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この作は非常に面白い。しかし何故《なぜ》面白いのか。何故かう心を惹くのか。さう思つて考へて見ても、何《ど》うしてもその理由がわからないやうな場合がよくある。例の芭蕉の『昼見れば首筋赤きほたるかな』などもその一つである。非常に面白いけれど、その面白い理由が、説明しようとしても容易に出来ない。(不思議なもんだなア、芸術は?)かう私は思はずにはゐられなかつた。
『かへつて、説明出来ないやうな芸術の方が、本当なんぢやないんでせうか。すぐ見透かされないやうなのが好いんぢやないんでせうか』
かうある人は私に言つた。
『さア、さうはつきり言つて了つて好いか何うかわかりませんけれど――』
かう言つて私は深く考へて見た。実際、さうばかりは言へない。説明の出来るものにすぐれた芸術はないことはない。決してないことはない。それからまた、一方から考へて見ると、時の力がその作を平凡にして了ふものもある。また、その反対に、いつまで経つても、新しく Moderne であるものもある。そしてその理由を考へる段になると、いつも大抵はわからなくなつて了ふ。今更不思議なのは芸術だ……。
知識の進んで行くことを芸術は要求する。あらゆるものを知ることを、あらゆるものに触れることを、またあらゆるものを理解することを芸術は我々に要求する。しかもその要求通りに知識が進み理解が出来て来ると、いつの間にか、その芸術はもう此処は俺のゐる場所ではない
と言つて、さつさと遁げ出して行つて了ふ。何うして好いかわからないのが芸術である。何うしたら、本当に芸術が掴《つか》めるのかわからない……。
それは、真剣になり、真面目になるといふことは、人工の方面から芸術といふものに迫つて行く第一の大切な修練であることに私とて異存はないけれども、しかも、真面目な、真剣なところばかりに芸術はゐはしない。もつと軽い気分のところにも、ふざけた気分のところにも、堕落した心の中にも、時にはまたこんなところにと思はれるやうに溷濁《こんだく》した空気の中に、知らん顔をして芸術が蹲踞《うずくま》つてゐるやうなこともある。だから、労働問題や、経済問題の中にも、芸術は住んでゐないとは限らない。しかし、いつまでもそこに縛られてゐるやうなものではない。イヤになると、いつでも掴へやうとする指の間から、つるりと滑つて遁げて行つて了ふ。
だから、いかに天才のある作家でも、その一生を通じて見ると、油の乗つてゐる時と乗つてゐない時とがある。芸術が来てぴつたりはまつてゐる時とゐない時とがある。トルストイの一生などを考へて見ても、それがよくわかる。
何処から来るのか、それはわからない。それは何処からこの我々が来たかわからないと同じやうに。また何処に向つて我々が去つて行くかわからないと同じやうに。従つて、その出来る、醸される形がはつきりわかつてゐないと共に、そのあとに残される、朽ちずに残されるものが本当にきまつてゐない。沢山に、沢山にある現代の作家と作品との中から、何ういふものがあとまで残されるか。何ういふものが倦《う》まれずに後世まで耽読される運命を持つてゐるか。これがちよつともわからない。そしてそれはあながちに、その時代にセンセイシヨンを起したものが残るとばかりは限つてゐないやうである。
宗教的な傾向を持つまでは好いが、すつかりそれにはまりきつて了つては、芸術は屹度そこから遁げ出して行つて了ふに相違なかつた。否、宗教ばかりではない、何につけても、それにはまり込んで了へば、屹度《きつと》芸術はそこから逃げ出して行つて了ふやうなところがある。不定、不整、不覇《は》、不羇《き》、と言つたやうなところに、好んで芸術の黒猫は住んでゐるやうな気がする。
何んな敗徳の中にでも、また何んな堕落の中にでも、自分が一足入り込んで、そしてそこから抜け出やうとするやうな時に、その芸術の黒猫は一緒に伴侶《みちずれ》[#ルビの「みちずれ」はママ]になつて来るものである。そして一緒にその腐つた匂ひを嗅ぎ、饐《す》えた味を味はうとするものである。しかもそのもの自身が、すつかり敗徳の泥の中、堕落の溝《みぞ》の中に入つて行つて了ふことをその黒猫は決して喜んでゐない。さういふ場合には、その黒猫はいつも平気でその同伴者を捨てゝ他の方へ行つて了ふものである。いくら泥の中から叫んでも、喚めいても――。
その黒猫の持つた自由、不羇――それでゐて、捉へられやうとする時にはいつも平気で捉へられるやうな、また離れやうとする時には、どんなにでもして離れて行くやうな、さうした生きた不思議さを芸術家は矢張持たなければならないのであつた。かれに取つては、あらゆるものが終極ではなかつた。また、あらゆるものが完成ではなかつた。何処まで行つても、採り尽せない貴金属の鉱山であり、採り尽せない珊瑚《さんご》の海底であらねばならなかつた。しかし、さうした心境は容易に入つて行くことは出来なかつた。たまたま入つて行けても、それを長く保持してゐることは容易でなかつた。不可思議なその芸術の黒猫!
底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
1923(大正12)年4月15日発行
初出:「電気と文芸 第二号」電気文芸社
1920(大正9)年9月1日
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2021年3月27日作成
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