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春琴、ほんとうの名は鵙屋琴《もずやこと》、大阪道修町《どしょうまち》の薬種商の生れで歿年《ぼつねん》は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗《じょうどしゅう》の某寺《ぼうじ》にある。せんだって通りかかりにお墓参りをする気になり立《た》ち寄《よ》って案内を乞《こ》うと「鵙屋さんの墓所はこちらでございます」といって寺男が本堂のうしろの方へ連れて行った。見るとひと叢《むら》の椿《つばき》の木かげに鵙屋家代々の墓が数基ならんでいるのであったが琴女の墓らしいものはそのあたりには見あたらなかった。むかし鵙屋家の娘《むすめ》にしかじかの人があったはずですがその人のはというとしばらく考えていて「それならあれにありますのがそれかも分りませぬ」と東側の急な坂路になっている段々の上へ連れて行く。知っての通り下寺町の東側のうしろには生国魂《いくたま》神社のある高台が聳《そび》えているので今いう急な坂路は寺の境内《けいだい》からその高台へつづく斜面《しゃめん》なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍《めずら》しい樹木の繁《しげ》った場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな空地《あきち》に建っていた。光誉春琴恵照禅定尼、と、墓石の表面に法名を記し裏面に俗名鵙屋琴、号春琴、明治十九年十月十四日歿、行年《ぎょうねん》五拾八歳《ごじゅうはっさい》とあって、側面に、門人温井《ぬくい》佐助建之と刻してある。琴女は生涯《しょうがい》鵙屋姓《せい》を名のっていたけれども「門人」温井検校《けんぎょう》と事実上の夫婦《ふうふ》生活をいとなんでいたのでかく鵙屋家の墓地と離《はな》れたところへ別に一基を選んだのであろうか。寺男の話では鵙屋の家はとうに没落《ぼつらく》してしまい近年は稀《まれ》に一族の者がお参りに来るだけであるがそれも琴女の墓を訪《おとな》うことはほとんどないのでこれが鵙屋さんの身内のお方のものであろうとは思わなかったという。するとこの仏さまは無縁《むえん》になっているのですかというと、いえ無縁という訳ではありませぬ萩《はぎ》の茶屋の方に住んでおられる七十恰好《かっこう》の老婦人が年に一二度お参りに来られます、そのお方はこのお墓へお参りをされて、それから、それ、ここに小さなお墓があるでしょうと、その墓の左脇《ひだりわき》にある別な墓を指し示しながらきっとそのあとでこのお墓へも香華《こうげ》を手向《たむ》けて行かれますお経料などもそのお方がお上げになりますという。寺男が示した今の小さな墓標の前へ行って見ると石の大きさは琴女の墓の半分くらいである。表面に真誉琴台正道信士と刻し裏面に俗名温井佐助、号琴台、鵙屋春琴門人、明治四十年十月十四日歿、行年八拾三歳とある。すなわちこれが温井検校の墓であった。萩の茶屋の老婦人というのは後に出て来るからここには説くまいただこの墓が春琴の墓にくらべて小さくかつその墓石に門人である旨《むね》を記して死後にも師弟の礼を守っているところに検校の遺志がある。私は、おりから夕日が墓石の表にあかあかと照っているその丘《おか》の上に彳《たたず》んで脚下にひろがる大大阪市の景観を眺《なが》めた。けだしこのあたりは難波津《なにわづ》の昔からある丘陵《きゅうりょう》地帯で西向きの高台がここからずっと天王寺《てんのうじ》の方へ続いている。そして現在では煤煙《ばいえん》で痛めつけられた木の葉や草の葉に生色がなく埃《ほこり》まびれに立《た》ち枯《か》れた大木が殺風景《さっぷうけい》な感じを与えるがこれらの墓が建てられた当時はもっと鬱蒼《うっそう》としていたであろうし今も市内の墓地としてはまずこの辺が一番閑静《かんせい》で見晴らしのよい場所であろう。奇《く》しき因縁《いんねん》に纏《まと》われた二人の師弟は夕靄《ゆうもや》の底に大ビルディングが数知れず屹立《きつりつ》する東洋一の工業都市を見下しながら、永久にここに眠《ねむ》っているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日の俤《おもかげ》をとどめぬまでに変ってしまったがこの二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟の契《ちぎ》りを語り合っているように見える。元来温井検校の家は日蓮宗《にちれんしゅう》であって検校を除く温井一家の墓は検校の故郷《こきょう》江州《ごうしゅう》日野町の某寺にある。しかるに検校が父祖代々の宗旨《しゅうし》を捨てて浄土宗に換《か》えたのは墓になっても春琴女の側《そば》を離れまいという殉情《じゅんじょう》から出たもので、春琴女の存生中、早くすでに師弟の法名、この二つの墓石の位置、釣合《つりあ》い等が定められてあったという。目分量で測ったところでは春琴女の墓石は高さ約六尺検校のは四尺に足らぬほどであろうか。二つは低い石甃《いしだたみ》の壇《だん》の上に並んで立っていて春琴女の墓の右脇《みぎわき》にひと本《もと》の松《まつ》が植えてあり緑の枝が墓石の上へ屋根のように伸《の》びているのであるが、その枝の先が届かなくなった左の方の二三尺離れたところに検校の墓が鞠躬加《きっきゅうじょ》として侍坐《じざ》するごとく控《ひか》えている。それを見ると生前検校がまめまめしく師に事《つか》えて影《かげ》の形に添《そ》うように扈従《こしょう》していた有様が偲《しの》ばれあたかも石に霊《れい》があって今日もなおその幸福を楽しんでいるようである。私は春琴女の墓前に跪《ひざまず》いて恭《うやうや》しく礼をした後検校の墓石に手をかけてその石の頭を愛撫《あいぶ》しながら夕日が大市街のかなたに沈《しず》んでしまうまで丘の上に低徊《ていかい》していた
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近頃《ちかごろ》私の手に入れたものに「鵙屋春琴伝」という小冊子がありこれが私の春琴女を知るに至った端緒《たんちょ》であるがこの書は生漉《きず》きの和紙へ四号活字で印刷した三十枚ほどのもので察するところ春琴女の三回忌《き》に弟子の検校が誰《だれ》かに頼んで師の伝記を編ませ配り物にでもしたのであろう。されば内容は文章体で綴《つづ》ってあり検校のことも三人称《しょう》で書いてあるけれども恐《おそ》らく材料は検校が授けたものに違いなくこの書のほんとうの著者は検校その人であると見て差支《さしつか》えあるまい。伝によると「春琴の家は代々鵙屋安左衛門《やすざえもん》を称し、大阪道修町に住して薬種商を営む。春琴の父に至りて七代目也《なり》。母しげ女は京都麩屋町《ふやちょう》の跡部《あとべ》氏の出にして安左衛門に嫁《か》し二男四女を挙ぐ。春琴はその第二女にして文政《ぶんせい》十二年五月二十四日をもって生《うま》る」とある。また曰《いわ》く、「春琴幼にして穎悟《えいご》、加うるに容姿端麗《ようしたんれい》にして高雅《こうが》なること譬《たと》えんに物なし。四歳の頃より舞《まい》を習いけるに挙措《きょそ》進退の法自《おのずか》ら備わりてさす手ひく手の優艶《ゆうえん》なること舞妓《まいこ》も及ばぬほどなりければ、師もしばしば舌を巻きて、あわれこの児《こ》、この材と質とをもってせば天下に嬌名《きょうめい》を謳《うた》われんこと期して待つべきに、良家の子女に生れたるは幸とや云わん不幸とや云わんと呟《つぶや》きしとかや。また早くより読み書きの道を学ぶに上達すこぶる速《すみや》かにして二人の兄をさえ凌駕《りょうが》したりき」と。これらの記事が春琴を視《み》ること神のごとくであったらしい検校から出たものとすればどれほど信を置いてよいか分らないけれども彼女の生れつきの容貌《ようぼう》が「端麗にして高雅」であったことはいろいろな事実から立証される。当時は婦人の身長が一体に低かったようであるが彼女《かのじょ》も身の丈《たけ》が五尺に充《み》たず顔や手足の道具が非常に小作りで繊細《せんさい》を極めていたという。今日伝わっている春琴女が三十七歳の時の写真というものを見るのに、輪郭《りんかく》の整った瓜実顔《うりざねがお》に、一つ一つ可愛《かわい》い指で摘《つ》まみ上げたような小柄《こがら》な今にも消えてなくなりそうな柔《やわら》かな目鼻がついている。何分《なにぶん》にも明治初年か慶応《けいおう》頃の撮影《さつえい》であるからところどころに星が出たりして遠い昔の記憶《きおく》のごとくうすれているのでそのためにそう見えるのでもあろうが、その朦朧《もうろう》とした写真では大阪の富裕《ふゆう》な町家の婦人らしい気品を認められる以外に、うつくしいけれどもこれという個性の閃《ひら》めきがなく印象の稀薄《きはく》な感じがする。年恰好《かっこう》も三十七歳といえばそうも見えまた二十七八歳のようにも見えなくはない。この時の春琴女はすでに両眼の明《めい》を失ってから二十有余年の後であるけれども盲目《もうもく》というよりは眼をつぶっているという風に見える。かつて佐藤春夫が云ったことに聾者《ろうしゃ》は愚人《ぐじん》のように見え盲人《もうじん》は賢者《けんじゃ》のように見えるという説があった。なぜならつんぼは人の云うことを聴《き》こうとして眉《まゆ》をしかめ眼や口を開け首を傾《かたむ》けたり仰向《あおむ》けたりするので何となく間《ま》の抜《ぬ》けたところがあるしかるに盲人はしずかに端坐《たんざ》して首をうつ向け、瞑目沈思《めいもくちんし》するかのごとき様子をするからいかにも考え深そうに見えるというのであって果して一般に当て篏《は》まるかどうか分らないがそれは一つには仏菩薩《ぶつぼさつ》の眼、慈眼視衆生《じげんししゅじょう》という慈眼なるものは半眼に閉じた眼であるからそれを見馴《みな》れているわれわれは開いた眼よりも閉じた眼の方に慈悲や有難《ありがた》みを覚えある場合には畏《おそ》れを抱《いだ》くのであろうか。されば春琴女の閉じた眼瞼《まぶた》にもそれが取り分け優しい女人であるせいか古い絵像の観世音《かんぜおん》を拝んだようなほのかな慈悲を感ずるのである。聞くところによると春琴女の写真は後《あと》にも先にもこれ一枚しかないのであるという彼女が幼少の頃はまだ写真術が輸入されておらずまたこの写真を撮《と》った同じ年に偶然《ぐうぜん》ある災難が起りそれより後は決して写真などを写さなかったはずであるから、われわれはこの朦朧たる一枚の映像をたよりに彼女の風貌《ふうぼう》を想見するより仕方がない。読者は上述の説明を読んでどういう風な面立《おもだ》ちを浮《う》かべられたか恐《おそ》らく物足りないぼんやりしたものを心に描《えが》かれたであろうが、仮りに実際の写真を見られても格別これ以上にはっきり分るということはなかろうあるいは写真の方が読者の空想されるものよりもっとぼやけているでもあろう。考えてみると彼女がこの写真をうつした年すなわち春琴女が三十七歳のおりに検校もまた盲人になったのであって、検校がこの世で最後に見た彼女の姿はこの映像に近いものであったかと思われる。すると晩年の検校が記憶《きおく》の中に存していた彼女の姿もこの程度にぼやけたものではなかったであろうか。それとも次第《しだい》にうすれ去る記憶を空想で補って行くうちにこれとは全然異なった一人の別な貴い女人《にょにん》を作り上げていたであろうか
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春琴伝は続けて曰《いわ》く、「されば両親も琴女を視《み》ること掌中《しょうちゅう》の珠《たま》のごとく、五人の兄妹達に超《こ》えて唯《ひと》りこの児《こ》を寵愛《ちょうあい》しけるに、琴女九歳の時不幸にして眼疾《がんしつ》を得、幾《いくば》くもなくしてついに全く両眼の明を失いければ、父母の悲歎《ひたん》大方ならず、母は我が児の不憫《ふびん》さに天を恨《うら》み人を憎《にく》みて一時狂《きょう》せるがごとくなりき。春琴これより舞技を断念して専《もっぱ》ら琴三絃《さんげん》の稽古《けいこ》を励《はげ》み、糸竹の道を志すに至りぬ」と。春琴の眼疾というのは何であったか明かでなく伝にもこれ以上の記載《きさい》がないが後に検校が人に語ってまことに喬木《きょうぼく》は風に妬《ねた》まれるとやら、お師匠《ししょう》さまはご器量《きりょう》や芸能が諸人にすぐれておられたばかりに一生のうちに二度までも人の嫉《ねた》みをお受けなされたお師匠さまの御不運は全くこの二度のご災難のお蔭《かげ》じゃと云ったのを思い合わせれば、何かその間に事情が伏在《ふくざい》するようでもある。検校はまたお師匠さまのは風眼であったとも云った。春琴女は甘《あま》やかされて育ったために驕慢《きょうまん》なところはあったけれども言語動作が愛嬌《あいきょう》に富み目下の者への思いやりが深く加うるに至って花やかな陽気な性質であったから、人あたりもよく兄弟仲も睦《むつま》じく一家中の者に親しまれたが一番末の妹に附いていた乳母《うば》が両親の愛情の偏頗《へんぱ》なのを憤《いきどお》って密《ひそ》かに琴女を憎んでいたという。風眼というものは人も知るごとく花柳病《かりゅうびょう》の黴菌《ばいきん》が眼の粘膜《ねんまく》を侵《おか》す時に生ずるのであるから検校の意は、けだしこの乳母がある手段をもって彼女を失明させたことを諷《ふう》するのである。しかし確かな根拠《こんきょ》があってそう思うのか検校一人だけの想像説であるのか明瞭《めいりょう》でない。春琴女が後年の烈《はげ》しい気象を見ればあるいはそういう事実が性格に影響《えいきょう》を及ぼしたのかとも猜《さい》せられなくはないがこの事に限らず検校の説には春琴女の不幸を歎《なげ》くあまり知らず識《し》らず他人を傷つけ呪《のろ》うような傾《かたむ》きがありにわかにことごとくを信ずる訳に行かない乳母の一件なども恐らくは揣摩臆測《しまおくそく》に過ぎないであろう。要するにここではあえて原因を問わずただ九歳の時に盲目になったことを記せば足りる。そして「これより舞技を断念して専ら琴三絃の稽古を励み、糸竹の道を志」した。つまり春琴女が思いを音曲《おんぎょく》にひそめるようになったのは失明した結果だということになり彼女自身も自分のほんとうの天分は舞にあった、わたしの琴や三味線《しゃみせん》を褒《ほ》める人があるのはわたしというものを知らないからだ眼さえ見えたら自分は決して音曲の方へは行かなかったのにと常に検校に述懐《じゅっかい》したという。これは半面に自分の不得意な音曲でさえこのくらいに出来るという風に聞え彼女の驕慢な一端《いったん》が窺《うかが》われるがこの言葉なども多少検校の修飾《しゅうしょく》が加わっていはしないか少くとも彼女が一時の感情に任せて発した言葉を有難く肝《きも》に銘《めい》じて聴き、彼女を偉《えら》くするために重大な意味を持たせた嫌《きら》いがありはしないか。前掲《ぜんけい》の萩の茶屋に住んでいる老婦人というのは鴫沢《しぎさわ》てるといい生田《いくた》流の勾当《こうとう》で晩年の春琴と温井検校に親しく仕えた人であるがこの勾当の話を聞くに、お師匠さま〔春琴のこと〕は舞がお上手《じょうず》だったそうにござりますが琴や三味線も五つ六つの時分から春松という検校さんに手ほどきをしておもらいなされそれからずっと稽古を励んでおられました、それ故《ゆえ》盲目になってから始めて音曲を習われたのではないのでござります、よいお内《うち》の娘《とう》さん方は皆《みな》早くから遊芸のけいこをされますのがその頃の習慣でござりましたお師匠さまは十の歳にあのむずかしい「残月」の曲を聞き覚えて独《ひと》りで三味線にお取りなされたと申しますそうしてみれば音曲の方にも生れつきの天才を備えておられたのでござりましょうなかなか凡人《ぼんじん》には真似《まね》られぬことでござりますただ盲目になられてからは外《ほか》に楽しみがござりませぬので一層《いっそう》深くこの道へお這入《はい》りなされ、精魂《せいこん》を打ち込まれたのかとぞんじますとのことである。多分この説の方がほんとうなので彼女の真の才能は実は始めより音楽に存したのであろう舞踊《ぶよう》の方は果してどの程度であったか疑わしく思われる
