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死者の書
戊寅、天子東狃二于沢中一。逢二寒疾一。天子舎二于沢中一。盛姫告レ病。天子憐レ之。□沢曰二寒氏一。盛姫求レ飲。天子命レ人取レ漿而給。是曰二壺※[#「車+端のつくり」、8-2]一。天子西至二于重壁之台一。盛姫告二病一。□天子哀レ之。是曰二哀次一。天子乃殯三盛姫二于轂丘之廟一。□壬寅、天子命レ哭。(略)……癸卯、大哭。殤祀而載。甲辰、天子南、葬二盛姫於楽池之南一。天子乃命二盛姫□之喪一。視二皇后之葬法一。亦不拝後于諸候。(略)……甲申、天子北、升二大北之一。而降休二于両栢之下一。天子永念傷心、乃二思淑人盛姫一。於レ是流涕。七萃之士※[#「くさかんむり/要」、8-7]予上二諫天子一曰、自レ古有レ死有レ生、豈独淑人。天子不レ楽出二於永思一。永思有レ益、莫レ忘二其新一。天子哀レ之。乃又流涕。是日輟。己未。乙酉。天子西絶二※[#「金+研のつくり」、8-9]
一。乃遂西南。戊子、至二于塩一己丑。天子南登二于薄山※[#「穴かんむり/眞」、8-10]※[#「車+令」、8-10]之
一。乃宿二于虞一。庚申、天子南征。吉日辛卯、天子入二于南※[#「酋+おおざと」、8-10]一。
穆天子伝
一
鄭門にはひると、俄かに松風が吹きあてるやうに響いた。
一町も先に、堂伽藍が固まつて見える。――そこまで、ずつと砂地である。白い地面に、広い葉が青いまゝでちらばつて居るのは、朴の葉だ。
まともに、寺を圧してつき立つてゐるのが、二上山《ふたかみやま》[#「二上山」は底本では「二山上」]である。其真下に、涅槃仏のやうな姿に寝てゐるのが、麻呂子山だ。其頂がやつと、講堂の屋の棟に乗つてゐるやうにしか見えない。
こんな事を、女の身で知つて居る訳はない。だが俊敏な此旅びとの胸には、其に似たほのかな綜合が出来あがつて居たに違ひない。暫らくの間、懐しさうに薄緑の山色を仰いで居る。其から赤色の激しく光る建て物へ、目を移して行つた。
此寺の落慶供養のあつたのは、つい四五日前《あと》であつた。まだ其日の喜ばしい騒ぎの響きが、どこかにする様に、麓の村びと等には感じられて居る程なのだ。
山颪《おろし》に吹き暴《さら》されて、荒草深い山裾の斜面に、万蔵法院《まんざうはふゐん》のみ燈《あかし》の煽られて居たのに目馴れた人たちは、この幸福な転変に目をつて居るだらう。此郷近くに田荘《ナクドマル》を持つて、奈良に数代住みついた豪族の一人も、あの日は帰つて来て居た。此は天竺の狐の為わざではないか、其とも、此葛城郡に昔から残つてゐる幻術師《まぼろし》のする迷はしではないかと、廊を踏み鳴し、柱を叩いて見たりしたものである。
数年前の春の初め、野焼きの火が燃えのぼつて来て、唯一宇あつた堂が、忽痕もなくなつた。其でも、寺があつたとも思ひ出さぬほど、微かな昔であつた。
以前もの知らぬ里の女などが、其堂の名に不審を持つた。当麻の村にありながら、山田寺と言つたからである。山の背の河内の国安宿部《あすかべ》郡の山田谷から移つて二百年、寂しい道場に過ぎなかつた。其でも一時は倶舎《くしや》の寺として、栄えたこともあつたと伝へて居る。
飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を夢に見られて、おん子を遣され、堂を修理し、僧坊が建てさせられて居た。追追、境内になる土地の縄張りの進んでゐる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。都からお使ひが見えて、其ほど因縁の深い土地だから、墓はそのまゝ其村に築くがよいとのことであつた。其お墓のあるのが、あの麻呂子山だと言ふ。其縁を引いて、其郷の山には、後にも貴人をお埋め申すやうな事が起つた。
だが、此は唯、此里の語りの姥の口に、さう伝へられてゐると言ふに過ぎないことであつた。纔《わづ》かに百年、其短い時間も文字に疎い生活には、さながら太古を考へると同じことである。
旅の若い女性《によしやう》は、型摺りの美しい模様をおいた麻衣を著て居る。笠は浅い縁《へり》に、深い縹《はなだ》色の布が、うなじを隠すほどにさがつてゐる。
日は五月、空は梅雨《つゆ》あがりの爽やかな朝である。高原の寺は、人の住む所から、自ら遠く建つて居た。唯凡、百人の僧俗が、寺中に起き伏して居る。其すら、引き続く供養饗宴の疲れで今日はまだ、遅い朝を姿すら見せない。
女は、日を受けてひたすら輝く伽藍の廻りを残りなく歩いた。
寺の南境は、麻呂子山の裾から、東へ出てゐる長い崎が劃つて居た。其中腹と、東の鼻とに、西塔、東塔が立つて居る。丘陵の道をうねり乍ら登つた旅びとは、東塔の下に出た。
其でも薄霧のかゝつたやうに、雨の後の水気の立つて居た大和の野は、すつかり澄みきつた。
若昼のきら/\しい景色になつて居る。左手の目の下に集中して見える丘陵は、傍岡《かたをか》である。葛城川もほの/″\と北へ流れて行く。平原の真中に旅笠を伏せたやうに見える。遠い小山は、耳無《みゝなし》の山である。其右に高くつゝ立つてゐる深緑は畝傍山。更に遠く日を受けてきらつく池は、埴安《はにやす》の水ではないか。其側に平たい背を見せたのは、聞えた香具《かぐ》山なのだらう。旅の女は、山々の姿を辿つてゐる。香具山をあれだと考へた時、あの下が、若い父母の育つた、其から叔父叔母、又一族の人々の行き来したことのある藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬと知れて居ても、ひとりでに爪先立てゝ伸び上る気持が出て来る。
香具山の南の裾に輝く瓦舎《かはらや》は、大官大寺《だいくわんだいじ》に違ひない。其から更にまつ直に、山と山との間に薄く霞んでゐるのが、飛鳥の村なのであらう。祖父も祖々父《ひぢゝ》も其父も皆あの辺りで生ひ立つたのだ。
この国の女に生れて、一足も女部屋《をんなべや》を出ないことを美徳として時代に居る身は、親の里も祖先の土も、まだ踏みも知らない。あの陽炎《かげらふ》の立つてゐる平原を、此足で隅から隅まで歩いて見たい。かう彼女性《によしやう》は思つてゐる。だが其よりも大事なことは、此郎女《いらつめ》――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、こゝまで歩いて来てゐるのである。其も唯のひとりであつた。
家を出る時、瞬間心を掠めた――父が案じるだらうと言ふ考へも、もう気にはかゝらなくなつて居る。乳母があわて求めるだらうと言ふ心が起つて来ても、却てほのかなこみあげ笑ひを誘ふ位の事になつてゐる。
山はづつしりとおちつき、野はおだやかに畝つて居る。こゝに居て、何の物思ひがあらう。この貴い娘は、やがて後をふり向いて、山のなぞへについて首をあげて行つた。
二上山。この山を仰ぐ時の言ひ知らぬ胸騒ぎ。藤原飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すつかり違つた懐しさ。旅の郎女は、脇目も触らず、山を仰いでゐる。さうして静かな思ひが、満悦に充ちて来るのを覚えた。昔びとは、確実な表現を知らぬ。だが謂はゞ――平野の里に感じた喜びは、過去生《しやう》に対するものであり、今此山を臨み見ての驚きは未来を思ふ心躍りであつたと謂へよう。
塔はまだ厳重にやらひを組んで人の立ち入りを禁《いまし》めてあつた。でも拘泥することを教へられて居ない姫は、何時の間にか塔の一重の欄干によりかゝつて居る自分に気がついた。
さうして、しみ/″\と山に見入つて居る。山と自分とに繋《いまし》つてゐる深い交渉を、又くり返し考へはじめたのである。
郎女の家は、奈良東城の右京二条第七坊にある。祖父武智麻呂の亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年になる。父は横佩《よこはき》の大将《だいしやう》と謂はれる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて者《もの》であつた。なみの人の竪にさげて佩く大刀を横に吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住民は、まだかうした官吏としての豪華な服装を趣向《この》むまでに到つて居ない頃、若い姫の父は、近代の時装に思ひを凝して居た。古い留学生や、新来の帰化僧などを訪問して尋ねることも張文成などの新作の物語などは、問題にはして居なかつた。
さうした濶達なやまとごゝろを赴くまゝに伸して居る間に、才《さえ》優れた族人が、彼を乗り越しかけて居た。姫には叔父、彼――豊成にはさしつぎの弟仲麻呂である。
その父君も、今は筑紫に居る。家族の半以上は、太宰帥のはな/″\しい生活の装ひとして連れて行つてしまつた。奈良の家は、とりわけ寂しくなつて居る。
宮廷から賜つて居る|従《とねり》は、大貴族の家々の門地の高さを示すものとして、美々しく著飾らして出入させたものだが、其すら太宰府へついて行つてしまつた。
寂かな屋敷には物音も聞えて来る時すら多かつた。この家の女部屋は、日あたりに疎い北の屋の西側に小さな蔀戸《しとみど》があつて、其をつきあげると、方一間位なになるやうに出来てゐる。さうして其内側には夏冬なしに簾が垂れてあつて、外からの隙見を防いだ。
さうして其外《そと》は、広い家の外廓になつて居て、大炊殿《おほいどの》もあれば、火焼《ひた》き屋なども、下人の住ひに近い処に立つてゐる。苑《その》と言はれる菜畠やちよつとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える唯一の風景であつた。
武智麻呂時代から、此屋敷のことを、世間では、南家と呼び慣はして来てゐる。此頃になつて、仲麻呂の威勢が高まつて来たので、何となく其古い通称は人の口から薄れて、其に替る称へが行はれ出したのである。二京七坊をすつかり占めた大屋敷を、一垣内《ひとかきつ》――一字《ひとあざ》と見倣して、横佩墻内《よこはきかきつ》と言ふ者が著しく殖えて来たのである。
太宰府からは、この頃久しく音づれがなかつた。其でも、半年目に都へ戻つて来た家の子は、一車に積み余るほどな家づとを、家の貴公子たち殊に、姫にと言つて持ち還つて来た。
山国の狭い平野に、一代々々都遷しがあつた長い歴史の後、こゝ数十年やつと一つ処に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なか/\整ふまでにはなつて居なかつた。
官庁や、大寺が、によつきり立つてゐる外は、貴族の屋敷が、処々むやみに面積を拡げて、板屋や瓦屋が、交《まじ》り/\に続いてゐる。其外は、広い水田と、畠と、荒蕪地の間に、庶民の家が、ちらばつて見えるだけであつた。兎や、狐が大路小路を駆け廻る様なことは、あたり前である。つい此頃も、朱雀大路《しゆじやくおほぢ》の植ゑ木の梢を、夜になると、鼠が飛び歩くと言ふので、一騒ぎしてゐた。
横佩家の郎女《いらつめ》が、称讃浄土摂受経《しようさんじやうどせふじゆきやう》を写しはじめたのも、其頃からであつた。父の心づくしの贈り物の中で、一番郎女の心を明るくしたのは、此新訳の阿弥陀経一巻《いちくわん》であつた。
この山の都よりも、太宰府は開けてゐた。大陸の新しい文物は、皆一度は、この遠《とほ》の宮廷領《みかど》を通過するのであつた。唐から渡つた珍品などは、太宰府ぎりで、都へは出て来ないものが、なか/\多かつた。
学問や芸術の味ひを知り初めた志の深い人たちは、だから大唐までは行けずとも、せめて太宰府だけへはと、筑紫下りを念願にして居る位である。
南家《なんけ》の郎女《いらつめ》の手に入つた称讃浄土経も、大和一国の大寺と言ふ大寺に、まだ一部も蔵せられて居ないものである。
姫は、蔀戸近くに、時としては机を立てゝ写経をしてゐることもあつた。夜も、侍女たちを寝静らしてから、油火《あぶらび》の下で、一心不乱に書き写して居た。
百部は、夙くに写し果した。今は千部手写の発願をして居る。冬は春になり、夏山と繁つた春日山も、既に黄葉《もみぢ》して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は昼も鳴くやうになつた。佐保川の水を引き入れた庭の池には、遣り水伝ひに、川千鳥の啼く日すら続くやうになつた。
今朝も、何処からか、鴛鴦の夫婦鳥《つまどり》が来て浮んで居ます、と童女《わらはめ》が告げに来た位である。
五百部を越えた頃から、姫の身は目立つてやつれて来た。ほんの纔かの眠りを摂《と》る間も、ものに驚いて覚める様になつた。其でも、八百部の声を聞く時分になると、衰へたなりに、健康は定まつて来たやうに見えた。やゝ蒼みを帯びた皮膚に、少し細つて見える髪が、愈黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言ふことを嫌ふやうになつた。さうして、昼すら何か夢見るやうな、うつとりとした目つきをして、蔀戸ごしに西の空を見入つて居ることが、皆の注意にのぼる様になつた。
実際九百部を過ぎてから、進みは一向、はかどらなくなつた。二十部、三十部、五十部、心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがひなさを悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分担することが出来ように、と思ふからである。
南家の郎女が、宮から召されることになるだらうと言ふ噂が、京・洛外に拡つたのも、其頃である。屋敷中の人々は、身近く事《つか》へる人たちから、垣内《かきつ》の隅に住む奴隷《やつこ》・婢奴《めやつこ》の末にまで、顔を輝して、此とり沙汰を迎へた。
でも、姫には、誰一人其を聞かせる者がなかつた。其ほど、此頃の姫は気むづかしく、外目《よそめ》に見えてゐるのである。
千部手写の望みは、さうした大願から立てられたものだらうと言ふ者もあつた。そして誰も、其を否む者はなかつた。
南家の姫の美しい膚は益透きとほり、潤んだ目は、愈大きく黒々と見えた。さうして、時々声に出して誦《じゆ》する経文が、物の音《ね》に譬へやうもなく、さやかに人の耳に響いた。聞く人自身の耳を疑ふばかりだつた。
去年の春分の日の事であつた。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向つて居た。日は此屋敷からは、稍坤《ひつじさる》によつた山の端に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日は俄かに転《くるめ》き出した。その速さ。雲は炎になつた。日は黄金《わうごん》の丸《まるがせ》になつて、その音も聞えるかと思ふほど鋭く廻つた。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、ぢつと見つめて居た。やがて、すべての光りは薄れて、雲は霽れた。夕闇の上に、目を疑ふほど鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、あり/\と荘厳な人の俤が、瞬間顕れて消えた。後は真暗な闇の空である。山の端も、雲も何もない方に、目を凝《こら》して、姫は何時までも端座して居た。
姫の心は、其時から愈澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝《まさ》つて行くばかりである。
ゆくりない日が、半年の後に再来て、姫の心を無上《むしやう》の歓喜に引き立てた。其は秋彼岸の中日、秋分の夕方であつた。姫は曾ての春の日のやうに坐してゐた。朝から、姫の白い額は、故もなくひよめいた。長い日の後である。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟した光りが、くるめき出したのである。雲は火となり、日はまるがせとなり、青い響きの吹雪を吹き捲く風。
雲がきれ、光りのしづまつた山の端は、細く金の外輪を靡かして居た。其時峰の間に、あり/\と浮き出た髪、頭、肩、胸――。
姫は又、あの俤を見ることを得たのである。南家の郎女の幸福な噂が、春風に乗つて来たのは、次の春である。姫は別様の心躍りを、一月も前から感じて居た。さうして日を数《と》り初めて、ちようど今日と言ふ日。彼岸中日、春分の空が朝から晴れて、雲雀は天に翔り過ぎて帰らないほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を写し果して、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であつた。経巻の最後の行、最後の字を書きあげて、ほつと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなつて居る。目をあげて見る蔀窓の外には、雨がしと/\と落ちて居るではないか。姫は立つて手づから簾をあげて見た。雨。
苑の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも音が立つて来た。
姫は立つても坐《すわ》ても居られぬ焦燥に煩えた。併し日は益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が来た。
茫然として、姫はすわつて居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加つて来た風の響きも、もう姫は聞かなかつた。
二
南家の郎女が神隠《かみかく》しに遭つたのは、其夜であつた。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、気がつかなかつたのである。横佩墻内《よこはきかきつ》に住む者は、男も女も、上《うは》の空になつて、京中京外を馳せ求めた。さうした奔《はし》り人《びと》の多く見出される場処と場処とは、残りなく捜された。春日山の奥へ入つたものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山の墓原も佐紀山の雑木原も、又は、南は山村《やまむら》、北は奈良山。馳せ廻つて還る者も/\、皆空《から》足を踏んで来た。
姫は何処をどう歩いたか、覚えがない。唯、家を出て西へ/\と辿つて来た。降り暮るあらしが、姫の衣を濡した。姫は誰にも教はらないで、裾を脛《はぎ》まであげた。風は姫の髪を吹き乱した。姫は、髻《もとゞり》をとり束ねて、襟から着物の中に、くゝり入れた。夜中になつて雨風が止み、星空が出た。姫の行くてに、二つの峰の並んだ山の立ち姿がはつきりと立つて居た。毛孔の竪つやうな畏しい声を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であつた。其後、頻りなく断続したのは、山の獣の叫び声であつた。大和の内も、都に遠い広瀬旧城あたりには、人居などは、ほんの忘れ残りのやうに、山蔭などにあるだけで、あとは曠野と、本村《ほんむら》を遠く離れた田居《たゐ》ばかりである。
片破れ月が出て来た。其が却てあるいてゐる道の辺の凄さを照し出した。其でも、星明りで辿つて居るよりは、よるべを生じて、足が先へ/\と出た。月が中天へ来ない前に、もう東の空がひいはり白んで来た。
夜のほの/″\明けに、姫は目を疑ふばかりの現実に出くはした。
横佩家の侍女たちは、何時も夜の起きぬけに、一等最初に目撃した物事で、日のよしあしを占うて居るやうだつた。さうした女らのふるまひに、特別に気を牽かれなかつた郎女だけれど、よく其人々が、「今日の朝日がよかつたから」「何と言ふ情ない朝日だ」などゝ、そは/\と興奮したり、むやみに塞ぎこんだりして居るのを見聞きしてゐた。
郎女は、生れてはじめて「朝日よく」と謂つた語を内容深く成じたことである。目の前に、赤々と丹塗《にぬ》りに照り輝いて、朝日を反射して居るのは、寺の大門ではないか。さうして、門をとほして、第二の門が見えて、此もおなじ丹塗りにきらめいて居る。
山裾の勾配に建てられた堂、塔、伽藍は、更に奥に、朱《あけ》に、青に、金色に光りの靄を幾重にも重ねて見渡された。朝日のすがしさは、其ばかりではなかつた。其寂寞たる光りの海の中から、高く抽でゝ見えるのは、二上山であつた。
淡海《たんかい》公の孫、大織冠《たいしよくくわん》の曾孫藤氏南家の族長太宰、帥豊成、其第一嬢子《だいいちぢやうし》なる姫である。屋敷から一歩はおろか、女部屋から膝行《ゐざ》り出ることすら、たまさかにもせない郎女《いらつめ》のことだ。順道《じゆんたう》なれば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡《ひらをか》の御神《おんかみ》か、春日の御社《みやしろ》に仕へてゐるはずである。家に居ても、男を寄せず、耳に男の声も聞かず、男の目を避けて、仄暗い女部屋に起き伏しゝてゐる人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬやうに育てられて来た。
寺と言ふ物が、奈良の内外にも幾つとあつて、横佩墻内《かきつ》と讃《たゝ》へられてゐる屋敷よりも、もつと広大なものだとは聞いて居た。さうでなくても、経文の上に見る浄土の荘厳《じやうごん》をうつした其建て物の様には、想像しないではなかつた。だが目《ま》のあたり見る尊さは讃歎の声すら立たなかつた。
