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先生、わたし今日はすっかり聞いてもらうつもりで伺いましたのんですけど、折角《せっかく》お仕事中のとこかまいませんですやろか? それはそれは詳しいに申し上げますと実に長いのんで、ほんまにわたし、せめてもう少し自由に筆動きましたら、自分でこの事何から何まで書き留めて、小説のような風にまとめて、先生に見てもらおうか思《おも》たりしましたのんですが、……実はこないだ中ひょっと書き出して見ましたのんですが、何しろ事件があんまりこんがらがってて、どういう風に何処《どこ》から筆着けてええやら、とてもわたしなんぞには見当つけしません。そんでやっぱり先生にでも聞いてもらうより仕様ない思いましてお邪魔に出ましたのんですけど、でも先生わたしのために大事な時間滅茶々々《めちゃめちゃ》にしられておしまいになって、えらい御迷惑でございますやろなあ。ほんまに宜《よろ》しございますか? わたし先生にはもう毎度々々おやさしいにしていただきますもんですから、つい御親切に甘える気イになって、御厄介《ごやっかい》にばっかりなりまして、どないに感謝してもしきれへんくらいや思てます。そいであのう、いつかも大へん御心配かけましたあの人のこと、あれからお話せんならんのんですが、あれはあの後《のち》に申し上げました通り、あないにいうて下さいましたのんで、自分でもしみじみ考えまして、あんなりぷっつり絶交してしまいました。その当座は未練とでもいいますのんか、何かにつけて思い出されますもんですから、家にいてましてもまるでヒステリーのようになってましたけど、そのうちにだんだんあの人がええことない男やったいうことはっきり分って来まして、……主人も私が前は始終そわそわして音楽会や何かいうては出歩いてばっかりいましたのんに、先生の御宅《おたく》い寄せてもらうようになりましてから、すっかり様子変りまして、絵エ書いたり、ピアノの稽古《けいこ》したりして、一日家に落ち着いてますもんですから、「この頃はお前も女らしなったなあ」なんぞいいまして、蔭《かげ》ながら先生の御好意よろこんでました。尤《もっと》もわたし、あの人の事については何も主人にいいませなんだ。「夫に過去のあやまち隠しとくのんよろしゅうないから、――殊《こと》に肉体上の関係なかったのんなら告白しやすい訳やから、すべてを打ち明けておしまいなさい」と先生はいうて下さいましたけど、……けどどうも、……それはまあ、主人にしましてもあるいはうすうす気イついてたかも分れしませんのですが、私の口からは何やいいにくうもありましたし、この後間違いないように自分さい注意してたらええのや思いまして、何事も胸に収めてたのんです。ですから主人は私が先生からどんなお話伺うて来ましたやら、それは知りませんでしたけど、いろいろ為《た》めになること教《お》せてもろたに違いない思《おも》て、そういう心がけになったのんはええ傾向やいうてましてん。
そんな訳で、そいから暫《しばら》くは大人《おとな》しいに家い引《ひ》っ籠《こも》ってましたもんですから、この様子やったらまあ安心や思いましたもんか、そうそう己《おれ》も遊んではいられんからいうて、大阪の今橋《いまばし》ビルディングに事務所借って弁護士開業しましたのんが、あれが昨年の二月頃でしたかしらん。――はあ、そうです。大学の方は独法やりましたのんで、弁護士にならいつでもなれたのんです。始めは何でもプロフェッサアになりたいようにいうてまして、ちょうど私のあの事件ありました時分には、引きつづいて大学院の研究室の方い通《かよ》てましたのんですが、弁護士やる気イになりましたのんは別にこれちゅう理由あったのんではあれしません。そういつまでも私の実家の方に世話にばっかりなってましては義理も悪いし、私に対しても頭上《あが》らんと思うたのんですやろ。いったい主人は大学時代に秀才やいう評判で、たいへんにええ成績で卒業しましたもんですから、そういう人間ならばいうのんで、嫁に来たとはいうもんの、婿《むこ》を取るのも同様にして結婚したのんです。そいでもう私の親たちは主人を信用してまして、いくらか財産も分けてくれまして、まあまああせるには及ばんから、学者になりたかったら学者になるで、ゆっくり勉強するがええ。洋行もしたければ夫婦で二、三年彼方《あっち》い行《い》てくるがええなどいうてくれまして、――最初は主人も大そう喜んで、そんなつもりもあったらしいのんですけど、――私があんまり我《わ》が儘《まま》やのんで、実家の方笠《かさ》に着て威張るのんやいう風に取って、それが癪《しゃく》に触《さわ》ったのかも分れしません。しかし性質が学者肌《はだ》に出来てまして、いつまでたっても書生流のぶっきらぼう抜けしませんし、あいそは下手《へた》ですし、それはそれは人づきあい悪い方ですから、弁護士なんぞになりましたところで一向仕事やかいあれしませんね。それでも毎日事務所いだけはきちんきちん出てましたが、そうなりましたら、私の方は一日家にぼんやりしてまして、しょうないものですから、自然また、いろいろと、一旦忘れてたことが胸に浮かんで来るのんです。前には暇ありますと歌作ったりしましたが、歌はかいって思い出の種になりますので、もうこの頃はせえしませんやろう? そんで私、こうやっててはろくな事考えへんさかい、これは何とかせんといかん、何ぞ気イ紛《まぎ》れるようなことはと思いまして、――先生は御存知でしょうか、――あのう、天王寺《てんのうじ》の方に女子技芸学校《がっこ》いうのんありますねん。私立の詰《つ》まらん学校ですねんけど、絵エと、音楽と、裁縫と、刺繍《ししゅう》と、そいからまだ外にも何や、まあそんな風に科ア分れてまして、入学の資格なぞむずかしいことも何にものうて、大人でも子供でも自由に這入《はい》れます。わたし前にも日本画稽古《けいこ》してまして、下手ですけど、その方になら幾《いく》らか趣味持ってますもんですから、それい毎日、朝は主人と一緒に出かけるようにしまして、ともかくもまあ、通うことにしましてんわ。尤も毎日とはいいましても、そんな学校ですから、休みたい時は勝手に休んだりしましたけど、――
主人は絵エや文学やにはてんと趣味ない方やのんですが、私が学校い行きますことは賛成してくれまして、それは結構や、ええ思いつきやさかい精出して行くがええいうて、自分から勧めたくらいやのんでした。毎朝出かけますのんにも、私が行きますのんは九時のこともあり、十時のこともあり、自分の都合でいろいろになることありましたけど、主人の方も事務所暇《ひま》やのんですさかい、何時になろうと大概《たいがい》待っててくれまして、阪神電車で梅田まで一緒に行き、そいから二人円《えん》タクに乗って堺筋《さかいすじ》の電車通りの今橋の角で主人おろしまして私はずっとその車で天王寺い行きます。主人はそういう風にして一緒に出かけますこと楽しみにしてたらしいのんで、「またもう一遍《いっぺん》学生時代に復《かい》ったような気イするなあ」などいいますから、「夫婦づれで自動車で通う学生あったらおかしいやないか」いいましたら、あはあは笑うたりなんぞして上機嫌《じょうきげん》でした。午後に帰ります時分にもなるべく誘《さそ》てくれるようにいいますのんで、電話で打ち合わせしといて、事務所い寄ったり、難波《なんば》や阪神で待ち合わしたりして、一緒に松竹座なぞい行ったりしました。そういうような塩梅《あんばい》で主人との間は大変工合《ぐあい》ように行ってましたのんですが、あれは四月の半ば頃でしたか、わたしほんの詰まらん事で学校の校長さんと喧嘩《けんか》してしまいました。それはあのう、妙なことですが、学校でモデル使《つこ》て、それにいろいろの服装さしたりポーズ取らしたりしまして、――日本画の方は裸体のデッサンはやりませんですけど、――それ写生する時間ありますねん。ところがちょうどその時分に使《つこ》てたのんが、Y子さんちゅう十九になる娘さんで、大阪では有名な美人のモデルやそうで、それに楊柳観音《ようりゅうかんのん》の姿さしまして、――まあ、いくらかそんな風すると裸体に近うなりますのんで、多少裸体の研究も出来るいう訳やったのんです。私それを外の生徒たちと一緒に写生してますと、或る日校長先生が教室い這入《はい》って来られて、「柿内《かきうち》さん、あんたの絵エはちょっともモデルに似ておらんようですな、あんたは誰ぞ、外にモデルあるのんではありませんか」いわれて、何やこう、意味ありげに笑われますねん。それが校長先生ばっかりでのうて外の生徒たちも、先生が笑われるあとからクスクス忍び笑いするのんです。わたし思わずはっとしまして顔赧《あこ》うなりましてんけど、どういう訳で赧うなったのんかその時は自分で分れしませなんだ。今になって考えますと確かにあの時赧うになったような気イしますねんけど、あるいはそうでなかったかも分れしません。しかし「外にモデルがある」いわれましたら、そういわれるまでは自分では意識してえしませなんだのんに、何やしらんはっと胸いこたえるもんありましてん。でも、そんなら誰モデルにしたかちゅうことは、はっきりしてたのんではあれしません。ただ何やしらん頭の中にY子さん以外の或る人の印象刻《きざ》みついてて、Y子さんを眼の前に見ながら、知らず識《し》らずその印象の方モデルに使《つこ》てた、――使うつもりものうて、自然と筆がその人の姿写してた、いうだけやのんです。
もう先生にはお分りになっておられますやろが、その、わたしが無意識のうちにモデルにしてた人いうのんが、――どうせ新聞にも出ましたのんですから、いうてしまいますが、――徳光光子《とくみつみつこ》さんやのんです。(作者註、柿内未亡人はその異常なる経験の後にも割に窶《やつ》れた痕《あと》がなく、服装も態度も一年前と同様に派手できらびやかに、未亡人というよりは令嬢の如くに見える典型的な関西式の若奥様である。彼女は決して美女ではないが、「徳光光子」の名をいう時、その顔は不思議に照り輝やいた。)けど私は、まだその時分には光子さんとお友達になってた訳ではあれしません。光子さんが洋画の方習《なろ》ておられて、教室も違《ちご》てましたよって、ものいう機会もなかったはずです。ですから光子さんの方では私の顔知りなされしませなんだか、知ってなさっても別に気イに留めておられなんだのんですやろ。私の方にしましてもそれほど光子さんに注意してたとは思われしませんのですが、でも何とのう好きそうな人やいう風に考えてたに違いないのんです。それもしかし、ものいうたことないくらいですよって、性質やとか気だてやとか、そんなこと分れしませんでしてんけど、――まあ、何とのう、ただ全体の感じやのんですなあ、そういえば私が案外早うから光子さんに気イつけてました証拠には、もうその時分に誰から聞いたいうでもなしに、光子さんの名前やお所を、――船場《せんば》の方にお店のある羅紗《ラシャ》問屋のお嬢様で、住まいは阪急の蘆屋川《あしやがわ》にあるのやいうようなことまでちゃんと知ってましてん。そいでわたし、校長さんにそんなこといわれましたのんで、あとでいろいろ考えてみたのんですが、なるほどその絵エ光子さんに似てますけど、故意に似さしたいうのんではなし、また故意に似さしたにしたところが、ぜんたいモデルにY子さん使ういうのんはY子さんの顔写すのん目的とはちがいますねんやろ? ただY子さんに観音さんみたいな姿さして、その体つきや、白衣《びゃくえ》の襞《ひだ》の工合《ぐあい》研究して、なおその上観音さんの感じ出せたらええ訳ですやろ。Y子さんはモデル女の中では美人かも分れしませんけど、光子さんの方がもっと美人で、その絵エの感じに合《お》うてるとしましたら、光子さんモデルにしても差支《さしつか》いないではあれしませんか。――私そない思たのんですねん。
ところがそいから二、三日たちますと、またモデルの時間に校長先生が這入《はい》って来られて、私の絵エの前い立ち止まってにやにや笑われますねん。そして「柿内さん」いいなさって、「柿内さん、どうもこの絵エ変ですなあ。ますますモデルに似んようになって来ますね。いったいあんたは誰モデルにしておられるのんですか」と、冷やかすような眼つきで私の顔じいッと視《み》つめなさるのんです。「おや、そうですかしらん。モデルに似てえしませんか」と、私癪《しゃく》にさわりましたもんですから、わざとにそないいうてやりましてん。そやかて校長先生は絵エの先生ではないのんですやろ?――はあ、日本画の方の受持ち筒井春江《つついしゅんこう》先生やのんで、常時《じょうじ》お越しになる訳やのうて、ときどきやって来られて、何処《どこ》が悪いやとか此処《ここ》をこないせえやとかいわれますのんで、常は生徒たちが勝手にモデル見て画《か》いてますねん。校長先生いうのんは、随意科の方に英語ありまして、それ教《お》せてなさるのんやそうですけど、学士でも何でもあれしませんし、何処の学校出られたのんか、学歴やかいもろくろくないらしい人やのんです。それは後になってから分りましてんけど、教育家いうよりは学校商売上手《じょうず》な人やのんで、つまり一種のやり手やのんですねんなあ。そういう校長さんですから絵エのことなんぞ分るはずあれしませんし、余計な嘴《くちばし》入れる必要はないのんです。それにまた、学科の方はたいがい専門の先生たちに任しきりにしてめったに教室見廻ることやかいあれしませんのんに、その時間に限ってわざわざやって来られて、わたしの絵エ何や彼《か》んやといいなさるのんですねん。「へえ、そうですかなあ、あんたはこの絵エこのモデルに似てるつもりなんですか」と、皮肉な口調でいわれましたもんですさかい、こっちも空惚《そらとぼ》けてやりまして、「はい、わたし絵エは下手《へた》ですから、似てえへんかも分れしませんけど、でも自分では一所懸命モデルの通りに写しましたつもりです」いいますと、「いや、あんたは下手ではありません。なかなか上手に画《か》けてます。しかしこの顔は、どうも誰ぞ外の人に似てるように思われますね」と、またそないいいなさるのんです。「ああ、顔のことですか、顔はわたし、自分の理想にかなうように画いてみたのんです」いいますと、「ではあんたの理想いうのは誰のことですか」と、えらいひつこいですねん。そいからわたし、「これは理想やのんですから、別に誰ちゅう実在の人間描《えが》いた訳ではあれしません。観音さんの顔にふさわしいようになるだけ清らかな感じ持たしたのんですが、そいではいきませんですやろか。顔までモデルに似ささんと悪いのんですやろか」いいましてん。すると、「あんたはたいそうむずかしい理窟《りくつ》いいなさる。しかし理想通りのもんが思いのままに画けるようやったら、此の学校い絵エ習いに来るには及ばん。理想通りに画かれないからこそモデルについて写生するのんではありませんか。自分勝手の絵エ画くくらいならモデル使う必要あれしません。ましてこの観音さんがモデル以外の或る実在の人間に似てるとしたら、あんたの理想いうもんも甚《はなは》だ不真面目《ふまじめ》に思えますね」いわれるのんで、「わたしちょっとも不真面目とちがいます。仮にこの顔誰ぞに似てても、その人の顔観音さんの感じ出すのに適してましたら、それ写しても芸術的に疚《やま》しいことない思います」いいますと、「いや、それがいかんのんです。まだあんたは一人前の芸術家ではありません。あんたがその人の顔清らかであると感じられても、万人がそう感じるかどうか、それが問題です。そういうことからとかく誤解が起るのんです」いう訳ですねん。「へえ誤解て、どんな誤解起りますかしらん? ぜんたい似てる似てるいうて、誰に似てるのんですか、どうぞいうて下さい」いうてやりましたら、ちょっとどぎまぎして、「あんたは強情な人ですねえ」いわれて、そんなり校長先生は黙ってしまいはりました。わたしその時は校長さんやり込めてやったのんで、喧嘩《けんか》に勝ったような気イして、えらい痛快でしてんわ。けど大勢の生徒たちの前で議論したもんですよって、えらい評判になってしもて、間ものうけったいな噂《うわさ》ひろまるようになりましてん。つまりわたしが光子さんに対して同性愛捧《ささ》げてる、光子さんと私とが怪しいいいますねん。――それが前にもいいましたように、まだその時分は光子さんと物いうたこともなかったほどでしたさかい、出鱈目《でたらめ》も出鱈目、ひどい|《うそ》やのんです。尤《もっと》もわたしは、うすうすみんなが蔭口《かげぐち》いうていることぐらい感づいてましたもんの、それがそないに騒がれてようとは夢にも知りませなんだ。何《なん》せ身イに覚えないことやのんですから、何いわれても平気なもんで、まあ、世間の人いうたらたいがいええ加減なことをいい触らすもんや。附き合うてもいえへん人同士怪しいやなんて、なんぼ作りごとにしたかてようまあそんな
ばっかりいえたもんや思《おも》て、あんまり馬鹿々々しいて腹も立てしませなんだ。ただ心配になりましたのんは、わたしはそいでかめしませんけど、光子さんの方はどう思てなさるやら、さぞかしえらい係り合いになって迷惑してはるに違いない思いましたら、そいからはこう、学校の往《い》き復《かい》りなぞに出遭《であ》うことありましても、何や気イさして、前みたいに顔しげしげと見守ること出来しませなんだ。そうかいうて、思い切りようこっちから話しかけて、あやまるいうようなことも、――それがかいってけったいなことになりますし、なおさら迷惑しなさるかも分れしませんのんで、そないする訳にもいけしません。そんでわたし光子さんに出遇《であ》いますと、出来るだけあやまる心持外に現わすようにして、小《ちい》そうになって、下向いて、こそこそ逃げるように傍《そば》通り抜けましたが、そないしながらも、先様《さきさん》怒《おこ》ってはれへんやろか、どんな眼つきしてはるか、やっぱり気がかりやもんですから、擦《す》れちがう拍子にそうッと顔色うかごうたりしました。ところが光子さんの様子前とちょっとも変ったようなとこのうて、別にこっちを不愉快に思てなさる風にも見えしません。あ、そうそう、此処《ここ》に写真持って来ましたよって、これ見て下さいませ。これは揃《そろ》いの着物出来ましたとき二人で記念に撮《と》りましたのんで、新聞にも出たことある問題の写真やのんです。これでもお分りになるように、こうして並んでましたら、わたしが引き立て役勤めてる形で、光子さんは船場あたりの娘さんの中でもちょっと飛びきりの器量やのんです。(作者註、写真を見ると、お揃いの着物というのは如何《いか》にも上方《かみがた》好みのケバケバしい色彩のものらしい。柿内未亡人は束髪《そくはつ》、光子は島田《しまだ》に結っているが、大阪風の町娘の姿のうちにも、その眼が非常に情熱的で、潤《うる》おいに富んでいる。一と口にいえば、恋愛の天才家といったような気魄《きはく》に充《み》ちた、魅力のある眼つきである。たしかに美貌《びぼう》の持主には違いなく、自分は引き立て役だという未亡人の言は必ずしも謙遜《けんそん》ではないが、この点が果して楊柳観音の尊容に適するかどうかは疑問である。)先生はこんな顔だちどないお考えになりますか? 日本髪よう似合うてますやろ?――はあ、お母様《かあさん》日本髪好きやとかいうことで、ときどき結《い》やはりまして、学校いもその頭で来やはりましてん。――何せそんな学校ですから、制服なんぞあれしませんし、日本髪の着流しでも何でもかめしませんのんですから、わたしなんか袴《はかま》穿《は》いて行《い》たことあれしませなんだ。光子さんも、たまに洋服着なさることありましてんけど、和服の時はいつでも着流しでしてん。この写真では髪のせえで私より三つぐらい若うに見えてますけど、ほんまは一つ歳《とし》下の二十三、――生きておられたら今年二十四ですねん。しかし光子さんの方が一、二寸せえ高いでしたし、それに綺麗《きれい》な人いうもんは、自分では器量鼻にかけへんつもりでも、やっぱり何とのう自信のある様子態度に現われるもんですやろか、それともこっちに引け目ありますとそない見えますのんですやろか、その後親しいになりましてからでも、歳からいうとわたしの方が姉さんでありながら、いつでも妹みたいな気イしてましてん。
で、その時分、――といいますのんは、話前に戻りまして、まだお互いにものもいわんといてました時分、前にいいましたようなけったいな噂《うわさ》立ちましたことは光子さんの耳いも這入《はい》ってえへんはずあれしませんのんに、光子さんの様子はちょっとも前と変れしませんねん。わたしの方では疾《と》うから綺麗な人や思て、噂立ちません時分には、光子さんが通りなさると、それとのう傍《そば》い寄って行ったりしましてんけど、光子さんの方ではてんと私やかい眼中にないような塩梅《あんばい》で、すうッと通ってしまいはりますが、その通られた跡の空気までが綺麗なような気イするのんです。もしも光子さんが例の噂聞いてなさるとしたら、なんぼ何でも私いうもんに注意しなされへん訳あれしませんやろ。イヤな奴《や》っちゃ思われるか、気の毒や思いなさるか、何とか素振《そぶり》に見えそうなもんですのんに、さっぱりそういう風しなされへんもんですから、私の方も段々ずうずうしいになりまして、また傍い寄って顔のぞき込むようになりましてん。すると或る日、お午《ひる》の休みに休憩所でばったり出遭《であ》うと、いつでもすうッと澄まして通り過ぎてしまいなさるのんに、どういう訳やにッこりしなさって、眼エで笑いなさるのんです。そいで私思わずお時儀《じぎ》してしまいましたら、直ぐつかつかと寄って来られて、「わたし、あんたにこないだから大変失礼してました。どうぞ悪うに思わんといて頂戴《ちょうだい》」いいなさいますねん。「まあ何いいなさるのんです。わたしこそ詫《あやま》らないかなんだのんですが」いいますと、「あんた詫りなさることあれしませんわ。あんたは何も知りなされへんのんです。わたしたち陥《おとしい》れよとしてる者いますから、気イつけなさいや」いいなさいますねん。「へえ、――それは誰ですか」と尋《た》ンねますと、「校長先生ですわ」といわれて、「此処《ここ》では詳しい話出来《でけ》しませんさかい何処《どこ》ぞ外《そと》い行て、お昼御飯一緒に附き合うてもらわれしませんか? そしたらいろいろ、ゆっくり聞いてもらいますが」いいなさるもんですから、「何処いでも一緒にいきますわ」と、二人で天王寺公園の近所にあるレストランい行きました。そいから光子さん洋食たべながら話して下さったのんですが、わたしたちの事について悪い噂いい触らしたのんは実は校長さんやいいなさいますねん。なるほどそういわれて見ると、用もないのんに教室い這入《はい》って来て、みんなの前でわざと私に恥掻《か》かすような事するいうのんが、だいぶんおかしい。悪意あってしたもんとしか思われへん。けどいったい何のために校長さんがそんな噂触れ廻るのんかといいますと、目的は光子さんにあるのんやそうで、何でも彼《か》でも光子さんの品行について悪い評判立ちさいしたらええのんやいうのんです。それがまたどういう訳やいいますと、その時分光子さんに結婚の話持ち上ってまして、先はMいう大阪でも有名なお金持の家の坊々《ぼんぼん》で、光子さん自身は気イ進んでおられなかったそうやのんですが、お宅ではたいそうその縁談望んでおられたし、先方でも光子さん欲しがっておられた。ところが或る市会議員のお嬢さんで、やっぱりそのMさんへ縁談持ちかけてる人あって、光子さんの方と競争の形になってた。――光子さんは競争のつもりやのうても、市会議員の方では大敵が現われた思いましてんやろ。何しろMさんの坊々は光子さんの器量にあこがれてラブレター寄越《よこ》したくらいやのんですから、それは大敵に違いあれしません。そいでその市会議員の方では八方い運動して、成ろうことなら光子さんにケチ附けよというのんで、もう今までにも随分いろいろと、光子さん外に男あるらしいとか、あることないこといい触らしてましたんやそうですが、まだそいだけでは飽き足らんと、とうど学校の方い手エ廻して、校長さん買収したのんですなあ。あ、そうそう、そいからその前に、――話がほんまにこんがらがってますけど、――その前にその校長さんが、校舎の修繕するからいうのんで、光子さんのお父様に、お金千円一時融通してもらえまいかいうて来たことありますねんと。光子さんのお宅ではお金はたんとありまっさかい、千円ぐらい何でもなかったのんですやろけど、おおびらに寄附金募《つの》るのんなら聞えてるが、一時融通してくれというのんおかしい、それにあんだけの校舎が千円のお金で修繕出来《でけ》るはずもないし、分らん話やいうようなことで、お父様は断《ことわ》られたのんやそうですねん。光子さんの話やと、そんなこというてはお金のありそうな生徒の家頼み歩くのん校長さんの癖《くせ》やそうで、借ったお金は一ぺんでも返したことあれしませんねんと。それも校舎の修繕に使うのんなら格別、校舎いうのん豚小屋みたいに汚《きたの》うてぼろぼろになったなり、荒れ放題にしたあるのんです。――はあ? いいえ、そのお金は自分の生活費に使《つこ》てはりますねん。校長さんいいましても高等幇間《ほうかん》みたいな人で、おまけに奥さんがやっぱりそこの学校の刺繍《ししゅう》の先生してなさって、夫婦でお金持の生徒に取り入っては、日曜のたんびに遠足会やとか、そんなことばっかりしてはりますさかい、なかなか暮らし派手ですねん。そいでお金貸したげたら、たいそう御機嫌ええのんやそうですけど、断ったら、陰い廻ってその生徒のことえらい悪ういやはりますねんと。つまり光子さんにはそういう恨《うら》みあるとこいさして、市会議員に頼まれたもんですから、どんな悪辣《あくらつ》なことかてしかねへんのです。「ですからあんたわたし陥れるために利用しられなさったんやわ」と光子さんはいわれますねん。「まあ、そんな深い訳あったのんですか、そんな事とはちょっとも知りませなんだが、それにしてもあんたと私とは今日までお附き合いもしてませなんだのんに、あんまり出鱈目《でたらめ》が過ぎるではあれしませんか。捏造《ねつぞう》する人も捏造する人なら、みんながそれ真《ま》に受けるいうのん不思議でなれしません」いいますと、「あんたはそれやから呑気《のんき》や」いいなさって、「噂立ったもんやさかい、二人はわざと学校ではものいえへんのやと、みんなそないいうてますし、それどころか、こないだの日曜に二人大軌《だいき》電車に乗って奈良い行くとこ見たいう人さいあるのんですね」いいなさるのんです。わたし呆《あき》れてしもて、「まあ、誰がそんなこといいますねんやろ」いいますと、「なんでも校長さんの奥様《おくさん》から出たらしいのんです。それはそれはあんたが考えてなさるより十倍も二十倍も陰険やのんですから、気イ附けなさいや」いう訳ですねん。
そんで光子さんは、ほんまにあんたに気の毒でなれしません、すみませんすみませんと何遍もいいなさいますから、わたしの方がかいって気の毒になりまして、「いいえ、いいえ、あんた悪いことあれしません。憎いのんは校長先生です。教育家ともあろうもんが、何ちゅう卑劣な、……けど、わたしでしたらどんなこといわれようとちょっとも構《か》めしませんけど、あんたこそお嫁入り前の身イで、そんな悪辣な人たちの罠《わな》にかからんように気イ附けなさいや」と、こっちからあれこれと慰めたげましたら、「きょうはあんたにすっくりお話すること出来て、ほんまにええことしました。こいでようよう胸すッとしました」いわれて、「あのう、こうして二人で話やかいしてたら、またなんやかんやいわれますから、こんだけにしときまひょなあ」と笑いなさるのんです。「折角友だちになったのんに名残《なご》り惜しいですなあ」と、わたし何や、ほんまにそんな気イしまして暫《しばら》くもじもじしてました。すると光子さんは「あんたさいよろしかったら友だちになりたいのんですが、今度内い遊びに来なされしませんか。わたしハタからどないいわれても恐《こわ》いことあれしませんわ」いいなさるのんです。「はあ、わたしかって恐いことあれしませんわ、あんまりうるさいこというのんなら、あんな学校やかい止《や》めてしまいます」いいますと、「なあ、柿内さん、わたしいっそのこと、知って仲ようしてみんなが冷やかすのん見てやりたいわ。あんたどない思いなさる?」「はあ、それがよろしいわ、そして校長さんどんな顔しなさるか見てやりたいですわ」と、わたしもすぐその気イになってしまいました。「そしたら、あのう、面白いことありますねん」と光子さん手エたたいてやんちゃのように嬉《うれ》しがりなさって、「ほんまに今度の日曜に、二人で奈良い行きなされしませんか。」「ええ、行きまひょ、行きまひょ、それ分ったらえらい評判になりますで。」――そんなことで三十分か一時間ほどの間に、お互にもうすっくり打ち解けてしまいましてん。
きょうはもう学校い帰るのんも馬鹿々々しいし、何なら松竹いでも行きませんかと、孰方《どっち》からとものういい出しまして、その日は夕方まで一緒に遊んで、光子さんは「ちょっと店い寄って行きます」と心斎橋筋《しんさいばしすじ》散歩しながら帰られて、わたしは日本橋からタクシーに乗って今橋の事務所い行きました。そんでいつでもみたいに主人誘《さそ》て阪神電車で帰りましたのんですが、その時主人が、「お前今日えらいそわそわしてるなあ、何ぞうれしい事でもあったのんか」いわれましたのんで、「やっぱりいつもと様子違《ちご》てるのかしらん、光子さんと友達になったことそないに自分幸福にさしたのんかしらん」と、ひとりで思いました。「そんでもわたし、今日ほんまにええ人と友達になったんやもん。――」「何んちゅう人や。」「何んちゅう人やて、そら綺麗な人やもん。――あんた、あのう、船場の徳光いう羅紗《ラシャ》問屋あること知らん? そこのお嬢さんやねんけど。」「何処で友達になったんや?」「同じ学校の人やわ、――それが、あのう、わたしとその人と、こないだからけったいな噂《うわさ》立ってなあ、――」わたし別に疚《やま》しいことやかいないもんですさかい、面白半分に校長先生と喧嘩《けんか》したことから、一から十まで話してしまいますと、「ずいぶんひどい学校やなあ。けどお前がそないに美人やいうのんなら、僕も一遍会うてみたいもんやがなあ」と、冗談にそないいうてました。「いまにきっと内いも遊びに来なさるやろ。わたしこの次の日曜日に、一緒に奈良い行くいうて約束したんやけど、行ったらいかん?」「そら行ってもかめへん。」主人はそないいいまして「校長さん怒るぜエ」いうて笑《わろ》てましてん。
明くる日学校に行きますと、きんの一緒に御飯食べたことや映画見に行ったこともういつの間にやら知れ渡ってて「柿内さん、あんたきんの道頓堀《どうとんぼり》歩いてなさったなあ」「お楽しみやなあ」「あれ一体誰やったなあ」なんて、女の人いうたら、も、ほんまにうるさいのんです。そしたら光子さんはまたそれ面白がりなさって、知って傍《そば》い寄って来られて、これ見よがしにしなさるのんです。そういうようなあんばいで、そいから二、三日するうちに、えらい仲好《よ》うなってしまいました。校長さんはかいって呆《あき》れてしまわれたのんか、ただ恐い眼エしてじっと睨《にら》んでおられるだけで、もう何ともいいなされしません。光子さんは「なあ、柿内さん、あの観音さんの絵エもっと私に似るように画《か》いて御覧《ごらん》。そしたらどないにいやはるかしらん」いいなさるのんで、前よりももっと似るように直しましてんけど、校長さんはそんなり教室いも来なされしません。わたしたちはええ気イになって「痛快やなあ」いうてましてん。
そないなって来ると、無理に奈良い行く必要もないようになりましたが、ちょうど四月の終りのことで、えらいええお天気の日曜でしたさかい、電話かけて相談して、上六《うえろく》の終点で待ち合いして、お午《ひる》すぎから若草山の方ぶらぶら歩き廻りました。光子さんは歳《とし》のわりにたいそうおませなとこもありますし、また子供のような無邪気なとこもあって、山の頂辺《てっぺん》い上りましたら、蜜柑《みかん》五つも六つも買うて、「ちょっと見てて御覧」と、それを上から転《ころ》こばしたりしました。すると蜜柑は頂辺から下までころころと転こんで、その拍子にぽんと一つ往来飛び越えて、向い側の家の中い這入《はい》るのんで、面白がっていつまででもそないしてなさるのんです。「光子さん、そんな事してたら切《き》りがないよって蕨《わらび》でも採りに行きまひょ。わたしこの山に蕨や土筆《つくし》のたんと生《は》えてるとこよう知ってるわ」いうて、そいから日の暮れまでかかって、蕨やらぜんまいやら、土筆やら、たあんと採りました。――はあ、その場所ですか、あれはあのう、若草山の山が三つ重なってる、その一番前の山と、その次の山との間のへっこんだ所、――あそこら辺《へん》いったいに、ずっともう一杯に生えてまして、あの山のんは、毎年春に山焼きしますのんで特別おいしいのんです。――そんなことでもう空大分暗《くろ》なった時分、二人ともまた前の山の方い戻って来まして、あんまりくたぶれましたよって、山の中途へんい腰おろして休みながら、暫《しばら》くぼんやりしてます時でした。「柿内さん」と、急に光子さんが何やこうすこし改まった様子で、「わたしどうしてもあんたにお礼いわんならんことあるねんけど」いわれるのんです。「何やのん?」と尋《た》ンねますと、「わたしあんたのお蔭でなあ、あんなイヤな人のとこい嫁入りやかいせえでもええようになりそうやねんわ。」――そういうて、何や知りませんけどニヤニヤ笑《わろ》てなさるのんです。「まあ、また何でそんな事になったん?」「ほんまに噂いうもん早いもんで、もうちゃあんと、あなたと私のこと向《むこ》い知れてしもてるねん。」
「ゆんべなあ、内でその話が出てなあ」と、光子さんは言葉をつがれて、「お母さんがわたしを呼びやはって、お前、学校でこんな噂《うわさ》あるそうやけど、それほんまでっか、いやはるねん。へえ、そらそんな噂あることはありまっけども、いったいお母さん、何処《どこ》で聞きやはりましてん? そらまあ何処でもよろしおまっしゃないか。それよかそらほんまの事でっか? へえ、ほんまです、そやけど何がけったいでんねん? 友達と仲好うしてるぐらいで。――そういうたらお母さんちょっとまごつきはってなあ、そらお前、仲好うしてるだけやったら何ともないけど、何やそれがイヤらしいこッちゃいうやおまへんか。イヤらしい事てどんな事でんねん? どんな事やかお母さんは知りめえんけどな、別に悪いことやなかったらそんな噂立つはずおまへんやないか。ああ、そら何でや知ってまんねん、そのお友達いうのがなあ、うちの顔が好きやいやはってモデルにしやはりましてん、そんな事からみんながうちらを排斥し出しはりましてんやろ。そらもう学校いうたらうるそうてなあ、ちょっとでも顔綺麗《きれい》かったら何や彼《か》やと憎まれるよって。――そらまあ、そんな事もありまっしゃろけど、と、わたしが説明したげたらお母さんもだんだん分って来やはって、そんな事ならかめへんけども、そないいうてもその何とかはんいう人とばっかり仲好うせん方がよろしおまっしゃないか。お前もこれからが大事な体やよって、しょうむない事あんまりいわれん方がよろしおまっせいうて、まあそんなりで済んでしもてんけど、きっとあの市会議員なあ、向《むこ》らへんの連中がそんな噂聞き捜《さが》してMの方いしゃべったのんが、それがまたお母さんの耳に這入《はい》ってしもてんわ。そやよって、大抵縁談もあかんようになるやろ思てんねん。」「そら、あんたはそんでええやろけど、お母さんがきっとわたしを嫌《いや》がってはるわ。今に見てて御覧、わたしと交際したらいかんいわれへんかしらん? もし誤解しられたらイヤやけどなあ」と、わたしそれが気がかりで、そういいますと、「そんなことあんた、心配せんかてかめへんわ。そらほんまいうたら、校長さんが慾張りの人で、お金貸してもらえなんだら悪口いう癖のあることや、市会議員の人に買収しられてることやらを、みんなお母さんにいうてしまおか知らん思たけど、そんなけったいな学校なら止めてしまいなはれいわれそうやよって、いわんと置いといてんわ。そしたらあんたと会われへんようになるよって。」「あんたもなかなか隅《すみ》い置けんなあ。」「ふふん、うちかってスコイよってなあ」と、光子さんはくつくつ笑われて、「向《むこ》が悪い人やったらこっちかって利用してやらんと損やわ。」「けど、あんたの方が破談になって、市会議員のいとはんもよろこんではるやろなあ。」「そしたらあんたは両方から感謝しられるべきやわ」なんかと、お互にあれやこれやいい合いまして、山の上で一時間以上もしゃべってました。わたし今まででも若草山い上ったこと何遍でもありますけど、そんなに日イ暮れてしまうまで山の上にいたことあれしませなんだのんで、あそこから夕靄《ゆうもや》の景色見わたすのんは、ほんまにその時が初めでした。ついさっきまでまだその辺に人がチラホラしてましたのんに、もうてっぺんから麓《ふもと》までだあれも人の影ありません。その日は割にえらい人出でしたから、あのなだらかな、若草の生えた山の中ほどには、弁当のたべ残しや、蜜柑の皮や、正宗《まさむね》の罎《びん》が一杯散らかって、空はまだうす明《あか》いのに、足の下には奈良の町の灯《ひ》イちらちらして、遠くの方の、ちょうどわたしらの真《ま》ア向うのあたりには、生駒山《いこまやま》のケーブル・カアのイルミネーションがずうっと珠数《じゅず》のようにつながって、紫色した靄のあいだから、ところどころ絶えては続いてまたたいてます。そのまたたいてる光見ると、わたし、何やしらん息詰まるように感じたのんですが、「まあ、知らん間に晩になってしもて、淋《さび》しいわなあ」と、光子さんがいわれました。「一人やったらほんまに恐《こお》うていられへんわなあ」いいますと、「好きな人と二人だけやったらこんな淋しい所の方がええわ」と、そないいうて光子さんはためいきついておられました。「うちあんたと一緒やったらいつまででも此処《ここ》でこないしてたいわ。」――わたしはその言葉口いは出さんと、夕闇《ゆうやみ》のなかにうずくまって足投げ出してなさる光子さんの横顔眺《なが》めてましたが、暗いのんでどんな表情してなさるのんか分りませなんだ。ただ光子さんの白い足袋《たび》の向うに、大仏殿の金の鯱鉾《しゃちほこ》が空のうすあかりに底光りしてました。「おそうなったよって帰りまひょ」いうて、そいから山降りて、大軌まで歩いて行きましたらかれこれ七時になってしまいました。「うちお腹《なか》減ったけど、あんたどうする?」「きょうは早う帰らんといかんねんわ奈良い行くとも何ともいわんと出て来たよって」と、光子さんは時間気イにしておられましたが、「そないいうたかてうちもうペコペコやわ。おそなりついでやよってええやないか」いうて、無理に引っ張って洋食屋い這入りました。「あんたとこの旦那《だんな》さん、おそなっても別に何ともいやはれへんか?」と御飯たべながらそんな話が出ました。「うちのあの人、そんなこと何とも干渉しやはれへん。それにうち、あんたと仲好うなったことちゃあんと話したあるわ。」「そしたらどないいやはった?」「うちがあんまりあんたのことばっかりいうよって、あの人いうたら、そんな綺麗な人やったら一ぺん会うてみたいなあ、いっそ遊びに来《け》えへんもんやろかいうてはった。」「あんたの旦那さんいうたら優《やさ》しい人?」「そらもうあの人と来たら、うちがどんな勝手気儘《きまま》な事してもなんともいやはれへんわ。けど、あんまり優しいよって、時によったら張合いないのんで、――」わたし、まだその時までは自分のことは一つも光子さんにいうてなかったのんで、夫と結婚するようになった訳や、それから、あのう、いつやらの恋愛問題や、それについて先生にいろいろ心配して戴《いただ》いたことまで、その時すっくりいうてしまいました。光子さんはわたしが、先生知ってるいいましたら、「まあ、そうお? あんた知ってんのん?」とびっくりしなさって、自分も先生の小説とても好きやよって、一遍連れて行ってくれなされしませんかいうてなさったのんですが、いッつも今度こそ今度こそといいながら、とうとうそのままになってしもうたのんです。「ふうん、そしてあんた、もうその人と交際してへんのん?」と、光子さんは一所懸命にあの事聞きたがりなさって、今はもう交際してえしませんといいますと、「なんでやのん? そんな、あんたのいうように清い恋やったら交際してもええやないか。うちやったら、恋愛と結婚とは別々のように思うけどなあ」なんかいうて、「あんたの旦那さん、その事ちょっとも知りはれへんのん?」「ふん、そらうすうす感じてたかも知れんけど、うちなんにもその事についていうたことないし、とやかく問題になったようなことなかったわ。」「えらい信用あるねんなあ。」「それよりかうちのこといっそ子供のように思うてるねんわ。そやよってうち気に入らんねんけど」と、わたしそういいました。
その晩家い帰ってみたら十時近くでしたのんで、「えらいおそかったなあ」と、夫はいつにのうけったいな顔して、何やこう淋しそうにしてたのんが、ちょっと気の毒な気イしました。別に悪いことした訳でも何でもないのんに、夫が長いこと待ちくたぶれて、たった今御飯すましたらしい様子見ると、妙に気がとがめました。そういうと前、恋人と会うてた時分にはよう十時過ぎに帰って来たことありましたけど、この頃になってこないにおそうなったことあれしませなんだ。そいで夫もちょっと気イ廻したのんかも分れしませんが、わたし自身も、何かしらんちょうどあの時と同じような気イしました。
