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仰《おおせ》のごとく近来和歌は一向に振《ふる》い不申《もうさず》候。正直に申し候えば『万葉』以来、実朝《さねとも》以来、一向に振い不申候。実朝という人は三十にも足らでいざこれからというところにてあえなき最期を遂げられまことに残念致し候。あの人をして今十年も活《い》かしておいたならどんなに名歌を沢山《たくさん》残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存《ぞんじ》候。あながち人丸《ひとまろ》、赤人《あかひと》の余唾《よだ》を舐《ねぶ》るでもなく、もとより貫之《つらゆき》、定家《ていか》の糟粕《そうはく》をしゃぶるでもなく自己の本領屹然《きつぜん》として山岳と高きを争い日月と光を競うところ実に畏《おそ》るべく尊むべく覚えず膝《ひざ》を屈するの思い有之《これあり》候。古来凡庸《ぼんよう》の人と評し来《きた》りしは必ず誤《あやまり》なるべく、北条《ほうじょう》氏を憚《はばか》りて韜晦《とうかい》せし人かさらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は人間としては下等の地に居るが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之《これなく》候。何ゆえと申すに、実朝の歌はただ器用というのではなく力量あり見識あり威勢《いせい》あり、時流に染まず世間に媚《こ》びざるところ例の物数奇《ものずき》連中や死に歌よみの公卿《くげ》達ととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは実朝の歌のごとき力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵《まぶち》は力を極めて実朝をほめた人なれども真淵のほめ方はまだ足らぬように存《ぞんじ》候。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて他の半面を知らざりしゆえに可有之《これあるべく》候。
真淵は歌につきては近世の達見家にて『万葉』崇拝のところなど当時にありて実にえらいものに有之《これあり》候えども、生《せい》らの眼より見ればなお『万葉』をも褒め足らぬ心地致候。真淵が『万葉』にも善《よ》き調《しらべ》あり悪《あし》き調ありということをいたく気にして繰り返し申し候は世人が『万葉』中の佶屈《きっくつ》なる歌を取りて「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するを恐れたるかと相《あい》見え申《もうし》候。もとより真淵自身もそれらを善き歌とは思わざりしゆえに弱みもいで候いけん。しかしながら世人が佶屈と申す『万葉』の歌や真淵が悪き調と申す『万葉』の歌の中には生の最も好む歌も有之と存ぜられ候。そをいかにというに他の人は言うまでもなく真淵の歌にも生が好むところの万葉調というものは一向に見当《みあたり》不申候。(もっともこの辺の論は短歌につきての論と御承知可被下《くださるべく》候)真淵の家集を見て真淵は存外に『万葉』の分《わか》らぬ人と呆《あき》れ申候。かく申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候。楫取魚彦《かとりなひこ》は『万葉』を模したる歌を多く詠みいでたれど、なおこれと思うものは極めて少《すくな》く候。さほどに古調は擬しがたきにやと疑い居り候ところ、近来生らの相知れる人の中に歌よみにはあらでかえって古調を巧《たくみ》に模する人少からぬことを知り申候。これによりて観《み》れば、昔の歌よみの歌は今の歌よみならぬ人の歌よりも遥《はるか》に劣り候やらんと心細く相成《あいなり》申候。さて今の歌よみの歌は昔の歌よみの歌よりも更に劣り候わんにはいかが申すべき。
長歌のみはやや短歌と異なり申候。『古今集』の長歌などは箸《はし》にも棒にもかからず候えども、かような長歌は『古今集』時代にも後世にもあまり流行《はや》らざりしこそもっけの幸《さいわい》と存ぜられ候なれ。されば後世にても長歌を詠む者にはただちに『万葉』を師とする者多く、従ってかなりの作を見受け申候。今日とても長歌を好んで作る者は短歌に比すれば多少手際善《てぎわよ》く出来申候。(御歌会派《おうたかいは》の気まぐれに作る長歌などは端唄《はうた》にも劣り申候)しかしある人は難じて長歌が『万葉』の模型を離るるあたわざるを笑い申候。それももっともには候えども、歌よみにそんなむつかしいことを注文致し候わば『古今』以後ほとんど新しい歌がないと申さねば相成間敷《あいなるまじく》候。なおいろいろ申し残したることは後鴻《こうこう》に譲り申候。不具。〔『日本』明治三十一年二月十二日〕
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貫之《つらゆき》は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之《これあり》候。その貫之や『古今集』を崇拝するはまことに気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生《せい》も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候《そうら》いしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合《きみあい》はよく存申《ぞんじもうし》候。崇拝して居る間はまことに歌というものは優美にて『古今集』はことにその粋《すい》を抜きたるものとのみ存候いしも三年の恋一朝《いっちょう》にさめてみればあんな意気地《いくじ》のない女に今までばかされて居ったことかとくやしくも腹立たしく相成《あいなり》候。まず『古今集』という書を取りて第一枚を開くとただちに「去年《こぞ》とやいはん今年とやいはん」という歌が出て来る実に呆《あき》れ返った無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしゃれたると同じことにて、しゃれにもならぬつまらぬ歌に候。このほかの歌とても大同小異にて駄洒落《だじゃれ》か理屈ッぽいもののみに有之候。それでも強《し》いて『古今集』をほめて言わばつまらぬ歌ながら『万葉』以外に一風を成したるところは取得《とりえ》にて、いかなる者にても始めての者は珍らしく覚え申候。ただこれを真似《まね》るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年のことならともかくも、二百年たっても三百年たってもその糟粕《そうはく》を嘗《な》めて居る不見識には驚き入《いり》候。何代集の彼《か》ン代集のと申しても皆『古今』の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座《ござ》候。