之に似た驚きの経験を、曾て一度したことがあつた。姫は今其を思ひ起して居る。簡素と豪奢との違ひこそあれ、歓喜に撲たれた心地は印象深く残つてゐる。
今の 太上天皇様がまだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳《はつさい》の南家の郎女《いらつめ》は、童女《わらはめ》として初《はつ》の殿上《でんじやう》をした。穆々《ぼく/\》たる宮の内の明りは、ほのかな香気を含んで流れて居た。昼すら真夜に等しい御帳台《みちやうだい》のあたりにも、尊いみ声は昭々と珠を揺る如く響いた。物わきまへもない筈の八歳の童女は感泣した。
「南家には、惜しい子が、娘となつて生れたことよ」と仰せられたと言ふ畏れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間にくり返された。
其後十二年、南家の娘は二十になつてゐる。幼いからの聡《さと》さにかはりはなくて、玉水精《すゐしやう》の美しさが加つて来たとの噂が年一年と高まつて来る。
姫は大門の閾を越えながら、童女殿上《わらはめでんじやう》の昔の畏《かしこ》さを追想して居た。長いいしき道を踏んで、二の門に届いた時も、誰一人出あふ者がなかつた。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、虔《つゝま》しく併しのどかに、御堂々々の御仏を礼んで、東塔の岡に来たのであつた。
こゝからは、北の平野は見えない。見えたところで、郎女は奈良の家を考へ浮べることもしなかつたであらう。まして、家人たちが、神隠しに遭つた姫を探しあぐねて居ようなどゝは、思ひもよらなかつたのである。唯うつとりと、塔の下から仰ぎ見る二上山の山肌に、現《うつ》し世《よ》の目からは見えぬ姿を見ようとして居るのであらう。
此時分になつて、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝の勤めをすまして、うと/\して居た僧たちも、爽やかな朝の眼をいて、食堂へ降りて行つた。奴娘《ぬひ》は其に持ち場/\の掃除を励む為に、洗つたやうになつた境内に出て来た。
そこに御座るのは、どなたやな
岡の蔭から、恐る/\頭をさし出して問うた一人の婢子《めやつこ》は、あるべからざる事を見た様に、自分自身を咎めるやうな声をかけた。女の身として、此岡へ上る事は出来なかつたのである。姫は答へようとせなかつた。又答へようとしても、かう言ふ時に使ふ語には馴れて居ない人であつた。若し又、適当な語を知つて居たにしたところで、今は、そんな事に考へを紊されてはならない時だつたのである。
姫は唯、山を見てゐる。山の底にある俤を観じ入つてゐるのである。
娘奴《めやつこ》は二言《こと》と問ひかけなかつた。一晩のさすらひでやつれて居ても、服装から見てすぐ、どうした身分の人か位の判断はついたのである。
又暫らくして、四五人の跫音が、べた/\と岡へ上つて来た。今度は娘奴は姿を表さなかつた。年のいつたのや、若い僧が、ばら/\と走つて、塔の結界の外まで来た。
こゝまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人は、とつとゝ岡を降ることだ。
姫はやつと気がついた。さうして、人とあらそはぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、結界の垣の傍まで来た。
見れば、奈良の方さうなが、どうしてそんな処に入らつしやる。
どうして、之な処までお出でだ。
お伴すら連れないで。
口々に問うた。男たちは咎める口とは別に、心ではめい/\、貴い女性をいたはる気持ちになつて居た。
二上山に逢ひに……。そして今、山の頭をつく/\見て居た……。
此頃の貴族の家庭の語と、凡下の人の語とはすつかり変つて居た。だから言ひ方も、感じ方も、其に語其ものすらも、郎女の語が、そつくり寺の所化などには、通じやうがなかつた。
でも其でよかつたのである。其でなくて、語の内容が其まゝ受けとられようものなら、南家の姫は、即座に気のふれた女と思はれてしまつたであらう。
それで、御館《みたち》はどこやな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたはと言ふのだよ。
をゝ。私の家。右京藤原南家……。
俄然として、群集の上にざはめきが起つた。四五人だつたのに、後から/\登つて来た僧たちが加つて、二十人以上にもなつて居る。其が、口々に喋り出したのである。
ようべの嵐に、まだ残りがあつたと見えて、日の明るく照つて居る此小昼に、又風がざはつき出した。此の岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての屋根々々にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。小桜の花が咲き出したのである。
此時分になつて、奈良の家では、誰となく、こんな事を考へはじめた。此は、きつと里方の女たちがよくする春の野遊びに出られたのだ。何時からとも知らぬ習はしである。田舎人たちは、春秋の日夜平分する頂上の日には、一日、日の影を逐うて歩く風が行はれて居た。どこまでも/\野の限り、山も越え、海の渚まで日を送つて行つた女すら、段々あつた。さうして夜はくた/\になつて家路を戻る。此為来りを何時となく女たちの咄すのを聞いて、姫が女の行《ぎやう》として、此の野遊びをする気になられたのだ、と思つたのである。かう言ふ考へに落ちつくと、皆の心が一時ほうと軽くなつた。
ところが、其日も昼さがりになり、段々夕かげが催して来る時刻が来た。昨日は駄目になつた日の入りの景色が、今日は其にも劣るまいと思はれる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなつて来た。
三
万蔵法院の北の山陰に、昔から小さな庵室があつた。昔からと言ふのは、貴人がすべて、さう信じて居たのである。荒廃すれば繕ひ/\して、人は住まぬ宿に、孔雀明王像が据ゑてあつた。当麻《たぎま》の村人の中には、稀に此が山田寺であると言ふものもあつた。さう言ふ人の伝へでは、万蔵法院は、山田寺の荒れて後、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言ひ、又御自身の発起からだとも言ふが、一人の尊いみ子が、昔の地を占めにお出でになつて、大伽藍を建てさせられた。其際、山田寺の旧蹟を残す為に寺の四至の中の北の隅に、当時立ち朽りになつて居た庵室に手入れをして移されたのだと言ふのである。さう言へば、山田寺は、役《え》ノ君《きみ》「小角《をづぬ》」が山林仏教を創める最初の足代《あししろ》になつた処だと言ふ伝へが、吉野や、葛城の修験《しゆげん》の間にも言はれてゐた。何しろさうした大伽藍が焼けて百年、荒野の道場となつて居た目と鼻との間に、之な古い建て物が残つて居たと言ふのも、不思議なことである。
夜はもう更けて居た。谷川の激《たぎ》ちの音が、段々高まつて来る。二上山の二つの峰の間から流れ取る水なのだ。
廬の中は、暗かつた。炉を焚くことの少い此地方では、地下《ぢげ》の百姓は夜は真暗な中で、寝たり坐つたりしてゐるのだ。でもこゝには、本尊が祀つてあつた。夜を守つて、仏の前で起き明す為には、御燈《みあかし》を照した。
孔雀明王の姿が、あるか無いかの程に、ちろめく光りである。
姫は寝ることを忘れたやうに坐つて居た。万蔵法院の上座の僧綱たちの考へでは、まづ奈良へ使ひを出さねばならない。横佩家の人々の心を思うたのである。次には、女人結界を犯して門堂塔深く這入つた処は、姫自身に贖《あがな》はさねばならなかつた。落慶のあつたばかりの浄域だけに、一時に塔頭々々《たつちう/\》の人々が、青くなつたのも道理である。此は、財物を施入すると謂つてだけではすまされない。長期の物忌みを、寺近くに居て果させねばならないと思つた。其で、今日昼の程、奈良へ向けて早使《はやづか》ひを出して、郎女《いらつめ》の姿が、寺中で見出された顛末を、仔細に告げてやつたのである。
其と共に、姫の身、は此庵室に暫らく留め置かるゝことになつた。たとえ、都からの迎へが来ても、結界を越えた贖ひだけは、こゝに居てさせようと言ふのである。
床は低いけれども、かいてあるにはあつた。其替り、天井は無上に高くて、而も萱のそゝけた屋根は、破風から、むき出しに空の星が見えた。風が唸つて過ぎたかと思ふと、其高い隙から、どつと吹き込んで来た。ばら/\落ちかゝるのは、煤がこぼれるのだらう。明王の前の灯が一時《いつとき》、かつと明くなつた。
その光りで照し出されたのは、あさましく荒んだ座敷だけではなかつた。荒板の床の上に、薦筵《こもむしろ》二枚重ねた姫の座席、其に向つてずつと離れた壁に、板敷に直に坐つて居る老婆が居た。
壁と言ふよりは、壁代《かべしろ》であつた。天井から吊りさげた竪薦《たつごも》が、幾枚も/\ちぐはぐに重つて居て、どうやら、風は防ぐやうになつて居る。その壁代に張りついたやうになつて居る女、先から|嗽《しはぶき》一つせぬ静けさである。
貴族の家の郎女は、一日もの言はずとも、寂しいとも思はぬ習慣がついて居た。其で、山陰の一つ家に居ても、溜め息一つ洩すのではなかつた。さつき此処へ送りこまれた時、一人の姥のついて来たことは知つて居た。だが、あまり長く音も立たなかつたので、人の居ることは忘れて居た。今ふつと明るくなつた御燈の色で、その姥の姿から顔まで一目で見た。何やら覚えのある人の気がする。さすがに、姫も人懐しかつた。ようべ家を出てから、女性《によしやう》には、一人も逢つて居ない。今そこに居る姥《うば》が、何だか、昔の知り人のやうに感ぜられるのも、無理はないのである。見覚えのあるやうに感じたのは、だが其親しみからばかりではなかつた。
お姫さま。
緘黙《しゞま》を破つて、却てもの寂しい乾声《からごゑ》が響いた。
あなたは、御存じあるまい。でも此姥《うば》は、生れなさらぬ前からのことも知つて居りまする。聴いて見る気がおありかえ。
一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく喋り出した。姫は、この姥の都に見知りのある気がした訣を悟つた。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじやうな媼《おむな》が出入りして居た。郎女たちの居る女部屋までも、何時もづか/\這入つて来て、憚りなく物語つた。あの中臣志斐媼《なかとみのしひのおむな》――。
あれとおなじ表情をして居る。其も尤であつた。志斐ノ姥が藤氏《とうし》の語部《かたりべ》の一人であるやうに、此も亦、この当麻《たぎま》の村の旧族、当麻ノ真人《まひと》の氏《うぢ》の語部《かたりべ》だつたのである。
藤原のお家が、今は四筋に分れて居りまする。だが、大織冠さまの代どころではありは致しませぬ。淡海公の時も、まだ一流れのお家で御座りました。併し其頃、やはり藤原は中臣と二つの筋に岐れました。中臣の氏人で、藤原の里に栄えられたのが、藤原と家名を申された初めで御座つた。
藤原のお流れは、公家《くげ》|摂《せふらく》の家柄、中臣の筋は、神事にお仕へする、かう言ふ風にはつきりと分ちがついてまゐりました。ぢやが、今は今昔は昔で御座ります。藤原の遠つ祖《おや》中臣の氏の神、天押雲根《あめのおしくもね》と申されるお方の事は、お聞き及びかえ。奈良の宮に御座ります 日の御子さま、其前は藤原の宮の 日のみ子さま、其又前は飛鳥の宮の 日のみ子さま、大和の国中《くになか》に宮遷し宮奠《さだ》め遊した代々の 日のみ子さま、長く久しいみ代々々に仕へた中臣の家の神わざ、お姫様、お聞き及びかえ。
遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ。中臣藤原の遠つ祖《おや》あめのおしくもね。遠い昔の 日のみ子さまのお食《め》しの飯《いひ》とみ酒を作る御料の水を、大和国中《くになか》残る隈なく捜し蒐めました。
その頃、国原の水は、水渋臭く、土濁りして、 日のみ子さまのおめしには叶ひません。天《てん》の神様、高天《たかま》の大御祖《おほみおや》教へ給へと祈るにも、国中《なか》は国低し。山々も尚天に遠し。大和の国とり囲む青垣山では、この二上、山空行く雲の通《かよ》ひ路《ぢ》と昇り立つて、祈りました。その時、高天の大御祖のお示しで、中臣の祖《おや》おしくもね、天の水の湧《わ》き口《ぐち》を、此二上山に八《や》ところまで見届けて、其後久しく 日のみ子さまのおめしの湯水は、中臣自身此山へ汲みに参りました。お聞き及びかえ。
当麻真人《たぎまのまひと》の氏の物語である。さうして其が、中臣の神わざに繋りのある点を、座談のやうに語り進んだ姥は、ふと口をつぐんだ。
外には、瀬音が荒れて聞えてゐる。中臣の遠祖が、天《あめ》ノ二上に求めた天ノ八井《やゐ》の水は、峰を流れ降つて、此岩にあたつて激《たぎ》ち流れる川なのであらう。姫は瀬音のする方に向いて掌《たなそこ》を合せた。
併しやがて、ふり向いて、仄暗くさし寄つて来てゐる姥の姿を見た時、言ひ難い畏しさと、せつかれるやうな忙しさを一つに感じたのである。其に、志斐ノ姥が本式に物語をする時の表性が、此老女の顔に現れてゐる。今、当麻《たぎま》ノ語部《かたりべ》ノ媼《おむな》が、神憑りに入るやうに、わな/\震ひはじめたのである。
四
ひさかたの 天二上《あめふたかみ》に、
吾が登り 見れば、
飛ぶ鳥の 明日香《あすか》
ふる里の 神南備山《かむなび》隠《ごも》り
家どころ 多《さは》に見え、
豊《ゆた》にし 屋庭《やには》は見ゆ。
弥《いや》彼方《をち》に 見ゆる家群《いへむら》
藤原の 朝臣《あそ》が宿。
遠々に わが見るものを、
たか/″\に 我が待つものを、
処女子《をめご》は 出で行《こ》ぬものか。
よき言《こと》を 聞かさぬものか。
青馬の 耳面刀自《みゝものとじ》。
刀自もかも、女弟《おと》もがも、
その子の はらからの子の
処女子の 一人
一人だに わが郷偶《つま》に来《こ》よ。
久方の 天二上
二上の陽面《かげとも》に、
生ひをゝり 繁《し》み咲く
馬酔木《あしび》の にほへる子を
我が 取り兼ねて、
馬酔木の あしずりしづる
吾《わ》はもよ 偲《しの》ぶ。藤原処女
歌ひ了へた姥は、大息をついて、ぐつたりした。其から暫らく、山のそよぎ、川瀬の響きばかりが耳についた。
姥は居ずまひを改めて、厳かな声音で、言ひ出した。
今のお歌の旧《もと》つ辞《ごと》を申しあげませう。此はお聞き知りにならぬ昔語りで御座る。だが、姫様にも深い図《かゝは》りのあることえ。心を静めてお聴きにならねばなりませぬ。
飛鳥の都に、 日のみ子様に近く侍つた高い御身分の方がいらせられました。近江の大津の宮の内に成人なされて、唐土の学問にも詣《いた》り深くおありになりました。此国で、詩《からうた》をはじめて作られたのは、大友皇子様か、其ともお方かと申し伝へて居るほどで御座ります。
近江の都は離れ、飛鳥の都が再栄えました頃、どうしたお心得違ひか、 日のみ子さまに弓を引くやうな企みをなされると言ふ噂が立ちました。
高天原広野姫尊《たかまのはらひろぬひめのみこと》様が、お怒りをお発しになりまして、とう/\池上の堤に引き出してお討たせになりました。
其お方がお死にの際《きは》に、深く/\思ひこまれた一人のお人が御座りまする。耳面刀自《みゝものとじ》と申す大織冠のお娘御の事で御座ります。前から深くお思ひになつて居たと云ふでもありません。唯、此郎女も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の方が、愈池上《いけがみ》の草の上で、お死になされると言ふことを聞いて、一目見てなごり惜しみがしたくてこらへられなくなりました。藤原から池上まで、おひろひでお出でになりました。小高い紫の一むらある中から、御様子を窺うて帰らうとなさいました。其時ちらりと、かのお人の最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に残る執心となつたので御座りまする。
もゝつたふ 磐余《いはれ》ノ池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
この思ひがけない心残りを、お詠みになつた歌だと、私ども当麻《たぎま》の語部では、伝へて居ります。その耳面刀自と申すのは、淡海公の妹君、姫様方の祖父《おほぢ》君南家《なんけ》太政《だいじやう》大臣には、叔母様にお当りになつてゞ御座りまする。人間の執念と言ふものは怖いものとは思ひになりませんか。
其亡き骸は、大和の国を守らせよと言ふ御諚で、此山の上、河内から来る当麻路《たぎまぢ》の脇にお埋けになりました。其が何《なん》と此世の悪心も何もかも忘れ果てゝ清々《すが/\》しい心になりながら、唯そればかり一念となつて、残つて居ると申します。藤原四流の中で、一番美しい郎女が、今におき耳面刀自と、其幽界《かくりよ》の目には見えるらしいので御座りまする。女盛りをまだ婿どりなさらぬさうなあなた様が、其力におびかれてお出でになるのでなうて何で御座りませう。
当麻路に墓を造りました当時、石を搬ぶ若い衆にのり移つた霊が、あの長歌を謳うたのだと伝へて居ります。はい。
当麻語部媼《たぎまのかたりのおむな》は、南家の郎女が脅える様を想像して咄して居たのかも知れない。唯さへこの深夜、場所も場所である。如何に止めどなくなるのが、「ひとり語り」の癖とは言へ、語部の古婆《ふるばゝ》の心は、自身も思はぬ意地くね悪さを蔵してゐるものである。此が、神さびた職を寂しく守つて居る者の優越感にもなるのであつた。
大貴族の郎女は、人の語を疑ふことは教へられて居なかつた。そこへ、信じなければならぬものとせられて居た語部の物語である。詞の端々までも、真実なものと感じて聴いて居た。
さう言ふ昔びとの宿執《しゆくしう》が、かうして自分を導いて来たことは、まことに違ひないであらう。其うしても、つひしか見ぬお姿――尊い御仏と申すやうな相好が、其お方とは思はれぬ。
春秋の彼岸中日、入り方の光り輝く雲の上にまざ/″\と見たお姿。此日本《やまと》の国の人とは思はれぬ。だが、自分のまだ知らぬこの国の男子《をのこご》たちには、あゝ言ふ方もあるのか知ら。金色《こんじき》の冠、金色の髪の豊に垂れかゝる片肌は、白ゝと袒《ぬ》いで美しい肩。ふくよかなお顔は、鼻隆く、眉秀で、夢見るやうなまみを伏せて、右手は乳の辺に挙げ、左は膝のあたりに垂れて……あゝ雲の上に朱の唇、匂ひやかにほゝ笑まれたと見た……あの俤。
日のみ子さまの御側に居るお人の中には、あの様な人もおいでなさるものだらうか。我が家の父や、兄人《せうと》たちも、世間の男たちとは、とりわけてお美しいと女たちは噂するが、其とても似もつかぬ……。
尊い女性は、下賤な人と、口をきかぬのが、当時の掟である。何よりも、其語は、下ざまには通じないものと考へられてゐる。其でも此古物語をする姥には、貴族の語もわかるであらう。郎女は、恥ぢ乍ら問ひかけた。
そこの人。ものを聞きませう。此身の語が、聞とれたら、答へしておくれ。
その飛鳥の宮の 日のみ子さまに仕へたと言ふお人は、昔の罪びとらしいに、其が亦どうした訳で、姫の前に立ち現れて神々《かう/″\》しく見えるのだらう。
此だけの語が、言ひ淀み/\して言はれてゐる間に、姥は郎女の内に動く心を、凡は気どつて居た。暗いみ灯《あかし》の光りの代りに、其頃にはもう東白みの明りが、部屋の内の物の形を朧ろげに顕し出して居た。
其は申すまでもないこと。お聞きわけられませ。神代の昔、天若日子《あめわかひこ》と申したは、天の神々に矢を引いた罪ある者に御座ります、其すら、其後《ご》、人の世になつても、氏貴い家々の娘御《ご》の閨《ねや》の戸までも忍びよると申しまする。世に言ふ「天若《あめわか》みこ」と言ふのが、其で御座ります。天若みこ、物語にも、うき世語《よがた》りにも申します。お聞き及びかえ。
姥は暫らく口を閉ぢた。さうして言ひ出した声は、年に似ずはなやいだものであつた。
「もゝつたふ」の歌を残しなされた飛鳥の宮の執心《しうしん》びとも、つまりはやはり、天若みこの一人で御座りまする。
お心つけなされませ。物語も早これまで。
其まゝ石のやうに、老女はぢつとして居る。冷えた夜も幾らか朝影《あさかげ》を感じる頃になると、温みがさして来た。
万蔵法院は、村からは遠く山によつて立つて居た。暁早い鶏の声も聞えない。もう塒を離れるらしい朝鳥が、近い端山《はやま》の梢[#「梢」は底本では「稍」]で、羽振《はぶき》の音を立て初めてゐる。
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死者の書(正篇)
一
彼《か》の人の眠りは、徐《しづ》かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを覚えたのである。
した した した 耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと、睫が離れて来た。
膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼《か》の人《ひと》の頭に響いて居る。全身にこはばつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌、足裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐることを感じ初めた。
さうして、なほ深い闇。ぽつちりと目をあいて、見廻す瞳にまづ圧《あつ》しかゝる黒い巌の天井を意識した。次いで、氷になつた岩牀《どこ》。両脇に垂れさがる荒石の壁。した/\と岩伝《いはづた》ふ雫の音。
時が経た――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであつた。けれども又、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつら/\思つてゐた考へが、現実に繋つて、あり/\と目に沁みついてゐる。
あゝ耳面刀自《みゝものとじ》。
甦《よみがえ》つた語が、彼の人の思ひを、更に弾力あるものに響き返した。
耳面刀自。おれはまだお前を。……思うてゐる。おれは、きのふこゝに来たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは決してないのだ。おれは、もつと/\長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ続けて居たぞ。耳面刀自《みゝものとぢ》。こゝに来る前から……こゝに寝ても、……其から、覚めた今まで、一続きに、一つ事を考へつめて居るのだ。
古い習慣から――祖先以来さうしたやうに、此世に在る間さう暮して居た。――である。彼の人は、のくつと起き直らうとした。だが、筋々が断《き》れるほどの痛みを感じた。骨の筋々が、挫けるやうな疼きを覚えた。――さうして尚、ぢつとぢつとして居る。射干玉《ぬばたま》の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、寂しく、だが、すんなりと手を伸べたまゝで居た。
耳面刀自の記憶。たゞ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓《ひろが》つて、過ぎた日の様々な姿を、聯想の紐に貫いて行く。さうして明るい意思が、彼の人の死枯《しにが》れたからだに、再び立ち直つて来た。
耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまへのことを聞きわたつた年月は久しかつた。おれによつて来い。耳面刀自。
記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。
おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、こゝは何処なのだ。
其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすつかりおれは忘れた。
おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声《ね》を聞いたのだつけ。さうだ。訳語田《をさだ》の家を引き出されて、磐余《いはれ》の池に上つた。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい、あの萱原、そこの矮叢《ぼさ》から首がつき出て居た。皆が大きな喚《おら》び声を、挙げて居たつけな。あの声は残らず、おれをいとしがつて居る、半泣きの喚《わめ》き声だつた。
其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だつた。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥の声だつた。今思ふと、待てよ。其は何だか、一目惚れの女の哭き声だつた気がする。――をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は急に締めあげられるやうな刹那を通つた気がした。俄かに楽な広い世間に出たやうな感じだつた。さうして、ほんの暫らく、ふつとさう考へたきりで、空も見ない。土も見ない。花や木の色も消え去つた――おれ自分すら、おれだか、はつきり訣らぬものになつてしまつたのだ。
あゝ其時から、おれ自身、このおれを忘れてしまつたのだ。
足の踝《くるぶし》が、膝の膕《ひつかゞみ》が、腰のつがひが、頸のつけ根が、顳が、盆の窪が――と、段々上つて来るひよめきの為に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として――常闇。
をゝさうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女《みこ》――おれの姉御《ご》。あの人がおれを呼び活けに来てゐる。
姉御。こゝだ。でも、おまへさまは、尊い御《おん》神に仕へてゐる人だ。おれのからだに触《さは》つてはならない。そこに居るんだ。ぢつとそこに蹈み止《とま》つて居るものだ。――あゝおれは死んでゐる。
死んだ。殺されたのだ。忘れて居た。さうだ。此は、おれの墓だ。
いけない。そこを開けては。塚の通ひ路の扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。
なあんだ。誰も来ては居なかつたのだな。あゝよかつた。おれのからだが、天日《てんぴ》に暴《さら》されて、見る/\腐るとこだつた。だが、をかしいぞ。あれは昔だ。あのこじあける音がしたのも、昔だ。姉御の声で、塚道の扉を叩きながら、言つて居たのも今《いんま》の事――ではなかつたのだ。昔だ。おれのこゝへ来て間もないことだつた。
おれは其時知つた。十月だつたから鴨が鳴いて居たのだ。其鴨のやうに首を捻ぢちぎられて、何もわからぬものになつたことも、かうつと、姉御が墓の戸で哭き喚《わめ》いて、歌をうたひあげられたつけ。「厳石《いそ》の上《うへ》に生ふる馬酔木《あしび》を」と言はれたので、春が闌《た》けて、夏に入りかけた頃だと知つた。おれの骸《むくろ》は、もう半分融け出した頃だつた。それから、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」さう言はれたので、はつきりもう死んだ人間になつたと感じたのだ。……其で、手で、今してる様にさはつて見たら、其時驚いたことに、おれのからだは著こんだ著物の下で、ぺしやんこになつて居るのだつた。
臂《かひな》が動き出した。片手は、まつくらな空《くう》をさした。さうして、今一方は、そのまゝ、岩牀《どこ》の上を掻き捜つて居る。
うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山を愛兄弟《いろせ》と思はむ。
誄歌《なきうた》が聞えて来たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して歌つてくれたのだ。其で知つたのは、おれの墓と言ふものが、二上山にあると言ふことだ。
よい姉御だつた。併し、其歌の後で、又おれは何もわからなくなつてしまつた。
其から、どれほどたつたのかなあ。どうもよつぽど、長い間だつた気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居寝りの夢を醒された感じだつた。其に比べると、今度は、深い睡りの後《あと》見たいな気がする。
手にとるやうだ。目に見るやうだ。心を鎮めて……鎮めて。でないと、この考へが復散らかつて行つてしまふ。おれの昔があり/\と訣つて来た。だが待てよ。……さうして一体、こゝに居るおれはだれなのだ。だれの子なのだ。だれの夫《つま》なのだ。其をおれは忘れてしまつてゐるのだ。
両の臂は、腰の廻り、胸の上、股から膝をまさぐつて居る。さうしてまるで、生物のやうな深い溜め息が洩れて出た。
大変だ。おのれの著物は、もうすつかり朽つて居る。おのれのはかまは埃になつて、飛んで行つた。どうしろと言ふのだ。此おれは、著物もなしに寝て居たのだ。
筋ばしるやうに、彼の人のからだに、血の馳け廻るに似たものが過ぎた。肱を支へて、上半身が、闇の中に起き上つた。
をゝ寒い。おれをどうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが悪かつたと言ふのなら、あやまります。著物を下さい。著物を。此では地べたに凍りついてしまひます。
彼の人には、声であつた。だが、声でないものとして、消えてしまつた。声でない語が、何時までも続く。
くれろ。おつかさま。著物がなくなつた。すつ裸で出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに寝床の上を這ひずり廻つてゐるのが、誰にも訳らないのか。こんなに手足をばた/\やつてゐるおれの見える奴が居んのか。
その唸き声のとほり、彼の人の骸は、まるで駄々をこねる赤子のやうに、足もあがゞに身あがきをば、くり返して居る。明りのさゝなかつた墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど物のたゝずまひを幾分朧ろに見わけることが出来るやうになつて来た。其はどこからか、月光とも思へる薄あかりがさし入つて来たのである。
どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、錆びてしまつた……。
二
月は、依然として照つて居た。山が高いので、光りのあたるものが少かつた。山を照らし、谷を輝かして、剰る光りは、又空に跳ね返つて、残る隅々までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、沢山の峰があつた。黒ずんで見える峰々が入りくみ、絡みあつて、深々と畝つてゐる。其が見えたり隠れたりするのは、この夜更けになつて、俄かに出て来た霞の所為《せゐ》だ。其が又、此冴え/\とした月夜を、ほつとりと暖かく感じさせて居る。
端山《はやま》の広い群《むらが》りの先《さき》は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く続いた輝く大佩帯《おほおび》は、石川である。その南北に渉つてゐる長い光りの筋が、北の端で急に拡つて見えるのは、凡河内《おほしかふち》の邑のあたりであらう。其へ、山国を出たばかりの堅塩《かたしほ》川―大和川―が行きあつて居るのだ。そこから、乾《いぬゐ》の方へ、光りを照り返す平面が、幾つも列つて見えるのは、日下江《くさかえ》・難波江《なにはえ》などの水面であらう。
寂かな夜である。やがて鶏鳴近い山の姿は、一様に露に濡れたやうに、しつとりとして静まつて居る。谷にちら/\する雪のやうな輝きは、目の下の山田谷に多い小桜―彼岸桜―の遅れ咲きである。
一本の路が、真直に通つてゐる。二上山の男嶽《をのかみ》と、女嶽《めのかみ》との間から、急に降《さが》つて来るのである。難波《なには》から飛鳥《あすか》の都への本道になつて居るから、日によつては、相応な人通りがある。道は白々と広く、夜目には、芝草の蔓《は》つて居るのすら見える。当麻路《たぎまぢ》である。一降りして又、大降《くだ》りにかゝらうとする所が、中だるみにやゝ坦《ひらた》くなつてゐた。稍繁つた栢《かへ》の木の森がある。半世紀を経た位の木ぶりが、一様に揃つて見える。月の光りも薄い木蔭全体が、勾配を背負つて造られた円塚であつた。月は瞬きもせずに照し、山々は深くを閉ぢてゐる。
こう こう こう
先刻《さつき》から聞えて居たのかも知れない。あまり寂けさに馴れた耳は、新な声を聞きつけようとしなかつたのであらう。だから今珍しく響いて来た感じもない。
こう こう こう……こう こう こう だが、確かに人声である。鳥の夜声とは思はれぬ韻《ひゞき》を曳いて来る。声は暫らく止んだ。静寂は以前に増し、冴え返つて張りきつてゐる。この山の峰つゞきに見えるのは、南に幾重ともなく重つた葛城の峰々である。伏越《ふしごえ》、櫛羅《くしら》、小巨勢《こごせ》と段々高まつて、果は空の中につき入りさうに、この二上山と此塚を圧するばかり、真黒に立つてゐる。
当麻路をこちらへ降つて来るらしい影が、見え出した。二つ 三つ 五つ……八つ九つ、九人の姿である。急な降りを一気に、この河内路へ馳けおりて来る。
九人と言ふよりは、九柱の神であつた。白い著物、白い鬘《かつら》、手は足は、すべて旅の装束《いでたち》である。頭より上に出た杖をついて――九柱。この坦に来て、森の前に立つた。
こう こう こう
誰の口からともなく、皆一時に叫びが出た。山々のこだまは驚いて、一様に忙しく声を合せた。
だが山は、忽ち一時の騒擾から、元の緘黙《しゞま》をとり戻してしまつた。
こう こう お出でなされ。藤原南家郎女の御魂《みたま》。こう こう。
こんな奥山に迷うて居る時ではない。早くもとの身に戻れ。こう こう。
お身が魂《たま》を、今、山だつね尋ねて、尋ねあてたおれたちぞよ。こう こう こう。
九つの杖びとは、心から神になつて居る。彼らは杖を地に置き、鬘を解いた。鬘は此時、唯真白な白布に過ぎなかつた。其を長さの限り振り捌いて、一様に塚に向けて振つた。
こう こう こう。
かう言ふ動作をくり返して居る間に、自然な感情の鬱屈と、休息を欲するからだの疲れとが、九体の神の心を、人間に返した。彼らは、見る間に白い布を頭に捲きこんで鬘とし、杖を手にとつて立つた。
をい。無言《しゞま》の勤《つと》めも此までぢや。
をゝ。
八つの声が答へて、彼等は訓練せられた所作のやうに、忽一度に草の上に寛《くつろ》ぎ、再杖を横へた。
これで大和も、河内との境ぢやで、もう魂ごひの行《ぎやう》もすんだ。今時分は、郎女さまのからだは、廬《いろり》の中で魂をとり返してぴち/\して居られるぞ。
こゝは、何処だいの。
知らぬかいよ。大和にとつては大和の国。河内にとつては河内の国の大関《おほぜき》。二上の当麻路《たぎまぢ》の関《せき》。
別の長老めいた者が、説明を続《つ》いだ。
四五十年あとまでは、唯関と言ふばかりで、何のしるしなかつた。其があの、近江の滋賀に馴染み深かつた、其よ。大和では磯城《しき》の訳語田《をさだ》の御館《みたち》に居られたお方。池上の堤で命召されたあの骸を、罪人に殯《もがり》するは、災の元と、天若日子の昔語に任せて、其まゝ此処にお搬び申して、お埋けになつたのが、此塚よ。
以前の声が、まう一層皺がれた響きで、話をひきとつた。
其時の仰せには、罪人よ。吾子《わこ》よ。吾子の為了《しをふ》なんだ荒《あら》び心で、吾子よりももつと深い猛び心を持つた者の、大和に来向ふのを、待ち押へ、塞へ防いで居ろと仰せられた。
ほんに、あの頃は、まだおれたちも壮盛《わかざか》りぢやつた。今からでは、もう五十年になるげな。
今一人が、相談でもしかける様な口ぶりを挿んだ。
さいや。あの時も、墓作りに雇はれた。その後も、当麻路の修復に召し出された。此お墓の事は、よく知つて居る。ほんの苗木ぢやつた栢《かへ》が、此ほどの森になつたものな。畏かつたぞよ。
此墓の魂《たま》が、河内安宿部《あすかべ》から石担《も》ちに来て居た男に憑いた時はなう。
九人は、完全に現し世の庶民の心になり還つて居た。山の上は、昔語りするには、あまり寂しいことを忘れて居たのである。時の更け過ぎた事も、彼等の心には、現実にひし/\と感じられ出したのだらう。
もう此でよいのだ。戻らうや。
よかろ/\。
皆は、鬘をほどき、杖を棄てた白衣の修道者と言ふだけの姿《なり》になつた。
だがの。皆も知つてようが、このお塚は由緒深《ゆゐしよぶか》い、気のおける処ゆゑ、まう一度魂ごひをしておくまいか。
長老《おとな》の語と共に、修道者たちは、魂呼《たまよば》ひの行《ぎやう》を初めたのである。
こう こう こう
をゝ……。
異様な声を出すものだと、初めは誰も、自分らの中の一人を疑ひ、其でも変に、おぢけづいた心を持ちかけてゐた。も一度、
こう こう こう
其時、塚穴の深い奥から、冰りきつた、而も活き出したばかりの様な声が、明らかに和したのである。
をゝ……。
九人の心は、ばら/″\の九人の心であつた。からだも亦ちり/″\に、山田谷へ、竹内谷へ、大阪越へ、又当麻路へ、峰にちぎれた白い雲のやうに、消えてしまつた。
唯畳まつた山と谷とに響いて、一つの声ばかりがしてゐる。
をゝ……。
三
おれは活《い》きた。
闇い空間は、明りのやうなものを漂してゐた。併し其は、蒼黒い靄の如くたなびくものであつた。巌ばかりであつた。壁も牀《とこ》も梁《はり》も、巌であつた。自身のからだすらが、既に巌になつて居たのだ。屋根が壁であつた。壁が牀であつた。巌ばかり――。触《さは》つても/\巌ばかりである。手を伸すと、更に堅い巌が掌に触れた。脚をひろげると、もつと硬ばつた磐石《ばんじやく》が感じられた。
纔かにさす薄光りも、黒い巌石が皆吸ひとつたやうに、岩窟《いはむろ》の中のものは見えなかつた。唯――けはひ、彼の人の探り歩くらしい空気の微動があつた。
思ひ出したぞ。おれが誰だつたか、訣つたぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕へ、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦。即其が、おれだつたのだ。
歓びの激情を迎へるやうに、岩窟《いはむろ》の中のすべての突角が哮《たけ》びの反響をあげた。彼の人は立つて居た。一本の木だつた。だが、其姿が見えるほどの、はつきりした光線はなかつた。明りに照し出されるほど、纏つた現《うつ》し身をも持つて居なかつた。
唯、岩屋の中に矗立《しゆくりつ》した立ち枯れの木に過ぎなかつた。
おれの名は、誰も伝へるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しくおれ自身にすら忘れられて居た。可愛《いと》しいおれの名は、さうだ。語り伝へる子があつた筈だ。語り伝へさせる筈の語部《かたりべ》が出来て居ただらうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しく/\と胸を刺すやうだ。
――子代《こしろ》も、名代《なしろ》もないおれにせられてしまつたのだ。さうだ。其に違ひない。この物足らない、大きな穴のあいた気持ちは、其でするのだ。おれは、此世に居なかつたと同前の人間になつて、現し身の人間どもには忘れ了《ほ》されて居るのだ。憐みのないおつかさま。おまへさまは、おれの妻の、おれに殉死《ともじ》にするのを、見殺しになされた。おれの妻の生んだ粟津子《あはつこ》は、罪びとの子として、何処かへ連れて行かれ、山野のけだものの餌食《ゑじき》になつたのだらう。可愛さうな妻よ。哀なむすこよ。
だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が伝らない、劫初から末代まで、此世に出ては消える天《あめ》の下《した》の青人草《あをひとぐさ》と同じく、おれは、此世に影も形も残さない人間になるのは、いやだ。どうあつても、不承知だ。
情ないおつかさま。おまへさまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうお出でゞない此世かも知れない。
くそ――外《そと》の世界が知りたい。世の中の様子が見たい。
だが、おれの耳は聞える。其なのに目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなつて居る。闇の中にばかり瞑《つぶ》つて居たおれの目よ。も一度くわつと|《みひら》いて、現し世のありのまゝをうつしてくれ、……土竜《もぐら》の目でも、おれに貸しをれ。
声は再寂かになつて行つた。独り言する其声は、彼の人の耳にばかり聞えて居るであらう。
丑刻《うし》に、静粛の頂上に達した現《うつ》し世《よ》は、其が過ぎると共に、俄かに物音が起る。月の空を行く音も聞えさうだつた四方の山々の上に、まづ木の葉が音もなく動き出した。次いで、遥かな/\豁の流れの色が白々と見え出す。更に遠く、大和国中《くになか》の何処からか起る一番鶏のつくるとき。
暁が来たのである。里々の男は、今、女の家の閨戸《ねやど》から、ひそ/\と帰つて行くだらう。月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保つてゐる。午前二時に朝の来る生活に、村びとも、宮びとも忙しいとは思はないで、起き上る。短い暁の目覚めの後、又、物に倚りかゝつて、新しい眠りを継ぐのである。
山風は頻りに吹きおろす。枝・木の葉の相軋めく音が、やむ間なく聞える。だが其も暫らくで、山は元のひつそとしたけしきに還る。唯、すべてが薄暗く、すべてが隈を持つたやうに、朧ろになつて来た。
岩窟《いはむろ》は、沈々と黝《くら》くなつて冷えて行く。した した 水は岩肌を絞つて垂れてゐる。
耳面刀自《みゝものとじ》。おれには、子がない。子がなくなつた。おれはあの栄えてゐる世の中には、跡を貽して来なかつた。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り伝へる子どもを。