そうそう、そいからその時分にあのいつぞやの観音さんの絵エ出来《でけ》上りましたので、それ夫にみせたことありました。「ふうん、光子さんいうたらこんな人か。お前にしたらこの絵エうもう出来すぎてるなあ」と、夫は晩御飯のときにそれ畳《たたみ》の上い広げて、一と箸《はし》たべては見、一と箸たべては見いして、「これやったら、さも絵エにかいたようやけど、ほんまにこの通りかいな」と、あやしみながら念押しました。「そらこの絵エ問題になったくらいやもん、よう似てるわ。ほんとの光子さんはこの神々《こうごう》しさの上にちょっと肉感的なとこあるねんけど、日本画にしたらその感じが出えへんねん。」――その絵エわたし、大分骨折りましたのんで自分でもよう画《か》けてると思いました。夫はしきりに傑作やいいましたが、とにかくわたしが絵エいうもん習い始めてから、これほど一所懸命に、興味以《も》って画いたことはあれしませなんだ。「いっそこの絵エ表具《ひょうぐ》してもろたらどうやねん。それでそれが出来上ってから、光子さんに見に来てもろたらええやないか」と、夫がいいますのんで、わたしもその気イになりまして、そんなら京都の表具屋いやって立派に仕立てさせよと思いながら、ついそのままに放ったあった、或る日イのことでした。「実はこうこういうつもりやねんけど」と、光子さんにその話したら「表具屋いやるぐらいやったら、もう一ぺん画き直して見《め》えへん?――あれはあれでよう出来てるけど、――顔はよう似てるけど、――体のつきがちょっとだけ違うよってなあ」いわれるんのです。「違うて、どういう風に?」「どういう風にいうたかって、口でいうたぐらいやったら分れへんわ」と、そないいわれたのんが、ただ自分の感じ正直に述べられたのんで、「わたしの体はもっともっと綺麗です」いうような自慢の意味はなかったのんですけど、でも何とのう不満足に思うてなさる様子でしたので、「そんなら一ぺんあんたのはだかの恰好《かっこ》見せて欲しいなあ」いいますと、「そら、見せたげてもかめへんわ」と、すぐに承知しなさいました。
そんな話があったのんやっぱり学校からの帰り道か何処ぞやったんですやろ。「そんならあんたとこい行て見せたげるわ」いわれて、たしかその明くる日の午後、学校早退《はやび》きして二人でわたしの家《うち》い来ました。「うち、はだかになったりなんかしたら、あんたとこの人びっくりしやはるやろなあ」と、みちみち光子さんはいうておられましたが、きまりわるがるより、なんぞ面白い遊びでもするように、やんちゃな眼エしておかしがっておられるのんでした。「家にええ部屋あるわ。そこやったら誰にも見られへん、西洋間になってるよって」と、わたしはそないいうて二階の寝室い連れて行きました、「まあ、感じのええ部屋やなあ、とてもハイカラなダブルベッドあるなあ」と、光子さんはそのベッドに腰かけて、お臀《しり》にはずみつけてスプリングぐいぐい撓《たゆ》ましたりしながら、暫《しばら》くおもての海のけしき見ておられました。――宅は海岸の波打ち際《ぎわ》にありますのんで、二階はたいへんに見晴らしええのんです。東の方と、南の方と、両方がガラス窓になってまして、それはとても明《あこ》うて、朝やらおそうまでは寝てられしません。お天気のええ日イは松原の向うに、海越えて遠く紀州あたりの山や、金剛山《こんごうさん》などが見えます。はあ?――はあ、海水浴も出来るのんです。あそこら辺《へん》の海はちょっと行きますと、じきにどかんと深うになってますので、あぶないのんですけど、香櫨園《こうろえん》だけは海水浴場出来《でけ》まして、夏はほんまに賑《にぎ》やかやのんです。ちょうどその時分は五月のなかば頃でしたから、「早う夏になったらええのんになあ、毎日でも泳ぎに来るのに」と、部屋の中見廻しながら、「うちも結婚したら、こんな寝室持ちたいわ」などというたりしました。「あんたやったら、これどころやあるかいな。もっともっとええとこい行けるやないか。」「そやけど、結婚してしもたらどんな寝室に住んでも、綺麗な籠《かご》の中に入れられた鳥のようなもんと違うかしらん?」「そら、そんな気イすることもあるけど、――」「あんた、此処は夫婦の秘密室やないかいな。わたしこんな部屋い引っ張って来て、旦那さんに叱《しか》られへん?」「秘密室かってかめへんやないか。あんただけは特別やもん。」「そないいうても、夫婦の寝室は神聖なもんやいうさかいに、……」「そしたら処女の裸体かって神聖なもんやよって、ここで見せてもらうのが一番ええわ。今のうちやったら光線の工合《ぐあい》もちょうどええよって、はよ見せてほしいわ。」私はそういうて急《せ》きたてました。「海の方から誰ぞ見てはれへんやろか。」「あほらしい、あんな沖の方にいる船から何が見えるもんかいな。」「そやけど、ここはガラス窓やよってなあ。――そこのカーテン締めてほしいわ。」五月いうても眼エ痛うになるほどキラキラするお天気でしたから窓はところどころ開け放してありましたが、それすっかり締め切ってしもうたのんで、部屋のなかは汗がたらたら流れるぐらいの暑さでした。光子さんは観音さんのポーズするのに、なんぞ白衣《びゃくえ》の代りになるような白い布がほしいいうのんで、ベッドのシーツ剥《は》がしました。そして洋服箪笥《だんす》の蔭い行《い》て、帯ほどいて、髪ばらばらにして、きれいに梳《す》いて、はだかの上いそのシーツをちょうど観音さんのように頭からゆるやかにまといました。「ちょっと見てごらん、こないしてみたら、あんたの絵エと大分違うやろ。」そういうて光子さんは、箪笥の扉《とびら》に附いている姿見の前い立って、自分で自分の美しさにぼうっとしておられるのんでした。「まあ、あんた、綺麗な体しててんなあ。」――わたしはなんや、こんな見事な宝持ちながら今までそれ何で隠してなさったのんかと、批難《ひなん》するような気持でいいました。わたしの絵エは顔こそ似せてありますけど、体はY子というモデル女うつしたのんですから、似ていないのはあたりまえです。それに日本画の方のモデル女は体よりも顔のきれいなのんが多いのんで、そのY子という人も、体はそんなに立派ではのうて、肌《はだ》なんかも荒れてまして、黒く濁ったような感じでしたから、それ見馴《みな》れた眼エには、ほんまに雪と墨ほどの違いのように思われました。「あんた、こんな綺麗な体やのんに、なんで今まで隠してたん?」と、わたしはとうとう口に出して恨みごというてしまいました。そして「あんまりやわ、あんまりやわ」いうてるうちに、どういう訳や涙が一杯たまって来まして、うしろから光子さんに抱きついて、涙の顔を白衣の肩の上に載せて、二人して姿見のなかを覗《のぞ》き込んでいました。「まあ、あんた、どうかしてるなあ」と光子さんは鏡に映ってる涙見ながら呆《あき》れたようにいわれるのんです。「うち、あんまり綺麗なもん見たりしたら、感激して涙が出て来るねん。」私はそういうたなり、とめどのう涙流れるのん拭《ふ》こうともせんと、いつまでもじっと抱きついてました。
「さあ、もう分ったやろうち着物きるわなあ」いわれるのんを、「イヤや、イヤや、もっと見せてほしいイッ」と、わたしは甘えたみたいに首振ってせがみました。「あほらしいもない、いつまではだかになってたかてしょうがないやないか。」「しょうがあるとも。あんた、まだ、ほんとのはだかになってえへんやないか。この白い物取ってしもたら、――」そういうていきなり肩にかかってるシーツ掴《つか》みますと、「放してほし! 放してほし!」と、一所懸命に剥《は》がされまいとしなさるのんで、シーツがびりびり破れました。わたしはかあッと逆上してしもて、くやし涙一杯浮かべて、「そんならいらん、うちあんたそんな水臭い人や思てえへなんだのに、もうええわ。もうきょう限り友達でもなんでもないわ」と破れたシーツを口でずたずたに引き裂きました。「まあ、あんた、気イでも違うたんか。」「うちあんたみたいに薄情な人知らんわ。あんた、こないだ、もうお互に一切隠しごとせんいうて約束したやないか。あんたのうそつき!」――その時はよっぽどどうかしてたと見えまして、自分で覚えないのんですけど、まっさおになってぶるぶる顫《ふる》いながら光子さんを睨《にら》みつけた顔つきが、ほんまに気でも狂うたように思えましたそうです。そういうと光子さんもやっぱり黙ってわたしの顔じーッと視《み》つめたまま、ふるてなさったようでしたが、ついさっきまでの気高い楊柳観音のポーズ崩《くず》れて、羞《はず》かしそうに両方の肩おさえて、一方の足の先を一方の上に重ねて、片膝《かたひざ》を「く」の字なりにすぼめながら立ってなさるのんが、哀れにも美しゅう思えました。わたしはちょっといたいたしい気イしましてんけど、シーツの破れ目から堆《うずたか》く盛り上った肩の肉が白い肌をのぞかせてるのを見ますと、いっそ残酷に引きちぎってやりとうなって、夢中で飛びついて荒々しゅうシーツ剥がしました。わたしも真剣なら、光子さんも気イ呑《の》まれたと見えまして、こっちのするままになりながら、もう何事もいわれませなんだ。ただ両方が憎々しいくらいな激しい眼つき片時も外《そ》らさんと相手の顔いそそいでました。わたしはとうど思い通りにしてやったいう勝利のほほえみを、――冷ややかな、意地の悪いほほえみを口もとに浮かべて、体に巻きついてるものをだんだんに解いて行きましたが、次第に神聖な処女の彫像が現われて来ますと、勝利の感じがいつのまにやら驚歎の声に変って行きました。「ああ憎たらしい、こんな綺麗な体してて、――うちあんた殺してやりたい。」わたしはそういうて光子さんのふるてる手頸《てくび》しっかり握りしめたまま、一方の手エで顔引き寄せて、唇《くちびる》持って行きました。すると突然光子さんの方からも、「殺して、殺して、――うちあんたに殺されたい、――」と、物狂おしい声聞えて、それが熱い息と一緒に私の顔いかかりました。見ると光子さんの頬《ほお》にも涙流れてるのんです。二人は腕と腕とを互の背中で組み合うて、どっちの涙やら分らん涙飲み込みました。
その日はわたし、別にどうという考はありませんでしたけど、光子さん連れて来ること夫に黙ってましたのんで、夫の方では学校の帰りにわたしが事務所い寄る思うて、ゆうがたまで待ってましたそうですが、いつまでたっても来ませんのんで、家い電話かけて来ました。「そんなんやったら、ちょっと知らしてくれたらええのに。えらい待ちぼけ喰《く》うたもんや。」「ついうっかりしてて済《す》まなんだけど、急に話がまとまってしもてん。」「そんで、光子さんまだいやはんのか。」「いやはるけど、もう直《じ》き帰りはるやろ。」「まあもうちょっと留めといたげエな、僕こいから直ぐ帰るわ。」「そしたら大急ぎで頼むわ。」――わたしは口ではそういいましたけど、心のうちでは夫が戻って来ますのん何や面白う思いませなんだ。さっきの寝室の事あってから、わたしの胸には幸福の感じが満ち満ちてまして、今日は何という楽しい日イやろと、足が地に着かんように浮き浮きして、些細《ささい》なことにも直ぐに心臓どきッと早鐘《はやがね》打つようになってましたのんに、夫に帰って来られてはその折角《せっかく》の幸福へヒビが入るように感じたのんです。わたしはただもう光子さんと二人きりで、いつまでも話してたかったのんです。いえ、話なんかせえでも構《か》めしません、黙って光子さんの顔さい見てられたら、――自分がその人のそばにいるいうことだけで、限りない幸福が胸一杯になるのんです。「なあ光子さん、今電話がかかってなあ、うちの人帰って来るそうやねんけど、あんたどないする?」「えー、どうしょう――」と、光子さんは慌《あわ》てて着物着ながら、――もう夕方の五時時分でしたが、その時まで二、三時間もシーツ一つでいなさったのんです。――「うち会わんと帰ったら悪いかしらん?」「あんたに会いたいいうてたけど、……今じっき帰って来るよって待ってたらどう?」わたしはそういうて引き留めはしましたもんの、その実夫が戻らん先に早う出て行ってくれはったらええ思いました。そうというのんが、今日の一日を完全に幸福な一日として終らしたい、折角のうつくしい日の思い出を、第三者のために不純にさしてしまいたくないと願うたのんです。そんな気持があったもんですから、夫が帰って来ました時には、自然とその不満の色顔い出まして、妙にふさぎ込んでしまいました。光子さんも、わたしがそういう風でしたし、初対面でもありますし、それにいくらか気イとがめてもいなさったのんでしょう、あんまり物数いわれませんのんで、三人ながら手持無沙汰《てもちぶたさ》[#ルビの「てもちぶたさ」はママ]で、めいめい何や別な事考えてる、というたようなあんばいでした。そうなるとわたしは、いよいよ邪魔しられたのんが腹立たしいて、夫憎うさい感じました。「二人で何して遊んでてん?」と、夫は光子さんの手前、ぼつぼつそんなこと話しかけました。「今日は寝室アトリエに使《つこ》てしもてん」と、わたしはわざとあっさりいうて除《の》けました、「――観音さんの絵エ画きなおそ思《おも》て、光子さんにモデルになってもろてん。」「ロクな絵エもよう画かんくせに、モデルこそええ迷惑やなあ。」「そやけど、モデルの名誉回復のために画きなおしてくれいわれてんもん。」「お前《まい》らなんぼ画いたかってモデルわやくちゃにするだけや。モデルの方がずっと綺麗やないか。」夫婦がそんなことをいい合うてるあいだ、光子さんは羞《はず》かしそうに下向いてくつくつ笑うてなさるだけで、てんと話はずまずに、間ものう帰ってしまわれました。
ここにその時分やりとりしました手紙持って来ましたから、お読みになって下さいませ。まだこの外にもたんとたんとありますけど、とてもみんなは持って来られしませなんだのんで、これはほんの一部分、その中の面白そうなのん選《よ》って来ましたのんです。こっちの方のが古いのんで大体順番になってますから、どうぞこれから見て下さいませ。光子さんからわたしの方い来ましたのんは一《ひと》ッつ残らず大事にしもて置いたのですが、わたしの方から光子さんい上げたのんが中に交ってますのんは、それはあのう、あとで話しますけど、少し事情ありまして、あの方の家から取り戻しましたのんです。(作者註、柿内未亡人がほんの一部分だといったところのそれらの文穀《ふみがら》は、約八寸立方ほどの縮緬《ちりめん》の帛紗《ふくさ》包みにハチ切れるくらいになっていて、帛紗の端《はし》が辛《かろ》うじて四つに結ばれていた。その小さい堅い結び目を解くのに彼女の指頭は紅《くれない》を潮《ちょう》し、そこを抓《つね》っているように見えた。やがて中から取り出された手紙の数々は、まるで千代紙のあらゆる種類がこぼれ出たかのようであった。なぜならそれらは悉《ことごと》くなまめかしい極彩色の模様のある、木版刷りの封筒に入れられているのである。封筒の型は四つ折りにした婦人用のレターペーパーがやっと這入《はい》るほどに小さく、その表面に四度刷りもしくは五度刷りの竹久夢二《たけひさゆめじ》風の美人画、月見草、すずらん、チューリップなどの模様が置かれてある。作者はこれを見て少からず驚かされた。けだしこういうケバケバしい封筒の趣味は決して東京の女にはない。たといそれが恋文であっても、東京の女はもっとさっぱりしたのを使う。彼女たちにこんなのを見せたら、なんてイヤ味ッたらしいんだろうと、一言の下に軽蔑《けいべつ》されること請《う》け合いである。男も彼の恋人からこういう封筒の文を貰《もら》ったら、彼が東京人である限り、一朝にしてあいそを尽かしてしまうであろう。とにかくその毒々しいあくどい趣味は、さすがに大阪の女である。そうしてそれが相愛し合う女同士の間に交《かわ》されたものであるのを思う時、尚更《なおさら》あくどさが感ぜられる。ここにその手紙のうちからこの物語の真相を知るのに参考になるものだけを引用するが、ついでにそれらの模様についても、一つ一つ紹介するであろう。思うにそれらの意匠の方が時としては手紙の内容よりも、二人の恋の背景として一層の価値があるからである。――)
(五月六日、柿内夫人園子より光子へ。封筒の寸法は縦《たて》四寸、横二寸三分、鴇《とき》色地に桜ン坊とハート型の模様がある。桜ン坊はすべてで五顆《か》、黒い茎に真紅《まっか》な実が附いているもの。ハート型は十箇で、二箇ずつ重なっている。上の方のは薄紫、下の方のは金色、封筒の天地にも金色のギザギザで輪郭が取ってある。レターペーパーは一面に極《ご》くうすい緑で蔦《つた》の葉が刷ってある上に銀の点線で罫《けい》が引いてある。夫人の筆蹟《ひっせき》はペン字であるが、字の略しかたにゴマカシがないのを見れば相当に習字の稽古《けいこ》を積んだものに違いなく、女学校では能筆の方だったであろう。小野鵞堂《おのがどう》の書風を更に骨無しにしたような、よくいえば流麗、わるくいえばぬらりくらりした字体で、それがまた不思議なくらい封筒の絵とぴったり合っている。)
しと/\/\/\……今夜は五月雨《さみだれ》が降っている。あたしは今窓の外の桐《きり》の花にふりそそぐ雨の音をききながら、あの、あなたが編んで下さった紅《あか》いシェードの垂《た》れているスタンドの蔭でじっと机にむかっています。なんだかうっとうしい晩だけれど、軒端《のきば》を伝う雨の雫《しずく》に静かに耳を傾けていると、思いなしかそれがやさしい囁《ささや》きのように聞えて来る。しと/\/\/\……何をささやいているのか知らん? しと/\/\……ああそうだ、光子光子光子、……恋しい人の名を呼んでいるのだ。徳光徳光、……光子光子、……徳、徳、徳、……光、光、光、……あたしはいつの間にかペンを取って、左の手の指の先へ「徳光」という字や「光子」という字を数限りもなく書いていた、親指から小指まで順々に。
堪忍《かんにん》して頂戴《ちょうだい》、こんなつまらないことを書いて。
毎日顔が見られるのに手紙なんか書くのはおかしい? でも学校だと傍へ寄るのがきまりが悪くて妙に気がひけるのだもの。そういえばこんなにならないうちはわざとお互に寄り添うてみんなに見せびらかしたのに、噂《うわさ》が事実になってしもてからかいって人目を憚《はばか》るようになるなんて、やっぱりあたし気が弱いのかしらん? ああ、どうかして強くなりたい、もっと、もっと、……神をも、仏をも、親をも、夫をも、恐れないほど強く強く、……
明日の午後はお茶の稽古? そしたら三時にあたしの家に来られない? あした学校でイエスかノーを知らして頂戴、この間のように合図してね。きっと、きっと、きっと来て! 今もテーブルの瑠璃《るり》の花瓶の中で綻《ほころ》びかけた白い芍薬《しゃくやく》が、あたしと一緒にあえかなためいきを洩《も》らしながらあなたの来るのを待っているの。失望させると可愛い芍薬の花が泣きます。洋服箪笥《だんす》の姿見もあなたの姿を映したいといっています。ではきっと!
明日のお昼の遊び時間にあたしはいつもの運動場のプラタナスの下に立っています。合図を忘れてはいけません。
園
光様
(五月十一日、光子より園子へ。封筒縦四寸五分。横二寸三分。オールドローズの地色の中央に幅一寸四分ほどの広さに碁盤目《ごばんめ》が通っていて、その中に四つ葉のクローバーを散らし、下の方に骨牌《カルタ》が二枚、ハートの一とスペードの六が重なっている。碁盤目とクローバーは銀色、ハートは赤、スペードは黒、レターペーパーは濃い鳶色《とびいろ》の無地で、その右下の隅《すみ》の所から斜めに白絵の具のペン字で文句が書いてある。筆蹟は園子より拙《つたな》く、落ち着きのない走り書きのように見えるが、この方が字体が大きく、イヤ味がなくて生き生きとした奔放な感を与える。)
姉ちゃん
光は今日一日機嫌が悪かったの。床の間の花をむしったり罪もない梅(専ら光子に侍《かしず》いている小間使《こまづかい》の名)を叱り飛ばしたり、――光はきっと日曜になると機嫌が悪いの。なぜって一日姉ちゃんに会えないのだもの。なぜハズさんがいると来てはいけないの? でも電話ぐらいならと思って、さっきかけたらハズさんと一緒に鳴尾《なるお》へ苺狩《いちごがり》に行ってお留守! まあお楽しみ!
ひどい、ひどい!
あんまりやわ、あんまりやわ!
光は一人で泣いています。
ああ、ああ、ああ
くやしいからもうなんにもいわない、
Ta Sur Clair
Ma Chre S
r Mlle. Jardin
(上文中の“Ta Sur”は仏蘭西《フランス》語で“Your Sister”ということ、“Clair”は光の義から転じて「光子」を意味するのであろう。“Ma Ch
re S
ur”は“My Dear Sister”“Mlle. Jardin”は“Miss Garden”にて「園子嬢」の意。「マダム・ジャルダン」といわないで「マドモワゼル・ジャルダン」としたについては宛名《あてな》の末に下の如く追記してある。――)
あて姉ちゃんを「マダム」とはいわない。
「奥様」――まあ嫌な! 思てもぞっとする!
でもこんなことハズさんに知れたら大変ね、
Be careful!
姉ちゃんはなんで手紙に「園子」とサインするの? なんで「姉より」としてくれないの?
(五月十八日、園子より光子へ。封筒縦四寸横二寸四分。図は横に画《か》いてある。緋色《ひいろ》の地に鹿《か》の子《こ》の絞《しぼ》りのような銀の点線が這入《はい》っていて、下に大きな桜の花弁の端が三枚見え、その上に後姿の舞妓《まいこ》が半身を出している。緋、紫、黒、銀、青の五度刷りの最も色彩の濃厚なもの。従ってその表面へ文字を書いても読みにくいので、宛名は裏面に記してある。レターペーパーは丈七寸幅四寸五分ほどの大きさの中に八寸ぐらいの白百合《しらゆり》の茎のたわめられたのが左へ寄せて描いてあり、その周《まわ》りがうす桃色にぼかしてある。故に罫《けい》の引いてある部分は僅《わず》かに紙面の三分の一の面積しかない。それへ四号活字より小さい文字で細く細く書き続けてある。)
とうとう来た、一度は来るとかねがね覚悟していた事が、……とうとう破裂してしもうた。ゆうべは随分猛烈だった。光ちゃんが見たらどんなにびっくりするかしらん。あたしら夫婦――あ、堪忍して頂戴、あたしらだなんて。――ハズもあたしも久しぶりであんな大喧嘩をした。久しぶりどころかこんなことは結婚以来始めてだった。この前問題があった時でもゆうべのように激しいいい合いをしたことはなかった。あのおとなしい優しい人があんなに腹を立てるなんて! けど無理もないかも知れない、なぜってあたし今考えるとほんとに悪いことをいったのだもの。どうしてあたしハズに向うとああ強情になれるのかしらん? それにゆんべは特別に強硬だったの、どういう訳だか。……あたし今度は自分でちっとも済まない事をしたという気が起らないの、でもハズだって随分乱暴なことをいった、不良少女、ヴァンパイア、文学中毒、――ありとあらゆる汚名をあびせて、それでも足りないで光ちゃんのことまでも「寝室の闖入者《ちんにゅうしゃ》」だの「家庭の破壊者」だのと、――あたし自分のことだけなら堪忍するけど、光ちゃんのことをいわれたのでもう我慢ならなかった。「うちが不良少女なら何でそんな者を妻にしなさった。あんたは男らしいもない、あたしの家から学費を出してもらいとうて好きでもない者と結婚しなさったんか。あたしの我《わ》が儘《まま》は初めから分ってるやないか。あんたは卑怯《ひきょう》や、意気地《いくじ》なしや」と、思いきりくさしてやった。そしたらいきなり灰皿を取って振り上げたのでえらい目に遭《あ》わすか思たら、それを壁へ叩《たた》きつけたなり、手荒なこともようせんとまっさおになって黙ってしもた。「うちの体に怪我《けが》でもさして御覧、覚悟があるよって」そういうてもやっぱり黙っていた。それきり今日までハズは一ぺんも口をきかない……。
――その手紙にあるいい合いのことについてはもっと先生に聞いて戴《いただ》きたい事があるのんです。前にもお話しましたかどうか、わたしと夫とはどうも性質が合いませんし、それに何処《どこ》か生理的にも違うてると見えまして、結婚してからほんとに楽しい夫婦生活を味おうたことはありませなんだ。夫にいわすとそれはお前が気儘《きまま》なからだ。何も性質が合わんことはない、合わさんようにするよってだ。己《おれ》の方は合わすように努めてるのんに、お前がそういう心がけにならんのがいかん。世間の夫婦てそない理想通りに行《い》てるのんあれへんで。ハタから見たら円満のようでも、内情知ったら不平のない奴《やつ》あるもんか。己らかて人が見たら羨《うらや》ましいように見えるかも知れへんし、一般の標準から思たら実際幸福の方かも知れん。お前は世間知らずのいとはんやよって、自分で自分の幸福が分らんと何や彼《か》や贅沢《ぜいたく》いうのんや。お前みたいな人間はどない申分のない夫持ってもこれなら満足やいう時あれへんで。と、いつもそないいうのんですけど、私は夫の世の中悟りすましたような、諦《あきら》めたような物のいい方が気に入りませんよって、あんたはちっとも煩悶《はんもん》なんかしたことないように見える、あんたという人は人間らしい所《とこ》あれへん、と、そういうて攻撃するのんです。夫の方では私の性質に合わすように努めてるのんですやろけど、それがほんまに気持がぴちっと合うのんでのうて、こっちを子供扱いにして、ええ加減にあやしてるように思われますのんで、そういう態度が癪《しゃく》に触って仕方あれしません。あんた大学では秀才やったそうやさかい、あてみたいなもん定めし幼稚に見えるやろけど、あてから見たら化石みたいな人やわ、というてやった事もあります。いったいこの人の胸にはパッションいうものがあるのかしらん? この人でも泣いたり怒《おこ》ったりびっくりしたりする事あるのかしらん? 私は冷静な夫の性格にやるせない淋しさ感じたばかりやのうて、いつの間にやら一種のわるさじみた好奇心抱いてましたのんで、それがこの前のことや光子さんのことや、いろいろの事件惹《ひ》き起す元になったのんです。
でも前の事件の時分は結婚して間もないことで、まだ処女時代の純真さ持ってましたから、今よりはうぶで、気イ小そうて、夫に済まんいう心持強いでしたけど、その手紙にもありますように今度はさっぱりそんな気持になりませなんだ。わたしかって、ほんまいうたら夫の知らん間にたんと苦労しましたのんで、だんだん擦《す》れて、ずるうなってたのんですが、夫にはそれ分らんと、いまだに子供や子供や思てます。わたし最初それが口惜《くや》しいてなりませんでしたが、口惜しがるとなお馬鹿にしられるので、ようし、向《むこ》が子供や思てるのんなら、何処までもそう思わして、油断さしてやれ、と、次第にそんな気イになりました。うわべはいかにもやんちゃ装うて、都合の悪い時はだだこねたり甘えたりして、お腹《なか》の中では、ふん、人を子供や思てええ気イになってる、あんたこそお人好しのぼんぼんやないか。あんたみたいな人欺《だま》すぐらいじッきやわ、と、嘲弄《ちょうろう》するようになって、しまいにはそれが面白うて何ぞいうとすぐ泣いたり怒鳴《どな》ったりして、自分ながら末恐ろしいなるほど芝居するのんが上手《じょうず》になってしもて、……先生なんかこんなことよう分っておられますやろけど、ほんまに人間の心理いうもん境遇によってえらいえらい変りようするもんですなあ。前でしたら時に依《よ》ってははっと思て、ああ、こんな事するのんやなかったと、後悔する気イになりましたのんに、今では反抗的に、なんじゃ意気地のない、これぐらいのこと恐《こわ》がってどないすると、自分で自分の臆病《おくびょう》あざわらうようになるなんて、……それに、夫に内証で外の男愛したら悪いやろけど、女が女恋いするねんよってかめへん。同性の間でなんぼ親しなったかて夫がそれとやかくいう権利あれへんと、いつもそんな理窟つけて自分の心欺《あざむ》いてました。その実わたしの光子さんを思う程度は、前の人思うたのより十倍も二十倍も、……百倍も二百倍も熱烈やったのんですけど、……
わたしがそない大胆になったもう一つの理由は、夫は学生時代からそれはもうお話にならんキチン屋のガリガリ屋で、それを父から見込まれましたくらいやのんですから、ほんまに常識一点張りの、ちょっとでも変ったことや普通のことと違《ちご》てることは分らん人やのんで、わたしと光子さんとの間柄なんぞも、なかなか感づかんやろう、やっぱりただの仲好しや思てるやろうと、たかくくってましたのんです。初めは夫もそんなことあるやろうとは夢にも想像してませんでしたが、そのうちにだんだん、なんやけったいやなあ思うようになりましたのんですやろ。そらそのはずで、前には学校の帰りがけに事務所い寄って夫誘いましたのんに、近頃ではひとりで先い帰ってしまう。そんで三日に一遍ぐらいはきっと光子さんやって来なさって、二人で長いこと閉じ籠《こも》ってる。モデルに使うねんいうてるけど、何してんのか、何日たっても絵エ出来上らんし、おかしい思うのんあたりまえやのんです。「なあ、光ちゃん、この頃あの人ぼんやり気イつき出して来たよって、用心せんとあかんねん。今日はあてがあんた所《とこ》い行くわなあ」いうて、わたしの方から光子さんの家い出かけることもありましたけれど、……はあ、学校でイヤな噂《うわさ》あったのんは市会議員の中傷やいうこと分りましたのんで、光子さんのお母さんはちょっとも私疑ごうてなされしませなんだ。わたしも信用落したらいかん思て、訪《た》ンねるたんびにお母さんの機嫌《きげん》取ってましたのんで、「柿内の奥さん奥さん」いうて、「ええ友達が出来てよろしおますなあ」いうてなさった。それくらいですよって、毎日ほど遊びに行ても電話かけても差支《さしつか》いあれしませなんだけど、……お母さんの外にその手紙にある梅いうお附《つき》の女子衆《おなごしゅ》もいますし、いろいろハタ眼があるもんですよって、わたしの家のような訳には行きません。「あてとこやっぱりあかんなあ。折角お母ちゃんが姉ちゃん信用してはんのに、下手《へた》なことしてしもたら厄介やさかい」いうて、「そうそう、宝塚の新温泉どうやろ?」と、光子さんがいい出しなさって、二人で向《むこ》い行て家族風呂い這入《はい》りながら、「姉ちゃんずるいわ、あての裸ばっかり見せてくれ見せてくれいうて、自分のんちっとも見せん癖に。」「あてずるいことないねんけど、あんたがあんまり白いよって恥かしいねん。あんた、こんな黒い体見ても愛想尽かさんといてなあ」いうたりしましたが、わたしほんとに、自分の肌《はだ》初めて光子さんに見せた時は、一緒に並ぶのんイヤな気イしました。光子さんは色が飛び切り白いだけでのうて、体の釣合いよう取れてて、姿がすらッとしてなさるのんで、それに比べたら、何や急に自分の体無細工《ぶさいく》に思われて来て、……「姉ちゃんかって綺麗やないかいな、あてとちっとも変れへんもん」いわれますと、しまいにはそれを真《ま》に受けて何とも思わんようになりましたけど、……初めはわたし身がちぢむように感じました。
それであのう、その前の日曜に夫と二人で苺狩《いちごがり》に行たことが光子さんの手紙にありますでしょう。その日は実はまた宝塚い行きたいなあ思てたとこい、「どうや、今日は天気ええよって鳴尾《なるお》い行てめえへんか」いわれましたのんで、あいさには夫の機嫌取っといてやれ思いまして、イヤやなあ思いながら出かけたのんですけど、魂は光子さんのところ飛んで行てしもて、ちょっとも興乗りませなんだ。恋いしさが募《つの》れば募るほど、なんやかやと話しかける夫がうるそうて、腹立たしいて、ろくさま返事もせんと一日ふさぎ込んでましたよって、その時からもう夫の方は一ぺん懲《こ》らしてやらんならんと考えたらしいのんです。けど例に依ってなんや浮かん顔してるだけで、喜怒哀楽をなかなか面へ表わさん人やもんですから、わたしの方ではまさかそない怒らしたとは気イつけしませなんだ。そして夕方帰って来ると、留守に電話かかったいうのんで口惜《くや》しいて口惜しいて、夫や家の者たちにぷんぷん当り散らしました。そしたら明くる朝光子さんから恨みの手紙来ましたよって、すぐ電話で打ち合わして、阪急の梅田で落ち合うて、学校い行かんと、そのまま宝塚い行てしもて、それから一週間ほどずうッと一日も欠かさんと宝塚い行てたのんです。そうそう、さっきのあの写真、それはちょうどその頃に揃《そろ》いの着物出来ましたのんで、二人で記念に撮《と》ったのんですが、……そして、苺狩に行た日から五、六日たってからやったか知らん、或る日二階でいつものように話してると、三時過ぎ頃に女子衆《おなごしゅ》が慌《あわ》てて段梯子《だんばしご》駈《か》け上って来て、「旦那さん帰って来やはりましたでエ!」いいますのんで、「えー、なんでやろこんな時分に!」と、えらいまごついてしもて、「光ちゃん、早《は》よしいでわ!」いいながら、二人ともけったいな顔して下い降りて行たことありましてん。夫はその間に洋服をセルの単衣物《ひとえもの》に着かえてしもてまして、わたしたち見た瞬間ちょっとイヤな顔しましたが、すぐ平気になって、「今日は僕なんにも仕事なかったのんで事務所早退《はやび》きして来てん、お前らも学校怠《なま》けててんなあ」いうて、「お茶でも入れて何ぞうまいお菓子ンでも出さんかいな、お客さんもあるし、……」と、それなり三人で無駄話しながら何事ものう済みましたけど、その時うっかり光子さんが私のこと「姉ちゃん」いうてしもたのんではっとしました。「あんた、あてのこと『姉ちゃん』いわんと『園ちゃん』いうてくれた方がええなあ、つい口癖になってしもて誰の前でも出るよって」と、わたししょっちゅういうてましたのんですけど、そういうといつも光子さん気イ悪うして、「イヤや、イヤや、そんな水臭いことあるもんか、姉ちゃんはあてに『姉ちゃん』いわれるのん嫌《いや》か?」いいなさって、「頼むさかい『姉ちゃん』いわして! あて、人のいる時きっときっと気イつけるよって!」いうてなさったのんですが、とうどそこで出てしもたのんです。そんで光子さんが帰ってしまいなさってから、夫も私も奥歯に物挟《はさ》まったような工合《ぐあい》でした。そいからその明くる日の夕方、晩御飯たべたあとで、「僕、どうもこの頃のお前の素振《そぶり》腑《ふ》に落ちんねんけど、何ぞ訳あるのん違うか」いうて、ふと思いついたように尋《た》ンねますのんで、「腑に落ちんてどういう工合に? うち、自分で一向気イつかんけど」いうてやりますと、「お前、あの光子いう児《こ》とえらい仲ええようやけど、一体あの児どない思てんねん?」いうのんです。「うち、光子さん大好きやわ、そやよって仲好うしてんねんわ。」「好きは分ってる、どういう意味で好きやねん?」「好きいうことは感情やもん、理由やかいあれへんわ。」――わたし、弱み見せたらいかん思て、故意に挑戦的に出てやりましたのんで、「そうお前みたいにぽんぽんいわんと、もっと落ち着いて分るように話したらええやないか」いうて、「好きにもいろいろの意味があるし、――学校でそんな噂《うわさ》あったりしたんやさかい――誤解受けたらためにならん思うよって尋《た》ンねてんねん」いいます。「万が一そんなこと世間い聞えてみいな、あの児よりお前が責任あんでエ。お前の方が歳上《としうえ》やし、夫のある身イやし、……そしたらあの児の親たちに対しても申訳立たんやないか。お前だけやない、僕かって黙って見てたいわれたら、後日になってどないにもいいようない。」わたしは夫のいうこと一々胸にこたえましたけど、そんでも強情張って、「もう分ってる、うち、そんな、友達のことまで何や彼や干渉されるのん嫌《きら》いやわ。あんたはあんたで好きな友達持ったらええし、うちはうちで勝手にさしといて欲しいわ。うちかって自分の責任ぐらい知ってまッせ」いうてやりました。「ふん、そら、普通の意味の友達やったら僕は決して干渉せえへん。そやけど、毎日のように学校休んだり、夫の眼エをかすめたり、こそッと人の居《い》ん所《とこ》い閉《と》じ籠《こも》ったりするようなんは、健全な交際とは認められん。」「へえ、あんた、おかしいこというねんなあ。そんなけったいな想像するなんて、あんたこそ下等やないか。」「もしほんとに僕の方が下等やったら、なんぼでも詫《あやま》る。僕はなるべく僕の想像中《あた》らんように祈ってる。けど、お前は僕を下等やいう前に自分の良心に訴えてみる必要ないのんか。自分にちょっとも疚《やま》しいとこないいえるのんか。」「なんでまた今日そんな事いい出したん? うちは光子さんの顔好きやさかい、それ元《もと》で友達になったいうことは、あんたかって知ってるやないか。あんた自分で、そんな綺麗な人やったら会わしてくれいうたやないか。誰かって綺麗な人好きになるのん当り前やし、女同士の間やったら美術品愛するのんと同じやんのに[#「同じやんのに」はママ]、それ不健全いうたら、あんたの方がもっともっと不健全やわ。」「そやかって、美術品愛するのんやったら何も二人だけで閉じ籠らんと、僕のいる前でもええはずやが、……いつでも僕が帰って来ると、お前ら妙にモジモジしてるのんどういう訳や? それに第一、きょうだいでもないのんに『姉ちゃん』やの『妹』やのいうのんから、気に入らん。」「あほらしい! あんた女学生間のことちょっとも知らんねんなあ。誰でもみんな仲のええもの同士やったら、『姉ちゃん』や『妹』やいうのん珍しいことあれへんわ。そんなこと不思議がんのん、あんたぐらいなもんやわ」その晩は夫もなかなか負けてませなんだ。いつもやったら私が少しだだ捏《こ》ねたら、「しょうのない奴《や》ッちゃなあ」いうて、ええ加減にあきらめてしまいますのんに、イヤにねちねち追窮して「うそついてもあかん、僕ちゃあんと清《きよ》に聞いてるねん」いうて、絵エ書くためでないのん分ってる、一体何してるのんか、はっきり説明してみいいいます。「そんなこと説明の限りやない。絵エ画くいうても本職の絵かきがモデル使《つこ》て製作すんのんと違うねんもん、どうせ遊び半分やよって、そないきっちりと真面目《まじめ》くさってばっかりもいられへん。」「そんなら二階使わんかって、下の部屋でしたらええやないか。」「使ても悪いことあれへんやんか。――あんた、一ぺん絵かきのアトリエい行て絵エ画《か》くとこ見て御覧、本職の人かって製作するのんにそないむずかしい顔ばっかりしてせッせとしてるもんあれへんわ。――休み休み気分の動くのん待つようにして画かんと、ええもん出来《でけ》へんよってなあ。」「お前そんなえらそうな口きいて、いつぞ一ぺん絵エ出来上るつもりかいな。」「出来る出来んはうち問題にしてえへん。光子さんいうたら顔ばっかりやのうて、そらもう体じゅう顫《ふる》い着きたいように綺麗やさかい、観音様のポーズしてもろてそれじいッと眺めてると、絵エ画かんかって何時間でも見飽きせえへん。」「あの児はそないして、何時間でもお前に肌見られてて平気やのんか?」「そらそやわ。女が女に見せるねんもん羞《はず》かしいことあれへんし、誰かて自分の肌褒《ほ》められて悪い気イせえへんやんかいな。」「なんぼ女同士やかて昼日中《ひるひなか》若い女が裸になったりして、お前らまるで気違い沙汰《ざた》やな。」「うちあんたのようにコンヴェンションに囚《とら》われてえへんよってなあ。――あんた、映画女優の裸体見てつくづく綺麗やなあと感じたことあれへんか? うちやったらそんな時ええ景色見るのんと同じようにうっとりとして何ちゅうことなしに幸福な、生きがいある感じして来て、しまいには涙出て来んねん。『美』の感覚のない人に説明したかて分れへんやろけど。」「そんなことが『美』の感覚と何の関係あるもんか、そら変態性慾や。」「あんたこそ頭古いねん。」「馬鹿いいな! お前は年中しょうむない恋愛小説ばっかり読んでるよって、文学中毒起してんねん。」「うるさいなあ、ほんまに」いうて、私が取り合わんと横向いてしまうと、「一体あの光子いう児も真面目なお嬢さんとは受け取られへん。少し常識のあるもんやったら、人の家庭へ闖入《ちんにゅう》して平和破壊するようなことする訳あれへん。あらきっと性質ええことない児やで。あんなもんと附き合うてたらお前も今に迷惑するでエ。」――自分のことよか好きな人のこといわれた方がどないに口惜しいか知れんもんで、この光子さんの悪口が出ると思わず識《し》らずむかッとしました。「何やのん、あんた! あんた何の権利あってうちが大好きやいう人のこととやかくいうのん? 光子さんほど姿と性質のぴちッと合った人、世界じゅう捜したかってまたとあれへん。あんな心の清い人、人間やあれへん、観音様と同じこッちゃ。悪口いうたら勿体《もったい》のうて罰《ばち》あたるわ!」「それ見い! そんなこというのんが正気の沙汰やあれへん! 気違いのいい草や。」「あんたこそ人間の化石や。」「お前いつの間にや立派な不良少女になってしもてんなあ。」「どうせうち不良やよってなあ。――そんなこと昔から分ってんのんに何でそんなもんと結婚しなはってん? あんた、うちのお父さんに洋行費出してもらいとうてうち貰《もら》いなはったん? きっとそうだッしゃろ!」なんぼ人のええ夫でもこんだけいうたら見る見る額に青筋立てて、「なんやと、もう一ぺんいうてみい!」と、珍しいことに大声で怒鳴りました。「ふん、何べんでもいうたげるわ! あんたは男らしいもない、お金が欲しいてうちと結婚してんやろ! 卑怯《ひきょう》もん」途端に夫がむくッとすわり直した思たら、なんやシューッと白い物飛んで、カチッと後の壁い当りました。夢中で首ちぢめたのんで私は何ともありませなんだが、灰皿取って投げ付けたのんです。夫が仮にも私に対して手エ挙げるなんぞいうことは今まで一ぺんもなかったのんで、かっと興奮してしもて、「あんたうちがそないにまで憎いのんか! うちの体にカスリ傷でもさしたらお父さんにいうたげるさかい、それ承知やったら叩《たた》くなと殺すなと勝手にしなさい! さあ殺して欲し! 殺していうたら!」夫は「馬鹿!」いうたなり、半狂乱に泣きわめいてる私の姿呆《あき》れて眺めてるだけでした。
