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場所 美濃《みの》、三河《みかわ》の国境。山中の社《やしろ》――奥の院。
名 白寮権現《はくりょうごんげん》、媛神《ひめがみ》。(はたち余に見ゆ)神職。(榛貞臣《はしばみさだおみ》。修験《しゅげん》の出)禰宜《ねぎ》。(布気田《ふげた》五郎次)老いたる禰宜。雑役の仕丁《しちょう》。(棚村《たなむら》久内)二十五座の太鼓の男。〆太鼓《しめだいこ》の男。笛の男。おかめの面の男。道化の面の男。般若《はんにゃ》の面の男。後見一人。お沢。(或男の妾《めかけ》、二十五、六)天狗《てんぐ》。(丁々坊《ちょうちょうぼう》)巫女《みこ》。(五十ばかり)道成寺《どうじょうじ》の白拍子《しらびょうし》に扮《ふん》したる俳優《やくしゃ》。一ツ目小僧の童男童女。村の児《こ》五、六人。
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禰宜 (略装にて)いや、これこれ(中啓《ちゅうけい》を挙《あ》げて、二十五座の一連《いちれん》に呼掛《よびか》く)大分《だいぶ》日もかげって参った。いずれも一休みさっしゃるが可《よ》いぞ。
この言葉のうち、神楽《かぐら》の面々、踊《おどり》の手を休《や》め、従って囃子《はやし》静まる。一連皆素朴《そぼく》なる山家人《やまがびと》、装束《しょうぞく》をつけず、面《めん》のみなり。――落葉散りしき、尾花《おばな》むら生《お》いたる中に、道化《どうけ》の面、おかめ、般若《はんにゃ》など、居《い》ならび、立添《たちそ》い、意味なき身ぶりをしたるを留《とど》む。おのおのその面をはずす、年は三十より四十ばかり。後見《こうけん》最も年配なり。
後見 こりゃ、へい、……神《かん》ぬし様。
道化の面の男 お喧《やかま》しいこんでござりますよ。
〆太鼓の男 稽古中《けいこちゅう》のお神楽で、へい、囃子《はやし》ばかりでも、大抵村方《むらかた》は浮かれ上《あが》っておりますだに、面や装束をつけましては、媼《ばば》、媽々《かか》までも、仕事稼《かせ》ぎは、へい、手につきましねえ。
笛の男 明後日《あさって》げいから、お社《やしろ》の御《ご》祭礼で、羽目《はめ》さはずいて遊びますだで、刈入時《かりいれどき》の日は短《みじけ》え、それでは気の毒と存じまして、はあ、これへ出合いましたでごぜえますがな。
般若の面の男 見よう見真似《みまね》の、から猿《ざる》踊りで、はい、一向《いっこう》にこれ、馴《な》れませぬものだでな、ちょっくらばかり面をつけて見ます了見《りょうけん》の処《ところ》。……根からお麁末《そまつ》な御馳走《ごちそう》を、とろろも|《なます》も打《ぶ》ちまけました。ついお囃子に浮かれ出《だ》いて、お社の神様、さぞお見苦しい事でがんしょとな、はい、はい。
禰宜 ああ、いやいや、さような斟酌《しんしゃく》には決して及ばぬ。料理方《かた》が摺鉢《すちばち》俎板《まないた》を引《ひっ》くりかえしたとは違うでの、催《もよおし》ものの楽屋《がくや》はまた一興じゃよ。時に日もかげって参ったし、大分《だいぶ》寒うもなって来た。――おお沢山な赤蜻蛉《あかとんぼ》じゃ、このちらちらむらむらと飛散《とびち》る処へ薄日《うすび》の射《さ》すのが、……あれから見ると、近間《ちかま》ではあるが、もみじに雨の降るように、こう薄《うっす》りと光ってな、夕日に時雨《しぐれ》が来た風情《ふぜい》じゃ。朝夕《あさゆう》存じながら、さても、しんしんと森は深い。(樹立《こだち》を仰いで)いずれも濡《ぬ》れよう、すぐにまた晴《はれ》の役者衆《やくしゃしゅう》じゃ。些《ち》と休まっしゃれ。御酒《みき》のお流れを一つ進じよう。神職のことづけじゃ、一所《いっしょ》に、あれへ参られい。
後見 なあよ。
太鼓の男 おおよ。(言交《いいかわ》す。)
道化の面の男 かえっておぞうさとは思うけんどが。
笛の男 されば。
おかめの面の男 御挨拶《ごあいさつ》べい、かたがただで。(いずれも面を、楽しげに、あるいは背、あるいは胸にかけたるまま。)
後見 はい、お供して参りますで。
禰宜 さあさあ、これ。――いや、小児衆《こどもしゅ》――(渠《かれ》ら幼きが女の児《こ》二人、男の子三人にて、はじめより神楽を見て立つ)――一遊び遊んだら、暮れぬ間《ま》に帰らっしゃい。
後見 これ、立巌《たちいわ》にも、一本橋《いっぽんばし》にも、えっと気をつきょうぞよ。
小児一 ああ。
かくて社家《しゃけ》の方《かた》、樹立《こだち》に入《い》る。もみじに松を交《まじ》う。社家は見えず。
小児二 や、だいぶ散らかした。
小児三 そうだなあ。
小児一 よごれやしないやい、木《き》の葉だい。
小児二 木の葉でも散らばった、でよう。
女児一 もみじでも、やっぱり掃くの?
女児二 茣蓙《ござ》の上に散っていれば、内でもお掃除《そうじ》するわ。
女児一 神様のいらっしゃる処よ、きれいにして行きましょう。
女児二 お縁は綺麗《きれい》よ。
小児一 じゃあ、階段《だんだん》から。おい、箒《ほうき》の足りないものは手で引掻《ひっか》け。
女児一 私《わたし》は袂《たもと》にするの。
小児二 乱暴だなあ、女のくせに。
女児三 だって、真紅《まっか》なのだの、黄色い銀杏《いちょう》だの、故《わざ》とだって懐《ふところ》へさ、入《い》れる事よ。
折れたる熊手《くまで》、新しきまた古箒《ふるぼうき》を手《て》ん手《で》に引出《ひきいだ》し、落葉《おちば》を掻寄《かきよ》せ掻集め、かつ掃きつつ口々に唄《うた》う。
「お正月は何処《どこ》まで、
からから山の下まで、
土産《みやげ》は何《なん》じゃ。
榧《かや》や、勝栗《かちぐり》、蜜柑《みかん》、柑子《こうじ》、橘《たちばな》。」……
お沢 (向って左の方《かた》、真暗《まっくら》に茂れる深き古杉の樹立《こだち》の中より、青味の勝ちたる縞《しま》の小袖《こそで》、浅葱《あさぎ》の半襟《はんえり》、黒繻子《くろじゅす》の丸帯《まるおび》、髪は丸髷《まるまげ》。鬢《びん》やや乱れ、うつくしき俤《おもかげ》に窶《やつ》れの色見ゆ。素足《すあし》草履穿《ぞうりばき》にて、その淡き姿を顕わし、静《しずか》に出《い》でて、就中《なかんずく》杉の巨木《きょぼく》の幹に凭《よ》りつつ――間《ま》。――小児《こども》らの中に出《い》づ)まあ、いいお児《こ》ね、媛神《ひめがみ》様のお庭の掃除をして、どんなにお喜びだか知れません――姉《ねえ》さん……(寂《さびし》く微笑《ほほえ》む)あの、小母《おば》さんがね、ほんの心ばかりの御褒美《ごほうび》をあげましょう。一度お供物《くもつ》にしたのですよ。さあ、お菓子。
小児《こども》ら、居分《いわか》れて、しげしげ瞻《みまも》る。
お沢 さあ、めしあがれ。
小児一 持って行《ゆ》くの。
女児一 頂いて帰るの。(皆いたいけに押頂《おしいただ》く。)
お沢 まあ。何故《なぜ》ね。
女児二 でも神様が下さるんですもの。
お沢 ああ、勿体《もったい》ない。私《わたし》はお三《さん》どんだよ、箒を一つ貸して頂戴《ちょうだい》。
小児二 じゃあ、おつかい姫だ。
女児一 きれいな姉《ねえ》さん。
女児二 こわいよう。
小児一 そんな事いうと、学校で笑われるぜ。
女児一 だって、きれいな小母《おば》さん。
女児二 こわいよう。
小児二 少しこわいなあ。
いい次ぎつつ、お沢《さわ》の落葉を掻寄《かきよ》する間《ま》に、少しずつやや退《すさ》る。
小児一 お正月かも知れないぜ。この山まで来たんだ。
小児二 や、お正月は女か。
小児三 知らない。
