Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa
彼世尊、阿羅漢、正等覚者(完全なる覚者)に礼拝せん。
Saṃvaṇṇanārambhe ratanattayavandanā saṃvaṇṇetabbassa dhammassa pabhavanissayavisuddhipaṭivedanatthaṃ, taṃ pana dhammasaṃvaṇṇanāsu viññūnaṃ bahumānuppādanatthaṃ, taṃ sammadeva tesaṃ uggahadhāraṇādikkamaladdhabbāya sammāpaṭipattiyā sabbahitasukhanipphādanatthaṃ. Atha vā maṅgalabhāvato, sabbakiriyāsu pubbakiccabhāvato, paṇḍitehi sammācaritabhāvato, āyatiṃ paresaṃ diṭṭhānugatiāpajjanato ca saṃvaṇṇanāyaṃ ratanattayapaṇāmakiriyā. Atha vā ratanattayapaṇāmakaraṇaṃ pūjanīyapūjāpuññavisesanibbattanatthaṃ, taṃ attano yathāladdhasampattinimittakassa kammassa balānuppādanatthaṃ, antarā ca tassa asaṅkocanatthaṃ, tadubhayaṃ anantarāyena aṭṭhakathāya parisamāpanatthaṃ. Idameva ca payojanaṃ ācariyena idhādhippetaṃ. Tathā hi vakkhati – ‘‘iti me pasannamatino…pe… tassānubhāvenā’’ti. Vatthuttayapūjā hi niratisayapuññakkhettasambuddhiyā aparimeyyappabhāvo puññātisayoti bahuvidhantarāyepi lokasannivāse antarāyanibandhanasakalasaṃkilesaviddhaṃsanāya pahoti, bhayādiupaddavañca nivāreti. Yathāha –
注釈の始めに三宝への礼拝があるのは、注釈されるべき法(ダルマ)の起源、依拠、清浄の開示のためである。そしてそれは、法の注釈において賢者たちの尊敬を生じさせるためであり、彼らが正しく理解し保持することなどによって得られる正当な実践を通じて、一切の利益と幸福を成就させるためである。あるいはまた、吉祥であること、一切の行為において前もって行うべきことであること、賢者たちによって正しく実践されてきたこと、将来他者が見習うことなどから、この注釈において三宝への礼拝が行われる。あるいはまた、三宝への礼拝を行うことは、崇敬すべきものへの供養という特別な功徳を生じさせるためであり、自らの得た(成就の)兆候となる業の力を生じさせるためであり、その妨害がないようにするためであり、その両方によって妨害なくアッタカター(注釈書)が完成するためである。まさにこの目的が、師によってここに意図されているのである。実際、彼はこのように述べるであろう。「このように私の清らかな心は…等々…その威徳によって」と。三宝への供養は、最高の功徳の場である覚りによって、計り知れない威徳を持つ最上の功徳であるから、この世に住む多種多様な障害や、障害の原因となる一切の煩悩を滅ぼすことができる。また、恐怖などの災難を防ぐ。例えば、次のように言われる。
‘‘Pūjārahe pūjayato, buddhe yadi va sāvake’’tiādi (dha. pa. 1.195; apa. 1.10.1), tathā –
「崇敬すべき者、仏陀あるいは弟子たちを供養する者は」等々(ダンマパダ 1.195; アパダーナ 1.10.1)。また、次のように。
‘‘Ye bhikkhave buddhe pasannā, agge te pasannā. Agge kho pana pasannānaṃ aggo vipāko hotī’’tiādi (a. ni. 4.34; itivu. 90).
「比丘たちよ、仏陀に清信(帰依)する者は、最上のものに清信する。そして最上のものに清信する者には、最上の果報がある」等々(アングッタラ・ニカーヤ 4.34; イティヴッタカ 90)。
‘‘Buddhoti kittayantassa, kāye bhavati yā pīti;
「『仏陀』と讃える者の身に生じる歓喜は、
Varameva hi sā pīti, kasiṇenapi jambudīpassa.
その歓喜こそが、まさしくこのジャムブディーパ(インド)の全財宝よりも優れている。
Dhammoti…pe… saṅghoti…pe… dīpassā’’ti. (dī. ni. aṭṭha. 1.6);
『法(ダルマ)』と…等々…『僧伽(サンガ)』と…等々…島の(比べるべくもない)」等々。(ディーガ・ニカーヤ注釈 1.6)
Tathā –
また、次のように。
‘‘Yasmiṃ, mahānāma, samaye ariyasāvako tathāgataṃ anussarati, nevassa tasmiṃ samaye rāgapariyuṭṭhitaṃ cittaṃ hoti, na dosa…pe… na mohapariyuṭṭhitaṃ cittaṃ hotī’’tiādi (a. ni. 6.10; 11.11),
「大名よ、聖なる弟子が如来を念じる時、その時には彼の心は貪欲によって取り囲まれることはなく、瞋恚によって…等々…愚痴によって取り囲まれることもない」等々(アングッタラ・ニカーヤ 6.10; 11.11)。
‘‘Araññe rukkhamūle vā…pe…
「森の中、あるいは樹の根元において…等々…
Bhayaṃ vā chambhitattaṃ vā,
恐怖も恐れも、
Lomahaṃso na hessatī’’ti. (saṃ. ni. 1.249) ca
毛が逆立つこともないであろう」等々。(サンユッタ・ニカーヤ 1.249)
Tattha yassa vatthuttayassa vandanaṃ kattukāmo, tassa guṇātisayayogasandassanatthaṃ **‘‘karuṇāsītalahadaya’’**ntiādinā gāthattayamāha. Guṇātisayayogena hi vandanārahabhāvo, vandanārahe ca katā vandanā yathādhippetappayojanaṃ sādhetīti. Tattha yassā desanāya saṃvaṇṇanaṃ kattukāmo, sā na vinayadesanā viya karuṇāppadhānā, nāpi abhidhammadesanā viya paññāppadhānā, atha kho karuṇāpaññāppadhānāti tadubhayappadhānameva tāva sammāsambuddhassa thomanaṃ kātuṃ taṃmūlakattā sesaratanānaṃ ‘‘karuṇāsītalahadaya’’ntiādi vuttaṃ.
ここで、作者が三宝への礼拝を行おうとしているのは、その三宝の優れた徳の結合を示すために、「憐れみにより心が涼やかなる者」等という三つの詩句を述べるからである。まさに優れた徳の結合によって、礼拝に値する状態があり、礼拝に値する者への礼拝は意図された目的を成就するからである。ここで注釈しようとする説法は、律(ヴィナヤ)の説法のように慈悲が主ではなく、あるいはアビダンマの説法のように智慧が主でもない。むしろ慈悲と智慧が主である。それゆえ、他の宝の根源である正等覚者を称えるために、「憐れみにより心が涼やかなる者」等と述べられたのである。
Tattha kiratīti karuṇā, paradukkhaṃ vikkhipati, apanetīti attho. Atha vā kiṇātīti karuṇā, paradukkhe sati kāruṇikaṃ hiṃsati, vibādhatīti attho, paradukkhe sati sādhūnaṃ kampanaṃ hadayakhedaṃ karotīti vā karuṇā. Atha vā kamiti sukhaṃ, taṃ rundhatīti karuṇā. Esā hi paradukkhāpanayanakāmatālakkhaṇā, attasukhanirapekkhatāya kāruṇikānaṃ sukhaṃ rundhati vibandhatīti. Karuṇāya sītalaṃ karuṇāsītalaṃ, karuṇāsītalaṃ hadayaṃ assāti karuṇāsītalahadayo, taṃ karuṇāsītalahadayaṃ. Tattha kiñcāpi paresaṃ hitopasaṃhārasukhādiaparihānicchanasabhāvatāya, byāpādāratīnaṃ ujuvipaccanīkatāya ca sattasantānagatasantāpavicchedanākārappavattiyā mettāmuditānampi cittasītalabhāvakāraṇatā upalabbhati, tathāpi dukkhāpanayanākārappavattiyā parūpatāpāsahanarasā avihiṃsābhūtā karuṇā visesena bhagavato cittassa cittapassaddhi viya sītībhāvanimittanti vuttaṃ **‘‘karuṇāsītalahadaya’’**nti. Karuṇāmukhena vā mettāmuditānampi hadayasītalabhāvakāraṇatā vuttāti daṭṭhabbaṃ.
ここで「キラティ(散らす)」とは、憐れみ(karuṇā)のことである。他者の苦しみを散らし、取り除くという意味である。あるいはまた「キナーティ(傷つける)」とは憐れみのことである。他者の苦しみがあると、慈悲の心を持つ者を傷つけ、悩ませるという意味である。あるいは、他者の苦しみがあるときに、善なる人々の心を震わせ、苦しませるのが憐れみである。あるいは、カム(kam)とは楽(sukha)であり、それを遮るのが憐れみ(karuṇā)である。これはまさに他者の苦しみを取り除きたいという性質であり、自らの幸福を顧みず、慈悲の心を持つ者の幸福を遮り、妨げるのである。憐れみによって涼やかなのが憐れみにより涼やかである。憐れみによって心が涼やかであるから「憐れみにより心が涼やかなる者」であり、その「憐れみにより心が涼やかなる者」である。ここで、たとえ他者に利益をもたらし、幸福などを減らさないことを願う性質、瞋恚や不満とは正反対であること、衆生の心に生じた苦悩を断ち切るように作用することによって、慈(メッター)や悲(ムディター)の心も心が涼やかになる原因として認められるとしても、やはり、苦しみを取り除く作用によって、他者の苦痛を耐え忍ぶことの喜びを持ち、無害である憐れみが、特に世尊の心の平静のように心を涼やかにする原因であると、「憐れみにより心が涼やかなる者」と述べられたのである。あるいは、憐れみを入口として、慈(メッター)や悲(ムディター)の心が涼やかになる原因が述べられていると解釈すべきである。
Atha vā asādhāraṇañāṇavisesanibandhanabhūtā sātisayaṃ niravasesañca sabbaññutaññāṇaṃ viya savisayabyāpitāya mahākaruṇābhāvaṃ upagatā karuṇāva bhagavato atisayena hadayasītalabhāvahetūti āha **‘‘karuṇāsītalahadaya’’**nti. Atha vā satipi mettāmuditānaṃ sātisaye hadayasītībhāvanibandhanatte sakalabuddhaguṇavisesakāraṇatāya tāsampi kāraṇanti karuṇāva bhagavato hadayasītalabhāvakāraṇaṃ vuttā. Karuṇānidānā hi sabbepi buddhaguṇā. Karuṇānubhāvanibbāpiyamānasaṃsāradukkhasantāpassa hi bhagavato paradukkhāpanayanakāmatāya anekānipi asaṅkheyyāni kappānaṃ akilantarūpasseva niravasesabuddhakaradhammasambharaṇaniyatassa samadhigatadhammādhipateyyassa ca sannihitesupi sattasaṅkhārasamupanītahadayūpatāpanimittesu na īsakampi cittasītībhāvassaññathattamahosīti. Etasmiñca atthavikappe tīsupi avatthāsu bhagavato karuṇā saṅgahitāti daṭṭhabbaṃ.
あるいはまた、通常の者にはない特殊な智慧によって結ばれた、際立った完全に一切の知(遍知)のように、その対象を広範囲に含むがゆえに大悲(mahākaruṇā)の境地に至った憐れみこそが、世尊の心を格別に涼やかにする原因であるから、「憐れみにより心が涼やかなる者」と述べられたのである。あるいはまた、慈(メッター)や悲(ムディター)も心を際立って涼やかにする原因となるとしても、一切の仏陀の特別な徳の原因であることから、それら(慈悲喜捨)の原因ともなる憐れみこそが、世尊の心を涼やかにする原因として述べられたのである。まさに一切の仏陀の徳は憐れみから生じる。憐れみの力によって消し去られた輪廻の苦しみの熱を持つ世尊は、他者の苦しみを取り除きたいという願いにより、数知れない億劫にもわたって、疲れを知らないかのように、一切の仏陀を成し遂げる法(ダルマ)を必ずや具足し、法(ダルマ)の主権を成就し、衆生の業によってもたらされた心苦しめる原因が山積していても、少しも心の涼やかさが変わることはなかったのである。この意味の解釈においては、世尊の憐れみは三つの段階全てにおいて包含されていると解釈すべきである。
Pajānātīti paññā, yathāsabhāvaṃ pakārehi paṭivijjhatīti attho. Paññāva ñeyyāvaraṇappahānato pakārehi dhammasabhāvāvajotanaṭṭhena pajjototi paññāpajjoto, savāsanappahānato visesena hataṃ samugghāṭitaṃ vihataṃ, paññāpajjotena vihataṃ paññāpajjotavihataṃ. Muyhanti tena, sayaṃ vā muyhati, mohanamattameva vā tanti moho, avijjā, sveva visayasabhāvapaṭicchādanato andhakārasarikkhatāya tamo viyāti tamo, paññāpajjotavihato mohatamo etassāti paññāpajjotavihatamohatamo, taṃ paññāpajjotavihatamohatamaṃ. Sabbesampi hi khīṇāsavānaṃ satipi paññāpajjotena avijjāndhakārassa vihatabhāve saddhādhimuttehi viya diṭṭhippattānaṃ sāvakehi, paccekasambuddhehi ca savāsanappahānena sammāsambuddhānaṃ kilesappahānassa viseso vijjatīti sātisayena avijjāppahānena bhagavantaṃ thomento āha **‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’**nti.
「パジャーナーティ(よく知る)」とは智慧(paññā)のことである。すなわち、あらゆる側面から、あるがままの(ものの)本質を突き通して知るという意味である。智慧こそが、知りうるものの覆いを捨てることにより、さまざまな側面から法の本質を照らすという意味で「光明」であるから、智慧の光明(paññāpajjota)である。煩悩の残滓(ヴァーサナー)を完全に捨てることによって、特に打ち破られ、完全に根絶され、打ち払われたものであり、智慧の光明によって打ち払われたものを「智慧の光明によって愚痴の闇を打ち払った者」という。それによって迷う、あるいは自らが迷う、あるいは単に迷わせるもの、それが愚痴(moha)であり、無明(avijjā)である。それこそが対象の本質を覆い隠すことから、暗闇に似ているために「闇(tamo)」である。智慧の光明によって愚痴の闇を打ち払った者であるから「智慧の光明によって愚痴の闇を打ち払った者」であり、その「智慧の光明によって愚痴の闇を打ち払った者」である。まさに全ての煩悩を滅尽した者たちにおいて、智慧の光明によって無明の闇が打ち払われた状態があるとしても、信により解脱した者たちや、見解を得た弟子たち、そして独覚仏たちとは異なり、煩悩の残滓まで完全に捨てることによって、正等覚者たちの煩悩の捨断には特別な違いがある。それゆえ、格別に無明を捨断した者として世尊を称賛して、「智慧の光明によって愚痴の闇を打ち払った者」と述べられたのである。
Atha vā antarena paropadesaṃ attano santāne accantaṃ avijjāndhakāravigamassa nibbattitattā, tattha ca sabbaññutāya, balesu ca vasībhāvassa samadhigatattā, parasantatiyañca dhammadesanātisayānubhāvena sammadeva tassa pavattitattā bhagavāva visesato mohatamavigamena thometabboti āha **‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’**nti. Imasmiñca atthavikappe **‘‘paññāpajjoto’’**ti padena bhagavato paṭivedhapaññā viya desanāpaññāpi sāmaññaniddesena ekasesanayena vā saṅgahitāti daṭṭhabbaṃ.
あるいはまた、他者の教えを借りることなく、自らの心において完全に無明の闇が消滅したこと、そこにおいて一切知(sabbaññuta)と諸力における自在性を成就したこと、そして他者の心において、優れた説法の影響力によってそれが正しく進行したことから、世尊こそが特に愚痴の闇を消滅させた者として称賛されるべきであるとして、「智慧の光明によって愚痴の闇を打ち払った者」と述べられたのである。この意味の解釈においては、「智慧の光明」という語によって、世尊の体得の智慧と同様に、説法の智慧も一般的な指示として、あるいは一括指示の方法で包含されていると解釈すべきである。
Atha vā bhagavato ñāṇassa ñeyyapariyantikattā sakalañeyyadhammasabhāvābodhanasamatthena anāvaraṇañāṇasaṅkhātena paññāpajjotena sabbañeyyadhammasabhāvacchādakassa mohandhakārassa vidhamitattā anaññasādhāraṇo bhagavato mohatamavināsoti katvā vuttaṃ **‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’**nti. Ettha ca mohatamavidhamanante adhigatattā anāvaraṇañāṇaṃ kāraṇūpacārena sakasantāne mohatamavidhamanaṃ daṭṭhabbaṃ. Abhinīhārasampattiyā savāsanappahānameva hi kilesānaṃ ‘‘ñeyyāvaraṇappahāna’’nti, parasantāne pana mohatamavidhamanassa kāraṇabhāvato anāvaraṇañāṇaṃ ‘‘mohatamavidhamana’’nti vuccatīti.
あるいはまた、世尊の智慧が知りうるものの限界に達していることから、一切の知りうる法の本質を覚知する能力を持つ無礙智(anāvaraṇañāṇa)という智慧の光明によって、一切の知りうる法の本質を覆い隠す愚痴の闇が打ち払われたために、世尊の愚痴の闇の破壊は他に類を見ないものであるとして、「智慧の光明によって愚痴の闇を打ち払った者」と述べられたのである。ここで、愚痴の闇を破壊したことを成就したことにより、無礙智は原因の比喩として、自らの心に愚痴の闇を破壊したものと見なすべきである。願(アビニーハーラ)の成就によって、煩悩の残滓まで完全に捨てることこそが、煩悩の「知りうるものの覆いを捨てること」である。他者の心において、愚痴の闇を破壊する原因であることから、無礙智は「愚痴の闇を破壊するもの」と呼ばれるのである。
Kiṃ pana kāraṇaṃ avijjāvigghāto yeveko pahānasampattivasena bhagavato thomanānimittaṃ gayhati, na pana sātisayaniravasesakilesappahānanti? Tappahānavacaneneva tadekaṭṭhatāya sakalasaṃkilesagaṇasamugghātajotitabhāvato. Na hi so tādiso kileso atthi, yo niravasesaavijjāppahānena na pahīyatīti. Atha vā vijjā viya sakalakusaladhammasamuppattiyā niravasesākusaladhammanibbattiyā, saṃsārappavattiyā ca avijjā padhānakāraṇanti tabbigghātavacanena sakalasaṃkilesagaṇasamugghāto vuttoyeva hotīti vuttaṃ **‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’**nti.
しかし、どのような理由で、世尊を称賛する印として、無明の除去のみが捨断の成就として取り上げられ、際立って完全に一切の煩悩の捨断が取り上げられないのか? それを捨断するという言葉だけで、それと一体である一切の煩悩の集まりの根絶が示唆されるからである。なぜなら、完全に無明を捨断することによって捨断されないような煩悩は存在しないからである。あるいはまた、明(ヴィッジャー)が一切の善なる法の生起の主要な原因であるように、無明は一切の不善なる法の生起と輪廻の継続の主要な原因である。したがって、その破壊を述べることによって、一切の煩悩の集まりの根絶が述べられたことになるとして、「智慧の光明によって愚痴の闇を打ち払った者」と述べられたのである。
Narā ca amarā ca narāmarā, saha narāmarehīti sanarāmaro, sanarāmaro ca so loko cāti sanarāmaraloko, tassa garuti sanarāmaralokagaru, taṃ sanarāmaralokagaruṃ. Etena devamanussānaṃ viya tadavasiṭṭhasattānampi yathārahaṃ guṇavisesāvahato bhagavato upakāritaṃ dasseti. Na cettha padhānāpadhānabhāvo codetabbo. Añño hi saddakkamo, añño atthakkamo. Edisesu hi samāsapadesu padhānampi appadhānaṃ viya niddisīyati yathā – ‘‘sarājikāya parisāyā’’ti (apa. aṭṭha. 1.82). Kāmañcettha sattasaṅkhārabhājanavasena tividho loko, garubhāvassa pana adhippetattā garukaraṇasamatthasseva yujjanato sattalokassavasena attho gahetabbo. So hi lokiyanti ettha puññapāpāni tabbipāko cāti ‘‘loko’’ti vuccati. Amaraggahaṇena cettha upapattidevā adhippetā.
人(narā)と不死者(amarā)が人不死者(narāmarā)である。人不死者と共にいるので「sanarāmaro」(人不死者を含む)。人不死者を含む世(loka)であるから「sanarāmaraloko」(人不死者を含む世)。その師であるから「sanarāmaralokagaru」(人不死者を含む世の師)であり、その「sanarāmaralokagaru」である。これによって、天人や人間だけでなく、それ以外の衆生に対しても、それぞれに応じて特別な徳をもたらす世尊の恩恵を示す。ここで主と副の関係を問うべきではない。なぜなら、語の順序と意味の順序は異なるからである。まさにこのような複合語においては、主となるものも副となるもののように述べられる。例えば、「王を伴う会衆(sarājikāya parisāyā)」のように(アパダーナ注釈 1.82)。ここでは、衆生、行、器の三種によって世(loka)があるとはいえ、師(garu)であるということが意図されているので、尊敬しうる者だけに該当することから、衆生世(sattaloka)の意味で解釈すべきである。その衆生世とは、ここにおいて福と罪、そしてその果報を「世(loko)」と呼ぶ。ここで不死者(amara)という語で、生天(upapatti-devā)が意図されている。
Atha vā samūhattho loka-saddo samudāyavasena lokīyati paññāpīyatīti. Saha narehīti sanarā, sanarā ca te amarā ceti sanarāmarā, tesaṃ lokoti sanarāmaralokoti purimanayeneva yojetabbaṃ. Amara-saddena cettha visuddhidevāpi saṅgayhanti. Te hi maraṇābhāvato paramatthato amarā. Narāmarānaṃyeva ca gahaṇaṃ ukkaṭṭhaniddesavasena, yathā – ‘‘satthā devamanussāna’’nti (dī. ni. 1.157). Tathā hi sabbānatthapariharaṇapubbaṅgamāya niravasesahitasukhavidhānatapparāya niratisayāya payogasampattiyā sadevamanussāya pajāya accantupakāritāya, aparimitanirupamappabhāvaguṇavisesasamaṅgitāya ca sabbasattuttamo bhagavā aparimāṇāsu lokadhātūsu aparimāṇānaṃ sattānaṃ uttamaṃ gāravaṭṭhānaṃ, tena vuttaṃ – **‘‘sanarāmaralokagaru’’**nti.
あるいはまた、「loka」という語は集団を意味し、集合的な意味で「見られ、知られるもの」を指す。人(narehi)と共にいるので「sanarā」(人と共に)。人と共にいる不死者(amarā)であるから「sanarāmarā」(人と不死者)。彼らの世であるから「sanarāmaraloka」(人と不死者の世)と、前の方法と同じように解釈すべきである。ここで不死者(amara)という語には、清浄天(visuddhidevā)も含まれる。彼らは死がないことから、究極的には不死者である。人と不死者のみを取り上げるのは、最高のものを指し示す方法である。例えば、「天人たちの、そして人間たちの師(satthā devamanussānaṃ)」のように(ディーガ・ニカーヤ 1.157)。まさに、あらゆる不利益を防ぐことを先行させ、一切の利益と幸福をもたらすことに専念し、比類なき努力の成就によって、天人を含む人間たちにとって極めて有益であること、そして、計り知れない比類なき威徳と特別な徳を具足していることから、世尊は一切の衆生の中で最も優れており、計り知れない世界(lokadhātū)にいる計り知れない衆生にとって最高の尊敬の対象である。それゆえ、「人と不死者を含む世の師」と述べられたのである。
Sobhanaṃ gataṃ gamanaṃ etassāti sugato. Bhagavato hi veneyyajanupasaṅkamanaṃ ekantena tesaṃ hitasukhanipphādanato sobhanaṃ, tathā lakkhaṇānubyañjana (dī. ni. 2.33; 3.198-200; ma. ni. 2.385, 386) paṭimaṇḍitarūpakāyatāyadutavilambita- khalitānukaḍḍhananippīḷanukkuṭikakuṭilākulatādidosarahitaṃ vilāsitarājahaṃsavasabhavāraṇamigarājagamanaṃ kāyagamanaṃ ñāṇagamanañca vipulanimmalakaruṇāsativīriyādiguṇavisesasahitamabhinīhārato yāva mahābodhi anavajjatāya sobhanamevāti.
「そバーナ(sobhana、善い)なるガタ(gata、行くこと)」、または「ガマナ(gamana、行き方)」を持つ者であるから「善逝(sugato)」。世尊が教化すべき人々に近づくのは、ひとえに彼らの利益と幸福を成就させるためであるから、善いのである。また、三十二相八十種好によって荘厳された肉体は、速すぎず、遅すぎず、つまずかず、引きずらず、踏みつけず、腰をかがめず、曲がらず、混乱しないといった欠点のない、優美な王の白鳥や雄牛、象、獅子王のような歩みであるから、身体の歩みは善いのである。そして、智慧の進展もまた、広大で清らかな憐れみ、念、精進などの特別な徳を伴い、発願の時から大菩提に至るまで、欠点がないことから、善いのである。
Atha vā sayambhuñāṇena sakalampi lokaṃ pariññābhisamayavasena parijānanto ñāṇena sammā gato avagatoti sugato. Tathā lokasamudayaṃ pahānābhisamayavasena pajahanto anuppattidhammataṃ āpādento sammā gato atītoti sugato. Lokanirodhaṃ nibbānaṃ sacchikiriyābhisamayavasena sammā gato adhigatoti sugato. Lokanirodhagāminipaṭipadaṃ bhāvanābhisamayavasena sammā gato paṭipannoti sugato. Sotāpattimaggena ye kilesā pahīnā, te kilese na puneti, na pacceti, na paccāgacchatīti sugatotiādinā nayena ayamattho vibhāvetabbo. Atha vā sundaraṃ ṭhānaṃ sammāsambodhiṃ nibbānameva vā gato adhigatoti sugato. Yasmā vā bhūtaṃ tacchaṃ atthasañhitaṃ vineyyānaṃ yathārahaṃ kālayuttameva ca dhammaṃ bhāsati, tasmā sammā gadatīti sugato, da-kārassa ta-kāraṃ katvā. Iti sobhanagamanatādīhi sugato, taṃ sugataṃ.
あるいは、自ら覚った智によって全世界を遍知の作証により完全に知ったので、智によって正しく赴き、到達したから善逝である。また、世間の集起を捨断の作証により捨て去り、生じない状態としたので、正しく赴き、滅したから善逝である。世間の滅尽である涅槃を現証の作証により正しく赴き、到達したから善逝である。世間の滅尽に至る道(修行)を修習の作証により正しく赴き、実践したから善逝である。預流道によって煩悩が滅尽されたならば、その煩悩に二度と帰ることも、戻ることも、立ち返ることもないから善逝である等という道理によって、この義は明らかにされるべきである。あるいは、美しい境地である正等覚あるいは涅槃に到達したから善逝である。また、真実にして、有益であり、教化されるべき人々にふさわしく、時宜にかなった法を説かれるので、『正しく説く』(gadatīti)ゆえに善逝(sugato)とされ、da音をta音に転じることによって『スガタ』と称される。このように、美しい行路等によって善逝である。その善逝に。
Puññapāpakammehi upapajjanavasena gantabbato gatiyo, upapattibhavavisesā. Tā pana nirayādivasena pañcavidhā, tāhi sakalassāpi bhavagāmikammassa ariyamaggādhigamena avipākārahabhāvakaraṇena nivattitattā bhagavā pañcahipi gatīhi suṭṭhu mutto visaṃyuttoti āha – **‘‘gativimutta’’**nti. Etena bhagavato katthacipi gatiyā apariyāpannataṃ dasseti, yato bhagavā ‘‘devātidevo’’ti vuccati, tenevāha –
善悪の業によって生まれるところなので「趣(がてぃ)」と言い、それは生まれ変わる境涯の種類である。それらは地獄等を始めとする五種類であり、趣へと導く一切の業が、聖道の体得によって果報を生み出す力を失い停止したから、世尊は五つの趣のいずれからも完全に解脱し、まったく離れているので、「**趣を離れた者**」と説かれる。これによって世尊がいかなる趣にも属さないことを示す。「天人師」と呼ばれているように、世尊が説かれたのは次のとおりである。
‘‘Yena devūpapatyassa, gandhabbo vā vihaṅgamo;
「もし、天に生まれることがあり、あるいは乾闥婆(けんだつば)に、あるいは鳥に生まれることがあれば、
Yakkhattaṃ yena gaccheyyaṃ, manussattañca abbaje;
夜叉の境地に行くことがあり、また人間に生まれることがあれば、
Te mayhaṃ āsavā khīṇā, viddhastā vinaḷīkatā’’ti. (a. ni. 4.36);
そのような私の煩悩は尽き果て、破滅し、無にされた。」と。(増支部 4.36)
Taṃtaṃgatisaṃvattanakānañhi kammakilesānaṃ aggamaggena bodhimūleyeva suppahīnattā natthi bhagavato gatipariyāpannatāti accantameva bhagavā sabbabhavayonigativiññāṇaṭṭhitisattāvāsasattanikāyehi suparimutto, taṃ gativimuttaṃ. Vandeti namāmi, thomemīti vā attho.
それぞれの趣へと転生させる業と煩悩が、まさに菩提樹の根本において最上の道によって完全に捨て去られたので、世尊がいかなる趣にも属することはない。かくして世尊は、一切の生存、胎生、趣、識の住処、有情の住処、有情の集まりから完全に解脱されている。それが「趣を離れた者」である。「礼拝する」とは、敬拝する、あるいは讃嘆するという意味である。
Atha vā gativimuttanti anupādisesanibbānadhātuppattiyā bhagavantaṃ thometi. Ettha hi dvīhākārehi bhagavato thomanā veditabbā – attahitasampattito, parahitapaṭipattito ca. Tesu attahitasampatti anāvaraṇañāṇādhigamato, savāsanānaṃ sabbesaṃ kilesānaṃ accantappahānato, anupādisesanibbānappattito ca veditabbā. Parahitapaṭipatti lābhasakkārādinirapekkhacittassa sabbadukkhaniyyānikadhammadesanāto, viruddhesupi niccaṃ hitajjhāsayato, ñāṇaparipākakālāgamanato ca. Sā panettha āsayato payogato ca duvidhā parahitapaṭipatti, tividhā ca attahitasampatti pakāsitā hoti. Kathaṃ? ‘‘Karuṇāsītalahadaya’’nti etena āsayato parahitapaṭipatti, sammā gadanatthena sugata-saddena payogato parahitapaṭipatti, ‘‘paññāpajjotavihatamohatamaṃ gativimutta’’nti etehi catusaccapaṭivedhatthena ca sugata-saddena tividhāpi attahitasampatti, avasiṭṭhena, ‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’nti etena ca sabbāpi attahitasampattiparahitapaṭipatti pakāsitā hotīti.
あるいは、「趣を離れた者」とは、無余涅槃界への到達によって世尊を讃嘆することである。ここにおいて、世尊の讃嘆は二つの側面から知られるべきである。すなわち、自利の成就と、利他行である。その中で、自利の成就は、無碍の智の獲得、煩悩の潜在的傾向を含む一切の煩悩の完全な捨断、そして無余涅槃への到達によって知られるべきである。利他行とは、利得や尊敬に無関心な心をもって、あらゆる苦しみから導き出す法を説かれること、対立する者に対しても常に善意を抱くこと、そして智の成熟すべき時が到来することによって知られる。この利他行は、意図と実践の二種類があり、自利の成就は三種類が示されている。どのようにか?「慈悲深く心が涼やかな者」という言葉によって、意図による利他行が、正しく説くという義を持つ善逝という言葉によって、実践による利他行が、「智慧の灯によって無明の闇を打ち破り、趣を離れた者」という言葉と、四諦を悟り開いたという義を持つ善逝という言葉によって、三種類の自利の成就が示され、残りの「智慧の灯によって無明の闇を打ち破った者」という言葉によって、一切の自利の成就と利他行が示されているのである。
Atha vā tīhākārehi bhagavato thomanā veditabbā – hetuto, phalato, upakārato ca. Tattha hetu mahākaruṇā, sā paṭhamapadena nidassitā. Phalaṃ catubbidhaṃ – ñāṇasampadā, pahānasampadā, ānubhāvasampadā, rūpakāyasampadā cāti. Tāsu ñāṇappahānasampadā dutiyapadena saccappaṭivedhatthena ca sugata-saddena pakāsitā honti. Ānubhāvasampadā tatiyapadena, rūpakāyasampadā yathāvuttakāyagamanasobhanatthena sugata-saddena, lakkhaṇānubyañjanapāripūriyā (dī. ni. 2.33; 3.198-200; ma. ni. 2.385-386) vinā tadabhāvato. Upakāro antaraṃ abāhiraṃ karitvā tividhayānamukhena vimuttidhammadesanā, so sammā gadanatthena sugata-saddena pakāsito hotīti veditabbaṃ.
あるいは、世尊の讃嘆は三つの側面から知られるべきである。すなわち、原因から、結果から、そして恩恵からである。その中で、原因とは大悲であり、それは最初の句によって示されている。結果は四種類ある。すなわち、智の成就、捨断の成就、神通力の成就、そして色身の成就である。それらのうち、智の成就と捨断の成就は、第二の句と、四諦を悟り開いたという義を持つ善逝という言葉によって明らかにされている。神通力の成就は第三の句によって、色身の成就は、説かれたような身口意の行いの美しさという意味での善逝という言葉によって示されている。なぜなら、その成就は三十二相八十種好の完全な具足なしにはありえないからである(長部 2.33; 3.198-200; 中部 2.385-386)。恩恵とは、内と外を区別することなく、三種の乗の入口を通じて解脱の法を説かれることであり、それは正しく説くという意味での善逝という言葉によって明らかにされていると知られるべきである。
Tattha ‘‘karuṇāsītalahadaya’’nti etena sammāsambodhiyā mūlaṃ dasseti. Mahākaruṇāsañcoditamānaso hi bhagavā saṃsārapaṅkato sattānaṃ samuddharaṇatthaṃ katābhinīhāro anupubbena pāramiyo pūretvā anuttaraṃ sammāsambodhiṃ adhigatoti karuṇā sammāsambodhiyā mūlaṃ. ‘‘Paññāpajjotavihatamohatama’’nti etena sammāsambodhiṃ dasseti. Anāvaraṇañāṇapadaṭṭhānañhi maggañāṇaṃ, maggañāṇapadaṭṭhānañca anāvaraṇañāṇaṃ ‘‘sammāsambodhī’’ti vuccatīti. Sammā gadanatthena sugata-saddena sammāsambodhiyā paṭipattiṃ dasseti, līnuddhaccapatiṭṭhānāyūhanakāmasukhallikattakilamathānuyoga- sassatucchedābhinivesādiantadvayarahitāya karuṇāpaññāpariggahitāya majjhimāya paṭipattiyā pakāsanato sugata-saddassa. Itarehi sammāsambodhiyā padhānāppadhānabhedaṃ payojanaṃ dasseti. Saṃsāramahoghato sattasantāraṇañcettha padhānaṃ payojanaṃ, tadaññamappadhānaṃ. Tesu padhānena parahitappaṭipattiṃ dasseti, itarena attahitasampattiṃ, tadubhayena attahitāya paṭipannādīsu (pu. pa. 24, 173) catūsu puggalesu bhagavato catutthapuggalabhāvaṃ dasseti. Tena ca anuttaradakkhiṇeyyabhāvaṃ uttamavandanīyabhāvaṃ, attano ca vandanakiriyāya khettaṅgatabhāvaṃ dasseti.
そこにおいて、「慈悲深く心が涼やかな者」という言葉によって、正等覚の根源を示す。大悲に駆られた心を持つ世尊は、まさに輪廻の泥沼から衆生を救済するために誓いを立て、次第に波羅蜜を成就して無上の正等覚を体得された。ゆえに慈悲は正等覚の根源である。「智慧の灯によって無明の闇を打ち破った者」という言葉によって、正等覚を示す。無碍の智に立脚する道智、そして道智に立脚する無碍の智が「正等覚」と呼ばれているのである。「正しく説く」という意味での善逝という言葉によって、正等覚の実践を示す。それは、怠惰や高ぶりへの執着、快楽への耽溺や苦行による自虐、常住論や断滅論といった両極端から離れ、慈悲と智慧によって包含された中道の教えを善逝という言葉が明らかにしているからである。これら以外の言葉によって、正等覚の主要な目的と副次的な目的の区別を示す。輪廻の大河から衆生を救済することがここでの主要な目的であり、それ以外は副次的な目的である。それらのうち、主要な目的によって利他行を示し、副次的な目的によって自利の成就を示し、その両方によって、自利のために実践する者など(人施設 24, 173)の四種類の人々の中で、世尊が第四の人格であることを示すのである。それによって、世尊が無上な供養に値する者であること、最高の尊敬に値する者であること、そして自分自身の礼拝行為にとって福田となることを示すのである。
Ettha ca karuṇāggahaṇena lokiyesu mahaggatabhāvappattāsādhāraṇaguṇadīpanato bhagavato sabbalokiyaguṇasampatti dassitā hoti, paññāggahaṇena sabbaññutaññāṇapadaṭṭhānamaggañāṇadīpanato sabbalokuttaraguṇasampatti. Tadubhayaggahaṇasiddho hi attho ‘‘sanarāmaralokagaru’’ntiādinā vipañcīyatīti. Karuṇāggahaṇena ca upagamanaṃ nirupakkilesaṃ dasseti, paññāggahaṇena apagamanaṃ. Tathā karuṇāggahaṇena lokasamaññānurūpaṃ bhagavato pavattiṃ dasseti, lokavohāravisayattā karuṇāya, paññāggahaṇena samaññāyānavidhāvanaṃ. Sabhāvānavabodhena hi dhammānaṃ samaññaṃ atidhāvitvā sattādiparāmasanaṃ hotīti. Tathā karuṇāggahaṇena mahākaruṇāsamāpattivihāraṃ dasseti, paññāggahaṇena tīsu kālesu appaṭihatañāṇaṃ, catusaccañāṇaṃ, catuppaṭisambhidāñāṇaṃ, catuvessārajjañāṇaṃ. Karuṇāggahaṇena mahākaruṇāsamāpattiñāṇassa gahitattā sesāsādhāraṇañāṇāni, cha abhiññā, aṭṭhasu parisāsu (ma. ni. 1.151) akampanañāṇāni, dasa balāni, cuddasa buddhañāṇāni, soḷasa ñāṇacariyā, aṭṭhārasa buddhadhammā, (dī. ni. aṭṭha. 3.305; vibha. mūla. ṭī. ganthārambhavaṇṇanāya) catucattārīsa ñāṇavatthūni, (saṃ. ni. 2.34) sattasattati ñāṇavatthūnīti (saṃ. ni. 2.34) evamādīnaṃ anekesaṃ paññāppabhedānaṃ vasena ñāṇacāraṃ dasseti.
ここにおいて、「慈悲」の語を取ることによって、世俗の人々の中で優れた境地を得た特別の徳を明らかにすることによって、世尊の一切の世俗的な徳の成就が示されている。また「智慧」の語を取ることによって、一切智智と道智の根源を明らかにすることによって、一切の世間を超越した徳の成就が示されている。「天人師」などの言葉で展開される意味は、まさにこれら両方を取ることによって成就するのである。また「慈悲」の語によって、汚れない接近を示し、「智慧」の語によって、離れることを示す。同様に、「慈悲」の語によって、慈悲が世俗の言葉の対象であることから、世尊の世俗的な慣習に合致する行いを示し、「智慧」の語によって、概念が迷わないことを示す。なぜなら、ものの本質を理解しないことで、現象の概念を超えて自我などに執着するからである。同様に、「慈悲」の語によって大悲三昧の住処を示し、「智慧」の語によって三世における無碍の智、四諦の智、四無礙解の智、四無畏の智を示す。「慈悲」の語によって大悲三昧の智が捉えられているので、残りの特別な智、六神通、八つの会衆(中部 1.151)における不動の智、十力、十四の仏智、十六の智の行い、十八の仏陀の法(長部註 3.305; 分別論根本註 解題)、四十四の智の基盤(相応部 2.34)、七十七の智の基盤(相応部 2.34)など、数多くの智慧の種類によって、智の行路を示す。
Tathā karuṇāggahaṇena caraṇasampattiṃ, paññāggahaṇena vijjāsampattiṃ. Karuṇāggahaṇena sattādhipatitā, paññāggahaṇena dhammādhipatitā. Karuṇāggahaṇena lokanāthabhāvo, paññāggahaṇena attanāthabhāvo. Tathā karuṇāggahaṇena pubbakāribhāvo, paññāggahaṇena kataññutā. Tathā karuṇāggahaṇena aparantapatā, paññāggahaṇena anattantapatā. Karuṇāggahaṇena vā buddhakaradhammasiddhi, paññāggahaṇena buddhabhāvasiddhi. Tathā karuṇāggahaṇena paresaṃ tāraṇaṃ, paññāggahaṇena sayaṃ tāraṇaṃ. Tathā karuṇāggahaṇena sabbasattesu anuggahacittatā, paññāggahaṇena sabbadhammesu virattacittatā dassitā hoti. Sabbesañca buddhaguṇānaṃ karuṇā ādi, tannidānabhāvato. Paññā pariyosānaṃ, tato uttarikaraṇīyābhāvato. Iti ādipariyosānadassanena sabbe buddhaguṇā dassitā honti. Tathā karuṇāggahaṇena sīlakkhandhapubbaṅgamo samādhikkhandho dassito hoti. Karuṇānidānañhi sīlaṃ, tato pāṇātipātādiviratippavattito, sā ca jhānattayasampayoginīti. Paññāvacanena paññākkhandho. Sīlañca sabbabuddhaguṇānamādi, samādhi majjhe, paññā pariyosānanti. Evampi ādimajjhapariyosānakalyāṇā sabbe buddhaguṇā dassitā honti, nayato dassitattā. Eso eva hi niravasesato buddhaguṇānaṃ dassanupāyo, yadidaṃ nayaggāhaṇaṃ. Aññathā ko nāma samattho bhagavato guṇe anupadaṃ niravasesato dassetuṃ. Tenevāha –
同様に、「慈悲」の語によって行の成就を、「智慧」の語によって明(みょう)の成就を示す。「慈悲」の語によって衆生が主であること(衆生を重んじること)を、「智慧」の語によって法が主であること(法を重んじること)を示す。「慈悲」の語によって世間の主であること(世間を導くこと)を、「智慧」の語によって自身の主であること(自らを律すること)を示す。同様に、「慈悲」の語によって先行して利他を行う者であることを、「智慧」の語によって恩を知ることを示す。同様に、「慈悲」の語によって他を害しないことを、「智慧」の語によって自らを害しないことを示す。あるいは、「慈悲」の語によって仏陀となる法の成就を、「智慧」の語によって仏陀としての成就を示す。同様に、「慈悲」の語によって他者を渡らせることを、「智慧」の語によって自ら渡ることを示す。同様に、「慈悲」の語によって一切の衆生に対する慈愛の心があることを、「智慧」の語によって一切の諸法に対する離欲の心があることが示されている。一切の仏陀の徳にとって、「慈悲」は始まりであり、その根源である。 「智慧」は終わりであり、それ以上なすべきことがないからである。このように、始まりと終わりを示すことによって、一切の仏陀の徳が示されている。同様に、「慈悲」の語によって、戒蘊が先行する定蘊が示されている。慈悲こそ戒の根源であり、それによって殺生等からの離脱が起こり、その戒は三種の禅定を伴うからである。 「智慧」の言葉によって慧蘊を示す。戒は一切の仏陀の徳の始まりであり、定は中間であり、智慧は終わりである。このように、始まり、中間、終わりにおいて優れた一切の仏陀の徳が、道理によって示されているのである。なぜなら、この道理を把握することこそが、仏陀の徳を余すところなく示す唯一の方法だからである。さもなければ、誰が世尊の徳を一つ一つ余すところなく示すことができるだろうか。それゆえに説かれている。
‘‘Buddhopi buddhassa bhaṇeyya vaṇṇaṃ,
「仏陀もまた仏陀の徳を説かんとすれば、
Kappampi ce aññamabhāsamāno;
劫の間、他事を語らずとも、
Khīyetha kappo ciradīghamantare,
長遠なる劫は尽きても、
Vaṇṇo na khīyetha tathāgatassā’’ti. (dī. ni. aṭṭha. 1.304; dī. ni. aṭṭha. 3.141; ma. ni. aṭṭha. 3.425, udā. aṭṭha. 53; bu. vaṃ. aṭṭha. 4.4; cariyā. aṭṭha. nidānakathāyaṃ, pakiṇṇakakathāyaṃ; apa. aṭṭha. 2.6.20);
如来の徳は尽きざるべし。」と。(長部註 1.304; 長部註 3.141; 中部註 3.425, 自説部註 53; 仏種姓経註 4.4; 行蔵論註 序品, 雑話; 阿波陀那註 2.6.20)
Teneva ca āyasmatā sāriputtattherenāpi buddhaguṇaparicchedanaṃ pati anuyuttena ‘‘no hetaṃ bhante’’ti (dī. ni. 2.145) paṭikkhipitvā, ‘‘api ca me bhante dhammanvayo vidito’’ti (dī. ni. 2.146) vuttaṃ.
それゆえに、まさに尊者シャーリプッタ長老もまた、仏陀の徳を完全に理解することについて問われた際に、「尊者よ、それはできません」と(長部 2.145)否定し、「しかし尊者よ、私には法の順序が分かります」と(長部 2.146)述べられたのである。
Evaṃ saṅkhepena sakalasabbaññuguṇehi bhagavantaṃ abhitthavitvā idāni saddhammaṃ thometuṃ **‘‘buddhopī’’**tiādimāha. Tattha buddhoti kattuniddeso. Buddhabhāvanti kammaniddeso. Bhāvetvā, sacchikatvāti ca pubbakālakiriyāniddeso. Yanti aniyamato kammaniddeso. Upagatoti aparakālakiriyāniddeso. Vandeti kiriyāniddeso, tanti niyamanaṃ. Dhammanti vandanakiriyāya kammaniddeso. Gatamalaṃ, anuttaranti ca tabbisesanaṃ.
このように、簡潔に一切の遍智の徳をもって世尊を讃嘆した後、今度は正法を讃嘆するために「**仏陀もまた**」という言葉を述べる。そこにおいて、「仏陀」は主語を示す。 「仏陀性」は目的語を示す。 「修習し、現証して」は先行する動詞を示す。 「これを」は不特定の目的語を示す。 「到達した」は後続する動詞を示す。 「礼拝する」は動詞を示す。「その」は限定を示す。「法を」は礼拝行為の目的語を示す。「汚れがなくなった」、「無上である」は、その修飾語である。
Tattha buddha-saddassa tāva ‘‘bujjhitā saccānīti buddho, bodhetā pajāyāti buddho’’tiādinā (mahāni. 192; cūḷani. 95-97; paṭi. ma. 1.162) niddesanayena attho veditabbo. Atha vā savāsanāya aññāṇaniddāya accantavigamato, buddhiyā vā vikasitabhāvato buddhavāti buddho, jāgaraṇavikasanatthavasena. Atha vā kassacipi ñeyyadhammassa anavabuddhassa abhāvena ñeyyavisesassa kammabhāvena aggahaṇato kammavacanicchāya abhāvena avagamanatthavaseneva kattuniddeso labbhatīti buddhavāti buddho, yathā ‘‘dikkhito na dadātī’’ti, atthato pana pāramitāparibhāvito sayambhūñāṇena saha vāsanāya vihataviddhastaniravasesakileso mahākaruṇāsabbaññutaññāṇādiaparimeyya guṇagaṇādhāro khandhasantāno buddho. Yathāha –
まず、仏陀という言葉の義は、「真理を覚ったから仏陀であり、人々を覚らせるから仏陀である」など(大典 192; 小典 95-97; 無礙解道 1.162)の記述的な方法によって理解されるべきである。あるいは、潜在的な傾向を伴う無知の眠りが完全に消滅したことから、あるいは智が発展した状態であることから、覚醒し、開花したという意味で仏陀なのである。あるいは、いかなる知るべき法も覚られていないものが存在しないため、特定の知るべき対象が目的語として捉えられることがなく、目的語の表現への願望がないことから、覚知したという意味での能動態的記述が得られるので、仏陀なのである。例えば「『誓戒を受けた者は施しを行わない』とあるように」。しかし、本質的には、波羅蜜によって薫習され、自覚の智によって、潜在的傾向を伴う一切の煩悩を完全に破滅し、滅尽した、大悲と一切智智などの計り知れない徳の集積を宿す蘊の連なりに他ならない仏陀である。説かれているように、
‘‘Buddhoti yo so bhagavā sayambhū anācariyako pubbe ananussutesu dhammesu sāmaṃ saccāni abhisambujjhi, tattha ca sabbaññutaṃ patto, balesu ca vasībhāva’’nti (mahāni. 192; cūḷani. 95-97; paṭi. ma. 1.162).
「仏陀とは、あの世尊のことである。自ら存在し、師を持たず、以前に聞いたことのない諸法において、自ら真理を完全に覚り、そこにおいて一切智智を得て、諸力において自在となった者である」と。(大典 192; 小典 95-97; 無礙解道 1.162)
Api-saddo sambhāvane, tena ‘‘evaṃ guṇavisesayutto sopi nāma bhagavā’’ti vakkhamānaguṇe dhamme sambhāvanaṃ dīpeti. Buddhabhāvanti sammāsambodhiṃ. Bhāvetvāti uppādetvā, vaḍḍhetvā ca. Sacchikatvāti paccakkhaṃ katvā. Upagatoti patto, adhigatoti attho, etassa ‘‘buddhabhāva’’nti etena sambandho. Gatamalanti vigatamalaṃ, niddosanti attho. Vandeti paṇamāmi, thomemi vā. Anuttaranti uttararahitaṃ, lokuttaranti attho. Dhammanti yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjamāne apāyato ca, saṃsārato ca apatamāne katvā dhārayatīti dhammo.
「api」という語は、可能(強調)を示す。それによって、「このように特別な徳を備えた世尊もまた」と、次いで述べられる徳を備えた法への可能と強調を示す。「仏陀性」とは正等覚である。「修習し」とは、生じさせ、増大させてである。「現証して」とは、直接経験してである。「到達した」とは、得た、体得したという意味であり、これは「仏陀性」という言葉と関連している。「汚れがなくなった」とは、汚れが去り、欠点がないという意味である。「礼拝する」とは、敬拝する、あるいは讃嘆するという意味である。「無上である」とは、それ以上のものがない、すなわち世間を超越しているという意味である。「法」とは、教えられたとおりに実践する者を、悪趣からも輪廻に落ちないように支え、保持するものであるから、法というのである。
Ayañhettha saṅkhepattho – evaṃ vividhaguṇasamannāgato buddhopi bhagavā yaṃ ariyasaṅkhātaṃ dhammaṃ bhāvetvā, phalanibbānasaṅkhātaṃ pana sacchikatvā anuttaraṃ sammāsambodhiṃ adhigato, tametaṃ buddhānampi buddhabhāvahetubhūtaṃ sabbadosamalarahitaṃ attano uttaritarābhāvena anuttaraṃ paṭivedhasaddhammaṃ namāmīti. Pariyattisaddhammassāpi tappakāsanattā idha saṅgaho daṭṭhabbo. Atha vā ‘‘abhidhammanayasamuddaṃ bhāvetvā adhigacchi, tīṇi piṭakāni sammasī’’ti ca aṭṭhakathāyaṃ vuttattā pariyattidhammassāpi sacchikiriyāsammasanapariyāyo labbhatīti sopi idha vutto yevāti daṭṭhabbo. Tathā ‘‘yaṃ dhammaṃ bhāvetvā, sacchikatvā’’ti ca vuttattā buddhakaradhammabhūtāhi pāramitāhi saha pubbabhāge adhisīlasikkhādayopi idha dhamma-saddena saṅgahitāti veditabbā. Tāpi hi vigatapaṭipakkhatāya vigatamalā, anaññasādhāraṇatāya anuttarā cāti. Tathā hi sattānaṃ sakalavaṭṭadukkhanissaraṇāya katamahābhinīhāro mahākaruṇādhivāsapesalajjhāsayo paññāvisesapariyodātanimmalānaṃ dānadamasaññamādīnaṃ uttamadhammānaṃ satasahassādhikāni kappānaṃ cattāri asaṅkheyyāni sakkaccaṃ nirantaraṃ niravasesaṃ bhāvanāpaccakkhakaraṇehi kammādīsu adhigatavasībhāvo, acchariyācinteyyamahānubhāvo, adhisīlaadhicittānaṃ paramukkaṃsapāramippatto bhagavā paccayākāre catuvīsatikoṭisatasahassamukhena mahāvajirañāṇaṃ pesetvā anuttaraṃ sammāsambodhiṃ abhisambuddhoti.
ここにその要約の意味がある。様々な徳を備えた世尊は、聖なる法を修行し、果と涅槃と呼ばれるものを現証して、無上なる正等覚を得た。それゆえ、私は、諸仏にとっても仏となる原因であり、一切の煩悩の汚れがなく、自らの最高の境地によって無上であるこの法を礼拝する。また、聖典の法の説明であるから、ここに含められると見なすべきである。あるいは、註釈書に「アビダルマの海の教えを修行し、三蔵を熟考して得た」と述べられているように、聖典の法の現証と熟考の段階もここに得られると見なすべきである。また、「法を修行し、現証した」と述べられているように、仏となる原因である波羅蜜とともに、前期における戒の修練なども、ここで法という言葉に含まれると知るべきである。それらもまた、対立するものがなく、汚れがなく、比類なきがゆえに無上である。このように、衆生の輪廻の苦しみからの脱却のために大誓願を立て、大悲に満ちた優しく穏やかな心を持ち、智慧の光によって清められた布施、戒律、自制などの優れた法を、十万を超える四阿僧祇劫もの間、真摯に絶えず完全に修行し、現証することによって、業などにおいて自在を得た、驚くべき想像を絶する大威神力を持つ世尊は、戒学、心学の最高の完成に達し、二十四億百万の様相を持つ縁起の知を送り出し、無上なる正等覚を完全に覚ったのである。
Ettha ca ‘‘bhāvetvā’’ti etena vijjāsampadāya dhammaṃ thometi, ‘sacchikatvā’ti etena vimuttisampadāya. Tathā paṭhamena jhānasampadāya, dutiyena vimokkhasampadāya. Paṭhamena vā samādhisampadāya, dutiyena samāpattisampadāya. Atha vā paṭhamena khayañāṇabhāvena, dutiyena anuppādañāṇabhāvena. Purimena vā vijjūpamatāya, dutiyena vajirūpamatāya. Purimena vā virāgasampattiyā, dutiyena nirodhasampattiyā. Tathā paṭhamena niyyānabhāvena, dutiyena nissaraṇabhāvena. Paṭhamena vā hetubhāvena, dutiyena asaṅkhatabhāvena. Paṭhamena vā dassanabhāvena, dutiyena vivekabhāvena. Paṭhamena vā adhipatibhāvena, dutiyena amatabhāvena dhammaṃ thometi. Atha vā ‘‘yaṃ dhammaṃ bhāvetvā buddhabhāvaṃ upagato’’ti etena svākkhātatāya dhammaṃ thometi, ‘‘sacchikatvā’’ti etena sandiṭṭhikatāya. Tathā purimena akālikatāya, pacchimena ehipassikatāya. Purimena vā opaneyyikatāya, pacchimena paccattaṃ veditabbatāya dhammaṃ thometi.
ここで、『修行して』という言葉によって、明知の成就をもって法を讃え、『現証して』という言葉によって、解脱の成就をもって讃える。同様に、最初の言葉で禅定の成就を、二番目の言葉で解脱の成就を讃える。あるいは、最初の言葉で三昧の成就を、二番目の言葉で等至の成就を讃える。また、最初の言葉で滅尽智のあり方を、二番目の言葉で不生智のあり方を讃える。前の言葉で電光に譬えられるあり方を、二番目の言葉で金剛に譬えられるあり方を讃える。前の言葉で離欲の成就を、二番目の言葉で滅尽の成就を讃える。同様に、最初の言葉で出離のあり方を、二番目の言葉で離脱のあり方を讃える。最初の言葉で原因のあり方を、二番目の言葉で無為のあり方を讃える。最初の言葉で観察のあり方を、二番目の言葉で遠離のあり方を讃える。最初の言葉で主宰のあり方を、二番目の言葉で不死のあり方をもって法を讃える。あるいは、『法を修行して仏となった』という言葉によって、善く説かれたことによって法を讃え、『現証して』という言葉によって、自ら見られることによって讃える。同様に、前の言葉で時を要しないことによって、後の言葉で『来て見よ』と言えることによって讃える。あるいは、前の言葉で導き入れるべきことによって、後の言葉で各自で知るべきことによって法を讃える。
‘‘Gatamala’’nti iminā saṃkilesābhāvadīpanena dhammassa parisuddhataṃ dasseti, ‘‘anuttara’’nti etena aññassa visiṭṭhassa abhāvadīpanena vipulaparipuṇṇataṃ. Paṭhamena vā pahānasampadaṃ dhammassa dasseti, dutiyena pabhāvasampadaṃ. Bhāvetabbatāya vā dhammassa gatamalabhāvo yojetabbo. Bhāvanāguṇena hi so dosānaṃ samugghātako hotīti. Sacchikātabbabhāvena anuttarabhāvo yojetabbo. Sacchikiriyānibbattito hi taduttarikaraṇīyābhāvato anaññasādhāraṇatāya anuttaroti. Tathā ‘‘bhāvetvā’’ti etena saha pubbabhāgasīlādīhi sekkhā sīlasamādhipaññākkhandhā dassitā honti, ‘‘sacchikatvā’’ti etena saha asaṅkhatāya dhātuyā asekkhā sīlasamādhipaññākkhandhā dassitā hontīti.
『汚れを離れた』という言葉によって、煩悩がないことを示し、法の清浄さを示す。また、『無上』という言葉によって、他に勝るものがないことを示し、広大で完璧なことを示す。あるいは、最初の言葉で法の捨て去る成就を、二番目の言葉で法の卓越した成就を示す。あるいは、修行されるべきであることによって、法が汚れを離れたものであると結合されるべきである。修行の徳によって、それは煩悩を根絶するものであるからである。現証されるべきことによって、無上であることと結合されるべきである。現証することによって、それ以上になすべきことがなく、他に類を見ないがゆえに無上であるからである。同様に、『修行して』という言葉によって、初期の戒律などと共に、有学者である戒・定・慧の諸蘊が示され、『現証して』という言葉によって、無為の要素と共に、無学者である戒・定・慧の諸蘊が示されるのである。
Evaṃ saṅkhepeneva sabbadhammaguṇehi saddhammaṃ abhitthavitvā, idāni ariyasaṅghaṃ thometuṃ **‘‘sugatassā’’**tiādimāha. Tattha sugatassāti sambandhaniddeso, tassa ‘‘puttāna’’nti etena sambandho. Orasānanti puttavisesanaṃ. Mārasenamathanānanti orasaputtabhāve kāraṇaniddeso, tena kilesappahānameva bhagavato orasaputtabhāvakāraṇaṃ anujānātīti dasseti. Aṭṭhannanti gaṇanaparicchedaniddeso, tena ca satipi tesaṃ sattavisesabhāvena anekasatasahassasaṅkhyabhāve imaṃ gaṇanaparicchedaṃ nātivattantīti dasseti, maggaṭṭhaphalaṭṭhabhāvānativattanato. Samūhanti samudāyaniddeso. Ariyasaṅghanti guṇavisiṭṭhasaṅghātabhāvaniddeso, tena asatipi ariyapuggalānaṃ kāyasāmaggiyaṃ ariyasaṅghabhāvaṃ dasseti, diṭṭhisīlasāmaññena saṃhatabhāvato. Tattha urasi bhavā jātā, saṃvaddhā ca orasā. Yathā hi sattānaṃ orasaputtā attajātatāya pitusantakassa dāyajjassa visesena bhāgino honti, evametepi ariyapuggalā sammāsambuddhassa savanante ariyāya jātiyā jātatāya bhagavato santakassa vimuttisukhassa, ariyadhammaratanassa ca ekantabhāginoti orasā viya orasā. Atha vā bhagavato dhammadesanānubhāvena ariyabhūmiṃ okkamamānā, okkantā ca ariyasāvakā bhagavato urovāyāmajanitābhijātatāya nippariyāyena ‘‘orasaputtā’’ti vattabbataṃ arahanti. Sāvakehi pavattiyamānāpi hi dhammadesanā bhagavato ‘‘dhammadesanā’’ icceva vuccati, taṃmūlakattā, lakkhaṇādivisesābhāvato ca.
このように、すべての法の徳をもって正法を簡潔に讃えた後、今度は聖なる僧伽を讃えるために、『善逝の』という言葉から始まる部分を述べる。ここでの『善逝の』とは関係の説明であり、その『子ら』という言葉と関係する。『嫡子たる』とは子の修飾語である。『悪魔の軍勢を打ち破る者』とは、嫡子たる状態の理由を説明するものであり、それによって煩悩を捨てることこそが世尊の嫡子たる理由を承認するものであると示す。『八人の』とは数の限定を示すものであり、それによって彼らが特別な衆生であり、何百何千という数に達するとしても、この数の限定を超えない、つまり道と果の段階を超えることはないことを示す。『集まり』とは集合の説明である。『聖なる僧伽』とは、徳によって優れた僧伽の集合状態を示すものであり、それによって、聖なる人々の肉体的な集合体がなくても、見と戒律の共通性によって結合されていることから、聖なる僧伽であると示す。そこでは、胸から生まれ、育ったのが嫡子である。衆生の嫡子が、自ら生まれたことによって、父の財産相続において特別に分与される者であるように、これらの聖なる人々も、正等覚者の教えを聞いた後、聖なる生まれによって生まれたことから、世尊の所有する解脱の喜びと聖なる法宝の唯一の分与者である。したがって、嫡子のように嫡子である。あるいは、世尊の説法の力によって聖なる境地に入り、その境地に入った聖なる弟子たちは、世尊の教えによって生み出された貴い生まれによって、まさしく『嫡子』と呼ばれるに値する。弟子たちによって行われる法説も、その根源が世尊にあるため、また特徴などに違いがないため、『世尊の法説』と呼ばれるのである。
Yadipi ariyasāvakānaṃ ariyamaggādhigamasamaye bhagavato viya tadantarāyakaraṇatthaṃ devaputtamāro, māravāhinī vā na ekantena apasādeti, tehi pana apasādetabbatāya kāraṇe vimathite tepi vimathitā eva nāma hontīti āha – **‘‘mārasenamathanāna’’**nti. Imasmiṃ panatthe ‘māramārasenamathanāna’nti vattabbe ‘‘mārasenamathanāna’’nti ekadesasarūpekaseso katoti daṭṭhabbaṃ. Atha vā khandhābhisaṅkhāramārānaṃ viya devaputtamārassāpi guṇamāraṇe sahāyabhāvūpagamanato kilesabalakāyo ‘‘senā’’ti vuccati. Yathāha – ‘‘kāmā te paṭhamā senā’’tiādi (su. ni. 438; mahāni. 28, 68; cūḷani. 47). Sā ca tehi diyaḍḍhasahassabhedā, anantabhedā vā kilesavāhinī satidhammavicayavīriyasamathādiguṇapaharaṇehi odhiso vimathitā, vihatā, viddhastā cāti mārasenamathanā, ariyasāvakā. Etena tesaṃ bhagavato anujātaputtataṃ dasseti.
聖なる弟子たちが聖なる道を得る時、世尊の場合のように、その妨げをなすために魔王や魔の軍勢が完全に退けることはないとしても、彼らによって退けられるべき原因が打ち砕かれるならば、彼らもまた打ち砕かれた者となる、と述べているのである――**「悪魔の軍勢を打ち破る者たち」**と。この意味において、『魔と魔の軍勢を打ち破る者たち』と言うべきところを、『魔の軍勢を打ち破る者たち』と一部の形を残す省略が行われていると見なすべきである。あるいは、五蘊魔や行魔のように、魔王もまた徳を殺すことに協力する立場となることから、煩悩の力ある集合体が『軍勢』と呼ばれる。経典に『欲は汝の最初の軍勢である』などと述べられているように(スッタニパータ 438; 大ニダーナ 28, 68; 小ニダーナ 47)。そして、その煩悩の軍勢は、千五百の区別があるか、あるいは無限の区別があるものだが、聖なる弟子たちによって、念、択法、精進、止などの徳という武器でことごとく打ち砕かれ、破壊され、滅ぼされたのである。これが「悪魔の軍勢を打ち破る者たち」、すなわち聖なる弟子たちである。これによって、彼らが世尊の後を継ぐ子孫であることを示す。
Ārakattā kilesehi, anaye na iriyanato, aye ca iriyanato ariyā, niruttinayena. Atha vā sadevakena lokena ‘‘saraṇa’’nti araṇīyato upagantabbato, upagatānañca tadatthasiddhito ariyā, ariyānaṃ saṅghoti ariyasaṅgho, ariyo ca so, saṅgho cāti vā ariyasaṅgho, taṃ ariyasaṅghaṃ. Bhagavato aparabhāge buddhadhammaratanānampi samadhigamo saṅgharatanādhīnoti assa ariyasaṅghassa bahūpakārataṃ dassetuṃ idheva **‘‘sirasā vande’’**ti vuttanti daṭṭhabbaṃ.
煩悩から遠く離れていること、不法を行わないこと、法を行うことによって聖なる者、これは語源的な意味である。あるいは、神々と共に世の人々に『依りどころ』として近づかれるべきであること、そして近づいた人々がその目的を達成することによって聖なる者である。聖なる者たちの集まりが聖なる僧伽であり、あるいは聖なる者であり、また僧伽であるから聖なる僧伽である。その聖なる僧伽を。世尊の後に仏陀、法、僧の三宝の達成もまた僧宝に依存するという、この聖なる僧伽の多大な利益を示すために、ここで**「頭を下げて礼拝する」**と述べられていると見なすべきである。
Ettha ca ‘‘sugatassa orasānaṃ puttāna’’nti etena ariyasaṅghassa pabhavasampadaṃ dasseti, ‘‘mārasenamathanāna’’nti etena pahānasampadaṃ, sakalasaṃkilesappahānadīpanato. ‘‘Aṭṭhannampi samūha’’nti etena ñāṇasampadaṃ, maggaṭṭhaphalaṭṭhabhāvadīpanato. ‘‘Ariyasaṅgha’’nti etena pabhavasampadaṃ dasseti, sabbasaṅghānaṃ aggabhāvadīpanato. Atha vā ‘‘sugatassa orasānaṃ puttāna’’nti ariyasaṅghassa visuddhanissayabhāvadīpanaṃ, ‘‘mārasenamathanāna’’nti sammāujuñāyasāmīcippaṭipannabhāvadīpanaṃ, ‘‘aṭṭhannampi samūha’’nti āhuneyyādibhāvadīpanaṃ, ‘‘ariyasaṅgha’’nti anuttarapuññakkhettabhāvadīpanaṃ. Tathā ‘‘sugatassa orasānaṃ puttāna’’nti etena ariyasaṅghassa lokuttarasaraṇagamanasabbhāvaṃ dīpeti. Lokuttarasaraṇagamanena hi te bhagavato orasaputtā jātā. ‘‘Mārasenamathanāna’’nti etena abhinīhārasampadāsiddhaṃ pubbabhāge sammāpaṭipattiṃ dasseti. Katābhinīhārā hi sammā paṭipannā māraṃ, māraparisaṃ vā abhivijinanti. ‘‘Aṭṭhannampi samūha’’nti etena viddhastavipakkhe sekkhāsekkhadhamme dasseti, puggalādhiṭṭhānena maggaphaladhammānaṃ pakāsitattā. ‘‘Ariyasaṅgha’’nti aggadakkhiṇeyyabhāvaṃ dasseti. Saraṇagamanañca sāvakānaṃ sabbaguṇānamādi, sapubbabhāgappaṭipadā sekkhā sīlakkhandhādayo majjhe, asekkhā sīlakkhandhādayo pariyosānanti ādimajjhapariyosānakalyāṇā saṅkhepato sabbe ariyasaṅghaguṇā pakāsitā honti.
ここで、『善逝の嫡子たる子ら』という言葉によって、聖なる僧伽の起源の成就を示す。『悪魔の軍勢を打ち破る者たち』という言葉によって、すべての煩悩を捨て去ることを示すことで、捨断の成就を示す。『八人の集まり』という言葉によって、道に住する者と果に住する者という段階を示すことで、知の成就を示す。『聖なる僧伽』という言葉によって、すべての僧伽の中で最も優れていることを示すことで、起源の成就を示す。あるいは、『善逝の嫡子たる子ら』という言葉は聖なる僧伽の清らかな依りどころの状態を示すもの、『悪魔の軍勢を打ち破る者たち』という言葉は、正しく、まっすぐに、道に従って実践する状態を示すもの、『八人の集まり』という言葉は、供養されるに値するなどの状態を示すもの、『聖なる僧伽』という言葉は、無上の福田の状態を示すものである。同様に、『善逝の嫡子たる子ら』という言葉によって、聖なる僧伽の世間を超越した帰依の状態を示す。世間を超越した帰依によって、彼らは世尊の嫡子となったのである。『悪魔の軍勢を打ち破る者たち』という言葉によって、大願の成就によって確立された初期の正しい実践を示す。大願を立てて正しく実践する者は、悪魔または悪魔の眷属を征服するのである。『八人の集まり』という言葉によって、悪に対する破壊がなされた有学者および無学者の諸法を示す。これは、個人の立場から道と果の諸法が説明されているからである。『聖なる僧伽』という言葉は、最高の供養を受けるに値する状態を示す。帰依は弟子たちのすべての徳の始まりであり、初期の実践である有学者の戒蘊などが中間であり、無学者の戒蘊などが終わりであることから、始まり、中間、終わりがすべて善である聖なる僧伽のすべての徳が簡潔に説明されるのである。
Evaṃ gāthāttayena saṅkhepato sakalaguṇasaṅkittanamukhena ratanattayassa paṇāmaṃ katvā, idāni taṃ nipaccakāraṃ yathādhippete payojane pariṇāmento **‘‘iti me’’**tiādimāha. Tattha ratijananaṭṭhena ratanaṃ, buddhadhammasaṅghā. Tesañhi ‘‘itipi so bhagavā’’tiādinā yathābhūtaguṇe āvajjantassa amatādhigamahetubhūtaṃ anappakaṃ pītipāmojjaṃ uppajjati. Yathāha –
このように、三つの偈によって、すべての徳を簡潔に称える形で三宝に礼拝を捧げた後、今度はその尊敬の念を意図する目的に向けて転換しながら、**「このように私にとって」**という言葉から述べる。そこで、『喜びを生み出すもの』という意味で宝、すなわち仏陀、法、僧伽である。というのも、『彼は世尊である』などというように、ありのままの徳を思惟する者には、不死の境地を得る原因となる、並々ならぬ喜びと歓喜が生じるからである。経典に述べられているように――
‘‘Yasmiṃ, mahānāma, samaye ariyasāvako tathāgataṃ anussarati, nevassa tasmiṃ samaye rāgapariyuṭṭhitaṃ cittaṃ hoti, na dosapariyuṭṭhitaṃ cittaṃ hoti, na mohapariyuṭṭhitaṃ cittaṃ hoti, ujugatamevassa tasmiṃ samaye cittaṃ hoti tathāgataṃ ārabbha. Ujugatacitto kho pana, mahānāma, ariyasāvako labhati atthavedaṃ, labhati dhammavedaṃ, labhati dhammūpasaṃhitaṃ pāmojjaṃ, pamuditassa pīti jāyatī’’tiādi (a. ni. 6.10; a. ni. 11.11).
「大名よ、聖なる弟子が如来を憶念する時、その時に彼の心は貪欲に覆われることなく、怒りに覆われることなく、無明に覆われることなく、ただ如来をめぐってまっすぐになる。大名よ、まっすぐになった心を持つ聖なる弟子は、意味の歓喜を得、法の歓喜を得、法に結びついた歓喜を得、歓喜した者には喜びが生じる」などと(増支部 6.10; 増支部 11.11)。
Cittīkatādibhāvo vā ratanaṭṭho. Vuttañhetaṃ –
あるいは、尊ばれるべきであることなどが宝の意味である。それは次のように述べられている――
‘‘Cittīkataṃ mahagghañca, atulaṃ dullabhadassanaṃ;
「尊ばれ、高価であり、比類なく、見ることが難しい。」
Anomasattaparibhogaṃ, ratanaṃ tena vuccatī’’ti. (khu. pā. aṭṭha. 6.3; dī. ni. aṭṭha. 2.33; su. ni. aṭṭha. 1.226; mahāni. aṭṭha. 50);
「卑しくない衆生によって享受される。それゆえに宝と呼ばれる」と。(小誦経註 6.3; 長部註 2.33; スッタニパータ註 1.226; 大ニダーナ註 50)
Cittīkatabhāvādayo ca anaññasādhāraṇā buddhādīsu eva labbhantīti. Vandanāva vandanāmayaṃ, yathā ‘‘dānamayaṃ, sīlamaya’’nti (dī. ni. 3.305; itivu. 60; netti. 34). Vandanā cettha kāyavācācittehi tiṇṇaṃ ratanānaṃ guṇaninnatā, thomanā vā. Pujjabhavaphalanibbattanato puññaṃ, attano santānaṃ puṇātīti vā. Suvihatantarāyoti suṭṭhu vihatantarāyo, etena attano pasādasampattiyā, rattanattayassa ca khettabhāvasampattiyā taṃ puññaṃ atthappakāsanassa upaghātakaupaddavānaṃ vihanane samatthanti dasseti. Hutvāti pubbakālakiriyā, tassa ‘‘atthaṃ pakāsayissāmī’’ti etena sambandho. Tassāti yaṃ ratanattayavandanāmayaṃ puññaṃ, tassa. Ānubhāvenāti balena.
そして、尊ばれるべきことなどは、仏陀などにのみ見られる比類なきものである。礼拝とは礼拝そのものであり、例えば『施与によるもの、持戒によるもの』というように(長部 3.305; 如是語 60; 導論 34)。ここでの礼拝は、身・口・意によって三宝の徳に傾倒すること、あるいは讃嘆することである。尊敬されるべき結果を生み出すことから福徳であり、あるいは自らの心身を清めることから福徳である。『よく障害を取り除かれた』とは、よく障害が取り除かれている、という意味であり、これによって、自らの清らかな心と三宝が福田であることによって、その福徳が意味の説明の妨げとなる災いを打ち払う力があることを示す。『〜して』とは過去時を表す動詞であり、『意味を説明するであろう』という言葉と関係する。『それの』とは、三宝を礼拝することによる福徳のことである。『威力によって』とは、その力によって、という意味である。
Evaṃ ratanattayassa nipaccakārakaraṇe payojanaṃ dassetvā, idāni yassā dhammadesanāya atthaṃ saṃvaṇṇetukāmo, tassā tāva guṇābhitthavanavasena upaññāpanatthaṃ **‘‘dīghassā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha dīghasuttaṅkitassāti dīghappamāṇasuttalakkhitassa, etena ‘‘dīgho’’ti ayaṃ imassa āgamassa atthānugatā samaññāti dasseti. Nanu ca suttāniyeva āgamo, kassa pana suttehi aṅkananti? Saccametaṃ paramatthato, suttāni pana upādāyapaññatto āgamo. Yathā hi atthabyañjanasamudāye ‘‘sutta’’nti vohāro, evaṃ suttasamudāye ‘‘āgamo’’ti vohāro. Paṭiccasamuppādādinipuṇatthasabbhāvato nipuṇassa. Āgamissanti ettha, etena, etasmā vā attatthaparatthādayoti āgamo, āgamo ca so varo cāti āgamavaro, āgamasammatehi vā varoti āgamavaro, tassa. Buddhānaṃ anubuddhā buddhānubuddhā, buddhānaṃ saccapaṭivedhaṃ anugamma paṭividdhasaccā aggasāvakādayo ariyā. Tehi atthasaṃvaṇṇanāvasena, guṇasaṃvaṇṇanāvasena ca saṃvaṇṇitassa. Atha vā buddhā ca anubuddhā ca buddhānubuddhāti yojetabbaṃ. Sammāsambuddheneva hi tiṇṇampi piṭakānaṃ atthavaṇṇanākkamo bhāsito, yā ‘‘pakiṇṇakadesanā’’ti vuccati, tato saṅgāyanādivasena sāvakehīti ācariyā vadanti.
このように三宝に深く帰依することの目的を示してから、今、説法が意味するところを説き明かそうとしている。そのために、まずその功徳を讃える形で「長部の」などが説かれている。ここで、「長部に印されたもの」とは、長い分量の経典によって特徴づけられたものを指し、これにより「長部」という名称がこの聖典群の意義に合致していることを示している。経典自体がアガマであるのに、誰が経典に印をつけるのか?これは究極的な意味では真実であるが、経典は概念としてアガマである。ちょうど意味と表現の集合体が「経典」と呼ばれるように、経典の集合体が「聖典」と呼ばれるのである。縁起などの深遠な意味があるがゆえに、深遠な(ニプナ)。ここに、あるいはこれによって、あるいはこれから、自己の利益や他者の利益などが「集まってくる」ので「聖典」という。そしてその聖典は優れたものであるから「最勝の聖典」である。あるいは聖典として認められた中で優れているから「最勝の聖典」である。その。仏陀に続いて悟った人々を仏陀に続く覚者たちという。仏陀の真理の把握に従って真理を覚知した、最上位の弟子などの聖者たちである。彼らによって、意味を解明する形と、功徳を解明する形で説き明かされたものである。あるいは「仏陀とそれに続く覚者たち」と解釈すべきである。実に、正等覚者によって三蔵の意味を説明する順序が説かれ、それが「総括的な説法」と呼ばれるものである。それから、結集などによって弟子たちが(それを説いた)と師たちは言う。
Saddhāvahaguṇassāti buddhādīsu pasādāvahasampattikassa. Ayañhi āgamo brahmajālādīsu (dī. ni. 1.5-7, 26-28) sīladiṭṭhādīnaṃ anavasesaniddesādivasena, mahāpadānādīsu (dī. ni. 2.3-5) purimabuddhānampi guṇaniddesādivasena, pāthikasuttādīsu (dī. ni. 3.3,4) titthiye nimadditvā appaṭivattiyasīhanāda nadanādivasena, anuttariyasuttādīsu (a. ni. 6.8) ca visesato buddhaguṇavibhāvanena ratanattaye sātisayappasādaṃ āvahati. Saṃvaṇṇanāsu cāyaṃ ācariyassa pakati, yā taṃtaṃsaṃvaṇṇanāsu ādito tassa tassa saṃvaṇṇetabbassa dhammassa visesaguṇakittanena thomanā. Tathā hi papañcasūdanīsāratthappakāsinīmanorathapūraṇīsu aṭṭhasālinīādīsu ca yathākkamaṃ ‘‘paravādamathanassa ñāṇappabhedajananassa dhammakathikapuṅgavānaṃ vicittappaṭibhānajananassa tassa gambhīrañāṇehi ogāḷhassa abhiṇhaso nānānayavicittassa abhidhammassā’’tiādinā thomanā katā.
「信心を生じさせる功徳を有するものの」とは、仏陀などに対する信楽を生じさせる徳を具えるもののことである。この聖典は、まさに『梵網経』など(長部1.5-7, 26-28)において戒や見解などを遺すことなく詳細に説くことによって、また『大本経』など(長部2.3-5)において過去仏たちの功徳も説くことによって、また『波帝迦経』など(長部3.3,4)において外道の主張を破り、揺るぎない獅子吼を上げることで、さらに『無上経』など(増支部6.8)においては特に仏陀の功徳を明かすことによって、三宝に格別の信楽を生じさせるのである。このように説き明かすことは、師の常である。それは、それぞれの説示の冒頭において、説き明かすべきその法の特別な功徳を称える賛嘆のことである。実際、『パパンチャスダニー』、『サーラッタッパカーシニー』、『マノーラタプーラニー』、そして『アッタサーリニー』などにおいても、順に「他者の主張を粉砕し、知の区別を生み出し、説法者の中の傑出した者の多彩な機知を生み出す、深遠な知によって深く探求され、常に多様な方法で彩られたアビダンマの」というような形で賛嘆がなされている。
Attho kathīyati etāyāti atthakathā, sā eva aṭṭhakathā, ttha-kārassa ṭṭha-kāraṃ katvā, yathā ‘‘dukkhassa pīḷanaṭṭho’’ti (paṭi. ma. 2.8). Ādito tiādimhi paṭhamasaṅgītiyaṃ. Chaḷabhiññatāya paramena cittavasībhāvena samannāgatattā, jhānādīsu pañcavidhavasitāsabbhāvato ca vasino, therā mahākassapādayo. Tesaṃ satehi pañcahi. Yāti yā aṭṭhakathā. Saṅgītāti atthaṃ pakāsetuṃ yuttaṭṭhāne ‘‘ayaṃ etassa attho, ayaṃ etassa attho’’ti saṅgahetvā vuttā. Anusaṅgītā ca yasattherādīhi pacchāpi dutiyatatiyasaṅgītīsu, iminā attano saṃvaṇṇanāya āgamanasuddhiṃ dasseti.
意味がこれによって語られるので「義釈」という。それは「アッタカター」と全く同じであり、「ッタ」音が「ッタ」音になったものである。『パティサンブヒダーマッガ』(2.8)の「苦しみの圧迫の義」の「アッタ」と同じである。最初に、すなわち最初の結集において。六神通を備え、最高の心の制御力を具え、禅定などにおいて五種の自在性を具えているため、自在なる者である、マハーカッサパ長老などの長老たち。その五百人の長老たちによって。その義釈とは。「結集された」とは、意味を明らかにすべき適切な箇所で「これはこれの義である、これはこれの義である」と集めて説かれたことを言う。また、ヤーサ長老などによって、その後の第二次、第三次結集でも再結集された。これにより、自身の説示の伝統の純粋さを示している。
Sīhassa lānato gahaṇato sīhaḷo, sīhakumāro. Taṃvaṃsajātatāya tambapaṇṇidīpe khattiyānaṃ, tesaṃ nivāsatāya tambapaṇṇidīpassa ca sīhaḷabhāvo veditabbo. Ābhatāti jambudīpato ānītā. Athāti pacchā. Aparabhāge hi asaṅkaratthaṃ sīhaḷabhāsāya aṭṭhakathā ṭhapitāti. Tenassa mūlaṭṭhakathā sabbasādhāraṇā na hotīti idaṃ atthappakāsanaṃ ekantena karaṇīyanti dasseti. Tenevāha – **‘‘dīpavāsīnamatthāyā’’**ti. Tattha dīpavāsīnanti jambudīpavāsīnaṃ. Dīpavāsīnanti vā sīhaḷadīpavāsīnaṃ atthāya sīhaḷabhāsāya ṭhapitāti yojanā.
獅子に奪われたのでシンハラ、すなわちシンハクマーラ(獅子王子)である。その血統からタンバパンニ島(スリランカ)のクシャトリヤ族が生まれたこと、また彼らが住んでいたことでタンバパンニ島もシンハラと呼ばれるようになったと知るべきである。「もたらされた」とは、ジャムブディーパ(インド)から持ち運ばれたことを意味する。「そして」とは、その後。その後、混同を避けるためにシンハラ語で義釈が置かれたのである。したがって、その根本義釈は万人に共通するものではない。ゆえに、この義の解明がどうしても必要であることを示している。それゆえ、「島に住む人々の利益のために」と述べられている。ここで「島に住む人々の」とは、ジャムブディーパの住民のことである。あるいは「島に住む人々の」とは、シンハラ島の住民のためにシンハラ語で置かれた、と解釈することもできる。
Apanetvānāti kañcukasadisaṃ sīhaḷabhāsaṃ apanetvā. Tatoti aṭṭhakathāto. Ahanti attānaṃ niddisati. Manoramaṃ bhāsanti māgadhabhāsaṃ. Sā hi sabhāvaniruttibhūtā paṇḍitānaṃ manaṃ ramayatīti. Tenevāha – **‘‘tantinayānucchavika’’**nti, pāḷigatiyā anulomikaṃ pāḷibhāsāyānuvidhāyininti attho. Vigatadosanti asabhāvaniruttibhāsantararahitaṃ.
「取り除いて」とは、表皮のようなシンハラ語を取り除いて。「それから」とは、義釈から。「私」とは、著者自身を指す。「楽しい言葉」とは、マガダ語(パーリ語)である。それは、本来の語法であり、賢者の心を喜ばせるからである。それゆえ、「聖典の教えに適合する」と述べられている。これは、パーリ語の作法に順応し、パーリ語に追従する、という意味である。「過失なき」とは、本来の語法ではない言語の混入がないこと。
Samayaṃ avilomentoti siddhantaṃ avirodhento, etena atthadosābhāvamāha. Aviruddhattā eva hi theravādāpi idha pakāsiyissanti. Theravaṃsapadīpānanti thirehi sīlakkhandhādīhi samannāgatattā therā, mahākassapādayo. Tehi āgatā ācariyaparamparā theravaṃso, tappariyāpannā hutvā āgamādhigamasampannattā paññāpajjotena tassa samujjalanato theravaṃsapadīpā, mahāvihāravāsino therā, tesaṃ. Vividhehi ākārehi nicchīyatīti vinicchayo, gaṇṭhiṭṭhānesu khīlamaddanākārena pavattā vimaticchedakathā. Suṭṭhu nipuṇo saṇho vinicchayo etesanti sunipuṇavinicchayā. Atha vā vinicchinotīti vinicchayo, yathāvuttavisayaṃ ñāṇaṃ. Suṭṭhu nipuṇo cheko vinicchayo etesanti sunipuṇavinicchayā, etena mahākassapāditheraparamparābhato, tatoyeva ca aviparīto saṇhasukhumo mahāvihāravāsīnaṃ vinicchayoti tassa pamāṇabhūtataṃ dasseti.
「教義に反することなく」とは、教説に矛盾しないこと。これにより、義の誤りがないことを述べている。矛盾がないからこそ、テーラワーダの教えもここで明らかにされるであろう。「長老の伝統の灯火たる者たちの」とは、揺るぎない戒の集合などを具えているがゆえに長老である、マハーカッサパ長老などの長老たちのこと。彼らから受け継がれた師の伝統が長老の伝統であり、それに属して聖典の体得を完成させているがゆえに、智慧の光によってその伝統を輝かせているのが、長老の伝統の灯火たる者たち、すなわちマハーヴィハーラ派の長老たちである。彼らの。様々な様相で確定されるので「決断、裁定」という。それは、難解な箇所で楔を打ち込むように行われる疑いを断ち切る説法のことである。彼らは、非常に精妙で繊細な決断力を持つので「精妙なる決断を持つ者たち」である。あるいは、「ヴィニッチャヤ」とは、決断する作用を指し、先に述べられた対象についての知恵のことである。彼らは、非常に精妙で熟練した決断力を持つので「精妙なる決断を持つ者たち」である。これにより、マハーカッサパ長老などの長老の伝統から受け継がれ、それゆえに誤りがなく、繊細で精緻なマハーヴィハーラ派の決断が、その権威あるものであることを示している。
Sujanassa cāti ca-saddo sampiṇḍanattho, tena na kevalaṃ jambudīpavāsīnameva atthāya, atha kho sādhujanatosanatthañcāti dasseti, tena ca tambapaṇṇidīpavāsīnampi atthāyāti ayamattho siddho hoti, uggahaṇādisukaratāya tesampi bahupakārattā. Ciraṭṭhitatthanti ciraṭṭhitiatthaṃ, cirakālaṭṭhitiyāti attho. Idañhi atthappakāsanaṃ aviparītabyañjanasunikkhepassa atthasunayassa ca upāyabhāvato saddhammassa ciraṭṭhitiyā saṃvattati. Vuttañhetaṃ bhagavatā –
「善人たちの」における「チャ(そして)」という語は、包括の意味である。それによって、これはジャムブディーパの住民のためだけでなく、善なる人々を喜ばせるためでもあることを示している。それによって、タンバパンニ島の住民のためでもあるというこの意味が成立する。学習などが容易であるために、彼らにとっても非常に有益だからである。「長久に存続させるための」とは、長久に存続させる目的であり、長きにわたって存続させるという意味である。実に、この義の解明は、誤りのない語句の正確な配列と、義の正しい提示の手段となるがゆえに、正法が長久に存続することに資する。これは世尊によっても説かれている。
‘‘Dveme, bhikkhave, dhammā saddhammassa ṭhitiyā asammosāya anantaradhānāya saṃvattanti. Katame dve? Sunikkhattañca padabyañjanaṃ, attho ca sunīto’’ti (a. ni. 2.21).
「比丘たちよ、これら二つの法は、正法が存続し、混同されず、消滅しないために役立つ。いかなる二つか?それは、よく配列された語句と、よく導かれた意味である」と。(増支部2.21)
Yaṃ atthavaṇṇanaṃ kattukāmo, tassā mahattaṃ pariharituṃ **‘‘sīlakathā’’**tiādi vuttaṃ. Tenevāha – **‘‘na taṃ idha vicārayissāmī’’**ti. Atha vā yaṃ aṭṭhakathaṃ kattukāmo, tadekadesabhāvena visuddhimaggo ca gahetabboti kathikānaṃ upadesaṃ karonto tattha vicāritadhamme uddesavasena dasseti ‘‘sīlakathā’’ tiādinā. Tattha sīlakathāti cārittavārittādivasena sīlavitthārakathā. Dhutadhammāti piṇḍapātikaṅgādayo (visuddhi. 1.22; theragā. aṭṭha. 2.845, 849) terasa kilesadhunanakadhammā. Kammaṭṭhānāni sabbānīti pāḷiyaṃ āgatāni aṭṭhatiṃsa, aṭṭhakathāyaṃ dveti niravasesāni yogakammassa bhāvanāya pavattiṭṭhānāni. Cariyāvidhānasahitoti rāgacaritādīnaṃ sabhāvādividhānena sahito. Jhānāni cattāri rūpāvacarajjhānāni, samāpattiyo catasso arūpasamāpattiyo. Aṭṭhapi vā paṭiladdhamattāni jhānāni, samāpajjanavasībhāvappattiyā samāpattiyo. Jhānāni vā rūpārūpāvacarajjhānāni, samāpattiyo phalasamāpattinirodhasamāpattiyo.
著者が義の解明を行おうとしているが、その重要性を回避するために、「戒の話」などと述べられている。それゆえに、「私はここでそれを考察しない」と述べられている。あるいは、著者が義釈を作成しようとしているが、その一部として『清浄道論』もまた含めるべきであると説法者に教示しつつ、そこで考察された法を「戒の話」などで概略的に示しているのである。ここで「戒の話」とは、行動の戒や禁止の戒などによる戒の詳細な説明である。「頭陀行」とは、『清浄道論』(1.22)や『テーラガーター義釈』(2.845, 849)に説かれる施食など、煩悩を振り払う13の行のことである。「すべての業処」とは、パーリ語聖典に説かれる38、義釈に説かれる2つを合わせて、ヨーガの行(瞑想)のために行われる場所の残らずのことである。「行の規定を伴う」とは、貪行など、その本質や分類の規定を伴うことである。「禅」とは、四つの色界禅である。「等至」とは、四つの無色界等至である。あるいは、八つの得たばかりの禅を「禅」といい、達成の自在を得ている状態を「等至」という。あるいは、「禅」とは、色界および無色界の禅であり、「等至」とは、果等至および滅尽等至のことである。
Lokiyalokuttarabhedā cha abhiññāyo sabbā abhiññāyo. Ñāṇavibhaṅgādīsu āgatanayena ekavidhādinā paññāya saṅkaletvā sampiṇḍetvā nicchayo paññāsaṅkalananicchayo.
世間的なものと出世間的なものに分けられる六つの神通、すなわち全ての神通。『智の分別』などで説かれる方法によって、一種類などとして智慧をもって収集し、集約して決定されるものが「智慧の集約による決定」である。
Paccayadhammānaṃ hetādīnaṃ paccayuppannadhammānaṃ hetupaccayādibhāvo paccayākāro, tassa desanā paccayākāradesanā, paṭiccasamuppādakathāti attho. Sā pana ghanavinibbhogassa sudukkaratāya saṇhasukhumā, nikāyantaraladdhisaṅkararahitā, ekattanayādisahitā ca tattha vicāritāti āha – **‘‘suparisuddhanipuṇanayā’’**ti. Paṭisambhidādīsu āgatanayaṃ avissajjetvāva vicāritattā avimuttatanti maggā.
原因となる法(因)などと、結果として生じる法(縁起した法)との間の原因と結果の関係性が「縁の様相」であり、その教説が「縁の様相の教説」であり、すなわち「縁起の話」という意味である。しかし、それは固いものの分離が非常に困難であるゆえに繊細で精妙であり、異部派の説との混同がなく、一つの観点などを伴ってそこで考察されているから、「極めて清浄で精妙な方法」と述べられている。『パティサンビダーマッガ』などで説かれる方法を捨てずに考察されているため、それは解放されていない道である。
Iti pana sabbanti iti-saddo parisamāpane, pana-saddo vacanālaṅkāre, etaṃ sabbanti attho. Idhāti imissā aṭṭhakathāyaṃ. Na vicārayissāmi, punaruttibhāvatoti adhippāyo.
「かくしてすべての」における「イティ」の語は完了の意味であり、「パナ」の語は修飾語である。これはすべての、という意味である。「ここで」とは、この義釈において。「考察しない」とは、繰り返しになるからという意味である。
Idāni tasseva avicāraṇassa ekantakāraṇaṃ niddhārento **‘‘majjhe visuddhimaggo’’**tiādimāha. Tattha **‘‘majjhe ṭhatvā’’**ti etena majjhebhāvadīpanena visesato catunnaṃ āgamānaṃ sādhāraṇaṭṭhakathā visuddhimaggo, na sumaṅgalavilāsinīādayo viya asādhāraṇaṭṭhakathāti dasseti. ‘‘Visesato’’ti idaṃ vinayābhidhammānampi visuddhimaggo yathārahaṃ atthavaṇṇanā hoti yevāti katvā vuttaṃ.
今や、その考察しないことの唯一の理由を確定しつつ、「中間にある清浄道論」などと述べている。ここで、「中間にある」というこの表現によって、特に四つの聖典群に共通の義釈が『清浄道論』であり、『スマーンガラボラシニー』などのような固有の義釈ではないことを示している。「特に」という語は、律蔵やアビダンマにとっても、『清浄道論』が適切に義を解明するものであるということを意図して述べられている。
Iccevāti iti eva. Tampīti visuddhimaggampi. Etāyāti sumaṅgalavilāsiniyā. Ettha ca ‘‘sīhaḷadīpaṃ ābhatā’’tiādinā atthappakāsanassa nimittaṃ dasseti, ‘‘dīpavāsīnamatthāya, sujanassa ca tuṭṭhatthaṃ, ciraṭṭhitatthañca dhammassā’’ti etena payojanaṃ, avasiṭṭhena karaṇappakāraṃ. Sīlakathādīnaṃ avicāraṇampi hi idha karaṇappakāro evāti.
