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話《はなし》はだいぶ古《ふる》めくが、大正《たいしやう》十一年《ねん》の秋《あき》の或《あ》る一夜《や》のことだ。三ヶ月《げつ》ほどの南北支那《なんぼくしな》の旅《たび》を終《をは》つて、明日《あした》はいよいよ懷《なつか》しい故國《ここく》への船路《ふなぢ》に就《つ》かうといふ前《まへ》の晩《ばん》、それは乳色《ちゝいろ》の夜靄《よもや》が町《まち》の燈灯《ともしび》をほのぼのとさせるばかりに立《た》ち罩《こ》めた如何《いか》にも異郷《いきやう》の秋《あき》らしい晩《ばん》だつたが、僕《ぼく》は消息通《せうそくつう》の一友《いう》と連《つ》れ立《た》つて上海《シヤンハイ》の町《まち》をさまよひ歩《ある》いた。先《ま》づ四馬路《スマロ》の菜館《さいくわん》で廣東料理《くわんとんれうり》に舌皷《したつゞみ》[#ルビの「したつゞみ」は底本では「したつ゛み」]を打《う》ち、或《あ》る外國人《ぐわいこくじん》のバアでリキユウルをすすり、日本料理屋《にほんれうりや》で藝者達《げいしやたち》の長崎辯《ながさきべん》を聞《き》き、更《さら》にフランス租界《そかい》の秘密《ひみつ》な阿片窟《あへんくつ》で阿片《あへん》まで吸《す》つてみた。
「さア、もう一ぺん四馬路《スマロ》の散歩《さんぽ》だ。」
と、お互《たがひ》に微醺《びくん》を帶《お》びて變《へん》に彈《はづ》み立《た》つた氣分《きぶん》で黄包車《ワンポイソオ》を驅《か》り、再《ふたゝ》び四馬路《スマロ》の大通《おほどほり》へ出《で》たのはもう夜《よる》の一時《じ》過《す》ぎだつた。
言《い》ふまでもない、四馬路《スマロ》[#「四馬路」は底本では「四馬踏」]は東京《とうきやう》の銀座《ぎんざ》だ。が、君子國《くんしこく》日本《にほん》のやうに四角《かく》四面《めん》な取締《とりしまり》などもとよりあらう筈《はず》もなく、それは字義通《じぎどほ》りの不夜城《ふやじやう》だ。人間《にんげん》は動《うご》く。燈灯《ともしび》は映發《えいはつ》する。自動車《じどうしや》は行《ゆ》く。黄包車《ワンポオツ》は走《はし》る。そして、この東洋《とうやう》の幻怪《げんくわい》な港町《みなとまち》はしつとりした夜靄《よもや》の中《なか》にも更《ふ》け行《ゆ》く夜《よ》を知《し》らない。やがて歩《ある》き疲《つか》れてふらりとはひりこんだのが、と或《あ》る裏通《うらどほり》の茶館《ツアコブン》だつた。
窓際《まどぎは》の紫檀《しだん》の卓《たく》を挾《はさ》んで腰《こし》を降《おろ》し、お互《たがひ》に疲《つか》れ顏《がほ》でぼんやり煙草《たばこ》をふかしてゐると、女《をんな》が型通《かたどほ》り瓜子《クワスワ》と茶《ツア》を運《はこ》んでくる。一人《ひとり》は丸顏《まるがほ》、一人《ひとり》は瓜實顏《うりさねがほ》、其《それ》に口紅《くちべに》赤《あか》く、耳環《みゝわ》の翡翠《ひすゐ》が青《あを》い。支那語《しなご》の達者《たつしや》な友人《いうじん》は早速《さつそく》笑《わら》ひ聲《ごゑ》を交《まじ》へながら女《をんな》と何《なに》やら話《はな》しはじめたが、僕《ぼく》は至極《しごく》手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》である。傍《そば》の窓《まど》をあけて上氣《じやうき》した顏《かほ》を冷《ひや》しながら暗《くら》いそとを見《み》てゐると、一間《けん》ばかりの路次《ろじ》を隔《へだ》ててすぐ隣《となり》の家《うち》の同《おな》じ二階《かい》の窓《まど》から、鈍《にぶ》い巷《ちまた》の雜音《ざふおん》と入《い》れ交《まじ》つてチヤラチヤラチヤラチヤラと聞《き》き馴《な》れない物音《ものおと》が聞《きこ》えて來《き》た。
「おいおい、あの音《おと》は何《なん》だい?」
暫《しばら》く靜《しづか》に聽耳《きゝみゝ》を立《た》ててゐた僕《ぼく》はさう言《い》つて、友人《いうじん》の方《はう》を振《ふ》り返《かへ》つた。いつの間《ま》にか彼《かれ》の膝《ひざ》の上《うへ》には丸顏《まるがほ》の女《をんな》が牡丹《ぼたん》のやうな笑《わら》ひを含《ふく》みながら腰《こし》かけてゐる。が、彼《かれ》はすぐに僕《ぼく》の指《ゆび》さす方《はう》に耳《みゝ》を傾《かたむ》けて、
「あア、麻雀《マアジヤン》をやつてるんだよ。」
「麻雀《マアジヤン》?」
僕《ぼく》がさう鸚鵡返《あうむがへ》すと同時《どうじ》に、僕《ぼく》の傍《そば》にゐた瓜實顏《うりさねがほ》は可憐《かれん》な聲《こゑ》で、
「好的麻雀《ハオデモジヤ》……」
と、微笑《びせう》とともに呟《つぶや》いた。