小児一 狐《きつね》だと大変だなあ。
小児二 そうすりゃこのお菓子なんか、家《うち》へ帰ると、榧《かや》や勝栗だ。
小児三 そんなら可《い》いけれど、皆《みんな》木の葉だ。
女の児たち きゃあ――
男の児たち やあ、転《ころ》ぶない。弱虫やい。――(かくて森蔭《もりかげ》にかくれ去る。)
お沢 (箒を堂の縁下《えんした》に差置き、御手洗《みたらし》にて水を掬《すく》い、鬢《かみ》掻撫《かきな》で、清き半巾《ハンケチ》を袂《たもと》にし、階段の下に、少時《しばし》ぬかずき拝む。静寂。きりきりきり、はたり。何処《どこ》ともなく機織《はたおり》の音聞こゆ。きりきりきり、はたり。――お沢。面《おもて》を上げ、四辺《あたり》を|《みまわ》し耳を澄ましつつ、やがて階段に斜《ななめ》に腰打掛《うちか》く。なお耳を傾け傾け、きりきりきり、はたり。間調子《まぢょうし》に合わせて、その段の欄干を、軽く手を打ちて、機織の真似し、次第に聞惚《ききほ》れ、うっとりとなり、おくれ毛《げ》はらはらとうなだれつつ仮睡《いねむ》る。)
仕丁 (揚幕《あげまく》の裡《うち》にて――突拍子《とっぴょうし》なる猿《さる》の声)きゃッきゃッきゃッ。(乃《すなわ》ち面長《つらなが》き老猿《ふるざる》の面を被《かぶ》り、水干《すいかん》烏帽子《えぼし》、事触《ことぶれ》に似たる態《なり》にて――大根《だいこん》、牛蒡《ごぼう》、太人参《ふとにんじん》、大蕪《おおかぶら》。棒鱈《ぼうだら》乾鮭《からざけ》堆《うずたか》く、片荷《かたに》に酒樽《さかだる》を積みたる蘆毛《あしげ》の駒《こま》の、紫なる古手綱《ふるたづな》を曳《ひ》いて出《い》づ)きゃッ、きゃッ、きゃッ、おきゃッ、きゃア――まさるめでとうのう仕《つかまつ》る、踊るが手もと立廻り、肩に小腰《こごし》をゆすり合わせ、と、ああふらりふらりとする。きゃッきゃッきゃッきゃッ。あはははは。お馬丁《べっとう》は小腰をゆするが、蘆毛《あしげ》よ。(振向く)お厩《うまや》が近うなって、和《わ》どのの足はいよいよ健かに軽いなあ。この裏坂《うらざか》を帰らいでも、正面の石段、一飛びに翼《つばさ》の生じた勢《いきおい》じゃ。ほう、馬に翼が生《は》えて見い。われらに尻尾《しっぽ》がぶら下る……きゃッきゃッきゃッ。いや化《ばけ》の皮の顕われぬうちに、いま一献《いっこん》きこしめそう。待て、待て。(馬柄杓《まびしゃく》を抜取る)この世の中に、馬柄杓などを何《なん》で持つ。それ、それこのためじゃ。(酒を酌《く》む)ととととと。(かつ面を脱ぐ)おっとあるわい。きゃッきゃッきゃッ。仕丁《しちょう》めが酒を私《わたくし》するとあっては、御前《おんまえ》様、御機嫌むずかしかろう。猿が業《わざ》と御覧《ごろう》ずれば仔細《しさい》ない。途《みち》すがらも、度々《たびたび》の頂戴《ちょうだい》ゆえに、猿の面も被ったまま、脱いでは飲み被っては飲み、質《しち》の出入《だしい》れの忙《せわ》しい酒じゃな。あはははは。おおおお、竜《たつ》の口《くち》の清水《しみず》より、馬の背の酒は格別じゃ、甘露甘露。(舌鼓《したつづみ》うつ)たったったっ、甘露甘露。きゃッきゃッきゃッ。はて、もう御前《おんまえ》に近い。も一度馬柄杓でもあるまいし、猿にも及ぶまい。(とろりと酔える目に、あなたに、階《きざはし》なるお沢の姿を見る。慌《あわただ》しくまうつむけに平伏《ひれふ》す)ははッ、大権現《だいごんげん》様、御免なされ下さりませ、御免なされ下さりませ。霊験《あらたか》な御姿《おすがた》に対し恐多《おそれおお》い。今やなぞ申しましたる儀は、全く譫言《たわごと》にござります。猿の面を被りましたも、唯おみきを私《わたくし》しょう、不届《ふとどき》ばかりではござりませぬ、貴女様御祭礼の前日夕、お厩《うまや》の蘆毛を猿が曳《ひ》いて、里方《さとかた》を一巡いたしますると、それがそのままに風雨順調、五穀成就《じょうじゅ》、百難皆除《かいじょ》の御神符《ごしんぷ》となります段を、氏子中《うじこじゅう》申伝《もうしつた》え、これが吉例《きちれい》にござりまして、従って、海つもの山つものの献上を、は、はッ、御覧の如く清らかに仕《つかまつ》りまする儀でござりまして、偏《ひとえ》にこれ、貴女様御威徳にござります。お庇《かげ》を蒙《こうむ》りまする嬉《うれ》しさの余り、ついたべ酔いまして、申訳《もうしわけ》もござりませぬ。真平御免《まっぴらおゆる》され下されまし。ははッ、(恐る恐る地につけたる額《ひたい》を擡《もた》ぐ。お沢。うとうととしたるまま、しなやかに膝《ひざ》をかえ身動《みじろ》ぎす。長襦袢《ながじゅばん》の浅葱《あさぎ》の褄《つま》、しっとりと幽《かすか》に媚《なま》めく)それへ、唯今それへ参りまする。恐れ恐れ。ああ、恐れ。それ以《もっ》て、烏帽子きた人の屑《くず》とも思召《おぼしめ》さず、面《つら》の赤い畜生《ちくしょう》とお見許し願わしう、はッ、恐れ、恐れ。(再び猿の面を被りつつも進み得ず、馬の腹に添い身を屈《かが》め、神前を差覗《さしのぞ》く)蘆毛よ、先へ立てよ。貴女様み気色《けしき》に触《ふる》る時は、矢の如く鬢櫛《びんぐし》をお投げ遊ばし、片目をお潰《つぶ》し遊ばすが神罰と承る。恐れ恐れ。(手綱を放たれたる蘆毛は、頓着《とんじゃく》なく衝《つ》と進む。仕丁は、ひょこひょこと従い続く。舞台やがて正面にて、蘆毛は一気に厩《うまや》の方《かた》、右手もみじの中にかくる。この一気に、尾の煽《あおり》をくらえる如く、仕丁、ハタと躓《つまず》き四《よ》つに這《は》い、面を落す。慌《あわ》てて懐《ふところ》に捻込《ねじこ》む時、間近《まぢか》にお沢を見て、ハッと身を退《すさ》りながら凝《じっ》と再び見直す)何《なん》じゃ、人か、参詣《さんけい》のものか。はて、可惜《あったら》二つない肝《きも》を潰《つぶ》した。ほう、町方《まちかた》の。……艶々《つやつや》と媚《なま》めいた婦《おんな》じゃが、ええ、驚かしおった、おのれ! しかも、のうのうと居睡《いねむ》りくさって、何処《どこ》に、馬の通るを知らぬ婦があるものか、野放図《のほうず》な奴《やつ》めが。――いやいや、御堂《みどう》、御社《みやしろ》に、参籠《さんろう》、通夜《つや》のものの、うたたねするは、神の御《お》つげのある折じゃと申す。神慮のほども畏《かしこ》い。……眠《ねむり》を驚かしてはなるまいぞ。(抜足《ぬきあし》に社前を横ぎる時、お沢。うつつに膝を直さんとする懐中より、一挺《ちょう》の鉄槌《かなづち》ハタと落つ。カタンと鳴る。仕丁。この聊《いささか》の音にも驚きたる状《さま》して、足を爪立《つまだ》てつつ熟《じっ》と見て、わなわなと身ぶるいするとともに、足疾《あしばや》に樹立《こだち》に飛入《とびい》る。間《ま》。――懐紙《かいし》の端《はし》乱れて、お沢の白き胸《むな》さきより五寸釘《くぎ》パラリと落つ。)
白寮権現《はくりょうごんげん》の神職を真先《まっさき》に、禰宜《ねぎ》。村人《むらびと》一同。仕丁続いて出《い》づ――神職、年四十ばかり、色白く肥えて、鼻下《びか》に髯《ひげ》あり。落ちたる鉄槌を奪うと斉《ひと》しく、お沢の肩を掴《つか》む。
神職 これ、婦《おんな》。
お沢 (声の下に驚き覚《さ》め、身を免《のが》れんとして、階前には衆の林立せるに遁場《にげば》を失い、神職の手を振りもぎりながら)御免なさいまし、御免なさいまし。(一度階《きざはし》をのぼりに、廻廊の左へ遁ぐ。人々は縁下《えんした》より、ばらばらとその行く方《ほう》を取巻く。お沢。遁げつつ引返《ひきかえ》すを、神職、追状《おいざま》に引違《ひきちが》え、帯際《ぎわ》をむずと取る。ずるずる黒繻子《くろじゅす》の解くるを取って棄て、引据《ひきす》え、お沢の両手をもて犇《ひし》と蔽《おお》う乱れたる胸に、岸破《がば》と手を差入《さしいれ》る)あれ、あれえ。
