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狐
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狐

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evame2024. 12. 27.

author: 岡本 かの子

非有想非無想処――大智度論

時は寛保二年頃。

この作中に出る人々の名は学者上りの若い浪人鈴懸紋弥。地方藩出の青年侍、鈴懸の友人二見十郎。女賊目黒のおかん。おかんの父。

         一

上目黒渋谷境、鈴懸の仮寓、小さいが瀟洒《しょうしゃ》とした茶室造り、下手《しもて》に鬱蒼《うっそう》たる茂み、上手《かみて》に冬の駒場野を望む。鈴懸、炉《ろ》に炬燵《こたつ》をかけて膝を入れながら、甘藷《かんしょ》を剥いて食べている。友人の二見、椽《えん》に不動みやげ餅花と酒筒を置いて腰かけている。

――芝の三田から中目黒の不動堂へ参詣《さんけい》して、ここまで尋ねて来るのに半日かかった。だがこの目黒というところはなかなか見どころの多いところだ。

――そうかね。住み馴れてしまうと面白くもないが、貴公は始めてだからだろう。

――あの行人坂とかいうきつい坂を下りたところの川の両側から畳み出した石の反《そ》り橋があるの、ありゃ珍らしい。

――この辺では太鼓《たいこ》橋といっとる。木食《もくじき》上人が架けたというが、たぶん、南蛮式とでもいうのだろう。

――白井権八小紫の比翼塚の碑があった。

――十年ばかり前に俳諧師が建てたというね。上方《かみがた》の心中礼讃熱が江戸にも浸潤して来た影響かな。心中する者より碑を建てる側の方がよほど感傷家だ。

――しばらく逢わなかったが、貴公、すこし窶《やつ》れたようだ。

――そうかな。自分ではあんまり気がつかんけれど。

――一たい、こういう生活で満足しとるのか。佗《わび》しそうだな。

――割合いに楽しいのだ。

――当時和漢洋の学者、青木昆陽先生の高弟で、天文暦法の実測にかけては、西川正休、武部彦四郎も及ばんという貴公が、どうしたことだ。

――実学も突き詰めてみると、幻の無限に入って仕舞う。時と場合と事情に適応した理論が、いつでも本当ということになる。この無限の大自在所に突き抜けてみると、ありがたいが、おれ見たいな人間には少し寂しい気がする。それでまあ、おれのパトロンの青山修理のこの抱地に一軒空いてる小屋があるというので、引込んだのさ。

――引込んだらなお寂しいだろう。

――こうやって眼を開いて、うつらうつら夢をしばらく見てるのだ。

――卑怯《ひきょう》な逃避趣味だね。

――そういう貴公が、こどもらしい餅花など買っているじゃないか。

――こりゃちょっときれいだったので。

――ご同様さまだ。

――どうも手に負えんな。

――何ももてなしがない。これでも食うて見るか。この向うの御用屋敷内の御薬園で出来た甘藷だ。

――これが評判のさつま芋というものか。町方では毒になるといったり、薬になるといったり、諸説まちまちだ。河豚《ふぐ》は食いたし、命は惜しだな。

――貴公までそんなことをいう。やがて三つ児まで、駄菓子のように食い出すよ。

――こりゃあやしいまで甘い。だが怖い気もする。

――怖い気がするからあやしいまでうまいのだ。

――はあ、そうかも知れん。おっと忘れていた。貴公に土産《みやげ》を持って来た。上酒だぞ。

――ほほう、そりゃ忝《かたじ》けない。しばらく酒も飲まんな。折角の酒を何も肴《さかな》がのうては。

――(空の具合を見廻して)どうだ、この黄昏《たそがれ》の冬木立を賞美しながら、雑司ヶ谷あたりまで行かんか。あすこなら、芋田楽《いもでんがく》なり雀焼なり、何ぞ肴が見付かろう。

