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やっと、十《とお》ばかりになったかと思《おも》われるほどの、男《おとこ》の子《こ》が笛《ふえ》を吹《ふ》いています。その笛《ふえ》は、ちょうど秋風《あきかぜ》が、枯《か》れた木《き》の葉《は》を鳴《な》らすように、哀《あわ》れな音《おと》をたてるかと思《おも》うと、春《はる》のうららかな日《ひ》に、緑《みどり》の色《いろ》の美《うつく》しい、森《もり》の中《なか》でなく小鳥《ことり》の声《こえ》のように、かわいらしい音《おと》をたてていました。
その笛《ふえ》の音《ね》を聞《き》いた人々《ひとびと》は、だれがこんなに上手《じょうず》に、また哀《あわ》れに笛《ふえ》を吹《ふ》いているのかと思《おも》って、そのまわりに寄《よ》ってきました。するとそれは、十《とお》ばかりの男《おとこ》の子《こ》で、しかもその子供《こども》は、弱々《よわよわ》しく見《み》えたうえに、盲目《めくら》であったのであります。
人々《ひとびと》は、これを見《み》て、ふたたびあっけにとられていました。
「なんという、不憫《ふびん》な子供《こども》だろう?」と、心《こころ》に思《おも》わぬものはなかった。
しかし、そこには、ただその子供《こども》が、一人《ひとり》いたのではありません。その子供《こども》の姉《ねえ》さんとも見《み》える十六、七の美《うつく》しい娘《むすめ》が、子供《こども》の吹《ふ》く笛《ふえ》の音《ね》につれて、唄《うた》をうたって、踊《おど》っていたのでありました。
娘《むすめ》は、水色《みずいろ》の着物《きもの》をきていました。髪《かみ》は、長《なが》く、目《め》は星《ほし》のように輝《かがや》いて澄《す》んでいました。そして、はだしで砂《すな》の上《うえ》に、軽《かる》やかに踊《おど》っている姿《すがた》は、ちょうど、花弁《はなびら》の風《かぜ》に舞《ま》うようであり、また、こちょうの野《の》に飛《と》んでいる姿《すがた》のようでありました。娘《むすめ》は、人恥《ひとは》ずかしそうに低《ひく》い声《こえ》でうたっていました。その唄《うた》は、なんという唄《うた》であるか、あまり声《こえ》が低《ひく》いので聞《き》きとることは、みんなにできなかったけれど、ただ、その唄《うた》をきいていると、心《こころ》は遠《とお》い、かなたの空《そら》を馳《は》せ、また、さびしい風《かぜ》の吹《ふ》く、深《ふか》い森林《しんりん》を彷徨《さまよ》っているように頼《たよ》りなさと、悲《かな》しさを感《かん》じたのであります。
人々《ひとびと》は、この姉《あね》と弟《おとうと》が、毎日《まいにち》どこから、ここにやってきて、こうして唄《うた》をうたい、笛《ふえ》を吹《ふ》いてお金《かね》をもらっているのか知《し》りませんでした。それは、どこにもこんな哀《あわ》れな、美《うつく》しい、またやさしい、乞食《こじき》を見《み》たことがなかったからであります。
この二人《ふたり》は、まったく親《おや》もなければ、他《た》に頼《たよ》るものもなかった。この広《ひろ》い世界《せかい》に、二人《ふたり》は両親《りょうしん》に残《のこ》されて、こうしていろいろとつらいめをみなければならなかったが、中《なか》にも弱々《よわよわ》しい、盲目《めくら》の弟《おとうと》は、ただ姉《あね》を命《いのち》とも、綱《つな》とも、頼《たよ》らなければならなかったのです。やさしい姉《あね》は、不幸《ふこう》な弟《おとうと》を心《こころ》から憫《あわ》れみました。自分《じぶん》の命《いのち》に換《か》えても、弟《おとうと》のために尽《つ》くそうと思《おも》いました。この二人《ふたり》は、この世《よ》にも珍《めずら》しい仲《なか》のよい姉弟《きょうだい》でありました。