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音曲の道に精魂を打ち込んだとはいうものの生計の心配をする身分ではないから最初はそれを職業にしようというほどの考《かんがえ》はなかったであろう後に彼女が琴曲の師匠として門戸を構えたのは別種の事情がそこへ導いたのであり、そうなってからでもそれで生計を立てたのではなく月々道修町《どしょうまち》の本家から仕送る金子《きんす》の方が比較《ひかく》にならぬほど多額だったのであるが、彼女の驕奢《きょうしゃ》と贅沢《ぜいたく》とはそれでも支えきれなかった。されば始めは格別将来の目算もなくただ好きにまかせて一生懸命《けんめい》に技を研《みが》いたのであろうが天稟《てんぴん》の才能に熱心が拍車《はくしゃ》をかけたので、「十五歳の頃春琴の技大いに進みて儕輩《さいはい》を抽《ぬき》んで、同門の子弟にして実力春琴に比肩《ひけん》する者一人もなかりき」とあるのは恐らく事実であろう。鴫沢勾当曰《いわ》くお師匠さまがいつも自慢《じまん》をされましたのに春松検校は随分《ずいぶん》稽古が厳《きび》しいお方だったけれど、わたしは身に沁《し》みて叱《しか》られたということがなかった褒《ほ》められたことの方が多かった、私が行くとお師匠さんは必ずご自分で稽古をつけて下されそれはそれは親切に優しく教えて下さるのでお師匠さんを怖《こわ》がる人たちの気が知れなんだということでござります、でござりますから修行の苦しみというものを知らずにあれまでにおなりなされたのは天品だったのでござりましょうと。けだし春琴は鵙屋のお嬢《じょう》様であるからいかに厳格な師匠でも芸人の児を仕込むような烈《はげ》しい待遇《たいぐう》をする訳に行かない幾分か手心を加えたのであろうその間にはまた、千金の家に生れながら不幸にして盲目となった可憐《かれん》な少女を庇護《ひご》する感情もあったろうけれども何よりも師の検校は彼女の才を愛し、それに惚《ほ》れ込《こ》んだのであった。彼は我が児以上に春琴の身を案じたまたま微恙《びよう》で欠席する等のことがあれば直ちに使《つかい》を道修町に走らせあるいは自ら杖《つえ》を曳《ひ》いて見舞《みま》った。常に春琴を弟子に持っていることを誇《ほこ》りとして人に吹聴《ふいちょう》し玄人《くろうと》筋の門弟たちが大勢集まっている所でお前達は鵙屋のこいさんの芸を手本とせよ〔注、大阪では「お嬢さん」のことを「糸《いと》さん」あるいは「とうさん」といい姉娘に対して妹娘を「小糸《こいと》さん」あるいは「こいさん」などと呼び分けること現在もしかり。春松検校は春琴の姉にも手ほどきをしたことあり家庭的に親しかったので春琴をかく呼んだのであろう〕今に腕《うで》一本で食べて行かなければならない者が素人《しろうと》のこいさんに及ばないようでは心細いぞといった。また春琴をいたわり過ぎるという批難《ひなん》があった時何をいうぞ師たる者が稽古をつけるには厳しくするこそ親切なのじゃわしがあの児を叱らぬのはそれだけ親切が足らぬのじゃあの児は天性芸道に明るく悟《さと》りが速いから捨てて置いても進む所までは進む本気で叩《たた》き込《こ》んだらばいよいよ後生《こうせい》畏《おそ》ろしい者になり本職の弟子共が困るであろう、何も結構な家に生れて世過《よす》ぎに不自由のない娘をそれほどに教え込まずとも鈍根《どんこん》の者をこそ一人前に仕立ててやろうと力瘤《ちからこぶ》を入れているのに、何という心得違いをいうぞといった
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春松検校の家は靱《うつぼ》にあって道修町の鵙屋の店からは十丁ほどの距離《きょり》であったが春琴は毎日丁稚《でっち》に手を曳《ひ》かれて稽古に通ったその丁稚というのが当時佐助と云った少年で後の温井検校であり、春琴との縁がかくして生じたのである。佐助は前に述べたごとく江州日野の産であって実家はやはり薬屋を営み彼の父も祖父も見習い時代に大阪に出て鵙屋に奉公をしたことがあるという鵙屋は実に佐助に取って累代《るいだい》の主家であった。春琴より四つ歳上で十三歳の時に始めて奉公に上ったのであるから春琴が九つの歳すなわち失明した歳に当るが彼が来た時は既に春琴の美しい瞳《ひとみ》が永久に鎖《とざ》された後であった。佐助はこのことを、春琴の瞳の光を一度も見なかったことを後年に至るまで悔《く》いていないかえって幸福であるとした。もし失明以前を知っていたら失明後の顔が不完全なものに見えたろうけれども幸い彼は彼女の容貌に何一つ不足なものを感じなかった最初から円満具足した顔に見えた。今日大阪の上流の家庭は争って邸宅《ていたく》を郊外《こうがい》に移し令嬢《れいじょう》たちもまたスポーツに親しんで野外の空気や日光に触《ふ》れるから以前のような深窓の佳人《かじん》式箱入娘はいなくなってしまったが現在でも市中に住んでいる子供たちは一般に体格が繊弱《せんじゃく》で顔の色なども概《がい》して青白い田舎《いなか》育ちの少年少女とは皮膚《ひふ》の冴《さ》え方が違う良く云えば垢抜《あかぬ》けがしているが悪く云えば病的である。これは大阪に限ったことでなく都会の通有性だけれども江戸では女でも浅黒いのを自慢にしたくらいで色の白きは京阪に及ばない大阪の旧家に育ったぼんちなどは男でさえ芝居《しばい》に出て来る若旦那《わかだんな》そのままにきゃしゃで骨細なのがあり、三十歳前後に至って始めて顔が赭《あか》く焼けて来て脂肪《しぼう》を湛《たた》え急に体が太り出して紳士《しんし》然たる貫禄《かんろく》を備えるようになるその時分までは全く婦女子も同様に色が白く衣服の好みも随分柔弱《にゅうじゃく》なのである。まして旧幕時代の豊かな町人の家に生れ、非衛生的な奥深《おくふか》い部屋に垂《た》れ籠《こ》めて育った娘たちの透《す》き徹《とお》るような白さと青さと細さとはどれほどであったか田舎者の佐助少年の眼にそれがいかばかり妖《あや》しく艶《えん》に映ったか。この時春琴の姉が十二歳すぐ下の妹が六歳で、ぽっと出の佐助にはいずれも鄙《ひな》には稀《まれ》な少女に見えた分けても盲目の春琴の不思議な気韻《きいん》に打たれたという。春琴の閉じた眼瞼が姉妹たちの開いた瞳より明るくも美しくも思われてこの顔はこれでなければいけないのだこうあるのが本来だという感じがした。四人の姉妹のうちで春琴が最も器量よしという評判が高かったのは、たといそれが事実だとしても幾分《いくぶん》か彼女の不具を憐《あわ》れみ惜《お》しむ感情が手伝っていたであろうが佐助に至ってはそうでなかった。後日佐助は自分の春琴に対する愛が同情や憐愍《れんびん》から生じたという風に云われることを何よりも厭《いと》いそんな観察をする者があると心外千万であるとした。わしはお師匠様のお顔を見てお気の毒とかお可哀《かわい》そうとか思ったことは一遍《いっぺん》もないぞお師匠様に比べると眼明きの方がみじめだぞお師匠様があのご気象とご器量で何で人の憐れみを求められよう佐助どんは可哀そうじゃとかえってわしを憐れんで下すったものじゃ、わしやお前達は眼鼻が揃《そろ》っているだけで外《ほか》の事は何一つお師匠様に及ばぬわしたちの方が片羽ではないかと云った。ただしそれは後の話で佐助は最初燃えるような崇拝《すうはい》の念を胸の奥底に秘めながらまめまめしく仕えていたのであろうまだ恋愛《れんあい》という自覚はなかったであろうし、あっても相手は頑是《がんぜ》ないこいさんである上に累代の主家のお嬢様である佐助としてはお供の役を仰《おお》せ付かって毎日一緒《いっしょ》に道を歩くことの出来るのがせめてもの慰《なぐさ》めであっただろう。いったい新参の少年の身をもって大切なお嬢様の手曳《てび》きを命ぜられたというのは変なようだが始めは佐助に限っていたのではなく女中が附いて行くこともあり外の小僧や若僧が供をすることもありいろいろであったのをある時春琴が「佐助どんにしてほしい」といったのでそれから佐助の役に極《き》まったそれは佐助が十四歳になってからである。彼は無上の光栄に感激《かんげき》しながらいつも春琴の小さな掌《てのひら》を己《おの》れの掌の中に収めて十丁の道のりを春松検校の家に行き稽古の済むのを待って再び連れて戻《もど》るのであったが途中春琴はめったに口を利いたことがなく、佐助もお嬢様が話しかけて来ない限りは黙々《もくもく》としてただ過ちのないように気を配った。春琴は「何でこいさんは佐助どんがええお云いでしたんでっか」と尋《たず》ねる者があった時「誰よりもおとなしゅうていらんこと云えへんよって」と答えたのであった。元来彼女は愛嬌に富み人あたりが良かったことは前に述べた通りだけれども失明以来気むずかしく陰鬱《いんうつ》になり晴れやかな声を出すことや笑うことが少く口が重くなっていたので、佐助が余計なおしゃべりをせず役目だけを大切に勤めて邪魔《じゃま》にならぬようにしている所が気に入ったのであるかも知れない〔佐助は彼女の笑う顔を見るのが厭《いや》であったというけだし盲人が笑う時は間が抜けて哀《あわ》れに見える佐助の感情ではそれが堪《た》えられなかったのであろう〕
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おしゃべりをしないから邪魔にならぬからというのが果して春琴の真意であったか佐助の憧憬《しょうけい》の一念がおぼろげに通じて子供ながらもそれを嬉《うれ》しく思ったのではなかったか十歳の少女にそういうことは有り得ないとも考えられるが、俊敏《しゅんびん》で早熟《そうじゅく》の上に盲目になった結果として第六感の神経が研《と》ぎ澄《す》まされてもいたことを思うと必ずしも突飛《とっぴ》な想像であるとはいえない気位の高い春琴は後に恋愛を意識するようになってからでも容易に胸中を打ち明けず久しい間佐助に許さなかったのである。さればそこに多少の疑問はあるけれどもとにかく始め佐助というものの存在はほとんど春琴の念頭にないかのごとくであった少くとも佐助にはそう見えた。手曳きをする時佐助は左の手を春琴の肩《かた》の高さに捧《ささ》げて掌を上に向けそれへ彼女の右の掌を受けるのであったが春琴には佐助というものが一つの掌に過ぎないようであったたまたま用をさせる時にもしぐさで示したり顔をしかめてみせたり謎《なぞ》をかけるようにひとりごとを洩《も》らしたりしてどうせよこうせよとはっきり意志を云い現わすことはなく、それを気が付かずにいると必ず機嫌《きげん》が悪いので佐助は絶えず春琴の顔つきや動作を見落さぬように緊張《きんちょう》していなければならずあたかも注意深さの程度を試されているように感じた。もともと我《わ》が儘《まま》なお嬢様育ちのところへ盲人に特有な意地悪さも加わって片時も佐助に油断する暇《いとま》を与えなかった。ある時春松検校の家で稽古の順番が廻《まわ》って来るのを待っている間にふと春琴の姿が見えなくなったので佐助が驚《おどろ》いてその辺を捜《さが》すと知らぬ間に厠《かわや》に行っているのであった。いつも小用に立つ時には黙って春琴が出て行くのをそれと察して追いかけながら戸口まで手を曳いて連れて行き、そこに待っていて手水《ちょうず》の水をかけてやるのに今日は佐助がうっかりしていたのでそのまま独《ひと》り手さぐりで行ったのである。「済まんことでござりました」と佐助は声をふるわせながら、厠から出て手水鉢《ばち》の柄杓《ひしゃく》を取ろうと手を伸《の》ばしている少女の前に駈《か》けて来て云ったが春琴は「もうええ」と云いつつ首を振《ふ》った。しかしこういう場合「もうええ」といわれても「そうでござりますか」と引き退《さが》っては一層後がいけないのである無理にも柄杓を|《も》ぎ取るようにして水をかけてやるのがコツなのである。またある夏の日の午後に順番を待っている時うしろに畏《かしこ》まって控《ひか》えていると「暑い」と独《ひと》りごとを洩らした「暑うござりますなあ」とおあいそを云ってみたが何の返事もせずしばらくするとまた「暑い」という、心づいて有り合わせた団扇《うちわ》を取り背中の方からあおいでやるとそれで納得《なっとく》したようであったが少しでもあおぎ方が気が抜けるとすぐ「暑い」を繰《く》り返《かえ》した。春琴の強情と気儘《きまま》とはかくのごとくであったけれども特に佐助に対する時がそうなのであっていずれの奉公人《ほうこうにん》にもという訳ではなかった元来そういう素質があったところへ佐助が努めて意を迎えるようにしたので、彼に対してのみその傾向《けいこう》が極端になって行ったのである彼女が佐助を最も便利に思った理由もここにあるのであり佐助もまたそれを苦役と感ぜずむしろ喜んだのであった彼女の特別な意地悪さを甘《あま》えられているように取り、一種の恩寵《おんちょう》のごとくに解したのでもあろう
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春松検校が弟子《でし》に稽古をつける部屋は奥の中二階にあったので佐助は番が廻って来ると春琴を導いて段梯子《だんばしご》を上り検校とさし向いの席に直らせて琴なり三味線なりをその前に置き、いったん控え室へ下《さが》って稽古の終るのを待ち再び迎えに行くのであるが待っている間ももう済む頃かと油断なく耳を立てていて済んだら呼ばれない中《うち》に直《ただ》ちに立って行くようにしたされば春琴の習っている音曲が自然と耳につくようになるのも道理である佐助の音楽趣味《しゅみ》はかくして養われたのであった。後年一流の大家になった人であるから生れつきの才能もあったろうけれどももし春琴に仕える機会を与えられずまた何かにつけて彼女に同化しようとする熱烈《ねつれつ》な愛情がなかったならば、恐らく佐助は鵙屋の暖簾《のれん》を分けてもらい一介《いっかい》の薬種商として平凡《へいぼん》に世を終ったであろう後年盲目となり検校の位を称してからも常に自分の技は遠く春琴に及ばずと為《な》し全くお師匠様の啓発《けいはつ》によってここまで来たのであるといっていた。春琴を九天の高さに持ち上げ百歩も二百歩も謙《へりくだ》っていた佐助であるからかかる言葉をそのまま受け取る訳には行かないが、技の優劣《ゆうれつ》はとにかくとして春琴の方がより天才肌《てんさいはだ》であり佐助は刻苦精励《せいれい》する努力家であったことだけは間違いがあるまい。彼が密《ひそ》かに一挺《いっちょう》の三味線を手に入れようとして主家から給される時々の手あてや使い先で貰《もら》う祝儀《しゅうぎ》などを貯金し出したのは十四歳の暮《くれ》であって翌年の夏ようよう粗末《そまつ》な稽古三味線を買い求めると番頭に見咎《みとが》められぬように棹《さお》と胴《どう》とを別々に天井裏《てんじょううら》の寝部屋《ねべや》へ持ち込み、夜な夜な朋輩《ほうばい》の寝静まるのを待って独り稽古をしたのである。しかし当初は、父祖の業を継《つ》ぐ目的で丁稚奉公に住み込んだ身の将来これを本職にしようという覚悟《かくご》も自信もあったのではなかったただ春琴に忠実である余り彼女の好むところのものを己《おの》れも好むようになりそれが昂《こう》じた結果であり音曲をもって彼女の愛を得る手段に供しようなどの心すらもなかったことは、彼女にさえ極力秘していた一事をもって明かである。佐助は五六人の手代や丁稚共と立つと頭がつかえるような低い狭《せま》い部屋へ寝るので彼等《かれら》の眠《ねむ》りを妨《さまた》げぬことを条件として内証にしておいてくれるように頼んだ。幾《いく》ら眠っても寝足りない年頃《としごろ》の奉公人共は床に這入るとたちまちぐっすり寝入ってしまうから苦情をいう者はいなかったけれども佐助は皆が熟睡《じゅくすい》するのを待って起き上り布団《ふとん》を出したあとの押入《おしいれ》の中で稽古をした。それでなくても天井裏は蒸し暑いのに押入の中の夏の夜の暑さは格別であったに違いないがこうすると絃《げん》の音の外へ洩れるのを防ぐことが出来、鼾《いびき》ごえや寝言など外部の音響《おんきょう》をも遮断《しゃだん》するに都合《つごう》が好かったもちろん爪弾《つまび》きで撥《ばち》は使えなかった燈火のない真《ま》っ暗《くら》な所で手さぐりで弾くのである。しかし佐助はその暗闇《くらやみ》を少しも不便に感じなかった盲目の人は常にこう云う闇の中にいるこいさんもまたこの闇の中で三味線を弾きなさるのだと思うと、自分も同じ暗黒世界に身を置くことがこの上もなく楽しかった後に公然と稽古することを許可されてからもこいさんと同じにしなければ済まないと云って楽器を手にする時は眼をつぶるのが癖《くせ》であったつまり眼明きでありながら盲目の春琴と同じ苦難を嘗《な》めようとし、盲人の不自由な境涯《きょうがい》を出来るだけ体験しようとして時には盲人を羨《うらや》むかのごとくであった彼が後年ほんとうの盲人になったのは実に少年時代からのそういう心がけが影響しているので、思えば偶然《ぐうぜん》でないのである