「かくのごとし」とは、まさにそのとおりである。「それも」とは、『清浄道論』もまた。「これによって」とは、『スマーンガラボラシニー』によって。ここで、「シンハラ島にもたらされた」などによって義の解明の動機を示し、「島に住む人々の利益のために、善なる人々を喜ばせるために、そして法の長久な存続のために」という言葉によって目的を、残りの部分によって作成の方法を示している。戒の話などを考察しないことも、ここでの作成の方法なのである。
Ganthārambhakathāvaṇṇanā niṭṭhitā.
著作開始の物語の解説が終了した。
Vibhāgavantānaṃ sabhāvavibhāvanaṃ vibhāgadassanavaseneva hotīti paṭhamaṃ tāva vaggasuttavasena vibhāgaṃ dassetuṃ **‘‘tattha dīghāgamo nāmā’’**tiādimāha. Tattha tatthāti ‘‘dīghassa āgamavarassa atthaṃ pakāsayissāmī’’ti yadidaṃ vuttaṃ, tasmiṃ vacane. Yassa atthaṃ pakāsayissāmīti paṭiññātaṃ, so dīghāgamo nāma vaggasuttavasena evaṃ vibhāgoti attho. Atha vā tatthāti ‘‘dīghāgamanissitamattha’’nti etasmiṃ vacane. Yo dīghāgamo vutto, so vaggādivasena edisoti attho. Attano saṃvaṇṇanāya paṭhamamahāsaṅgītiyaṃ nikkhittānukkameneva pavattabhāvadassanatthaṃ **‘‘tassa vaggesu…pe… vuttaṃ nidānamādī’’**ti āha. Kasmā pana catūsu āgamesu dīghāgamo paṭhamaṃ saṅgīto, tattha ca sīlakkhandhavaggo ādito nikkhitto, tasmiñca brahmajālanti? Nāyamanuyogo katthacipi na pavattati, api ca saddhāvahaguṇato dīghanikāyo paṭhamaṃ saṅgīto. Saddhā hi kusaladhammānaṃ bījaṃ. Yathāha – ‘‘saddhā bījaṃ tapo vuṭṭhī’’ti, (saṃ. ni. 1.197; su. ni. 77) saddhāvahaguṇatā cassa dassitāyeva. Kiñca katipayasuttasaṅgahato, appaparimāṇato ca gahaṇadhāraṇādisukhato. Tathāhesa catuttiṃsasuttasaṅgaho catusaṭṭhibhāṇavāraparimāṇo ca. Sīlakathābāhullato pana sīlakkhandhavaggo paṭhamaṃ nikkhitto. Sīlañhi sāsanassa ādi, sīlapatiṭṭhānattā sabbaguṇānaṃ. Tenevāha – ‘‘tasmā tiha, tvaṃ bhikkhu, ādimeva visodhehi kusalesu dhammesu. Ko cādi kusalānaṃ dhammānaṃ? Sīlañca suvisuddha’’ntiādi (saṃ. ni. 5.395). Etena cassa vaggassa anvatthasaññatā vuttā hoti. Diṭṭhiviniveṭhanakathābhāvato pana suttantapiṭakassa niravasesadiṭṭhivibhajanaṃ brahmajālaṃ paṭhamaṃ nikkhittanti daṭṭhabbaṃ. Tepiṭake hi buddhavacane brahmajālasadisaṃ diṭṭhigatāni niggumbaṃ nijjaṭaṃ katvā vibhattasuttaṃ natthīti.
分類されるものの本質を分類を示す形で明らかにするとされるので、まず巻と経典による分類を示すために、「そこに、長部というものが」などと述べている。ここで「そこに」とは、「最勝の聖典である長部の意味を解明する」と述べられた、その言葉の中においてである。その意味を解明すると誓われた長部というものは、巻や経典によってこのように分類される、という意味である。あるいは「そこに」とは、「長部に含まれる意味」というこの言葉の中において。述べられた長部は、巻などによってこのようなものである、という意味である。自身の説示が第一回大結集で配列された順序に従って進められることを示すために、「その巻々には…略…序論などが説かれている」と述べている。なぜ四つの聖典群の中で長部が最初に結集され、その中に戒蘊品が冒頭に配列され、さらにその中に『梵網経』があるのか?この問いはどこにも生じない。しかし、信心を生じさせる功徳があることから、長部が最初に結集されたのである。信心は善なる法の種である。世尊が「信心は種、苦行は雨」と説かれたように(相応部1.197; 経集77)、その信心を生じさせる功徳が示されている。さらに、少数の経典から成り、量が少ないことから、受持などが容易である。実際、これは34の経典から成り、64バーナワーラ(朗誦単位)の分量である。しかし、戒に関する説法の多さから、戒蘊品が最初に配列されたのである。戒は教えの初めであり、全ての功徳の基礎となるからである。それゆえ、「比丘よ、それゆえに汝は、まず善なる法において初めを清浄にせよ。善なる法の初めとは何か?それはよく清浄になった戒である」などと説かれている(相応部5.395)。これによって、この品の名称がその意味に合致していることが述べられている。しかし、見解を解消する説話であることから、経蔵の全ての見解を分別する『梵網経』が最初に配列されたと知るべきである。三蔵の仏説の中には、『梵網経』のように、見解の叢林を解きほぐし、絡まりをなくして分別された経典は他にないからである。
Yassā paṭhamamahāsaṅgītiyaṃ nikkhittānukkamena saṃvaṇṇanaṃ kattukāmo, taṃ, tassā ca tantiāruḷhāya idha vacane kāraṇaṃ dassento **‘‘paṭhamamahāsaṅgīti…pe… veditabbā’’**ti āha. Tattha yathāpaccayaṃ tattha tattha desitattā, paññattattā ca vippakiṇṇānaṃ dhammavinayānaṃ saṅgahetvā gāyanaṃ kathanaṃ saṅgīti, etena taṃtaṃsikkhāpadānaṃ suttānañca ādipariyosānesu, antarantarā ca sambandhavasena ṭhapitaṃ saṅgītikāravacanaṃ saṅgahitaṃ hoti. Mahāvisayattā, pūjanīyattā ca mahatī saṅgīti mahāsaṅgīti, paṭhamā mahāsaṅgīti paṭhamamahāsaṅgīti, tassā pavattikālo paṭhamamahāsaṅgītikālo, tasmiṃ paṭhamamahāsaṅgītikāle. Nidānanti ca desanaṃ desakālādivasena aviditaṃ viditaṃ katvā nidassetīti nidānaṃ. Sattānaṃ dassanānuttariyasaraṇādipaṭilābhahetubhūtāsu vijjamānāsupi aññāsu bhagavato kiriyāsu ‘‘buddho bodheyya’’nti (bu. vaṃ. aṭṭha. ratanacaṅkamanakaṇḍavaṇṇanā; cariyā. uddhānagāthāvaṇṇanā) paṭiññāya anulomato veneyyānaṃ maggaphalappattīnaṃ hetubhūtā kiriyā nippariyāyena buddhakiccanti āha – **‘‘dhammacakkappavattanañhi ādiṃ katvā’’**ti. Tattha saddhindriyādidhammoyeva pavattanaṭṭhena cakkanti dhammacakkaṃ. Atha vā cakkanti āṇā, dhammato anapetattā dhammañca taṃ cakkañcāti dhammacakkaṃ, dhammena ñāyena cakkantipi dhammacakkaṃ. Yathāha –
第一大結集に編纂された順序に従って注釈をしたいと思う者は、その注釈と、ここに引用された聖典の言葉の理由を示すために、「第一大結集…以下略…知られるべきである」と述べた。そこに、各所で縁に従って説かれ、制定された分散した法と律を編纂して誦することを結集という。これによって、個々の戒律や経典の初めと終わりに、またその間に関連して置かれた結集という言葉が網羅される。広大な内容であり、尊敬されるべきものであるがゆえに、大いなる結集を大結集といい、最初の結集を第一大結集といい、その行われた時期を第一大結集時という。その第一大結集時に。また、「縁起」とは、説法を時や場所などによって知られていなかったことを知らしめるように示すものであるから、縁起という。衆生が見るものの中で最高の帰依などを得る因である、他のすでに存在していた世尊の行いにおいても、「仏は悟らせるだろう」(仏本生経注、宝の歩く道の説明;行蔵偈注)という誓いによって、順序通りに、導かれるべき者たちが道と果を得る因となる行いを、本来的に仏陀の行為であるとして、「法輪の展開をはじめとして」と述べた。そこに、信などの諸法が展開する意味で「輪」であるから法輪である。あるいは「輪」とは命令であり、法から離れないものであるから法であり、またそれは輪であるから法輪であり、法によって、正義によって「輪」であるから法輪である。次のように述べられたように――
‘‘Dhammañca pavatteti cakkañcāti dhammacakkaṃ, cakkañca pavatteti dhammañcāti dhammacakkaṃ, dhammena pavattetīti dhammacakkaṃ, dhammacariyāya pavattetīti dhammacakka’’ntiādi (paṭi. ma. 2, 39, 41).
「法を展開し、また輪を展開するから法輪である。また輪を展開し、また法を展開するから法輪である。法によって展開するから法輪である。法行によって展開するから法輪である」など(諦行道 2, 39, 41)。
**‘‘Katabuddhakicce’’**ti etena buddhakattabbassa kassacipi asesitabhāvaṃ dasseti. Nanu ca sāvakehi vinītāpi vineyyā bhagavatāyeva vinītā honti, yato sāvakabhāsitaṃ suttaṃ ‘‘buddhavacana’’nti vuccati, sāvakavineyyā ca na tāva vinītāti? Nāyaṃ doso tesaṃ vinayanupāyassa sāvakesu ṭhapitattā. Tenevāha –
「仏陀の務めを果たし終えた」という言葉によって、仏陀がなすべきことが何一つ残されていないことを示している。しかし、声聞たちによって調教された導かれるべき者たちも、世尊によって調教されたことになるのではないか。なぜなら、声聞が語った経典も「仏陀の言葉」と呼ばれるのであるから、声聞によって調教されるべき者たちは、まだ調教されていないのではないか。このことは過失ではない。彼らを調教する方便が声聞たちに確立されているからである。それゆえに述べられた――
‘‘Na tāvāhaṃ, pāpima, parinibbāyissāmi, yāva me bhikkhū na sāvakā bhavissanti viyattā vinītā visāradā bahussutā dhammadharā…pe… uppannaṃ parappavādaṃ saha dhammena suniggahitaṃ niggahetvā sappāṭihāriyaṃ dhammaṃ desessa’’ntiādi (dī. ni. 2.168; saṃ. ni. 5.822; udā. 51).
「悪しき者よ、私の比丘たちが明瞭で、訓練され、熟達し、多聞で、法を保持し、…以下略…生じた異論を法によって見事に抑えつけ、神通力を伴う法を説くようになるまでは、私はまだ般涅槃に入らないであろう」など(長部 2.168; 相応部 5.822; 自説 51)。
**‘‘Kusinārāya’’**ntiādi bhagavato parinibbutadesakālavisesadassanaṃ ‘‘aparinibbuto bhagavā’’ti gāhassa micchābhāvadassanatthaṃ, loke jātasaṃvaddhabhāvadassanatthañca. Tathā hi manussabhāvassa supākaṭakaraṇatthaṃ mahābodhisattā carimabhave dārapariggahādīnipi karontīti. Upādīyate kammakilesehīti upādi, vipākakkhandhā kaṭattā ca rūpaṃ. So pana upādi kilesābhisaṅkhāramāranimmathanena nibbānappattiyaṃ anossaṭṭho, idha khandhamaccumāranimmathanena ossaṭṭho nissesitoti ayaṃ anupādisesā, nibbānadhātu. Nibbānadhātūti cettha nibbutimattaṃ adhippetaṃ, itthambhūtalakkhaṇe cāyaṃ karaṇaniddeso. **‘‘Dhātubhājanadivase’’**ti idaṃ na ‘‘sannipatitāna’’nti etassa visesanaṃ, ussāhajananassa pana visesanaṃ, ‘‘dhātubhājanadivase bhikkhūnaṃ ussāhaṃ janesī’’ti. Dhātubhājanadivasato hi purimapurimataradivasesu bhikkhū samāgatāti. Atha vā dhātubhājanadivase sannipatitānaṃ kāyasāmaggīvasena sahitānanti attho. Saṅghassa thero saṅghatthero, so pana saṅgho kiṃ parimāṇānanti āha – **‘‘sattannaṃ bhikkhusatasahassāna’’**nti. Niccasāpekkhatāya hi edisesu samāso hotiyeva, yathā – ‘‘devadattassa garukula’’nti.
「クシナーラーで」などとあるのは、世尊が般涅槃に入った場所と時の詳細を示すことで、「世尊はまだ般涅槃に入っていない」という見解が誤りであることを示し、世に生まれ、成長した事実を示すためである。このように、人間としての状態を明らかにするために、大菩薩は最後の生において妻子を得るなどのことも行うのである。業と煩悩によって執着されるものであるから「受取(upādi)」であり、異熟の諸蘊と、その作られたことによって「色(rupa)」である。その「受取」とは、煩悩と形成されたものという魔を打ち砕くことによって涅槃の達成において離脱されないものであるが、ここでは諸蘊と死という魔を打ち砕くことによって完全に離脱されたものである。これが無余涅槃、涅槃界である。ここで「涅槃界」とは、涅槃そのものを意図しており、これは「性質を示す」という意味での手段格の指示である。「遺骨分配の日に」という言葉は、「集まった者たちの」という言葉の修飾語ではなく、むしろ「熱意を起こさせた」という言葉の修飾語であり、「遺骨分配の日に比丘たちの熱意を起こさせた」と解釈される。なぜなら、遺骨分配の日の何日も前から比丘たちは集まっていたからである。あるいは、遺骨分配の日に集まった者たちは、身体的な一体性をもって結束していた、という意味である。サンガの長老は「サンガ長老」という。そのサンガはどれくらいの規模であったかというと、「七十万の比丘たち」と述べられた。このように常に依存関係がある場合、連結は成立するものであり、例えば「デーヴァダッタの師の家」のように。
Āyasmā mahākassapo puna dullabhabhāvaṃ maññamāno bhikkhūnaṃ ussāhaṃ janesīti sambandho. ‘‘Dhātubhājanadivase sannipatitāna’’nti idaṃ ‘‘bhikkhūnaṃ ussāhaṃ janesī’’ti ettha ‘‘bhikkhūna’’nti imināpi padena sambandhanīyaṃ. Subhaddena vuḍḍhapabbajitena vuttavacanamanussarantoti sambandho. Tattha anussaranto dhammasaṃvegavasenāti adhippāyo. ‘‘Saddhammaṃ antaradhāpeyyuṃ saṅgāyeyyaṃ…pe… ciraṭṭhitikaṃ tassa kimaññaṃ āṇaṇyaṃ bhavissatī’’ti etesaṃ padānaṃ ‘‘iti cintayanto’’ti etena sambandho. Tathā ‘‘yañcāha’’nti etassa ‘‘anuggahito pasaṃsito’’ti etena sambandho. Yaṃ pāpabhikkhūti ettha yanti nipātamattaṃ, kāraṇaniddeso vā, yena kāraṇena antaradhāpeyyuṃ, tadetaṃ kāraṇaṃ vijjatīti attho, addhaniyanti addhānamaggagāmi, addhānakkhamanti attho.
マーハーカーッサパ長老は、再び法が失われる可能性を認識して、比丘たちに熱意を起こさせた、と関連づけられる。「遺骨分配の日に集まった者たちの」という言葉は、「比丘たちに熱意を起こさせた」という部分の「比丘たちに」という言葉とも関連づけるべきである。老出家者スバッダが述べた言葉を思い出しながら、と関連づけられる。そこでは、思い出すというのは、法の感動によってである、という意図である。「正法が消滅するであろう、結集しよう…以下略…そのために他にどのような負債がないことになるだろうか」というこれらの言葉は、「このように考えながら」という言葉と関連づけられる。また、「そして私は」という言葉は、「助けられ、褒められた」という言葉と関連づけられる。「Yaṃ pāpabhikkhū(悪しき比丘が)」という箇所では、「yaṃ」は単なる助詞、あるいは理由を示すものであり、その理由によって彼らが法を消滅させるであろう、というその理由が存在する、という意味である。「addhaniyan」とは、道を旅する者、道の困難に耐える者、という意味である。
Yañcāhanti ettha yanti yasmā, yena kāraṇenāti vuttaṃ hoti, kiriyāparāmasanaṃ vā etaṃ, tena ‘‘anuggahito pasaṃsito’’ti ettha anuggaṇhanaṃ pasaṃsanañca parāmasati. **‘‘Cīvare sādhāraṇaparibhogenā’’**ti ettha ‘‘attanā samasamaṭṭhapanenā’’ti idha attanā-saddaṃ ānetvā cīvare attanā sādhāraṇaparibhogenāti yojetabbaṃ. Yassa yena hi sambandho dūraṭṭhampi ca tassa tanti atha vā bhagavatā cīvare sādhāraṇaparibhogena bhagavatā anuggahitoti yojanīyaṃ, etassāpi hi karaṇaniddesassa sahayogakattutthajotakattasambhavato. Yāvadeti yāvadeva, yattakaṃ kālaṃ, yattake vā samāpattivihāre, abhiññāvihāre vā ākaṅkhanto viharāmi ceva voharāmi ca, tathā kassapopīti attho. Idañca navānupubbavihārachaḷabhiññabhāvasāmaññena thutimattaṃ vuttanti daṭṭhabbaṃ. Na hi āyasmā mahākassapo bhagavā viya devasikaṃ catuvīsatikoṭisatasahassasaṅkhyā samāpattiyo samāpajjati, yamakapāṭihāriyādivasena vā abhiññāyo vaḷañjetīti. Tenevāha – ‘‘navānupubbavihārachaḷabhiññāppabhede’’ti. Tassa kimaññaṃ āṇaṇyaṃ bhavissati, aññatra dhammavinayasaṅgāyanāti adhippāyo. **‘‘Nanu maṃ bhagavā’’**tiādinā vuttamevatthaṃ upamāvasena vibhāveti.
「そして私は」という箇所では、「yaṃ」は「なぜならば」「その理由によって」という意味であり、あるいはこれは行為の指示であり、それによって「助けられ、褒められた」という箇所における助けることと褒めることを指示している。「衣を共有することによって」という箇所では、「自分自身と同等に配置することによって」という意味であり、ここに「自分自身」という言葉を導入して、「衣を自分自身と共有することによって」と解釈すべきである。誰と誰との関係が遠く離れていても、その縁があるものであり、あるいは「世尊は衣を共有することによって、世尊によって助けられた」と解釈すべきである。なぜなら、この手段格の指示も、協力的な行為者を意味する可能性を帯びるからである。「Yāvadeti」とは、「限り」であり、どれほどの時間、どれほどの境地に至る滞在、あるいは神通力の滞在を望んで、私は住み、そして語る。そしてカッサパもまた、そのように、という意味である。そしてこれは、九次第住と六神通の共通性において、単なる称賛として述べられたものと理解すべきである。なぜなら、マーハーカーッサパ長老は、世尊のように毎日、二十四億百万の数の三昧に入るわけでもなく、あるいは双神変などの神通力を使うわけでもないからである。それゆえに述べられた――「九次第住と六神通の種別において」。そのために他にどのような負債がないことになるだろうか、それは法と律の結集以外に、という意味である。「まさか、世尊が私を」などという言葉によって、述べられた内容を比喩的に説明している。
Tato paranti tato bhikkhūnaṃ ussāhajananato parato. Pure adhammo dippatīti apināma dibbati, yāva adhammo dhammaṃ paṭibāhituṃ samattho hoti, tato puretaramevāti attho. Āsanne anicchite hi ayaṃ pure-saddo. Dippatīti ca dippissati. Puresaddasanniyogena hi anāgatatthe ayaṃ vattamānappayogo, yathā – ‘‘purā vassati devo’’ti.
「Tato paraṃ(その後)」とは、比丘たちの熱意が起こった後である。「Pure adhammo dippatīti(不正が輝く前に)」とは、不正が法を妨げる力を持つ前に、それよりも早く、という意味である。この「pure」という言葉は、差し迫った、望ましくない状況を示すのである。「dippatīti」は「輝くだろう」という意味である。「pure」という言葉と結びつくことによって、これは未来の事柄に対して現在形が用いられているのである。例えば、「purā vassati devo(雨が降る前に、天が降る)」のように。
**‘‘Sakalanavaṅgasatthusāsanapariyattidhare…pe… ekūnapañcasate pariggahesī’’**ti etena sukkhavipassakakhīṇāsavapariyantānaṃ yathāvuttapuggalānaṃ satipi āgamādhigamasabbhāve saha paṭisambhidāhi pana tevijjādiguṇayuttānaṃ āgamādhigamasampattiyā ukkaṃsagatattā saṅgītiyā bahupakārataṃ dasseti. Idaṃ vuttaṃ saṅgītikkhandhake, (pārā. 437) apaccakkhaṃ nāma natthi paguṇappavattibhāvato, samantapāsādikāyaṃ pana ‘‘asammukhā paṭiggahitaṃ nāma natthī’’ti (pārā. aṭṭha. paṭhamamahāsaṅgītikathā) vuttaṃ, taṃ ‘‘dve sahassāni bhikkhuto’’ti vuttampi bhagavato santike paṭiggahitamevāti katvā vuttaṃ. Caturāsītisahassānīti dhammakkhandhe sandhāyāha. Pavattinoti paguṇāni. Ānandattherassa navappāyāya parisāya vibbhamanena mahākassapatthero evamāha – **‘‘na vāyaṃ kumārako mattamaññāsī’’**ti. Tattha mattanti pamāṇaṃ. Chandā āgamanaṃ viyāti padavibhāgo. **‘‘Kiñcāpi sekkho’’**ti idaṃ na sekkhānaṃ agatigamanasabbhāvena vuttaṃ, asekkhānameva pana uccinitattāti daṭṭhabbaṃ. Paṭhamamaggeneva hi cattāri agatigamanāni pahīyantīti. **‘‘Abhabbo chandā…pe… agatiṃ gantu’’**nti ca dhammasaṅgītiyā tassa yogyabhāvadassanena vijjamānaguṇakathanaṃ. Pariyattoti adhīto.
「九分教すべてを保持し…以下略…499人を集めた」という言葉によって、乾いた観を行う阿羅漢に至るまでの、上記のような人々には聖典の知識と悟りの両方が存在したとしても、無礙解を伴う三明などの徳を備えた者たちの聖典の知識と悟りの成就が卓越していたため、結集が非常に有益であったことを示している。これは結集編(波羅夷 437)に述べられていることで、「実際に眼で見たことのないものは存在しない」というのは、その内容が完全に習得され、行われたからである。しかし、『サマンタパーサーディカー』には「直接受け取られたことのないものは存在しない」(波羅夷注、第一大結集物語)と述べられている。これは、「比丘から二千(の教え)」と述べられているものも、世尊の御前で受け取られたものであると見なして述べられたのである。「八万四千」とは、法蘊を指して述べられている。「Pavattino」とは、習得されたものである。アーナンダ長老が、まだ新米の僧団を動揺させたことで、マーハーカーッサパ長老は次のように述べた――「この若者は自分の分を知らなかった」。ここでの「分(matta)」とは、「量」である。「欲望によって来る」という言葉の区分け。「彼はまだ有学ではあるが」という言葉は、有学の人々が悪しき道に行く可能性が存在するから述べられたのではなく、ただ無学の人々が選ばれたのであると理解すべきである。なぜなら、第一の道によって、四つの悪しき道への陥りが滅されるからである。「彼は欲望によって…以下略…悪しき道を行くことはない」という言葉も、法結集における彼の適格性を示すことで、彼の持つ徳を語っている。「Pariyatto」とは、習得した者である。
Gāvo caranti etthāti gocaro, gocaro viya gocaro, bhikkhācaraṇaṭṭhānaṃ. Visabhāgapuggalo subhaddasadiso. Sattipañjaranti sattikhaggādihatthehi purisehi mallarājūnaṃ bhagavato dhātuārakkhakaraṇaṃ sandhāyāha. Taṃ palibodhaṃ chinditvā taṃ karaṇīyaṃ karotūti saṅgāhakena chinditabbaṃ chinditvā ekantakaraṇīyaṃ karotūti attho. Mahājananti bahujanaṃ. Gandhakuṭiṃ vanditvā paribhogacetiyabhāvatoti adhippāyo. Yathā tanti yathā aññopi yathāvuttasabhāvo, evanti attho. Saṃvejesīti ‘‘nanu bhagavatā paṭikacceva akkhātaṃ – ‘sabbeheva piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo’’’tiādinā (dī. ni. 2.183; saṃ. ni. 5.379; a. ni. 10.48; cūḷava. 437) saṃvegaṃ janesi. Ussannadhātukanti upacitadosaṃ. Bhesajjamattāti appakaṃ bhesajjaṃ. Appattho hi ayaṃ mattā-saddo, ‘‘mattāsukhapariccāgo’’tiādīsu (dha. pa. 290) viya. Dutiyadivaseti devatāya saṃvejitadivasato, jetavanavihāraṃ paviṭṭhadivasato vā dutiyadivase. Āṇāva cakkaṃ āṇācakkaṃ.
牛がここで草を食むから「行処(gocaro)」であり、行処のように行処であり、托鉢の場所である。異質の人物とは、スバッダのような者である。「槍の檻」とは、槍や剣などを手にした男性たちであるマッラ王たちが世尊の遺骨を警護したことを指して述べられている。「その障害を取り除いて、そのなすべきことをなせ」とは、結集者によって取り除かれるべきものを取り除き、唯一なされるべきことをなせ、という意味である。「多くの人々」とは、多数の衆生である。「香室を礼拝して、供養塔のようになった」という意味である。「そのように」とは、他の上記の性質の者もそのようである、という意味である。「感動させた」とは、「世尊はすでに前もって説かれたではないか――『すべての愛すべき者、好ましい者たちと、それぞれ別れ、離別がある』」など(長部 2.183; 相応部 5.379; 増支部 10.48; 小品 437)と述べられたことによって、感動を抱かせたのである。「Ussannadhātukaṃ(過剰な体質を持つ)」とは、煩悩が蓄積されたものである。「Bhesajjamattaṃ(わずかな薬)」とは、わずかな薬のことである。この「matta」という言葉は、「わずか」という意味であり、「わずかな幸福の放棄」など(ダンマパダ 290)のように用いられる。「二日目に」とは、天人によって感動させられた日から、あるいはジェータヴァナ精舎に入った日から数えて二日目である。「命令それ自体が輪である」から「命令の輪」である。
Etadagganti eso aggo. Liṅgavipallāsena hi ayaṃ niddeso. Yadidanti ca yo ayaṃ, yadidaṃ khandhapañcakanti vā yojetabbaṃ. ‘‘Paṭhamaṃ āvuso upāli pārājikaṃ kattha paññatta’’nti kasmā vuttaṃ, nanu tassa saṅgītiyā purimakāle paṭhamabhāvo na yuttoti? No na yutto, bhagavatā paññattānukkamena pātimokkhuddesānukkamena ca paṭhamabhāvassa siddhattā. Yebhuyyena hi tīṇi piṭakāni bhagavato dharamānakāle ṭhitānukkameneva saṅgītāni, visesato vinayābhidhammapiṭakānīti daṭṭhabbaṃ. **‘‘Vatthumpi pucchī’’**tiādi ‘kattha paññatta’ntiādinā dassitena saha tadavasiṭṭhampi saṅgahetvā dassanavasena vuttaṃ. Paṭhamapārājiketi paṭhamapārājikapāḷiyaṃ (pārā. 24), tenevāha – **‘‘na hi tathāgatā ekabyañjanampi niratthakaṃ vadantī’’**ti.
「これこそが最高」とは、これこそが最高である。これは性転換によっての指示である。「Yadidaṃ」とは、「これら」あるいは「この五蘊」と解釈すべきである。「友よウパーリ、最初の波羅夷はどこで制定されたのか」と、なぜ述べられたのか。結集が行われる以前に、それが最初であったということは適切ではないのではないか。いや、不適切ではない。世尊によって制定された順序と、波羅提木叉が誦される順序によって、最初であることが確立されているからである。ほとんどの場合、三蔵は世尊が生存されていた時に確立されていた順序のままで結集されたと理解すべきである。特に律蔵と阿毘達磨蔵はそうである。「その状況も尋ねた」などとは、「どこで制定されたか」などと示されたものに加えて、残りの部分も網羅して示す意味で述べられたのである。「第一波羅夷で」とは、第一波羅夷のパーリ文(波羅夷 24)においてである。それゆえに述べられた――「如来は一文字たりとも無意味なことを語らない」。
Jātakādike khuddakanikāyapariyāpanne, yebhuyyena ca dhammaniddesabhūte tādise abhidhammapiṭake saṅgaṇhituṃ yuttaṃ, na pana dīghanikāyādippakāre suttantapiṭake, nāpi paññattiniddesabhūte vinayapiṭaketi dīghabhāṇakā ‘‘jātakādīnaṃ abhidhammapiṭake saṅgaho’’ti vadanti. Cariyāpiṭakabuddhavaṃsānañcettha aggahaṇaṃ, jātakagatikattā. Majjhimabhāṇakā pana ‘‘aṭṭhuppattivasena desitānaṃ jātakādīnaṃ yathānulomadesanābhāvato tādise suttantapiṭake saṅgaho yutto, na pana sabhāvadhammaniddesabhūte yathādhammasāsane abhidhammapiṭake’’ti jātakādīnaṃ suttantapiṭakapariyāpannataṃ kathayanti. Tattha ca yuttaṃ vicāretvā gahetabbaṃ.
本生話などをはじめとする小部経典に含まれるもの、そして主として法義の記述である阿毘達磨蔵のようなものに編纂されるのが適切であり、長部経典のような経蔵には含まれないし、制定の記述である律蔵にも含まれないと、長部誦者たちは「本生話などは阿毘達磨蔵に編纂される」と述べる。行蔵や仏本生経がここに採用されないのは、本生話と同一の性質を持つからである。しかし中部誦者たちは、「生起の状況によって説かれた本生話などは、順序通りの説法ではないため、そのような経蔵に編纂されるのが適切であり、自性の法義の記述である『法説(yathādhammasāsane)』である阿毘達磨蔵には含まれない」として、本生話などが経蔵に含まれるべきであると語る。そして、そこでは適切なものを考察して採用すべきである。
Evaṃ nimittapayojanakāladesakārakakaraṇappakārehi paṭhamaṃ saṅgītiṃ dassetvā idāni tattha vavatthāpitasiddhesu dhammavinayesu nānappakārakosallatthaṃ ekavidhādibhede dassetuṃ **‘‘evameta’’**ntiādimāha. Tattha vimuttirasanti vimuttiguṇaṃ, vimuttisampattikaṃ vā, aggaphalanipphādanato, vimuttikiccaṃ vā, kilesānaṃ accantaṃ vimuttisampādanato. Keci pana ‘‘vimuttiassāda’’nti vadanti.
このように、標識、目的、時、場所、行為者、手段、方法によって最初の結集を示した後、今、そこに確立され成就された法と律における多様な熟練のために、一つの種類などの区分を示すために、「このように」などと述べた。そこでの「解脱の味(vimuttirasa)」とは、解脱の功徳、あるいは解脱の成就である。最高の果実を成就するから、あるいは煩悩からの絶対的な解脱を達成するから、解脱の作用のことである。しかし、ある者たちは「解脱の悦味」と述べる。
Kiñcāpi avisesena sabbampi buddhavacanaṃ kilesavinayanena vinayo, yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjamāne apāyapatanādito dhāraṇena dhammo, idhādhippete pana dhammavinaye niddhāretuṃ **‘‘tattha vinayapiṭaka’’**ntiādimāha. Avasesaṃ buddhavacanaṃ dhammo, khandhādivasena sabhāvadhammadesanābāhullato. Atha vā yadipi dhammoyeva vinayopi, pariyattiyādibhāvato, vinayasaddasannidhāne pana bhinnādhikaraṇabhāvena payutto dhamma-saddo vinayatantividhuraṃ tantiṃ dīpeti yathā ‘‘puññañāṇasambhārā, gobalibaddha’’nti ca.
一切の仏説は、煩悩を調伏する故に律であり、教えられた通りに実践する者を悪趣への堕落などから保持する故に法であるとしても、ここで意図される法と律を区別するために、「そこに律蔵が」などと述べられた。残りの仏説は、五蘊などによって自性法を説くことが多い故に法である。あるいは、たとえ律もまた法そのものであるとしても、聖典などであることから、律という言葉の隣では、異なる対象として用いられる法という言葉は、律の教えとは別の教えを示す。「福と智の資糧、牛や雄牛が繋がれている」というように。
**‘‘Anekajātisaṃsāra’’**nti ayaṃ gāthā bhagavatā attano sabbaññutañāṇapadaṭṭhānaṃ arahattappattiṃ paccavekkhantena ekūnavīsatimassa paccavekkhaṇañāṇassa anantaraṃ bhāsitā. Tenāha ‘‘idaṃ paṭhamabuddhavacana’’nti. Idaṃ kira sabbabuddhehi avijahitaṃ udānaṃ. Ayamassa saṅkhepattho – ahaṃ imassa attabhāvagehassa kārakaṃ taṇhāvaḍḍhakiṃ gavesanto yena ñāṇena taṃ daṭṭhuṃ sakkā, tassa bodhiñāṇassatthāya dīpaṅkarapādamūle katābhinīhāro ettakaṃ kālaṃ anekajātisaṃsāraṃ anekajātisatasahassasaṅkhyaṃ saṃsāravaṭṭaṃ anibbisaṃ taṃ ñāṇaṃ avindanto alabhantoyeva sandhāvissaṃ saṃsariṃ. Yasmā jarāvyādhimaraṇamissatāya jāti nāmesā punappunaṃ upagantuṃ dukkhā, na ca sā tasmiṃ adiṭṭhe nivattati, tasmā taṃ gavesanto sandhāvissanti attho. Diṭṭhosīti idāni mayā sabbaññutañāṇaṃ paṭivijjhantena diṭṭho asi. Puna gehanti puna imaṃ attabhāvasaṅkhātaṃ mama gehaṃ. Na kāhasi na karissasi. Tava sabbā avasesākilesaphāsukā mayā bhaggā. Imassa tayā katassa attabhāvagehassa kūṭaṃ avijjāsaṅkhātaṃ kaṇṇikamaṇḍalaṃ visaṅkhataṃ viddhaṃsitaṃ. Visaṅkhāraṃ nibbānaṃ ārammaṇakaraṇavasena gataṃ anupaviṭṭhaṃ idāni mama cittaṃ, ahañca taṇhānaṃ khayasaṅkhātaṃ arahattamaggaṃ ajjhagā adhigato pattosmīti. Ayaṃ manasā pavattitadhammānamādi. **‘‘Yadā have pātubhavanti dhammā’’**ti (udā. 1, 2, 3) ayaṃ pana vācāya pavattitadhammānaṃ ādīti vadanti. Antojappanavasena kira bhagavā ‘‘anekajātisaṃsāra’’ntiādimāha (dha. pa. 153). **‘‘Pāṭipadadivase’’**ti idaṃ ‘‘sabbaññubhāvappattassā’’ti na etena sambandhitabbaṃ, ‘‘paccavekkhantassa uppannā’’ti etena pana sambandhitabbaṃ. Visākhapuṇṇamāyameva hi bhagavā paccūsasamaye sabbaññutaṃ pattoti.
「幾多の生涯輪廻を」というこの詩句は、世尊が自身の諸一切知智の基盤である阿羅漢果の獲得を省察された際、19番目の省察智の後に説かれたものである。そのため、「これは最初の仏説である」と述べられている。これはすべての仏陀が捨て去ることのない感興であるとされる。その要約された意味は次の通りである。私は、この存在の家(身体)の建築者である渇愛の大工を探し求め、それを識るために必要な智、すなわち菩提智のために、ディーパンカラ仏の御足下で誓願を立ててから、長い間、数百万の生からなる輪廻の循環において苦しみながら、その智を得られずにさまよっていた。老病死と混じり合っているため、生とは繰り返し赴くのが苦しいものであり、その(渇愛の大工が)見つからない限り、それは止まらない。ゆえに、それを探し求めてさまよったという意味である。「見つかったぞ」とは、今や私は諸一切知智を体得した者として、あなたを見つけ出したということである。「再び家を」とは、再びこの存在と称される私の家を。「建てることはないだろう」とは、造ることはないだろうということ。あなたの残りの煩悩の椽はすべて私によって破壊された。あなたによって造られたこの存在の家の棟木、すなわち無明と称される頂上飾りの輪は、破壊され、粉砕された。今や私の心は、無為なるニルヴァーナを対象とすることによって到達し、入り込んだ。そして私は、渇愛の滅尽と称される阿羅漢の道を登り、到達し、得たのである。これは心によって起こされた法々の始まりである。「いつか諸々の法が現れる時」という詩句(Ud. 1, 2, 3)は、言葉によって起こされた法々の始まりであると人々は言う。世尊は、心の中でつぶやくように「幾多の生涯輪廻を」などと述べられたのである(DhA. 153)。「満月の日」という言葉は、「諸一切知の境地を得た」という言葉と結びつけられるべきではなく、「省察しているときに生じた」という言葉と結びつけられるべきである。世尊は確かにヴィサーカー祭の満月の日の夜明けに諸一切知智を得られたからである。
Vayadhammāti aniccalakkhaṇamukhena dukkhānattalakkhaṇampi saṅkhārānaṃ vibhāveti ‘‘yadaniccaṃ taṃ dukkhaṃ, yaṃ dukkhaṃ tadanattā’’ti (saṃ. ni. 3.15; paṭi. ma. 2.10) vacanato. Lakkhaṇattayavibhāvananayeneva ca tadārammaṇaṃ vipassanaṃ dassento sabbatitthiyānaṃ avisayabhūtaṃ buddhāveṇikaṃ catusaccakammaṭṭhānādhiṭṭhānaṃ aviparītaṃ nibbānagāminippaṭipadaṃ pakāsetīti daṭṭhabbaṃ. Idāni tattha sammāpaṭipattiyaṃ niyojeti **‘‘appamādena sampādethā’’**ti. Atha vā **‘‘vayadhammā saṅkhārā’’**ti etena saṅkhepena saṃvejetvā **‘‘appamādena sampādethā’’**ti saṅkhepeneva niravasesaṃ sammāpaṭipattiṃ dasseti. Appamādapadañhi sikkhāttayasaṅgahitaṃ kevalaparipuṇṇaṃ sāsanaṃ pariyādiyitvā tiṭṭhatīti.
「滅びゆくもの」という言葉によって、無常の相を通して諸行の苦と無我の相をも明らかにしている。「無常なものは苦であり、苦であるものは無我である」(相応部 3.15; 無礙道 2.10)という言葉による。そして、三相を明らかにするこの方法によって、それを対象とする観を説き示し、すべての外道には対象とならない、仏陀特有の四聖諦を基礎とする瞑想の対象、すなわち誤りのない、涅槃に至る実践の道を説示していると見るべきである。今やその中で正しい実践へと人々を導くために、「怠ることなく(務めを)成し遂げよ」と述べている。あるいは、「諸行は滅びゆくものである」という言葉で簡潔に感動させ、そして「怠ることなく(務めを)成し遂げよ」という言葉で、簡潔に余すところなく正しい実践全体を示しているのである。なぜなら、「不放逸(怠らないこと)」という言葉は、三学を含む完全に充実した教えを網羅して存在しているからである。
Paṭhamasaṅgītiyaṃ asaṅgītaṃ saṅgītikkhandhakakathāvatthuppakaraṇādi. Keci pana ‘‘subhasuttampi (dī. ni. 1.444) paṭhamasaṅgītiyaṃ asaṅgīta’’nti vadanti, taṃ pana na yujjati. Paṭhamasaṅgītito puretarameva hi āyasmatā ānandena jetavane viharantena subhassa māṇavassa bhāsitanti.
第一次結集で結集されなかったものとしては、結集に関する諸部門や『論事論』などがある。しかし、「スッバ経(長部 1.444)も第一次結集で結集されなかった」と言う者もいるが、それは適切ではない。なぜなら、第一次結集よりも前に、アーナンダ尊者がジェータ林に滞在している時に、スッバという婆羅門の青年に対して説かれたものであるからだ。
Daḷhikammasithilīkaraṇappayojanā yathākkamaṃ pakatisāvajjapaṇṇattisāvajjesu sikkhāpadesu. Tenāti vividhanayattādinā. Etanti vividhavisesanayattāti gāthāvacanaṃ. Etassāti vinayassa.
堅固にすることと緩めることを目的とするのは、それぞれ本来的に罪である戒と制定によって罪となる戒における学処である。「それゆえ」とは、様々な方法論などによる、という意味である。「これ」とは、「様々に優れた方法論によって」という詩句の言葉である。「これの」とは、律のことである。
Attatthaparatthādibhedeti yo taṃ suttaṃ sajjhāyati, suṇāti, vāceti, cinteti, deseti ca, suttena saṅgahito sīlādiattho tassāpi hoti, tena parassa sādhetabbato parassāpi hotīti, tadubhayaṃ taṃ suttaṃ sūceti dīpeti. Tathā diṭṭhadhammikasamparāyikaṃ lokiyalokuttarañcāti evamādibhede atthe ādi-saddena saṅgaṇhāti. Attha-saddo cāyaṃ hitapariyāyavacanaṃ, na bhāsitatthavacanaṃ, yadi siyā, suttaṃ attanopi bhāsitatthaṃ sūceti, parassāpīti ayamattho vutto siyā. Suttena ca yo attho pakāsito so tasseva hotīti, na tena parattho sūcito hoti, tena sūcetabbassa paratthassa nivattetabbassa abhāvā atthagahaṇañca na kattabbaṃ. Attatthaparatthavinimmuttassa bhāsitatthassa abhāvā ādiggahaṇañca na kattabbaṃ. Tasmā yathāvuttassa hitapariyāyassa atthassa sutte asambhavato suttadhārassa puggalassa vasena attatthaparatthā vuttā.
自利、他利などの区別とは、その経を読誦し、聞き、唱え、思惟し、説く者にとって、経によって含まれる戒などの意味が彼のためにもなり、それによって他者の目的が達成されるため、他者のためにもなる、という意味であり、その経はその両方を示すのである。同様に、現世的・来世的、世俗的・出世間的というような意味の区別を「など」という言葉で含む。「アッタ(attha)」という言葉は、ここにおいては利益の同義語であり、説かれた意味の言葉ではない。もしそうであるならば、「経は自身のためにも説かれた意味を示し、他者のためにも示す」という意味が語られるだろう。そして経によって説示された意味は、その経自身のものであるから、それによって他者の利益が示されたことにはならない。それによって示すべき他者の利益を否定すべきではないため、意味の解釈もなされるべきではない。自利と他利から離れた説かれた意味がないため、「など」という言葉を用いるべきではない。したがって、先に述べた利益の同義語としての意味が経典に存在しないため、経典を保持する人に関して自利と他利が述べられたのである。
Atha vā suttaṃ anapekkhitvā ye attatthādayo atthappabhedā vuttā ‘‘na haññadatthatthipasaṃsalābhā’’ti etassa padassa niddese (mahāni. 63; cūḷani. 85) ‘‘attattho, parattho, ubhayattho, diṭṭhadhammiko attho, samparāyiko attho, uttāno attho, gambhīro attho, gūḷho attho, paṭicchanno attho, neyyo attho, nīto attho, anavajjo attho, nikkileso attho, vodāno attho, paramattho’’ti te suttaṃ sūcetīti attho. Imasmiṃ atthavikappe attha-saddo bhāsitatthapariyāyopi hoti. Ettha hi purimakā pañca atthappabhedā hitapariyāyā, tato pare cha bhāsitatthabhedā, pacchimakā pana ubhayasabhāvā. Tattha duradhigamatāya vibhāvane aladdhagādho gambhīro. Na vivaṭo gūḷho. Mūludakādayo viya paṃsunā akkharasannivesādinā tirohito paṭicchanno. Niddhāretvā ñāpetabbo neyyo. Yathārutavasena veditabbo nīto. Anavajjanikkilesavodānā pariyāyavasena vuttā, kusalavipākakiriyādhammavasena vā. Paramattho nibbānaṃ, dhammānaṃ aviparītasabhāvo eva vā. Atha vā ‘‘attanā ca appiccho hotī’’ti attatthaṃ, ‘‘appicchākathañca paresaṃ kattā hotī’’ti paratthaṃ sūceti. Evaṃ ‘‘attanā ca pāṇātipātā paṭivirato hotī’’tiādi (a. ni. 4.99, 265) suttāni yojetabbāni. Vinayābhidhammehi ca visesetvā sutta-saddassa attho vattabbo. Tasmā veneyyajjhāsayavasappavattāya desanāya attahitaparahitatādīni sātisayaṃ pakāsitāni hoti tapparabhāvato, na āṇādhammasabhāvavasappavattāyāti idameva ca **‘‘atthānaṃ sūcanato sutta’’**nti vuttaṃ.
あるいは、経典に頼らずに、「利得や称賛や利得を求めて殺さない」という句の解説(大義釈 63; 小義釈 85)で述べられた、自利、他利、両利、現世の利、来世の利、顕現の利、深遠の利、隠れた利、覆われた利、解釈されるべき利、導かれた利、無過失の利、煩悩なき利、清浄の利、究極の利という自利などの意味の分類があるが、それらが経を示すという意味である。この意味の解釈においては、「アッタ」という言葉は、説かれた意味の同義語ともなる。ここにおいて、最初の5つの意味の分類は利益の同義語であり、その後の6つは説かれた意味の分類であり、最後のものは両方の性質を持つ。その中で、理解することが難しいため、その説明において奥底に至らないものが「深遠の利」である。明らかにされていないものが「隠れた利」である。塵によって文字の配列などによって覆われている、根や水などのように隠れたものが「覆われた利」である。定義して知らしめるべきものが「解釈されるべき利」である。聞いた通りに理解されるべきものが「導かれた利」である。「無過失」「煩悩なき」「清浄」は同義語として述べられるか、あるいは善業、報い、行為などの法として述べられる。「究極の利」はニルヴァーナであり、あるいは単に諸法のあるがままの自性である。あるいは、「自分自身も少欲である」という句は自利を、「他者のためにも少欲を説く者である」という句は他利を示す。このように、「自分自身も殺生から離れる」などの経典(増支部 4.99, 265)も解釈されるべきである。律とアビダンマによって区別して、経典の言葉の意味を説くべきである。したがって、教化されるべき人々の傾向に基づいて行われる説法によって、自利や他利などが特に示されるのであり、戒律の法としての性質に基づいて行われるのではない。これこそ「諸々の意味を示す故に経(スッタ)」と言われる所以である。
Sutte ca āṇādhammasabhāvā ca veneyyajjhāsayaṃ anuvattanti, na vinayābhidhammesu viya veneyyajjhāsayo āṇādhammasabhāve. Tasmā veneyyānaṃ ekantahitapaṭilābhasaṃvattanikā suttantadesanā hotīti **‘‘suvuttā cetthā’’**tiādi vuttaṃ. Pasavatīti phalati. **‘‘Suttāṇā’’**ti etassa atthaṃ pakāsetuṃ **‘‘suṭṭhu ca ne tāyatī’’**ti vuttaṃ. Attatthādividhānesu ca suttassa pamāṇabhāvo, attatthādīnañca saṅgāhakattaṃ yojetabbaṃ tadatthappakāsanapadhānattā suttassa. Vinayābhidhammehi visesanañca yojetabbaṃ. Etanti ‘‘atthānaṃ sūcanato’’tiādikaṃ atthavacanaṃ. Etassāti suttassa.
経典においては、戒律の法としての性質も教化されるべき人々の傾向に従うのであり、律やアビダンマのように、教化されるべき人々の傾向が戒律の法としての性質に従うのではない。したがって、経典の説法は、教化されるべき人々にとって確実に利益を得させるものであるから、「そこにはよく説かれている」などと述べられている。「生み出す」とは「実を結ぶ」という意味である。「スッタの防護」という意味を明らかにするために、「それらをよく守る」と述べられている。自利などの区別において、経典が権威であること、そして自利などが経典によって包含されることも結びつけるべきである。なぜなら、経典がそれらの意味を明らかにすることを主とするからである。律とアビダンマとの区別も結びつけるべきである。「これ」とは、「諸々の意味を示す故に」というような言葉の意味である。「これの」とは、経典のことである。
Abhikkamantīti ettha abhi-saddo kamanakiriyāya vuddhibhāvaṃ atirekataṃ dīpeti, abhiññātā abhilakkhitāti ettha ñāṇalakkhaṇakiriyānaṃ supākaṭatāvisesaṃ, abhikkantenāti ettha kantiyā adhikattaṃ visiṭṭhatanti yuttaṃ kiriyāvisesakattā upasaggassa. Abhirājā abhivinayeti pana pūjitaparicchinnesu rājavinayesu abhi-saddo pavattatīti kathametaṃ yujjeyyāti? Pūjanaparicchedanakiriyādīpanato, tāhi ca kiriyāhi rājavinayānaṃ yuttattā. Ettha hi atimālādīsu ati-saddo viya, abhi-saddo yathā saha sādhanena kiriyaṃ vadatīti abhirājaabhivinaya-saddā siddhā, evaṃ abhidhammasadde abhi-saddo saha sādhanena vuḍḍhiyādikiriyaṃ dīpetīti ayamattho dassitoti daṭṭhabbo.
「進み行く」という言葉において、「アビ(abhi)」という接頭辞は、行くという行為の増大と過剰を示す。「特に知られた」「特に優れた」という言葉において、知識、特性、行為の非常に明白な特異性を示す。「特に好まれた」という言葉において、そこでは愛着の優越性と卓越性を示す。接頭辞が行為を修飾するから、これは適切である。しかし、「偉大な王(Abhirājā)」や「特に律を定める(Abhivinayati)」という言葉において、「アビ(abhi)」という接頭辞が尊敬され区別された王の律において用いられるのは、どうして適切であろうか。それは、尊敬と区別の行為を示すからであり、それらの行為が王の律に適切だからである。ここにおいて、「非常に優れた花環」などにおける「アティ(ati)」という接頭辞のように、「アビ(abhi)」という接頭辞が、伴う手段とともに行為を述べるように、「アビラージャ」や「アビヴィナヤ」という言葉は成立するのである。このように、『アビダンマ』という言葉において、「アビ(abhi)」という接頭辞が、伴う手段とともに増大などの行為を示すという意味が示されていると見るべきである。
Bhāvanāpharaṇavuḍḍhīhi vuḍḍhimantopi dhammā vuttā. Ārammaṇādīhīti ārammaṇasampayuttakammadvārapaṭipadādīhi. Avisiṭṭhanti aññamaññavisiṭṭhesu vinayasuttābhidhammesu avisiṭṭhaṃ samānaṃ. Taṃ piṭakasaddanti attho. Yathāvuttenāti ‘‘evaṃ duvidhatthenā’’tiādinā vuttappakārena.
修習、普及、増大によって増大する諸法も述べられている。「対象などによって」とは、対象、相応、業、門、道などによって、という意味である。「区別なく」とは、互いに区別される律、経、アビダンマにおいて区別なく共通である、という意味である。それは「ピタカ」という言葉であるという意味である。「述べられたように」とは、「このように二通りの意味によって」などと述べられた方法によって、という意味である。
Kathetabbānaṃ atthānaṃ desakāyattena āṇādividhinā atisajjanaṃ pabodhanaṃ desanā. Sāsitabbapuggalagatena yathāparādhādisāsitabbabhāvena anusāsanaṃ vinayanaṃ sāsanaṃ. Kathetabbassa saṃvarāsaṃvarādino atthassa kathanaṃ vacanapaṭibaddhatākaraṇaṃ kathā. Kathīyati vā etthāti kathā. Saṃvarāsaṃvarassa kathā saṃvarāsaṃvarakathā. Esa nayo itaresupi. Bheda-saddo visuṃ visuṃ yojetabbo ‘‘desanābhedaṃ sāsanabhedaṃ kathābhedañca yathārahaṃ paridīpaye’’ti. Bhedanti ca nānattanti attho. Sikkhā ca pahānāni ca gambhīrabhāvo ca sikkhāppahānagambhīrabhāvaṃ, tañca paridīpaye. Ettha yathāti upārambhanissaraṇadhammakosarakkhaṇahetupariyāpuṇanaṃ suppaṭipatti duppaṭipattīti etehi pakārehi. Āṇaṃ paṇetuṃ arahatīti āṇāraho sammāsambuddhattā. Vohāraparamatthānampi sabbhāvato āha āṇābāhullatoti. Ito paresupi eseva nayo. Pacurāparādhā seyyasakādayo. Ajjhāsayo āsayova atthato diṭṭhi, ñāṇañca. Vuttañcetaṃ –
説かれるべき事柄を、説法者が戒律などの方法で特に教え導き、覚醒させることが「説法(desanā)」である。懲戒されるべき人々の状態に応じて、その罪などに応じて懲戒されるというあり方で、教え諭し、調伏することが「教誡(sāsana)」である。説かれるべき抑制や不抑制などの事柄を説くこと、すなわち言葉に拘束を与えることが「言論(kathā)」である。あるいは、それによって説かれるものが「言論」である。抑制と不抑制の言論は抑制と不抑制の言論である。この方法は他のものにも当てはまる。「べーダ(区別)」という言葉は、「説法の区別、教誡の区別、言論の区別をそれぞれ明らかにせよ」と、それぞれに結びつけて解釈されるべきである。「区別」とは、多様であるという意味である。学と捨断と深遠な性質、すなわち学と捨断と深遠な性質も明らかにせよ。ここでの「どのように」とは、責めること、出離すること、法の蔵、保護、原因、完遂、正行、悪行といった様式によって、という意味である。戒律を制定するに値するゆえに「戒律を制定するに値する者」とは、正等覚者であることからである。世俗と勝義の真実の性質から、「戒律が多い」と説かれる。これ以降も同様である。罪過が多いセイヤサカなどの人々。「性向(ajjhāsayo)」とは、実際には見解であり、知識である。また、これは説かれている。
‘‘Sassatucchedadiṭṭhi ca, khanti cevānulomike;
「常見と断見、そして順応する忍耐もまた、
Yathābhūtañca yaṃ ñāṇaṃ, etaṃ āsayasaddita’’nti. (visuddhi. ṭī. 1.136);
あるがままの知識、それが性向と呼ばれる。」(清浄道論註 1.136)
Anusayā kāmarāgabhavarāgadiṭṭhipaṭighavicikicchāmānāvijjāvasena satta anāgatā kilesā, atītā paccuppannā ca tatheva vuccanti. Na hi kālabhedena dhammānaṃ sabhāvabhedo atthīti. Cariyāti cha mūlacariyā, antarabhedena anekavidhā, saṃsaggavasena tesaṭṭhi honti. Te pana amhehi asammohantaradhānasuttaṭīkāyaṃ vibhāgato dassitā, atthikehi tato gahetabbā. Atha vā cariyāti caritaṃ, taṃ sucaritaduccaritavasena duvidhaṃ. Adhimutti nāma sattānaṃ pubbaparicayavasena abhiruci, sā duvidhā hīnapaṇītabhedena. Ghanavinibbhogābhāvato diṭṭhimānataṇhāvasena ‘‘ahaṃ mamā’’ti saññino. Mahanto saṃvaro asaṃvaro. Buddhiattho hi aya’makāro yathā ‘‘asekkhā dhammā’’ti (dha. sa. 11).
随眠とは、欲貪、有貪、見、瞋恚、疑、慢、無明の七つの未来の煩悩であり、過去や現在のものも同様に呼ばれる。なぜなら、時間の違いによって諸法の自性に違いはないからである。「行(cariyā)」とは六つの根本行であり、内部分類では多様であり、結合によって六十三となる。それらは私によって『アサンモーハンタラダーナ経註』で詳細に示されているので、求める者はそこから得るべきである。あるいは、「行」とは振る舞いのことであり、それは善行と悪行の二種である。「志向(adhimutti)」とは、衆生の過去の経験に基づく好みであり、それは劣ったものと優れたものに二分される。堅固な区別がないため、見、慢、渇愛によって「私である」「私のもの」と認識する。大きな抑制と不抑制。この「ア」という音は、実際には智慧の意味である。「無学の法々」(ダンマサンガニ 11)というように。
Tīsupi cetesu ete dhammatthadesanā paṭivedhāti ettha tantiattho tantidesanā tantiatthapaṭivedho ca tantivisayā hontīti vinayapiṭakādīnaṃ atthadesanāpaṭivedhādhārabhāvo yutto, piṭakāni pana tanti yevāti tesaṃ dhammādhārabhāvo kathaṃ yujjeyyāti? Tantisamudāyassa avayavatantiyā ādhārabhāvato. Avayavassa hi samudāyo ādhārabhāvena vuccati, yathā – ‘‘rukkhe sākhā’’ti. Dhammādīnañca dukkhogāhabhāvato tehi vinayādayo gambhīrāti vinayādīnañca catubbidho gambhīrabhāvo vutto. Tasmā dhammādayo eva dukkhogāhattā gambhīrā, na vinayādayoti na codetabbametaṃ samukhena, visayavisayīmukhena ca vinayādīnaṃyeva gambhīrabhāvassa vuttattā. Dhammo hi vinayādayo, tesaṃ visayo attho, dhammatthavisayā ca desanāpaṭivedhoti. Tattha paṭivedhassa dukkarabhāvato dhammatthānaṃ, desanāñāṇassa dukkarabhāvato desanāya ca dukkhogāhabhāvo veditabbo, paṭivedhassa pana uppādetuṃ asakkuṇeyyattā, tabbisayañāṇuppattiyā ca dukkarabhāvato dukkhogāhatā veditabbā.
「これら三つのことにおいて、これらは法・義の教説と体得である」という表現では、聖典の意義、聖典の教説、聖典の意義の体得が聖典の領域であるから、律蔵などの意義、教説、体得の基礎となることは適切である。しかし、「蔵は聖典そのものである」という場合に、それらが法の基礎となるのはどうして理にかなうのか?それは、聖典の全体が、部分である聖典の基礎となるからである。ちょうど「樹木に枝がある」と言うように、全体が部分の基礎であると表現される。また、法などが理解しがたいものであるために、律蔵などが深遠であると言われる。そして律蔵などの四種の深遠さが説かれている。したがって、「法などこそが理解しがたいために深遠なのであって、律蔵などではない」と直接的に反論すべきではない。対象と、対象を受けるものの側面から、律蔵などの深遠さが説かれているからである。法とは律蔵などであり、それらの対象は義であり、法と義を対象とするのが教説と体得である。ここにおいて、体得が難行であることから、法と義の難しさ、教説の智が難行であることから教説が理解しがたいこと、そして体得そのものが生じさせがたいことから、その対象に関する智が生起することの難しさから、体得が理解しがたいことと知るべきである。
**‘‘Hetumhi ñāṇaṃ dhammapaṭisambhidā’’**ti etena vacanena dhammassa hetubhāvo kathaṃ ñātabboti? **‘‘Dhammapaṭisambhidā’’**ti etassa samāsapadassa avayavapadatthaṃ dassentena **‘‘hetumhi ñāṇa’’**nti vuttattā. ‘‘Dhamme paṭisambhidā’’ti ettha hi ‘‘dhamme’’ti etassa atthaṃ dassentena ‘‘hetumhī’’ti vuttaṃ, ‘‘paṭisambhidā’’ti etassa ca atthaṃ dassentena ‘‘ñāṇa’’nti. Tasmā hetudhamma-saddā ekatthā, ñāṇapaṭisambhidā-saddā cāti imamatthaṃ vadantena sādhito dhammassa hetubhāvo, atthassa hetuphalabhāvo ca evameva daṭṭhabbo.
「**「因における智が法無礙解である」**という言葉によって、法が因であると、どうして知られるのでしょうか?」それは、「法無礙解」という複合語を構成する個々の語の意味を示す際に、「**因における智**」と言われているからである。「法における無礙解」という句において、「法における」の意味を示すために「因における」と言われ、「無礙解」の意味を示すために「智」と言われている。したがって、「因」と「法」という語は同義であり、「智」と「無礙解」という語も同義である、とこの意味を述べることによって、法が因であること、そして義が因果であることも同様に証明されていると見なすべきである。
Yathādhammanti cettha dhamma-saddo hetuṃ hetuphalañca sabbaṃ saṅgaṇhāti. Sabhāvavācako hesa, na pariyattihetubhāvavācako, tasmā yathādhammanti yo yo avijjāsaṅkhārādidhammo, tasmiṃ tasminti attho. Dhammānurūpaṃ vā yathādhammaṃ. Desanāpi hi paṭivedho viya aviparītasavisayavibhāvanato dhammānurūpaṃ pavattati, yato ‘aviparītābhilāpo’ti vuccati. Dhammābhilāpoti atthabyañjanako aviparītābhilāpo, etena ‘‘tatra dhammaniruttābhilāpe ñāṇaṃ niruttipaṭisambhidā’’ti (vibha. 718) ettha vuttaṃ sabhāvadhammaniruttiṃ dasseti, saddasabhāvattā desanāya. Tathā hi niruttipaṭisambhidāya parittārammaṇādibhāvo paṭisambhidāvibhaṅgapāḷiyaṃ (vibha. 749) vutto. Aṭṭhakathāyañca ‘‘taṃ sabhāvaniruttiṃ saddaṃ ārammaṇaṃ katvā’’tiādinā (vibha. aṭṭha. 642) saddārammaṇatā dassitā. ‘‘Imassa atthassa ayaṃ saddo vācako’’ti vacanavacanīye vavatthapetvā taṃtaṃvacanīya vibhāvanavasena pavattito hi saddo desanāti. **‘‘Anulomādivasena vā kathana’’**nti etena tassā dhammaniruttiyā abhilāpaṃ kathanaṃ tassa vacanassa pavattanaṃ dasseti. **‘‘Adhippāyo’’**ti etena ‘‘desanāti paññattī’’ti etaṃ vacanaṃ dhammaniruttābhilāpaṃ sandhāya vuttaṃ, na tabbinimuttaṃ paññattiṃ sandhāyāti dasseti.
「如法(法に随って)」という場合、ここでの「法」という語は、因、そして因と果のすべてを含む。これは本性を表す語であり、単に聖典の因たる性質を表す語ではない。それゆえ、「如法」とは、「無明や行など、それぞれの法において」という意味である。あるいは、「法に相応しい」という意味で「如法」である。教説もまた、体得と同様に、その対象を真実のままに明らかにすることによって、法に相応しく展開する。それゆえ、「真実の表現」と呼ばれる。「法の表現」とは、義を解き明かす真実の表現である。これによって、「そこにおいて、法語の表現における智が語無礙解である」(分別論718)と説かれている、本性としての法語を示す。なぜなら、教説は語の本性を持つからである。このように、語無礙解においては、微細な対象などがあることが、『分別論』(分別論749)のパーリ聖典で説かれている。注釈書においても、「その本性を持つ語を対象として」など(分別論注釈書642)によって、語を対象とすることが示されている。「この義に対して、この語が語り手である」と、語るものと語られるものを分類し、それぞれの語られるものを解明するように展開される語が、まさしく教説である。「**あるいは順序などに従って語ること**」という言葉は、その法語の表現を語ること、すなわちその言葉の展開を示す。「**意図**」という言葉は、「教説とは施設である」という言葉が、法語の表現を意図して言われたものであり、それから切り離された施設を意図したものではない、ということを示す。
Nanu ca ‘‘dhammo tantī’’ti imasmiṃ pakkhe dhammassa saddasabhāvattā dhammadesanānaṃ viseso na siyāti? Na, tesaṃ tesaṃ atthānaṃ bodhakabhāvena ñāto, uggahaṇādivasena ca pubbe vavatthāpito saddappabandho dhammo, pacchā paresaṃ avabodhanatthaṃ pavattito tadatthappakāsako saddo desanāti. Atha vā yathāvuttasaddasamuṭṭhāpako cittuppādo desanā, musāvādādayo viya. ‘‘Vacanassa pavattana’’nti ca yathāvuttacittuppādavasena yujjati. So hi vacanaṃ pavatteti, tañca tena pavattīyati desīyati. ‘‘So ca lokiyalokuttaro’’ti evaṃ vuttaṃ abhisamayaṃ yena pakārena abhisameti, yaṃ abhisameti, yo ca tassa sabhāvo, tehi pākaṭaṃ kātuṃ **‘‘visayato asammohato ca atthānurūpaṃ dhammesū’’**tiādimāha. Tattha hi visayato atthādianurūpaṃ dhammādīsu avabodho avijjādidhammasaṅkhārādiatthatadubhayapaññāpanārammaṇo lokiyo abhisamayo, asammohato atthādianurūpaṃ dhammādīsu avabodho nibbānārammaṇo maggasampayutto yathāvuttadhammatthapaññattīsu sammohaviddhaṃsano lokuttaro abhisamayoti. Abhisamayato aññampi paṭivedhatthaṃ dassetuṃ **‘‘tesaṃ tesaṃ vā’’**tiādimāha. ‘Paṭivedhanaṃ paṭivedho’ti iminā hi vacanatthena abhisamayo, ‘paṭivijjhīyatīti paṭivedho’ti iminā taṃtaṃrūpādidhammānaṃ aviparītasabhāvo ca ‘‘paṭivedho’’ti vuccatīti.
「しかし、『法は聖典である』という立場では、法が語の本性を持つため、法の教説との区別がなくなるのではないでしょうか?」「そうではない。それぞれの義を知らせるものとして理解され、受持などによってあらかじめ定められた語の連なりが法である。後になって、他者に理解させるために展開された、その義を明らかにする語が教説である。」あるいは、「前述の語を生じさせる心生起が教説である」と言うこともできる。妄語などのように。「言葉の展開」というのも、前述の心生起によって成り立つ。その心生起が言葉を展開させ、それによって言葉が展開され、説法されるからである。「それは世間的なものと出世間的なものである」と述べられた現観について、どのような形で現観し、何を現観し、その本性は何であるかを明らかにするために、「**対象によって、不迷妄によって、義に相応して諸法において**」などと述べられている。ここで、対象によって義に相応して諸法などにおける理解とは、無明などの法、行などの義、そしてその両方を明らかにするものを対象とする世間的な現観である。不迷妄によって義に相応して諸法などにおける理解とは、涅槃を対象とし、道と相応し、前述の法と義に関する概念における迷妄を完全に打ち破る出世間的な現観である。現観以外の体得の意味も示すために、「**あるいはそれぞれの**」などと述べられている。「体得すること、それが体得」という言葉の意味によって現観であり、「体得されるもの、それが体得」という言葉の意味によって、それぞれの色などの法の真実の本性もまた「体得」と呼ばれるのである。
Yathāvuttehi dhammādīhi piṭakānaṃ gambhīrabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘idāni yasmā etesu piṭakesū’’**tiādimāha. Yo cetthāti etesu taṃtaṃpiṭakagatesu dhammādīsu yo paṭivedho, etesu ca piṭakesu tesaṃ tesaṃ dhammānaṃ yo aviparītasabhāvoti yojetabbaṃ. Dukkhogāhatā ca avijjāsaṅkhārādīnaṃ dhammatthānaṃ duppaṭivijjhatāya, tesaṃ paññāpanassa dukkarabhāvato taṃdesanāya, paṭivedhanasaṅkhātassa paṭivedhassa uppādanavisayikaraṇānaṃ asakkuṇeyyattā, aviparītasabhāvasaṅkhātassa paṭivedhassa duviññeyyatāya eva veditabbā.
前述の諸法などによって諸蔵の深遠さを示すために、「**さて、今、これらの諸蔵において**」などと述べられている。「ここにあるものとは」とは、これらのそれぞれの蔵に含まれる諸法などにおける体得、そしてこれらの諸蔵におけるそれぞれの法の真実の本性である、と解釈すべきである。把握しがたいこととは、無明や行などの法と義が体得しにくいこと、それらを開示することの難しさゆえに、その教説が難解であること、また体得として認識される体得を生じさせたり、その対象とすることが不可能であること、さらに真実の本性として認識される体得が理解しにくいことによって知られるべきである。
Yanti yaṃ pariyattiduggahaṇaṃ sandhāya vuttaṃ. Atthanti bhāsitatthaṃ, payojanatthañca. Na upaparikkhantīti na vicārenti. Na nijjhānaṃ khamantīti nijjhānapaññaṃ nakkhamanti, nijjhāyitvā paññāya disvā rocetvā gahetabbā na hontīti adhippāyo. Itīti evaṃ etāya pariyattiyā. Vādappamokkhānisaṃsā attano upari parehi āropitavādassa niggahassa pamokkhappayojanā hutvā dhammaṃ pariyāpuṇanti, vādappamokkhā vā nindāpamokkhā. Yassa catthāyāti yassa ca sīlādipūraṇassa anupādāvimokkhassa vā atthāya dhammaṃ pariyāpuṇanti ñāyena pariyāpuṇantīti adhippāyo. Assāti assa dhammassa. Nānubhontīti na vindanti. Tesaṃ te dhammā duggahitattā upārambhamānadabbamakkhapalāsādihetubhāvena dīgharattaṃ ahitāya dukkhāya saṃvattanti. Bhaṇḍāgāre niyutto bhaṇḍāgāriko, bhaṇḍāgāriko viya bhaṇḍāgāriko, dhammaratanānupālako. Aññatthaṃ anapekkhitvā bhaṇḍāgārikasseva sato pariyatti bhaṇḍāgārikapariyatti.
「何が」とは、聖典の誤った受持を指して述べられた言葉である。「義」とは、説かれた義、そして目的の義である。「探求しない」とは、考察しないこと。「熟考に耐えない」とは、熟考の智慧を受け入れないこと、すなわち、熟考し、智慧をもって見て、是認し、受け入れるべきではない、という意味である。「このように」とは、その聖典によって、という意味である。「論争からの解脱を利益とする人々」とは、他人から自分に向けられた論争による非難から解脱することを目的として法を学ぶ人々であり、あるいは「論争からの解脱」とは「誹謗からの解脱」である。「何のために」とは、戒の完成や無執着解脱などの目的のために法を学ぶ人々は、正しく学ぶ、という意味である。「その」とは、その法のこと。「経験しない」とは、得ることがない、ということ。それらの人々にとって、それらの法は誤って受持されたために、非難、慢、偽善、敵意などの原因となって、長い間、不幸と苦しみにつながるのである。宝庫に任命された者が宝庫番である。宝庫番のように、宝庫番とは法の宝を守護する者である。他に期待することなく、宝庫番のように覚醒している聖典の学習が「宝庫番の学習」である。
**‘‘Tāsaṃyevā’’**ti avadhāraṇaṃ pāpuṇitabbānaṃ chaḷabhiññācatuppaṭisambhidādīnaṃ vinaye pabhedavacanābhāvaṃ sandhāya vuttaṃ. Verañjakaṇḍe (pārā. 12) hi tisso vijjāva vibhattā. Dutiye pana **‘‘tāsaṃyevā’’**ti avadhāraṇaṃ catasso paṭisambhidā apekkhitvā kataṃ, na tisso vijjā. Tā hi chasu abhiññāsu antogadhāti sutte vibhattā yevāti.
「**それらのまさに**」という限定は、到達すべき六神通、四無礙解などについて、律において詳細な言及がないことを指して述べられている。実際、ヴェランジャ篇(波羅夷12)では、三明のみが分類されている。しかし、第二の文脈における「**それらのまさに**」という限定は、四無礙解を考慮してなされたものであり、三明ではない。なぜなら、それら(三明)は六神通の中に含まれており、経においてはすでに分類されているからである。
Duggahitaṃ gaṇhāti, ‘‘tathāhaṃ bhagavatā dhammaṃ desitaṃ ājānāmi, yathā tadevidaṃ viññāṇaṃ sandhāvati saṃsarati anañña’’ntiādinā (ma. ni. 1.396). Dhammacintanti dhammasabhāvavicāraṇaṃ, ‘‘cittuppādamatteneva dānaṃ hoti, sayameva cittaṃ attano ārammaṇaṃ hoti, sabbaṃ cittaṃ asabhāvadhammārammaṇa’’nti ca evamādi. Tesanti tesaṃ piṭakānaṃ.
「誤って捉える」とは、「私は世尊によって説かれた法をそのように理解する。すなわち、この識は輪廻し、転生しても他ならぬものとして続く」など(中部経典1.396)を指す。「法を思惟すること」とは、法の本性を考察すること、例えば「心生起だけで布施となる、心はそれ自体が自身の対象となる、すべての心は自性のない法を対象とする」などといったことである。「それらの」とは、それらの諸蔵のことである。
Etanti etaṃ buddhavacanaṃ. Atthānulomato anulomiko. Anulomikataṃyeva vibhāvetuṃ **‘‘kasmā panā’’**tiādi vuttaṃ. Ekanikāyampīti ekasamūhampi. Poṇikā cikkhallikā ca khattiyā, tesaṃ nivāso poṇikanikāyo cikkhallikanikāyo ca.
「これ」とは、この仏語のことである。「義に順応することから」は順応的である。その順応性を明らかにするために、「**しかし、どうして**」などと述べられている。「一つの部もまた」とは、一つの集団もまた、ということである。ポーニカ族とチッカッリカ族はクシャトリヤである。彼らの居住地がポーニカ部、チッカッリカ部である。
Navappabhedanti ettha kathaṃ navappabhedaṃ? Sagāthakañhi suttaṃ geyyaṃ, niggāthakañca suttaṃ veyyākaraṇaṃ, tadubhayavinimuttañca suttaṃ udānādivisesasaññārahitaṃ natthi, yaṃ suttaṅgaṃ siyā, maṅgalasuttādīnañca (khu. pā. 5.2; su. ni. 225) suttaṅgasaṅgaho na siyā, gāthābhāvato, dhammapadādīnaṃ viya, geyyaṅgasaṅgaho vā siyā, sagāthakattā, sagāthavaggassa viya, tathā ubhatovibhaṅgādīsu sagāthakappadesānanti? Vuccate –
「九分教」というが、どのようにして九分となるのか?偈を含む経は重頌であり、偈を含まない経は記別である。その両方から区別され、自説などの特別な名称を持たない経は存在せず、それが経分となることはない。吉祥経など(小部5.2; 経集225)は、偈であるために、『ダンマパダ』などのように経分には含まれない。あるいは、偈を含むため、『偈頌品』などのように重頌分に含まれるのではないか?また、両分解などには偈を含む箇所があるのではないか?それに答える。
‘‘Suttanti sāmaññavidhi, visesavidhayo pare;
「経とは共通の規定であり、他は個別の規定である。
Sanimittā niruḷhattā sahatāññena nāññato’’. (sārattha. ṭī. 1.paṭhamamahāsaṅgītikathāvaṇṇanā);
それは標識を持ち、慣用となり、他によって結びつけられるのであって、他からではない。」 (サーラッタティーカ1.第一回大結集物語解説)
Sabbassāpi hi buddhavacanassa suttanti ayaṃ sāmaññavidhi. Tenevāha āyasmā mahākaccāno nettiyaṃ – ‘‘navavidhasuttantapariyeṭṭhī’’ti (netti. saṅgahavāra). ‘‘Ettakaṃ tassa bhagavato suttāgataṃ suttapariyāpannaṃ (pāci. 255, 1242), sakavāde pañcasuttasatānī’’ti (dha. sa. aṭṭha. nidānakathā; kathā. aṭṭha. nidānakathā) evamādi ca etassa atthassa sādhakaṃ.
まさに、すべての仏語に対して「経」という、これが共通の規定である。それゆえ、マハーカッチャーナ長老は『ネッティパックアナ』(導論)において、「九種の経典探求」と述べている(ネッティ・サンガハヴァーラ)。「これほどに世尊の経典に入り、経典に含まれるもの(波逸提255, 1242)、自宗においては五百の経典がある」(『ダンマサンガニー』注釈書序論;『カターヴァットゥ』注釈書序論)などといったことも、この意味を証明するものである。
Visesavidhayo pare sanimittā tadekadesesu geyyādayo visesavidhayo tena tena nimittena patiṭṭhitā. Tathā hi geyyassa sagāthakattaṃ tabbhāvanimittaṃ. Lokepi hi sasilokaṃ sagāthakaṃ (netti. aṭṭha. 13) cuṇṇiyaganthaṃ ‘geyya’nti vadanti. Gāthāvirahe pana sati pucchaṃ katvā vissajjanabhāvo veyyākaraṇassa tabbhāvanimittaṃ. Pucchāvissajjanañhi ‘byākaraṇa’nti vuccati, byākaraṇameva veyyākaraṇaṃ. Evaṃ sante sagāthakādīnampi pucchaṃ katvā vissajjanavasena pavattānaṃ veyyākaraṇabhāvo āpajjatīti? Nāpajjati, geyyādisaññānaṃ anokāsabhāvato, ‘gāthāvirahe satī’ti visesitattā ca. Tathā hi dhammapadādīsu kevalaṃ gāthābandhesu, sagāthakattepi somanassañāṇamayikagāthāyuttesu, ‘vuttañheta’ntiādivacanasambandhesu, abbhutadhammapaṭisaṃyuttesu ca suttavisesesu yathākkamaṃ gāthāudānaitivuttakaabbhutadhammasaññā patiṭṭhitā, tathā satipi gāthābandhabhāve bhagavato atītāsu jātīsu cariyānubhāvappakāsakesu jātakasaññā, satipi pañhāvissajjanabhāve, sagāthakatte ca kesuci suttantesu vedassa labhāpanato vedallasaññā patiṭṭhitāti evaṃ tena tena sagāthakattādinā nimittena tesu tesu suttavisesesu geyyādisaññā patiṭṭhitāti visesavidhayo suttaṅgato pare geyyādayo. Yaṃ panettha geyyaṅgādinimittarahitaṃ, taṃ suttaṅgaṃ visesasaññāparihārena sāmaññasaññāya pavattanatoti. Nanu ca sagāthakaṃ suttaṃ geyyaṃ, niggāthakaṃ suttaṃ veyyākaraṇanti suttaṅgaṃ na sambhavatīti codanā tadavatthā vāti? Na tadavatthā, sodhitattā. Sodhitañhi pubbe gāthāvirahe sati pucchāvissajjanabhāvo veyyākaraṇassa tabbhāvanimittanti.
その他の個別の規定は、それぞれの特徴によって、特定の部分において重頌などが確立されている。例えば、重頌は偈を含むことがその特徴である。世間においても、詩句を含む偈のある(ネッティパックアナ注釈書13)散文を「重頌」と呼ぶ。しかし、偈がない場合に質問をして解答する形式が、記別の特徴である。質問と解答は「byākaraṇa」と呼ばれ、byākaraṇaがvevyākaraṇaである。「このように考えると、偈のある経典なども、質問をして解答する形式で展開されるのだから、記別となるのではないか?」と問われるかもしれない。しかし、そうはならない。重頌などの名称が当てはまる余地がないからであり、「偈がない場合に」と限定されているからである。このように、『ダンマパダ』などの偈のみで構成されるもの、偈を含んでいても喜びの智を伴う偈で構成されるもの、「これは言われたことである」などの言葉につながるもの、未曾有法と関連する経典の特別なものにおいて、それぞれ偈、自説、如是語、未曾有法の名称が確立されている。また、偈で構成されていても、世尊の過去生における行いの功徳を示すものには本生譚の名称が、問答形式であり、かつ偈を含むいくつかの経典には、悟りを得させることから問答経の名称が確立されている。このように、それぞれの偈を含むことなどの特徴によって、それらの特定の経典の特別さに重頌などの名称が確立されている。ゆえに、経分以外の特別な規定が重頌などである。ここにおいて、重頌分などの特徴を持たないものが、特別な名称を欠いて共通の名称として展開される経分である。「しかし、『偈を含む経は重頌であり、偈を含まない経は記別である』とすると、経分は存在しないことになり、その問いは解決しないままである」と反論されるかもしれない。しかし、そうではない。すでに明確にされているからである。すなわち、以前に「偈がない場合に、質問をして解答する形式が、記別の特徴である」と明確にされているからである。
Yañca vuttaṃ – ‘‘gāthābhāvato maṅgalasuttādīnaṃ (khu. pā. 5.1, 2, 3) suttaṅgasaṅgaho na siyā’’ti, taṃ na, niruḷhattā. Niruḷho hi maṅgalasuttādīnaṃ suttabhāvo. Na hi tāni dhammapadabuddhavaṃsādayo viya gāthābhāvena paññātāni, atha kho suttabhāvena. Teneva hi aṭṭhakathāyaṃ ‘‘suttanāmaka’’nti nāmaggahaṇaṃ kataṃ. Yañca pana vuttaṃ – ‘‘sagāthakattā geyyaṅgasaṅgaho siyā’’ti, tadapi natthi, yasmā sahatāññena. Saha gāthāhīti hi sagāthakaṃ. Sahabhāvo nāma atthato aññena hoti, na ca maṅgalasuttādīsu kathāvinimutto koci suttapadeso atthi, yo ‘saha gāthāhī’ti vucceyya, na ca samudāyo nāma koci atthi, yadapi vuttaṃ – ‘‘ubhatovibhaṅgādīsu sagāthakappadesānaṃ geyyaṅgasaṅgaho siyā’’ti tadapi na, aññato. Aññā eva hi tā gāthā jātakādipariyāpannattā. Ato na tāhi ubhatovibhaṅgādīnaṃ geyyaṅgabhāvoti. Evaṃ suttādīnaṃ aṅgānaṃ aññamaññasaṅkarābhāvo veditabbo.
「『詩の形式であることから、吉祥経など(小部経典 5.1, 2, 3)が経の要素として含まれることはないだろう』と述べられていることについて、それは違う。慣例となっているからである。吉祥経などが経の形式であることは、慣例となっているのだ。それらは、ダンマパダや仏種姓などと同じように詩の形式として知られているのではなく、むしろ経の形式として知られている。それゆえ、アッタカター(註釈書)では『経という名』として名称が与えられているのである。また、『詩を含む形式であることから、ゲイヤの要素として含まれるだろう』と述べられていることについても、それは存在しない。なぜなら、それは他のものと一緒になっているからである。『詩を伴う』とはサガーターカ(詩を含む)の意味である。共に存在する状態とは、実質的に他のものと一緒になることであり、吉祥経などには、『詩を伴う』と称されるべき、語りとは独立した経の部分は存在しないし、いかなる集合体も存在しない。『両分別の偈頌を含む箇所がゲイヤの要素として含まれるだろう』と述べられていることについても、それは他のものとは異なる。それらの偈頌は本生譚などに含まれるものであるから、他のものである。したがって、それらによって両分別などがゲイヤの要素となることはない。このように、経などの要素が互いに混同しないことが理解されるべきである。」
‘‘Ayaṃ dhammo…pe… ayaṃ vinayo, imāni caturāsīti dhammakkhandhasahassānī’’ti buddhavacanaṃ dhammavinayādibhedena vavatthapetvā saṅgāyantena mahākassapappamukhena vasigaṇena anekacchariyapātubhāvapaṭimaṇḍitāya saṅgītiyā imassa dīghāgamassa paṭhamamajjhimabuddhavacanādibhāvo vavatthāpitoti dasseti, **‘‘evametaṃ abhedato’’**tiādinā.
「『これこそが法であり…(中略)…これこそが律であり、これら八万四千の法蘊である』という仏の言葉を、法と律などに分類して結集したマハーカッサパを長とする聖者たちは、多くの奇跡の出現によって飾られた結集において、このディーガーガマ(長部経典)が最初の、中央の仏の言葉などであると確立したことを示している。それは、『このように、区別なく』などによって示される。」
Nidānakathāvaṇṇanā niṭṭhitā.
序論の解説は終わりである。
Evaṃ paṭhamamahāsaṅgītiṃ dassetvā yadatthaṃ sā idha dassitā, idāni taṃ nigamanavasena dassetuṃ **‘‘imissā’’**tiādimāha.
このように第一回大結集を示した後、それがここで示された目的を、今、その結論として示すために、『この』などと言っている。
1. Ettāvatā ca brahmajālassa sādhāraṇato bāhiranidānaṃ dassetvā idāni abbhantaranidānaṃ saṃvaṇṇetuṃ **‘‘tattha eva’’**ntiādi vuttaṃ. Atha vā chahi ākārehi saṃvaṇṇanā kātabbā sambandhato padato padavibhāgato padatthato anuyogato parihārato cāti. Tattha sambandho nāma desanāsambandho. Yaṃ lokiyā ‘‘ummugghāto’’ti vadanti. So pana pāḷiyā nidānapāḷivasena, nidānapāḷiyā pana saṅgītivasena veditabboti paṭhamamahāsaṅgītiṃ dassentena nidānapāḷiyā sambandhassa dassitattā padādivasena saṃvaṇṇanaṃ karonto **‘‘evanti nipātapada’’**ntiādimāha. **‘‘Metiādīnī’’**ti ettha antarā-sadda-ca-saddānaṃ nipātapadabhāvo, vattabbo, na vā vattabbo tesaṃ nayaggahaṇena gahitattā, tadavasiṭṭhānaṃ āpaṭi-saddānaṃ ādi-saddena saṅgaṇhanato. **‘‘Padavibhāgo’’**ti padānaṃ viseso, na pana padaviggaho. Atha vā padāni ca padavibhāgo ca padavibhāgo, padaviggaho ca padavibhāgo ca padavibhāgoti vā ekasesavasena padapadaviggahāpi padavibhāga saddena vuttāti veditabbaṃ. Tattha padaviggaho ‘‘bhikkhūnaṃ saṅgho’’tiādibhedesu padesu daṭṭhabbo.
1. ここまでで梵網経の共通の外部因縁を示し、今度は内部因縁を説明するために、『そこにおいて』などと述べられている。あるいは、解説は六つの観点からなされるべきである。すなわち、関連性から、語句から、語句の区分から、語句の意味から、質問から、そして反論の解消からである。そこにおいて関連性とは、教説の関連性のことである。世俗の人々が『うむがーと』と呼ぶものである。それは、パーリ語では因縁のパーリ語としての関連性、そして因縁のパーリ語では結集としての関連性として理解されるべきである。したがって、第一回大結集を示し、因縁のパーリ語の関連性が示されたことにより、語句などに基づいて解説を行う際に、『かくのごとしという不変化詞』などと言っている。『メーティなどの』という箇所では、アンタラー語とチャ語が不変化詞であるかどうかは、それらがナヤグラハナ(教理の把握)によって把握されているため、言う必要はない。そして、残りのアパティ語などは、アーディ語によってまとめられている。『語句の区分』とは、語句の特殊性であり、語句の分解ではない。あるいは、語句と語句の区分が語句の区分であり、語句の分解と語句の区分が語句の区分であると、または、一括して語句の分解も語句の区分という言葉で言われていると理解されるべきである。そこにおいて語句の分解は、『比丘たちのサンガ』などの種類に属する語句に見られるべきである。
Atthatoti padatthato. Taṃ pana padatthaṃ atthuddhārakkamena paṭhamaṃ evaṃ-saddassa dassento **‘‘evaṃsaddo tāvā’’**tiādimāha. Avadhāraṇādīti ettha ādi-saddena idamatthapucchāparimāṇādiatthānaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Tathā hi ‘‘evaṃgatāni, evaṃvidho, evamākāro’’tiādīsu idaṃ-saddassa atthe evaṃ-saddo. Gata-saddo hi pakārapariyāyo, tathā vidhākāra-saddā ca. Tathā hi vidhayuttagata-sadde lokiyā pakāratthe vadanti. ‘‘Evaṃ nu kho, na nu kho, kiṃ nu kho, kathaṃ nu kho’’ti, ‘‘evaṃ su te sunhātā suvilittā kappitakesamassu, āmuttamālābharaṇā odātavatthavasanā pañcahi kāmaguṇehi samappitā samaṅgībhūtā paricārenti, seyyathāpi tvaṃ etarahi sācariyakoti? No hidaṃ bho gotamā’’ti ca ādīsu pucchāyaṃ. ‘‘Evaṃ lahuparivattaṃ, evaṃ āyupariyanto’’ti ca ādīsu parimāṇe. Nanu ca ‘‘evaṃ nu kho, evaṃ su te, evaṃ āyupariyanto’’ti ettha evaṃ-saddena pucchanākāraparimāṇākārānaṃ vuttattā ākārattho eva evaṃ-saddo ti? Na, visesasabbhāvato. Ākāramattavācako hettha ākāratthoti adhippeto, yathā ‘‘evaṃ byākhotiādīsu pana na ākāravisesavācako evañca katvā ‘‘evaṃ jātena maccenā’’tiādīni upamādīsu udāharaṇāni upapannāni honti. Tathā hi ‘‘yathāpi…pe… bahu’’nti? Ettha puppharāsiṭṭhāniyato manussupapattisappurisūpanissayasaddhammasavanayonisomanasikārabhogasampattiādidānādipuññakiriyāhetusamudāyato sobhāsugandhatādiguṇayogato mālāguṇasadisiyo pahūtā puññakiriyā maritabbasabhāvatāya maccena sattena kattabbāti joditattā puppharāsimālāguṇāva upamā, tesaṃ upamākāro yathā-saddena aniyamato vuttoti evaṃ-saddo upamākāranigamanatthoti vattuṃ yuttaṃ. So pana upamākāro niyamiyamāno atthato upamāva hotīti āha **‘‘upamāyaṃ āgato’’**ti.
意味とは語句の意味である。その語句の意味を、まず意味の抽出順に、エヴァン語(かくのごとし語)の用法を示しながら、『エヴァン語はまず』などと言っている。『限定などの』という箇所では、アーディ語によって『この意味、問い、数量など』の意味の収集が理解されるべきである。例えば、『このように行われた、このような、このような形態の』などにおいては、『この』の意味においてエヴァン語が使われている。ガタ語は実際には様態の同義語であり、ヴィダーとアーカーラ語も同様である。実際、ヴィダユッタガタ語において、世俗の人々は様態の意味で話す。『かくのごとしであろうか、かくのごとしではないか、何であろうか、どのようにであろうか』、また、『かくのごとく、あなた方は沐浴し、香油を塗り、髪と髭を整え、花輪と飾りをつけ、白い衣をまとい、五つの欲望の対象に恵まれ、完全に満たされて仕えているのか、あたかもあなたが今、師匠であるかのように? いいえ、ゴータマよ』など、質問の場合に言われる。『このように軽い回転、このように寿命の終わり』など、数量の場合に言われる。しかし、『かくのごとしであろうか、かくのごとし、このように寿命の終わり』において、エヴァン語によって質問の様態と数量の様態が述べられていることから、エヴァン語は様態の意味に過ぎないのではないか? いや、特殊性があるからである。ここでは単に様態を表すものが様態の意味と意図されており、例えば『かくのごとく説明する』などにおいては特殊な様態を表すものではない。そして、『かくのごとく生まれた死すべき者によって』などの類比における例は適切である。実際、『あたかも…(中略)…多く』という箇所では、花の山に匹敵する人間の誕生、善友への帰依、正しい教えを聞くこと、適切な思惟、富の豊かさなどの施しなどの善行の原因となる集合から、美しさや良い香りなどの徳を具えることにより、花輪のように多くの善行が、死すべき者によってなされるべきであると示されているため、花の山と花輪こそが譬えであり、その譬えの様態がヤター語(あたかも語)によって不規則に述べられているため、エヴァン語は譬えの様態の結論の意味であると言うのが適切である。その譬えの様態は、限定されるならば、実質的に譬えそのものであると、『譬えに現れる』と言っている。
Tathā evaṃ iminā ākārena **‘‘abhikkamitabba’’**ntiādinā upadisiyamānāya samaṇasāruppāya ākappasampattiyā yo tattha upadisanākāro, so atthato upadesoyevāti vuttaṃ **‘‘evaṃ te…pe… upadese’’**ti. Tathā evametaṃ bhagavā, evametaṃ sugatāti ettha ca bhagavatā yathāvuttamatthaṃ aviparītato jānantehi kataṃ tattha saṃvijjamānaguṇānaṃ pakārehi haṃsanaṃ udaggatākaraṇaṃ sampahaṃsanaṃ, yo tattha sampahaṃsanākāroti yojetabbaṃ. Evamevaṃ panāyanti ettha garahaṇākāroti yojetabbaṃ. So ca garahaṇākāro ‘‘vasalī’’tiādi khuṃsanasaddasannidhānato idha evaṃ-saddena pakāsitoti viññāyati. Yathā cettha, evaṃ upamākārādayopi upamādivasena vuttānaṃ puppharāsiādisaddānaṃ sannidhānatoti daṭṭhabbaṃ. Evañca vadehīti ‘‘yathāhaṃ vadāmi, evaṃ samaṇaṃ ānandaṃ vadehī’’ti vadanākāro idāni vattabbo evaṃ-saddena nidassīyatīti nidassanattho vutto. Evaṃ noti etthāpi tesaṃ yathāvuttadhammānaṃ ahitadukkhāvahabhāve sanniṭṭhānajananatthaṃ anumatiggahaṇavasena ‘‘saṃvattanti, no vā, kathaṃ vā ettha hotī’’ti pucchāya katāya ‘‘evaṃ no ettha hotī’’ti vuttattā tadākārasanniṭṭhānaṃ evaṃ-saddena vibhāvitanti viññāyati, so pana tesaṃ dhammānaṃ ahitāya dukkhāya saṃvattanākāro niyamiyamāno avadhāraṇattho hotīti āha **‘‘evaṃ no ettha hotīti ādīsu avadhāraṇe’’**ti. Evaṃ bhanteti pana dhammassa sādhukaṃ savanamanasikāre sanniyojitehi bhikkhūhi attano tattha ṭhitabhāvassa paṭijānanavasena vuttattā ettha evaṃ-saddo vacanasampaṭicchanattho vutto, tena evaṃ bhante, sādhu bhante, suṭṭhu bhanteti vuttaṃ hoti.
