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石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓《つくえ》のほとりはいと静かにて、熾熱燈《しねつとう》の光の晴れがましきも徒《あだ》なり。今宵《こよい》は夜ごとにここに集《つど》い来る骨牌《カルタ》仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余《よ》一人《ひとり》のみなれば。五年前《いつとせまえ》の事なりしが、平生《ひごろ》の望み足りて、洋行の官命をこうむり、このセイゴンの港まで来《こ》しころは、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく、筆に任せて書きしるしつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけん、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもえば、穉《おさな》き思想、身のほど知らぬ放言、さらぬも尋常《よのつね》の動植金石《どうしょくきんせき》、さては風俗などをさえ珍しげにしるししを、心ある人はいかにか見けん。こたびは途《と》に上《のぼ》りしとき、日記《にき》ものせんとて買いし冊子《さっし》もまだ白紙のままなるは、独逸《ドイツ》にて物学びせし間に、一種の「ニル・アドミラリイ」の気象をや養い得たりけん、あらず、これには別に故《ゆえ》あり。
げに東《ひんがし》に還《かえ》る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなお心に飽き足らぬところも多かれ、浮世《うきよ》のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言うも更《さら》なり、われとわが心さえ変わりやすきをも悟り得たり。きのうの是《ぜ》はきょうの非《ひ》なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰《たれ》にか見せん。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
ああ、ブリンヂイシイの港を出でてより、はや二十日《はつか》あまりを経ぬ。世の常ならば生面《せいめん》の客にさえ交わりを結びて、旅の憂《う》さを慰めあうが航海の習いなるに、微恙《びよう》にことよせて房《へや》のうちにのみ籠《こも》りて、同行の人々にも物言うことの少なきは、人知らぬ恨みに頭《かしら》のみ悩ましたればなり。この恨みは初め一抹《いちまつ》の雲のごとくわが心をかすめて、瑞西《スイス》の山色をも見せず、伊太利《イタリア》の古蹟《こせき》にも心を留《とど》めさせず、中ごろは世をいとい、身をはかなみて、腸《はらわた》日ごとに九廻《きゅうかい》すともいうべき惨痛をわれに負わせ、今は心の奥に凝《こ》り固まりて、一点の翳《かげ》とのみなりたれど、文《ふみ》読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響きのごとく、限りなき懐旧の情を喚《よ》び起こして、幾度《いくたび》となくわが心を苦しむ。ああ、いかにしてかこの恨みを銷《しょう》せん。もし外《ほか》の恨みなりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地《ここち》すがすがしくもなりなん。これのみはあまりに深くわが心に彫《え》りつけられたればさはあらじと思えど、今宵《こよい》はあたりに人もなし、房奴《ぼうど》の来て電気線の鍵《かぎ》をひねるにはなおほどもあるべければ、いで、その概略を文に綴《つづ》りてみん。
余は幼きころより厳《きび》しき庭の訓《おし》えを受けし甲斐《かい》に、父をば早く喪《うしな》いつれど、学問の荒《すさ》み衰うることなく、旧藩《きゅうはん》の学館にありし日も、東京に出でて予備黌《よびこう》に通いしときも、大学法学部に入《い》りし後も、太田豊太郎《おおたとよたろう》という名はいつも一級の首《はじめ》にしるされたりしに、一人子《ひとりご》の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳《とし》には学士の称を受けて、大学の立ちてよりそのころまでにまたなき名誉なりと人にも言われ、某《なにがし》省に出仕して、故郷なる母を都《みやこ》に呼び迎え、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚え殊《こと》なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、わが名を成さんも、わが家を興《おこ》さんも、今ぞとおもう心の勇み立ちて、五十を踰《こ》えし母に別るるをもさまで悲しとは思わず、はるばると家を離れてベルリンの都に来ぬ。
余は模糊《もこ》たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、たちまちこの欧羅巴《ヨーロッパ》の新大都の中央に立てり。なんらの光彩ぞ、わが目を射んとするは。なんらの色沢《しきたく》ぞ、わが心を迷わさんとするは。菩提樹下《ぼだいじゅか》と訳するときは、幽静なる境《さかい》なるべく思わるれど、この大道髪《かみ》のごときウンテル・デン・リンデンに来て両辺なる石だたみの人道を行く隊々《くみぐみ》の士女を見よ。胸張り肩聳《そび》えたる士官の、まだ維廉《ウィルヘルム》一世の街《まち》に臨める窓に倚《よ》りたもう頃なりければ、さまざまの色に飾り成したる礼装をなしたる、妍《かおよ》き少女《おとめ》の巴里《パリ》まねびの粧《よそお》いしたる、かれもこれも目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青《アスファルト》の上を音もせで走るいろいろの馬車、雲に聳《そび》ゆる楼閣の少しとぎれたるところには、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲《みなぎ》り落つる噴井《ふきい》の水、遠く望めばブランデンブルゲル門を[#「ブランデンブルゲル門を」は底本では「ブランデンブルク門を」]隔てて緑樹枝をさし交《か》わしたる中より、半天に浮かびいでたる凱旋塔《がいせんとう》の神女の像、このあまたの景物目睫《もくしょう》の間《かん》に聚《あつ》まりたれば、始めてここに来《こ》しものの応接にいとまなきも宜《うべ》なり。されどわが胸にはたといいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動かさじの誓いありて、つねに我を襲う外物を遮《さえぎ》り留《とど》めたりき。