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いずれの楽器も蘊奥《うんおう》を極めることのむずかしさは同一であろうがヴァイオリンと三味線とはツボに何の印もなくかつ弾奏《だんそう》の度《たび》ごとに絃《げん》の調子を整えてかかる必要があるのでひと通り弾《ひ》けるようになるまでが容易でなく独稽古《ひとりげいこ》には最も不向きであるいわんや音譜《おんぷ》のない時代においてをや師匠についても琴は三月三味線は三年と普通《ふつう》に云われる。佐助は琴のような高価な楽器を買う金もなし第一あんな嵩張《かさば》るものを担ぎ込む訳に行かないので三味線から始めたのであるが調子を合わせることは最初から出来たというそれは音を聴《き》き分ける生れつきの感覚が少くともコンマ以上であったことを示すと共に、平素春琴に随行《ずいこう》して検校の家で待っている間にいかに注意深く他人の稽古を聴いていたかを証するに足りる。調子の区別も曲の詞も音の高低も節廻《ふしまわ》しも総《す》べて彼は耳の記憶《きおく》を頼りにしなければならなかったそれ以外に頼るものは何もなかった。かくして十五歳の夏から約半歳の間は幸い同室の朋輩の外に誰にも知られずに済んだのであったがその年の冬に至って一つの事件が起ったある夜明け方と云っても冬の午前四時頃まだ真っ暗な夜中も同然の時刻に、鵙屋の御寮人《ごりょうにん》すなわち春琴の母のしげ女がふと厠に起きてどこからともなく洩れて来る「雪」の曲を聞いたのである。昔は寒稽古と云って寒中夜のしらしら明けに風に吹き曝《さら》されながら稽古をするという習慣があったけれども道修町は薬屋の多い区域《くいき》であって堅儀《かたぎ》な店舗《てんぽ》が軒《のき》を列《つら》ね遊芸の師匠や芸人などの住宅のある所でもなしなまめかしい種類の家は一軒《いっけん》もないのであるそれにしんしんと更《ふ》けた真夜中、寒稽古にしても時刻があまり突飛過ぎる、寒稽古なら一生懸命撥音たかく弾くであろうに微《かす》かな爪弾きで弾いているそのくせ一つ所を合点《がてん》の行くまで繰り返して練習しているらしく熱心のさまが想《おも》いやられた。鵙屋の御寮人は訝《いぶか》しみながらもその時は大して気にも止めず寝てしまったがその後二三度も夜中起き出《い》でるごとに耳についたことがありそう云えば私も聞きましたどこで弾いているのでござりましょう、狸《たぬき》の腹鼓《はらづつみ》とも違うようでござりますなどと云う者も出て来て店員たちの知らぬ間に奥で問題になっていた。佐助は夏以来ずっと押入の中でしていればよかったのだが誰も気が付きそうにないので大胆《だいたん》になって来たのと、何分激しい業務の余暇《よか》に睡眠《すいみん》時間を盗《ぬす》んでは稽古するのであるから次第に寝不足が溜《たま》って来て暖い所だとつい居睡《いねむ》りが襲《おそ》って来るので、秋の末頃から夜な夜なそっと物干台《ものほしだい》に出て弾いた。いつも夜の四つ時すなわち午後十時には店員たちと共に眠りにつき午前三時頃に眼を覚まして三味線を抱《かか》えて物干台に出るそうして冷たい夜気に触《ふ》れつつ独習を続け東が仄《ほの》かに白み初《そ》める刻限に至って再び寝床に帰るのである春琴の母が聞いたのはそれであった。けだし佐助が忍《しの》び出た物干台というのは店舗《てんぽ》の屋上にあったのであろうから真下に寝ている店員共よりも中前栽《なかせんざい》を隔《へだ》てた奥の者が渡り廊下《ろうか》の雨戸を開けた時にまずその音を聞きつけたのである。奥からの注意で店員共が取り調べられ結局佐助の所為と分って一番番頭の前に呼びつけられ大眼玉を喰《くら》った上に以後は断じて罷《まか》りならぬと三味線を没収《ぼっしゅう》されたことは当然の成行を見た訳であるが、この時意外な所から佐助に救いの手が伸ばされたとにかくどのくらい弾けるものか聴いてみたいという意見が奥から持ち出されたのであるしかもその首唱者は春琴であった。佐助はこの事が春琴に知れたら定めし機嫌を損ずるであろうただ与えられた手曳きの役をしていればよいのに丁稚の分際《ぶんざい》で生意気な真似《まね》をすると憫殺《びんさつ》されるか嘲笑《ちょうしょう》されるか、どっちみち碌《ろく》なことはあるまいと恐れを抱《いだ》いていただけに「聴いてやろう」と云われるとかえって尻込《しりご》みをした。自分の誠意が天に通じてこいさんの心を動かしたのなら有難いけれども多分一場《いちじょう》の笑い草にしてやろうという慰《なぐさ》み半分のいたずらであるとしか思えなかったしそれに人前で聴かせるほどの自信もなかった。しかし聴こうと云い出したからはいかに辞退しても許すはずのない春琴である上に母親や姉妹たちも好奇心《こうきしん》に駆《か》られているのでついに奥の間へ呼び出され独習の結果を披露《ひろう》することになったのである彼に取ってはまことに晴れの場面であった。当時佐助は五つ六つの曲をどうやらこなすまでに仕上げていたので知っているだけを皆やってみよと云われるままに度胸を据《す》えて精限り根限り弾いた「黒髪《くろかみ》」のようなやさしいものや「茶音頭」のような難曲や素《もと》より何の順序もなく聞き噛《かじ》りで習ったのであるからいろいろのものを不規則に覚えていたのである鵙屋の家族は佐助が邪推《じゃすい》したように笑い草にする積りであったかも知れないが、短時日の独稽古にしてはかんどころも確かなら節廻しも出来ていることが分って聴いた後には皆感心した
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春琴伝に曰く「時に春琴は佐助が志を憐み、汝《なんじ》の熱心に賞《め》でて以後は妾《わらわ》が教えて取らせん、汝余暇《よか》あらば常に妾を師と頼みて稽古を励むべしと云い、春琴の父安左衛門もついにこれを許しければ佐助は天にも昇《のぼ》る心地して丁稚の業務に服する傍《かたわら》日々一定の時間を限り指南を仰ぐこととはなりぬ。かくて十一歳の少女と十五歳の少年とは主従の上に今また師弟の契《ちぎり》を結びたるぞ目出度《めでた》き」と。気むずかしやの春琴が佐助に対して突然《とつぜん》かかる温情を示したのはなぜであったろうか実は春琴の発意ではなく周囲の者がそう仕向けたのであるともいう。思うに盲目の少女は幸福な家庭にあってもややもすれば孤独《こどく》に陥《おちい》り易《やす》く憂鬱《ゆううつ》になりがちであるから親たちはもちろん下々《しもじも》の女中共まで彼女の取扱《とりあつか》いに困り、何とかして心を慰め気を晴らさせる術もあらばと苦慮《くりょ》していた矢先たまたま佐助が彼女と趣味を同じゅうすることを知ったのである。大方こいさんの我《わ》が儘《まま》に手を焼いていた奥の奉公人たちは佐助にお相手役をなすり付けて少しでも自分たちの荷を軽くしようという考から、何と佐助どんは奇特なものではござりませぬかあれをせっかくこいさんが仕込んでおやりなされましたらどうでござります定めし本人も冥加《みょうが》に余り喜ぶことでござりましょうなどと水を向けたのではなかったであろうか。ただし下手《へた》におだてるとツムジを曲げる春琴であるから必ずしも周囲の仕向けに乗せられたのではないかも知れぬさすがに彼女もこの時に至って佐助を憎《にく》からず思うようになり心の奥底に春水の湧《わ》き出づるものがあったのかも知れぬ。何にしても彼女が佐助を弟子に持とうと云い出してくれたのは親兄弟や奉公人共に取って有難いことだったいくら天才児だと云っても十一歳の女師匠が果して人を教えることが出来るかどうかは問う所でない、ただそういう風にして彼女の退屈《たいくつ》が紛《まぎ》れてくれれば端《はた》の者が助かる云わば「学校ごッこ」のような遊戯《ゆうぎ》をあてがい佐助にお相手を命じたのである。だから佐助のためよりも春琴のために計らったことなのであるが結果から見れば佐助の方が遥《はる》かに多く恩沢《おんたく》に浴した。伝には「丁稚の業務に服する傍《かたわら》日々一定の時間を限り」とあるけれども今まででも毎日手曳きを勤め一日の中《うち》の何時間かはこいさんに仕えていたのであるその上こいさんの部屋へ呼ばれて音楽の授業を受けたとすると店の仕事を顧《かえり》みる暇はなかったであろう。安左衛門は商人に仕立てる積りで預かった子を娘の守《も》りにしてしまっては国元の親たちに済まぬという心づかいもあったらしいが丁稚一人の将来よりも春琴の機嫌を取る方が大切であったし佐助自身もそれを望んでいる以上、また当分はそうして置いてもと黙許《もっきょ》の形になったのであろうと思われる。佐助が春琴を「お師匠様」と呼び出したのはこの時からであって常には「こいさん」と呼んでよいが授業の間は必ずそう呼ぶように春琴が命じたそして彼女も「佐助どん」と云わずに「佐助」と云い、すべて春松検校がその内弟子を遇《ぐう》する様を真似厳重《げんじゅう》に師弟の礼を執《と》らせたかくして大人《おとな》たちの企図したごとくたわいのない「学校ごッこ」が続けられ春琴もそれに紛《まぎ》れて孤独《こどく》を忘れていたのであるが、二人はその後月を重ね年を経ても一向この遊戯を中止する模様がなかったかえって二三年後には教える方も教えられる方も次第に遊戯の域《いき》を脱して真剣《しんけん》になった。春琴の日課は午後二時頃に靱《うつぼ》の検校の家へ出かけて三十分ないし一時間稽古を授かり帰宅後日の暮れまで習って来たものを練習する。さて夕食を済ませてから時々気が向いた折に佐助を二階の居間へ招いて教授するそれがついには毎日欠かさず教えるようになりどうかすると九時十時に至ってもなお許さず、「佐助、わてそんなこと教《お》せたか」「あかん、あかん、弾けるまで夜通しかかったかて遣《や》りや」と激しく|叱《しった》する声がしばしば階下の奉公人共を驚《おどろ》かした時によるとこの幼い女師匠は「阿呆《あほう》、何で覚えられへんねん」と罵《のの》しりながら撥《ばち》をもって頭を殴《なぐ》り弟子がしくしく泣き出すことも珍《めずら》しくなかった
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昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄《すさま》じい稽古をつけ往々《おうおう》弟子に体刑《たいけい》を加えることがあったのは人のよく知る通りである本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃《じょうるり》の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、摂津大掾《せっつのだいじょう》亡き後の名人三代目越路太夫《こしじだゆう》の眉間《みけん》には大きな傷痕《きずあと》が三日月型に残っていたそれは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるというまた文楽座の人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある玉次郎若かりし頃「阿波《あわ》の鳴門《なると》」で彼の師匠の大名人吉田玉造が捕《と》り物《もの》の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、その時キット極《き》まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない「阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身《ほんみ》の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。しかも玉次郎を殴《なぐ》った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤《まっか》に染《そ》まった。彼はその血だらけになって砕《くだ》け飛んだ人形の足を師匠に請《こ》うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母《じぼ》の霊前《れいぜん》に額《ぬか》ずくがごとく礼拝した「この人形の折檻《せっかん》がなかったら自分は一生凡々《ぼんぼん》たる芸人の末で終ったかも知れない」としばしば泣いて人に語った。先代大隅太夫《おおすみだゆう》は修業時代には一見牛のように鈍重《どんじゅう》で「のろま」と呼ばれていたが彼の師匠は有名な豊沢団平俗に「大団平」と云われる近代の三味線の巨匠《きょしょう》であったある時蒸し暑い真夏の夜にこの大隅が師匠の家で木下蔭挟合戦《このしたかげはざまがっせん》の「壬生《みぶ》村」を稽古してもらっていると「守《まも》り袋《ぶくろ》は遺品ぞと」というくだりがどうしても巧《うま》く語れない遣《や》り直し遣り直して何遍《なんべん》繰り返してもよいと云ってくれない師匠団平は蚊帳《かや》を吊《つ》って中に這入って聴《き》いている大隅は蚊《か》に血を吸われつつ百遍、二百遍、三百遍と際限もなく繰り返しているうちに早や夏の夜の明け易《やす》くあたりが白み初めて来て師匠もいつかくたびれたのであろう寝入《ねい》ってしまったようであるそれでも「よし」と云ってくれないうちはと「のろま」の特色を発揮《はっき》してどこまでも一生懸命《けんめい》根気よく遣り直し遣り直して語っているとやがて「出来た」と蚊帳の中から団平の声、寝入ったように見えた師匠はまんじりともせずに聴いていてくれたのであるおよそかくのごとき逸話《いつわ》は枚挙に遑《いとま》なくあえて浄瑠璃の太夫や人形使いに限ったことではない生田《いくた》流の琴や三味線の伝授においても同様であったそれにこの方の師匠は大概《たいがい》盲人の検校であったから不具者の常として片意地な人が多く勢い苛酷《かこく》に走った傾《かたむ》きがないでもあるまい。春琴の師匠春松検校の教授法もつとに厳格をもって聞えていたことは前述のごとくややもすれば怒罵《どば》が飛び手が伸びた教える方も盲人なら教わる方も盲人の場合が多かったので師匠に叱《しか》られたり打たれたりする度に少しずつ後ずさりをし、ついに三味線を抱《かか》えたまま中二階の段梯子《だんばしご》を転げ落ちるような騒《さわ》ぎも起った。後日春琴が琴曲指南の看板を掲《かか》げ弟子を取るようになってから稽古振《けいこぶ》りの峻烈《しゅんれつ》をもって鳴らしたのもやはり先師の方法を蹈襲《とうしゅう》したのであり由来する所がある訳なのだが、それは佐助を教えた時代から既《すで》に萌《きざ》していたのであるすなわち幼い女師匠の遊戯《ゆうぎ》から始まり次第に本物に進化したのである。あるいは云う男の師匠が弟子を折檻する例は多々あるけれども女だてらに男の弟子を打ったり殴《なぐ》ったりしたという春琴のごときは他に類が少いこれをもって思うに幾分嗜虐性《しぎゃくせい》の傾向があったのではないか稽古に事寄せて一種変態な性慾《せいよく》的快味を享楽《きょうらく》していたのではないかと。果してしかるや否《いな》や今日において断定を下すことは困難であるただ明白な一事は、子供がままごと遊びをする時は必ず大人《おとな》の真似をするされば彼女も自分は検校に愛せられていたのでかつて己《おの》れの肉体に痛棒《つうぼう》を喫《きっ》したことはないが日頃の師匠の流儀《りゅうぎ》を知り師たる者はあのようにするのが本来であると幼心に合点《がてん》して、遊戯《ゆうぎ》の際に早くも検校の真似をするに至ったのは自然の数《すう》でありそれが昂《こう》じて習い性となったのであろう
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佐助は泣き虫であったものかこいさんに打たれる度にいつも泣いたというそれがまことに意気地なくひいひいと声を挙げるので「またこいさんの折檻《せっかん》が始まった」と端《はた》の者は眉《まゆ》をひそめた。最初こいさんに遊戯をあてがった積りの大人たちもここに至ってすこぶる当惑《とうわく》した毎夜おそくまで琴や三味線の音が聞えるのさえやかましいのに間々《まま》春琴の激《はげ》しい語調で叱り飛ばす声が加わりその上に佐助の泣く声が夜の更《ふ》けるまで耳についたりするのであるあれでは佐助どんも可哀《かわい》そうだし第一こいさんのためにならぬと女中の誰彼《だれかれ》が見るに見かねて稽古の現場へ割って這入《はい》りとうさんまあ何という事でんの姫御前《ひめごぜ》のあられもない男の児《こ》にえらいことしやはりまんねんなあと止めだてでもすると春琴はかえって粛然《しゅくぜん》と襟《えり》を正してあんた等《ら》知ったこッちゃない放《ほ》ッといてと威丈高《いたけだか》になって云ったわてほんまに教《お》せてやってるねんで、遊びごッちゃないねん佐助のためを思やこそ一生懸命になってるねんどれくらい怒《おこ》ったかていじめたかて稽古は稽古やないかいな、あんた等知らんのか。これを春琴伝は記して汝等《なんじら》妾《わらわ》を少女と侮《あなど》りあえて芸道の神聖を冒《おか》さんとするや、たとい幼少なりとていやしくも人に教うる以上師たる者には師の道あり、妾が佐助に技を授くるはもとより一時の児戯《じぎ》にあらず、佐助は生来音曲を好めども丁稚《でっち》の身として立派なる検校にも就《つ》く能《あた》わず独習するが不憫《ふびん》さに、未熟《みじゅく》ながらも妾が代りて師匠となりいかにもして彼が望みを達せしめんと欲する也《なり》、汝等が知る所に非《あら》ず疾《と》くこの場を去るべしと毅然《きぜん》として云い放ちければ、聞く者その威容《いよう》に怖《おそ》れ弁舌に驚《おどろ》き這々《ほうほう》の体《てい》にて引き退《さが》るを常としたりきと云っているもって春琴の勢い込んだ剣幕《けんまく》を想像することが出来よう。佐助も泣きはしたけれども彼女のそういう言葉を聞いては無限の感謝を捧《ささ》げたのであった彼の泣くのは辛《つら》さを怺《こら》えるのみにあらず主とも師匠とも頼む少女の激励《げきれい》に対する有難涙《ありがたなみだ》も籠《こも》っていた故《ゆえ》にどんな痛い目に遭《あ》っても逃《に》げはしなかった泣きながら最後まで忍耐《にんたい》し「よし」と云われるまで練習した。春琴は日によって機嫌のよい時と悪い時とがあり口やかましく叱言《こごと》を云うのはまだよい方で黙って眉《まゆ》を顰《ひそ》めたまま三の絃《いと》をぴんと強く鳴らしたりまたは佐助一人に三味線を弾かせ可否を云わずにじっと聴いていたりするそんな時こそ佐助は最も泣かされた。ある晩のこと茶音頭の手事《てごと》を稽古していると佐助の呑《の》み込《こ》みが悪くてなかなか覚えない幾度《いくど》やっても間違えるのに業を煮《に》やして例のごとく自分は三味線を下に置き、やあチリチリガン、チリチリガン、チリガンチリガンチリガーチテン、トツントツンルン、やあルルトンと右手で激しく膝《ひざ》を叩《たた》きながら口三味線で教えていたがついには黙然《もくねん》として突《つ》っ放《ぱな》してしまった。佐助は取り着く嶋《しま》もなくさればと云って止《や》める訳《わけ》にも行かず何とか彼《か》とか独りで考えては弾いているといつまで立ってもよいと云ってくれないそうなると逆上してますますトチリ出す体中に冷汗《ひやあせ》が湧《わ》く何が何やら出鱈目《でたらめ》を弾くばかりであるしかも春琴は寂然《じゃくねん》として一層唇《くちびる》を固く閉じ眉根に深く刻んだ皺《しわ》をピクリともさせないかくのごときこと二時間以上に及んだ頃母親のしげ女が寝間着姿で上って来て、熱心にも程がある度が過ぎては体に毒だからと宥《なだ》めるようにして二人を引き分けた。明くる日春琴は両親の前へ呼び出されてそなたが佐助に教えてやる親切は結構だけれども弟子を罵《ののし》ったり打ったりするのは人も許し我も許す検校さんのすること也《なり》そなたはいかに上手と云っても自分がまだお師匠さんに習っているのに今からそんな真似をしては必ず慢心の基《もと》になろうおよそ芸事は慢心したら上達はしませぬ、あまつさえ女の身として男を捉《とら》え阿呆《あほう》などと口汚《くちぎたな》く云うのは聞辛《ききづら》しあれだけはなにとぞ慎《つつし》んで下されもうこれからは時間を定めて夜が更《ふ》けぬうちに止《や》めたがよい佐助のひいひい泣く声が耳について皆が寝られないで困りますと、ついぞ叱言をいったことのない父と母とが懇《ねんご》ろに説諭《せつゆ》したのでさすがの春琴も返す言葉がなく道理に服した体《てい》であったがそれも表面だけのことで実際は余り利き目がなかった。佐助は何という意気地なしぞ男の癖《くせ》に些細《ささい》なことに怺《こら》え性《しょう》もなく声を立てて泣く故《ゆえ》にさも仰山《ぎょうさん》らしく聞えお蔭《かげ》で私が叱られた、芸道に精進《しょうじん》せんとならば痛さ骨身にこたえるとも歯を喰《く》いしばって堪《た》え忍《しの》ぶがよいそれが出来ないなら私も師匠を断りますとかえって佐助に嫌味《いやみ》を云った爾来《じらい》佐助はどんなに辛くとも決して声を立てなかった
