、そこいらにある、ラジオや大きな枕に皮肉な笑ひを浮べた。ゆき子は伊庭の表情を見て胸にかつと燃え立つものを感じた。何でも思ひたい事を思ふがいゝ。一刻も、伊庭に、そこにゐて貰ひたくなかつた。伊庭は何か思ひついたやうに、
「仲々、景気がよささうだな。うまい事がありさうだが、どうだね。……うまい仕事に乗るやうな事はないかね……。一口乗せてくれゝば、蒲団なンか当分貸してやつてもいゝね」
ゆき子は、黙つてゐた。娘時代を、こんな男の自由になつてゐた事が哀《かな》しくさへあつた。自分の周《まは》りの男は、どうして、こんなに落ちぶれて卑しくなつてしまつてゐるのかと、不思議な気持ちだつた。
「何か、いゝ手蔓《てづる》はないかね。煙草とか、衣類とか、出ないのかい?」
「何を云つてるのよツ。早く蒲団を持つて行つて頂戴ツ。何もいらないわ……」
ゆき子は見栄《みえ》もなく涙が溢れた。辛くて、そこに伊庭の顔を見るのも不愉快であつた。伊庭は手をのばして、ラジオの小箱を引き寄せてスイッチをひねつた。三味線の音色が、爽《さはや》かに流れ出した。
「ほう、こりやア電池で鳴るンだね。便利なものだなア……」
小箱の裏側の蓋《ふた》を開けると、小さい玩具のやうな真空管がいくつも並んでゐた。ゆき子は立つたなりそれを見降してゐたが、思ひついたやうに、蒲団から、炬燵櫓《こたつやぐら》を引つぱり出して、さつさと風を切るやうな音をたてて蒲団をたゝみ出した。
「まア、そんな、急に片づける事はないやね……」
昨日から、この小さいラジオが馬鹿にたゝつてゐるやうで、ゆき子は、その三味線の音色に佗《わび》しくなつてゐる。
「ところで、芋干しを七八貫持つて来たンだが、何処か売り口を知らないかね?」
ラジオの蓋を閉めながら云つた。芋干しの売れ口なぞ、ゆき子は知るものかと、返事もしなかつた。
「このラジオは、高価なものだらうなア」
「私のぢやないのよツ」
「日本でも、こいつの真似をして、新案登録出来ないものかな……。流石《さすが》に、うまいものが出来てるもンだね……」
伊庭は感心して、ラジオを手に吊りさげ、耳をかたむけて、三味線の音を聴いてゐる。
もう一度、逢ふつもりで、富岡は、ゆき子のところへ速達を出した。あの家で逢ふ気はしなかつた。おびえた心で、あの家に坐つてゐる気はなかつたので、富岡は、四谷見付の駅で待ちあはせるやうにして、時間と、日を知らせてやつた。
あいにくと、その日は雨であつたが、クリスマスも過ぎ、暮れ近い、あわたゞしさが、街にこもつてゐたせゐか、雨の降つてゐるのも気にかゝらないやうな、そんな、人に忘れられた、しぽしぽした雨の日であつた。
富岡は駅で十分ほど待つた。
激しい乗降客ではなかつたが、それでも、改札を、出入りする人達は、種々様々の階級が、富岡の眼の前を忙《せ》はしく通つて行つた。富岡は何と云ふ事もなく、絶望的な気持ちになつてゐた。その絶望感は、仏印にゐた時も時々感じてゐた。不安のこもつたもので、これ以上はどうしやうもないといつた、つきつめた思ひが、通り魔のやうに、富岡の胸のなかにこもつてきてゐた。
富岡は、靴のさきを、ばたばたと貧乏ゆるぎさせながら、坂になつた道を見上げてゐた。鉛色の光つた坂道を、濡れ鼠になつた雑種の犬が、よろめきながら、誰かを探し求めるやうに歩きまはつてゐる。
時計を見ながら、富岡は、ゆき子がもう来ないのではないかと思つた。少し待つてみて、来なければ、来ないで、そのつもりで、戻ればいゝのだと、よろめき歩いてゐる犬へ向つて、口笛を吹いてみたりした。犬は口笛の吹かれてゐる方をちらりと振り返つて、富岡をしげしげと見てゐたが、このひとは違ふんだと云つた、哀れつぽい眼つきで、すたすたと、八ツ手の植込みの方へまぎれて行つた。
「待つたでせう?」
ゆき子が、駅の廂《ひさし》のところに立つてゐる富岡のそばへ、肩をぶつつけて来た。
「三十分も過ぎたンだから、もう、ゐないと思つて、よつぽど、引返さうかしらと考へたのよ。ごめんなさいね……」
ゆき子は、赤い絹のマフラを頭から被つて、顎《あご》の下にきつく結び、生々とした表情で、背の高い富岡の顔を見上げてゐる。富岡は、三十分も遅れたので、家へ引返さうと思つたと云つた、ゆき子の言葉が気に入らなかつた。自分が此の女に、上手にあしらはれてゐるやうな気がしてゐる。ゆとりのある女の心の状態が、富岡には厭な気持ちだつた。別れ時が来てゐると思つた。
富岡が歩き出すと、ゆき子もそのまゝ、水溜りのなかへはいつて来た。――富岡は孤独に耐へられない気持ちで、一人でさつさと歩きながらも、後から濡れた道をびちやびちやと歩いて来るゆき子の表情を、素通しにして、心で眺め、自分の孤独の道づれになつて貰ひたい気持ちになつてゐた。そのくせ、ゆき子と歩いてゐる時は、何となく犯罪感がつきまとふ気さへしてくる。
自分の孤独を考へてゆきながら、その孤独に、ひどく戦慄《せんりつ》してゐるやうな、おびえを、富岡は感じてゐた。現在に立ち到つて、何ものも所有しないと云ふ孤独には、富岡は耐《た》へてゆけない淋しさだつた。自分を慰めてくれる、自己のなかの神すらも、いまは所有してゐないとなると、空虚なやぶれかぶれが、胸のなかに押されるやうに、鮮かにうごいて来る。
ゆき子と、二人きりで、いまのまゝの気持ちで、自殺してしまひたかつた。――若い日本の男が、外国の女とかけおちをして、追手に反抗して、郊外の駅で劇薬をのんだ事件があつたのを、富岡は思ひ出してゐた。
人間と云ふものの哀しさが、浮雲のやうにたよりなく感じられた。まるきり生きてゆく自信がなかつたのだ。二人は、何処へ行く当てもなく、市電の停留所までぶらぶら歩いた。
「ねえ、寒いわねえ……。何処か、お茶でも飲みに這入《はい》りませうか?」
「うん」
「いやに、しけてるぢやないの……」
「しけてる」
「えゝ」
「厭な事を云ふね……」
「さう……。独りでゐると、いろんな言葉を覚えちやふのよ……。荒《すさ》んでゆくのが、自分でも、怖いみたい」
「ふうん……。そんなものかね。如何にも、楽々として、愉《たの》しさうに見えるよ」
「あら、厭だわ。さうかしら。ちつとも、楽々となンか、してないわ。――さう見えるなんて、癪だわね……。貴方だつて、あの頃とすつかりお変りになつてよ……。ねえ、あゝ、もう、私は、何だか少しも、先の事が、判らなくなつてしまつた……」
富岡は、雨の街に立つて、並樹の美しい、昔の東宮御所の方を眺めてゐた。この建物も、現在はどんな方面に使はれてゐるのかは判らなかつたが、鉄柵を透《す》かして、淡い灰色の御所の建物が、雨に煙り、並樹の黒い塊が、如何《いか》にも外国の絵でも見るやうに、新鮮だつた。
じいつと見てゐるうちに、また、空虚な、とらへどころのない絶望がおそつて来た。
富岡は、御所の道に添つて歩いた。ゆき子も黙つて、富岡と並んで歩いてゐる。
「仏印はよかつたね……」
「あら、貴方もさう思つていらつしたの……。私も、いまね、仏印の事を考へてゐたのよ。なつかしいわア……。あんなところ夢ね。私達、夢を見てゐたのよ。さうなのね……。夢を見てたンだわ。――でも、夢にしても、貴方に逢つたンだから、不思議だわ……」
「あんな事もあつたのかと、時々、思ふだけのものさ……」
「あの時は、貴方だつて、私だつていゝ人間だつたわ。自然な人間まる出しでね……」
「うん、それでも、本当の幸福ぢやなかつたのかも知れないね。さうぢやアないのかなア。いまね、この御所を見てゐて、急に、何だか、現在の方が倖《しあは》せのやうな気がしたンだ。――やぶれたものの哀れさは、美しい。さう考へないかい? いまは、この建物も、何に使はれてゐるのか知らないが、昔は御所だつたンだよ、そのなごりが、そここゝに残つてゐてさ。何となく、しみじみとするね」
ゆき子は、御所の土壁の塀《へい》を呆《ぼ》んやり見上げた。淡い土壁の匂ひがした。富岡が感傷的になつてゐるほどには、その気持ちについてはゆけなかつたけれども、やつぱり、ゆき子にも、ものの哀れは感じられる。雨が降つて寒かつたせゐか、四囲の景色が、ひどく印象的だつた。御所の横の、広い道路を、ハイカラな、コバルト色の自動車がしゆんしゆんと走つて行つた。
富岡は、自分の淋しさを咬《か》む気持ちであつた。何一つ、押しつける事なく、この女に自然な死の道づれになつて貰ひたい気持ちだつた。
今日まで生きて来て、何も彼も、国とともに喪失してしまつてゐると云ふ感情は、背筋が冷い、この冬の雨のやうな佗《わび》しさだつた。孤独な国の、一人々々は、釘づけになつてゐるやうなものだと考へる。如何なる戦争も、やぶれてこそ、愛《かな》しく哀れでもあると思へた。やぶれた敗者の魂には、人知れず、昔のファンタジーを呼びとめる何かがあるやうに、そのファンタジーは、時々は、誰にも反省をうながすものであらう。――富岡は、何も考へてはゐないやうな、単純な女の生活のファイトを羨《うらや》みながらも、ひそかに、その女の、平易な心の流れに不服なものを感じるのだつた。女自身は、何も欠乏してはゐないのだと、富岡は、ふつと、自分のそばに、寄り添つて歩いてゐるゆき子を見降した。怖ろしい事には、この女に限らず、どの女も、長い戦争の苦しみを、通つて来た痕跡を、少しもとゞめてゐないといふ妙な発見だつた。
「ねえ、何処まで歩くのよ?」
「疲れたのかい?」
「だつて、濡れて歩くの、たまらないわ。風邪《かぜ》ひいてしまふわ……」
「赤坂へ出て、あすこから、渋谷へ都電で出てみるのもいいぜ」
「えゝ。――ねえ、話つて、なあに?」
「話か……。別に、たいした話もないンだがね」
「勝手なひとね……」
「さうかね? 君に逢ひたかつたからなンだよ」
「嘘! 嘘云つてるわ。私に逢ひたいなンて、そんな優しい言葉を聞くのは、初めてね?」
「女と云ふものは、そんなに、優しい言葉を聞きたいものかい?」
「そりやア、さうよ……」
富岡は、かうした会話のがいねんに、やりきれなくなつてゐた。かうして、逢つてみても、何も収穫がないのだ。そのくせ、人々の魂の上に、敗者の心の乱れや、その日暮しのあくせくした思ひだけが、黒雲のやうにのしかゝつて来てゐる。自分は自分なのだと、承知してゐながら、何も知らぬ相手まで、自我のなかに引きずり込んで、道づれをつくりたいと云ふ甘つたれた浅はかな慾望が、富岡には、自分でも解らなかつた。何か収穫があるやうな錯覚《さくかく》で、日々を生きてゐるだけの自分が、ずるい人間のやうにも考へられて来る。
渋谷へ出て、ガード下の中華料理へ二人は這入つた。煉炭ストーブのそばの椅子に、差し向ひに腰をかけた。青い炎が、蓮《はす》の穴からぽつぽつと息を噴きあげてゐる。客もない、がらんとした部屋の隅に、よれよれの白い上着を着た給仕女が、三人ばかり立つてゐた。
ゆき子は、煉炭火鉢の上に手をかざしながら、雨に濡れたマフラを金網の上に干した。
給仕女に注文を聞かれて、富岡は焼きそばを頼んだ。
「それから、酒を一本つけてくれないかね」
ゆき子は、にやにや笑ひながら、プラスチックの緑色のハンドバッグから、外国煙草を出して、富岡に一本取らせた。
「私達つて、行く処がないみたいね……」
「うん……」
美味《うま》さうに煙草を吸ひながら、富岡は、雨のなかをさまよひ歩いて、ひどく疲れが出てゐた。速達を出したものの、別に話し合はなければならない理由も、いまはない。
「何時、引越しですか?」
「家族のものは引越しちやつたよ。今度の正月は、がらんとした空家でおくるンだ……」
「あら、一人で?」
「細君は残るだらう……」
「なあンだ、おのろけね……」
ゆき子は、子供のやうに、がつかりして見せた。軈《やが》て酒が運ばれてきた。
「加野の住所が判つたンだよ。逢つてみるかい?」
「あら、住所が判つたの? 何処にいらつしやるの?」
富岡は小さいメモを出して、ぱらぱらとめくりながら、自分の名刺の裏に、加野の住所を鉛筆で書いて、ゆき子に渡した。
「あら、小田原にいらつしやるの?」
「おふくろと一緒ださうだ。まだ、独りでゐるらしいね」
ゆき子はらんらんと光つた眼で、富岡の意地の悪さに反撥《はんぱつ》してみせた。そのくせ胸の奥では、仏印で別れたまゝの加野へ対して、逢ひたさ、なつかしさが燃え上つて来た。
酒は腹のなかに浸《し》み渡り、冷えきつた躯《からだ》をあたゝめてくれた。ゆき子も二三杯の酒をつきあつた。
「もう、あと、三日だね?」
「何が?」
「正月が来ると云ふ事さ……」
「あら、お正月の事なンか、考へてみた事もなかつたわ」
「どうだね、今日、このまゝ、伊香保か、日光の方へでも行つてみる気はないかね?」
「まア、伊香保つて、私、行つた事ないけど、いゝわねえ……。ざぶざぶ、熱いお湯にはいりたいわ。本当に行けるの?」
「一泊か二泊位なら行ける。行つてみるかい?」
永遠の海のなかに浮いてゐる以上、ちつぽけな人間の心のおもむくまゝに、好き勝手もいゝぢやないかと、富岡は、いざとなれば、ゆき子とともに、枯木の山の中で、果ててしまひたい気持ちだつた。
(お前は、俺にていよく殺される事も知らないで、にこにこ笑つてゐるンだよ……)富岡は、猛烈な食慾で、焼きそばを食べてゐるゆき子を見てゐた。金メッキの耳輪が、小さい耳朶《みゝたぶ》にゆれてゐる。黒い髪の毛は、襟《えり》もとで短く刈り込んでゐた。
「伊香保つて、寒くない?」
「寒くてもいゝさ」
「それはさうね」
まるで、新婚夫婦が、旅のプランを相談してゐるやうな、浮々した表情で、ゆき子は、加野の名刺をハンドバッグに入れて、それとなくコンパクトを出して、鼻の先に鏡を開いた。
富岡は女を殺す場面を空想してゐる。音のない芝居のやうに、血みどろなゆき子の姿が、ゆるく空想の景色の中で動いてゐる。危険な感情だつたが、その危険な思ひに這入り込んでゆける勇気が、爽快《さうくわい》でさへあつた。殺してやる。そして、自分も折り重なつて死ぬ。それだけのものだ。誰も自分達に対して、文句を云ふものはないのだと、富岡は二本目の酒を注文して、化粧をしてゐるゆき子の平べつたい顔を呆《ぼ》んやりみつめてゐた。この顔が、外国人に好かれるのかなと、妙な気がした、卑《いや》しい顔だつた。平《ひら》べつたくて、顎《あご》が張り、何のとりえもない平凡さだ。だが、よく見てゐると、原始人に近いのだ。額や、眉や、眼のあたりが、仏像のやうでもあつた。
「家は、留守をしても大丈夫なのかい?」
「えゝ、鍵をかけて来てるから、人が来ても、ゐないと思ふでせう?」
「伊庭が蒲団を取りに来たンだつて?」
「あら、私の手紙着いて? さうなの。いま、だから、私は毛布で寝てるのよ」
ゆき子は別に困つた様子もなく、徳利を取りあげて、富岡の盃に酒をついだ。富岡は冷えた焼きそばの上に散らかつてゐる、葱《ねぎ》や筍《たけのこ》を肴《さかな》に、酒を飲んでゐる。日々の生活が、如何《いか》にくだらなく憐むべきかと、富岡は、自分のやつてゐる事が喜劇的に思へて来た。みんな、大真面目に、悲劇をくりかへしてゐると思ひながら、人類をうるほすところの、人間の悲劇味は、何千年の昔から、何一つありはしなかつたのぢやないかと、うたぐつて来る。みんな、人間のやつてゐる事は、喜劇の連続だつた。心臆《おく》して、こそこそと喜劇のなかで、人間は生きる。正義をふりかざす事も喜劇。人間の善も悪もみな喜劇ならざるはない。涙の出るほどのをかし味のなかに、人間は、自分に合つた、尤も至極な理窟をつけて、生活をしてゐる。死のまぎはになつて、初めて、吻《ほ》つとして、あゝと、本当の溜息が出るものかも知れない。
思ひきつて、富岡は、ゆき子を連れて伊香保へ行つた。伊香保へは夜更けて着いた。宿引きに、金太夫と云ふ旅館へ連れて行かれた。坂の多い温泉町で、その坂は、路地ほどの狭さだつた。湯花の匂ひがむつと鼻に来る。ゆき子は珍しさうに、坂道の両側の家々を覗《のぞ》いて歩いた。不如帰《ほととぎす》で有名な伊香保と云ふところが、案外素朴《そぼく》で、如何にもロマンチックだつた。夜更けて着いたせゐか、水の音も、山の風も、凍つたやうに肌を刺す。宿の奥まつた部屋へ這入ると、部屋には大きな炬燵《こたつ》がつくつてあつた。炬燵の上には、一枚板が乗つかつてゐる。ゆき子は冷えた膝を炬燵に入れた。ほかほかと暖かつた。
「とても、いゝところね。貴方《あなた》、どうして、こんな処を知つてゐるの。昔、来た事あるの?」
ゆき子が甘えて聞いた。
「学生の頃、来たンだ……」
「とてもいゝ処だわ。ダラットみたいね。お金でもあつて、暫く、こんなところで呆んやり暮してみたいわね……」
「うん、それでも、長くゐたつて、飽きちやふだらう。二日位が関の山だね……」
「さうね、その位がいゝところでせうね……」
狭い部屋だつたが、窓の下は渓流になつてゐるのか、そうそうと水音がしてゐた。顔の赧《あか》い女中が、干柿と茶を持つて這入つて来た。床の間には、籠型の花筒に、小菊が活けてあり、石版画の山水の軸《ぢく》がかゝつてゐる。ありふれた部屋だつたが、旅室で、しかも温泉町へ来たと云ふ思ひがあるせゐか、今朝感じてゐたほどの淋しさも、案外さらりとして来てゐた。絶望だの、何だのと云つたところで、かうした転換法さへ心得てゐれば、すぐ、目のさきの気分は一転して、人間は愉《たの》しくなり、一時しのぎの気持ちにもなるのだつた。仄々《ほのぼの》として来た。不思議な心の波だと、富岡は、自分でもをかしくなつてゐた。女と死ぬために、わざわざ芝居がかりの死の舞台を求めるなぞと云ふ事も、大きな宇宙のなかでは、一粒の泡ほどの事件でしかないのだと、富岡は、外套のまゝ、ごろりと炬燵に寝転び、手枕をしたまゝ、煤《すす》けた天井をみつめてゐた。
「褞袍《どてら》を、お着替へになりましては、如何ですか?」
女中が褞袍を持つて来た。ゆき子は、次の間ですぐ着替へて、女中に手拭を貸してくれないかと云つてゐる。富岡は湯にはいるのも億《おく》くうになつてゐた。躯を動かすのも大儀で仕方がない。このまゝ消えてゆけるものならば、此のまゝぼおつと地の底に消えてしまひたかつた。
「ねえ、お着替へにならない?」
「うん……」
「ねえ、着替へて、早く御飯にして貰ひませうよ。とても、私、おなか、空いちやつたわ」
「うるさいなア。ゆつくりさしてくれよ。君、湯に這入つて来たらいいだらう」
ゆき子は、ぬぎ散らかしたものを、部屋の隅に放つて、炬燵のそばへ来ると、褞袍の袖《そで》の匂ひをかぎながら、
「あゝ、人臭い、人臭い……」と疳性《かんしやう》に云つた。
富岡は大分酔つてゐた。久しぶりに、軽々と心が解放された気持ちで、床柱に凭《もた》れたまゝ、安南《あんなん》語で唄をくちずさんでゐる。
あなたの恋も、わたしの恋も、はじめの日だけは、真実だつた。あの眼は、本当の眼だつた。わたしの眼も、あの日の、あの時は、本当の眼だつた。いまは、あなたも、わたしも、うたがひの眼――。
そんな意味の、安南の流行《はや》り唄《うた》だつた。ゆき子も大分酔つてゐたので、うろおぼえの唄についてゆきながら、しみじみとダラットの生活をなつかしがつてゐる。
いまさら、思ひ出したところで、何もならない事だつたが、遠く過ぎた夢は、なつかしい。ゆき子は、足をのばして、炬燵の中の男の足をさぐつた。熱い足が足裏にさはつた。
「富岡さん、何時までも、元気でね。時々、ダラットの事思ひ出したら、ゆき子を呼んで頂戴……。ね、私、諦《あき》らめちやつたの。時々、かうして逢つて貰へばいゝ事よ。ね、その方がいゝわ。――さつきの唄みたいなのが、私達の間柄だつたンだつて判つたわよ……」
富岡は眼をつぶり、静かに安南の唄を口ずさんでゐる。ゆき子は、立つて、富岡のそばに行き、並んで炬燵《こたつ》へ滑り込んだ。富岡はそれでも唄ひ続けて、眼を開けなかつた。
「どうして、自分一人で、考へごとをしてゐるの? 私にも、考へてゐる事を、分けて頂戴! ね、半分頂戴……」
考へてゐる事を、半分頂戴と云はれて、富岡はぱつと眼を開いた。
ゆき子が可愛かつた。自然に出る、女の言葉は、瞬間の虹《にじ》のやうなものであるだけに、富岡は、誘はれる気持ちで、ゆき子の指を取り、唇に持つて行つた。
「私、淋しい、淋しい、淋しい、淋しいのよオ……」
富岡の胸にしがみつくやうにして、ゆき子は、淋しい淋しいと、小さい声で叫んだ。富岡はまじまじと女の狂態を眺めながら、少しも、ゆき子のその狂態に感動は出来なかつた。女の心は、窓下の水の流れと同じやうに、只、瞬間のなかに流されてゐるとしか考へられない。――富岡は、死の方法に就いてのみ、考へをめぐらせてゐた。立派に息の根をとめる事が出来るものであらうか、どうかを、考へてゐる。女を殺して、その後から、うまく、自分も死ねるものであらうかどうかを、富岡は、数字のやうに計算をしてゐた。愛しあつて死ぬるわけのものではないかと云ふ事を、自分の死んだあとは、誰も判つてはくれないだらう……。それもよからうと思つた。
此の場合、富岡には「死」そのものが必要だつたのだ。女を道づれにするのはどうなのだ? これは、自分の死の道具に過ぎないのさ。勝手な奴だな。俺はさう云ふ人間なンだ……。富岡は、ゆき子の指を時々固く握り締めてみながら、自分の心に自問自答してゐる。怖ろしいとか、つくりものだとか、いやらしいとかの考へだと云ふのならば、それは他人の考へる事であつて、死んでゆくものは、案外、悲劇を演じてゐるつもりかも知れない。
食ひ荒した炬燵の上の赤い広蓋《ひろぶた》に、電燈が反射してゐる。赤い塗りに、金で小松が描いてある。これも、いまに、見をさめだな……。富岡は、部屋のすべてを眺めまはした。山の中へ這入つて、この二人は、間もなく死んでしまふンだよと、心でひそかに言葉をのべてゐた。
生涯《しやうがい》の最後だと思ふと、何も彼も淋しい美しい。いとしくなるほど、すべて見るものが美しいのだ。菊の花の、白に見える薄黄ろ……。汚れた軸の山水から風が吹きあげてゐる。今朝の東京の、御所の雨が心を掠《かす》めた。
伊香保は雨が晴れてゐた。
「商売はどんな風なの?」
「商売?」
「えゝ、材木の方のお仕事よ」
「あゝ、仕事かい? 何とかなるだらう……」
「家は、まだ売れないの?」
「売れて、半金は貰つた。来年登記をして、一月の終りには、家を明け渡すのさ……」
「いくらに売れて?」
「いくらでもいゝぢやアないか」
「そりやアさうだけど……。だつて、聞いたつていゝでせう?」
ゆき子は、一時の狂態も過ぎてゆくと、じいつと眼をすゑて、富岡を眺めながら、どうして、こんな男に惹《ひ》かれてゐるのか、自分でもをかしかつた。只《たゞ》、その場で逢つてゐるだけの二人のやうでもある。ゆき子は立つて、手拭を取つて、また湯に這入りに行つた。
狭い階段を降りて、湯殿へ這入ると、深夜の湯殿に、パアマネントの長い髪をふりみだした若い女が二人、声高で喋《しやべ》り散らしてゐた。
赤く濁つた湯が、タイルのふちにたぷたぷ溢《あふ》れてゐる。ゆき子は黙つて、浴槽の女達の前へ片脚を入れた。酔つてゐるせゐか、脚がふらついて、よろけて、どぼんと湯の中へ飛び込むと、湯のしぶきがあがつて、二人の女達は飛びのきざまに、顔をしかめた。如何にも意地の悪い表情で、二人は舌打ちしてざあつと、立ちあがつた。
「ごめんなさい……」
ゆき子はあやまつた。二人の女はにこりともしない。ゆき子は疳《かん》にさはつて、赤い湯の中に、のびのびと脚をのばした。二人は、都会の女に違ひないのだけれども、骨太な百姓の女のやうな逞《たく》ましい大きい腰つきをしてゐた。
ゆき子は、すんなりとした自分の裸が自慢で、その女達と並んでみせたい衝動にかられてゐる。女達は、タイルの流し場に、べつたりと坐り込んで、また、さつきの話の続きを始め出した。
「別れぎはに、たみちやんてばさア、カムアゲンつて云つたンだつてよ。あのひと、カムアゲンしか知らないンだからね。そしたらさア、向うは、泳ぐまねをしてさ、もう、男の間を泳ぐのはやめて、オフィスにでも勤めなさいつて云つたンだつてよ。――そいで、すぐまた、泳ぎまはつてるンだから世話はないやね。……日本の男は見るのも厭だつてさア」
二人はげらげら笑ひ出した。
はゝア、そんな階級の女なのだなと、ゆき子は池袋の自分の小舎《こや》を思ひ出してゐた。いまごろは、尋ねて来て、扉をこつこつ叩《たゝ》いてゐるかも知れない。二人の女は、匂ひのいゝ石けんを使ひ、プラスチックの、大きな櫛《くし》で、お互ひ同士、髪をかきつけあつてゐる。
二人の態度は、酔つてゐるゆき子の眼には、いどみかゝつてゐるやうに見えた。お前達とは人種が違ふンだからねと云はンばかりに、ハイカラな大瓶に這入つた水クリームや、大判のタオルをみせびらかしてゐる。ゆき子は、宿の女中に借りた、煮〆めたやうな日本手拭と、魚臭い石けんを使つてゐた。
「ねえ、明日帰つたら、私、洋服屋へ行くンだけど、あんたも行つてみてくンないかなア……。真紅《まつか》なスーツで、金釦《きんボタン》をつけて貰つたンだよ」
「へえ、大したものだねえ、ユウのハートが、つくつてくれたのかい?」
「そりやア、さうさ。あのひと、気前はいゝンだから」
ゆき子は、くすくすと笑つた。唇の真赤な女がちらりと、笑つてゐるゆき子の方を見て、
「何を笑ふのさア」と、怒つて云つた。
「あら、私、自分の事思ひ出し笑ひしてるのよ。妙な事云はないでよツ」
「チヱッ、馬鹿にしてるよ。酔つぱらつて湯をぶつかけたくせに」
「あら、ごめんなさいつて、云つたぢやないの?」
もう一人の骨張つた女が、「酔つぱらひに、かゝりあふのおよしなさいよツ」と云つた。
二人はさつさと水しぶきをあげるやうな見幕で、脱衣場の方へ出て行つた。
「耳輪《イヤリング》なんかしてさ、汚ない手拭使つてるの、あれなアに? よう、何だらうね……」
「知れてるぢやないか……」
二人の忍び笑ひがした。ゆき子はざぶざぶと湯を使ひながら、大きい声で、
あなたの恋も
わたしの恋も
初めの日だけは
真実だつた……。
と、安南語で歌つた。案外、なまめかしく柔い声だつた。しのび笑ひはとまつた。
あの眼は、
本当の眼だつた。
わたしの眼も
あの日の
あの時は
本当の眼だつた。
いまはあなたもわたしも
うたがひの眼……。
唄つてゆきながら、ゆき子は、放蕩《ほうとう》の果てのやうな荒《す》さんだ気持ちだつた。
意味もなく、富岡とゆき子は、二日ばかりを伊香保で暮した。二日も雨が続いた。流石《さすが》に、正月を明日にひかへては客もなく、広い旅館はひつそりしてゐた。
富岡は、二日の間に、何ものも把握する事は出来なかつた。真剣にものを考へようとして、少しも心は中心へ向いてはゆかなかつた。
自己矛盾にとらはれてゐる。自分をどのやうに始末してよいのか判らない。戦争が済んで、遠くから戻つて来たものには、どの人間にもかうした一種の気後《きおく》れがあるのではないかと思へた。
その気後れを気づいてゐる者と、気づいてゐない者とあつたとしたところで、狭い天地で、釘づけにされた人種は、一人々々が、孤独に、てんでんばらばらになつてゆくより、道はないのではないかと思へた。
全面的な真理を追ふには、かうしたやぶれた国の狭い土地では、たうていむづかしい、空虚な理想なのである。
生活すると云ふ可能性を、凡《あら》ゆる瞬間において、思ひがけなく否定される障害もあり得る……。富岡は、さうした天地の狭さのなかに疲れ切つてしまつたし、家族を平和に支へて行く技術にも、へとへとになつてゐた。
みんな気むづかしくなつて来る。家族のものは、別々に孤独の穴へ穴ごもりをするだけの現実になつてしまふきりだ。
「ねえ、煙草、ない?」
「ないよ」
「何をそんなに、貴方は考へ詰めてゐるのさア? 焦々《いらいら》してるのね。――いつそ、正月を、こゝで暮して行きませんか? お金が足りなかつたら、私の外套《ぐわいたう》を置いてもいゝし、この時計を置いてもいゝわ。みつともなかつたら、町へ出て、時計を売つて来るつもりよ……」
ゆき子は、さう云つて、灰皿から、吸ひ殻をひろつて、短い吸ひ殻をパイプに突きさして火をつけた。
富岡は、炬燵《こたつ》に腹這《はらば》つて、昨日の新聞をもう一度くり返して読んでゐたが、「おい……」と、思ひ詰めたやうに、くるりと、畳に片肘《かたひぢ》突いて、ゆき子の顔を、下から見上げた。
「何よ?」
「うん、別に、何て事もないンだが、つくづく、世の中が厭になつちやつたなア……」
「どうして、どんな事なの?」
どんな事なのだと聞かれて、富岡は頬のしびれるやうな気がした。乾いた眼を、白々と開いたなりで、ゆき子の化粧のはげた顔を見つめ、冷たくつつぱなすやうに云つた。
「生きてゐるのも退屈だね……」
ゆき子は、何を意味する言葉なのか、一寸判らなかつた。富岡は、ゆき子の胸の釦《ボタン》のはづれさうなのを、指で引つぱりながら、
「僕達は、どうにも仕方がないと云ふ事さ」
「仕方がなくないぢやアないの……。貴方の心境つて、妙に底をついて来たのね……」
「ふうん、うまい事を云ふね……。さうなンだよ。――ぢやア、君は、底をついてないンだね。面白いだらうね。世の中が面白いだらうね……」
「何が、面白いのよ?」
「こんな時勢になつた事がさ……」
ゆき子は、富岡の考へてゐる事が少しづつ判りかけて来た。甘い涙が、咽喉元《のどもと》まで、溢《あふ》れさうな気持ちだつた。
「私、貴方の思つてる事、云つてみませうか?」
「いや、云つて貰はなくてもいゝ……」
「別れる話?」
「違ふツ」
釦がぽろりとはづれた。はづれた釦を握つたまゝ、富岡はぬるい炬燵に躯《からだ》を縮めるやうにして、横になつた。
「私、時計を売つて来ていゝ?――ねえ、お正月をこゝで過したいわ……」
窓硝子《まどガラス》に、白い雨がにじんで来た。ついツ、ついツと、小鳥が廂《ひさし》をよぎつてゐる。ゆき子は立つて、硝子戸を開けた。眼の前の山も空も乳色に煙つてゐる。仏印の山々の、雨に煙つてゐる景色に似てゐる。富岡は貝釦を手でまさぐりながら、畳の上に置いて、子供のおはじきのやうに、小指や、人差し指ではじいてゐた。
「お正月は雨だわね……」
硝子を閉めて、また、ゆき子は炬燵に這入つた。富岡は、むつくり起きあがつて、炬燵の上に貝釦を置くと、ゆき子へともつかず、自分へともつかず、つぶやくやうに、
「死にたくなつた……」と云つた。
何気なく聞き流して、ゆき子は、釦を取つて、一寸胸にあててみたが、釦のとれたあとの糸屑を疳性《かんしやう》に引つぱりながら、
「私だつて、死にたいわよ」と、ぽつんと云つた。
「君なンか、安々とは死ねやしないさ。これから、大いに発展して、もう少し、人生を愉《たの》しむンだね……」
「まア! 何を発展するのよ? 妙な事云はないで頂戴」
「それぢやア、死ぬる事を、本気に考へた事あるかい? 虚心な気持ちで、本気で考へもしないで、安つぽく死ぬなンて云ふのはよしたがいゝよ」
「いゝえ、本気に考へるのよ。私、何時だつて考へたわ。海防《ハイフォン》でも死ぬつもりだつたし、ダラットで、加野さんの事件があつた時も、その事を考へてたわ。――だから、私は、死ぬ事なンて、怖くもなンともないンですよ」
「ふうん……。それは、まだまだ死ねないね。怖くも何ともないなンて力んでゐるうちは、死に就いて、楽観してるつて事だよ。死ぬと云ふ事は、本当は怖いものなンだ。――かあつとした、真空状態になるのを待たなければ、仲々死ねないものだ。君は、もし、万一、死を選ぶとして、どんな方法をとるかね?」
「青酸カリが一番楽なンでせう?」
「そんなものを持たない時に、真空状態になつたら?」
「そりやア、その時になつてみなくちやア判らないぢやありませんか? 真空状態で、どんなスタイルで死ぬかなンて、考へてはゐられないでせう?」
「ぢやア、愛する者同士が心中をする場合だね、どつちかが、真空になれなかつたら、うまく、気分があはないわけだね?」
「違ふでせう? それは、かあつとなるよりも、それを通り越してもう一つ心の奥で冷たくなつて、二人が黙つて、事を運ぶンぢやなくちや、いけないのぢやないかしら……。死ぬ事が怖《こは》いのだつたら、方法を考へる事だつて怖いンだから、二人の死となると、よく計画しなくちや駄目なのね……」
「僕は君と榛名《はるな》へでも登つて、死ぬ事を空想してたンだがね……」
「偶然だわ。私も、そんな事を、此の間、考へた事あつたのよ」
お互ひの心の交流のなかに、少しづつ、死の意識が薄昏《うすぐら》い影になつて、眼底を掠《かす》めた。富岡は馬鹿々々しいと思ひながらも、亦《また》、東京へ戻つてからの現実を考へると、落莫《らくばく》とした感情が鼻について来る。苦しさや、悩みに押しひしがれてゐる時は、まだ生きられる力を貯へてゐたが、いまは、悩みも苦しみも、煙のやうに糸をひいて消えてしまつた。
富岡は煙草に火をつけながら、心を掠《かす》めるやうなものを感じた。自分が、この女を連れて死んだところで、世の中は、昨日も明日も変りはないのだ。世の中に絶望したとか、何か云つてはゐるが、そんなところに、説明をこじつけてみても、世の中は、自分一人の死なんか、何とも考へてゐるものでもない。たゞ、それだけのものだと云ふだけだ。だが、その、何とも感じてくれない世の中に揉《も》まれて、生き辛さの為に、自分の死場所を求めて歩いてゐる人間と云ふものも、全く妙な存在だと、富岡は、寝床に腹這ひ、闇の中に光る、煙草の火を、呆《ぼ》んやりみつめてゐた。
結局は、強烈な享楽によるか、絶望して死ぬかの二つの方法だが、絶望すると云ふ事はどうも世の中へのみせかけのやうなもので、たとへ、何かのはづみに死を選んだにしたところで、念頭に、絶望なぞ少しも感じないで死ぬに違ひないのだ。富岡は苦笑してゐた。この深い暗さは、何時《いつ》までも長続きするものではないが、燈火を消した部屋の中は、あらゆる旅行者の、旅のなごりが、衣《きぬ》ずれのやうに闇の中に動いてゐた。
此の部屋で、女と誓ひあつた男もゐるかも知れない。蒲団をおしつけられるやうな気がした。すると、隣りの蒲団で眠つてゐるゆき子が、うゝうゝ、とひどくうなされて、呻《うな》つてゐる。その呻り声を、富岡は暫く聞いてゐたが、富岡はたまらなくなつて、煙草を手探りで灰皿の中へにじりつけると、枕許《まくらもと》の行燈型《あんどんがた》のスタンドをつけた。
急に四囲が明るくなり、深い闇が去つた。
「おい、おい、どうした?」
ゆき子の枕を、富岡は引つぱつた。ゆき子は向うむきになつてゐたが、眼を覚して、くるりと、スタンドの方へ寝返りを打つた。
「あゝ、厭な夢を見たわ。とても、妙な怖い夢だつた……」
「馬鹿にうなされてゐたね……」
「さう、厭な夢なのよ。血みどろになつた、皮をはがれた馬に追ひかけられてたのよ。何処まで走つても、すぐ追ひかけられちやふのよ……。何だか、青い着物を着た、顔のない人間が、その馬に乗つてるのよ。苦しくて、苦しくて、助けてッて云つても、声も出ないンですもの……」
富岡は炬燵のなかへ足をのばした。ほかほかと埋火が暖い。ゆき子は、スタンドの燈火をまぶしさうに眺めながら、「今日はお正月ね……」と云つた。
長い間、かうして、二人は、此の宿で暮してゐるやうな気がしてゐる。たつた三晩しか泊つてゐないのだが、昔からかうして、二人は暮してゐるやうだつた。富岡は因縁《いんねん》深いものを感じてゐる。戦争さへなければ、此の女にも相逢ふ事もなかつたらうし、仏印のやうな遠い処にまで行く事もなかつたのだ。いまごろは実直な官吏として、役人生活をしてゐるにきまつてゐる。だが、この戦争は、日本人に多彩な世界を見学させたものだと思ふ。――富岡は、煤《すゝ》けた天井を眺めながら、地図のやうな汚点《しみ》をみつけて、ふつと、ユヱの街を思ひ出してゐた。駅から街の中心へ向ふ街路に、樟《くす》の若芽が湧《わ》きたつやうな金色だつた。香水河と云つたユヱ河に添つた遊歩道には、カンナや鉄線花が友禅《いうぜん》のやうに華やかだつた。椰子《やし》、檳榔《びんらう》、ハシドイが到る処に茂つてゐる。赤褌《あかふん》一つのモイ族が、二三羽のインコを籠に入れて、遊歩道で売つてゐたのを、富岡は思ひ出した。
なつかしいダラットの生活が、織物の飛白《かすり》のやうに、一つの模様になつて、記憶のなかに焼きついてゐた。ユヱの山林局にゐた局長のマルコン氏は、いまごろは、また、あのユヱに戻つて、悠々《いういう》と露台で葉巻でも吸つてゐる事だらう。日本の軍隊に厭な思ひをしたに違ひないマルコン氏の好人物な顔が、富岡は、なつかしい人として思ひ出に残つてゐた。マルコン氏は、一九三○年に森林官として、仏印に渡航して来た。仏蘭西のナンシー山林学校を出た人物である。若い、何も知らない、田舎者の、礼儀知らずな、日本の山林官である、富岡達に、心の中では随分をかしなものを感じてゐたに違ひないのであらうが、マルコン局長は、城あけ渡しの時も、非常に立派な態度であつた。富岡にはとくに眼をかけてくれて、よく、仏印の林業に就いての説明を事こまかに教へてくれたものであつた。
仏印の山林は、巨《おほ》きな虎にとり組んでゐるやうなものだと思はなければならないと、マルコン氏はよく云つてゐた。仏印の山林の何たるかも判らないで、何の予備知識もなく、軍の命令で遠征した富岡達は地図の上だけで、平地の松林のやうな疎林《そりん》を空想して出掛けてゐたのだ。
マルコン氏のユヱの私邸によばれた時、富岡は、庭にある樹木の名前をみんな知つてゐるかと問はれて、富岡はビンラウ樹さへも云ひあてる事が出来なかつた。リム、タガヤサン、ボウデ、キェンキェン、サオ、ヤウ、ベンベン、バンラン、一つ一つ指差して、マルコン氏はその樹木の産地や性情を教へてくれた。
仏印の山岳林地帯は、雨も多いので、森林も広大なもので、自分は長い間、こゝに来てゐるが、まだ山岳地の森林に就いては研究も浅いが、いたづらに伐り出す前に、よく、林質をたしかめてからにして貰ひたいと、マルコン氏は願望すると云つた。とくに、山地の蛮人の焼畑開墾《やきばたかいこん》は、原生林の状態を、相当蚕食《さんしよく》してゐるので、これも、考へてほしい事だと云つた。北部安南の、ビンや、タンノアの両州は、とくに、日本軍の開発が多いと聞くが、中部地方は、これは山脚がすぐ海にはいつてゐるので、地勢は急峻《きふしゆん》で、流筏《いかだ》の便のある河川に乏しく、只、樹木を伐るだけでは、開発しても容易に持ち運びは出来ないらしい。北部と南部だけが、地勢がゆるやかなので、流筏の便利はあるが、その一方的な利用の仕方は考へなくてはなるまいと注意も受けた。造林事業と云ふものは或る意味で、戦争とは別箇のものだと、マルコン氏は心配さうに云ふのである。
「ねえ、あなた、覚えてゐる? ツウランのそばの何とかつて、日本人の墓地にお参りした事もあつたでしよ?」
富岡は、記憶のさすらひから、急に引き戻されたやうな気持ちで、天井の汚点から眼をそらして、ゆき子の方へ顔を向けた。
「あの町、何て云つたかしら?」
「ヘイホつて町かい?」
「さうさう、ヘイホつて町だつたわ。加野さんと、私と、あなたと、三人でヘイホの町へ行つた事あつたわね。三日位の旅だつたかしら、加野さんは焦々《いらいら》して、ずつと、私達を看視してたぢやない? その看視の眼をくゞつて、二人で、真夜中に逢《あ》つてたわね。二人とも狂人みたいだつたわ。覚えてゐる?」
「あゝ、覚えてゐるよ」
「並木はフクギつて樹だつたでせう? こんもりした老樹で、自動車をとめて休んでゐると、子供達が、トンボ・ヤポネーゼつて寄つて来たわね。私、あの時ね、コンパクトで鏡をのぞいて、一流の美人に生れて来ないのを残念に思つた位よ。だつて、子供達は、女の私なンかに興味もないやうな様子で、背の高いあなたの方へばかり、何だか、おしやべりしてゐたわ……。墓地へ行く道に、巨きな仙人掌《サボテン》が繁つてゐて、いまでも、私、よく覚えてゐるのよ。山田五十鈴位の美人だつたらもつと、あの旅はよかつただらうと思つたわ」
ゆき子は、妙な事を云つた。
ヘイホの町は、三百五六十年前に、沢山の日本人が住んでゐた土地である。当時の御朱印船に乗り、ひんぱんに往来して、日本に、紫檀《したん》や、黒檀《こくたん》や、伽羅《きやら》、肉桂《にくけい》なぞを送つてゐたものだが、その後、日本の鎖国の為に、帰国出来なくなつた日本人が、此の地に同化した様子で、墓碑の表なぞに、太郎兵衛田中之墓などと刻んであるのがあつた。
流れる椰子《やし》の実のやうに、何処へでも遠く漂流して行く、昔の日本人の情熱を、ゆき子はひどく勇気のあるものに思ひ、土《ど》まんぢゆうの墓碑《ぼひ》にも、はな子之墓なぞとあるのに、ゆき子はいぢらしい気がしたものだ。
「ヘイホつていゝ町だつたわ、道が狭くて、やつと自動車一台通れる幅だつたわね。マッチ箱を二つづつ重ねたやうな白壁塗りの家並がつづいて、ほら、日本橋つて、屋根のある小さい橋があつたわ。あすこで写真を加野さんが撮《と》つたけど、あの写真も持つて帰れなかつたし、でも、あの時の私達つてぜいたくね。いま、あれだけの旅をするつて云へば、大変なお金がかゝるでせうね……」
「罰があたつたンだよ」
「さうね、さう考へるに越した事ないわ。――もう、幾時頃かしら」
ゆき子は腹這《はらば》ひになつて、枕許《まくらもと》の小机から時計を取つて見た。四時を少しまはつてゐた。ゆき子は、昨夜、あれほど、二人で死に就いて語りあつてゐながら、いまは、死に就いて何も考へる事はなかつた。こんなところで死ぬのは馬鹿々々しい気がした。富岡の云つてゐる事も、本気ではないやうに思へ、今日はこの時計を手放して、池袋の家へ戻りたいと思つた。二人の間に、仏印の記憶が、二人の心を呼ぶきづなになつてゐるだけで、こゝに寝てゐる二人にとつては、案外、別な方向を夢見てゐるにしか過ぎないのかも知れない。
宿の払ひに追ひたてられてゐる事が気がかりで、何時まで伊香保にゐても、少しもロマンチックな気にはなれないのだ。ゆき子は、その気持ちをうまく富岡へ表現したかつたが、富岡は、心が屈してゐる様子で、此の宿を去る説には、仲々ふれて来さうもない。
「今日は、お正月ね?」
「うん」
「今日、帰る?」
「三四日ゐたいと、君は云つてたぢやないか。気が変つたのかい?」
「気が変つたわけぢやないけど、何だか、仏印の話も云ひ尽したやうな気がするし、あなた、私に飽きちやつてると思つてさ……」
「君が飽きたンだらう?」
「馬鹿云つてるわ……」
私は飽きないと云ふ処を見せる為に、大きい声で、馬鹿云つてると云つてみたものの、ゆき子は、池袋がなつかしかつたのはたしかである。浮気でうつり気なのかなと、ゆき子は、自分の心の中を手さぐりでさはつてみてゐる感じだつた。山峡《やまかひ》の水の流れが深々と耳に響いた。
「もつと、苦しまなくちや、僕達は、この生活から前進は出来ないんだよ。君にとつてはどうでもいゝ事だらうがね……。二人で逢つて昔の事をなつかしがつてみたところで、もう、月日は過ぎたんだし、そんな話をする事は、悪い習慣だよ。そんな昔話で、君と僕の間が、昔通りのあの激しさに戻るもんでもないしさ……。そのくせ、俺は、細君にだつて、昔通りの愛情は持つちやゐないんだよ。戦争は、僕達に、ひどい夢をみせてくれたやうなものさ……。どうにもならん、魂のない人間が出来ちやつたものさ……。ねえ、どつちつかずの人間に凡化しちやつたんだよ。時がたてば、昔話だつて色あせて来るしね。人生つて、そんなものだ。渇望《かつばう》する思ひだけが、馬鹿に強くなつて、この現実には、なるべく体当りしないやうなずるさになつて来てるしね。浦島太郎のはんらん時代なんだよ。現実は、一向にぴんと来ないとなれば、何処にも行き場がない。妙な大旅行はしない方がよかつたのさ……」
「さうね、判るわ。でも、生きてる限りは、浦島太郎で尻もちついてなんかゐられないでしよ? やつぱり、何とか、煙の立つてしまつた箱の蓋でも閉めて、そこから歩き始めなくちや、誰も食はしちやくれないし……。でも、二人とも、別れて、二三日逢はないと、ふつと逢ひたくなるのは変だと思はない? 私、きまつて、あなたの事考へてるのよ。憎かつたり、可愛かつたり……。人間つて、どうにもやりきれないもんだわ。もう少し、時がたてば、この気持ちだつて、楽々する時が来るんだとは思ふンだけど……」
二人は、また、うとうとしはじめた。どうにかなるやうに任せて、時間のたつのをやり過すより仕方がないのかも判らない。
二人が、昏々《こんこん》として眠りにはいつてから、眼が覚めるまではかなりな時間がたつた。
遠くで鼓《つゞみ》が鳴つてゐる。ゆき子がその鼓の音に眼を覚すと、富岡は寝床にゐなかつた。鼓の音はラジオだつた。ゆき子は起きて、褞袍《どてら》の前をあはせ、時計を見ると、もう十一時を一寸まはつてゐた。女中が火鉢に火を入れに来た。
「旦那さんはお湯におはいりです」と、女中が云つた。ゆき子は昨夜借りた手拭をさげて、湯殿へ行つてみた。
小さい湯の方へ、富岡ははいつてゐた。硝子戸を開けて覗《のぞ》くと、
「はいつていゝ?」とゆき子は聞いた。
「あゝ」
ゆき子は褞袍をぬいで、粟立《あはだ》つやうな寒さの中に、手荒く硝子戸を開けて、湯殿へ降りて行つた。檜《ひのき》の浴槽に、満々と赤い湯が溢れてゐる。もうもうとして湯気が、狭い湯殿にこもつてゐた。
「おめでたうございます……」
ゆき子は笑ひながら云つた。富岡も、おめでたうと云つた。淡いながらも、二人の親和が、裸の肌《はだ》に浸みた。旅空の正月とは云つても、時間と金が、ありあまつて湯治《たうぢ》に来てゐる客ではないだけに、二人には、おめでたうと云ひあひながらも、佗《わび》しく、つゝましい感情が、心に流れてゐる。ゆき子が湯にはいると、湯はタイルの流しへ溢《あふ》れた。
「おゝ、いゝお湯だこと……」
「客は僕達だけらしいよ」
富岡は、さう云つて、ざあつと流しへ上つて行つた。肌が赧《あか》くなつてゐる。浴槽の中は明るかつた。ゆき子はちらと、富岡の裸体から眼を外《そ》らして窓にせまつてゐる赤土の肌を眺めてゐた。
「ねえ……」
「何だ?」
「私達何だか、落着いちやつたわね。でも、女中は、不思議な男と女だと思つてるでせうね。外へも出ないし、あまり、金もなささうだし、そのくせ、悠々としてて、じめついてないし……。でも、随分、親切な家ね……」
「うん、さうだね……」
「さうだねつて、あなた、何か考へてゐるの? やつぱり、まだ、死ぬ事? 私、あなたをもつと生きさせてあげたいのよ」
「いや、何も考へちやゐない。湯から上つたら、さつぱりして、酒を飲まう。そして、今夜帰るよ……」
と云つて、石けんを泡立てて体を洗ひ始めた。
「さうですか? もう、榛名山《はるなさん》へ登つて、湖水へ飛び込むのはおやめ?」
「うん、君とは死ねない。もつと、美人でなくちや駄目だ……」
「まア、憎らしい。いゝ事よ」
ゆき子は蓮《はす》つぱに笑つて、浴槽のふちへ両手をかけて、泳ぐやうなしぐさをした。腕もいくらか太つて、すべすべした肌になつてゐる。何もしないで、食べて寝る生活が、こんなに体にすぐ反応があるものなのかと、ゆき子は、しみじみと血色のいゝ腕を眺めた。
軈《やが》て湯から上り、二人は昼近くに炬燵《こたつ》の膳についたが、湯にはいつてゐた時の気持ちとは違つた、また寒々したお互ひの思ひが、二人の気持ちを焦々させてきた。二本の徳利がついてゐたが、それも仲々すゝまない。大きい椀《わん》は冷えた雑煮だつたが、これにもあまり手が出ないでゐる。
食事が済むと、富岡は、ゆき子を残して、一人で町へ出て行つた。時計を売りに行くのだ。古いオメガで、一度、修繕に出したものだが、こゝの払ひの足しにするには、これ一つで充分だらうと、ゆき子の時計はそのまゝで、褞袍《どてら》姿で出て行つた。戸外は、ちらほらと雪が降つてゐる。
石の階段を降りて、射的やカフェーの並んでゐる、狭い町へ出て行つた。毛皮の外套を着た女が、土産物屋をひやかしてゐる。富岡は褞袍だけでは寒かつたが、がまんをして時計屋を探した。バスの発着場のそばに、バーのやうなものがあり、頬紅《ほゝべに》を真紅につけた女が、富岡に「お兄さん寄つていらつしやいよ」と云つた。こんな女に聞いてみるのもいゝと、富岡はつかつかと女のそばへ寄つて行き、狭いバーの中へ這入つて行つた。バラックにペンキを塗つただけの鳥小舎のやうな家の中であつた。富岡は、寒いので酒を注文した。女は瀬戸の火鉢を奥からかゝへて来て、富岡に股火鉢《またひばち》をすゝめてくれた。
