Comments
Loading Translate Section...Loading Comment Form...
Loading Comment Form...
「参謀本部《さんぼうほんぶ》編纂《へんさん》の地図《ちづ》を又《また》繰開《くりひら》いて見《み》るでもなからう、と思《おも》つたけれども、余《あま》りの道《みち》ぢやから、手《て》を触《さは》るさへ暑《あつ》くるしい、旅《たび》の法衣《ころも》の袖《そで》をかゝげて、表紙《へうし》を附《つ》けた折本《をりほん》になつてるのを引張《ひつぱ》り出《だ》した。
飛騨《ひだ》から信州《しんしう》へ越《こ》える深山《しんざん》の間道《かんだう》で、丁度《ちやうど》立休《たちやす》らはうといふ一本《いつぽん》の樹立《こだち》も無《な》い、右《みぎ》も左《ひだり》も山《やま》ばかりぢや、手《て》を伸《の》ばすと達《とゞ》きさうな峯《みね》があると、其《そ》の峯《みね》へ峯《みね》が乗《の》り巓《いたゞき》が被《かぶ》さつて、飛《と》ぶ鳥《とり》も見《み》えず、雲《くも》の形《かたち》も見《み》えぬ。
道《みち》と空《そら》との間《あひだ》に唯《たゞ》一人《ひとり》我《わし》ばかり、凡《およ》そ正午《しやうご》と覚《おぼ》しい極熱《ごくねつ》の太陽《たいやう》の色《いろ》も白《しろ》いほどに冴《さ》え返《かへ》つた光線《くわうせん》を、深々《ふか/″\》と頂《いたゞ》いた一重《ひとへ》の檜笠《ひのきがさ》に凌《しの》いで、恁《か》う図面《づめん》を見《み》た。」
旅僧《たびそう》は然《さ》ういつて、握拳《にぎりこぶし》を両方《りやうはう》枕《まくら》に乗《の》せ、其《それ》で額《ひたひ》を支《さゝ》へながら俯向《うつむ》いた。
道連《みちづれ》になつた上人《しやうにん》は、名古屋《なごや》から此《こ》の越前《えちぜん》敦賀《つるが》の旅籠屋《はたごや》に来《き》て、今《いま》しがた枕《まくら》に就《つ》いた時《とき》まで、私《わたし》が知《し》つてる限《かぎ》り余《あま》り仰向《あふむ》けになつたことのない、詰《つま》り傲然《がうぜん》として物《もの》を見《み》ない質《たち》の人物《じんぶつ》である。
一体《いつたい》東海道《とうかいだう》掛川《かけがは》の宿《しゆく》から同《おなじ》汽車《きしや》に乗《の》り組《く》んだと覚《おぼ》えて居《ゐ》る、腰掛《こしかけ》の隅《すみ》に頭《かうべ》を垂《た》れて、死灰《しくわい》の如《ごと》く控《ひか》へたから別段《べつだん》目《め》にも留《と》まらなかつた。
尾張《をはり》の停車場《ステーシヨン》で他《た》の乗組員《のりくみゐん》は言合《いひあ》はせたやうに、不残《のこらず》下《お》りたので、函《はこ》の中《なか》には唯《たゞ》上人《しやうにん》と私《わたし》と二人《ふたり》になつた。
此《こ》の汽車《きしや》は新橋《しんばし》を昨夜《さくや》九時半《くじはん》に発《た》つて、今夕《こんせき》敦賀《つるが》に入《はい》らうといふ、名古屋《なごや》では正午《ひる》だつたから、飯《めし》に一折《ひとをり》の鮨《すし》を買《かつ》た。旅僧《たびそう》も私《わたし》と同《おなじ》く其《そ》の鮨《すし》を求《もと》めたのであるが、蓋《ふた》を開《あ》けると、ばら/\と海苔《のり》が懸《かゝ》つた、五目飯《ちらし》の下等《かとう》なので。
(やあ、人参《にんじん》と干瓢《かんぺう》ばかりだ、)と踈匆《そゝ》ツかしく絶叫《ぜつけう》した、私《わたし》の顔《かほ》を見《み》て旅僧《たびそう》は耐《こら》へ兼《か》ねたものと見《み》える、吃々《くつ/\》と笑《わら》ひ出《だ》した、固《もと》より二人《ふたり》ばかりなり、知己《ちかづき》にはそれから成《な》つたのだが、聞《き》けば之《これ》から越前《ゑちぜん》へ行《い》つて、派《は》は違《ちが》ふが永平寺《えいへいじ》に訪《たづ》ねるものがある、但《たゞ》し敦賀《つるが》に一泊《いつぱく》とのこと。
若狭《わかさ》へ帰省《きせい》する私《わたし》もおなじ処《ところ》で泊《とま》らねばならないのであるから、其処《そこ》で同行《どうかう》の約束《やくそく》が出来《でき》た。
渠《かれ》は高野山《かうやさん》に籍《せき》を置《お》くものだといつた、年配《ねんぱい》四十五六《しじふごろく》、柔和《にうわ》な、何等《なんら》の奇《き》も見《み》えぬ、可懐《なつかし》い、おとなしやかな風采《とりなり》で、羅紗《らしや》の角袖《かくそで》の外套《ぐわいたう》を着《き》て、白《しろ》のふらんねるの襟巻《えりまき》を占《し》め、土耳古形《とるこがた》の帽《ばう》を冠《かむ》り、毛糸《けいと》の手袋《てぶくろ》を箝《は》め、白足袋《しろたび》に、日和下駄《ひよりげた》で、一見《いつけん》、僧侶《そうりよ》よりは世《よ》の中《なか》の宗匠《そうしやう》といふものに、其《それ》よりも寧《むし》ろ俗《ぞく》歟《か》。
(お泊《とま》りは何方《どちら》ぢやな、)といつて聞《き》かれたから、私《わたし》は一人旅《ひとりたび》の旅宿《りよしゆく》の詰《つま》らなさを、染々《しみ/″\》歎息《たんそく》した、第一《だいいち》盆《ぼん》を持《も》つて女中《ぢよちう》が坐睡《ゐねむり》をする、番頭《ばんとう》が空世辞《そらせじ》をいふ、廊下《らうか》を歩行《ある》くとじろ/\目《め》をつける、何《なに》より最《もつと》も耐《た》へ難《がた》いのは晩飯《ばんめし》の支度《したく》が済《す》むと、忽《たちま》ち灯《あかり》を行燈《あんどう》に換《か》へて、薄暗《うすぐら》い処《ところ》でお休《やす》みなさいと命令《めいれい》されるが、私《わたし》は夜《よ》が更《ふ》けるまで寝《ね》ることが出来《でき》ないから、其間《そのあひだ》の心持《こゝろもち》といつたらない、殊《こと》に此頃《このごろ》の夜《よ》は長《なが》し、東京《とうきやう》を出《で》る時《とき》から一晩《ひとばん》の泊《とまり》が気《き》になつてならない位《くらゐ》、差支《さしつか》へがなくば御僧《おんそう》と御一所《ごいつしよ》に。
快《こゝろよ》く頷《うなづ》いて、北陸地方《ほくりくちはう》を行脚《あんぎや》の節《せつ》はいつでも杖《つゑ》を休《やす》める香取屋《かとりや》といふのがある、旧《もと》は一軒《いつけん》の旅店《りよてん》であつたが、一人女《ひとりむすめ》の評判《ひやうばん》なのがなくなつてからは看板《かんばん》を外《はづ》した、けれども昔《むかし》から懇意《こんい》な者《もの》は断《ことは》らず留《とめ》て、老人夫婦《としよりふうふ》が内端《うちは》に世話《せわ》をして呉《く》れる、宜《よろ》しくば其《それ》へ。其代《そのかはり》といひかけて、折《をり》を下《した》に置《お》いて、
(御馳走《ごちそう》は人参《にんじん》と干瓢《かんぺう》ばかりぢや。)
と呵々《から/\》と笑つた、慎深《つゝしみふか》さうな打見《うちみ》よりは気《き》の軽《かる》い。
岐阜《ぎふ》では未《ま》だ蒼空《あをそら》が見《み》えたけれども、後《あと》は名《な》にし負《お》ふ北国空《ほくこくぞら》、米原《まいばら》、長浜《ながはま》は薄曇《うすぐもり》、幽《かすか》に日《ひ》が射《さ》して、寒《さむ》さが身《み》に染《し》みると思《おも》つたが、柳《やな》ヶ瀬《せ》では雨《あめ》、汽車《きしや》の窓《まど》が暗《くら》くなるに従《したが》ふて、白《しろ》いものがちら/\交《まじ》つて来《き》た。
(雪《ゆき》ですよ。)
(然《さ》やうぢやな。)といつたばかりで別《べつ》に気《き》に留《と》めず、仰《あふ》いで空《そら》を見《み》やうともしない、此時《このとき》に限《かぎ》らず、賤《しづ》ヶ岳《たけ》が、といつて古戦場《こせんぢやう》を指《さ》した時《とき》も、琵琶湖《びはこ》の風景《ふうけい》を語《かた》つた時《とき》も、旅僧《たびそう》は唯《たゞ》頷《うなづ》いたばかりである。
敦賀《つるが》で悚毛《おぞけ》の立《た》つほど煩《わづら》はしいのは宿引《やどひき》の悪弊《あくへい》で、其日《そのひ》も期《き》したる如《ごと》く、汽車《きしや》を下《お》りると停車場《ステーシヨン》の出口《でぐち》から町端《まちはな》へかけて招《まね》きの提灯《ちやうちん》、印傘《しるしかさ》の堤《つゝみ》を築《きづ》き、潜抜《くゞりぬ》ける隙《すき》もあらなく旅人《たびびと》を取囲《とりかこ》んで、手《て》ン手《で》に喧《かまびす》しく己《おの》が家号《やがう》を呼立《よびた》てる、中《なか》にも烈《はげ》しいのは、素早《すばや》く手荷物《てにもつ》を引手繰《ひツたぐ》つて、へい有難《ありがた》う様《さま》で、を喰《くら》はす、頭痛持《づゝうもち》は血《ち》が上《のぼ》るほど耐《こら》へ切《き》れないのが、例《れい》の下《した》を向《む》いて悠々《いう/\》と小取廻《ことりまはし》に通抜《とほりぬ》ける旅僧《たびそう》は、誰《たれ》も袖《そで》を曳《ひ》かなかつたから、幸《さいはひ》其後《そのあと》に跟《つ》いて町《まち》へ入《はい》つて、吻《ほツ》といふ息《いき》を吐《つ》いた。
雪《ゆき》は小止《をやみ》なく、今《いま》は雨《あめ》も交《まじ》らず乾《かわ》いた軽《かる》いのがさら/\と面《おも》を打《う》ち、宵《よひ》ながら門《もん》を鎖《とざ》した敦賀《つるが》の町《まち》はひつそりして一条《すぢ》二条《すぢ》縦横《たてよこ》に、辻《つじ》の角《かど》は広々《ひろ/″\》と、白《しろ》く積《つも》つた中《なか》を、道《みち》の程《ほど》八町《ちやう》ばかりで、唯《と》ある軒下《のきした》に辿《たど》り着《つ》いたのが名指《なざし》の香取屋《かとりや》。
床《とこ》にも座敷《ざしき》にも飾《かざり》といつては無《な》いが、柱立《はしらだち》の見事《みごと》な、畳《たゝみ》の堅《かた》い、炉《ろ》の大《おほい》なる、自在鍵《じざいかぎ》の鯉《こひ》は鱗《うろこ》が黄金造《こがねづくり》であるかと思《おも》はるる艶《つや》を持《も》つた、素《す》ばらしい竈《へツつひ》を二ツ並《なら》べて一斗飯《とうめし》は焚《た》けさうな目覚《めざま》しい釜《かま》の懸《かゝ》つた古家《ふるいへ》で。
亭主《ていしゆ》は法然天窓《はふねんあたま》、木綿《もめん》の筒袖《つゝそで》の中《なか》へ両手《りやうて》の先《さき》を窘《すく》まして、火鉢《ひばち》の前《まへ》でも手《て》を出《だ》さぬ、ぬうとした親仁《おやぢ》、女房《にようばう》の方《はう》は愛嬌《あいけう》のある、一寸《ちよいと》世辞《せじ》の可《い》い婆《ばあ》さん、件《くだん》の人参《にんじん》と干瓢《かんぺう》の話《はなし》を旅僧《たびそう》が打出《うちだ》すと、莞爾々々《にこ/\》笑《わら》ひながら、縮緬雑魚《ちりめんざこ》と、鰈《かれい》の干物《ひもの》と、とろろ昆布《こぶ》の味噌汁《みそしる》とで膳《ぜん》を出《だ》した、物《もの》の言振《いひぶり》取做《とりなし》なんど、如何《いか》にも、上人《しやうにん》とは別懇《べつこん》の間《あひだ》と見《み》えて、連《つれ》の私《わたし》の居心《ゐごゝろ》の可《よ》さと謂《い》つたらない。
軈《やが》て二階《かい》に寐床《ねどこ》を慥《こしら》へてくれた、天井《てんじやう》は低《ひく》いが、梁《うつばり》は丸太《まるた》で二抱《ふたかゝへ》もあらう、屋《や》の棟《むね》から斜《なゝめ》に渡《わた》つて座敷《ざしき》の果《はて》の廂《ひさし》の処《ところ》では天窓《あたま》に支《つか》へさうになつて居《ゐ》る、巌丈《がんぢやう》な屋造《やづくり》、是《これ》なら裏《うら》の山《やま》から雪頽《なだれ》が来《き》てもびくともせぬ。
特《こと》に炬燵《こたつ》が出来《でき》て居《ゐ》たから私《わたし》は其《その》まゝ嬉《うれ》しく入《はい》つた。寐床《ねどこ》は最《も》う一組《くみ》同一《おなじ》炬燵《こたつ》に敷《し》いてあつたが、旅僧《たびそう》は之《これ》には来《きた》らず、横《よこ》に枕《まくら》を並《なら》べて、火《ひ》の気《け》のない臥床《ねどこ》に寐《ね》た。
寐《ね》る時《とき》、上人《しやうにん》は帯《おび》を解《と》かぬ、勿論《もちろん》衣服《きもの》も脱《ぬ》がぬ、着《き》たまゝ丸《まる》くなつて俯向形《うつむきなり》に腰《こし》からすつぽりと入《はい》つて、肩《かた》に夜具《やぐ》の袖《そで》を掛《か》けると手《て》を突《つ》いて畏《かしこま》つた、其《そ》の様子《やうす》は我々《われ/\》と反対《はんたい》で、顔《かほ》に枕《まくら》をするのである。程《ほど》なく寂然《ひつそり》として寝《ね》に着《つ》きさうだから、汽車《きしや》の中《なか》でもくれ/″\いつたのは此処《こゝ》のこと、私《わたし》は夜《よ》が更《ふ》けるまで寐《ね》ることが出来《でき》ない、あはれと思《おも》つて最《も》う暫《しばら》くつきあつて、而《そ》して諸国《しよこく》を行脚《あんぎや》なすつた内《うち》のおもしろい談《はなし》をといつて打解《うちと》けて幼《おさな》らしくねだつた。
すると上人《しやうにん》は頷《うなづ》いて、私《わし》は中年《ちうねん》から仰向《あふむ》けに枕《まくら》に着《つ》かぬのが癖《くせ》で、寐《ね》るにも此儘《このまゝ》ではあるけれども目《め》は未《ま》だなか/\冴《さ》えて居《を》る、急《きふ》に寐着《ねつ》かれないのはお前様《まへさま》と同一《おんなし》であらう。出家《しゆつけ》のいふことでも、教《おしへ》だの、戒《いましめ》だの、説法《せつぱふ》とばかりは限《かぎ》らぬ、若《わか》いの、聞《き》かつしやい、と言《いつ》て語《かた》り出《だ》した。後《あと》で聞《き》くと宗門《しうもん》名誉《めいよ》の説教師《せつけうし》で、六明寺《りくみんじ》の宗朝《しうてう》といふ大和尚《だいおしやう》であつたさうな。
「今《いま》に最《も》う一人《ひとり》此処《こゝ》へ来《き》て寝《ね》るさうぢやが、お前様《まへさま》と同国《どうこく》ぢやの、若狭《わかさ》の者《もの》で塗物《ぬりもの》の旅商人《たびあきうど》。いや此《こ》の男《をとこ》なぞは若《わか》いが感心《かんしん》に実体《じつてい》な好《い》い男《をとこ》。
私《わし》が今《いま》話《はなし》の序開《じよびらき》をした其《そ》の飛騨《ひだ》の山越《やまごえ》を遣《や》つた時《とき》の、麓《ふもと》の茶屋《ちやゝ》で一所《しよ》になつた富山《とやま》の売薬《ばいやく》といふ奴《やつ》あ、けたいの悪《わる》い、ねぢ/\した厭《いや》な壮佼《わかいもの》で。
先《ま》づこれから峠《たうげ》に掛《かゝ》らうといふ日《ひ》の、朝早《あさはや》く、尤《もつと》も先《せん》の泊《とまり》はものゝ三時《じ》位《ぐらゐ》には発《た》つて来《き》たので、涼《すゞし》い内《うち》に六里《り》ばかり、其《そ》の茶屋《ちやゝ》までのしたのぢやが、朝晴《あさばれ》でぢり/\暑《あつ》いわ。
慾張抜《よくばりぬ》いて大急《おほいそ》ぎで歩《ある》いたから咽《のど》が渇《かは》いて為様《しやう》があるまい早速《さつそく》茶《ちや》を飲《のま》うと思《おも》ふたが、まだ湯《ゆ》が沸《わ》いて居《を》らぬといふ。
何《ど》うして其《その》時分《じぶん》ぢやからといふて、滅多《めツた》に人通《ひとどほり》のない山道《やまみち》、朝顔《あさがほ》の咲《さ》いてる内《うち》に煙《けぶり》が立《た》つ道理《だうり》もなし。
床几《しやうぎ》の前《まへ》には冷《つめ》たさうな小流《こながれ》があつたから手桶《てをけ》の水《みづ》を汲《く》まうとして一寸《ちよいと》気《き》がついた。
其《それ》といふのが、時節柄《じせつがら》暑《あつ》さのため、可恐《おそろし》い悪《わる》い病《やまひ》が流行《はや》つて、先《さき》に通《とほ》つた辻《つじ》などといふ村《むら》は、から一面《めん》に石灰《いしばひ》だらけぢやあるまいか。
(もし、姉《ねえ》さん。)といつて茶店《ちやみせ》の女《をんな》に、
(此《この》水《みづ》はこりや井戸《ゐど》のでござりますか。)と、極《きま》りも悪《わる》し、もじ/\聞《き》くとの。
(いんね川《かは》のでございす。)といふ、はて面妖《めんえう》なと思《おも》つた。
(山《やま》したの方《はう》には大分《だいぶ》流行病《はやりやまひ》がございますが、此《この》水《みづ》は何《なに》から、辻《つぢ》の方《はう》から流《なが》れて来《く》るのではありませんか。)
(然《さ》うでねえ。)と女《をんな》は何気《なにげ》なく答《こた》へた、先《ま》づ嬉《うれ》しやと思《おも》ふと、お聞《き》きなさいよ。
此処《こゝ》に居《ゐ》て先刻《さツき》から休《や》すんでござつたのが、右《みぎ》の売薬《ばいやく》ぢや。此《こ》の又《また》万金丹《まんきんたん》の下廻《したまはり》と来《き》た日《ひ》には、御存《ごぞん》じの通《とほ》り、千筋《せんすぢ》の単衣《ひとへ》に小倉《こくら》の帯《おび》、当節《たうせつ》は時計《とけい》を挟《はさ》んで居《ゐ》ます、脚絆《きやはん》、股引《もゝひき》、之《これ》は勿論《もちろん》、草鞋《わらぢ》がけ、千草木綿《ちくさもめん》の風呂敷包《ふろしきづゝみ》の角《かど》ばつたのを首《くび》に結《ゆは》へて、桐油合羽《とういうがつぱ》を小《ちい》さく畳《たゝ》んで此奴《こいつ》を真田紐《さなだひも》で右《みぎ》の包《つゝみ》につけるか、小弁慶《こべんけい》の木綿《もめん》の蝙蝠傘《かうもりがさ》を一本《ぽん》、お極《きまり》だね。一寸《ちよいと》見《み》ると、いやどれもこれも克明《こくめい》で、分別《ふんべつ》のありさうな顔《かほ》をして。これが泊《とまり》に着《つ》くと、大形《おほがた》の裕衣《ゆかた》に変《かは》つて、帯広解《おびひろげ》で焼酎《せうちう》をちびり/\遣《や》りながら、旅籠屋《はたごや》の女《をんな》のふとつた膝《ひざ》へ脛《すね》を上《あ》げやうといふ輩《やから》ぢや。
(これや、法界坊《はふかいばう》、)