弟《おとうと》は、生《う》まれつき笛《ふえ》が上手《じょうず》で、姉《あね》は、生《う》まれつき声《こえ》のいいところから、二人《ふたり》は、ついにこの港《みなと》に近《ちか》い、広場《ひろば》にきて、いつごろからともなく笛《ふえ》を吹《ふ》き、唄《うた》をうたって、そこに集《あつ》まる人々《ひとびと》にこれを聞《き》かせることになったのです。
朝日《あさひ》が上《のぼ》ると二人《ふたり》は、天気《てんき》の日《ひ》には、欠《か》かさずに、ここへやってきました。姉《あね》は、盲目《めくら》の弟《おとうと》の手《て》を引《ひ》いてきました。そして、終日《しゅうじつ》、そこで笛《ふえ》を吹《ふ》き、唄《うた》をうたって、日《ひ》が暮《く》れるころになると、どこへか、二人《ふたり》は帰《かえ》ってゆきました。
日《ひ》が輝《かがや》いて、暖《あたた》かな風《かぜ》が、柔《やわ》らかな草《くさ》の上《うえ》を渡《わた》るときは、笛《ふえ》の音《ね》と唄《うた》の声《こえ》は、もつれあって、明《あか》るい南《みなみ》の海《うみ》の方《ほう》に流《なが》れてゆきました。
姉《あね》は、毎日《まいにち》のように、こうして踊《おど》ったり、唄《うた》をうたったりしましたけれど、弟《おとうと》の笛《ふえ》の音《ね》を聞《き》くと、いつも、疲《つか》れるということをすこしも身《み》に覚《おぼ》えませんでした。
元来《がんらい》内気《うちき》なこの娘《むすめ》は、人々《ひとびと》がまわりにたくさん集《あつ》まって、みんなが目《め》を自分《じぶん》の上《うえ》に向《む》けていると思《おも》うと恥《は》ずかしくて、しぜん唄《うた》の声《こえ》も滅入《めい》るように低《ひく》くはなりましたけれど、そのとき、弟《おとうと》の吹《ふ》く笛《ふえ》の音《ね》に耳《みみ》を傾《かたむ》けると、もう、自分《じぶん》は、広《ひろ》い、広《ひろ》い、花《はな》の咲《さ》き乱《みだ》れた野原《のはら》の中《なか》で、独《ひと》り自由《じゆう》に駆《か》けているような心地《ここち》がして、大胆《だいたん》に、身《み》をこちょうのように軽《かる》く跳《は》ね上《あ》げて、おもしろく踊《おど》っているのでした。
ある夏《なつ》の日《ひ》のことでありました。その日《ひ》も太陽《たいよう》は、早《はや》くから上《あ》がって、みつばちは花《はな》を探《たず》ねて歩《ある》き、広場《ひろば》のかなたにそびえる木立《こだち》は、しょんぼりと静《しず》かに、ちょうど脊《せ》の高《たか》い人《ひと》が立《た》っているように、うるんだ空《そら》の下《した》に浮《う》き上《あ》がって見《み》えました。
港《みなと》の方《ほう》では、出入《でい》りする船《ふね》の笛《ふえ》の音《おと》が、鈍《にぶ》く聞《き》こえていました。明《あか》るい、あめ色《いろ》の空《そら》に、黒《くろ》い煙《けむり》の跡《あと》がわずかに漂《ただよ》っている。それは、これから、青《あお》い、青《あお》い波《なみ》を分《わ》けて、遠《とお》く出《で》てゆく船《ふね》があるのでありました。
その日《ひ》も、二人《ふたり》のまわりには、いつものごとく、人《ひと》が黒山《くろやま》のように集《あつ》まっていました。
「こんないい、笛《ふえ》の音《ね》を聞《き》いたことがない。」と、一人《ひとり》の男《おとこ》がいいました。
「私《わたし》は、ほうぼう歩《ある》いたものだが、こんないい笛《ふえ》の音《ね》を聞《き》いたことがなかった。なんだか、この笛《ふえ》の音《ね》を聞《き》いていると、忘《わす》れてしまった過去《かこ》のことが、一つ、一つ心《こころ》の底《そこ》に浮《う》かび上《あ》がって目《め》に見《み》えるような気《き》がする。」と、他《た》の一人《ひとり》の男《おとこ》がいいました。
「あれで目《め》があいていたら、どんなかわいい男《おとこ》の子《こ》でしょう。」と、ある一人《ひとり》の女《おんな》がいいました。
「私《わたし》は、あんな器量《きりょう》よしの娘《むすめ》を見《み》たことがない。」と、他《た》の年《とし》をとった、荷物《にもつ》をかついだ旅《たび》の女《おんな》らしい人《ひと》がいいました。