同様に、このように、『進むべきである』などと教えられる沙門にふさわしい行儀の完成において、そこにある教示の様態は、実質的には教示そのものであると、『このように、あなた方は…(中略)…教示において』と言われている。同様に、『まさにその通りです、世尊よ、まさにその通りです、善逝よ』という箇所では、世尊が述べられたことを誤りなく知る人々によって、そこに存在する功徳が、様々な様態で喜ばれ、歓喜し、大いに喜ばれること、そこにある大いに喜ばれる様態と解釈されるべきである。同様に、『しかし、これら』という箇所では、非難の様態と解釈されるべきである。そして、その非難の様態は、『賤民よ』などの罵倒語が存在することから、ここではエヴァン語によって明らかにされていると理解される。ここにおいてと同様に、譬えの様態なども、譬えなどとして述べられた花束などの語句の存在から理解されるべきである。また、『かくのごとく述べよ』とは、『私が述べるように、沙門アーナンダに述べよ』という語り方が、今、エヴァン語によって示されているという意味で、示唆の意味が述べられている。また、『かくのごとしではない』という箇所においても、それらの述べられた法が害と苦をもたらすことについて、確信を生じさせるために、同意を得る形で、『持続するのか、しないのか、あるいはここではどうなるのか』と問われた際に、『ここではかくのごとしである』と述べられていることから、その様態の確信がエヴァン語によって明らかにされていると理解される。しかし、それらの法が害と苦へとつながる様態は、限定されるならば、限定の意味となるので、『ここではかくのごとしであるなどの箇所では、限定において』と言っている。また、『はい、尊者よ』とは、法をよく聞き、心に留めることに従事する比丘たちが、自分たちがその場にいることを認める形で述べられたことから、ここではエヴァン語が言葉の受諾の意味で述べられており、それによって『はい、尊者よ、よろしいです、尊者よ、誠にその通りです、尊者よ』と言われていることになる。
Nānānayanipuṇanti ekattanānattaabyāpāraevaṃdhammatāsaṅkhātā, nandiyāvaṭṭa tipukkhalasīhavikkīḷitaaṅkusadisālocanasaṅkhātā vā ādhārādibhedavasena nānāvidhā nayā nānānayā, nayā vā pāḷigatiyo, tā ca paññattianupaññattiādivasena saṃkilebhāgiyādilokiyāditadubhayavomissatādivasena kusalādivasena khandhādivasena saṅgahādivasena samayavimuttādivasena ṭhapanādivasena kusalamūlādivasena tikapaṭṭhānādivasena ca nānappakārāti nānānayā, tehi nipuṇaṃ saṇhasukhumanti nānānayanipuṇaṃ. Āsayova ajjhāsayo, te ca sassatādibhedena, tattha ca apparajakkhatādivasena anekā, attajjhāsayādayo eva vā samuṭṭhānaṃ uppattihetu etassāti anekajjhāsayasamuṭṭhānaṃ. Atthabyañjanasampannanti atthabyañjanaparipuṇṇaṃ upanetabbābhāvato, saṅkāsanapakāsanavivaraṇavibhajanauttānīkaraṇapaññattivasena chahi atthapadehi, akkharapadabyañjanākāraniruttiniddesavasena chahi byañjanapadehi ca samannāgatanti vā attho daṭṭhabbo.
様々な教えの道に熟練しているとは、一つであること、複数であること、無関心であること、このような法則性と呼ばれるもの、または、ナーンディヤーヴァッタ、ティプッカラ、獅子奮迅、アングサのような観照と呼ばれるもの、あるいは依処などの違いによって様々な『ナイ』が『ナーナーナイ』(様々な教えの道)であり、ナイとはパーリ語の進路のことであり、それらは、パンニャッティとアヌパンニャッティなどの違いによって、サンキレーヴァーギヤーディローキヤーディタドゥバヤウォミッサターディヴァセーナ(煩悩の分派、世俗、その両者の混合など)、クサラ(善)などの違いによって、スカンダ(蘊)などの違いによって、サンガハ(集積)などの違いによって、サマヤヴィムッタ(時解脱)などの違いによって、タパナー(確立)などの違いによって、クサラムーラ(善根)などの違いによって、ティカパッターナ(三項目論処)などの違いによって、多様な種類があることからナーナーナイである。それらに熟練している、微細で繊細なものであるからナーナーナヤニプナ(様々な教えの道に熟練している)である。アーシャヤ(意向)がアッジャーシャヤ(傾向)であり、それらは常住論などの違いによって、そこにはわずかな煩悩の者などの違いによって多数あり、あるいはアッタッジャーシャヤなどこそがその発生源であるから、アネーカッジャーシャヤサムットターナ(多数の傾向から生じる)である。『意味と表現に富む』とは、意味と表現が完全であること、提示する必要がないことから、サンカーサナ(示唆)、パカーサナ(開示)、ヴィヴァラナ(開明)、ヴィヴァジャナ(分別)、ウッターニーカラナ(明確化)、パンニャッティ(規定)という六つの意味の言葉によって、また、アッカラ(文字)、パダ(語)、ビヤンジャナ(表現)、アーカーラ(形態)、ニルッティ(語源)、ニッデーサ(解説)という六つの表現の言葉によって具備されていると理解されるべきである。
Vividhapāṭihāriyanti ettha pāṭihāriyapadassa vacanatthaṃ ‘‘paṭipakkhaharaṇato rāgādikilesāpanayanato pāṭihāriya’’nti vadanti. Bhagavato pana paṭipakkhā rāgādayo na santi, ye haritabbā. Puthujjanānampi vigatūpakkilese aṭṭhaguṇasamannāgate citte hatapaṭipakkhe iddhividhaṃ pavattati, tasmā tattha pavattavohārena ca na sakkā idha ‘‘pāṭihāriya’’nti vattuṃ. Sace pana mahākāruṇikassa bhagavato veneyyagatā ca kilesā paṭipakkhā, tesaṃ haraṇato ‘‘pāṭihāriya’’nti vuttaṃ, evaṃ sati yuttametaṃ. Atha vā bhagavato ca sāsanassa ca paṭipakkhā titthiyā, tesaṃ haraṇato pāṭihāriyaṃ. Te hi diṭṭhiharaṇavasena, diṭṭhippakāsane asamatthabhāvena ca iddhiādesanānusāsanīhi haritā apanītā hontīti. **‘‘Paṭī’’**ti vā ayaṃ saddo ‘‘pacchā’’ti etassa atthaṃ bodheti ‘‘tasmiṃ paṭipaviṭṭhamhi, añño āgañchi brāhmaṇo’’tiādīsu viya, tasmā samāhite citte, vigatūpakkilese ca katakiccena pacchā haritabbaṃ pavattetabbanti paṭihāriyaṃ, attano vā upakkilesesu catutthajjhānamaggehi haritesu pacchā haraṇaṃ paṭihāriyaṃ. Iddhiādesanānusāsaniyo ca vigatūpakkilesena, katakiccena ca sattahitatthaṃ puna pavattetabbā, haritesu ca attano upakkilesesu parasattānaṃ upakkilesaharaṇāni hontīti paṭihāriyāni bhavanti. Paṭihāriyameva pāṭihāriyaṃ. Paṭihāriye vā iddhiādesanānusāsanīsamudāye bhavaṃ ekekaṃ **‘‘pāṭihāriya’’**nti vuccati. Paṭihāriyaṃ vā catutthajjhānaṃ maggo ca paṭipakkhaharaṇato, tattha jātaṃ, tasmiṃ vā nimittabhūte, tato vā āgatanti pāṭihāriyaṃ. Tassa pana iddhiādibhedena visayabhedena ca bahuvidhassa bhagavato desanāya labbhamānattā āha ‘‘vividhapāṭihāriya’’nti.
多様な奇跡とは、ここでは、パティハーリヤ(奇跡)という言葉の意味について、『敵対者を排除すること、貪欲などの煩悩を取り除くことから、パティハーリヤである』と言う。しかし、世尊には、排除されるべき貪欲などの敵対者は存在しない。一般の人々も、煩悩が消滅し、八つの功徳を備えた心において、敵対者が打ち砕かれた状態で、神足を発現させる。それゆえ、そこでの慣用表現によって、ここで『パティハーリヤ』と言うことはできない。しかし、もし大慈悲の世尊にとって、教化されるべき衆生と煩悩が敵対者であり、それらを取り除くことから『パティハーリヤ』と言うのであれば、その場合は適切である。あるいは、世尊と教えの敵対者は外道であり、彼らを取り除くことからパティハーリヤである。彼らは、見解の排除という点で、また見解の開示において無能力であるという点で、神通、他心通、教誡によって排除され、取り除かれるのである。『パティ』という言葉は、『後に』という意味を示す。『その中に踏み入ったときに、別のバラモンが来た』などのように。それゆえ、集中した心において、煩悩が消滅し、成すべきことを成した者によって、後に取り除かれるべきものが現れることからパティハーリヤであり、あるいは、自分の煩悩が第四禅と道によって排除された後に取り除くことがパティハーリヤである。また、神通、他心通、教誡は、煩悩が消滅し、成すべきことを成した者によって、衆生の利益のために再び発現されるべきであり、自分の煩悩が排除された際には、他の衆生の煩悩を取り除くことがパティハーリヤとなる。パティハーリヤそのものがパーティハーリヤである。あるいは、パティハーリヤである神通、他心通、教誡の集合体において生じる一つ一つが『パーティハーリヤ』と呼ばれる。あるいは、第四禅と道が敵対者を取り除くことからパティハーリヤであり、そこに生じたもの、あるいはその対象となったもの、あるいはそこから来たものがパティハーリヤである。その神通などの違いと対象の違いによって多様であるものが、世尊の教説によって得られることから、『多様な奇跡』と言っている。
Na aññathāti bhagavato sammukhā sutākārato na aññathāti attho, na pana bhagavato desitākārato. Acinteyyānubhāvā hi bhagavato desanā. Evañca katvā ‘‘sabbappakārena ko samattho viññātu’’nti idaṃ vacanaṃ samatthitaṃ hoti. Dhāraṇabaladassanañca na virujjhati sutākārāvirajjhanassa adhippetattā. Na hettha atthantaratāparihāro dvinnampi atthānaṃ ekavisayattā, itarathā thero bhagavato desanāya sabbathā paṭiggahaṇe samattho asamattho cāti āpajjeyyāti.
「『他の方法ではない』とは、世尊の面前で聞いた様態から他の方法ではないという意味であり、世尊が教えられた様態からではない。世尊の教説は計り知れない力を持っているからである。このようにして、『あらゆる様態で誰が理解できるだろうか』というこの言葉は意味をなす。また、記憶力の提示も、聞いた様態からの乖離が意図されていないため、矛盾しない。ここには意味の異なりを避けることはない。なぜなら、二つの意味が同じ対象を持つからである。そうでなければ、長老は世尊の教説を全面的に受け入れることができる者であり、かつできない者であるということになってしまうからである。
‘‘Yo paro na hoti, so attā’’ti evaṃ vuttāya niyakajjhattasaṅkhātāya sasantatiyaṃ vattanato tividhopi me-saddo kiñcāpi ekasmiṃyeva atthe dissati, karaṇasampadānasāminiddesavasena pana vijjamānabhedaṃ sandhāyāha **‘‘me-saddo tīsu atthesu dissatī’’**ti.
「『他者ではないものが、自己である』というように述べられる、自己の内面的な連続体において存在するということから、メー語(私語)は三つの種類があるにもかかわらず、たとえ一つの意味においてのみ現れるとしても、しかし、作格、与格、所有格の指示という存在する違いを考慮して、『メー語は三つの意味において現れる』と言っている。」
Kiñcāpi upasaggo kiriyaṃ viseseti, jotakabhāvato pana satipi tasmiṃ suta-saddo eva taṃ tamatthaṃ anuvadatīti anupasaggassa suta-saddassa atthuddhāre saupasaggassa gahaṇaṃ na virujjhatīti dassento **‘‘saupasaggo ca anupasaggo cā’’**ti āha. Assāti suta-saddassa. Kammabhāvasādhanāni idha suta-sadde sambhavantīti vuttaṃ **‘‘upadhāritanti vā upadhāraṇanti vā attho’’**ti. Mayāti atthe satīti yadā mesaddassa kattuvasena karaṇaniddeso, tadāti attho. Mamāti atthe satīti yadā sambandhavasena sāminiddeso, tadā.
接頭辞は動詞を修飾するものであるが、指示的なものであるため、それが存在してもスータ語(聞いた語)がその意味を繰り返すのである。したがって、接頭辞のないスータ語の意味を抽出する際に、接頭辞付きのものを採用しても矛盾しないことを示すために、『接頭辞付きのものと接頭辞なしのものと』と言っている。それはスータ語のことである。ここでスータ語において、業的構成と状態的構成が可能であると、『熟慮されたもの、あるいは熟慮するという意味』と言われている。マヤーティという言葉の意味があるとき、すなわちメー語が道具格の指示であるとき、その意味である。ママーティという言葉の意味があるとき、すなわち所有格として関係の指示であるとき、その意味である。
Sutasaddasannidhāne payuttena evaṃsaddena savanakiriyājotakena bhavitabbanti vuttaṃ **‘‘evanti sotaviññāṇādiviññāṇakiccanidassana’’**nti. Ādi-saddena sampaṭicchanādīnaṃ pañcadvārikaviññāṇānaṃ tadabhinihaṭānañca manodvārikaviññāṇānaṃ gahaṇaṃ veditabbaṃ. Sabbesampi vākyānaṃ evakāratthasahitattā **‘‘suta’’**nti etassa sutaṃ evāti ayamattho labbhatīti āha **‘‘assavanabhāvapaṭikkhepato’’**ti, etena avadhāraṇena nirākataṃ dasseti. Yathā ca sutaṃ sutaṃ evāti niyametabbaṃ, taṃ sammā sutaṃ hotīti āha **‘‘anūnādhikāviparītaggahaṇanidassana’’**nti. Atha vā ‘‘saddantaratthāpohanavasena saddo atthaṃ vadatī’’ti sutanti asutaṃ na hotīti ayametassa atthoti vuttaṃ **‘‘assavanabhāvapaṭikkhepato’’**ti, iminā diṭṭhādivinivattanaṃ karoti. Idaṃ vuttaṃ hoti. Na idaṃ mayā diṭṭhaṃ, na sayambhuñāṇena sacchikataṃ, atha kho sutaṃ, tañca kho sammadevāti. Tenevāha ‘‘anūnādhikāviparītaggahaṇanidassana’’nti. Avadhāraṇatthe vā evaṃ-sadde ayaṃ atthayojanā karīyatīti tadapekkhassa suta-saddassa ayamattho vutto **‘‘assavanabhāvapaṭikkhepato’’**ti. Teneva āha ‘‘anūnādhikāviparītaggahaṇanidassana’’nti. Savanasaddo cettha kammattho veditabbo suyyatīti.
「スッタサッダ(聞いたことという言葉)の近傍で用いられるエヴァムサッダ(このようにという言葉)は、聞く行為を示すものであるべきである」と述べられている。「エヴァムは耳識等の識の作用を示す」と。「等」の語によって、受用などの五門識、およびそれに引き続いて生じる意識の把握が知られるべきである。すべての文章がエヴァカーラ(強調)の意味を含むため、「スッタ」とは「まさに聞いたこと」という意味が得られると述べられている。「聞かれざる状態の否定によって」と、これによって限定が否定されたことを示す。また、聞いたことは「まさに聞いたこと」と定められるべきであり、それは正しく聞かれたものであると述べられている。「不足も過剰もなく、誤りなく把握されたことを示す」と。あるいは、「他の語の意味を除外することによって、語が意味を語る」という意味で「スッタ」とは「聞かれざることはない」というのがその意味であると述べられている。「聞かれざる状態の否定によって」と、これによって見られたことなどの除外を行う。これは「私が見たものではなく、自ら得た智によって証されたものでもないが、しかし聞いたものである。そしてそれはまさに正しく聞いたものである」と述べられているのである。それゆえ「不足も過剰もなく、誤りなく把握されたことを示す」と述べられている。あるいは、限定の意味においてエヴァム・サッダにこのような意味の解釈がなされるため、それに関連するスッタ・サッダのこの意味は「聞かれざる状態の否定によって」と述べられている。それゆえ、「不足も過剰もなく、誤りなく把握されたことを示す」と述べられている。ここでサヴァナ・サッダは受動態の意味で理解されるべきである。
Evaṃ savanahetusuṇantapuggalasavanavisesavasena padattayassa ekena pakārena atthayojanaṃ dassetvā idāni pakārantarehipi taṃ dassetuṃ **‘‘tathā eva’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha tassāti yā sā bhagavato sammukhā dhammassavanākārena pavattā manodvāraviññāṇavīthi, tassā. Sā hi nānappakārena ārammaṇe pavattituṃ samatthā. Tathā ca vuttaṃ **‘‘sotadvārānusārenā’’**ti. Nānappakārenāti vakkhamānānaṃ anekavihitānaṃ byañjanatthaggahaṇānānākārena, etena imissā yojanāya ākārattho evaṃ-saddo gahitoti dīpeti. Pavattibhāvappakāsananti pavattiyā atthibhāvappakāsanaṃ. **‘‘Sutanti dhammappakāsana’’**nti yasmiṃ ārammaṇe vuttappakārā viññāṇavīthi nānappakārena pavattā, tassa dhammattā vuttaṃ, na sutasaddassa dhammatthattā. Vuttassevatthassa pākaṭīkaraṇaṃ **‘‘ayañhetthā’’**tiādi. Tattha viññāṇavīthiyāti karaṇatthe karaṇavacanaṃ. Mayāti katthuatthe.
このように、聞く原因、聞く人、聞く行為の特殊性という三つの句の意味解釈を一つの方法で示した後、次に別の方法でもそれを示すために、「そのように、まさしく」などが述べられた。ここで「それの」とは、世尊の面前で法を聞く形で進行した意識の思考過程のことである。それは様々な形で対象に進行する能力がある。そして「耳門に従って」と述べられている。「様々な形で」とは、後に述べる多種多様な文字や意味の把握の様々な形によってという意味であり、これによってこの解釈において「このように」という言葉が形としての意味で捉えられていることを示す。「進行状態の表明」とは、進行の存在状態の表明である。「聞いたこととは法を明かすことである」とは、その対象において述べられた識の思考過程が様々な形で進行したから法であると述べられたのであって、スッタという語が法を意味するからではない。述べられた意味をさらに明らかにするのが「これはここに」などである。ここでの「識の思考過程によって」という語は、手段を示す意味である。「私によって」は、どこかの場所という意味である。
**‘‘Evanti niddisitabbappakāsana’’**nti nidassanatthaṃ evaṃ-saddaṃ gahetvā vuttaṃ nidassetabbassa niddisitabbattābhāvābhāvato, tena evaṃ-saddena sakalampi suttaṃ paccāmaṭṭhanti dasseti. Suta-saddassa kiriyāsaddattā, savanakiriyāya ca sādhāraṇaviññāṇappabandhapaṭibaddhattā tattha ca puggalavohāroti vuttaṃ **‘‘sutanti puggalakiccappakāsana’’**nti. Na hi puggalavohārarahite dhammappabandhe savanakiriyā labbhatīti.
「エヴァムとは示すべきものの表明である」とは、例示の意味で「このように」という言葉を取り上げて述べられたものであり、示すべきもの(nidassetabba)は示されるべきではないということがないため、その「このように」という言葉によって、スッタ全体が回顧されていることを示す。スッタという語が動詞から派生した語であること、そして聞く行為が通常の識の連続と結びついていること、そしてそこに個人という言葉があることから、「スッタとは個人の行為の表明である」と述べられた。個人という言葉のない法の連続の中では、聞く行為は見出されないからである。
**‘‘Yassa cittasantānassā’’**tiādipi ākāratthameva evaṃ-saddaṃ gahetvā purimayojanāya aññathā atthayojanaṃ dassetuṃ vuttaṃ. Tattha ākārapaññattīti upādāpaññatti eva, dhammānaṃ pavattiākārupādānavasena tathā vuttā. **‘‘Sutanti visayaniddeso’’**ti sotabbabhūto dhammo savanakiriyākattupuggalassa savanakiriyāvasena pavattiṭṭhānanti katvā vuttaṃ. Cittasantānavinimuttassa paramatthato kassaci kattu abhāvepi saddavohārena buddhiparikappitabhedavacanicchāya cittasantānato aññaṃ viya taṃsamaṅgiṃ katvā vuttaṃ **‘‘cittasantānena taṃsamaṅgino’’**ti. Savanakiriyāvisayopi sotabbadhammo savanakiriyāvasena pavattacittasantānassa idha paramatthato kattubhāvato, savanavasena cittappavattiyā eva vā savanakiriyābhāvato taṃkiriyākattu ca visayo hotīti katvā vuttaṃ **‘‘taṃsamaṅgino kattu visaye’’**ti. Sutākārassa ca therassa sammānicchitabhāvato āha **‘‘gahaṇasanniṭṭhāna’’**nti, etena vā avadhāraṇatthaṃ evaṃ-saddaṃ gahetvā ayaṃ atthayojanā katāti daṭṭhabbaṃ.
「その心の連続の」なども、形としての意味で「このように」という言葉を取り上げ、以前の解釈とは異なる意味の解釈を示すために述べられた。ここで「形としての概念」とは、まさに執着概念であり、諸法の生起の形に基づいてそのように述べられている。「スッタとは対象の指示である」とは、聞かれるべき法が聞く行為を行う個人の聞く行為によって生じる場所であるとして述べられた。心の連続を離れた究極の真理としての行為者が存在しない場合でも、言葉の慣習によって、知性によって想定された差別の言葉の欲求によって、心の連続からあたかも別個の存在であるかのようにそれを有するものを想定して「心の連続によってそれを有するものの」と述べられた。聞く行為の対象である聞かれるべき法も、聞く行為によって進行する心の連続が、ここで究極の真理としては行為者であるから、あるいは聞くことによって心の進行そのものが聞く行為であるから、その行為者と対象となるとして「それを有するものの行為者の対象において」と述べられた。また、スッタの形が長老によって正しく確定されていることから「把握の確定」と述べられた。あるいは、これで限定の意味で「このように」という言葉を取り上げて、この意味の解釈がなされたと理解されるべきである。
Pubbe sutānaṃ nānāvihitānaṃ suttasaṅkhātānaṃ atthabyañjanānaṃ upadhāritarūpassa ākārassa nidassanassa avadhāraṇassa vā pakāsanasabhāvo evaṃ-saddoti tadākārādiupadhāraṇassa puggalapaññattiyā upādānabhūtadhammappabandhabyāpāratāya vuttaṃ **‘‘evanti puggalakiccaniddeso’’**ti. Savanakiriyā pana puggalavādinopi viññāṇanirapekkhā natthīti visesato viññāṇabyāpāroti āha **‘‘sutanti viññāṇakiccaniddeso’’**ti. Meti saddappavattiyā ekanteneva sattavisayattā, viññāṇakiccassa ca tattheva samodahitabbato **‘‘meti ubhayakiccayuttapuggalaniddeso’’**ti vuttaṃ. Avijjamānapaññattivijjamānapaññattisabhāvā yathākkamaṃ evaṃ-sadda suta-saddānaṃ atthāti te tathārūpapaññattiupādānabyāpārabhāvena dassento āha **‘‘evanti puggalakiccaniddeso. Sutanti viññāṇakiccaniddeso’’**ti. Ettha ca karaṇakiriyākattukammavisesappakāsanavasena puggalabyāpāvisayapuggalabyāpāranidassanavasena gahaṇākāragāhakatabbisayavisesaniddesavasena kattukaraṇa byāpārakattuniddesavasena ca dutiyādayo catasso atthayojanā dassitāti daṭṭhabbaṃ.
以前に聞かれた、様々な種類の経典とされる意味と文字を保持した形の、例示または限定を表明する性質が「このように」という言葉である。それゆえ、その形などを保持することが個人の概念の対象となる法の連続の作用であるとして、「エヴァムとは個人の行為の指示である」と述べられた。しかし、聞く行為は個人説論者にとっても識なしには存在しないので、特に識の作用であるとして、「スッタとは識の作用の指示である」と述べられた。「私によって」という語は、言葉の進行が必然的に有情を対象とするため、また識の作用がその有情に帰属すべきであるため、「私によってとは両方の作用に属する個人の指示である」と述べられた。存在しない概念と存在する概念の性質がそれぞれ「このように」という言葉と「聞いたこと」という言葉の意味であると示すために、それらがそのような概念の対象となる作用の性質を持つとして、「エヴァムとは個人の行為の指示である。スッタとは識の作用の指示である」と述べられた。ここで、手段、行為、行為者、対象の特殊性を示す形で、個人の作用と対象となる個人の作用を示す形で、把握の形、把握するもの、把握されるべき対象の特殊性を指示する形で、行為者と手段の作用を行う行為者を指示する形で、第二以降の四つの意味解釈が示されたと理解されるべきである。
Sabbassāpi saddādhigamanīyassa atthassa paññattimukheneva paṭipajjitabbattā, sabbapaññattīnañca vijjamānādivasena chasu paññattibhedesu antogadhattā tesu ‘‘eva’’ntiādīnaṃ paññattīnaṃ sarūpaṃ niddhārento āha **‘‘evanti ca meti cā’’**tiādi. Tattha evanti ca meti ca vuccamānassa atthassa ākārādino, dhammānañca asallakkhaṇabhāvato avijjamānapaññattibhāvoti āha **‘‘saccikaṭṭhaparamatthavasena avijjamānapaññattī’’**ti. Tattha saccikaṭṭhaparamatthavasenāti bhūtatthauttamatthavasena. Idaṃ vuttaṃ hotiyo māyāmarīciādayo viya abhūtattho, anussavādīhi gahetabbo viya anuttamattho ca na hoti, so rūpasaddādisabhāvo ruppanānubhavanādisabhāvo vā attho ‘‘saccikaṭṭho, paramattha cā’’ti vuccati, na tathā evaṃ meti padānamatthoti, etamevatthaṃ pākaṭataraṃ kātuṃ **‘‘kiñhettha ta’’**ntiādi vuttaṃ. Sutanti pana saddāyatanaṃ sandhāyāha **‘‘vijjamānapaññattī’’**ti. Teneva hi **‘‘yañhi tamettha sotena upaladdha’’**nti vuttaṃ, ‘‘sotadvārānusārena upaladdha’’nti pana vutte atthabyañjanādisabbaṃ labbhati. Taṃ taṃ upādāya vattabbatoti sotapathaṃ āgate dhamme upādāya tesaṃ upadhāritākārādino paccāmasanavasena ‘‘eva’’nti, sasantatipariyāpanne khandhe upādāya ‘‘me’’ti vattabbattāti attho. Diṭṭhādisabhāvarahite saddāyatane pavattamānopi sutavohāro ‘‘dutiyaṃ tatiya’’ntiādiko viya paṭhamādīni diṭṭhamutaviññāte apekkhitvā pavattoti āha **‘‘diṭṭhādīni upanidhāya vattabbato’’**ti. Asutaṃ na hotīti hi ‘‘suta’’nti pakāsito yamatthoti.
すべての言語によって理解されるべき意味が、概念を通じてのみ把握されるべきであること、そしてすべての概念が存在概念などの六つの概念の分類に含まれることから、それらの「このように」などの概念の性質を確定しながら、「エヴァムと私と」などが述べられた。ここで「このように」と「私によって」と述べられる意味が、形などに属し、諸法が認識できない性質を持つことから、存在しない概念であるとして、「究竟の勝義によって存在しない概念である」と述べられた。ここで「究竟の勝義によって」とは、真実の意味、最上の意味によってである。これは、幻影や蜃気楼のように非実在の意味ではなく、伝承などによって把握されるべき最上の意味ではないという意味である。物質、音などの性質、あるいは壊れること、経験することなどの性質を持つ意味が「究竟の勝義」と呼ばれるのであり、「このように」や「私によって」という語の意味はそうではない。この意味をさらに明確にするために、「ここでは何か」などが述べられた。しかし「スッタ」とは、音処を指して「存在する概念である」と述べられた。それゆえ「確かにそれはここで耳によって得られたもの」と述べられているが、「耳門に従って得られたもの」と述べられた場合、意味や文字などすべてが捉えられる。それらそれぞれに基づいて述べられるべきである。つまり、耳の経路に入ってきた法に基づいて、それらの保持された形などを回顧する形で「このように」と、自己の連続に含まれる諸蘊に基づいて「私によって」と述べられるべきであるという意味である。見られたことなどの性質がない音処において進行する「スッタ」という慣習語も、「第二、第三」などのように、第一などの「見られたもの、聞かれたもの、識られたもの」を考慮して進行するので、「見られたものなどを参照して述べられるべきである」と述べられた。聞かれざることはないからこそ、「スッタ」と表明されたのがこの意味である。
Attanā paṭividdhā suttassa pakāravisesā ‘‘eva’’nti therena paccāmaṭṭhāti āha **‘‘asammohaṃ dīpetī’’**ti. **‘‘Nānappakārapaṭivedhasamattho hotī’’**ti etena vakkhamānassa suttassa nānappakārataṃ duppaṭivijjhatañca dasseti. **‘‘Sutassa asammosaṃ dīpetī’’**ti sutākārassa yāthāvato dassiyamānattā vuttaṃ. Asammohenāti sammohābhāvena, paññāya eva vā savanakālasambhūtāya taduttarakālapaññāsiddhi, evaṃ asammosenāti etthāpi vattabbaṃ. Byañjanānaṃ paṭivijjhitabbo ākāro nātigambhīro, yathāsutadhāraṇameva tattha karaṇīyanti satiyā byāpāro adhiko, paññā tattha guṇībhūtāti vuttaṃ **‘‘paññāpubbaṅgamāyā’’**tiādi paññāya pubbaṅgamāti katvā. Pubbaṅgamatā cettha padhānabhāvo ‘‘manopubbaṅgamā’’tiādīsu viya, pubbaṅgamatāya vā cakkhuviññāṇādīsu āvajjanādīnaṃ viya appadhānatte paññā pubbaṅgamā etissāti ayampi attho yujjati, evaṃ **‘‘satipubbaṅgamāyā’’**ti etthāpi vuttanayānusārena yathāsambhavamattho veditabbo. Atthabyañjanasampannassāti atthabyañjanaparipuṇṇassa, saṅkāsanapakāsanavivaraṇavibhajanauttānīkaraṇapaññattivasena chahi atthapadehi, akkharapadabyañjanākāraniruttiniddesavasena chahi byañjanapadehi ca samannāgatassāti vā attho daṭṭhabbo.
自身が洞察した経典の特別な種類を「このように」と長老が回顧したことで、「無迷妄を示す」と述べられた。「様々な種類の洞察が可能である」とは、これによって後に述べられる経典が多様な種類であり、洞察しにくいものであることを示す。「スッタの無混同を示す」とは、スッタの形が真実のままに示されているために述べられた。「無混同によって」とは、迷妄がないことによってであり、あるいは聞く時に生じた智慧によって、その後の智慧の成就があるということであり、同様に「無混同によって」とここでも述べられるべきである。文字の洞察すべき形はそれほど深遠ではなく、聞いた通りに保持することがなされるべきであるから、そこでは念(sati)の作用が勝っており、智慧はそこでは従属的なものであるとして、「智慧を先頭とする」などが智慧を先頭とすると見なして述べられた。ここでの「先頭とすること」は、「意を先頭とする」などのように主要な部分であること、あるいは眼識などにおける思惟などのように主要でない部分である場合でも、「智慧がこれを先頭とする」というこの意味も成り立つ。同様に「念を先頭とする」という場合も、述べられた方法に従って可能な限り意味が理解されるべきである。「意味と文字に具足したものの」とは、意味と文字に満ちたものの意味である。あるいは、提示、表明、開示、分析、明らかにすること、概念の明示という六つの意味の語句と、文字、語句、表現、形、語源、指示という六つの文字の語句に具足したものの意味であると理解されるべきである。
Yonisomanasikāraṃ dīpetīti evaṃ-saddena vuccamānānaṃ ākāranidassanāvadhāraṇatthānaṃ aviparītasaddhammavisayattāti adhippāyo. **‘‘Avikkhepaṃ dīpetī’’**ti ‘‘brahmajālaṃ kattha bhāsita’’ntiādi pucchāvasena pakaraṇappattassa vakkhamānassa suttassa savanaṃ samādhānamantarena na sambhavatīti katvā vuttaṃ. **‘‘Vikkhittacittassā’’**tiādi tassevatthassa samatthanavasena vuttaṃ. Sabbasampattiyāti atthabyañjanadesakapayojanādisampattiyā. Aviparītasaddhammavisayehi viya ākāranidassanāvadhāraṇatthehi yonisomanasikārassa, saddhammassavanena viya ca avikkhepassa yathā yonisomanasikārena phalabhūtena attasammāpaṇidhipubbekatapuññatānaṃ siddhi vuttā tadavinābhāvato, evaṃ avikkhepena phalabhūtena kāraṇabhūtānaṃ saddhammassavanasappurisūpanissayānaṃ siddhi dassetabbā siyā assutavato, sappurisūpanissayarahitassa ca tadabhāvato.
「如理作意を示す」とは、「このように」という言葉で述べられる形、例示、限定の意味が、誤りのない正しい法を対象とするという意図である。「散乱のなさを示す」とは、「ブラフマジャーラ経はどこで説かれたか」などの問いによって主題となった、後に述べられる経典を聞くことは、禅定なしには不可能であるとして述べられた。「心が散乱した者の」などは、その意味を補強するために述べられた。「すべての成就によって」とは、意味、文字、説法者、目的などの成就によってである。誤りのない正しい法を対象とする、形、例示、限定の意味によって如理作意が、また正しい法の聴聞によって散乱のなさが、如理作意が結果として自己の正しき願望と過去に行った善行の成就につながると述べられているように、それらが不可分であるため、同様に、散乱のなさという結果によって、原因である正しい法の聴聞と善友への帰依の成就が示されるべきである。これは、聞くことのない者、そして善友への帰依のない者にはそれが存在しないためである。
‘‘Na **hi vikkhittacitto’’**tiādinā samatthanavacanena pana avikkhepena kāraṇabhūtena sappurisūpanissayena ca phalabhūtassa saddhammassavanassa siddhi dassitā. Ayaṃ panettha adhippāyo yutto siyāsaddhammassavanasappurisūpanissayā na ekantena avikkhepassa kāraṇaṃ bāhiraṅgattā, avikkhepo pana sappurisūpanissayo viya saddhammassavanassa ekantakāraṇanti. Evampi avikkhepena sappurisūpanissayasiddhijotanā na samatthitāva, no na samatthitā vikkhittacittānaṃ sappurisapayirupāsanābhāvassa atthasiddhattā. Ettha ca purimaṃ phalena kāraṇassa siddhidassanaṃ nadīpūrena viya upari vuṭṭhisabbhāvassa, dutiyaṃ kāraṇena phalassa siddhidassanaṃ daṭṭhabbaṃ ekantena vassinā viya meghavuṭṭhānena vuṭṭhippavattiyā.
「心が散乱した者は」などの補強の言葉によって、散乱のなさという原因と善友への帰依という結果である正しい法の聴聞の成就が示された。ここで適切な意図は次のようである。正しい法の聴聞と善友への帰依は、外部的なものであるため、散乱のなさの絶対的な原因ではない。しかし散乱のなさは、善友への帰依のように、正しい法の聴聞の絶対的な原因である。このように、散乱のなさによって善友への帰依の成就を示すことは補強されていないわけではなく、心が散乱した者が善友を敬うことがないという事実が確立されているため、そうではない。ここで、最初の結果によって原因の成就を示すことは、川の氾濫によって上流の降雨の存在を示すようなものであり、第二の原因によって結果の成就を示すことは、雨を降らす雲の発生によって降雨の進行を絶対的に示すようなものと理解されるべきである。
Bhagavato vacanassa atthabyañjanapabhedaparicchedavasena sakalasāsanasampattiogāhanākāro niravasesaparahitapāripūrikāraṇanti vuttaṃ **‘‘evaṃ bhaddako ākāro’’**ti. Yasmā na hotīti sambandho. Pacchimacakkadvayasampattinti attasammāpaṇidhipubbekatapuññatāsaṅkhātaṃ guṇadvayaṃ. Aparāparaṃ vuttiyā cettha cakkabhāvo, caranti etehi sattā sampattibhavesūti vā. Ye sandhāya vuttaṃ ‘‘cattārimāni bhikkhave cakkāni, yehi samannāgatānaṃ devamanussānaṃ catucakkaṃ vattatī’’tiādi. Purimapacchimabhāvo cettha desanākkamavasena daṭṭhabbo. Pacchimacakkadvayasiddhiyāti pacchimacakkadvayassa atthitāya. Sammāpaṇihitatto pubbe ca katapuñño suddhāsayo hoti tadasuddhihetūnaṃ kilesānaṃ dūrībhāvatoti āha **‘‘āsayasuddhi siddhā hotī’’**ti. Tathā hi vuttaṃ ‘‘sammāpaṇihitaṃ cittaṃ, seyyaso naṃ tato kare’’ti, ‘‘katapuññosi tvaṃ ānanda, padhānaṃ anuyuñja khippaṃ hohisi anāsavoti ca. Tenevāha **‘‘āsayasuddhiyā adhigamabyattisiddhī’’**ti. Payogasuddhiyāti yonisomanasikārapubbaṅgamassa dhammassavanapayogassa visadabhāvena. Tathā cāha **‘‘āgamabyattisiddhī’’**ti. Sabbassa vā kāyavacīpayogassa niddosabhāvena. Parisuddhakāyavacīpayogo hi vippaṭisārābhāvato avikkhittacitto pariyattiyaṃ visārado hotīti.
「世尊の言葉の義と句の種々の区別を識別することによって、全教法の完成を深く理解するあり方が、残すところなく他者の利益を成就させる原因である」と「このように優れたあり方である」と述べられている。「なぜならば存在しないからである」という関連性。「後者の二つの車輪の成就」とは、自らの正しい誓願と過去に積んだ功徳という二つの徳を指す。ここでのその後の展開において「車輪」という状態が存在する、あるいは「衆生はこれらによって幸福な境涯を巡る」ということである。「比丘たちよ、これら四つの車輪がある。これらを具足する神々や人間には、四つの車輪が巡る」などと述べられているのを指す。ここでの前後関係は、説法の順序として見るべきである。「後者の二つの車輪の完成」とは、後者の二つの車輪が存在することによってである。正しく誓願を立て、過去に功徳を積んだ者は、不浄の原因である煩悩から遠ざかっているので、清らかな意図を持つことになる、と「意図の清浄が成就する」と述べられている。実際に「正しく誓願された心は、それよりも優れている」「アーナンダよ、汝は功徳を積んだ者である。精進を怠らずに努めなさい。すぐに煩悩なき者となるだろう」と述べられている。それゆえ、「意図の清浄によって、悟りの明瞭さが成就する」と述べられている。「実践の清浄」とは、如理作意を前行とする法を聞く実践が明瞭であることによってである。また「教説の明瞭さが成就する」と述べられている。あるいは、全ての身業と語業の無過失性によってである。清らかな身業と語業は、後悔がないため心が散乱せず、教理において熟達するからである。
**‘‘Nānappakārapaṭivedhadīpakenā’’**tiādinā atthabyañjanesu therassa evaṃ-sadda suta-saddānaṃ asammohāsammosadīpanato catupaṭisambhidāvasena atthayojanaṃ dasseti. Tattha **‘‘sotabbappabhedapaṭivedhadīpakenā’’**ti etena ayaṃ suta-saddo evaṃ-saddasannidhānato, vakkhamānāpekkhāya vā sāmaññeneva sotabbadhammavisesaṃ āmasatīti dasseti. Manodiṭṭhikaraṇāpariyattidhammānaṃ anupekkhanasuppaṭivedhā visesato manasikārapaṭibaddhāti te vuttanayena yonisomanasikāradīpakena evaṃ-saddena yojetvā, savanadhāraṇavacīparicayā pariyattidhammānaṃ visesena sotāvadhānapaṭibaddhāti te avikkhepadīpakena suta-saddena yojetvā dassento sāsanasampattiyā dhammassavane ussāhaṃ janeti. Tattha dhammāti pariyattidhammā. Manasānupekkhitāti ‘‘idha sīlaṃ kathitaṃ, idha samādhi, idha paññā, ettakā ettha anusandhiyo’’tiādinā nayena manasā anupekkhitā. Diṭṭhiyā suppaṭividdhāti nijjhānakkhantibhūtāya, ñātapariññāsaṅkhātāya vā diṭṭhiyā tattha tattha vuttarūpārūpadhamme ‘‘iti rūpaṃ, ettakaṃ rūpa’’ntiādinā suṭṭhu vavatthapetvā paṭividdhā.
「種々の覚りの照明によって」などによって、義と句において長老の「このように」という言葉と「聞いた」という言葉の、迷いのない明示性から、四つの無礙解の観点から意味の解釈を示す。そこでは、「聞くべき種々の覚りの照明によって」とは、この「聞いた」という言葉が「このように」という言葉の近接性から、あるいは後に述べられることを期待して、一般的に聞かれるべき法という特定性を指し示していることを示す。意と見解によってなされる教理法を観察し完全に覚ることは、特に作意に結びついているので、それらを述べられたように如理作意を照明する「このように」という言葉と結びつけ、また、聞くこと、保持すること、口頭で親しむことによる教理法は、特に聞くことへの注意に結びついているので、それらを散乱なきことを照明する「聞いた」という言葉と結びつけて示すことで、教法の成就のために法を聞くことへの意欲を生じさせる。そこでの法とは、教理法である。「心によって観察された」とは、「ここには戒が説かれ、ここには定が、ここには慧が説かれ、これだけの一貫性がある」などの方法で、心によって観察されたものである。「見解によって完全に覚られた」とは、洞察による忍耐を本質とする見解、あるいは知られた遍知と称される見解によって、そこかしこで説かれた色法・無色法を「これが色である、これだけの色が」などとよく区別して覚られたものである。
**‘‘Sakalena vacanenā’’**ti pubbe tīhi padehi visuṃ visuṃ yojitattā vuttaṃ. Asappurisabhūminti akataññutaṃ ‘‘idhekacco pāpabhikkhu tathāgatappaveditaṃ dhammavinayaṃ pariyāpuṇitvā attano dahatī’’ti evaṃ vuttaṃ anariyavohārāvatthaṃ. Sā eva anariyavohārāvatthā asaddhammo. Nanu ca ānandattherassa ‘‘mamedaṃ vacana’’nti adhimānassa, mahākassapattherādīnañca tadāsaṅkāya abhāvato asappurisabhūmisamatikkamādivacanaṃ niratthakaṃ ti? Nayidaṃ evaṃ ‘‘evaṃ me suta’’nti vadantena ayampi attho vibhāvitoti dassanato. Keci pana ‘‘devatānaṃ parivitakkāpekkhaṃ tathāvacananti edisī codanā anavakāsā’’ti vadanti. Tasmiṃ kira khaṇe ekaccānaṃ devatānaṃ evaṃ cetaso parivitakko udapādi ‘‘tathāgato ca parinibbuto, ayañca āyasmā desanākusalo, idāni dhammaṃ deseti, sakyakulappasuto tathāgatassa bhātā cūḷapituputto, kiṃ nu kho sayaṃ sacchikata dhammaṃ deseti, udāhu bhagavatoyeva vacanaṃ yathāsuta’’nti. Evaṃ tadāsaṅkitappakārato asappurisabhūmisamokkamādito atikkamādi vibhāvitanti. Attano adahantoti ‘‘mameta’’nti attani aṭṭhapento. Appetīti nidasseti. Diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthesu yathārahaṃ satte netīti netti, dhammoyeva netti dhammanetti.
「全ての言葉によって」とは、以前に三つの語によってそれぞれ結合されていたことから述べられている。「不善士の境地」とは、恩知らずであること、「ここに、ある悪比丘が如来によって説かれた法と律を習得し、それを自らのものとする」と述べられているような、聖ならざる言動の状態を指す。その聖ならざる言動の状態こそが邪法である。では、アーナンダ長老には「これは私の言葉である」という増上慢がなく、マハーカッサパ長老などにもその疑いがなかったのだから、「不善士の境地を超越する」などの言葉は無意味ではないか?いや、そうではない。「このように私は聞いた」と言うことで、この意味も明らかにされているのである。しかし、ある人々は「神々の推量に期待される如来の言葉という、そのような責めはありえない」と言う。その時、ある神々には「如来はすでに般涅槃に入られ、この尊者は説法に巧みで、今、法を説いている。シャカ族出身で如来の弟である従兄弟である彼が、一体、自らが体得した法を説いているのか、それとも世尊の言葉をそのまま聞いた通りに説いているのか」という心の推量が起こったという。このように、その時の疑いの種類から、不善士の境地への侵入などからの超越などが明らかにされたのである。「自らのものとしない」とは、「これは私のものだ」と自らに留めないことである。「示し出す」とは、示すことである。現世の利益、来世の利益、究極の真理において、それぞれ衆生を導くから「導き」である。法こそが導きであるから「法の導き」である。
Daḷhataraniviṭṭhā vicikicchā kaṅkhā. Nātisaṃsappanaṃ matibhedamattaṃ vimati. Assaddhiyaṃ vināseti bhagavato desitattā, sammukhā cassa paṭiggahitattā, khalitaduruttādiggahaṇadosābhāvato ca. Ettha ca paṭhamādayo tisso atthayojanā ākārādiatthesu aggahitavisesameva evaṃ-saddaṃ gahetvā dassitā, tato parā tisso ākāratthameva evaṃ-saddaṃ gahetvā vibhāvitā. Pacchimā pana tisso yathākkamaṃ ākāratthaṃ nidassanatthaṃ avadhāraṇatthañca evaṃ-saddaṃ gahetvā yojitāti daṭṭhabbaṃ.
「堅固に根ざした疑惑」とは、疑い(vicikicchā)やためらい(kaṅkhā)のことである。「過度に深く根ざしていない見解の相違のみ」とは、ためらい(vimati)である。不信を破壊するのは、世尊によって説かれたためであり、直接受け入れられたためであり、誤りや悪言などを捉える過失がないためである。ここで最初の三つの意味解釈は、「このように」という語を、あり方などの意味において特定せずにとらえて示されている。その後の三つは、「このように」という語を、あり方という意味のみにとらえて明らかにされている。しかし最後の三つは、順に「このように」という語を、あり方、例示、限定の意味にとらえて結合されていると見るべきである。
Eka-saddo aññaseṭṭhāsahāyasaṅkhyadīsu dissati. Tathāhesa ‘‘sassato attā ca loko ca, idameva saccaṃ moghamaññanti ittheke abhivadantī’’tiādīsu aññatthe dissati, ‘‘cetaso ekodibhāva’’ntiādīsu seṭṭhatthe, ‘‘eko vūpakaṭṭho’’tiādīsu asahāye, ‘‘ekova kho bhikkhave khaṇo ca samayo ca brahmacariyavāsāyā’’tiādīsu saṅkhyayaṃ, idhāpi saṅkhyayanti dassento āha **‘‘ekanti gaṇanaparicchedaniddeso’’**ti. Kālañca samayañcāti yuttakālañca paccayasāmaggiñca. Khaṇoti okāso. Tathāgatuppādādiko hi maggabrahmacariyassa okāso tappaccayapaṭilābhahetuttā. Khaṇo eva ca samayo. Yo ‘‘khaṇo’’ti ca ‘‘samayo’’ti ca vuccati, so eko vāti hi attho. Mahāsamayoti mahāsamūho. Samayopi khoti sikkhāpadapūraṇassa hetupi. Samayappavādaketi diṭṭhippavādake. Tattha hi nisinnā titthiyā attano attano samayaṃ pavadantīti. Atthābhisamayāti hitapaṭilābhā. Abhisametabboti abhisamayo, abhisamayo atthoti abhisamayaṭṭhoti pīḷana ādīni abhisametabbabhāvena ekībhāvaṃ upanetvā vuttāni. Abhisamayassa vā paṭivedhassa visayabhūtabhāvo abhisamayaṭṭhoti tāneva tathā ekattena vuttāni. Tattha pīḷanaṃ dukkhasaccassa taṃ samaṅgīno hiṃsanaṃ avipphārikatākaraṇaṃ. Santāpodukkhadukkhatādivasena santāpanaṃ paridahaṇaṃ.
「eka(一つ)」という語は、他の、最上の、孤独な、数などの意味で用いられる。実際に、「我と世界は常住である。これこそが真理であり、他は虚妄であると、ある人々は主張する」などにおいては「他の」という意味で、「心の一境性」などにおいては「最上の」という意味で、「ただ一人隠退した」などにおいては「孤独な」という意味で、「比丘たちよ、梵行に住むための刹那と機会は一つである」などにおいては「数の」という意味で用いられ、ここでも数という意味であることを示し、「一つとは数の限定の指示である」と述べられている。「時と機会」とは、適切な時と諸条件の集合のことである。「khaṇa(刹那)」とは機会のことである。如来の出現などは、道と梵行の機会である。なぜなら、それがそれらの条件を得る原因だからである。「刹那」こそが「機会(samayo)」である。「khaṇa(刹那)」とも「samayo(機会)」とも呼ばれるものが「一つである」というのが、まさに意味するところである。「mahāsamayo(大機会)」とは、大集会である。「samayo(機会)」は、戒律を満たす原因でもある。「samayappavādake(異端の論者)」とは、見解の論者である。なぜなら、そこに座っている異端者たちは、それぞれ自らの見解を主張するからである。「atthābhisamaya(義の覚り)」とは、利益の獲得である。「覚知すべきもの」が「覚知」である。覚知すべき意味が「覚知義」である。ゆえに、圧迫などは覚知すべきものとして一体化させて述べられている。あるいは、覚知すなわち覚りの対象となる状態が「覚知義」である。それらがそのように一体として述べられている。そこでの「圧迫」とは、苦諦の、それと具足する者への害であり、展開させないようにすることである。「熱苦」とは、苦苦などの意味での苦しめること、焼き尽くすことである。
Tattha sahakārīkāraṇaṃ sannijjha sameti samavetīti samayo, samavāyo. Sameti samāgacchati maggabrahmacariyamettha tadādhārapuggalehīti samayo, khaṇo. Sameti ettha, etenava saṃgacchati satto, sabhāvadhammo vā sahajātādīhi, uppādādīhi vāti samayo, kālo. Dhammappavattimattatāya atthato abhūtopi hi kālo dhammappavattiyā adhikaraṇaṃ, karaṇaṃ viya ca kappanāmattasiddhena rūpena voharīyatīti. Samaṃ, saha vā avayavānaṃ ayanaṃ pavatti avaṭṭhānanti samayo, samūho, yathā ‘‘samudāyo’’ti. Avayavasahāvaṭṭhānameva hi samūhoti. Avasesapaccayānaṃ samāgame eti phalaṃ etasmā uppajjati pavattati cāti samayo, hetu yathā ‘‘samudayo’’ti. Sameti saṃyojanabhāvato sambandho eti attano visaye pavattati, daḷhaggahaṇabhāvato vā saṃyuttā ayanti pavattanti sattā yathābhinivesaṃ etenāti samayo, diṭṭhi. Diṭṭhisaṃyojanena hi sattā ativiya bajjhantīti. Samiti saṅgati samodhānanti samayo, paṭilābho. Samassa yānaṃ, sammā vā yānaṃ apagamoti samayo, pahānaṃ. Abhimukhaṃ ñāṇena etabbo abhisametabboti abhisamayo, dhammānaṃ aviparīto sabhāvo. Abhimukhabhāvena sammā eti gacchati bujjhatīti abhisamayo, dhammānaṃ yathābhūtasabhāvāvabodho. Evaṃ tasmiṃ tasmiṃ atthe samaya-saddassa pavatti veditabbā. Samaya-saddassa atthuddhāre abhisamaya-saddassa udāharaṇaṃ vuttanayeneva veditabbaṃ. Assāti samaya-saddassa. Kālo attho samavāyādīnaṃ atthānaṃ idha asambhavato desadesakaparisānaṃ viya suttassa nidānabhāvena kālassa apadisitabbato ca.
そこでは、共同原因が一致し、集合するから「時(samayo)」、すなわち「集合(samavāyo)」である。道と梵行が、それを依り所とする人々によってここで出会い、集まるから「時(samayo)」、すなわち「刹那(khaṇo)」である。ここで衆生が集まり、あるいは自性法が共生などによって、生起などによって出会うから「時(samayo)」、すなわち「時間(kālo)」である。実際、時間は法が生起する際に、本質的には存在しなくとも、法が生起する際の依り所として、また原因として、概念によって確立された形態で用いられるのである。同様に、あるいは共に、部分の運行、生起、存在が「時(samayo)」、すなわち「集まり(samūho)」であり、「集合(samudāyo)」と同じである。部分が共に存在することこそが、集まりなのである。残りの諸条件が集まることで、そこから結果が生じ、発生し、継続するから「時(samayo)」、すなわち「原因(hetu)」であり、「生起(samudayo)」と同じである。束縛の性質から関連が生じ、自らの領域で展開し、あるいは堅固に執着する性質から、衆生が執着に従ってこれによって結合し、運行するから「時(samayo)」、すなわち「見解(diṭṭhi)」である。見解の束縛によって、衆生は非常に強く縛られるからである。「samiti(会合)」、「saṅgati(結合)」、「samodhāna(集合)」であるから「時(samayo)」、すなわち「獲得(paṭilābho)」である。「samassa yānaṃ(平静への行)」、あるいは「sammā yānaṃ(正しい行)」であるから「時(samayo)」、すなわち「捨断(pahānaṃ)」である。知識によって直面すべきもの、覚知すべきものであるから「覚知(abhisamayo)」、すなわち諸法の誤りのない自性である。直面する状態によって正しく行き、覚知するから「覚知(abhisamayo)」、すなわち諸法のありのままの自性を覚知することである。このように、それぞれの意味において「samaya」という語の用法を知るべきである。「samaya」という語の意味を解釈する上で、「abhisamaya」という語の例は、述べられた方法によって知るべきである。「それの」とは、「samaya」という語の。時間という意味は、ここにおいて集合などの他の意味が存在しえないからであり、また、諸国の民衆のように経典の起源として時間を指示すべきだからである。
Kasmā panettha aniyāmitavaseneva kālo niddiṭṭho, na utusaṃvaccharādivasena niyametvāti āha **‘‘tattha kiñcāpī’’**tiādi. Utusaṃvaccharādivasena niyamaṃ akatvā samaya-saddassa vacane ayampi guṇo laddho hotīti dassento **‘‘ye vā ime’’**tiādimāha. Sāmaññajotanā hi visese avatiṭṭhatīti. Tattha diṭṭhadhammasukhavihārasamayo devasikaṃ jhānasamāpattīhi vītināmanakālo, visesato sattasattāhāni. Pakāsāti dasasahassilokadhātuyā pakampanaobhāsapātubhāvādīhi pākaṭā. Yathāvuttappabhedesuyeva samayesu ekadesaṃ pakārantarehi saṅgahetvā dassetuṃ **‘‘yo cāya’’**ntiādimāha. Tathā hi ñāṇakiccasamayo attahitapaṭipattisamayo ca abhisambodhisamayo. Ariyatuṇhibhāvasamayo diṭṭhadhammasukhavihārasamayo. Karuṇākiccaparahitapaṭipattidhammikathāsamayo desanāsamayeva.
なぜここで時間が不特定の形で指示され、季節や年などで限定されないのか、と「そこにたとえ…」などと述べられている。季節や年などで限定せずに「samaya」という語を述べることで、この利点も得られることを示し、「あるいはこれら」などと述べている。一般的な指示は、特定の事柄において成り立つからである。そこでの現法楽住の機会とは、日々の禅定入によって過ごす時間、特に七日間である。「 प्रकाशति(光り輝く)」とは、一万世界が揺れ動き、輝き、顕れることなどによって明らかになることである。既に述べられた種々の機会の一部を、別の形でまとめて示すために、「そしてこの」などと述べている。実際に、知の活動の機会、自らの利益の実践の機会、そして完全なる覚りの機会である。聖なる沈黙の機会は、現法楽住の機会である。慈悲の活動、他者の利益の実践、説法の機会は、説法の機会そのものである。
Karaṇavacanena niddeso kato yathāti sambandho. Tatthāti abhidhammavinayesu. Tathāti bhummakaraṇehi. Adhikaraṇattha ādhārattho. Bhāvo nāma kiriyā, kiriyāya kiriyantaralakkhaṇaṃ bhāvenabhāvalakkhaṇaṃ. Tattha yathā kālo sabhāvadhammaparicchinno sayaṃ paramatthato avijjamānopi ādhārabhāvena paññāto taṅkhaṇappavattānaṃ tato pubbe parato ca abhāvato ‘‘pubbaṇhe jāto, sāyanhe gacchatī’’ti, ca ādīsu, samūho ca avayavavinimutto avijjamānopi kappanāmattasiddho avayavānaṃ ādhārabhāvena paññāpīyati ‘‘rukkhe sākhā, yavarāsiyaṃ sambhūto’’tiādīsu, evaṃ idhāpīti dassento āha **‘‘adhikaraṇañhi…pe… dhammāna’’**nti. Yasmiṃ kāle, dhammapuñje vā kāmāvacaraṃ kusalaṃ cittaṃ uppannaṃ hoti, tasmiṃyeva kāle, dhammapuñje ca phassādayopi hontīti ayañhi tattha attho. Yathā ca gāvīsu duyhamānāsu gato, duddhāsu āgatoti dohanakiriyāya gamanakiriyā lakkhīyati, evaṃ idhāpi ‘‘yasmiṃ samaye, tasmiṃ samaye’’ti ca vutte satīti ayamattho viññāyamāno eva hoti padatthassa sattāvirahābhavatoti samayassa sattākiriyāya cittassa uppādakiriyā, phassādīnaṃ bhavanakiriyā ca lakkhīyati. Yasmiṃ samayeti yasmiṃ navame khaṇe, yonisomanasikārādihetumhi, paccayasamavāye vā sati kāmāvacaraṃ kusalaṃ cittaṃ uppannaṃ hoti, tasmiṃyeva khaṇe, hetumhi, paccayasamavāye ca sati phassādayopi hontīti ubhayattha samaya-sadde bhummaniddeso kato lakkhaṇabhūtabhāvayuttoti dassento āha **‘‘khaṇa…pe… lakkhīyatī’’**ti.
「~によって」という語によって指示がなされている、という関連性である。「そこで」とは、アビダンマと律においてである。「そのように」とは、処格と具格によってである。「処格の意味」とは、依り所(ādāra)の意味である。「状態」とは作用であり、ある作用によって他の作用が特徴づけられること、また状態によって状態が特徴づけられることである。そこでは、自性法によって区切られた時間が、それ自体は究極的には存在しなくても、「午前中に生まれ、夕方に去る」などのように、その瞬間に生起するものがそれ以前にもそれ以後にも存在しないことから、依り所として概念的に確立されるように、また、部分から分離された集まりが、それ自体は存在しなくても、概念によって確立され、部分の依り所として「木に枝があり、麦の山に生じた」などのように概念的に確立されるように、ここでもそうである、と示して「処格は…諸法の」と述べられている。ある時に、あるいは法の集合において、欲界の善なる心が起こるならば、その同じ時に、あるいは法の集合においても、触などが生じる、というのがそこでの意味である。そして、「牛が乳を搾られている時に行った、乳が搾り終わった時に来た」というように、乳搾りの作用によって行く作用が特徴づけられるように、ここでも「ある機会に、その機会に」と述べられた場合、語義に存在性が欠けていないことから、この意味は理解される。ゆえに、機会の存在作用によって心の生起作用、触などの生起作用が特徴づけられる。「ある機会に」とは、ある第九の刹那に、如理作意などの原因において、あるいは条件の集合が存在する時に、欲界の善なる心が起こるならば、その同じ刹那に、原因において、あるいは条件の集合が存在する時、触なども生じる、ということである。両方の「samaya」という語に処格が用いられているのは、特徴づけとなる状態と結びついていることを示すためである、と「刹那…によって特徴づけられる」と述べられている。
Hetuattho karaṇattho ca sambhavati ‘‘annena vasati, ajjhenena vasati, pharasunā chindati, kudālena khaṇatī’’tiādīsu viya. Vītikkamañhi sutvā bhikkhusaṅghaṃ sannipātāpetvā otiṇṇavatthukaṃ puggalaṃ paṭipucchitvā, vigarahitvā ca taṃ taṃ vatthuṃ otiṇṇakālaṃ anatikkamitvā teneva kālena sikkhāpadāni paññapento bhagavā viharati sikkhāpadapaññattihetuñca apekkhamāno tatiyapārājikādīsu viyāti.
原因の意味と手段の意味は、「食物によって住む、学業によって住む、斧で切る、鍬で掘る」などのように、可能である。実際、世尊は違反を聞いて比丘サンガを招集し、問題を起こした人物に尋ね、その問題を非難し、問題が起こった時を過ぎずに、その時をもって戒律を制定し、第三の波羅夷などのように、戒律制定の原因を考慮しながら過ごすのである。
Accantameva ārambhato paṭṭhāya yāva desanāniṭṭhānaṃ parahitapaṭipattisaṅkhātena karuṇāvihārena. Tadatthajotanatthanti accantasaṃyogatthajotanatthaṃ. Upayogavacananiddeso kato yathā ‘‘māsaṃ ajjhetī’’ti.
まさに始まりから説法の終わりまで、他者の利益の実践と称される慈悲の境地によって。「その意味を明示するため」とは、絶対的な結合の意味を明示するためである。「期間を表す語による指示」とは、「一ヶ月間勉強する」というように行われた。
Porāṇāti aṭṭhakathācariyā. Abhilāpamattabhedoti vacanamattena viseso. Tena suttavinayesu vibhattibyatayo katoti dasseti.
「ポラーナー」とは注釈の師を指す。「アビラーパマッタベーダ」とは言葉の相違に過ぎない。それによって、経と律において語形変化の不規則性が生じていることを示す。
Seṭṭhanti seṭṭhavācakaṃ vacanaṃ seṭṭhanti vuttaṃ seṭṭhaguṇasahacaraṇato. Tathā uttamanti etthāpi. Gāravayuttoti garubhāvayutto garuguṇayogato, garukaraṇārahatāya vā gāravayutto.
「セッタ(最上)」とは最上を意味する言葉であり、最上の性質を伴うことから「セッタ(最上)」と言われる。同様に「ウッタマ(最上)」もここでもそうである。「ガーラヴァユッタ(尊敬されるべき)」とは、重んじるべき性質を持つことから重んじるべきであり、尊敬されるに値するから尊敬される。
Vuttoyeva na pana idha vattabbo visuddhimaggassa imissā aṭṭhakathāya ekadesabhāvatoti adhippāyo.
既に述べられているのであって、ここで述べるべきではないのは、それが『清浄道論』というこの注釈の一部であるという意図である。
Apica bhage vani, vamīti vā bhagavā, bhage sīlādiguṇe vani bhaji sevi, te vā vineyyasantānesu ‘‘kathaṃ nu kho uppajjeyyu’’nti vani yāci patthayīti bhagavā, bhagaṃ vā siriṃ, issariyaṃ, yasañca vami khelapiṇḍaṃ viya chaḍḍayīti bhagavā. Tathā hi bhagavā hatthagataṃ siriṃ, catuddīpissariyaṃ, cakkavattisampattisannissayañca sattaratanasamujjalaṃ yasaṃ anapekkho pariccajīti. Atha vā bhāni nāma nakkhattāni, tehi samaṃ gacchanti pavattantīti bhagā, sineruyugandharādigatā bhājanalokasobhā. Te bhagavā vami tappaṭibaddhachandarāgappahānena pajahatīti evampi bhage vamīti bhagavā.
また、「世尊」とは、「バーガ(福徳)を愛した(ヴァニ)」、あるいは「(福徳を)吐き出した(ヴァミー)」という意味である。「世尊」は、シーラ(戒)などの福徳の性質を愛し、修習し、実践した。あるいは、それらが調伏されるべき衆生の中に「どのようにして生じるであろうか」と切望し、求めたので「世尊」である。あるいは、「世尊」は福徳、すなわち威徳、権力、名声を唾を吐き出すように捨て去った。そのように世尊は、手にしていた威徳、四大洲の支配権、七宝に輝く転輪聖王の財産を、執着することなく捨て去ったのである。あるいはまた、「バーガ」とは星宿(ナッカタ)のことであり、それらと共に進行するから「バーガ」と言われる。それは須弥山やユガンダラ山などに配された器の世界の美しさである。世尊はそれら(星宿)を吐き出した。すなわち、それらに対する欲望や執着を捨て去ることによって放棄したのである。このようにしても「バーガを吐き出した」ゆえに「世尊」である。
**‘‘Dhammasarīraṃ paccakkhaṃ karotī’’**ti ‘‘yo vo ānanda mayā dhammo ca vinayo ca desito paññatto, so vo mamaccayena satthā’’ti vacanato dhammassa satthubhāvapariyāyo vijjatīti katvā vuttaṃ.
「法身を直接認識する」とは、「アーナンダよ、私によって説かれ制定された法と律は、私の没後、汝らの師となるであろう」という言葉から、法が師となるという状況が存在すると考えて言われたのである。
Vajirasaṅghātasamānakāyo parehi abhejjasarīrattā. Na hi bhagavato rūpakāye kenaci antarāyo sakkā kātunti. Desanāsampattiṃ niddisati vakkhamānassa sakalasuttassa ‘‘eva’’nti niddisanato. Sāvakasampattiṃ niddisati paṭisambhidāppattena pañcasu ṭhānesu bhagavatā etadagge ṭhapitena mayā mahāsāvakena sutaṃ, tañca kho mayāva sutaṃ, na anussavitaṃ, na paramparābhatanti imassatthassa dīpanato. Kālasampattiṃ niddisati ‘‘bhagavā’’ti padassa sannidhāne payuttassa samaya-saddassa kālassa buddhuppādapaṭimaṇḍitabhāvadīpanato. Buddhuppādaparamā hi kālasampadā. Tenetaṃ vuccati –
金剛石のように堅固な身体は、他者によって破壊されない身体であるゆえに(そうである)。世尊の肉身は誰によっても害されることはないからである。説法の成就を示す。「このように」と述べることによって、これから説かれる経典全体を指し示すからである。声聞の成就を示す。それは、五つの点で世尊によって最高位に置かれた大声聞である私によって、智慧に達した者として聞いたものであり、しかもそれは私自身が聞いたものであって、伝聞されたものでもなく、また伝承されたものでもないというこの意味を示すからである。時の成就を示す。「世尊」という語の近くで用いられた「時」という語によって、仏の出現によって飾られた時であることを示すからである。まさに仏の出現こそが最高の時の成就である。故にこのように言われる。
‘‘Kappakasāye kaliyuge, buddhuppādo aho mahacchariyaṃ;
「劫の汚れに満ちたカリーユガにおいて、仏の出現はああ、なんと偉大な奇跡であることか。
Hutāvahamajjhe jātaṃ, samuditamakarandamaravinda’’nti.
火の中に生じ、蜜を集めた蓮華である」と。
Bhagavāti desakasampattiṃ niddisati guṇavisiṭṭhasattuttamagāravādhivacanato.
「世尊」は、説法者の成就を示す。それは、優れた性質を持つ最高の存在として尊敬されるべき存在という称号であるからである。
Vijjantarikāyāti vijjuniccharaṇakkhaṇe. Antaratoti hadaye. Antarāti ārabbha nipphattīnaṃ vemajjhe. Antarikāyāti antarāḷe. Ettha ca ‘‘tadantaraṃ ko jāneyya, etesaṃ antarā kappā, gaṇanāto asaṅkhiyā, antarantarā kathaṃ opātetī’’ti ca ādīsu viya kāraṇavemajjhesu vattamānā antarā-saddā eva udāharitabbā siyuṃ, na pana cittakhaṇavivaresu vattamānā antarantarikā-saddā. Antarā-saddassa hi ayaṃ atthuddhāroti. Ayaṃ panettha adhippāyo siyā – yesu atthesu antarā-saddo vattati, tesu antarasaddopi vattatīti samānatthattā antarā-saddatthe vattamāno antara-saddo udāhaṭo, antarā-saddo eva vā ‘‘yassantarato’’ti ettha gāthāsukhatthaṃ rassaṃ katvā vuttoti daṭṭhabbaṃ. Antarā-saddo eva pana ika-saddena padaṃ vaḍḍhetvā ‘‘antarikā’’ti vuttoti evamettha udāharaṇodāharitabbānaṃ virodhābhāvo daṭṭhabbo. Ayojiyamāne upayogavacanaṃ na pāpuṇāti sāmivacanassa pasaṅge antarā-saddayogena upayogavacanassa icchitattā. Tenevāha **‘‘antarāsaddena yuttattā upayogavacanaṃ kata’’**nti.
「ヴィッジャンタリカーヤー」とは、稲妻が放たれる瞬間である。「アンタラート」とは、心の中で。「アンタラー」とは、事の成就の途中で。「アンタリカーヤー」とは、中間で。ここで「その間を誰が知るだろうか」「それらの間の劫は、数えきれない」「どのようにして時々落ちるか」といった例のように、事の途中にある「アンタラー」という言葉が引用されるべきであり、心の瞬間的な間にある「アンタランタリカー」という言葉ではない。「アンタラー」という語の意義はこれである。ここでの意図は次のようであろう。「アンタラー」という語が用いられる意味においては、「アンタラ」という語も用いられる。同じ意味であるため、「アンタラー」の意味で用いられる「アンタラ」という語が引用されたのである。あるいは、「ヤッサンタラート」という箇所では、詩の調子を良くするために「アンタラー」という語が短母音化されて言われたと理解されるべきである。「アンタラー」という語は「イカ」という語尾によって語を長くして「アンタリカー」と言われたのである。このように、ここで引用されるべき例と引用された例の間に矛盾がないと理解されるべきである。もし用いられなければ、その用法を示す語形は生じない。所有格の危険性がある場合に、「アンタラー」という語を用いることで用法を示す語形が望まれるからである。だからこそ、「『アンタラー』という語と結びついているため、用法を示す語形が作られた」と言われるのである。
‘‘Niyato sambodhiparāyaṇo, aṭṭhānametaṃ bhikkhave anavakāso, yaṃ diṭṭhisampanno puggalo sañcicca pāṇaṃ jīvitā voropeyya, ‘‘netaṃ ṭhānaṃ vijjatī’’ tiādivacanato diṭṭhisīlānaṃ niyatasabhāvattā sotāpannāpi aññamaññaṃ diṭṭhisīlasāmaññena saṃhatā, pageva sakadāgāmiādayo. ‘‘Tathārūpāya diṭṭhiyā diṭṭhisāmaññagato viharati, tathārūpesu sīlesu sīlasāmaññagato viharatī’’ti vacanato puthujjanānampi diṭṭhisīlasāmaññena saṃhatabhāvo labbhatiyeva.
「比丘たちよ、見解を具備した者が故意に生き物を殺すことはありえないことである。そのようなことは存在しない」という言葉などから、見解と戒律が定まった性質であるため、預流者でさえもお互いに見解と戒律の共通性によって結合されている。ましてや一来者などは言うまでもない。「そのように見解の共通性をもって住み、そのように戒律の共通性をもって住む」という言葉から、凡夫でさえも見解と戒律の共通性によって結合されている状態が得られるのである。
Suppiyopi khoti ettha kho-saddo avadhāraṇattho ‘‘assosi kho’’tiādīsu viya. Tena addhānamaggapaṭipanno ahosiyeva, nāssa maggapaṭipattiyā koci antarāyo ahosīti ayamattho dīpito hoti. Tatrāti vā kālassa paṭiniddeso. Sopi hi ‘‘ekaṃ samaya’’nti pubbe adhikato. Yañhi samayaṃ bhagavā antarā rājagahañca nāḷandañca addhānamaggapaṭipanno, tasmiṃyeva samaye suppiyopi taṃ maggaṃ paṭipanno avaṇṇaṃ bhāsati, brahmadatto ca vaṇṇaṃ bhāsatīti. Pariyāyati parivattatīti pariyāyo, vāro. Pariyāyeti desetabbamatthaṃ paṭipādetīti pariyāyo, desanā. Pariyāyati attano phalaṃ pariggahetvā pavattatīti pariyāyo, kāraṇanti evaṃ pariyāya-saddassa vārādīsu pavatti veditabbā. Kāraṇenāti kāraṇapatirūpakena. Tathā hi vakkhati ‘‘akāraṇameva kāraṇanti vatvā’’ti. Kasmā panettha ‘‘avaṇṇaṃ bhāsatī’’ti, ‘‘vaṇṇaṃ bhāsatī’’ti ca vattamānakālaniddeso kato, nanu saṅgītikālato so avaṇṇavaṇṇānaṃ bhāsitakālo atītoti? Saccametaṃ, ‘‘addhānamaggapaṭipanno hotī’’ti ettha hoti-saddo viya atītakālattho bhāsati-saddo ca daṭṭhabbo. Atha vā yasmiṃ kāle tehi avaṇṇo vaṇṇo ca bhāsīyati, taṃ apekkhitvā evaṃ vuttaṃ. Evañca katvā ‘‘tatrāti kālassa paṭiniddeso’’ti idañca vacanaṃ samatthitaṃ hoti.
「スッピヨピ・コー」の「コー」という語は、「アッソシ・コー(聞いたのである)」などのように、強調の意味である。それゆえ、彼は道を進んだのであり、その道程には何の障害もなかったというこの意味が示される。「タットラー(その時)」とは、時を再び示すものである。それもまた「ある時」として以前に言及されたものである。世尊がラージャガハとナーランダの間で道を進んでいたその時、スッピヤもまたその道を進み、非難を語り、ブラフマダッタは称賛を語ったのである。「パイヤヤーヤティ(順次、順番)」とは、転換すること、すなわち順番であるから「パイヤヤーヤ」である。「パイヤヤーイェーティ(説かれるべき意味を導き出す)」とは、説かれるべき意味を導き出すから「パイヤヤーヤ」であり、説法である。「パイヤヤーヤティ(自らの結果を捉えて進行する)」とは、自らの結果を捉えて進行するから「パイヤヤーヤ」であり、原因である。このように、「パイヤヤーヤ」という語が順番などに用いられることが知られるべきである。「原因によって」とは、原因に似たものによって。そのように、「理由なきことを理由と称して」と言うであろう。ここで「非難を語る」「称賛を語る」と現在時制が用いられているのはなぜか。結集の時からは、その非難や称賛が語られた時は過去ではないのか。それはその通りである。「道を進む」という箇所で「ホティ」という語が過去時制で用いられているように、「バーサティ」という語も過去時制で理解されるべきである。あるいは、彼らが非難と称賛を語るその時を指してこのように言われたのである。このように考えて、「その時とは時を再び示すもの」というこの言葉も正当化されるのである。
Akāraṇanti ayuttiṃ, anupapattinti attho. Na hi arasarūpatādayo dosā bhagavati saṃvijjanti, dhammasaṅghānañca durakkhātaduppaṭipannatādayoti. Akāraṇanti vā yuttakāraṇarahitaṃ, paṭiññāmattanti adhippāyo. Imasmiñca atthe kāraṇanti vatvāti kāraṇaṃ vāti vatvāti attho. Arasarūpādīnañcettha jātivuḍḍhesu abhivādanādisāmīcikammākaraṇaṃ kāraṇaṃ, tathā uttarimanussadhammālamariyañāṇadassanābhāvassa sundarikāmaguṇādinavabodho, saṃsārassa ādikoṭiyā apaññāyanapaṭiññā, abyākatavatthubyākaraṇanti evamādayo, tathā asabbaññutādīnaṃ kamāvabodhādayo yathārahaṃ niddhāretabbā. Tathā tathāti jātivuḍḍhānaṃ anabhivādanādiākārena.
「アカーラナ(不当)」とは不合理、不当であるという意味である。世尊には味気なさや醜さといった過失は存在しないし、法と僧伽には説法の不備や行いの不適切さといった過失も存在しないからである。あるいは、「アカーラナ」とは正当な理由がないこと、単なる主張であるという意味である。そしてこの意味において、「原因であると言って」とは「原因である、とだけ言って」という意味である。ここで味気なさなどとは、年長の者たちへの礼拝などの適切な行為をしないことが原因である。また、人を超えた聖なる知識と見識の欠如、美女などの五欲の対象への執着、輪廻の始点が不明であるという主張、無記の事柄への表明などもそうである。また、一切智ではないことなどの次第の理解なども適切に定めるべきである。そのようにとは、年長の者たちを礼拝しないなどの態度によって。
Avaṇṇaṃ bhāsamānoti avaṇṇaṃbhāsanahetu. Hetuattho hi ayaṃ māna-saddo. Anayabyasanaṃ pāpuṇissati ekantamahāsāvajjattā ratanattayopavādassa. Tenevāha –
「非難を語る者は」とは、非難を語る原因である。この「マーナ」という語は原因の意味である。彼は災難と破滅に陥るであろう。なぜなら三宝を誹謗することは、ひたすら大きな罪悪であるからである。故にこのように言われる。
‘‘Yo nindiyaṃ pasaṃsati,
「非難されるべき者を称賛する者、
Taṃ vā nindati yo pasaṃsiyo;
あるいは称賛されるべき者を非難する者、
Vicināti mukhena so kaliṃ,
彼は口で争いを集める、
Kalinā tena sukhaṃ na vindatī’’ti.
その争いによって彼は幸せを得ない」と。
‘‘Amhākaṃ ācariyo’’tiādinā brahmadattassa saṃveguppattiṃ, attano ācariye kāruññappavattiñca dassetvā kiñcāpi antevāsinā ācariyassa anukūlena bhavitabbaṃ, ayaṃ pana paṇḍitajātikattā na edisesu taṃ anuvattatīti, idāni tassa kammassakataññāṇappavattiṃ dassento **‘‘ācariye kho panā’’**tiādimāha. Vaṇṇaṃ bhāsituṃ āraddho ‘‘apināmāyaṃ ettakenāpi ratanattayāvaṇṇato orameyyā’’ti. Vaṇṇīyatīti vaṇṇo, guṇo. Vaṇṇanaṃ guṇasaṅkittananti vaṇṇo, pasaṃsā. Saṃññūḷhāti ganthitā, nibandhitāti attho. Atitthena pakkhando dhammakathikoti na vattabbo aparimāṇaguṇattā buddhādīnaṃ, niravasesānañca tesaṃ idha pakāsanaṃ pāḷisaṃvaṇṇanāyeva sampajjatīti. Anussavādīti ettha ādi-saddena ākāraparivitakkadiṭṭhinijjhānakkhantiyo saṅgaṇhāti. Attano thāmena vaṇṇaṃ abhāsi, na pana buddhādīnaṃ guṇānurūpanti adhippāyo. Asaṅkhyayyāparimitappabhedā hi buddhādīnaṃ guṇā. Vuttañhetaṃ –
「我らの師」などと言って、ブラフマダッタの感動の生起と、自らの師に対する慈悲の生起を示しつつ、たとえ弟子は師に忠実であるべきであっても、この者は賢者であるため、このような場合には師に従わないであろう、と(考えている)。今や、彼の自己の行いに関する知識の生起を示すために、「しかし、師は」などと言った。彼は称賛を語り始めた。「この者は、これほどに三宝への非難をやめるだろうか」と。「称賛されるもの」ゆえに「ヴァッナ」であり、性質である。性質を列挙することゆえに「ヴァッナ」であり、称賛である。「サンニューラハ」とは、結びつけられた、編成されたという意味である。満足しない説法者とは言うべきではない。なぜなら仏などの性質は無限であり、それらのすべてをここで明らかにすることは、パーリ語の注釈そのものとなってしまうからである。「アヌッサヴァーディ」という箇所の「など」という語によって、考察、熟慮、見解、熟慮、忍耐が包含される。自らの力で称賛を語ったのであって、仏などの性質に相応しいものではないという意味である。仏などの性質は数えきれないほど無数に分類されるのである。これもまた言われる。
‘‘Buddhopi buddhassa bhaṇeyya vaṇṇaṃ,
「たとえ仏が仏の称賛を語っても、
Kappampi ce aññamabhāsamāno;
他のことを一切語らずに、一劫の間語り続けても、
Khīyetha kappo ciradīghamantare,
長い劫は尽きても、
Vaṇṇo na khīyetha tathāgatassā’’ti.
如来の称賛は尽きることがないだろう」と。
Idhāpi vakkhati ‘‘appamattakaṃ kho paneta’’ntiādi.
ここでも「それはごくわずかなことである」などと言うであろう。
Iti ha teti ettha itīti vuttappakāraparāmasanaṃ. Ha-kāro nipātamattanti āha **‘‘evaṃ te’’**ti.
「イティ・ハ・テーティ」の「イティ」は、述べられた種類を指し示す。「ハ」という語は単なる助辞であると、「このように、彼らは」と言われる。
Iriyāpathānubandhanena anubandhā honti, na pana sammāpaṭipattianubandhanenāti adhippāyo. Tasmiṃ kāleti yasmiṃ saṃvacchare utumhi māse pakkhe vā bhagavā taṃ addhānamaggaṃ paṭipanno, tasmiṃ kāle. Teneva hi kiriyāvicchedadassanavasena ‘‘rājagahe piṇḍāya caratī’’ti vattamānakālaniddeso kato. Soti evaṃ rājagahe vasamāno bhagavā. Taṃ divasanti yaṃ divasaṃ addhānamaggapaṭipanno, taṃ divasaṃ. Taṃ addhānaṃ paṭipanno nāḷandāyaṃ veneyyānaṃ vividha hitasukhanipphattiṃ ākaṅkhamāno imissā ca aṭṭhuppattiyā tividhasīlālaṅkataṃ nānāvidhakuhanalapanādimicchājīvaviddhaṃsanaṃ dvāsaṭṭhidiṭṭhijālaviniveṭhanaṃ dasasahassilokadhātupakampanaṃ brahmajālasuttantaṃ desessāmīti. Ettāvatā ‘‘kasmā pana bhagavā taṃ addhānaṃ paṭipanno’’ti codanā visodhitā hoti. ‘‘Kasmā ca suppiyo anubandho’’ti ayaṃ pana codanā ‘‘bhagavato taṃ maggaṃ paṭipannabhāvaṃ ajānanto’’ti etena visodhitā hoti. Na hi so bhagavantaṃ daṭṭhumeva icchatīti. Tenevāha **‘‘sace pana jāneyya, nānubandheyyā’’**ti.
「継続して付いて行く」とは、歩行などの姿勢によって継続するものであり、正しい実践によって継続するものではないという意味である。「その時」とは、世尊がその道を進んだその年、季節、月、半月を指し、その時である。だからこそ、「ラージャガハで托鉢する」と現在時制が用いられているのは、行為が継続している様子を示すためである。このようにラージャガハに滞在していた世尊は。「その日」とは、道を進んだその日である。その道をナーランダに向かって進み、調伏されるべき人々に様々な利益と幸福が成就することを願い、そしてこの縁起によって、三種の戒律で飾られ、様々な欺瞞や虚言といった邪な生計を破壊し、六十二の見解の網を解き放ち、一万世界を震撼させる『梵網経』を説こうと(思われたのである)。これによって「なぜ世尊はその道を進んだのか」という問いは解決される。「そしてなぜスッピヤはついて行ったのか」というこの問いは、「世尊がその道を進んだことを知らなかったため」によって解決される。彼は世尊に会うことだけを望んでいたわけではないからである。だからこそ、「もし知っていたならば、ついて行かなかったであろう」と言われるのである。
Nīlapītalohitodātamañjiṭṭhapabhassaravasena **‘‘chabbaṇṇarasmiyo. ‘‘Samantā asītihatthappamāṇe’’**ti tāsaṃ rasmīnaṃ pakatiyā pavattiṭṭhānavasena vuttaṃ. **‘‘Tasmiṃ kira samaye’’**ti ca tasmiṃ addhānagamanasamaye buddhasiriyā anigūhitabhāvadassanatthaṃ vuttaṃ. Na hi tadā tassā nigūhane pakkusātiabhigamanādīsu viya kiñcipi kāraṇaṃ atthīti. Ratanāveḷaṃ ratanavaṭaṃsakaṃ. Cīnapiṭṭhacuṇṇaṃ sindhanacuṇṇaṃ.
青、黄、赤、白、緋、輝きのある六色の光線。「周囲八十ハットの範囲に」とは、それらの光線が自然に広がる場所を示すために言われた。「まさにその時」とは、その道のりの時に仏の威光が隠されなかったことを示すために言われた。その時、その威光を隠す理由は、たとえばパッカス・アティガマナ(不適切な進路)などのように何もなかったからである。宝の頭飾りとは、宝の冠。チーナ粉末とは、シンダナ粉末。
Byāmappabhāparikkhepavilāsinī ca assa bhagavato lakkhaṇamālāti mahāpurisalakkhaṇāni aññamaññapaṭibaddhattā evamāha. Dvattiṃsāya candamaṇḍalānaṃ mālā kenaci ganthetvā ṭhapitā yadi siyāti parikappanavasenāha **‘‘ganthetvā ṭhapitadvattiṃsacandamālāyā’’**ti. Siriṃ abhibhavantī ivāti sambandho. Esa nayo sūriyamālāyātiādīsupi. Mahātherāti mahāsāvake sandhāyāha. Evaṃ gacchantaṃ bhagavantaṃ bhikkhū ca disvā atha attano parisaṃ avalokesīti sambandho. **‘‘Yasmā panesā’’**tiādinā ‘‘kasmā ca so ratanattayassa avaṇṇaṃ bhāsatī’’ti codanaṃ visodheti. Itīti evaṃ, vuttappakārenāti attho. Imehi dvīhīti lābhaparivārahāniṃ nigamanavasena dasseti. Bhagavato virodhānunayābhāvavīmaṃsanatthaṃ ete avaṇṇaṃ vaṇṇañca bhāsantīti apare. ‘‘Mārena anvāviṭṭhā evaṃ karontī’’ti ca vadanti.
「一尋の光輪を巡らせて輝く」とは、世尊の主要な特徴であり、それは大人の特徴が互いに結びついているため、このように言われる。誰かが編んで置いた三十二の月輪の連鎖があると仮定して、「編んで置かれた三十二の月輪の連鎖によって」と言う。それは威光を凌駕するかのように、というつながりである。この論理は太陽の連鎖などについても同様である。「長老」とは、大声聞を指して言われた。そのように進む世尊を見て、比丘たちは自らの集団を見回した、というつながりである。「しかし、この者は」などと言って、「なぜ彼は三宝の非難を語るのか」という問いを解決する。「イティ」とは、このように、述べられた種類によってという意味である。これら二つのことによって、利益と周囲の人々の喪失を結論として示す。世尊には敵対も従順もないことを考察するために、彼らは非難と称賛を語るのだと言う者もいる。「マーラに取り憑かれてこのようにしているのだ」とも言う。
2. Ambalaṭṭhikāya avidūre bhavattā uyyānaṃ ambalaṭṭhikā yathā ‘‘varuṇānagaraṃ, godāgāmo’’ti. Keci pana ‘‘ambalaṭṭhikāti yathāvuttanayeneva ekagāmo’’ti vadanti. Tesaṃ mate ambalaṭṭhikāyanti samīpatthe bhummavacanaṃ. Rājāgārakaṃ vessavaṇamahārājadevāyatananti eke. Bahuparissayoti bahupaddavo. ‘‘Saddhiṃ antevāsinā brahmadattena māṇavenā’’ti vuttaṃ sīhaḷaṭṭhakathāyaṃ. Tañca kho pāḷi āruḷhavaseneva, na pana tadā suppiyassa parisāya abhāvato. Kasmā panettha brahmadattoyeva pāḷi āruḷho, na suppiyassa parisāti? Payojanābhāvato. Yathā cetaṃ, evaṃ aññampi edisaṃ payojanābhāvato saṅgītikārehi na saṅgahitanti daṭṭhabbaṃ. Keci pana ‘‘vuttanti pāḷiyaṃ vutta’’nti vadanti, taṃ na yujjati pāḷiāruḷhavasena pāḷiyaṃ vuttanti āpajjanato. Tasmā yathāvuttanayenevettha attho gahetabbo. Parivāretvā nisinno hotīti sambandho.
2. アンバラッティカーから遠くない場所にあるため、その園は「ヴァルナーナガラ、ゴーダーガーマ」のようにアンバラッティカーと呼ばれる。しかし、ある人々は「アンバラッティカーとは、上記のやり方で一つの村である」と言う。彼らの見解では、「アンバラッティカーヤンティ」は近接を意味する処格である。ある人々は「ラージャーガーラカ」とはヴァイッサヴァナ大王の神殿のことであると言う。「バフパリッサヤ」とは多くの危険を意味する。「弟子である婆羅門のブラフマダッタと共に」とシンハラアッタカターに述べられている。しかしそれはパーリに載っている形式であり、当時スッピヤに随行者がいなかったためではない。なぜここではブラフマダッタだけがパーリに載せられ、スッピヤの随行者が載せられていないのか?目的がなかったからである。これと同様に、他のそのようなものも、目的がなかったため結集者たちによって編纂されなかったと理解されるべきである。しかし、ある人々は「『ヴッタンティ』とはパーリに述べられていることだ」と言うが、パーリに載っている形式によってパーリに述べられていると解釈するのは適切ではない。したがって、ここでは上記の方法で意味が理解されるべきである。「取り囲んで座っていた」と関連付けられる。
3. Kathādhammoti kathāsabhāvo, kathādhammo upaparikkhāvidhīti keci. Nīyatīti nayo, attho. Saddasatthaṃ anugato nayo saddanayo. Tattha hi anabhiṇhavuttike acchariya-saddo icchito. Tenevāha **‘‘andhassa pabbatārohaṇaṃ viyā’’**ti. Accharāyogganti acchariyanti niruttinayo, so pana yasmā porāṇaṭṭhakathāyaṃ āgato, tasmā āha ‘‘aṭṭhakathānayoti. Yāvañcidaṃ suppaṭividitāti sambandho, tassa yattakaṃ suṭṭhu paṭividitā, taṃ ettakanti na sakkā amhehi paṭivijjhituṃ, akkhātuṃ vāti attho. Tenevāha **‘‘tena suppaṭividitatāya appameyyataṃ dassetī’’**ti.
3. 「カターダンモーティ」は会話の性質であり、ある人々は「カターダンモー」は調査の方法であると言う。「ニーヤティーティ」は論理、意味である。語義に従う方法は語学的な方法である。その中で、反復されない出来事において、「アッチャリヤ」(奇跡的、驚くべき)という言葉が用いられている。したがって、「盲人が山に登るようなものだ」と述べられている。「アッチャラーヨーガンティ」は「アッチャリヤ」(驚くべき)という意味の語源学的な方法であり、それは古註に現れているため、「アッタカターの論理」と述べられている。「これがいかに完全に理解されているか」と関連付けられるが、そのどれほどが十分に理解されているかを我々が洞察し、述べることはできないという意味である。したがって、「その完全な理解によって、測り知れないことを示している」と述べられている。
Pakatatthapaṭiniddeso taṃ-saddoti tassa ‘‘bhagavatā’’tiādīhi padehi samānādhikaraṇabhāvena vuttassa yena abhisambuddhabhāvena bhagavā pakato supākaṭo ca hoti, taṃ abhisambuddhabhāvaṃ saddhiṃ āgamanapaṭipadāya atthabhāvena dassento **‘‘yo so…pe… abhisambuddho’’**ti āha. Satipi ñāṇadassana-saddānaṃ idha paññāvevacanabhāve tena tena visesena nesaṃ savisayavisesappavattidassanatthaṃ asādhāraṇañāṇavisesavasena vijjattayavasena vijjābhiññānāvaraṇavasena sabbaññutaññāṇamaṃsacakkhuvasena paṭivedhadesanāñāṇavasena ca tadatthaṃ yojetvā dassento **‘‘tesaṃ tesa’’**ntiādimāha. Tattha āsayānusayaṃ jānatāāsayānusayañāṇena. Sabbañeyyadhammaṃ passatā sabbaññutānāvaraṇañāṇehi.
「タン」(彼)という代名詞は、その「世尊によって」などの語によって同格として述べられている、世尊が完全に目覚めた状態によって現れ、明らかにされる、その完全に目覚めた状態を実践の道と共に意味として示しながら、「彼とは…など…完全に目覚めた者である」と述べた。知識と視覚という言葉がここで智慧の同義語であるとしても、それぞれの特質によって、それらの各々が対象とする特質における展開を示すために、比類なき知識の特質として、三明として、明と神通を妨げるものがないとして、一切智と肉眼として、洞察と説法の知識として、その意味を結びつけて示しながら、「彼らの、彼らの」などと述べた。そこに、傾向と潜在的な煩悩を知るという、傾向と潜在的な煩悩を知る智がある。全ての知られるべき法を見るという、一切智と無障礙智がある。
Pubbenivāsādīhīti pubbenivāsāsavakkhayañāṇehi. Paṭivedhapaññāyāti ariyamaggapaññāya. Arīnanti kilesārīnaṃ, pañcavidhamārānaṃ vā, sāsanapaccatthikānaṃ vā aññatitthiyānaṃ, tesaṃ hananaṃ pāṭihāriyehi abhibhavanaṃ, appaṭibhānatākaraṇaṃ, ajjhupekkhanañca. Kesivinayasuttañcettha nidassanaṃ.
「過去世の住処などによって」とは、過去世の住処を思い出す智と漏尽智によってである。「洞察の智慧によって」とは、聖なる道の智慧によってである。「敵対者たち」とは、煩悩という敵対者たち、あるいは五種の魔、あるいは教えの敵である異教徒たちを指し、それらを打ち滅ぼすこと、神通力によって圧倒すること、反論不能にすること、そして看過することである。ケーシヴィナヤ経もまた、この例証である。
Tathā ṭhānāṭhānādīni jānatā, yathākammūpage satte passatā, savāsanānaṃ āsavānaṃ khīṇattā arahatā, abhiññeyyādibhede dhamme abhiññeyyādito aviparītāvabodhato sammāsambuddhena. Atha vā tīsu kālesu appaṭihatañāṇatāya jānatā, tiṇṇampi kammānaṃ ñāṇānuparivattito nisammakāritāya passatā, davādīnampi abhāvasādhikāya pahānasampadāya arahatā, chandādīnaṃ ahānihetubhūtāya aparikkhayapaṭibhānasādhikāya sabbaññutāya sammāsambuddhenāti evaṃ dasabalaṭṭhārasāveṇikabuddhadhammehipi yojanā veditabbā.
また、適切か不適切かなどを知る者として、業の結果に従って存在する衆生を見る者として、潜在的な煩悩を含む煩悩が尽きているが故に阿羅漢として、直接知るべきものなどの相違がある法を、直接知るべきものなどから誤りなく覚知するが故に正等覚者として。あるいは、三世において妨げられない智を有する者として知り、三つの業が智に従って注意深く為されることによって見、怒りなどの不在を成就する捨離の完全さによって阿羅漢となり、欲望などの失われない原因となる、尽きることのない洞察を成就する一切智によって正等覚者となる、というように、十力と十八の不共仏法によっても解釈されるべきである。
Yadipi hīnakalyāṇabhedena duvidhāva adhimutti pāḷiyaṃ vuttā, pavattiākāravasena pana anekabhedabhinnāti āha **‘‘nānādhimuttikatā’’**ti. Sā pana adhimutti ajjhāsayadhātu, tadapi tathā tathā dassanaṃ khamanaṃ rocanañcāti āha **‘‘nānājjhāsayatā…pe… rucitā’’**ti. Nānādhimuttikatañāṇenāti cettha sabbaññutañāṇaṃ adhippetaṃ, na dasabalañāṇanti āha **‘‘sabbaññutañāṇenā’’**ti. Iti ha meti ettha evaṃ-saddattho iti-saddo, ha-kāro nipātamattaṃ saralopo ca katoti dassetuṃ vuttaṃ **‘‘evaṃ ime’’**ti.