なんて、天窓《あたま》から嘗《な》めて居《ゐ》ら。
(異《おつ》なことをいふやうだが何《なに》かね世《よ》の中《なか》の女《をんな》が出来《でき》ねえと相場《さうば》が極《きま》つて、すつぺら坊主《ばうず》になつても矢張《やツぱ》り生命《いのち》は欲《ほ》しいのかね、不思議《ふしぎ》ぢやあねえか、争《あらそ》はれねもんだ、姉《ねえ》さん見《み》ねえ、彼《あれ》で未《ま》だ未練《みれん》のある内《うち》が可《い》いぢやあねえか、)といつて顔《かほ》を見合《みあ》はせて二人《ふたり》で呵々《から/\》と笑《わら》つたい。
年紀《とし》は若《わか》し、お前様《まへさん》、私《わし》は真赤《まツか》になつた、手《て》に汲《く》んだ川《かは》の水《みづ》を飲《の》みかねて猶予《ためら》つて居《ゐ》るとね。
ポンと煙管《きせる》を払《はた》いて、
(何《なに》、遠慮《ゑんりよ》をしねえで浴《あ》びるほどやんなせえ、生命《いのち》が危《あやふ》くなりや、薬《くすり》を遣《や》らあ、其為《そのため》に私《わし》がついてるんだぜ、喃《なあ》姉《ねえ》さん。おい、其《それ》だつても無銭《たゞ》ぢやあ不可《いけね》えよ憚《はゞか》りながら神方万金丹《しんぱうまんきんたん》、一貼《てふ》三百《びやく》だ、欲《ほ》しくば買《か》ひな、未《ま》だ坊主《ばうず》に報捨《はうしや》をするやうな罪《つみ》は造《つく》らねえ、其《それ》とも何《ど》うだお前《まへ》いふことを肯《き》くか、)といつて茶店《ちやみせ》の女《をんな》の背中《せなか》を叩《たゝ》いた。
私《わし》は匆々《さう/\》に遁出《にげだ》した。
いや、膝《ひざ》だの、女《をんな》の背中《せなか》だのといつて、いけ年《とし》を仕《つかまつ》つた和尚《おしやう》が業体《げふてい》で恐入《おそれい》るが、話《はなし》が、話《はなし》ぢやから其処《そこ》は宜《よろ》しく。」
「私《わし》も腹立紛《はらだちまぎ》れぢや、無暗《むやみ》と急《いそ》いで、それからどん/\山《やま》の裾《すそ》を田圃道《たんぼみち》へ懸《かゝ》る。
半町《はんちやう》ばかり行《ゆ》くと、路《みち》が恁《か》う急《きふ》に高《たか》くなつて、上《のぼ》りが一《いつ》ヶ処《しよ》、横《よこ》から能《よ》く見《み》えた、弓形《ゆみなり》で宛《まる》で土《つち》で勅使橋《ちよくしばし》がかゝつてるやうな。上《うへ》を見《み》ながら、之《これ》へ足《あし》を踏懸《ふみか》けた時《とき》、以前《いぜん》の薬売《くすりうり》がすた/\遣《や》つて来《き》て追着《おひつ》いたが。
別《べつ》に言葉《ことば》も交《か》はさず、又《また》ものをいつたからといふて、返事《へんじ》をする気《き》は此方《こツち》にもない。何処《どこ》までも人《ひと》を凌《しの》いだ仕打《しうち》な薬売《くすりうり》は流盻《しりめ》にかけて故《わざ》とらしう私《わし》を通越《とほりこ》して、すた/\前《まへ》へ出《で》て、ぬつと小山《こやま》のやうな路《みち》の突先《とつさき》へ蝙蝠傘《かうもりがさ》を差《さ》して立《た》つたが、其《その》まゝ向《むか》ふへ下《お》りて見《み》えなくなる。
其後《そのあと》から爪先上《つまさきあが》り、軈《やが》てまた太鼓《たいこ》の胴《どう》のやうな路《みち》の上《うへ》へ体《からだ》が乗《の》つた、其《それ》なりに又《また》下《くだ》りぢや。
売薬《ばいやく》は先《さき》へ下《お》りたが立停《たちどま》つて頻《しきり》に四辺《あたり》を瞻《みまは》して居《ゐ》る様子《やうす》、執念深《しふねんぶか》く何《なに》か巧《たく》んだか、と快《こゝろよ》からず続《つゞ》いたが、さてよく見《み》ると仔細《しさい》があるわい。
路《みち》は此処《こゝ》で二条《すぢ》になつて、一条《すぢ》はこれから直《す》ぐに坂《さか》になつて上《のぼ》りも急《きふ》なり、草《くさ》も両方《りやうはう》から生茂《おひしげ》つたのが、路傍《みちばた》の其《そ》の角《かど》の処《ところ》にある、其《それ》こそ四抱《かゝへ》さうさな、五抱《かゝへ》もあらうといふ一本《ぽん》の檜《ひのき》の、背後《うしろ》へ畝《うね》つて切出《きりだ》したやうな大巌《おほいは》が二ツ三ツ四ツと並《なら》んで、上《うへ》の方《はう》へ層《かさ》なつて其《そ》の背後《うしろ》へ通《つう》じて居《ゐ》るが、私《わし》が見当《けんたう》をつけて、心組《こゝろぐ》んだのは此方《こツち》ではないので、矢張《やツぱり》今《いま》まで歩行《ある》いて来《き》た其《そ》の巾《はゞ》の広《ひろ》いなだらかな方《はう》が正《まさ》しく本道《ほんだう》、あと二里《り》足《た》らず行《ゆ》けば山《やま》になつて、其《それ》からが峠《たうげ》になる筈《はず》。
唯《と》見《み》ると、何《ど》うしたことかさ、今《いま》いふ其《その》檜《ひのき》ぢやが、其処《そこ》らに何《なんに》もない路《みち》を横截《よこぎ》つて見果《みはて》のつかぬ田圃《たんぼ》の中空《なかそら》へ虹《にじ》のやうに突出《つきで》て居《ゐ》る、見事《みごと》な。根方《ねかた》の処《ところ》の土《つち》が壊《くづ》れて大鰻《おほうなぎ》を捏《こ》ねたやうな根《ね》が幾筋《いくすぢ》ともなく露《あら》はれた、其《その》根《ね》から一筋《すぢ》の水《みづ》が颯《さつ》と落《お》ちて、地《ぢ》の上《うへ》へ流《なが》れるのが、取《と》つて進《すゝ》まうとする道《みち》の真中《まんなか》に流出《ながれだ》してあたりは一面《めん》。
田圃《たんぼ》が湖《みづうみ》にならぬが不思議《ふしぎ》で、どう/\と瀬《せ》になつて、前途《ゆくて》に一叢《むら》の藪《やぶ》が見《み》える、其《それ》を境《さかひ》にして凡《およ》そ二町《ちやう》ばかりの間《あひだ》宛《まる》で川《かは》ぢや。礫《こいし》はばら/\、飛石《とびいし》のやうにひよい/\と大跨《おほまた》で伝《つた》へさうにずつと見《み》ごたへのあるのが、それでも人《ひと》の手《て》で並《なら》べたに違《ちが》ひはない。
尤《もつと》も衣服《きもの》を脱《ぬ》いで渡《わた》るほどの大事《おほごと》なのではないが、本街道《ほんかいだう》には些《ち》と難儀《なんぎ》過《す》ぎて、なか/\馬《うま》などが歩行《ある》かれる訳《わけ》のものではないので。
売薬《ばいやく》もこれで迷《まよ》つたのであらうと思《おも》ふ内《うち》、切放《きれはな》れよく向《むき》を変《か》へて右《みぎ》の坂《さか》をすた/\と上《のぼ》りはじめた。
見《み》る間《ま》に檜《ひのき》を後《うしろ》に潜《くゞ》り抜《ぬ》けると、私《わし》が体《からだ》の上《うへ》あたりへ出《で》て下《した》を向《む》き、
(おい/\、松本《まつもと》へ出《で》る路《みち》は此方《こつち》だよ、)といつて無雑作《むざふさ》にまた五六歩《ぽ》。
岩《いは》の頭《あたま》へ半身《はんしん》を乗出《のりだ》して、
(茫然《ぼんやり》してると、木精《こだま》が攫《さら》ふぜ、昼間《ひるま》だつて用捨《ようしや》はねえよ。)と嘲《あざけ》るが如《ごと》く言《い》ひ棄《す》てたが、軈《やが》て岩《いは》の陰《かげ》に入《はい》つて高《たか》い処《ところ》の草《くさ》に隠《かく》れた。
暫《しばら》くすると見上《みあ》げるほどな辺《あたり》へ蝙蝠傘《かうもりがさ》の先《さき》が出《で》たが、木《き》の枝《えだ》とすれ/\になつて茂《しげみ》の中《なか》に見《み》えなくなつた。
(どッこいしよ、)と暢気《のんき》なかけ声《ごゑ》で、其《そ》の流《ながれ》の石《いし》の上《うへ》を飛々《とび/″\》に伝《つたは》つて来《き》たのは、呉座《ござ》の尻当《しりあて》をした、何《なん》にもつけない天秤棒《てんびんぼう》を片手《かたて》で担《かつ》いだ百姓《ひやくしやう》ぢや。」
「前刻《さツき》の茶店《ちやみせ》から此処《こゝ》へ来《く》るまで、売薬《ばいやく》の外《ほか》は誰《たれ》にも逢《あ》はなんだことは申上《まをしあ》げるまでもない。
今《いま》別《わか》れ際《ぎは》に声《こゑ》を懸《か》けられたので、先方《むかう》は道中《だうちう》の商売人《しやうばいにん》と見《み》たゞけに、まさかと思《おも》つても気迷《きまよひ》がするので、今朝《けさ》も立《た》ちぎはによく見《み》て来《き》た、前《まへ》にも申《まを》す、其《そ》の図面《づめん》をな、此処《こゝ》でも開《あ》けて見《み》やうとして居《ゐ》た処《ところ》。
(一寸《ちよいと》伺《うかゞ》ひたう存《ぞん》じますが、)
(これは、何《なん》でござりまする、)と山国《やまぐに》の人《ひと》などは殊《こと》に出家《しゆつけ》と見《み》ると丁寧《ていねい》にいつてくれる。
(いえ、お伺《うかゞ》ひ申《まを》しますまでもございませんが、道《みち》は矢張《やツぱり》これを素直《まツすぐ》に参《まゐ》るのでございませうな。)
(松本《まつもと》へ行《ゆ》かつしやる? あゝ/\本道《ほんだう》ぢや、何《なに》ね、此間《こなひだ》の梅雨《つゆ》に水《みづ》が出《で》てとてつもない川《かは》さ出来《でき》たでがすよ。)
(未《ま》だずつと何処《どこ》までも此《この》水《みづ》でございませうか。)
(何《なん》のお前様《まへさま》、見《み》たばかりぢや、訳《わけ》はござりませぬ、水《みづ》になつたのは向《むか》ふの那《あ》の藪《やぶ》までゞ、後《あと》は矢張《やツぱり》これと同一《おんなじ》道筋《みちすぢ》で山《やま》までは荷車《にぐるま》が並《なら》んで通《とほ》るでがす。藪《やぶ》のあるのは旧《もと》大《おほき》いお邸《やしき》の医者様《いしやさま》の跡《あと》でな、此処等《こゝいら》はこれでも一ツの村《むら》でがした、十三年《ねん》前《ぜん》の大水《おほみづ》の時《とき》、から一面《めん》に野良《のら》になりましたよ、人死《ひとじに》もいけえこと。御坊様《ごばうさま》歩行《ある》きながらお念仏《ねんぶつ》でも唱《とな》へて遣《や》つてくれさつしやい)と問《と》はぬことまで親切《しんせつ》に話《はな》します。其《それ》で能《よ》く仔細《しさい》が解《わか》つて確《たしか》になりはなつたけれども、現《げん》に一人《ひとり》蹈迷《ふみまよ》つた者《もの》がある。
(此方《こつち》の道《みち》はこりや何処《どこ》へ行《ゆ》くので、)といつて売薬《ばいやく》の入《はい》つた左手《ゆんで》の坂《さか》を尋《たづ》ねて見《み》た。
(はい、これは五十年《ねん》ばかり前《まへ》までは人《ひと》が歩行《ある》いた旧道《きうだう》でがす。矢張《やツぱり》信州《しんしう》へ出《で》まする、前《さき》は一つで七里《り》ばかり総体《そうたい》近《ちか》うござりますが、いや今時《いまどき》往来《わうらい》の出来《でき》るのぢやあござりませぬ。去年《きよねん》も御坊様《おばうさま》、親子連《おやこづれ》の順礼《じゆんれい》が間違《まちが》へて入《はい》つたといふで、はれ大変《たいへん》な、乞食《こじき》を見《み》たやうな者《もの》ぢやといふて、人命《じんめい》に代《かは》りはねえ、追《おツ》かけて助《たす》けべいと、巡査様《おまはりさま》が三人《にん》、村《むら》の者《もの》が十二人《じふにゝん》、一組《くみ》になつて之《これ》から押登《おしのぼ》つて、やつと連《つ》れて戻《もど》つた位《くらゐ》でがす。御坊様《おばうさま》も血気《けつき》に逸《はや》つて近道《ちかみち》をしてはなりましねえぞ、草臥《くたび》れて野宿《のじゆく》をしてからが此処《こゝ》を行《ゆ》かつしやるよりは増《まし》でござるに。はい、気《き》を着《つ》けて行《ゆ》かつしやれ。)
此処《こゝ》で百姓《ひやくしやう》に別《わか》れて其《そ》の川《かは》の石《いし》の上《うへ》を行《ゆか》うとしたが弗《ふ》と猶予《ためら》つたのは売薬《ばいやく》の身《み》の上《うへ》で。
まさかに聞《き》いたほどでもあるまいが、其《それ》が本当《ほんたう》ならば見殺《みごろし》ぢや、何《ど》の道《みち》私《わたし》は出家《しゆつけ》の体《からだ》、日《ひ》が暮《く》れるまでに宿《やど》へ着《つ》いて屋根《やね》の下《した》に寝《ね》るには及《およ》ばぬ、追着《おツつ》いて引戻《ひきもど》して遣《や》らう。罷違《まかりちが》ふて旧道《きうだう》を皆《みな》歩行《ある》いても怪《け》しうはあるまい、恁《か》ういふ時候《じこう》ぢや、狼《おほかみ》の春《しゆん》でもなく、魑魅魍魎《ちみまうりやう》の汐《しほ》さきでもない、まゝよ、と思《おも》ふて、見送《みおく》ると早《は》や親切《しんせつ》な百姓《ひやくしやう》の姿《すがた》も見《み》えぬ。
(可《よ》し。)
思切《おもひき》つて坂道《さかみち》に取《と》つて懸《かゝ》つた、侠気《をとこぎ》があつたのではござらぬ、血気《けつき》に逸《はや》つたでは固《もと》よりない、今《いま》申《まを》したやうではずつと最《も》う悟《さと》つたやうぢやが、いやなか/\の憶病者《おくびやうもの》、川《かは》の水《みづ》を飲《の》むのさへ気《き》が怯《ひ》けたほど生命《いのち》が大事《だいじ》で、何故《なぜ》又《また》と謂《い》はつしやるか。
唯《たゞ》挨拶《あいさつ》をしたばかりの男《をとこ》なら、私《わし》は実《じつ》の処《ところ》、打棄《うつちや》つて置《お》いたに違《ちが》ひはないが、快《こゝろよ》からぬ人《ひと》と思《おも》つたから、其《その》まゝに見棄《みす》てるのが、故《わざ》とするやうで、気《き》が責《せ》めてならなんだから、」
と宗朝《しうてう》は矢張《やツぱり》俯向《うつむ》けに床《とこ》に入《はい》つたまゝ合掌《がツしやう》していつた。
「其《それ》では口《くち》でいふ念仏《ねんぶつ》にも済《す》まぬと思《おも》ふてさ。」
「さて、聞《き》かつしやい、私《わし》はそれから檜《ひのき》の裏《うら》を抜《ぬ》けた、岩《いは》の下《した》から岩《いは》の上《うへ》へ出《で》た、樹《き》の中《なか》を潜《くゞ》つて草深《くさふか》い径《こみち》を何処《どこ》までも、何処《どこ》までも。
すると何時《いつ》の間《ま》にか今《いま》上《あが》つた山《やま》は過《す》ぎて又《また》一ツ山《やま》が近《ちか》づいて来《き》た、此辺《このあたり》暫《しばら》くの間《あひだ》は野《の》が広々《ひろ/″\》として、前刻《さツき》通《とほ》つた本街道《ほんかいだう》より最《も》つと巾《はゞ》の広《ひろ》い、なだらかな一筋道《すぢみち》。
心持《こゝろもち》西《にし》と、東《ひがし》と、真中《まんなか》に山《やま》を一ツ置《お》いて二条《すぢ》並《なら》んだ路《みち》のやうな、いかさまこれならば鎗《やり》を立《た》てゝも行列《ぎやうれつ》が通《とほ》つたであらう。
此《こ》の広《ひろ》ツ場《ぱ》でも目《め》の及《およ》ぶ限《かぎり》芥子粒《けしつぶ》ほどの大《おほき》さの売薬《ばいやく》の姿《すがた》も見《み》ないで、時々《とき/″\》焼《や》けるやうな空《そら》を小《ちひ》さな虫《むし》が飛歩行《とびある》いた。
歩行《ある》くには此《こ》の方《はう》が心細《こゝろぼそ》い、あたりがばツとして居《ゐ》ると便《たより》がないよ。勿論《もちろん》飛騨越《ひだごゑ》と銘《めい》を打《う》つた日《ひ》には、七里《り》に一軒《けん》十里《り》に五軒《けん》といふ相場《さうば》、其処《そこ》で粟《あは》の飯《めし》にありつけば都合《つがふ》も上《じやう》の方《はう》といふことになつて居《を》ります。其《そ》の覚悟《かくご》のことで、足《あし》は相応《さうおう》に達者《たツしや》、いや屈《くつ》せずに進《すゝ》んだ進《すゝ》んだ。すると、段々《だん/″\》又《また》山《やま》が両方《りやうはう》から逼《せま》つて来《き》て、肩《かた》に支《つか》へさうな狭《せま》いことになつた、直《す》ぐに上《のぼり》。
さあ、之《これ》からが名代《なだい》の天生峠《あまふたうげ》と心得《こゝろえ》たから、此方《こツち》も其気《そのき》になつて、何《なに》しろ暑《あつ》いので、喘《あへ》ぎながら、先《ま》づ草鞋《わらぢ》の紐《ひも》を締直《しめなほ》した。
丁度《ちやうど》此《こ》の上口《のぼりくち》の辺《あたり》に美濃《みの》の蓮大寺《れんたいじ》の本堂《ほんだう》の床下《ゆかした》まで吹抜《ふきぬ》けの風穴《かざあな》があるといふことを年経《とした》つてから聞《き》きましたが、なか/\其処《そこ》どころの沙汰《さた》ではない、一生懸命《しやうけんめい》、景色《けしき》も奇跡《きせき》もあるものかい、お天気《てんき》さへ晴《は》れたか曇《くも》つたか訳《わけ》が解《わか》らず、目《ま》まじろぎもしないですた/\と捏《こ》ねて上《のぼ》る。
とお前様《まへさま》お聞《き》かせ申《まを》す話《はなし》は、これからぢやが、最初《さいしよ》に申《まを》す通《とほ》り路《みち》がいかにも悪《わる》い、宛然《まるで》人《ひと》が通《かよ》ひさうでない上《うへ》に、恐《おそろし》いのは、蛇《へび》で。両方《りやうはう》の叢《くさむら》に尾《を》と頭《あたま》とを突込《つツこ》んで、のたりと橋《はし》を渡《わた》して居《ゐ》るではあるまいか。
私《わし》は真先《まツさき》に出会《でツくわ》した時《とき》は笠《かさ》を被《かぶ》つて竹杖《たけづゑ》を突《つ》いたまゝはツと息《いき》を引《ひ》いて膝《ひざ》を折《を》つて坐《すわ》つたて。
いやもう生得《しやうとく》大嫌《だいきらひ》、嫌《きらひ》といふより恐怖《こわ》いのでな。
其時《そのとき》は先《ま》づ人助《ひとたす》けにずる/″\と尾《を》を引《ひ》いて向《むか》ふで鎌首《かまくび》を上《あ》げたと思《おも》ふと草《くさ》をさら/\と渡《わた》つた。
漸《やうや》う起上《おきあが》つて道《みち》の五六町《ちやう》も行《ゆ》くと又《また》同一《おなじ》やうに、胴中《どうなか》を乾《かは》かして尾《を》も首《くび》も見《み》えぬが、ぬたり!
