Comments
Loading Translate Section...Loading Comment Form...
Loading Comment Form...
遙に此書を滿州なる森鴎外氏に獻ず
大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりてあまぐもとなる、あまぐもとなる
獅子舞歌
[#改ページ]
卷中收むる所の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亞に三人、英吉利に四人、獨逸に七人、プロンスに一人、而して佛蘭西には十四人の多きに達し、曩の高踏派と今の象徴派とに屬する者其大部を占む。
高踏派の莊麗體を譯すに當りて、多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉體を飜するに多少の變格を敢てしたるは、其各の原調に適合せしめむが爲なり。
詩に象徴を用ゐること、必らずしも近代の創意に非らず、これ或は山嶽と共に舊るきものならむ。然れども之を作詩の中心とし本義として故らに標榜する所あるは、蓋し二十年來の佛蘭西新詩を以て嚆矢とす。近代の佛詩は高踏派の名篇に於て發展の極に達し、彫心鏤骨の技巧實に燦爛の美を恣にす、今茲に一轉機を生ぜずむばあらざるなり。マラルメ、ルレエヌの名家之に觀る所ありて、清新の機運を促成し、終に象徴を唱へ、自由詩形を説けり。譯者は今の日本詩壇に對て、專ら之に則れと云ふ者にあらず、素性の然らしむる所か、譯者の同情は寧ろ高踏派の上に在り、はたまたダンヌンチオ、オオバネルの詩に注げり。然れども又徒らに晦澁と奇怪とを以て象徴派を攻むる者に同ぜず。幽婉奇聳の新聲、今人胸奧の絃に觸るゝにあらずや。坦々たる古道の盡くるあたり、荊棘路を塞ぎたる原野に對て、之が開拓を勤むる勇猛の徒を貶す者は怯に非らずむば惰なり。
譯者甞て十年の昔、白耳義文學を紹介し、稍後れて、佛蘭西詩壇の新聲、特にルレエヌ、
ルハアレン、ロオデンバッハ、マラルメの事を説きし時、如上文人の作なほ未だ西歐の評壇に於ても今日の聲譽を博する事能はざりしが、爾來世運の轉移と共に清新の詩文を解する者、漸く數を増し勢を加へ、マアテルリンクの如きは、全歐思想界の一方に覇を稱するに至れり。人心觀想の默移實に驚くべき哉。近體新聲の耳目に嫺はざるを以て、倉皇視聽を掩はむとする人々よ、詩天の星の宿は徙りぬ、心せよ。
日本詩壇に於ける象徴詩の傳來、日なほ淺く、作未だ多からざるに當て、既に早く評壇の一隅に囁々の語を爲す者ありと聞く。象徴派の詩人を目して徒らに神經の鋭きに傲る者なりと非議する評家よ、卿等の神經こそ寧ろ過敏の徴候を呈したらずや。未だ新聲の美を味ひ功を收めざるに先ちて、早く其弊竇に戰慄するものは誰ぞ。
歐洲の評壇亦今に保守の論を唱ふる者無きにあらず。佛蘭西のブリュンチエル等の如きこれなり。譯者は藝術に對する態度と趣味とに於て、此偏想家と頗る説を異にしたれば、其云ふ所に一々首肯する能はざれど、佛蘭西詩壇一部の極端派を制馭する消極の評論としては、稍耳を傾く可きもの無しとせざるなり。而してヤスナヤ・ポリヤナの老伯が近代文明呪詛の聲として、其一端をかの「藝術論」に露はしたるに至りては、全く贊同の意を呈する能はざるなり。トルストイ伯の人格は譯者の欽仰措かざる者なりと雖、其人生觀に就ては、根本に於て既に譯者と見を異にす。抑も伯が藝術論はかの世界觀の一片に過ぎず。近代新聲の評隲に就て、非常なる見解の相違ある素より怪む可きにあらず。日本の評家等が僅に「藝術論」の一部を抽讀して、象徴派の貶斥に一大聲援を得たる如き心地あるは、毫も清新體の詩人に打撃を與ふる能はざるのみか、却て老伯の議論を誤解したる者なりと謂ふ可し。人生觀の根本問題に於て、伯と説を異にしながら、其論理上必須の結果たる藝術觀のみに就て贊意を表さむと試むるも難い哉。
象徴の用は、之が助を藉りて詩人の觀想に類似したる一の心状を讀者に與ふるに在りて、必らずしも同一の概念を傳へむと勉むるに非ず。されば靜に象徴詩を味ふ者は、自己の感興に應じて、詩人も未だ説き及ぼさゞる言語道斷の妙趣を翫賞し得可し。故に一篇の詩に對する解釋は人各或は見を異にすべく、要は只類似の心状を喚起するに在りとす。例へば本書九〇頁「鷺の歌」を誦するに當て讀者は種々の解釋を試むべき自由を有す。此詩を廣く人生に擬して解せむか、曰く、凡俗の大衆は眼低し。法利賽《パリサイ》の徒と共に虚僞の生を營みて、醜辱汚穢の沼に網うつ、名や財や、はた樂欲を漁らむとすなり。唯、縹緲たる理想の白鷺は羽風徐に羽撃きて、久方の天に飛び、影は落ちて、骨蓬の白く清らにも漂ふ水の面に映りぬ。之を捉へむとしてえせず、此世のものならざればなりと。されどこれ只一の解釋たるに過ぎず、或は意を狹くして詩に一身の運を寄するも可ならむ。肉體の欲にきて、とこしへに精神の愛に飢ゑたる放縱生活の悲愁こゝに湛へられ、或は空想の泡沫に歸するを哀みて、眞理の捉へ難きに憧がるゝ哲人の愁思もほのめかさる。而して此詩の喚起する心状に至りては皆相似たり。一〇七頁「花冠」は詩人が黄昏の途上に佇みて、「活動」、「樂欲」、「驕慢」の邦に漂遊して、今や歸り來れる幾多の「想」と相語るに擬したり。彼等默然として頭俛れ、齎らす所只幻惑の悲音のみ。孤り此等の姉妹と道を異にしたるか、終に歸り來らざる「理想」は法苑林の樹間に「愛」と相睦み語らふならむといふに在りて、冷艶素香の美、今の佛詩壇に冠たる詩なり。
譯述の法に就ては譯者自ら語るを好まず。只譯詩の覺悟に關して、ロセッティが伊太利古詩飜譯の序に述べたると同一の見を持したりと告白す。異邦の詩文の美を移植せむとする者は、既に成語に富みたる自國詩文の技巧の爲め、清新の趣味を犧牲にする事あるべからず。而も彼所謂逐語譯は必らずしも忠實譯にあらず。されば「東行西行雲眇々。二月三月日遲々」を「とざまにゆき、かうざまに、くもはるばる。きさらぎ、やよひ、ひうらうら」と訓み給ひけむ神託もさることながら、大江朝綱が二條の家に物張の尼が「月によつて長安百尺の樓に上る」と詠じたる例に從ひたる所多し。
明治三十八年初秋
上田敏
[#改丁]
彌生《やよひ》ついたち、はつ燕、
海のあなたの靜けき國の
便《たより》もてきぬ、うれしき文《ふみ》を。
春のはつ花、にほひを尋《と》むる
あゝ、よろこびのつばくらめ。
黒と白との染分縞《そめわけじま》は
春の心の舞姿。
彌生來にけり、如月《きさらぎ》は
風もろともに、けふ去りぬ。
栗鼠《りす》の毛衣《けごろも》脱ぎすてて、
綾子《りんず》羽ぶたへ今樣《いまやう》に、
春の川瀬をかちわたり、
しなだるゝ枝の森わけて、
舞ひつ、歌ひつ、足速《あしばや》の
戀慕の人ぞむれ遊ぶ。
岡に摘む花、菫ぐさ、
草は香りぬ、君ゆゑに、
素足の「春」の君ゆゑに。
けふは野山も新妻《にひづま》の姿に通ひ、
わだつみの波は輝く阿古屋珠《あこやだま》。
あれ、藪陰《やぶかげ》の黒鶫《くろつぐみ》、
あれ、なか空《そら》に揚雲雀《あげひばり》。
つれなき風は吹きすぎて、
舊巣《ふるす》啣《くは》へて飛び去りぬ。
あゝ、南國《なんごく》のぬれつばめ、
尾羽《をば》は矢羽根《やばね》よ、鳴く音《ね》は弦《つる》を
「春」のひくおと、「春」の手の。
あゝ、よろこびの美鳥《うまどり》よ、
黒と白との水干《すゐかん》に、
舞の足どり教へよと、
しばし招がむ、つばくらめ。
たぐひもあらぬ麗人《れいじん》の
イソルダ姫の物語、
飾り畫《ゑが》けるこの殿《との》に
しばしはあれよ、つばくらめ。
かづけの花環こゝにあり、
ひとやにはあらぬ花籠を
給ふあえかの姫君は、
フランチェスカの前ならで、
まことは「春」のめがみ大神《おほがみ》。
われはきく、よもすがら、わが胸の上《うへ》に、君眠る時、
吾は聽く、夜の靜寂《しづけき》に、滴《したゝり》の落つるを將《はた》、落つるを。
常にかつ近み、かつ遠み、絶間《たえま》なく落つるをきく、
夜もすがら、君眠る時、君眠る時、われひとりして。
[#改ページ]
「夏」の帝《みかど》の「眞晝時《まひるどき》」は、大野《おほの》が原に廣ごりて、
白銀色《しろがねいろ》の布引《ぬのびき》に、青天《あをぞら》くだし天降《あもり》しぬ。
寂《じやく》たるよもの光景《けしき》かな。耀《かゞや》く虚空《こくう》、風絶えて、
炎《ほのほ》のころも纏《まと》ひたる地《つち》の熟睡《うまい》の靜心《しづごゝろ》。
眼路《めぢ》眇茫《べうばう》として極《きはみ》無く、樹蔭《こかげ》も見えぬ大野《おほの》らや、
牧《まき》の畜《けもの》の水かひ場《ば》、泉は涸《か》れて音も無し。
野末遙けき森陰は、裾の界《さかひ》の線《すぢ》黒み、
不動《ふどう》の姿夢《ゆめ》重く、寂寞《じやくまく》として眠りたり。
唯熟したる麥の田は黄金海《わうごんかい》と連なりて、
かぎりも波の搖蕩《たゆたひ》に、眠るも鈍《おぞ》と嘲《あざ》みがほ、
聖《せい》なる地《つち》の安らけき兒等《こら》の姿を見よやとて、
畏れ憚《はばか》るけしき無く、日の觴《さかづき》を嚥《の》み干しぬ。
また、邂逅《わくらば》に吐息なす心の熱《ねつ》の穗に出でゝ、
囁聲《つぶやきごゑ》のそこはかと、鬚《ひげ》長頴《ながかひ》の胸のうへ、
覺めたる波の搖動《ゆさぶり》や、うねりも貴《あて》におほどかに
起きてまた伏す行末は沙《すな》たち迷ふ雲のはて。
程遠からぬ青草の牧《まき》に伏したる白牛《はくぎう》が、
肉置《しゝおき》厚き喉袋《のどぶくろ》、涎《よだれ》に濡らす慵《ものう》げさ、
妙《たへ》に氣高《けだか》き眼差《まなざし》も、世の煩累《わづらひ》に倦みしごと、
終《つひ》に見果てぬ内心の夢の衢《ちまた》に迷ふらむ。
人よ、爾の心中を、喜怒哀樂に亂されて、
光明道《くわうみやうだう》の此原《このはら》の眞晝《まひる》を孤《ひと》り過ぎゆかば、
|《の》がれよ、こゝに萬物《ばんぶつ》は、凡《す》べて虚《うつろ》ぞ、日は燬《や》かむ。
ものみな、こゝに命無く、悦《よろこび》も無し、はた憂無し。
されど涙《なんだ》や笑聲《せうせい》の惑《まどひ》を脱し、萬象《ばんしやう》の
流轉《るてん》の相《さう》を忘《ばう》ぜむと、心の渇《かわき》いと切《せち》に、
現身《うつそみ》の世を赦《ゆる》しえず、はた詛《のろ》ひえぬ觀念《くわんねん》の
