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小庭《こにわ》を走る落葉《おちば》の響《ひびき》、障子をゆする風の音。
私は冬の書斎の午《ひる》過ぎ。幾年《いくねん》か昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出《おもいだ》すような薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでいた。
ツルゲネーフはまだ物心もつかぬ子供の時分に、樹木のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、或《あ》る夏の夕方《ゆうかた》に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛《いたま》しく噛み合っている有様《ありさま》を見て、善悪の判断さえつかない幼心《おさなごころ》に、早くも神の慈悲心を疑った……と読んで行く中《うち》に、私は何時《いつ》となく理由《いわれ》なく、私の生れた小石川金富町《こいしかわかなとみちょう》の父が屋敷の、おそろしい古庭のさまを思い浮べた。もう三十年の昔、小日向水道町《こびなたすいどうちょう》に水道の水が、露草《つゆくさ》の間《あいだ》を野川の如くに流れていた時分の事である。
水戸の御家人や旗本の空屋敷《あきやしき》が其処此処《そこここ》に売物《うりもの》となっていたのをば、維新の革命があって程もなく、新しい時代に乗じた私の父は空屋敷三軒ほどの地所を一まとめに買い占め、古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅《やしき》を新築した。私の生れた時には其《そ》の新しい家《いえ》の床柱にも、つやぶきんの色の稍《やや》さびて来た頃で。されば昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の陰《かげ》はいよいよ暗く、その最も暗い木立の片隅の奥深いところには、昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。その中の一ツは出入りの安吉《やすきち》という植木屋が毎年々々手入《ていれ》の松の枯葉《かれは》、杉の折枝《おれえだ》、桜の落葉、あらゆる庭の塵埃《ちりあくた》を投げ込み、私が生れぬ前から五六年もかかって漸《ようや》くに埋め得たと云《い》う事で。丁度四歳の初冬の或る夕方《ゆうかた》、私は松や蘇鉄《そてつ》や芭蕉《ばしょう》なぞに其の年の霜よけを為《な》し終えた植木屋の安《やす》が、一面に白く乾いた茸《きのこ》の黴《か》び着いている井戸側《いどがわ》を取破《とりこわ》しているのを見た。これも恐ろしい数ある記念の一つである。蟻、やすで、むかで、げじげじ、みみず、小蛇《こへび》、地蟲《じむし》、はさみ蟲、冬の住家《すみか》に眠って居たさまざまな蟲けらは、朽ちた井戸側の間《あいだ》から、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめき出《いだ》し、木枯《こがらし》の寒い風にのたうち廻《まわ》って、その場に生白《なまじろ》い腹を見せながら斃死《くたば》ってしまうのも多かった。安は連れて来た職人と二人して、鉈《なた》で割った井戸側へ、その日の落葉枯枝を集めて火をつけ高箒《たかぼうき》でのたうち廻って匍出す蛇、蟲けらを掻寄せて燃《も》した。パチリバチリ音がする。焔《ほのお》はなくて、湿った白い烟《けむり》ばかりが、何とも云えぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢《こずえ》の間《あいだ》に立昇る。老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い夜《よ》を吹下《ふきおろ》した。見えない屋敷の方で、遠く消魂《けたたま》しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引かれて、やっと家《うち》へ帰った事がある。