あツといふて飛退《とびの》いたが、其《それ》も隠《かく》れた。三度目《どめ》に出会《であ》つたのが、いや急《きふ》には動《うご》かず、然《しか》も胴体《どうたい》の太《ふと》さ、譬《たと》ひ這出《はひだ》した処《ところ》でぬら/\と遣《や》られては凡《およ》そ五分間《ふんかん》位《ぐらゐ》は尾《を》を出《だ》すまでに間《ま》があらうと思《おも》ふ長虫《ながむし》と見《み》えたので已《や》むことを得《え》ず私《わし》は跨《また》ぎ越《こ》した、途端《とたん》に下腹《したはら》が突張《つツぱ》つてぞツと身《み》の毛《け》、毛穴《けあな》が不残《のこらず》鱗《うろこ》に変《かは》つて、顔《かほ》の色《いろ》も其《そ》の蛇《へび》のやうになつたらうと目《め》を塞《ふさ》いだ位《くらゐ》。
絞《しぼ》るやうな冷汗《ひやあせ》になる気味《きみ》の悪《わる》さ、足《あし》が窘《すく》んだといふて立《た》つて居《ゐ》られる数《すう》ではないから、びく/\しながら路《みち》を急《いそ》ぐと又《また》しても居《ゐ》たよ。
然《しか》も今度《こんど》のは半分《はんぶん》に引切《ひきき》つてある胴《どう》から尾《を》ばかりの虫《むし》ぢや、切口《きりくち》が蒼《あをみ》を帯《お》びて其《それ》で恁《か》う黄色《きいろ》な汁《しる》が流《なが》れてぴくぴくと動《うご》いたわ。
我《われ》を忘《わす》れてばら/\とあとへ遁帰《にげかへ》つたが、気《き》が着《つ》けば例《れい》のが未《ま》だ居《ゐ》るであらう、譬《たと》ひ殺《ころ》されるまでも二度《ど》とは彼《あれ》を跨《また》ぐ気《き》はせぬ。あゝ前刻《さツき》のお百姓《ひやくしやう》がものゝ間違《まちがひ》でも故道《ふるみち》には蛇《へび》が恁《か》うといつてくれたら、地獄《ぢごく》へ落《お》ちても来《こ》なかつたにと照《て》りつけられて、涙《なみだ》が流《なが》れた、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、今《いま》でも悚然《ぞツ》とする。」と額《ひたひ》に手《て》を。
「果《はてし》が無《な》いから肝《きも》を据《す》ゑた、固《もと》より引返《ひきかへ》す分《ぶん》ではない。旧《もと》の処《ところ》には矢張《やツぱり》丈足《たけた》らずの骸《むくろ》がある、遠《とほ》くへ避《さ》けて草《くさ》の中《なか》へ駆《か》け抜《ぬ》けたが、今《いま》にもあとの半分《はんぶん》が絡《まと》ひつきさうで耐《たま》らぬから気臆《きおくれ》がして足《あし》が筋張《すぢば》ると、石《いし》に躓《つまづ》いて転《ころ》んだ、其時《そのとき》膝節《ひざふし》を痛《いた》めましたものと見《み》える。
それからがく/″\して歩行《ある》くのが少《すこ》し難渋《なんじふ》になつたけれども、此処《こゝ》で倒《たふ》れては温気《うんき》で蒸殺《むしころ》されるばかりぢやと、我身《わがみ》で我身《わがみ》を激《はげ》まして首筋《くびすぢ》を取《と》つて引立《ひきた》てるやうにして峠《たうげ》の方《はう》へ。
何《なに》しろ路傍《みちばた》の草《くさ》いきれが可恐《おそろ》しい、大鳥《おほとり》の卵《たまご》見《み》たやうなものなんぞ足許《あしもと》にごろ/″\して居《ゐ》る茂《しげ》り塩梅《あんばい》。
又《また》二里《り》ばかり大蛇《おろち》の畝《うね》るやうな坂《さか》を、山懐《やまふところ》に突当《つきあた》つて岩角《いはかど》を曲《まが》つて、木《き》の根《ね》を繞《めぐ》つて参《まゐ》つたが此処《こゝ》のことで余《あま》りの道《みち》ぢやつたから、参謀本部《さんぼうほんぶ》の絵図面《ゑづめん》を開《ひら》いて見《み》ました。
何《なに》矢張《やツぱり》道《みち》は同一《おんなじ》で聞《き》いたにも見《み》たのにも変《かはり》はない、旧道《きうだう》は此方《こちら》に相違《さうゐ》はないから心遣《こゝろや》りにも何《なん》にもならず、固《もと》より歴《れツき》とした図面《づめん》といふて、描《ゑが》いてある道《みち》は唯《たゞ》栗《くり》の毯《いが》の上《うへ》へ赤《あか》い筋《すぢ》が引張《ひつぱ》つてあるばかり。
難儀《なんぎ》さも、蛇《へび》も、毛虫《けむし》も、鳥《とり》の卵《たまご》も、草《くさ》いきれも、記《しる》してある筈《はず》はないのぢやから、薩張《さツぱり》と畳《たゝ》んで懐《ふところ》に入《い》れて、うむと此《こ》の乳《ちゝ》の下《した》へ念仏《ねんぶつ》を唱《とな》へ込《こ》んで立直《たちなほ》つたは可《よ》いが、息《いき》も引《ひ》かぬ内《うち》に情無《なさけな》い長虫《ながむし》が路《みち》を切《き》つた。
其処《そこ》でもう所詮《しよせん》叶《かな》はぬと思《おも》つたなり、これは此《こ》の山《やま》の霊《れい》であらうと考《かんが》へて、杖《つえ》を棄《す》てゝ膝《ひざ》を曲《ま》げ、じり/\する地《つち》に両手《りやうて》をついて、
(誠《まこと》に済《す》みませぬがお通《とほ》しなすつて下《くだ》さりまし、成《なる》たけお昼寝《ひるね》の邪魔《じやま》になりませぬやうに密《そツ》と通行《つうかう》いたしまする。
御覧《ごらん》の通《とほ》り杖《つえ》も棄《す》てました。)と我折《がを》れ染々《しみ/″\》と頼《たの》んで額《ひたひ》を上《あ》げるとざつといふ凄《すさまじ》い音《おと》で。
心持《こゝろもち》余程《よほど》の大蛇《だいじや》と思《おも》つた、三尺《じやく》、四尺《しやく》、五尺《しやく》、四方《はう》、一丈《ぢやう》余《よ》、段々《だん/″\》と草《くさ》の動《うご》くのが広《ひろ》がつて、傍《かたへ》の谷《たに》へ一文字《もんじ》に颯《さツ》と靡《なび》いた、果《はて》は峯《みね》も山《やま》も一斉《せい》に揺《ゆる》いだ、悚毛《おぞけ》を震《ふる》つて立窘《たちすく》むと涼《すゞ》しさが身《み》に染《し》みて気《き》が着《つ》くと山颪《やまおろし》よ。
此《こ》の折《をり》から聞《きこ》えはじめたのは哄《どツ》といふ山彦《やまひこ》に伝《つた》はる響《ひゞき》、丁度《ちやうど》山《やま》の奥《おく》に風《かぜ》が渦巻《うづま》いて其処《そこ》から吹起《ふきおこ》る穴《あな》があいたやうに感《かん》じられる。
何《なに》しろ山霊《さんれい》感応《かんおう》あつたか、蛇《へび》は見《み》えなくなり暑《あつ》さも凌《しの》ぎよくなつたので気《き》も勇《いさ》み足《あし》も捗取《はかど》つたが程《ほど》なく急《きふ》に風《かぜ》が冷《つめ》たくなつた理由《りいう》を会得《ゑとく》することが出来《でき》た。
といふのは目《め》の前《まへ》に大森林《だいしんりん》があらはれたので。
世《よ》の譬《たとへ》にも天生峠《あまふたうげ》は蒼空《あをぞら》に雨《あめ》が降《ふ》るといふ人《ひと》の話《はなし》にも神代《じんだい》から杣《そま》が手《て》を入《い》れぬ森《もり》があると聞《き》いたのに、今《いま》までは余《あま》り樹《き》がなさ過《す》ぎた。
今度《こんど》は蛇《へび》のかはりに蟹《かに》が歩《ある》きさうで草鞋《わらぢ》が冷《ひ》えた。暫《しばら》くすると暗《くら》くなつた、杉《すぎ》、松《まつ》、榎《えのき》と処々《ところ/″\》見分《みわ》けが出来《でき》るばかりに遠《とほ》い処《ところ》から幽《かすか》に日《ひ》の光《ひかり》の射《さ》すあたりでは、土《つち》の色《いろ》が皆《みな》黒《くろ》い。中《なか》には光線《くわうせん》が森《もり》を射通《いとほ》す工合《ぐあひ》であらう、青《あを》だの、赤《あか》だの、ひだが入《い》つて美《うつく》しい処《ところ》があつた。
時々《とき/″\》爪尖《つまさき》に絡《から》まるのは葉《は》の雫《しづく》の落溜《おちたま》つた糸《いと》のやうな流《ながれ》で、これは枝《えだ》を打《う》つて高《たか》い処《ところ》を走《はし》るので。ともすると又《また》常盤木《ときはぎ》が落葉《おちば》する、何《なん》の樹《き》とも知《し》れずばら/″\と鳴《な》り、かさかさと音《おと》がしてぱつと檜笠《ひのきがさ》にかゝることもある、或《あるひ》は行過《ゆきす》ぎた背後《うしろ》へこぼれるのもある、其等《それら》は枝《えだ》から枝《えだ》に溜《たま》つて居《ゐ》て何十年《なんじうねん》ぶりではじめて地《つち》の上《うへ》まで落《おち》るのか分《わか》らぬ。」
「心細《こゝろぼそ》さは申《もを》すまでもなかつたが、卑怯《ひけふ》な様《やう》でも修業《しゆげふ》の積《つ》まぬ身《み》には、恁云《かうい》ふ暗《くら》い処《ところ》の方《はう》が却《かへ》つて観念《くわんねん》に便《たより》が宜《よ》い。何《なに》しろ体《からだ》が凌《しの》ぎよくなつたゝめに足《あし》の弱《よわり》も忘《わす》れたので、道《みち》も大《おほ》きに捗取《はかど》つて、先《ま》づこれで七分《ぶ》は森《もり》の中《なか》を越《こ》したらうと思《おも》ふ処《ところ》で、五六尺《しやく》天窓《あたま》の上《うへ》らしかつた樹《き》の枝《えだ》から、ぼたりと笠《かさ》の上《うへ》へ落《お》ち留《と》まつたものがある。
鉛《なまり》の重《おもり》かとおもふ心持《こゝろもち》、何《なに》か木《き》の実《み》でゞもあるか知《し》らんと、二三度《ど》振《ふつ》て見《み》たが附着《くツつ》いて居《ゐ》て其《その》まゝには取《と》れないから、何心《なにごゝろ》なく手《て》をやつて掴《つか》むと、滑《なめ》らかに冷《ひや》りと来《き》た。
見《み》ると海鼠《なまこ》を裂《さい》たやうな目《め》も口《くち》もない者《もの》ぢやが、動物《どうぶつ》には違《ちが》ひない。不気味《ぶきみ》で投出《なげだ》さうとするとずる/″\と辷《すべ》つて指《ゆび》の尖《さき》へ吸《すひ》ついてぶらりと下《さが》つた其《そ》の放《はな》れた指《ゆび》の尖《さき》から真赤《まつか》な美《うつく》しい血《ち》が垂々《たら/\》と出《で》たから、吃驚《びツくり》して目《め》の下《した》へ指《ゆび》をつけてじつと見《み》ると、今《いま》折曲《をりま》げた肱《ひぢ》の処《ところ》へつるりと垂懸《たれかゝ》つて居《ゐ》るのは同《おなじ》形《かたち》をした、巾《はゞ》が五分《ぶ》、丈《たけ》が三寸《ずん》ばかりの山海鼠《やまなまこ》。
呆気《あつけ》に取《とら》れて見《み》る/\内《うち》に、下《した》の方《はう》から縮《ちゞ》みながら、ぶくぶくと太《ふと》つて行《ゆ》くのは生血《いきち》をしたゝかに吸込《すひこ》む所為《せゐ》で、濁《にご》つた黒《くろ》い滑《なめ》らかな肌《はだ》に茶褐色《ちやかツしよく》の縞《しま》をもつた、痣胡瓜《いぼきうり》のやうな血《ち》を取《と》る動物《どうぶつ》、此奴《こいつ》は蛭《ひる》ぢやよ。
誰《た》が目《め》にも見違《みちが》へるわけのものではないが図抜《づぬけ》て余《あま》り大《おほき》いから一寸《ちよツと》は気《き》がつかぬであつた、何《なん》の畠《はたけ》でも、甚麼《どんな》履歴《りれき》のある沼《ぬま》でも、此位《このくらゐ》な蛭《ひる》はあらうとは思《おも》はれぬ。
肱《ひぢ》をばさりと振《ふつ》たけれども、よく喰込《くひこ》んだと見《み》えてなかなか放《はな》れさうにしないから不気味《ぶきみ》ながら手《て》で抓《つま》んで引切《ひツき》ると、ぶつりといつてやう/\取《と》れる暫時《しばらく》も耐《たま》つたものではない、突然《とつぜん》取《と》つて大地《だいぢ》へ叩《たゝ》きつけると、これほどの奴等《やつら》が何万《なんまん》となく巣《す》をくつて我《わが》ものにして居《ゐ》やうといふ処《ところ》、予《かね》て其《そ》の用意《ようい》はして居《ゐ》ると思《おも》はれるばかり、日《ひ》のあたらぬ森《もり》の中《なか》の土《つち》は柔《やはらか》い、潰《つぶ》れさうにもないのぢや。
と最早《もは》や頷《えり》のあたりがむづ/\して来《き》た、平手《ひらて》で扱《こい》て見《み》ると横撫《よこなで》に蛭《ひる》の背《せな》をぬる/\とすべるといふ、やあ、乳《ちゝ》の下《した》へ潜《ひそ》んで帯《おび》の間《あひだ》にも一疋《ぴき》、蒼《あを》くなつてそツと見《み》ると肩《かた》の上《うへ》にも一筋《すぢ》。
思《おも》はず飛上《とびあが》つて総身《そうしん》を震《ふる》ひながら此《こ》の大枝《おほえだ》の下《した》を一散《さん》にかけぬけて、走《はし》りながら先《まづ》心覚《こゝろおぼえ》の奴《やつ》だけは夢中《むちう》でもぎ取《と》つた。
何《なに》にしても恐《おそろ》しい今《いま》の枝《えだ》には蛭《ひる》が生《な》つて居《ゐ》るのであらうと余《あまり》の事《こと》に思《おも》つて振返《ふりかへ》ると、見返《みかへ》つた樹《き》の何《なん》の枝《えだ》か知《し》らず矢張《やツぱり》幾《いく》ツといふこともない蛭《ひる》の皮《かは》ぢや。
これはと思《おも》ふ、右《みぎ》も、左《ひだり》も前《まへ》の枝《えだ》も、何《なん》の事《こと》はないまるで充満《いツぱい》。
私《わし》は思《おも》はず恐怖《きようふ》の声《こゑ》を立《た》てゝ叫《さけ》んだすると何《なん》と? 此時《このとき》は目《め》に見《み》えて、上《うへ》からぼたり/\と真黒《まツくろ》な瘠《や》せた筋《すぢ》の入《はい》つた雨《あめ》が体《からだ》へ降《ふり》かゝつて来《き》たではないか。
草鞋《わらじ》を穿《は》いた足《あし》の甲《かふ》へも落《おち》た上《うへ》へ又《また》累《かさな》り、並《なら》んだ傍《わき》へ又《また》附着《くツつ》いて爪先《つまさき》も分《わか》らなくなつた、然《さ》うして活《い》きてると思《おも》ふだけ脈《みやく》を打《う》つて血《ち》を吸《す》ふやうな。思《おも》ひなしか一ツ一ツ伸縮《のびちゞみ》をするやうなのを見《み》るから気《き》が遠《とほ》くなつて、其時《そのとき》不思議《ふしぎ》な考《かんがへ》が起《お》きた。
此《こ》の恐《おそろし》い山蛭《やまびる》は神代《かみよ》の古《いにしへ》から此処《こゝ》に屯《たむろ》をして居《ゐ》て人《ひと》の来《く》るのを待《ま》ちつけて、永《なが》い久《ひさ》しい間《あひだ》に何《ど》の位《くらゐ》何斛《なんごく》かの血《ち》を吸《す》ふと、其処《そこ》でこの虫《むし》の望《のぞみ》が叶《かな》ふ其《そ》の時《とき》はありつたけの蛭《ひる》が不残《のこらず》吸《す》つたゞけの人間《にんげん》の血《ち》を吐出《はきだ》すと、其《それ》がために土《つち》がとけて山《やま》一ツ一面《めん》に血《ち》と泥《どろ》との大沼《おほぬま》にかはるであらう、其《それ》と同時《どうじ》に此処《こゝ》に日《ひ》の光《ひかり》を遮《さへぎ》つて昼《ひる》もなほ暗《くら》い大木《たいぼく》が切々《きれ/″\》に一ツ一ツ蛭《ひる》になつて了《しま》うのに相違《さうゐ》ないと、いや、全《まツた》くの事《こと》で。」
「凡《およ》そ人間《にんげん》が滅《ほろ》びるのは、地球《ちきう》の薄皮《うすかは》が破《やぶ》れて空《そら》から火《ひ》が降《ふ》るのでもなければ、大海《だいかい》が押被《おツかぶ》さるのでもない飛騨国《ひだのくに》の樹林《きはやし》が蛭《ひる》になるのが最初《さいしよ》で、しまいには皆《みんな》血《ち》と泥《どろ》の中《なか》に筋《すぢ》の黒《くろ》い虫《むし》が泳《およ》ぐ、其《それ》が代《だい》がはりの世界《せかい》であらうと、ぼんやり。
なるほど此《こ》の森《もり》も入口《いりくち》では何《なん》の事《こと》もなかつたのに、中《なか》へ来《く》ると此通《このとほ》り、もつと奥深《おくふか》く進《すゝ》んだら早《は》や不残《のこらず》立樹《たちき》の根《ね》の方《はう》から朽《く》ちて山蛭《やまびる》になつて居《ゐ》やう、助《たす》かるまい、此処《こゝ》で取殺《とりころ》される因縁《いんねん》らしい、取留《とりと》めのない考《かんがへ》が浮《うか》んだのも人《ひと》が知死期《ちしご》に近《ちかづ》いたからだと弗《ふ》と気《き》が着《つ》いた。
何《ど》の道《みち》死《し》ぬるものなら一足《あし》でも前《まへ》へ進《すゝ》んで、世間《せけん》の者《もの》が夢《ゆめ》にも知《し》らぬ血《ち》と泥《どろ》の大沼《おほぬま》の片端《かたはし》でも見《み》て置《お》かうと、然《さ》う覚悟《かくご》が極《きはま》つては気味《きみ》の悪《わる》いも何《なに》もあつたものぢやない、体中《からだぢう》珠数生《じゆずなり》になつたのを手当次第《てあたりしだい》に掻《か》い除《の》け毟《むし》り棄《す》て、抜《ぬ》き取《と》りなどして、手《て》を挙《あ》げ足《あし》を踏《ふ》んで、宛《まる》で躍《をど》り狂《くる》ふ形《かたち》で歩行《あるき》出《だ》した。
はじめの内《うち》は一廻《まはり》も太《ふと》つたやうに思《おも》はれて痒《かゆ》さが耐《たま》らなかつたが、しまひにはげつそり痩《や》せたと、感《かん》じられてづきづき痛《いた》んでならぬ、其上《そのうへ》を用捨《ようしや》なく歩行《ある》く内《うち》にも入交《いりまじ》りに襲《おそ》ひをつた。
既《すで》に目《め》も眩《くら》んで倒《たふ》れさうになると、禍《わざわひ》は此辺《このへん》が絶頂《ぜつちやう》であつたと見《み》えて、隧道《トンネル》を抜《ぬ》けたやうに遥《はるか》に一輪《りん》のかすれた月《つき》を拝《おが》んだのは蛭《ひる》の林《はやし》の出口《でくち》なので。
いや蒼空《あをそら》の下《した》へ出《で》た時《とき》には、何《なん》のことも忘《わす》れて、砕《くだ》けろ、微塵《みぢん》になれと横《よこ》なぐりに体《からだ》を山路《やまぢ》へ打倒《うちたふ》した。それでからもう砂利《じやり》でも針《はり》でもあれと地《つち》へこすりつけて、十《とう》余《あま》りも蛭《ひる》の死骸《しがい》を引《ひツ》くりかへした上《うへ》から、五六間《けん》向《むか》ふへ飛《と》んで身顫《みぶるひ》をして突立《つツた》つた。
人《ひと》を馬鹿《ばか》にして居《ゐ》るではありませんか。あたりの山《やま》では処々《ところ/″\》茅蜩殿《ひぐらしどの》、血《ち》と泥《どろ》の大沼《おほぬま》にならうといふ森《もり》を控《ひか》へて鳴《な》いて居《ゐ》る、日《ひ》は斜《なゝめ》、谷底《たにそこ》はもう暗《くら》い。
先《ま》づこれならば狼《おほかみ》の餌食《えじき》になつても其《それ》は一思《おもひ》に死《し》なれるからと、路《みち》は丁度《ちやうど》だら/″\下《おり》なり、小僧《こぞう》さん、調子《てうし》はづれに竹《たけ》の杖《つゑ》を肩《かた》にかついで、すたこら遁《に》げたわ。
これで蛭《ひる》に悩《なや》まされて痛《いた》いのか、痒《かゆ》いのか、それとも擽《くすぐ》つたいのか得《え》もいはれぬ苦《くる》しみさへなかつたら、嬉《うれ》しさに独《ひと》り飛騨山越《ひだやまごえ》の間道《かんだう》で、御経《おきやう》に節《ふし》をつけて外道踊《げだうをどり》をやつたであらう一寸《ちよツと》清心丹《せいしんたん》でも噛砕《かみくだ》いて疵口《きずぐち》へつけたら何《ど》うだと、大分《だいぶ》世《よ》の中《なか》の事《こと》に気《き》がついて来《き》たわ。捻《つね》つても確《たしか》に活返《いきかへ》つたのぢやが、夫《それ》にしても富山《とやま》の薬売《くすりうり》は何《ど》うしたらう、那《あ》の様子《やうす》では疾《とう》に血《ち》になつて泥沼《どろぬま》に。皮《かは》ばかりの死骸《しがい》は森《もり》の中《なか》の暗《くら》い処《ところ》、おまけに意地《いぢ》の汚《きたな》い下司《げす》な動物《どうぶつ》が骨《ほね》までしやぶらうと何百《なんびやく》といふ数《すう》でのしかゝつて居《ゐ》た日《ひ》には、酢《す》をぶちまけても分《わか》る気遣《きづかひ》はあるまい。
恁《か》う思《おも》つて居《ゐ》る間《あひだ》、件《くだん》のだら/″\坂《ざか》は大分《だいぶ》長《なが》かつた。
其《それ》を下《お》り切《き》ると流《ながれ》が聞《きこ》えて、飛《とん》だ処《ところ》に長《なが》さ一間《けん》ばかりの土橋《どばし》がかゝつて居《ゐ》る。
はや其《そ》の谷川《たにかは》の音《おと》を聞《き》くと我身《わがみ》で持余《もてあま》す蛭《ひる》の吸殻《すひがら》を真逆《まツさかさま》に投込《なげこ》んで、水《みづ》に浸《ひた》したら嘸《さぞ》可《いゝ》心地《こゝち》であらうと思ふ位《くらゐ》、何《なん》の渡《わた》りかけて壊《こは》れたら夫《それ》なりけり。
危《あぶな》いとも思《おも》はずにずつと懸《かゝ》る、少《すこ》しぐら/″\としたが難《なん》なく越《こ》した。向《むか》ふから又《また》坂《さか》ぢや、今度《こんど》は上《のぼ》りさ、御苦労《ごくらう》千万《せんばん》。」
「到底《とて》も此《こ》の疲《つか》れやうでは、坂《さか》を上《のぼ》るわけには行《ゆ》くまいと思《おも》つたが、ふと前途《ゆくて》に、ヒイヽンと馬《うま》の嘶《いなゝ》くのが谺《こだま》して聞《きこ》えた。
馬士《まご》が戻《もど》るのか小荷駄《こにだ》が通《とほ》るか、今朝《けさ》一人《ひとり》の百姓《ひやくしやう》に別《わか》れてから時《とき》の経《た》つたは僅《わづか》ぢやが、三年《ねん》も五年《ねん》も同一《おんなじ》ものをいふ人間《にんげん》とは中《なか》を隔《へだ》てた。馬《うま》が居《ゐ》るやうでは左《と》も右《かく》も人里《ひとざと》に縁《えん》があると、之《これ》がために気《き》が勇《いさ》んで、えゝやつと今《いま》一揉《もみ》。
一軒《けん》の山家《やまが》の前《まへ》へ来《き》たのには、然《さ》まで難儀《なんぎ》は感《かん》じなかつた、夏《なつ》のことで戸障子《としやうじ》の締《しまり》もせず、殊《こと》に一軒家《けんや》、あけ開《ひら》いたなり門《もん》といふでもない、突然《いきなり》破椽《やぶれえん》になつて男《をとこ》が一人《ひとり》、私《わし》はもう何《なん》の見境《みさかひ》もなく、(頼《たの》みます、頼《たの》みます、)といふさへ助《たすけ》を呼《よ》ぶやうな調子《てうし》で、取縋《とりすが》らぬばかりにした。
(御免《ごめん》なさいまし、)といつたがものもいはない、首筋《くびすぢ》をぐつたりと、耳《みゝ》を肩《かた》で塞《ふさ》ぐほど顔《かほ》を横《よこ》にしたまゝ小児《こども》らしい、意味《いみ》のない、然《しか》もぼつちりした目《め》で、ぢろ/″\と、門《もん》に立《た》つたものを瞻《みつ》める、其《そ》の瞳《ひとみ》を動《うご》かすさい、おつくうらしい、気《き》の抜《ぬ》けた身《み》の持方《もちかた》。裾《すそ》短《みぢ》かで袖《そで》は肱《ひぢ》より少《すくな》い、糊気《のりけ》のある、ちやん/\を着《き》て、胸《むね》のあたりで紐《ひも》で結《ゆは》へたが、一ツ身《み》のものを着《き》たやうに出《で》ツ腹《ばら》の太《ふと》り肉《じゝ》、太鼓《たいこ》を張《は》つたくらゐに、すべ/\とふくれて然《しか》も出臍《でべそ》といふ奴《やつ》、南瓜《かぼちや》の蔕《へた》ほどな異形《いぎやう》な者《もの》を、片手《かたて》でいぢくりながら幽霊《いうれい》のつきで、片手《かたて》を宙《ちう》にぶらり。
足《あし》は忘《わす》れたか投出《なげだ》した、腰《こし》がなくば暖簾《のれん》を立《た》てたやうに畳《たゝ》まれさうな、年紀《とし》が其《それ》で居《ゐ》て二十二三、口《くち》をあんぐりやつた上唇《うはくちびる》で巻込《まきこ》めやう、鼻《はな》の低《ひく》さ、出額《でびたひ》。五分《ぶ》刈《がり》の伸《の》びたのが前《まへ》は鶏冠《とさか》の如《ごと》くになつて、頷脚《えりあし》へ刎《は》ねて耳《みゝ》に被《かぶさ》つた、唖《おし》か、白痴《ばか》か、これから蛙《かへる》にならうとするやうな少年《せうねん》。私《わし》は驚《おどろ》いた、此方《こツち》の生命《いのち》に別条《べつでう》はないが、先方様《さきさま》の形相《ぎやうさう》。いや、大別条《おほべつでう》。
(一寸《ちよいと》お願《ねが》ひ申《まを》します。)
それでも為方《しかた》がないから又《また》言葉《ことば》をかけたが少《すこ》しも通《つう》ぜず、ばたりといふと僅《わづか》に首《くび》の位置《ゐち》をかへて今度《こんど》は左《ひだり》の肩《かた》を枕《まくら》にした、口《くち》の開《あ》いてること旧《もと》の如《ごと》し。
恁《かう》云《い》ふのは、悪《わる》くすると突然《いきなり》ふんづかまへて臍《へそ》を捻《ひね》りながら返事《へんじ》のかはりに嘗《な》めやうも知《し》れぬ。
私《わし》は一足《あし》退《すさ》つたがいかに深山《しんざん》だといつても是《これ》を一人《ひとり》で置《お》くといふ法《はふ》はあるまい、と足《あし》を爪立《つまだ》てゝ少《すこ》し声高《こはだか》に、
(何方《どなた》ぞ、御免《ごめん》なさい、)といつた。
背戸《せど》と思《おも》ふあたりで再《ふたゝ》び馬《うま》の嘶《いなゝ》く声《こゑ》。
(何方《どなた》、)と納戸《なんど》の方《はう》でいつたのは女《をんな》ぢやから、南無三宝《なむさんばう》、此《こ》の白《しろ》い首《くび》には鱗《うろこ》が生《は》へて、体《からだ》は床《ゆか》を這《は》つて尾《を》をずる/″\と引《ひ》いて出《で》やうと、又《また》退《すさ》つた。
(おゝ、御坊様《おばうさま》、)と立顕《たちあら》はれたのは小造《こづくり》の美《うつく》しい、声《こゑ》も清《すゞ》しい、ものやさしい。
私《わし》は大息《おほいき》を吐《つ》いて、何《なん》にもいはず、
(はい。)と頭《つむり》を下《さ》げましたよ。
婦人《をんな》は膝《ひざ》をついて坐《すわ》つたが、前《まへ》へ伸上《のびあが》るやうにして黄昏《たそがれ》にしよんぼり立《た》つた私《わし》が姿《すがた》を透《す》かし見《み》て、(何《なに》か用《よう》でござんすかい。)
休《やす》めともいはずはじめから宿《やど》の常世《つねよ》は留主《るす》らしい、人《ひと》を泊《と》めないと極《き》めたものゝやうに見《み》える。
いひ後《おく》れては却《かへ》つて出《で》そびれて頼《たの》むにも頼《たの》まれぬ仕誼《しぎ》にもなることゝ、つか/\と前《まへ》へ出《で》た。丁寧《ていねい》に腰《こし》を屈《かゞ》めて、
(私《わし》は、山越《やまごえ》で信州《しんしう》へ参《まゐ》ります者《もの》ですが旅籠《はたご》のございます処《ところ》までは未《ま》だ何《ど》の位《くらゐ》ございませう。)」
「(貴方《あなた》まだ八里《り》余《あまり》でございますよ。)
(其他《そのほか》に別《べつ》に泊《と》めてくれます家《うち》もないのでせうか。)
(其《それ》はございません。)といひながら目《め》たゝきもしないで清《すゞ》しい目《め》で私《わし》の顔《かほ》をつく/″\見《み》て居《ゐ》た。
(いえもう何《なん》でございます、実《じつ》は此先《このさき》一町《ちやう》行《ゆ》け、然《さ》うすれば上段《じやうだん》の室《へや》に寝《ね》かして一晩《ばん》扇《あふ》いで居《ゐ》て其《それ》で功徳《くどく》のためにする家《うち》があると承《うけたまは》りましても、全《まツた》くの処《ところ》一足《あし》も歩行《ある》けますのではございません、何処《どこ》の物置《ものおき》でも馬小屋《うまごや》の隅《すみ》でも宜《よ》いのでございますから後生《ごしやう》でございます。)と前刻《さツき》馬《うま》の嘶《いなゝ》いたのは此家《こゝ》より外《ほか》にはないと思《おも》つたから言《い》つた。
婦人《をんな》は暫《しばら》く考《かんが》へて居《ゐ》たが、弗《ふ》と傍《わき》を向《む》いて布《ぬの》の袋《ふくろ》を取《と》つて、膝《ひざ》のあたりに置《お》いた桶《をけ》の中《なか》へざら/\と一巾《はゞ》、水《みづ》を溢《こぼ》すやうにあけて縁《ふち》をおさへて、手《て》で掬《すく》つて俯向《うつむ》いて見《み》たが、
(あゝ、お泊《と》め申《まを》しましやう、丁度《ちやうど》炊《た》いてあげますほどお米《こめ》もございますから、其《それ》に夏《なつ》のことで、山家《やまが》は冷《ひ》えましても夜《よる》のものに御不自由《ごふじいう》もござんすまい。さあ、左《と》も右《かく》もあなたお上《あが》り遊《あそ》ばして。)
といふと言葉《ことば》の切《き》れぬ先《さき》にどつかり腰《こし》を落《おと》した。婦人《をんな》は衝《つ》と身《み》を起《おこ》して立《た》つて来《き》て、
(御坊様《おばうさま》、それでござんすが一寸《ちよつと》お断《ことは》り申《まを》して置《お》かねばなりません。)
判然《はツきり》いはれたので私《わし》はびく/\もので、
(唯《はい》、はい。)
(否《いえ》、別《べつ》のことぢやござんせぬが、私《わたし》は癖《くせ》として都《みやこ》の話《はなし》を聞《き》くのが病《やまひ》でございます、口《くち》に蓋《ふた》をしておいでなさいましても無理《むり》やりに聞《き》かうといたしますが、あなた忘《わす》れても其時《そのとき》聞《き》かして下《くだ》さいますな、可《よ》うござんすかい、私《わたし》は無理《むり》にお尋《たづ》ね申《まを》します、あなたは何《ど》うしてもお話《はな》しなさいませぬ、其《それ》を是非《ぜひ》にと申《まを》しましても断《た》つて有仰《おツしや》らないやうに屹《きツ》と念《ねん》を入《い》れて置《お》きますよ。)
と仔細《しさい》ありげなことをいつた。
山《やま》の高《たか》さも谷《たに》の深《ふか》さも底《そこ》の知《し》れない一軒家《けんや》の婦人《をんな》の言葉《ことば》とは思《おも》ふたが、保《たも》つにむづかしい戒《かい》でもなし、私《わし》は唯《たゞ》頷《うなづ》くばかり。
(唯《はい》、宜《よろ》しうございます、何事《なにごと》も仰有《おツしや》りつけは背《そむ》きますまい。)
婦人《をんな》は言下《ごんか》に打解《うちと》けて、
(さあ/\汚《きたな》うございますが早《はや》く此方《こちら》へ、お寛《くつろ》ぎなさいまし、然《さ》うしてお洗足《せんそく》を上《あ》げませうかえ。)
(いえ、其《それ》には及《およ》びませぬ、雑巾《ざうきん》をお貸《か》し下《くだ》さいまし。あゝ、それからもし其《そ》のお雑巾《ざうきん》次手《ついで》にづツぷりお絞《しぼ》んなすつて下《くだ》さると助《たすか》ります、途中《とちう》で大変《たいへん》な目《め》に逢《あ》ひましたので体《からだ》を打棄《うつちや》りたいほど気味《きみ》が悪《わる》うございますので、一ツ背中《せなか》を拭《ふ》かうと存《ぞん》じますが恐入《おそれい》りますな。)
(然《さ》う、汗《あせ》におなりなさいました、嘸《さ》ぞまあ、お暑《あつ》うござんしたでせう、お待《ま》ちなさいまし、旅籠《はたご》へお着《つ》き遊《あそ》ばして湯《ゆ》にお入《はい》りなさいますのが、旅《たび》するお方《かた》には何《なに》より御馳走《ごちそう》だと申《まを》しますね、湯《ゆ》どころか、お茶《ちや》さへ碌《ろく》におもてなしもいたされませんが、那《あ》の、此《こ》の裏《うら》の崖《がけ》を下《お》りますと、綺麗《きれい》な流《ながれ》がございますから一層《そう》其《それ》へ行《い》らつしやツてお流《なが》しが宜《よ》うございませう、)
聞《き》いただけでも飛《とん》でも行《ゆ》きたい。
(えゝ、其《それ》は何《なに》より結構《けつこう》でございますな。)
(さあ、其《それ》では御案内《ごあんない》申《まを》しませう、どれ、丁度《ちやうど》私《わたし》も米《こめ》を磨《と》ぎに参《まゐ》ります。)と件《くだん》の桶《をけ》を小脇《こわき》に抱《かゝ》へて、椽側《えんがは》から、藁草履《わらぞうり》を穿《は》いて出《で》たが、屈《かゞ》んで板椽《いたえん》の下《した》を覗《のぞ》いて、引出《ひきだ》したのは一足《そく》の古下駄《ふるげた》で、かちりと合《あ》はして埃《ほこり》を払《はた》いて揃《そろ》へて呉《く》れた。
(お穿《は》きなさいまし、草鞋《わらじ》は此処《こゝ》にお置《お》きなすつて、)
私《わし》は手《て》をあげて一礼《れい》して、
(恐入《おそれい》ります、これは何《ど》うも、)
(お泊《と》め申《まを》すとなりましたら、あの、他生《たしやう》の縁《えん》とやらでござんす、あなた御遠慮《ごゑんりよ》を遊《あそ》ばしますなよ。)先《ま》づ恐《おそ》ろしく調子《てうし》が可《い》いぢやて。」
「(さあ、私《わたし》に跟《つ》いて此方《こちら》へ、)と件《くだん》の米磨桶《こめとぎをけ》を引抱《ひツかゝ》へて手拭《てぬぐひ》を細《ほそ》い帯《おび》に挟《はさ》んで立《た》つた。
髪《かみ》は房《ふツさ》りとするのを束《たば》ねてな、櫛《くし》をはさんで笄《かんざし》で留《と》めて居《ゐ》る、其《そ》の姿《すがた》の佳《よ》さといふてはなかつた。
私《わし》も手早《てばや》く草鞋《わらじ》を解《と》いたから、早速《さツそく》古下駄《ふるげた》を頂戴《ちやうだい》して、椽《えん》から立《た》つ時《とき》一寸《ちよいと》見《み》ると、それ例《れい》の白痴殿《ばかどの》ぢや。
同《おな》じく私《わし》が方《かた》をぢろりと見《み》たつけよ、舌不足《したたらず》が饒舌《しやべ》るやうな、愚《ぐ》にもつかぬ声《こゑ》を出《だ》して、
(姉《ねえ》や、こえ、こえ。)といひながら、気《き》だるさうに手《て》を持上《もちあ》げて其《そ》の蓬々《ばう/\》と生《は》へた天窓《あたま》を撫《な》でた。
(坊《ばう》さま、坊《ばう》さま?)