眼《まなこ》放ちて、幽遠の大歡樂を念じなば、
來れ、此地の天日《てんじつ》にこよなき法《のり》の言葉あり、
親み難き炎上《えんじやう》の無間《むげん》に沈め、なが思、
かくての後は、濁世《だくせい》の都をさして行くもよし、
物の七《なゝ》たび涅槃《ニルワナ》に浸《ひた》りて澄みし心もて。
夢圓《まどか》なる滄溟《わだのはら》、濤《なみ》の卷曲《うねり》の搖蕩《たゆたひ》に
夜天《やてん》の星の影見えて、小島《をじま》の群《むれ》と輝きぬ。
紫摩黄金《しまわうごん》の良夜《あたらよ》は、寂寞《じやくまく》としてまた幽《いう》に、
奇《く》しき畏《おそれ》の滿ちわたる海と空との原の上。
無邊の天《てん》や無量海、底《そこ》ひも知らぬ深淵《しんえん》は
憂愁の國、寂光土《じやくくわうど》、また譬ふべし、|耀郷《げんえうきやう》。
墳塋《おくつき》にして、はた伽藍、赫灼《かくやく》として幽遠の
大荒原《だいくわうげん》の縱横《たてよこ》を、あら、萬眼《まんがん》の魚鱗《うろくづ》や。
青空《せいくう》かくも莊嚴に、大水《だいすゐ》更に神《かみ》寂《さ》びて、
大光明の遍照《へんぜう》に、宏大《くわうだい》無邊界中《むへんかいちう》に、
うつらうつらの夢枕、煩惱界の諸苦患《しよくげん》も、
こゝに通はぬその夢の限も知らず大いなる。
かゝりし程に、粗膚《あらはだ》の蓬起皮《ふくだみがは》のしなやかに
飢にや狂ふ、おどろしき深海底《ふかうみぞこ》のわたり魚《うを》、
あふさきるさの徘徊《もとほり》に、身の鬱憂を紛れむと、
南蠻鐵《なんばんてつ》の腮《あぎと》をぞ、くわつとばかりに開いたる。
素《もと》より無邊天空を仰ぐにはあらぬ魚の身の、
參《からすき》の宿《しゆく》、みつ星《ぼし》や、三角星《さんかくせい》や天蝎宮《てんかつきう》、
無限《むげん》に曳《ひ》ける光芒《くわうばう》のゆくてに思《おもひ》馳《は》するなく、
北斗星《ほくとせい》前《ぜん》、横はる大熊星《だいいうせい》もなにかあらむ。
唯、ひとすぢに、生肉《せいにく》を噛まむ、碎かむ、割《さ》かばやと、
常の心は、朱《あけ》に染み、血の氣《け》に欲を湛《たゝ》へつゝ、
影暗うして水重き潮の底の荒原《くわうげん》を、
曇れる眼《まなこ》、きらめかし、悽慘として遲々たりや。
こゝ虚《うつろ》なる無聲境《むせいきやう》、浮べる物や、泳ぐもの、
生きたる物も、死したるも、此空漠《くうばく》の荒野《あらぬ》には、
音信《おとづれ》も無し、影も無し。たゞ水先《みづさき》の小判鮫《こばんざめ》、
眞黒《まくろ》の鰭《ひれ》のひたうへに、沈々として眠るのみ。
行きね妖怪《あやかし》、なれが身も人間道《にんげんだう》に異ならず、
醜惡《しうを》、獰猛《だうまう》、暴戻《ばうれい》のたえて異なるふしも無し。
心安かれ、鱶《ふか》ざめよ、明日《あす》や食らはむ人間を。
又さはいへど、汝《なれ》が身も、明日《あす》や食はれむ、人間に。
聖《せい》なる飢《うゑ》は正法《しやうぼふ》の永《なが》くつゞける殺生業《せつしやうごふ》、
かげ深海《ふかうみ》も光明の天《あま》つみそらもけぢめなし。
それ人間も、鱶鮫《ふかざめ》も、殘害《ざんがい》の徒も、餌食《ゑじき》等も、
見よ、死の神の前にして、二つながらに罪ぞ無き。
沙漠は丹《たん》の色にして、波漫々《まん/\》たるわだつみの
音《おと》しづまりて、日に燬《や》けて、熟睡《うまい》の床《とこ》に伏す如く、
不動のうねり、大《おほ》らかに、ゆくらゆくらに傳《つたは》らむ、
人住むあたり銅《あかがね》の雲たち籠《こ》むる眼路《めぢ》のすゑ。
命も音も絶えて無し。餌《ゑば》に飽きたる唐獅子《からしし》も、
百里の遠き洞窟《ほらあな》の奧にや今は眠るらむ。
また岩清水迸《ほとばし》る長沙《ちやうさ》の央《なかば》、青葉かげ、
豹《へう》も來て飮む椰子森《やしりん》は、麒麟が常の水かひ場。
大日輪の走《は》せ|《めぐ》る氣重き虚空《こくう》鞭うつて、
羽掻《はがき》の音の聲高き一鳥《いつてう》遂に飛びも來ず、
たまたま見たり、蟒蛇《うはばみ》の夢も熱きか圓寢《まろね》して、
とぐろの綱を動せば、鱗《うろこ》の光《ひかり》まばゆきを。
一天《いつてん》霽《は》れて、そが下《した》に、かゝる炎の野はあれど、
物《もの》鬱として、寂寥《せきれう》のきはみを盡すをりしもあれ、
皺《しわ》だむ象《ざう》の一群《いちぐん》よ、太《ふと》しき脚《あし》の練歩《ねりあし》に、
うまれの里の野を捨てゝ、大沙原《おほすなばら》を横に行く。
地平のあたり、一團の褐色《くりいろ》なして、列《つら》なめて、
みれば砂塵《さぢん》を蹴立てつゝ、路無き原を直道《ひたみち》に、
ゆくてのさきの障碍《さまたげ》を、もどかしとてや、力足《ちからあし》、
蹈鞴《たゞら》しこふむ勢《いきほひ》に、遠《をち》の砂山《すなやま》崩れたり。
導《しるべ》にたてる年嵩《としかさ》のてだれの象の全身は
「時」が噛みてし刻みてし、老樹《らうじゆ》の幹のごとひわれ
巨巖の如き大頭《おほがしら》、脊骨《せぼね》の弓の太しきも、
何の苦も無く自《おの》づから、滑らかにこそ動くなれ。
歩《あゆみ》遲《おそ》むることもなく、急ぎもせずに、悠然と、
塵にまみれし群象《ぐんざう》をめあての國に導けば、
沙《すな》の畦《あぜ》くろ、穴に穿ち、續いて歩むともがらは、
雲突く修驗山伏《すげんやまぶし》か、先達《せんだつ》の蹤《あと》蹈《ふん》でゆく。
耳は扇とかざしたり、鼻は象牙に介《はさ》みたり、
半眼《はんがん》にして辿《たど》りゆくその胴腹《どうばら》の波だちに、
息のほてりや、汗のほけ、烟となつて散亂《さんらん》し、
幾千萬の昆蟲が、うなりて集《つど》ふ餌食《ゑじき》かな。
饑渇《きかつ》の攻《せめ》や、貪婪《たんらん》の羽蟲《はむし》の群《むれ》もなにかあらむ、
黒皺皮《くろじわがは》の滿身の膚《はだへ》をこがす炎暑をや。
かの故里《ふるさと》をかしまだち、ひとへに夢む、道遠き
眼路《めぢ》のあなたに生ひ茂げる無花果《いちじゆく》の森、象《きさ》の邦。
また忍ぶかな、高山《たかやま》の奧より落つる長水《ちやうすゐ》に
巨大の河馬《かば》の嘯《うそぶ》きて、波濤《はたう》たぎつる河の瀬を、
あるは月夜《げつや》の清光に白《しろ》みしからだ、うちのばし、
水かふ岸の葦蘆《よしあし》を蹈み碎きてや、降《お》りたつを。
かゝる勇猛沈勇の心をきめて、さすかたや、
涯《きはみ》も知らぬ遠《をち》のすゑ、黒線《くろすぢ》とほくかすれゆけば、
大沙原《おほすなはら》は今さらに不動のけはひ、神《かみ》寂《さ》びぬ。
身動《みじろき》迂《うと》き旅人《たびうど》の雲のはたてに消ゆる時。
ルコント・ドゥ・リイルの出づるや、哲學に基ける厭世觀は佛蘭西の詩文に致死の棺衣《たれぎぬ》を投げたり。前人の詩、多くは一時の感慨を洩し、單純なる悲哀の想を鼓吹するに止りしかど、此詩人に至り、始めて、悲哀は一種の系統を樹て、藝術の莊嚴を帶ぶ。評家久しく彼を目するに高踏派の盟主を以てす。即ち格調定かならぬドゥ・ミュッセエ、ラマルティイヌの後に出で、始て詩神の雲髮を捉みて、之に悛嚴なる詩法の金櫛を加へたるが故也。彼常に「不感無覺」を以て稱せらる。世人輙もすれば、此語を誤解して曰く、高踏一派の徒、甘じて感情を犧牲とす。これ既に藝術の第一義を沒却したるものなり。或は恐る、終に述作無きに至らむをと。あらず、あらず、此暫々濫用せらるゝ「不感無覺」の語義を藝文の上より解する時は、單に近世派の態度を示したるに過ぎざるなり。常に宇宙の深遠なる悲愁、神祕なる歡樂を覺ゆるものから、當代の愚かしき歌物語が、野卑陳套の曲を反復して、譬へば情痴の涙に重き百葉の輕舟、今、藝苑の河流を閉塞するを敬せざるのみ。尋常世態の瑣事、奚ぞよく高踏派の詩人を動さむ。されど之を倫理の方面より觀むか、人生に對する此派の態度、これより學ばむとする教訓は此一言に現はる。曰く哀樂は感ず可く、歌ふ可し、而も人は斯多阿學徒の心を以て忍ばざる可からずと。かの額付、物思はしげに、長髮わざとらしき詩人等も、此語には辟易せしも多かり。されば此人は藝文に劃然たる一新機軸を出しゝ者にして同代の何人よりも、其詩、哲理に富み、譬喩の趣を加ふ。「カイン」「サタン」の詩二つながら人界の災殃を賦し、「イパティイ」は古代衰亡の頽唐美、「シリル」は新しき信仰を歌へり。ユウゴオが壯大なる史景を咏じて、臺閣の風ある雄健の筆を振ひ、史乘逸話の上に敍情詩めいたる豐麗を與へたると並びて、ルコント・ドゥ・リイルは、傳説に、史蹟に、内部の精神を求めぬ。かの傳奇の老大家は歴史の上に燦爛たる紫雲を曳き、この憂愁の達人は其實體を闡明す。
*
讀者の眼頭に彷彿として展開するものは、豪壯悲慘なる北歐思想、明暢清朗なる希臘田野の夢、または銀光の朧々たること、其聖十字架を思はしむる基督教法の冥想、特に印度大幻夢涅槃の妙説なりけり。
*
黒檀の森茂げき此世の涯の老國より來て、彼は長久の座を吾等の傍に占めつ、教へて曰く、「寂滅爲樂」。
*
幾度と無く繰返したる大智識の教話によりて、悲哀は分類結晶して、頗る靜寧の姿を得たるも、なほ、をりふしは憤怒の激發に迅雷の轟然たるを聞く。是に於てか電火ひらめき、萬雷はためき、人類に對する痛罵、宛も藥綫の爆發する如く、所謂「不感無覺」の墻壁を破り了ぬ。
*
自家の理論を詩文に發表して、シォペンハウエルの辨證したる佛法の教理を開陳したるは、此詩人の特色ならむ。儕輩の詩人皆多少憂愁の思想を具へたれど、厭世觀の理義彼に於ける如く整然たるは罕《まれ》なり。衆人徒に虚無を讚す。彼は明かに其事實なるを示せり。其詩は智の詩なり。而も詩趣饒《ゆた》かにして、坐《そゞ》ろにペラスゴイ、キュクロプスの城址を忍ばしむる堅牢の石壁は、かの纖弱の律に歌はれ、往々俗謠に傾ける當代傳奇の宮殿を摧かむとすなり。
エミイル・ルハアレン
[#改ページ]
波の底にも照る日影、神寂《さ》びにたる曙の
照しの光、亞比西尼亞《アビシニア》、珊瑚の森にほの紅く、
ぬれにぞぬれし深海《ふかうみ》の谷隈《たにくま》の奧に透入《すきい》れば、
輝きにほふ蟲のから、命にみつる珠《たま》の華。
沃度《ヨウド》に、鹽に、さ丹《に》づらふ海の寶のもろもろは