夫も私もそんなり口ききませんで、明くる日一日睨《にら》み合いつづけて、晩に寝室い這入ります時もやっぱり黙ったままでしたが、夜中ごろに夫がくるりと向き直って、肩い手エかけて、私の体を自分の方へ向け変えようとしますのんで、しられる通りにしながら眠ったふりしてますと、「ゆうべは僕もちょっといい過ぎた。そやけどそれもお前を愛してる結果やいうことはお前も分ってるやろ。僕は態度が無愛想やよって冷淡なように見えるけど、心は冷淡と違うつもりや。僕に悪いとこあったら出来るだけ改めるようにするさかい、お前も僕の意志尊重してんか。僕は決して外の事には干渉せん、ただあの光子いう児とは今後交際せんといてくれ。何卒《どうか》それだけ約束してくれ。」「イヤや」と私は、眼エつぶったまま強う首振りました。「それがイヤやったら交際するだけは仕方ないよって、あの児をこの部屋い入れたり、二人だけで何処やかし行かんようにしてくれ。そんでこいからは家出るにも帰るにも僕と一緒にするようにしてくれ。」「イヤや」と私はまた首振りました。「うち、自分のすること束縛されるのイヤやねん、絶対自由にしてほしいわ。」そういうて私は夫の方い背中向けてしまいました。
一旦破裂してしもたからにはもう恐《こわ》いことあれへん。どないなったかて構うもんかと、反動的に一層光子さんが恋しなって、明くる日早速学校い飛んで行きますと、なんでやその日イ姿見《め》えしません。電話かけると今日は京都の親類い行きなさったいわれましたのんで、なおのこと会いとう思うにつけても昨夜の喧嘩《けんか》のこと胸一杯に込み上げて来て、夢中で手紙書いてしもたんですが、出してしもてから、あんなこと書いて光子さんどない思うかしらん? 姉ちゃんのハズさんに済まんさかいあて遠慮しようなあいい出しなされへんか思て、急にまた気がかりになりました。ところがその明くる日、運動場のプラタナスの蔭に待ってますと、人目も構わんと「姉ちゃん」いいながら駈《か》けて来なさって、「あて今朝《けさ》あの手紙読んでなあ、姉ちゃんの顔見るまでは心配で心配で、……」と、両手で肩にぶら下るようにしなさって、下からじっと私を見上げて、涙をためてなさるのんです。「ああ、光ちゃん、あんたかって口惜《くや》しやろなあ、うちの人にあんなこといわれて……」いうてるうちに私も涙をぼろぼろこぼして、「あんた気イわるしてんのん違う? そやったら堪忍なあ、あてあんなこと書かんといたらよかってんけど」いいますと、「あてそんなこと、いうてんのん違う。自分のことやったらどないいわれてもかめへんけど、姉ちゃんはハズさんにそないいわれたらきっとあてがイヤになれへん! なあ姉ちゃん、きっと、きっと、イヤになれへんか?」「あほらしいもない、そんなんやったら昨日もあんな手紙書いたり電話かけたりするかいな。あて、もうこうなったらどんな事あったかてあんたと別れるもんか。ぐずぐずいうたらあんな人ぐらい放《ほ》り出してやるわ。」「姉ちゃん今はそういうてるけど、今にだんだんイヤになって来て、やっぱりハズさんの方愛するのん違うかしらん? 夫婦いうたらみんな何処《どこ》でもそういうもんやいうよって、……」「あてあんな人と夫婦やあれへん。あてはマドモワゼルやもん。光ちゃんさい承知やったら、もしもの時は二人で何処いでも逃げて行くわ。」「まあ、姉ちゃん! それほんまかいな? きっと、きっと、うそ違う?」「うそやないとも! あてもうちゃあんと覚悟してるわ。」「あてかって覚悟してるわ。姉ちゃんあてが死ぬいうたら一緒に死んでくれるなあ?」「死ぬわ、死ぬわ、光ちゃんかって死んでくれるなあ?」――そんな工合で二人の間はその喧嘩《けんか》があったためになおのこと深刻になりましたけど、夫は匙《さじ》投げたんかそんなり何もいいませなんだのんで、こっちはいよいよ図に乗って大胆になるばかりでした。「もう、うちの人あきらめてしもてるわ、ちょっとも遠慮みたいなんすることあれへん。」――私がそういうもんですよって、光子さんもだんだんずうずうしなりなさって、二階にいる時夫が帰って来ましても「姉ちゃん階下《した》へ行ったらイヤや」いうて、自分はもちろん私さえ階下いおろそうとしなされしません。どやすると晩の十時十一時頃までも遊んでなさって、「姉ちゃん家い電話かけてほし」いうて、私からお母《か》あさんを電話口い呼び出して「今夜は家で晩御飯をたべなさって何時頃に帰りはりますよって」と、その時分にお梅いう女子衆《おなごしゅ》に自動車で迎いに来てもらいます。御飯も二階で二人だけでたべたこともありましたけど、夫がひとり手持無沙汰《てもちぶたさ》[#ルビの「てもちぶたさ」はママ]にしてますのんで、「どやのん、あんたもお相伴《しょうばん》しやはれへんか」いいますと、「ふん、してもええ」いうて三人でたべること多いでしたが、もうそんな時に光子さんは平気で「姉ちゃん姉ちゃん」いいます。私と話しとうなると、夜《よる》夜中《よなか》でも電話りんりんかかって来ます。「何んやのん、今時分? あんたまだ起きてんのん?」「姉ちゃんもう寝たん?――」「そやかって二時過ぎやないかいな。――睡《ねむ》たいわア、あて、――ええ気持ちで寝てたとこを――」「えらい済んまへんなあ、折角仲好うしてはったとこを、――」「あんた、そんなこといいにわざわざ電話かけたん?」「そらハズさんのある人はええやろけど、あてはひとりぼっちやよって、淋しいて淋しいて何時になったかって寝られへんわ。」「しょうむない人やなあ。――だだ捏《こ》ねんと早《はよ》寝なはれ、あした遊んだげるさかいなあ。」「あて、あしたの朝起きがけに直ぐ姉ちゃんとこい行くさかい、ハズさんが遅うまで寝てはったら、早《はよ》起してさっさと追い出してしもてエな。」「ふん、よッしャ、よッしャ、――」「きっとやなあ?」「ふん、ふん、分ってる、分ってる」いうて、そんなたわいないこと電話口で二、三十分もしゃべってます。手紙なども内証で遣《や》り取りしてたのんだんだんおおびらになって、光子さんから来ましたのん読みさしのまま机の上などい放り出しときます。――尤《もっと》も夫は人の手紙を偸《ぬす》み読みするような人間と違いますよって、それは安心してましたけど、そいでも前には読んでしもたら急いで箪笥《たんす》の抽出《ひきだ》しい入れて鍵《かぎ》かけといたんですのんに。
そないにして、夫の方もいずれまた一と波瀾《はらん》持ち上ること分ってましたが、さしあたり前より都合ようなったくらいですよって、私はますますのぼせてしもて、情熱の奴隷となってしもたのんですが、その最中に、私に取ってまるきり寝耳に水の事が、――もうもうほんまに、夢にも思いがけなんだ事起ったのんです。それいうのんがちょうど六月の三日のことでした。おひる頃に光子さんが来なさって、夕方五時ぐらいまで遊んで帰りなさったあと、夫と二人で晩御飯たべてしもたのん八時で、それから一時間ほどたって、九時ちょっと過ぎた時分に、女子衆が、「大阪から奥様《おくさん》に電話かかってます」いうのんで、「大阪の誰やねん?」いいますと、「誰ともいやはれへんけど、大急ぎで電話口までいうてはります」いうのんです。「もしもしどなた様《さん》ですか」いいますと、「姉ちゃん、あて――あてや」いうのんが、光子さんより外にそんないいようする人はないのんですけど、それが電話が遠いのんか、小声でいうてるのんか、聴き取れんぐらいかすかやのんで、何や誰ぞにわるさでもしられてるような気イして、「あんた誰ですねん? はっきり名前いうて頂戴《ちょうだい》、何番い電話かけなさったん?」と念押しますと、「あてやわ、姉ちゃん、あて西宮《にしのみや》の一二三四番へかけてんねんわ」と家の電話番号をいう声が、聞いてるとやっぱり紛《まぎ》れものう光子さんで、「……あてなあ、今大阪の南の方にいるねんけど、えらい目に遭《お》うてしもて、……着物盗まれてしもてん。」「何《なん》やて、着物を?……あんた何してたん?」「あてお風呂い這入《はい》っててん。……此処《ここ》なあ、南地《なんち》の料理屋で、内にお風呂あるよって。……」「ふうん、なんでまたそんなとこい行てたん?」「そらいろいろ訳あるねんけど、……こないだから是非《ぜひ》姉ちゃんに聞いてもらわんならん思ててんけど、……ま、その話あとでゆっくりいうよって、……あて今えらいえらい難儀してるよって、……どうぞ助ける思て、あのさっき着てた揃《そろ》いの着物なあ、あれ大急ぎで届けて欲しいねん。」「そんならあんた、あれからずうッと大阪い廻ってたんか?」「ふん、そやねん。」「あんたそこに誰といるのん?」「そら姉ちゃんの知らん人やねん……あてどないしてもあの着物なかったら今晩家い帰られへんよって、どうぞどうぞ一生のお願いやさかい、あれ届けてもらわれへんかしらん?」――光子さんは泣き声出してなさるのんですが、私は私であんまり意外やったんで、胸がわくわくして、膝頭《ひざがしら》までガタガタふるえが来ました。何処《どこ》まで届けたらええのんかいいますと、南の太左衛門橋筋《たざえもんばしすじ》の、笠屋町《かさやまち》の井筒《いづつ》いう家やいいますねんけど、そんな料理屋聞いたことありません。そして着物の外に帯も、帯留も、帯上げも、幸いみんな揃いのものがあったんで、それ持って来てくれいうのんは分るのですが、けったいなんは腰帯やぼてや、伊達巻《だてまき》や、足袋《たび》までも盗まれたいうのんで、「そんなら半襟《はんえり》は?」いいましたら、「襦袢《じゅばん》は助かってん」いうのんです。誰ぞたしかな人に持たして、今から一時間以内、おそても十時までにいいますけど、うかッとした者頼む訳に行きませんし、どないしても私が自分で自動車飛ばすより仕様があれしません。「あてが行ってもかめへんか」いいますと、誰ぞさっきからもう一人電話口に附き添うてるあんばいで、それがときどき光子さんに「こないせエ、あないせエ」と指図《さしず》してるらしいて、「いっそこないなってしもたら姉ちゃんが来てくれたかってええし、……そうと違うかったら、お梅が今頃梅田の駅で待ってるはずやよって、あれに渡してくれたかってええけど、お梅は所知らんよって頼むのんやったらよう場所を教《お》せてほし。そんでこっちの名は鈴木いうて訪《た》ンねて来てほし。」――そこでまた何ぞこそこそ相談するらしいて、暫《しばら》くたってから、「あのなあ、姉ちゃん、……」と、えらいいいにくそうにして、「……あのう、えらい済まんけどなあ、も一人着物ないようにして困ってる人あるねんけど、もしどないぞなるねんやったら、あんたのハズさんの着物、洋服でも日本服でもかめへんよってなあ、……」いうて、「それからあのう、えらいえらい勝手ばっかりいうて申訳ないねんけど、……おあし二十円か三十円持って来てくれたらなおのこと有難いねんけどなあ」いうのんです。「おあしの方はどないぞなるけど、まあとにかく待ってなはれ」いうて電話切ってしもてから、直ぐに自動車いいつけて、夫には「うちちょっと大阪まで行て来ま。光子さんが急用やいやはるさかい」とたったそれだけいうて、二階い上って大急ぎで箪笥《たんす》の中から揃《そろ》いの着物や何やかんやと、夫が余所行《よそゆ》きの時着る絹セルの単衣《ひとえ》と羽織と絞《しぼ》りの三尺とを出して、風呂敷に包んで、それ女子衆に持たして先いそッと玄関まで出さしましたが、「なんやいな今時分からそんな包持って?」と、さすがに夫は気になったらしゅう、自動車い乗ろとする時に奥から出て来ていうのんでした。多分私の様子が慌《あわ》ててもいましたし、顔色も変ってたですやろし、不断着のまま髪も直さんと出て行ことするのんが、よっぽどけったいやったのんに違いないのんで、「なんやうちにもさっぱり様子分れへんねんけど、今夜急にこの揃いの着物なあ、――」と、私は知って風呂敷の結び目から着物の端《はし》出して見せて、「――これどないしても着んならんことが出来たんで、大阪の店まで届けてほしいうてやんねえ。何ぞ素人《しろと》芝居でも始まったんかも分れへんけど、うち自動車待たしといて直ぐ帰って来るわ」いうて、もう時刻もおそなってしもてまして、九時二十五分ごろでしたよって、最初は真っ直ぐ南の井筒いう家い行こ思て出たのんですが、それよりもまあ梅田い行《い》てお梅どん掴《つか》まいて見よ、お梅どんに聞いたら何ぞこの訳分るかも知れへん思て、梅田の駅い行て見ますと、まん中の入り口のところに立って待ちどしそうにキョロキョロしてますよって、車の中から手招きして、「お梅どん」いうと、「やッ、奥様だしたんかいな」とびっくりして照れくさそうにウロウロしてますのんを、「あんた光ちゃん待ってんねんやろ。今えらい事件起って、光ちゃんから大急ぎで迎いに来てくれいう電話あってん、あんたも早《はよ》乗んなさい」いうて、「えー、ほんまだっかいな」と何や腑《ふ》に落ちんらしゅうぐずぐずしてるのんを無理に乗せて走らしながら、車の中で手短かにさっきの電話の話して「なあ、いったい誰やのん、その一緒に行てる男いうのんは? お梅どん知れへんのかいな?」――初めのうちは困ったような顔して、言葉に詰まってましたけど、「あんた知らんいうはずないやろ? こんなこと今日だけと違うやろ? うちどんなことあってもあんたに迷惑かかるようなことせえへんよって、いうてくれたらお礼は何ぼでもするよって、――」と、眼の前い十円札出して、紙に包んで、「いえ、いえ、いつもいつも貰《もろ》てばっかりしてまんのんに」と辞退するのんを、「そんなこというてる間に時間立ってしまうやんかいな」と帯の間い押し込んでやりますと、「わたし、奥様と一緒にそんなとこい迎いに行てもよろしおまんねんやろか。あとでとうちゃんに叱《しか》られしまへんやろか」いうのんです。「何でやのん? うちが行けへんかったらお梅どんに来てくれいうてやねんぐらいやもん。」「ほんまにそんな電話かかりましたんだっしゃろか? わたし何やこう心配で、……」それいうのんが、何ぞ私の計略に乗せられへんか思てるらしいのんで、「そんなことあるもんかいな、電話懸《かか》らなんだらうち知ってるはずないやんか。」「そらそうでおますけど、わたし今までにちょっとも奥様気イついてやおまへなんだのんが、なんでだっしゃろ思て、空恐ろしいて仕方おまへんでしたのんで、……」「ふうん、そしたらいつからこんな事あったん?」「いつからいいまして、もう早《はよ》から……四月頃からでおましたやろか、それは私にもはっきり分れしめエなんだが、……」「誰やのん、相手の人は?」「それもよう分れしめへんねん。いッつもおあしくれはりまして、これで活動でも見て、何時頃梅田い来て待っててやいやはりますよって、何処い行きはりまんのんやさっぱり分らんと、こらきっと何処ぞで奥様と会うてはりまんねんやろ思てましてん。家いおそう帰りましても今日は今まで柿内さんとこで遊んでたようにいえいやはりまんのんで。……」
「そんなこと今までに何べんくらいあった?」「何べんいいましても、とても勘定しきれしめエん。今日はお茶のお稽古《けいこ》や、今日は柿内さんとこやいやはりまして出かけはりまんのんで、そのつもりでお供して行きますと、あのなあ、あてちょっと用事あんねんいやはりまして、えらいそわそわしやはりまして、ひとりで何処ぞい行てしまやはりますねん。」「それほんまに違いないなあ?」「何で私が|《うそ》いいまッしゃろ。――奥様ちょっとも気イおつきやあれしめエなんだんでっか? 何ぞ今までにけったいやなあお思いになりやしたことあれしめエんでしたか?」「そらもううちは阿呆《あほ》やよって、そない散々《さんざん》利用しられて、道具に使われて、踏みつけにしられながら、今の今まで此処《ここ》から先も気イついたことあれへなんだ。それにしてもまあ何んちゅうことやろ。――」「ほんまに、わたいとこのとうちゃん恐ろしい人だすよってなあ。……私いつかて奥様の顔見るたんびにえらい済まんような気イして、お気の毒でお気の毒で、――」と、心から同情したようにいうてくれますのんで、そんなお梅どんみたいなもん相手にしたかってしょうむないのんですけど、あんまり口惜《くや》しいてお腹《なか》の中引っくりがえるようになってましたよって、何でも彼《か》んでも思うたことをいう気イになって、「なあ、お梅どん、あんたかって察してくれるやろ。うちそんなこと夢にも知らんと、こないだからうちの人と喧嘩してまで光ちゃんのために尽してるねん。うちかってこないにまで上《のぼ》ってえへなんだら、なんぼ脳味噌《のうみそ》足らんいうたかって気イついてたに違いないわ。まあそれもええけど、今夜みたいな電話かけて来るなんて、いったい何ちゅう気イやろ? 人馬鹿にするのんもほどがあるし。」「ほんまに何ちゅう気イでいやはりまんねんやろなあ? よっぽど困りはりましたん違いまッしゃろか?」「なんぼ困ったいうたかって、好きな男と料理屋い行てるやのお風呂い這入《はい》ったやのと、そんなこといえた義理かいな、あんたまあ考えてみて欲し!」「それもそうでおまッけど、着物盗まれてしまいはったんでは、裸で帰りはることも出来しめへんしなあ。……」「うちやったら裸で帰る。あんな恥知らずな電話かけるぐらいやったら、裸で帰る。」「こんな時に泥坊《どろぼう》に遇《あ》うなんぞ、悪いこと出来まへんもんだんなあ。」「やっぱり罰《ば》ッちゃ。それもお金だけと違《ちご》て、二人とも素ッ裸にしられてしもて、腰帯から足袋までもないようになるなんぞ、……」「そうでおま、そうでおま、罰でおまッせ。」「ああ、ああ、こんな事に使《つか》お思て揃いの着物こしらえたん違うのんに、……うち何処まで馬鹿にしられてるねんやろか。」「とうちゃんはまた、今日あの着物着て行きはったいうのんはほんまに運が強《つよ》おまんなあ。奥様迎いに行ったげへん、どうなと勝手にせえおいやして構わんとお置きやしたら、どないなりましたやろか?」「うちかってよっぽどそないしたげよ思てんけど、最初はさっぱり何のこッちゃ様子分れへんし、電話口で泣き声出してはあはあいうてやよって、ただもうびッくりしてしもてん。それになんぼ憎たらし思てもやっぱり心から憎む気イになれへんさかい、裸でふるてやる姿眼エの前にチラついて、可哀《かわい》そうで可哀そうでいても立ってもいられへんようになって、……そらお梅どん、ハタから見たら阿呆《あほ》らしやろけど、そんなもんやし。」「そらなあ、そうでおまッしゃろとも。……」「それにどうやろ、自分のもんばっかりか男のもんまで持って来いいうたり、電話口でこそこそ相談し合うたり、まるで人に見せつけるような真似《まね》シして、どんな顔してそんなこといえるのんやろか。人の前では『姉ちゃん姉ちゃん』いうて、『あて姉ちゃんより外に自分の肌見せたことない』いうてたくせに、二人裸にされてる恰好《かっこ》見てやりたいわ。」もうその時は無我夢中でいろんなことをしゃべってましたよって、何処を走ってたのんか分れしませなんだが、堺筋から清水町辺を西い曲ったらしいて、向うに心斎橋筋の大丸《だいまる》の灯《ひ》がちらちらしてたのん覚えてますけど、そこを大丸の前まで行かんと、太左衛門橋筋南い曲った思うとこで、「ここ笠屋町ですが何処い着けます」と運転手がいいますよって、「何処ぞこの辺に井筒いう料理屋あれへんかしらん?」いうて捜しましたけど分れしません。その辺の人にきいてみますと、「そら料理屋違いまッしゃろ、宿屋でっせ」いうのんで、「何処です」いいますと、「じっきこの先のろうじの奥だ。」――それがあのう、宗右衛門町《そううえもんちょう》[#ルビの「そううえもんちょう」はママ]や心斎橋筋のつい裏通りですのんに、わりに人通りのない暗い横丁なんでして、芸者の館《やかた》やの、小料理屋やの、宿屋やのが多いのんですが、そういう家がみんなしもたやのようにひっそりとした間口の狭い地味な構えなんです。そんで教《お》せられたろうじの入り口い行てみますと、「御旅館井筒」と小《ちい》そうに書いた軒燈《けんとう》が出てますのんで、「お梅どん、あんた此処《ここ》で待ってでわ」いうて私だけ這入《はい》って行て、旅館いうても何や曖昧《あいまい》なややこしい家らしいのんがろうじの突きあたりにあるのんで、格子《こうし》あけて暫《しばら》くもじもじしてましたけど、台所の方で誰や一所懸命に電話かけてるらしいて、なんぼ呼んでも出て来《け》えしません。「今晩は」「今晩は」と大きな声でいうてるうちにやっとのことで仲居《なかい》さんが出て来まして、顔見るなりこっちがなんにもいわん先にちゃんと心得てる様子で、「どうぞお上り」いうて狭い段梯子《だんばしご》を二階い連れて行きまして、「迎いのお方はんがお越しになりました」いいながら座敷の襖《ふすま》開《あ》けるのんです。這入ってみますと三畳ぐらいな次の間やのんで、二十七、八の色の白い男の人がたった一人畏《かしこ》まってすわってまして、「失礼ですが、光子さんの友達の奥さんですか」いいますよって、「そうです」いいますと、急にしゃちこ張ってぺたッと畳い頭擦《こす》りつけて、「今夜の事は何と申し上げたらよいか、お詫《わ》びのしようもないのんです。いずれこの事につきましては光子さんから申訳せんなりませんのんですが、何とも合わす顔ないいうておられますし、それに着物ありませんのんで、まことに申しかねますけどもとにかく着換え貸してもろて、その上でお目にかかりますよっていうのんです。その男いうのんが、いかにも光子さんの好きそうな輪郭の整うた女のような綺麗な人で、眉毛《まゆげ》のうすいのんと眼の細いのんがこすそうな感じ与えますけど、私かって見た瞬間に「美男子やなあ」思たぐらいな顔だちで、この人も着物ないはずやのんに縞銘仙《しまめいせん》の単衣《ひとえ》を着てキチンとしてましたのんは、あとで聞きましたのんですが宿の男衆《おとこしゅ》の着物を一時《いっとき》借ってましたんやそうです。「着換えは此処い持って来ました」いうて風呂敷包渡しますと、「大きに済みませんことです」と押し戴《いただ》くようにして受け取って、部屋の隅《すみ》の方の境の襖《ふすま》あけて奥の座敷い包押し込むと、急いでまたそこ締めてしもたのんで、ちらッと枕屏風《まくらびょうぶ》が見えただけでしたけど。……
その晩のことそんなふうに一々委《くわ》しいにいいましたらえらい長うになりますのんですが、私はその場合届けるもんは届けてしもたし、それに男がいるのんやったら会うてもしょうがない思て、お金三十円紙に包んで、「先イ帰りますよってこれ光子さんに上げて下さい」いうたのんですが、「まあ何卒《どうぞ》そないおいいにならんで待ってて下さい、今に出て来られますから」いうて、無理にその男が引き留めるのんです。そうして改まって私の前いすわり直しながら、「実はこの事は、ほんまは光子さんから申さんならんのんですが、僕は僕の立ち場として説明せんならん思いますのんで、一往《いちおう》聞いて下さいませんか」いうて、――つまり光子さんは自分でやといいにくいもんですよって、着物着換えてる間にその男が代って話するように、段取りがきまってたらしいのんです。そんでその男、――ああ、そうそう、男はその時「財布を取られてしもたのんで名刺ありませんけれど、僕は船場《せんば》の徳光さんの店の近所におります綿貫栄次郎《わたぬきえいじろう》いうもんです」いいました。――その綿貫いう男の話聞いてみましたら、その人と光子さんとは、まだ光子さんが船場の方に住んでなさる時分、去年の暮頃から愛し合うようになって結婚の約束までしたいうのんです。ところが今年の春になってMの方との縁談が持ち上って来て、とても二人は結婚出来そうにもないようになったのんですが、それが同性愛の噂《うわさ》のためにええあんばいに破談になった。――まあそういう意味のこというて、しかし決して自分たちは奥様を利用したんと違う、初めは利用したような形になったけど、光子さんはだんだん奥様の情熱に動かされて、自分を愛するよりももっと熱列に奥様愛するようになったよって、自分の方がどれぐらい嫉妬《しっと》感じたか分れへん、利用しられたとしたら自分の方がしられてるぐらいやいうのんです。そんで自分はお目にかかるのんは始めてですが、奥様のことはしょっちゅう光子さんから聞いてた。同じ恋愛でも同性の愛と異性の愛とはまるきり性質違うよって、奥様との仲は許してもらわんと、自分との仲も続けて行く訳にいかんように光子さんいいますのんで、自分も近頃は諒解《りょうかい》してた。「あての姉ちゃんかって夫あるねんもん、あてもあんたと結婚することはするけど、夫婦の愛は夫婦の愛、同性の愛は同性の愛やよって、姉ちゃんのことは一生よう思い切らんさかいそのつもりでいてて頂戴。それがイヤやったら結婚せえへん」と、いつでも光子さんはそないいうてるいいまして、「そら光子さんの奥様に対する気持いうたら、全く真剣でしてなあ」いうたりして、大馬鹿にしてる思いましてんけど、その男のいいよういうたら実際上手で、五分の隙《すき》もないようなんです。そんで男は自分と光子さんとの関係をいつまでも私に隠しとくのんはええことない思て、自分も諒解してるねんよって私にも諒解してもらうよう光子さんに話してたのんですが、光子さんかって勿論《もちろん》その方がええこと分ってながら、今更私の顔見ると切り出しにくうなって「折があったら折があったら」思てるうちに、とうとう今夜のようなこと出来てしもた。そうしてさっきの電話では盗難に遇《お》うたようにいうたけど、実はただの盗難ではない。着物を取ったんは泥坊と違うて博奕打《ばくちうち》やいうのんです、それがだんだん聞いてみますと、ほんまに悪いことは出来《でけ》へんもんで、その晩その宿屋の別の座敷で博奕してるもんあって不意に手エが廻ったんやそうですが、刑事がどやどや踏み込んで来たのんで、二人はびっくりして夢中で部屋跳《と》び出して、光子さんは長襦袢《ながじゅばん》のまま、男は寝間着《ねまき》のまま、屋根から隣りの家い逃げて物干《ものほ》しの床の下いもぐり込んでた。博奕打ってた連中も我先《われさき》にバラバラ逃げ出して、大抵上手に逃げてしもたところが、その中に逃げおくれた夫婦者あって、廊下をうろうろしてるうちに光子さんの部屋が開いてたのんで、そこい逃げ込んでみたら、ちょうど二人が抜け出たあとやった。それでこれはしめた思て、今度はその夫婦もんが密会者みたいに装うてた。というのんは、同じ刑事でも博奕打検挙するのんと密会者検挙するのんとは係りが違《ちご》てるんやそうで、その人たちはそれを心得てたらしいのんです。けど刑事かってそれぐらいなこと分ってますよって、その夫婦もん怪しいと睨《にら》んで勾引《こういん》したんやそうですが、その時枕もとの乱れ籠《かご》に入れてあった光子さんと綿貫《わたぬき》の着物着て、そのまま警察い連れて行かれた。なんでかいうと、夫婦は宿屋の浴衣《ゆかた》を借って博奕打ってたところいそういう騒ぎになったのんで、自分らの着物は向うの部屋にありますねんけど、何処までも密会者で通そうとするのんで、枕もとにあるのん着て行かんならんかった。そんで光子さんたちはやっとのことで逃《のが》れたもんの、戻って来たら、着物がない、財布や手提《てさ》げぐらいそうッと置いといてくれたらええのんにそれもない、宿屋の主人まで挙げられてしもてて誰に相談しようもないし、帰るにも帰られへんし、それにもう一つ心配なんは、光子さんの手提《てさ》げの中には阪急の定期券が這入《はい》ってましたし、男の方も名刺入れてあったんで、警察から家の方い電話かかったらえらいこッちやいうのんで、どうにもこうにも思案に暮れて私呼び出しましたんです。で、どうせ此処《ここ》まで来てくれはる親切あるねんやったら、奥様かって光子さんのため思てくれはるねんやろよって、御迷惑でもこれから蘆屋《あしや》まで光子さん送って行ったげて、今夜一緒に映画でも見てたようにいうて、万一警察から電話がかかっても、そこを何ぞうまいこというといてくれなされへんかいうのんです。
「なあ奥様、今夜のことさぞかしお腹立ちですやろけど、どうぞどうぞお願いします。」そういうて男はまたぺたッと畳い頭擦《こす》りつけて、「僕の一身はどないなっても構いません、どうぞ光子さんを無事に送ったげて下さい。御恩は一生忘れません」いうてしまいには手エ合わして拝むんです。わたしいうたらそらもうほんまにお人好しですよって、そないしられてしもたら何ぼあんまりや思ても「イヤや」いう訳に行けしません。そいでも口惜《くや》しさが一杯でしたよって、暫《しばら》くの間《あいだ》男がペコペコお辞儀するのんじいッと黙って睨《にら》みつめてましたけど、とうど根負《こんま》けしてしもて、たッた一と言「よろしいです」いうてしまいました。すると男は「ああ」とさもさも感激の籠《こも》ったような芝居じみた声出して、もう一ぺん頭擦《こす》りつけて、「ああ、承知して下さいますか、ほんまに有がとございます、これで僕も安心です」いうて、それから人の顔色窺《うかが》うように、「そしたら唯今ここい光子さん呼びますけど、それについても一つお願いして置きたいのんは、今夜のとこはいろいろのことでえらい興奮してはりますのんで、どうぞなんにもいわんといて欲しいんですが、どうですか、それ誓《ちこ》てくれはりますか?」いうのんです。仕方ないのでそれもよろしいですいいますと、直ぐに「光子さん」と呼んで、「もう分ってくれはりましたよって出て来なさい」と襖《ふすま》越しに声かけました。その襖の向うでは最前《さいぜん》こそこそ着物着換えてるらしい物音がしてましたのに、もうその時分にはしーんと静まり返ってしもてて、こっちの話に一所懸命耳を澄ましてるようでしたが、声かかってから二、三分もたった頃にやっと襖がごそッいうて、そこが少しずつ、一寸二寸ぐらいずつ開いて、眼エの周《まわ》り真《ま》つ紅《か》いけに泣き脹《は》らした光子さんが出て来ました。
その時どんな顔してなさるか見てやりたい思たんですが、ちらッと視線打《ぶ》つかると慌《あわ》てて俯向《うつむ》いて、男の蔭に寄り添うように音もささんとすわってしまいなさったんで、脹れ上った眼瞼《まぶた》と、長い睫毛《まつげ》と、高く通った鼻筋と、噛《か》みしめてなさる下唇《したくちびる》とが見えるだけで、両手をこういう風にこう、――八つ口のところい突っ込んで、体をねじらして、前のはだけたのも直さんと身イ投げ出したようにしてなさるんです。そんで私は光子さんのそうしてなさる姿眺めてるうちに、ああこの着物が揃いの着物やってんなあ思うにつけても、それを拵《こしら》えた時分のことや、その着物着て一緒に写真撮《と》ったりした事が考え出されて、またジリジリ腹立って来て、ええ、こんなもん、拵えんといたらよかった、いっそ飛び着いてずたずたに引き裂いてやろか知らんと、――ほんまに男がいエへんかったら、それぐらいなことしたかも分れしませんねん。男はその様子感づいたらしいて、二人がなんにもいわん先に「さあさあ」と追い立てるようにして、自分も着物着換えるやら、私からお金を受け取って宿屋の方では「いりまへん」いうのん無理に勘定《かんじょう》済ますやら、「あ、そういうと奥様、まことに恐れ入りますけど、今のうちに奥様のお宅と光子さんのお宅とい電話かけといて下さいますと、なお都合よろしいですがなあ」いうたりして、ちょっとも隙《すき》与えんようにするのんでした。私は私で家の方が心配でしたよって、「うち今直《じ》ッきに光子さん送ったげて帰るけどなあ、光子さんとこから別に何ともいうて来やはれへんかったか?」と女子衆《おなごしゅ》呼び出して聞いて見ますと、「はあ、さっき電話がおましたんで、どない申し上げてええのんか分れしまへなんだよって、何時頃とも申し上げんと、ただお二人さんで大阪い行っておいでですいうときました」いうんです。「そんで旦那はんもう寝やはったか?」「いいえ、まだ起きてはりまッせ。」「今すぐ帰りますさかいいうといてんか」いうて、光子さんの家の方へは「今夜松竹い行きましたんですけど、あんまりお腹《なか》減ってしもたんで、出てからちょっと鶴屋食堂い行きましてん。えらいおそなりましたよってこれから光子さん送って行きます」いいますと、お母様《かあさん》が出て来なさって「まあ、そうでおまッか、あんまり帰りがおそいのでたった今お宅様い電話したとこでしてんわ」いいなさる様子が、警察からなんにもいうて来てエへんこと確かでした。そんでそんならええ塩梅《あんばい》や、一刻も早《はよ》自動車で帰ろいうことになったんですが、男は三十円のうち半分ばっかり残ったんをみんなそこの男衆や女子衆にやってしもて、どんな事あっても決して迷惑のかからんようにして欲しい、その筋からこれこれいう取り調べがあったらこれこれいうようにいえいうたりして、そないな時にもそらもうびっくりするほど細かい所い気イ廻るのんです。それからようよう、――私はそこい着きましたんが十時ちょっと過ぎた時分で、一時間ばっかりぐずぐずしてしまいましたよって、出たんは十一時過ぎでしたやろう。その時やっとお梅どん待たしたあッたん思い出して、「お梅どんお梅どん」いうて、ろうじを往ったり来たりしてるのんを車い乗せたのはよろしいが、「僕も其処《そこ》まで送りましょう」いいながら、男も平気でその車い乗り込んで附いて来るのんです。光子さんと私とが奥の方い並んで、お梅どんと綿貫とがスペアシートい腰かけて、四人がむうッと向い合うたなり一と言も口をきかんと、車はどんどん走って行きました。武庫《むこ》の大橋いかかったときに男が始めて、「どないします? やっぱり電車で帰ったようにせんと工合《ぐあい》わるい思いますが、……」と、ふっと考えついたようにいい出して、「なあ、光子さん、何処で自動車返したらええか知らん?」いうのんでした。それが光子さんの家いうのんは蘆屋川の停留所から川の西をもっと山の方い行って、あそこに汐見桜《しおみざくら》いう名高い桜あるついその近所なんでして、電車筋からほんの五、六丁ですねんけど、途中に淋しい松原などあるのんで、よう追《お》い剥《は》ぎやの強姦《ごうかん》やのがあったりしてえらい物騒ですよって、いッつも晩おそう帰るときにはお梅どんが附いてるときでも停留所の前から俥《くるま》に乗って行きますさかい、あそこまで自動車着けたらええいうたり、いや、そらいかん、俥屋が顔知ってるよって何処ぞもっと手前の方で降りた方がええいうたり、そんなことからお梅どんもぼつぼつものいい出しましたけど、それでも光子さんだけはやっぱり一と言もいいなさらんと、ときどきさし向いに腰かけてる綿貫の方をジーッと見つめては、何やひそひそ眼エで物言うて溜息《ためいき》してなさるようなんです。すると男が「ふん、そんなら国道の業平橋《なりひらばし》のとこで降りたらよろしいがな」と、同じように光子さんの顔見返しながらそういい出したいうのんは、私にはよう分ってるのんですが、あの橋の所《ところ》から阪急の線まで出る路がまたえらい淋しいて、片ッぽ側が大きな松のたあんと生《は》えてる土手ですよって、あんな所《とこ》女三人で歩けるはずあれしません。そんで綿貫はちょっとでも長いこと光子さんと一緒にいてたいのんで、自動車降りてからあの路を送って来たいのです。それにしても「船場の徳光さんの近所におります」いうてたのんにそんな橋の名アやあの辺の路知ってるいうのんは、もう今までに何遍も二人で此処ら辺《へん》散歩したことがあるからなんです。私よっぽど「誰に見られても男の人が附いて来るのんが一番わるい、三人だけやったらどないでも言訳《いいわけ》立つよって、あんたええ加減に帰んなさい。私に預けるいうときながら、あんた帰ってくれはれへんねんやったら私帰ります」いうてやろか知らん思たんですが、お梅どんの方は「それがよろしおまんなあ」「そうしまよなあ」と何でも彼でも綿貫のいうことに調子合わして、「そんならお気の毒ですけど、阪急のとこまで送って戴《いただ》けまッしゃろか」と、知って男の思う壺《つぼ》に嵌《は》まって行くのんです。考えてみるとお梅どんかってやっぱり光子さんや綿貫とぐるになってたん違いないのんで、やがて橋のとこで車降りて土手の下の真っ暗な路いかかりましたら、「なあ奥様、こんな闇夜《やみよ》に男の人いててくれはれしまへなんだら、恐《こお》うて歩かれしまへんなあ」と、用もないのんに私掴《つか》まえて、こないだこの路で何処其処《どこそこ》のとうちゃんがこんな目エに遭《あ》いはったいうような話休みなしにしかけて、なるだけあとの二人より離れて歩くようにするのんです。二人は五、六間うしろの方からまだ何や知らん相談しながら来るらしいて、「ふん」とか「はあ」とかいう光子さんの声がかすかに聞えてるのんでした。
停留所の前で男が帰ってしまいますと、また三人は黙り込んで、あそこから俥《くるま》で光子さんの家まで行きました。「まあ、まあ、ほんまに、何でこないにおそおましてん」いいながらお母様が出て来なさって、「いつもいつもお邪魔に上りまして御厄介になりますばっかりで」と、えらい私に気の毒がっていろいろお礼いいなさるのんですが、こっちは私も光子さんもけったいな顔してますのんで、長いことしゃべってたらぼろ出る思て、自動車呼びましょういうてくれはりますのんを「いいえ、俥待たしてあります」と逃げるように出て来まして、また阪急で夙川《しゅくがわ》まで後戻りして、あそこからタクシーで香櫨園《こうろえん》まで帰って来ましたら、ちょうど十二時になってました。「お帰りやす」いうて玄関い出て来た女子衆に「旦那はんどないした? もう寝やはったか?」いいますと、「ついさっきンまで起きていやはりましたけど、もうちょっと前お休みになりはりました」いいますのんで、まあよかった、なんにも知らんと寝ててくれたらええ思いながら、出来るだけそうッとドーア開《あ》けて、忍び足で寝室い這入《はい》ってみますと、寝台の傍のテーブルに白葡萄酒《しろぶどうしゅ》の壜《びん》置いたあって、夫は頭から布団《ふとん》被《かぶ》ってすやすや寝てるらしいのんです。お酒には極く弱い方で、寝しなにそんなもん飲むいうことなんぞめったにあれしませんのんに、きっと心配の余り寝られへんのんで飲んでんやな思て、静かな寝息乱さんように恐る恐る横になりましたけど、なかなか寝られるどころやありません。考えれば考えるほど、口惜《くや》しさと腹立たしさとが何遍でも湧《わ》き上って来て、胸の中が掻《か》きむしられるようになります。ええ、もうほんまに、どないして復讐《ふくしゅう》してやろか、どんな事あってもきっとこの讐《かたき》取ってやる、と、思うと同時にかッとなって、夢中でテーブルい手エ伸ばしてグラスに半分ほど残ってた葡萄酒ぐうッと一と息に飲み乾《ほ》しました。何しろその晩はさっきからの騒ぎでえらい疲れてましたところいさして、私かって不断ちょっとも飲んだことあれしませなんだよって、見てる間に酔い廻って来て、――それもええ心持にぽうッとなるのんと違《ちご》て、頭が破れるようにがんがんして、胸のあたりがむかついて来て、体じゅうの血イ一遍に髪の毛の方い上って来るような気イするのんで、はあはあ苦しい息吐きながら、「ようもようもみんなで大馬鹿にして、今にどうするか見てたらええ」と、口い出していわんばっかりに一途《いちず》にそのこと考えつめてますと、激しい動悸《どうき》が、樽《たる》の口から酒がこぼれるような音立ててどきんどきん鳴ってますのんが自分にもちゃんと分るのんですが、気イついてみますといつの間にやら夫の胸も同じようにどきんどきんいう音立てて、はあはあ熱い息吐いて、互の呼吸と動悸とが一緒に時を刻みながらだんだん強うなって行って、二人の心臓が一時に破裂せエへんか知らんと思われた途端に、いきなり私は夫の腕でぎゅうッと抱きしめられました。次の瞬間に夫のはあはあいう息が一層近よって、燃えるような唇が耳たぶに触れて、「お前、よう帰って来てくれたなあ」――と、そないいわれたはずみに、どうした加減か急に涙がこみ上げて来て、「くやしいッー」と、身イふるわして泣きながら、今度はこっちからしがみ着いて、「くやしいッ、くやしいッ、くやしいッ」と、夫の体掻《か》きむしるように揺《ゆ》さ振《ぶ》りました。「何や、何でそない口惜しい?」夫は出来るだけ優しいに、「え? 何が口惜しいのかいうてみい、泣いてたら分れへんがな、え? どないしてん?」いうて手のひらで涙拭《ふ》いてくれて、なだめたり、すかしたりしてくれますので、なお悲しゅうなって、あーあ、やっぱり夫は有難い、自分は罰中《ばちあた》ったんや、もうもうあんな人のこと思い切って、一生この人の愛に縋《すが》ろう、――と、一途《いちず》に後悔の念湧《わ》いて、「うち今夜のことみんないうてしまうさかい、きっと堪忍しとくなはれなあ」と、とうど夫に今までのことすっかり話してしまいました。