余が鈴索《すずなわ》を引き鳴らして謁《えつ》を通じ、おおやけの紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西《プロシヤ》の官員は、みな快く余を迎え、公使館よりの手つづきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教えもし伝えもせんと約しき。喜ばしきは、わが故里《ふるさと》にて、独逸《ドイツ》、仏蘭西《フランス》の語を学びしことなり。彼らは始めて余を見しとき、いずくにていつのまにかくは学び得つると問わぬことなかりき。
さて官事の暇《いとま》あるごとに、かねておおやけの許しをば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めんと、名を簿冊《ぼさつ》に記《き》させつ。
ひと月ふた月と過《すぐ》すほどに、おおやけの打ち合せもすみて、取調べも次第に捗《はかど》り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、ついには幾巻《いくまき》をかなしけん。大学のかたにては、穉《おさな》き心に思い計りしがごとく、政治家になるべき特科のあるびょうもあらず、これかかれかと心迷いながらも、二、三の法家の講筵《こうえん》に列《つら》なることにおもい定めて、謝金を収め、往《ゆ》きて聴きつ。
かくて三年《みとせ》ばかりは夢のごとくにたちしが、時来《きた》れば包みても包みがたきは人の好尚《こうしょう》なるらん、余は父の遺言を守り、母の教えに従い、人の神童なりなど褒《ほ》むるが嬉《うれ》しさに怠らず学びし時より、官長の善《よ》き働き手を得たりと奨《はげ》ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、すでに久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなくおだやかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、ようよう表にあらわれて、きのうまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余はわが身の今の世に雄飛すべき政治家になるにもよろしからず、またよく法典を諳《そらん》じて獄を断ずる法律家になるにもふさわしからざるを悟りたりと思いぬ。余はひそかに思うよう、わが母は余を活《い》きたる辞書となさんとし、わが官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらんはなお堪《た》うべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々《ささ》たる問題にも、きわめて丁寧《ていねい》にいらえしつる余が、このころより官長に寄する書《ふみ》にはしきりに法制の細目にかかずろうべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々《ふんぷん》たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。また大学にては法科の講筵をよそにして、歴史文学に心を寄せ、ようやく蔗《しょ》を嚼《か》む境に入《い》りぬ。
官長はもと心のままに用いるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想をいだきて、人なみならぬ面《おも》もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危うきは余が当時の地位なりけり。されどこれのみにては、なおわが地位を覆《くつがえ》すに足らざりけんを、日ごろ伯林《ベルリン》の留学生のうちにて、ある勢力ある一群《ひとむ》れと余との間に、おもしろからぬ関係ありて、かの人々は余を猜疑《さいぎ》し、またついに余を讒誣《ざんぶ》するに至りぬ。されどこれとてもその故なくてやは。
かの人々は余がともに麦酒《ビール》の杯をも挙げず、球突きの棒《キュー》をも取らぬを、かたくななる心と欲を制する力とに帰して、かつは嘲《あざけ》りかつは嫉《ねた》みたりけん。されどこは余を知らねばなり。ああ、この故よしは、わが身だに知らざりしを、いかでか人に知らるべき。わが心はかの合歓《ねむ》という木の葉に似て、物触《さや》れば縮みて避けんとす。わが心は処女に似たり。余が幼きころより長者の教えを守りて、学びの道をたどりしも、仕えの道をあゆみしも、みな勇気ありてよくしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、みな自ら欺き、人をさえ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、ただ一条《ひとすじ》にたどりしのみ。よそに心の乱れざりしは、外物を棄《す》ててかえりみぬほどの勇気ありしにあらず、ただ外物に恐れて自らわが手足を縛《ばく》せしのみ。故郷を立ち出づる前にも、わが有為《ゆうい》の人物なることを疑わず、またわが心のよく耐えんことをも深く信じたりき。ああ、彼も一時。舟の横浜を離るるまでは、あっぱれ豪傑と思いし身も、せきあえぬ涙に手巾《しゅきん》を濡《ぬ》らしつるをわれながら怪しと思いしが、これぞなかなかにわが本性なりける。この心は生れながらにやありけん、また早く父を失いて母の手に育てられしによりてや生じけん。
かの人々の嘲《あざけ》るはさることなり。されど嫉《ねた》むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。
赤く白く面《おもて》を塗りて、赫然《かくぜん》たる色の衣をまとい、珈琲店《カッフェー》に坐して客をひく女を見ては、往《ゆ》きてこれに就《つ》かん勇気なく、高き帽を戴《いただ》き、眼鏡《めがね》に鼻を挟ませて、普魯西《プロシヤ》にては貴族めきたる鼻音《びおん》にて物言う「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。これらの勇気なければ、かの活溌《かっぱつ》なる同郷の人々と交わらんようもなし。この交際の疎《うと》きがために、かの人々はただ余を嘲り、余を嫉むのみならで、また余を猜疑《さいぎ》することとなりぬ。これぞ余が冤罪《えんざい》を身に負いて、暫時の間に無量の艱難《かんなん》を閲《けみ》し尽くす媒《なかだち》なりける。
ある日の夕暮れなりしが、余は獣苑《じゅうえん》を漫歩して、ウンテル・デン・リンデンを過ぎ、わがモンビシュウ街の僑居《きょうきょ》に帰らんと、クロステル巷《こう》の古寺の前に来《き》ぬ。余はかの燈火《ともしび》の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷《こうじ》に入《い》り、楼上の木欄《おばしま》に干《ほ》したる敷布、襦袢《はだぎ》などまだ取り入れぬ人家、頬髭《ほおひげ》長き猶太《ユダヤ》教徒の翁《おきな》が戸前《こぜん》に佇《たたず》みたる居酒屋、一つの梯《はしご》はただちに楼《たかどの》に達し、他の梯は窖住《あなぐらず》まいの鍛冶《かじ》が家に通じたる貸家などに向かいて、凹字《おうじ》の形に引っこみて立てられたる、この三百年前の遺跡を望むごとに、心の恍惚《こうこつ》となりてしばし佇みしこと幾度《いくたび》なるを知らず。