すると婦人《をんな》が、下《しも》ぶくれな顔《かほ》にえくぼを刻《きざ》んで、三ツばかりはき/\と続《つゞ》けて頷《うなづ》いた。
少年《せうねん》はうむといつたが、ぐたりとして又《また》臍《へそ》をくり/\/\。
私《わし》は余《あま》り気《き》の毒《どく》さに顔《かほ》も上《あ》げられないで密《そ》つと盗《ぬす》むやうにして見《み》ると、婦人《をんな》は何事《なにごと》も別《べつ》に気《き》に懸《か》けては居《を》らぬ様子《やうす》、其《その》まゝ後《あと》へ跟《つ》いて出《で》やうとする時《とき》、紫陽花《あぢさい》の花《はな》の蔭《かげ》からぬいと出《で》た一名《めい》の親仁《おやぢ》がある。
背戸《せど》から廻《まは》つて来《き》たらしい、草鞋《わらじ》を穿《は》いたなりで、胴乱《どうらん》の根付《ねつけ》を紐長《ひもなが》にぶらりと提《さ》げ、啣煙管《くはへぎせる》をしながら並《なら》んで立停《たちとま》つた。
(和尚様《おしやうさま》おいでなさい。)
婦人《をんな》は其方《そなた》を振向《ふりむ》いて、
(おぢ様《さん》何《ど》うでござんした。)
(然《さ》ればさの、頓馬《とんま》で間《ま》の抜《ぬ》けたといふのは那《あ》のことかい。根《ね》ツから早《は》や狐《きつね》でなければ乗《の》せ得《え》さうにもない奴《やつ》ぢやが、其処《そこ》はおらが口《くち》ぢや、うまく仲人《なかうど》して、二月《つき》や三月《つき》はお嬢様《ぢやうさま》が御不自由《ごふんじよ》のねえやうに、翌日《あす》はものにして沢山《うん》と此処《こゝ》へ担《かつ》ぎ込《こ》んます。)
(お頼《たの》み申《まを》しますよ。)
(承知《しようち》、承知《しようち》、おゝ、嬢様《ぢやうさま》何処《どこ》さ行《ゆ》かつしやる。)
(崖《がけ》の水《みづ》まで一寸《ちよいと》。)
(若《わか》い坊様《ばうさま》連《つ》れて川《かは》へ落《お》つこちさつさるな。おら此処《こゝ》に眼張《がんば》つて待《ま》つ居《と》るに、)と横様《よこさま》に椽《えん》にのさり。
(貴僧《あなた》、あんなことを申《まを》しますよ。)と顔《かほ》を見《み》て微笑《ほゝゑ》んだ。
(一人《ひとり》で参《まゐ》りませう、)と傍《わき》へ退《の》くと親仁《おやぢ》は吃々《くつ/\》と笑《わら》つて、
(はゝゝゝ、さあ早《はや》くいつてござらつせえ。)
(をぢ様《さん》、今日《けふ》はお前《まへ》、珍《めづ》らしいお客《きやく》がお二人《ふたかた》ござんした、恁《か》ふ云《い》ふ時《とき》はあとから又《また》見《み》えやうも知《し》れません、次郎《じらう》さんばかりでは来《き》た者《もの》が弱《よわ》んなさらう、私《わたし》が帰《かへ》るまで其処《そこ》に休《やす》んで居《ゐ》てをくれでないか。)
(可《い》いともの。)といひかけて親仁《おやぢ》は少年《せうねん》の傍《そば》へにぢり寄《よ》つて、鉄挺《かなてこ》を見《み》たやうな拳《こぶし》で、脊中《せなか》をどんとくらはした、白痴《ばか》の腹《はら》はだぶりとして、べそをかくやうな口《くち》つきで、にやりと笑《わら》ふ。
私《わし》は悚気《ぞツ》として面《おもて》を背《そむ》けたが婦人《をんな》は何気《なにげ》ない体《てい》であつた。
親仁《おやぢ》は大口《おほぐち》を開《あ》いて、
(留主《るす》におらが此《こ》の亭主《ていしゆ》を盗《ぬす》むぞよ。)
(はい、ならば手柄《てがら》でござんす、さあ、貴僧《あなた》参《まゐ》りませうか。)
背後《うしろ》から親仁《おやぢ》が見《み》るやうに思《おも》つたが、導《みちび》かるゝまゝに壁《かべ》について、彼《か》の紫陽花《あぢさい》のある方《はう》ではない。
軈《やが》て脊戸《せど》と思《おも》ふ処《ところ》で左《ひだり》に馬小屋《うまごや》を見《み》た、こと/\といふ物音《ものおと》は羽目《はめ》を蹴《け》るのであらう、もう其辺《そのへん》から薄暗《うすぐら》くなつて来《く》る。
(貴僧《あなた》、こゝから下《を》りるのでございます、辷《すべ》りはいたしませぬが道《みち》が酷《ひど》うございますからお静《しづか》に、)といふ。」
「其処《そこ》から下《お》りるのだと思《おも》はれる、松《まつ》の木《き》の細《ほそ》くツて度外《どはづ》れに背《せい》の高《たか》いひよろ/\した凡《およ》そ五六間《けん》上《うへ》までは小枝《こえだ》一ツもないのがある。其中《そのなか》を潜《くゞ》つたが仰《あふ》ぐと梢《こずえ》に出《で》て白《しろ》い、月《つき》の形《かたち》は此処《ここ》でも別《べつ》にかはりは無《な》かつた、浮世《うきよ》は何処《どこ》にあるか十三夜《じふさんや》で。
先《さき》へ立《た》つた婦人《をんな》の姿《すがた》が目《め》さきを放《はな》れたから、松《まつ》の幹《みき》に掴《つか》まつて覗《のぞ》くと、つい下《した》に居《ゐ》た。
仰向《あふむ》いて、
(急《きふ》に低《ひく》くなりますから気《き》をつけて。こりや貴僧《あなた》には足駄《あしだ》では無理《むり》でございましたか不知《しら》、宜《よろ》しくば草履《ざうり》とお取交《とりか》へ申《まを》しませう。)
立後《たちおく》れたのを歩行悩《あるきなや》んだと察《さつ》した様子《やうす》、何《なに》が扨《さて》転《ころ》げ落《お》ちても早《はや》く行《い》つて蛭《ひる》の垢《あか》を落《おと》したさ。
(何《なに》、いけませんければ跣足《はだし》になります分《ぶん》のこと、何卒《どうぞ》お構《かま》ひなく、嬢様《ぢやうさま》に御心配《ごしんぱい》をかけては済《す》みません。)
(あれ、嬢様《ぢやうさま》ですつて、)と稍《やゝ》調子《てうし》を高《たか》めて、艶麗《あでやか》に笑《わら》つた。
(唯《はい》、唯今《たゞいま》あの爺様《ぢいさん》が、然《さ》やう申《まを》しましたやうに存《ぞん》じますが、夫人《おくさま》でございますか。)
(何《なん》にしても貴僧《あなた》には叔母《をば》さん位《ぐらゐ》な年紀《とし》ですよ。まあ、お早《はや》くいらつしやい、草履《ざうり》も可《よ》うござんすけれど、刺《とげ》がさゝりますと不可《いけ》ません、それにじく/\湿《ぬ》れて居《ゐ》てお気味《きみ》が悪《わる》うございませうから)と向《むか》ふ向《むき》でいひながら衣服《きもの》の片褄《かたつま》をぐいとあげた。真白《まつしろ》なのが暗《くら》まぎれ、歩行《ある》くと霜《しも》が消《き》えて行《ゆ》くやうな。
ずん/\ずん/\と道《みち》を下《お》りる、傍《かたはら》の叢《くさむら》から、のさ/\と出《で》たのは蟇《ひき》で。
(あれ、気味《きみ》が悪《わる》いよ。)といふと婦人《をんな》は背後《うしろ》へ高々《たか/″\》と踵《かがと》を上《あ》げて向《むか》ふへ飛《と》んだ。
(お客様《きやくさま》が被在《ゐらつ》しやるではないかね、人《ひと》の足《あし》になんか搦《から》まつて贅沢《ぜいたく》ぢやあないか、お前達《まへだち》は虫《むし》を吸《す》つて居《ゐ》れば沢山《たくさん》だよ。
貴僧《あなた》ずん/\入《い》らつしやいましな、何《ど》うもしはしません。恁云《かうい》ふ処《ところ》ですからあんなものまで人懐《ひとなつか》うございます、厭《いや》ぢやないかね、お前達《まへだち》と友達《ともだち》を見《み》たやうで可愧《はづかし》い、あれ可《い》けませんよ。)
蟇《ひき》はのさ/\と又《また》草《くさ》を分《わ》けて入《はい》つた、婦人《をんな》はむかふへずいと。
(さあ此《こ》の上《うへ》へ乗《の》るんです、土《つち》が柔《やはら》かで壊《く》へますから地面《ぢめん》は歩行《ある》かれません。)
いかにも大木《たいぼく》の僵《たふ》れたのが草《くさ》がくれに其《そ》の幹《みき》をあらはして居《ゐ》る、乗《の》ると足駄穿《あしだばき》で差支《さしつか》へがない、丸木《まるき》だけれども可恐《おそろ》しく太《ふと》いので、尤《もつと》もこれを渡《わた》り果《は》てると忽《たちま》ち流《ながれ》の音《おと》が耳《みゝ》に激《げき》した、それまでには余程《よほど》の間《あひだ》。
仰《あふ》いで見《み》ると松《まつ》の樹《き》はもう影《かげ》も見《み》えない、十三夜《や》の月《つき》はずつと低《ひく》うなつたが、今《いま》下《お》りた山《やま》の頂《いただき》に半《なか》ばかゝつて、手《て》が届《とゞ》きさうにあざやかだけれども、高《たか》さは凡《およ》そ計《はか》り知《し》られぬ。
(貴僧《あなた》、此方《こちら》へ。)
といつた、婦人《をんな》はもう一息《いき》、目《め》の下《した》に立《た》つて待《ま》つて居《ゐ》た。
其処《そこ》は早《は》や一面《めん》の岩《いは》で、岩《いは》の上《うへ》へ谷川《たにがは》の水《みづ》がかゝつて此処《ここ》によどみを造《つく》つて居《ゐ》る、川巾《かははば》は一間《けん》ばかり、水《みづ》に望《のぞ》めば音《おと》は然《さ》までにもないが、美《うつく》しさは玉《たま》を解《と》いて流《なが》したやう、却《かへ》つて遠《とほ》くの方《はう》で凄《すさま》じく岩《いは》に砕《くだ》ける響《ひゞき》がする。
向《むか》ふ岸《ぎし》は又《また》一坐《ざ》の山《やま》の裾《すそ》で、頂《いたゞき》の方《はう》は真暗《まつくら》だが、山《やま》の端《は》から其《その》山腹《さんぷく》を射《い》る月《つき》の光《ひかり》に照《て》らし出《だ》された辺《あたり》からは大石《おほいし》小石《こいし》、栄螺《さゞえ》のやうなの、六尺角《しやくかく》に切出《きりだ》したの、剣《つるぎ》のやうなのやら鞠《まり》の形《かたち》をしたのやら、目《め》の届《とゞ》く限《かぎ》り不残《のこらず》岩《いは》で、次第《しだい》に大《おほき》く水《みづ》に浸《ひた》つたのは唯《ただ》小山《こやま》のやう。」
「(可《いゝ》塩梅《あんばい》に今日《けふ》は水《みづ》がふへて居《を》りますから、中《なか》に入《はい》りませんでも此上《このうへ》で可《よ》うございます。)と甲《かう》を浸《ひた》して爪先《つまさき》を屈《かゞ》めながら、雪《ゆき》のやうな素足《すあし》で石《いし》の盤《ばん》の上《うへ》に立《た》つて居《ゐ》た。
自分達《じぶんだち》が立《た》つた側《がは》は、却《かへ》つて此方《こなた》の山《やま》の裾《すそ》が水《みづ》に迫《せま》つて、丁度《ちやうど》切穴《きりあな》の形《かたち》になつて、其処《そこ》へ此《こ》の石《いし》を箝《は》めたやうな誂《あつらへ》。川上《かはかみ》も下流《かりう》も見《み》えぬが、向《むか》ふの彼《か》の岩山《いはやま》、九十九折《つゞらをれ》のやうな形《かたち》、流《ながれ》は五尺《しやく》、三尺《しやく》、一間《けん》ばかりづゝ上流《じやうりう》の方《はう》が段々《だん/″\》遠《とほ》く、飛々《とび/″\》に岩《いは》をかゞつたやうに隠見《いんけん》して、いづれも月光《げつくわう》を浴《あ》びた、銀《ぎん》の鎧《よろひ》の姿《すがた》、目《ま》のあたり近《ちか》いのはゆるぎ糸《いと》を捌《さば》くが如《ごと》く真白《まツしろ》に飜《ひるがへ》つて。
(結構《けつこう》な流《ながれ》でございますな。)
(はい、此《こ》の水《みづ》は源《みなもと》が瀧《たき》でございます、此山《このやま》を旅《たび》するお方《かた》は皆《みな》大風《おほかぜ》のやうな音《おと》を何処《どこ》かで聞《き》きます。貴僧《あなた》は此方《こちら》へ被入《いら》つしやる道《みち》でお心着《こゝろづ》きはなさいませんかい。)
然《さ》ればこそ山蛭《やまびる》の大藪《おほやぶ》へ入《はい》らうといふ少《すこ》し前《まへ》から其《そ》の音《おと》を。
(彼《あれ》は林《はやし》へ風《かぜ》の当《あた》るのではございませんので?)