神職 (発《あば》き出したる形代《かたしろ》の藁《わら》人形に、すくすくと釘の刺《ささ》りたるを片手に高く、片手に鉄槌を翳《かざ》すと斉しく、威丈高《いたけだか》に突立上《つッたちあが》り、お沢の弱腰《よわごし》を|《どう》と蹴《け》る)汚らわしいぞ! 罰当《ばちあた》り。
お沢 あ。(階《きざはし》を転《まろ》び落つ。)
神職 鬼畜、人外《にんがい》、沙汰《さた》の限りの所業をいたす。
禰宜 いや何とも……この頃《ごろ》の三《み》晩四《よ》晩、夜《よ》ふけ小《さ》ふけに、この方角……あの森の奥に当って、化鳥《けちょう》の叫ぶような声がしまするで、話に聞く、咒詛《のろい》の釘かとも思いました。なれど、場所柄《がら》ゆえの僻耳《ひがみみ》で、今の時節に丑《うし》の刻参《ときまいり》などは現《うつつ》にもない事と、聞き流しておったじゃが、何と先《ま》ず……この雌鬼《めすおに》を、夜叉《やしゃ》を、眼前に見る事わい。それそれ俯向《うつむ》いた頬骨《ほおぼね》がガッキと尖《とが》って、頤《あご》は嘴《くちばし》のように三角形《なり》に、口は耳まで真赤《まっか》に裂けて、色も縹《はなだいろ》になって来た。
般若の面の男 (希有《けう》なる顔して)禰宜様や、私《わし》らが事をおっしゃるずらか。
禰宜 気《け》もない事、この女夜叉《にょやしゃ》の悪相《あくそう》じゃ。
般若の面の男 ほう。
道化の面の男 (うそうそと前に出《い》づ)何と、あの、打込む太鼓……
〆太鼓の男 何じゃい。何じゃい。
道化の面 いや、太鼓ではない。打込む、それよ、カーンカーンと五寸釘……あの可恐《おそろし》い、藁の人形に五寸釘ちゅうは、はあ、その事でござりますかね。(下より神職の手に伸上《のびあが》る。)
笛の男 (おなじく伸上る)手首、足首、腹の真中(我が臍《へそ》を圧《おさ》えて反《そ》る)ひゃあ、みしみしと釘の頭も見えぬまで打込んだ。ええ、血など、ぼたれてはいぬずらか。
神職 (彼が言《ことば》のままに、手、足、胴腹《はら》を打返して藁人形を翳《かざ》し見る)血も滴《た》りょう。…藁も肉のように裂けてある。これ、寄るまい。(この時人々の立かかるを掻払《かいはら》う)六根清浄《ろっこんしょうじょう》、澄むらく、浄《きよ》むらく、清らかに、神に仕うる身なればこそ、この邪《よこしま》を手にも取るわ。御身《おみ》たちが悪く近づくと、見たばかりでも筋骨《すじぼね》を悩み煩《わず》らうぞよ。(今度は悠然《ゆうぜん》として階《きざはし》を下《くだ》る。人々は左右に開く)荒《あら》び、すさみ、濁り汚れ、ねじけ、曲れる、妬婦《ねたみおんな》め、われは、先ず何処《いずこ》のものじゃ。
お沢 (もの言わず。)
神職 人の娘か。
お沢 (わずかに頭《かぶり》ふる。)
神職 人妻《ひとづま》か。
禰宜 人妻にしては、艶々《つやつや》と所帯気《しょたいげ》が一向《いっこう》に見えぬな。また所帯せぬほどの身柄《みがら》とも見えぬ。妾《めかけ》、てかけ、囲《かこい》ものか、これ、霊験《あらたか》な神の御前《みまえ》じゃ、明かに申せ。
お沢 はい、何も申しませぬ、ただ(きれぎれにいう)お恥《はずか》しう存じます。
神職 おのれが恥を知る奴か。――本妻正室と言わばまた聞こえる。人のもてあそびの腐れ爛《ただ》れ汚《よご》れものが、かけまくも畏《かしこ》き……清く、美しき御神《おんかみ》に、嫉妬《しっと》の願《ねがい》を掛けるとは何事じゃ。
禰宜 これ、速《すみやか》におわびを申し、裸身《はだかみ》に塩をつけて揉《も》んでなりとも、払い浄《きよ》めておもらい申せ。
神職 いや布気田《ふげた》、(禰宜の名)払い清むるより前に、第一は神の御罰《ごばつ》、神罰じゃ。御神《おんかみ》の御心《みこころ》は、仕え奉る神《かん》ぬしがよく存じておる。――既に、草刈り、柴《しば》刈りの女なら知らぬこと、髪、化粧《けわい》し、色香《いろか》、容《かたち》づくった町の女が、御堂《みどう》、拝殿とも言わず、この階《きざはし》に端近《はしぢか》く、小春《こはる》の日南《ひなた》でもある事か。土も、風も、山気《さんき》、夜とともに身に沁《し》むと申すに。――
神楽の人々。「酔《よい》も覚《さ》めて来た」「おお寒《さむ》」など、皆《みんな》、襟《えり》、袖を掻合《かきあ》わす。
神職 ……居眠りいたいて、ものもあろうず、棺《かん》の蓋《ふた》を打つよりも可忌《いまわし》い、鉄槌《かなづち》を落し、釘《くぎ》を溢《こぼ》す――釘は?……
禰宜 (掌《たなごころ》を見す)これに。
神楽の人々、そと集《つど》い覗《のぞ》く。
神職 即《すなわ》ち神の御心《みこころ》じゃ――その御心を畏み、次第を以て、順に運ばねば相成らん。唯今布気田《ふげた》も申す――三晩、四晩、続けて、森の中に鉄槌の音を聞いたというが、毎夜、これへ参ったのか、これ、明《あきらか》に申せよ。どうじゃ。
お沢 はい、(言い淀《よど》み、言い淀み)今《こん》……夜《や》……が、満……願……でございました。
神職 (御堂を敬う)ああ、神慮は貴《とうと》い。非願非礼はうけ給《たま》わずとも、俗にも満願と申す、その夕《ゆうべ》に露顕した。明かに邪悪を退け給うたのじゃ。――先刻も見れば、その森から出て参って、小児《こども》たちに何か菓子ようのものを与えたが、何か、いつも日の中《うち》から森の奥に潜みおって、夜ふけを待って呪詛《のろ》うたかな。
お沢 はい……あの……もうおかくしは申しません。お山の下の恐しい、あの谿河《たにがわ》を渡りました。村方《むらかた》に、知るべのものがありまして、其処《そこ》から通いましたのでございます。
神楽の人々囁《ささや》き合う。
禰宜 知っておるかな。
――「なあ。」「よ。」「うむ。」「あれだ。」口々に――
後見 何が、お霜婆《しもばあ》さんの、ほれ、駄菓子屋の奥に、ちらちらする、白いものがあっけえ。町での御恩人ぞい。恥しい病《やまい》さあって隠れてござるで、ほっても垣《かき》のぞきなどせまいぞ、と婆さんが言うだでな。
笛の男 癩《かったい》ずらか。
太鼓の男 恥しい病ちゅうで。
おかめの面の男 ほんでも、孕《はら》んだ娘だべか。
禰宜 女子《おなご》が正しい懐妊は恥ではないのじゃ。それでは、毎晩、真夜中に、あの馬も通らぬ一本橋を渡ったじゃなあ。
道化の面の男 女の一念だで一本橋を渡らいでかよ。ここら奥の谿河《たにがわ》だけれど、ずっと川下《かわしも》で、東海道の大井川《おおいがわ》より大《で》かいという、長柄《ながら》川の鉄橋な、お前様。川むかいの駅へ行った県庁づとめの旦那どのが、終汽車《しまいぎしゃ》に帰らぬわ。予《かね》てうわさの、宿場《しゅくば》の娼婦《ふんばり》と寝たんべい。唯おくものかと、その奥様ちゅうがや、梅雨《つゆ》ぶりの暗《やみ》の夜中《よなか》に、満水の泥浪《どろなみ》を打つ橋げたさ、すれすれの鉄橋を伝ってよ、いや、四つ這いでよ。何が、いま産れるちゅう臨月腹《りんげつばら》で、なあ、流《ながれ》に浸りそうに捌《さば》き髪《がみ》で這うて渡った。その大《おおき》な腹ずらえ、――夜《よ》がえりのものが見た目では、大《でか》い鮟鱇《あんこう》ほどな燐火《ふとだま》が、ふわりふわりと鉄橋の上を渡ったいうだね、胸の火が、はい、腹へ入《はい》って燃えたんべいな。