岩牀《どこ》の上に、再白々と横つて見えるのは、身じろきもせぬからだである。唯その真裸な骨の上に、鋭い感覚ばかりが活きてゐる。
まだ反省のとり戻されないむくろには、心になるものがあつて、心はなかつた。
耳面刀自の名は、唯記憶よりも更に深い印象であつたに違ひはない。自分すら忘れきつた彼の人の出来あがらない心に、骨に沁み、干からびた髄の心《しん》までも、唯彫《ゑ》りつけられるやうになつて残つてゐる。
四
万法蔵院の晨朝《じんてう》の鐘だ。夜の曙色《あけいろ》に一度騒立《さわだ》つた物々の胸をおちつかせる様に、鳴りわたる鐘の音《ね》だ。一《いつ》ぱし白みかゝつて来た東は、更にほの暗い明《あ》け昏《ぐ》れの寂けさに返つた。
南家の郎女は、一茎《くき》の草のそよぎでも聴き取れる暁凪《あかつきな》ぎを、自身擾すことをすまいと言ふ風に、身じろきすらもしないで居る。
夜《よる》の間《ま》よりも暗くなつた廬《いほり》の中では、明王像の立ち処《ど》さへ見定められなくなつて居る。
何処からか吹きこんだ朝山颪《おろし》に、御燈《あかし》が消えたのである。当麻語部《たぎまかたり》の姥も、薄闇に蹲つて居るのであらう。姫は再、この老女の事を忘れてゐる。
たゞ一刻も前、這入りの戸を動した物音があつた。一度 二度 三度 数度、こと/\と音を立てた。枢がまるでおしちぎられでもするかと思ふほど、音に力のこもつて来た時、ちようど鶏が鳴いた。其きり、ぴつたり、戸にあたる者もなくなつた。
四 ―その二―
奈良の都には、まだ時をり、石城《しき》と謂はれた石垣を残して居る家が、見かけられた頃である。
度々の太政官符《だいじやうぐわんふ》で、其を家の周《まは》りに造ることが禁ぜられて来た。今では、宮廷より外には、石城《しき》を完全にとり廻した豪族の家などは、よく/\の地方でない限りは、見つからなくなつて居る筈なのである。
其に一つは、宮廷の御在所が、御一代々々々に替つて居た千数百年の歴史の後に、飛鳥の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、おなじ山河一帯の内にあつた。其で凡そ、都遷りのなかつた形になつたので、後から/\地割りが出来て、相応な都城の姿は備へて行つて居た。其数朝の間に、旧族の屋敷は段々、家構へが整うて行つた。
葛城に元のまゝの家を持つて居て、都と共に一代ぎりの屋敷を構へて居た蘇我臣《そがのおみ》なども、飛鳥宮では、次第に家作りを拡めて行つて、石城《しき》なども高く、幾重にもとり廻して、凡永久の館作りをした。其とおなじ様な気持ちから、どの氏でも大なり小なり、さうした石城づくりの屋敷を構へて行つた。
蘇我臣一家の権威を振うた島ノ大殿家の亡びた時分から石城の構へは禁められ出した。
この国のはじまり、天から伝へられたと言ふ、宮廷に伝る神の御詞《みこと》に背く者は、今もなかつた。が、書いた物の力は、其が何処から出たものであらうとも、其ほどの威力を感じるに到らない時代が、まだ続いて居た。
其飛鳥都すら、高天原広野姫尊様《たかまのはらひろぬひめのみことさま》の思召しで、其から一里北の藤井个原に遷され、藤原都と名を替へて新しい唐様《もろこしやう》のきら/\しさを尽した宮殿が建ち並ぶ事になつた。近い飛鳥から新渡来《いまき》の高麗馬《こま》に跨つて、馬上で通ふ風流士《たはれを》もあるにはあつたが、多くはやはり鷺栖《さぎす》の阪の北、香具山の麓から西へ、新しく地割りせられた京城の坊々《まちみ》に屋敷を構へ、家造りをした。その次の御代になつても、藤原都は日に益し、宮殿が建て増されて行つて、こゝを永宮《とこみや》と遊ばす思召しが伺はれた。その安堵の心から、家々の外には、石城を廻すものが、又ぼつ/\出て来た。さうして其が忽、氏々の上《かみ》の家囲ひをあらかた石にしてしまつた頃になつて、天真宗豊祖父尊様《あめまむねとよおほぢのみことさま》がおかくれになり、御母《みおや》 日本根子天津御代豊国成姫大尊様《やまとねこあまつみよとよくになすひめのおほみことさま》がお立ち遊ばし、四年目には、奈良都に宮遷しがあつた。ところがまるで、追つかけるやうに、藤原の宮は固より、目ぬきの家並みが、不時の出火で、痕形もなく、空《そら》の有《もの》となつてしまつた。
もう此頃になると、太政官符に、更に厳《きび》しい添書《ことわき》がついて出なくとも、氏々の人は皆、目の前のすばやい人事自然の交錯した転変に、目を瞠るばかりであつた。久しい石城《しき》の問題も其で、解決がついて行つた。
古い氏種姓《うぢすじやう》を言ひ立てゝ、神代以来の家々の職の神聖を誇つた者どもは、其家職自身が新しい藤原奈良ノ都には次第に意味を失つて来てゐる事に、気がついて居なかつた。
最早くそこに心づいた姫の祖父淡海公などは、古き神秘を誇つて来た家職を末代まで伝へる為に、別に家を立てゝ中臣の名を保たうとした。さうして自分、子供たち、孫たちと、いちはやく官人《つかさびと》生活に入り立つて行つた。
ことし四十を二つ三つ越えたばかりの大伴家持《おほとものやかもち》は、父旅人《たびと》の其年頃よりは、もつと傑れた男ぶりであつた。併し、世の中はもうすつかり変つて居た。見るもの障るもの、彼の心を苛《いら》つかせる種にならぬものはなかつた。淡海公の百年前に実行してしまつて居る事に、今はじめて自分の心づいた鈍《おぞ》ましさを憤つて居る。さうして自分とおなじ風の性向の人のまざまざとした成り行きを見て、慄然とした。現におなじ藤原びとでも、まだ昔風の夢に耽つて居た南家の横佩右大臣は、去年太宰員外帥《ゐんぐわいのそち》になつて、都を離れて行つたではないか。自分の親旅人の三十年前に踏んだ道である。
世間の氏々の上は大方もう、石城《しき》など築《きづ》き廻《まは》して、大門小門を繋ぐと謂つた要害と、装飾とに興味を失ひかけて居るのに、何とした自分だ。おれはまだ現に、出来るなら、宮廷のお目こぼしを頂いて、石に囲はれた家の中で、家の子どもを集め、氏人《うぢびと》たちを召しつどへて、弓場《ゆば》に精励させ、矛ゆけ大刀かきを勉強させようと空想して居る。さうして、毎月頻繁に氏の神其外の神々を祭つて、其度に、家の語部《かたりべ》大伴ノ語ノ造《みやつこ》の嫗《おむな》たちを呼んで、之に捉へやうもない大昔の物語をさせて、氏人に傾聴を強ひて居る。何だか空な事に力を入れて居るやうに思へてならぬ寂しさだ。併し此より外に、今のおれに出来ることがあると言ふのか。
こんな溜め息を洩しながら、大伴氏の旧い習はしを守つて、どこまでも、宮廷守護の為の武道伝襲に努める外はない家持だつたのである。
越中守として踏み歩いた越路《こしぢ》の泥のかたが、まだ行縢《むかばき》から落ちきらぬ内に、彼にはもう復《また》、都を離れなければならぬ時の迫つて居るやうな気がしてならない。其中此針の筵の上で、兵部少輔《せうふ》から、大輔《たいふ》に昇進した。そのことすら、益々脅迫感を強める方にばかりはたらいた。
今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼《かいげん》が行はれる筈で、奈良の都の貴族たちには、寺から特別に内見を願つて来て居た。さうして忙しい世の中にも、暫らくはその評判が、すべてのいざこざをおし鎮める程に、人の心を和やかにした。本朝《ほんてう》出来の像としては、まづ此程物凄い天部《てんぶ》の姿を拝んだことは、はじめてだと言ふものもあつた。神代の荒神たちもこんな形相《ぎやうざう》であつたらうと言ふ噂も聞かれた。
まだ公《おほやけ》の供養もすまないのに、人の口はうるさいほど、頻繁に流説をふり蒔いてゐた。あの多聞天と広目天との顔つきに思ひ当るものがないかと言ふのであつた。此はこゝだけの咄だよと言つて話したのが、次第に拡まつて、家持の耳までも聞えて来た。なるほど、憤怒《ふんぬ》の相もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、当今大和一だと言はれる男たちの顔そのまゝだと言ふのである。
多聞天は、紫微内相藤原中卿《ちうけい》だ。あの柔和な、五十を越してもまだ三十代の美しさを失はないあの方が、近頃おこりつぽくなつて、よく下官や、仕《つか》へ人《びと》を叱るやうになつた。ある円満《うま》し人《びと》が、どうしてこんな顔つきになるだらうと思はれる表情をすることがある。其面もちそつくりだ、と尤らしい言ひ分なのである。
さう言へばあの方が壮盛《わかざか》りに、矛使《ほこゆ》けを嗜《この》んで、今にも事あれかしと謂つた顔で、立派な甲《よろひ》をつけて、のつし/\と長い物を杖《つ》いて歩いたお姿が、ちらつくやうだなどゝ、相槌をうつ者も出て来た。
其では、広目天の方はと言ふと、
さあ 其がの
と誰に言はせても、言ひ渋るやうな、ちよつと困つた顔をして見せる。
実は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保証は出来ないがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に似てるがやと言ふぞな。……けど、他人《ひと》に言はせると、――あれはもう十七年にもなるかいや――筑紫で伐たれなさつた前太宰少弐《ぜんだざいのせうに》―藤原広嗣―の殿《との》に生写《しやううつ》しぢやとも言ふがいよ。
わしにも、どちらとも言へんがの。どうでも、見たことあるお人に似て居さつせることは似て居るげなが……。
何しろ此二つの天部《てんぶ》が、互に敵視するやうな目つきで睨みあつて居る。噂を気にした住侶たちが、色々に置き替へて見たが、どの隅からでも相手の姿を眦を裂いて見つめて居る。とう/\あきらめて、自然にとり沙汰の消えるのを待つより為方がないと思ふやうになつた。
若しや、天下に大乱でも起らなければえゝが。
こんな囁きは、何時までも続きさうに、時と共に倦まずに語られた。
前《ぜん》少弐卿でなくて、弓削新発意《ゆげしんぼち》の方であつてくれゝば、いつそ安心だがなあ。あれなら、事を起しさうな房主でもなし。
起したくても起せる身分でもないぢやて……。
言ひたい傍題《はうだい》な事を言つて居る人々も、たつた此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の紫微内相藤原仲麻呂の姪の横佩家の郎女が、神隠しに遭つたと言ふ、人の口の端に施風《つじかぜ》を起すやうな事件が湧き上つたのである。
四 ―その三―
兵部大輔《ひやうぶたいふ》大伴ノ家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちようど春分《しゆんぶん》から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやつて居た。二人ばかりの資人《とねり》が、徒歩《かち》で驚くばかり足早について行く。此は晋唐の新しい文学の影響を受け過ぎるほど享け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなつた癖である。かうして何処まで行くのだらう。唯、朱雀の並み木の柳の花がほけて、霞のやうに飛んで居た。向うには、低い山と狭い野が、のどかに陽炎《かげろ》ふばかりであつた。
資人の一人が、とつとと追ひついて来たと思ふと、主人の鞍に胸をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすがうた知り人の口から聞いたばかりの噂である。
それで、何かの……。娘御の行くへは知れたと言ふのか。
はい……。いゝえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
間抜けめ。話はもつと上手に聴くものだ。
柔らかく叱つた。そこへ、今《も》一人の伴《とも》が追ひついて来た。息をきらしてゐる。
ふん。汝《わけ》は聞き出したね。南家《なんけ》の嬢子《をとめ》はどうなつた。
出鼻を油かけられた資人《とねり》は、表情に隠さず心の中を表した此頃の人の自由な咄し方で、まともに鼻を蠢して語つた。
当麻までをとゝひの夜の中に行つて居たこと。寺からは昨日午後、横佩家へ知らせが届いたこと。其外には、何も聞きこむ間がなかつた。
家持の聯想は、環のやうに繋つて、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであつた。
南家で持つて居た藤原の氏《うぢ》の上《かみ》職が、兄の家から弟仲麻呂の方へ移らうとしてゐる。来年か、再来年の枚岡《ひらをか》祭りに、参向する氏人の長者は、自然紫微内相のほか人がなくなつて居る。紫微内相からは、嫡子久須麻呂の為、自分の家の第一嬢子をくれとせがまれて居て、先日も久須麻呂の名の歌が届き、自分の方でも、娘に代つて返し歌を作つて遣はした。又折り返して、男からの懸想文が来てゐる。
その壻候補《むこがね》の父なる人は、五十になつても、若かつた頃の容色を頼む心が失せないでゐて、兄の家娘に執心を持つて居るが、如何に何でも、あの姫だけにはとりつげないで居る。此は、横佩家へも出入し、大伴家へも初中終来る古刀自《ふるとじ》の人のわるい内証話であつた。其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡《もちや》げて来てゐる。仲麻呂は今年、五十を出てゐる。其から見れば、十も若いおれなどは、まう一度、思ひ出に此匂ひやかな貌花を、垣内《かきつ》の苑に移せない限りはない。こんな当時の男が皆持つた誇りに、心をはなやがして居た。
だが併し、あの郎女は、藤原南家で一番神さびたたちを持つて生まれたと謂はれた娘御である。今枚岡の御神に仕へて居る斎《いつ》き姫《ひめ》の罷める時が来ると、あの嬢子《をとめ》が替つて立つ筈だ。其で、貴い所からのお召しにも応じかねて居るのだ。……結局誰も彼も、あきらめねばならぬ時が来るのだ。神の物は神の物だ。横佩家の娘御は、神の手に落ちつくのだらう。
ほのかな感傷が、家持の心を浄めて過ぎた。おれは、どうもあきらめがよ過ぎる。十代の若さで、母は死に、父は疾んで居る太宰府へ降つて、早くから、海の彼方《あなた》の作り物語や、唐詩《もろこしうた》のをかしさを知り初めたのが、病みつきになつたのだ。死んだ父も、さうした物は或は、おれより嗜きだつたかも知れないほどだつたが、もつと物に執著《しふちやく》が深かつた。現に大伴の家の行くすゑの事なども、父はあれまで心を悩まして居た。おれも考へればたまらなくなつて来る。其で、氏人を集めて喩したり、歌を作つて呼号したりする。だがさうした後の気持ちの爽やかさはどうしたことだ。洗ひ去られた様に、心がすつとしてしまふのだつた。まるで、初めから家の事など考へて居なかつた、とおなじすが/\しい心になつてしまふのだ。
あきらめと言ふ事を知らなかつた人ばかりではないか。……昔物語に語られる神でも、人でも、傑れたと伝へられるだけの方々は……。それに、おれはどうしてかうだ。
家持の心は併し、こんなに悔恨と同じ心持ちに沈んで居るに繋らず、段々気にかゝるものが薄らぎ出して来てゐる。
ほう、これは京極《きやうはて》まで来た。
朱雀大路も、こゝまで来ると、縦横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの区画にも/\、家は建つて居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えて稍茎を張り初めたのとがまじりあつて、屋敷地から喰み出し道の上にまで延びて居る。
こんな家が……。
驚いたことは、そんな雑草原の中に、唯一つ大きな構への家が、建ちかゝつて居る。遅い朝を、もう余程、今日の為事に這入つたらしい木の道の者たちが、骨組みばかりの家の中で立ちはたらいて居るのが見える。
家の建たぬ前に、既に屋敷廻りの地形《ちぎやう》が出来て、見た目にもさつぱりと、垣をとり廻して居る。土を積んで、石に代へた垣、此頃言ひ出した築土垣《つきひぢがき》といふのが此だなと思つて、ぢつと目をつけて居た。見る/\、さうした新しい好尚《このみ》のおもしろさが、家持の心を奪つた。
築土垣《つきひぢがき》の処々に、きりあけた口があつて、其に門が出来て居た。さうして、其処から、頻りに人が繋つては出て来て、石を曳く、木を持つ、土を搬び入れる。重苦しい石城《しき》。懐しい昔構へ。今も家持のなくしともなく考へてゐる屋敷廻りの石垣が、思うてもたまらぬ重圧となつて、彼の胸にもたれかゝつて来るのを感じた。
おれには、だがこの築土垣を択《と》ることが出来ない。
家持の乗馬《め》は再憂鬱に閉された主人を背に、引き返して、五条まで上《あが》つて来た。此辺から右京の方へ折れこんで、坊角《まちかど》を廻りくねりして行く様子は、此主人に馴れた資人《とねり》たちにも、胸の測られぬ気を起させた。二人は時々顔を見合せ、目くはせをし乍ら、尚了解が出来ぬと言ふやうな表情を交《かは》し乍ら、馬の後を走つて行く。
こんなにも、変つて居たのかねえ。
ある坊角《まちかど》に来た時、馬をぴたと止めて、独り言のやうに言つた。
……旧《ふる》草に、新《にひ》草まじり、生《お》ひば、生ふるかに――だな。
近頃見出した|歌所《かぶしよ》の古記録「東歌」の中に見た一首がふと、此時、彼の言ひたい気持ちを代作して居てくれたやうな気がした。
さうだ。「おもしろき野《ぬ》をば勿《な》焼きそ……」だ。此でよいのだ。
けげんな顔をふり仰《あふむ》けてゐる伴人《ともびと》らに、柔和な笑顔を向けた。
さうは思はぬか。立ち朽りになつた家の間に、どし/\新しい屋敷が建つて行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが其でもどちらかと謂へば、減るよりも殖えて行つてる。此辺は以前今頃は、蛙の沢山に鳴く田の原が続いてたもんだ。
仰るとほりで御座ります。春は蛙、夏は稲虫、秋は蝗まろ。此辺はとても歩けたところでは御座りませんでした。
今一人が言ふ。
建つ家も/\、この立派さはどうで御座りませう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣《つきひぢがき》を築《きづ》きまはしまして。何となく、以前とはすつかり変つた処に参つた気が致します。
馬上の主人も、今まで其ばかり考へて居た所であつた。だが彼の心は、瞬間明るくなつて、去年六月、三形王のお屋敷での宴《うたげ》に誦《くちずさ》んだ即興が、その時よりも、今はつきりと内容を持つて、心に浮んで来た。
うつり行く時見る毎に、心疼く 昔の人し思ほゆるかも
目をあげると、東の方春日の杜《もり》は家陰になつて、こゝからは見えないが、御蓋《みかさ》山・高円《たかまど》山一帯、頂きが晴れて、すばらしい春日和になつて居た。
あきらめがさせるのどけさなのだと、すぐ気がついた。でも、彼の心のふさぎのむしは痕を潜めて、唯、まるで今歩いてゐるのが、大日本《おほやまと》平城《へいせい》京でなく、大唐《だいとう》の長安の大道でゞもある様な錯覚が押へきれない。此馬がもつと毛並みのよい純白の馬で、跨つて居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の気がして来る。神々から引きついで来た重苦しい家の歴史だの、夥しい数の氏人などから、すつかり截り離されて、自由な身空にかけつて居る自分だと言ふ、豊かな心持ちが、暫らくは払つても/\消えて行かなかつた。
おれは若くもなし、第一、海東の大日本人《おほやまとびと》である。おれには憂鬱な家職がひし/\と肩のつまるほどかゝつて居るのだ。こんなことを考へて見ると、寂しくてはかない気もするが、すぐに其は、自身と関係のないことのやうに、心は賑はしく和いで来て為方がなかつた。
をい。おまへたち。大伴の家も、築土垣を引き廻さうかな。
とんでもない仰せで御座ります。
二人の声がおなじ感情で迸り出た。
年の増した方の一人が、切実な胸を告白するやうに言つた。
私どもは、御譜第では御座りません。でも、大伴と言ふお名は、御門・御垣と関係深い称へだと承つて居ります。大伴家から、門垣を今様にする事になつて御覧なさりませ。御一族の末々まで、あなた様をお呪ひ申し上げることでせう。其どころでは御座りません。第一、ほかの氏々が、大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい――人の世になつて初まつた家々の氏人までが、御一族を蔑《ないがしろ》に致すことになりませう。
こんな事を言はして置くと、折角澄みかゝつた心も、又曇つて来さうな気がする。家持は忙てゝ、資人の口を緘《と》めた。
うるさいぞ。誰に言ふ語だと思うて、言うて居るのだ。よさないか。雑談《じやうだん》だ。雑談を真に受ける奴があるものか。
馬はやつぱり、しつとしつと、歩いて居た。築土垣、築土垣又、築土垣。こんなに、何時の間に、家構へが替つて居たのだらう。家持は、なんだか、晩《おそ》かれ早かれ、ありさうな気のする次の都――どうやらかう、もつとおつぴらいた平野の中の新京城に来てゐるのでないかと言ふ気も、ふとしたさうなのを、危く喰ひとめた。
築土垣、築土垣。もう彼の心は動かなくなつた。唯、よいとする気持ちと、いけないと思はうとする意思との間に、気分だけがあちらへ寄り、こちらへ依りしてゐるだけであつた。