「ねえ、君は、此の土地の人かい?」
「近くなンです……」
「伊香保つて、古い町かと思つたら、案外新しい町だね……」
「大火があつたさうで、こんな町になつたンでせう? 昔はよかつたンですつてね……」
烏が馬鹿に啼《な》きたててゐた。熱い酒をコップにあけて、富岡はぐうつと一息に飲み干して、金を払ひ、女に時計屋はないかと聞いた。女は奥へ行つて聞いて来ませうと奥へ行きかけたので、富岡は腕時計をはづして、これを持つて行つて聞いてみてくれと云つた。軈《やが》て、奥から、小柄な頭の禿《は》げた亭主らしい男が出て来た。
「旦那、いくら位なら、手放しなさるンで……」
富岡は亭主らしい男が、わざわざ出て来たので、きまり悪さうに二三日前に伊香保へ女を連れて来て、つい、伊香保が気に入り、一泊のつもりが、今日まで滞在したのだが、勘定が少々足りなくなつたので、それを売りたいのだと話した。
「本当は、売りたくないンでね。……誰か、これをかたに、取りに来るまで預つてくれる家があるといゝンだがね……」と云つた。
「いゝ時計ですね」
「あゝ、南方で買つたンだ……」
「ほう……南方、旦那は南方の何処へおいでなすつたンですか?」
「仏印に行つてゐたがね……」
「あゝ、さうですかい。自分もね、海軍で南ボルネオのバンジャルマシンつてところに行つてましてね。去年引揚げて来たンでさア……」
「ほう、南ボルネオ……。大変でしたね。あすこは、海軍地区でしたかね?」
「えゝ、さうです……。淋しい処でしてね。それでも、土地の人気はいゝ処でしたね。あの土地で、この時計をいつぺん見た事があるンで、いゝ時計だなと思つたンですよ。――いつたい、どの位なら、放しなさるンですかね?」
「何処《どこ》か、売れ口でも、心当りがありますか?」
「いや、自分がほしいンですよ。いつぺんはこんな時計がほしいと考へてゐたンです。シーマアか、エルジンあたりでもいゝなンて思つて、いまだにそんな時計を持つた事がないンでね。先日も、バルカンと云ふのを見ましたが、どうも、古い型なので、気に入らなかつたンですよ。――こんなスマートぢやないンで、もし値段の折れあひがつけば、ゆづつて下さいよ」
「そんなにほしいのなら、ゆづつてもいゝんだが、貴方の方で云つて下さい。僕はどうも……」
「さア、私も商売人ぢやないし……一本ではいけませんか?」
「一本? 一万円ですか?」
「えゝ、それで、如何ですかね、時計屋へ持つていらつしても、足もとを見られて、五千円位のものだと思ひますがね……」
富岡は、それもさうだと思つた。このあたりの知らない店に持つて行けば、五千円もあぶないかも知れないと思つてはゐたのだ。亭主は、女にいひつけて、酒を持つて来させると、富岡の卓子の横へ来て電気をつけると、自分の腕へ時計をはめて、ためつすがめつ眺めて、時計を耳へあてて暫《しばら》く音を聞いてゐた。
「仲々いゝ音ですな。固い、いゝ音だ」
「それは、帯革をかへるといゝですよ」
「いや、まだ、いゝでせう……。この帯皮も気に入りましたよ。日本出来ぢやア、こんな柔いいいのはありません」
女が酒を運んで来た。亭主は、奥へ引つこんで、暫《しばら》く出て来なかつたが、軈《やが》て下駄を引きずるやうにして、笑ひながら、「かきあつめるやうにして、全財産ですよ」と、卓子に十枚づつの百円札を十字に重ねて行つた。
「仏印は、ボルネオと違つていゝ処ださうですね。旦那は兵隊ですか?」
「いや、官吏で行つたンです。農林省に勤めてゐましたからね……」
「ほう、お役人でね」
亭主は、初め、女給が、オメガを持つて奥へ来たので、帳場から、富岡の人品を眺めて、盗品ではないかと思つたと笑つて云つた。
「沢山の人を見る商売ですから、此の眼に狂ひはありません……。自分は貴方を絵描きぢやないかと見たンですが、お役人とは思はなかつたな……」
亭主も少し酒を飲んだ。バスの発着ごとに、小舎のやうな家はゆれた。富岡は札束をふところに入れて、名刺入れから、名刺を出して、亭主に出した。
「ほゝう、材木の方をおやりになつてゐるンですか?」
「役人をやめて、友人の仕事を手伝つてゐるンですが、資金関係と、統制で、いまのところ、手も足も出ないンです」
「統制々々、税金々々で、どうも、我々の仕事はうまく滑り出す事が出来ません。みすみす、いい客がはいつても、ライスカレー一つ出せないンですからね。――何しろ、密告がやかましくて、あぶなくてどうにもならないンです。役人と来ちやア、昔の代官と同じで、全く、子供のガキ大将と同じでさア……。よろこんで働けねえやうにしといて、いじめるンだから、闇がはびこつちまふンですよ……。宿屋ぢやア、米はどうなンです?」
「米がなくちやア泊められないつて云ふンで、家内が、何処《どこ》かで一升買つて来た様ですよ……」
「なるほどね。そんなもンですよ。闇米はいくらでも売つてますからね。わざわざ、伊香保くんだりまで来る客を、追ひ返すみてえな事をして、何の宣伝もありやしません。商人は客に来てほしくても、つまらん統制つて奴が、杓子定規《しやくしぢやうぎ》でね。えらい不景気が来さうですな」
「物より金の時代になりますかね」
「旦那はずつと東京ですか?」
「さうです。幸ひ、家も焼けなかつたンだが、どうにもならなくて、家も売つちまつた」
「自分は、親の代から、ずつと本所業平《ほんじよなりひら》にゐたンですが、三月九日の大空襲で、家は焼け、子供は一人死にましたが、日本へ戻つて来てから、その家内とも別れて、いまの女房と、こんなところに家を持つたンです。やつぱり東京へ戻りたくて仕方がねえンでさア。自分は魚屋が本業なンですがね。……いまの家内が、魚屋は厭だつて云ふンで商売してゐます……」
「おかみさんは、さつきの?」
「えゝ、娘みてえに若いので、どうもお恥しいンですが、自分は、何事も因縁《いんねん》で、これも、一種の前世からのめぐりあひだと思つてゐます。――めぐりあひつてものは、旦那、大切にしなくちやいけねえ、めぐりあひにさからつても仕方のねえ事だと、自分は考へてまさア、運命にさからはねえやうにしてをります……」
頬紅をこつてりつけた女が、この男の細君なのかと、富岡は妙な気がした。めぐりあひは大切にしなくちやいけないと云はれた事が、胸にこたへて、ゆき子との関係もめぐりあひには違ひないのだと思へた。
「広島の大竹港へ着いて、桟橋で、キャメルの袋が落ちてましたが、あの色つてものは綺麗《きれい》だと思ひましたな。たうとう、敗《ま》けたンだと、その煙草の袋で思ひ知りました。戦争に敗けるのもめぐりあひだ」
「時計を買つて貰ふのも、めぐりあひかな」
富岡は酔つてゐたので、気持ちが楽になつてゐた。軽い冗談《じようだん》を云ひながら、亭主から煙草を貰つて、一本つけた。烏が馬鹿にさうざうしく啼いてゐる。南京豆を反歯《そつぱ》で噛みながら、亭主は、ジャンパアのチャックをまさぐりながら、
「いや、世の中の事は、すべて、気運つてものがきまつてゐるンですよ。このまゝで日本が戦争に勝つてゐた日にやア、もつと、ひどいめにあつてゐましたよ。――戦争つてものは馬鹿々々しいつて知つただけでも、大した事でさア……。でも、自分も、これで、ボルネオなんて南の果てまで行つたンだから、これも因縁事だと思はないわけにはゆかないね」
宿へ戻つて来ると、ゆき子は炬燵《こたつ》で、爪をハンカチで磨いてゐた。その後姿が、急に哀れになつた。富岡は、さつき、何事もめぐりあひだと、バーの亭主に云はれたのだが、めぐりあひと云ふ言葉が、切実に胸に来て、昨日まで、此の女と死ぬ空想をしてゐた事が馬鹿々々しくなつた。ふつと、仲々死ねるものではないやうな気もした。時計を手放した事が、運命的でもあるやうに、喪家《さうか》の狗《いぬ》の如き、しをしをとした昨日までの感情が、少しばかり、酒の酔ひをかりて活々してきた。
「あら、酔つていらつしたの?」
「少し飲んだよ……」
お酒なンか飲んで大丈夫ですかと云つた表情で、ゆき子はじいつと富岡の眼をみつめた。お互ひに、間がなひまがな仮面を被《かぶ》りあつてゐただけに、いま戻つて来た、富岡の柔かい眼の色が、ゆき子には、何かいゝ事があつたやうな気がした。「売れたの?」と聞いた。
「売れた。一万円に売れたンだ……」
さう云つて、ことこまかに、時計の売れた一件を話すと、ゆき子は眼に涙をためて、「めぐりあひつて、いゝ事云ふひとね」と溜息《ためいき》をついた。萎縮《ゐしゆく》した情慾を、お互ひに贋物《にせもの》でないやうな与へかたでゐただけに、二人とも、亭主の云つた言葉には押されるものがあり、富岡が炬燵の上に置いた一万円の札束を、ゆき子はしみじみと眺めてゐる。
「活路つてあるものね……」
日本へ戻つて来て、魂も心もないやうな人間を見て来てゐただけにゆき子は、富岡からその話を聞いて、
「その人も、南方がへりで、若い細君を持てたなンて、勇気があるわ。貴方《あなた》なンか、駄目なんだわ。そして、死ぬ夢ばかり空想してて」
富岡は、いまでも、死の夢をまんざら捨てたわけではない。昔、仏印で読んだ、悪霊《あくりやう》のなかの、スタヴローギンの用意のいゝ死支度を思ひ出すのである。冷静な気持ちで、丈夫な絹紐《きぬひも》に前もつて、べつとりと濃く石鹸を塗りつけておいて、死ぬにも、なるべく痛くないやうな心づかひをしたと云ふ一文は、スタヴローギンの憎々しいばかりの冷さが感じられて、富岡は、その当時、一種の反感を持つてゐたものだ。だが、現在は違つて来た、絹紐に石鹸を塗りたくつて痛くないやうにして、死につく事は、最も痛さからのがれる便利さがあると、富岡は、自分も亦、軽々とした死の方法を案出したがつてゐた。スタヴローギンはあらゆる地を巡礼してまはり、心の糧《かて》は何処にも得られないまゝで只憑《つ》かれた人として故郷へ戻つて来たのだが、富岡は遠い仏印から戻つて、人生に醒《さ》めた人間として、自分みづからの命を絶たうとしてゐる。富岡にとつては、此の世は、面白くもをかしくもなかつたのだ。
「宿屋なンかに泊らないで、早く引きあげて、よかつたら、二三日泊つて行けと云ふンだが、君の意見はどうなンだい?」
と、富岡は、バーの主人に貰つた外国煙草を出して吸ひつけながら云つた。ゆき子も一本、珍らしさうに火をつけて吸つた。
「さうね、面白いわ。そんな男つて逢つてみたいわ」
「人なつつこいンだね。いはゆる善人だ。君が馬鹿にしさうな、加野的善人だ……」
「あら、厭な事云ふわね……」
夕方、二人は、勘定を済ませて、東京へ帰るつもりで、バーへ寄つてみた。客は運転手らしいのが二人ばかりで、酒を飲んでゐた。亭主は、二人を狭い二階へ上げて、くつろいでくれと云つた。昼間とは違ふ女が二階へ茶を運んで来た。小さい掘り炬燵がしてあつた。女の外套や、着物が壁にぶらさがつてゐた。軈《やが》て、昼間の頬紅の赤い女が二階へ上つて来た。まだ十八か九位で、躯《からだ》は、ゆき子より大柄だつたが、眠つたやうな静かな女だつた。時々、眼をみはる癖があつたが、その時の眼は馬鹿に大きくて、光つてゐた。美人ではなかつたが、若く水々しい躯の線が、何かのはづみで、ぱあつと派手々々しく周囲に拡がつてみえる。
今日は正月なので、店の客も早く帰つて行つた。通ひの女も軈て挨拶して戻つて行くと、亭主は女に店を閉めさせて、二階へウィスキーの瓶《びん》を持つて上つて来た。
ずんぐりした、もう五十年配の亭主は、炬燵の上に、ジャンパアのポケットから、いくつも林檎《りんご》を出して、ゆき子に食べて下さいと云つた。男達はウィスキーをかたむけて、南方の話に花を咲かせてゐる。
六畳ほどの部屋だつたが、天井は紙の吊天井《つりてんじやう》で、壁には世界地図が張りつけてあつた。だるま火鉢の蓋に、女は手をかざして、呆《ぼ》んやり何か考へごとをしてゐる様子だつた。富岡は、自分の横に坐つてゐるその女の横顔を時々眺めてゐた。ゆき子は林檎をむいて、むしやむしや食べながら、男達の話のなかに割り込んで、賑《にぎ》やかに喋《しやべ》つてゐる。
窓にさらさらと雪の気配がした。山鳴りのやうな、ごおつと響くやうな風の音がした。女は火鉢に頬杖《ほゝづゑ》をつき、膝《ひざ》を崩して、炬燵に右手をさし込んでゐた。富岡は、何気なく、女の膝に胡坐《あぐら》を組んだ自分の足の先をきつくあててみた。女は知らん顔をしてゐる。富岡は、左の手で、蒲団の中の女の手にふれてみた。そして、静かに、女の横顔をみつめたまゝ強く手を握り締めた。富岡の胸の中には、急に無数の火の粉《こ》が弾《は》ぜた。女は、静かにうなだれて、眼を閉ざしたが、女の手はねつとりとして、富岡の手に、幾度となく反応を示した。
頬紅の赤い、田舎《ゐなか》々々した女に、このやうな獣のやうな、野性的な力があるのかと、富岡はとりのぼせて、片手でウィスキーのグラスをあふつた。ゆき子は、二つ目の林檎をむいてゐる。
富岡は、毒々しい紅を塗つた唇を持ちあげるやうにして、林檎を食つてゐるゆき子の顔を時々警戒した。だが、ゆき子は、加野的善人さと云つた、バーの亭主と、とりとめもなく話をしてゐる。亭主は、腕時計をしてゐた。如何《いか》にも自慢さうに、短い腕首に、金側の時計はにぶく光つてゐた。
炬燵の中の、二人の手は仲々離れなかつた。女も大胆になり、膝を富岡の足の先に乗せるやうにしてゐた。富岡は思ひ切つて、女の手を離して、とりのぼせたやうな上ずつた声で、
「あゝ、これもめぐりあひだね。こんな記念すべき正月はない。美しい晩だ。をぢさん、一つ、このウィスキーを空にするまで飲みませんか、僕が今夜の宴会は持ちますよ……」
と云つて、盛んに、亭主のグラスにウィスキーをつぎ、ゆき子にも飲めと云つて、わざと手をさしのべて、グラスを唇へあてがつてやつた。人間の気は変り易いものだと、富岡はもう一つの冷い感情で、ゆき子に、何度もグラスを持たせた。ゆき子は、大分酔つてきた。夕飯をたべなかつたせゐか、早く酔ひがまはつてきた。ゆき子は、自分の前に眠つたやうに、頬杖をついて、さしうつむひてゐる女を、馬鹿な田舎女《ゐなかをんな》だと思つてゐた。柄ばかり大きくて、こんな貧弱な男と、青春のない生活をしてゐる田舎暮しを、同情的な眼でも見るのだ。ずつと黙つたきりでゐるだけに、女の存在も此の場所でははつきりしない。ゆき子は酔ひがまはるにつれ、富岡との、南方での激しい恋の話を、面白さうに亭主に告白しはじめた。
富岡は酔はなかつた。ほとんど、壜を空にするまで三人は飲みつゞけた。――富岡は、温泉へ行つて来ると云つて急に立ちあがつた。亭主はもうろうとした眼で、
「おい、おせい、お前、旦那を案内して、米屋の風呂へ案内して上げなよ。奥さん、あなたもおいでになりませんか?」と云つた。
「私、もういゝのよ。今朝から、二度も金太夫の湯にはいつたンですもの……。それに、すつかり酔つて、ふらふらなの……」
ゆき子は、酒の肴《さかな》に出てゐるハムを頬ばりながら、また、ウィスキーのコップを唇へ持つて行つた。富岡が手拭を借りたいと云ふと、女は、自分の桃色のタオルを壁からはづして、富岡の後へついて、梯子段《はしごだん》を降りて行つた。
階下は昏《くら》く冷々《ひえびえ》としてゐる。富岡は女の降りて来るのを、階段の下で待つてゐた。卓子に椅子の乗せてある店の床に、鼠がちらちらしてゐた。
女が降りて来た。二人はお互ひに、激しい眼光で正面から近々と向ひあつた。
谷間の山壁に押しこめられたやうな、階段の下の仄昏《ほのぐら》い土間に立つて、富岡は矢庭《やには》におせいを抱いた。おせいは、息を殺して、富岡に寄り添つて、案外、富岡のするまゝに任せて、富岡の接吻に応《こた》へてゐたが、二階で、ゆき子が大声で笑つたので、富岡はおせいをはなした。おせいは何も云はないで、裏口へ出て行き、富岡に、「暗いから、足もと気をつけてね」と云つた。
足もとに気をつけてねと云つた女の言葉に、なま酔ひの富岡は、急に本能の目醒《めざ》めた思ひで、また、強くおせいの腰を取つたが、おせいは、富岡の手をふりほどくやうにして、狭い石段を降りて行つた。四囲は暗かつたが、石段の下の電柱に、小さい灯がついてゐた。その燈火のあたりに、もうもうと湯煙が立ちこめてゐる。電柱のそばの明るい硝子戸《ガラスど》を開けて、おせいは富岡の降りて来るのを待つてゐたが、富岡が降りて行くと、硝子戸の中で、派手な花模様のふり袖《そで》を着て、光つた帯を結んだ若い女が、下駄をはいてゐた。
「随分寒いわね」
と、誰にともなく女は云つた。白いショールをぱつと拡《ひろ》げると、羽織も着ない痩《や》せた肩にさつと羽織《はお》つて、さよならとあわてて出て行つたが、富岡がその女をやりすごして硝子戸の中へはいると、
「いまの、芸者ですよ」と、おせいが云つた。
富岡は硝子戸を閉めて、おせいの後から、冷い廊下を幾曲りもして低い方へ降りて行くと、広い湯殿に突きあたつた。混浴とみえて、脱衣場の円い籠には、女や男の衣類がぬぎすててあつた。鏡の前で着物を着てゐた中年の女が、
「おせいさん、今日は年始にも行かなかつたが、おとうさんによろしく云つておくれよ。明日はうかゞひますつてね……」と云つた。
富岡が洋服をぬぎ始めると、何時の間に、そんなものを持つて来たのか、おせいは木綿の風呂敷を拡げて、富岡のぬいだものを片つぱしから風呂敷に包みこんでゐる。
洋服をぬぎながら、富岡が四囲の籠を見ると、二つ三つ風呂敷に包んだものがあるので、旅のものの衣類は、盗まれぬ用心に、風呂敷に包んでおくのかとをかしかつた。
おせいも、洋服をぬぎ始めた。
富岡はさつさと、湯気のたちこめてゐる湯殿へ這入《はい》つて行つたが、六七人の老若もみわけがたい男女が、タイル張りの広い浴槽にはいつてゐる賑《にぎ》やかさに気安いものを感じた。おせいも湯殿へはいつて来て、入口の隅の方に膝をついて湯を浴びてゐる様子だつた。
浴槽へ飛び込むと、肌の沁みとほるほどの熱い湯が、冷えきつた躯《からだ》に抱きついて来る。おせいは誰かと、湯煙のなかで話しあつてゐたが、これもすぐ浴槽へ入つて、ゆるい速度で富岡のそばへ寄つて来た。肩肉の厚い、白い肌が、赤土色の湯から浮きあがつてゐる。そばへ来て、おせいはにつと笑つた。富岡は湯の中で足をのばして、おせいの脚肉にふれた。おせいは沈んで手拭を探すやうなかつかうで、手で、富岡の膝にさはつてゐた。湯が赤いので、首からでは、二人のたはむれは誰にも見えなかつた。富岡は、奇怪な笑ひ声でおせいの眼を見てゐたが、おせいは少しも笑はない。湯の中の野獣の本能が、おせいの首から湯底に抜け落ちでもしたやうに、おせいの首は、富岡の首とは一定の間を置いて、西瓜のやうにたゞふはふはと浮いてゐるだけだつた。富岡は、この現実は何時か、何処かで演じられたやうな気がしたが、思ひ出しやうもなく、只、じいつと、顎《あご》まで湯にひたつて笑ひ顔を浮かせてゐた。二人ばかり、どやどやと男達がはいつて来た。富岡は眼の前にゐる対象に向つて、ひどく原始的な空想に耽《ふけ》つてゐた。浴槽のなかで誰かゞ林檎の唄をうたひ出した。
富岡は、魚屋を本業にしてゐる男が、若いおせいと同棲《どうせい》する為に、この伊香保の温泉町に住みついた気持ちが、何気なく唄はれる林檎の唄声に乗つて、心のなかにしみじみと判るやうな気がした。おせいは泳ぐやうなしぐさで、向う側へ行き、さつと上つて行つたが、大柄な立派な後姿が、富岡には、いままでに見た事もない美しい女の裸のやうに思へた。矢も楯《たて》もなく、富岡はおせいの裸が恋しかつた。後姿に嗾《そその》かされた。いきなり、富岡もその方へ泳いで行き、おせいのそばに上つて行つた。湯殿の廂《ひさし》を掠《かす》める、荒い夜の山風がぐわうぐわうと鳴つてゐる。
「背中、流しませうか?」おせいが云つた。
太い腿《もゝ》をぴつたりあはせて、タイルの上に坐つてゐる大柄な裸は、水浴をしてゐる時のニウの裸体にも似てゐた。富岡はふつと、ニウのおもかげを思ひ浮べた。肌のあさぐろいニウの逞《たく》ましい躯《からだ》や、時々、肉桂《にくけい》をしやぶつてゐたニウの口臭がなつかしく、仏印での生活がいまでは、思ひがけない時に、富岡の胸のなかに酢《す》つぱい思ひ出を誘つた。――肉桂は昔から、男子の若返りの薬として愛用せられてゐるものだと、ニウは時々、富岡が疲れて、ベッドでものうい休息をとつてゐると、桂皮を削《けづ》つて、熱い湯にとかして持つて来てくれた事があつた。この若返り薬の肉桂は、王様肉桂と云ふのが珍重されて、富岡達は、ネーアン州のソンとか、スアンや、クイ、シャウのやうな無人の山中に探険に行つた事もあつた。王様肉桂は、安南では、桂と云はれて、北部安南の山中に稀《まれ》に生殖した。肉桂は小喬木《せうけうぼく》で、昔は安南の宮廷用として、止《と》め木《き》とされて、民間の伐採は自由ではなかつたので、山地住民のモン族の酋長《しうちやう》が、安南の官辺から、伐採許可証を貰つて肉桂をとりに行つたものである。肉桂樹を発見する事は、何よりも神仏の加護に依るものとして、盛大な宗教的儀礼を行つて、初めて深い山中に這入るのだと、山林局長のマルコン氏に聞いた。探険に出たモン族は一年も二年も戻つて来ない事は珍しくない事で、老練なものでなければ発見出来ないのださうである。芳香をたよりに探して、稀に探しあてたとなると、官憲に申告して、伐採《ばつさい》剥皮《はくひ》の上、これに官印を押して貰はなければならなかつた。タンノアのあたりの山で、富岡は、時々この肉桂の芳香を嗅《か》いだ。
裸のおせいに、背中を流して貰つてゐると、富岡は肉桂の芳香のやうな匂ひを思ひ出した。ニウとの間に生れた子供はいまごろはもう言葉を解し、よちよち歩いてゐるに違ひない。父のない子供をかゝへて、ニウはどうして暮してゐるだらうと、富岡はもう二度と逢ふ事のない昔の女や子供の暮しを空想してもゐた。
湯殿の灯が時々薄暗く息をしてゐる。
「君は、何年位、伊香保にゐるの?」富岡が聞いた。
「二年ばかり。ねえ、私、東京へ行きたいのですけど、もう、こんな淋しい処は飽々《あきあき》しちやつた……。第一、景気もよくないし、寒いとお客もないですからね……」
「流行《はや》らないのかい?」
「とても、駄目ですよ。あのひとも、とてもこれぢや駄目だから、東京へ行つて、またもとの商売にとりつかうかつて云ふンですけどね、私、魚屋つてきらひだから……。一人で東京へ行つて、私、ダンサアになりたいンです。いま、さつき戸口で逢つた芸者があつたでせう? あのひとにダンス習つてンですけど……。東京でもダンスなら食べてゆけるつて云ふもンですから、私、やつてみたいンです……。こゝは、夏場でなくちや商売になりませんしね」
「ダンスか、ダンスもいゝだらうが、そんな事位ぢや仲々やつてゆけないし、結局躯《からだ》を張つて暮すやうになるだらう……」
「でも、やつぱり東京へ行きたいわ。とても、あのひと、うるさくて、私、仲々東京へ出られないンです……」
ざあつと湯を背中へ流して、おせいはまた湯のなかへ、音をたててはいつて行つた。
二人が湯から上つて、二階へ戻つて行つた時には、ゆき子はまだ酒を呑んでゐる亭主を相手に、喋《しやべ》つてゐた。仏印での様々な思ひ出話を面白をかしく話してゐた。
「随分ごゆつくりね……。二人ともかけおちしたかしらと思つたわ」
ゆき子は冗談《じようだん》で云つたのだが、富岡は、ゆき子の直感にどきりとした。おせいはびくともしないで、冷い手拭を壁の釘《くぎ》にかけて炬燵《こたつ》にもぐり込んだ。頬紅《ほゝべに》を赤くつけてゐると思つたのは、さうではなくて、生地《きぢ》からの頬の赤さで如何《いか》にも山間の女らしく見えた。
化粧をしないおせいの顔が艶々《つやつや》と光つてみえる。富岡は、魂のない空《うつろ》な眼差《まなざ》しで、おせいのどつしりとした胸のあたりを見てゐた。ゆき子に対しては、もはやすがりつき慰さめを得ようと云ふ気持にはなれない。おせいの逞《たく》ましい肉づきに、富岡は明日からの生活を考へ始めてゐた。もう死ぬ気はなかつた。ゆき子に対して、背反の反省もない。おせいは、時々眼を光らせて、富岡を掠《かす》めるやうに眺めた。富岡は、自分の心のなかに、仏印にゐた時のやうな、旅空での青春の濫費《らんぴ》がきざし始めてきてゐたのだ。一応の倫理感は自分の額にぶらさがつてはゐたけれども、富岡は、胸の奥深くには、おせいの亭主も、ゆき子も馬鹿にしきつてゐた。おせいの誘惑によつて、何とか生きかへりたいと思ひ、一種の焦《こ》げつくやうな興奮をさへ感じてゐる。――眼の前にゐる亭主とゆき子を眼の前から消してしまひたかつた。二人さへゐなければ、富岡はおせいと自由に第二の人生を歩み出せるやうな気がした。何も彼《か》も肉親のきづなを捨てきれる自信はあつた。眼の前の二人を殺した罪によつて、おせいと二人で獄につながれる空想もしてゐる。――亭主もゆき子もかなり酔つぱらつてゐた。亭主は酔ひつぶれて、炬燵に眠つた。ゆき子は酔つた眼を吊りあげてゐる。おせいは持つて来た焼酎《せうちう》を水に割つて、ゆき子のコップについだ。咽喉《のど》の乾いたゆき子は、そのコップの水をがぶがぶと美味《うま》さうに飲み干して、わけのわからぬ事を喋《しやべ》つてゐる。
おせいは亭主の躯を引きずるやうにして、隣室の自分達の寝間へ運んで行つた。富岡は手を貸してやるでもなく、ゆき子のコップにごぼごぼと焼酎をついだ。ゆき子は何が面白いのか、時々ぷつと吹き出しては、コップの水を四囲に吹きつけるやうにして、焼酎の混つたコップの水を飲んだ。顔は火のやうだつた。
「椰子《やし》の水はおいしいもんだわね。一寸《ちよつと》ねえ、冷くてとても生《なま》ぐさい匂ひがしたわねえ……。椰子の実の水が飲みたいのよ」
「そら、椰子の実の水だぞ……」
富岡はまた焼酎をコップについだ。ゆき子は全身がしびれて、こんとんとして来た。富岡は煙草に火をつけて、風の音に耳をかたむけてゐる。だるま火鉢の蓋に手をかざしてゐたおせいは、膝のさきに、富岡の足が這《は》ひよつて来たのを片手でつかんだ。ぱつと瞠《みは》る眼から、青いエーテルが光りこぼれるやうだつた。富岡は火鉢のそばへ寄つて行つて、おせいの首を自分の顔の方へ引きよせた。
「駄目よッ」
「酔つてて判りやアしない……」
「厭だわ、まだ何か、おくさん喋《しやべ》つてるわ」
富岡はゆき子に復讐《ふくしう》するやうな眼で、酔つぱらひの化粧のはげた、醜いゆき子を嫌悪《けんを》の表情でみつめた。この女との幕は終つたやうな気がした。富岡は、寝転んでまだ喋つてゐるゆき子にはおかまひなく、おせいの肩を抱き寄せて激しく唇を封じた。ゆき子が笑ひながら唄をうたつてゐる。初めて逢つた時の眼の色が本当だと云ふ唄をうたつてゐる。馬鹿な奴だと、富岡はおせいの膝にくつついた火鉢を引きはなした。
ゆき子は時々眼を覚したが、四囲は暗かつた。男の太い鼾《いびき》が耳の近くで聞えた。その鼾に混つて、窓のカーテンを透《す》かした路上の灯影《ほかげ》で、誰かがひそひそとさゝやきあひ、寄り添つてゐる人の気配がした。ゆき子は咽喉が焼けつくやうだつた。椰子の実の水がこんこんと流れるところへ、這ひ寄つて行きたかつた。部屋はハンモックのやうに揺れた。肩や腰に力が少しもはいらない。水が飲みたくてたまらなかつたが、からからに乾いた咽喉《のど》はぴつたりとくつついて音声を出す事が出来ない。力いつぱいで寝返りを打つて、やつと腹這ふ事が出来たが、ふつと誰かがゆき子の枕許《まくらもと》をまたいで襖《ふすま》ぎはに行く気配がした。何気なく、もうろうとした眼を開けると、背の高い女の姿が、襖を開けて、隣室に消えて行くところだつた。ゆき子はその人影に向つて、
「水頂戴」
と叫ぶやうに云つた。襖は閉つて何の反響もない。ゆき子は怒つて、また、「水が飲みたい」と叫んだ。誰も起きる気配がないので、ゆき子は手さぐりで炬燵のまはりを這ひまはつた。
三日ばかり、富岡達は厄介になつたが、ゆき子は東京へかへるのを急ぎ始めた。女の敏感さで、ゆき子は、おせいに何となく反感を持ち始めてゐた。いよいよ明日は伊香保を発つと云ふ日の夜、別れの宴を張つて、その夜はまた亭主は、おせいにそゝのかされて酒をはずんだが、ゆき子は、あまり酒を飲まなかつた。最初の夜の深酒がたゝつて、何時までも頭が痛く、胃も重かつた。おせいが、さかんに酒をついでよこしたが、ゆき子は、ひそかに灰皿を引き寄せて、灰皿へ酒をあけた。そのくせ酔つた真似をした。富岡は眼を閉ぢて時々安南の唄をくちずさんでゐる。ゆき子はうかゞふやうに、時々おせいの表情を眺めた。最初の夜のもうろうとした女のお化けが、おせいのやうにも思へて来た。何故《なぜ》、襖ぎはに立つてゐたかが謎《なぞ》でもあつた。亭主はもういい気持ちになり、鼻水をすゝりながら、東京へ出て一旗あげたい話をしてゐる。
「本所の焼跡に、一杯屋でも建てたいンだが、坪二万両としても、十坪ぢや相当なもンだしね。それに仕入れとなれば、三十万は用意しなくちやならねえし、仲々、これで今日、容易な事では、東京住ひもむつかしいつて聞くンだが……。と云つて、何時までも、こんな事をしてもゐられねえし、居抜きのまゝ売りに出してるンだが、何しろ、夏場のところで、それまで命をつないでゆく根気はねえし、いつそ、築地の兄弟分のところへ、二人で転げこんで行かうなンて話してもゐるンですがね」
富岡は時々眼をあけて相槌《あひづち》を打つやうに返事をしてゐたが、人の話なぞどうでもよかつた。萎縮《ゐしゆく》した無気力さで、盃《さかづき》を唇へ運んだ。亭主は、無口な謙遜家《けんそんか》の富岡がすつかり気に入り、何事も相談したい様子で、現在のこの商売にはほとほとおせいと一緒に、飽きが来てゐるのだと云つた。風はなかつたが、底冷えのする寒い夜だつた。珍しく按摩《あんま》の笛が窓の下を通つた。
富岡は如何《いか》にも思ひついたやうに、
「さて、湯に這入つて来るかな……」と云つた。
すると、おせいがすぐ立つて、シャボン箱と手拭を取つてやり、「私も一風呂あつたまつて来よう」と云つた。
「あら、ぢやア、私も一緒に行きませう」
ゆき子が何気なく、富岡の後から立ちあがると、おせいは急に不服さうな顔をして、
「さうですか、それぢやア、お二人で行つてらつしやい」と云つた。
ゆき子は、ぴいんと額に小石を投げられたやうな厭な気持ちで、おせいの荒々しさを眺め、階段を降りて行く、富岡の後へついて行つた。
下駄をつつかけて、裏口へ出て行くと、肌を射すやうな冷い空気だつた。
「おせいさんつて、妙な女ね。貴方が好きなのぢやないの? 何だか変だわね……」
ゆき子が嘲《わら》ひながら、かまをかけるつもりで、富岡の後姿へ話しかけたが、富岡は狭い石段を降りて行きながら、「へえ、さうかい」とへうきんな返事をした。
「あのお猿さん、相当の浮気者だわ……」
「さうかね……」
「あら、さうかねつて、貴方は、何時でも女にはよそよそしくしてゐて、女をちやんと掴《つか》んでしまふンだから……」
「別に、あのお猿さんを掴んぢやゐないぜ。馬鹿な事は云はないでくれよ」
「でも、興味はないわけぢやないでせう?」
「ないね……」
「さうかしら。私が、湯に行くつて云つたら、急にぷりぷりしだしたの変ね。貴方に惚《ほ》れてるのよ。――馬鹿にサービスがいゝわね。貴方にだけ……」
「ほう。そりやァ、いま初めて気がついた。もう四五日厄介になるか」
「さうね。それもいゝわね」
二人はくすくす笑ひながら、米屋の大湯へ這入りに行つた。七八人の浴客が高声で闇米の相場を話しあつてゐた。団体客ででもあるらしく、二人ばかりの芸者らしいのも混《まじ》つて、客の背中を流してやつてゐる。流して貰つてゐる男が時々仲間に冷やかされてゐる様子で、湯殿は仲々賑やかであつた。
富岡は何気なく、ゆき子の裸を見たが、おせいのやうに立派な肉体でないのが哀れに思へた。若い芸者ばかりのせゐか、ゆき子の肉体は何となく凋落《てうらく》のきざしをみせてゐる。そのくせ、脚はすくすくとして、胴との均整がとれてゐた。ゆき子は勝手に躯を洗ひ、芸者のやうに、男の背中を流すと云ふ心づかひはしなかつた。――ゆき子は早々と湯から上つた。洋服をぬいだ籠のところへ行くと、並べて置いた富岡の籠のものが、何時《いつ》の間にか、青い木綿の風呂敷包みになつてゐた。違ふ籠ではないのかと、四囲を眺めたが、富岡の衣類の籠は見当らなかつた。そつと、風呂敷の隅から衣類をのぞいてみると、妙な事には、その包みは富岡のものがそつくり包まれてゐる。軈て富岡が上つて来た様子だつたので、ゆき子は服を手早く着て、鏡の前へ行き、髪をときつけにかゝつた。鏡のなかに写る富岡は、風呂敷包みに一寸ばかりとまどひした様子だつたが、すぐ、素知らぬ顔で、風呂敷をといてゐる。何となく、籠の中をたんねんに探してゐるやうだつたが、暫《しばら》くして、ちらと、ゆき子の方を振り返るやうにして、富岡は新しいパンツをはいた。ゆき子には、その真白いパンツが不思議だつた。富岡は忙《せ》はし気に服を着て、風呂敷を小さくまるめてポケットにしまつた。ゆき子は何も彼もが不思議でならない。
「ねえ、風呂敷包みになつてるなンて変ね」
ゆき子が冷やかすやうに、鏡から離れていつた。
「誰かが包んでくれたンだらう……」
「新しいパンツも持つて来てくれたのね。古いのはどうして?」
富岡は返事もしないで、さつさと、湯殿へ手拭を絞りに行つた。ゆき子はかちんと心へ触れるものがあつたが、富岡が戻つて来ても、何も云はないで寒い廊下へ、先になつて出て行つた。
――逃げてゆかうとしてゐる男の心を、かうした事で、時々見はぐれたのだと、ゆき子は、自分自身にも判然《はつき》りと云ひ聞かせるつもりで、富岡との思ひ出ばかりに引きずられてゐてはならないと思つた。我慢の出来ない淋しさだつたが、ゆき子は当分独りで生きてみるつもりだつた。弛《ゆる》んだ気持ちのまゝ、引きずられてはゐられないと、自分の心に云ひきかせてみる。
二人は黙つたまゝ、石段を登つた。星屑がまるで船の燈火のやうにまたゝいてゐる。ゆき子は気を紛《まぎ》らせるつもりで、かすれた口笛を吹いた。瞼《まぶた》に突きあげて来る熱いものを、時々外套の袖でこすりながら、海防《ハイフォン》から戻つて来た時の、心の渇きが、急にいまごろ涙になつて、とめどなく頬に溢《あふ》れた。日本へ戻つて来て、いつたい何が自分達をこんな風に、無気力な淋しがりにしてしまつたのだらう……。一つ一つ石段を登りながら、ゆき子はうゝと突きあげて来る涙にむせてゐた。
「どうしたンだ?」
「どうもしないわ……」
「うたぐつてるのか?」
「何を?」
ゆき子は激しい怒りが襲つて来たが、その怒りはすぐ口に噴きこぼれないうちに、胸のなかで淡く消えて行つた。昂奮《かうふん》は少しづつ沈んで来た。石段を登りつめると、家の横から表通りへ出る路地があつた。
「少し歩いてみようか?」
「風邪《かぜ》をひくといけないからよしませう」
富岡は立停つて、纒《まとま》りのない小さい声で、「君は神経衰弱なンだよ」と云つた。さうしてまた早口に、
「いや、僕の神経が弱つてゐるんだ。落ちつかないのは僕の方なンだ。すぐ溺《おぼ》れたがる。孤独ではゐられなくなつてゐるンだね……。どうにもやりきれないから、このまゝ沈下してゆくンだよ。――手当り次第に勝手な方向へ歩きたくなつてゐる……。いまも、勝手な事を考へてゐたンだ」
と、云つて、富岡は棒のやうに凍つた手拭を、まるでステッキのやうに肩にかついだ。
「冷えちやふわ。兎に角、家の中へ這入つて、さつさと寝かせて貰ひませう……。明日朝早く、私、こゝを発ちたいンですから……」
「君だけ帰るやうな事を云つてるぢやないか……。僕も帰るよ。一緒に来たンだもの、一緒に帰らなくちやいけない」
「えゝ、そりやアさうですけれど……。貴方《あなた》つて、大変な方なンだから……。もう、こんな事はどうでもいゝわ。よしませう。私、足がぶるぶる震へて来たわ……」
二人は、裏口から二階へ上つて行つたが、隣りの部屋では亭主が鼾《いびき》をたてて眠つてゐた。おせいはゐなかつた。富岡は茶餉台《ちやぶだい》の徳利を取つて耳にあてて振つてゐたが、酒が残つてゐたとみえて、冷えた酒をコップにあけて、咽喉《のど》を鳴らして飲んだ。おせいが亭主の寝床にゐないと云ふ事は、温泉から戻つて来た富岡やゆき子に、多少の効果はあつた。二人は二人なりに、それぞれの思ひで、おせいのゐない事を気にしてゐる。ゆき子は冷えこんだ足を炬燵に入れて、明日、東京で富岡と別れてからの生活を考へてゐた。池袋の生活は、この一週間あまりの不在で、一切が片づいてゐるやうな気もした。
二人は、五日の夕方東京へ戻つた。
東京を去る時よりも、もつとひどい憂欝《いううつ》さで、ゆき子は自分の避難所へ富岡を連れて戻つて来た。母屋《おもや》の荒物屋へ帰つた挨拶に行くと、お神さんは厭な顔をしてゐた。ゆき子は、さうした顔に行きあたると、思ひがけない旅路の長さを思ひ、他人の家へ這入《はい》るやうな気兼な気持ちで小舎の鍵を開けた。引いて貰つたばかりの電気をつけ、ソケットをコードについで、電気コンロのスイッチをひねつた。部屋のなかは何となくかき乱されてゐた。炬燵《こたつ》の上には手紙が置いてあつたが、それは伊庭の置手紙であつた。二日ほど、こゝでゆき子を待つ為に泊つた事や、一度郷里に戻つて来いと云ふ事が記されてゐた。鷺の宮には、七草の日に、伊庭一家が集る事になつてゐるから、その日はぜひ泊りがけで来てくれるやうにともある。ゆき子は、すぐ、それをぴりぴりと破つて七輪に投げ込んだ。火を熾《おこ》して、炬燵に入れると、ゆき子はコオヒイを電気コンロにかけた。
炬燵に膝を入れて、煙草を吸ひつけてゐた富岡が、片手で髪の毛をかきむしりながら、
「おい、こゝには酒はないのか?」と聞いた。
ゆき子は黙つて、部屋の隅の壜《びん》を二三本透《す》かして見てゐたが、「ないわ」と云つた。富岡は毎晩酒がなくてはゐられないやうになつてゐる。酒の力で心を引つ掻きまはしてゐなければ、ぐんぐん沈下してゆく自分の孤独さに耐へてゆけないのだ。連れて逃げてくれと云つたおせいを、富岡はそのまゝ置き去りにして来た事が、いまでは遠い昔に思へた。恋しくもあつたが、どうでもいゝ事でもあつた。所を教へてくれと云はれて、富岡は出鱈目《でたらめ》な住所を渡しておいた。おせいの心づくしの新しいパンツをはいて東京へ戻つて来たが、それはまるで他人事《ひとごと》のやうでもあつた。
「飲みたい?」
「飲みたいねえ……」
「さう、今夜は貴方を飲みつぶさせてやるわね……」
ゆき子はコオヒイを淹《い》れながら、冗談を云つた。その癖、酒を買ひに行く気はなかつたのだ。
「まだ、気にしてゐるのか?」
「あら、私が、何を気にしてるの?」
「いや、何でもない。お互ひに命びろひをした祝賀会でもするか……」
「おせいさんに救はれたやうなものね」
「猿ツ子にかい?」
「いゝ躯《からだ》してるぢやないの? バスの処で、おせいの眼に、涙が光つてたわ」
「ふうーん」
ゆき子はコオヒイ茶碗を富岡のそばへ差しのべて、自分も熱いのをすゝりながら、初めて富岡の顔を見た。灰皿に煙草をにじりつけて、富岡もコオヒイを唇へ持つて行つた。何故《なぜ》ともなく、ゆき子は、今夜は一人きりで昏々《こんこん》と眠りたかつた。酒は伊香保以来一滴も飲みたくはなかつた。――コオヒイを飲み終ると、富岡は酒を買つて来ると云つて、戸外へ出て行つた。ゆき子は富岡の意のまゝにしておいた。富岡の酒の習慣が、宿命のやうにも思へる。東京も案外寒かつた。
ゆき子は米を洗ふ為に母屋の裏口へ水を汲みに行つた。ジョウは来てくれたのだらうかとも考へたが、それもどうでもよくなつてゐた。バケツに水を汲み、小舎へ戻ると、富岡は酒を一升買つて来てゐた。自分でやかんに酒をあけて、コンロにかけてゐる。
「酒に淫する方ね」
「うん、いまのところ、これが最大の恋人だな……」
「富岡さんつて怖いひとだわ。自分の事ばかり可愛いのでせう?」
燗《かん》をした酒を、コオヒイ茶碗についで、ぐうと一口美味《うま》さうに飲んで、富岡はじろりとゆき子を見た。
「可愛いから未練があるンだ。死ぬのは痛いからね……。死んでしまふまでの一瞬の痛みの怖《こは》さなンだ。これは怪我《けが》のやうな痛みぢやないからね。命を落す痛みなンだ。仲々死ねない。自分が可愛いンぢやなく、命に未練があるからなンだ……。君、一杯やらない?」
「ほしくないの、胃が痛くなるのよ」
「さう云はないで、一杯やつたらどうだい。いゝ気持ちだよ」
「私は御飯を焚《た》いて食べるからいゝわ。お酒は一滴も入らないの……」
ゆき子は鍋《なべ》の米を洗つてコンロにかけた。富岡は二杯目の酒をコオヒイ茶碗につぎ、小さいさいころを二つポケットから出して、炬燵の上で振つた。おせいがそつと別れる時にくれたものだつた。二と五が出た。しまつたと思つた。富岡の最も嫌な数字だつた。あわててさいころを振りなほした。四と五が出た。富岡は憤懣《ふんまん》に似た気持ちで、さいころをまた振りなほした。三杯目の酒を口にふくんで、幾分か重苦しい憂愁《いうしう》の車が滑り出した気がした。「悪霊《あくりやう》」のなかのキリーロフの言葉に、『けれど、痛みなしに死ぬ方法がないと思ひますか』と云つてゐるのを思ひ出してゐた。自殺を怖れる第一の理由が痛み、第二の理由は来世。『完全な自由といふものは生きても生きなくても同じになつた時、初めて得られるのです。これが一切の目的です』と云つてゐる。富岡は溜息をついて、またさいころを大きく振つた。不思議に二と五が出た。また元の同じ数字へ戻つたのだ。
「飯は煮えたかい?」
「もうすぐよ」
「伊香保は面白かつたね?」
「さうね。猿ツ子がゐたからでせう?」
「うん……」
「恋しい?」
「うん……」
「また、行けばいゝわ……」
「うるさいなア、行くよツ」
「どうして怒るの? そんなに好きなのね……」
「あゝ好きだよ。何も云はないで、躯で表現してる女だつた。逢ひたいよ……」
「逢ひに行けばいゝンだわ」
「もう遅い。捨てて来た……」
ゆき子が何か云はうとした時、池袋駅を通過する貨物列車の地響が、小舎《こや》を地震のやうにゆすぶつた。
富岡は、おせいの眼の光が瞼《まぶた》に浮んだ。きらきらよく光る、獣のやうに美しい眼だつた。大柄な、どつしりした白い裸体が空間で屈折する。熱い汗ばんだ肌がひどく恋しい。黙つて、お互ひの指を握りあつた闇のなかの息づかひが、急に耳についてはなれない。程よい酔ひのめぐりで、富岡はおせいに対して、馬鹿に慾情をそゝられた。パアマネントした固い髪の毛の感触が、丁度《ちやうど》馬の皮なみのやうだつた。富岡は、小さい豆粒ほどのさいころをやけになつて炬燵の上で振つてゐるのだ。貨物列車は遠く去つて行つた。地響きも消えた。四杯目の酒を富岡は口に持つて行つてゐる。ゆき子は鍋を降ろした。渦《うづ》を巻いたコンロの火が寒々とした部屋に、賑《にぎ》やかだつた。ゆき子は、いまごろになつておせいが憎くてたまらなかつた。黙つて躯で表現すると云つた富岡の言葉が、針のやうにさゝつた。あの時の酒の酔ひで見た、もうろうとした女のお化けは、あれは、やつぱりおせいだつたのではないかと思へた。
「貴方は怖いひとだわ……」
富岡は返事もしないで、さいころを振つてゐる。退屈だつた。と云つて、邦子のところへ帰る気はしない。空家同然のがらんとした家に坐りこんでゐる妻の邦子の姿が、現在の富岡にはうつたうしくもあるのだ。そのくせ、ゆき子に対して、深い愛情があるわけのものでもない。むしろ、友情に近いものに純化しようとしてゐるお互ひのずるさが此の頃になつて判り始めて来た。ゆき子を恋人にした時代はとつくの昔に過ぎ去つてゐる。
富岡は、もう一升の酒をかなり飲んでゐた。
「ダラットぢやシェリイをよく飲んだね」
ゆき子は飯を終つて、またコオヒイを淹《い》れて飲んだ。酒を飲んで、一人で勝手な事を云つてゐる富岡を観察しながら、ゆき子は、一升壜《びん》の空になりかけたのを呆《あき》れて眺めた。富岡にとつては、酒は麻薬のやうになつてゐるのかも知れない。どんないゝ仕事に就いたところで、かうして、毎日酒を飲むとなれば、少々の収入では追ひつく筈もない。ゆき子は、富岡を哀れがるよりも、腹立たしいものがこみあげて来た。酒に溺《おぼ》れてゐるので、本気でもの事を考へたり、相談する力が抜けてしまつてゐる。顔がぴかぴか膏《あぶら》で光り、仏印の時のやうな若さはもう消えかけてゐた。顔が、ひどく疲れて痩《や》せてゐる。
「何をじろじろ人の顔を見てゐるンだ? 追ひかへすつもりかい……。こゝは君の御邸宅だからね、折角のお客様がお出でになつても、御商売の邪魔になりますかね……」
「何を云つてるのよ……」
「いや、本当の話が、別れ時と勘定時が大切なンだ……。人生にとつては、それさへ心得てをれば、大した災難もない……。だが、さうは云ふもののさ、人生、これ別れ辛き事のみ。敗戦のていたらくも勘定時のまづさで、これやこの逆さ……。一人々々が、ゴオイング・マイ・ウェイになつたと云ふものだ」
「お喋りねえ、もう、お酒はそれだけにしておやすみなさいよ。別れ時と勘定時が大切だなンて、自分で云つてるくせに、だらだらして、何なの……」
「さう怒らなくてもいゝよ。明日は右と左だ。ゴオイング・マイ・ウェイといきませう。伊香保の事は何でもないンだから、根に持たないで下さい。モンセリ・ゆき……」
おどけて、くどくどと喋《しやべ》つてゐる富岡の紫色の唇が、ゆき子には印象的だつた。富岡は煙草を出して、べとべとに煙草を喞《くは》へこんでは喋つてゐる。眼が濁り、髪が額にたれさがつてゐる。
「あなたつていふひとは、仕様のない人間ね。でも、他人にはよく見えるンだからいゝわ。みえばうで、うつり気で、その癖、気が小さくて、酒の力で大胆になつて……気取り屋で」
「ふうん、気取り屋か……。それから、まだあるだらう、悪い所が……」
「えゝ、人間のずるさを一ぱい持つてて隠してるひとなのよ。いつそ、さつぱりとあきらめて、落ちこめる人でもないし、立派な策士的なところがある癖に、事業の方には、からきし頭の働かないところは、お役人的なンでせう? それで、この荒い世の中をさくさく乗り越えてゆけたら、富岡さんつて大した男だけど……」
「いや、これからまだ未来があるンだ。さう馬鹿にしたものでもない。びくびくしてるやうに見せかけてはゐるが、これで、巨万の富を得たいと云ふ慾望は、人なみ以上に持つてゐるンだがね……」
「ぢやア、何故、死ぬ気になンかなつたの?」
「君は、死ぬ気になつた事はないのかい? 生きたいから、死ぬ事も考へるンだよ。伊香保へ行つた時の気持ちは、その気だつたから行つたのさ……。東京へ戻つたのは、生きて、何とかなるかも知れないと思つたから戻つて来たンだ。――死ぬのは淋しいと考へたから、かうして酒を飲むンだよ。己《お》れに勇気のない事を見破つたから、あきらめたまでなンだ。誰だつて、一生のうちに、死を考へないものはなからうぢやないかね……。只僕達は、死ぬにしても、邪魔つけな意識がぶらさがつてて仲々単純にはやつつけられない。天界からみたら粟粒《あはつぶ》ほどの人間なンだが、やつぱりひとかどの理窟がついて、うぬぼれも、みえもあるしね……。人間には仙人になる方法もないンだ。矛盾だらけのゴミを吸ひこんで、何とか生きの愉《たの》しみを自分でつくつてゐるまでの事だよ。その矛盾のゴミのなかには、事業もあらう、女もあらうし、政治も法律もスポーツもあるンだ。――矛盾のゴミの吸ひかげんで、運のいゝ奴と、運の悪い奴が出来て来る。――海防《ハイフォン》だつて、あの船出についちやア、随分厭な根性《こんじやう》の奴《やつ》がゐたぢやないか。早く帰りたいから、仲間を押しのけても、船に乗りたがる。自分以外はみんな戦犯だつたやうな事を云ひ出す奴もゐるしね……。人間はそんなもンだよ。正義を口にする奴ほど油断がならんと思はないかね? 女の君をだます位は何でもありやアしない……。だが、加野つて男は、あれはいゝ男だつた。正直で、何時《いつ》も運の悪い奴で、そして、何時でも、自分を運の悪いものとは思つちやゐない……」
