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理性が万物の根拠でありそして万物が・理性あるならば
若し理性を棄て理性を憎むことが不幸の最大なものであるならば……。
――シェストフ――
なるべく、夜更《よふ》けに着く汽車を選びたいと、三日間の収容所を出ると、わざと、敦賀《つるが》の町で、一日ぶらぶらしてゐた。六十人余りの女達とは収容所で別れて、税関の倉庫に近い、荒物屋兼お休み処《どころ》といつた、家をみつけて、そこで独りになつて、ゆき子は、久しぶりに故国の畳に寝転ぶことが出来た。
宿の人々は親切で、風呂をわかしてくれた。小人数で、風呂の水を替へる事もしないとみえて、濁つた湯だつたが、長い船旅を続けて来たゆき子には、人肌の浸《し》みた、白濁した湯かげんも、気持ちがよく、風呂のなかの、薄暗い煤《すゝ》けた窓にあたる、しやぶしやぶしたみぞれまじりの雨も、ゆき子の孤独な心のなかに、無量な気持ちを誘つた。風も吹いた。汚れた硝子窓《ガラスまど》を開けて、鉛色の雨空を見上げてゐると、久しぶりに見る、故国の貧しい空なのだと、ゆき子は呼吸《いき》を殺して、その、窓の景色にみとれてゐる。小判型の風呂のふちに両手をかけると、左の腕に、みみずのやうに盛りあがつた、かなり大きい刀傷が、ゆき子をぞつとさせる。そのくせ、その刀傷に湯をかけながら、ゆき子はなつかしい思ひ出の数々を瞑想《めいさう》して、今日からは、どうにもならない、息のつまるやうな生活が続くのだと、観念しないではなかつた。退屈だつた。潮時《しほどき》を外《は》づした後は、退屈なものなのだと、ゆき子は汚れた手拭ひで、ゆつくり躯《からだ》を洗つた。煤けた狭い風呂場のなかで、躯を洗つてゐる事が、嘘のやうな気がした。肌を刺す、冷い風が、窓から吹きつけて来る。長い間、かうした冷い風の触感を知らなかつただけに、ゆき子は、季節の飛沫《ひまつ》を感じた。湯から上つて部屋へ戻ると、赤茶けた畳に、寝床が敷いてあり、粗末な箱火鉢には炎をたてて、火が熾《おこ》つてゐた。火鉢のそばには、盆が出てゐて、小さい丼《どんぶり》いつぱいにらつきようが盛つてある。ぐらぐらと煮えこぼれてゐるニュームのやかんを取つて、茶を淹《い》れる。ゆき子はらつきようを一つ頬張《ほゝば》つた。障子の外の廊下を、二三人の女の声で、どやどやと隣りの部屋へ這入《はい》つて行く気配がした。ゆき子はきき耳をたてた。襖《ふすま》一重《ひとへ》へだてた部屋では、一緒の船だつた、芸者の幾人かの声がしてゐる。
「でも、帰りさへすればいゝンだわ。日本へ着いた以上は、こつちの躯よ、ねえ……」
「本当に寒くて心細いわ。……あたい、冬のもの、何も持つてやしないもンね。これから、まづ身支度が大変だよ」
口ほどにもなく、案外陽気なところがあつて、何がをかしいのか、くすくす笑つてばかりゐる。
ゆき子は所在なく寝床へ横になつて、暫《しばら》く呆《ぼ》んやりしてゐたが、気が滅入《めい》つて、くさくさして仕方がなかつた。それに、何時《いつ》までたつても、隣室の騒々しさはやまなかつた。べとついた古い敷布に、ほてつた躯を投げ出してゐるのは、気持ちのいゝことであつたが、これからまた、長い汽車旅につくといふことは、心細くもあつた。肉親の顔を見るのも、いまではさして魅力のある事ではなくなつてゐる。ゆき子は、このまゝまつすぐ東京へ出て、富岡を尋ねてみようかとも思つた。富岡は運よく五月に海防《ハイフォン》を発《た》つてゐた。先へ帰つて、すべての支度をして、待つてゐると約束はしてゐたのだが、日本へ着いてみて、現実の、この寒い風にあたつてみると、それも浦島太郎と乙姫《おとひめ》の約束事のやうなもので、二人が行き合つてみなければ、はつきりと、確かめられるわけのものでもない。船が着くなり、富岡のところへ電報も打つた。三日間を引揚げの寮に過して、調べが済むと、同時に、船の者達は、それぞれの故郷へ発つて行くのだ。三日の間に、富岡からは返電は来なかつた。これが逆であつてみても、同じやうな事になつてゐるのかもしれないと、ゆき子は何となく、あきらめてきてもゐた。ひとねいりしたが、まだ時間はあまりたつてゐない。障子が昏《くら》くなり、部屋のなかに、燈火がついてゐる。隣りでは、食事をしてゐる様子だつた。ゆき子も腹が空いてゐた。枕許《まくらもと》のリュックを引き寄せて、船で配給された弁当《レイション》を出した。茶色の小さい箱のなかに、四本入りのキャメルの煙草や、ちり紙、乾パン、粉末スープ、豚と馬鈴薯《ばれいしよ》の罐詰なぞが、きちんとはいつてゐる。その中からチョコレートを出して、ゆき子は、腹這《はらば》つたまゝ齧《か》じつた。少しも甘美《おいし》くはなかつた。
――ドウソン湾の紅黄《あかきい》ろい海の色が、なつかしく瞼《まぶた》に浮ぶ。ドウソンの岬の、白い燈台や、ホンドウ島のこんもりした緑も、生涯見る事はないだらうと、ゆき子は、船から焼きつくやうに、この景色に眼をとめてはゐたが、そんな、異郷の景色もすつかり色あせてきて、思ひ出すのも億《おく》くふであつた。隣室の女達は、夜汽車で発つのか、食事が終ると、宿のおかみさんに、勘定を払つてゐる様子だつた。ゆき子は騒がしい隣室の様子を聞きながら、粉末スープを湯呑みにあけて、煮えた湯をそゝいで飲んだ。残りのらつきようも食べた。軈《やが》て女達は、お世話さまになりましたと、口々に云ひながら、おかみさんの後から廊下を賑《にぎ》やかに通つて行つた。女の声を聞いてゐると、ゆき子は、あの女達も、それぞれの故郷へ戻つて行くのだらうと、誘はれる気がした。ゆき子が、船で聞いたところによると、芸者達は、プノンペンの料理屋で働いてゐたのださうで、二年の年期で来てゐた。芸者とは云つても、軍で呼びよせた慰安婦である。――海防の収容所に集つた女達には、看護婦や、タイピストや、事務員のやうな女もゐたが、おほかたは慰安婦の群であつた。こんなにも、沢山《たくさん》日本の女が来てゐたのかと思ふほど、それぞれの都会から慰安婦が海防へ集つて来た。――幸田ゆき子はダラットとドュランの間にある、パスツール研究所の、規那園《キナゑん》栽培試験所のタイピストとして働いてゐた。昭和十八年の秋、ダラットに着いたのである。この地は海抜高一・六〇〇米《メートル》位で、気温も最高二五度、最低六度位で、高原地帯のせゐか、非常に住みいゝところであつた。仏蘭西《フランス》人で茶園を経営してゐるものが多く、澄んだ高原の空に、甘い仏蘭西の言葉を聞くのは、ゆき子には珍しかつた。
ゆき子はふつと、富岡へ手紙を書かうと思つた。どんな事を書いていゝかは、判らなかつたけれども、書いて行くうちには、何とか心がまとまつて来さうであつた。富岡と同じ土の上に着いてゐるのだと思ふと、海防の収容所で、心細く虚無的になつてゐた気持ちも、少しづつ立ちなほつてきさうである。ゆき子は店の子供に頼んで、レターペエパアと封筒を買つた。
ゆき子は気が変つて来た。ゆき子は、まつすぐ東京へ出て伊庭《いば》を尋ねてみようと思つた。焼けてさへゐなければ、富岡に逢へるまで、まづ伊庭の処へ厄介になつてもいゝのだ。厭な記憶しかないが、仕方がない。静岡には何のたよりもしなかつたので、自分の帰りを待つてくれる筈《はず》もない。――夜更けの汽車で、ゆき子は敦賀を発つた。船で一緒だつた男の顔も二人ばかり、暗いホームで見掛けたけれども、ゆき子は、わざとその男達から[#「男達から」は底本では「男達たちから」]離れて後の列車に乗つた。驚くほどの混雑で、ホームの人達はみんな窓から列車に乗り込んでゐる。ゆき子も、やつとの思ひで窓から乗車する事が出来た。何も彼もが、俊寛のやうに気後《きおく》れする気持ちだつた。南方からの引揚げらしい、冬支度でないゆき子を見て、四囲の人達がじろじろゆき子を盗見してゐる。如何《いか》にも敗戦の形相《ぎやうさう》だと、ゆき子もまた立つて揉《も》まれながら、四囲を眺めてゐた。夜のせゐか、どの顔にも気力がなく、どの顔にも血色がない。抵抗のない顔が狭い列車のなかに、重なりあつてゐる。奴隷列車のやうな気もした。ゆき子はまた、少しづつこの顔から不安な反射を受けた。日本はどんな風になつてしまつたのだらう……。旗の波に送られた、かつての兵士の顔も、いまは何処にもない。暗い車窓の山河にも、疲労の跡のすさまじい形相だけが、るゐるゐと連《つ》らなつてゐた。
東京へ着いたのは、翌日の夜であつた。雨が降つてゐた。品川で降りると、省線のホームの前に、ダンスホールの裏窓が見えて、暗い燈火の下で、幾組かが渦《うづ》をなして踊つてゐる頭がみえた。光つて降る糠雨《ぬかあめ》のなかに、物哀しいジャズが流れてゐる。ゆき子は寒くて震へながら、崖《がけ》の上のダンスホールの窓を見上げてゐた。光つた白い帽子をかぶつた、背の高いMPが二人、ホームのはづれに立つてゐる。ホームは薄汚れた人間でごつた返してゐる。ジャズの音色を聞いてゐると、張りつめた気もゆるみ、投げやりな心持ちになつて来る。そのくせ、明日から、生きてゆけるものなのかどうかも判らない懼《おそ》れで、胸のなかが白けてゐた。ホームに群れだつてゐるものは、おほかたがリュックを背負つてゐた。時々、思ひもかけない、唇の紅い女が、外国人と手を組んで、階段を降りて来るのを見ると、ゆき子は、珍しいものでも見るやうに、じいつとその派手なつくりの女を見つめた。かつての東京の生活が、根こそぎ変つてしまつてゐる。
ゆき子が、西武線の鷺《さぎ》の宮《みや》で降りた時、その電車が終電車であつた。踏み切りを渡つて、見覚えの発電所の方へ行く、広い道を歩いてゐると、三人ばかりの若い女が、雨のなかを急ぎ足にゆき子のそばを通り抜けて行つた。三人とも、派手な裂地《きれぢ》で頬かぶりをして、長い外套《ぐわいたう》の襟をたててゐた。
「今日、横浜まで送つて行つたのよオ。どうせ、ねえ、向うには奥さんもあるンでせう……。でも、人間つて、瞬間のものだわねえ。それでいゝンだらう……。友達を紹介して行つてくれたンだけどさア、何だか変なものよねえ。自分の女にさア、友達をおつつけて行くなンて、日本人には判らないわ……」
「あら、だつて、いゝぢやないの。どうせ、別れてしまへば、二度と、その人と逢へるもンでもないしさア、気を変へちやふのよオ。あたしだつて、もうぢき、あの人かへるでせう……。だからさア、厚木へ通ふのも大変だしね、そろそろ、あとのを探さうかと思つてンのよ……」
ゆき子は、賑《にぎ》やかな女達の後から足早やについて行つた。そして、声高《こわだか》に話してゐる女達から聞く話に、日本も、そんな風に変つてしまつてゐるのかと、妙な気がしてきた。
軈《やが》て女達は、ポストの処から右へ這入つて行つてしまつた。ゆき子はすつかり濡れ鼠になつて疲れてゐた。此のあたりは、南へ出発の時と少しも変つてはゐなかつた。細川といふ産婆の看板を左へ曲つて二軒目の、狭い路地を突きあたつたところに、伊庭の家がある。自分の、このみじめな姿を見せたら、みんな驚くに違ひない。ゆき子は石の門の前に立つて、暗い街燈の下で身づくろひをした。ずつぷりと髪も肩も濡れてゐる。落ちぶれ果てたものだと思つた。ベルを押してゐると、仏印へなぞ行つてゐた事が、嘘のやうな気がして来た。玄関の硝子戸に燈火が射して、すぐ大きい影が、土間に降りたつたやうだ。ゆき子は動悸《どうき》がした。男の影だけれど、伊庭ではない。
「どなた?」
「ゆき子です……」
「ゆき子? どちらの、ゆき子さんですか?」
「仏印へ行つてました、幸田ゆき子です」
「はア……。どなたをお尋ねですか?」
「伊庭杉夫はをりませんでせうか?」
「伊庭さんですか? あのひとは、まだ疎開地から戻つてはをられませんですよ」
その影の男は、やつと、億くふさうに鍵を開けてくれた。濡れ鼠になつて、外套も着ないで、リュックを背負つてゐる若い女を見て、寝巻きを着た男は、吃驚《びつくり》したやうな様子で、ゆき子を眺めた。
「伊庭の親類のもので、今日、戻つて来たものですから……」
「まア、おはいり下さい。伊庭さんは、三年ほど前から、静岡の方へ疎開していらつしやるンですがね」
「ぢやア、こゝはもう、伊庭はすつかり引揚げてゐるンでせうか?」
「いや、伊庭さんの代りにはいつてゐるンですが、伊庭さんの荷物は来てゐますよ」
ゆき子達の話声を聞いて、その男の細君らしいのが、赤ん坊をかかへて玄関へ出て来た。ゆき子は仏印から引揚げて来た事情を話した。伊庭と、この男との間は、家の問題でいざこざがある様子で、あまりいゝ顔はしなかつたが、それでも、こゝは寒いから座敷へ上れと云つてくれた。
敦賀の宿で、握り飯を一食分だけ特別につくつてくれた以外は、飲まず食はずの汽車旅だつたので、ゆき子は躯が宙に浮いてゐるやうだつた。廊下のミシンにぶつつかつたりして、座敷へ通ると、伊庭の一家が何時《いつ》も寝室に使つてゐた六畳間で、荷造りした荷物が畳もへこんでしまふ程積み重ねてあつた。仏印から引揚げて来たと聞いて、細君は同情したのか、茶を淹《い》れたり、芋干しを出したりした。男は四十年配で、躯の大きい、軍人あがりの、武骨なところがあつた。細君は小柄で色の白い、そばかすの浮いた顔をしてゐたが、笑ふと愛嬌《あいけう》のいゝ笑靨《ゑくぼ》が浮いた。
その夜、蒲団を二枚借りて、伊庭の荷物の積み重ねてある狭いところへ、ゆき子は一夜の宿をとる事が出来た。ゆき子はリュックからレイションを二箱出して細君へ土産《みやげ》代りに出した。
床にはいつて、寝ながら、こも包みの荷の中へ指を差しこんでみると、厚い木でがんじやうに打ちつけてあるので、なかに何がはいつてゐるのかさつぱり判らない。話によると、暮までには伊庭が上京して来るので、二部屋ばかり空《あ》けなければならないと細君は云つてゐた。六人家内なので、いまのところ、どの部屋を空けるかが問題だけれど、自分達は空襲時代、一生懸命にこの家を護《まも》つたのだから、急にどいてくれと云はれても、どくところはないし、そんな事は、道に外《は》づれてゐると云つた。伊庭も、何時までも田舎暮《ゐなかぐら》しも出来ないので、苛々《いらいら》してゐるのだらうと、ゆき子は、早々と荷物を送りつけて来てゐる伊庭一家の気持が察しられた。みんな丈夫でゐるらしい事も判つて、かへつてゆき子は拍子抜けのするやうな気持ちだつた。
幸田ゆき子が仏印のダラットに着いたのは、昭和十八年の十月も半ば過ぎであつた。農林省の茂木技師一行に連れられて、四人のタイピストがまづ海防《ハイフォン》に着いた。――茂木技師は、仏印の林業調査に軍から派遣される事になり、同じ農林省で働いてゐるタイピストを募《つの》つて、それぞれの部署に一人づつのタイピストを置いて来る事になつてゐた。志願者は五人ばかりあつたが、幸田ゆき子も志願して一行に加はつた。――病院船で海防に着き、軍の自動車で河内《ハノイ》へ出て、河内で、三人のタイピストが勤め先きを持つた。幸田ゆき子は高原のダラッ卜へきまり、もう一人の篠井春子はサイゴンに職場を得た。一番貧乏くじを引いたのは幸田ゆき子である。地味で、一向に目立たない人柄が、さうしたところに追ひやつたのかも知れない。額の広い割に、眼が細く、色の白い娘だつたが、愛嬌にとぼしく、何処《どこ》となく淋しみのある顔立ちが人の眼を惹《ひ》かなかつた。軍の証明書に張つてある彼女の写真は、年よりは老けて、二十二歳とは見えなかつた。白い襟つきの服が似合ふ以外に、何を着てゐても、何時も同じやうな服装をしてゐる女にしかみえない。サイゴンに行く篠井春子は、五人のなかでも一番美人で、一寸李香蘭《りかうらん》に似た面差《おもざ》しがあつたので、幸田ゆき子なぞの存在は、誰にも注意されなかつたのだ。――二台の自動車で、一行は河内《ハノイ》を発つたが、タンノア、フウキ、ビンと走つて、最初の夜はビンに泊つた。河内から南部印度支那のビンまでは、自動車で三百五十キロ走つた。ビンのグランド・ホテルに宿を取つた。道々の野山は、野火の跡で黒くくすぶつてゐたり、またあるところでは、むくむくと黄ろい煙をたてて燃えてゐる林野もあつた。油桐や松の造林地帯がほとんどで、行けども行けども森林地帯のせゐか、篠井春子は、幾度も太い溜息《ためいき》をついて、わざと心細がつてみせてゐるところもあつた。ゆき子は馴《な》れない長途の旅で、へとへとに疲れてゐた。タンノアといふところを出てから、長く続いてゐる黄昏《たそがれ》の道を、自動車はかなりのスピードで走つたが、ビンへ近くなつてからは、昏《くら》くなつた四囲に、大きな蛾《が》が飛び立つてゐて、自動車のヘッドライトに明るく照し出された道の方へ、紙片を散らしたやうに、白い蛾《が》が群れだつて寄つて来た。
ホテルの左手には、運河でもあるのか、水に反響する安南人の船頭の声がしてゐた。食用蛙がやかましく啼《な》きたててゐる。ビンロウや、ビルマネムの植込みのなかへ自動車を置いて、一行はホテルの部屋へ案内された。運河の見える、こざつぱりした階下の部屋に、篠井春子と幸田ゆき子は通された。
春子は窓を開けた。運河の水音がしてゐる。橙色《だいだいいろ》の燈のついた卓子には、二人の貧弱なトランクが並んでゐた。桃色の花模様の壁紙や、柔い水色毛布のかゝつてゐるダブルベッドは、如何《いか》にも仏蘭西《フランス》人の趣味らしく、清潔で可愛いかつた。戦争下の日本で、長らく貧しい生活にあつた二人にとつて、これはまるでお伽話《とぎばなし》の世界である。顔を洗つて、食堂で遅い晩食をとつてゐると、腕に憲兵の白い布を巻いた兵隊が、わざわざ女二人の身分証明書を見に来たりした。若い憲兵は、日本の女が珍しくなつかしかつたのだらう。――その夜、ゆき子も春子も、仲々寝つかれなかつた。日本を発《た》つ時は、うそ寒い陽気だつたのに、海防から、河内、タンノアと南下して来るにつれて、急に季節はまた夏の方へ逆もどりしてゐた。柔《やはらか》い、弾力のあるベッドに寝てゐると、仲々寝つかれない。太棹《ふとざを》の三味線でも聴いてゐるやうに、食用蛙が、ぽろんぽろんと雨滴のやうに何時までも二人の耳についてゐた。
東京を発つ時の、伊庭の家での事や、友人達との壮行会や、陸軍省でのあわたゞしい注射の日が、夢うつゝに浮んで、ゆき子は、仏印にまで来るなぞとは夢にも考へられなかつた運命が、自分でも不思議でならなかつた。――伊庭杉夫は姉のかたづいたさきの伊庭鏡太郎の弟であつたが、杉夫には妻も子供もあつた。東京へ家を持つてゐる唯一の親類さきで、ゆき子は静岡の女学校を出るとすぐ、伊庭杉夫の家へ寄宿して、神田のタイピスト学校へ行つた。杉夫は保険会社の人事課に勤めてゐて、実直な男だと云ふ評判であつたが、ゆき子が寄宿して、丁度《ちやうど》一週間目の或夜、ゆき子は杉夫の為に犯されてしまつた。女中部屋の三畳にゆき子は寝てゐた。何となく眠れない夜で、杉夫が台所に水を飲みに行つてゐる物音をゆき子はうとうと聴いてゐたが、軈《やが》て、すつと女中部屋の障子が開いた。ゆき子は、それを夢うつゝに聴いてゐた。その障子はまた静かに閉まつて、みしみしと畳をふむ音がした。重くかぶつてくる男の体重に胸を押されて、ゆき子ははつとして、暗闇《くらやみ》に眼を開いた。革臭《かはくさ》い匂ひがして、杉夫が何か小さい声で云つたのが、ゆき子には判らなかつた。蒲団の中に、肌の荒い男の脚が差し寄せられて、初めて、ゆき子は声をたてようとした。そのくせ、声をたてるわけにもゆかないものを感じて、ゆき子は身を固くして黙つてゐた。
その夜の事があつて以来、ゆき子は、杉夫の妻の真佐子に、顔むけのならないやうな気がしてゐたけれども、ゆき子は、夜になると、杉夫の来るのが何となく待ちどほしい気がしてならなかつた。杉夫は来るたびに、ハンカチをゆき子の口のなかへ押し込むやうにした。美人で、機智のある妻の真佐子をさしおいて、目立たない自分のやうな女に、どうして杉夫がこんな激しい情愛をみせてくれるのか、ゆき子は不思議だつた。――ゆき子は三年を伊庭のところで暮した。タイピスト学校を出て、農林省へ勤めてゐた。真佐子は杉夫とゆき子の情事は少しも知らない様子だつた。たまに、真佐子が子供づれで横浜の実家へ泊りに行つたりすると、杉夫は早くから寝床へ就《つ》いて、ゆき子を呼んだりした。ゆき子は、只、黙つて杉夫の意のまゝにしたがふより仕方がない。将来に就いて語りあふといふでもなく、まるで娼婦《しやうふ》をあつかふやうなしぐさで、杉夫は、ゆき子をあつかつた。――ゆき子が、仏印行きの決心を固めたのも、かうした不倫から自分を抜けきりたい気持ちで、事がきまるまでは、伊庭夫婦にも、静岡の母にも、姉弟《きやうだい》にも打ちあけなかつたのだ。いよいよ、仏印行きが本当にきまつてから、ゆき子は肉親にも知らせ、伊庭夫婦にも打ちあけた。杉夫は別に顔色も変へなかつた。
ゆき子は、案外冷たい表情でゐる杉夫を盗み見て、心のなかに噴《ふ》きあげるやうな侮辱を感じてゐたが、自分が伊庭の家を出る事によつて、伊庭の心のなかに、太い釘を差し込むやうな、気味のいゝものも感じた。真佐子に対しても、ゆき子はかへつて憎しみを持つやうになり、時々、真佐子の口から、「このごろ、ゆきさんはすぐふくれるやうになつたのね。早くお嫁さんにやらなくちや駄目だわ」と冗談《じようだん》にも、皮肉にもとれるやうな事を云つたりする。杉夫は、ゆき子がいよいよ二三日うちに仏印出発と聞くと、薬や、ハンドバッグや、下着の類を買ひとゝのへて来た。ゆき子は杉夫にそんな事をして貰ふのが口惜《くや》しくてたまらなかつた。真佐子は真佐子で、ゆき子に対して、杉夫のさうした心づかひが不思議で、反撥《はんぱつ》するものを持つてゐる様子だつた。
ゆき子は明け方になつて、杉夫の夢を見た。遠い旅に出たせゐか、妙に人肌恋しくて、奈落に沈んでゆくやうな淋しさになる。ここまで来てゐながら、日本へ帰りたい気がしてならなかつた。ハンカチを口へ押し込む時の、気忙《きぜ》はしい杉夫の息づかひが、耳について離れない。厭だと思ひ続けてゐた杉夫が、こんなに遠いところへ来て、急に恋しくなるのは変だと、ゆき子は、杉夫との情事ばかりを想ひ出してゐた。きつと、杉夫は淋しがつてゐるに違ひない。只、あのひとは無口だつたから、別に、こみいつた事も云はなかつたけれども、仏印へ発つ日まで、二人の関係が続いてゐた。三年も関係が続いてゐて、どうして子供が生れなかつたのだらう……。そのくせ、三年の間に、真佐子の方には男の子が生れた。
ゆき子は果てしもなく、いろいろな記憶がもつれて来る事に、やりきれなくなつて、そつと起きた。ヴェランダへ通じる硝子戸《ガラスど》を開けると、運河はすぐ眼の前に光つてゐた。ビルマネムの大樹が運河添ひに並木をなして、珍しい小禽《ことり》の声が騒々しくさへづつてゐた。もやの淡く立ちこめた運河の上に、安南人の小船がいくつももやつてゐる。石造りのヴェランダに凭《もた》れて、朝風に吹かれてゐると、何ともいへないいゝ気持ちだつた。地球の上には、かうした夢のやうな国もあるものだと、ゆき子は、小禽《ことり》のさへづりを聴いたり、運河の水の上を呆《ぼ》んやり眺めてゐたりした。燕も群れをなして飛んでゐる。海防《ハイフォン》の濁つた海の色を境にして、何も彼《か》も虚空の彼方《かなた》に消えてゆき、これから、どんな人生が待つてゐるのか、ゆき子には予測出来なかつた。
早い朝食が済んで、また自動車に乗り、南部仏印での古都である、ユヱへの街を指して、一行は発《た》つて行つた。木麻黄《もくまわう》の並木路を透《す》かして、運河ぞひの苫屋《とまや》からも、のんびりと炊煙があがつてゐた。広い植民道路を、黄色に塗つたシトロエンが、シュンシュンとアスファルトの道路に吸ひつくやうな音をたてて走つてゐる。
ビンの街は、人口二万五千あまりで、北部安南でもかなり重要な街だと、一行での男連中の話である。軈《やが》て、植民道路は高原のラオスにはいつて行く路と二つに分れた。時々、野火が右手の森林から煙を噴いてゐる。広い森林地帯の中のユヱへの植民道路をかなり走つてから、やつと四囲に薄陽《うすび》が射《さ》し始め、晴々と夜が明けて来た。陽が射して来ると、空気がからりと乾いて、空の高い、爽涼《さうりやう》な夏景色が展《ひら》けて来た。
第二泊目はユヱで泊つた。こゝでも、一行はグランド・ホテルに旅装をといた。日本の兵隊がかなり駐屯してゐる。ホテルの前に、広いユヱ河が流れてゐた。クレマンソウ橋が近い。ゆき子は、こんなところまで、日本軍が進駐して来てゐる事が信じられない気がしてゐた。無理押しに、日本兵が押し寄せて来てゐるやうな気がした。このまゝでは果報でありすぎると思つた。そのくせ、このまゝ長く、この宝庫を占領出来るものなのかどうかも、ゆき子は考へてゐるいとまもないのだ。自動車が走つてゆくまゝに、身をゆだねて、あなた任せにしてゐるより仕方がない、単純な気持ちだけで旅をしてゐた。かうしたところで見る、日本の兵隊は、貧弱であつた。躯《からだ》に少しもぴつたりしない服を着て、大きい頭に、ちよんと戦闘帽をつけてゐる姿は、未開の地から来た兵隊のやうである。街をゆく安南人や、ときたま通る仏蘭西《フランス》人の姿の方が、街を背景にしてはぴつたりしてゐた。華僑《くわけう》の街も文化的である。都心の街路には、樟《くす》の木の並木が鮮《あざや》かで、朝のかあつと照りつける陽射しのなかに、金色の粉《こ》を噴いて若芽を萌《きざ》してゐた。赤煉瓦《あかれんぐわ》の王城のあたりでは、若い安南の女学生が、だんだらの靴下をはいて、フットボールをしてゐるのなぞ、ゆき子には珍しい眺めだつた。河のほとりの遊歩場には、花炎木《くわえんぼく》や、カンナの花が咲いてゐた。河は黄濁して水量も多く、なまぐさい河風を朝の街へ吹きつけてゐた。
旅空にあるせゐか、一行は七人ばかりであつたが、かなり自由に、解放された気持ちになつてゐる様子だつた。鉱山班の瀬谷といふ老人は、河内からずつと女連の自動車の方へばかり乗り込んで、篠井春子のそばへ腰をかける習慣になつてゐた。わざと春子の肩や膝頭《ひざがしら》に躯をくつつけて、汗のにちやつくのもかまはずに、図々しくみだらな話をしてゐる。――サイゴンは小巴里《パリ》だと云はれる程、巴里的な街だと聞いて、ゆき子は篠井春子が妬《ねた》ましかつた。自分もそんな美しい街へポストを持ちたかつた。きまつてしまつたものは仕方がないけれども、さうした命令が、女にとつては、顔かたちの美醜にある事も、ゆき子はよく知つてゐる。ダラットといふ、聞いた事も見た事もない、高原の奥深いところで、平凡な勤めに就く運命が、ゆき子には何となく情けない気持ちだつた。若い女にとつて、平凡といふ事位苦しいものはない。一年はどうしても勤めなければならない事も、心には重荷であつた。
東京を発《た》つ時、杉夫が、仏印がいゝところだつたら、俺達も呼んでくれないか、せめて内地の戦時世相から解放されたいと冗談を云つてゐたけれども、杉夫も、保険会社なんかやめて、志願してでも仏印へ来てくれるといゝと空想した。
ユヱで一泊して、海辺のツウフン駅から、一行はサイゴン行きの汽車へ乗つた。狭い可愛い車体だつたが、二等車は案外、贅沢《ぜいたく》な設備がしてあつた。ソファや、小卓があり、小さい扇風機も始終《しじゆう》気忙《きぜ》はしく車室をかきまはしてゐる。部屋の隣りには、シャワーの設備もあつて、自動車の旅よりはずつと快よかつた。コオヒイを注文すると、まるで花壺のやうな、深い茶碗に、安南人のボーイが持つて来てくれる。こゝで、初めて、ゆき子は篠井春子と二人きりの部屋にをさまる事が出来たのだ。汽車は動揺が激しく、コオヒイ茶碗の花壺のやうなしかけも、この動揺の為なのだと判つた。自動車の旅と少しも変らない程、砂塵《さぢん》が何処からか吹き込んで来るのには、二人とも閉口だつた。どんな贅沢《ぜいたく》な設備も、黄ろい砂塵の吹きこむ列車は不潔である。春子は何時《いつ》の間にどうした手段で求めたのか、絹靴下をはき、洒落《しや》れたラバソールをつつかけてゐた。そして、汽車に乗る時から気にかけてはゐたのだけれども、春子は、匂ひの甘い香水をつけてゐた。ゆき子は自分が惨《みじ》めに敗《ま》けてしまつた気で、学校時代のサージの制服を仕立てなほした洋袴《ズボン》に、爪先きのふくらんだ、汚れた黒靴をはいてゐる事に、いまいましいものを感じてゐる。長い旅路で、紺の洋袴はかなり汚れて来てゐる。春子の化粧の濃くなつたのを妬《ねた》まし気に眺めながらゆき子は、
「篠井さんはサイゴンに落ちつくなんて幸福だわね」と、云つた。
「あら、いゝところなのか、悪いところなのかは、行つてみなくちや判らないわ。幸田さんこそ、パスツウルの規那園《キナゑん》なンて、とてもハイカラぢやないの? 貴女《あなた》は勉強家だから、すぐ、仏蘭西語も、安南語も覚えちやふでせう。とても、第一級のところぢやないの? 私、さう思ふわ。涼しくて、いゝ処なンですつてね……」
ゆき子は、春子が心のゆとりを持つて、慰めてくれてゐる事は、よく判つてゐた。
「でも、人間の数の少ないところつて、淋しいわ。第一、苦労をともにして来た貴女たちに別れて、誰も知らない山の中へ行くなンて、淋しいのよ。退屈だらうと思ふの……」
行けども行けども、山野の波間を、汽車は激しい動揺で走つてゐる。
サイゴンに着いたのは夜であつた。