何時の間にか、平群《へぐり》の丘や、色々な塔を持つた京西《きやうにし》の寺々の見渡される町尻へ来て居ることに気がついた。
これは/\。まだ少しは残つてゐるぞ。
珍しい発見をしたやうに、彼は馬から身を飜《かへ》しておりた。二人の資人はすぐ馳け寄つて手綱を控へた。
家持は、門と門との間に、細かい柵をし囲らし、目隠しに枳殻《からたちばな》の藪を作つた家の外構への一個処に、まだ石城《しき》が可なり広く、人丈にあまる程に築いてあるそばに、近寄つて行つた。
荒れては居るが、こゝは横佩墻内《よこはきかきつ》だ。
さう言つて、暫らく息を詰めるやうにして、石垣の荒い面を見入つて居た。
さうに御座ります。此石城《しき》からしてついた名の横佩墻内だと申して、せめて一ところだけはと、強ひてとり毀たないとか申します。何分、帥《そち》の殿《との》のお都入りまでは、何としても此儘で置くので御座りませう。さやうに、人が申します。はい。
何時の間にか、三条七坊まで来てしまつたのである。
おれは、こんな処へ来ようと言ふ考へはなかつたのに……。だが「やつぱり、おれにまだ/\若い色好みの心が失せないで居るぞ」何だか自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが起つて来た。
其にしても、静か過ぎるぢやないか。
さやうで。で御座りますが、郎女のお行くへも知れ、乳母《おも》もそちらへ行つたとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りませう。
詮索ずきさうな顔をした若い方が、口を出す。
いえ。第一、こんな場合は騒ぐといけません。騒ぎにつけこんで、悪い霊《たま》が、うよ/\とつめかけて来るもので御座ります。この御館《みたち》も、古いおところだけに、心得のある長老《おとな》の、一人や、二人は筑紫へ下らずに残つて居るので御座りませう。
さうか。では戻らう。
五
をとめの閨戸《ねやど》をおとなふ風は、何も珍しげのない国中の為来《しきた》りであつた。だが其にも、曾てはさうした風の一切行はれて居なかつたことを主張する村々があつた。何時のほどにかさうした村が、古い為来りを他村の、別々に守られて来た風習とふり替へることになつたのである。
かき昇る段になれば、何の雑作《ざふさ》もない石城《しき》だけれど、あれを大昔からとり廻して居た村と、さうでない村とがあつた。こんな風にしかつめらしい説明をする宿老《とね》たちが、どうかすると居る。多分やはり、語部などの昔語りから来た話なのであらう。踏み越えても這入れさうに見える石畳だけれど、大昔の約束で、目に見えぬ鬼神《もの》から人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまないことにした。こんな誓ひが人と鬼《もの》との間にあつた後、村々の人は、石城《しき》の中に晏如として眠ることが出来る様になつた。さうでない村々では、何者でも垣を躍り越えて這入つて来る。其は、別の何かの為方《しかた》で防ぐ外はなかつた。だから、唯の夜だけでも、村なかの男は何の憚りなく、垣を踏み凌いで処女の閨の戸をほと/\と叩く。石城《しき》を囲《かこ》うた村には、そんなことはもうなかつた。だから美《くは》し女《め》の居る家へは、奴隷《やつこ》の様にして這入りこんだ人もある。娘の父にこき使はれて、三年五年その内に、処女に会はうとした神様の話すらもあるくらゐだ。石城《しき》を掘り崩すのは、何処からでも鬼神《もの》に入りこんで来いと呼びかけることに当る。京の年よりにもあつたし、田舎の村々では、之を言ひ立てにちつとでも、石城を残して置かうと争うた人々が多かつた。
さう言ふ村々では、実例として恐しい証拠を挙げた。先年―天平六年―厳命が降つて、何事も命令のはか/″\しく行はれないのは、朝臣《てうしん》が先つて行はないからである。汝等、天下百姓より進んで、石城を毀つて、新京の時世装に叶うた家作りに改めよと仰せられた。藤氏四流の如き、今に旧態を易《い》へざるは、最其位に在るを顧ざるものだとお咎めがあつた。此時一度、凡石城はとり毀たれたのである。ところが其と時を同じくして、疱瘡《もがさ》がはやり出した。越えて翌年、益盛んになつて南家・北家・京家すべてばた/″\と主人からまづ此時疫《じえき》に亡くなつた。家に防ぐ筈の石城が失せたからである。其でまたぼつ/\とり壊した家も、旧《もと》に戻したりしたことであつた。
こんな畏しい事も、あつて過ぎた夢だ。がまだ、まざ/″\と、人の心には焼きついて離れない。
其は其として、昔から家の娘を守つた村々は、段々えたいの知れぬ村の風に感染《かま》けて、忍び夫《づま》の手に任せ傍題《はうだい》にしようとしてゐる。此は、さうした求婚《つまどひ》の風を伝へなかつた氏々の間では、忍び難いことであつた。其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで何とも思はなくなつた。が、家庭の中では、母・妻・乳母《おも》たちが、今にいきり立つて、さうした風儀になつて行く世間を呪ひやめなかつた。
手近いところで言つても、大伴にせよ。藤原にせよ。さう謂ふ妻どひの式はなくて、数十代、宮廷をめぐつて仕へて来た村々のあるじの家筋だつた。
でも何時か、さうした氏々の間にも、妻迎への式には、
八千矛の神のみことは、とほ/″\し高志《こし》の国に美《くは》し女《め》をありと聞かして、賢《さか》し女《め》をありと聞こして……
から謡ひ起す神語歌《かみがたりうた》を、語部に歌はせる風が、次第にひろまつて来てゐた。
南家の郎女《いらつめ》にも、さう言ふ妻覓《つまま》ぎ人が――いや人群《ひとむれ》が、とりまいて居た。唯、あの形式だけ残された石城《しき》の為に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み―たぶう―を犯すやうな危殆《ひあひ》な心持ちで、誰も彼も、柵まで又門まで来ては、かいまみして帰るより外に、方法を見つけることが出来なかつた。
通《かよ》はせ文《ぶみ》をおこすだけがせめてもの手段で、其さへ無事に、姫の手に届いて披見せられるやら、自信を持つことが出来なかつた。事実、大抵、女部屋の老女《とじ》たちが引つたくつて、渡させなかつた。さうした文のとりつぎをする若人《わかうど》―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱つて居る事が、度々見受けられた。
其方《おもと》は、この姫様こそ、藤原の氏神にお仕へ遊ばす清らかな常処女《とこをとめ》と申すのだと言ふことを知らぬかえ。神の咎めを憚るがえゝ。宮からお召しになつてもふつによいおいらへを申しあげぬのも、そこがあるからとは考へつかぬげな。やくたい者め。とつと失せ居れ。そんな文とりついだ手を佐保川の一の瀬で浄めて来う。罰《ばち》知らずが……。
こんな風にわなりつけられた者は、併し、二人や三人ではなかつた。横佩家の女部屋に住んだり、通うたりする若人は、一人残らず一度は経験したことだと謂つても、うそではないのだ。
だが郎女は、そんな事があらうとも気がつかなかつた。
上つ方の姫御前が、才《さえ》をお習ひ遊ばすと言ふことが御座りませうか。それは、近来もつと下《しも》ざまのをなごの致すことゝ承ります。父君がどう仰らうとも、父御《てゝご》様のお語は御一代。お家の習はしは神さまの御意趣《むね》と思ひつかはされませ。
氏の掟の前には、氏《うぢ》の上《かみ》たる人の考へをすら、否みとほす事もある姥たちであつた。
其老女たちすら、郎女の天稟には舌を捲き出して居た。
もう自身たちが教へることはない。
かう思ひ出したのは、数年も前からである。内に居る身狭乳母《むさのおも》・桃花鳥野乳母《つきぬのまゝ》・波田坂上《はたのさかのへの》刀自、皆喜びと、不安とから出る歎息を洩し続けてゐる。時々伺ひに出る中臣志斐嫗《のしひのおむな》・三上水凝刀自女《みかみのみづごりのとじめ》なども、来る毎に顔見合せてほつとした顔をする。どうしようと相談するやうな人たちではない。皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで来た姫の成長にあきれて、目を見はるばかりなのだ。
才《さえ》を習ふなと言ふのなら、まだ聞きも知らぬこと教へて賜《たも》れ。
素直な郎女の語も、姥たちにとつては、骨を刺しとほされるやうな痛さであつた。
何を仰せられまする。以前から、何一つお教へなど申したことは御座りません。目下《めした》の者が、目上のお方さまに、お教へ申すと言ふやうな考へは、神様がお聞き届けになりません。教へる者は目上、教《をそ》はる者は目下と、此が神の代からの掟で御座りまする。
志斐嫗《おむな》の負け色を救ふ為に、身狭乳母《むさのおも》も口を挿む。
唯、知つた事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。さう思うて、姥たちは覚えただけの事は、姫御様のみ魂《たま》を揺《いぶ》る様にして、歌ひもし、語りもして参りました。教へたなど仰つては、私めらが罰を蒙らねばなりません。
こんなことをくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの持つ才能に対する単純な自覚が起つて来た。此は一層、郎女の望むまゝに、才《さえ》を習はした方がよいのではないかと言ふ気が、段々して来たのである。
まことに其為には、ゆくりない事が幾重にも重つて起つた。姫の帳台の後から、遠くに居る父の心尽しだつたと見えて、二巻の女手《をんなで》の写経らしい物が出て来た。姫にとつては、肉縁はないが、曾祖母《ひおほば》に当る橘夫人の法華経、又其お腹に出でさせられた――筋から申せば大叔母にもお当りになる今の皇太后様の楽毅論。此二つが美々しい装ひで、棚を架《か》いた上に載せてあつた。
横佩右大臣と謂はれた頃から、父は此二部を、自分の魂のやうに大事にして居た。ちよつと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の資人《とねり》に持たせて行つたものである。其魂の書物を、姫の守りに留めて而も誰にも話さなかつたのである。さすがに我強《がづよ》い刀自たちも、此見覚えのある美しい箱が出て来た時には、暫らく撲たれたやうに顔を見合せて居た。さうして後《のち》、後《あと》で恥しからうことも忘れて、皆声をあげて泣いたのである。
郎女は父の心入れを聞いた。姥たちの見る目には、併し予期したやうな昂奮は認められなかつた。唯一途《づ》に素直に、心の底の美しさが匂ひ出たやうに、静かな美しい眼をして、人々の感激する様子を驚いたやうに見て居た。
其からは、此二つの女手《をみなで》の本《ほん》を一心に習ひとほした。一月も立たない中の事である。早く、此都に移つて居た飛鳥寺《あすかでら》から巻数《くわんず》が届けられた。其には、太宰府にある帥の殿の立願によつて、仏前に読誦した経文の名目が書き列ねてあつた。其に添へて一巻の縁起文が、此御館へ届けられたのである。
父藤原豊成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに当る日に志を発《おこ》して、書き綴つた「仏本伝来記」を、二年目の天平十八年に、元興寺《ぐわんこうじ》へ納めた。飛鳥以来、藤原氏とも関係の深かつた寺なり、本尊なのである。あらゆる念願と、報謝の心を籠めたものと言ふことは察せられる。其一巻が、どう言ふ事情か横佩家へ戻つて来たのである。
郎女の手に、此巻が渡つた時、姫は端近く膝行《ゐざ》り出て、元興寺の方を礼拝した。其後で、
筑紫は、どちらに当るかえ
と尋ねて、示す方角へ、活き/\した顔を向けた。其目からは、珠数の水精《すゐしやう》のやうな涙が落ちた。其からと言ふものは、来る日も/\此元興寺の縁起文を手写した。内典・外典其上に又、大日本《おほやまと》の人なる父の書いた文《もん》。
指から腕、腕から胸、胸から又心へ、泌み/\と深く、魂を育てる智慧の這入つて行くのを覚えたのである。
大日本日高見《ひたかみ》の国、国々に伝はるありとある歌諺《うたことわざ》、又其旧辞《そのもとつごと》、第一には、中臣の氏の神語り、藤原の家の古物語、多くの語り詞《ごと》を絶えては考へ継ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々《のろ/\》しく、くね/\しく、独り語りする語部や、おもやまゝたちの唱へる詞が、今更めて寂しく胸に蘇つて来る。
をゝ、あれだけの習はしを覚えて此世に生きながらへて行かねばならぬ自身だつた。
父に感謝し、次には尊い大叔母君、其から見ぬ世の曾祖母の尊に、何とお礼申してよいか量り知れないものが、心にたぐり上げて来た。
だがまづ、父よりも誰よりも、御礼申すべきはみ仏である。この珍貴《ウヅ》の感覚《さとり》を授け給ふ、限り知られぬ愛《めぐ》みに充ちたよき人が、此世界の外に居られたのである。郎女は、塗香《づこう》をとり寄せて、まづ髪にふり灌ぎ、手に塗り、衣を薫るばかりに浄めた。(つゞく)
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死者の書(終篇)
六
ほゝき ほゝきい ほゝほきい。
きのふよりも、澄んだよい日になつた。春にしては、驚くばかり濃い日光が、地上にかつきりと、木草の影を落して居た。ほか/\した日よりなのに、其を見てゐると、どこか薄ら寒く感じるほどである。時々に過ぎる雲の翳りもなく、晴れきつた空だ。高原を拓いて、間引《まび》いた疎らな木原《こはら》の上には、もう沢山の羽虫が出て、のぼつたり降《さが》つたりして居る。たつた一羽の鶯が、よほど前から一処を移らずに、鳴き続けてゐるのだ。
家の刀自たちが、物語る口癖を、さつきから思ひ出して居た。出雲ノ宿禰の分れの家の嬢子《をとめ》が、多くの男の寄つて来るのを煩はしがつて、身をよけよけして、何時か山の林の中に分け入つた。さうして其処で、まどろんで居る中に、悠々《うら/\》と長い春の日が暮れてしまつた。嬢子は、家路と思ふ径をあちこち歩いて見た。脚は茨の棘にさゝれ、袖は木の楚《ずはえ》にひつぱられた。さうしてとう/\、里らしい家群《むら》の見える小高い岡の上に上つた時は、裳《も》も著物も裂けちぎれて居た。空には夕月が光りを増して来てゐる。嬢子はさくり上げて来る感情を声に出した。
ほゝき ほゝきい
何時も、悲しい時に泣きあげて居た、あの声ではなかつた。「をゝ此身は」と思つた時に、自分の顔に触れた袖は、袖ではないものであつた。枯れ生《ふ》の冬草山の山肌の色をした小さな翼であつた。思ひがけない声を、尚も出し続けようとする口を、押へようとすると、自身すらいとほしんで居た柔らかな唇は、どこかへ行つてしまつて、替りにさゝやかな管のやうな喙が来てついて居る――。悲しいのか、せつないのか、何の考へさへもつかなかつた。唯身悶へをした。すると、ふはりとからだは宙に浮き上つた。留めようと、袖をふれば振るほど、身は次第に、高く翔り昇つて行つた。月の照る空まで……。その後今に到るまで
ほゝき ほゝきい ほゝほきい
と鳴いてゐるのだと、幼い耳に染《し》みつけられた物語の出雲の嬢子が、そのまゝ自分であるやうな気がして来る。
郎女は、徐《しづ》かに両袖《もろそで》を胸のあたりに重ねて見た。家に居時よりは、萎《な》れ、皺《しわ》立つてゐるが、小鳥の羽《はね》とはなつて居なかつた。手をあげて唇にさはつて見ると、喙でもなかつた。やつぱり、ほつとりとした、感触を指の腹に覚えた。
ほゝき鳥《どり》―鶯―になつて居た方がよかつた。昔語の嬢子は、男を避けて山の楚原へ入り込んだ。さうして、飛ぶ鳥になつた。この身は、何とも知れぬ人の俤にあくがれ出て、鳥にもならずに、こゝにかうして居る。せめて蝶鳥《てふとり》にでもなれば、ひら/\と空に舞ひのぼつて、あの山の頂に、俤をつきとめに行けるものを――。
ほゝき ほゝきい
自身の咽喉から出た声だと思つた。だがやはり、廬の外で鳴くのである。
郎女の心に、動き初めた叡《さと》い光りは消えなかつた。今まで手習した書巻の何処やらに、どうやら、法喜と言ふ字のあつた気がする。法喜――飛ぶ鳥すらも、美しいみ仏の詞に感《かま》けて鳴くのではなからうか。さう思へば、この鶯も、
ほゝき ほゝきい
嬉しさうな高音《たかね》を段々張つて来る。
物語する刀自たちの話でなく、若人《わかうど》らの言ふことは、時たま世の中の瑞々《みづ/\》しい語草を伝へて来た。
奈良の家の女部屋は、裏方五つ間《ま》を通した広いものであつた。郎女の帳台の立《た》ち処《ど》を一番奥にして、四つの間に刀自若人凡三十人も居た。若人等は、この頃氏々の御館《みたち》ですることだと言つて、苑の池の蓮の茎を切つて来ては、藕絲《はすいと》を引く工夫に一心になつて居た。横佩家の池の面を埋めるほど、珠を捲いたり、解けたりした広い葉は、まばらになつて、水の反射が蔀を越して、女部屋まで来るばかりになつた。茎を折つては、繊維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、絲に縒る。
郎女は、女たちの凝つてゐる手芸を見て居る日もあつた。ぽつり/\切れてしまふ藕絲《はすいと》を、八合《やこ》・十二合《こ》・二十合《はたこ》に縒つて、根気よく細い綱の様にする。其を績麻《うみを》の麻ごけに繋ぎためて行く。
この御館《みたち》でも、蚕《かふこ》は飼つて居た。現に刀自たちは、夏は殊にせはしく、不譏嫌《ふきげん》になつて居ることが多い。
刀自たちは、初めはそんな韓《から》の技人《てびと》のするやうな事はと、目もくれなかつた。だが時が立つと、段々興味を惹かれる様子が見えて来た。
こりや、おもしろい。絹の絲と績《う》み麻《を》との間を行くやうな妙な絲の。此で、切れさへしなければなう。
かうして績《つむ》ぎ蓄《た》めた藕絲は、皆一纏めにして寺々に納入しようと言ふのである。寺には其々《それ/″\》の技女《ぎぢよ》が居て、其絲で、唐土様《もろこしやう》と言ふよりも、天竺風な織物を織るのだと言ふ評判であつた。女たちは、唯功徳《くどく》の為に絲を績《つむ》いでゐる。其でも、其が幾かせ、幾たまと言ふ風に貯つて来ると、言ひ知れぬ愛著を覚えて居た。だが其が実際どんな織物になることやら、其処までは考へないで居た。
若人たちは、茎を折つては、巧みに糸を引き切らぬやうに、長く/\抽き出す。又其粘り気の少いさくいものを、まるで絹糸を縒り合せるやうに手際よく絲にする間も、ちつとでも口やめる事なく、うき世語りなどをして居た。此は勿論、貴族の家庭では出来ない掟になつて居た。なつて居ても、物珍《ものめ》でする盛りの若人たちには、口を塞いで緘黙行《しゞま》を守ることは、死ぬよりもつらい行《ぎやう》であつた。刀自らの油断を見ては、ぼつ/\話をしてゐる。其きれ/″\が、聞かうとも思はぬ郎女の耳にも、ぼつ/\と這入つて来《き》勝ちなのであつた。
鶯の鳴く声は、あれで法華経《ほけきやう》々々々《/\》と言ふのぢやさうな。
ほゝ、どうして、え。
天竺のみ仏は、をなごは助からぬものぢやと説かれ/\して来たがえ、其果てに、女《をなご》でも救ふ道を開かれた。其を説いたのが、法華経ぢやと言ふげな。
――こんなこと、をなごの身で言ふと、さかしがりよと思はうけれど、でも世間ではさう言ふもの。――
ぢやで、法華経々々々と経の名を唱へるだけで、この世からあの世界への苦しみが助かるといの。
ほんにその、天竺のをなごの化《な》り変つたのがあの鳥で、み経の名を呼ばはるのかえ。
郎女は、此を小耳に挿んで後、何時までも其印象が消えて行かなかつた。
その頃は、称讃浄土摂受経《しようさんじやうどせふじゆきやう》を千部写さうとの願を発《おこ》して居た時であつた。其がはかどらない。何時までも進まない。茫とした耳に、此世話《よばなし》が紛れ入つて来たのである。
ふつと、こんな気がした。
ほゝき鳥は、先の世で、法華経手写の願を立てながら、え果たさいで、死にでもした、いとしい女子《をみなご》がなつたのではなからうか。
今若し自身も、千部に満たずにしまふやうなことがあつたら、魂《たま》は何になるやら。やつぱり鳥にでも生れて、切《せつ》なく鳴き続けることであらう。
つひしか、ものを考へた事もないあて人の郎女であつた。磨かれない智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに過ぎて行つた幾百年、幾万の貴い女性《によしやう》の間に、蓮《はちす》の花がぽつちりと莟を擡《もた》げたやうに、物を考へることを知り初《そ》めたのである。
をれよ。鶯よ。あな姦《かま》や。人に物思ひをつけくさる。
荒々しい声と一しよに、立つて表戸と直角《かね》になつた草壁の蔀戸《しとみど》をつきあげたのは、当麻語部《たぎまかたり》の嫗《おむな》である。北側に当るらしい其外側は、を圧するばかり、篠竹が繁つて居た。沢山の葉筋《はすぢ》が、日をすかして一時にきら/\と光つて見えた。
郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、閃き過ぎたのを、の裏に見つめて居た。をとゝひの日の入り方、山の端に見た輝きを思はずには居られなかつたからである。