貫之とても同じことに候。歌らしき歌は一首も相《あい》見え不申《もうさず》候。かつてある人にかく申し候ところその人が「川風寒く千鳥鳴くなり」の歌はいかがにやと申され閉口致《いたし》候。この歌ばかりは趣味ある面白き歌に候。しかしほかにはこれくらいのもの一首もあるまじく候。「空に知られぬ雪」とは駄洒落にて候。「人はいさ心もしらず」とは浅はかなる言いざまと存候。但《ただし》貫之は始めてかようなことを申候者にて古人の糟粕にては無之《これなく》候。詩にて申候えば『古今集』時代は宋《そう》時代にもたぐえ申すべく俗気紛々《ふんぷん》と致し居《おり》候ところはとても唐詩《とうし》とくらぶべくも無之候えども、さりとてそれを宋の特色として見れば全体の上より変化あるも面白く、宋はそれにてよろしく候いなん。それを本尊にして人の短所を真似る寛政《かんせい》以後の詩人は善《よ》き笑い者に御座候。
『古今集』以後にては『新古今』ややすぐれたりと相見え候。『古今』よりも善き歌を見かけ申候。しかしその善き歌と申すも指折りて数えるほどのことに有之候。定家《ていか》という人は上手か下手か訳の分らぬ人にて、『新古今』の撰定《せんてい》を見れば少しは訳の分《わか》って居るのかと思えば自分の歌にはろくなもの無之「駒《こま》とめて袖《そで》うちはらふ」「見わたせば花も紅葉《もみじ》も」などが人にもてはやさるるくらいのものに有之候。定家を狩野《かのう》派の画師に比すれば探幽《たんゆう》と善く相《あい》似たるかと存候。定家に傑作なく探幽にも傑作なし。しかし定家も探幽も相当に練磨の力はありていかなる場合にもかなりにやりこなし申候。両人の名誉は相如《あいし》くほどの位置に居りて、定家以後歌の門閥を生じ探幽以後画の門閥を生じ、両家とも門閥を生じたる後は歌も画も全く腐敗致候。いつの代いかなる技芸にても歌の格画の格などというような格がきまったらもはや進歩致す間敷《まじく》候。
香川景樹《かがわかげき》は『古今』貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多きこともむろんに候。しかし景樹には善《よ》き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかったのかどうかは分らぬ、ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩して居る点があるということは相違なければ従《したがっ》て景樹に貫之よりも善き歌が出来るというも自然のことと存候。景樹の歌がひどく玉石混淆《ぎょくせきこんこう》であるところは俳人でいうと蓼太《りょうた》に比するが適当と被思《おもわれ》候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具《そな》えた男でその句に両極端が現れ居候。かつ満身の覇気《はき》でもって世人を籠絡《ろうらく》し全国に夥《おびただ》しき門派の末流をもって居たところなども善く似て居るかと存候。景樹を学ぶなら善きところを学ばねばはなはだしき邪路に陥り可申《もうすべく》、今の景樹派などと申すは景樹の俗なところを学びて景樹よりも下手につらね申候。ちぢれ毛の人が束髪《そくはつ》に結びしを善きことと思いて束髪にゆう人はわざわざ毛をちぢらしたらんがごとき趣有之候。ここのところよくよく濶眼《かつがん》を開いて御判別可有《あるべく》候。古今上下東西の文学などよく比較して御覧可被成《なさるべく》、くだらぬ歌書ばかり見て居っては容易に自己の迷《まよい》を醒《さ》ましがたく見るところ狭ければ自分の汽車の動くのを知らで隣の汽車が動くように覚《おぼ》ゆるものに御座候。不尽《ふじん》。〔『日本附録週報』明治三十一年二月十四日〕
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前略。歌よみのごとく馬鹿なのんきなものはまたと無之《これなく》候。歌よみのいうことを聞き候えば、和歌ほど善《よ》きものは他になき由《よし》いつでも誇り申《もうし》候えども、歌よみは歌よりほかのものは何も知らぬゆえに歌が一番善きように自惚《うぬぼれ》候次第に有之《これあり》候。彼らは歌にもっとも近き俳句すら少しも解せず、十七字でさえあれば川柳《せんりゅう》も俳句も同じと思うほどののんきさ加減なれば、まして支那の詩を研究するでもなく西洋には詩というものがあるやらないやらそれも分《わか》らぬ文盲浅学、まして小説や院本《いんぽん》も和歌と同じく文学というものに属すと聞かば定めて目を剥《む》いて驚き可申《もうすべく》候。かく申さば讒謗罵詈《ざんぼうばり》礼を知らぬしれ者と思う人もあるべけれど、実際なれば致方《いたしかた》無之候。もし生《せい》の言《げん》が誤れりと思《おぼ》さばいわゆる歌よみの中よりただの一人にても俳句を解する人を御指名可被下《くださるべく》候。生は歌よみに向《むか》いて何の恨《うらみ》も持たぬにかく罵詈がましき言を放たねばならぬように相成《あいなり》候心のほど御察被下度《おさっしくだされたく》候。
歌を一番善いと申すはもとより理屈もなきことにて一番善い訳は毫《ごう》も無之候。俳句には俳句の長所あり、支那の詩には支那の詩の長所あり、西洋の詩には西洋の詩の長所あり、戯曲、院本には戯曲、院本の長所あり、その長所はもとより和歌の及ぶところにあらず候。理屈は別としたところで一体歌よみは和歌を一番善いものと考えた上でどうするつもりにや、歌が一番善いものならばどうでもこうでも上手でも下手でも三十一文字《みそひともじ》並べさえすりゃ天下第一のものであって、秀逸と称せらるる俳句にも漢詩にも洋詩にも優《まさ》りたるものと思い候ものにや、その量見が聞きたく候。最も下手な歌も最も善き俳句、漢詩等に優り候ほどならば誰も俳句、漢詩等に骨折る馬鹿はあるまじく候。もしまた俳句、漢詩等にも和歌より善きものあり和歌にも俳句、漢詩等より悪《あし》きものありというならば和歌ばかりが一番善きにてもあるまじく候。歌よみの浅見《せんけん》には今更のように呆《あき》れ申候。