仕丁 お言《ことば》の中《なか》でありますがな、橋が危《あぶな》くば、下の谿河は、巌《いわ》を伝うて渡られますでな、お厩《うまや》の馬はいつも流を越します。いや、先刻などは、落葉が重なり重なり、水一杯に渦巻いて、飛々《とびとび》の巌が隠れまして、何処《どこ》を渡ろうかと見ますうちに、水も、もみじで、一面に真紅《まっか》になりました。おっと……酔った目の所為《せい》ではござりませぬよ。
禰宜 棚村《たなむら》。(仕丁の名)御身《おみ》は何《なん》の話をするや。
仕丁 はあ、いえ、孕婦《はらみおんな》が鉄橋を這越《はいこ》すから見ますれば、丑《うし》の刻参《ときまいり》が谿河の一本橋は、気《け》もなく渡ると申すことで。石段は目につきます。裏づたいの山道《やまみち》を森へ通《かよ》ったに相違はござりますまい。
神職 棚村、御身まず、その婦《おんな》の帯を棄てい。
禰宜 かような婦の、汚らわしい帯を、抱いているという事があるものか。
仕丁 私《わし》が、確《しか》と圧《おさ》えておりますればこそで、うかつに棄てますと、このまま黒蛇《くろへび》に成って|《のた》り廻りましょう。
禰宜 榛《はしばみ》(神職名《な》)様がおっしゃる。樹《き》の枝へなりと掛けぬかい。
仕丁 樹に掛けましたら、なお、ずるずると大蛇《だいじゃ》に成って下《お》ります。(一層胸に抱く。)
神職 棚村、見苦しい、森の中へ放《ほか》し込め。
仕丁、その言《ことば》の如くにす。――
お沢 あの……(ふるえながら差出す手を、払いのけて、仕丁。森に行く。帯を投げるとともに飛返《とびかえ》る。)
神職 何《なん》とした。
仕丁 ずるずるずると巻きましたが、真黒な一幅《ひとはば》になって、のろのろと森の奥へ入《はい》りました。……大方《おおかた》、釘を打込みます古杉の根へ、一念で、巻きついた事でござりましょう。
神職 いずれ、森の中において、忌《いま》わしく、汚らわしき事をいたしおるは必定《ひつじょう》じゃ。さて、婦。……今日《きょう》は昼から籠《こも》ったか。真直《まっすぐ》に言え、御前《おんまえ》じゃぞ。
お沢 はい、(間《ま》)はい、あの、一七日《いちしちにち》の満願まで……この願《ねがい》を掛けますものは、唯一目《ひとめ》、……一度でも、人の目に掛《かか》りますと、もうそれぎりに、願《ねがい》が叶《かな》わぬと申します。昨夜《ゆうべ》までは、獣《けもの》の影にも逢《あ》いません。もう一夜《ひとよ》、今夜だけ、また不思議に満願の夜《よ》といいますと、人に見られると聞きました。見られたら、どうしましょう。口惜《くちおし》い……その人の、咽喉《のど》、胸へ喰《く》いつきましても……
神職 これだ――したたかな婦《おんな》めが。
お沢 ええ、あのそれが何《なに》になりましょう。昼から森にかくれました方が、何がどうでも、第一、人の目にかかりますまいと、ふと思いついたのです。木の葉を被り、草に突伏《つッぷ》しても、すくまりましても、雉《きじ》、山鳥《やまどり》より、心のひけめで、見つけられそうに思われて、気が気ではありません。かえって、ただの参詣人《さんけいにん》のようにしております方《ほう》が、何《なん》の触《さわ》りもありますまいと、存じたのでございます。
神職 秘《ひ》しがくしに秘め置くべき、この呪詛《のろい》の形代《かたしろ》を(藁人形を示す)言わば軽々《かるがる》しう身につけおったは――別に、恐多《おそれおお》い神木《しんぼく》に打込んだのが、森の中にまだ他《ほか》にもあるからじゃろ。
お沢 いいえ、いいえ……昨夜《ゆうべ》までは、打ったままで置きました。私《わたし》がちょっとでも立離れます間《ま》に――今日はまたどうした事でございますか、胸騒《むなさわ》ぎがしますまで。……
禰宜 いや、胸騒ぎが凄《すさま》じい、男を呪詛《のろ》うて、責殺《せめころ》そうとする奴が。
お沢 あの、人に見つかりますか、鳥獣《とりけもの》にも攫《さら》われます。故障が出来そうでなりません。それで……身につけて出ましたのです。そして……そして……お神《かん》ぬし様、皆様、誰方《どなた》様も――憎い口惜《くや》しい男の五体に、五寸釘を打ちますなどと、鬼でなし、蛇《じゃ》でなし、そんな可恐《おそろし》い事は、思って見もいたしません。可愛《かわい》い、大事な、唯一人の男の児《こ》が煩《わずら》っておりますものですから、その病を――疫病《やくびょう》がみを――
「ええ。」「疫病神《がみ》。」村人《むらびと》らまた退《しさ》る。
神職 疫病神を――
お沢 はい、封じます、その願掛《がんが》けなんでございますもの。
神職 町にも、村にも、この八里四方、目下《もっか》疱瘡《ほうそう》も、はしかもない、何の疾《やまい》だ。
お沢 はい……
禰宜 何病じゃ。
お沢 はい、風邪《かぜ》を酷《ひど》くこじらしました。
神職 (嘲笑《あざわら》う)はてな、風に釘を打てば何《なん》になる、はてな。
禰宜 はてな、はてな。
村人らも引入れられ、小首を傾くる状《さま》、しかつめらし。
仕丁 はあ、皆様、奴凧《やっこだこ》が引掛《ひっかか》るでござりましょうで。
――揃《そろ》って嘲《あざけ》り笑う。――
神職 出来た。――掛《かか》ると言えば、身《み》たちも、事件に引掛りじゃ。人の一命にかかわる事、始末をせねば済まされない。……よくよく深く企《たく》んだと見えて――見い、その婦《おんな》、胸も、膝《ひざ》も、ひらしゃらと……(お沢、いやが上にも身を細め、姿の乱れを引《ひき》つくろい引つくろい、肩、袖、あわれに寂しく見ゆ)余りと言えば雪よりも白い胸、白い肌《はだ》、白い膝と思うたれば、色もなるほど白々《しろじろ》としたが、衣服の下に、一重《ひとえ》か、小袖か、真白い衣《きぬ》を絡《まと》いいる。魔の女め、姿まで調《ととの》えた。あれに(肱《ひじ》長く森を指《さ》す)形代《かたしろ》を礫《はりつけ》にして、釘を打った杉のあたりに、如何《いか》ような可汚《けがらわ》しい可忌《いまいま》しい仕掛《しかけ》があろうも知れぬ。いや、御身《おみ》たち、(村人と禰宜《ねぎ》にいう)この婦《おんな》を案内に引立《ひった》てて、臨場裁断と申すのじゃ。怪しい品々《しなじな》かっぽじって来《こ》られい。証拠の上に、根から詮議《せんぎ》をせねばならぬ。さ、婦、立てい。
禰宜 立とう。
神職 許す許さんはその上じゃ。身は――思う旨《むね》がある。一度社宅から出直す。棚村《たなむら》は、身ととも参れ。――村の人も婦を連れて、引立《ひった》てて――
村人ら、かつためらい、かつ、そそり立ち、あるいは捜し、手近きを掻取《かきと》って、鍬《くわ》、鋤《すき》の類《たぐい》、熊手、古箒など思い思いに得ものを携う。
後見 先へ立て、先へ立とう。
禰宜 箒で、そのやきもちの頬《ほお》を敲《たた》くぞ、立ちませい。
お沢 (急に立って、颯《さっ》と森に行く。一同面《おもて》を見合すとともに追って入《い》る。神職と仕丁は反対に社宅―舞台上《うえ》には見えず、あるいは遠く萱《かや》の屋根のみ―に入《い》る。舞台空《むな》し。落葉もせず、常夜燈《じょうやとう》の光幽《かすか》に、梟《ふくろう》。二度ばかり鳴く。)
神職 (威儀いかめしく太刀《たち》を佩《は》き、盛装して出《い》づ。仕丁相従い床几《しょうぎ》を提《ひっさ》げ出《い》づ。神職。厳《おごそか》に床几に掛《かか》る。傍《かたわら》に仕丁踞居《つくばい》て、棹尖《さおさき》に剣《けん》の輝ける一流の旗を捧《ささ》ぐ。――別に老いたる仕丁。一人。一連の御幣《ごへい》と、幣ゆいたる榊《さかき》を捧げて従う。)
