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杜子春

author: 芥川 竜之介

 或《ある》春の日暮です。

 唐《とう》の都洛陽《らくよう》の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。

 若者は名を杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を費《つか》い尽して、その日の暮しにも困る位、憐《あわれ》な身分になっているのです。

 何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌《はんじょう》を極《きわ》めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗《しゃ》の帽子や、土耳古《トルコ》の女の金の耳環《みみわ》や、白馬《しろうま》に飾った色糸の手綱《たづな》が、絶えず流れて行く容子《ようす》は、まるで画のような美しさです。

 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭《もた》せて、ぼんやり空ばかり眺《なが》めていました。空には、もう細い月が、うらうらと靡《なび》いた霞《かすみ》の中に、まるで爪の痕《あと》かと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。

「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」

 杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。

 するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇《すがめ》の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、

「お前は何を考えているのだ」と、横柄に声をかけました。

「私《わたし》ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」

 老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。

「そうか。それは可哀そうだな」

 老人は暫《しばら》く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、

「ではおれが好《い》いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中《よなか》に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金《おうごん》が埋《う》まっている筈《はず》だから」

「ほんとうですか」

 杜子春は驚いて、伏せていた眼を挙《あ》げました。ところが更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりも猶《なお》白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠《こうもり》が二三匹ひらひら舞っていました。

 杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯《ただ》一人という大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。

 大金持になった杜子春は、すぐに立派な家《うち》を買って、玄宗《げんそう》皇帝にも負けない位、贅沢《ぜいたく》な暮しをし始めました。蘭陵《らんりょう》の酒を買わせるやら、桂州《けいしゅう》の竜眼肉《りゅうがんにく》をとりよせるやら、日に四度《よたび》色の変る牡丹《ぼたん》を庭に植えさせるやら、白孔雀《しろくじゃく》を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、錦《にしき》を縫わせるやら、香木《こうぼく》の車を造らせるやら、象牙《ぞうげ》の椅子を誂《あつら》えるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。

 するとこういう噂《うわさ》を聞いて、今までは路《みち》で行き合っても、挨拶《あいさつ》さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日毎《ごと》に数が増して、半年ばかり経《た》つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛《さかん》なことは、中々《なかなか》口には尽されません。極《ごく》かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯《さかずき》に西洋から来た葡萄酒《ぶどうしゅ》を汲《く》んで、天竺《てんじく》生れの魔法使が刀を呑《の》んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠《ひすい》の蓮《はす》の花を、十人は瑪瑙《めのう》の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を節《ふし》面白く奏しているという景色なのです。

 しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。そうすると人間は薄情なもので、昨日《きのう》までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今では椀《わん》に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。

 そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇《すがめ》の老人が、どこからか姿を現して、

「お前は何を考えているのだ」と、声をかけるではありませんか。

 杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、暫くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、

「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」と、恐る恐る返事をしました。

「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好《い》いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」

 老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、掻《か》き消すように隠れてしまいました。

 杜子春はその翌日から、忽《たちま》ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、仕放題な贅沢をし始めました。庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。

 ですから車に一ぱいにあった、あの夥《おびただ》しい黄金も、又三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。

「お前は何を考えているのだ」

 片目眇《すがめ》の老人は、三度《ど》杜子春《とししゅん》の前へ来て、同じことを問いかけました。勿論《もちろん》彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇《たたず》んでいたのです。

「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」

「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの――」

 老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮《さえぎ》りました。

「いや、お金はもういらないのです」

「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな」

 老人は審《いぶか》しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。

「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想《あいそ》がつきたのです」

 杜子春は不平そうな顔をしながら、突慳貪《つっけんどん》にこう言いました。

「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」

「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従《ついしょう》もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔《やさ》しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」

 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。

「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」

 杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、

「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子《でし》になって、仙術《せんじゅつ》の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜《ひとよ》の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」

 老人は眉《まゆ》をひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、

「いかにもおれは峨眉山《がびさん》に棲《す》んでいる、鉄冠子《てっかんし》という仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持にしてやったのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」と、快く願《ねがい》を容《い》れてくれました。

 杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜《おじぎ》をしました。

「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にしたところが、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくもまずおれと一しょに、峨眉山の奥へ来て見るが好《い》い。おお、幸《さいわい》、ここに竹杖《たけづえ》が一本落ちている。では早速これへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう」

 鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の中《うち》に咒文《じゅもん》を唱えながら、杜子春と一しょにその竹へ、馬にでも乗るように跨《またが》りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は忽ち竜のように、勢《いきおい》よく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。

 杜子春は胆《きも》をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が夕明《ゆうあか》りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れたのでしょう)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い鬢《びん》の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱《うた》い出しました。

朝《あした》に北海に遊び、暮《くれ》には蒼梧《そうご》。

袖裏《しゅうり》の青蛇《せいだ》、胆気粗《たんきそ》なり。

三たび岳陽に入れども、人識《し》らず。

朗吟して、飛過《ひか》す洞庭湖《どうていこ》。

 二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い下《さが》りました。

 そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空《なかぞら》に垂れた北斗の星が、茶碗《ちゃわん》程の大きさに光っていました。元より人跡《じんせき》の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、後《うしろ》の絶壁に生《は》えている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。

 二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、

「おれはこれから天上へ行って、西王母《せいおうぼ》に御眼にかかって来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを待っているが好《い》い。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性《ましょう》が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言《ひとこと》でも口を利《き》いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好《い》いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言いました。

「大丈夫です。決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています」

「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」

 老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。

 杜子春はたった一人、岩の上に坐ったまま、静《しずか》に星を眺めていました。するとかれこれ半時《はんとき》ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透《とお》り出した頃、突然空中に声があって、

「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。

 しかし杜子春は仙人の教《おしえ》通り、何とも返事をしずにいました。

 ところが又暫くすると、やはり同じ声が響いて、

「返事をしないと立ちどころに、命はないものと覚悟しろ」と、いかめしく嚇《おど》しつけるのです。

 杜子春は勿論黙っていました。

 と、どこから登って来たか、爛々《らんらん》と眼を光らせた虎《とら》が一匹、忽然《こつぜん》と岩の上に躍《おど》り上って、杜子春の姿を睨《にら》みながら、一声高く哮《たけ》りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈《はげ》しくざわざわ揺れたと思うと、後《うしろ》の絶壁の頂からは、四斗樽《しとだる》程の白蛇《はくだ》が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。

 杜子春はしかし平然と、眉毛《まゆげ》も動かさずに坐っていました。

 虎と蛇とは、一つ餌食《えじき》を狙《ねら》って、互に隙《すき》でも窺《うかが》うのか、暫くは睨合いの体《てい》でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が虎の牙《きば》に噛《か》まれるか、蛇の舌に呑《の》まれるか、杜子春の命は瞬《またた》く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失《う》せて、後には唯、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。

 すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄《すさま》じく雷《らい》が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しょに瀑《たき》のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中《なか》に、恐れ気《げ》もなく坐っていました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆《くつがえ》るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟《とどろ》いたと思うと、空に渦《うず》巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。

 杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うに聳《そび》えた山々の上にも、茶碗ほどの北斗の星が、やはりきらきら輝いています。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯《いたずら》に違いありません。杜子春は漸《ようや》く安心して、額の冷汗《ひやあせ》を拭《ぬぐ》いながら、又岩の上に坐り直しました。

 が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、金の鎧《よろい》を着下《きくだ》した、身の丈《たけ》三丈もあろうという、厳《おごそ》かな神将が現れました。神将は手に三叉《みつまた》の戟《ほこ》を持っていましたが、いきなりその戟の切先《きっさき》を杜子春の胸《むな》もとへ向けながら、眼を嗔《いか》らせて叱りつけるのを聞けば、

「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢《かいびゃく》の昔から、おれが住居《すまい》をしている所だぞ。それも憚《はばか》らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。

 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然《もくねん》と口を噤《つぐ》んでいました。

「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属《けんぞく》たちが、その方をずたずたに斬《き》ってしまうぞ」

 神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満《みちみ》ちて、それが皆槍《やり》や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。