「あれほどの器量《きりょう》なら、こんなことをしていなくてもよさそうなものだ。あんな美《うつく》しい娘《むすめ》なら、だれでももらい手《て》があるのに。」と、脊《せ》の低《ひく》い男《おとこ》がのびあがって、あちらを見《み》ながら、いっていました。
「きっと、あれには、だれかついているものがあるでしょう。そして、金《かね》もうけをしようというのでしょう。」
「いいえ、あの娘《むすめ》は、そんな下卑《げび》た子供《こども》ではありません。きっと、あの弟《おとうと》のために、こうして苦労《くろう》をしているのです。」と、さっきから黙《だま》って、じっと娘《むすめ》の踊《おど》るのを見《み》ていた女《おんな》の人《ひと》がいいました。
人々《ひとびと》は、思《おも》い思《おも》いのことをいいました。中《なか》には、金《かね》を足《あし》もとへ投《な》げてやったものもありました。中《なか》には、いろいろのことをしゃべりながら、いつか消《き》えるように、銭《ぜに》もやらずに去《さ》ってしまったものもありました。
つつがなく、やがて、その日《ひ》も暮《く》れようとしていました。海《うみ》の上《うえ》の空《そら》を、いぶし銀《ぎん》のように彩《いろど》って、西《にし》に傾《かたむ》いた夕日《ゆうひ》は赤《あか》く見《み》えていました。人々《ひとびと》は、おいおいにその広場《ひろば》から立《た》ち去《さ》りました。うす青《あお》い着物《きもの》をきた姉《あね》は、弟《おとうと》をいたわって、自分《じぶん》たちもそこを去《さ》ろうとしたときであります。
一人《ひとり》の見《み》なれない男《おとこ》が、姉《あね》の前《まえ》に進《すす》み出《で》ました。
「この町《まち》の大尽《だいじん》のお使《つか》いでまいったものです。ちょっと大尽《だいじん》がお目《め》にかかってお話《はなし》したいことがあるからいらっしてくださるように。」といいました。
姉《あね》は、これまでこんなことをいったものが、幾人《いくにん》もありましたから、またかと思《おも》いましたが、その大尽《だいじん》というのは、名《な》の聞《き》こえている大金持《おおがねも》ちだけに、娘《むすめ》はすげなく断《ことわ》ることもできないという気《き》がして、少《すく》なからず当惑《とうわく》いたしました。
「どんなご用《よう》があって、わたしにあいたいと申《もう》されるのですか?」と、姉《あね》は、その使《つか》いの男《おとこ》にたずねました。
「私《わたし》にはわかりません。あなたがいらしてくださればわかることです。けっして、あなたのお身《み》にとって悪《わる》いことでないことだけはたしかであります。」と、その男《おとこ》は答《こた》えました。
「わたしは、弟《おとうと》を置《お》いて、どこへもいくことはできません。弟《おとうと》を連《つ》れていってもいいのでしょうか?」と、姉《あね》はたずねました。
「弟《おとうと》さんのことは、聞《き》いてきませんでした。大尽《だいじん》は、なんでもあなた一人《ひとり》に、お目《め》にかかってお話《はなし》をしたいようです。けれどけっして手間《てま》を取《と》らせません。あすこへ馬車《ばしゃ》を持《も》ってきています。それに、日《ひ》も、まだまったく暮《く》れるには間《ま》がありますから……。」と、その男《おとこ》はいいました。
姉《あね》は、黙《だま》って、しばらく考《かんが》えていましたが、なんと思《おも》ったか、
「そんなら、きっと一時間《じかん》以内《いない》に、ここまで帰《かえ》してくださいますか。」と、男《おとこ》に向《む》かってたずねました。
「おそらく、そんなには時間《じかん》を取《と》らせますまい。どうか、せっかく使《つか》いにまいった私《わたし》の顔《かお》をたてて、あの馬車《ばしゃ》に乗《の》って、一刻《こく》も早《はや》く大尽《だいじん》の御殿《ごてん》へいらしてください。いまごろ大尽《だいじん》は、あなたの見《み》えるのをお待《ま》ちでございます。」と、男《おとこ》はいいました。