また一時《いつとき》、廬堂《いほりだう》を廻つて音するものもなかつた。日は段々闌《た》けて、小昼《こびる》の温みが、ほの暗い郎女の居処にも、ほと/\と感じられて来た。
寺の奴《やつこ》が三四人先に立つて、僧綱が五六人、其に、所化たちの多くとり捲いた一群れが、廬へ来た。
これが、古《ふる》山田寺だと申します。
勿体ぶつた、しわがれ声の一人が言つた。
そんな事は、どうでも――。まづ郎女さまを――。
噛みつくやうにあせつて居る家長老《いへおとな》額田部子古《ぬかたべのこふる》のがなり声がした。
同時に、表戸は引き剥がされ、其に隣つた幾つかの竪薦《たちごも》をひきちぎる音がした。
づうと這入つて来た身狭《むさ》ノ乳母《おも》は、郎女の前に居たけを聳かして掩ひになつた。外光の直射を防ぐ為と、一つは、男たちの前殊には、庶民の目に貴人《あてびと》の姿を暴《さら》すまいとするのであらう。
伴に立つて来た家人の一人が、大きな木の又枝《またぶり》をへし折つて、之に旅用意の巻帛《まきぎぬ》を幾垂れか結び下げて持つて来た。其を牀《ゆか》につきさして、即座の竪帷《たつばり》―几帳―は調つた。乳母《おも》は、其前に座を占めて、何時までも動かなかつた。
七
怒りの滝のやうになつた額田部ノ子古は、奈良に還つて、公に訴へると言ひ出した。大和ノ国にも断つて、寺の奴原を逐ひ退けて貰ふとまで、いきまいた。紫微内相を頭《かしら》に、横佩家に深い筋合ひのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願はずには置かぬと、凄い顔をして住侶たちを脅かした。
郎女は貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域を穢し、結界まで破られたからは、直にお還りになるやうには計はれない。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、贖《あがな》ひはして貰はねばならぬと、寺方も言ひ分を挽つこめなかつた。理分にも非分にも、これまで南家の権勢でつき通して来た家長老《おとな》等にも、寺方の扱ひと言ふものゝ世間どほりにはいかぬ事が訣《わか》つて居た。乳母《おも》に相談かけても、一生さうした世事に与つた事のない此人は、そんな問題には、詮《かひ》ない唯の女性《によしやう》に過ぎなかつた。先刻《さつき》からまだ立ち去らずに居た当麻語部の嫗が、口を出した。
其は、寺方に理分が御座りまする。お随ひなされねばならぬ
と言ひ出した。其を聞くと、身狭の乳母は、激しく田舎語部の老女を叱つた。男たちに、畳を持ちあげ、柱に縋る古婆を掴み出させた。さうした威高さは、さすがに自ら備つてゐた。
何事も、この身などの考へではきめられぬ。帥《そち》の殿《との》に承らうにと、国遠し。まづ姑らく、郎女様のお心による外はないものと思ひまする。
其より外には、方もつかない。奈良の御館の人々と言つても、多くは此二人の意見を聞いてする人々である。よい思案を考へつきさうなものも居ない。太宰府へは直様使を立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の考へに任せようと言ふことになつた。
郎女様。如何お考へ遊ばしまする。おして奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤、寺方でも侯人《さぶらひびと》や奴隷《やつこ》の人数を揃へて妨げませう。併し、御館《みたち》のお勢ひには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考を承らずには、何とも計らはれませぬ。御思案お洩し遊ばされ。
謂はゞ難題である。あて人の娘御に、此返答の出来よう筈はない。乳母《おも》も、子古《こふる》も、凡は無駄な伺ひだと思つては居た。ところが、郎女の返事はこだまかへしの様に、躊躇《ためら》ふことなしにあつた。其上此ほど、はつきりとした答へはないと思はれた。其がすべての人の不満を圧倒した。
姫の咎は、姫が贖《あがな》ふ。此寺、此二上山の下に居て、身の償《つぐな》ひ、心の償ひしたと姫が得心するまでは、還るものとは思《おも》やるな。
郎女の声、詞を聞かぬ日はない身狭《むさ》の乳母《おも》ではあつた。だが、つひしか此ほどに頭の髄まで沁み入るやうな、凜とした語を聞いたことのない乳母《おも》だつた。
寺方の言ひ分に譲るなど言ふ問題は、小さい事であつた。此爽やかな育ての君の判断力と、惑ひなき詞に感じてしまつた。たゞ、涙。かうまで賢《さか》しい魂を思ふと、頬に伝ふものを拭ふことも出来なかつた。子古にも、郎女の詞を伝達した。さうして、自分のまだ曾てなかつた感激を、力深くつけ添へて聞かした。
ともあれ此上は、太宰府へ。
かう言つた自分の語に気つけられたやうに、子古は思ひ出した。今日か明日、新羅問罪のうち合せの為、難波を離れて、筑前へ下る官使の一行があつたのである。此中に居る知り人に、今度の事の顛末の報告から、其決断を乞ふ次第を書き綴つて、托しようと思ひついた。
北へ廻つて、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶ふ処は馬で行かうと決心した。
万法蔵院に唯一つ飼つて居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。子古は、今日の日暮れまでには、難波まで行つて還つて来ると、威勢のよい語を、歯の隙いた口に叫びながら、郎女の竪帷《たつばり》の前に匍伏した。
子古の発つた後は、又のどかな春の日に戻つて、悠々《うら/\》と照り暮す山々を見せませうと、乳母《おも》が言ひ出した。木立、山陰から盗み見する者のないやうに、家人らを一町二町先まで見張りに出して、郎女を外に誘ひ出した。
暴風雨《あらし》の夜、添上、広瀬、葛城の野山をかちあるきした姫ではない。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。
日の光りは霞みもせず、陽炎も立たず、唯おどんで見えた。昨日眺めた野も、斜になつた日を受けて、物の影が細長く靡いて居た。青垣の様にとり捲く山々も、愈遠く裾を曳くやうに見える。
早い菫―げんげ―が、もうちらほら咲いてゐる。遠く見ると、その紫の色が一続きに見えて、薄い雲がおりて居るやうに思はれる。足もとに一本、おなじ花の咲いてゐるのを見つけた郎女は、膝を叢について、ぢつと眺め入つた。
これはえ――
すみれと申すとのことで御座ります。
かう言ふ風に、物を知らせるのが、あて人に仕へる人たちの為来りになつて居た。
蓮《はちす》の花に似てゐながら、もつと細やかな、――絵にある仏の花を見るやうな――
ひとり言しながら、ぢつと見てゐるうちに、花は広い萼《うてな》の上に乗つた仏の前の大きな花になつて来る。其がまた、ふつと目の前のさゝやかな花に戻る。
夕風が冷《ひや》ついて参ります。内へ――。
乳母が言つた。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。
一番近く谷を隔て、端山の林や崖《なぎ》の幾重も重つた上に、二上の男嶽《をのかみ》の頂が、赤い日に染つて立つてゐる。
今日は、あまりに静かな夕《ゆふべ》である。山ものどかに夕雲の中に這入つて行かうとしてゐる。
まうし。まう外に居る時では御座りません。
八
「朝目よく」うるはしい兆《しる》しを見た昨日は、郎女にとつて、知らぬ経験を、後から後から展いて行つた。たゞ人《びと》の考へから言へば、苦しい現実のひき続きではあつたのだが、姫にとつては、心驚く事ばかりであつた。
一つ/\変つた事に逢ふ度に、姫は「何も知らぬ身であつた」と心の底で声を上げた。さうして、その事毎に挨拶をしてはやり過したい気が一ぱいであつた。今日も其続きを、くはしく見た。なごり惜しく過ぎ行く現《うつ》し世のさま/″\。郎女は、今目を閉ぢて、心に一つ/\収めこまうとして居る。ほのかに通り行き、将《はた》著しくはためき過ぎたもの――。
宵闇の深くならぬ間に、廬《いほり》のまはりは、すつかり手入れがせられた。燈台も大きなのを、寺から借りて来て、煌々と油火《び》が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場処にはすさまじいと云ふ者があつて、どこかへ搬んで行かれた。其よりも、郎女の為には帳台が、設備《しつら》はれてゐた安らかさ。夜も、今宵は暖かであつた。帷帳《とばり》を周らした中は、ほの暗かつた。其でも、山の鬼神《もの》、野の魍魎《もの》を避ける為の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板《つしいた》に揺らめいて居るのが頼もしい気を深めた。帳台のまはりには、乳母や若人が寝たらしい。もう其も一時も前の事で、皆すや/\と息の音を立てゝ居る。姫の心は、今は軽かつた。
たとへば、俤に見たお人には逢はなくとも、その俤を見た山の麓に来て、かう安らかに身を横へて居る。
燈台の明りは、郎女の額の上に、高く朧ろに見える光りの輪を作つて居た。月のやうに円くて、幾つも上へ/\と月輪《ぐわちりん》が重つてゐる如くも見えた。其が隙間風の為であらう。時々薄れて行くと、一つの月になつた。ぽつと明り立つと、幾重にも隈の畳まつた大きな円かな光明になる。
幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今はじめて谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、此頃やつと、遅い月が出たことであらう。
物の音。――つた/\と来て、ふうと佇《た》ち止るけはひ。耳をすますと、元の寂かな夜に、激《たぎ》ち降る谷のとよみ。
つた つた つた
又ひたと止《や》む。
この狭い廬の中を、何時まで歩く、足音だらう。
つた
郎女は刹那、思ひ出して牀の中で身を固くした。次にわぢ/\と戦《をのゝ》きが出て来た。
天若御子《あめわかみこ》――。
ようべ、当麻語部嫗《たぎまかたりのおみな》の聞かした物語。あゝ其お方の来て窺ふ夜なのか。
――青馬の 耳面刀自《みゝものとじ》。
刀自もがも。女弟《おと》もがも。
その子の はらからの子の
処女子の 一人
一人だに わが配偶《つま》に来よ。
まことに畏しかつたことを覚えない郎女にしては、初めてまざ/″\と圧へられるやうな畏《こは》さを知つた。あゝあの歌が、胸に生《い》き蘇《かへ》つて来る。忘れたい歌の文句が、はつきりと意味を持つて、姫の唱へぬ口の詞から、胸にとほつて響く。すさまじい動悸。
帷帳《とばり》が一度、風を含んだ様に皺だむ。
ついと、凍る様な冷気――。
郎女は目を瞑つた。だが――瞬間の間から映《うつ》つた細い白い指、まるで骨のやうな――帷帳《とばり》を掴んだ片手の白く光る指。
あな たふと 阿弥陀仏。なも阿弥陀仏。
何の反省もなく、唇を洩れた詞。この時、姫の心は急に寛ぎを感じた。さつと――汗。全身に流れる冷いものを覚えた。
畏《こは》い感情を持つたことのないあて人の姫は、直《すぐ》に動顛した心をとり直すことが出来た。
なも あみだぶつ
今《も》一度口に出して見た。をとゝひまで手写しとほした称讃浄土摂受経《しようさんじやうどせふじゆきやう》の文《もん》である。郎女は、昨日までは一度も、寺道場を覗いたこともなかつた。父君は、家の内に道場を構へて居たが、簾越しにも聴聞《もん》は許されなかつた。御経《おんきやう》の文《もん》は手写しても、固より意趣は訣らなかつた。だが、かつ/″\処々には、気持ちの汲みとれる所があつたのであらう。併しまさか、こんな時、突嗟に口に上らうとは思うて居なかつた。
白い骨、譬へば玉の様に並んだ骨の指、其が何時までも目に残つて居た。帷帳《とばり》は元のまゝに垂れて居る。だが、白玉の指は、細々と其に絡んでゐるやうな気がする。
悲しいとも懐しいとも知れぬ心に、深く郎女は沈んで行つた。山の端に立つた俤びとは、白々とした掌をあげて、姫をさし招いたと覚えた。だが今、近々と見る、其手は、海の渚の白玉のやうに、寂しく目にはうつる。
長い渚を歩いて居る。郎女の髪は左から右から吹く風に、あちらへ靡き、こちらへ乱れする。浪はま足もとに寄せて居る。渚と思うたのは、海の中道《なかみち》である。浪は両方から打つて居る。どこまでも/\、海の道は続く。郎女の足は砂を踏んでゐる。その砂すらも、段々水に掩はれて来る。
砂を踏む踏むと思うて居る中に、ふと其が白々とした照る玉だと気がつく。姫は身を屈《こゞ》めて、白玉を拾ふ。拾うても/\、玉は皆掌《たなそこ》に置くと、粉の如く砕けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾ひ続ける。玉は水隠《みがく》れて見えぬ様になつて行く。姫は悲しさに、もろ手を以て掬《すく》はうとする。掬《むす》んでも/\水のやうに、手股《たなまた》から流れ去る白玉――。玉が再び砂の上に並んで見える。忙《あわたゞ》しく拾はうとする姫の俯《うつむ》いた背を越して、流れる浪が泡立つてとほる。
姫は――やつと白玉を取り持つた。大きな輝く玉。さう思うた刹那、郎女の身は大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく裳《も》もない。抱き持つた白玉と一つに、照り充ちた現《うつ》し身。
ずん/\とさがつて行く。水底《みなぞこ》に水漬《みづ》く白玉となつた郎女の身は、やがて又一幹《ひともと》の白い珊瑚の樹《き》である。脚を根とし、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、もう髪ではなく、藻であつた。藻が深海の底に浪のまゝに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほつと息をついた。まるで潜《かづ》きする処女が二十尋《はたひろ》、三十尋《みそひろ》の水《みな》底から浮び上つて、つく様に深い息の音で、自身明らかに目が覚めた。
あゝ夢だつた。当麻まで来た夜道の記憶はまざ/″\と残つて居るが、こんな苦しさは覚えなかつた。だがやつぱり、をとゝひの道の続きを辿つて居るのではなからうかと言ふ気がする。
水の面からさし入る月の光り、と思うた時に、ずん/\海面に浮き出て行く。さうして、悉く痕形もない夢だつた。唯、姫の仰ぎ寝る頂板《つしいた》に、あゝ水にさし入つた月。そこに以前のまゝに、幾つも暈《かさ》の畳まつた月輪の形が揺めいて居る。
なも、阿弥陀仏、
再、口に出た。光りの暈は、今は愈明りを増して、輪と輪との境の隈々しい処までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝つて、明るい光明の中に、胸、肩、頭、髪、はつきりと形を現《げん》じた。白々と袒《ぬ》いだ美しい肌、浄く伏せたまみが、郎女の寝姿を見おろして居る。乳のあたりと膝元とにある手――その指《および》、白玉の指《および》。
姫は、起き直つた。だが、天井の光りの輪は、元のまゝに、仄かに事もなく揺れて居た。
九
貴人《うまびと》はうま人どち、やつこは奴隷《やつこ》どちと言ふからなう――。
何時見ても紫微内相は、微塵《みじん》曇りのない円《まど》かな相好《さうがう》である。其にふるまひのおほどかなこと、若くから氏《うぢ》の上《かみ》で、数十家の一族や、日本国中数千の氏人から立てられて来た家持《やかもち》も、静かな威に圧せられるやうな気がして来る。
言はしておくがよい。奴隷《やつこ》たちはとやかくと、口さがないのが、其為事よ。此身とお身とは、おなじ貴人《うまびと》ぢや。おのづから話も合はうと言ふもの。此身が段々なり上《のぼ》ると、うま人までが、おのづとやつこ心になり居つて、卑屈になる。
家持は、此が多聞天かと、心に問ひかけて居た。だがどうもさうは思はれぬ。同じ、かたどつて作るなら、とつい想像が浮んで来た。八年前、越中国から帰つた当座の世の中の豊かな騒ぎが思ひ出された。あれからすぐ、大仏開眼《かいげん》供養が行はれたのであつた。其時、近々と仰ぎ奉つた尊容三十二種好《しゆがう》具足したと謂はれる其相好が、誰やらに似てゐると感じた。其がどうしても思ひ浮ばずにしまつた。その時の連想が、今ぴつたり的にあてはまつて来たのである。
かうして対ひあつて居る仲麻呂の顔なり、姿なりが、其まゝあの廬遮那《るさな》ほとけの俤だと言つて、誰が否まう。
お身も少し咄したら、えゝではないか。官位《かうぶり》はかうぶり。昔ながらの氏は氏――。なあ、さう思ふだろう。紫微中台と兵部省と位づけするのは、うき世の事よ。家《うち》に居れば、やはり神代以来《かみよいらい》の氏の上《かみ》づきあひをしようよ――。
新しい唐の制度の模倣ばかりして、漢《もろこし》の才《さえ》がやまと心に入り替つたと謂はれて居る此人が、こんな嬉しいことを言ふ。家持は感謝したい気がした。理会者、同感者を思ひがけない処に見つけ出した嬉しさだつたのである。
お身は、宋玉や、登徒子の書いた物を大分持つて居ると言ふが、太宰府へ行つた時に手に入れたのぢやな。あんな若い年で、わせだつたんだなう。お身は――。お身の家では古麻呂《こまろ》、身の氏に近い者では奈良麻呂、あれらは漢魏はおろか今の唐の小説なども、ふり向きもせんから、咄にはならぬて。
兵郡大輔は、やつと話のつきほを捉へた。
お身さまの話ぢやが、わしは賦の類には飽きました。どうも、あれが、この四十面さげてもまだ、涙もろい詩や歌の出て来る元になつて居る――さうつく/″\思ひますので。ところで近頃は方《かた》を換へて、張文成を拾ひ読みすることにしました。あの方が、なんぼか――。
大きに、其は、身も賛成ぢや。ぢやが、お身がこの年になつても、まだ二十《はたち》代の若い心や瑞々しい顔を持つて居るのは宋玉のおかげぢやぞや。まだなか/\隠れては歩き居ると人の噂ぢやが、嘘ぢやない。身が保証する。おれなどは張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気が尽きてしまうた心持ちがする。――ぢやが全く、文成はえゝなう。漢土《もろこし》びとぢやとは言へ、心はまるでやまとのものと一つと思ふが、お身は諾《うべな》ふかね。
文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は読んで居て、知らぬ事ばかり教へられるやうで、時々ふつと思ひ返すと、こんな思はざつた考へも、身は持つことになつた――そんな空恐しい気さへすることがあります。お身さまにも、そんな経験《おぼえ》が、おありでせう。
大ありおほ有り、毎日々々、其ぢや。しまひにどうなるのぢや。こんなに智慧づいてはと思はれてならぬことが――ぢやが、女子《をみなご》だけにはまづ当分、女部屋のほの暗い中で、こんな智慧づかぬのどかな心で居さしたいものぢや。第一其が、男の為ぢや。
家持は、此了解に富んだ貴人の語に、何でも言つてよい、青年のやうな気が湧いて来た。
さやう/\。智慧を持ち初めては女部屋には、ぢつとして居ませぬな。第一横佩墻内《よこはきかきつ》の――
いけないことを言つたと思つた。同時に此臆《おく》れた気の出るのが、自分を卑《ひく》くし、大伴氏を昔の位置から自ら蹶落す心なのだと感じた。
好《えゝ》、好《えゝ》。遠慮はやめやめ。氏の上《かみ》づきあひぢやもん。ほい又出た。おれはまだ藤氏の氏上に任ぜられた訣ぢやなかつたつけな。
瞬間暗い顔をしたが、直にさつと眉の間から輝きが出た。
身の女姪《めひ》の姫が神隠しにあうた話か。お身は、あの謎見たいないきさつを、さう解《と》るかね。ふん。いやおもしろい。女姪の姫も定めて喜ぶぢやらう。実は、これまで内々小あたりにあたつて見たと言ふ口かね、お身も。
大きに。
今度は軽い心持ちが、大胆に仲麻呂の話を受けとめた。
お身さまが経験《ためし》ずみぢやで、其で郎女の才高《さえだか》さと、男択《えら》びすることが訣りますな――。
此は、額《ひたひ》ざまに切りつけられた――。免せ/\と言ふところぢやが――、あれはの、生れだちから違ふものな。藤原の氏姫ぢやからの。枚岡《ひらをか》の斎《いつ》き姫にあがる宿世《すくせ》を持つて生まれた者ゆゑ、人間の男は、弾く、弾く、弾きとばす。近よるまいぞよ、はゝはゝゝ。
内相は、笑ひをぴたりと止めて、家持の顔を見ながら、きまじめな表情になつた。
ぢやがどうも、お聴き及びのことゝ思ふが、家出の前まで、阿弥陀経の千部写経をして居たと言ふし、楽毅論から、兄の殿の書いた元興寺縁起も、其前に手習したらしいし、まだ/\孝経なども、習うたと見えるし、なか/\の女博士《をなごはかせ》での。楚辞や小説にうき身をやつす身や、お身は近よれぬはなう。――どうして其だけの女子《をみなご》が、神隠しなどに逢はうかい。
第一、場処が当麻で見つかつたと言ひますからの――。
併し其は、藤原に全く縁のない処でもない。天ノ二上の寿詞《よごと》もある処だが……。斎《いつ》き姫《ひめ》もいや、人の妻と呼ばれるのもいや――で、尼になる気を起したのでないかと思ひ当ると、もう不安で不安でなう。のどかな気持ちばかりでも居られぬは――。
仲麻呂の眉は集つて来て、皺一つよらない美しい、この中老の貴人《あてびと》の顔も、思ひなしくすんで見えた。