――そういう風流気はないが、貴公行きたければ同伴しよう。

――戸締りはせんのか。

――盗人が入っても盗らるるものは只今剥き捨てた甘藷の皮ばかりだ。

――は、は、は、は、は。

――は、は、は、は、は。

         二

欅《けやき》の並木の間に葭簾《よしず》で囲った茶店一軒。

遠見に鬼子母神の社殿見ゆ。

――冬の月、骨身に沁みて美しいが、生憎《あいにく》と茶屋は締ってしまった。

――こんな時刻に来るものはあるまい。あれば、大概、無理な願かけの連中ぐらいだ。

――もしもし。

――呼んだのは、君か、すこぶる美女だな。

――何の用ですか。

女あたりを見廻して

――誰も聞いてるものは居ないでしょうか。少し内密咄《ばな》しなのですが。

――見らるる通り、あたりに人影とてはない。在るものは欅並木に、冬の月、仕舞って帰った茶屋の婆が、仕舞い忘れた土産の木菟《みみずく》。形は生ものでも実は束ねた苅萱《かるかや》。これなら耳があったとて大事なかろう。

――では申し上げます。わたしは人間ではございません。狐でございます。

――さては評判のこの界隈《かいわい》の狐だな。

――狐、結構、だがめったに正体を現わすな。いつまでもその美女のままでいて呉れ。

――お恥かしうございます。

――はにかむところは一入《ひとしお》艶だ。

――おれは、君ほど観照してる余裕はない。女狐さん用ならさっさと話して呉れ。

――では申し上げます。お頼みがあるのでございますが……。

――ちょっと待った。あらかじめ聞いて置くのだが、その頼みの筋というのは色っぽいことか、それとも野暮なことか。

――野暮なことでございます。

――そうか。そいつはどうも、気がないな。

――いえ、場合によっては、色っぽくならないものでもございません。

――なるべく、その方に頼むよ。

――何を呑気《のんき》なことを云ってるのだ。さあ早く話を聞こう。(と二見)

――わたくしに夫がございます。狐の夫でございますから、男狐なのでございます。

――ふむ、君の連れ合いのことだから、狐にしてもさぞ美しい若狐だろう。

――わたくしの口から申すも憚《はばか》られますが、鼻筋凜々《りり》しく通り、眼は青みがかった黒い瞳で、口元の締り方に得も云われぬ愛嬌がございます。(女、鈴懸を指し)とんとこちらを狐にしたような男振り。

――二見氏、おれは狐にしたらよい男振りだそうだ。

――気持ちの悪いことをいう。君までが狐が化けてるように見えて来たぞ。早く話を進行さして呉れ。

――それから、女狐さん、どうした。

――三日前の夜の明けないうちでございます。夫はいつも通りわたくしに寝鳥の肌ぬくい締め立てでも銜《くわ》えて来て、私の朝飯に食べさそうと、目白あたりまであさり廻るうち、鈍《おぞ》くも狐師の七蔵に生捕りにされたのでございます。

聞けば注文するものもあって、夫狐は売り渡されたが最後、生肝《いきぎも》をとらるる由《よし》なそうにございます。

――それは、さぞ、心痛なことであろう。だがここが肝腎なところだ。一体狐にもそういう場合に、人間と同じように愁嘆があるものか知らん。

――ご冗談仰言《おっしゃ》っては困ります。生きとし生けるものの嘆きに人《ひと》、けだものの変りがございましょうか。

――だったら、一つ試しに詳しく聞かして呉れ給え、参考になる。そうなあ、狐には通力というものがあるそうだから、一つその嘆きを形の振りごとにして示して貰い度い。すりゃわたしたちに取っても稀代《きたい》の見聞さ。

――拙《つたな》い手振り、恥しながら、夫の身のため……。

――二見氏、その酒筒を出せ、この床几《しょうぎ》に腰かけて一ぱいやりながら、見物しよう。

――ばかばかしい。それこそわざと狐に化かされることの深味へ嵌《は》めて呉れと注文するようなものだ。気がついて見れば、あしたの朝は小川の行水にでもつかっているぞ。

――まあ任して置け、こっちへ来い。

――では……。

女、唄い乍《なが》ら舞う

唄※(歌記号、1-3-28)

元《もと》よりこの身は畜生の。人にはあらぬ悲しさの。添うに添われぬ夫婦の道よ。迷ぞ深き身の上の。思いの種とやなりやせん。いとど心はうば玉の夜の寝伏《ねぶ》しの手枕や手枕や