今この処を過ぎんとするとき、とざしたる寺門の扉《とびら》に倚《よ》りて、声を呑《の》みつつ泣くひとりの少女《おとめ》あるを見たり。年は十六、七なるべし、被《かぶ》りし巾《きれ》を洩《も》れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢《あか》つき汚れたりとも見えず。わが足音に驚かされてかえりみたる面《おもて》、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問いたげに愁《うれ》いを含める目《まみ》の、半ば露を宿せる長き睫毛《まつげ》に掩《おお》われたるは、何故《なにゆえ》に一顧したるのみにて、用心深きわが心の底までは徹したるか。
彼は料《はか》らぬ深き歎《なげ》きにあいて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くにや。わが臆病《おくびょう》なる心は憐憫《れんびん》の[#「憐憫の」は底本では「燐憫の」]情に打ち勝たれて、余は覚えず側《そば》に倚り、「何故に泣きたもうか。ところに繋累《けいるい》なき外人《よそびと》は、かえりて力を借《か》し易《やす》きこともあらん」といいかけたるが、われながらわが大胆なるにあきれたり。
彼は驚きてわが黄なる面《おもて》をうち守りしが、わが真率《しんそつ》なる心や色にあらわれたりけん。「君は善《よ》き人なりと見ゆ。彼のごとく酷《むご》くはあらじ。またわが母のごとく」しばし涸《か》れたる涙の泉はまた溢《あふ》れて愛らしき頬《ほお》を流れ落つ。
「われを救いたまえ、君。わが恥《はじ》なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従わねばとて、われを打ちき。父は死にたり。明日《あす》は葬らではかなわぬに、家に一銭の貯《たくわ》えだになし」
跡《あと》は欷歔《ききょ》の声のみ。わが眼《まなこ》はこのうつむきたる少女《おとめ》の顫《ふる》う項《うなじ》にのみ注がれたり。
「君が家に送り行かんに、まず心を鎮《しず》めたまえ。声をな人に聞かせたまいそ。ここは往来なるに」彼は物語りするうちに、覚えずわが肩に倚《よ》りしが、この時ふと頭《かしら》をもたげ、また始めてわれを見たるがごとく、恥じてわが側を飛びのきつ。
人の見るが厭《いと》わしさに、早足に行く少女のあとにつきて、寺の筋向かいなる大戸《おおと》を入《い》れば、欠け損じたる石の梯《はしご》あり。これを上《の》ぼりて、四階目に腰を折りて潜《くぐ》るべきほどの戸あり。少女は|《さ》びたる針金の先きをねじ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中には咳枯《しわが》れたる老媼《おうな》の声して、「誰《た》ぞ」と問う。エリス帰りぬと答うる間もなく、戸をあららかに引き開けしは、半ば白《しら》みたる髪、悪《あ》しき相にはあらねど、貧苦の痕《あと》を額《ぬか》にしるせし面の老媼にて、古き獣綿《じゅうめん》の衣を着、汚れたる上靴《うわぐつ》を穿《は》きたり。エリスの余に会釈《えしゃく》して入るを、かれは待ち兼ねしごとく、戸をはげしくたて切りつ。
余はしばし茫然《ぼうぜん》として立ちたりしが、ふと油燈《ランプ》の光にすかして戸を見れば、エルンスト・ワイゲルトと漆《うるし》もて書き、下に仕立物師《したてものし》と注したり。これすぎぬという少女が父の名なるべし。内には言い争うごとき声聞こえしが、また静かになりて戸は再びあきぬ。さきの老媼は慇懃《いんざん》[#ルビの「いんざん」はママ]におのが無礼の振る舞いせしを詫《わ》びて、余を迎え入れつ。戸の内は廚《くりや》にて、右手《めて》の低き窓に、真白《ましろ》に洗いたる麻布《あさぬの》をかけたり。左手《ゆんで》には粗末に積み上げたる煉瓦《れんが》の竈《かまど》あり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布《しらぬの》をおおえる臥床《ふしど》あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戸を開きて余を導きつ。このところはいわゆる「マンサルド」の街《まち》に面したる一間《ひとま》なれば、天井もなし。隅《すみ》の屋根裏より窓に向かいて斜めにさがれる梁《はり》を、紙にて張りたる下の、立たば頭《かしら》の支《つか》うべきところに臥床《ふしど》あり。中央なる机には美しき氈《かも》をかけて、上には書物一、二巻と写真帖《しゃしんちょう》とをならべ、陶瓶《とうへい》にはここに似合わしからぬ価《あたい》高き花束を生《い》けたり。そが傍らに少女は羞《はじ》をおびて立てり。
彼は優れて美なり。乳《ち》のごとき色の顔は燈火《ともしび》に映じて微紅《うすくれない》をさしたり。手足のかぼそくたおやかなるは、貧家の女《おみな》に似ず。老媼《おうな》の室《へや》を出でしあとにて、少女《おとめ》は少し訛《なま》りたる言葉にて言う。「許したまえ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。われをばよも憎みたまわじ。明日《あす》に迫るは父の葬《はふり》、たのみに思いしシャウムベルヒ、君は彼を知らでやおわさん。彼は『ヰクトリア』座の座頭《ざがしら》なり。彼が抱《かか》えとなりしより、はや二年《ふたとせ》なれば、事なくわれらを助けんと思いしに、人の憂いにつけこみて、身勝手なるいいがけせんとは。われを救いたまえ、君。金をば薄き給金をさきて還《かえ》し参らせん。よしやわが身は食《くら》わずとも。それもならずば母の言葉に」彼は涙ぐみて身をふるわせたり。その見上げたる目《まみ》には、人に否《いな》とはいわせぬ媚態《びたい》あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。
わが隠しには二、三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはずして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を凌《しの》ぎたまえ。質屋の使いのモンビシュウ街三番地にて太田と尋ね来《こ》ん折りには価《あたい》を取らすべきに」
少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別《わかれ》のためにいだしたる手を唇《くちびる》にあてたるが、はらはらと落つる熱き涙《なんだ》をわが手の背《そびら》に濺《そそ》ぎつ。
ああ、何らの悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自らわが僑居《きょうきょ》に来《こ》し少女は、ショオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日《ひねもす》兀坐《こつざ》するわが読書の窓下《そうか》に、一輪の名花を咲かせてけり。このときを始めとして、余と少女との交わりようやくしげくなりもて行きて、同郷人にさえ知られぬれば、彼らは速了《そくりょう》にも、余をもて色を舞姫《まいひめ》の群れに漁《ぎょ》するものとしたり。われら二人の間にはまだ|痴《ちがい》なる歓楽のみ存じたりしを。