俳句には調がなくて和歌には調がある、ゆえに和歌は俳句に勝《まさ》れりとある人は申し候。これはあながち一人の論ではなく歌よみ仲間にはかような説を抱く者多きことと存《ぞんじ》候。歌よみどもはいたく調ということを誤解致居《いたしおり》候。調にはなだらかなる調も有之、迫りたる調も有之候。平和な長閑《のどか》な様《さま》を歌うにはなだらかなる長き調を用うべく、悲哀とか慷慨《こうがい》とかにて情の迫りたる時、または天然にても人事にても景象の活動はなはだしく変化の急なる時これを歌うには迫りたる短き調を用うべきは論ずるまでもなく候。しかるに歌よみは調はすべてなだらかなるものとのみ心得《こころえ》候と相《あい》見え申候。かかる誤《あやまり》を来《きた》すも畢竟《ひっきょう》従来の和歌がなだらかなる調子のみを取り来りしによるものにて、俳句も漢詩も見ず歌集ばかり読みたる歌よみにはしか思わるるも無理ならぬことと存候。さてさて困ったものに御座候。なだらかなる調が和歌の長所ならば迫りたる調が俳句の長所なることは分り申さざるやらん。しかし迫りたる調強き調などいう調の味はいわゆる歌よみには到底分り申す間敷《まじき》か。真淵《まぶち》は雄々《おお》しく強き歌を好み候えども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強きものは少《すくな》く、実朝《さねとも》の歌の雄々しく強きがごときは真淵には一首も見あたらず候。「飛ぶ鷲《わし》の翼もたわに」などいえるは真淵集中の佳什《かじゅう》にて強き方の歌なれども意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。実朝をしてこの意匠を詠ましめばかような調子には詠むまじく候。「もののふの矢なみつくろふ」の歌のごとき鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強きことは並ぶものなくこの歌を誦《しょう》すれば霰《あられ》の音を聞くがごとき心地致候。真淵すでにしかりとせば真淵以下の歌よみは申すまでもなく候。かかる歌よみに蕪村《ぶそん》派の俳句集か盛唐《せいとう》の詩集か読ませたく存候えども、驕《おご》りきったる歌よみどもは宗旨以外の書を読むことは承知致すまじく勧めるだけが野暮《やぼ》にや候べき。
御承知のごとく生は歌よみよりは局外者とか素人《しろうと》とかいわるる身に有之、従って詳しき歌の学問は致さず格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候えども、大体の趣味いかんにおいては自ら信ずるところあり、この点につきてかえって専門の歌よみが不注意を責むるものに御座候。かように悪口をつき申さば生を弥次馬連《やじうまれん》と同様に見る人もあるべけれど、生の弥次馬連なるか否かは貴兄は御承知のことと存候。異論の人あらば何人《なんぴと》にても来訪あるよう貴兄より御伝え被下度三日三夜なりともつづけさまに議論可致《いたすべく》候。熱心の点においては決して普通の歌よみどもには負け不申《もうさず》候。情激し筆走り候まま失礼の語も多かるべく御海容《ごかいよう》可被下候。拝具《はいぐ》。
〔『日本』明治三十一年二月十八日〕
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拝啓。空論ばかりにては傍人《ぼうじん》に解しがたく、実例につきて評せよとの御言葉ごもっともと存《ぞんじ》候。実例と申しても際限もなきことにていずれを取りて評すべきやらんと惑い候えども、なるべく名高きものより試み可申《もうすべく》候。御思いあたりの歌ども御知らせ被下度《くだされたく》候。さて人丸の歌にかありけん
もののふの八十氏川《やそうじがわ》の網代木《あじろぎ》に
いざよふ波のゆくへ知らずも
というがしばしば引きあいに出されるように存候。この歌万葉時代に流行せる一気呵成《いっきかせい》の調にて少しも野卑《やひ》なるところはなく字句もしまり居り候えども、全体の上より見れば上三句は贅物《ぜいぶつ》に属し候。「足引《あしびき》の山鳥の尾の」という歌も前置《まえおき》の詞《ことば》多けれど、あれは前置の詞長きために夜の長き様《さま》を感ぜられ候。これはまた上三句全く役に立ち不申《もうさず》候。この歌を名所の歌の手本に引くは大たわけに御座候。総じて名所の歌というはその地の特色なくては叶《かな》わず、この歌のごとく意味なき名所の歌は名所の歌になり不申候。しかしこの歌を後世の俗気紛々たる歌に比ぶれば勝《まさ》ること万々《ばんばん》に候。かつ、この種の歌は真似《まね》すべきにはあらねど多き中に一首二首あるは面白く候。
月見れば千々《ちぢ》に物こそ悲しけれ
我身《わがみ》一つの秋にはあらねど
という歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難なけれども、下二句は理屈なり蛇足なりと存候。歌は感情を述ぶるものなるに理屈を述ぶるは歌を知らぬゆえにや候らん。この歌下二句が理屈なることは消極的に言いたるにても知れ可申、もし「我身一つの秋と思ふ」と詠むならば感情的なれども、秋ではないがと当り前のことをいわば理屈に陥り申《もうし》候。かような歌を善《よ》しと思うはその人が理屈を得《え》離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず今のいわゆる歌よみどもは多く理屈を並べて楽《たのし》み居《おり》候。厳格に言わばこれらは歌でもなく歌よみでもなく候。
芳野山《よしのやま》霞《かすみ》の奥は知らねども
見ゆる限りは桜なりけり
八田知紀《はったとものり》の名歌とか申候。知紀の家集はいまだ読まねど、これが名歌ならば大概底も見え透《す》き候。これも前のと同じく「霞の奥は知らねども」と消極的に言いたるが理屈に陥り申候。すでに「見ゆる限りは」という上は見えぬところは分らぬがという意味はその裏《うち》に籠《こも》り居り候ものをわざわざ「知らねども」とことわりたる、これが下手と申すものに候。かつこの歌の姿、「見ゆる限りは桜なりけり」などいえるも極めて拙《つたな》く野卑《やひ》なり、前の千里《ちさと》の歌は理屈こそ悪《あし》けれ姿は遥《はるか》に立ちまさり居候。ついでに申さんに消極的に言えば理屈になると申ししこといつでもしかなりというに非ず、客観的の景色を連想していう場合は消極にても理屈にならず、例えば「駒《こま》とめて袖《そで》うち払ふ影もなし」といえるがごときは客観の景色を連想したるまでにてかくいわねば感情を現すあたわざるものなればむろん理屈にては無之《これなく》候。また全体が理屈めきたる歌あり(釈教《しゃっきょう》の歌の類)これらはかえって言いようにて多少の趣味を添うべけれど、この芳野山の歌のごとく全体が客観的すなわち景色なるにその中に主観的理屈の句がまじりては殺風景いわん方なく候。また同人の歌にかありけん
うつせみの我世《わがよ》の限り見るべきは
嵐《あらし》の山の桜なりけり