お沢 (悄然《しょうぜん》として伊達巻《だてまき》のまま袖を合せ、裾《すそ》をずらし、打《うち》うなだれつつ、村人らに囲まれ出《い》づ。引添える禰宜の手に、獣《けもの》の毛皮にて、男枕《おとこまくら》の如くしたる包《つつみ》一つ、怪《あやし》き紐《ひも》にてかがりたるを不気味《ぶきみ》らしく提《さ》げ来り、神職の足近く、どさと差置く。)
神職 神のおおせじゃ、婦《おんな》、下におれ。――誰《た》ぞ御灯《みあかし》をかかげい――(村人一人、燈《とう》を開《ひら》く。灯《ひ》にすかして)それは何だ。穿出《ほりだ》したものか、ちびりと濡《ぬ》れておる。や、(足を爪立《つまだ》つ)蛇《へび》が絡《から》んだな。
禰宜 身《み》どもなればこそ、近う寄っても見ましたれ。これは大木《たいぼく》の杉の根に、草にかくしてござりましたが、おのずから樹《き》の雫《しずく》のしたたります茂《しげみ》ゆえ、びしゃびしゃと濡れております。村の衆は一目見ますと、声も立てずに遁《に》ぎょうとしました。あの、円肌《まるはだ》で、いびつづくった、尾も頭も短う太い、むくりむくり、ぶくぶくと横にのたくりまして、毒気《どくき》は人を殺すと申す、可恐《おそろし》く、気味の悪い、野槌《のづち》という蛇そのままの形に見えました。なれども、結んだのは生蛇《なまへび》ではござりませぬ。この悪念でも、さすがは婦《おんな》で、包《つつみ》を結《ゆわ》えましたは、継合《つぎあ》わせた蛇の脱殻《ぬけがら》でござりますわ。
神職 野槌か、ああ、聞いても忌《いま》わしい。……人目に触れても近寄らせまい巧《たくみ》じゃろ、企《たく》んだな。解け、解け。
禰宜 (解きつつ)山犬か、野狐か、いや、この包みました皮は、狢《むじな》らしうござります。
一同目を注ぐ。お沢はうなだれ伏す。
神職 鏡――うむ、鉄輪《かなわ》――うむ、蝋燭《ろうそく》――化粧道具、紅《べに》、白粉《おしろい》。おお、お鉄漿《はぐろ》、可厭《いや》なにおいじゃ。……別に鉄槌《かなづち》、うむ、赤錆《あかさび》、黒錆、青錆の釘《くぎ》、ぞろぞろと……青い蜘蛛《くも》、紅《あか》い守宮《やもり》、黒蜥蜴《とかげ》の血を塗ったも知れぬ。うむ、(きらりと佩刀《はいとう》を抜きそばむると斉《ひと》しく、藁人形をその獣《けもの》の皮に投ぐ)やあ、もはや陳《ちん》じまいな、婦《おんな》。――で、で、で先ず、男は何ものだ。
お沢 (息の下にて言う)俳優《やくしゃ》です。
――「俳優《やくしゃ》、」「ほう俳優。」「俳優。」と口々に言い継ぐ。
神職 何《なん》じゃ、俳優《やくしゃ》?……――町へ参ってでもおるか。国のものか。
お沢 いいえ、大阪に――
禰宜 やけに大胆に吐《ぬか》すわい。
神職 おのれは、その俳優《やくしゃ》の妾《めかけ》か。
お沢 いいえ。
神職 聞けば、聞けば聞くほど、おのれは、ここだくの邪淫《じゃいん》を侵す。言うまでもない、人の妾となって汚れた身を、鏝塗《こてぬり》上塗《うわぬり》に汚しおる。あまつさえ、身のほどを弁《わきま》えずして、百四、五十里、二百里近く離れたままで人を咒詛《のろ》う。
仕丁 その、その俳優《やくしゃ》は、今大阪で、名は何と言うかな。姉《あね》様。
神職 退《さが》れ、棚村。恁《かか》る場合に、身らが、その名を聞き知っても、禍《わざわい》は幾分か、その呪詛《のろ》われた当人に及ぶと言う。聞くな。聞けば聞くほど、何が聞くほどの事もない。――淫奔《いんぽん》、汚濁、しばらくの間《ま》も神の御前《みまえ》に汚らわしい。茨《いばら》の鞭《むち》を、しゃつの白脂《しろあぶら》の臀《しり》に当てて石段から追落《おいおと》そう。――が呆《あき》れ果てて聞くぞ、婦《おんな》。――その釘を刺した形代《かたしろ》を、肌に当てて居睡《いねむ》った時の心持は、何とあった。
お沢 むずむず痒《かゆ》うございました。
禰宜 何《なん》じゃ藁人形をつけて……肌が痒い。つけつけと吐《ぬか》す事よ。これは気が変になったと見える。
お沢 いいえ、夢は地獄の針の山。――目の前に、茨に霜の降《ふ》りましたような見上げる崖《がけ》がありまして、上《あが》れ上れと恐しい二つの鬼に責められます。浅ましい、恥しい、裸身《はだかみ》に、あの針のざらざら刺さるよりは、鉄棒《かなぼう》で挫《くじ》かれたいと、覚悟をしておりましたが、馬が、一頭《ひとつ》、背後《うしろ》から、青い火を上げ、黒煙《くろけむり》を立てて駈《か》けて来て、背中へ打《ぶ》つかりそうになりましたので、思わず、崖へころがりますと、形代《かたしろ》の釘でございましょう、針の山の土が、ずぶずぶと、この乳《ちち》へ……脇《わき》の下へも刺《ささ》りましたが、ええ、痛いのなら、うずくのなら、骨が裂けても堪《こた》えます。唯くわッと身うちがほてって、その痒《かゆ》いこと、むず痒さに、懐中《ふところ》へ手を入れて、うっかり払いましたのが、つい、こぼれて、ああ、皆さんのお目に留《とま》ったのでございます。
神職 はて、しぶとい。地獄の針の山を、痒がる土根性《どこんじょう》じゃ。茨の鞭では堪《こた》えまい。よい事を申したな、別に御罰《ごばつ》の当てようがある。何よりも先ず、その、世に浅ましい、鬼畜のありさまを見しょう。見よう。――御身《おみ》たちもよく覚えて、お社近《やしろぢか》い村里《むらざと》の、嫁、嬶々《かか》、娘の見せしめにもし、かつは郡《こおり》へも町へも触れい。布気田《ふげた》。
禰宜 は。
神職 じたばたするなりゃ、手取《てど》り足取り……村の衆《しゅ》にも手伝《てつだ》わせて、その婦《おんな》の上衣《うわぎ》を引剥《ひきは》げ。髪を捌《さば》かせ、鉄輪《かなわ》を頭に、九つか、七つか、蝋燭を燃《とも》して、めらめらと、蛇の舌の如く頂かせろ。
仕丁 こりゃ可《よ》い、可い。最上等の御分別《ごふんべつ》。
神職 退《さが》れ、棚村。さ、神の御心《みこころ》じゃ、猶予《ためら》うなよ。
――渠《かれ》ら、お沢を押取《おっとり》込めて、そのなせる事、神職の言《げん》の如し。両手を扼《とりしば》り、腰を押して、真《ま》正面に、看客《かんかく》にその姿を露呈す。――
お沢 ヒイ……(歯を切《しば》りて忍泣《しのびな》く。)
神職 いや、蒼《あお》ざめ果てた、がまだ人間の婦《おんな》の面《つら》じゃ。あからさまに、邪慳《じゃけん》、陰悪の相を顕わす、それ、その般若《はんにゃ》、鬼女《きじょ》の面を被せろ。おお、その通り。鏡も胸に、な、それそれ、藁人形、片手に鉄槌。――うむその通り。一度、二度、三度、ぐるぐると引廻したらば、可《よし》。――何《なん》と、丑《うし》の刻《とき》の咒詛《のろい》の女魔《にょま》は、一本歯《ば》の高下駄《たかげた》を穿《は》くと言うに、些《ち》ともの足りぬ。床几《しょうぎ》に立たせろ、引上げい。
渠《かれ》は床几を立つ。人々お沢を抱《だき》すくめて床几に載《の》す。黒髪高く乱れつつ、一本《ひともと》の杉の梢《こずえ》に火を捌《さば》き、艶媚《えんび》にして嫋娜《しなやか》なる一個の鬼女《きじょ》、すっくと立つ――
お沢 ええ! 口惜《くや》しい。(殆《ほとん》ど痙攣的《けいれんてき》に丁《ちょう》と鉄槌を上げて、面《おもて》斜めに牙《きば》白く、思わず神職を凝視す。)
神職 (魔を切るが如く、太刀《たち》を振《ふり》ひらめかしつつ後退《あとずさ》る)したたかな邪気じゃ、古今の悪気《あくき》じゃ、激《はげし》い汚濁じゃ、禍《わざわい》じゃ。(忽《たちま》ち心づきて太刀を納め、大《おおい》なる幣を押取《おっと》って、飛蒐《とびかか》る)御神《おんかみ》、祓《はら》いたまえ、浄めさせたまえ。(黒髪のその呪詛《のろい》の火を払い消さんとするや、かえって青き火、幣に移りて、めらめらと燃上り、心火と業火《ごうか》と、もの凄《すご》く立累《たちかさな》る)やあ、消せ、消せ、悪火《あくび》を消せ、悪火を消せ。ええ、埒《らち》あかぬ。床《ゆか》ぐるみに蹴落《けおと》さぬかいやい。(狼狽《うろたえ》て叫ぶ。人々床几とともに、お沢を押落《おしおと》し、取包んで蝋燭の火を一度に消す。)