濡髮長き海藻《かいさう》や、珊瑚、海膽《うに》、苔《こけ》までも、
臙脂《えんじ》紫《むらさき》あかあかと、華奢《くわしや》のきはみの繪模樣に、
薄色ねびしみどり石、蝕《むしば》む底ぞ被《おほ》ひたる。
鱗《こけ》の光のきらめきに白琺瑯《はくはふらう》を曇らせて、
枝より枝を横ざまに、何を尋《たづ》ぬる一大魚《いちだいぎよ》、
光透入《すきい》る水かげに慵《ものう》げなりや、もとほりぬ。
忽ち紅火《こうくわ》飄《ひるが》へる思の色の鰭《ひれ》ふるひ、
藍を湛《たゝ》へし靜寂の、かげほのぐらき青海波《せいがいは》、
水《みづ》搖《ゆ》りうごく搖曳《えふえい》は、黄金《わうごん》、眞珠、青玉《せいぎよく》の色。
さゝらがた錦を張るも、荒妙《あらたへ》の白布《しらぬの》敷くも、
悲しさは墳塋《おくつき》のごと、樂しさは巣の如しとも、
人生れ、人いの眠り、つま戀ふる、凡べてこゝなり、
をさな兒《ご》も、老も若《わかき》も、さをとめも、妻も、夫も。
葬事《はふりごと》、まぐはひほがひ、烏羽玉の黒十字架《くろじふじか》に、
淨《きよ》き水はふり散らすも、祝福の枝をかざすも、
皆こゝに物は始まり、皆こゝに事は終らむ、
産屋《うぶや》洩る初日影より、臨終の燭《そく》の火までも、
天離《あまさか》る鄙《ひな》の伏屋《ふせや》も、百敷《もゝしき》の大宮内《おほみやうち》も、
紫摩金《しまごん》の榮《はえ》を盡して、紅《あけ》に朱《しゆ》に矜《ほこ》り飾るも、
鈍色《にびいろ》の樫《かし》のつくりや、楓《かへで》の木、杉の床《とこ》にも。
獨《ひと》り、かの畏《おそれ》も悔も無く眠る人こそ善けれ、
みおやらの生れし床に、みおやらの失《うせ》にし床に、
物古りし親のゆづりの大床《おほどこ》に足を延ばして。
高山《たかやま》の鳥栖《とぐら》巣《す》だちし兄鷹《せう》のごと、
身こそたゆまね、憂愁に思は倦《うん》じ、
モゲルがた、パロスの港、船出して、
雄誥《をたけ》ぶ夢ぞ逞ましき、あはれ、丈夫《ますらを》。
チパンゴに在りと傳ふる鑛山《かなやま》の
紫摩黄金《しまわうごん》やわが物と遠く求むる
船の帆も撓《し》わりにけりな、時津風《ときつかぜ》、
西の世界の不思議なる遠荒磯《とほつありそ》に。
ゆふべゆふべは壯大の旦《あした》を夢み、
しらぬ火や、熱帶海《ねつたいかい》のかぢまくら、
こがね幻《まぼろし》通ふらむ。またある時は
白妙の帆船の舳《へ》さき、たゝずみて、
振放《ふりさけ》みれば、雲の果、見知らぬ空や、
蒼海《わだつみ》の底よりのぼる、けふも新星《にひぼし》。
[#改ページ]
夢のうちに、農人《のうにん》曰く、なが糧《かて》をみづから作れ、
けふよりは、なを養はじ、土を墾《ほ》り種を蒔けよと。
機織《はたおり》はわれに語りぬ、なが衣《きぬ》をみづから織れと。
石造《いしつくり》われに語りぬ、いざ鏝《こて》をみづから執れと。
かくて孤《ひと》り人間の群《むれ》やらはれて解くに由なき
この咒詛《のろひ》、身にひき纏ふ苦しさに、みそら仰ぎて、
いと深き憐愍《あはれみ》垂れさせ給へよと、祷《いの》りをろがむ
眼前《まのあたり》、ゆくての途《みち》のたゞなかを獅子はふたぎぬ。
ほのぼのとあけゆく光、疑ひて眼《まなこ》ひらけば、
雄々しかる田つくり男、梯立《はしだて》に口笛鳴らし、
|具《はたもの》の|
木《ふみき》もとどろ、小山田に種《たね》ぞ蒔《ま》きたる。
世の幸《さち》を今はた識《し》りぬ、人の住むこの現世《うつしよ》に、
誰かまた思ひあがりて、同胞《はらから》を凌ぎえせむや。
其日より吾はなべての世の人を愛しそめけり。
[#改ページ]
波路遙けき徒然《つれづれ》の慰草《なぐさめぐさ》と船人《ふなびと》は、
八重の潮路の海鳥《うみどり》の沖の太夫《たいふ》を生擒《いけど》りぬ、
楫《かぢ》の枕のよき友よ心閑《のど》けき飛鳥《ひてう》かな、
奧津《おきつ》潮騷《しほざゐ》すべりゆく舷《ふなばた》近くむれ集《つど》ふ。
たゞ甲板《かふはん》に据ゑぬればげにや笑止《せうし》の極《きはみ》なる。
この青雲《あをぐも》の帝王も、足どりふらゝ、拙くも、
あはれ、眞白き双翼《さうよく》は、たゞ徒らに廣ごりて、
今は身の仇、益《やう》も無き二つの櫂《かい》と曳きぬらむ。
天《あま》飛ぶ鳥も、降《くだ》りては、やつれ醜き瘠姿《やせすがた》、
昨日《きのふ》の羽根のたかぶりも、今はた鈍《おぞ》に痛はしく、
煙管《きせる》に嘴《はし》をつゝかれて、心無《こゝろなし》には嘲けられ、
しどろの足を摸《ま》ねされて、飛行《ひぎやう》の空に憧《あこ》がるゝ。
雲居の君のこのさまよ、世の歌人《うたびと》に似たらずや、
暴風雨《あらし》を笑ひ、風凌ぎ獵男《さつを》の弓をあざみしも、
地《つち》の下界《げかい》にやらはれて、勢子《せこ》の叫に煩へば、
太しき双《さう》の羽根さへも起居《たちゐ》妨ぐ足まとひ。
時こそ今は水枝《みづえ》さす、こぬれに花《はな》の顫ふころ、
花は薫じて追風に、不斷の香《かう》の爐に似たり。
匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈《くるめき》よ、
花は薫じて追風に、不斷の香の爐に似たり。
痍《きず》に惱める胸もどき、オロン樂《がく》の清掻《すががき》や、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈《くるめき》よ、
神輿《みこし》の臺をさながらの雲悲みて艶《えん》だちぬ。
痍《きず》に惱める胸もどき、オロン樂《がく》の清掻《すががき》や、
闇の涅槃《ねはん》に、痛ましく惱まされたる優心《やさごゝろ》。
神輿《みこし》の臺をさながらの雲悲みて艶《えん》だちぬ、
日や落入りて溺るゝは、凝《こゞ》るゆふべの血潮雲《ちしほぐも》。
闇の涅槃《ねはん》に、痛ましく惱まされたる優心《やさごゝろ》、
光の過去のあとかたを尋《と》めて集むる憐れさよ。
日や落入りて溺るゝは、凝《こゞ》るゆふべの血潮雲《ちしほぐも》、
君が名殘のたゞ在るは、ひかり輝く聖體盒《せいたいごふ》。
悲《かな》しくもまたあはれなり、冬の夜の地爐《ゐろり》の下《もと》に、
燃えあがり、燃え盡きにたる柴の火に耳傾けて、
夜霧だつ闇夜の空の寺の鐘、きゝつゝあれば、
過《す》ぎし日《ひ》のそこはかとなき物思ひやをら浮びぬ。
喉太《のどぶと》の古鐘《ふるがね》きけば、その身こそうらやましけれ、
老《おい》らくの齡《とし》にもめげず、健《すこ》やかに、忠《まめ》なる聲の、
何時《いつ》もいつも、梵音《ぼんのん》妙《たへ》に深くして、穩《おほ》どかなるは、
陣營の歩哨にたてる老兵の姿に似たり。
そも、われは心破れぬ。鬱憂のすさびごゝちに、
寒空《さむぞら》の夜《よる》に響けと、いとせめて、鳴りよそふとも、
覺束な、音《ね》にこそたてれ、弱聲《よわごゑ》の細音《ほそね》も哀れ、
哀れなる臨終《いまは》の聲《こゑ》は、血の波の湖《みづうみ》の岸、
小山なす屍《かばね》の下《もと》に、身動《みじろぎ》もえならで死《う》する、
棄てられし負傷《ておひ》の兵の息絶ゆる終《つひ》の呻吟《うめき》か。
こゝろ自由《まゝ》なる人間は、とはに賞《め》づらむ大海《おほうみ》を。
海こそ人の鏡なれ。灘の大波はてしなく、
水や天《そら》なるゆらゆらは、うつし心の姿にて、
底ひも知らぬ深海《ふかうみ》の潮の苦味《にがみ》も世といづれ。
さればぞ人《ひと》は身を映《うつ》す鏡の胸に飛び入《い》りて、
眼《まなこ》に抱き腕にいだき、またある時は村肝《むらぎも》の
心もともに、はためきて、潮騷《しほざゐ》高く湧くならむ、
寄せてはかへす波の音《おと》の、物狂ほしき歎息《なげかひ》に。
海も爾《いまし》もひとしなみ、不思議をつゝむ陰なりや。
人よ、爾《いまし》が心中《しんちう》の深淵探りしものやある。
海よ、爾《いまし》が水底《みなぞこ》の富を數へしものやある。
かくも妬《ねた》げに祕事《ひめごと》のさはにもあるか、海と人。
かくて劫初《ごふしよ》の昔より、かくて無數の歳月を、
慈悲悔恨の弛《ゆるみ》無く、修羅《しゆら》の戰《たゝかひ》酣《たけなは》に、
げにも非命と殺戮《さつりく》と、なじかは、さまで好もしき、
噫、永遠のすまうどよ、噫、怨念《をんねん》のはらからよ。
黒葉水松《くろばいちゐ》の木下闇《このしたやみ》に
並んでとまる梟《ふくろう》は
昔の神をいきうつし、
赤眼《あかめ》むきだし思案顏。
體《たい》も崩さず、ぢつとして、
なにを思ひに暮がたの
傾く日脚《ひあし》推しこかす
大凶時《おほまがとき》となりにけり。
鳥のふりみて達人は
道の悟や開くらむ、
世に忌々《ゆゝ》しきは煩惱と。
色相界《しきさうかい》の妄執《まうしふ》に
諸人《しよにん》のつねのくるしみは
居《きよ》に安《やすん》ぜぬあだ心。
現代の悲哀はボドレエルの詩に異常の發展を遂げたり。人或は一見して云はむ、これ僅に悲哀の名を變じて欝悶と改めしのみと、而も再考して終に其全く變質したるを曉《さと》らむ。ボドレエルは悲哀に誇れり。即ち之を詩章の龍葢帳中に据ゑて、黒衣聖母の觀あらしめ、絢爛なること繪畫の如き幻想と、整美なること彫塑に似たる夢思とを恣にして之に生動の氣を與ふ。是に於てか、宛もこれ絶美なる獅身女頭獸なり。悲哀を愛するの甚しきは、いづれの先人をも凌ぎ、常に悲哀の詩趣を讚して、彼は自ら「悲哀の煉金道士」と號せり。
*
先人の多くは、惱心地定かならぬまゝに、自然に對する心中の愁訴を、自然其物に捧げて、尋常の失意に泣けども、ボドレエルは然らず。彼は都府の子なり。乃ち巴里叫喊地獄の詩人として胸奧の悲を述べ、人に叛き世に抗する數奇の放浪兒が爲に、大聲を假したり。其心、夜に似て暗憺、いひしらず、汚れにたれど、また一種の美、たとへば、濁江の底なる眼、哀憐悔恨の凄光を放つが如きもの無きにしもあらず。エミイル・ルハアレン
ボドレエル氏よ、君は藝術の天にたぐひなき凄慘の光を與へぬ。即ち未だ曾て無き一の戰慄を創成したり。クトル・ユウゴオ
[#改ページ]
主は讚《ほ》むべき哉、無明《むみやう》の闇や、憎《にくみ》多き
今の世にありて、われを信徒となし給ひぬ。
願はくは吾に與へよ、力と沈勇とを。
いつまでも永く狗子《いぬ》のやうに從ひてむ。
生贄《いけにへ》の羊、その母のあと、從ひつつ、