ゆき子は、かうした旅に馴《な》れなかつたせゐか、へとへとに疲れてゐた。どうかすると、一日のうちに、幾度かわけのわからない熱の出る時もあつた。サイゴンでは、五日ほど暮す事になり、こゝでまた軍への手続きが相当手間どつで、独《ひと》りになつて街を見物するゆとりは許されなかつた。サイゴンでは、軍の指定した旅館で、海防を出て以来、初めて、身分相当な貧しい旅館に落ちついた。四日目に、篠井春子は、軍報道部に働く中渡といふ男に連れられて、勤めさきの宿舎へ変つて行つた。ゆき子たちの旅館は、以前は華僑の住宅ででもあつたらしく、飾りつけの何もないがらんとした部屋々々に、折りたゝみ式のベッドがあるだけのもので、安南人の女が二人、ものうさうに部屋々々の掃除をしてまはつてゐる。茂木技師も、黒井技師も、瀬谷も、ゆき子と一緒にダラットへ出掛ける連中なので、食堂は何時《いつ》も、此のグループだけが部屋の隅に集つた。しつくひ塗りの青い壁に、粗末な大きい地図が張りつけてある。紫檀《したん》の背の高い卓子が三つほど並び、それぞれの用向きを持つて泊つてゐる連中が、こゝで食事をする。食堂へ来る顔ぶれは何時も流れるやうに変つてゐた。――離合集散の激しい食堂で、窓ぎはの涼しい場所に、何時も変らない顔が一人だけあつた。ふつと、ゆき子はこの男に注意を惹《ひ》いた。食事中も、いつも本を読むとか、新聞を読んでゐた。別に、連れがあるらしくもなく、そこへ腰をかける時間も、場所も、判で押したやうだつた。色は青黒く、髪の毛の房々とした、面長《おもなが》な顔立ちで、じいつと本を読んでゐる横顔は、死人のやうに生気のない表情をしてゐた。夜になると、何処《どこ》からか戻つて来て、誰もゐない食堂で、ウィスキーの壜《びん》を前に置いて酒を飲んでゐる。シャフスキンの半袖シャツを着て、茶色の洋袴《ズボン》をはいてゐるところは、ゆき子には安南人のやうにも見えた。ゆき子は熱があつたので、時々食堂へ氷を貰ひに行つたが、その男は、何時でも食堂の椅子《いす》に膝をたてた、不作法な腰のかけ方で酒を飲んでゐた。ゆき子が食堂へはいつて行つても、別に、ゆき子の方を注意するでもなく、ゆつくり孤独を愉《たの》しんでゐるやうな茫洋《ばうやう》とした風貌《ふうばう》をして、酒を飲んでゐる。此の宿舎の近くには、夜でも賑《にぎ》やかに、レコードやラジオを鳴らしてゐる華僑の飲食店が並んでゐた。風のむきで、遠くかすかに、食堂のなかへ、父よあなたは強かつたの日本の曲なぞが流れて来る。食堂の隅で、薬を飲んでゐると、ふつと、ゆき子はこの曲に誘はれた。何といふ事もなく、酒を飲んでゐる男と話をしてみたい、冒険的な気持ちになつてきた。ゆき子は、男といふものは、みんな杉夫のやうな性癖を持つてゐるやうであり、旅空のせゐか、誰の紹介もなく話しかけてもかまはないのではないかとも考へる気分になり、そこに散らかつてゐる日本新聞なぞを、ゆつくり読み耽《ふけ》つてゐたりした。
男は、何ものにもとんちやくしない太々しさで、本を読みながら、酒を飲んでゐる。酒を飲むと、肌に赤味がさして、白い半袖からむき出した、すくすくとのびた腕が、ゆき子の眼をとらへる。三十四五になつてゐるであらうか。名前も知らなければ、職業も判らないまゝで、別れるひとなのだと思ふにつけ、ゆき子は一人寝の、狭いベッドへ這入《はい》つてからも、その男の事が始終瞼《まぶた》を離れなかつた。
五日目に、ダラットへ行くトラックの便《びん》があるといふので、茂木技師一行について、ゆき子はまた旅支度をした。――サイゴンは、昔、クメール族の名づけで、プレイ・ノコールと云つてゐた。森の都と云ふ意味である。トラックの上から見る、サイゴンの大通りは、ヨウの大樹の並木が、亭々《ていてい》と並んでゐて、その樹下のアスハルトの滑《すべ》つこい大通りを、輪タクに似たシクロが昆虫のやうに走つてゐた。繁華なカチナ通りの、タマリンドウの街路樹の下に、水色の服を着た仏蘭西人の子供の遊んでゐるところなぞは、絵を見るやうだつた。タマリンドウの梨のやうな果実が、るゐるゐと実つて、まるで田園の感じである。道はちりつぱ一つなく、大樹の並木の下を、悠々《いういう》と往来してゐる安南人や、華僑《くわけう》の服装は、貧弱な日本の服装を見馴れたゆき子には驚異であつた。急に篠井春子が羨《うらやま》しかつた。こんな美しい都にとゞまつてゐられる事自体が妬《ねた》ましいのだ。陽をさへぎつた、うつさうとした並木の下を、日本の兵隊が歩いてゐる。兵隊は、日本といふ故郷や、軍隊の背景も感じられない、孤独なたよりなさで群れ歩いてゐた。歩いてゐるといふよりは、そこへ投げ出されてゐるといつた方がいゝかも知れない。トラックの上にゐる一行の顔も、長途の旅疲れもあるせゐか、膏《あぶら》の浮いた貧しい顔をしてゐた。ゆき子は、自分も亦《また》その一人なのだと思ひ、何のほこりもない、日傭《ひやと》ひ人夫の娘にでもなつたやうな佗《わび》しいものが心をよぎつた。ゆき子は内地へかへりたかつた。ダラットがどのやうな土地なのか、もう、どうでもいゝのだ。人恋しくて、たつた独りでダラットの高原へなぞ、住んではゐられない気がする。篠井春子と別れた鉱山班の瀬谷は、手の裏を返すやうに、ゆき子へにこにこした顔をむけた。
「厭に悄気《しよげ》てゐるンだね。元気を出すんだよ。何処へ行つたつて、日本の兵隊がゐるンだ。何も心配する事はない。しかもだね、たつた一人の日本女性として、責任は重大なりだ。皇軍とともに働いて貰はなくちやいけない。ね、さうぢやないかね……」
ダラットにあと十六キロといふ、プレンといふ部落から曲りくねつた勾配になり、ランビァン高原への九十九折《つづらをり》のドライヴウ※[#小書き片仮名ヱ、239-上-2]イをトラックはぐうんぐうんと唸《うな》りながら登つた。夕方であつたが、時々沿道の森蔭に白い孔雀《くじやく》がすつと飛び立つて一行を驚かせた。
夕もやのたなびいた高原に、ひがんざくらの並木が所々トラックとすれ違ひ、段丘になつた森のなかに、別荘風な豪華な建物が散見された。いかだかづらの牡丹色《ぼたんいろ》の花ざかりの別荘もあれば、テニスコートのまはりに、ミモザを植ゑてあるところもある。金色の花をつけたミモザの木はあるかなきかの匂ひを、そばを通るトラックにたゞよはせてくれた。ゆき子は夢見心地であつた。森の都サイゴンの比ではないものを、この高原の雄大さのなかに感じた。三角のすげ笠をかぶつた安南の百姓女が、てんびんをかついでトラックに道をゆづるのもゐた。
高原のダラットの街は、ゆき子の眼には空に写る蜃気楼《しんきろう》のやうにも見えた。ランビァン山を背景にして、湖を前にしたダラットの段丘の街はゆき子の不安や空想を根こそぎくつがへしてくれた。以前は市の駐在部であつたといふ白堊《はくあ》の建物の庭にトラックがはいつてゆくと、庭の真中に日の丸の旗が高くあげてあつた。地方山林事務所と書いた新しい看板が石門に打ちつけてある。その下に、安南語と仏蘭西語で小さく墨の文字で書いた板も打ちつけてあつた。湖の見える応接間で、一行は事務所長の牧田氏に会つた。ゆき子はこゝに当分働く事になり、ゆき子だけ安南人の女中に案内されて自分にあてがはれた部屋へ行つた。二階の一番はづれの部屋で、湖や街の見晴しはなかつたが、北の窓からはランビァンの山が迫つてみえた。庭にはいかだかづらの花が盛りで、毛の房々した白い犬が芝生にたはむれてゐた。
ゆき子は長い旅の果てに、やつと自分の部屋に落ちついたのである。チーク材の床には敷物もなかつたが、かへつて涼しさうだつた。何処《どこ》からか運んで来たのであらう、粗末なベッドに、腰高な机と椅子が一つ。白いペンキ塗りの狭い洋服箪笥《だんす》が、暗い部屋の調和を破つてゐた。ねぐらを求めて小禽《ことり》が、夕あかりの黄昏《たそがれ》のなかに騒々しくさへづつてゐた。茂木技師や、瀬谷たちは、ダラット第一級のホテルである、ランビァン・ホテルに牧田氏の自動車で引きあげて行つた。牧田喜三は、鳥取の林野局をふりだしに、農林省へはいつた人物ださうで、四十年配の太つた小柄な男であつた。昭和十七年の暮に、軍属として、赴任して来た。部下は四人ばかりあつたが、みんなそれぞれが、山の分担区に視察に出掛けてゐる様子で、安南人の通訳が二人と、林務官一人、混血児だといふ女の事務員が一人ゐる。――ゆき子はへとへとに疲れてゐた。ランビァン・ホテルへ一行とともに夕食の案内を受けたが、気分が悪くて行く気がしなかつた。ベッドの毛布の上に転がつてゐると、トラックの震動がまだ続いてゐるやうで、耳の中がふたをしたやうに重苦しかつた。昏々《こんこん》と眠りたかつた。眼を[#「眼を」は底本では「眠を」]閉ぢると、蝉の啼《な》きごゑのやうな、森林のそよぎが耳底に消えなかつた。洋服箪笥のペンキの匂ひが鼻につく。
その夜、ゆき子は、安南人の女中のつくつてくれた日本食を、広い食堂で一人で食べた。中央には岩のやうなシュミネがあり、入口近いところにピアノが一台光つてゐた。のりのきいたテーブルクロースの白い布に手を置くと、黄色の手が、安南人の女中の手よりも汚れた感じだつた。ガラスのフィンガボールにいかだかづらの花が浮かしてある。ソーセイジのやうな赤黒いかまぼこや、豆腐汁がゆき子には珍しかつた。女中はもう三十は過ぎてゐる年配であるらしかつたが、眼の綺麗な女だつた。額は禿《は》げあがり、渋紙色の凹凸《あふとつ》のない顔に、粉《こ》を噴いたやうな化粧をして、ねり玉の青い耳輪をはめてゐる。彼女は、かたことの日本語を少し話した。網戸をおろした広い窓へ、白い蛾《が》の群れが貼《は》りついてゐた。食事を終つた頃、突然、前庭の方で、自動車のエンジンの音がした。牧田所長がもう戻つて来たのかと思つたが、それにしては馬鹿に帰りが早いと、ゆき子はきゝ耳をたててゐた。女中が走つて出て、甘い声で、ボンソアと庭口へ呼んだ。軈《やが》て、男の声で何事か、ごやごやと話す声と足音がして、ぱつと食堂へ這入つて来たのは、サイゴンの宿舎で会つた、ゆき子の注意を惹《ひ》いてゐた、あの男であつた。背の高い、さくさくした足どりで食堂へ這入《はい》つて来るなり、ゆき子を見て、一寸《ちよつと》驚いた風で、軽く眼で挨拶をして、また、さつさと廊下へ出て行つた。
ゆき子の食事が終つてからも、女中は仲々食堂へは戻つて来なかつた。ゆき子は赧《あか》くなつてその男に挨拶を返したが、部屋を出て行つたきり、一向に戻つて来る気配もない様子に、苛苛《いらいら》してゐた。いままで死んだやうにぐつたりしてゐた気持ちのなかに、急に火を吹きつけられたやうな切ないものを感じた。あわてて、しのび足で部屋へ戻り、ゆき子は洋服箪笥の鏡の中をのぞいて、濃く口紅をつけた。髪をくしけづり、粉白粉《こなおしろい》もつけて、また、急いで食堂へ戻つたが、網戸を叩《たた》く白い蛾の気忙《きぜ》はしい羽音だけで、広い食堂は森閑《しんかん》としてゐる。暫《しばら》くして、女中がコオヒイを持つて来たが、すぐ、女中はコオヒイを置いて去つて行つた。いくら待つても、男はつひに食堂へは出て来なかつた。ゆき子は気抜けしたやうな気持ちで部屋へ戻つて行つた。広い階段を誰かが上つて来る。ゆき子は激しい動悸《どうき》をおさへて、扉に耳をあててゐた。ゆき子は物音が消えると、また食堂へ降りて行つた。所在なくピアノの蓋《ふた》をとり、女学校時代よく弾《ひ》いてゐた浜辺の歌を片手でぽつんぽつんと鍵を叩いてみた。壁には森林に就いての統計のやうなものが硝子縁のなかにはいつてゐる。カッチヤ松とか、メルクシ松、ヨウ、カシ、クリカシなぞの標本図をたどつてゆくと、ゆき子はつくづく遠いところに来たやうな気持ちがした。誰も食堂へはやつて来さうもないので、ゆき子は庭に出てみた。星が澄んできらめき渡り、ゴム風船をすりあふやうな、透明な夜風がゆき子の絹ポプリンの重たいスカートを吹いた。何処からともなく、香《かん》ばしい花の匂ひが来る。小径《こみち》の方で、ボンソア……と挨拶《あいさつ》してゐる女の声がしてゐる。薄い雲が星をかいくゞつて流れてゐる。湖は見えない。部屋へ戻つて窓に凭《もた》れてゐると、暫くしてから、階下の何処かで電話のベルがけたゝましく鳴り、それからすぐ、牧田所長の自動車が戻つて来た様子だつた。急に階下がざわめきたち、数人の男達の笑ふ声が聞えた。
夜明けに吹く山風で、ゆき子は松風の音を聴いた。朝の寝覚めに、あの男と、広い芝生でテニスをしてゐる夢をみて、なつかしかつたが、その夢は思ひ出さうとしてもとりとめがなかつた。またすぐ、こゝを発《た》つて行くひとだらうか……。それにしても、同じ屋根の下に二度も吹き寄せられる人間の奇遇を、ゆき子は愉《たの》しいものに思つた。念入りに化粧をして、粗末な布地ではあつたが、白絹のワンピースを着て、朝の食堂に降りて行くと、牧田氏と、あの男が、網戸をあげた、広い窓辺でコオヒイを飲んでゐた。血色のいゝ牧田氏は、にこにこして朝の挨拶をしてくれたが、あの男はゆき子に対して一べつもくれなかつた。窓へ足をあげて、不作法な腰掛けかたで、もやでかすんでゐる湖を見てゐた。情《じやう》のないしぐさで、そんな風なスタイルを見せる一種のポーズが、ゆき子には、中学生のやうながんこさに見えた。
「どうです? 幸田さん、こつちへいらつしやい。道中が長いンで疲れたでせう? サイゴンでは、富岡君と同じ宿舎だつたンださうですね?」
ゆき子がその男の方を不安さうに見たので、牧田氏は、小さい声で、
「君、幸田君つてね、これから、当分こゝで、タイプの方をやつて貰ふひとなンだよ。半年位して、パスツウルの方へまはつて貰ふンだがね……」と、云つた。
男は初めて、幸田ゆき子の方へ躯《からだ》を向けた。それでも腰かけたなりで、「僕、富岡です」と挨拶した。
「何だ、初めてなのかい? 紹介済みかと思つてたンだよ。こちらは富岡兼吾君、やつぱり本省の方から来たひとで、三ヶ月程前にボルネオから転任して来たンだ。――日本の女のひとは珍しいから、もてて仕様がないだらう……。ここぢや、幸田さん一人だからね」
ゆき子は、革張《かはば》りのソファに遠く離れて腰をかけた。昨夜、ホテルのロビーで、瀬谷が、ゆき子の事を、地味な女だから、かへつて、仕事にはいゝだらう。サイゴンに置いて来た篠井といふ女は、これは一寸美人だから問題を起しはしないかと心配してゐるンだと話してゐたが、かうして遠くから見る幸田ゆき子の全景は、瀬谷の云ふほど地味な女にも見えなかつた。珍しくパアマネントをかけてゐないのも気に入つた。第一、つゝましい。きちんとそろへたむき出しの脚は、スカートの下からぼつてりとした肉づきで、これは故国の練馬大根なりと微笑された。畳や障子を思ひ出させるなつかしさで、なだらかな肩や、肌の蒼《あを》く澄んだ首筋に、同族のよしみを感じ合掌《がつしやう》したくなつてゐた。少々額の広いのも、女中のニウよりは数等見ばえがした。混血児のマリーのやうに、六角眼鏡をかけてゐないのも気に入つた。日本の若い女が、はるばるとこの高原へ来て呉れた事が牧田氏には夢のやうなものであつた。昔は海外へなぞ出て行く女に対して、あまりいゝ気持ちは持てなかつたのだが、幸田ゆき子は、牧田氏には案外印象がよかつた。化粧も案外上手である。瀬谷の云ふほどの女ではなかつた事が牧田氏を幸福にした。大きな卓上にはカンナの花が活《い》けてあつた。牧田氏は至つて機げんよく富岡と専門的な話をしてゐた。ゆき子はうつとりして、明るい窓の方を見てゐたが、心はとりとめもなく流れてゐた。富岡は煙草をくゆらしながら、両腕を椅子の後に組んで、後頭部を凭《もた》れさしてゐた。左腕の黒い文字板の時計に、赤い秒針が動いてゐた。アイロンのきいた茶色の防暑服を着て、涼し気なプラスチックの硝子めいた細いバンドを締めてゐる。剃《そ》りたての襟筋が青々としてゐた。軈《やが》て食堂のベルが鳴つた。牧田を先にたててゆき子が富岡の後から食堂へ這入つて行くと、白いテーブルクロースの上に、白や紫の珍しい花が硝子の鉢に盛られ、アルマイトの赤い器に、豆腐の味噌汁が出てゐた。玉子焼や、桃色のあみの塩辛なぞが次々に運ばれた。ゆき子は富岡と並んで牧田氏の前に腰をかけた。ホテルに泊つた茂木、瀬谷、黒井なぞはまだ事務所に顔をみせない。天井にしつらへてある扇風機が厭な音で軋《きし》つてゐた。牧田氏は味噌汁をずるずるとすゝりながら、
「内地は段々住み辛《づら》くなつてるさうですが、こゝにゐれば極楽《ごくらく》みたいでせう?」
と、ゆき子へ話しかけて来た。極楽にしても、ゆき子はかつてこんな生活にめぐまれた事がないだけに、極楽以上のものを感じてかへつて不安であつた。富豪の邸宅の留守中に上り込んでゐるやうな不安で空虚なものが心にかげつて来る。
時々、富岡は、サイゴンの農林研究所の話や、山林局の仏人局長に対する日本の乱暴なやりかたに就いてひなんをしてゐた。第一、貧弱な日本人が、コンチネンタル・ホテルなぞにふんぞりかへつてゐる柄《がら》でないなぞと、牧田氏も小さい声で相槌《あいづち》打ちながら、あんな大ホテルを兵站《へいたん》宿舎なぞにして、軍人が引つかきまはしてゐる事は、占領政策としても、かへつて反感を呼ぶ事ではないかと話した。
「我々は幸福と云ふものだ。軍の目的は兎《と》に角《かく》として、我々は自分の職分にしたがつて森林を護《まも》つてやればいゝンですよ。充分にめぐまれた仕事として、それだけは感謝してゐるからね……」
富岡は、十日ばかりをサイゴンに暮し、ルウソウ街にある農林研究所で、ガス用木炭に関する研究を行つてゐた。富岡は、パン食であつた。ふつと、手をのばして、バターの皿を取つてくれた幸田ゆき子の手を見た。肉づきのいゝ日本の女の手を、珍しさうに見た。
美しい優しい手だと思つた。
生毛《うぶげ》が生えてゐる。
「四五日うちに、ランハンに行きたいと思つてゐます。竹筋混凝土《ちくきんコンクリート》の研究を、一寸見て来ようと思つてゐます。加野君が、薪炭林の中間作業に就いての詳細をよこしてゐましたが、御覧になりましたか。――木炭自動車も仲々馬鹿になりませんね。もう、内地でも木炭自動車にどんどん切りかへてゐるさうですが、こつちぢやア早くからやつてゐるンですからね――。加野君の書いたもの、いつぺん眼を通しといて下さいませんか。トラングボムの研究所にも行つて、加野君にも逢つてやりたいと思つてゐます……」
富岡はぼそりと、そんな事を云つて、さつさと先に応接間へ戻つて行つた。
「随分変つた方ですのね……」
無遠慮に部屋を去つて行つた富岡に対して、思はずゆき子は牧田氏に、こんな事を云つた。
「風変りな人間でね、だが、あれで、仲々情の深い男なンですよ。三日に一度、きちんと細君に手紙を書いてをる……。私には仲々そんな真似は出来ない。責任感の強い男で、一度引き受けたら、一つとして間違つた事がない奴ですよ……」
三日に一度、細君に手紙を書いてゐるといふ事が、何故だか、ゆき子にはがんと胸にこたへた。
二日目の夕方、牧田氏は急用で、サイゴンからプノンペンまで事務上の用事で十日ほど出張する事になつた。丁度、帰途をともにする瀬谷老人と二人で、一行はトラックで出発した。茂木や黒井は、安南人の通訳の案内で、分担区へ視察に出てゐて、あとへ残つたのは、富岡とゆき子だけであつた。富岡は、二階の中央にある東側の一番いゝ部屋を持つてゐた。一番いゝ部屋といつても、清潔な病室のやうな部屋であつた。三日おきには、細君に手紙を書いてゐる富岡に対して、ゆき子は、妙に白々《しらじら》しい感情になつてゐた。食堂であつても、富岡は「おはよう」とか、「やア」とか云ふ位で、タイプの仕事は、マリーの方へまはしてゐるやうだつた。タイピストのマリーは、仕事に飽きて来ると、食堂へ行つてはピアノを弾《ひ》いてゐた。その音色は高原のせゐもあつたが、仲々いゝタッチで、ゆき子には曲目は判らなかつたけれども、時々きゝほれてしまつた。富岡も、音楽が好きとみえて、仕事机で、呆《ぼ》んやりピアノに耳をかたむけてゐる。マリーは二十四五歳にはなつてゐるらしかつたが、眼鏡のせゐか老《ふ》けてみえた。几帳面《きちやうめん》な家庭の娘だといふ話である。羚羊《かもしか》のやうなすんなりした脚で、何時《いつ》もネビイブルウのソックスに、白い靴をはいてゐた。腰の線がかつちりしてゐて、後から見る姿は楚々《そゝ》とした美しさだつた。髪は薄い金茶色で、ゆるいウェーブをかけた断髪が、肩で重たく波打つてゐる。何の芸もないゆき子は、マリーのピアノを聴くたび、人種的な貧弱さを感じさせられた。マリーは英語も仏蘭西語も、安南語も達者で、仕事もてきぱきしてゐた。何もわざわざ、この遠い仏印の高原にまで、ゆき子のやうな無能な女が呼びよせられる必要もないではないかと、ゆき子はふつとそんな事を考へる時があつた。ゆき子の仕事は邦文タイプを打つ仕事で、或ひは秘密な書類をつくる仕事に重要なのかも知れないと、自らを慰めて、無為な時間を過すのだつた。
牧田氏が急に旅立つたので、富岡のランハン行きは延びたが、五日ほどたつた或日、トラングボムから加野久次郎が、ひよつこり安南人の助手を一人連れてダラットへ戻つて来た。
加野は戻つて来るなり、事務所の幸田ゆき子を見て、吃驚《びつくり》した表情で、顔を赧《あか》らめた。富岡の紹介で加野とゆき子は挨拶しあつた。物事に精根をかたむけ尽しさうな、ひたむきな青年らしさで、すぐ、富岡と椅子を寄せあつて、仕事の話を始めてゐる。
「何かい、少しは長くゐられるの?」
「どうも、下痢《げり》ばかりしちやつて、あまり工合もよくないしね、それに、ダラットの文明も恋しかつたンだ。富岡さんが戻つてるとは思はなかつた……」
長い話のあと、二人はこんな事を云つて、コオヒイを女中に持つて来させて、如何《いか》にもなつかしさうな間柄のやうであつた。加野は富岡よりは若く見えた。男にしては色が白く小柄で、紺の開襟シャツに白い半洋袴《はんズボン》をはいて、スポーツ選手のやうな軽快さがあつた。躯つきとは反対に眼の色はいつもおどおどしてゐて、相手の顔を正しく正視出来ない気の弱さがある。
晩餐《ばんさん》の食堂で、久しぶりに賑《にぎ》やかな食事が始まつた。アペリチーフに、富岡がサイゴンから手に入れた、白葡萄酒《しろぶだうしゆ》を抜いた。ゆき子にもさされた。
「幸田君は、千葉かい?」
酒に酔つたせゐか、無口な富岡がふつと、ゆき子に、こんな事を尋ねた。
「あら、千葉ぢやないわ。失礼ね……」
「え、さうかなア、千葉型だと思つたンだがね。ぢやア何処?」
「東京ですわ……」
「東京? 嘘つけ。東京生れには、幸田君のやうなのはないよ。あれば、葛飾《かつしか》、四つ木あたりかな……」
「まア! ひどい方ね」
ゆき子は侮辱されたやうでむつとした。
加野がみかねて、
「富岡さんは無類の毒舌家なンだから、気にかけないでいらつしやい。これが、このひとの病《やまひ》なンですよ……」
「さうかなア、東京かなア……。江戸ツ子にしちやア訛《なまり》があるよ。幸田君はいくつ?」
「いくつでもいゝわ……」
「二十四五かな……」
「あら、私、これでも二十二なンですよ。本当にひどい方ねえ、富岡さんて……」
「あゝさうか、二十二ね、女のひとが二十四五に見えるつてのは、利巧《りかう》だつて云ふ事だよ。若く見て貰ひたいなンて愚《おろ》かな事だ」
富岡は今度は、コアントロウの瓶《びん》を出して来て、栓《せん》を開けた。加野は富岡と同じ東京高農の出で、先輩の富岡と安永教授の引きで仏印へ森林業の研究に赴任して来たのである。富岡も加野も文学好きで、富岡はトルストイファンであり、加野は漱石信者であり、武者小路の心酔者でもあつた。
「はるばると仏印のダラットへ進駐して来た、幸田女史の為に乾杯!」
加野がさう云つて、グラスをゆき子の前へ差し出した。ゆき子は涙ぐんでゐた。抵抗したい気持ちだつた。富岡は酔つた眼に、ゆき子の涙を浮べてぎらぎら光る眼差《まなざ》しを見た。その眼の色のなかには、不思議な魔力があつた。女房の眼のなかにも、時々こんな光りがあつたと思つた。わけのわからないとまどひで、富岡はコアントロウをぐつとあふつた。ゆき子は此の場に耐へられなくて、そつと椅子をずらして部屋を出た。二階の自分の部屋に上つて行くには、あまりに戸外は美しい夜であつた。ゆき子は夜露に光つた広い路を降りて、あてどなく歩いた。
「気にして、出ちやつたよ……」
加野は、ゆき子を二階まで追つて行き、ゆき子の部屋の扉を叩いたが、返事がなかつた。鍵が開いてゐたので、ノブをまわすと、燈火がかうかうとついたベッドの上に、女学生のはく、黒いパンツがぬぎすててある。加野は暫《しばら》くそこに立つてゐた。
食堂へ戻つてからも、加野は、黒いパンツが瞼にちらついた。
「取り澄ましてる女ぢやないか?」
富岡が吐き捨てるやうに云つた。加野は外へ出て行つたらしいゆき子を考へて、探しに行つてやりたい気持ちだつた。
「三宅邦子つて女優に似てゐないかね?」
加野が云つた。
「そんなの知らないよ。若い女がこんな処まで来るのは厭だね」
「案外古いンだなア……。僕はダラットが一寸《ちよつと》よくなつて来た……」
「幸田ゆき子は、加野には似合はないよ」
加野は、コアントロウを手酌《てじやく》でやりながら、血走つた眼で、天井の動かない扇風機の白いプロペラを見上げてゐた。富岡は如何にもものうさうに金網の窓ぶちに足をあげて、椅子の背に頭を凭《もた》れさしてゐた。
「何時《いつ》まで、この生活が続くかなア……」
溜息《ためいき》まじりに富岡が云つた。
「勝つとは思へないよ」
加野はけゞんさうな顔を富岡へ向けた。
「サイゴンで、そんな風に思つたンだ。ねえ、大きい声ぢや云へないが、来年の春がやまぢやないかね?」
「奥地へ這入つてると、何も判らンが、そんな気配があるの? 何かニュースあつた?」
「絶対に勝てやしないよ。それだけだよ」
「さうかねえ、俺は大丈夫だと、信じてゐるンだ。日本の海軍つてものは、どうしてるンだらう……」
「策はあるンだらう……。戦果が毎日挙《あが》つてるぢやないか」
加野は、黒いパンツを瞼から取り去れないもどかしさで、立つて、扇風機のスイッチを入口へ押しに行つた。白いプロペラは、ネヂがきりきりとまはるとみるまに、ぶうんと唸《うな》り始めた。卓上の花が風に強くゆるぎだした。
幸田ゆき子は暫くたつても戻つて来なかつた。富岡は扇風機の風に吹かれて、椅子の背に頭を凭《もた》れさしたまゝ眠つてゐる。
加野は扇風機をとめた。そして、静かに食堂を出て行つて、ゆき子を探しに戸外へ出てみた。ヒガンザクラのこんもりした暗い並木のあたりで、夜烏が啼《な》いた。濡《ぬ》れて、ぴたりと動きがとまつたやうな空だつた。淡い燈かげが、樹間にちらついてゐる。山林事務所のすぐ下の方に、華僑《くわけう》の別荘風な、でこでこした建物があつた。暫く人も住まないと見えて、庭は荒れてゐたが、南洋バラとでもいふのか、雪のやうに小さい花をつけた、生垣の中に、かすかに歌声が聞えた。日本の歌だ。あつ、このなかにゆき子がゐるのだなと、加野は芝生の方から這入つて行つた。虫がしきりに啼きたててゐる。背中の反《そ》つた、ゆつたりした木のベンチに、ゆき子が腰をかけて、歌つてゐる。
ゆき子は加野だと判つてゐた。歌をやめて、暗い庭を透《す》かすやうにして、立ちあがつた。
「どうしたの? 怒つたの?」
「何でもないのよ……」
「帰らない? 夜露にあたつちや毒だ。こんなところで、蚊にでもさゝれて、病気しちやア毒だよ……」
「あとで、一人で帰ります……」
「あいつはね、いゝ人間なンだけど、毒舌家なンだ。一つは神経衰弱もあるかも知れないね……」
加野は、ゆき子の肩へ手をかけたが、薄い絹地をとほして、案外柔い女の肉づきに、全身が熱くなつた。酒の酔ひがまはつたせゐか、自制するにはあまりに辛く、加野はゆき子の柔い肩の肉を、二三度熱い手でつかんだ。ゆき子は、くるりと加野の手をすり抜けたが、ゆき子自身も、自制出来ないやうな胸苦しさになつてゐる。本能的に、毒舌家の富岡を、ひどいめにあはせてしまひたいやうな、反抗の気が湧《わ》いた。こんな、白い肉の男なぞ、少しも興味はないのだ。ゆき子は黙つて立つてゐた。加野は、もう一度、不器用に、ゆき子のそばへ寄つて来た。遠くで、ホテル行きの、自動車のエンジンがかすかに唸《うな》つて、往来してゐる。
今日、トラングボムから戻つて来たばかりで、ゆき子に惹《ひ》かれる気持ちは、これは慾情だけなのかと、加野はちらりと、その思ひにかすめられたが、現在をおいては、他に此の女を得る機会がないやうな気がしてゐた。加野はもう一度、ぴつたりゆき子に躯《からだ》を寄せてみた。ゆき子はぎらぎら光つた眼差《まなざ》しで、加野を見つめた。むれた雑草や、花の匂ひが夜気にこもつてゐる。時々、ちいつと草の茎が鳴つた。
「加野さん、私ね、内地では、どうにも仕様がなくつて、こゝへ志願して来たンですの……。加野さんは、お判りになるでせう? あの戦争のなかで、若い女が、毎日、一億玉砕の精神で、どうして暮してゆけて? 私、気まぐれで、こんな遠いところへ、来たンぢやないのよ……。何処かへ、流れて行きたかつたの。――それを、富岡さんに、あんな、意地悪な事を云はれて、……心にこたへない筈《はず》つてないでせう? 三人とも、日本人ですよ。――葛飾《かつしか》だつて、四ツ木だつて、よけいなお世話だわ。生き苦しい気持ちで辿《たど》りついたものを、高いところから、せゝら笑ふなンて失礼よ……」