「加野さんには、貴方《あなた》も私もあやまらなくちやいけないわ。――じらして、からかつて、罪を犯さしたのは、私達なンだから……。つかまつてサイゴンへ行く時、少しも私達を恨んぢやゐなかつたわ……。でも、私は加野さんに切られちやつたけど、得をしたのは貴方よ。ずるいンだから……」
「運がよかつたね。それでいゝンだよ」
「あのひと、戦争には勝つ勝つと云つてたけど、日本へ帰つて来て吃驚《びつくり》したでせうね……。あの時、私だつて、加野さんつて馬鹿なひとだと思つてたわ」
酒はかなりまはつた。富岡は炬燵《こたつ》に寝そべつて肘枕《ひぢまくら》をしてゐたが、瞼《まぶた》のなかに、暗い森林のやうなものが浮んだ。加野は、アフリカの森林調査と、瓦斯用《ガスよう》木炭に関する試験を完成して、仏印に木炭自動車の普及に貢献した、サイゴンの農林研究所のアロアルド氏について、瓦斯用木炭の製炭法と、薪炭林の中林作業に一生をかけると云つてゐたものだが、一つの事に熱中すると、何のうたがひもなく、その仕事にまつしぐらに熱中してゆける加野の純情を、富岡はいまになつて得がたいものに考へてゐた。風のたよりでは、戻つて来た加野は、何を考へてか、一切のいままでの生活にそむいて、横浜で自由労働者になつてゐるとも聞いた。だが、その話は、実際に、加野に逢つてみなければ判らない。加野のやうな男だつたら、自分の思ひ通りな事を率直にやりかねない所もある。富岡は一度、加野を尋ねてみようと思つた。
平和条約でも済んで、自由に何処へでも行けるやうな時が来たら、もう一度、一使用人となる覚悟で、富岡はサイゴンへ船出して行きたい気持ちだつた。
「眠い?」
「いや、眠くはないよ。ますます眼が冴《さ》えてくるばかりだ。色々と生きる道を考へてるが、仲々だね。これから……。女は如何なる場合も女だが、男は仲々むづかしい」
「女だつて大変だわ……。貴方は頼りにならないし、私、一度、田舎《ゐなか》へ戻つてみようと思つてるの、どうかしら?」
「そりやアいゝさ、田舎へ帰つて、健康なお嫁さんになるンだね。平和な生活にはいれたら、それが一番いゝンだ」
「あら、厭なひとね、お嫁さんになンてならないわ。田舎へ帰るつて云ふのは、そんな気持ちで云つてるンぢやないのよ。私には、私の生き方があるから、さよならをしに行くンぢやないの……」
「ふうーん、君の生きかたがね。そりやアさうだ。誰にだつて、生き方はあるさ……。まア、それにしても、無理をしないがいゝね。一生独身でゆくわけにもゆかないだらう」
ゆき子は、炬燵《こたつ》に炭をついでゐた。ぶうぶうと火を吹きながら、
「まるで、他人みたいな事を云ふわね」と怒つたやうに云つた。
時々省線の電車の地響きがする。昨日まで伊香保にゐた事が嘘のやうな気がした。眼の前に、まだ富岡が寝転んでゐてくれるからいゝやうなものの、実際に別れてしまへば、この小舎《こや》での生活は、一人では淋しいかも知れないのだ。さつきまでは、昏々《こんこん》と一人で眠りたいと考へてゐたのだけれど、いまはまた、気持ちが変つた。お互ひの素性《すじやう》を知りあつたもの同士が、一つところに寄りあつてゐる事は慰めだつた。
「煙草ないかい?」
富岡が手を出した。ゆき子は、ハンドバッグから光の箱を出して、その手に渡した。そして、炬燵の上に転つてゐる、二つのさいころを手にとつて、ゆき子は暫く、そのさいころを握つて自分勝手な事を考へてゐた。何をして働くべきかが重くかぶさつて来る。事務的な才能もいまはなくなつてゐる。まして女中にはなれない。細君になるのも嫌だつた。何かをしなければ飢《う》ゑてしまふ。どの仕事を選ぶべきかとゆき子はさいころを振りながら、寒い風に吹かれて、街の女になつてゐる自分の姿をひそかに空想してゐた。
七草の日には、ゆき子は、伊庭の家には行かなかつた。富岡が帰つて以来、ゆき子は四五日は家のなかで暮した。何処へも出て行く気がしなかつたし、何をしようと云ふ気持ちもなかつた。心に突き刺した傷はなかなか、恢復《くわいふく》する模様もない。ゆき子は、伊香保のおせいのところと、横浜の蓑沢《みのざは》にゐると云ふ、加野のところへハガキを書いた。
おせいのところへは、わざと主人からよろしくと書いておいた。どのやうな反応で、おせいから返事があるかが、ゆき子には面白いいたづらでもあつた。加野には、近いうち是非尋ねたいが、何時が都合がよいかと云ふ問ひあはせの文面を出した。案外な事には、ハガキを出して間もなく、おせいの亭主が、雪もよひの日に、ゆき子を尋ねて来た。おせいは、ゆき子達が東京へ戻つて行つた翌朝、身一つで家を出てしまひ、いまだに戻つて来ないと云つた。
ゆき子は、富岡の事がすぐ頭のなかに浮んだ。一夜泊つて帰つて行つた富岡は、何処かでおせいと逢ふ約束が出来てゐたのかも判らないと思つた。二人のはつきりしたところを見たわけではなかつたけれども、見送りに来たおせいの涙は、あれは、たゞごとではない女の涙だと、ゆき子は心ひそかに睨《にら》んでゐたのだ。いま、かうして、おせいの亭主に尋ねて来られると、富岡が、おせいには所をいゝかげんに教へておいたと云つた事も、嘘にとれたし、何かが二人の間に約束されてゐるのではないかと考へられたのだ。逢つてゐる時には、富岡と別れる事ばかり思ひ続けてゐながら、富岡が細君のところへ戻つて行つたとなると、何故ともなく、富岡の思ひ通りに、伊香保で自殺してしまはなかつたのだらうかと、後悔もされた。いまになつてみると、死ぬ事は安々とした気持ちでもあつたのだ。自分のひそかな絶望の形態が、竹矢来《たけやらい》のやうに、自分の周囲に張りめぐらされた気がした。ゆき子は、富岡の住所を、おせいの亭主にわざと教へてやつた。いまごろは何処かで、あの男は、おせいに逢つてゐるに違ひないのだ……。
その翌る朝早くまた、おせいの亭主が尋ねて来た。
「富岡さんはゐましたよ。やつぱり、おせいの事は、何も御ぞんじない様子で、驚いてゐましたがね……。私も、あいつの行きさうな心あたりがないンで、警察にでも頼んでみようかと思ひます。富岡さんで泊めて下すつたンですが、蒲団がないンで、夜ぢゆう炬燵《こたつ》のごろ寝で、奥さんにも、えらい御厄介をかけてしまひました」
おせいの亭主はさう云つて、ゆき子の立ち場が初めて判つたらしく、少々馴々《なれなれ》しいぞんざいさで、亭主は暗い小舎《こや》のなかへ上り込んで来た。
すると、あの時のおせいの涙は、やつぱり、自分の思ひ過しだつたのかともゆき子は考へたが、その時の気持ちで、非常に冷酷になれる富岡の事だから、あれは本当に、富岡の云つたとほり、おせいにも亭主にも自分の住所をあかさなかつたのかも知れないとも思へた。もしも、おせいに行きあつてゐないとすれば、富岡の冷酷さがますます底気味の悪いものに考へられて来る。富岡とおせいの間が普通ではない事を、ゆき子は女の敏感さで見抜いてもゐたし、第一、共同温泉で、新しいパンツを持つて来てやつてゐるおせいの女心が、ゆき子に判らない筈はないのであつた。おせいの女心を、そのまゝはぐらかして、逢つてゐないとなると、あれは旅の行きずりの、富岡の我まゝな一種の甘つたれだけであつたのだらうか……。おせいとのかゝはりの続きを、そのまま旅先だけの事にして、打切つてしまふ冷酷さだつたのかも知れないと思つた。一時間ばかりもゐて、おせいの亭主は悄然《せうぜん》と戻つて行つた。
ゆき子は富岡の本心を見たやうな気がした。かへつて、もてあそばれたやうなかたちになつて、家出をした若いおせいに対して、ゆき子は何となく同情もしてみる。その日、ゆき子は加野から、病気で寝てゐるので、むさくるしくはしてゐるが、何と云つても、なつかしいので、あのハガキの御心意が本当ならば、尋ねてお出で下さい、と云ふ返事を貰つた。そして、その文面の末尾には、富岡君にも逢ひたいので、よかつたら、お二人でお出掛け下さいと、小さく追ひ書きがしてあつた。ゆき子はかなり苦労人らしくなつた加野の人なつつこさが、たまらなくなつかしかつた。富岡や自分に対して、現在では何のわだかまりも、持つてゐさうもない文面でもあると、吻《ほ》つとした。
ゆき子は思ひ切つて、横浜の蓑沢《みのざは》に加野を尋ねて行つた。ベアリング工場とか、印刷屋だのがごみごみした通りの、掘り返した道路に面した番地を、たんねんに探して、ゆき子はやつと、狭い路地の中に、加野の下宿先を探しあてた。バラックの小さい小舎同然の並んでゐる、長屋のはづれに、アンゴラ兎を家のなかで飼つてゐる二階家に、加野は間借りをしてゐた。丁度《ちやうど》、伊香保のおせいの家のやうなぐらぐらした家で、二階に加野は寝てゐると階下の子供が云ふので、ゆき子はかまはず二階へ上つて行つた。天井の低い、一部屋だけの、梯子段《はしごだん》の上り口から、七輪や炭の俵の置いてあるところを通つて、破れた襖《ふすま》ぎはへ立つと、あの聞きおぼえのある、加野の疳高《かんだか》い声で、
「むさくるしくしてますが、お這入り下さい」と云つた。
襖を開けると、加野は汚れた手拭で鉢巻きをして毛布を被《かぶ》つて寝てゐた。裸電気が、まるで氷の袋のやうに、加野の頭の上でゆらゆらゆれてゐる。むくんで蒼黒《あをぐろ》い顔をしてゐた。昔のおもかげもないやうな風貌《ふうばう》の変化である。
「まア! どうなすつて? お風邪《かぜ》ですか?」
足の踏み場もなく取り散らかつた、加野の枕もとに行き、ゆき子は加野をのぞき込むやうに云つた。加野はぽつと顔を赧《あか》くして、如何にもなつかしさうに笑つた。白い歯をしてゐた。
「駄目になつちやつたンですよ。こゝをやられて、昨夜も少し喀血《かくけつ》したンです……」
と、他人事《ひとごと》のやうに云つて、壁ぎはの綿のはみ出た座蒲団を眼で差して、それに坐つてくれと加野は云つた。ぷうんと四囲に石炭酸の匂ひがした。
「躯《からだ》がすつかり参つちまつてね。少しばかり、荷揚げの人夫をやつてゐたンですが、雨にあつて冷えたのがもとで、もう四十日ばかり寝込んでゐます。生きながらの死骸ですね。――富岡君と一緒ぢやなかつたの?」
「いゝえ一人で来たのよ。富岡さんとは久しく逢はないンですの……」
「ふうん、結婚してゐないの?」
「誰と?」
「富岡君と幸福に暮してるのかと思つたンですがね……」
「あら、私は一人だわ。富岡さんは富岡さんですわ。――加野さんの御病気は、いつたい誰が看《み》ていらつしやるの?」
「おふくろと弟がゐるンですが、弟はついこの先の文寿堂つて印刷工場に植字工で働きに出てゐます。戦争中は特攻隊の一人だつたンですがね、いまは、植字工になつておふくろと二人暮しで、僕を待つてゐてくれたンです。何しろ焼け出されで[#「焼け出されで」はママ]、家もないもンで、こんな処にゐますがね。これでも、現在の僕達には、金殿玉楼ですよ」
紙を張つた硝子窓から、にぶい午後の陽射しが縞《しま》になつて、汚れた軍隊毛布に射し込んでゐた。ゆき子は人の身の上の激しいうつり変りを見るやうな気がした。ひげののびた蒼《あを》ざめた加野の顔は、痩《や》せてとがつてゐた。まんまるい子供の顔のやうだつた加野は、まるで十年も年を取つたやうな老《ふ》けかたであつた。寝てゐる加野の現在の風貌からは、南方の生活の様子は仲々思ひ出せないのである。まるで違つた人の顔をして、そこに横たはつてゐるのだ。二人には何の過去もなかつたやうな、赤の他人同士の間柄にしか考へられない。
「お変りになつたわね……」
「吃驚《びつくり》したでせう?」
「えゝ」
「まア、今日は、昔話でもして行つて下さい。ゆき子さんのハガキが来た時、とても嬉しくてね……。貴方は、僕になンか、たよりをくれる人ぢやないと思ひましたからね……」
「まア、そんな事はありませんわ。富岡さんから、加野さんのアドレスを知らして来たものですから、とても逢ひたくて……」
「ほゝう、そりやアどうも……」
ふつと、お互ひに気まづいものが心を走つた。一寸の間、二人は黙りあつてゐた。
「おふくろも働きに出てゐるンで、お茶もあげられませんが……。かへつて、病気がうつらないからいゝかも知れませんよ」
皮肉な云ひかたで、加野はふつと冷く笑つた。
ゆき子は、その言葉に、千万の刺《とげ》を感じたが、さからはないやうにして黙つてゐた。加野は時々激しく咳《せき》をしながら、癖のやうに、頭を振つた。
「冷やさなくてもいゝのですか?」
「胸を冷やすといゝンですがね、いまは何の根気もありません。おふくろと弟の邪魔をしないやうに生きてゐるのが、せめてもの私の感謝ですからね……。人の邪魔をしないと云ふのが、此の頃の僕の悟りです。何時《いつ》でも、僕は死ぬ事には自信がつきましたよ。でも、何ですな、まア、折角《せつかく》、神より頂戴した生命なンだから、一日でも生きのびた方が、死んで灰になるよりは、いくらかましですから……」
「心細い事を云はないで、早くよくなつて下さるといゝわ……」
「絶対に、よくなりませんね……」
「どうして、そんなに心細い事をおつしやるのかしら……。気の持ちやうですわ。昔の元気な加野さんに戻つてほしいわ」
「昔の加野さんは、戦争で死んだと思つてゐます。この戦争で、僕は心身ともにめちやくちやになりましたよ。ひどい目にあつたもンですよ。でもね、これも仕方がないとあきらめてゐます。時々、仏印の事を思ひ出して、僕の生涯のうちで、一番印象深い時代だつたなアと思つてね……。どうです、その後、手の傷は痛みますか? 左の腕でしたね」
ゆき子は腕の傷を覚えてゐてくれる、加野の純情さにほろりとしてゐる。
「貴女《あなた》には、本当に済まないと思つてゐますよ」
「厭ッ! 私こそ、加野さんに、我まゝをして済まないと考へてるンですよ。あの頃は、どうかしてたのね。みんな狂人の状態だつたのね」
「全く狂人の状態だつたな。貴女がわざと僕の刀の方へもたれかゝつて来たやうな気がしてね。僕は富岡を刺すつもりで、部屋へ行つたら、ゆき子さんがゐたので、なほさらかあつとしてしまつたンです。いまから考へると、馬鹿な事をしたものだ」
「もう、その話はやめて……」
「ごめんなさい。つい貴女に逢つたら、昨日の事のやうに思へたものですから……」
ゆき子は、薬臭い部屋の空気に圧迫されて、立つて、硝子戸《ガラスど》を少し開けた。冷《つめた》い風がすつと流れこんでいゝ気持ちだつた。
「富岡君は元気?」
「えゝお元気らしいわ」
「あいつは運のいゝ奴ですね。人の落ちぶれには理解を持つて、さうした人間の運命をなつとく出来る顔でゐながら、自分は住み心地のいゝ椅子にかけて、仲々動き出ようとしない男ですからね。いや、それは悪口ぢやありませんよ。だから、彼の運のいゝところも、その辺にあるンぢやないかと思つて、早く見習つておくべきだと、今頃になつて、僕はさう思ひ出しましたよ」
「でも、いまは、あまり、運のいゝ方でもなささうですよ」
「さうですかね……。貴女が、ひいきめに見てるンでせう? 家も焼けなかつたし、仕事の方も、いゝ共同者をみつけて、うまい事やつてると云ふ話ぢやありませんか?」
ゆき子は、伊香保へ富岡と心中をしに行つて果せなかつた事を思ひ出してゐた。加野は何も知らないから、あんな事を云つてゐるのだと、
「とてもいま、困つてはいらつしやる様子ですわ。家もお売りになつて、御家族を郷里の方へおかへしになつて、自分は当分身軽になつて働くつて、云つてらしつたわ」
「働くたつて、僕のやうに、浜の人夫になつて、日給二百円の風太郎《ぷうたらう》になる気は、あいつには出来ませんよ。何十貫と云ふ荷物かつぎをやつて、こんな躯《からだ》になるのも、あいつには喜劇に見えるだらうな……」
「冗談ばつかり、加野さんは、わざと、求めてそんな事おつしやるのね。どうした心境で、人夫になンてなる気持ちにおなりになつたの?」
「そりやア、食ふ為ですよ。気の利いた仕事はありませんでしたからね。てつとり早いのがいゝと思つて、泥棒になるよりはましだと思つて始めたんです。――ペンより重いものを持つた事のない役人生活をしてたものには、とてもこたへましたね……」
「さうでせうね……」
土産《みやげ》に林檎《りんご》を五ツ六ツ買つて来たのを、ゆき子は開いて、庖丁《はうちやう》を探してむいた。くるくるとむきながら、ゆき子は鼻の奥の熱くなるやうな気がした。もういくらも生きてはゐないだらう加野の為に、出来るだけの親切をしてやりたい気持ちだつた。むいたのを小さく切つて加野の口へ入れてやると、加野は歯の音をさせて、林檎をむさぼるやうに食つた。
「色んな事が私達にはあつたけど、やつぱり、生きてゐれば、かうした時代も見る事が出来たし、私達もお目にかゝれたぢやありませんの? だから、うんと栄養をとつて、元気になつて下さらなくちやいけないわ」
「栄養か……。さうですね。金さへあれば、二三年は寿命がありますでせう」
「でも、お母さまも、弟さんも大変ね……」
「全く御気の毒のかぎりと云ひたいところだ。此の頃はおふくろも、弟も、僕には飽々《あきあき》してる模様ですよ」
「そりやア、貴方のひがみだわ」
「ひがみですかね……」
加野は実際、富岡のやうな、紙一重のあぶないところを、一生涯、自分の直接性をもつてすり抜けてゆける幸運には、あやかる事も出来ないと思つてゐた。富岡の事を考へてゐると自然に腹が立つて来る。いつも、するりと身を交はして、中々溺《おぼ》れる方へは頭をつつこまない。加野は昔の事を思ひ出してむつつりした。ゆき子は林檎の皮を新聞紙にくるんでゐる。そして、何か云ひかけようとしてやめた。加野は、ゆき子が、少しも昔の情熱的なところを見せないで、悠々《いういう》と落ちついてゐる事に、謎《なぞ》だなと、此の女の大胆さが不思議でもあつた。話に聞けば、いまだに一度も郷里へ戻つた事もなく、引揚げて戻つたまゝ、独りで放浪してゐるのだと、枕もとで引揚げ以来の事を話されてみると、女は魚の肌のやうに、底意地の冷たいものだと思へた。
「富岡と云ふ人間は、いまにきつと、あいつの才能でまた息を吹き返します。それが出来る男なンだ。あいつは……。去年の五月に海防《ハイフォン》から船に乗つたと聞いて、その時の事を後で聞いて、つくづく運のいゝ奴だと思ひましたよ。インテリをよそほつてゐると仲々戻れないと思ひ、軍属で、仏印へ来て、林野局のお茶わかしとか、使ひ走りに来てゐたのだと、あいつが云つたさうです。波止場の検問所の前で、沢山《たくさん》の将校から調べられた時、富岡は最も愚直なスタイルをつくつてね、英語やフランス語でべらべらと将校連が話しあつてゐても、その方をちらつとも見ないのださうですよ。こいつ、言葉が判ると思はれると、残されるのださうです。その次に日本地図を見せられて、四国は何処《どこ》かと聞かれた時、あいつは、九州をさつと指差したのださうです。学力は小学校卒業程度に見せてね。どうです? うまく芝居を打つぢやありませんか、そして、まんまと関門をくゞり抜けて、自分は誰かの名前をつかつて、まんまと早い船に乗つて、日本へ戻つて来た。全く英雄的人物ですよ……」
ゆき子にはそれは初耳だつた。
富岡ならば、或ひはやりかねないであらうと思へた。おせいとの問題も、本人は女の示す好意を、その女の好意として受け取つたに過ぎないのであらう。おせいは、あの時、富岡のなぐさみものになつてしまつたのかも知れない……。
「僕は、富岡とゆき子さんは、その為に、早く戻つたのかと思ひました。でも、船は一緒ぢやなかつたさうですね?」
「いゝえ、別々ですわ……」
加野の犯罪は戦争最中で、しかも役人として、最初の醜い事件として、サイゴンの憲兵隊では、ひどく乱暴にあつかはれたさうである。
一時間位で、ゆき子は何とも息苦しくなり、加野に別れを告げて外へ出た。戸外へ出ると吻《ほ》つとして、いゝ空気を吸つたやうな気がした。心のうちで、加野をみじめな男だと思つた。のびのびとした、いゝ家の息子だと聞いてゐただけに、この急激な変りかたは、何ともゆき子には気の毒に思へた。
加野は加野で、久しぶりに日本でめぐりあつてみたゆき子の現実の顔は、昔とはいくらも変つてはゐなかつたけれども、自分が富岡と血闘してまで此の女を欲しがつてゐたのだらうかと、妙な気がしてゐたのはたしかである。女の腕に偶然に傷をつけて、加野はそれだけの償《つぐな》ひをしたものの、眼の前に坐つてゐるゆき子を見た時には、こんな女の何処に誘はれて、あんな事になつたのかとをかしかつた。あの時の、出先の日本人の生活には、一種の魔がさしてゐたのかも知れないのだ。みんな、虹《にじ》のやうなものに酔つぱらつて暮してゐたやうな気がして来る。
ゆき子が戻ると云つた時に、加野はそれでも、もう少しそこへ坐つてゐて貰ひたかつた。逢ふまでは、ゆき子を、まるで女神のやうに考へてゐたが、逢つてみると、加野は何の負け惜しみでもなく、人間的なゆき子の現実に、白々《しらじら》と夢の覚める思ひだつた。
ゆき子の方も亦《また》、加野に逢つて後悔してしまつた。行かなければよかつた気がした。あの時のまゝの加野さんと考へておく方が、よかつたやうにも思へる。……富岡が、加野に逢ひたがつてゐるゆき子を、甘いと云ひ、物好きだと云つたが、おせいに嘘の住所を教へた、富岡の心の底がいまになつて判つたやうな気がした。その場かぎりの感情で、物事を切り裁いて行く男の強さが、ゆき子にはいまでは憎々《にくにく》しい程の魅力になつてもゐる。
初めに会つた、眼の色が本当なのよと、南の流行歌を唄つた富岡の自然のつぶやきが、自分やおせいの身に、いまふりかゝつて来てゐる。
黄昏《たそがれ》の寒い新橋駅にゆき子は降りてみた。寒い風が吹いた。自動車乗場の方へ歩きかけると、
「あらツ」と云つて、派手なグリンの外套を着た女が、ゆき子のそばへ走つて来た。女はゆき子の肩を叩いた。
「まア!」
ゆき子は眼を瞠《みは》つた。一緒にサイゴンへ行つた、篠原春子が走り寄つて来たのだ。ゆき子はなつかしかつた。
「どうしていらつしやるの! 何時《いつ》お帰りになつて?」
ゆき子は早口に、篠原の引揚げる時の消息を聞きたがつてゐる。
「私、さうぢやないかと、貴女《あなた》が改札を出る時から見てゐたのよ。――お元気? 私は去年の六月に引揚げて来たの。家は浦和に疎開してたので、焼けなかつたのよ。私、引揚げてすぐ、英文タイプを習ひに行き、丸の内に勤めを持つたの。……貴女はいま何をしてゐるの?」
タイピストをしてゐるにしては、篠原春子は派手な美しいつくりをしてゐた。
人身を享《う》けて あすの日の
何をもたらすと 測《はか》るなかれ
また栄耀《えいえう》の 人を見て
いく時か かくあらむとも。
世のうつろひの 迅《すみ》やかなる
翅《はね》ひろの 蜻蛉《あきつ》のあしも
かくはあらじ。
一週間ほどして、加野から、ゆき子の見舞ひをよろこんだ手紙の末尾に、こんな詩のやうな文句が書いてあつた。世のうつろひの迅やかなると云ふ一節が、ゆき子の心に焼きついてきた。病の絶望の底に到《いた》つて、自嘲《じてう》めいたこの言葉が、いまの加野の一切なのだと、ゆき子は加野へ対して、同情しないではゐられなかつたが、現実に逢つた加野へ対しては、もう何一つ惹《ひ》かされるものはない。仏印での一切はもうみんな、世のうつろひの迅やかなるであらうか。ゆき子は返事を出さなかつた。
その後、富岡からは何のたよりもなかつた。二人で死ぬつもりで、伊香保へ行つた事も、いまでは遠い過去のやうな気がして来た。あの時に死んでゐたら、今日の日は迎へられなかつたのだが、生きてゐる事も、ゆき子にとつてはどうでもいゝのであつた。富岡に死なうと打ちあけられた時、何故《なぜ》、あんなに妙な臆病さになつたのかが不思議である。
篠原春子に逢つた事も、ゆき子の心のなかには少しも刺戟《しげき》にはならなかつた。自己自身を食ひ尽してしまつてゐるやうな空虚さで、ゆき子は、何もする気持ちはなかつたが、何時までもぶらぶらしてゐるわけにはゆかない。それに、ゆき子は、此の物置小舎も、近々に立ち退いてくれるやうに、家主から云ひ渡されてゐたのだ。ふつとまた死の予感がした。富岡の、あの時の気持ちは、嘘ではなかつたやうに思へた。何故一緒にあの場で死んでしまはなかつたのだらう。……いまでは死神がとつついてゐるやうな気もしてくる。寝転んで細い革《かは》のバンドを首にあててみたが、自分の力だけでは締《し》める自信はない。或るところまで、強く首を締めあげてみたが、それを一歩通り越すまでの激しさには到らないのだ。ゆき子は、革のバンドを外《は》づして、それを腰に巻いた。いま、この場に富岡がゐてくれたらどんなにいゝだらうと思つた。富岡の姿が無性《むしやう》になつかしくてならない。いつたい死ぬと云ふ事は、自分が此の世から過ぎ去つてしまふだけのものなのだらうか……。誰も、月日がたてば、自分の死んだ事なぞかまつてはくれないだらうし、富岡にしても、何時かは自分の事なぞは忘れ去つてしまふにきまつてゐる。あの時を外づしてしまつた事が、ゆき子には残念でもあつた。初めに逢つた時が本当のお互ひだと云ふ仏印の歌の文句のやうに、伊香保の宿で、富岡が、じいつと思ひをこらしてゐたあの気持ちに、応《こた》へられなかつた心の感じかたを、ゆき子は今になつて口惜しくなつた。その癖、ゆき子は、世の中や、男に対して、信用してしまふ自信をなくしてしまつてゐるのだ。二人が、情死をしたところで、うまく、気合ひのあつた死に方は出来なかつたに違ひない。死のまぎはまで、二人は別々の事を肚《はら》のなかでは考へてゐるに相違ないのだ。ゆき子には、それが厭だつたのだ。たとへ、自分は、何も考へないとしても、富岡は、息をつめる最後に到つて、妻よ許せなぞと唸り出しはしないかと、ゆき子はうたぐつてゐるのだ。人間は心のなかまではどうにも自由にするわけにはゆかない。一時の暗さを通り過ぎた以上は、二人にとつて、陽気な人生への希望を思ひ起させるのは必定《ひつぢやう》なのである。富岡は、捨て場のない気持ちで、おせいに涙を流させる仕儀に到つたのではないかと、ゆき子はうたがひ深く考へて見るのだ。
富岡との交渉はこれで、一応はピリオドを打つてしまつたと云つてもいゝ。現に、富岡は、伊香保から戻つて以来、何の音沙汰もないのだ。現実の世界では、生きた人間同士で、お互ひを理解すると云ふ事は、どんなに激しい恋愛の火中にあつても、むづかしいのであらう。微妙な虹が、人間の心の奥底には現はれては消え、現はれては消えてゆくものなのであらう。そこをもどかしがつて、人間は笑つたり泣いたりしてゐるだけのやうにも考へられた。人間は、さうした生きものなのであらう。ゆき子は、富岡に逢ひたかつた。ちやんと、富岡とのきづなが判つてゐながら、仏印での二人の思ひ出は何といつても生涯《しやうがい》のうちでの大きな出来事なのである。この戦争は、ゆき子にとつては生涯忘れる事が出来ないのだ。あの時は、本当に幸福だつた。……兵隊のみんなが、生死をかけて戦つてゐる時に、ゆき子だけは、富岡と不思議な恋にとりつかれてゐたのだから。
ツウランの駅から、縦貫鉄道で、サイゴンへ向ふ車中での、一つの運命が、ゆき子を、富岡へめぐりあはせたのであらうか。時速四二キロの直通列車で、ゆき子は、自分一人だけ皆と別れてしまふ淋しさを考へてゐた。篠原春子は陽気に歌つたりしてゐた。その汽車に、やがて、ゆき子は富岡と乗る事があらうなぞとは考へもしなかつたのだ。あれはいつだつたかしら、春だつたか、夏だつたか、季節の変化のないところなので、思ひ出のなかに月日の念が薄れてしまつてゐる。車中で、富岡が、ゆき子の手を握り、人目につかないかくしかたで、車窓に乗り出すやうなかつかうで、走り去る疎林《そりん》を指差し、あすこはベンベン、サオ、ヤウ、コンライ、バンバラと教へてくれた。疎林は落葉し、林床には野火の跡があり、線路近くまで延焼して来てゐた。凄《すご》んだ林野も瞼《まぶた》に浮ぶ。そのなかを、時々、おそろしくこんもりした密林があり、棕梠竹《しゆろだけ》や下草が密生して、いはゆるジャングルの状《さま》を示してゐる処もあつた。そのジャングルのまはりを、パラと云ふ椰子《やし》の一種が、巨大な掌状葉《しやうじやうえふ》を拡げてゐるのが、ゆき子には印象的だつた。
あゝ、もう、あの景色のすべては、暗い過去へ消えて行つてしまつたのだ……。もう一度、呼び戻す事の出来ない、過去の冥府《めいふ》の底へかき消えてしまつたのだ。貧弱な生活しか知らない日本人の自分にとつては、あの背景の豪華さは、何とも素晴しいものであつたのだ。ゆき子は、さうした背景の前で演じられた、富岡と、自分との恋のトラブルをなつかしくしびれるやうな思ひで夢見てゐる。悠々とした景色のなかに、戦争と云ふ大芝居も含まれてゐた。その風景のなかにレースのやうな淡さで、仏蘭西《フランス》人はひそかにのんびりと暮してゐたし、安南人は、夜になると、坂の街を、ボンソアと呼びあつてゐたものだ。ボンソアの声が耳底から離れない。自然と人間がたはむれない筈はないのだ。湖水、教会堂、凄艶《せいえん》な緋寒桜《ひかんざくら》、爆竹《ばくちく》の音、むせるやうな高原の匂ひ、ゆき子は瞼に仏印の景観を浮べ、郷愁《きやうしう》にかられてゆくと、くつくつとせぐりあげるやうに涙を流してゐた。もう一度、あの場所が恋しいのだ。こんな貧しい生き方は息苦しい。ダラットの生活は、もう再びやつては来ないと思ふにつけ、富岡の皮膚の感触がたまらなく恋しかつた。贅沢《ぜいたく》さは美しいものだと云ふ事も知つた。ランビァン高原の仏蘭西人の住宅からもれる、人の声や音楽、色彩や匂ひが、高価な香水のやうに、くうつと、ゆき子の心を掠《かす》めた。林檎の唄や、雨のブルースのやうな貧弱な環境ではないのだ。のびのびとして、歴史の流れにゆつくり腰をすゑてゐる民族の力強さが、ゆき子には根深いものだと思へた。何も知らないとは云へ、教養のない貧しい民族ほど戦争好きなものはないやうに考へられる。此の地球の上に、あのやうな楽園がちやんとある事を、日本人の誰もが知らないのであらう……。贅沢《ぜいたく》は敵だと云ふ、戦争中のスローガンを思ひ出したが、贅沢が敵であつてたまるものではないのだ。五月から十月へかけての雨期をさけて、仏蘭西《フランス》人がりくぞくとランビァンの高原の街へやつて来た。あの生活のエンジョイの仕方が、終戦になつた現在では、もつと美しく、もつと華々《はなばな》しく展開されてゐるに違ひない。サイゴンから二百五十キロのランビァンの高原は、さながら油絵のやうに美しかつたものだ。ランビァンの素晴しいホテルや、別荘住ひが出来ないものにも、河内《ハノイ》近くのタムダオや、ビンや、ナベの高原に仏蘭西人はりくぞくとやつて来てゐた。戦争の話なぞには何の興味もない、自分達の生活を愉《たの》しんでゐたものである。ランビァンの野山は、仏蘭西人にとつては、絶好の狩猟地でもあつた。ゆき子は、富岡との散歩で、よく狩猟家の自動車隊に行きあつたものであつた。
他人を見る眼のとげとげしさに訓練させられてゐる日本人の生活の暗さが、ランビァンの楽園にゐる時は、何とも不思議な人種に見えて、ゆき子は、生涯をランビァンに暮すつもりで、日本の遠さを、心のうちではよその民族を見るやうな思ひでもゐた。
歴史は一貫して、数かぎりもない人間を産んで行つた。政治も幾度となく同じ事のくり返しであり、戦争も、何時までも同じ事のくり返しで始まり、終る……。何が何だか悟りのないまゝに、人間は社会と云ふ枠《わく》のなかで、犇《ひしめ》きあつては、生死をくり返してゐる。
何時か、歳月は過ぎて、夏になつた。
ゆき子は二月の終りに、一度静岡へ帰つて、肉親に逢《あ》つたが、すぐまた上京して来た。池袋の家も引越して、篠原春子の紹介で、高田馬場の錻力屋《ブリキや》のバラックの二階を借りた。ずつと富岡には逢はなかつた。駅の近くで、電車の地響きが耳につくところだつたが、敷金なしの、部屋代が千円と云ふのが気に入り、静岡から持つて来た行李《かうり》や蒲団を運びこんで、初めて人間らしい暮しに落ちついたが、ゆき子はまだ職業を持つてはゐなかつた。ゆき子は妊娠してゐた。富岡に三度ほど手紙を出したが、富岡からは、そのうち行くと云ふ返事が一回あつたきりで、その時、五千円の為替《かはせ》を送つて来た。ゆき子は、郷里から持つて来た衣類はほとんど売り尽して、暮しにあててゐたが、少しづつ生活が辛くなつて来た。躯《からだ》の方は壮健だつたので、つはりも案外軽いものだつたが、ゆき子は、子供を産むべきかどうかを毎日思ひ悩んでゐた。ほしくもあつた。だが、このまゝ葬つてしまひたい気もして来る。ゆき子は風呂へ行くか、買物に行く以外は、何処《どこ》へも出ないで終日部屋にこもつてゐた。だが、此のまゝで行けば、自分の生活は追ひ詰められて来る事が判つてゐた。どうにもならなくなつたら、伊香保の時の気持ちをやつてのけるだけだと考へてはゐたが、さて、その時に、本当にやれるものかどうかは不安である。伊庭はちよくちよくやつて来たが、昔の不義理に就いては、もう責めなくなつてゐたし、此の頃いゝ仕事でもみつけたのか、仲々立派な服装をしてゐた。ジョウとは去年別れたきりである。ジョウの思ひ出と云へば、大きな枕一つになつてしまつた。ジョウから貰つたラジオは静岡へ帰る時の旅費に売り払つてしまつてゐた。
伊庭は、ゆき子が妊娠してゐる事はまだ知らなかつた。ゆき子は産婆にも診《み》て貰はないで、自分流にさらしで腹をきつく締めあげてゐた。ゆき子は自分の肉体や生活に対して、これほど忍耐強い自分を知つた事はなかつた。ひそかに、これでは何でも出来るやうな気がした。これほどの強さが自分にあるとは思はなかつた。加野に腕を切られた時にも、この忍耐があつたやうな気がした。自分の我慢強さが、ゆき子には自分でも性根のしぶとい女だと思はれたが、この行き暮れた気持ちを、誰に打ちあけると云ふすべもないのをよく知つてゐたからでもある。
三日ばかり雨の続いた或る夕方、春子が尋ねて来た。丸の内でタイピストに通つてゐると云ふ春子は、タイピストをしてゐると云ふふれこみだけのもので、錻力屋のをばさんの話によると、実際は春子はバーへ勤めを持つてゐる様子だつた。道理で、わづかなサラリーで働く女の服装にしては、美しすぎると、ゆき子は春子に逢つた時から睨《にら》んでゐたのだ。
「ねえ、私達つて、この戦争のおかげで、かすみたいな女になつちやつたわね……」
坐るなり、靴下をぬぎながら、春子はさう云つて溜息《ためいき》をついた。春子にとつては、靴下が一番大切なのであらう。土産《みやげ》に牛肉を百匁買つて来たと云つて、竹の皮包みを出したので、ゆき子は、かつたるい躯だつたが、すき焼の支度をした。雨の中を、市場まで葱《ねぎ》を買ひに行つたりした。春子が金を出したので、それでパンを買つたり、砂糖を五十匁ばかり分けて貰つたりして帰ると、思ひがけなく伊庭が尋ねて来てゐて、春子と話しあつてゐた。
伊庭は宗教に就いて、春子と話しあつてゐた。伊庭の口から、宗教の話なぞ聞くとは思はなかつたので、ゆき子は妙な気がした。人間はすべて躓《つまづ》きの可能性があると云ふのである。人間は生れるときから、下を見て歩く動物に出来てゐて、いつも、躓きかげんの軽重に就いて研究してゐる動物だと伊庭は説明した。伊庭の金まはりのよさは、此の頃新しくおこつた大日向教《おほひなたけう》とかの会計事務に勤めを持つやうになつた為である。
「躓く人間は箒いて捨てるほどありますからね。まづ、躓いて、初めて天を眺め、神を祈る。私たちのやつてゐる大日向教と云ふのは、まだ日も浅いのだが、かうした人間の躓きの足もとを照してやる強大な日光の神様なのだから、聞き伝へて、大変なお参りなンですがね。いまに、熱海の観音教《くわんおんけう》どころの勢力以上になると思ふね……」
「あら、ぢやア、私みたいに、躓きつぱなしと云ふ人間は、いつたいどうなりますの?」
「そりやア、神様が起して歩くやうにしてくれますよ。ロマ書の第十四章、二十三節にもあるとほり、凡《すべ》て信仰によらぬ事は罪なりと語られてゐる通り、基督教《キリストけう》だつてこんな判りきつた事を云つてゐるのですから、まして、日本の国の大日向教が、罪多い人間の魂に喰ひ入つてゆかない筈はないね。いま、田園調布に本殿を造る敷地を求めてゐるンですがね……」
「爾光尊《じくわうそん》みたいな宗教なの?」
「いや、あのやうなものぢやないね。名士の他力は必要ぢやないンだ。たゞ、私達は、大日向の神様おひとりをお守りする、平凡階級の守り人だけで、隆盛にやつてみるつもりですよ。名士を入れると、途中で目立つて、仕事がうまく運ばないおそれがあるンでね。かへつて、さうした宣伝は邪魔つけになるンだ」
「でも、神様つて、本当にあるものかしら……」
「ありますとも、あるから、人間は、神を信じるまでの迷ひが多いンだね。第一、君、この神秘な人間の五体を見てみるといゝンだ。いくら科学が発達したところで、君、この人間が造れるものぢやないからね。神はある。たしかにある……」
すき焼きの支度が出来た。伊庭も肉鍋に手を出した。ゆき子は少しも食慾がない。生葱《なまねぎ》の白いところを好んで食べた。春子は、ポケットウィスキーを出して、伊庭にもすゝめた。伊庭は女二人を前にして、酒に酔つて来ると、さかんに肉をつゝきながら、一度、二人でお参りに来てみてくれと云つた。
「昔は、何処《どこ》の村々町々にも寺があつてね、寺が庶民の寄りあひの場所だつたが、寺も段々お葬ひ専門になつちまつたから、活気がなくなり、仏教は暗いものと云つた印象を受けるやうになつたからね……。そこへ行くと、基督教《キリストけう》つてものは結婚式も引きうけるし、賑《にぎ》やかな宗教だよ。何も、百貨店や料理屋ばかりで、何十組もの結婚式を引き受ける事はないやね。さうだらう? 大日向教もその伝でゆくつもりだ。何事も賑やかな明朗な宗教が、躓《つまづ》いた人間に魅力があるもんだ。いまに大日向教の本殿で結婚式が始まるやうになる。葬式は一切引き受けない事にする。――東都の何処かの寺では、寅《とら》の日にお参りして、寺で買つた筆で帳面をつけると、金持ちになると云ふ案を考へ出して、それからぐうんとお参りもふへたさうだが、考へ出した坊主は頭がいゝのさ。すべて陽気な明るいものでいかなくちやいけない。縁結びなンてのは貧弱だね。すべて人にかくれてお参りをしなくちやならんと云ふやうな宗教は駄目だ。金まうけの宗教、人間の慾に目をつけたものが、宗教も栄えるやうだね」
神は何処かへかくれて、神を利用し、人間を利用するテクニックに就いての話に変つて来た。人間はすべて躓《つまづ》き、すべてが絶望の苦悩を持つてゐるものであると、伊庭は云ふのである。どの人間も、絶望は長く、喜びは短い。その短い喜びは人間の五慾のなかの一種のエクスタアシイにもあたるもので、その喜びの短さをとらへて、人間どもをそゝのかしてやる事が、今日の宗教の急務だと、伊庭は説明した。愛慾の為に、男も女も金を使ふ。宗教のエクスタアシイもそのこつを心得てゐれば、宗教位金まうけの出来るものはないと云ふ商売通《しやうばいつう》の説明になつた。
伊庭は春子の手を取り、掌《てのひら》に耳をつけた。
「あなたは熱い手をしてゐる。人間の熱を計るには耳が、一番敏感なのだから、体温計はいらないンだ。心の冷い人は、熱い手をしてゐる。手は人間の魂のエーテルを発散するところだから、あなたのやうに手の熱いのが本当なンだ。手の冷い人間は体内に熱がこもつて、何処かに病気を持つてゐる……」
伊庭はいつまでも春子の手を握り、もてあそび、離さうとはしない。
「ところが、いま、私は失恋して、相当まゐつてゐるのよ。占ひなさるの?」
伊庭は失恋したのだと聞くと、また、春子の手を耳にあてて、自分の頬に押しつけるやうにして、思ひをこらしてゐた。春子はくすくす笑ひながら、すつと伊庭の耳から手を抜いた。
「弥陀《みだ》の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とするべし。その中へは、罪悪深重、煩悩《ぼんなう》熾盛《しせい》の衆生《しゆじやう》をたすけんがための願ひにまします。ね、こんな風なもンでね、信心は、願ふ心を信じなくちや何もならない。あんたみたいに、初めから、馬鹿にしてかゝつてゐるンではいけないね。馬鹿にしてるのなら、一度、自分が馬鹿になつて、大日向教を信心してみてくれなくちやいけない。いやしくも私もあなたにとつては異性ですよ。その異性の耳にあんたの手が触れてゐるところに、微妙な神霊が伝はるンだ。信心を要とすべしだね……」
伊庭は、ポケットウィスキーの半分位をあけてしまつて、とろんとした眼をしてゐた。
二階は三畳と四畳半で、三畳の方は、錻力屋の三人の子供の寝場所であつた。四畳半にはひらきになつた半間の押入れがあるだけで、壁はをが屑を押しつぶしたやうなものが張つてあつた。出窓に七輪や配給の炭を置いて、そこで炊事をするやうになつてゐる。出窓の下は空地《あきち》で、いま唐もろこしが繁つてゐる。ゆき子はいよいよ生活に困つて来た。靴みがきでもしてみようかと思つたが、地びたに坐つてゐる仕事には、躯《からだ》が耐へられないやうな気がした。二度ほど富岡に電報を打つてみたが、富岡からは何の音沙汰もない。ゆき子は思ひ切つて、五反田の以前の富岡の家へ尋ねて行つてみたが、今では表札も変り、出て来た人は、五月に此の家を買つて引越して来たのだが、富岡さんのハガキがあるので、それを差上げようと云つて、富岡のハガキをゆき子へくれた。引越し先きは世田ヶ谷の三宿《みしゆく》と云ふところになつてゐた。間借りでもしてゐるらしく、高瀬方となつてゐた。
ゆき子は思ひ切つて、かつたるい躯を押して、富岡の新住所へ尋ねて行つてみた。思ひのほかの大きな石門のある家で、昔は自動車でも持つてゐたのか、石門のそばにガレーヂがあつた。門をはいつてベルを押すと思ひがけなくあつぱつぱ姿のおせいが扉を開けて出て来た。ゆき子は、一瞬ぎよつとして息をのんだ。おせいも驚いたと見えて、赧《あか》くなつて「まア!」と声を挙げた。
「あら、あなた、東京に出て来てゐたの?」
「えゝ……」
「どうして、こんなところに?」
「私の知りあひの家だものですから?」
「富岡ゐます?」
「いま、留守なンですけど……」
「嘘おつしやいよ。妙なひとね……。全く、妙な事だわ。ぢやア、私富岡が戻つて来るまで、富岡の部屋で待ちませう……」
おせいは黙つてゐた。ゆき子は全身ががくがく震《ふる》へる気がした。何を云つてゐるのか、自分でもよく判らなかつた。
「奥さまの方へお帰りになつてるんですよ。昨日いらつしたばかりだから、当分いらつしやらないンですけど……。奥さまおぐあひが悪いものですから……」
「あら、さうなの、さうなら、なほいゝわ。私もぐあひが悪いのよ。富岡の部屋であのひとが戻つて来るまで、ゆつくり休息させて貰ひますわ」
おせいは困つた様子だつた。おせいの後の玄関を見ると、幾世帯も住んでゐるらしく、子供のスクータアや、乳母車が入れてあつた。おせいはがんこにそこに突つ立つて動かない。ゆき子もがんこに立つてゐた。
「玄関でもいゝわ。このお家の方に事情を話して、私、待たして貰ふわよ」
おせいは抵抗する力もなくなつた様子で、黙つてゆき子を二階へ案内して行つた。広い廊下の突き当りの部屋で、板の間敷にうすべりを敷いた八畳間で、壁ぎはに粗末なベッドがあり、小さい枕が二つ並んでゐる。壁にはおせいの紫めいせんの単衣《ひとへ》や、シュミーズや、富岡の浴衣《ゆかた》の寝巻がぶらさがつてゐた。観音開《くわんおんびら》きのダイヤガラスのはいつた窓には赤い塗りの小さい姫鏡台が置いてあつた。食卓や、小さい茶箪笥《ちやだんす》も新しいのが並んでゐる。ゆき子は一切が判つたものの胸のなかは煮えるやうな腹立たしさであつた。やつぱりこんな事だつたのだと思つた。富岡は本当にゐなかつた。富岡のものらしいと云へば、男物の浴衣だけである。
「何時《いつ》から、一緒に暮してるの?」
「何時からつて、こゝは私の部屋なンですよ。富岡さんは、田舎の方にいらつして、東京に足溜《あしだま》りがないから、こゝでお泊りになるンだけど、私、その時は、階下でやすませて貰つてゐるンです……」
「足溜り? へえ、足溜りねえ……。伊香保の旦那さまどうなすつて?」
「別れちやつたわ……」
「さう、それで、都合よくいつたわけね」
もう夕方だつたので、子供達が二階の廊下で騒々しく遊んでゐた。おせいは黙りこくつてベッドに腰をかけてゐた。ゆき子も黙りこんで出窓のそばに坐つてゐた。ふと思ひついたやうに、おせいは廊下へ出て行つた。ゆき子はあたりを眺めた。おせいは、いつたいどんな機会を掴《つか》んで、富岡と一緒になつたのかが不思議だつた。卓上に出てゐる二つの湯呑茶碗、部屋の隅にある男ものの雨傘、見てゐるうちに、富岡の身のまはりのものが、少しづつにじみ出て来た。おせいは仲々戻つて来なかつた。ゆき子は廊下へ出て、遊んでゐる七ツ位の子供を呼びとめて聞いた。
「こゝのをじさん、お勤め?」
「うん」
「夜は戻つて来るンでせう?」
「うん」
「いつも、何時頃、戻つて来る?」
「もう、戻つて来るよ……」
「何処へお勤めしてるのかしら?」
「知らない」
「こゝ、沢山で住んでるのね?」
「うん」
ゆき子は、一種のアパートのやうなものだと思つた。もう一度部屋へ戻り、執達吏《しつたつり》のやうな冷い眼で、一つ一つのものを見てまはつた。ベッドの下にトランクや行李《かうり》が押し込んである。部屋の隅のシツクイ塗りの天井に、針金を渡して、手拭《てぬぐひ》が二本かゝつてゐた。ベッドの裏側には、林業に関する本が二十冊ばかり積んであつた。その本の上に、ランビァン農林総監部の、原始林地帯の事を仏蘭西《フランス》語で書いた、見覚えのあるパンフレットがのつてゐた。これはたしか、森林官のダビヤウ氏が書いたものである。ゆき子は急に切《せつ》ないほどのなつかしさで、そのパンフレットを手にとり、美しい仏印の森林の写真を眺めてゐた。自然に涙が頬につたはつた。どの写真も思ひ出ならざるはない。いかだかづらや、ミモザの花に囲まれた、ランビァン高原の別荘のある写真は、ことのほか、ゆき子の眼をとめた。ランビァンの山に囲まれ、湖を前にした雄大な景色は、いまのゆき子にとつて、何とも云へない心の慰めであつた。こゝで息をしてゐる時には、現在のみじめさを一度も考へた事はなかつた……。四囲が昏《くら》くなつてきた。おせいは戻つては来なかつた。富岡に電話をかけに行つたのかも知れない。ゆき子は開いた窓から、赤つぽく暮れてゆく、むし暑い空に眼をやつて、流れる涙を拭いた。ダビヤウ氏のパンフレットを記念に貰つて行くつもりでハンドバッグにしまつて、ゆき子は廊下へ出た。もう富岡やおせいに逢ふ気もしなかつた。
心が決つたやうな気がした。
伊香保で、二人は死んでしまつてゐる筈である。さう考へてしまへば、何も人を恨む事はない。ゆき子が靴をはいて玄関の前庭へ出て行くと、門のところで、こつちへ来る男に出逢つた。
富岡だつた。富岡は、一瞬、吃驚《びつくり》した様子だつたが、何も云はないで、眼を赤く泣き腫《はら》して、自分の前に立つたゆき子を見ると、すべてを観念した様子で、「何時来たの?」と、静かに聞いた。
「おせいさんに逢ひましたわ……」
さう云つて、ゆき子は呆《ぼ》んやりと、富岡の前を離れ、門の外へ出て行つた。富岡もゆき子の後からついて行つた。
「おい!」
ゆき子はふり返らなかつた。
「おい、話があるンだ」
ゆき子は、どうでもよかつた。いまさら、富岡の口から、おせいとの事情を聴いたところで始まらないのである。加野の罰があたつたやうな気がした。加野も、男ではあつたけれども、あの時、こんな気持ちをなめたのに違ひないと思つた。加野から激しい愛情を打ちあけられてふらふらと接吻をゆるしておきながら、富岡と逢引してゐた、自分のずるさを、加野が、かつとして刃物をふりあげたのも、今日の自分のやうな理由があつたからだと、今になつて判つた。