(否《いえ》、誰《たれ》でも然《さ》う申《まを》します那《あ》の森《もり》から三里《り》ばかり傍道《わきみち》へ入《はい》りました処《ところ》に大瀧《おほたき》があるのでございます、其《そ》れは/\日本一《にツぽんいち》ださうですが路《みち》が嶮《けは》しうござんすので、十人《にん》に一人《ひとり》参《まゐ》つたものはございません。其《そ》の瀧《たき》が荒《あ》れましたと申《まを》しまして丁度《ちやうど》今《いま》から十三年《ねん》前《まへ》、可恐《おそろ》しい洪水《おほみづ》がございました、恁麼《こんな》高《たか》いところまで川《かは》の底《そこ》になりましてね、麓《ふもと》の村《むら》も山《やま》の家《いへ》も残《のこ》らず流《なが》れて了《しま》ひました。此《こ》の上《かみ》の洞《ほら》もはじめは二十軒《けん》ばかりあつたのでござんす、此《こ》の流《なが》れも其時《そのとき》から出来《でき》ました、御覧《ごらん》なさいましな、此《こ》の通《とほ》り皆《みな》石《いし》が流《なが》れたのでございますよ。)
婦人《をんな》は何時《いつ》かもう米《こめ》を精《しら》げ果《は》てゝ、衣紋《えもん》の乱《みだ》れた、乳《ち》の端《はし》もほの見《み》ゆる、膨《ふく》らかな胸《むね》を反《そ》らして立《た》つた、鼻《はな》高《たか》く口《くち》を結《むす》んで目《め》を恍惚《うつとり》と上《うへ》を向《む》いて頂《いたゞき》を仰《あふ》いだが、月《つき》はなほ半腹《はんぷく》の其《そ》の累々《るゐ/\》たる巌《いはほ》を照《て》らすばかり。
(今《いま》でも恁《か》うやつて見《み》ますと恐《こは》いやうでございます。)と屈《かゞ》んで二の腕《うで》の処《ところ》を洗《あら》つて居《ゐ》ると。
(あれ、貴僧《あなた》、那様《そんな》行儀《ぎやうぎ》の可《い》いことをして被在《ゐら》しつてはお召《めし》が濡《ぬ》れます、気味《きみ》が悪《わる》うございますよ、すつぱり裸体《はだか》になつてお洗《あら》ひなさいまし、私《わたし》が流《なが》して上《あ》げませう。)
(否《いえ》、)
(否《いえ》ぢやあござんせぬ、それ、それ、お法衣《ころも》の袖《そで》に浸《ひた》るではありませんか、)といふと突然《いきなり》背後《うしろ》から帯《おび》に手《て》をかけて、身悶《みもだえ》をして縮《ちゞ》むのを、邪慳《じやけん》らしくすつぱり脱《ぬ》いで取《と》つた。
私《わし》は師匠《ししやう》が厳《きびし》かつたし、経《きやう》を読《よ》む身体《からだ》ぢや、肌《はだ》さへ脱《ぬ》いだことはついぞ覚《おぼ》えぬ。然《しか》も婦人《をんな》の前《まへ》、蝸牛《まひ/\つぶろ》が城《しろ》を明《あ》け渡《わた》したやうで、口《くち》を利《き》くさへ、況《ま》して手足《てあし》のあがきも出来《でき》ず背中《せなか》を丸《まる》くして、膝《ひざ》を合《あ》はせて、縮《ちゞ》かまると、婦人《をんな》は脱《ぬ》がした法衣《ころも》を傍《かたはら》の枝《えだ》へふわりとかけた。
(お召《めし》は恁《か》うやつて置《お》きませう、さあお背《せな》を、あれさ、じつとして。お嬢様《ぢやうさま》と有仰《おつしや》つて下《くだ》さいましたお礼《れい》に、叔母《をば》さんが世話《せわ》を焼《や》くのでござんす、お人《ひと》の悪《わる》い、)といつて片袖《かたそで》を前歯《まへば》で引上《ひきあ》げ、
玉《たま》のやうな二の腕《うで》をあからさまに背中《せなか》に乗《の》せたが、熟《じつ》と見《み》て、
(まあ、)
(何《ど》うかいたしてをりますか。)
(痣《あざ》のやうになつて一面《めん》に。)
(えゝ、それでございます、酷《ひど》い目《め》に逢《あ》ひました。)
思《おも》ひ出《だ》しても悚然《ぞツ》とするて。」
「婦人《をんな》は驚《おどろ》いた顔《かほ》をして、
(それでは森《もり》の中《なか》で、大変《たいへん》でございますこと。旅《たび》をする人《ひと》が、飛騨《ひだ》の山《やま》では蛭《ひる》が降《ふ》るといふのは彼処《あすこ》でござんす。貴僧《あなた》は抜道《ぬけみち》を御存《ごぞん》じないから正面《まとも》に蛭《ひる》の巣《す》をお通《とほ》りなさいましたのでございますよ。お生命《いのち》も冥加《みやうが》な位《くらゐ》、馬《うま》でも牛《うし》でも吸殺《すひころ》すのでございますもの。然《しか》し疼《うづ》くやうにお痒《かゆ》いのでござんせうね。)
(唯今《たゞいま》では最《も》う痛《いた》みますばかりになりました。)
(それでは恁麼《こんな》ものでこすりましては柔《やはらか》いお肌《はだ》が擦剥《すりむ》けませう、)といふと手《て》が綿《わた》のやうに障《さは》つた。
それから両方《りようはう》の肩《かた》から、背《せな》、横腹《よこばら》、臀《いしき》、さら/\水《みづ》をかけてはさすつてくれる。
それがさ、骨《ほね》に通《とほ》つて冷《つめた》いかといふと然《さ》うではなかつた。暑《あつ》い時分《じぶん》ぢやが、理屈《りくつ》をいふと恁《か》うではあるまい、私《わし》の血《ち》が湧《わ》いたせいか、婦人《をんな》の温気《ぬくみ》か、手《て》で洗《あら》つてくれる水《みづ》が可《いゝ》工合《ぐあひ》に身《み》に染《し》みる、尤《もツと》も質《たち》の佳《い》い水《みづ》は柔《やはらか》ぢやさうな。
其《そ》の心地《こゝち》の得《え》もいはれなさで、眠気《ねむけ》がさしたでもあるまいが、うと/\する様子《やうす》で、疵《きず》の痛《いた》みがなくなつて気《き》が遠《とほ》くなつてひたと附《くツ》ついて居《ゐ》る婦人《をんな》の身体《からだ》で、私《わし》は花《はな》びらの中《なか》へ包《つゝ》まれたやうな工合《ぐあひ》。
山家《やまが》の者《もの》には肖合《にあ》はぬ、都《みやこ》にも希《まれ》な器量《きりやう》はいふに及《およ》ばぬが弱々《よわ/\》しさうな風采《ふう》ぢや、背《せなか》を流《なが》す内《うち》にもはツ/\と内証《ないしよう》で呼吸《いき》がはづむから、最《も》う断《ことは》らう/\と思《おも》ひながら、例《れい》の恍惚《うつとり》で、気《き》はつきながら洗《あら》はした。
其上《そのうへ》、山《やま》の気《き》か、女《をんな》の香《にほひ》か、ほんのりと佳《い》い薫《かほり》がする、私《わし》は背後《うしろ》でつく息《いき》ぢやらうと思《おも》つた。」
上人《しやうにん》は一寸《ちよいと》句切《くぎ》つて、
「いや、お前様《まんさま》お手近《てちか》ぢや、其《そ》の明《あかり》を掻立《かきた》つて貰《もら》ひたい、暗《くら》いと怪《け》しからぬ話《はなし》ぢや、此処等《ここら》から一番《ばん》野面《のづら》で遣《やツ》つけやう。」
枕《まくら》を並《なら》べた上人《しやうにん》の姿《すがた》も朧《おぼろ》げに明《あかり》は暗《くら》くなつて居《ゐ》た、早速《さつそく》燈心《とうしん》を明《あかる》くすると、上人《しやうにん》は微笑《ほゝゑ》みながら続《つゞ》けたのである。
「さあ、然《さ》うやつて何時《いつ》の間《ま》にやら現《うつゝ》とも無《な》しに、恁《か》う、其《そ》の不思議《ふしぎ》な、結構《けつこう》な薫《かほり》のする暖《あツたか》い花《はな》の中《なか》へ、柔《やはら》かに包《つゝ》まれて、足《あし》、腰《こし》、手《て》、肩《かた》、頸《えり》から次第《しだい》に、天窓《あたま》まで一面《めん》に被《かぶ》つたから吃驚《びツくり》、石《いし》に尻持《しりもち》を搗《つ》いて、足《あし》を水《みづ》の中《なか》に投出《なげだ》したから落《お》ちたと思《おも》ふ途端《とたん》に、女《をんな》の手《て》が脊後《うしろ》から肩越《かたこし》に胸《むね》をおさへたので確《しつか》りつかまつた。
(貴僧《あなた》、お傍《そば》に居《ゐ》て汗臭《あせくさ》うはござんせぬかい飛《とん》だ暑《あつ》がりなんでございますから、恁《か》うやつて居《を》りましても恁麼《こんな》でございますよ。)といふ胸《むね》にある手《て》を取《と》つたのを、慌《あは》てゝ放《はな》して棒《ぼう》のやうに立《た》つた。
(失礼《しつれい》、)
(いゝえ誰《たれ》も見《み》て居《を》りはしませんよ。)と澄《す》まして言《い》ふ、婦人《をんな》も何時《いつ》の間《ま》にか衣服《きもの》を脱《ぬ》いで全身《ぜんしん》を練絹《ねりぎぬ》のやうに露《あら》はして居《ゐ》たのぢや。
何《なん》と驚《おどろ》くまいことか。
(恁麼《こんな》に太《ふと》つて居《を》りますから、最《も》うお可愧《はづか》しいほど暑《あつ》いのでございます、今時《いまどき》は毎日《まいにち》二度《ど》も三度《ど》も来《き》ては恁《か》うやつて汗《あせ》を流《なが》します、此《こ》の水《みづ》がございませんかつたら何《ど》ういたしませう、貴僧《あなた》、お手拭《てぬぐひ》。)といつて絞《しぼ》つたのを寄越《よこ》した。
(其《それ》でおみ足《あし》をお拭《ふ》きなさいまし。)
何時《いつ》の間《ま》にか、体《からだ》はちやんと拭《ふ》いてあつた、お話《はな》し申《まを》すも恐多《おそれおほ》いか、はゝはゝはゝ。」
「なるほど見《み》た処《ところ》、衣服《きもの》を着《き》た時《とき》の姿《すがた》とは違《ちが》ふて肉《しゝ》つきの豊《ゆたか》な、ふつくりとした膚《はだへ》。
(先刻《さツき》小屋《こや》へ入《はい》つて世話《せわ》をしましたので、ぬら/\した馬《うま》の鼻息《はないき》が体中《からだぢゆう》へかゝつて気味《きみ》が悪《わる》うござんす。丁度《ちやうど》可《よ》うございますから私《わたし》も体《からだ》を拭《ふ》きませう、)
と姉弟《あねおとうと》が内端話《うちはばなし》をするやうな調子《てうし》。手《て》をあげて黒髪《くろかみ》をおさへながら腋《わき》の下《した》を手拭《てぬぐひ》でぐいと拭《ふ》き、あとを両手《りやうて》で絞《しぼ》りながら立《た》つた姿《すがた》、唯《たゞ》これ雪《ゆき》のやうなのを恁《かゝ》る霊水《れいすい》で清《きよ》めた、恁云《かうい》ふ女《をんな》の汗《あせ》は薄紅《うすくれなゐ》になつて流《なが》れやう。
一寸《ちよい》/\と櫛《くし》を入《い》れて、
(まあ、女《をんな》がこんなお転婆《てんば》をいたしまして、川《かは》へ落《おつ》こちたら何《ど》うしませう、川下《かはしも》へ流《なが》れて出《で》ましたら、村里《むらさと》の者《もの》が何《なん》といつて見《み》ませうね。)
(白桃《しろもゝ》の花《はな》だと思《おも》ひます。)と弗《ふ》と心着《こゝろつ》いて何《なん》の気《き》もなしにいふと、顔《かほ》が合《あ》ふた。
すると然《さ》も嬉《うれ》しさうに莞爾《にツこり》して其時《そのとき》だけは初々《うゐ/\》しう年紀《とし》も七ツ八ツ若《わか》やぐばかり、処女《きむすめ》の羞《はぢ》を含《ふく》んで下《した》を向《む》いた。
私《わし》は其《その》まゝ目《め》を外《そ》らしたが、其《そ》の一段《だん》の婦人《をんな》の姿《すがた》が月《つき》を浴《あ》びて、薄《うす》い煙《けぶり》に包《つゝ》まれながら向《むか》ふ岸《ぎし》の|※《しぶき》[#「さんずい+散」、U+6F75、36-13]に濡《ぬ》れて黒《くろ》い、滑《なめら》かな、大《おほき》な石《いし》へ蒼味《あをみ》を帯《お》びて透通《すきとほ》つて映《うつ》るやうに見《み》えた。
するとね、夜目《よめ》で判然《はつきり》とは目《め》に入《い》らなんだが地体《ぢたい》何《なん》でも洞穴《ほらあな》があると見《み》える。ひら/\と、此方《こちら》からもひら/\と、ものゝ鳥《とり》ほどはあらうといふ大蝙蝠《おほかはほり》が目《め》を遮《さへぎ》つた。
(あれ、不可《いけな》いよ、お客様《きやくさま》があるぢやないかね。)
不意《ふい》を打《う》たれたやうに叫《さけ》んで身悶《みもだえ》をしたのは婦人《をんな》。
(何《ど》うかなさいましたか、)最《も》うちやんと法衣《ころも》を着《き》たから気丈夫《きぢやうぶ》に尋《たづ》ねる。
(否《いゝえ》、)
といつたばかりで極《きまり》が悪《わる》さうに、くるりと後向《うしろむき》になつた。
其時《そのとき》小犬《こいぬ》ほどな鼠色《ねづみいろ》の小坊主《こばうず》が、ちよこ/\とやつて来《き》て、|呀《あなや》と思《おも》ふと、崖《がけ》から横《よこ》に宙《ちゆう》をひよいと、背後《うしろ》から婦人《をんな》の背中《せなか》へぴつたり。
裸体《はだか》の立姿《たちすがた》は腰《こし》から消《き》えたやうになつて、抱《だき》ついたものがある。
(畜生《ちくしやう》お客様《きやくさま》が見《み》えないかい。)
と声《こゑ》に怒《いかり》を帯《お》びたが、
(お前達《まへだち》は生意気《なまいき》だよ、)と激《はげ》しくいひさま、腋《わき》の下《した》から覗《のぞ》かうとした件《くだん》の動物《どうぶつ》の天窓《あたま》を振返《ふりかへ》りさまにくらはしたで。
キツヽヽといふて奇声《きせい》を放《はな》つた、件《くだん》の小坊主《こばうず》は其《その》まゝ後飛《うしろと》びに又《また》宙《ちゆう》を飛《と》んで、今《いま》まで法衣《ころも》をかけて置《お》いた枝《えだ》の尖《さき》へ長《なが》い手《て》で釣《つる》し下《さが》つたと思《おも》ふと、くるりと釣瓶覆《つるべがへし》に上《うへ》へ乗《の》つて、其《それ》なりさら/\と木登《きのぼり》をしたのは、何《なん》と猿《さる》ぢやあるまいか。
枝《えだ》から枝《えだ》を伝《つた》ふと見《み》えて、見上《みあ》げるやうに高《たか》い木《き》の、軈《やが》て梢《こずえ》まで、かさ/\がさり。
まばらに葉《は》の中《なか》を透《す》かして月《つき》は山《やま》の端《は》を放《はな》れた、其《そ》の梢《こずえ》のあたり。
婦人《をんな》はものに拗《す》ねたやう、今《いま》の悪戯《いたづら》、いや、毎々《まい/\》、蟇《ひき》と蝙蝠《かはほり》とお猿《さる》で三度《ど》ぢや。
其《そ》の悪戯《いたづら》に多《いた》く機嫌《きげん》を損《そこ》ねた形《かたち》、あまり子供《こども》がはしやぎ過《す》ぎると、若《わか》い母様《おふくろ》には得《え》てある図《づ》ぢや、
本当《ほんたう》に怒《おこ》り出《だ》す。
といつた風情《ふぜい》で面倒臭《めんだうくさ》さうに衣服《きもの》を着《き》て居《ゐ》たから、私《わし》は何《なんに》も問《と》はずに少《ちい》さくなつて黙《だま》つて控《ひか》へた。」
「優《やさ》しいなかに強《つよ》みのある、気軽《きがる》に見《み》えても何処《どこ》にか落着《おちつき》のある、馴々《なれ/\》しくて犯《をか》し易《やす》からぬ品《ひん》の可《い》い、如何《いか》なることにもいざとなれば驚《おどろ》くに足《た》らぬといふ身《み》に応《こたへ》のあるといつたやうな風《ふう》の婦人《をんな》、恁《か》く嬌瞋《きやうしん》を発《はつ》しては屹度《きつと》可《い》いことはあるまい、今《いま》此《こ》の婦人《をんな》に邪慳《じやけん》にされては木《き》から落《お》ちた猿《さる》同然《どうぜん》ぢやと、おつかなびつくりで、おづ/\控《ひか》へて居《ゐ》たが、いや案《あん》ずるより産《うむ》が安《やす》い。
(貴僧《あなた》、嘸《さぞ》をかしかつたでござんせうね、)と自分《じぶん》でも思《おも》ひ出《だ》したやうに快《こゝろよ》く微笑《ほゝゑ》みながら、
(為《し》やうがないのでございますよ。)
以前《いぜん》と変《かは》らず心安《こゝろやす》くなつた、帯《おび》も早《は》や締《し》めたので、
(其《それ》では家《うち》へ帰《かへ》りませう。)と米磨桶《こめとぎをけ》を小脇《こわき》にして、草履《ざうり》を引《ひつ》かけて衝《つ》と崖《がけ》へ上《のぼ》つた。
(お危《あぶの》うござんすから、)
(否《いえ》、もう大分《だいぶ》勝手《かつて》が分《わか》つて居《を》ります。)
づツと心得《こゝろえ》た意《つもり》ぢやつたが、扨《さて》上《あが》る時《とき》見《み》ると思《おも》ひの外《ほか》上《うへ》までは大層《たいそう》高《たか》い。
軈《やが》て又《また》例《れい》の木《き》の丸太《まるた》を渡《わた》るのぢやが、前刻《さつき》もいつた通《とほり》草《くさ》のなかに横倒《よこだふ》れになつて居《ゐ》る、木地《きぢ》が恁《か》う丁度《ちやうど》鱗《うろこ》のやうで譬《たとへ》にも能《よ》くいふが松《まつ》の木《き》は蝮《うわばみ》に似《に》て居《ゐ》るで。
殊《こと》に崖《がけ》を、上《うへ》の方《はう》へ、可《いゝ》塩梅《あんばい》に畝《うね》つた様子《やうす》が、飛《とん》だものに持《も》つて来《こ》いなり、凡《およ》そ此《こ》の位《くらゐ》な胴中《どうなか》の長虫《ながむし》がと思《おも》ふと、頭《かしら》と尾《を》を草《くさ》に隠《かく》して月《つき》あかりに歴然《あり/\》とそれ。
山路《やまみち》の時《とき》を思《おも》ひ出《だ》すと我《われ》ながら足《あし》が窘《すく》む。
婦人《をんな》は親切《しんせつ》に後《うしろ》を気遣《きづか》ふては気《き》を着《つ》けてくれる。
(其《それ》をお渡《わた》りなさいます時《とき》、下《した》を見《み》てはなりません丁度《ちやうど》中途《ちゆうと》で余程《よつぽど》谷《たに》が深《ふか》いのでございますから、目《め》が廻《まふ》と悪《わる》うござんす。)
(はい。)
愚図々々《ぐづ/\》しては居《ゐ》られぬから、我身《わがみ》を笑《わら》ひつけて、先《ま》づ乗《の》つた。引《ひつ》かゝるやう、刻《きざ》が入《いれ》てあるのぢやから、気《き》さい確《たしか》なら足駄《あしだ》でも歩行《ある》かれる。
其《それ》がさ、一件《けん》ぢやから耐《たま》らぬて、乗《の》ると恁《か》うぐら/\して柔《やはら》かにずる/\と這《は》ひさうぢやから、わつといふと引跨《ひんまた》いで腰《こし》をどさり。
(あゝ、意気地《いくぢ》はございませんねえ。足駄《あしだ》では無理《むり》でございませう、是《これ》とお穿《は》き換《か》へなさいまし、あれさ、ちやんといふことを肯《き》くんですよ。)
私《わし》はその前刻《さつき》から何《なん》となく此《この》婦人《をんな》に畏敬《ゐけい》の念《ねん》が生《しやう》じて善《ぜん》か悪《あく》か、何《ど》の道《みち》命令《めいれい》されるやうに心得《こゝろえ》たから、いはるゝままに草履《ざうり》を穿《は》いた。
するとお聞《き》きなさい、婦女《をんな》は足駄《あしだ》を穿《は》きながら手《て》を取《と》つてくれます。
忽《たちま》ち身《み》が軽《かる》くなつたやうに覚《おぼ》えて、訳《わけ》なく後《うしろ》に従《したが》ふて、ひよいと那《あ》の孤家《ひとつや》の背戸《せど》の端《はた》へ出《で》た。
出会頭《であひがしら》に声《こゑ》を懸《か》けたものがある。
(やあ、大分《だいぶ》手間《てま》が取《と》れると思《おも》つたに、御坊様《おばうさま》旧《もと》の体《からだ》で帰《かへ》らつしやつたの、)
(何《なに》をいふんだね、小父様《をぢさま》家《うち》の番《ばん》は何《ど》うおしだ。)
(もう可《い》い時分《じぶん》ぢや、又《また》私《わし》も余《あんま》り遅《おそ》うなつては道《みち》が困《こま》るで、そろ/\青《あを》を引出《ひきだ》して支度《したく》して置《お》かうと思《おも》ふてよ。)
(其《それ》はお待遠《まちどう》でござんした。)
(何《なに》さ行《い》つて見《み》さつしやい御亭主《ごていしゆ》は無事《ぶじ》ぢや、いやなかなか私《わし》が手《て》には口説落《くどきおと》されなんだ、はゝゝゝはゝ。)と意味《いみ》もないことを大笑《たいせう》して、親仁《おやぢ》は厩《うまや》の方《かた》へてく/\と行《い》つた。
白痴《ばか》はおなじ処《ところ》に猶《なほ》形《かたち》を存《そん》して居《ゐ》る、海月《くらげ》も日《ひ》にあたらねば解《と》けぬと見《み》える。」
「ヒイヽン! 叱《しつ》、どうどうどうと背戸《せど》を廻《まわ》る蹄《ひづめ》の音《おと》が椽《えん》へ響《ひゞ》いて親仁《おやぢ》は一頭《とう》の馬《うま》を門前《もんぜん》へ引出《ひきだ》した。
轡頭《くつはづら》を取《と》つて立《た》ちはだかり、
(嬢様《ぢやうさま》そんなら此儘《このまゝ》で私《わし》参《まゐ》りやする、はい、御坊様《おばうさま》に沢山《たくさん》御馳走《ごちさう》して上《あ》げなされ。)
婦人《をんな》は炉縁《ろぶち》に行燈《あんどう》を引附《ひきつ》け、俯向《うつむ》いて鍋《なべ》の下《した》を焚《いぶ》して居《ゐ》たが振仰《ふりあふ》ぎ、鉄《てつ》の火箸《ひばし》を持《も》つた手《て》を膝《ひざ》に置《お》いて、
(御苦労《ごくらう》でござんす。)
(いんえ御懇《ごねむごろ》には及《およ》びましねえ。叱《しつ》!、)と荒縄《あらなは》の綱《つな》を引《ひ》く。青《あを》で蘆毛《あしげ》、裸馬《はだかうま》で逞《たくま》しいが、鬣《たてがみ》の薄《うす》い牡《おす》ぢやわい。
其《その》馬《うま》がさ、私《わし》も別《べつ》に馬《うま》は珍《めづ》らしうもないが、白痴殿《ばかどの》の背後《うしろ》に畏《かしこま》つて手持不沙汰《てもちぶさた》ぢやから今《いま》引《ひ》いて行《ゆ》かうとする時《とき》椽側《えんがは》へひらりと出《で》て、
(其《その》馬《うま》は何処《どこ》へ。)
(おゝ、諏訪《すは》の湖《みづうみ》の辺《あたり》まで馬市《うまいち》へ出《だ》しやすのぢや、これから明朝《あした》御坊様《おばうさま》が歩行《ある》かつしやる山路《やまみち》を越《こ》えて行《ゆ》きやす。)
(もし其《それ》へ乗《の》つて今《いま》からお遁《に》げ遊《あそ》ばすお意《つもり》ではないかい。)
婦人《をんな》は慌《あはた》だしく遮《さへぎ》つて声《こゑ》を懸《か》けた。
(いえ、勿体《もツたい》ない、修行《しゆぎやう》の身《み》が馬《うま》で足休《あしやす》めをしませうなぞとは存《ぞん》じませぬ。)
(何《なん》でも人間《にんげん》を乗《の》つけられさうな馬《うま》ぢやあござらぬ。御坊様《おばうさま》は命拾《いのちびろひ》をなされたのぢやで、大人《おとな》しうして嬢様《ぢやうさま》の袖《そで》の中《なか》で、今夜《こんや》は助《たす》けて貰《もら》はつしやい。然様《さやう》ならちよつくら行《い》つて参《まゐ》りますよ。)
(あい。)
(畜生《ちくしやう》、)といつたが馬《うま》は出《で》ないわ。びく/\と蠢《うごめ》いて見《み》える大《おほき》な鼻面《はなツつら》を此方《こちら》へ捻《ね》ぢ向《む》けて頻《しきり》に私等《わしら》が居《ゐ》る方《はう》を見《み》る様子《やうす》。
(どう/\どう、畜生《ちくしやう》これあだけた獣《けもの》ぢや、やい!)