今《いま》でこそ、僕《ぼく》もどうやら四段《だん》といふ段位《だんゐ》をもらへるほどに麻雀《マアジヤン》にも耽《ふけ》り親《した》しんでゐるが、かれこれ十年《ねん》も昔《むかし》の話《はなし》だ。奉天城内《ほうてんじやうない》のと或《あ》る勸工場《くわんこうぢやう》へはひつて、或《あ》る店先《みせさき》に並《なら》べてあつた麻雀牌《マアジヤンパイ》の美《うつく》しさに眼《め》を惹《ひ》かれて、
「綺麗《きれい》なもんですね。何《なに》か飾《かざ》り物《もの》ですか?」
と、連《つ》れの人《ひと》に尋《たづ》ねかけると、
「いやア、ばくちの道具《だうぐ》ですよ。日本《にほん》のまア花合《はなあは》せですかね。」
と、幾《いく》らか笑《わら》ひ交《まじ》りに答《こた》へられながらも、さすがにばくち好《ず》きな支那人《しなじん》だ、恐《おそ》ろしく凝《こ》つた、洒落《しやれ》た物《もの》を使《つか》ふなアぐらゐにほとほと感心《かんしん》してゐたやうな程度《ていど》で、もとよりどんな風《ふう》に遊《あそ》ぶのかも知《し》らなかつたのだが、さてその窓向《まどむかう》から時折《ときをり》談笑《だんせう》の聲《こゑ》に交《まじ》つてチヤラチヤラチヤラチヤラ聞《きこ》えてくる麻雀牌《マアジヤンパイ》の音《おと》、それがまたあたりがあたりだけに如何《いか》にも支那風《しなふう》の好《この》ましい感《かん》じで耳《みゝ》に響《ひゞ》いたものだつた。
近頃《ちかごろ》、東京《とうきやう》に於《お》ける、或《あるひ》は日本《にほん》に於《お》ける麻雀《マアジヤン》の流行《りうかう》は凄《すさ》まじいばかりで、麻雀倶樂部《マアジヤンくらぶ》の開業《かいげふ》は全《まつた》く雨後《うご》の筍《たけのこ》の如《ごと》しで邊鄙《へんぴ》な郊外《かうぐわい》の町《まち》にまで及《およ》んでゐるやうだが、そこはどこまでも日本式《にほんしき》な小綺麗《こぎれい》さ、行儀《ぎやうぎ》よさで、たとへば卓子《テーブル》の上《うへ》にも青羅紗《あをらしや》とか白《しろ》ネルとかを敷《し》いて牌音《パイおと》を和《やはら》げるやうにしてあるのが普通《ふつう》だが、本場《ほんば》の支那人《しなじん》は紫檀《したん》の卓子《テーブル》の上《うへ》でぢかに遊《あそ》ぶのが普通《ふつう》で、寧《むし》ろさうして牌《パイ》の音《おと》の高《たか》いのを喜《よろこ》ぶらしい、だからこそ、その時《とき》も紫檀《したん》の堅《かた》い面《めん》を打《う》ち、またその上《うへ》でひつきりなしにかち合《あ》ふ麻雀牌《マアジヤンパイ》の音《おと》が窓向《まどむか》うながらそれほどさはやかにも聞《きこ》え、如何《いか》にも支那風《しなふう》の快《こころよ》さで僕《ぼく》の耳《みゝ》を樂《たの》しませたのに違《ちが》ひない。
同じ麻雀《マアジヤン》でもそれぞれの國民性《こくみんせい》に從《したが》つて遊《あそ》び方《かた》なり樂《たの》しみ方《かた》なりが自然《しぜん》と違《ちが》つてくるのは當《あた》り前《まへ》の話《はなし》で、卓子《たくし》の上《うへ》に布《きれ》を敷《し》いて牌音《ぱいおん》を和《やはら》げるといふやうな工夫《くふう》は如何《いか》にも神經質《しんけいしつ》[#「神經質」は底本では「紳經質」]な日本人《にほんじん》らしさだが、元來《ぐわんらい》麻雀《マアジヤン》とは雀《すゞめ》の義《ぎ》で、牌《パイ》のかち合《あ》ふ音《おと》が竹籔《たけやぶ》に啼《な》き囀《さへづ》る雀《すゞめ》の聲《こゑ》に似《に》てゐるから來《き》たといふ語源《ごげん》を信《しん》じるとすれば、やつぱり紫檀《したん》の卓子《テーブル》でぢかに遊《あそ》ぶといふのが本格的《ほんかくてき》で、その音《おと》を樂《たの》しむといふのもちよつと趣《おもむき》があるやうに感《かん》じられる。尤《もつと》も、支那人《しなじん》は麻雀《マアジヤン》を親《した》しい仲間《なかま》の一組《ひとくみ》で樂《たの》しむといふやうに心得《こゝろえ》てゐるらしいが、近頃《ちかごろ》の日本《にほん》のやうにそれを團隊的競技《だんたいてききやうぎ》にまで進《すゝ》めて來《き》て、いつかの日本麻雀選手權大會《にほんマアジヤンせんしゆけんたいくわい》の時《とき》のやうに百組《くみ》も百五十組《くみ》もの人達《ひとたち》が一堂《だう》に集《あつま》つて技《ぎ》を爭《あらそ》ふとなれば、紫檀《したん》の卓子《テーブル》の上《うへ》でぢかになどといふことはそれこそ殺人的《さつじんてき》なものになつてしまつて、大會《たいくわい》ごとに氣《き》が違《ちが》ふ人《ひと》が何人《なんにん》となく出來《でき》るかも知《し》れない。