というが有之《これあり》候由《よし》、さてさて驚き入《い》ったる理屈的の歌にては候よ。嵐山の桜のうつくしいと申すはむろん客観的のことなるにそれをこの歌は理屈的に現したり、この歌の句法は全体理屈的の趣向の時に用うべきものにして、この趣向のごとく客観的にいわざるべからざるところに用いたるは大俗のしわざと相《あい》見え候。「べきは」と係《か》けて「なりけり」と結びたるが最も理屈的殺風景のところに有之候。一生嵐山の桜を見ようというも変なくだらぬ趣向なり、この歌全く取所《とりどころ》無之候。なお手当り次第可申上《もうしあぐべく》候なり。〔『日本』明治三十一年二月二十一日〕
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心あてに見し白雲は麓《ふもと》にて
思はぬ空に晴るる不尽《ふじ》の嶺《ね》
というは春海《はるみ》のなりしやに覚え候。これは不尽の裾《すそ》より見上げし時の即興なるべく、生《せい》も実際にかく感じたることあれば面白き歌と一時は思いしが、今《い》ま見れば拙《つたな》き歌に有之《これあり》候。第一、麓という語いかがや、「心あてに見し」ところは少《すくな》くも半腹《はんぷく》くらいの高さなるべきを、それを麓というべきや疑わしく候。第二、それは善《よ》しとするも「麓にて」の一句理屈ぽくなって面白からず、ただ心あてに見し雲よりは上にありしとばかり言わねばならぬところに候。第三、不尽の高く壮《さかん》なる様《さま》を詠まんとならば今少し力強き歌ならざるべからず、この歌の姿弱くして到底不尽に副《そ》い申さず候。几董《きとう》の俳句に「晴るる日や雲を貫く雪の不尽」というがあり、極めて尋常に叙《じょ》し去りたれども不尽の趣はかえって善く現れ申《もうし》候。
もしほ焼く難波《なにわ》の浦の八重霞《やえがすみ》
一重《ひとえ》はあまのしわざなりけり
契沖《けいちゅう》の歌にて俗人の伝称するものに有之《これあり》候えども、この歌の品下りたることはやや心ある人は承知致居《いたしおる》ことと存《ぞんじ》候。この歌の伝称せらるるは、いうまでもなく八重一重の掛合《かけあわせ》にあるべけれど余の攻撃点もまたここにほかならず、総じて同一の歌にて極めてほめるところと他の人の極めて誹《そし》るところとは同じ点にあるものに候。八重霞というものもとより八段に分《わか》れて霞みたるにあらねば、一重ということ一向に利《き》き不申《もうさず》、また初《はじめ》に「藻汐《もしお》焼《や》く」と置きしゆえ後に煙とも言いかねて「あまのしわざ」と主観的に置きたるところいよいよ俗に堕《お》ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐焚《や》く煙のなびく由《よし》尋常に詠まばつまらぬまでもかかる厭味《いやみ》は出来申間敷《もうすまじく》候。
心あてに折らばや折らむ初霜《はつしも》の
置きまどはせる白菊の花
この躬恒《みつね》の歌「百人一首」にあれば誰も口ずさみ候えども、一文半文のねうちも無之《これなき》駄歌に御座候。この歌は嘘《うそ》の趣向なり、初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなる気遣無之《きづかいこれなく》候。趣向嘘なれば趣も糸瓜《へちま》も有之不申《これありもうさず》、けだしそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。例えば「鵲《かささぎ》のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」面白く候。躬恒のは瑣細《ささい》なことをやたらに仰山《ぎょうさん》に述べたのみなれば無趣味なれども、家持《やかもち》のは全くないことを空想で現わしてみせたるゆえ面白く被感《かんぜられ》候。嘘を詠むなら全くないこととてつもなき嘘を詠むべし、しからざればありのままに正直に詠むが宜《よろ》しく候。雀《すずめ》が舌剪《き》られたとか狸《たぬき》が婆《ばば》に化けたなどの嘘は面白く候。今朝は霜がふって白菊が見えんなどと真面目《まじめ》らしく人を欺《あざむ》く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。「露の落つる音」とか「梅の月が匂《にお》ふ」とかいうことをいうて楽《たのし》む歌よみが多く候えども、これらも面白からぬ嘘に候。すべて嘘というものは一、二度は善《よ》けれど、たびたび詠まれては面白き嘘も面白からず相成《あいなり》申候。まして面白からぬ嘘はいうまでもなく候。「露の音」「月の匂《におい》」「風の色」などはもはや十分なれば今後の歌には再び現れぬよう致したく候。「花の匂」などいうも大方《おおかた》は嘘なり、桜などには格別の匂は無之、「梅の匂」でも『古今』以後の歌よみの詠むように匂い不申候。
春の夜の闇《やみ》はあやなし梅の花
色こそ見えね香《か》やは隠るる
「梅闇に匂ふ」とこれだけで済むことを三十一文字に引きのばしたる御苦労加減は恐れ入《い》ったものなれど、これもこの頃には珍らしきものとして許すべく候わんに、あわれ歌人よ「闇に梅匂ふ」の趣向はもはや打《うち》どめに被成《なされ》てはいかがや。闇の梅に限らず普通の梅の香も『古今集』だけにて十余りもあり、それより今日までの代々の歌よみがよみし梅の香はおびただしく数えられもせぬほどなるに、これも善い加減に打ちとめて香水香料に御用い被成候は格別そのほか歌には一切これを入れぬこととし、鼻つまりの歌人と嘲《あざけ》らるるほどに御遠ざけ被成てはいかがや。小さきことを大きくいう嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。〔『日本』明治三十一年二月二十三日〕
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御書面を見るに愚意《ぐい》を誤解被致《いたされ》候。ことに変なるは御書面中四、五行の間に撞著有之《どうちゃくこれあり》候。初《はじめ》に「客観的景色に重きを措《お》きて詠むべし」とあり、次に「客観的にのみ詠むべきものとも思われず」云々《うんぬん》とあるはいかに。生《せい》は客観的にのみ歌を詠めと申したることは無之《これなく》候。客観に重きをおけと申したることもなけれど、この方は愚意に近きよう覚え候。「皇国の歌は感情を本《もと》として」云々とは何のことに候や。詩歌に限らずすべての文学が感情を本とすることは古今東西相違あるべくも無之、もし感情を本とせずして理屈を本としたるものあらばそれは歌にても文学にてもあるまじく候。ことさらに皇国の歌はなど言わるるは例の歌よりほかに何物も知らぬ歌よみの言《げん》かと被怪《あやしまれ》候。「いずれの世にいずれの人が理屈を読みては歌にあらずと定め候や」とは驚きたる御問《おんとい》に有之候。理屈が文学に非ずとは古今の人東西の人ことごとく一致したる定義にて、もし理屈をも文学なりと申す人あらばそれは大方《おおかた》日本の歌よみならんと存《ぞんじ》候。