何しろ、嫋女《ひわやめ》は、国の宝ぢやでなう。出来ることなら、人の物にはせず、神の物にしたいところよ。――ところが、人間の高望《たかのぞ》みは、さうばかりも辛抱しては居りはせぬがい――。何せ、むざ/″\尼寺へやる訣にいかぬ。
でもねえ。一人出家すれば、と云ふ詞が、この頃頻りに説かれるで……。
九族が天に生じて、何になるといふのぢや。実は何百人かゝつても作り出せるものではない。どだい兄公殿《あにきどの》が、少し仏凝《ご》りが過ぎるでなう――。自然内《うち》うらまで、そんな気風がしみこむやうになつたかも知れぬぞ。時に、お身のみ館の郎女も、そんな育てはしてあるまいな。其では久須麻呂が泣きを見るからねえ。
人の悪いからかひ笑みを浮べて、話を無理にでも脇に釣り出さうとするのは、考へるのも切ないことが察せられる。
兄公は氏上に、身は氏助《うぢのすけ》と言ふ訣でゐるが、肝腎斎き姫で枚岡に居させられる叔母御は、もうよい年ぢや。去年春日祭りに上られた姿を見て、神《かん》さびたものよと思うたよ。今《も》一代此方から進ぜないなら、斎き姫になる娘の多い北家の方が、すぐに取つて替つて氏上に据るは。
兵部大輔にとつても、此だけは他事《ひとごと》ではなかつた。おなじ大伴幾流の中から、四代続いて氏ノ上職を持ち堪《こた》へたのも、第一は宮廷の思召しもあるが世の中のよせが重かつたからだ。其には、一番大事な条件として、美しい斎き姫が、此家に出て後を途切らさなかつたからである。大伴の家のは、表向き壻どりさへして居ねば、子があつても斎き姫は勤まると言ふ定めであつた。今の阪ノ上郎女は、二人の女子《をみなご》を持つて、やはり斎き姫である。此はうつかり出来ない。此方も藤原同様、叔母御が斎姫《いつき》で、まだそんな年でないと思うてゐるが、又どんなことで、他流の氏姫が後を襲ふことにならぬとも限らぬ。大伴佐伯《さへき》の数知れぬ人々、民々が外の大伴へ頭をさげるやうなことになつてはならぬ。
かう考へて来た家持の心の動揺を思ひもしない風で、
こんな話は、よその氏ノ上に言ふべきことではないが、兄公殿《あにきどの》があゝして、此先何年、太宰府に居るやら知れぬし、氏の祭りは、枚岡・春日と二処に二度づゝ、其外週《まは》り年には、時々鹿島・香取の吾妻路のはてにある本社の祭りまで、此方で勤めねばならぬ。実際よそほかの氏ノ上よりも、此方《こちら》の氏ノ助ははたらいてゐるのだが、だから、自分で、氏ノ上の気持ちになつたりする。――もう一層なつてしまふか。お身はどう思ふ。答へる訣にも行くまい。氏ノ上に押し直らうとしたところで、今の身の考へ一つを抂げさせるものはない。上様方に於かせられて、お叱りのお語を下しおかれない限りは……。
京中で、此恵美屋敷ほど庭を嗜《この》んだ家はないと言ふ。門は左京二条三坊に、北に向つて開いて居るが、主人家族の住ひは南を広く空《あ》けて広々とした山斎《やま》が作つてある。其に入りこみの多い池を周らし、池の中の島も、飛鳥ノ宮風に造られた。東の中《なか》み門《かど》、西の中《なか》み門《かど》が備つて居る。どうかすると、庭と言ふより寛々《くわん/\》とした空き地の広くおありになる宮廷よりは、もつと手入れが届いて居さうな気がする。
庭を立派にしたうま人たちの末々の事が、兵部大輔の胸に来た。瞬間憂鬱な気持ちがかゝつて来て、前にゐる紫微内相の顔を見るのが気の毒な様に思はれた。
案じるなよ。庭が行き届き過ぎて居ると思うてるのだらう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館は、どの家でも引き継がずに荒してはあるが、あの立派さは、それあの山部の何とか言つた地下《ぢげ》の召《め》し人《びと》の歌よみが、「昔見し池の堤は年深み……」と言つた位だが、其後は、これ此様に四流にも岐れて栄えてゐる。もつとあるよ――。何、庭などによるものではない。
恃《たの》む所の深い此あて人は、庭の風景の目立つた個処々々を指摘しながら、其拠る所を日本漢土に渉つて説明した。
長い廊を数人の童《わらは》が続いて来る。
日ずかしです。お召しあがり下さいませう。
改つて、簡単な饗応の挨拶をした。まらうどに、早く酒を献じなさいと言つてゐる間に、美しい※女《うねめ》[#「女+綵のつくり」、97-12]が、盃を額より高く捧げて出た。
をゝ、それだけ受けて頂けばよい。舞ひぶりを一つ見て貰ひなさい。
家持は、何を考へても、先を越す敏感な主人に対して、唯虚心で居るより外はなかつた。
うねめは、大伴の氏上へもまだ下さらないのだつたね。藤原では御存知でもあらうが、先例が早くからあつて、淡海公が近江ノ宮から頂戴した故事で、頂く習慣になつて居ります。
時々こんな畏まつたもの言ひもまじへた。兵部大輔は、自身の語づかひにも、初中終気扱ひをせねばならなかつた。
氏上もな、身が執《しふ》心で、兄公殿を太宰府へ追ひまくつて、後に据らうとするのだと言ふ奴があるといの――。やつぱり「奴はやつこどち」だなあ。さう思ふよ。時に女姪《めひ》の姫だが――。
さすがの聡明第一の紫微内相も、酒の量が少かつた。其が今日は幾分行けたと見えて、話が循環して来た。家持は、一度はぐらかされた緒《いと》口にとりついた気で、
横佩墻《かき》内の郎女は、どうなるのでせう。宮・社・寺、どちらに行つても、神さびた一生。あつたら惜しいものだな。
気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は――もう、人間の手へは戻らないかも知れんぞ。
末は独り言になつて居た。さうして、急に考へ込んで行つた。池へ落した水音は、未《ひつじ》がさがると、寒々と聞えて来る。
早く、躑躅の照る時分になつてくれないかなあ。一年中で、この庭の一等よい時が待ちどほしい。
紫微内相藤原仲麻呂の声は、若々しい欲望の外、何の響きをもまじへて居なかつた。
十
つた つた つた
郎女は、夜が更けると、一向《ひたすら》、あの音の歩み寄つて来るのを待つやうになつた。
をとゝひよりは昨日、昨日よりは今日といふ風に、其跫音が間遠になつて行き、此頃はふつに音せぬやうになつた。その氷の山に対うて居るやうな骨の疼く戦慄の快感、其が失せて行くのを虞れるやうに、姫は夜毎、鶏のうたひ出すまでは殆ど祈る心で待ち続けて居た。
絶望のまゝ、幾晩も仰ぎ寝たきりで目は昼よりも寤《さ》めて居た。其間に起つた夜の間の現象には、一切心が留らなかつた。
現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板《つし》の面《おもて》の光輪にすら、明盲《あきじ》ひのやうに、注意は惹かれなくなつた。こゝに来て、疾《と》くに七日は過ぎ、十日・半月になつた。山も野も春のけしきが整うて居た。野茨の花のやうだつた小桜が散り過ぎて、其に次ぐ山桜が谷から峰かけて、断続しながら咲いてゐるのも見える。麦生は驚くばかり伸び、里人の野為事に出る姿が、終日動いてゐる。
都から来た人たちの中、何時までこの山陰に春を起き臥すことかと侘びる者が殖えて行つた。廬堂の近くに、板屋を掘り立てゝ、かう長びくと思はなかつたし、まだどれだけ続くかも知れぬ此生活に、家ある者は妻子に会ふことばかりを考へた。親に養はれる者は、家の父母の外にも、隠れた恋人を思ふ心が切々として来るのである。女たちは、かうした場合にも、平気に近い感情で居られる長い暮しの習はしに馴れて、何かと為事を考へてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もつと廬に接して建てられて居た。
身狭乳母《むさのおも》の思ひやりから、男たちの多くは、唯さへ小人数な奈良の御館《みたち》の番に行けと言つて還され、長老《おとな》一人の外は、唯雑用《ざふよう》をする童と奴隷《やつこ》位しか残らなかつた。
乳母《おも》や若人たちも、薄々は帳台の中で夜を久しく起きてゐる郎女の様子を感じ出して居た。でも、なぜさう夜深く溜め息ついたり、うなされたりするか、知る筈はない昔気質の女たちである。
やはり、郎女の魂《たま》があくがれ出て、心が空しくなつて居るものと、単純に考へて居る。ある女は、魂ごひの為に、山尋ねの咒術《おこなひ》をして見たらどうだらうと言つた。
乳母は、一口に言ひ消した。姫様、当麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計らはずに、私にした当麻真人《たぎままひと》の家人たちの山尋ねが、いけない結果を呼んだのだ。当麻語部とか謂つた蠱物《まじもの》使ひのやうな婆が出しやばつての差配が、こんな事を惹き起したのだ。
その節、山の峠《たわ》の塚であつた不思議は、噂になつて、この貴人《うまびと》の一家の者にも知れ渡つて居た。あらぬ者の魂を呼び出して郎女様におつけ申しあげたに違ひない。もう/\軽はずみな咒術《おこなひ》は思ひとまることにしよう。かうして魂《たま》を失はれた処の近くにさへ居れば、何時かは、元のお身になり戻り遊されることだらう。こんな風に考へて、乳母は唯気長にせよと女たちを諭し/\した。こんな事をして居る中に、又一月も過ぎて、桜の後、暫らく寂しかつた山に、躑躅が燃え立つた。足も行かれぬ崖の上や巌の腹などに、一群《むら》々々咲いて居るのが、山の春は今だ、と言はぬばかりである。
ある日は、山へ/\と里の娘ばかりが上つて行くのを見た。凡数十人の若い女が、何処で宿つたのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髪にかざして降りて来た。
どや/\と廬の前を通る時、皆頭をさげて行つた。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ来た。当麻の田居も、今は苗代時である。やがては、田植ゑをする。其時は見に出やしやれ。こんな身でも、其時はずんと女子ぶりが上るぞなと笑ふ者もあつた。
こゝの田居の中で、植ゑ初めの田は、腰折れ田と言ふ都までも聞えた物語のある田ぢやげな。
若人たちは、又例の蠱物姥《まじものうば》の古語りであらうとまぜ返す。ともあれ、かうして山へ上つた娘だけが、今年の田の早処女《さをとめ》に当ります。其しるしが此ぢやと、大事さうに頭の躑躅に触れて見せた。もつと変つた話を聞かせぬかえと誘はれて、身分に高下はあつても、同じ若い同士だから、色々な田舎咄をして行つた。其を後《のち》に乳母《おも》たちが聴いて気になることがあつた。山ごもりして居ると、小屋の上の崖をつた/\と踏み下りて来る者がある。ようべ、真夜中のことである。一様にうなされて苦しい息をついてゐると、音はそのまゝ、真直に下へ降つて行つた。どどどと云ふ響き。――ちようど其が、此廬堂の真上の高処《たか》に当つて居た。こんな処に道はない筈ぢやがと、今朝起きぬけに見ると、索の定《ぢやう》[#「索の定《ぢやう》」はママ]、赤土の大崩崖《おほなぎ》。ようべの音は音ばかりで、ちつとも痕はなかつた。
其で思ひ合せられるのは、此頃ちよく/\、子から丑の間に、里から見えるこのあたりの尾の上に光り物がしたり、時ならぬ一時颪《いつときおろし》の凄い唸りが聞えたりする。今までつひに聞かぬこと。里人は唯かう恐れ謹しんで居るとも、言つた。
こんな話を残して行つて里の娘たちは、苗代田の畔に、めい/\のかざしの躑躅花を挿して帰つて、其ももう寝ついたであらう。夜はひた更けに更けて行く。
昼の恐れのなごりに寝苦しがつて居た女たちも、おびえ疲れに寝入つてしまつた。頭上の崖で、寝鳥の鳴き声がした。郎女は、まどろんだとも思はない目を、ふつと開いた。続いて今一響き、びしとしたのは、鳥などを翼ぐるめひき裂いたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、物も絶えたやうに、虚しい空間になつた。
郎女の額《ぬか》の上の天井の光りの暈《かさ》が、ほの/″\と白んで来る。明りの隈はあちこちに偏倚《かたよ》つて、光りを竪にくぎつて行く。と見る間に、ぱつと明るくなる。そこに大きな花。真白な菫。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、仏の花の白蓮華《びやくれんげ》と言ふものであらうか。郎女には何とも知れぬ浄らかな花が、車輪のやうに、宙にぱつと開いてゐる。仄暗い蕋の処に、むら/\と雲のやうに動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は髪である。髪の中から匂ひ出た壮厳な顔。閉ぢた眦が憂ひを持つて、見おろして居る。あゝ肩、胸、顕はな肌。――冷え/″\とした白い肌。をゝ おいとほしい。
郎女は、自身の声に目が覚めた。夢から続いて口は尚夢のやうに、語を遂うて居た。
おいとほしい。お寒からうに。
十一
山の躑躅の色は様々である。色の一つのものだけが一時に咲き出して、一時に萎《しぼ》む。さうして、凡一月は、後から後から替つた色のが匂ひ出て、若夏の青雲の下に、禿げた岩も、枯れた柴木山も、はでなかざしをつける。其間に、藤の短い花房が、白く又紫に垂れて、老い木の幹の高さを切なく寂しく見せる。下草に交つて馬酔木《あしび》が雪のやうに咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに過ぎるあはれさだ。
もう此頃になると、山は厭はしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隠されてしまふ。郭公《くわつこう》は早く鳴き嗄らし、時鳥が替つて日も夜も鳴く。
草の花が、どつと怒濤の寄せるやうに咲き出して、山全体が花原見たやうになつて行く。里の麦は刈り急がれ、田の原は一様に青みわたつて、もうこんなに伸びたかと驚くほどになる。家の庭苑にも、立ち替り咲き替つて、植ゑ木、草花が何処まで盛り続けるかと思はれる。だが其も一盛りで、坪はひそまり返つたやうな時が来る。池には葦が伸び蒲が秀《ほ》き、藺《ゐ》が抽んでる。遅々として、併し忘れた頃に、俄かに伸《の》し上るやうに育つのは、蓮の葉であつた。
前年から今年にかけて、海の彼方の新羅の暴状が、目立つて棄て置かれないものに見えて来た。太宰府からは、軍船を新造して新羅征伐の設けをせよと言ふ命の降りるのを、都へ度々請うておこして居た。此忙しい時に、偶然流人太宰員外帥として、其処に居た横佩家の豊成は、思ひがけない日々を送らねばならなかつた。
都の姫の事は、子古の状で知つたし、又、京・西海道を往来する頻繁な使に文をことづてる事は易かつたけれども、どう処置してよいか、途方に昏れた。ちよつと見は何でもない事の様で、実は重大な家の大事である。其だけに彼の心の優柔は、益募るばかりであつた。
寺々の知音に寄せて、当麻寺へ、よい様に命じてくれる様にと書いてもやつた。又横佩墻内の家の長老《とね》・刀自たちには、ひたすら、汝等の主の郎女を護つて居れと言ふやうな、抽象なことを答へて来た。
次の消息には、何かと具体的な仰せつけがあるだらうと待つて居る間に、日が立ち月が過ぎて行くばかりである。其間にも姫の失はれたと見える魂が、お身に戻るかと、其だけで山村に人々は止つて居た。物思ひに屈託ばかりしても居ない若人たちは、もう池のほとりにおり立つて、伸びた蓮の茎を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女《めやつこ》が、其はまだ若い、まう半月もおかねばと言つて、寺田の一部に蓮根《はすね》を取る為に作つてあつた蓮田《はちすだ》へ案内しようと言ひ出した。
あて人の家自身が、農村の大家《おほやけ》であつた。其が次第に官人《つかさびと》らしい姿に更つて来ても、家庭の生活は、何時まで立つても、何処か農家らしい様子が、家構へにも、屋敷の広場《には》にも、家の中の雑用具にも、残つて居た。第一、女たちの生活は、起居《たちゐ》ふるまひなり、服装なりは優雅に優雅にと変つては行つたが、やはり昔の農家の家内の匂ひがつき纏うて離れなかつた。
刈り上げの秋になると、夫と離れて暮す年頃に達した夫人などは、よく其家の田荘《なりどころ》へ行つて、数日を過して来るやうな習はしも、絶えることなくくり返されて居た。
だから、刀自たちは固より若人らも、つくねんと女部屋の薄暗がりに明し暮して居るのではなかつた。其々に自分の出た村方の手芸を覚えて居て、其を仕へる君の為にと、出精してはたらいた。
裳の褶を作るのにない術《て》を持つた女などが、何でも無いことで、とりわけ重宝がられた。袖の先につける鰭袖《はたそで》を美しく為立てゝ、其に珍しい縫ひとりをする女なども居た。こんなのは、どの家庭にもある話でなく、かう言ふ若人をおきあてた家は、一つのよい見てくれを世間に持つ事になるのだ。一般に染めや裁ち縫ひが、家々の顔見合はぬ女どうしの競技のやうにもてはやされた。摺り染めや叩き染めの技術も、女たちの間には目立たぬ進歩が年々にあつたが、浸《ひ》で染めの為の染料が、韓の技工人《てびと》の影響から、途方もなく変化した。紫と謂つても、茜と謂つても、皆昔の様な染め漿《しほ》の処置《とりあつかひ》はせなくなつた。さうして、染め上げも艶々しくはでなものになつて来た。表向きは、かうした色は許されぬものと次第になつて来たけれど、家の女部屋までは、官《かみ》の目が届くはずもなかつた。
家庭の主婦が手まはりの人を促したてゝ、自身も精励してするやうな為事は、あて人の家では、刀自等の受け持ちであつた。若人たちも、田畠に出ないと言ふばかりで、家の中での為事は、見参《まゐりまみえ》をしないで、田舎に暮して居た頃と大差はなかつた。違ふのは、其家々の神々に仕へると言ふ、誇りでもあるが、小むつかしい事がつけ加へられて居る位のことである。
外出には、下人たちの見ぬ様に、笠を深々とかづき、其下には、更に薄帛を垂らして出かけた。一《いつ》時立たない中に、婢女《めやつこ》ばかりでなく、自身たちも田におりたつたと見えて泥だらけになつて、若人たち十数人は戻つて来た。皆手に手に張り切つて発育した蓮の茎を抱へて、廬の前に並んだのには、常々くすりとも笑はぬ乳母《おも》さへ、腹の皮をよつて切《せつ》ながつた。
郎女《いらつめ》様。御覧じませ。
竪帷《たつばり》を手でのけて、姫に見せるだけが、やつとのことであつた。
ほう――。
何が笑ふべきものか、何が憎むに値するものか、一切知らぬ|上《じやうらふ》には、唯常と変つた、皆の姿が羨しく思はれた。
この身も、田居とやらにおり立ちたい――。
めつさうな。
刀自は、驚いて姫の詞を堰き止めた。
女たちは、板屋に戻つても長く、健やかな喜びを、皆して語つて居た。
全く些《すこ》しの悪意もまじへないで、言ひたいまゝの気持ちから、
田居へおりたちたい――。
を反覆した。
めつさうな。
きまつて、誇張した表現で答へることも、此と同時に、この小社会で行はれ出した。何から何まで縛りつけるやうな身狭乳母《むさのおも》に対する反感が、此で幾分帳消しになる気がするのであらう。
其日からもう、若人たちの絲縒りは初まつた。夜はまつ暗の中で寝る女たちには、稀に男の声を聞くことのある奈良の垣内住ひが恋しかつた。朝は又、何もかも忘れたやうになつて績《う》み貯める。さうした絲の六かせ七かせを持つて出て、郎女に見せたのは、其数日後であつた。
乳母《おも》よ。この絲は蝶鳥の翼よりも美しいが、蜘妹《くも》の巣《い》より弱く見えるがや――。
郎女は、久しぶりでにつこりした。労を犒らふと共に考への足らぬのを憐むやうである。
なる程、此は脆《さく》過ぎまする。
刀自は、若人を呼び集めて、
もつと、きれぬ絲を作り出さねば、物はない。
と言つた。女たちの中の一人が、
それでは、刀自に、何ぞよい思案が――。
さればの――。
昔を守ることばかりはいかついが、新しいことの考へは唯、尋常《よのつね》の姥の如く愚かしかつた。
ゆくりない声が、郎女の口から洩れた。
この身の考へることが、出来ることか試して見や。
うま人を軽侮することを神への忌みとして居た昔人である。だが、かすかな軽《かる》しめに似た気持ちが皆の心に動いた。
夏引きの麻生《をふ》の麻を績《う》むやうに。そしてもつと日ざらしよく、細くこまやかに――。
郎女は、目に見えぬもののさとしを、心の上で綴つて行くやうに、語を吐いた。
板屋の前には、俄かに蓮の茎が乾し並べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち下《お》りて浸す。浸しては暴《さら》し、晒しては水に潰でた幾日の後、筵の上で槌の音高くこも/″\、交々《こも/″\》と叩き柔らげた。
その勤しみを、郎女は時には、端近く来て見て居た。咎めようとしても思ひつめたやうな目して見入つて居る姫を見ると、刀自は口を開くことが出来なくなつた。
日晒しの茎を八《やつ》針に裂き、其を又幾針にも裂く。郎女の物言はぬまなざしが、ぢつと若人たちの手もとをまもつて居る。
果ては、刀自も言ひ出した。
私も、績《う》みませう。
績みに績み、又績みに績んだ。藕絲《はすいと》のまるがせが日に日に殖えて、廬堂《いほりだう》の中に、次第に高く積まれて行つた。
もう今日は、みな月に入る日ぢやの――。
暦《こよみ》のことを謂はれて、刀自はぎよつとした。大昔から暦は聖《ひじり》の与る道と考へて来た。其で、男女は唯、長老《とね》の言ふがまゝに、時の来又去つたことを知つて、村や家の行事を進めて行くばかりであつた。だから、教へぬに日月を語ることは、極めて聡い人の事として居た頃である。愈魂をとり戻されたのかなと、瞻《まも》り乍らはら/\して居る乳母であつた。