突然、ゆき子が甲高《かんだか》い声で云つた。加野は、激情を宙に浮かしたまゝ、獣のやうに光つたゆき子の眼を覗《のぞ》き込んでゐたが、生き苦しくて、こゝへ来たのだと云はれて、ゆき子の背景にある、内地の状態がぐるりと眼に浮んだ。
「富岡は、酒に酔つてるンだよ……」
加野はさう云つて、また、大胆に、ゆき子の二の腕を、両の手で強く握り締めた。
「厭ツ! 加野さんも、酒に酔つていらつしやるのねッ、私は、違ふのよ……」
ゆき子は固くなつて、云つた。眼を閉ぢたが、別に加野の手をふりほどきもしなかつた。矢庭に熱い加野の唇が頬に触れた。咄嗟《とつさ》に、ゆき子が顔を動かした。加野の唇はゆき子の頬に突きあたつて、あへなく離れた。
道の方で、「おーい、加野君!」と呼んでゐる、富岡の声がした。加野は小さい声で、ゆき子に、
「貴女も、後から戻つていらつしやい」
と、云つて、素直に加野は、すたすたと草の中を分けて、道へ出て行つた。富岡は、黙つて草の中から出て来た加野に、急に不快なものを感じてゐる。加野は云ひわけめいた事も云はずに、黙つて、富岡と歩調をあはせて、相手の不快らしい反射を浴びたまゝ、事務所の方へ戻つて行つた。夜気は涼しく、夜露で、靴がアスハルトに滑りさうだつた。
「内地はそろそろ雪だね……」
富岡が生あくびのあと、ぼつりと云つた。
「あゝ、帰りたい。一度でいゝから帰りたいなア……」
加野は、息苦しくて、流れて来たのだと云つたゆき子の、思ひ詰めた、さつきの言葉が胸に引つかゝつて返事もしなかつた。
「幸田ゆき子は、相当怒つてるの?」
富岡が何気なく、煙草を出して、長い紐《ひも》つきのライタアを、指の先きで弾《はじ》きながら云つた。
「あゝ、怒つてるね」
「さうか……」
「いゝ娘だよ」
「ほう……いゝ娘かね? 彼女は、娘なのかね……」
「娘だよ。手ひどくやつつけられた」
かへつて、現在白状しておく方が好都合だと、加野は正直に告白した。富岡は、煙草を吸ひながら黙つて歩いた。
「君は、内地に好きなひとはなかつたのかい?」
「なくもないさ……」
「ふうん……」
加野は、曲り道で、後を振りかへつて見たが、ゆき子の姿は坂の下には見えなかつた。
「おい、明日、フイモンまで、自動車で釣りに行かないか?」
富岡の道楽は釣りであつた。フイモン附近には、四つの飛瀑《ひばく》があり、富岡はフイモンは馴染《なじ》みの場所である。加野は釣りに行く気はない。そんな悠々とした気持ちにはなれなかつた。久しぶりに山の中から戻つて来たのである。人間が見たかつたし、切《せつ》ない感情が胸の中に渦《うづ》を巻いて、ここまで、戻つてゐるのだつた。久しぶりに富岡に逢つた事も嬉しかつたが、思ひがけない幸田ゆき子との出逢ひは、野火のやうに火を噴いた。黒いパンツを見た時の、脚のすくむ感情は、現在、加野にとつて、どうしやうもないのである。加野は返事もしないで、ぴゆつと犬を呼ぶ時の口笛を吹いた。自動車小舎《ごや》の方で、微《かす》かに犬が吠えた。
「牧田さんはうまい事したなア、サイゴンとプノンペンでは、久しぶりのオアシスだね……」
「うん」
「富岡さん、サイゴンで、面白い事あつたの?」
「面白い事なンかあるもンか」
「さうかなア……。さうでもないだらう?」
「君も、トラングボムへ帰る迄に、一度、サイゴンへ行つて、さつぱりして来るンだね……」
「サイゴンか……。久しく行かないなア……」
加野は、サイゴンなんか、どうでもよくなつてゐた。今夜の、星あかりに見た、ゆき子の、獣のやうな眼の光りが忘れられなかつた。どうしても話しあつてみたかつた。そして、あの淋しさを慰めてやりたかつた。少し夜風に吹かれたせゐか、さつきの激しい動悸《どうき》もをさまり、自分のせつかちな乱暴さが、後悔された。気まぐれで、こゝへ流されて来たのではないと、泣きさうになつて云つた、あの思ひは、考へてみると、自分にも通じるものがあつた。兵隊に行くよりはいゝのだ。あの言葉は、忘れ去つてゐた古傷に、さはられたやうな痛さである。赤羽の工兵隊に召集されて、南京《ナンキン》攻略に行つた時の、あの憂欝《いううつ》な戦争が、脳裡《なうり》をかすめた。何といふ湖だつたか、暗い夜、船の中に女をしのばせて、あわただしいあそびかたをした思ひ出が、影絵のやうに加野の瞼《まぶた》に浮んだ。
富岡は面白くもなかつたので、食堂の前で加野に別れると、さつさと二階へ上つて行つた。夜光時計を見ると、十一時をかなりまはつてゐた。部屋へ這入ると、女中のニウが、富岡の洗濯物を整理して、棚へしまつてゐた。にぶい動作で、片づけてゐる。富岡はゆつくり片づけてゐる、ニウの様子にやりきれない淋しさになり、裏梯子《うらばしご》から標本室の方へ降りて行つた。標本室に燈火をつけて、円い木の椅子に、腰を掛けた。陳列に並んだ、乾いた標本を、ひとわたり眺めながら、何のために、こんなところに所在なく腰を掛けてゐるのか、自分で自分が判らなくなつてゐた。
部屋へ戻つて、久しぶりに妻へ手紙を書かうと思つた。サイゴンへ旅をして、十日あまり、故国へは音信もしてゐない。しみじみした淋しさの思ひは、妻へだけは云へるやうな気がした。あらゆるものの乏しい内地にあつて、云ふに云へない苦労を、一人で続けてゐるであらう妻の姿が、はうふつとして浮んで来る。サイゴンで買つた、ミッチェルの口紅や、粉白粉《こなおしろい》を、近々好便を選んで内地へ送つてやりたいと、富岡は妻の邦子に、そんな事も書き添へてやりたかつた。
咽喉《のど》が乾いたので、標本室を出て、食堂へ行つた。加野がまだ食堂で残りのコアントロウをかたむけてゐた。
「幸田女史は戻つたやうかね?」
「あゝ、戻つて、自分の部屋へ行つた」
富岡は、水を飲み、またゆつくりと二階へ上つて行つた。部屋には、もうニウはゐなかつた。富岡は扉に鍵をかけて、ベッドへ後ざまに寝転んだ。バネがきしきしとたわむ音を聞きながら、じいつと、天井のくもり硝子《ガラス》の電燈を見つめてゐた。心に去来するものは、何もなかつた。水のやうな、淋しさのみが、しいんと、濡れ手拭のやうに、額に重くかぶさつて来る。横になつてしまふと、妻へ手紙を書く事も、ひどく、億《おく》くふになつて来た。軈《やが》て、富岡は黄ろいパジャマに着替へた。思ひをこめて洗濯してある、アイロンのすつきりしてゐる寝巻き……。ニウの情けが哀れであつた。
毛布を蹴つて、シーツに楽々と横になる。――食堂の扉がきいつと軋《きし》んで、ゆつくり二階へ上つて来る加野の足音がした。加野の奴、加野の奴と、ふつと、そんな言葉を胸のなかで富岡はつぶやく。幸田ゆき子のすくすくした躯《からだ》つきが、妻の邦子に何処《どこ》か似てゐた。第一に、言葉のニュウアンスが通じたといふ、妙な発見が、富岡の心に響いた。同じ人種の男女に丈《だけ》、通じあふ、言葉や、生活の、馴々《なれなれ》しさが、こゝに一人現はれた、幸田ゆき子によつて示されたかたちだつた。――加野は、今夜は仲々眠れないと、富岡は、ふつと微笑した。軈《やが》て隣りの部屋では、乱暴に椅子を引き寄せたり、洋服箪笥を開けたりしてゐる、加野の苛々《いらいら》した気配が聞えてゐた。
富岡は寝つかれなかつた。標木室の電燈を消す事を忘れてゐたやうな気がして、富岡はまた、のこのこ起き出して、廊下へ出て行つた。階下へ降りると、ニウが水色の部屋着を着て、標本室の入口に立つてゐた。
「燈火を、消し忘れたンで、降りて来たンだ」
富岡が、安南語でさゝやくやうに云つた。
「私も、いま、燈火を消しに来たのです」
ニウはさう云つて、自分で、長い部屋着の裾《すそ》を前でつまむやうにして、背延びをして、壁のスイッチを切つた。富岡は重たくぶつつかつて来る女の躯を抱きしめた。ニウが何か云ひさうだつたので、富岡はあわてて、ニウの唇に接吻した。長い接吻のあと、小柄な女の躯を壁に立てかけるやうにして、富岡は二階へ上つたが、ニウが、かすかに笑ひ声をたてたやうな気がした。二階の梯子《はしご》を上りながら、富岡は銅像の団十郎のやうに、眼をむきながら、ゆつくりと部屋へ這入つた。
静かな晩である。
風の吹く日は、山鳴りのやうな、松の唸《うな》りがするものなのだが、今夜は松の唸りも聞えなかつた。富岡は、松の森林を瞼《まぶた》に描いてみた。馬尾松の房のやうに、長い葉の頼りなさや、メルクシ松の箒《はうき》のやうな形状、カッチヤ松の淡い色彩。小旗のやうな破れかぶれの枝工合なぞが、次々と瞼に現はれては消える。――南ボルネオの山林に、メルクシ松をたづねて歩いた時の山野の思ひ出が、また瞼にかけめぐつて来る。バンヂャルマシンの町で見た、五月《さつき》信子の、慰問の芝居なぞがなつかしかつた。演《だ》しものは、「時の氏神」だつたかな……。海のやうに広い、黄濁した河幅いつぱいに、ヒヤシンスに似た、イロンイロンの大群の水草の流れには、富岡は驚いたものだつた。あれもこれも、過ぎ去つた一夢であらうか……。植物は、その土地についたものでなければ、うまく育たないものなのだと、現に、このグラットの、山林事務所の庭先に、植栽されてゐる、日本の杉の育ちの悪さを、富岡は、民族の違ひも、また、植物と同じやうなものだと当てはめて考へてみる。植物は、その民族の土地々々にしつかり根づいたものではないのかと、妙な事を考へ始め出した。――ダラット近辺の、メルクシ松の分布図面では、メルクシ松が、三五、〇〇〇ヘクタールと云つたところで、どさくさで這入りこんだ、こんな、鈍才の日本の一山林官が、いつたい、どんな風に、よその土地の数字をのみこめると云ふのだ……。幹形、木理《もくめ》麗《うる》はしいと云つたところで、大森林のメルクシ松を、世界の何処へ売り出さうと云ふのだ……。長年かゝつて成育させた、人の財宝を、突然ひつかきまはしに来た、自分達は、よそ者に過ぎなからうではないか……。いつたい、これだけの雄大な山林を、日本人がどう処理してしまふのだらう……。人間の心は自由である。富岡はうつらうつらと、とりとめもない、幼い事を考へてゐた。一向に眠れない。
富岡は燈火を消した。
燈火を消すと同時に、隣室の加野が、ドアを開けて、また、ゆつくりした足音をたてて、階段を降りて行つた。……まさかと、妙な考へを打ち消しながら、富岡は耳をそばだててゐた。――暫くして、深い井戸に、水滴のしたゝるやうな音階で、食堂のピアノがぽつん、ぽつんと鳴つた。長い間の、山歩きの禁慾生活が、加野を物狂ほしくしてゐるのだと、富岡はきゝ耳をたててゐた。頭をしづかに枕に沈ませる。さつき、ニウとひそかに接吻した、自分のいやらしさが、急にむかついて来た。加野も自分も、恋ではないものを恋してゐるのだ。二人とも、内地にゐた時の、旺盛なエスプリを失つてしまつてゐる。ダラットの高原に移植されて、枯れかけてゐる日本の杉のやうなものになりつつある。自分達を、富岡は、何気なく、南洋呆《ぼ》けかなと、咽喉《のど》もとでつぶやいてみるのだつた。
「ボンヂュウル……」
マリーの柔い、朝の挨拶が、階下の踊り場で聞えた。重い頭を枕から持ち上げて、富岡は、腕時計を眺めた。九時を指してゐる。そんな時間なのかと、ゆつくり起きて、富岡は暫《しばら》くベッドで煙草を吸つた。づきづきと頭が痛んだ。何をしたらいゝのか、一向に、躯は動きたがらない。すべてが茫々《ばうばう》としてゐる。小禽《ことり》が可愛くさへづつてゐた。ゆつくりと窓を開けると、かあつとした高原の空と、緑は、お互ひに、上と下とが反射しあつてゐるかのやうな爽涼《さうりやう》さであつた。渋色の、光つて冷たさうな服を着た、ニウが、広い庭隅の花畑に立つてゐた。疲れを知らない、女の健康さが、富岡は憎くもある。長い接吻をしたあと、昆虫のやうな笑ひ声をたてた、ニウの心の中が、富岡には不思議であつた。思ひきりのびをして、また、ゆつくりと、ベッドに腰をかける。躯を動かす事自体に無意味なものを感じる。
富岡は、顔を洗ひに洗面所へ出て行つたが、その序《ついで》に、加野の扉を叩《たた》いてみた。返事がなかつた。ノブに手をかけると、扉はニスの匂ひをさせてすつと開いた。窓は開けつぱなし、床には服をぬぎすてたまゝ、加野は茶縞《ちやじま》のだんだら模様のパンツ一つで、裸でベッドに寝てゐた。むきたての玉子のやうな、蒼味《あをみ》がかつたすべすべした肌で、うつぶせになつて眠つてゐる。唇は開いたまゝ時々、樋《とひ》に水の溜るやうないびきをあげてゐる。天地無情の姿かなと、富岡は、加野の冷い肩を大きくゆすぶつて起した。加野はにぶく眼を開けた。昨夜の痴情の為か、眼が血走り、視線がさだまらない様子だつた。
富岡は、そのまゝ洗面所に行き、冷たいシャワーを浴びた。朝になつたのだ、何事もないぢやないか……。昨夜の妖怪変化《えうくわいへんげ》は雲散霧消《うんさんむせう》してしまつたのだ。大判のタオルにくるまり、急いで二階へ馳《か》け上る元気が出た。アイロンのきいた、白い半袖の上着に、ギャバヂンの茶色の長洋袴《ながズボン》をはいて、鏡の前で苦手な髯剃《ひげそ》り作業にかゝる。コオヒイの香ばしい匂ひが二階までのぼつて来た。教会の鐘が鳴り始める。
身支度をとゝのへて、食堂へ降りて行くと、窓ぎはに、幸田ゆき子が、独りで食事をしてゐた。
「お早よう……」
ゆき子は泣き腫《は》れたやうな眼で、富岡の挨拶に微笑しただけであつた。富岡は、ゆき子の優しい表情を見て、照れ臭かつた。そのまゝ怒つたやうに、自分の席へ行き、さつさと食事を始めた。食事を運ぶニウも、まるきり人が変つてしまつてゐる。仏像のやうな表情のない顔で、コオヒイや、トーストを運んで来る。事務所の方では、マリーの打つタイプの音が忙《せ》はしさうだつた。
食事を済まして、富岡は漂然《へうぜん》と、四キロほど離れた、マンキンへ行く気になつた。安南王の陵墓附近の、林野巡視の駐在所まで、一人で出掛けて行つた。気持ちが屈してゐる時は、釣りに出て行くよりも、むしろ、森林を相手に自問自答した方が快適であらう。――ダラットの部落々々には、大小様々の製材所があつた。キイッと、耳をつんざく、裂かれる樹木の悲鳴を聞きながら、曲りくねつた、勾配のある自動車道を、富岡は黙々として歩いた。沿道は巨大なシヒノキや、オブリカスト、ナギや、カッチヤ松の森で、常緑濶葉樹林《くわつえふじゆりん》が、枝を組み、葉を唇《くち》づけあつて、朝の太陽を欝蒼《うつさう》とふさいでゐた。空は切り開いた森の中を、河のやうに青く流れてゐた。人の歩いて来る気配で、富岡が、ふつと後を振り返ると、意外な事には、幸田ゆき子が、白いスカートをなびかせながら、急ぎ足で歩いて来てゐた。
富岡は、自分の眼のあやまりではないかと思つた。立ち停つてやつた。ゆき子は、息をはずませながら近寄つて来た。
「どうしたの?」
「私、今日の仕事、何をすればいゝンでせう?」
「仕事?」
「えゝ……」
「加野君は?」
「とてもよく眠つていらつしやいますわ」
安南人の林務官がゐる筈だが、来たばかりの幸田ゆき子には言葉が判らないのだ。
「牧田さん、何か、仕事を云ひつけてゆかなかつたの?」
「いゝえ、何もおつしやいませんわ……」
二人は自然に、マンキンの方へ歩を運んだ。富岡は黙つて歩いた。ゆき子も黙つて富岡の後からついて行つた。時々、軍のトラックや、自動車が通る。運転してゐる兵隊が、日本の女を見て、はつと驚いたやうな表情で通り過ぎて行つた。ゆき子は富岡からわざと離れて歩いてゐる。
何時《いつ》までも富岡がものを云はないので、ゆき子は、もう一度、小さい声で、「どうしたらいゝンでせう?」と訊《き》いてみた。
富岡はゆつくり振り返つて、
「この先に、安南王の墓があるンですがね。見物したらどうです?」と、怒つたやうに云つた。
富岡は大股《おほまた》に歩いてゐる。ゆき子には、富岡が親切なのかどうか、少しも、判らなかつた。後姿を、ゆき子は卑《いや》しいと思つた。富岡は、ヘルメット帽子を手にぶらぶら振つてゐる。音のしないラバソールの靴が気持ちよささうだつた。ゆき子も、やつとの思ひで、サイゴンで安い白靴を買ひ、いまもそれをはいてゐるのだ。
路が二つに岐《わか》れた。狭い人道の方へ這入つて、暫く行くと、何時の間にか、富岡の歩調はにぶくなり、ゆき子と肩を並べる位になつた。ゆき子は、あゝ自動車道路は、軍の自動車が通るので、あんなに大股に歩いたのかと、富岡の考へに思ひ当つた。
「昨夜は怒つたンだつて?」
「あら、何をですの……」
「加野がね、幸田君がとても、僕を怒つてるつて云つた……」
「えゝ、とても、こたへちやつたンです」
富岡は、ヘルメットをかぶり、腰の図嚢《ずなう》から植林地図を出して、それを拡げながら歩いた。森の中で、山鳩が近々と啼《な》き始めた。白い地図の反射を受けて、富岡は思ひついたやうに、胸のポケットから、薄紅いサングラスを出して高い鼻にかけた。地図は急に薄紅く染つた。空の細い隙間《すきま》から、高原の強い日光がぎらぎらと道に降りそゝいでゐる。富岡は、日本の女と歩く事に、何となく四囲に気を兼ねてゐた。内地の習慣が、遠い地に来てゐても、富岡の日本人根性《こんじやう》をおびえさせてゐるのだ。
かうして歩いてゐる事も、気紛《きまぐ》れのやうな気がしたが、何しろ、四囲は稀《まれ》な巨木の常緑濶葉樹が欝蒼《うつさう》として繁つてゐる。甘つたるく、ねばつこい花粉にとりかこまれてゐるやうな気配が立ちこめてゐて、二人とも黙つて歩くには息苦しい。飛行機が森林の上を姿もみせずに、唸つて飛んで行つた。陵墓附近は原生林が昏《くら》く続き、カッチヤ松や、ナギが亭々と原生林のなかに混生してゐる。この原生林を突き抜けると、十二三ヘクタアルのカッチヤ松の、人工播種《はしゆ》造林地帯になる。このあたりの民家では、炭焼きのかまども見られた。
ゆき子は歩き疲れてゐた。昨夜はよく眠れなかつたせゐか、歩くと、息が切れさうに、背中がづきづきと痛んだ。だが、時々深呼吸をすると、馬鹿に胸の中がせいせいと、涼しい空気でふくらんで来る。そのくせ、ゆき子は森林地帯には少しも興味はなかつた。只富岡の背の高い後姿に心は惹《ひ》かれてゆく。もつと、互ひに近しくなりたい孤独な甘さだけで、ゆき子は歩いてゐた。ファンタスチックな感情が、ゆき子をわざと孤独な風に化粧させてしまふ……。何時、富岡に振り返られても、旅空の女の淋しさを、上手にみせる哀愁の面紗《ベール》を、ゆき子はじいつとかぶつてゐた。その面紗の後で、ゆき子はひとりで昂奮《かうふん》して、やるせなげに溜息《ためいき》をついてゐるのだ。
富岡は振り返つた。
「疲れたでせう……」
「えゝ」
「僕は半日で、十二キロ位は平気だね。森の中はいくら歩いても、案外疲れないし、夜はよく眠れるンだけどなア」
「あのう、加野さんは、ずつと、こちらにいらつしやいますの?」
「まだ、当分はゐるかもしれないね……」
「私、加野さんつて気味が悪いわ」
「何故? 荒れてゐるせゐかね……」
「昨夜、ひどく、お酒に酔つて、いらつしたンですのよ。怖《こは》いわ」
富岡は黙つて、ゆつくり歩いた。自分にしても、何となく寝苦しい一夜だつた昨夜の事が、唐突《たうとつ》に、その原因に関聯があるやうな気がしてきて、一種の憎悪を持つて、加野を考へてゐた――。富岡は自分の後に近々と歩いて来てゐるゆき子に、歩調を合せるべく立ちどまつたが、無意識に、自然に寄つて来たゆき子の肩をつかんで、小暗いナギの大樹の下で、強く抱き締めてゐた。ゆき子も案外自然であつた。ゆき子は激しい息づかひで、富岡の胸に顔をすりつけて来た。呆気《あつけ》なかつたが、富岡はゆき子の顔を胸から引きはなして、ぼつてりした唇を近々に見つめた。言葉の隅々まで通じあふ、同種族の女のありがたさが、昨夜のニウとの接吻とは、はるかに違ふものを発見した。気兼ねのない、楽々とした放心さで、富岡はゆき子の赧《あか》らんだ顔を眺めた。眼をつぶつて、荒い息づかひを殺してゐるゆき子の顔面が、ひどく妻の顔に似通つてゐた。麻痺《まひ》した心の流れが、現実には、ゆき子の重たい顔をかゝへてゐながら、とりとめもなく千里を走り、もつと違ふものへの希求に、焦《あせ》つてゐる心の位置を、富岡はどうする事も出来ない。南方へ来て、清潔に女を愛する感情が、呆《ぼ》けてしまつたやうな気がした。森林のなかの獅子が、自由に相手を選んでゐた境涯《きやうがい》から、狭い囚《とら》はれのをりの中で、あてがはれた牝《めす》をせつかちに追ひまはすやうな、空虚な心が、ゆき子との接吻のなかに、どうしても邪魔つけで取りのぞきやうがないのだ。富岡は、何時までも長く、ゆき子を接吻してゐた。ゆき子は、すつかり上気して、富岡の肩に爪をたてて苛《じ》れてゐる。少しづつ、心が冷えて来た富岡には、ゆき子の苛れた心に並行して、これ以上の行為に出る情熱はすでに薄れてゐた。野生の小柄な白孔雀《しろくじやく》が、ばたばたと森の中を飛んで消えた。
二人は暫く、森や部落や、広い農園のあたりを歩いて、昼もかなり過ぎてから事務所へ戻つた。富岡はすぐ部屋へ行つてタオルをかゝへて、シャワーを浴びに行つたが、ゆき子は何気なく事務室を覗《のぞ》いた。加野がたつた一人で窓ぎはの広いデスクに凭《もた》れて、書きものをしてゐた。扇風機がとまつてゐるので、部屋の中は蒸し暑かつた。加野は、ゆき子を見むきもしないで、ペンを走らせてゐる。マリーは仕事を済ませて戻つたのか、タイプライターにカヴァがかけてあつた。ゆき子はそのまゝ事務室を出て、二階へ上り、自分の部屋に行つたが、自分の部屋の扉が開いたまゝになつてゐるのが、厭な気持ちだつた。誰かが、自分の部屋をみまはしたやうな気がして、ゆき子はじいつと、ベッドや机の上を眺めてゐた。ベッドへ誰かが腰をかけてゐたやうな、深いくぼみが眼につくと、ゆき子は何となく、不安な気がしてならなかつた。扉の鍵を閉めて、そつと靴のまゝベッドに寝転んでみたが、少しも落ちつかない。開いた窓には、青い空だけが見えた。こんなところへ、何をしに来たのかと苛責《かしやく》に似た気持ちも感じられて、一日一日気忙《きぜ》はしく戦争に追ひたてられてゐる、内地の様子が、意味もなく、ゆき子の頭の中に、泡《あは》のやうに浮いては消えてゐる。この現実には、さうした、追はれるやうな気忙はしさはなかつたけれども、石のやうに重たい淋しさや、孤独が、躯の芯《しん》にまで喰ひ込んで来た。ゆき子は、時々微笑が湧《わ》いた。深いちぎりとまではゆかないけれども、一人の男の心を得た自信で、豊かな気持ちであつた。もう、遠い伊庭の事などはどうでもいゝ。富岡の一切が噴きこぼれるやうな魅力なのだ。川のやうに涙を流して愛しきれる気がした。冷酷をよそほつてゐて、少しも冷酷でなかつた男の崩れかたが、気味がよかつたし、皮肉で、毒舌家で、細君思ひの男を素直に自分のものに出来た事は、ゆき子にとつては無上の嬉しさである。富岡の冷酷ぶりに打ち克《か》つた気がした。昨夜、たやすく、加野の情熱に溺《おぼ》れてゆかなかつた強さが、今日の幸福を得たやうな気がして、ゆき子は何時《いつ》の間にか、満足してうとうと眠りに落ちてゐた。
シャワーを浴びた富岡は、こざつぱりと服を替へて、階下の食堂へ降りて行くと、加野が、ヴ※[#小書き片仮名ヱ、255-下-17]ランダに向つて、木椅子に呆《ぼ》んやり腰をかけてゐた。富岡はシュバリヱの植物誌の重い本をかかへて、加野の横の木椅子に腰をかけた。正面にランビァンの山を眺め、眼の下に湖が白く光つてゐた。誰もゐない後の部屋では、からからと扇風機が鳴つてゐる。富岡に命じられて、ニウが冷いビールと鴨《かも》の冷肉を大皿に盛りあはせて持つて来た。
「一杯どうだ!」
富岡が加野に声をかけると、加野はものうげにコップを手に取つた。小禽が騒々しく四囲にさへづつてゐる。ビールを飲みながら、景色を見てゐると、山の色が太陽の光線の工合で、少しづつ色が変つていつた。加野が黙つてビールを飲んでくれる事も富岡には幸だつた。山も湖も、空も亦《また》異郷の地でありながら、富岡は、仏蘭西人のやうにのびのびと、この土地を消化しきれないもどかしさがある。この土地には、日本の片よつた狭い思想なぞは受けつけない広々とした反撥があつた。おほやうにふるまつてはゐても、富岡達日本人のすべては、此の土地では、小さい異物に過ぎないのだ。何の才能もなくて、只《たゞ》、この場所に坐らされてゐる心細さが、富岡には此頃とくに感じられた。貧弱な手品を使つてゐるに過ぎない。いまに見破られてしまふだらう……。だが、眼の前に見る湖の景色は、永久に心に残る美しさだつた。誰も彼も日本人なぞには見むきもしてゐない土地で、日本人は蟻《あり》のやうに素早く、あくせくと、人の土地を動きまはつてゐるだけだ。極めて巧妙に実際的《プラクチカル》な顔をして、日本人はこゝまで流れて来てはゐるけれども。カッチャ松の樹齢は五六十年に達する筈なのだが、何の用意もなく、どしどし伐採して、伐採の数字だけを軍へ報告する。数字は笑つてゐるのだ。モイ族を使つて、ダニムの河に流したり汽車で運んだりはしてゐるが、富岡に云はせると、伐採された木材が少しも自由に動いてないのであつた。伐採された木材は、貨車に溜つたまゝだつたし、ダニムの流れには、切り口の生々しいカッチヤ松や、オプリカスト・ナギなぞの大木が、川添ひにごろごろしたまゝで、伐採の数字だけが机から机を動いてゐるだけだつた。素朴《そぼく》で不器用なモイ族を怠惰《たいだ》な奴隷として、日本の軍隊は忙《せ》はしく酷使してゐた。――ビールを飲みながら、富岡は植物誌を読み出した。何十年となく此の地にとどまつて、印度支那産物誌や、植物誌を書いた仏蘭西人のクレボーや、シュバリヱの著述は、富岡にとつては仲々得がたいものであり、仏印の林業を知る上には、この書物は、此の上ない不朽《ふきう》の名著であつた。
加野も幾分酔ひがまはつて来たのか、さつきの不機嫌さが表情から消えて、思ひ出したやうに大きい声で、
「幸田女史は眠つてゐるのかな?」と云つた。
「さア……。何をしてるのかね」
「さつき、マンキンへ幸田君連れて行つたンでせう?」
「いや、後から来たから、一緒に見物の相手をしたまでさ……」
「僕はあのひとに惚《ほ》れてるンだ。承知しといて下さいよ……」
「ほう……」
「こだはるわけぢやないが、さつき、工兵隊の将校が来て、富岡さんとよろしく歩いてゐた日本の女は、何者だと聞いてゐたンで、早いなと思つたンですよ」
「厭にこだはるなア。……只、歩いてゐただけだよ。車輛部《しやりやうぶ》の少尉だらう? そんな事を云つたのは……」
「僕もすぐマンキンまで行つたンですよ。随分探したンだが、判らなかつた……」
富岡は湖の方にひそかに眼をむけてゐた。わざと森の小径《こみち》へはいつて行つた事を知つたらどうだらうと、ぞくつとしながら、
「誰でも女には眼が早いもンねえ……」と、何気なく云つた。
「いや、富岡さんの素早いのには驚いた。寝てる間に幸田君とマンキンへ行くなンざア、よろしくありませんよ。女つてものは、瞬間の雰囲気《ふんゐき》が勝負なンだから、いかに毒舌家の富岡さんでも信用はならない」
「後からついて来たンだよ。所長が仕事をいひつけて行かなかつたし、君は寝てるンで、僕に何をしたらいゝか訊《き》きに来たと云つたから、見物でもしたらいゝだらうと、一緒に案内したわけだ。それきりだよ。別に約束して、行つたわけでも何でもないさ……」
「まア、いゝですよ。僕は惚れたンだから、何とか、彼女にぶちあたつてゆくまでだ」
邪魔をしないでくれといつた、はにかんだ微笑で、加野は自分でビールを二つのコップについだ。富岡は煙草に火をつけて、ゆつくり煙を吐きながら、心のなかで、もう遅いよと独白《どくはく》してゐる。だが、考へてみると、遅くもない気がした。あの場合、ゆき子の感情を生殺《なまごろ》しのまゝでやり過した、自分の疲れかたは、只事ではないやうな気もして来る。サイゴンへ旅立つ日まで、ニウとの毎夜の逢ふ瀬は、加野のやうな、肉体の兇暴さからは救はれてゐた。ニウとの情交も、かりそめのもので、富岡は妻の邦子以外に、心の恋情は発芽しなかつたのだ。所長の牧田氏も、富岡とニウとの間を薄々には知つてゐる様子だつた。だが、牧田氏は所員の不始末に就いて、自分で責任を持つ限りにはあまり文句を云ふ人物でもない。富岡は牧田氏のそのおだやかさに甘えきつてもゐるのだつた。
何時の間にか、太陽はオレンヂ色をふちどりして、ランビァンの山の方へかたむきかけてゐた。湖が金色の針をちりばめたやうに、こまかに小波《さゞなみ》をたててゐる。食堂の奥から油臭い匂ひがたゞよつて来た。夕暮の美しさは、ひとしほ、二人の男に考へ深いものを誘つた。
「これで、こゝは平穏だが、内地は大変なンだらうなア……。恋愛をするなんざアぜいたくかな……」と加野が云つた。
「この戦争は勝つと思ふかね?」
「そりア勝つにきまつてゐますよ。いまさら、敗《ま》けツこはないでせう……。こゝまで来て敗けたりしちやア眼もあてられない。私は、敗けるなンざア考へてもみない。牧田さんもあんたも、妙な、不安にとりつかれてゐるが、もし、万が一にも、敗けたとなれば、私はその場所で腹を切つてしまふ……」