「君の事は、毎日、忘れた事はないンだ。何とかしてやりたいと考へてゐたンだよ。おせいの奴に、強引に誘はれてしまつたかたちなンだ……」
「そんな話、いゝことよ……」
「よくはない。僕が悪いンだ。責任は持つ覚悟だ」
「さうですか……」
ゆき子は、目黒の駅には反対の方向へ歩いた。焼跡の昏《くら》い雑草の原にこまかい雨虫が、群れて飛んでゐた。夜明けのやうな、夕焼けた黄昏《たそがれ》だつた。焼跡のまんなかに、広い道が続いて、ところどころに新しい家が立つてゐる。
「十月だね?」
「えゝ、なにが?」
「子供の生れるのさ……」
「さうね、ちやんと産めばね。私、明日にでも婦人科へ行つておろして貰ふつもりよ」
富岡は何も云はなかつた。ゆき子は生きてゐるかぎり、煩悩《ぼんなう》は人の心に嵐を呼ぶものだと悟つた。大日向教がどんな金まうけに利用した神と云つても、それはそれとして、さうした神を祭つた道場にこもつて、じいつと屈伏して祈つてみたい気もして来る。富岡は、おせいが、どんな風な事をゆき子に云つたのかは判らなかつたが、おせいの強情な性格は、ゆき子に、のしかゝつて、ひどく反抗したに違ひないと思へた。
「君は、俺を厭な奴と思つただらう?」
「えゝ」
はつきり、ゆき子は「えゝ」と云つた。
「子供だけは産んでくれよ。その日からでも僕が引き取る……。おせいとの問題も、正直に君に告白するつもりだ」
「おせいさん、御主人と別れたつて云つてたわ」
「本当を云へば、あの部屋は、おせいの部屋なンだよ。ずるずるべつたりに、僕が一時の宿に入り込んだみたいになつたが、本当はおせいの借りた部屋なンだ。此の五月、新宿の駅でぱつたり逢つて、無理矢理連れて行かれて、自然に、僕が入り込んだかたちになつたンだ。――君が静岡からたよりをよこした時も、帰つて新しい部屋を見つけたのも、みんな手紙で承知してゐたンだが、逢ふとまた、二人とも、どうにもならなくなると思つて、金だけを送つたンだがね。家を売つて、家族を田舎へやつたり、女房を入院させたり、勤め口もどうやらきまつて、ひどく気持ちが荒《す》さんでゐる時だつたので、おせいの誘惑に打ち勝てなかつたのだ……」
いまさら、そんな理由を聞いたところで、どうにかなるものでもないのである。二人が逢つたところで、どうにかなる理由は何処にもない筈だつた。
バラックの喫茶店をみつけたので、富岡はゆき子をその店へ連れて這入つたが、店先には大きい青ペンキを塗つたアイスキャンデーの箱があり、子供連れの女が、二人をじろじろ見てゐた。ぎくしやくした椅子に腰をおろしたが、ゆき子はすつかり疲れてゐた。くたくたに、心身とも参つてしまつて、足が棒のやうにしびれてゐた。
顔色の悪い、ゆき子の顔を、じいつとみつめながら、富岡はポケットから煙草を出して火をつけた。ソーダ水を二つ注文した。ゆき子はぐつたりと板壁に凭《もた》れて瞼《まぶた》を閉ぢた。何も考へるよゆうもない。そのくせ、湖水の白い飛込台に立つてゐる、ランビァンの或日がはうふつとして浮んで来た。富岡もパンツ一つで黄昏《たそがれ》の湖水に泳いでゐる。近所のスタジオでやつてゐる、ラグビイの騒々しいあの時の音も耳について、じいつとしてゐると、まるで泳ぎのあとのやうな疲れかただつた。
富岡は一服ゆるく煙を吐き出しながら、
「ねえ、君はいま、いろんな事を考へてゐるンだらうが、こんなになつてしまつたンだよ。僕は、どんなにでもつぐなひをする。君ならばすべてを判つて貰へると思ふンだ」
「伊香保では、やつぱり、おせいさんと、わけがあつたのね」
富岡は黙つてゐた。
「あなたつて、いけないひとね?」
いけないひとねと云ひながら、それでは、自分はどうなのだと、ゆき子は自問自答してみる。ほんのわづかではあつたが、ジョウとの関係はどうだつたのだらう……。淋しくて淋しくてやりきれなくて、ジョウとあんなわけになつてしまつたのだ。富岡は別にとがめだてはしなかつた。さうした、人間の、或る時の心の空虚は、やつぱり、誰かに手を差しのべて行くより仕方のないものだらうか。伊庭との昔のくされ縁にしたところで、一種の空虚さがさせたわざなのである。
自分だつて、富岡と同じやうな事をやつてゐたのだ。只、それを、気がつかないまゝでやりすごしてしまつただけである。
「別に、判らないわけぢやないけど、やつぱり、吃驚《びつくり》しちやつたのね。……伊香保で、おせいさんが、あのバスのところで泣いたのは、私、忘れなかつたけど、でも信じてはゐたのよ。貴方《あなた》の気持ちを……。私も、うぬぼれてゐたのね。――でも、仕方がないわ。仕方がない事なのよ。私、それで怒つて、子供をおろしてしまふ気になつたわけぢやないの……。もう、前から、何時《いつ》か、何時かとは考へてゐたンです。今日で、ふんぎりがついたのよ。強くならうと思つて……。いろんな事を、毎日々々我慢して暮してゐる事を思へば、子供をおろす位何でもないわ。身軽になつて働きたいのよ。……私達の子供を産んぢやア、不幸だと、思はない? たとへ、貴方が引き取るにしても、何もしてやれないし、私だつて困つて身動きも出来ないと思ふのよ。それを、一度相談して、二人でなつとくのゆくまで話しあつて、子供の始末をしたいと、私思つてゐたンです。――おせいさんと一緒にいらつしたつて、かまはないでせう……。貴方に都合のいゝ生活ならね。あのひとも、貴方を心から好きな様子だし……。奥さま、何処がお悪いの?」
「胸なンだ……」
「もう、よほど、いけない?」
「長く静養すれば助かるだらう……」
「これから、貴方も大変ね。お勤め、きまつたンですつて?」
「あゝ、友人のやつてゐる石けん会社で、大した事もないがね。それでも、よく面倒をみてくれるンで、まア、いまのところは甘へてゐるンだ」
紅いソーダ水の麦藁《むぎわら》をぐつとすゝりながら、富岡は、ゆき子の美しい手を見てゐた。柔らかさうな美しい手をしてゐた。富岡はゆき子が不憫《ふびん》であつたが、おせいの事もどうにも仕方のない不憫さである。
「僕は、いままでに、一人も子供がないンで、どうしても産《う》んでほしいと思ふンだ。おせいの問題も、長続きはしないし、家さへみつかれば、いまにも引越したい位だ。おせいも、亭主と綺麗に別れたわけぢやないし、あの部屋は、おせいのかくれ家みたいなものなンだよ。――亭主は、いまだに、おせいの消息は判つてはゐないンだ。僕だつて厭なンだし、あの家でも、僕はあいまいな眼で、見られてゐるンだ」
「おせいさんは、何かしてるンですか?」
「新宿のバーの女給をしてゐたンだが、二三日前から歯が痛くて休んでゐたンだ」
「でも、おせいさんは、とても、貴方に惚《ほ》れてゐますよ。案外、一生あのひとと貴方は暮すやうになるンぢやない? 一緒にゐるものが勝ね。去るもの日々にうとしのたとへもあるンですもの……。ねえ、仏印の思ひ出だつて、もう、ひところのやうに、めつたに思ひ出さなくなつたし、夢も見なくなつたぢやない? そんなものね」
「僕は時々見るよ。君の事を考へると、ダラットの生活を思ひ出してやりきれなくなるンだ……」
「私、此の間、一月に、加野さんをお見舞ひに行つたの、手紙に書いたかしら?」
「あゝ、知つてる。加野も大変だな、気の毒な奴だ……」
「悟つてはいらつしたやうだけど、痩《や》せて、元気がなかつたわ……」
「大変な愛国者で、正直一途《いちづ》な男だつたね」
「さうね。私達のやうに、ずるい人ぢやなかつたわね……」
喫茶店を出て、また、目的もなく歩き出したが、四囲はすつかり暗くなり、凉しい夜風が吹いてゐた。富岡は帰る様子もなくゆき子について来た。
上着をぬいで、肩に引つかけて、ぞろりぞろりと靴を引きずつてゐた。
「くたびれてるンでせう?」
「いや、水虫が出来て、痛いンだよ」
「でも、やつぱり、二人で歩いてゐると、何だか、肉親みたいね。貴方、心のうちでは、私の事よりも、おせいさんでいつぱいなンでせうけど、私ね、私が勝手に、貴方の事を肉親らしく考へるのは自由ね。笑ふ?」
「笑ふもンか……。おせいの事よりも、おせいの亭主に済まない気がして、毎日が罪人みたいにきつぷせな生活なンだぜ。意気地がないくせに、おせいの強さに引つぱり込まれて行くンだ。」
「おせいさんと、いまに心中でもするやうになるンぢやない? もしもの事があれば、あのひと、毒でものみかねないから……」
富岡もさう思つた。ゆき子に云ひあてられたやうな気がした。おせいの為に、自分の生活が、一日一日駄目になつてゆくのがよく判つてゐるのだ。
「毎日、喧嘩してるンだ……」
「どうしてなの?」
「僕が、おせいにぴつたりついて行かないと云ふ事なンだよ。無智な何も知らない女なンだが、直感のすばらしくきく女でね。一度、自分で思ひこんだら、仲々、もとへ戻してやるのが大変なンだ」
「ぢやア、今夜も大変ね」
「まア、そんな話はやめよう。今度の日曜日にでも、尋ねて行く。子供の事は、それまで待つててほしいな。案外、君が、僕の気持ちを判つてくれたンで、何だか、気持ちがとても楽になつたし、晴々した。おせいの事にこだはるやうだが、きつと、近いうちに、これも、解決するつもりでゐる」
「そんな、急に、坊ちやんみたいな事云はなくてもいゝわ。なりゆきに任せてゐます。私、もう、本当を云へば、私の事だけで、やぶれかぶれなのよ。おどかして云つてるンぢやないの……。判るかしら?」
二人は陸橋のところまで来て、白い石の欄干《らんかん》に凭《もた》れて暫くそこへ立つてゐた。橋の下を轟々《ぐわうぐわう》と電車が走つて行く。
富岡に別れて十日ばかり過ぎた。
ゆき子は思ひきつて、近所の小さい婦人科医を尋ね、躯《からだ》を診《み》て貰つた。子供をおろしてしまふにはどうしても五六千円の金がかゝる様子であつた。富岡に別れて以来、ゆき子は、日がふるにしたがつて、富岡へ対して腹立しくなつてゐた。子供を産むには産むやうな助けをして貰はない事には、現在のゆき子はどうにも出来なくなつてゐるのだ。お互ひに逢つてゐる時だけの、だましあふ二人の供述心理は、お互ひにその深い原因にはふれたくない、芯《しん》はゑぐりたくない、甘さだけに溺れてゐるとも云へる。
ゆき子は、富岡の心のなかを洞察《どうさつ》してゐた。
日がたつにつれ、ゆき子は富岡へ対して憎しみが濃くなり、あのやうな薄情な男の子供を産んでなるものかと云つた、恨みつぽい気持ちになり、ゆき子は思ひきつて、伊庭に何も彼も打ちあけてみた。身軽にさへなれば、何としても働いて返済するつもりだつた。伊庭は、ゆき子の告白を聞いて、いつそ、そのやうな覚悟が出来てゐるのならば、金も出してやるが、身軽になつたら、教団へ来て仕事を手伝つてくれないかと云つた。自分には、仕事の途中だから、他人よりも、気心の判つた腹心の秘書が欲しいのだと云つた。
二三日して、伊庭は一万円の金を持つて来てくれた。ゆき子は身軽にさへなれば、何でもいいから、伊庭の始めた教団を手伝ふつもりだつた。そして、子供をおろしてしまふと同時に、富岡の事は忘れ、一切を御破算して、自分らしい生活に立ち戻りたいと願つた。
一週間ばかり、ゆき子はその産院に入院した。自分と同じやうな秘密を持つた女達が、一日に二人三人と医者をたづねて来る。狭い入院室には、二人ばかり、さうした女達がはいつてゐた。掻爬《さうは》が済んだあと、ゆき子は、躯《からだ》が奈落《ならく》へおちこんだやうな気がした。ぐちやぐちやに崩れた血肉の魂が眼を掠《かす》めた時の、息苦しさを忘れなかつた。
伊庭が二日目に見舞ひに来てくれたが、ゆき子に尋ねた事は、何時起きて、手伝ひに来てくれるかと云ふ事であつた。ゆき子はひどく躯が衰弱してゐた。伊庭はすつかり大日向教にはまりこんだ人間になりきつて、いまは会計事務から、建築用度課を兼ね、金は雨霰《あめあられ》の如く這入つて来ると豪語《がうご》してゐた。
ゆき子の部屋に蒲団を並べてゐる女達も、いつの間にか伊庭の話にきゝ耳をたててゐた。
壁ぎはに寝てゐた大津しもと云ふ、四十歳近い女が、突然云つた。
「私も、一つ、御信者のなかへはいるわけにはゆかないものでございますか?」
細君のある老人とのなかに出来た子供を始末して、明日は退院すると云ふ女である。自分の身分は一切語らなかつたが、看護婦の牧田さんの話では、千葉あたりの小学校の教師らしいと云ふ事である。
男の世話になれるやうな女とも思へない程、四角張つた、色の黒い骨太《ほねぶと》な女だつた。
「その大日向教と申しますのは、教祖さまは男の方でございますか?」
伊庭はにやにや笑ひながら、
「勿論、男の方で、立派な方です。若い頃からインドで修業され、充分識見のある人です。いままでに色々な難関を通つて来られて、荒野に光をもたらす為に、日本に辿《たど》りつかれた方ですな。――長い間、馬来《マレイ》やビルマ方面に陸軍の参謀としても勇名をとゞろかした人物でね。世が世ならば、我々は、そばへも寄れない方ですよ。一度、お出掛け下さい。あらゆる悩みを解消して下さるでせう」と云つた。
「まあ、ぢやア、その教祖つて人は、もとは軍人だつたの?」
「さうだよ。追放の軍人だから面白いンだ。かうした軍人あがりは、気合をかける事は板についてゐるからね。すべて、烏合《うがふ》の衆《しゆう》相手には、高飛車《たかびしや》な気合だけなンだ……」
伊庭は小さい声で云つた。
「いまに、自動車も俺の名儀で買ふ。すべて、一切合財《いつさいがつさい》が任されてゐるンで、教祖の首根ッ子は、俺がおさへてゐるやうなものさ……」
「いくつ位の方なの?」
「六十一二かな……。女も百人位関係したと云ふ豪《えら》い人物だ。草木が、どんなところに生えてゐても、日に向つてのびて行くと云ふ、その生々の力を大日向教と名づけたンださうだが、いまは信者も十万以上になつてゐる。これから、いくらでも伸びて行く可能性がある。すべて、目立たぬやうにして、目立てと云ふのが、彼の信条らしいな」
ゆき子は、昔の伊庭の性格が、すつかり変つてしまつて、まるで狂人のやうな人物になつてゐるのが薄気味悪いのである。富岡との事に対しても、何の関心もない如く、只、自分の腹心の秘書にして、昔の関係のある女を起用したいと云ふだけであらう。
大津しもは、暫《しばら》く考へてゐたやうだつたが、浴衣《ゆかた》の上に羽織を引つかけて、蒲団の上に坐り、伊庭に云つた。
「私、実は、千葉のものでございますが、深い事情がございまして、どうしても、このまゝでは田舎へ戻ると云ふわけにはゆかないのでございます。その大日向教の方の信者にさしていたゞいて、修業が出来ましたら、布教師のお免状でも頂戴いたしたいのでございますが、それには、いかほど位お金がかゝるものでございませうか?」
伊庭は鹿爪《しかつめ》らしく、外国煙草をふかしながら、
「さうですな。初め、入会金として、只の信者の方からは三百円いたゞいておりますが、布教師をお願ひになりますならば、初めは千円の保証金を入れて貰ふ事になつてゐます。半年すれば、布教師の許しが出ます。日々の分はおこもり料として、おぼしめしを頂戴して、許しの時に、また御相談する事になつておりますがね」
大津しもは、是非、大日向教のおこもり堂に上ると云つて、伊庭から住所を書いて貰つた。伊庭は、当分は名刺をつくらないのだと、妙な事を云ひながら、大津しもに対して、何の興味もないらしく、
「やつぱり、布教師になるには、只の信者と違つて、布教師になる事が、生活の資本となるンですから、実は、これは、相当の金がいるンでしてね……」と云つた。
「はい、それは、私にもちやんとあてがございますので、こゝ一年ばかり、私の身をかくす事が出来ましたら、どのやうにも金を出してくれるものがございますのです。そのひとは身分のある人ですから、私が、救はれて、どうにかなるまでは、不自由なくしてくれると云ふ約束なンでございます」
「ほゝう、身分のある方ですか……」
伊庭は急に丁寧になつた。
「身分? 身分のある方の後だてがあれば、大日向教の大いにくわんげいする処です。此の宗教は、絶対にいまどきの邪宗ではありません。病気がなほると云つて、人の気を吊《つ》るやうな事はしないのです。また、現代のすゝんだ科学の世の中に、宗教で病気がなほるとは考へられないぢやありませんか。大日向教は、人間の心の病ひをなほさうと云ふ心願のもとに生れたのです。生身《なまみ》の躯を診《み》る医者はあつても、精神を診て慰めてくれる医者はありません。しかも、この宗教は金持ちへ導く、非常に明るい末世の楽観術もほどこしてをります。――身分のある方のうしろだてならば、私の方でも、普通の方より大切にお取りなしいたしませう……。教祖は仲々人にあふのをおきらひで、私が、何事も代行してゐるものですから……」
いよいよ今日は退院と云ふ日に、ゆき子は医局に金を払ひ、待合室で何気なく新聞を見た。ふつと眼にはいつた小さい記事があつた。
十二日、午後十時四十分頃、品川区北品川××番地、飯倉方もと飲食店主向井清吉(四八)は自分の部屋に内縁の妻、谷せい子(二十一)を呼びよせて、手拭で絞殺《かうさつ》。品川台場派出所に自首して出た。――品川署の調べによれば、向井は伊香保温泉で酒場をやつてゐる時、せい子と同棲《どうせい》。せい子は情夫富岡某を頼つて上京中、あとより向井が呼び戻しに行つたが、せい子が復縁を拒絶した為、十二日風呂へ行くせい子を強迫して、自分の部屋へ連れ込み、またも復縁をせまつて口論となり、かつとなつて、手拭でせい子を絞殺し、自首して出たもの。写真は加害者の向井と被害者のせい子。
幾度読み返しても、せい子の事であつた。殺されたせい子が、日本髪を結つてゐる。加害者の向井は、うなだれて写つてゐた。
ゆき子は、暫《しばら》く、固い椅子に腰をかけて、その新聞の記事を、幾度も読み返してゐた。あの片意地なほど、性格の強いせい子は、たうとうおせいの良人に絞殺されたのかと、不思議な因縁《いんねん》を感じた。
富岡にはいゝみせしめだとも思へたし、三宿の家を尋ねた時のあの富岡の複雑な表情も、ゆき子には判るやうな気がした。いまごろ富岡はどうしてゐるだらう。あの時、自分がもしも富岡に殺意を持つてゐたら、自分もあとを追つて、ガードの上から電車をめがけて飛び降りて死んでゐたかも知れないのだ。
富岡は、これからさきも、おせいの幻影から脱けきれない男であらうと、ゆき子は、思へた。日本へ戻つて来て、すつかり駄目になつたのは、富岡一人ではないのかもしれない。加野もまた、いはば落ちぶれきつた人間になつてゐるのだ。
その夜、ゆき子は、久しぶりに自分の部屋に眠つた。すつかり疲れ切つてゐたし、長い旅路を続けて、今日に到つた自分を感じた。窓の下のたうもろこしのさやかな葉ずれの音や、蝉《せみ》の音を聞きながら、ゆき子は、三宿の富岡の部屋の事を考へてゐた。
昏々《こんこん》と眠りにはいりながらも、伊香保でのさまざまな思ひ出が夢になり、現《うつゝ》になり、ゆき子は寝苦しく息がつまりさうだつた。そのくせ、あの、いやな肉塊のどろどろした血のりが、ゆき子には、すべてを脱皮したやうにも思へた。誰にも頼らず、誰にも逢はないで、これから自分だけの仕事をして、働きたいと思つた。
死んだおせいへ対しては、ゆき子は少しも同情は持てなかつた。あのやうないこぢな生き方は、ゆき子の最も厭な型の生き方だつたし、さうした女に溺れていつた富岡の弱さも憎々しいのである。――日がたつにつれ、そしておせいが亭主に殺されたと知つて以来ゆき子は、富岡や、死んだおせいに唾《つば》を吐きかけてやりたい憎しみすら持つた。
四五日たつても、一向に、ゆき子は躯工合がよくならなかつた。伊庭はじれつたがつて迎へにやつて来たが、蒼《あを》い顔をしてゐるゆき子を見ると、あまり強い事も云へないらしく、早く出て来てくれとは云ひかねてゐる。
「どうした? 馬鹿に弱つちまつてゐるぢやないか……。元気を出しなさい。精神力だよ。死ぬも生きるも精神力だ。どうも、お前さんは仏印から戻つて、人が変つたね。もつと愉快になつて、おしやれでもして、元気を出さなくちやいけない。――ところで、大津しもさんと云つたかね、あの女史やつて来て、今日で三日ほどおこもりをしてゐるが、仲々有望だ。弁も立つし、小金も持つてゐるし、此の頃は、こつてりと白粉もつけて、とても張り切つて来た。小学校の教員で家は味噌屋だつて話だぜ。女も、年を取つて来ると、行く末の事を考へるやうになると見えて使ひいゝし、教祖も拾ひもンだと云つてゐる」
伊庭は新しい黒い服を着て、胸にひまはりのバッヂをはめてゐた。
「大きい声ぢや云へないが、かうした世の中で、何が一番いゝ商売かと云へば、宗教だね。宗教で、人を救ふ道だ。面白いほど迷ひの人間が聞きつたへてやつて来る。四囲には売店も出来たし駅には地図も出てゐる。面白いもンだ。喜んで金を出す人間ばかりだ。金を渋るものがないと云ふのは宗教の力だね。鷺《さぎ》の宮《みや》のあの家は売つてしまつたよ。いまは池上に銀行家の家を買つて、教祖とうちのものと一緒に住んでゐるが、これは立派だ。三百五十万円で、家は古いが、八十坪の建坪でね、邸内は五百坪、池あり山ありだ」
「いまに、神様の罰があたるわよ」
「神様か、神様は運のいゝ奴だけはお見捨てはない。運命の繩をよう握らぬ奴は、神様だつて興味はないさ。――俺はね、ゆき子にやつぱり惚《ほ》れてゐるらしいね。そのうち、ゆき子の家もこじんまりしたのを買つてやる。何と云つても、お前の最初の男は俺だから、その事だけは忘れられないンだ……」
ゆき子は厭な気がした。
「そんな話はやめて下さい。いまごろ、そんな話をして、私を吊《つ》らうたつて、私はもう、男のひとにはだまされないンだから。女だつて、年をとれば世の中を見る眼はついて来るわ。私は、もう、昔のむしつかへしは沢山です。あんたの事なンか、何とも思つちやゐない」
伊庭はにやにや笑つた。化粧のないゆき子の顔は、蒼《あを》ざめてゐたが、女らしくて、昔の生娘《きむすめ》には違ふなまめかしさを持つてゐた。
「いや、卑《いや》しい気持ちで云ふンぢやない。みんな、ゆき子の幸福をおもへばこそ、こんないくぢのない事も云つてみるンだ。あんまり、理想を追ふやうな事は考へない方がいゝ。お前さんは、世の中を見て、かなり、酢《す》いも甘いも勉強して来た筈だ。男にも女にも、愛だの惚れたのと云ふ事も、大して信用にならない事位は判つて来てゐる筈だよ。此の世の天国も地獄も、金だけの問題だ。金の有難さを、俺はつくづく知つた。終戦後の立ち遅れで、あの時位、気がめいつた事はなかつたが、今日の伊庭は違ふ。生きてうんと、金を貯めこめる時に貯め込む必要を感じた。教祖もさう云つてゐる」
さう云つて、伊庭はまた金の包みを置いてそゝくさと帰つて行つた。包みを開いてみると、皺《しわ》一つない百円札の束であつた。壱万円の新しい札束を眼にして、ゆき子は、いつも皺くちやの金しか握つた事のない自分の哀れさがをかしくなり、銀行からおろしたての、皺のない札束が、如何にも魅力的だと、暫く、伊庭の逞ましさを考へてゐた。
こぢんまりした家を伊庭に買はせて、富岡と時々逢ひたい気もした。だが、その思ひは一瞬の甘さで、すぐまた、富岡に対して、激しい妬《ねた》みが湧いて来た。
ゆき子は、伊庭を頼る気にもなれなかつたし、大日向教なぞ拝む気にもなれないのだ。
或日、加野のところから、女の字で、加野が死んだと云ふ頼りを受けた。
ゆき子は、やつぱりさうだつたのかと、加野の母親からの手紙を読み返した。本人の意志で、カソリックで葬儀をいとなむ事になりましたとあつた。大変な愛国者で、日本は敗ける筈がないと信じこんでゐた加野が、死んで、カソリックで、さゝやかなとむらひを出して貰つた事が、ゆき子には不思議だつた。結局は、加野の晩年は、この戦争の犠牲者であつたのだと思へた。加野の母親へ、優《やさ》しいくやみの手紙でも出したかつたが、ゆき子は、それもものうくてやめてしまつた。
新聞を見て以来、富岡からは何ともたよりがなかつた。いつたい、富岡は、どんなところに消えて行つたのかと案じられもした。もう三宿にはゐないのかも知れない。
一日のうちに、かならず、富岡の事だけは心に去来して、富岡の事だけはしつつこく胸から去らないと云ふのは、これは、何と云つても、富岡への愛情なのであらうかと思へた。此の世に、本当の愛はないと、伊庭はいゝ気な事を云つてゐたが、伊庭は金銭以外に柱を持たないから云へる事なのではないだらうか。富岡がこのまゝおせいの哀れな死とともに、自分をふつつりと忘れ去つてゐるとは、ゆき子は思へなかつた。石けんの会社に勤めを持つてゐると云つたが、もう一度、富岡には、農林省へ戻つて貰つて、何処でもいゝ地方の山の中の営林署へでも行つて貰ひたかつた。そして、その時こそ、二人はつゝましい結婚を、したいとも空想してみる。三宿のおせいの部屋から盗んで来た、富岡の仏印のパンフレットを出して眺めながら、ゆき子は、富岡が、このまゝ路傍の人として去つてゆくとは思へなかつたのだ。
ゆき子は思ひ切つて、富岡へ手紙を書いてみた。
――新聞でおせいさんの死を知りました。何事も不思議な運命の糸にあやつられてゐたと思ふより仕方がありません。大変だつた事と思ひます。
どうしていらつしやいますか。
一時は、貴方を憎み、怒りましたが、やはり、ゆき子以外には、貴方を慰めてあげる女は他にゐないと思つてをります。
加野さんが、二十二日に亡《な》くなりました。カソリックで葬つたと、お母さんのたよりでした。貴方は御ぞんじないと思ひ、御報告します。思へば、加野さんも、大変気の毒な晩年と思ひます。
もう、あれから、十日あまりたちました。お心のしづまつた頃と思ひます。本当に、私は苦しみました。何故、伊香保で、二人は死ななかつたのでせう……。二人が死んでたら、いろんな事もなかつたのです。綺麗《きれい》さつぱりと世の中を見捨てられなかつたのでせうか。本当は、ダラットの山の中で死んでゐたら、なほさら美しかつたと思ひます。
私、子供は思ひ切つて、おろしてしまひました。貴方を憎いひとだと思ひ、貴方を頼つてゐては、私は、追ひつめられて、いまごろは、一人で自殺してゐたかも判りません。貴方と云ふひとは、人を殺す人なンです。貴方の為に、おせいさんも私も、そして、加野さんも、それから、貴方の奥さんも、みんな不幸になつてゐます。貴方を責めるわけではありませんが、私はさう思ふのです。なぜ、もう一度、昔の勇気を出して下さいませんの?
私、まだ、ぶらぶらとしてをります。よくなつたら、今度こそ、堅実な職場をみつけて働くつもりです。お元気ですか。やつぱり逢ひたいのです。女の未練かも知れませんが、ゆき子は、貴方と別れる話はしてゐないではありませんか。一度、是非たづねて来て下さい。そして、貴方のあいまいでないお話を聞かして下さい。
手紙を出してから、五日ばかりして、富岡から五千円の為替《かはせ》を封入して、君に逢ふのも、もう二週間ほど待つてくれ、いま、一番、自分の苦しい時なのだから、誰にも逢ひたくない。只、あのやうな手紙を貰つた事はせめてもの慰めだつた。子供をおろした事もやむを得ないが、これも、自分の到らぬ事から出来た事とあきらめてゐる。きつと、逢ひに行く。別れをしてゐないと云ふ事が、君の真実なら、それを頼りに、きつと逢ひに行くと云ふ文面の手紙がはいつてゐた。
二週間もしたら、君に逢ひに行くと云ふ手紙を、ゆき子に送つたが、二週間たつても、富岡は、ゆき子のところへは、尋ねて行けなかつた。
一番隔てのない話相手のゆき子のところへ、一向に出向いて行く気がしないのも自分のものぐさからではなく、向井清吉の裁判に忙《せ》はしくもあつたし、弁護士の問題も、富岡が世話をしなければならなかつたのだ。殺されたおせいが、向井清吉の内縁の妻であつたと云ふ事だけにこだはつてゐるのではなく、清吉が身寄りのない男だからと云ふ、義務感だけで、富岡は、清吉の為に走りまはつてゐた。獄中にゐる清吉の面倒をみながら、富岡は、女一人を殺した清吉の真面目さに打たれ、自分の贋物的《にせものてき》な根性《こんじやう》が、吐気《はきけ》のするほど厭に見えて来るのであつた。せめて、清吉の面倒をみる事によつて、死者への贖《あがな》ひが出来るやうな気がした。おせいと云ふ女にすがつて、自分の生活能力を試み、萎縮《ゐしゆく》した気持ちをたてなほしたいと願つてゐたのだ。だが、おせいは人妻であつた。おせいの背後にゐる、向井清吉と云ふ男の事なぞは、富岡は少しも気にしなかつたし、向井清吉に多少の世話を受けた事も忘れ果ててゐた。男女の愛慾と云ふものが、こんなにも激しかつたのかと、富岡はおせいが清吉に殺されたと知つて、初めて向井清吉の存在を知つた。
おせいと同棲したために、富岡は、清吉から、手酷《てひど》い復讐《ふくしう》を受けた気がした。伊香保を去つて以来、富岡の頭からは、清吉の存在は、幻のやうに消えてしまつてゐたのだ。
富岡は、ドストエフスキイの悪霊のなかの、スタヴローギンが、首を縊《くゝ》る支度の最中にも、出来るだけ死の前に、余計な痛みや苦しみのないやうに、縊死《いし》に使ふ紐まで、べつたりと石鹸水を濃く塗つておいたと云ふ、一章を忘れなかつた。
ゆき子と情死行で伊香保に行さ、情死を実行するまぎはまでも、此の世の中に恋々と未練を持ち、偶然に行きあつたおせいに、自分の生命の再生を求めた浅ましさが、いまになつて罪もないおせいを殺し、清吉を獄に送る破目になつた事に就いて、富岡は、自分自身のずるさに、冷やりとするものを感じてゐる。ゆき子の逢ひたいと云ふ手紙にも、いまさら、富岡は動じなかつたし、ゆき子が子供をおろしてしまつた事にも何の苦しさも感じなかつた。自分はもう、日本へ戻つて来た時に、自分の心をすべて失つてしまつてゐるとしか思へなかつた。
品川の警察で逢つた時、清吉は、何処《どこ》で暮すのも同じですよ。死刑か、無期かだとすれば、刑のきまるのは早い方がいゝ。ゆつくり、獄舎でおせいの仏をなぐさめてやるつもりだと、清吉が云つた。そして、弁護士を頼む必要もないと断つてゐた。
富岡は、清吉に云はれてみて、なるほど、人間は、何処へ住みつくのも同じ事だと思つた。いまさら、海外へ出る事を夢想してみたところで、昔ながらの生活が、自分の前に再び現はれるとは考へられない。このやうな世の中になつてしまつた以上、昔の夢や幻は、早く切り捨てた方がよいのである。
加野も、たうとう、胸を悪くして死んでしまつた様子だ。みな、行きつく終点へ向つて、人間はぐんぐん押しまくられてゐる。富岡は、だが、不幸な終点に急ぐ事だけは厭だつた。心を失つた以上は、なるべく、気楽な世渡りをしてゆくより道はないと悟つた。
ゆき子には逢ひたくはなかつた。
五千円の金を工面《くめん》して送つたが、それは、子供を此の世から消してくれた、さゝやかな祝ひの餞別《せんべつ》でもあつた。心の底から、子供をほしいとは思はなかつたのだ。
朝からかなりひどい吹き降りである。
おせいのゐないベッドに横になり、富岡は、呆《ぼ》んやり、雨の音を聴いてゐた。窓は白く煙り、水滴が汚れた硝子戸《ガラスど》を洗ひ流してゐる。身動き一つすることもものうく、富岡は、胸に手を組んだまゝ眼を開けてゐた。
たつた此の間まで、自分のそばに、大柄なおせいが横になつてゐた。おせいは、寝覚めに、かならず、富岡の脚《あし》の上に、自分の両の足をのつけて、唄をうたつた。その時だけが、二人をしみじみと近いものにしてゐるやうな気がして、富岡は眼を閉ぢたまゝ、おせいの唄を聴いてゐたものだ。いまは、そのおせいは、何処にもゐない。だが、富岡は、死んだおせいを恋しいともなつかしいとも思はなかつた。かへつて、さばさばとした気持ちである。富岡にとつて、もう、女はこりごりであつた。ベッドに一人で横になつてゐる事が、こんなに楽々として健康な事も初めて知つたやうな気がした。今日になつて、初めて、生活転換の機会が到来したのだ。政治、社会道徳、それらのものを、粉ひき機械のやうに、粉々に打ち砕いて、奔放《ほんぱう》な自分にかへりたかつた。独《ひと》りといふ事がどんなに爽《さは》やかなものかと、窓外の枝木をふるはせて激しく降る雨に、富岡は、うつとりと眼を向けてみる。
独りで暮す緊張だけが、今日の富岡の救ひでもある。
まづ、此の部屋から去る事。それと同時に、妻も両親も捨てる事。もし、よかつたら、自分の名前さへも替へてみたかつた。勤め口もやめて、新しい仕事をみつけたかつた。何もおせいが亡くなつたから、急に、おせいの為に、こんな気持ちになつたのだとは思ひたくなかつた。
だが、自分と関係のある一人の男が、獄に投じられてゐると思ふのは、富岡にとつて、あまりいゝ気持ちのものではない。向井清吉のしよんぼり坐つた、獄中の一片が、ちらちらと、富岡の心のなかを横切つて行く。その思ひは邪魔くさくもあつた。本人の云ふ通りに、早く刑がきまりさへすれば、自分もまた落ちつくのかも知れない……。
雨の窓を見てゐると、外の緑が濡れて霧を噴いてゐるやうに見えた。一種の神秘な緑の光線が、ぐつと部屋の中にまで浸み込んで来る。死といふものが、たやすく肌に触れる気がしたが、人間は、なかなか死ねないものであると思つた。富岡は、会社も、あの事件以来、ずつと休んでゐた。富岡は或る新聞社で出してゐる農業雑誌に、南方の林業の思ひ出と云つたものを、此の数日ぽつぽつ書き出してゐた。百枚ばかりのものであつたが、それが書けたら、その農業雑誌に送つて原稿を金にかへてみたい気がしてゐた。
林業の思ひ出をつゞる前に、富岡は、きまぐれな気持ちから、南の果物の思ひ出といつた三十枚ばかりの文章を、その農業雑誌に送つておいた。丁度《ちようど》あの事件のあつた頃である。その一文は、農業雑誌に載り、一万円の稿料を貰つた。思ひがけなかつた事だけに、富岡は、そのやうな才能もあつた自分に勇気づけられてゐた。
その文章は、こんなものであつた。
私は、以前農林省の官吏で、軍属として、四年ばかり仏印に住んでゐた事があつた。熱帯地方に、四年の歳月を過したが、こゝでは、私は、さまざまな果物の思ひ出を持つた。
熱帯地方には、色々な果樹が繁生《はんせい》し、この果物の豊醇《ほうじゆん》な味覚は、熱帯に生活するものにとつては、何よりも強い魅惑である。最も私の印象深いものをあげるならば、熱帯の果実の王様であるバナナを初めにあげなければなるまい。此の頃、やつと台湾から、日本にも輸入されるやうになつたが、このバナナに、何百かの種類があると知つてゐるひとは少ないであらう。細いもの、太くてずんぐりしたもの、稜角《りようかく》が顕著なもの、色が白茶けたもの、少し紅色《べにいろ》を帯びたもの、芳香の強いもの、形や味は、まつたく千差万別である。
私は、熱帯の生活では、おもに、キングバナナや、三尺バナナを特に選んで食べてゐた。稀《まれ》には料理用のバナナを供せられたが、美味とは云へない。繁殖には、ヒコバエを用ひてゐるが、植ゑて十五ヶ月位たつと、高さ十尺から二十尺となり、葉の着生した芯《しん》から、四五尺の偉大な花梗《くわかう》が出て花をつける。果実を結び、花梗は自然に下へ曲り、幹は枯れてゆき、その株から生じるヒコバエがこれにかはり、一年を経ると、また結実する。暑い湿潤《しつじゆん》な風土に適し、土壌は粘質《ねんしつ》で、排水がよければ何処でもよい。だが、風当りの強い、石礫地《せきれきち》や、砂質の石灰岩質の土壌には適さない。バナナは天与の果実で、貧者にも最もよろこばれて、食事のたしに用ひる。バナナが果実の王ならば、女王と云ふべき果実は、マンゴスチーンであらうか。学名をガルシニア・マンゴスタナと云ふ果樹に生ずる。私が、初めてマンゴスチーンを見たのは、河内《ハノイ》の町、プラチックに近い果物店であつた。小さい柿粒ほどの大きさで、頂点が扁平《へんぺい》で、果皮平滑、褐紫色《かつししよく》である。この果実を輪切りにすると、中にクリーム状の白い果肉のついた種が、塊をなしてゐる。果皮にはタンニン酸と色素を含み、布片に果汁をつけると、その汚染はなかなかとれない。五月から七月頃までが出さかりと云ふ事であつたが、私が河内で求めて食したのは二月であつた。ユヱのモーラン・ホテルに二週間滞在中も、毎食の卓子に、このマンゴスチーンが出た。マンゴスチーンはミカンの味ひがした。
この樹は、小喬木《せうけうぼく》で、樹形は円錘《ゑんすゐ》状、葉は大形、対生、長楕円形、革質、馬来《マレイ》が原産地である。成長が非常に遅く、結実するまでには、九年から十年を要する。生育の地は、暑くて湿潤な気候で、土壌は深く、肥沃《ひよく》で排水良好でなくてはならない。マンゴスチーンを上品な果実とすれば、その正反対な果物に、臭気ふんぷんとしたドウリアンと云ふ珍果のある事を書かねばならぬ。
富岡は、他にも、カルダモム、サポチル、バラミツ、パパイヤなぞの果実の生態を書き、その果物を食べた時の思ひ出や熱帯地方の旅行記をもつけ加へておいた。富岡は、ベッドの下に手をのばし、その農業雑誌を取りあげてぱらぱらとめくり、自分の文章が活字になつてゐるところを眺めてゐた。自然に南のダラットの風物が瞼《まぶた》に浮んで来る。あの時代を考へると、あまりにも、自分の生活の変りかたの激しさに、呆然《ぼうぜん》として来るのだ。
一万円の稿料の半分を割《さ》いて、富岡はゆき子に送つたのだが、その金が、子供をおろす病院の費用になつた事も、皮肉な気がした。仏印に捨て去つて来た、安南人の女中に産ました子供の事が、いま、富岡はふつとなつかしく思ひ出されたが、生涯《しやうがい》、その子供に逢ふ事もないだらうと思ふにつけて、富岡の荒《す》さびた気持ちのなかに、その思ひ出は、郷愁《きやうしう》をそそつた。
雑誌を放つて、ベッドに起きあがると、誰かが、扉をこつこつ叩いてゐた。富岡は冷やりとして、「どなた?」と呼んだ。
「わたしです、ゆき子です……」と扉の外で云つてゐる。
富岡が、扉を開けて行くと、痩《や》せてすつかりやつれ果てたゆき子が、濡れた雨傘を持つて廊下に立つてゐた。
薄情のやうだけれども、富岡は肚《はら》の底から、ゆき子の訪問を迷惑至極に思つた。
三週間待つても、富岡が来てくれない事に、ゆき子は焦々《いらいら》して、雨の日であつたが、ゆき子は思ひ切つて富岡を尋ねて来たのだ。扉を開けてくれた時の、富岡の表情を見てとり、ゆき子は、もう、どんなに努力しても、富岡との愛情は、今日で終りになるにちがひないと受け取つた。雨ゴートも、雨靴もないゆき子は、水色のブラウスに紺のスカートをはいて、毛深い脚をむき出したまゝ、部屋へ黙つて這入つて来た。
「お邪魔ぢやなかつたンでせうか?」
富岡は、よれよれの浴衣《ゆかた》の前をあはせて、窓ぎはに坐り、つとめて、ゆき子に笑顔を向けようと努力してゐる。
「大変だつたンですのね……」
「君こそ、大変だつたンぢやないの? もう起きていゝのかい?」
「えゝ、さう何時までも、入院してる訳にもゆきませんものね……。やつと元気になりました」
仏印の頃は、人目のないところでは、すぐ、二人は寄り添ひ、手を握りあつてゐたものだがと、ゆき子は、索漠《さくばく》とした二人の現実を淋しいものに考へてゐる。
「新聞で読みましたわ。ねえ、私、これ以上は待てなかつたのよ。きつと逢ひに行く。別れをしてゐないといふ事が、君の真実なら、それを頼りに、逢ひに行くと書いて下すつた、貴方のお手紙にすがつて、私、やつと生きてゐたのよ……」
ゆき子は、そこへへたばるやうに坐つて、富岡に云つた。富岡は変化のない白《しら》けた表情で、
「うん、僕が、みんな悪いンだよ。君の事は、片時も忘れやしないンだが、おせいの亭主の問題もあつてね、ごたごたしてたから行けなかつた……」
「ぢやア、私が病院でうんうん唸《うな》つて、そのまゝ亡くなつても、貴方は来て下さらないつもりだつたンでせうね……」
「いや、それは、また違ふよ。君が、大丈夫だと思ふから、安心してゐた……」
「嘘! 嘘ですよ。貴方は、私に嘘云つてるのよ。もう、愛情も何もない癖に、弱気で嘘云つて、私をよろこばせようたつて駄目だわ。――そんなに、貴方は、おせいさんがなつかしいのかしら……。あんな女の何処がいゝの?」
ゆき子は、おせいに対する嫉妬《しつと》で、躯《からだ》が震《ふる》へて来る。石のやうに動かない男の心理が、ゆき子にかあつと反射して来て苦しかつた。こゝろをぶちまけてしまつては、二人の間が駄目になると思ひながらも、ゆき子は吐き捨てるやうに云つた。
「子供の事なンか考へてもゐないくせに、子供を生んでくれつて云つたのは貴方ぢやありませんか……。その癖、一度だつて来た事もないし、病院へ行つてからも、見舞ひにも来てくれない。離れてゐると、貴方と云ふひとは離れつぱなしなンです。――かうして逢つてる時だけ、お上手を云つてくれるのよ。心にもない事を云つて、それで、おせいさんも迷はしてしまつたンでせう? 貴方つてひとは、心中するつもりでゐても、女の死ぬのを見て自分だけゆつくりその場をのがれて行くひとです。ひとを犠牲にして知らん顔してるンだわ。――私、おせいさんが憎い。おせいさんの御亭主だつて憎いわ。いまから考へてみると、何故、伊香保なンか行つたのだらうつて思ふの……。私、口惜しくて仕方がないわ。貴方つて云ふひとが……。さつぱりしてしまふつもりでゐて、かうして尋ねて来なければならない、私の気持ちが、私は、いゝかげん厭になつてゐるンです。心のなかが、少しも動かないのよ。考へてゐる事にこりかたまつて、少しもそこから出て行けないの……。うまく云へないけど、貴方をとても怒つてゐて、貴方が好きだつて云ふ事は、私、とても哀しい……」
ゆき子は、坐つたまゝベッドへ凭《もた》れて泣いた。ベッドは軋《きし》んだ。富岡は吹き降りの雨をじいつと眺めながら、ゆき子の泣き声を聞いてゐた。俺に、いつたい、どうしろと云ふことだらう……。此の女は、何時まで昔の思ひ出を、金貸しのやうに責めたてるのだらう……。昔の二人の思ひ出の為に、いまだに、その思ひ出のむかしを、金貸しのやうにとりたてようとしてゐる。ゆき子の泣き声を聞いてゐると、急に富岡はむかむかして来た。
「頼むから、俺を一人にしておいてくれツ。何もやる事がないンだ、俺と云ふ人間は、もぬけのからなんだから、君のやうに、さうおしつけて来たつて仕方がない。――伊香保でお互ひさつぱりしてしまつた筈ぢやないのかい?」
「厭よ、そんな事云つたりして……。私がおせいさんに敗けたみたいだわ。前のやうに、優しくなつてよ……。別れてしまふのは厭なの……。」
「俺と一緒にゐれば、君は駄目になつてしまふ。もう、日本へ戻つた時から、二人は別々の道を歩んでゐた方がよかつたンだ。世の中も、あの時とは変つて来てゐるしね。君は君の人生へふみ出してくれたらいゝンだ……」
「まア! 何て、怖い事を云ふのよ、貴方つてひとは……。私に、こゝで死んでみせろつて云つてるみたいね……。私が自分の人生を歩むのだつたら、もうとつくに、貴方には逢つてはゐないわ。――それ、でも、貴方の本当の気持ちなンでせうね。私に飽きてしまつたから、本当の事が云へるンでせうね……。私、何を云はれたつて驚かないわ。えゝ、さうなンです。おせいさんと二人で暮していらしたこの部屋の空気が、貴方と私に邪魔をしてるのかも知れないけど……。もし、こゝに、おせいさんのお化《ば》けが出て来たら、私云つてやる。一生、富岡さんとは別れてはやらないつて云つてやる……」
「おい、声が大きいぢやないかツ。こゝはアパートと同じなンだから、つゝしんで貰ひたいね。おせいの事なンか、いまはもうどうでもいゝし、かへつて、あいつが死んでくれて清々してゐる。向井さんに済まなかつたと考へてゐる位だ、かうして俺は自由に、いまは何処へでも歩いて行けるンだが、向井は、何処へも歩いて行ける自由のないところに、いまも坐つてゐるンだぜ。俺が焦々してる気持ちも、少しは考へてみてくれないのかい?」
「私が、おせいさんの亭主の事を考へなくちやいけないなンて、妙ぢやないの……。厭ですよ。私と貴方との間に、あのひと達が何のかゝはりがあるンでせう……。勝手に貴方のひきおこした事件で、私の知つた事ぢやないわ。何を云つてるンですツ……」
ゆき子は、まだ、深くおせいを愛して、そのおもかげを忘れかねてゐる富岡のふてぶてしさが口惜しかつた。口惜しさに心が昂《たか》ぶり、眼が据《すわ》つて来ると、ゆき子は急にめまひがして、くらくらとそこにつつぷしてしまつた。下腹に渋い痛みを感じ、肩の力が抜けてゆくやうだつた。
富岡はあわててゆき子の肩を強くゆすぶつた。
「おい、どうした! 気分が悪いのか?」
雨はいつそう激しくなり、風も強く吹きつけて来た。富岡は、ゆき子を抱いてベッドに寝かしつけたが、額に青い筋が浮き、唇は白く乾いて、頬の肉が、ひくひくと、ひきつつてゐる。富岡は、自分がよつぽどひどい事を云つたのだと判つた。ゆき子は躯全体が病人のやうになつてゐた。両の手は何かを掴《つか》まうとして、十本の指が、蝉のやうに動いてゐる。爪には黒く垢《あか》がたまつてゐた。
金盥《かなだらひ》に水を汲んで来て、富岡はタオルで、ゆき子の額を冷やしてやつた。つくづく自分が厭になつてゐる。富岡は急に金がほしくなつた。ゆき子が昏々《こんこん》と眠りかけて来たので、そのまゝ机に向ひ、富岡は林業と植物に就いての、仏印の思ひ出の原稿に向つた。
――檳椰《ビンラウ》と蒟醤《キンマ》については、安南に美しい伝説がのこつてゐる。
安南の王であるフン・ヴォン四世の時代である。廷臣カオの家に、タン、カン、と云ふ二人の兄弟があつた。小さい時に父を亡くした兄弟は特に仲がよかつたが、偶然身をよせたルウと云ふ家に一人の娘がゐて、兄のタンは娘と相思の仲になり結婚してしまつた。
そこまで筆を運んでゐる時、富岡は、ゆき子と初めて相知つたダラットの高原の景色が心を掠《かす》めた。オントレの茶園をおとづれた時のゆき子の赤縞《あかじま》のギンガムのスカートが、昨日のことのやうに瞼《まぶた》にちらつく。若々しく少女のやうに美しかつたゆき子のなれの果てが、いま、自分の部屋のベッドに横たはつてゐるのだとは、どうしても思へない。だが、心はおだやかに静まつてゆき、思ひのほかにペンははかどり、軈《やが》て空腹をおぼえて来た。茶箪笥《ちやだんす》からパンを出して来て、富岡は電熱でコオヒイをわかした。
茶箪笥の枕時計を見ると、もう一時近くである。パンを頬ばりながら、ふつと、富岡がベッドを振りむくと、額のタオルの下から、ゆき子は眼を開けてゐた。
「君も、食べたらどうだ?」
富岡は、新しく茶碗にコオヒイを淹《い》れてやつた。ゆき子は眼を開けたまゝ天井を見てゐた。
「起きて、コオヒイを飲まないか」
ゆき子は素直に起きて、富岡からコオヒイ茶碗を受取つた。
夕方になつても雨はいつそう激しくなつた。富岡はそくそくとペンを走らせてゐる。――私のゐたダラット地方の山林事務所管内では、カッチヤ松の出材量は一五、七○○立方米位であつたが、その頃、私達森林官は、軍の命令で、急速開発にかゝり、かなり乱暴な濫伐《らんばつ》もやつた。
その頃の将校の一人々々のおもかげもいまは記憶からうすれて来てゐる。
「ダラットからドュラン、それから、終点の駅は何と云つたかね?」
突然、富岡がゆき子に聞いた。
ゆき子は書きものをしてゐるのは、そんな事だつたのかと、急に活々《いきいき》として、ベッドから降りると、
「ツルチャムつて云ふンでせう……」と、云つた。
「あゝ、ツルチャムだ」
ゆき子は暫《しばら》く、富岡の机に向つた後姿を眺めてゐた。
「ねえ、マンリンつて部落を覚えてらつしやるかしら……」
「マンリン?」
「もう忘れちやつた?」
「あゝ、安南の陵墓《りようぼ》のあつた処だね?」
「えゝ、ダラットから四キロ、林野局の駐在所があつて、欝蒼《うつさう》とした森のなかを初めて歩いたわね」
ゆき子は、富岡のそばへ行き、机の原稿をのぞきこんだ。
「そんなものを書いて何になさるの?」
「これで金を稼《かせ》ぐンだ……」
「そんなものがお金になるの?」
富岡は、ベッドのそばの農業雑誌を取つてきて、ゆき子に渡した。
「これを読んでごらん……」
ゆき子は手にとつて、目次を見た。富岡兼吾と云ふ文字が眼にとまつた。すぐ、ぱらぱらと頁をめくり読んで行つた。