とまれ、十年前《ねんまへ》の秋《あき》の一夜《や》、乳色《ちゝいろ》の夜靄《よもや》立《た》ち罩《こ》めた上海《シヤンハイ》のあの茶館《ツアコハン》の窓際《まどぎは》で聞《き》いた麻雀牌《マアジヤンパイ》の好《この》ましい音《おと》は今《いま》も僕《ぼく》の胸底《きようてい》に懷《なつか》しい支那風《しなふう》を思《おも》ひ出《だ》させずにはおかない。
女《をんな》と、ばくちと、阿片《あへん》と、支那人《しなじん》の一生《しやう》はその三つの享樂《きやうらく》の達成《たつせい》に捧《さゝ》げられる――などと言《い》ふと、近頃《ちかごろ》の若《わか》い新《あたら》しい中華民國《ちうくわみんこく》の人達《ひとたち》から叱《しか》られるかも知《し》れないが、これは或《あ》る點《てん》まで殘念《ざんねん》ながら眞實《ほんたう》らしい。苦力達《クウリイたち》は營營《えいえい》と働《はたらく》く、女《をんな》――細君《さいくん》を買《か》ひたいために、ばくちをしたいために、阿片《あへん》を吸《す》ひたいために。また將相達《しやうしやうたち》はなぜあれほど主權《しゆけん》を爭《あらそ》ひ合《あ》ふのか? 多《おほ》くの婢妾《ひせう》の肉《にく》に倦《あ》きたいために、ばくちに耽《ふけ》る悠悠《いういう》閑日月《かんにちげつ》を自由《じいう》にしたいために、豪華《がうくわ》な廊房《らうばう》で阿片《あへん》の夢《ゆめ》に浸《ひた》りたいために。で、それほどばくち好《ず》きな支那人《しなじん》が工夫《くふう》考案《かうあん》したものだけに、麻雀《マアジヤン》ほど魅力《みりよく》のある、感《かん》じのいい、倦《あ》くことを知《し》らない遊《あそ》びはまア世界《せかい》にもあるまいかと思《おも》はれる。近頃《ちかごろ》、歐米《おうべい》では一時《じ》の麻雀熱《マアジヤンねつ》がさめてブリツヂ・ポオカアの遊《あそ》びに歸《かへ》つたと言《い》ふし、日本《にほん》でも花合《はなあは》せの技法《ぎはふ》がずつと深奧《しんあう》複雜《ふくざつ》でより感興深《かんきようぶか》いことを説《と》く人《ひと》もあるが、麻雀《マアジヤン》には遊《あそ》びの魅力《みりよく》は魅力《みりよく》として、外《ほか》にあの牌《パイ》に觸《ふ》れるといふ不可思議《ふかしぎ》な魅力《みりよく》がある。あの牌音《パイおと》を聞《き》くといふ力強《ちからづよ》い魅力《みりよく》がある。だからこそ、麻雀《マアジヤン》は少《すこ》し遊《あそ》びを覺《おぼ》えると、大概《たいがい》の人《ひと》が一時《じ》熱病的《ねつびやうてき》になつてしまふ。そして、全《まつた》くこれほど遊《あそ》び倦《あ》きることを知《し》らない遊《あそ》び事《ごと》もちよつと外《ほか》には無《な》ささうだ。
一代《だい》の覇圖《はと》も夢物語《ゆめものがたり》に奉天城外《ほうてんじやうぐわい》の露《つゆ》と消《き》えてしまつたが、例《れい》の張作霖《ちやうさくりん》は非常《ひじやう》な麻雀好《マアジヤンず》きだつたと言《い》ふ。何《なん》でも第《だい》二次《じ》奉直戰爭《ほうちよくせんさう》の時《とき》などは自分《じぶん》の方《はう》の旗色《はたいろ》がよかつたせゐもあつただらうが、戰線《せんせん》のことは部下任《ぶかまか》せにして置《お》いて、宮苑《きうゑん》の奧深《おくふか》くお氣《き》に入《い》りの嬪妾《ひんせう》や嬖臣達《へいしんたち》を相手《あひて》に日《ひ》もす夜《よ》もす麻雀《マアジヤン》に耽《ふけ》り樂《たの》しんでゐたと言《い》ふ。で、そこはまた拔目《ぬけめ》のない所謂《いはゆる》政商《せいしやう》などは莫大《ばくだい》もない金《かね》を賭《か》けて張《ちやう》と卓子《たくし》を圍《かこ》む。そして、わざと負《ま》ける。想像《さうざう》すれば、始終《しじう》青一色《チンイイソオ》をさせたり、滿貫役《まんぐわんやく》をつけさせたりするのだらうが、それが自然《しぜん》と取《と》り入《い》りの阿堵物《あとぶつ》になることは言《い》ふまでもない。
「いや、何《なん》とも何《なん》とも。今日《こんにち》の閣下《かくか》の昇天《しようてん》の御勢《おんいきほひ》にはわたくし共《ども》まるで木《こ》つ葉《ぱ》微塵《みぢん》の有樣《ありさま》でございましたな。」
「ふふふふ、弱《よわ》いなうお前等《まへら》は……」
定《さだ》めてあの張作霖《ちやうさくりん》がそんな風《ふう》に相好《さうかう》を崩《くづ》してのけぞり返《かへ》つただらうと思《おも》ふと、その昔《むかし》馬賊《ばぞく》の荒武者《あらむしや》だつたといふ人《ひと》のよさも想像《さうざう》されて、無殘《むざん》な爆彈《ばくだん》に血染《ちぞ》められたと言《い》ふその最後《さいご》が傷《いた》ましくも感《かん》じられはしないだらうか?