客観、主観、感情、理屈の語につきてあるいは愚意を誤解被致居《いたされおる》にや。全く客観的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竢《ま》たず。例えば橋の袂《たもと》に柳が一本風に吹かれて居るということをそのまま歌にせんにはその歌は客観的なれども、もとこの歌を作るというはこの客観的景色を美なりと思いし結果なれば感情に本づくことはもちろんにて、ただうつくしいとか奇麗とかうれしいとか楽しいとかいう語を著《つ》くると著けぬとの相違に候。また主観的と申す内にも感情と理屈との区別有之、生が排斥するは主観中の理屈の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主観の歌は客観の歌と比してこの主客両観の相違の点より優劣をいうべきにあらず、されば生は客観に重きをおく者にても無之候。但《ただし》和歌俳句のごとき短きものには主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じ居《おり》候えば、客観に重きをおくというもここのことを意味すると見れば差支《さしつかえ》無之候。また主観客観の区別、感情理屈の限界は実際判然したるものに非ずとの御論はごもっともに候。それゆえに善悪可否巧拙と評するももとより劃然《かくぜん》たる区別あるに非ず、巧の極端と拙の極端とは毫《ごう》も紛《まぎ》るるところあらねど巧と拙との中間にあるものは巧とも拙とも申し兼《かね》候。感情と理屈の中間にあるものはこの場合に当り申《もうし》候。
「同じ用語同じ花月にてもそれに対する吾人《ごじん》の観念と古人のと相違すること珍しからざることにて」云々、それはもちろんのことなれどそんなことは生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を忖度《そんたく》するの必要無之、ただここにては古今東西に通ずる文学の標準(自らかく信じ居る標準なり)をもって文学を論評するものに有之候。昔は風帆船《ふうはんせん》が早かった時代もありしかど、蒸気船を知りて居る眼より見れば風帆船は遅しと申すが至当の理に有之、貫之《つらゆき》は貫之時代の歌の上手とするも前後の歌よみを比較して貫之より上手の者ほかに沢山有之《たくさんこれあり》と思わば、貫之を下手と評することまた至当に候。歴史的に貫之を褒めるならば生もあながち反対にては無之候えども、ただ今の論は歴史的にその人物を評するにあらず、文学的にその歌を評するが目的に有之候。
「日本文学の城壁とも謂《い》うべき国歌」云々とは何事ぞ。代々の勅撰集《ちょくせんしゅう》のごときものが日本文学の城壁ならば実に頼み少《すくな》き城壁にて、かくのごとき薄ッぺらな城壁は大砲一発にて滅茶滅茶に砕け可申《もうすべく》候。生は国歌を破壊し尽すの考《かんがえ》にては無之、日本文学の城壁を今少し堅固に致したく、外国の髯《ひげ》づらどもが大砲を発《はな》とうが地雷火を仕掛けようがびくとも致さぬほどの城壁に致したき心願《しんがん》有之、しかも生を助けてこの心願を成就せしめんとする大檀那《おおだんな》は天下一人もなく数年来鬱積《うっせき》沈滞せるもの頃日《けいじつ》ようやく出口を得たることとて前後《ぜんご》錯雑《さくざつ》序次《じょじ》倫《りん》なく大言《たいげん》疾呼《しっこ》我ながら狂せるかと存候ほどの次第に御座候。傍人より見なば定めて狂人の言とさげすまるることと存候。なおこのたび新聞の余白を借り伝えたるを機とし思うさま愚考も述べたく、それだけにては愚意分《わか》りかね候に付《つき》愚作をも連ねて御評願いたく存居《ぞんじおり》候えども、あるいは先輩諸氏の怒《いかり》に触れて差止《さしと》めらるるようなことはなきかとそれのみ心配罷在《まかりあり》候。心配、恐懼《きょうく》、喜悦、感慨、希望等に悩まされて従来の病体ますます神経の過敏を致し日来《ひごろ》睡眠に不足を生じ候次第愚とも狂とも御笑い可被下《くださるべく》候。
従来の和歌をもって日本文学の基礎とし城壁となさんとするは弓矢剣槍《けんそう》をもって戦わんとすると同じことにて明治時代に行わるべきことにては無之候。今日軍艦を購《あがな》い大砲を購い巨額の金を外国に出すも畢竟《ひっきょう》日本国を固むるにほかならず、されば僅少《きんしょう》の金額にて購い得べき外国の文学思想などは続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。生は和歌につきても旧思想を破壊して新思想を注文するの考《かんがえ》にて、したがって用語は雅語、俗語、漢語、洋語、必要次第用うるつもりに候。委細後便《こうびん》。
追《おっ》て 「伊勢の神風、宇佐の神勅《しんちょく》」云々の語あれども文学には合理非合理を論ずべきものにては無之《これなく》、従って非合理は文学に非ずと申したること無之候。非合理のことにて文学的には面白きこと不少《すくなからず》候。生の写実と申すは合理非合理、事実非事実の謂《いい》にては無之候。油画師は必ず写生に依《よ》り候えどもそれで神や妖怪《ようかい》やあられもなきことを面白く画き申候。しかし神や妖怪を画くにももちろん写生に依《よ》るものにて、ただありのままを写生すると一部一部の写生を集めるとの相違に有之、生の写実も同様のことに候。これらは大誤解に候。
〔『日本』明治三十一年二月二十四日〕
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前便に言い残し候こと今少し申上《もうしあげ》候。宗匠的俳句と言えばただちに俗気を連想するがごとく、和歌といえばただちに陳腐を連想致《いたし》候が年来の習慣にて、はては和歌という字は陳腐という意味の字のごとく思われ申候。かく感ずる者和歌社会には無之《これなし》と存《ぞんじ》候えど歌人ならぬ人は大方《おおかた》かようの感を抱き候やに承り候。おりおりは和歌を誹《そし》る人に向《むか》いてさて和歌はいかように改良すべきかと尋ね候えばその人が首をふっていやとよ和歌は腐敗し尽したるにいかでか改良の手だてあるべき置きね置きねなど言いはなし候様はあたかも名医が匙《さじ》を投げたる死際《しにぎわ》の病人に対するがごとき感を持ち居《おり》候ものと相《あい》見え申候。実《げ》にも歌は色青ざめ呼吸絶えんとする病人のごとくにも有之《これあり》候よ。さりながら愚考はいたく異なり、和歌の精神こそ衰えたれ形骸《けいがい》はなお保つべし、今にして精神を入れ替えなば再び健全なる和歌となりて文壇に馳駆《ちく》するを得《う》べきことを保証致候。こはいわでものことなるをある人がはやこと切れたる病人と一般に見做《みな》し候はいかにも和歌の腐敗のはなはだしきに呆《あき》れて一見して抛棄《ほうき》したるものにや候べき。和歌の腐敗のはなはだしさもこれにて大方知れ可申《もうすべく》候。