右左《みぎひだり》にして綱《つな》を引張《ひつぱ》つたが、脚《あし》から根《ね》をつけた如《ごと》くにぬつくと立《た》つて居《ゐ》てびくともせぬ。
親仁《おやぢ》大《おほい》に苛立《いらだ》つて、叩《たゝ》いたり、打《ぶ》つたり、馬《うま》の胴体《どうたい》について二三度《ど》ぐる/\と廻《ま》はつたが少《すこ》しも歩《ある》かぬ。肩《かた》でぶツつかるやうにして横腹《よこばら》に体《たい》をあてた時《とき》、漸《やうや》う前足《まへあし》を上《あ》げたばかり又《また》四脚《あし》を突張《つツぱ》り抜《ぬ》く。
(嬢様《ぢやうさま》々々《/\》。)
と親仁《おやぢ》が喚《わめ》くと、婦人《をんな》は一寸《ちよいと》立《た》つて白《しろ》い爪《つま》さきをちよろちよろと真黒《まツくろ》に煤《すゝ》けた太《ふと》い柱《はしら》を楯《たて》に取《と》つて、馬《うま》の目《め》の届《とゞ》かぬほどに小隠《こがく》れた。
其内《そのうち》腰《こし》に挟《はさ》んだ、煮染《にし》めたやうな、なへ/\の手拭《てぬぐひ》を抜《ぬ》いて克明《こくめい》に刻《きざ》んだ額《ひたひ》の皺《しは》の汗《あせ》を拭《ふ》いて、親仁《おやぢ》は之《これ》で可《よ》しといふ気組《きぐみ》、再《ふたゝ》び前《まへ》へ廻《まは》つたが、旧《きう》に依《よ》つて貧乏動《びんぼうゆるぎ》もしないので、綱《つな》に両手《りやうて》をかけて足《あし》を揃《そろ》へて反返《そりかへ》るやうにして、うむと総身《さうみ》の力《ちから》を入《い》れた。途端《とたん》に何《ど》うぢやい。
凄《すさま》じく嘶《いなゝ》いて前足《まへあし》を両方《りやうはう》中空《なかぞら》へ飜《ひるがへ》したから、小《ちひさ》な親仁《おやぢ》は仰向《あふむ》けに引《ひツ》くりかへつた、づどんどう、月夜《つきよ》に砂煙《すなけぶり》が|※《ぱツ》[#「火+發」、U+243CB、42-10]と立《た》つ。
白痴《ばか》にも之《これ》は可笑《をかし》かつたらう、此時《このとき》ばかりぢや、真直《まツすぐ》に首《くび》を据《す》ゑて厚《あつ》い唇《くちびる》をばくりと開《あ》けた、大粒《おほつぶ》な歯《は》を露出《むきだ》して、那《あ》の宙《ちゆう》へ下《さ》げて居《ゐ》る手《て》を風《かぜ》で煽《あふ》るやうに、はらり/\。
(世話《せわ》が焼《や》けることねえ、)
婦人《をんな》は投《な》げるやうにいつて草履《ざうり》を突《つツ》かけて土間《どま》へついと出《で》る。
(嬢様《ぢやうさま》勘違《かんちが》ひさつしやるな、これはお前様《まへさま》ではないぞ、何《なん》でもはじめから其処《そこ》な御坊様《おばうさま》に目《め》をつけたつけよ、畜生《ちくしやう》俗縁《ぞくえん》があるだツぺいわさ。)
俗縁《ぞくえん》は驚《おどろ》いたい。
すると婦人《をんな》が、
(貴僧《あなた》こゝへ入《い》らつしやる路《みち》で誰《だれ》にかお逢《あ》ひなさりはしませんか。)」
「(はい、辻《つぢ》の手前《てまへ》で富山《とやま》の反魂丹売《はんごんたんうり》に逢《あ》ひましたが、一足《あし》前《さき》に矢張《やツぱり》此《この》路《みち》へ入《はい》りました。)
(あゝ、然《さ》う、)と会心《くわいしん》の笑《ゑみ》を洩《も》らして婦人《をんな》は蘆毛《あしげ》の方《はう》を見《み》た、凡《およ》そ耐《たま》らなく可笑《をか》しいといつた仂《はした》ない風采《とりなり》で。
極《きは》めて与《くみ》し易《やす》う見《み》えたので、
(もしや此家《こちら》へ参《まゐ》りませなんだでございませうか。)
(否《いゝえ》、存《ぞん》じません。)といふ時《とき》忽《たちま》ち犯《をか》すべからざる者《もの》になつたから、私《わし》は口《くち》をつぐむと、婦人《をんな》は、匙《さぢ》を投《な》げて衣《きぬ》の塵《ちり》を払《はら》ふて居《ゐ》る馬《うま》の前足《まへあし》の下《した》に小《ちい》さな親仁《おやぢ》を見向《みむ》いて、
(為様《しやう》がないねえ、)といひながら、かなぐるやうにして、其《そ》の細帯《ほそおび》を解《と》きかけた、片端《かたはし》が土《つち》へ引《ひ》かうとするのを、掻取《かいと》つて一寸《ちよいと》猶予《ためら》ふ。
(あゝ、あゝ、)と濁《にご》つた声《こゑ》を出《だ》して白痴《あはう》が件《くだん》のひよろりとした手《て》を差向《さしむ》けたので、婦人《をんな》は解《と》いたのを渡《わた》して遣《や》ると、風呂敷《ふろしき》を寛《ひろ》げたやうな、他愛《たあい》のない、力《ちから》のない、膝《ひざ》の上《うへ》へわがねて宝物《はうもつ》を守護《しゆご》するやうぢや。
婦人《をんな》は衣紋《えもん》を抱合《かきあ》はせ、乳《ちゝ》の下《した》でおさへながら静《しづ》かに土間《どま》を出《で》て馬《うま》の傍《わき》へつゝと寄《よ》つた。
私《わし》は唯《たゞ》呆気《あつけ》に取《と》られて見《み》て居《ゐ》ると、爪立《つまだて》をして伸上《のびあが》り、手《て》をしなやかに空《そら》ざまにして、二三度《ど》鬣《たてがみ》を撫《な》でたが。
大《おほき》な鼻頭《はなづら》の正面《しやうめん》にすつくりと立《た》つた。丈《せい》もすら/\と急《きふ》に高《たか》くなつたやうに見《み》えた、婦人《をんな》は目《め》を据《す》ゑ、口《くち》を結《むす》び、眉《まゆ》を開《ひら》いて恍惚《うつとり》となつた有様《ありさま》、愛嬌《あいけう》も嬌態《しな》も、世話《せわ》らしい打解《うちと》けた風《ふう》は頓《とみ》に失《う》せて、神《しん》か、魔《ま》かと思《おも》はれる。
其時《そのとき》裏《うら》の山《やま》、向《むか》ふの峯《みね》、左右《さいう》前後《ぜんご》にすく/\とあるのが、一ツ一ツ嘴《くちばし》を向《む》け、頭《かしら》を擡《もた》げて、此《こ》の一落《らく》の別天地《べツてんち》、親仁《おやぢ》を下手《したで》に控《ひか》へ、馬《うま》に面《めん》して彳《たゝず》んだ月下《げツか》の美女《びぢよ》の姿《すがた》を差覗《さしのぞ》くが如《ごと》く、陰々《いん/\》として深山《しんざん》の気《き》が籠《こも》つて来《き》た。
生《なま》ぬるい風《かぜ》のやうな気勢《けはひ》がすると思《おも》ふと、左《ひだり》の肩《かた》から片膚《かたはだ》を脱《ぬ》いたが、右《みぎ》の手《て》を脱《はづ》して、前《まへ》へ廻《まは》し、ふくらんだ胸《むね》のあたりで着《き》て居《ゐ》た其《そ》の単衣《ひとへ》を丸《まろ》げて持《も》ち、霞《かすみ》も絡《まと》はぬ姿《すがた》になつた。
馬《うま》は背《せな》、腹《はら》の皮《かは》を弛《ゆる》めて汗《あせ》もしとゞに流《なが》れんばかり、突張《つツぱ》つた脚《あし》もなよ/\として身震《みぶるひ》をしたが、鼻面《はなづら》を地《ち》につけて、一掴《つかみ》の白泡《しろあは》を吹出《ふきだ》したと思《おも》ふと前足《まへあし》を折《を》らうとする。
其時《そのとき》、頤《あぎと》の下《した》へ手《て》をかけて、片手《かたて》で持《も》つて居《ゐ》た単衣《ひとへ》をふわりと投《な》げて馬《うま》の目《め》を蔽《おほ》ふが否《いな》や、
兎《うさぎ》は躍《をど》つて、仰向《あふむ》けざまに身《み》を飜《ひるがへ》し、妖気《えうき》を籠《こ》めて朦朧《まうろう》とした月《つき》あかりに、前足《まへあし》の間《あひだ》に膚《はだ》が挟《はさま》つたと思《おも》ふと、衣《きぬ》を脱《はづ》して掻取《かいと》りながら下腹《したばら》を衝《つ》と潜《くゞ》つて横《よこ》に抜《ぬ》けて出《で》た。
親仁《おやぢ》は差心得《さしこゝろえ》たものと見《み》える、此《こ》の機《きツ》かけに手綱《たづな》を引《ひ》いたから、馬《うま》はすた/\と健脚《けんきやく》を山路《やまぢ》に上《あ》げた、しやん、しやんしやん、しやんしやん、しやんしやん、――見《み》る間《ま》に眼界《がんかい》を遠《とほ》ざかる。
婦人《をんな》は早《は》や衣服《きもの》を引《ひツ》かけて椽側《えんがは》へ入《はい》つて来《き》て、突然《いきなり》帯《おび》を取《と》らうとすると、白痴《ばか》は惜《を》しさうに押《おさ》へて放《はな》さず、手《て》を上《あ》げて。婦人《をんな》の胸《むね》を圧《おさ》へやうとした。
邪慳《じやけん》に払《はら》ひ退《の》けて、屹《きツ》と睨《にら》むで見《み》せると、其《その》まゝがつくりと頭《かうべ》を垂《た》れた、総《すべ》ての光景《くわうけい》は行燈《あんどう》の火《ひ》も幽《かす》かに幻《まぼろし》のやうに見《み》えたが、炉《ろ》にくべた柴《しば》がひら/\と炎先《ほさき》を立《た》てたので、婦人《をんな》は衝《つ》と走《はし》つて入《はい》る。空《そら》の月《つき》のうらを行《ゆ》くと思《おも》ふあたり遥《はるか》に馬子唄《まごうた》が聞《きこ》えたて。)」[#「)」」はママ]
「さて、其《それ》から御飯《ごはん》の時《とき》ぢや、膳《ぜん》には山家《やまが》の香《かう》の物《もの》、生姜《はじかみ》の漬《つ》けたのと、わかめを茹《う》でたの、塩漬《しほづけ》の名《な》も知《し》らぬ蕈《きのこ》の味噌汁《みそじる》、いやなか/\人参《にんじん》と干瓢《かんぺう》どころではござらぬ。
品物《しなもの》は佗《わび》しいが、なか/\の御手料理《おてれうり》、餓《う》えては居《ゐ》るし冥加《みやうが》至極《しごく》なお給仕《きふじ》、盆《ぼん》を膝《ひざ》に構《かま》へて其上《そのうへ》を肱《ひぢ》をついて、頬《ほゝ》を支《さゝ》えながら、嬉《うれ》しさうに見《み》て居《ゐ》たわ。
椽側《えんがは》に居《ゐ》た白痴《あはう》は誰《たれ》も取合《とりあ》はぬ徒然《つれ/″\》に堪《た》へられなくなつたものか、ぐた/\と膝行出《いざりだ》して、婦人《をんな》の傍《そば》へ其《そ》の便々《べん/\》たる腹《はら》を持《も》つて来《き》たが、崩《くづ》れたやうに胡座《あぐら》して、頻《しきり》に恁《か》う我《わし》が膳《ぜん》を視《なが》めて、指《ゆびさし》をした。
(うゝ/\、うゝ/\。)
(何《なん》でございますね、あとでお食《あが》んなさい、お客様《きやくさま》ぢやあゝりませんか。)
白痴《あはう》は情《なさけ》ない顔《かほ》をして口《くち》を曲《ゆが》めながら頭《かぶり》を掉《ふ》つた。
(厭《いや》? 仕様《しやう》がありませんね、それぢや御一所《ごいつしよ》に召《め》しあがれ。貴僧《あなた》御免《ごめん》を蒙《かうむ》りますよ。)
私《わし》は思《おも》はず箸《はし》を置《お》いて、
(さあ何《ど》うぞお構《かま》ひなく、飛《とん》だ御雑作《ござふさ》を、頂《いたゞ》きます。)
(否《いえ》、何《なん》の貴僧《あなた》。お前《まい》さん後程《のちほど》に私《わたし》と一所《いつしよ》にお食《た》べなされば可《いゝ》のに。困《こま》つた人《ひと》でございますよ。)とそらさぬ愛想《あいさう》、手早《てばや》く同一《おなじ》やうな膳《ぜん》を拵《こしら》えてならべて出《だ》した。
飯《めし》のつけやうも効々《かひ/″\》しい女房《にようばう》ぶり、然《しか》も何《なん》となく奥床《おくゆか》しい、上品《じやうひん》な、高家《かうけ》の風《ふう》がある。
白痴《あはう》はどんよりした目《め》をあげて膳《ぜん》の上《うへ》を睨《ね》めて居《ゐ》たが、
(彼《あれ》を、あゝ、彼《あれ》、彼《あれ》。)といつてきよろ/\と四辺《あたり》を|《みまは》す。
婦人《をんな》は熟《ぢつ》と瞻《みまも》つて、
(まあ、可《いゝ》ぢやないか。そんなものは何時《いつ》でも食《たべ》られます、今夜《こんや》はお客様《きやくさま》がありますよ。)
(うむ、いや、いや。)と肩腹《かたはら》を揺《ゆす》つたが、べそを掻《か》いて泣出《なきだ》しさう。
婦人《をんな》は困《こう》じ果《は》てたらしい、傍《かたはら》のものゝ気《き》の毒《どく》さ。
(嬢様《ぢやうさま》、何《なに》か存《ぞん》じませんが、おつしやる通《とほ》りになすつたが可《い》いではござりませんか。私《わたくし》にお気扱《きあつかひ》は却《かへ》つて心苦《こゝろぐる》しうござります。)と慇懃《いんぎん》にいふた。
婦人《をんな》は又《また》最《も》う一度《いちど》、
(厭《いや》かい、これでは悪《わる》いのかい。)
白痴《あはう》が泣出《なきだ》しさうにすると、然《さ》も怨《うら》めしげに流盻《ながしめ》に見《み》ながら、こはれ/\になつた戸棚《とだな》の中《なか》から、鉢《はち》に入《はい》つたのを取出《とりだ》して手早《てばや》く白痴《あはう》の膳《ぜん》につけた。
(はい、)と故《わざ》とらしく、すねたやうにいつて笑顔造《えがほづくり》。
はてさて迷惑《めいわく》な、こりや目《め》の前《まい》で黄色蛇《あおだいしやう》の旨煮《うまに》か、腹籠《はらごもり》の猿《さる》の蒸焼《むしやき》か、災難《さいなん》が軽《かる》うても、赤蛙《あかゞへる》の干物《ひもの》を大口《おほぐち》にしやぶるであらうと、潜《そツ》と見《み》て居《ゐ》ると、片手《かたて》に椀《わん》を持《も》ちながら掴出《つかみだ》したのは老沢庵《ひねたくあん》。
其《それ》もさ、刻《きざ》んだのではないで、一本《いつぽん》三《み》ツ切《ぎり》にしたらうといふ握太《にぎりぶと》なのを横啣《よこくはえ》にしてやらかすのぢや。
婦人《をんな》はよく/\あしらひかねたか、盗《ぬす》むやうに私《わし》を見《み》て颯《さつ》と顔《かほ》を赤《あか》らめて初心《しよしん》らしい、然様《そん》な質《たち》ではあるまいに、羞《はづ》かしげに膝《ひざ》なる手拭《てぬぐひ》の端《はし》を口《くち》にあてた。
なるほど此《こ》の少年《せうねん》はこれであらう、身体《からだ》は沢庵色《たくあんいろ》にふとつて居《ゐ》る。やがてわけもなく餌食《えじき》を平《たひ》らげて、湯《ゆ》ともいはず、ふツ/\と太儀《たいぎ》さうに呼吸《いき》を向《むか》ふへ吐《つ》くわさ。
(何《なん》でございますか、私《わたし》は胸《むね》に支《つか》へましたやうで、些少《ちつと》も欲《ほ》しくございませんから、又《また》後程《のちほど》に頂《いたゞ》きましやう、)と婦人《をんな》自分《じぶん》は箸《はし》も取《と》らずに二《ふた》ツの膳《ぜん》を片《かた》つけてな。」
「頃刻《しばらく》悄乎《しよんぼり》して居《ゐ》たつけ。
(貴僧《あなた》嘸《さぞ》お疲労《つかれ》、直《す》ぐにお休《やす》ませ申《まを》しませうか。)
(難有《ありがた》う存《ぞん》じます、未《ま》だ些《ちツ》とも眠《ねむ》くはござりません、前刻《さツき》体《からだ》を洗《あら》ひましたので草臥《くたびれ》もすつかり復《なほ》りました。)
(那《あ》の流《なが》れは其麼《どんな》病《やまひ》にでもよく利《き》きます、私《わたし》が苦労《くらう》をいたしまして骨《ほね》と皮《かは》ばかりに体《からだ》が朽《か》れましても半日《はんにち》彼処《あすこ》につかつて居《を》りますと、水々《みづ/\》しくなるのでございますよ。尤《もツと》も那《あ》のこれから冬《ふゆ》になりまして山《やま》が宛然《まるで》氷《こほ》つて了《しま》ひ、川《かは》も崖《がけ》も不残《のこらず》雪《ゆき》になりましても、貴僧《あなた》が行水《ぎやうずゐ》を遊《あそ》ばした彼処《あすこ》ばかりは水《みづ》が隠《かく》れません、然《さ》うしていきりが立《た》ちます。
鉄砲疵《てツぱうきづ》のございます猿《さる》だの、貴僧《あなた》、足《あし》を折《を》つた五位鷺《ごゐさぎ》、種々《いろ/\》な者《もの》が浴《ゆあ》みに参《まゐ》りますから其《そ》の足痕《あしあと》で崖《がけ》の路《みち》が出来《でき》ます位《くらゐ》、屹《きツ》と其《それ》が利《き》いたのでございませう。
那様《そんな》にございませんければ恁《か》うやつてお話《はなし》をなすつて下《くだ》さいまし、淋《さび》しくつてなりません、本当《ほんと》にお可愧《はづか》しうございますが恁麼《こんな》山《やま》の中《なか》に引籠《ひツこも》つてをりますと、ものをいふことも忘《わす》れましたやうで、心細《こゝろぼそ》いのでございますよ。
貴僧《あなた》、それでもお眠《ねむ》ければ御遠慮《ごゑんりよ》なさいますなえ。別《べつ》にお寝室《ねま》と申《まを》してもございませんが其換《そのかは》り蚊《か》は一ツも居《ゐ》ませんよ、町方《まちかた》ではね、上《かみ》の洞《ほら》の者《もの》は、里《さと》へ泊《とま》りに来《き》た時《とき》、蚊帳《かや》を釣《つ》つて寝《ね》かさうとすると、何《ど》うして入《はい》るのか解《わか》らないので、階子《はしご》を貸《か》せいと喚《わめ》いたと申《まを》して嫐《なぶ》るのでございます。
沢山《たくさん》朝寝《あさね》を遊《あそ》ばしても鐘《かね》は聞《きこ》えず、鶏《とり》も鳴《な》きません、犬《いぬ》だつて居《を》りませんからお心休《こゝろやす》うござんせう。
此人《このひと》も生《うま》れ落《お》ちると此山《このやま》で育《そだ》つたので、何《なん》にも存《ぞん》じません代《かはり》、気《き》の可《い》い人《ひと》で些《ちツ》ともお心置《こゝろおき》はないのでござんす。
それでも風俗《ふう》のかはつた方《かた》が被入《いらつ》しやいますと、大事《だいじ》にしてお辞義《じぎ》をすることだけは知《し》つてゞございますが、未《ま》だ御挨拶《ごあいさつ》をいたしませんね。此頃《このごろ》は体《からだ》がだるいと見《み》えてお惰《なま》けさんになんなすつたよ、否《いゝえ》、宛《まる》で愚《おろか》なのではございません、何《なん》でもちやんと心得《こゝろえ》て居《を》ります。
さあ、御坊様《ごぼうさま》に御挨拶《ごあいさつ》をなすつて下《くだ》さい、まあ、お辞義《じき》をお忘《わす》れかい。)と親《した》しげに身《み》を寄《よ》せて、顔《かほ》を差覗《さしのぞ》いて、いそ/\していふと、白痴《ばか》はふら/\と両手《りやうて》をついて、ぜんまいが切《き》れたやうにがつくり一礼《れい》。
(はい、)といつて私《わし》も何《なに》か胸《むね》が迫《せま》つて頭《つむり》を下《さ》げた。
其《その》まゝ其《そ》の俯向《うつむ》いた拍子《ひやうし》に筋《すぢ》が抜《ぬ》けたらしい、横《よこ》に流《なが》れやうとするのを、婦人《をんな》は優《やさ》しう扶《たす》け起《おこ》して、
(おゝ、よく為《し》たのねえ、)
天晴《あツぱれ》といひたさうな顔色《かほつき》で、
(貴僧《あなた》、申《まを》せば何《なん》でも出来《でき》ませうと思《おも》ひますけれども、此人《このひと》の病《やまひ》ばかりはお医者《いしや》の手《て》でも那《あ》の水《みづ》でも復《なほ》りませなんだ、両足《りやうあし》が立《た》ちませんのでございますから、何《なに》を覚《おぼ》えさしましても役《やく》には立《た》ちません。其《それ》に御覧《ごらん》なさいまし、お辞義《じぎ》一《ひと》ツいたしますさい、あの通《とほり》大儀《たいぎ》らしい。
ものを教《おし》へますと覚《おぼ》えますのに嘸《さぞ》骨《ほね》が折《を》れて切《せつ》なうござんせう、体《からだ》を苦《くる》しませるだけだと存《ぞん》じて何《なんに》も為《さ》せないで置《お》きますから、段々《だん/″\》、手《て》を動《うご》かす働《はたらき》も、ものをいふことも忘《わす》れました。其《それ》でも那《あ》の、謡《うた》が唄《うた》へますわ。二ツ三ツ今《いま》でも知《し》つて居《を》りますよ。さあ御客様《おきやくさま》に一ツお聞《き》かせなさいましなね。)