何の苦もなくて、牧草《ぼくさう》を食《は》み、身に生ひたる
羊毛のほかに、その刻《とき》來ぬれば、命をだに
惜まずして、主に奉る如くわれもなさむ。
また魚とならば、御子《みこ》の頭字《かしらじ》象《かたど》りもし、
驢馬ともなりては、主を乘せまつりし昔思ひ、
はた、わが肉より穰《はら》ひ給ひし豕《ゐのこ》を見いづ。
げに末つ世の反抗表裏の日にありては
人間よりも、畜生の身ぞ信深くて
心素直《すなほ》にも忍辱《にんにく》の道守るならむ。
常によく見る夢乍ら、奇《あ》やし、懷《なつ》かし、身にぞ染む。
曾ても知らぬ女《ひと》なれど、思はれ、思ふかの女《ひと》よ。
夢見る度のいつもいつも、同じと見れば、異りて、
また異《ことな》らぬおもひびと、わが心根《こゝろね》や悟りてし。
わが心根を悟りてしかの女《ひと》の眼に胸のうち、
噫《あゝ》、彼女《かのひと》にのみ内證《ないしよう》の祕めたる事ぞ無かりける。
蒼ざめ顏のわが額、しとゞの汗を拭ひ去り、
涼しくなさむ術《すべ》あるは、玉の涙のかのひとよ。
栗色髮のひとなるか、赤髮《あかげ》のひとか、金髮か、
名をだに知《し》らね、唯思ふ朗ら細音《ほそね》のうまし名は、
うつせみの世を疾《と》く去りし昔の人の呼名《よびな》かと。
つくづく見入る眼差《まなざし》は、匠《たくみ》が彫《ゑ》りし像の眼か、
澄みて、離れて、落居たる其音聲《おんじやう》の清《すゞ》しさに、
無言《むごん》の聲の懷かしき戀しき節《ふし》の鳴り響く。
秋の日の
オロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉《おちば》かな。
佛蘭西の詩はユウゴオに繪畫の色を帶び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具へ、ルレエヌに至りて音樂の聲を傳へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉へむとす。譯者
[#改ページ]
革衣《かはごろも》纏《まと》へる兒等を引具《ひきぐ》して
髮おどろ色蒼ざめて、降る雨を、
エホバよりカインは離《さか》り迷ひいで、
夕闇の落つるがまゝに愁然《しうねん》と、
大原《おほはら》の山の麓にたどりつきぬ。
妻は倦み兒等も疲れて諸聲《もろごゑ》に、
「地《つち》に伏していざ、いのねむ」と語りけり。
山陰《やまかげ》にカインはいねず、夢おぼろ、
烏羽玉の暗夜《やみよ》の空を仰ぎみれば、
廣大の天眼《てんがん》くわつと、かしこくも、
物陰の奧より、ひしと、みいりたるに、
わなゝきて「未だ近し」と叫びつつ、
倦みし妻、眠れる兒等を促して、
もくねんと、ゆくへも知らに逃《のが》れゆく。
かゝなべて、日には三十日《みそか》、夜《よ》は、三十夜《みそよ》、
色變へて、風の音にもをのゝきぬ。
やらはれの、伏眼《ふしめ》の旅は果もなし、
眠なく休《いこ》ひもえせで、はろばろと、
後の世のアシュルの國、海のほとり、
荒磯《ありそ》にこそはつきにけれ。「いざ、こゝに
とゞまらむ。この世のはてに今ぞ來《こ》し、
いざ」と、いへば、陰雲暗きめぢのあなた、
いつも、いつも、天眼《てんがん》ひしと睨みたり。
おそれみに身も世もあらず、戰《をのゝ》きて、
「隱せよ」と叫ぶ一聲《いつせい》。兒等《こら》はただ
猛き親を口に指あて眺めたり。
沙漠の地、毛織の幕に住居する
後の世のうからのみおやヤバルにぞ
「このむたに幕ひろげよ」と命ずれば、
ひるがへる布の高壁めぐらして
鉛もて地に固むるに、金髮の
孫むすめ曙のチラは語りぬ。
「かくすれば、はや何も見給ふまじ」と。
「否なほも眼《まなこ》睨む」とカインいふ。
角《かく》を吹き鼓《つゞみ》をうちて、城《き》のうちを
ゆきめぐる民草《たみぐさ》のおやユバルいふ、
「おのれ今固き守や設けむ」と。
銅《あかゞね》の壁築《つ》き上げて父の身を、
そがなかに隱しぬれども、如何《いかに》せむ、
「いつも、いつも眼《まなこ》睨《にら》む」といらへあり。
「恐しき塔をめぐらし、近よりの
難きやうにすべし。砦《とりで》守《も》る城《しろ》築《つき》あげて、
その邑《まち》を固くもらむ」と、エノクいふ。
鍛冶の祖《おや》トバルカインは、いそしみて、
宏大の無邊《むへん》都城《とじやう》を營むに、
同胞《はらから》は、セツの兒等《こら》、エノスの兒等を、
野邊かけて狩暮《かりくら》しつゝ、ある時は
旅人の眼《まなこ》をくりて、夕されば
星天《せいてん》に征矢《そや》を放ちぬ。これよりぞ、
花崗石《みかげいし》、帳《とばり》に代り、くろがねを
石にくみ、城《き》の形、冥府《みやうふ》に似たる
塔影は野を暗うして、その壁ぞ
山のごと厚くなりける。工成りて
戸を固め、壁建終り、大城戸《おほきど》に
刻める文字を眺むれば「このうちに
神はゆめ入る可からず」と、ゑりにたり。
さて親は石殿《せきでん》に住《すま》はせたれど、
憂愁のやつれ姿ぞいぢらしき。
「おほぢ君、眼は消えしや」と、チラの問へば、
「否、そこに今もなほ在り」と、カインいふ。
「墳塋《おくつき》に寂しく眠る人のごと、
地の下にわれは住《すま》はむ。何物も
われを見じ、吾《われ》も亦何をも見じ」と。
さてこゝに坑《あな》を穿《うが》てば「よし」といひて、
たゞひとり闇穴道《あんけつだう》におりたちて、
物陰の座にうちかくる、ひたおもて、
地下《ちげ》の戸を、はたと閉づれば、こはいかに、
天眼《てんがん》なほも奧津城《おくつき》にカインを眺む。
ユウゴオの趣味は典雅ならず、性情奔放にして狂激浪の如くなれど、温藉靜冽の氣自から其詩を貫きたり。對聯比照に富み、光彩陸離たる形容の文辭を疊用して、燦爛たる一家の詩風を作りぬ。譯者
[#改ページ]
さても千八百九年、サラゴサの戰《たゝかひ》、
われ時に軍曹なりき。此日慘憺を極む。
街《まち》既に落ちて、家を圍むに、
閉ぢたる戸毎に不順の色見え、
鐵火、窓より降りしきれば、
「憎つくき僧徒の振舞」と
かたみに低く罵《のゝし》りつ。
明方《あけがた》よりの合戰に
眼は硝煙に血走りて、
舌には苦がき紙筒《はやごう》を
噛み切る口の黒くとも、
奮鬪の氣はいや益しに、
勢《いきほひ》猛《まう》に追ひ迫り、
黒衣《こくい》長袍ふち廣き帽を狙撃す。
狹き小路《こうじ》の行進に
とざま、かうざま顧みがち、
われ軍曹の任《にん》にしあれば、
精兵從へ推しゆく折りしも、
忽然《こつねん》として中天《なかぞら》赤《あか》く、
鑛爐《くわうろ》の紅舌《こうぜつ》さながらに、
虐殺せらるゝ婦女の聲、
遙かには轟々の音とよもして、
歩毎《ごと》に伏屍《ふくし》累々たり。
屈《こゞん》でくぐる軒下を
出でくる時は銃劍の
鮮血淋漓たる兵が、
血紅《ちべに》に染みし指をもて、
壁に十字を書置くは、
敵潛めるを示すなり。
鼓うたせず、足重く、
將校たちは色曇り、
さすが、手練《てだれ》の舊兵《ふるつはもの》も、
落居ぬけはひに、寄添ひて、
新兵もどきの胸さわぎ。
忽ち、とある曲角《きよくかく》に、
援兵と呼ぶ佛語の一聲、
それ、戰友の危急ぞと、
驅けつけ見れば、きたなしや、
日常《ひごろ》は猛《た》けき勇士等も、
精舍《しやうじや》の段の前面に
たゞ僧兵の二十人、
圓頂《ゑんちやう》の黒鬼《こつき》に、くひとめらる。
眞白の十字胸につけ、
靴無き足の凜々しさよ、
血染の腕《かひな》卷きあげて、
大十字架にて、うちかゝる。
慘絶、壯絶。それと一齊射撃にて、
やがては掃蕩したりしが、
冷然として、殘忍に、軍は倦みたり。
皆心中に疾《やま》しくて、
とかくに殺戮したれども、
醜行已《すで》に爲し了はり、
密雲漸く散ずれば、
積みかさなれる屍より
階《きざはし》かけて、紅《べに》流れ、
そのうしろ樓門聳ゆ、巍然として鬱たり。
燈明くらがりに金色《こんじき》の星ときらめき、
香爐かぐはしく、靜寂の香《か》を放ちぬ。
殿上、奧深く、神壇に對《むか》ひ、
歌樓《からう》のうち、やさけびの音《おと》しらぬ顏、
蕭《しめ》やかに勤行《ごんぎやう》營む白髮長身の僧。
噫けふもなほ俤《おもかげ》にして浮びこそすれ、
モオル廊の古院、
黒衣僧兵のかばね、
天日、石だゝみを照らして、
紅流に烟《けぶり》たち、
朧々《ろう/\》たる低き戸の框《かまち》に、
立つや老僧。
神壇龕《づし》のやうに輝き、
唖然としてすくみしわれらのうつけ姿。
げにや當年の己は
空恐ろしくも信心無く、
或日精舍《しやうじや》の奪掠に
負けじ心の意氣張づよく
神壇近き御燈《みあかし》に
煙草つけたる亂行者《らんぎやうもの》、
上反鬢《うはぞりひげ》に氣負《きおひ》みせ、
一歩も讓らぬ氣象のわれも、
たゞ此僧の髮白く白く
神寂びたるに畏みぬ。
「打て」と士官は號令す。
誰有《あつ》て動く者無し。
僧は確に聞きたらむも、
さあらぬ素振《そぶり》神々《かう/\》しく、
聖水大盤《たいばん》を捧げてふりむく。
ミサ禮拜《らいはい》半《なかば》に達し、
司僧《しそう》むき直る祝福の時、
腕《かひな》は伸べて鶴翼《かくよく》のやう、
衆皆一歩たじろきぬ。
僧はすこしもふるへずに
信徒の前に立てるやう、
妙音澱《よどみ》なく、和讚《わさん》を咏じて、
「歸命頂禮」の歌、常に異らず、
聲もほがらに、
「全能の神、爾等を憐み給ふ。」
またもや、一聲あらゝかに
「うて」と士官の號令に
進みいでたる一卒は
隊中有名《なうて》の卑怯者、
銃《じう》執《と》りなほして發砲す。
老僧、色は蒼《あを》みしが、
沈勇の眼《まなこ》明らかに、
祈りつゞけぬ、
「父と子と。」
續いて更に一發は、
狂氣のさたか、血迷《ちまよひ》か、
とかくに業《ごふ》は了りたり。
僧は隻腕《かたうで》、壇にもたれ、
明いたる手にて祝福し、
黄金盤《わうごんばん》も重たげに、
虚空《こくう》に恩赦《おんしや》の印《しるし》を切りて、
音聲《おんじやう》こそは微《かすか》なれ、
|※《げき》[#「門<具」、64-7]たる堂上とほりよく、
瞑目《めいもく》のうち述ぶるやう、
「聖靈と。」
かくて仆《たふ》れぬ、禮拜《らいはい》の事了りて。
盤《ばん》は三たび、床上に跳りぬ。
事に慣れたる老兵も、
胸に鬼胎《おそれ》をかき抱き
足に兵器を投げ棄てて
われとも知らず膝つきぬ、