この腐敗と申すは趣向の変化せざるが原因にて、また趣向の変化せざるは用語の少《すくな》きが原因と被存《ぞんぜられ》候。ゆえに趣向の変化を望まば是非《ぜひ》とも用語の区域を広くせざるべからず、用語多くなれば従って趣向も変化可致《いたすべく》候。ある人が生《せい》を目《もく》して和歌の区域を狭くする者と申し候は誤解にて、少しにても広くするが生の目的に御座候。とはいえいかに区域を広くするとも非文学的思想は容《い》れ不申《もうさず》、非文学的思想とは理屈のことに有之《これあり》候。
外国の語も用いよ外国に行わるる文学思想も取れよと申すことにつきて日本文学を破壊するものと思惟《しい》する人も有之げに候えども、それはすでに根本において誤り居候。たとい漢語の詩を作るとも洋語の詩を作るとも、はたサンスクリットの詩を作るとも日本人が作りたる上は日本の文学に相違無之候。唐制に摸《も》して位階も定め服色も定め年号も定めおき唐《から》ぶりたる冠衣《かんい》を著《つ》け候とも日本人が組織したる政府は日本政府と可申候。英国の軍艦を買い独国の大砲を買いそれで戦《いくさ》に勝ちたりとも運用したる人にして日本人ならば日本の勝《かち》と可申候。しかし外国の物を用うるはいかにも残念なれば日本固有の物を用いんとの考《かんがえ》ならばその志には賛成致候えども、とても日本の物ばかりでは物の用に立つまじく候。文学にても馬、梅、蝶、菊、文等の語をはじめ一切の漢語を除き候わばいかなるものが出来《いでき》候べき。『源氏物語』『枕草子《まくらのそうし》』以下漢語を用いたるものを排斥致し候わば日本文学はいくばくか残り候べき。それでも痩《やせ》我慢に歌ばかりは日本固有の語にて作らんと決心したる人あらばそは御勝手次第ながら、それをもって他人を律するは無用のことに候。日本人が皆日本固有の語を用うるに至らば日本は成り立つまじく、日本文学者が皆日本固有の語を用いたらば日本文学は破滅可致《いたすべく》候。
あるいは姑息《こそく》にも馬、梅、蝶、菊、文等の語はいと古き代より用い来《きた》りたれば日本語と見做《みな》すべしなどいう人も可有之《これあるべく》候えど、いと古き代の人はその頃新しく輸入したる語を用いたるものにてこの姑息論者が当時に生れ居らばそれをも排斥致し候いけん。いと笑うべき撞着《どうちゃく》に御座候。仮に姑息論者に一歩を借して古き世に使いし語をのみ用うるとして、もし王朝時代に用いし漢語だけにても十分にこれを用いなばなお和歌の変化すべき余地は多少可有之候。されど歌の詞《ことば》と物語の詞とは自《おのずか》ら別なり、物語などにある詞にて歌には用いられぬが多きなど例の歌よみは可申《もうすべく》候。何たる笑うべきことには候ぞや。いかなる詞にても美の意を運ぶに足るべきものは皆歌の詞と可申、これをほかにして歌の詞というものは無之《これなく》候。漢語にても洋語にても文学的に用いられなば皆歌の詞と可申候。〔『日本』明治三十一年二月二十八日〕
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悪《あし》き歌の例を前に挙げたれば善《よ》き歌の例をここに挙げ可申《もうすべく》候。悪き歌といい善き歌というも四つや五つばかりを挙げたりとて愚意《ぐい》を尽すべくも候わねど、無きには勝《まさ》りてんといささか列《つら》ね申《もうし》候。まず『金槐《きんかい》和歌集』などより始め申さんか。
武士《もののふ》の矢並《やなみ》つくろふ小手の上に霰《あられ》たばしる那須の篠原《しのはら》
という歌は万口《ばんこう》一斉《いっせい》に歎賞《たんしょう》するように聞き候えば今更《いまさら》取りいでていわでものことながらなお御気《おき》のつかれざることもやと存《ぞんじ》候まま一応申上《もうしあげ》候。この歌の趣味は誰しも面白しと思うべく、またかくのごとき趣向が和歌には極めて珍しきことも知らぬ者はあるまじく、またこの歌が強き歌なることも分《わか》り居り候えども、この種の句法がほとんどこの歌に限るほどの特色をなし居るとは知らぬ人ぞ多く候べき。普通に歌は「なり」、「けり」、「らん」、「かな」、「けれ」などのごとき助辞をもって斡旋《あっせん》せらるるにて名詞の少《すくな》きが常なるに、この歌に限りては名詞極めて多く「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の最《もっとも》短き形)居《おり》候。かくのごとく必要なる材料をもって充実したる歌は実に少《すくな》く候。『新古今』の中には材料の充実したる句法の緊密なる、ややこの歌に似たるものあれど、なおこの歌のごとくは語々活動せざるを覚え候。『万葉』の歌は材料極めて少く簡単をもって勝るもの、実朝《さねとも》一方にはこの『万葉』を擬し、一方にはかくのごとく破天荒《はてんこう》の歌をなす、その力量実に測るべからざるもの有之《これあり》候。また晴を祈る歌に
時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ
というがあり、恐らくは世人の好まざるところと存《ぞんじ》候えども、こは生《せい》の好きで好きでたまらぬ歌に御座候。かくのごとく勢《いきおい》強き恐ろしき歌はまたと有之間敷《これあるまじく》、八大竜王を叱咤《しった》するところ竜王も懾伏《しょうふく》致すべき勢相《あい》現れ申《もうし》候。八大竜王と八字の漢語を用いたるところ「雨やめたまへ」と四三の調《ちょう》を用いたるところ皆この歌の勢を強めたるところにて候。初三句は極めて拙《つたな》き句なれどもその一直線に言い下して拙きところかえってその真率《しんそつ》偽《いつわ》りなきを示して祈晴《きせい》の歌などには最も適当致居《いたしおり》候。実朝はもとより善き歌作らんとてこれを作りしにもあらざるべく、ただ真心より詠み出《い》でたらんがなかなかに善き歌とは相成り候いしやらん。ここらは手のさきの器用を弄《ろう》し言葉のあやつりにのみ拘《こだわ》る歌よみどもの思い至らぬ場所に候。三句切《ぎれ》のことはなお他日詳《つまびらか》に可申《もうすべく》候えども三句切の歌にぶっつかり候ゆえ一言致置《いたしおき》候。三句切の歌詠むべからずなどいうは守株《しゅしゅ》の論にて論ずるに足らず候えども三句切の歌は尻《しり》軽くなるの弊《へい》有之候。この弊を救うために下二句の内を字余りにすることしばしば有之、この歌もその一にて(前に挙げたる大江千里《おおえのちさと》の「月見れば」の歌もこの例。なおそのほかにも数え尽すべからず)候。この歌のごとく下を字余りにする時は三句切にしたる方かえって勢強く相成申《あいなりもうし》候。取りも直さずこの歌は三句切の必要を示したるものに有之《これあり》候。また