安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五月雨《さみだれ》、夕立、二百十日《か》と、大雨《たいう》の降る時々地面が一尺二尺も凹《くぼ》むので、其の後《ご》は縄を引いて人の近《ちかづ》かぬよう。私は殊更《ことさら》父母から厳しく云付《いいつ》けられた事を覚えて居る。今一つ残って居る古井戸はこれこそ私が忘れようとしても忘《わすれ》られぬ最も恐ろしい当時の記念である。井戸は非常に深いそうで、流石《さすが》の安も埋めようとは試みなかった。現在は如何《いか》なる人の邸宅《ていたく》になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木《おいぎ》と共に、あの庭の片隅に残って居るであろうと思う。
井戸の後《うしろ》は一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲《まわり》を見るよう、冬でも夏でも真黒に静《しずか》に立って居る杉の茂りが、一層其の辺《あたり》を気味わるくして居た。杉の茂りの後《うしろ》は忍返《しのびがえ》しをつけた黒板塀《くろいたべい》で、外なる一方は人通《ひとどおり》のない金剛寺坂上《こんごうじさかうえ》の往来、一方はその中《うち》取払いになって呉《く》れればと、父が絶えず憎んで居る貧民窟《ひんみんくつ》である。もともと分れ分れの小屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内《かまえうち》にはなって居るが、古井戸のある一隅《いちぐう》は、住宅の築かれた地所からは一段坂地《さかち》で低くなり、家人《かじん》からは全く忘れられた崖下の空地である。母はなぜ用もない、あんな地面を買ったのかと、よく父に話をして居られた事がある。すると父は崖下へ貸長屋《かしながや》でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。買占めて空庭《あきにわ》にして置けば閑静でよいと云って居られた。父にはどうして、風に吠え、雨に泣き、夜《よ》を包む老樹の姿が恐くないのであろう。角張った父の顔が、時としては恐しい松の瘤《こぶ》よりも猶《なお》空恐《そらおそろ》しく思われた事があった。
或る夜《よ》、屋敷へ盗棒《どろぼう》が這入《はい》って、母の小袖《こそで》四五点を盗んで行った。翌朝《よくちょう》出入《でいり》の鳶《とび》の者や、大工の棟梁《とうりょう》、警察署からの出張員が来て、父が居間の縁側づたいに土足の跡を検査して行くと、丁度冬の最中《もなか》、庭一面の霜柱《しもばしら》を踏み砕いた足痕《あしあと》で、盗賊は古井戸の後《うしろ》の黒板塀から邸内に忍入《しのびい》ったものと判明した。古井戸の前には見るから汚らしい古手拭《ふるてぬぐい》が落ちて居た。私は昔水戸家《みとけ》へ出入りしたとか云う頭《かしら》の清五郎《せいごろう》に手を引かれて、生れて始めて、この古庭の片隅、古井戸のほとりを歩いたのであった。古井戸の傍《そば》に一株の柳がある。半ば朽ちた其《その》幹は黒い洞穴《ほらあな》にうがたれ、枯れた数条の枝の悲しげに垂れ下った有様。それを見ただけでも、私は云われぬ気味悪さに打たれて、埋《うず》めたくも埋《うず》められぬと云う深い深い井戸の底を覗いて見ようなぞとは、思いも寄らぬ事であった。