醜行のまのあたり、
殉教僧のまのあたり。
聊爾《れうじ》なりや「アアメン」と
うしろに笑ふ、わが隊の鼓手。
[#改ページ]
ながれのきしのひともとは、
みそらのいろのみづあさぎ、
なみ、ことごとく、くちづけし
はた、ことごとく、わすれゆく
[#改ページ]
山のあなたの空遠く
「幸《さいはひ》」住むと人のいふ。
噫、われひとゝ尋《と》めゆきて、
涙さしぐみかへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸《さいはひ》」住むと人のいふ。
[#改ページ]
森は今、花さきみだれ
艶《えん》なりや、五月《さつき》たちける。
神よ、擁護《おうご》をたれたまへ、
あまりに幸《さち》のおほければ。
やがてぞ花は散りしぼみ、
艶《えん》なる時も過ぎにける。
神よ擁護《おうご》をたれたまへ、
あまりにつらき災《とが》な來《こ》そ。
[#改ページ]
けふつくづくと眺むれば、
悲《かなしみ》の色《いろ》口《くち》にあり。
たれもつらくはあたらぬを、
なぜに心の悲める。
秋風《あきかぜ》わたる青木立《あをこだち》
葉なみふるひて地にしきぬ。
きみが心のわかき夢
秋の葉となり落ちにけむ。
[#改ページ]
ふたりを「時《とき》」がさきしより、
晝は事なくうちすぎぬ。
よろこびもなく悲まず、
はたたれをかも怨むべき。
されど夕闇おちくれて、
星の光のみゆるとき、
病の床のちごのやう、
心かすかにうめきいづ。
[#改ページ]
子守歌風に浮びて、
暖かに日は照りわたり、
田の麥は足穗《たりほ》うなだれ、
茨には紅き果熟し、
野面《のもせ》には木の葉みちたり。
いかにおもふ、わかきをみなよ。
[#改ページ]
妙《たへ》に清らの、あゝ、わが兒《こ》よ、
つくづくみれば、そゞろ、あはれ、
かしらや撫でゝ、花の身の
いつまでも、かくは清らなれと、
いつまでも、かくは妙《たへ》にあれと、
いのらまし、花のわがめぐしご。
ルビンスタインのめでたき樂譜に合せて、ハイネの名歌を譯したり。原の意を汲みて餘さじと、つとめ、はた又、句讀停音すべて樂譜の示すところに從ひぬ。譯者
[#改ページ]
怕《おそ》るゝか死を。――喉《のど》塞《ふた》ぎ、
おもわに狹霧《さぎり》、
深雪《みゆき》降り、木枯荒れて、著《し》るくなりぬ、
すゑの近さも。
夜《よる》の稜威《みいづ》暴風《あらし》の襲來《おそひ》、恐ろしき
敵の屯《たむろ》に、
現身《うつそみ》の「大畏怖《だいゐふ》」立てり。しかすがに
猛《たけ》き人は行かざらめやも。
それ、旅は果て、峯は盡きて、
障礙《しやうげ》は破《や》れぬ、
唯、すゑの譽《ほまれ》の酬《むくひ》えむとせば、
なほひと戰《いくさ》。
戰《たゝかひ》は日《ひ》ごろの好《このみ》、いざゝらば、
終《をはり》の晴《はれ》の勝負せむ。
なまじひに眼《まなこ》ふたぎて、赦《ゆ》るされて、
這《は》ひ行くは憂《う》し、
否、殘《のこり》なく味《あぢは》ひて、かれも人なる
いにしへの猛者《もさ》たちのやう、
矢表《やおもて》に立ち樂世《うましよ》の寒冷《さむさ》、苦痛《くるしみ》、暗黒《くらやみ》の
貢《みつぎ》のあまり捧げてむ。
そも勇者には、忽然《こつねん》と禍《わざはひ》福《ふく》に轉ずべく
闇《やみ》は終らむ。
四大《しだい》のあらび、忌々《ゆゝ》しかる羅刹《らせつ》の怒號《どがう》、
ほそりゆき、雜《まじ》りけち
變化《へんげ》して苦《く》も樂《らく》とならむとやすらむ。
そのとき光明《くわうみやう》、その時御胸《みむね》、
あはれ、心の心とや、抱《いだ》きしめてむ。
そのほかは神のまにまに。
苔むしろ、飢ゑたる岸も
春來れば、
つと走る光、そらいろ、
菫咲く。
村雲《むらぐも》のしがむみそらも、
こゝかしこ、
やれやれて影はさやけし、
ひとつ星。
うつし世の命を耻《はぢ》の
めぐらせど、
こぼれいづる神のゑまひか、
君がおも。
一
嗚呼、物《もの》古《ふ》りし鳶色《とびいろ》の「地《ち》」の微笑《ほゝゑみ》の大《おほ》きやかに、
親《した》しくもあるか、今朝《けさ》の秋《あき》、偃曝《ひなたぼこり》に其骨《そのほね》を
延《のば》し横《よこた》へ、膝節《ひざぶし》も足も、つきいでゝ、漣《さゞなみ》の
悦《よろこ》び勇み、小躍《こをどり》に越ゆるがまゝに浸《ひ》たりつゝ、
さて欹《そばだ》つる耳もとの、さゞれの床《とこ》の海雲雀《うみひばり》、
和毛《にこげ》の胸の白妙《しろたへ》に[#「白妙《しろたへ》に」は底本では「白砂《しろたへ》に」]囀《てん》ずる聲のあはれなる。
二
この教こそ神《かん》ながら舊《ふ》るき眞《まこと》の道と知《し》れ。
翁《おきな》びし「地《ち》」の知りて笑《ゑ》む世の試《こゝろみ》ぞかやうなる。
愛を捧げて價値《ねうち》あるものゝみをこそ愛しなば、
愛は完《まつ》たき益にして、必らずや、身の利とならむ。
思《おもひ》の痛み苦みに、卑《いや》しきこゝろ清めたる
なれ自らを地に捧げ、酬《むくひ》は高き天に求めよ。
時は春、
日は朝《あした》、
朝《あした》は七時、
片岡《かたをか》に露みちて、
揚雲雀《あげひばり》なのりいで、
蝸牛《かたつむり》枝に這《は》ひ、
神、そらに知《し》ろしめす。
すべて世は事も無《な》し。
蜜蜂の嚢《ふくろ》にみてる一歳《ひとゝせ》の香《にほひ》も、花も、
寶玉の底に光れる鑛山《かなやま》の富も、不思議も、
阿古屋貝《あこやがひ》映《うつ》し藏《かく》せるわだつみの陰《かげ》も、光も、
香《にほひ》、花、陰、光、富、不思議、及《およ》ぶべしやは、
玉《ぎよく》よりも輝く眞《まこと》、
珠《たま》よりも澄みたる信義、
天地《あめつち》にこよなき眞《まこと》、澄《す》みわたる一《いち》の信義は
をとめごの清きくちづけ。
ブラウニングの樂天説は、既に二十歳の作「ポオリイン」に顯れ、「ピパ」の歌、「神、そらにしろしめす、すべて世は事も無し」といふ句に綜合せられたれど、一生の述作皆人間終極の幸福を豫言する點に於て一致し「アソランドオ」絶筆の結句に至るまで、彼は有神論、靈魂不滅説に信を失はざりき。此詩人の宗教は基督教を元としたる「愛」の信仰にして、尋常宗門の繩墨を脱し、教外の諸法に對しては極めて宏量なる態度を持せり。神を信じ、其愛と其力とを信じ、之を信仰の基として、人間恩愛の神聖を認め、精進の理想を妄なりとせず、藝術科學の大法を疑はず、又人心に善惡の奮鬪爭鬩あるを、却て進歩の動機なりと思惟せり。而してあらゆる宗教の教義には重を措かず、たゞ基督の出現を以て説明すべからざる一の神祕となせるのみ。曰く、宗教にして、若し、萬世不易の形を取り、萬人の爲め、豫め、劃然として具へられたらむには、精神界の進歩は直に止りて、厭ふべき凝滯はやがて來らむ。人間の信仰は定かならぬこそをかしけれ、教法に完了といふ義ある可からずと。されば信教の自由を説きて、寛容の精神を述べたるもの、「聖十字架祭」の如きあり。殊に晩年に莅みて、教法の形式、制限を脱却すること益著るく、全人類に亘れる博愛同情の精神愈盛なりしかど、一生の確信は終始毫も渝ること無かりき。人心の憧がれ向ふ高大の理想は神の愛なりといふ中心思想を基として、幾多の傑作あり。「クレオン」には、藝術美に倦みたる希臘詩人の永生に對する熱望の悲音を聞くべく、「ソオル」には、事業の永續に不老不死の影ばかりなるを喜ぶ事の果敢なき夢なるを説きて、更に個人の不滅を斷言す。「亞剌比亞の醫師カアシッシュの不思議なる醫術上の經驗」といふ尺牘體には、基督教の原始に遡りて、意外の側面に信仰の光明を窺ひ、「沙漠の臨終」には神の權化を目撃せし聖約翰の遺言を耳にし得べし。然れども是等の信仰は、盲目なる狂熱の獨斷にあらず、皆冷靜の理路を辿り、若しくは、精練、微を穿てる懷疑の坩堝を經たるものにして「監督ブルウグラムの護法論」「フェリシュタアの念想」等之を證す。之を綜ぶるに、ブラウニングの信仰は、精神の難關を凌ぎ、疑惑を排除して、光明の世界に達したるものにして永年の大信は世を終るまで動かざりき。「ラ、セイジヤス」の秀什、この想を述べて餘あり、又、千八百六十四年の詩集に收めたる「瞻望」の歌と、千八百八十九年の詩集「アソランドオ」の絶筆とは此詩人が宗教觀の根本思想を包含す。
譯者
[#改ページ]
燕も來《こ》ぬに水仙花、
大寒《おほさむ》こさむ三月の
風にもめげぬ凜々《りゝ》しさよ。
またはジュノウのまぶたより、
イナス神《がみ》の息《いき》よりも
なほ|《らふ》たくもありながら、
菫の色のおぼつかな。
照る日の神も仰ぎえで
嫁《とつ》ぎもせぬに散りはつる
色《いろ》蒼《あを》ざめし櫻草《さくらさう》、
これも少女《をとめ》の習《ならひ》かや。
それにひきかへ九輪草《くりんさう》、
編笠早百合《あみがささゆり》氣がつよい。
百合もいろいろあるなかに、
鳶尾草《いちはつぐさ》のよけれども、
あゝ、今は無し、しよんがいな。
[#改ページ]
心をとめて窺へば花自《おのづか》ら教あり。
朝露《あさつゆ》の野薔薇のいへる、
「艶《えん》なりや、われらの姿、
刺《とげ》に生《お》ふる色香《いろか》とも知れ。」
麥《むぎ》生《ふ》のひまに罌粟《けし》のいふ、
「せめては紅《あか》きはしも見よ、
そばめられたる身なれども、
驗《げん》ある露の藥水を
盛りさゝげたる盃ぞ。」
この時、百合は追風に、
「見よ、人、われは言葉なく
法を説くなり。」
みづからなせる葉陰より、
聲もかすかに菫草《すみれぐさ》、
「人はあだなる香《か》をきけど、
われらの示す教《をしへ》曉《さと》らじ。」
[#改ページ]
小曲は刹那をとむる銘文《しるしぶみ》、また譬《たと》ふれば、
過ぎにしも過ぎせぬ過ぎしひと時に、劫《ごふ》の「心《こゝろ》」の
捧げたる願文《ぐわんもん》にこそ。光り匂ふ法《のり》の會《ゑ》のため、
祥《さが》もなき預言《かねごと》のため、折からのけぢめはあれど、
例《いつ》も例《いつ》も堰《せ》きあへぬ思《おもひ》豐《ゆた》かにて切《せち》にあらなむ。
「日《ひ》」の歌は象牙にけづり、「夜《よる》」の歌は黒檀に彫《ゑ》り、
頭《かしら》なる華《はな》のかざしは輝きて、阿古屋《あこや》の珠《たま》と、
照りわたるきらびの榮《はえ》の|《らふ》たさを「時《とき》」に示せよ。
小曲は古泉《こせん》の如く、そが表《おもて》、心あらはる、