その名を斥《さ》さんは憚《はばか》りあれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余がしばしば芝居に出入りして、女優と交わるということを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路《きろ》に走るを知りて憎み思いし官長は、ついに旨《むね》を公使館に伝えて、わが官を免じ、わが職を解いたり。公使がこの命を伝うる時余にいいしは、御身《おんみ》もし即時に郷《きょう》に帰らば、路用を給すべけれど、もしなおここに在《あ》らんには、公《おおやけ》の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請いて、とやこうと思い煩《わずら》ううち、わが生涯にてもっとも悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通はほとんど同時にいだししものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某《なにがし》が、母の死を、わがまたなく慕う母の死を報じたる書《ふみ》なりき。余は母の書中の言《こと》をここに反覆するに堪えず、涙の迫り来て筆の運びを妨ぐればなり。
余とエリスとの交際は、この時まではよそ目に見るより清白なりき。彼は父の貧しきがために、充分なる教育を受けず、十五のとき舞の師のつのりに応じて、この恥ずかしき業《わざ》を教えられ、「クルズス」果ててのち、「ヰクトリア」座に出でて、いまは場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハックレンデルが当世の奴隷といいしごとく、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にて繋《つな》がれ、昼の温習《おんしゅう》、夜の舞台ときびしく使われ、芝居の化粧部屋に入《い》りてこそ紅粉をも粧《よそお》い、美しき衣をもまとえ、場外にてはひとり身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養うものはその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、いやしき限りなる業におちぬは稀《まれ》なりとぞいうなる。エリスがこれをのがれしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。彼は幼き時より物読むことをばさすがに好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジュ」と唱《とな》うる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識《あいし》る頃より、余が借《か》しつる書《ふみ》を読みならいて、ようやく趣味をも知り、言葉の訛《なま》りをも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤り字少なくなりぬ。かかれば余ら二人の間にはまず師弟の交わりを生じたるなりき。わが不時の免官を聞きしときに、彼は色を失いつ。余は彼が身のことにかかわりしを包み隠しぬれど、彼は余に向かいて母にはこれを秘めたまえと言いぬ。こは母の余が学資を失いしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。
ああ、委《くわ》しくここに写さんも要なけれど、余が彼を愛《め》づる心のにわかに強くなりて、ついに離れがたきなかとなりしはこの折なりき。わが一身の大事は前に横たわりて、まことに危急存亡の秋《とき》なるに、この行《おこな》いありしをあやしみ、また誹《そし》る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見しときよりあさくはあらぬに、いまわが数奇《さっき》を憐《あわ》れみ、また別離を悲しみて伏し沈みたる面《おもて》に、鬢《びん》の毛の解けてかかりたる、その美しき、いじらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚《こうこつ》の間にここに及びしをいかにせん。
公使に約せし日も近づき、わが命《めい》はせまりぬ。このままにて郷にかえらば、学成らずして汚名を負いたる身の浮かぶ瀬あらじ。さればとて留《とど》まらんには、学資を得《う》べき手だてなし。
このとき余を助けしは今わが同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、すでに天方伯《あまがたはく》の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某《なにがし》新聞紙の編輯長《へんしゅうちょう》に説きて、余を社の通信員となし、伯林《ベルリン》に留まりて政治学芸のことなどを報道せしむることとなしつ。
社の報酬はいうに足らぬほどなれど、棲家《すみか》をもうつし、午餐《ひるげ》に往《ゆ》く食べもの店《みせ》をもかえたらんには、かすかなる暮らしは立つべし。とこう思案するほどに、心の誠をあらわして、助けの綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼ら親子の家に寄寓することとなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂《う》きがなかにも楽しき月日を送りぬ。
朝の珈琲《カッフェー》果つれば、彼は温習《おんしゅう》に往《ゆ》き、さらぬ日には家に留《とど》まりて、余はキョオニヒ街の間口せまく奥行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でてかれこれと材料を集む。この截《き》り開きたる引き窓より光を取れる室にて、定まりたる業《わざ》なき若人《わこうど》、多くもあらぬ金を人に借《か》して己《おの》れは遊び暮らす老人、取引所の業のひまを偸《ぬす》みて足を休むる商人《あきうど》などと臂《ひじ》を並べ、冷やかなる石卓《いしづくえ》の上にて、忙《いそが》わしげに筆を走らせ、小おんなが持て来る一盞《ひとつき》の珈琲の冷《さ》むるをも顧みず、あきたる新聞の細長き板ぎれに挿《はさ》みたるを、幾種《いくいろ》となく掛けつらねたるかたえの壁に、いく度《たび》となく往き来する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。また一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返《かえ》り路《じ》によぎりて、余とともに店を立ち出づるこの常ならず軽き、掌上《しょうじょう》の舞をもなしえつべき少女を、怪しみ見送る人もありしなるべし。