「さう簡単には腹を切れないよ。敗けるとは思ひたくないが、敗ける可能性は、君、あるらしいンだぜ。なるべく、さうした問題には触れたくはないが、どうも、耳にはいるニュースはいゝ面ばかりぢやない。此の土地のものが一番敏感だからね。一種の日本人的スタイルで、強引には押してはゐるが、手持ちの金も銀も飛車もありやアしないンだ。何となく日本的表象の影が薄くなつたね。円熟しないまゝで途方に暮れて、そこらを引つかきまはしてゐるのさ……。戦争を合理化する為に、色々と策はねつてゐるンだらうが、それからさきの才能がとぼしいンだ。何しろ、猿に刃物的なところもあるンだよ……」
「あんまり無意味な事を云はないで下さいよ。まア矛盾もあるにはあるでせうが、乗るかそるかやつてみない事にはね。結局、最悪の場合は、玉砕だ。死にやアいゝでせう、死にやア……」
「無責任だね」
富岡は吐き捨てるやうに云つて、トイレットに立つて行つた。富岡が食堂を出て行くとすぐ、入れかはりに、幸田ゆき子が、寝たりた顔で食堂へはいつて来た。ギンガムの紅《あか》い格子のワンピースを着て、ひどくめかしこんでゐた。髪をブルウの細いリボンで結んでゐた。加野ははつとして、暫く振り返つて、ゆき子を眺めてゐた。
「昼御飯も食べないで、おなかが空《す》いたでせう?」
加野が椅子をすゝめながら云つた。ゆき子は素直に、加野のそばの椅子に腰をかけて、素肌《すはだ》の脚を組んだ。金色の太陽の光線で、ゆき子の顔がぼおつと浮いてみえる。唇が血を吸つたやうに紅《あか》く光つてゐる。日本的な香料の匂ひがした。加野はなつかしい気がして、何の匂ひだらうかと鼻をうごめかしてゐたが、椿油《つばきあぶら》の匂ひだと思ひ当つた。ゆき子の髪が艶々《つやつや》と光つてゐた。加野はポケットから部厚い角封筒を出して、素早くゆき子の膝に置いた。
「あとで、読んで下さい」
とつさに、ゆき子はその封書を白いハンケチにくるんだ。富岡がのつそりとトイレットから戻つて来た。わざとゆき子の方に一べつもくれないで、金色の太陽をまぶしさうに暫く眺めてゐた。加野は食堂からコップとビールを持つて来て、ビールをついで、ゆき子に渡した。
ぎこちない沈黙が暫く続いたが、軈《やが》て、富岡は重いシュバリヱの本をかゝへて、黙つて椅子を離れて食堂を出て行つた。加野は、富岡が素直に気を利かせてくれたのだと思ひ込んでゐる。
雨は土砂降《どしやぶ》りになつた様子だ。
樋《とひ》をつたふ雨声が滝のやうに激しくなり、ゆき子はふつとまた現実に呼び戻される。くさくさして、仲々寝つかれない。仏印での華やかな思ひ出が、走馬燈のやうに頭のなかに浮きつ沈みつしてゐる。夜更けてずんと冷えて来たせゐか、一枚の蒲団だけでは寒くて寝つかれなかつた。泥のやうに疲れてゐながら、露営をしてゐるやうな落ちつきのなさである。誰も力になつてくれるもののない抵抗しやうのない淋しさで、暗がりに眼を開いたまゝ、ゆき子はじつと激しい雨の音に耳をかたむけてゐた。伊庭がこの家にゐなかつた事は倖《しあはせ》であつた。もう一度、昔のむしかへしはないけれども、伊庭との間に四ヶ年の月日の空間を置いた事は、ゆき子にとつて有難いのであつた。誰も顔見知りのないところで、ごろりと寝転んでゐる。ゆき子には仏印でそんな習慣には馴れきつてゐた。海防《ハイフォン》の収容所では、篠原春子とも逢はなかつたし、春子の様子を知つてゐる女達とは誰にも逢ふ機会がなかつた。加野は終戦前にサイゴンの憲兵隊へ連れて行かれたまゝだつたし、最後までゐた富岡は、幸運にも、五月の船でゆき子より一足さきに内地へ引揚げて行つた。五月から今日まで、富岡の心が、どんな風に変つてゐるかは判らなかつたが、逢ひさへすれば、二人の間は解決するのだと、ゆき子は自信を持つてゐた。自信を持つ事が気が楽だつたせゐもある。
その翌朝、雨は霽《は》れてゐた。からりとした初冬の空が、雨あがりの湿気を吹きはらつてゐた。荒れた狭い庭の柿の木には霜《しも》を置いたやうな小粒な渋柿《しぶがき》がいくつか実つてゐた。柿の木が大きくそだつてゐる事に、四年の歳月があつたのだとゆき子はうなづいた。同居人の細君は、真黒い麦飯だけれど召し上つて下さいと云つて、朝の卓にゆき子を呼んでくれた。主人公は夜明けに早く出て行つた様子だつたが、細君の話では、信州へリンゴを買ひに行つたのだと云つた。郷里が信州なので、このごろリンゴのブロオカーを始めたのだが、早晩、果実の統制がはづれる様子だから、静岡へ塩を買ひに行つて、塩を信州へ持つてゆき、信州から味噌を持つて来てみようかと思ふとも云つた。
「伊庭さんとの間がうまくいつてましたら、伊庭さんにお世話願つて、塩を手に入れたいのですけれど、何しろ、うちのひとときたら伊庭さんにいゝ気持ち持つてませんのでね。何処か、塩を売つてくれる処、御ぞんじぢやありません?」
ゆき子は一向にそんなところは知らなかつた。食卓には八ツの男の子を頭《かしら》に、七ツの女の子と三ツの男の子と赤ん坊がゐる。主人の末弟が同居してゐるのだが、今日は二人でリンゴを取りに行つたのださうだ。
ゆき子は何でもして働く気持ちもないではなかつたが、富岡に逢つてから方針をきめたいと思つた。伊庭の荷物のある部屋でよければ当分ゐてもいゝと細君が云つてくれたので、ゆき子は吻《ほ》つとして、その好意に感謝した。――以前の職場に戻れるものかどうかもいまのところは判然《はつき》りとはしない。かへつてゆき子は、以前の職場へ戻りたい気は少しもないのであつた。朝食後、細君に教はつて、近所の酒の配給所に電話を借りに行つた。農林省の富岡のデスクに電話を掛けてみたが、女の声で、富岡といふ人は省をやめてしまつてゐると教へてくれた。ゆき子は思ひ切つて、上大崎の富岡のアドレスを頼りに尋ねてみる気になり、出むいて行つた。目黒の駅を降りて、切通しの下を省線の走つてゐる道添ひに、人に聞きながら歩いて行つた。伏見之官邸の前を通り、焼け残つた邸町を、番地を頼りに歩いた。電車で見る窓外の景色は大半が焼け野原で、何も彼《か》も以前の姿は崩れ果ててしまつてゐるやうな気がした。やつとその番地を探しあてて富岡の名刺の張りつけてある玄関を眼の前にして、ゆき子は妙に気おくれがしてならなかつた。同居してゐるらしく、別の名札が二つばかり出てゐた。荒れ果てた家でどの硝子《ガラス》にも細いテープでつぎたしてあつた。夜来の雨で洗はれた矢竹が、箒《はうき》のやうに、こはれた板塀《いたべい》に凭《もた》れかゝつてゐる。細君に顔をあはせるのが厭であつたが、電報を打つても返事も来ないところをみると、自分で尋ねてゆくより方法がない。ゆき子は思ひ切つて硝子のはまつた格子戸を開け、農林省からの使ひだと案内を乞うた。五十年配の品のいゝ老婦人が出て来て、すぐ奥へ引つこんだが、思ひがけなく着物姿の背の高い富岡がのつそり玄関へ出て来た。富岡はさほど驚いた様子もなく、下駄をつつかけて外へ出ると、黙つてゆつくり歩き出した。ゆき子も後を追つた。知らない小道をいくつか曲つて、焼跡の続いた淋しい通りへ出ると、富岡は初めて、ゆき子を振り返つて、
「元気だね」と云つた。
「電報、御覧になつて」
「あゝ」
「何故《なぜ》、返事くれないの?」
「どうせ、東京へ出て来ると思つた」
「お勤めは、おやめになつてるのね?」
「七月にやめた」
「いま、何をしてるの?」
「親父の仕事を手伝つてる……」
「さつきの方、お母さま?」
「うん」
「よく似ていらつしたから、さうぢやないかと思つたわ」
「君、何処にゐるの?」
「鷺の宮の親類の家……」
「君、こゝで一寸待つてるかい?」
「えゝ、待つてゐます」
富岡は支度をして来ると云つて、もと来た道へ引返して行つた。紺飛白《こんがすり》の着物を着た後姿に、人が違つてしまつたやうな妙な気配が感じられた。ゆき子は焼跡の石塀のこはれたのに腰をかけて、暫く寒い風に吹かれてゐた。黒いサージの洋袴《ズボン》に、同居の細君に借りて来たブルウの疲れたジャケツ姿の自分が、ひどく荒涼としたその景色にしつくりしてゐた。危険な訪問だつたと、今頃になつて顔が火照《ほて》つて来た。
三十分も待つた頃、富岡が洋服姿でやつて来た、幾分かは昔のおもかげがあつたけれども、疲れた冬服のせゐか、ダラットで見た頃の若々しさが失はれて、何となく、くすぼつて見えた。ひどく痩《や》せてもゐた。石塀の崩れた処へ腰を降ろしてゐるゆき子を、遠くから眺めて、富岡は、何の感動もなかつた。舞台がすつかり変つてしまつてゐるこの廃墟では、ダラットでの夢をもう一度くりかへしてみたいといふ気はしなかつた。苛《い》ら立つた心をおさへて、もう終末の来る断定だけで、富岡はゆき子のそばへ歩み寄つた。鸚鵡《あうむ》のやうにもう一度、
「元気だね」と云つた。
「えゝ、あなたに逢ひたい一念で戻つたのですもの、元気でなくちや」
ゆき子は念を押すやうにして、まぶしさうに下から富岡をしみじみと眺めた。富岡は唇に微笑を浮べて、返事もしなかつた。別れるといふ断定が、二人の間に挾《はさ》まつてゐるのを、引揚げたばかりのゆき子には見えないに違ひない。電報を見て以来、富岡はあまりいゝ気持ちはしてゐなかつたが、それでも責任だけは果さなければなるまいと考へてゐた。あんまり悪党だと思はれないうちにとも考へてゐたが、現実にゆき子に逢つてみると、そんな考へもいまは必要ではなく、あつさり、今夜一晩で別れられるやうな決断力が出た。「何処《どこ》へ行くかね?」ゆき子に聞いてみたが、ゆき子は何処も知る筈がない。このごろ、池袋に小さい旅館が出来てゐると誰かに聞いてゐたのを思ひ出して、富岡は池袋へ行つた。煎餅《せんべい》のやうな生木の薄いバラック旅館が、いくつも建ちかけてゐた。気儘《きまゝ》放題に家が建ち並んでゐる。市場《マァケット》あり小料理屋あり。ひしめきあつてゐる急速の混雑状態が、かへつて女を連れてかくれるには、かつかうの市街であつた。看板だけはホテルと名のついてゐる、木造の小さい旅館に、富岡は硝子戸を開けて這入つて行つた。髪ふり乱した蒼《あを》い顔の女が、チュウインガムをくちやくちややりながら、靴をはいてゐたが、ろくろく紐《ひも》も結ばずに、扉に躯《からだ》をぶつつけるやうに戸外へ出て行つた。ゆき子は寒々とした気になつてゐる。――二人が案内された部屋は、市場が真下に見える二階の四畳半だつた。畳は汚れ、点々と煙草の焼け跡があつた。床の間も何もない。緑色の壁には幾つも引つかいた筋がついてゐた。部屋の隅に汚れた赤い無地の蒲団が、二枚積み重ねてあつた。その蒲団の上に、覆ひのない枕のサラサは油でべとべとに光つてゐた。
富岡は金を出して、ワンタンと酒を注文した。卓子も火鉢もないがらんとした部屋では、二人とも取りつきばもないのだ。富岡は壁に凭《もた》れて、長い膝小僧を抱いた。ゆき子は蒲団に片肘《かたひぢ》ついて横坐りになると、ジャケツの胸の上から大きなまるい乳房を、叩《たゝ》くやうにして掻《か》いてゐる。
「世の中つて、こんなに変つてるとは思はなかつたわ」
「敗戦だもの、変らないのがどうかしてるさ……」
「さうね……。あゝ、でも、私、とつても、あなたに逢ひたかつたのよ。あなた、いやに冷《つめた》いのね。引揚げて来たものなンか、もう同情しないンでせう?」
「馬鹿云つちやアいけない。俺だつて引揚げだよ。君ばかりぢやない。沢山俺達のやうなのはゐる」
何もさう、引揚げだからと、自分だけが偉いもののやうに、気負つてゐる云ひかたをするゆき子の不作法なのが、富岡にはあまりいゝ気持ちではなかつた。いきなり泥水のなかへ寝転んで動かうともしないゆき子の馴々しさが、富岡にはなじめない。ゆき子は、激しい男の感情を待つてゐた。誰も見てゐない、たつた二人きりのこの囲ひのなかで、最初に逢つた時のやうなよそよそしさでゐる富岡の心が判らなかつた。ダラットでの二人きりの理解はこんなに時がたてば儚《はかな》いものだつたのだらうか……。些細《ささい》な事にはこだはつてはゐられない、荒波のしぶきに鍛《きた》へられて、ゆき子は大胆ににじり寄つて行つて、富岡の膝小僧にあごをすゑた。
「どうして、そんなに知らないふりしてるの?」
「何を?……」
「私が、厭なのでせう?」
「何を云つてるンだい。女つて呑気《のんき》だね……」
「呑気ぢやないわ。私、捨てられるンだつたら、こんなにして戻つては来ない、加野さんと一緒に戻つて来たわ。――私、判つたのよ、富岡さんの気持ちが……」
「馬鹿な事を云ふもンぢやない。加野は加野だ。君があんな風にしむけた罪があるンだ。女は誰にでも尻尾《しつぽ》を振つてゆく気があるンだ。あんな処では、女は無上の天国だからね……。誰にも愛されるのは、女にとつて、いゝ気持ちだらう……」
「まア……。今頃、そんな事言つて、厭! 急にそんな事言つて、私をいぢめるのでせう。もう、私に愛情もないンぢやありませんか……。いゝわ、私だつて、さつき、こゝの玄関で見た女みたいになつてみせるわ。もう誰にも遠慮しないで、私はどろどろにおつこちて行きます……」
「そんなにヒステリックになるもンぢやない。俺だつて、内地へ戻れば、ダラットの時のやうな、責任のない暮しは出来ないよ。只、ダラットの生活の続きを内地で持たうといふ事は無理だと云ひたかつたンだ。君の生活に就《つ》いても大いに力になつてあげようし、俺だつて、その位の責任は持つ気だよ」
「どんな責任?」
酒に酔つて来た為か、富岡は少しづつ気持ちが明るくなり、曖昧《あいまい》な心のわだかまりから、解放されて、このまゝまた元通りの危険な関係に墜《お》ち込んでゆく勇気が出た。家庭とか幸田ゆき子の問題とか、そんなごみごみした現実からは、飛び離れた空想でいつぱいになりながらも、自分の躯《からだ》のなかの人間的な淋しさは、自分の考へなぞはふり捨ててしまつて、やつぱり、そこに横になつて、泣いてゐる女を、抱きかゝへたくなつてゐる。日本に戻つて来ると同時に、ゆき子への思ひ出を否認しつゞけて、少しづつ記憶が薄れかけて来てゐる処へ、また、かうして眼の前に幸田ゆき子を見ると、富岡は何の準備もなく、己れの運命の断層を見せられた気がした。富岡は、今度は、自分の方からにじり寄つて行つて、ゆき子のそばへ肩を並べた。
「私、思ひ出すわ。いろんなこと……。あの頃つて、私も、あなたも狂人みたいだつたわね。チャンボウの保存林を視察に行く時、牧田さんと、内地から来た何とかと云ふ少佐のひとと、あなたと、自動車に乗る時、急に、あなたが、幸田さんも行きませんかつて云つてくれて、少佐のひとも、さうださうだ、幸田嬢も連れて行かうつて云つて、四人でチャンボウへ行つたでせう? 何ていふ宿屋だつたかしら、安南のホテルに泊つて、ランプで御飯を食べて、みんなお酒を飲んで、酔つて、眠つたのよ。一番はづれの部屋があなたのところだつて、覚えておいて、私、夜中に、裸足《はだし》で、あなたの部屋へ行つたわね。並んだ部屋の前は沼になつてゐて、森で気味の悪い鳥の啼き声がしたわ。ドアには鍵もおりてなかつたので、そつとノブをまはすと、安南人の番人が庭に立つてゐたンで、吃驚《びつくり》しちやつた……。でも、あの時が、あなたとは、初めてだつたでせう?」
ゆき子が、富岡の手を取つて、指をからませながら、こんな事を云つた。富岡は、あゝそんな事件もあつたと思つた。兵隊が血を流して死んでゆく最中に、女と二人でたはむれてゐた当時の気の狂つた日常が、富岡には夢物語のやうでもある。
馬小舎《うまごや》のやうに、境の壁がついたて式になつてゐたので、どんな物音も筒抜けに聞える粗末な部屋だつた。眼を閉ぢるとすぐ、さうした二人でだけ知つてゐる思ひ出が、瞼の中に走つて来た。カッチヤ松の林床には、カルカヤや、チガヤが繁り、ところどころに、ボタンやヤマモ丶や、ユーゲニヤが点じてゐて、富岡にしても、チャンボウの森林はなつかしい土地である。二人の苦力《クーリー》が組になつて、伐倒や玉切りをして、一日やつと立木四本位を切り倒す位だつたかなと、森林官としてチャンボウへ出張してゐた頃を富岡は思ひ出してゐた。このあたりの樵人《きこり》は、おもにモイ族とか、安南人を使つてゐたが、みんなマラリヤを怖れて、募集の布告を出しても、仲々あつまりが悪く、富岡は率先して、自分で、苦力を募《つの》つてチャンボウへ何日も出掛けて行つたものだつた。山の中では、手挽《てびき》の製材小舎を建てて、そこで小角物や板材に挽いてダラットへ軍のトラックで送り出した。苦力の日給は全く安い比弗《ピアストル》でこきつかつたものだつたが、終戦寸前も、あの苦力達は、富岡になついて、日本の敗戦を薄々と知りながらもよく働いてゐたものだ。
「ねえ、もう、私達、二度と、あんな仏印の山奥なンて、行ける時ないでせうね。あすこで、二人で一生苦力になつて、木を切つて暮してもいゝつて話し合つてたわね」
「うん……」
「あなたが、そんな事云ひ出したンだわ」
「もう、二度と行けやしないよ」
「さうね。行けやしないわね。加野さんが、あんな事件を起さなければ、二人は、終戦の時に、あのチャンボウへ逃げ込んでたかも知れなくてよ。人間つて、何処でも、自由に住めるつてわけにゆかないものなのね。自然と人間がたはむれて、楽しく暮すつてわけにゆかないものなのかしら?」
富岡にしたところで、かうしたごみごみした敗戦下の日本で、あくせく息を切らして暮す気はしないのである。野性の呼び声のやうなものが、始終胸のなかに去来してゐた。イエスの故郷が本来はナザレであるやうに、富岡は、自分の魂の故郷があの大森林なのだと、時々恋のやうに郷愁に誘はれる時がある。
何時の間にか夕方になつた。
窓の下の市場は喧噪《けんさう》をきはめて、燈火が賑《にぎ》やかに光り出した。ゆき子は一人で部屋を出て行つて、寿司《すし》と、カストリ酒をビール壜《びん》一本買つて来た。帰るところも、行くところもないゆき子にとつては、一寸でも長く富岡と一緒に話してゐたかつた。二人ともカストリの酔ひがまはるにつれ、このまゝ泥々に溺れこんでも仕方がない気持ちになつて来るのだ。――富岡は自然に、ゆき子に触れた。何の感動もなく、昼間から敷き放しの蒲団に二人は寄りそつて、こほろぎの交尾のやうな、はかない習慣に落ちてしまふのである。日の落ちるのを眼の前にして、ゲッセマネに於いての、残酷なほどの痛ましい心の苦闘を、もう一人の分身として、そこに放り出されてゐる現実の己れに富岡は委《ゆだ》ねてみる。神若《も》し我等の味方ならば、誰か我等に敵せんやである。この女と共に行くべきであるとも、富岡は想ふ。両親も家庭も、かりそめの垣根でしかあり得ない気がして、もう一度、その垣根を乗り越えて、この女と人生を共にすべきだと、富岡は酔ひのなかで、誰かの声を聞くのだつた。日本人の萠芽期《はうがき》はすでに去つたのだと、彼は自分の酔ひのなかで、自分で大演説をしなければならないやうな錯覚《さくかく》にとらはれてゐるゆき子を抱きかゝへて、久々で二人はしみじみと唇を噛《か》み合はせてゐた。
夜になつてからは、旅館のなかも少しづつ騒々しくなり、時々は、無作法な夜の女が、部屋を間違へて、ゆき子達の襖《ふすま》を開けたりする。二人は平気で離れなかつた。風のかげんか、省線の電車の音が轟々《がうがう》と耳につく。蒲団の上にぬぎつぱなしの二人の洋袴《ズボン》が、人間よりもかへつて生々とみだらにみえた。
ゆき子は、富岡の躯にあたゝめられながらも、もつと、何か激しいものが欲しく、心は苛《いら》だつてゐた。こんな行為は男の一時しのぎのやうな気もした。伊庭との秘密な三年間にも、こんな気持ちがあつたのを、ゆき子は思ひ出してゐる。もつと力いつぱいのものが欲しいといつたもどかしさで、ゆき子は富岡から力いつぱいのものを探し出したい気で焦《あせ》つてゐた。富岡も亦、女を抱いてゐながら、灰をつくつてゐるやうな淋しさで、時々手をのばしてはビール壜《びん》のカストリを、小さい硝子の盃《さかづき》にあけてはあほつた。時々、ゆき子も一息いれては、寿司《すし》をつまんだ。まだ、夜がいつぱいあるやうな気がして、寿司を舌の上にくちやくちやと噛みしめながら、ゆき子は、畳の上に火照《ほて》つた脚を投げ出したりしてゐる。夥《おびただ》しい二人だけの思ひ出がありながら、実際には、必死になつてゆくほど、相反する二人の心が、無駄なからまはりをしてゐるに過ぎないのだつた。これからの、先途について、二人は語りあふでもなく、一切の現実を忘れて、ひたすら、昔の情熱を、もう一度呼び水する為の作業を試みてゐるやうなものであつた。時々、二人は力が抜けるやうな淋しい気になり、この貧弱な環境のせゐなのだと、そつと、お互ひに鼻を寄せあつて、相手の息の臭さにやりきれなくなつてゐるのだつた。
「あなた、とても痩《や》せたわね」
「美味《おいし》いもの食はないせゐだよ」
「私も痩せたでせう?」
「さうでもない……」
「だつて、抱いてみて違はない? 奥さんとどつちが太つてゐる?」
富岡はまた手をのばして、盃の酒を唇のなかへかつとあけた。
富岡は、お互ひの噴火はすでに終つてゐるのだと思つた。二人とも見誤つてゐるのだ。本質的に二人とも、この敗戦の底にずんずん沈みこんで、噴出する火を持たなくなつてしまつてゐる。只忘れてゐる。
「ねえ、加野さんには、私、可哀想な事をしたつて思つてゐるわ。あなたがあんまり、私を可愛がつてくれるから、私、加野さんをからかつてしまつたのよ。――でも、加野さんなら、私とよろこんで死んでくれる人ね。あの人は本当にうたがふつて気持ちのない人ですもの。……戦争だつて、あの位、日本が勝つつて信じこんでた人もないでせう? いゝ人だつたわね。二人の伴奏者としては申し分ない人物よ」
「君はひどい女だね」
「さうかしら……。でも、女つて、そんなところもあるンぢやない?」
富岡はなるべく加野の事を思ひ出したくなかつた。時々、加野の事を云ひ出すゆき子の心理には、何時までも加野を伴奏者として、二人の昔の情熱の呼び水にしてゐる悪い好みがないとは云へない。富岡は疲れてしまつた。ゆき子は少しも疲れないで、寿司をつまんでゐる。色がはりした、黒いまぐろをつまんで、平気でお喋舌《しやべ》りしてゐる。没落しつこのない原始的な女の強さが、富岡には憎々しかつた。赤い蒲団から、洗つたやうな艶のいゝ顔を出してゐる女の顔が卑《いや》しく見えた。
「何を考へてゐるの?」
「何も考へてはゐない」
「奥さんの事でせう?」
「馬鹿!」
「えゝ、私は馬鹿よ。女は馬鹿が多いのよ。男はみんな偉いンでせう? 馬鹿に責任を持つなンて気の毒みたいだわ。未来の事なんか考へないで、かうして、眼のさきのあなたにすがりついてるなンて、馬鹿以外の何ものでもないわ。ね、さうでせう……。はるばる戻つて来て、でも、逢へて、とても嬉しいのよ。それだけなのよ。――でも、私、海防《ハイフォン》で、あなたが奥さんと逢つてるところ考へて、とても厭だつたの……。奥さんつて、どんな方? 美しい人なンでせうね。教養があつて、綺麗で……」
ゆき子は眼の前に呆んやり、富岡の妻を描いてみた。申し分のない美人の楚々《そそ》とした姿が眼の前に現はれて来る。富岡はゆき子のおしやべりを聞きながらうとうとしてゐた。
「君が帰るまでには、きちんと解決して、奥さんとも別れてしまつて、さつぱりして、君を迎へるつて云つたのは嘘ね。男つて嘘吐《うそつ》きよ。女を口の先でまるめて、自分の境界《きやうがい》はちやんとしておくのね。私を、こんなところへ連れて来て、思ひ知らせるなンてひどいわ。日本へかへつたら、何も彼も昔の生活をきれいにして、君と二人で、日傭《ひやと》ひ人夫でもして生きようなンて云つて……」
ゆき子は涙をいつぱい溜めた眼を閉ぢて、富岡の肌をなでてゐた。腰骨がごつごつしてゐた。美味《うま》いものを食はないからと云つた男のざらついた肌が哀れだつた。ゆき子は自分の下腹に手をやり、すべすべしたなめらかな肌ざはりに神秘なものを感じてゐた。どうして、こんなに生きた女の肌はつるつるしてるのかと不思議だつた。国が敗けたつて、若い女の肌には変りはないものかしら……。もう一度、そつと、富岡の下腹にゆき子は手を触れてみた。
「明日になつたら、右と左に別れて、また、こんなとこで逢つて、あなたは酔つて眠つてしまふンでせう……。遠いところから戻つて来ても、あなたは少しも何とも思つちやゐないンだわ。私が、はるばる戻つて来るなンて奇蹟《きせき》ぢやないの。色んな事心配して、ダラットの時のやうに可愛がつてくれなくちや厭! ねえ、起きてよ。眠つてしまふなンてひどいわ。眠るなンて厭よッ!」
ゆき子は富岡の肌をきゆつとつねつた。
富岡はうとうとしてゐたが、つねられて酔眼を開いた。不思議なところにゐる気がして、四囲を眺めた。だが、睡魔はおそつて来る。また落ちくぼんだ眼を深く閉ぢ、「うるさいねえ、もう、君も疲れてるから、少し眠るといゝよ。何時までも、昔の事なんか考へたつて仕方がないよ」と云つた。
「まア! 随分薄情な人だわ。昔の事があなたと私には重大なンだわ。それをなくしたら、あなたも私も何処にもないぢやないンですか? まだ若いくせに、年寄りみたいになつて、栄養不良で、元気がなくて、疲れてるつて厭だわ。日本は自由になつたつて云ふンぢやないの? 隣りの部屋では、あんなに、甘つたれてゐるぢやないのよ……。起きて、そんなお爺さんみたいな疲れかたしないでよ。――起きないのなら、私は明日奥さんのところへ話しに行つてよ。いゝ?」
富岡と別れて、ゆき子が鷺《さぎ》の宮《みや》の伊庭の家へ戻つて来たのは、翌日の昼過ぎであつた。
判然《はつき》りした約束を取り交はしたわけではなかつたが、二人が、一緒になるにしても、一応、時をかけなければ、うまくはゆかないと云ひきかされて、ゆき子は仕方がないと思つた。
近いうちに、兎に角、ゆき子の落ちつき場所をみつけてくれると云ふ事と、さつそく、まとまつた金も作らうと富岡が云つた。男の一時のがれのやうな気がしないでもなかつたが、かうした出逢ひのなかでは、富岡の言葉を信用しないわけにはゆかない。
池袋の駅で富岡に別れたが、富岡はすぐ雑沓《ざつたふ》の中へまぎれ込んで行つた。ゆき子は心細い気がして、暫くホームの柱に凭《もた》れて、電車から吐き出される人や、乗り込む人の波をみつめてゐた。長い間の戦争に扱使《こきつか》はれてゐた、栄養のない顔が、犇《ひしめ》きあつて、ゆき子の周囲を流れてゐる。
ゆき子は目的《あて》もなかつた。
鷺の宮へ戻つたところで、別に、誰もゆき子を待つてくれる人もない。静岡へこのまゝ戻つてみようかとも考へたが、東京を去るには、やはり富岡に強く心が残つてゐる。その執着は、初めて富岡に逢《あ》つてみて、形の違ふものになつて来てゐたが、ゆき子は、一応、富岡に逢へた事は嬉しかつた。それにしても、ゆき子も亦、このまゝでは、富岡の重荷になるだけだと、心の中にひそかに承知してゐるところもあるのだ。まづ、この群衆の生活のなかに、自分も這入つて行つて、働く道を求めなければならないのだと思ひ、ふつと、品川の駅で見たダンスホールを思ひ出してゐた。何と云ふ事もなく、ダンサアになつてみようかと思つた。
華やかな音楽の流れのなかに、化粧をした変つた自分の姿を置いてみるのだけれども、現在の自分の姿からは、さうした職業は実感としては不可能のやうな気がした。
富岡から、ほんのわづかな小遣ひを貰つてゐたので、ゆき子は新宿へ出てみた。何年ぶりかで見る新宿は、相変らずの雑沓だつた。知つた顔は一人もないのが、ゆき子には他郷を歩いてゐるやうな気がした。新型の自動車が走り、しわしわした寒い歩道を、群衆は着ぶくれして歩いてゐる。硝子のない巨《おほ》きな建物の前へ来ると、あゝこゝが三越だつたのだと、ゆき子は高いビルを見上げた。ビルにそつて右へ曲ると、いくつもの小路のなかに、地べたに店を拡げてゐる露店市が、ぎつしりと並んでゐた。鰯《いわし》を石油鑵から掴《つか》み出して売つてゐる。小さい硝子箱には飴《あめ》もある。ピラミッドのやうに積み上げた蜜柑を売る店、ゴム靴屋、一ぱい五円の冷凍烏賊《いか》を並べてゐる店、どんな路地の中にも、さうした露店市が路上にあふれてゐた。荒凉とした焼跡の瓦礫《ぐわれき》には、汚ない子供達がかたまつて煙草を吸つてゐた。
ゆき子は、一山二拾円の蜜柑を買つて、瓦礫の山へ登り、そこへ腰をかけて、蜜柑をむいて食べた。旧弊で煩瑣《はんさ》なものは、みんなぶちこはされて、一種の革命のあとのやうな、爽凉《さうりやう》な気がゆき子の孤独を慰めてくれた。何処よりも居心地のよさを感じて、酸つぱい蜜柑の袋をそこいらへ吐き散らした。
かうした形の革命は、容赦なく人の心を改革するものなのか、流れのやうに歩いてゐる群衆の顔が、ゆき子にはみんな肉親のやうになつかしかつた。
いまごろは、富岡はあの家へ戻つて、細君に、一夜の外泊をどんな風に云いわけしてゐるのかとをかしかつた。富岡の事だから、何気なくふるまつてゐるに違ひない。家族のものは、富岡に対して、不安を持たないだらう。ゆき子はさうした事が妬《ねた》ましく考へられた。内地へ戻つて来たら、その日にも、富岡が迎へに出てゐて、二人で新居にうつれるものと空想してゐた甘さが、ゆき子には口惜しかつた。
昼過ぎになつて、ゆき子は鷺の宮へ戻つた。二つばかり残つた蜜柑を、子供達へくれて、伊庭の荷物のある部屋へ這入つたが、人気のない部屋は寒くて淋しかつた。