うらがねをいづれの力しろすとも。あるは「命《いのち》」の
威力あるもとめの貢《みつぎ》、あるはまた貴《あて》に妙《たへ》なる
「戀」の供奉《ぐぶ》にかづけの纏頭《はな》と贈らむも、よし遮莫《さもあらばあれ》、
三瀬川《みつせかは》、船はて處《ところ》、陰《かげ》暗《くら》き伊吹《いぶき》の風に、
「死」に拂《はら》ふ渡《わたり》のしろと、船人《ふなびと》の掌《て》にとらさむも。
心のよしと定《さだ》めたる「力《ちから》」かずかず、たぐへみれば、
「眞《まこと》」の唇《くち》はかしこみて「望《のぞみ》」の眼《まなこ》、天《そら》仰《あふ》ぎ
「譽《ほまれ》」は翼《つばさ》、音高《おとだか》に埋火《うづみび》の「過去《くわこ》」煽《あふ》ぎぬれば
飛火《とぶひ》の焔《ほのほ》、紅々《あか/\》と炎上《えんじやう》のひかり忘却《ばうきやく》の
去《い》なむとするを驚《おどろか》し、飛《と》び翔《か》けるをぞ控へたる。
また後朝《きぬぎぬ》に卷きまきし玉の柔手《やはて》の名殘よと、
黄金《こがね》くしげのひとすぢを肩に殘しゝ「若《わか》き世《よ》」や、
「死出《しで》」の|頭《かざし》と、例《いつ》も例《いつ》もあえかの花を編む「命《いのち》」。
「戀《こひ》」の玉座《ぎよくざ》は、さはいへど、そこにしも在《あら》じ、空《そら》遠《とほ》く、
逢瀬《あふせ》、別《わかれ》の辻風《つじかぜ》のたち迷ふあたり、離《さか》りたる
夢も通はぬ遠《とほ》つぐに、無言《しゞま》の局《つぼね》奧深《おくふか》く、
設けられたり。たとへそれ、「眞《まこと》」は「戀《こひ》」の眞心《まごころ》を
夙《つと》に知る可く、「望《のぞみ》」こそ、そを預言《かねごと》し、「譽《ほまれ》」こそ
そがためによく、「若《わか》き世《よ》」めぐし、「命《いのち》」惜《を》しとも。
草うるはしき岸の上《うへ》に、いと美はしき君が面《おも》、
われは横《よこた》へ、その髮を二つにわけてひろぐれば、
うら若草のはつ花も、はな白《じろ》みてや、黄金《こがね》なす
みぐしの間《ひま》のこゝかしこ、面映《おもはゆ》げにも覗《のぞ》くらむ。
去年《こぞ》とやいはむ今年とや年の境《さかひ》もみえわかぬ
けふのこの日や「春」の足、半《なかば》たゆたひ、小李《こすもも》の
葉もなき花の白妙《しろたへ》は雪間《ゆきま》がくれに迷《まど》はしく、
「春」住む庭の四阿屋《あづまや》に風の通路《かよひぢ》ひらけたり。
されど卯月の日の光、けふぞ谷間に照りわたる。
仰ぎて眼《まなこ》閉ぢ給へ、いざくちづけむ君が面《おも》、
水枝《みづえ》小枝《こえだ》にみちわたる「春」をまなびて、わが戀よ、
温かき喉《のど》、熱き口、ふれさせたまへ、けふこそは、
契もかたきみやづかへ、戀の日なれや。冷かに
つめたき人は永久《とこしへ》のやらはれ人と貶《おと》し憎まむ。
[#改ページ]
心も空に奪はれて物のあはれをしる人よ、
今わが述ぶる言の葉の君の傍《かたへ》に近づかば
心に思ひ給ふこと應《いら》へ給ひね、洩れなくと、
綾《あや》に畏《かし》こき大御神《おほみかみ》「愛」の御名《みな》もて告げまつる。
さても星影きらゝかに、更け行く夜《よる》も三つ一つ
ほとほと過ぎし折しもあれ、忽ち四方《よも》は照渡り、
「愛」の御姿《みすがた》うつそ身に現《あら》はれいでし不思議さよ。
おしはかるだに、その性《さが》の恐《おそろ》しときく荒神《あらがみ》も
御氣色《みけしき》いとゞ麗《うる》はしく在《いま》すが如くおもほえて、
御手《みて》にはわれが心《しん》の臟《ざう》、御腕《おんかひな》には貴《あて》やかに
あえかの君の寢姿《ねすがた》を、衣《きぬ》うちかけて、かい抱《いだ》き、
やをら動《うご》かし、交睫《まどろみ》の醒めたるほどに心《しん》の臟《ざう》、
さゝげ進むれば、かの君も恐《おそ》る恐《おそ》るに聞《きこ》しけり。
「愛」は乃《すなは》ち馳せ走《さ》りつ、馳せ走りながら打泣きぬ。
[#改ページ]
ほのぐらき黄金《こがね》隱沼《こもりぬ》、
骨蓬《かうほね》の白くさけるに、
靜かなる鷺《さぎ》の羽風は
徐《おもむろ》に影を落しぬ。
水の面《おも》に影は漂《たゞよ》ひ、
廣《ひろ》ごりて、ころもに似たり。
天《あめ》なるや、鳥の通路《かよひぢ》、
羽ばたきの音《おと》もたえだえ。
漁子《すなどり》のいと賢《さか》しらに
清らなる網をうてども、
空《そら》翔《か》ける奇《く》しき翼の
おとなひをゆめだにしらず。
また知らず日に夜《よ》をつぎて
溝《みぞ》のうち泥土《どろつち》の底
欝憂の網に待つもの
久方《ひさかた》の光に飛ぶを。
ボドレエルにほのめき、ルレエヌに現はれたる詩風はこゝに至りて、終に象徴詩の新體を成したり。此「鷺の歌」以下、「嗟嘆」に至るまでの詩は多少皆象徴詩の風格を具ふ。
譯者
夕日の國は野も山も、その「平安《へいあん》」や「寂寥《せきれう》」の
黝《ねづみ》の色の毛布《けぬの》もて掩《おほ》へる如く、物寂《さ》びぬ。
萬物《ばんぶつ》凡《なべ》て整《とゝの》ふり、折りめ正しく、ぬめらかに、
物の象《かたち》も筋めよく、ビザンチン繪《ゑ》の式《かた》の如《ごと》。
時雨《しぐれ》村雨《むらさめ》、中空《なかぞら》を雨の矢數《やかず》につんざきぬ。
見よ、一天《いつてん》は紺青《こんじやう》の伽藍の廊《らう》の色にして、
今こそ時は西山《せいざん》に入日傾く夕まぐれ、
日の金色《こんじき》に烏羽玉の夜《よる》の白銀《しろがね》まじるらむ。
めぢの界《さかひ》に物も無し、唯遠長《とほなが》き並木路《なみきみち》、
路に沿ひたる樫の樹《き》は、巨人の列《つら》の佇立《たゝずまひ》、
疎《まば》らに生《お》ふる箒木《はゝきぎ》や、新墾《にひばり》小田《をだ》の末かけて、
鋤《すき》休《やす》めたる野《の》らまでも領《りやう》ずる顏の姿かな。
木立《こだち》を見れば沙門等《しやもんら》が野邊《のべ》の送《おくり》の營《いとなみ》に、
夕暮がたの悲を心に痛み歩むごと、
また古《いにしへ》の六部等《ろくぶら》が後世《ごせ》安樂《あんらく》の願《ぐわん》かけて、
靈場詣《りやうぢやうまうで》、杖重く、番《ばん》の御寺《みてら》を訪ひしごと。
赤々《あか/\》として暮れかゝる入日の影は牡丹花《ぼたんくわ》の
眠れる如くうつろひて、河添《かはぞひ》馬道《めだう》開けたり。
噫《あゝ》、冬枯や、法師めくかの行列を見てあれば、
たとしへもなく靜かなる夕《ゆふべ》の空に二列《ふたならび》、
瑠璃《るり》の御空《みそら》の金砂子《きんすなご》、星輝ける神前に
進み近づく夕づとめ、ゆくてを照らす星辰は
壇に捧ぐる御明《みあかし》の大燭臺《だいそくだい》の心《しん》にして、
火こそみえけれ、其棹《さを》の閻浮提金《えんぶだごん》ぞ隱《かく》れたる。
ほらあなめきし落窪《おちくぼ》の、
夢も曇るか、こもり沼《ぬ》は、
腹しめすまで浸《ひた》りたる
まだら牡牛の水かひ場《ば》。
坂くだりゆく牧《まき》がむれ、
牛は練《ね》りあし、馬は|《だく》、
時しもあれや、落日《らくじつ》に
嘯《うそぶ》き吼ゆる黄牛《あめうし》よ。
日のかぐろひの寂寞《じやくまく》や、
色も、にほひも、日のかげも、
梢のしづく、夕榮《ゆふばえ》も。
靄《もや》は刈穗《かりほ》のはふり衣《ぎぬ》、
夕闇とざす路《みち》遠み、
牛のうめきや、斷末魔。
北《きた》に面《むか》へるわが畏怖《おそれ》の原の上に、
牧羊の翁《おきな》、神樂月《かぐらづき》角《かく》を吹く。
物憂き羊小舍《ひつじごや》のかどに、すぐだちて、
災殃《まがつび》のごと、死の羊群を誘《さそ》ふ。
きし方《かた》の悔《くい》をもて築《きづ》きたる此小舍《こや》は
かぎりもなき、わが憂愁の邦《くに》に在りて、
ゆく水のながれ|薄荷莢《めぐさがまずみ》におほはれ、
いざよひの波も重きか、蜘手《くもで》に澱《よど》む。
肩に赤十字ある墨染《すみぞめ》の小羊よ、
色もの凄き羊群も長棹《ながさを》の鞭に
撻《うた》れて歸る、たづたづし、罪のねりあし。
疾風《はやて》に歌ふ牧羊の翁、神樂月よ、
今、わが頭《かしら》掠《かす》めし稻妻の光に
この夕《ゆふべ》おどろおどろしきわが命かな。
嗚呼、爛壞《らんゑ》せる黄金《わうごん》の毒に中《あた》りし大都會、
石は叫び烟《けむり》舞ひのぼり、
驕慢の圓葢《まるやね》よ、塔よ、直立《すぐだち》の石柱《せきちゆう》よ、
虚空は震ひ、勞役のたぎち沸くを、
好むや、汝《なれ》、この大畏怖《だいいふ》を、叫喚を、
あはれ旅人《たびうど》、
悲みて夢うつら離《さか》りて行くか、濁世《だくせい》を、
つゝむ火焔の帶の停車場《ば》。
中空《なかぞら》の山けたたまし跳《をど》り過ぐる火輪《くわりん》の響。
なが胸を焦《こが》す早鐘《はやがね》、陰々と、とよもす音《おと》も、
この夕《ゆふべ》、都會に打ちぬ。炎上の焔、赤々《あか/\》、
千萬《せんまん》の火粉《ひのこ》の光、うちつけに面《おもて》を照らし、
聲黒《こわぐろ》きわめき、さけびは、妄執の心の矢聲《やごゑ》。
滿身すべて涜聖《とくせい》の言葉に捩《ねぢ》れ、
意志あへなくも狂瀾にのまれをはんぬ。
實《げ》に自らを誇《ほこ》りつゝ、將《はた》、詛《のろ》ひぬる、あはれ、人の世。
舘《やかた》の闇の靜かなる夜《よる》にもなれば訝《いぶか》しや、
廊下のあなた、かたことと、|杖《かせづゑ》のおと、杖の音《おと》、
「時《とき》」の階《はしご》のあがりおり、小股《こまた》に刻《きざ》む音《おと》なひは
これや時鐘《とけい》の忍足《しのびあし》。
硝子《がらす》の葢《ふた》の後《うしろ》には、白鑞《しろめ》の面《おもて》飾なく、
花形模樣色褪《ざ》めて、時《とき》の數字もさらぼひぬ。
人の氣《け》絶《た》えし渡殿《わたどの》の影ほのぐらき朧月《ろうげつ》よ、
これや時鐘《とけい》の眼の光。
うち沈みたるねび聲に機《しかけ》のおもり、音《おと》ひねて、
槌《つち》に鑢《やすり》の音《ね》もかすれ、言葉悲しき木《き》の函《はこ》よ、
細身《ほそみ》の秒の指のおと、片言《かたこと》まじりおぼつかな、
これや時鐘《とけい》の針の聲。
角《かく》なる函《はこ》は樫《かし》づくり、焦茶《こげちや》の色の框《わく》はめて、