白痴《ばか》は婦人《をんな》を見《み》て、又《また》私《わし》が顔《かほ》をぢろ/\見《み》て、人見知《ひとみしり》をするといつた形《かたち》で首《くび》を振《ふ》つた。」
「左右《とかく》して、婦人《をんな》が、激《はげ》ますやうに、賺《すか》すやうにして勧《すゝ》めると、白痴《ばか》は首《くび》を曲《ま》げて彼《か》の臍《へそ》を弄《もてあそ》びながら唄《うた》つた。
木曾《きそ》の御嶽山《おんたけさん》は夏《なつ》でも寒《さむ》い、
袷《あはせ》遣《や》りたや足袋《たび》添《そ》へて。
(よく知《し》つて居《を》りませう、)と婦人《をんな》は聞澄《きゝすま》して莞爾《にツこり》する。
不思議《ふしぎ》や、唄《うた》つた時《とき》の白痴《ばか》の声《こゑ》は此《この》話《はなし》をお聞《き》きなさるお前様《まへさま》は固《もと》よりぢやが、私《わし》も推量《すゐりやう》したとは月鼈雲泥《げつべつうんでい》、天地《てんち》の相違《さうゐ》、節廻《ふしまは》し、あげさげ、呼吸《こきふ》の続《つゞ》く処《ところ》から、第《だい》一其《そ》の清《きよ》らかな涼《すゞ》しい声《こゑ》といふ者《もの》は、到底《たうてい》此《こ》の少年《せうねん》の咽喉《のど》から出《で》たのではない。先《ま》づ前《さき》の世《よ》の此《この》白痴《ばか》の身《み》が、冥途《めいど》から管《くだ》で其《そ》のふくれた腹《はら》へ通《かよ》はして寄越《よこ》すほどに聞《きこ》えましたよ。
私《わし》は畏《かしこま》つて聞《き》き果《は》てると膝《ひざ》に手《て》をついたツ切《きり》何《ど》うしても顔《かほ》を上《あ》げて其処《そこ》な男女《ふたり》を見《み》ることが出来《でき》ぬ、何《なに》か胸《むね》がキヤキヤして、はら/\と落涙《らくるゐ》した。
婦人《をんな》は目早《めばや》く見《み》つけたさうで、
(おや、貴僧《あなた》、何《ど》うかなさいましたか。)
急《きふ》にものもいはれなんだが漸々《やう/\》、
(唯《はい》、何《なあに》、変《かは》つたことでもござりませぬ、私《わし》も嬢様《ぢやうさま》のことは別《べつ》にお尋《たづ》ね申《まを》しませんから、貴女《あなた》も何《なん》にも問《と》ふては下《くだ》さりますな。)
と仔細《しさい》は語《かた》らず唯《たゞ》思入《おもひい》つて然《さ》う言《い》ふたが、実《じつ》は以前《いぜん》から様子《やうす》でも知《し》れる、金釵玉簪《きんさぎよくさん》をかざし、蝶衣《てふい》を纒《まと》ふて、珠履《しゆり》を穿《うが》たば、正《まさ》に驪山《りさん》に入《い》つて陛下《へいか》と相抱《あひいだ》くべき豊肥妖艶《ほうひえうえん》の人《ひと》が其《その》男《をとこ》に対《たい》する取廻《とりまは》しの優《やさ》しさ、隔《へだて》なさ、親切《しんせつ》さに、人事《ひとごと》ながら嬉《うれ》しくて、思《おも》はず涙《なみだ》が流《なが》れたのぢや。
すると人《ひと》の腹《はら》の中《なか》を読《よ》みかねるやうな婦人《をんな》ではない、忽《たちま》ち様子《やうす》を悟《さと》つたかして、
(貴僧《あなた》は真個《ほんとう》にお優《やさ》しい。)といつて、得《え》も謂《い》はれぬ色《いろ》を目《め》に湛《たゝ》へて、ぢつと見《み》た。私《わし》も首《かうべ》を低《た》れた、むかふでも差俯向《さしうつむ》く。
いや、行燈《あんどう》が又《また》薄暗《うすくら》くなつて参《まゐ》つたやうぢやが、恐《おそ》らくこりや白痴《ばか》の所為《せゐ》ぢやて。
其時《そのとき》よ。
座《ざ》が白《しら》けて、暫《しば》らく言葉《ことば》が途絶《とだ》えたうちに所在《しよざい》がないので、唄《うた》うたひの太夫《たいふ》、退屈《たいくつ》をしたと見《み》えて顔《かほ》の前《まへ》の行燈《あんどう》を吸込《すひこ》むやうな大欠伸《おほあくび》をしたから。
身動《みうご》きをしてな、
(寝《ね》ようちやあ、寝《ね》ようちやあ。)とよた/\体《からだ》を取扱《もちあつか》ふわい。
(眠《ねむ》うなつたのかい、もうお寝《ね》か、)といつたが座《すは》り直《なほ》つて弗《ふ》と気《き》がついたやうに四辺《あたり》を|《みまは》した。戸外《おもて》は恰《あたか》も真昼《まひる》のやう、月《つき》の光《ひかり》は開《あ》け広《ひろ》げた家《や》の内《うち》へはら/\とさして、紫陽花《あぢさい》の色《いろ》も鮮麗《あざやか》に蒼《あを》かつた。
(貴僧《あなた》ももうお休《やす》みなさいますか。)
(はい、御厄介《ごやくかい》にあいなりまする。)
(まあ、いま宿《やど》を寝《ね》かします、おゆつくりなさいましな。戸外《おもて》へは近《ちか》うござんすが、夏《なつ》は広《ひろ》い方《はう》が結句《けツく》宜《よ》うございませう、私《わたくし》どもは納戸《なんど》へ臥《ふ》せりますから、貴僧《あなた》は此処《こゝ》へお広《ひろ》くお寛《くつろ》ぎが可《よ》うござんす、一寸《ちよいと》待《ま》つて。)といひかけて衝《つツ》と立《た》ち、つか/\と足早《あしばや》に土間《どま》へ下《お》りた、余《あま》り身《み》のこなしが活溌《くわツぱつ》であつたので、其《そ》の拍手《ひやうし》に黒髪《くろかみ》が先《さき》を巻《ま》いたまゝ頷《うなぢ》へ崩《くづ》れた。
鬢《びん》をおさへて、戸《と》につかまつて、戸外《おもて》を透《す》かしたが、独言《ひとりごと》をした。
(おや/\さつきの騒《さわ》ぎで櫛《くし》を落《おと》したさうな。)
いかさま馬《うま》の腹《はら》を潜《くゞ》つた時《とき》ぢや。」
此折《このをり》から下《した》の廊下《らうか》に跫音《あしおと》がして、静《しづか》に大跨《おほまた》に歩行《ある》いたのが寂《せき》として居《ゐ》るから能《よ》く。
軈《やが》て小用《こよう》を達《た》した様子《やうす》、雨戸《あまど》をばたりと開《あ》けるのが聞《きこ》えた、手水鉢《てうづばち》へ干杓《ひしやく》の響《ひゞき》。
「おゝ、積《つも》つた、積《つも》つた。」と呟《つぶや》いたのは、旅籠屋《はたごや》の亭主《ていしゆ》の声《こゑ》である。
「ほゝう、此《こ》の若狭《わかさ》の商人《あきんど》は何処《どこ》へか泊《とま》つたと見《み》える、何《なに》か愉快《おもしろ》い夢《ゆめ》でも見《み》て居《ゐ》るかな。」
「何《ど》うぞ其後《そのあと》を、それから、」と聞《き》く身《み》には他事《たじ》をいふうちが悶《もど》かしく、膠《にべ》もなく続《つゞき》を促《うなが》した。
「さて、夜《よる》も更《ふ》けました、」といつて旅僧《たびそう》は又《また》語出《かたりだ》した。
「大抵《たいてい》推量《すゐりやう》もなさるであらうが、いかに草臥《くたび》れて居《を》つても申上《まをしあ》げたやうな深山《しんざん》の孤家《ひとつや》で、眠《ねむ》られるものではない其《それ》に少《すこ》し気《き》になつて、はじめの内《うち》私《わし》を寝《ね》かさなかつた事《こと》もあるし、目《め》は冴《さ》えて、まじ/\して居《ゐ》たが、有繋《さすが》に、疲《つかれ》が酷《ひど》いから、心《しん》は少《すこ》し茫乎《ぼんやり》して来《き》た、何《なに》しろ夜《よ》の白《しら》むのが待遠《まちどほ》でならぬ。
其処《そこ》ではじめの内《うち》は我《われ》ともなく鐘《かね》の音《ね》の聞《きこ》えるのを心頼《こゝろたの》みにして、今《いま》鳴《な》るか、もう鳴《な》るか、はて時刻《じこく》はたつぷり経《た》つたものをと、怪《あや》しんだが、やがて気《き》が着《つ》いて、恁云《かうい》ふ処《ところ》ぢや山寺《やまでら》処《どころ》ではないと思《おも》ふと、俄《にはか》に心細《こゝろぼそ》くなつた。
其時《そのとき》は早《は》や、夜《よる》がものに譬《たと》へると谷《たに》の底《そこ》ぢや、白痴《ばか》がだらしのない寝息《ねいき》も聞《きこ》えなくなると、忽《たちま》ち戸《と》の外《そと》にものゝ気勢《けはひ》がして来《き》た。
獣《けもの》の足音《あしおと》のやうで、然《さ》まで遠《とほ》くの方《はう》から歩行《ある》いて来《き》たのではないやう、猿《さる》も、蟇《ひき》も居《ゐ》る処《ところ》と、気休《きやす》めに先《ま》づ考《かんが》へたが、なかなか何《ど》うして。
暫《しばら》くすると今《いま》其奴《そやつ》が正面《しやうめん》の戸《と》に近《ちかづ》いたなと思《おも》つたのが、羊《ひつじ》の啼声《なきごゑ》になる。
私《わし》は其《そ》の方《はう》を枕《まくら》にして居《ゐ》たのぢやから、つまり枕元《まくらもと》の戸外《おもて》ぢやな。暫《しばら》くすると、右手《めて》の彼《か》の紫陽花《あぢさい》が咲《さ》いて居《ゐ》た其《そ》の花《はな》の下《した》あたりで、鳥《とり》の羽《は》ばたきする音《おと》。
むさゝびか知《し》らぬがきツ/\といつて屋《や》の棟《むね》へ、軈《やが》て凡《およ》そ小山《こやま》ほどあらうと気取《けど》られるのが胸《むね》を圧《お》すほどに近《ちかづ》いて来《き》て、牛《うし》が啼《な》いた。遠《とほ》く彼方《かなた》からひた/\と小刻《こきざみ》に駈《か》けて来《く》るのは、二本足《ほんあし》に草鞋《わらぢ》を穿《は》いた獣《けもの》と思《おも》はれた、いやさまざまにむら/\と家《いへ》のぐるりを取巻《とりま》いたやうで、二十三十のものゝ鼻息《はないき》、羽音《はおと》、中《なか》には囁《さゝや》いて居《ゐ》るのがある。恰《あたか》も何《なに》よ、それ畜生道《ちくしやうだう》の地獄《ぢごく》の絵《ゑ》を、月夜《つきよ》に映《うつ》したやうな怪《あやし》の姿《すがた》が板戸《いたど》一重《へ》、魑魅魍魎《ちみまうりやう》といふのであらうか、ざわ/\と木《こ》の葉《は》が戦《そよ》ぐ気色《けしき》だつた。
息《いき》を凝《こら》すと、納戸《なんど》で、
(うむ、)といつて長《なが》く呼吸《いき》を引《ひ》いて一声《こゑ》、魘《うなさ》れたのは婦人《をんな》ぢや。
(今夜《こんや》はお客様《きやくさま》があるよ。)と叫《さけ》んだ。
(お客様《きやくさま》があるぢやないか。)
と暫《しばら》く経《た》つて二度目《どめ》のは判然《はつきり》と清《すゞ》しい声《こゑ》。
極《きは》めて低声《こゞゑ》で、
(お客様《きやくさま》があるよ。)といつて寝返《ねがへ》る音《おと》がした、更《さら》に寝返《ねがへ》る音《おと》がした。
戸《と》の外《そと》のものゝ気勢《けはひ》は動揺《どよめき》を造《つく》るが如《ごと》く、ぐら/\と家《いへ》が揺《ゆらめ》いた。
私《わし》は陀羅尼《だらに》を咒《じゆ》した。
若不順我咒 悩乱説法者 頭破作七分
如阿梨樹枝 如殺父母罪 亦如厭油殃
斗秤欺誰人 調達僧罪犯 犯此法師者
当獲如是殃
と一心不乱《しんふらん》。颯《さツ》と木《こ》の葉《は》を捲《ま》いて風《かぜ》が南《みんなみ》へ吹《ふ》いたが、忽《たちま》ち静《しづま》り返《かへ》つた、夫婦《ふうふ》が閨《ねや》もひツそりした。」
「翌日《よくじつ》又《また》正午頃《しやうごゞろ》、里《さと》近《ちか》く、瀧《たき》のある処《ところ》で、昨日《きのふ》馬《うま》を売《うり》に行《い》つた親仁《おやぢ》の帰《かへり》に逢《あ》ふた。
丁度《ちやうど》私《わし》が修行《しゆぎやう》に出《で》るのを止《よ》して孤家《ひとつや》に引返《ひきかへ》して、婦人《をんな》と一所《しよ》に生涯《しやうがい》を送《おく》らうと思《おも》つて居《ゐ》た処《ところ》で。
実《じつ》を申《まを》すと此処《こゝ》へ来《く》る途中《とちう》でも其《そ》の事《こと》ばかり考《かんが》へる、蛇《へび》の橋《はし》も幸《さいはひ》になし、蛭《ひる》の林《はやし》もなかつたが、道《みち》が難渋《なんじふ》なにつけても汗《あせ》が流《なが》れて心持《こゝろもち》が悪《わる》いにつけても、今更《いまさら》行脚《あんぎや》も詰《つま》らない。紫《むらさき》の袈裟《けさ》をかけて、七堂伽藍《だうがらん》に住《す》んだ処《ところ》で何程《なにほど》のこともあるまい、活仏様《いきほとけさま》ぢやといふてわあ/\拝《おが》まれゝば人《ひと》いきれで胸《むね》が悪《わる》くなるばかりか。
些《ち》とお話《はなし》もいかゞぢやから、前刻《さツき》はことを分《わ》けていひませなんだが、昨夜《ゆふべ》も白痴《ばか》を寝《ね》かしつけると、婦人《をんな》が又《また》炉《ろ》のある処《ところ》へやつて来《き》て、世《よ》の中《なか》へ苦労《くらう》をして出《で》やうより、夏《なつ》は涼《すゞ》しく、冬《ふゆ》は暖《あたゝか》い、此《こ》の流《ながれ》と一所《しよ》に私《わたし》の傍《そば》においでなさいといふてくれるし、まだ/\其《それ》ばかりでは自身《じぶん》に魔《ま》が魅《さ》したやうぢやけれども、こゝに我身《わがみ》で我身《わがみ》に言訳《いひわけ》が出来《でき》るといふのは、頻《しきり》に婦人《をんな》が不便《ふびん》でならぬ、深山《しんざん》の孤家《ひとつや》に白痴《ばか》の伽《とぎ》をして言葉《ことば》も通《つう》ぜず、日《ひ》を経《ふ》るに従《したが》ふてものをいふことさへ忘《わす》れるやうな気《き》がするといふは何《なん》たる事《こと》!
殊《こと》に今朝《けさ》も東雲《しのゝめ》に袂《たもと》を振切《ふりき》つて別《わか》れやうとすると、お名残《なごり》惜《を》しや、かやうな処《ところ》に恁《か》うやつて老朽《おひく》ちる身《み》の、再《ふたゝ》びお目《め》にはかゝられまい、いさゝ小川《をがは》の水《みづ》となりとも、何処《どこ》ぞで白桃《しろもゝ》の花《はな》が流《なが》れるのを御覧《ごらん》になつたら、私《わたし》の体《からだ》が谷川《たにがは》に沈《しづ》んで、ちぎれ/\になつたことゝ思《おも》へ、といつて、悄《しほ》れながら、なほ親切《しんせつ》に、道《みち》は唯《たゞ》此《こ》の谷川《たにがは》の流《ながれ》に沿《そ》ふて行《ゆ》きさへすれば、何《ど》れほど遠《とほ》くても里《さと》に出《で》らるゝ、目《め》の下《した》近《ちか》く水《みづ》が躍《おど》つて、瀧《たき》になつて落《お》つるのを見《み》たら、人家《じんか》が近《ちかづ》いたと心《こゝろ》を安《やすん》ずるやうに、と気《き》をつけて孤家《ひとつや》の見《み》えなくなつた辺《あたり》で指《ゆびさし》をしてくれた。
其《その》手《て》と手《て》を取交《とりか》はすには及《およ》ばずとも、傍《そば》につき添《そ》つて、朝夕《あさゆふ》の話対手《はなしあひて》、蕈《きのこ》の汁《しる》で御膳《ごぜん》を食《た》べたり、私《わし》が榾《ほだ》を焚《た》いて、婦人《をんな》が鍋《なべ》をかけて、私《わし》が木《こ》の実《み》を拾《ひろ》つて、婦人《をんな》が皮《かは》を剥《む》いて、それから障子《しやうじ》の内《うち》と外《そと》で、話《はなし》をしたり、笑《わら》つたり、それから谷川《たにがは》で二人《ふたり》して、其時《そのとき》の婦人《をんな》が裸体《はだか》になつて、私《わし》が背中《せなか》へ呼吸《いき》が通《かよ》つて、微妙《びめう》な薫《かほり》の花《はな》びらに暖《あたゝか》に包《つゝ》まれたら、其《その》まゝ命《いのち》が失《う》せても可《い》い!
瀧《たき》の水《みづ》を見《み》るにつけても耐《た》へ難《がた》いのは其事《そのこと》であつた、いや、冷汗《ひやあせ》が流《なが》れますて。
其上《そのうへ》、もう気《き》がたるみ、筋《すぢ》が弛《ゆる》んで、早《は》や歩行《ある》くのに飽《あき》が来《き》て喜《よろこ》ばねばならぬ人家《じんか》が近《ちかづ》いたのも、高《たか》がよくされて口《くち》の臭《くさ》い婆《ばあ》さんに渋茶《しぶちや》を振舞《ふるま》はれるのが関《せき》の山《やま》と、里《さと》へ入《い》るのも厭《いや》になつたから、石《いし》の上《うへ》へ膝《ひざ》を懸《か》けた、丁度《ちやうど》目《め》の下《した》にある瀧《たき》ぢやつた、これがさ、後《あと》に聞《き》くと女夫瀧《めうとたき》と言《い》ふさうで。
真中《まんなか》に先《ま》づ鰐鮫《わにざめ》が口《くち》をあいたやうな尖《さき》のとがつた黒《くろ》い大巌《おほいは》が突出《つきで》て居《ゐ》ると、上《うへ》から流《なが》れて来《く》る颯《さツ》と瀬《せ》の早《はや》い谷川《たにがは》が、之《これ》に当《あた》つて両《ふたつ》に岐《わか》れて、凡《およ》そ四丈《ぢやう》ばかりの瀧《たき》になつて哄《どツ》と落《お》ちて、又《また》暗碧《あんぺき》に白布《しろぬの》を織《お》つて矢《や》を射《ゐ》るやうに里《さと》へ出《で》るのぢやが、其《その》巌《いは》にせかれた方《はう》は六尺《しやく》ばかり、之《これ》は川《かは》の一巾《はゞ》を裂《さ》いて糸《いと》も乱《みだ》れず、一方《ぱう》は巾《はゞ》が狭《せま》い、三尺《じやく》位《ぐらゐ》、この下《した》には雑多《ざツた》な岩《いは》が並《なら》ぶと見《み》えて、ちら/\ちら/\と玉《たま》の簾《すだれ》を百千《ひやくせん》に砕《くだ》いたやう、件《くだん》の鰐鮫《わにざめ》の巌《いは》に、すれつ、縺《もつ》れつ。」
「唯《たゞ》一筋《すぢ》でも岩《いは》を越《こ》して男瀧《をたき》に縋《すが》りつかうとする形《かたち》、それでも中《なか》を隔《へだ》てられて末《すゑ》までは雫《しづく》も通《かよ》はぬので、揉《も》まれ、揺《ゆ》られて具《つぶ》さに辛苦《しんく》を嘗《な》めるといふ風情《ふぜい》、此《こ》の方《はう》は姿《すがた》も窶《やつ》れ容《かたち》も細《ほそ》つて、流《なが》るゝ音《おと》さへ別様《べつやう》に、泣《な》くか、怨《うら》むかとも思《おも》はれるが、あはれにも優《やさ》しい女瀧《めだき》ぢや。
男瀧《をだき》の方《はう》はうらはらで、石《いし》を砕《くだ》き、地《ち》を貫《つらぬ》く勢《いきほひ》、堂々《だう/\》たる有様《ありさま》ぢや、之《これ》が二つ件《くだん》の巌《いは》に当《あた》つて左右《さいう》に分《わか》れて二筋《すぢ》となつて落《お》ちるのが身《み》に浸《し》みて、女瀧《めだき》の心《こゝろ》を砕《くだ》く姿《すがた》は、男《をとこ》の膝《ひざ》に取《とり》ついて美女《びぢよ》が泣《な》いて身《み》を震《ふる》はすやうで、岸《きし》に居《ゐ》てさへ体《からだ》がわなゝく、肉《にく》が跳《をど》る。況《ま》して此《こ》の水上《みなかみ》は、昨日《きのふ》孤家《ひとつや》の婦人《をんな》と水《みづ》を浴《あ》びた処《ところ》と思《おも》ふと、気《き》の精《せい》か其《そ》の女瀧《めだき》の中《なか》に絵《ゑ》のやうな彼《か》の婦人《をんな》の姿《すがた》が歴々《あり/\》、と浮《う》いて出《で》ると巻込《まきこ》まれて、沈《しづ》んだと思《おも》ふと又《また》浮《う》いて、千筋《ちすぢ》に乱《みだ》るゝ水《みづ》とゝもに其《そ》の膚《はだへ》が粉《こ》に砕《くだ》けて、花片《はなびら》が散込《ちりこ》むやうな。あなやと思《おも》ふと更《さら》に、もとの顔《かほ》も、胸《むね》も、乳《ちゝ》も、手足《てあし》も全《まツた》き姿《すがた》となつて、浮《う》いつ沈《しづ》みつ、ぱツと刻《きざ》まれ、あツと見《み》る間《ま》に又《また》あらはれる。私《わし》は耐《たま》らず真逆《まツさかさま》に瀧《たき》の中《なか》へ飛込《とびこ》んで、女瀧《めたき》を確《しか》と抱《だ》いたとまで思《おも》つた。気《き》がつくと男瀧《をたき》の方《はう》はどう/\と地響《ぢひゞき》打《う》たせて、山彦《やまびこ》を呼《よ》んで轟《とゞろ》いて流《なが》れて居《ゐ》る、あゝ其《そ》の力《ちから》を以《もつ》て何故《なぜ》救《すく》はぬ、儘《まゝ》よ!