たとえ、劣ったものと善いものという区別で、志向が二種類のみパーリに述べられているとしても、その展開のあり方においては多くの種類に分かれていると「様々な志向」と述べた。その志向は内的傾向の要素であり、それもまた様々な見方、受容、選好であると「様々な内的傾向…など…選好」と述べた。「様々な志向を知る智によって」とは、ここでは一切智が意図されており、十力ではないと「一切智によって」と述べた。「イティ ハ メーティ」において、「イティ」という言葉は「エヴァム」(このように)という意味であり、「ハ」はただの助辞であり、母音の省略もなされていることを示すために、「このようにこれら」と述べられている。
4. Arahattamaggena samugghātaṃ kataṃ, yato ‘‘natthi abyāvaṭamano’’ti buddhadhammesu vuccati. Vītināmetvā phalasamāpattīhi. Nivāsetvā vihāranivāsanaparivattanavasena. **‘‘Kadāci ekako’’**tiādi tesaṃ tesaṃ vineyyānaṃ vinayanānukūlaṃ bhagavato upasaṅkamadassanaṃ. Pādanikkhepasamaye bhūmiyā samabhāvāpatti suppatiṭṭhitapādatāya nissandaphalaṃ, na iddhinimmānaṃ. **‘‘Ṭhapitamatte dakkhiṇapāde’’**ti buddhānaṃ sabbadakkhiṇatāya vuttaṃ. Arahatte patiṭṭhahantīti sambandho.
4. 阿羅漢道によって根絶され、それゆえ「動揺する心はない」と仏法において言われる。果定によって時を過ごし。精舎での居住と移動の様式に従って滞在し。「時に独りで」などとは、それぞれの教化すべき者たちの教化に適した、世尊が近づく様子を示すものである。足を踏み出す時に、地面が均等になるのは、よく定着した足による結果であり、神通力による創造ではない。「右足を置くや否や」とは、諸仏が常に右側を重視することによって述べられている。阿羅漢果に確立するという関連付け。
Dullabhā sampattīti satipi manussattapaṭilābhe patirūpadesavāsaindriyāvekallasaddhāpaṭilābhādayo guṇā dullabhāti attho. Cātumahārājikabhavananti cātumahārājikadevaloke suññavimānāni gacchantīti attho. Esa nayo tāvatiṃsabhavanādīsupi. Kālayuttanti imissā velāya imassa evaṃ vattabbanti taṃtaṃkālānurūpaṃ. Samayayuttanti tasseva vevacanaṃ, aṭṭhuppattianurūpaṃ vā. Atha vā samayayuttanti hetūdāharaṇasahitaṃ. Kālena sāpadesañhi bhagavā dhammaṃ deseti. Utuṃ gaṇhapeti, na pana malaṃ pakkhāletīti adhippāyo. Na hi bhagavato kāye rajojallaṃ upalimpatīti.
「得難い成就」とは、人間として生まれることができたとしても、適切な国に住むこと、五根が健全であること、信仰を得ることなどの徳は得難いという意味である。「四天王天の宮殿」とは、四天王天において空の宮殿に行くという意味である。この論理は三十三天などの宮殿にも適用される。「時に適した」とは、この時にこのように語られるべきであるという、それぞれの時に応じたものである。「状況に適した」とは、それと同義語であり、あるいは事の起こりに応じたものである。あるいは「状況に適した」とは、理由と例を伴うものである。世尊は、時に応じて、示唆に富んだ教えを説くからである。季節を把握させるのであって、汚れを洗い落とすのではないという意味である。世尊の身体に塵や泥が付着することはないからである。
Kilāsubhāvo kilamatho. Sīhaseyyaṃ kappeti sarīrassa kilāsubhāvamocanatthanti yojetabbaṃ. **‘‘Buddhacakkhunā lokaṃ voloketī’’**ti idaṃ pacchimayāme bhagavato bahulaāciṇṇavasena vuttaṃ. Appekadā avasiṭṭhabalañāṇehi sabbaññutañāṇena ca bhagavā tamatthaṃ sādhetīti. ‘‘Ime diṭṭhiṭṭhānā’’tiādidesanā sīhanādo. Tesaṃ ‘‘vedanāpaccayā taṇhā’’ tiādinā **paccayākāraṃ samodhānetvā. ‘‘Sineruṃ ukkhipanto viya nabhaṃ paharanto viya cā’’**ti idaṃ brahmajāladesanāya anaññasādhāraṇattā sudukkaratādassanatthaṃ vuttaṃ. Etanti ‘‘yena, tenā’’ti etaṃ padadvayaṃ. Yenāti vā hetumhi karaṇavacanaṃ, yena kāraṇena so maṇḍalamāḷo upasaṅkamitabbo, tena kāraṇena upasaṅkamīti attho, kāraṇaṃ pana ‘‘ime bhikkhū’’tiādinā aṭṭhakathāyaṃ vuttaṃeva. Kaṭṭhanti nisīdanayogyaṃ dārukkhandhaṃ.
疲労の状態が疲労である。身体の疲労状態を取り除くために獅子座を構えるべきであると解釈されるべきである。「仏眼によって世間を見渡す」とは、夜の最後の時間帯に世尊が頻繁に行われる習慣として述べられている。時には、残りの諸力と一切智によって世尊はその目的を達成する。「これらは見解の立場である」などの説法は獅子吼である。「感覚によって渇愛が生じる」などによって、縁起の理法を結びつけて、「スメール山を持ち上げるように、空を打つように」というのは、梵網経の説法が他には見られないものであり、極めて難しいことを示すために述べられた。「エータンティ」とは、「イェーナ、テーナ」(によって、それによって)という二語である。あるいは、「イェーナティ」とは原因を表す具格であり、その円形の堂が近づかれるべき理由によって、その理由で近づいたという意味であり、その理由は「これらの比丘たち」などによって註釈に述べられている。「カッタンティ」とは、座るのに適した木片である。
Purimoti ‘‘katamāya nu bhavathā’’ti evaṃ vutto attho. Kā ca pana voti ettha ca-saddo byatireke. Tena yathāpucchitāya kathāya vakkhamānaṃ vippakatabhāvaṃ joteti. Pana-saddo vacanālaṅkāro. Yāya hi kathāya te bhikkhū sannisinnā, sā eva antarākathābhūtā vippakatā visesena puna pucchīyatīti. Aññāti antarāsaddassa atthamāha. Aññatthe hi ayaṃ antarā-saddo ‘‘bhūmantaraṃ samayantara’’ntiādīsu viya. Antarāti vā vemajjheti attho. Nanu ca tehi bhikkhūhi sā kathā yathādhippāyaṃ ‘‘iti ha me’’tiādinā niṭṭhapitā yevāti? Na niṭṭhāpitā bhagavato upasaṅkamanena upacchinnattā. Yadi hi bhagavā tasmiṃ khaṇe na upasaṅkameyya bhiyyopi tappaṭibaddhāyeva kathā pavatteyyuṃ, bhagavato upasaṅkamanena pana na pavattesuṃ. Tenevāha **ayaṃ kho…pe… anuppatto’’**ti. Kasmā panettha dhammavinayasaṅgahe kariyamāne nidānavacanaṃ, nanu bhagavato vacanameva saṅgahetabbanti? Vuccatedesanāya ṭhitiasammosasaddheyyabhāvasampādanatthaṃ. Kāladesadesakavatthudhammapaṭiggāhakapaṭibaddhā hi desanā ciraṭṭhitikā hoti, asammosadhammā saddheyyā ca. Desakālakattusotunimittehi upanibandho viya vohāravinicchayo, teneva cāyasmatā mahākassapena ‘‘brahmajālaṃ āvuso ānanda kattha bhāsita’’ntiādinā desādipucchāsu katāsu tāsaṃ vissajjanaṃ karontena dhammabhaṇḍāgārikena nidānaṃ bhāsitanti tayidamāha **‘‘kāla…pe… nidānaṃ bhāsita’’**nti.
「以前の」とは、「あなた方はどのような話をしていましたか」とこのように述べられた意味である。「カー チャ パナ ヴォーティ」(あなた方はどんな話をしていましたか)において、「チャ」という言葉は対比を意味する。それによって、尋ねられた話が未完成であることを示している。「パナ」という言葉は言葉の装飾である。というのも、比丘たちが集まって話していたその話が、中断された話として、特に未完成であり、再び尋ねられたからである。「アンニャーティ」は「アンタラー」(中断)という言葉の意味を述べている。実際、「アンタラー」というこの言葉は、「ブーマンタラン サマヤンタラン」(大地の間の時間の間)などのように、他の意味でも用いられる。あるいは「アンタラーティ」とは、中間という意味である。しかし、それらの比丘たちはその話を、「このように私は聞きました」などによって意図した通りに終わらせたのではないか?世尊が近づいて中断されたため、終わらせていなかった。もし世尊がその瞬間に近づかなければ、さらにそれに関連する話が続いただろうが、世尊が近づいたので、続かなかった。したがって、「まさにこれ…など…到達した」と述べた。なぜここで、ダルマとヴィナヤの結集が行われる際に、序文が述べられているのか。世尊の言葉だけを結集すべきではないのか?説法の永続性、誤りのなさ、信頼性を成就させるためである。というのも、時間、場所、説者、対象、法、受容者に関連する説法は、長く存続し、誤りがなく、信頼できるものとなるからである。説者、時間、行為者、聞き手などの原因によって結びつけられるのは、訴訟の判決のようであり、それゆえにアッユスマン大カッサパが「アーナンダよ、梵網経はどこで説かれたのか」などと場所などの質問をした際に、それらの質問に答えることによって、ダンマ・バンダーガーリカン(法の管理者)が序文を説いたと、これを示して「時…など…序文を説いた」と述べた。
Apica satthusiddhiyā nidānavacanaṃ. Tathāgatassa hi bhagavato pubbaracanānumānāgamatakkābhāvato sammāsambuddhattasiddhi. Sammāsambuddhabhāvena hissa pubbaracanādīnaṃ abhāvo sabbattha appaṭihatañāṇacāratāya, ekappamāṇattā ca ñeyyadhammesu. Tathā ācariyamuṭṭhidhammamacchariyasatthusāvakānurodhābhāvato khīṇāsavattasiddhi. Khīṇā savatāya hissa ācariyamuṭṭhiādīnaṃ abhāvo, visuddhā ca parānuggahappavatti. Iti desakadosabhūtānaṃ diṭṭhicārittasampattidūsakānaṃ avijjātaṇhānaṃ abhāvasūcakehi, ñāṇappahānasampadābhi byañjanakehi ca sambuddhavisuddhabhāvehi purimavesārajjadvayasiddhi, tato eva ca antarāyikaniyyānikadhammesu sammohābhāvasiddhito pacchimavesārajjadvayasiddhīti bhagavato catuvesārajjasamannāgamo, attahitaparahitappaṭipatti ca pakāsitā hoti nidānavacanena sampattaparisāya ajjhāsayānurūpaṃ ṭhānuppattikappaṭibhānena dhammadesanādīpanato, ‘‘jānatā passatā’’tiādi vacanato ca. Tena vuttaṃ ‘‘satthusiddhiyā nidānavacana’’nti.
さらに、師の成就のための序文である。というのも、如来世尊には過去の準備や推論、聖典、思弁がないことから、正等覚者としての成就がある。正等覚者であることによって、彼には過去の準備などがなく、あらゆる場所で妨げられない智が働き、知られるべき法においては一つの基準となる。また、師の秘密の教えの吝嗇や、師が弟子に媚びるようなことがないことから、漏尽者としての成就がある。漏尽者であることによって、彼には師の秘密の教えなどがなく、他者を助ける行動は純粋である。このように、説者の過失であり、見解や行いの成就を損なうものである無明と渇愛がないことを示すものとして、また、智と捨離の完全さによって表現される、完全に目覚めた者の純粋な状態によって、最初の二つの無畏の成就があり、そこからさらに、障害となる法や解脱に至る法における迷妄がないことの成就によって、最後の二つの無畏の成就がある、というように、世尊の四無畏の具足と、自利と利他の実践が、現前の集いの内的傾向に応じた、その場その場の洞察による説法の輝きと、「知る者として見る者として」などの言葉によって、序文によって明らかにされる。それゆえに、「師の成就のための序文」と述べられている。
Tathā satthusiddhiyā nidānavacanaṃ. Ñāṇakaruṇāpariggahitasabbakiriyassa hi bhagavato natthi niratthikā pavatti, attahitatthā vā, tasmā paresaṃyeva atthāya pavattasabbakiriyassa sammāsambuddhassa sakalampi kāyavacīmanokammaṃ satthubhūtaṃ, na kabyaracanādisāsanabhūtaṃ. Tena vuttaṃ ‘‘satthusiddhiyā nidānavacana’’nti. Apica satthuno pamāṇabhūtatāvibhāvanena sāsanassa pamāṇabhāvasiddhiyā nidānavacanaṃ. ‘‘Bhagavatā’’ti hi iminā tathāgatassa guṇavisiṭṭhasattuttamādibhāvadīpanena, ‘‘jānatā’’tiādinā āsayānusayañāṇādipayogadīpanena ca ayamattho sādhito hoti. Idamettha nidānavacanapayojanassa mukhamattadassanaṃ. Ko hi samattho buddhānubuddhena dhammabhaṇḍāgārikena bhāsitassa nidānassa payojanāni niravasesato vibhāvetunti.
また、師の成就のための序文である。というのも、智と慈悲によって抱擁された全ての行動を有する世尊には、無意味な行動や自己の利益のための行動はない。したがって、もっぱら他者の利益のために行われる全ての行動を有する正等覚者の全ての身口意の業は師としての性質であり、詩作などの教えとしての性質ではない。それゆえに、「師の成就のための序文」と述べられている。さらに、師が規範的であることを明らかにすることによって、教えが規範的であることの成就のための序文である。というのも、「世尊によって」という言葉によって、如来の徳に秀でた存在の最高者であることなどを明らかにし、「知る者として」などによって、傾向と潜在的な煩悩を知る智などの適用を明らかにすることによって、この意味が成就されるからである。これは、ここにおける序文の目的の概略を示すものである。誰が、仏の目覚めに従った、法の管理者によって説かれた序文の目的を余すところなく明らかにすることができるだろうか。
Nidānavaṇṇanā niṭṭhitā.
序文の解説は終わった。
5. Nikkhittassāti desitassa. Desanāpi hi desetabbassa sīlādiatthassa vineyyasantānesu nikkhipanato ‘‘nikkhepo’’ti vuccati. Tattha yathā anekasataanekasahassabhedānipi suttantāni saṃkilesabhāgiyādisāsanappaṭṭhānanayena soḷasavidhataṃ nātivattanti, evaṃ attajjhāsayādisuttanikkhepavasena catubbidhabhāvanti āha **‘‘cattāro suttanikkhepā’’**ti. Kāmañcettha attajjhāsayassa, aṭṭhuppattiyā ca parajjhāsayapucchāhi saddhiṃ saṃsaggabhedo sambhavati ajjhāsayapucchānusandhisabbhāvato, attajjhāsayaaṭṭhuppattīnaṃ pana aññamaññaṃ saṃsaggo natthīti nayidha niravaseso vitthāranayo sambhavati, tasmā ‘‘cattāro suttanikkhepā’’ti vuttaṃ. Atha vā yadipi aṭṭhuppattiyā ajjhāsayena siyā saṃsaggabhedo, tadantogadhattā pana sesanikkhepānaṃ mūlanikkhepavasena cattārova dassitāti daṭṭhabbaṃ. So panāyaṃ suttanikkhepo sāmaññabhāvato paṭhamaṃ vicāretabbo, tasmiṃ vicārite yassā aṭṭhuppattiyā idaṃ suttaṃ nikkhittaṃ, tassā vibhāgavasena ‘‘mamaṃ vā bhikkhave’’tiādinā (dī. ni. 1.5, 6), ‘‘appamattakaṃ kho paneta’’ntiādinā (dī. ni. 1.7), ‘‘atthi bhikkhave’’tiādinā (dī. ni. 1.28) ca pavattānaṃ suttānaṃ suttapadesānaṃ vaṇṇanā vuccamānā taṃtaṃanusandhidassanasukhatāya suviññeyyā hotīti āha **‘‘suttanikkhepaṃ vicāretvā vuccamānā pākaṭā hotī’’**ti.
5.ニッギッタッサーティとは、示された、ということである。教説とは、示されるべき戒などの義を、弟子たちの心に蔵することから、「ニッゲッパ(蔵)」と呼ばれる。そこに、数千数万の区別がある経典も、煩悩分などの教えの基礎の点で十六種を超えないように、自己の意向などの経典の提示の点で四種であることを、「四つの経典の提示」と述べた。ここには、自己の意向、そして事の起こり と、他者の意向、問いかけ との間に混合の区別が生じる可能性がある。意向や問いかけと連動しているからである。しかし、自己の意向と事の起こりの間には相互の混合がないので、ここでは完全な詳細な説明はできない。だから、「四つの経典の提示」と述べられたのである。あるいは、たとえ事の起こりと意向との間に混合の区別があったとしても、残りの提示がそれらに含まれているため、根本的な提示として四種が示されたと見るべきである。この経典の提示は、一般的な性質として最初に考察されるべきである。それを考察すれば、この経典が提示された事の起こりを分類する形で、「比丘たちよ、私を賞賛するか、あるいは誹謗するか」など(長部経典1.5, 6)、「比丘たちよ、これはわずかなことである」など(長部経典1.7)、「比丘たちよ、ある」など(長部経典1.28)と説かれた経典の箇所が説明されるとき、それぞれの関連性を見つけるのが容易になり、よく理解されると述べて、「経典の提示を考察して説かれると、明らかになる」と述べた。
**‘‘Suttanikkhepā’’**tiādīsu nikkhipanaṃ nikkhepo, suttassa nikkhepo suttassa kathanaṃ suttanikkhepo, suttadesanāti attho. Nikkhipīyatīti vā nikkhepo, suttaṃyeva nikkhepo suttanikkhepo. Attano ajjhāsayo attajjhāsayo, so assa atthi suttadesanākāraṇabhūtoti attajjhāsayo. Attano ajjhāsayo etassāti vā attajjhāsayo. Parajjhāsayoti etthāpi eseva nayo. Pucchāya vaso pucchāvaso, so etassa atthīti pucchavasiko. Araṇīyato attho, suttadesanāya vatthu. Atthassa uppatti atthuppatti, atthuppattiyeva aṭṭhuppatti, sā etassa atthīti aṭṭhuppattiko. Atha vā nikkhipīyati suttaṃ etenāti suttanikkhepo, attajjhāsayādi eva. Etasmiṃ pana atthavikappe attano ajjhāsayo attajjhāsayo, paresaṃ ajjhāsayo parajjhāsayo, pucchīyatīti pucchā, pucchitabbo attho. Sotabbavasappavattaṃ dhammappaṭiggāhakānaṃ vacanaṃ pucchāvasikā, tadeva nikkhepasaddāpekkhāya pulliṅgavasena vuttaṃ **‘‘pucchāvasiko’’**ti. Tathā aṭṭhuppattiyeva **‘‘aṭṭhuppattiko’’**ti evampettha attho veditabbo.
「経典の提示(suttanikkhepā)」などにおいて、「ニッギパナ」とは「ニッゲッパ」である。経典のニッゲッパとは、経典を語ること、すなわち経典の教説である。「ニッギピヤティ」もまた「ニッゲッパ」であり、経典それ自体が「ニッゲッパ」、すなわち経典の提示である。自己の意向が「アッタッジャーサヤ」であり、それは経典を説く理由となるものであるから「アッタッジャーサヤ」である。あるいは、自己の意向がこれにあるという意味で「アッタッジャーサヤ」である。「他者の意向(parajjhāsayo)」もまた、これと同じである。問いかけの支配が「プッチャーワソ」であり、それがこれにあるから「プッチャーワシコ」である。なされるべき義、すなわち経典の教説の主題である。義の生起が「アットゥッパッティ」であり、「アットゥッパッティ」それ自体が「アットゥッパッティ」であり、それがこれにあるから「アットゥッパッティコ」である。あるいは、これによって経典が提示されるという意味で「経典の提示」であり、自己の意向なども同じである。この義の選択肢においては、自己の意向が「アッタッジャーサヤ」であり、他者の意向が「パラッジャーサヤ」であり、「問いかけられるもの」が「プッチャー」であり、尋ねられるべき義である。聞かれることによって生じる法を受け入れる人々の言葉が「プッチャーワシカー」であり、それ自体が提示という言葉との関連で男性形として「プッチャーワシコ」と述べられた。同様に、事の起こり自体が「アットゥッパッティコ」と、ここにはこのように理解されるべき義がある。
Ettha ca paresaṃ indriyaparipākādikāraṇanirapekkhatā attajjhāsayassa visuṃ nikkhepabhāvo yutto. Tenevāha **‘‘kevalaṃ attano ajjhāsayeneva kathetī’’**ti. Parajjhāsayapucchāvasikānaṃ pana paresaṃ ajjhāsayapucchānaṃ desanānimittabhūtānaṃ uppattiyaṃ pavattitānaṃ kathaṃ aṭṭhuppattiyaṃ anavarodho, pucchāvasikaaṭṭhuppattikānaṃ vā parajjhāsayānurodhena pavattitadesanattā kathaṃ parajjhāsaye anavarodhoti na codetabbametaṃ. Paresañhi abhinīhāraparipucchādivinimuttasseva suttadesanākāraṇuppādassa aṭṭhuppattibhāvena gahitattā parajjhāsayapucchāvasikānaṃ visuṃ gahaṇaṃ. Tathā hi dhammadāyādasuttādīnaṃ (ma. ni. 1.29) āmisuppādādidesanānimittaṃ ‘‘aṭṭhuppattī’’ti vuccati. Paresaṃ pucchaṃ vinā ajjhāsayameva nimittaṃ katvā desito parajjhāsayo, pucchāvasena desito pucchāvasikoti pākaṭo yamatthoti. Attano ajjhāsayeneva kathesi dhammatantiṭhapanatthanti daṭṭhabbaṃ. Sammappadhānasuttantahārakoti anupubbena niddiṭṭhānaṃ saṃyuttake sammappadhānapaṭisaṃyuttānaṃ suttānaṃ āvaḷi, tathā iddhipādahārakādi. Vimuttiparipācanīyā dhammā saddhindriyādayo. Abhinīhāranti paṇidhānaṃ.
そしてここには、他者の能力の成熟などの理由とは無関係に、自己の意向が単独の提示の形式であるのが適切である。それゆえに「ただ自己の意向によって説かれる」と述べた。しかし、他者の意向や問いかけに基づくものは、他者の意向や問いかけ が説法のきっかけとなって生じたものであるのに、なぜ事の起こりの中に妨げなく含まれるのか、あるいは、問いかけに基づくものや事の起こりによるものは、他者の意向に従って説かれたものであるのに、なぜ他者の意向の中に妨げなく含まれるのか、という問いは提起されるべきではない。他者の願いや問いかけなどから自由な経典説法の原因の生起が、事の起こりとして捉えられているからこそ、他者の意向や問いかけに基づくものが別個に捉えられているのである。たとえば、法嗣経典など(中部経典1.29)において、食料の獲得などが説法のきっかけとなり「事の起こり」と呼ばれる。他者の問いかけなしに、ただ意向をきっかけとして説かれたものが「他者の意向」であり、問いかけによって説かれたものが「問いかけに基づくもの」である、とこの義は明らかである。自己の意向によって法脈を確立するために説かれたと見るべきである。正精進経典の保持者とは、順次に説かれた相応部経典の中の正精進に関連する経典の系列、また神通の足などの保持者も同様である。解脱を成熟させるべき法とは、信の根などのことである。「アビニハラン」とは、誓願のことである。
Vaṇṇāvaṇṇeti ettha ‘‘acchariyaṃ āvuso’’tiādinā bhikkhusaṅghena vutto vaṇṇopi saṅgahito, taṃ pana aṭṭhuppattiṃ katvā ‘‘atthi bhikkhave aññe ca dhammā’’tiādinā upari desanaṃ ārabhissatīti. ‘‘Mamaṃ vā bhikkhave pare vaṇṇaṃ bhāseyyu’’nti imissā desanāya brahmadattena vuttavaṇṇo aṭṭhuppattīti katvā vuttaṃ **‘‘antevāsī vaṇṇaṃ. Iti imaṃ vaṇṇāvaṇṇaṃ aṭṭhuppattiṃ katvā’’**ti. Vā-saddo upamānasamuccayasaṃsayavavassaggapadapūraṇavikappādīsu bahūsu atthesu dissati. Tathā hesa ‘‘paṇḍito vāpi tena so’’tiādīsu (dha. pa. 63) upamāne dissati, sadisabhāveti attho. ‘‘Taṃ vāpi dhīrā muni vedayantī’’tiādīsu (su. ni. 203) samuccaye, ‘‘ke vā ime, kassa vā’’tiādīsu (pārā. 296) saṃsaye, ‘‘ayaṃ vā imesaṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ sabbabālo sabbamūḷho’’tiādīsu vavassagge, ‘‘na vāyaṃ kumārako mattamaññāsī’’tiādīsu (saṃ. ni. 2.154) padapūraṇe, ‘‘ye hi keci bhikkhave samaṇā vā brāhmaṇā vā’’tiādīsu (ma. ni. 1.170) vikappe, idhāyaṃ vikappeyevāti dassento āha **‘‘vā-saddo vikappanattho’’**ti. Para-saddo attheva aññatthe ‘‘ahañceva kho pana dhammaṃ deseyyaṃ, pare ca me na ājāneyyu’’ntiādīsu (dī. ni. 2.64, 65; ma. ni. 1.281; ma. ni. 2.223; saṃ. ni. 1.172; mahāva. 4, 8) atthi adhike ‘‘indriyaparopariyattañāṇa’’ntiādīsu (paṭi. ma. mātikā 68, 1.111) atthi pacchābhāge ‘‘parato āgamissatī’’tiādīsu. Atthi paccanīkabhāve ‘‘uppannaṃ parappavādaṃ saha dhammena suniggahitaṃ niggahetvā’’tiādīsu (dī. ni. 2.168). Idhāpi paccanīkabhāveti dassento āha **‘‘pareti paṭiviruddhā’’**ti.
「ヴァッナーヴァッネーティ」において、「アーヴソー、驚くべきことだ」などと比丘僧団によって語られた賛美も含まれる。そしてそれを事の起こりとして、「比丘たちよ、他の法もある」などと上に教説 を始めるであろうと。この「比丘たちよ、他者が私を賞賛するであろう」という教説において、ブラフマダッタによって語られた賞賛を事の起こりとして、「弟子たちの賞賛。このように、この賞賛と誹謗を事の起こりとして」と述べた。「ヴァー」という言葉は、比喩、集合、疑問、確定、補足、選択など多くの意味で現れる。たとえば、「彼が賢者であろうと」など(法句経63)では比喩に現れ、類似の状況を意味する。「賢者はそれを知る」など(スッタニパータ203)では集合に、 「彼らは誰なのか、誰のものなのか」など(パーラーヤナ296)では疑問に、「この沙門・婆羅門の中の最も愚かな者、最も惑わされた者」などでは確定に、「この若者は限界を知らなかった」など(サンユッタニカーヤ2.154)では補足に、「比丘たちよ、いかなる沙門であろうと婆羅門であろうと」など(中部経典1.170)では選択に現れ、ここでは選択の意味であると示すために「『ヴァー』という言葉は選択の意味である」と述べた。「パラ」という言葉は、他の意味でも存在する。「私自身は法を説くだろうが、他者は私を理解しないであろう」など(長部経典2.64, 65; 中部経典1.281; 中部経典2.223; サンユッタニカーヤ1.172; 大品4, 8)では「他者」の意味で存在する。さらに「インドリヤパロップパリヤッタニャーナ(他者の能力の相違を知る智)」など(分別論マートリカー68, 1.111)では「上位」の意味で存在する。また「パラートーアーガミッサティ(他方から来るであろう)」などでは「後部」の意味で存在する。また「ウッパンナンプラッパヴァーダンサハダンメーナスニッガヒタンニッガヘーティワー(生じた他者の異論を法によってよく論破して)」など (長部経典2.168)では「敵対」の意味で存在する。ここでも敵対の意味であると示すために「『パラ』とは敵対する者である」と述べた。
Īdisesupīti ettha pi-saddo sambhāvane, tena ratanattayanimittampi akusalacittappavatti na kātabbā, pageva vaṭṭāmisalokāmisanimittanti dasseti. Sabhāvadhammato aññassa kattuabhāvajotanatthaṃ āhanatīti kattuatthe āghātasaddaṃ dasseti, tattha āhanatīti hiṃsati vibādhati, upatāpeti cāti attho. Āhanati etena, āhananamattaṃ vā āghātoti karaṇabhāvatthāpi sambhavantiyeva. Evaṃ avayavabhedanena āghāta-saddassa atthaṃ vatvā idāni tattha pariyāyenapi atthaṃ dassento **‘‘kopassetaṃ adhivacana’’**nti āha. Ayañca nayo **‘‘appaccayo anabhiraddhī’’**tiādīsupi yathāsambhavaṃ vattabbo. Appatītā honti tenāti pākaṭapariyāyena appaccaya-saddassa atthadassanaṃ, taṃmukhena pana na pacceti tenāti appaccayoti daṭṭhabbaṃ. Abhirādhayatīti sādhayati. Dvīhīti āghātaanabhiraddhipadehi. Ekenāti appaccayapadena. Sesānanti saññāviññāṇakkhandhānaṃ, saññāviññāṇaavasiṭṭhasaṅkhārakkhandhasaṅkhātānaṃ vā. Karaṇanti uppādanaṃ. Āghātādīnañhi pavattiyā paccayasamavāyanaṃ idha ‘‘karaṇa’’nti vuttaṃ, taṃ pana atthato uppādanameva. Anuppādanañhi sandhāya bhagavatā ‘‘na karaṇīyā’’ti vuttanti. Paṭikkhittameva ekuppādekavatthukekārammaṇekanirodhabhāvato.
「このような場合でも」における「ピー」という言葉は可能性を示し、それによって三宝を理由としても不善の心の生起はなされるべきではなく、輪廻の餌や世間の餌を理由とすることはなおさらであると示す。本性としての法以外の行為者がないことを示すために、「アーハナティ」という言葉を行為者の意味で「アーガータ」と示す。そこでは「アーハナティ」とは、傷つける、妨げる、苦しめる、という意味である。これによって傷つける、あるいは傷つけること自体が「アーガータ」であると、手段や状態の意味もまた可能である。このように「アーガータ」という言葉の意味を分解して説明した後、今度はその隠れた意味も示すために、「これは怒りの同義語である」と述べた。この方法は「アッパッチャヨー、不快である」などにおいても可能な限り説かれるべきである。「それによって満足しない」とは、「アッパッチャヤ」という言葉の意味を明らかな言葉で示すものであり、それを通して「それによって信用しない」という意味で「アッパッチャヤ」と理解されるべきである。「アビラーダヤティ」とは、成就させる、ということである。二つのものによってとは、「アーガータ」と「アナビラッディ」という言葉によってである。一つによってとは、「アッパッチャヤ」という言葉によってである。残りのものとは、想と識の五蘊、あるいは想と識以外の行蘊のことである。「カラナン」とは、生起させることである。「アーガータ」などの生起の条件が合致することが、ここでは「カラナン」と述べられているが、それは本質的には生起させることである。生起させないことを指して世尊は「なされるべきではない」と説かれたのである。一つの生起、一つの対象、一つの境地、一つの消滅であることから、それはすでに禁止されているのである。
Tatthāti tasmiṃ manopadose. Tumhanti ‘‘tumhāka’’nti iminā samānattho eko saddo ‘‘yathā amhāka’’nti iminā samānattho ‘‘amha’’nti ayaṃ saddo. Yathāha, ‘‘tasmā hi amhaṃ daharā na miyyare’’ti (jā. 1.9.93, 99). **‘‘Antarāyo’’**ti idaṃ manopadosassa akaraṇīyatāya kāraṇavacanaṃ. Yasmā tumhākaṃyeva ca bhaveyya tena kopādinā paṭhamajjhānādīnaṃ antarāyo, tasmā te kopādipariyāyena vuttā āghātādayo na karaṇīyāti attho. Tena nāhaṃ ‘‘sabbaññū’’ti issarabhāvena tumhe tato nivāremi, atha kho iminā nāma kāraṇenāti dasseti. Taṃ pana kāraṇavacanaṃ yasmā ādīnavavibhāvanaṃ hoti, tasmā āha **‘‘ādīnavaṃ dassento’’**ti. **‘‘Api nu tumhe’’**tiādinā manopadoso na kālantarabhāvinoyeva hitasukhassa antarāyakaro, atha kho taṅkhaṇappavattirahassapi hitasukhassa antarāyakaroti manopadose ādīnavaṃ daḷhataraṃ katvā dasseti. Yesaṃ kesañci ‘‘pare’’tiādīsu viya na paṭiviruddhānaṃyevāti attho. Tenevāha **‘‘kupito’’**tiādi.
そこでは 、その心の不浄において、「トゥムハン」とは「トゥムハーカン」と同じ意味の一つの言葉であり、「アムハーカン」と同じ意味の言葉は「アムハ」である。言われているように、「それゆえに、我々の子供たちは死なない」と(ジャータカ1.9.93, 99)。「アンタラーヨー(障害)」 とは、心の不浄がなされるべきではない理由を述べる言葉である。なぜなら、その怒りなどによって初禅などに障害が生じる可能性があるのは、あなた方自身にとってであるから、怒りなどに関連して述べられた「アーガータ」などはなされるべきではないという意味である。それゆえ、私は「一切知者」として、神のような立場からあなた方をそこから止めさせるのではなく、この理由によってであると示す。その理由を述べる言葉 は、なぜならその危険を明らかにするものであるから、「危険を示す」と述べた。「あなた方はまさか」などと、心の不浄が未来においてのみ利益と幸福の障害となるのではなく、まさにその瞬間においても利益と幸福の障害となることを、心の不浄の危険をより強く示して述べている。それは、「他者」などにおけるように、敵対する者だけでなく、どんな者にとってもであるという意味である。それゆえ、「怒った者」などと述べた。
Andhatamanti andhabhāvakaratamaṃ. Yanti yattha. Bhummatthe hi etaṃ paccattavacanaṃ. Yasmiṃ kāle kodho sahate naraṃ, andhatamaṃ tadā hotīti sambandho. Yanti vā kāraṇavacanaṃ, yasmā kodho uppajjamāno naraṃ abhibhavati, tasmā andhatamaṃ tadā hoti, yadā kodhoti attho yaṃtaṃsaddānaṃ ekantasambandhibhāvato. Atha vā yanti kiriyāya parāmasanaṃ. Kodho sahateti yadetaṃ kodhassa sahanaṃ abhibhavanaṃ, etaṃ andhakāratamabhavananti attho. Atha vā yaṃ naraṃ kodho sahate abhibhavati, tassa andhatamaṃ tadā hoti, tato ca kuddho atthaṃ na jānāti, kuddho dhammaṃ na passatīti. Antaratoti abbhantarato, cittato vā.
「アンダタマンティ」とは、盲目にする闇のことである。「ヤンティ」は場所を示す。これは場所を示す言葉の「ヤン」である。怒りが人を打ち負かす時、その時こそ暗闇が生じる、と関係する。「ヤンティ」はまた理由を示す言葉でもあり、怒りが生じて人を圧倒するから、その時暗闇が生じる、怒りがある時に、という意味である。「ヤン」と「タン」という言葉は、常に結びついているからである。あるいは、「ヤンティ」は行為を参照する。怒りが打ち負かすとは、怒りのその支配、圧倒を意味し、これは暗黒の闇となるという意味である。あるいは、怒りが打ち負かす、圧倒する人を、その時その人に暗闇が生じ、それゆえ怒りによって人は真理を知らず、法を見ることができない、ということである。「アンタラートーティ」とは、内側から、あるいは心から、という意味である。
**‘‘Idañcidañca kāraṇa’’**nti iminā sabbaññū eva amhākaṃ satthā aviparītadhammadesanattā, svākkhāto dhammo ekantaniyyānikattā, suppaṭipanno saṅgho saṃkilesarahitattāti imamatthaṃ dasseti. **‘‘Idañcidañca kāraṇa’’**nti etena ca ‘‘na sabbaññū’’tiādivacanaṃ abhūtaṃ atacchanti nibbeṭhitaṃ hoti. Dutiyaṃ padanti ‘‘ataccha’’nti padaṃ. Paṭhamassāti ‘‘abhūta’’nti padassa. Catutthañcāti ‘‘na ca panetaṃ amhesu saṃvijjatī’’ti padaṃ. Tatiyassāti ‘‘natthi cetaṃ amhesū’’ti padassa. Avaṇṇeyevāti kāraṇapatirūpakaṃ vatvā dosapatiṭṭhāpanavasena nindane eva. Na sabbatthāti kevalaṃ akkosanakhuṃsanavambhanādīsu na ekantena nibbeṭhanaṃ kātabbanti attho. Vuttamevatthaṃ **‘‘yadi hī’’**tiādinā pākaṭaṃ katvā dasseti.
「このような理由によって」とは、我らの師は一切智者であり、真実を説く法を有し、よく説かれた法は決定的に出離をもたらし、正しく行じる僧は煩悩から離れている、という意味を示す。「このような理由によって」と 、「一切智者ではない」などの言葉が虚偽であり真実ではないと解決される。第二の言葉は「アタッチャン」という言葉である。第一の言葉は「アブータン」という言葉である。第四の言葉は「そしてそれは我々には存在しない」という言葉である。第三の言葉は「そしてそれは我々にはない」という言葉である。非難においてのみ、理由の模倣を述べて、欠点を確立する形で非難することである。全てにおいてではないとは、単に罵倒、嘲笑、侮辱などにおいて、決定的に解決されるべきではないという意味である。述べられた義は「もしそうであるならば」などによって明らかにされて示される。
6. Ānandanti pamodanti etena dhammena taṃsamaṅgino sattāti ānanda-saddassa karaṇatthataṃ dasseti. Sobhanaṃ mano assāti sumano, sobhanaṃ vā mano sumano, tassa bhāvo somanassanti tadaññadhammānampi sampayuttānaṃ somanassabhāvo āpajjatīti? Nāpajjati ruḷhīsaddattā yathā ‘‘paṅkaja’’nti dassento **‘‘cetasikasukhassetaṃ adhivacana’’**nti āha. Ubbilayatīti ubbilaṃ, bhindati purimāvatthāya visesaṃ āpajjatīti attho. Ubbilameva ubbilāvitaṃ, tassa bhāvo ubbilāvitattaṃ. Yāya uppannāya kāyacittaṃ vātapūritabhastā viya uddhumāyanākārappattaṃ hoti, tassā gehassitāya odaggiyapītiyā etaṃ adhivacanaṃ. Tenevāha **‘‘uddhaccāvahāyā’’**tiādi. Idhāpi ‘‘kiñcāpi tesaṃ bhikkhūnaṃ ubbilāvitameva natthi, atha kho āyatiṃ kulaputtānaṃ edisesupi ṭhānesu akusaluppattiṃ paṭisedhento dhammanettiṃ ṭhapetī’’ti, **‘‘dvīhi padehi saṅkhārakkhandho, ekena vedanākkhandho vutto’’**ti ettha ‘‘tesaṃ vasena sesānampi sampayuttadhammānaṃ karaṇaṃ paṭikkhittamevā’’ti ca aṭṭhakathāyaṃ, ‘‘pi-saddo sambhāvane’’tiādinā idha ca vuttanayena attho yathāsambhavaṃ veditabbo. ‘‘Tumhaṃyevassa **tena antarāyo’’**ti etthāpi ‘‘antarāyoti ida’’ntiādinā heṭṭhā avaṇṇapakkhe vuttanayena attho veditabbo.
6. 「この法によって、それに属する衆生は歓喜し、喜び合う」とは、アーナンダ(歓喜)という語の「為す」という意味を示す。「美しい心を持つゆえにスマーナ(喜悦)、あるいは美しい心であるゆえにスマーナ、その状態がソーマナッサ(喜悦)である」とした場合、それは他の諸法に結合した状態もソーマナッサの状態となるのか? いや、そうではない。それは、「蓮(パンカジャ)」という語が示すように、慣用的に定着した語であるためであり、彼は「これは心的な楽の別称である」と述べたからである。ウッビラヤティ(高揚する)とは、ウッビラ(高揚)であり、「以前の状態を打ち破り、特別な状態に至る」という意味である。ウッビラそれ自体がウッビラーヴィタ(高揚した)であり、その状態が高揚性(ウッビラーヴィタッタ)である。それが生じると、身体と心は風で膨らんだ袋のように膨張した状態となるが、これは在家に依存した歓喜(オダッギヤピーティ)の別称である。それゆえ彼は「浮つきをもたらす」などと述べた。ここでも「たとえそれらの比丘たちには高揚はなかったとしても、来世において高貴な子息たちがそのような状況においても不善が生じるのを防ぐため、彼は法を説く方針を立てる」というように、そして「二つの語で色(サンカーラ)の集が、一つの語で受(ヴェーダナー)の集が説かれた」という箇所では、「彼らを通じて、他の結合した諸法の行為もまた拒否される」と注釈書にあり、また「『pi』の語は可能性を示す」などと述べられている方法に従って、意味は可能な限り理解されるべきである。「『あなたにとってのみ、 それは障害となる』という箇所においても、『これは障害である』などと以下に述べられている誹謗の側面における方法に従って、意味は理解されるべきである。」
Kasmā panetanti ca vakkhamānaṃyeva atthaṃ manasi katvā codeti. Ācariyo **‘‘saccaṃ vaṇṇita’’**nti tamatthaṃ paṭijānitvā **‘‘taṃ pana nekkhammanissita’’**ntiādinā pariharati. Tattha etanti ānandādīnaṃ akaraṇīyatāvacanaṃ. Nanu bhagavatā vaṇṇitanti sambandho. Kasiṇenāti kasiṇatāya sakalabhāvena. Keci pana ‘‘jambudīpassāti karaṇe sāmivacana’’nti vadanti, tesaṃ matena kasiṇajambudīpa-saddānaṃ samānādhikaraṇabhāvo daṭṭhabbo. Tasmāti yasmā gehassitapītisomanassaṃ jhānādīnaṃ antarāyakaraṃ, tasmā. Vuttañhetaṃ bhagavatā ‘‘somanassaṃ pāhaṃ devānaṃ inda duvidhena vadāmi sevitabbampi asevitabbampī’’ti (dī. ni. 2.359). **‘‘Ayañhī’’**tiādi yena sampayuttā pīti antarāyakarī, taṃ dassanatthaṃ vuttaṃ. Tattha ‘‘idañhi lobhasahagataṃ pītisomanassa’’nti vattabbaṃ siyā, pītiggahaṇena pana somanassampi gahitameva hoti somanassarahitāya pītiyā abhāvatoti pītiyeva gahitāti daṭṭhabbaṃ. Atha vā sevitabbāsevitabbavibhāgavacanato somanassassa pākaṭo antarāyakarabhāvo, na tathā pītiyāti pītiyeva lobhasahagatattena visesetvā vuttā. **‘‘Luddho attha’’**ntiādigāthānaṃ ‘‘kuddho attha’’ntiādi gāthāsu viya attho daṭṭhabbo.
「なぜそうなのか」という疑問も、まさにこれから述べられる意味を心に留めて投げかけられたものである。師(アーチャリヤ)は、「確かに称賛された」とその意味を認め、「しかしそれは出離に依るものである」などと解決する。そこでの「それ」とは、歓喜などを行うべきではないという言葉である。「仏世尊によって称賛されたのではないか」というのが関係である。「カシネーナ(全体によって)」とは、全体性、すなわち完全な状態によってである。しかし、「ジャンブディーパッサ(閻浮提の)」が行為を示す属格であると説く者もいるが、彼らの見解によれば、「カシナ(全体)」と「ジャンブディーパ(閻浮提)」という語が同格であると見なされるべきである。それゆえ、在家の歓喜と喜悦は禅定などの障害となるため、それゆえである。これは世尊によって「天主よ、私は喜悦には、修習すべきものと修習すべきでないものの二種類があると言う」と説かれた通りである(ディーガニカーヤ 2.359)。「これこそ」などとは、歓喜が何と結合すれば障害となるかを示すために述べられたものである。そこでは「これは貪欲と結びついた歓喜と喜悦である」と述べるべきかもしれないが、歓喜(pīti)という語を取ることで喜悦(somanassa)もまた含まれる。なぜなら喜悦のない歓喜は存在しないからである。したがって、歓喜のみが取られたと理解されるべきである。あるいは、修習すべきものと修習すべきでないものの区別を説くことから、喜悦(somanassa)の障害となる性質は明らかであるが、歓喜(pīti)はそうではないので、貪欲と結びついたものとして 特徴づけて歓喜のみが説かれたのである。「貪欲な者は利益を」などの詩句の意味は、「怒れる者は利益を」などの詩句の場合と同様に理解されるべきである。
‘‘Mamaṃ vā bhikkhave pare vaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, dhammassa vā vaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, saṅghassa vā vaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, tatra ce tumhe assatha ānandino sumanā ubbilāvitā, api nu tumhe paresaṃ subhāsitadubbhāsitaṃ ājāneyyāthāti. No hetaṃ bhante’’ti ayaṃ tatiyavāro, so desanākāle nīharitvā desetabbapuggalābhāvato desanāya anāgatopi tadatthasambhavato atthato āgatoyevāti daṭṭhabbo yathā taṃ kathāvatthupakaraṇaṃ vitthāravasenāti adhippāyo. **‘‘Atthato āgato yevā’’**ti etena saṃvaṇṇanākāle tathā bujjhanakasattānaṃ vasena so vāro ānetvā vattabboti dasseti. **‘‘Yatheva hī’’**tiādinā tamevatthasambhavaṃ vibhāveti. Vuttanayenāti ‘‘tatra tumhehīti tasmiṃ vaṇṇe tumhehī’’tiādinā, ‘‘dutiyaṃ padaṃ paṭhamassa padassa, catutthañca tatiyassa vevacana’’ntiādinā ca vuttanayena.
「比丘たちよ、もし他者が私を称賛し、あるいは法を称賛し、あるいは僧伽を称賛し、その時にあなた方が歓喜し、喜悦し、高揚したならば、あなた方は他者の善言と悪言を識別できるであろうか? 『いいえ、尊師』」 — これが第三の繰り返しであるが、それは説法の時に取り出して教えられるべき人がいなかったため、説法には現れなかったとしても、その意味の可能性から、意味の上では現れたものであると見なされるべきであり、あたかもその物語の資料が詳細に語られるようなものであると意図される。「意味の上で現れたもの」とは、注釈の際に、そのように理解できる衆生のために、その繰り返しを持ち出して説明すべきであることを示す。「ちょうど」などとは、同じ意味の可能性を詳しく説明する。「述べられた方法で」とは、「そこでおまえたちは」という句が「その称賛においておまえたちは」などと述べられているように、また「第二の語は第一の語の同義語であり、第四の語は第三の語の同義語である」などと述べられている方法による。
7. Nivatto amūlakattā vissajjetabbatābhāvato. Anuvattatiyeva vissajjetabbatāya adhikatabhāvato. Anusandhiṃ dassessati ‘‘atthi bhikkhave’’tiādinā. Oranti vā aparabhāgo ‘‘orato bhogaṃ, oraṃ pāra’’ntiādīsu viya. Atha vā heṭṭhāattho ora-saddo ‘‘oraṃ āgamanāya ye paccayā, te orambhāgiyāni saṃyojanānī’’tiādīsu viya. Sīlañhi samādhipaññāyo apekkhitvā aparabhāgo, heṭṭhābhūtañca hotīti. Sīlamattakanti ettha matta-saddo appakattho vā ‘‘bhesajjamattā’’tiādīsu (dī. ni. 1.447) viya. Visesanivattiattho vā ‘‘avitakkavicāramattā dhammā (dha. sa. tikamātikā 6), manomattā dhātu manodhātū’’ti ca ādīsu viya. ‘‘Appamattakaṃ, oramattaka’’nti padadvayena sāmaññato vuttoyeva hi attho sīlamattakanti visesavasena vutto. Atha vā sīlenapi tadekadesasseva saṅgahaṇatthaṃ appakatthavācako, visesanivattiattho eva vā ‘‘sīlamattaka’’nti ettha matta-saddo vutto. Tathā hi indriyasaṃvarapaccayasannissitasīlāni idha desanaṃ anāruḷhāni. Na hi tāni pātimokkhaājīvapārisuddhisīlāni viya sabbaputhujjanesu pākaṭānīti. **‘‘Ussāhaṃ katvā’’**ti etena **‘‘vadamāno’’**ti ettha sattiatthaṃ māna-saddaṃ dasseti.
7. 無根拠であるため捨て去られるべき必要がないので、退けられる。捨て去られるべき必要がより多くあるため、常に続けられる。「比丘たちよ、ある」などと続いていくことで、関連性を示す。あるいは「下部(オラ)」とは、「下部の財産」「此岸と彼岸」などと同様に、後半部分のことである。あるいは、「オラ」という語は「下部」という意味を持ち、「下部へと来る原因となるものが下部結である」などと同様である。戒は、定や慧を考慮すると後半部分であり、また下部にあるものである。ここでの「わずかな戒(シーラマッタカ)」の「マッタ」という語は、「わずかな薬」など(ディーガニカーヤ 1.447)と同様に、「わずかな」という意味である。あるいは、「尋・伺のみの諸法」(ダンマサンガニ、三科表 6)「意のみの界は意界である」などの場合と同様に、「区別を排除する」という意味である。「わずかなもの、下部のもの」という二つの語で一般的に述べられている意味が、特に「わずかな戒」と述べられているのである。あるいは、戒の一部のみを 含む意味で 「わずかな」という意味の「マッタ」という語が、ここでの「わずかな戒」で述べられているのである。実際、ここでは、感官の抑制に依存する戒は、この説法には含まれていない。なぜなら、それらは波羅提木叉や清浄な生活規範の戒のように、すべての凡夫に明らかではないからである。「努力をして」という語によって、「述べている(ヴァダマーナ)」という語の中の「マニ」という語が「存在」という意味であることを示している。
Alaṅkaraṇaṃ vibhūsanaṃ alaṅkāro, kuṇḍalādipasādhanaṃ vā. Ūnaṭṭhānapūraṇaṃ maṇḍanaṃ. Maṇḍaneti maṇḍanahetu. Atha vā maṇḍatīti maṇḍano, maṇḍanajātiko puriso. Bahuvacanatthe ca idaṃ ekavacanaṃ, maṇḍanasīlesūti attho. Paripūrakārīti ettha iti-saddo ādiattho, pakārattho vā, tena sakalampi sīlathomana suttaṃ dasseti. Candananti candanasahacaraṇato candanagandho, tathā tagarādīsupi. Satañca gandhoti ettha gandho viyāti gandhoti vutto sīlanibandhano thutighoso. Sīlañhi kittiyā nimittaṃ. Yathāha ‘‘sīlavato sīlasampannassa kalyāṇo kittisaddo abbhuggacchatī’’ti (dī. ni. 2.150; a. ni. 5.213; mahāva. 285). Pavāyatīti pakāsati. Gandhāva gandhajātā.
装飾(アランカラナ)、美化(ヴィブーサナ)とは、アランカーラ(装飾)であり、あるいは耳飾りなどの装身具である。不足している箇所を満たすのがマンダナ(飾り)である。マンダネーティとは、飾りのためである。あるいは飾る者がマンダナ(飾る者)、飾る性質の者。これは複数形の意味での単数形であり、飾ることを常とする者たちの間という意味である。「 paripūrakārīti 」(完全に為す者)という箇所では、「iti」という語は「など」という意味、あるいは「種類」という意味であり、それによってすべての戒を称賛する経典が示される。チャンダナンティ(白檀の香)とは、白檀に伴うものであるゆえに白檀の香であり、同様にタガラなどの場合もそうである。「善人の香」という箇所では、「香」は「香のように」と述べられ、戒に基づく称賛の声である。戒は評判のしるしである。世尊が「戒を守り、戒に恵まれた者には、善良な名声が高まる」と説いたように(ディーガニカーヤ 2.150; アングッタラニカーヤ 5.213; マハーヴァッガ 285)。パヴァーヤティーティとは、輝くことである。香りとは、香りという性質のものである。
‘‘Appakaṃ bahuka’’nti idaṃ pārāpāraṃ viya aññamaññaṃ upanidhāya vuccatīti āha **‘‘upariguṇe upanidhāyā’’**ti. Sīlañhīti ettha hi-saddo hetuattho, tena idaṃ dasseti ‘‘yasmā sīlaṃ kiñcāpi patiṭṭhābhāvena samādhissa bahukāraṃ, pabhāvādiguṇavisese panassa upanidhāya kalampi na upeti, tathā samādhi ca paññāyā’’ti. Tenevāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Idāni ‘‘katha’’nti pucchitvā samādhissa ānubhāvaṃ vitthārato vibhāveti. ‘‘Abhi…pe… **mūle’’**ti idaṃ yamakapāṭihāriyassa supākaṭabhāvadassanatthaṃ, aññehi bodhimūlañātisamāgamādīsu katapāṭihāriyehi visesanatthañca vuttaṃ. Yamakapāṭihāriyakaraṇatthāya hi bhagavato citte uppanne tadanucchavikaṃ ṭhānaṃ icchitabbanti ratanamaṇḍapādi sakkassa devarañño āṇāya vissakammunā nimmitanti vadanti, bhagavatāva nimmitanti apare. ‘‘Yo koci evarūpaṃ pāṭihāriyaṃ kātuṃ samattho atthi ce, āgacchatū’’ti codanāsadisattā vuttaṃ **‘‘attādānaparidīpana’’**nti. Tattha attādānaṃ anuyogo, titthiyānaṃ tathā kātuṃ asamatthattā, ‘‘karissāmā’’ti pubbe uṭṭhitattā titthiyaparimaddanaṃ.
「少ないことと多いこと」は、あたかも此岸と彼岸のように互いを比較して言われる、と彼は「上位の徳と比べて」と述べた。ここでの「戒は」という箇所の「hi」という語は理由を示す意味であり、それによって「戒は基盤である点で禅定に非常に役立つとはいえ、威力などの特別な徳と比べると、わずかにも及ばない。同様に禅定も智慧には及ばない」ということを示している。それゆえ彼は「それゆえ」などと述べた。今や、「どのようにして」と問い、禅定の威力を詳細に説明する。「アビ…ぺ… 根元に」とは、双神変の非常に明白な性質を示すため、また菩提樹の根元や親族の集まりなどでなされた他の神変と区別するために述べられた。双神変を行うために世尊の心に「ふさわしい場所が望ましい」という思いが生じた時、ある者たちは、帝釈天の命令によりヴィッサカマンによって宝の宮殿などが作られたと説き、またある者たちは世尊自身によって作られたと説く。「もしこのような神変を行うことができる者がいるならば、来なさい」という挑戦に似ているので、「自らの功徳の顕示」と述べられた。そこで「自らの功徳」とは問いかけ、外道たちがそのように 行うことができなかったため、また彼らが以前に「我々が行うだろう」と言い立てたため、外道たちを粉砕することである。
Uparimakāyatotiādi paṭisambhidāmagge (paṭi. ma. 1.116).
「上半身から」などとは、パティサンビダーマッガ(Paṭi. Ma. 1.116)による。
Tatthāyaṃ pāḷiseso –
そこには、このパーリ語の残余がある。
‘‘Heṭṭhimakāyato aggikkhandho pavattati, uparimakāyato udakadhārā pavattati. Puratthimakāyato aggi, pacchimakāyato udakaṃ. Pacchimakāyato aggi, puratthimakāyato udakaṃ. Dakkhiṇaakkhito aggi, vāmaakkhito udakaṃ. Vāmaakkhito aggi, dakkhiṇaakkhito udakaṃ. Dakkhiṇakaṇṇasotato aggi, vāmakaṇṇasotato udakaṃ. Vāmakaṇṇasotato aggi, dakkhiṇakaṇṇasotato udakaṃ. Dakkhiṇanāsikāsotato aggi, vāmanāsikāsotato udakaṃ. Vāmanāsikāsotato aggi, dakkhiṇanāsikāsotato udakaṃ. Dakkhiṇaaṃsakūṭato aggi, vāmaaṃsakūṭato udakaṃ. Vāmaaṃsakūṭato aggi, dakkhiṇaaṃsakūṭato udakaṃ. Dakkhiṇahatthato aggi, vāmahatthato udakaṃ. Vāmahatthato aggi, dakkhiṇahatthato udakaṃ. Dakkhiṇapassato aggi, vāmapassato udakaṃ. Vāmapassato aggi, dakkhiṇapassato udakaṃ. Dakkhiṇapādato aggi, vāmapādato udakaṃ. Vāmapādato aggi, dakkhiṇapādato udakaṃ. Aṅgulaṅgulehi aggi, aṅgulantarikāhi udakaṃ. Aṅgulantarikāhi aggi, aṅgulaṅgulehi udakaṃ. Ekekalomato aggi, ekekalomato udakaṃ. Lomakūpato lomakūpato aggikkhandho pavattati, lomakūpato lomakūpato udakadhārā pavattatī’’ti (paṭi. ma. 1.116).
「下半身から炎の塊が生じ、上半身から水の流れが生じる。前身から火、後身から水。後身から火、前身から水。右目から火、左目から水。左目から火、右目から水。右耳の穴から火、左耳の穴から水。左耳の穴から火、右耳の穴から水。右鼻の穴から火、左鼻の穴から水。左鼻の穴から火、右鼻の穴から水。右肩から火、左肩から水。左肩から火、右肩から水。右手から火、左手から水。左手から火、右手から水。右脇から火、左脇から水。左脇から火、右脇から水。右足から火、左足から水。左足から火、右足から水。各指から火、指の間から水。指の間から火、各指から水。各毛穴から火、各毛穴から水。各毛穴から炎の塊が生じ、各毛穴から水の流れが生じる」(パティサンビダーマッガ 1.116)。
Aṭṭhakathāyaṃ pana ‘‘ekekalomakūpato’’ti āgataṃ.
しかし注釈書には、「一つ一つの毛穴から」とある。
**‘‘Channaṃ vaṇṇānanti ādinayappavatta’’**nti etthāpi nīlānaṃ pītakānaṃ lohitakānaṃ odātānaṃ mañjiṭṭhānaṃ pabhassarānanti ayaṃ pāḷiseso. **‘‘Suvaṇṇavaṇṇā rasmiyo’’**ti idaṃ tāsaṃ yebhuyyatāya vuttaṃ. Vitthāretabbanti etthāpi ‘‘satthā tiṭṭhati, nimmito caṅkamati vā nisīdati vā seyyaṃ vā kappetī’’tiādinā catūsu iriyāpathesu ekekamūlakā satthuvasena cattāro, nimmitavasena cattāroti sabbeva aṭṭha vāre vitthāretabbaṃ.
「六色の、などの方法で生じる」という箇所にも、青、黄、赤、白、緋色、輝く色という、このパーリ語の残余がある。「黄金色の光線」とは、それらがほとんど黄金色であるため、そのように述べられたのである。「詳述すべきである」という箇所では、 「師は立っている、化現した像は歩くか座るか横たわるかする」などと、四つの行儀作法において、師を基とするものが四つ、化現した像を基とするものが四つ、合わせて八つの場面を詳述すべきである。
Madhupāyāsanti madhusittaṃ pāyāsaṃ. Attā mitto majjhatto verīti catūsu sīmasambhedavasena caturaṅgasamannāgataṃ mettākammaṭṭhānaṃ. ‘‘Caturaṅgasamannāgata’’nti idaṃ pana ‘‘vīriyādhiṭṭhāna’’nti etenāpi yojetabbaṃ. Tattha ‘‘kāmaṃ taco ca nhāru cā’’tiādipāḷi (ma. ni. 2.184; saṃ. ni. 2.22; a. ni. 2.5; a. ni. 8.13; mahāni. 196) vasena caturaṅgasamannāgatatā veditabbā. ‘‘Kicchaṃ vatāyaṃ loko āpanno’’tiādinā (dī. ni. 2.57; saṃ. ni. 2.4) jarāmaraṇamukhena paccayākāre ñāṇaṃ otāretvā. Ānāpānacatutthajjhānanti etthāpi ‘‘sabbabuddhānaṃ āciṇṇa’’nti padaṃ vibhattivipariṇāmaṃ katvā yojetabbaṃ. Tampi hi sabbabuddhānaṃ āciṇṇamevāti vadanti. Chattiṃsakoṭisatasahassamukhena mahāvajirañāṇagabbhaṃ gaṇhāpento vipassanaṃ vaḍḍhetvā. Dvattiṃsadoṇagaṇhanappamāṇaṃ kuṇḍaṃ kolambo. Daribhāgo kandaro. Cakkavāḷapādesu mahāsamuddo cakkavāḷamahāsamuddo.
マドゥパーヤーサンティ(蜂蜜乳粥)とは、蜂蜜をかけた乳粥である。自己、友、中立者、敵という四つの境界を破るという点で、四つの要素を備えた慈悲の瞑想対象である。「四つの要素を備えた」とは、「精進を基礎とする」ということとも結びつけられるべきである。そこでは、「皮も腱も、たとえ」などのパーリ語(マッジマニカーヤ 2.184; サンユッタニカーヤ 2.22; アングッタラニカーヤ 2.5; アングッタラニカーヤ 8.13; マハーニカーヤ 196)によって、四つの要素を備えていることが理解されるべきである。「ああ、この世は苦難に陥っている」などと(ディーガニカーヤ 2.57; サンユッタニカーヤ 2.4)、老死を入り口として縁起の智慧を導入し、熟考することによって。アナパーナ第四禅という箇所でも、「すべての仏陀が実践する」という語は、格変化させて結びつけられるべきである。なぜなら、それもまたすべての仏陀が実践するものであると彼らは言うからである。三億六千万の側面を通じて、大金剛智慧の胎を掴み、ヴィパッサナー(観)を増大させることによって。三十二ドーナ(度量衡)を測るほどの 容器がコランボ(一単位の容器)である。ダリバーゴ(洞窟の一部)はカンダロ(洞窟)である。世界(チャッカヴァーラ)の麓にある大海は、チャッカヴァーラマハーサムッド(世界大海)である。
**‘‘Duve puthujjanā’’**tiādi puthujjane labbhamānavibhāgadassanatthaṃ vuttaṃ, na mūlapariyāyavaṇṇanādīsu viya puthujjanavisesaniddhāraṇatthaṃ. Sabbopi hi puthujjano bhagavato upari guṇe vibhāvetuṃ na sakkoti, tiṭṭhatu puthujjano, sāvakapaccekabuddhānampi avisayā buddhaguṇā. Tathā hi vakkhati ‘‘sotāpannā’’tiādi (dī. ni. aṭṭha. 1.8). Vācuggatakaraṇaṃ uggaho. Atthaparipucchanaṃ paripucchā. Aṭṭhakathāvasena atthassa savanaṃ savanaṃ. Byañjanatthānaṃ sunikkhepasudassanena dhammassa pariharaṇaṃ dhāraṇaṃ. Evaṃ sutadhātaparicitānaṃ manasānupekkhanaṃ paccavekkhaṇaṃ. Bahūnaṃ nānappakārānaṃ kilesānaṃ sakkāyadiṭṭhiyā ca avihatattā tā janenti, tāhi vā janitāti puthujjanā. Avighātameva vā jana-saddo vadati. Puthu satthārānaṃ mukhullokikāti ettha puthū janā satthupaṭiññā etesanti puthujjanāti vacanattho. Puthu…pe… avuṭṭhitāti ettha janetabbā, jāyanti vā etthāti janā, gatiyo. Puthū janā etesanti puthujjanā. Ito pare jāyanti etehīti janā, abhisaṅkhārādayo. Te etesaṃ puthū vijjantīti puthujjanā. Abhisaṅkharaṇādi attho eva vā jana-saddo daṭṭhabbo. Kāmarāgabhavarāgadiṭṭhiavijjā oghā. Rāgaggiādayo santāpā. Teyeva, sabbepi vā kilesā pariḷāhā. Puthu pañcasu kāmaguṇesu rattāti ettha jāyatīti jano, rāgo gedhoti evaṃ ādiko. Puthu jano etesanti puthujjanā, puthūsu vā janā jātā rattāti evaṃ rāgādiattho eva vā jana-saddo daṭṭhabbo. Palibuddhāti sambuddhā, upaddutā vā. **‘‘Puthūnaṃ gaṇanapathamatītāna’’**ntiādinā puthū janā puthujjanāti dasseti.
「二種の凡夫」などとは、凡夫に得られる区別を示すために言われたのであり、根本譬喩の注釈などにおいて凡夫の特別な定めを示すためではない。そもそも全ての凡夫は、世尊の優れた功徳を明確にすることはできない。凡夫はさておき、声聞や独覚仏にとっても仏の功徳は対象外である。実際、後の「預流者」など(ディーガニカーヤ註 1.8)でそのように述べられるだろう。口に出すことは「把握」(理解)。意味を問い尋ねることは「問い尋ね」。注釈に従って意味を聞くことは「聞くこと」。文言や意味をよく定め、よく示すことで法を護持することは「保持」。このように聞いたことや学んだことを心で熟考することは「省察」。多くの様々な煩悩や有身見によって傷つけられていないため、それら(煩悩など)を生み出す、あるいはそれらによって生み出されるゆえに「凡夫」である。あるいは「jana」という言葉は「傷つけられないこと」を意味する。「多くの師を仰ぐ」とは、ここに多くの人々が師を主張する、という意味で「凡夫」となる。「多くの…(中略)…確立されていない」とは、ここで生み出されるべきもの、あるいはここで生じるもの、それが「衆生」(衆)であり、「趣」(境涯)である。それら多くの衆生がこれらに属するゆえに「凡夫」である。これらから他のものが生じる、ゆえに「衆生」(衆)であり、それは「諸行」(業力)などである。それらがこれらの多くの衆生に存在するゆえに「凡夫」である。あるいは「jana」という言葉は、行を生み出すなどの意味で理解されるべきである。欲貪、有貪、見、無明は「暴流」。貪りの火などは「苦悩」。それら、あるいは全ての煩悩は「熱悩」。「五欲に深く執着する」とは、ここで生じるものは「衆生」(jano)であり、それは貪りや渇愛などである。多くの衆生(jano)がこれらに属するゆえに「凡夫」であり、あるいは多くの衆生(janā)が生まれ、執着する、という意味で「jana」という言葉は貪りなどの意味で理解されるべきである。「束縛された」とは、執着された、あるいは悩まされた、ということである。「多くの者が数を数える道を越えた」などによって、多くの人々が凡夫であることを示す。
Yehi guṇavisesehi nimittabhūtehi bhagavati tathāgata-saddo pavatto, taṃdassanatthaṃ **‘‘aṭṭhahi kāraṇehi bhagavā tathāgato’’**tiādimāha. Guṇanemittakāneva hi bhagavato sabbāni nāmāni. Yathāha –
世尊において、その兆候である功徳の特質によって「如来」という言葉が生じたのであり、それを示すために「世尊は八つの理由によって如来である」などと説かれた。実際、世尊の全ての名前は功徳を兆候とするものである。例えば、次のように説かれる。
‘‘Asaṅkhyeyyāni nāmāni, saguṇena mahesino;
「無数の名前が、その功徳によって大仙にある。
Guṇena nāmamuddheyyaṃ, api nāmasahassato’’ti. (dha. sa. aṭṭha. 1313; udā. aṭṭha. 53; paṭi. ma. aṭṭha. 1.1.76);
その名は功徳によって称えられ、千の名前をも超える。」(ダンマサンガニー註 1313; ウダーナ註 53; パティサンブヒダンマッガ註 1.1.76)
Tathā āgatoti ettha ākāraniyamanavasena opammasampaṭipādanattho tathā-saddo. Sāmaññajotanāya visesāvaṭṭhānato paṭipadāgamanattho āgata-saddo, na ñāṇagamanattho ‘‘tathalakkhaṇaṃ āgato’’tiādīsu (dī. ni. aṭṭha. 1.7; ma. ni. aṭṭha. 1.12; saṃ. ni. aṭṭha. 2.4.78; a. ni. aṭṭha. 1.1.170; udā. aṭṭha. 18; paṭi. ma. aṭṭha. 1.1.37; theragā. aṭṭha. 1.3; itivu. aṭṭha. 38; mahāni. aṭṭha. 14) viya, nāpi kāyagamanādiattho ‘‘āgato kho mahāsamaṇo, māgadhānaṃ giribbaja’’ntiādīsu (mahāva. 62) viya. Tattha yadākāraniyamanavasena opammasampaṭipādanattho tathā-saddo, taṃ karuṇāpadhānattā mahākaruṇāmukhena purimabuddhānaṃ āgamanapaṭipadaṃ udāharaṇavasena sāmaññato dassento yaṃtaṃsaddānaṃ ekantasambandhabhāvato **‘‘yathā sabbaloka…pe… āgatā’’**ti āha. Taṃ pana paṭipadaṃ mahāpadānasuttādīsu (dī. ni. 2.4) sambahulaniddesena supākaṭānaṃ āsannānañca vipassīādīnaṃ channaṃ sammāsambuddhānaṃ vasena nidassento **‘‘yathā vipassī bhagavā’’**tiādimāha. Tattha yena abhinīhārenāti manussattaliṅgasampattihetusatthāradassanapabbajjāabhiññādiguṇasampattiadhikārachandānaṃ vasena aṭṭhaṅgasamannāgatena kāyappaṇidhānamahāpaṇidhānena. Sabbesañhi buddhānaṃ kāyappaṇidhānaṃ imināva abhinīhārena samijjhatīti. Evaṃ mahābhinīhāravasena ‘‘tathāgato’’ti padassa atthaṃ dassetvā idāni pāramīpūraṇavasena dassetuṃ **‘‘yathā vipassī bhagavā…pe… kassapo bhagavā dānapāramiṃ pūretvā’’**tiādimāha.
「如来(tathā āgato)」において、「tathā(如)」という言葉は、あり方や規則の確立によって、譬喩を完成させる意味である。「āgata(来)」という言葉は、普遍性を明確にし、特殊な状態に到達することによって、道の実践に入ったという意味であり、「真の相に到達した」など(ディーガニカーヤ註 1.7; マッジマニカーヤ註 1.12; サンユッタニカーヤ註 2.4.78; アンガッタラニカーヤ註 1.1.170; ウダーナ註 18; パティサンブヒダンマッガ註 1.1.37; テーラガータ註 1.3; イティブッタカ註 38; マハーニデーサ註 14)における知識に到達したという意味ではない。また、「大沙門はまさにマガダの人々の山中に来られた」など(マハーヴァッガ 62)における身体的な動きなどの意味でもない。その中で、「tathā」という言葉が、あり方や規則の確立によって、譬喩を完成させる意味である場合、それは大悲を主とするため、大悲を通して過去の仏たちの道の実践を例として普遍的に示し、「すべての世の中が…(中略)…来たように」などと言うことによって、その言葉の確実な関連性を示す。そして、その実践を、マハーパダーナスッタなど(ディーガニカーヤ 2.4)で数多く詳述され、極めて明白である、ヴィパッシーなどの六人の正等覚者の例によって示し、「ヴィパッシー世尊のように」などと言う。そこにおける「いかなる誓願によってか」とは、人間としての性別、その原因、師を見る、出家、神通などの功徳の成就、適格な志願といった八つの要素を備えた身体的な誓願と大誓願のことである。実際、全ての仏たちの身体的な誓願は、この誓願によって成就する。このように大誓願の面から「如来」という言葉の意味を示した後、今度は波羅蜜を完成させる面から示すために、「ヴィパッシー世尊が…(中略)…カッサパ世尊が布施の波羅蜜を完成させて」などと言う。
Ettha ca suttantikānaṃ mahābodhiyānapaṭipadāya kosallajananatthaṃ pāramīsu ayaṃ vitthārakathā – kā panetā pāramiyo? Kenaṭṭhena pāramiyo? Katividhā cetā? Ko tāsaṃ kamo? Kāni lakkhaṇarasapaccupaṭṭhānapadaṭṭhānāni? Ko paccayo? Ko saṃkileso? Kiṃ vodānaṃ? Ko paṭipakkho? Kā paṭipatti? Ko vibhāgo? Ko saṅgaho? Ko sampādanūpāyo? Kittakena kālena sampādanaṃ? Ko ānisaṃso? Kiṃ cetāsaṃ phalanti?
ここで、経典の修行者が大菩提の道の実践に熟達する助けとなるよう、波羅蜜に関する詳細な説明を以下に示す。「これら波羅蜜とは何か?」「いかなる意味で波羅蜜と呼ばれるのか?」「それらは何種類あるのか?」「それらの順序は何か?」「その特徴、作用、現れ、原因は何か?」「その条件は何か?」「その汚染は何か?」「その浄化は何か?」「その反対のものは何か?」「その実践は何か?」「その分類は何か?」「そのまとめは何か?」「その完成手段は何か?」「どれくらいの期間で完成するのか?」「その功徳は何か?」「それらの結果は何か?」
Tatridaṃ vissajjanaṃ – kā panetā pāramiyoti. Taṇhāmānādīhi anupahatā karuṇūpāyakosallapariggahitā dānādayo guṇā pāramiyo.
それに対する答えは次のとおりである。「これら波羅蜜とは何か?」という問いに対しては、渇愛や慢などによって損なわれることなく、慈悲と方便善巧によって抱かれた布施などの徳目が波羅蜜である。
Kenaṭṭhena pāramiyoti dānasīlādiguṇavisesayogena sattuttamatāya paramā mahāsattā bodhisattā, tesaṃ bhāvo, kammaṃ vā pāramī, dānādikiriyā. Atha vā paratīti paramo, dānādiguṇānaṃ pūrako pālako ca bodhisatto. Paramassa ayaṃ, paramassa vā bhāvo, kammaṃ vā pāramī, dānādikiriyāva. Atha vā paraṃ sattaṃ attani mavati bandhati guṇavisesayogena, paraṃ vā adhikataraṃ majjati sujjhati saṃkilesamalato, paraṃ vā seṭṭhaṃ nibbānaṃ visesena mayati gacchati, paraṃ vā lokaṃ pamāṇabhūtena ñāṇavisesena idhalokaṃ viya munāti paricchindati, paraṃ vā ativiya sīlādiguṇagaṇaṃ attano santāne minoti pakkhipati, paraṃ vā attabhūtato dhammakāyato aññaṃ, paṭipakkhaṃ vā tadanatthakaraṃ kilesacoragaṇaṃ mināti hiṃsatīti paramo, mahāsatto. ‘‘Paramassa aya’’ntiādi vuttanayeneva yojetabbaṃ. Pāre vā nibbāne majjati sujjhati satte ca sodheti, tattha vā satte mavati bandhati yojeti, taṃ vā mayati gacchati gameti ca, munāti vā taṃ yāthāvato, tattha vā satte minoti pakkhipati, kilesāriṃ vā sattānaṃ tattha mināti hiṃsatīti pāramī, mahāpuriso. Tassa bhāvo, kammaṃ vā pāramitā, dānādikiriyāva. Iminā nayena pāramīnaṃ saddattho veditabbo.
「いかなる意味で波羅蜜と呼ばれるのか?」という問いに対しては、布施や戒などの特異な功徳の結合によって、衆生の中でも最上である「paramā mahāsattā bodhisattā」(最高の偉大な衆生である菩薩)の存在や行為が波羅蜜、すなわち布施などの行いである。あるいは、「paratīti」とは「最上である」という意味であり、菩薩は布施などの功徳を完成させ、護持する者である。「paramassa ayaṃ」(最上の者のこれ)あるいは「paramassa bhāvo」(最上の者の存在)や「kammaṃ」(行為)が波羅蜜であり、布施などの行いである。あるいは、他の衆生を自己に引き寄せる(mavati)または結合させる(bandhati)のが、特別な功徳の結合によるものである。あるいは、他の衆生を煩悩の汚れからさらに清める(majjati sujjhati)のである。あるいは、最高の涅槃に特別に到達する(mayati gacchati)のである。あるいは、他の世界を、この世界のように、基準となる特別な知識によって見極める(munāti paricchindati)のである。あるいは、他のもの、すなわち戒などの優れた功徳の群れを、自己の心の中に深く置く(minoti pakkhipati)のである。あるいは、自己の存在(attabhūtato)とは異なる法身(dhammakāyato)を、あるいはその敵対者である、役に立たない煩悩の盗賊の群れを滅ぼす(mināti hiṃsati)のが「paramo」(最上の者)、すなわち偉大な衆生(mahāsatto)である。「paramassa ayaṃ」などというように、述べられた方法で解釈すべきである。あるいは、彼岸である涅槃において、衆生を清める(majjati sujjhati)のである。あるいは、そこに衆生を引き寄せる(mavati bandhati yojeti)のである。あるいは、それに到達させ、導く(mayati gacchati gameti ca)のである。あるいは、それをあるがままに知る(munāti yāthāvato)のである。あるいは、そこに衆生を深く置く(minoti pakkhipati)のである。あるいは、そこに衆生の煩悩という敵を滅ぼす(mināti hiṃsati)のが「pāramī」(波羅蜜)、すなわち偉大な人(mahāpuriso)である。その存在や行為が「pāramitā」(波羅蜜)であり、布施などの行いである。この方法で波羅蜜という言葉の意味を理解すべきである。
Katividhāti saṅkhepato dasavidhā, tā pana pāḷiyaṃ sarūpato āgatāyeva. Yathāha –
「何種類あるのか?」という問いに対しては、簡潔には十種類であり、それらはパーリ聖典にもそのまま述べられている。例えば、次のように説かれる。
‘‘Vicinanto tadā dakkhiṃ, paṭhamaṃ dānapārami’’ntiādi (bu. vaṃ. 116).
「その時、私は第一の布施の波羅蜜を思案しながら見た」など(仏所行讃 116)。
Yathā cāha –
そして、次のように説かれる。
‘‘Kati nu kho bhante buddhakārakā dhammā? Dasa kho sāriputta buddhakārakā dhammā. Katame dasa? Dānaṃ kho sāriputta buddhakārako dhammo, sīlaṃ nekkhammaṃ paññā vīriyaṃ khanti saccamadhiṭṭhānaṃ mettā upekkhā buddhakārako dhammo, ime kho sāriputta dasa buddhakārakā dhammāti. Idamavoca bhagavā, idaṃ vatvāna sugato athāparaṃ etadavoca satthā –
「尊者よ、仏を造る法はいくつあるのですか?」「サーリプッタよ、仏を造る法は十ある。その十とは何か?」「サーリプッタよ、布施は仏を造る法である。戒、出離、智慧、精進、忍耐、真実、決意、慈悲、捨も仏を造る法である。サーリプッタよ、これらが十の仏を造る法である。」と世尊は説かれ、このことを説いた後、善逝である師はさらに次のように説かれた。
‘Dānaṃ sīlañca nekkhammaṃ, paññā vīriyena pañcamaṃ;
「布施と戒、そして出離、智慧に精進が第五、
Khanti saccaṃ adhiṭṭhānaṃ, mettupekkhāti te dasā’ti’’.
忍耐と真実、決意、慈悲と捨が、その十である。」
Keci pana ‘‘chabbidhā’’ti vadanti, taṃ etāsaṃ saṅgahavasena vuttaṃ. So pana saṅgaho parato āvibhavissati.
しかし、ある者は「六種類である」と言うが、それはそれらをまとめる意味で言われたものである。そのまとめについては後で明らかになるであろう。
Ko tāsaṃ kamoti ettha kamo nāma desanākkamo, so ca paṭhamasamādānahetuko, samādānaṃ pavicayahetukaṃ, iti yathā ādimhi pavicitā samādinnā ca, tathā desitā. Tattha ca dānaṃ sīlassa bahūpakāraṃ sukarañcāti taṃ ādimhi vuttaṃ. Dānaṃ sīlapariggahitaṃ mahapphalaṃ hoti mahānisaṃsanti dānānantaraṃ sīlaṃ vuttaṃ. Sīlaṃ nekkhammapariggahitaṃ, nekkhammaṃ paññāpariggahitaṃ, paññā vīriyapariggahitā, vīriyaṃ khantipariggahitaṃ, khanti saccapariggahitā, saccaṃ adhiṭṭhānapariggahitaṃ, adhiṭṭhānaṃ mettāpariggahitaṃ, mettā upekkhāpariggahitā mahapphalā hoti mahānisaṃsāti mettānantaraṃ upekkhā vuttā. Upekkhā pana karuṇāpariggahitā, karuṇā ca upekkhāpariggahitāti veditabbā. Kathaṃ pana mahākāruṇikā bodhisattā sattesu upekkhakā hontīti? Upekkhitabbayuttesu kañci kālaṃ upekkhakā honti, na pana sabbattha, sabbadā cāti keci. Apare pana na sattesu upekkhakā, sattakatesu pana vippakāresu upekkhakā hontīti.
「それらの順序は何か?」という問いに対して、ここでの「順序」とは説法の順序のことである。それは最初の受持に原因があり、受持は分析に原因がある。したがって、最初に分析され、受持されたとおりに説かれたのである。その中で、布施は戒にとって大いに役立ち、また行いやすいので、最初に説かれた。戒に抱かれた布施は大きな果報と大きな功徳をもたらすので、布施の次に戒が説かれた。戒は出離に抱かれ、出離は智慧に抱かれ、智慧は精進に抱かれ、精進は忍耐に抱かれ、忍耐は真実に抱かれ、真実は決意に抱かれ、決意は慈悲に抱かれ、慈悲は捨に抱かれると大きな果報と大きな功徳をもたらすので、慈悲の次に捨が説かれた。しかし、捨は慈悲に抱かれ、慈悲もまた捨に抱かれると理解されるべきである。しかし、どのようにして大慈悲なる菩薩が衆生に対して捨の心を持つことができるのか?ある者は、捨の心を持つべき状況において、一時的に捨の心を持つのであって、常に全ての状況でそうではないと説く。また別の者は、衆生に対して捨の心を持つのではなく、衆生によってなされた悪行に対して捨の心を持つと説く。
Aparo nayo – pacurajanesupi pavattiyā sabbasattasādhāraṇattā, appaphalattā, sukarattā ca ādimhi dānaṃ vuttaṃ. Sīlenadāyakapaṭiggāhakasuddhito, parānuggahaṃ vatvā parapīḷānivattivacanato, kiriyadhammaṃ vatvā akiriyadhammavacanato, bhogasampattihetuṃ vatvā bhavasampattihetuvacanato ca dānassa anantaraṃ sīlaṃ vuttaṃ. Nekkhammena sīlasampattisiddhito, kāyavacīsucaritaṃ vatvā manosucaritavacanato, visuddhasīlassa sukheneva jhānasamijjhanato, kammāparādhappahānena payogasuddhiṃ vatvā kilesāparādhappahānena āsayasuddhivacanato, vītikkamappahānena cittassa pariyuṭṭhānappahānavacanato ca sīlassa anantaraṃ nekkhammaṃ vuttaṃ. Paññāya nekkhammassa siddhiparisuddhito, jhānābhāve paññābhāvavacanato. Samādhipadaṭṭhānā hi paññā, paññāpaccupaṭṭhāno ca samādhi. Samathanimittaṃ vatvā upekkhānimittavacanato, parahitajjhānena parahitakaraṇūpāyakosallavacanato ca nekkhammassa anantaraṃ paññā vuttā. Vīriyārambhena paññākiccasiddhito, sattasuññatādhammanijjhānakkhantiṃ vatvā sattahitāya ārambhassa acchariyatāvacanato, upekkhānimittaṃ vatvā paggahanimittavacanato, nisammakāritaṃ vatvā uṭṭhānavacanato ca. Nisammakārino hi uṭṭhānaṃ phalavisesamāvahatīti paññāya anantaraṃ vīriyaṃ vuttaṃ.
別の方法としては、布施は多くの人々にも行われ、全ての衆生に共通であること、結果が少ないこと、そして行いやすいことから、最初に説かれた。戒によっては施与者と受者の清浄が保たれること、他者の助けを説いて他者への苦痛の停止を説くこと、積極的な行為の法を説いて非積極的な行為の法を説くこと、財産の成就の原因を説いて存在の成就の原因を説くことから、布施の次に戒が説かれた。出離によっては戒の成就が確立されること、身口の善行を説いて意の善行を説くこと、清らかな戒を持つ者が容易に禅定を成就すること、業の過ちを捨てることによる行為の清浄を説いて煩悩の過ちを捨てることによる意図の清浄を説くこと、逸脱行為を捨てることによる心の汚染の停止を説くことから、戒の次に出離が説かれた。智慧によっては出離の成就が完全に清浄となること、禅定がなければ智慧がないと説かれることから。実際、智慧は三昧の原因であり、三昧は智慧によって現れる。止の対象を説いて捨の対象を説くこと、他者の利益を熟慮することによって他者の利益を行う方便善巧を説くことから、出離の次に智慧が説かれた。精進の開始によって智慧の作用が成就すること、衆生の空性という法の熟考における忍耐を説いて、衆生の利益のための開始が驚くべきことであると説くこと、捨の対象を説いて努力の対象を説くこと、慎重な行為を説いて立ち上がりの行為を説くことから。実際、慎重な者の立ち上がりは特別な結果をもたらすので、智慧の次に精進が説かれた。
Vīriyena titikkhāsiddhito. Vīriyavā hi āraddhavīriyattā sattasaṅkhārehi upanītaṃ dukkhaṃ abhibhuyya viharati vīriyassa titikkhālaṅkārabhāvato. Vīriyavato hi titikkhā sobhati. Paggahanimittaṃ vatvā samathanimittavacanato, accārambhena uddhaccadosappahānavacanato. Dhammanijjhānakkhantiyā hi uddhaccadoso pahīyati. Vīriyavato sātaccakaraṇavacanato. Khantibahulo hi anuddhato sātaccakārī hoti. Appamādavato parahitakiriyārambhe paccupakārataṇhābhāvavacanato. Yāthāvato dhammanijjhāne hi sati taṇhā na hoti. Parahitārambhe paramepi parakatadukkhasahanabhāvavacanato ca vīriyassa anantaraṃ khanti vuttā. Saccena khantiyā cirādhiṭṭhānato, apakārino apakārakhantiṃ vatvā tadupakārakaraṇe avisaṃvādavacanato, khantiyā apavādavācāvikampanena bhūtavāditāya avijahanavacanato, sattasuññatādhammanijjhānakkhantiṃ vatvā tadupabrūhitañāṇasaccavacanato ca khantiyā anantaraṃ saccaṃ vuttaṃ. Adhiṭṭhānena saccasiddhito. Acalādhiṭṭhānassa hi virati sijjhati. Avisaṃvāditaṃ vatvā tattha acalabhāvavacanato. Saccasandho hi dānādīsu paṭiññānurūpaṃ niccalova pavattati. Ñāṇasaccaṃ vatvā sambhāresu pavattiniṭṭhāpanavacanato. Yathābhūtañāṇavā hi bodhisambhāresu adhitiṭṭhati, te ca niṭṭhāpeti paṭipakkhehi akampiyabhāvatoti saccassa anantaraṃ adhiṭṭhānaṃ vuttaṃ. Mettāya parahitakaraṇasamādānādhiṭṭhānasiddhito, adhiṭṭhānaṃ vatvā hitūpasaṃhāravacanato. Bodhisambhāre hi adhitiṭṭhamāno mettāvihārī hoti. Acalādhiṭṭhānassa samādānāvikopanato, samādānasambhavato ca adhiṭṭhānassa anantaraṃ mettā vuttā. Upekkhāya mettāvisuddhito, sattesu hitūpasaṃhāraṃ vatvā tadaparādhesu udāsīnatāvacanato, mettābhāvanaṃ vatvā tannissandabhāvanāvacanato, ‘‘hitakāmasattepi upekkhako’’ti acchariyaguṇabhāvavacanato ca mettāya anantaraṃ upekkhā vuttāti evametāsaṃ kamo veditabbo.
精進による忍耐の成就。精進ある者は、努力を始めると、衆生によってもたらされる苦を克服して住む。精進は忍耐の飾りであるから。精進ある者には忍耐が輝く。努力のきっかけを述べることによって、鎮静のきっかけを述べることによって、過度の熱意による高慢という過ちを捨てることを述べることによって。法を深く観察する忍耐によって、高慢の過ちは捨てられる。精進ある者は常に実践することを述べることによって。忍耐に満ちた者は、高慢でなく、常に実践する者となる。怠らない者は、他者の利益を行う際に、見返りを求める渇愛がないことを述べることによって。真実の法を深く観察していれば、渇愛は存在しない。他者の利益を始めることにおいて、たとえ最高の状態においても、他者によってもたらされる苦を受け入れることを述べることによって、精進の次に忍耐が説かれる。真実による忍耐の長きにわたる堅固な決意の成就。害なす者に対して、害を受け入れる忍耐を述べることによって、その利益を行うことにおいて不謬であることを述べることによって、忍耐は非難の言葉によって揺るがず、真実を語ることを捨てないことを述べることによって、衆生の空である法を深く観察する忍耐を述べることによって、それに育まれた智慧の真実を述べることによって、忍耐の次に真実が説かれる。決意による真実の成就。不動の決意を持つ者には、自制が成就する。不謬であることを述べることによって、そこに不動の存在を述べることによって。真実を固く守る者は、布施などにおいて誓い通りに不動に実践する。智慧の真実を述べることによって、菩薩資糧(サンバーラ)の継続を完成させることを述べることによって。ありのままの智慧を持つ者は、菩薩資糧において堅固な決意をし、それらを完成させる。敵対者によって揺るがされることがないからである。真実の次に決意が説かれる。慈悲による他者の利益を行うという誓願の成就。決意を述べることによって、利益をもたらすことを述べることによって。菩薩資糧において堅固な決意をする者は、慈悲の住処にある。不動の決意は誓願を妨げないから、そして誓願の成立があるから、決意の次に慈悲が説かれる。平静による慈悲の清浄。衆生に利益をもたらすことを述べながら、その過ちにおいては無関心であることを述べることによって、慈悲の瞑想を述べながら、その結果としての瞑想を述べることによって、「利益を望む衆生に対しても平静である」という驚くべき性質を述べることによって、慈悲の次に平静が説かれる。このように、これらの順序は理解されるべきである。
Kāni lakkhaṇarasapaccupaṭṭhānapadaṭṭhānānīti? Ettha avisesena tāva sabbāpi pāramiyo parānuggahalakkhaṇā, paresaṃ upakārakaraṇarasā, avikampanarasā vā, hitesitāpaccupaṭṭhānā, buddhattapaccupaṭṭhānā vā, mahākaruṇāpadaṭṭhānā, karuṇūpāyakosallapadaṭṭhānā vā.
「それらの特徴、働き、現れ、原因は何か?」 ここでは、まず一般的に、すべての波羅蜜は他者を助けることを特徴とし、他者に利益をもたらすことを働きとし、また揺るがないことを働きとし、利益を願うことが現れであり、また仏陀であること(仏性)が現れであり、大悲を原因とし、また慈悲と方便を原因とする。
Visesena pana yasmā karuṇūpāyakosallapariggahitā attupakaraṇapariccāgacetanā dānapāramitā. Karuṇūpāyakosallapariggahitaṃ kāyavacīsucaritaṃ atthato akattabbavirati, kattabbakaraṇacetanādayo ca sīlapāramitā. Karuṇūpāyakosallapariggahito ādīnavadassanapubbaṅgamo kāmabhavehi nikkhamanacittuppādo nekkhammapāramitā. Karuṇūpāyakosallapariggahito dhammānaṃ sāmaññavisesalakkhaṇāvabodho paññāpāramitā. Karuṇūpāyakosallapariggahito kāyacittehi parahitārambho vīriyapāramitā. Karuṇūpāyakosallapariggahitaṃ sattasaṅkhārāparādhasahanaṃ adosappadhāno tadākārappavatto cittuppādo khantipāramitā. Karuṇūpāyakosallapariggahitaṃ viraticetanādibhedaṃ avisaṃvādanaṃ saccapāramitā. Karuṇūpāyakosallapariggahitaṃ acalasamādānādhiṭṭhānaṃ tadākārappavatto cittuppādo adhiṭṭhānapāramitā. Karuṇūpāyakosallapariggahito lokassa hitūpasaṃhāro atthato abyāpādo mettāpāramitā. Karuṇūpāyakosallapariggahitā anunayapaṭighaviddhaṃsinī iṭṭhāniṭṭhesu sattasaṅkhāresu samappavatti upekkhāpāramitā.
しかし、特に、慈悲と方便に包まれた、自己の持ち物を捨てるという意志が布施の波羅蜜である。慈悲と方便に包まれた、身と口の善行、つまり実際には行うべきでないことを避けること、行うべきことを行う意志などが戒律の波羅蜜である。慈悲と方便に包まれ、危険を先行して見ることによって、欲界から離れる心の生起が出離の波羅蜜である。慈悲と方便に包まれた、諸法の共通の特徴と特殊な特徴の理解が智慧の波羅蜜である。慈悲と方便に包まれた、身と心によって他者の利益を始めることが精進の波羅蜜である。慈悲と方便に包まれた、衆生の過ちを耐え忍ぶこと、憎しみがないことを主とし、そのように働く心の生起が忍耐の波羅蜜である。慈悲と方便に包まれた、自制の意志などを含む不謬が真実の波羅蜜である。慈悲と方便に包まれた、不動の誓願と決意、そのように働く心の生起が決意の波羅蜜である。慈悲と方便に包まれた、世間の利益をもたらすこと、つまり実際には不害が慈悲の波羅蜜である。慈悲と方便に包まれた、好ましいものと好ましくないものとを両方において、衆生に対し平等に振る舞う、執着と反感を破壊するものが平静の波羅蜜である。
Tasmā pariccāgalakkhaṇaṃ dānaṃ, deyyadhamme lobhaviddhaṃsanarasaṃ, anāsattipaccupaṭṭhānaṃ, bhavavibhavasampattipaccupaṭṭhānaṃ vā, pariccajitabbavatthupadaṭṭhānaṃ. Sīlanalakkhaṇaṃ sīlaṃ, samādhānalakkhaṇaṃ, patiṭṭhānalakkhaṇañcāti vuttaṃ hoti. Dussīlyaviddhaṃsanarasaṃ, anavajjarasaṃ vā, soceyyapaccupaṭṭhānaṃ, hirottappapadaṭṭhānaṃ. Kāmato bhavato ca nikkhamanalakkhaṇaṃ nekkhammaṃ, tadādīnavavibhāvanarasaṃ, tato eva vimukhabhāvapaccupaṭṭhānaṃ, saṃvegapadaṭṭhānaṃ. Yathāsabhāvapaṭivedhalakkhaṇā paññā, akkhalitapaṭivedhalakkhaṇā vā kusalissāsakhittausupaṭivedho viya, visayobhāsanarasā padīpo viya, asammohapaccupaṭṭhānā araññagatasudesako viya, samādhipadaṭṭhānā, catusaccapadaṭṭhānā vā. Ussāhalakkhaṇaṃ vīriyaṃ, upatthambhanarasaṃ, asaṃsīdanapaccupaṭṭhānaṃ, vīriyārambhavatthu (a. ni. 8.80) padaṭṭhānaṃ, saṃvegapadaṭṭhānaṃ vā. Khamanalakkhaṇā khanti, iṭṭhāniṭṭhasahanarasā, adhivāsanapaccupaṭṭhānā, avirodhapaccupaṭṭhānā vā, yathābhūtadassanapadaṭṭhānā. Avisaṃvādanalakkhaṇaṃ saccaṃ, yāthāvavibhāvanarasaṃ [yathāsabhāvavibhāvanarasaṃ (cariyā. aṭṭha. pakiṇṇakakathāya)], sādhutāpaccupaṭṭhānaṃ, soraccapadaṭṭhānaṃ. Bodhisambhāresu adhiṭṭhānalakkhaṇaṃ adhiṭṭhānaṃ, tesaṃ paṭipakkhābhibhavanarasaṃ, tattha acalatāpaccupaṭṭhānaṃ, bodhisambhārapadaṭṭhānaṃ. Hitākārappavattilakkhaṇā mettā, hitūpasaṃhārarasā, āghātavinayanarasā vā, sommabhāvapaccupaṭṭhānā, sattānaṃ manāpabhāvadassanapadaṭṭhānā. Majjhattākārappavattilakkhaṇā upekkhā, samabhāvadassanarasā, paṭighānunayavūpasamapaccupaṭṭhānā, kammassakatāpaccavekkhaṇapadaṭṭhānā. Ettha ca karuṇūpāyakosallapariggahitatā dānādīnaṃ pariccāgādilakkhaṇassa visesanabhāvena vattabbā, yato tāni pāramīsaṅkhyaṃ labhantīti.