冷《つめ》たき壁に封《ふう》じたる棺《ひつぎ》のなかに隱れすむ
「時《とき》」の老骨《らうこつ》、きしきしと、數《かず》噛《か》む音《おと》の齒《は》ぎしりや、
これぞ時鐘《とけい》の恐ろしさ。
げに時鐘《とけい》こそ不思議なれ。
あるは、木履《きぐつ》を曳《ひ》き惱み、あるは徒跣《はだし》に音《ね》を竊《ぬす》み、
忠々《まめ/\》しくも、いそしみて、古《ふる》く仕ふるはした女《め》か。
柱時鐘《はしらどけい》を見詰《みつ》むれば、針《はり》のコムパス、身《み》の搾木《しめぎ》。
[#改ページ]
夕暮がたの蕭《しめ》やかさ、燈火《あかり》無き室《ま》の蕭《しめ》やかさ。
かはたれ刻《どき》は蕭《しめ》やかに、物靜かなる死の如く、
朧々《おぼろ/\》の物影のやをら浸み入り廣《ひろ》ごるに、
まづ天井の薄明《うすあかり》、光は消えて日も暮れぬ。
物靜かなる死の如く、微笑《ほゝゑみ》作るかはたれに、
曇れる鏡よく見れば、別《わかれ》の手振《てぶり》うれたくも
わが俤《おもかげ》は蕭《しめ》やかに辷《すべ》り失《う》せなむ氣色《けはひ》にて、
影薄れゆき、色《いろ》蒼《あを》み、絶《た》えなむとして消《け》つべきか。
壁に掲《か》けたる油畫《あぶらゑ》に、あるは朧《おぼろ》に色褪めし、
框《わく》をはめたる追憶《おもひで》の、そこはかとなく留まれる
人の記憶の圖《づ》の上《うへ》に心の國の山水《さんすゐ》や、
筆にゑがける風景の黒き雪かと降り積る。
夕暮がたの蕭《しめ》やかさ。あまりに物のねびたれば、
沈める音《おと》の絃《いと》の器《き》に、|《かせ》をかけたる思にて、
無言《むごん》を辿《たど》る戀《こひ》なかの深き二人《ふたり》の眼差《まなざし》も、
花毛氈《まうせん》の唐草《からくさ》に絡《から》みて縒《よ》るゝ夢心地《ゆめごゝち》。
いと徐ろに日の光《ひかり》隱《かぐ》ろひてゆく蕭《しめ》やかさ。
文目《あやめ》もおぼろ、蕭《しめ》やかに、噫《あゝ》、蕭《しめ》やかに、つくねんと、
沈默《しゞま》の郷《さと》の偶座《むかひゐ》は一《ひと》つの香《かう》にふた色《いろ》の
匂《にほひ》交《まじ》れる思にて、心は一つ、えこそ語らね。
[#改ページ]
夕まぐれ、森の小路《こみち》の四辻《よつつじ》に
夕まぐれ、風のもなかの逍遙《せうえう》に、
竈《かまど》の灰や、歳月《さいげつ》に倦み勞《つか》れ來て、
定業《ぢやうごふ》のわが行末もしらま弓、
杖と佇《たゝず》む。
路《みち》のゆくてに「日《ひ》」は多し、
今更ながら、行きてむか。
ゆふべゆふべの旅枕、
水こえ、山こえ、夢こえて、
つひのやどりはいづかたぞ。
そは玄妙《げんめう》の、靜寧《せいねい》の「死《し》」の大神《おほかみ》が、
わがまなこ、閉ぢ給ふ國、
黄金《わうごん》の、浦安《うらやす》の妙《たへ》なる封《ふう》に。
高樫《たかがし》の寂寥《せきれう》の森の小路よ。
岩角に懈怠《けたい》よろぼひ、
きり石に足弱《あしよわ》惱み、
歩む毎《ごと》、
きしかたの血潮《ちしほ》流れて、
木枯《こがらし》の颯々《さつ/\》たりや、高樫《たかがし》に。
噫、われ倦みぬ。
赤楊《はんのき》の落葉《らくえふ》の森の小路よ。
道行く人は木葉《このは》なす、
蒼《あを》ざめがほの耻のおも、
ぬかりみ迷ひ、群れゆけど、
かたみに避けて、よそみがち。
泥濘《ぬかりみ》の、したゝりの森の小路よ、
憂愁《いうしう》を風は葉並に囁きぬ。
しろがねの、月代《つきしろ》の霜さゆる隱沼《こもりぬ》は
たそがれに、この道のはてに澱《よど》みて
げにこゝは「鬱憂《うついう》」の
鬼が栖《す》む國。
秦皮《とねりこ》の、眞砂《まさご》、いさごの、森の小路よ、
微風《そよかぜ》も足音《あしおと》たてず、
梢より梢にわたり、
山蜜《やまみつ》の色よき花は
金色《こんじき》の砂子《すなご》の光、
おのづから曲れる路は
人さらになぞへを知らず、
このさきの都のまちは
まれびとを迎ふときゝぬ。
いざ足をそこに止めむか。
あなくやし、われはえゆかじ。
他の生《しやう》の途《みち》のかたはら、
「物影《ものかげ》」の亡骸《なきがら》守る
わが「願《ぐわん》」の通夜《つや》を思へば。
高樫《たかがし》の路われはゆかじな、
秦皮《とねりこ》や、赤楊《はんのき》の路《みち》、
日のかたや、都のかたや、水のかた、
なべてゆかじな。
噫、小路、
血やにじむわが足のおと、
死したりと思ひしそれも、
あはれなり、もどり來たるか、
地響《ぢひゞき》のわれにさきだつ。
噫、小路、
安逸《あんいつ》の、醜辱《しうじよく》の、驕慢《けうまん》の森《もり》の小路よ、
あだなりしわが世《よ》の友《とも》か、吹風《ふくかぜ》は、
高樫《たかがし》の木下蔭《このしたかげ》に
聲《こゑ》はさやさや、
涙《なみだ》さめざめ。
あな、あはれ、きのふゆゑ、夕暮悲し、
あな、あはれ、あすゆゑに、夕暮苦《くる》し、
あな、あはれ、身のゆゑに、夕暮重し。
いづれは「夜《よる》」に入る人の
をさな心も青春《せいしゆん》も、
今はた過ぎしけふの日や、
從容《しようよう》として、ひとりきく、
「冬篳篥《ふゆひちりき》」にさきだちて、
「秋」に響かふ「夏笛《なつぶえ》」を。
(現世《げんぜ》にしては、ひとつなり、
物のあはれも、さいはひも。)
あゝ、聞け、樂《がく》のやむひまを
「長月姫《ながつきひめ》」と「葉月姫《はづきひめ》」、
なが「憂愁」と「歡樂」と
語らふ聲の蕭《しめ》やかさ。
(熟《じゆく》しうみたるくだものゝ
つはりて枝や撓《たわ》むらむ。)
あはれ、微風《そよかぜ》、さやさやと
伊吹《いぶき》のすゑは木枯《こがらし》を
誘《さそ》ふと知れば、憂かれども、
けふ木枯《こがらし》もそよ風も
口ふれあひて、熟睡《うまい》せり。
森蔭はまだ夏緑《なつみどり》、
夕まぐれ、空より落ちて、
笛の音《ね》は山鳩よばひ、
「夏」の歌「秋」を搖《そゝ》りぬ。
曙の美しからば、
その晝は晴れわたるべく、
心だに優しくあらば、
身の夜も樂しかるらむ。
ほゝゑみは口のさうび花、
もつれ髮《がみ》、髷《わげ》にゆふべく、
眞清水《ましみづ》やいつも澄みたる。
あゝ人よ、「愛」を命の法《のり》とせば、
星や照らさむ、なが足を、
いづれは「夜《よる》」に入らむ時。
途のつかれに項垂《うなだ》れて、
默然《もくぜん》たりや、おもかげの
あらはれ浮ぶわが「想《おもひ》」。
命の朝のかしまだち、
世路《せいろ》にほこるいきほひも、
今、たそがれのおとろへを
透しみすれば、わなゝきて、
顏背《そむ》くるぞ、あはれなる。
思ひかねつゝ、またみるに、
避けて、よそみて、うなだるゝ、
あら、なつかしのわが「想」。
げにこそ思へ、「時」の山、
山越えいでゝ、さすかたや、
「命」の里に、もとほりし
なが足音もきのふかな。
さて、いかにせし、盃に
水やみちたる。としごろの
願《ぐわん》の泉はとめたるか。
あな空手《むなで》、唇《くちびる》乾《かわ》き、
とこしへの渇《かつ》に苦《にが》める
いと冷《ひ》やき笑《ゑみ》を湛《たゝ》へて、
ゆびさせる其足もとに、
玉《たま》の屑《くづ》、埴土《はに》のかたわれ。
つぎなる汝《なれ》はいかにせし、
こはすさまじき姿かな。
そのかみの|《らふ》たき風情《ふぜい》、
嫋竹《なよたけ》の、あえかのなれも、
鈍《おぞ》なりや、宴《うたげ》のくづれ、
みだれ髮《がみ》、肉《しし》おきたるみ、
酒《さけ》の香《か》に、衣《きぬ》もなよびて、
蹈む足も醉ひさまだれぬ。
あな忌々《ゆゝ》し、とく去《い》ねよ、
さて、また次《つぎ》のなれが面《おも》、
みれば麗容《れいよう》うつろひて、
悲《かなしみ》削《そ》ぎしやつれがほ、
指《ゆび》組《く》み絞《しぼ》り胸隱くす
双《さう》の手振《てぶり》の怪しきは、
饐《す》えたる血にぞ、怨恨《えんこん》の
毒ながすなるくち蝮《ばみ》を
掩《おほ》はむためのすさびかな。
また「驕慢」に音《おと》づれし
なが獲物《えもの》をと、うらどふに、
えび染《ぞめ》のきぬは、やれさけ、
笏《しやく》の牙《げ》も、ゆがみたわめり、
又、なにものぞ、ほてりたる
もろ手ひろげて「樂欲《げうよく》」に
らうがはしくも走りしは。
醉狂《すゐきやう》の抱擁《だきしめ》酷《むご》く
唇を噛み破られて、
滿面《まんめん》に爪《つめ》あとたちぬ。
興《きよう》ざめたりな、このくるひ、
われを棄《す》つるか、わが「想」、
あはれ、耻かし、このみざま、
なれみづからをいかにする。
しかはあれども、そがなかに、
行《おこなひ》清きたゞひとり、
きぬもけがれと、はだか身に、
出でゆきしより、けふまでも、
あだし「想《おもひ》」の姉妹《おとどひ》と
道《みち》異《こと》なるか、かへり來《こ》ぬ、
――あゝ行《ゆ》かばやな――汝《な》がもとに。
法苑林《はふをんりん》の奧深く
素足《すあし》の「愛」の玉容《ぎよくよう》に
なれは、ゐよりて、睦《むつ》みつゝ、
靈華《りやうげ》の房《ふさ》を摘みあひて、
うけつ、あたへつ、とりかはし
双《さう》の額《ひたひ》をこもごもに、
飾るや、一《いつ》の花の冠《くわんむり》。
ホセ・マリヤ・デ・エレディヤは金工の如くアンリ・ドゥ・レニエは織人の如し。また、譬喩を珠玉に求めむか、彼には青玉黄玉の光輝あり、此には乳光柔き蛋白石の影を浮べ、色に曇るを見る可し。譯者
[#改ページ]
延《の》びあくびせよ、傍《かたはら》に「命」は倦みぬ、
――朝明《あさけ》より夕をかけて熟睡《うまい》する
その|《らふ》たげさ勞《つか》らしさ、
ねむり眼のうまし「命」や。
起きいでよ、呼ばゝりて、過ぎ行く夢は
大影《おほかげ》の奧にかくれつ。
今にして躊躇《ためらひ》なさば、
ゆく末に何《なん》の導《しるべ》ぞ。
呼ばゝりて過ぎ行く夢は
去りぬ神祕《くしび》に。
いでたちの旅路の糧《かて》を手《た》握《にぎ》りて、
歩《あゆみ》もいとゞ速《はや》まさる
愛の一念ましぐらに、
急げ、とく行け、
呼ばゝりて、過ぎ行く夢は、
夢は、また歸り來なくに。
進めよ、走《は》せよ、物陰に、
畏をなすか、深淵《しんゑん》に、
あな、急げ……あゝ遲れたり。
はしけやし「命」は愛に熟睡《うまい》して、
栲綱《たくづぬ》の白腕《しろたたむき》になれを卷く。
――噫《あゝ》遲《おく》れたり、呼ばゝりて過ぎ行く夢の