ふつと思ひついたやうに、ゆき子は伊庭の荷物を眺め、何かめぼしいものを探して売つてしまひたい気がした。さうした事が、伊庭へ対するふくしうのやうな気がした。めぼしいものを売つて、当分の生活費にして暮しても悪くはないやうな気がした。荷物をほどくにしても、自分の預けてあるものを探すのだと云へば、此の家の人達は怪しまないだらう。また、たとへ、伊庭が来て、荷物がなくなつてゐるのを知つても、ゆき子のやつた事ならば、とがめるわけにもゆくまいと思へた。
夕方になつて、ゆき子は此の家の人からさつま芋を分けて貰つて、一緒にふかして貰つた。
芋《いも》を食べながら、猫間障子《ねこましやうじ》の硝子越しに狭い庭を見てゐると、汚れた躑躅《つゝじ》の植込みに、小さい痩《や》せた三毛猫がじいつと何かをうかがつてゐた。春さき、牡丹色《ぼたんいろ》の花が咲いた躑躅を思ひ出して、昔のことが、まるで昨日のやうに思へた。猫は暫くしてから、のそのそとものうげに垣根のそばの、枇杷《びは》の木の下をくゞつて外へ出て行つた。
ゆき子は障子を開けて、廊下へ出て行き、猫を呼んでみたが、仔猫は戻つては来なかつた。
富岡は、二三日はゆき子の事を考へてゐたが、ゆき子を落ちつかせるべき家の事も、金をつくる事も何時か忘れるともなく忘れて、このまゝで、ゆき子との交渉は途切れてしまひたい気持ちでゐた。窒息しさうな程、ゆき子との邂逅《かいこう》は息苦しく、ゆき子がこのまゝ自由に自分の方向へ進んで行つてくれる事を祈つた。
富岡は、このごろ材木商の知人と共同で、山へ木材の買ひ出しにかかつてゐた。近々、北信州の田舎《ゐなか》に出掛けて、杉材の仕入れにかゝりたかつたのだが、知人の資金関係が仲々うまくゆかなかつたし、木材の流筏《いかだ》が、山からの荷出しには、相当の困難だつたので、毎日のびのびになつてゐた。それさへうまくゆけば、多少の金も手にはいつたし、闇の材木は飛ぶやうに高価で売れてゆく時勢だつたので、少々の冒険はやつてみたい気持ちでいつぱいだつた。日本へ戻つて来て、富岡は、つくづく官吏生活には厭気がさしてゐたので、この機会をとらへて、自分の人生を変へてみたいとも考へてゐた。
今日も、知人の材木商の田所に、電話してみたが、資金があと、四五日は日数がかゝると聞いて、がつかりして戻つて来た。帰るなり、妻の邦子が、女のひとが尋ねて来ましたと報告した。明日、池袋のほてい商会まで、お出で願ひたいと、云ひおいて戻つたと聞いて、ゆき子だなと思つた。
ほてい商会と云ふのは、池袋で泊つたホテイ・ホテルの事だつた。富岡は一寸厭な気がして浮かない顔つきだつた。邦子は、何も知らない様子で、
「あの女のひと、私のことを、奥様でいらつしやいますかつて聞きますのよ。何ですの? 田所さんのところに何か御関係のある方ですか?」と、聞いた。
「いや、田所とは別に何の関係もない。此の頃、やつぱり事業の方で知りあつたホテイ商会の細君ぢやないのかね……」
「さうですか。それにしても、あまり感じのいゝ女の方ぢやございませんのね。終戦以来、色々な人が出来たのですね。何だか、好意の持てない、私の厭な型の女の人でしたわ。――何処へいらしたンだらうとか、何時頃、お帰りでせうとか、不作法な程、とても馴々《なれなれ》しいンですのよ」
女の直感と云ふものは、すぐ反射しあふものがあるのに違ひないと、富岡は心中ひそかに恐れをなした。
邦子はゆき子に対して、直感で、一種の膚触《はだざは》りが感じられたのだらう。富岡は、辛《つら》い気がした。いまのうちに、ゆき子の事を告白してしまつておいた方がいゝのではないかとも考へられたが、モンペの膝に、縫物をひろげて、冬の蒲団の手入れをしてゐる妻に対して、外地での色恋沙汰を報告するには、あまりにも気の毒な気がした。罪もない邦子にさうした告白をして、深い傷口をつくる事は、富岡にはたうてい忍びないのである。邦子は、富岡の両親のもとで、とぼしい生活によく耐へて、良人を待つてゐたのだ。
翌日、昼過ぎ、富岡は、ホテイ・ホテルに出向いて行つた。ゆき子は待つてゐた。海老茶《えびちや》色の外套《ぐわいたう》を着て、髪を思ひきり額にさげた、見違へるやうに派手なかつかうをして、火鉢に凭《もた》れてゐた。
「昨日、うかゞつたのよ……」
「うん……」
「奥さまつて、とても、おとなしさうな方ね」
「君、馬鹿に、お洒落《しやれ》になつたンだね」
「えゝ、此の外套買つたンだけど似合つて?」
「どうしたンだ」
「私、親類のものを黙つて売つちまつて、これ買つたのよ。あまり寒かつたし、淋しくて仕様がなかつたから……」
「そんな事していゝのかい?」
「よくはないけど、仕方がないわ」
富岡はまじまじと、派手なゆき子の姿を眺めてゐた。懈《だる》いやうな、ものうい姿でゐるゆき子の変化が、そゞろに哀れで、富岡は、昔歌舞伎で観た、朝顔日記の大井川だつたか、棒杭《ぼうくひ》に抱きついて、嘆いてゐた深雪《みゆき》の狂乱が、瞼《まぶた》に浮んだ。自分が、こゝで此の女を突き放してしまへば、そのまゝ廃頽《はいたい》の淵《ふち》に落ち込むのが見えてゐるのだ。棄て鉢にさせたら、どんな事になるかと、富岡はさうした不安もあつた。
「何を考へていらつしやるの?」
「別に、考へてもゐないが、これから、二人とも大変だね……」
「さうね、纏《まとま》りやうがないつて思つてるンでせう? 悉皆《すつかり》、私はあきらめてもゐるのよ。奥さんを見たら、とても悲しくなつて、歩きながら、思ひ詰めちやつたわ。旦那さまに安心してゐる奥さまつて、清潔で綺麗ね。善いひとを不幸にするのは怖《こは》いわ……」
富岡は本気でそんな事を云つてゐるのかと、じいつとゆき子をみつめた。家の前を彷徨《うろつ》いてゐたのだらうゆき子の姿が眼に浮んで来る。ゆき子はハンカチを外套のポケットから出して眼を拭いた。思ひがけなく、そのハンカチは、富岡がダラットで使つてゐたものであつた。
「貴方《あなた》は、私なンか捨ててしまひたいのね? さふだと思ふわ。もう、私の事なンかどうでもよくなつてゐるのよ。私つてものが、貴方には苦痛になつてるのね。私は、貴方に見放されたら地獄へ落ちて行つてしまふのよ。灰になつて吹き飛んでしまふきりなのよ。貴方の影だけを見てては生きてはゆけないぢやありませんか。奥さんを愛していらつしやる、そのおあまりを、乞食《こじき》みたいに貰ふ愛情なンて厭だわ……」
「何云つてるンだ。馬鹿だね。愛情なンか、いまごろ持ち出すなンて変だぜ。それどころぢやなく、俺だつて、色々と考へてゐるンだ。何とか、方法を考へてゆかない事には、君だつて困ると思ふから、かうして、今日も忙しいのにやつて来てゐるンだ」
「厭! そんなに恩を被《き》せないで……。私の云つてる気持ちが、貴方にはよく判つて貰へないンだわ。私は、どうして、我まゝいつぱいに貴方に甘えてゆけないの? 貴方は、いまでも他の事を考へてゐるンぢやありませんか。――でもね、無理な事は云ひませんから、何とか私の住むところをみつけて、時々逢つて下さい……。私、すぐにでも働きたいのよ。私は、貴方の本当の奥さんにはなれないやうに生れついてゐるンだわね」
富岡は冷い茶をすゝり乍《なが》ら、寒いので、膝を貧乏ゆすりして、ゆき子のヒステリックな口説《くぜつ》を聞いてゐた。ゆき子は三日も放つておかれた淋しさで、富岡の顔を見るなり、あれもこれも喋舌《しやべ》りたかつた。
「部屋は探して下すつてるンですの?」
「探してゐるさ。部屋一つ位と思ふだらうが、こんなに焼けたンだもの、仲々みつかるもンぢやない。たとへみつかつても、何万円と権利金が要るンだ。もう、一寸《ちよつと》待つてくれよ……」
「そりやァ、貴方は一軒の家に住んでいらつしやるから、何となく落ちついていらつしやるけど、私は宿無しなのよ。現在泊つてゐる処は、私の住める義理合のない家にゐるンですもの。……早く、私だけの居場所が欲しいのよ。親類が疎開しちやつて、その後を知らない人達が住んでる、その家へ、ほんの数日と云ふ事で借りてるンですもの、辛くて仕方がないわ……」
「いまに、何か見つけてやるよ。俺だつてぐづぐづしてゐるわけぢやないンだ。家と云ふものは、此の時勢ぢやア仲々ないものなンだ。ところで、此の宿ぢや、火はくれないのかね? 馬鹿に寒いな……」
「さうね、また、此の間みたいに、私、宿で壜《びん》を借りて、カストリ買つて来ませうか?」
ゆき子は気が変つたのか、手提げを引き寄せてもそもそと袋のなかを探し始めた。やつと財布を探し出すと、気軽るに立ちあがつた。
「おい、少しでいゝよ。沢山は飲みたくないな……」
「今日は早く帰るの?」
「別に早く帰らなくてもいゝ……」
「泊つてかないの? 私、お金あるわよ」
「今日は泊れないね」
「さう、つまらない。どうして? 此の間、叱られたンですか?」
「子供ぢやあるまいし、誰も叱りやアしないよ。今日は駄目だ……」
ゆき子は無理に強制するでもなく、そのまゝ部屋を出て行つた。此の間の部屋とは違つてゐたが、部屋のなかが馬鹿に寒く、目の荒い畳の汚れてゐるのも陰気だつた。
富岡は煙草を出して一服つけながら、邦子が、ゆき子の事を、最も厭な女だと云つたのを思ひ出してゐた。
かうした荒れた旅館の一室で、秘密な女と逢つてゐる事よりも、家の茶の間で、しゆんしゆんと湯のたぎる音をきいて、邦子のそばで新聞に眼をとほしてゐる時の方が愉《たの》しいと思へた。何と云ふ事もなく、何故、ゆき子は仏印で死んでくれなかつたのだらうと、怖ろしい事も考へるのだつた。すべて人間の心のなかには、どんな時にも、二つの祈願が同時に存在してゐて、一つはサタンに向ふと云ふ心理があるものだと、富岡は何かで読んだ記憶があつた。
富岡は、煙草の煙を眼で追ひながら、ふつと、ゆき子のふくらんだ手提げに眼がとまつた。手をのばしてそれを引きよせてみた。フェルトで出来た汚れた手提げのなかには、紫の風呂敷に包んだ反物のやうな固いものがはいつてゐた。その他には化粧品だとか、富岡がサイゴンで買つた、ブルーダイヤのマークのはいつたパアカーの万年筆や、ピースの煙草や、手拭や石けんがごたごたとはいつてゐた。静岡の肉親にあてた手紙も二通ほどあつた。富岡は、軈《やが》て、また、もとどほりにその手提げを戻して、煙草を火鉢の固い灰に突き差したが、自分の心のなかからはみ出しさうになつてゐるゆき子に対して、何となく済まない気がして来た。善き半身である処の邦子のおだやかな容子《ようす》を考へて、その妻を犠牲にしながら、自分だけはこんなところに彷徨《はうくわう》してゆき子に搦《から》まり、現在の生活の淋しさを、ゆき子によつて遁《のが》れようと、秘密な誘惑に頼らうとしてゐる自分の身勝手さが、背筋に冷い汗のやうに走つた。
富岡は人妻だつた邦子をさらつて、自分の妻とした当時の事を思ひ出してゐた。悪い事を重ねては、新しい罪をまた重ねてゆく自分の勝手な心の移りかたが、いまでは宿命のやうにさへ感じられた。ダラットに残して来た女中のニウは、富岡の子供をみごもつて田舎《ゐなか》へ戻つて行つた。まとまつた金を与へただけで、一切済んだ気でゐた気持ちが、妙に痛んで、時々、ニウの夢を見る時があつた。もう、ニウはすでに赤ん坊を産んだに違ひないのだ。混血児を生んで、肩身の狭い思ひをしてゐるだらうと、富岡はなつかしい仏印での生活を思ひ浮べてゐた。
暫くして、ゆき子が冷い風に吹かれたのか、赧《あか》い顔をして戻つて来た。
「ねえ、またお寿司《すし》買つて来ちやつた。お酒も、ほら、壜《びん》にいつぱい分けて貰つたのよ」
ゆき子はビール壜を窓に透かすやうにして、富岡へ見せた。ゆき子は、冷い残りの茶を、乱暴にも、火鉢の隅へあけて、それへ酒をついだ。
「私が、初めに、お毒見よ」と、茶碗に唇をつけて、半分ほどぐつと、飲んだ。
「あゝ、おいしい。胸も、おなかも焼けつくやうだわ」
富岡は酌をされて、これも息もつかずに、一息に酒を飲んでしまつた。ゆき子はまた茶碗へ酒をついだ。
「ねえ、今夜、泊つて……いけないかしら。もう、今度だけで、無理を云ひませんわ。もし、この家が厭だつたら、何処へでもいゝわ。お金が足りなかつたら、私、いゝものこゝに持つてるから、もつと気持ちのいゝところに泊つてもいゝわ」
急に熱いものがこみあげて来て、富岡は、ゆき子の手を握つた。どんな感情も心にしまつてはおけないゆき子の野性的な性格が、愛らしかつた。家庭を背負つた、重い環境に押しひしがれてゐた気持ちから解放されて、酒の勢ひを借りたせゐか、富岡はゆき子の手の指を唇に噛《か》んだ。
「もつと、ひどく、ひどく噛んでよ」
富岡は、ゆき子の指を小刻みに噛んだ。ゆき子は耐へられなくなつたのか、富岡のゆすぶつてゐる膝へ顔を伏せて、くつくつと泣いた。
「私は、こんな女になつてしまつて、自分でも、判らなくなつてゐるンです。何《ど》うかしてしまつて下さい。どうでもしてしまつて下さい……」
ゆき子は泣きながら、両の手で、富岡の膝をさすりながら云つた。部屋の中は暗くなり始めてゐる。賑やかな市場の呼び声が風の工合か判然《はつき》りと聞える。富岡はゆき子の頭髪に唇をつけたが、自分の心にはさうした事が、芝居じみてむなしい事をしてゐるやうに思へた。
妻の邦子にはない、野性な女の感情が、富岡には酒を飲んだ時にだけ、ぱあつと反射燈を顔に当てられたやうに判然りするのだつた。
「私、奥さんを見なければよかつたわ。いゝ人なのね。でも、貴方の奥さんと思ふと、やつぱりあの顔は憎い。私、お宅へうかゞつてから、何時も、あの奥さんの顔がちらちらと胸の中へ刺しに来るの……。奥さんは、きつと、私の事を感じてお出でだわ。ね、おつしやつたでせう?」
「何も云はないよ」
「嘘よ。私、とても、ひどい表情をして、奥さんを睨《にら》んでたの。不思議さうに私の顔を見て、奥さんてば、私の足もとから、頭のてつぺんまでじろじろ見てて、とても、厭な笑ひ方をしたの。たまらない気味の悪い、笑ひ方だつたわ。金歯が光つたのよ、その時ね……。どうして、前歯に、金なンかはめてるのかしら……」
ゆき子は顔をあげて、にやにや笑ひながら云つた。泣いた顔が洗つたやうに化粧がとれて、かへつて生々してみえた。額にさげた前髪が乱れて、初めて見るやうななまめかしさだつた。酔眼で見るせゐか、遠近の調子が、まるで映画の速度のやうに、眼の前でゆき子の顔がゆれて、濃く淡く見える。
「でも、私より、ずつと年上の方ね……」
「いやに搦《から》むね?」
「さうなのよ。貴方を一人占めしてるのいけないわよ。唇の正面に金歯なンか入れてる奥さんとキッスするひとつて、ぞつとするわ……」
富岡は邦子の欠点をづけづけと差される事は、あまりいゝ気持ちではなかつた。部屋の隅に蒲団がつんであるのを富岡は一枚引きずつてきて、膝へかけた。汚れてべとついた冷い蒲団だつた。
「炬燵《こたつ》ね。私も、こつちから足を入れていゝ?」
ゆき子は酔つてゐた。
「働くつて、何をするつもりだ?」
もう、三四杯目の酒をひつかけて、富岡が聞いた。ゆき子は一寸真面目な顔になつて、
「ダンサアになりたいンだけど、いけないかしら……」
と、眼の底から光るやうななまめかしい表情で云つた。富岡はそれもいゝだらうと思つたが、それに就いてはいゝとも悪いとも云はなかつた。
軈《やが》て、十時近くになり、富岡は、
「さて、帰るかな……」
と、つぶやくやうに云つて、外套《ぐわいたう》の内ポケットから、まるめたやうな札束を出して、そのまゝゆき子の膝へ置いた。
「千円ある。これのあるうちに、働く処を何処でもみつけなさい。部屋は、みつけ次第知らせる。明日の晩、一寸、信州へ発つので、十日位は逢へないが、それまで、その家へいくらか金を出して、置いて貰ひなさい……」と、こんな事を云つた。
ゆき子は、千円の金を手にして、そのまゝつつ放されたやうな気がした。
「私、お金いらないわ。それより、泊つて行けない? このまゝ別れるの淋しい。厭だわ。信州へ十日も行くなンて、逃げて行くのよ。さうだわ。きつと、さうだわ。正直に――気持ちを云つて……」
残りの酒をぐつと飲んで、富岡は、また思ひ出したやうに、膝小僧を苛々《いらいら》と貧乏ゆすりしながら、
「いや、さうぢやない。君に申し訳ないンだ。ね、正直に云へば、僕達は、あんな美しい土地に住んでから夢を見てゐたのさ。そんな事を云ふと、君に叱られさうだが、日本へ戻つて来て、まるきり違ふ世界を見ては、家の者達をこれ以上苦しめるのは酷《こく》だと思つたンだ。みんなひどい苦しみ方をして来たのに、さうしたなかに、兎に角耐へて来てゐたンだ。僕を待つてゐてくれた人達に、ひどい別れ方は出来なくなつてしまつたンだよ。約束を破つたやうになつたが、君が、倖《しあは》せになるまで、僕はどうにでもする。真心こめて考へる……。君は好きなンだよ。それでゐて、どうにも一緒になれないのは、僕の弱いところなンだ。今夜も、泊れない事はないが、もう、君を偽《いつは》つては悪い気がして、僕はさつきから早く帰るべきだと、自分に云ひきかしてゐた。信州へ行くのは本当なンだ。旅から戻つて、君にこの気持ちを話さうと考へてゐたが、急に、いま、ぶちまけたくなつた。本当に別れるとなると、僕は、きつと君が不憫《ふびん》になるにきまつてゐる。そのくせ、現在の家から、自分一人丈抜けて出る事は不可能なンだよ。みんなが、僕一人を頼りにして生きてゐるンだからね……」
性急に、ゆき子は首を振り、両の耳を手でおほふた。きらきらと光る眼で、富岡の唇《くち》もとを睨みつけながら。――富岡は静かに蒲団を片寄せて、ゆき子の膝に両手をかけてうめくやうに、
「別れてしまふより方法はない」と云つた。
「厭! それでは、貴方たちだけが幸福になる為に私の事はどうでもいゝの? こんなお金なンかいらないッ。私は、お金を貴方から貰つて幸福だとは思はないわ。私は、貴方の都合のいゝやうにおとなしくはしてゐられないわ。私にだつて、云ひたい事を云へる権利があるなら、奥さんも私も同じだつて事だわ。奥さんを幸福にする為に、私なンかどうにでもなると思つてるンでせう……。何故、初めに、私が尋ねて行つた時、玄関で、さう云はなかつたの?」
ゆき子は一時に酔ひが発して来た。何を云つてゐるのか、自分でもよくは判らなかつたが、富岡の勝手な云ひ分が気に食はなかつた。
仏印では、あんなに伸々《のびのび》としてゐた男が、日本へ戻つてから急に萎縮《ゐしゆく》して、家や家族に気兼ねしてゐる弱さが、ゆき子には気に入らなかつた。ゆき子は、富岡の両の手を取つて力いつぱいゆすぶつた。そして、急に左の腕をまくり、太いみゝず腫《ば》れの縦に長い傷痕《きずあと》をみせて、
「これ、覚えてゐるでせう? みんな、貴方が、加野さんに嘘をついてゐたからだわ。ニウにいたづらしたのも、私、みんな知つてるのよ。貴方は、人間の一生懸命な気持ちつて、狂人みたいに思つてるンぢやありませんか? 誰でも、すぐ、貴方のやうな人を信用して、加野さんや、私のやうなものは、ノーマルぢやないつて信用されないのよ。――でも、あの時は、貴方は私には贋物《にせもの》には見えなかつた。別れてくれつておつしやれば、仕方がないけれど、それでもいゝものなのかしら……。家を立派にして、家族のひとたちをよろこばせて、自分の胸の中がすつとしたつて、貴方のその幸福をつくる為には、幾人かを犠牲にしてる事になるわ。それを知らん顔するなンてひどい。そんなに、家や奥さんが大切だつたら、初めつから、石塊《いしころ》になつてればいいのよ。――私、別に、貴方の奥さんを追ひ出したいなンて思はないけど、でも、もう少しいゝ事考へ過ぎてたのね。私は、今夜はこゝへ泊りますから、貴方は自由に帰つて下さいッ……」
眼が据《すわ》つてゐた。そして、富岡の手を放すと、ゆき子は、そこにある蒲団を頭から被《かぶ》つてごろごろと畳を転げまはつた。ゆき子の自暴自棄な姿を眼にして、富岡は森閑《しんかん》とそこに坐つたまゝだつた。
四日ばかりして、不意に伊庭が上京して来た。
ゆき子は出掛けようとして、路地の出逢頭《であひがしら》に、向うからほつほつやつて来る伊庭に会つた時は、初め、伊庭ではなく、伊庭の兄かと思つた。伊庭も吃驚《びつくり》したやうだつた。
「おう、ゆきちやんぢやないか?」
ゆき子は突然だつたので顔を赧《あから》めた。
「何時《いつ》、戻つたンだい? 静岡へ何故、先に戻つて来ないンだ。やつぱりゆきちやんだつたンだね……」
伊庭は四年も見ないうちに、すつかり老《ふ》けこんで人相も変つてゐた。
「私がこゝへ来てるの、どうして知つてて?」
伊庭は黒い外套の襟を立ててくるりと、後がへりの姿で、
「家ぢやこみいつた話も出来ないから、何処かで休みながら茶でも飲むか……」
さう云つて、ぴゆうぴゆう寒い風の吹く、からからに乾いた広い道の方へ出て行つた。ゆき子も、伊庭の疲れたやうな後姿を珍しいものでも見るやうに眺めながら、黙つてついて行つた。踏切を渡つて、伊庭は駅へは這入らないで、かまはずに道をまつすぐ行つて、丁度駅からは、はすかひに見える蕎麦屋《そばや》ののれんをくゞつた。薄暗い家のなかには火の気もなく、たゝきに並んでゐる卓子の上は白い埃が浮いてゐた。隅の方に二人は腰をかけてむきあつたが、二人ともあまり寒いので、足をたゝきから浮かせるやうにしてゐた。それに硝子戸の外はこまかい格子だつたので、その一隅は特別薄暗く寒かつた。
「こゝは、蕎麦は出来ませんか?」
伊庭が尋ねた。ガーゼのマスクをした、桃割《もゝわれ》に結ひたての娘が、蕎麦はまだやかましくて出来ないのだと云つた。こゝで出来るものはと尋ねると、紅茶と、汁粉《しるこ》と、ソーダ水だけだと云つた。この寒いのにソーダ水なンか飲めるものかと、伊庭は、汁粉を二つ、とりあへず注文した。昔ながらの蕎麦屋で、如何《いか》にも宿場の食べもの屋の感じである。伊庭はポケットから煙草を出して、一服つけた。一服つけて光の箱をまたポケットへしまひかけると、ゆき子が寒さうに肩をふるはせながら、
「私にも一本吸はせて」と云つた。
「お前、喫《の》むのかい?」
「あんまり寒いから、一寸吸つてみたいのよ。煙を吸ひこんだら、あつたまりさうだから……」
ゆき子は一本唇に咥《くは》へて、伊庭にマッチをつけて貰つた。伊庭はうるさい程、いろいろな事を尋ねた。軈《やが》て、ズルチン入りのどろりとした汁粉が運ばれた。椀の蓋《ふた》を取ると、蓋に汗をかいてはゐるが、汁粉の色が飴色《あめいろ》をしてゐた。団子の小さい塊りが二つ浮いてゐる。
「お前、勝手にうちの荷をほどいたンだつてね?」
伊庭が、うつむいて、汁粉の団子を箸《はし》でつまみあげながら云つた。ゆき子は黙つてゐた。伊庭と同じやうに団子を箸でつまんで口に入れながら、家の者が密告したのに違ひないと思つた。
「家へ行つて、荷物を調べれば判るンだが、どうして、そんな勝手な真似をするンだね。金がいるのなら、そのやうに云つてくれれば何とかするンだよ。それよりも、東京へ戻つて、静岡へ知らさないと云ふのはをかしいね……。或る人から手紙で知らせて来たンだが、大分売り飛ばしてるつて本当かね?」
伊庭は、消えかけた煙草に火をつけて、すぱすぱと力いつぱい煙草を吸ひながら云つた。ゆき子はいまは、伊庭に対して何の感情もなかつた。
「あんまり、寒かつたンで、お義兄《にい》さんとこの荷をほどいて、二三枚拝借したのよ」
「ふうん。売つたのかい?」
「えゝ、まアね、悪いと思つたけど、焼けた人もあるンだから、その位はいゝと思つて、義兄さん許してくれると思つて、この外套を、そのお金で買つたの」
「どうして、まつさきに静岡へ戻らないンだ?」
「帰りたくなかつたのよ。それに、一緒に戻つて来た友達もあつたし、これから働く場所も早く探したかつたから、落ちついてから帰るつもりだつたの……」
さう云つて、ゆき子は、手提げから、故郷へ書いた手紙を二通出してみせた。もう、四五日前に書いたまゝ、出し忘れてゐた手紙だつた。
「何と何を売つたンだ?」
「絽縮緬《ろちりめん》二枚と、反物《たんもの》が少しあつたから売つちやつた」
「お前、そんな乱暴な事をしていゝのかね? あつちへ行つて、人柄が変つたね」
ゆき子は黙つてゐた。
「銀行をやめて、ずつと田舎《ゐなか》で百姓をしてゐたンだが、やつぱり都会で暮したものは、田舎には住みつけない。それで、此の暮にはみんなで出て来るつもりで、荷物を送つておいたンだ。めぼしいものは今いゝ価になるから、そいつを売つて、商売のたしにでもするつもりでゐたンだよ。お前、外套は田舎にあづけてある筈ぢやないか?」
「えゝ、だから、あつちの方を売つて下すつてもいゝわ。私のもの、みんな売つて貰つてもかまはないわ。私ね、結婚するつもりで、今度、それで先へ東京へ来たンです」
「ほう、何時結婚するンだ?」
「うゝん、それがうまくゆかなかつたの。そつちには奥さんも親もあるンで、日本へ帰つたら、みんな駄目になつちやつたのよ」
「何をする男だ?」
「やつぱり農林省の人で、あつちでは一緒に働いてた人なの。こつちへ戻つて、いまは、材木の方をやつてるつて云つたわ」
「いくつだい?」
「義兄さんよりはずつと若いわ」
「欺《だま》されたンだな……」
「いゝえ、欺されたわけぢやないけど、別れるやうになつちやつたのよ……」
伊庭は、無口でおとなしい娘だつたゆき子が、すつかり人柄が変つてしまつてゐる事が珍しかつた。すつかり大人らしくなつて、云ふ事もはきはきしてゐた。寒いので、ゆき子は紫の風呂敷で頬かぶりしてゐたが、地肌が白いので、その紫が顔に影をつくつてよく似合つてゐた。
「義兄さん、ずつとこれからゐるの?」
「うん、三四日泊つて、一寸、あつちこつち東京の友人も尋ねたり視察したりして、帰るつもりだ。一緒に戻つてもいゝよ」
「荷物はないの?」
「いや、角の産婆さんに預けてあるンだ。産婆さんがお前の事を知らせてくれたンだよ」
「さう……」
二人は蕎麦屋を出たが、別に行くところもないので、伊庭もゆき子も駅の前のこはれた自働電話の箱の前で立ち話をした。
「私はこれから、新宿まで出るから、どうぞ、勝手に調べてみてよ」
ゆき子は悪びれた容子《ようす》もなく云つた。
伊庭は、寒さうに風のあたらない方へ、背を向けて立つてゐたが、「一緒に行つてみよう」と、ゆき子と並んで駅へはいつて行き、二枚の切符を買つた。
二人は新宿へ出て行つた。伊庭はゆき子が妙にはきはきしてゐるのが不安だつた。何を考へてゐるのかさつぱり見当がつかない。薄陽《うすび》の射した天気だつたが、馬鹿に風の強い日だつた。電車の中も、硝子はあらかたこはれてゐたので、氷の室が走つてゐるやうに寒かつた。
「随分、やられたものだなァ」
駅々の間の、荒凉とした焼跡に眼をとめて、伊庭はそれでも珍しさうに窓外を見てゐる。
「ね、義兄さん、私、ダンサアになりたいンだけど、私にやれるかしら?」
ふつと、何気なくゆき子が云つた。伊庭はゆき子の突拍子もない話に驚いたらしく、すぐには返事もしなかつたが、
「タイプの仕事をするのは厭なのかい?」
と聞いた。
「もう、あんな仕事は飽きちやつたわ。サラリーも少ないつて云ふンだし、進駐軍専門のホールだと、とてもいろんな面で収入がいゝつて云ふわね」
「うん、それもさうだらうが、長続きするか、どうかね……」
二人は新宿へ出て、何の目的もないので、暫く歩いて、武蔵野館でキュウリイ夫人と云ふ映画を観《み》にはいつた。何年ぶりかで、西洋映画を見る気がした。ぼろぼろになつた椅子に、二人は並んで腰をかけたが、映画館の中もとても寒かつた。荒れ果てて昔のおもかげもない、むさくるしい小舎《こや》の中で、初めて観る西洋映画は、現実からはづれたやうな奇妙な感じだつた。
伊庭は何を考へてか、ゆき子の手を暗がりのなかで握つた。熱い手だつた。ゆき子は厭な気持ちだつたが我まんして、伊庭に手を握られたまゝにしてゐた。銀色に光るスクリーンの反射で、伊庭の横顔が死人のやうに見えた。ゆき子は、富岡とのこの間の別れが胸に来て、こんな淋しい思ひをするのも、みんな富岡の為なのだと、いまごろになつて涙が溢《あふ》れて来る。
映画館を出た時は薄暗くなつてゐた。
すつかり、露店もなくなり、四囲はいやに淋しくなつてゐた。廃墟の角々に外燈がついてゐるのが、いつそう敗戦のみじめさを思はせた。凍つたやうな冷い風が吹いた。二人は電車通りへ出た。まるで小舎《こや》のやうなバラックの商店が並んでゐたが、それも早々に店を閉してゐた。このごろは強盗おひはぎのたぐひが街に横行してゐたので、日の暮れには、どの商店も早い店じまひをしてゐる。
ゆき子は二度ばかり来た事のある、角筈《つのはず》の電車通りに出来た、中華蕎麦の小さいバラックの店へ、伊庭を連れて行つた。夜になると、ゆき子は強い酒が飲みたかつた。荒れ果てた心のなかに、強い酒でもそゝぎこまなければやりきれない気持ちだつた。竹の子蕎麦を注文して、二人は珍しく小さいストーヴの燃えるそばへ腰を降した。ストーヴが勢よく燃えてゐるのを見るのは、何年ぶりだらうと、ゆき子は青く光つた錻力《ブリキ》の煙突に、ちよいちよいと指先で触れてみた。
「ダンサアなンてのは賛成しないね」
伊庭が煙草を吸ひながら云つた。ゆき子は、さつき手を握つてゐた伊庭の厚かましさがいやらしくて返事もしなかつた。伊庭はゆき子の派手な化粧をしてゐる顔を珍しさうに眺めながら、
「ずつと、お前の事は心配しづめだつた。うまく帰れるものなのかどうかも心配だつた。日本もいまは大変だ。みんな偉い人達はつかまつたし、世の中がひつくり返つたやうなものだ。昔、偉くかまへてゐた人間が、いまはみんな落ちぶれてね、小気味がいゝ位に世の中が変つた」