それゆえ、布施は捨離を特徴とし、与えるべき物に対する貪りの破壊を働きとし、執着しないことが現れであり、あるいは生起と終焉の成就が現れであり、捨てるべき物を原因とする。戒律は戒を特徴とし、集中を特徴とし、確立を特徴とすると言われる。悪戒の破壊を働きとし、あるいは非難のないことを働きとし、清浄が現れであり、慚愧を原因とする。出離は欲と存在からの出離を特徴とし、その危険性を明らかにする働きを持ち、それから背を向けることが現れであり、厭離を原因とする。智慧はありのままを洞察することを特徴とし、あるいは熟練した弓兵の矢のように、つまずくことなく洞察することを特徴とし、対象を輝かせることを働きとし、灯火のように、迷わないことが現れであり、森に入った案内人のように、三昧を原因とし、あるいは四聖諦を原因とする。精進は努力を特徴とし、支えることを働きとし、沈滞しないことが現れであり、精進を始める物(アングッタラニカーヤ 8.80)を原因とし、あるいは厭離を原因とする。忍耐は耐え忍ぶことを特徴とし、好ましいものと好ましくないものとを耐え忍ぶことを働きとし、容認が現れであり、あるいは敵対しないことが現れであり、ありのままを見る智慧を原因とする。真実は不謬を特徴とし、真実を明らかにすることを働きとし、立派であることが現れであり、貞淑を原因とする。決意は菩薩資糧において堅固な決意を特徴とし、それらの敵対者を克服することを働きとし、そこに不動であることが現れであり、菩薩資糧を原因とする。慈悲は利益を与えるように振る舞うことを特徴とし、利益をもたらすことを働きとし、あるいは憎しみを鎮めることを働きとし、穏やかさが現れであり、衆生の好ましい状態を見ることを原因とする。平静は中立的に振る舞うことを特徴とし、平等を見ることを働きとし、反感と執着を鎮めることが現れであり、業は自己のものであるという考察を原因とする。そしてここで、慈悲と方便に包まれていることは、布施などの捨離などを特徴とするものの形容として語られるべきである。なぜなら、それらによって波羅蜜という数を獲得するからである。
Ko paccayoti abhinīhāro paccayo. Yo hi ayaṃ ‘‘manussattaṃ liṅgasampattī’’tiādi (bu. vaṃ. 2.59) aṭṭhadhammasamodhānasampādito ‘‘tiṇṇo tāreyyaṃ, mutto moceyyaṃ, buddho bodheyyaṃ, suddho sodheyyaṃ, danto dameyyaṃ, santo sameyyaṃ, assattho assāseyyaṃ, parinibbuto parinibbāpeyya’’ntiādinā (cariyā. aṭṭha. pakiṇṇakakathāya) pavatto abhinīhāro, so avisesena sabbapāramīnaṃ paccayo. Tappavattiyā hi uddhaṃ pāramīnaṃ pavicayupaṭṭhānasamādānādhiṭṭhānanipphattiyo mahāpurisānaṃ sambhavanti.
「原因とは何か?」 誓願が原因である。この「人間としての生、性別の成就」など(ブッダヴァンサ 2.59)八つの法の集合によって成就された「私は渡った、渡らせよう。私は解脱した、解脱させよう。私は覚った、覚らせよう。私は清浄になった、清浄にさせよう。私は調伏された、調伏させよう。私は平安になった、平安にさせよう。私は安らぎを得た、安らぎを与えよう。私は涅槃に入った、涅槃に入らせよう」など(チャリヤーピタカアッタカター、パキンナカカター)の通りに行われる誓願は、差別なくすべての波羅蜜の原因となる。この誓願が行われることによって、偉大な人々にとっては、波羅蜜の選択、確立、誓願、決意の成就が可能となるのである。
Yathā ca abhinīhāro, evaṃ mahākaruṇā, upāyakosallañca. Tattha upāyakosallaṃ nāma dānādīnaṃ bodhisambhārabhāvassa nimittabhūtā paññā, yāhi karuṇūpāyakosallatāhi mahāpurisānaṃ attasukhanirapekkhatā, nirantaraṃ parahitakaraṇapasutatā, sudukkarehipi mahābodhisattacaritehi visādābhāvo, pasādasambuddhidassanasavanānussaraṇāvatthāsupi sattānaṃ hitasukhapaṭilābhahetubhāvo ca sampajjati. Tathā hi paññāya buddhabhāvasiddhi, karuṇāya buddhakammasiddhi. Paññāya sayaṃ tarati, karuṇāya pare tāreti. Paññāya paradukkhaṃ parijānāti, karuṇāya paradukkhapaṭikāraṃ ārabhati. Paññāya ca dukkhe nibbindati, karuṇāya dukkhaṃ sampaṭicchati. Tathā paññāya parinibbānābhimukho hoti, karuṇāya taṃ na pāpuṇāti. Tathā karuṇāya saṃsārābhimukho hoti, paññāya tatra nābhiramati. Paññāya ca sabbattha virajjati, karuṇānugatattā na ca na sabbesaṃ anuggahāya pavatto, karuṇāya sabbepi anukampati, paññānugatattā na ca na sabbattha virattacitto. Paññāya ca ahaṃkāramamaṃkārābhāvo, karuṇāya ālasiyadīnatābhāvo. Tathā paññākaruṇāhi yathākkamaṃ attaparanāthatā, dhīravīrabhāvo, anattantapaaparantapatā, attahitaparahitanipphatti, nibbhayābhiṃsanakabhāvo, dhammādhipatilokādhipatitā, kataññupubbakāribhāvo, mohataṇhāvigamo, vijjācaraṇasiddhi, balavesārajjanipphattīti sabbassāpi pāramitāphalassa visesena upāyabhāvato paññākaruṇā pāramīnaṃ paccayo. Idañca dvayaṃ pāramīnaṃ viya paṇidhānassāpi paccayo.
誓願と同じく、大悲と方便も原因である。ここでいう方便とは、布施などが菩薩資糧となるための兆候である智慧であり、それによって大いなる人々は自己の幸福を顧みず、常に他者の利益を行うことに専念し、非常に困難な大菩薩の行においても落胆することがなく、信仰、正覚、見聞、追憶の状態においても、衆生の利益と幸福を獲得する原因となるのである。このように、智慧によって仏性が成就し、大悲によって仏陀の働きが成就する。智慧によって自らが渡り、大悲によって他者を渡らせる。智慧によって他者の苦を知り、大悲によって他者の苦の救済を始める。智慧によって苦に嫌悪を感じ、大悲によって苦を受け入れる。このように智慧によって般涅槃に向かうが、大悲によってそれに到達しない。このように大悲によって輪廻に向かうが、智慧によってそこにとどまることを楽しませない。智慧によってあらゆるものに離欲するが、大悲に従うゆえに、すべての人々を助けることを止めない。大悲によってすべての人々を憐れむが、智慧に従うゆえに、すべてにおいて離欲の心がないわけではない。智慧によって我執と所有欲がないが、大悲によって怠惰や卑屈さがない。このように、智慧と大悲によって、順に自己と他者の庇護者となること、賢者で勇者であること、自己を苦しめず他者を苦しめないこと、自己の利益と他者の利益の成就、恐れと脅威がないこと、法の主、世間の主であること、恩を知り恩を返すこと、愚痴と渇愛の滅尽、明知と行の成就、力と無畏の成就がある。このように、すべての波羅蜜の果報にとって、特に方便となるがゆゆに、智慧と大悲は波羅蜜の原因である。この二つは、波羅蜜と同様に、誓願の原因でもある。
Tathā ussāhaummaṅgaavatthānahitacariyā ca pāramīnaṃ paccayoti veditabbā, yā buddhabhāvassa uppattiṭṭhānatāya **‘‘buddhabhūmiyo’’**ti pavuccanti. Yathāha –
また、努力、優れた理解、堅固さ、そして利益となる行も波羅蜜の原因であると知られるべきである。これらは仏陀となる状態の発生源であるため、「仏地」と呼ばれる。このように言われている—
‘‘Kati pana bhante buddhabhūmiyo? Catasso kho sāriputta buddhabhūmiyo. Katamā catasso? Ussāho ca hoti vīriyaṃ, umaṅgo ca hoti paññābhāvanā, avatthānañca hoti adhiṭṭhānaṃ, mettābhāvanā ca hoti hitacariyā. Imā kho sāriputta catasso buddhabhūmiyo’’ti (su. ni. aṭṭha. 1.khaggavisāṇasuttavaṇṇanāyampi).
「師よ、仏地はいくつありますか?サーリプッタよ、仏地は四つである。その四つとは何か?努力は精進である。優れた理解は智慧の修習である。堅固さは決意である。慈悲の修習は利益となる行である。サーリプッタよ、これらが四つの仏地である」と(スッタニパータアッタカター、1.カッガヴィサーナスッタヴァッタナーにも)。
Tathā nekkhammapavivekaalobhādosāmohanissaraṇappabhedā cha ajjhāsayā. Vuttañhetaṃ –
また、出離、遠離、無貪、無瞋、無痴、出離の区別された六つの志向がある。このように言われている—
‘‘Nekkhammajjhāsayā ca bodhisattā kāme dosadassāvino, paviveka…pe… saṅgaṇikāya, alobha…pe… lobhe, adosa…pe… dose, amoha…pe… mohe, nissaraṇajjhāsayā ca bodhisattā sabbabhavesu dosadassāvino’’ti (visuddhi. aṭṭha. 1.49 vākyakhandhepi).
「菩薩たちは出離の志向において欲に危険を見出し、遠離の志向において集団に、無貪の志向において貪に、無瞋の志向において瞋に、無痴の志向において痴に、そして出離の志向においてすべての存在に危険を見出す」と(清浄道論アッタカター、1.49の文節にも)。
Tasmā ete bodhisattānaṃ cha ajjhāsayā dānādīnaṃ paccayāti veditabbā. Na hi lobhādīsu ādīnavadassanena, alobhādiadhikabhāvena ca vinā dānādipāramiyo sambhavanti. Alobhādīnañhi adhikabhāvena pariccāgādininnacittatā alobhajjhāsayāditāti. Yathā cete, evaṃ dānajjhāsayatādayopi. Yathāha –
それゆえ、これら菩薩たちの六つの志向は、布施などの原因であると知られるべきである。なぜなら、貪などにおける危険を見ることなく、また無貪などの優位性なくしては、布施などの波羅蜜は生じないからである。無貪などが優位であることによって、捨離などに傾倒する心が無貪の志向などである。これらがそうであるように、布施の志向なども同様である。このように言われている—
‘‘Kati pana bhante bodhāya carantānaṃ bodhisattānaṃ ajjhāsayā? Dasa kho sāriputta bodhāya carantānaṃ bodhisattānaṃ ajjhāsayā. Katame dasa? Dānajjhāsayā sāriputta bodhisattā macchere dosadassāvino, sīla…pe… upekkhajjhāsayā sāriputta bodhisattā sukhadukkhesu dosadassāvino’’ti.
「師よ、覚りを目指して行ずる菩薩たちの志向はいくつありますか?サーリプッタよ、覚りを目指して行ずる菩薩たちの志向は十である。その十とは何か?サーリプッタよ、菩薩たちは布施の志向において吝嗇に危険を見出し、戒律の…以下略…平静の志向において苦楽に危険を見出す」と。
Etesu hi maccheraasaṃvarakāmavicikicchākosajjaakkhantivisaṃvādaanadhiṭṭhānabyāpāda- sukhadukkhasaṅkhātesu ādīnavadassanapubbaṅgamā dānādininnacittatāsaṅkhātā dānajjhāsayatādayo dānādipāramīnaṃ nibbattiyā kāraṇanti. Tathā apariccāgapariccāgādīsu yathākkamaṃ ādīnavānisaṃsapaccavekkhaṇā dānādipāramīnaṃ paccayo.
これらの吝嗇、自制のなさ、感覚的欲望、疑い、怠惰、不忍耐、不謬、決意の欠如、悪意、苦楽といったものに対する危険を先行して見ることによって、布施などに傾倒する心、すなわち布施の志向などは、布施などの波羅蜜の発生原因である。また、不捨離と捨離などにおいて、順に危険と利益を考察することも、布施などの波羅蜜の原因である。
Tatthāyaṃ paccavekkhaṇāvidhi – khettavatthuhiraññasuvaṇṇagomahiṃsadāsidāsaputtadārādipariggahabyāsattacittānaṃ sattānaṃ khettādīnaṃ vatthukāmabhāvena bahupatthanīyabhāvato, rājacorādisādhāraṇabhāvato, vivādādhiṭṭhānato, sapattakaraṇato, nissārato, paṭilābhaparipālanesu paraviheṭhanahetuto, vināsanimittañca sokādianekavihitabyasanāvahato, tadāsattinidānañca maccheramalapariyuṭṭhitacittānaṃ apāyūpapattisambhavatoti evaṃ vividhavipulānatthāvahā ete atthā nāma, tesaṃ pariccāgoyeveko sotthibhāvoti pariccāge appamādo karaṇīyo.
ここに考察の方法がある。畑、土地、金銀、牛、水牛、奴隷、女中、息子、娘などを所有することに執着する衆生にとって、畑などは物質的な欲望の対象として非常に望ましいものであるが、王や盗賊などに共有されるものであり、争いの原因となり、敵を作るものであり、本質がなく、獲得と維持において他者を苦しめる原因となり、破壊の兆候であり、悲しみなど多くの不幸をもたらす。そして、それらへの執着は、吝嗇の汚れに覆われた心を持つ者にとっては、悪趣への再生の可能性をもたらす。このように、これら(所有物)は多種多様な広範な不利益をもたらすものである。それらを捨離することだけが唯一の幸福な状態である。ゆえに、捨離において怠らないべきである。
Apica ‘‘yācako yācamāno attano guyhassa ācikkhanato mayhaṃ vissāsiko’’ti ca ‘‘pahāya gamanīyaṃ attano santakaṃ gahetvā paralokaṃ yāhīti mayhaṃ upadesako’’ti ca ‘‘āditte viya agāre maraṇagginā āditte loke tato mayhaṃ santakassa apavāhakasahāyo’’ti ca ‘‘apavāhitassa cassa nijjhāyanikkhepaṭṭhānabhūto’’ti ca ‘‘dānasaṅkhāte kalyāṇakammasmiṃ sahāyabhāvato, sabbasampattīnaṃ aggabhūtāya paramadullabhāya buddhabhūmiyā sampattihetubhāvato ca paramo kalyāṇamitto’’ti ca paccavekkhitabbaṃ.
さらに、「請う者は、自己の秘密を明かすことで私にとって信頼できる者である」と、「残して去るべき自己の持ち物を持って来世へ行きなさいと私に教える者である」と、「燃え盛る家のように、死の火によって燃え盛る世界において、私の持ち物を運び出す助け手である」と、「運び出された物の熟考と貯蔵の場所である」と、「布施という善き行いにおける助け手であること、すべての成就の中で最も優れた、極めて稀な仏地の成就の原因であることによって、最高の善き友である」と考察されるべきである。
Tathā ‘‘uḷāre kammani anenāhaṃ sambhāvito, tasmā sā sambhāvanā avitathā kātabbā’’ti ca ‘‘ekantabheditāya jīvitassa ayācitenapi mayā dātabbaṃ, pageva yācitenā’’ti ca ‘‘uḷārajjhāsayehi gavesitvāpi dātabbo, sayamevāgato mama puññenā’’ti ca ‘‘yācakassa dānāpadesena mayhamevāyamanuggaho’’ti ca ‘‘ahaṃ viya ayaṃ sabbopi loko mayā anuggahetabbo’’ti ca ‘‘asati yācake kathaṃ mayhaṃ dānapāramī pūreyyā’’ti ca ‘‘yācakānamevatthāya mayā sabbo pariggahetabbo’’ti ca ‘‘ayācitvā mama santakaṃ yācakā sayameva kadā gaṇheyyu’’nti ca ‘‘kathamahaṃ yācakānaṃ piyo cassaṃ manāpo’’ti ca ‘‘kathaṃ vā te mayhaṃ piyā cassu manāpā’’ti ca ‘‘kathaṃ vāhaṃ dadamāno, datvāpi ca attamano assaṃ pamudito pītisomanassajāto’’ti ca ‘‘kathaṃ vā me yācakā bhaveyyuṃ, uḷāro ca dānajjhāsayo’’ti ca ‘‘kathaṃ vāhamayācitoyeva yācakānaṃ hadayamaññāya dadeyya’’nti ca ‘‘sati dhane yācake ca apariccāgo mahatī mayhaṃ vañcanā’’ti ca ‘‘kathaṃ vāhaṃ attano aṅgāni jīvitaṃ vāpi yācakānaṃ pariccajeyya’’nti ca paccavekkhitabbaṃ.
また、「この立派な行いによって私は尊重されているのだから、その尊重は偽りのないものにしなければならない」と、「命は必ず壊れるものだから、請われなくとも私は与えなければならない。ましてや請われたならばなおさらである」と、「広大な志をもって求めても与えられるべきものが、自ら私の福徳によってやって来たのだ」と、「施しを請う者のゆえに、私こそが恵みを受けているのだ」と、「この世のすべての者は私のように恵まれるべきである」と、「請う者がいなければ、どうして私の布施の波羅蜜は満たされるだろうか」と、「私は請う者たちのためにすべてを所有すべきである」と、「請う者たちは、請うことなくして、いつ私の所有物を受け取るだろうか」と、「どうすれば私は請う者たちに愛され、好かれるだろうか」と、「また、どうすれば彼らは私に愛され、好かれるだろうか」と、「また、どうすれば私は与えながら、そして与えた後も、心が喜び、歓喜し、法悦と心の安らぎに満たされるだろうか」と、「また、どうすれば私に請う者が現れ、私の布施の志も広大になるだろうか」と、「また、どうすれば私は請われなくとも、請う者たちの心を知って与えることができるだろうか」と、「財があり、請う者がいるのに与えないのは、私にとって大きな欺瞞である」と、「また、どうすれば私は自分の手足を、あるいは命すらも、請う者たちに与えることができるだろうか」と省察すべきである。
Apica ‘‘attho nāmāyaṃ nirapekkhaṃ dāyakaṃ anugacchati yathā taṃ nirapekkhaṃ khepakaṃ kiṭako’’ti atthe nirapekkhatāya cittaṃ uppādetabbaṃ. Yācamāno pana yadi piyapuggalo hoti, ‘‘piyo maṃ yācatī’’ti somanassaṃ uppādetabbaṃ. Atha udāsīnapuggalo hoti, ‘‘ayaṃ maṃ yācamāno addhā iminā pariccāgena mitto hotī’’ti somanassaṃ uppādetabbaṃ. Dadantopi hi yācakānaṃ piyo hotīti. Atha pana verīpuggalo yācati, ‘‘paccatthiko maṃ yācati, ayaṃ maṃ yācamāno addhā iminā pariccāgena verīpi piyo mitto hotī’’ti visesato somanassaṃ uppādetabbaṃ. Evaṃ piyapuggale viya majjhattaverīpuggalesupi mettāpubbaṅgamaṃ karuṇaṃ upaṭṭhapetvāva dātabbaṃ.
また、「この利益というものは、何の関心もない施主に、あたかも何の関心もない捨てる者に蛆が従うように、ついてくるものである」と、利益に対して関心のない心を起こすべきである。もし請う者が好ましい人物であれば、「好ましい者が私に請うている」と喜悦を起こすべきである。もし中立的な人物であれば、「この者は私に請うことで、きっとこの布施によって友人となるだろう」と喜悦を起こすべきである。与える者もまた、請う者たちに愛されるからである。もし敵対する人物が請うのであれば、「敵対者が私に請うている。この者は私に請うことで、きっとこの布施によって敵ですらも愛される友となるだろう」と特に喜悦を起こすべきである。このように、好ましい人物に対してと同様に、中立的な人物や敵対する人物に対しても、慈しみを前として悲を起こしてから与えるべきである。
Sace panassa cirakālaparibhāvitattā lobhassa deyyadhammavisayā lobhadhammā uppajjeyyuṃ, tena bodhisattapaṭiññena iti paṭisañcikkhitabbaṃ ‘‘nanu tayā sappurisa sambodhāya abhinīhāraṃ karontena sabbasattānaṃ upakāratthāya ayaṃ kāyo nissaṭṭho, tappariccāgamayañca puññaṃ, tattha nāma te bāhirepi vatthusmiṃ atisaṅgappavatti hatthisinānasadisī hoti, tasmā tayā na katthaci saṅgo uppādetabbo. Seyyathāpi nāma mahato bhesajjarukkhassa tiṭṭhato mūlaṃ mūlatthikā haranti, papaṭikaṃ, tacaṃ, khandhaṃ, viṭapaṃ, sāraṃ, sākhaṃ, palāsaṃ, pupphaṃ, phalaṃ phalatthikā haranti, na tassa rukkhassa ‘mayhaṃ santakaṃ ete harantī’’ti vitakkasamudācāro hoti, evameva sabbalokahitāya ussukkamāpajjantena mayā mahādukkhe akataññuke niccāsucimhi kāye paresaṃ upakārāya viniyujjamāne aṇumattopi micchāvitakko na uppādetabbo, ko vā ettha viseso ajjhattikabāhiresu mahābhūtesu ekantabhedanavikiraṇaviddhaṃsanadhammesu, kevalaṃ pana sammohavijambhitametaṃ, yadidaṃ ‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’ti abhiniveso. Tasmā bāhiresu viya ajjhattikesupi karacaraṇanayanādīsu, maṃsādīsu ca anapekkhena hutvā ‘taṃtadatthikā harantū’ti nissaṭṭhacittena bhavitabba’’nti. Evaṃ paṭisañcikkhato cassa bodhāya pahitattassa kāyajīvitesu nirapekkhassa appakasireneva kāyavacīmanokammāni suvisuddhāni honti. So visuddhakāyavacīmanokammanto visuddhājīvo ñāyapaṭipattiyaṃ ṭhito, āyāpāyupāyakosallasamannāgamena bhiyyoso mattāya deyyadhammapariccāgena, abhayadānasaddhammadānehi ca sabbasatte anuggaṇhituṃ samattho hotīti. Ayaṃ tāva dānapāramiyaṃ paccavekkhaṇānayo.
もし彼に、長期間にわたる修習によって貪欲の対象となる布施すべきものに関して貪りの心が起こるなら、その菩薩の誓いを立てた者は、次のように省察すべきである。『まさしく善き人よ、あなたは悟りのために発願した際に、一切の衆生を助けるためにこの身体を投げ出したではないか。その身体の布施は功徳に満ちている。それなのに、外的な物において、象が鼻で水を吸い上げるように過度の執着を起こすとは。だから、あなたはいかなるものに対しても執着を起こしてはならない。たとえ大きな薬の木が立っていて、根を求める者が根を奪い、樹皮、幹、枝、樹液、小枝、葉、花、果実を求める者が果実を奪っても、その木には「彼らは私のものを奪っている」というような思いは起こらない。それと同様に、一切衆生の利益のために努力する私も、大きな苦しみにあり、恩を知らず、常に不浄なこの身体を他者のために差し出す以上、少しも誤った考えを起こしてはならない。内的なものと外的なもの、すなわち必ず壊れて散り失せる四大元素に、いったいどのような違いがあるというのか。ただ、これは愚かさの蔓延にすぎない。「これは私のものだ、これが私だ、これは私の自我だ」という執着にすぎない。だから、外的なものに対してと同様に、手足や目などの内的なもの、そして肉などに対しても執着することなく、「それぞれの目的の者が奪っていけばよい」という捨て去った心を持つべきである』と。このように省察する、悟りのために努力する者、身体や生命に無関心な者は、ごく簡単に身口意の行為が完全に清らかになる。その清らかな身口意の行為を持つ者、清らかな生活を送る者、正当な道の実践に立つ者は、取得と喪失、そして方便の巧みさに恵まれ、さらに布施すべきものの布施によって、また無畏施と法施によって一切の衆生を助けることができるようになる。これが布施の波羅蜜における省察の方法である。
Sīlapāramiyaṃ pana evaṃ paccavekkhitabbaṃ – idañhi sīlaṃ nāma gaṅgodakādīhi visodhetuṃ asakkuṇeyyassa dosamalassa vikkhālanajalaṃ, haricandanādīhi vinetuṃ asakkuṇeyyarāgādipariḷāhavinayanaṃ, hāramakuṭakuṇḍalādīhi pacurajanālaṅkārehi asādhāraṇo sādhūnaṃ alaṅkāraviseso, sabbadisāvāyanato akittimo, sabbakālānurūpo ca surabhigandho, khattiyamahāsālādīhi devatāhi ca vandanīyādibhāvāvahanato paramo vasīkaraṇamanto, cātumahārājikādi devalokārohanasopānapanti, jhānābhiññānaṃ adhigamupāyo, nibbānamahānagarassa sampāpakamaggo, sāvakabodhipaccekabodhisammāsambodhīnaṃ patiṭṭhānabhūmi, yaṃ yaṃ vā panicchitaṃ patthitaṃ, tassa tassa samijjhanūpāyabhāvato cintāmaṇikapparukkhādike ca atiseti. Vuttañhetaṃ bhagavatā ‘‘ijjhati bhikkhave sīlavato cetopaṇidhi visuddhattā’’ti (a. ni. 8.35). Aparampi vuttaṃ ‘‘ākaṅkheyya ce bhikkhave bhikkhu sabrahmacārīnaṃ piyo ca assaṃ manāpo ca garu ca bhāvanīyo cāti, sīlesvevassa paripūrakārī’’tiādi (ma. ni. 1.61), tathā ‘‘avippaṭisāratthāni kho ānanda kusalāni sīlānī’’ti (a. ni. 10.1; 11.1), ‘‘pañcime gahapatayo ānisaṃsā sīlavato sīlasampadāyā’’ti (dī. ni. 2.150; udā. 76; mahāva. 185) suttānañca vasena sīlassa guṇā paccavekkhitabbā, tathā aggikkhandhopamasuttādīnaṃ (a. ni. 7.72) vasena sīlavirahe ādīnavā.
しかし、戒の波羅蜜においては、次のように省察すべきである。この戒とは、ガンジス河の水などによっては清められない煩悩の垢を洗い流す水であり、サンダルウッドなどによっては鎮められない煩悩の熱を鎮めるものであり、首飾りや冠、耳飾りなどの多くの人々の装飾品とは異なり、聖者たちにとって並外れた特別な装飾品である。また、あらゆる方向に香りが広がる自然の、常に時宜を得た芳しい香である。王族や裕福な人々、神々からも尊敬される存在となる最高の調伏の呪文であり、四天王天などの天界へ昇る階段の列であり、禅定や神通力を得るための手段であり、涅槃の大都市へ到達する道であり、声聞の悟り、独覚の悟り、そして正等覚の仏陀の悟りのための基盤である。また、望み願うものが何であれ、その成就の手段となるゆえに、如意宝珠や如意樹などを凌駕するものである。世尊もまた、「比丘たちよ、戒を持つ者の心にかけた願いは、その清らかさゆえに成就する」と説かれた。(増支部 8.35)さらに、「比丘たちよ、もし比丘が同梵行者たちに愛され、好かれ、尊敬され、崇拝されたいと願うなら、戒を完全に満たす者であるべきだ」などと説かれた。(中部 1.61)また、「アーナンダよ、善なる戒は後悔しないためである」と説かれ(増支部 10.1; 11.1)、「居士たちよ、戒を持つ者、戒具足の者には五つの利益がある」と説かれた(長部 2.150; 自説経 76; 大品 185)経典に従って、戒の功徳を省察すべきである。同様に、「燃え盛る火の塊の譬えの経典」(増支部 7.72)などに基づいて、戒を欠くことの欠点を省察すべきである。
Pītisomanassanimittato, attānuvādaparānuvādadaṇḍaduggatibhayābhāvato, viññūhi pāsaṃsabhāvato, avippaṭisārahetuto, sotthiṭṭhānato, abhijanasāpateyyādhipateyyāyurūpaṭṭhānabandhumittasampattīnaṃ atisayanato ca sīlaṃ paccavekkhitabbaṃ. Sīlavato hi attano sīlasampadāhetu mahantaṃ pītisomanassaṃ uppajjati ‘‘kataṃ vata mayā kusalaṃ, kataṃ kalyāṇaṃ, kataṃ bhīruttāṇa’’nti. Tathā sīlavato attā na upavadati, na pare viññū, daṇḍaduggatibhayānaṃ sambhavoyeva natthi, ‘‘sīlavā purisapuggalo kalyāṇadhammo’’ti viññūnaṃ pāsaṃso hoti. Tathā sīlavato yvāyaṃ ‘‘kataṃ vata mayā pāpaṃ, kataṃ luddaṃ, kataṃ kibbisa’’nti dussīlassa vippaṭisāro uppajjati, so na hoti. Sīlañca nāmetaṃ appamādādhiṭṭhānato, bhogabyasanādiparihāramukhena mahato atthassa sādhanato, maṅgalabhāvato ca paramaṃ sotthiṭṭhānaṃ, nihīnajaccopi sīlavā khattiyamahāsālādīnaṃ pūjanīyo hotīti kulasampattiṃ atiseti sīlasampadā, ‘‘taṃ kiṃ maññasi mahārāja, idha te assa puriso dāso kammakaro’’tiādi (dī. ni. 1.183) vacanañcettha sādhakaṃ. Corādīhi asādhāraṇato, paralokānugamanato, mahapphalabhāvato, samathādiguṇādhiṭṭhānato ca bāhiradhanaṃ atiseti sīlaṃ, paramassa cittissariyassa adhiṭṭhānabhāvato khattiyādīnaṃ issariyaṃ atiseti sīlaṃ. Sīlanimittañhi taṃtaṃsattanikāyesu sattānaṃ issariyaṃ vassasatadīghappamāṇato jīvitato ekāhampi sīlavato jīvitassa visiṭṭhatāvacanato, sati ca jīvite sikkhānikkhepassa maraṇatāvacanato sīlaṃ jīvitato visiṭṭhataraṃ. Verīnampi manuññabhāvāvahanato, jarārogavipattīhi anabhibhavanīyato ca rūpasampattiṃ atiseti sīlaṃ. Pāsādahammiyādiṭṭhānavisese, rājayuvarājasenāpatiādiṭṭhānavisese ca atiseti sīlaṃ sukhavisesādhiṭṭhānabhāvato. Sabhāvasiniddhe santikāvacarepi bandhujane mittajane ca atiseti ekantahitasampādanato, paralokānugamanato ca. ‘‘Na taṃ mātā pitā kayirā’’tiādi (dha. pa. 43) vacanañcettha sādhakaṃ. Tathā hatthiassarathādibhedehi, mantāgadasotthānappayogehi ca durārakkhaṃ attānaṃ ārakkhabhāvena sīlameva visiṭṭhataraṃ attādhīnato, aparādhīnato, mahāvisayato ca. Tenevāha ‘‘dhammo have rakkhati dhammacāri’’ntiādi (jā. 1.9.102). Evamanekaguṇasamannāgataṃ sīlanti paccavekkhantassa aparipuṇṇā ceva sīlasampadā pāripūriṃ gacchati aparisuddhā ca pārisuddhiṃ.
喜悦と心の安らぎの徴候であること、自分を責めることや他人から責められること、刑罰や悪趣の恐れがないこと、聡明な人々から賞賛されること、後悔の原因とならないこと、安穏のよりどころであること、そして家柄、財産、権力、寿命、容姿、地位、親族、友人といった様々な幸福を凌駕することによって、戒を省察すべきである。戒を持つ者には、自身の戒の成就ゆえに、「私は善いことをした、私は立派なことをした、私は恐れから逃れることができた」という大きな喜悦と心の安らぎが生じる。また、戒を持つ者は自分自身を非難することがなく、聡明な他人からも非難されることはない。刑罰や悪趣の恐れが生じることもない。聡明な人々からは「この戒を持つ人物は善き法を実践する者である」と賞賛される。また、戒を持つ者には、「私は悪いことをした、私は残忍なことをした、私は罪を犯した」と悪戒者が経験する後悔が生じない。そして、戒は不放逸の基礎であること、財産を失うなどの災難から免れることによって大きな利益を達成すること、吉祥であることによって最高の安穏のよりどころである。たとえ卑しい生まれであっても、戒を持つ者は王族や富裕層からも崇められるので、戒の成就は家柄の幸福を凌駕する。「大王よ、そのことについてどうお考えになりますか。ここにあなたの奴隷、使用人がいたとしましょう」など(長部 1.183)の言葉がこれを証明する。また、盗賊などから奪われることがないこと、来世に従うこと、大きな果報があること、止観などの功徳の基礎であることによって、戒は外的な財産を凌駕する。最高の精神的権能の基礎であることによって、戒は王族などの権力を凌駕する。戒を因として、それぞれの衆生の世界における衆生の権力は、百年の長きにわたる寿命よりも、戒を持つ者のたった一日の命の方が優れていると説かれている。また、命あるうちに修行を捨てることは死であると説かれているので、戒は命よりも優れている。敵対者をも喜ばせる存在となること、老病という災難によって侵されることがないことによって、戒は容姿の幸福を凌駕する。戒は、宮殿や高楼などの特別な住処、王や太子、将軍などの特別な地位を、特別な幸福のよりどころであることによって凌駕する。生まれつき親しい、身近な親族や友人をも、ひたすら利益をもたらすこと、来世に従うことによって凌駕する。「母も父もそれを行うことはない」(ダンマパダ 43)などの言葉がこれを証明する。また、象や馬、車などの種類、呪文や薬、護符の使用によって守ることが困難な自分自身を守るという点において、戒そのものが、自己に属し、他者に依存せず、広大な領域を持つがゆえに、はるかに優れている。それゆえに、「法は法を行ずる者を護る」などと説かれている(ジャータカ 1.9.102)。このように数多くの功徳に満ちた戒であると省察する者にとっては、未完成な戒の成就も完成に至り、不浄なものも清浄となる。
Sace panassa dīgharattaṃ paricayena sīlapaṭipakkhā dhammā dosādayo antarantarā uppajjeyyuṃ, tena bodhisattapaṭiññena evaṃ paṭisañcikkhitabbaṃ ‘‘nanu tayā sambodhāya paṇidhānaṃ kataṃ, sīlavikalena ca na sakkā lokiyāpi sampattiyo pāpuṇituṃ, pageva lokuttarā, sabbasampattīnaṃ pana aggabhūtāya sammāsambodhiyā adhiṭṭhānabhūtena sīlena paramukkaṃsagatena bhavitabbaṃ. Tasmā ‘kikīva aṇḍa’ntiādinā (visuddhi. 1.19; dī. ni. aṭṭha. 1.7) vuttanayena sammā sīlaṃ parirakkhantena suṭṭhu tayā pesalena bhavitabbaṃ. Api ca tayā dhammadesanāya yānattaye sattānaṃ avatāraṇaparipācanāni kātabbāni, sīlavikalassa ca vacanaṃ na paccetabbaṃ hoti asappāyāhāravicārassa viya vejjassa tikicchanaṃ, tasmā kathāhaṃ saddheyyo hutvā sattānaṃ avatāraṇaparipācanāni kareyya’’nti sabhāvaparisuddhasīlena bhavitabbaṃ. Kiñca ‘‘jhānādiguṇavisesayogena me sattānaṃ upakārakaraṇasamatthatā, paññāpāramīādiparipūraṇañca, jhānādayo ca guṇā sīlapārisuddhiṃ vinā na sambhavantī’’ti sammadeva sīlaṃ parisodhetabbaṃ.
しかし、もし彼に、長きにわたる習慣によって戒に敵対する法、すなわち怒りなどが時折生じるなら、その菩薩の誓いを立てた者は、次のように省察すべきである。『まさしくあなたは、悟りのために誓願を立てたではないか。戒を欠く者では、世間的な幸福すら得ることはできない。ましてや世間を超えた幸福などなおさらである。しかし、あらゆる幸福の最たるものである正等覚の悟りの基礎である戒は、最高の卓越性を持つべきである。だから、「鶏が卵を」など(清浄道論 1.19; 長部註 1.7)と説かれるように、戒を正しく守り、あなたはよく慈悲深くあるべきである。さらに、あなたは三乗によって衆生を法に導き、熟させるべきである。しかし、戒を欠く者の言葉は、不適当な食べ物を論じる医者の治療のように、信頼されない。だから、どうすれば私は信頼される者となって、衆生を法に導き、熟させることができるだろうか』と、生まれながらに清らかな戒を持つ者であるべきである。加えて、「禅定などの特別な功徳を得ることによって、私が衆生を助ける能力を得ること、そして智慧の波羅蜜などを完成させること。しかし、禅定などの功徳は、戒の完全な清浄なしには成立しない」と、戒を正しく清浄にすべきである。
Tathā ‘‘sambādho gharāvāso rajopatho’’tiādinā (dī. ni. 1.191; ma. ni. 1.291; saṃ. ni. 2.154; ma. ni. 2.10) gharāvāse ‘‘aṭṭhikaṅkalūpamā kāmā’’tiādinā (ma. ni. 1.234; pāci. 417; mahāni. 3, 6;), ‘‘mātāpi puttena vivadatī’’tiādinā (ma. ni. 1.168, 178) ca kāmesu ‘‘seyyathāpi puriso iṇaṃ ādāya kammante payojeyyā’’tiādinā (dī. ni. 1.218) kāmacchandādīsu ādīnavadassanapubbaṅgamā vuttavipariyāyena ‘‘abbhokāso pabbajjā’’tiādinā (dī. ni. 1.1.91; saṃ. ni. 1.154) pabbajjādīsu ānisaṃsapaṭisaṅkhāvasena nekkhammapāramiyaṃ paccavekkhaṇā veditabbā. Ayamettha saṅkhepattho, vitthāro pana dukkhakkhandha (ma. ni. 1.163) vīmaṃsasuttādi (ma. ni. 1.487) vasena dukkhakkhandhaāsivisopamasuttādivasena (cariyā. aṭṭha. pakiṇṇakakathāyaṃ) veditabbo.
また、「家住は煩わしく、塵の道である」など(長部 1.191; 中部 1.291; 相応部 2.154; 中部 2.10)と家住について、「諸欲は骨の塊のようである」など(中部 1.234; 波逸提 417; 大義釈 3, 6;)と諸欲について、「母でさえ子と争う」など(中部 1.168, 178)と諸欲について、そして「あたかも人が借金をして仕事に投資するように」など(長部 1.218)と欲欲などについて、その欠点を見出すことを前置きとし、逆に「出家は開かれた空地である」など(長部 1.1.91; 相応部 1.154)と出家などについて、その利益を省察することによって、出離の波羅蜜における省察を知るべきである。これがその簡潔な意味であり、詳細については「苦の集積」(中部 1.163)や「考究の経典」など(中部 1.487)に基づいて、「苦の集積」や「毒蛇の譬えの経典」など(行蔵註、雑説)に基づいて知るべきである。
Tathā ‘‘paññāya vinā dānādayo dhammā na visujjhanti, yathāsakaṃ byāpārasamatthā ca na hontī’’ti paññāguṇā manasi kātabbā. Yatheva hi jīvitena vinā sarīrayantaṃ na sobhati, na ca attano kiriyāsu paṭipattisamatthaṃ hoti, yathā ca cakkhādīni indriyāni viññāṇena vinā yathāsakaṃ visayesu kiccaṃ kātuṃ nappahonti, evaṃ saddhādīni indriyāni paññāya vinā sakiccapaṭipattiyaṃ asamatthānīti pariccāgādipaṭipattiyaṃ paññā padhānakāraṇaṃ. Ummīlitapaññācakkhukā hi mahāsattā attano aṅgapaccaṅgānipi datvā anattukkaṃsakā, aparavambhakā ca honti, bhesajjarukkhā viya vikapparahitā kālattayepi somanassajātā. Paññāvasena upāyakosallayogato pariccāgo parahitappavattiyā dānapāramibhāvaṃ upeti. Attatthañhi dānaṃ vuḍḍhisadisaṃ hoti.
また、「智慧なしには、布施などの法は清浄にならず、それぞれの役割を果たすことができない」と、智慧の功徳を心に留めるべきである。生命なしには身体という機械が輝きを失い、その本来の機能を発揮できないように、また眼などの諸根が識なしにはそれぞれの対象においてその働きをなすことができないように、信などの諸根も智慧なしにはそれぞれの機能を発揮することができない。だから、布施などの実践において智慧は主要な原因となる。智慧の眼を開いた菩薩たちは、たとえ自身の身体の一部や手足を与えたとしても、自らを高ぶらせることなく、他者を軽んじることもない。あたかも薬木のように、三世において分別なく喜悦に満ちている。智慧によって方便善巧を得ることで、他者の利益のために行われる布施は布施の波羅蜜となる。自己の利益のための布施は、増長に似たものとなる。
Tathā paññāya abhāvena taṇhādisaṃkilesāviyogato sīlassa visuddhiyeva na sambhavati, kuto sabbaññuguṇādhiṭṭhānabhāvo. Paññavā eva ca gharāvāse kāmaguṇesu saṃsāre ca ādīnavaṃ, pabbajjāya jhānasamāpattiyaṃ nibbāne ca ānisaṃsaṃ suṭṭhu sallakkhento pabbajitvā jhānasamāpattiyo nibbattetvā nibbānaninno, pare ca tattha patiṭṭhapetīti.
また、智慧がないために渇愛などの煩悩から離れることができないので、戒の清浄自体が不可能であり、いかにして一切知の徳の基盤となれるでしょうか。智慧ある者のみが、在家生活の愛欲、輪廻における危険を、出家、禅定の達成、涅槃における利益をよく見極めて、出家し、禅定の達成を生じさせ、涅槃に傾倒し、他者をもそこに確立させるのである。
Vīriyañca paññārahitaṃ yadicchitamatthaṃ na sādheti durārambhabhāvato. Varameva hi anārambho durārambhato, paññāsahitena pana vīriyena na kiñci duradhigamaṃ upāyapaṭipattito. Tathā paññavā eva parāpakārādiadhivāsakajātiyo hoti, na duppañño. Paññāvirahitassa ca parehi upanītā apakārā khantiyā paṭipakkhameva anubrūhenti, paññavato pana te khantisampattiyā paribrūhanavasena assā thirabhāvāya saṃvattanti. Paññavā eva tīṇi saccāni tesaṃ kāraṇāni paṭipakkhe ca yathābhūtaṃ jānitvā paresaṃ avisaṃvādako hoti. Tathā paññābalena attānaṃ upatthambhetvā dhitisampadāya sabbapāramīsu acalasamādānādhiṭṭhāno hoti, paññavā eva ca piyamajjhattaverīvibhāgaṃ akatvā sabbattha hitūpasaṃhārakusalo hoti. Tathā paññāvasena lābhādilokadhammasannipāte nibbikāratāya majjhatto hoti. Evaṃ sabbāsaṃ pāramīnaṃ paññāva pārisuddhihetūti paññāguṇā paccavekkhitabbā.
智慧を欠いた精進は、その試みが悪しき試みであるために、望む目的を達成しない。悪しき試みよりも、試みない方がむしろ良い。しかし、智慧を伴う精進によっては、巧みな実践があるため、何事も達成困難なものはない。また、智慧ある者のみが、他者からの危害などを耐え忍ぶ性格を持ち、愚者ではない。智慧のない者にとっては、他者から加えられた危害は、忍耐の対立を増長させるだけである。しかし智慧ある者にとっては、それらは忍耐の完成を増長する形で、忍耐の強固さへと導く。智慧ある者のみが、三つの真理とそれらの原因、そしてその反対をありのままに知って、他者に対して誤りがない。また、智慧の力によって自らを支え、堅固な決意をもって一切の波羅蜜において揺るぎない誓いを立てる者となり、また智慧ある者のみが、愛する者、中立の者、敵という区別をすることなく、どこにおいても利益をもたらすことに巧みである。また、智慧のゆえに、利得などの世間の法に遭遇しても、無動揺で中立である。このように、一切の波羅蜜にとって智慧こそが清浄の因であると、智慧の徳を省察すべきである。
Apica paññāya vinā na dassanasampatti, antarena ca diṭṭhisampadaṃ na sīlasampadā, sīladiṭṭhisampadārahitassa na samādhisampadā, asamāhitena ca na sakkā attahitamattampi sādhetuṃ, pageva ukkaṃsagataṃ parahitanti parahitāya paṭipannena ‘‘nanu tayā sakkaccaṃ paññāpārisuddhiyaṃ āyogo karaṇīyo’’ti bodhisattena attā ovaditabbo. Paññānubhāvena hi mahāsatto caturadhiṭṭhānādhiṭṭhito catūhi saṅgahavatthūhi (dī. ni. 3.210, 313; a. ni. 10.32) lokaṃ anuggaṇhanto satte niyyānikamagge avatāreti, indriyāni ca nesaṃ paripāceti. Tathā paññābalena khandhāyatanādīsu pavicayabahulo pavattinivattiyo yāthāvato parijānanto dānādayo guṇe visesanibbedhabhāgiyabhāvaṃ nayanto bodhisattasikkhāya paripūrakārī hotīti evamādinā anekākāravokāre paññāguṇe vavatthapetvā paññāpāramī anubrūhetabbā.
さらに、智慧がなければ見解の成就はなく、見解の成就がなければ戒の成就もない。戒と見解の成就がない者には禅定の成就もない。集中していない者には、自己の利益でさえも成就することはできない、ましてや最高の他者の利益は言うまでもない。ゆえに、他者の利益のために修行する菩薩は、自らを「まさしくあなたは智慧の清浄に真剣に取り組むべきではないか」と諭すべきである。まさに智慧の威徳によって、大いなる存在は四つの決意によって確立され、四つの摂事(ディーガニカーヤ3.210, 313; アングッタラニカーヤ10.32)によって世を助け、衆生を解脱の道へと導き入れ、彼らの諸根を成熟させる。また、智慧の力によって、蘊、処などにおいて洞察を多く行い、生起と止滅をありのままに知り、布施などの徳を殊勝な見分けと貫通の領域へと導き、菩薩の修行を完璧にする者となるのである。このように、多くの観点から智慧の徳を確立して、智慧波羅蜜を増長すべきである。
Tathā dissamānapārānipi lokiyāni kammāni nihīnavīriyena pāpuṇituṃ asakkuṇeyyāni, agaṇitakhedena pana āraddhavīriyena duradhigamaṃ nāma natthi. Nihīnavīriyo hi ‘‘saṃsāramahoghato sabbasatte santāressāmī’’ti ārabhitumeva na sakkuṇoti. Majjhimo ārabhitvā antarāvosānamāpajjati. Ukkaṭṭhavīriyo pana attasukhanirapekkho ārambhapāraṃ adhigacchatīti vīriyasampatti paccavekkhitabbā. Apica ‘‘yassa attanoyeva saṃsārapaṅkato samuddharaṇatthamārambho, tassāpi vīriyassa sithilabhāvena manorathānaṃ matthakappatti na sakkā sambhāvetuṃ, pageva sadevakassa lokassa samuddharaṇatthaṃ katābhinīhārenā’’ti ca ‘‘rāgādīnaṃ dosagaṇānaṃ mattamahāgajānaṃ viya dunnivārayabhāvato, tannidānānañca kammasamādānānaṃ ukkhittāsikavadhakasadisabhāvato, tannimittānañca duggatīnaṃ sabbadā vivaṭamukhabhāvato, tattha niyojakānañca pāpamittānaṃ sadā sannihitabhāvato, tadovādakāritāya ca bālassa puthujjanabhāvassa sati sambhave yuttaṃ sayameva saṃsāradukkhato nissaritu’’nti ca ‘‘micchāvitakkā vīriyānubhāvena dūrī bhavantī’’ti ca ‘‘yadi pana sambodhi attādhīnena vīriyena sakkā samadhigantuṃ, kimettha dukkara’’nti ca evamādinā nayena vīriyassa guṇāpaccavekkhitabbā.
また、現に目に見える世間的な事柄でさえも、劣った精進によっては達成不可能であり、しかし限りない苦労を厭わず精進を始めた者にとっては、達成困難なものはない。劣った精進の持ち主は、「輪廻の大河から一切の衆生を救済しよう」と始めることすらできない。中くらいの精進の持ち主は始めても途中で終わってしまう。しかし優れた精進の持ち主は、自己の安楽を顧みず、その試みの最終点に達する。このように精進の完成を省察すべきである。さらに、「輪廻の泥沼から自分自身を救い出すための試みでさえ、その精進が緩慢であれば、その願いが達成されるとは考えられない。ましてや、神々を含む世界全体を救い出すことを誓った者にとっては、なおさらである」と。「貪欲などの煩悩の群れが、酔った大象のように制御困難であるため、それらに起因する業の蓄積が、刀を振り上げた殺人者のようであるため、それらによって引き起こされる悪趣の門が常に開いているため、そこに誘い込む悪友が常に近くにいるため、そしてその教えに従う愚かな凡夫の性質が存在するならば、輪廻の苦しみから自ら脱することは当然である」と。「誤った思考は精進の力によって遠ざかる」と。「もし覚りが、自分に帰属する精進によって達成できるのであれば、何が困難であろうか」と。このように、精進の徳を省察すべきである。
Tathā ‘‘khanti nāmāyaṃ niravasesaguṇapaṭipakkhassa kodhassa vidhamanato guṇasampādane sādhūnamappaṭihatamāyudhaṃ, parābhibhavane samatthānaṃ alaṅkāro, samaṇabrāhmaṇānaṃ balasampadā, kodhaggivinayanī udakadhārā, kalyāṇassa kittisaddassa sañjātideso, pāpapuggalānaṃ vacīvisavūpasamakaro mantāgado, saṃvare ṭhitānaṃ paramā dhīrapakati, gambhīrāsayatāya sāgaro, dosamahāsāgarassa velā, apāyadvārassa pidhānakavāṭaṃ, devabrahmalokānaṃ ārohaṇasopānaṃ, sabbaguṇānaṃ adhivāsanabhūmi, uttamā kāyavacīmanovisuddhī’’ti manasi kātabbaṃ. Api ca ‘‘ete sattā khantisampattiyā abhāvato idha ceva tapanti, paraloke ca tapanīyadhammānuyogato’’ti ca ‘‘yadipi parāpakāranimittaṃ dukkhaṃ uppajjati, tassa pana dukkhassa khettabhūto attabhāvo, bījabhūtañca kammaṃ mayāva abhisaṅkhata’’nti ca ‘‘tassa dukkhassa āṇaṇyakāraṇameta’’nti ca ‘‘apakārake asati kathaṃ mayhaṃ khantisampadā sambhavatī’’ti ca ‘‘yadipāyaṃ etarahi apakārako, ayaṃ nāma pubbe anena mayhaṃ upakāro kato’’ti ca ‘‘apakāro eva vā khantinimittatāya upakāro’’ti ca ‘‘sabbepime sattā mayhaṃ puttasadisā, puttakatāparādhesu ca ko kujjhissatī’’ti ca ‘‘yena kodhabhūtāvesena ayaṃ mayhaṃ aparajjhati, so kodhabhūtāveso mayā vinetabbo’’ti ca ‘‘yena apakārena idaṃ mayhaṃ dukkhaṃ uppannaṃ, tassa ahampi nimitta’’nti ca ‘‘yehi dhammehi aparādho kato, yattha ca kato, sabbepi te tasmiṃyeva khaṇe niruddhā, kassidāni kena kodho kātabbo’’ti ca ‘‘anattatāya sabbadhammānaṃ ko kassa aparajjhatī’’ti ca paccavekkhantena khantisampadā brūhetabbā.
また、「忍耐とは、あらゆる徳の対立者である怒りを打ち砕くことによって徳を成就する、善なる者にとって無敵の武器である。他者を圧倒する力ある者にとっては飾りに、沙門・バラモンにとっては力の完成、怒りの炎を鎮める水の流れ、良い名声が生まれる場所、悪人たちの言葉の毒を鎮める呪文の薬、自制を守る者にとって最高の落ち着いた性質、深い心を持つ者にとっての海、煩悩の大海にとっての岸辺、悪趣の門を閉じる扉、天界や梵天界へ上る階段、あらゆる徳が宿る地、最高の身口意の清浄である」と心に留めるべきである。さらに、「これらの衆生は忍耐の完成がないために、この世で苦しみ、また来世でも苦しむべき法に随順するためである」と。「たとえ他者からの危害を原因とする苦が生じても、その苦しみの畑であるのはこの身であり、種である業は私自身によって形成されたものである」と。「それはその苦しみからの借金返済の原因である」と。「危害を加える者がいなければ、どうして私の忍耐の完成が生じ得るだろうか」と。「たとえ今この者が危害を加える者であっても、この者は以前、私に恩恵を与えたことがある」と。「あるいは危害自体が、忍耐の原因となることで恩恵となる」と。「これらすべての衆生は私の子供のようである。子供が過ちを犯したとしても、誰が怒るだろうか」と。「この者が私を傷つけるのは、怒りという悪霊に取り憑かれているからである。その怒りという悪霊は私によって調伏されるべきである」と。「この私に苦しみが生じた危害の原因は、私自身にもある」と。「過ちが犯されたその法も、犯されたその場所も、それらすべてはその瞬間に滅び去った。今、誰が誰に怒るべきだろうか」と。「一切の法が無我であるため、誰が誰に過ちを犯すというのか」と省察することによって、忍耐の完成を増長すべきである。
Yadi panassa dīgharattaṃ paricayena parāpakāranimittako kodho cittaṃ pariyādāya tiṭṭheyya, iti paṭisañcikkhitabbaṃ ‘‘khanti nāmesā parāpakārassa paṭipakkhapaṭipattīnaṃ paccupakārakāraṇa’’nti ca ‘‘apakāro ca mayhaṃ dukkhuppādanena dukkhupanisāya saddhāya, sabbaloke anabhiratisaññāya ca paccayo’’ti ca ‘‘indriyapakatiresā, yadidaṃ iṭṭhāniṭṭhavisayasamāyogo, tattha aniṭṭhavisayasamāyogo mayhaṃ na siyāti taṃ kutettha labbhā’’ti ca ‘‘kodhavasiko satto kodhena ummatto vikkhittacitto, tattha kiṃ paccapakārenā’’ti ca ‘‘sabbe pime sattā sammāsambuddhena orasaputtā viya paripālitā, tasmā na tattha mayā cittakopopi kātabbo’’ti ca ‘‘aparādhake ca sati guṇe guṇavati mayā na kopo kātabbo’’ti ca ‘‘asati guṇe visesena karuṇāyitabbo’’ti ca ‘‘kopena ca mayhaṃ guṇayasā nihīyantī’’ti ca ‘‘kujjhanena mayhaṃ dubbaṇṇadukkhaseyyādayo sapattakantā āgacchantī’’ti ca ‘‘kodho ca nāmāyaṃ sabbāhitakārako sabbahitavināsako balavā paccatthiko’’ti ca ‘‘sati ca khantiyā na koci paccatthiko’’ti ca ‘‘aparādhakena aparādhanimittaṃ yaṃ āyatiṃ laddhabbaṃ dukkhaṃ, sati ca khantiyā mayhaṃ tadabhāvo’’ti ca ‘‘cintanena kujjhantena ca mayā paccatthikoyeva anuvattito hotī’’ti ca ‘‘kodhe ca mayā khantiyā abhibhūte tassa dāsabhūto paccatthiko sammadeva abhibhūto hotī’’ti ca ‘‘kodhanimittaṃ khantiguṇapariccāgo mayhaṃ na yutto’’ti ca ‘‘sati ca kodhe guṇavirodhini (guṇavirodhapaccanīdhamme cariyā. aṭṭha. pakiṇṇakakathāyaṃ) kiṃ me sīlādidhammā pāripūriṃ gaccheyyuṃ, asati ca tesu kathāhaṃ sattānaṃ upakārabahulo paṭiññānurūpaṃ uttamaṃ sampattiṃ pāpuṇissāmī’’ti ca ‘‘khantiyā ca sati bahiddhā vikkhepābhāvato samāhitassa sabbe saṅkhārā aniccato dukkhato sabbe dhammā anattato nibbānañca asaṅkhatāmatasantapaṇītādibhāvato nijjhānaṃ khamanti ‘buddhadhammā ca acinteyyāparimeyyapabhāvā’ti’’, tato ca ‘‘anulomiyaṃ khantiyaṃ ṭhito ‘kevalā ime ca attattaniyabhāvarahitā dhammamattā yathāsakaṃ paccayehi uppajjanti vayanti, na kutoci āgacchanti, na kuhiñci gacchanti, na ca katthaci patiṭṭhitā, na cettha koci kassaci byāpāro’ti ahaṃkāramamaṃkārānadhiṭṭhānatā nijjhānaṃ khamati, yena bodhisatto bodhiyā niyato anāvattidhammo hotī’’ti evamādinā khantipāramiyaṃ paccavekkhaṇā veditabbā.
もし長期間の慣れ親しんだ結果として、他者への危害を原因とする怒りが心を支配し続けるならば、次のように省察すべきである。「忍耐とは、他者への危害の対立する行為に対する報恩の理由である」と。「また、危害は、私に苦を生じさせることで、苦を前提とする信仰や、全世界における不満の認識の原因となる」と。「これは諸根の性質であり、すなわち好ましい対象と好ましくない対象との結合である。そこに好ましくない対象との結合が私にないようにと、どうしてここで得られようか」と。「怒りに支配された衆生は、怒りによって狂い、心が乱れている。そこに何をもって報復するのか」と。「これらすべての衆生は、正等覚者によって実子のように養育されたものである。ゆえに、そこに対して私が心の怒りを抱くべきではない」と。「罪を犯した者が徳を持ち、徳ある者であるならば、私は怒るべきではない」と。「徳がないならば、特に憐れむべきである」と。「怒りによって私の徳と名声は失われる」と。「怒ることによって、不器量や苦痛の臥床などが、敵のように私にやってくる」と。「怒りとは、すべての不幸をもたらし、すべての利益を破壊する強力な敵である」と。「忍耐があれば、敵はいない」と。「罪を犯した者が、その罪のために未来に受けるであろう苦しみについて、忍耐があれば、私にはその苦しみがない」と。「怒りを抱き、考え込むことによって、私は敵に従っていることになる」と。「私によって怒りが忍耐によって打ち負かされたとき、その怒りの奴隷である敵は完全に打ち負かされる」と。「怒りを理由に忍耐の徳を捨てることは、私には適切ではない」と。「徳と敵対する怒り(註:徳に敵対する法における行ない)があるとき、どうして私の戒などの法が成就するだろうか。それらがなければ、どうして私は衆生に多くの利益をもたらし、誓願通りの最高の成就を達成できるだろうか」と。「忍耐があれば、外部からの散乱がないため、心が集中した者には、すべての形成されたものは無常であり、苦であり、すべての現象は無我であると、また涅槃は無為にして不死、安穏にして優れたものなどの性質を持つと、観察するに値する(『仏法は測り知れない、計り知れない力を持つ』と)。そしてまた、「これらすべては、我と我がものという性質を欠いた、ただの現象の集まりであり、それぞれの縁によって生じ、滅する。どこから来るのでもなく、どこへ行くのでもなく、どこにも確立されておらず、ここに誰も何かの行為をする者はいない」と、順応する忍耐に立って、我執と我所の執着がない状態で観察するに値する。これによって菩薩は覚りにおいて確定され、不退転の法を持つ者となるのである。」このように、忍耐波羅蜜における省察を知るべきである。
Tathā ‘‘saccena vinā sīlādīnaṃ asambhavato, paṭiññānurūpaṃ paṭipattiyā abhāvato ca saccadhammātikkame ca sabbapāpadhammānaṃ samosaraṇato, asaccasandhassa appaccayikabhāvato, āyatiñca anādeyyavacanatāvahanato, sampannasaccassa ca sabbaguṇādhiṭṭhānabhāvato, saccādhiṭṭhānena sabbabodhisambhārānaṃ pārisuddhipāripūrisamanvāyato, sabhāvadhammāvisaṃvādanena sabbabodhisambhārakiccakaraṇato, bodhisattapaṭipattiyā ca parinipphattito’’tiādinā saccapāramiyā sampattiyo paccavekkhitabbā.
また、「真実がなければ戒などの成就は不可能であるため、誓願通りの実践がないため、真実の法を犯すことによってすべての悪しき法が集まるため、不真実な約束をする者は信頼されないため、また未来において信頼されない言葉となるため、真実を成就した者はすべての徳の基盤であるため、真実を確固たるものとすることによってすべての菩薩の資糧が清浄になり、完全に成就するため、本性たる法と食い違いがないことによって、すべての菩薩の資糧の機能が果たされるため、そして菩薩の実践が完全に成就するためである」と。このように、真実波羅蜜の成就を省察すべきである。
Tathā ‘‘dānādīsu daḷhasamādānaṃ, tampaṭipakkhasannipāte ca nesaṃ acalāvatthānaṃ, tattha ca thirabhāvaṃ vinā na dānādisambhārā sambodhinimittā sambhavantī’’tiādinā adhiṭṭhāne guṇā paccavekkhitabbā.
また、「布施などにおいて堅固な受持があり、その対立するものが現れても、それらが揺るぎなく存在し、そしてそこに不動の安定がなければ、布施などの資糧は覚りの原因として生じ得ない」と。このように、決意の徳を省察すべきである。
Tathā ‘‘attahitamatte avatiṭṭhantenāpi sattesu hitacittataṃ vinā na sakkā idhalokaparalokasampattiyo pāpuṇituṃ, pageva sabbasatte nibbānasampattiyaṃ patiṭṭhāpetukāmenā’’ti ca ‘‘pacchā sabbasattānaṃ lokuttarasampattiṃ ākaṅkhantena idāni lokiyasampattiṃ ākaṅkhā yuttarūpā’’ti ca ‘‘idāni āsayamattena paresaṃ hitasukhūpasaṃhāraṃ kātuṃ asakkonto kadā payogena taṃ sādhessāmī’’ti ca ‘‘idāni mayā hitasukhūpasaṃhārena saṃvaddhitā pacchā dhammasaṃvibhāgasahāyā mayhaṃ bhavissantī’’ti ca ‘‘etehi vinā na mayhaṃ bodhisambhārā sambhavanti, tasmā sabbabuddhaguṇavibhūtinipphattikāraṇattā mayhaṃ ete paramaṃ puññakkhettaṃ anuttaraṃ kusalāyatanaṃ uttamaṃ gāravaṭṭhāna’’nti ca ‘‘savisesaṃ sattesu sabbesu hitajjhāsayatā paccupaṭṭhapetabbā, kiñca karuṇādhiṭṭhānatopi sabbasattesu mettā anubrūhetabbā. Vimariyādīkatena hi cetasā sattesu hitasukhūpasaṃhāraniratassa tesaṃ ahitadukkhāpanayanakāmatā balavatī uppajjati daḷhamūlā, karuṇā ca sabbesaṃ buddhakārakadhammānamādi caraṇaṃ patiṭṭhā mūlaṃ mukhaṃ pamukha’’nti evamādinā mettāya guṇā paccavekkhitabbā.
また、「自己の利益のみに留まる者でさえ、衆生に対する利益の心を欠いては、この世と来世の繁栄を達成することはできない。ましてや、一切の衆生を涅槃の繁栄に確立させようと願う者にとっては、言うまでもない」と。「後になって一切の衆生に世間を超えた繁栄を願う者にとって、今、世間的な繁栄を願うことは適切である」と。「今、意図のみで他者に利益と安楽をもたらすことができない者が、いつ実践によってそれを成就できるだろうか」と。「今、私によって利益と安楽をもたらすことで成長させられた者は、後になって私の法を分かち合う仲間となるだろう」と。「これらがなければ、私の菩薩の資糧は成就しない。ゆえに、一切の仏陀の徳の顕現の成就の原因であるため、これらは私にとって最高の功徳の場、無上の善行の基礎、最高の尊敬の対象である」と。「特に、一切の衆生に対する利益の意図を現前させるべきである。さらに、慈悲の決意によって、一切の衆生に対する慈しみを増長すべきである。なぜなら、限りなく広がる心によって衆生に利益と安楽をもたらすことに専念する者には、彼らの不幸や苦しみを取り除くという強い願いが確固として生じるからである。そして慈悲は、一切の仏陀を生み出す法の中で最初の行い、基礎、根源、門、最高の門である」と。このように、慈しみの徳を省察すべきである。
Tathā ‘‘upekkhāya abhāve sattehi katā vippakārā cittassa vikāraṃ uppādeyyuṃ, sati ca cittavikāre dānādisambhārānaṃ sambhavoyeva natthī’’ti ca ‘‘mettāsinehena sinehite citte upekkhāya vinā sambhārānaṃ pārisuddhi na hotī’’ti ca ‘‘anupekkhako sambhāresu puññasambhāraṃ tabbipākañca sattahitatthaṃ pariṇāmetuṃ na sakkotī’’ti ca ‘‘upekkhāya abhāve deyyapaṭiggāhakesu vibhāgaṃ akatvā pariccajituṃ na sakkotī’’ti ca ‘‘upekkhārahitena jīvitaparikkhārānaṃ jīvitassa ca antarāyaṃ amanasikaritvā saṃvaravisodhanaṃ kātuṃ na sakkā’’ti ca ‘‘upekkhāvasena aratiratisahasseva nekkhammabalasiddhito, upapattito ikkhanavaseneva sabbasambhārakiccanipphattito, accāraddhassa vīriyassa anupekkhane padhānakiccākaraṇato, upekkhatoyeva titikkhānijjhānasambhavato, upekkhāvasena sattasaṅkhārānaṃ avisaṃvādanato, lokadhammānaṃ ajjhupekkhanena samādinnadhammesu acalādhiṭṭhānasiddhito, parāpakārādīsu anābhogavaseneva mettāvihāranipphattitoti sabbabodhisambhārānaṃ samādānādhiṭṭhānapāripūrinipphattiyo upekkhānubhāvena sampajjantī’’ti evaṃ ādinā nayena upekkhāpāramī paccavekkhitabbā. Evaṃ apariccāgapariccāgādīsu yathākkamaṃ ādīnavānisaṃsapaccavekkhaṇā dānādipāramīnaṃ paccayoti veditabbā.
同様に、「平等心がない場合、衆生によってなされた悪行は心の変調を引き起こすことがあり、そして心の変調がある場合には布施などの資糧が生じることはない」と。「慈愛の念で潤された心にあっても、平等心がなければ資糧は清らかにならない」と。「平等心なくしては、資糧における福徳の資糧とその異熟を衆生の利益のために転向させることはできない」と。「平等心なくしては、施与する者と受ける者とに区別を設けずに捨てることはできない」と。「平等心を欠く者は、生命の資具や生命に対する障害を顧みずに、制戒を清浄にすることはできない」と。「平等心によってこそ、不満と喜びを共に超えて出離の力が成就し、生起を観察するがゆえに全ての資糧の行が完成し、過度に熱心な精進を平等心なくしては主要な行を行うことはできず、平等心からこそ忍耐と静慮が生じ、平等心によって衆生の諸行に矛盾が生じず、世間の法を平等に見ることによって受持した法において不動の決意が成就し、他者の悪行などにおいて関心を持たないことによって慈悲の住処が完成するのである。このようにして、全ての菩提の資糧の受持と決意の円満な完成は平等心の力によって成就する」と。このように、以上の理由によって平等波羅蜜は省察されるべきである。また、捨てることと捨てないことなどにおいて、順次に過失と功徳を省察することが、布施などの波羅蜜の因であると知るべきである。
Tathā saparikkhārā pañcadasa caraṇadhammā pañca ca abhiññāyo. Tattha caraṇadhammā nāma sīlasaṃvaro, indriyesu guttadvāratā, bhojane mattaññutā, jāgariyānuyogo, satta saddhammā, cattāri jhānāni ca. Tesu sīlādīnaṃ catunnaṃ terasapi dhutadhammā, appicchatādayo ca parikkhāro. Saddhammesu saddhāya buddhadhammasaṅghasīlacāgadevatūpasamānussati- lūkhapuggalaparivajjanasiniddhapuggalasevanapasādanīya- dhammapaccavekkhaṇatadadhimuttatā parikkhāro, hirottappānaṃ akusalādīnavapaccavekkhaṇaapāyādīnavapaccavekkhaṇakusaladhammupatthambhana- bhāvapaccavekkhaṇahirottappa rahitapuggalaparivajjanahirottappasampannapuggalasevanatadadhimuttatā, bāhusaccassa pubbayogaparipucchakabhāvasaddhammābhiyogaanavajjavijjāṭṭhānādi- paricayaparipakkindriyatākilesadūrībhāvaappassutaparivajjanabahussutasevanatadadhimuttatā, vīriyassa apāyabhayapaccavekkhaṇagamanavīthipaccavekkhaṇadhammamahattapaccavekkhaṇa- thinamiddhavinodanakusītapuggalaparivajjanaāraddhavīriyapuggala- sevanasammappadhānapaccavekkhaṇatadadhimuttatā, satiyā satisampajaññamuṭṭhassatipuggalaparivajjanaupaṭṭhitassatipuggalasevanatadadhimuttatā, paññāya paripucchakabhāvavatthuvisadakiriyāindriyasamattapaṭipādanaduppañña- puggalaparivajjanapaññavantapuggalasevanagambhīrañāṇacariyapacca- vekkhaṇatadadhimuttatā, catunnaṃ jhānānaṃ sīlādicatukkaṃ aṭṭhatiṃsāya ārammaṇesu pubbabhāgabhāvanā, āvajjanādivasībhāvakaraṇañca parikkhāro. Tattha sīlādīhi payogasuddhiyā sattānaṃ abhayadāne, āsayasuddhiyā āmisadāne, ubhayasuddhiyā ca dhammadāne samattho hotītiādinā caraṇādīnaṃ dānādisambhārānaṃ paccayabhāvo yathārahaṃ niddhāretabbo, ativitthārabhayena na niddhārayimha. Evaṃ sampatticakkādayopi dānādīnaṃ paccayoti veditabbā.
同様に、十五の行法と五つの神通には付属具がある。ここで行法とは、戒律の護持、諸根における門の防護、食事における適量、目覚めの努力、七つの聖なる法、そして四つの禅定である。これらの中で、戒律など四つ(戒律の護持、諸根における門の防護、食事における適量、目覚めの努力)の十三の頭陀行と、少欲などが付属具である。聖なる法において、信には、仏・法・僧・戒・施・天・寂静を憶念すること、荒い人々を避け、親しい人々に仕え、喜ばしい法を省察し、それらに傾倒すること、これが付属具である。慚と愧には、不善の過失の省察、悪趣の過失の省察、善法を支える状態の省察、慚愧のない人々を避け、慚愧に満ちた人々に仕え、それらに傾倒すること。多聞には、過去世の行いへの問いかけの態度、聖なる法への専念、非難されない学問などへの精通、熟した諸根、煩悩からの遠離、聞くことが少ない人々を避け、多聞な人々に仕え、それらに傾倒すること。精進には、悪趣の恐れの省察、道のりの省察、法の偉大さの省察、怠惰と昏沈の除去、怠惰な人々を避け、精進を始めた人々に仕え、正精進の省察、それらに傾倒すること。念には、念と正知、忘れっぽい人々を避け、念が確立した人々に仕え、それらに傾倒すること。智慧には、問いかけの態度、事物の明晰な認識、諸根の平衡の確立、愚かな人々を避け、智慧ある人々に仕え、深い智慧の行の省察、それらに傾倒すること。四つの禅定には、戒律など四つ(戒律、諸根の防護、食事の適量、目覚めの努力)の三八の対象における前行の修習、そして想念などへの自由自在さの達成が付属具である。そこに、戒律などによって努力が清らかになり、衆生に無畏を施し、意図が清らかになり、物質的布施を施し、両方が清らかになり、法施を施すことができるという具合に、行法などが布施などの資糧の因であることは適切に確定されるべきだが、詳述を避けるためここでは確定しない。このように、成就の輪なども布施などの因であると知るべきである。
Ko saṃkilesoti avisesena taṇhādīhi parāmaṭṭhabhāvo pāramīnaṃ saṃkileso, visesena deyyapaṭiggāhakavikappā dānapāramiyā saṃkileso, sattakālavikappā sīlapāramiyā, kāmabhavatadupasamesu abhiratianabhirativikappā nekkhammapāramiyā, ‘‘ahaṃ mamā’’ti vikappā paññāpāramiyā, līnuddhaccavikappā vīriyapāramiyā, attaparavikappā khantipāramiyā, adiṭṭhādīsu diṭṭhādivikappā saccapāramiyā, bodhisambhāratabbipakkhesu dosaguṇavikappā adhiṭṭhānapāramiyā, hitāhitavikappā mettāpāramiyā, iṭṭhāniṭṭhavikappā upekkhāpāramiyā saṃkilesoti veditabbo.
汚染とは何か。それは、一般的に、渇愛などによって汚されている状態が波羅蜜の汚染であると理解される。特に、施与者と受領者に関する分別が布施波羅蜜の汚染であり、衆生や時間に関する分別が戒波羅蜜の汚染であり、欲界や存在、それらの寂静に対する愛着と嫌悪の分別が出離波羅蜜の汚染であり、「我、我がもの」という分別が智慧波羅蜜の汚染であり、沈滞と高揚の分別が精進波羅蜜の汚染であり、自己と他者に関する分別が忍耐波羅蜜の汚染であり、見ざるものなどに見たり見ざる分別が真実波羅蜜の汚染であり、菩提の資糧とその障害において過失と功徳の分別が決意波羅蜜の汚染であり、利益と不利益の分別が慈悲波羅蜜の汚染であり、好ましいものと好ましくないものに関する分別が平等波羅蜜の汚染であると知るべきである。
Kiṃ vodānanti taṇhādīhi anupaghāto, yathāvuttavikappaviraho ca etāsaṃ vodānanti veditabbaṃ. Anupahatā hi taṇhāmānadiṭṭhikodhūpanāhamakkhapalāsaissāmacchariyamāyāsāṭheyyathambhasārambha- madapamādādīhi kilesehi deyyapaṭiggāhakavikappādirahitā ca dānādipāramiyo parisuddhā pabhassarā bhavantīti.
浄化とは何か。それは渇愛などによって害されないこと、そして前述の分別がないことが、これらの波羅蜜の浄化であると知るべきである。実際、渇愛、慢、見、怒り、高ぶり、慢心、怠慢、嫉妬、慳、欺瞞、ごまかし、頑固、争い、慢、放逸などの煩悩によって害されず、施与者と受領者の分別などがない布施などの波羅蜜は、清らかで輝かしいものとなるのである。
Ko paṭipakkhoti avisesena sabbepi kilesā sabbepi akusalā dhammā etāsaṃ paṭipakkho, visesena pana pubbe vuttā maccherādayoti veditabbā. Apica deyyapaṭiggāhakadānaphalesu alobhādosāmohaguṇayogato lobhadosamohapaṭipakkhaṃ dānaṃ, kāyādidosavaṅkāpagamanato lobhādipaṭipakkhaṃ sīlaṃ, kāmasukhaparūpaghātaattakilamathaparivajjanato dosattayapaṭipakkhaṃ nekkhammaṃ, lobhādīnaṃ andhīkaraṇato, ñāṇassa ca anandhīkaraṇato lobhādipaṭipakkhā paññā, alīnānuddhatañāyārambhavasena lobhādipaṭipakkhaṃ vīriyaṃ, iṭṭhāniṭṭhasuññatānaṃ khamanato lobhādipaṭipakkhā khanti, satipi paresaṃ upakāre apakāre ca yathābhūtappavattiyā lobhādipaṭipakkhaṃ saccaṃ, lokadhamme abhibhuyya yathāsamādinnesu sambhāresu acalanato lobhādipaṭipakkhaṃ adhiṭṭhānaṃ, nīvaraṇavivekato lobhādipaṭipakkhā mettā, iṭṭhāniṭṭhesu anunayapaṭighaviddhaṃsanato, samappavattito ca lobhādipaṭipakkhā upekkhāti daṭṭhabbaṃ.
敵対者とは何か。それは、一般的に、全ての煩悩と全ての不善の法がこれらの波羅蜜の敵対者であり、特に以前述べた慳などであると知るべきである。さらに、施与者、受領者、布施の果報において無貪、無瞋、無痴の徳を具えることによって、貪・瞋・痴に敵対するものが布施である。身体などの過失の歪みを避けることによって、貪などに敵対するものが戒である。欲楽の享受と自己苦行の回避によって、三つの悪(貪・瞋・痴)に敵対するものが離欲である。貪などを盲目にする一方で、智慧を盲目にしないことによって、貪などに敵対するものが智慧である。沈滞も高揚もない正しい努力の開始によって、貪などに敵対するものが精進である。好ましいものも好ましくないものも虚しいものも忍耐することによって、貪などに敵対するものが忍耐である。他者の利益や不利益に対しても、あるがままに振る舞うことによって、貪などに敵対するものが真実である。世間の法に打ち勝ち、受持した資糧において動揺しないことによって、貪などに敵対するものが決意である。蓋からの離脱によって、貪などに敵対するものが慈悲である。好ましいものと好ましくないものに対する傾倒と反発の破壊によって、そして平等な振る舞いによって、貪などに敵対するものが平等であると見なされるべきである。
Kā paṭipattīti sukhūpakaraṇasarīrajīvitapariccāgena bhayāpanūdanena dhammopadesena ca bahudhā sattānaṃ anuggahakaraṇaṃ dāne paṭipatti. Tatthāyaṃ vitthāranayo – ‘‘imināhaṃ dānena sattānaṃ āyuvaṇṇasukhabalapaṭibhānādisampattiṃ ramaṇīyaṃ aggaphalasampattiṃ nipphādeyya’’nti annadānaṃ deti, tathā sattānaṃ kammakilesapipāsavūpasamāya pānaṃ deti, tathā suvaṇṇavaṇṇatāya, hirottappālaṅkārassa ca nipphattiyā vatthāni deti, tathā iddhividhassa ceva nibbānasukhassa ca nipphattiyā yānaṃ deti, tathā sīlagandhanipphattiyā gandhaṃ, buddhaguṇasobhānipphattiyā mālāvilepanaṃ, bodhimaṇḍāsananipphattiyā āsanaṃ, tathāgataseyyānipphattiyā seyyaṃ, saraṇabhāvanipphattiyā āvasathaṃ, pañcacakkhupaṭilābhāya padīpeyyaṃ deti. Byāmappabhānipphattiyā rūpadānaṃ, brahmassaranipphattiyā saddadānaṃ, sabbalokassa piyabhāvāya rasadānaṃ, buddhasukhumālabhāvāya phoṭṭhabbadānaṃ, ajarāmaraṇabhāvāya bhesajjadānaṃ, kilesadāsabyavimocanatthaṃ dāsānaṃ bhujissatādānaṃ, saddhammābhiratiyā anavajjakhiḍḍāratihetudānaṃ, sabbepi satte ariyāya jātiyā attano puttabhāvūpanayanāya puttadānaṃ, sakalassa lokassa patibhāvūpagamanāya dāradānaṃ, subhalakkhaṇasampattiyā suvaṇṇamaṇimuttāpavāḷādidānaṃ, anubyañjanasampattiyā nānāvidhavibhūsanadānaṃ, saddhammakosādhigamāya vittakosadānaṃ, dhammarājabhāvāya rajjadānaṃ, jhānādisampattiyā ārāmuyyānādivanadānaṃ, cakkaṅkitehi pādehi bodhimaṇḍūpasaṅkamanāya caraṇadānaṃ, caturoghanittharaṇāya sattānaṃ saddhammahatthadānatthaṃ hatthadānaṃ, saddhindriyādipaṭilābhāya kaṇṇanāsādidānaṃ, samantacakkhupaṭilābhāya cakkhudānaṃ, ‘‘dassanasavanānussaraṇapāricariyādīsu sabbakālaṃ sabbasattānaṃ hitasukhāvaho, sabbalokena ca upajīvitabbo me kāyo bhaveyyā’’ti maṃsalohitādidānaṃ, ‘‘sabbalokuttamo bhaveyya’’nti uttamaṅgadānaṃ deti.
実践とは何か。それは、快適な道具、身体、生命の布施、恐怖の除去、そして法説によって、様々な方法で衆生を助けることが布施における実践である。その詳細な方法は次の通りである。「この布施によって、私は衆生の寿命、容姿、安楽、力、弁才などの成就、喜ばしい最上の果報の成就を達成しよう」と念じて、食物を施す。同様に、衆生の業の煩悩による渇きを鎮めるために飲み物を施す。同様に、金色の容姿と慚愧の荘厳の成就のために衣類を施す。同様に、神通と涅槃の安楽の成就のために乗り物を施す。同様に、戒の香りの成就のために香を施し、仏の徳の美しさの成就のために花輪と塗油を施し、菩提樹下の座の成就のために座具を施し、如来の臥具の成就のために臥具を施し、帰依処の成就のために住居を施し、五眼を得るために灯火を施す。一尋の光明の成就のために色を施し、梵声の成就のために声(音)を施し、全世界の愛される存在となるために味を施し、仏の繊細な状態のために触覚を施し、老いと死のない状態のために薬を施し、煩悩の奴隷状態からの解放のために、奴隷に自由を与える。正法への愛着のために、非難されない遊びと喜びの因を施し、全ての衆生を聖なる生まれによって自分の子供とするために、子を施し、全世界にとって対等な存在となるために、妻を施し、優れた相の成就のために、金、宝石、真珠、珊瑚などを施し、随形好の成就のために、様々な装飾品を施し、正法の財庫を得るために、財産の蓄えを施し、法王となるために、王国を施し、禅定などの成就のために、精舎、庭園などの林を施し、車輪の相ある足で菩提樹下に行くために、足を施し、四暴流を渡り、衆生に正法の助けを与えるために、手を施し、信根などを得るために、耳、鼻などを施し、遍智眼を得るために、眼を施す。「私の身体は、見ること、聞くこと、憶念すること、奉仕することなどにおいて、常に全ての衆生に利益と幸福をもたらし、全世界に依りどころとなるであろう」と念じて、肉や血などを施す。「全世界で最上となるであろう」と念じて、頭部を施す。
Evaṃ dadanto ca na anesanāya deti, na paropaghātena, na bhayena, na lajjāya, na dakkhiṇeyyarosanena, na paṇīte sati lūkhaṃ, na attukkaṃsanena, na paravambhanena, na phalābhikaṅkhāya, na yācakajigucchāya, na acittīkārena deti, atha kho sakkaccaṃ deti, sahatthena deti, kālena deti, cittiṃ katvā deti, avibhāgena deti, tīsu kālesu somanassito deti. Tatoyeva datvā na pacchānutāpī hoti, na paṭiggāhakavasena mānāvamānaṃ karoti, paṭiggāhakānaṃ piyasamudācāro hoti vadaññū yācayogo saparivāradāyī. Tañca dānasampattiṃ sakalalokahitasukhāya pariṇāmeti, attano ca akuppāya vimuttiyā, aparikkhayassa chandassa, aparikkhayassa vīriyassa, aparikkhayassa samādhānassa, aparikkhayassa ñāṇassa, aparikkhayāya sammāsambodhiyā pariṇāmeti. Imañca dānapāramiṃ paṭipajjantena mahāsattena jīvite, bhogesu ca aniccasaññā paccupaṭṭhapetabbā, sattesu ca mahākaruṇā. Evañhi bhoge gahetabbasāraṃ gaṇhanto ādittasmā viya agārasmā sabbaṃ sāpateyyaṃ, attānañca bahi nīharanto na kiñci seseti, niravasesato nissajjatiyeva. Ayaṃ tāva dānapāramiyā paṭipattikkamo.
このように布施する者は、不浄な方法で与えず、他者を害することなく、恐れからでもなく、恥じらいからでもなく、施主の怒りからでもなく、上質なものがあるのに粗悪なものを与えず、自己を称賛せず、他者を卑下せず、果報を期待せず、施者を嫌悪せず、無関心に与えることはない。むしろ、丁寧に与え、自らの手で与え、時宜を得て与え、心を込めて与え、区別なく与え、三つの時(与える前、与える時、与えた後)において喜びをもって与える。そのように与えた後、後悔せず、受領者によって尊敬したり軽蔑したりせず、受領者に対して愛しい態度で接し、穏やかに語りかけ、求めに応じ、必要なものを与える。そしてその布施の成就を全世界の利益と幸福のために回向し、また自らの揺るぎない解脱、尽きることのない欲求、尽きることのない精進、尽きることのない定、尽きることのない智慧、尽きることのない正等覚のために回向する。この布施波羅蜜を実践する大菩薩は、生命や財産において無常の認識を確立し、衆生に対して大いなる慈悲を抱くべきである。このようにして、財産において取るべき本質を取り、あたかも燃え盛る家から全ての財産と自分自身を運び出すように、何も残さず、完全に放棄するのである。これが布施波羅蜜の実践の順序である。
Sīlapāramiyā pana yasmā sabbaññusīlālaṅkārehi satte alaṅkaritukāmena attanoyeva tāva sīlaṃ visodhetabbaṃ, tasmā sattesu tathā dayāpannacittena bhavitabbaṃ, yathā supinantenapi na āghāto uppajjeyya. Parūpakāraniratatāya parasantako alagaddo viya na parāmasitabbo. Abrahmacariyatopi ārācārī, sattavidhamethuna saṃyogavirato, pageva paradāragamanato. Saccaṃ hitaṃ piyaṃ parimitameva ca kālena dhammiṃ kathaṃ bhāsitā hoti, anabhijjhālu abyāpanno aviparītadassano sammāsambuddhe niviṭṭhasaddho niviṭṭhapemo. Iti caturāpāyavaṭṭadukkhapathehi akusalakammapathehi, akusaladhammehi ca oramitvā saggamokkhapathesu kusalakammapathesu patiṭṭhitassa suddhāsayapayogatāya yathābhipatthitā sattānaṃ hitasukhūpasañhitā manorathā sīghaṃ abhinipphajjanti.
さて、戒波羅蜜に関しては、一切智者の戒という荘厳によって衆生を飾ろうと欲する者は、まず自分自身の戒を清めるべきである。それゆえ、衆生に対して、夢の中であっても悪意が生じないほど慈悲の心を持つべきである。他者を助けることに専念し、他人の財産を、毒蛇のように触れてはならない。不淫行においても、遠ざかって行動し、七種の性行為から離れ、ましてや他人の妻を侵すことなどしない。真実であり、利益があり、好ましく、限定された、時宜にかなった法談を語り、貪欲でなく、悪意がなく、誤った見方を持たず、正等覚者に対して揺るぎない信と愛着を抱く。このようにして、四悪趣の輪廻の苦の道、不善の業の道、不善の法から離れ、天界や解脱の道、善業の道に確立した者の清らかな意図と努力によって、衆生の利益と幸福に資する望みは速やかに成就するのである。
Tattha hiṃsānivattiyā sabbasattānaṃ abhayadānaṃ deti, appakasireneva mettābhāvanaṃ sampādeti, ekādasa mettānisaṃse adhigacchati, appābādho hoti appātaṅko dīghāyuko sukhabahulo, lakkhaṇavisese pāpuṇāti, dosavāsanañca samucchindati. Tathā adinnādānanivattiyā corādiasādhāraṇe uḷāre bhoge adhigacchati, anāsaṅkanīyo piyo manāpo vissasanīyo, vibhavasampattīsu alaggacitto pariccāgasīlo, lobhavāsanañca samucchindati. Abrahmacariyanivattiyā alobho hoti santakāyacitto, sattānaṃ piyo hoti manāpo aparisaṅkanīyo, kalyāṇo cassa kittisaddo abbhuggacchati, alaggacitto hoti mātugāmesu aluddhāsayo, nekkhammabahulo, lakkhaṇavisese adhigacchati, lobhavāsanañca samucchindati.
そこにおいて、殺生を止めることによって、全ての衆生に無畏を施し、容易に慈悲の修習を成就し、十一の慈悲の功徳を得る。病気が少なく、苦悩が少なく、長寿で、多くの安楽を得て、特別な特徴に至り、瞋恚の習気を根絶する。同様に、不与取を止めることによって、盗人などに共有されない広大な財産を得る。疑われることなく、愛され、好ましく、信頼され、繁栄の成就に執着せず、布施の習慣を持ち、貪欲の習気を根絶する。不淫行を止めることによって、貪欲でなくなり、心が穏やかになり、衆生に愛され、好ましく、疑われることがなくなり、その良い評判が高まる。女性に執着せず、欲望の心がなくなり、出離が多くなり、特別な特徴に至り、貪欲の習気を根絶する。
Musāvādanivattiyā sattānaṃ pamāṇabhūto hoti paccayiko theto ādeyyavacano devatānaṃ piyo manāpo surabhigandhamukho ārakkhiyakāyavacīsamācāro, lakkhaṇavisese ca adhigacchati, kilesavāsanañca samucchindati. Pesuññanivattiyā parūpakkamehi abhejjakāyo hoti abhejjaparivāro, saddhamme ca abhijjanakasaddho, daḷhamitto bhavantaraparicitānampi sattānaṃ ekantapiyo, asaṃkilesabahulo. Pharusavācānivattiyā sattānaṃ piyo hoti manāpo sukhasīlo madhuravacano sambhāvanīyo, aṭṭhaṅgasamannāgato cassa saro (ma. ni. 2.387) nibbattati. Samphappalāpanivattiyā ca sattānaṃ piyo hoti manāpo garubhāvanīyo ca ādeyyavacano ca parimitālāpo, mahesakkho ca hoti mahānubhāvo, ṭhānuppattikena paṭibhānena pañhānaṃ byākaraṇakusalo, buddhabhūmiyañca ekāya eva vācāya anekabhāsānaṃ sattānaṃ anekesaṃ pañhānaṃ byākaraṇasamattho hoti.
虚偽の言葉を慎むことによって、人々にとって信頼に足る、確実で受け入れられる言葉を持つ者となり、神々にも愛され、好まれ、芳しい香りを放つ口を持ち、身体と言葉の行為を慎む。また、優れた特徴を獲得し、煩悩の残滓を根絶する。誹謗中傷をしないことによって、他者からの攻撃によって破られない身体を持ち、破られない眷属を持つ。また、正しい教えに対して揺るぎない信を持ち、生涯を通じて親しんできた人々にとっても、不動の友であり、ただ愛される存在となり、汚れることが少ない。粗野な言葉を使わないことによって、人々に愛され、好まれ、優しく、甘い言葉を話し、尊敬される存在となる。そして、彼には八支具足の音声が生じる(マッジマニカーヤ 2.387)。綺語をしないことによって、人々に愛され、好まれ、尊敬され、受け入れられる言葉を持ち、言葉数が少ない。そして、大いなる威力と大いなる神通力を持つ。その場に応じた機知によって問題を説明することに巧みであり、仏の境地においては、一つの言葉によって、様々な言語を話す人々の様々な問題を説明する能力を持つ者となる。
Anabhijjhālutāya icchitalābhī hoti, uḷāresu ca bhogesu ruciṃ paṭilabhati, khattiyamahāsālādīnaṃ sammato hoti, paccatthikehi anabhibhavanīyo, indriyavekallaṃ na pāpuṇāti, appaṭipuggalo ca hoti. Abyāpādena piyadassano hoti sattānaṃ sambhāvanīyo, parahitābhinanditāya ca satte appakasireneva pasādeti, alūkhasabhāvo ca hoti mettāvihārī, mahesakkho ca hoti mahānubhāvo. Micchādassanābhāvena kalyāṇe sahāye paṭilabhati, sīsacchedampi pāpuṇanto pāpakammaṃ na karoti, kammassakatādassanato akotūhalamaṅgaliko ca hoti, saddhamme cassa saddhā patiṭṭhitā hoti mūlajātā, saddahati ca tathāgatānaṃ bodhiṃ, samayantaresu nābhiramati ukkāraṭṭhāne viya rājahaṃso, lakkhaṇattayaparijānanakusalo hoti, ante ca anāvaraṇañāṇalābhī, yāva bodhiṃ na pāpuṇāti, tāva tasmiṃ tasmiṃ sattanikāye ukkaṭṭhukkaṭṭho ca hoti, uḷāruḷārasampattiyo pāpuṇāti.
貪欲でないことによって、望むものを得る者となり、また、優れた財産に満足を見出し、王族や裕福な人々に尊敬され、敵によって打ち負かされず、感覚器官の欠陥に陥らず、比類なき存在となる。悪意がないことによって、人々に愛される姿となり、尊敬され、また、他者の幸福を喜ぶことによって、人々をたやすく満足させ、粗野な性質がなく、慈悲の心で住み、そして、大いなる威力と大いなる神通力を持つ。邪見がないことによって、善き友を得る。首を切られることになっても悪業をせず、業の自らが所有することを知るがゆえに、縁起を担ぐことなく、正しい教えに対する彼の信は根付き、確立される。また、如来方の悟りを信じ、王白鳥がゴミ溜めに喜ばないように、他の説にも喜ばない。三つの特徴(三相)を知ることに巧みであり、究極的には無碍の智慧を得る。悟りを得るまでは、それぞれの衆生の世界において最も優れ、最も優れた者となり、そして、最も優れた財産を得る。
‘‘Iti hidaṃ sīlaṃ nāma sabbasampattīnaṃ adhiṭṭhānaṃ, sabbabuddhaguṇānaṃ pabhavabhūmi, sabbabuddhakaradhammānamādi caraṇaṃ mukhaṃ pamukha’’nti bahumānaṃ uppādetvā kāyavacīsaṃyame, indriyadamane, ājīvasampadāya, paccayaparibhoge ca satisampajaññabalena appamattena lābhasakkārasilokaṃ mittamukhapaccatthikaṃ viya sallakkhetvā ‘‘kikīva aṇḍa’’ntiādinā (visuddhi. 1.19; dī. ni. aṭṭha. 1.7) vuttanayena sakkaccaṃ sīlaṃ sampādetabbaṃ. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimagge (visuddhi. 1.6) vuttanayena veditabbo. Tañca panetaṃ sīlaṃ na attano duggatiparikilesavimuttiyā, sugatiyampi, na rajjasampattiyā, nacakkavatti-nadeva-nasakka-namāra-nabrahmasampattiyā, nāpi attano tevijjatādihetu, na paccekabodhiyā, atha kho sabbaññubhāvena sabbasattānaṃ anuttarasīlālaṅkārasampādanatthamevāti pariṇāmetabbaṃ.