「それで金を貰つたンで気をよくしたンだ。君に送つた金は、此の原稿料なンだぞ……」
「まア! 貴方が書いたの?」
バナナや、マンゴスチーンや、ドウリアンの思ひ出話や生態が、くだけた筆で綴られてゐた。
夜まで、雨風は激しく、窓外はまるでつなみのやうな音をたてて樹木が鳴つてゐた。ゆき子が泊ると云ひ出したが、富岡はもう、どうでもいゝ気持ちだつた。残りのパンとコオヒイを飲んでゐる時に電気はぱつと消えてしまつた。
ローソクの火を机にたてて、二人は友人同志のやうな話しぶりで、仏印の思ひ出を語りあつた。時々、二人は喰ひ違ひな事を覚えこんでゐる処もあつたりした。二人とも、その思ひ出話によつて、もう一度、激しいあの日の愛情を呼び戻さうと努力しあつてゐるところもある。何時までも電気はつかなかつた。ローソクの灯も絶えた。仕方なく、二人はベッドに這《は》ひあがつて横たはつた。カーテンのない窓は、時々稲光りで明るく、ざあつと板戸や硝子に吹きつける雨が、波のやうな音をたてた。
富岡は、また同じ事のむしかへしだと思ひながらも、意固地《いこぢ》に寝たまゝの姿でゐた。ゆき子はせつかちに、何かを待ち望んで、マンリンの森の中の話を幾度もくり返してゐる。思ひ出の中から、激しい接吻の味が、むつとゆき子の胸のなかにしびれて来た。だが、富岡は横になつたまゝマンリンの思ひ出の景色なぞにはふみとゞまつてはゐなかつた。耳もとに、幾度も、ゆき子が、マンリン、マンリンとさゝやいてくれても、富岡は、自分の横に、大柄な躯を横たへてゐたおせいの思ひ出しか浮かばないのである。脚を自分の躯《からだ》の上にどたりと乗つけて、鼻唄をうたつてゐたおせいの最後の顔が、ありありと眼底に浮んだ。
眼を半眼に開き、舌を出してゐた、と、宿のものに聞いたが、富岡はかいぼうにまはされたおせいの死体は見る事なく終つた。手ごたへのある大柄な躯つきが、ふつとなつかしくなる。もう、あの女は死んで此の世にはゐないのだ……。暗闇の中で、富岡は、咽喉《のど》もとに熱いものがこみあげて来た。
「ねえ、ダラットのあのテニスコートの下の、中国人の別荘の庭を覚えてゐる?」
「あゝ」
富岡は、ダラットだとか、中国人の別荘だとかは、いまではどうでもよくなつてゐた。覚えてゐるならば、その後は貴方が語つてくれと云はぬばかりのゆき子の甘さが、富岡には不快でもあつた。そんな昔の夢はどうでもいゝのだ。そんな夢にすがつてなんかゐられるものか……。それよりも、おせいのがつちりとした、大きな肉体への思慕で、富岡はふうつと溜息《ためいき》をついた。
おせいによつて、初めて、本当の女を知つたやうな気がして、富岡は眼尻の涙のつたふのをおぼえた。
そつと、胸の上にゆき子の手が這つて来たのを、富岡は掴《つか》んでもとへ戻した。
「あら、どうしたの? いけない?」
「うん、今夜は疲れたンだ。ぐつすり眠りたい……」
ゆき子は手を引つこめて、暫《しばら》く息をのんで黙つてゐた。富岡の気持ちの変化を察したやうだつたが、まさか、おせいの事を深く考へ耽《ふけ》つてゐるとは思はなかつた。
「ねえ、南の話をしませう……。こんな晩は、何だか、私すぐ眠れないのよ」
「俺は眠いンだよ」
「久しぶりに逢つて、どうして、そんなに冷いのかしら……。もつと、優しいひとぢやなかつたの……」
ゆき子は、もう一度、富岡の胸にとりすがつてかきくどいてみた。富岡は、何かで読んだ、ワイルドの葡萄酒《ぶだうしゆ》の醸造量と質とを知るには、なにも、一樽あけてみる必要はないのだと云ふ言葉を思ひ出してゐる。むし返しは沢山である。いまのところ、おせい以外の躯を求める気はしなかつた。咽喉《のど》は乾いてはゐないのだ。富岡は何時の間にかぐつすりと眠りこんでゐた。
暗い水中をくゞり抜けてゐるやうな、不気味な夢のなかで、富岡はおせいに逢つた。眼を半眼に開いて、舌を長くたらした不気味な顔だつたが、なんともなまめかしいのである。水中のなかで、すぐ抱きとつてやると、長い脚を自分の胴に巻きつけて、手を首にまはして来た。おせいの冷い舌が頬に触れた。思はずわあつと声をたてた。
富岡は、自分の声で眼を覚した。
ゆき子の躯が重くのしかゝつて、濡れた頬を富岡の頬にぴつたりくつつけてゐる所だつた。
翌朝、富岡が眼を覚ました時には、ゆき子はおせいの姫鏡台の前で化粧《けしやう》をしてゐた。雨はからりとあがつて、秋によくあるやうな、青い澄みきつた空であつた。
富岡は、寝ながら、ゆき子の化粧をしてゐる姿を眺めてゐた。悔悟《くわいご》に似た思ひが、重くかぶさり、泥沼に引きずりこまれてしまつた気がした。
ゆき子は、おせいの粉白粉《こなおしろい》やパフを遠慮なく使つてゐる。女と云ふ動物は、無神経そのもので、恥を知らないものなのだなと、ゆき子の無遠慮さが不快だつた。死んだおせいの化粧品を、何の考もなく、無雑作に使へる神経は、女だけのものかも知れないと思つた。だが、それよりも、もつと無神経なのは、自分ぢやないのかと、おせいのベッドで一夜を不純に明かした悔いが、富岡の胸にしみじみと反省された。ひどい事をしてゐるのは自分の方である。鏡の前のゆき子は、すつかり痩《や》せ細つてゐた。膝のふくらみが、薄く、馬鹿に年を取つたやうだ。胸も薄くなつてゐた。髪は赤茶けて乾いてゐる。額が馬鹿に広く、眼のふちがたゞれてゐた。
富岡はむつくり起きて、階下へはゞかるやうな静かな足どりで顔を洗ひに行つた。ゆき子は化粧をしながら、急に涙が溢《あふ》れてきた。どうにもならない事を、昨夜ではつきり知らされた気がした。寝言にまで、おせいを呼んでゐる富岡に、ゆき子はどうにも刃向へないのである。あのひとには、仏印の思ひ出なンか、何も残つてはゐないと悟つた。
十時頃、ゆき子は後味の悪い思ひで、戸外へ出たが、富岡は疲れてゐるからと云つて、ゆき子を送つては来なかつた、ゆき子も疲れてゐた。くたくたに疲れて、空気を抜かれたやうな躯を、ぶらぶらと無意識に駅へ運んでゐる。ゆき子は、如何に生きてゆくべきかを考へ、穴の中におちこむやうな孤独を味つてゐた。このまゝ身動きがならないとなれば、思ひ切つて、伊庭のところへ行き、当分は大日向教の事務でもとらうかとも思つた。
五日ばかり、また、無為に過ぎた。
伊庭からさいそくの手紙が来た。一日も早く来てほしいと云ふ文面である。ゆき子は、大日向教と云ふものがどんな処なのか行つてみるつもりになつた。富岡からは、何の音信もない。少しでも愛情が残つてゐるものならば、富岡は、自分から尋ねて行くと云つた約束を守つてくれさうなものである。ゆき子は、富岡との縁があるものかないものか、大日向教に頼つてみようかと、心が少しばかり動いて来た。
焼けつくやうな暑い日であつた。
ゆき子は、池上上町の三の××番地大日向教と云ふのを探して行つた。なるほど銀行家の家邸《いへやしき》を買つたと云ふだけあつて、御影石《みかげいし》の門柱には、鉄格子の扉がついて、玄関まで砂利《じやり》が敷きつめてある。庭樹は手入れが行きとゞき、新しいトタン葺《ぶ》きの自動車小舎まで揃つてゐる。耳門《くぐり》から邸内へはいつて行くと信者ででもあらうか、痩《や》せ細つた中年の女が、大麦藁帽子《おほむぎわらばうし》をかぶつて、庭の草むしりをしてゐた。玄関の軒下に大きな檜《ひのき》の一枚板に、緑色の文字で、点晴《てんせい》と書いてあつた。硝子戸は開かれ、沢山の下駄がずらりとタイルの床に並んでゐる。
竜を描いた新しい大衝立《おほついたて》が玄関の正面にある。その蔭で、机に向つてゐるのが産院で見覚えの大津しもであつた。白粉《おしろい》をこつてりとつけて、紺の上着に紺の袴をはいて、何か書きものをしてゐた。奥深い玄関なので、冷い風が吹き抜けてゐる。奥の方では、祈りでも始まつてゐるのか、がやがやと不安な声で合唱が聞えた。
遠い山の中で、獣の唸《うな》り声《ごゑ》を聴いてゐるやうな祈祷《きたう》の声がなかつたら、此の玄関は、田舎《ゐなか》の病院にでもゐるやうな錯覚をおこす。大津しもが、ゆき子を眼にとめると、すつと立つて来て、
「よくいらつしやいました。教師さま、お待ち兼ねでございました」と、云ひながら、下駄箱から、新しいスリッパを出して揃《そろ》へてくれた。
大津しもは、昔からそこに坐つてゐる人間のやうに、落ちついたものごしで、固い表情をしてゐる。
「どう? お馴れになつて?」
ゆき子がスリッパをはきながら尋ねた。
しもは、持参金つきの嫁のやうな、妙な気位をみせて、その事には返事もしないで、「どうぞ、こちらへ」と、ゆき子を廊下の奥へ案内した。三尺の狭い暗い廊下をつつ切つて、曲折れになつた部屋の前へ来ると、しもは廊下へ手をついて、
「教師さま、おゆきさまがお見えでございます」と云つた。
ゆき子は、馬鹿々々しい気がした。部屋の中では、「うをつ」と伊庭が返事をしてゐる。しもが板戸を開けると、六十年配の男が、軍隊毛布の上に横になつて、伊庭が、その男の上に両の手をかざしてゐた。しもは部屋の隅から、茶無地の薄い座蒲団を取つて、入口に敷き、ゆき子に、敷くやうにあてがつて、また、静かに板戸を閉して出て行つた。すべてが、ゆき子には不思議な世界である。寝てゐる老人は、眼を閉ぢて、唇をぱくぱくさせてゐた。蒼黒《あをぐろ》い顔で、髪は枯草のやうに乱れ、額に大きな黒子《ほくろ》があつた。白いYシャツに、灰色の洋袴《ズボン》をはいて素足である。
伊庭は、大津しもと同じ黒色のゆるい上着を着て、これも眼をつぶつてゐる。
「よいですか……。大日向の本願は、老少善悪のひとを選ばれず、ひたすら信心の心篤《あつ》いものをいとしみ給ふ。煩悩《ぼんなう》熾盛《しせい》の衆生をたすけ給はんが為の御心にてまします。現世の善と悪は要にもたゝず、たゞたゞ大日向の念仏のみとなへれば、神仏にもまさるべき善はない。悪を怖《おそ》れるべからず。なかでも病悪は、人間の悪のうちの最も軽いものなり。病悪は眼に見ゆるものにて、これ、己れの道しるべを見る如し。心の悪は眼には見えず、手にはとらへがたく、これこそ、地獄の悪なり。業《ごふ》とや云はん。病悪は軽し。大日向を日夜となへるならばいづれの行よりも、強き天力、地力の湧くものなり。大日向の本願、まことにこゝのことなり。病悪は軽しと助けの手をのべ給ふ……」
少しの澱《よど》みもなく伊庭はすらすらと、このやうな事を云つた。そして、両の手の震動を老人の肩のあたりに置いて、ものすごく激しくさせた。老人は、唇で息を吸つた。
「もつと、口いつぱいで、空気中のエーテルを吸ひこんで下さい。いま、すごく、私の手に大日向のエーテルが出て来ましたぞ……」
ゆき子はじつと眺めてゐるうちに、伊庭は狂人になつたのではないかと思つた。伊庭は時々眼を開き、老人の瞼《まぶた》の上にかゞみ込んでゐた。
「煩悩《ぼんなう》具足《ぐそく》の衆生《しゆじやう》は、いづれにても生死をはなるる事かなはず、哀れみ給へ、哀れみ給へ。病悪の正因をぬぐひ去り給へ。大日向の慈悲《じひ》を垂れ給へ」
暫《しばら》くそのやうな言葉をくりかへして、伊庭は、震動する手をじいつと、老人の頭に置いてゐたが、「どうぞ、お清めを」と云つて、老人の肩を軽く叩《たゝ》いて起した。老人は晴々とした顔で、むつくりと毛布の上に起きなほつた。伊庭は床の間の三宝《さんばう》の上にあつた白布で、両の手を拭いてゐる。
老人は身づくろひして、そこにきちんと坐りこむと、伊庭に丁寧におじぎした。
「如何《いかゞ》ですか? 少しは躯が軽くなりましたか?」
「はい。さつぱりいたしました。とても、爽《さは》やかになりましてございます」
「四五回続けると、すつかりよくなりますな。相当、重い病気ですから、一朝一夕には、なほるといふわけにはゆきません。大日向さまが、世間の山師《やまし》のやうに、即座によくなるといふやうな、そんな教へは絶対にしませんので、その人々の祈祷《きたう》の根気を、御覧になり次第で、病悪を去つていたゞきます」
「はい、何回でも、拝みに参るつもりでございます」
「それがよろしいですな……」
「今日の御清診料は、いかほど、奉納いたしたらよろしうございませうか?」
「いや、こゝは病院ではありません。無料でいたすのが慈悲で、これが大日向教の根本なのですからな……。金のないひとからは一銭も貰ひませんが、金のある人からは、いくらでも頂戴して、そのひとの諸悪の去る祈祷《きたう》をたててをります」
伊庭はさう云つて、悠然《いうぜん》と、机の前に戻つた。老人は困つたやうな様子だつた。伊庭はすかさず、台帳を老人の前に差し出した。
「これは御清診料として、いままでに頂戴したものです。御参考まで、どうぞ……」
老人は、その台帳をうやうやしく受取つて自分の膝《ひざ》の上で開いた。黒い袴《はかま》をはいた病弱さうな少女が、茶を持つて来た。
台帳のはじめには、前大臣某の名が記され、五万円の清診料が記入してある。戦犯で亡くなつた、その大臣の本当の署名なのかどうかは、うたがはしい文字であつた。老人は暫《しばら》く台帳を眺めてゐたが、軈《やが》て、台帳を毛布の上に置き、そばの卓子の硯箱《すゞりばこ》の筆を取つて、一金五百円也と記入した。
老人は五百円の清診料を払つて、丁寧に二度目の清診日と時間を伊庭に聞いて、廊下へ出て行つた。
ゆき子は吻《ほ》つとして、その老人の足音の遠くなるのを聞いてゐた。
「随分、うまい商売ぢやないの?」
ゆき子が、笑ひながら云つた。実際、たつた此の間まで、何の商売にもありつけなかつた、なまけものの男が、どのやうな風の吹きまはしか、手を一寸震はせて、怪し気な祈祷をして、五百円の金にありつけるのである。うまい商売と云はなければなるまい。
昔のゆき子だつたら席を蹴つて、部屋を出て行くところである。伊庭は、机から外国煙草を出して一服つけながら、胡坐《あぐら》を組んだ。河内山と云つた、卑《いや》しい胡坐の組みかたで、
「どうだ、世の中は面白いだらう? 大した事はないンだ。人間といふものは信用させさへすればいゝンだ。手品なンだ。まんまと、大日向のエーテルを噴きつけてやれば、病人は息を吹きかへすンだよ。もう、昔のやうな、月給取りの暮しには戻れないぢやないか……。衆生なンてものは、神や仏は持つちやゐないのさ。自分で持てないから、小金を積んで、神仏の慈悲を買ひに来る。それを心得て、こゝでは大日向教と云ふものを製造して売つてやるンだ。みんなよろこんで買つて行くンだな……」
ゆき子は呆《あき》れてゐた。伊庭の戦後の心の変りかたが、現在のゆき子にも通じて来る。ゆき子も、煙草を一本貰つてつけた。広い床の間には、こゝにも怪し気な書体で、何か書いた軸がさがつてゐる。七宝の花瓶《くわびん》に、女松が活《い》けてあつた。十畳ばかりの部屋の真中に、軍隊毛布が敷いてある。縁側の見える障子ぎはには、伊庭の机。そのそばに、小さい中国風な卓子が一つ。天上が高いせゐか、おちついた部屋であつた。風もよく通つた。中庭にでもなつてゐるのか、狭い庭には、干物がしてある。
「もし、怪しいと思つて、新聞社からさぐりにでも来たらどうするの?」
「なあに、そんなのはすぐ判るさ。怪しい奴からは一銭も貰はない事にしてゐる」
「そんなに眼が利くんですの?」
「そりやア、こんな商売してゐると、どんな人間もすぐ見破つてしまふさ」
ゆき子は、何時《いつ》かは、かうした水商売にも似たからくりは長続きはしないだらうと思へた。だが、戦後に何をするあてもない人間が大量に放り出されてゐるとなると、かうした異常な心理を持つた人間も出て来るのだらう。
「躯《からだ》はどうなんだい?」
「私も清診料を払つて診《み》て貰ふくちね」
ゆき子は笑ひながら、煙草をふかした。富岡との問題が、まだ一向に、自分では解決したものにはなつてゐなかつたが、一時しのぎに、伊庭のこの仕事を手伝ふのも悪くはないと思つた。ゆき子は、もう、まつたうな仕事に就ける自信もなくなつてゐた。大日向教がどんなものであるにもせよ。何かのよりどころを掴《つか》むには、バーや喫茶店の女給になるよりも、こゝで、一つ、馬鹿々々しい仕事を手伝つた方が、気が楽になりさうでもある。
世の中のすべてに嫌悪《けんを》の情を持つてゐたゆき子は、富岡をこの場所から、呪《のろ》ひつめてやりたい気もしてきた。おせいに敗北した事が、ゆき子には、自分が生き残つてゐるだけに口惜しくもあつたのだ。自分が死んでゐたら、富岡は逆に、自分の死をいとしんでくれるだらう。
「大分やつれたぢやないか……」
「えゝ、少しおいしいものでも食べて、ゆつくりしてゐれば、貴方みたいに肥つて来るでせう……。女つて、お金をかけてくれる人がなくちや、綺麗にはならないもんなのね」
伊庭はにやにや笑つて、耳垢をほじくつてゐた。祈祷が済んだと見えて、太鼓が鳴り出した。すぐ、大津しもが、伊庭を呼びに来た。
ゆき子も伊庭について広間へ行くと、三十人ばかりの男女の信者が部屋のぐるりに立つて、教主と教師を迎へてゐた。こゝだけ新しくつけ足したものと見えて、二十畳敷位の板の広間は、木の香も新しく、三面の祭壇には、紫の幕が絞《しぼ》つてあつた。幕の後には、三日月型の鏡が光つてゐる。
その前に、教主の成宗専造が、中国風な腰高の椅子に腰をおろした。法服のやうな黒い服を着てゐる。胸に金色の三日月と日向草を組み合せた紋章を刻んだバッヂをつけてゐた。
伊庭は、教主のそばに立つて、信者達に一礼すると、
「お楽に……」
と云つて、信者達を板の間へ坐らせた。ゆき子も末座に坐つた。伊庭は籐椅子《とういす》に腰をおろした。昔の小学校の作法室といつた感じである。教主は、机上の鉦《かね》を鳴らして、口のなかで何かぶつぶつつぶやいてゐたが、暫《しばら》くして、机上の紙をひろげた。
「今日は、大日向さまの、第三章の御神意を御展《おの》べいたします。御信者の方は、どなたも、御神服をおつけ下さい」
信者は膝《ひざ》に持つてゐた紫の袖《そで》なしのやうなものをてんでに拡げて、肩へ羽織つた。大日向教と染め抜いた、はつぴの襟だけのショールのやうなものである。
「第三章のみことのり申す……。おのおの世界の境を一つにして、人間はまことのこゝろ交ふが道なり。世界のひと、いづれの行も足りず、たゞに迷ひ、たゞにさすらふものなり。大日向さまは、地獄よりこの人々すくひ給はんとて、娑婆《しやば》の業を人間に与へ給ふ。他力をたのみて、真実報土のこゝろなくば、この人々地獄への往生をとぐるものなり……」
開いた硝子戸から、凉しい風が吹いた。庭師がゆつくり鋏《はさみ》を使つてゐる音が長閑《のどか》である。
「人それぞれに、五十年の月日を稼がせ給ふは、これみな犠牲《ぎせい》の修業を積ませ給はんが為なり……」
ゆき子は、板の間に坐つてゐる事が苦しくなり、そつと膝を崩した。
富岡は清吉の為に弁護士を頼んだ。せめて、さうした尽し方をしてやるより、おせいへの供養《くやう》はないのだ。ゆき子から、めんめんと、もう一度、二人は一緒になつて立ちなほりたいと云つて来たが、富岡はゆき子に対しては、もう赤の他人よりもひどい無関心さしかない。このごろ、ゆき子は或る宗教にこりかたまつてゐる様子だつたが、それもいゝだらうと思つた。おせいとの思ひ出の部屋からは、富岡は一向に腰をあげる気配もなく、毎日、ベッドに寝転んで、農業雑誌へ原稿を書いた。書けば、いくらかの稿料を送つて来た。富岡は、誰にも逢ふ必要のない。かうした仕事に、いまのところは満足してゐた。勤めを持つて、毎日一定の時間をしばられる事に息苦しいものを感じてゐたからである。友人の会社へは、そのまゝ無断で行かなくなり、富岡は、全くの浮浪者的心理に落ちこんでゐた。浦和の家も一向よりつかなくなり、妻の邦子からの音信も封を切らないまゝで、茶箪笥《ちやだんす》の上に放り出してゐた。長らく病床にある妻に対しても、いまは何の感情もない。老いた両親も、いまのところは居食ひのありさまだといふ事も、富岡はよく承知してゐたが、これもまた、どうしてやつてよいのか、根気も尽き果ててゐた。家を売つた金は大半は、材木事業で失敗してなくしてしまつたが、まだ、半年や一年位は、細々とやつてやれない事はない金額だけは、富岡は家の方に任せて来てゐる。
寝ながら藁半紙《わらばんし》のやうな原稿紙を拡げて、富岡は、漆《うるし》に就いての随筆を書いてゐた。南の思ひ出は、これすべて、只、記憶の海を航海してゐるやうなものである。
漆は、日本、中国、印度支那、ビルマ、タイに限られた産地である。はじめに、此の様なことを鉛筆で書きつけたが、妙に頭がしびれて来た。時々、めまひがする事がある。時間をきめて食事が摂《と》れなかつたせゐか、富岡は、ますます、自分の肉体の衰へを感じて来た。この漆の原稿を書いて、一万円位は稼《かせ》がねばならないと、心のなかは焦《あせ》るのであつたが、頭がこれにともなつてゆかない。漆の産地なんか、どうでもいいぢやアないかといつた気持ちになつて来る。
急に書きかたを変へてみた。戦争中、私が、トンキンの首都河内《ハノイ》へ赴任《ふにん》してゐる時に、フウトウといふ、小さな町に呼ばれて行つた事があつた。と、思ひ出のやうな事から、書き始めた。
フウトウは、河内の西北にあたり、河内から離れる事一三〇粁《キロ》の地で、こゝは世界にほこる漆樹園といつてもいゝところである。
漆は、学名をルス・サクシーダナと云ひ、我国ではハゼの樹であり、トンキンでは、カイソンと云つた。フウトウの町では、日本の養蚕地《やうさんち》のやうに、農家の副業としてカイソンが栽培《さいばい》されてゐた。昔は、安南漆《あんなんうるし》といふものは、壺漆《つぼうるし》と云はれて、品質も粗悪で、価格も低廉《ていれん》であつたので、漆商の老舗《しにせ》では、安南漆を敬遠してゐた傾向があつたものだが、戦時中は日本でも品不足で、争つて安南漆を輸入してゐた。私はほんの数日を、フウトウの漆樹園を視察にまはつた経験しかないのだが、現在の日本では、農家の副業に、このハゼの植林に注目する事が出来たならば、日本の良質な漆を、西洋へ輸出出来るのではないかとも考へるものである。安南漆は非常に乾燥度が不良で、もう少し技術が進歩しなければ、折角の世界一の漆の町も、これからは寂《さび》れてゆくであらう。たゞし、価格が低廉であるといふ事は、日本の漆の比ではない。フウトウの農民は、掻き取つた生漆《きうるし》を、町の市場に持つて行つて、そこで仲買人に売るのであつたが、フウトウの漆の市場は、あらゆる日常品が揃《そろ》ひ、この日は、玩具箱《おもちやばこ》をひつくりかへしたやうな賑《にぎ》やかな素朴さで、農家の女子供は、着飾つて市場へ出掛けて行くのである。
富岡はこゝまで書いて、鉛筆をとめた。一世紀も違つた世界へ引き戻されたやうな日本の生活が、富岡には味気なくなつてくるのだ。海の外へ出てみたい想ひは、いまのところ空想の世界になつたが、このまゝの状態では、どうにも抜けて行く場所がないやうだつた。これが己れの本当の場所なのだと思ひながらも、富岡はナイフで鉛筆を削りながら、ナイフの光つた刃をふと眼にとめて、漆の随筆なぞ、書く元気もなくなつてゐる。日本の漆が海外に輸出されたところで、どうなるものでもなかつたし、日本の漆の生産なぞは、安南や中国とはくらべものにはならない貧弱な生産高でもある。富岡はごろりと寝転び、ナイフの刃をじいつと見つめてゐた。おせいは死んでしまつたといふ事が、ひどく心にこたへてきた。おせいが生きてゐる間は、争ひの連続であつたが、清吉と云ふ猟犬が飛び出して来て、あばれまはつてゐた野兎のおせいを掴《つか》み殺してしまつた。自分は、山かげにかくれて、気まぐれにおせいをねらつた猟師のやうなものだと、富岡は、自分のずるさを考へてゐる。清吉はそゝのかされて殺人を犯したやうなものだつた。ナイフの刃を、富岡は手首の動脈にあててみたが、ひと思ひにそこへ突き差す気にはなれない。
朝から何も食事を摂《と》つてゐないので、富岡は嘔吐《おうと》をもよほしてゐた。原稿もすゝまなかつたので、むつくり起きて、汚れたYシャツに、黒いサージの洋袴《ズボン》をはいて、階下へ降りて、下駄箱からおせいの下駄を出して、それをつつかけて戸外へ出た。黄昏《たそがれ》の時間でありながら、街はまだ夕陽が真昼のやうに明るかつた。駅のそばまでぶらぶら歩いて、小さい飲屋の繩のれんをくゞつた。強い酔ひに溺《おぼ》れたかつたのだ。焼酎《せうちう》を注文して、一気に飲み干すと、二杯目をまた注文した。客は誰もゐなかつた。乾物《ひもの》を焼く匂ひが裏の方から流れて来た。亭主らしい中年の男が、カウンターの後で、十五六の娘を小声で叱りつけてゐる。娘はおかつぱの髪を時々耳にかきよせながら、むつとした横顔で、壁の方を向いた。
「何だツ、そのふくれつ面《つら》は、世間の事は何も知らねえくせに、いまから男遊びしやがつて……。昨夜は、何処へ泊つたンだよ?」
富岡は、焼酎を飲みながら、じいつと、娘へ小言を云つてゐる親爺《おやぢ》の文句を聞いてゐた。
「何処へ泊つたンだよう?」
娘は黙つてうつむいてゐた。富岡は三杯目を注文した。激しい酔ひがきて、少し気分が晴々して来た。久しぶりに独りで映画でも観て、うさばらしでもしたかつた。三杯目の焼酎は、娘が運んで来た。化粧をしない、浅黒い顔の娘であつたが、眼がぱつちりしてゐて、仲々の器量のいゝ顔だちである。剃《そ》らない眉は黒く太く、まるで一文字を引いたやうだ。台の上にコップを置いて、娘は富岡を見てにつと笑つた。凉やかな眼もとであつた。
三杯の焼酎にすつかり人生観が変つたやうな酔ひかたで、富岡は、その酒の店を出た。酔ひはすべてを忘れさせてくれた。よろめきながら街をあてどなく歩いた。今夜にでも帰つて、一気に漆論を書きあげて、それを農業雑誌へ持つて行かう。
富岡は三軒茶屋まで歩いて映画館へ這入つた。銀座三四郎といふのをやつてゐた。昔の女が忘れられなくて医者をやつてゐる主人公がよく酒を飲む。やくざに近い医者だなと思ひながら、うとうとと、映画館の一隅に腰を掛けてゐた。主人公の医者は昔の女にくつついてゐる銀座のやくざを、何人も相手にして河の中へ放り込んでゐる。料理屋の娘が、そのやくざな医者を好きのやうだつたが、これは逢ふと喧嘩ばかりしてゐる。おせいのやうな女であつた。似てゐるところはなかつたが、気つぷうがおせいに似てゐた。酔つてゐるせゐかその映画の筋が少しもつじつまがあはない。退屈して、富岡は映画館を出たが、まだ四囲は仄々《ほのぼの》と明るかつた。
何時頃なのか、此の頃は、時計もないので、さつぱり時間に就いての観念がなかつた。或る店さきの時計を覗《のぞ》き込むと、八時近くである。あゝ、もうそんな時刻かと、ぶらぶら当てどなく歩いたが、やつぱり、もう少し泥を掴《つか》むやうな、酔ひに惹《ひ》かれてゆく。映画館の方へ戻つて、駅の近くのマーケットの中の小さいバラックの飲み屋へ這入つて行つた。
箱のやうな狭い店のなかへ、よろめいて這入つた。年の割に厚化粧をした中年の女が、あいそよく、富岡に自分の小さい座蒲団を椅子へあててくれた。
「をばさん、チユウを一杯」
「あら、いゝ御きげんね。もう、何処《どこ》かで飲んでいらつしたンでせう?」
コップに並々と焼酎をついで貰つて、富岡は、ゆつくり唇をつけた。風にゆれる軒先の提灯《ちやうちん》に、酒の店ジャムスと書いてある。
「をばさん、満洲から引揚げたのかい?」
「えゝ、さうよ。どうして知つてらつしやるの?」
「いや、提灯に、ジャムスと書いてあるからさ……」
眼の下に黒いくまが出来て、額の抜けあがつた、眼鼻の小さい女だつた。襟白粉をこつてりつけて、浴衣《ゆかた》がけに、胸にレースのついたエプロンをしてゐる。台の上には、魚の煮つけや、ハムの切つたのや、うで玉子が飾つてあつた。富岡は指で大皿のハムをつまんで口に頬《ほゝ》ばつた。
「引揚げ者なンですよ。身一つで戻つて来ましてね。すつてんてんなのよ。私、これでも、十年ジャムスで教員をしてたンですけどね……。人間つて判らないものですわねえ。馴れない商売で、みなさんに、士族の商法だつて云はれますのよ」
「をばさん、いくつだい?」
「あら、いくつに見えて? これでもまだ若いのよ。あんまり苦労したンで、年を取つちやつたンですけど……」
「女の年は判らないね。四十位かな?」
「まア、悲しくなつちやふわね。私、そんなにお婆さんに見えるかしら、これでも三十五なンですよ。これから一花咲かせるつもりなンですのに……」
富岡は、三十五と聞いて、女の嘘つきにも呆れた。内心では五十位かい? と聞くところを、十年も若く云つてやつたつもりである。
「へえ、そりやアどうも相済みませんねだ。三十五か……。そりやア若い。これからだね。御亭主とは生き別れと云ふところだね。そんなに水々しく綺麗なンぢやアね……」
女はおつほつほと笑ひ出して、小皿にハムを二切よそつて台の上へ出した。
「死に別れなンですのよ。ジャムスで別れたきり、主人は宝清と云ふところの協和会に勤めてゐたンですけど、そのまゝ夫婦相別れ申し候でしてね。私は、もう、昔の亭主なンか何とも考へちやゐませんわ」
二杯目のコップが並んだ。
富岡は、泥のやうに酔つてきた。世の中のすべてが、まはり舞台になつた人生だと承知してゐながら、遠くジャムスに女教員をしてゐた女と逢《あ》ふ人の世が、哀れつぽくもある。時々、手を差しのべては、「おい、をばさん、握手しよう」と富岡は同じことをくり返してゐた。
「本当に、をばさんの御亭主は死んだのかい?」
「本当ですよ。同じ協和会の方と、朝鮮で一緒になつて、私、ちやんと聞いたんですもの……。それも猟銃で自殺しちやつたんですのよ」
「ほう……」
話は複雑なほど面白いのだ。三杯目の焼酎にすつかり脚《あし》をとられた富岡は、台の上にうつぷしてしまつた。
ゆき子は、秋になるまで、ずつと大日向教の会計事務をとつて暮した。大日向教の内幕はお話にならぬほどの乱脈で、教主の専造は、金銭にかけては守銭奴《しゆせんど》に近い方で、いつも金の事になると伊庭と激しい争ひを演じた。ゆき子は、この二人の性格をよく心得てゐて、程々に自分の貯へもくすねる事を忘れなかつた。
専造も、伊庭も、常々口に出して云ふ事は、人生すべて金であると云ふ事だつた。大日向教ではなく、大金銭教だわねと、ゆき子は皮肉を云ふ時もある。すつかり躯《からだ》は恢復《くわいふく》して、皮膚の艶《つや》もよくなり、見違へるやうに若々しくなつた。大津しもが、専造のかくし女である如く、ゆき子はまた何時とはなく伊庭と昔のよりを戻してゐた。伊庭は、妻も子供も静岡の田舎に帰してしまつて、いまでは、ゆき子の為に小さい家を教会の近くに買つてやつたりしてゐる。ゆき子は、伊庭を少しも愛してはゐなかつた。むしろ、伊庭を憎んでさへゐた。小さな三間ばかりの家に信者のをばさんを置き、ゆき子はそこに一人で住み、教会に通つて行つた。ゆき子は十万円ばかりの貯金を持つてゐた。人生は金より頼るものはないと教へこまれて、ゆき子自身も、少しづつ金銭のあつかひがうまくなつてもゐた。信者はますますふえて来たし、いまでは、相当の勢力を持つて、大日向教は、町の名物になりつゝあつた。
ゆき子は、時々、富岡の事を考へないわけではなかつたが、富岡には、幾度手紙を出しても梨《なし》のつぶてであつた。富岡とは、どんなにしても、再び昔の愛情に戻れる当てはないと思ふにつけ、ゆき子は、現在の生活が、自分にとつては、少しも救はれてゐない事を知るのである。何も不自由のない生活でありながら、ゆき子は常に飢《う》ゑてゐる気持ちだ。
或る雨の夜、教会から戻つて、ゆき子は黒い制服を袷《あはせ》に着替へて、茶の間で、信者のをばさんと食事をしてゐた。火鉢のそばに置かれた夕刊に眼をとめると、農業雑誌の広告が眼にとまつた。
「漆《うるし》の話」として、富岡兼吾の名前が出てゐる。ゆき子は、何時か、おせいの部屋で、富岡から見せられた農業雑誌を思ひ出してゐた。すぐ、をばさんに頼んで、近所の本屋から、その雑誌を買はせてみた。
富岡の文章は素人臭くはあつたが、判りやすい文体であつた。二人だけで知つてゐる安南の事がちらちらとゆき子の心を熱く燃えたゝせた。「漆の話」を読んでゐるうちに、いまにも走つて逢ひに行きたかつたが、おせいの亡霊に意地を張つてゐる自分としては、自分の方から、いまごろになつて尋ねて行く気はしなかつた。だが、この日頃の心の飢ゑかたは、どうしても富岡に逢はなければ、どうにも救つて貰へない気がしてゐる。ゆき子は思つた。私は、あのひとの落ちぶれを攻撃しすぎてゐたのだ。おせいがあのひとにとつて、どんなに得難い女であつたにしたところで、私は、おせいには敗けてはゐられない。あのひとも崩れ、自分も亦《また》崩れて行くのは、どうしてなのだらう……。二人とも、求められない昔の夢を見過ぎて、お互ひを厭になりあつてゐるのかも知れない。二人の中心が、おせいの問題だけであつたら、何も二人が、死ぬ覚悟までした筈がないのだ。あの事件から二ヶ月あまりの月日がたつてゐる。富岡は、おせいの亡霊から解放されてゐる頃かも知れない。
「ねえ、をばさん……。この名前はね、私の昔の恋人の名前なのよ」
あとかたづけをしてゐたをばさんは、雑誌を手にとつて、ゆき子の指差した目次を眺めた。をばさんは、おしげさんと云つた。二人の息子を戦死させて、魚の行商をやつてゐた。つれあひには、此の春亡《な》くなられてゐた。あまり不幸ばかり続くので、大日向教を信じるやうになり、口の固いところを伊庭に見込まれてか、ゆき子の家の女中に、引取られたのである。
「これは、何の話と読むンでございますかねえ?」
「漆《うるし》の話よ。うるしと読むのよ。そのお盆や、お椀《わん》の、うるしの事だわ」
「前の旦那は、漆の商売をしておいでだつたンですか?」
「さうぢやないのよ。農林省の官吏で、とても偉いひとなの……。戦争の時にね、私が、農林省のタイピストをしてる時、仏印へ私も軍属で行つたンだけど、そこで、此の人に会つて、お互ひに好きになつた人なのよ」
ゆき子は、話してゐるうちに、感傷的な気持ちになり、目頭《めがしら》が熱くなつてゐた。
「戦争が終つて、辛い思ひをして、別々に内地へ戻つて来たンだけど、どうしたンだか、南方ではとても激しく好きあつてゐた二人が、急に内地の風にあたつてからは、よそよそしくなつてしまつて、そのひとと一度は、二人で死なうなンて、伊香保にまで死に場所を求めて行つたンだけどねえ……」
おしげは、茶餉台《ちやぶだい》の上をゆつくり布巾《ふきん》で拭きながら、ゆき子の話を聞いてゐてくれた。
「伊香保で金に困つちやつてね、そのひとが、飲み屋の御亭主に、時計を買つて貰つたンだけど、魔がさしたンだわね。そこの細君と妙な事になつてしまつたのよ。男つて、心中に行つてゐても、そんな心の迷ひつてあるものかしら……。私はすつかり、そのひとを信用してゐた気持ちが崩されてしまつたンだわ。――ねえ、それからの私は、もうやぶれかぶれで、どうにも、息が出来なかつたンだわ。私、けつして伊庭なンか好きぢやない。誰だつて飢ゑてゐる時は、やぶれかぶれになるものだわ。心まで飢ゑて、狼のやうになつてしまふものなのよ。愛しあつてゐても、お互ひが飢ゑてる時は、飢ゑたもの同士がきらひになつて来るンぢやないかしら……。平和な海を航海してゆく船に乗つてれば吐く事もないけど、嵐の日の船出は、どんなにいゝ思ひをしようたつて、吐くぢやないの……あんなものだわね……。私はまた伊庭のもとへ戻つて来たンですけど、いまは吐くものもないンだもの……。伊庭は、私はきらひなひとだわ。私よりも悪い人間ね。私、随分悪くなつたけど、私よりも悪い人なのよ、あのひとは……。教主も悪いひとだわね。をばさんなンかだまされてゐるンだわ……」
「はい、それは私もよく判つてをります。それでも、私は、どうしても大日向さまを信じなければ、生きてはゐられないのでございます。私は、教主さまや、伊庭さまをお信じ申してゐるのではございません。あの方たちの事は、大した事はないのでございますもの……」
ゆき子は、おしげさんが、大日向教は信じるが、教主や伊庭を信じてはゐないと云つた言葉に、ふつと心を焼かれた。いままで偉ぶつてゐた気持ちを、打ちのめされた気がした。
「さうでございますよ。私は、眼にみえない大日向さまをお信じしてゐるきりなンでございます」
「だつて、大日向なンて神様は、何処にもいらつしやるわけぢやないでせう?」
「いえね、私は或時、私の爪を眺めましてね、どんなに、立派な便利なものが発明されても、自分の爪一つだつて、これはなかなかあらたかなものだと思つたンでございますよ。原子爆弾よりも、自分の爪は怖ろしいものでございます。つくづくさう思つたンですよ。これは、人間のなかに神様がお住みになつてるこつたと思ひましてね。どんなにしても、学者さんは、人間の爪一つだつて発明出来やアしません、えゝ出来ませんとも……。自然に、親から、この爪は生れたものなのでございましてね。神様がなければ、人間なンて生れやうがございませんでせう……。人間は煩悩《ぼんなう》具足《ぐそく》をそなへてをりますから、私は、どうしても、何かを信じなくては生きては参れません。おゆきさまも、まつすぐに、そのお好きな方のところへお出でになつて、ようくお話を噛《か》み砕いてごらんになつたら如何なものでございますかねえ……。男といふものは、迷信深くはありませんから、なかなかやりにくい生きものでございます。ようく女が話してみたら、判るのではありませんかね。話をすると云ひますのはね、何もお喋りをするのではなくて、男のそばにそつと坐つて、かばつてやればよいのですよ……」
ゆき子はくすくす笑ひ出した。初めて晴々と笑へる気がした。
「漆の話」が、どうやら原稿料になり、富岡はそれでやつと露命をつないだ。たまつた部屋代も少し入れて、あとは、やつと二ヶ月ばかりを、その金で暮す事が出来た。富岡はいまは孤独にも馴れ、農業雑誌へ以前から書いてみようと思つた、或る農林技師の思ひ出といつた仕事にもぽつぽつ手を染めてゐた。それは主として、南方の林業に就いてのノスタルヂイを綴る心算《つもり》であつた。色々と仏印では、研究のノートも沢山あつたのだが、それは何一つ持つて帰るわけにはゆかなかつた。その当時の記憶を辿《たど》り、富岡は、もし、この一文がうまく書けて、雑誌社でも出版してくれるやうであつたならば、死んだ加野へ贈るつもりであつた。そしてまた心ひそかに、仏印の土と消えた人々へたむける、ひそかな願ひも心にはあつた。
安南人はあらゆる階級を通じて、自然に対する信仰心が強くて、自然社会的現象を、すべて精霊にことよせて考へるところがある。生前の生活は、すべて霊魂の活動に左右され、且《か》つ禍福《くわふく》のすべては精霊の告示によるものだと云ふのが、安南人の信条でもあつた。
富岡は、ダラットに着いた日の林野局の事務所で、局長から加野に紹介されたが、加野が、卓上に小さな木片を置いてゐた記憶がよみがへつて来た。
「富岡さん、本当の伽羅《きやら》の木を御覧になつた事がありますか?」
と、その小さい木片を、加野は富岡の鼻のさきに持つて来た。加野は、笑ひながら云つたものだ。
「私は戦地に来て、女の肌を知る事が出来ないので、香木の研究を始めてゐるンですがね、なかなか粋《いき》なもンでせう……」と、云つた。
富岡は、仏印に着いて、初めて、伽羅の木を見せられた日の思ひ出から書き出してみたかつた。日本で云ふ伽羅の木が中国では沈香《ぢんかう》といふのだと知つたのも加野に教へられたからである。サイゴンの農林研究所に行つた時に、植物園に近いルウソウ街の、林業部長の部屋で、鰹節《かつをぶし》大《だい》の立派な伽羅の木を見せられた事があつたが、仏蘭西《フランス》語では、ボア・ド・エーグルと云ふのだと、部長のモーラン氏に教へられた。中国では、漢の武帝の頃から伽羅は用ひられ、印度《インド》、エジプト、アラビヤでは古くから使つてゐたやうである。安南人の精霊崇拝の好例としては、到る処に、寺院があり、この伽羅の木がよく焚《た》かれた。黄金の重さに等しい値段だといふ伽羅の木が、南部安南に産し、そこの土地の伽羅が、最優良品と聞いて、富岡は、ゆき子を知つた頃、小指の先ほどの伽羅の木片を彼女のベッドの枕の下に入れてやつた思ひ出がある。安南の寺へ行つて、寺僧に鼻薬を利かせると、小さい伽羅の木片を分けてくれた。富岡は安南人の宗教と燻香《くんかう》には、何か神秘的な関連があるやうに思へた。
原稿は二百枚ばかりも書き進んでゐた。書き進んでゐるうちに、富岡は、ゆき子の事なぞは、仏印の土地々々には、何のかゝはりもない事を知つた。むしろ、安南人の女中や子供の記憶の方が、なつかしく心を掠《かす》めてくる。結局は、土地の持つ香気のなつかしさだけで、こんなに仏印の景色が、忘れられないのであらうかと思へた。
このごろは清吉を拘置所に尋ねて行く事も少なくなり、此の一ヶ月は足が向かなかつた。富岡は次々に転じてゆく焦点《せうてん》が、一つとして燃焼する事もなく、この巨《おほ》きな社会の歯車の外にこぼれ落ちてゆく、淡い火の粉のやうな自分を感じてゐた。囚人となつた清吉と、囚《とら》はれてはゐない自分との差は、少しも違つてはゐなかつたし、むしろ、囚人こそは善人のこりかたまりで、社会に放り出されてゐる自分達のやうなものこそ、本当の囚人なのだと、富岡は、刑法の良心といふものが、ひそかにうたがはしくもなつてきた。おせいを殺した下手人は自分でありながら、猟師の犬となつた清吉が、囚はれて、あの男は、自分の生涯《しやうがい》に極刑を選ぶ、馬鹿な道をとつてゐる。富岡は時々、清吉の事を考へると、自分の良心を持ちこたへる事の出来ない焦《い》らだたしさを感じてきてゐる。清吉の犯罪は行動であつたが、自分の犯した事は行動とは云へないものなのだらうかと考へる。
清吉は案外の事には、面会に行つても、いつも晴々としてゐた。富岡は、清吉を陰欝《いんうつ》孤独な性格だと弁護士が云つてゐた言葉を、何だか信じがたい気持ちだつた。――考へまいとしても、富岡は、仕事の最中にも、清吉のにこにこしてゐた顔が眼に浮ぶのである。猟師の犬は囚はれてゐる。猟師が逢ひに行くと、犬は平気な顔をしてゐる……。そんな様子に汲《く》みとれて、富岡は清吉に薄気味の悪いものを感じてゐた。加野がサイゴンの憲兵隊に囚はれた原因も、また、この猟犬のたぐひであつた。加野は、いまはもはや冥府《めいふ》の人になつてしまつたけれども、生きて病床にある時も、富岡は一度も逢ひに行つてはやらなかつた。和解しないままで、加野は淋しく死んで行つた。
ゆき子だけが、横浜まで逢ひに行つてゐる。ゆき子を傷つけた加野は、ゆき子に詫《わ》びてゐたと聞いたが、富岡は、考へてみると、自分の卑怯《ひけふ》さには、一種のかさぶたが出来てゐるやうなものだと感じた。
夜になると、富岡は強い酒が飲みたかつた。一日、五六枚位の仕事の速度では、南方の林業も仲々金に変る日は来ない。酒が飲みたくなると、富岡はおせいの家具や衣類を売つた。茶箪笥を売り、トランクを売り、おせいの衣類を売り尽してゐた。あの眼の美しい小娘のゐる飲み屋にも、七八回通つて、娘とも口を利くやうになつてゐた。
二回ばかり、富岡のところへ、娘は金を取りに来た事もある。――富岡は、仕事に退屈して、今夜は久しぶりに風呂へ行かうと、壁の手拭を取つた。かすれたやうな、女の笑ひ声が壁の中に聞えた。一瞬の聯想で、ふつと、その声がおせいの声になつた。伊香保の、夜の狭い石段を、おせいと手をつないで降りる時のあのふくらんだやうな笑ひ声である。富岡は壁にこもつてゐる女の笑ひ声に耳をそばだててゐたが、
「をぢさん」と云ふ声に扉の方をふりむくと、眼の大きい飲み屋の娘が、二三冊の雑誌をかゝへて、部屋を覗《のぞ》きこんでゐた。
「何だ、君か……」
「一人?」
「あゝ、一人だよ。何だい? 借金取りかい?」
「遊びに来たのよ」
「ほう……」
富岡は、大胆な子供だと思つた。娘はすぐ部屋に飛び込んで来て、手にさげてゐた汚い下駄をベッドの下へ入れた。何の怖れ気もなく、ベッドの裾《すそ》に腰をかけて、意味もなく笑ひころげてゐる。あゝ、あの笑ひ声だつたのかと、富岡も、娘と並んでベッドに腰をかけた。肩へ手をかけて抱き寄せてやると、娘はあどけなく唇を開けて、下から富岡を覗き込んだ。じいつと見てゐると南方形の顔であつた。仏印へ行くと、こんな顔が沢山あつたものだがと、娘のあさぐろい顔を富岡はしみじみと眺めた。
「あんまり、お父つあんが叱るから、おどかしに、家を出て来ちやつたのよ……」
「君が悪い事ばかりするから、お父つあんは心配して叱るんだらう?」
「神経衰弱なのよ。お母さんがお父つあんと、別れ話をしてるから、毎日いらいらしてんだわ。私、此の間も交番で泊つたのよ。とても、夜中の交番つて面白いわねえ……」
「何処の交番で泊つたんだい?」
「遠いところよ。お巡《まは》りさん、とても優しくていゝひとだつたわ」
富岡には、かうした娘の心理が、少しも判らなかつた。
冬になつた。
富岡は、窮乏のなかで或る農林技師の思ひ出を五百枚近く書きあげたが、これは失敗であつた。出版界の不況で、いまがいま出版するわけにはゆかないと云はれて、富岡は失望した。急な傾斜面に立つてゐるやうな、いまにも転落して行く、安定のない生活を、どうにも支へて行く事が出来なくなり、富岡は職業安定所へ行つて見たり、農林省時代の友人を尋ねてみたりした。
そのどれもが、富岡には向かなかつた。火の気のない、寒い部屋に寝ながら、富岡は、時々ゆき子の事を考へないわけではなかつたが、それは富岡自身を卑《いや》しくするに過ぎない。部屋代は夏以来払へなかつたので、追ひたてを食つてゐたし、浦和から、老母が邦子の病気と、窮乏をうつたへて、富岡の部屋へ尋ねて来たりした。
正月始めの、雪の降る朝であつた。邦子が亡くなつた電報を手にして、富岡は、寝台を古物商へ売り飛ばして、浦和へ帰つた。みじめな暮しのなかで、邦子はみるかげもなく衰へ、自殺にもひとしい死にかたであつた。
長い間の衰弱の上に、瘰癧性腺炎《るいれきせいせんえん》にかゝり、切開手術が必要だつたが、医者も、この貧しい、痩《や》せ衰へた女の手術をあやぶんでか、いゝ空気を吸つて、肝油を飲めといふ位の診断しかしてくれなかつたが、鼠蹊部《そけいぶ》の上に膿傷《のうしやう》が出来て、どうにも手術をして、排膿用のゴム管を挿《さ》し込まなければならなくなり、非常の容態になつたが、邦子はじいつと病気に耐へて手術もしないで、そのまゝのみじめな姿で息を引きとつたのだ。
家の中は、棺を買ふ金も尽きてゐた。富岡は、おせいの亡くなつた時のやうな、名残り惜しさは少しも感じなかつたが、終戦以来、邦子を妻らしくあつかつてやらなかつた自責で、棺《くわん》を求める事すら出来なくなつてゐる、自分達の落ちぶれを厭なものに思つた。
雪は朝から降り続いてゐた。
僧侶を頼んで、枕経《まくらぎやう》を読んで貰ふ事はおろか、焼場にさへも運ぶ金もないのだ。富岡は思ひ切つて、急場の金をゆき子から借りる為に、父の古ぼけた外套を着て、朝早く東京へ出て、ゆき子の手紙の住所を頼りに尋ねてみた。伊庭の表札が出てゐた。小ぢんまりした二階家で、ペンキ塗りの門の中には、青木が赤い実をつけて雪をかぶつてゐた。格子に手をかけると、家のなかで、けたゝましく犬が吠えた。富岡は思ひ切つて、玄関のくもり硝子《ガラス》のはまつた格子を開けた。
思ひがけなく、白い犬を抱いたゆき子が、突きあたりの二階から降りて来た。黄ろいジャケツを着て、黒い洋袴《ズボン》をはいたゆき子は、みすぼらしい富岡を眺めて、初めは気をのまれたやうに、暫《しばら》く、ものも云へないふうで、玄関に立つてゐた。
夏頃のゆき子とは、すつかり面《おも》がはりして、ふつくらと肥り、躯《からだ》つきも若々しく豊かになり、仏印の頃のゆき子の面影を取り戻してゐた。犬は毛の長い、真白な犬で、赤い舌を出して、富岡に、神経質に吠えたててゐる。ゆき子は犬の頭をきびしく殴《なぐ》り、
「まア! どなたかと思ひましたわ……」と、云つた。