しんみりと、伊庭はそんな事を云つた。
「あんまりのぼせかへつたのよ。もう、これから戦争がないだけでも清々していゝわ。でも、よく義兄《にい》さんは兵隊にとられなかつたわね?」
「うん、そればかり心配してゐたンだ。浜松の軍の工場に勤めたのも兵隊のがれだつたが、いまから思へば、夢のやうなものさ……。浜松もやられて、それからずつと百姓をしてゐたが、よく兵隊にとられなかつたと、不思議な位だ。終戦になつて、一番、心配したのは、お前の事だつたが、かうして楽々と戻つて来ようなぞとは思はなかつたな……」
熱い蕎麦が来たので、二人は丼を抱へこんで食べた。珍しく赤く染めた竹の子がはいつてゐた。
「美味《うま》い……」
「こゝ、とても美味いのよ。第三国人がやつてるのね。とても量が沢山あつて安いのよ」
ゆき子は、ふつと、池袋のホテイ・ホテルの事を思ひ出して、このまゝ伊庭と鷺《さぎ》の宮《みや》へ戻つて、あの狭い部屋で、二人で寄り添つて寝るのは厭だと思つた。自分が求めてゐるものは何も与へられないで、求めてゐないものは、運命的に、自分の周囲にまつはりつかれる気がして、心のなかでからからに乾いてゆく感じだつた。
「今夜、家で泊るの?」
「うん」
「部屋がないでせう?」
「お前は、どの部屋で寝てるンだ?」
「茶の間。荷物がいつぱいね」
「一緒に寝ればいゝよ」
「食べるものなくてよ」
「米は三升ばかり持つて来てゐる。なあに自分の家だもの、自由に台所を使つて、煮焚きすればいゝさ。何も遠慮する事はない。蒲団もいゝ方の奴が一組送つてある。帰つて荷ほどきをするよ」
「ぢやア、私は、池袋に泊るところがあるから、そこへ行くわ」
「馬鹿に警戒するンだね」
「さうぢやないけど、私、今夜は、仕事の事で、どうしてもお友達と打ち合せしなくちやならないもの、また、明日、わざわざ出掛けるの億くふだから……」
「今夜は、久しぶりに逢つたンだよ。まだ、色々話もある。一緒に帰ンなさい。お前が、着物をどれだけ売つてるのか知らンが、叱りはしないよ」
「えゝ、その事は、どんなに叱られてもかまはないのよ。……仕事の話で、友達の処へ行きたいンだわ」
伊庭と添寝する事は、思つてもぞつとした。
富岡は信州行きがのびて、一向に田所の処の話が埒《らち》があかなかつた。何でも素早く立ちまはらなければ、世の中はどんどん変つて行くのだ。金の価値もすつかり変つてしまふと云ふ風評も飛んだ。いまのうちに、材木をしこたま予約しておきたかつたし、此の頃、紙の闇も激しいと聞いて、その方にも手をのばしたかつた。だが、かうして、世の中に独りでごろりと放《はふ》り出されてみると、富岡は自分の無力さを悟るのだつた。誰も信用出来るやうな顔でゐて、ひそひそ語りあひながら、その実、胸の中には自分一人で胸算用《むなざんよう》をしてゐる……。敗戦だとか何とか云つたところで、みんな、不安な方へ考へを持つて行かうとはしてゐないのだ。このどさくさに、何とか力頼みなものが自分の周囲にだけ転がつてゐるやうに、無雑作《むざうさ》に考へたがる……。戦争をしてゐる時よりは、この革命的な、スリルのある時代の方が誰にも好ましかつた。人間はすぐ退屈する動物だ。どんな変形でもいゝ、変化のある世代がぐるぐる廻つてゆく方が刺戟《しげき》があつた。
富岡は、まづ、さうした事業の手始めに、家を売つて資金をこしらへるより術《すべ》はないと考へた。まづ、五六十万の現金さへつくれば、その金を土台にして、あとは何とか出来てゆくやうな気がした。このまゝ手をつかねて、この時代をやりすごすには忍びないのだつた。
或朝、食事の時に邦子が、ふつと、こんな事を云つた。
「ねえ、この間、尋ねてみえました、ほてい商会の女の方ですね、私、昨夜、家の近所でおめにかゝりましたけれど、あの方、このお近くにお知りあひでもございますのかしら……」
富岡は、忘れようとしてゐたゆき子のおもかげをふつと瞼《まぶた》に浮べた。黙つて味噌汁をすゝつてゐると、この近くをうろうろしてゐるゆき子の苛々《いらいら》した顔つきが心にこたへて来る。
「御主人は、何時頃、信州からお帰りでせうかつておつしやるものだから、私、どう云つてお返事していゝか判りませんので、もしも、帰りの道で、貴方《あなた》にお逢ひになつては工合が悪いと思ひまして、昨日、戻つて参りましたつて云ひましたのよ……。何か、御用でございましたら、伝へますつて申しましたら、御近所まで来たとおつしやつて、いまずつとほてい商会に住んでゐますから、夜分にでも是非お出掛け下さいと伝へてくれつておつしやるンですの……。そして、先日お立替したものをお返し願ひたいとおつしやれば富岡さん御承知ですつて、そのまゝさつさと行つておしまひになりましたのよ。とても派手な化粧をした方ですのね」
息苦しい気持ちで、富岡はゆき子のその後の消息を知らされた。それでは、住むところもなく、あのホテルに居着いてゐるのかも知れないと思はれる。あの時、千円の金はどうしても取らないと云つて、池袋の駅で、無理矢理突つ返されてしまつたが、ゆき子が、泣きながら、自分だけが幸福になる為に、人を犠牲にするのかと云つた事が、いまでも判然《はつき》りと富岡の耳についてゐた。
生一本《きいつぽん》な加野を、狂人のやうにしてしまつてまで、あの時は、富岡はゆき子を得た。その為に、ゆき子は加野から傷つけられたが、あの時は無雑作に二人は結婚出来ると考へてゐたし、また二人はそれだけの心の準備をしたつもりだつた。富岡は急に味のなくなつた朝の食卓から、早く箸《はし》を置いた。ゆき子の不幸な姿に済まなさを感じた。旅空での、男の無責任さが反省されもした。此の家を売るとなれば、両親にも妻にもそれぞれ金を与へて、自分は無一文で、ゆき子と一緒になるべきではないかとも空想したが、その空想は少しも慰さめにはならなかつた。
「お金でも、その商会でお借りになつたンでございますの?」
白粉気《おしろいけ》のない邦子が不安さうに訊《き》いた。
「昨夜、何時頃だ」
「七時頃でせうか。買ひ物に参りましての帰りでしたわ。貴方が遅くお帰りでしたので、つい、申し上げるの忘れてゐましたけれど、今朝、ラジオの尋ね人で、ほていと云ふ名が出ましたので思ひ出しましたけど、ほてい商会つて、何の御商売なさる処なンですかしら……」
富岡は返事もしなかつた。何時も朝の遅い食事だつたので、父も母も他の部屋にゐた。邦子は新聞をたゝみながら、「私が、参りましてはいけないでせうか?」と云つた。
憑《つ》かれたやうに、富岡は邦子の細面の顔を見てゐた。この秘密を妻に何も彼《か》も打ちあけたい気がした。富岡は疲れてへとへとな気持ちだつた。妻に、自分の秘密を洞察《どうさつ》して貰ひたかつた。この不安を長く続ける勇気もないくせに、ゆき子の問題には何一つ親身になつてやらうとしない身勝手さが、富岡には自分でよく判つてゐた。みんな自分のやつた事なのだ。日本へ戻つてからといふもの、富岡はまるで人が変つたやうに、固い仮面を被つて、自分の感情をおもてに現はす事を好まなくなつてゐた。邦子はさうした良人に対して、もどかしく水臭いものを感じて、あの派手な化粧の女とのつながりが、無関係ではないやうに思へ、不安で暗いものを直感した。このごろの富岡は、眼には落ちつきがなく、邦子を愛撫し、抱擁《はうよう》してゐても、突然その動作を打ち切つて深く溜息をつくやうになつてゐた。昔のやうな強烈な力を使ひ果さないうちに、富岡はあきらめたやうに、冷く邦子を突き放す時があつた。
「貴方は、仏印からお帰りになつて、とつてもお変りになつたわ……」
と、富岡が帰つて来た早々に邦子が不思議さうに云つた事があつた。富岡も自分の変化はよく判つてゐた。朝々髭《ひげ》を剃《そ》るたび、鏡の中の自分の顔が、スタヴローギン的な厭らしさを感じないではない。絵に描いた美男子ではなかつたが、それに、唇は珊瑚《さんご》の色でもなく、顔色は白く優しくもなかつたが、このまるきり違つた東洋の蒼《あを》ぶくれの男が、何となく、悪霊《あくりやう》のなかのスタヴローギンのいやらしい外貌《ぐわいばう》に似てゐる気がして気持ちが悪かつた。
田所が、このごろ、厭によそよそしてゐるのも、かうした心を見抜いての疎遠なのではあるまいかとも考へてみる。邦子と一緒になつた時にも、田所には多くの迷惑をかけてゐた。そのくせ苦労人の田所は、少しも富岡に対して迷惑がつた顔色もみせないで、仏印から戻つた孤独な自分に、協力の手を差しのべてくれた事を思ふと、田所だけを責めるわけにもゆかないのだ。
「私、あんな女の方に、家のまはりを歩かれるのは厭です。何か、おありになるンぢやありませんの……。とても、貴方の御容子《ごようす》が以前とはまるきり違つて来てゐるンですもの」
「馬鹿な事を云ふもンぢやない。何も変つてはゐないよ」
「それでは、私が、そのお立替のお返しに参りましてはいけないンでせうか?」
「男のやる事に、よけいな心配はしないがいゝ」
「でも、何だか、私、腑《ふ》に落ちないンですもの……」
「本人の僕が、心配をするなと云つてゐるンだから信じたらいゝだらう」
「えゝ、それは、さうでせうけれど。貴方は、あの女の方に、何か負目《おひめ》がおありになるンぢやありません。あの方の話が出ると、急に怒りつぽくおなりになるわ」
「君がつまらん疑ひを持つから怒りつぽくなるンだ。僕は仕事の事で、田所の方の仕事もおさきまつくらで思ひ悩んでゐるンだ。よけいな不安は口にしない方がいゝね」
富岡は、もう一度、しみじみと仏印の山林に出掛けてみたい気がしてゐた。山林以外には、どうした事業も身には添はない気がして、親も妻も家も、みんなわづらはしい気がした。あの大森林のなかで、一生涯を苦力《クーリー》で暮してゐる方が、いまの生活よりはるかに幸福に思へた。
干潟《ひがた》の泥土の中に、まるで錨《いかり》を組みあはせたやうな紅樹林の景観が、どつと思ひ出の中から色あざやかに浮んで来る。ぎらぎらと天日に輝く油つこい葉、幹を支へる蛸《たこ》のやうな枝根の紅樹林の壁が、海防でも、サイゴンでも港湾の入口につらなつてゐた。ビロードのやうなその樹林の帯を、富岡は忘れる事が出来なかつた。もう一度、南方へ行つてみたい。
今度こそ、あの戦争中の狂人沙汰な気持ちから頭を冷《ひや》して、静かに研究出来るやうな気がした。だが、幾度その思ひ出に耽《ふけ》つてみたところで、身動きもならない身では、その考へもいたづらに心身を疲れさすだけだつた。
海を渡る事が出来ないとなれば、泳いでも渡つてゆきたかつた。家の問題も、富岡にはどうでもよかつた。このまゝ消えてゆけるものならば、この息苦しさから抜けて、南方へ行く密輸船にでも身を託してみたいのである。
邦子は、不機嫌に黙りこんだ良人の冷い顔を見てゐたが、急に涙が溢れて来た。
「何を泣いてるンだ?」
「私、苦しい。とても苦しいのです。いまごろになつて、私は、罰があたつたのだと思つてゐます。人の罰が当つたのですわ」
「小泉君の事でも思ひ出したのか?」
「いゝえ、そんな、あのひとの事なンか。……貴方がこのごろ、私と別れたいと思つていらつしやるのだと思つて、いろんな罰を受けてゐる気がします」
「暮しが苦しいから、君はそんな苛々《いらいら》した気になるンだ。別れるなんて、僕は少しも考へてはゐない……」
富岡は嘘をついてゐる自分にやりきれなくなつてゐた。自分の嘘の塊が、ざくろの実のやうに、くわつと口を開いて自分を笑つてゐるやうに思へた。
このごろ、馬鹿に涙もろくなつてしまつて、これは気が狂ひ始めてゐるのではないかと思ふ時があつた。泣いてゐると、これからさきの行末に就いての直感が、不安な暗い影になつて、ゆき子の瞼《まぶた》に現はれて来る。その直感は、かならずその通りになるものだと判断をする。その判断には狂ひはないと思へる。何一つ強い背景になるべき柱がない以上は自分は小石のやうに誰かに蹴飛ばされて生きてゆかなければならない。
富岡への愛は、やつぱり富岡の現在考へてゐるとほりのもので、ゆき子自身もいまではそれに同化して来てゐるやうになり、お互ひに逢つて、誰かに責められてゐるやうな薄手な感情に色あせつゝあるのを感じる。無理な工面《くめん》をして逢ふ、そして、二人だけの共通のなかにある遠い思ひ出をたぐり寄せて、色も香も失せつゝあるその思ひ出に酔つぱらつてみたくなつてゐる感情の始末の悪さ……。只、それだけの事なのに、一度、二度、三度とゆき子は富岡に逢ひたがつてゐる。さうして逢へば、その思ひ出も、色があせつゝあるのを知らされるだけのものだつた。この敗戦の現実からは、二人の心のなかにある、遠い思ひ出なぞは、少しも火の気を呼ばないのだつた。
愛しあつたら、その場ですぐ一緒にならなければ、永遠に悔いを残すものだと、ダラットにゐた時に、富岡が云つた事がある。今になつてみると、富岡の云つた事が現実のなかでは、本当の答へになつて現はれたのだと思ひ知らされるだけだつた。
池袋の宿屋の払ひも長く続くわけではなく、ゆき子はまた、鷺の宮の伊庭の家へ舞ひ戻つたが、伊庭は静岡に帰つて、二三日して、いよいよ東京へ引揚げて来ると云ふので、六畳の茶の間と、四畳半の応接室を空けて貰つてゐた。応接室と云つたところで、屋根だけが赤瓦で、部屋は坊主畳を敷いた、床の間も押入れもない部屋である。
ゆき子は、そこで一晩泊つた。伊庭からは置手紙があつた。荷物を調べてみた。別に怒るわけではないが、売つたものは仕方がないとしても、これ以上迷惑をかけられる事は困るのだ。部屋も狭いので、引揚げて来てからも、君をこゝへ置くわけにはゆかない。何処へでも行つてくれ。行く処がなかつたら、一度田舎へ戻つて君の将来をみんなに相談して貰ふ事だ。留守の間に、また荷物に手をかけるやうな事があつたら、こちらにも考へがあるからそのつもりでと書いてあつた。
どの荷物もがんじがらめな荷造りにされて、紙で封印がしてあつた。ゆき子はをかしくてたまらなかつた。鋏《はさみ》でぷつぷつと細引を切つてしまひたい気がしてゐた。
男といふものは、みんな逃げる気なのだと、ゆき子はつくづくと物慾の深い男心にいやらしいものを感じてゐた。考へがあるものなら、その考へにしたがふのも愉快な気がして、ゆき子は、一晩だけ泊つて今度は、伊庭の蒲団包みを近所の運送屋に頼んで、池袋のホテイ・ホテルに運んだ。留守の人達は別にとがめだてもしなかつた。伊庭とは仲が悪かつたので、ゆき子の行動に就いては中立を守り、何一つ口出しはしなかつた。むしろ、心のなかでは、何でもやんなさいと云つたところを無言の表情に現はしてゐた。
池袋の旅館で、蒲団包みを開くと、なかから伊庭の褞袍《どてら》や、かなり古いインバネスや、小豆《あづき》の袋が包みこんであつた。小豆は五升ばかりはいつてゐた。蒲団の包みは、木綿の敷蒲団が二枚、毛布が一枚、ガス銘仙《めいせん》の上蒲団が一枚、ゆき子は、胸のなかがぬくぬくとする感じで、さつそく、インバネスと小豆は、駅のそばのマアケットで売り払つた。盗みをするといふ事は仲々面白いものだと思つた。伊庭の荷物から、これだけのものがなくなつたところで大した事はないのだ。自分は三年もあの男にもてあそばれてゐたのだと思ふと、いまごろになつて、ぐつと、噴きあげる怒りの気持ちが湧いて来た。もつと、みんな盗んで来てやればよかつたやうな気がした。
ホテイ・ホテルの主人の世話で、翌日、ゆき子は近所の荒物屋の古い物置を借りる事が出来た。その荒物屋は家の横に新しく家を建ててゐた。
物置きは、三坪ばかりで、部屋の部分は、新しい錻力《ブリキ》の巻いたのがしまひ込んであつた。天窓が一つあるきりで、電気も水もない。荒物屋では、古い畳を二畳ほど敷いてくれた。女独りで寝るには充分である。ゆき子は自分独りで住める部屋をみつけると、急にまた富岡に逢ひたくなつてきた。ゆき子は敷蒲団の一枚をホテイ・ホテルに買つて貰つて、その金で、鍋釜《なべかま》や七輪を買ひ、初めて、マアケットで闇《やみ》の米を一升と炭を少しばかり買つて来た。金気臭《かなけくさ》い新しいニュームの鍋で飯を焚《た》き、残りの火を炬燵《こたつ》に入れて、熱い飯に生玉子をぶつかけて食べた時は、ゆき子はしみじみと自炊の有難さを感じた。たらふく白米の飯を食べて、呆《ぼ》んやり炬燵にあたつてゐると、食慾だけでは満たされない淋しい感情が、雨のやうに心に降りかゝつて来て、ゆき子は、蒲団の縫目を数へてみたり、只、荒く木を削つただけの壁をみつめたりした。ローソクの灯が板壁の隙間風にゆらゆらとゆれて、時々消えかける。心細くなつて、ゆき子はかうした独り住居に耐へて行けるかどうかを考へるのだつた。部屋の隅に水を汲んだバケツが置いてあるのも寒々としてゐた。これだけでも生きてはゐられるものだと、小さい幸福らしいものは感じるのだつたが、心もとない幸福らしさで、明日の事は少しも判らないのである。
翌朝は雨であつた。
ゆき子は遅く起きて、富岡に手紙を出しに行き、銭湯へ行つた。銭湯の帰り、駅へ行つて新聞を買つて来て、職業欄をひらいてみたが、タイピスト募集のところだけが眼にちらついて来る。明日でも働きたいと思ひながら、慾も得もないやうな、躯《からだ》も心もうつろになつた気がして、薄暗い小舎《こや》の中で、終日うとうとして過してしまふのであつた。
かうした気持ちのなかで、四五日は過ぎたが、富岡はやつて来なかつた。長野から戻つてゐさうなものだと思ひながらも、やつて来ないところを見ると、あの手紙は富岡の手にはいつてゐないのかも知れないとも考へられる。
ゆき子は目的のない気持ちで、新宿へ出てみた。夕方で寒い風が吹いてゐた。露店もあらかた店をしまつた新宿は、淋しい砂漠の街のやうなところであつた。如何《いか》にも用事あり気に歩いてはみたが、少しも心は満たされはしなかつた。静岡へ戻つてみようかとも考へないではなかつたが、折角、あの小舎を得られたのだから、あの小舎から、自分の人生が始まつてゆくのもいゝのではないかと、ゆき子はそんな事を考へて、伊勢丹のところまで歩いて来ると、背の高い外国人に呼びとめられた。何処へ行くのかと聞かれたが、とつさの事だつたので、ゆき子は笑つて立ち停つてゐた。外国人はゆき子と並んで歩き出した。ゆき子は大胆になつてゐた。外国人は早口で喋《しやべ》りかけて来たが、ゆき子は黙つて、外国人に躯を寄せて歩くきりだつた。運命が、少しづつ何処かへ向けて進行していつてゐるやうな気がした。お互ひの衝動が、このゆきずりの二人の心のなかに一種の生気をもたらして来る。
外国人は時々背をかゞめるやうにして、ゆき子の顎《あご》に手を触れて早口にしやべつた。ゆき子はダラットで安南人と話した、仏蘭西語や英語のミックスされた言葉を使つてゐた生活を、いま急に呼びさまされたやうな気がして、少しづつ片言でしやべつた。
「目的もなく歩いてゐるのよ」
「それは好都合だ。私もいま、目的もなく歩いてゐたのだ」
二人は何時の間にか腕を組んで歩いてゐた。をかしくもないのに、ゆき子は声をたてて酔つたやうに笑つて許《ばか》りゐた。
ゆき子は外国人と腕を組んで新宿駅に行き、珍しい外人専用車の省線の電車に乗せて貰つた。ゆき子は晴れがましい気持ちで、小さくなつて、自分の道づれに寄り添つてゐた。
サイゴンの街を想《おも》ひ出して、その昔に戻つたやうな気がしないでもない。――ゆき子は、自分のみすぼらしい小舎へ、その外国人を連れて帰つた。小舎の天井にとゞくやうな、背の高い外国人は、火のない炬燵《こたつ》に、不器用に長い膝《ひざ》を入れて、四囲を珍しさうに眺めてゐる。ローソクの灯にゆらぐ、淡い明るさのなかで、ゆき子は七輪に火を起し始めた。煙がもうもうと渦をなして、小舎の中へ立ちこめたので、ゆき子は天窓を差して、「ウィンドウ・ゲット・アップ」と外国人に命じた。外国人は気軽るに、天窓を明けてくれた。煙は束ねた煙を、天窓へ勢よく吸ひあげていつた。
その翌日の昼すぎ、外国人はまたやつて来た。グリンのボストンバッグをさげて、天井の低い小舎へ這入つて来た。バッグを開けて、一つ一つ土産を出しながら早口でしやべつた。大きな枕や、重い小箱やレイションや菓子を並べた。小箱は電池のはいつたラジオで、外国人がスイッチをまはすと、甘いダンス曲が流れて来た。ゆき子は小さいラジオに耳をあてて子供のやうに喜んでみせた。激しい歴史のうつりかはりが感じられて、その音色《ねいろ》から、超然とした運命が流れ出てゐるやうに思へる。言葉は充分ではなかつたが、お互ひの人間らしさは、肉体で了解しあつてゐる気安さで、ゆき子は、何事にも恐れのない生活に踏み出して行ける自信がついたやうな気がした。大きい枕は二人にとつて、何を物語つてゐるのだらう……。ゆき子は枕の白いカヴアの清潔さにみとれて涙ぐんでしまつた。
孤独で飢ゑてゐるものにとつて、その大きい枕は特別な意味を持つて、ゆき子の生活を再起させようとしてゐるかのやうだ。ゆき子は少しも恥づかしいとは思はなかつた。枕を持つて来た男の心持ちが立派だと思へた。――懐しき君よ。今は凋《しぼ》み果てたれど、かつては瑠璃《るり》の色、いと鮮かなりしこの花、ありし日の君と過せし、楽しき思ひ出に似て、私の心に告げるよ。――外国人はジョオと云ふ名前だと云つた。ラジオのわすれな草を小さい声でくちずさみながら、紙片に英語で書きつけて、今度来るまでは、この歌を覚えておくといゝとゆき子に渡した。ゆき子は一つ一つのスペルを指でさしてゆきながら、発音を教はつて口へ出して歌つてみた。大陸的な豊饒《ほうぜう》な男の性質に打たれて、何処にゐても自由にふるまへる民族性に、ゆき子は富岡にはなかつた明るいものを感じた。富岡に逢つてゐる時の胸を射すやうな淋しさはなかつた。誤まつた焦点《せうてん》のなかに、心をかきみだされる事もない。すべてが、のびのびとふるまへるのは、お互ひの心の詮索《せんさく》が不必要なせゐだらうかとも思へた。独りで鳴るラジオはゆき子には珍しい玩具《おもちや》だつた。夕方、ジョオが戻つて行つてから、ゆき子は貰つた石けんを持つて銭湯に行つた。サイゴンで買つた、パアモリイヴと云ふ名前の石けんだつたのがひどく心にこたへてゐた。富岡がこのまゝ来てくれなくても、ゆき子は自分一人で生きてゆける自信があつた。心を引つかきまはされるやうな男を待つてゐるよりも、現在のまゝで生きてゆくのも愉《たの》しいと思へた。だが、その愉しさはまるで泡雪《あはゆき》のやうなたよりないものである事も承知だつた。
小舎《こや》へ越して、十日あまりたつた或日の夕方富岡が尋ねて来た。ジョオが来たのだと思つて、ゆき子はあわてて扉のところに出て行つたが、思ひがけなく、そこに富岡が寒さうに立つてゐるのを見てゆき子は吃驚《びつくり》した様子で、「まア! あなただつたの?」と云つた。
富岡も驚いてゐた。黄昏《たそがれ》の薄明りに見るゆき子は、すつかり人が変つたやうに華やかに化粧してゐた。髪はこつてりと油に光つて、アップに結ひあげ、眉《まゆ》は細く剃り、眼には墨を入れてゐた。人造ダイヤの耳飾りをつけてはゐたが、足はこの寒さに、足袋もはかずに汚れた素足でサンダルをつつかけてゐる。
「面白いところに引越したものだね」
「さうかしら、でも、私にとつては宮殿みたいよ」
壁は白い紙で張りめぐらして、壁の釘《くぎ》には花籠が吊つてあり、菊の花が活けてあつた。小さい茶餉台《ちやぶだい》の上に、ローソクがゆらめき、小さい箱からラジオが鳴つてゐた。華やかなチョコレートの箱に、食べ荒した銀紙がローソクの灯できらきら光つてゐた。富岡は坐りもしないで、四囲を眺め、この数日の間の女の身の上の移り変りを察した。
「ハイカラなものがあるね?」
「あら、さうかしら?」
ラジオはダンス曲を鳴らしてゐる。ゆき子は、富岡の立つたなりの姿を見上げて、子供がいたづらをみつかつた時のやうな笑ひ方で炬燵《こたつ》に膝を入れた。
「信州から、何時《いつ》、戻つて来たの?」
「二日ほど前かな……」
「さう、手紙を見た?」
「手紙を見たから来たンだ」
「炬燵にはいつたらどうなの?」
富岡は帽子をあみだにして、どつかと炬燵に膝を入れた。白い大きい枕がいやに目立つて何時もジョオの坐るところにある。富岡はまじまじとその大きい枕に眼をとめてゐた。
「幸福さうだね?」
「さう見える? ひぼしにならなかつたと云ふだけね……」
富岡は釘をさしこまれた気がして黙つて、ゆき子の顔を見た。ローソクの灯に照らされてゐるゆき子の顔が、ニウのおもざしに似てゐる。女自身の個性の強さが、ぐつと大きく根を張つてゐるやうに見えた。何ものにも影響されない、独得な女の生き方に、富岡は羨望《せんばう》と嫉妬《しつと》に似た感情で、ゆき子の変貌《へんばう》した姿をみつめた。女といふものに、天然にそなはり附与されてゐる生活力を見るにつけ、現在の貧弱な自分の位置に就いて、富岡は心細いものをひそかに感じてゐた。絶対に二元性を持つてゐる自由な女の生き方に、こんな道もあつたのかと思はないわけにはゆかない。その癖、この間まで、女を荷厄介《にやくかい》に考へてゐた、あの卑怯《ひけふ》な感情はもうすつかり消えてしまつて、富岡はむしろ逃げてゆく魚に対してのすさまじい食慾すら感じてゐるのだつた。
「羨《うらや》ましいなア……」
そんな言葉が口をついて出た。
「まア! 何云つてるのよ。何が羨《うらやま》しいの? こんな暮しの何処が羨しいの? あなたは次々に云ふ事が変つてゆく人なのね?」
「いや気にさはつたら御免。只《たゞ》、さう思つたンだ。何も彼《か》もうまくゆかないとなると、人の暮しは羨しいと思ふンだね」
「人を馬鹿にしてゐる。男つて、みんなあなたみたいなのね。日本の男つて、肚《はら》のなかまで勝手なものだわ。自分の都合のいゝ事ばかり考へてる……」
ゆき子は苛々《いらいら》してゐた。富岡は炬燵《こたつ》のなかで膝を貧乏ゆすりしながら、ラジオの小箱を手にとつて、幾度もダイヤルをまはした。ゆき子は戸外へ出て行つた。ジョオが来たら、今夜は遠慮して貰ふつもりで暫く駅のところに立つてゐたが、三十分ばかりしてもジョオの姿は現はれなかつた。思ひあきらめて、ゆき子は、マアケットでカストリをビール壜に分けて貰つて小舎《こや》へ戻つた。富岡は炬燵につつぷしてうとうとしてゐた。その後姿は、妙に影が薄くて、ダラットで生活してゐた男の逞《たくま》しさなぞは少しもなかつた。
「お酒を買つて来たから、飲まない?」
「あゝ、御馳走してくれるのかい」
買つて来たローソクを新しく変へて、コップに並々と酒をついで、ゆき子もコップに唇をつけた。
「お仕事の方はうまくいつて?」
「仲々、思ふやうにはゆかない。いよいよ家を売るところにこぎつけて、乗るかそるかでやつてみるンだ」
「御家族はどうなさるの?」
「浦和に、叔母の家があるンで、みんなそつちへ引越しだ。やつてみるのさ……。人のふところを当てには出来なくなつてるンでね」
「大変ね……」
「いやに、よそよそしいンだな。案外落ちついて、馬鹿に調子よくやつてるンで、感心してしまつた……」
「皮肉ですか?」
ゆき子は酒に刺戟《しげき》されて、ジョオが来やうとどうしやうとかまふことはないと肚《はら》が据《すわ》つて来た。やりばのない、明日をも判らぬ、一時しのぎの傾向が、自分の本当の生活なのだと、ゆき子は大胆になつて、富岡の顔をじつとみつめた。埃臭《ほこりくさ》い男の体臭が、かへつて哀れに思へて、ゆき子は、環境で変つてゆく人間の生活の流れを不思議なものと悟る。少しづつさうした眼力が肥《こ》えてゆく事も淋しいとも思はずにゆき子は高見に立つて、富岡を見くだしてゐる気位を示してゐた。
富岡は、少しばかり金の工面《くめん》もして来てゐた。もそもそと内ポケットをさぐつて、ハトロンの封筒包みになつた金を出して、投げ出すやうに、炬燵の上へ置いた。
「少しなンだけど、君が困つてやしないかと思つてね……」
ゆき子は、そのハトロンの包みを見て、別に動じた様子もなく、
「私、日本へ戻つて、このごろ、色んな事が少しづつ判つて来たのよ。本当に日本が戦争に敗けてしまつた事も判つたのよ。これが現実だと思つたら、このごろ、富岡さんを恨《うら》む気もしなくなつたわ……」
ゆき子は七輪に炭をついで、するめを焼きながら云つた。焼いたするめを皿に小さく裂きながら、自分の指さきに、きらきら光るやうな安易な幸福を感じてゐた。人生はうまくゆくものだと云つた、そんな目の先の幸福がするめの匂ひのなかにこもつてゐるやうで、ゆき子は肚《はら》のなかでくすくす笑つてゐる。私は、うまく暮してるけど、いつたい、あなたはどうなのよ……。泥鰌《どぢやう》のやうに泡を噴いてるぢやないの? ゆき子はそんな気持ちだつた。
地響きをたてて省線の電車の音がしてゐる。ゆき子はあわてて入口の鍵をかけた。酒の酔ひがまはるにつれ、富岡もゆき子も、自然にものがなしく心が奈落に沈んで行つた。
「ダラットに残つて、あつちで暮すンだつたね?」
富岡が思ひついたやうに云つた。
「さうね、でも、かうして、戻つて来たのもいゝぢやないの? 私やつぱり、戻つて来てよかつたと思つてるわ。あのまゝダラットに住んでたつて、二人とも幸福ぢやないわ。昔のやうに、いい生活は出来つこはないし、敗けた国の人間として、無一文で暮すには、とても、二人とも我慢ならないぢやないの。やつぱり、かうして、みんなとみじめになつてゆくのが本当だわ……」