「このように、戒とはあらゆる成就の基盤であり、あらゆる仏陀の功徳の源であり、あらゆる仏陀を成就させる教えの最初であり、入り口であり、最高の入り口である」と深く敬意を抱いて、身体と言葉の制御、感覚器官の調伏、清らかな生計、そして必要な物の使用において、気づきと正知の力によって怠ることなく、利益、尊敬、名声を敵の口のように見なし、「キキー鳥が卵を」という説(清浄道論 1.19; 長部注釈 1.7)で述べられているように、真摯に戒を成就すべきである。ここではこれが簡潔な説明であり、詳細については清浄道論(清浄道論 1.6)で述べられている方法によって知るべきである。その戒は、自分自身の悪趣の苦しみからの解脱のためだけでなく、善趣のためでもなく、王の財産、転輪聖王、天神、帝釈天、魔羅、梵天の財産のためでもなく、また、自分自身の三明などの原因のためでもなく、独覚の悟りのためでもない。むしろ、一切智の境地によって、あらゆる衆生に無上の戒という飾りを成就させるためだけであると、意向を定めるべきである。
Tathā sakalasaṃkilesanivāsaṭṭhānatāya, puttadārādīhi mahāsambādhatāya, kasivaṇijjādinānāvidhakammantādhiṭṭhānabyākulatāya ca gharāvāsassa nekkhammasukhādīnaṃ anokāsataṃ, kāmānañca ‘‘satthadhārālaggamadhubindu viya ca avaleyhamānā parittassādā vipulānatthānubandhā’’ti ca ‘‘vijjulatobhāsena gahetabbaṃ naccaṃ viya parittakālopalabbhā, ummattakālaṅkāro viya viparītasaññāya anubhavitabbā, karīsāvacchādanasukhaṃ viya paṭikārabhūtā, udakatemitaṅguliyā ussāvakodakapānaṃ viya atittikarā, chātajjhattabhojanaṃ viya sābādhā, balisāmisaṃ viya byasanasannipātakāraṇā, aggisantāpo viya kālattayepi dukkhuppattihetubhūtā, makkaṭālepo viya bandhanimittā ghātakāvacchādanakimilayo viya anatthacchādanā, sapattagāmavāso viya bhayaṭṭhānabhūtā, paccatthikaposako viya kilesamārādīnaṃ āmisabhūtā, chaṇasampattiyo viya vipariṇāmadukkhā, koṭaraggi viya antodāhakā, purāṇakūpāvalambabīraṇamadhupiṇḍaṃ viya anekādīnavā, loṇūdakapānaṃ viya pipāsahetubhūtā, surāmerayaṃ viya nīcajanasevitā, appassādatāya aṭṭhikaṅkalūpamā’’tiādinā ca nayena ādīnavaṃ sallakkhetvā tabbipariyāyena nekkhamme ānisaṃsaṃ passantena nekkhammapavivekaupasamasukhādīsu ninnapoṇapabbhāracittena nekkhammapāramī pūretabbā.
また、あらゆる煩悩の住処であること、子供や妻などによって大いに妨げられること、農業や商業などの様々な職業の拠点として多忙であること、これらによって在家生活には出離の幸福などの余地がないこと、そして、欲については「刀の刃についた蜜のしずくをなめるように、わずかな味しかないが、多大なる災いを伴う」「稲妻の光によって見られる舞のように、わずかな時間しか得られない」「狂人の装飾のように、逆の認識によって経験されるべきもの」「糞の覆いのような快楽のように、その場しのぎの対策にすぎない」「水に濡れた指で唾液を飲むように、満足を与えない」「飢えた者が食べる食事のように、苦痛を伴う」「釣り針の餌のように、災難の集まりの原因となる」「火の熱のように、三世において苦の発生原因となる」「猿の粘着剤のように、束縛の原因となる」「殺人者が隠す虫のように、災いを隠す」「敵対する村に住むように、恐ろしい場所である」「敵を養うように、煩悩や魔羅などの餌となる」「祭りの成就のように、変化によって苦となる」「木の洞の火のように、内側を焼き尽くす」「古い井戸の縁にぶら下がる葦の蜜の塊のように、多くの過失がある」「塩水を飲むように、渇きの原因となる」「酒や麻薬のように、下劣な人々に用いられる」「味が少ないので骨の塊のようである」などという方法で、欲の欠点を見極め、その逆に出離における功徳を見ることによって、出離、遠離、寂静、安楽などに心が傾き、流れ、向かうことによって、出離の波羅蜜を成就すべきである。
Tathā yasmā paññā āloko viya andhakārena, mohena saha na vattati, tasmā mohakāraṇāni tāva bodhisattena parivajjitabbāni. Tatthimāni mohakāraṇāni – arati tandī vijambhitā ālasiyaṃ gaṇasaṅgaṇikārāmatā niddāsīlatā anicchayasīlatā ñāṇasmiṃ akutūhalatā micchādhimāno aparipucchakatā kāyassa na sammāparihāro asamāhitacittatā duppaññānaṃ puggalānaṃ sevanā paññavantānaṃ apayirupāsanā attaparibhavo micchāvikappo viparītābhiniveso kāyadaḷhībahulatā asaṃvegasīlatā pañca nīvaraṇāni. Saṅkhepato ye vā pana dhamme āsevato anuppannā paññā na uppajjati, uppannā parihāyati, iti imāni sammohakāraṇāni parivajjantena bāhusacce jhānādīsu ca yogo karaṇīyo.
また、智慧は光のように、闇や無明と共存しないため、したがって、菩薩はまず無明の原因となるものを避けなければならない。その無明の原因となるものとは、不満、倦怠、あくび、怠惰、集団や社交を好むこと、眠りを常とすること、決断力がないこと、知識に対する好奇心のなさ、間違った慢心、質問しないこと、身体を適切に世話しないこと、心が集中していないこと、愚かな人々との交際、智慧ある人々への奉仕を怠ること、自己軽視、誤った思案、誤った執着、身体の頑健さを過度に重視すること、無感動であること、そして五蓋である。簡潔に言えば、どのような法を修習しても、生じていない智慧は生じず、生じた智慧は衰退する。したがって、これらの無明の原因を避けつつ、多聞と禅定などに励むべきである。
Tatthāyaṃ bāhusaccassa visayavibhāgo – pañca khandhā dvādasāyatanāni, aṭṭhārasa dhātuyo cattāri saccāni bāvīsatindriyāni dvādasapadiko paṭiccasamuppādo, tathā satipaṭṭhānādayo kusalādidhammappakārabhedā ca. Yāni ca loke anavajjāni vijjaṭṭhānāni, ye ca sattānaṃ hitasukhavidhānayogyā byākaraṇavisesā. Iti evaṃ pakāraṃ sakalameva sutavisayaṃ upāyakosallapubbaṅgamāya paññāya sativīriyupatthambhakāraṇāya sādhukaṃ uggahaṇasavanadhāraṇaparicayaparipucchāhi ogāhetvā tattha ca paresaṃ patiṭṭhapanena sutamayā paññā nibbattetabbā, tathā khandhādīnaṃ sabhāvadhammānaṃ ākāraparivitakkanamukhena te nijjhānaṃ khamāpentena cintāmayā, khandhādīnaṃyeva pana salakkhaṇasāmaññalakkhaṇapariggahavasena lokiyaṃ pariññaṃ nibbattentena pubbabhāgabhāvanāpaññā sampādetabbā. Evañhi ‘‘nāmarūpamattamidaṃ yathārahaṃ paccayehi uppajjati ceva nirujjhati ca, na ettha koci kattā vā kāretā vā, hutvā abhāvaṭṭhena aniccaṃ, udayabbayapaṭipīḷanaṭṭhena dukkhaṃ, avasavattanaṭṭhena anattā’’ti ajjhattikabāhire dhamme nibbisesaṃ parijānanto tattha āsaṅgaṃ pajahitvā, pare ca tattha taṃ jahāpetvā kevalaṃ karuṇāvaseneva yāva na buddhaguṇā hatthatalaṃ āgacchanti, tāva yānattaye satte avatāraṇaparipācanehi patiṭṭhāpento, jhānavimokkhasamādhisamāpattiyo ca vasībhāvaṃ pāpento paññāya ativiya matthakaṃ pāpuṇātīti.
その多聞の範囲の区分は次の通りである。五蘊、十二処、十八界、四諦、二十二根、十二支の縁起、また四念処などの善法をはじめとする様々な教えの分類。そして世間において咎められることのない学問の分野、また衆生の幸福と利益をもたらすにふさわしい様々な説明。このようなあらゆる聞くべき事柄を、方便善巧を先行させる智慧、気づきと精進を支えとする原因によって、よく学び、聞き、保持し、親しみ、質問することによって深く把握し、そして、そこで他者を確立させることによって、聞所成慧を生起させるべきである。また、蘊などの自性法をそのあり方を観察し思惟することによって洞察に堪えさせ、思所成慧を生起させるべきである。蘊などの自相と共相を把握することによって世俗的な遍知を生起させ、前段階の修所成慧を成就すべきである。このようにして、「この名と色は、それぞれ縁によって生じ、そして滅する。ここには作者もいなければ、作らせる者もいない。存在して後に存在しないという点で無常であり、生滅の苦痛という点で苦であり、支配できないという点で無我である」と内外のあらゆる法を区別なく遍知し、そこに執着を捨て、他者にもそこに執着を捨てさせ、ひたすら慈悲の力によって、仏陀の功徳が手中に収まるまで、三つの乗(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)において衆生を導き、成熟させることによって確立し、禅定、解脱、三昧、等至を自在にし、智慧の頂点に到達するのである。
Tathā sammāsambodhiyā katābhinīhārena mahāsattena ‘‘ko nu ajja puññañāṇasambhāro upacito, kiñca mayā kataṃ parahita’’nti divase divase paccavekkhantena sattahitatthaṃ ussāho karaṇīyo, sabbesampi sattānaṃ upakārāya attano kāyaṃ jīvitañca ossajjitabbaṃ, sabbepi sattā anodhiso mettāya karuṇāya ca pharitabbā, yā kāci sattānaṃ dukkhuppatti, sabbā sā attani pāṭikaṅkhitabbā, sabbesañca sattānaṃ puññaṃ abbhanumoditabbaṃ, buddhamahantatā abhiṇhaṃ paccavekkhitabbā, yañca kiñci kammaṃ karoti kāyena vācāya vā, taṃ sabbaṃ bodhininnacittapubbaṅgamaṃ kātabbaṃ. Iminā hi upāyena bodhisattānaṃ aparimeyyo puññabhāgo upacīyati. Apica sattānaṃ paribhogatthaṃ paripālanatthañca attano sarīraṃ jīvitañca pariccajitvā khuppipāsāsītuṇhavātātapādidukkhapaṭikāro pariyesitabbo. Yañca yathāvuttadukkhapaṭikārajaṃ sukhaṃ attanā paṭilabhati, tathā ramaṇīyesu ārāmuyyānapāsādatalādīsu, araññāyatanesu ca kāyacittasantāpābhāvena abhinibbutattā sukhaṃ vindati, yañca suṇāti buddhānubuddhapaccekabuddhabodhisattānaṃ diṭṭhadhammasukhavihārabhūtaṃ jhānasamāpattisukhaṃ, taṃ sabbaṃ sattesu anodhiso upasaṃharati. Ayaṃ tāva asamāhitabhūmiyaṃ nayo.
また、正等覚に向けて誓願を立てた大菩薩は、「今日、どのような福徳と智慧の資糧が積まれたか、どのような他者の利益が私によってなされたか」と日々省察し、衆生の利益のために精進すべきである。あらゆる衆生のために、自らの身体と生命を捧げるべきである。あらゆる衆生を限りなく慈悲の心で満たすべきである。衆生に生じるいかなる苦しみも、すべて自らが引き受けるべきである。あらゆる衆生の福徳を随喜すべきである。仏陀の偉大さを常に省察すべきである。身体と言葉によってなすいかなる業も、すべて覚りに向かう心をもって先行させるべきである。この方法によって、菩薩には無限の福徳が積まれるのである。さらに、衆生が享受するため、そして守られるために、自らの身体と生命を犠牲にして、飢え、渇き、寒さ、暑さ、風、日差しなどの苦痛を癒す方法を模索すべきである。そして、上記のような苦痛を癒すことによって自らが得る安楽、また、美しい園林、庭園、宮殿、山頂などで、身体と心の苦痛がないことによって享受する安楽、そして、仏陀、覚者、独覚、菩薩たちが現世で安楽に住む境地である禅定の安楽を聞くとき、それらすべてを限りなく衆生に捧げるのである。これはひとまず、集中していない境地でのやり方である。
Samāhito pana attanā yathānubhūtaṃ visesādhigamanibbattaṃ pītipassaddhisukhaṃ sabbasattesu adhimuccati, tathā mahati saṃsāradukkhe, tannimittabhūte ca kilesābhisaṅkhāradukkhe nimuggaṃ sattanikāyaṃ disvā tatthapi chedanabhedanaphālanapisanaggisantāpādijanitā dukkhā tibbā kharā kaṭukā vedanā nirantaraṃ cirakālaṃ vediyante nārake, aññamaññaṃ kujjhanasantāpanaviheṭhanahiṃsanaparādhīnatādīhi dukkhaṃ anubhavante tiracchāne, jotimālā’kulasarīre uddhabāhuviravante ukkāmukhe khuppipāsādīhi ḍayhamāne ca vantakheḷādiāhāre ca mahādukkhaṃ vedayamāne pete ca pariyeṭṭhimūlakaṃ mahantaṃ anayabyasanaṃ pāpuṇante hatthacchedādikāraṇayogena dubbaṇṇaduddasikadaliddatādibhāvena khuppipāsādiyogena balavantehi abhibhavanīyato, paresaṃ vahanato, parādhīnato ca nārake pete tiracchāne ca atisayante apāyadukkhanibbisesaṃ dukkhaṃ anubhavante manusse ca tathā visayavisaparibhogavikkhittacittatāya rāgādipariyuṭṭhānena ḍayhamāne vāyuvegasamuṭṭhitajālāsamiddhasukkhakaṭṭhasannipāte aggikkhandhe viya anupasantapariḷāhavuttike anihataparādhīne kāmāvacaradeve ca mahatā vāyāmena vidūramākāsaṃ vigāhitasakuntā viya, balavantehi khittasarā viya ca ‘‘satipi cirappavattiyaṃ anaccantikatāya pātapariyosānā anatikkantajātijarāmaraṇā evā’’ti rūpāvacarārūpāvacaradeve ca passantena mettāya karuṇāya ca anodhiso sattā pharitabbā. Evaṃ kāyena vācāya manasā ca bodhisambhāre nirantaraṃ upacinantena ussāho pavattetabbo.
しかし、心が集中した者(禅定に入った者)は、自らが経験した特別な成就によって生じた喜び、軽安、安楽を、あらゆる衆生に深く意向する。また、輪廻の大いなる苦しみ、そしてその原因となる煩悩や業の苦しみに沈んでいる衆生の世界を見て、地獄においては、切断、破砕、引き裂き、粉砕、火の熱などによって生じる、激しく、粗く、苦い感覚を絶え間なく長期間経験する者たち。畜生においては、互いに怒り、苦しめ、悩ませ、傷つけ、他者に従属することなどによって苦しみを経験する者たち。餓鬼においては、炎に包まれた身体で腕を振り上げ叫び、口からは火を噴き、飢えや渇きなどに焼かれ、また吐き出した唾液などを食として大いなる苦しみを経験する者たち。人間においては、探索を原因とする大いなる不幸や災難に遭い、手を切断されるなどの状況によって、不運で醜く貧しい状態となり、飢えや渇きに苦しみ、強い者たちに打ち負かされ、他者のために荷を運び、他者に従属し、地獄、餓鬼、畜生よりもさらにひどい、悪趣の苦しみと変わらない苦しみを経験する者たち。また、欲の対象を貪り享受することによって心が散乱し、貪欲などによって焼かれ、風の勢いで燃え盛る火の塊のように、乾燥した薪が集まったところで燃え盛る火の塊のように、止むことのない熱病を抱え、未だ他者に従属する欲界の天神たち。大いなる努力で遠くの空に飛び立つ鳥のように、強い者たちによって射られた矢のように、「たとえ長く続いても、永続的でなく、ついには堕落し、生老病死を越えていない」と見る色界と無色界の天神たち。これらの者たちを限りなく慈悲の心で満たすべきである。このように、身体、言葉、意によって菩提の資糧を絶え間なく積み重ねつつ、精進を続けるべきである。
Apica ‘‘acinteyyāparimitavipuloḷāravimalanirupamanirupakkilesaguṇanicayanidānabhūtassa buddhabhāvassa ussakkitvā sampahaṃsanayogyaṃ vīriyaṃ nāma acinteyyānubhāvameva. Yaṃ na pacurajanā sotumpi sakkuṇanti, pageva paṭipajjituṃ. Tathā hi tividhā abhinīhāracittuppatti, catasso buddhabhūmiyo, cattāri saṅgahavatthūni (dī. ni. 3.210, 313; a. ni. 4.32), karuṇokāsatā, buddhadhammesu nijjhānakkhanti, sabbadhammesu nirupalepo, sabbasattesu puttasaññā, saṃsāradukkhehi aparikhedo, sabbadeyyadhammapariccāgo, tena ca niratimānatā, adhisīlasikkhādiadhiṭṭhānaṃ, tattha ca acalatā, kusalakiriyāsu pītipāmojjaṃ, vivekaninnacittatā, jhānānuyogo, anavajjasutena atitti, yathāsutassa dhammassa paresaṃ hitajjhāsayena desanā, sattānaṃ ñāye nivesanaṃ, ārambhadaḷhatā, dhīravīrabhāvo, parāpavādaparāpakāresu vikārābhāvo, saccādhiṭṭhānaṃ, samāpattīsu vasībhāvo, abhiññāsu balappatti, lakkhaṇattayāvabodho, satipaṭṭhānādīsu abhiyogena lokuttaramaggasambhārasambharaṇaṃ, navalokuttarāvakkantī’’ti evamādikā sabbā bodhisambhārapaṭipatti vīriyānubhāveneva samijjhatīti abhinīhārato yāva mahābodhi anossajjantena sakkaccaṃ nirantaraṃ vīriyaṃ sampādetabbaṃ. Sampajjamāne ca vīriye khantiādayo dānādayo ca sabbepi bodhisambhārā tadadhīnavuttitāya sampannā eva hontīti. Khantiādīsupi iminā nayena paṭipatti veditabbā.
また、「不可思議にして限りなく広大で、汚れなく比類なき、煩悩なき諸徳の集積の根源である仏位を讃え、鼓舞するに足る精進とは、実に不可思議な威力を有する。それは多くの人々が聞くことすらできず、ましてや実践することなどできない。まさに、三種の誓願発心、四つの仏地、四つの摂事(ディーガニカーヤ3.210, 313; アングッタラニカーヤ4.32)、慈悲の宿る所、仏法に対する熟慮への忍耐、一切の法に対する無着、一切の衆生を子のように思うこと、輪廻の苦しみに対する不倦、あらゆる施しうるものの放棄、それによる慢心なきこと、増上戒学などへの決意、そしてそこでの不動性、善行における歓喜、離静を好む心、禅定の修行、無過失の聞法による飽くなきこと、聞かれた法を他者の利益を願う心で説くこと、衆生を正道に導くこと、堅固な発心、賢者にして勇者であること、他者の非難や危害に対して動じないこと、真実の決定、三昧における自在、神通力における力の獲得、三相の悟り、四念処などへの精勤による出世間道の資糧の集積、九つの出世間法への進入」といった、これらすべての菩薩資糧の行は、精進の威力によってのみ成就するのである。このように、誓願発心から大菩提に至るまで、怠ることなく、真摯に、絶え間ない精進を成就すべきである。そして、精進が成就すれば、忍耐をはじめとする布施など、すべての菩薩の資糧は、精進に従属するがゆえに、成就されるのである。忍耐などにおいても、同様の方法で行を理解すべきである。
Iti sattānaṃ sukhūpakaraṇapariccāgena bahudhā anuggahakaraṇaṃ dānena paṭipatti, sīlena tesaṃ jīvitasāpateyyadārarakkhaabhedapiyahitavacanāvihiṃsādikaraṇāni, nekkhammena nesaṃ āmisapaṭiggahaṇadhammadānādinā anekadhā hitacariyā, paññāya tesaṃ hitakaraṇūpāyakosallaṃ, vīriyena tattha ussāhārambhaasaṃhīrāni, khantiyā tadaparādhasahanaṃ, saccena tesaṃ avañcanatadupakārakiriyāsamādānāvisaṃvādanādi, adhiṭṭhānena tadupakārakaraṇe anatthasampātepi acalanaṃ, mettāya tesaṃ hitasukhānucintanaṃ, upekkhāya tesaṃ upakārāpakāresu vikārānāpattīti evaṃ aparimāṇe satte ārabbha anukampitasabbasattassa bodhisattassa puthujjanehi asādhāraṇo aparimāṇo puññañāṇasambhārūpacayo ettha paṭipattīti veditabbaṃ. Yo cetāsaṃ paccayo vutto, tassa ca sakkaccaṃ sampādanaṃ.
かくして、衆生の幸福の資具を施すことによって多種多様に恩恵を与えるのが布施による行である。戒によって彼らの生命、財産、妻子、保護、無差別の友好的な言葉、非暴力などを実行する。出離によって、飲食の受け入れや法施などにより、多様な方法で彼らに利益をもたらす行いをする。智慧によって彼らに利益をもたらす方便の巧みさを得る。精進によって、そこでの努力と、中断なき発心を起こす。忍耐によって彼らの過ちを忍容する。真実によって彼らを欺かず、彼らに有益な行為を約束し、それに背かないことなどを実践する。決意によって、彼らを助ける際に不利益が生じても動じない。慈悲によって彼らの利益と幸福を思いやる。捨によって彼らの援助や害に対して動じない。このように、限りない衆生を対象として、一切の衆生を憐れむ菩薩の、凡夫とは異なる限りない福智の資糧の集積がここでの行であると知るべきである。そして、これらの因と述べられたものもまた、真剣に成就すべきである。
Ko vibhāgoti dasa pāramiyo, dasa upapāramiyo, dasa paramatthapāramiyoti samattiṃsa pāramiyo. Tattha katābhinīhārassa bodhisattassa parahitakaraṇābhininnaāsayappayogassa kaṇhadhammavokiṇṇā sukkadhammā pāramiyo, tehi avokiṇṇā sukkā dhammā upapāramiyo, akaṇhā asukkā paramatthapāramiyoti keci. Samudāgamanakālesu pūriyamānā pāramiyo, bodhisattabhūmiyaṃ puṇṇā upapāramiyo, buddhabhūmiyaṃ sabbākāraparipuṇṇā paramatthapāramiyo. Bodhisattabhūmiyaṃ vā parahitakaraṇato pāramiyo, attahitakaraṇato upapāramiyo, buddhabhūmiyaṃ balavesārajjasamadhigamena ubhayahitaparipūraṇato paramatthapāramiyoti evaṃ ādimajjhapariyosānesu paṇidhānārambhapariniṭṭhānesu tesaṃ vibhāgoti apare. Dosupasamakaruṇāpakatikānaṃ bhavasukhavimuttisukhaparamasukhappattānaṃ puññūpacayabhedato tabbibhāgoti aññe.
分別とは何かといえば、十の波羅蜜、十の副波羅蜜、十の究極波羅蜜の合計三十の波羅蜜である。その中で、誓願を発した菩薩の、他者の利益をなすことに傾倒した意図と実践において、黒法と混じり合った白法が波羅蜜であり、それらと混じらない白法が副波羅蜜であり、黒でも白でもないのが究極波羅蜜であると説く者もいる。発心の時に満たされるのが波羅蜜であり、菩薩の地で満たされるのが副波羅蜜であり、仏の地で完全に満たされるのが究極波羅蜜である。あるいは、菩薩の地において他者の利益をなすことによって波羅蜜、自己の利益をなすことによって副波羅蜜、仏の地において力と無畏の獲得によって双方の利益を完全に満たすことによって究極波羅蜜であると、このように発心、開始、完成という最初、中間、最後の段階においてそれらの分別があると他の者は言う。煩悩を鎮め、慈悲を本性とし、存在の幸福、解脱の幸福、究極の幸福を得た者の福徳の集積の区別から、その分別があると他の者は言う。
Lajjāsatimānāpassayānaṃ lokuttaradhammādhipatīnaṃ sīlasamādhipaññāgarukānaṃ tāritataritatārayitūnaṃ anubuddhapaccekabuddhasammāsambuddhānaṃ pāramī, upapāramī, paramatthapāramīti bodhittayappattito yathāvuttavibhāgoti keci. Cittapaṇidhito yāva vacīpaṇidhi, tāva pavattā sambhārā pāramiyo, vacīpaṇidhito yāva kāyapaṇidhi, tāva pavattā upapāramiyo, kāyapaṇidhito pabhuti paramatthapāramiyoti apare. Aññe pana ‘‘parapuññānumodanavasena pavattā sambhārā pāramiyo, paresaṃ kārāpanavasena pavattā upapāramiyo, sayaṃ karaṇavasena pavattā paramatthapāramiyo’’ti vadanti. Tathā bhavasukhāvaho puññañāṇasambhāro pāramī, attano nibbānasukhāvaho upapāramī, paresaṃ tadubhayasukhāvaho paramatthapāramīti eke.
慚、念、慢心なき依止を具え、世間を超えた法を主とし、戒定慧を重んじ、自己を渡し、他者を渡し、彼らを渡し終えた覚者、独覚、正等覚者という三種の菩提の獲得から、このように述べられた分別があるとある者は言う。意の誓願から語の誓願に至るまで続く資糧が波羅蜜であり、語の誓願から身の誓願に至るまで続く資糧が副波羅蜜であり、身の誓願から始まるのが究極波羅蜜であると他の者は言う。ある者はまた、「他者の福を随喜することによって生じる資糧が波羅蜜であり、他者に(善行を)行わせることによって生じる資糧が副波羅蜜であり、自ら行うことによって生じる資糧が究極波羅蜜である」と説く。同様に、存在の幸福をもたらす福智の資糧が波羅蜜であり、自己の涅槃の幸福をもたらすのが副波羅蜜であり、他者の双方の幸福をもたらすのが究極波羅蜜であるとある者は言う。
Puttadāradhanādiupakaraṇapariccāgo pana dānapāramī, attano aṅgapariccāgo dānaupapāramī, attano jīvitapariccāgo dānaparamatthapāramī. Tathā puttadārādikassa tividhassapi hetu avītikkamanavasena tisso sīlapāramiyo, tesu eva tividhesu vatthūsu ālayaṃ upacchinditvā nikkhamanavasena tisso nekkhammapāramiyo, upakaraṇaṅgajīvitataṇhaṃ samūhanitvā sattānaṃ hitāhitavinicchayakaraṇavasena tisso paññāpāramiyo, yathāvuttabhedānaṃ pariccāgādīnaṃ vāyamanavasena tisso vīriyapāramiyo, upakaraṇaṅgajīvitantarāyakarānaṃ khamanavasena tisso khantipāramiyo, upakaraṇaṅgajīvitahetu saccāpariccāgavasena tisso saccapāramiyo, dānādipāramiyo akuppādhiṭṭhānavaseneva samijjhantīti upakaraṇādivināsepi acalādhiṭṭhānavasena tisso adhiṭṭhānapāramiyo, upakaraṇādiupaghātakesupi sattesu mettāya avijahanavasena tisso mettāpāramiyo, yathāvuttavatthuttayassa upakārāpakāresu sattasaṅkhāresu majjhattatāpaṭilābhavasena tisso upekkhāpāramiyoti evamādinā etāsaṃ vibhāgo veditabbo.
妻子財産などの資具の放棄は布施波羅蜜であり、自身の肢体の放棄は布施副波羅蜜であり、自身の生命の放棄は布施究極波羅蜜である。同様に、妻子など三種の物事に関しても、それらに違反しないことによって三種の戒波羅蜜が、それら三種の物事への執着を断ち切って出家することによって三種の出離波羅蜜が、資具、肢体、生命への渇愛を根絶し、衆生の利益と不利益を判断することによって三種の智慧波羅蜜が、上述の種類の布施などを努力することによって三種の精進波羅蜜が、資具、肢体、生命への障害をもたらすものに対して忍容することによって三種の忍耐波羅蜜が、資具、肢体、生命のために真実を放棄しないことによって三種の真実波羅蜜が、布施などの波羅蜜は動揺しない決意によってのみ成就するとされるため、資具などの喪失においても動じない決意によって三種の決意波羅蜜が、資具などを傷つける衆生に対しても慈悲を捨てることなく三種の慈悲波羅蜜が、そして上述の三種の物事に関する援助や害をなす衆生に対して平等心を獲得することによって三種の捨波羅蜜がある。このようにして、これらの分別を知るべきである。
Ko saṅgahoti ettha pana yathā etā vibhāgato tiṃsavidhāpi dānapāramīādibhāvato dasavidhā, evaṃ dānasīlakhantivīriyajhānapaññāsabhāvena chabbidhā. Etāsu hi nekkhammapāramī sīlapāramiyā saṅgahitā tassā pabbajjābhāve, nīvaraṇavivekabhāve pana jhānapāramiyā, kusaladhammabhāve chahipi saṅgahitā. Saccapāramī sīlapāramiyā ekadesoyeva vacīsaccaviratisaccapakkhe, ñāṇasaccapakkhe pana paññāpāramiyā saṅgahitā. Mettāpāramī jhānapāramiyā eva, upekkhāpāramī jhānapaññāpāramīhi, adhiṭṭhānapāramī sabbāhipi saṅgahitāti.
摂受とは何かといえば、ここでは、それら(波羅蜜)が分別によって三十種であると同時に、布施波羅蜜などを初めとする十種でもあるように、布施、戒、忍耐、精進、禅定、智慧の六種の性質によって六種に集約されると知るべきである。これらのうち、出離波羅蜜は、出家の面では戒波羅蜜に、五蓋からの離別の面では禅定波羅蜜に包含され、善法としては六つすべてに包含される。真実波羅蜜は、語の真実と(殺生などからの)不殺生の真実の側面では戒波羅蜜の一部であり、智慧の真実の側面では智慧波羅蜜に包含される。慈悲波羅蜜は禅定波羅蜜そのものであり、捨波羅蜜は禅定波羅蜜と智慧波羅蜜に包含され、決意波羅蜜はすべて(の波羅蜜)に包含される。
Etesañca dānādīnaṃ channaṃ guṇānaṃ aññamaññaṃ sambandhānaṃ pañcadasayugaḷādīni pañcadasayugaḷādisādhakāni honti – seyyathidaṃ? Dānasīlayugaḷena parahitāhitānaṃ karaṇākaraṇayugaḷasiddhi, dānakhantiyugaḷena alobhādosayugaḷasiddhi, dānavīriyayugaḷena cāgasutayugaḷasiddhi, dānajhānayugaḷena kāmadosappahānayugaḷasiddhi, dānapaññāyugaḷena ariyayānadhurayugaḷasiddhi, sīlakhantidvayena payogāsayasuddhidvayasiddhi, sīlavīriyadvayena bhāvanādvayasiddhi, sīlajhānadvayena dussīlyapariyuṭṭhānappahānadvayasiddhi, sīlapaññādvayena dānadvayasiddhi, khantivīriyayugaḷena khamātejadvayasiddhi, khantijhānayugaḷena virodhānurodhappahānayugaḷasiddhi, khantipaññāyugaḷena suññatākhantipaṭivedhadukasiddhi, vīriyajhānadukena paggāhāvikkhepadukasiddhi, vīriyapaññādukena saraṇadukasiddhi, jhānapaññādukena yānadukasiddhi. Dānasīlakhantittikena lobhadosamohappahānattikasiddhi, dānasīlavīriyattikena bhogajīvitakāyasārādānattikasiddhi, dānasīlajhānattikena puññakiriyavatthuttikasiddhi, dānasīlapaññātikena āmisābhayadhammadānattikasiddhīti evaṃ itarehipi tikehi catukkādīhi ca yathāsambhavaṃ tikāni catukkādīni ca yojetabbāni.
これらの布施などを初めとする六つの徳が互いに関連し合うことで、十五の対などが生じ、十五の対などを成就する。すなわち、布施と戒の対によって他者の利益と不利益をなすことと、なさないことの対の成就、布施と忍耐の対によって無貪と無瞋の対の成就、布施と精進の対によって捨と聞の対の成就、布施と禅定の対によって欲と瞋の放棄の対の成就、布施と智慧の対によって聖なる乗り物と重荷の対の成就、戒と忍耐の二つによって行為と意図の清浄の二重の成就、戒と精進の二つによって二つの修習の成就、戒と禅定の二つによって悪戒による煩悩とそれらの放棄の二重の成就、戒と智慧の二つによって二つの布施の成就、忍耐と精進の対によって忍容と精力の二重の成就、忍耐と禅定の対によって嫌悪と貪着の放棄の対の成就、忍耐と智慧の対によって空性への忍容と空性の洞察の二重の成就、精進と禅定の二つによって提起と不散乱の二重の成就、精進と智慧の二つによって念と保護の二重の成就、禅定と智慧の二つによって乗り物の二重の成就である。布施・戒・忍耐の三つによって貪瞋痴の放棄の三種の成就、布施・戒・精進の三つによって財産、生命、身体の本質の放棄の三種の成就、布施・戒・禅定の三つによって福行の三つの基礎の成就、布施・戒・智慧の三つによって財物施し、無畏施し、法施しの三種の成就となる。このように、他の三つ組や四つ組などについても、状況に応じて三つ組や四つ組などを組み合わせるべきである。
Evaṃ chabbidhānampi pana imāsaṃ pāramīnaṃ catūhi adhiṭṭhānehi saṅgaho veditabbo. Sabbapāramīnaṃ samūhasaṅgahato hi cattāri adhiṭṭhānāni. Seyyathidaṃ – saccādhiṭṭhānaṃ, cāgādhiṭṭhānaṃ, upasamādhiṭṭhānaṃ, paññādhiṭṭhānanti. Tattha adhitiṭṭhati etena, ettha vā adhitiṭṭhati, adhiṭṭhānamattameva vā tanti adhiṭṭhānaṃ. Saccañca taṃ adhiṭṭhānañca, saccassa vā adhiṭṭhānaṃ, saccaṃ adhiṭṭhānaṃ etassāti vā saccādhiṭṭhānaṃ. Evaṃ sesesupi. Tattha avisesato tāva lokuttaraguṇe katābhinīhārassa anukampitasabbasattassa mahāsattassa pariññānurūpaṃ sabbapāramipariggahato saccādhiṭṭhānaṃ, tesaṃ paṭipakkhapariccāgato cāgādhiṭṭhānaṃ, sabbapāramitāguṇehi upasamato upasamādhiṭṭhānaṃ, tehiyeva parahitopāyakosallato paññādhiṭṭhānaṃ. Visesato pana ‘‘atthikajanaṃ avisaṃvādetvā dassāmī’’ti paṭijānato, paṭiññaṃ avisaṃvādetvā dānato, dānaṃ avisaṃvādetvā anumodanato, macchariyādipaṭipakkhapariccāgato, deyyapaṭiggāhakadānadeyyadhammakkhayesu lobhadosamohabhayavūpasamato, yathārahaṃ yathākālaṃ yathāvidhānañca dānato, paññuttarato ca kusaladhammānaṃ caturadhiṭṭhānapadaṭṭhānaṃ dānaṃ. Tathā saṃvarasamādānassa avītikkamato, dussīlyapariccāgato, duccaritavūpasamato, paññuttarato ca caturadhiṭṭhānapadaṭṭhānaṃ sīlaṃ. Yathāpaṭiññaṃ khamanato, parāparādhavikappapariccāgato, kodhapariyuṭṭhānavūpasamato, paññuttarato ca caturadhiṭṭhānapadaṭṭhānā khanti. Paṭiññānurūpaṃ parahitakaraṇato, visādapariccāgato, akusaladhammānaṃ vūpasamato, paññuttarato ca caturadhiṭṭhānapadaṭṭhānaṃ vīriyaṃ. Paṭiññānurūpaṃ lokahitānucintanato, nīvaraṇapariccāgato, cittavūpasamato, paññuttarato ca caturadhiṭṭhānapadaṭṭhānaṃ jhānaṃ. Yathāpaṭiññaṃ parahitūpāyakosallato, anupāyakiriyāpariccāgato, mohajapariḷāhavūpasamato, sabbaññutāpaṭilābhato ca caturadhiṭṭhānapadaṭṭhānā paññā.
このように六種に分けられるこれらの波羅蜜は、四つの決意によって包含されると知るべきである。なぜなら、すべての波羅蜜を集約すれば四つの決意となるからである。すなわち、真実の決意、捨の決意、鎮静の決意、智慧の決意である。その中で、それによって確固として立つ、あるいはその中で確固として立つ、あるいは単にそれ自体が決意であるという意味で「決意」という。真実であって決意でもある、あるいは真実の決意、あるいは真実が決意であるという理由で「真実の決意」という。他のものについても同様である。そこにおいて、不分別には、世間を超えた徳に誓願を発し、一切の衆生を憐れむ大菩薩の完全な理解にふさわしくすべての波羅蜜を包含するがゆえに真実の決意、それらの対立するものを放棄するがゆえに捨の決意、すべての波羅蜜の徳によって鎮静するがゆえに鎮静の決意、それらによって他者の利益のための方便に巧みであるゆえに智慧の決意となる。特に、布施は、「求める人には偽らず与えよう」と約束し、約束を偽らずに施し、施しを偽らずに随喜し、慳貪などの対立するものを放棄し、施す者、受ける者、施されたもの、施された財物の滅失において貪瞋痴や恐れを鎮め、適切に、時に応じて、法に則って施し、そして最上の善法であることによって、四つの決意の拠り所となる。同様に、戒は、護戒の受持に違反せず、悪戒を放棄し、悪行を鎮静し、そして最上の善法であることによって、四つの決意の拠り所となる。忍耐は、約束通りに忍容し、他者の過ちという妄想を放棄し、怒りの煩悩を鎮静し、そして最上の善法であることによって、四つの決意の拠り所となる。精進は、約束通りに他者の利益をなし、意気消沈を放棄し、不善法を鎮静し、そして最上の善法であることによって、四つの決意の拠り所となる。禅定は、約束通りに世間の利益を思いやり、五蓋を放棄し、心を鎮静し、そして最上の善法であることによって、四つの決意の拠り所となる。智慧は、約束通りに他者の利益のための方便に巧みであり、不適切な行為を放棄し、愚痴から生じる煩熱を鎮静し、そして一切智の獲得によって、四つの決意の拠り所となる。
Tattha ñeyyapaṭiññānuvidhānehi saccādhiṭṭhānaṃ, vatthukāmakilesakāmapariccāgehi cāgādhiṭṭhānaṃ, dosadukkhavūpasamehi upasamādhiṭṭhānaṃ, anubodhapaṭivedhehi paññādhiṭṭhānaṃ. Tividhasaccapariggahitaṃ dosattayavirodhi saccādhiṭṭhānaṃ, tividhacāgapariggahitaṃ dosattayavirodhi cāgādhiṭṭhānaṃ, tividhavūpasamapariggahitaṃ dosattayavirodhi upasamādhiṭṭhānaṃ, tividhañāṇapariggahitaṃ dosattayavirodhi paññādhiṭṭhānaṃ. Saccādhiṭṭhānapariggahitāni cāgūpasamapaññādhiṭṭhānāni avisaṃvādanato, paṭiññānuvidhānato ca. Cāgādhiṭṭhānapariggahitāni saccūpasamapaññādhiṭṭhānāni paṭipakkhapariccāgato, sabbapariccāgaphalattā ca. Upasamādhiṭṭhānapariggahitāni saccacāgapaññādhiṭṭhānāni kilesapariḷāhūpasamato, kāmūpasamato, kāmapariḷāhūpasamato ca. Paññādhiṭṭhānapariggahitāni saccacāgūpasamādhiṭṭhānāni ñāṇapubbaṅgamato, ñāṇānuparivattanato cāti evaṃ sabbāpi pāramiyo saccappabhāvitā cāgaparibyañjitā upasamopabrūhitā paññāparisuddhā. Saccañhi etāsaṃ janakahetu, cāgo pariggāhakahetu, upasamo parivuḍḍhihetu, paññā pārisuddhihetu. Tathā ādimhi saccādhiṭṭhānaṃ saccapaṭiññattā, majjhe cāgādhiṭṭhānaṃ katapaṇidhānassa parahitāya attapariccāgato, ante upasamādhiṭṭhānaṃ sabbūpasamapariyosānattā, ādimajjhapariyosānesu paññādhiṭṭhānaṃ tasmiṃ sati sambhavato, asati abhāvato, yathāpaṭiññañca bhāvato.
その中で、知られるべきことの誓願とそれに従うことによって真実の決意、財物欲と煩悩欲の放棄によって捨の決意、瞋と苦の鎮静によって鎮静の決意、悟りと洞察によって智慧の決意となる。三種の真実を包含し、三種の煩悩に敵対する真実の決意があり、三種の捨を包含し、三種の煩悩に敵対する捨の決意があり、三種の鎮静を包含し、三種の煩悩に敵対する鎮静の決意があり、三種の智慧を包含し、三種の煩悩に敵対する智慧の決意がある。真実の決意に包含される捨、鎮静、智慧の決意は、偽らないことと誓願に従うことによって生じる。捨の決意に包含される真実、鎮静、智慧の決意は、対立するものを放棄することと、すべての放棄の結果であることによって生じる。鎮静の決意に包含される真実、捨、智慧の決意は、煩悩の煩熱を鎮めること、欲を鎮めること、欲の煩熱を鎮めることによって生じる。智慧の決意に包含される真実、捨、鎮静の決意は、智慧を先行させること、智慧に従うことによって生じる。このように、すべての波羅蜜は真実によって養われ、捨によって飾られ、鎮静によって増し、智慧によって清浄になる。真実はこれらの生起の因であり、捨は受容の因であり、鎮静は増大の因であり、智慧は清浄の因である。同様に、最初には真実の決意が真実の誓願であることによって、中間には捨の決意がなされた誓願のために他者の利益のために自己を放棄することによって、最後には鎮静の決意がすべての鎮静によって終わりとなることによって、そして最初、中間、最後に智慧の決意がそれ(智慧)があれば生じ、なければ存在せず、かつ誓願通りであることによって存在する。
Tattha mahāpurisā attahitaparahitakarehi garupiyabhāvakarehi saccacāgādhiṭṭhānehi gihibhūtā āmisadānena pare anuggaṇhanti. Tathā attahitaparahitakarehi garupiyabhāvakarehi upasamapaññādhiṭṭhānehi ca pabbajitabhūtā dhammadānena pare anuggaṇhanti.
そこにおいて、偉大な人々は、自利他利をなし、尊敬と愛着を生じさせる、真実と捨施の決意(adhiṭṭhāna)をもって在家者として、物資の布施によって他者を助ける。同様に、自利他利をなし、尊敬と愛着を生じさせる、平静と智慧の決意をもって出家者として、法(ダルマ)の布施によって他者を助ける。
Tattha antimabhave bodhisattassa caturadhiṭṭhānaparipūraṇaṃ. Paripuṇṇacaturadhiṭṭhānassa hi carimakabhavūpapattīti eke. Tatra hi gabbhokkantiṭhitiabhinikkhamanesu paññādhiṭṭhānasamudāgamena sato sampajāno saccādhiṭṭhānapāripūriyā sampatijāto uttarābhimukho sattapadavītihārena gantvā sabbā disā oloketvā saccānuparivattinā vacasā ‘‘aggohamasmi lokassa, jeṭṭho…pe… seṭṭhohamasmi lokassā’’ti (dī. ni. 2.31; ma. ni. 3.207) tikkhattuṃ sīhanādaṃ nadi, upasamādhiṭṭhānasamudāgamena jiṇṇāturamatapabbajitadassāvino catudhammapadesakovidassa yobbanārogyajīvitasampattimadānaṃ upasamo, cāgādhiṭṭhānasamudāgamena mahato ñātiparivaṭṭassa hatthagatassa ca cakkavattirajjassa anapekkhapariccāgoti.
そこにおいて、最後の存在における菩薩の四つの決意の成就である。ある人々は、四つの決意を完全に成就した者の最後の生まれであるという。つまり、受胎、住立、出離において、智慧の決意が生じることにより、気づきと明瞭な理解をもって真実の決意が成就した結果、生まれたばかりの者が北向きに七歩進み、あらゆる方向を見渡して、真実に従った言葉で「私は世間の最上であり、長老であり、世間の最高である」(長部 2.31; 中部 3.207)と三度、獅子吼をなした。平静の決意が生じることにより、老・病・死・出家者を見て、四つの法を説くことに熟達した者が、若さ・健康・生命の恵みに対する慢心を鎮めたこと。捨施の決意が生じることにより、多くの親族の集まりと手中にした転輪聖王の統治を執着なく放棄したこと。
Dutiye ṭhāne abhisambodhiyaṃ caturadhiṭṭhānaṃ paripuṇṇanti keci. Tattha hi yathāpaṭiññaṃ saccādhiṭṭhānasamudāgamena catunnaṃ ariyasaccānaṃ abhisamayo, tato hi saccādhiṭṭhānaṃ paripuṇṇaṃ. Cāgādhiṭṭhānasamudāgamena sabbakilesopakkilesapariccāgo, tato hi cāgādhiṭṭhānaṃ paripuṇṇaṃ. Upasamādhiṭṭhānasamudāgamena paramūpasamasampatti, tato hi upasamādhiṭṭhānaṃ paripuṇṇaṃ. Paññādhiṭṭhānasamudāgamena anāvaraṇañāṇapaṭilābho, tato hi paññādhiṭṭhānaṃ paripuṇṇanti, taṃ asiddhaṃ abhisambodhiyāpi paramatthabhāvato.
第二の段階において、ある人々は、阿毘三菩提において四つの決意が成就されると言う。そこにおいて、誓願の通りに真実の決意が生じることにより、四つの聖なる真理の悟りがある。それゆえ、真実の決意は成就される。捨施の決意が生じることにより、一切の煩悩と随煩悩の放棄がある。それゆえ、捨施の決意は成就される。平静の決意が生じることにより、最高の平静の成就がある。それゆえ、平静の決意は成就される。智慧の決意が生じることにより、無碍智の獲得がある。それゆえ、智慧の決意は成就される、と。しかし、それは阿毘三菩提そのものが究極の実在であるから、確立されていない。
Tatiye ṭhāne dhammacakkappavattane (saṃ. ni. 5.1081; mahāva. 13; paṭi. ma. 2.30) caturadhiṭṭhānaṃ paripuṇṇanti aññe. Tattha hi saccādhiṭṭhānasamudāgatassa dvādasahi ākārehi ariyasaccadesanāya saccādhiṭṭhānaṃ paripuṇṇaṃ, cāgādhiṭṭhānasamudāgatassa saddhammamahāyāgakaraṇena cāgādhiṭṭhānaṃ paripuṇṇaṃ. Upasamādhiṭṭhānasamudāgatassa sayaṃ upasantassa paresaṃ upasamanena upasamādhiṭṭhānaṃ paripuṇṇaṃ, paññādhiṭṭhānasamudāgatassa vineyyānaṃ āsayādiparijānanena paññādhiṭṭhānaṃ paripuṇṇanti, tadapi asiddhaṃ apariyositattā buddhakiccassa.
第三の段階において、他の人々は、法輪を転じること(相応部 5.1081; 大品 13; 無碍解道 2.30)において四つの決意が成就されると言う。そこにおいて、真実の決意が生じた者が十二の様相で聖なる真理を説くことによって、真実の決意は成就される。捨施の決意が生じた者が正法の大施を行うことによって、捨施の決意は成就される。平静の決意が生じた者が、自ら平静である者が他者を平静にすることによって、平静の決意は成就される。智慧の決意が生じた者が、教化すべき人々の傾向などを理解することによって、智慧の決意は成就される、と。しかし、それも仏の事業がまだ完結していないため、確立されていない。
Catutthe ṭhāne parinibbāne caturadhiṭṭhānaparipuṇṇanti apare. Tatra hi parinibbutattā paramatthasaccasampattiyā saccādhiṭṭhānaparipūraṇaṃ, sabbūpadhipaṭinissaggena cāgādhiṭṭhānaparipūraṇaṃ, sabbasaṅkhārūpasamena upasamādhiṭṭhānaparipūraṇaṃ, paññāpayojanapariniṭṭhānena paññādhiṭṭhānaparipūraṇanti.
第四の段階において、他の人々は、般涅槃において四つの決意が成就されると言う。そこにおいて、完全な般涅槃によって究極の真理を成就することにより、真実の決意が成就される。一切の生存の基盤を放棄することにより、捨施の決意が成就される。一切の諸行(サンカーラ)の鎮静により、平静の決意が成就される。智慧の応用の究極により、智慧の決意が成就される、と。
Tatra mahāpurisassa visesena mettākhette abhijātiyaṃ saccādhiṭṭhānasamudāgatassa saccādhiṭṭhānaparipūraṇamabhibyattaṃ, visesena karuṇākhette abhisambodhiyaṃ paññādhiṭṭhānasamudāgatassa paññādhiṭṭhānaparipūraṇamabhibyattaṃ, visesena muditākhette dhammacakkappavattane (saṃ. ni. 5.1081; mahāva. 13; paṭi. ma. 2.30) cāgādhiṭṭhānasamudāgatassa cāgādhiṭṭhānaparipūraṇamabhibyattaṃ, visesena upekkhākhette parinibbāne upasamādhiṭṭhānasamudāgatassa upasamādhiṭṭhānaparipūraṇamabhibyattanti daṭṭhabbaṃ.
そこにおいて、偉大な人の慈悲の領域における誕生において、真実の決意が生じた者の真実の決意の成就が特に顕著であると見なされるべきである。悲の領域における阿毘三菩提において、智慧の決意が生じた者の智慧の決意の成就が特に顕著であると見なされるべきである。随喜の領域における法輪を転じること(相応部 5.1081; 大品 13; 無碍解道 2.30)において、捨施の決意が生じた者の捨施の決意の成就が特に顕著であると見なされるべきである。そして、捨の領域における般涅槃において、平静の決意が生じた者の平静の決意の成就が特に顕著であると見なされるべきである。
Tatrapi saccādhiṭṭhānasamudāgatassa saṃvāsena sīlaṃ veditabbaṃ, cāgādhiṭṭhānasamudāgatassa saṃvohārena soceyyaṃ veditabbaṃ, upasamādhiṭṭhānasamudāgatassa āpadāsu thāmo veditabbo, paññādhiṭṭhānasamudāgatassa sākacchāya paññā veditabbā. Evaṃ sīlājīvacittadiṭṭhivisuddhiyo veditabbā.
そこでも、真実の決意が生じた者の戒(道徳的行為)は共同生活によって知られるべきである。捨施の決意が生じた者の清浄は交流によって知られるべきである。平静の決意が生じた者の忍耐力は逆境において知られるべきである。智慧の決意が生じた者の智慧は対話によって知られるべきである。このように、戒・生活・心・見解の清浄が知られるべきである。
Tathā saccādhiṭṭhānasamudāgamena dosā agatiṃ na gacchati avisaṃvādanato, cāgādhiṭṭhānasamudāgamena lobhā agatiṃ na gacchati anabhisaṅgato, upasamādhiṭṭhānasamudāgamena bhayā agatiṃ na gacchati anaparādhato, paññādhiṭṭhānasamudāgamena mohā agatiṃ na gacchati yathābhūtāvabodhato.
同様に、真実の決意が生じることにより、欺かないことから、瞋恚(怒り)は不正な道に陥らない。捨施の決意が生じることにより、執着しないことから、貪欲は不正な道に陥らない。平静の決意が生じることにより、過ちを犯さないことから、恐怖は不正な道に陥らない。智慧の決意が生じることにより、ありのままの理解から、無明は不正な道に陥らない。
Tathā paṭhamena aduṭṭho adhivāseti, dutiyena aluddho paṭisevati, tatiyena abhīto parivajjeti, catutthena asammūḷho vinodeti. Paṭhamena nekkhammasukhappatti, itarehi pavivekaupasamasambodhisukhappattiyo hontīti daṭṭhabbā. Tathā vivekajapītisukhasamādhijapītisukhaappītijakāyasukhasatipārisuddhijaupekkhāsukhappattiyo etehi catūhi yathākkamaṃ hontīti. Evamanekaguṇānubandhehi catūhi adhiṭṭhānehi sabbapāramisamūhasaṅgaho veditabbo. Yathā ca catūhi adhiṭṭhānehi sabbapāramisaṅgaho, evaṃ karuṇāpaññāhipīti daṭṭhabbaṃ. Sabbopi hi bodhisambhāro karuṇāpaññāhi saṅgahito. Karuṇāpaññāpariggahitā hi dānādiguṇā mahābodhisambhārā bhavanti buddhattasiddhipariyosānāti evametāsaṃ saṅgaho veditabbo.
同様に、第一の決意によって、瞋恚なき者は耐え忍び、第二の決意によって、貪欲なき者は受用し、第三の決意によって、恐れなき者は回避し、第四の決意によって、迷いなき者は払いのける。第一の決意によって出離の楽の獲得があり、他の決意によって遠離、平静、そして覚りの楽の獲得があるべきである。同様に、離から生じる喜悦の楽、定から生じる喜悦の楽、喜悦なき身体の楽、そして念の清浄から生じる捨の楽の獲得が、これら四つの決意によって順次生じるべきである。このように、多くの功徳を伴う四つの決意によって、一切の波羅蜜(パーラミー)の集合が理解されるべきである。四つの決意によって一切の波羅蜜が集合されるのと同様に、悲と智慧によってもそうであると理解されるべきである。一切の菩薩の資材(Bodhisatta's requisites)は悲と智慧によって集合される。悲と智慧に包含された布施などの功徳は、仏となる成就に帰結する大いなる菩薩の資材となるのであり、このようにそれらの集合が理解されるべきである。
Ko sampādanūpāyoti sakalassāpi puññādisambhārassa sammāsambodhiṃ, uddissa anavasesasambharaṇaṃ avekallakāritāyogena, tattha ca sakkaccakāritā ādarabahumānayogena, sātaccakāritā nirantarapayogena, cirakālādiyogo ca antarā avosānāpajjanenāti caturaṅgayogo etāsaṃ sampādanūpāyo. Apica samāsato katābhinīhārassa attani sinehassa pariyādānaṃ, paresu ca sinehassa parivaḍḍhanaṃ etāsaṃ sampādanūpāyo. Sammāsambodhisamadhigamāya hi katamahāpaṇidhānassa mahāsattassa yāthāvato parijānanena sabbesu dhammesu anupalittassa attani sineho parikkhayaṃ pariyādānaṃ gacchati, mahākaruṇāsamāyogavasena pana piye putte viya sabbasatte sampassamānassa tesu mettāsineho parivaḍḍhati. Tato ca taṃtadāvatthānurūpamattaparasantānesu lobhadosamohavigamena vidūrīkatamacchariyādibodhisambhārapaṭipakkho mahāpuriso dānapiyavacanaatthacariyāsamānattatāsaṅkhātehi catūhi saṅgahavatthūhi (dī. ni. 3.210; a. ni. 4.32) caturadhiṭṭhānānugatehi accantaṃ janassa saṅgahakaraṇavasena upari yānattaye avatāraṇaṃ paripācanañca karoti. Mahāsattānañhi mahāpaññā mahākaruṇā ca dānena alaṅkatā; dānaṃ piyavacanena; piyavacanaṃ atthacariyāya; atthacariyā samānattatāya alaṅkatā saṅgahitā ca. Sabbabhūtattabhūtassa hi bodhisattassa sabbattha samānasukhadukkhatāya samānattatāsiddhi. Buddhabhūto pana teheva saṅgahavatthūhi caturadhiṭṭhānaparipūritābhibuddhehi janassa accantikasaṅgahakaraṇena abhivinayanaṃ karoti. Dānañhi sammāsambuddhānaṃ cāgādhiṭṭhānena paripūritābhibuddhaṃ; piyavacanaṃ saccādhiṭṭhānena; atthacariyā paññādhiṭṭhānena; samānattatā upasamādhiṭṭhānena paripūritābhibuddhā. Tathāgatānañhi sabbasāvakapaccekabuddhehi samānattatā parinibbāne. Tatra hi tesaṃ avisesato ekībhāvo. Tenevāha ‘‘natthi vimuttiyā nānatta’’nti.
達成の手段とは何かというと、一切の功徳などの資材を正等覚のために、欠けることなく集めること、すなわち欠陥のない行為の方法であり、そこにおいては、敬意と尊敬をもって注意深く行うこと、絶え間ない実践をもって継続的に行うこと、そして中断することなく長期にわたる努力を継続すること、この四つの要素の結合がそれらの達成手段である。また、要約すれば、誓願を立てた者が自己への愛着を使い果たし、他者への愛着を増大させることが、それらの達成手段である。正等覚の達成のために大誓願を立てた大勇者(mahāsatta)は、ありのままに事物を知り、あらゆる現象に染まらないことによって、自己への愛着が尽き、消滅する。しかし、大いなる悲の結合によって、愛する息子のように一切の衆生を見ることで、彼らへの慈愛が増大する。それから、その時々の状況に応じて、自己や他者の心身の系において、貪・瞋・痴の消滅によって、慳貪などを遠ざけ、菩薩の資材に敵対するものがなくなった偉大な人々は、布施・愛語・利行・同事という四つの摂事(saṅgahavatthu)をもって(長部 3.210; 増支部 4.32)、四つの決意に従い、人々を究極的に助けることによって、上の三乗に導き、成熟させる。大勇者たちの偉大な智慧と偉大な悲は布施によって飾られる。布施は愛語によって、愛語は利行によって、利行は同事によって飾られ、集合される。一切の衆生と一体となった菩薩にとっては、どこでも同じ幸福と苦しみがあることで、同事の成就がある。しかし、仏陀となられた方は、それらの摂事によって、四つの決意によって完全に覚醒した上で、人々に究極的な助けを行うことによって、導きを行う。布施は、正等覚者たちにおいては捨施の決意によって完全に覚醒したものである。愛語は真実の決意によって。利行は智慧の決意によって。同事は平静の決意によって完全に覚醒したものである。如来たちにとっては、一切の声聞や独覚仏と般涅槃において同事である。そこにおいては、彼らは区別なく一体である。それゆえ、『解脱に多様性はない』と説かれたのである。
Honti cettha –
そこには次の句がある —
‘‘Sacco cāgī upasanto, paññavā anukampako,
「真実を語り、捨施し、平静であり、智慧深く、慈悲深い者、
Sambhatasabbasambhāro, kaṃ nāmatthaṃ na sādhaye.
一切の資材を集めた者、いかなる目的をも成就しないであろうか。
Mahākāruṇiko satthā, hitesī ca upekkhako,
大いなる慈悲を持つ師、利益を求める者、そして捨を具えた者、
Nirapekkho ca sabbattha, aho acchariyo jino.
どこにおいても執着なく、ああ、驚くべき勝利者よ。
Viratto sabbadhammesu, sattesu ca upekkhako,
一切の事柄に離欲し、衆生に対して捨を具えた者、
Sadā sattahite yutto, aho acchariyo jino.
常に衆生の利益に尽力する者、ああ、驚くべき勝利者よ。
Sabbadā sabbasattānaṃ, hitāya ca sukhāya ca,
常に一切の衆生の利益と幸福のために、
Uyyutto akilāsū ca, aho acchariyo jino’’ti. (cariyā. aṭṭha. 320 pakiṇṇakakathā);
疲れを知らず尽力する者、ああ、驚くべき勝利者よ」(行蔵注 320 雑話)。
Kittakena kālena sampādananti heṭṭhimena tāva paricchedena cattāri asaṅkhyeyyāni kappasatasahassañca, majjhimena aṭṭhāsaṅkhyeyyāni kappasatasahassañca, uparimena soḷasāsaṅkhyeyyāni kappasatasahassañca, ete ca bhedā yathākkamaṃ paññādhikasaddhādhikavīriyādhikavasena ñātabbā. Paññādhikānañhi saddhā mandā hoti, paññā tikkhā. Saddhādhikānaṃ paññā majjhimā hoti, vīriyādhikānaṃ paññā mandā. Paññānubhāvena ca sammāsambodhi abhigantabbāti aṭṭhakathāyaṃ vuttaṃ. Avisesena pana vimuttiparipācanīyānaṃ dhammānaṃ tikkhamajjhimamudubhāvena tayopete bhedā yuttāti vadanti. Tividhā hi bodhisattā abhinīhārakkhaṇe bhavanti ugghaṭitaññūvipañcitaññūneyyabhedena. Tesu ugghaṭitaññū sammāsambuddhassa sammukhā catuppadikaṃ gāthaṃ suṇanto tatiyapade apariyositeyeva chaabhiññāhi saha paṭisambhidāhi arahattaṃ pattuṃ samatthupanissayo hoti, dutiyo satthu sammukhā catuppadikaṃ gāthaṃ suṇanto apariyositeyeva catutthapade chahi abhiññāhi arahattaṃ pattuṃ samatthupanissayo hoti, itaro bhagavato sammukhā catuppadikaṃ gāthaṃ sutvā pariyositāya gāthāya chahi abhiññāhi arahattaṃ pattuṃ samatthupanissayo bhavati. Tayopete vinā kālabhedena katābhinīhāraladdhabyākaraṇā pāramiyo pūrentā yathākkamaṃ yathāvuttabhedena kālena sammāsambodhiṃ pāpuṇanti. Tesu tesu pana kālabhedesu aparipuṇṇesu te te mahāsattā divase divase vessantaradānasadisaṃ dānaṃ dentāpi tadanurūpe sīlādisabbapāramidhamme ācinantāpi antarā buddhā bhavissantīti akāraṇametaṃ. Kasmā? Ñāṇassa aparipaccanato. Paricchinnakālanipphāditaṃ viya hi sassaṃ paricchinnakāle parinipphāditā sammāsambodhi. Tadantarā pana sabbussāhena vāyamantenāpi na sakkā pāpuṇitunti pāramipāripūrī yathāvuttakālavisesaṃ vinā na sampajjatīti veditabbaṃ.
どのくらいの期間で達成されるかというと、まず最低限の区別では、四阿僧祇(asankheyya)と十万劫であり、中間では、八阿僧祇と十万劫であり、最高の区別では、十六阿僧祇と十万劫である。これらの違いは、それぞれ智慧を優先する者、信仰を優先する者、精進を優先する者として知られるべきである。智慧を優先する者の信仰は弱く、智慧は鋭い。信仰を優先する者の智慧は中程度であり、精進を優先する者の智慧は弱い。註釈書には、智慧の力によって正等覚に至るべきであると説かれている。しかし、一般的には、解脱を成熟させる法が、鋭い・中程度・鈍いの三種類であるから、これらの三つの区別は適切であると彼らは言う。誓願の時に、菩薩には三種類の者がいる。すなわち、即知者(ugghaṭitaññū)、解発智者(vipañcitaññū)、被教導者(neyya)の区別である。このうち即知者は、正等覚者から四句の偈を聞いて、第三句が終わらないうちに、六神通と四無碍解をもって阿羅漢果に到達する能力を持つ者である。第二の解発智者は、師から四句の偈を聞いて、第四句が終わらないうちに六神通をもって阿羅漢果に到達する能力を持つ者である。もう一人の被教導者は、世尊から四句の偈を聞き、偈が終わった後に六神通をもって阿羅漢果に到達する能力を持つ者である。これらの三者も、時間の区別なく、誓願を立てて授記を受けた後、波羅蜜を完成させ、それぞれ述べられた区別の時間をもって正等覚に至る。しかし、それらの時間の区別が満たされないうちに、これらの大勇者たちが日々ヴェッサンタラ王の布施のような布施を行い、それに見合った戒などの一切の波羅蜜の法を積んだとしても、途中で仏となることはない。これは理由のないことではない。なぜなら、智慧が成熟していないからである。あたかも定められた時期に実る作物のごとく、定められた時期に正等覚は完全に成就される。その間は、たとえ全身全霊で努力したとしても達成することはできないので、波羅蜜の完成は、述べられた特定の時期なしには成就しないと理解されるべきである。
Ko ānisaṃsoti ye te katābhinīhārānaṃ bodhisattānaṃ –
利得とは何かというと、誓願を立てた菩薩たちには、次の句にあるように —
‘‘Evaṃ sabbaṅgasampannā, bodhiyā niyatā narā;
「このように、一切の要素を具足し、覚りに定められた人々は、
Saṃsaraṃ dīghamaddhānaṃ, kappakoṭisatehipi;
長い輪廻の道程を、幾億劫(かそこばく)もの間、
Avīcimhi nuppajjanti, tathā lokantaresu cā’’ti. ādinā (abhi. aṭṭha. 1.nidānakathā; apa. aṭṭha. 1.dūrenidānakathā; jā. aṭṭha. 1.dūrenidānakathā; bu. vaṃ. aṭṭha. 27.dūrenidānakathā; cariyā. aṭṭha. pakiṇṇakakathā) –
無間地獄にも生まれず、また諸々の世界の間にも生まれない。」といった記述(アビダンマ注釈 1.ニダーナ物語; アパダーナ注釈 1.遠い因縁物語; ジャータカ注釈 1.遠い因縁物語; 仏種姓経注釈 27.遠い因縁物語; 行蔵注釈 雑話)において —
Aṭṭhārasa abhabbaṭṭhānānupagamanappakārā ānisaṃsā saṃvaṇṇitā. Ye ca ‘‘sato sampajāno ānanda bodhisatto tusitākāyā cavitvā mātukucchiṃ okkamī’’tiādinā (ma. ni. 3.199) soḷasa acchariyabbhutadhammappakārā, ye ca ‘‘sītaṃ byapagataṃ hoti, uṇhañca upasammatī’’tiādinā (bu. vaṃ. 83), ‘‘jāyamāne kho sāriputta bodhisatte ayaṃ dasasahassilokadhātu saṅkampati sampakampati sampavedhatī’’tiādinā ca dvattiṃsa pubbanimittappakārā, ye vā panaññepi ‘‘bodhisattānaṃ adhippāyasamijjhanaṃ kammādīsu vasībhāvo’’ti evamādayo tattha tattha jātakabuddhavaṃsādīsu dassitappakārā ānisaṃsā, te sabbepi etāsaṃ ānisaṃsā, tathā yathānidassitabhedā alobhādosādiguṇayugaḷādayo cāti veditabbā.
十八の不可能状態に陥らない種類の利得が述べられている。また、「アーナンダよ、菩薩は気づきと明瞭な理解をもって兜率天から移り、母の胎内に入った」(中部 3.199)といった十六の驚くべき奇妙な現象や、「寒さは去り、暑さも鎮まる」(仏種姓経 83)といった記述、また「サーリプッタよ、菩薩が生まれるとき、この一万の世間界は揺れ、震え、激しく揺れ動く」(中部 3.199 参照)といった三十二の吉兆の種類、あるいは「菩薩の意図の成就、行為などにおける自在さ」といった、様々なジャータカや仏種姓経などに示された利得の類は、すべてこれらの利得であり、また示されたような無貪・無瞋などの善行の対などもそうであると理解されるべきである。
Kiṃ phalanti samāsato tāva sammāsambuddhabhāvo etāsaṃ phalaṃ, vitthārato pana dvattiṃsamahāpurisalakkhaṇa- (dī. ni. 2.24 ādayo; 3.168 ādayo; ma. ni. 2.385) asītianubyañjanabyāmappabhādianekaguṇagaṇasamujjalarūpakāyasampattiadhiṭṭhānā dasabalacatuvesārajjachaasādhāraṇañāṇaaṭṭhārasāveṇikabuddhadhamma- (dī. ni. aṭṭha. 3.305; mūlaṭī. 2.suttantabhājanīyavaṇṇanā) -pabhutianekasatasahassaguṇasamudayopasobhinī dhammakāyasirī, yāvatā pana buddhaguṇā ye anekehipi kappehi sammāsambuddhenāpi vācāya pariyosāpetuṃ na sakkā, idaṃ etāsaṃ phalanti ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana buddhavaṃsacariyāpiṭakajātakamahāpadānasuttādīnaṃ vasena veditabbo.
これらの果報とは何か。簡潔に言えば、正等覚者としての境地がその果報である。詳細に述べれば、三十二の大士の相(長部 2.24等; 3.168等; 中部 2.385)、八十種好、一尋の光背など無数の功徳によって輝く色身の成就、そして十力、四無畏、六不共智、十八の不共仏法(長部註 3.305; 根本註 2.経典分割義解)をはじめとする、無数の百千の功徳の集合によって荘厳された法身の栄光である。仏陀の功徳は、いかに多くの劫を経ても正等覚者でさえ言葉で語り尽くすことができないものであり、これがこれらの果報であるというのがここでの要約である。詳細については、『仏種族史』、『行蔵』、『本生譚』、『大本経』などの経典によって知られるべきである。
Yathāvuttāya paṭipadāya yathāvuttavibhāgānaṃ pāramīnaṃ pūritabhāvaṃ sandhāyāha **‘‘samatiṃsa pāramiyo pūretvā’’**ti. Satipi mahāpariccāgānaṃ dānapāramibhāve pariccāgavisesabhāvadassanatthañceva sudukkarabhāvadassanatthañca **‘‘pañca mahāpariccāge’’**ti visuṃ gahaṇaṃ, tatoyeva ca aṅgapariccāgato visuṃ nayanapariccāgaggahaṇaṃ, pariggahapariccāgabhāvasāmaññepi dhanarajjapariccāgato puttadārapariccāgaggahaṇañca kataṃ. Gatapaccāgatikavattasaṅkhātāya pubbabhāgapaṭipadāya saddhiṃ abhiññāsamāpattinipphādanaṃ pubbayogo. Dānādīsuyeva sātisayapaṭipattinipphādanaṃ pubbacariyā, yā cariyāpiṭakasaṅgahitā. Abhinīhāro pubbayogo, dānādipaṭipatti, kāyavivekavasena ekacariyā vā pubbacariyāti keci. Dānādīnañceva appicchatādīnañca saṃsāranibbānesu ādīnavānisaṃsādīnañca vibhāvanavasena sattānaṃ bodhittaye patiṭṭhāpanaparipācanavasena pavattā kathā dhammakkhānaṃ. Ñātīnaṃ atthacariyā ñātatthacariyā, sāpi karuṇāyanavaseneva. Ādi-saddena lokatthacariyādayo saṅgaṇhāti. Kammassakatāñāṇavasena, anavajjakammāyatanavijjāṭṭhānaparicayavasena, khandhāyatanādiparicayavasena, lakkhaṇattayatīraṇavasena ca ñāṇacāro buddhicariyā, sā pana atthato paññāpāramīyeva, ñāṇasambhāradassanatthaṃ visuṃ gahaṇaṃ. Koṭinti pariyanto, ukkaṃsoti attho. Cattāro satipaṭṭhāne bhāvetvā brūhetvāti sambandho. Tattha bhāvetvāti uppādetvā. Brūhetvāti vaḍḍhetvā. Satipaṭṭhānādiggahaṇena āgamanapaṭipadaṃ matthakaṃ pāpetvā dasseti, vipassanāsahagatā eva vā satipaṭṭhānādayo daṭṭhabbā. Ettha ca ‘‘yena abhinīhārenā’’tiādinā āgamanapaṭipadāya ādiṃ dasseti, ‘‘dānapāramī’’tiādinā majjhaṃ, ‘‘cattāro satipaṭṭhāne’’tiādinā pariyosānanti veditabbaṃ.
このように述べられた道によって、このように述べられた諸々の波羅蜜が満たされたことを指して、『三十の波羅蜜を満たして』と説かれる。大施が布施波羅蜜に含まれていても、『五つの大施』と別々に挙げられるのは、その施の特殊な性質と、その極めて困難な性質を示すためである。そのため、手足の施とは別に、眼の施が挙げられ、所有物の施という共通の範疇においても、財や王位の施とは別に、妻子を捨てる施が挙げられている。往還行と呼ばれる前段階の行と倶に、神通・三昧を成就することが『前行(pubbayoga)』である。布施などにおいて特に優れた行を成就することが『前行(pubbacariyā)』であり、それは『行蔵(Cariyāpiṭaka)』に収められている。発願は『前行(pubbayoga)』、布施などの修行、あるいは身の離隔による一つの行が『前行(pubbacariyā)』であると説く者もいる。布施など、あるいは少欲などの諸徳について、そして輪廻と涅槃における過患と功徳を明らかにすることによって、衆生を三つの悟りの境地に確立させ、円熟させるために説かれる教えが『説法(dhammakkhāna)』である。親族の利益のための行が『親族利行(ñātatthacariyā)』であり、それも慈悲を根源とする。『等(ādi)』の語によって、世間利行などが包含される。業の自性に関する知、無咎の業の領域と智慧の拠り所との習熟、蘊処などの習熟、三相の識別に基づく智慧の活動が『智行(buddhicariyā)』である。しかしそれは、本質的には般若波羅蜜そのものであり、智慧の資糧を示すために別に挙げられている。『Koṭi(究極)』とは終極であり、最高の意味である。『四念処を修習し、増長させて』と関連づけられる。ここで『修習する(bhāvetvā)』とは生起させること、『増長させる(brūhetvā)』とは成長させることである。念処などを挙げることで、到達すべき道が頂点に達したことを示しているか、あるいは念処などは観と共に理解されるべきである。そしてここで、『いかなる発願によって』などに始まることで道のはじめが示され、『布施波羅蜜』などによって中間が、そして『四念処』などによって終結が示されると知るべきである。
Sampatijātoti hatthato muccitvā muhuttajāto, na mātukucchito nikkhantamatto. Nikkhantamattañhi mahāsattaṃ paṭhamaṃ brahmāno suvaṇṇajālena paṭiggaṇhiṃsu, tesaṃ hatthato cattāro mahārājāno ajinappaveṇiyā, tesaṃ hatthato manussā dukūlacumbaṭakena paṭiggaṇhiṃsu, manussānaṃ hatthato muñcitvā pathaviyaṃ patiṭṭhitoti yathāha bhagavā mahāpadānadesanāyaṃ. Setamhi chatteti dibbasetacchatte. Anuhīramāneti dhāriyamāne. Ettha ca chattaggahaṇeneva khaggādīni pañca kakudhabhaṇḍānipi (jā. 2.19.72) vuttānevāti veditabbaṃ. Khaggatālavaṇṭamorahatthakavāḷabījanīuṇhīsapaṭṭāpi hi chattena saha tadā upaṭṭhitā ahesuṃ. Chattādīniyeva ca tadā paññāyiṃsu, na chattādigāhakā. Sabbā ca disāti dasapi disā. Nayidaṃ sabbadisāvilokanaṃ sattapadavītihāruttarakālaṃ daṭṭhabbaṃ. Mahāsatto hi manussānaṃ hatthato muccitvā puratthimadisaṃ olokesi, tattha devamanussā gandhamālādīhi pūjayamānā ‘‘mahāpurisa idha tumhehi sadisopi natthi, kuto uttaritaro’’ti āhaṃsu. Evaṃ catasso disā, catasso anudisā, heṭṭhā, uparīti sabbā disā anuviloketvā sabbattha attanā sadisaṃ adisvā ‘‘ayaṃ uttarā disā’’ti tattha sattapadavītihārena agamāsi. Āsabhinti uttamaṃ. Aggoti sabbapaṭhamo. Jeṭṭho seṭṭhoti ca tasseva vevacanaṃ. Ayamantimā jāti, natthi dāni punabbhavoti imasmiṃ attabhāve pattabbaṃ arahattaṃ byākāsi.
『生れたばかりの』とは、手に抱かれてからほんのひととき経過しただけで、母の胎から出たばかりではないことを意味する。世尊が大本経で説かれたように、まさに生まれたばかりの大いなる存在は、まず梵天たちが黄金の網で受け止め、彼らの手から四大天王が鹿の皮の敷物で受け止め、彼らの手から人間が絹の帯で受け止め、人間の手から解放されて大地に立ったのである。『白い傘の下に』とは、神聖な白い傘の下を意味する。『掲げられて』とは、持たれていることを意味する。そしてここで、傘が挙げられることによって、剣などの五つの王権の標識(本生譚 2.19.72)も述べられていると理解されるべきである。実際、剣、団扇、孔雀の尾の払子、サンダル、冠帯もその時、傘と共に存在していた。その時現れたのは傘などだけで、それらを持つ者は現れなかった。『すべての方向』とは、十方を意味する。このすべての方向を見ることは、七歩歩んだ後のことと理解されるべきではない。というのも、大いなる存在は、人間の手から解放されてから東の方角を顧みた。そこで神々や人々は、香や花輪などで供養しながら、『大いなる人よ、ここにあなたに匹敵する者さえいないのに、どうしてそれ以上の者がいられようか』と告げた。このようにして、四大方角、四中間方角、下方、上方というすべての方向を巡り見て、どこにも自分に等しい者を見つけられず、『これが最高の方向である』と言って、そこへ七歩歩んで進んだのである。『Āsabha(最上)』とは、最上のことである。『Aggo(勝者)』とは、すべてにおいて第一のことである。『Jeṭṭho(最上)』と『Seṭṭho(最勝)』は、それと同じ意味の言葉である。彼は『これが最後の生である、もはや再び生まれることはない』と述べ、この存在において到達すべき阿羅漢果を宣言した。
**‘‘Anekesaṃ visesādhigamānaṃ pubbanimittabhāvenā’’**ti saṅkhittena vuttamatthaṃ **‘‘yañhī’’**tiādinā vitthārato dasseti. Tattha etthāti –
『多くの特別なる成就の前兆として』と簡潔に述べられた意味を、『実にそのように』などによって詳しく示す。そこでの『ここに』とは —
‘‘Anekasākhañca sahassamaṇḍalaṃ,
「無数の枝を持ち、千の環を有する
Chattaṃ marū dhārayumantalikkhe;
傘を神々が虚空に掲げた
Suvaṇṇadaṇḍā vītipatanti cāmarā,
黄金の柄の払子が翩翩と舞い
Na dissare cāmarachattagāhakā’’ti. (su. ni. 693);
払子や傘を持つ者たちは見えなかった」と。(スッタニパータ 693);
Imissā gāthāya. Sabbaññutaññāṇameva sabbattha appaṭihatacāratāya anāvaraṇañāṇanti āha **‘‘sabbaññutānāvaraṇañāṇapaṭilābhassā’’**ti. **‘‘Tathā ayaṃ bhagavāpi gato…pe… pubbanimittabhāvenā’’**ti etena abhijātiyaṃ dhammatāvasena uppajjanavisesā sabbabodhisattānaṃ sādhāraṇāti dasseti. Pāramitānissandā hi teti.
この詩によって、すべてにおいて妨げられない活動性ゆえに、一切智である無碍智そのものが『一切智無碍智の獲得のため』であると説かれる。『このようにこの世尊も行き…(中略)…前兆として』という言葉によって、誕生における諸々の特別な出来事は、すべて菩薩たちに共通して生じる法性(自然の理)であることを示す。これらは実に波羅蜜の余波である。
Vikkamīti agamāsi. Marūti devā. Samāti vilokanasamatāya samā sadisiyo. Mahāpuriso hi yathā ekaṃ disaṃ vilokesi, evaṃ sesā disāpi, na katthaci vilokane vibandho tassa ahosīti. Samāti vā viloketuṃ yuttāti attho. Na hi tadā bodhisattassa virūpabībhacchavisamarūpāni viloketuṃ ayuttāni disāsu upaṭṭhahantīti.
『歩み進んだ(Vikkamī)』とは、行ったことを意味する。『神々(Maru)』とは、デーヴァを意味する。『平等な(Samā)』とは、見る能力において等しい、あるいは類似していることを意味する。大いなる存在は、ある方向を見たように、他の方向も見た。彼の見ることを妨げるものはどこにもなかった。『平等な』とは、見られるのにふさわしい、という意味でもある。なぜなら、その時、菩薩が見るにふさわしくない醜悪で忌まわしい不均等な姿が、どの方向にも現れなかったからである。
‘‘Evaṃ tathāgato’’ti kāyagamanaṭṭhena gata-saddena tathāgata-saddaṃ niddisitvā idāni ñāṇagamanaṭṭhena taṃ dassetuṃ **‘‘atha vā’’**tiādimāha. Tattha nekkhammenāti alobhappadhānena kusalacittuppādena. Kusalā hi dhammā idha nekkhammaṃ, na pabbajjādayo, ‘‘paṭhamajjhānenā’’ti ca vadanti. Pahāyāti pajahitvā. Gato adhigato, paṭipanno uttarivisesanti attho. Pahāyāti vā pahānahetu, pahānalakkhaṇaṃ vā. Hetulakkhaṇattho hi ayaṃ pahāya-saddo. ‘‘Kāmacchandādippahānahetukaṃ gato’’ti hettha vuttaṃ gamanaṃ avabodho, paṭipatti eva vā. Kāmacchandādippahānena ca taṃ lakkhīyati. Esa nayo **‘‘padāletvā’’**tiādīsupi. Abyāpādenāti mettāya. Ālokasaññāyāti vibhūtaṃ katvā manasikaraṇena upaṭṭhitaālokasañjānanena. Avikkhepenāti samādhinā. Dhammavavatthānenāti kusalādidhammānaṃ yāthāvavinicchayena, ‘‘sappaccayanāmarūpavavatthānenā’’tipi vadanti.
『このように如来は』と、身の行く意味での『去る(gata)』という語によって如来という語を説示し、今度は智慧の行く意味でそれを示すために、『あるいは』と説かれる。そこでの『出離によって』とは、無貪を主とする善なる心の生起によることである。実際、ここで出離とは善なる法であり、出家などではない。『初禅によって』とも説かれる。『捨てて』とは、放棄して、である。『行った』とは、達成された、あるいはさらに優れた状態に進んだ、という意味である。あるいは『捨てて』とは、捨てる原因、あるいは捨てる特徴を意味する。実際、この『捨てて』という語は、原因と特徴の意味を持つ。『欲愛などを捨てることを原因として行った』とここで説かれる『行った』は、悟りであり、あるいは修行そのものである。そしてそれは、欲愛などを捨てることによって特徴づけられる。この方法は、『打ち破って』などにおいても同様である。『無瞋によって』とは、慈愛によることである。『光明想によって』とは、明確に注意を向けることによって現れた光明を知覚することによる。『散乱なく』とは、三昧によることである。『法を確立することによって』とは、善などの諸法を如実に識別することによる。また『縁起する名色を確立することによって』とも説かれる。
Evaṃ kāmacchandādinīvaraṇappahānena ‘‘abhijjhaṃ loke pahāyā’’tiādinā (vibha. 508) vuttāya paṭhamajjhānassa pubbabhāgapaṭipadāya bhagavato tathāgatabhāvaṃ dassetvā idāni saha upāyena aṭṭhahi samāpattīhi, aṭṭhārasahi ca mahāvipassanāhi taṃ dassetuṃ **‘‘ñāṇenā’’**tiādimāha. Nāmarūpapariggahakaṅkhāvitaraṇānañhi vibandhabhūtassa mohassa dūrīkaraṇena ñātapariññāyaṃ ṭhitassa aniccasaññādayo sijjhanti, tathā jhānasamāpattīsu abhiratinimittena pāmojjena, tattha anabhiratiyā vinoditāya jhānādi samadhigamoti samāpattivipassanānaṃ arativinodanaavijjāpadālanādi upāyo, uppaṭipāṭiniddeso pana nīvaraṇasabhāvāya avijjāya heṭṭhā nīvaraṇesupi saṅgahadassanatthanti daṭṭhabbaṃ. Samāpattivihārappavesavibandhanena nīvaraṇāni kavāṭasadisānīti āha **‘‘nīvaraṇakavāṭaṃ ugghāṭetvā’’**ti. ‘‘Rattiṃ vitakketvā vicāretvā divā kammante payojetī’’ti vuttaṭṭhāne viya vitakkavicārā dhūmāyanāti adhippetāti āha **‘‘vitakkavicāradhūma’’**nti. Kiñcāpi paṭhamajjhānūpacāreyeva ca dukkhaṃ, catutthajjhānūpacāreyeva sukhaṃ pahīyati, atisayappahānaṃ pana sandhāyāha **‘‘catutthajjhānena sukhadukkhaṃ pahāyā’’**ti.
このように欲愛などの蓋を捨てることによって、『世間の貪りを捨てて』(分別論 508)などに説かれる初禅の前段階の行をもって世尊の如来たる状態を示した後、今度は方便と共に八つの三昧(定)と十八の大きな観をもってそれを示すために、『智慧によって』と説かれる。名色の把握と疑いを乗り越えることへの障害である愚痴を取り除くことによって、遍知された認識に確立した者には、無常などの想が生じる。また、禅定三昧における歓喜の徴である喜びによって、そしてそこでの不満が取り除かれることによって、禅定などが達成される。このように、三昧と観のための不満の除去、無明の粉砕などが方便であり、逆の順序で説かれるのは、蓋障の性質を持つ無明が、下位の蓋障にも含まれることを示すためと理解すべきである。蓋障は三昧(定)に入ることへの障害となる戸のようなものであるから、『蓋障の戸を開いて』と説かれる。『夜に尋思し、思惟して、昼には仕事を行う』と説かれる箇所のように、尋思と思惟が煙のようであると意図されることから、『尋思思惟の煙』と説かれる。たとえ苦は初禅の近行において、楽は第四禅の近行において捨てられるとしても、ここではその徹底的な放棄を指して、『第四禅によって苦楽を捨てて』と説かれる。
Aniccassa, aniccanti anupassanā aniccānupassanā, tebhūmakadhammānaṃ aniccataṃ gahetvā pavattāya vipassanāyetaṃ nāmaṃ. Niccasaññanti saṅkhatadhamme ‘‘niccā, sassatā’’ti evaṃ pavattamicchāsaññaṃ, saññāsīsena diṭṭhicittānampi gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Esa nayo ito paresupi. Nibbidānupassanāyāti saṅkhāresu nibbijjanākārena pavattāya anupassanāya. Nandinti sappītikataṇhaṃ. Tathā virāgānupassanāyāti virajjanākārena pavattāya anupassanāya. Nirodhānupassanāyāti saṅkhārānaṃ nirodhassa anupassanāya. ‘‘Te saṅkhārā nirujjhantiyeva, āyatiṃ samudayavasena na uppajjantī’’ti evaṃ vā anupassanā nirodhānupassanā. Tenevāha ‘‘nirodhānupassanāya nirodheti, no samudetī’’ti. Muñcitukamyatā hi ayaṃ balappattāti. Paṭinissajjanākārena pavattā anupassanā paṭinissaggānupassanā. Paṭisaṅkhā santiṭṭhanā hi ayaṃ. Ādānanti niccādivasena gahaṇaṃ. Santatisamūhakiccārammaṇānaṃ vasena ekattaggahaṇaṃ ghanasaññā. Āyūhanaṃ abhisaṅkharaṇaṃ. Avatthāvisesāpatti vipariṇāmo. Dhuvasaññanti thirabhāvaggahaṇaṃ. Nimittanti samūhādighanavasena, sakiccaparicchedatāya ca saṅkhārānaṃ saviggahaggahaṇaṃ. Paṇidhinti rāgādipaṇidhiṃ, sā panatthato taṇhānaṃ vasena saṅkhāresu ninnatā.
無常、無常と随観することが『無常随観』である。これは三界の諸法の無常を取って進行する観のことである。『常住の想』とは、有為の諸法を『常住である、永遠である』と捉える誤った想であり、想という言葉の頭に、見解や心も含まれると理解されるべきである。この方法は他においても同様である。『厭離随観によって』とは、有為の諸法に厭離する様式で進行する随観によることである。『Nandi(歓喜)』とは、喜悦を伴う渇愛である。同様に、『離欲随観』とは、離欲する様式で進行する随観である。『滅尽随観』とは、諸行の滅尽を随観することである。あるいは、『それらの諸行はまさに滅尽し、未来において集起することはない』という随観が滅尽随観である。それゆえ、『滅尽随観によって滅尽し、集起しない』と説かれるのである。実に、これは解脱を願う心であり、力が得られたのである。放棄する様式で進行する随観が『捨遣随観』である。実に、これは考察と確立である。『執着』とは、常住などとして捉えることである。連続、集合、機能、対象の様式における統一の把握が『密集想』である。『努力』とは、形成すること、造作することである。『変異』とは、特殊な状態への変化に陥ることである。『固定の想』とは、堅固な状態を把握することである。『相』とは、集合などの密集の様式、そしてそれぞれの機能の判別によって、諸行を個別に把握することである。『願』とは、貪欲などから生じる願いである。しかしそれは、本質的には渇愛の様式で諸行に傾倒することである。
Abhinivesanti attānudiṭṭhiṃ. Aniccadukkhādivasena sabbadhammatīraṇaṃ adhipaññādhammavipassanā. Sārādānābhinivesanti asāre sāraggahaṇavipallāsaṃ. ‘‘Issarakuttādivasena loko samuppanno’’ti abhiniveso sammohābhiniveso. Keci pana ‘‘ahosiṃ nu kho ahamatītamaddhānantiādinā pavattasaṃsayāpatti **sammohābhiniveso’’**ti vadanti. Saṅkhāresu leṇatāṇabhāvaggahaṇaṃ ālayābhiniveso. ‘‘Ālayaratā ālayasamuditā’’ti vacanato ālayo taṇhā, sāyeva cakkhādīsu rūpādīsu ca abhinivisanavasena pavattiyā ālayābhinivesoti keci. ‘‘Evaṃvidhā saṅkhārā paṭinissajjīyantī’’ti pavattaṃ ñāṇaṃ paṭisaṅkhānupassanā. Vaṭṭato vigatattā vivaṭṭaṃ nibbānaṃ, tattha ārammaṇakaraṇasaṅkhātena anupassanena pavattiyā vivaṭṭānupassanā gotrabhu. Saṃyogābhinivesanti saṃyujjanavasena saṅkhāresu abhinivisanaṃ. Diṭṭhekaṭṭheti diṭṭhiyā sahajātekaṭṭhe, pahānekaṭṭhe ca. **‘‘Oḷārike’’**ti uparimaggavajjhe kilese apekkhitvā vuttaṃ, aññathā dassanapahātabbāpi dutiyamaggavajjhehi oḷārikāti. Aṇusahagateti aṇubhūte, idaṃ heṭṭhimamaggavajjhe apekkhitvā vuttaṃ. Sabbakileseti avasiṭṭhasabbakilese. Na hi paṭhamādimaggehi pahīnā kilesā puna pahīyantīti.
『執着(abhinivesa)』とは、自我見(attānudiṭṭhi)を意味する。無常、苦などの観点からすべての法を識別する智慧の観が『増上慧法観(adhipaññādhammavipassanā)』である。『核心を把握する執着』とは、非本質的なものに本質的なものを見出すという顛倒である。『世界は創造主たる神などの原因によって生じた』という信念が『迷妄の執着(sammohābhinivesa)』である。ある者は、『過去世において私は存在したのか』などに生じた疑いに陥ることが『迷妄の執着』であると説く。諸行に庇護や救済の対象を見出すことが『執着の執着(ālayābhinivesa)』である。『執着を好み、執着に集合する』という言葉によれば、執着とは渇愛である。ある者は、眼や色などの対象に執着する活動が『執着の執着』であると説く。『このような諸行は放棄されるべきである』というように生じる智慧が『省察随観(paṭisaṅkhānupassanā)』である。輪廻から離れているゆえに、涅槃は『不転回(vivaṭṭa)』である。そこにおいて対象となす随観の活動による『不転回随観(vivaṭṭānupassanā)』が、ゴトラブー(種姓智)である。『結縛の執着(saṃyogābhinivesa)』とは、結びつけられる様式で諸行に執着することである。『見と一体の』とは、見と共に生じる一体性、そして見と共に捨てられる一体性のことである。『粗大な(oḷārike)』とは、上位の道によって捨てられるべき煩悩を指して言われたものである。さもなければ、見によって捨てられるべき煩悩も、第二の道によって捨てられるべき煩悩に対しては粗大である。『微細な(aṇusahagate)』とは、微細な状態を意味する。これは下位の道によって捨てられるべき煩悩を指して言われたものである。『すべての煩悩』とは、残りのすべての煩悩である。なぜなら、第一などの道によって捨てられた煩悩が、再び捨てられることはないからである。
Kakkhaḷattaṃ kaṭhinabhāvo. Paggharaṇaṃ dravabhāvo. Lokiyavāyunā bhastassa viya yena taṃtaṃkalāpassa uddhumāyanaṃ, thambhabhāvo vā, taṃ vitthambhanaṃ. Vijjamānepi kalāpantarabhūtānaṃ kalāpantarabhūtehi asamphuṭṭhabhāve, taṃtaṃbhūtavivittatā rūpapariyanto ākāsoti yesaṃ yo paricchedo, tehi so asamphuṭṭhova, aññathā bhūtānaṃ paricchedasabhāvo na siyā byāpībhāvāpattito. Abyāpitā hi asamphuṭṭhatāti. Yasmiṃ kalāpe bhūtānaṃ paricchedo, tehi asamphuṭṭhabhāvo asamphuṭṭhalakkhaṇaṃ. Tenāha bhagavā ākāsadhātuniddese ‘‘asamphuṭṭhaṃ catūhi mahābhūtehī’’ti (dha. sa. 637).
『堅さ(Kakkhaḷatta)』とは、硬い状態のことである。『流動性(Paggharaṇa)』とは、液体の状態のことである。『膨張(vitthambhana)』とは、それぞれのグループが世間の風によって膨らむこと、あるいは、ふいごのように硬直することである。異なる元素のグループが存在し、それらが他の元素のグループと接触しない状態であっても、それぞれの元素が持つ明確な区別、すなわち色(物質)の範囲に終わる空間がある。その空間がどのような限界を持つにせよ、それは元素と接触していない。もし接触しているならば、元素の区別という性質は、それらが遍満する性質を持つがゆえに存在しなくなるだろう。実際に、遍満しないことこそが接触しないことである。あるグループにおいて元素が区別されている状態、すなわちそれらによって接触されない状態が、非接触という特徴である。それゆえ世尊は、虚空界の説明において、『四大元素によって接触されない』と説かれた(法集論 637)。
Virodhipaccayasannipāte visadisuppatti ruppanaṃ. Cetanāpadhānattā saṅkhārakkhandhadhammānaṃ cetanāvasenetaṃ vuttaṃ **‘‘saṅkhārānaṃ abhisaṅkharaṇalakkhaṇa’’**nti. Tathā hi suttantabhājanīye saṅkhārakkhandhavibhaṅge ‘‘cakkhusamphassajā cetanā’’tiādinā (vibha. 92) cetanāva vibhattā, abhisaṅkharaṇalakkhaṇā ca cetanā. Yathāha ‘‘tattha katamo puññābhisaṅkhāro? Kusalā cetanā kāmāvacarā’’tiādi (vibha. 226). Pharaṇaṃ savipphārikatā. Assaddhiyeti assaddhiyahetu, nimittatthe bhummaṃ. Esa nayo **‘‘kosajje’’**tiādīsu. Vūpasamalakkhaṇanti kāyacittapariḷāhūpasamalakkhaṇaṃ. Līnuddhaccarahite adhicitte pavattamāne paggahaniggahasampahaṃsanesu abyāvaṭatāya ajjhupekkhanaṃ paṭisaṅkhānaṃ pakkhapātupacchedato.