富岡も、女の姿の激しい変化を見て驚いた様子だつた。ゆき子は、すぐ、犬を二階へ連れてあがり、襖《ふすま》を手荒く閉した音がしたが、やがて階下へ降りて来て、富岡を茶の間へ案内した。ゆき子は、後向きになりながら、ふつと舌を出した。たうとう富岡が、落ちぶれてやつて来たと思ふと、胸のなかが痛くなるほど、爽快《さうくわい》な気がした。
この男は、金を借りに来たのだといふ事がゆき子にはすぐ判つた。柔い炬燵《こたつ》蒲団をはぐつて、電気のスイッチを入れると、ゆき子は、富岡の顔を見ないやうにして、「寒いから、炬燵へおはいりになつて」と、甘い声で云つた。
「すつかり変つたね」
富岡は素直に、外套のまゝ炬燵にはいつて、じろじろとゆき子を眺めて云つた。
「どんなに変つて?」
「若くなつた」
「さうかしら、呑気《のんき》でもないンだけど……」
差しむかひになつて、ゆき子が坐つた。ゆき子は風呂上りとみえて、血色のいゝ手をしてゐた。大きな瀬戸火鉢には、鉄瓶《てつびん》が湯気を噴《ふ》いてゐる。障子ぎはに三面鏡が置いてあり、その横の小さい棚には潮汲《しほく》みの人形が硝子箱にをさまつてゐた。
「僕が、何の用事で来たかは判るだらう?」
単刀直入に、富岡は、玄関先で、金を借りたい話をするつもりだつた。炬燵にまで這入りこんでしまふと、何となく話しそびれた気で、富岡は、ゆき子の暮しぶりをじろじろと眺めてゐる。二階ではさかんに犬が吠えたててゐた。「伊庭君は?」富岡が尋ねた。
「教会の方へ行つてるのよ」
「一人?」
「えゝ、いま、よそのをばさんを頼んでるンだけど、買物に行つてますわ」
「いゝ身分だね……」
「あら、さうかしら……」
ゆき子は表情には出さなかつたが、肚《はら》の底で、自分をこれでもいゝ身分かしらと笑つた。
「終戦以来、男は駄目で、女の方が逞《たく》ましくなつたね……」
ゆき子は茶を淹《い》れながら、「さうかしら」と、また、取りすまして云つた。これが、今日まで恋ひこがれてゐた富岡だつたのかと、二ツ三ツ年を取つた、富岡のすつかり変つた様子を、ゆき子は眼尻を掠《かす》めて眺めながら、自分の冷酷さが不思議な気持ちだつた。
「邦子が、昨日、亡《な》くなつたンだよ」
「まア、奥さま、お亡くなりになつたの?」
ゆき子は眼を瞠《みは》つた。いつか、二度ほど逢つた、富岡の妻のおもかげが、瞼《まぶた》に浮んだ。富岡をつけまはつてゐる時に、五反田《ごたんだ》の家の近くで、細君に逢つた時の印象が忘れられなかつた。ゆき子はいまごろになつて、かあつと涙が噴《ふ》いた。富岡は、無頼漢《ぶらいかん》のやうな気持ちで、昔の女に金の無心に来てゐたのだが、ゆき子のほとばしるやうな涙を見ると、一寸《ちよつと》、驚いた様子だつた。急に、この女との辛酸をなめた昔の思ひ出の数々が、富岡の荒凉としたハートをゆすぶつた。何も云へない気がして、ゆき子の泣きじやくるのを呆《ぼ》んやり眺めてゐた。
ゆき子は、富岡との感傷で泣いたのではないのだ。あの時の、野良犬にもひとしかつた、自分のみじめさを思ひ出して泣いたのだつたけれども、自分の涙が、富岡に対して、案外な効果があつた事を知ると、ゆき子は、もう我慢のならないやうなあけつぱなしな泣きかたで、鏡台の上にあつた濡《ぬ》れタオルを取つて顔に押しあてた。
呆気にとられて、富岡は、ゆき子の泣く姿を眺めてゐたが少しづつ動悸《どうき》が激しくなり、タオルにしみた香料の匂ひが、なまめかしく鼻をついた。富岡は激しく泣いてゐるゆき子のそばに行き、ゆき子の肩を抱いて、タオルを引きむしつた。ゆき子が、そんなに深く自分を愛してゐてくれたのかと嬉しかつた。ゆき子の柔い首を抱き、富岡は激しく接吻をした。新しい女に触れるやうな、新鮮な香りがして、富岡は気忙《きぜ》はしく、ゆき子の大きい腰を抱いた。ゆき子は診察を受ける患者のやうに、富岡にされるまゝになつてゐた。軈《やが》て二人にだけ共通した秘密な思ひ出が、案外なところで、共通の経過をたどつて、万事は最上の心の痛みを分けあつた。
十二時の時計が鳴つた。富岡は朝湯に入れて貰つた。五六日も風呂にもはいつた事もない貧しい生活から、解放された気がした。コバルトタイルを張つた、小さい浴槽いつぱいに湯は溢《あふ》れ、白い外国石鹸で躯を洗ひながら、富岡は、痩《や》せさらばへて死んでいつた妻に対して、不憫《ふびん》な気もしてゐた。小さい窓に雪の降りこめてゐるのを眺め、富岡は、尨大《ばうだい》で威嚇的《ゐかくてき》な人間社会の切断面を覗《のぞ》いた気がした。自分の心は何処にもない。ひろびろとした雪の野原を、目的もなくさすらつてゐるやうな荒凉としたおもむきが、現実の足の裏に吸ひついて来る気がした。しゆんしゆんと音をたててガス釜《がま》が燃えてゐる。
柔い蒸気に顔をなぶられながら、富岡は、鏡のなかを覗《のぞ》きこんで髯《ひげ》を剃《そ》つた。伊庭の使ひつけの安全剃刀《かみそり》なのであらうが、毒食はば皿までの心理で、じよりじよりと、富岡は、心にひやりとする刃を頬にあててゐた。把捉《はそく》しがたい様々の世を渡つて、こゝに行きついた人間の、卑しさが、富岡には苦味《にが》いものでもあつたのだ。人間は、単純なものであつた。些細《ささい》なことで、現実はすぐ変化する。案外傷ついてもゐない。すぐ、起きあがつて微笑《ほほゑ》む。――ゆき子は、時計を見上げ、をばさんがなかなか戻つて来ない事に安心してゐた。いつも使ひの遅いをばさんであつたが、今日も案外遅い。一時には、教会へ行つて、大津しもと事務を代らなければならない。ゆき子は、今日こそ、あの金庫の中のありがねを全部さらつて来なければならぬと決心してゐる。
教主の成宗専造の寝部屋に大金庫があつて、そこには、教会の全財産がかくされてゐたが、受付の小金庫には、二三十万の金が、いつも溜《たま》つてゐた。このごろの大日向教は、ますます隆盛で、寄附も盛んに集り、清診料もぐんとふえて来てゐた。奉仕の間には、季節の果実や、野菜や、反物が山をなして積み上げられてゐた。
昼の食事をとゝのへ、伊庭の飲み料にしてゐるサントリウィスキーを卓上に並べた頃、富岡が活々《いきいき》した血色で風呂から上つて来た。甲斐々々《かひがひ》しいゆき子の姿を、富岡は不思議さうに眺め、二人だけの歓《よろこ》びが、ひそかに営まれてゐるのを盗人の心理で眺めてゐた。二階では犬がやかましく吠えてゐる。富岡は炬燵《こたつ》にもぐつて、かすかな目まひを感じてゐた。ウィスキーを二三杯あふつた。全身を刺戟《しげき》する酒の味が、鎖沈《せうちん》した富岡の気持ちを幾分か明るくした。
やつとをばさんが戻つて来た。見知らぬ客を見て、をばさんはとまどつてゐたが、その客をあしらふゆき子の態度から、をばさんはこれが漆《うるし》の旦那だなと思つた様子だつた。ゆき子は箪笥から、二万円の金を出した。ほんの一寸、惜しい気もしたが、気前よく、新聞に包み、富岡の座蒲団の下へ押し込んだ。富岡は眼で感謝した。
一時に、教会へ行くゆき子と、富岡は一緒に戸外へ出て行つたが、ゆき子はゆつくり歩きながら、
「貴方は、これから、どうするつもりなのよ?」と、聞いた。
「どうするつて、御覧のとほりだ。どうにもならない。この金も、さつそくには返せる当もないよ。いゝかい?」
「えゝ、いゝわ。そんな事はいゝンだけど。やつぱり、目黒の、あの部屋にゐるの?」
「あゝ」
「ねえ、もう一度、逢ひたいけど……」
ゆき子は、別れがたない気がした。邦子が亡くなつてみれば、もう、誰にも遠慮なく、富岡とも一緒になれるやうな気がした。だが、まだ、これから棺桶《くわんをけ》を買ひに行く富岡をつかまへて、一緒になる話は、さしひかへなければならない。富岡は、もう一度逢ひたいと云はれて、ゆき子の気持ちは充分判つてはゐたが、何故かそこまで話しあふのも億劫《おくくふ》だつた。まして、自分の生活能力のない現在では、ゆき子に、何一つ要求出来るものでもないのだ。
田園調布の駅で、二人は奥歯にもののはさまつてゐる感じで別れた。
ゆき子は雪道を、伊庭の長靴をはいて、教会へ行き、大津しもと事務を代つた。大津しもは、今日、教主と二人で熱海へ行く事になつてゐる。ゆき子は電気座蒲団に坐り、暫《しばら》く庭の雪景色にみとれてゐた。雪は降つてはゐなかつたが、鉛色の空から、石油色の寒々とした空が透《す》けてゐた。富岡の貧しさが、哀れでもあつたが、生活力のなくなつてゐる男へ対しての魅力は薄れかけて来た気がした。あの時、自分の背中の金庫から、あり金をさらつて、富岡と逃げたい気持だつたものだが、いまは妙に落ちつき、ゆき子は、まだ、二三時間はものを考へる時間があると思つた。受附には電気がついてゐた。伊庭は、内輪な信者と、教主の部屋で、酒を飲んでゐる様子だつた。講堂には、素朴《そぼく》な信者が、二十名ばかりもおこもりをして、冷い板敷に坐りこんで祈祷《きたう》をあげてゐる。
電気蒲団で腰があたゝまつて来ると、ゆき子は、富岡の荒々しいあの時の力を、微笑して思ひ出してゐた。何時までも心の名残りになるやうな、あの時が、肉体の一点に強く残つてゐるその事を考へると、富岡に対して平静にはなれなかつた。富岡のすべてに惹《ひ》かされる愛情が、自分の血液を創《つく》るための女の最後のあがきのやうな気もして来て、富岡にだけは、その愛情が安らかに求められる思ひがした。昇騰《しようとう》する心の波はまた、背後の金庫へ向つて行く。ゆき子は金庫へ向つて鷲《わし》のやうに手を差しのべてゐるのだ。金は湯水の如く金庫へ流れこんで来たが、ゆき子にとつては、平凡な、退屈な毎日であつた。思ひ煩《わづら》ふ事が、拭ひきれないやうな、奇妙な生活から退いて行きたかつた。こんな一隅で、頑張《ぐわんば》つてゐるには、ゆき子は淋しすぎた。
ゆき子は、何気ないそぶりで、今日の寄附帳を眺め、案外大口な寄附のあつた事を知り、金庫を開けた。約六十万近い札束が這入《はい》つてゐた。
四五日で、この位の金が金庫に溜《たま》るのは何でもない事であつたが、今日眺める金は、ゆき子にとつては、相当手ごたへのある金であつた。大津しもは、ちやんと計算して、教主と伊庭に報告してゐるので、その金は、どうにもならないものであつたが、ゆき子はその金を、夕方、奥へ持つて行く気にはなれなかつた。成宗の寝所にかくされてゐる大金庫は、毎夜開けるわけにはゆかなかつたので、何時《いつ》も、日曜日の夜、開けられる事になつてゐた。今日は日曜日である。一週間分の収入を全部、成宗と伊庭がひそかに計算する日だつたが、今夜は教主も留守になるので、大金庫はあるひは月曜日に開く事になるかも知れないのだ。さうすれば、二日のよゆうがあるとみなければならない。
ゆき子は色々口実を空想してみた。自分が逃げ出したあと、をばさんは、不思議な来客のあつた事を、伊庭に報告をするであらう。ゆき子は、あれこれと考へに疲れて、講堂へ行つてみた。祭壇に、電気ローソクが賑やかにとぼり、おこもりの信者達は、声をあげて祈祷をしてゐる。
「おのおの世界の境を一つにして、人間はまことのこゝろ交ふが道なり、世界のひと、いづれの行も足りず、たゞに迷ひ、たゞにさすらふものなり……。大日向さまは、地獄よりこの人々すくひ給はんとて、娑婆《しやば》の業《ごふ》を人間に与へ給ふなり。他力をたのみて、真実報土のこゝろなくば、この人々地獄への往生をとぐるものなり。法蓮華経《ほふれんげきやう》……。あなかしこやな、大日向神しろしめすところ、闇も消え、白日輝き、人々闇にさすらふをせきとめ給ふ……」
ゆき子は、信者の合唱を聴きながら、板敷きに坐つた。じいつと、合掌して、眼を閉ぢてみたが、もどかしい気持ちが糸のやうにもつれ、少しも落ちついた気分にはなれない。眼の前に、手ごたへのある札束がちらついて仕方がない。頭の上にも、眼の前にも、神の姿は現はれなかつた。伊庭の口にする大日向教のエーテルさへも拝む事は出来ない。神は何処にもゐない。たゞ広々とした板敷の上に、ノアの箱船のやうな、人々の集りだけが、陰気な眺めだつた。伊庭が真赤な顔をして、講堂に這入つて来た。めつきり色艶をなし、見るからに堂々とした躯つきで、ひとまはり、祈祷の信者達を眺めまはすと、縁側の硝子戸を引きあけて、庭へかつと唾《つば》を吐いて、そしてまた手荒く硝子戸を閉めた。ゆき子が、入口の方へ坐つてゐるのを見て、伊庭は満足した様子で、また、のつしのつしと奥の方へ引つこんで行つた。信者は、手のかゝらない幼児ででもあるかのやうな思ひで、伊庭の後姿は自信あり気に消えて行つた。ゆき子は、電気ローソクの輝く祭壇を眺めた。紫の幕の向うに、鏡が光つてゐる。そのあたりに、もしかしたら、神の姿でも現はれては来ないものかと、ゆき子はじいつと睨《にら》みすゑてゐたが、怪しい影すらも写らない。庭の芝生の雪は、光淋風《くわうりんふう》に円《まる》くとけて行つてゐる。風が出たのか、硝子戸《ガラスど》がぎしぎしと鳴つた。
富岡の事を考へると、ゆき子は、今朝の快楽が、しめつけられるやうになつかしくてたまらなかつた。
邦子の葬式を済まして、富岡は五日ばかりを浦和で過した。葬式が済んでしまふと、富岡は重荷を降したやうに吻《ほ》つとした。邦子の蒲団や身のまはりのものは、二束三文に売り払つて、死者の思ひ出を、一切合財《いつさいがつさい》吹き払つてしまつた。富岡にとつて妻の邦子は、長い間他人であつた。おせいへの思ひ出は息苦しかつたが、邦子への気持ちは案外さばさばしたもので、葬ると同時に、邦子のすべては、富岡の心からさつと吹き消されていつた。邦子は妻としては、淋しい一生であつたとも云へる。富岡が、仏印から戻つて以来といふもの、全く無意味な妻であつた。友人の妻であつた邦子をさらつて、愉《たの》しい月日を暮したのは束《つか》の間《ま》で、富岡は二年もしないで、仏印へ軍属として旅立つてしまつたのだ。この戦争さへなければ、邦子も、富岡も、案外、平凡な官吏生活に安住してゐたかも知れない。五年も内地を留守にして戻つて来た富岡と、妻の邦子には、どうにもならない大きな距離がついてゐたのだ。邦子にも、富岡にも、戦争といふ、大きな負胆が、重くかぶさつて来てゐたのだ。不毛荒蕪地《ふまうくわうぶち》に立つ夫婦生活は、お互ひに歩み寄つて、開墾する熱情もなかつたのか、はかなくも終りを見てしまつた。富岡は、邦子の野辺《のべ》のおくりが済むと、いつそう身軽になつた気がした。
老いた両親は、郷里の信州の松井田へ戻つて、百姓を手伝ひながら余生をおくりたいと云ふので、小舎《こや》同然の浦和の家を、手取り十四万円ほどで、国鉄へ勤めてゐる男に売つて、その金を持たせて、富岡は、老人二人を郷里へ帰してやる事にした。松井田には、父の弟が百姓をしてゐた。以前疎開者に貸してゐた納屋《なや》があるといふので、そこへ、老人夫婦は落ちつく事になつたのだ。
富岡が東京へ戻つて来たのは、晴れた日であつた。部屋へ這入ると、駅のそばの飲み屋の娘が来てゐて、富岡の蒲団にくるまつて雑誌を読んでゐた。
まるで、自分の家のやうな楽々とした寝やうである。富岡がはいつて来ると、娘はにやりと笑つた。暮れに遊びに来て以来、ちつとも姿を見せなかつたが、何時の間にか、パアマネントをかけて、化粧をしてゐた。一度、何気なく、酔つたたはむれに、富岡が、娘にキスをした事があつた。たつたそれだけのつながりで、娘はまたやつて来たのであらう。
「さつきね、綺麗なお姉ちやんが来たわよ。私、追ひかへしてやつたの……」
富岡は綺麗なお姉ちやんと云はれて、一寸見当がつかなかつたが、あゝゆき子が来たのだなと判つた。
「どんなお姉ちやんだ?」
「とても凄《すご》いのよ。ハイカラな縞《しま》の外套《ぐわいたう》を着て、ナイロンの靴下をはいてたわ。黒いぴかぴかのハンドバッグをさげてたわね。それから、こゝで煙草を吸つて行つたわ」
「何か、話したのかい?」
「えゝ、あんたは、富岡とどうして知りあひなのかつて聞いたから、私は富岡さんと仲がいゝンだつて云つたわ。そしたら、鼻に皺をよせて笑つたわよ。私、癪《しやく》だから、さつさと蒲団を敷いて寝ちやつたのよ」
「何か云ひおいて帰らなかつたかい?」
「また、来るとは云つてたけど、私のこと、ずつとこゝにゐるのかつてしつつこく聞いたから、えゝさうよつて云つたの……。変な顔をしてたわ。でも、あんな女は、私きらひよ。とても、冷たいひとみたいね。家のなかをぐるぐる見まはしてゐたわ。もう、来ないかも知れないわね。いけなかつたかしら?」
「お前は、ひどい奴だな……」
「あら、富岡さんの好きな、お姉ちやん?」
「富岡さんの嫁さんだよ」
「あらア……嘘ばつかり。富岡さんのお嫁さんは、殺されたンだつて評判よ。私、みんな知つてるわ」
娘は意地の悪い笑ひかたをして起きあがつた。ジャケツは着たまゝだつたが、スカートはぬいでゐた。汚れた短いシュミーズ、太い膝小僧がにゆつと出てゐる。富岡は眼をそむけて、電気コンロのスイッチをひねつた。寝台もないので寒々として、何処にも落ちつき場がない。机の前に坐ると、机の上には、娘のコンパクトが粉を散らかして置いてあつた。安ものの固くなつた口紅《くちべに》や、歯のかけた赤い櫛《くし》が並んでゐる。ゆき子はこの様子を見て、相変らず浮気な男だと思つたであらうと、苦笑した。
「おい、をじさんは、これから仕事をするンだから、帰れよ」
「あら、私、いまのところ、帰る家がないのよ。昨日まで鷺《さぎ》の宮《みや》の養静園に行つてたンだけど、私、逃げて来ちやつたのよ。ちつとも面白くないわね。飛行郵便の封筒貼《ふうとうば》りばかりしてゐて、手がこんなに霜焼けになつちやつたわ。――私、をぢさんの事を思ひ出して逃げ出しちやつたのよ。お家へ帰れば、私は、また追ひ出されちやふもの……。こゝよりほかに、行くところはないわ」
「養静園つて、何だ?」
「私みたいな、不良の行くところね。青だの赤だののだんだら縞《しま》のふちのついた封筒を貼《は》つてるのよ。初めは、綺麗で、面白かつたンだけど、飽きちやつたのよ。床屋さんの飴《あめ》ん棒《ぼう》みたいな模様が眼の中にゴミみたいにたまつちやつて、みんな色盲になるつて心配してたわ」
富岡は頭が疲れてゐた。生活のすべてに疲れきつてゐると云つてもいゝ。また昔のやうな、静かな官吏生活がなつかしかつた。平凡な生活だとあなどつてゐたその当時の生活が、富岡には、いま一番自分でも美しい時代だつたと思はないではゐられない。その平凡な官吏生活の時代にも、色々悩んでゐた事はあつたが、その当時の悩みは、いまのやうに汚れたものではなかつた。時とすると喚《わめ》きたて、烈《はげ》しく苦しんだ時もあつた。――あれから、十年ばかりの月日が過ぎて行つた。だが、現在では、富岡は喚く力もないほどに力が尽きてゐる自分を、心のひだに感じるのだ。自分の生活が、かびのやうに、つまらなくなつたと同時に、そのかびにくつついてくる、かびのやうな人間の生きかたを、富岡は冷い、他人の眼で、只、眺めてゐるきりであつた。生毛《うぶげ》のはえた、まだ白粉のよくのらない、小娘の不逞な寝姿を見て、富岡は、敗戦後の、社会の一隅の色彩を見る気がした。この娘は疲れてもゐるのだ。
だが、富岡には、いまはこの娘も、うるさい存在であつた。
「おい、俺が送つて行つてやるから、家へ戻つたらどうだい?」
「いやな事。私は、こゝにゐたいのよ」
「どうして、出て行かないンだ?」
「そんなに邪魔にしないでよ。とつても、今日は外は寒いのよ。駅へ寝るよりも、こゝの方がましだわ。私、何もしないから、こゝにゐていゝでせう?」
「いけないなア。をぢさんが送つて行くから、今日は戻つた方がいゝ」
富岡は素《そ》つけなく云つた。娘は寝たまゝ暫く黙つてゐたが、むつくり起きあがると、黙つて、枕もとに散らかしたスカートをはき、小さい風呂敷包みを持つて廊下へ出て行つた。荒々しい戸の閉めかただつたので、富岡は振り返つた。陰気なものを残して行つたやうな気がして、娘が去つたあと、富岡は暫くそこにつつ立つてゐたが、やりきれない気持ちだつた。娘の若さが、あの娘にとつて、何の役にも立つてゐない気がして来る。孤独で、無智で、神経質で、ヒステリックで、何を考へて、街を放浪したいのか、富岡には、さつぱり判らない小さな悪魔だつた。いづれは、あの小娘も、監獄へ這入《はい》るか自殺するかだ……。嘔吐が出るやうに、むかついてきて、富岡は、そこに敷きはなされた蒲団を蹴《け》つた。
棺へをさめた時の、煎餅《せんべい》のやうに薄ぺつたくなつてゐた邦子の死骸を、富岡はふつと思ひ出した。蒲団を蹴りながら、邦子への追憶で、眼の奥が痛かつた。あの女も死んでしまつた。何一つ倖《しあは》せはなかつたが、ぼろきれのやうになつて死んでしまつた。寝棺へをさめて、釘を打つ時の、あの別れぎはがいまになつて、深い感傷を呼んだ。
ゆき子は、手軽な身のまはりのものだけで、をばさんにも何も云はないで、家を出た。もう、二度と、この家には戻らぬつもりであつた。自分の生活をもぎとるやうな、強い気持ちで、ゆき子は、まづ、円タクで富岡のアパートを尋ねたが、気の狂つたやうな、をかしな娘にあつて、ゆき子は気が変つた。富岡のアパートを出て、待たせておいた円タクに乗つて、ゆき子は品川駅に行き、そこから、静岡行きの汽車に乗つた。何処《どこ》といふあてもなかつたので、只、静岡までの切符を買つたのだ。
気紛れな旅のやうな、呆《ぼ》んやりした心で、ゆき子は、寒々とした黄昏《たそがれ》の車窓を眺めてゐた。静岡まで帰つて、実家へ行つてみようかとも考へたが、それも退屈だつた。知つた人に逢ふ事が億劫《おくくふ》だつた。
三島へ着いたのは八時頃であつた。そこから電車に乗つて修善寺へ行つてみる気になつた。駅々の広告看板で、宿の名前を読みながら、長岡といふところで降りる気になり、ゆき子はそこで網棚の荷物をおろして下車してみた。夜更《ゆふ》けのせゐか、東京の郊外を歩いてゐるやうな、平凡な町であつた。年寄りの宿引きの案内で、山吹荘といふ小さい旅館へ案内された。割合新しく、木口も粗末なものであつたが、ゆき子にとつては、何処でもいゝのである。ゆき子は、外套もぬがないで、富岡のところへ、すぐ電報を書いて打たせた。
泊り客もあまりないと見えて、静かな宿であつた。鍵をかけたトランクを違ひ棚の上の天袋《てんぶくろ》にしまつて、宿の褞袍《どてら》に着替へ湯にはいつたが、ゆき子は少しも落ちつかない。六十万円の金を持ち逃げして来た後めたさがあつたが、ゆき子は、伊庭も、成宗も、怖ろしいとは思はなかつた。六十万円の幸福があるにしても、いまは、もう六十万円の金ではあがなへない幸福だつた。何も彼《か》も遅すぎる気がした。
湯から上つて、運ばれた食膳の前に坐つてみても、この心の飢《う》ゑは満たされやうもない。ゆき子は町へ出て、寒い風に吹かれて歩いたが、何処まで行つても暗い道だつたので、町の果物屋で、蜜柑《みかん》を買つて宿へ戻つた。どうしても、富岡に来て貰ひたくて、ゆき子は、また電報を書いて女中に頼んだ。宿で不思議がつてもかまはない気持ちで、女中には、わざと恋人を待つてゐる様子を冗談めかしく話したりした。が、ゆき子にとつては、巨万の富を得たやうな気がして、富岡とすぐにでも、手をたづさへて、愉《たの》しい生活が出来ると考へてゐたのだが、いまでは、金を持つてゐるその幸福も、ゆき子を一層苦しめるやうな孤独さに追ひこんでゐた。
夜更《よふ》けになつても、ゆき子は何時までも眠れなかつた。糊臭《のりくさ》いシーツに寝て、ごうごうと木枯しの音を聞いてゐると、富岡への思慕が火のやうに激しく燃えたつて来る。夜半に二三度起きては、天袋の襖《ふすま》を開けて、ゆき子は小さいスーツケースの存在をたしかめてみた。
夜明けまで、苛々《いらいら》した眠りの連続だつた。
富岡が、長岡の山吹荘へ来たのは、ゆき子が四通目の電報を打つたあとであつた。ゆき子は丁度、夕食を食べてゐた。「お客様です」と、番頭が前ぶれして来ると同時に、その後から、みすぼらしい外套姿の富岡が、帽子もかぶらずに部屋へ這入つて来た。怒つたやうな顔をしてゐた。坐るなり「来なければ死ぬなんて電報は、非常識だね」と云つた。
富岡が素直に来てくれた事が、ゆき子には嬉しかつた。この二日間の不安は、富岡にも分けたかつたのだ。ゆき子は、すぐ酒を注文した。現金にはしやぎながら、富岡が、湯から上つて来るのも待ちきれない思ひである。女中に冷やかされながら、ゆき子は、をかしくもないのに笑つてばかりゐた。
富岡が、湯から上つて来て、食膳についた時、富岡は、
「いつ、こゝへ来たの?」と、聞いた。
「昨晩。電報を打つて驚いたでせう!」
「うん。隣りの部屋の奥さんが、吃驚《びつくり》してゐた」
「とても、来てほしかつたのよ。いろいろ話したい事だらけなンだけど、私、伊庭のところを出てしまつたのよ」
富岡は、別に驚いた様でもない。
「どうするつもりなンだ?」
「どうつて、耐へられない生活だつたから出て来たのよ。私ね、悪い事をして出て来たのよ……」
ゆき子は、悪戯《いたづら》をした子供のやうな無邪気さで、六十万円の、教会の金を盗んで家を飛び出してきた話をした。
「伊庭さんは、いまごろ、警察へとゞけてゐないかね?」
「とゞけられやしないわよ。みんな、変な事をしてるンですもの。儲《まう》け仕事の宗教なンですもの。私を警察へ突き出せばあの教会のぼろが出ちまふでせう。――薮蛇《やぶへび》をつゝくやうな事はしない筈だわ。六十万円の金位は、あの人達にとつては自動車を一台こはしたやうなものですもの……。何の資本もいらなくて儲《まう》けた、不浄《ふじやう》の金ですもの……」
「いまに、罰があたるな……」
「大日向教の罰なら、神様御不在だから、かまはないわ。伊庭だつて、あの家を、私にくれると思へば、この位のお金は何でもありませんもの……」
「あるところにはあるものだね。宗教といふものは、当ればぼろいもンだな」
富岡は二三杯の酒に酔ひ、少しづつ気持ちがほぐれてきた。ゆき子は、成宗や伊庭の悪口を云ふ事で、自分のやつた事を幾分でも軽く考へたいところもあつた。富岡は、ゆき子との、かうした長い交渉を宿命のやうにも思ふのだつた。おせいも、邦子も死んだ。たゞ、この女だけが、生き残つてゐる。それも、逞《たく》ましいファイトを持つて生きてゐるのだと思ふと、今度は、自分の方が、此の女に追ひ詰められさうな気がした。
世界のひと、いづれの行も足りず、たゞに迷ひ、たゞにさすらふの、祈祷《きたう》を思ひ出して、ゆき子は、明日の日は、伊庭に捕へられても、今日の迷ひを迷つた方が、はるかに愉《たの》しいのだと、捨てばちな気持ちであつた。食事が済んで、女中が膳《ぜん》をさげて行つても、酒だけは幾本かおかはりを持つて来て貰つた。
「伊香保の事を考へると、お互ひに、長く生きられたものね……」
「あれからは、蛇足《だそく》だつたな……」
「さうかしら……。でも、貴方には変化の多い生活だつたぢやないの? おせいさんといふ人物が現はれた事だつて……」
富岡は返事もしなかつた。
「おせいさんが、あんな死にかたをしなければ、私はもつと幸福だつたと思ふのよ。貴方の顔を見ると、おせいさんの亡霊がとつついてゐるやうで口惜《くや》しい。酒に酔つたから云ふわけぢやなかつたンですけど、こんなに二人だけで、何でも云へる日はなかつたでせう? 私、おせいさんが憎い。いまでも、とても憎んでゐるのよ。いやあな女だつたと思つて……」
「おせいの話をする為に、俺をこゝへ呼んだのかい?」
「いゝえ、さうぢやないわ。そんな事なンか考へてもゐなかつたわ……。でも、貴方を見たとたんに、暗い顔をしてる貴方の躯《からだ》の何処かに、まだ、あの女の亡霊がとりついてるンだと思つたのよ。――伊香保で、何故《なぜ》、私達は気持ちよく死ねなかつたンでせう?」
「いまは、死ねるかい?」
「さうね、貴方は?」
「死ねないね……」
「さう……。さうね、私も、死ねないやうな気がして来たわ」
「お互ひに、死ぬ必要はなくなつたね。月日が、そんな風にうまく、取り計《はから》つてくれたンだよ」
「あら、それ、どういふ意味なの?」
「どうつて、別に理窟《りくつ》はない」
「このまゝ、貴方と一緒にゐられるつていふ意味?」
「一緒に? さうだね。そりやア、もう、無理かも知れないね。僕は、明日は帰るつもりで、ここへ来たンだ……」
ゆき子は酒に酔つたせゐか、眼の前がぼやぼやと水つぽくなり、涙がぱらぱらと胸にこぼれ落ちた。一緒になる事は無理だらうと云はれて、ゆき子は、
「何故なの?」
と、唇をゆがめながら、せぐりあげて聞いた。
「結局、君には迷惑のかけどほしだつたが、どうして一緒になれないのかと聞かれても、かうだからといふ理由はない。こんな世の中なンだよ。僕は、君が教会の金を盗んで来たと聞いては、何だか、済まない気もするが、当分、女房も女もいらない。少し、自分の仕事も本腰でやつてみたい気がして来てゐるンだ。辛《つら》い生活にも馴れたし、あのアパートも、近々引越す事になつてゐるが、このまゝ、二人は気持ちよく別れてしまへないものかね?」
ゆき子は、六十万円の札束が、急に、重い碇《いかり》のやうに、どすんと頭の上へ落ちかゝつて来たやうな凄《すご》い胸の痛さであつた。
気持ちよく別れてしまへないかと云はれて、ゆき子は、富岡の顔をみつめた。女房も女もいらないといふ、無情な言葉は、たとへどんな考へがあつたにしても、自分の前で云へる言葉ではないではないかと、ゆき子は、暫《しばら》く黙つてゐた。
富岡は、いつもにない妙な酔ひかたをして来た。
卓上に肘《ひぢ》をついて、盃《さかづき》を唇に持つてゆきながら、ゆき子を見てゐたが、その眼はうつろであつた。かつてない、冷い眼の色で、これがこの男の持つて生れた表情なのではないかと思へた。頬は痩《や》せこけてゐる。額に垂れた髪をかきあげるたび、その手で髪の毛をむしる癖。眼のふちはただれ、褞袍の胸を拡げて、赤黒い胸をぴちやぴちや叩きつけてゐるのも、ゆき子には、いままでの富岡にないものを見たやうな気がした。富岡を、いま初めて見るやうな気持ちで、じいつと見てゐると、女を誘ふやうな、むせかへる男の体臭が感じられた。この体臭が、女を誘ふのかも知れないと、ゆき子は、富岡に盃を差した。自分も酔つて来た。
ゆき子は、無茶苦茶に酔ひたかつた。金を持つて、逃げ出して来た情熱を判つて貰へないとすれば、自分の今朝の考へは、浅はかなものであつただらうか……。どうせ、富岡と一緒になつたところで、うまくゆけるとは思はなかつたが、ゆき子は、富岡を手放す気にはなれなかつた。
酔ひが激しくなるにつれ、ゆき子は、皮膚のすべてが、毒河豚《どくふぐ》でも食つたやうに、じいんとしびれてきた。酔つて、洗ひざらひ富岡に毒づいてやりたかつた。ゆき子は、その酔ひのなかで気がつくたびに、また、仏印の思ひ出を話してゐる。
「えゝ、けつして、私は、貴方のやうに、絶望はしてゐません。生きてみせますとも、せいぜい、貴方は勝手に女をつくればいゝのよ。河内《ハノイ》のキャンプで、私は、ベラミーつて小説を読んだけど、貴方は、あの中の主人公ね……。でも、あの主人公は、宿無しの風来坊だから、女を梯子段《はしごだん》にして出世するンだけど、貴方は、女だけを梯子にしてる……」
富岡は、そんな小説は読んではゐなかつたが、女を梯子にするとゆき子に云はれて、むつとした。ゆき子の腕を掴《つか》み、引きずり寄せた。
「そんな事を云ふために俺をこゝへ呼んだのかい? 俺は、お前が、千万円の金を持つて来たつて、それをあてにするやうな男ぢやないンだぞ……。教会の金を盗んだつて、大手柄みたいな顔をしやがつて……。そんなに俺がなつかしかつたら、何故《なぜ》、伊庭のところに行くンだツ」
「あらツ、何をおつしやるのよ。自分で勝手な事ばかりしてゐて……」
富岡は、掴んだゆき子の手を放した。
「君も、せいぜい男を梯子《はしご》にするがいゝ」
富岡は、ごろりと横になつて、眼を閉ぢた。何の聯想からか、ユヱに着いて、クレマンソウ橋のそばの、グランド・ホテルに泊つた日の事を思ひ出してゐた。ユヱの山林局に、マルコン氏を尋ねるべく、ユヱに数日を送つた事があつた。村木種子の譲与を頼みこみに行つたのだが、あのグランド・ホテルで、そつくり返つてゐた、自分が、いまはみるかげもない落ちぶれやうで、女の盗んで来た、六十万円をひそかにあてにしてゐる……。富岡は、肚《はら》の中で、自分をにやりと笑つてゐた。ゆき子が、女を梯子にすると云つたが、或ひはさうかも知れないと思へた。
富岡は、このごろ、以前の農林省の友人の世話で、南の果ての屋久島《やくしま》へ行つてみないかといふ話があつた。もとの官吏に逆もどりするのは、富岡としても心は進まなかつたが、他に何の手段もないとなれば、また、もとの古巣へ戻るより仕方がない。
それと、もう二つばかり仕事があつたが、一つは、和歌山の高池町にある林業試験場へ、技師として勤める口であつた。
富岡は、高池町の林業試験場へ行くよりも、南の果ての孤島である、屋久島の営林署へ行きたかつた。高池町の林業試験場が、気がむかなければ、同じ、和歌山の伊都郡九度山町の、高野営林署にも、君の行くポストはあると、その友人は勧《すゝ》めてくれた。いづれ、どうにもならなかつたら、頼みに行くよと云つて別れたが、富岡は、東京でまごまごしてゐるよりも、いつそ、思ひ切つて、もう一度、山の中へ這入《はい》りこむのもいゝのではないかと思つた。それにしても、南の果ての屋久島へ行くのはいゝが、病妻や、両親を捨てて行くには、相当の用意もしなければならないと考へてゐたのだ。だが、いまは、邦子も亡くなり、両親も松井田へ引つこんでしまつた。いまは、何一つ足手まとひはない。明日からでも、友人は、富岡の屋久島行きの辞令を出してくれるに違ひない。
屋久島が、どんなところかは、富岡はさつぱり知らなかつた。たゞ、原生林の屋久杉の産地といふだけしか、富岡には判つてゐないのだ。
まるで、無人島のやうな気がした。友人は、屋久島は、営林署だけで保つてゐるやうな島だが、人情は純朴で、一ヶ月は雨の降りつゞいてゐる島だが、覚悟が出来るかいと笑つて云つた。
いつそ、また、官吏に逆もどりするのならば、和歌山の高野山あたりに行くよりも、屋久島がいゝと思つた。地図を見ると、種子島の近くで、円い島である。
富岡は眼をつぶつて、暫《しばら》く、屋久島行きを考へてゐた。ゆき子が自分の脇腹のところに這《は》ひ寄つて来て、何か、くどくど云つてゐたが、富岡は、うとうととしてゐた。
ゆき子は、富岡のそばへ這ひ寄つて行くと、富岡の胸に顔をつけて云つた。
「どうして、そんなに、心が遠くへ行つたの? どうして、そんなに、急に冷くなつたンですか? 伊庭のところへ行つたから、富岡さんは怒つたの?」
「いや、もう、怒るも怒らないもない。終戦後、みんな、こんな気持ちになつてしまつたンだな……。自分を基にして判断する力を失つてしまつたンだよ。目的は、自分がつくるものぢやなくて、周囲がつくつてくれるやうになつたンだ……。この国柄が、俺達をつくるやうになつたンだよ。昔の夢を追つて、君の、いま持つてる金で、二人で当分、面白をかしく暮したところで、どうにもならない。根のない浮草みたいな我々だが、それで、二人が、何とかなれるとも思へないしね……」
「死ねばいゝわ。伊香保で、死ぬ筈だつたのを、死ねなかつたンですもの、お金をつかひ果したら、死ねばいゝわ。貴方は、私に、死んでくれつて云つたぢやないの?」
「死ぬのは痛いよ」
富岡はふつと、悪霊のなかの自殺の方法のところを思ひ出してゐた。大きい家ほどもある、大盤石《だいばんじやく》が、頭へ落下して来るとすれば、痛いかどうか……。百万貫の石を想像し、その下に立てば、痛いだらうと恐怖にかられる。石そのものには苦痛はないが、石に対する恐怖で、苦痛を感じる。富岡は、いまは、どのやうな手段の死も、一種の石に対する恐怖のやうなものを感じるのだ。
「死ぬのは、とても痛いことだぞ」
「死ねば、痛くはないでせう?」
「いや、うまく死ねるといゝが、うまく死ねなかつたら痛いぞ……」
「痛いのは我慢出来ます。貴方に、きらはれるのは我慢出来ない」
ゆき子は、富岡の褞袍《どてら》の襟《えり》を掴《つか》み、吊《つ》り上げるやうにしてゆすぶつた。
「きらつてはゐないさ。好きだから、もう、このへんで、お互ひの生き方を変へようと云ふンだ……。君は、伊庭のところへ戻るのもいゝし、その金で、何か仕事にとりつくのもいゝ。おゆきさん、世の中といふものは、そんな風に変つたンだよ。僕達のロマンスは、もう、終戦と同時に消えたンだ。いゝ年をして、いつまでも、小娘みたいな夢をみるのはやめたがいゝ。僕だつて、君と離れてゐると、時々は、君との夢を見て、一種のエクスタアシイを感じる時もある。人間とはそんなもンだ。――さア、こつちい向いてくれ。今夜はゆつくり話しあかさう。お互ひに、妙な別れはしたくないね。君をきらひで、別れるンぢやない。きらひだつたら、こんなところへのこのことやつて来るもンか……」
富岡は、むつくり起きて、冷えた徳利の酒を、手酌《てじやく》で盃についだ。
女中が、不意に寝床を敷きに来た。
富岡は、熱い酒を注文した。女中が寝床を敷く間、二人は縁側の椅子に腰をかけてゐた。寒い廊下であつた。
蒲団の敷ける間、二人は、卓子にむきあつて黙つてゐた。軈《やが》て部屋いつぱいに蒲団が敷かれ、床の間のところに、火鉢と茶餉台《ちやぶだい》とが片寄せられ、そこに、酒の支度が出来た。火鉢には炭がつがれ、青い炎をあげてゐた。
二人は火鉢を挾《はさ》んで坐つた。
「何でも話して頂戴」
「そんなに、詰めよられても、大した話もないがね……。死ぬの生きるのといふことは、もう、二人とも卒業していゝんだぜ」
「勝手な人ね」
「どうしてだ?」
「どうだつて事でもないけれど。私は、死ぬ気持ちで、出て来たのよ」
「死ぬ気持ちか、そりやアいけない。まつぴらだな……。マタイ伝かな、狭き門よりはいれ、ほろびに到る門は大きく、その路は広く、之よりはいるもの多しだ。いのちに到る門は狭く、その路は細く、之を見出す者少なし……。つまり、二人とも、もう、ほろびに到る門の前を素通りしたンだ。僕はさつき云つた、石の恐怖は沢山だからね」
「ぢやア、私、一人で死にます」
富岡は、にやにや笑ひながら、冷酷な表情で、
「どうとも、勝手にするんだな」
と、小さい声で云つた。
翌朝、二人は昼近くになつて眼を覚ました。富岡は、寝床で新聞を読んでゐた。二月になるのを期して、国鉄のストライキを報じた記事が大きく出てゐた。富岡は、興味もなく、その新聞を枕もとに放《はふ》り出して、大きなあくびをした。ゆき子は白いカーテンの、汚れた汚点《しみ》をじいつと見てゐた。富岡はこのまゝあの部屋へ戻つてゆけるのだが、自分は何処へも戻れないのだと思ふと、心細くなり、朝の黄ろい光りを受けて、ゆき子は、自分の手を蒲団から出して眺めてゐた。
富岡は枕をかゝへ込むやうにして、うつぶせになると、煙草を取つて吸つた。
「何時頃、こゝを出るの?」
「さうだな、二時頃の電車でいゝね」
「どうしても帰る?」
「君は?」
「私は何処へ帰るのよ? 何処へも行くところはないでせう?」
富岡は、煙草を吸ひ、じいつと、煙草の煙を見てゐた。ゆき子は、伊庭のところへ戻るのは厭《いや》であつた。何時でも戻れる気持ちで出て来たのならば、何も、こんなに富岡にすがりつく必要もないのだ。浮気ですまして、さつさと伊庭のところへ戻つて行けばいゝ。死ぬ気はなかつたが、伊庭のところへ戻る気持ちがないといふ事が、ゆき子には重大であつた。もう、何一つ喋《しやべ》る気はしない。せめて、もう一日、こゝにゐて貰ひたかつたが、ゆき子は、富岡には、ひそかにあきらめてゐた。今日の別れを、本当の別れにすべきだと思ふと、自然に涙が溢《あふ》れた。
富岡は、ゆき子が泣いてゐる事を知つてゐたが、知らないふりをしてゐた。富岡にも、ゆき子の心の中は反射して来た。富岡は煙草を灰皿にもみ消して、ゆき子のそばへ行つて、ゆき子を掻き抱いた。
昨夜は、妙な酔ひかただつたので、二人はお互ひに喋り散らして眠つたが、やつぱり、その清潔さだけでは、本当の別れを決行する事が出来ない二人でもあつた。
「いま、かうして、二人は、一緒に抱きあつてゐるのに、もう、二三時間もしたら、また、他人よりも始末の悪い別れ方になるのね」
ゆき子が、淋しさうに、富岡の胸の中で云つた。船酔ひのやうな、佗《わび》しい二人であつた。
「君も元気を出すンだよ」
「えゝ」
「云はないでゐようと思つたが、僕も、いよいよ、また勤めへ戻るンだよ」
「まア!」
「それでね、一週間位したら、任地へ行くつもりだ」
「任地つて、何処《どこ》?」
「鹿児島から、船に乗つて行くンだ。屋久島といふ、国境の島だ」
「屋久島、そんなところあるの?」
「そこの営林署に口があるンでね、五六年、あるひは一生、そこへ行つて、山の中で暮すつもりだ……」
ゆき子は、富岡の肩を抱き締めて泣いた。
「厭よツ! そんな遠いところへ行くなンて……。ぢやア、私も連れて行つてツ」
「さうはゆかない。淋しい島だよ。第一、君は、そんなところで、五六年も暮せる人ぢやない。一年に一度位は東京へ来られるだらうから、その時は、また逢へるが、当分、出来るかどうか判らないが、山の中へ這入つてみたいンだ」
ゆき子は、呆《ぼ》んやりしてゐた。そのくせ、富岡の後を追つて、屋久島とかへ行くであらう、自分の姿を空想した。
「ねえ、貴方のところにゐた、あの娘と、また、一緒になるンぢやありませんの……」
ゆき子が、ふつと、聞いた。
「娘?」
「えゝ、貴方の部屋に、可愛い娘が、寝床にはいつてゐましたよ」
「あゝ、あれは、近くの飲み屋の娘だ。不良少女だ」
「かまつたンぢやないの? おせいさんみたいに……」
「馬鹿!」
「一人で、そんな遠いところへ行く、貴方とも思へないけど……」
「一人さ。一人で行くンだよ」
「一人でね。でも、いゝわね。男のひとは、何とか、落ちつくさきがみつかるもンだけど、女つてものは、三界《さんがい》に家なしだから」
「伊庭のところへ帰るさ……」
「それが、私には一番いゝつて思つていらつしやるの?」
「他にどんな方法があるンだい?」
「私は、もう、絶対に伊庭のところへは戻りませんよ。それだつたら、私は、今度の事は、たゞの遊びみたいぢやないの? 馬鹿にしないで下さい。――私は、貴方が一人になつたから、今度こそ、貴方と結婚したいと思つて、思ひつめて逃げて来たンぢやありませんか。そりやア、日本へ戻つて来てから、私も貴方も、いろんな迷ひはありましたよ。やぶれかぶれで、いけない事もあつたけど、二人とも同罪だわ。折角、広き門の前を通りすぎたのなら、やつぱり、私と貴方は、別々にならないで、狭き門を探して、二人で努力すべきよ。――貴方は、昔の夢をなつかしがつちやいけないつて云ふけど、私と別れて、私を夢の中で見て下さるのは、貴方こそ、ロマンチストで、昔の事を忘れないつて人ぢやない? どうして、一人になつてしまつた貴方が、私と別れようとなさるのか、私には判りませんわ。きらひなら、きらひと、はつきり云つて……。その上で、私は、貴方の云ふとほり、伊庭へ戻るかも知れないし、戻らないかも知れない。――結婚出来ないのが、私には不思議だわ」
富岡は黙つてゐた。おせいの問題が、心の中で、まだ、かたづいてはゐないのだと判然《はつき》りと云へなかつた。屋久島へ行く事になれば、サラリーをさいて、おせいの亭主の弁護人も頼めるのだ。考へてみるとおせいは、ゆき子と自分の問題の犠牲者でもあるのだ。そこまで判然り云へば、ゆき子が怒り出すのは判つてゐる。あいまいに、自分の気持ちを流してしまふより方法もない。
二人は軈《やが》て、湯にはいり、遅い朝飯の卓子についた。丁度伊香保の時から、一年目になる、富岡は、鏡台の前に蹲踞んで、髪をときつけながら、鏡の奥に、眼をすゑて自分を見てゐる、ゆき子のけはしい眼に行きあたつた。
「幸福さうね」
「さうかい」
「私と縁が切れて、せいせいなすつたでせう?」
「さうだね」
「冷い人だつたわ、昔から……」
「僕かい?」
「えゝ、貴方よ。私、いまごろになつて、加野さんが、気の毒で仕方がないわ」
「なつかしいだらう……」
「えゝ、なつかしい、何故《なぜ》、死んぢやつたのかしら、死んだものが損ね」
「だから、無理しても、生きてた方がいゝンだ」
「これから狭き門を探すンぢや遅いわ」
「遅くはないよ」
「ねえ、お金、十万円ばかり持つていらつしやる?」
「十万円くれるのかい」
「少ない?」
「いや、悪くはないね」
「二十万円でもいゝわ」
「人の金だと思つて、大きい事を云ふね」
「もともと、あぶく銭《ぜに》ですもの……宗教屋つて、面白いほどはいるンだから……」
「狭き門への入場料だからだらう……」
「さうね……」
ゆき子が、天袋から、ボストンバッグを引きずり出すと、富岡は、鏡台に櫛《くし》を置いて、
「何もいらないよ。勤めを持つとすれば、何もいらない。君こそ、大切な金だからね」
「どうして、大切なの? 私は、お金なンかいらない……」
「そんな事はない。金が、人間にとつては、一番の味方だ」
「ねえ、貴方が、一人で、屋久島へ行くつて気持ち、私ちやんと判つてるのよ。あたるか、あたらないか判らないけど、きつとさうなのね……。おせいさんの事が、貴方の胸にまだ引つかゝつてるンでせう? それとも、奥さんの事かしら」
富岡は床の間を背にして坐つた。女中が、熱い茶を運んで来た。富岡は女中に、電車の時間を聞きにやつた。
富岡が帰るとなれば、ゆき子も、べんべんと旅館へ居残つてゐる気もしない。二人は宿を引きあげて、一緒の電車に乗り、三島へ出て、それから、東京行きの汽車に乗つた。
行き所のないゆき子を、このまゝふり捨てるわけにもゆかなくなり、富岡は、結局、自分の部屋に、ゆき子を連れて戻るより仕方もないと考へてゐた。二人は品川で降りた。
山の手線の電車のホームで、お互ひに笑ひ出したが、そのまゝゆき子は富岡の部屋へついて行つた。
伊豆と違つて、東京の寒さは、骨身にこたへる程の冷たさだつた。ぐわうぐわうと生活の嵐が吹きすさみ、二人とも、また暗い気持ちに落ちこんでしまつた。
部屋へ戻ると、農業雑誌からハガキが来てゐた、農業技師の思ひ出の原稿を、少しづつ分割して載《の》せたい意向が書いてあつた。富岡は明るい気持ちになつた。
電気コンロが自由につかへなくなつてゐたので、ゆき子は、荷物を置いて、近所の炭の配給所に、高い炭を分けて貰ひに行つた。富岡は、原稿を出して、ぱらぱらとめくつて読み始めた。隣室の細君が、さつき、伊庭さんといふ方がみえましたと、名刺を持つて来てくれた。
富岡は、その名刺をポケットにしまつた。ゆき子には見せたくなかつたのだ。軈《やが》て、ゆき子が、炭のほかにも、色々な買物をして、顔をまつかにして戻つて来た。一升壜《びん》もさげてゐた。富岡は、ゆき子を不憫《ふびん》だと思つた。
子供染みた幻影を抱きつゞける女の心根が、富岡には、鼻白む思ひだつた。いろんな、矛盾にゆきつく。富岡は、自然に、女を裏切つて来た道筋を、自分でも判らなくなつてゐた。女の習慣に恐怖を持つてゐた。これは己れのなかにある己れへの恐怖なのだと、富岡は、犯罪者の感じるやうな後めたさでもあつた。
女は、どんな事があつても、後をふりかへつてみようとはしないものだ。ひたすらに、子供染みた無邪気さで、男を誘惑する。
伊庭が、こゝへ来たとすれば、この部屋も安全ではない。早く、屋久島行きを決行しなければならない。それに就いては、ゆき子をどんな風に始末して行くかが富岡には問題だつた。
「君は、また、昔の役所に勤める気はないのかい? 頼んでみてもいゝんだがね。一人で部屋でも借りて、のんびり暮せないかい? 勉強も出来るし、また結婚の相手もみつかるかも判らないぜ……」
ゆき子は、じろりと富岡を見た。
もう、その話には触れないで下さいといつた表情だつた。ゆき子の行き暮れた気持ちは昨日も明日も必要ではないのだ。只《たゞ》、現在だけが彼女であつた。それに、六十万円の金といふのが、かなりゆき子を大胆にしてゐた。如何《どう》にか切り抜けられる金でもあるからだ。まかり間違へばゆき子は自分だけでも屋久島へ行くつもりだつた。この男の体臭からいまは離れられなくなつてゐる。