張作霖《ちやうさくりん》と言《い》はず、如何《いか》に支那人《しなじん》が麻雀《マアジヤン》を好《す》くかといふことはいろいろ話《はなし》に聞《き》くが、驚《おどろ》くことは彼等《かれら》二日《か》も三日《か》も不眠不休《ふみんふきう》で戰《たゝか》ひつづけて平氣《へいき》だといふことだ。僕《ぼく》、この遊《あそ》びを覺《おぼ》えてから足掛《あしか》け五年《ねん》になるが、食事《しよくじ》の時間《じかん》だけは別《べつ》として戰《たゝか》ひつづけたレコオドは約《やく》三十時間《じかん》といふのが最長《さいちやう》だ。それはたしか去年《きよねん》の春頃《はるごろ》、池谷《いけのや》信《しん》三郎《らう》の家《うち》でのことで、前日《ぜんじつ》の晝頃《ひるごろ》はじめて翌日《よくじつ》の夕方過《ゆふがたす》ぎまで八圈戰《けんせん》を五回《くわい》ぐらゐ繰《く》り返《かへ》したやうに思《おも》ふが、終《をは》りには頭《あたま》朦朧《もうろう》として體《からだ》はぐたぐたになつてしまつた。そして、二三日《にち》その疲《つか》れの拔《ぬ》け切《き》らないのに今更《いまさら》自分《じぶん》の愚《おろか》さを悔《く》いたやうな始末《しまつ》だつたが、支那人《しなじん》が二日《か》も三日《か》も戰《たゝか》ひつづけて平氣《へいき》だといふのは、一《ひと》つは確《たしか》に體力《たいりよく》のせゐに違《ちが》ひない。が、もう一《ひと》つは氣質《きしつ》の相違《そうゐ》によるものだらう。言《い》ひ換《か》へると、支那人《しなじん》は技法《ぎはふ》の巧拙《かうせつ》は別問題《べつもんだい》として、可成《かな》り自由《じいう》に延《の》び延《の》びと麻雀《マージヤン》を遊《あそ》び樂《たの》しむからではあるまいか?
僕《ぼく》思《おも》ふに、いつたい僕等《ぼくら》日本人《にほんじん》の麻雀《マージヤン》の遊《あそ》び方《かた》は神經質《しんけいしつ》過《す》ぎる。或《あるひ》は末梢的《まつせうてき》過《す》ぎる。勿論《もちろん》技《ぎ》を爭《あらそ》ひ、機《き》を捉《とら》へ、相手《あひて》を覘《ねら》ふ勝負事《しようぶごと》だ。技法《ぎはふ》の尖鋭《せんえい》慧敏《けいびん》さは如何《いか》ほどまでも尊《たふと》ばれていい筈《はず》だが、やたらに相手《あひて》の技法《ぎはふ》に神經《しんけい》を尖《と》がらして、惡打《あくだ》を怒《いか》り罵《のゝし》り、不覺《ふかく》の過《あやま》ちを責《せ》め咎《とが》め、自分《じぶん》の好運《かううん》衰勢《すゐせい》にだらしなく感情《かんじやう》を動亂《どうらん》させるなどは甚《はなは》だしばしば僕《ぼく》のお眼《め》に掛《か》かることだが、そして、僕《ぼく》と雖《いへど》も敢《あ》へてそれが全然無《ぜんぜんな》いとは言《い》はないが、その如何《いか》にもあくせくした感《かん》じは常《つね》に僕《ぼく》をして眉《まゆ》を顰《ひそ》めしめる。言《い》ひ換《か》へると、どうもゆとりが無《な》い、棘棘《とげとげ》し過《す》ぎる。だから、長《なが》い戰《たゝか》ひに堪《た》へ得《え》ず、結局《けつきよく》心身共《しんしんとも》にくたくたに疲《つか》れ切《き》つてしまふのだらうが、思《おも》ふに、支那人《しなじん》の麻雀戲《マージヤンぎ》には彼等《かれら》の風格《ふうかく》に存《そん》するやうな悠悠味《いういうみ》がどこかにあるのではなからうか?