私はすっかり心入れかえた気イになって、明くる朝は夫より二時間も早《はよ》起きて、台所い出て行って朝御飯の用意したり、夫の洋服ちゃんとしといたり、いつもほったらかしたまま女子衆まかせにしときますのんを、自分が先い立ってせっせと働きました。「お前、今日は学校い行けへんのか」と、夫は出かける時間になって鏡の前でネクタイを締めながらいいましたけど、「うち、もう学校は止《や》めよ思《おも》てんねん」いうて、うしろから上衣《うわぎ》着せたげて、そのままそこに、脱ぎ棄《す》てた着物たとみながらすわってました。「なんでやねん、学校止めんでもええやないか?」「あんな学校行ったかってしょうむない。……会いともない人と顔合わすのんイヤやしなあ。……」「ふん、そうか、そんなんやったら止めてもええなあ」と、夫は感謝の籠《こも》った眼つきでそういうたもんの、またなんや知らん物足らんような、気の毒そうな恰好《かっこ》で、「そやけど、なんにもあんな学校に限ったことあれへん、絵エ習いたかったら研究所いでも行ったらどやねん? 僕かって毎朝一緒に出かけた方がええしなあ」いうてくれますねん。そんでも「うちもうどっこも出とないわ、何処行たかてどうせロクなこと覚えへんねよって」いうて、自分ではその日から一廉《ひとかど》のハウスワイフになったつもりで、一日家の中で一所懸命仕事しました。夫の腹の中いいましたら、あないに我《わ》が儘《まま》やった私がまるで生れ変ったみたいに態度改めましたのんが、どない嬉《うれ》しいか分れしません。いうてまた、二人で仲好う大阪い通《かよ》てた先度《せんど》ごろの生活を取り返してみたいような気イもしますねん。そら私かってちょっとでも余計夫の傍に引っ着いてたい、離れたらその間に邪念妄想が起る、夫の顔さい見てたらあの人のこと忘れられるやろ思いますよって、一緒に着いて行きたいですけど、いや、そやない、もしひょっとして途《みち》であの人と会うたりしたら?……もうそんなことあったかて物いエへん気イやけど、そんでもばったり顔見合わしたらうちどうするやろ? 青なって、ぶるぶる顫《ふる》て、一と足も出んようになって、門《かど》で倒れてしまうかも分れへん思いましたら、外い出るのが恐《こお》うて、大阪どころやあれしません、つい電車路ぐらいまで行きましたかて、そやない人の影見てもはっと襲われたみたいに、慌《あわ》てて家い飛んで逃げて、どきどきする胸おさえながら、いかん、いかん、ちょっとでも出たらいかん、ここ暫《しばら》くは死んだ気イになってすッ込んでよ、水仕事でも拭《ふ》き掃除《そうじ》でも何でも構わんと精一杯働いてよと、自分で自分にいうて聞かすのんです。あの箪笥《たんす》の抽出《ひきだ》しにしもてある手紙なんぞ焼いてしまお、それより一番さき観音さんの絵エの方どないぞしてしまおと、それも私には毎日ぐらい気イになって、今日こそ焼こ、今日こそ焼こと、箪笥の傍まで行きますけど、手エ取ってみたら中が見となるやろなあ思たら、やっぱり恐うてよう開けませんねん。一日じゅうそないして暮らして、ゆうがた夫帰って来ますと、「ほんまによかった」とほっと重荷イおろします。「うちこのごろ朝から晩まであんたのことばっかり思い詰めてて、ほかの事なんにも考エへんようにしてんねよって、あんたかってきっとそうしててくれるわなあ」と、私はぎゅッと頸《くび》のまわりに抱きついて、「うちの心にちょっとの隙《すき》も出来んように、いッつも、いッつも、可愛がりつづけに可愛がってくれなイヤやわ」と、今では夫の愛情だけがたった一つの頼りでした。「もっと可愛がって、もっと可愛がって……」と、私のいうのんはそればっかりでした。或る晩なんぞは、「まだ愛しかたが足らん」いうて、気違いみたいに興奮しましたのんで、「お前は極端から極端やなあ」と、夫はなだめるようにいうて、私のあんまりな上《のぼ》せかたに今度はかいって面喰《めんくろ》てるぐらいでした。
もしもその時分にひょっこりあの人が訪《たず》ねて来たら、否《いや》でも応でも物いわんならんようなハメになるよって、それが何より気がかりやったんですけど、なんぼ厚かましいいうてもさすがよう寄り附かんかして、ええあんばいにあんなり何もいうて来《け》えしません。私は心のうちに神様や仏様祈って、結局運命がそんな工合《ぐあい》になったのんを有難いことや思いました。ほんまに、あの晩のような出来事でもなかったら、なかなかこない綺麗さっぱりと切れるいう訳に行けしませんのに、これも神様の思召《おぼしめし》やろ、口惜しいことも悲しいことも済んでしもたことはみんな夢とあきらめよと、ようよう幾分か落ち着いて来ましたのんは、あれから半月も立った六月の下旬ごろのことで、――去年の夏は空入梅《からつゆ》でしたよって、毎日々々日照りがつづいて、家の前の海岸に泳ぎに来る人がちょいちょい見えました。夫はいつも暇ですのんに、その時分珍しい頼まれた事件あって、もうちょっとしたら手エ抜けるさかい、そしたら何処ぞ避暑になと行こいうたりしてましたが、或る日私が台所で桜ん坊のジェリー拵《こしら》えてる時でした、「大阪のSK病院から奥様《おくさん》に電話だす」いいますのんで、虫が知らしたのんか、何やけったいに思いながら、「誰ぞ入院してんねやろ、も一ぺん聴いてみなはれ」いいますと、「いえ違います、病院が直接奥様に話したいいうたはります、男の人の声みたいだす」いうことで、「ふん、おかしいなあ」いうて電話口い出る時から、何でか知らん胸騒ぎして受話器を持つ手エ妙に顫《ふる》てるのんです。彼方《あっち》では「あんたは奥様ですか」と二へんも三べんも念押してから俄《にわ》かに低い声になって、「突然甚《はなは》だ失礼ですが、あんたさんは英語の避妊法の本を中川さんの奥様にお貸しになったことありますか」とけったいなこと尋《た》ンねます。「はあ、その本は私たしかに或る人に貸しましたけど、中川さんの奥様いう方はよう知りません。多分私から借った人が又貸《またがし》したんやろ思います。」そないいうと直ぐ、「はあ、はあ」と向《むこ》ではうなずいて、「奥様がお貸しになったのは徳光光子さんでしょうな?」いうのんです。私実はもう最前《さいぜん》から予期してたもんの、その名アいわれた瞬間に何や電気みたいなものが体じゅうビリビリ伝わるような気イしました。はあ、その本といいますのんは、一と月ほど前光子さんに貸しましたのんで、光子さんのお友達の中川さんの奥様いう人が子供生むのんイヤやイヤやいうてはるいうような話から、「姉ちゃんはきっと巧《うま》い方法を実行してんねんやろなあ」いいますよって、「ほんまいうたら、あてええ本持ってんねん。亜米利加《アメリカ》で出版しやはった本で、それ見たらそらもう何ぼ通りでも書いたあるわ」いうて、その時貸したげたまま忘れてしもてたんだした。ところが病院ではその本のことから或る重大な結果起ってえらい迷惑してる。電話ではそれ以上申し上げること出来んが、そのことについて中に挟《はさ》まった徳光さんのお嬢様もいろいろと心配してはりまして、どうしても一ぺん奥様にお目にかかって秘密に相談せんならん思て、こないだから何遍でも手紙差し上げたそうですが、奥様の方から何とも返事してくれはらんいうて難儀してはる。そんでこの場合、是非とも徳光さんに会うてみて下さい。病院の者が直《じ》かに伺うては面白《おもしろ》ない事情がある。病院は表面そ知らん体《てい》にして徳光さんと会うてくれはるのが一番よろしい。万一会うて下さらんと、病院はこの事件について奥様の方いどんな迷惑がかかっても一切責任負うこと出来んいうのんです。私はそれも光子さんや綿貫の仕組んだ計略で、なんぞまた人欺《だま》すのんやないかと半信半疑でしたけど、何せその時分は堕胎《だたい》事件がやかましいて、何々博士が掴《つか》まえられた、何々病院がやられたと、ようそんな記事が新聞に出ましてん。そんで前にもいうたようにその本の中には薬剤に依《よ》る方法やら、器具に依る方法やら、法律に触れるようなことまでたあんと書いたあるのんでして、中川の奥様いう人は何ぞへまなことしてえらい間違い引き起して、しろとの手エで収まり付かんようなったんで病院い担《かつ》ぎ込まれたん違うやろかと、想像されるのんです。それに私は、光子さんから手紙が来てもきっと私に見せたらいかん、みんな焼いてしもてくれいうて、女子衆《おなごしゅ》にいいつけてありましたもんでッさかい、そんな事件が起ってようとは今日までちょっとも知りませなんだ。病院の方ではえらい急《せ》いてて、どうしても今日じゅうに会うてもらわないかんいいます。電話で夫に相談しましたら、「そういうこッちゃったら会わんいう訳に行かんやろ」と、夫もいいます。それでとうとう承知した旨答えますと、これから直ぐに伺うように病院から光子さんの方い知らすいうことになったのんです。
ところがその電話のありましたのんが二時頃のことで、それから三十分もした時分にもう光子さんが来やはりましてん。私はまた、なんぼ病院が急《せ》いてたかて、いッつも出る時には一時間も二時間も窶《やつ》しやはるよって、どないしても来るのは夕方か晩ぐらいになるやろ、まさかこないに早いとは思いもよりませなんだのんに、門のベルがジイジイ鳴って、上り口のコンクリの上踏む草履《ぞうり》の音が、……玄関から奥の間まですっかり開け切ってありましたよってすうッと表から吹き込んで来る風と一緒に、なつかしい香《におい》が廊下伝《つと》て来ますねん。あいにく夫はまだ帰って来てませんし、立ち上ったまま何処ぞ逃げ道でも捜すみたいにうろうろしてますと、取次に出た女子衆がバタバタ走って来て、「奥様《おくさん》! 奥様!」いうたなり顔の色変えてるのんで、「分ってる、分ってる、光子さんやろ」いいながら自分で玄関い出て行ことして、「あの、ちょっと、ちょっと、……」と誰を呼ぶのか分らんこといいながら、「あの、……ちょっと待っとくなはれいうて、下の八畳い通しといて」といい附けといて、二階い上って寝室のベッドの上で暫《しばら》く動悸のしずまるのん待ってから、やっと起き上って、顔色隠すために頬紅《ほおべに》少し濃いめにつけて、白葡萄酒一杯飲んで、思い切って降りて行きましてん。
わたしは仕切りの簾《すだれ》の向うに派手な模様がチラチラして、ハンカチで汗をおさえながらすわってはるらしい姿見ると、もうまた胸がどきんどきんいうて来ましたが、光子さんの方でも簾越しにこっち見てなさって、這入《はい》って行くのん待ち構えたように、「今日は」いうてニコニコ笑いなさるのんです。「あて、姉ちゃんにあんまり御無沙汰してしもて、悪いとは思ててんけど、あれからあとにいろいろな事あったりして、……それに姉ちゃんあの晩の事どない思てはるねんやろ、きっと腹立ててはれへんやろか思たら、つい閾《しきい》が高《たこ》なってしもて、……」と、遠慮しいしいこっちの顔色うかごうてはそないいいなさるのんが、やっぱり馴《な》れ馴れしい昔の口調で、「なあ、姉ちゃん、あんた今でも怒ってなはんの?」と、私の眼エの中を覗《のぞ》き込みなさるのんです。私は無理に「徳光さん」と改まって呼びかけて、「今日はそんなお話するつもりでお目にかかったんと違います」いうてやりましてん。「そうかて姉ちゃんがあの時のこと堪忍したげるいうてくれへなんだら、あてかて話出来《でけ》へんもん。」「いいえ、いいえ、私は中川の奥さんのことについてSK病院から頼まれましたさかい、そのことだけ聞くように夫の許し得たあるのんです。そやよってに何卒《どうぞ》その外の話はせんといて頂戴。それからあのう、先度《せんど》のことはみんな自分が阿呆《あほ》だしてんよって、誰恨んだり怒ったりすることあれしませんけど、あんたも今更わたしのこと『姉ちゃん』やなんていわんといて頂戴。そうでないと、私ここにいられへんようになりますさかい。……」、そないにいうと今度はさすがに萎《しお》れ返って、うつむいたまま縄《なわ》のように捻《ね》じくったハンカチをぐるぐる指に巻きつけながら、思わせぶりに涙ぐむような風して見せて、そんなり物をいいなされしませんねん。「あんたかって、めったにそんな話《はなし》しに来たんと違いますやろ? さあ、用件の方聞かして頂戴。」「あて、姉ちゃんにそないいわれたら、……」と、やっぱり光子さんは「姉ちゃん」いう言葉使て、「……いいたいことも胸につかえてしもてちょっとも出エへんねんけど、ほんまいうたら、さっきのあの電話のことなあ?……あれほんまは、中川の奥様と違いまんねん。」「ふーン、そんなら誰のことですねん?」――その時光子さんは眼エと眼エの間に皺《しわ》を寄せてくすッとけったいな笑いようをしたと思たら、「あてのことやわ」いうのんです。「そしたら、病院に入院してるいうのんは、あんたの事だっか?」――まあ、この人は、……何処まで厚かましいねんやろ! 自分が綿貫の種《たね》宿してどうにも始末に困ったのんで、またしてもうちを利用しに来るとは! さんざん人に苦水《にがみず》飲ましときながらまだ足らんのか。――私は体じゅうが顫《ふる》て来るのんじっと押し鎮《しず》めて出来るだけ空惚《そらとぼ》けて聞いてやりました。「ふん、そやねんわ」と、光子さんは頷《うなず》いといてから、「入院さしてほしいいうてるねんけど、入院さす訳に行かんいわれてんわ」と、なんや褄目《つまめ》の合わんこというて、それからぼつぼつ話し出すのん聞いてみますと、あの私から借った英語の本見て幾通りもの方法やってみたところが孰《ど》れもあんじょう行かんらしいので、ぐずぐずしてたら人目につくようになって来るし、気が気でのうて、綿貫の知ってる人に道修町《どしょうまち》の薬屋の番頭《ばんと》さんあるのん幸い、その本に書いたある処方に従うて、薬をもろて飲んだんやそうです。尤《もっと》も番頭さんには事情を明かしたんやのうて、ただ必要な薬品だけもろて、それをええ加減に調合したのんで、間違うてたんかどうか、よんべ俄《にわ》かにお腹《なか》痛《いと》なり出して、お医者さん呼んでる間にえらい出血した。そんでお医者さんに訳話して、どうぞ家の者に内証でどないぞして欲しいいうてお梅どんと二人で頼みますと、出入りのお医者さんでんねけど、「難儀ですなあ」いうてためいきつくばっかりで、「これはどうも私には困ります。きっと手術して出さんといかんでしょうが、何処ぞ専門の病院で心やすい所があったらそこい行って相談して御覧。私は応急の手あてだけしときます」いうて体《てい》よう逃げてしもたのんで、SK病院やったら院長さん知ってるからどないなとしてくれはるやろ思て、今朝《けさ》になってから出かけて行って診察してもろたら、そこでも同じこというてなかなか聴いてくれはれへん。なんでもそこの院長さんいうのんは今の病院建てる時に徳光さんのお父さんからお金出してもらやはったんやそうで、光子さんとお梅どんとで手エ合わすようにして頼むと、「弱りましたなあ、弱りましたなあ」いうて、「前やったらこんなぐらいのことは何処の医者でも引き受けたのんですが、御承知の通りこの頃は世間がやかましいのんで迂濶《うかつ》なことすると私一人やない、お宅の不名誉になるような事起らんとも限らんのんで、そうなったらお父様《とうさん》に対して申訳ありません。それにしても何で今まで放っといたんです、こないならんうちやったら、――せめて一と月も前やったらどないなとしたげたのに」いうのんですけど、そないしてるあいだも時々お腹《なか》痛《いと》なって出血するのんで、ここで何ぞの事でもあったら病院に嫌疑《けんぎ》がかかりますし、そうかて苦しんでるもんを黙って見てるいう訳に行かんし、「いったい誰に教《お》せてもろてどんな薬飲んだんかいうて下さい。それ聞いたかて出来るだけ秘密にはしときますけど、万一問題になった場合にその人が証人にさいなってくれたら手術したげる」いうもんですさかい、私から本借ってこうこうしたいうこと話して、私がいッつもその本の方法実行して目的達してるもんですから、自分もあんじょう行くやろと思たいうようなことしゃべってしもた。そしたら院長さん暫《しばら》く考えてて、こないな事はお医者さんやのうても、経験のあるしろとの方がかいって手軽うに埒《らち》ようやれる、西洋の女やらはこないこないして、人の手エ借らんと自分で始末してしまうのんが常識みたいになってるさかい、私が熟練してるのんならいっそ私にしてもろたらええのやけどいうたりして、とにかく事件がむずかしなっても私が責任負うてくれたら手術したげる、それがイヤやったら本貸したのんが災難やと思てどないぞしてくれたらどやろ。お医者さんと違《ちご》て私やったら知れる心配も少いし、知れたとこで大した問題になれへんやろ。――そないいわれたんやと、まあ光子さんはいうのんです。「なあ姉ちゃん、あて姉ちゃんにそんなことしてもらおとは思てエへんけど、こんなりにしといたら時々痛み出してたまらんし、恐い病気になったりすることもあるいわれたのんで、姉ちゃんが責任負ういうてくれたら手術してもらえるのんやけど、……」「責任負ういうたかって、どないしたらええのん?」と聞いてみましたら、病院い行て、院長さんの前で誰ぞ第三者に立ち会うてもろて約束するか、そうでないのんなら後日のためにちょっと一と筆書いて欲しいいうのんですが、そんなことうっかり出来しませんし、それに光子さんのいうことが何処までほんまか、よんべ出血したいう病人が別に窶《やつ》れたふうものうて出歩いてるのんもおかしいし、さっきの電話は病院で医局の人にかけてもろたいうのんですけど、そんな人が中川の奥様の名ア騙《かた》るはずもなし、何ぞまた訳でもあるような気イしてめったなこといわれへん思てるうちに、「ああ痛《いた》、……また痛《いと》なって来た」いうてお腹《なか》さすり出しなさったのんです。
「どないしなはってん?」いうてるうちに見る見る顔が青なって来て、「姉ちゃん、姉ちゃん、早《はよ》便所い連れてエな」いいなさるのんで、どないな事になるのやらこっちも慌《あわ》てて、畳の上這《は》い廻るようにしてはるのん抱き起すと、はあはあいいながら肩に凭《よ》りかかって歩きやはるのんがやっとですねん。私は便所の外に立って、「どうだんねん、どうだんねん」いうてましたが、呻《うな》りごえが段々しんどそうになって、「うーん、くるしいッ、姉ちゃん! 姉ちゃん!」いいますよって、夢中で中い駈《か》け込んで、「しッかりしなはれ! しッかりしなはれ!」と、肩撫《な》でたげて、「なんぞ下《お》り物《もん》でもしたんかいな」いうと、黙って首振って、「あて、もう死ぬ、死ぬ、……助けてほしい」と、ほんまに消えてしまいそうな虫の息で、「姉ちゃあん、……」と一と声大きく呼びながら、両手で私の手頸《てくび》にしがみ着きますねん。「こんなぐらいな事で何で死んだりするかいな、光ちゃん、光ちゃん」いうて力つけたげても、もう眼エ見えんようにどろんとなった瞳《ひとみ》上げて、「姉ちゃんあて堪忍してくれるわなあ。あてこないして姉ちゃんの傍《そば》で死ぬのんやったら本望やけど、……」と、そないにいうのんがちょっとぐらい狂言としたかって、握ってる手エ次第に冷《つ》めとなって来るような気イしますし、そうかて「お医者はん呼んだげよか」いうても「姉ちゃんに迷惑かかるよって呼んだらいかん、死ぬのんやったらこんなり死なして」いいますし、……孰方道《どっちみち》そんなりにしとかれしませんので、女子衆《おなごしゅ》に手ッ伝《と》てもろて二階の寝室に運びましてん。なんせ、咄嗟《とっさ》の場合ですよって布団敷いてる間《ま》アもあれしませんし、寝室い入れるのんはどや知らん思たんですけど、下はみんな見透《みとお》される夏座敷ですし、しよことなしにそないしたのんですが、ようよう寝台い臥《ね》さしてしもてから、直きに夫とお梅どんとこい電話かけに行ことしますと、「姉ちゃん何処《どこ》も行ったらいかん」いうて、袂《たもと》をぎゅッと握ったままちょっとの間も放しなされしません。尤《もっと》もそないしてるうちに幾分か落ち着いて来たらしゅう、もうさっきのように苦しがらんようになりはったのんで、まあこの分ならお医者はん呼ばいでもよかった思うと、その時だけはほんまにほっとして助かったような気イしましてん。
そんな工合で私は傍離れること出来しませんよって、「お便所汚《よご》れてるさかい直ぐ掃除《そうじ》しといて」いうて女子衆下いやってしもてから、何ぞ薬でも思いましてんけど、「いらん、いらん」と、イヤイヤしなさって、「姉ちゃん帯ゆるめてエな」いいなさるのんで、帯ほどいたげたり、血イの附いた足袋《たび》脱がしたげたり、アルコールと脱脂綿持って来て手エや足拭《ふ》いたげたりしましたのんですが、そのうちにまた発作起って、「くるしいッ、くるしいッ、水、水、……」いいながらシーツや枕《まくら》手あたり次第に掻《か》きむしって、体を蝦《えび》のように曲げて悶《もだ》えなさるのんです。私はコップに水酌《く》んで来て、えらい暴《あば》れてて飲まされしませんのんを無理におさえつけながら口移しに飲ましたげると、おいしそうに喉《のど》をぐいぐいいわしながら、飲んでしまうとまた、「くるしい、くるしい」いうて、「姉ちゃん、後生《ごしょう》やよってにあての背中の上い載ってぎゅッと押してエな」いうたり、何処を揉《も》んでほしい、彼処《かしこ》を撫《な》でてほしいいうのんで、いわれる通り揉んだりさすったりするのんですけど、ちょっと直ったか思うとまた直ぐ「痛い、痛い」いうて、なかなか治まりそうもあれしません。そんで暫くでも楽になったあいだには、「ああ、ああ、こんな苦しい目エに遇うのんもみんな姉ちゃんの罰《ばち》やなあ。……これで死んだら姉ちゃんかってもう堪忍してくれるか知らん」と、独りごとのようにいうてさめざめ涙流すのんです。そいからまたしても痛《いと》なり出して、今度は前よりもっと苦しそうにのた打ち廻って、何や血の塊《かたまり》みたいなもんが出たらしいいうたりするのんですが、何遍も何遍も「出た、出た」いうたんびに調べてみたかて、ちょっともそないな気《け》エあれしません。「神経でそんな気イするねんわ、なんにも出てへんやないかいな。」「出てくれへなんだらあてもう死ぬわ。姉ちゃんはあてが死んだらええ思てんねんやろなあ。」「なんでそんなこというのん?」「そうかて、あてにこんな地獄みたいな苦しみさしとかんと、早《はよ》楽にしてくれたらええのに、――姉ちゃんやったらお医者はんよりよう知ってるくせに、……」そないいい出したいうのんは、いつや私が「ほんちょっとした器具さいあったら何でもない」いうたことあったよってですけど、もう私にはさっきの「出る出る」いう騒ぎの時分から、今日のことがみんな狂言やいうことが分ってましたのんで、……ほんまいうたら、実はその前からだんだん気イ付いて来てながら、知って欺《だま》されてたのんで、光子さんかて私が欺されてる振りしてるのん見抜いてながら、何処までもずうずうしゅう芝居してはりましてん。そんで、そいから先はお互が自分で自分欺《あざむ》き合うて、……もうそんなこと、先生はよう分ってはりますやろけど、結局私は、見す見す光子さんの仕掛けた罠《わな》い自分を落し込んでしまいましてん。……はあ、その赤いのんは何を使《つこ》たのんか聞かんとしまいましたんで、今でもときどき不思議に思いますのんですが、何ぞ芝居に使う血糊《ちのり》のようなもん隠しといたのんと違いますやろか。……「姉ちゃん、そんならもうこないだのことちょっとも怒ってへんわなあ、きっと堪忍してくれるわなあ?」「今度こそ欺したらあてあんたを殺してやるわ。」「あてかてさっきみたいな薄情なことしられたんやったら、生かしとけへん。」――ほん一時間ぐらいのあいだにすっくり元の馴《な》れ馴れしさに戻ってしまいましたのんですが、そうなると私は、急に夫の帰って来るのが恐《こお》うなって来ましてん。一旦ああいう訳になったのんが、よりが戻ってみましたら、その恋しさは前より増して、もうちょっとの間も離れとないのんに、さしあたり、これから先、どないしたら毎日会えるねんやろか。「ああ、ああ、どないしょう。光ちゃん明日も来てくれるわなあ?」「此処の家《うち》い来てもええの?」「ええか、わるいか、もうそんなことあてに分らん。」「そんなら一緒に大阪い行けへん? 明日姉ちゃんのええ頃に電話かけるわ。」「あての方からも電話かけるわ。」そないいうてる間に直《じ》ッきに夕方になってしもたのんで、「今日はもう帰るわなあ、ハズさんが戻って来やはるさかい、……」と、身支度しょうとしなさるのんを、「もうちょっと、もうちょっと」いうて何遍も引き留めましてんけど、「まあ、やんちゃッ児《こ》やなあ、そんな分らんこというたらいかん、明日きっと知らしたげるさかい大人《おとな》しいして待ってなはれや」と、今ではあべこべに私の方がたしなめられて、五時頃に帰って行きゃはりましてん。
夫はその時分大概帰りが六時頃でしたけど、その日イはいくらか心配して早《はよ》帰るか知らん思てましたのんに、やっぱりこないだじゅうからの事件が引き続いてると見えて、そいから一時間ぐらい立ってもまだ帰ってけえしません。私はそのあいだに部屋片附けたり、寝台綺麗《きれい》に直したりして、床の上に落《お》ってた光子さんの足袋拾《ひろ》て、――帰りしなに光子さんは私の足袋穿《は》いて行きなさったのんです。――そのしみの痕《あと》視《み》つめながら、まだ何や知らん夢みてるみたいにぼんやりしてましてん。夫にどないいい訳しょう。この部屋使《つこ》たこといおか知らん。いわんとこか知らん。どないいうといたらこれから先会うのんに都合ええか知らん。……と、そんなこと考えてたら、俄《にわ》かに「帰りはりましたで」と下から知らしますのんで、足袋箪笥《たんす》の抽出《ひきだ》しいしもて降りて行きますと、「どうしたんや、さっきの電話のことは?」と、出会いがしらにすぐそないいうのんです。「うちほんまに難儀したわ。あんた何でもっと早《はよ》帰って来てくれへなんだん?」「僕かてそう思てたんやけど、生憎《あいにく》と用が片附かなんだのんで、……一体どないしたいうのんや?」「何でも彼でも直き病院まで来てくれいうねんけど、そんなことしてええか悪いか分れへんし、とにかく明日まで待っとくなはれいうたんやけど、……」「そんで光子さん行《い》にやはったんか。」「明日是非一緒に行ってくれいうて帰りはりましてん。」「お前があんな本貸すよって悪いのやないかいな。」「誰にも見せへんいやはったよってに貸したげたんやけど、ほんまにうち、えらい事してしもたわ。まあ何にしても明日見舞いに行てこう、中川の奥様から満更《まんざら》知らん仲と違うし、……」私はそないいうて、何は放《ほ》っといても早速明日の口実を拵《こしら》えましてん。
その晩わたしは夜の明けるのん待ちどしいて、八時に夫が出かけてしもたら、飛び着くように電話口い走って行きましてん。「姉ちゃん、えらい早いなあ、もう起きたん?」と、受話器通して聞えて来るのんが、昨日も聞いた声ですねんけど、眼エの前で聞くのんとは違《ちご》たなつかしさにわくわくしながら、「光ちゃんまだ寝てなはったんか?」「あて今電話で起されてんわ。」「あてもういつでも出られるわ、あんたも直き出てくれへんか?」「そんなんやったら慌《あわ》てて拵《こしら》えするよって、九時半に梅田の阪急い来てくれへんか?」「九時半に、きっとやなあ?」「きっとやとも」「今日は光ちゃん一日暇やねんわなあ? 帰り遅《おそ》なってもかめへんやろ?」「かめへんとも。」「あてもそのつもりで行くさかい」いうて、ちょっきり約束の時間に行ってましたら、なかなか来なされしませんのんで、またいつもみたいに窶《やつ》してなさるのんか思たり、欺《だま》されたのん違うか思たり、自動電話かけてみよとして、その間に行んでしまいなさったら難儀や思て止《や》めてしもたり、ひとりでジリジリしてますと、やっと十時過ぎに、「姉ちゃん大分待ったん?」いうて、改札口から息せき切って走って来なさいましてん。「何処行こ?」「光ちゃん何処ぞええとこ知らん?――静かな、誰もいエへんようなとこで一日ゆっくりしてたいわ。」「そんなら奈良い行こやないか」いわれたのんで、ああ、そやそや、二人が始めて仲好《よ》う遊びに行ったのんも奈良やった、あの思い出多い若草山のゆうがたの景色、……何で今まであの記念の土地忘れててんやろ。「ほんまにええとこ思いついたなあ、また若草山い登ろなあ」いうて、ほんまにその時のうれしさいうたら、……感激した時の私の癖でもうちゃんと涙ぐみながら、「早《はよ》行こ、早行こ」と急《せ》き立てて、大タクの案内人に手エ取られてタクシーい乗るまでは、足が土に着けしませんねん。「あてゆんべから何処にしょう思ていろいろ考えて、奈良が一番ええ思てんわ。」「あてかてゆんべまんじりともせえへんねけど、いったい何考えててんやろ。」「あれからハズさん直き帰って来やはったん?」「一時間ぐらいしてからやってん。」「どないいうてはったん?」「もうそんなこと聞かんといてエな、今日は一日家のこと忘れてたいわ。」――奈良い着いたら直きに大軌《だいき》の終点から乗合《のりあい》に乗って、若草山の麓《ふもと》まで行って、何しろこの前の時と違《ちご》て薄曇った暑い日でしてんけど、びっしょり汗掻《か》きながら頂辺《てっぺん》まで登って行って、そいから山の上にある茶店で休んでるうちに、前の時蜜柑《みかん》転《ころ》こばしたりしたのん思い出して、ちょうど夏蜜柑売ってるのん買うて、二人でころころ転こばしましたら、下にいる鹿《しか》がビックリして逃げますねん。「光ちゃん、お腹《なか》減ってエへんか。」「減ってるけど、もうちょっと此処《ここ》にいてたいわ。」「あてかていつまでも山の上にいてたい、なんぞお菓子ンでもたべて辛抱しとこう」いうて、昼御飯の代りに煮抜《にぬ》きたべながら、大仏殿の屋根から生駒山《いこまやま》の方見てますと、「この前蕨《わらび》や土筆《つくし》たんと採ったわなあ、姉ちゃん」いうて、「もう後《うしろ》の山い行ってもなんにも生《は》えてエへんやろか。」「そら、今頃行《い》たかてなんにもあれへん。」「そんでもこないだ行たとこい行てみたいわ」いいなさって、あれから後の山いつづく谷の方い下りて行きましたら、春でもあの辺はあんまり人の行かんとこですよって、夏はなおさら淋しいて、木や草ばっかり仰山《ぎょうさん》繁《しげ》ってて、なかなかそんなとこ、一人やったら来られへんような物凄《ものすご》い気イするのんですけど、二人は結局誰も見てる者ないのんええことにして、草のぼうぼう伸びてる蔭に、それこそほんまに、大空の雲よりほかに知ってる者のない隠れ場所見つけて、「光ちゃん、……」「姉ちゃん、……」「もうもう一生仲好うしょうなあ。」「あて姉ちゃんと此処で死にたい。」――と、お互にそないいうたなり、それから後は声も立てんと、どのくらいそこにいたのんやら、時間も、世の中も、何も彼も忘れて、私の世界にはただ永久にいとしい光子さんいう人があるばっかり。……そのうちに空がすっかり曇って、冷《ひや》こいものがポタリと顔に落ちましたので、「雨降って来たな。」「憎い雨やなあ。」「濡《ぬ》れたらしょうがない。本降りにならん間にはよ下りよ」いうて、慌《あわ》てて山下りてしまいましたら、ほんのバラバラ落ちただけでもうちゃんと止んでしもてますねんがな。「こんなぐらいやったらもっといてたらよかったなあ。」「ほんまに、何ちゅう意地悪い雨やろ」いいましてんけど、下りてみたら俄かに二人共お腹減って来ましたのんで、「ちょうどお茶の時間やさかい、ホテルいでも行《い》てサンドウィッチたべよか」いいますと、光子さんが「あてええとこ知ってる」いいなさって、大軌の直ぐ傍にある新温泉い行って、――彼処《あそこ》は私初めてですねんけど、宝塚と同じような家族温泉や何やあって、光子さんはちょいちょい行きなさると見えて、仲居《なかい》さんの名アやら、中の勝手やら、よう知ってなさるのんです。そんでその日一日遊んで、大阪に戻って来ましたのんは八時頃でしてんけど、そいでもまだ別れるのんがイヤでイヤで、何処まででも引っ着いて行きとうて、一緒に阪急で蘆屋川《あしやがわ》まで送って行きながら、「ああ、また奈良い行きたいなあ。光ちゃん、明日出られへん?」「明日はもっと近いとこにせえへんか、久しぶりで宝塚はどやろ?」「そんならきっとやで」いうて別れて、帰って来ましたら十時近うになってるのんです。「あんまり遅いので、さっき病院い電話かけたとこや」いわれて、私ははっとしながら咄嗟《とっさ》に巧いこと考えついて、「電話かけても分れへなんだやろ」いいますと、「ふん、中川いう人入院してへんいうのんで、何ぞ訳あって隠してるのんか思たのやけど。……」「それがなあ、行てみたら中川の奥さんやあれへん、光子さん自身のことやねんわ。そないいうと昨日来やはった時も何や様子けったいな思ててんけど、自分のことやいうたらうちが会えへんやろ思て、中川さんの名前借ったいうねんわ。」「そんならあの児が病院い這入《はい》ってんのんか?」「病院なんか這入ってはれへん。こっちはそんな事とは知らんと、一緒に見舞いに行くつもりで誘いに行ったら、『まあちょっと上っとくなはれ』いうよって、上ったことは上ったけど、いつまでたっても出かけよとしやはれへんのんで、『はよ行こうな』いうたら、『実はあんたに頼むことあるねん』いい出して、『きんのもその話しょう思て行ったんやけど、……』いうて、――『どうもこの頃体の工合が普通ではない、妊娠したのんかも分れへんよって、そんな事にならんうちに、何ぞ智慧《ちえ》貸してくれへんか、あの本読んでみたけど、なんや英語で分れへんし、やり損《そこの》うたら恐い思うし』いうねん。」「ふうん、呆《あき》れた児やなあ、そんだけの事に昨日みたいなうそつくやなんて、失敬やないか。」「うちもさんざん心配さされて、人馬鹿にしてる思てんけど、『何とも外に工夫つけへんのんで、あんなうそついてしもたんやさかい、どうぞ悪《わる》思わんといて』いうて、お梅どんも出て来て詫《あや》まるよって、……」「それにしたかて外に何とかうそのつきようもあるやないか、あんまりやり方がエゲツない。」「ふん、ふん、そらそうに違いないねけど、昨日の電話も男の声やったし、きっとあの綿貫いう人なあ、あの人が蔭で指図《さしず》したのんにきまってるわ。なんぼなんでも光子さんだけやったら、あんなややこしいうそつくはずあれへん。うちも腹立って腹立って、『そんな頼み聴く耳持ってエしません、これで失礼します』いうて帰ろとしたら、『まあそないいわんと、どうぞ助けて頂戴《ちょうだい》』いうて右と左から袂《たもと》おさえて、『こんな事から秘密親たちに知れでもしたら、どうぞして綿貫と一緒になりたい思てるのんがみんなあかんようになってしまう。そしたらあて生きてられへん』いうて光子さんは泣きやはるし、『どうぞどうぞとうちゃんの命助ける思て、どないぞ心配したげとくなはれ』いうてお梅どんは手エ合わして拝むし、そないしてもろたらどないしてええか分れへんようになってしもて、もうもう往生《おうじょう》したわ。」「そんでどうした?」「そんでもうちめったなこと教《お》せられへんよって、『私なんにもそんな方法知れしません。あの本貸したげただけでも悪い事した思てますのんに、そんな恐い事なんで出来ますかいな。誰ぞ知ってるお医者はん頼んだらよろしいがな』いうてんけど、そないしてる間に俄《にわ》かに光子さん苦しみ出しやはって、えらい騒ぎになってん。……」そんな風に、しゃべってるうちに傍《そば》から傍からいろいろな作り事考え出して、昨日の出来事をええ工合に織り交《ま》ぜて、――光子さんはあの本の処方で昨夜の間にそうっと薬飲んだらしい、それがちょうどその時利《き》いて来てだんだん痛みようが強《つよ》なって、――と、そこは昨日見た通り詳しいに話して、そないなって来ると自分にも責任あるよって帰るに帰られへん、そんでとうとう今まで傍についたげてたんやと、うまいこといい抜けしましたのんです。
「今日もちょっと見舞いに行ってくるわ、放っといても気がかりやし、乗りかけた船やよってしょうがない。……」いうて、そいから五、六日のあいだというもの毎日のように何処ぞで会うてましてんけど、「何処ぞ人に見つけられへんとこで、毎日二、三時間ぐらい会えるとこあったらええのになあ」思てますと、「そんなんやったら大阪の市中の方がええし、……静かなとこよりかいって町中のゴタゴタしたとこの方が人目に附けへんし」いいなさって、「……いつや姉ちゃんに着物持って来てもろた家なあ? 彼処《あっこ》やったら気分もよう分ってるし、安心やねんけど、……彼処にせえへんか?」いやはりますねん。あの笠屋町の宿屋いうたら、私に取ったら忘れられへん口惜《くや》しい口惜しい思い出あるとこですのんに、まるでこっちの感情も何も踏み付けにした話ですねんけど、そないにいわれても「ふん、そやなあ、なんや極《き》まり悪いけど、行てもええなあ」いうて、腹立てることも出来んとおめおめ引っ着いて行ったぐらい、すっかり足元見られてしもてましたのんです。それに極まり悪いいうても初めの日イだけで、馴《な》れてみましたら女子衆《おなごしゅ》やかいも心得てて、帰りがおそなった時やらは、家の方い電話かけて褄目《つまめ》合うようにしてくれますし、……そんな訳で、しまいには別々に出かけて行って彼処《あそこ》から電話で呼び出したり、何ぞ急用出来た時にはお梅どんから知らしてもろたり、……ま、それもよろしいのんですけど、光子さんの家ではお梅どんだけやのうて、お母さんも、外の女子衆も、みんながそこの家の電話番号知ってるらしいて、ときどき私や光子さんにかかって来ることありますのんで、何ぞ家の方ええように欺《だま》したあるに違いない思てたのんですが、或る日一人で先行《い》て待ってたあいだに、「へえ、そうだす、……へえ、いいえ、あのう、さっきから待っておりますけど、まだ来やはれしまへん。……へえ、へえ、そないいうときます。……いいえ、どうしまして、……私の方こそいつも奥様出やはりましてえらいお世話になりまして、……」と、電話口でそない仲居さんがいうてるのんが何や知らんけったいですのんで、「今の電話、徳光さんとこから違いますか?」いいましたら、「そうだす」いうてクスクス笑《わろ》てるのんです。「あんた今、『いつも奥様が出やはりまして』いうてはりましたなあ? 一体あれ誰のつもりでいうてなはったん?」いうとまたクスクス笑て、「奥様知りゃはれしまへんのんか、奥様とこの女子衆のつもりでいうてますねん」いうやありませんか。そいからよう聞いてみましたら、そこの家が私ンとこの大阪の事務所やいうことにしたあるのんやそうですねん。「仲居さんがこれこれいうてたけど、ほんまかいな?」いうて、光子さんに尋《た》ンねましたら、「ふん、そやねん」と、平気な顔して、「姉ちゃんとこの事務所、今橋と南と二つあるいうて、此処の番号教《お》せたあるねん。姉ちゃんかって何ぞ家の方いそないいうといたらどやのん? 船場《せんば》の店の出店やいうてもええし、あての家でいかなんだら、ええ加減な名アいうといたらえやないかいな」いいなさるのんです。
そないして、だんだん私は抜き差しならん深みい陥《は》まって行きましてんけど、「こいではいかん」思たところで、もうそうなったらどないすることも出来しません。私は自分が光子さんに利用しられてることも、「姉ちゃん姉ちゃん」いわれながらその実馬鹿にしられてることも、感づいてましてん。――はあ、そら、いつや光子さんがいうてなさったのんに、「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇り感じる。何でやいうたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当り前や、女で女を迷わすこと出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあいう気イして、嬉《うれ》してたまらん」いうのんで、たしかにそういう虚栄心から、夫に対する私の愛を自分の方い奪いなさることに興味持ってなさったのんでしょうが、それにしたかって、光子さん自身の心は綿貫《わたぬき》の方へ吸い取られてたことは、よう分ってましてん。けどもう私は、どんな事あっても二度と別れるいうこと出来《でけ》へん気持になってましたよって、分ってながら分らん風して、お腹《なか》の中ではなんぼ焼餅《やきもち》焼いてたかて、「綿貫」の「わ」の字も口い出さんと、そ知らん顔してましたのんで、そんな工合に弱点見抜かれてしもたら、姉ちゃんいうても私の方が妹みたいに機嫌取るようになってしもて、或る日いつもの家で会うてますと、「姉ちゃん、あんた一ぺん綿貫に会うてくれる気イないか」いいなさるのんです。「――あの人、姉ちゃんどう思てるか知らんけど、いつやあんなりになってしもてて、何や気持が済まんよって、是非姉ちゃんに会わしてほしいいうてんねん。ちょっとも悪い人違うし、会うたらきっと姉ちゃんかて気に入る思うねんけど、……」「ほんまに、そやなあ、あんなりいうのんもけったいなし、向《むこ》がそないいやはんねやったら、あても会うときたいなあ。光ちゃんの好きな人やったら、あてかってきっと好きになれる。」「ふん、そらきっとそや。そしたら今日でも会うてくれるか?」「いつでもかめへんけど、あの人何処にいてんの?」「さっきから此処《ここ》の家い来てんねん。」――私も多分そんなこッちゃろ思てましたのんですが、「そんなら此処い呼ぼなあ」いいなさって、「あの人に来てもろて頂戴」いうと、直きに綿貫が這入《はい》って来ましてん。「やあお姉さんですか……」と、この前の時は「奥さん」いうたのに「お姉さん」いう言葉使《つこ》て、私を見たら恐縮したみたいにズボンの膝《ひざ》そろえて畏《かしこ》まって、「あの時はまことにえらい失礼しまして、……」いうて、――なんせいつやらは夜おそうもありましたし、それにあんな訳で人の着物借り着してましたし、その日イは明るい真《ま》ア昼間《ぴるま》のことですのんで、紺の上衣《うわぎ》に白セルのパンツ穿《は》いてるのんが、違《ちご》た人のような印象受けたんですけど、歳は二十七、八ぐらいで、この前の時の感じよりもっと顔の色白うて、やっぱり「美男子やなあ」とは思いましたけど、正直のところいうたら、表情が乏しいて、絵エに画《か》いたように綺麗なばっかりで、ちょっとも近代的なことあれしません。「この人岡田時彦《おかだときひこ》に似てるやろ?」と、そない光子さんはいいなさるのんですが、時彦よりもっとずっと女性的で、眼エが細うて眼瞼《まぶた》が脹《は》れてて、眉《まゆ》の間を神経質らしゅうピクピクさす癖あって、なんや知らん陰険らしいのんです。「栄ちゃん、何もそない堅《かと》ならんかてええし、姉ちゃんちょっとも気イにかけてはれへんさかい――」いうて、光子さんは一所懸命執《と》り成《な》しなさるのんですけど、私は私で、どうも虫の好かん奴《や》ッちゃ思たらどないしても打ち解けられしませんし、綿貫の方もそれ感づいたのんか、無愛想な顔ニッコリともささんと、いつまでたっても膝崩《くず》そうともせえしませんのに、光子さんだけは何や独りで面白そうに笑いなさって、「どないしたん? 栄ちゃん。あんたけったいな人やなあ」いいながら、むずかしい顔してる綿貫の方を意味ありそうに上眼《うわめ》で睨《にら》んで、「そんな顔してたら姉ちゃんに悪いやないか」いうて、指の先で頬《ほ》べた突ついたりして、「あのなあ姉ちゃん、ほんまいうたら、この人焼餅焼いてんねんし、――」いやはりますねん。「|《うそ》です、
です、そんな事あれしません、そら誤解や。」「