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鵙屋《もずや》の夫婦は娘春琴が失明以来だんだん意地悪になるのに加えて稽古が始まってから粗暴《そぼう》な振舞《ふるまい》さえするようになったのを少からず案じていたらしいまことに娘が佐助という相手を得たことは善《よ》し悪《あ》しであった佐助が彼女の機嫌を取ってくれるのは有難《ありがた》いけれども何事もご無理ごもっともで通す所から次第に娘を増長させる結果になり将来どんなに根性のひねくれた女が出来るかも知れぬと密《ひそ》かに胸を痛めたのであろう。それかあらぬか佐助は十八歳の冬から改めて主人の計らいに依って春松検校の門に這入《はい》ったすなわち春琴が直接教授することを封《ふう》じてしまったのである。これは親達の考《かんがえ》では娘が師匠の真似《まね》をするのが最も悪い何よりも娘の品性に良からぬ影響を与えると見たからであったろうが同時に佐助の運命もこの時に決した訳であるこの時以来佐助は完全に丁稚の任務を解かれ名実共に春琴の手曳《てび》きとしてまた相弟子《あいでし》として検校の家へ通うようになった。本人がそれを望んだのは云うまでもないとして安左衛門も大いに国元の親達を説き付け諒解《りょうかい》を得るように努めた商人になる目的を放棄《ほうき》させる代りには行末《ゆくすえ》のことを保証し必ず捨てて置かぬからとそこは言葉を尽したものと察せられる。按《あん》ずるに安左衛門夫婦は春琴のために慮《おもんぱか》って佐助を婿《むこ》に貰《もら》ったらと云う意志が動いていたのであろう不具の娘であってみれば対等の結婚はむずかしい佐助ならば願ってもない良縁《りょうえん》であると思うのも無理からぬ所である。しこうしてその翌々年すなわち春琴十六歳佐助二十歳の時始めて親達は結婚のことを諷《ふう》したのであったが意外にも彼女はにべもなく峻拒《しゅんきょ》した自分は一生夫を持つ気はない殊《こと》に佐助などとは思いも寄らぬと甚《はなはだ》しい不機嫌であったしかるに何ぞ図《はか》らんそれより一年を経て春琴の体にただならぬ様子が見えることを母親が感づいたのであるまさかとは思ったけれども内々気を付けてみるとどうも怪《あや》しい、人眼《ひとめ》に立つようになってからでは奉公人の口がうるさい今のうちならとかく繕《つく》ろう道もあろうと父親にも知らせずそっと当人に尋《たず》ねるとそんな覚えはさらさらないと云う深くも追及しかねるので腑《ふ》に落ちないながら一箇月《いっかげつ》ほど捨てておくうちにもはや事実を蔽《おお》い隠《かく》せぬまでになった。今度は春琴は素直に妊娠《にんしん》を認めたがいかに聞かれても相手を云わない強いて問《と》い詰《つ》めるとお互《たがい》に名を云わぬ約束《やくそく》をしたと云う佐助かと云えば何であのような丁稚風情《ふぜい》にと頭から否定した。誰しも一往佐助に疑いを持って行くところであるけれども親たちにしても去年の春琴の言葉があるのでよもやと思ったのであるそれにそう云う関係があればなかなか人前を隠し切れぬもの、経験の浅い少女と少年がどんなに平気を装《よそお》っても嗅《か》ぎ付かれずにはいないものだが佐助が同門の後輩《こうはい》となってからは以前のように夜更けるまで対坐《たいざ》する機会もなく時折兄弟子の格式をもっておさらいをしてやるぐらいなものその他の時はどこまでも気位の高いこいさんであって、佐助を遇《ぐう》するに手曳き以上の扱《あつか》いはしていないようなので奉公人共も二人の間に間違いがあろうとは思っても見なかったむしろ主従の区別が有り過ぎ情味が乏《とぼ》しいほどに思えた。しかし佐助に聞いたらば様子が知れよう相手はきっと検校の門下生であろうと見当をつけたが佐助も知らぬ存ぜぬの一点張りで、自分の身に覚えのないのはもちろん誰といって心あたりもないと云う。けれどもこの時御寮人《ごりょうにん》の前へ呼ばれた佐助の態度がオドオドして胡散臭《うさんくさ》いのに不審が加わり問《と》い詰《つ》めて行くと辻褄《つじつま》の合わないことが出て来て実はそれを申しましてはこいさんに叱《しか》られますからと泣き出してしまった。いやいやこいさんを庇《かば》うのはよいが主人の云い付けをなぜ聴かぬ隠し立てをしてはかえってこいさんのためになりませぬ是非《ぜひ》相手の名を云ってごらんと口を酸《す》ッぱくしても云わぬそれでも結局のところ相手はやはり当の本人の佐助であることが言外《げんがい》に酌《く》み取れた決して白状しませぬとこいさんに約束した手前を恐《おそ》れて明瞭《めいりょう》には云わないのだがそれを察してもらいたそうに云うのであった。鵙屋夫婦は出来てしまったことは仕方がないしまあまあ佐助だったのはよかったそのくらいなら去年縁組《えんぐみ》をすすめた時なぜあのような心にもないことを云ったのやら娘気《むすめぎ》というものはたわいのないものと愁《うれ》いのうちにも安堵《あんど》の胸をさすり、この上は人の口の端《は》にかからぬうち早く一緒にさせる方がと改めて春琴に持ちかけてみると、またしてもそんな話はいやでござります去年も申しましたように佐助などとは考えてもみませぬこと、私の身を不憫《ふびん》がって下さいますのは忝《かたじけの》うござりますがいかに不自由な体なればとて奉公人を婿《むこ》に持とうとまでは思いませぬお腹《なか》の子の父親に対しても済まぬことでござりますと顔色を変えて云うのであるではそのお腹の子の父親はと聞けばそればかりは尋《たず》ねないで下さりませどうでその人に添《そ》う積りはござりませぬという。そうなるとまた佐助の言葉がアヤフヤに思えどちらの云うことが本当やらさっぱり訳が分らなくなり困《こう》じ果てたが佐助以外に相手があろうとも考えられず今となってはきまりが悪いのでわざと反対なことを云うのであろうそのうちには本音を吐《は》くであろうともうそれ以上の詮議《せんぎ》は止《や》めて取敢《とりあ》えず身二《みふた》つになるまで有馬へ湯治《とうじ》にやることにした。それは春琴が十七歳の五月で佐助は大阪に居残り女中二人が附き添って十月まで有馬に滞在《たいざい》し目出度《めでたく》男の子を生んだその赤《あか》ん坊《ぼう》の顔が佐助に瓜《うり》二つであったとやらでようやく謎《なぞ》が解けたようなものの、それでも春琴は縁組の相談に耳を借さないのみならずいまだに佐助が赤児《あかご》の父親であることを否定する拠《よ》ん所《どころ》なく二人を対決させてみると春琴は屹《きっ》となり佐助どん何《なん》ぞ疑ぐられるようなこと云うたんと違うかわてが迷惑《めいわく》するよって身に覚えのないことはないとはっきり明りを立ててほしいと云う釘《くぎ》を打たれて佐助はひと縮みに縮み上り仮りにも御主のとうさんを滅相《めっそう》なことでござります、子飼《こが》いの時より一方《ひとかた》ならぬ大恩を受けながらそのような身の程知らずの不料簡《ふりょうけん》は起しませぬ思いも寄らぬ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》でござりますと今度は春琴に口を合わせ徹頭徹尾《てっとうてつび》否認するのでいよいよ埒《らち》が明かなくなった。それでも生れた子が可愛《かわい》くはないかそなたがそんなに強情を張るなら父《てて》なし児《ご》を育てる訳には行かぬ断《た》って縁組みが厭《いや》だとあれば可哀《かわい》そうでも嬰児《ややこ》はどこぞへくれてやるより仕方がないがと子を枷《かせ》にして詰《つ》め寄るとなにとぞどこへなとお遣《や》りなされて下さりませ一生独り身で暮《く》らす私に足手まといでござりますと涼《すず》しい顔つきで云うのである
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この時春琴が生んだ子はよそへ貰《もら》われて行ったのである弘化《こうか》二年の生れに当るから今日存命しているとも思われないし貰われて行った先も知れていないいずれ両親がしかるべく処置したのであろう。そんな訳でとうとう春琴は我《が》を張り通し妊娠《にんしん》の一件を有耶無耶《うやむや》に葬《ほうむ》ってまたいつの間《ま》にか平気な顔で佐助に手曳《てび》きさせながら稽古に通っていたもうその時分彼女と佐助との関係はほとんど公然の秘密になっていたらしいそれを正式にさせようとすれば当人たちがあくまで否認するものだから、娘の気象を知っている親達はやむをえず黙許《もっきょ》の形にしておいたと見えるかくして主従とも相弟子とも恋仲《こいなか》ともつかぬ曖昧《あいまい》な状態が二三年つづいた後春琴二十歳の時春松検校が死去したのを機会に独立して師匠の看板を掲《かか》げることになり親の家を出て淀屋橋《よどやばし》筋に一戸《いっこ》を構えた同時に佐助も附《つ》いて行ったのである。けだし彼女は検校の生前すでに実力を認められいつにても独立して差支《さしつかえ》ないよう許可を得ていたことと思われる検校は己《おの》れの名の一字を取って彼女に春琴という名を与え晴れの演奏の時しばしば彼女と合奏したり高い所を唄《うた》わせたりして常に引き立ててやっていたされば検校亡《な》き後に門戸《もんこ》を構えるに至ったのは当然であるかも知れぬ。しかし彼女の年齢《ねんれい》境遇《きょうぐう》等に照らしにわかに独立する必要があったろうとは考えられないこれは恐らく佐助との関係を慮《おもんぱか》ったのであろうというのは、もはや公然の秘密になっている二人をいつまで曖昧《あいまい》な状態に置いては奉公人共《ども》の示しが付かずせめて一軒《けん》の家に同棲《どうせい》させるという方法を取ったので春琴自身もその程度ならあえて不服はなかったのであろう。もちろん佐助は淀屋橋へ行ってからも少しも前と異った扱《あつか》いはされなかったやはりどこまでも手曳きであったその上検校が死んだので再び春琴に師事することになり今は誰に遠慮《えんりょ》もなく「お師匠様」と呼び「佐助」と呼ばれた。春琴は佐助と夫婦らしく見られるのを厭《いと》うこと甚《はなはだ》しく主従の礼儀《れいぎ》師弟の差別を厳格にして言葉づかいの端々《はしばし》に至るまでやかましく云い方を規定したまたまそれに悖《もと》ることがあれば平身低頭して詑《あや》まっても容易に赦《ゆる》さず執拗《しつよう》にその無礼を責めた。故《ゆえ》に様子を知らない新参の入門者は二人の間を疑う由《よし》もなかったというまた鵙屋の奉公人共はあれでこいさんはどんな顔をして佐助どんを口説《くど》くのだろうこっそり立ち聴《ぎ》きしてやりたいと蔭口《かげぐち》を云ったというなぜ春琴は佐助を待つことかくのごとくであったか。ただし大阪は今日でも婚礼《こんれい》に家柄《いえがら》や資産や格式などを云々《うんぬん》すること東京以上であり元来町人の見識の高い土地であるから封建《ほうけん》の世の風習は思いやられる従って旧家の令嬢《れいじょう》としての衿恃《きょうじ》を捨てぬ春琴のような娘が代々の家来筋に当る佐助を低く見下《みくだ》したことは想像以上であったであろう。また盲目の僻《ひが》みもあって人に弱味を見せまい馬鹿《ばか》にされまいとの負けじ魂《だましい》も燃えていたであろう。とすれば佐助を我が夫として迎《むか》えるなど全く己れを侮辱《ぶじょく》することだと考えたかも知れぬよろしくこの辺の事情を察すべきであるつまり目下《めした》の人間と肉体の縁を結んだことを恥《は》ずる心があり反動的によそよそしくしたのであろう。しからば春琴の佐助を見ること生理的必要品以上に出でなかったであろうか多分意識的にはそうであったかと思われる
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伝に曰《いわ》く「春琴居常潔癖《けっぺき》にしていささかにても垢《あか》着きたる物を纏《まと》わず、肌着《はだぎ》類は毎日取換《とりか》えて洗濯《せんたく》を命じたりき。また朝夕に部屋の掃除《そうじ》を励行《れいこう》せしむること厳密を極め、坐《ざ》するごとに一々指頭をもって座布団《ざぶとん》畳《たたみ》等の表面を撫《な》で試み毫釐《ごうり》の塵埃《じんあい》をも厭《いと》いたりき。かつて門弟の胃を病む者あり、口中に臭気《しゅうき》あるを悟《さと》らず師の前に出でて稽古しけるに、春琴例のごとく三の絃《いと》を鏗然《こうぜん》と弾《はじ》きてそのまま三味線を置き、顰蹙《ひんしゅく》して一語を発せず、門弟為《な》す所を知らずして恐る恐る理由を問うこと再三に及びし時、妾は盲人なれども鼻は確《たしか》なり、|々《そうそう》に去って含嗽《がんそう》をせよと云いしとぞ」と。盲人なるが故にかくのごとく潔癖だったのでもあろうがまたこういう人が盲人であったとすると身の周りの世話をする者の心づかいは推量に余る。手曳きという役は手を曳くばかりが受け持ちではない飲食起臥《きが》入浴上厠《じょうし》等日常生活の些事《さじ》に亘《わた》って面倒を見なければならぬしこうして佐助は春琴の幼時よりこれらの任務を担当し性癖《せいへき》を呑《の》み込《こ》んでいたので彼でなければ到底気に入るようには行かなかった佐助はむしろこの意味において春琴に取り欠くべからざる存在であった。それに道修町の時分にはまだ両親や兄弟達へ気がねがあったけれども一戸の主《あるじ》となってからは潔癖と我《わ》が儘《まま》が募《つの》る一方で佐助の用事はますます煩多《はんた》を加えたのであるこれは鴫沢《しぎさわ》てる女の話でさすがに伝には記してないが、お師匠様は厠から出ていらしっても手をお洗いになったことがなかったなぜなら用をお足しになるのにご自分の手は一遍《いっぺん》もお使いにならない何から何まで佐助どんがして上げた入浴の時もそうであった高貴の婦人は平気で体じゅうを人に洗わせて羞恥《しゅうち》ということを知らぬというがお師匠様も佐助どんに対しては高貴の婦人と選ぶ所はなかったそれは盲目のせいもあろうが幼い時からそういう習慣に馴《な》れていたので今更何の感情も起らなかったのかも知れない。彼女はまた非常にお洒落《しゃれ》であった失明以来鏡を覗《のぞ》いたことはなくとも己れの容色については並々ならぬ自信があり衣類や髪飾《かみかざ》りの配合等に苦労することは眼明きと同じであった思うに記憶力《きおくりょく》の強い彼女は九歳の時の己れの顔立ちを長く覚えていたであろうしその上世間の評判や人々のお世辞が始終耳に這入るので自分の器量のすぐれていることはよく承知していたのであるされば化粧《けしょう》に浮身《うきみ》を窶《やつ》すことは大抵《たいてい》でなかった。常に鶯《うぐいす》を飼っていて糞《ふん》を糠《ぬか》に交《ま》ぜて使いまた糸瓜《へちま》の水を珍重《ちんちょう》し顔や手足がつるつる滑《すべ》るようでなければ気持を悪がり地肌の荒《あ》れるのを最も忌《い》んだ総《す》べて絃楽器を弾く者は絃を押《おさ》える必要上左手の指の爪《つめ》の生《は》え加減を気にするものだが必ず三日目ごとに爪を剪《き》らせ鑢《やすり》をかけさせたそれが左の手ばかりでなく両手両足に及んだ剪ると云ってもほとんど眼に見えて伸《の》びていないわずかに一厘《りん》二厘に過ぎないのをいつも同じ恰好《かっこう》に正確に剪るように命じ剪った痕《あと》を一つ一つ手でさぐって見て少しでも狂《くる》いがあることを許さなかった佐助は実にこのような世話を一人で引き請《う》け合間にはまた稽古をしてもらい時にはお師匠様に代って後進の弟子達に教えもした