わが学問は荒《すさ》みぬ。屋根裏の一燈かすかに燃えて、エリスが劇場よりかえりて、椅《いす》に寄りて縫いものなどする側《そば》の机にて、余は新聞の原稿を書けり。むかしの法令条目の枯葉を紙上に掻き寄せしとは殊《こと》にて、今は活溌々《かっぱつはつ》たる政界の運動、文学美術にかかわる新現象の批評など、かれこれと結びあわせて、力の及ばん限り、ビョルネよりはむしろハイネを学びて思いを構え、さまざまの文《ふみ》を作りし中にも、引き続きて維廉《ウィルヘルム》一世と仏得力《フレデリック》三世との|崩《ほうそ》ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退いかんなどのことについては、ことさらに詳《つまびら》かなる報告をなしき。さればこの頃よりは思いしよりも忙《いそが》わしくして、多くもあらぬ蔵書をひもとき、旧業をたずぬることもかたく、大学の籍はまだけずられねど、謝金を収むることのかたければ、ただ一つにしたる講筵《こうえん》だに往きて聴くことは稀《まれ》なりき。
わが学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにというに、およそ民間学の流布《るふ》したることは、欧州諸国の間にて独逸《ドイツ》に若《し》くはなからん。幾百種の新聞雑誌に散見する議論にはすこぶる高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、かつて大学にしげく通いし折、養い得たる一隻の眼孔もて、読みてはまた読み、写してはまた写すほどに、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのずから綜括的《そうかつてき》になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼らの仲間には独逸新聞の社説をだによくはえ読まぬがあるに。
明治二十一年の冬は来にけり。表街《おもてまち》の人道にてこそ沙《すな》をも蒔《ま》け、|※《すき》[#「金+插のつくり」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、21-15]をも揮《ふる》え、クロステル街のあたりは|凸凹坎《とつおうかんか》のところは見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝《あした》に戸を開けば飢え凍《こご》えし雀《すずめ》の落ちて死にたるも哀れなり。室《へや》を温め、竈《かまど》に火を焚《た》きつけても、壁の石を徹《とお》し、衣の綿を穿《うが》つ北欧羅巴《ヨーロッパ》の寒さは、なかなかに堪《た》えがたかり。エリスは二、三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶《たす》けられて帰り来《こ》しが、それより心地《ここち》あしとて休み、もの食うごとに吐くを、悪阻《つわり》というものならんと始めて心づきしは母なりき。ああ、さらぬだに覚束《おぼつか》なきはわが身の行末《ゆくすえ》なるに、もし真《まこと》なりせばいかにせまし。
今朝は日曜なれば家に在《あ》れど、心は楽しからず。エリスは床《とこ》に臥《ふ》すほどにはあらねど、小《ち》さき鉄炉《てつろ》の畔《ほとり》に椅子《いす》さし寄せて言葉すくなし。このとき戸口に人の声して、ほどなく庖廚《ほうちゅう》にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西《プロシヤ》のものにて、消印には伯林《ベルリン》とあり。いぶかりつつも披《ひら》きて読めば、とみの事にてあらかじめ知らするに由《よし》なかりしが、昨夜《よべ》ここに着せられし天方《あまがた》大臣につきてわれも来たり。伯の汝《なんじ》を見まほしとのたもうに疾《と》く来《こ》よ。汝が名誉を恢復《かいふく》するもこの時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいいやるとなり。読みおわりて茫然《ぼうぜん》たる面もちを見て、エリスいう。「故郷よりの文《ふみ》なりや。悪しき便《たよ》りにてはよも」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思いしならん。「否《いな》、心になかけそ。おん身も名を知る相沢が、大臣とともにここに来てわれを呼ぶなり。急ぐといえば今よりこそ」
かわゆき独《ひと》り子《ご》を出《い》だしやる母もかくは心を用いじ。大臣にまみえもやせんと思えばならん、エリスは病をつとめて起《た》ち、上襦袢《うわじゅばん》もきわめて白きを撰《えら》び、丁寧にしまいおきし「ゲエロック」という二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾《えりかざ》りさえ余がために手ずから結びつ。
「これにて見苦しとは誰《た》れもえ言わじ。わが鏡に向きて見たまえ。なにゆえにかく不興なる面もちを見せたもうか。われも諸共《もろとも》に行かまほしきを」少し容《かたち》をあらためて。「否、かく衣をあらためたもうを見れば、なんとなくわが豊太郎の君とは見えず」また少し考えて。「よしや富貴《ふうき》になりたもう日はありとも、われをば見棄《みす》てたまわじ。わが病は母の宣《のたも》うごとくならずとも」
「なに、富貴」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年《いくとせ》をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ逢《あ》いには行け」エリスが母の呼びし一等「ドロシュケ」は、輪下にきしる雪道を窓の下《もと》まで来ぬ。余は手袋をはめ、少しよごれたる外套《がいとう》を背に被《おお》いて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻《せっぷん》して楼《たかどの》をくだりつ。彼は凍れる窓をあけ、乱れし髪を朔風《さくふう》に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。
余が車を下《お》りしは「カイゼルホオフ」の入口なり。門者《かどもり》に秘書官相沢が室《へや》の番号を問いて、久しく踏み慣れぬ大理石の階《きざはし》を登り、中央の柱に「プリュッシュ」を被《おお》える「ゾファ」を据《す》えつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套《がいとう》をばここにて脱ぎ、廊《わたどの》をつたいて室《へや》の前まで往《ゆ》きしが、余は少し|踟《ちちゅう》したり。同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、きょうはいかなる面《おも》もちして出迎うらん。室に入りて相対して見れば、形こそ旧《もと》に比ぶれば肥《こ》えて逞《たくま》しくなりたれ、依然たる快活の気象、わが失行《しっこう》をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにもいとまあらず、引かれて大臣に謁《えっ》し、委托《いたく》せられしは独逸語《ドイツご》にて記《しる》せる文書《もんじょ》の急を要するを翻訳せよとの事なり。余が文書を受領して大臣の室を出でしとき、相沢はあとより来て余と午餐《ひるげ》をともにせんといいぬ。