いましめもあだなりけりな。
ゆきずりに、夢は嘲る……
さるからに、
むしろ「命」に口觸れて
これに生《う》ませよ、藝術を。
無言《むごん》を祷《いの》るかの夢の
教をきかで、無邊《むへん》なる神に憧《あこが》るる事なくば、
たちかへり、色よき「命」かき抱き、
なれが刹那を長久《とは》にせよ。
死の憂愁に歡樂に
靈妙音《れいめうおん》を生ませなば、
なが亡《な》き後《あと》に殘りゐて、
はた、さゞめかむ、はた、なかむ、
うれしの森に、春風や
若緑、
去年《こぞ》を繰返《あこぎ》の愛のまねぎに。
さればぞ歌へ微笑《ほほゑみ》の榮《はえ》の光に。
[#改ページ]
白銀《しろがね》の筐柳《はこやなぎ》、菩提樹《ぼだいず》や、榛《はん》の樹《き》や……
水《みづ》の面《おも》に月《つき》の落葉《おちば》よ……
夕《ゆふべ》の風に櫛《くし》けづる丈長髮《たけなががみ》の匂ふごと、
夏の夜《よ》の薫《かをり》なつかし、かげ黒き湖《みづうみ》の上《うへ》、
水薫《かを》る淡海《あはうみ》ひらけ鏡なす波のかゞやき。
楫の音《と》もうつらうつらに
夢をゆくわが船のあし。
船のあし、空をもゆくか、
かたちなき水にうかびて。
ならべたるふたつの櫂《かい》は
「徒然《つれづれ》」の櫂《かい》「無言《しじま》」がい。
水の面《おも》の月影なして
波の上《うへ》の楫の音《と》なして
わが胸に吐息《といき》ちらばふ。
[#改ページ]
色に賞《め》でにし紅薔薇《こうさうび》、日にけに花は散りはてゝ、
唐棣花色《はねずいろ》よき若立《わかだち》も、季《とき》ことごとくしめあへず、
そよそよ風の手枕《たまくら》に、はや日數《ひかず》經《へ》しけふの日や、
つれなき北の木枯に、河氷るべきながめかな。
噫、歡樂よ、今さらに、なじかは、せめて爭はむ。
知らずや、かゝる雄誥《をたけび》の、世に類《たぐひ》無く烏滸《をこ》なるを、
ゆゑだもなくて、徒に痴《し》れたる思、去りもあへず、
「悲哀」の琴《きん》の絲の緒《を》を、ゆし按《あん》ずるぞ無益《むやく》なる。
*
ゆめ、な語りそ、人の世は悦《よろこび》おほき宴《うたげ》ぞと。
そは愚かしきあだ心、はたや卑しき痴《し》れごゝち。
ことに歎くな、現世《うつしよ》を涯《かぎり》も知らぬ苦界《くがい》よと。
益《やう》無《な》き勇《ゆう》の逸氣《はやりぎ》は、たゞいち早く悔いぬらむ。
春日《はるひ》霞みて、葦《よし》蘆《あし》のさゞめくが如《ごと》、笑みわたれ。
磯濱《いそはま》かけて風騷ぎ波おとなふがごと、泣けよ。
一切《いつさい》の快樂《けらく》を盡し、一切《いつさい》の苦患《くげん》に堪へて、
豐《とよ》の世《よ》と稱《たゝ》ふるもよし、夢の世と觀《くわん》ずるもよし。
*
死者のみ、ひとり吾に聽く、奧津城處《おくつきどころ》、わが栖家《すみか》。
世の終《をふ》るまで、吾はしも己が心のあだがたき。
亡恩に榮華《えいぐわ》は盡きむ、里鴉《さとがらす》畠《はた》をあらさむ、
收穫時《とりいれどき》の頼《たのめ》なきも、吾はいそしみて種を播かむ。
ゆめ、自《みづか》らは悲まじ。世の木枯もなにかあらむ、
あはれ侮蔑《ぶべつ》や、誹謗《ひばう》をや、大凶事《おほまがごと》の迫害《せまり》をや。
たゞ、詩の神の箜※《くご》[#「竹かんむり/候」、120-3]の上、指をふるれば、わが樂《がく》の
日毎《ひごと》に清く澄みわたり、靈妙音《れいめうおん》の鳴るが樂しさ。
*
長雨空の喪《はて》過《す》ぎて、さすや忽ち薄日影、
冠《かむり》の花葉《はなば》ふりおとす栗の林の枝の上《うへ》に、
水のおもてに、遲花《おそばな》の花壇の上に、わが眼にも、
照り添ふ匂なつかしき秋の日脚《ひあし》の白みたる。
日よ何の意ぞ、夏花《なつはな》のこぼれて散るも惜からじ、
はた禁《とゞ》めえじ、落葉《らくえふ》の風のまにまに吹き交ふも。
水や曇れ、空も鈍《に》びよ、たゞ悲のわれに在らば、
想《おもひ》はこれに養はれ、心はために勇《ゆう》をえむ。
*
われは夢む、滄海《さうかい》の天《そら》の色、哀《あはれ》深き入日の影を、
わだつみの灘《なだ》は荒れて、風を痛み、甚振《いたぶ》る波を、
また思《おも》ふ釣船《つりぶね》の海人《あま》の子を、巖穴《いはあな》に隱《かぐ》ろふ蟹を、
青眼《せいがん》のネアイラを、グラウコス、プロオティウスを。
又思ふ、路の邊《べ》をあさりゆく物乞《ものごひ》の漂浪人《さすらひびと》を、
栖《す》み慣れし軒端がもとに、休《いこ》ひゐる賤《しづ》が翁《おきな》を、
斧の柄《え》を手《た》握《にぎ》りもちて、肩かゞむ杣《そま》の工《たくみ》を、
げに思ひいづ、鳴神《なるかみ》の都の騷擾《さやぎ》、村肝《むらぎも》の心の痍《きず》を。
*
この一切の無益《むやく》なる世の煩累《わづらひ》を振りすてゝ、
もの恐ろしく汚れたる都の憂あとにして、
終に分け入る森陰の清《すゞ》しき宿《やどり》求めえなば、
光も澄める湖《みづうみ》の靜けき岸にわれは悟らむ。
否《あらず》、寧《むしろ》われはおほわだの波うちぎはに夢みむ。
幼年の日を養ひし大搖籃《だいえうらん》のわだつみよ、
ほだしも波の鴎鳥《かもめどり》、呼びかふ聲を耳にして、
磯根に近き岩枕《いはまくら》汚れし眼《まなこ》、洗はゞや。
*
噫いち早く襲ひ來る冬の日、なにか恐るべき。
春の卯月《うつき》の贈物、われはや、既に盡し果て、
秋のみのりのえびかづら葡萄も摘まず、新麥《にひむぎ》の
豐《とよ》の足穗《たりほ》も、他《あだ》し人《ひと》、刈《か》り干しにけむ、いつの間《ま》に。
*
けふは照日《てるひ》の映々《はえばえ》と青葉《あをば》高麥《たかむぎ》生ひ茂る
大野《おほの》が上に空高く靡《な》びかひ浮ぶ旗雲《はたぐも》よ。
和《な》ぎたる海を白帆あげて、朱《あけ》の曾保船《そほふね》走るごと、
變化《へんげ》乏しき青天《あをぞら》をすべりゆくなる白雲よ。
時ならずして、汝《なれ》も亦近づく暴風《あれ》の先驅《さきがけ》と、
みだれ姿の影黒み蹙《しが》める空を翔《かけ》りゆかむ、
嗚呼、大空の馳使《はせづかひ》、添はばや、なれにわが心、
心は汝《なれ》に通へども、世の人たえて汲む者もなし。
[#改ページ]
靜かなるわが妹《いもと》、君見れば、想《おもひ》すゞろぐ。
朽葉色《くちばいろ》に晩秋《おそあき》の夢深き君が額《ひたひ》に、
天人《てんにん》の瞳《ひとみ》なす空色の君がまなこに、
憧《あこが》るゝわが胸は、苔古りし花苑《はなぞの》の奧、
淡白《あはじろ》き吹上《ふきあげ》の水のごと、空へ走りぬ。
その空は時雨月《しぐれづき》、清らなる色に曇りて、
時節《をりふし》のきはみなき欝憂は池に映《うつ》ろひ
落葉《らくえふ》の薄黄《うすぎ》なる憂悶《わづらひ》を風の散らせば、
いざよひの池水《いけみづ》に、いと冷《ひ》やき綾《あや》は亂れて、
ながながし梔子《くちなし》の光さす入日たゆたふ。
物象を靜觀して、これが喚起したる幻想の裡、自から心象の飛揚する時は「歌」成る。さきの「高踏派」の詩人は、物の全般を採りて之を示したり。かるが故に、其詩、幽妙を虧き、人をして宛然自から創作する如き享樂無からしむ。それ物象を明示するは詩興四分の三を沒却するものなり。讀詩の妙は漸々遲々たる推度の裡に存す。暗示は即ちこれ幻想に非らずや。這般幽玄の運用を象徴と名づく。一の心状を示さむが爲、徐に物象を喚起し、或は之と逆まに、一の物象を採りて、闡明數番の後、これより一の心状を脱離せしむる事これなり。
ステファンヌ・マラルメ
[#改ページ]
落日の光にもゆる
白楊《はくやう》の聳《そび》やく並木、
谷隈になにか見る、
風そよぐ梢より。
小鳥でさへも巣は戀し、
まして青空、わが國よ、
うまれの里の波羅葦増雲《パライソウ》。
海のあなたの遙けき國へ
いつも夢路の波枕、
波の枕のなくなくぞ、
こがれ憧《あこが》れわたるかな、
海のあなたの遙けき國へ。
オオバネルは、ミストラル、ルウマニユ等と相結で、十九世紀の前半に近代プロンス語を文藝に用ゐ、南歐の地を風靡したるフェリイブル詩社の翹楚なり。
「故國」の譯に波羅葦増雲《パライソウ》とあるは、文祿[#「文祿」は底本では「文録」]慶長年間葡萄牙語より轉じて一時、わが日本語化したる基督教法に所謂天國の意なり。譯者
[#改ページ]
頼み入りし空《あだ》なる幸《さち》の一《ひと》つだにも、忠心《まごゝろ》ありて、
とまれるはなし。
そをもふと、胸はふたぎぬ、悲にならはぬ胸も
にがき憂《うれひ》に。
きしかたの犯《をかし》の罪の一《ひと》つだにも、懲《こらし》の責《せめ》を
のがれしはなし。
そをもふと胸はひらけぬ、荒屋《あばらや》のあはれの胸も
高かき望に。
[#改ページ]
白波《しらなみ》の、潮騷《しほざゐ》のおきつ貝なす
青緑《あをみどり》しげれる谿《たに》を
まさかりの眞晝ぞ知《しろ》す。
われは昔の野山の精《せい》を
まなびて、こゝに宿からむ、
あゝ、神寂びし篠懸《すゞかけ》よ、
なれがにほひの濡髮《ぬれがみ》に。
兒等《こら》よ、今晝は眞盛《まさかり》、日こゝもとに照らしぬ。
寂寞《じやくまく》大海《だいかい》の禮拜《らいはい》して、
天津日《あまつひ》に捧ぐる香《かう》は、
淨まはる潮《うしほ》のにほひ、
轟く波凝《なごり》、動《ゆる》がぬ岩根《いはね》、靡く藻よ、
黒金《くろがね》の船の舳先《へさき》よ、
岬《みさき》代赭色《たいしやいろ》に、獅子の蹈留《ふみとゞま》れる如く、
足を延べたるこゝ、入海《いりうみ》のひたおもて、
うちひさす都のまちは、
煩悶《わづらひ》の壁《かべ》に惱《なや》めど、
鏡なす白川《しらかは》は蜘手《くもて》に流れ、
風のみひとり、たまさぐる、
洞穴口《ほらあなぐち》の花の錦や。
底本:「上田敏全訳詩集」岩波文庫、岩波書店
1962(昭和37)年12月16日第1刷発行
1979(昭和54)年10月10日第19刷発行
※底本の本文は、序の組みに対して2字下げになっていますが、注記は省きました。
入力:阿部哲也
校正:川山隆
2011年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「門<具」
64-7

-->
「竹かんむり/候」
120-3

-->
●図書カード