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肉体の関係ということにもいろいろある佐助のごときは春琴の肉体の巨細《こさい》を知り悉《つく》して剰《あま》す所なきに至り月並の夫婦関係や恋愛関係の夢想《むそう》だもしない密接な縁を結んだのである後年彼が己《おの》れもまた盲目になりながらなおよく春琴の身辺に奉仕して大過なきを得たのは偶然でない。佐助は一生妻妾を娶《めと》らず丁稚時代より八十三歳の老後まで春琴以外に一人の異性をも知らずに終り他の婦人に比べてどうのこうのと云う資格はないけれども晩年鰥《やもめ》暮らしをするようになってから常に春琴の皮膚《ひふ》が世にも滑《なめら》かで四肢《しし》が柔軟《じゅうなん》であったことを左右の人に誇《ほこ》って已《や》まずそればかりが唯一の老いの繰《く》り言《ごと》であったしばしば掌《てのひら》を伸べてお師匠様の足はちょうどこの手の上へ載《の》るほどであったと云い、また我が頬《ほお》を撫《な》でながら踵《かかと》の肉でさえ己のここよりはすべすべして柔《やわら》かであったと云った。彼女が小柄だったことは前に書いたが体は着痩《きや》せのする方で裸体《らたい》の時は肉づきが思いの外《ほか》豊かに色が抜《ぬ》けるほど白く幾つになっても肌《はだ》に若々しいつやがあった平素魚鳥の料理を好み分けても鯛《たい》の造りが好物で当時の婦人としては驚《おどろ》くべき美食家であり酒も少々は嗜《たしな》んで晩酌《ばんしゃく》に一合は欠かさなかったと云うからそんなことが関係していたかも知れない〔盲人が物を食う時はさもしそうに見え気の毒な感じを催《もよお》すものであるまして妙齢《みょうれい》の美女の盲人においてをや春琴はそれを知ってか知らずか佐助以外の者に飲食の態を見られるのを嫌《きら》った客に招かれた時なぞはほんの形式に箸《はし》を取るのみであったから至ってお上品のように思われたけれども内実は食べ物に贅《ぜい》を尽《つく》したもっとも大食というのではない飯は軽く二杯たべおかずも一《ひ》と箸ずついろいろの皿へ手をつけるので品数が多くなり給仕に手数のかかることは大抵でなかったまるで佐助を困らせるのが目的のように思えるほどだった。佐助は鯛のあら煮《に》の身をむしること蟹蝦《かにえび》等の殻《から》を剥《は》ぐことが上手《じょうず》になり鮎《あゆ》などは姿を崩《くず》さずに尾の所から骨を綺麗《きれい》に抜《ぬ》き取った〕頭髪《とうはつ》もまた非常に多量で真綿のごとく柔くふわふわしていた手は華車《きゃしゃ》で掌がよく撓《しな》い絃を扱うせいか指先に力があり平手で頬を撲《う》たれると相当に痛かった。すこぶる上気《のぼ》せ性の癖《くせ》にまたすこぶる冷え性で盛夏《せいか》といえどもかつて肌に汗《あせ》を知らず足は氷のようにつめたく四季を通じて厚い|綿《ふきわた》の這入《はい》った羽二重《はぶたえ》もしくは縮緬《ちりめん》の小袖《こそで》を寝間着に用い裾《すそ》を長く曳いたまま着て両足を十分に包んで寝《い》ねそれで少しも寝姿が乱れなかった。上気することを恐れるためなるべく炬燵《こたつ》や湯たんぽを用いず余り冷えると佐助が両足を懐《ふところ》に抱いて温《ぬく》めたがそれでも容易に温もらず佐助の胸がかえって冷え切ってしまうのであった入浴の時は湯殿《ゆどの》に湯気《ゆげ》が籠《こも》らぬように冬でも窓を開《あ》け放ち微温湯《ぬるまゆ》に一二分間ずつ何回にも漬《つ》かるようにした長湯をすると直《じ》きに動悸《どうき》がして湯気に上りそうになるので出来るだけ短時間に煖《あたた》まり大急ぎで体を洗わねばならぬかくのごときことを知れば知るほど佐助の労苦真《まこと》に察すべしである。しかも物質的に報いられる所は甚《はなは》だ薄《うす》く給料等も時々の手当てに過ぎず煙草銭《たばこせん》にも窮《きゅう》することがあり衣類は盆暮《ぼんく》れに仕着せを貰うだけであった師匠の代稽古はするけれども特別の地位は認められず門弟や女中共は彼を「佐助どん」と呼ぶように命ぜられ出稽古の供をする時は玄関先で待たされた。ある時佐助齲歯《むしば》を病み右の頬が夥《おびただ》しく脹《は》れ上り夜に入ってから苦痛堪《た》え難きほどであったのを強《し》いて怺《こら》えて色に表わさず折々そっと合嗽《うがい》をして息がかからぬように注意しながら仕えているとやがて春琴は寝床に這入って肩を揉《も》め腰《こし》をさすれと云う云われるままにしばらく按摩《あんま》しているともうよいから足を温《ぬく》めよと云う畏《かしこ》まって裾の方に横臥《おうが》し懐を開いて彼女の蹠《あしのうら》を我が胸板の上に載《の》せたが胸が氷のごとく冷えるのに反し顔は寝床《ねどこ》のいきれのためにかっかっと火照《ほて》って歯痛がいよいよ激《はげ》しくなるのに溜《たま》りかね、胸の代りに脹れた頬を蹠へあてて辛《かろ》うじて凌《しの》いでいるとたちまち春琴がいやと云うほどその頬を蹴《け》ったので佐助は覚えずあっと云って飛び上った。すると春琴が曰《いわ》くもう温めてくれぬでもよい胸で温めよとは云うたが顔で温めよとは云わなんだ蹠に眼のなきことは眼明きも盲人も変りはないに何とて人を欺《あざむ》かんとはするぞ汝《なんじ》が歯を病んでいるらしきは大方昼間の様子にても知れたりかつ右の頬と左の頬と熱も違えば脹れ加減も違うことは蹠にてもよく分るなりさほど苦しくば正直に云うたらよろしからん妾とても召使《めしつかい》を労《いた》わる道を知らざるにあらずしかるにいかにも忠義らしく装いながら主人の体をもって歯を冷やすとは大それた横着者《おうちゃくもの》かなその心底憎《にく》さも憎しと。春琴の佐助を遇《ぐう》することおおよそこの類であった分けても彼が年若い女弟子に親切にしたり稽古してやったりするのを懌《よろこ》ばずたまたまそういう疑いがあると嫉妬《しっと》を露骨《ろこつ》に表わさないだけ一層意地の悪い当り方をしたそんな場合に佐助は最も苦しめられた
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女で盲目で独身であれば贅沢《ぜいたく》と云っても限度があり美衣美食をほしいままにしてもたかが知れているしかし春琴の家には主《あるじ》一人に奉公人が五六人も使われている月々の生活費も生《なま》やさしい額ではなかったなぜそんなに金や人手がかかったと云うとその第一の原因は小鳥道楽にあったなかんずく彼女は鶯《うぐいす》を愛した。今日啼《な》きごえの優れた鶯は一羽一万円もするのがある往時といえども事情は同じだったであろう。もっとも今日と昔とでは啼きごえの聴き分け方や翫賞《がんしょう》法が幾分異なるらしいけれどもまず今日の例をもって話せばケッキョ、ケッキョ、ケッキョケッキョと啼《な》くいわゆる谷渡《たにわた》りの声ホーキーベカコンと啼くいわゆる高音《こうね》、ホーホケキョウの地声の外にこの二種類の啼き方をするのが値打ちなのであるこれは藪鶯《やぶうぐいす》では啼かないたまたま啼いてもホーキーベカコンと啼かずにホーキーベチャと啼くから汚《きたな》い、ベカコンと、コンと云う金属性の美しい余韻《よいん》を曳くようにするにはある人為《じんい》的な手段をもって養成するそれは藪鶯の雛《ひな》を、まだ尾の生《は》えぬ時に生《い》け捕《ど》って来て別な師匠の鶯に附けて稽古させるのである尾が生えてからだと親の藪鶯の汚い声を覚えてしまうのでもはや矯正《きょうせい》することが出来ない。師匠の鶯も元来そう云う風にして人為的に仕込まれた鶯であり有名なのは「鳳凰《ほうおう》」とか「千代の友」とか云った様にそれぞれ銘《めい》を持っているさればどこの誰《だれ》氏の家にはしかじかの名鳥がいると云うことになれば鶯を飼《か》っている者は我が鶯のために遥々《はるばる》とその名鳥の許《もと》を訪ね啼き方を教えてもらうこの稽古を声を附けに行くと云い大抵《たいてい》早朝に出かけて幾日も続ける。時には師匠の鶯の方から一定の場所に出張し弟子の鶯共がその周囲に集まりあたかも唱歌の教室のごとき観を呈するもちろん箇々《ここ》の鶯によって素質の優劣《ゆうれつ》声の美醜《びしゅう》があり、同じ谷渡りや高音にも節廻《ふしまわ》しの上手下手《じょうずへた》余韻《よいん》の長短等さまざまであるから良き鶯を獲《と》ることは容易にあらず獲れば授業料の儲《もう》けがあるので価の高いのは当然である。春琴は我が家に飼っている一番優秀な鶯に「天鼓《てんこ》」と云う銘をつけて朝夕その声を聴くのを楽しんだ天鼓の啼く音は実に見事であった高音のコンという音の冴《さ》えて余韻のあることは人工の極致《きょくち》を尽《つく》した楽器のようで鳥の声とは思われなかったそれに声の寸が長く張りもあればつやもあったされば天鼓の取り扱いは甚《はなは》だ鄭重《ていちょう》で食物のごときも注意に注意を加えさせた普通鶯の擦《す》り餌《え》を作るには大豆《だいず》と玄米《げんまい》を炒《い》って粉にした物へ糠《ぬか》を交《まじ》えて白粉《しらこ》を製し、別に鮒《ふな》や鮠《はえ》の干《ほ》したのを粉にした鮒粉《ふなこ》と云うものを用意してこの二つを半々に混じ大根の葉を擦《す》った汁《しる》で溶《と》くなかなか面倒なものであるその外《ほか》声をよくするためには|《えびづる》という蔓草《つるくさ》の茎《くき》の中に巣食《すく》う昆虫《こんちゅう》を捕って来て日に一匹《ぴき》あるいは二匹宛《ずつ》与えるかくのごとき手数を要する鳥を大概《たいがい》五六羽は飼育《しいく》していたので奉公人の一人か二人はいつもそれに係りきりであった。また鶯は人の見ている前では啼かない籠《かご》を飼桶《こおけ》という桐《きり》の箱に入れ障子《しょうじ》を篏《は》めて密閉し紙の外からほんのり明りがさすようにするこの飼桶の障子には紫檀《したん》黒檀などを用いて精巧《せいこう》な彫刻《ちょうこく》を施《ほどこ》したりあるいは蝶貝《ちょうがい》を鏤《ちりば》め蒔絵《まきえ》を描《えが》いたりして趣向《しゅこう》を凝《こ》らし中には骨董品《こっとうひん》などもあって今日でも百円二百円五百円などと云う高価なのが珍《めずら》しくない天鼓の飼桶には支那から舶載《はくさい》したという逸品《いっぴん》が篏《は》まっていた骨は紫檀で作られ腰《こし》に|琅
《ろうかん》の翡翠《ひすい》の板が入れてありそれへ細々《こまごま》と山水楼閣《ろうかく》の彫《ほ》りがしてあった誠《まこと》に高雅《こうが》なものであった。春琴は常に我が居間の床脇《とこわき》の窓の所にこの箱を据《す》えて聴《き》き入り天鼓の美しい声が囀《さえず》る時は機嫌《きげん》がよかった故に奉公人共は精々水をかけてやり啼かせるようにした大抵快晴の日の方がよく啼くので天気の悪い日は従って春琴も気むずかしくなった天鼓の啼くのは冬の末より春にかけてが最も頻繁《ひんぱん》で夏に至ると追い追い回数が少くなり春琴も次第に鬱々《うつうつ》とする日が多かった。いったい鶯は上手に飼えば寿命が長いものだけれどもそれには細心の注意が肝要《かんよう》で経験のない者に任せたら直《じ》き死んでしまう死ねばまた代りの鶯を買う春琴の家でも初代の天鼓は八歳の時に死しその後しばらく二代目を継《つ》ぐ名鳥を得られなかったが、数年を経てようやく先代を恥《はず》かしめぬ鶯を養成しこれを再び天鼓と名づけて愛翫《あいがん》した「二代目の天鼓もまたその声霊妙《れいみょう》にして迦陵頻迦《かりょうびんが》を欺《あざむ》きければ日夕籠を座右《ざゆう》に置きて鍾愛《しょうあい》すること大方ならず、常に門弟等《ら》をしてこの鳥の啼く音に耳を傾《かたむ》けしめ、しかる後に諭《さと》して曰《いわ》く、汝等天鼓の唄《うた》うを聴け、元来は名もなき鳥の雛なれども幼少より練磨《れんま》の功空《むな》しからずしてその声の美なること全く野生の鶯と異れり、人あるいは云わん、かくのごときは人工の美にして天然《てんねん》の美にあらず、谷深き山路に春を訪ね花を探りて歩く時流れを隔《へだ》つる霞《かすみ》の奥《おく》に思いも寄らず啼き出でたる藪鶯の声の風雅《ふうが》なるに如《し》かずと、しかれども妾は左様には思わず、藪鶯は時と所を得て始めて雅致《がち》あるように聞ゆるなり、その声を論ずれば未《いま》だ美なりと云う可《べ》からず、これに反して天鼓のごとき名鳥の囀るを聞けば、居ながらにして幽邃閑寂《ゆうすいかんじゃく》なる山峡《さんきょう》の風趣《ふうしゅ》を偲《しの》び、渓流《けいりゅう》の響《ひびき》の潺湲《せんかん》たるも尾の上の桜《さくら》の靉靆《あいたい》たるもことごとく心眼心耳に浮び来り、花も霞《かすみ》もその声の裡《うち》に備わりて身は紅塵万丈《こうじんばんじょう》の都門にあるを忘るべし、これ技工をもって天然の風景とその徳を争うものなり音曲《おんぎょく》の秘訣《ひけつ》もここに在《あ》りと。また鈍根《どんこん》の子弟を恥《は》じしめて、小禽《しょうきん》といえども芸道の秘事を解するにあらずや汝人間に生れながら鳥類にも劣《おと》れりと|叱
《しった》することしばしばなりき」なるほど理窟《りくつ》はその通りであるが何かにつけて鶯に比較《ひかく》されては佐助を始め門弟一同やりきれなかったことであろう
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鶯に次いで愛したものは雲雀《ひばり》であったこの鳥は天に向って飛揚《ひよう》せんとする習性があり籠の裡《うち》にあっても常に高く舞《ま》い上るので籠の形も縦《たて》に細長く造り三尺四尺五尺と云うような丈《たけ》に達する。しかれども雲雀の声を真に賞美するには籠より放ってその姿の見えずなるまで空中に舞い上らせ、雲の奥深く分け入りながら啼く声を地上にあって聞くのであるすなわち雲切りの技を楽しむ。大抵雲雀は一定時間空中に留まった後再び元の籠へ舞《ま》い戻《もど》って来る空中に留まっている時間は十分ないし二三十分であり長く留まっているほど優秀な雲雀であるとされる故に雲雀の競技会の時には籠を一列に並べて置き同時に戸を開いて空へ放ちやり最後に戻って来たものを勝《かち》とする。劣等《れっとう》の雲雀は戻って来る時誤《あや》まって隣《となり》の籠へ這入ったり甚しきは一丁も二丁も離れた所へ下りたりするが普通《ふつう》はちゃんと自分の籠を弁《わきま》えているけだし雲雀は垂直《すいちょく》に舞い上り空中の一箇所に留まっていて再び垂直に降下するのであるされば自然と元の籠へ戻るようになる雲切りとは云うけれども雲を切って横に飛ぶのではない雲を切るように見えるのは雲の方が雲雀を掠《かす》めて飛ぶためである。淀屋橋筋の春琴の家の隣近所に家居《かきょ》する者はうららかな春の日に盲目の女師匠が物干台に立ち出でて雲雀を空に揚《あ》げているのを見かけることが珍《めずら》しくなかった彼女の傍《かたわら》にはいつも佐助が侍《はべ》り外《ほか》に鳥籠の世話をする女中が一人附《つ》いていた女師匠が命ずると女中が籠の戸を開ける雲雀は嬉々《きき》としてツンツン啼きながら高く高く昇《のぼ》って行き姿を霞《かすみ》の中に没《ぼっ》する女師匠は見えぬ眼を上げて鳥影《とりかげ》を追いつつやがて雲の間から啼きしきる声が落ちて来るのを一心に聴《き》き惚《ほ》れている時には同好の人々がめいめい自慢《じまん》の雲雀を持ち寄って競技に興じていることもある。そういう折に隣近所の人々も自分たちの家の物干に上って雲雀の声を聴かせてもらう中には雲雀よりも別嬪《べっぴん》の女師匠の顔を見たがる手合もある町内の若い衆などは年中見馴《みな》れているはずだのに物好きな痴漢《ちかん》はいつの世にも絶えないもので雲雀の声が聞えるとそれ女師匠が拝めるぞとばかり急いで屋根へ上って行った彼等《ら》がそんなに騒いだのは盲目というところに特別の魅力《みりょく》と深みを感じ、好奇心をそそられたのであろう平素佐助に手を曳かれて出稽古に赴《おもむ》く時は黙々としてむずかしい表情をしているのに、雲雀を揚げる時は晴れやかに微笑《ほほえ》んだり物を云ったりする様子なので美貌《びぼう》が生き生きと見えたのでもあろうか。まだこの外《ほか》にも駒鳥《こまどり》鸚鵡《おうむ》目白頬白《ほおじろ》などを飼ったことがあり時によっていろいろな鳥を五羽も六羽も養っていたそれらの費用は大抵でなかったのである