食卓にては彼多く問いて、我多く答えき。彼が生路《せいろ》はおおむね平滑なりしに、轗軻《かんか》数奇《さっき》なるはわが身の上なりければなり。
余が胸臆《きょうおく》を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれはしばしば驚きしが、なかなかに余を譴《せ》めんとはせず、かえりて他の凡庸なる諸生輩《しょせいはい》をののしりき。されど物語のおわりしとき、彼は色を正して諫《いさ》むるよう、この一段のことはもと生れながらなる弱き心より出でしなれば、いまさらに言わんも甲斐《かい》なし。とはいえ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかずらいて、目的なき生活《なりわい》をなすべき。いまは天方伯もただ独逸語を利用せんの心のみなり。おのれもまた伯が当時の免官の理由を知れるがゆえに、強《し》いてその成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者《きょくひしゃ》なりなんど思われんは、朋友《ほうゆう》に利なく、おのれに損あればなり。人を薦《すす》むるはまずその能を示すに若《し》かず。これを示して伯の信用を求めよ。またかの少女との関係は、よしや彼に誠ありとも、よしや情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこいにあらず、慣習という一種の惰性より生じたる交わりなり。意を決して断てと。これその言《こと》のおおむねなりき。
大洋に舵《かじ》を失いしふな人《びと》が、遥かなる山を望むごときは、相沢が余に示したる前途の方鍼《ほうしん》なり。されどこの山はなお重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果たして往きつきぬとも、わが中心に満足を与えんも定かならず。貧しきが中にも楽しきはいまの生活《なりわい》、棄《す》てがたきはエリスが愛。わが弱き心には思い定めんよしなかりしが、しばらく友の言《こと》に従いて、この情縁を断たんと約しき。余は守るところを失わじと思いて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対《こた》えぬが常なり。
別れて出づれば風面《おもて》を撲《う》てり。二重《ふたえ》の玻璃窓《ガラスまど》をきびしく鎖《とざ》して、大いなる陶炉《とうろ》に火を焚《た》きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、薄き外套《がいとう》をとおる午後四時の寒さはことさらに堪えがたく、膚《はだ》粟立《あわだ》つとともに、余は心の中に一種の寒さを覚えき。
翻訳は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通うことはこれよりようやく繁くなりもて行くほどに、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近ごろ故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問い、折に触れては道中にて人々の失錯《しっさく》ありしことどもを告げて打ち笑いたまいき。
一月ばかり過ぎて、ある日伯は突然われに向かいて、「余はあす、魯西亜《ロシヤ》に向かいて出発すべし。随《したが》いて来《く》べきか」と問う。余は数日間、かの公務にいとまなき相沢を見ざりしかば、この問いは不意に余を驚かしつ。「いかで命《めい》に従わざらむ」余はわが恥を表わさん。この答はいち早く決断して言いしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問われたるときは、咄嗟《とっさ》の間《かん》、その答の範囲をよくも量《はか》らず、直ちにうべなうことあり。さてうべないし上にて、その為《な》しがたきに心づきても、強《し》いて当時の心虚《うつ》ろなりしをおおい隠し、耐忍してこれを実行することしばしばなり。
この日は翻訳の代《しろ》に、旅費さえ添えて賜りしを持て帰りて、翻訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜《ロシヤ》より帰り来《こ》んまでの費《つい》えをば支えつべし。彼は医者に見せしに常ならぬ身なりという。貧血の性《さが》なりしゆえ、幾月か心づかでありけん。座頭《ざがしら》よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言いおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく厳《きび》しきは故《ゆえ》あればなるべし。旅立ちの事にはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなきわが心を厚く信じたれば。
鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合せて借りたる黒き礼服、新たに買い求めたるゴタ板《ばん》の魯廷《ろてい》の貴族譜、二、三種の辞書などを、小「カバン」に入れたるのみ。さすがに心細きことのみ多きこのほどなれば、出で行く跡に残らんももの憂《う》かるべく、また停車場にて涙こぼしなどしたらんにはうしろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出《い》だしやりつ。余は旅装整えて戸を鎖《とざ》し、鍵《かぎ》をば入口に住む靴屋《くつや》の主人に預けて出でぬ。
魯国行《ろこくゆき》につきては、何事をか叙すべき。わが舌人《ぜつじん》たる任務《つとめ》はたちまちに余を拉《らっ》し去りて、青雲の上におとしたり。余が大臣の一行に随《したが》いて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞《いにょう》せしは、巴里《パリ》絶頂の驕奢《きょうしゃ》を、氷雪のうちに移したる王城の粧飾《そうしょく》、ことさらに黄蝋《おうろう》の燭《しょく》を幾つともなく点《とも》したるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレット」が映射する光、彫鏤《ちょうる》の工《たく》みを尽したる「カミン」の火に寒さを忘れて使う宮女の扇のひらめきなどにて、この間仏蘭西語《フランスご》を最も円滑に使うものはわれなるがゆえに、賓主《ひんしゅ》の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。