 この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒《おこ》ったの怒らないのではありません。

「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」

 神将はこう喚《わめ》くが早いか、三叉の戟を閃《ひらめ》かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しょに、夢のように消え失せた後だったのです。

 北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向《あおむ》けにそこへ倒れていました。

 杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。

 この世と地獄との間には、闇穴道《あんけつどう》という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒《すさ》んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯木《こ》の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿《しんらでん》という額《がく》の懸《かか》った立派な御殿の前へ出ました。

 御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲《ま》いて、階《きざはし》の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な袍《きもの》に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂《うわさ》に聞いた、閻魔《えんま》大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ跪《ひざまず》いていました。

「こら、その方は何の為《ため》に、峨眉山の上へ坐っていた?」

 閻魔大王の声は雷《らい》のように、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答えようとしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口を利《き》くな」という鉄冠子の戒《いまし》めの言葉です。そこで唯頭《かしら》を垂れたまま、唖《おし》のように黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏《しゃく》を挙げて、顔中の鬚《ひげ》を逆立てながら、

「その方はここをどこだと思う? 速《すみやか》に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責《かしゃく》に遇《あ》わせてくれるぞ」と、威丈高《いたけだか》に罵《ののし》りました。

 が、杜子春は相変らず唇《くちびる》一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏《かしこま》って、忽《たちま》ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。

 地獄には誰でも知っている通り、剣《つるぎ》の山や血の池の外にも、焦熱地獄という焔《ほのお》の谷や極寒《ごくかん》地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を抛《ほう》りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥《は》がれるやら、鉄の杵《きね》に撞《つ》かれるやら、油の鍋《なべ》に煮られるやら、毒蛇に脳味噌《のうみそ》を吸われるやら、熊鷹《くまたか》に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦《せめく》に遇《あ》わされたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言《ひとこと》も口を利きませんでした。

 これにはさすがの鬼どもも、呆《あき》れ返ってしまったのでしょう。もう一度夜《よる》のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階《きざはし》の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、

「この罪人はどうしても、ものを言う気色《けしき》がございません」と、口を揃《そろ》えて言上《ごんじょう》しました。

 閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、

「この男の父母《ちちはは》は、畜生道《ちくしょうどう》に落ちている筈だから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。

 鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、二匹の獣《けもの》を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩《や》せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。

「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」

 杜子春はこう嚇《おど》されても、やはり返答をしずにいました。

「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好《い》いと思っているのだな」

 閻魔大王は森羅殿も崩《くず》れる程、凄《すさま》じい声で喚《わめ》きました。

「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」

 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭《むち》をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈《みしゃく》なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌《きら》わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶《もだ》えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶《いなな》き立てました。

「どうだ。まだその方は白状しないか」

 閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階《きざはし》の前へ、倒れ伏していたのです。

 杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊《かた》く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、殆《ほとんど》声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。

「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰《おっしゃ》っても、言いたくないことは黙って御出《おい》で」

 それは確《たしか》に懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨《うら》む気色《けしき》さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気《けなげ》な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転《まろ》ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸《くび》を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母《っか》さん」と一声を叫びました。…………

 その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇《たたず》んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。

「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」

 片目眇《すがめ》の老人は微笑を含みながら言いました。

「なれません。なれませんが、しかし私《わたし》はなれなかったことも、反《かえ》って嬉しい気がするのです」

 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。

「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」

「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳《おごそか》な顔になって、じっと杜子春を見つめました。

「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望《のぞみ》も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈《はず》だ。ではお前はこれから後、何になったら好《い》いと思うな」

「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」

 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩《こも》っていました。

「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇《あ》わないから」

 鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

「おお、幸《さいわい》、今思い出したが、おれは泰山《たいざん》の南の麓《ふもと》に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。

底本:「蜘蛛の糸・杜子春」新潮文庫、新潮社

   1968(昭和43)年11月15日発行

   1989(平成元)年5月30日46刷

初出:「赤い鳥」

   1920(大正9)年7月号

入力:蒋龍

校正:noriko saito

2005年1月7日作成

2013年10月29日修正

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