伊庭にも、加野にもない、男らしい体臭に、ゆき子は狂人のやうにしがみついて行きたかつた。いま、こゝで富岡と別れる位なら、品川の駅から、伊庭のところへまつしぐらに戻つて行つてゐる筈だ。
ゆき子は、この部屋に、昔から住んでゐるやうな馴々《なれなれ》しさで、食事の支度をした。富岡は、仕方なくポケットの名刺を出してゆき子に見せた。
「まア、伊庭が来たの? 何時、来たンでせう? どうして、こゝを知つてゐるンでせう?」と、吃驚《びつくり》してゐた。
「不思議ね……」
「神様だから、こゝが判つたンだらう……」
「冗談はおいて、どうして判つたのかしら。貴方のところは、誰にも云つてゐないのよ」
「おせいの騒ぎの時に、知つてゐたンぢやないのか?」
「いゝえ、知らない筈よ。そんな事はあつた事は知つてても、こゝを知る筈がないもの」
ゆき子は、全く、伊庭の出現を不思議がつてゐた。富岡は何かに追ひたてられる気がした。
「ねえ、兎に角、私は何処にゐてもいゝ躯《からだ》なンですから、屋久島まで、連れて行つて下さいませんか。飽きたら、一人で戻ります。一月でも、二月でも、連れて行つて下さい。さうすれば、私にもなつとくがゆくと思ひます」
富岡は、ゆき子を南の果てまで連れて行く気はしなかつたが、伊庭の出現によつて、さうした冒険もやつてみる気になつた。
翌朝、早く友人の家へ行き、屋久島行きを頼み、さつそく手続きをして貰ふ事になり、帰り、丸の内の農業雑誌の編集部へ原稿を持つて行つた。
編集部では、顔見知りの記者の出社を待つて、一時間ほど待つた。出社して来た記者は、妙な事を云つた。昨日の朝、漆《うるし》の話といふのを書いた君の住所を聞きに来たものがあつたと云つた。あゝ、さうだつたのかと、富岡は思ひ当つた。ゆき子が、自分の漆の話といふ原稿の載つてゐる農業雑誌を買つて読んだ話をしてゐたので、伊庭が、その雑誌で、自分の住所を尋ねる気になつたのだなと判つた。
ゆき子は、一日、外へ出てゐる事にしてゐた。荷物を持つて、ゆき子は、二つ三つ映画を観てまはつた。富岡の留守に伊庭に来られては連れ戻されるのは判つてゐる。
富岡と一緒に、屋久島へ行くとなれば、ゆき子にとつては、何も思ふ事はなかつた、ゆき子はおせいの弁護人を頼む金も出したいまは、何の慾もない。
夜、遅く、富岡の処へ戻つて来る。また、明日になれば、ゆき子は荷物をかゝへて外へ出て行く。
一週間ほど、こんな生活が続いた。一週間目に、伊庭から富岡に、何処かでお目にかゝりたいが、場所を指定してくれるやうにといつた速達が来た、だが、丁度《ちやうど》その日に、富岡の就任がきまつた。
速達を、富岡は破り捨てた。ゆき子も、一方、その事を気にしたやうだつたが、富岡の屋久島《やくしま》行きがきまつた以上は伊庭の凄《すご》んだ速達なぞは、気にする事もないと思つた。
富岡は色んなところへ挨拶まはりに行つたり、原稿に手を入れたりして、伊豆から戻つて、二週間目に、やつと、部屋もあけて、荷をまとめて任地へ送つた。
富岡は、東京を去る日まで、まだ、ゆき子を何とか残して行きたいと考へてゐたが、おせいの亭主の弁護人への金も出させて、いまさら、自分一人で発《た》つわけにもゆかなかつたのだ。なりゆきに任せるより仕方がないのだ。南でキャンプ生活をした時に、この、なりゆきに任せる精神は癖になつてしまつた。馬来人《マレイじん》の材木運びが、何か不運な事に出逢ふと、アパ・ボレ・ボアットと云つてゐたが、この仕方がないと云ふ言葉ほど、富岡の現在には容易なものはないのだ。
全く、仕方がない。自分は、ゆき子の金に手も触れないでおきながら、何から何まで、ゆき子に吐《は》き出させてゐる卑《いや》しさが、富岡には、息苦しかつた。新聞に騒がれてゐた、二月のストライキは禁じられたが、世の中は、益々騒然としてきてゐた。一種の観念だけでは、富岡は東京で生活するのはむづかしいと思つた。自分の生活のなかに、いろんな誤解が生じて来るのも、この現代の東京生活であつた。
いろんな齟齬《そご》のうちに、富岡は、自分の躯《からだ》をもてあましてしまつてゐる。別の人間として、再出発するには、もう一度、何処かへ場所を変つてみなければならないのだ。いつも、受動的な悩みのなかに、自分と社会とのずれを感じてゐた。西も東も、廻転するベルトの速さで、富岡の耳のそばを、社会は押し流されてゐた。不安な、第三期の戦争の気配すらぷすぷすいぶつてゐる。富岡は、この無精神状態のなかに、ゆき子と古いきづなを続けるのはたまらない気持ちだつた。そのくせ、その古いきづなは、切れようとして切れもしないで、富岡の生活の中にかびのやうに養ひ込んでしまつてゐた。
二人が、東京を発《た》つたのは、二月の中旬であつた。夜汽車に乗つた。
|Ilale《イラル》 |diable《デイアブル》 |au《オー》 |corps《コール》 だ。悪魔が俺に乗りうつつてゐる。加野が、ダラットで、よく使つた言葉だつた。その悪魔は、誰と聞くと、加野はゆき子をあごで差した。
汽車はあまり長くて退屈な旅であつた。富岡は退屈もしないで、よく、むしやむしやと、食ひ散らかしてゐるゆき子に呆《あき》れてゐる。
京都には朝着いた。ゆき子がゐなければ、富岡は、一日位は、京都へ降りてみたいところである。
ゆき子は持ちつけない金を持つたせゐか、京都でもホームに降りて、食ひ物を買つて来た。車窓へ乗り出して見てゐると、外套《ぐわいたう》を着込んだ背中が、もう、さかりの女を過ぎた感じのみすぼらしさに見えた。煙草も買つてくれたやうだ。ちらと、こつちを振り向いたゆき子の顔が、ひどく蒼《あを》ざめて乾いてゐた。
大阪、神戸を過ぎ、舞子の海辺を通過する時、にぶく鉛色に光つた海が、車窓に白く反射してきた。
ゆき子は、外套の襟をたてて深い眠りに落ちてゐた。博多停りの三等車は、割合混んでゐた。通路にも坐り込んでゐるものがあつた。
いろんな食べ殻と、人いきれで、スチームのない昼間の車中は、割り合ひむしむししてゐた。よく眠つてゐるゆき子の顔を富岡は呆《ぼ》んやり眺めてゐた。この四五日の同棲《どうせい》で、眼の下は三角に薄黒くなり、唇の皮が割れて、紅が筋のなかに固まつてゐた。眉は立ちあがつてゐたし、小さい鼻の頭には膏《あぶら》が浮いてゐた。時々、瞼《まぶた》が神経的にびりびり動いてゐる。
悪魔が眠つてゐる。だが悪魔は眠つたふりをして、富岡の眼の行き場をよく知つてゐるのだ。眠つたまゝゆき子は笑つた。富岡はあわてて眼をそらした。
「また、私の事、何か云ひ出すンでせう?」
さう云つた眼を開けて、ゆき子が、膝の蜜柑をむき出した。冬枯れの錆《さ》びついた田畑や煙突だけになつた、瓦礫《ぐわれき》の工場地帯や、山や川や海が、轟々《ぐわうぐわう》と汽車の車輪に刻まれて後へ走り去つて行く。
博多へ着いたのは夜更《よふ》けであつた。雨が降つてゐた。
二人は疲れてゐたが、すぐ、鹿児島行きに乗り替へた。もつと疲れ切つて、何も彼も麻痺《まひ》してしまひたかつた。ゆき子は、少しづつ心細くなつて来てゐる。夜の雨は、光つて、汚れた硝子窓に降り込めてゐる。ゆき子は、幾度も切れ切れの夢を見たが、サイゴンから、ヂリンを経て、ランビァン高原へ行くダラットへの自動車の動揺を感じてゐた。
眼が覚めるたび、雨の中を走る夜汽車の現実が、ゆき子には、心細くなつて来るのだ。案外、日本も広いものだと思へた。富岡は病人のやうにぐつすり眠つてゐる。
長い旅路でもあつた。東京を遠く離れてみると、伊庭との生活の思ひ出が、ずたずたに切り裂かれてゐた。熊本で雨が少しばかりやんだ。車中の顔も、次々に変つていつた。言葉も、九州なまりになり、四囲には、二人に関聯したものは何もなくなつて来た。ゆき子は、疲れた足を富岡の脚の間へぐつとのばして眼を閉ぢた。
何処からも危険はおそつて来ないと思ふにつけ、ゆき子は伊庭の怒つた顔ををかしく思つた。こゝまで来てしまへば、もう、私を引きもどすわけにも行かないのだわ……。もつともつと、大日向教の御繁昌を祈りますと云ひたいところである。
大津しもは、これからも厚化粧をして、あの金庫の前に、でんと坐り込んでゆくであらう。ゆき子は、時々頭の上の網棚のボストンバッグに注意をしてゐた。いま、自分の頼るべきものは、このボストンバッグ一つきりである。
鹿児島へ着いたのは、朝であつた。土砂降《どしやぶ》りの雨であつた。輪タクに案内させて、港に近い、千石町とか云ふところの、小さい宿屋に案内された。
二階の窓からは、幕を張つたやうに、大きい桜島が見え、桜島は雨で紫色に煙つてゐた。
ゆき子は、疲れてしまつて、潮臭い畳に脚をのばした。
女中に、富岡が、屋久島通ひの船は、何時《いつ》出るかと聞いた。雨や嵐になると、何日も船は出ませんといふ返事だつた。屋久島へ行く船便を調べて貰ふやうに頼んで、富岡は外套のまゝ畳に寝転んだ。
寝ながら桜島が見えた。海は漆《うるし》のやうな青い色をしてゐる。小さい船が、ごちやごちやと波止場に寄り添つてゐた。茶を運んで来た女中に、富岡はビールを頼んだ。
「随分遠いところへ来たわね。こゝから、また船に乗つて、一晩かゝるなんて、島流しみたい。一人ぢやア、私、とても来られないわ」
「四年も五年も、これから暮すんだよ」
「さうね……」
「どうだ、帰るのなら、こゝからなら、丁度《ちやうど》いゝよ」
「まだ、そんな事云つてるの?」
「君が、一人ぢや来られないと云ふからさ」
「貴方と二人だから来たんぢやありませんか……。私つて、可哀さうな女だと思はない?」
「恩を被《き》せられちや、やりきれないね」
近所で、ラジオが、やかましく煎《い》りつくやうに鳴つてゐる。ゆき子は外套をぬぎ、宿の褞袍《どてら》を肩に引つかけて、吹き降りの廊下の外を眺めた。
「恩を被《き》せるンぢやありませんわ。私は、そんなけちな気持ちはないのよ。でも、貴方だつて、誰もゐないよりはましぢやないの? 私、屋久島に住めなかつたら、こゝへ来て、料理屋の女中をしたつていゝわ。女つて、それだけのものよ。捨てられたら、またそれはそれにして、こんなところでやつてゆく気もあるのね……」
「誰も、捨てると云つてやしない」
女中がビールを運んで来た。
泡立つビールを、ぐうつと一息に飲んで、富岡は初めて息をふきかへした。
女中は、二日ほど船が出ないと知らせてくれた。こんなところで、二日も泊つてゐるのは退屈だつたが、船が出ないのならば仕方がないと、富岡も廊下に出て、吹き降りの海上を眺めた。
「貴方は、雑誌社には、屋久島へ行く事をおつしやつた?」
「あゝ」
「伊庭が、怒るでせうね」
「追つかけて来るかい?」
「まさか、それほどのお金でもないでせう?」
「いや、仲々大金だからなア……。ひよいとしたら、警察沙汰《ざた》にしないとも限らんぜ」
「大丈夫よ」
大丈夫よと云ひながら、ゆき子は、部屋に戻り、自分もビールを飲んだ。冷いビールは腹にしみた。だが何となく、気分が悪くなつて来た。
「奥さま、お風呂如何でございますか?」
女中が、風呂を知らせてくれた。
奥さまと云はれて、ゆき子は、誰にもそんな事を云はれなかつただけに、ふつと眼を瞠《みは》つて、富岡を眺めた。
「奥さん、先に、風呂へ這入《はい》つて来なさい」
富岡が、からかつて云つた。富岡はくたくたに疲れてゐるのだ。風呂へ這入る気もしない。船会社へ行つて、船の切符を買ひかたがた、船の出る日を聞いて来ると云つて、富岡は宿の番傘を借りて外へ出た。教はつた船会社への広い荒凉とした道を、海の方へ向つて歩いた。初めて、自分一人になつたせゐか、富岡は清々した気持ちだつた。いまがいま、船が出ると聞けば、自分一人でも乗つて行きたかつた。青いペンキ塗りのバラック建ての船会社へ行くと、宿で云つてゐたとほり、この嵐が済まなければ、出航しないのだけれど、たぶん、明後日頃は出るだらうといふ事だつた。富岡は、屋久島までの二等切符を二枚買ひ、乗船名簿にゆき子を妻と書いた。
帰り、賑《にぎ》やかな通りへ出て、富岡はウィスキーを買つた。宿へ戻ると、ゆき子は蒲団に寝て、蒼《あを》い顔をしてがたがた震《ふる》へてゐた。
「どうした?」
「ねえ、寒くて、震へがとまらないのよ。お医者を呼んで貰へないかしら……」
ゆき子は富岡の腕を掴んで、小刻みに震へてゐる。風邪《かぜ》をひいたにしては様子が変であつた。唇に血がにじんでゐた。額に手をやつたが、大して熱はなかつた。だが、もしも、この宿で寝込まれるやうになつては、どうにも仕方がなくなるのだと、富岡は宿に頼んで医者を呼んで貰つた。蒲団を三枚ばかりかけてやつたが、ゆき子は、それでも寒いといつて震へがとまらない。医者は仲々来てはくれなかつた。富岡は、風邪薬を買ひに外へ出て行つたが、不吉な予感がした。
風邪薬を一服のませて熱い茶を与へてみた。まだ震へがとまらない。一時間位して、若い医者がやつと来てくれた。女中に手伝つて貰つて、洋服やシュミーズをぬがせて診《み》て貰つた。医者はカンフルやビタミンの注射をしてくれた。二日ほど休養をすればよくなるだらうといふ事で、富岡は吻《ほ》つとした。何となく、亡くなつた邦子の病状に似てゐるやうな気がした。富岡は、ゆき子の顔に、そんな気配を感じるのだ。
ゆき子は、鎮静剤を貰つて、昏々《こんこん》と眠つてゐる。自分に遭遇《さうぐう》する一つ一つの事柄が、富岡には、宿命的に固い扉に押しつけられてゐるやうな気がしてきた。邦子が寝ついた時も、医者は二三日でよくなるだらうと云つたものだ。だが、結果は二三日ではよくならなかつた。此の宿は、空襲後に建てたバラックらしく、五部屋位のものだつたが、案外客はたてこんでゐて、壁隣りは賑《にぎ》やかに笑ひさゞめいてゐる。自分達の部屋だけが陰気だつた。
富岡は、褞袍にも着替へないで、ゆき子の枕もとで、ウィスキーの栓《せん》をあけて飲んだ。雨風はますますひどくなつて、家が時々風にゆれた。電気もつかないので、夕方近くになるにつれて、部屋の暗さが重苦しかつた。桜島が、あまり大きく窓に拡がつてゐるせゐか、部屋のなかに、桜島がたふれかゝつて来るやうな圧迫を感じた。
たゞ漠然《ばくぜん》と、こゝまで来た感じだつたところだつたので、富岡は、ゆき子の発病には、相当の衝撃を受けた。
二日目は快晴であつた。
雨はからりと霽《は》れたが、風の強い日であつた。女中は、照国丸といふ船が、朝九時に出船しますと、夜明け頃、火鉢の火を運びに来た時に知らせてくれた。だが、ゆき子の病状はいぜんとしてをさまつてはゐない。昏々《こんこん》と眠り、眠りのなかで咳《せき》をした。その咳を聞いてゐると、富岡は、自分の皮膚をこすられるやうな痛さを感じ、その痛みは、少しづつ歯痛にも似てきた。
廊下の窓から外をのぞくと、寒々とした夜明けの空に、桜島が、石油色に明けそめた空に溶けこんでゐた。海岸添ひには、貧弱な木造家屋の倉庫が並んで、屋根の上から、船のマストが格子のやうに見えた。まだ、街上には燈火がともり、その街路の歪《ゆが》んだ影の上に、夜明けの月が、白く光つてゐた。富岡は、まだ何処も寝静まつてゐる港の街の夜明けを、じつと眺めてゐた。今朝は、このまゝで出発するにはむつかしいと思つた。思ひきつて、一船遅らせるより仕方がないと、枕もとの火鉢に行き、中腰になつて煙草をつけた。ゆき子は、眼を開けてゐた。
「どうだ! 気分は……」
ゆき子は、笑ひかけようとして、笑へないのか、眼を大きくあけたまゝ、富岡の顔を下から見上げてゐる。富岡は、ゆき子の額に手をやつてみた。案外冷たかつた。その大きく見開いた眼は、何とも云へない淋しさのこもつた、見馴れぬ表情だつた。富岡は、急にいとしさがまし、膝《ひざ》をついて、ゆき子の顔の上に、自分の顔を持つて行つた。
「船を遅らせたから、大丈夫だ。これから、切符を切りなほして貰つて来るから、安心して寝てるといゝ。焦々《いらいら》したつてつまらないからね……。いゝかい、疲れが出たンだよ。雨にあたつたのがいけなかつたンだね」
富岡は、言葉を切るやうに、ゆつくり云つた。ゆき子は眼を開いたまゝうなづいてゐる。富岡はゆき子の手を取つて、自分の頬にあてた。ダラットの仏蘭西人の外科医院で、加野にゆき子が、切りつけられた傷の手術に立ちあつた時の、丁度あの時の眼の色だと、富岡は、仏印での思ひ出が、うづくやうに胸に来た。あの病院で、湖の夜明けの空を眺めながら二人の宿命的な一種の旅情に就いて、恐怖に近い嘔吐《おうと》を催した事を思ひ出してゐた。旅空でめぐりあつた女だから、こんな風になつたのではないかといふ、反省もしてみた。だが、安南人の女中に対する行きずりは、どうなんだと問はれてみると、これもまた、旅情かなと、富岡は、自分をひそかに冷笑した。小麦色の肌をした女中のニウの、初々しいおもかげが、富岡の胸に熱く焼きついて来る。二度と相ひ逢ふ事の出来ない女だけに、富岡は、死んだおせいとともに、なつかしかつた。だが、いまから考へてみると、仏印での生活は、旅愁なぞといふ生やさしいものではなかつたやうだ。死刑を宣告された人間が、その時から、誰にでも、物優しくなるやうな、そくそくとした淋しさで、人の心を恋ひしがつてゐたやうなものだつた。日本軍隊の、独裁政権のなかで、何一つ、自由な孤独を許されなかつた、精神の乾きを、ゆき子の躯によつて求めた自分の身勝手が、今日、こゝにその結果をもたらしたのだと、富岡は、償《つぐな》ひの気持ちをこめて、強く、ゆき子の手を握り締めてゐた。
「一人で、あなた、船に乗るンぢやないの?」
ゆき子が、弱々しく云つた。
「馬鹿! 一人で、船に乗ると思つてたのかい?」
ゆき子は、子供のやうにうなづいた。富岡は肉親的な気持ちで、ゆき子の眼尻に流れる涙を指ではじいてやつてゐる。大丈夫だよといふ思ひをこめて、強く、ゆき子の手を、二三度握り締めてやると、富岡はその手を離して、茶を持つて這入《はい》つて来た女中に、時間を聞いた。
「七時頃でツせう」
と、女中は、腕時計を見ながら、時計に耳をつけてゐる。
富岡が階下へ降りて行くと、玄関の時計は、七時を少し過ぎてゐた。――富岡は船会社へ行つた。切符の切り替へを頼み、四日ほど遅らせて、また、こゝから就航する照国丸に乗る事にきめた。序《つい》でに港へぶらぶらと出てみると、白い照国丸は、大きな煙突から煙を噴き、船の起重機は、材木を吊《つ》りあげてゐた。波止場には、船客相手の、果物店が並んでゐる。九州の果てに来て、果物店の林檎《りんご》の山を見ると、富岡は、不思議な気がした。ゆき子の為に、林檎を一貫目ばかり、緑に染めた籠の中に詰めて貰ひ、船のそばまで行つてみた。もう船客は、列をなして並んでゐた。どの旅客も、小さい硝子の金魚鉢を抱へてゐる。照国丸は、まるで仏印通ひの船のやうだつた。さうした、錯覚《さくかく》で、富岡は、今朝、このまゝゆき子と此の船へ乗れたなら、どんなにか愉《たの》しい船旅だつたらうと思へた。だが、この快適な船は、屋久島までの航路で、それ以上は、今度の戦争で境界をきめられてしまつてゐるのだ。此の船は、屋久島から向うへは、一歩も出て行けない。南国の、あの黄ろい海へ向つて、この船は航路を持つてはゐないのだ。波止場は、乗船客や、荷運びの人夫で犇《ひしめ》き立ち、桟橋は、藁屑《わらくづ》や木裂《きぎれ》や、林檎の皮が、散乱してゐた。
この敗戦も、云はば、なしくづしの日本の革命だつたのだと、富岡は起重機のぎりぎりと巻きあげられるのを、呆《ぼ》んやり眺めてゐた。出航を知らせる汽笛が鳴り、笛が吹かれた。子供や女が、乗船客を見送りに来た群衆のなかをくゞつて、テープを売り歩いてゐる。富岡も赤いテープを一つ買つた。昔ながらの服装をした事務長が船のタラップを渡つて桟橋へ降りて来た。乗船が開始され、タラップのそばには、白服のボーイや、巡査が立つてゐる。
乗客はどれもかなりな荷物を持つて、船の中へ押されて行つた。
軈《やが》て、九時一寸過ぎに、二度目の汽笛が鳴り、船はゆるく岩壁を離れ始めた。桟橋の見送り人はどよめき、船のデッキには少しづつ、荷物をおろした乗客が並び出した。テープが沢山の小鳥のやうに、桟橋から船へ飛んだ。赤、白、コバルト、黄、緑と、テープの虹《にじ》が、風をはらんで大きくゆらめく。富岡は、桟橋に向つて手を振つてゐる、七ツ八ツの少年に向つて、赤いテープを投げつけたが、そのテープは、事務員風な女の額に当り、その女が両手で富岡のテープを受けとめた。色の黒い、みすぼらしい服装の女だつたが、愛らしい顔をしてゐる。色のさめた青いジャケツを着てゐた。女はテープを切れないやうに高く持ちあげてゐた。富岡は、船の動きのおそいのに根気をなくしてしまつたのか、途中で、テープを離して、桟橋を、船会社の方へ戻つて来た。何処にも目的はなく、近づくべき道はない気がした。思ひ出したやうに、海を振り返ると、案外船は小さくなつてゐる。テープの散らかつた桟橋には、まだ、見送り人が手を振り、帽子を振り、ハンカチを振つてゐた。濁つた海水には、眼に沁みるやうな、赤や黄のテープが浮いてゐる。
富岡は人に尋ねて、郵便局に行つた。
屋久島の営林署に電報を打ち、ハガキを買つて、富岡は松井田の両親へあてて、鹿児島まで来て、船を待つてゐる音信を書いた。広い郵便局は、割合空《す》いてゐた。六角のピラミッド型の机に向ひ、富岡は、そなへつけのペン軸を握つてゐたが、ふつと、自分の隣りで若い女が、電報用紙にトウキョウと書いてゐるのを眼にとめて、なつかしくなつた。この女も東京へ電報を打つてゐるといふ、「東京」といふ大都会が、富岡には、世界の果てのやうに遠く思へた。
富岡にとつて、東京はなつかしい土地である。おせいの事件がなかつたら、かうした、自殺にもひとしい、絶望的な世捨て人の境界《きやうがい》にはいる事もなかつたであらう。掃除の行きとどいた朝の郵便局の光線は、海の底のやうに静かで、平和であつた。隣りの女は、格子のはまつた窓口へ電報を打ちに行つた。靴のかゝとが、ひどくいたんでゐる。黒い外套も疲れてゐた。富岡は、ハガキをポストへ入れて郵便局を出た。
宿の近くで、小さい時計店をみつけて、富岡は陳列に寄つて行き、暫く時計を眺めてゐた。どれも、スイス時計のイミテイションであつたが、三千六百円と正札のついたのが気に入り、屋久島の記念に、一つ求めたいと、富岡は店へ這入つて行き、陳列のなかの時計を見せて貰つた。仏印で買つた時計は、伊香保で、おせいの亭主に売つてしまつた。それから、ずつと時計なしの不自由な暮しだつたので、富岡は、時計を欲しかつたのだ。一つ取つて耳に当てると、セコンドの刻みが、カチカチと澄んでゐる。型も円く薄手だつたので、富岡は思ひ切つてその時計を買つた。
宿へ帰ると、ゆき子は待ち疲れた様子で、泣きさうな顔をしてゐたが、富岡の持つてゐる林檎の籠を見ると、ほつとしたやうに、蒲団から手を出した。さつそく、富岡は、ゆき子の枕もとに坐り込んで、ナイフで林檎をむいてやつた。
「序《つい》でに、船を見て来たが、仲々いゝ船だ。屋久島通《やくしまがよ》ひでは一番いゝ船だらうね。船へ乗る奴が、みんな、金魚鉢を持つてるンだ。屋久島には金魚がないのかね……」
林檎をむきながら、富岡が、見て来た船の話をした。
「白い船だよ。君が病気だから、ぜいたくのやうだけど、一等に変へて貰つたンだ。食事は出さないさうだから、二食分位は用意した方がいゝさうだ。たゞね、途中の種子島《たねがしま》には医者も多いンださうだが、屋久島は医者がゐないンだつてね……」
「そんなところですか?」
「あゝ。一寸《ちよつと》、心配なンだ……」
「船で、気分が悪くなつたら、その、種子島でもいゝから、私を置いて行つて下さい」
「種子島で降りる位だつたら、鹿児島の方が便利だよ。此の次の船で、どうしても都合が悪いやうだつたら、こゝで入院するなり、小さい旅館でもみつけるなりして、ゆつくりあとから来てもいゝンだ。何をするにしても、鹿児島は都会だし、便利なところだ」
ゆき子は、林檎をむいてゐる、富岡の手を見てゐたが、腕に巻いた、新しい革帯《かはおび》の時計に眼がとまつた。
「時計、お買ひになつたの?」
「あゝ、いま、宿の近くで買つた」
「見せて……」
富岡が左腕を出すと、ゆき子はじいつと時計の文字盤を眺めた、伊香保で売つた時計に何処となく似てゐる。ゆき子は、「いゝ時計ですね」と云つた。別に値段を聞かなかつたので、富岡も云はなかつた。雑誌社で貰つた金の残りで買つただけに、富岡は少しも卑屈ではなかつたが、ゆき子は、その時計をよほど高価なものと思ひ込んだのか、何となく釈然《しやくぜん》としない表情であつた。
「乗つてたら、いまごろは、もう海の上ですね……。波は荒れてゐましたか」
「風は強いが、おだやかな海だつたよ。まるで、外国船の船出のやうに、テープを投げたりするンだね」
「まア! 綺麗《きれい》でせうね」
「いや、泥臭い感じだね。あれも、外国へ行けない、一つのノスタルヂアだな……」
人間のいはゆる、淋しさや甘さを飾る装飾のテープが富岡の瞼《まぶた》のなかに、ちらちらしてゐた。ゆき子は、妙に時計にこだはつてゐる。高価な時計を買つたりしてゐる富岡の心沙汰が、情《じやう》の薄いものに思はれてきた。林檎をむいて富岡が半分くれた。
ゆき子は歯茎《はぐき》を酸《す》つぱくして噛《かじ》つたが、林檎は案外柔らかくて、味もまづかつた。富岡も林檎をさくさくと噛つてゐる。
「ぼけた林檎だな……」さう云つて、富岡は、林檎の芯《しん》をかつと吐き出した。宿で飼つてゐるのか、鶏がけたゝましく鳴きたてた。また雨がぱらつき始めてゐる。
昼前に、医者が、注射に来てくれたが、ゆき子の胸や背中を診《み》ながら若い医者は、
「一度、レントゲンを撮《と》つてみると、一番いゝンですがねえ……」
と、富岡に云つた。ゆき子は冷《ひ》やりとした。旅空で寝つく事は、いまのゆき子には耐へられないのだ。こゝまで来て、富岡と離れる位なら、東京に残つてゐた方がよかつたのだと、ゆき子は、今度の発病が、何となく、命取りの病気のやうな胸苦しさである。こんな不安な病気になる位だつたら、引揚げて来た時にやつた疥癬《かいせん》の方がまだましなのだと、ゆき子は若い医者が、富岡に、余計な事を云つてくれなければよいがと思つた。
富岡にとつても、ゆき子にとつても、耐へがたい旅空の四日間が過ぎた。その旅空の四日間に、非常な親密さで、二人のよき知人になつてくれたのは、若い医者であつた。日華事変の間中を、中支で野戦に働いてゐた軍医上りで、年は案外にも、富岡と幾つも違はなかつたのだが、まだ、独身で、父の病院を手伝つてゐると云ふ事だつた。独身のせゐか非常に若く見えた。福岡医大を出てゐる事も知つた。音楽が好きで、電蓄も自分で組み立ててレコードをあつめる事が趣味だと宿の女中が話してゐた。若い医者は、比嘉《ひか》といふ名前で、先代は琉球《りうきう》の生れだと云ふ事である。或日、近所のラジオの音楽に耳をかたむけながら、比嘉はじいつと耳をかたむけ、「僕は、この曲が好きなンですよ」と、愉《たの》しさうに眼を細めた。富岡は、何処かで、耳を掠《かす》めた音色だなと、耳を澄ました。ゆき子は、注射がすんだ後を、寝巻の袖の上から、よく揉《も》み込みながら、ラジオの音に聴きいつてゐた。富岡もゆき子もその曲が何といふのか判らなかつた。
「誰の曲ですの」ゆき子が、率直に尋ねた。
「ドヴォルザァークの『新世界』といふのです」
医者は、さう云つて、ゆつくり注射器をしまひ、洗面器で手を洗つた。
富岡は医者の音楽好きなのを羨《うらや》ましく思ひながら、こんな九州の果てで、いゝ医者にめぐりあへた事を嬉しく思つた。ずんぐりした医者らしくない体つきだつたが、柔和な細い眼と、皓《しろ》い美しい歯並びが印象的だつた。富岡は、屋久島の営林署へ勤めを持つて、赴任して行く途中なのだと云ひ、暫く仏印の林野局に軍属で行つてゐたのだと話した。
医者は、富岡が、営林署へ勤めを持つと聞いて、急に好意をましたらしく、自分も、昔は、北海道帝大へ行くつもりだつたと、少年の頃の理想を話したりした。――屋久島は医者のないところで心細いのだが、万一の時には、電報を打つから屋久島へ診《み》に来て貰へないだらうかと、富岡が話すと、どんな事があつても行きませうと云つてくれた。
「屋久島に医者がないといふのは、聞いてゐました。あすこには、営林署関係の医者が、山の中にゐる筈ですがね。私も、以前、屋久島で開業する事を考へた事もあるンですが、電気もないし、雨が一年ぢゆう降つてゐるところだと聞いて怖れをなしたわけです。レコードを聴けないのが淋しいンで、そのまゝ空想だけで終つたのですがね。このごろは、営林署の方で、何日おきかに、電気を供給してゐるやうですね……。どうも、人間つてものは、自己本位で、医は仁術なりと、口では云つてゐても、レコード一つ聴けない島流しの生活は、やつぱり僕には駄目です。――今度は、一度、機会をみて、お尋ねしてみませう……。だが、私は、率直に申し上げますと、どうも、奥さんのお躯《からだ》は、湿気の多いところはどうでせうかねえ……。お勤めとあれば、是非もない事なンですが、なるべく、高い山の方に舎宅をお選びになつて、規則正しい日課をつくつて暮らされるンですな……。何しろ、時間がないので、どうにも、ゆつくり診られないのですが、島へ行かれたら、日々の御容態を、ハガキでもいゝから知らせて下さい」
比嘉は、病人に不安を持たせない口調で、これだけの事を注意してくれた。ゆき子は、ドヴォルザァークの「新世界」の曲は、もう忘れてしまつたが、「新世界」といふ言葉だけが、耳に強く残つてゐた。自分達の新しい出発を占つて貰つたやうな気がして、ゆき子は比嘉の初々《うひうひ》しい態度に、好意と尊敬を持つた。――富岡は、「罪と罰」だつたかのなかの、人間たるものは、誰しも、同情なくしては、到底生き得られるものではないと云つた、ドストエフスキーの言葉を思ひ出して、この医者に、革命前の、露西亜的人物を感じてゐた。急な場合の薬や、注射の材料までとゝのへて貰つて、四日目の朝照国丸へ富岡とゆき子が自動車で乗りつけた時には、思ひがけなく比嘉が帽子も外套も忘れて、見送りに走つて来てくれた。旅空で、誰一人、テープを投げてくれるもののない二人にとつては、意外であつた。若い医者の見送りを受けようとは、富岡もゆき子も、予想だにしてゐなかつたのだ。
一等船室は、上下二段のベッドがあり、毛布も白く新しかつた。長椅子の前には、卓子や椅子があり、壁には鏡や、水差しがはめこんであつた。四畳半ばかりのゆつくりした広い部屋である。ゆき子が下段のベッドへ横になると、乗り込んで来た比嘉は、鞄《かばん》から注射針を出して、アルコールで拭き、ゆき子の腕に栄養剤を注射してくれた。ゆき子は、その冷い医者の手の感触をいつまでも忘れなかつた。最初の恋のやうな仄々《ほのぼの》した気持ちであつた。
ゆき子は甲板へ出て行けなかつたが、富岡は比嘉を送つて部屋を出て行き、船が動き出して、暫《しばら》くしてからも、部屋へ戻つて来なかつた。
一等甲板の富岡は、比嘉から投げられた緑色のテープを、何時までも握つてゐた。ごみごみした、玩具箱《おもちやばこ》をひつくり返したやうな、桟橋が、遠くなるまで、切れたテープを、富岡は頭の上で振つてゐた。比嘉は桟橋のはづれに立つて、白いハンカチを振つてゐたが、一寸、小腰をかゞめて、大股《おほまた》に桟橋を去つて行つた。鞄を振るやうにして歩いて行く、医者の後姿が富岡には頼もしく見えた。
船が海上に出たせゐか、薄陽の射した朝の桜島は、案外小さく紫色に健康に見えた。宿の部屋から見た桜島は幕を張つたやうに大きく見えたのだが、海上で見る桜島は、置物のやうに小さく見えた。三等客は、穴蔵のやうな船室から這《は》ひ出して、広いデッキの木椅子に、日向《ひなた》ぼつこをしてゐる。土産とみえて、デッキのところどころに、金魚鉢が置いてあり、どの金魚鉢にも金魚が金色に光つてゐた。
海上は凪《な》ぎであつた。
ひかげの風は、外套《ぐわいたう》を刺すやうに冷めたかつたが、日向へ出ると、陽射《ひざ》しがほかほかと暖かであつた。すぐ眼の上の大きい煙突から、汚れた煙が西へなびいてゐた。陽射しを受けた白い海上へ、富岡は、手に残つてゐる緑のテープを風に散らした。この数ヶ月を擦《す》り減らされたやうな心の痛みが、広い海上に出ると、足もとや肩にまつはりついてゐた、運命の鎖《くさり》を、吹飛ばしてくれるやうな、爽快《さうくわい》な気持ちだつた。沈黙した海の水を見てゐると、饒舌《ぜうぜつ》には十度の、沈黙には、一度の後悔があるといふ、格言を、富岡は、陸上と海上とを比較して考へさせられてゐた。
ゆき子は、背中に響く、船の動揺を、こゝろよく感じてゐた。動いて走つてゐる船まかせの気分は、仏印から戻つて来る時の気持ちそつくりである。あの医者の、ものやはらかな動作や言葉や薬臭い体臭が、ゆき子には、妙に忘れがたいのだつた。加野に似たおもざしでもあつた。こんな、ちぐはぐな感情を持つてゐる自分の心が、ゆき子には、自分でなつとくゆかなかつたが、ゆき子は、屋久島の山の中で迎へる比嘉との、危険な出逢ひの空想を、何時までも、牛の胃袋のむしかへしのやうに、愉《たの》しみに描いてゐたのだ。
種子島《たねがしま》へ着いたのは、二時頃であつた。
白く光つた海の上に、黄ろい、平べつたい島が、窓の向うに見えた。富岡は煙草をくゆらしながら、その、ながながと寝そべつたやうな、淋しげな島を眺めてゐた。ゆき子は昏々《こんこん》とよく眠つてゐる。富岡は何故ともなく、遠くへ来たものだと思つた。
遙《はる》かに見える小さい港に、ごちやごちやと、小さい船がもやつてゐる。海添ひの家の屋根が、白と黒との切紙細工のやうなのも、富岡には珍しい眺めだつた。
船はゆつくり時間をかけて、種子島の西の表港に這入つて行つた。夜の九時まで、この船は種子島に碇泊《ていはく》してゐるのださうだ。夜の九時まで、この港から動かないのだと船員から聞いて、富岡は、少々退屈だなと思つた。こんなところにまごまごしないで、終点に早く着きたかつた。
だが、種子島は、遠くから見ると、無人の島のやうにも見えた。何となく、陣に臨んで、久しく敵なしの感じで、無人の島には、感興が湧《わ》かない。だが、この大隅の海上に点在してゐる諸島のうちでは種子島は、唯一の文明を持つた島だと聞かされてゐる。この島よりも、もつと無人な島へ、いま自分は行きつゝあるのだと、富岡は、呆んやり、近くなつてゆく島の港を見てゐた。禿山《はげやま》のやうな島である。非常に長い広々とした島でありながら、高山がないせゐか、いまにも海水に沈みかけてゐるやうな、平べつたい島だ。
「ねえ、何処《どこ》かへ着いたの?」
ゆき子が、枕の音をさせながら聞いた。富岡は、窓に頬杖《ほゝづゑ》をついたまゝ、
「種子島へ着いたンだよ」と、云つた。
「いゝ港ですか?」
「あゝ、こぢんまりしたところだ。起きて見るかい?」
「見なくてもいゝわ……。どうせ、何処の港だつて、同じ事なンでせう?」
「案外、賑《にぎ》やかな港だよ。小さい船が沢山ゐるよ。仏印の何処だつたかな、これによく似た部落があつた」
「仏印に似てるの?」
「いや、似ちやアゐないが、こんな、部落があつたやうな気がしたンだ。日本人のつくつた港といふものは、何処へ行つたつて、陰気で淋しいもンだな……」
がらがらと、激しい音をさせて、錨《いかり》をおろす音がした。船が少しづつ港の小さい桟橋に寄つて行つた。
迎への人達ででもあらうか、明るい桟橋には、蟻《あり》のかたまりのやうに、沢山の人達が船を迎へに出てゐた。
船が近づくにつれ、迎への人達の一人一人の姿が、はつきり見えたが、服装は、東京も鹿児島も変りはない。若い女は、このごろ流行の赤いジャケツを着てゐるのもゐる。どの女もパアマネントをかけてゐるやうだし、若い男は、油で光らせた、リイゼントとかの髪かたちをしてゐた。
軈《やが》て、ブリッヂが降ろされると、林檎や、金魚鉢を持つた下船客が、ぞろぞろとブリッヂを降りて行つた。狭い桟橋は波にゆらめき、ふはふはと蟻《あり》のかたまりがはしつてゐるやうに見える。富岡は、外套を肩へ引つかけて、一等のデッキに出て行つた。
暫《しばら》く見てゐるうちに、ぞろぞろと、丘状になつた町の方へ、群衆は消えて行つた。白い砂地のやうな道が、夕陽に、にぶく反射してゐた。木造の役所らしいのや、運送店や、三階建てのかしがつたやうな古びた旅館や、飲み屋なんかが、岩壁添ひにごちやごちや見えた。
何の為に、こんな処に、夜の九時まで、船が碇泊してゐるのか、富岡には不思議だつた。積荷をするにしても、桟橋には、大した荷物も出てはゐない。
二人とも上陸はしないで、船のなかで、夜まで過した。夕方になつて、船の甲板には、きらめくばかりのイルミネーションがとぼり、騒々しいばかりに、拡声器から流行歌が流れた。
甲板《かんぱん》や廊下を下駄で走りまはるものや、飲み屋の女の嬌声《けうせい》も聞えた。幾度となく、富岡達の部屋のドアを開けて、なかを覗《のぞ》きこむものもある。富岡もゆき子も、この無作法には驚いてしまつた。
「屋久島も、こんなところかしら……」
ゆき子が、毛布にもぐり込んだなり、心細気に云つた。何とかのブルースといつた、人の心を投げやりにするやうな、流行歌が、幾度も甲板で唸《うな》りたててゐる。
翌日、朝八時頃、屋久島が見え始めた。
富岡達は、安房《あんぼう》の港へ上陸するのだ。船は、宮の浦の沖へ着いた。海岸は波が荒く、港もないので、沖あひに碇泊《ていはく》して、小船が、船客を運んだ。大隅諸島のはづれの、黒子《ほくろ》のやうな、こんもりした孤島を眺めた時、富岡は、こゝが、自分の行き着く棲家《すみか》だつたのかと、無量な気持ちであつた。
青い沁《し》みるやうな海原の上に、ビロードのやうにうつそうとした濃緑の山々が、晴れた空に屹立《きつりつ》してゐる。
種子島の西南三二海里《かいり》、面積は五○○平方粁《キロ》、島形は、円く殆《ほとん》ど出入なき水平的肢節。島の中央には、九州地方第一の高山、宮の浦岳、一九三五米《メートル》が聳《そび》える。永味岳、黒田岳、所謂《いはゆる》八重岳の群巒《ぐんらん》をなし、垂直的肢節の変化に富む。海抜一○○○から一五○○米の山腹に屋久杉の繁茂。
富岡のポケットのメモには、屋久島の簡単な説明が記してあつた。種子島とはひかくにならない、黒々とした円《まる》い島である。久しぶりに、島の濃緑な色を眺めて、富岡は、爽快な気がした。少しも、孤島へ流れて来た感じはなく、かへつて、身も心も洗はれたやうな、樹林の招ぎを感じるのだ。富岡は、甲板に出て、寒い海の風に吹かれながら、いま眼の前遙《はるか》に立つてゐる島を、飽きもせずに眺めてゐた。種子島は、寝そべつた島であつたけれども、屋久島は、海の上に立つてゐる島のやうだ。薄昏《うすぐら》い夜明けの海上で、ふつと、こんな島に出くはしたら、さだめし気味の悪いものであらうと思へた。
明るい紺碧《こんぺき》の海上に、密林の島が浮いてゐるといふだけでも、自然の不思議さである。船ははしけを離してしまふと、また、エンヂンの音を忙《せ》はしくたて始めた。海上は相当波が荒い。
この荒い波の上を、小さいはしけは木の葉のやうに波に揉まれながら、宮の浦の淋しい岸壁へ漕《こ》ぎつけようとしてゐる。
ゆき子も、ゆつくり起きあがつて、髪をかきつけてゐる。あきらめきつた表情で、毛布の皺《しわ》の中に、コンパクトを挾《はさ》みこんで、ゆき子は乱れた髪をなほしてゐた。油気のない髪を邪魔くささうに一束にたばねて、ハンカチで結んだ。如何《いか》にも大儀さうに、クリームを顔にこすりこんでゐる。白いペンキ塗りの板壁に、海からの反射が、窓硝子を越して、かげろふのやうに、ゆらゆら動いてゐた。
ゆき子は、がんこに、窓から外界を見ようとはしなかつた。種子島も見ないづくだつたし、いま、眼の前に屹立《きつりつ》してゐる屋久島さへも見ようとはしない。ゆき子にとつては、どんな陸上でもよかつたのかも知れない。着いた様子だから、身支度をするといふ、ものぐさな態度である。富岡は、ゆき子のそのものぐさな様子を、躯の悪さから来てゐるものと思つてゐた。
十時頃、安房《あんぼう》の沖合へ着いた。
小さいはしけが、大きい波にゆられながら、富岡達の船をめがけて漕《こ》ぎ寄せて来た。何時の間にか、小雨が降つてゐた。
富岡は、病人のゆき子の肩を抱きかゝへるやうにして、急なブリッヂを降りて行つた。白い上着を着たボーイが、ブリッヂの下の方から、ゆき子を受けとめるやうなかつかうで待ち受けてゐてくれた。ブリッヂは、高く持ちあがつたり、低く、波間に吸ひこまれさうになつたりして、はなはだ危険である。やつとの思ひで、ボーイの手につかまり、ゆき子は小さいはしけの中へ滑り降りた。藁包《わらづつ》みの荷物のわきに、ゆき子は蹲踞みこんだ。ふつと、荷物の隙間から見える、海上の向うに、魔物のやうにうつさうとした、背の高い小さい島が見えた。ゆき子は眼を瞠《みは》り、暫く、その島をじいつと眺めてゐた。無人の島のやうだ。何もゐないぢやないのと、心でつぶやきながら、ゆき子は、その黒い背の高い島に一種の圧迫を感じた。
やがて、はしけは大きな波に乗つて、さつと、本船を離れた。気持ちの悪いほど、はしけは揺れた。小雨は何時の間にか、篠《しの》つく雨となり、はしけのなかの数人の客達は、ずつぷり水浸しになつて来た。ゆき子は、富岡の外套を頭から被《かぶ》つてゐた。膝から下がしんしんと冷えてくる。暗い外套の下で、ゆき子は、激しく咳《せ》きこんでゐた。
猫の額《ひたひ》ほどの入江に、はしけが這入つてから、やつと、船の動揺はをさまつた。白い砂の洲《す》が、雨で洗はれたやうにしめつてゐる。入江のなかは、グリン色の澄みとほつた水で、海底の岩や藻や、空罐《あきくわん》の光りまで判然《はつき》りと見えた。
白い洲の上流は、河になつてゐると見えて、高い堤の上に、珍しい程メカニックな大きい吊橋《つりばし》がアーチのやうに架《かゝ》つてゐた。
砂地に、四五人の人が、はしけを出迎へてゐたが、その中の二人は、営林署の人で、富岡を迎へに出てゐる人達である。
一人は番傘を差し、一人はレインコートを引き被つてゐた。はしけの渡賃を払つて、富岡が白い砂地へ飛び降りた。そして、ゆき子を濡れた外套ごと抱きかゝへて降ろしてやると、営林署の出迎への人は、富岡のところへ、さくさくと砂をきしませて走つて来た。
「お疲れでございませう? 奥さま、御病気ださうでいけませんな……」
都会の人種とはまるきり違ふ、素朴《そぼく》な眼色をした中年の男が、番傘をゆき子の上へ差しかけてくれた。堤の上までは砂地続きである。かなり疲れて、ゆき子は、幾度も砂地に立ちどまつて溜息をついた。息苦しく、全身がかつかつと炎《ほのほ》を噴いてゐるやうだつた。
吊橋の上に峨々《がゝ》とそびえてゐた山々は、いつの間にか、乳色のもやの中へ姿を没してゐた。
堤《つつみ》へ登り、長い吊橋《つりばし》を渡り、見晴亭と、看板の出た、安房旅館といふのに案内された。旅館は一寸した丘の上にあり、狭いコンクリートの坂道に、吊橋の太いロープが幾条も、鉄筋の支柱で支へられてゐる。
米の配給所と運送を兼ねてゐる旅館は、旅館らしくないかまへで、陰気な店である。暗い土間に靴をぬいで、雨でべたついた板の階段を登つて、二階の座敷に通つた。
何処を見ても、壁土のない、板壁の素朴な旅館であつた。
富岡は、ジャケツを着こんだ、若い女中に頼んで、ゆき子の為に、すぐ寝床を敷かせた。雨は細引を流したやうに激しくなり、廊下から見える、海も山も、一面のもやのなかに景色を隠してゐた。一寸さきも見えない、白いもやの壁である。
その白いもやの中から、庭さきの風呂場の煙が黄ろく流れてゐた。
蒲団を敷いて貰つて、明るい方の部屋で、富岡は、出迎への人達と、名刺の交換をした。ぬるい茶と、黒砂糖の茶菓子が運ばれた。
「こゝは、雨が多いンださうですね」
富岡が一服つけながら、軽い箱火鉢を引き寄せて聞いた。
「はア、一ヶ月、ほとんど雨ですな。屋久島は月のうち、三十五日は雨といふ位でございますからね……」
レインコートを被つてゐた男が云つた。レインコートを取ると、案外若々しい男であつた。学者らしい感じだつた。
レインコートを被つてゐた男は、田付《たつけ》と云つた。番傘を差してゐた中年の方は、登戸《のぼりと》といふ名前だつた。
二人とも事務官で、山の方の仕事ではない様子だ。毎日、山から、トロッコが二度、往復してゐるといふ事である。富岡の為に、小さい官舎も用意してある様子だつたが、病人がゐては、さしづめ不自由だらうから、五六日、この宿へおいでになつた方がよろしからうといふので、富岡もさうする気になつた。だが、何にしても、佗《わび》しい。
雨は息苦しいばかり、降り続いてゐる。乳色の太い雨であつた。
二人が戻つて行つてから、富岡は五右衛門釜《ごゑもんがま》の汚れた湯にはいり、暫く自分も寝床へもぐり込んだ。非常に疲れてゐた。ゆき子は咳《せき》がとまらないのか、顔を真赤にして咳きこんでゐる、ゆき子は、咳止めの薬を飲み、暗い部屋のなかに、眼を開けてゐた。
二人とも、一種の刑罰を受けて、こゝに投げ捨てられたやうな気がして、ゆき子は、こゝで自分は死んでしまふのではないかといつた予感がした。死ぬのなら、一思ひに死にたかつた。この雨は、毎日降り続く雨だといふ、この島のこれからの生活が耐へられさうにもなかつた。じいつと耳を澄ましてゐると、耳の中にまで、雨が降りこんで来る。
硝子戸のない、障子だけの部屋は、その障子の紙が、桟ごとに、袋のやうに重たくたるんでゐた。蒲団は一枚づつ。敷布は海苔《のり》臭く、枕は木の根のやうに固い。
ニュームの凸凹のやかんに、湯は火鉢に噴きこぼれてゐたが、灰が貝殻のやうに固いせゐか、灰神楽《はいかぐら》もあがらない。ゆき子は、湯煙を眺めながら、その部屋の佗しさを食ひつくやうにして眺めてゐた。板壁の床の間に、菊のやうな花が活《い》けてあり、その上に吊《つ》りランプが三つぶらさがつてゐる。何もない、昔の生活に戻つたやうな部屋の味気なさである。富岡は鼾《いびき》をたててよく眠つてゐた。鼾をかくほどの心の平和さが羨ましい位だつた。
行きも帰りもならない、雨音の騒々しさに、ゆき子は、あゝと溜息をついた。元気になつたところで、こゝではどうにもならないのではないかと思へた。だが、このまゝ東京へ戻つたところで、希望的なものがあるわけでもないのだ。
夜になつてランプがとぼされた。
夕食が運ばれて来た。赤いカニの煮つけがつき、野菜らしいものは何もない。ゆき子は四十度近い熱の為に、汗びつしよりになつてゐた。着替へのものもないので、宿の海苔《のり》臭《くさ》い浴衣《ゆかた》をかりて着替へた。
富岡は、不器用な手つきで、ゆき子の腕に注射をしてやり、初めて、ゆつくり、病人の枕もとで酒を飲んだ。酒の肴《さかな》になるやうなものは何もない。飯だけが、山盛りに、小さい塗りびつの蓋の間からはみ出てゐた。米の不自由なところなのに、妙な事だと、富岡は苦笑してゐた。
酒は薯焼酎《いもせうちう》とかで、鼻へ持つてくると、ぷんと臭い。徳利が、二本もやかんにつけてあつたので、富岡は薯焼酎とは思はなかつたのだ。女中に、日本酒はないかと聞くと、此の島にはないのだと云つた。
何もないとなれば、何だつてがまん出来るものか、その焼酎にも富岡はとろりと酔つて来た。昨日までの事はみんな酔ひのなかで忘れ去る事が出来、ずつと、こゝで暮してゐるやうな錯覚にとらはれて来る。雨は、嵐に近い降りやうになつた。樋《とひ》をつたふ荒い水音が、打楽器のやうに聴える。こゝには何の思想も不要だつた。たゞ生きるだけの為にこゝにある気がして、富岡は、何も考へないで酒をあふつた。どの地をも神は支配してゐる。雨が降らうとも、風が吹かうとも、神の意のまゝである。苛酷《かこく》なこの雨のなかに、この島の人達は素朴に生きて闘つてゐるのだ。雨に敗れては生きてはゐられないのだ。だが、それにしても、何とよく降る雨なのだらう。敵意のある雨の騒々しさが、富岡の心を突いて来た。女は病んで、熱のなかに泡《あは》を噴いてゐる。冷薄な神の世界だつたが、その力に敗けてはゐられない。こゝまで流れ着いた以上は、もう、こゝが富岡の最良の土とならなければならないのだと思つた。もう、こゝまで這《は》ひ出して来た以上は、奇蹟《きせき》はない。だが、ひよつとしたら、此の女も案外こゝで死亡するかも知れない。富岡は、長い間の二人の苦労を考へ、酔ひのなかにも、涙が眼尻ににじんで来た。自分のやうな男に、いつたいこれほどの情熱をかたむけた人間が、何処にあつただらうか。おせいはおせいで、勝手に死んだンだ。ニウはついて来なかつた。邦子は貧しさに敗けた。だが、ゆき子だけは、病気と闘ひながらも、こゝまで、自分と行《かう》をともにして来てくれたのだ。船着場で、営林署の迎へのものに、「奥さん」と云はれて、富岡は、その時、ふつと、官吏生活を長く続けてゐる、健康な家族を思ひ出した。ゆき子が勝手におろしてしまつた子供の顔が、いまごろになつて、身を責めたてるやうに、不憫でなつかしくてたまらなかつた。