相対する縁が集合して、異質なものが発生すること、それが破壊である。行蘊の諸法は思を主とするため、思の働きによって「行の作り出す特徴」と言われる。実際、スッタントの分類における行蘊の分析では、「眼触から生じる思」など(分別論 92)によって思が分析されており、思は作り出す特徴を持つ。「では、いかなるものが福行か? 欲界における善なる思である」など(分別論 226)とあるように。「触れること」とは、広がりをもたらすことである。「不信において」とは、不信を原因とするものであり、状態を示す処格である。これは「怠惰において」なども同様である。「鎮静の特徴」とは、身心の熱苦が鎮まる特徴のことである。沈滞と高揚のない増上心において、奮励、抑制、歓喜の働きに関わらないことにより、偏りへの執着が断たれて、捨が観察されること。
Musāvādādīnaṃ visaṃvādanādikiccatāya lūkhānaṃ apariggāhakānaṃ paṭipakkhabhāvato pariggāhikā sammāvācā siniddhabhāvato sampayuttadhamme, sammāvācāpaccayasubhāsitānaṃ sotārañca puggalaṃ pariggaṇhātīti sā pariggahalakkhaṇā sammāvācā. Kāyikakiriyā kiñci kattabbaṃ samuṭṭhāpeti. Sayañca samuṭṭhahanaṃ ghaṭanaṃ hotīti sammākammantasaṅkhātā virati samuṭṭhānalakkhaṇā daṭṭhabbā, sampayuttadhammānaṃ vā ukkhipanaṃ samuṭṭhāpanaṃ kāyikakiriyāya bhārukkhipanaṃ viya. Jīvamānassa sattassa, sampayuttadhammānaṃ vā jīvitindriyavuttiyā, ājīvasseva vā suddhi vodānaṃ. Sasampayuttadhammassa cittassa saṃkilesapakkhe patituṃ adatvā sammadeva paggaṇhanaṃ paggaho.
嘘をつくことなど、不和をもたらすなどの働きを持ち、粗野で、受け入れがたいものに相対するものであるため、正語は、その和やかさによって相応の法を、また正語を原因とする善説によって聞く人を包容する。したがって、正語は包容する特徴を持つ。身の行為は何らかのなすべきことを引き起こす。そして、その引き起こしが、結びつけとなるため、正業と称される離は、生起させる特徴と見なされるべきである。あるいは、身の行為によって重荷を担ぎ上げるように、相応の法を持ち上げること、それが生起させることである。生きている衆生の、あるいは相応の法の命根の作用によって、あるいは生計の清浄が浄化である。相応の法を伴う心が煩悩の側に陥ることを許さず、正しく支えること、それが支えである。
‘‘Saṅkhārā’’ti idha cetanā adhippetāti vuttaṃ **‘‘saṅkhārānaṃ cetanālakkhaṇa’’**nti. Namanaṃ ārammaṇābhimukhabhāvo. Āyatanaṃpavattanaṃ. Āyatanānaṃ vasena hi āyasaṅkhātānaṃ cittacetasikānaṃ pavatti. Taṇhāya hetulakkhaṇanti vaṭṭassa janakahetubhāvo, maggassa pana nibbānasampāpakattanti ayameva tesaṃ viseso.
ここで「行」とは思を意味すると言われるため、「行の思の特徴」と述べられる。「傾くこと」とは、対象に向かうことである。「処」とは、生起すること。処を原因として、すなわち「入り口」と呼ばれる心と心所の生起があるからである。「渇愛の原因の特徴」とは、輪廻を生み出す原因となること。しかし、道は涅槃に到達させるものである。これこそがそれらの違いである。
Tathalakkhaṇaṃ aviparītasabhāvo. Ekaraso aññamaññānativattanaṃ anūnādhikabhāvo. Yuganaddhā samathavipassanāva, ‘‘saddhāpaññā paggahāvikkhepā’’tipi vadanti.
「その特徴」とは、反転しない本質である。「一味」とは、互いに越えることなく、不足も過剰もないことである。「双運」とは、止と観のことである。「信と慧、精進と不動」とも言われる。
Khiṇoti kileseti khayo, maggo. Anuppādapariyosānatāya anuppādo, phalaṃ. Passaddhi kilesavūpasamo.
「煩悩を滅尽する」とは、滅尽、すなわち道である。生起しないことを終わりとするため、生起しないこと、すなわち果である。「軽安」とは、煩悩の鎮静である。
Chandassāti kattukamyatāchandassa. Mūlalakkhaṇaṃ patiṭṭhābhāvo. Samuṭṭhāpanalakkhaṇaṃ ārammaṇapaṭipādakatāya sampayuttadhammānaṃ uppattihetutā. Samodhānaṃ visayādisannipātena gahetabbākāro, yā ‘‘saṅgatī’’ti vuccati. Samaṃ saha odahanti anena sampayuttadhammāti vā samodhānaṃ, phasso. Samosaranti sannipatanti etthāti samosaraṇaṃ. Vedanāya vinā appavattamānā sampayuttadhammā vedanānubhavananimittaṃ samosaṭā viya hontīti evaṃ vuttaṃ. Gopānasīnaṃ kūṭaṃ viya sampayuttānaṃ pāmokkhabhāvo pamukhalakkhaṇaṃ. Tato, tesaṃ vā sampayuttadhammānaṃ uttari padhānanti taduttari. Paññuttarā hi kusalā dhammā. Vimuttiyāti phalassa. Tañhi sīlādiguṇasārassa paramukkaṃsabhāvena sāraṃ. Ayañca lakkhaṇavibhāgo chadhātupañcajhānaṅgādivasena taṃtaṃsuttapadānusārena, porāṇaṭṭhakathāya āgatanayena ca katoti daṭṭhabbaṃ. Tathā hi vuttopi koci dhammo pariyāyantarappakāsanatthaṃ puna dassito, tato eva ca ‘‘chandamūlakā kusalā dhammā manasikārasamuṭṭhānā, phassasamodhānā, vedanāsamosaraṇā’’ti, ‘‘paññuttarā kusalā dhammā’’ti, ‘‘vimuttisāramidaṃ brahmacariya’’nti, ‘‘nibbānogadhañhi āvuso brahmacariyaṃ nibbānapariyosāna’’nti ca suttapadānaṃ vasena **‘‘chandassa mūlalakkhaṇa’’**ntiādi vuttaṃ.
「意欲」とは、行おうとする意欲のことである。「根源の特徴」とは、基礎となることである。「生起させる特徴」とは、対象をもたらすことにより、相応の法の生起の原因となることである。「結合」とは、対象などの集合によって捉えられるべき状態であり、これを「結合」と呼ぶ。あるいは、相応の法がこれによって等しく共に置かれるので「結合」である、すなわち触である。これにおいて(諸法が)集まり、集合するので「集合」である。受なしには作用しない相応の法が、受の経験を目的として集合しているかのように見えるため、このように言われる。棟木の屋根の頂点のように、相応するものの主導的な状態、それが「主要な特徴」である。それゆえ、あるいはそれらの相応する法の最高の主導者、それが「その上首」である。実際、善なる法は慧を最上とする。「解脱」とは、果のことである。それは戒などの徳の精髄の最高の卓越した状態にあるため、精髄である。そして、この特徴の分析は、六界、五禅支などを基に、それぞれの経典の句に従い、古註の伝わる方法で行われたと理解されるべきである。実際、すでに述べられたある法が、別の側面を明らかにするために再び示されており、それゆえ「善なる法は意欲を根源とし、作意を起源とし、触を結合とし、受を集合とする」と、「善なる法は慧を最上とする」と、「この梵行は解脱を精髄とする」と、「比丘たちよ、梵行は涅槃に没入し、涅槃を終極とする」といった経典の句に従って、「意欲の根源の特徴」などが述べられたのである。
Tathadhammā nāma cattāri ariyasaccāni aviparītasabhāvattā. Tathāni taṃsabhāvattā. Avitathāni amusāsabhāvattā. Anaññathāni aññākārarahitattā.
「真実の法」とは、四つの聖諦であり、その本質が反転しないからである。「そのようである」とは、その本質であるからである。「偽りでない」とは、虚偽の本質でないからである。「他と異ならない」とは、他の様相を欠いているからである。
Jātipaccayasambhūtasamudāgataṭṭhoti jātipaccayā sambhūtaṃ hutvā sahitassa attano paccayānurūpassa uddhaṃ uddhaṃ āgatabhāvo, anupavattatthoti attho. Atha vā sambhūtaṭṭho ca samudāgataṭṭho ca sambhūtasamudāgataṭṭho, na jātito jarāmaraṇaṃ na hoti, na ca jātiṃ vinā aññato hotīti jātipaccayasambhūtaṭṭho. Itthañca jātito samudāgacchatīti jātipaccayasamudāgataṭṭho. Yā yā jāti yathā yathā paccayo hoti, tadanurūpaṃ pātubhāvoti attho. Avijjāya saṅkhārānaṃ paccayaṭṭhoti etthāpi na avijjā saṅkhārānaṃ paccayo na hoti, na ca avijjaṃ vinā saṅkhārā uppajjanti. Yā yā avijjā yesaṃ yesaṃ saṅkhārānaṃ yathā yathā paccayo hoti, ayaṃ avijjāya saṅkhārānaṃ paccayaṭṭho, paccayabhāvoti attho.
「生を縁として生じ、集合する状態」とは、生を縁として生じ、それ自身の縁に応じたものが次々に現れる状態、すなわち継続して作用する状態という意味である。あるいは、生じた状態と集合した状態が結合して「生じ集合した状態」となる。生がなければ老死は起こらず、生なしには他から老死は起こらない。これが「生を縁として生じた状態」である。そしてこのように生から集合するので「生を縁として集合した状態」である。いかなる生が、いかなるように縁となるか、それに相応して現れる、という意味である。「無明が行の縁である状態」とは、ここでも無明が行の縁とならないのではなく、また無明なしに行は生じない。いかなる無明が、いかなる行にとって、いかなるように縁となるか、これが無明が行の縁である状態、すなわち縁である状態という意味である。
Bhagavā taṃ jānāti passatīti sambandho. Tenāti bhagavatā. Taṃ vibhajjamānanti yojetabbaṃ. Tanti rūpāyatanaṃ. Iṭṭhāniṭṭhādīti ādi-saddena majjhattaṃ saṅgaṇhāti, tathā atītānāgatapaccuppannaparittaajjhattabahiddhātadubhayādibhedaṃ. Labbhamānakapadavasenāti ‘‘rūpāyatanaṃ diṭṭhaṃ saddāyatanaṃ sutaṃ gandhāyatanaṃ rasāyatanaṃ phoṭṭhabbāyatanaṃ mutaṃ, sabbaṃ rūpaṃ manasā viññāta’’nti (dha. sa. 966) vacanato diṭṭhapadañca viññātapadañca rūpārammaṇe labbhati. ‘‘Rūpārammaṇaṃ iṭṭhaṃ aniṭṭhaṃ majjhattaṃ parittaṃ atītaṃ anāgataṃ paccuppannaṃ ajjhattaṃ bahiddhā diṭṭhaṃ viññātaṃ rūpaṃ rūpāyatanaṃ rūpadhātu vaṇṇanibhā sanidassanaṃ sappaṭighaṃ nīlaṃ pītaka’’nti evamādīhi **anekehi nāmehi. ‘‘Terasahi vārehī’’**ti rūpakaṇḍe (dha. sa. 614 ādayo) āgate terasa niddesavāre sandhāyāha. Ekekasmiñca vāre catunnaṃ catunnaṃ vavatthāpananayānaṃ vasena ‘‘dvipaññāsāya **nayehī’’**ti āha. Tathameva aviparītadassitāya, appaṭivattiyadesanatāya ca. Jānāmi abbhaññāsinti vattamānātītakālesu ñāṇappavattidassanena anāgatepi ñāṇappavatti vuttāyevāti daṭṭhabbā. Vidita-saddo anāmaṭṭhakālaviseso veditabbo, ‘‘diṭṭhaṃ sutaṃ muta’’ntiādīsu (dha. sa. 966) viya. Na upaṭṭhāsīti attattaniyavasena na upagacchi. Yathā rūpārammaṇādayo dhammā yaṃsabhāvā yaṃpakārā ca, tathā ne passati jānāti gacchatīti tathāgatoti evaṃ padasambhavo veditabbo. Keci pana ‘‘niruttinayena pisodarādipakkhepena vā dassī-saddassa lopaṃ, āgata-saddassa cāgamaṃ katvā **tathāgato’’**ti vaṇṇenti.
「世尊はそれを知り、見る」という関係である。「それによって」とは、世尊によって、という意味である。「それを分析されつつある」と繋げるべきである。「それ」とは、色処である。「好ましいもの、好ましくないものなど」の「など」という語は、中立的なものを含み、さらに過去、未来、現在、わずかなもの、内在的なもの、外在的なもの、その両方などの区別をも含む。「得られる語の仕方で」とは、「色処は眼で見られ、声処は耳で聞かれ、香処は鼻で嗅がれ、味処は舌で味わわれ、触処は身で触れられ、すべての色は意によって認識される」(ダンマサンガニ 966)という言葉によれば、見られたという語と認識されたという語は色対象に用いられる。「色対象は好ましい、好ましくない、中立的、わずかな、過去の、未来の、現在の、内在的な、外在的な、見られた、認識された、色、色処、色界、色相、光明、顕現された、接触された、青い、黄色い」といったように、多くの名称で。「十三の節によって」とは、色に関する章(ダンマサンガニ 614 など)に現れる十三の解説の節を指して言われたのである。そして、それぞれの節には、四つの定義の仕方があり、それに基づいて「五十二の方法によって」と言われる。同様に、反転しない教え方であり、変わることのない教え方であるからである。「私は知る、私は了知した」という現在時と過去時における知の作用を示すことによって、未来においても知の作用があることが述べられていると理解されるべきである。「知られた」という語は、特定の時間が指定されていないと理解されるべきである、「見られた、聞かれた、触れられた」など(ダンマサンガニ 966)のように。「生じなかった」とは、自己と自己のものとして近づかなかった、という意味である。色対象などの諸法が、いかなる本質を持ち、いかなる種類のものであるかを、そのありのままに見て、知り、到達するがゆえに「如来」であると、この語源は理解されるべきである。しかし、ある者は「ニルッティの規則、またはピソダラなどの語派の規則によって、dassī(見る者)という語のlopa(脱落)と、āgata(来た)という語のāgama(挿入)を行い、『如来』と説明する」と述べる。
Niddosatāya anupavajjaṃ. Pakkhipitabbābhāvena anūnaṃ. Apanetabbābhāvena anadhikaṃ. Atthabyañjanādisampattiyā sabbākāraparipuṇṇaṃ. No aññathāti ‘‘tathevā’’ti vuttamevatthaṃ byatirekena sampādeti. Tena yadatthaṃ bhāsitaṃ, ekantena tadatthanipphādanato yathā bhāsitaṃ bhagavatā, tathevāti aviparītadesanataṃ dasseti. **‘‘Gadattho’’**ti etena tathaṃ gadatīti tathāgatoti da-kārassa ta-kāro kato niruttinayenāti dasseti.
欠点がないため、非難されるべきではない。加えるべきものがないため、不足がない。取り除くべきものがないため、過剰がない。意味や表現などの完全さによって、あらゆる点で完璧である。「他ではない」とは、「まさにそのように」と述べられた意味を、否定によって完成させる。それによって、世尊が語られた意味が、確実にその意味を達成するがゆえに、世尊が語られた通り、まさにそのように、と反転しない教えを示す。「語られた意味を持つ者」とは、これによって「真実を語る者」が「如来」であると、da音の代わりにta音を用いるのはニルッティの規則によるものであると示す。
Tathā gatamassāti tathāgato, gatanti ca kāyassa vācāya vā pavattīti attho. Tathāti ca vutte yaṃtaṃ-saddānaṃ abyabhicārisambandhitāya ‘‘yathā’’ti ayamattho upaṭṭhitoyeva hoti. Kāyavacīkiriyānañca aññamaññānulomena vacanicchāyaṃ, kāyassa vācā, vācāya ca kāyo sambandhībhāvena upatiṭṭhatīti imamatthaṃ dassento āha **‘‘bhagavato hī’’**tiādi. Imasmiṃ pana atthe tathāvāditāya tathāgatoti ayampi attho siddho hoti. So pana pubbe pakārantarena dassitoti āha **‘‘evaṃ tathākāritāya tathāgato’’**ti.
「彼の行くところはそのようである」ゆえに「如来」である。「行くこと」とは、身または言葉の行いのことである。「そのように」と言われた場合、「何々であるように何々である」という語句の不可分の関係性によって、「〜のように」という意味が常に現れる。また、身と言葉の行為が互いに矛盾せず、発言の意図に従うとき、言葉にとって身が、身にとって言葉が関連するものとして現れるというこの意味を示すために、「世尊の」などと述べられた。しかし、この意味では、「そのように語る者であること」ゆえに「如来」であるというこの意味も確立される。しかし、それは以前に別の方法で示されたものであるため、「このように、そのように為すことによって如来である」と述べられた。
‘‘Tiriyaṃ **aparimāṇāsu lokadhātūsū’’**ti etena yadeke ‘‘tiriyaṃ viya upari adho ca santi lokadhātuyo’’ti vadanti, taṃ paṭisedheti. Desanāvilāsoyeva desanāvilāsamayo yathā ‘‘puññamayaṃ, dānamaya’’ntiādīsu.
「横方向に無限の世界系に」という言葉によって、ある人々が「横方向のように、上にも下にも世界系が存在する」と言うのを否定する。説法の妙味こそが説法の妙味そのものである。それは「福に満ちたもの、施しに満ちたもの」などにあるのと同様である。
Upasagganipātānaṃ vācakasaddasannidhāne tadatthajotanabhāvena pavattanato gata-saddoyeva avagatatthaṃ atītatthañca vadatīti āha **‘‘gatoti avagato atīto’’**ti. Atha vā abhinīhārato paṭṭhāya yāva sambodhi, etthantare mahābodhiyānapaṭipattiyā hānaṭhānasaṃkilesanivattīnaṃ abhāvato yathā paṇidhānaṃ, tathā gato abhinīhārānurūpaṃ paṭipannoti tathāgato. Atha vā mahiddhikatāya, paṭisambhidānaṃ ukkaṃsādhigamena anāvaraṇatāya ca katthaci paṭighātābhāvato yathā ruci, tathā kāyavacīcittānaṃ gatāni gamanāni pavattiyo etassāti tathāgato. Yasmā ca loke vidhayuttagatapakāra-saddā samānatthā dissanti, tasmā yathā vidhā vipassīādayo bhagavanto, ayampi bhagavā tathā vidhoti tathāgato. Yathā yuttā ca te bhagavanto ayampi bhagavā tathā yuttoti tathāgato. Atha vā yasmā saccaṃ tacchaṃ tathanti ñāṇassetaṃ adhivacanaṃ, tasmā tathena ñāṇena āgatoti tathāgatoti. Evampi tathāgata-saddassa attho veditabbo –
接頭辞や不変詞が動詞の近くにあるときに、その意味を強調する働きをなすため、「gata(去った、到達した)」という語自体が「理解された」と「過去の」という意味を語ると述べて、「去ったとは、理解された、過去である」と言う。あるいは、発願の時から正覚に至るまで、この間において大乗の修行において退転、停止、煩悩からの逆行がないため、願の通りに、そのように行い、発願に相応しく実践したゆえに「如来」である。あるいは、偉大な神通力を持つことによって、また無礙解の最高の獲得によって、いかなる場所においても障害がないため、意のままに、身、言葉、心の行いが進むゆえに「如来」である。また、世間では「〜であるような」「〜のような」という語が同義であると見られるため、ヴィパッスィーなどの世尊たちが「〜のような」であるように、この世尊も「〜のような」であるゆえに「如来」である。また、それらの世尊たちが「〜のように結びついている」ように、この世尊も「〜のように結びついている」ゆえに「如来」である。あるいは、真実、真理、現実が「tatha」という語の知の同義語であるため、真実の知によって「来た」ゆえに「如来」である。このように「如来」という語の意味は理解されるべきである。
‘‘Pahāya kāmādimale yathā gatā,
欲望などの汚れを捨て去って、〜のように行った
Samādhiñāṇehi vipassiādayo;
三昧と智慧によって、ヴィパッスィーなどの
Mahesino sakyamunī jutindharo,
大仙釈迦牟尼、輝きを帯びる者、
Tathāgato tena tathāgato mato.
如来は、それゆえに如来と見なされる。
Tathañca dhātāyatanādilakkhaṇaṃ,
そして、界や処などの特徴を、
Sabhāvasāmaññavibhāgabhedato;
自性、共通性、区別の違いによって、
Sayambhuñāṇena jino samāgato,
自生智によって勝者は到達した、
Tathāgato vuccati sakyapuṅgavo.
釈迦の雄牛は如来と呼ばれる。
Tathāni saccāni samantacakkhunā,
その真理を、全智眼によって、
Tathā idappaccayatā ca sabbaso;
そして、あらゆる依縁生を、
Anaññaneyyena yato vibhāvitā,
他から導かれない者によって明らかにされたゆえに、
Yāthāvato tena jino tathāgato.
ありのままに、それゆえ勝者は如来である。
Anekabhedāsupi lokadhātusu,
多くの種類の世界系においても、
Jinassa rūpāyatanādigocare;
勝者の色処などの対象において、
Vicittabhedaṃ tathameva dassanaṃ,
様々な違いを、そのように見る、
Tathāgato tena samantalocano.
如来はそれゆえに全智眼を持つ者である。
Yato ca dhammaṃ tathameva bhāsati,
そして、法をありのままに説くゆえに、
Karoti vācāyanuloma mattano;
自分の言葉に従って行う、
Guṇehi lokaṃ abhibhuyya iriyati,
徳によって世間を圧倒して行動する、
Tathāgato tenapi lokanāyako.
如来はそれゆえに世間の導師である。
Yathābhinīhāramato yathāruci,
発願の通りに、意のままに、
Pavattavācātanucittabhāvato;
言葉と身と心の行いが進んだ状態ゆえに、
Yathāvidhā yena purā mahesino,
かつて大仙たちがそのようであったように、
Tathāvidho tena jino **tathāgato’’**ti. (itivu. aṭṭha. 38);
勝者はそれゆえにそのようである、如来であると。(『如是語経』註 38)
Saṅgahagāthā mukhamattameva. Kasmā? Appamādapadaṃ viya sakaladhammapaṭipattiyā sabbabuddhaguṇānaṃ saṅgāhakattā. Tenevāha **‘‘sabbākārenā’’**tiādi.
綱要偈は単なる序言に過ぎない。なぜか? 不放逸の句が、あらゆる法の修行においてすべての仏の徳を集約するように、これもそうであるから。それゆえ、「あらゆる様相において」などと述べられた。
‘‘Taṃ **katamanti pucchatī’’**ti etena ‘‘katamañca taṃ bhikkhave’’tiādivacanassa sāmaññato pucchābhāvo dassito avisesato hi tassa pucchāvisesabhāvañāpanatthaṃ mahāniddese āgatā sabbāva pucchā atthuddhāranayena dasseti **‘‘tattha pucchā nāmā’’**tiādinā. Tattha tatthāti ‘‘taṃ katamanti pucchatī’’ti ettha yadetaṃ sāmaññato pucchāvacanaṃ, tasmiṃ.
「それは何かと尋ねる」という言葉によって、「比丘たちよ、それは何か」というような一般的な問いの存在が示される。その問いが特定の問いであることを区別なく示すために、『大典義釈』に現れるすべての問いを、意味を抽出する方法で「その問いとは何か」などと示す。「その中、その中に」とは、「それは何かと尋ねる」というこの一般的な問いの言葉がそこにあるということである。
Lakkhaṇanti ñātuṃ icchito yo koci sabhāvo. **‘‘Aññāta’’**nti yena kenaci ñāṇena aññātabhāvamāha, **‘‘adiṭṭha’’**nti dassanabhūtena ñāṇena paccakkhaṃ viya adiṭṭhataṃ. **‘‘Atulita’’**nti ‘‘ettakameta’’nti tulanabhūtena atūlitataṃ, **‘‘atīrita’’**nti tīraṇabhūtena akatañāṇakiriyāsamāpanataṃ, **‘‘avibhūta’’**nti ñāṇassa apākaṭabhāvaṃ, **‘‘avibhāvita’’**nti ñāṇena apākaṭīkatabhāvaṃ. Adiṭṭhaṃ jotīyati etāyāti adiṭṭhajotanā. Diṭṭhaṃ saṃsandīyati etāyāti diṭṭhasaṃsandanā, sākacchāvasena vinicchayakaraṇaṃ. Vimati chijjati etāyāti vimaticchedanā. Anumatiyā pucchā anumatipucchā. ‘‘Taṃ kiṃ maññatha bhikkhave’’tiādi pucchāya hi ‘‘kā tumhākaṃ anumatī’’ti anumati pucchitā hoti. Kathetukamyatāti kathetukamyatāya.
「相(lakkhaṇa)」とは、認識したいと思ういかなる本質をも意味する。「未識(aññāta)」とは、いかなる智によっても知られていない状態を言う。「未見(adiṭṭha)」とは、見の機能である智によって直接的に見られていない状態を言う。「不可量(atulita)」とは、「これほどである」という量り取る機能によって量り尽くされていない状態を言う。「未判断(atīrita)」とは、判断の機能によって智の行為が終結していない状態を言う。「不明瞭(avibhūta)」とは、智にとって不明確な状態を言う。「不顕現(avibhāvita)」とは、智によって明確にされていない状態を言う。これによって未見のものを照らすから、「未見照(adiṭṭhajotanā)」である。これによって見られたものを結びつけるから、「見結(diṭṭhasaṃsandanā)」、すなわち議論を通じて決定を下すことである。これによって疑いが断ち切られるから、「疑断(vimaticchedanā)」である。承認を問うことが、「承認問(anumatipucchā)」である。「比丘たちよ、それについてどう思うか」といった問いによって、「あなたたちの承認は何であるか」と承認が問われているのである。「語らんことを欲する(kathetukamyatā)」とは、語らんことを欲する状態のことである。
8. Saraseneva patanasabhāvassa antarā eva atīva pātanaṃ atipāto, saṇikaṃ patituṃ adatvā sīghaṃ pātananti attho. Atikkamma vā satthādīhi abhibhavitvā pātanaṃ atipāto. Sattoti khandhasantāno. Tattha hi sattapaññatti. Jīvitindriyanti rūpārūpajīvitindriyaṃ. Rūpajīvitindriye hi vikopite itarampi taṃsambandhatāya vinassati. Kasmā panettha ‘‘pāṇassa atipāto, pāṇoti cettha vohārato satto’’ti ca ekavacananiddeso kato, nanu niravasesānaṃ pāṇānaṃ atipātato virati idha adhippetā. Tathā hi vakkhati ‘‘sabbapāṇabhūtahitānukampīti sabbe pāṇabhūte’’tiādinā (dī. ni. aṭṭha. 1.cūḷasīlavaṇṇanā) bahuvacananiddesanti? Saccametaṃ, pāṇabhāvasāmaññavasena panettha ekavacananiddeso kato, sabbasaddasannidhānena tattha puthuttaṃ viññāyamānamevāti sāmaññaniddesaṃ akatvā bhedavacanicchāvasena bahuvacananiddeso katoti. Kiñca bhiyyosāmaññato saṃvarasamādānaṃ, tabbisesato saṃvarabhedoti imassa visesassa ñāpanatthaṃ ayaṃ vacanabhedo katoti veditabbo. Yāya cetanāya vattamānassa jīvitindriyassa nissayabhūtesu mahābhūtesu upakkamakaraṇahetu taṃ mahābhūtappaccayā uppajjanakamahābhūtā nuppajjissanti, sā tādisappayogasamuṭṭhāpikā cetanā pāṇātipāto. Laddhupakkamāni hi bhūtāni itarabhūtāni viya na visadānīti samānajātiyānaṃ kāraṇaṃ na hontīti. **‘‘Kāyavacīdvārāna’’**nti etena manodvāre pavattāya vadhakacetanāya pāṇātipātabhāvaṃ paṭikkhipati.
8. 自ずと滅びゆく性質にあるものを、その途中で滅ぼし尽くすことが殺生(pāṇātipāto)であり、ゆっくり滅びるのを許さず、速やかに滅ぼすという意味である。あるいは、刀などによって圧倒して滅ぼすことも殺生である。「有情(satto)」とは、蘊(khandha)の連続体を指す。そこにこそ有情という概念が成り立つ。「命根(jīvitindriya)」とは、色(rūpa)と無色(arūpa)の命根を指す。なぜなら、色の命根が損なわれると、それに関連する他の命根も滅びるからである。ここで「生命の殺生、生命とはここで慣習的に有情を指す」と単数形で述べられているのはなぜか。残らずすべての生命の殺生からの離反がここで意図されているのではないか。長部注釈1.小戒解説のように、「一切の生命存在に利益と慈悲を持つ」といった風に複数形で述べられるのではないか。これは真実である。ここでは生命一般の観点から単数形で述べられているが、すべてのという言葉が伴うことで、そこで複数であることが理解される。したがって、一般的な記述をせず、区別を意図して複数形で記述されているのである。また、より一般的な自制の受持があり、それの特殊性として自制の区別があるという、この特殊性を示すために、この言葉の区別がなされていると理解すべきである。どの思惟(cetanā)によって、現在存在する命根の拠り所である四大に働きかけが行われることで、その四大を縁として生じるべき四大が生じなくなる、そのような作用を生じさせる思惟が殺生である。なぜなら、働きかけを受けた諸存在は、他の諸存在のように清浄ではないので、同種のものの原因とはならないからである。「身口の門」という言葉によって、意の門において生じる殺意が殺生であるという考えを否定している。
Payogavatthumahantatādīhi mahāsāvajjatā tehi paccayehi uppajjamānāya cetanāya balavabhāvato veditabbā. Yathādhippetassa hi payogassa sahasā nipphādanavasena kiccasādhikāya bahukkhattuṃ pavattajavanehi laddhāsevanāya ca sanniṭṭhāpakacetanāya vasena payogassa mahantabhāvo. Satipi kadāci khuddake ceva mahante ca pāṇe payogassa samabhāve mahantaṃ hanantassa cetanā tibbatarā uppajjatīti vatthussa mahantabhāvo. Iti ubhayaṃ petaṃ cetanāya balavabhāveneva hoti. Tathā hi hantabbassa mahāguṇabhāvena tattha pavattaupakāracetanā viya khettavisesanibbattiyā apakāracetanāpi balavatī, tibbatarā ca uppajjatīti tassā mahāsāvajjatā daṭṭhabbā. Tasmā payogavatthuādipaccayānaṃ amahattepi mahāguṇatādipaccayehi cetanāya balavabhāvādivaseneva mahāsāvajjabhāvo veditabbo.
殺生の対象が重大であることなどによって生じる大いなる罪悪性は、それらの縁によって生じる思惟(cetanā)が強力であることから理解されるべきである。なぜなら、意図された行為が速やかに実行されるという点で目的を達成するものであり、繰り返し生じる速行心によって習熟された確定思惟のゆえに、その行為は重大なのである。たとえ、小さな生命に対しても大きな生命に対しても行為が同じである場合でも、大きな生命を殺す者の思惟はより激しく生じるので、対象が重大なのである。このように、これら両方とも思惟の強力さによって生じるのである。同様に、殺されるべき対象が非常に徳高き存在である場合、そこにおいて生じる助ける思惟のように、特殊な領域(善い縁)において生じる害する思惟もまた強力であり、より激しく生じるので、その思惟の極めて大きな罪悪性が認識されるべきである。したがって、行為の対象などの縁が重大でなくても、徳高き存在であることなどの縁によって思惟が強力であることなどにより、大いなる罪悪性が理解されるべきである。
Sambharīyanti etehīti sambhārā, aṅgāni. Tesu pāṇasaññitāvadhakacittāni pubbabhāgiyānipi honti. Upakkamo vadhakacetanāsamuṭṭhāpito. Pañcasambhāravatī pāṇātipātacetanāti sā pañcasambhāravinimuttā daṭṭhabbā. Vijjāmayo mantaparijappanapayogo āthabbaṇikādīnaṃ viya. Iddhimayo kammavipākajiddhimayo dāṭhākoṭakādīnaṃ viya. Ativiya papañcoti atimahāvitthāro.
これらによって集められるから、「資具(sambhārā)」、すなわち要素である。それらの中には、生命という認識と殺意の心が前段階のものとしても存在する。努力とは殺意の思惟によって生起されるものである。五つの資具を持つ殺生の思惟とは、その五つの資具と切り離せないものと見るべきである。呪術によるものとは、アタルヴァ経典の行者などのように真言を唱える行為である。神通力によるものとは、歯や爪などによって生じる業報による神通力である。「非常に広大なる錯乱(atīva papañca)」とは、極めて大きな拡大を意味する。
Etthāha – khaṇe khaṇe nirujjhanasabhāvesu saṅkhāresu ko hanti, ko vā haññati, yadi cittacetasikasantāno, so arūpatāya na chedanabhedanādivasena vikopanasamattho, nāpi vikopanīyo, atha rūpasantāno, so acetanatāya kaṭṭhakaliṅgarūpamoti na tattha chedanādinā pāṇātipāto labbhati yathā matasarīre, payogopi pāṇātipātassa paharaṇappakārādi atītesu vā saṅkhāresu bhaveyya anāgatesu vā paccuppannesu vā, tattha na tāva atītānāgatesu sambhavati tesaṃ abhāvato, paccuppannesu ca saṅkhārānaṃ khaṇikattā saraseneva nirujjhanasabhāvatāya vināsābhimukhesu nippayojano payogo siyā, vināsassa ca kāraṇarahitattā na paharaṇappakārādipayogahetukaṃ maraṇaṃ, nirīhakatāya ca saṅkhārānaṃ kassa so payogo, khaṇikattā vadhādhippāyasamakālabhijjanakassa kiriyāpariyosānakālānavaṭṭhānato kassa vā pāṇātipātakammabaddhoti.
ここに問いがある――刹那刹那に滅びゆく性質を持つ諸行(saṅkhāra)において、誰が殺し、誰が殺されるのか。もしそれが心と心所の連続体であるならば、それは無形であるから、切断や破壊などによって損なわれることはなく、また損なわれるべきものでもない。もしそれが物質の連続体であるならば、それは意識を持たないから、まるで死体のように、そこにおいて切断などによる殺生は成立しない。殺生への働きかけ、例えば打撃の方法などは、過去の諸行にあるのか、未来の諸行にあるのか、それとも現在の諸行にあるのか。過去と未来においては、それらが存在しないために、成立しない。そして、現在の諸行は刹那的であり、自ずと滅びゆく性質を持ち、滅びに向かっているのであるから、その働きかけは無益であろう。また、滅びは原因を伴わないのであるから、打撃などの働きかけを原因とする死はない。諸行は自力を持たないのであるから、誰のためにその働きかけがあるのか。刹那的であるから、殺意の瞬間に壊滅し、行為の終了時まで存続しないので、誰が殺生の業に結びつくのか。
Vuccate – yathāvuttavadhakacetanāsahito saṅkhārānaṃ puñjo sattasaṅkhāto hantā, tena pavattitavadhakapayoganimittaṃ apagatusmāviññāṇajīvitindriyo matavohārappavattinibandho yathāvuttavadhappayogākaraṇe uppajjanāraho rūpārūpadhammasamūho haññati, kevalo vā cittacetasikasantāno. Vadhappayogāvisayabhāvepi tassa pañcavokārabhave rūpasantānādhīnavuttitāya rūpasantāne parena payojitajīvitindriyupacchedakapayogavasena tannibbattivibandhakavisadisarūpuppattiyā vihate vicchedo hotīti na pāṇātipātassa asambhavo, nāpi ahetuko pāṇātipāto, na ca payogo nippayojano paccuppannesu saṅkhāresu katapayogavasena tadanantaraṃ uppajjanārahassa saṅkhārakalāpassa tathā anuppattito, khaṇikānaṃ saṅkhārānaṃ khaṇikamaraṇassa idha maraṇabhāvena anadhippetattā, santatimaraṇassa ca yathāvuttanayena sahetukabhāvato na ahetukaṃ maraṇaṃ, na ca katturahito pāṇātipātappayogo nirīhakesupi saṅkhāresu sannihitatāmattena upakārakesu attano anurūpaphaluppādananiyatesu kāraṇesu kattuvohārasiddhito yathā ‘‘padīpo pakāseti nisākaro candimā’’ti ca, na ca kevalassa vadhādhippāyasahabhuno cittacetasikakalāpassa pāṇātipāto icchito santānavasena avaṭṭhitasseva paṭijānanato, santānavasena pavattamānānañca padīpādīnaṃ atthakiriyāsiddhi dissatīti attheva pāṇātipātena kammabaddho. Ayañca vicāro adinnādānādīsupi yathāsambhavaṃ vibhāvetabbo.
答える――すでに述べられた殺意の思惟を伴う諸行の集合、すなわち有情と称されるものが殺す者であり、その者が行った殺生の行為を原因として、意識と命根を失い、死者という概念の成立する、すでに述べられた殺生の行為が行われなかったならば生じるはずであった色と無色の諸法の集合が殺されるのである。あるいは、単に心と心所の連続体もまた。殺生の働きかけの対象ではない場合でも、五蘊の世界においては、それが物質の連続体に従属して存在するため、他者によって行使された命根を断つ働きかけによって、その命根の発生を妨げるような清浄でない物質の発生が妨げられることによって、途絶が生じる。したがって、殺生が不可能であるということはない。また、殺生が無原因であるということもない。そして、現在の諸行において行われた働きかけによって、その直後に生じるべきであった諸行の集合が、そのように生じないから、その働きかけは無益ではない。刹那的な諸行の刹那的な死が、ここでは死として意図されていないため、そして、連続的な死が、すでに述べられた方法で原因を持つ性質を持つため、無原因の死はない。また、殺生への働きかけが行為者を持たないということもない。なぜなら、自力を持たない諸行においても、単に近接しているだけで役立つ原因が、自らに相応しい結果を生み出すことが定まっているからである。例えば、「灯りは照らし、夜を司る月もまた」と言われるように、行為者という慣習が成立するからである。また、単なる殺意を伴う心と心所の集合が殺生であると意図されているわけではない。なぜなら、連続体として存続するものが認識されているからであり、連続体として進行する灯りなどの実用的な機能の達成が見られるように、殺生によって業に結びつくことはやはり存在する。この考察は、不与取などにおいても、可能な限り明確にされるべきである。
‘‘Pahīnakālato **paṭṭhāya viratovā’’**ti etena pahānahetukā idhādhippetā samucchedaviratīti dasseti. Kammakkhayañāṇena hi pāṇātipātadussīlyassa pahīnattā bhagavā accantameva tato paṭiviratoti vuccati samucchedavasena pahānaviratīnaṃ adhippetattā. Kiñcāpi pahānaviramaṇānaṃ purimapacchimakālatā natthi, maggadhammānaṃ pana sammādiṭṭhiādīnaṃ sammāvācādīnañca paccayapaccayuppannabhāve apekkhite sahajātānampi paccayapaccayuppannabhāvena gahaṇaṃ purimapacchimabhāveneva hotīti gahaṇappavattiākāravasena paccayabhūtesu sammādiṭṭhiādīsu pahāyakadhammesu pahānakiriyāya purimakālavohāro, paccayuppannāsu ca viratīsu viramaṇakiriyāya aparakālavohāro ca hotīti evamettha attho daṭṭhabbo. Pahānaṃ vā samucchedavasena, virati paṭippassaddhivasena yojetabbā. Atha vā pāṇo atipātīyati etenāti pāṇātipāto, pāṇaghātahetubhūto dhammasamūho. Ko paneso? Ahirikānottappadosamohavihiṃsādayo kilesā. Te hi bhagavā ariyamaggena pahāya samugghāṭetvā pāṇātipātadussīlyato accantameva paṭiviratoti vuccati kilesesu pahīnesu kilesanimittassa kammassa anuppajjanato. ‘‘Adinnādānaṃ pahāyā’’tiādīsupi eseva nayo. Viratovāti avadhāraṇena tassā viratiyā kālādivasena apariyantataṃ dasseti. Yathā hi aññe samādinnaviratikāpi anavaṭṭhitacittatāya lābhajīvitādihetu samādānaṃ bhindanti, na evaṃ bhagavā. Bhagavā pana sabbaso pahīnapāṇātipātattā accantavirato evāti. Vītikkamissāmīti anavajjadhammehi vokiṇṇā antarantarā uppajjanakā dubbalākusalā. Yasmā pana kāyavacīpayogaṃ upalabhitvā ‘‘imassa kilesā uppannā’’ti viññunā sakkā ñātuṃ, tasmā te iminā pariyāyena **‘‘cakkhusotaviññeyyā’’**ti vuttāti daṭṭhabbā. Kāyikāti pāṇātipātādinipphādake balavākusale sandhāyāha.
「捨断された時から離反した」という言葉によって、捨断を原因とする断滅の離反がここで意図されていることを示している。業尽智によって殺生の悪行が捨断されたので、世尊は完全にそれから離反したと言われる。これは、断滅の形で捨断と離反が意図されているからである。たとえ捨断と離反には前後関係がないとしても、道法である正見などと正語などの間に原因と結果の関係が期待される場合、同時発生的なものも原因と結果の関係として捉えられるとき、それは前後の関係となる。したがって、摂取のあり方によって、原因である正見などの捨断すべき法において、捨断の行為が前段であると呼称され、結果として生じた離反において、離反の行為が後段であると呼称されると、このようにここで意味が理解されるべきである。あるいは、捨断は断滅の形で、離反は寂止の形で結びつけられるべきである。また、これによって生命が殺されるから殺生(pāṇātipāto)である。生命殺害の原因となる法の集合である。それは何であろうか。それは無慚、無愧、瞋恚、愚癡、害意などの煩悩である。世尊は聖なる道によってそれら煩悩を捨断し、根絶したので、殺生の悪行から完全に離反したと言われる。煩悩が捨断されれば、煩悩を原因とする業は生じないからである。「不与取を捨断し」などについても同様の理屈である。「離反した」という確定によって、その離反が時間などによって無限定であることを示している。なぜなら、他の者は戒を受けた離反者であっても、心が不安定であるため、利得や生活などの理由で受持を破るが、世尊はそうではない。世尊は、殺生を完全に捨断したため、常に完全に離反しているのである。「犯すだろう」とは、無過失の法によって妨げられ、時折生じる弱い不善法を指す。しかし、身口の行為を捉えることによって、「この者に煩悩が生じた」と賢者によって知ることができるので、それらはこの表現で「眼識や耳識によって認識されるべきもの」と言われていると理解すべきである。「身体的」とは、殺生などを生じさせる強力な不善法を指して言っている。
Gottavasena laddhavohāroti sambandho. Dīpetuṃ vaṭṭati brahmadattena bhāsitavaṇṇassa anusandhidassanavasena imissā desanāya āraddhattā. Tatthāyaṃ dīpanā – ‘‘pāṇātipātaṃ pahāya pāṇātipātā paṭivirato samaṇassa gotamassa sāvakasaṅgho nihitadaṇḍo nihitasattho’’ti vitthāretabbaṃ. Nanu ca dhammassāpi vaṇṇo brahmadattena bhāsito? Saccaṃ bhāsito, so pana sammāsambuddhapabhavattā, ariyasaṅghādhārattā ca dhammassa dhammānubhāvasiddhattā ca tesaṃ tadubhayadīpaneneva dīpito hotīti visuṃ na uddhaṭo. Saddhammānubhāveneva hi bhagavā bhikkhusaṅgho ca pāṇātipātādippahānasamattho ahosi, desanā pana ādito paṭṭhāya evaṃ āgatāti.
姓に基づいて得られた呼称であるという関係。ブラフマダッタによって語られた賛辞の文脈を示すことで、この教説が始められたため、それを明らかにすべきである。そこにおけるその説明とは、「殺生を捨断し、殺生から離反した沙門ゴータマの弟子僧団は、棍棒を置き、武器を置いた」と広げて説明されるべきである。法に対する賛辞もブラフマダッタによって語られたのではないか。確かに語られたが、それは正等覚者から生じたものであること、聖僧団がその依拠であること、そして法が法の力によって成就したものであることのゆえに、それらの両方の説明によって示されているので、特に取り上げていないのである。なぜなら、世尊と比丘僧団は、まさに正法の力によって殺生などを捨断する能力を持っていたのであり、教説は最初からこのように伝えられてきたのである。
Etthāyaṃ adhippāyo – ‘‘atthi bhikkhave aññe ca dhammā’’tiādinā anaññasādhāraṇe buddhaguṇe ārabbha upari desanaṃ vaḍḍhetukāmo bhagavā ādito paṭṭhāya ‘‘tathāgatassa vaṇṇaṃ vadamāno vadeyyā’’tiādinā buddhaguṇavaseneva desanaṃ ārabhi, na bhikkhusaṅghavasenāti. Esā hi bhagavato desanāya pakati, yaṃ ekaraseneva desanaṃ dassetuṃ labbhamānassāpi kassaci aggahaṇaṃ. Tathā hi rūpakaṇḍe dukādīsu tanniddesesu ca hadayavatthu na gahitaṃ. Itaravatthūhi asamānagatikattā desanābhedo hotīti. Yathā hi cakkhuviññāṇādīni ekantato cakkhādinissayāni, na evaṃ manoviññāṇaṃ ekantena hadayavatthunissayaṃ, nissitavasena ca vatthudukādidesanā pavattā ‘‘atthi rūpaṃ cakkhuviññāṇassa vatthu, atthi rūpaṃ na cakkhuviññāṇassa vatthū’’tiādinā. Yampi ekantato hadayavatthunissayaṃ, tassa vasena ‘‘atthi rūpaṃ manoviññāṇassa vatthū’’tiādinā dukādīsu vuccamānesupi na tadanurūpā ārammaṇadukādayo sambhavanti. Na hi ‘‘atthi rūpaṃ manoviññāṇassa ārammaṇaṃ, atthi rūpaṃ na manoviññāṇassa ārammaṇa’’nti sakkā vattunti vatthārammaṇadukā bhinnagatikā siyunti na ekarasā desanā bhaveyyāti. Tathā nikkhepakaṇḍe cittuppādavibhāgena avuccamānattā avitakkaavicārapadavissajjane ‘‘vicāro cā’’ti vattuṃ na sakkāti avitakkavicāramattapadavissajjane labbhamānopi vitakko na uddhaṭo, aññathā ‘‘vitakko cā’’ti vattabbaṃ siyā.
ここでの意図は次のとおりである――「比丘たちよ、他の法々も存在する」などと、他にはない仏陀の徳を主題として、さらに教説を深めたいと思った世尊は、最初から「如来の賛辞を語る者は語るであろう」などと、仏陀の徳を主体として教説を始め、比丘僧団を主体としなかったのである。これが世尊の教説の常であり、たとえ一味で教説を示すことが可能であっても、あるものを取り上げないことがある。同様に、色蘊(rūpakaṇḍa)の二法などに言及する際、心臓という依処(hadayavatthu)は取り上げられていない。他の依処とは同等の進行ではないので、教説の区別が生じるからである。なぜなら、眼識などは完全に眼などの依拠に依存するが、意識(manoviññāṇa)は完全に心臓という依処に依存するわけではない。依存する形において、依処の二法などの教説が、「眼識の依処である物質が存在し、眼識の依処ではない物質が存在する」などと展開されている。完全に心臓という依処に依存するものも、その観点から「意識の依処である物質が存在する」などと二法などで述べられても、それに対応する所縁の二法などは成立しない。なぜなら、「意識の所縁である物質が存在し、意識の所縁ではない物質が存在する」とは言えないので、依処と所縁の二法は進行が異なるので、一味の教説とはならないからである。同様に、概論の章(nikkhepakaṇḍa)において、心生起の区別によって述べられていないため、尋(vitakka)を伴わない思考(vicāra)のみの句の解説において、「思考もまた」と言うことはできない。尋(vitakka)を伴わない思考(vicāra)のみの句の解説において、たとえ尋(vitakka)が含まれていても取り上げられていない。そうでなければ、「尋もまた」と言われるべきであろう。
Daṇḍanasaṅkhātassa daṇḍassa paraviheṭhanassa vivajjitabhāvadīpanatthaṃ daṇḍasatthānaṃ nikkhepavacananti āha **‘‘parūpaghātatthāyā’’**tiādi. Viheṭhanabhāvatoti vihiṃsanabhāvato. ‘‘Bhikkhusaṅghavasenāpi dīpetuṃ vaṭṭatī’’ti vuttattā tampi ekadesena dīpento **‘‘yaṃ pana bhikkhū’’**tiādimāha.
罰を与えるための棍棒、すなわち他者を苦しめることからの離反を示すために、「他者を害するために」などと棍棒や武器を置くという言葉を述べたのである。苦しめる状態とは、害する状態のことである。「比丘僧団を主体としても説明すべきである」と述べられているので、それも部分的に説明するために、「また、比丘たちが」などと述べたのである。
Lajjīti ettha vuttalajjāya ottappampi vuttamevāti daṭṭhabbaṃ. Na hi pāpajigucchanaṃ pāputtāsanarahitaṃ, pāpabhayaṃ vā alajjanaṃ atthīti. Dhammagarutāya vā buddhānaṃ, dhammassa ca attādhīnattā attādhipatibhūtā lajjāva vuttā, na pana lokādhipati ottappaṃ. ‘‘Dayaṃ mettacittataṃ āpanno’’ti kasmā vuttaṃ, nanu dayā-saddo ‘‘dayāpanno’’tiādīsu karuṇāya pavattatīti? Saccametaṃ, ayaṃ pana dayā-saddo anurakkhaṇamatthaṃ antonītaṃ katvā pavattamāno mettāya karuṇāya ca pavattatīti idha mettāya pavattamāno vutto. Midati siniyhatīti mettā, mettā etassa atthīti mettaṃ, mettaṃ cittaṃ etassāti mettacitto, tassa bhāvo mettacittatā, mettā icceva attho. **‘‘Sabbapāṇabhūtahitānukampī’’**ti etena tassā viratiyā sattavasena apariyantataṃ dasseti. Pāṇabhūteti pāṇajāte. Anukampakoti karuṇāyanako. Yasmā pana mettā karuṇāya visesapaccayo hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘tāya eva dayāpannatāyā’’**ti. Evaṃ yehi dhammehi pāṇātipātā virati sampajjati, tehi lajjāmettākaruṇāhi samaṅgībhāvo dassito. Viharatīti evaṃbhūto hutvā ekasmiṃ iriyāpathe uppannaṃ dukkhaṃ aññena iriyāpathena vicchinditvā harati pavatteti, attabhāvaṃ vā yāpetīti attho. Tenevāha **‘‘iriyati yapeti yāpeti pāletī’’**ti.
「慚(はじ)あり」とは、ここで述べられている慚に加えて、愧(はじる心)も含まれると理解すべきである。実際、悪を嫌悪する心は、悪の結果を恐れる心なしには存在せず、悪を恐れる心がなければ慚も存在しないからである。あるいは、仏陀にとって法を重んじるがゆえに、法が自己に依存し、自己が主であるという慚が述べられているのであって、世間を主とする愧ではない。「慈悲の心を備える」と何故言われたのか。慈悲という言葉は「慈悲深い」などで悲愍(かるな)の意味で用いられるのではないか。それは事実である。しかし、この慈悲という言葉は、保護すべき意味を含みながら用いられる場合、慈と悲の両方に用いられるが、ここでは慈の意味で用いられている。「親しむ、愛着する」が慈(mettā)である。慈を持つ者が慈であり、慈の心を持つ者が慈心である。その状態が慈心性であり、慈そのものの意味である。「一切の衆生に慈悲深く」という言葉は、その離欲が無数の衆生に対して無限であることを示している。「生類」とは生あるもののこと。「慈悲深い」とは哀れみを示すこと。慈は悲の特別な原因となるので、「その慈悲の心によって」と言われた。このように、殺生を離れることが実現する法によって、慚、慈、悲との結合が示されている。「住する」とは、そのような状態になって、一つの威儀路(いぎろ)で生じた苦しみを別の威儀路で断ち切り、保ち、行い、あるいは生存を維持するという意味である。それゆえ「行い、過ごし、生き、保護する」と言われた。
Ācārasīlamattakanti sādhujanācārasīlamattakaṃ, tena indriyasaṃvarādiguṇehipi lokiyaputhujjano tathāgatassa vaṇṇaṃ vattuṃ na sakkotīti dasseti. Tathā hi indriyasaṃvarapaccayaparibhogasīlāni idha sīlakathāyaṃ na vibhattāni.
「行儀作法と戒律のわずかなもの」とは、善人らの行儀作法と戒律のわずかなものである。それゆえ、世間の凡夫は、諸根の制御などの功徳によっても、如来の称賛を語ることはできない、と示している。実際、諸根の制御、資具の受用に関する戒は、ここでの戒についての説示では分類されていない。
Parasaṃharaṇanti parassa santakaharaṇaṃ. Theno vuccati coro, tassa bhāvo theyyaṃ. Idhāpi khuddake parasantake appasāvajjaṃ, mahante mahāsāvajjaṃ. Kasmā? Payogamahantatāya, vatthuguṇānaṃ pana samabhāve sati kilesānaṃ upakkamānañca mudutāya appasāvajjaṃ, tibbatāya mahāsāvajjanti ayampi nayo yojetabbo.
「他人の物を奪うこと」とは、他人の所有物を奪うことである。「セーナ」とは盗人のこと、その行為が「テーイヤ」である。ここでも、他人のわずかな物を奪うことは罪が軽く、多くの物を奪うことは罪が重い。なぜか? その行為の規模が大きいからである。しかし、物の価値が同じである場合でも、煩悩や企ての穏やかさによって罪が軽く、激しさによって罪が重いと、この方法も適用すべきである。
Sāhatthikādayoti ettha mantaparijappanena parasantakaharaṇaṃ vijjāmayo, vinā mantena kāyavacīpayogena parasantakassa ākaḍḍhanaṃ tādisaiddhānubhāvena iddhimayo payogo.
「自らの手によるものなど」とは、呪文を唱えることによって他人の物を奪うことは「明呪によるもの」、呪文なしに身と口の行為によって他人の物を引き寄せることは、そのような神通力によって「神通による行為」である。
Sesanti ‘‘pahāya paṭivirato’’ti evamādikaṃ. Tañhi pubbe vuttanayaṃ. Kiñcāpi nayidha sikkhāpadavohārena virati vuttā, ito aññesu pana suttapadesesu vinayābhidhammesu ca pavattavohārena viratiyo cetanā ca adhisīlasikkhādīnaṃ adhiṭṭhānabhāvato, tesu aññatarakoṭṭhāsabhāvato ca sikkhāpadanti āha **‘‘paṭhamasikkhāpade’’**ti. Kāmañcettha ‘‘lajjī dayāpanno’’ti na vuttaṃ, adhikāravasena pana atthato vā vuttamevāti veditabbaṃ. Yathā hi lajjādayo pāṇātipātappahānassa visesappaccayo, evaṃ adinnādānappahānassāpīti, tasmā sāpi pāḷi ānetvā vattabbā. Eseva nayo ito paresupi. Atha vā ‘‘sucibhūtenā’’ti etena hirottappādīhi samannāgamo, ahirikādīnañca pahānaṃ vuttamevāti ‘‘lajjī’’tiādi na vuttanti daṭṭhabbaṃ.
「残り」とは、「捨て去り、離れる」などである。それは既に述べられた方法である。ここでは戒律の表現として離れることが述べられていないとしても、他の経典や律蔵、論蔵において用いられている表現として、離れることと意思は増上戒学などの基礎であること、そしてそれらがその一部であることから、「第一の戒律において」と述べられている。ここでは「慚あり、慈悲あり」とは言われていないが、文脈上、あるいは意味としては述べられていると知るべきである。慚などが殺生を断つための特別な原因であるのと同様に、盗みを断つための原因でもあるから、その文句も引用して語るべきである。これが他の場合にも適用される方法である。あるいは、「清らかになった」という言葉によって、慚愧などを備え、無慚などを捨てることは既に述べられているので、「慚あり」などとは言われていないと理解すべきである。
Aseṭṭhacariyanti aseṭṭhānaṃ hīnānaṃ, aseṭṭhaṃ vā lāmakaṃ nihīnaṃ vuttiṃ, methunanti attho. **‘‘Brahmaṃ seṭṭhaṃ ācāra’’**nti methunaviratimāha. **‘‘Ārācārī methunā’’**ti etena ‘‘idha brāhmaṇa ekacco…pe… na heva kho mātugāmena saddhiṃ dvayaṃdvayasamāpattiṃ samāpajjati, apica kho mātugāmassa ucchādanaparimaddananhāpanasambāhanaṃ sādiyati, so taṃ assādeti, taṃ nikāmeti, tena ca vittiṃ āpajjatī’’tiādinā (a. ni. 7.50) vuttā sattavidhamethunasaṃyogāpi paṭivirati dassitāti daṭṭhabbā. Idhāpi asaddhammasevanādhippāyena kāyadvārappavattā maggenamaggapaṭipattisamuṭṭhāpikā cetanā abrahmacariyaṃ, micchācāre pana agamanīyaṭṭhānavītikkamacetanāti yojetabbaṃ. Tattha agamanīyaṭṭhānaṃ nāma purisānaṃ māturakkhitādayo dasa, dhanakkītādayo dasāti vīsati itthiyo. Itthīsu pana dasannaṃ dhanakkitādīnaṃ sārakkhasaparidaṇḍānañca vasena dvādasannaṃ aññe purisā. Guṇavirahite vippaṭipatti appasāvajjā, mahāguṇe mahāsāvajjā. Guṇarahitepi ca abhibhavitvā pavatti mahāsāvajjā, ubhinnaṃ samānacchandabhāvepi kilesānaṃ upakkamānañca mudutāya appasāvajjā, tibbatāya mahāsāvajjāti veditabbā. Tassa dve sambhārā sevetukāmatācittaṃ, maggenamaggapaṭipattīti. Micchācāre pana agamanīyaṭṭhānatā, sevanācittaṃ maggenamaggapaṭipatti, sādiyanañcāti cattāro. ‘‘Abhibhavitvā vītikkamane maggenamaggapaṭipattiadhivāsane satipi purimuppannasevanābhisandhipayogābhāvato abhibhuyyamānassa micchācāro na hotī’’ti vadanti. Sevanācitte sati payogābhāvo na pamāṇaṃ itthiyā sevanāpayogassa yebhuyyena abhāvato, itthiyā puretaraṃ upaṭṭhāpitasevanācittāyapi micchācāro na siyāti āpajjati payogābhāvato. Tasmā purisassa vasena ukkaṃsato cattāro vuttāti daṭṭhabbaṃ, aññathā itthiyā purisakiccakaraṇakāle purisassapi sevanāpayogābhāvato micchācāro na siyāti eke. Idaṃ panettha sanniṭṭhānaṃ – attano ruciyā pavattitassa tayo, balakkārena pavattitassa tayo, anavasesaggahaṇena pana cattāroti. Eko payogo sāhatthikova.
「不浄行」とは、劣悪で卑しい行為、あるいは下劣で卑賤な営み、すなわち性交の意味である。「清らかな最勝の行」とは、性交からの離欲を指す。「性交から遠く離れて行を修める」という言葉によって、「比丘よ、ここに、ある者は…中略…女性と二つに合わないが、女性に塗香、按摩、沐浴、マッサージを喜び、それを楽しみ、それを好み、それで満足する」など(増支部7.50)で述べられている七種類の性交との結合からの離反も示されていると理解すべきである。ここでも、不浄な行為を行う意図によって、身体の門を通じて起こる、その道にふさわしくない行為を引き起こす意思が不梵行である。邪淫においては、行ってはならない場所を犯す意思と解釈すべきである。その「行ってはならない場所」とは、男性にとっては母に守られている者など十人、金銭で買われた者など十人の計二十人の女性を指す。女性にとっては、金銭で買われた者など十人、さらに護衛されている者や罰を科される者を含めて十二人以外の男性を指す。徳のない者に対する違反は罪が軽く、大いなる徳のある者に対する違反は罪が重い。徳のない者であっても、力ずくで行う行為は罪が重く、両者が同じ望みを持つ場合でも、煩悩や企ての穏やかさによって罪が軽く、激しさによって罪が重いと知るべきである。その二つの要素は、行為を望む心と、その道にふさわしくない行為である。邪淫においては、「行ってはならない場所であること」「行為を望む心」「その道にふさわしくない行為」「満足すること」の四つがある。「力ずくで犯した場合、その道にふさわしくない行為を耐え忍ぶことがあったとしても、以前に生じた行為を望む心と行為の意図がないため、力ずくで行為をされた者には邪淫の罪はない」と言う者もいる。しかし、行為を望む心がある場合に、行為の欠如が証拠とはならない。女性の場合、行為を行うことがほとんどないため、もし女性が以前から行為を望む心を起こしていたとしても、行為が欠如していれば邪淫とはならないという結論になってしまうからである。したがって、男性の場合を最優先として四つの要素が述べられていると理解すべきである。さもなければ、女性が男性の役割を果たす場合、男性にも行為を望む意図がないので邪淫とはならない、と一部の者は言うだろう。ここでの結論はこうである――自らの好みによって行われた場合は三つ、力ずくで行われた場合は三つ、そして完全に捉える場合は四つである。一つの行為は自らの手による行為のみである。
9. Kammapathappattaṃ dassetuṃ **‘‘atthabhañjanako’’**ti vuttaṃ. Vacīpayogo kāyapayogo vāti musā-saddassa kiriyāpadhānataṃ dasseti. Visaṃvādanādhippāyo pubbabhāgakkhaṇe taṅkhaṇe ca. Vuttañhi ‘‘pubbevassa hoti ‘musā bhaṇissa’nti, bhaṇantassa hoti ‘musā bhaṇāmī’ti’’ (pārā. 205). Etañhi dvayaṃ aṅgabhūtaṃ, itaraṃ pana hotu vā mā vā, akāraṇametaṃ. Assāti visaṃvādakassa. Yathāvuttaṃ payogabhūtaṃ musā vadati viññāpeti, samuṭṭhāpeti vā etāyāti cetanā musāvādo.
9. 業道に達したことを示すために「意味を破壊する者」と言われた。言葉の行為か身体の行為か、というのは、虚偽の言葉(ムサー)という語の行為主体の性質を示す。欺瞞の意図は、行為前の瞬間と行為中の瞬間にある。実際、「彼は以前から『私は偽りを言うだろう』と思い、言っている間は『私は偽りを言っている』と思う」(波羅夷205)と述べられている。この二つが主要な要素であり、その他の要素があるかないかは、本質的な原因ではない。「彼の」とは、欺瞞を行う者のことである。前述の行為形態の虚偽を語り、理解させ、あるいは生じさせる意思が虚偽の言葉である。
Purimanaye lakkhaṇassa abyāpitatāya, musā-saddassa ca visaṃvaditabbatthavācakattasambhavato paripuṇṇaṃ katvā musāvādalakkhaṇaṃ dassetuṃ **‘‘musāti abhūtaṃ atacchaṃ vatthū’’**tiādinā dutiyanayo āraddho. Imasmiñca naye musā vadīyati vuccati etāyāti **cetanā musāvādo. ‘‘Yamatthaṃ bhañjatī’’**ti vatthuvasena musāvādassa appasāvajjamahāsāvajjatamāha. Yassa atthaṃ bhañjati, tassa appaguṇatāya appasāvajjo, mahāguṇatāya mahāsāvajjoti adinnādāne viya guṇavasenāpi yojetabbaṃ. Kilesānaṃ mudutibbatāvasenāpi appasāvajjamahāsāvajjatā labbhatiyeva.
以前の方法では特徴が不完全であったため、また虚偽の言葉が欺瞞されるべき意味を表す可能性があるので、虚偽の言葉の特徴を完全に示すために、「虚偽とは、事実でない、真実でない事柄である」などで第二の方法が始められた。この方法では、虚偽が語られる、と言われるその意思が虚偽の言葉である。「その意味を破壊する」とは、事柄に応じて虚偽の言葉の罪の軽重を述べている。誰の意味を破壊するかによって、その人の徳が少ない場合は罪が軽く、徳が多い場合は罪が重いと、盗みの場合と同様に徳の観点からも適用すべきである。煩悩の穏やかさや激しさによっても、罪の軽重は得られる。
Attano santakaṃ adātukāmatāya, pūraṇakathānayena ca visaṃvādanapurekkhārasseva musāvādo. Tattha pana cetanā balavatī na hotīti appasāvajjatā vuttā. Appatāya ūnassa atthassa pūraṇavasena pavattā kathā pūraṇakathā.
自分の持ち物を与えたくないという意図、そして補完的な話の方法によって、欺瞞を前提としたものだけが虚偽の言葉である。しかし、そこでは意思が強力ではないので、罪が軽いと言われる。不十分な、欠けている意味を補完するために行われる話が補完的な話である。
Tajjoti tassāruppo, visaṃvādanānurūpoti attho. **‘‘Vāyāmo’’**ti vāyāmasīsena payogamāha. Visaṃvādanādhippāyena payoge katepi parena tasmiṃ atthe aviññāte visaṃvādanassa asijjhanato parassa tadatthavijānanaṃ eko sambhāro vutto. Keci pana ‘‘abhūtavacanaṃ visaṃvādanacittaṃ parassa tadatthavijānananti tayo sambhārā’’ti vadanti. Kiriyāsamuṭṭhāpakacetanākkhaṇeyeva musāvādakakammunā bajjhati sanniṭṭhāpakacetanāya nibbattattā, sacepi dandhatāya vicāretvā paro tamatthaṃ jānātīti adhippāyo.
「それにふさわしい」とは、その欺瞞にふさわしいという意味である。「努力」とは、努力という観点から行為を指す。欺瞞の意図で行為を行っても、相手がその意味を理解しなければ欺瞞は成立しないため、相手がその意味を理解することが一つの要素として述べられている。ある者は「事実でない言葉、欺瞞の心、相手がその意味を理解することの三つが要素である」と言う。行為を起こさせる意思の瞬間に、虚偽の言葉の業によって縛られる。それは決意の意思によって生じるからである。たとえ相手がゆっくり考えてその意味を理解したとしても、それが意図である。
‘‘Saccato thetato’’tiādīsu (ma. ni. 1.19) viya theta-saddo thirapariyāyo, thirabhāvo ca saccavāditāya adhikatattā kathāvasena veditabboti āha **‘‘thirakathoti attho’’**ti. Nathirakathoti yathā haliddirāgādayo anavaṭṭhitasabhāvatāya na thirā, evaṃ na thirā kathā yassa so na thirakathoti haliddirāgādayo yathā kathāya upamā honti, evaṃ yojetabbaṃ. Esa nayo **‘‘pāsāṇalekhā viyā’’**tiādīsupi.
「真実であり確固たる」など(中部1.19)のように、「テータ」という言葉は「確固たる」の同義語であり、確固たる状態は真実を語る性質において優れているため、言葉によって知られるべきである、と「確固たる言葉であるという意味」と言われる。「確固たる言葉でない」とは、例えばターメリックの色などが不安定な性質であるために確固たるものでないように、確固たる言葉を持たない者は確固たる言葉でない。ターメリックの色などが言葉の譬喩であるように、このように解釈すべきである。この方法は「石の刻印のように」などにも適用される。
Saddhā ayati pavattati etthāti saddhāyo, saddhāyo eva saddhāyiko yathā ‘‘venayiko’’ti (a. ni. 8.11; pārā. 8). Saddhāya vā ayitabbo saddhāyiko, saddheyyoti attho. Vattabbataṃ āpajjati visaṃvādanatoti adhippāyo.
「信仰が生じるところ」が「サッダーヨー」であり、「サッダーヨー」が「サッダーイコー」である。例えば「ヴィーナヤコー」(増支部8.11; 波羅夷8)のように。あるいは、信仰によって得られるべき者が「サッダーイコー」であり、信頼できるという意味である。「欺瞞の対象となる」という意味である。
Suññabhāvanti pītivirahitatāya rittataṃ. Sā pisuṇavācāti yāyaṃ yathāvuttā saddasabhāvā vācā, sā piyasuññakaraṇato pisuṇavācāti niruttinayena atthamāha. Pisatīti vā pisuṇā, samagge satte avayavabhūte vagge bhinne karotīti attho.
「空虚な状態」とは、喜びがないことによる空虚さである。「離間語」とは、前述の言葉の性質を持つ言葉が、愛着を失わせることから離間語と呼ばれると、語源学的に意味を説明する。あるいは「分断する」から「ピスナ」である。和合した衆生を部分として分け、分裂させるという意味である。
Pharusanti sinehābhāvena lūkhaṃ. Sayampi pharusāti domanassasamuṭṭhitattā sabhāvenapi kakkasā. Ettha ca pharusaṃ karotīti phalūpacārena, pharusayatīti vā vācāya pharusa-saddappavatti veditabbā. Sayampi pharusāti paresaṃ mammacchedavasena pavattiyā ekantaniṭṭhuratāya sabhāvena, kāraṇavohārena ca vācāya pharusa-saddappavatti daṭṭhabbā. Tatoyeva ca neva kaṇṇasukhā. Atthavipannatāya na hadayaṅgamā.
「粗語」とは、愛情がないことによる荒々しさである。それ自体が粗語であるとは、不満から生じるため、その本質においても粗い。ここで「粗語を行う」とは、結果の譬喩によって、あるいは「粗語である」という語によって言葉における粗語という言葉の生起を知るべきである。それ自体が粗語であるとは、他人の核心を突き刺すように用いられるため、その本質において極めて冷酷であり、また原因を示す言葉遣いによって言葉における粗語という言葉の生起を知るべきである。それゆえ、耳に心地よくなく、意味に乏しいため心に響かない。
Yena samphaṃ palapatīti yena palāpasaṅkhātena niratthakavacanena sukhaṃ hitañca phalati vidarati vināsetīti ‘‘sampha’’nti laddhanāmaṃ attano paresañca anupakārakaṃ yaṃ kiñci palapati.
「不毛な言葉をしゃべる者」とは、不毛な言葉として無意味な言葉によって、幸福と利益が実らず、失われ、破壊されるので「サムパ」という名を得た、自分と他人にとって何の役にも立たないことをしゃべる者である。
Saṃkiliṭṭhacittassāti lobhena dosena vā vibādhitacittassa, upatāpitacittassa vā, dūsitacittassāti attho. Cetanā pisuṇavācā pisuṇaṃ vadanti etāyāti. Yassa yato bhedaṃ karoti, tesu abhinnesu appasāvajjaṃ, bhinnesu mahāsāvajjaṃ, tathā kilesānaṃ mudutibbatāvisesesu.
「汚れた心を持つ者」とは、貪欲や瞋恚によって妨げられた心、あるいは苦しめられた心、汚された心という意味である。意思は離間語であり、それによって離間語を語るからである。誰を誰から分断するかによって、分断されていない者に対しては罪が軽く、分断された者に対しては罪が重い。同様に、煩悩の穏やかさや激しさの違いによっても同様である。
Yassa pesuññaṃ upasaṃharati, so bhijjatu vā mā vā, tassa atthassa viññāpanameva pamāṇanti āha **‘‘tadatthavijānana’’**nti, kammapathappatti pana bhinne eva.
誰に離間語を用いるかによって、その者が分裂しようとしまいと、その意味を理解させることが重要である、と「その意味を理解させること」と言われた。しかし、業道に達するのは分裂した者に対してのみである。
Anuppadātāti anubalappadātā, anuvattanavasena vā padātā. Kassa pana anuvattanaṃ padānañca? ‘‘Sahitāna’’nti vuttattā ‘‘sandhānassā’’ti viññāyati. Tenevāha **‘‘sandhānānuppadātā’’**ti. Yasmā pana anuvattanavasena sandhānassa padānaṃ ādhānaṃ, rakkhaṇaṃ vā daḷhīkaraṇaṃ hoti, tena vuttaṃ **‘‘daḷhīkammaṃ kattāti attho’’**ti. Āramanti etthāti ārāmo, ramitabbaṭṭhānaṃ. Yasmā pana ākārena vināpi ayamevattho labbhati, tasmā vuttaṃ **‘‘samaggarāmotipi pāḷi, ayamevettha attho’’**ti.
「助言を与える者」とは、力を与える者、あるいは従順に与える者である。しかし、誰に従順に与えるのか? 「友である者たち」と言われているので、「和合する者たち」と理解される。それゆえ「和合に助言を与える者」と言われた。従順に和合を与えることは、支え、保護、あるいは強化となるので、「強化を行う者という意味」と言われた。「そこで楽しむ」が「アラーモ」であり、楽しむべき場所である。しかし、その形式がなくてもこの意味が得られるので、「和合の喜びでもある(samaggarāmopi)というパーリ語も、ここではこの意味である」と言われた。
Mammāni viya mammāni, yesu pharusavācāya chupitamattesu duṭṭhārūsu viya ghaṭṭitesu cittaṃ adhimattaṃ dukkhappattaṃ hoti. Kāni pana tāni? Jātiādīni akkosavatthūni. Tāni chijjanti, bhijjanti vā yena kāyavacīpayogena, so mammacchedako. Ekantena pharusacetanā pharusavācā pharusaṃ vadati etāyāti. Kathaṃ pana ekantapharusacetanā hoti? Duṭṭhacittatāya. Tassāti ekantapharusacetanāya eva pharusavācābhāvassa. Mammacchedako savanapharusatāyāti adhippāyo. Cittasaṇhatāya pharusavācā na hoti kammapatha’ppattattā, kammabhāvaṃ pana na sakkā vāretunti. Evaṃ anvayavasena cetanāpharusatāya pharusavācaṃ sādhetvā idāni tameva paṭipakkhanayena sādhetuṃ **‘‘vacanasaṇhatāyā’’**tiādi vuttaṃ. Sā pharusavācā. Yanti yaṃ puggalaṃ. Etthāpi kammapathabhāvaṃ appattā appasāvajjā, itarā mahāsāvajjā, tathā kilesānaṃ mudutibbatābhāve. Keci pana ‘‘yaṃ uddissa pharusavācā payujjanti, tassa sammukhāva sīsaṃ etī’’ti, eke ‘‘parammukhāpi pharusavācā hotiyevā’’ti vadanti. Tatthāyamadhippāyo yutto siyā – sammukhā payoge agāravādīnaṃ balavabhāvato siyā cetanā balavatī, parassa ca tadatthajānanaṃ, na tathā asammukhāti. Yathā pana akkosite mate āḷahane katā khamanā upavādantarāyaṃ nivatteti, evaṃ ‘‘parammukhā payuttāpi pharusavācā hotiyevā’’ti sakkā viññātunti. Kupitacittanti akkosādhippāyeneva kupitacittaṃ, na maraṇādhippāyena. Maraṇādhippāyena hi cittakope sati byāpādoyeva hotīti. Etthāti –
粗悪な言葉でわずかに触れられたり、悪意ある腫れ物に触れられたりすると、心が過度に苦痛を被る、核心中の核心のようなものがある。それらとは何か?それは出生などの中傷の対象である。それらが身口の行いによって切られたり、壊されたりするならば、それは核心を切り裂く者である。断定的な粗暴な意図が、粗暴な言葉によって粗暴なことを言う。では、どのようにして断定的な粗暴な意図が生じるのか?悪意ある心によってである。それは断定的な粗暴な意図にのみ粗暴な言葉が存在するということ。核心を切り裂く者とは、聞く者にとって粗暴であるという意味である。心が粗野なため、粗暴な言葉は業道ではないが、業となる状態を防ぐことはできない。このように、順接的に意図の粗暴さによって粗暴な言葉を説明し、今度は逆接的な方法でそれを説明するために、「粗野な言葉によって」などが述べられた。その粗暴な言葉は。ヤンティとは「どのような人に対して」を意味する。ここでも、業道の状態に達しないものは罪が少なく、達するものは罪が大きい。同様に煩悩の穏やかさと激しさにおいても。ある者は「粗暴な言葉が向けられるその人の面前で頭が来る」と言うが、ある者は「不在の場合でも粗暴な言葉は存在する」と言う。そこでは、この意味が適切であろう。面前での使用においては、不敬の言葉を言う者の力が強いことから、意図は強いかもしれず、相手もその意味を知る。不在の場合ではそうではない。しかし、例えば、悪口を言われた死者に対して火葬場で許しがなされれば、その悪評の障害は取り除かれるように、「不在の場合でも用いられた粗暴な言葉は存在する」と理解することができる。「怒った心」とは、悪口を言う意図で怒った心であり、殺害の意図ではない。殺害の意図で心が怒っているならば、それは悪意であるからだ。ここでも―
‘‘Nelaṅgo setapacchādo, ekāro vattatī ratho;
「青みがかった白衣をまとい、一つの馬車が進む。」
Anīghaṃ passa āyantaṃ, chinnasotaṃ abandhana’’nti. (saṃ. ni. 4.347; udā. 65);
「悩みのない者が来るのを見よ、流れを断ち、束縛のない者を。」(saṃ. ni. 4.347; udā. 65)
Imissā gāthāya. Sīlañhettha ‘‘nelaṅga’’nti vuttaṃ. Tenevāha citto gahapati ‘‘nelaṅganti kho bhante sīlānametaṃ adhivacana’’nti (saṃ. ni. 4.347). Sukumārāti apharusatāya mudukā. Purassāti ettha pura-saddo tannivāsīvācako daṭṭhabbo ‘‘gāmo āgato’’tiādīsu viya. Tenevāha **‘‘nagaravāsīna’’**nti. Manaṃ appāyati vaḍḍhetīti manāpā. Tena vuttaṃ **‘‘cittavuḍḍhikarā’’**ti. Āsevanaṃ bhāvanaṃ bahulīkaraṇaṃ. Yaṃ gāhayituṃ pavattito, tena aggahite appasāvajjo gahite mahāsāvajjoti, idhāpi kilesānaṃ mudutibbatāvasenāpi appasāvajjamahāsāvajjatā labbhatiyeva.
この詩によって。ここで「青みがかった」とは戒を意味すると述べられている。だからこそチッタ居士は「尊者よ、青みがかったとは戒の同義語であります」と言ったのである(saṃ. ni. 4.347)。「スークマーラ」とは、粗暴でないがゆえに柔和であること。「プラーサ」とは、ここでは「村が来た」などと同じように、その地の住民を指す言葉と見なされるべきである。したがって、「市民の」と述べられている。「マナン・アッパーヤティ・ヴァッデーティ」は、心を喜ばせ、成長させるので、「マナーパー」である。それゆえ「心を増大させる」と述べられた。「アセーヴァナ」とは、修習、多行すること。捕らえさせようとしたものが、捕らえられなければ罪は軽く、捕らえられれば罪は重い。ここでも煩悩の穏やかさと激しさによって罪の軽重が得られる。
**‘‘Kālavādī’’**tiādi samphappalāpā paṭiviratassa paṭipattidassanaṃ. Yathā hi ‘‘pāṇātipātā paṭivirato’’tiādi pāṇātipātappahānapaṭipattidassanaṃ. ‘‘Pāṇātipātaṃ pahāya viharatī’’ti hi vutte kathaṃ pāṇātipātappahānaṃ hotīti? Apekkhāsabbhāvato ‘‘pāṇātipātā paṭivirato hotī’’ti vuttaṃ, sā pana virati kathanti āha ‘‘nihitadaṇḍo nihitasattho’’ti, tañca daṇḍasatthanidhānaṃ kathanti vuttaṃ ‘‘lajjī’’tiādi, evaṃ uttaruttaraṃ purimassa purimassa upāyasandassanaṃ, tathā adinnādānādīsu yathāsambhavaṃ yojetabbaṃ. Tena vuttaṃ ‘‘kālavādītiādi samphappalāpā paṭiviratassa paṭipattidassana’’nti. Atthasañhitāpi hi vācā ayuttakālappayogena atthāvahā na siyāti anatthaviññāpanavācaṃ anulometi, tasmā samphappalāpaṃ pajahantena akālavāditā parivajjetabbāti vuttaṃ **‘‘kālavādī’’**ti. Kālena vadantenāpi ubhayānatthasādhanato abhūtaṃ parivajjetabbanti āha **‘‘bhūtavādī’’**ti. Bhūtañca vadantena yaṃ idhalokaparalokahitasampādakaṃ, tadeva vattabbanti dassetuṃ **‘‘atthavādī’’**ti vuttaṃ. Atthaṃ vadantenāpi na lokiyadhammasannissitameva vattabbaṃ, atha kho lokuttaradhammasannissitaṃ pīti dassetuṃ **‘‘dhammavādī’’**ti vuttaṃ. Yathā ca attho lokuttaradhammasannissito hoti, taṃ dassanatthaṃ **‘‘vinayavādī’’**ti vuttaṃ. Pātimokkhasaṃvaro satisaṃvaro ñāṇasaṃvaro khantisaṃvaro vīriyasaṃvaroti hi pañcannaṃ saṃvarānaṃ, tadaṅgavinayo vikkhambhanavinayo samucchedavinayo paṭippassaddhivinayo nissaraṇavinayoti pañcannaṃ vinayānañca vasena vuccamāno attho nibbānādhigamahetubhāvato lokuttaradhammasannissito hotīti.
「適時に語る者」などは、雑談から遠ざかった者の実践を示すものである。ちょうど「殺生を避ける者」などが、殺生を捨てる実践を示すように。「殺生を捨てて住む」と述べられた場合、どのようにして殺生を捨てるのか?という期待があるため、「殺生を避ける者となる」と述べられている。しかし、その遠離とは何か?と彼は「杖を置いた者、武器を置いた者」と述べる。そしてその杖と武器を置くとは何か?と「恥を知る者」などと述べられている。このように、次々に前のことに対する手段が示され、同様に不与取などにおいても可能な限り当てはめるべきである。それゆえ「適時に語る者」などは、雑談から遠ざかった者の実践を示すものである、と述べられた。なぜなら、有益な言葉であっても、不適切な時に用いれば有益でなくなり、無益を知らせる言葉を許すことになるからである。それゆえ、雑談を捨てる者は不時語を避けるべきであると言われ、「適時に語る者」と述べられた。適時に語る者であっても、両者にとって無益を招くような虚妄なことは避けるべきであると言われ、「事実を語る者」と述べられた。事実を語る者であっても、現世と来世に利益をもたらすことのみを語るべきであると示すために、「有益なことを語る者」と述べられた。有益なことを語る者であっても、世間の法に基づくことのみを語るべきではなく、むしろ出世間の法に基づくことも語るべきであると示すために、「法を語る者」と述べられた。そして、どのようにして有益なことが出世間の法に基づくのか、それを示すために「律を語る者」と述べられた。なぜなら、波羅提木叉の護戒、念の護戒、智の護戒、忍辱の護戒、精進の護戒という五つの護戒、そして対治律、遮断律、断滅律、止息律、出離律という五つの律によって語られる有益なことは、涅槃に到達する原因であることから、出世間の法に基づくものとなるからである。
Evaṃ guṇavisesayutto ca attho vuccamāno desanākosalle sati sobhati, kiccakaro ca hoti, nāññathāti dassetuṃ **‘‘nidhānavatiṃ vācaṃ bhāsitā’’**ti vuttaṃ. Idāni taṃ desanākosallaṃ vibhāvetuṃ **‘‘kālenā’’**tiādimāha. Ajjhāsayaṭṭhuppattīnaṃ pucchāya ca vasena otiṇṇe desanāvisaye ekaṃsādibyākaraṇavibhāgaṃ sallakkhetvā ṭhapanāhetudāharaṇasaṃsandanāni taṃtaṃkālānurūpaṃ vibhāventiyā parimitaparicchinnarūpāya vipulataragambhīrudārapahūtatthavitthārasaṅgāhakāya desanāya pare yathājjhāsayaṃ paramatthasiddhiyaṃ patiṭṭhāpento ‘‘desanākusalo’’ti vuccatīti evamettha atthayojanā veditabbā.
このように、特別な属性を備えた言葉が、説法が巧みであれば輝き、有益となるのであり、そうでなければならないことを示すために、「宝蔵のある言葉を語る者」と述べられた。今、その説法の巧みさを明らかにするために、「時を得て」などと彼は述べた。傾向、起源、そして質問に応じて展開される説法の領域において、決定的な応答などの文法区分をよく考慮し、それぞれの時宜に合った配置、理由、例え、比較などを詳細に説明し、限られた簡潔な形式でありながら、非常に深く、広大で、多くの意味を包含する説法によって、他者をその傾向に従って最高の目的の達成へと確立させる者を「説法が巧みな者」と呼ぶ、というように、ここで意味の解釈が知られるべきである。
10. Evaṃ paṭipāṭiyā satta mūlasikkhāpadāni vibhajitvā satipi abhijjhādippahānassa saṃvarasīlasikkhāsaṅgahe upariguṇasaṅgahato, lokiyaputhujjanāvisayato ca uttaradesanāya saṅgaṇhituṃ taṃ pariharitvā pacurajanapākaṭaṃ ācārasīlameva vibhajanto bhagavā **‘‘bījagāmabhūtagāmasamārambhā’’**tiādimāha. Tattha gāmoti samūho. Nanu ca rukkhādayo cittarahitatāya na jīvā, cittarahitatā ca paripphandābhāvato, chinne viruhanato, visadisajātikabhāvato, catuyoniappariyāpannato ca veditabbā, vuḍḍhi pana pavāḷasilālavaṇānampi vijjatīti na tesaṃ jīvabhāve kāraṇaṃ, visayaggahaṇañca parikappanāmattaṃ supanaṃ viya ciñcādīnaṃ, tathā dohaḷādayo, tattha kasmā bījagāmabhūtagāmasamārambhā paṭivirati icchitāti? Samaṇasāruppato, sannissitasattānurakkhaṇato ca. Tenevāha ‘‘jīvasaññino hi moghapurisā manussā rukkhasmi’’ntiādi (pāci. 89). Nīlatiṇarukkhādikassāti allatiṇassa ceva allarukkhādikassa ca. Ādi-saddena osadhigacchalatādayo veditabbā.
10. このように、次々に七つの根本学処を分析した後、貪欲などを捨てることも戒律の護持の学処に含まれているにもかかわらず、高次の徳の包含と、世俗の凡夫の領域を超えた教えとしてそれを包含するために、それを避けて、多くの人々に広く知られた行儀の戒のみを分析しつつ、世尊は「種子類・植物類を傷つけること」などと述べた。ここで「ガーマ」とは集団である。しかし、木などは心がないので生き物ではないのではないか?心がないことは、動きがないこと、切っても再生すること、異種属であること、四つの生に属さないことによって知られるべきである。また、珊瑚、岩、塩なども成長が見られるが、それが生き物である理由ではない。感覚対象の把握も、チーニェーなどの夢のように、単なる想像に過ぎない。また、妊娠中の食欲などもそうである。それなのに、なぜ種子類・植物類を傷つけることを避けることが望まれるのか?沙門にふさわしいから、そしてそれに依存する生き物を保護するからである。それゆえ「生きたものと見なす愚かな人々は、木について(そう言う)」などと述べられている(pāci. 89)。「青い草木など」とは、生きた草と生きた木などである。「など」という言葉によって、薬草、低木、蔓草などが知られるべきである。
Ekaṃ bhattaṃ ekabhattaṃ, taṃ assa atthīti ekabhattiko, ekasmiṃ divase ekavārameva bhuñjanako. Tayidaṃ rattibhojanopi siyāti tannivattanatthamāha **‘‘rattūparato’’**ti. Evampi aparaṇhabhojīpi siyā ekabhattikoti tadāsaṅkānivattanatthaṃ **‘‘virato vikālabhojanā’’**ti vuttaṃ. Aruṇuggamanato paṭṭhāya yāva majjhanhikā, ayaṃ buddhānaṃ āciṇṇasamāciṇṇo bhojanassa kālo nāma, tadañño vikālo. Aṭṭhakathāyaṃ pana dutiyapadena rattibhojanassa paṭikkhittattā aparaṇho ‘‘vikālo’’ti vutto.
「一つの食事」とは「一食」である。それが彼にあるので「一食の人」とは、一日に一度だけ食事をする人のことである。これは夜食にもなりうるので、それを避けるために「夜食を避けた者」と述べられた。同様に、午後食を食べる者も一食の人である可能性があるため、その懸念を避けるために「不時食を避けた者」と述べられた。夜明けから正午までは、これは仏陀たちの慣習的な食事の時間であり、それ以外の時間は不時である。しかし、註釈書では第二の語によって夜食が禁じられているため、午後の時間は「不時」と呼ばれている。
Saṅkhepato ‘‘sabbapāpassa akaraṇa’’ntiādi (dī. ni. 2.90; dha. pa. 183; netti. 30, 50, 116, 124) nayappavattaṃ bhagavato sāsanaṃ accantachandarāgappavattito naccādīnaṃ dassanaṃ na anulometīti āha **‘‘sāsanassa ananulomattā’’**ti. Attanā payojiyamānaṃ, parehi payojāpiyamānañca naccaṃ naccabhāvasāmaññato pāḷiyaṃ ekeneva nacca-saddena gahitaṃ, tathā gītavādita-saddena cāti āha **‘‘naccananaccāpanādivasenā’’**ti. Ādi-saddena gāyanagāyāpanavādanavādāpanāni saṅgaṇhāti. Dassanena cettha savanampi saṅgahitaṃ virūpekasesanayena. Ālocanasabhāvatāya vā pañcannaṃ viññāṇānaṃ savanakiriyāyapi dassanasaṅkhepasabbhāvato ‘‘dassanā’’ icceva vuttaṃ. Avisūkabhūtassa gītassa savanaṃ kadāci vaṭṭatīti āha **‘‘visūkabhūtā dassanā’’**ti. Tathā hi vuttaṃ paramatthajotikāya khuddakapāṭhaṭṭhakathāya (khu. pā. aṭṭha. pacchimapañcasikkhāpadavaṇṇanā) ‘‘dhammūpasaṃhitampi cettha gītaṃ vaṭṭati, gītūpasaṃhito dhammo na vaṭṭatī’’ti.
要するに「一切の悪をなさないこと」など(ディーガニカーヤ 2.90; ダンマパダ 183; ネッティパカッラナ 30, 50, 116, 124)という教えの趣旨に沿って進む世尊の教えは、極度の愛欲に駆られた舞踊などを見ることを許さない、と彼は「教えに不適合であるから」と述べた。自ら行う舞踊と、他者にさせられる舞踊は、舞踊という共通の性質からパーリ語では一つの「舞踊」という言葉で捉えられている。同様に「歌唱、器楽」という言葉によっても捉えられている、と彼は「舞踊をすること、舞踊をさせることなどによって」と述べた。「など」という言葉によって、歌うこと、歌わせること、演奏すること、演奏させることを包含する。ここでの見ることによって聞くことも、同類の一括法(eka-sesa)によって包含されている。あるいは、五つの識は認識する性質を持つので、聞く行為においても簡潔に「見る」ということが存在するため、「見る」とだけ述べられた。邪魔にならない歌を聞くことは時として許される、と彼は「邪魔になる見世物」と述べた。実際、パラマッタジョーティカー小品集註釈書(khu. pā. aṭṭha. pacchimapañcasikkhāpadavaṇṇanā)では次のように述べられている。「ここには法に関わる歌も許されるが、歌に関わる法は許されない。」
Uccāti uccasaddena samānatthaṃ ekaṃ saddantaraṃ, seti etthāti sayanaṃ. Uccāsayanaṃ mahāsayanañca samaṇasārupparahitaṃ adhippetanti āha **‘‘pamāṇātikkantaṃ, akappiyattharaṇa’’**nti. Āsandādiāsanañcettha sayanena saṅgahitanti daṭṭhabbaṃ. Yasmā pana ādhāre paṭikkhitte tadādhārakiriyā paṭikkhittāva hoti, tasmā ‘‘uccāsayanamahāsayanā’’ icceva vuttaṃ, atthato pana tadupabhogabhūta nisajjānipajjanehi virati dassitāti daṭṭhabbā. Uccāsayanasayanamahāsayanasayanāti vā etasmiṃ atthe ekasesanayena ayaṃ niddeso kato yathā ‘‘nāmarūpapaccayā saḷāyatana’’nti (ma. ni. 3.126; saṃ. ni. 2.1; udā. 1). Āsanakiriyāpubbakattā sayanakiriyāya sayanaggahaṇeneva āsanaṃ gahitanti veditabbaṃ.
「ウッチャー」とは、「ウッチャ」という言葉と同じ意味を持つ別の言葉であり、そこに横たわるので「寝床」である。高い寝台と大きな寝台は沙門にふさわしくないことを意図している、と彼は「分限を超えた、不適当な敷物」と述べた。ここでは椅子などの座具も寝台によって包含されていると見なされるべきである。なぜなら、場所が禁じられれば、その場所での行為も禁じられるからである。それゆえ「高い寝台、大きな寝台」とだけ述べられているが、実際にはその利用形態である座ることや横になることから遠ざかることが示されていると理解されるべきである。あるいは、「高い寝台で寝ること、大きな寝台で寝ること」という意味で、同類の一括法(eka-sesa)によって、この表現がなされている。「名色を縁として六処が生じる」というように(中部 3.126; 相応部 2.1; 自説経 1)。座る行為が寝る行為に先行するため、寝台という言葉によって座具も包含されていると知られるべきである。
Aññehi gāhāpane upanikkhittasādiyane ca paṭiggahaṇattho labbhatīti āha **‘‘na uggaṇhāpeti, na upanikkhittaṃ sādīyatī’’**ti. Atha vā tividhaṃ paṭiggahaṇaṃ kāyena vācāya manasā. Tattha kāyena paṭiggahaṇaṃ uggaṇhanaṃ, vācāya paṭiggahaṇaṃ uggahāpanaṃ, manasā paṭiggahaṇaṃ sādiyananti tividhampi paṭiggahaṇaṃ sāmaññaniddesena, ekasesanayena vā gahetvā ‘‘paṭiggahaṇā’’ti vuttanti āha **‘‘neva naṃ uggaṇhātī’’**tiādi. Esa nayo **‘‘āmakadhaññapaṭiggahaṇā’’**tiādīsupi. Nīvārādiupadhaññassa sāliyādimūladhaññantogadhattā vuttaṃ **‘‘sattavidhassā’’**ti. ‘‘Anujānāmi bhikkhave pañca vasāni bhesajjāni acchavasaṃ macchavasaṃ susukāvasaṃ sūkaravasaṃ gadrabhavasa’’nti (mahāva. 262) vuttattā idaṃ odissa anuññātaṃ nāma, tassa pana ‘‘kāle paṭiggahita’’nti (mahāva. 262) vuttattā paṭiggahaṇaṃ vaṭṭatīti āha **‘‘aññatra odissa anuññātā’’**ti.