あちらに、草《くさ》の上《うえ》にすわって、手《て》に笛《ふえ》を持《も》っておとなしく、弟《おとうと》は、姉《あね》のくるのをまっていました。
姉《あね》は、思案《しあん》に沈《しず》んだ顔《かお》つきをして、着物《きもの》のすそを夕風《ゆうかぜ》になぶらせながら弟《おとうと》のそばへ、はだしのまま近寄《ちかよ》ってきました。そして、目《め》は見《み》えぬながら微笑《ほほえ》んで、姉《あね》を迎《むか》えた、弟《おとうと》に向《む》かって、
「姉《ねえ》さんは、ちょっと用事《ようじ》があっていってくるところがあるのよ。おまえは、どこへもいかずに、ここに待《ま》ってておくれ、すぐに姉《ねえ》さんは帰《かえ》ってくるから。」と、やさしくいいました。
弟《おとうと》は、盲目《めくら》の目《め》を、姉《あね》の方《ほう》に向《む》けました。
「姉《ねえ》さんは、もう帰《かえ》ってこないのではないの。僕《ぼく》は、なんだかそんなような気《き》がするんだもの。」といいました。
「なぜ、そんな悲《かな》しいことをいうの。姉《ねえ》さんは、一時間《じかん》とたたないうちに帰《かえ》ってきてよ。」と、姉《あね》は、目《め》に涙《なみだ》をためて答《こた》えました。
弟《おとうと》は、やっと姉《あね》のいうことがわかったみえて、黙《だま》ってうなずきました。
姉《あね》は、使《つか》いの男《おとこ》につれられて、いかめしい馬車《ばしゃ》に乗《の》りました。馬車《ばしゃ》は、ひづめの音《おと》を砂地《すなじ》の上《うえ》にたてて、日暮《ひぐ》れ方《がた》の空《そら》の下《した》をかなたに去《さ》りました。
弟《おとうと》は、そのひづめの音《おと》が遠《とお》く、かすかに、まったく聞《き》こえなくなるまで、草《くさ》の上《うえ》にすわって、じっと耳《みみ》を澄《す》ましていました。
一時間《じかん》はたち、二時間《じかん》はたっても、ついに姉《あね》は帰《かえ》ってきませんでした。いつしか、日《ひ》はまったく暮《く》れてしまって、砂地《すなじ》の上《うえ》は、しっとりと湿《しめ》り気《け》を含《ふく》み、夜《よる》の空《そら》の色《いろ》は、藍《あい》を流《なが》したようにこくなって、星《ほし》の光《ひかり》がきらきらと瞬《またた》きました。港《みなと》の方《ほう》は、ほんのりとして、人《ひと》なつかしい明《あか》るみを空《そら》の色《いろ》にたたえていたけれど、盲目《めくら》の弟《おとうと》には、それを望《のぞ》むこともできませんでした。
ただ、おりおり、生温《なまあたた》かな風《かぜ》が沖《おき》の方《ほう》から、闇《やみ》のうちを旅《たび》してくるたびに、姉《あね》の帰《かえ》るのを待《ま》っている弟《おとうと》の顔《かお》に当《あ》たりました。弟《おとうと》は、もはやたえられなくなって、泣《な》いていました。そして、姉《あね》は、どこへいったろう。もうこれぎり帰《かえ》ってこなかったらどうしようと心細《こころぼそ》くなって、涙《なみだ》が流《なが》れて止《と》まらなかったのであります。
いつも姉《あね》は、自分《じぶん》の吹《ふ》く笛《ふえ》の音《ね》につれて、踊《おど》ったと思《おも》うと、弟《おとうと》は、もし自分《じぶん》の吹《ふ》いた笛《ふえ》の音《ね》を聞《き》きつけたら、きっと姉《あね》は、自分《じぶん》を思《おも》い出《だ》して帰《かえ》ってきてくれるにちがいないと思《おも》いました。
弟《おとうと》は、熱心《ねっしん》に笛《ふえ》を吹《ふ》き鳴《な》らしました。かつて、こんなに心《こころ》を入《い》れて、笛《ふえ》を吹《ふ》いたことはなかったのであります。姉《あね》は、この笛《ふえ》の音《ね》をどこかで聞《き》きつけるであろう。聞《き》きつけたら、きっと自分《じぶん》を思《おも》い出《だ》して帰《かえ》ってきてくれるにちがいない、と、弟《おとうと》は思《おも》いました。弟《おとうと》は、それで、熱心《ねっしん》に笛《ふえ》を吹《ふ》き鳴《な》らしました。