一時《じ》、これは麻雀界《マージヤンかい》の論議《ろんぎ》の的《まと》になつたことだが、麻雀《マージヤン》が技《ぎ》の遊《あそ》びといふより以上《いじやう》に運《うん》の遊《あそ》びであることは爭《あらそ》へない。實際《じつさい》、運《うん》のつかない時《とき》と來《き》たらこれほど憂欝《いううつ》な遊《あそ》びはないし、逆《ぎやく》に運《うん》の波《なみ》に乘《の》つて天衣無縫《てんいむほう》に牌《パイ》の扱《あつか》へる時《とき》ほど麻雀《マージヤン》に快《こゝろよ》い陶醉《たうすゐ》を感《かん》じる時《とき》はない。自然《しぜん》、そこが麻雀《マージヤン》の長所《ちやうしよ》でもあり短所《たんしよ》でもあつて、どつちかと言《い》へば玄人筋《くろうとすぢ》のガンブラアには輕蔑《けいべつ》される勝負事《しようぶごと》のやうに思《おも》はれる。けれど、實際《じつさい》はそれこそ麻雀《マージヤン》が人達《ひとたち》を魅惑《みわく》する面白《おもしろ》さなので、誰《だれ》しも少《すこ》しそれに親《した》しんでくるといつとなくその日《ひ》その時《とき》の縁起《えんぎ》まで擔《かつ》ぐやうになるのも愉快《ゆくわい》である。そして、その點《てん》でとりわけ物事《ものごと》に縁起《えんぎ》を擔《かつ》ぐ支那人《しなじん》が如何《いか》に苦心《くしん》焦慮《せうりよ》するかはいろいろ語《かた》られてゐることだが、全《まつた》く外《ほか》のことでは如何《いか》なる擔《かつ》ぎ屋《や》でもない僕《ぼく》が麻雀《マージヤン》の日《ひ》となると、その日《ひ》の新聞《しんぶん》に出《で》てゐる運勢《うんせい》が變《へん》に氣《き》になる。で、たとへば「思《おも》はぬ大利《たいり》あり」とか「物事《ものごと》に蹉跌《さてつ》あり、西方《せいはう》凶《きやう》」などといふ、考《かんが》へれば馬鹿《ばか》らしい暗示《あんじ》が卓子《テーブル》[#ルビの「テーブル」は底本では「テー ル」]を圍《かこ》む氣持《きもち》を變《へん》に動《うご》かすこと我《われ》ながらをかしいくらゐだ。
滑稽《こつけい》なのは、日本《にほん》の麻雀道《マージヤンだう》のメツカの稱《しよう》ある鎌倉《かまくら》では誰《だれ》でも奧《おく》さんが懷姙《くわいにん》すると、その檀那樣《だんなさま》がきつと大當《おほあた》りをすると言《い》ふ。所《ところ》が、何《なん》でも久米正雄夫人《くめまさをふじん》自身《じしん》の懷姙中《くわいにんちう》の運勢《うんせい》の素晴《すばら》しかつたことは今《いま》でも鎌倉猛者連《かまくらもされん》の語《かた》り草《ぐさ》になつてゐるくらゐださうだが、懷《ふところ》に入《はい》つてふとるといふ八卦《はつけ》でもあらうか? 少少《せうせう》うがち過《す》ぎてゐて、良人《りやうじん》久米正雄《くめまさを》ならずとも、思《おも》はず微苦笑《びくせう》せずにはゐられない。いつたい誰《だれ》でも運勢《うんせい》が傾《かたむ》いてくると、自然《しぜん》とじたばたし出《だ》すのは人情《にんじやう》の然《しか》らしむる所《ところ》だが、五段《だん》|里見《さとみとん》は紙入《かみいれ》からお守札《まもりふだ》を並《なら》べ出《だ》す、四段《だん》古川緑波《ふるかはりよくは》はシガアレツト・ライタアで切《き》り火《び》をする。三段《だん》池谷《いけのや》[#ルビの「いけのや」は底本では「いけやの」]信《しん》三郎《らう》は骰子《サイツ》を頭上《づじやう》にかざして禮拜《らいはい》する。僕《ぼく》など麻雀《マージヤン》はしばしば細君《さいくん》と口喧嘩《くちけんくわ》の種子《たね》になるが、これが臨戰前《りんせんまへ》だときつと八卦《け》が惡《わる》い。
「今日《けふ》は奇數番號《きすうばんがう》の自動車《じどうしや》には絶對《ぜつたい》に乘《の》らないぞ。」
「向《むか》うに着《つ》くまで猫《ねこ》を見《み》なけりや勝《かち》だ。」
などと年甲斐《としがひ》もなく男《をとこ》一匹《ぴき》がそんな下《くだ》らないことを考《かんが》へたりするのも、麻雀《マアジヤン》に苦勞《くらう》した人間《にんげん》でなければ分《わか》らない味《あぢ》かも知《し》れない。
「知《し》らない支那人《しなじん》と麻雀《マアジヤン》を遊《あそ》ぶのはよつぽど注意《ちゆうい》しなければいけない。」