お沢 (崩折《くずお》れて、倒れ伏す。)
神職 (吻《ほっ》と息して)――千慮の一失。ああ、致《いた》しようを過《あやま》った。かえって淫邪の鬼の形相《ぎょうそう》を火で明かに映し出した。これでは御罰《ごばつ》のしるしにも、いましめにもならぬ。陰惨忍刻《にんこく》の趣は、元来、この婦《おんな》につきものの影であったを、身ほどのものが気付かなんだ。なあ、布気田《ふげた》。よしよし、いや、村の衆《しゅ》。今度は鬼女、般若の面のかわりに、そのおかめの面を被せい、丑《うし》の刻参《ときまいり》の装束《しょうぞく》を剥《は》ぎ、素裸《すはだか》にして、踊らせろ。陰を陽に翻すのじゃ。
仕丁 あの裸踊《はだかおどり》、有難い。よい慰み、よい慰み。よい慰み!
神職 退《さが》れ、棚村。慰みものではないぞ、神の御罰じゃ。
禰宜 踊りましょうかな。ひひひ。(ニヤリニヤリと笑う。)
神職 何さ、笛、太鼓で囃《はや》しながら、両手を引張《ひっぱ》り、ぐるぐる廻しに、七度《ななたび》まで引廻して突放せば、裸体《らたい》の婦《おんな》だ、仰向けに寝はせまい。目ともろともに、手も足も舞《まい》踊ろう。
「遣《や》るべい、」「遣れ。」「悪魔退散の御祈祷《ごきとう》。」村人は饒舌《しゃべ》り立つ。太鼓は座につき、早《は》や笛きこゆ。その二、三人はやにわにお沢の衣《きぬ》に手を掛く。――
お沢 ああ、まあ、まあ。
神職 構わず引剥《ひきは》げ。裸体《はだか》のおかめだ。紅《あか》い二布《ふたの》……湯具《ゆぐ》は許せよ。
仕丁 腰巻《こしまき》、腰巻……(手伝いかかる。)
禰宜 おこしなどというのじゃ。……汚《よご》れておろうかの。
後見 この婦なら、きれいでがすべい。
お沢 (身悶《みもだ》えしながら)堪忍して下さいまし、堪忍して下さいまし、そればかりは、そればかりは。
神職 罷成《まかりな》らん! 当社《とうやしろ》の掟《おきて》じゃ。が、さよういたした上は、追放《おっぱな》して許して遣る。
お沢 どうぞ、このままお許し下さいまし、唯お目の前を離れましたら、里へも家へも帰らずに、あの谿河《たにがわ》へ身を投げて、死《しん》でお詫《わび》をいたします。
神職 水は浅いわ。
お沢 いいえ、あの急な激しい流れ、巌《いわ》に身体《からだ》を砕いても。――ええ、情《なさけ》ない、口惜《くちおし》い。前刻《さっき》から幾度《いくたび》か、舌を噛《か》んで、舌を噛んで死のうと思っても、三日、五日、一目も寝ぬせいか、一枚も欠けない歯が皆弛《ゆる》んで、噛切《かみき》るやくに立ちません。舌も縮んで唇《くちびる》を、唇を噛むばかり。(その唇より血を流す。)
神職 いよいよ悪鬼の形相《ぎょうそう》じゃ。陽を以って陰を払う。笛、太鼓、さあ、囃せ。引立てろ。踊らせい。
とりどりに、笛、太鼓の庭につきたるが、揃《そろ》って音《ね》を入《い》る。
お沢 (村人らに虐《しいた》げられつつ)堪忍ね、堪忍、堪忍して、よう。堪忍……あれえ。
からりと鳴って、響くと斉《ひと》しく、金色《こんじき》の機《はた》の梭《ひ》、一具宙を飛落《とびお》つ。一同吃驚《きっきょう》す。社殿の片扉《かたとびら》、颯《さっ》と開《ひら》く。
巫女 (階《きざはし》を馳《は》せ下《くだ》る。髪は姥子《おばこ》に、鼠小紋《ねずみこもん》の紋着《もんつき》、胸に手箱を掛けたり。馳せ出《い》でつつ、その落ちたる梭を取って押戴《おしいただ》き、社頭に恭礼し、けいひつを掛く)しい、……しい……しい。……
一同茫然《ぼうぜん》とす。
御堂《みどう》正面の扉、両方にさらさらと開《ひら》く、赤く輝きたる光、燦然《さんぜん》として漲《みなぎ》る裡《うち》に、秘密の境《きょう》は一面の雪景《せっけい》。この時ちらちらと降りかかり、冬牡丹《ふゆぼたん》、寒菊《かんぎく》、白玉《しらたま》、乙女椿《おとめつばき》の咲満《さきみ》てる上に、白雪《しらゆき》の橋、奥殿にかかりて玉虹《ぎょっこう》の如きを、はらはらと渡り出《い》づる、気高《けだか》く、世にも美しき媛神《ひめがみ》の姿見ゆ。
媛神 (白がさねして、薄紅梅《うすこうばい》に銀のさや形《がた》の衣《きぬ》、白地《しろじ》金襴《きんらん》の帯。髻《もとどり》結いたる下髪《さげがみ》の丈《たけ》に余れるに、色紅《くれない》にして、たとえば翡翠《ひすい》の羽《はね》にてはけるが如き一条《ひとすじ》の征矢《そや》を、さし込みにて前簪《まえかんざし》にかざしたるが、瓔珞《ようらく》を取って掛けし襷《たすき》を、片はずしにはずしながら、衝《つ》と廻廊の縁に出《い》づ。凛《りん》として)お前たち、何をする。
――(一同ものも言い得ず、ぬかずき伏す。少しおくれて、童男《どうだん》と童女《どうじょ》と、ならびに、目一つの怪しきが、唐輪《からわ》と切禿《きりかむろ》にて、前なるは錦《にしき》の袋に鏡を捧げ、後《あと》なるは階《きざはし》を馳《は》せ下《くだ》り、巫女《みこ》の手より梭《ひ》を取り受け、やがて、欄干《らんかん》擬宝珠《ぎぼうしゅ》の左右に控う。媛神、立直《たてなお》りて)――お沢さん、お沢さん。
巫女 (取次ぐ)お女中《じょちゅう》、可恐《おそろし》い事はないぞな、はばかり多《おお》や、畏《かしこ》けれど、お言葉ぞな、あれへの、おん前《まえ》への。
お沢 はい――はい……
媛神 まだ形代《かたしろ》を確《しっか》り持っておいでだね。手がしびれよう。姥《うば》、預ってお上げ。(巫女受取って手箱に差置く)――お沢さん、あなたの頼みは分りました。一念は届けて上げます。名高い俳優《やくしゃ》だそうだけれど、私《わたし》は知りません、何処《どこ》に、いま何をしていますか。
巫女 今日《きょう》、今夜――唯今の事は、海山《うみやま》百里も離れまして、この姉《あね》さまも、知りますまい。姥が申上げましょう。
媛神 聞きましょう――お沢さん、その男の生命《いのち》を取るのだね。
お沢 今さら、申上げますも、空恐《そらおそろ》しうございます、空恐しう存じあげます。
媛神 森の中でも、この場でも、私《わたし》に頼むのは同じ事。それとも思い留《とま》るのかい。
お沢 いいえ、私《わたし》の生命《いのち》をめされましても、一念だけは、あの一念だけは。――あんまり男の薄情さ、大阪へも、追縋《おいすが》って参りましたけれど、もう……男は、石とも、氷とも、その冷たさはありません。口も利《き》かせはいたしません。
巫女 いやみ、つらみや、怨《うら》み、腹立ち、怒《おこ》ったりの、泣きついたりの、口惜《くや》しがったり、武《む》しゃぶりついたり、胸倉《むなぐら》を取ったりの、それが何《なん》になるものぞ。いい女が相好《そうごう》崩《くず》して見っともない。何も言わずに、心に怨んで、薄情ものに見せしめに、命の咒詛《のろい》を、貴女《あなた》様へ願掛《がんが》けさしゃった、姉《あね》さんは、おお、お怜悧《りこう》だの。いいお娘《こ》だ。いいお娘《こ》だ。さて何《なん》とや、男の生命《いのち》を取るのじゃが、いまたちどころに殺すのか。手を萎《なや》し、足を折り、あの、昔田之助《たのすけ》とかいうもののように胴中《どうなか》と顔ばかりにしたいのかの、それともその上、口も利かせず、死んだも同様にという事かいの。
お沢 ええ、もう一層《いっそ》(屹《きっ》と意気組む)ひと思いに!