この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日ごとに書《ふみ》を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて燈火《ともしび》に向かわんことの心憂さに、知る人のもとにて夜に入るまでもの語りし、疲るるを待ちて家に還《かえ》り、直《ただ》ちにいねつ。次の朝《あした》目ざめし時は、なお独りあとに残りしことを夢にはあらずやと思いぬ。起きいでし時の心細さ、かかる思いをば、生計《たつき》に苦しみて、きょうの日の食なかりし折りにもせざりき。これ彼が第一の書《ふみ》のあらましなり。
またほど経てのふみはすこぶる思いせまりて書きたるごとくなりき。文《ふみ》をば否《いな》という字にて起したり。否、君を思う心の深き底《そこい》をば今ぞ知りぬる。君は故里《ふるさと》に頼もしき族《やから》なしとのたまえば、この地に善《よ》き世渡りのたつきあらば、留《とど》まりたまわぬことやはある。またわが愛もてつなぎ留めではやまじ。それもかなわで東《ひんがし》に還りたまわんとならば、親とともに往《ゆ》かんは易けれど、かほどに多き路用をいずくよりか得ん。いかなる業《わざ》をなしてもこの地に留まりて、君が世に出でたまわん日をこそ待ためと常には思いしが、しばしの旅とて立ち出でたまいしよりこの二十日《はつか》ばかり、別離の思いは日にけに茂りゆくのみ。袂《たもと》を分かつはただ一瞬の苦艱《くげん》なりと思いしは迷いなりけり。わが身の常ならぬがようやくにしるくなれる、それさえあるに、よしやいかなることありとも、われをばゆめな棄《す》てたまいそ。母とはいたく争いぬ。されどわが身の過ぎし頃には似で思い定めたるを見て心折れぬ。わが東に往かん日には、ステッチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいうなる。書きおくりたまいしごとく、大臣の君に重く用いられたまわば、わが路用の金はともかくもなりなん。いまはひたすら君がベルリンにかえりたまわん日を待つのみ。
ああ、余はこの書《ふみ》を見て始めてわが地位を明視し得たり。恥ずかしきはわが鈍き心なり。余はわが身一つの進退につきても、またわが身にかかわらぬ他人《ひと》のことにつきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。われと人との関係を照らさんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
大臣はすでにわれに厚し。されどわが近眼はただおのれが尽したる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みを繋《つな》ぐことには、神も知るらん、絶えて想《おも》いいたらざりき。されど今ここに心づきて、わが心はなお冷然たりしか。先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上の禽《とり》のごとくなりしが、今はややこれを得たるかと思わるるに、相沢がこの頃の言葉の端《はし》に、本国に帰りてのちもともにかくてあらば云々《しかじか》といいしは、大臣のかく宣《のたま》いしを、友ながらも公事なれば明らかには告げざりしか。いまさらおもえば、余が軽率にも彼に向かいてエリスとの関係を絶たんといいしを、早く大臣に告げやしけん。
ああ、独逸《ドイツ》に来《こ》し初めに、自らわが本領を悟りきと思いて、また器械的人物とはならじと誓いしが、こは足を縛して放たれし鳥のしばし羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由《よし》なし。さきにこれを繰《あやつ》りしは、わが某《なにがし》省の官長にて、今はこの糸、あなあわれ、天方伯《あまがたはく》の手中に在り。余が大臣の一行とともにベルリンに帰りしは、あたかもこれ新年の旦《あした》なりき。停車場に別れを告げて、わが家をさして車を駆《か》りつ。ここにてはいまも除夜《じょや》に眠らず、元旦に眠るが習いなれば、万戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角《りょうかく》ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きらきらと輝けり。車はクロステル街に曲がりて、家の入口に駐《とど》まりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁《ぎょてい》に「カバン」持たせて梯《はしご》を登らんとするほどに、エリスの梯を駈《か》け下《おり》るに逢《あ》いぬ。彼が一声叫びてわが頸《うなじ》を抱《いだ》きしを見て馭丁は呆《あき》れたる面もちにて、なにやらん髭《ひげ》のうちにて言いしが聞こえず。
「よくぞ帰り来たまいし。帰り来たまわずばわが命は絶えなんを」
わが心はこの時までも定まらず、故郷を憶《おも》う念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那《せつな》、|低徊踟《ていかいちちゅう》の思いは去りて、余は彼を抱き、彼の頭《かしら》はわが肩に倚《よ》りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。
「幾階か持ちて行くべき」と鑼《どら》のごとく叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
戸の外に出迎えしエリスが母に、馭丁をねぎらいたまえと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴われ、急ぎて室《へや》に入《い》りぬ。一瞥《いちべつ》して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などを堆《うずたか》く積み上げたれば。
エリスはうち笑《え》みつつこれを指《ゆび》さして、「なにとか見たもう、この心がまえを」といいつつ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓《むつき》なりき。「わが心の楽しさを思いたまえ。産まれん子は君に似て黒き瞳子《ひとみ》をや持ちたらん。この瞳子。ああ、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産まれたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせたまわじ」彼は頭を垂《た》れたり。「穉《おさな》しと笑いたまわんが、寺に入らん日はいかに嬉《うれ》しからまし」見上げたる目には涙満ちたり。