とは或《あ》る向《むか》うの消息通《せうそくつう》が僕《ぼく》に聞《き》かせた詞《ことば》だが、ばくち好《ず》きで、またばくちの天才《てんさい》の支那人《しなじん》だけに麻雀道《マアジヤンだう》に於《おい》ても中《なか》には恐《おそ》ろしい詐欺《さぎ》、いんちきを企《くはだ》てるものが可成《かな》りあるらしい。そして、その仕方《しかた》もいろいろ聞《き》かされたが、僕《ぼく》が如何《いか》にも支那人式《しなじんしき》だなと一番《ばん》感心《かんしん》し、且《か》つ恐《おそ》るべしと思《おも》つたのは、百三十六個《こ》もある麻雀牌《マアジヤンパイ》の背中《せなか》の竹《たけ》の木目《もくめ》をすつかり暗記《あんき》してしまふといふいんちき師《し》のことだ。而《しか》も、その暗記《あんき》の仕方《しかた》といふのが、先《ま》づ日光《につくわう》の中《なか》で、次《つぎ》は曇《くも》り日《び》、次《つぎ》は夕方《ゆふがた》、次《つぎ》は電燈《でんとう》、結局《けつきよく》最後《さいご》に蝋燭《らふそく》の光《ひかり》の中《なか》でといふ風《ふう》に明暗《めいあん》の順序《じゆんじよ》を追《お》つて眼《め》を慣《な》らしながら研究《けんきう》暗記《あんき》し、乏《とぼ》しい明《あか》るさの中《なか》でもこの木目《もくめ》はこの牌《パイ》とすぐ分《わか》るやうに努力《どりよく》するのだと言《い》ふ。言《い》はば勝《か》ちたいといふためのその執拗《しつえう》な努力《どりよく》、勿論《もちろん》外《ほか》の牌《パイ》を使《つか》ふことにでもなれば何《なん》の役《やく》に立《た》たう筈《はず》もないのに、そんな骨折《ほねを》りをするといふ根氣《こんき》よさ、陰澁《いんじふ》さ、それが外《ほか》ならぬ麻雀牌《マアジヤンパイ》のあの木目《もくめ》に對《たい》してといふだけに全《まつた》く驚《おどろ》かずにはゐられない。
が、然《しか》し、それもこれもつまりは勝負事《しようぶごと》に勝《か》ちたいといふ慾《よく》と、誇《ほこり》と、或《あるひ》は見得《みえ》とからくるのかと思《おも》ふと、人間《にんげん》の卑《いや》しさ淺《あさ》ましさも少々《せう/\》どんづまりの感《かん》じだが、支那人《しなじん》の麻雀《マアジヤン》ばかりとは言《い》はず、日本人《にほんじん》のあの花合《はなあは》せにさへ實《じつ》に多岐多樣《たきたやう》な詐欺《さぎ》、いんちきの仕方《しかた》があるといふのだから、勝負事《しようぶごと》といふものが存在《そんざい》する限《かぎ》り止《や》むを得《え》ないことかも知《し》れない。一時《じ》麻雀競技會《マアジヤンきやうぎくわい》の常勝者《じやうしようしや》としてその技法《ぎはふ》をたゞ驚歎《きやうたん》されてゐた某《それがし》が、支那人式《しなじんしき》の仕方《しかた》からすれば至極《しごく》幼稚《えうち》な不正《ふせい》を行《おこな》つてゐたことが分《わか》るし、結局《けつきよく》麻雀界《マアジヤンかい》から抹殺《まつさつ》されるに到《いた》つたなどは甚《はなは》だ殷鑑《ゐんかん》遠《とほ》からざるものとして、その心根《こゝろね》の哀《あは》れさ、僕《ぼく》は敢《あ》へて憎《にく》む氣《き》にさへならない。同《おな》じ不正《ふせい》を企《くわだて》るのならば、百三十六個《こ》の麻雀牌《マアジヤンパイ》の背中《せなか》の竹《たけ》の木目《もくめ》を暗記《あんき》するなどは、その努力感《どりよくかん》だけでも僕《ぼく》には寧《むし》ろ氣持《きもち》がいい。
日本《にほん》の麻雀《マアジヤン》も近頃《ちかごろ》は少々《せう/\》猫《ねこ》も杓子《しやくし》もの感《かん》じになつてしまつたが、僅《わづ》か四五年《ねん》ほどの間《あひだ》にこれほど隆盛《りうせい》を見《み》た勝負事《しようぶごと》はあるまいし、またこれほど組織立《そしきだ》つて麻雀《マアジヤン》を社會化《しやくわいくわ》したのも日本《にほん》だけではあるまいか? 圍碁《ゐご》や將棊《しやうぎ》や花合《はなあは》せの傳統《でんとう》は長《なが》い。撞球《どうきう》にしてもそれが今《いま》ほど一般的《ぱんてき》になるまでには二三十年《ねん》はかかつてゐる。戸外《こぐわい》スポオツにしても、野球《やきう》は勿論《もちろん》だが、近頃《ちかごろ》それと人氣《にんき》を角逐《かくちく》しかけて來《き》た蹴球《しうきう》にしてもその今日《こんにち》を見《み》るまでには慶應義塾蹴球部《けいおうぎじゆくしうきうぶ》の隱《かく》れたる長《なが》い努力《どりよく》があつた。が、麻雀《マアジヤン》は忽《たちま》ちにして日本《にほん》の社會《しやくわい》に飛躍《ひやく》した。これは一面《めん》は明《あきらか》に麻雀戲《マアジヤンぎ》そのものの魅力《みりよく》からだ。そして、一面《めん》は空閑緑《くがみどり》以下《いか》の識者《しきしや》の盡力《じんりよく》からに違《ちが》ひない。