敢《あえ》て私のみではない。盗難のあった其《そ》れ以来、崖下の庭、古井戸の附近《ふきん》は、父を除いて一家中《いっかちゅう》の異懼《いく》恐怖の中心点になった。丁度、西南戦争の後《のち》程もなく、世の中は、謀反人《むほんにん》だの、刺客《しかく》だの、強盗だのと、殺伐《さつばつ》残忍《ざんにん》の話ばかり、少しく門構《もんがまえ》の大きい地位ある人の屋敷や、土蔵の厳《いか》めしい商家の縁の下からは、夜陰《やいん》に主人の寝息を伺って、いつ脅迫暗殺の白刄《はくじん》が畳を貫《つらぬ》いて閃《ひらめ》き出《いず》るか計られぬと云うような暗澹《あんたん》極まる疑念が、何処《どこ》となしに時代の空気の中に漂って居た頃で、私の家《うち》では、父とも母とも、誰《た》れの発議とも知らず、出入の鳶の者に夜廻《よまわ》りをさせるようにした。乳母の懐に抱かれて寝る大寒の夜《よ》な夜《よ》な、私は夜廻の拍子木《ひょうしぎ》の、如何に鋭く、如何に冴えて、寝静った家中《かちゅう》に遠く、響き渡るのを聞いたであろう。ああ、夜《よる》ほど恐いもの、厭なものは無い。三時の茶菓子《おやつ》に、安藤坂《あんどうざか》の紅谷《べにや》の最中《もなか》を食べてから、母上を相手に、飯事《ままごと》の遊びをするかせぬ中《うち》、障子に映る黄《きいろ》い夕陽の影の見る見る消えて、西風《にしかぜ》の音、樹木に響き、座敷の床間《とこのま》の黒い壁が、真先に暗くなって行く。母さんお手水《ちょうず》にと立って障子を明けると、夕闇の庭つづき、崖の下はもう真暗《まっくら》である。私は屋敷中で一番早く夜《よる》になるのは、古井戸のある彼《あ》の崖下……否、夜《よる》は古井戸の其底から湧出《わきで》るのではないかと云う感じが、久しい後《のち》まで私の心を去らなかった。
私は小学校へ行くほどの年齢になっても、伝通院《でんずういん》の縁日《えんにち》で、からくりの画看板《えかんばん》に見る皿屋敷のお菊《きく》殺《ころ》し、乳母が読んで居る四谷怪談《よつやかいだん》の絵草紙《えぞうし》なぞに、古井戸ばかりか、丁度其の傍《そば》にある朽ちかけた柳の老木《おいき》が、深い自然の約束となって、夢にまで私をおびえさせた事が幾度だか知れなかった。恐いものは見たい。恐る恐る訊く私が知識の若芽《わかめ》を乳母はいろいろな迷信の鋏《はさみ》で切摘《きりつま》んだ。父親は云う事を聴かないと、家《うち》を追出して古井戸の柳へ縛りつけるぞと怒鳴《どな》って、|爛《らんまん》たる児童の天真《てんしん》を損う事をば顧《かえり》みなかった。ああ、恐しい幼少の記念。十歳を越えて猶《なお》、夜中《やちゅう》一人で、厠《かわや》に行く事の出来なかったのは、その時代に育てられた人の児《こ》の、敢て私ばかりと云うではあるまい。
父は内閣を「太政官《だじょうかん》」大臣を「卿《きょう》」と称した頃の官吏《かんり》の一人《いちにん》であった。一時《いちじ》、頻《しきり》と馬術に熱心して居られたが、それも何時しか中止になって、後《のち》四五年、ふと大弓《だいきゅう》を初められた。毎朝《まいちょう》役所へ出勤する前、崖の中腹《ちゅうふく》に的を置いて古井戸の柳を脊にして、凉しい夏の朝風《あさかぜ》に弓弦《ゆみづる》を鳴《なら》すを例としたが間《ま》もなく秋が来て、朝寒《あささむ》の或《ある》日、片肌脱《かたはだぬぎ》の父は弓を手にした儘《まま》、あわただしく崖の小道を馳上《かけあが》って来て、皺枯《しわが》れた大声に、
「田崎《たざき》々々! 庭に狐が居る。早く来い。」と、どなられた。
田崎と云うのは、父と同郷の誼《よし》みで、つい此の間《あいだ》から学僕《がくぼく》に住込んだ十六七の少年である。然《しか》し、私には、如何にも強そうなその体格と、肩を怒らして大声に話す漢語交りの物云いとで、立派な大人のように思われた。
「先生、何の御用で御座います。」
「怪《け》しからん、庭に狐が居る、乃公《わし》が弓を引いた響に、崖の熊笹《くまざさ》の中から驚いて飛出した。あの辺《へん》に穴があるに違いない。」
田崎と抱車夫《かかえしゃふ》の喜助《きすけ》と父との三人。崖を下りて生茂った熊笹の間《あいだ》を捜したが、早くも出勤の刻限になった。
「田崎、貴様、よく捜して置いて呉《く》れ。」
「はあ、承知しました。」