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彼女はいわゆる内面《うちづら》の悪い方であった外に出ると思いの外《ほか》愛想がよく客に招かれた時などは言語動作が至ってしとやかで色気があり家庭で佐助をいじめたり弟子を打ったり罵《ののし》ったりする婦人《ふじん》とは受け取りかねる風情があったまた附き合いのためには見えを飾《かざ》り派手を喜び祝儀無祝儀《ぶしゅうぎ》盆暮《ぼんく》れの贈答《ぞうとう》等には鵙屋の娘たる格式をもってなかなかの気前を見せ、下男下女おちゃこ駕籠舁《かごか》き人力車夫等への纏頭《てんとう》にも思い切った額を弾《はず》んだ。だがそれならば無鉄砲《むてっぽう》な浪費家《ろうひか》であったかと云うのに、断じてそうではなかったらしいかつて作者は「私の見た大阪及び大阪人」と題する篇中に大阪人のつましい生活振《ぶ》りを論じ東京人の贅沢《ぜいたく》には裏も表もないけれども大阪人はいかに派手好きのように見えても必ず人の気の付かぬ所で冗費《じょうひ》を節し締括《しめくく》りを附けていることを説いたが春琴も道修町《どしょうまち》の町家の生れであるどうしてその辺にぬかりがあろうや極端に奢侈《しゃし》を好む一面極端に吝嗇《りんしょく》で慾張《よくば》りであった。もともと派手を競うのは持ち前の負けじ魂に発しているのでその目的に添《そ》わぬ限りは妄《みだ》りに浪費することなくいわゆる死に金を使わなかった気紛《きまぐ》れにぱっぱっと播《ま》き散らすのでなく使途を考え効果を狙《ねら》ったのであるその点は理性的打算的であったさればある場合には負けじ魂がかえって貪慾《どんよく》に変形し門弟より徴《ちょう》する月謝やお膝付《ひざつき》のごとき、女の身としておおよそ他の師匠連との振り合いもあるべきに自ら恃《じ》することすこぶる高く一流の検校と同等の額を要求して譲《ゆず》らなかった。そのくらいはまだよいとして弟子共が持って来る中元や歳暮《せいぼ》の付け届け等にまで干渉《かんしょう》し少しでも多いことを希望して暗々裡《あんあんり》にその意を諷《ふう》すること執拗《しつよう》を極めたある時盲人の弟子があり家貧しき故に月々の謝礼も滞《とどこお》りがちであったが中元に付け届けをすることが出来ず心ばかりに白仙羹《はくせんこう》をひと折買って来て情を佐助に訴え、なにとぞ私の貧を憐《あわれ》みお師匠様にそこをよろしくお執成《とりな》し下されお目こぼしを願度《ねがいたし》と云った。佐助も気の毒に思い恐る恐るその旨《むね》を取り次いで陳弁《ちんべん》するとにわかに顔の色を変えて月謝や付け届けをやかましく云うのを慾張りのように思うか知れぬがそんな訳ではない銭金はどうでもよけれど大体の目安を定めて置かなんだら師弟の礼儀というものが成り立たぬ、あの子は毎月の謝礼をさえ怠《おこた》り今また白仙羹ひと折を中元と称して持参するとは無礼の至り師匠を蔑《ないがし》ろにすると云われても仕方がなかろう、せっかくながらそれほど貧しくては芸道の上達も覚束《おぼつか》ないもちろん事と品によっては無報酬《むほうしゅう》にて教えてやらぬものでもないがそれは行く末に望みもあり万人に才を惜《お》しまれるような麒麟児《きりんじ》に限ったこと、貧苦に打ち克《か》ちひと廉《かど》の名人となる程の者は生れつきから違っているはず根《こん》と熱心とばかりでは行かぬあの子は厚かましいだけが取柄《とりえ》で芸の方はさして見込みがあろうとも思えず貧を憐んで下されなどとは己惚《うぬぼ》れも甚しい、なまじ人に迷惑《めいわく》をかけ恥《はじ》を曝《さら》すよりもうこの道で立つことをふっつりあきらめたがよかろう、それでも習いたいのなら大阪には幾《いく》らもよい師匠があるどこへなと勝手に弟子入りをしや私の所は今日限り止《や》めてもらいますこちらから断りますと、云い出したからはいかに詑《わ》び入っても聴き入れずとうとう本当にその弟子を断ってしまった。また余分の付け届けを持って行くとさしも稽古の厳重な彼女もその日一日はその子に対して顔色を和《やわら》げ心にもない褒《ほ》め言葉を吐《は》いたりするので聞く方が気味を悪がりお師匠さんのお世辞と云うと恐ろしいものになっていた。そんな次第故《ゆえ》諸方からの到来物は一々自ら吟味《ぎんみ》して菓子《かし》の折まで開けて調べるという風で月々の収入支出等も佐助を呼びつけて珠算盤《そろばん》を置かせ決算を明かにした彼女は非常に計数に敏《さと》く暗算が達者であり一度聞いた数字は容易に忘れず米屋の払《はら》いがいくらいくら酒屋の払いがいくらいくらと二月三月《ふたつきみつき》前のことまで正確に覚えていた畢竟《ひっきょう》彼女の贅沢は甚だしく利己的なもので自分が奢《おご》りに耽《ふけ》るだけどこかで差引をつけなければならぬ結局お鉢《はち》は奉公人に廻《まわ》った。彼女の家庭では彼女一人が大名のような生活をし佐助以下の召使は極度の節約を強いられるため爪に火を燈《とも》すようにして暮らしたその日その日の飯《めし》の減り方まで多いの少いのと云うので食事も十分には摂《と》れなかったくらいであった奉公人は蔭口《かげぐち》をきいて、お師匠様は鶯や雲雀の方がお前等《ら》より忠義者だと仰《お》っしゃるが忠義なのも無理がない、私等よりも鳥の方がずっと大事にされていると云った
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鵙屋《もずや》の家でも父の安左衛門が生存中は月々春琴の云うがままに仕送ったけれども父親が死んで兄が家督《かとく》を継いでからはそうそう云うなりにもならなかった。今日でこそ有閑《ゆうかん》婦人の贅沢はさまで珍しくないようなものの昔は男子でもそうは行かぬ裕福《ゆうふく》な家でも堅儀《かたぎ》な旧家ほど衣食住の奢《おご》りを慎《つつし》み僭上《せんしょう》の誹《そしり》を受けないようにし成り上り者に伍《ご》するのを嫌《きら》った春琴に奢侈《しゃし》を許したのは外《ほか》に楽しみのない不具の身を憐れんだ親の情であったのだが、兄の代になるととかくの批難《ひなん》が出て最大限度月に幾何《いくばく》と額をきめられそれ以上の請求には応じてくれないようになった彼女の吝嗇もそういう事が多分に関係しているらしい。しかしなおかつ生活を支えて余りある金額であったから琴曲の教授などはどうでもよかったに違いなく弟子に対して鼻息の荒かったのも当然である。事実春琴の門を叩《たた》く者は幾人と数えるほどで寂々寥々《じゃくじゃくりょうりょう》たるものであったさればこそ小鳥道楽などに耽《ふけ》っている暇《ひま》があったのであるただし春琴が生田流の琴においても三絃においても当時大阪第一流の名手であったことは決して彼女の自負のみにあらず公平な者は皆《みな》認めていた春琴の傲慢《ごうまん》を憎む者といえども心中私《ひそ》かにその技を妬《そね》みあるいは恐れていたのである作者の知っている老芸人に青年の頃《ころ》彼女の三絃をしばしば聴いたという者があるもっともこの人は浄るりの三味線弾きで流儀は自ら違うけれども近年地唄の三味線で春琴のごとき微妙《びみょう》の音を弄《ろう》するものを他に聴いたことがないと云うまた団平が若い頃にかつて春琴の演奏を聞き、あわれこの人男子と生れて太棹《ふとざお》を弾きたらんには天晴《あっぱ》れの名人たらんものをと嘆《たん》じたという団平の意太棹は三絃芸術の極致にしてしかも男子にあらざればついに奥義《おうぎ》を究むる能《あた》わずたまたま春琴の天稟《てんぴん》をもって女子に生れたのを惜《お》しんだのであろうか、そもそもまた春琴の三絃が男性的であったのに感じたのであろうか。前掲《ぜんけい》の老芸人の話では春琴の三味線を蔭で聞いていると音締《ねじめ》が冴《さ》えていて男が弾いているように思えた音色も単に美しいのみではなくて変化に富み時には沈痛《ちんつう》な深みのある音を出したといういかさま女子には珍しい妙手であったらしい。もし春琴が今少し如才《じょさい》なく人に謙《へりくだ》ることを知っていたなら大いにその名が顕《あら》われたであろうに富貴《ふうき》に育って生計の苦難を解せず気随気儘《きずいきまま》に振舞《ふるま》ったために世間から敬遠され、その才の故にかえって四方に敵を作り空《むな》しく埋《うも》れ果てたのは自業自得ではあるけれどもまことに不幸と云わねばならぬ。されば春琴の門に入る者はかねてより彼女の実力に服しこの人を措《お》いて師と頼む者はないと云う風に思い詰め、修業のためには甘《あま》んじて苛辣《からつ》な鞭撻《べんたつ》を受けよう怒罵《どば》も打擲《ちょうちゃく》も辞する所にあらずという覚悟《かくご》の上で来たのであったがそれでも長く堪《た》え忍《しの》んだ者は少く大抵は辛抱《しんぼう》出来ずにしまった素人《しろうと》などはひと月と続かなかった。按《あん》ずるに春琴の稽古振りが鞭撻の域《いき》を通り越《こ》して往々意地の悪い折檻《せっかん》に発展し嗜虐《しぎゃく》的色彩《しきさい》をまで帯びるに至ったのは幾分か名人意識も手伝っていたのであろうすなわちそれを世間も許し門弟も覚悟していたのでそうすればするほど名人になったような気がし、だんだん図に乗ってついに自分を制しきれなくなったのである
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鴫沢《しぎさわ》てる女はいう、お弟子さんはほんに少うござりましたが中にはお師匠さんのご器量が目あてで習いに来られるお人もござりました、素人衆は大概そんなのが多かったようでござりますと。美貌で未婚でかつ資産家の娘であったからこれはいかにもありそうに思われる彼女が弟子を遇《ぐう》すること峻烈《しゅんれつ》であったのはそういう冷やかし半分の狼《おおかみ》連を撃退《げきたい》する手段でもあったと云うが皮肉にもそれがかえって人気を呼んだらしくもある邪推《じゃすい》をすれば真面目《まじめ》な玄人《くろうと》の門弟の中にも盲目の美女の笞《しもと》に不思議な快感を味わいつつ芸の修業よりもその方に惹《ひ》き付けられていた者が絶無ではなかったであろう幾人かはジャン・ジャック・ルーソーがいたであろう今や春琴の身に降りかかった第二の災難を叙《じょ》するに際し伝にも明瞭《めいりょう》な記載《きさい》を避《さ》けてあるためにその原因や加害者を判然と指摘《してき》し得ないのが残念であるが、恐らく上記のごとき事情で門弟の何者かに深刻な恨《うら》みを買いその復讐《ふくしゅう》を受けたと見るのが最も当っているようである。ここに考えられることは土佐堀《とさぼり》の雑穀《ざっこく》商美濃屋九兵衛《みのやきゅうべえ》の忰《せがれ》に利太郎と云うぼんちがあったなかなかの放蕩《ほうとう》者でかねてより遊芸《ゆうげい》自慢であったがいつの頃よりか春琴の門に入って琴三味線を習っていたこの者親の身代《しんだい》を鼻にかけどこへ行っても若旦那《わかだんな》で通るのをよい事にして威張《いば》る癖《くせ》があり同門の子弟を店の番頭手代並みに心得《こころえ》見下す風があったので春琴も心中面白くなかったけれども、そこは例の附け届けを十分にたっぷり薬を利《き》かしてあるので断りもならず精々如才《じょさい》なく扱《あつか》っていた。しかるにさすがのお師匠さんも己《おれ》には一目《いちもく》置いているなどと云い触《ふ》らし殊《こと》に佐助を軽蔑《けいべつ》して彼の代稽古を嫌いお師匠さんの教授でなければ治まらずだんだん増長する様子に春琴も癇癖《かんぺき》を募《つの》らせていたところ父親九兵衛が老後の用意に天下茶屋《てんがぢゃや》の閑静《かんせい》な場所を選び葛家葺《くずやぶき》の隠居所《いんきょじょ》を建て十数株の梅《うめ》の古木を庭園に取り込んであったがある年の如月《きさらぎ》にここで梅見の宴《うたげ》を催《もよお》し、春琴を招いたことがあった。総大将は若旦那の利太郎それに幇間《ほうかん》芸者等の末社《まっしゃ》が加わり春琴には佐助が附き添って行ったこと云うまでもない佐助はその日利太郎始め末社からちょいちょい杯《さかずき》をさされるので大いに当惑《とうわく》した近頃師匠の晩酌の相手をして少しばかり手が上ったけれども余り行ける口でなかったしよそへ行っては師匠の許可がない限り一滴《てき》といえども飲むことを禁ぜられていたし酔《よ》っては肝腎《かんじん》の手曳きの役が忽諸《こつしょ》になるから飲む真似をして胡麻化《ごまか》しているのを利太郎が眼敏《めざと》く見つけ、お師匠はん、お師匠はんのお許しが出な佐助どん飲みやはれしまへん今日は梅見だっしゃないかいな一日位ゆっくりさしたげなはれ佐助どんがへたばったかて手曳きになりたがってる者がそこらに二人や三人いまんねと胴間声《どうまごえ》で絡《から》んで来るので苦笑いしながらまあまあ少しはようござります余り酔わさんようにしてやって下されと程よくあしらうとさあお許しが出たとばかりにあちらからもこちらからもさすそれでもきっと引き締めて七分通りは盃洗《はいせん》に飲ました。その日一座に連なった幇間《ほうかん》も芸者もかねて聞き及んだ高名の女師匠を眼のあたりに見噂《うわさ》に違わぬ姥桜《うばざくら》の艶姿《あですがた》と気韻《きいん》とに驚《おどろ》かぬ者なく口々に褒《ほ》めそやしたというそれは利太郎の胸中を察し歓心を買わんがためのお世辞でもあったであろうが当時三十七歳の春琴は実際よりもたしかに十は若く見え色あくまで白くして襟元《えりもと》などは見ている者がぞくぞくと寒気がするように覚えた甲《こう》の色のつやつやとした小さな手をつつましく膝に置いて俯向《うつむ》き加減にしている盲目の|《かお》のあでやかさは一座の瞳《ひとみ》をことごとく惹《ひ》き寄《よ》せて恍惚《こうこつ》たらしめたのであった。滑稽《こっけい》なことは皆《みな》が庭園へ出て逍遥《しょうよう》した時佐助は春琴を梅花の間に導いてそろりそろり歩かせながら「ほれ、ここにも梅がござります」と一々老木の前に立ち止まり手を把《と》って幹《みき》を撫《な》でさせたおよそ盲人は触覚《しょっかく》をもって物の存在を確かめなければ得心しないものであるから、花木の眺《なが》めを賞するにもそんな風にする習慣がついていたのであるが、春琴の繊手《せんしゅ》が佶屈《きっくつ》した老梅の幹をしきりに撫《な》で廻す様子を見るや「ああ梅の樹《き》が羨《うらやま》しい」と一幇間が奇声《きせい》を発したすると今一人の幇間が春琴の前に立ち塞《ふさ》がり「わたい梅の樹だっせ」と道化《どうけ》た恰好《かっこう》をして疎影横斜《そえいおうしゃ》の態《てい》を為《な》したので一同がどっと笑い崩《くず》れた。これらは一種の愛嬌であって春琴を讃《たた》える意味にこそなれ侮《あなど》る心ではなかったけれども遊里の悪洒落《わるじゃれ》に馴《な》れない春琴は余りよい気持がしなかったいつも眼明きと同等に待遇《たいぐう》されることを欲し差別されるのを嫌ったのでこう云う冗談は何よりも癇《かん》に触った。やがて夜に入り座敷《ざしき》を変えて再び宴を開いた時佐助どんあんたも疲《つか》れはったやろお師匠はんはわいが預かる、あっちに支度《したく》したあるさかい一杯やって来とくなはれと云われるままに、無闇《むやみ》に酒を強いられぬうち腹を拵《こしら》えて置くに如《し》かずと佐助は別室へ引き退って先に夕飯の馳走《ちそう》を受けたが御飯《ごはん》を戴《いただ》きますというのを銚子《ちょうし》を持った老妓《ろうぎ》の一人がべったり着き切りでまあお一つまあお一つと重ねさせるお蔭で思いの外《ほか》時間を潰《つぶ》したが食事を済ませてもしばらく呼びに来ないのでそこに控えていた間に座敷《ざしき》の方でどういう事があったのか、佐助を呼んで下されと云うのを無理に遮《さえぎ》り手水《ちょうず》ならばわいが附いて行ったげると廊下《ろうか》へ連れて出て手を握《にぎ》ったか何かであろう、いえいえやはり佐助を呼んで下されと強情に手を振《ふ》り払《はら》ってそのまま立ちすくんでいる所へ佐助が駈《か》け付け、顔色でそれと察した。しかし結局こんな事から出入りをしなくなってくれたらいい塩梅《あんばい》だと思っていたのに色男を台無しにされては素直にあきらめきれなかったものかまた明くる日からずうずうしくも平気で稽古にやって来たのでそれならば本気で叩《たた》き込《こ》んでやる真剣の修業に堪《た》えるなら堪えてみよとにわかに態度を改めてピシピシと教えた。そうなると利太郎は面喰《めんくら》って毎日三斗《と》の汗を流しふうふう云い出した元来が自分免許の芸でおだてられているうちはよいが意地悪く突《つ》っ込《こ》まれたらアラだらけであるそこへ無遠慮《ぶえんりょ》な怒罵《どば》が飛ぶから稽古に事寄せて隙《すき》もあらばと云うようなだらけた心では辛抱《しんぼう》しきれず次第に横着になりいくら熱心に教えてもわざと気のない弾き方をするついに春琴は「阿呆《あほう》」と云いさま撥《ばち》をもって打《ぶ》った弾みに眉間《みけん》の皮を破ったので利太郎は「あ痛」と悲鳴を挙げたが、額からぽたぽた滴《こぼ》れる血を押《お》し拭《ぬぐ》い「覚えてなはれ」と捨台辞《すてぜりふ》を残して憤然《ふんぜん》と座を立ちそれきり姿を見せなかった