やあれへん、そんならさっきの事いおか?」「さっきどういうた?」「僕は男に生れたのんが口惜《くや》しい、姉ちゃんみたいな女に生れたらよかったいうたやないか。」「そらいうた、――そやけどそら焼餅やあれへん。」そないいい合いしてるのんが、私にお世辞使うためにちゃんと二人で相談しといていうてるのんか分れしませんし、相手になるだけ阿呆《あほ》くさい思て黙ってますと、「まあ、まあ、姉ちゃんの前でそないに僕に恥掻《か》かさんでもえやないか。」「そんならもっと機嫌ようしたらどやねん?」いうて、ずるずるべったりに焼餅喧嘩《げんか》止めてしもて、そいから帰りしなに三人で鶴屋食堂い行ったり、松竹見たりしましたけど、そいでも三人とも心からシックリとはしませなんだ。
そう、そう、そんで私、最前《さいぜん》いうのん忘れましてんけど、家の方いは光子さんのお父さんのてかけはんのとこやいうて、笠屋町の電話番号教《お》せときましてん、それいうたら、ほんまにおかしなことですねんけど、光子さんは「船場の支店やいうたらどやのん?」いいなさるのんですが、そんなとこい行てなさるいうのんけったいなし、いっそ病院い入院しなさったいうたらとも思たのんですが、病院やったらいつまでも退院せえへんいう訳に行かんし、それに夫が事務所の帰りにでも迎いに来たら直《じ》き分るし、何処《どこ》にしょうなあ思て難儀してますと、「こないしたらどうだす」いうて、お梅どんが考えつきましてん。尤もそれには光子さん妊娠しやはったいうことにせんと工合《ぐあい》わるいのんで、お薬飲んでも巧いこと行かんし、お医者はんも手術してくれへん、そのうちにだんだんお腹《なか》大きなって来るよってとうとうお母ちゃんに打ち明けてしもた、そいでお父さんのてかけはんの家い子供生れるまで引き取られてる。そのてかけはんの家いうのんは笠屋町の井筒いう宿屋で、電話番号は何番でと、ちゃんとほんまの名前教せといたら、電話帳見たかてその通りやし、迎いに来られても褄目《つまめ》合うし、「そしたらあて、姉ちゃんとこい遊びに行く時懐《ふところ》い綿でも詰めて、お腹大きして行かんならんわなあ」いうて大笑いになりましてんけど、それやったら一番分る気づかいないいうのんでそないしましてん。「そうか、光子さん腹ぽてになったんか」いうて、夫はすっかり真アに受けて、さすがに気の毒そうな顔しますのんで、「そいでもあんた、そんな悪いこと手《て》ッ伝《と》たらいかんいうたやろ。そやよってうちどない頼まれても教せたげへんなんでん。そいで子供出来るまでは一と足も外い出たらいかん、じっとすっ込んでなはれいわれて、押し込めみたいにされてるのんで、退屈で退屈でしょうがないさかい、毎日でも遊びに来とくなはれいやはるねんけど、どないしょう知らん?――うちかてきっと恨まれてるか分れへんで、放っといたら寝ざめ悪いしなあ。」「それもそやけど、また係り合いになったら難儀するぜ。」「ふん、ふん、うちもそない思うねんけど、今度ちゅう今度はいろいろ苦労したせいか大分人間変って来てはんねん。それにそないなったら、もうどないしても綿貫と一緒になるより外ないいうて、わりに落ち着いてはるし、家の方でも結局そないさすようになるらしいねんけど、何せ今のとこ誰一人訪《た》ンねたげる人もないのんで、『頼りにするのん姉ちゃんだけや』いわれると、なんぼ自業自得《じごうじとく》や思ても可哀そうになって来るねん。『なあ姉ちゃん、あてにやや児《こ》出来たら、まさか姉ちゃんかて誤解されるはずないやろ? あてそのうちに綿貫と一緒に姉ちゃんの旦那さんとこい詫《あや》まりに行くさかい、これからほんまのきょうだいみたいに附き合うてくれへん?』――こないだもそないいうてたし、――」夫はそれでもまだ心から納得せえへん様子でしたが、「なるだけ気イ附けた方がええで」いいながらそんなり大目に見てしまいましたのんで、そいから後は「奥様いやはりますか」いうて笠屋町からおおびらに呼び出しかかって来る。こっちからも遠慮のうかけられる。晩御飯ごろまで遊んでると、「ええ加減に帰ってけえへんか」いうて夫からかかって来ることもある、――いう工合で、ほんまにお梅どん巧いこと考えてくれた思《おも》てましてん。
そいからさっきの綿貫のことは、そんな調子で、折角引き合わしてもろても何やお互に探り合いしててちょっとも気イ許せしませんのんで、その日イ一ぺん会うたなり、孰方《どっち》からも「会《あ》お」いい出したことあれしませんし、光子さんも二人を仲好うさすことはあきらめてしもたらしいのんですが、なんでも三人で松竹い行《い》た、――あれから半月ぐらい後でしたやろか、ゆうがた、五時半ごろまで遊んでましたら、「姉ちゃん先行《い》んでくれへん? あてもうちょっと用あるよって」と、追い立てるようにしなさるのんで、常時《じょうじ》のことですよって腹も立てんと、「そんなら先行《い》ぬわ」いうてその宿屋のろうじ出ましたら、小声で「お姉さん」と後から呼ぶもんあるのんで、振り向いて見たら綿貫ですねん。「お姉さん、今お帰りがけですか」いいますよって、「へえ、そうです、光ちゃん待ってはるさかい早《はよ》行ったげなはれ」と、わざと皮肉にいいながら、私はタクシー掴《つか》まえるつもりであの通りを宗右衛門町の方い歩いて行きますと、「ちょっと、……ちょっと、……」いうて引っ附いて来て、「僕、実はお姉さんに聞いてもらいたいことあるのんですが、差支《さしつか》いなかったら、一時間ぐらいこの辺散歩してくれませんか。」いうのんです。「そら、どんなお話か聞かしてもろてもよろしですが、さっきからあんた待ってなさるで。」「ナニ、それやったら何処ぞから電話かけときます」いうて、二人で彼処《あそこ》の「梅園」い這入《はい》ってぜんざいたべながら電話借って、そいから太左衛門橋筋を北の方い歩き歩き話しましてん。「僕今電話で、急な用事が出来たのんでここ一時間ほどおそなるかも知れへんいうて置いたのんですが、お姉さんとお目に懸《かか》ったこと内証にしといてもらえまへんやろか? それ約束してくれはらんと、お話すること出来んのですけど。」「私は人にしゃべるないわれたらどんなことあってもしゃべれしません。けど自分だけ正直に約束守ってると、ときどき人に嵌《は》められて馬鹿な目に遭うことあるのんで、……」そないいうてやりましたら、「ああ、お姉さんは、なんでもかんでも光ちゃんのした事僕の指《さ》し金《がね》や、僕が操《あやつ》ってるのんやとお思いですやろ? そら、そう思われてもしょうがない訳あるいうことはよう分ってます」いうて、下向いてためいきついて、「お話したいいうのんも実はそのことなんですが、いったいお姉さんは、僕とお姉さんと孰方《どっち》が余計愛されてる思います。お姉さんとしたら何や僕らに馬鹿にしられてる、利用しられてるとお思いですやろけど、僕かてやっぱりそんな気イしてるのんです。僕はほんまに嫉妬《しっと》感じてるのんです。そら光ちゃんにいわしたら、姉ちゃんいてた方が家の方胡麻化《ごまか》すのに都合ええさかい、あの人道具に使うてるのんやいいますけど、もう今になって人を道具に使う必要ありますやろか? そんなもんあったらかいって邪魔になれしませんやろか? ほんまに僕を愛してるのんなら、そないしてる間《ま》アに結婚してくれたらええやありませんか。」――私はちょっとも油断せんと聞いてましたけど、態度がえらい真剣らしいて、いうことも一と通り尤《もっと》ものように思われますねん。「そいでも結婚出来《でけ》へんいうのんは、何ぞ光ちゃんの家の方に反対あるのん違いますやろか? いつも私には、自分は早《はよ》結婚したいいうてはりますで。」「そら、口ではそないいうてます。家で反対するいうこともほんまには違いないのんです。けどそれにしたかて自分が真面目《まじめ》にその気イになったら、何とかして親たち説き伏せる方法ないことないやろ思います。まして今ではただの体と違うのんに何処い行くこと出来ますか知らん?」――はあ、そないいいますのんで、そしたらやっぱり光子さんはほんまに妊娠してはるのんやろか、けったいなこというなあ思いながら聞いてますと、「――内の娘は百万円以上の資産家の所でないとやられん、一文なしのすかン貧《ぴん》の男みたいなんにやる訳に行かん、子供生れたら何処いなとやってしまうというて、お父さんかんかんになって怒ってるいうのんですが、そんな無茶な話ありますやろか。第一子供が可哀そうで、人道問題やありませんか。お姉さんどう思われます?」いいますさかい、「それより私、光ちゃんに子供出来たいうこと初耳ですけど、なんぞそんな気《け》エでもあったんですか」いいますと、「へえ? 初耳?――」いうて、疑がい深そうに私の顔モジモジと孔《あな》の開《あ》くほど視《み》つめてますねん。「へえ、初耳です、そんなこと光ちゃん私にいうたことあれしません。」「そうかて、――そしたらいつやお姉さんのとこい避妊の方法聞きに行ったことあれしませんか?」「そらありましたけど、妊娠したなんていうのん根エも葉アもないウソばっかりで、私に近寄るためにそんな口実こしらえて来たのんと違いますやろか。尤も私の家の方いは、光子さん妊娠してはる、そいでちょいちょい見舞いに行くのんやいうたあるのんですけど。」すると綿貫は、「ふうん、そうですか」いうたなり、いつの間にやら血走った眼エして、唇《くちびる》の色まで変えてるのんです。
「なあ、お姉さん、何でそないに妊娠したいうこと隠すのんでしょう? 殊《こと》にお姉さんにまでウソつかいでもよろしいやありませんか? ほんまにお姉さん知りやはれしませんのんか?」いうて、何や疑うてる様子で、何遍でも念押すのんですけど、ほんまのとこ私は聞いたことあれしません。綿貫の話ではもうちゃんと三月《みつき》ぐらいになってて、お医者はんにも見てもろたいうのんですが、それやったら、いつや出血騒ぎの時にもそやったはずですねんけど、三月やそこらでは素人《しろと》に分れしませんし、それにその後で「自分は子供出来るはずない」いうことを、たしかに光子さん自身の口から聞いてますし、あの時のことは芝居打ってたに違いない思てましたのんに、綿貫のいう通りやとしたら、やっぱり私に気がねしてはったんのんか知らん?「何で子供出来るはずないいいましたか、あの本の通りを実行してるいうのんですか、そやなかったらそんな体質やいうんですか」と、綿貫はせえだい聞くのんですが、そら私かて、光子さんの前では出来るだけ綿貫のことに触《さわ》らんようにしてましたよって、そない委《くわ》しゅう問うたことあれしませんし、……そやけど、こないだもてんごに「姉ちゃんの家い行く時はお腹《なか》に綿でも詰めて行かんならん」いうてはったぐらいやし、妊娠してはるとは思えしませなんだいいますと、光子さんは真面目で結婚しょういう気イないのんや、そいでもしも子供出来たいうこと分ったらどないしても一緒にさされる、それがイヤやよって隠されるだけ隠してる、「僕はそうに違いない思います」いいますねん。綿貫の考では、光子さんちゅう人は異性の愛より同性のの方が好きで、綿貫より私の方がずっと愛されてて、そのために結婚したがれへん。――子供出来たり、結婚したりしたら、私が逃げてしまうかも分れへん思て、一日延ばしに延ばしといて、そのうちにお腹の児ええようにするとか、綿貫にイヤ気おこさすとか、どないぞしよう思てる。――私はひがんでるせえか、どないしても自分の方がそない愛されてる思えしませんのに、「いや、そうです、たしかにそうです、お姉さんは仕合わせです」いうて、「ああ、ああ、それに引きかえて僕は何ちゅう不幸な運命の下に生れたのんでしょう」と、芝居のセリフみたいに節つけていいながら、泣きそうな顔するのんです。それが、始めて会うた時から女みたいな男やと思てましてんけど、そないいうて話してみますと、表情や物のいいようまで女の腐ったんみたいにねちねちしてて、何やうるさいほど執拗《ひつこ》うて、横眼でジロジロ邪推深そうに人の顔色うかごうたりして、なるほどこれやったら、光子さんかてそない好きと違うんかなあいう気イしますねん。そいからいつや笠屋町で着物取られた時にしたかて、綿貫は私呼ぶのんに反対やった。もうあないになってんやったら度胸きめて、仲居さんの着物借って帰ったらええ、そんで「こないこないの訳で深う約束した男あります」いうたら、出来たことしょうがないよってかいって早《はよ》結婚出来る、出来なんだら駈《か》け落ちする覚悟きめたら、ちょっとも恐《こわ》いことあれへんのに、あんな時に何も知らんお姉さん呼ぶやなんて、そんな厚かましいこと出来るもんか、第一呼んだかて来てくれへんにきまってるいうてんけど、光子さんは「着物なかったら今晩家い行《い》なれへん」いうてどないしても聴きはれへなんだ。「それやったら、いっその事こいから何処ぞい逃げよやないか」いうても、「そんな事したら後のために悪いさかい、あてが巧アいこというて姉ちゃん呼んで見せる。あてがいうたら、あの人『イヤや』いうこといわれへん。ちょっとぐらい怒られたかてどないなと胡麻化《ごまか》してやる」いうて、自分で電話かけに行きやはった。「そんでもあの時、誰ぞもう一人電話口に立っててコソコソ相談してたみたいでしたがなあ」いいましたら、「そら僕かて心配やさかい、傍に附いてたんです」いいますねん。
そんなこといろいろ話《はな》しもって知らん間に三休橋《さんきゅうばし》渡って、本町筋《ほんまちすじ》まで来てしまいましてんけど、私も綿貫も「もうちょっと話しまひょなあ」いうて、電車道越えて北浜《きたはま》の方い行きましてん。何せ私は今まで光子さんちゅう人を通してばっかり想像してて、何かにつけてただもう男が悪いのんや思てましたが、さっきからの様子見てましたら、そないウソつきみたいとも違いますし、女性的なとこや疑がい深いとこあるのんも、生れつきにも依《よ》るとしたかて、光子さんの態度がそないさしてしもたのんかも分れへんし、……私にしたかて今まで大分欺《だま》されたお蔭で僻《ひが》んでるとこあるねんし、……それ考えたら無理もないとこもあるのんで、まあちょっとぐらい邪推《じゃすい》交ってるとしたかて、とにかく本気で私に同情求めてるみたいに思われますねん。尤も自分より私の方が愛されてるいうのんは、どないしても私には信じられしませんのんで、「そら違いますやろ、そら綿貫さん、あんまり気イ廻し過ぎますで」いうて慰めたげたのんですが、「いやいや、僕かてそない思いたいのんですけど、絶対にそんなことあれしません。お姉さんはまだほんまの光ちゃんの性質知りゃはれしませんのんです」いうて、――光子さんは私に対しては綿貫を愛してるみたいに見せかけ、綿貫に対しては私を愛してるみたいに見せかけてる、そんなことするのん好きなたちなんや。けど孰方《どっち》やいうたら、私の方余計愛してるのんで、そやなかったらあんなり絶交したみたいになってたのんに、わざわざ病院の名前騙《かた》ったりして会いに行く訳ないやないか。「いったいあの時、光ちゃんはお姉さんとこい行てどんな工合にいうたのんですか、どんな事からより戻ったのんですか、僕は後から聞いたのんで委しいことは知らんのんですが」いいますよって、あの出血騒ぎの一件みんな話して聞かしますと、「ふうん、ふうん」いうて一と言一と言ビックリしながら、「そんな騒動したいうこと、僕は夢にも知りません。そら、お腹《なか》大きかったのんはほんまです。しかし僕は子供出来るのんやったら出来た方がええいう意見で、薬飲んだり不自然な手段取ったりしたらいかんいうてたのんに、自分勝手にお姉さんのとこい相談しに行ったいうのんで、後で怒ったぐらいですねん。そやけど、僕に内証で薬飲んだことあったにしたかて、そない苦しんだり出血したりしたいうことウソに違いあれしません。いったい、その血イみたいなもん何ですやろ」いうて、そないまでして仲好《よ》うなりたいいうのんは、私愛してるのんでないと出来んことやいうのんです。なるほどそれもそうですけど、そんなら何で綿貫と会うてはるねんやろ? ほんまに私好きやったら、もうとうに綿貫放ってしまうのん当り前やないか? それがおかしいいいましたら、光子さんいうたら自分がどない「好きやなあ」思てもその弱点見せんようにして、向《むこ》が自分を慕《しと》うて来るように仕向けたがる。自分は絶世の美人やよって、いつも高う止まってて、誰ぞに崇拝ささんと淋しい。自分の方からいい寄ったりしたら値打ち下る思い込んでる。そやさかい私に嫉妬《しっと》起さして、自分が優越な地位にいるために綿貫いうもん利用してるのんや。「それに一つは、別れるやなんていい出したら僕が何するか分れへん思て、恐がってるのんです。今更そんなこといえる関係やあれしませんのんに、もしもそないなったら、僕は名誉と生命を賭《か》けてあらゆる復讐《ふくしゅう》してやります」いうて、蛇《へび》みたいな眼エで人の顔ジロジロ睨《にら》むのんです。
「どうです、お姉さん、まだちょっとおよろしいですか?」「ええ、ええ、私やったらかめしません。」「そしたらまたもとの方い戻りまひょか」いうて北浜の通りから南の方い今歩いて来た道帰りながら、「結局僕とお姉さんとは敵《かたき》同士にさされてるのんですが、僕が負けるのんにきまってます」いいますよって、「私はそない思えしません。光ちゃんと私とはなんぼ熱烈に愛し合うてたかて自然に背《そむ》いてるさかい、もし孰方《どっち》ぞが捨てられるいうことになったら私の方が捨てられます。光ちゃんの家の方にしたかて、あんたには同情しやはりますやろけど、私に同情してくれる人誰もあれしません」いいますと、「けどお姉さんのは、その不自然という点に強味あると思います。何でやいうたら、異性の相手捜《さが》そ思たら僕以外にもなんぼでもあるけど、同性の相手やったらお姉さんの代りになる人外にちょっとあれしません。そやさかい僕はいつでも捨てられるけどお姉さんは捨てること出来ません」いうて、――あ、そうそう、そればっかりやあれへん、同性の愛やったらどんな男と結婚したかて、続けて行かれる。夫が何人変ったかてちょっとも影響せえへん、そしたらお姉さんと光ちゃんの愛は夫婦の愛よりも永久不変やいうて、「ああ、ああ、僕は何ちゅう不仕合わせな男でしょう」と、またしても例のセリフ繰り返すのんです。そいから暫《しばら》く考えてて、「なあ、お姉さん」いうて、「僕、お姉さんに正直なとこ聞かしてもらいたいのんですが、光ちゃんが僕を夫に持つのんと、外の男持つのんと、孰方の方をお姉さんは望まれますか」いいますよって、そら私かてどうせ光子さん結婚しやはるのんやったら、前から事情知っててくれる綿貫と一緒になりやはる方が都合ええのんにきまってますさかい、そないいいますと、「そしたら僕とお姉さんとは敵同士になる理由あれしませんやないか」いうて、もうこれからは同盟しょう、そして焼餅みたいなん焼くのん止めて、お互に助け合うて馬鹿な目エに遇《あ》わされんようにしょう。――なんせ今までは二人離れてたために光子さんの思うままに利用しられた。そやさかいこれからはちょいちょいそうッと会うようにして連絡取って行こやないか。尤もそないするのんには二人が完全に諒解《りょうかい》し合うて、互の立ち場認めんといかん。光子さんのいいぐさ真似《まね》シするのんやないけど、同性の愛と異性の愛とはまるきりたちが違う思たらなんにも嫉妬することあれへん。ぜんたいあんな綺麗な人たった一人で愛そいうのんが間違うてる。五人も十人も崇拝する人あったかて当り前やのんに、二人で占領するいうのん勿体《もったい》ない。それも男やったら自分一人や、女やったら私だけやいう工合に考えたら、世の中に自分らほど幸福なもんあれへんやないか。二人ともそない思て、その幸福いつまででも自分らだけが握ってて外の人に取られんようにしたらええのんやいうて、「どないです、お姉さん」いいますよって、「あんたさいその気イなら、私かて約束守ります」いいましてん。「僕、お姉さん味方になってくれなんだら、ぱっと世間に知れ渡るようにして、自分もあかんようになる代り、お姉さんかてあかんようにしたげよ思てたのんですけど、それ聞いてほんまに安心しました。光ちゃんのお姉さんやったら僕に取ってもお姉さんです。僕女きょうだい一人もないのんで、お姉さん親身の姉や思て大事にしますさかい、お姉さんもどうぞほんまの弟や思て、何でも思い余ることあったら遠慮のう打ち明けて下さいませんか。僕ちゅう人間は、敵になったらどんな恐いことでもする代り、味方になったら命投げ出してもお姉さんのために尽します。お姉さんのお蔭で光ちゃん嫁に持つこと出来たら、夫婦のことやかい後廻《あとまわ》しにしてもお姉さんのため謀《はか》ります。」「きっと、きっと、そないしてくれはる?」「きっとですとも、僕かて男です。一生お姉さんの御恩忘れるようなことせえしません。」――そんでとうとう、また「梅園」の前まで歩いて来てしもたのんで、そしたら今度、いつでも必要なこと出来たら「梅園」で待ち合いしまひょいうて、堅い握手して別れましてん。
私は一人で帰って来る途々《みちみち》何や知らん胸がわくわくするぐらい嬉しいて、光子さんはそない私を愛しててくれる? 私の方が綿貫よりずっと愛されてる? まあ、そんなこと、夢やないのんか?――つい昨日までは二人のために玩具《おもちゃ》にしられてる思い込んでたのんに、急に形成変ってしもて、まるきり狐《きつね》につままれたみたいな気イしましてんけど、そいでも綿貫のいうたこといろいろ考えてみましたら、好きと違《ちご》たらあんな騒動するはずないいうのんもほんまやし、そやなかったらちゃんとした人ありながら私と会ういう訳ないし、――それに、今になってから初めごろのことだんだん思い出してみますと、あの観音様のモデルのことでやかましい噂《うわさ》立った時分、光子さんかて私がどんな気持でいたか大方素振《そぶ》りでも察しついてたですやろし、道ですれちごた時やかいに「この人うちに気イあるねんなあ」思て、今に誘惑してやろと待ち設けてなさったのんかも分れしませんねん。そないいうたら二人が始めて物いうたのんも、いい出したのんは私ですけど、いつでも済ましてなさるのんにニッコリ笑いなさったのんで、つい釣り込まれて口きいたのんやし、裸体の姿見た時にしたかて、見せてくれいうたのんは私ですけど、そないいわすように持ちかけなさったのんやし、――ぜんたい私、なんぼ光子さん崇拝するいうたかて、どんなことから今みたいな仲になってしもたのんか、それにはいろいろ夫に対して不満あったとこい、学校であんな噂《うわさ》立てられたのんが反動的に作用したこともありますやろが、私にそんな可能性あること見抜いて、知らん間アに暗示かけてなさったのんかも分れしませんし、それ考えたらあのM家との縁談の事にしたかて口実みたいに思われますし、――なんせ自分の仕掛けた罠《わな》い私おとしいれながら、うわべはいつでも私の方から手エ出した形にさされてたいう気イしますねん。そら綿貫のいうたことかて一から十まで信用出来《でけ》しませんし、あの着物取られた晩でもたしかに綿貫が指図《さしず》したのんと違うかしらん。SK病院から電話かかった時にしたかて、あの男の声綿貫でのうたら外にそんな事頼まれる人あるかしらんいう工合に、疑がい出したら腑《ふ》に落ちんこともあるのんですけど、――第一子供生れるいうこと、なんで私に隠してなさるのんか、あんな心配さしときながら、そんな水臭いことするやなんて、やっぱり私の方が侮《あなど》られてること知れたある、ひょッとしたらあないに秘密打ち明けて私と光子さんとの仲い水さそいう気やないのんか? そうか今のうちは邪魔されんように味方につけといて、結婚したら放《ほ》ってしまうつもりやないのんか?――そない思たら、だんだん疑がいも濃うなって来るのんですけど、そいから四、五日たった或る日、またろうじの外で待ち受けてて「ちょっと、ちょっと、……」いうて、「僕今日お姉さんに相談したいことあるのんですが、『梅園』まで来てくれませんか」いいますよって、一緒に附いて行きましたら、二階の座敷い上って行って、「ただ口でばっかりきょうだいの約束するいうても、お姉さんかてなかなか僕を信じるいう訳に行きますまいし、僕かてやっぱり何や心配ですさかい、お互に疑念残らんように誓約書交《かわ》そうやありませんか。実はそのつもりでこんなもん書いて来たのんですけど」いいながら、懐《ふところ》から二通の証文みたいなもん取り出すのんです。……あ、そう、そう、ちょっとこれ見て下さいませ、これがその時の誓約書ですねん。(作者註。彼女が示した誓約書の内容は話の順序として茲《ここ》に紹介する必要があるばかりでなく、この文案を作製した綿貫なる男の性格を想像せしむるに足るから、煩《はん》を厭《いと》わず原文のままを左に掲載するであろう。――)
誓約書
現住所 兵庫県西宮市香櫨園××弁護士法学士 柿内孝太郎妻
柿内園子
明治卅七年五月八日生
現住所 大阪市東区淡路町五丁目××番地会社員 綿貫長三郎次男
綿貫栄次郎
明治卅四年十月廿一日生
右柿内園子ト綿貫栄次郎トハソノ各々ガ徳光光子ニ対シテ有スル緊密ナル利害関係ヲ考慮シ昭和某年七月十八日以降左ノ条件ノ下ニ骨肉ト変リナキ兄弟ノ交リヲ諦《てい》スベキコトヲ誓約シタリ
一、柿内園子ヲ以《もっ》テ姉トシ、綿貫栄次郎ヲ以テ弟トス、栄次郎ハ年長ナレドモ園子ノ妹ノ夫タルベキ者ナレバナリ
二、姉ハ弟ガ徳光光子ノ恋人タルノ地位ヲ確認シ弟ハ姉ト徳光光子トノ姉妹愛ヲ確認シタリ
三、姉ト弟トハ徳光光子ノ愛情ガ第三者ニ移ルコトナキヨウ常ニ結束シテ防禦《ぼうぎょ》シ、姉ハ弟ト光子トヲ正式ニ結婚セシムルタメニ努力シ、弟ハタトイ結婚後トイエドモ姉ト光子トノ既ニ確立セラレタル関係ニ対シ何ラ異議ヲ申シ立ツルコトナシ
四、モシ両人ノイズレカガ光子ニ捨テラレタル場合ハ他ノ一人モソレト進退ヲ共ニスベシ、即チ弟ガ捨テラレタル時ハ姉ハ光子ト交リヲ絶チ、姉ガ捨テラレタル時ハ弟ハ光子トノ婚約ヲ破棄シ、結婚後ニオイテハ離別スベシ
五、両人ハ他ノ一方ノ承諾ヲ経ズシテ無断ニ光子ト逃亡シ、所在ヲ晦《くら》マシ、モシクハ情死スル等ノ行為ヲナサズ
六、両人ガコノ誓約ヲナセルコトハ光子ノ反感ヲ挑発スルコトアルベキヲ以テ発表ノ必要ニ迫ラルルマデハ絶対ニ秘密ヲ厳守スベシ、モシ両人ノイズレカガ光子ニ対シ、アルイハ他ノ何人《なんぴと》カニ対シ発表セント欲スル時ハ予《あらかじ》メ他ノ一方ト協議スベキ義務アルモノトス
七、モシ両人ノ一方ガコノ誓約ニ違背スル時ハ他ノ一方ヨリアラユル迫害ヲ受クルコトアルベキヲ覚悟スベシ
八、コノ誓約ハイズレカガ任意ニ徳光光子トノ関係ヲ放棄セザル限リ有効トス
以上
昭和某年七月拾八日
姉 柿内園子 印
弟 綿貫栄次郎 印
(これだけの文句がかんぜよりで綴《と》じた二枚の改良半紙へ、頗《すこぶ》る丹念な毛筆の細字で、せせこましい字配りで、一点一画の消しもなく書かれているのである。二枚の半紙の四分の一以上も余白が残っているのを見ると、こんなに細かく書く必要はないのであるが、けだし平素からこういうコセコセした字を書く癖があるのであろう。書体は毛筆を使い馴《な》れない現時の青年の筆蹟としては決して拙《まず》くないけれども、何処《どこ》かに商店の番頭の字のような品の悪い達者さがある。最後の二人の署名だけは、梅園の二階で万年筆で記したものだが、これも柿内未亡人の署名の方が不釣合いに字体が大きい。そして何より無気味なのは、署名の下に小さな花弁を押したようにひろがっている茶褐色《ちゃかっしょく》の斑点《はんてん》であって、同じものが半紙の綴じ目の割り印を捺《お》すべき所にも二つぽたぽたとにじんでいる。それが何であるかは未亡人自らが語るであろう。――)「どうです、お姉さん、この条件でよろしいですか? よろしかったら此処《ここ》い名ア書いて判おしてくれませんか? それとも何ぞ足らんとこあるお思いになったら、遠慮のういうてみて下さい」いいますよって、「これだけちゃんときめたあったら結構ですけど、そいでも子供生れた場合に、あんたも光ちゃんも家庭が大事やいう気イになりませんやろか。なんとか其処《そこ》のとこもうちょっと考えて欲しい」いいましたら、「それは第三に規定したある通り、『弟ハタトイ結婚後トイエドモ姉ト光子トノ既ニ確立セラレタル関係ニ対シ何ラ異議ヲ申シ立ツルコトナシ』やさかい、家庭のためにお姉さん犠牲にするようなこと絶対にあれしませんけど、子供生れるいうことそない心配やったら、どうでもお姉さんの気イ済むように此処い書き加えときますが、どないしたらええのんです?」いいますのんで、「今光ちゃんのお腹《なか》にある子は結婚するのんに必要やさかい、それはしょうがないとして、結婚してからは子供生まんようにして頂戴」いいましてん。そしたら暫《しばら》く考えてて、「よろしいです、そないしましょう」いうて、「どんな工合《ぐあい》に書いときましょか、こないこないの場合もありますし、こないこないの場合もありますし」と、いろいろ私の気イつかなんだことまで考えてくれて、――その、二枚目の紙の裏のとこいペンで書いたあるのん見て下さいませ、それがその時の書き入れですねん。(作者註。前掲の誓約書の最終の紙面に、「追加条項」として下の文句が附記されている。――「弟ハ徳光光子ト結婚後ニオイテハ常ニ光子ヲ妊娠セシメザルヨウニ注意ス、モシ聊《いささ》カニテモ妊娠ノ疑イアル時ハソノ処置ニ関シ姉ノ指揮ヲ受クルモノトス、」――この文句を記したあとでまた思いついたものらしく、更に次の二箇条が規定してある。――「結婚前ノ妊娠トイエドモ、ソノ妊娠中ニ結婚シ、結婚後ナオ避妊ガ可能ナル時ハ為《な》シ得ル限リノ手段ヲ取ルベシ、」「弟ハ妻ガ協力シテコノ追加条項ヲ忠実ニ履行スル保証ヲ得ルニアラザレバ、光子ト結婚スルコトヲ得ズ、」――そうして此処にも茶褐色《ちゃかっしょく》のしみが点々と捺《お》されているのである。)――それ書いてしまうと、「こいだけ極《き》めといたら安心です、これ読んでみたらお姉さんの方が僕よりよっぽど有利なくらいです、これで僕の誠意のあるとこお分りになったでしょ」いうて、「さあ、サインして下さい」いいますねん。そんで私、「サインするのはしてもええけど、判持ってエしません」いいましたら「きょうだいの約束するのんに普通の判では役に立てしません、お気の毒ですけど、ちょっとばかり痛いのん辛抱してくれませんか」いうて、ニヤニヤ笑いながら袂《たもと》の中から何か出すのんです。
「どうぞ此処のとこ出して下さい、痛いいうてもほんちょっとの間です」いうてるうちにもうシッカリ手エ握ってて、指の先か思てましたら、肩の方まで袖《そで》まくり上げて、二の腕の上と下とをハンカチで括《くく》ろとするのんで、「判おすのんにそんなことせえでもええやあれしませんか」いいましたら、「判おすだけと違います。きょうだいの約束するんです」いうで、自分も同じように腕まくって、私の腕と一緒にそろえて、「よろしですか、お姉さん、声出したらいけませんで。……あれいう間に済んでしまいますよって、眼エつぶってなさい」いいますねん。「イヤや」いうたらどんな目に遇うか分れしませんし、逃げよ思ても手頸《てくび》握られてますし、光る物見たら気が顛倒《てんとう》してしもて、眼エつぶってる間に、咽喉《のど》でもどないぞしられるのんやないかと生きてる心地《ここち》せえしませなんだけど、殺されたら殺された時思てあきらめてますと、肘《ひじ》の上のとこスルスルと鋭利な感覚がした思たら、ぞうッとして脳貧血起しそうになりましたが、「しっかりしなさい、しっかりしなさい」いうて、自分の腕出して、「さあ、お姉さんから先イ飲んで下さい」いうのんです。そいから、「此処と、此処と、此処い判おすのんです」いいながら自分で私の指つかんでペタペタおしてしまいましてん。
私は綿貫いう男がつくづく恐い気イしましたので、正直に約束守るつもりで、その誓約書は大事に箪笥《たんす》の抽出《ひきだ》しい鍵《かぎ》かけてしもといて、光子さんには済まん思いながら素振りにも悟られんようにしてましてんけど、そいでも隠し事してると何処ぞオドオドした様子出るのんか、明くる日不思議そうに私の顔見てなさって、「姉ちゃん何で、ここのとこ傷したのん?」いいなさるのんです。「ああ、これどないして出来たのんか、ゆんべあんまり蚊《か》アに喰《く》われて、夢中で掻《か》きむしッたのんか知らん」いいますと、「おかしいなあ、栄ちゃんもちょうどそれと同じもん出来てるねんわ」と、そないいわれたら、ああ、悪い事出来んもんやなあ思うて急に私の顔色変って来ましたのんで、「姉ちゃん何ぞあてに隠してるのんと違う? それどないして出来たのんか、ほんまのこというて頂戴」いいなさって、「隠したかて大概分ってる、姉ちゃんはあてに内証で何ぞ栄ちゃんと約束したことあるねんなあ?」――そら、光子さんいうたらそういうことには早う気イ廻るのんで、そない図星《ずぼし》刺されたらもう惚《とぼ》けること出来《でけ》しませんけど、そいでも真っ青になりながら黙ってますと、「きっとそうに違いないやろ? なんでそれいうてくれへん」いうて、――だんだん聞いてみましたら、きのう綿貫はあれから帰りに、腕の傷コッソリ光子さんに見られてしもてて、その時から何ぞ訳あるのんやなあと思てた、そないに二人同じ日に同じとこへ傷出来るはずあれへんいいなさって、「姉ちゃんはあてと栄ちゃんと孰方《どっち》が大事や」とか、「隠す以上はあてに知れたらいかんことあるねんやろ」とか、しまいには私と綿貫との間にイヤなことでもあったように「それ聞かんうちはどないしても帰せへん」いいなさるのんですが、そんな時にも光子さんは一杯涙ためたなりじっと落ち着いてなさって、恨めしそうに睨《にら》んでなさるだけですねんけど、その眼エえらい妖艶《ようえん》で、何ともいえんなまめかしい風情《ふぜい》あって、「なあ姉ちゃん」いいながら甘えるようにその眼エ使われたら、なかなか魅力に逆らういうこと出来しません。それにそこまで感づかれたらいずれ一と騒ぎ持ち上ること極《き》まってますし、隠すだけ疑がわれること分ってますねんけど、綿貫に相談せんうちはウッカリいう訳に行きませんので、「どうぞ明日まで待って頂戴」いいますと、明日いわれることが何で今日いわれへん、人に相談していうぐらいやったら聞かいでもええ、自分にだけそうッと教《お》せてくれたら迷惑かかるようなことせえへんいうて、どないしても聴きなされしませんさかい、「光ちゃんそないいうけど、あんたかってあてに隠してることあるやろ」いうてやりますと、「あてが何隠してる? 何でも正直にいうたげるよって、そない思うことあったら聞いて頂戴」いいなさいますねん。「ふうん、きっと隠してることないなあ?」「きっとあれへん。そら隠すつもりやのうて、いわなんだことあるかも知れんけど。」「あんたあてに、何んぞ体のことについて隠してることあるやろ?――」「何いうてるのん、姉ちゃん?」「あのなあ、いつやあんた家い来て苦しがったわなあ、あの時ほんまにお腹《なか》の中に子供あったん?」「ああ、あの時のこと」いうて、さすがに極まり悪そうに赧《あか》い顔しなさって、「そらあの時は姉ちゃんに会いとうてわざとあんな真似《まね》してん。……」「あてそんなこと聞いてるのんやあれへん。あの時はほんまに子供出来てたのんかどうか、それ知りたいねん。」「そら、出来てえへんなんだ。」「そんなら今でも出来てえへんの?」「そんなこと極まってるやないか、なんでまたそれ疑ごうてるのん?」「なんでいうことないねんけど、疑がうだけの訳あるねん。」「ああ、姉ちゃん」と、その時光子さんは「もう分ってる」いう顔しなさって、「姉ちゃんきっと、あて妊娠してるいうこと栄ちゃんにいわれたのんやろなあ? あの人きっとそんなこというねん、ほんまいうたら子供生ます能力もないくせに、――」と、そないいいなさるか思たら、一所懸命歯ア喰いしばって、眼エに一杯たまってた涙が急にポトポト頬《ほ》べた伝《つと》てるのんです。
私はビックリして、「何やて、光ちゃん?」いいながら自分の耳疑ごうてますと、そのあいだにもうさめざめ泣いてなさって、実は今まで、自分のことについては何一つ隠してえへんけど、綿貫には人にいわれん秘密あって、それ知られたら自分も恥かしいし、あの人も気の毒な思ていわんといた。けど姉ちゃんに蔭でいろいろな中傷したりするのんやったら、もうあんな人、可哀そうなことも何もあれへん、自分が今みたいになってしもたのんも元はいうたらあの人や、自分の不仕合わせはみんなあの人の仕業《しわざ》やいうて、またえらい泣きなさって、そいから綿貫ちゅうもん知った時のことから始めて委《くわ》しいに話しなさって、なんでも二年前の夏、浜寺《はまでら》の別荘い行《い》てた時分、お互に物いうようになって、或る晩散歩に誘い出されて、海岸に置いたある漁船の蔭に連れて行かれた。そいで夏過ぎてからも、大阪の家が近いとこにあったさかい常時孰方《どっち》ぞから呼び出しては逢《お》うてたら、或る時女学校時代のお友達から綿貫のことについて妙な噂《うわさ》あるのん聞いた。そのお友達いうのんは、いつや二人が宝塚歩いてるとこ見たことあるのんで、そののち朝日会館の映画の夕《ゆうべ》の時やったかに、光子さんが一人で屋上庭園に出てなさったら、「徳光さん」いうて後から肩たたいて、「こないだあんた綿貫さんと歩いてたなあ」いうのんで、「あんた綿貫さん知ってるのん?」いうたら、「うち直接には知らんけど、あの人えらいシャンやいわれて、みんなが騒ぐのんやてなあ、あんたみたいに綺麗かったら一緒に歩いててもちょうどええけど」いうて意味ありげに笑《わろ》てるさかい、そないに深い関係やない、あの時ちょっと歩いただけやといい訳しなさったら、「そない弁解せんかて、あの人やったら誰も疑がうはずあれへん、あんたあの人の仇名《あだな》知ってる?」いいますよって、「知らん」いいなさると、『百%安全なるステッキ・ボーイ』いうねんし」いうてクスクス笑てるのんやそうです。それが光子さんには何の事やらさっぱり分れしませんので、根エ掘り葉ア掘り聞いてみましたら、綿貫いう人は無能力者で、中性の人間やいう噂ある、しかもそれにはちゃんとした証人あるのんやいいますねん。
なんでもそれ分ったいうのんは、その光子さんのお友達の知ってる人が綿貫と相愛の仲になってて、人頼んで結婚申し込んだところが、何や向うの親たちがええ加減なこというてちょっともハッキリせえへんのんで、本人同士は真面目《まじめ》に結婚望んでるさかい是非承知して下さいいうたら、栄次郎は実は訳あって一生嫁持たさんつもりですいうのんで、だんだん調べたら、子供の時分にお多福風《たふくかぜ》にかかったのんが元で睾丸炎《こうがんえん》になった、――私、そんなことよう知りませんけど、お医者はんに聞きましたら、お多福風から睾丸炎になるいうことかてあるもんやそうですなあ? 尤もそないいうてるだけで、ほんまは極道《ごくどう》したのんかも分れしませんけど、とにかくそいからその娘さんえらい綿貫憎んでて、――そら考えたら可哀そうでもありますねんけど、そんなんやったら人に交際求めたりイヤらしい手紙くれたりせなんだらええのんに、「あんたは理想の妻や」とか何とか巧いこというてたばっかりやない、散歩いうたらきっと暗いとこい連れて行ったりしたのんは、今から思たら自分がそんな体やさかいそないな事で満足してたのんで、つまりいうたら恋愛の仮面被《かぶ》って人玩具《おもちゃ》にしてたのんや。けど綿貫はそういう時に、「僕は結婚せん先に肉体的の関係結ぶいうのん罪悪や思います」いうのんで、しッかりした人や思て感心してたのんがなお腹立つ。そいでその娘さん「どうぞ秘密にしてやって下さい」いわれてましてんけど、口惜《くや》しまぎれにいろいろな人にしゃべったところが、外にもそんな目エに遇《お》うた人たあんとあるいうこと分って来て、それが綿貫は、自分がええ男で異性に好かれるいうことよう知ってますさかい、何処いでも女の集りそうなとこいずうずうしいに出て行くのんで、誰でも一ぺんは引っかかりますねん。そやけどプラトニック・ラヴやいうてどない熱烈に愛されても純潔守ってるのんで、大概のものは人格者やいうてなお崇拝して、何処まででも釣られて行って、際《きわ》どいとこまで引っ張られてから極《き》まってぽんと捨てられてしまう。「ふーん、あんたかってそうやったのん?」「ふん、ふん、うちもそやってん」と、そないいう人方々から出て来て、誰に聞いてみても同じように、或る程度以上になったら妙にコソコソ逃げてしもて、そないいうたらその様子が何や知らんけったいやった、ほんまのプラトニック・ラヴやったら接吻《せっぷん》するのんかて矛盾してるのんに、あれやったらなにも純潔なことあれへん。みんな欺されてたあいだはそれに気イつきませなんだけど、分ってしもたら、誰も彼もそないいい出して、その人らの捨てられたいうのんが型に嵌《は》まったように、結婚申し込んだら、何やすうッと消えるように逃げられてしもた」いいますねん。そいで中には同情する人もありましてんけど、本人はそない仰山《ぎょうさん》に自分の秘密知られてる思わんと、そいから後も次から次い処女弄《もてあそ》んでて、知らん人は今でも常時《じょうじ》引っかけられてますのんで、「またステッキさん、あんな人掴《つか》まえてるし、……」「あのステッキ・ボーイやったら誰も羨《うらや》ましいことないなあ」いうて、知ってるもんはええ笑い草にしてる。「うちこないだ、徳光さんきっとまだ知らんのやなあ思て、いつぞいうたげよ思ててんし。うそや思うのんやったら誰それさんにかて誰それさんにかて聞いて御覧。」「へーえ、そんなけったいな人! うちまだ接吻しられたことないねんけど、そしたらもう直きしられるやろか」と、光子さんはわざと空惚《そらとぼ》けて、その場アそいで済ましてしもてから、「今日友達にこないこないいわれてんけど、ほんまやろか?」いうて、家い行んでからお梅どんに話しますと、「ほんまかうそかとうちゃん知りゃはれしまへんのか?」いうて、あべこべにお梅どんから尋《た》ンねられた。――そらお梅どんにしたら、もしもそんなことあったらそれ光子さん知らんといた訳ない思うのんでしょうけど、光子さんは異性に接触するいうこと始めての経験ですし、「子供生れたらいきませんから」いうてるのんで、別に不審にもせんといた、そやさかい友達にそないいわれてもほんまかうそか自分には分らんいうのんで、お梅どんも始めてビックリして、「とうちゃんとあのお方はんとやったらあんまり揃《そろ》い過ぎてお雛《ひな》さんみたいやさかい、水さそ思てそんな悪口いうのん違いますやろか。誰ぞに調べてもらう訳に行きまへんか」いうて、そいから内証で秘密探偵に調べさしたら、性的に欠陥あるのんはやっぱり事実に違いないいうて来たのんですねんて。尤《もっと》もお多福風の結果かどうか分りませんねんけど、とにかく子供の時分からそうやったらしいて、それがどないして探偵に知れたいうたら、光子さんとそないなる前南地《なんち》で隠れ遊びしてたいうこと突き止めて、その方面調べてみたら、くろとの女でも一ぺん綿貫に引っかかったら大概なもん夢中になる、なんぼ男前ええとしたかてあんまりおかしい、何ぞ秘伝でもあるのんやないかいうて、一時はえらい評判になって、関係あった女たちに聞いてみても、誰も絶対に秘密しゃべらん、そいで噂ひろがって行って、いろいろな方法で詮索《せんさく》するもん出来て来て、分ったとこでは、初めごろ綿貫は自分に欠陥あるいうこと隠して遊んでましてんけど、そのうちに或る女が秘密嗅《か》ぎつけたいうのんは、その女もやっぱり同性愛の習慣あったのんで、一人前の男やのうても女に愛されるいうこと綿貫に教《お》せ込んだらしい。そいから綿貫のこと「男女《おとこおんな》」やとか「女男《おんなおとこ》」やとかいうようになったのんやそうですが、そないいわれる時分にはぷッつり遊び止めてしもて、何処のお茶屋いも姿見せんようになった。――私、その探偵の報告書あとで見せてもらいましたら、ずいぶん細かいとこまでも行き届いて調べられてて、そんなこと委しいに書いてありましてん。