巫女 お姫様、お聞きの通りでござります。
媛神 男は?
巫女 これを御覧遊ばされまし。(胸の手箱を高く捧げ、さし翳《かざ》して見せ参らす。)
媛神 花の都の花の舞台、咲いて乱れた花の中に、花の白拍子《しらびょうし》を舞っている……
巫女 座頭俳優《ざがしらやくしゃ》が所作事《しょさごと》で、道成寺《どうじょうじ》とか、……申すのでござります。
神職 ははっ、ははっ、恐れながら、御神《おんかみ》に伺い奉る、伺い奉る……謹《つつし》み謹み白《もう》す。
媛神 (――無言――)
神職 恐れながら伺い奉る……御神慮におかせられては――畏《かしこ》くも、これにて漏れ承りまする処におきましては――これなる悪女《あくじょ》の不届《ふとどき》な願《ねがい》の趣《おもむき》……趣をお聞き届け……
媛神 肯《き》きます。不届とは思いません。
神職 や、この邪《よこしま》を、この汚《けがれ》を、おとりいれにあい成りまするか。その御霊《ごりょう》、御魂《みたま》、御神体は、いかなる、いずれより、天降《あまくだ》らせます。……
媛神 石垣を堅めるために、人柱《ひとばしら》と成って、活《い》きながら壁に塗られ、堤《つつみ》を築くのに埋《うず》められ、五穀のみのりのための犠牲《いけにえ》として、俎《まないた》に載せられた、私《わたし》たち、いろいろなお友だちは、高い山、大《おおき》な池、遠い谷にもいくらもあります。――不断私《わたし》を何と言ってお呼びになります。
神職 はッ、白寮権現《はくりょうごんげん》、媛神《ひめがみ》と申し上げ奉る。
媛神 その通り。
神職 そ、その媛神におかせられては、直《す》ぐなること、正しきこと、明かに清らけきことをこそお司《つかさど》り遊ばさるれ、恁《かか》る、邪《よこしま》に汚れたる……
媛神 やみの夜《よ》は、月が邪《よこしま》だというのかい。村里に、形のありなしとも、悩み煩らいのある時は、私《わたし》を悪いと言うのかい。
神職 さ、さ、それゆえにこそ、祈り奉るものは、身を払い、心を払い、払い清めましての上に、正しき理《ことわり》、夜《よる》の道さえ明かなるよう、風も、病《やまい》も、悪《あし》きをば払わせたまえと、御神《おんかみ》の御前《みまえ》に祈り奉る。
媛神 それは御勝手、私《わたし》も勝手、そんな事は知りません。
神職 これは、はや、恐れながら、御声《おんこえ》、み言葉とも覚えませぬ。不肖榛貞臣《はしばみさだおみ》、徒《いたず》らに身すぎ、口すぎ、世の活計に、神職は相勤めませぬ。刻苦勉励、学問をも仕《つかまつ》り、新しき神道を相学び、精進潔斎《しょうじんけっさい》、朝夕《あさゆう》の供物《くもつ》に、魂の切火《きりび》打って、御前《みまえ》にかしずき奉る……
媛神 私《わたし》は些《ちっ》とも頼みはしません。こころざしは受けますが、三宝《さんぽう》にのったものは、あとで、食べるのは、あなた方《がた》ではありませんか。
神職 えっ、えっ、それは決して正しき神のお言葉ではない。(わななきながら八方《はっぽう》を礼拝《らいはい》す。禰宜《ねぎ》、仕丁《しちょう》、同じく背《そむ》ける方《かた》を礼拝す。)
媛神 邪《よこしま》な神のすることを御覧――いま目《ま》のあたりに、悪魔、鬼畜と罵《ののし》らるる、恋の怨《うらみ》の呪詛《のろい》の届く験《しるし》を見せよう。(静《しずか》に階《きざはし》を下《お》りてお沢に居寄《いよ》り)ずっとお立ち――私《わたし》の袖に引添うて、(巫女《みこ》に)姥《うば》、弓をお持ちか。
巫女 おお、これに。(梓《あずさ》の弓を取り出す。)
媛神 (お沢に)その弓をお持ちなさい。(簪《かんざし》の箭《や》を取って授けつつ)楊弓《ようきゅう》を射るように――釘《くぎ》を打って呪詛《のろ》うのは、一念の届くのに、三月《みつき》、五月《いつつき》、三年《ねん》、五年、日と月と暦《こよみ》を待たねばなりません。いま、見るうちに男の生命《いのち》を、いいかい、心をよく静めて。――唐輪《からわ》。(女の童《わらべ》を呼ぶ)その鏡を。(女の童は、錦をひらく。手にしつつ)――的《まと》、的、的です。あれを御覧。(空《そら》ざまに取って照らすや、森々《しんしん》たる森の梢《こずえ》一処《ひとところ》に、赤き光朦朧《もうろう》と浮き出《い》づるとともに、テントツツン、テントツツン、下方《したかた》かすめて遥《はるか》にきこゆ)……見えたか。
お沢 あれあれ、彼処《あすこ》に――憎らしい。ああ、お姫様。
媛神 ちゃんとお狙《ねら》い。
お沢 畜生《ちくしょう》!(切って放つ。)
一陣の迅《はや》き風、一同聳目《しょうもく》し、悚立《しょうりつ》す。
巫女 お見事や、お見事やの。(しゃがれた笑《わらい》)おほほほほ。(凄《すご》く笑う。)
吹《ふき》つのる風の音凄《すさ》まじく、荒波の響きを交う。舞台暗黒。少時《しばらく》して、光さす時、巫女。ハタと藁人形を擲《なげう》つ。その位置の真上より振袖落ち、紅《くれない》の裙《すそ》翻り、道成寺の白拍子の姿、一たび宙に流れ、きりきりと舞いつつ真倒《まっさかさ》に落つ。もとより、仕掛けもの造りものの人形なるべし。神職、村人ら、立騒ぐ。
お沢 ああ、どうしましょう、あれ、(その胸、その手を捜ろうとして得ず、空《むな》しく掻捜《かいさぐ》るのみ。)
媛神 それは幻、あなたの鏡に映るばかり、手に触《さわ》るのではありません。
お沢 ああ唯貴女のお姿ばかり、暗い思《おもい》は晴れました。媛神《ひめがみ》様、お嬉しう存じます。
丁々坊 お使いのもの!(森の梢に大音《だいおん》あり)――お髪《ぐし》の御矢《おんや》、お返し申し上ぐる。……唯今。――(梢より先ず呼びて、忽ち枝より飛び下《くだ》る。形は山賤《やまがつ》の木樵《きこり》にして、翼《つばさ》あり、面《おもて》は烏天狗《からすてんぐ》なり。腰に一挺《いっちょう》の斧《おの》を帯ぶ)御矢をばそれへ。――(女の童《わらべ》。階《きざはし》を下《お》り、既にもとにつつみたる、錦の袋の上に受く。)
媛神 御苦労ね。
巫女 我折《がお》れ、お早い事でござりましたの。
丁々坊 瞬《またた》く間《ま》というは、凡《およ》そこれでござるな。何が、芝居《しばい》は、大山《おおやま》一つ、柿《かき》の実《みの》ったような見物でござる。此奴《こやつ》、(白拍子)別嬪《べっぴん》かと思えば、性《しょう》は毛むくじゃらの漢《おのこ》が、白粉《おしろい》をつけて刎《は》ねるであった。
巫女 何を、何を言うぞいの。何ごとや――山にばかりおらんと世の中を見さっしゃれ、人が笑いますに。何を言うぞいの。