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一説に春琴に危害を加えた者は北の新地辺に住む某《ぼう》少女の父親ではなかったかというこの少女は芸者の下地《したじ》ッ子であったからみっちり仕込んでもらう積りで稽古の辛《つら》さを怺《こら》えつつ春琴の門に通っていたところある日撥で頭を打たれ泣いて家へ逃《に》げ帰ったその傷痕《きずあと》が生《は》え際《ぎわ》に残ったので当人よりも親父《おやじ》がカンカンに腹を立てて捻《ね》じ込《こ》んだ多分養父ではない実父だったのであろう何ぼ修行だからと云って年歯も行かぬ女の子を苛《さいな》むにも程がある、売り物の顔に疵《きず》をつけられこのままでは済まされないどうしてくれると大分過激《かげき》な言辞を使ったので持ち前の聴かぬ気を出し妾の所は躾《しつけ》が厳《きび》しいので通っているそのくらいなら何で稽古に寄越《よこ》しなさったのかと逆捻《さかね》じ的の挨拶《あいさつ》をしたすると親父も負けてはいず打つのも殴《なぐ》るのもよいが眼の見えぬお人のすることは危険だどこへどんな怪我《けが》をさせるかも知れぬ盲人は盲人らしく殊勝《しゅしょう》にせよと、出様によっては暴力にも訴《うった》えかねまじき気味合なので佐助が割って這入《はい》りようようその場を預かって帰した春琴は真《ま》っ青《さお》になって慄《ふる》え上り沈黙《ちんもく》してしまったが最後まで謝罪の言葉を吐《は》かなかったこの父親が娘の器量を損ぜられた仕返しに春琴の容貌《ようぼう》に悪戯《いたずら》を加えたという。しかし生《は》え際《ぎわ》と云っても額の真中か耳のうしろかどこかにちょっぴり痕《あと》が附いたぐらいを根に持って一生相好《そうごう》が変るほどの凄《すさま》じい危害を与えたと云うのは我が子いとしさに取り上気《のぼ》せた親心にしても余り復讐《ふくしゅう》が執拗《しつよう》に過ぎる第一相手は盲人であるから美貌を醜貌《しゅうぼう》に変ぜしめても当人にはそれほど打撃にはならないもし春琴のみを目的とするなら他にもっと痛快な方法もあろう。察する所復讐者《ふくしゅうしゃ》の意図は春琴を苦しめるに止《とど》まらず春琴以上に佐助を悲嘆《ひたん》せしめようとしたのではないかそれはまた結果において最も春琴を苦しめることになるのであるかく考えれば前掲《ぜんけい》の少女の父親よりも利太郎を疑う方が順当のように思われるがいかに。利太郎の横恋慕《よこれんぼ》にどの程度の熱意があったか知るべくもないが若年の頃は誰しも年下の女より年増《としま》女の美に憧《あこが》れる恐らく極道の果てのああでもないこうでもないが昂《こう》じたあげく盲目の美女に蠱惑《こわく》を感じたのであろう最初は一時の物好きで手を出したとしても肘鉄砲《ひじでっぽう》を食わされた上に男の眉間まで割られれば随分性悪《しょうわる》な意趣晴らしをしないものでもない。だが何分にも敵の多い春琴であったからまだこの外《ほか》にもどんな人間がどんな理由で恨《うら》みを抱《いだ》いていたかも知れず一概《いちがい》に利太郎であるとは断定し難いまた必ずしも痴情《ちじょう》の沙汰《さた》ではなかったかも知れない金銭上の問題にしても、前に挙げた貧しい盲人の弟子のような残酷《ざんこく》な目に遭《あ》った者は一人や二人ではなかったというまた利太郎ほど厚かましくはないにしても佐助を嫉妬していた者は何人もあったという佐助が一種奇妙な位置にある「手曳き」であったことは長い間には隠《かく》し切れず門弟中に知れ渡っていたから、春琴に思いを寄せる者は私《ひそ》かに佐助の幸福を羨《うらや》みある場合には彼のまめまめしい奉公振りに反感を抱いていたのである。正式の夫であるならあるいはせめて情夫としての待遇《たいぐう》を受けているなら文句の出どころはなかったけれども表面はどこまでも手曳きであり奉公人であり按摩から三介《さんすけ》の役まで勤めて春琴の身の周りの事は一切取りしきり忠実一方の人間らしく振舞《ふるま》っているのを見ては、裏面《りめん》の消息を解する者には片腹痛く思えたでもあろうああ云う手曳きならちっとやそっと辛いことがあっても己《おれ》だって勤める感心するには当らぬと嘲《あざけ》る者も少くなかった。されば佐助に憎しみをかけ春琴の美貌が一朝《いっちょう》恐ろしい変化を来たしたらあいつがどんな面《つら》をするかそれでも神妙にあの世話の焼ける奉公を仕遂《しと》げるだろうかそれが見物《みもの》だと云う全くの敵本主義からでも決行しないとは限らない。要するに臆説《おくせつ》紛々《ふんぷん》としていずれが真相やら判定し難いがここに全然意外な方面に疑いをかけようとする有力な一説があって曰く、恐らく加害者は門弟ではあるまい春琴の商売敵である某検校か某女師匠であろうと。別に証拠はないけれどもあるいはこれが最も穿《うが》った観察であるかも知れないけだし春琴が居常傲岸《ごうがん》にして芸道にかけては自ら第一人者をもって任じ世間もそれを認める傾向があったことは同業の師匠連の自尊心を傷《きずつ》け時には脅威《きょうい》ともなったであろう検校と云えば昔は京都より盲人の男子に下される一つの立派な「位」であって特別の衣服と乗物を許され尋常《じんじょう》芸人の輩《やから》とは世間の待遇《たいぐう》も違っていたのに、そう云う人が春琴の技に及ばないと云う噂を立てられては盲人であるだけに根強い意趣を含んだでもあろうし何とかして彼女の技術と評判とを葬《ほうむ》り去る陰険な手段をも考えたであろうよく芸の上の嫉妬から水銀を飲ましたと云う例を聞くが春琴の場合は声楽と器楽と両方であったから彼女の見え坊と器量自慢とに附け込み再び公衆の面前へ出られぬように相を変えさせたと云うのである。もし加害者が某検校にあらずして某女師匠であったとすれば器量自慢までが面憎《つらにく》かったに違いないから彼女の美貌を破壊《はかい》し去ることに一層の快味を覚えたであろう。かく色々と疑い得らるる原因を数えて来れば早晩春琴に必ず誰かが手を下さなければ済まない状態にあったことを察すべく彼女は不知不識《しらずしらず》の裡《うち》に禍《わざわい》の種を八方へ蒔《ま》いていたのである。
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前記天下茶屋の梅見の宴の後約一箇月半を経た三月晦日《つごもり》の夜八つ半時頃すなわち午前三時々分に「佐助は春琴の苦吟《くぎん》する声に驚き眼覚めて次の間より馳《は》せ付《つ》け、急ぎ燈火を点じて見れば、何者か雨戸を抉《こ》じ開け春琴が伏《ふしど》戸に忍入《しのびい》りしに、早くも佐助が起き出でたるけはいを察し、一物《いちもつ》をも得ずして逃げ失《う》せぬと覚しく、すでに四辺に人影《ひとかげ》もなかりき。この時賊《ぞく》は周章《しゅうしょう》の余り、有り合わせたる鉄瓶《てつびん》を春琴の頭上に投げ付けて去りしかば、雪を欺《あざむ》く豊頬《ほうきょう》に熱湯の余沫《よまつ》飛び散りて口惜《くちお》しくも一点火傷《やけど》の痕《あと》を留《とど》めぬ。素《もと》より白璧《はくへき》の微瑕《びか》に過ぎずして昔ながらの花顔玉容は依然として変らざりしかども、それより以後春琴は我が面上の些細《ささい》なる傷を恥ずること甚しく、常に縮緬《ちりめん》の頭巾《ずきん》をもって顔を覆《おお》い、終日一室に籠居《ろうきょ》してかつて人前に出でざりしかば、親しき親族門弟といえどもその相貌を窺《うかが》い知り難く、為《た》めに種々なる風聞臆説《おくせつ》を生むに至りぬ」と云うのが春琴伝の記載である。伝は続けて曰く「けだし負傷は軽微《けいび》にして天稟《てんぴん》の美貌をほとんど損ずることなかりき。その人に面接するを厭《いと》いたるは彼女が潔癖《けっぺき》の致すところにして、取るにも足らぬ傷痕を恥辱《ちじょく》のごとく考えしは盲人の思い過しとや云わん」と。更《さら》にまた曰く「しかるにいかなる因縁《いんねん》にや、それより数十日を経て佐助もまた白内障を煩《わずら》い、たちまち両眼暗黒となりぬ。佐助は我が眼前朦朧《もうろう》として物の形の次第《しだい》に見え分かずなり行きし時、俄盲目《にわかめくら》の怪《あや》しげなる足取りにて春琴の前に至り、狂喜《きょうき》して叫《さけ》んで曰く、師よ、佐助は失明致《いた》したり、もはや一生お師匠様のお顔の瑕《きず》を見ずに済むなり、まことによき時に盲目となり候《そうろう》ものかな、これ必ず天意にて侍《はべ》らんと。春琴これを聴きて憮然《ぶぜん》たることやや久し矣」と。佐助が衷情《ちゅうじょう》を思いやれば事の真相を発《あば》くのに忍《しの》びないけれどもこの前後の伝の叙述《じょじゅつ》は故意に曲筆しているものと見る外《ほか》はない彼が偶然白内障になったと云うのも腑《ふ》に落ちないしまた春琴がいかに潔癖でありいかに盲人の思い過しであろうとも天稟の美貌を損じなかった程度の火傷であるならば何をもって頭巾で面体を包んだり人に接するのを厭ったりしようぞ事実は花顔玉容に無残な変化を来したのである。鴫沢《しぎさわ》てる女その他二三の人の話によると賊《ぞく》はあらかじめ台所に忍《しの》び込《こ》んで火を起し湯を沸《わ》かした後、その鉄瓶を提《さ》げて伏戸に闖入《ちんにゅう》し鉄瓶の口を春琴の頭の上に傾《かたむ》けて真正面《まとも》に熱湯を注ぎかけたのであると云う最初からそれが目的だったので普通の物盗《ものと》りでもなければ狼狽《ろうばい》の余りの所為《しょい》でもないその夜春琴は全く気を失い、翌朝に至って正気付いたが焼け爛《ただ》れた皮膚《ひふ》が乾《かわ》き切るまでに二箇月《にかげつ》以上を要したなかなかの重傷だったのである。されば物凄《ものすご》い相貌の変り方について種々奇怪《きかい》なる噂が立ち毛髪《もうはつ》が剥落《はくらく》して左半分が禿《は》げ頭になっていたと云うような風聞も根のない臆説《おくせつ》とのみ排《はい》し去る訳《わけ》には行かない佐助はそれ以来失明したから見ずに済んだでもあろうけれども、「親しき親族門弟といえどもその相貌を窺《うかが》い知り難《がた》」かったと云うのはいかがであろうか絶対に何人《なんぴと》にも見せないようにすることは不可能であろうし現に鴫沢てる女のごときも見ていないはずはないのである。ただしてる女も佐助の志を重んじ決して春琴の容貌の秘密を人に語らない私も一往《いちおう》は尋《たず》ねてみたが佐助さんはお師匠様を始終美しい器量のお方じゃと思い込んでいやはりましたので私もそう思うようにしておりましたと云い委《くわ》しくは教えてくれなかった
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佐助は春琴の死後十余年を経た後に彼が失明した時のいきさつを側近者に語ったことがありそれによって詳細《しょうさい》な当時の事情がようやく判明するに至った。すなわち春琴が兇漢《きょうかん》に襲《おそ》われた夜佐助はいつものように春琴の閨《ねや》の次の間に眠《ねむ》っていたが物音を聞いて眼を覚ますと有明行燈《ありあけあんどん》の灯が消えてい真《ま》っ暗《くら》な中に呻《うめ》きごえがする佐助は驚いて跳《と》び起きまず灯をともしてその行燈《あんどん》を提げたまま屏風《びょうぶ》の向うに敷《し》いてある春琴の寝床《ねどこ》の方へ行ったそしてぼんやりした行燈の灯影《ほかげ》が屏風の金地に反射する覚束《おぼつか》ない明りの中で部屋の様子を見廻したけれども何も取り散らした形跡《けいせき》はなかったただ春琴の枕元《まくらもと》に鉄瓶が捨ててあり、春琴も褥中《じょくちゅう》にあって静かに仰臥《ぎょうが》していたがなぜか|々《うんうん》と呻《うな》っている佐助は最初春琴が夢《ゆめ》に魘《うな》されているのだと思いお師匠さまどうなされましたお師匠さまと枕元へ寄って揺《ゆ》り起そうとした時我知らずあと叫んで両眼を蔽《おお》うた佐助々々わては浅《あさ》ましい姿にされたぞわての顔を見んとおいてと春琴もまた苦しい息の下から云い身悶《みもだ》えしつつ夢中で両手を動かし顔を隠《かく》そうとする様子にご安心なされませお|
《かお》は見は致しませぬこの通り眼をつぶっておりますと行燈の灯を遠のけるとそれを聞いて気が弛《ゆる》んだものかそのまま人事不省《じんじふせい》になった。その後も始終誰にもわての顔を見せてはならぬきっとこの事は内密にしてと夢《ゆめ》うつつの裡《うち》に譫語《うわごと》を云い続け、何のそれほどご案じになることがござりましょう火膨《ひぶく》れの痕が直りましたらやがて元のお姿に戻られますと慰《なぐさ》めればこれほどの大火傷《おおやけど》に面体《めんてい》の変らぬはずがあろうかそのような気休めは聞きともないそれより顔を見ぬようにしてと意識が恢復《かいふく》するにつれて一層《いっそう》云い募《つの》り、医者の外《ほか》には佐助にさえも負傷の状態を示すことを嫌がり膏薬《こうやく》や繃帯《ほうたい》を取り替《か》える時は皆《みな》病室を追い立てられた。されば佐助は当夜枕元へ駈け付けた瞬間《しゅんかん》焼け爛《ただ》れた顔をひと眼見たことは見たけれども正視するに堪《た》えずしてとっさに面を背《そむ》けたので燈明の灯の揺《ゆら》めく蔭に何か人間離れのした怪《あや》しい幻影《げんえい》を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その後は常に繃帯の中から鼻の孔《あな》と口だけ出しているのを見たばかりであると云う思うに春琴が見られることを怖《おそ》れたごとく佐助も見ることを怖れたのであった彼は病床へ近づくごとに努めて眼を閉じあるいは視線を外《そ》らすようにした故に春琴の相貌がいかなる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったしまた知る機会を自ら避《さ》けた。しかるに養生の効あって負傷も追い追い快方に赴《おもむ》いた頃一日病室に佐助がただ一人侍坐していると佐助お前はこの顔を見たであろうのと突如《とつじょ》春琴が思い余ったように尋ねたいえいえ見てはならぬと仰っしゃってでござりますものを何でお言葉に違《たが》いましょうぞと答えるともう近いうちに傷が癒《い》えたら繃帯を除けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら余人《よじん》はともかくお前にだけはこの顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫《くじ》けたかついぞないことに涙《なみだ》を流し繃帯の上からしきりに両眼を押《お》し拭《ぬぐ》えば佐助も諳然《あんぜん》として云うべき言葉なく共に嗚咽《おえつ》するばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致しますご安心なさりませと何事か期する所があるように云った。それより数日を過ぎ既《すで》に春琴も床を離れ起きているようになりいつ繃帯を取《と》り除《の》けても差支《さしつかえ》ない状態にまで治癒《ちゆ》した時分ある朝早く佐助は女中部屋から下女の使う鏡台と縫針《ぬいばり》とを密《ひそ》かに持って来て寝床の上に端座《たんざ》し鏡を見ながら我が眼の中へ針を突《つ》き刺《さ》した針を刺したら眼が見えぬようになると云う智識があった訳ではないなるべく苦痛の少い手軽な方法で盲目になろうと思い試みに針をもって左の黒眼を突いてみた黒眼を狙《ねら》って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅《かた》くて針が這入《はい》らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧《うま》い工合《ぐあい》にずぶと二分ほど這入ったと思ったらたちまち眼球が一面に白濁《はくだく》し視力が失せて行くのが分った出血も発熱もなかった痛みもほとんど感じなかったこれは水晶体《すいしょうたい》の組織を破ったので外傷性の白内障を起したものと察せられる佐助は次に同じ方法を右の眼に施し瞬時《しゅんじ》にして両眼を潰《つぶ》したもっとも直後はまだぼんやりと物の形など見えていたのが十日ほどの間に完全に見えなくなったと云う。程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥《おく》の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯《いっしょうがい》お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額《ぬか》ずいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思《ちんし》していた佐助はこの世に生れてから後にも先にもこの沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった昔悪七兵衛景清《あくしちびょうえかげきよ》は頼朝《よりとも》の器量に感じて復讐の念を断じもはや再びこの人の姿を見まいと誓《ちか》い両眼を抉《えぐ》り取ったと云うそれと動機は異なるけれどもその志の悲壮《ひそう》なことは同じであるそれにしても春琴が彼に求めたものはかくのごときことであったか過日彼女が涙を流して訴えたのは、私がこんな災難《さいなん》に遭《あ》った以上お前も盲目になって欲しいと云う意であったかそこまでは忖度《そんたく》し難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短かい一語が佐助の耳には喜びに慄《ふる》えているように聞えた。そして無言で相対しつつある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生えて来てただ感謝の一念より外《ほか》何物もない春琴の胸の中を自《おの》ずと会得することが出来た今まで肉体の交渉《こうしょう》はありながら師弟の差別に隔《へだ》てられていた心と心とが始めてひしと抱《だ》き合《あ》い一つに流れて行くのを感じた少年の頃押入《おしい》れの中の暗黒世界で三味線の稽古をした時の記憶が蘇生《よみがえ》って来たがそれとは全然心持が違ったおよそ大概な盲人は光の方向感だけは持っている故に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知りああこれが本当にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだこれでようようお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思ったもう衰《おとろ》えた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはっきり見分けられなかったが繃帯で包んだ顔の所在だけが、ぽうっと仄白《ほのじろ》く網膜《もうまく》に映じた彼にはそれが繃帯とは思えなかったつい二た月前までのお師匠様の円満微妙な色白の顔が鈍《にぶ》い明りの圏《けん》の中に来迎仏《らいごうぶつ》のごとく浮《う》かんだ