僕《ぼく》の知《し》る限《かぎ》りでは、日本《にほん》の麻雀《マアジヤン》の發祥地《はつしやうち》は例《れい》の大震災後《だいしんさいご》に松山《まつやま》省《しやう》三が銀座裏《ぎんざうら》から移《うつ》つて一時《じ》牛込《うしごめ》の神樂坂上《かぐらざかうへ》に經營《けいえい》してゐたカフエ・プランタンがそれらしい。勿論《もちろん》、個個《ここ》に遊《あそ》び樂《たの》しんでゐた人達《ひとたち》は外《ほか》にもあつたらうが、少《すくな》くとも麻雀戲《マアジヤンぎ》の名《な》を世間的《せけんてき》に知《し》らせたのはどうもあすこだつたやうに思《おも》はれる。その意味《いみ》で、狹《せま》い路次《ろじ》の奧《おく》にあつた、木造《もくざう》の、あのささやかな洋館《やうくわん》は日本麻雀道《にほんマアジヤンだう》のためには記念保存物《きねんほぞんぶつ》たる價値《かち》を持《も》つてゐるかも知《し》れない。
「どうも今《いま》考《かんが》へると、をかしなことをやつてゐたもんだよ。」
と、佐佐木茂索《ささきもさく》は或《あ》る時《とき》僕《ぼく》に彼《かれ》らしい靜《しづ》かな笑《わら》ひを洩《も》らしながら語《かた》るのだつた。
何《なん》でも市川猿之助《いちかはゑんのすけ》と平岡《ひらをか》權《ごん》八郎《らう》が洋行歸《やうかうがへ》りに上海《シヤンハイ》で麻雀牌《マアジヤンパイ》を買《か》ひうろ覺《おぼ》えにその技法《ぎはう》を傳《つた》へたのださうだが、集《あつま》るものは外《ほか》に松山《まつやま》省《しやう》三、佐佐木茂索《ささきもさく》、廣津和郎《ひろつかずを》、片岡鐵兵《かたをかてつへい》、松井潤子《まつゐじゆんこ》、後《のち》に林茂光《りんもくわう》、川崎備寛《かはさきびくわん》、長尾克《ながをこく》などの面面《めんめん》で、一筒《とう》二筒《とう》を一丸《まる》二丸《まる》、一索《さう》二索《さう》を一竹《たけ》二竹《たけ》といふ風《ふう》に呼《よ》び、三元牌《サンウエンパイ》を|《ポン》されたあと殘《のこ》りの一枚《まい》を捨《す》てると、それが槓《カン》になり、その所有者《しよいうしや》に嶺上開花《リンシヤンカイホオ》の機會《きくわい》を與《あた》へるので捨《す》てられなくなるといふ風《ふう》な妙《めう》なルウルもあり、何《なに》しろ近頃《ちかごろ》のやうに明確《めいかく》な標準規約《へうじゆんきやく》もなく、第《だい》一傳《つた》へる人《ひと》がうろ覺《おぼ》えの怪《あや》しい指導振《しだうぶり》なのだから、ずゐぶんをかしな戰《たゝか》ひを交《まじ》へてゐたものらしい。
「林茂光《りんもくわう》がくるやうになつてから、だいぶすべてが調《とゝの》つて來《き》たが、僕《ぼく》はその時分《じぶん》から大概《たいがい》負《ま》けなかつたよ。」
と、これも佐佐木茂索《ささきもさく》の自慢話《じまんばなし》だ。
その頃《ころ》、それが賭博《とばく》との疑《うたが》ひを受《う》けて、或《あ》る晩《ばん》一同《どう》がその筋《すぢ》から取《と》り調《しら》べを受《う》けるやうな事件《じけん》が持《も》ち上《あが》つたが、取《と》り調《しら》べる側《がは》がその技法《ぎはふ》を知《し》らないので誰《だれ》かが滔滔《たうたう》と講釋《かうしやく》をはじめ、係官《かゝりくわん》を烟《けむり》に卷《ま》いたといふ一插話《さふわ》もある。勿論《もちろん》、何《なん》の事《こと》もなく疑《うたが》ひだけで濟《す》んだのだが、一夜《や》を思《おも》はぬ所《ところ》で明《あ》かしてしまつた誰彼《たれかれ》、あまり寢覺《ねざ》めがよかつた筈《はず》も無《な》いが、何《なん》でも物事《ものごと》の先驅者《せんくしや》の受難《じゆなん》の一卷《ひとまき》とすれば、近頃《ちかごろ》の仕合《しあは》せな新《あたら》しい麻雀《マアジヤン》好きの面面《めんめん》はすべからくそれ等《ら》の諸賢《しよけん》に敬意《けいい》を捧《さゝ》げて然《しか》るべきかも知《し》れない。
日本《にほん》の文藝的作品《ぶんげいてきさくひん》に麻雀《マアジヤン》のことが書《か》かれたのは恐《おそ》らく夏目漱石《なつめさうせき》の「滿韓《まんかん》ところどころ」の一節《せつ》が初《はじ》めてかも知《し》れない。無論《むろん》、讀書人《どくしよじん》夏目漱石《なつめさうせき》は勝負事《しようぶごと》には感興《かんきよう》を持《も》つてゐなかつたのであらうが、それは麻雀競技《マアジヤンきやうぎ》の甚《はなは》だ漠然《ばくぜん》とした、斷片的《だんぺんてき》な印象《いんしよう》を數行《すうぎやう》綴《つゞ》つたのに過《す》ぎない。が、近代日本《きんだいにほん》のこの優《すぐ》れた文人《ぶんじん》の筆《ふで》に初《はじ》めて麻雀《マアジヤン》のことが書《か》かれたといふのは不思議《ふしぎ》な因縁《いんねん》とも言《い》ふべきで、カフエ・プランタンで初《はじ》めて麻雀《マアジヤン》を遊《あそ》んだ人達《ひとたち》に文人《ぶんじん》、畫家《ぐわか》が多《おほ》かつたといふのと相俟《あひま》つて、麻雀《マアジヤン》と文藝《ぶんげい》との間《あひだ》には何《なに》か一種《しゆ》のつながりがあるやうな氣持《きもち》さへする。