そいで隠れ遊びしてる間に、「自分かて何も悲観することない」いう自信ついて、今度はしろとの女捜してるとこい光子さんが網に引っかかりなさった。――これは想像ですねんけど、きっとそうに違いないやろいうのんで、そんな人間の玩具になった思たら、もうもう生きていられん気イして、ほんまにその時光子さんは死んでしまおか思いなさったそうですが、死ぬのんやったら恨みいうてから死んでやろいう覚悟しなさって、正式に結婚してくれへんか、あんたさいよかったらこっちはちゃんと親の許し得たあるねんし、と、そないいうたら何ちゅうか思ていいなさると、「僕かて望むとこですけど今は都合悪い」とか、「もう一、二年たってから」とか、何の彼のいうて胡麻化《ごまか》すのんで、「あんたほんまは、何年たっても結婚出来へんのんやろ」いうてやりなさった。そしたら急に顔の色かえて「何でです?」いうよって、「何でや知らんこないこないの噂《うわさ》ありますねんけど」いいなさって、こうなったらうちもあんた捨てる訳に行かんよって、一緒に死んで頂戴いいなさったら、そいでもまだ「そんな噂うそや」いうてましてんけど、探偵の報告書出して見せなさったのんで、その時いうたらなんともいえん顔つきして、「悪かったです、堪忍して下さい」いうて、「一緒に死にます」いいましてんと。けどなかなか死ぬ訳に行けしませんし、さんざん恨みいうてしもたらまた可哀そうになって来て、ついぐずぐずに会うてなさった。それいうのんが、光子さんかて心の底ではやっぱり綿貫のこと忘れること出来んと、一日も長う一緒にいてたいいう気イあったのんですやろが、綿貫の方でもそれ見て取って、自分は今まで、自分の体の秘密知れたら、どない愛してくれてる人でもきっと自分を捨てるやろ思て隠してた、自分に欠陥あるいうこと承知して愛してくれるのんやったら、自分かて何で隠すもんか、自分はこんな体になったのん不仕合わせやとは思うけど、そない重大な欠点やとは思てえへん、それで男子の資格ないいうたら、男子いうもんのほんまの価値何処にあるのんや、男子ちゅうたら外に現われた恰好《かっこ》ばっかりできめるのんか、そんなんやったら男子でのうてもちょっともかめへん、深草《ふかくさ》の元政上人《げんせいしょうにん》は男子の男子たる印《しるし》あったら邪魔になるのんで、灸《やいと》すえたいうやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈迦《しゃか》さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そないいうたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現わしてあるのんやし、観音さんや勢至菩薩《せいしぼさつ》の姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性やいうこと分ってる、自分はただ愛する人に逃げられるのん心配して隠してたんや、ほんまいうたら、恋愛にしたかて子供生んだりするのん動物の愛で、精神的恋愛楽しむ人にはそないなことやかい問題やあれへん。……
……はあ、そらもう綿貫ちゅうたら、そんな工合《ぐあい》に議論し出したらなんぼでも都合のええ理窟《りくつ》ならべて、つべこべつべこべ果てしないのんです。そいでいいますのんに、光子さん死にやはるのんやったら、自分かて一緒に死ぬのん躊躇《ちゅうちょ》せえへんねんけど、自分は死ぬだけの理由見つかれへん、ここで死んだら、ふん、あの男、不具者やいうこと悲観して死によったいわれるのん口惜《くや》しい。自分はこれぐらいのことで死ぬような意気地《いくじ》なしやあれへん、なんぼでも生きてて、立派な仕事して、普通の人間よりずっと偉大な超人やいうこと見せてやりたい、光子さんかて死ぬぐらいな決心するのんやったら、自分と結婚してくれたらええやないか、今もいう通り、自分みたいなもん夫にするのん恥や思うのん間違うてるし、一層高尚な精神的結婚やいうように考えたら、――尤《もっと》もそないいうたとこで世間の奴らは理窟分らんと、いろいろな妨害するやろさかい、自分がこんな人間やいうこと無理にこっちから広告して歩かいでもええ、一人や二人噂するもんあったにしたかて、誰もちゃんとした証拠握ってるもんないねんよって、もしもそんなこと尋《た》ンねるもんあったら、完全に一人前の男やいうてて欲しい、――それが考えたらほんまに矛盾してますのんで、「ちょっとも悲観することない、超人や」いうぐらいやったら、何にもそないに秘密にせんかて大手振って歩いたらええのんに、何は措《お》いても邪魔這入《はい》らんうちに無事に結婚してしまお、それが第一の目的やさかいその目的果たすためには世間欺《だま》すいうこともやむをえん、自分らは誰にも退《ひ》け取らんいうことお腹《なか》の中でさい承知してたら差し支いないいいますねん。けど、世間はどうでも親たちまでそないあんじょう欺す訳に行けへんいいなさったら、自分の親は承知で嫁に来てくれる人あったら、どんなに結構や思うか分れへん、反対するのんは光子さんの方の親たちだけやよって、事情打ち明けても許してくれへんこと極《き》まってるのんなら、やっぱり隠しとかんといかん、光子さんさいその気イになったら隠しとかれへんいうことあれへん。「そんなことして分った時どないするのん?」「分ったら分った時のことやあれしませんか、そないなったら堂々と正義の立ち場説いて聴かして、絶対に外の人とは結婚せんいうて、それでも許してくれなんだら、その時こそ二人で姿隠しても一緒に死んでもええことあれしませんか。」それが本人は、自分の秘密仰山の人に知られてて、仇名《あだな》まで附けられてるいう風に思えしませんのんで、くろとの女別としたら感づいてるもんちょびッとよりないやろ思てますさかい、巧いこと隠し通せる思てるらしいのんですが、そない都合よう親欺して結婚するいうこと、実際にはなかなか出来しません。綿貫の方には親いうてもお母さんと、後見《こうけん》してる叔父《おじ》さんとがあるだけやさかい、一ぺん光子さんが会うてくれて、「こないこないの訳ですよって、いずれ家から表向きに申し込んで来たら黙って承知して下さい」いうたら、お母さんはよう分ってくれる、叔父さんかて、わざわざ人の欠点あばいて折角の縁談ワヤにするようなことせえへんいうのんですけど、光子さんの考えでは、結婚申し込む先に身元調べるに違いないよって、どないしたかて知れる、そんなことして平地に波瀾《はらん》起すより当分内証で会うてる方ええやないか、ぜんたい綿貫の方には別に結婚せんならん理由ないのんで、そんな体で無理な相談やいうこと自分かて分ってますねんけど、光子さんの方がそないいつまででも一人でいられるはずないさかい、こんなりでいたらもうつい逃げられへんやろか、それが心配で仕方あれしませんねん。それに口でいうのんとお腹の中とはまるきり反対で、出来るもんなら一人前の男と同じに奥様持って暮らして行きたい、世間欺すばっかりやのうて、自分の心まで欺して、ちょっとも外の男と違《ちご》たとこないように思てたいいう気イあるばっかりか、光子さんみたいな人一倍綺麗な奥様持って、世間の奴らアッといわしてやりたいいう虚栄心まであるのんで、せえだい焦《あせ》ってて「そんな一時逃《のが》れいうて、ええ縁談あったら行くつもりやろ」いうようなイヤ味いいますねん。そいで光子さんは、どない親にいわれてもきっと余所《よそ》い嫁に行けへん、今のとこ差し迫った縁談あるのんでもなし、そのうち自分も二十五になったら自由結婚出来るようになるし、きっとええ折あるやろさかいまあまあもうちょっと辛抱してて、……そやなかったら死ぬより外に道ないいうて、ようよう納得さしましてんと。
光子さんのその頃の気持、「ほんまのとこ自分にも分らん」いうてなさるのんですが、初めのうちはそないいうて宥《なだ》めといて、どないぞして切れてしまいたい思てなさったのんは確かですねん。会うたあとではいつでも後悔しなさって、ああ、ああ、自分は仰山の女の中でも人に羨《うらや》ましがられる器量持ってながら、あんな男に見込まれるやなんて何ちゅう情《なさけ》ない身の上やろ、もうもう止めてしまいたい思いなさるのんですけど、そら不思議と、また二、三日も立つうちに自分の方から跡追い廻すようになってしまう。そうかいうて、それほど綿貫恋しいのんかいうたら、精神的にはええ思うとこ一つもない、顔見るのんさいムカムカするような気イして、卑《いや》しい奴《や》ッちゃ、見下げ果てた奴ッちゃ、いう風に、お腹《なか》の中では常時激しいに軽蔑《けいべつ》してる。そいで毎日のように会うてることは会うてるけど、二人の気持シックリすることめったにのうて、いつでも喧嘩《けんか》ばっかりしてて、その喧嘩いうのんが、自分の秘密人にしゃべったやろとか、いつまで待たす気イやとか、例のキマリ文句で、愚にもつかんようなこと取り上げては疑がい深いにちゃにちゃした口調でいいますのんで、……光子さんかて、そない厭《いや》がること用もないのんに人に話したら綿貫だけの恥やあれしませんし、そんなくらいなこといわれいでも分ってましてんけど、そうかてお梅どんだけにはいわんちゅう訳に行かんのでいいなさったのんを、「何で女子衆みたいなもんにしゃべった」いうて、その時ばっかりはえらい喧嘩になって、光子さんもちょっとも負けてんと、「あんたは偽善者や、いうこととすることとまるきり違てるうそつきや。あてらのしてる事にほんまの恋愛らしいとここんだけもあれへん。」と、思い切りいうてやりなさったら、とうとう文句に詰まってしもて、血相変えて「殺す」いいますのんで、「殺すのんやったら殺したらええ、あてはとうから死ぬ覚悟きめてる」いいなさってじっと眼エつぶったなり、動こともしなされしませなんだ。そしたら綿貫の方が気イ呑《の》まれてしもて、「悪かったよって堪忍して下さい」いいますのんで、「あてあんたみたいな恥知らず違うよって、こんなこと世間に知れたら、あんたよりあての方がどない難儀するか分れへん、もうもういつでもそんないい係りいわんといて頂戴」いいなさって、ぎゅうぎゅういう目に遇わしなさった。そいから綿貫だんだん頭上らんようになりましてんけど、それだけかいって陰険になって、蔭では一層疑がい深《ぶこ》なりましてん。
ところがちょうどそないなってる時にM家との縁談持ち上った。――その時分光子さんがあの技芸学校い行ってなさったいうのんは、綿貫と会う機会作るためやったのんですが、私との間に同性愛やいう噂立ったのんは実は誰の仕業《しわざ》でもない、光子さん自身がそないいい触らしなさって、匿名《とくめい》のハガキ投書しなさったのんですねんて。何でそんなことしなさったいうたら、縁談のこと聞いてからいうもん綿貫の焼餅が激しいて、そんなことあったら唯《ただ》では置かん、今までの関係一切合財《いっさいがっさい》新聞い素《す》ツ葉《ぱ》抜いてやるいうて脅迫しますし、それでのうても競争の形になってる市会議員の家の方で手エ廻して、光子さんのアラ捜しして、こっちの縁談滅茶々々にしょうとかかってるのんで、自分はもちろんM家い行こいう気イないさかい競争に負けるのんかめへんけど、そんなことから綿貫との秘密探り出されて、ぱっと知れ渡るようになったら、それが何より恐い。そいでつまるとこ、ほんまのこと知れんように、わざと同性愛の噂立てた。まあいうてみたら、私ちゅうもん利用して世間の眼エくらましなさった。光子さんとしたら、「ステッキ」やとか、「男女」やとかいわれてるもんと噂立つより、同性愛やいわれる方が辛抱出来る、人に後指《うしろゆび》さされたり物笑いの種にならんと済む思いなさいましてん。そんな工合で初めはただ、私が光子さんモデルにして絵エ書いてるいうこと聞きなさったり、道で擦《す》れ違《ちご》た時の素振《そぶり》や何かから、ふっと思いつきなさっただけですねんけど、私の方があんまり真剣で熱烈でしたさかい、だんだん利用する心持からほんまの愛情に変って行きなさった。そら私かて全然純真なとこばっかりやあれしませんけど、そいでも綿貫とは比べ物にならんほど精神的な気持ありましたよって、知らん間にそれに絆《ほだ》されなさって、――それと一つには、綿貫みたいな誰にも相手にしられんような人間の慰め物にしられるのんと、同性の人から観音様の絵にまで画《か》かれて崇拝しられるのんとはえらい違いですよって、私というもん出来てから持ち前の優越な感じ、――自尊心戻って来て、始めて世の中が明《あこ》なったような気イしたいいなさいますねん。そいで綿貫にはこないこないの噂あるのん幸いにこないな人道具に使《つこ》てる、そないした方が家空《あ》けるのんにも工合ええさかいいうてなさったのんですが、それをそんなり真《ま》に受けるような綿貫と違いますよって、うわべは「そうですか、そらその方がええでしょう」いいながら心の中では嫉妬《しっと》の刃《やいば》研《と》ぎすましてて、何ぞ事さいあったら私との仲割《さ》いてやろ思てたのんに違いないいうのんは、あの笠屋町で着物盗まれた事件にしたかて、今考えたらどうも怪しい、あの時別の座敷で博奕《ばくち》打ってるもんあったとか、刑事乗り込んで来たとかいうのんはみんな根エも葉アもないことで、彼処《あそこ》の家の人に頼んで不意に光子さんビックリさして、逃げてる間に着物すっくり隠すように初めから段取り極《き》めといた。――それが、あの日の昼、私のとこい来なさる前に三越《みつこし》い買い物に行きなさったら偶然綿貫に会いなさったのんで、こいから柿内の姉さんとこ行て帰りにずっと笠屋町い廻るさかい待ってて欲しいうて別れなさった。そいで綿貫は揃いの着物着てなさったこと知ってましたよって、こりゃええ機会や、あの着物ないようにしてやったらどうしても私のとこい電話かけるようになる、そしたら私かて愛憎《あいそ》尽かすやろいうように考えて待ってる間にあの家のもん買収してこないこないせえいうといた。――綿貫やったらそのくらいのこと企《たく》らまんとも限らんし、企らむだけの時間もあった。そやなかったら何ぼ何でも人の着物着て警察い連れて行かれるいうことあんまりおかしいし、光子さんとこいも綿貫とこいも、そんなり警察からなんにもいうて来なんだいう訳あることない。けどその時はまさか計略にかかったとは思いなされしませんさかい、どないしてええのんか顛倒《てんとう》してしもてると、「こないなったら、柿内さんとこい電話かけて揃いの着物取り寄せるよりしょうがないでしょ」と、綿貫の方からいい出した。――綿貫の話とはそこえらい違《ちご》てて、光子さんはもう取られたのんが揃いの着物やったいうことさい忘れてたくらい慌《あわ》ててなさって、なかなかそんなこと考え出せるどころやなかった。綿貫にそないいわれてからも「姉ちゃんに頼める義理やない」いいなさいましてんけど、「それ厭《いや》やったら僕と一緒に逃げてくれますか、それとも電話かけますか」いわれて、絶体絶命の場合になって、こんな男の道連れになるのん死ぬよりイヤや思いなさったら、後先《あとさき》の分別《ふんべつ》もないよになって夢中で電話口い走って行った。そいでもあの時、近所のカフェエい来てもらうとか、綿貫先帰してしまうとか、あんなとこ私に見せんかて何とかもうちょっとええ工夫あったやろのんに、うろたえてたらそんなこと思いつけしませんし、そこが綿貫の狙《ねら》いどこですよって「早《はよ》しなさい、早しなさい」いうて急《せ》きたてますし、そのうちに私に来られてしもて「合わす顔ない」いいなさったら「僕ええようにいいますさかい隠れてなさい」いうて、いかにも自分は光子さんの恋人やいう顔つきして、いろいろなこと私にカマかけて聞いてしもた。「ふん、そやねんし。ほんまいうたら、あの人あの時まで姉ちゃんとのことそないよう知ってエへんなんでん」いいなさいますねん。
「へーえ、そしたらあの時カマかけられてたのん?『そら光子さんの奥様に対する気持いうたら、全く真剣でしてなあ』いうて冷やかしたりして、人馬鹿にしてる思ててんけど。」「ふん、ふん、わざとそんなこというて、なるだけ姉ちゃんに腹立たそとしててんし。あて襖《ふすま》の蔭で聞いてて、まあ何ちゅううそつきやろ思てんけど、あんな時に弁解したかてなかなか信用してもらわれへんしなあ。……」そいで光子さんは、計略にかかったいうことに気イつきなさったら、忌《い》ま忌ましいてならんとこい、それからちゅうもんもう邪魔なもんないようになったのんでなおのことひつこうに附き纏《まと》て、何ぞいうたら「あんたこそうそつきや、巧いこというて僕欺《だま》してたやないか」いうて、私とのこといつまででも根エに持って、「きっとあんなことぐらいで絶交するはずあれへん、今でも何処ぞで会うてんとは限らん」いうて、自分で会わさんようにしといたくせに、何処までも疑がわんといられん性質やのんか、それともわざと空惚《そらとぼ》けてそんな嫌がらしいうのんか、「あんたも男らしいもない、済んでしもた事そないくどくどいわいでもええ」いいなさっても、「いやいや、済んでしもたことやない、きっとあの人に僕の秘密知らしたあるやろ」いうて、ほんまのとこはそれ一番恐《こわ》がってて、私に知れたら復讐的にどんな妨害するか分れへんいいますのんで、「邪推もええ加減にして欲しい。あんたちゅうもんあることさい隠してたのんに、なんでそんなことしゃべる隙《ひま》あるやろ。あんた姉ちゃんに会うたんやったら大概様子で分ったやろのんに。」「いや、その様子に怪しいとこあった」いうて、自分がカマかけたりしますさかい人の態度まで疑ごうて、――それが、ただの嫌がらしと違《ちご》て、綿貫にしたら疑がう訳あるいうのんは、自分かて光子さんと私との仲感づいてたように、私にしたかて綿貫と光子さんとの仲知らんといたいうはずがない、知って今まで焼餅も焼かんといたのんは、「あの男は不具な人間や」いうこと聞かされて安心してたのんやろ、そやなかったらまさか黙ってる訳あれへん、そない思て、それがお腹《なか》にありますのんで、私を笠屋町の宿屋に呼んだいうのんも、自分はしょっちゅうこんなとこで光子さんと会うてるぐらいで、性的欠陥のある男やないいうこと見せつけるつもりもあったのんです。光子さんかて、「どうぞ姉ちゃんと別れて下さい」と正面から手エついて頼まれなさったら、「イヤ」とはいえん義理ですのんに、あんじょうペテンにかけられた上にそないエゲツのう疑がわれたら、意地でも謀《はかりごと》の裏かいてやりとうなりなさるし、あんな心にもないことして仲悪《なかわる》なった思いなさったら、なおのこと未練残って、どないぞして仲直りしたい、せめて一ト眼だけでも会いたい思いなさいましてんけど、訪《た》ンねて行ってもたやすうは会うてもらえんやろし、会えたところでどないいうていい訳しょう、今更何いうたにしても気持直してもらえへんやろと、いろいろ考えなさった末あの本のこと思い出しなさって、……あれはほんまに光子さんには用のない本で、やっぱり中川の奥様に貸しなさったのんやそうですが、あの時のことは、ふっとそれからヒント得なさったのんで、SK病院の名前騙《かた》ってこない電話かけよ、こんな時にはこないしょういう工合《ぐあい》に、何日もかかって一所懸命考え抜きなさった。もちろん誰にも相談せんと、自分ひとりであんだけの段取り工夫しなさって、ただ電話かけるのんに女の声やったらいかん思て、お梅どんに訳《わけ》話して出入りの洗い張り屋の男頼んだ。「あてかてあの時姉ちゃんを取り戻そいう一心で有るだけの智慧《ちえ》絞ってんし。今考えたらあんなえらい騒動して、眼エ吊《つ》り上げて見せるやなんて、役者でもないのんにようあんなことしたなあ」いいなさって、そら、あの時のことは確かに私を計略にかけた。欺《だま》したいわれても仕方ないけど、それも自分がどんな気持でしたかいうこと直きに分ってもらえるやろ、そしたら私かて可哀そうなとこそ思えきっと憎いとは思えへんやろと、そない考えてたいいなさいますねん。
ところが私と仲直りしたいうことそれから間ものう綿貫に知れた。光子さんかてもともと綿貫のたくらんだことあべこべに引っくり覆《かえ》して見せつけてやろいう気イあるのんで、別に隠そともしなされへんばっかりか、知れたらどんな顔するやろ思て待ち構えてなさったとこですさかい、「あんたこの頃、またあの人とより戻ったんやろ、空惚《そらとぼ》けててもちゃんと分ってる。」「ふん、そんな事ちょっとも惚けてエへん」と、落ち着き払《はろ》てなさって「会わんといたかてどうせ疑がわれるぐらいなら、会うた方が優《ま》しや思てん。」「何で僕に内証でそんなことした?」「内証やあれへん、あてどない邪推しられたかて、せエへんことはせエへんいうけど、したことはしたいうし。」「そうかて今日まで黙ってたやないか。」「そらいうまでもない思たさかい黙ってた、何も一々自分のしたこと報告せんならん思てエへんもん。」「こんな大事なこと報告せんちゅう法あるもんか。」「そやさかい、したことはしたいうてるやないか。」「ただ『した』だけでは分らん、孰方《どっち》から仲直りしたのんかちゃんとはっきりいうて見なさい。」「あての方から訪《た》ンねて行って、悪かったいうて堪忍してもろてん。」「何やて! なんで詫《あや》まりに行くことある?」「何でいうて、こんなとこいあんな時間に呼び出しといて、着物借ったりお金借ったりして、放っとくいう法あるかいな。そんな義理の悪いこと、あんたは出来てもあてはようせん。」「借った物はあの明くる日、僕が郵便で返してやった。あんな汚《けが》らわしい女にそれ以上礼いう必要あるもんか。」「ふーん、そしたらあの時姉ちゃんの前で何ちゅうた、『僕の一身はどないなっても、この場アさい無事に済んだら御恩は一生忘れしません』いうて、その汚らわしい人に頭下げて、手エ合わして拝んだやないか。そやのんに今頃ようそんなこといえるなあ。第一借ったもん郵便で返すやなんて、もし旦那さんの手エにでも渡ったらどない迷惑しなさるか、汚れてたかていエへんかて世話になったもんは世話になったもんやのんに、何ちゅう恩知らずやろ。あんたそんなこというたら、あの晩のことかて手妻《てづま》の種《たね》見えるような気イするし。…」そないいうてやりなさったら、ぎょッとした顔して、「手妻の種て何のこっちゃ」いいますのんで、「何のこっちゃ知らんけど、何もあれから絶交したともいエへんのんに、あんた独りで絶交したもんと極《き》めてるいうのんけったいやないか。そない自分の思う壺《つぼ》に嵌《は》まる思たら間違《まちご》てるし。」「何や一体、あんたのいうてること僕には分らん。」「あのなあ、あの時の着物あんなり警察から戻って来エへんのん何でやろ?」「今そんなこと問題にしてエへん。」そないいいながら、チクリと痛いとこ刺されたのんで、「何をいうのんか今日はあんた興奮してるで。まあまあ、その話ゆっくり聞こ」いうて、照れ隠しにニヤニヤ笑て胡麻化《ごまか》してしもた。けどそんなりで放っとくようなあっさりした男違いますよって、二、三日したら直きまた持ち出して、今度は下手《したて》に出て光子さんの機嫌取りながら、「あの奥様よっぽど怒ってたはずやのんにどんなこというて丸めたのんか、後学のために聞かして欲しい」とか、「そんな優しい顔しててあんたはえらい手管《てくだ》上手や」とか、「くろとも及ばん凄腕《すごうで》や」とか、いろいろなこというておだてたり皮肉いうたりしますのんで、ええ加減なとこで妥協しといた方がええ思いなさって、実はこないこないの計略で仲直りしたいうこと話してやりなさった。「あんたそんな狂言書いて人欺すこといつの間アに覚えてん?」「そらあんたに教《お》せてもうてん。」「阿呆《あほ》いいなさい、僕にもちょいちょいその手エ使てるねんやろ。」「ほらまた邪推始まった。あてこんな人の悪いことしたん今度だけやわ。」「そないまでしてあの奥様ときょうだいになりたいいうのん、僕には分れへん。」「けどあんたかてこないだ姉ちゃんに『僕はちょっともかめしません、これから三人仲好うしましょ』いうてんやないか。」「そらあの時あの人怒らしてしもたら難儀やさかい、あないいうといてん。」「うそいうてるわ。あんた姉ちゃんにカマかけたんやないか。あの晩の細工ちゃんとあてに分ってるし。」「そんなこと僕一向知らん。」「あんたよう聞いて頂戴や、一寸の虫にも五分の魂いうことあるよって、蔭い廻ってけったいな事しられた思たら、誰かってそんなりにしとけへんさかいになあ。」「僕がけったいな事したやなんて、何ぞ証拠でもあるかいな。あんたこそ邪推してるやないか。」「邪推なら邪推にしといたらええ。けどあんたかってそないいうのんやったら、ちゃんと、約束した通り姉ちゃんと附き合うたらええやないか。あんたは疑ごうてるか知らんけど、あてかてあんたのイヤがるようなこと決して姉ちゃんにいエへんし。……」そこで光子さんは即座に気転利《き》かしなさって、私のとこいあんなこというて来たのんも一つは綿貫のイヤがってること何処までも隠して、一人前の人間やいうこと私に信じさすためやった、自分はそないまでして綿貫の名誉守ってるねんさかい、綿貫さいもうちょっと寛大な気持になったら、この先三人が仲好うして行かれへんいうはずないやないか――と、一方では綿貫の痛いとこおさえてて、賺《す》かしたり威嚇《おど》したりしなさって、「あんたと此処《ここ》で会うてる以上は、姉ちゃんにも来てもらう」いいなさって、私との交際には絶対に嘴《くちばし》入れんといてほしい、ぐずぐずいうのやったら綿貫捨てても私捨てへんいう覚悟見せなさったのんで、とうどう泣き寝入りになってしまいましてん。
「……なあ、姉ちゃん、なんぼ親しい間柄《あいだがら》かてこんなこというたら自分の恥やし、愛憎《あいそ》つかされるかも分れへん思てじっと辛抱《しんぼ》しててんけど、もうもう今日は何も彼もいうてしもてんし。あてぐらい不仕合せなもん世の中にあるやろか。」――そないいいながら私の膝《ひざ》の上い打つ伏しなさって、涙でそこがびしょびしょに濡《ぬ》れるぐらい激しいに泣きなさるのんで、あんまりのことに何ちゅうて慰めたげたらええのんやら、――なんせ私の知ってる今日までの光子さんいうたら、花やかで、勝ち気で、いつもプライドに充《み》ちた眼エ耀《かが》やかしてなさって、そんな辛《つら》い思いしてなさったとはちょっとも見えしませんのに、その高慢な、女王みたいにエラそにしてなさった人が、プライドも何にも放ってしもて泣き崩れてなさる様子だけでも、ほんまに思いの外ですねん。光子さんにいわしたら、自分は強情張りやよってどない苦しいことあっても人に見透《みす》かされんように努めて来てんけど、そいでも姉ちゃんいうもんなかったらもっと陰気になってたやろのんに、姉ちゃんのお蔭で暗い運命に打ち克《か》つだけの勇気出た、いつでも姉ちゃんの顔さい見てたら気が晴れ晴れして一切のこと忘れてたけど、今日ちゅう今日はどういう訳か悲しい思い込み上げて来て、意地にも辛抱出来んようになって、長いあいだ怺《こら》えてた涙の堰《せき》が一ぺんに切れた。「なあ、姉ちゃん、どうぞどうぞ、……頼りにするのん姉ちゃんばっかりやさかい、こんな話聞いても愛憎《あいそ》尽かさんといてエな。」「なんで愛憎尽かすもんか。いいにくいことよういうてくれたなあ。あてかてそない頼りにされたらどない嬉しいか分れへん。」そしたら光子さん気イ弛《ゆる》みなさったのんか、一層止めどものう泣きなさって、自分の一生は綿貫のお蔭で滅茶々々にしられた。もう行末に何の望みも光明もない、生涯埋《うも》れ木《ぎ》で暮らすばっかりやいいなさって、自分は死んでもあんな男と結婚せエへん、どうぞ助ける思てあの男と手エ切れるようにしてくれへんか、何ぞええ工夫あったら教《お》せて頂戴いいなさるのんで、「こないなったらあてかて正直なこというけど。ほんまいうたらあて栄ちゃんと兄弟の約束してしもて、こないこないの書付《かきつけ》まで交《かわ》してんし」と、昨日の出来事みんな話したげたら、大方そんなことやろ思てた、綿貫の奴、何処まで行っても知られてエへんかいうこと疑ごうてて、わざとそないなこというて姉ちゃん試《ため》してみといてから、自分捨てられたら姉ちゃんも一緒に抱き込んでやろいう気イや。……そないいうとなるほど、「光ちゃんに子供出来たいうこと初耳です」いうたとき、「へえ? 初耳?」いうて血走った眼エして、「何で子供出来るはずないいいましたか、そんな体質やいうのんですか」と唇の色まで変えてたのんが、あの時にもけったいな人やなあいう感じしましたし、それに思い当るのんは、話の中途でためいきついては、「ああ、ああ、僕は何ちゅう不幸な運命の下に生れたのんでしょう」と、二へんも三べんも芝居のセリフみたいな節つけて繰り返したあの言葉、――あの時はなんや、人の同情求めるためにわざとあんなセンチメンタルな声出してる思いましてんけど、それがやっぱり、なんぼずうずうしい男にしたかてお腹《なか》の中では自分の不仕合わせ嘆いてるのんで、人にいわれん淋しい気持が自然と外に現われたのんかも分れしません。けど「何でそないに妊娠したいうこと隠すのんでしょう? お姉さんにまでウソつかないでもええやありませんか」とか、「子供生れたら何処いなとやってしまういうて、光ちゃんのお父さんかんかんになって怒ってる」とか、巧いこというて探り入れて、――それもええけど、「これ読んでみたらお姉さんの方が僕より得してる、僕の誠意のあることこれでも分りましたやろ」いうやなんて、もともと起る気づかいないのんやったら、どんな条件かて書けるやあれしませんか。そんなありもせんこと種に使《つこ》て、こっちの信用つないだりして、どないな気イやろ? どんな場合にあの約束役に立たすつもりやねんやろ? そらきっと「姉ハ弟ト光子ト正式ニ結婚セシムルタメニ努力シ」いうのんと、「弟ガ捨テラレタル時ハ姉ハ光子ト交リヲ絶チ」いうのんと、「両人ハ他ノ一方ノ承諾ヲ経ズシテ無断ニ光子ト逃亡シ、所在ヲ晦《くら》マシ、モシクハ情死スル等ノ行為ヲナサズ」いうのんとが、――殊にこの一番しまいの条件が眼目《がんもく》やのんで、その外のことは勿体《もったい》らしいに見せかけるための附け足りやと、光子さんはいいなさいますけど、そいだけのことにわざわざこんな尤《もっと》もらしい形式取り交して、あんな大騒ぎせいでもよさそうなもんですのんに、そんな法律くさい文句並べるのんがあの男の癖なんやそうで、そないいうたら、この頃光子さんの綿貫に対する態度だんだん焼け糞《くそ》になって来なさって、どないなとなれいうような素振《そぶり》見せなさるもんですさかい、綿貫の方も近いうちにただでは済まんような事起るいう予覚感じてて、蔭い廻って何ぞ悪さするような様子見えてた。そいでこないだ三人で松竹座い行った時にしたかって、「あんたそないひがんでんと一ぺん姉ちゃんに会うて御覧、そしたら姉ちゃんどんな人やか、あんたの秘密知ってるかどうか、大概話しぶりでも分るやろ」いうて連れ出しなさって、そないしといたら、内証でけったいなこといわれたりする危険ないやろ思いなさったのんですけど、あんな工合《ぐあい》に妙にこじれて口も利かなんだのんですと。「そしたらあない空々しいしてて、蔭でそうッと手エ握ろいうことあの時から考えてたのんか知らんで」「そらどや知らんけど、あてがあの人放《ほ》ったらかして姉ちゃんと逃げるのんやないかいうで、常時《じょうじ》心配しててんし。」「きっとあてを道具に使て結婚さいしてしもたら、もうあんたみたいなもん用ないいうて放り出すつもりやってんなあ。」「結婚々々いうてるけど、それかて自分で自分欺くためやのんで、ほんまに結婚出来るとは思てエへんねん。あんまり無理なこというたら、あて生きてエへんこと分ってるし、姉ちゃんちゅうもんある方が外の男に取られる気づかいない思て、今のまま出来るだけ続けていてたいねんし。」……そいで光子さんは、今日も綿貫が待ってるねんけど、今日ばっかりはどないしても会うのんイヤやいいなさって、何ぞ工合よう行《い》なしてほしいいいなさるのんですが、今急にそんなこというても怪しまれるばっかりやし、後がかいって悪いさかい、そないいわんと今日のとこは何もこんな話せなんだことにしときなさい、そのうちにあてがきっときっと手エ切れるようにしたげる、あて死んでも光ちゃんの命助けんと置かん、まさかの時はあの男殺してやるいうて、私も一緒に泣きながら力づけたげて別れましてん。
それが、……そう、そう、その誓約書の日附け見たら分るのんですが、……そうです、そうです、これが七月十八日ですよって、光子さんとそんな話しましたのんが多分明くる日の十九日のことで、ちょうどその時分夫の方は忙しかった事件やっと片附いたのんで、何処ぞい避暑に行こやないか、ことしは軽井沢いでも行ってみよかいいましてんけど、私はなかなかそれどこやあれしませんさかい、光子さん毎日々々淋しがってて、こんな体で自分何処いも出られへんのんに、あんたほんまに羨《うらや》ましいなあいうてなさるし、行くのんならもうちょっと涼しいになってから箱根いでも連れて行って欲しいいうて、夫が何や物足らん顔してるのんにも頓着《とんちゃく》せんと、そいから半月ほどいうもんはいッつもいッつも夫の出かけるのん待ちかねて笠屋町い飛んで行きましてん。何しろ私にしましたら、あれからこっち光子さんが別人みたいにしおらしいに見えて、今までは美しい悪魔みたいに思われてたのんが、今度は急に鷲《わし》に狙《ねら》われてる鳩《はと》みたいに思われて来て尚更《なおさら》いとしさ増したとこい、会うたんびに心配そうな様子してなさって前のような花やかな笑顔《えがお》見せなさること一日もないのんで、まさかとは思てても短気なことでもしなさったらえらいこッちゃ思たら、気が気やあれしません。そいで私、「光ちゃん、あんた栄ちゃんの前ではせめてもうちょっと浮き浮きしてなさいや、そやなかったらまた感づかれてどんなこといい出すか分れへん」いうて、「きっと、きっと、世間に顔向けならんように叩《たた》きつけてやるさかい、死ぬほどつらいことあってもちょっとの間辛抱してなさい」いいましてんけど、さてどないしたら綿貫叩きつけること出来るか、人欺したり陥《おとしい》れたりする計略は向《むこ》の方が上手ですさかい、なかなかええ考出て来《け》えしませなんだ。私はそないいうてるうちにも、また綿貫がろうじの外で待ったりしてたらどないいい抜けしたらええのんやら、あんな誓約書の条件守らんかてちょっとも疚《やま》しいことあれしませんけど、そいでも約束破ってるのんがやっぱり何や済まんような気イしてて、いつもろうじ出て来るとき、またあのぞっとするような声が後ろから「お姉さん」いエへんかとビクビクしてたのんですが、ええあんばいにあんなりになってますのんで、あんな男のこッちゃさかい、誓約書さい交してしもたら兄弟も糞《くそ》もあったもんやない思てるねんやろ、結局その方がこっちも助かる思てましてん。そうこうしてるうちに光子さんは毎日々々「姉ちゃんどないぞしてくれへんか、もう一日も辛抱出来へん」いいなさいますし、自分は最後の手段として、わざと綿貫誘い出して駈《か》け落《おち》しようか思てる、その時は何処い逃げるいうこと前に私に教《お》せとくさかい、新聞に出されたりしてえらいことになった時分に、もうええ頃や思たら掴《つか》まえに来てほし、そないしたらなんぼ綿貫かて二度と寄り附くこと出来んやさかい、自分の名誉も傷《きずつ》けること覚悟の上でやってみせる、「こっちで相談してることうすうす嗅《か》ぎつけたらしいよって、やるのんなら早い方がええ」いいなさるのんで、嗅ぎつけたらあの誓約書楯《たて》に取ってあてに何とかいうて来るやろ、まあ、まあ、そんな非常手段最後まで取っときなさい」いうて、――ほんまにあの時分、よっぽど思案に余ってしもて、先生のとこい智慧《ちえ》貸してもらいに上ろか思たぐらいですねんけど、そんな厚かましいことようせえしませんし、お梅どんに聞いてみてもええ考ないいいますし、いっそのこと夫の力借ろかしらん、うそついてたこと或る程度までは白状して、ただ綿貫の迫害免れるような法律的の手段ないもんか知らん、話しように依《よ》ったら夫かて光子さんに同情寄せんこともないやろと、困った揚句《あげく》そんなことまで考えましてん。ところがその夫が、或る日突然、ちょうど私が行ってる時に電話も何もかけんといて笠屋町の宿屋い訪《た》ンねて来たやありませんか。それが事務所の帰りしな、四時半ごろのことで、二階で光子さんと話してましたら、「奥さん奥さん」いうて慌《あわ》てて仲居《なかい》さんが駈《か》け上って来て、「今奥さんの旦那さんがお見えになって、お二人さんに会いたいいうたはります。どないしまひょ」いいますのんで、「何でやって来たんやろ」とぎょッとしながら顔見合わしましてんけど、「とにかくあて会うて来るわ、光ちゃんそこにすッ込んでや」いうて、玄関い降りて行きましてん。
「やあ、えろう分りにくいとこやなあ」と、夫は格子《こうし》のとこに立ってて、実は今さっき、伊勢の四日市《よっかいち》い帰る人あって湊町《みなとまち》の駅まで送って行って、戻りしなに心斎橋筋散歩してたら、光子さんのいなさるとこ確かこの辺やったなあ、きっとお前も来てるやろ思たのんで、急に訪《た》ンねる気イになった。別に用事あるのんと違うけど、いつもお前がお邪魔に上って厄介《やっかい》になるのんに、近所まで来て顔出しせんのも悪いような気イするし、それに光子さんどないしてなさるか、お見舞いかたがた是非お目にかかって御礼いいたい、差支いなかったら何処ぞで晩の御飯御馳走《ごちそう》したい思うねんけど、ちょっとも外い出なさること出来《でけ》へんのんやろかと、何気ない風していうのんですが、どうもそれだけやないみたいな気イして、「この頃は大分目立つようになってなさるよって誰にも会わんようにしてなさるし、なかなか外い出るどこやあれへん」いいましてんけど、「そやったらまあ、会うだけでも会うて行きたい」いいますのんで、それでもいかんいう訳に行けしませんさかい、「どないいいなさるか聞いて来るわ」いうて、「光ちゃん、こないこないいうねんけどどないしょう。」「どないしょう、ほんまに。姉ちゃんどないいうたん?」「大分目立つようになってるよって誰にも会いなされへん云うてんけど、是非ちょっとでもいうてるねん。」「何ぞ訳でもあるねんやろか。」「さあ、あてもそない思うねんし。」「あていっそ会うわ、そんなんやったら。……今お春どんと相談したら、帯上げお腹《なか》の上へ締めてその上から着物着なさったらええやろいうよって、そないするわ。ほんまに懐《ふところ》い綿詰めるようになってしもたなあ」いいなさって、そのお春どんいう仲居さんに帯上げ借って、「お客さん階下《した》の部屋い通して待っててもろて」いうて、その間に私が手ッ伝《と》うて身ごしらいしてましたら、またお春どん上って来て、「そない申しましたけど、一分か二分でええさかい玄関でお目に。懸《かか》るいやはって、上りゃはれしません」いいますのんで、そやったら早《はよ》せんならんいうて大慌てに慌てて二人がかりで着せましたもんの、冬やったらどないなと胡麻化《ごまか》せるのんですが、肌襦袢《はだじゅばん》の上に明石《あかし》の単衣《ひとえ》もん着てなさるだけやのんで、どないしても妊娠のように見えしません。「姉ちゃんあてのこと何カ月やいうといたん?」「何カ月いうたか忘れてしもたけど、人眼につくいうたぐらいやし、六カ月か七カ月になってんと工合悪いなあ。」「これぐらいやったら六カ月に見えるやろか。」「もっと全体が円うに膨《ふく》れてなんだらいかんし。」そんなこというて三人ともクスクス笑い出しながら、「なんぞもうちょっと持って来まひょ」と、またお春どんがタオルやら何やら持って来ましたのんで、「あんたも一ぺん下い行って、とうちゃん誰ぞに見られたらいかんいいなさって、めったに玄関いも出て来なされしませんさかい、とにかくお上り下さいいうて、なるべく暗いあんまり見えんような部屋い入れといて頂戴《ちょうだい》」いうて、かれこれ三十分も待たしといてから、やっとどうにか六カ月のお腹拵《こしら》えて行きましてん。「そんなりでかめへんいうたんやけど、浴衣《ゆかた》がけでは失礼やいいなさって、着物着かえてなさったのんで、……」と、そないいいながら夫の様子窺《うかご》うてますと、折《お》れ鞄《かばん》傍に置いて、キチンと洋服の膝《ひざ》がしら揃《そろ》えてすわって、「かいって御迷惑か思いましたけど、あんなり御無沙汰《ごぶさた》してますし、一ぺんお見舞いに上らんならん思てたとこいちょうどこの前通りかかりましたさかい」いうて、気のせえか光子さんのお腹の辺ジロジロ見てるみたいですねん。光子さんは「いいえ、うちこそいッつも姉ちゃんに我《わ》が儘《まま》ばっかりいいまして」――と、自分のために避暑に行くのん止めてしまいなさったのん気の毒やとか、姉ちゃんのお蔭で淋しい思い慰めてもろて、大層有難い思てるとか、あんまり口数利《き》きなさらんと殊勝《しゅしょう》らしい聞えるようにあんじょういいなさって、団扇《うちわ》で帯の上のとこ隠すようにしてなさるのんですが、お春どんが気イ利かしてくれたと見えて、昼間でも電気点《とも》さんならんような薄暗い部屋の一番隅《すみ》の方にすわってなさって、なんせ風通しの悪い上にお腹にいろいろなもん詰めてなさるよって、ずくずくに汗かいてはあはあ息してなさる恰好《かっこ》いうたら、いかにも本物らしいて、「巧いこと芝居してなさるなあ」思いましてん。