瀧《たき》に身《み》を投《な》げて死《し》なうより、旧《もと》の孤家《ひとつや》へ引返《ひツかへ》せ。汚《けがら》はしい慾《よく》のあればこそ恁《か》うなつた上《うへ》に|躇《ちゆうちよ》をするわ、其《その》顔《かほ》を見《み》て声《こゑ》を聞《き》けば、渠等《かれら》夫婦《ふうふ》が同衾《ひとつね》するのに枕《まくら》を並《なら》べて差支《さしつか》へぬ、それでも汗《あせ》になつて修行《しゆぎやう》をして、坊主《ばうず》で果《は》てるよりは余程《よほど》の増《まし》ぢやと、思切《おもひき》つて戻《もど》らうとして、石《いし》を放《はな》れて身《み》を起《おこ》した、背後《うしろ》から一ツ背中《せなか》を叩《たゝ》いて、
(やあ、御坊様《ごばうさま》、)といはれたから、時《とき》が時《とき》なり、心《こゝろ》も心《こゝろ》、後暗《うしろぐら》いので喫驚《びつくり》して見《み》ると、閻王《えんわう》の使《つかひ》ではない、これが親仁《おやぢ》。
馬《うま》は売《う》つたか、身軽《みがる》になつて、小《ちひ》さな包《つゝみ》を肩《かた》にかけて、手《て》に一尾《び》の鯉《こひ》の、鱗《うろこ》は金色《こんじき》なる、溌溂《はつらつ》として尾《を》の動《うご》きさうな、鮮《あたら》しい其《その》丈《たけ》三尺《じやく》ばかりなのを、腮《あぎと》に藁《わら》を通《とほ》して、ぶらりと提《さ》げて居《ゐ》た。何《なん》にも言《い》はず急《きふ》にものもいはれないで瞻《みまも》ると、親仁《おやぢ》はじつと顔《かほ》を見《み》たよ。然《さ》うしてにや/\と、又《また》一通《とほり》の笑方《わらひかた》ではないて、薄気味《うすきみ》の悪《わる》い北叟笑《ほくそゑみ》をして、
(何《なに》をしてござる、御修行《ごしゆぎやう》の身《み》が、この位《くらゐ》の暑《あつさ》で、岸《きし》に休《やす》んで居《ゐ》さつしやる分《ぶん》ではあんめえ、一生懸命《しやうけんめい》に歩行《ある》かつしやりや、昨夜《ゆふべ》の泊《とまり》から此処《こゝ》まではたつた五里《り》、もう里《さと》へ行《い》つて地蔵様《ぢざうさま》を拝《をが》まつしやる時刻《じこく》ぢや。
何《なん》ぢやの、己《おら》が嬢様《ぢやうさま》に念《おもひ》が懸《かゝ》つて煩悩《ぼんなう》が起《お》きたのぢやの。うんにや、秘《かく》さつしやるな、おらが目《め》は赤《あか》くツても、白《しろ》いか黒《くろ》いかはちやんと見《み》える。
地体《ぢたい》並《なみ》のものならば、嬢様《ぢやうさま》の手《て》が触《さは》つて那《あ》の水《みづ》を振舞《ふるま》はれて、今《いま》まで人間《にんげん》で居《ゐ》やう筈《はず》はない。
牛《うし》か馬《うま》か、蟇《ひきがへる》か、猿《さる》か、蝙蝠《かはほり》か、何《なに》にせい飛《と》んだか跳《は》ねたかせねばならぬ。谷川《たにがは》から上《あが》つて来《き》さしつた時《とき》、手足《てあし》も顔《かほ》も人《ひと》ぢやから、おらあ魂消《たまげ》た位《くらゐ》、お前様《まへさま》それでも感心《かんしん》に志《こゝろざし》が堅固《けんご》ぢやから助《たす》かつたやうなものよ。
何《なん》と、おらが曳《ひ》いて行《い》つた馬《うま》を見《み》さしつたらう、それで、孤家《ひとつや》で来《き》さつしやる山路《やまみち》で富山《とやま》の反魂丹売《はんごんたんうり》に逢《あ》はしつたといふではないか、それ見《み》さつせい、彼《あ》の助倍《すけべい》野郎《やらう》、疾《とう》に馬《うま》になつて、それ馬市《うまいち》で銭《おあし》になつて、お銭《あし》が、そうら此《こ》の鯉《こひ》に化《ば》けた。大好物《だいかうぶつ》で晩飯《ばんめし》の菜《さい》になさる、お嬢様《ぢやうさま》を一体《たい》何《なん》じやと思《おも》はつしやるの。)」
私《わたし》は思《おも》はず遮《さへぎ》つた。
「お上人《しやうにん》?」
上人《しやうにん》は頷《うなづ》きながら呟《つぶや》いて、
「いや、先《ま》づ聞《き》かつしやい、彼《か》の孤家《ひとつや》の婦人《をんな》といふは、旧《もと》な、これも私《わし》には何《なに》かの縁《えん》があつた、あの恐《おそろし》い魔処《ましよ》へ入《はい》らうといふ岐道《そばみち》の水《みづ》が溢《あふ》れた往来《わうらい》で、百姓《ひやくしやう》が教《をし》へて、彼処《あすこ》は其《そ》の以前《いぜん》医者《いしや》の家《いへ》であつたといふたが、其《そ》の家《いへ》の嬢様《ぢやうさま》ぢや。
何《なん》でも飛騨《ひだ》一円《ゑん》当時《たうじ》変《かは》つたことも珍《めづ》らしいこともなかつたが、唯《たゞ》取出《とりい》でゝいふ不思議《ふしぎ》は、此《こ》の医者《いしや》の娘《むすめ》で、生《うま》れると玉《たま》のやう。
母親殿《おふくろどの》は頬板《ほゝツぺた》のふくれた、眦《めじり》の下《さが》つた、鼻《はな》の低《ひく》い、俗《ぞく》にさし乳《ぢゝ》といふあの毒々《どく/″\》しい左右《さいう》の胸《むね》の房《ふさ》を含《ふく》んで、何《ど》うして彼《あれ》ほど美《うつく》しく育《そだ》つたものだらうといふ。
昔《むかし》から物語《ものがたり》の本《ほん》にもある、屋《や》の棟《むね》へ白羽《しらは》の征矢《そや》が立《た》つか、然《さ》もなければ狩倉《かりくら》の時《とき》貴人《あてびと》のお目《め》に留《と》まつて御殿《ごてん》に召出《めしだ》されるのは、那麼《あんな》のぢやと噂《うはさ》が高《たか》かつた。
父親《てゝおや》の医者《いしや》といふのは、頬骨《ほゝぼね》のとがつた髯《ひげ》の生《は》へた、見得坊《みえばう》で傲慢《がうまん》、其癖《そのくせ》でもぢや、勿論《もちろん》田舎《ゐなか》には苅入《かりいれ》の時《とき》よく稲《いね》の穂《ほ》が目《め》に入《はい》ると、それから煩《わづ》らう、脂目《やにめ》、赤目《あかめ》、流行目《はやりめ》が多《おほ》いから、先生《せんせい》眼病《がんびやう》の方《はう》は少《すこ》し遣《や》つたが、内科《ないくわ》と来《き》てはからつぺた。外科《げくわ》なんと来《き》た日《ひ》にやあ、鬢付《びんつけ》へ水《みづ》を垂《た》らしてひやりと疵《きず》につける位《くらゐ》な処《ところ》。
鰯《いわし》の天窓《あたま》も信心《しん/″\》から、其《それ》でも命数《めいすう》の尽《つ》きぬ輩《やから》は本復《ほんぷく》するから、外《ほか》に竹庵《ちくあん》養仙《やうせん》木斎《もくさい》の居《ゐ》ない土地《とち》、相応《さうおう》に繁昌《はんじやう》した。
殊《こと》に娘《むすめ》が十六七、女盛《をんなざかり》となつて来《き》た時分《じぶん》には、薬師様《やくしさま》が人助《ひとだす》けに先生様《せんせいさま》の内《うち》へ生《うま》れてござつたといつて、信心《しん/″\》渇仰《かつがう》の善男《ぜんなん》善女《ぜんによ》? 病男《びやうなん》病女《びやうぢよ》が我《われ》も我《われ》もと詰《つ》め懸《か》ける。
其《それ》といふのが、はじまりは彼《か》の嬢様《ぢやうさま》が、それ、馴染《なじみ》の病人《びやうにん》には毎日《まいにち》顔《かほ》を合《あ》はせる所《ところ》から、愛相《あいさう》の一つも、あなたお手《て》が痛《いた》みますかい、甚麼《どんな》でございます、といつて手先《てさき》へ柔《やはらか》な掌《てのひら》が障《さは》ると第一番《だいいちばん》に次作兄《じさくあに》いといふ若《わか》いのゝ(りやうまちす)が全快《ぜんくわい》、お苦《くる》しさうなといつて腹《はら》をさすつて遣《や》ると水《みづ》あたりの差込《さしこみ》の留《と》まつたのがある、初手《しよて》は若《わか》い男《をとこ》ばかりに利《き》いたが、段々《だん/″\》老人《としより》にも及《およ》ぼして、後《のち》には婦人《をんな》の病人《びやうにん》もこれで復《なほ》る、復《なほ》らぬまでも苦痛《いたみ》が薄《うす》らぐ、根太《ねぶと》の膿《うみ》を切《き》つて出《だ》すさへ、錆《さ》びた小刀《こがたな》で引裂《ひツさ》く医者殿《いしやどの》が腕前《うでまへ》ぢや、病人《びやうにん》は七顛《てん》八倒《たう》して悲鳴《ひめい》を上《あ》げるのが、娘《むすめ》が来《き》て背中《せなか》へぴつたりと胸《むね》をあてゝ肩《かた》を押《おさ》へて居《ゐ》ると、我慢《がまん》が出来《でき》る、といつたやうなわけであつたさうな。
一時《しきり》彼《あ》の藪《やぶ》の前《まへ》にある枇杷《びは》の古木《ふるき》へ熊蜂《くまばち》が来《き》て可恐《おそろし》い大《おほき》な巣《す》をかけた。
すると、医者《いしや》の内弟子《うちでし》で薬局《やくきよく》、拭掃除《ふきさうぢ》もすれば総菜畠《さうざいばたけ》の芋《いも》も堀《ほ》る、近《ちか》い所《ところ》へは車夫《しやふ》も勤《つと》めた、下男《げなん》兼帯《けんたい》の熊蔵《くまざう》といふ、其頃《そのころ》二十四五歳《さい》、稀塩散《きゑんさん》に単舎利別《たんしやりべつ》を混《ま》ぜたのを瓶《びん》に盗《ぬす》んで、内《うち》が吝嗇《けち》ぢやから見附《みつ》かると叱《しか》られる、之《これ》を股引《もゝひき》や袴《はかま》と一所《しよ》に戸棚《とだな》の上《うへ》に載《の》せて置《お》いて、隙《ひま》さへあればちびり/\と飲《の》んでた男《をとこ》が、庭掃除《にはさうじ》をするといつて、件《くだん》の蜂《はち》の巣《す》を見《み》つけたつけ。
椽側《えんがは》へ遣《や》つて来《き》て、お嬢様《ぢやうさま》面白《おもしろ》いことをしてお目《め》に懸《か》けませう、無躾《ぶしつけ》でござりますが、私《わたし》の此《こ》の手《て》を握《にぎ》つて下《くだ》さりますと、彼《あ》の蜂《はち》の中《なか》へ突込《つツこ》んで、蜂《はち》を掴《つか》んで見《み》せましやう。お手《て》が障《さは》つた所《ところ》だけは刺《さ》しましても痛《いた》みませぬ、竹箒《たけばうき》で引払《ひツぱた》いては八方《ぱう》へ散《ちらば》つて体中《からだぢう》に集《たか》られては夫《それ》は凌《しの》げませぬ即死《そくし》でございますがと、微笑《ほゝゑ》んで控《ひか》へる手《て》で無理《むり》に握《にぎ》つて貰《もら》ひ、つか/\と行《ゆ》くと、凄《すさま》じい虫《むし》の唸《うなり》、軈《やが》て取《と》つて返《かへ》した左《ひだり》の手《て》に熊蜂《くまばち》が七ツ八ツ、羽《は》ばたきをするのがある、脚《あし》を揮《ふる》ふのがある、中《なか》には掴《つか》んだ指《ゆび》の股《また》へ這出《はひだ》して居《ゐ》るのがあツた。
さあ、那《あ》の神様《かみさま》の手《て》が障《さは》れば鉄砲玉《てツぱうだま》でも通《とほ》るまいと、蜘蛛《くも》の巣《す》のやうに評判《ひやうばん》が八方《ぱう》へ。
其《そ》の頃《ころ》からいつとなく感得《かんとく》したものと見《み》えて、仔細《しさい》あつて、那《あ》の白痴《ばか》に身《み》を任《まか》せて山《やま》に籠《こも》つてからは神変不思議《しんぺんふしぎ》、年《とし》を経《ふ》るに従《したが》ふて神通自在《じんつうじざい》ぢや、はじめは体《からだ》を押《お》つけたのが、足《あし》ばかりとなり、手《て》さきとなり、果《はて》は間《あひだ》を隔《へだ》てゝ居《ゐ》ても、道《みち》を迷《まよ》ふた旅人《たびゞと》は嬢様《ぢやうさま》が思《おも》ふまゝはツといふ呼吸《いき》で変《へん》ずるわ。
と親仁《おやぢ》が其時《そのとき》物語《ものがた》つて、御坊《ごばう》は、孤家《ひとつや》の周囲《ぐるり》で、猿《さる》を見《み》たらう、蟇《ひき》を見《み》たらう、蝙蝠《かうもり》を見《み》たであらう、兎《うさぎ》も蛇《へび》も皆《みんな》嬢様《ぢやうさま》に谷川《たにがは》の水《みづ》を浴《あ》びせられて、畜生《ちくしやう》にされたる輩《やから》!
あはれ其時《そのとき》那《あ》の婦人《をんな》が、蟇《ひき》に絡《まつは》られたのも、猿《さる》に抱《だ》かれたのも、蝙蝠《かうもり》に吸《す》はれたのも、夜中《よなか》に※魅魍魎《ちみまうりやう》[#「魅」の「未」に代えて「知」、U+29CE6、61-5]に魘《おそ》はれたのも、思出《おもひだ》して、私《わし》は犇々《ひし/\》と胸《むね》に当《あた》つた、
なほ親仁《おやぢ》のいふやう。
今《いま》の白痴《ばか》も、件《くだん》の評判《ひやうばん》の高《たか》かつた頃《ころ》、医者《いしや》の内《うち》へ来《き》た病人《びやうにん》、其頃《そのころ》は未《ま》だ子供《こども》、朴訥《ぼくとつ》な父親《てゝおや》が附添《つきそ》ひ、髪《かみ》の長《なが》い、兄貴《あにき》がおぶつて山《やま》から出《で》て来《き》た。脚《あし》に難渋《なんじう》な腫物《しゆもつ》があつた、其《そ》の療治《れうぢ》を頼《たの》んだので。
固《もと》より一室《ま》を借受《かりう》けて、逗留《たうりう》をして居《を》つたが、かほどの悩《なやみ》は大事《おほごと》ぢや、血《ち》も大分《だいぶん》に出《だ》さねばならぬ殊《こと》に子供《こども》手《て》を下《お》ろすには体《からだ》に精分《せいぶん》をつけてからと、先《ま》づ一日《にち》に三ツづゝ鶏卵《たまご》を飲《の》まして、気休《きやす》めに膏薬《かうやく》を張《は》つて置《お》く。
其《そ》の膏薬《かうやく》を剥《は》がすにも親《おや》や兄《あに》、又《また》傍《そば》のものが手《て》を懸《か》けると、堅《かた》くなつて硬《こは》ばつたのが、めり/\と肉《にく》にくツついて取《と》れる、ひい/\と泣《な》くのぢやが、娘《むすめ》が手《て》をかけてやれば黙《だま》つて耐《こら》へた。
一体《たい》は医者殿《いしやどの》、手《て》のつけやうがなくつて、身《み》の衰《おとろへ》をいひ立《た》てに一日《にち》延《の》ばしにしたのぢやが三日《か》経《た》つと、兄《あに》を残《のこ》して、克明《こくめい》な父親《てゝおや》の股引《もゝひき》の膝《ひざ》でずつて、あとさがりに玄関《げんくわん》から土間《どま》へ、草鞋《わらぢ》を穿《は》いて又《また》地《つち》に手《て》をついて、次男坊《じなんばう》の生命《いのち》の扶《たす》かりまするやうに、ねえ/\、といふて山《やま》へ帰《かへ》つた。
其《それ》でもなか/\捗取《はかど》らず、七日《なぬか》も経《た》つたので、後《あと》に残《のこ》つて附添《つきそ》つて居《ゐ》た兄者人《あにじやひと》が丁度《ちやうど》苅入《かりいれ》で、此節《このせつ》は手《て》が八本《ほん》も欲《ほ》しいほど忙《いそが》しい、お天気《てんき》模様《もやう》も雨《あめ》のやう、長雨《ながあめ》にでもなりますと、山畠《やまはたけ》にかけがへのない稲《いね》が腐《くさ》つては、餓死《うゑじに》でござりまする、総領《さうりやう》の私《わし》は一番《ばん》の働手《はたらきて》、かうしては居《を》られませぬから、と辞《ことわり》をいつて、やれ泣《な》くでねえぞ、としんめり子供《こども》にいひ聞《き》かせて病人《びやうにん》を置《お》いて行《い》つた。
後《あと》には子供《こども》一人《ひとり》、其時《そのとき》が戸長様《こちやうさま》の帳面前《ちやうめんまへ》年紀《とし》六ツ、親《おや》六十で児《こ》が二十《はたち》なら徴兵《ちようへい》はお目《め》こぼしと何《なに》を間違《まちが》へたか届《とゞけ》が五年《ねん》遅《おそ》うして本当《ほんたう》は十一、それでも奥山《おくやま》で育《そだ》つたから村《むら》の言葉《ことば》も碌《ろく》には知《し》らぬが、怜悧《りこう》な生《うまれ》で聞分《きゝわけ》があるから、三ツづつあひかはらず鶏卵《たまご》を吸《す》はせられる汁《つゆ》も、今《いま》に療治《れうぢ》の時《とき》不残《のこらず》血《ち》になつて出《で》ることゝ推量《すゐりやう》して、べそを掻《か》いても、兄者《あにじや》が泣《な》くなといはしつたと、耐《こら》へて居《ゐ》た心《こゝろ》の内《うち》。
娘《むすめ》の情《なさけ》で内《うち》と一所《しよ》に膳《ぜん》を並《なら》べて食事《しよくじ》をさせると、沢庵《たくわん》の切《きれ》をくわへて隅《すみ》の方《はう》へ引込《ひきこ》むいぢらしさ。
弥《いよい》よ明日《あす》が手術《しゆじゆつ》といふ夜《よ》は、皆《みんな》寝静《ねしづ》まつてから、しく/\蚊《か》のやうに泣《な》いて居《ゐ》るのを、手水《てうづ》に起《お》きた娘《むすめ》が見《み》つけてあまりの不便《ふびん》さに抱《だ》いて寝《ね》てやつた。
さて療治《れうぢ》となると例《れい》の如《ごと》く娘《むすめ》が背後《うしろ》から抱《だ》いて居《ゐ》たから、脂汗《あぶらあせ》を流《なが》しながら切《き》れものが入《はい》るのを、感心《かんしん》にじつと耐《こら》へたのに、何処《どこ》を切違《きりちが》へたか、それから流《なが》れ出《だ》した血《ち》が留《と》まらず、見《み》る/\内《うち》に色《いろ》が変《かは》つて、危《あぶな》くなつた。
医者《いしや》も蒼《あを》くなつて、騒《さわ》いだが、神《かみ》の扶《たす》けか漸《やうや》う生命《いのち》は取留《とりと》まり、三日《か》ばかりで血《ち》も留《とま》つたが、到頭《たうとう》腰《こし》が抜《ぬ》けた、固《もと》より不具《かたわ》。
之《これ》が引摺《ひきず》つて、足《あし》を見《み》ながら情《なさけ》なさうな顔《かほ》をする、蟋蟀《きり/″\す》が|《も》がれた脚《あし》を口《くち》に啣《くは》へて泣《な》くのを見《み》るやう、目《め》もあてられたものではない。
しまひには泣出《なきだ》すと、外聞《ぐわいぶん》もあり、少焦《すこぢれ》で、医者《いしや》は可恐《おそろし》い顔《かほ》をして睨《にら》みつけると、あはれがつて抱《だ》きあげる娘《むすめ》の胸《むね》に顔《かほ》をかくして縋《すが》る状《さま》に、年来《ねんらい》随分《ずゐぶん》と人《ひと》を手《て》にかけた医者《いしや》も我《が》を折《を》つて腕組《うでくみ》をして、はツといふ溜息《ためいき》。
軈《やが》て父親《てゝおや》が迎《むかひ》にござつた、因果《いんぐわ》と諦《あきら》めて、別《べつ》に不足《ふそく》はいはなんだが、何分《なにぶん》小児《こども》が娘《むすめ》の手《て》を放《はな》れようといはぬので、医者《いしや》も幸《さひはひ》、言訳《いひわけ》旁《かた/″\》、親兄《おやあに》の心《こゝろ》もなだめるため、其処《そこ》で娘《むすめ》に小児《こども》を家《うち》まで送《おく》らせることにした。
送《おく》つて来《き》たのが孤家《ひとつや》で。
其時分《そのじぶん》はまだ一ヶの荘《さう》、家《いへ》も小《こ》二十軒《けん》あつたのが、娘《むすめ》が来《き》て一日《にち》二日《か》、つひほだされて逗留《たうりう》した五日目《かめ》から大雨《おほあめ》が降出《ふりだ》した。瀧《たき》を覆《くつがへ》すやうで小留《をやみ》もなく家《うち》に居《ゐ》ながら皆《みんな》蓑笠《みのかさ》で凌《しの》いだ位《くらゐ》、茅葺《かやぶき》の繕《つくろひ》をすることは扨置《さてお》いて、表《おもて》の戸《と》もあけられず、内《うち》から内《うち》、隣同士《となりどうし》、おう/\と声《こゑ》をかけ合《あ》つて纔《わづか》に未《ま》だ人種《ひとだね》の世《よ》に尽《つ》きぬのを知《し》るばかり、八日《か》を八百年《ねん》と雨《あめ》の中《なか》に籠《こも》ると九日目《こゝのかめ》の真夜中《まよなか》から大風《たいふう》が吹出《ふきだ》して其《その》風《かぜ》の勢《いきほひ》こゝが峠《たうげ》といふ処《ところ》で忽《たちま》ち泥海《どろうみ》。
此《こ》の洪水《こうずゐ》で生残《いきのこ》つたのは、不思議《ふしぎ》にも娘《むすめ》と小児《こども》と其《それ》に其時《そのとき》村《むら》から供《とも》をした此《こ》の親仁《おやぢ》ばかり。
同一《おなし》水《みづ》で医者《いしや》の内《うち》も死絶《しにた》えた、さればかやうな美女《びぢよ》が片田舎《かたゐなか》に生《うま》れたのも国《くに》が世《よ》がはり、代《だい》がはりの前兆《ぜんちやう》であらうと、土地《とち》のものは言伝《いひつた》へた。
嬢様《ぢやうさま》は帰《かへ》るに家《いへ》なく世《よ》に唯《たゞ》一人《ひとり》となつて小児《こども》と一所《しよ》に山《やま》に留《とゞ》まつたのは御坊《ごばう》が見《み》らるゝ通《とほり》、又《また》那《あ》の白痴《ばか》につきそつて行届《ゆきとゞ》いた世話《せわ》も見《み》らるゝ通《とほり》、洪水《こうずゐ》の時《とき》から十三年《ねん》、いまになるまで一日《にち》もかはりはない。
といひ果《は》てゝ親仁《おやぢ》の又《また》気味《きみ》の悪《わる》い北叟笑《ほくそゑみ》。
(恁《か》う身《み》の上《うへ》を話《はな》したら、嬢様《ぢやうさま》を不便《ふびん》がつて、薪《まき》を折《を》つたり水《みづ》を汲《く》む手扶《てだす》けでもしてやりたいと、情《なさけ》が懸《かゝ》らう。本来《ほんらい》の好心《すきごゝろ》、可加減《いゝかげん》な慈悲《じひ》ぢやとか、情《なさけ》ぢやとかいふ名《な》につけて、一層《そ》山《やま》へ帰《かへ》りたかんべい、はて措《を》かつしやい。彼《あ》の白痴殿《ばかどの》の女房《にようぼう》になつて、世《よ》の中《なか》へは目《め》もやらぬ換《かはり》にやあ、嬢様《ぢやうさま》は如意自在《によゐじざい》、男《をとこ》はより取《ど》つて、飽《あ》けば、息《いき》をかけて獣《けもの》にするわ、殊《こと》に其《そ》の洪水《こうずゐ》以来《いらい》、山《やま》を穿《うが》つたこの流《ながれ》は天道様《てんたうさま》がお授《さづ》けの、男《をとこ》を誘《いざな》ふ怪《あや》しの水《みづ》、生命《いのち》を取《と》られぬものはないのぢや。
天狗道《てんぐだう》にも三熱《ねつ》の苦悩《くなう》、髪《かみ》が乱《みだ》れ、色《いろ》が蒼《あを》ざめ、胸《むね》が痩《や》せて手足《てあし》が細《ほそ》れば、谷川《たにかは》を浴《あ》びると旧《もと》の通《とほり》、其《それ》こそ水《みづ》が垂《た》るばかり、招《まね》けば活《い》きた魚《うを》も来《く》る、睨《にら》めば美《うつく》しい木《き》の実《み》も落《お》つる、袖《そで》を翳《かざ》せば雨《あめ》も降《ふる》なり、眉《まゆ》を開《ひら》けば風《かぜ》も吹《ふ》くぞよ。
然《しか》もうまれつきの色好《いろごの》み、殊《こと》に又《また》若《わか》いのが好《すき》ぢやで、何《なに》か御坊《ごぼう》にいうたであらうが、其《それ》を実《まこと》とした処《ところ》で、軈《やが》て飽《あ》かれると尾《を》が出来《でき》る、耳《みゝ》が動《うご》く、足《あし》がのびる、忽《たちま》ち形《かたち》が変《へん》ずるばかりぢや。
いや、軈《やが》て此《こ》の鯉《こひ》を料理《れうり》して、大胡座《おほあぐら》で飲《の》む時《とき》の魔神《ましん》の姿《すがた》を見《み》せたいな。
妄念《まうねん》は起《おこ》さずに早《はや》う此処《こゝ》を退《の》かつしやい、助《たす》けられたが不思議《ふしぎ》な位《くらゐ》、嬢様《ぢやうさま》別《べツ》してのお情《なさけ》ぢやわ、生命冥加《いのちみやうが》な、お若《わか》いの、屹《きツ》と修行《しゆぎやう》をさつしやりませ。)と又《また》一ツ背中《せなか》を叩《たゝ》いた、親仁《おやぢ》は鯉《こひ》を提《さ》げたまゝ見向《みむ》きもしないで、山路《やまぢ》を上《うへ》の方《かた》。
見送《みおく》ると小《ちい》さくなつて、一坐《ざ》の大山《おほやま》の背後《うしろ》へかくれたと思《おも》ふと、油旱《あぶらでり》の焼《や》けるやうな空《そら》に、其《そ》の山《やま》の巓《いたゞき》から、すく/\と雲《くも》が出《で》た、瀧《たき》の音《おと》も静《しづ》まるばかり殷々《ゐん/\》として雷《らい》の響《ひゞき》。
藻抜《もぬ》けのやうに立《た》つて居《ゐ》た、私《わし》が魂《たましひ》は身《み》に戻《もど》つた、其方《そなた》を拝《をが》むと斉《ひと》しく、杖《つえ》をかい込《こ》み、小笠《をがさ》を傾《かたむ》け、踵《くびす》を返《かへ》すと慌《あはたゞ》しく、一散《さん》に駆《か》け下《お》りたが、里《さと》に着《つ》いた時分《じぶん》は山《やま》は驟雨《ゆふだち》、親仁《おやぢ》が婦人《をんな》に齎《もた》らした鯉《こひ》もこのために活《い》きて孤家《ひとつや》に着《つ》いたらうと思《おも》ふ大雨《おほあめ》であつた。」
高野聖《かうやひじり》は此《こ》のことについて、敢《あへ》て別《べつ》に註《ちう》して教《をしへ》を与《あた》へはしなかつたが、翌朝《よくてう》袂《たもと》を分《わか》つて、雪中《せつちう》山越《やまごし》にかゝるのを、名残《なごり》惜《を》しく見送《みおく》ると、ちら/\と雪《ゆき》の降《ふ》るなかを次第《しだい》に高《たか》く坂道《さかみち》を上《のぼ》る聖《ひじり》の姿《すがた》、恰《あたか》も雲《くも》に駕《が》して行《ゆ》くやうに見《み》えたのである。
底本:「新編 泉鏡花集 第八巻」岩波書店
2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「高野聖」左久良書房
1908(明治41)年2月20日
初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂
1900(明治33)年2月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「高野聖《かうやひじり》」となっています。
※初出時の署名は「鏡花小史」です。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年2月12日作成
2016年2月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「さんずい+散」、U+6F75
36-13

-->
「火+發」、U+243CB
42-10

-->
「魅」の「未」に代えて「知」、U+29CE6
61-5

-->
●図書カード