玄関に平伏した田崎は、父の車が砂利を轢《きし》って表門を出るや否や、小倉袴《こくらばかま》の股立《ももだち》高く取って、天秤棒《てんびんぼう》を手に庭へと出た。其の時分の書生のさまなぞ、今から考えると、幕府の当時と同様、可笑《おか》しい程主従《しゅじゅう》の差別のついて居た事が、一挙一動《いっきょいちどう》思出される。
何事にも極《ご》く砕けて、優しい母上は田崎の様子を見て、
「あぶないよ、お前。喰いつかれでもするといけないから、お止《よ》しなさい。」
「奥様、堂々たる男子が狐一匹。知れたものです。先生のお帰りまでに、きっと撲殺《うちころ》してお目にかけます。」
田崎は例の如く肩を怒《いか》らして力味返った。此の人は其後《そのご》陸軍士官となり日清戦争の時、血気《けっき》の戦死を遂《と》げた位であったから、殺戮《さつりく》には天性《てんせい》の興味を持って居たのであろう。日頃田崎と仲のよくない御飯焚《ごはんたき》のお悦《えつ》は、田舎出の迷信家で、顔の色を変えてまで、お狐さまを殺すはお家《いえ》の為《た》めに不吉である事を説き、田崎は主命《しゅめい》の尊さ、御飯焚風情の嘴《くちばし》を入れる処《ところ》でないと一言《いちごん》の下《もと》に排斥して仕舞《しま》った。お悦は真赤な頬をふくらし乳母も共々、私に向って、狐つき、狐の祟り、狐の人を化《ばか》す事、伝通院《でんつういん》裏の沢蔵稲荷《たくぞういなり》の霊験《れいげん》なぞ、こまごまと話して聞かせるので、私は其頃よく人の云うこっくり様の占いなぞ思合せて、半《なか》ばは田崎の勇《ゆう》に組《くみ》して、一緒に狐退治に行きたいようにも思い、半ばは世にそう云う神秘もあるのか知らと疑いもしたのであった。
午飯《ひるめし》が出来たと人から呼ばれる頃まで、庭中の熊笹、竹藪の間《あいだ》を歩き廻って居た田崎は、空しく向脛《むこうずね》をば笹や茨《いばら》で血だらけに掻割《かきさ》き、頭から顔中を蛛《くも》の巣だらけにしたばかりで、狐の穴らしいものさえ見付け得ずに帰って来た。夕方《ゆうかた》、父親につづいて、淀井《よどい》と云う爺さんがやって来た。それは殆ど毎日のよう、父には晩酌《ばんしゃく》囲碁のお相手、私には其頃出来た鉄道馬車の絵なぞをかき、母には又、海老蔵《えびぞう》や田之助《たのすけ》の話をして、夜《よ》も更渡《ふけわた》るまでの長尻《ながしり》に下女を泣かした父が役所の下役、内證《ないしょう》で金貸《かねかし》をもして居る属官《ぞっかん》である。父はこの淀井を伴い、田崎が先に提灯《ちょうちん》をつけて、蟲の音《ね》の雨かと疑われる夜更《よふけ》の庭をば、二度まで巡回された。私は秋の夜《よ》の、如何に冷かに、如何に清く、如何に蒼《あお》いものかを知ったのも、生れて此の夜《よ》が初めてであった。
母上は其の夜《よ》の夜半《よなか》、夢ではなく、確かにこんこんと云う啼《な》き声を聞いたとの話。下女は日が暮れたと云ったら、どんな用事があっても、家《うち》の外へは一歩《ひとあし》も踏出さなくなった。忠義一図《ちゅうぎいちず》の御飯焚お悦は、お家《いえ》に不吉のある兆《きざし》と信じて夜明に井戸の水を浴びて、不動様を念じた為めに風邪を引いた。田崎が事の次第を聞付けて父に密告したので、お悦は可哀《かあい》そうに、馬鹿をするにも程があるとて、厳しいお小言《こごと》を頂戴《ちょうだい》した始末。私の乳母は母上と相談して、当らず触らず、出入りの魚屋「いろは」から犬を貰って飼い、猶《なお》時々は油揚をば、崖の熊笹の中へ捨てて置いた。
父親は例の如くに毎朝早く、日に増す寒さをも厭《いと》わず、裏庭の古井戸に出て、大弓を引いて居られたが、もう二度と狐を見る機会がなかった。何処から迷込《まいこ》んだとも知れぬ痩せた野良犬の、油揚を食って居る処を、家《うち》の飼犬が烈《はげ》しく噛み付いて、其の耳を喰切った事がある。一家中《いっかじゅう》、何時とはなく、狐は何処へか逃げてしまった。狐ではなく、あれも矢張《やっぱ》り野良犬であったのかも知れぬと、自然に安堵の色を見せるようになった。もう冬である。