物いはぬよものけだものすらだにもあはれなるかな親の子を思ふ
のごとき何も別にめずらしき趣向もなく候えども、一気呵成《いっきかせい》のところかえって真心を現して余りあり候。ついでに字余りのこと一寸《ちょっと》申候。この歌は第五句字余りゆえに面白く候。ある人は字余りとは余儀なくするものと心得候えどもさにあらず、字余りにはおよそ三種あり、第一、字余りにしたるがために面白きもの、第二、字余りにしたるがため悪《あし》きもの、第三、字余りにするともせずとも可なるものと相分《わか》れ申候。その中にもこの歌は字余りにしたるがため面白きものに有之候。もし「思ふ」というをつめて「もふ」など吟じ候わんには興味索然《さくぜん》と致し候。ここは必ず八字に読むべきにて候。またこの歌の最後の句にのみ力を入れて「親の子を思ふ」とつめしは情の切なるを現すものにて、もし「親の」の語を第四句に入れ最後の句を「子を思ふかな」「子や思ふらん」など致し候わば例のやさしき調となりて切なる情は現れ不申《もうさず》、従って平凡なる歌と相成可申《もうすべく》候。歌よみは古来助辞を濫用《らんよう》致し候様、宋人の虚字を用いて弱き詩を作るに一般に御座候。実朝のごときは実に千古の一人と存候。
前日来生《せい》は客観詩をのみ取る者と誤解被致《いたされ》候いしも、そのしからざるは右の例にて相分り可申那須の歌は純客観、後の二首は純主観にてともに愛誦《あいしょう》するところに有之。しかしこの三首ばかりにては強き方に偏し居候えばあるいはまた強き歌をのみ好むかと被考《かんがえられ》候わん。なお多少の例歌を挙ぐるを御待可被下《まちくださるべく》候。〔『日本』明治三十一年三月一日〕
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一々に論ぜんもうるさければただ二、三首を挙げおきて『金槐《きんかい》集』以外に遷《うつ》り候べく候。
山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも
箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ
世の中はつねにもがもななぎさ漕《こ》ぐ海人《あま》の小舟《おぶね》の綱手《つなで》かなしも
大海《おおうみ》のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも
「箱根路」の歌極めて面白けれども、かかる想は今古に通じたる想なれば実朝《さねとも》がこれを作りたりとて驚くにも足らず、ただ「世の中は」の歌のごとく古意古調なるものが『万葉』以後においてしかも華麗を競うたる『新古今』時代において作られたる技量には驚かざるを得ざる訳にて、実朝の造詣《ぞうけい》の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候わん。
『新古今』に移りて二、三首を挙げんに
なごの海の霞《かすみ》のまよりながむれば入日《いりひ》を洗ふ沖つ白波 (実定《さねさだ》)
この歌のごとく客観的に景色を善《よ》く写したるものは『新古今』以前にはあらざるべく、これらもこの集の特色として見るべきものに候。惜《おし》むらくは「霞のまより」という句が疵《きず》にて候。一面にたなびきたる霞に間というも可笑《おか》しく、よし間ありともそれはこの趣向に必要ならず候。入日も海も霞みながらに見ゆるこそ趣は候なれ。
ほのぼのと有明の月の月影は紅葉吹きおろす山おろしの風 (信明)
これも客観的の歌にて、けしきも淋《さび》しく艶《えん》なるに語を畳みかけて調子取りたるところ、いとめずらかに覚え候。
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵《いお》を並べん冬の山里 (西行《さいぎょう》)
西行の心はこの歌に現れ居《おり》候。「心なき身にも哀れは知られけり」などいう露骨的の歌が世にもてはやされてこの歌などはかえって知る人少《すくな》きも口惜《くちおし》く候。「庵を並べん」というがごとき斬新《ざんしん》にして趣味ある趣向は西行ならでは得《え》言わざるべく特に「冬の」と置きたるもまた尋常歌よみの手段にあらずと存《ぞんじ》候。後年芭蕉《ばしょう》が新《あらた》に俳諧《はいかい》を興せしも寂《さび》は「庵を並べん」などより悟入《ごにゅう》し季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと被思《おもわれ》候。
閨《ねや》の上にかたえさしおほひ外面《とのも》なる葉広柏《はびろがしわ》に霰《あられ》ふるなり (能因《のういん》)
これも客観的の歌に候。上三句複雑なる趣を現さんとてやや混雑に陥りたれど、葉広柏に霰のはじく趣は極めて面白く候。
岡の辺《べ》の里のあるじを尋ぬれば人は答へず山おろしの風 (慈円《じえん》)
趣味ありて句法もしっかりと致し居候。この種の歌の第四句を「答へで」などいうがごとく下に連続する句法となさば何の面白味も無之《これなく》候。
さざ波や比良《ひら》山風の海吹けば釣する蜑《あま》の袖《そで》かへる見ゆ (読人しらず)
実景をそのままに写し、些《さ》の巧を弄《もてあそ》ばぬところかえって興多く候。
神風や玉串《たまぐし》の葉をとりかざし内外《うちと》の宮に君をこそ祈れ (俊恵《しゅんえ》)
神祇《じんぎ》の歌といえば千代の八千代のと定文句《きまりもんく》を並ぶるが常なるにこの歌はすっぱりと言いはなしたるなかなかに神の御心にかなうべく覚え候。句のしまりたるところ半ば客観的に叙《じょ》したるところなど注意すべく「神風や」の五字も訳なきようなれど極めて善く響き居候。
阿耨多羅三藐三菩提《あのくたらさんみゃくさんぼだい》の仏たちわが立つ杣《そま》に冥加あらせたまへ (伝教《でんぎょう》)
いとめでたき歌にて候。長句の用い方など古今未曾有《みぞう》にてこれを詠みたる人もさすがなれどこの歌を勅撰集《ちょくせんしゅう》に加えたる勇気も称するに足るべくと存候。第二句十字の長句ながら成語なればさまで口にたまらず、第五句九字にしたるはことさらとにもあらざるべけれど、このところはことさらにも九字くらいにする必要有之《これあり》、もし七字句などをもって止めたらんには上の十字句に対して釣合《つりあい》取れ不申《もうさず》候。初めの方に字余りの句あるがために後にも字余りの句を置かねばならぬ場合はしばしば有之候。もし字余りの句は一句にても少きが善しなどいう人は字余りの趣味を解せざるものにや候べき。〔『日本』明治三十一年三月三日〕