夫は直きに座ア立って、「えらいお邪魔しました、どうぞまたお出かけになれるようになったら遊びに来て下さい」いうて、「もうおそいさかいお前も一緒に帰ったらええ」いいますのんで、「何ぞ訳あるに違いないよって今日はこれで帰る。明日きっと待ってて頂戴」と光子さんにそうッというといて、しぶしぶ連れられて出て来ましたら、「バスに乗って行こ」いうて四《よ》つ橋《ばし》の停留場い出て、そいから阪神で家い帰るまで、夫は不機嫌に黙ってしもて、何いうても生《なま》返事しかせえしません。家い這入《はい》ると洋服も脱がんと、「ちょっと二階いおいで」いうてどんどん上って行きますのんで、こっちもあらかた覚悟きめて附いて行きますと、寝室のドーアぱたんと締めて、「まあそこいおかけ」と差向いに椅子《いす》にかけさして、暫《しばら》くは物もいわんと、ほっと息ついて考え込んでるのんです。「あんた、今日、何で突然あんなとこい来たん?」と、重苦しい空気破るために私の方からそないいうてやりましたら、「うむ、……」いうてまた考えてて、「お前に見てもらいたいもんあるねん」いいながらポケットから事務所用の封筒に這入《はい》ったもん出して、テーブルの上にひろげたのん見ましたら、そんなり私は真っ青になってしまいましてん。どないして手エに這入ったのんか、「ここに署名してあるのん確かにお前に違いないか」いうて夫はあの誓約書眼エの前い突きつけるのんです。「断《ことわ》っとくが、僕はお前の心持次第では決して事を荒立たそう思てエへん。これが僕の手エに這入った径路についても聞きたいのんやったら聞かしてやる。けど第一に、事実お前が署名したもんか、それともこれはニセ物やのんか、その点ハッキリさしときたい。」……ああ、綿貫に先越された! 私の持ってる書付の方は箪笥《たんす》に鍵《かぎ》かけて隠したありましたから、これは綿貫のんに違いないのんで、こんなことするためにこの誓約書書かしたのんか! ほんまに私は、こないだから夫に口利いてもらお思てて、光子さんのことも打ち明けた方が得なことは話してしまお思てたのんに、さっき不意討ちに笠屋町い訪《た》ンねて来られて、あないなったら妊娠してなさるのんうそやいうこと今更いい出しかねて、うその上塗りしてしもてんけど、こんなことになるのんやったらあの時白状しといたらよかった! 「おい、黙ってたら分らん、返辞したらえやないか」と、夫は出来るだけ腹の虫おさえて、やさしい、静かな声出して、「黙ってるとこみたら、これお前書いたと認めてもええねんなあ?」いうて、そいからだんだん話し出すのん聞いてますと、五、六日前に今橋の事務所の方い突然綿貫が訪《た》ンねて来て面会求めた。そいでどんな用事か思て応接間い通して会うてみたら、「今日お訪ンねしたのんは、実は折入ってお願いしたいことあるのんです」いうて、「多分あんたも御承知でしょうが、僕と徳光光子とは結婚の約束したあるばかりでなく、既に光子は僕の種までも宿してますのんに、こっちの奥さんが中に這入っていろいろ邪魔しなさるのんで、光子の仕打ちこの頃日増しに冷淡になって、今の工合《ぐあい》ではいつ結婚してくれるのんか分らんような状態にある。就《つ》いてはあんたから奥様に意見して下さいませんか」いうよって、「僕の家内が何で邪魔するのんですか。委《くわ》しいことは知りませんけど、家内はあんたがたの恋愛に同情してて、一日も早う結婚しなさるのん祈ってるように聞いてましたが」いうたところが、「あんたは奥様と光子との関係がどんなことになってるか、ほんまの事情御存知ないのんです」いうて、今でも前のようやいうことそれとなしに仄《ほの》めかした。けど初対面の男の話をそのまま信用する気イもなかったし、現にその男の種宿してるもんが別に同性の人とそんな風になってるというのんもけったいなし、何やこの男気イ触れてるのんと違うか知らん思てたら、「お疑がいになるのんも尤《もっと》もですが、ここに確かな証拠あります」いうてこの書付出して見せた。夫はそれ読んだとき、自分の妻が未《いま》だに自分欺《あざむ》いてたことにも不愉快感じましたけど、それよりもなお不愉快やったのんは、妻と見ず知らずの男とが自分の知らん間に兄弟の約束してるいうことやった。第一人《ひと》の女房とこんなもん取り交《かわ》しといて、その女房の亭主の前いれいれいしいに見せつけながら、それに対する一言のいい訳もせんと、まるで刑事が犯罪の証拠掴《つか》んだみたいに得意そうにニヤニヤしてるこの男の気イ知れん思たら、一層むかむかして来たとこい、「あんたは此処に署名したあるのん、あんたの奥様の手エやいうことお認めになりますやろなあ」いいますのんで、「なるほど、見たとこではたしかに家内の手エのようですが、それより先に伺いたいのんは、ここに署名してる男は何処の人です」いうてやったら、「それは僕です、僕が綿貫自身です」いうて、まだその皮肉悟《さと》らんみたいに平気な顔してる。「この署名の下に捺《お》してあるもん何ですか」いうたら、それはこないこないの訳でと臆面ものうその時のこと細こうに話し出すのんで、みんなまで聞かんうちに腹立って来て、「これ読んで見ると、あんたと、光子さんと、園子との関係は委しいに規定してあるが、園子の夫である私については何の考慮も払われておらん。私ちゅうもんは全然眼中に置かれてん。あんたも此処《ここ》に署名しておられる以上当然責任分たれるもんと考えるのんで、一往あんたの立場からその弁明求めたい。まして今のお話のようやと、この誓約書は園子の意志から出たんやのうて、半ば強制的に結ばれたように思われるが」いうてやった、そしたら恐縮するかと思いのほか相変らずニヤニヤ笑てて、「その書付にもある通り僕と園子さんとは徳光光子に依《よ》って結ばれてるのんで、その関係は園子さんの夫であられるあんたの利害とは始めから衝突してます。もし園子さんがあんた眼中に置かれたら、光子とあないな間柄になることもなかったやろし、こんなもん交すまでもないし、それこそ僕の何より望むとこですけど、妻たる人が自ら進んでしなさるもんを他人の僕がどないすることも出来しません。僕にいわしたらこの書付のような関係認めることが、既に園子さんに対して非常な譲歩してるのんです」いうて、あべこべに夫の監督の不行き届き恨《うら》むような口ぶりで、兄弟の約束したいうのんは密通したのんと訳が違う、そやから自分は不道徳なことしたとは思てエへんいうのんです。
そんで夫は、そんな書付手エに触れるのんも汚らわしい思いましてんけど、何せ相手が非常識な人間のことやさかい、この男にこんなもん持たしといたら何するか分らん、これはどないぞして取ってしもた方がええ思て、「お話はよう分りました、あんたの仰っしゃる通りやとしたら、頼まれいでも夫たるもんの責任として放っとけません。けど僕としても、あんたとは今日始めてお目にかかったばっかりやし、一往家内のいうことも聞いてみんことには片手落ちになる。就《つ》いてはこの書付暫《しばら》く貸しといてもらえませんか。これ眼の前い突き付けてやったらきっと白状しますやろけれど、そうでもなかったら、なかなか強情な奴ですさかい」いいましたら、貸すとも貸さんともいわんといて、急に大事そうにそれ膝《ひざ》の上に置いて、「しかしあんたは、もし園子さんが白状しなさったらどういう処置お取りになるのんです」いいますのんで、「どういう処置取ろと、その時の都合次第やさかい、今から明言する訳に行かん。僕はあんたに頼まれたから家内を詰問《きつもん》するのんやない。僕はあんたの利害のために動くのんやのうて、僕自身の面目、自分の家庭の幸福のために動くのんやいうことを承知して下さい」いうたところが、何や嫌《いや》アな顔して、「僕かて何も、自分のために働いて欲しいいうのんやあれしませんが、今度の事は、あんたの利害と僕の利害とが偶然一致してる思たのんで、伺うたのんです。あんたかてそれは認めなさるやろ」いいますよって、「そんなこと僕は考える余裕もなし、また考えとうもありません。失礼ながら、僕はあんたと、ぐるになってそんな事件の中い捲《ま》き込まれとうないのんです。僕は自分の自由意志で自分の妻を処分するだけです」いうてやった。すると「ああ、そうですか、そんなら仕方ありませんが」いうて、「ほんまいうたら、僕かてあんたには縁もゆかりもないのんですから、こんなこと頼みに来られる義理やないのんですけど、そいでも僕、もし園子さんが光子と一緒に逃げるようなことあったら、困るのんは自分ばかりやない、それ知ってながら黙ってたらあんたに対しても不親切や思て来たのんですが」いいながら、ジロジロ人の顔のぞき込んで、「そないなったら、あんたかて嫌《いや》でも応《おう》でも事件の中い捲き込まれてしまいますで」いいますのんで、「いや、御好意は分りました。御親切に対しては感謝します」いうてやりますと、「ただ感謝するいわれただけでは困るのんです。一体あんたは、まさか園子さんに逃げられるようなヘマな事しなさらんやろ思いますが、そいでも万一逃げられた場合にはどないなさいますか、逃げたもんには未練ないいうてアキラメておしまいになりますか、それとも何処まででも追いかけて行って取り戻そいうおつもりですか、そこのとこをハッキリきめといて下さい」いいますよって、「僕は自分の行動について、その時になって見んと分らんこと今から他人に約束したり、それに掣肘《せいちゅう》しられたりするのんイヤやのんです。まして夫婦のあいだのことはあくまで夫婦のあいだだけで解決つけます」いいましたら、「しかしあんたは、どんな事あってもよもや園子さんを離縁なさるようなことありますまいな」いうのんですて。そのいい方が変に厚かましいて、ひつこうにねちねち絡《から》み着いて来ますのんで、自分の妻離縁しようとしまいと、余計なお世話やないか、何もあんたがそんな心配する必要ありますまいいうてやりましたら、「いや、そいでもあんたは園子さんの実家に恩義あるはずや」とか、「ちょっとやそっとの不都合があったからいうて、園子さん追い出したら義理が済まんやろ」とか、多分光子さんから聞いたのんですやろが、そんな内輪の事情までちゃんと知ってて、「あんたも立派な紳士やよって、まさかそんな不徳義なことしなされへんやろ思います」いうたりするのんで、夫もしまいには腹に据えかねて、「あんたは一体何しに来たのんや。何のためにそんな関係もないこといつまでもべちゃべちゃしゃべってるのんや、あんたに注意してもらわんかて僕は僕で紳士の道守りますけど、それがあんたの利害と一致するかどうかは保証する訳に行けしませんから、どうぞそのつもりでいて下さい」いうたら、「ふん、そうですか、そんなら折角ですがこの書付お貸しすること出来ません」いうて、膝の上い置いてあったのん丁寧に封筒い入れて、内ぼところい収《しま》うのんやそうです。夫はそれが欲しかったことは欲しかったけど、そんな行きがかりになってしもたらもうしょうがない、かいって弱味見せたらあかん思て、「ええ、ええ、僕も強《し》いて拝借しようとは思いませんから、御自由にお持ち帰り下さい。但し一言《いちごん》お断りしておきますが、あんたがそれを、僕の手エ経て僕の家内に示すことを拒まれる以上は、家内が事実を否定した場合に、僕としてもその書付に信を置くこと出来んかも知れない。僕は当然、初対面のあんたより家内の方を信じますから」いうてやった。そしたら独りごとのように「とかく夫が細君に甘いのが間違いの起る原《もと》やのんですな」いうて、「なあに、この書付と同じもんが園子さんのとこいも行ってますよって、何処ぞ捜しなさったらきっと出て来ますで。尤もそんなことしなさらんかて、腕を出さして見なさったら証拠が残ってるはずです。」――と、そないな憎まれ口いうて、「お忙しいとこえらいお邪魔しました」と、わざと落ち着いて挨拶《あいさつ》して出て行きますのんで、それを廊下まで送って行って、呆《あき》れた奴や思いながら部屋に戻ってほっとしてますと、ものの五分ぐらいした時分、またコツコツとドーアをノックして、「やあ、只今《ただいま》は失礼しましたが、ちょっと、あのうもう一遍お邪魔さしてもらいます」いうて、何と思たのんか、今度は妙にニコニコとあいそ笑いしながら、そのほん五分ぐらいのあいだにまるで人間変ったみたいな表情して這入《はい》って来ましてん。それが夫にはまた気味わるうて、ぎょっとしながら黙って見てましたら、テーブルの前い来て、お辞儀して、「おかけなさい」ともいわんうちに今腰かけてた椅子にかけて、「さっきは僕が悪かったです。僕は今、命にかけてもと思う人を取るか取られるか、大事な瀬戸際にあるもんですから、自分のことにばっかり眼エくらんで、あんたの感情尊重する余裕失うてました。何も悪意あってあんなこというたんやありませんから、さっきのことは水に流して下さい」いいますよって、「それをわざわざいいに来なさったんですか」いいますと、「はあ、そうです、外い出てから考えてみたら、自分が悪かったいうこと分りましたのんで、何や知らん気イ済まんもんですから詫《あや》まりに来ました」いうて、「それは御丁寧なことです」いうてやっても、「はあ、……」いうたなり、まだモジモジと腰かけて、けったいな作り笑いして、「実はあのう、こうしてこんなことをお願いに来たりお詫《わ》びに上ったりしますのんも、よくよく苦しい立場に置かれて思案に余った結果やのんですが、どうぞ僕のこの、切《せつ》ない、遣《や》る瀬ない、泣くに泣けん胸の中を推量して下さい。それさい察してもらえたらさっきの書付お貸ししてもよろしいのんです」いいますのんで、「察してくれいうて、どんな工合に察したらええのんですか」いいましたら、「正直なとこ、僕は何より、あんたが園子さんを離縁しなさるようになるのんを恐れるのんです。そないなったら園子さんヤケ起してますます邪魔するさかい、光子と僕が結婚する望みなおのことないようになってしまう。僕かてあんたがめったにそんなことしなされへん思いますけど、どない考えても心配やのんは、園子さんが光子連れ出して逃げる場合です、何遍も何遍もくどいようですが、よっぽど監督厳重にして下さらんと、きっと近いうちに逃げるにきまってますのんで、一遍そんなことあったら、たといあんたが心のうちでは園子さん赦《ゆる》してやろ思いなさっても、世間の手前そうも出来んようになるかも分らん。それ考えたら僕は危険がもう眼の前い迫ってる気イして、夜もおちおち寝られへんのんです。」――そないいうて、「どうぞ、どうぞ、お願いします」と、額をテーブルい擦《こす》りつけるようにして、「そういう訳ですから、自分の都合のええことばっかりいう勝手な奴やとお思いになりますやろけど、僕の窮境察して下さって、これから後、どんな事あっても園子さん逃がさんように責任持って監督する、そいでもまさか括《くく》り着けとく訳にも行けしませんさかい、逃げられることないとは限りませんけど、そないなっても追いかけて行ってきっと家い引き戻すいうこと約束して下さい。それさい『うん』いうて下さったらこの書付お預けします」いうて、「今更こんなこと念押さんかて、あんたは園子さん非常に愛してなさる、決して離縁しなさらんことはよう分ってるのんですが、それを一と言あんた御自身の口から聞かして欲しいのんです。あんたかて僕を哀れんで下さったら、お腹《なか》の中でちゃんときまってるこというて下さってもええやありませんか。」――夫はそれ聞いてるうちに、つくづくこの男イヤ味な奴《や》ッちゃ、初めからもっと素直に、人の感情害さんようにいえるもんを、わざとほじくり返すような余計なこというて、顔色見い見い態度いろいろに変えたりして、何ちゅうけったいな男やろう、これなら女に好かれるはずないよって、光子さんかて厭《いや》になんなさったかも知れん、よっぽど損な性質に生れついた人間や。そない思たら今度はほんまに可哀そうになって来て、「そしたらあんたも、この書付将来明るみい出すようなことせんいうて誓うてくれますか、そして僕が必要と認めるあいだ保管さしといてくれますか、それ承知なら、僕もあんたの条件容れてもよろしいです」いうたら、「この書付は、そこにも書いてある通り双方合意の上でないと人に見せられんようになってるのんですが、既に園子さんの方に背信行為あったと認めますのんで、僕があんた方困らしてやろいう気イあったら、これ種にしてどんな事でも出来んことあれしません。けど僕そんな卑怯《ひきょう》な真似《まね》する人間でないことは、これわざわざあんたのとこい持って来てお預けするのでも分るやありませんか。なあに、相手に誠意なかったら何ぼこんなもん書かしても反古《ほうぐ》と同じですよって、お役に立つのんならどうぞ持って行って使《つこ》て下さい。僕の方はただ、さっきの二カ条さい約束して下されば満足やのんです」いいますさかい、そんならそれと、何で初めからいわんのんやろ思いながら、「そいでは確かにお預りします」いうて受け取ろとしますと、「ちょっと待って下さい」いうて、「甚《はなは》だ恐縮ですが、後日のために一と筆預かり証文書いてもらえませんやろか」いうのんやそうです。それも承知しましたいうて、「右正《まさ》ニ御預リ致候也」と書いてやりましたら、「その後いもう一と筆書き足して下さい」いうのんで、「何を書くのんです」いうたら、「下名ハ右証書ヲ保管中左ノ条件ヲ遵守《じゅんしゅ》スルコトヲ誓ウ、一、下名ハ下名ノ妻ガ妻タル者ノ行為ニ悖《もと》ルコトナキヨウ責任ヲ持ッテ監督ス、二、下名ハ如何ナル場合ニオイテモ決シテ妻ヲ離縁セズ、三、下名ハ所有主ヨリ請求サレタル時ハ何時ニテモ保管中ノ証書ヲ提示シ、モシクハ返却スベキ義務アルモノトス、四、下名ガ保管中ノ証書ヲ紛失シタルトキハ、何ラカ他ニ所有主ヲ満足セシムル保証ヲ与エザル限リ、第一条及ビ第二条ニ規定シタル義務ヨリ解除セラルルコトナシ、――」それを一遍にすらすらいうのんと違《ちご》て、一つ書いてしまうとまた考えて、「あ、もう一と筆願います」いうて、だんだんそんな工合《ぐあい》に書き足さすのんで、何や、馬鹿々々しい、三百代言《だいげん》みたいなこという奴や思て、面白半分に好きなようなこといわして、その通り書いてやって、「ではこの後い但《ただ》し書《が》きを一つ入れますで。――但シ、下名ノ保管スル証書ガ虚構ノ事実ニ基《もとづ》ケルモノナル時ハ凡《す》ベテノ約束ヲ無効トス、――なあ、こない書いといても差支いあれしませんやろ?」いうて、はっとしたらしゅうどぎまぎしてる様子でしてんけど、さっさと構わんと書いてしもて渡してやったら、急にまた未練出たようにぐずぐずしながら、そいでも仕方なしに書付置いて行きましてんと。夫はそこまで一と息に話して来て、「どうや、この書付お前書いたのんに違いないのんか。お前の方にもこれと同じもん行ってるのんなら出して見なさい」いいながら、じっと返答待ってますのんで、私は黙って立ち上って、鍵のかかってる抽出《ひきだ》し開《あ》けて、そこに隠してあったもう一通の方持って来て、無言のままテーブルの上い置きましてん。
「ふーん、これある以上はこの書付ニセ物やないのんやなあ?」そないいわれても、やっぱり黙って頷《うなず》いて見せますと、夫は私がどんな気持でいるのんか見当つかんもんですさかい、疑がい深そうに眼エぱちぱちさして、「そしたらこの証書に書いたあることみんなほんまの事実やのんか」いうのんです。「そら、ほんまのこともあるねんけど、うそのこともあるねん。」――私はさっき夫の話聞きながら、もうこないなったら隠し立てしたかてしょうがない、いっそ綿貫の計略の裏掻《か》いて、自分に都合ええことも悪いことも、何でも彼でも残らず打《ぶ》ッちゃけて、あとは成り行きに任してやろ、ひょッとしたら案じるより生むが易《やす》うて、どんなうまいことあるかも分れへんと、すっくり腹きめてましたのんで、先ず第一に綿貫の秘密すっぱ抜いてやって、そやさかい光子さん妊娠してはるいうのんうそやいうこと、さっき夫が会うた時はお腹にいろいろなもん詰めてなさったのんやいうこと、あの笠屋町の家にしたかて、常時彼処《あそこ》にいなさるのんでも何でもないこと、この証文書かされた時は綿貫にあんじょう嵌《は》められて、脅迫しられたのんやいうこと、自分が欺《だま》されてたことから夫欺してたことまで、なんでも二時間ぐらいかかって一切合財《いっさいがっさい》話してやりましたら、「ふん、ふん」いうて、ときどき溜《た》め息《いき》つきながらしまいまで聞いてしもて、「そしたらお前の今いうたことちょっともうそないねんなあ? 綿貫いう男にそんな秘密あること確かやねんなあ?」いうて、「ほんまいうたら、自分の方にもちゃんと調べ届いてる」いうのんです。それが、夫が綿貫に会うたのんは四、五日前のことですのんに、そいから今日まで知らん顔して事件伏せといたいうのんは、何や綿貫いう奴の素振り怪しい、何ぞもっと深い訳あるのんやないかいう気イしたのんで、私に打《ぶ》つかる前に一往《いちおう》取り調べてやろ思て秘密探偵に頼んだとこが、そんな商売大阪にかって仰山《ぎょうさん》あれしませんさかい、こないだ光子さんが頼みなさったのんと同じとこい行ってしもたのんで、「その人なら大概のこと分ってます、前に調べたことあります」いうで、その場アで直きに答えてくれた。そいで綿貫が訪《た》ンねて来た日の夕方には、もう一と通り種上ってしもてたのんですが、夫はあんまり意外やのんで同名異人の間違いやないか知らん思いましてんけど、探偵の方には光子さんとのいきさつまで分ってて疑がう余地あれしませんし、……そないなって来ると、今度は光子さん妊娠してなさるいうことや、笠屋町の家のことや、私と光子さんとの関係や、なんとも腑《ふ》に落ちんことだらけですよって、また改めて光子さんの方調べさした。その報告の届いたのん今朝《けさ》のことで、そいでも夫はまだ半信半疑でしたさかい、自分で様子見て来てやろ思てさっき不意に笠屋町訪《た》ンねてやったいうのんです。「そしたらあの時、お腹に物詰めてはったこと分ってたん?」私はわざと打ち解けた調子でそないいうてやりましたけど、夫はそれには答えんと、「僕はお前の今日の態度いつもより柔順で正直なこと認める。けどその正直さは過去の罪悪後悔してるためやのんかどうか、それハッキリいうて見なさい」いいますねん。「お前かて自分の過去の行いが、どんなに道に外《はず》れてたかいわんかて分ってるやろ。僕もそんな不愉快なことほぜくり返す気イないねんよって、こいから後、本気で罪の償《つぐな》いする決心あるかないか、それ聞かしてくれたらええ。どうせ綿貫との約束やかい真面目《まじめ》に守る必要もないねんけど、とにかく僕はお前離縁せんいうことあの男の前で誓うた。それに考えてみたら僕自身にも手落ちあった。夫としての監督怠《おこた》ってたいう綿貫のいいぐさにも一往理窟《りくつ》ないことないし、光子さんの家の方から苦情申し込まれたら、お前より先に僕手エついて詫《あや》まらんならん思てるぐらいやし、こんな事になったのんは夫婦共同の責任みたいに感じてる。第一新聞にでも出ることあったら、何としてお前の親たちに言訳《いいわけ》しょう。それも普通の意味での恋愛やとか三角関係やとかいうのんやったら、まだ話しよも同情のしよもあるけど、この証文に書いたあるようなこと、誰が読んだかて気違いとより思エへんで。ま、そない思うのん身贔屓《みびいき》かも分れへんが、お前のいうのん聞いてみたらもともと綿貫いう奴から起ったことで、ほんまに悪いのん彼《あ》の男一人や。お前かて光子さんかてあんな男に係り合わなんだら、まさかこんなことにもならなんだやろし、徳光さんの家かて、それ分ったらどない思やはるやろ。僕今まで光子さん悪いのんや、あの児《こ》不良少女やよってお前にロクでもない感化及ぼすのんや思ててんけど、親の身イになったら綿貫いう男八つ裂きにしても飽き足らん思やはるやろ。何処い出しても恥かしない器量自慢の娘持ってて、あんな奴に見込まれるやなんて、僕とこよりも一つ不仕合わせや。……」夫は私の激しやすい性質に逆ろうたらいかん思てますのんで、理性に訴えるより感情的に動かすよう努めてて、それが一種の手エやいうこと見え透いてますねんけど、親のことやかい持ち出されて、殊《こと》に光子さんのこと、そないに不憫《ふびん》らしゅういわれましたら、自分の胸に思てることと一緒やのんで、急に悲しいになって来て、眼エに一杯涙溜め溜め聞いてますと、「なあそやないか?」と夫は涙で光ってる頬《ほ》べた視詰《みつ》めながら、「泣いてばっかりいてても分れへんさかい、よう分別して、今度こそ最後の、うそのないお前の考いうてみなさい、僕はお前がどうしても家出するいうのんなら、そら仕方ない思てる。けど、ほんまの僕の気持いうたら、憎いのんあの男だけで、お前も光子さんも可哀そうな目エに遇《お》うたんや思てるねん。かりにお前と離別せんならんことになっても、お前が今みたいな真似《まね》つづけてたら、いつまで立ってもその『可哀そうな』いう心持残ってて、僕も長いこと苦しまんならんし、お前にしたかてまさか光子さんと結婚する訳にも行けへんやないか。僕の監督離れたかて、いつまで世間が許しとくはずないさかい、仰山の人に心配かけた上自分も恥掻《か》いて圧制的に止めさされるか、そないならんうち自分で悟って直すようにするか、孰方《どっち》なとお前の心がけ次第やで。」「そんでもうち、……こないになったのん因果やさかい、……死んであんたに詫《あや》まります!」夫はビクリとして飛び上るような恰好《かっこ》しましてんけど、その時私はわッと泣きながらテーブルに俯伏《うつぶ》してしまいましてん。……「どうせうち、こないになったら誰にかて見放されるのん当り前やし、生きてたかて世間に顔向け出来へんさかい、……どうぞ死なして頂戴、こんな腐った人間にあんたかて未練ないやろし、……」「……誰がお前見放すいうた? 見放したもんなら意見するはずないやないか?」「そないにいうてくれはるのん有難い思いますけど、今更うち一人ええ児になって光子さんあんなりに放ってしもたら、どんなに難儀しやはるこっちゃら、……あんたかて一番光子さん可哀そうやいやはったやないか。」「そらいうた、いうたからこそお前ら救い出そうとしてるのんや。……まあ、お聞き、お前えらい考え違いしてるで。お前みたいな意味でどんなに愛情捧《ささ》げたかってちょっとも難儀救《すく》てやることになれへんで。僕はお前のことばっかり心配してるのやあれへんで。徳光さんとこいも行て、よう訳話して一切あの男近づけんように厳重に監督して、お前との交際も遠慮してもらうように注意するのんが、僕の義務やと思てるねん。そないにしてこそ光子さんのためやないか。」「あんたみたいなことしなはったら、うちより先に光子さん死にやはるし。……」「なんでや? なんで死ぬのんや?」「なんででも死にやはるし。……今までかって死ぬ死ぬいうてはったんようようのことで止めててんもん。……そやさかいうちも一緒に死ぬわ。死んで社会に詫《あや》まるわ。」「馬鹿なこといいな! そんなことして僕や親たちに迷惑かけて、それが何で謝罪になるねん!」
私は夫が何ちゅうても耳に入れんと、「いいえ、死にます、死なして頂戴《ちょうだい》」いうてテーブルに俯伏《うつぶ》したなり、やんちゃな児《こ》オみたいに泣いてましてん。もうこの場合「死ぬ」いうてやるのん一番ええ。それより外に方法ない。……私の頭の中にあるのんは、どないしたらこいから先も今までのように会うて行くこと出来るやろかと、そればっかりですのんで、正直にいうたら、夫に離縁しられるのん一番恐《こわ》い。どうせ此処《ここ》まで知れてしもた以上、自分と光子さんとの間柄《あいだがら》納得さして、それ承認してくれたら、自分は夫大事にする、きっと夫婦仲も円満に行く、綿貫の奴どんな妨害したところで、証拠の書付こっちに取ってしもたあるし、あんな男のいうことやったら信用するもんないやろし、たとい光子さん何処《どこ》ぞい行きやはっても、ちゃんとした家庭の奥様同士どないに仲好《よ》うしてたかて誰が何ちゅうもんあるやろ。前とちょっとも変ったことないばっかりか、前よりしっくりと行くのんやし、むやみに事荒立てるよりもその方が何ぼ優《ま》しか分れへん。夫は私に無鉄砲な事しられたら、第一に心配やのんで、お腹《なか》の中では私以上に離縁恐れてて、事勿《ことなか》れ主義に傾いてることよう分ってますさかい、「そないに束縛するのんならほんまに家出してやるぞ」いうとこ見せて、そいからそろそろ注文持ち出して、――と、私はあらかた思案をきめて、二日かかっても三日かかってもきっとしまいにはいうこと聴かしてやるつもりで、なるべく反感挑発せんように、何いわれてもただ大人《おとな》しいに無言のうちに涙ぐみながら、堅い決心隠してるみたいに割りと落ち着いてましたのんで、それが夫にはなお気味悪うて、その晩はとうど夜の明けるまで一睡もせんと傍《そば》に着いてて、便所いまで一緒に来るのんです。そいで明くる日は一日事務所休んでしもて、御飯も二階に運ばすようにして、じっと睨《にら》み合いしたなり、ときどき顔色うかごうては、「こないしてたら体つづけへんさかい、一と寝して頭休めてから、ゆっくり考え直して御覧」とか、「とにかく死ぬやの家出するやのいうこと、思い止まるいう約束してくれ」とかいいますねんけど、私は黙っていやいやして見せるばっかりで、心のうちでは、此処まで来たらもう大丈夫や思てましてん。ところがそのまた明くる日の朝、夫はどうしても一時間か二時間事務所い出んならん用あるのんで、留守の間は絶対に外い出エへんし、電話もかけへんいうこと誓うか、それイヤやったら大阪い連れて行くいいますよって、「うちかてあんた一人で出したら心配やさかい附いて行きます」いいましたら、「何が心配やのんや」いいますのんで、「うちに内証で徳光さんとこいいいつけ口でもしに行かれたら、それこそ生きてられへん」いいますと、「僕かってそんな、お前に納得させへんうちに無断で不意討ち喰わすようなこと絶対にせエへん。僕がそれ誓《ちこ》たらお前も誓うてくれるか」いいますねん。そいで私も、「あんたさい意地の悪いことせエへんいうのんなら、留守のあいだぐらいじっと待ってますさかい、安心して仕事して頂戴。うちもその間アに一と休みしますわ」いうて、夫出してやりましたのんが九時頃のことで、暫《しばら》く寝台に横になってましてんけど、妙に興奮してしもてて寝られるどこやあれしません。それに夫から、大阪に着いたら直ぐ電話かかって、そいから三十分置きぐらいにチョイチョイかかって来ますさかい、何や知らん気分落ち着かんと、部屋の中往ったり来たりしながらいろいろなこと考えましたら、そのうちにふっと思いついたいうのんは、毎日々々こんな工合に根競《こんくら》べしてたら、綿貫がどないなわるさせんとも限らんし、光子さんかて、一昨日あんなり別れてしもてどない思てるか、昨日かて一日待ってはったやろ。どうせ口先で「死ぬ、死ぬ」いうたぐらいでは威嚇《おど》し利《き》けへんさかい、いっそ早《は》よ埒《らち》明くように、それもあんまりえらい騒ぎにならんように、奈良とか京都とか、何処ぞ近いとこへ逃げたらどやろ。そいでお梅どん頼んで、わざとビックリしたみたいに夫のとこへ駈《か》け込んでもろて、「今お宅の奥さんと家のとうちゃんと何処そこい逃げはりました。家い知れたらえらいことになりますさかい早よ掴《つか》まえとくなはれ」いうて、もうちょっとで死ぬいうとこへ夫連れて来てもらう。……それやったら、今日置いたら機会あれへん。……と、そない思いましてんけど、外い出る訳に行けしませんさかい、「あのなあ、委《くわ》しい話会うてからするよって、大急ぎでちょっと家まで来てほしい」いうて電話で光子さん呼んどいて、「旦那さんにいうたらいかんで」と、女子衆《おなごしゅ》に口止めしといて待ってましたら、そいから二十分ぐらいして来やはりましてん。
電話かかって来るうちは夫大阪にいるちゅうこと確かやのんで、かいって安心ですねんけど、そいでも不意に帰って来たら裏口から出てもらお思て、光子さんの日傘と草履《ぞうり》庭の方い廻しといて、逃げる時の用心に下の座敷で会うたのんですが、光子さんは初めから心配そうな青い顔して、昨日一日見なんだ間にえらい窶《やつ》れてなさって、私の話聞きなさるともう涙ぐみながら、「そしたらあれから姉ちゃんの方にもそんなことあってんなあ」いいなさって、自分もあの日イの夕方から昨日にかけてさんざん綿貫にいじめられた。綿貫のいうのんには、「あんたと姉さんとグルになって僕欺《だま》そうとしてるさかい、僕の方もその裏掻《か》いてこないだ今橋の事務所い行って、姉さんのことみんな柿内氏に話して来てやった。そやさかい笠屋町い様子探りに来たのんや。あないして姉さん連れて行かれてしもたら、もうなんぼ待ってたかて来るはずあれへん。」
そないいうて綿貫は、「僕と姉ちゃんと証文換えことしてたこと、あんたかて薄々知ってたやろが、もうあんなもん反古《ほうぐ》になったさかい、証拠のために今橋い預けて来た。ここに預り証書ある」いうて、懐《ほところ》から出して見せて、「そら、この通り書いたあるやろ、――下名ハ下名ノ妻ガ妻タル者ノ行為ニ悖《もと》ルコトナキヨウ――」と一々箇条書き読んで聞かして、それも自分の都合悪い但し書きのとこ手エで隠してて、「柿内氏からこの書付取った以上は、もう姉ちゃんの方心配ないよって、あんたも僕に証文入れなさい」いいながら、また懐からその文案みたいなもん出して見せますねんと。それ読んでみると、光子さんと綿貫とは永久に一心同体やとか、死を以て綿貫に従わないかんやとか、その約束に背《そむ》いたらこないこないしられるやとか、何ぼでも虫のええこと書いたあって、「これでよかったら此処い名ア書いて判捺《お》しなさい」いうのんですけど、「そんなことするのんイヤや」いうて断りなさって、「あんたみたいに何ぞいうたら証文書け証文書けいう人あれへん、そないしてはそれ種に使《つこ》て人オドスつもりやねんやろ」いいなさったら、「あんたさい心変りせエへなんだら、恐がる道理ないやないか」いうて無理にもペン持たそとするのんで、「お金の借り貸しやあるまいし、証文で人の心括《くく》っとくこと出来る思てるのんやろか。何ぞ外に目的あるねんやろ。」「あんたこそ判つくのんイヤやなんて、心変りする気イやねんやろ。」「ふん、そら、なんぼ判ついたかて先のことは分れへん」いうてやんなさったら、「そない僕に楯《たて》ついたら今に難儀することあるで。あんたが証文書かんかて、オドスつもりやったら此処に何ぼでも材料あるねん」いいながら、紙入れの中から小さい写真出して見せるのんやそうです。それがビックリしたことには、私の夫が取り上げてしもたあの誓約書の写しやのんで、こないだ今橋い持って来る前に、ちゃんと写真に映しといた、柿内氏はもうあの書付返さんつもりかも知れんけど、そんな手エに乗るような僕やあれへん、この写真と、預り証と、この二つ新聞記者にでも見せたら、売ってくれいうて飛び着いて来るやろ、僕かて必要に迫られたら何するや分らん。――そないいうて、何でも僕のいうこと聴け、聴かなんだらあんたの前途真っ暗にしてやるいいますよって、「それ見なさい、その通りあんた卑劣やないか。あてかて覚悟してるさかい、それだけ材料あるねんやったら、この上人イジメたりせんと、新聞にでも何にでも売んなさい」いいなさって、そんなり喧嘩《けんか》別れになった。そいであんまり弱いとこ見せたらいかんよって、今日は笠屋町いも行かんといて、どないするか様子見てやろ思てなさったら、私のとこから電話やったんで、飛び立つ思いで顔見に来たいいなさいますねん。
まさか綿貫かて、いよいよあかんいう見きわめも付かんと自分の損にもなるようなことせエへんやろけど、こないなって来たらなおのこと夫味方に入れるのん第一やいうのんで、そいから私の考えてた計略実行することになりましたのんですが、光子さんは「何処《どこ》ぞ近いとこへ逃げるのんやったら、あて所《とこ》の浜寺の別荘がええし」いいなさって、彼処《あっこ》は今年留守番の夫婦行《い》てるだけやさかい、海水浴して来るいうてお梅どん連れて行くのんなら、四日や五日泊ってたかてちょっとも家の方心配ない。そいで私の方はそうッと此処の家抜けて出て、難波《なんば》駅で光子さん待ち合わして、三人で浜寺い着く時分には、夫は私のいんようになったのん気イ付いて、何は措《お》いても光子さんの家い電話かけるにきまったある。そしたら直ぐ居所《いどころ》分って浜寺の方いまたかけて来る。その時お梅どん電話口い出てもろて、「今お宅の奥様と家のとうちゃんと薬飲んで昏睡《こんすい》してはる。ちゃんと書き置きまで書いたあるのんで、覚悟の自殺にきまってます。今本宅とあんたさんとこい電話かけよとしてたところです。直きに来とくなはれ」いうたら、きっと慌《あわ》てて飛んで来るやろ。――このお梅どんの口上も大役ですねんけど、それより昏睡して見せるちゅうこと、なんぼ狂言にしたかてやっぱりほんまにそんなもん飲まんなりませんのんで、お医者はんが見てもこれなら生命に別《べ》ッ条《ちょう》ない、二、三日安静にしといたらええいわれる程度にするのんには、どれぐらい飲んだもんやら分量分れしませんねん。けど常時使《つこ》てるバイエルの薬やったら、そない恐《こわ》いことあれしませんし「小ッちゃい方のタブレットやったら一ト箱飲んでも死ねへんいうし。そやさかいあれもうちょっと控え目エに飲んだら大丈夫やし。あて姉ちゃんと一緒やったら間違うて死んだかて構うことあれへん」いいなさるのんで、「ふん、そやとも、あてかてかめへん」いいましてん。――そいで夫が駈《か》け着けて来たら、「まだこの通りぼんやりしてはりますけど、お医者はん絶対に心配ないいやはりますし、もう大分正気づいて来やはりまして、ときどき眼エ開《あ》いたりしやはりますのんで、ほんまは本宅の方いお知らせせないきまへんねんけど、そしたらとうちゃん叱《しか》られはりますし、私かてどない御寮人《ごりょうにん》さんに叱られまッか分れしまへんさかい、電話かけんと置きましたんだす。何卒《どうぞ》あんたさんもそのお積りで内証にしといとくなはれ。どうせ今晩帰りやはる訳に行けしまへんよって、奥様御加減ようなりやはるまで、此処い遊びに来てなはる体裁にしてゆっくり逗留《とうりゅう》してとくなはれ」と、そこはお梅どんにあんじょういわして、二日でも三日でもじいッとしたなりで、寝たふりしながら譫言《うわごと》いうたり、眼エ覚《さ》まして泣いて見せたり、そのあいだにはお梅どんからも「お二人さんの命助ける思て願い聴いたげとくなはれ」いう工合《ぐあい》に口添えしてもろたら、なんぼ夫かてしョことなしに承知するやろ。「そしたらそれ何日《いつ》にしょう?」「何日《いつ》いうたかて、こないに監禁同様にしられてたら、今日より外に機会あれへん。」「あてかて早《は》よしてもらわな、また綿貫が何の彼のいうて来るし。」――と、そんな相談してるうちにも何遍でも電話かかって来ますのんで、これやったらなかなか逃げる隙《ひま》ないし、逃げたとこで浜寺い行かん間に分ってしまう、逃げてから掴《つか》まえられるまで何ぼ少うても二、三時間の余裕なかったら都合わるい。最初私は、「夕方まで昼寝するさかい起したらあかん」いいつけて、夫にも電話で断っといて、寝室のドーア中から鍵《かぎ》かけて、窓から飛んで降りて逃げよ、と、そない考えましてんけど、外側が洋館の白壁になってて足がかりもあれしませんし、前の浜には仰山《ぎょうさん》海水浴の人行《い》てますし、そんな人目につくようなこと出来《でけ》しませんよって、また相談し直して、いっそのこと此処二、三日大人《おとな》しいにしてて、夫や家の者に油断さしてから、海い泳ぎに行くように見せて逃げ出してやろいうことになりましてん。そいでそないするのんには、二、三日して気イ許すようになった時分、「毎日家の中に閉じ籠《こも》ってたら病人みたいになるさかい、海い這入《はい》ることぐらい許して頂戴。海水服一つ着たなりで、何処いも行かんと前の浜にいますよって」と、夫が出かける時に断っといて、ほんまに海水服着ただけで海岸い出る。同時にお梅どん光子さんの着物持って、浜で待ってて、直きに着換えさす。着物は海水服の上からスッポリ被《かぶ》れるようなワンピースの洋服にして、帽子もなるだけ縁《ふち》の下った顔の隠れるようなのんがええ。浜には人がウヨウヨしてて、かいって気イ付けへんやろけど、洋服やったらこの頃めったに着たことないのんで、尚更《なおさら》誰に見られても私やいうこと分れへんやろ。待ち合わす時刻は朝の十時から十二時までの間、――その時分やったら夫きっと大阪い行てる。日イは、雨さい降らなんだら今日から三日目、その日イいかなんだら四日目も五日目も、毎日来ててもらう。と、そんな相談してましたら、またええ智慧《ちえ》出て来て、光子さんの方は二日目の晩あたりに一と足先浜寺い行てる。そないすると夫から問い合わせの電話かかったとき、「光子は昨日から別荘の方い行ってます」と、本宅の方でもいうやろし、光子さんの方いかかって来ても、「うちこっちい来てること姉ちゃん知りゃはれしませんさかい。来やはるはずあれしません」いうて、自身で電話口い出てやんなさったら、これは遠い所い逃げたんやない、海で死んだのんかも分れへん思て、何より先に海の方捜索するやろ。そいでええ加減たった頃に、「実は今さっき奥様お見えになりまして、うっかりしてる間アにえらい事になりまして、……」とお梅どんから知らしてやる、この計略で時間計算してみましたら、家の者ら気イ付くまでに一時間半か二時間はかかる。そいから大阪い知らせ行って、問い合わせの電話かけたりして、夫香櫨園《こうろえん》い帰って来るのんざっと一時間、海捜したり近所尋《た》ンねたりするのん一、二時間、お梅どんから知らして来て香櫨園から浜寺い駈《か》け付けるまでが一時間二、三十分、――都合五、六時間余裕あるのんで、それやったらちゃんとその間《ま》アに支度出来る。ただ気の毒やのんはお梅どんで、前の日イから光子さんに附いて浜寺い行ってて、彼処《あそこ》から十時までにわざわざ香櫨園い出て来て、暑い盛りに一時間も二時間も海岸に待ってんならん。それもひょッとしたら待ちぼけ喰《く》わされて、二日も三日も来んなりません。けど「あの児《こ》やったらきっとしてくれるわ、そんなことするのん好きやねんし」いいなさって、何から何まで洩《も》れのないように手筈《てはず》きめて、お互に「巧いことやって頂戴」いうて、光子さん帰って行きなさったのん一時頃でしたけど、それと殆《ほと》んど入れ違いみたいに夫戻って来ましたのんで、ほんまにこれやったら今日でのうてよかった思いましてん。