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佐助痛くはなかったかと春琴が云ったいいえ痛いことはござりませなんだお師匠様の大難に比べましたらこれしきのことが何でござりましょうあの晩曲者《くせもの》が忍《しの》び入り辛き目をおさせ申したのを知らずに睡《ねむ》っておりましたのは返す返すも私の不調法毎夜お次の間に寝させて戴《いただ》くのはこう云う時の用心でござりますのにこのような大事を惹《ひ》き起しお師匠様を苦しめて自分が無事でおりましては何としても心が済まず罰《ばち》が当ってくれたらよいと存じましてなにとぞわたくしにも災難《さいなん》をお授け下さりませこうしていては申訳《もうしわけ》の道が立ちませぬと御霊様《ごりょうさま》に祈願《きがん》をかけ朝夕拝《おが》んでおりました効があって有難や望みが叶《かな》い今朝《けさ》起きましたらこの通り両眼が潰《つぶ》れておりました定めし神様も私の志を憐《あわ》れみ願いを聞き届けて下すったのでござりましょうお師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁《し》みついたあのなつかしいお顔ばかりでござりますなにとぞ今まで通りお心置きのうお側《そば》に使って下さりませ俄盲目《にわかめくら》の悲しさには立ち居も儘《まま》ならずご用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる仄白《ほのじろ》い円光の射して来る方へ盲《し》いた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉《うれ》しゅう思うぞえ、私は誰の恨《うら》みを受けてこのような目に遭《お》うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外《ほか》の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり難《がと》うござりますそのお言葉を伺《うかが》いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換《か》えられませぬお師匠様や私を悲嘆に暮《く》れさせ不仕合わせな目に遭《あ》わせようとした奴《やつ》はどこの何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござります私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの悪企《わるだく》みも水の泡《あわ》になり定めし其奴《そやつ》は案に相違していることでござりましょうほんに私《わたくし》は不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります卑怯《ひきょう》な奴の裏《うら》を掻《か》き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁《あいよう》して泣いた
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禍《わざわい》を転じて福と化した二人のその後の生活の模様《もよう》を最もよく知っている生存者は鴫沢《しぎさわ》てる女あるのみである照女は本年七十一歳春琴の家に内弟子として住み込んだのは明治七年十二歳の時であった。てる女は佐助に糸竹の道を習う傍《かたわら》二人の盲人の間を斡旋《あっせん》して手曳きとも付かぬ一種の連絡係りを勤めたけだし一人は俄《にわか》盲目一人は幼少からの盲目とは云え箸《はし》の上げ下《おろ》しにも自分の手を使わず贅沢に馴《な》れて来た婦人の事故《ゆえ》是非《ぜひ》ともそう云う役目を勤める第三者の介在が必要でありなるべく気の置けない少女を雇《やと》うことにしていたがてる女が採用されてからは実体《じってい》なところが気に入られ大いに二人の信任を得てそのまま長く奉公をし、春琴の死後は佐助に仕えて彼が検校の位を得た明治二十三年まで側に置いてもらったと云う。てる女が明治七年に始めて春琴の家へ来た時春琴は既に四十六歳遭難《そうなん》の後九年の歳月を経もう相当の老婦人であった顔は仔細《しさい》があって人には見せないまた見てはならぬと聞かされていたが、紋羽二重《もんはぶたえ》の被布《ひふ》を着て厚い座布団の上に据《す》わり浅黄鼠《あさぎねず》の縮緬《ちりめん》の頭巾《ずきん》で鼻の一部が見える程度に首を包み頭巾の端が眼瞼《まぶた》の上へまで垂《た》れ下るようにし頬《ほお》や口なども隠《かく》れるようにしてあった。佐助は眼を突いた時が四十一歳初老に及んでの失明はどんなにか不自由だったであろうがそれでいながら痒《かゆ》い処へ手が届くように春琴を労《いた》わり少しでも不便な思いをさせまいと努める様は端《はた》の見る目もいじらしかった春琴もまた余人の世話では気に入らず私の身の周りの事は眼明きでは勤まらない長年の習慣故《ゆえ》佐助が一番よく知っていると云い衣裳の着附けも入浴も按摩《あんま》も上厠《じょうし》もいまだに彼を煩《わずら》わした。さればてる女の役目と云うのは春琴よりもむしろ佐助の身辺の用を足すことが主で直接春琴の体に触《ふ》れたことはめったになかった食事の世話だけは彼女が居ないとどうにもならなかったけれどもその外《ほか》はただ入用な品物を持ち運び間接に佐助の奉公を助けた例えば入浴の時などは湯殿の戸口までは二人に附いて行きそこで引き返《さが》って手が鳴ってから迎《むか》えに行くともう春琴は湯から上って浴衣を着頭巾を被《かぶ》っているその間の用事は佐助が一人で勤めるのであった盲人の体を盲人が洗ってやるのはどんな風にするものかかつて春琴が指頭をもって老梅《ろうばい》の幹を撫《な》でたごとくにしたのであろうが手数の掛《か》かることは論外であったろう万事がそんな調子だからとてもややこしくて見ていられない、よくまああれでやって行けると思えたが当人たちはそう云う面倒を享楽《きょうらく》しているもののごとく云わず語らず細やかな愛情が交されていた。按《あん》ずるに視覚を失った相愛の男女が触覚《しょっかく》の世界を楽しむ程度は到底われ等《ら》の想像を許さぬものがあろうさすれば佐助が献身《けんしん》的に春琴に仕《つか》え春琴がまた怡々《いい》としてその奉仕を求め互《たがい》に倦《う》むことを知らなかったのも訝《あや》しむに足りない。しかも佐助は春琴の相手をする余暇《よか》を割《さ》いて多くの子女を教えていた当時春琴は一室に垂《た》れ籠《こ》めてのみ暮らすようになり佐助に琴台と云う号を与えて門弟の稽古を全部引き継がせ、音曲指南《おんぎょくしなん》の看板にも鵙屋春琴の名の傍へ小さく温井《ぬくい》琴台の名を掲げていたが佐助の忠義と温順とはつとに近隣《きんりん》の同情を集め春琴時代よりかえって門下が賑《にぎ》わっていた滑稽《こっけい》な事は佐助が弟子に教えている間春琴は独り奥の間にいて鶯《うぐいす》の啼く音などに聞き惚《ほ》れていたが、時々佐助の手を借りなければ用の足りない場合が起ると稽古の最中でも佐助々々と呼ぶすると佐助は何を措《お》いても直《す》ぐ奥の間《ま》へ立って行ったそんな訳《わけ》だから常に春琴の座右を案じて出教授には行かず宅で弟子を取るばかりであった。ここに一言すべきことはその頃道修町の春琴の本家鵙屋の店は次第に家運が傾《かたむ》きかけ、月々の仕送りも途絶えがちになっていたのであるもしそう云う事情がなければ何を好んで佐助は音曲を教えようぞ忙《いそが》しい合間を見つつ春琴の許《もと》へ飛んで行った片羽鳥は稽古をつけながらも気が気でなかったであろうし春琴もまた同じ思いになやんだであろう
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師匠の仕事を譲《ゆず》り受けて痩腕《やせうで》ながら一家の生計を支えて行った佐助はなぜ正式に彼女と結婚しなかったのか春琴の自尊心が今もそれを拒《こば》んだのであろうかてる女が佐助自身の口から聞いた話に春琴の方は大分気が折れて来たのであったが佐助はそう云う春琴を見るのが悲しかった、哀《あわ》れな女気の毒な女としての春琴を考えることが出来なかったと云う畢竟《ひっきょう》めしいの佐助は現実に眼を閉じ永劫《えいごう》不変の観念境へ飛躍《ひやく》したのである彼の視野には過去の記憶《きおく》の世界だけがあるもし春琴が災禍《さいか》のため性格を変えてしまったとしたらそう云う人間はもう春琴ではない彼はどこまでも過去の驕慢《きょうまん》な春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの美貌《びぼう》の春琴が破壊《はかい》されるされば結婚を欲しなかった理由は春琴よりも佐助の方にあったと思われる。佐助は現実の春琴をもって観念の春琴を喚《よ》び起す媒介《ばいかい》としたのであるから対等の関係になることを避《さ》けて主従の礼儀を守ったのみならず前よりも一層己《おの》れを卑下《ひげ》し奉公の誠を尽《つく》して少しでも早く春琴が不幸を忘れ去り昔の自信を取り戻《もど》すように努め、今も昔のごとく薄給《はっきゅう》に甘《あま》んじ下男同様の粗衣《そい》粗食を受け収入の全額を挙げて春琴の用に供したその他経済を切り詰めるため奉公人の数を減らし色々の点で節約したけれども彼女の慰安《いあん》には何一つ遺漏《いろう》のないようにした故《ゆえ》に盲目になってからの彼の労苦は以前に倍加した。てる女の言によれば当時門弟達は佐助の身なりが余りみすぼらしいのを気の毒がり今少し辺幅《へんぷく》を整えるように諷《ふう》する者があったけれども耳にもかけなかったそして今もなお門弟達が彼を「お師匠さん」と呼ぶことを禁じ「佐助さん」と呼べと云いこれには皆《みな》が閉口してなるべく呼ばずに済まそうと心がけたがてる女だけは役目の都合《つごう》上そう云う訳に行かず常に春琴を「お師匠様」と呼び佐助を「佐助さん」と呼び習わした。春琴の死後佐助がてる女を唯一《ゆいいつ》の話相手とし折に触れては亡《な》き師匠の思い出に耽《ふけ》ったのもそんな関係があるからである後年彼は検校となり今は誰《だれ》にも憚《はば》からずお師匠様と呼ばれ琴台先生と云われる身になったがてる女からは佐助さんと呼ばれるのを喜び敬称を用いるのを許さなかったかつててる女に語って云うのに、誰しも眼が潰《つぶ》れることは不仕合わせだと思うであろうが自分は盲目になってからそう云う感情を味わったことがないむしろ反対にこの世が極楽浄土《じょうど》にでもなったように思われお師匠様とただ二人生きながら蓮《はす》の台《うてな》の上に住んでいるような心地がした、それと云うのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくるお師匠様のお顔なぞもその美しさが沁々《しみじみ》と見えてきたのは目しいになってからであるその外《ほか》手足の柔かさ肌《はだ》のつやつやしさお声の綺麗《きれい》さもほんとうによく分るようになり眼あきの時分にこんなにまでと感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の後に始めて味到《みとう》したいつもお師匠様は斯道《しどう》の天才であられると口では云っていたもののようやくその真価が分り自分の技倆《ぎりょう》の未熟《みじゅく》さに比べて余りにも懸隔《けんかく》があり過ぎるのに驚き今までそれを悟《さと》らなかったのは何と云うもったいないことかと自分の愚《おろ》かさが省みられたされば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろうお師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味《あじわ》えたのだと。佐助の語るところは彼の主観の説明を出でずどこまで客観と一致するかは疑問だけれども余事はとにかく春琴の技芸は彼女の遭難《そうなん》を一転機として顕著《けんちょ》な進境を示したのではあるまいか。いかに春琴が音曲《おんぎょく》の才能に恵まれていても人生の苦味酸味を嘗《な》めて来なければ芸道の真諦《しんたい》に悟入《ごにゅう》することはむずかしい彼女は従来甘やかされて来た他人に求むるところは酷《こく》で自分は苦労も屈辱《くつじょく》も知らなかった誰も彼女の高慢《こうまん》の鼻を折る者がなかったしかるに天は痛烈《つうれつ》な試練を降《くだ》して生死の巌頭《がんとう》に彷徨《ほうこう》せしめ増上慢《ぞうじょうまん》を打ち砕《くだ》いた。思うに彼女の容貌を襲《おそ》った災禍《さいか》はいろいろの意味で良薬となり恋愛においても芸術においてもかつて夢想だもしなかった三昧境《さんまいきょう》のあることを教えたであろうてる女はしばしば春琴が無聊《ぶりょう》の時を消すために独りで絃を弄《もてあそ》んでいるのを聞いたまたその傍に佐助が恍惚《こうこつ》として項《うなじ》を垂れ一心に耳を傾けている光景を見たそして多くの弟子共は奥の間から洩《も》れる精妙《せいみょう》な撥《ばち》の音を訝《いぶか》しみあの三味線には仕掛《しか》けがしてあるのではないかなどと呟《つぶや》いたと云う。この時代に春琴は弾絃の技巧《ぎこう》のみならず作曲の方面にも思いを凝《こ》らし夜中密《ひそ》かにあれかこれかと爪弾《つまび》きで音を綴《つづ》っていたてる女が覚えているのに「春鶯囀《しゅんのうでん》」と「六の花」の二曲があり先日聞かしてもらったが独創性に富み作曲家としての天分を窺知《きち》するに足りる
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春琴は明治十九年六月上旬より病気になったが病む数日前佐助と二人中前栽《なかせんざい》に降り愛玩《あいがん》の雲雀《ひばり》の籠《かご》を開けて空へ放った照女が見ていると盲人の師弟手を取り合って空を仰《あお》ぎ遥《はる》かに遠く雲雀の声が落ちて来るのを聞いていた雲雀はしきりに啼きながら高く高く雲間へ這入《はい》りいつまでたっても降りて来ない余り長いので二人共気を揉《も》み一時間以上も待ってみたがついに籠に戻らなかった。春琴はこの時から怏々《おうおう》として楽しまず間もなく脚気《かっけ》に罹《かか》り秋になってから重態に陥《おちい》り十月十四日心臓麻痺《しんぞうまひ》で長逝《ちょうせい》した。雲雀の外《ほか》に第三世の天鼓を飼っていたのが春琴の死後も生きていたが佐助は長く悲しみを忘れず天鼓の啼く音を聞くごとに泣き暇《ひま》があれば仏前に香《こう》を薫《くん》じてある時は琴をある時は三絃を取り春鶯囀を弾いた。それ緡蛮《めんばん》たる黄鳥は丘隅《きゅうぐう》に止るとと云う文句で始まっているこの曲はけだし春琴の代表作で彼女が心魂《しんこん》を傾《かたむ》け尽《つく》したものであろう詞は短いが非常に複雑な手事《てごと》が附いている春琴は天鼓の啼く音を聞きながらこの曲の構想を得たのである手事の旋律《せんりつ》は鶯の凍《こお》れる涙今やとくらんと云う深山《みやま》の雪の|※《と》[#「さんずい+鬲」、U+6EC6、383-4]けそめる春の始めから、水嵩《みずかさ》の増した渓流《けいりゅう》のせせらぎ松籟《しょうらい》の響《ひび》き東風《こち》の訪れ野山の霞《かすみ》梅の薫《かお》り花の雲さまざまな景色へ人を誘い、谷から谷へ枝から枝へ飛び移って啼く鳥の心を隠約《いんやく》の裡《うち》に語っている生前彼女がこれを奏でると天鼓も嬉々《きき》として咽喉《のど》を鳴らし声を絞《しぼ》り絃の音色と技を競った。天鼓はこの曲を聞いて生れ故郷の渓谷を想い広々とした天地の陽光を慕《した》ったのであろうが佐助は春鶯囀を弾きつつどこへ魂を馳《は》せたであろう触覚の世界を媒介《ばいかい》として観念の春琴を視詰《みつ》めることに慣らされた彼は聴覚によってその欠陥《けっかん》を充《み》たしたのであろうか。人は記憶を失わぬ限り故人を夢に見ることが出来るが生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ死別《しにわか》れたともはっきりした時は指《さ》せないかも知れない。ちなみに云う春琴と佐助との間には前記の外に二男一女があり女児は分娩《ぶんべん》後に死し男児は二人共赤子の時に河内《かわち》の農家へ貰《もら》われたが春琴の死後も遺《わす》れ形見には未練がないらしく取り戻そうともしなかったし子供も盲人の実父の許《もと》へ帰るのを嫌《きら》った。かくて佐助は晩年に及び嗣子《しし》も妻妾《さいしょう》もなく門弟達に看護されつつ明治四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の祥月命日《しょうつきめいにち》に八十三歳と云う高齢《こうれい》で死んだ察する所二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよ鮮《あざや》かにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話を天竜寺《てんりゅうじ》の峩山和尚《がさんおしょう》が聞いて、転瞬《てんしゅん》の間に内外《ないげ》を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為《しょい》に庶幾《ちか》しと云ったと云うが読者諸賢《しょけん》は首肯《しゅこう》せらるるや否や
(昭和八年六月)
底本:「ちくま日本文学014 谷崎潤一郎」筑摩書房
2008(平成20)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十三巻」中央公論社
1982(昭和57)年5月25日
初出:「中央公論」中央公論社
1933(昭和8)年6月
※表題は底本では、「春琴抄《しゅんきんしょう》」となっています。
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
2020年10月22日修正
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「さんずい+鬲」、U+6EC6
383-4

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