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先輩崇拝ということはいずれの社会にも有之《これあり》候。それも年長者に対し元勲《げんくん》に対し相当の敬礼を尽すの意ならば至当のことなれども、それと同時に何かは知らずその人の力量技術を崇拝するに至りては愚の至りに御座候。田舎の者などは御歌所《おうたどころ》といえばえらい歌人の集《あつま》り、御歌所長といえば天下第一の歌よみのように考え、従ってその人の歌と聞けば読まぬ内からはや善《よ》きものと定め居るなどありうちのことにて生《せい》も昔はその仲間の一人に候いき。今より追想すれば赤面するほどのことに候。御歌所とてえらい人が集まるはずもなく御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐《すわ》るにもあらざるべく候。今日は歌よみなる者皆無《かいむ》の時なれどそれでも御歌所連より上手なる歌よみならば民間に可有之《これあるべく》候。田舎の者が元勲を崇拝し大臣をえらい者に思い政治上の力量も識見も元勲大臣が一番に位する者と迷信致《いたし》候結果、新聞記者などが大臣を誹《そし》るを見て「いくら新聞屋が法螺《ほら》吹いたとて、大臣は親任官、新聞屋は素寒貧《すかんぴん》、月と泥亀《すっぽん》ほどの違いだ」などと罵《ののし》り申《もうし》候。少し眼のある者は元勲がどれくらい無能力かということ大臣は廻《まわ》り持《もち》にて新聞記者より大臣に上りし実例あることくらいは承知致し説き聞かせ候えども、田舎の先生は一向無頓着《むとんちゃく》にて不相変《あいかわらず》元勲崇拝なるも腹立たしき訳に候。あれほど民間にてやかましくいう政治の上なおしかりとすれば今まで隠居したる歌社会に老人崇拝の田舎者多きも怪《あやし》むに足らねども、この老人崇拝の弊を改めねば歌は進歩不可致《いたすべからず》候。歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賤《きせん》も無之《これなく》候。歌よまんとする少年あらば老人などにかまわず勝手に歌を詠むが善かるべくと御伝言可被下《くださるべく》候。明治の漢詩壇が振《ふる》いたるは老人そちのけにして青年の詩人が出たるゆえに候。俳句の観を改めたるも月並連《つきなみれん》に構わず思う通りを述べたる結果にほかならず候。
縁語を多く用うるは和歌の弊なり、縁語も場合によりては善けれど普通には縁語かけ合《あわ》せなどあればそれがために歌の趣を損ずるものに候。よし言いおおせたりとてこの種の美は美の中の下等なるものと存《ぞんじ》候。むやみに縁語を入れたがる歌よみはむやみに地口《じぐち》駄洒落《だじゃれ》を並べたがる半可通《はんかつう》と同じく御当人は大得意なれども側《はた》より見れば品の悪きこと夥《おびただ》しく候。縁語に巧を弄《ろう》せんよりは真率《しんそつ》に言いながしたるがよほど上品に相《あい》見え申《もうし》候。
歌というといつでも言葉の論が出るには困り候。歌では「ぼたん」とは言わず「ふかみぐさ」と詠むが正当なりとか、この詞《ことば》はこうは言わず必ずこういうしきたりのものぞなど言わるる人有之《これあり》候えどもそれは根本においてすでに愚考と異《ことな》り居《おり》候。愚考は古人のいうた通りに言わんとするにてもなく、しきたりに倣《なら》わんとするにてもなくただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るように現すが本来の主意に御座候。ゆえに俗語を用いたる方その美感を現すに適せりと思わば雅語を捨てて俗語を用い可申《もうすべく》、また古来のしきたりの通りに詠むことも有之《これあり》候えど、それはしきたりなるがゆえにそれを守りたるにては無之《これなく》、その方が美感を現すに適せるがためにこれを用いたるまでに候。古人のしきたりなど申せども、その古人は自分が新《あらた》に用いたるぞ多く候べき。
牡丹《ぼたん》と深見草《ふかみぐさ》との区別を申さんに生《せい》らには深見草というよりも牡丹という方が牡丹の幻影早く著《いちじるし》く現れ申候。かつ「ぼたん」という音の方が強くして、実際の牡丹の花の大きく凜《りん》としたるところに善く副《そ》い申候。ゆえに客観的に牡丹の美を現さんとすれば牡丹と詠むが善き場合多かるべく候。
新奇なることを詠めというと汽車、鉄道などいういわゆる文明の器械を持ち出す人あれど大《おおい》に量見が間違い居候。文明の器械は多く不風流《ぶふうりゅう》なるものにて歌に入りがたく候えども、もしこれを詠まんとならば他に趣味あるものを配合するのほか無之候。それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極《きわみ》に候。せめてはレールの傍《かたわら》に菫《すみれ》が咲いて居るとか、または汽車の過ぎた後で罌粟《けし》が散るとか薄《すすき》がそよぐとか言うように他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。また殺風景なるものは遠望する方宜《よろ》しく候。菜の花の向《むこ》うに汽車が見ゆるとか、夏草の野末を汽車が走るとかするがごときも殺風景を消す一手段かと存候。
いろいろ言いたきまま取り集めて申上《もうしあげ》候。なお他日詳《つまびら》かに申上ぐる機会も可有之《これあるべく》候。以上。月日。〔『日本』明治三十一年三月四日〕
底本:「子規選集 第七巻 子規の短歌革新」増進会出版社
2002(平成14)年4月12日初版第1刷発行
初出:歌よみに与ふる書「日本」日本新聞社
1898(明治31)年2月12日
再び歌よみに与ふる書「日本附録週報」
1898(明治31)年2月14日
三たび歌よみに与ふる書「日本」日本新聞社
1898(明治31)年2月18日
四たび歌よみに与ふる書「日本」日本新聞社
1898(明治31)年2月21日
五たび歌よみに与ふる書「日本」日本新聞社
1898(明治31)年2月23日
六たび歌よみに与ふる書「日本」日本新聞社
1898(明治31)年2月24日
七たび歌よみに与ふる書「日本」日本新聞社
1898(明治31)年2月28日
八たび歌よみに与ふる書「日本」日本新聞社
1898(明治31)年3月1日
九たび歌よみに与ふる書「日本」日本新聞社
1898(明治31)年3月3日
十たび歌よみに与ふる書「日本」日本新聞社
1898(明治31)年3月4日
※「八たび歌よみに与ふる書」の章末に〔本巻所収の文では、この時から子規は上の句と下の句とを別行に書く形を廃しているので、以下、短歌は一行に組んでいる〕とあるので、短歌の組み方が「八たび歌よみに与ふる書」以前と以降で異なるのは、底本通りです。
入力:kompass
校正:高瀬竜一
2016年6月10日作成
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