丁々坊 何か知らぬが、それは措《お》け。はて、何《なん》とやら、テンツルテンツルテンツルテンか、鋸《のこぎり》で樹《き》をひくより、早間《はやま》な腰を振廻《ふりまわ》いて。やあ。(不器用千万なる身ぶりにて不状《ぶざま》に踊りながら、白拍子のむくろを引跨《ひんまた》ぎ、飛越え、刎越《はねこ》え、踊る)おもえばこの鐘うらめしやと、竜頭《りゅうず》に手を掛け飛ぶぞと見えしが、引《ひっ》かついでぞ、ズーンジャンドンドンジンジンジリリリズンジンデンズンズン(刎上《はねあが》りつつ)ジャーン(忽《たちま》ち、ガーン、どどど凄《すさま》じき音す。――神職ら腰をつく。丁々坊《ちょうちょうぼう》、落着き済まして)という処じゃ。天井から、釣鐘《つりがね》が、ガーンと落ちて、パイと白拍子が飛込む拍子に――御矢《おんや》が咽喉《のど》へ刺《ささ》った。(居《い》ずまいを直す)――ははッ、姫君。大《おお》釣鐘と白拍子と、飛ぶ、落つる、入違《いれちが》いに、一矢《ひとや》、速《すみやか》に抜取りまして、虚空《こくう》を一飛びに飛返ってござる。が、ここは風が吹きぬけます。途《みち》すがら、遠州灘《なだ》は、荒海《あらうみ》も、颶風《はやて》も、大雨《おおあめ》も、真の暗夜《やみよ》の大暴風雨《おおあらし》。洗いも拭《ぬぐ》いもしませずに、血ぬられた御矢は浄《きよ》まってござる。そのままにお指料《さしりょう》。また、天を飛びます、その御矢の光りをもって、沖に漂いました大船《たいせん》の難破一艘《そう》、乗組んだ二百あまりが、方角を認め、救われまして、南無大権現《なむだいごんげん》、媛神様と、船の上に黒く並んで、礼拝《らいはい》恭礼をしましてござる。――御利益《ごりやく》、――御奇特《ごきどく》、祝着《しゅうじゃく》に存じ奉る。
巫女 お喜びを申上げます。
媛神 (梢を仰ぐ)ああ、空にきれいな太白星《たいはくせい》。あの光りにも恥かしい、……私《わたし》の紅《あか》い簪《かんざし》なんぞ。……
神職 御神《おんかみ》、かけまくもかしこき、あやしき御神、このまま生命《いのち》を召さりょうままよ、遊ばされました事すべて、正しき道でござりましょうか――榛貞臣《はしばみさだおみ》、平《ひら》に、平に。……押して伺いたてまつる。
媛神 存じません。
禰宜 ええ、御神《おんかみ》、御神。
媛神 知らない。
――「平《ひら》に一同、」「一同偏《ひとえ》に、」「押して伺い奉る、」村人らも異口同音にやや迫りいう――
巫女 知らぬ、とおっしゃる。
神職 いや、神々の道が知れませいでは、世の中は東西南北を相失いまする。
媛神 廻ってお歩行《ある》きなさいまし、お沢さんをぐるぐると廻したように、ほほほ。そうして、道の返事は――ああ、あすこでしている。あれにお聞き。
「のりつけほうほう、ほうほう、」――梟《ふくろう》鳴く。
神職 何、あの梟鳥《ふくろどり》をお返事とは?
媛神 あなた方《がた》の言う事は、私《わたし》には、時々あのように聞こえます。よくお聞きなさるがよい。
――梟、頻《しきり》に鳴く。「のりつけほうほう」――
老仕丁 のりつけほうほう。のりたもうや、つげたもうや。あやしき神の御声《おんこえ》じゃ、のりつけほうほう。(と言うままに、真先《まっさき》に、梟に乗憑《のりうつ》られて、目の色あやしく、身ぶるいし、羽搏《はばたき》す。)
――これを見詰めて、禰宜と、仕丁と、もろともに、のり憑《つ》かれ、声を上ぐ。――「のりつけほう。――のりつけほうほう、ほう。」
次第に村人ら皆憑《うつ》らる――「のりつけほうほう。ほうほう。ほうほう」――
神職 言語《ごんご》道断、ただ事《ごと》でない、一方《ひとかた》ならぬ、夥多《おびただ》しい怪異じゃ。したたかな邪気じゃ。何が、おのれ、何が、ほうほう……
(再び太刀《たち》を抜き、片手に幣を振り、飛《とび》より、煽《あお》りかかる人々を激しくなぎ払い打ち払う間《あいだ》、やがて惑乱し次第に昏迷《こんめい》して――ほうほう。――思わず袂《たもと》をふるい、腰を刎《は》ねて)ほう、ほう、のりつけ、のりつけほう。のりつけほう。〔備考、この時、看客《かんかく》あるいは哄笑《こうしょう》すべし。敢《あえ》て煩わしとせず。〕(恁《か》くして、一人一人、枝々より梟の呼び取る方《ほう》に、ふわふわとおびき入れらる。)
丁々坊 ははははは。(腹を抱《かか》えて笑う。)
媛神 姥《うば》、お客を帰そう。あらしが来そうだから。
巫女 御意《ぎょい》。
媛神 蘆毛《あしげ》、蘆毛。――(駒《こま》、おのずから、健かに、すとすと出《い》づ。――ほうほうのりつけほうほう――と鳴きつつ来《きた》る。媛神。軽く手を拍《う》つや、その鞍《くら》に積めるままなる蕪《かぶ》、太根《だいこ》、人参《にんじん》の類《るい》、おのずから解けてばらばらと左右に落つ。駒また高らかに鳴く。のりつけほうほう。――)
媛神 ほほほほ、(微笑《ほほえ》みつつ寄りて、蘆毛の鼻頭《はなづら》を軽く拊《う》つ)何だい、お前まで。(駒、高嘶《たかいなな》きす)〔――この時、看客の笑声《しょうせい》あるいは静まらん。然《しか》らんには、この戯曲なかば成功たるべし。〕――お沢さん、疲れたろう。乗っておいで。姥《うば》は影に添って、見送ってお上げ――人里まで。
お沢 お姫様。
巫女 もろともにお礼をば申上げます。
蘆毛は、ひとりして鰭爪《ひづめ》軽く、お沢に行く。
丁々坊 ははは、この梟、羽を生《はや》せ。(戯れながら――熊手にかけて、白拍子の躯《むくろ》、藁人形、そのほか、釘、獣皮などを掻《か》き浚《さら》う。)
巫女 さ、このお娘《こ》。――貴女様に、御挨拶《ごあいさつ》申上げて……
お沢 (はっと手をつかう)お姫様。草刈《くさかり》、水汲《みずくみ》いたします。お傍《そば》にいとう存じます。
媛神 (廻廊に立つ)――私《わたし》の傍《そば》においでだと、一つ目のおばけに成ります、可恐《こわ》い、可恐い、……それに第一、こんな事、二度とはいけません。早く帰って、そくさいにおくらし。――駒に乗るのに坐っていないで、遠慮のう。
お沢 (涙ぐみつつ)お姫様。
巫女 丁《ちょう》どや――丑《うし》の上刻《じょうこく》ぞの。(手綱《たづな》を取る。)
媛神 (鬢《びん》に真白《ましろ》き手を、矢を黒髪に、女性《にょしょう》の最も優しく、なよやかなる容儀見ゆ。梭《ひ》を持てるが背後《うしろ》に引添い、前なる女の童《わらべ》は、錦の袋を取出《とりい》で下より翳《かざ》し向く。媛神、半ば簪《かざ》して、その鏡を視《み》る。丁々坊は熊手をあつかい、巫女《みこ》は手綱を捌《さば》きつつ――大空《おおぞら》に、笙《しょう》、篳篥《ひちりき》、幽《ゆう》なる楽《がく》。奥殿《おくでん》に再び雪ふる。まきおろして)――
――幕――
底本:「海神別荘 他二篇」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年4月18日第1刷発行
2001(平成13)年1月15日第4刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十六巻」岩波書店
1942(昭和17)年10月15日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
1927(昭和2)年3月
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2007年4月9日作成
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