さうかしら……自分は本当の事を云つてゐるのかしらと、ゆき子は自分の言葉を、自分がむしかへして考へ、何となくずるいものを己れの言葉のなかに感じてもゐる。
人間の考へと云ふものは、何でも正確なものを欠いてゐる気がした。都合のいゝやうな事をうまく云ひたい為の行為だけが、人間の考へのなかの答へなのだと、ゆき子はするめを頬ばりながら、するめ臭い四囲の空気に、日本へ戻つてからの自分の勇気を味気なく考へてゐる。
富岡は、ラジオの箱を引き寄せて、スイッチをひねつた。歯切れのいゝアナウンサーのニュースが流れて来た。だがそのニュースはいんさんな気がした。
富岡は聞いてゐるに耐へない様子で、スイッチを切ると、思ひついたやうに、
「加野が戻つて来たらしいンだがね」と云つた。
「へえ……本当? 何時ですの?」
「此の間、鳥取の林野局の友人に久しぶりに逢つたら、そんな事を云つてゐた」
「まア! さうなの……元気かしら?」
「逢ひたいかい?」
「えゝ、やつぱり逢ひたいわ。あなたと違つて、正直ないゝ人だつたから」
「さうだらうね……」
加野が戻つて来たらしいと聞いて、ゆき子は急にまた仏印がなつかしく瞼《まぶた》に浮んで来た。一生のうちに、あのやうな青春の思ひ出は再びないだらうと思ふにつけ、富岡と自分の間には、加野と云ふ人物はなくてはならぬ人間なのである。突然、扉がこつこつと鳴つた。ゆき子は素早く立つて、扉を開けるなり戸外へ出て行つた。ジョオが立つてゐた。ゆき子はジョオを押すやうにして、今日は故郷から親類のものが来てゐるので、明日にしてくれと云つて、駅までジョオを送つて行つた。富岡は、肩のあたりに重いものを被《かぶ》せられたやうな胸苦しさで扉の外の外国の言葉を聞いてゐた。どのやうなきつかけでゆき子が、さうした外国人と知りあつたかが知りたかつた。大きな枕を眼にして富岡は、このまゝゆき子とは別れ去つてしまふやうな気がした。一時間位もして、ゆき子は一人で戻つて来た。
「邪魔だつたンぢやないのかい?」
「いゝのよ、帰したンだから……」
「どうして、知りあつたンだ?」
「そんな事、どうだつていゝでせう? あの人も淋しいのよ。あなたが、ニウを可愛いがつてた気持ちと同じよ……」
「妙な事を云ひなさンな……」
「私も、これから変つて行くのね……」
「さうだなア。それもいゝさ。何も云ふ事はないものね」
「私に、歌を教へてくれる程、若くて親切な人なのよ」
「ふうん……」
「とても、いゝ人だわ。でも、二ヶ月位したら、故郷へ戻るンだつて」
「また、次を探すンだね」
「まア! あなたつて厭な事を云ふわねえ……。私が、生きるか死ぬるかつていふ時に、めぐりあつた人なのよ。あなたは、女つてものをそんなものに考へてるンでせう? 満足に何一つ出来もしないで、私を馬鹿にしないで頂戴。――自分の都合のいゝ事ばつかり考へてて、その程度で女をどうにかする気持ちつて貧弱なもンだわ。あいまいな気持ちで、私の考へのなかにまで踏み込まないでよ」
ローソクの灯が消えた。天窓が馬鹿に明るい。ゆき子は手さぐりでローソクを探してマッチをすつた。
「このまゝで、引つこんでもいゝつて気持ちで、さつきみたいな事を云つたンでせう?」
ゆき子が、腹をたててゐる様子なので、富岡は残りの酒をあふり、帽子をぬいで畳に置いた。帰りたくない気持ちだつた。酒の酔ひは一時しのぎなものだつたが、一切の習慣をふり捨て、冒険的な淵《ふち》へ飛び込んでゆける力が湧《わ》いて来る。目的もなにもない酔ひと云ふものは気安くて、多勢の友人にとりかこまれたやうな賑やかなものを身につけてしまふ。逞《たくま》しくなつて来る。
刹那《せつな》の積み重つた甘さでもある。女を眼の前に坐らせて、これから起つて来る刹那に就いて、富岡は自分のいやらしさをためしてみたかつた。貂《てん》のやうな女の光つた眼が、酒の酔ひで、昔のエールを発散しはじめてゐる。日本へ戻つて来て、お互ひに、太陽の光線にも堪へられぬ程の心の衰へに到つてゐながら、酒の酔ひのなかから呼びに来る刹那の声は、少々の苦痛にはへこたれもしない力の強いものを、身内にみなぎらせて来る。
「今夜、泊つてもいゝかい?」
「泊るつもりで来たンぢやなかつたの?」
「泊るつもりさ……」
「嘘云つてるツ。急に泊りたくなつたンでせう? 判るわ。私、一つりかうになつた。あなたつて、やつぱり、そんな人だつたンだわ。偉い事云つて、私をすつかりくらましたつもりでゐて、やつぱり、日本の男なのね、泊つて行くといゝわ。一晩ぢゆう、私はあなたと起きていぢめてあげる……」
「いや、そんな気持ちで云つてるンぢやないよ。泊つていけなきやア泊らないさ。――どうも、気持ちが荒れちやつて、どうにもならないンだ……」
ゆき子がラジオをひねると、富岡はおつかぶせるやうに、
「外国のでもやつてくれよ。ダンス曲でもやつてないかね? 日本のラジオは胸に痛いンだ。聞いてはゐられないぢやアないか。やめてくれよ」
ラジオは戦犯の裁判に就いての模様だつた。ゆき子はそのラジオを意地悪く炬燵《こたつ》の上に置いた。富岡は急にかつとして、そのラジオのスイッチをとめて、床板の上に乱暴に放つた。
「何をするのよツ」
「聞きたくないンだ」
「よく聞いておくもンだわ。誰の事でもありやしないでしよ? 私達の事を問題にされてゐるンでせう? だから、あなたつて、駄目ツ。甘いのねえ……」
それでも、ゆき子は別に、ラジオの小箱を取りあげるでもなく、コップに唇をつけて富岡を睨んだ。戦争中の狂乱怒濤《どたう》が、すつかりおさまりかへつて、波一つない卑屈なまでの平坦《へいたん》さが、ゆき子には喜劇のやうに思へた。その喜劇のかたわれが二人で、この小さいあばら家にさしむかひに坐つてゐるのだ。富岡は臭いくつ下をぬいで、外套のまゝ横になつた。真白いふくふくした大きな枕があつたが、富岡は手枕のまゝ知らん顔をしてゐたし、ゆき子も、その枕には無関心でゐる。何にも束縛されない女の逞《たくま》しさを富岡はそこに見るのだ。
「やつぱり、あなたの力ではどうにもならないンでせう? 私と一緒に暮す事が出来なければ、私の生活は私でやつてゆくンですから、そのつもりでゐて下さいね」
「邪魔はしないさ。邪魔はしないが時々は遊びに来てもいゝだらう?」
「厭! 今夜だつて邪魔してるわ」
「営業妨害かね?」
「まア! それが、あなたの心なのね? あなたは、何時でもいゝ子になつて、人の弱点を笑ひたいのでせう? 加野さんも私も、あなたのそのわなに引つかゝつたンだわ」
「ぢやア、君は、僕にだまされたとでも云ふのかい?」
ゆき子は黙つてしまつた。五分五分な気持ちでつながつてゐたとは思はない。むしろ、自分の方が、富岡を熱愛してゐたのかも知れないのだ。ゆき子は口の中でもぐもぐやつてゐたするめの噛《か》みかけを、ぷつと掌《てのひら》に吐き捨てて叫ぶやうに云つた。
「私が、私が、あなたに惚《ほ》れてしまつたのですよ。さうでせう? 私がいけないのでせう?」
さう云つて、ゆき子は、するめの吐いたのを、七輪の中へぶつつけた。青い炎をたててた火の中で、するめはいぶつて匂つた。
その夜遅く、富岡は泊らないで帰つて行つた。まるで喧嘩別れのやうな帰り方であつた。ゆき子は、じいつと息を殺して、富岡の足の遠ざかるのを聞いてゐたが、急に切なくなり、ゆき子は扉を押して外へ出て行つた。星屑が空いちめんに拡がり、霜冷えする寒い道であつた。ゆき子は暗くなつたマアケットの裏を通つて、駅の方へ走つて行つてみた。富岡の姿は見えなかつた。
急に涙が溢《あふ》れ、行き場のないやりきれなさで、ゆき子は泣きながら小舎《こや》へ戻つた。三本目のローソクは誰もゐない部屋でゆらめきゆらめき小さくなつてゐた。乱暴な事を云つたのが後悔された。あとからあとからほとばしつて出て来る言葉のトゲは、けつして、富岡一人を責めたててゐる言葉ではないのだつたが、富岡は、「もう、君に、それ程までやつつけられては、泊る気もしないよ」と云つて、ゆつくりくつ下をはき、立ちあがつたのだ。ゆき子ははつとして、富岡の顔を見上げたけれども、口をついて出る言葉は、あとへ引けなかつた。ゆき子は泊つてほしい気持ちだつた。泊つて貰つて、淋しさを分けあひたい思ひだつた。
ゆき子はローソクの灯を吹き消した。そのまゝ炬燵にもぐり込んで、獣のやうに身を揉《も》んで泣いた。
富岡は遅く家へ戻つて来たが、ゆき子と厭な別れをして来た事が胸から離れなかつた。邦子は遅くまで荷造りをしてゐる様子だつた。長く住んだ此の家を売るとなると、いつそ焼けてしまつてゐた方がさばさばしてよかつたのではないかとも思へる。
自分の周囲をとりまくものが、何一つなくなつてしまひつゝあるのだ。仮定のなかに生きて行くものにとつて、これだけの家族は富岡にとつては、堅固な石の中に詰められて息も出ない苦しさだつた。ゆき子の生き方が羨《うらやま》しくもあつた。そのくせ、無性に、ゆき子の大胆な生活が哀れにさへ思へる。あの女をかばつて立つだけの力のなさが、自分でもはがゆい位だつた。近いうちに、もう一度逢つて、あの荒くけば立つた心をたしかめてから本当の別れをしなければ、このまゝでは、自分の方が敗北だと考へられた。このまゝで、ずるずるに逢つてゐるだけでは、自分と女の間に、何の結論も得られないのだ。だが、いつたい結論とは何を指して云ふのだらうかと、富岡は対立してしまつた、ゆき子と自分の感情を、これは何故なのかともじいつと考へてみる。日本へ戻つてみて、始めて微妙な女心を見たやうな気がしたが、また、自分の変化した心の転移にも、富岡はひそかに幻滅を感じないではゐられなかつた。人間の精神とは果敢《はか》ないものであり、その時々の、環境の培養菌《ばいやうきん》によつて、どんなにでも、精神は変化してしまふのだと、富岡は自分にうなだれてしまふ。千万の誓ひの言葉や、鋲《びやう》のやうにしつかりとめた筈の純粋さなぞは、泥土にまみれて平気なのであらう……。このまゝ別れてもいゝのだと思ふ気もあつたが、いや、今一度逢つて、たしかめてからにしても遅くはないと云つた、自分勝手な我儘《わがまゝ》な感情が、富岡の胸のなかには色模様をなして明滅した。
ゆき子は夜明けになつて、ダラットの官舎の夢を見てゐた。加野と二人でベランダに腰をかけて、抱きあつてゐるやうな、妙になまぐさい切ない夢であつた。
夢がさめてからも、ゆき子は、オントレーの茶園の一日が瞼《まぶた》に浮んで来た。加野と富岡と三人で、アルプル・プロイの茶園を見に行つた日の事だ。正月で、安南人の上流の者たちは、黒い上着の下から、白絹のズボンをのぞかせて、小高いオントレーの中央にある教会にお参りしてゐた。大森林に囲まれたオントレーの部落が、油絵のやうに美しかつた。
海抜高一、六○○米、気温は最高二五度、最低六度のところで、玄武岩質の赤土地帯で、茶の生育には、気候条件の不利を償《つぐな》つてあまりある由なのだと、富岡が説明してくれた。高原で低温地のせゐか、樹形《じゆけい》が横拡りになるのださうで、碁盤《ごばん》の目のやうに広々と植ゑられた茶園の間道を、ゆき子はレースのふちどりした白いワンピースで、富岡の腕に凭《もた》れて歩いてゐた。加野は時々、不愉快な顔をして立ちどまつた。そして云つた。
「僕は、さつきから、苦しくて、鼻血が出さうだ……」
妙な事を云ひ出したので、富岡も、ゆき子も立ち止つて加野を見た。
「どうなすつて? 気持ちが悪いンですの?」
「ゆき子さん、貴女は全く、ひどいひとだ。僕をなぶりものにしたい為に、こんなところへ、僕を連れ出したンですか?」
「あら、何故《なぜ》なの? 私別に……」
ゆき子が赤くなつて、何か云ひかけようとすると、加野は妙な笑ひかたをして、「富岡と腕を組まないでほしいンですよ」と云つた。
富岡は、加野が気でも狂つたのではないかと思つた。ゆき子はあわてて富岡から腕を放した。
富岡は急にあつはつはと笑つた。案内の安南人は、富岡の笑ひ声に吃驚《びつくり》して、自分に何か落度でもあるのかと不安な顔をしてゐた。
三人は離れて歩き始めた。
「十八ヶ月位たちました丈夫な苗《なへ》を植付けます。草を取つたり、中耕は年に五六回位で、施肥《せひ》は、一ヘクタールあたり、窒素が三十キロ、憐酸四十キロ、加里《カリ》が五十キロ位を標準としまして、隔年に施肥するわけでございます。植付けの後、二年位から摘葉《てきえふ》しまして、六年七年頃から、茶の収量は経営費を償ひ得るやうになり、十年たちますと、成年期になりますやうなわけで……」
ゆき子は案内人から、茶園の説明を聞いてゐるうちに、さうした長い歳月をかけて、根気よく茶の植付けに情熱をかたむけてゐる、仏蘭西人の大陸魂と云ふものに怖れを感じ始めた。説明や理窟ではくはしく判らなかつたが、それでも、眼の前の茶園の歴史が、そんなに長い月日をかけて植ゑられてゐるものとは、考へてみなかつただけに、短日月で、この広い茶園までも自由にしようとしてゐる日本人の腰掛け的なものの考へ方が、ひどく恥づかしくもあつた。
営々と続けられてゐる、他人の汗のあふれた土地の上を、狭い意地の悪さで歩いてゐる、野良猫のやうな自分のあさましさが反省された。加野に、腕をはなして歩いてくれと云はれた事が、ゆき子は妙に胸に引つかゝつて来た。案内人は、まだ、長々と説明をやめなかつたが、ゆき子は、そんなに長く日本人が何十年も、この仏印の土地に住みつけるとは思へなかつた。いまに、何かの形で、ひどい報《むく》いが来るやうな気もして来る。
「大軍の日本兵が押し寄せて来たところで、この広大な茶園やキナ事業は、一朝一夕《いつせき》には日本でやつてゆけるものぢやない。盗んで、汚なく、そこいらへ吐き捨てるのが関の山だね……」
富岡がつつぱなすやうに云つた。加野は返事もしないで、安南人の胸の、象牙《ざうげ》の大官章をむしり取つて、自分の胸に吊《つる》してゐる。ゆき子は厭な気持ちだつた。その夜、酒に酔つた加野にゆき子は腕を傷つけられたのだ。
みんな過ぎた思ひ出になつてしまつた。そして、あの美しい土地にごみごみと散らばつてゐた日本人は、みんな日本に追ひ返へされてしまつたのだ。
あたり前なのだわと、ゆき子は、ぱつちりと眼を開いて、夜の明けた天窓の雨もよひの空を、じいつとみつめた。
ふはふはとした大きい枕だけが、ひどくゆき子を慰めてくれる、昨夜、この小舎に富岡が尋ねて来た事も、それも夢のやうに思へた。
ゆき子が、ラジオを手に取つて、スイッチをひねると、突然、扉がこつこつと鳴つた。朝早く来る人がないだけに、ホテイ・ホテルの誰かなのかもしれないと、そのまゝ立つて扉を開けると、思ひがけなく伊庭が怖《おそろ》しい顔をして立つてゐた。後に、ホテイ・ホテルの女中がついて来てゐたが、何も云はずに、女中は路地の中を出て行つた。
「こんな事だらうと思つたよ」
靴をぬいで、づかづかと伊庭は上つて来た。ゆき子は震《ふる》へてものも云へなかつた。
「まさか、こゝまで探して来るとは考へなかつただらう? お前も、随分、人柄が変つたものだね……」
「あんまり大きい声しないでよ」
「生意気な事云ふなツ」
「何を、そんなに怒るのよ?」
「怒るのがあたり前ぢやないかツ。運送屋を探したンだよ。盗人をして、おまけに、蒲団を宿屋へ売つたりしてるのは、怒る事にならないかね。パンパンをしてゐるンださうだね……」
ゆき子は怒りで唇《くち》もきけなかつた。伊庭の猛《たけだけ》々しい態度に吐き気が来た。なる事ならば、このまゝ消えてしまひたい気持ちだつた。
「生きてゆく為には、仕方がないわ。蒲団位何なのよツ」
「蒲団がなければ稼《かせ》げないのかい?」
「いつたい、どうすればいゝのよツ。そんな大きな声をだして、私があんたの蒲団位貰つたつて、どうして、それが悪いの? 三年も私を玩具《おもちや》にしててその位の事が何だつて云ふのよ。欲しかつたら持つて行くといゝンだわ」
「汚ないが、貰つて行くよ。洗濯をすればまた使へる。貴重なものなンだからね」
伊庭は毒舌《どくぜつ》を吐きながら、煙草を出して咥《くは》へると、マッチを探す様子で、そこいらにある、ラジオや大きな枕に皮肉な笑ひを浮べた。ゆき子は伊庭の表情を見て胸にかつと燃え立つものを感じた。何でも思ひたい事を思ふがいゝ。一刻も、伊庭に、そこにゐて貰ひたくなかつた。伊庭は何か思ひついたやうに、
「仲々、景気がよささうだな。うまい事がありさうだが、どうだね。……うまい仕事に乗るやうな事はないかね……。一口乗せてくれゝば、蒲団なンか当分貸してやつてもいゝね」
ゆき子は、黙つてゐた。娘時代を、こんな男の自由になつてゐた事が哀《かな》しくさへあつた。自分の周《まは》りの男は、どうして、こんなに落ちぶれて卑しくなつてしまつてゐるのかと、不思議な気持ちだつた。
「何か、いゝ手蔓《てづる》はないかね。煙草とか、衣類とか、出ないのかい?」
「何を云つてるのよツ。早く蒲団を持つて行つて頂戴ツ。何もいらないわ……」
ゆき子は見栄《みえ》もなく涙が溢れた。辛くて、そこに伊庭の顔を見るのも不愉快であつた。伊庭は手をのばして、ラジオの小箱を引き寄せてスイッチをひねつた。三味線の音色が、爽《さはや》かに流れ出した。
「ほう、こりやア電池で鳴るンだね。便利なものだなア……」
小箱の裏側の蓋《ふた》を開けると、小さい玩具のやうな真空管がいくつも並んでゐた。ゆき子は立つたなりそれを見降してゐたが、思ひついたやうに、蒲団から、炬燵櫓《こたつやぐら》を引つぱり出して、さつさと風を切るやうな音をたてて蒲団をたゝみ出した。
「まア、そんな、急に片づける事はないやね……」
昨日から、この小さいラジオが馬鹿にたゝつてゐるやうで、ゆき子は、その三味線の音色に佗《わび》しくなつてゐる。
「ところで、芋干しを七八貫持つて来たンだが、何処か売り口を知らないかね?」
ラジオの蓋を閉めながら云つた。芋干しの売れ口なぞ、ゆき子は知るものかと、返事もしなかつた。
「このラジオは、高価なものだらうなア」
「私のぢやないのよツ」
「日本でも、こいつの真似をして、新案登録出来ないものかな……。流石《さすが》に、うまいものが出来てるもンだね……」
伊庭は感心して、ラジオを手に吊りさげ、耳をかたむけて、三味線の音を聴いてゐる。
もう一度、逢ふつもりで、富岡は、ゆき子のところへ速達を出した。あの家で逢ふ気はしなかつた。おびえた心で、あの家に坐つてゐる気はなかつたので、富岡は、四谷見付の駅で待ちあはせるやうにして、時間と、日を知らせてやつた。
あいにくと、その日は雨であつたが、クリスマスも過ぎ、暮れ近い、あわたゞしさが、街にこもつてゐたせゐか、雨の降つてゐるのも気にかゝらないやうな、そんな、人に忘れられた、しぽしぽした雨の日であつた。
富岡は駅で十分ほど待つた。
激しい乗降客ではなかつたが、それでも、改札を、出入りする人達は、種々様々の階級が、富岡の眼の前を忙《せ》はしく通つて行つた。富岡は何と云ふ事もなく、絶望的な気持ちになつてゐた。その絶望感は、仏印にゐた時も時々感じてゐた。不安のこもつたもので、これ以上はどうしやうもないといつた、つきつめた思ひが、通り魔のやうに、富岡の胸のなかにこもつてきてゐた。
富岡は、靴のさきを、ばたばたと貧乏ゆるぎさせながら、坂になつた道を見上げてゐた。鉛色の光つた坂道を、濡れ鼠になつた雑種の犬が、よろめきながら、誰かを探し求めるやうに歩きまはつてゐる。
時計を見ながら、富岡は、ゆき子がもう来ないのではないかと思つた。少し待つてみて、来なければ、来ないで、そのつもりで、戻ればいゝのだと、よろめき歩いてゐる犬へ向つて、口笛を吹いてみたりした。犬は口笛の吹かれてゐる方をちらりと振り返つて、富岡をしげしげと見てゐたが、このひとは違ふんだと云つた、哀れつぽい眼つきで、すたすたと、八ツ手の植込みの方へまぎれて行つた。
「待つたでせう?」
ゆき子が、駅の廂《ひさし》のところに立つてゐる富岡のそばへ、肩をぶつつけて来た。
「三十分も過ぎたンだから、もう、ゐないと思つて、よつぽど、引返さうかしらと考へたのよ。ごめんなさいね……」
ゆき子は、赤い絹のマフラを頭から被つて、顎《あご》の下にきつく結び、生々とした表情で、背の高い富岡の顔を見上げてゐる。富岡は、三十分も遅れたので、家へ引返さうと思つたと云つた、ゆき子の言葉が気に入らなかつた。自分が此の女に、上手にあしらはれてゐるやうな気がしてゐる。ゆとりのある女の心の状態が、富岡には厭な気持ちだつた。別れ時が来てゐると思つた。
富岡が歩き出すと、ゆき子もそのまゝ、水溜りのなかへはいつて来た。――富岡は孤独に耐へられない気持ちで、一人でさつさと歩きながらも、後から濡れた道をびちやびちやと歩いて来るゆき子の表情を、素通しにして、心で眺め、自分の孤独の道づれになつて貰ひたい気持ちになつてゐた。そのくせ、ゆき子と歩いてゐる時は、何となく犯罪感がつきまとふ気さへしてくる。
自分の孤独を考へてゆきながら、その孤独に、ひどく戦慄《せんりつ》してゐるやうな、おびえを、富岡は感じてゐた。現在に立ち到つて、何ものも所有しないと云ふ孤独には、富岡は耐《た》へてゆけない淋しさだつた。自分を慰めてくれる、自己のなかの神すらも、いまは所有してゐないとなると、空虚なやぶれかぶれが、胸のなかに押されるやうに、鮮かにうごいて来る。
ゆき子と、二人きりで、いまのまゝの気持ちで、自殺してしまひたかつた。――若い日本の男が、外国の女とかけおちをして、追手に反抗して、郊外の駅で劇薬をのんだ事件があつたのを、富岡は思ひ出してゐた。
人間と云ふものの哀しさが、浮雲のやうにたよりなく感じられた。まるきり生きてゆく自信がなかつたのだ。二人は、何処へ行く当てもなく、市電の停留所までぶらぶら歩いた。
「ねえ、寒いわねえ……。何処か、お茶でも飲みに這入《はい》りませうか?」
「うん」
「いやに、しけてるぢやないの……」
「しけてる」
「えゝ」
「厭な事を云ふね……」
「さう……。独りでゐると、いろんな言葉を覚えちやふのよ……。荒《すさ》んでゆくのが、自分でも、怖いみたい」
「ふうん……。そんなものかね。如何にも、楽々として、愉《たの》しさうに見えるよ」
「あら、厭だわ。さうかしら。ちつとも、楽々となンか、してないわ。――さう見えるなんて、癪だわね……。貴方だつて、あの頃とすつかりお変りになつてよ……。ねえ、あゝ、もう、私は、何だか少しも、先の事が、判らなくなつてしまつた……」
富岡は、雨の街に立つて、並樹の美しい、昔の東宮御所の方を眺めてゐた。この建物も、現在はどんな方面に使はれてゐるのかは判らなかつたが、鉄柵を透《す》かして、淡い灰色の御所の建物が、雨に煙り、並樹の黒い塊が、如何《いか》にも外国の絵でも見るやうに、新鮮だつた。
じいつと見てゐるうちに、また、空虚な、とらへどころのない絶望がおそつて来た。
富岡は、御所の道に添つて歩いた。ゆき子も黙つて、富岡と並んで歩いてゐる。
「仏印はよかつたね……」
「あら、貴方もさう思つていらつしたの……。私も、いまね、仏印の事を考へてゐたのよ。なつかしいわア……。あんなところ夢ね。私達、夢を見てゐたのよ。さうなのね……。夢を見てたンだわ。――でも、夢にしても、貴方に逢つたンだから、不思議だわ……」
「あんな事もあつたのかと、時々、思ふだけのものさ……」
「あの時は、貴方だつて、私だつていゝ人間だつたわ。自然な人間まる出しでね……」
「うん、それでも、本当の幸福ぢやなかつたのかも知れないね。さうぢやアないのかなア。いまね、この御所を見てゐて、急に、何だか、現在の方が倖《しあは》せのやうな気がしたンだ。――やぶれたものの哀れさは、美しい。さう考へないかい? いまは、この建物も、何に使はれてゐるのか知らないが、昔は御所だつたンだよ、そのなごりが、そここゝに残つてゐてさ。何となく、しみじみとするね」
ゆき子は、御所の土壁の塀《へい》を呆《ぼ》んやり見上げた。淡い土壁の匂ひがした。富岡が感傷的になつてゐるほどには、その気持ちについてはゆけなかつたけれども、やつぱり、ゆき子にも、ものの哀れは感じられる。雨が降つて寒かつたせゐか、四囲の景色が、ひどく印象的だつた。御所の横の、広い道路を、ハイカラな、コバルト色の自動車がしゆんしゆんと走つて行つた。
富岡は、自分の淋しさを咬《か》む気持ちであつた。何一つ、押しつける事なく、この女に自然な死の道づれになつて貰ひたい気持ちだつた。
今日まで生きて来て、何も彼も、国とともに喪失してしまつてゐると云ふ感情は、背筋が冷い、この冬の雨のやうな佗《わび》しさだつた。孤独な国の、一人々々は、釘づけになつてゐるやうなものだと考へる。如何なる戦争も、やぶれてこそ、愛《かな》しく哀れでもあると思へた。やぶれた敗者の魂には、人知れず、昔のファンタジーを呼びとめる何かがあるやうに、そのファンタジーは、時々は、誰にも反省をうながすものであらう。――富岡は、何も考へてはゐないやうな、単純な女の生活のファイトを羨《うらや》みながらも、ひそかに、その女の、平易な心の流れに不服なものを感じるのだつた。女自身は、何も欠乏してはゐないのだと、富岡は、ふつと、自分のそばに、寄り添つて歩いてゐるゆき子を見降した。怖ろしい事には、この女に限らず、どの女も、長い戦争の苦しみを、通つて来た痕跡を、少しもとゞめてゐないといふ妙な発見だつた。
「ねえ、何処まで歩くのよ?」
「疲れたのかい?」
「だつて、濡れて歩くの、たまらないわ。風邪《かぜ》ひいてしまふわ……」
「赤坂へ出て、あすこから、渋谷へ都電で出てみるのもいいぜ」
「えゝ。――ねえ、話つて、なあに?」
「話か……。別に、たいした話もないンだがね」
「勝手なひとね……」
「さうかね? 君に逢ひたかつたからなンだよ」
「嘘! 嘘云つてるわ。私に逢ひたいなンて、そんな優しい言葉を聞くのは、初めてね?」
「女と云ふものは、そんなに、優しい言葉を聞きたいものかい?」
「そりやア、さうよ……」
富岡は、かうした会話のがいねんに、やりきれなくなつてゐた。かうして、逢つてみても、何も収穫がないのだ。そのくせ、人々の魂の上に、敗者の心の乱れや、その日暮しのあくせくした思ひだけが、黒雲のやうにのしかゝつて来てゐる。自分は自分なのだと、承知してゐながら、何も知らぬ相手まで、自我のなかに引きずり込んで、道づれをつくりたいと云ふ甘つたれた浅はかな慾望が、富岡には、自分でも解らなかつた。何か収穫があるやうな錯覚《さくかく》で、日々を生きてゐるだけの自分が、ずるい人間のやうにも考へられて来る。
渋谷へ出て、ガード下の中華料理へ二人は這入つた。煉炭ストーブのそばの椅子に、差し向ひに腰をかけた。青い炎が、蓮《はす》の穴からぽつぽつと息を噴きあげてゐる。客もない、がらんとした部屋の隅に、よれよれの白い上着を着た給仕女が、三人ばかり立つてゐた。
ゆき子は、煉炭火鉢の上に手をかざしながら、雨に濡れたマフラを金網の上に干した。
給仕女に注文を聞かれて、富岡は焼きそばを頼んだ。
「それから、酒を一本つけてくれないかね」
ゆき子は、にやにや笑ひながら、プラスチックの緑色のハンドバッグから、外国煙草を出して、富岡に一本取らせた。
「私達つて、行く処がないみたいね……」
「うん……」
美味《うま》さうに煙草を吸ひながら、富岡は、雨のなかをさまよひ歩いて、ひどく疲れが出てゐた。速達を出したものの、別に話し合はなければならない理由も、いまはない。
「何時、引越しですか?」
「家族のものは引越しちやつたよ。今度の正月は、がらんとした空家でおくるンだ……」
「あら、一人で?」
「細君は残るだらう……」
「なあンだ、おのろけね……」
ゆき子は、子供のやうに、がつかりして見せた。軈《やが》て酒が運ばれてきた。
「加野の住所が判つたンだよ。逢つてみるかい?」
「あら、住所が判つたの? 何処にいらつしやるの?」
富岡は小さいメモを出して、ぱらぱらとめくりながら、自分の名刺の裏に、加野の住所を鉛筆で書いて、ゆき子に渡した。
「あら、小田原にいらつしやるの?」
「おふくろと一緒ださうだ。まだ、独りでゐるらしいね」
ゆき子はらんらんと光つた眼で、富岡の意地の悪さに反撥《はんぱつ》してみせた。そのくせ胸の奥では、仏印で別れたまゝの加野へ対して、逢ひたさ、なつかしさが燃え上つて来た。
酒は腹のなかに浸《し》み渡り、冷えきつた躯《からだ》をあたゝめてくれた。ゆき子も二三杯の酒をつきあつた。
「もう、あと、三日だね?」
「何が?」
「正月が来ると云ふ事さ……」
「あら、お正月の事なンか、考へてみた事もなかつたわ」
「どうだね、今日、このまゝ、伊香保か、日光の方へでも行つてみる気はないかね?」
「まア、伊香保つて、私、行つた事ないけど、いゝわねえ……。ざぶざぶ、熱いお湯にはいりたいわ。本当に行けるの?」
「一泊か二泊位なら行ける。行つてみるかい?」
永遠の海のなかに浮いてゐる以上、ちつぽけな人間の心のおもむくまゝに、好き勝手もいゝぢやないかと、富岡は、いざとなれば、ゆき子とともに、枯木の山の中で、果ててしまひたい気持ちだつた。
(お前は、俺にていよく殺される事も知らないで、にこにこ笑つてゐるンだよ……)富岡は、猛烈な食慾で、焼きそばを食べてゐるゆき子を見てゐた。金メッキの耳輪が、小さい耳朶《みゝたぶ》にゆれてゐる。黒い髪の毛は、襟《えり》もとで短く刈り込んでゐた。
「伊香保つて、寒くない?」
「寒くてもいゝさ」