はあ、……逃げたのんはそいからやっぱり三日目のことで、日和《ひより》の都合も時間の工合もすっくり予定の計画通り行きましたのんで、私は十時ちょっと過ぎに海水服着て海岸い出て、お梅どん見ると眼エで合図しいしい黙って浜七、八丁走って、そこで更紗《サラサ》模様のヴォイルの服頭から被《かぶ》って、お金の十円這入《はい》ってる手提《てさ》げ受け取って、パラソルで顔隠しながら、お梅どんとは別々に急ぎ足で国道い出ましたら、運よくタクシー来ましたのんで、それに乗って一と息に難波《なんば》まで行きましてん。そいですさかい十一時半前にはもう別荘い着いてしもてて、お梅どんの方が三十分も後《おく》れてやって来て、「えらい早《よ》よおましたなあ。ほんまにこない巧い工合に行たことあれしません。さあ、さあ、今の間アにしやはらんと、ぐずぐずしてはったら電話かかって来まっせ」いうて、母屋《おもや》から大分離れた庭の中に建ってる「何とか庵《あん》」たらいう葛屋葺《くずやぶ》きの家の方い二人追い立てるようにして、そこい這入《はい》ったらもうちゃんと枕許《まくらもと》に薬やら水やら用意してあるのんで、私は洋服浴衣《ゆかた》に着換えて差向いにすわってみましたもんの、これがこの世の見納めやないか、ほんまに死ぬのんやないやろか、「もし間違うてあて死んだら光ちゃん死んでくれるなあ?」「姉ちゃんかてそうやわなあ?」と、互に抱き合うて涙流すばっかりでしてん。その時光子さんは両親に宛《あ》てたのんと、私の夫に宛てたのんと、二通の書き置き出して見せなさって、「これ読んでみて頂戴」いいなさるのんで、私も書いといたのん出して互に読み比べてみましてんけど、それかてほんまの書き置きのつもりで、殊《こと》に私の夫に宛てたある光子さんの手紙には、「あんたの大事な奥様一緒に連れて行くのん何とも申訳ありません。これも運命や思てあきらめて下さい」と、夫が読んだら恨みも忘れて心動かすに違いないように書いたありましたさかい、それ眼エの前い置いて見る自分らまでが本気にさせられて、もうどないしても死んで行くもんとしか思われしません。そないして一時間ぐらいたってしまいましたら、パタパタと庭下駄《にわげた》の音してお梅どん駈《か》け込んで来て、「とうちゃん。とうちゃん! 今やっと今橋から電話だす。まだだしたらとうちゃんちょっと出とくなはれ」いうのんで、慌《あわ》てて飛んで行きなさって、その電話済んでしまうと、「これで何も彼もあんじょう行った。さあ、もうぐずぐずしてられへん」いうて、そいからもう一度別れ惜しんで、互にぶるぶる顫《ふる》てる手エ振り合いながら薬飲みましてん。
完全に意識失うてたのんは半日ぐらいの間らしいて、その晩の八時頃にはときどき眼エ開《あ》いてあたりキョロキョロ見廻したりし出したいうこと、あとで聞きましたのんですが、私自身ではその後二、三日ちゅうもん一つもハッキリした記憶ないのんで、……何やこう、頭抑《おさ》えつけられるような、胸苦しい、ムカムカ吐き気するような感覚が、枕もとに据わってる夫の姿とごちゃごちゃに幻影みたいに眼エに映ってて、つまりその間が数限りもない夢の連続になってますねん。私と、夫と、光子さんと、お梅どんと、四人が何処ぞい旅に出かけて、宿屋の一と間に蚊帳《かや》吊《つ》って寝てて、それが六畳ぐらいの狭い座敷で、同じ蚊帳の中に、私と光子さん中に挟《はさ》んで両端に夫とお梅どん寝てる。……そんな光景が夢の場面の一つのようにぼんやり頭に残ってますねんけど、部屋の様子から考えたら、ほんまの事が夢に交り込んだのんに違いないのんで、これもあとで聞きましたのんに、夜遅《おそ》うになってから私の布団《ふとん》隣りの部屋い引っ張って行きましたら、光子さん眼エ覚ましなさって、「姉ちゃん、姉ちゃん」と譫言《うわごと》みたいにいいっづけて、「姉ちゃんいてへん、うちの姉ちゃん返して! 返して!」いうてポロポロ涙こぼしなさるのんで、しョことなしにまた同じとこに寝さしたんやそうですさかい、それが夢では宿屋の座敷になってるのんですが、まだその外にもいろいろ不思議な夢あるのんで、これも宿屋みたいな所《とこ》に私が昼寝してましたら、傍に綿貫と、光子さん小声で内証話《ないしょばなし》してて、「姉ちゃんほんまに寝てはるねんやろか。」「眼エ覚ましたらいかん。」いうて、ヒソヒソしゃべってるのんが切《き》れ切《ぎ》れに聞えますのんを、私はうとうとしながら聞いてて、此処は一体何処やねんやろ! きっといつもの笠屋町の家に違いない、生憎《あいにく》其方《そっち》い背中向けて寝てるのんで、二人の様子見えへんけど、見えんかてもう分ってる。自分はやっぱり欺《だま》されたんや、自分にだけ薬飲まして、こないな目エに遇《あ》わしといて、その間アに光子さん綿貫呼びやはったんや、エエ、口惜《くや》しい、口惜しい、今跳《と》び起きて二人の面皮剥《は》いでやろ! と、そない思うのんですけど、起き上ろとしても体の自由利けしません。声出してやろ思て一所懸命になればなるほど、舌硬張《こわば》って動けしませんし、眼エあくことすら出来《でけ》しませんので、エエ、腹立つ、どないしてやろ思てる間アにまたいつやらうとうとしてしもて、……そいでも話声まだ長いこと聞えてて、その男の方の声が、おかしいことに綿貫でのうて夫の声に変ってしもてて、……こないなとこになんで夫いるねんやろ? 夫あないに光子さんと親しいのんか知らん!「姉ちゃん怒りやはりますやろか?」「なあに、園子かてその方が本望ですやろ」「そしたら三人仲好うして行きまひょなあ」と、――そんな工合《ぐあい》にポツリポツリ耳に這入《はい》ったのんが、今考えてもよう分れしませんねんけど、二人の間でほんまに話してたもんやのか、それとも夢の中ながら想像で事実補うてたのんか、……それがあのう、……こいだけやったらみんな自分の心の迷いで根エも葉アもない幻見たんや、そんな事実あろうはずないと打ち消してしまいますねんけど、その外にもまだ忘れることの出来ん場面覚えてますし、……それも初めは阿呆《あほ》らしい夢や思てましたのんが、薬さめて意識ハッキリして来るにつれて、外の夢だんだん消えてしまいますのんに、その場面だけかいって頭い焼き付いてて、疑がう余地ないようになって来ましてん。いったい薬の分量は同じように飲んだのんですけど、私の方が長いあいだ昏睡《こんすい》してたいうのんは、光子さんは十一時ごろに朝昼兼帯の御飯たべはってお腹《なか》大きかったのんに、私は朝御飯もろくさまたべんと飛び出してえらい活動しましたさかい、胃袋空《から》ッぽになってて薬完全に吸収されたのんやそうで、私の方はまだ夢うつつの境迷うてた時分、光子さんは飲んだもんみんな吐いてしまやはったお蔭で、よっぽど前から意識恢復《かいふく》してなさったらしいのです。そいでも後になってからの話に、「あて知らん間アに、傍にいる人を姉ちゃんと間違うたのんや」と、そない自分でいやはりますのんで、それやったら罪は夫の方にあることになるのんですが、夫の自白聞きましたら、二日目の昼過ぎお梅どん母家《おもや》の方い行ってて、夫は私の寝顔見ながら団扇《うちわ》で蝿《はい》追うてた、そしたら光子さんが寝惚《ねぼ》けたように「姉ちゃん」いいながら私の方い寄って来《こ》うとしなさるのんで、眼エ覚まさしたらいかん思て、間い這入って光子さんの体抱き上げるようにして引き離して、枕外《はず》しなさったのんを直したげたり、掛け布団掛けたげたり、……そんな風にして、寝てはるとばっかり思い込んで油断してましたさかい、知らず識《し》らず、気イ付いた時にはもうどないしても逃げること出来んようにしられてた、何せ夫ちゅうたらそないな事にかけたら経験のない、子供みたいな人ですよって、私は夫の話の方がほんまに違いない思いますねん。
まあ、そんなこと、どっちが先や詮議立《せんぎだ》てしたとこで無駄ですねんけど、一ぺん間違いあってからは、私に済まん思いながら同じ過《あやま》ち繰り返してたらしいのんで、それ考えたら全然夫に責任ないともいわれしませんのんですが、私としたらその点に同情出来るいうのんは、前にもたびたびいいました通り、夫と私とは肌《はだ》合エへんのんで、私がいつも愛の相手外に求めてたように、夫にしたかて無意識のうちにそれ求めてたのんに違いあれしません。おまけに外の男みたいに芸者遊びするやとかお酒飲むやとかして、物足らなさ充《み》たすちゅうこと知らん人だけに、なおのこと誘惑に陥りやすい状態にあったのんで、一旦そないなってしもたら、堰《せき》切った水みたいに、盲目的な情熱が意志や理性の力踏みにじくって燃え上って来て、光子さんより夫の方が十倍も二十倍も夢中になってしもたのんです。そんな訳で、夫の心持の変化は大概諒解《りょうかい》出来ますねんけど、いったい光子さんどういうつもりでいなさったのんか、そらまあ、ほんまに半分は寝惚《ねぼ》けてなさって、ほんその時の出来心やったのんか、それとも或るハッキリした目的持ってなさったのんか、――つまり綿貫放《ほ》る代りに夫とそういう風になって、私との間に嫉妬《しっと》起さして、思うままに操《あやつ》ってやろ、――どうせ自分の崇拝者一人でも仰山寄せ着けときたい性分ですさかい、またしてもその悪い癖出しなさったのんか、そやなかったら「気イついてみたら済まんことした思てんけど、そいでもこないなった方が味方につけるのんに都合がええのんで」いうてなさったように、夫引き入れる手段やったのんか、なんせえらい複雑で裏には裏ある人の気持なかなか分れしませんけど、多分そんないろいろの動機に時のはずみも加わったのんやろ思いますねん。ま、二人が自白しましたのんはずっと後のことですさかい、初めはそんな深いとこまで考えんと、寝ながらぼんやり「裏切られた」いう感じ持ってて、お梅どん枕許《まくらもと》いやって来て「奥様《おくさん》、もう安心だっせ、あんた所の旦那様何も彼も聴いてくれはりました」いうてくれた時も、嬉しいのん半分と口惜《くや》しいのん半分で、そない喜びもせえしませなんだのんで、二人も私に感付かれたこと薄々悟ってたらしいのんです。そいでお医者はんに「もう起きられても大丈夫です」いわれたのん三日目エの晩で、浜寺引き揚げたのんは四日目エの朝でしてんけど、その時も光子さん「姉ちゃん、もう心配せんでもええし。委《くわ》しいこと明日あんたとこい行って相談しょうなあ」と、口ではそないいいながら、気イ咎《とが》めると見えて妙に態度余所々々《よそよそ》しいて、夫の方も何や知らん光子さんと打ち合わせしたあるらしゅう、私連れて香櫨園い帰って来ますと、「用事溜《たま》ってるさかいこいからちょっと事務所い行て来る」いうて直きに出て行って、晩の八時過ぎに戻って来てからも、「晩の御飯済まして来た」いうたなり、私に話しかけられるのん恐《こわ》がるようにしてますねん。私は夫が人欺《だま》して平気でいられる人間でないことよう知ってますさかい、今に何とかいい出すやろ、困らされるだけ困らしてやれ思て、無理に知らん顔して、時間になったらさッさと先い寝てしまいましたら、夫は尚更《なおさら》落ち着かん塩梅《あんばい》で、十二時になっても寝付かれんらしい寝返り打って、ときどき薄眼エ開《あ》きながらそうッとこっち見守って寝息うかごうてるのんが、真っ暗い中でも分るのんです。そないして暫《しばら》くたちましたら、「おい」いうて私の手エ取って、「どうや、気分ええのんか? もうちょっとも頭痛いことないか? まだ起きてるねんやったら、僕話したいことあるねん」いうて、「お前、……知ってるねんやろ?……どうぞ堪忍してくれ、運命や思て怺《こら》えてくれ。」「ああ、そんなら夢やなかってんなあ。……」「堪忍してくれ、なあ、堪忍すると一と言いうてくれ。」そないいわれてもしくしくしくしく泣いてばっかりいる私を、いたわるように肩さすってくれながら、「僕かてあれ夢と思いたい。……悪夢や思て忘れてしまいたい。……けど、僕、忘れること出来んようになってしもた。僕は始めて恋するもんの心を知った。お前があないに夢中になったのん無理ないいうこと今分った。お前は僕のことパッションないないいうたけど、僕にかてパッションあったんや。なあ、僕もお前許す代り、お前かて僕許してくれるやろ?」「あんた、そないなこというて復讐《ふくしゅう》する気イやねんなあ。今にあの人とグルになって、うち独りぼっちにさそ思て、……」「馬鹿なこといいな? 僕そんな卑劣な男やない? 今になったらお前の気持かて分ったさかい、何で悲しい思いさすもんか!」自分は今日も事務所の帰りに光子さんと会うて相談して来た。私さい承知してくれたら、あとは自分が一切引き受けて、綿貫の方もちょっとも心配ないように片附けてやる。光子さんも明日は家《うち》い来なさるやろけど、私に会うのん極《き》まり悪がってなさって、「あんたから姉ちゃんに詫《あや》まっといて頂戴」いわれて来た。と、そないにいうて、自分は綿貫みたいな不信用な男やないよって、綿貫に許したこと自分にも許してくれたらええやろいうのんですが、そら、なるほど、夫の方は人欺すようなことせんとしても、気がかりやのんは光子さんですねん。夫にいわしたら「自分は綿貫と違うよって大丈夫や」いいますねんけど、私の身イになったらその「違う」いうこと心配の種やのんで、なんせ光子さんは始めてほんまの男性ちゅうもん知んなさった、そんだけ今までより真剣になんなさるかも分れへんし、そのために私捨てなさっても、「不自然の愛より自然の愛貴い」いう立派な口実ありますし、良心の苛責《かしゃく》も少いですやろし、……もし光子さんにそんな理窟《りくつ》いわれたら、夫にしたかって間違うてることしなさいいう訳に行けしませんし、ひょッとしたらあッちゃこッちゃ説き伏せられて、しまいには「光子さんと結婚さして欲し」いい出さんとも限れしません。「僕とお前とは誤まって夫婦になったのんや。性の合わんもんこないしてたらお互の不幸やさかい、別れた方がええ思う。」――と、いつぞそないいわれる日イ来るのやないやろか? そしたら常時恋愛の自由口にしてながら「イヤや」いうこと出来しませんし、世間の人かて私みたいなもん離縁しられるのん当り前や思うやろ、今からそんな行末のこと考えて、取り越し苦労したとこでしョうないようなもんの、どうも私にはきっとそないなる運命みたいな気イするのんですが、そうかいうて、今の場合、夫の頼み聴かなんだら自分も明日から光子さんの顔見られんようになるのんで、「あんた信用せえへんのやないけど、何や知らん悲しい予覚して、――」いうて、しくしくしくしくいつまででも泣いてますと、「そんな馬鹿なことあるもんか。そらみんなお前の妄想や。誰ぞ一人でも不幸になったら三人で死のやないか」いうて、夫も泣き出して、とうとう二人で夜が明けるまで泣き通してしまいましてん。
さてその明くる日から夫は光子さんの家の方の諒解運動と、綿貫の方の解決とにえらい奔走し始めたのんです。先ず第一に徳光さんとこい行《い》て、お母さんに面会求めて、僕はお宅のお嬢さんの親友である園子の夫として、お嬢さんから頼まれたことある。実はお嬢さんは悪い男に付け狙《ねら》われてなさって、……と、そんな工合に切り出して、尤《もっと》もその男はこないこないの人間やのんで、お嬢さんの貞操は汚されてエへん、ただその男ちゅうのんが卑劣な奴で、お嬢さんがその男の種宿してなさるやとか、お嬢さんと僕の妻とが同性愛やとか、跡形もないこといい触らして、強制的に証文に判つかしたりしましたさかい、今にお宅の方いも脅迫がましいこというて来るかも分れしませんが、絶対にそんなことお取り上げになったらいきません。お嬢さんの身の潔白は誰よりも僕が知ってます。取り分け僕の妻との交際がそんな醜いもんでないことは、夫たる僕が証明します。就《つ》いては僕も友人の立場として、御依頼のうても何とかせんならん思てた際ですから、どうぞこの問題僕に一任してもらえませんか。お嬢さんの安全僕お引き受けしますよって、たといその男何いうて来ても「今橋の事務所い行け。」いわれて、直接お会いにならんように。――と、めったにうそついたことない人が、恋のためにはそないなことまでするのんですやろか、巧いこというてお母さん円《まる》めてしもて、そいから綿貫のとこい出かけて、結局この方はお金で埒《らち》明《あ》いたいうて、例の新聞い売るいうてた証文の写真と、種板《たねいた》と、夫から渡したあった預かり証と、証拠になるもん全部取り返して来ましてん。それが二日か三日のあいだにバタバタと片附いてしもたのんで、なんぼ夫が一所懸命になったにしても、あの綿貫がそないやすやす手エ引いたいうのんが、私も光子さんも何や腑《ふ》に落ちんような気イして、写真の種板おこしたにしたかて複写したあるかも分れへんし、何企《たく》らんでるかも知れん、「なんぼお金やんなさった」いいましたら、「千円いうのん五百円にさした」いうて、「なあに彼奴《あいつ》かてカラクリの種こッきり僕に握られてしもてて、もうこれ以上オドシ利かん思たのんで金にする気イになったのんや」と、夫は安心し切ってるのんです。そいでその時はすっくり私らの計画通りに行った形で、たった一人貧乏鬮《びんぼうくじ》抽《ひ》いたのんお梅どんで、「そんなことになってたのんに、お前附いてながら主人に知らさんいう法あるもんか」いわれて、暇《ひま》出されてしもて、えらアい私ら恨んでて、――そら、まあ、あないに骨折らしときながら、其方《そっち》の方い飛ばしり行くのん考えなんだのんは何といわれても手落ちですさかい、出て行く時にいろいろなもん買うてやったりして機嫌取りましてんけど、このお梅どんから後で意趣返しされるやなんて、夢にも思い寄りませなんでん。
夫は光子さんの家の方い、「もう御安心です」いうてやりましたのんで、お父さんわざわざ事務所にお礼に来なさるやら、お母さんも私のとこい来なさって、「どうぞどうぞ、あの通りの我《わ》が儘《まま》もんですさかい、ほんまの妹や思て面倒見てやっとくなはれ。家ではあの児がお宅さんいさい上ってたら安心してます。何処い行きたいいいましても、あんたさんと一緒でないと出せしません」いいなさるやら、えらい信用しられてしもて、お梅どんの代りにお咲どんいう女子衆《おなごしゅ》つれて、毎日おおびらに遊びに来やはって、たまには泊ったりしなさっても、お母さん何ともいやはれしません。けどそないにして外部の関係万事都合よう行くようになりましたら、今度は内部の関係が、綿貫の時よりも一層お互に疑がい深うさされて行って、日一日と地獄の苦しみ重ねるようになったのんです。それにはいろいろ理由あるのんで、前は笠屋町いう便利なとこありましたのんに、今ではそんなとこあれしませんし、あっても一人だけ放っといて二人が外い出ることならんいいますし、そしたら結局家にいるよりしョうないのんですが、そないすると私か夫か孰方《どっち》ぞが邪魔にしられるようになったり、そうでないまでも自分の方から気ィ利かさんならんようになったり、そこいさして光子さんが、いつでも出しなに「こいから香櫨園い行きます」いうて、今橋の方い知らしゃはるよって、夫は直き帰《かい》って来る。それもお互に隠し立てせん約束やのんで、知らすのん仕方あれしませんけど、そんならそいで、もうちょっと早う朝のうちからでも来てくれはったらええのんに、大概二時か三時頃に来やはるさかい、二人ぎりでいる時間いうたら、ほんの何ぼもあれしません。夫にしたかて光子さんから電話かかったら用事放っといても飛んで帰って来るのんで、「そないせんかってよろしやないかうちちょっとも話してる間アもあれへん」いいますと、「もっとゆっくりしてよ思てんけど、事務所の方暇やさかい帰って来た」とか、「離れて想像してる方が気が揉《も》める。一つ家にいてたら安心やよって、邪魔やねんやったら階下《した》い行《い》ててもええ」とか、「お前は二人ぎりでいてる時間あるのんに、僕にはちょっともないいうこと察してくれんと困る」とか、だんだん問い詰めると、「ほんまは光ちゃん『電話かけたのんに何で早《は》よ帰って来えへんねん! 姉ちゃんの方がよっぽど実意ある』いうて怒りやはるねん」いいますねん。いったい光子さんの焼餅ちゅうのんが、何処までが本気で何処までが手管《てくだ》か分れしませんねんけど、それがまたいかにも気違いじみてて、たとえば私の夫のこと「あんた」いうたらもう眼エに涙溜《た》めはって、「今では夫婦でもないのんに、あの人のこと『あんた』いうたらいかん」いいなさって、人のいる前ではともかくも、内輪では何ぞ外に呼びようあるやろ、「孝太郎さん」とか、「孝ちゃん」とか、いうて欲し、夫にしたかて私のこと「園子」やの「お前」やのいわんと、「園子さん」いうか、「姉さん」いうかせないかん、それぐらいはまだええとして、睡眠剤と葡萄酒持って来なさって、「二人ともこれ飲んで寝なさい、あてあんたらの寝ついたん見てから行《い》ぬ」いうて聴きなされしません。初めは冗談か思てましたら、なかなかそやないのんで、「特別によう利く薬調合してもろて来た」いいなさって、粉薬の包二つ出して、夫と私の前い置いて、「二人ともあてに対して忠実誓うねんやったら、その証拠にこれ飲みなさい」いいなさるやあれしませんか。けどこの薬に毒でも這入《はい》ってて、自分だけ永久に眠らされるのんやないか知らん?――と、はっとそんな気イ起りましたら、「飲め飲め」いいなさるほどなおのこと疑わしいになって来て、じーっと光子さんの顔視詰《みつ》めてますと、夫もやっぱり同じ恐怖に襲われたらしゅう、白い粉薬手エの上に載せたまま、私の手エにある薬の色と見比べるみたいにして、光子さんの顔と私の顔とジロジロうかごうてるのんです。すると光子さんは「なんで飲めへんのん? なんで飲めへんのん?」いうてヤキモキしなさって、「ああ分ってる、あんたらあて欺しててんなあ」と、身イふるわして泣きなさいますし、もうしョうない、殺される覚悟で飲んでやろ思て、薬の包口イ持って行きましたら、私の様子黙って眺めてた夫が「園子!」いうていきなり手エ掴《つか》んで、「まあ、待ってくれ! こないなったら孰方《どっち》がどうなるか運試《だめ》しや。その薬換えことして飲もやないか」いいますのんで、「ふん、そうしょう、そんで二人とも一、二の三で一緒に飲も」と、とうどそないして飲みましてん。
この光子さんの計略図にあたって、夫と私とはどんなにお互に疑がい合い、嫉妬《しっと》し合うたことですやろ。毎晩々々薬飲まされるたんびに、寝さされるのん自分だけやないか、夫はうその薬飲んで寝た真似《まね》してるのん違うやろかと、そない思たら、飲んだ風して放ってしまおとしますねんけど、光子さんいうたらそんな胡麻化《ごまか》しささんようにじッと手もと視詰《みつ》めてて、まだそんだけでも心配やのんか、しまいには「あて飲ましたげるわなあ」と、寝台と寝台の間に立ちなさって、恨み合いせんように、同時に両方の手エに薬持ちなさって、二人仰向《あおむ》けに臥《ね》さしといて、あーんと口開かして、薬入れてしまいなさると、今度はあの、病人の水飲ます嘴《くち》の長アいガラスの容《い》れもんありますやろ? あれ二つ両手に持って、そろそろと、孰方《どっち》が先にもならんように、同じくらいに傾けて行ってお湯飲ましなさるのんですが、「たあんと飲んだ方が利き目ある」いいなさって、あの容れもんに二遍も三遍も入れ替えては注ぎ込みなさいますねん。こっちは一所懸命に、ちょっとでも余計起きててやろ、寝たふりして見ててやろ思いますねんけど、寝返り打ったり横向きになったりしたらいかん、ちゃんと顔見えるように仰向きになってて欲しいいうて、両方の寝台のあいだに腰かけて、脇眼《わきめ》も振らんと二人の寝顔見守りながら、寝息うかごうたり、眼《ま》ばたきさしてみたり、心臓に手エあててみたり、いろいろなことして試しなさって、ほんまに寝入ってしまうまでは傍《そば》離れなされしません。そないにせんかて何で今更夫婦の語らいしますやろ。夫も私も今では放っとかれたかて手エ触れる気イも起れへんくらいで、これほど安全な男女いうたらあれしませんのんに、「そいでも何でも一つ部屋に寝るのんやったら薬飲ます。」いいなさって、だんだん利かんようになると、分量や調合取り換えなさるのんで、その強烈な薬の感じ覚めたあとまでも残ってて、朝床の中で眼エ開《あ》いた時の気持の悪さいうたら、頭の後の方痺《しび》れてて、手足抜けるようにひだるうて、胸がムカムカして、起き上る元気もあれしません。夫も同じように病人臭い青オい顔して、まだ薬の味残ってるみたいに口の中にちゃにちゃさしながら、「こないしてたら、今にほんまに中毒起して死ぬかも分れへん」いうて溜《た》め息《いき》つきます。私はそんな様子見ると、さては夫もほんまに飲まされたのんか思て、かいって安心しますねんけど、疑がい出したらそれがまた狂言みたいな気イしますのんで、「なあ、うちら何で毎晩薬飲まされんならんねんやろ?」いうてやりますと、「何でやろなあ?」と、夫は夫で、やっぱり疑がい深そうに人の顔ジロジロ見ますねん。「うちら二人寝さしといたかて心配ないこと知れたあるやないか。何ぞ外に目的あるねんし。」「どんな目的やお前には分ってるのんか?」「うち分れへん、あんたには分ってんねんやろ?」「僕には分らん、お前こそ知ってるのやないか。」「そないお互に疑ごうてたら切りないけど、うちどないしても、自分だけ寝さされてるような気イするねんし。」「そら僕かて同じことや。」「それかて浜寺のこともあるやないか。」「あれがあるさかい、今度は僕の番やないかいう気イするねん。」「あんた光ちゃんの帰る時まで起きてたことないのんか? どうぞほんまのこというて欲し。」「僕はない、お前はどうや!」「あんな強い薬飲まされたら、起きてとうても起きてられへん。」「ふーん、そんなんやったら、お前もたしかに薬飲むねんなあ?」「当り前やし、この青い顔見て御覧。」「僕の顔も見て御覧。」そんな話してる間に、朝の八時頃になるときっと電話かかって来て、「さあ、もう起きないかんし」いわれて、夫は睡《ねむ》たい眼エ擦《こす》り擦り起されてしもて、しョことなしに事務所い出て行くか、よっぽど睡とうて溜《たま》らん時でも、「八時過ぎたらあんたは寝室にいてることならん」いわれてますのんで、下の部屋い来て縁側の籐椅子《とういす》か何ぞで寝んなりません。そないな工合で、私は何時まででも寝てられましてんけど、夫の方は一層疲れかた非道《ひど》うて、事務所い行たかて頭役に立てしませんさかい、自分は休みたいのんですが、あんまり休むと「姉ちゃんの傍にばっかりいてたがる」いわれますよって、大概の日イは用事あってものうても「昼寝しに行て来る」いうて出かけますねん。
私はその時分から「光ちゃんうちのこと何にもいわんと、あんたのことばっかり、ああしたらいかんこうしたらいかんいうやないか。あんたの方が愛しられてる証拠やし」いうてたのんですが、夫にいわしたら、愛してるもんこないにいじめるはずない、僕を疲れさして、情慾も何も起らんように麻痺《まひ》さしといて、二人で好きな真似《まね》しょういう計略やないかいいます。そいでおかしいのんは晩御飯の時やかい、お互に睡眠剤で胃イ悪うしてて、食慾ちょっともあれしませんのんに、お腹《なか》空《す》いてたら早う薬循《まわ》りますさかい、なるだけ余計喰《た》べとことして、孰方《どっち》も相手の御飯の数勘定して競争で詰め込みますのんで、「そない喰べたら薬利《き》けへんよって、二人とも二饌《ぜん》以上喰べることならん」いいなさって、しまいには光子さんお膳の傍に眼エ光らして、監督してなさるようになったんのんです。何せあの頃の生理状態いいましたら、今考えでも無事でいられたのん不思議なぐらいで、胃イ衰弱してるとこい毎日飲まされる薬の分量多いのんで、一時に吸収出来へんせえか、お昼になってもしょッちゅう意識ぼんやりしてて、生きてるのんか死んでるのんか分らんみたいに、顔色ますます青うなる。体は痩《や》せて来る。それより困るのんは感覚鈍うなって来る。ところが光子さんの方は、そないに二人苦しめて御飯の制限までしときながら、自分いうたら何ぼでもおいしいもん喰べて、つやつやしい血色してなさる。つまり私たちは光子さん一人が太陽みたいに輝いて見えて、どんなに頭疲れてる時でも光子さんの顔さい見たら生き返ったようになりますのんで、ただそれ一つ楽しみに命つないでいる。光子さんもまた、「なんぼ神経麻痺してたかて、あてに逢《お》うたらハッキリするやろ? そやなかったら熱情足らんねんし」いいなさって、興奮の程度で孰方《どっち》パッション強いか分る、そやさかい睡眠剤飲ますこと尚更《なおさら》止められへんいいなさいますねん。まあいうてみたら、普通のパッション捧《ささ》げられても面白ない、薬の力で情慾鎮静さされてしもてても燃えるような愛感じるのでなかったら満足出来へん。――結局二人藻抜《もぬ》けの殻《から》みたいにさして、この世の中に何の望みも興味も持たんと、ただ光子さんいう太陽の光だけで生きてるように、それ以外に何の幸福も求めんようにさしたいいうことになるのんで、薬飲むのん厭《いや》がったりしたら泣いて怒んなさるのんです。そら、まあ、自分がどのくらい崇拝しられてるか試してみてそれ愉快がるような心理、前から光子さんにあったことはありましたもんの、そない極端に、ヒステリーみたいなこといい出しなさったのんは、何ぞ別に理由あるのんに違いないのんで、多分綿貫の感化やないか思いますねん。というのんは、最初の経験から健全な相手では物足らんようにさされてなさって、誰掴《つか》まえても綿貫と同じようにさしたかったのんやないか? そやなかったら何であない残酷に人の感覚麻痺《まひ》さす必要ありましてんやろ? よう昔の話に、死霊《しにりょう》や生霊《いきりょう》乗り移るということ聞いてますけど、何や光子さんの様子いうたら、綿貫の怨念《おんねん》祟《たた》ってるみたいに日増しに荒《すさ》んで来なさって、ぞうッと身の毛のよだつようなことありますのんで、そない思たら光子さんばっかりやあれしません、あの健全な、非常識なとこ微塵《みじん》もなかった夫までが、いつや知らん間に魂入れ替ったように、女みたいなイヤ味いうたり邪推したりして、青オイ顔ににたにた笑い浮べながら光子さんの御機嫌取ったりしますのんで、そんな時の物のいい方や表情のしかたや、陰険らしい卑屈な態度じっと見てましたら、声音《こわね》から眼つきまでとんと綿貫生き写しになってるやあれしませんか。ほんまに人間の顔いうもん心の持ちようでその通りに変って来るもんやとつくづく思いましてんけど、それにしたかて怨霊の祟りいうようなこと、先生どない思やはりますやろ? 取るに足らん迷信や思やはりますやろか? なんせ綿貫はあない執念深い男ですやさかい、蔭で私ら呪《のろ》てて、何ぞ恐い禁厭《まじない》でもして、夫に生霊取り憑《つ》いてたかも分れしません。それで私「あんた段々綿貫みたいになって来るわなあ」いうてやりますと、「自分でもそない思てる」いうて、「光ちゃん僕を第二の綿貫にするつもりやねん」いいますのんで、もうその時分の夫いうたら凡《す》べての運命に従順になってしもてて、自分が第二の綿貫にさされること拒まんばっかりか、かいってそれ幸福に感じてるらしいて、薬飲むのんも、しまいには進んで飲まされること願うようになって来ましてん。光子さんにしましたら、どうせ三人こないになったら無事に収まるはずあれしませんさかい、もうどないでもなれいう気イで、焼け糞《くそ》半分になってなさって、事に依《よ》ったら夫と私だんだん薬で衰弱さして殺してしまお、……と、心の底ではそんな企《たくら》み持ってなさったのんやないか。……そない思たのん私だけやのうて、「僕かてそれ覚悟してる」と、夫もいうてましたぐらいで、ほんまいうたら、もう直き二人幽霊のように細うなって死んでしまうのん待ってなさって、その時限り自分は巧いこと手エ退《ひ》いて、すっくり真面目《まじめ》な人間になって、ええ婿《むこ》さん捜そ思てなさるのんやろ、「僕もお前もこないに青い顔してるのんに、光ちゃん一人丈夫そうにぴんぴんしてる様子見たら、どうやらそうに違いない気イする」いいますねん。そんで夫も私も、衰弱の余り楽しいことも嬉しいことも感じんようになってしもたら、もうその時がこの世の終りやと観念してて、今日死ぬか明日死ぬか思いながら生きてましてん。
ああ……ほんまに私、その予想の通りになってあの時一緒に殺されたらどない幸福でしたやろ。それがこないな思いかけぬ結果になってしもたのんは、あの新聞に記事出たのん第一の原因ですのんで、なんでもあれ九月の二十日頃でしたやろか、或る朝夫が「ちょっと起きてくれ」いいますよって、何や思たら、「誰やこんなもん送って来た奴ある」いうて、いつも見たことない新聞の三面のとこ広げてて、そこ覗《のぞ》いてみましたらあの綿貫に書かされた書付大きな写真にして載せたあって、仰山なこと書き立ててある見出しの上に、赤インキで二重円の印附けたあるやあれしませんか。それも一日だけやない、記者の手許《てもと》に材料たんと集まってるさかい、連日にわたってこの醜悪なる有閑階級の罪状を摘発すべしという予告したありますのんで、「それ見なさい、やっぱり綿貫に欺されてたんや」いいましたもんの、もうその時は案外度胸すわってしもてて、口惜《くや》しいとも忌《い》ま忌ましいとも思わんと、「いよいよ最後の時来た」いう感じ、真っ先に来ましてん。「ふん、馬鹿な奴ッちゃ、今更こないなこと書かして何になる」いうて、夫も血の気エ失《う》せた頬《ほ》べたに冷やかなほほ笑み浮べてるだけで、「構《か》めへん、構めへん、放っといたらええ」いいましてんけど、そいでもその新聞いうたら信用のない小新聞ですさかい、まさか世間が真に受けるはずないやろいうのん頼みにして、何は措《お》いても光子さんとこい電話で知らして、「これこれの新聞家《うち》いも送って来たよって、光ちゃんとこいも来てへんか」いうたげましたら、慌《あわ》てて捜して見なさって、「来てた、来てた、ええ塩梅《あんばい》にまだ誰アれも見えへなんでん」いいなさって、その新聞懐《ほところ》に入れて、「どないしたらええやろ」いいながら駈《か》け込んで来なさいましてん。
最初私らは、綿貫の売り込んだ材料やったら自分に都合悪いこと書けへんやろし、私と光子さんとの事なら今に始まった噂《うわさ》やないし、大した問題にはならんかも知れへん、まあ、まあ、そない慌てるにも及ばんやろ思てましたのんで、二、三日目エに光子さんの家い知れた時にも、「また例のわるさやってるのんです、偽筆の署名まで拵《こしら》えて写真に出すやなんてあんまり悪辣《あくらつ》ですさかい、訴えてやってもよろしいんですが」と、夫の口でええようにいいくるめさして、ほっと一と安心してたところが、記事はそいから何日たってもしまいにならんと、一層深刻に真相に触れて来て、綿貫に不利な事実かて遠慮なしに発《あば》き出したばっかりか、笠屋町の宿のこと、奈良い遊びに行ったこと、光子さんお腹《なか》に物詰めて夫に会いなさったこと、……それが、綿貫の知ってるはずないことまでも分ってるらしいて、この調子やったら、浜寺のことから狂言自殺のこと、夫渦中《かちゅう》い巻き込んだこと、何から何まで素ッ葉抜きそうな勢いやのんです。それにおかしいのんは、光子さんも私もお互に遣《や》り取りした手紙大事にしもといて、誰にかて見せたことあれしませんのんに、私の方から上げた中の一通が、――えらい猛烈な、動きの取れん文句並べたある一通が、――いつの間にやらちゃんと窃《ぬす》まれてて、れいれいしいに写真に出されましたのんで、取ったとしたらお梅どんより外にないさかい、さては綿貫とグルになってるないうこと始めて気い付いたのんですが、そないいうたら、光子さんとこ暇出されてからも二、三べん私とこい遊びに来て、用もないのんにウロウロしてたことあって、何や様子けったいな、するだけの事はしてやったのんにまだお金でも欲しいのんかいな思いましてんけど、そないにしてやるにも及ばん思てつい放ったらかして置きましたら、何でも新聞に記事載り出す二、三日前にやって来て、妙なこというて光子さん冷かしたりして行んでしもたなり、ぷッつり姿見せしません。「何ちゅう恩知らずやろ、家にいた時かて奉公人みたいなことあれへん、まるきりあてときょうだいみたいにさしといたのんに、……」「あんまり我が儘さし過ぎてんやわなあ。」「飼い犬に手エ咬《か》まれるとはこの事《こ》ッちゃし。姉ちゃんにかてあない色々してもろといて何不足やねんやろ。」「そしたらやっぱり綿貫に買収しられたんやろか。」――まあ想像しますのんに、新聞社では最初綿貫の材料に基づいて調べ出してみたら、それからそれいと隠れた事実分って来たとこい、折ようお梅どんちゅうもん見つけて掴《つか》まえたのんか。そやなかったら綿貫の奴初めからお梅どんと連絡取って、破れかぶれに自分の秘密までサラケ出して売り込んだのんか。孰方《どっち》にしたかてこないなったらもう一刻も猶予出来へん、グズグズしてたら光子さん一歩も外い出られんようになるよって早う兼ねての約束通り覚悟きめよいいましたもんの、そいでもどうしょうこうしょういうて毎日相談してましたら、そのうちにとうど浜寺のこと出始めましてん。
そいから先の出来事は孰《ど》の新聞にもあない委《くわ》しいに出ましたぐらいで、先生かてよう御承知ですやろし、もうもうそないに管々《くだくだ》しいに過ぎ去った日のことお聞かせせんかて、……何や私も、あんまり長いことしゃべったせえかけったいに興奮して、辻褄《つじつま》の合わんこと話したような気イしますねんけど、……ただ新聞に洩《も》れてることいいましたら、あの時第一に「死の」いい出しなさって最後の手筈《てはず》きめなさったのんは光子さんでしてん。たしかお梅どんに手紙盗まれたこと分った日イに、「こないなもん家い置いといたら危険や」いうて、証拠になるような文殻《ふみがら》全部私とこい持って来なさいましたのんで、「焼いてしまおか」いいましたら、「いや、いや、あてらいつ何どき不意に死なんならんか分れへんさかい、書き置きの代りにこの記録遺《のこ》しとこ。どうぞ姉ちゃんのと一緒に大事に預かっといて頂戴」いいなさって、私らにも身イの周《まわ》りのもん整理しとくようにいいつけたりして、そいから二、三日目エの、十月二十八日の午後一時頃「いよいよ家の様子おかしい、今日帰ったら出られんようになりそうな」いうて来なさって、逃げて掴まえられたりしたらあかんさかい、いっそいつもの部屋で死のいいなさいましてん。それで枕もとの壁にあの観音様の画像飾って、三人寄ってお線香《せんこ》上げて、「この観音様の手引《てびき》やったら、あて死んだかて幸福や」と、私がそないいいましたら、「僕ら死んだら、この観音様『光子観音』いう名アつけて、みんなして拝んでくれたら浮かばれるやろ」と夫もいうて、彼《あ》の世い行ったらもう焼餅喧嘩《げんか》せんと仲好《よ》う脇仏《わきぼとけ》のように本尊の両側にひッついてまひょと、光子さん真ん中に入れて枕並べながら薬飲みましてん。……はあ? そら、そうですねん、何でその時、私だけ一人残されるいうこと思いましたやろ、明くる日眼エ覚ました時にも、直きに二人の跡追おう思いましてんけど、ひょッとしたら、生き残ったん偶然やないかも分れへん、死ぬまで二人に欺されてたのんやないやろかいう気イしましたら、あの手紙の束《たば》預けなさったことにしたかて疑がわしいになって来て、折角死んでも彼《あ》の世で邪魔にしられるのんやないかと、ああ、……先生、(柿内未亡人は突然はらはらと涙を流した。)……その疑がいさいなかったら、……今日までおめおめ生きてる私やあれしませんねんけど、……そうかて死んでしもた人恨んだとこで仕方あれしませんし、今でも光子さんのこと考えたら「憎い」「口惜《くや》しい」思うより恋しいて恋しいて、……ああ、どうぞ、どうぞ、こない泣いたりしまして堪忍して下さい。……
底本:「卍(まんじ)」岩波文庫、岩波書店
1950(昭和25)年5月20日第1刷発行
1985(昭和60)年12月16日第18刷改版発行
1990(平成2)年4月25日第20刷発行
初出:「改造」改造社
1928(昭和3)年3月~1929(昭和4)年4月、6月~10月、12月~1930(昭和5)年1月、4月
※「懐」に対するルビの「ふところ」と「ほところ」の混在は、底本通りです。
※表題は底本の目次では「卍(まんじ)」、「中扉」では「まんじ」となっています。
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校正:酒井和郎
2017年6月27日作成
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