――やんややんや、この頃市村座でやっている「振袖信田《しのだ》妻」二番目の所作唄だな。

――いくら化されぬよう要心していても、只今の踊りにはついうっとり見惚《みと》れてしまった。

――女狐さん、まあ、こっちへ来て一ぱいやらぬか。

――有難うございますが、夫の身の上案じられて、ささも喉《のど》へは通り兼ねます。

――そりゃそうなくてはならぬ筈じゃ、気の毒なことじゃ、身共たちに頼みとは、その男狐を助ける助太刀でもしろと望まるるか。

――義侠のお侍さまと見込んで、お情に縋《すが》ります。どうか、その男狐を七蔵がところへ行き、十両の身代金をお払い下さいまして、籠《かご》からお放ち下さいませ。

――十金か、こりゃ大金だ。なあ、鈴懸氏。

――浪人の身の上では、そうとう荷が勝ち過ぎるて。まあ、よい、何とか算段しよう。

――おいおい、引受けてよいのか。

――だが女狐さん。あんたの夫を助けることは引受けたが、これには何か引宛《ひきあ》てがありそうなものだ。早く云えば、助けて上げる代りのお礼が。

――あなたさまの御立身出世、もし、ご家内さま、お子さまがおありなら、一生ご無事息災、末々お家繁昌の運をお授けいたします。

――は、は、は、は、家内もなし、子もなし、そのどれも一向わしには望みでないな。もっと直ぐに役立つものが欲しい。

――では、早速、明後日にも、大藩からよき禄高で召抱えの手引きでも。

――それも欲しくないな。

――他にお礼の心当りもございません。そちらから仰言って下さいませ。

――男狐を放してやったその礼には、冬の夜永の炬燵酒、一夜だけ私の望むままの話相手になって貰いたい。正体の狐じゃ困る。やっぱり只今通りの美女に化けてだ。

――すりゃ、夫のある身を。

――人間道では許されぬことだが、畜生道ならたいした障《さわ》りでもあるまい。兎角《とかく》、人の持ちものには食指の動く方でな。

女決心した思い入れあって

――ええ、よろしゅうございます。夫のためには遊里へ身を沈める慣《なら》いさえございます。

――無理を聞き入れて貰って何より頂上。では早速、明日にも男狐を救い出しに出かけよう。その狐師の家はどこだね。

――目黒不動裏の藪陰《やぶかげ》でございます。門に野犬の皮が干してあるのが、七蔵の家。

――しかと承知した。して、そなたが礼に来て呉れる夜は。

女艶にはにかむ嬌態をしながら

――日もつごもりの晦《みそか》ごと、闇を合図にとんとんと、霰《あられ》まじりに戸を叩いたら、それを合図と思召《おぼしめ》して下さい。

――確《しか》と約束いたしたぞ。

――では、お暇《いとま》させていただきます。したが、あなたさまは何で先程からわたくしの足元ばかりご覧《ろう》じてでございます。

――一たい狐狸の化けたのは、人間の姿はしていても地に敷く影は正体のままと聞いたが、そなたは影までたおやかな女の影、よほど行亙った化け方と感心して見ていたのさ。

女どきっとして足を引すぼめ、

――えっ。

――まあよろしい、早く行きなさい。

――では、お二方、ご免遊ばせ。

女去る

――呆れたな君は。狐を一晩引張り込む約束をするなんて、物好きにも程がある。

――まあ、いいから任して置け。ときに暁方近くなって、だいぶ寒くなった。落葉でも掻き集めて来い。焚火《たきび》してあたろう。

         三

再び鈴懸の仮寓。夜更《よふ》け、燈火の灯影に鈴懸炬燵にあたって、仮寝している。霰の音。戸を叩く音。

――誰だ戸を叩くのは。

――あの……ちょっと、お開け下さいまし。

――若い女の声だな。

――人に見られては難儀いたします。早く開けて入れて下さいまし。――もし。

――誰だか判らんものを、そう無闇に入れられるか。

――おや、もうお忘れでございましたか――あの――雑司ヶ谷でお目にかかったおんな――いえ――女狐でございます。夫を助けていただいたお礼に参りました。

――そうそう。そんなことがあったっけ、なるほど約束したな。ちょうど霰も降る夜だ。

――早くお入れ下さいまし。

――よしよし、いま待て。

――いくら畜生でも、まことのこころ、恋ごころ、化けていられぬ場合もございます。

――では、正体現すときもあると申すか。

――さあさあ、あの雑司ヶ谷でお目にかかったとき、はじめはそれほどと思いませんでしたけれど、だんだんあなたさまの仕方、なされ方、もし、真実わたくしに誑《たぶら》かされていられるなら、こんないじらしいことはない。したがもし万事承知の上で誑かされたふうをしていられるなら、こんな底気味悪くも頼母《たのも》しいお方はない、どちらにしても、とつおいつのお慕わしさ、恋しさが募れば化狐より本性の女ごころのうぶに還り、いっそこの上は真実この身の正体をと……。