「それはさうね」
まるで、新婚夫婦が、旅のプランを相談してゐるやうな、浮々した表情で、ゆき子は、加野の名刺をハンドバッグに入れて、それとなくコンパクトを出して、鼻の先に鏡を開いた。
富岡は女を殺す場面を空想してゐる。音のない芝居のやうに、血みどろなゆき子の姿が、ゆるく空想の景色の中で動いてゐる。危険な感情だつたが、その危険な思ひに這入り込んでゆける勇気が、爽快《さうくわい》でさへあつた。殺してやる。そして、自分も折り重なつて死ぬ。それだけのものだ。誰も自分達に対して、文句を云ふものはないのだと、富岡は二本目の酒を注文して、化粧をしてゐるゆき子の平べつたい顔を呆《ぼ》んやりみつめてゐた。この顔が、外国人に好かれるのかなと、妙な気がした、卑《いや》しい顔だつた。平《ひら》べつたくて、顎《あご》が張り、何のとりえもない平凡さだ。だが、よく見てゐると、原始人に近いのだ。額や、眉や、眼のあたりが、仏像のやうでもあつた。
「家は、留守をしても大丈夫なのかい?」
「えゝ、鍵をかけて来てるから、人が来ても、ゐないと思ふでせう?」
「伊庭が蒲団を取りに来たンだつて?」
「あら、私の手紙着いて? さうなの。いま、だから、私は毛布で寝てるのよ」
ゆき子は別に困つた様子もなく、徳利を取りあげて、富岡の盃に酒をついだ。富岡は冷えた焼きそばの上に散らかつてゐる、葱《ねぎ》や筍《たけのこ》を肴《さかな》に、酒を飲んでゐる。日々の生活が、如何《いか》にくだらなく憐むべきかと、富岡は、自分のやつてゐる事が喜劇的に思へて来た。みんな、大真面目に、悲劇をくりかへしてゐると思ひながら、人類をうるほすところの、人間の悲劇味は、何千年の昔から、何一つありはしなかつたのぢやないかと、うたぐつて来る。みんな、人間のやつてゐる事は、喜劇の連続だつた。心臆《おく》して、こそこそと喜劇のなかで、人間は生きる。正義をふりかざす事も喜劇。人間の善も悪もみな喜劇ならざるはない。涙の出るほどのをかし味のなかに、人間は、自分に合つた、尤も至極な理窟をつけて、生活をしてゐる。死のまぎはになつて、初めて、吻《ほ》つとして、あゝと、本当の溜息が出るものかも知れない。
思ひきつて、富岡は、ゆき子を連れて伊香保へ行つた。伊香保へは夜更けて着いた。宿引きに、金太夫と云ふ旅館へ連れて行かれた。坂の多い温泉町で、その坂は、路地ほどの狭さだつた。湯花の匂ひがむつと鼻に来る。ゆき子は珍しさうに、坂道の両側の家々を覗《のぞ》いて歩いた。不如帰《ほととぎす》で有名な伊香保と云ふところが、案外素朴《そぼく》で、如何にもロマンチックだつた。夜更けて着いたせゐか、水の音も、山の風も、凍つたやうに肌を刺す。宿の奥まつた部屋へ這入ると、部屋には大きな炬燵《こたつ》がつくつてあつた。炬燵の上には、一枚板が乗つかつてゐる。ゆき子は冷えた膝を炬燵に入れた。ほかほかと暖かつた。
「とても、いゝところね。貴方《あなた》、どうして、こんな処を知つてゐるの。昔、来た事あるの?」
ゆき子が甘えて聞いた。
「学生の頃、来たンだ……」
「とてもいゝ処だわ。ダラットみたいね。お金でもあつて、暫く、こんなところで呆んやり暮してみたいわね……」
「うん、それでも、長くゐたつて、飽きちやふだらう。二日位が関の山だね……」
「さうね、その位がいゝところでせうね……」
狭い部屋だつたが、窓の下は渓流になつてゐるのか、そうそうと水音がしてゐた。顔の赧《あか》い女中が、干柿と茶を持つて這入つて来た。床の間には、籠型の花筒に、小菊が活けてあり、石版画の山水の軸《ぢく》がかゝつてゐる。ありふれた部屋だつたが、旅室で、しかも温泉町へ来たと云ふ思ひがあるせゐか、今朝感じてゐたほどの淋しさも、案外さらりとして来てゐた。絶望だの、何だのと云つたところで、かうした転換法さへ心得てゐれば、すぐ、目のさきの気分は一転して、人間は愉《たの》しくなり、一時しのぎの気持ちにもなるのだつた。仄々《ほのぼの》として来た。不思議な心の波だと、富岡は、自分でもをかしくなつてゐた。女と死ぬために、わざわざ芝居がかりの死の舞台を求めるなぞと云ふ事も、大きな宇宙のなかでは、一粒の泡ほどの事件でしかないのだと、富岡は、外套のまゝ、ごろりと炬燵に寝転び、手枕をしたまゝ、煤《すす》けた天井をみつめてゐた。
「褞袍《どてら》を、お着替へになりましては、如何ですか?」
女中が褞袍を持つて来た。ゆき子は、次の間ですぐ着替へて、女中に手拭を貸してくれないかと云つてゐる。富岡は湯にはいるのも億《おく》くうになつてゐた。躯を動かすのも大儀で仕方がない。このまゝ消えてゆけるものならば、此のまゝぼおつと地の底に消えてしまひたかつた。
「ねえ、お着替へにならない?」
「うん……」
「ねえ、着替へて、早く御飯にして貰ひませうよ。とても、私、おなか、空いちやつたわ」
「うるさいなア。ゆつくりさしてくれよ。君、湯に這入つて来たらいいだらう」
ゆき子は、ぬぎ散らかしたものを、部屋の隅に放つて、炬燵のそばへ来ると、褞袍の袖《そで》の匂ひをかぎながら、
「あゝ、人臭い、人臭い……」と疳性《かんしやう》に云つた。
富岡は大分酔つてゐた。久しぶりに、軽々と心が解放された気持ちで、床柱に凭《もた》れたまゝ、安南《あんなん》語で唄をくちずさんでゐる。
あなたの恋も、わたしの恋も、はじめの日だけは、真実だつた。あの眼は、本当の眼だつた。わたしの眼も、あの日の、あの時は、本当の眼だつた。いまは、あなたも、わたしも、うたがひの眼――。
そんな意味の、安南の流行《はや》り唄《うた》だつた。ゆき子も大分酔つてゐたので、うろおぼえの唄についてゆきながら、しみじみとダラットの生活をなつかしがつてゐる。
いまさら、思ひ出したところで、何もならない事だつたが、遠く過ぎた夢は、なつかしい。ゆき子は、足をのばして、炬燵の中の男の足をさぐつた。熱い足が足裏にさはつた。
「富岡さん、何時までも、元気でね。時々、ダラットの事思ひ出したら、ゆき子を呼んで頂戴……。ね、私、諦《あき》らめちやつたの。時々、かうして逢つて貰へばいゝ事よ。ね、その方がいゝわ。――さつきの唄みたいなのが、私達の間柄だつたンだつて判つたわよ……」
富岡は眼をつぶり、静かに安南の唄を口ずさんでゐる。ゆき子は、立つて、富岡のそばに行き、並んで炬燵《こたつ》へ滑り込んだ。富岡はそれでも唄ひ続けて、眼を開けなかつた。
「どうして、自分一人で、考へごとをしてゐるの? 私にも、考へてゐる事を、分けて頂戴! ね、半分頂戴……」
考へてゐる事を、半分頂戴と云はれて、富岡はぱつと眼を開いた。
ゆき子が可愛かつた。自然に出る、女の言葉は、瞬間の虹《にじ》のやうなものであるだけに、富岡は、誘はれる気持ちで、ゆき子の指を取り、唇に持つて行つた。
「私、淋しい、淋しい、淋しい、淋しいのよオ……」
富岡の胸にしがみつくやうにして、ゆき子は、淋しい淋しいと、小さい声で叫んだ。富岡はまじまじと女の狂態を眺めながら、少しも、ゆき子のその狂態に感動は出来なかつた。女の心は、窓下の水の流れと同じやうに、只、瞬間のなかに流されてゐるとしか考へられない。――富岡は、死の方法に就いてのみ、考へをめぐらせてゐた。立派に息の根をとめる事が出来るものであらうか、どうかを、考へてゐる。女を殺して、その後から、うまく、自分も死ねるものであらうかどうかを、富岡は、数字のやうに計算をしてゐた。愛しあつて死ぬるわけのものではないかと云ふ事を、自分の死んだあとは、誰も判つてはくれないだらう……。それもよからうと思つた。
此の場合、富岡には「死」そのものが必要だつたのだ。女を道づれにするのはどうなのだ? これは、自分の死の道具に過ぎないのさ。勝手な奴だな。俺はさう云ふ人間なンだ……。富岡は、ゆき子の指を時々固く握り締めてみながら、自分の心に自問自答してゐる。怖ろしいとか、つくりものだとか、いやらしいとかの考へだと云ふのならば、それは他人の考へる事であつて、死んでゆくものは、案外、悲劇を演じてゐるつもりかも知れない。
食ひ荒した炬燵の上の赤い広蓋《ひろぶた》に、電燈が反射してゐる。赤い塗りに、金で小松が描いてある。これも、いまに、見をさめだな……。富岡は、部屋のすべてを眺めまはした。山の中へ這入つて、この二人は、間もなく死んでしまふンだよと、心でひそかに言葉をのべてゐた。
生涯《しやうがい》の最後だと思ふと、何も彼も淋しい美しい。いとしくなるほど、すべて見るものが美しいのだ。菊の花の、白に見える薄黄ろ……。汚れた軸の山水から風が吹きあげてゐる。今朝の東京の、御所の雨が心を掠《かす》めた。
伊香保は雨が晴れてゐた。
「商売はどんな風なの?」
「商売?」
「えゝ、材木の方のお仕事よ」
「あゝ、仕事かい? 何とかなるだらう……」
「家は、まだ売れないの?」
「売れて、半金は貰つた。来年登記をして、一月の終りには、家を明け渡すのさ……」
「いくらに売れて?」
「いくらでもいゝぢやアないか」
「そりやアさうだけど……。だつて、聞いたつていゝでせう?」
ゆき子は、一時の狂態も過ぎてゆくと、じいつと眼をすゑて、富岡を眺めながら、どうして、こんな男に惹《ひ》かれてゐるのか、自分でもをかしかつた。只《たゞ》、その場で逢つてゐるだけの二人のやうでもある。ゆき子は立つて、手拭を取つて、また湯に這入りに行つた。
狭い階段を降りて、湯殿へ這入ると、深夜の湯殿に、パアマネントの長い髪をふりみだした若い女が二人、声高で喋《しやべ》り散らしてゐた。
赤く濁つた湯が、タイルのふちにたぷたぷ溢《あふ》れてゐる。ゆき子は黙つて、浴槽の女達の前へ片脚を入れた。酔つてゐるせゐか、脚がふらついて、よろけて、どぼんと湯の中へ飛び込むと、湯のしぶきがあがつて、二人の女達は飛びのきざまに、顔をしかめた。如何にも意地の悪い表情で、二人は舌打ちしてざあつと、立ちあがつた。
「ごめんなさい……」
ゆき子はあやまつた。二人の女はにこりともしない。ゆき子は疳《かん》にさはつて、赤い湯の中に、のびのびと脚をのばした。二人は、都会の女に違ひないのだけれども、骨太な百姓の女のやうな逞《たく》ましい大きい腰つきをしてゐた。
ゆき子は、すんなりとした自分の裸が自慢で、その女達と並んでみせたい衝動にかられてゐる。女達は、タイルの流し場に、べつたりと坐り込んで、また、さつきの話の続きを始め出した。
「別れぎはに、たみちやんてばさア、カムアゲンつて云つたンだつてよ。あのひと、カムアゲンしか知らないンだからね。そしたらさア、向うは、泳ぐまねをしてさ、もう、男の間を泳ぐのはやめて、オフィスにでも勤めなさいつて云つたンだつてよ。――そいで、すぐまた、泳ぎまはつてるンだから世話はないやね。……日本の男は見るのも厭だつてさア」
二人はげらげら笑ひ出した。
はゝア、そんな階級の女なのだなと、ゆき子は池袋の自分の小舎《こや》を思ひ出してゐた。いまごろは、尋ねて来て、扉をこつこつ叩《たゝ》いてゐるかも知れない。二人の女は、匂ひのいゝ石けんを使ひ、プラスチックの、大きな櫛《くし》で、お互ひ同士、髪をかきつけあつてゐる。
二人の態度は、酔つてゐるゆき子の眼には、いどみかゝつてゐるやうに見えた。お前達とは人種が違ふンだからねと云はンばかりに、ハイカラな大瓶に這入つた水クリームや、大判のタオルをみせびらかしてゐる。ゆき子は、宿の女中に借りた、煮〆めたやうな日本手拭と、魚臭い石けんを使つてゐた。
「ねえ、明日帰つたら、私、洋服屋へ行くンだけど、あんたも行つてみてくンないかなア……。真紅《まつか》なスーツで、金釦《きんボタン》をつけて貰つたンだよ」
「へえ、大したものだねえ、ユウのハートが、つくつてくれたのかい?」
「そりやア、さうさ。あのひと、気前はいゝンだから」
ゆき子は、くすくすと笑つた。唇の真赤な女がちらりと、笑つてゐるゆき子の方を見て、
「何を笑ふのさア」と、怒つて云つた。
「あら、私、自分の事思ひ出し笑ひしてるのよ。妙な事云はないでよツ」
「チヱッ、馬鹿にしてるよ。酔つぱらつて湯をぶつかけたくせに」
「あら、ごめんなさいつて、云つたぢやないの?」
もう一人の骨張つた女が、「酔つぱらひに、かゝりあふのおよしなさいよツ」と云つた。
二人はさつさと水しぶきをあげるやうな見幕で、脱衣場の方へ出て行つた。
「耳輪《イヤリング》なんかしてさ、汚ない手拭使つてるの、あれなアに? よう、何だらうね……」
「知れてるぢやないか……」
二人の忍び笑ひがした。ゆき子はざぶざぶと湯を使ひながら、大きい声で、
あなたの恋も
わたしの恋も
初めの日だけは
真実だつた……。
と、安南語で歌つた。案外、なまめかしく柔い声だつた。しのび笑ひはとまつた。
あの眼は、
本当の眼だつた。
わたしの眼も
あの日の
あの時は
本当の眼だつた。
いまはあなたもわたしも
うたがひの眼……。
唄つてゆきながら、ゆき子は、放蕩《ほうとう》の果てのやうな荒《す》さんだ気持ちだつた。
意味もなく、富岡とゆき子は、二日ばかりを伊香保で暮した。二日も雨が続いた。流石《さすが》に、正月を明日にひかへては客もなく、広い旅館はひつそりしてゐた。
富岡は、二日の間に、何ものも把握する事は出来なかつた。真剣にものを考へようとして、少しも心は中心へ向いてはゆかなかつた。
自己矛盾にとらはれてゐる。自分をどのやうに始末してよいのか判らない。戦争が済んで、遠くから戻つて来たものには、どの人間にもかうした一種の気後《きおく》れがあるのではないかと思へた。
その気後れを気づいてゐる者と、気づいてゐない者とあつたとしたところで、狭い天地で、釘づけにされた人種は、一人々々が、孤独に、てんでんばらばらになつてゆくより、道はないのではないかと思へた。
全面的な真理を追ふには、かうしたやぶれた国の狭い土地では、たうていむづかしい、空虚な理想なのである。
生活すると云ふ可能性を、凡《あら》ゆる瞬間において、思ひがけなく否定される障害もあり得る……。富岡は、さうした天地の狭さのなかに疲れ切つてしまつたし、家族を平和に支へて行く技術にも、へとへとになつてゐた。
みんな気むづかしくなつて来る。家族のものは、別々に孤独の穴へ穴ごもりをするだけの現実になつてしまふきりだ。
「ねえ、煙草、ない?」
「ないよ」
「何をそんなに、貴方は考へ詰めてゐるのさア? 焦々《いらいら》してるのね。――いつそ、正月を、こゝで暮して行きませんか? お金が足りなかつたら、私の外套《ぐわいたう》を置いてもいゝし、この時計を置いてもいゝわ。みつともなかつたら、町へ出て、時計を売つて来るつもりよ……」
ゆき子は、さう云つて、灰皿から、吸ひ殻をひろつて、短い吸ひ殻をパイプに突きさして火をつけた。
富岡は、炬燵《こたつ》に腹這《はらば》つて、昨日の新聞をもう一度くり返して読んでゐたが、「おい……」と、思ひ詰めたやうに、くるりと、畳に片肘《かたひぢ》突いて、ゆき子の顔を、下から見上げた。
「何よ?」
「うん、別に、何て事もないンだが、つくづく、世の中が厭になつちやつたなア……」
「どうして、どんな事なの?」
どんな事なのだと聞かれて、富岡は頬のしびれるやうな気がした。乾いた眼を、白々と開いたなりで、ゆき子の化粧のはげた顔を見つめ、冷たくつつぱなすやうに云つた。
「生きてゐるのも退屈だね……」
ゆき子は、何を意味する言葉なのか、一寸判らなかつた。富岡は、ゆき子の胸の釦《ボタン》のはづれさうなのを、指で引つぱりながら、
「僕達は、どうにも仕方がないと云ふ事さ」
「仕方がなくないぢやアないの……。貴方の心境つて、妙に底をついて来たのね……」
「ふうん、うまい事を云ふね……。さうなンだよ。――ぢやア、君は、底をついてないンだね。面白いだらうね。世の中が面白いだらうね……」
「何が、面白いのよ?」
「こんな時勢になつた事がさ……」
ゆき子は、富岡の考へてゐる事が少しづつ判りかけて来た。甘い涙が、咽喉元《のどもと》まで、溢《あふ》れさうな気持ちだつた。
「私、貴方の思つてる事、云つてみませうか?」
「いや、云つて貰はなくてもいゝ……」
「別れる話?」
「違ふツ」
釦がぽろりとはづれた。はづれた釦を握つたまゝ、富岡はぬるい炬燵に躯《からだ》を縮めるやうにして、横になつた。
「私、時計を売つて来ていゝ?――ねえ、お正月をこゝで過したいわ……」
窓硝子《まどガラス》に、白い雨がにじんで来た。ついツ、ついツと、小鳥が廂《ひさし》をよぎつてゐる。ゆき子は立つて、硝子戸を開けた。眼の前の山も空も乳色に煙つてゐる。仏印の山々の、雨に煙つてゐる景色に似てゐる。富岡は貝釦を手でまさぐりながら、畳の上に置いて、子供のおはじきのやうに、小指や、人差し指ではじいてゐた。
「お正月は雨だわね……」
硝子を閉めて、また、ゆき子は炬燵に這入つた。富岡は、むつくり起きあがつて、炬燵の上に貝釦を置くと、ゆき子へともつかず、自分へともつかず、つぶやくやうに、
「死にたくなつた……」と云つた。
何気なく聞き流して、ゆき子は、釦を取つて、一寸胸にあててみたが、釦のとれたあとの糸屑を疳性《かんしやう》に引つぱりながら、
「私だつて、死にたいわよ」と、ぽつんと云つた。
「君なンか、安々とは死ねやしないさ。これから、大いに発展して、もう少し、人生を愉《たの》しむンだね……」
「まア! 何を発展するのよ? 妙な事云はないで頂戴」
「それぢやア、死ぬる事を、本気に考へた事あるかい? 虚心な気持ちで、本気で考へもしないで、安つぽく死ぬなンて云ふのはよしたがいゝよ」
「いゝえ、本気に考へるのよ。私、何時だつて考へたわ。海防《ハイフォン》でも死ぬつもりだつたし、ダラットで、加野さんの事件があつた時も、その事を考へてたわ。――だから、私は、死ぬ事なンて、怖くもなンともないンですよ」
「ふうん……。それは、まだまだ死ねないね。怖くも何ともないなンて力んでゐるうちは、死に就いて、楽観してるつて事だよ。死ぬと云ふ事は、本当は怖いものなンだ。――かあつとした、真空状態になるのを待たなければ、仲々死ねないものだ。君は、もし、万一、死を選ぶとして、どんな方法をとるかね?」
「青酸カリが一番楽なンでせう?」
「そんなものを持たない時に、真空状態になつたら?」
「そりやア、その時になつてみなくちやア判らないぢやありませんか? 真空状態で、どんなスタイルで死ぬかなンて、考へてはゐられないでせう?」
「ぢやア、愛する者同士が心中をする場合だね、どつちかが、真空になれなかつたら、うまく、気分があはないわけだね?」
「違ふでせう? それは、かあつとなるよりも、それを通り越してもう一つ心の奥で冷たくなつて、二人が黙つて、事を運ぶンぢやなくちや、いけないのぢやないかしら……。死ぬ事が怖《こは》いのだつたら、方法を考へる事だつて怖いンだから、二人の死となると、よく計画しなくちや駄目なのね……」
「僕は君と榛名《はるな》へでも登つて、死ぬ事を空想してたンだがね……」
「偶然だわ。私も、そんな事を、此の間、考へた事あつたのよ」
お互ひの心の交流のなかに、少しづつ、死の意識が薄昏《うすぐら》い影になつて、眼底を掠《かす》めた。富岡は馬鹿々々しいと思ひながらも、亦《また》、東京へ戻つてからの現実を考へると、落莫《らくばく》とした感情が鼻について来る。苦しさや、悩みに押しひしがれてゐる時は、まだ生きられる力を貯へてゐたが、いまは、悩みも苦しみも、煙のやうに糸をひいて消えてしまつた。
富岡は煙草に火をつけながら、心を掠《かす》めるやうなものを感じた。自分が、この女を連れて死んだところで、世の中は、昨日も明日も変りはないのだ。世の中に絶望したとか、何か云つてはゐるが、そんなところに、説明をこじつけてみても、世の中は、自分一人の死なんか、何とも考へてゐるものでもない。たゞ、それだけのものだと云ふだけだ。だが、その、何とも感じてくれない世の中に揉《も》まれて、生き辛さの為に、自分の死場所を求めて歩いてゐる人間と云ふものも、全く妙な存在だと、富岡は、寝床に腹這ひ、闇の中に光る、煙草の火を、呆《ぼ》んやりみつめてゐた。
結局は、強烈な享楽によるか、絶望して死ぬかの二つの方法だが、絶望すると云ふ事はどうも世の中へのみせかけのやうなもので、たとへ、何かのはづみに死を選んだにしたところで、念頭に、絶望なぞ少しも感じないで死ぬに違ひないのだ。富岡は苦笑してゐた。この深い暗さは、何時《いつ》までも長続きするものではないが、燈火を消した部屋の中は、あらゆる旅行者の、旅のなごりが、衣《きぬ》ずれのやうに闇の中に動いてゐた。
此の部屋で、女と誓ひあつた男もゐるかも知れない。蒲団をおしつけられるやうな気がした。すると、隣りの蒲団で眠つてゐるゆき子が、うゝうゝ、とひどくうなされて、呻《うな》つてゐる。その呻り声を、富岡は暫く聞いてゐたが、富岡はたまらなくなつて、煙草を手探りで灰皿の中へにじりつけると、枕許《まくらもと》の行燈型《あんどんがた》のスタンドをつけた。
急に四囲が明るくなり、深い闇が去つた。
「おい、おい、どうした?」
ゆき子の枕を、富岡は引つぱつた。ゆき子は向うむきになつてゐたが、眼を覚して、くるりと、スタンドの方へ寝返りを打つた。
「あゝ、厭な夢を見たわ。とても、妙な怖い夢だつた……」
「馬鹿にうなされてゐたね……」
「さう、厭な夢なのよ。血みどろになつた、皮をはがれた馬に追ひかけられてたのよ。何処まで走つても、すぐ追ひかけられちやふのよ……。何だか、青い着物を着た、顔のない人間が、その馬に乗つてるのよ。苦しくて、苦しくて、助けてッて云つても、声も出ないンですもの……」
富岡は炬燵のなかへ足をのばした。ほかほかと埋火が暖い。ゆき子は、スタンドの燈火をまぶしさうに眺めながら、「今日はお正月ね……」と云つた。
長い間、かうして、二人は、此の宿で暮してゐるやうな気がしてゐる。たつた三晩しか泊つてゐないのだが、昔からかうして、二人は暮してゐるやうだつた。富岡は因縁《いんねん》深いものを感じてゐる。戦争さへなければ、此の女にも相逢ふ事もなかつたらうし、仏印のやうな遠い処にまで行く事もなかつたのだ。いまごろは実直な官吏として、役人生活をしてゐるにきまつてゐる。だが、この戦争は、日本人に多彩な世界を見学させたものだと思ふ。――富岡は、煤《すゝ》けた天井を眺めながら、地図のやうな汚点《しみ》をみつけて、ふつと、ユヱの街を思ひ出してゐた。駅から街の中心へ向ふ街路に、樟《くす》の若芽が湧《わ》きたつやうな金色だつた。香水河と云つたユヱ河に添つた遊歩道には、カンナや鉄線花が友禅《いうぜん》のやうに華やかだつた。椰子《やし》、檳榔《びんらう》、ハシドイが到る処に茂つてゐる。赤褌《あかふん》一つのモイ族が、二三羽のインコを籠に入れて、遊歩道で売つてゐたのを、富岡は思ひ出した。
なつかしいダラットの生活が、織物の飛白《かすり》のやうに、一つの模様になつて、記憶のなかに焼きついてゐた。ユヱの山林局にゐた局長のマルコン氏は、いまごろは、また、あのユヱに戻つて、悠々《いういう》と露台で葉巻でも吸つてゐる事だらう。日本の軍隊に厭な思ひをしたに違ひないマルコン氏の好人物な顔が、富岡は、なつかしい人として思ひ出に残つてゐた。マルコン氏は、一九三○年に森林官として、仏印に渡航して来た。仏蘭西のナンシー山林学校を出た人物である。若い、何も知らない、田舎者の、礼儀知らずな、日本の山林官である、富岡達に、心の中では随分をかしなものを感じてゐたに違ひないのであらうが、マルコン局長は、城あけ渡しの時も、非常に立派な態度であつた。富岡にはとくに眼をかけてくれて、よく、仏印の林業に就いての説明を事こまかに教へてくれたものであつた。
仏印の山林は、巨《おほ》きな虎にとり組んでゐるやうなものだと思はなければならないと、マルコン氏はよく云つてゐた。仏印の山林の何たるかも判らないで、何の予備知識もなく、軍の命令で遠征した富岡達は地図の上だけで、平地の松林のやうな疎林《そりん》を空想して出掛けてゐたのだ。
マルコン氏のユヱの私邸によばれた時、富岡は、庭にある樹木の名前をみんな知つてゐるかと問はれて、富岡はビンラウ樹さへも云ひあてる事が出来なかつた。リム、タガヤサン、ボウデ、キェンキェン、サオ、ヤウ、ベンベン、バンラン、一つ一つ指差して、マルコン氏はその樹木の産地や性情を教へてくれた。
仏印の山岳林地帯は、雨も多いので、森林も広大なもので、自分は長い間、こゝに来てゐるが、まだ山岳地の森林に就いては研究も浅いが、いたづらに伐り出す前に、よく、林質をたしかめてからにして貰ひたいと、マルコン氏は願望すると云つた。とくに、山地の蛮人の焼畑開墾《やきばたかいこん》は、原生林の状態を、相当蚕食《さんしよく》してゐるので、これも、考へてほしい事だと云つた。北部安南の、ビンや、タンノアの両州は、とくに、日本軍の開発が多いと聞くが、中部地方は、これは山脚がすぐ海にはいつてゐるので、地勢は急峻《きふしゆん》で、流筏《いかだ》の便のある河川に乏しく、只、樹木を伐るだけでは、開発しても容易に持ち運びは出来ないらしい。北部と南部だけが、地勢がゆるやかなので、流筏の便利はあるが、その一方的な利用の仕方は考へなくてはなるまいと注意も受けた。造林事業と云ふものは或る意味で、戦争とは別箇のものだと、マルコン氏は心配さうに云ふのである。
「ねえ、あなた、覚えてゐる? ツウランのそばの何とかつて、日本人の墓地にお参りした事もあつたでしよ?」
富岡は、記憶のさすらひから、急に引き戻されたやうな気持ちで、天井の汚点から眼をそらして、ゆき子の方へ顔を向けた。
「あの町、何て云つたかしら?」
「ヘイホつて町かい?」
「さうさう、ヘイホつて町だつたわ。加野さんと、私と、あなたと、三人でヘイホの町へ行つた事あつたわね。三日位の旅だつたかしら、加野さんは焦々《いらいら》して、ずつと、私達を看視してたぢやない? その看視の眼をくゞつて、二人で、真夜中に逢《あ》つてたわね。二人とも狂人みたいだつたわ。覚えてゐる?」
「あゝ、覚えてゐるよ」
「並木はフクギつて樹だつたでせう? こんもりした老樹で、自動車をとめて休んでゐると、子供達が、トンボ・ヤポネーゼつて寄つて来たわね。私、あの時ね、コンパクトで鏡をのぞいて、一流の美人に生れて来ないのを残念に思つた位よ。だつて、子供達は、女の私なンかに興味もないやうな様子で、背の高いあなたの方へばかり、何だか、おしやべりしてゐたわ……。墓地へ行く道に、巨きな仙人掌《サボテン》が繁つてゐて、いまでも、私、よく覚えてゐるのよ。山田五十鈴位の美人だつたらもつと、あの旅はよかつただらうと思つたわ」
ゆき子は、妙な事を云つた。
ヘイホの町は、三百五六十年前に、沢山の日本人が住んでゐた土地である。当時の御朱印船に乗り、ひんぱんに往来して、日本に、紫檀《したん》や、黒檀《こくたん》や、伽羅《きやら》、肉桂《にくけい》なぞを送つてゐたものだが、その後、日本の鎖国の為に、帰国出来なくなつた日本人が、此の地に同化した様子で、墓碑の表なぞに、太郎兵衛田中之墓などと刻んであるのがあつた。
流れる椰子《やし》の実のやうに、何処へでも遠く漂流して行く、昔の日本人の情熱を、ゆき子はひどく勇気のあるものに思ひ、土《ど》まんぢゆうの墓碑《ぼひ》にも、はな子之墓なぞとあるのに、ゆき子はいぢらしい気がしたものだ。
「ヘイホつていゝ町だつたわ、道が狭くて、やつと自動車一台通れる幅だつたわね。マッチ箱を二つづつ重ねたやうな白壁塗りの家並がつづいて、ほら、日本橋つて、屋根のある小さい橋があつたわ。あすこで写真を加野さんが撮《と》つたけど、あの写真も持つて帰れなかつたし、でも、あの時の私達つてぜいたくね。いま、あれだけの旅をするつて云へば、大変なお金がかゝるでせうね……」
「罰があたつたンだよ」
「さうね、さう考へるに越した事ないわ。――もう、幾時頃かしら」
ゆき子は腹這《はらば》ひになつて、枕許《まくらもと》の小机から時計を取つて見た。四時を少しまはつてゐた。ゆき子は、昨夜、あれほど、二人で死に就いて語りあつてゐながら、いまは、死に就いて何も考へる事はなかつた。こんなところで死ぬのは馬鹿々々しい気がした。富岡の云つてゐる事も、本気ではないやうに思へ、今日はこの時計を手放して、池袋の家へ戻りたいと思つた。二人の間に、仏印の記憶が、二人の心を呼ぶきづなになつてゐるだけで、こゝに寝てゐる二人にとつては、案外、別な方向を夢見てゐるにしか過ぎないのかも知れない。
宿の払ひに追ひたてられてゐる事が気がかりで、何時まで伊香保にゐても、少しもロマンチックな気にはなれないのだ。ゆき子は、その気持ちをうまく富岡へ表現したかつたが、富岡は、心が屈してゐる様子で、此の宿を去る説には、仲々ふれて来さうもない。
「今日は、お正月ね?」
「うん」
「今日、帰る?」
「三四日ゐたいと、君は云つてたぢやないか。気が変つたのかい?」
「気が変つたわけぢやないけど、何だか、仏印の話も云ひ尽したやうな気がするし、あなた、私に飽きちやつてると思つてさ……」
「君が飽きたンだらう?」
「馬鹿云つてるわ……」
私は飽きないと云ふ処を見せる為に、大きい声で、馬鹿云つてると云つてみたものの、ゆき子は、池袋がなつかしかつたのはたしかである。浮気でうつり気なのかなと、ゆき子は、自分の心の中を手さぐりでさはつてみてゐる感じだつた。山峡《やまかひ》の水の流れが深々と耳に響いた。
「もつと、苦しま