ちょうど、ここに一羽《わ》の白鳥《はくちょう》があって、北《きた》の海《うみ》で自分《じぶん》の子供《こども》をなくして、心《こころ》を傷《いた》めて、南《みなみ》の方《ほう》へ帰《かえ》る途中《とちゅう》でありました。
白鳥《はくちょう》は黙《だま》って、山《やま》を越《こ》え、森《もり》を越《こ》え、河《かわ》を越《こ》えて、青《あお》い、青《あお》い海《うみ》を遠《とお》く後《あと》にして、南《みなみ》の方《ほう》をさして旅《たび》をしていました。白鳥《はくちょう》は疲《つか》れると流《なが》れの辺《ほとり》に降《お》り、翼《つばさ》を休《やす》めて、また旅《たび》に上《のぼ》りました。かわいい子供《こども》をなくして、白鳥《はくちょう》は、歌《うた》う気《き》にもなれなかったのです。ただ、黙《だま》って暗《くら》い夜《よる》を、星《ほし》の下《した》を駆《か》けていました。
白鳥《はくちょう》は、ふと、悲《かな》しい笛《ふえ》の音《ね》をききました。それは、普通《ふつう》の人《ひと》の吹《ふ》く笛《ふえ》の音色《ねいろ》とは思《おも》われない。なんでも胸《むね》になやみのあるものが、はじめてこんな笛《ふえ》の音色《ねいろ》を出《だ》し得《う》ることを白鳥《はくちょう》は知《し》りました。白鳥《はくちょう》は、子供《こども》をなくして、しみじみと悲《かな》しみを味《あじ》わっていましたから、その笛《ふえ》の音色《ねいろ》をくみとることができたのです。
白鳥《はくちょう》は、その目《め》に見《み》えない細《ほそ》い糸《いと》の、切《き》れては、また、つづくような、悲《かな》しい音色《ねいろ》がどこから聞《き》こえてくるかと翼《つばさ》をゆるやかに刻《きざ》んで、しばらくは夜《よる》の空《そら》をまわっていましたが、やがて、広場《ひろば》から起《お》こることを知《し》りました。白鳥《はくちょう》は、注意深《ちゅういぶか》くその広場《ひろば》に降《お》りたのであります。そして、そこに、一人《ひとり》の少年《しょうねん》が草《くさ》の上《うえ》にすわって、笛《ふえ》を吹《ふ》いているのを見《み》ました。
白鳥《はくちょう》は、少年《しょうねん》に近《ちか》づきました。
「どうして、こんなところに、たった一人《ひとり》で笛《ふえ》を吹《ふ》いているのですか。」とたずねました。
盲目《めくら》の少年《しょうねん》は、やさしい声《こえ》で、だれかこうしんせつに聞《き》いてくれましたので、少年《しょうねん》は、姉《あね》が自分《じぶん》をここに置《お》いて、どこへかいってしまったことをありのままに告《つ》げました。
「ほんとうに、かわいそうに。わたしが、姉《ねえ》さんにかわってめんどうを見《み》てあげます。わたしは、子供《こども》をなくした白鳥《はくちょう》です。これから、あちらの遠《とお》い国《くに》へ帰《かえ》ろうと思《おも》っています。二人《ふたり》は、南《みなみ》の国《くに》へいって、波《なみ》の穏《おだ》やかな岸辺《きしべ》で笛《ふえ》を吹《ふ》いたり、踊《おど》ったりして送《おく》りましょう。わたしは、いまあなたをわたしとおなじ白《しろ》い鳥《とり》の姿《すがた》にしてあげます。海《うみ》を越《こ》え、山《やま》を越《こ》えてゆくのですから……。」と、白鳥《はくちょう》はいいました。
ついに、盲目《めくら》の少年《しょうねん》は、白《しろ》い鳥《とり》となりました。夜《よる》のうちに、二羽《わ》の白鳥《はくちょう》は、このさびしい、暗《くら》い広場《ひろば》から飛《と》びたって、ほんのりと明《あか》るく、空《そら》を染《そ》めた港《みなと》を見下《みお》ろしながら、その上《うえ》を過《す》ぎて、遠《とお》くいずこへとなく、消《き》え去《さ》ってしまったのであります。後《あと》には、空《そら》に星《ほし》が輝《かがや》いていました。大地《だいち》は黒《くろ》く湿《しめ》って、草木《くさき》は音《おと》なく眠《ねむ》っていました。