唯、郎女は又秋分の日の近づいて来て居ることを、心にと言ふよりは、身の内にそく/\と感じ初めて居たのである。蓮は、池のも、田居のも、極度に長《た》けて、莟の大きくふくらんだのも見え出した。婢女《めやつこ》は、今が刈りしほだと教へたので、若人たちは皆手も足も泥にして、又一日二日、田に立ち暮した。
十二
彼岸中日 秋分の夕。朝曇り後晴れて、海のやうに深碧に凪いだ空に、昼過ぎて白い雲が頻りにちぎれ/\に飛んだ。其が門渡《とわた》る船と見えてゐる内に、暴風《あらし》である。空は愈青澄み、昏くなる頃には、藍の様に色濃くなつて行つた。見あげる山の端は、横雲の空のやうに、茜色に輝いて居る。
大山颪。木の葉も、枝も、顔に吹き飛ばされる物は、皆活きて青かつた。板屋は吹きあげられさうに、きしみ揺めいた。
若人たちは、悉く郎女の廬に上つて、刀自を中に心を一つにして、ひしと寄つた。たゞ互の顔が見えるばかりの緊張した気持ちの間に、刻々に移つて行く風。
西から真正面《まとも》に吹き颪したのが、暫らくして北の方から落して来た。やがて、風は山を離れて、平野の方から、山に向つてひた吹きに吹きつけた。峰の松原も、空様《そらざま》に枝を掻き上げられた様になつて、悲鳴を続けた。谷から尾の上に生え上つて居る。萱原は、一様に上へ/\と糶《せ》り昇るやうに、葉裏を返して扱《こ》き上げられた。
家の中は、もう暗くなつた。だがまだ見える庭先の明りは、黄にかつきりと物の一つ/\を鮮やかに見せて居た。
郎女様が――。
誰かの声である。皆頭の毛が上へのぼる程、ぎよつとした。其が何だと言はれないでも、すべての心が一度に了解して居た。言ひ難い恐怖にかみづつた女たちには、声を出す一人も居なかつた。
身狭ノ乳母は、今の今まで、姫の側に寄つて、後から姫を抱へて居たのである。皆の人のけはひで、覚め難い夢から覚めたやうに目を見ひらくと、あゝ、何時の間にか、姫は嫗の両《もろ》腕両膝の間から抜けて居させられぬ。一時に慟哭するやうな感激が来た。だが長い訓練が、老女の心をとり戻した。凜として反り返る様な力が湧き上つた。
誰《たれ》ぞ、弓を――。鳴弦《つるうち》ぢや。
人を待つ間もなかつた。彼女自身、壁代《かべしろ》に寄せかけて置いた白木の檀弓《まゆみ》をとり上げて居た。
それ皆の衆――。反閇《あしぶみ》ぞ。それ、もつと声高《こわだか》に――。 あつし、あつし、あつし。
若人たちも、一人々々の心は疾くに飛んで行つてしまつて居た。唯一つの声で、警※《けいひつ》[#「馬+畢」、111-12]を発し、反閇《へんばい》した。
あつし、あつし
あつし、あつし、あつし
狭い廬の中を蹈んで廻つた。脇目からは行道《ぎやうだう》をする群れのやうに。
郎女様は、こちらに御座りますか。
万法蔵院の婢女《めやつこ》が、息をきらして走つて来て、何時もならせぬやうな無作法で、近々と廬の砌《みぎり》に立つて叫んだ。
なに――。
皆の口が一つであつた。
郎女様かと思はれるあて人が――、み寺の門《かど》に立つて居さつせるで、知らせに馳けつけました。
今度は、乳母《おも》一人の声が答へた。
なに。み寺の門に。
婢女を先に、行道の群れは、小石を飛す嵐の中を早足に練り出した。
あつし あつし あつし
声は遠くからも聞えた。大風をつき抜く様な鋭声《とごゑ》が野面《づら》に伝はる。
万法蔵院は実に寂《せき》として居る。山風は物忘れした様に鎮まつて居た。夕闇はそろ/\かぶさつて来て居るのに、山裾のひらけた処を占めた寺は、白砂が昼の明りを残してゐた。こゝからよく見える二上山の頂は、広く赤々と夕映えてゐる。
姫は山田の道場から仰ぐ空の狭さを悲しんでゐる間に、何時かこゝまで来て居たのである。浄域を穢した物忌みにこもつてゐる身と言ふことを忘れさせないものが、心の隅にあつたのであらう。門の閾から伸び上るやうにして、山の際《は》の空を見入つて居る。
暫らくおだやんで居た嵐が、又山に廻つたらしい。だが寺は物音もない。
男嶽《をのかみ》と女嶽《めのかみ》との間になだれ落ちてゐる大きな曲線《たわ》が、又次第に両方へ聳《そゝ》つて行つてゐる此二つの峰の間《あひだ》の広い空際《そらぎは》。薄れかゝつた茜の雲が、急に輝き出して、白銀《はくぎん》の炎をあげて来る。山の間《ま》に充満して居た夕闇は、光りに照されて紫だつて動き初めた。
さうして暫らくは、外に動くもののない明るさ。山の空は、唯白々として照り出されて居る。
肌、肩、脇、胸、豊満な姿が、山の曲線《たわ》の松原の上に現れた。併し、俤に見つゞけた其顔のみはやつれてほの暗かつた。
今すこし著《しる》くみ姿示したまへ。
郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となつて靉き、次第々々に降る様に見えた。
明るいのは山の際《は》ばかりではなかつた。地上は砂《いさご》の数もよまれるばかりである。
しづかに/\雲はおりて来る。万法蔵院の香殿・講堂・塔婆・楼閣・山門・僧房・庫裡、悉く、金に、朱に、青に、昼より著《いちじる》く見え、自《みづか》ら光りを発して居た。
庭の砂の上にすれ/″\に、雲は揺曳して、そこにあり/\と半身を顕した尊者の姿が、手にとる様に見えた。匂ひやかな笑みを含んだ顔が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉ぢられた目は、此時姫を認めたやうに清《すゞ》しく見ひらいた。軽くつぐんだ唇は、この女性《によしよう》に向うて物を告げてゞも居るやうに、ほぐれて見えた。
郎女は尊さに、目の低《た》れて来る思ひがした。だが、此時を過ぐしてはと思ふ一心で、その御姿から目を外さなかつた。
あて人を讃へる語と思ひこんだあの語が、又心から迸り出た。
あなたふと、阿弥陀仏 なも阿弥陀仏
瞬間に明りが薄れて行つて、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほの/″\と暗くなり、段々に高く/\上つて行く。
姫が目送する間もない程であつた。忽、二上山の山の端に溶け入るやうに消えて、まつくらな空ばかりがたなびいた。
あつし あつし
足を蹈み、前《さき》を駆《お》ふ声が、耳もとまで近づいて来た。
十三
当麻の邑は此頃、一本の草、一塊《ひとくれ》の石にも光りがあるほど、賑ひ充ちて居る。
当麻真人家の氏神当麻津《たぎまつ》彦の社には、祭り時に外れた昨今、急に氏の上の拝礼があつた。故上総守老《おゆ》ノ真人以来、暫らく絶えて居たことであつた。其上、もう二三日に迫つた八月《はつき》の朔日《ついたち》には、奈良の宮から勅使が来向はれる筈であつた。当麻氏から出られた大夫人《だいふじん》のお生み申された宮の御代にあらたまることになつたからである。
廬堂の中は、前よりは更に狭くなつて居た。郎女が奈良の御館からとり寄せた高機《たかはた》を設《た》てたからである。機織りに長けた女も一人や二人は、若人の中に居た。此女らが動かして見せる筬《をさ》や梭《ひ》の扱ひ方を、姫はすぐに会得《えとく》した。機に上つて日ねもす、時には終夜《よもすがら》織つて見るけれど、蓮の絲は、すぐに円《つぶ》になつたり、断《き》れたりした。其でも倦まずさへ織つて居れば、何時か織れるものと信じてゐる様に、脇目からは見えた。
乳母は、人に見せた事のない憂はしげな顔を、此頃よくしてゐる。
何しろ、唐土《もろこし》でも、天竺から渡つた物より手に入らぬといふ藕絲織《はすいとおり》を遊ばさうと言ふのぢやものなう。
話相手にもしなかつた若い者たちにすら、こんな事を言ふ様になつた。
かう絲が無駄になつては――。今の間にどし/\績《う》んで置かいでは――。
刀自の語で、若人たちは又、広々とした野や田の面が見られると、胸の寛ぎを覚えた。
さうして、女たちの苅つた蓮積み車が、廬に戻つて来ると、何よりも先に、田居への降《くだ》り道に見た、当麻の邑の騒ぎの噂である。
郎女様の亡くなられたお従兄《いとこ》も、嘸お嬉しいであらう。
恵美の御館《みたち》の叔父君の世界のやうになつて行くのぢや。
兄御を、帥の殿に落しておいて、愈其後釜の右大臣におなりるのぢやげな。
あて人に仕へて居ても、女はうつかりすると、人の評判に時を移す。
やめい/\。お耳ざはりぢや。
しまひは、乳母が叱りに出た。だが身狭刀自《むさのとじ》自身の胸の中でも、もだ/\と咽喉につまつた物のある感じが、残らずには居なかつた。さうして、そんなことにかまけずに、何の訣か知らぬが、一心に絲を績み、機を織つて居る育ての姫君が、いとほしくてたまらないのであつた。
昼の中多く出た虻は潜んでしまつたが、蚊は中秋になると、益あばれ出して来る。日中の昂奮で皆は正体もなく寝た。身狭までが、姫の起き明す燈の明りを避けて、隅の物蔭に深い鼾を立てはじめた。
郎女は、断《き》つては織り、織つては断り、手もだるくなつてもまだ梭《ひ》を放さない。
だが此頃の姫の心は満ち足らうて居た。あれほど夜々見て居た俤人《おもかげびと》の姿をも見ないで、安らかな気持ちが続いてゐる。
此機を織りあげて、あの御人の素肌の御身を掩うてあげたい。
其ばかり考へて居る。あて人は、世の中になし遂げられないと言ふことを知らないのであつた。
ちやう ちやう はた はた
はた はた ちやう
筬を流れるやうに手もとにくり寄せられる絲が、動かなくなつた。引いても扱《こ》いても通らない。筬の歯が幾枚も毀《こぼ》れて絲筋の上にかゝつて居るのが見える。
郎女は溜め息をついた。乳母に問うても知るまい。女たちを起して聞いた所で、滑らかに動すことはえすまい。
どうしたら、よいのだらう。
姫は、はじめて顔へ偏《かたよ》つてかゝつて来る髪のうるさゝを感じた。梭を揺つて見た。筬の櫛目を覗いて見た。
あゝ、何時になつたら、衣《ころも》をお貸し申すことが出来よう。
もう、外の叢で鳴き出した蟋蟀の声を、瞬間思ひ出して居た。
どれ、およこし遊ばせ。かう直せば動かぬことも御座るまいて――。
どうやら聞いた気がする、その声が機の外にした。
あて人の姫は、何処から来た人とも疑はなかつた。唯、さうした好意ある人を予想して居た時なので、
では、見てたもれ。
言ひ放つて、機をおりた。
女は尼であつた。髪を切つて尼そぎにした女は、其も二三度は見かけたこともあつたが、剃髪した尼を見たことのない姫であつた。
はた、はた ちやう ちやう
元の通りの音が整つて出て来た。
草の絲は、かう言ふ風には織るものでは御座りませぬ。もつと寄つて御覧じ――。これかう――おわかりかえ。
当麻語部ノ姥の声である。だが、そんなことは、郎女には問題ではなかつた。
おわかりなさるかえ。これかう――。
姫の心はこだまの如く聡《さと》くなつて居た。此才伎《てわざ》の経緯《ゆくたて》はすぐ呑み込まれた。
織つてごらうじませ。
姫が、高機に代つて入ると、尼は機蔭に身を倚せて立つた。
はた はた ゆら ゆら
音までが変つて澄み上つた。
女鳥《めとり》の わがおほきみの織《おろ》す機。誰《た》が為《た》ねろかも――、御存じ及びで御座りませうなあ。昔、かう、機殿《はたどの》のからのぞきこんで問はれたお方様がござりましたつけ。――その時、その貴い女性《によしやう》がの、
たか行くや 隼別《はやぶさわけ》の御被服科《みおすひがね》――さうお答へなされたとなう。
この中《ぢゆう》申し上げた滋賀津彦《しがつひこ》は、やはり隼別でも御座りました。天若日子でも御座りました。天《てん》の日《ひ》に矢を射かける――併し極みなく美しいお人で御座りましたがよ。
截りはたりちやう/\、早く織らねば、やがて岩牀の凍る冷い秋がまゐりますがよ――。
郎女は、ふつと覚めた。夢だつたのである。だが、梭をとり直して見ると、
はた はた ゆら ゆら ゆら はたゝ
美しい織物が筬の目から迸る。
はた はた ゆら ゆら
思ひつめてまどろんでゐた中に、郎女の智慧が、一つの閾を越えたのである。
十四
望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反《ひとむら》の上帛《はた》を、夜の更けるのも忘れて、見讃《みはや》して居た。
この月の光りを受けた美しさ。
|《かとり》のやうで、韓織《からおり》のやうで、――やつぱり此より外にはない、清らかな上帛《はた》ぢや。
刀自も、遠くなつた眼をすがめながら、譬へやうのない美しさと、づつしりとした手あたりを、若い者のやうに楽しんでは、撫でまはして居た。
二度目の機は、初めの日数の半《なから》であがつた。三反《みむら》の上帛《はた》を織りあげて、姫の心には、新しい不安が頭をあげて来た。五反《いつむら》目を織りきると、機に上ることをやめた。さうして日も夜も、針を動した。
長月の空には、三日の月のほのめき出したのさへ寒く眺められる。この夜寒に、俤人の白い肩を思ふだけでも堪へられなかつた。
裁ち縫ふわざは、あて人の子のする事ではなかつた。唯、他人《ひと》の手に触れさせたくない。かう思ふ心から解いては縫ひ、縫うてはほどきした。現《うつ》し世《よ》の幾人にも当る大きなお身に合ふ、衣を縫ふすべを知らなかつた。せつかく織り上げた上帛《はた》を裁つたり切つたり、段々布は狭くなつて行つた。
女たちも、唯姫の手わざを見て居るばかりであつた。其も何を縫ふものとも考へ当らかないで、囁きに日を暮して居た。
其上、日に増し、外は冷えて来る。早く奈良の御館に帰る日の来ることを願ふばかりになつた。
郎女は、暖い昼、薄暗い廬の中でうつとりとしてゐた。その時、語部《かたり》の尼が歩み寄つて来るのを又まざ/″\と見たのである。
何を思案遊ばす。壁代《かべしろ》の様に縦横に裁ちついで、其まゝ身に纏ふやうになさる外は御座らぬ。それ、こゝに紐をつけて肩の上でくりあはせれば、昼は衣になりませう。紐を解いて敷いて、折り返して被《かぶ》れば、やがて夜の衾《ふすま》にもなりまする。天竺の行人《ぎやうにん》たちの著る袈裟《けさ》と言ふのが、其で御座りまする。早くお縫ひなされ。
だが、気がつくと、やはり昼の夢を見て居たのだ。裁ちきつた布を綴り合せて縫ひ初めると、二日もたゝぬ間に、大きな一面の綴りの錦が出来あがつた。
郎女様は、月ごろかゝつて、唯の壁代をお縫ひなされた。
あつたら惜しい。
はりの抜けた若人たちが声を落して言うて居る時、姫は悲しみ乍ら、次の営みを考へて居た。
此では、あまりに寒々としてゐる。殯《もがり》の庭の棺にかけるひしきもの―喪氈―、とやら言ふものと見た目は替るまい。
十五
世の人の心はもう、賢しくなり過ぎて居た。ひとり語りの物語などに、信をうちこんで聴く者はなくなつてゐる。聞く人のない森の中などで、よくつぶ/″\と物言ふ者があると思うて近づくと、其は語部の家の者だつたなど言ふ話が、どの村でも、笑ひ咄のやうに言はれるやうな世の中だ。
当麻語部ノ嫗なども、都の|上《じやうらふ》のもの疑ひせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、忽違つた氏の語部なるが故に、追ひ退けられたのであつた。
さう言ふ聴きてを見当てた刹那に持つた執心は深かつた。その後、自身の家の中でも、又廬堂《いほりだう》に近い木立の蔭でも、或は其処を見おろす山の上からでも、郎女に向つてするひとり語りを続けて居た。
今年八月、当麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされた時こそ、再己《おの》が世に来たと、ほくそ笑みをして居た――が、氏の神祭りにも、語部を請《しやう》じて神語りを宣《の》べさせようともしなかつた。ひきついであつた、勅使の参向の節にも、呼び出されて、当麻氏の古物語を奏上せいと仰せられるかと思うて居たのも、空頼みになつて、その沙汰がなかつた。其此はもう、自分、自分の祖《おや》たちが長く覚え伝へ語りついで、かうした世に逢はうとは考へもつかなかつた時代《ときよ》が来たのだと思うた瞬間、何もかも見知らぬ世界に住んでゐる気がして、唯驚くばかりであつた。娯しみを失ひきつた当麻の古婆は、もう飯を喰べても味は失つてしまつた。水を飲んでも、口をついて、独り語りが囈語《うはごと》のやうに出るばかりになつた。
秋深くなるにつれて、衰への目立つて来た嫗は、知る限りの物語りを、喋りつゞけて死なうと言ふ腹をきめた。さうして郎女の耳に近い処を、ところをと、覚めてさまよふやうになつた。
郎女は、奈良の家に送られたことのある大唐の彩色《ゑのぐ》の数々を思ひ出した。其を思ひついたのは、夜であつた。今から、横佩墻内へ馳けつけて、彩色を持つて還れと、命ぜられたのは、女の中に唯一人残つた長老《おとな》である。つひしかこんな言ひつけをしたことのない郎女の、性急な命令に驚いて、女たちも又、何か事が起るのではないかとおど/\して居た。だが、身狭乳母《むさのおも》の計ひで、長老《おとな》は渋々、奈良へ向いて出かけた。
翌くる日、彩色の届けられた時、姫の声ははなやいで、昂奮《はやり》かに響いた。
女たちの噂した袈裟で謂へば、五十条の袈裟とも言ふべき、藕絲《ぐうし》の錦の上に、郎女の目はぢつと据つて居た。やがて、筆は愉しげにとり上げられた。線描《すみが》きなしに、うちつけに彩色《ゑのぐ》を塗り進めた。美しい彩画《たみゑ》は、七色八色の虹のやうに、郎女の目の前に輝き増して行く。
姫は、緑青を盛つて、層々うち重る楼閣伽藍の屋根を表した。数多い柱や廊の立ち続く姿が、目赫《めかゝや》くばかり朱で彩《た》みあげられた。むら/\と、靉くものは紺青《こんじやう》の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の前に画《か》きおろされた。雲の上には、金泥《こんでい》の光り輝く靄が、漂ひはじめた。姫の命を失ふまでの念力が、筆のまゝに動いて居る。やがて、金色《こんじき》の気は、次第に凝り成して、照り充ちた色《しき》身――現《うつ》し世の人とも見えぬ尊い姿が顕れた。
郎女は唯、先《さき》の日見た、万法蔵院の夕《ゆふべ》の幻を筆に追うて居たばかりである。堂・塔・伽藍すべては、当麻のみ寺のありの姿であつた。だが、彩画《たみゑ》の上に湧き上つた宮殿《くうでん》楼閣は、兜率天宮《とうそつてんぐう》のたゝずまひさながらであつた。併しながら四十九重《しじふくぢう》の宝宮の内院《ないゐん》に現れた尊者の相好《さうがう》は、あの夕、近々と目に見た俤びとの姿を、心に覓《と》めて描き現したばかりであつた。
刀自若人たちは、一刻二刻時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて来る光りの霞を、唯見呆けて居るばかりであつた。
郎女が、筆を措いて、にこやかな笑《ゑま》ひを蹲踞するこの人々の背にかけ乍ら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去つたのに、心づく者は一人もなかつたのである。
姫の俤びとの衣に描いた絵様《ゑやう》は、そのまゝ曼陀羅の形を具へて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身の幻を画いたに過ぎなかつた。併し、残された刀自若人たちがうち瞻る画面には、見る/\、数千地涌《ぢゆ》の菩薩の姿が浮き出て来た。其は、幾人の人々が同時に見た、白日夢のたぐひかも知れない。
底本:「初稿・死者の書」国書刊行会
2004(平成16)年6月18日初版第1刷発行
底本の親本:「日本評論 第14巻第1号、第2号、第3号」日本評論社
1939(昭和14)年1月号、2月号、3月号
初出:同上
※副題は、便宜を考慮して、ファイル作成時に付け加えたものです。
※以下の部分は一字下げになっていませんが、会話文と判断し、他の箇所にならって、一字下げとしました。
あなたは、御存じあるまい。でも此姥《うば》は、生れなさらぬ前からのことも知つて居りまする。聴いて見る気がおありかえ。
※以下の部分は、冒頭が全角一字アキになっていましたが、他の部分にならって、全角アキをとりました。
おれは、こんな処へ来ようと言ふ考へはなかつたのに……。だが「やつぱり、おれにまだ/\若い色好みの心が失せないで居るぞ」何だか自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが起つて来た。
※「万法蔵院」と「万蔵法院」の混在は底本の通りです。
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
※「み代々々」「白ゝ」は底本の通りです。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。
「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「車+端のつくり」
8-2

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「くさかんむり/要」
8-7

-->
「金+研のつくり」
8-9

-->
「穴かんむり/眞」
8-10

-->
「車+令」
8-10

-->
「酋+おおざと」
8-10

-->
「女+綵のつくり」
97-12

-->
「馬+畢」
111-12

-->