二、三日の間は大臣をも、たびの疲れやおわさんとてあえて訪《とぶ》らわず、家にのみ籠《こも》りおりしが、ある日の夕暮れ使いして招かれぬ。往《ゆ》きてみれば待遇ことにめでたく、魯西亜《ロシヤ》行の労を問い慰めてのち、われとともに東《ひんがし》にかえる心なきか、君が学問こそわが測り知るところならね、語学のみにて世の用には足りなん、滞留のあまりに久しければ、さまざまの係累《けいるい》もやあらんと、相沢に問いしに、さることなしと聞きて落《お》ちいたりと宣《のたも》う。その気色《けしき》いなむべくもあらず。あなやと思いしが、さすがに相沢の言《こと》を偽りなりともいいがたきに、もしこの手にしも縋《すが》らずば、本国をも失い、名誉を挽《ひ》きかえさん道をも絶ち、身はこの広漠《こうばく》たる欧州大都の人の海に葬られんかと思う念、心頭を衝《つ》いて起これり。ああ、何らの特操なき心ぞ、「承り侍《はべ》り」と応《こた》えたるは。
黒がねの額《ぬか》はありとも、帰りてエリスになにとかいわん。「ホテル」を出でしときのわが心の錯乱《さくらん》は、たとえんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思いに沈みて行くほどに、往《ゆ》きあう馬車の馭丁《ぎょてい》に幾度《いくたび》か叱《しっ》せられ、驚きて飛びのきつ。しばらくしてふとあたりを見れば、獣苑《じゅうえん》の傍らに出でたり。倒るるごとくに路《みち》の辺《べ》の榻《こしかけ》に倚《よ》りて、灼《や》くがごとく熱し、椎《つち》にて打たるるごとく響く頭《かしら》を榻背《とうはい》に持たせ、死したるごときさまにて幾時《いくとき》をか過しけん。はげしき寒さ骨に徹すと覚えて醒《さ》めし時は、夜に入りて雪は繁《しげ》く降り、帽の庇《ひさし》、外套《がいとう》の肩には一寸ばかりも積りたりき。
もはや十一時をや過ぎけん、モハビット、カルル街通いの鉄道馬車の軌道も雪に埋《うず》もれ、ブランデンブルゲル門のほとりの瓦斯燈《ガスとう》は寂しき光を放ちたり。立ち上がらんとするに足の凍《こご》えたれば、両手にてさすりて、ようやく歩みうるほどにはなりぬ。
足の運びのはかどらねば、クロステル街まで来《こ》しときは、半夜をや過ぎたりけん。ここまで来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル・デン・リンデンの酒家《しゅか》、茶店はなお人の出入り盛りにて賑《にぎ》わしかりしならめど、ふつに覚えず。わが脳中にはただただわれはゆるすべからぬ罪人なりと思う心のみ満ち満ちたりき。
四階の屋根裏には、エリスはまだ寝《い》ねずとおぼしく、炯然《けいぜん》たる一星の火、暗き空にすかせば、明らかに見ゆるが、降りしきる鷺《さぎ》のごとき雪片に、たちまち掩《おお》われ、たちまちまた顕《あらわ》れて、風に弄《もてあそ》ばるるに似たり。戸口に入りしより疲れを覚えて、身の節の痛み堪えがたければ、這《は》うごとくに梯《はしご》を登りつ。庖廚《ほうちゅう》を過ぎ、室《へや》の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓《むつき》縫いたりしエリスは振り返りて、「あ」と叫びぬ。「いかにかしたまいし。おん身の姿は」
驚きしも宜《うべ》なりけり、蒼然《そうぜん》として死人に等しきわが面色《めんしょく》、帽をばいつのまにか失い、髪はおどろと乱れて、幾度か道にてつまずき倒れしことなれば、衣は泥《どろ》まじりの雪によごれ、ところどころは裂けたれば。
余は答えんとすれど声出《い》でず、膝《ひざ》のしきりにおののかれて立つに堪えねば、椅子《いす》を握《つか》まんとせしまでは覚えしが、そのままに地に倒れぬ。
人事を知るほどになりしは数週《すしゅう》ののちなりき。熱はげしくて譫語《うわごと》のみ言いしを、エリスがねもごろにみとるほどに、ある日相沢は尋ね来て、余がかれに隠したる顛末《てんまつ》を審《つば》らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきように繕《つくろ》い置きしなり。余ははじめて病牀《びょうしょう》に侍するエリスを見て、その変わりたる姿に驚きぬ。彼はこの数週のうちにいたく痩《や》せて、血走りし目はくぼみ、灰色の頬《ほお》は落ちたり。相沢の助けにて日々の生計《たつき》には窮せざりしが、この恩人は彼を精神的に殺ししなり。
のちに聞けば彼は相沢に逢《あ》いしとき、余が相沢に与えし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞こえ上げし一諾《いちだく》を知り、にわかに座より躍《おど》り上がり、面色さながら土のごとく、「わが豊太郎ぬし、かくまでにわれをば欺きたまいしか」と叫び、その場にたおれぬ。相沢は母を呼びてともに扶《たす》けて床に臥《ふせ》させしに、しばらくして醒《さ》めしときは、目は直視したるままにて傍らの人をも見知らず、わが名を呼びていたくののしり、髪をむしり、蒲団《ふとん》を噛《か》みなどし、またにわかに心づきたる様《さま》にて物を探りもとめたり。母の取りて与うるものをばことごとく抛《な》げうちしが、机の上なりし襁褓《むつき》を与えたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。
これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用はほとんど全く廃して、その痴《ち》なること赤児《あかご》のごとくなり。医に見せしに、過劇なる心労にて急に起こりし「パラノイア」という病《やまい》なれば、治癒《ちゆ》の見込みなしという。ダルドルフの癲狂院《てんきょういん》に入れんとせしに、泣き叫びて聴《き》かず、のちにはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出《いだ》しては見、見ては欷歔《ききょ》す。余が病牀をば離れねど、これさえ心ありてにはあらずと見ゆ。ただおりおり思いいだしたるように「薬を、薬を」というのみ。
余が病は全く癒《い》えぬ。エリスが生ける屍《かばね》を抱きて千行《ちすじ》の涙をそそぎしは幾度《いくたび》ぞ。大臣にしたがいて帰東の途に上《のぼ》りしときは、相沢とはかりてエリスが母にかすかなる生計《たつき》を営むに足るほどの資本を与え、あわれなる狂女の胎内にのこしし子の生まれんおりのことをも頼みおきぬ。
ああ、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得がたかるべし。されどわが脳裡《のうり》に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。
底本:「舞姫」集英社文庫、集英社
1991(平成3)年3月25日第1刷
2011(平成23)年3月8日第13刷
初出:「國民之友第六拾九號」民友社
1890(明治23)年1月3日発兌
※表題は底本では、「舞姫《まいひめ》」となっています。
※初出時の署名は「鴎外森林太郎」です。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2021年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「金+插のつくり」でつくりの縦棒が下に突き抜けている
21-15

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