姉《あね》は、それから程経《ほどへ》て、大尽《だいじん》の屋敷《やしき》からもどってきました。思《おも》ったより、たいへんに時間《じかん》がたったので、弟《おとうと》はどうしたろうと心配《しんぱい》してきたのであります。けれど、そこには、弟《おとうと》の姿《すがた》が見《み》えませんでした。どこを探《たず》ねても見《み》えませんでした。星《ほし》の光《ひかり》が、かすかに地《ち》の上《うえ》を照《て》らしています。そこには、いままで目《め》に入《はい》らなかった月見草《つきみそう》が、かわいらしい花《はな》を開《ひら》いていました。そして、これもいままで見《み》なかった、姉《あね》の青《あお》い着物《きもの》のえりに、宝石《ほうせき》が星《ほし》の光《ひかり》に射《い》られて輝《かがや》いていました。
明《あ》くる日《ひ》から、姉《あね》は、狂人《きちがい》のようになって、すはだしで港《みなと》の町々《まちまち》を歩《ある》いて、弟《おとうと》を探《さが》しました。
月《つき》の光《ひかり》が、しっとりと絹糸《きぬいと》のように、空《そら》の下《した》の港《みなと》の町々《まちまち》の屋根《やね》を照《て》らしています。そこの、果物屋《くだものや》には、店頭《みせさき》に、遠《とお》くの島《しま》から船《ふね》に積《つ》んで送《おく》られてきた、果物《くだもの》がならんでいました。それらの果物《くだもの》の上《うえ》にも、月《つき》の光《ひかり》が落《お》ちるときに、果物《くだもの》は、はかない香《かお》りをたてていました。また、酒場《バー》では、いろいろの人々《ひとびと》が集《あつ》まって、唄《うた》をうたったり、酒《さけ》を飲《の》んだりして笑《わら》っていました。その店頭《みせさき》のガラス戸《ど》にも、月《つき》の光《ひかり》はさしています。また、港《みなと》にとまっている船《ふね》の旗《はた》の揺《ゆ》れている、ほばしらの上《うえ》にも月《つき》の光《ひかり》は当《あ》たっています。波《なみ》は、昔《むかし》からの、物憂《ものう》い調子《ちょうし》で、浜《はま》に寄《よ》せては返《かえ》していました。
姉《あね》は、あてもなくそれらの景色《けしき》をながめ、悲《かな》しみに沈《しず》みながら、弟《おとうと》をさがしていました。けれど、弟《おとうと》は、どこへいったのかわかりませんでした。
一日《にち》、この港《みなと》に外国《がいこく》から一そうの船《ふね》が入《はい》ってきました。やがて、いろいろなふうをした人々《ひとびと》が、港《みなと》の陸《おか》へうれしそうに上《あ》がってきました。なんでも、南《みなみ》の方《ほう》からきたので、人々《ひとびと》の姿《すがた》は軽《かる》やかに、顔《かお》は日《ひ》に焼《や》けて、手《て》には、つるで編《あ》んだかごをぶらさげていました。それらの群《む》れの中《うち》に、見《み》なれない、小人《こびと》のように脊《せ》の低《ひく》い、黒《くろ》んぼが一人《ひとり》混《ま》じっていました。
黒《くろ》んぼは、日当《ひあ》たりの途《みち》を歩《ある》いて、あたりを物珍《ものめずら》しそうに、きょろきょろとながめながらやってきますと、ふと、町角《まちかど》のところで、うす青《あお》い着物《きもの》をきた娘《むすめ》に出《で》あいました。娘《むすめ》は黒《くろ》んぼを、物珍《ものめずら》しそうに振《ふ》り返《かえ》りますと、黒《くろ》んぼは立《た》ち止《ど》まって、不思議《ふしぎ》そうに、娘《むすめ》の顔《かお》を見《み》つめていましたが、やがて近寄《ちかよ》ってまいりました。
「あなたは、南《みなみ》の島《しま》で、唄《うた》をうたっていた娘《むすめ》さんではありませんか。いつ、こちらにこられたのですか。私《わたし》は、あちらの島《しま》をたつ前《まえ》の日《ひ》に、あなたを、島《しま》で見《み》ましたはずですが。」と、黒《くろ》んぼはいいました。