「寒くなってから火鉢《ひばち》の掃除する奴があるか。気のきかん者ばかり居る。」と或朝、父の小言が、一家中《いっかちゅう》に響き渡った。
がたんがたんと、戸、障子、欄間《らんま》の張紙《はりがみ》が動く。縁先の植込みに、淋しい風の音が、水でも打《ぶ》ちあけるように、突然聞えて突然に断《た》える。学校へ行く時、母上が襟巻《えりまき》をなさいとて、箪笥《たんす》の曳出《ひきだ》しを引開けた。冷えた広い座敷の空気に、樟脳《しょうのう》の匂《におい》が身に浸渡るように匂った。けれども午過《ひるすぎ》には日の光が暖《あたたか》く、私は乳母や母上と共に縁側の日向《ひなた》に出て見た時、狐捜《きつねさが》しの大騒ぎのあった時分とは、庭の様子が別世界のように変って居るのをば、不思議な程に心付《こころつ》いた。梅の樹、碧梧《あおぎり》の梢《こずえ》が枝ばかりになり、芙蓉《ふよう》や萩《はぎ》や|頭《けいとう》や、秋草《あきぐさ》の茂りはすっかり枯れ萎《しお》れてしまったので、庭中はパッと明《あかる》く日が一ぱいに当って居て、嘗《かつ》て、小蛇蟲けらを焼殺《やきころ》した埋井戸《うもれいど》のあたりまで、又恐しい崖下の真黒な杉の木立の頂《いただ》きまでが、枯れた梢の間《あいだ》から見通される。崖の下り口に立つ松の間《あいだ》の、楓《かえで》は、その紅葉が今では汚い枯葉になって、紛々として飛び散る。縁先の敷石の上に置いた盆栽の|
《はぜ》には一二枚の葉が血のように紅葉したまま残って居た。父が書斎の丸窓《まるまどそと》外に、八手《やつで》の葉は墨より黒く、玉の様な其の花は蒼白《あおしろ》く輝き、南天の実のまだ青い手水鉢《ちょうずばち》のほとりに藪鶯《やぶうぐいす》の笹啼《ささなき》が絶間《たえま》なく聞えて屋根、軒《のき》、窓、庇《ひさし》、庭一面に雀《すずめ》の囀《さえず》りはかしましい程である。
私は初冬の庭をば、悲しいとも、淋しいとも思わなかった。少くとも秋の薄曇りの日よりも恐しいとは思わなかった。散り敷く落葉を踏み砕き、踏み響かせて馳せ廻るのが、却《かえっ》て愉快であった。然し、植木屋の安が、例年の通り、家《うち》の定紋《じょうもん》を染出した印半纒《しるしばんてん》をきて、職人と二人、松と芭蕉《ばしょう》の霜《しも》よけをしにとやって来た頃から、間《ま》もなく初霜《はつしも》が午《ひる》過ぎから解け出して、庭へはもう、一足も踏み出されぬようになった。
家《うち》の飼犬が知らぬ間《ま》に何処《どこ》へか行ってしまった。犬殺《いぬころ》しにやられたのだとも云うし、又、いい犬だったから、人が盗んで連れて行ったのだとも、議論はまちまちであった。私は是非とも、新《あらた》に二度目の飼犬を置くように主張したが、父は犬を置くと、さかりの時分、他処《よそ》の犬までが来て生垣《いけがき》を破り、庭を荒《あら》すからとて、其れなり、家中《うちじゅう》には犬一匹も置かぬ事となった。尤も私は、その以前から、台所前の井戸端《いどばた》に、ささやかな|養所《ようけいじょ》が出来て毎日学校から帰ると|
《にわとり》に餌《え》をやる事をば、非常に面白く思って居た処から、其の上にもと、無理な駄々《だだ》を捏《こね》る必要もなかったのである。如何に幸福な平和な冬籠《ふゆごもり》の時節《じせつ》であったろう。気味悪い狐の事は、下女はじめ一家中《いっかちゅう》の空想から消去《きえさ》って、夜《よる》晩《おそ》く行く人の足音に、消魂しく吠え出す飼犬の声もなく、木枯の風が庭の大樹《だいじゅ》をゆする響に、伝通院《でんつういん》の鐘の音はかすれて遠く聞える。しめやかなランプの光の下に、私は母と乳母とを相手に、暖い炬燵《こたつ》にあたりながら絵草紙《えぞうし》錦絵《にしきえ》を繰りひろげて遊ぶ。父は出入りの下役《したやく》、淀井《よどい》の老人を相手に奥の広間、引廻《ひきまわ》す六枚屏風《ろくまいびょうぶ》の陰でパチリパチリ碁を打つ。折々は手を叩いて、銚子《ちょうし》のつけようが悪いと怒鳴る。母親は下女まかせには出来ないとて、寒い夜《よ》を台所へと立って行かれる。自分は幼心《おさなごころ》に父の無情を憎《にく》く思った。