――どうしたと。

――わたくしは、もとから狐でも夫持ちでもご、ご、ございません。(泣き伏す)

――ばかな女、いや狐だな。今更、それを聞いておれが悦んだり慰んだりすると思うのか。人並の恋がしたけりゃこのわたしとて、今までに随分相手の女もなくはなかった。

――ねたましいことを仰言しゃいます。

――結ぶの恋は破れる恋ともなる。それが判り切った嫌さに、ひとりもので甘藷を噛《かじ》って、炬燵へあたっている仕儀だ。狐の化けた女というなら、その実体のない美しさに賞《め》でて、一晩位は相手になってつき合う積りだが。

――すりゃ、どうあってもわたくしの正体を知ろうとはなさりませず……。

――なまじ正体を現したら最後、八州の役人へ引渡すぞ。

――(女思い入れあって)仕方がございません。一夜なりともお側に置いて頂きたさに、やっぱり私は狐の化けた女で居りましょう。ですから、どうぞ――可愛がって……

――は、は、は、は、そうと決まれば、そうか、そこでは寒かろう。じゃまあこっちへ寄るが好い。

手をとる。女うれしき嬌姿あり。このとき二見雨合羽にて抜き足、差し足、来て戸の隙より覗く。

――よもやと思ったに、おのれ女め、図々しくも来おったか。

戸を剥《はが》して入る。女、飛び上り、窓を破って逃げ、竹藪に入る。

――誰が闖入《ちんにゅう》したのかと思ったら、二見か。なぜ乱暴するのだ。

――貴公はまだ知らぬのか。あの女は目黒のおかんといって、この界隈で有名な女賊だ。

――ふーむ、そんなことはあるまい、どうして、

――どうしても、こうしてもあるものか。おれはあの夜から、どうも臭いと思ったので、この間貴公が十金携えて、男狐を逃がしてやったというその目黒不動裏の七蔵という猟師の家を、試しに尋ねて見たところが、案の定、真赤な偽り、ただ普通の農家が一軒あるばかりで、その農家の主に聞けば、ちょうど先の日、貴公が十金携えて、あの家尋ねた前後の時だけ、狐の籠に入れたのを携え、椽先だけを借りに来た老人があったという。さすれば、雑司ヶ谷のかの女は、その老爺と諜《しめ》し合せて、狐のたくらみごとで十金の詐偽《さぎ》。貴公より十金誑し取ったに決った。そこであのあたりなおも処々尋ね廻り、きくところによると、あやつ、芸人上りの老父と心を合せ、同じ夫狐救い出しの狡計で、ほかに欺《あざむ》いた人も少なからずあるらしいということだ。

――それを知って貴公はどこが面白い。

――貴公はまた誑かされてどこが面白い。

――おれは十金で美しい夢を購ったつもりだが。

――えっ。

――だが、あの女はやっぱり狐じゃぞ、(大きな声にて)もしまだその辺にいるなら、その狐は女でない証拠にこんこんと鳴く筈だ。いやさ、女狐というものは恋い初め男のいうことは何でも素直にきくものだわ。やい、もしその辺に居らば一つ鳴いて見ろ、これ女狐……

おかん、藪の中にて袂《たもと》を食いしばり忍び泣きを我慢しつつ

――は、はい……こん……こん。

――どうだ二見氏。

――妙だな。

――いや、あの鳴声を聞くと、さすが強気のおれも腹に沁みて、狐恋しうなる。(腕組)おれも鳴いてみたくなった。(恨然《ちょうぜん》として)こん、こん。

霰の音激しくなる……

――こん、こん……、こん……

――こん、こん……こん、こん……

鈴懸のこん、こん、と藪の中の女の泣き乍らのこん、こん、と交り合いつつ

底本:「岡本かの子全集4」ちくま文庫、筑摩書房

   1993(平成5)年7月22日第1刷発行

底本の親本:「巴里祭」青木書房

   1938(昭和13)年11月23日

初出:「文学界」

   1938(昭和13)年1月号

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2010年3月2日作成

青空文庫作成ファイル:

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