姉《あね》は、不意《ふい》に問《と》いかけられたのでびっくりして、
「いえ、わたしは南《みなみ》の島《しま》にいたことはありません。それはきっと人違《ひとちがい》です。」と答《こた》えました。
「いや、人違《ひとちが》いでない。まったくあなたでした。水色《みずいろ》の着物《きもの》をきて、盲目《めくら》の十《とお》ばかりになる、男《おとこ》の子《こ》が吹《ふ》く笛《ふえ》の調子《ちょうし》に合《あ》わせて、唄《うた》をうたって踊《おど》っていたのは、たしかにあなたです。」と、黒《くろ》んぼは疑《うたが》い深《ぶか》い目《め》つきで、娘《むすめ》をながめながらいいました。
姉《あね》は、これを聞《き》くと、さらにびっくりしました。
「十《とお》ばかりの男《おとこ》の子《こ》が笛《ふえ》を吹《ふ》いている? そして、その子供《こども》は盲目《めくら》なんですか?」
「それは、島《しま》でたいした評判《ひょうばん》でした。娘《むすめ》さんが美《うつく》しいので、島《しま》の王《おう》さまが、ある日《ひ》金《きん》の輿《こし》を持《も》って迎《むか》えにこられたけれど、娘《むすめ》は弟《おとうと》がかわいそうだといって、お断《ことわ》りしてゆきませんでした。その島《しま》には、白鳥《はくちょう》がたくさんすんでいますが、二人《ふたり》が笛《ふえ》を吹《ふ》いたり、踊《おど》ったりしている海岸《かいがん》には、ことにたくさんな白鳥《はくちょう》がいて、夕暮《ゆうぐ》れ方《がた》の空《そら》に舞《ま》っているときは、それはみごとであります。」と、黒《くろ》んぼは答《こた》えて、それなら、やはり、この娘《むすめ》は人違《ひとちが》いかというような顔《かお》つきをしていました。
「ああ、わたしは、どうしたらいいだろう。」と、姉《あね》は、自分《じぶん》の長《なが》い髪《かみ》を両手《りょうて》でもんで悲《かな》しみました。
「もう一人《ひとり》、この世《よ》の中《なか》には、自分《じぶん》というものがあって、その自分《じぶん》は、わたしよりも、もっとしんせつな、もっと善良《ぜんりょう》な自分《じぶん》なのであろう。その自分《じぶん》が、弟《おとうと》を連《つ》れていってしまったのだ。」と、姉《あね》は胸《むね》が張《は》り裂《さ》けそうになって、後悔《こうかい》しました。
「その島《しま》というのは、どこなんですか。わたしは、どうかしていってみたい。」と、姉《あね》はいいました。
黒《くろ》んぼは、このとき、港《みなと》の方《ほう》を指《ゆび》さしながら、
「ずっと、幾《いく》千里《り》となく遠《とお》いところに、銀色《ぎんいろ》の海《うみ》があります。それを渡《わた》って陸《おか》に上《あ》がり、雪《ゆき》の白《しろ》く光《ひか》った、高《たか》い山々《やまやま》が重《かさ》なっている、その山《やま》を越《こ》えてゆくので、それは、容易《ようい》にゆけるところでない。」と答《こた》えました。
このとき、夏《なつ》の日《ひ》は暮《く》れかかって、海《うみ》の上《うえ》が彩《いろど》られ、空《そら》は、昨日《きのう》のように真《ま》っ赤《か》に燃《も》えて見《み》られました。
底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社
1976(昭和51)年12月10日第1刷
1982(昭和57)年9月10日第7刷
初出:「童話」
1921(大正10)年6月
※表題は底本では、「港《みなと》に着《つ》いた黒《くろ》んぼ」となっています。
※初出時の表題は「港に着いた黒んぼの話」です。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:富田倫生
2012年5月23日作成
2012年9月27日修正
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