年の暮が近《ちかづ》いて、崖下の貧民窟で、提灯の骨けずりをして居た御維新前《ごいしんぜん》のお籠同心《かごどうしん》が、首をくくった。遠からぬ安藤坂上《あんどうざかうえ》の質屋へ五人連の強盗が這入って、十六になる娘を殺して行った。伝通院地内《でんつういんちない》の末寺《まつじ》へ盗棒《どろぼう》が放火《つけび》をした。水戸様時分に繁昌《はんじょう》した富坂上《とみざかうえ》の何とか云う料理屋が、いよいよ身代限《しんだいかぎ》りをした。こんな事をば、出入の按摩《あんま》の久斎《きゅうさい》だの、魚屋《さかなや》の吉《きち》だの、鳶の清五郎だのが、台所へ来ては交《かわ》る交《がわ》る話をして行ったが、然し、私には殆《ほとん》ど何等《なんら》の感想をも与えない。私は唯だ来春《らいはる》、正月でなければ遊びに来ない、父が役所の小使《こづかい》勘三郎《かんざぶろう》の爺やと、九紋龍《くもんりゅう》の二枚半へうなりを付けて上げたいものだ。お正月に風が吹けばよいと、そんな事ばかり思って居た。けれども、出入りの八百屋の御用聞《ごようき》き春公《はるこう》と、家《うち》の仲働《なかばたらき》お玉《たま》と云うのが何時《いつ》か知ら密通《みっつう》して居て、或夜《あるよ》、衣類を脊負《せお》い、男女手を取って、裏門の板塀《いたべい》を越して馳落《かけお》ちしようとした処を、書生の田崎が見付けて取押《とりおさ》えたので、お玉は住吉町《すみよしちょう》の親元へ帰されると云う大騒ぎだけは、何の事か解《わか》らずなりに、然し私は大変な事だと感じた。お玉が泣きながら、白髪《しらが》の母親に手を引かれ、裏門をくぐって行く後姿《うしろすがた》は、何となく私の目にも哀れであった。此れ以来、私には何だか田崎と云う書生が、恐いような、憎いような気がして、あれはお父さんのお気に入りで、僕等だの、お母さんなどには悪い事をする奴であるように感じられてならなかった。
正月一ぱい、私は紙鳶《たこ》を上げてばかり遊び暮した。学校のない日曜日には、殊更に朝早く起出《おきいで》て、冬の日の長からぬ事を恨んだが、二月になって或る日曜日の朝は、そのかいもなく雪であった。そして、ついぞ父親の行かれた事のない勝手口の方に、父の太い皺枯れた声がする。田崎が何か頻りに饒舌《しゃべ》り立てて居る。毎朝近所から通って来る車夫喜助《きすけ》の声もする。私は乳母が衣服《きもの》を着換《きか》えさせようとするのも聞かず、人々の声する方に馳け付けたが、上框《あがりがまち》に懐手《ふところで》して後向《うしろむ》きに立って居られる母親の姿を見ると、私は何がなしに悲しい、嬉しい気がして、柔《やわらか》い其の袖にしがみつきながら泣いた。
「泣蟲ッ、朝腹《あさっぱら》から何《な》んだ。」と父は鋭い|叱《しった》の一声。然し、母上は懐の片手を抜いて、静に私の頭《かしら》を撫で、
「また、狐が出て来ました。宗ちゃんの大好きな|《とり》を喰べてしまったんですって。恐いじゃありませんか。おとなしくなさい。」
雪は紛々《ふんぷん》として勝手口から吹き込む。人達の下駄の歯についた雪の塊が半《なか》ば解けて、土間の上は早くも泥濘《どろ》になって居た。御飯焚のお悦、新しく来た仲働、小間使、私の乳母、一同は、殿様が時ならぬ勝手口にお出での事とて戦々恟々《せんせんきょうきょう》として、寒さに顫《ふる》えながら、台所の板の間《ま》に造り付けたように坐って居た。
父は田崎が揃えて出す足駄《あしだ》をはき、車夫喜助の差翳《さしかざ》す唐傘《からかさ》を取り、勝手口の外、井戸端の傍《そば》なる|小屋《とりごや》を巡見《じゅんけん》にと出掛ける。
「母さん。私も行きたい。」
「風邪引くといけません。およしなさい。」
折から、裏門のくぐりを開けて、「どうも、わりいものが降りやした。」と鳶の頭清五郎がさしこの頭巾《ずきん》、半纒《はんてん》、手甲《てっこう》がけの火事装束《かじしょうぞく》で、町内を廻る第一番の雪見舞いにとやって来た。