ゆき子は、時々、熱にうなされて、医者の名を呼んだ。富岡は切ない気がして、額の濡手拭《ぬれてぬぐひ》を時々裏返しにしてやつた。明日を待つて、もしいけないやうだつたら、比嘉へあてて、電報を打つてみようと思つた。
べとついた畳、霧を噴いたやうな板壁、何もかもが、富岡には不吉でたまらないのだ。
その翌日、雨はあがつてゐたが、梅雨時《つゆどき》のやうな薄昏《うすぐら》い朝であつた。富岡は営林署へ行き、赴任《ふにん》の挨拶をした。署長は宮崎に出張中であつたので、登戸の案内で、林層の地図や、書類を見せて貰ひ、序《つい》でに、署の近くの、小学校のそばにある、官舎を見に行つた。こゝも壁のないバラック建てで、田の字づくりの小さい平家であつた。庭に、何人がかへもあるやうな榕樹《ようじゆ》が、乳のやうに枝を垂らしてゐた。青い小さな実をつけた、芭蕉《ばせう》の葉も繁つてゐる。冬の景色とも思へない緑の美しさである。また、雨がこまかい霧のやうに立ちこめて来た。明日、山へ登る事にして、登戸に鹿児島への電報を頼み、昼頃、富岡は宿へ戻つた。
ゆき子の熱はまだひかなかつたので、富岡は、比嘉に教はつたとほり、ペニシリンの注射をこころみてみた。気分はたしかとみえて、ゆき子は、冗談らしく、
「あなたのそばで死ねば、本望《ほんまう》だわ」と、云つた。
「死ぬのは何でもないさ、いつだつて死ねる。こゝまで来て、弱音《よわね》を吐く奴があるかツ」
「雨つて、うるさいものね……」
「もう、小降りだよ」
「一度だけ、晴々した空が見たいわ……」
隣りの部屋では、寄りあひでもあるのか、四五人の話しあふ声が襖《ふすま》ごしに聞えた。小降りの雨のなかに、判然《はつき》りとした山脈が見えた。硯《すゞり》をたてたやうな山容である。富岡は、病人の額の手拭が、案外煮えたやうに熱いのに驚き、ぎよつとして、その手拭を暫《しばら》く掴《つか》んでゐた。宿の人の親切で、芥子粉《からしこ》をといて、胸に張つてみたらどうだらうと云はれて、富岡は、女中に芥子粉を買はせて、それをといて、紙にのばして、ゆき子の胸の上に張りつけてみた。時間を見て、その紙を引きはがしてみると、皮膚が赤くなつてゐた。
富岡は、その皮膚に顔を寄せて、神仏に祈つた。もう一度、我々を誕生させて下さい。
一息づつゆき子が荒い呼吸をするたび、富岡は、汗で煮えるやうに熱い、ゆき子の手を握り、じいつと畳に頭をつけて、その呼吸を数へてゐた。
愚かなるものよ。今宵《こよひ》汝《なんぢ》の霊魂とらるべし、然らば、汝の備へたるものは、誰がものとなるべきぞ……。富岡は、祈つてゐるうちに、こんな言葉を思ひ出した。不吉な気がした。何処で読んだ文章だつたかも忘れたが、いま、突然、かうした言葉が、瞼《まぶた》に浮んで来た。女の手をじいつと握り締めながら、女の死を願つてゐるやうな空間もある、その思ひを、払ひのけようとあせりながら、富岡は、時々、「ゆき子! ゆき子!」と小さく、病人の耳もとで呼んだ。ゆき子は、熱に浮かされた眼を薄く開けては、力なく四囲を眺めた。富岡は、ゆき子の心臓へ耳をあててみた。割合しつかりした音をたててゐる。手の脈を取つてみる。富岡は、さうしてゐるうちに、自分の方が気が狂ひさうだつた。耳の中にまで、雨音は溢《あふ》れていつぱいに詰りさうだ。かうした夜が、如何《いか》にもランビァン高原の或日に戻されたやうな気もして来る。この二人は奇妙なつながりであつた。富岡は、こゝ数年の波瀾《はらん》縦横な戦ひのなかで、何処かに自分の人間らしさを失つて来てゐるやうな気がしてゐる。自分といふ人間は、何時も空洞なハートを持つてゐるやうな人間に思へて来る。生身な身振り音調のかげに隠れて、がらんだうなハートで歩いてゐる化物《ばけもの》のやうだ。自分で自分が、富岡は無気味であつた。
ゆき子を愍《あはれ》むよりも、まづ、自分を、富岡はもてあましてゐるのだ。それにしても、夕方までも雨はやまなかつた。
夕刻頃から、ゆき子は、昏々《こんこん》と眠つた。少しばかり熱もひいたやうだ。四時間ごとに注射したペニシリンが、利いたのかも知れない。それにしても、ゆき子の生命に、少しでも、この薬が反響したといふ事は、富岡には、嬉しかつた。富岡はすつかり疲れてしまつてゐる。夜になつて、また薯焼酎《いもせうちう》を、ゆき子の枕許《まくらもと》で飲んだ。少しづつ酔つてゆくうちに、そばに口を開けて眠つてゐる、どろどろの病人の姿が、いやらしく見えて来た。この女の運命に、自分といふものが反映してゐるとすれば、それは、過去の思ひ出だけのものぢやアないのかと、こんなところにまで駈け落ち同様に追ひ込まれて来た自分達の考へが、狂人じみて考へられて来る。思ひ出といふ奴に、女は、いつまでも恋々としてゐるものだ。思ひ出と運命といふものを、女は何時も感違ひしてゐる……。富岡は、昔、ゆき子に、君はどうせ練馬大根の産地で生れたのだらうと、毒舌を吐いた事があつたが、締りのない寝顔が、浮気者らしく見えた。加野は、三宅某《なにがし》女優に似てゐると云つた事があつたが、じいつと見てゐると、歌舞伎役者の家にでも生れた、不器量な娘のやうに、妙に間のびのした顔でもある。
富岡は臭い焼酎をしたゝか飲んだが、ふだんよりも、一層生々として来た。女中が大丈夫ですかと云つたが、富岡は、すわつた眼で、大丈夫だよと云つた。酒の酔ひは、思ひ出とか、運命とか、あいまいもこたるものは、けろりと忘れさせてくれる。ふいごのやうな激しい風が全身に浸みとほつて、彼は自分を肴《さかな》に、自分を観察してゐた。
何もね、こんなところへ来なくてもいゝんだが、東京で乞食をする気はないからだよ……。芸は身を助けるとは云ふものの、深山へ這入《はい》つて、仙人のやうな仕事が身につくかどうかだ。ゆき子を道づれにして、容赦《ようしや》なく、女の思ひ出の伴奏者になりおほせてはゐるものの、ゆき子の持ち逃げした金にも、多少の魅力はあつたかも知れない。何しろ、神様の金だから、あらたかな御利益《ごりやく》はあるに違ひない。神は残酷《ざんこく》なほど公平だ……。雨樋から溢《あふ》れるやうな雨音を聞いてゐると、富岡は、一晩ぢゆうでも酒を飲みたくなるのだ。
女を愛する力はもう、すつかりなくなつてしまつたよと、富岡は、七八本の空《から》の徳利を床の間に並べ、女のつまらなさを、すつかり了解したやうな晴々しさで、ゆき子の寝床の裾《すそ》にへたばつてしまつた。夜更《よふ》けになつて、咽喉《のど》が焼けるやうに乾いた。鼻血でも噴くのではないかと、富岡は手さぐりで火鉢のやかんを取り、口をつけた。雨は、小降りになつたのか、雨滴《あまだれ》の間遠な音がしてゐる。
時計を見ると四時近い。富岡は、アルコールランプに火をつけて、注射針を出した。
富岡は頭がぐらぐらした。
これも一つの習慣である。世の中の看護婦の心理はこんなものであらうかと思つた。病人に対して、非常に無関心でゐながら、習慣で、夜中でも起きる。たゞそれだけの事だが、病人は、あたりまへのやうに、顔をしかめて、辛《つら》い表情だ。
「気分は、どうだ?」
「えゝ、大分いゝわ」
「雨があがつてるね」
「よくも、こんなに、雨の降るところだと、私、呆《あき》れてしまつてるの……」
「うん……」
「全く、しつつこい雨だわ」
「君の、思ひ出好き、みたいぢやないかい?」
「さうね……。さうかも知れないわ」
「二人とも、皮を剥《は》がれた兎かね?」
ゆき子は微笑した。
注射針をかたづけて、富岡はしめつた煙草に火をつけて、ぷうつとまづさうに吸ひつけながら、床の間の空《から》の徳利に手をのばしてゐる。
おせいの幻影が、眼のさきにちらつく。富岡は、一本一本、空の徳利に口をつけた。
「そんなに召し上りたいの?」
「うん、飲みたいね」
「私も、病気でなかつたら、飲みたいわ。ねえ、どうして、二人で、こゝへ来る気になつたンでせう?」
「勤めを持つたンだから仕方がないさ」
「どうして、こんな遠い処へ勤め口を持たなくちやならなかつたの?」
「そりやア、東京ぢやア食べられないからね。君こそ、少しよくなつたら、東京へ戻れよ……。えゝ?」
「戻つて、何をするの?」
「それは、判らない。君が、何をするンだか……」
ゆき子は、眼をつぶつた。痛い傷口に触れたやうな気がし、自分の病気が、何か特殊なもののやうな気もして来る。比嘉が、さかんにレントゲンを撮《と》りませうと云つてゐたが、ゆき子は撮らせなかつた。ポータブルの機械があるからと云つてくれたが、ゆき子は、自分の胸のなかを診《み》られるのは厭《いや》だつた。
「何時頃ですか?」
「もう、夜明けだ。五時だよ。こゝは、一年ぢゆう、雨の降る島かね?」
「どうなンでせうね」
「山の中へ這入つて働くより方法もないところだね。官舎も、昨日見て来たが、君一人でゐられるかどうかだ……。僕が、山へ這入つてしまへば、一週間位は、留守になつちまふンだぜ……」
「私も、山へ行けないの?」
「いかに何でも、さうはゆかないだらう」
「さうでせうね。でも雨さへ降らなければ、私、とてもいいところだらうと思ふンだけど、かう毎日、雨降りつてわけでもないでせうね……。こんな時、加野さんがゐてくれるといゝわ……」
「冥土《めいど》へ呼びに行くか?」
「呼びに行つて、帰らなかつたら、あなた、吻《ほ》つとなさるでせう?」
「吻つとするさ。女は何処にでもゐるからね」
「さうね。女つて、そんなものなのね。どんな立派な女だつて、男から見れば、そんなものなのだわ……。根本的に違つてるンだもの。女は何処にでもゐるなんて、口惜しいわ」
「口惜しかつたら、早く元気になる事だな。元気になつて、男と闘争するんだ。女の最大の武器でやるんだ……」
「憎らしい事を云ふひとだわねえ。昔から、毒舌家だつたけど、婦人代議士みたいな人達が聞いたら、怒りに来るわよ」
「婦人代議士……。僕は、婦人代議士なんか、女とも何とも思つちやゐないよ。そんなものがあるのさへ忘れてゐた」
アーメン(確かに)である。ゆき子は、腹を立てながら胸の手をのばして、富岡の手を探し求めた。
何時《いつ》までも、宿屋住ひも出来なかつたので、四日目に、雨の霽《は》れ間《ま》を見て、ゆき子は、官舎まで、タンカで運ばれて行つた。島の人達は、何事なのかと、運ばれて来る、タンカを覗《のぞ》きこんだ。
久しぶりに見る、青い空である。陽《ひ》も射してゐる。両側から差しよつてゐる樹木が、陽にきらきら光つてゐた。眼を開けてゐられないほど、まぶしい空の色である。冬の空とも思へないほど、青々と暖い色だ。
うねりくねつた道を、タンカは波になつて運ばれて行く。人声のないところで、眼を開けると、鶏がけたゝましく、人家へ逃げこんでゐる。町らしい町もない、部落の家々は、ほんの少し雨戸を開けてゐるきりで、まるで、仏印の安南人の部落そつくりだつた。ゆき子は頭を左右にまはして、不思議さうに四囲を眺めた。どの家も、雨戸を閉してゐる。榕樹に似た巨《おほ》きい樹のトンネルをくゞると、すぐ富岡の声がした。
「やア、御苦労さま……」
玄関の戸が、軋《きし》みながら開いた。タンカは躓《つまづ》きながら、家の中へ這入つて行つたが、天井の板は汚点《しみ》だらけで、板壁には新聞紙が張つてあつた。ゆき子は、こゝが官舎なのかと、眼を瞠《みは》つてゐる。
昼から、富岡は、トロッコで山へ行く事になつてゐた。一晩山で泊つて、明日の夕方、富岡は戻つて来るのだ。戦争未亡人だといふ子連れの女を、手伝婦に頼んであつたので、その女が、留守中のゆき子の面倒をみる事になつた。
何処で手に入れたのか、割合さつぱりした縞木綿《しまもめん》の蒲団が敷いてあり、鹿児島で買つた毛布が、敷布になつてゐた。畳はふちのない坊主畳。箱火鉢には、新しいニュームのやかんが湯気を噴きあげてゐる。
宿からとゞいた昼食を済まして、富岡はゲートルを巻き、山行きの身支度をして、出て行つた。レインハットをかぶり、汚れたレインコートを羽織り、しぼんだリユックを肩にしたところは、身支度の板についた山林官の姿である。スキー服で身を固めた登戸が迎へに来たので、富岡は、手伝婦に後を頼んで出掛けて行つた。全く、珍しくいゝ天気である。
「こんなお天気のよい日は、めつたにございません……。気持ちが晴々します。奥さま、お粥《かゆ》が出来てをりますが、召し上りますか?」
手伝婦は、血色の悪い顔をしてゐる。腹に虫でも湧《わ》いてゐるやうな、蒼黒《あをぐろ》い眼であつた。都和井のぶと云つた。良人が戦死して、九年になるのださうだ。
ゆき子は少しも食慾はない。
只、眼を開いて、雨戸の隙間《すきま》から青い空を眺めてゐた。富岡が冗談《じようだん》らしく、何処にも女はゐるのだと云つた一言にこだはつてゐる。あの男は、このまゝ図太く生き残つてゆくに違ひない。だが、ゆき子は、もう、何年も生きてゆける自分ではないのだと、心ひそかに思ふのであつた。近くの山で山鳩が啼《な》いてゐる。硯《すゞり》の肌を見るやうな紫色の、けづり立つた山が雨戸の隙間から見えた。
「小杉谷つて、よつぽど遠いのかしら……」
ゆき子が、のぶに尋ねてみた。ぽんかんの汁を絞《しぼ》つてゐたのぶは、むくんだやうな顔を挙げて、
「さうですねえ、二時間半位はかゝりませう。途中の大忠岳までが、一時間位のものでございますから……。それにしましても、いま小杉谷は、大変な雪ださうでございますから、旦那さま、お寒いでせう」と、云つた。
標高七百米の小杉谷の斫伐所《しやくばつじよ》附近では、平均気温が、十六度に下り、十二月から、春三月頃までは、積雪してゐるところである。
峨々《がゝ》たる高山の連《つら》なりのせゐか、一日中に、晴曇雨が交々《こもごも》来るところで、颱風《たいふう》の通路にあたるせゐか、屋久島は一年中、豪雨《がうう》に見舞はれ、村の財政は、窮乏に追ひこまれ、治水対策が、はかばかしく運ばれてゐないところであつた。
島の主要な財源は、五月の飛魚と、甘藷《かんしよ》と、甘蔗《かんしよ》と、林業である。
屋久島は、屋久杉で有名なところであつたが、こゝの杉材は、河川を利用して、河口へ押し出すといふわけにゆかないので、全部トロッコ運搬に寄らなければならなかつた。
一年中、雨と霧に巻かれてゐる杉は、年数をかなり経てゐるせゐか、水には浮かないのだ。トロッコで押し出した杉の原木を、船に積み込む時、一本でも海中に沈めたら、そのまゝ浮き上る力のない重量を持つてゐる。
「こんなに暖いところで、そんなに雪が降るンですか?」
「はい、小杉谷は、三月頃まで、スキーの出来るところなのです」
「あなたは、登つた事があるの?」
「いゝえ、途中の大忠岳までしか、行つた事はございません」
急に空が暗くなつて来た。
硯《すゞり》のやうにそぎ立つた山頂に、霧がまき始めた。ゆき子は、その山頂の霧の動きを見てゐるうちに、何とも云へない、悲しみを感じてゐた。かうした景色だけでは、自分のやうな人間は育たない気がした。一度、ぜいたくな事を知つたゆき子には、天井の汚点《しみ》や、新聞紙を張つた板壁には耐へられないのだ。東京へ戻れば、あらゆる文明が動いてゐる。だが、池袋のあの物置小舎の生活はどうなつたらう……。ジョウといふ男の思ひ出が、いまごろになつて、なつかしくゆき子の瞼《まぶた》に浮んで来た。大きい枕を抱へて来てくれたジョウが、寝物語りに――懐しき君よ。今は凋《しぼ》み果てたれど、かつては瑠璃《るり》の色、いと鮮《あざや》かなりしこの花、ありし日の君と過せし、楽しき思ひ出に似て、私の心に告げるよと、持つて来たラジオのスイッチからもれる、忘れな草の唄を、うたつてくれたものであつた。
その、小さいラジオを眼にとめて、富岡が、ダンス曲でも聴かせてくれと云つたが、ゆき子は、わざとダイヤルを戦争裁判の方へまはしたものだ。二世の発音で、
「貴下《あなた》、その時、どうお考へでしたか?」
といつた丁寧な言葉つきが、ラジオから流れると、富岡は、そんなラジオは胸が痛いから、アメリカのジャズでも、聴かしてくれとせがんだ。ゆき子は、むかつとして云つた。
「私や貴方もふくまれてゐるのよ、この裁判にはね。――私だつて、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現実に裁判されてゐる人達があるンだと思ふと、私、戦争つてものの生態を、聴いておきたい気がするのよ」ゆき子は、ジョウと知りそめた時が、十年も昔のやうな気がした。いまごろは、あの外国人は故郷へ戻つてゐるかも知れない。二人の言葉は充分ではなかつたが、お互ひの肉体が、お互ひの心を了解しあつてゐた。富岡が、皮肉を云つた時、ゆき子は、「貴方が、仏印で、ニウを愛したやうなものよ」と反駁《はんばく》したものだ。
考へてゐるうちに、ゆき子は、昔のすべてがなつかしかつた。ジョウとのつながりは、お互ひに、心を詮索《せんさく》しあふ必要のない明るさがあり、責任らしきものを喋《しやべ》りあふ、深刻さを持ちあはさないで済む気楽さがあつたからだと思つた。
トロッコの機関車へ乗り、運転手と並んだ富岡は、ぐわうぐわうと、ものすごい音をたてて狭いレールの上を押し登つて行く、自分の躯《からだ》が、まるで、宙吊《ちうづ》りにあつてゐるやうだつた。眼の下に、晴れて青い安房河《あんぼうがは》が、密林の奥深くへくねくねと光つてゐる。今日出来て来た、胸のポケットの名刺にある、農林技官といふ肩書が、富岡には、なにかおもはゆい。
「君、一服しない?」
運転手は、驚いたやうに、富岡を眺めた。眼の下は断崖絶壁だつた。羊歯《しだ》に似た、ヘゴといふ植物が富岡には珍しい。ダラットの奥地にもこの羊歯は到るところに繁つてゐた。内地の鬼羊歯に似てゐる。富岡は煙草に火をつけて、ハンドルを握つてゐる運転手の手に握らせてやつた。
右手の河底にある、安房の部落が、少しづつ樹林のなかへ消えて行く。トロッコは空中を走つてゐるやうなものであつた。機関車の後には、四輛《りやう》ばかりの無蓋《むがい》トロッコが連結して、その四台のトロッコには、米俵や、野菜や、郵便や、塩叺《しほがます》が積み込まれて、山へ行く営林署の樵夫《きこり》が五六人、寒さうに俵に腰をかけてゐた。登戸もそこに乗つて、大きい声で話しあつてゐる。
屋久島の、営林署の管轄《くわんかつ》になつてゐる土地は、二万ヘクタール位であつたが、すべて官有林であつた。仏印の個人の私有地にも足りない狭さだつたが、小さい島であつてみれば、土地なきところに、土地を求めるやうなもので、この狭い二万ヘクタールも、現在の日本にとつては、得難い宝庫であらう。朝鮮や台湾や、琉球列島、樺太《からふと》、満洲、此の敗戦で、すべてを失つて、胴体だけになつた日本は、いまでは、台所の隅々までも掘りおこして、大家族を養はなければならないのだ。
「山は寒いだらうね」
「今年は全国的に雪が多かつたさうですが、山も、たいそうな雪で、みんな、珍しいと云つてをります」
「冬支度をして来るンだつたな」
「山へ行かれましたら、着るものはあります」
「君、この島は東西どの位あるのかい?」
「さうです、東西六里、南北三里二十七町、と云つてをりますかな……。鹿児島から、九十七哩《マイル》離れてをるさうです。安房の町はぬくいところですが、山の上は、相当寒いです」
軍隊訛《なま》りで、運転手が説明した。左手の山脈は、眼に沁《し》みるやうな、赤い土肌をしてゐるところがある。相当、トロッコは、山の上に登りつめて来た。吐く息が白い。
山の上に、暗い廂《ひさし》のやうな雨雲が巻き始めたが、大粒な雨が降つて来た。後をふりむくと、トロッコの連中は、レインコートを被《かぶ》つたり、番傘を拡げたりしてゐる。
大忠岳へ着いた時は、相当の吹き降りになつた。トロッコの上に天幕を被せる為に、停車する事になつたが、寒さは相当きびしかつた。――小杉谷へ着いたのは夕方であつたが、山は暗くなり、みぞれのやうなものが降つてゐた。亭々とした杉の大樹が、うつさうと繁り、群落のやうに、斫伐所《しやくばつじよ》の小舎《こや》があつた。
富岡は、営林署の事務室に飛び込んで、ストーブにあたつた。登戸に事務室の人達を紹介して貰つた。今日はあいにくと発電所の故障だとかで、天井に、大きいランプが吊《つる》してあつた。
事務官の堺《さかひ》といふ、もう白髪をいたゞいた老人が、「昔は、こゝも、ほとんど朝鮮人労働者ばかりでしたが、今は全部日本人で、満洲、朝鮮からの引揚げ者に変り、アカハタ新聞が、五部ばかり、此の島へ送つて来るやうになつてをります。こんな島でも、一寸《ちよつと》、民主主義になつて、複雑になつて来ました。――世の中は随分変つたものですな……。声の高いものほど勢ひがよいのです。我々、老人は、もうこの山の上では、必要ではなくなりました。富岡技官も、まづ、木を伐《き》るよりも、弁論家にならなければ駄目ですな」
堺老人は、笑ひながら、さう云つて、富岡から煙草を一本貰つて、炉《ろ》の火をつけた。硝子戸は、暗くなつて来た。ひくい廂《ひさし》には氷柱《つらゝ》のさがつてゐるところもある。
サイゴンの街を出外れると、道は自然にキャデインの町へ這入《はい》つてゆく。こゝには日本の兵隊が沢山《たくさん》ゐた。こゝからビエンホアの町へ這入る間、甘蔗畑《かんしよばたけ》や、果樹園や、椰子《やし》、檳榔《びんらう》の生《お》ひ茂る、いくつかの小さい部落を抜けて、ドンナイ河に架《かゝ》つた、長い鉄橋を二つも渡つた。そして、美しいビエンホアの町だ。小さいホテルで、ゆき子は、加野と富岡と、三人で、こゝへ一泊した。仏蘭西《フランス》人のホテルで、メエゾン・ポアソンといふ家号だつた。看板には魚の尻尾だけが、大きく描かれてゐる。
丁度空襲があつて、発電所がやられたあとだつたので、三人は、花炎木の花盛りの黄昏《たそがれ》の庭で、食事をした。何処《どこ》かの植込みで、奇妙な野鳥が啼《な》いた。むせるやうな花の匂ひがした。庭の芝生は、黄昏《たそがれ》の光の底に、濡れたやうなグリーンで、ゆき子の白い靴先が、木の卓子の下で、富岡の足とたはむれてゐる。
むし暑い、寝苦しい夜で、遠くで、食用蛙の無気味な啼き声がしてゐる。じいつと、眼をすゑて考へてゐるうちに、ゆき子は、自分の胸におほひかぶさつて来た、富岡の躯の重さに、息苦しくなつてゐた。
森閑《しんかん》とした部屋の外に、そつと、鍵《かぎ》をまはしてゐる音、やがて、扉は開き、外の光のなかから、背の高い富岡が、扉の中の暗さへ消えてしまふ。白い蚊帳《かや》のなかで、わざと、激しく、ゆき子は、扇をつかつてゐた。二人の唇のなかには、さつき、芝生で飲んだ、シェリー酒の匂ひがこもつてゐる。此のホテルには、二組ばかり軍人も泊つてゐるのだ。ゆき子も富岡も、声一つたてないで、じいつと、お互ひの眼を暗がりの中で、みつめあつてゐた。獣めいた、光つた眼の底に、戦争とはかけはなれた、二人だけの、ひそかな愛情が、しみじみと二人の思ひを語りあつてゐるのだ。
窓の外に、大きな樹の実の落ちる音がした。二人は、その音にもおびえた。井戸の底にでもゐるやうな、静かな、高原のビエンホアのホテルの一夜は、ゆき子にとつては、夢の中にまで現はれて来る。房々とした富岡の頭髪の手触《てざは》りが、いまでもじいつと思ひをこらすと、掌《てのひら》のなかに匂つてきた。
翌日は、二人は、何喰はぬ顔で、自動車で、ダウジアイから、分岐点のジリンを経て、約四十キロのリボンのやうな官道にゆられてゐた。奥の方にはゆき子と加野が並び、安南人の運転手と富岡が、運転台に並んだ。加野は妙に不機嫌であつた。整然としたゴム林のなかを、強烈な太陽の漏れる緑のトンネルのなかを、自動車はジリン高原を走つた。
林業試験所のある、トラングボムで一寸《ちよつと》降りて、そこで、富岡と加野は、それぞれの用事を済ませて、また、自動車は、もの淋しい鉛色《なまりいろ》のうねうねとした官道を、すくんすくんと音をたてて走つて行く。この辺には、よく野象が飛び出して来るところもあると、安南人の運転手が云つた。巨大なバンラン樹が、黒々と群生してゐる、無気味な森林地帯だつた。
夢のなかで、ゆき子は、微笑しながら、その夢を追つかけてゐる。もう、二度と、あの青春は戻つては来ないのだ……。あの当時のまゝのものはもう帰らない。富岡も、ゆき子も、いまは、かうして、南の果ての、屋久島まで来てゐるのだけれども、二人は、あの時から、幾年か年を取つてゐた。――ゆき子は、耳もとにざはつく、雨の音を、樹海のそよぎのやうに、聞いてゐたが、それが、窓硝子《まどガラス》に、霧をしぶいてゐる雨の音だと判ると、ゆき子は、がつかりして、奈落《ならく》へ落ちこむ気がした。
ノアの洪水《こうずゐ》のやうに、家そのものが、ぞつぷりと、水浸しにあつてゐるやうだ。眼を閉ぢると、自分の皮膚の筋肉の間をとほつて、心臓の音が、いやに判然《はつき》りと耳についた。そして、時々、その心臓の音は、停つては、またとくとくと動く。耳を枕につけると、心臓の音は、人の足音のやうに大きく響いた。
四囲の空気を、さつと、刀で切りつけてやりたいやうな、じれじれした雨である。ゆき子は、ぴいんと、手足をのばしてみた。自分の寝棺は、どの位の大きさなのだらうかと、不吉な空想をしてゐる。さうして、心ひそかに、昨日山へ行つた富岡の帰りを、心待ちにして、ゆき子は全身が待つ事に集中してゐた。
比嘉《ひか》もなかなかやつて来てはくれない。ゆき子は、何故か、静岡へ手紙を出したかつた。継母へあてて手紙を書きたかつたが、考へてゐるうちにまた気も変つてくる。手伝婦の都和井のぶは、ゆき子の食事に就いては、少しも工夫をこらしてみようといふ気はないらしく、のりになつたまづい粥《かゆ》と、梅干一つに、時々、生卵を皿の上にごろりとのせて出すきりである。何となく、この都和井のぶと、富岡が、示しあはせてゐるやうな錯覚《さくかく》にとらはれて来るのだ。ゆき子は、この女から、解放されなければならないと思つた。殺されてしまふやうな気がして来る。
枕もとで、じいつと、本を読んでゐる都和井のぶの姿を、ゆき子は、時々、眼をあげて、眺めてゐた。戦死した良人に離れて、九年間も孤独をまもつて来た女らしく、如何《いか》にも意志の強さうなところがあるのだ。そのくせ、胸や、顎《あご》のあたりは、油が浮いて美味《うま》さうな女の肌をしてゐた。
何を読んでゐるのかと、ゆき子は、その本は、何かと聞きたかつたが声を出す事がものういのだ。毛布に、汗ばんだ手をごろりと出して眺めながら、ゆき子は、このまゝ、自分の生命の終りを、自分で、静かに感知出来るやうな気がした。
都和井が、本をそこへ置いて、玄関へ出て行つた。本は、富岡が、安房旅館から借りて来た、家庭医学の古本であつた。今日は、霧雨《きりさめ》にけぶつてゐるせゐか、硯のやうに、けづり立つた八重岳は見えない。ゆき子は、玄関へ出て行つた都和井の、白い足裏が気にかゝつてゐた。こゝの女達は、いつも裸足《はだし》である。砂地を踏むせゐか、女達の足の裏は、案外綺麗《きれい》で、別に水で足を洗ふでもなく、そのまゝ部屋の中へ上つて来るのだ。
ゆき子は、自分がこのまゝ亡《な》くなつてしまへば、富岡は、こゝで、都和井のぶと結婚をして、住みついてしまふかも知れない……。ゆき子は、さうした可能性のある、未来を予想出来た。二人が、そのやうに結ばれてゆくであらう過程を空想してゐるうちに、ゆき子は、胸もとに、激しい勢で、ぬるぬるしたものを噴きあげて来た。息が出来ない程の胸苦しさで、ゆき子は、ぐるぐると躯《からだ》を動かしてゐた。両手を鼻や口へ持つて行つたが、噴きあげるぬるぬるはとまらないのだ。息も出来ない。声も出ない。蒲団も毛布も、枕も、噴きあげる血のりで汚れた。
ゆき子は、このまゝ死ぬのではないかと思つた。分裂した、冷い自分が、もう一人自分のそばに坐つて、一生懸命、死神にとりすがつてゐるのだ。死神は、ゆき子の分身の前に現存してゐる……。この女の肉体から、あらゆるものが去りつゝあるのだと宣《の》べて、死神は、勝利の舞ひを、舞つてゐるやうでもあつた。胸中に去来するもののなかに、ゆき子は、かすかに、加野の誘ひの声を聞いた気がして、頭をかすかにふつた。いままでの生活のなかで、ゆき子は、未練に思ふやうな心残りなものは一つもなかつたし、いま、自分のそばに、富岡がゐてくれたにしても、もうすでに、冥府《めいふ》へ、自分だけの乗つた汽車は、走り去らうとしてゐる。最後の生命を貫流する、矢つぎ早な、肉体の破壊作用は、いつたい、どこから音をたてて崩れてゆくのか、ゆき子は、自分の死の最初を知りたかつた。苦しくあへいだ。水が飲みたかつた。無鉄砲なほど、健康だつた頃の、あの長い旅行の数々が、虹のやうに、とりとめなく瞼《まぶた》に浮んで来る。未知の世界へ逝《ゆ》く、不安と分裂と混乱が、ゆき子の十本の指のなかに、ピアノのキイを叩《たゝ》くやうな表情で、表現されてゐた。空洞になつた肺のなかに、泥々の血が溢《あふ》れてゐるやうな気持ちの悪さだ。
誰かが枕許《まくらもと》で、影をちらちらさせてゐた。その影がわづらはしく、ゆき子は、血みどろの顔を挙げて、その影をさけようとした。だが、その影は、人類破壊の稲妻のやうな、暗い光りをともなつて、ゆき子の額に、ちらちらと動いてゐた。
ノアや、ロトの審判が、雨の音のなかに、轟々《ぐわうぐわう》と、押し寄せて来るやうで、ゆき子は、その響きの洞穴《ほらあな》の向うに、誰にも愛されなかつた一人の女のむなしさが、こだまになつて戻つて来る、淋しい姿を見た。失格した自分は、もうこゝでは何一つ取り戻しやうがない。あの頃の自分は、どうしてしまつたのだらう……。仏印での様々な思ひ出が、いまは、思ひ出すだにものうく、ゆき子はぬるぬるした血をううつと咽喉《のど》のなかへ押し戻しながら、生埋めにされる人間のやうに、あゝ生きたいとうめいてゐた。ゆき子は、死にたくはなかつた。頭の中は氷のやうに冷くさえざえとしながら、躯《からだ》は自由にならなかつたのだ。
山の上は、珍しく土砂降《どしやぶ》りの雨だつた。富岡は、町へ降りるのを、一日のばして、事務所のストーブにあたり、山の人達五六人と、薯焼酎《いもせうちう》を飲んでゐた。里へ降りて、官舎へ戻る勇気はなかつた。ゆき子の病状は気にした事もあるまいと、酒の酔ひが強くなるにつれて、薄情になつてくる。
富岡は、この八重岳の山容は、仏印のアンコールトムのバイヨンに似てゐると思ひ、その頃の話をぽつりぽつり話してゐた。
「山の石肌には、巨大な、人面を現はした石積の塔が聳《そび》えてゐてね、部屋々々の石柱は、傾き、石粱《せきりやう》は落ちかけて、この山石の、廃墟《はいきよ》の前庭には、巨《おほ》きな樹が、倒れかけた擁壁《ようへき》を支へてゐるし、こゝの、杉のミイラと少しも変りはない。この王宮には、男女の生殖器の接合した、シバの象徴がまつつてあつたが、リンガとか云つたかな……。いろいろと、文明は発達してゆくンだが、このシバの大自在天は、人間最大の文明だね。この自在天のシバの秘密のなかから、アトミックボオンも生れたンだらうからね……」
山の人達は、話好きである。遠く外地の山林を視察した事のある、富岡の思ひ出話に耳をかたむけ、ストーブの上に煮えたつてゐるやかんのなかから、焼酎の徳利を何本も引きあげてゐる。
富岡は、薯焼酎の臭いのにもいまは馴《な》れてゐた。東京で飲む焼酎と違つて、頭にもこなかつたし、舌ざはりも案外いゝ。話はいつか女の話になつていつた。賄《まかな》ひの婆さんや、娘達が、げらげら笑ひながら、するめを裂いたり、鯖干《さばぼ》しに醤油をかけてくれたりしてゐる。富岡はかなり酔つた。耳もとに腕時計を押しつけてみても、その秒針の音が聞えない程、酔つてゐた。酔はなければ、心が耐へられない。心が耐へられないのではなく、あるひは、躯《からだ》が耐へられなかつたのかもしれない。背のひくい娘の丸々とした手首の青黒い肉づきが、ちらちらと眼を掠《かす》める。富岡は暫《しばら》く、女の肌《はだ》に触れた事はなかつた。娘の太い首まはりや、腰のふくらみ、足の甲の、紫色になつたのまでが、腹のなかにづきづきして来た。娘は紺飛白《こんがすり》のモンペに、緑色のジャケツを着てゐた。山には根雪が積り、小舎《こや》の外に出ると、雨はみぞれのやうに、頬に痛い雨粒だつた。さうした寒い山の上の生活で、娘は足袋もはかないで、小舎から小舎へ使ひ走つて行くのだ。
誰もゐなければ、抱き伏せてしまひたいやうな、弾力のある娘の躯が、富岡には眼ざはりでならなかつた。自分でも、このやうな気持ちになつた事は久しぶりであつた。娘の顔は、何処か、おせいに似てゐた。だが、過去はもう一切合財《いつさいがつさい》を灰にして、こゝまで来たのだと、富岡は、かひこ棚のやうになつた、三階のベッドへ登り、くるりと革のジャンパアをぬぎ、毛布の上に横になつた。娘の笑ひ声は、何時までも、富岡の耳にじやれつくやうに響いた。
ほんの少し、富岡はなやましい眠りをむさぼり、五時頃、眼を覚ました。ランプがついてゐた。階下で、富岡を呼んでゐるものがある。てすりから覗《のぞ》くと、町から電話だと云つて、奥さんがキトクだと知らせてくれた。富岡は、革のジャンパアを被《かぶ》り、梯子《はしご》を降りて、ストーブのそばで山靴をはいた。
「トロッコは出ないンでせう?」
「出します。下りは、流せばいゝでせうから、誰かつけてやります」
庶務の老人が引き受けてくれた。もう、四囲はとつぷり暮れかけてゐる。どこの山小舎にも、ちらちらと、ランプの燈《ひ》が明滅してゐた。雨は何時の間にか、雪になつてゐた。富岡は、レインハットの上から娘にかりた肩掛をぐるつと頬や首に巻きつけて、畳一畳ほどのトロッコへ乗つた。丁度明日入港する船で、鹿児島へ帰る学生と、カヂをとつてくれる樵夫《きこり》の若い男とで、トロッコにうづまつた。カンテラを富岡と学生二人が交互に持ち、樵夫が、その明りでカヂを押すのだ。
トロッコは、雷のやうな音をたてて、急な山道を流れて行つた。時々、トロッコは浮きあがる。そのスピードをセーヴしながら、若い樵夫は、「おつと、まつさかさまになるとこだ……」と、二人をおどかしたりした。一寸先も見えないやうな、暗い谷添ひのレールを、カンテラの灯が、すいすいと流れて行く。安房の町は、篠つくやうな雨が降つてゐた。
富岡が、やつとの思ひで、官舎へ戻つた時は、もう十時頃であつた。ゆき子は、亡くなつてゐた。富岡にもゆき子にも、初めて見る顔ばかりが、七八人も詰めかけてゐてくれて、ゆき子の臨終をみてくれたのである。富岡は四囲の人達に挨拶して、ゆき子の枕もとに坐り、ランプの光の中に、むくんだやうなゆき子の死顔を、暫《しばら》くみつめてゐた。誰かが、富岡のずぶ濡《ぬ》れのジャンパアをぬがしてくれた。
まだ、ゆき子の手は、胸で組みあはされてはゐなかつた。富岡は、妻の邦子にしてやつたやうに、固くなりかけてゐるゆき子の手を、そつと胸に組みあはせてやつたが、冷い手は、乾いた血で、汚れてゐた。顔だけを手伝婦が拭いてくれたのであらう。富岡は、ゆき子の手についてゐる血を見て、急に瞼につきあげる熱い涙にむせた。おせいの死、邦子の死、いままたゆき子の死だ。富岡は、ゆき子の躯《からだ》を激しくゆすぶつてみた。ゆき子の肉体には何の反応もなかつた。寄つて来てくれてゐた人達は、一人去り、二人去りで、番傘を拡げて戻つて行く傘の音が、窓ぎはの道を通つた。
「何時頃から、をかしくなつたンだ?」
都和井のぶは、ゆき子が、何時頃をかしくなつたのか、判然《はつき》りとは知らない。あの時、家庭医学の本を読んでゐると、自分が、どんなところを読んでゐるのか、病人は、何も彼も見透《みとほ》すやうな、無気味な眼色で、都和井の方をじろじろみつめてゐた。都和井のぶは、妊娠してゐたのだ。子供を生みたくはなかつたので、偶然、病人の枕許にある、家庭医学の本を取りあげてゐたのだ。その中に、合法的な、いろいろな方法が書かれてゐた。のぶは、これから、鹿児島に出て、かうした医者にかゝるには、どの位の金がいるのだらうかと胸算用をしながら、ぼおつと、考へ深くなり、何気なく、病人の顔を見下すと、薄眼を開けた、病人のむくんだ顔が、都和井には、ぞつとするやうな、怖ろしい顔に見えた。縁もゆかりもない、かうした病人のそばに、自分一人でついてゐる事にゐたゝまれなくて、都和井のぶは、さつと、裸足《はだし》で、雨の中を、自分の家に戻つて行つたのだ。
都和井のぶは、いゝかげんな事を云つた。だが、聞く方も、いゝかげんな事とは、判つてゐても、こんなになつてしまつた以上、どうにも方法はない、とあきらめてしまふ。ゆき子は、この島へ死にに来たやうなものであつた。富岡は、みとりに来てくれた人々に、引きとつて貰つた。のぶにだけ、ゐて貰ふつもりだつたが、のぶも、気持ち悪がつてゐる様子だつたので、富岡は引きとつてゆかせた。
ゆき子は、相当苦しんだとみえる。四囲の血の汚れが、富岡の眼をとらへた。
富岡は、何をする気力もない。次の部屋の火鉢に、しゆんしゆんと煮えたつてゐる湯を金盥《かなだらひ》にうつして、それにタオルを浸し、富岡は、ゆき子の顔を拭いてやつた。いつも枕もとに置いてゐるハンドバッグから、紅棒《べにぼう》を出して唇へ塗つてやつたが、少しものびなかつた。タオルで眉のあたりを拭つてゐる時、富岡は、何気なく、ゆき子の瞼《まぶた》を吊《つ》るやうにして、開いてみた。ゆき子の唇がふつと動いた気がした。「もう、そつとさせておいて……」と云つてゐるやうだ。雨は息苦しいまでに、板屋根に叩きつけてゐる。いつたい、どうしろと云ふンだらうと、富岡は、天井裏に、突き抜けて来さうな騒々しい音に、追ひたてられるやうな気がした。ゆき子の眼は、生きもののやうに光つてゐる。気にかゝつて、もう一度、富岡は、ゆき子の眼を覗きこんた。ランプをそばによせて、じいつと、ゆき子の眼を見てゐた。哀願してゐる眼だ。富岡は、その死者の眼から、無量な抗議を聞いてゐるやうな気がした。ハンドバッグから櫛《くし》を出して、かなり房々した死者の髪を、くしけづつて、束《たば》ねてやつた。死者は、いまこそ、生きたものから、何一つ、心づかひを求めてはゐない。されるまゝに、されてゐるだけである。
腕時計は十二時を指してゐた。
雨は一刻のゆるみもなく、荒い音をたてて、夜をこめて降りしきつてゐる。夜更けてから、富岡は、猛烈な下痢《げり》をした。息苦しい厠《かはや》に蹲踞み、富岡は、両の掌《てのひら》に、がくりと顔を埋めて、子供のやうに、をえつして哭《な》いた。人間はいつたい何であらうか。何者であらうとしてゐるのだらうか……。色々な過程を経て、人間は、素気なく、此の世から消えて行く。一列に神の子であり、また一列に悪魔の仲間である。
金網だけの厠の窓から、雨滴がしぶいてゐた。ローソクの灯が足もとにゆらめき、此の世の地獄を思はせるやうな下腹の痛みが、厠の臭気とともに、富岡の皮膚をびりびりと引き裂きさうだ。
この狭い枠《わく》のなかから、一歩も出て行けない、不可能さを、富岡は、自分への報《むく》いだと思つた。その不可能さは、一種のゲッセマネにまで到る。ゆき子の死そのものが、災難のやうな何気なさであつただけに、ゆき子の死の目的は、富岡にとつては、案外、不憫《ふびん》でいとしくもあるのだつた。これでは、東京で、自動車に跳《は》ねとばされるのと、何も変りはない。長く患《わづら》つて亡くなつたのなら、まだ、受難的な夢を、死者に考へる事も出来たのだが……。富岡は下腹をおさへて、這ふやうにして、部屋へ戻り、腰に毛布を巻いた。どつちが北枕かも判らなかつたが、いまは、死者は、富岡に、壁ぎはへ枕をうつして貰つて、平べつたくなつてゐる。新しい蒲団の上に、種子島製の鋏《はさみ》がのせてあつた。
此の島のなかでは、二人にとつて、誰も知り人はないのだつたが、島へ着いて知りあつた幾人かの人達は、富岡の留守に、ゆき子の死をみとつてくれたのである。富岡は不思議なものを感じてゐた。人間は、何処で、かうした災難を蒙《かうむ》るかも知れないのだ。だが、また、みとつてくれた人達の災難も亦《また》、人の世のをかしみなのだと、富岡は、台所から、今夜、都和井のぶに買はせておいた、焼酎を、出して来て、燗《かん》をして飲んだ。死んだ女を次の間に置いて、誰一人仲間のない酒盛の情は、宗教的な清々《すがすが》しさで、富岡の胸のなかを賑《にぎ》やかにしてくれる。
いまに、自分もまた、何時《いつ》の日かは、あの姿に行きつくのだがと、富岡は、そんな事を考へてゐたが、いま、ゆき子と一緒に、死ぬ気はしない。酔ふほどに、気持ちは少しづつ荒《す》さんで来た。しみじみと、人間的な、気の荒さみかたが、富岡には救ひだつた。酒の酔ひが全身にみなぎり、富岡は、自分の生命そのものに、有難い、まうけものをした興奮を感じてゐる。時々、空間から、死者のエーテルが光るやうな気がして、富岡は、じいつと、平べつたい寝床を眺める。死者は、森閑として動かない。
三人の女のうちで、この、ゆき子が、一番、自分に寄り添つてゐてくれてゐたやうな気がした。だが、この冷えたゆき子の躯《からだ》には、何の反応もないのだ。
二人の昔の思ひ出が、酔つた脳裡を掠《かす》め、富岡は、瞼《まぶた》を熱くしてゐた。少しづつ酔ひはすさまじくなり、富岡は、腹が焼けつくほど、焼酎をあふつた。何も食べないので、酔ひは相当の勢で、全身をめぐり、富岡は、独語しては酒を飲んだ。
風が出た。ゆき子の枕許《まくらもと》のローソクの灯が消えた。
富岡は、よろめきながら、新しいローソクに灯を点じ、枕許へ置きに行つた。面のやうに、表情のない死者の顔は、孤独に放り出された顔だつたが、見るものが、淋しさうだと思ふだけのものだと、富岡は、ゆき子の額に手をあててみる。だが、すぐ、生き身でない死者の非情さが、富岡の手を払ひのけた。富岡は、新しい手拭ひも、ガーゼもなかつたので、半紙の束を、屋根のやうに拡げて、ゆき子の顔へ被せた。
一ヶ月は過ぎた。富岡は、一週間程の休みをとつて、鹿児島へ出てみた。雨の少ない、からりと乾いた春さきの鹿児島は、まるで別世界である。まづ、富岡は、以前泊つた宿に着いた。少しの間に、女中達はすつかり変つてゐた。ゆき子と泊つた表の部屋へ案内された。偶然だつたので、富岡は不思議な気がした。
雨に濡れた時計の修繕を、時計を買つた家に頼みに行つたが、修繕する主人公が、怪我《けが》をして寝ついてゐるといふので、富岡は、仕方なく、他の時計屋へ持つて行つた。時計屋の帰り、富岡は比嘉医師のところへ寄つてみた。比嘉は在宅してゐた。富岡を覚えてゐた。薬臭い部屋に通されて、富岡はゆき子の死を報告した。比嘉も、何となく不安な病状だつたので、レントゲンを撮《と》りたかつたのだと云つてくれた。
病人のゆき子のゐない、二人の間は、富岡には、何となく息苦しくもある。富岡は、この一ヶ月すつかり、酒に溺《おぼ》れ、別人のやうに顔が変つてもゐた。煙草もひつきりなしに火をつけてゐる。部屋はもうもうとして来た。コオヒイが運ばれた。富岡は、久しぶりに文明にめぐりあふやうな気がして、香《かう》ばしいコオヒイに唇をつけた。比嘉は、「奥さんがお好きだつた、ドヴォルザァークの『新世界』をかけませう」と云つて、手製だと云ふ電蓄に、レコードをかけてくれた。
レコードを聴きながら、富岡は、ずうつと以前から、ゆき子が躯《からだ》をこはしてゐて、自分で判らなかつたのではないかと、比嘉に何気なく云はれた。
「どうです、貴方も一度、診てみませうか? 酒量も相当なンでせう?」
と、比嘉は笑ひながら云つた。
音楽を聴いてゐるだけで、富岡は、気が安まるのだ。夕方、比嘉は、寄り合ひがあるといふので、富岡は、再会を約して、医院を出たが、何処へ行くといふ宛《あて》もなかつた。人生はそれぞれに、他人の容喙《ようかい》を許さない、様々なアラベスクを持つてゐるものだと、富岡は、遠い島で考へてゐた、比嘉医師へのなつかしみも、いまは、少しばかり冷えて来てゐた。正常な、規則正しい医者だつたのである。On ne se soigne jamais trop ……、身を守る事にかぎりはなしである。富岡は、古本屋に寄つて、小説本でも買つて帰りたいと思つた。読んでみたいものは、ゾラ。ダラットの林野局に働いてゐた、混血児のタイピストが、ゾラの『居酒屋』を貸してくれたのを思ひ出してゐた。夕暮れの通りを、賑《にぎ》やかな天文館通りへ出て、富岡は、映画館の一つ一つを眺めてまはつた。狭い往来には、混血児的人種が、河水のやうに犇《ひしめ》き流れてゐる。かうした文明は、現在の富岡には、うつたうしくさへあるのだ。街裏へ這入《はい》つて、富岡は、女のゐる小料理屋へ這入つてみた。女達は、油つこい光つた化粧をしてゐた。富岡は、赤いイブニングを着た女が気に入つた。その女の酌《しやく》でビールを飲んだ。ビールが、こんなに美味《うま》いものとは思はなかつた。雨の降つてゐない、香ばしく乾いた夜気は、久しぶりに爽快だつた。女は糸のやうに細い眼をしてゐたが、あつぼつたい瞼《まぶた》の底からのぞく眼は、時々なまめかしく光る。手の甲が乳色をしてゐた。だが、色電気の下で見る女の赤い服は、かなり汚れてゐる。ギター弾《ひ》きが、赤いネッカチーフを首に巻いて、狭い土間に這入つて来た。
女は早口に、訛《なま》りの強い言葉で喋《しやべ》り、ギター弾きを追ひかへした。そのアクセントが、何となくゆき子に似てゐる。雨の浸《し》みこむ土の下に、土葬をしたゆき子の、あの時のおもかげが、富岡の胸に焼きついてゐるのだ。それにしても、あの強い、一つの生命は、ほろびた。そしてまた、こゝにも、あらゆるまどはしの麦は芽を噴いてゐる。性《しやう》こりもなく、情緒に誘はれるアダム……。神は無数に種子を蒔《ま》いた。収獲は、たゞ、「おのづから」なる力にすがつて育つてゐるだけだ。富岡は、またゝくまに、半ダースばかりのビールを空《から》にして、女に、二階へ引きずりあげられて行つた。
夜更けになつて、富岡は、女に送られて宿へ戻つたが、案外、真面目な女だつたとみえて、宿に預けた以外の富岡の財布は、まだ、かなり残つてゐた。みんな、ゆき子の残していつた、あの時の金である。富岡は、乾いた寝床へ、洋服のまゝもぐりこんで、石のやうに重たくなつてゆく、自分の考へを追つてゐた。
屋久島へ帰る気力もない。だが、ゆき子の土葬にした亡骸《なきがら》をあの島へ、たつた一人置いて去るにも忍びないのだ。それかと云つて、いまさら、東京に戻つて何があるだらうか……。
富岡は、まるで、浮雲のやうな、己れの姿を考へてゐた。それは、何時《いつ》、何処《どこ》かで、消えるともなく消えてゆく、浮雲である。
(昭和二十四年十一月―二十六年四月)
底本:「筑摩現代文学大系 39 佐多稲子 林芙美子 集」筑摩書房
1978(昭和53)年1月15日初版第1刷発行
初出:「風雪」
1949(昭和24)年11月~1950(昭和25)年8月
「文学界」
1950(昭和25)年9月~1951(昭和26)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿部哲也
校正:酒井和郎
2016年5月15日作成
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小書き片仮名ヱ
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