それにさすがは文學《ぶんがく》の國《くに》支那《しな》の遊《あそ》びで[#「遊《あそ》びで」は底本では「遊《あそ》びて」]、役《やく》の名《な》に清一色《チンイイソオ》とか、國士無雙《コオシフウサン》とか、海底撈月《ハイチイラオイエ》とか、嶺上開花《リンシヤンカイホウ》とか、四喜臨門《スウシイリンメン》とかいふやうな如何《いか》にも詩味《しみ》のある字句《じく》を使《つか》つてあるのも面白《おもしろ》い。恐《おそ》らくこれ等《ら》の字《じ》に就《つ》いての感《かん》じが分《わか》るといふだけでも僕等《ぼくら》日本人《にほんじん》は歐米人達《おうべいじんたち》よりもずつとずつと麻雀《マアジヤン》を味《あぢは》ひ樂《たの》しみ方《かた》が深《ふか》いだらうと想像《さうざう》される。
さて初《はじ》めに書《か》いたやうに初《はじ》めて麻雀牌《マアジヤンパイ》を見《み》て、その牌音《パイおと》を聞《き》いたといふだけなら、僕《ぼく》は近頃《ちかごろ》の麻雀隆盛《マアジヤンりうせい》にいさゝか先駈《さきが》けするものだつたが、初《はじ》めて牌《パイ》を手《て》に入《い》れたのは大正《たいしやう》十四年《ねん》の秋《あき》で、それから誰《たれ》に教《をそ》はるともなく次第《しだい》に習《なら》ひ覺《おぼ》えて、去年《きよねん》あたりちよつとその熱病期《ねつびやうき》だつたとも言《い》へる。そして、近頃《ちかごろ》はだいぶ技法《ぎはふ》にも自信《じしん》を得《え》て來《き》たが、運《うん》に左右《さいう》されてしまふ或《あ》る境地《きやうち》だけはどうにも仕方《しかた》がなく、時《とき》にあまりに衰運《すゐうん》に沈湎《ちんめん》させられると、ちよつと麻雀《マアジヤン》にも嫌厭《げんえん》たるものを感《かん》じる。けれど、二三日《にち》もたつともうそろそろむづむづしてくるのだから、この熱病《ねつびやう》生易《なまやさ》しいことではなかなか全快《ぜんくわい》しさうにもない。
相手方《あひてかた》も勿論《もちろん》仲間内《なかまうち》に多《おほ》く、始終《しじう》顏《かほ》を合《あは》せるのが六段《だん》佐佐木茂索《ささきもさく》、三段《だん》和木《わぎ》清《せい》三郎《らう》、三段《だん》池谷《いけのや》信《しん》三郎《らう》などで、時《とき》に六段《だん》菊池寛《きくちくわん》、五段《だん》廣津和郎《ひろつかづを》、七段《だん》川崎備寛《かはさきびくわん》、六段《だん》濱尾《はまを》四郎《らう》、四段《だん》古川緑波《ふるかはりよくは》、五段《だん》菅忠雄《すがたゞを》などといふ所《ところ》、そして、そんな風《ふう》に書《か》き並《なら》べてみると、素晴《すばら》しい名人試合《めいじんしあひ》ばかりやつてゐるやうだが、時《とき》に手《て》に汗《あせ》を握《にぎ》るやうな亂牌振《らんパイぶり》も見《み》られゝば、颯爽《さつさう》たる一人拂《ひとりばら》ひ、思《おも》はず頤《おとがひ》を解《と》くやうな沖和《チユンホオ》もある。それに大概《たいがい》腕《うで》よりもより以上《いじやう》に口《くち》の達者《たつしや》な面面《めんめん》が多《おほ》いのだからその騷々《さう/″\》しさも以《もつ》て察《さつ》すべきである。そして、たとへば、たとへばと諸賢《しよけん》のの麻雀振《マアジヤンぶり》も紹介《せうかい》する積《つも》りだつたが、ちやうど[#「ちやうど」は底本では「ちやうと」]許《ゆる》された枚數《まいすう》にも達《たつ》したし、あとの祟《たた》りも恐《おそ》ろしいので。(昭《せう》五・三・三)
底本:「改造」改造社
1930(昭和5)年4月1日発行
初出:「改造」改造社
1930(昭和5)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「黄包車」(ワンポイソオ/ワンポオツ)、「卓子」(テーブル/たくし)、「茶館」(ツアコブン/ツアコハン)、「麻雀」(マアジヤン/マージヤン)など、一部のルビに異なった表記がみられますが、底本通りに入力しました。
※「茶館」のルビ「ツアコブン」の「ブ」は印刷の具合が判然とせず、「フ」もしくは「プ」にもみえます。
入力:小林徹
校正:鈴木厚司
2008年1月26日作成
2010年11月9日修正
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●表記について
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[#…]は、入力者による注を表す記号です。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
●図書カード