「へえッ、飛んでもねえ。狐がお屋敷の|《とり》をとったんでげすって。御維新此方《このかた》ア、物騒でげすよ。お稲荷様も御扶持放《ごふちばな》れで、油揚の臭《におい》一つかげねえもんだから、お屋敷へ迷込んだげす。訳《わけ》ア御《ご》わせん。手前達でしめっちまいやしょう。」
鳶の清五郎は小屋の傍まで、私を脊負《おぶ》って行って呉《く》れた。
今朝方、暁《あかつき》かけて、津々《しんしん》と降り積った雪の上を忍び寄り、狐は竹垣の下の地《じ》を掘って潜込《くぐりこ》んだものと見え、雪と砂とを前足で掻乱《かきみだ》した狼藉《ろうぜき》の有様。竹構《たけがまえ》の中は殊更に、吹込む雪の上を無惨に飛散《とびち》る|《とり》の羽ばかりが、一点二点、真赤な血の滴《したた》りさえ認められた。
「御前《ごぜん》、訳ア御わせん。雪の上に足痕《あしあと》がついて居やす。足痕をつけて行きゃア、篠田《しのだ》の森ア、直ぐと突止《つきと》めまさあ。去年中から、へーえ、お庭の崖に居たんでげすか。」
清五郎の云う通り、足痕は庭から崖を下り、松の根元で消えて居る事を発見した。父を初め、一同、「しめた」と覚えず勝利の声を上げる。田崎と車夫喜助が鋤鍬《すきくわ》で、雪をかき除《の》けて見ると、去年中《きょねんじゅう》あれほど捜索しても分らなかった狐の穴は、冬も茂る熊笹《くまささ》の蔭《かげ》にありあり見えすいて居る。いよいよ狐退治の評議《ひょうぎ》が開かれる。
喜助は、唐辛《とうがらし》でえぶせば、奴《やっこ》さん、我慢が出来ずにこんこん云いながら出て来る。出て来た処を取ッちめるがいいと云う。田崎は万一逃げられると残念だから、穴の口元へ罠か其れでなくば火薬を仕掛《しか》けろ。ところが、鳶の清五郎が、組んで居た腕を解《ほど》いて、傾《かし》げる首と共に、難題を持出した。
「全体、狐ッて奴は、穴一つじゃねえ。きつと何処にか抜穴《ねけあな》を付けとくって云うぜ。一方口《いっぽうぐち》ばかし堅《かた》めたって、知らねえ中《うち》に、裏口からおさらばをきめられちゃ、いい面の皮だ。」
一同、成程と思案に暮れたが、此の裏穴を捜出す事は、大雪の今、差当《さしあた》り、非常に困難なばかりか寧ろ出来ない相談である。一同は遂にがたがた寒さに顫出す程、長評定《ながひょうじょう》を凝《こら》した結果、止むを得ないから、見付出した一方口を硫黄でえぶし、田崎は家《うち》にある鉄砲を準備し、父は大弓《だいきゅう》に矢をつがい、喜助は天秤棒《てんびんぼう》、鳶の清五郎は鳶口《とびぐち》、折から、少《すこし》く後《おく》れて、例年の雪掻きにと、植木屋の安が来たので、此れ亦《また》、天秤棒に加わる事となった。
父は洋服に着換る為め、一先《ひとまず》屋敷へ這入る。田崎は伝通院前《でんずういんまえ》の生薬屋《きぐすりや》に硫黄《いおう》と烟硝《えんしょう》を買いに行く。残りのものは一升樽《いっしょうだる》を茶碗飲みにして、準備の出来るのを待って居る騒ぎ。兎《と》や角《かく》と暇取《ひまど》って、いよいよ穴の口元をえぶし出したのは、もう午近くなった頃である。私は一同に加って狐退治の現状を目撃したいと云ったけれど、厳しく母上に止められて、母上と乳母の三人で、例の如く座敷の炬燵に絵草紙を繰拡《くりひろ》げはしたものの、立ったり坐ったり、気も気では無い。鉄砲の響と云えば、十二時の「どん」しか聞いた事がない。あれは遠い丸の内、それでも天気のいい時には吃驚《びっく》りするほど座敷の障子を揺《ゆすぶ》る事さえある、されば、すぐ崖下に狐を打殺《うちころ》す銃声は、如何に強く耳を貫くであろう。家中《いえじゅう》の女共も同じ事、誰《た》れか狐に喰いつかれはしまいか。お狐様は家《うち》の中まで荒《あば》れ込んで来はしまいか。お念仏を称《とな》えるもの、お札《ふだ》を頂くものさえあったが、母上は出入のもの一同に、振舞酒《ふるまいざけ》の用意をするようにと、こまこま云付けて居られた。
私は時々縁側に出て見たが、崖下には人一人《いちにん》も居ないように寂として居て、それかと思う烟《けぶり》も見えず、近くの植込の間《あいだ》から、積った雪の滑り落ちる響が、淋し気に聞えるばかり。暗澹《あんたん》たる空は低く垂れ、立木の梢は雲のように霞《かす》み渡って居ながら、紛々として降る雪、満々として積る雪に、庭一面は朦朧《もうろう》として薄暮《たそがれ》よりも明かった。母と二人、午飯《ひるはん》を済まして、一時も過ぎ、少しく待ちあぐんで、心疲れのして来た時、何とも云えぬ悲惨な叫声《さけびごえ》。どっと一度に、大勢の人の凱歌《がいか》を上げる声。家中《かちゅう》の者皆障子を蹴倒《けたお》して縁側へ駈《か》け出た。後《あと》で聞けば、硫黄でえぶし立てられた獣物《けもの》の、恐る恐る穴の口元へ首を出した処をば、清五郎が待構えて一打ちに打下《うちおろ》す鳶口、それが紛《まぐ》れ当りに運好くも、狐の眉間へと、ぐっさり突刺って、奴さん、ころりと文句も云わず、悲鳴と共にくたばって仕舞ったとの事。大弓を提《さ》げた偉大の父を真先に、田崎と喜助が二人して、倒《さかさま》に獲物を吊した天秤棒をかつぎ、其の後《あと》に清五郎と安が引続き、積った雪を踏みしだき、隊伍《たいご》正しく崖の上に立現われた時には、私はふいと、絵本で見る忠臣蔵《ちゅうしんぐら》の行列を思出し、ああ勇しいと感じた。然し真近《まぢか》く進んで、書生の田崎が、例の漢語交りで、「坊ちゃん此の通りです。天網恢々《てんもうかいかい》疎《そ》にして漏らさず。」と差付ける狐を見ると、鳶口で打割られた頭蓋《とうがい》と、喰いしばった牙の間《あいだ》から、どろどろした生血《なまち》の雪に滴る有様。私は覚えず柔い母親の小袖のかげにその顔を蔽《おお》いかくした。
さて、午過ぎからは、家中《いえじゅう》大酒盛《おおさかもり》をやる事になったが、生憎《あいにく》とこの大雪で、魚屋は河岸《かし》の仕出しが出来なかったと云う処から、父は家《うち》の|《とり》を殺して、出入の者共を饗応《きょうおう》する事にした。一同喜び、狐の忍入った
小屋から二羽の鶏《とり》を捕えて潰した。黒いのと、白い斑《ぶち》ある牝鶏《めんどり》二羽。それは去年の秋の頃、綿のような黄金色《こがねいろ》なす羽に包まれ、ピヨピヨ鳴いていたのをば、私は毎日学校の行帰《ゆきかえ》り、餌《え》を投げ菜《な》をやりして可愛がったが、今では立派に肥《ふと》った母鶏《ははどり》になったのを。ああ、二羽が二羽とも、同じ一声の悲鳴と共に、田崎の手に首をねじられ、喜助の手に毛を|
《むし》られ、安の手に腹を割かれ、腸《わた》を引出されて了《しま》った。夜更けまで、舌なめずりしながら、酒を飲んで居る人達の真赤な顔が、私には絵草紙で見る鬼の通りに見えた。
眠りながら、その夜《よ》私は思った。あの人達はどうして、あんなに、狐を憎くんだのであろう。鶏《とり》を殺したとて、狐を殺した人々は、狐を殺したとて、更に又、鶏《にわとり》を二羽まで殺したのだ。
ああ、ツルゲネーフは、蛇と蛙の争いから、幼心に神の慈悲心を疑《うたぐ》った。私はすこしく書物を読むようになるが早いか、世に裁判と云い、懲罰と云うものの意味を疑うようになったのも、或《あるい》は遠い昔の狐退治。其等《それら》の記念が知らず知らずの原因になって居たのかも知れない。
底本:「荷風全集 第六巻」岩波書店
1992(平成4)年6月8日発行
底本の親本:「歓楽」易風社
1909(明治42)年9月20日
初出:「中学世界 第十二巻第一号」博文館
1909(明治42)年1月1日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本は総ルビですが、読みやすさを考慮して振り仮名の一部を省きました。
※「パチリバチリ」の底本における表記は、「パチリ/″\」です。
入力:渡辺哲史
校正:米田
2012年5月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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