他者によって取らせることや、預けられたものを受け入れることにおいて、受容の意味が得られる、と彼は「取らせない、預けられたものを受け入れない」と述べた。あるいは、受け入れることは身体、言葉、意の三種類がある。その中で身体による受け入れは「取る」こと、言葉による受け入れは「取らせる」こと、意による受け入れは「受け入れる」ことである。この三種類の受け入れを、一般的な表現、あるいは同類の一括法によって捉えて「受け入れ」と述べられていると彼は「彼を取らない」などと述べた。この方法は「生の穀物を受け入れること」などにも当てはまる。ニーヴァーラ(野生の稲)などの副穀物が、サーリ(栽培稲)などの主要穀物に含まれるため、「七種類の」と述べられている。「比丘たちよ、私は五種類の動物性脂肪、すなわち熊の脂肪、魚の脂肪、イルカの脂肪、豚の脂肪、ロバの脂肪を薬として許可する」と述べられている(大品 262)ため、これは特定の場合に許可されたものであり、それが「適時に受け入れられた」と述べられている(大品 262)ため、受け入れることが許される、と彼は「特別に許可された場合を除いて」と述べた。
Akkamatīti nippīḷeti. Pubbabhāge akkamatīti sambandho. Hadayanti nāḷiādimānabhājanānaṃ abbhantaraṃ. Tilādīnaṃ nāḷiādīhi minanakāle ussāpitasikhāyeva sikhā, tassā bhedo hāpanaṃ. Kecīti sārasamāsācariyā, uttaravihāravāsino ca.
「アッカマティ」とは「押し潰す」。前部に「押し潰す」と関連する。「ハダヤンティ」とは、ナリなどの計量器の内部。ゴマなどをナリなどの計量器で量る際に盛り上がった先端がシカーであり、その「分裂」とは減少である。「ある者たち」とは、要約学派の師たち、および北部の僧院の住人たちである。
Vadhoti muṭṭhippahārakasātāḷanādīhi hiṃsanaṃ, viheṭhananti attho. Viheṭhanatthopi hi vadhasaddo dissati ‘‘attānaṃ vadhitvā vadhitvā’’tiādīsu (pāci. 880). Yathā hi appaṭiggahabhāvasāmaññe satipi pabbajitehi appaṭiggahitabbavatthuvisesabhāvasandassanatthaṃ itthikumāridāsidāsādayo vibhāgena vuttā, evaṃ parassaharaṇabhāvato adinnādānabhāvasāmaññe satipi tulākūṭādayo adinnādānavisesabhāvadassanatthaṃ vibhāgena vuttā, na evaṃ pāṇātipātapariyāyassa vadhassa punaggahaṇe payojanaṃ atthi. ‘‘Tattha sayaṅkāro, idha paraṃkāro’’ti ca na sakkā vattuṃ ‘‘kāyavacīpayogasamuṭṭhāpikā cetanā chappayogā’’ti ca vuttattā. Tasmā yathāvuttoyeva attho sundarataro. Aṭṭhakathāyaṃ pana ‘‘vadhoti māraṇa’’nti vuttaṃ, tampi pothanameva sandhāyāti ca sakkā viññātuṃ māraṇa-saddassa vihiṃsanepi dissanato.
「ヴァダ」とは、拳で打つことや棒で叩くことなどによる危害、すなわち苦しめることである。なぜなら、「自分を苦しめて苦しめて」など(波羅夷 880)において、「ヴァダ」という言葉が苦しめる意味でも見られるからである。ちょうど、受け取るべきでないという共通性があるにもかかわらず、出家者が受け取るべきでない特定の物を示すために、女性、少女、男女の奴隷などが区別して述べられているように、同様に他人の物を取るという不与取の共通性があるにもかかわらず、秤をごまかすことなどが不与取の特殊な形を示すために区別して述べられているが、殺生の間接的な意味である「ヴァダ」を改めて取り上げる必要はない。また、「そこでは自らが行い、ここでは他者にさせる」とも言うことはできない。なぜなら、「身口の行為によって生じる意志は六種の行為である」と述べられているからである。それゆえ、上述の意味の方がより優れている。しかし、註釈書では「ヴァダとは殺すことである」と述べられているが、それも殴打を指すものと理解できる。なぜなら、「殺す」という言葉は害する意味でも見られるからである。
Ettāvatāti ‘‘pāṇātipātaṃ pahāyā’’tiādinā ‘‘chedana…pe… sahasākārā paṭivirato’’ti etaparimāṇena pāṭhena. Antarābhedaṃ aggahetvā pāḷiyaṃ āgatanayena chabbīsatisikkhāpadasaṅgahaṃ yebhuyyena sikkhāpadānaṃ avibhattattā cūḷasīlaṃ nāma. Desanāvasena hi idha cūḷamajjhimādibhāvo adhippeto, na dhammavasena. Tathā hi idha saṅkhittena uddiṭṭhānaṃ sikkhāpadānaṃ avibhattānaṃ vibhajanavasena majjhimasīladesanā pavattā. Tenevāha **‘‘majjhimasīlaṃ vitthārento’’**ti.
「これまでの」とは、「殺生を捨てて」などで始まる「切断…(中略)…強引な行為から退いた」という箇所の分量による。内部の区別を考慮に入れず、パーリ語に現れる様式で、ほとんどの学処が未分類のまま26の学処の集成であるため、「小戒」と呼ばれる。実に、ここでの小・中等の区分は説法の様式によるものであり、法によるものではない。そのように、ここで簡潔に提示され、未分類であった学処を区別することで、中戒の説法がなされた。それゆえ、「中戒を詳説する者」と述べられている。
Cūḷasīlavaṇṇanā niṭṭhitā.
小戒の解説が終わった。
11. Tattha yathāti opammatthe nipāto. Vāti vikappanatthe. Panāti vacanālaṅkāre. Eketi aññe. Bhontoti sādhūnaṃ piyasamudāhāro. Sādhavo hi pare ‘‘bhonto’’ti vā, ‘‘devānaṃ piyā’’ti vā ‘‘āyasmanto’’ti vā samālapanti. Yaṃ kiñci pabbajjaṃ upagatā samaṇā. Jātimattena brāhmaṇā. Idaṃ vuttaṃ hoti – ussāhaṃ katvā mama vaṇṇaṃ vadamānopi puthujjano ‘‘pāṇātipātaṃ pahāya pāṇātipātā paṭivirato’’tiādinā parānuddesikanayena vā yathā paneke bhonto samaṇabrāhmaṇabhāvaṃ paṭijānamānā, parehi ca tathāsambhāviyamānā tadanurūpapaṭipattiṃ ajānanato, asamatthato ca na abhisambhuṇanti, na evamayaṃ, ayaṃ pana samaṇo gotamo sabbathāpi samaṇasāruppapaṭipadaṃ pūresiyevāti evaṃ aññuddesikanayena vā sabbathāpi ācārasīlamattameva vadeyyuṃ, na taduttarinti.
11. 「そこで「ヤー」とは譬喩の意味の助詞。「ヴァー」とは選択の意味。「パーナ」とは言葉の飾りである。「エーケ」とは他の者たち。「ボント」とは善い人々が好んで用いる呼称である。善い人々は他人を「ボント」とか「天の愛し子」とか「アーユスマン」とか呼ぶ。いかなる出家者も沙門である。生まれつきの者は婆羅門である。これは、努力して私を賛美する凡夫が、「殺生を捨てて殺生から離れた」などで、他者への言及として、あるいは、多くの「ボント」たる沙門や婆羅門を自称する者たちが、他者からそのように思われながらも、それに相応しい実践を知らず、また力がないため達成できないのとは異なり、この沙門ゴータマは、あらゆる点で沙門にふさわしい実践を全うされる、というように他者への言及として、常に戒律と道徳だけを語るべきであり、それ以上ではない、という意味である。
Bījagāmabhūtagāmasamārambhapade saddakkamena appadhānabhūtopi bījagāmabhūtagāmo niddisitabbatāya padhānabhāvaṃ paṭilabhati. Añño hi saddakkamo añño atthakkamoti āha **‘‘katamo so bījagāmabhūtagāmo’’**ti. Tasmiñhi vibhatte tabbisayatāya samārambhopi vibhattova hotīti. Tenevāha bhagavā **‘‘mūlabīja’’**ntiādi. Mūlameva bījaṃ mūlabījaṃ, mūlaṃ bījaṃ etassātipi mūlabījaṃ. Sesesupi eseva nayo. Phaḷubījanti pabbabījaṃ. Paccayantarasamavāye sadisaphaluppattiyā visesakāraṇabhāvato viruhaṇasamatthe sāraphale niruḷho bīja-saddo tadatthasaṃsiddhiyā mūlādīsupi kesuci pavattatīti mūlādito nivattanatthaṃ ekena bīja-saddena visesetvā vuttaṃ **‘‘bījabīja’’**nti. ‘‘Rūparūpaṃ, dukkhadukkha’’nti (saṃ. ni. 4.327) ca yathā. Kasmā panettha bījagāmabhūtagāmaṃ pucchitvā bījagāmo eva vibhattoti? Na kho panetaṃ evaṃ daṭṭhabbaṃ. Nanu avocumha ‘‘mūlameva bījaṃ mūlabījaṃ, mūlaṃ bījaṃ etassātipi mūlabījanti’’. Tattha purimena bījagāmo niddiṭṭho, dutiyena bhūtagāmo, duvidhopesa sāmaññaniddesena, mūlabījañca mūlabījañca mūlabījanti ekasesanayena vā pāḷiyaṃ niddiṭṭhoti veditabbo. Tenevāha **‘‘sabbañheta’’**ntiādi.
種子村落・植物村落を傷つける行為の句において、語順によって副次的である種子村落・植物村落も、言及されるべき対象であるために主要な意味を持つようになる。なぜなら、語順と意味順は異なるから、「その種子村落・植物村落とは何か」と述べた。それが分類されるならば、その対象である「傷つける」行為も分類されるからである。それゆえ、世尊は「根の種子」などと述べた。「根がまさしく種子である」のが「根の種子」、また「根がその種子である」のも「根の種子」である。残りのものも同様である。「節の種子」とは、茎の種子である。他の条件と合わさって、似たような果実を生じさせる特別な原因であるため、発芽能力のある実質的な果実に定着している「種子」という語は、その意味が完全に達成されるために、根などの場合にも用いられることがある。そのため、根などからの区別のため、「種子の種子」と一つの「種子」という語で修飾して述べられた。「色中の色、苦中の苦」(相応部 4.327)のように。なぜここで種子村落・植物村落を尋ねて、種子村落だけが分類されたのか。これはそう見るべきではない。「根がまさしく種子であるのが根の種子、根がその種子であるのも根の種子」と我々は述べたではないか。そこでは、前者によって種子村落が示され、後者によって植物村落が示された。これら両種は一般の記述によって、あるいは「根の種子と根の種子は根の種子」という一つだけ残す様式によってパーリ語で示されていると理解されるべきである。それゆえ、「これらすべては」などと述べたのである。
12. **‘‘Sannidhikatassā’’**ti etena ‘‘sannidhikāraparibhoga’’nti ettha kāra-saddassa kammatthataṃ dasseti. Yathā vā ‘‘ācayaṃgamino’’ti vattabbe anunāsikalopena ‘‘ācayagāmino’’ti (dha. sa. 10) niddeso kato, evaṃ ‘‘sannidhikāraṃ paribhoga’’nti vattabbe anunāsikalopena ‘‘sannidhikāraparibhoga’’nti vuttaṃ, sannidhiṃ katvā paribhoganti attho.
12. 「貯蔵した者の」という言葉は、「貯蔵による受用」という箇所で「カーラ」という語が動作の意味であることを示す。例えば、「蓄積に向かう者」と言うべきところを、鼻音脱落によって「蓄積に向かう者」(ダンマサンガニ 10)と記述されているように、同じく「貯蔵して受用する」と言うべきところを、鼻音脱落によって「貯蔵による受用」と述べられている。貯蔵して受用するという意味である。
Sammā kilese likhatīti sallekho, suttantanayena paṭipatti. Pariyāyati kappīyatīti pariyāyo, kappiyavācānusārena paṭipatti. Kilesehi āmasitabbato āmisaṃ, yaṃ kiñci upabhogārahaṃ vatthu. Tenevāha **‘‘āmisanti vuttāvasesa’’**nti. Nayadassanañhetaṃ sannidhivatthūnaṃ. Udakakaddameti udake ca kaddame ca. Acchathāti nisīdatha. Gīvāyāmakanti gīvaṃ āyamitvā, yathā ca bhutte atibhuttatāya gīvā āyamitabbāva hoti, evanti attho. Catubhāgamattanti kuḍubamattaṃ. **‘‘Kappiyakuṭiya’’**ntiādi vinayavasena vuttaṃ.
正しく煩悩を削り取るので「サッレーカ」であり、それは経典の様式による実践である。許可されるので「パリヤーヤ」であり、それは許可された言葉に従う実践である。煩悩によって触れられるべきものなので「アーミサ」であり、いかなる受用に適した物もそうである。それゆえ、「アーミサとは述べ残りのもの」と述べたのである。これは貯蔵すべき物品に関する見解を示すものである。「水と泥に」とは、水の中と泥の中という意味。「アッチャータ」とは「座りなさい」という意味。「首を伸ばして」とは、首を伸ばすことで、過食すると首を伸ばす必要があるので、そのような意味である。「四分の一の量」とは、クドゥバの量である。「許可された庵」などは律の様式で述べられている。
13. Ettakampīti vinicchayavicāraṇāvatthukittanampi. Payojanamattamevāti padatthayojanamattameva. Yassa pana padassa vitthārakathaṃ vinā na sakkā attho viññātuṃ, tattha vitthārakathāpi padatthasaṅgahameva gacchati. Kutūhalavasena pekkhitabbato pekkhā, naṭasatthavidhinā naṭānañca payogo. Naṭasamūhena pana janasamūhe karaṇavasena **‘‘naṭasamajja’’**nti vuttaṃ, sārasamāse ‘‘pekkhā maha’’nti vuttaṃ. Ghanatāḷaṃ nāma daṇḍamayatāḷaṃ, silāsalākatāḷaṃ vā. Eketi sārasamāsācariyā, uttaravihāravāsino ca. Yathā cettha, evaṃ ito paresupi ‘‘eke’’ti āgataṭṭhānesu. Caturassaambaṇakatāḷaṃ nāma rukkhasāradaṇḍādīsu yena kenaci caturassaambaṇakaṃ katvā catūsu passesu cammena onandhitvā katavāditaṃ. Abbhokkiraṇaṃ raṅgabalīkaraṇaṃ, yā ‘‘nandī’’ti vuccati. Sobhanakaranti sobhanakaraṇaṃ, ‘‘sobhanagharaka’’nti sārasamāse vuttaṃ. Caṇḍālānamidanti caṇḍālaṃ. Sāṇe udakena temetvā aññamaññaṃ ākoṭanakīḷā sāṇadhovanaṃ. Indajālenāti aṭṭhidhovanamantaṃ parijappitvā yathā pare aṭṭhīniyeva passanti, evaṃ tacādīnaṃ antaradhāpanamāyāya. Sakaṭabyūhādīti ādi-saddena cakkapadumakaḷīrabyūhādiṃ saṅgaṇhāti.
13. 「これほどまでにも」とは、決定や考察の対象を述べることである。「単なる目的に過ぎない」とは、語の意味を解釈するだけのことである。しかし、詳細な説明なしには意味を理解できない語については、詳細な説明も語義の集約に帰する。好奇心によって見られるべきものなので「ペッカー」(見世物)であり、役者の興行における役者たちの演技を指す。役者集団が民衆の集まりで行うことから、「役者の集会」と述べられ、『サーラサマーサ』では「壮大な見世物」と述べられている。「ガーナターラ」とは棒製の太鼓、あるいは石の板の太鼓である。「エーケ」とは、『サーラサマーサ』の師たち、およびウッタラヴィハーラの住人たち。ここにあるように、これ以降の「エーケ」とある箇所も同様である。「四角い太鼓」とは、木の堅い棒などで四角い枠を作り、四面に革を張って演奏する楽器である。「アッボッキラナ」とは舞台での供物であり、「ナンディー」と呼ばれるものである。「ショーバナカラ」とは装飾であり、『サーラサマーサ』では「ショーバナガラカ」と述べられている。「チャンダラートゥナミダ」とはチャンダラ(不可触民)のためのものである。麻布を水で濡らし、互いに打ち合う遊びが「サーナドーヴァナ」である。「インダジャーレーナ」とは、骨を洗う呪文を唱え、他人が骨だけを見ているように、皮などを隠す幻術のこと。「車輪陣形など」とは、「など」という語によって、車輪陣形、蓮華陣形、芽の陣形などを包含する。
14. Padānīti sārīnaṃ patiṭṭhānaṭṭhānāni. Dasapadaṃ nāma dvīhi pantīhi vīsatiyā padehi kīḷanajūtaṃ. Pāsakaṃ vuccati chasu passesu ekekaṃ yāva chakkaṃ dassetvā katakīḷanakaṃ, taṃ vaḍḍhetvā yathāladdhaṃ ekakādivasena sāriyo apanentā upanentā ca kīḷanti. Ghaṭena kīḷā ghaṭikāti eke. Bahūsu salākāsu visesarahitaṃ ekaṃ salākaṃ gahetvā tāsu pakkhipitvā puna tasseva uddharaṇaṃ salākahatthanti eke. Paṇṇena vaṃsākārena katā nāḷikā. Tenevāha **‘‘taṃ dhamantā’’**ti. ‘‘Pucchantassa mukhāgataṃ akkharaṃ gahetvā naṭṭhamutti lābhālābhādijānanakīḷā **akkharikā’’**tipi vadanti. ‘‘Vāditānurūpaṃ naccanaṃ gāyanaṃ vā yathāvajjaṃ’’ tipi vadanti. ‘‘Evaṃ kate jayo bhavissati, aññathā parājayo’’ti jayaparājaye purakkhatvā payogakaraṇavasena parihārapathādīnampi jūtapamādaṭṭhānabhāvo veditabbo. Paṅgacīrādīhipi vaṃsādīhi kātabbakiccasiddhiasiddhijayaparājayāvaho payogo vuttoti daṭṭhabbaṃ. **‘‘Yathāvajja’’**nti ca kāṇādīhi sadisatākāradassanehi jayaparājayavasena jūtakīḷitabhāvena vuttaṃ.
14. 「パダーニ」とは、コマを置く場所である。「ダサパダ」とは、二つの列に20のマスがあるゲーム盤で遊ぶ賭け事である。「パーサカ」とは、六つの面にそれぞれ一から六までの点を示したサイコロで遊ぶゲームを指し、それを振って出た目に応じて、一の目から順にコマを動かしたり、盤から取り除いたりして遊ぶ。「壺を使ったゲーム」は「ガティカー」であると、ある人々は言う。多くの棒の中に区別がない一本の棒を入れ、それらの棒の中にそれを混ぜ、再び同じものを引き当てる遊びを「棒の手」とある人々は言う。葉で竹筒のように作られた笛。それゆえ「それを吹く」と述べた。「尋ねる者の口から出た文字を取って、失われたものを見つけたり、得失などを知るゲームを「文字遊び」とも言う。「演奏に合わせて踊ったり歌ったりする、あるいは楽器の音に合わせて」とも言う。「このようにすれば勝利し、そうでなければ敗北する」と、勝敗を重んじて行為を行うという意味で、回避策なども賭博と放逸の場所であると理解されるべきである。また、棒などを使って行われるべきことの成否や勝敗をもたらす行為も、賭博に当たると見るべきである。また、「楽器の音に合わせて」とは、目の不自由な者などが同じような様子を示すことで、勝敗を争う賭博の遊戯であるという意味で述べられている。
15. Vāḷarūpānīti āharimāni vāḷarūpāni. ‘‘Akappiyamañcova **pallaṅko’’**ti sārasamāse. Vānavicittanti bhitticchadādivasena vānena vicitraṃ. Rukkhatūlalatātūlapoṭakītūlānaṃ vasena tiṇṇaṃ tūlānaṃ. Uddalomiyaṃ kecīti sārasamāsācariyā, uttaravihāravāsino ca. Tathā ekantalomiyaṃ. Koseyyakaṭṭissamayanti koseyyakassaṭamayaṃ. Suddhakoseyyanti ratanaparisibbanarahitaṃ. **‘‘Ṭhapetvā tūlika’’**nti etena ratanaparisibbanarahitāpi tūlikā na vaṭṭatīti dīpeti. **‘‘Ratanaparisibbitānī’’**ti iminā yāni ratanaparisibbitāni, tāni bhūmattharaṇavasena, yathānurūpaṃ mañcapīṭhādīsu ca upanetuṃ vaṭṭatīti dīpitaṃ hoti. Ajinacammehīti ajinamigacammehi. Tāni kira cammāni sukhumāni, tasmā dupaṭṭatipaṭṭāni katvā sibbanti. Tena vuttaṃ **‘‘ajinappaveṇī’’**ti. Vuttanayenāti vinaye vuttanayena.
15. 「獣の形」とは、持ち運べる獣の形をした敷物である。『サーラサマーサ』では、「許可されない寝台が『豪華な寝台』」とされている。「蔓で装飾された」とは、壁飾りなどの蔓で装飾されたものを指す。「木の綿、蔓の綿、莢の綿」の三種の綿のこと。「上向きの毛皮」について、ある人々は『サーラサマーサ』の師たち、およびウッタラヴィハーラの住人たちであると言う。同様に「片側だけ毛皮」もそうである。「絹綿の」とは、絹の綿のこと。「純粋な絹」とは、宝石で飾られていないものである。「綿を除く」とは、宝石で飾られていない綿も許されないことを示す。「宝石で飾られたもの」とは、宝石で飾られたものは、床敷物として、また相応しい寝台や椅子などに用いることができることを示す。「アジナの皮」とは、アジナ鹿の皮である。それらの皮は薄いので、二枚重ねや三枚重ねにして縫い合わせる。それゆえ「アジナの敷物」と述べられた。「述べられた方法で」とは、律に述べられた方法で。
16. Alaṅkārañjanameva na bhesajjaṃ maṇḍanānuyogassa adhippetattā. Mālā-saddo sāsane suddhapupphesupi niruḷhoti āha **‘‘baddhamālā vā’’**ti. Mattikakakkanti osadhehi abhisaṅkhataṃ yogamattikakakkaṃ. Caliteti kupite. Lohite sannisinneti duṭṭhalohite khīṇe.
16. 化粧としての塗布であり、薬ではない。それは装飾の目的であるとされているからである。「マーラー」という語は、教えにおいては純粋な花にも定着しているので、「束ねられた花輪、あるいは」と述べた。「マッティカカッカ」とは、薬草で調合された薬用泥の塊である。「チャリテータ」とは、怒った状態。「血が減って」とは、悪い血が減少したこと。
17. Duggatito saṃsārato ca niyyāti etenāti niyyānaṃ, saggamaggo mokkhamaggo ca. Taṃ niyyānaṃ arahati, niyyāne vā niyuttā, niyyānaṃ vā phalabhūtaṃ etissā atthīti niyyānikā, vacīduccaritasaṃkilesato niyyātīti vā ī-kārassa rassattaṃ, ya-kārassa ca ka-kāraṃ katvā niyyānikā, cetanāya saddhiṃ samphappalāpā veramaṇi. Tappaṭipakkhato aniyyānikā, tassā bhāvo aniyyānikattaṃ, tasmā aniyyānikattā. Tiracchānabhūtāti tirokaraṇabhūtā. Kammaṭṭhānabhāveti aniccatāpaṭisaṃyuttacatusaccakammaṭṭhānabhāve. Saha atthenāti sātthakaṃ, hitapaṭisaṃyuttanti attho. Visikhāti gharasanniveso, visikhāgahaṇena ca tannivāsino gahitā ‘‘gāmo āgato’’tiādīsu viya. Tenevāha ‘‘sūrā samatthā’’ti, ‘‘saddhā pasannā’’ti ca. Kumbhaṭṭhānāpadesena kumbhadāsiyo vuttāti āha **‘‘kumbhadāsīkathā vā’’**ti. Uppattiṭhitisambhārādivasena lokaṃ akkhāyatīti lokakkhāyikā.
17. 「出離」とは、それによって悪趣や輪廻から出離するからであり、それは天界の道、解脱の道である。その出離に値する、あるいは出離に専念している、あるいは出離がその果実であるので「出離に至る」であり、あるいは言葉の悪行の煩悩から出離するので、長母音「イー」を短母音にし、「ヤ」を「カ」に変えて「出離に至る」であり、それは思慮を伴う無駄口からの離反である。その反対ゆえに「出離に至らない」であり、その状態が「出離に至らないこと」であり、それゆえ「出離に至らないから」。「ティラッチャーナブーター」とは、妨げとなるもの。「業処の状態において」とは、無常と結びついた四諦の業処の状態において。「意味と共に」とは、「有益な」であり、利益と結びついたという意味である。「ヴィシカー」とは、家の集合体であり、ヴィシカーという言葉でそこに住む人々が、「村が来た」などのように、包含される。それゆえ、「勇者で能力ある者」とか「信深く喜ぶ者」と述べた。壺の場所の指示によって壺持ちの奴隷が言われた、と述べているので、「壺持ちの奴隷の物語、あるいは」とある。生起・維持・具足などの様式で世間を語るので「世間語り」である。
18. Sahitanti pubbāparāviruddhaṃ.
18. 「結びついたもの」とは、前後が矛盾しないことである。
19. Dūtassa kammaṃ dūteyyaṃ, tassa kathā dūteyyakathā.
19. 使者の仕事は「使者行為」であり、その物語は「使者行為の物語」である。
20. Tividhenāti sāmantajappanairiyāpathasannissitapaccayapaṭisevanabhedato tippakārena. Vimhāpayantīti ‘‘aho acchariyapuriso’’ti attani paresaṃ vimhayaṃ uppādenti. Lapantīti attānaṃ, dāyakaṃ vā ukkhipitvā yathā so kiñci dadāti, evaṃ ukkācetvā kathenti. Nimittena caranti, nimittaṃ vā karontīti nemittikā nimittanti ca paresaṃ paccaya dānasaññuppādakaṃ kāyavacīkammaṃ vuccati. Nippiṃsantīti nippesā, nippesāyeva nippesikā, nippesoti ca saṭhapuriso viya lābhasakkāratthaṃ akkosakhuṃsanuppaṇḍanaparapiṭṭhimaṃsikatādi.
20. 「三種の方法で」とは、周辺の囁き、威儀作法に基づいた資具の受用という区別によって、三つの種類で。「驚かせる」とは、「おお、素晴らしい人だ」と、自分自身に他人の驚きを生じさせることである。「話す」とは、自分自身や施主を称賛して、彼が何かを与えるように扇動して話すことである。「徴候によって行動する」あるいは「徴候を作る者」が「予言者」であり、「徴候」とは、他人に資具を与えるという認識を生じさせる身体と言葉の行為を指す。「中傷する」とは、「中傷」である。中傷とは中傷そのものであり、中傷とは、詐欺師のように、利益や尊敬のために罵倒したり、脅したり、嘲笑したり、陰口を叩いたりすることなどである。
Majjhimasīlavaṇṇanā niṭṭhitā.
中戒の解説が終わった。
21. Aṅgāni ārabbha pavattattā aṅgasahacaritaṃ satthaṃ **‘‘aṅga’’**nti vuttaṃ. Nimittanti etthāpi eseva nayo. Keci pana ‘‘aṅganti aṅgavikāra’’nti vadanti, paresaṃ aṅgavikāradassanenāpi lābhālābhādivijjāti. Paṇḍurājāti dakkhiṇāmadhurādhipati. **‘‘Mahantāna’’**nti etena appakaṃ nimittaṃ, mahantaṃ nimittaṃ uppātoti dasseti. Idaṃ nāma passatīti yo vasabhaṃ kuñjaraṃ pāsādaṃ pabbataṃ vā āruḷhaṃ supine attānaṃ passati, tassa idaṃ nāma phalaṃ hotīti. Supinakanti supinasatthaṃ. Aṅgasampattivipattidassanamattena ādisanaṃ vuttaṃ **‘‘aṅga’’**nti iminā, **‘‘lakkhaṇa’’**nti iminā pana mahānubhāvatānipphādakaaṅgalakkhaṇavisesadassanenāti ayametesaṃ visesoti. Ahateti nave. Ito paṭṭhāyāti devarakkhasamanussādibhedena vividhavatthabhāge ito vā etto vā sañchinne idaṃ nāma bhogādi hotīti. Dabbihomadīni homassupakaraṇādivisesehi phalavisesadassanavasena pavattāni. Aggihomaṃ vuttāvasesasādhanavasena pavattaṃ homaṃ. Aṅgalaṭṭhinti sarīraṃ. Abbhino satthaṃ abbheyyaṃ, māsurakkhena kato gantho māsurakkho. Bhūrivijjā sassabuddhikaraṇavijjāti sārasamāse. Sapakkhaka…pe… catuppadānanti piṅgalamakkhikādisapakkhaka gharagolikādiapakkhakadevamanussakoñcādidvipadakakaṇṭakajambukādicatuppadānaṃ.
21. 「肢体占い」とは、肢体に関して行われるため、肢体に関連する占いであると述べられる。「兆候占い」についても同様である。しかし、ある人々は「肢体占い」とは肢体の変形を指し、他人の肢体の変形を見ることによって得失などを知る知識であると言う。「パンデュ王」とは、南マドゥラ国の支配者である。「大きなもの」とは、わずかな兆候も、大きな兆候も、突発事態であることを示す。「これこれを見る」とは、雄牛、象、宮殿、あるいは山に乗っている自分を夢に見る者は、これこれの果報がある、ということである。「夢占い」とは夢占いである。「肢体占い」とは、肢体の完成や欠陥を示すことで予言するものであるが、「相占い」とは、偉大な力を生み出す肢体の相の特殊性を示すことによって予言するものであり、これが両者の違いである。「新しい」とは、新しいという意味である。「これ以降」とは、神、悪魔、人間などの区別によって、様々な物の部分が、こちらから、あるいはあちらから切断された場合に、これこれの富などが得られる、ということである。「ダルヴィホーマなど」とは、供犠の道具などの特殊性によって、果報の特殊性を示すという様式で行われるものである。「火供養」とは、述べ残りの方法で行われる供犠である。「アンガラッタ」とは身体。雲の学問が「アッベーヤ」、マースラッカによって作られた書物が「マースラッカ」。「広大な知識」とは、『サーラサマーサ』によれば、記憶力を良くする知識である。「翼を持つもの…(中略)…四足動物」とは、ハエなどの翼を持つもの、ヤモリなどの翼を持たないもの、神々、人間、鶴などの二足動物、ヤマネコ、ジャッカルなどの四足動物のことである。
23. **‘‘Asukadivase’’**ti ‘‘pakkhassa dutiye tatiye’’tiādi tithivasena vuttaṃ. Asukanakkhattenāti rohiṇīādinakkhattayogavasena.
23. 「ある日に」とは、「半月の二日目、三日目」などと、ティティ(月の満ち欠けによる日付)で述べられている。「ある星宿で」とは、ローヒニー星宿などの星宿の組み合わせによる。
24. Ukkānaṃ patananti ukkobhāsānaṃ patanaṃ. Vātasaṅghātesu hi vegena aññamaññaṃ saṅghaṭṭentesu dīpakobhāso viya obhāso uppajjitvā ākāsato patati, tatthāyaṃ ukkāpātavohāro. Avisuddhatā abbhamahikādīhi.
24. 「ウッカーナッ・パタナン」とは、燃える光の落下である。実際、強い風が勢いよく互いに衝突するとき、ランプの炎のような輝きが生じて空から落ちる。ここにおいて「ウッカーパータ」(流星の落下)という言葉が用いられる。雲や霜などによる不純さのために。
25. Dhārānupavecchanaṃ vassanaṃ. Hatthena adhippetaviññāpanaṃ hatthamuddā, taṃ pana aṅgulisaṅkocanena gaṇanāyeva. Pārasika milakkhakādayo viya navantavasena gaṇanā acchiddakagaṇanā. Saṭuppādanādīti ādi-saddena vokalanabhāgahārādike saṅgaṇhāti. Cintāvasenāti vatthuṃ anusandhiñca sayameva cirena cintetvā karaṇavasena cintākavi veditabbo, kiñci sutvā sutena assutaṃ anusandhetvā karaṇavasena sutakavi, kañci atthaṃ upadhāretvā tassa saṅkhipanavitthāraṇādivasena atthakavi, yaṃ kiñci parena kataṃ kabbaṃ nāṭakaṃ vā disvā taṃ sadisameva aññaṃ attano ṭhānuppattikapaṭibhānena karaṇavasena paṭibhānakavi veditabbo.
25. 「ダーラーヌパヴェッチャナン」とは、絶え間ない雨の降り方である。手によって意図を伝えるのが「ハッタムッダー」であり、それは指を曲げて数えることに他ならない。パルシー人やミレッチャ(蛮族)などのように、途切れることなく数えることが「アッチッダカガナナー」である。「サトゥッパーダナーディ」という「等」の語は、分数の計算や割り算などを含む。「チンターヴァセーナーティ」とは、自ら久しくテーマと連結部を思惟して行う詩作の仕方から、「チンターカヴィ」(思索詩人)と知られるべきである。何かを聞いて、その聞いたことに基づいて、まだ聞いていないことを連結して行う詩作の仕方から「スータカヴィ」(聞知詩人)と知られるべきである。何らかの意味を熟考し、それを要約したり詳述したりするなどして行う詩作の仕方から「アッタカヴィ」(義理詩人)と知られるべきである。他人が作った詩や劇などを見て、それと同じような別のものを、自身の即興的な機知をもって行う詩作の仕方から「パティバーナカヴィ」(即興詩人)と知られるべきである。
26. Pariggahabhāvena dārikāya gaṇhāpanaṃ āvāhanaṃ. Tathā dāpanaṃ vivāhanaṃ. Desantare diguṇatiguṇādigahaṇavasena bhaṇḍappayojanaṃ payogo. Tattha vā aññattha vā yathākālaparicchedaṃ vaḍḍhigahaṇavasena payojanaṃ uddhāro. ‘‘Bhaṇḍamūlarahitānaṃ vāṇijjaṃ katvā ettakenudayena saha mūlaṃ dethāti dhanadānaṃ payogo, tāvakālikadānaṃ **uddhāro’’**ti ca vadanti. Tīhi kāraṇehīti ettha vātena, pāṇakehi vā gabbhe vinassante na purimakammunā okāso kato, tappaccayā kammaṃ vipaccati. Sayameva pana kammunā okāse kate na ekantena vāto pāṇakā vā apekkhitabbāti kammassa visuṃ kāraṇabhāvo vuttoti daṭṭhabbaṃ. Nibbāpanīyanti upasamakaraṃ. Paṭikammanti yathā te na khādanti, tathā paṭikaraṇaṃ. Parivattanatthanti āvudhādinā saha ukkhittahatthassa ukkhipanavasena parivattanatthaṃ. Icchitatthassa devatāya kaṇṇe kathanavasena jappanaṃ kaṇṇajappananti. Ādiccapāricariyāti karavīramālāhi pūjaṃ katvā sakaladivasaṃ ādiccābhimukhāvaṭṭhānena ādiccassa paricaraṇaṃ. ‘‘Siravhāyana’’nti keci paṭhanti, tassatthomantaṃ parijappitvā sirasā icchitassa atthassa avhāyananti.
26. 娘を自分のものとして取るのが「アーヴァーハナン」(結婚)である。同様に、娘を与えるのが「ヴィヴァーハナン」(結婚)である。異国において二倍、三倍などの利益を得るという目的での商品の使用が「パヨーゴ」(投資)である。そこでも、あるいは他の場所でも、定められた期間で利子を取るという目的での使用が「ウッダーロ」(貸付)である。また「商品は持たないが商売をして、これほどの利益と共に元金を与えよ、という財の供与が「パヨーゴ」である。一時的な供与が「ウッダーロ」である」とも言う。「三つの原因によって」というのは、ここで風や虫によって胎内で滅びる場合、過去の業が機会を作ったのではなく、それらの縁によって業が熟すのである。しかし、業自体が機会を作った場合は、必ずしも風や虫が関与するわけではない、と業が別の原因であると説かれている、と理解されるべきである。「ニッバーパニーヤン」とは、鎮静させるものである。「パティカンマン」とは、それらが食べないように対処することである。「パリヴァッタナットタン」とは、武器などと共に持ち上げられた手をひっくり返すためである。望む事柄を神の耳に告げることによって祈念するのが「カンナジャッパナン」である。「アーディッチャパーリチャリヤー」とは、カニラの花環で供養し、一日中太陽に向かって立つことによる太陽神への奉仕である。「シラッハーヤナン」と読む者もいるが、その意味は、マントラを唱え、頭によって望む事柄を呼び出すことである。
27. Samiddhikāleti āyācitassa atthassa siddhikāle. Santipaṭissavakammanti devatāyācanāya yā santi paṭikattabbā, tassā paṭiññāpaṭissavakammakaraṇaṃ, santiyā āyācanappayogoti attho. Tasminti paṭissavaphalabhūte yathābhipatthitakammasmiṃ, yaṃ ‘‘sace me idaṃ nāma samijjhissatī’’ti vuttaṃ. Tassāti santipaṭissavassa, yo ‘‘paṇidhī’’ti ca vutto. Yathāpaṭissavañhi upahāre kate paṇidhi āyācanā katā niyyātitā hotīti. Acchandikabhāvamattanti itthiyā akāmakabhāvamattaṃ. Liṅganti purisaliṅgaṃ. Balikammakaraṇaṃ upaddavapaṭibāhanatthañceva vaḍḍhiāvahanatthañca. Dosānanti pittādidosānaṃ. Ettha ca vamananti pacchaṭṭanaṃ adhippetaṃ. Uddhaṃvirecananti vamanaṃ ‘‘uddhaṃ dosānaṃ nīharaṇa’’nti vuttattā. Tathā virecananti virecanameva. Adhovirecananti pana suddhivatthikasāvatthiādi vatthikiriyāpi adhippetā ‘‘adho dosānaṃ nīharaṇa’’nti vuttattā. Sīsavirecanaṃ semhanīharaṇādi. Paṭalānīti akkhipaṭalāni. Salākavejjakammanti akkhivejjakammaṃ, idaṃ vuttāvasesasālākiyasaṅgahaṇatthaṃ vuttanti daṭṭhabbanti. Tappanādayopi hi sālākiyānevāti. Mūlāni padhānāni rogūpasame samatthāni bhesajjāni mūlabhesajjāni, mūlānaṃ vā byādhīnaṃ bhesajjāni mūlabhesajjāni. Mūlānubandhavasena hi duvidho byādhi. Mūlaroge ca tikicchite yebhuyyena itaraṃ vūpasamatīti. ‘‘Kāyatikicchanaṃ **dassetī’’**ti idaṃ komārabhaccasallakattasālākiyādikaraṇavisesabhūtatantīnaṃ tattha tattha vuttattā pārisesavasena vuttaṃ, tasmā tadavasesāya tantiyāpi idha saṅgaho daṭṭhabbo. Sabbāni cetāni ājīvahetukāniyeva idhādhippetāni ‘‘micchājīvena jīvikaṃ kappentī’’ti vuttattā. Yaṃ pana tattha tattha pāḷiyaṃ **‘‘iti vā’’**ti vuttaṃ, tattha itīti pakāratthe nipāto, vā-iti vikappanatthe. Idaṃ vuttaṃ hoti iminā pakārena, ito aññe na vāti. Tena yāni ito bāhirakapabbajitā sippāyatanavijjāṭṭhānādīni jīvikopāyabhūtāni ājīvapakatā upajīvanti, tesaṃ pariggaho katoti veditabbo.
27. 「サミッディカーレ」とは、祈願した事柄が成就する時である。「サンティパティッサヴァカンマン」とは、神への祈願のために行われるべき鎮魂の誓約行為、すなわち鎮魂のための誓約行為の実行であり、鎮魂のための祈願の実行という意味である。「タスミン」とは、「もしこの私の願いが成就するならば」と述べられた、誓約の成果となる、望み通りの行為のことである。「タッサ」とは、「パンディー」とも呼ばれる鎮魂の誓約のことである。誓約に従って供物がなされるとき、その誓願と祈願が達成されるからである。「アッチャンダカバーヴァマッタン」とは、女性の不承知の状態のみである。「リンガン」とは、男性器である。「バリッカンマカラナン」とは、災難を避けるため、また繁栄を招き入れるために供物を行うことである。「ドーサーナン」とは、ピッタなどの体液のことである。ここで「ヴァマナン」とは、催吐が意図される。「ウッダンヴィレーチャナン」とは、体液を上方へ排出すると言われるため、嘔吐である。同様に「ヴィレーチャナン」とは、排泄そのものである。しかし「アドーヴィレーチャナン」とは、体液を下方へ排出すると言われるため、座薬や浣腸などの処置も意図される。「シーサヴィレーチャナン」とは、痰の排出などの頭部からの排泄である。「パタラーニ」とは、目の膜である。「サラーカヴェッジャカンマン」とは、眼科治療であり、これは残りの眼科治療を含むために言われたものと理解されるべきである。実際、ターッパナーなども眼科治療であるからである。病気を鎮める能力のある主要な薬が「ムーラベサッジャーニ」であり、あるいは根本的な病気の薬が「ムーラベサッジャーニ」である。病は根本的原因に基づいて二種類ある。根本的な病が治療されれば、通常、他の病も鎮まるからである。「カーヤティキッチャナン ダッセーティ」(身体治療を示す)とは、小児科、外科、眼科など、特定の治療法が随所で説かれているため、残余として述べられたものであり、したがって、その残りの治療法もここに包含されると理解されるべきである。これらはすべて「邪命によって生計を立てる」(ミッチャージーヴェーナ ジーヴィカン カッペーンティー)と述べられているように、生計の手段として意図されているのである。パーリ聖典の随所で「イティ ヴァー」と述べられているが、そこで「イティ」は様態を表す助詞であり、「ヴァー」は選択を表す。これは「このように、これ以外の方法ではない」という意味である。それゆえ、この教団の外の修行者たちが、生計の手段として技芸や学問などを頼りとしている場合、それらが包含されると理解されるべきである。
Mahāsīlavaṇṇanā niṭṭhitā.
大戒の解説を終える。
28. Bhikkhusaṅghena vuttavaṇṇo nāma ‘‘yāvañcidaṃ tena bhagavatā’’tiādinā vuttavaṇṇo. Etthāyaṃ sambandho – na bhikkhave ettakā eva buddhaguṇā, ye tumhākaṃ pākaṭā, apākaṭā pana ‘‘atthi bhikkhave aññe dhammā’’ti vitthāro. Tattha ‘‘ime diṭṭhiṭṭhānā evaṃ gahitā’’tiādinā sassatādidiṭṭhiṭṭhānānaṃ yathāgahitākārasuññatabhāvappakāsanato, ‘‘tañca pajānanaṃ na parāmasatī’’ti sīlādīnañca aparāmāsaniyyānikabhāvadīpanena niccasārādivirahappakāsanato, yāsu vedanāsu avītarāgatāya bāhirakānaṃ etāni diṭṭhivipphanditāni sambhavanti, tesaṃ paccayabhūtānañca sammohādīnaṃ vedakakārakasabhāvābhāvadassanamukhena sabbadhammānaṃ attattaniyatāvirahadīpanato, anupādāparinibbānadīpanato ca ayaṃ desanā suññatāvibhāvanappadhānāti āha **‘‘suññatāpakāsanaṃ ārabhī’’**ti. Pariyattīti vinayādibhedabhinnā tanti. Desanāti tassā tantiyā manasāvavatthāpitāya vibhāvanā, yathādhammaṃ dhammābhilāpabhūtā vā paññāpanā, anulomādivasena vā kathananti pariyattidesanānaṃ viseso pubbeyeva vavatthāpitoti āha **‘‘desanāyaṃ pariyattiya’’**nti. Evaṃ ādīsūti ettha ādi-saddena saccasabhāvasamādhipaññāpakatipuññaāpattiñeyyādayo saṅgayhanti. Tathā hi ayaṃ dhamma-saddo ‘‘catunnaṃ bhikkhave dhammānaṃ ananubodhā’’tiādīsu (dī. ni. 2.186; a. ni. 4.1) sacce vattati, ‘‘kusalā dhammā akusalā dhammā’’tiādīsu (dha. sa. 1) sabhāve, ‘‘evaṃdhammā te bhagavanto ahesu’’ntiādīsu (saṃ. ni. 5.378) samādhimhi, ‘‘saccaṃ dhammo dhiti cāgo, sa ve pecca na socatī’’tiādīsu (su. ni. 190) paññāya, ‘‘jātidhammānaṃ bhikkhave sattānaṃ evaṃ icchā uppajjatī’’tiādīsu (ma. ni. 3.373; paṭi. ma. 1.33) pakatiyaṃ, ‘‘dhammo suciṇṇo sukhamāvahātī’’tiādīsu (su. ni. 184; theragā. 303; jā. 1.10.102) puññe, ‘‘cattāro pārājikā dhammā’’tiādīsu (pārā. 233) āpattiyaṃ, ‘‘sabbe dhammā sabbākārena buddhassa bhagavato ñāṇamukhe āpāthaṃ āgacchantī’’tiādīsu (mahāni. 156; cūḷani. 85; paṭi. ma. 3.6) ñeyye vattati (ma. ni. aṭṭha. 1.suttanikkhepavaṇṇanā; abhi. aṭṭha. 1.tikamātikāpadavaṇṇanā; bu. vaṃ. aṭṭha. ratanacaṅkamanakaṇḍavaṇṇanā). Dhammā hontīti suññā dhammamattā hontīti attho.
28. 比丘サンガによって述べられた説明とは、「やがて、あの世尊によって」などに述べられた説明である。ここにおける関連性は、「比丘たちよ、仏陀の徳は、あなた方に明らかであるものだけではない。明らかでないものについては、『比丘たちよ、他の法(教え)がある』と広説されている」。そこにおいて、「これらの見解の立場は、このように把握されている」などによって、常住論などの見解の立場が、その把握された様相において空であるということを明らかにしているからである。また、「その認識は、固執しない」と述べられているように、戒などについて固執しない解放的な性質を明らかにすることによって、常恒なる実体などが存在しないことを明らかにしているからである。また、それらの見解の錯乱が外道の人々に生じる原因となる感情(ヴェーダナー)に対する離欲がないこと、そしてそれらの原因となる無知などには、知る者や為す者の本性が存在しないことを示すことによって、一切の法に自己性や永続性が存在しないことを明らかにしているからである。そして、取著なき涅槃を明らかにしているから、この説法は空の考察を主としている、と「空の開示を始めた」と述べられている。「パリヤッティ」とは、律蔵などに分類された聖典である。「デーサナー」とは、その聖典を心に定めて詳述すること、あるいは法に則って法を表現する形で示すこと、または順次などに従って説くことである。パリヤッティとデーサナーの区別は、すでに以前に確立されているので、「この説法は聖典である」と述べられている。「エヴァム アーディースー」という「等」の語は、真理、本性、三昧、智慧を示す性質、功徳、罪、知られるべきものなどを含む。例えば、この「ダルマ」(法)という言葉は、「比丘たちよ、四つの法(真理)を理解しないことによって」などにおいては真理を意味し、「善なる法、不善なる法」などにおいては本性を意味し、「それらの世尊方は、そのような法(三昧)であった」などにおいては三昧を意味し、「真実、法、忍耐、布施、彼は死後に悲しまない」などにおいては智慧を意味し、「比丘たちよ、生まれる性質を持つ衆生には、このように願望が生じる」などにおいては本性を意味し、「よく実践された法は楽をもたらす」などにおいては功徳を意味し、「四つのパーラージカ(波羅夷)の法」などにおいては罪を意味し、「一切の法が、あらゆる様相において仏陀の世尊の智慧の範囲に入る」などにおいては知られるべきものを意味する(中部注釈1.スッタニッケーパ解説、アビダルマ注釈1.ティカマーティカーパダ解説、仏種姓注釈.ラタナチャンカマナカンダ解説)。「法である」とは、法は空であり、単なる法であるという意味である。
**‘‘Duddasā’’**ti eteneva tesaṃ dhammānaṃ dukkhogāhatā pakāsitā hoti. Sace pana koci attano pamāṇaṃ ajānanto ñāṇena te dhamme ogāhituṃ ussāhaṃ kareyya, tassa taṃ ñāṇaṃ appatiṭṭhameva makasatuṇḍasūci viya mahāsamuddeti āha **‘‘alabbhaneyyapatiṭṭhā’’**ti. Alabbhaneyyā patiṭṭhā etthāti alabbhaneyyapatiṭṭhāti padaviggaho veditabbo. Alabbhaneyyapatiṭṭhānaṃ ogāhituṃ asakkuṇeyyatāya ‘‘ettakā ete īdisā cā’’ti passituṃ na sakkāti vuttaṃ **‘‘gambhīrattā eva duddasā’’**ti. Ye pana daṭṭhumeva na sakkā, tesaṃ ogāhitvā anubujjhane kathā eva natthīti āha **‘‘duddasattā eva duranubodhā’’**ti. Sabbapariḷāhapaṭippassaddhimatthake samuppannattā, nibbutasabbapariḷāhasamāpattisamokiṇṇattā ca nibbutasabbapariḷāhā. Santārammaṇāni maggaphalanibbānāni anupasantasabhāvānaṃ kilesānaṃ saṅkhārānañca abhāvato. Atha vā samūhatavikkhepatāya niccasamāhitassa manasikārassa vasena tadārammaṇadhammānaṃ santabhāvo veditabbo kasiṇugghāṭimākāsatabbisayaviññāṇānaṃ anantabhāvo viya. Avirajjhitvā nimittapaṭivedho viya issāsānaṃ avirajjhitvā dhammānaṃ yathābhūtasabhāvabodho sāduraso mahāraso ca hotīti āha atittikaraṇaṭṭhenāti. Paṭivedhappattānaṃ, tesu ca buddhānaṃyeva sabbākārena visayabhāvūpagamanato na takkabuddhiyā gocarāti āha **‘‘uttamañāṇavisayattā’’**tiādi. **‘‘Nipuṇā’’**ti ñeyyesu tikkhavisadavuttiyā chekā. Yasmā pana so chekabhāvo ārammaṇe appaṭihatavuttitāya sukhumañeyyagahaṇasamatthatāya supākaṭo hoti, tena vuttaṃ **‘‘saṇhasukhumasabhāvattā’’**ti.
「見難い(ドゥッダサー)」という言葉によって、これらの法が深く理解し難いことが明らかにされている。もし、誰かが自分の力量を知らずに、智慧によってこれらの法を深く理解しようと努力するならば、その智慧は、大海における蚊の針のように、拠り所のないものになるだろう。ゆえに「拠り所を得られない(アラッバナッヤパティッター)」と述べられている。「これにおいて拠り所を得られない」が「アラッバナッヤパティッター」という語の分解であると理解されるべきである。拠り所を得られないため、深く理解することができず、「これらはこれこれの、このようなものである」と見ることができないので、「深遠さゆえに見難い」と述べられているのである。そもそも見ることさえできないものについては、深く理解して悟るという話は存在しない、ゆえに「見難さゆえに理解し難い(ドゥラヌボードハー)」と述べられているのである。一切の熱惱の鎮静の頂点で生じたため、また一切の熱惱が鎮まったという境地に行き渡っているため、「一切の熱惱が鎮まった(ニッブッタサッバパリラーハー)」のである。道、果、涅槃は、「静かな対象(サンターランマナーニ)」であり、鎮静していない煩悩や行が存在しないからである。あるいは、散乱が除去されたことによって常に統一された作意の働きによって、その対象となる法が静かな状態であると理解されるべきであり、これはカシナ(遍処)を取り払った空間と、それに関連する意識が無限であるのと同じである。的を外さない弓使いのように、誤りなく法をありのままに理解することが、甘く、大いに甘い味である、と「飽きさせないという理由で」と述べられている。それは覚知に達した者、そしてその中でも仏陀のみが、あらゆる様相において対象とすることができるため、思弁的な知性では捉えられない、ゆえに「最上の智の対象であるため(ウッタマニャーナヴィサヤッタ)」などと述べられている。「微妙である(ニプナー)」とは、知られるべき事柄において鋭く明瞭な働きを持つ、巧妙なものである。そして、その巧妙さは、対象において妨げられない働きを持ち、微細な知られるべき事柄を把握する能力において非常に明白であるため、「精妙で微細な本性であるため(サンハスークマスバーヴァッター)」と述べられている。
Aparo nayo – vinayapaṇṇattiādigambhīraneyyavibhāvanato gambhīrā. Kadāci asaṅkhyeyyamahākappe atikkamitvāpi dullabhadassanatāya duddasā. Dassanañcettha paññācakkhuvaseneva veditabbaṃ. Dhammanvayasaṅkhātassa anubodhassa kassacideva sambhavato duranubodhā. Santasabhāvato, veneyyānañca guṇasampadānaṃ pariyosānattā santā. Attano ca paccayehi padhānabhāvaṃ nītatāya paṇītā. Samadhigatasaccalakkhaṇatāya atakkehi, atakkena vā ñāṇena avacaritabbatāya atakkāvacarā. Nipuṇaṃ, nipuṇe vā atthe saccappaccayākārādivasena vibhāvanato nipuṇā. Loke aggapaṇḍitena sammāsambuddhena vedīyanti pakāsīyantīti paṇḍitavedanīyā. Anāvaraṇañāṇapaṭilābhato hi bhagavā ‘‘sabbavidū haṃ asmi, (dha. pa. 353; mahāva. 11; kathā. 405) dasabalasamannāgato bhikkhave tathāgato’’tiādinā (saṃ. ni. 2.21) attano sabbaññutādiguṇe pakāseti. Tenevāha **‘‘sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedetī’’**ti.
別の解釈は—律の規定などの深遠なる内容を明らかにすることから深遠である。ときに無数の大劫を超えても稀にしか見られないため、見難い。ここでの「見る」とは、智慧の眼によって理解されるべきである。法という序列からなる覚知が、ごく一部の人にしか可能でないため、理解し難い。静かな本性を持つため、また教化されるべき人々の徳の完成であるため、静かである。自らの原因によって主要な位置に達せしめられているため、勝妙である。真実の特相を体得しているため、思惟によっては到達し得ず、あるいは思惟を超えた智慧によってのみ到達し得るとされるため、思惟を超えた対象である。微妙である、あるいは真実の縁起の様相などによって微妙な事柄を明らかにすることから微妙である。世間の最高の賢者である正等覚者によって知られ、説き明かされるため、賢者によって知られるべきである。世尊は、無礙智を得たことから「私は一切知者である(ダンマパダ353; マハーヴァッダカ11; カターヴァットゥ405)」「比丘たちよ、如来は十力を具備している(サンユッタニカーヤ2.21)」などによって、自らの全知などの徳を説き明かす。それゆえ「自ら覚知し証得して説き明かす」と述べられている。
Tattha kiñcāpi sabbaññutaññāṇaṃ phalanibbānāni viya sacchikātabbasabhāvaṃ na hoti, āsavakkhayañāṇe pana adhigate adhigatameva hotīti tassa paccakkhakaraṇaṃ sacchikiriyāti āha **‘‘abhivisiṭṭhena ñāṇena paccakkhaṃ katvā’’**ti. Abhivisiṭṭhena ñāṇenāti ca hetuatthe karaṇavacanaṃ, abhivisiṭṭhañāṇādhigamahetūti attho. Abhivisiṭṭhañāṇanti vā paccavekkhaṇañāṇe adhippete karaṇavacanampi yujjatiyeva. Pavedanañcettha aññāvisayānaṃ saccādīnaṃ desanākiccasādhanato, ‘‘ekomhi sammāsambuddho’’tiādinā (mahāva. 11; kathā. 405) paṭijānanato ca veditabbaṃ. Vadamānāti ettha sattiattho māna-saddo, vattuṃ ussāhaṃ karontoti attho. Evaṃbhūtā ca vattukāmā nāma hontīti āha **‘‘vaṇṇaṃ vattukāmā’’**ti. Sāvasesaṃ vadantopi viparītaṃ vadanto viya ‘‘sammā vadatī’’ti na vattabboti āha **‘‘ahāpetvā’’**ti, tena anavasesattho idha sammā-saddoti dasseti. **‘‘Vattuṃ sakkuṇeyyu’’**nti iminā ‘‘vadeyyu’’nti sakatthadīpanabhāvamāha. Ettha ca kiñcāpi bhagavato dasabalādiñāṇānipi anaññasādhāraṇāni, sappadesavisayattā pana tesaṃ ñāṇānaṃ na tehi buddhaguṇā ahāpetvā gahitā nāma honti, nippadesavisayattā pana sabbaññutaññāṇassa tasmiṃ gahite sabbepi buddhaguṇā gahitā eva nāma hontīti imamatthaṃ dasseti **‘‘yehi…pe… vadeyyu’’**nti. Puthūni ārammaṇāni etassāti puthuārammaṇaṃ, sabbārammaṇattāti adhippāyo. Atha vā puthuārammaṇārammaṇatoti etasmiṃ atthe ‘‘puthuārammaṇato’’ti vuttaṃ, ekassa ārammaṇa-saddassa lopaṃ katvā ‘‘oṭṭhamukho kāmāvacara’’nti ādīsu viya, tenassa puthuñāṇakiccasādhakataṃ dasseti. Tathā hetaṃ tīsu kālesu appaṭihatañāṇaṃ, catuyoniparicchedakañāṇaṃ, pañcagatiparicchedakañāṇaṃ, chasu asādhāraṇañāṇesu sesāsādhāraṇañāṇāni, sattaariyapuggalavibhāvakañāṇaṃ, aṭṭhasupi parisāsu akampanañāṇaṃ, navasattāvāsaparijānanañāṇaṃ, dasabalañāṇanti evamādīnaṃ anekasatasahassabhedānaṃ ñāṇānaṃ yathāsambhavaṃ kiccaṃ sādhetīti. **‘‘Punappunaṃ uppattivasenā’’**ti etena sabbaññutaññāṇassa kamavuttitaṃ dasseti. Kamenāpi hi taṃ visayesu pavattati, na sakiṃyeva yathā bāhirakā vadanti ‘‘sakiṃyeva sabbaññū sabbaṃ jānāti, na kamenā’’ti.
たとえ遍智が、果としての涅槃のように、証得されるべき性質ではないとしても、煩悩滅尽智が到達されたときに、まさに到達されたものとなるので、それを現証すること、それが証得である、という意を「優れた知によって現証して」と述べている。「優れた知によって」というのは、原因の意味での具格の語であり、「優れた知を得る原因である」という意味である。あるいは、「優れた知」が省察智を意味する場合でも、具格の語は適切である。ここで「表明」とは、他では扱われない真理などを説く機能が達成されること、そして「私は独りの正等覚者である」といった言葉(大品11;論事405)によって宣言されることと知られるべきである。「語ろうとする者」という箇所の「マナ」という語は、努力の意味であり、「語ろうと努力する者」という意味である。このように語ろうとする者は、「徳を語ろうとする者」である、と述べられている。不完全なことを語る者も、逆のことを語る者のように、「正しく語る」とは言えないので、「欠落させることなく」と述べられている。それゆえ、ここで「正しく」という語は「完全に」という意味であることを示している。「語ることができるだろう」というこの語によって、「語るべきである」という自己の意図を示す性質を述べている。ここで、たとえ世尊の十力などの知が他と共通ではないとしても、それらの知は部分的な対象を持つため、それらによって仏陀の功徳が欠落なく捉えられているわけではない。しかし、遍智は無限の対象を持つため、それが把握されるときには、すべての仏陀の功徳もまた把握される、というこの意味を「彼らが…彼らは語るだろう」という語によって示している。「様々な対象を持つ」ゆえに、それは「様々な対象を持つ」のであり、「すべての対象を持つ」という意味である。あるいは、「様々な対象を対象とする」という意味において「様々な対象を」と述べられており、これは「欲望界にいる口唇の者」などのように、一つの「対象」という語が省略されたものである。それによって、それが様々な知の機能を成就することを示している。同様に、それは三世における無礙智、四生を識別する知、五趣を識別する知、六つの不共智の中の残りの不共智、七聖者を識別する知、八つの集会において揺るぎない知、九つの衆生住処を知る知、十力智といった、数多くの数十万にも及ぶ知の様々な機能を、それぞれ可能な限り成就する。「繰り返し生起することによって」という言葉によって、遍智が順序をもって作用することを示している。それは対象において順序をもって作用する。外道の者が「遍知は一度にすべてを知るのであって、順序をもってではない」と言うような、一度にすべてを知るわけではない。
Yadi evaṃ acinteyyāparimeyyabhedassa ñeyyassa paricchedavatā ekena ñāṇena niravasesato kathaṃ paṭivedhoti, ko vā evamāha ‘‘paricchedavantaṃ buddhañāṇa’’nti. Anantañhi taṃ ñāṇaṃ ñeyyaṃ viya. Vuttañhetaṃ ‘‘yāvatakaṃ ñeyyaṃ tāvatakaṃ ñāṇaṃ. Yāvatakaṃ ñāṇaṃ, tāvatakaṃ ñeyya’’nti (mahāni. 156; cūḷani. 85; paṭi. ma. 3.5). Evampi jātibhūmisabhāvādivasena disādesakālādivasena ca anekabhedabhinne ñeyye kamena gayhamāne anavasesapaṭivedho na sambhavati yevāti, nayidamevaṃ. Kasmā? Yaṃ kiñci bhagavatā ñātuṃ icchitaṃ sakalaṃ ekadeso vā. Tattha appaṭihatacāratāya paccakkhato ñāṇaṃ pavattati, vikkhepābhāvato ca bhagavā sabbakālaṃ samāhitova ñātuṃ, icchitassa paccakkhabhāvo na sakkā nivāretuṃ ‘‘ākaṅkhāpaṭibaddhaṃ buddhassa bhagavato ñāṇa’’ntiādi (mahāni. 156; cūḷani. 85; paṭi. ma. 3.5) vacanato, na cettha dūrato cittapaṭaṃ passantānaṃ viya, ‘‘sabbe dhammā anattā’’ti vipassantānaṃ viya ca anekadhammāvabodhakāle anirūpitarūpena bhagavato ñāṇaṃ pavattatīti gahetabbaṃ acinteyyānubhāvatāya buddhañāṇassa. Tenevāha ‘‘buddhavisayo acinteyyo’’ti (a. ni. 4.77). Idaṃ panettha sanniṭṭhānaṃsabbākārena sabbadhammāvabodhanasamatthassa ākaṅkhāpaṭibaddhavuttino anāvaraṇañāṇassa paṭilābhena bhagavā santānena sabbadhammapaṭivedhasamattho ahosi sabbaneyyāvaraṇassa pahānato, tasmā sabbaññū, na sakiṃyeva sabbadhammāvabodhato, yathā santānena sabbaindhanassa dahanasamatthatāya pāvako ‘‘sabbabhū’’ti vuccatīti.
もしそうであるならば、思慮を絶し、計り知れない違いを持つ知られるべき事柄(対象)を、一つの知によって制限された方法で完全に認識することは、どのようにして可能であろうか。また、誰が「仏陀の知は制限されたものである」と言ったのであろうか。その知は、知られるべき事柄(対象)のように無限である。このことは、「知られるべき事柄(対象)がある限り、知がある。知がある限り、知られるべき事柄(対象)がある」(大ニダーナ156;小ニダーナ85;分別論3.5)と述べられている。生起、境地、性質などの違い、方向、場所、時間などの違いによって多種多様な知られるべき事柄(対象)を、順序立てて把握するならば、完全に認識することは不可能である、と。しかし、そうではない。なぜか? 世尊が知りたいと望んだことは、すべてであろうと、一部であろうと。そこでは、無礙な作用によって知は直接的に働き、世尊は常に集中して知るため、望まれたことの直接性を妨げることはできない。「仏陀である世尊の知は願望に縛られている」などと(大ニダーナ156;小ニダーナ85;分別論3.5)言われているように。そして、ここでは、遠くの絵を見る者のように、あるいは「すべての現象は無我である」と見極める者のように、多くの現象を理解する際に、仏陀の知が不明瞭な形で働くとは解釈されるべきではない。なぜなら、仏陀の知は不可思議な力を持つからである。それゆえ、「仏陀の領域は不可思議である」(増支部4.77)と述べられている。ここで確立されるのは、世尊は、あらゆる側面からすべての現象を理解する能力を持ち、願望に結びついて機能し、障碍のない知を得ることによって、知られるべきすべての対象の障碍を排除したため、連続的にすべての現象を完全に認識する能力があった。それゆえ、彼は遍知者である。一度にすべての現象を理解するのではなく、火がすべての燃料を燃やす能力を持つことから「すべてを食う者」と呼ばれるように、連続的に理解するのである。
Vavatthāpanavacananti sanniṭṭhāpanavacanaṃ, avadhāraṇavacananti attho. Aññe vāti ettha avadhāraṇena nivattitaṃ dasseti **‘‘na pāṇātipātā veramaṇiādayo’’**ti, ayañca eva-saddo aniyatadesatāya ca-saddo viya yattha vutto, tato aññatthāpi vacanicchāvasena upatiṭṭhatīti āha **‘‘gambhīrā vā’’**tiādi. Sabbapadehīti yāva ‘‘paṇḍitavedanīyā’’ti idaṃ padaṃ, tāva sabbapadehi. Sāvakapāramiñāṇanti sāvakānaṃ dānādipāripūriyā nipphannaṃ vijjattayachaḷabhiññācatuppaṭisambhidādibhedaṃ ñāṇaṃ. Tatoti sāvakapāramiñāṇato. Tatthāti sāvakapāramiñāṇe. Tatopīti anantaraniddiṭṭhato paccekabuddhañāṇatopi, ko pana vādo sāvakapāramiñāṇatoti adhippāyo. Etthāyaṃ atthayojanā – kiñcāpi sāvakapāramiñāṇaṃ heṭṭhimasekkhañāṇaṃ puthujjanañāṇañca upādāya gambhīraṃ, paccekabuddhañāṇaṃ upādāya na tathā gambhīranti ‘‘gambhīramevā’’ti na sakkā vattuṃ. Tathā paccekabuddhañāṇampi sabbaññutaññāṇaṃ upādāyāti tattha vavatthānaṃ na labbhati, sabbaññutaññāṇadhammā pana sāvakapāramiñāṇādīnaṃ viya kiñci upādāya agambhīrabhāvābhāvato gambhīrā vāti. Yathā cettha vavatthānaṃ dassitaṃ, evaṃ sāvakapāramiñāṇaṃ duddasaṃ, paccekabuddhañāṇaṃ pana tato duddasataranti tattha vavatthānaṃ natthītiādinā vavatthānasabbhāvo netabbo. Tenevāha **‘‘tathā duddasāva…pe… veditabba’’**nti.
「規定する言葉」とは、「確定する言葉」のことであり、「限定する言葉」という意味である。「他の」という箇所では、「殺生からの離反などはではない」と限定によって否定されていることを示している。そして、この「エヴァ(~だけ)」という語は、定まらない場所に「チャ(~も)」という語のように述べられており、それゆえ他の場所にも言葉の意図に従って存在すると述べられている。「あるいは深遠な」などと。「すべての語句によって」とは、「賢者によって知られるべきである」という語句に至るまで、すべての語句によってである。「声聞の波羅蜜智」とは、声聞の布施などの完成によって成就された三明、六神通、四無礙解などの違いを持つ知である。「それゆえ」とは、声聞の波羅蜜智ゆえである。「そこにおいて」とは、声聞の波羅蜜智においてである。「それよりも」とは、直前に示された独覚仏の知よりもである。ましてや声聞の波羅蜜智について言うまでもない、という意味である。ここでの意味の解釈は次のとおりである。たとえ声聞の波羅蜜智が、下位の有学の知や凡夫の知と比較して深遠であるとしても、独覚仏の知と比較するとそれほど深遠ではないので、「まさに深遠である」とは言えない。同様に、独覚仏の知も遍智と比較すると、そこでは規定されない。しかし、遍智の法は、声聞の波羅蜜智などのように、何かと比較して深遠でないということがないため、やはり深遠である。ここで規定が示されているように、声聞の波羅蜜智は理解しがたく、独覚仏の知はそれよりもさらに理解しがたい、という点では規定が存在しない、などと規定の存在が導かれるべきである。それゆえ、「同様に、理解しがたく…知られるべきである」と述べられている。
Kasmā panetaṃ evaṃ āraddhaṃti etthāyaṃ adhippāyo – bhavatu tāva niravasesabuddhaguṇavibhāvanūpāyabhāvato sabbaññutaññāṇaṃ ekampi puthunissayārammaṇañākiccasiddhiyā ‘‘atthi bhikkhave aññeva dhammā’’tiādinā bahuvacanena uddiṭṭhaṃ, tassa pana vissajjanaṃ saccapaccayākārādivisesavasena anaññasādhāraṇena vibhajananayena anārabhitvā sanissayānaṃ diṭṭhīnaṃ vibhajanavasena kasmā āraddhanti. Tattha yathā saccapaccayākārādīnaṃ vibhajanaṃ anaññasādhāraṇaṃ, sabbaññutaññāṇasseva visayo, evaṃ niravasesena diṭṭhigatavibhajanampīti dassetuṃ **‘‘buddhānañhī’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha ṭhānānīti kāraṇāni. Gajjitaṃ mahantaṃ hotīti desetabbassa atthassa anekavidhatāya, duviññeyyatāya ca nānānayehi pavattamānaṃ desanāgajjitaṃ mahantaṃ vipulaṃ, bahubhedañca hoti. Ñāṇaṃ anupavisatīti tato eva ca desanāñāṇaṃ desetabbadhamme vibhāgaso kurumānaṃ anupavisati, te anupavissa ṭhitaṃ viya hotīti attho.
では、なぜこのように始められたのか、ここでの意図は次のとおりである。遍智は、仏陀のすべての功徳を顕現する手段であるため、たとえ一つであっても、様々な依拠や対象を伴う知の機能の成就によって、「比丘たちよ、他の法々が存在する」などのように複数形で示されている。しかし、その解説が、真理、縁起の様相などの特別な方法によって、他とは共通しない分析的な方法で始められず、依拠を伴う見解を分析する方法で、なぜ始められたのか。そこでは、真理、縁起の様相などの分析が他と共通しない、遍智のみの領域であるように、見解のすべてを分析すること自体もそうである、ということを示すために、「仏陀にとって」などと始められている。そこでの「立場」とは原因のことである。「雷鳴は大きい」とは、説かれるべき事柄が多種多様であり、理解しがたいため、様々な方法で展開される説法の雷鳴は、大きくて広大であり、多くの種類を持つということである。「知が入り込む」とは、それゆえに説法知は、説かれるべき法々を分析しながら入り込み、それらに深く入り込んで存在しているかのようである、という意味である。
Buddhañāṇassa mahantabhāvo paññāyatīti evaṃvidhassa nāma dhammassa desakaṃ paṭivedhakañcāti buddhānaṃ desanāñāṇassa paṭivedhañāṇassa ca uḷārabhāvo pākaṭo hoti. Ettha ca kiñcāpi ‘‘sabbaṃ vacīkammaṃ buddhassa bhagavato ñāṇapubbaṅgamaṃ ñāṇānuparivattī’’ti (mahāni. 69; cūḷani. 85; paṭi. ma. 3.5; netti. 14) vacanato sabbāpi bhagavato desanā ñāṇarahitā natthi, sīhasamānavuttitāya ca sabbattha samānussāhappavatti desetabbadhammavasena pana desanā visesato ñāṇena anupaviṭṭhā gambhīratarā ca hotīti daṭṭhabbaṃ. Kathaṃ pana vinayapaṇṇattiṃ patvā desanā tilakkhaṇāhatā suññatāpaṭisaṃyuttā hotīti? Tatthāpi ca sannisinnaparisāya ajjhāsayānurūpaṃ pavattamānā desanā saṅkhārānaṃ aniccatādivibhāvanī, sabbadhammānaṃ attattaniyatābhāvappakāsanī ca hoti. Tenevāha **‘‘anekapariyāyena dhammiṃ kathaṃ katvā’’**tiādi.
仏陀の知の偉大さが理解されるとは、このようにして、そのような名の法の説者であり、理解者である、すなわち仏陀たちの説法知と洞察知の壮大さが明らかになる、ということである。ここで、「仏陀である世尊のすべての言語行為は知に先行し、知に従う」(大ニダーナ69;小ニダーナ85;分別論3.5;ネッティ14)という言葉によって、世尊のいかなる説法も知を伴わないことはなく、また獅子に等しい行動様式によって、どこにおいても同じ熱意で展開されるとしても、説かれるべき法に応じて説法は知によって特に深く入り込み、より深遠なものとなる、と理解されるべきである。しかし、どのようにして律の制定に至って、説法は三相によって特徴づけられ、空と結びつくのか? そこでもまた、集まった会衆の意図に合わせて展開される説法は、諸行の無常などを明らかにし、すべての法に固有の自我が存在しないことを示すものとなる。それゆえ、「様々な方法で法を説いて」などと述べられている。
Bhūmantaranti dhammānaṃ avatthāvisesañca ṭhānavisesañca. Tattha avatthāvisesosatiādidhammānaṃ satipaṭṭhānindriyabalabojjhaṅgamaggaṅgādibhedo. Ṭhānaviseso kāmāvacarādibhedo. Paccayākārapadassa attho heṭṭhā vuttoyeva. Samayantaranti diṭṭhivisesā, nānāvihitā diṭṭhiyoti attho, aññasamayaṃ vā. Evaṃ otiṇṇe vatthusminti evaṃ lahukagarukādivasena tadanurūpe otiṇṇe vatthusmiṃ sikkhāpadapaññāpanaṃ.
「境地間の違い」とは、諸法の状態の特殊性と場所の特殊性のことである。そこでの状態の特殊性とは、念(サティ)などの法の、四念処、五根、五力、七覚支、八聖道支などの違いのことである。場所の特殊性とは、欲界などの違いのことである。縁起の様相という語の意味は、すでに下に述べられている。「時々の違い」とは、見解の特殊性、つまり様々な見解のことである。あるいは、他の時々のことである。このように浸透した事柄においてとは、このように軽重などの区別に従って、それに相応して浸透した事柄において、戒律を制定することである。
Yadipi kāyānupassanādivasena satipaṭṭhānādayo suttantapiṭakepi (dī. ni. 2.374; ma. ni. 1.107) vibhattā, suttantabhājanīyādivasena pana abhidhammeyeva te savisesaṃ vibhattāti āha **‘‘ime cattāro satipaṭṭhānā…pe… abhidhammapiṭakaṃ vibhajitvā’’**ti. Tattha **‘‘satta phassā’’**ti sattaviññāṇadhātusampayogavasena vuttaṃ. Tathā **‘‘satta vedanā’’**tiādīsupi. Lokuttarā dhammā nāmāti ettha iti-saddo ādiattho, pakārattho vā, tena vuttāvasesaṃ abhidhamme āgataṃ dhammānaṃ vibhajitabbākāraṃ saṅgaṇhāti. Catuvīsati samantapaṭṭhānāni etthāti catuvīsatisamantapaṭṭhānaṃ, abhidhammapiṭakaṃ. Ettha paccayanayaṃ aggahetvā dhammavaseneva samantapaṭṭhānassa catuvīsatividhatā vuttā. Yathāha –
たとえ身随観などの四念処などが経蔵においても(長部2.374;中部1.107)分析されているとしても、それは経の分析方法などによって、アビダンマ(論蔵)においてのみ特に詳しく分析されている、と述べられている。「これら四念処は…論蔵を分析して」と。そこでの「七触」とは、七識界との結合によって述べられている。同様に「七受」などにおいても。「世間を超えた法々」という箇所では、「iti」という語は「など」の意味、あるいは「種類」の意味であり、それによって、述べられた残りの、アビダンマに現れる法々の分析されるべき様相を包括している。ここには二十四の円満な縁起(パッターナ)があるので、二十四の円満な縁起、それが論蔵である。ここでは、縁起の方法を取り上げずに、法そのものの観点から円満な縁起の二十四種類が述べられている。次の言葉のように。
‘‘Tikañca paṭṭhānavaraṃ dukuttamaṃ,
「三句と、最上の縁起の二句は、
Dukatikañceva tikadukañca;
二句と三句の組み合わせ、三句と二句の組み合わせであり、
Tikatikañceva dukadukañca,
三句と三句の組み合わせ、二句と二句の組み合わせであり、
Cha anulomamhi nayā sugambhīrā. (paṭṭhā. 1.paccayaniddesa 41, 44, 48, 52);
順行においては、その六つの方法は極めて深遠である。(発趣論1.縁起の解説41, 44, 48, 52)」
Tathā –
「同様に、
Tikañca…pe… cha paccanīyamhi nayā sugambhīrā;
三句と…(以下略)…反行においては、その六つの方法は極めて深遠である。
Tikañca…pe… cha anulomapaccanīyamhi nayā sugambhīrā;
三句と…(以下略)…順反行においては、その六つの方法は極めて深遠である。
Tikañca…pe… paccanīyānulomamhi nayā sugambhīrā’’ti. (paṭṭhā. 1.paccayaniddesa 44, 52);
三句と…(以下略)…反順行においては、その六つの方法は極めて深遠である。」(発趣論1.縁起の解説44, 52)
Evaṃ dhammavasena catuvīsatibhedesu tikapaṭṭhānādīsu ekekaṃ paccayanayena anulomādivasena catubbidhaṃ hotīti channavuti samantapaṭṭhānāni. Tattha pana dhammānulome tikapaṭṭhāne kusalattike paṭiccavāre paccayānulome hetumūlake hetupaccayavasena ekūnapaññāsa pucchānayā satta vissajjananayāti ādinā dassiyamānā anantabhedā nayāti āha **‘‘anantanaya’’**nti. Hoti cettha –
このように法としての二十四種類に分かれる三句の縁起などにおいて、それぞれは縁起の方法によって、順行などの四種類になるので、九十六の円満な縁起となる。しかしそこでは、法としての順行である三句の縁起において、善の三句、縁起の章、縁起の順行において、原因を根拠とする原因縁によって、四十九の問いの方法と七つの解答の方法、などと示される無限の区別を持つ方法である、と述べられている。「無限の方法」と。そして、ここには次のようにある。
‘‘Paṭṭhānaṃ nāma paccekaṃ dhammānaṃ anulomādimhi tikadukādīsu yā paccayamūlavisiṭṭhā catunayato sattadhā gatī’’ti.
「縁起とは、それぞれの法が順行などの三句や二句などにおいて、縁起の根本として特徴づけられた、四つの方法からなる七つの状態である。」
Navahākārehīti uppādādīhi navahi paccayākārehi. Tattha uppajjati etasmā phalanti uppādo, uppattiyā kāraṇabhāvo. Sati ca avijjāya saṅkhārā uppajjanti, na asati, tasmā avijjā saṅkhārānaṃ uppādo hutvā paccayo hoti. Tathā avijjāya sati saṅkhārā pavattanti dharanti, nivisanti ca, te avijjāya sati phalaṃ bhavādīsu khipanti, āyūhanti phaluppattiyā ghaṭanti, saṃyujjanti attano phalena, yasmiṃ santāne sayañca uppannā, taṃ palibundhanti, paccayantarasamavāye udayanti uppajjanti, hinoti ca saṅkhārānaṃ kāraṇabhāvaṃ gacchati, paṭicca avijjaṃ saṅkhārā ayanti pavattantīti evaṃ avijjāya saṅkhārānaṃ kāraṇabhāvūpagamanavisesā uppādādayo veditabbā. Tathā saṅkhārādīnaṃ viññāṇādīsu.
「九つの様相によって」とは、生起など九つの縁の様相によってである。そこでの「これによって果が生じる」というのが生起であり、生起の原因となることである。無明があるときに、行が生じるのであり、無明がないときには生じない。それゆえ無明は行の生起となり、縁となる。同様に、無明があるときに、行は作用し、存続し、確立する。それらは無明があるときに、生存などにおいて果を生み出し、果の生起のために努力し、自らの果と結合し、自らが生じたその連続体を縛り付け、他の縁が集まったときに現れ、生じ、行の原因となる状態に達する。無明を縁として行は作用し、展開する。このように、無明が行の原因となる特殊性、すなわち生起などが知られるべきである。同様に、行などが識などにおいて。
Uppādaṭṭhitītiādīsu ca tiṭṭhati etenāti ṭhiti, kāraṇaṃ. Uppādo eva ṭhiti uppādaṭṭhiti. Esa nayo sesesupi. Yasmā ayonisomanasikāro, ‘‘āsavasamudayā avijjāsamudayo’’ti (ma. ni. 1.103) vacanato āsavā ca avijjāya paccayo, tasmā vuttaṃ **‘‘ubhopete dhammā paccayasamuppannā’’**ti. Paccayapariggahe paññāti saṅkhārānaṃ avijjāya ca uppādādike paccayākāre paricchinditvā gahaṇavasena pavattā paññā. Dhammaṭṭhitiñāṇanti dhammānaṃ paccayuppannānaṃ paccayabhāvato dhammaṭṭhitisaṅkhāte paṭiccasamuppāde ñāṇaṃ. Paccayadhammā hi paṭiccasamuppāde ‘‘dvādasa paṭiccasamuppādā’’ti vacanato dvādasa paccayā. Ayañca nayo na paccuppanne eva, atha kho atītānāgatakālepi, na ca avijjāya eva saṅkhāresu, atha kho saṅkhārādīnampi viññāṇādīsu labbhatīti paripuṇṇaṃ katvā paccayākārassa vibhattabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘atītampi addhāna’’**ntiādi pāḷiṃ ārabhi. Paṭṭhāne (paṭṭhā. 1.paccayaniddesa 1) dassitā hetādipaccayā evettha uppādādipaccayākārehi gahitāti te yathāsambhavaṃ nīharitvā yojetabbā, ativitthārabhayena pana na yojayimha.
「生起、存続」などにおいて「これによって存続する」ので「存続」、すなわち原因である。生起が存続である、それが「生起存続」である。この理法は他のものにも同様に当てはまる。不正な思惟は、「煩悩の生起から無明の生起が起こる」(中部 1.103)という言葉に従って、煩悩は無明の原因であるから、**「これら両者は共に縁によって生じた法である」**と述べられている。「縁を把握する智慧」とは、行と無明の生起などにおける縁の様相を区別し、把握する形で生じる智慧である。「法住智」とは、縁によって生じた諸法が縁であるという状態から、法住と呼ばれる縁起の理法における知識である。縁の諸法は縁起においては「十二縁起」という言葉に従って十二の縁である。この理法は現在のものだけでなく、過去および未来においても、また無明が行に対してだけでなく、行などが識などに対しても得られるということを完全に示し、縁の様相が区別されていることを示すために、**「過去の時もまた」**というパーリ聖典が始まる。『発趣論』(発趣論 1.縁の解説 1)に示されている原因などの縁は、ここでは生起などの縁の様相として理解されており、それらは可能な限り引き出して適用すべきであるが、あまりに詳細になることを恐れて、ここでは適用しなかった。
Tassa tassa dhammassāti tassa tassa saṅkhārādipaccayuppannadhammassa. Tathā tathā paccayabhāvenāti uppādādihetādipaccayabhāvena. Atītapaccuppannānāgatavasena tayo addhā kālā etassāti tiyaddhaṃ. Hetuphalaphalahetuhetuphalavasena tayo sandhī etassāti tisandhiṃ. Saṅkhippanti ettha avijjādayo viññāṇādayo cāti saṅkhepo, kammaṃ vipāko ca. Saṅkhippanti etthāti vā saṅkhepo, avijjādayo viññāṇādayo ca. Koṭṭhāsapariyāyo vā saṅkhepa-saddo. Atīte kammasaṅkhepādivasena cattāro saṅkhepā etassāti catusaṅkhepaṃ. Sarūpato avuttāpi tasmiṃ tasmiṃ saṅkhepe ākirīyanti avijjāsaṅkhārādiggahaṇehi pakāsīyantīti ākārā, atīte hetuādīnaṃ vā pakārā ākārā, te saṅkhepe pañca pañca katvā vīsatiākārā etassāti vīsatākāraṃ.
「それぞれの法」とは、それぞれの行などの縁によって生じた法のこと。「そのように、そのように縁となる状態において」とは、生起などの原因となる縁の状態において。過去・現在・未来の三つの時間がこれにあるので「三時」。原因、結果、結果の原因、原因の結果という三つの結びつきがこれにあるので「三結」。無明などと識などがここにまとめられるので「簡略」、すなわち業と果報。あるいは、これらがここにまとめられるので「簡略」であり、無明などと識などである。あるいは「簡略」という言葉は部分の意味を表す。過去において業の簡略などとして四つの簡略がこれにあるので「四簡略」。その本質が明言されていないが、それぞれの簡略において無明、行などの把握によって明らかにされるものが「様相」である。あるいは、過去の原因などの種類が「様相」であり、それらが簡略において五つずつで二十の様相となるので「二十様相」。
Khattiyādibhedena anekabhedabhinnāpi sassatavādino jātisatasahassānussaraṇādino abhinivesahetuno vasena cattārova honti, na tato uddhaṃ adhoti sassatavādādīnaṃ parimāṇaparicchedassa anaññavisayataṃ dassetuṃ **‘‘cattāro janā’’**tiādimāha. Tattha cattāro janāti cattāro janasamūhā. Idaṃ nissāyāti idaṃ idappaccayatāya sammā aggahaṇaṃ, tatthāpi ca hetuphalabhāvena sambandhānaṃ santatighanassa abheditattā paramatthato vijjamānampi bhedanibandhanaṃ nānattanayaṃ anupadhāretvā gahitaṃ ekattaggahaṇaṃ nissāya. Idaṃ gaṇhantīti idaṃ sassataggahaṇaṃ abhinivissa voharanti, iminā nayena ekaccasassatavādādayopettha yathāsambhavaṃ yojetvā vattabbā. Bhinditvāti ‘‘ātappamanvāyā’’tiādinā vibhajitvā ‘‘tayidaṃ bhikkhave tathāgato pajānātī’’tiādinā vimadditvā nijjaṭaṃ nigumbaṃ katvā diṭṭhijaṭāvijaṭanena diṭṭhigumbavivaraṇena ca.
刹帝利などの違いによって多くの種類に分かれる常住論者であっても、百千の過去生を追憶することなどによる執着が原因であるため、四種類しか存在しない。それより上も下もないということは、常住論などの数量の限定が他の領域に及ばないことを示すために、**「四人の人々」**などが述べられた。ここで「四人の人々」とは、四つの人々の集団を指す。「これに依拠して」とは、この縁起の理法において正しく把握できないこと、そしてそこに原因と結果の関係にある継続的な状態が分断されていないために、真実には存在する分離の原因となる多様なあり方を考慮せず、統一性として把握されたものに依拠して、ということである。「これを把握する」とは、この常住論的見解に固執して語るということである。この方法によって、一部の常住論者なども、ここで可能な限り組み合わせて説明されるべきである。「破壊して」とは、「熱心に修行し」などによって区別し、「比丘たちよ、それ故、如来は知っている」などによって粉砕し、絡み合った結び目をなくし、見解の絡まりを解き、見解の茂みを明らかにすることによって、である。
**‘‘Tasmā’’**tiādinā buddhaguṇe ārabbha desanāya samuṭṭhitattā sabbaññutaññāṇaṃ uddisitvā desanākusalo bhagavā samayantaraviggāhaṇavasena sabbaññutaññāṇameva vissajjetīti dasseti. **‘‘Santī’’**ti iminā tesaṃ diṭṭhigatikānaṃ vijjamānatāya avicchinnataṃ, tato ca nesaṃ micchāgāhato sithilakaraṇavivecanehi attano desanāya kiccakāritaṃ, avitathatañca dīpeti dhammarājā.
**「それゆえ」**などによって、仏の功徳に関して説法が起こされたので、一切智を指し示し、説法に巧みな世尊が、異なる宗派との論争を通して、一切智そのものを明らかにすることを示す。**「存在する」**という言葉によって、見解を持つ者たちが途切れることなく存在すること、そして彼らの誤った見解を緩め、区別することによって、自身の説法の有効性と真実性を法王が示している。
29. Atthīti ‘‘saṃvijjantī’’ti iminā samānattho puthuvacanavisayo eko nipāto ‘‘atthi imasmiṃ kāye kesā’’tiādīsu (dī. ni. 2.377; ma. ni. 1.110; ma. ni. 3.154; saṃ. ni. 4.127; khu. pā. 3.1) viya. Sassatādivasena pubbantaṃ kappentīti pubbantakappikā. Yasmā pana te taṃ pubbantaṃ purimasiddhehi taṇhādiṭṭhikappehi kappetvā, āsevanabalavatāya vicittavuttitāya ca vikappetvā aparabhāgasiddhehi abhinivesabhūtehi taṇhādiṭṭhiggāhehi gaṇhanti abhinivisanti parāmasanti, tasmā vuttaṃ ‘‘pubbantaṃ **kappetvā vikappetvā gaṇhantī’’**ti. Taṇhupādānavasena vā kappanaggahaṇāni veditabbāni. Taṇhāpaccayā hi upādānaṃ. Koṭṭhāsesūti ettha koṭṭhāsādīsūti attho veditabbo. Padapūraṇasamīpaummaggādīsupi hi anta-saddo dissati. Tathā hi ‘‘iṅgha tvaṃ suttante vā gāthāyo vā abhidhammaṃ vā pariyāpuṇassu (pāci. 442), suttante okāsaṃ kārāpetvā’’ti (pāci. 1221) ca ādīsu padapūraṇe anta-saddo vattati, gāmantaṃ osareyya, (pārā. 409; cūḷava. 343) gāmantasenāsana’’ntiādīsu samīpe, ‘‘kāmasukhallikānuyogo eko anto, atthīti kho kaccāna ayameko anto’’tiādīsu (saṃ. ni. 2.15; 3.90) ummaggeti.
29. 「atthi(存在する)」は、「saṃvijjanti(存在する)」と同じ意味を持つ複数形に用いられる一つの助詞であり、「この身体には毛髪がある」(長部 2.377; 中部 1.110; 中部 3.154; 相応部 4.127; 小部 3.1)などと同様である。常住論などによって過去の極限を推測する者を「過去の極限を推測する者」という。彼らは以前に確立された煩悩と見解の推測によってその過去の極限を推測し、そして習慣と強固な状態、そして多様な働きによって、後で確立された執着となる煩悩と見解の把握によってそれを把持し、固執し、執着する。それゆえ、**「過去の極限を推測し、詳細に推測し、把握する」**と述べられている。あるいは、煩悩と執着の観点から推測と把握が理解されるべきである。煩悩を縁として執着が生じるからである。「部分において」とは、ここで「部分などにおいて」と理解されるべきである。というのも、「anta」という語は語を補う意味や近接、極端な状況などにおいても現れるからである。例えば、「さて、あなたは経典、詩句、あるいはアビダンマを学ぶべきである」(波羅夷 442)、「経典において機会を得て」(波羅夷 1221)などにおいては語を補う意味で「anta」が用いられ、「村の端に退き」(波羅夷 409; 小品 343)、「村の端の住処」などにおいては近接の意味で、「快楽主義にふけることは一つの極端であり、カッチャーナよ、有るという見解もまた一つの極端である」(相応部 2.15; 3.90)などにおいては極端な状況を意味する。
Kappa-saddo mahākappasamantabhāvakilesakāmavitakkakālapaññattisadisabhāvādīsu vattatīti āha **‘‘sambahulesu atthesu vattatī’’**ti. Tathā hesa ‘‘cattārimāni bhikkhave kappassa asaṅkhyeyyānī’’tiādīsu (a. ni. 4.156) mahākappe vattati, ‘‘kevalakappaṃ veḷuvanaṃ obhāsetvā’’tiādīsu (saṃ. ni. 1.94) samantabhāve, ‘‘saṅkappo kāmo, rāgo kāmo, saṅkapparāgo kāmo’’tiādīsu (mahāni. 1; cūḷani. 8) kilesakāme, ‘‘takko vitakko saṅkappo’’tiādīsu (dha. sa. 7) vitakke, ‘‘yena sudaṃ niccakappaṃ viharāmī’’tiādīsu (ma. ni. 1.387) kāle, ‘‘iccāyasmā kappo’’tiādīsu (su. ni. 1090; cūḷani. 113) paññattiyaṃ, ‘‘satthukappena vata kira bho sāvakena saddhiṃ mantayamānā na jānimhā’’tiādīsu (ma. ni. 1.260) sadisabhāve vattatīti. Vuttampi cetanti mahāniddesaṃ (mahāni. 28) sandhāyāha. Taṇhādiṭṭhivasenāti diṭṭhiyā upanissayabhūtāya sahajātāya abhinandanabhūtāya ca taṇhāya, sassatādiākārena abhinivisantassa micchāgāhassa ca vasena. Pubbenivutthadhammavisayāya kappanāya adhippetattā atītakālavācako idha pubba-saddo, rūpādikhandhavinimuttassa kappanāvatthuno abhāvā anta-saddo ca bhāgavācakoti āha **‘‘atītaṃ khandhakoṭṭhāsa’’**nti. **‘‘Kappetvā’’**ti ca tasmiṃ pubbante taṇhāyanābhinivesānaṃ samatthanaṃ pariniṭṭhāpanamāha. Ṭhitāti tassā laddhiyā avijahanaṃ. Ārabbhāti ālambitvā. Visayo hi tassā diṭṭhiyā pubbanto. Visayabhāvato eva hi so tassā āgamanaṭṭhānaṃ, ārammaṇapaccayo cāti vuttaṃ **‘‘āgamma paṭiccā’’**ti.
「カッパ(kappa)」という言葉は、大劫、全体性、煩悩欲、思惟、時、概念、類似性などの多くの意味で用いられるので、**「多くの意味で用いられる」**と述べた。例えば、「比丘たちよ、劫の不可算量は四つある」(増支部 4.156)などにおいては大劫の意味で用いられ、「ヴェールヴァナ林全体を照らして」(相応部 1.94)などにおいては全体性の意味で、「思惟は愛欲、執着は愛欲、思惟と執着は愛欲である」(大ニッデーサ 1; 小ニッデーサ 8)などにおいては煩悩欲の意味で、「推測、思惟、志向」(法集論 7)などにおいては思惟の意味で、「常に安楽に過ごす」(中部 1.387)などにおいては時の意味で、「尊者カッパ」などにおいては概念の意味で、「ああ、これは師と同じく弟子と語り合って知らなかった」(中部 1.260)などにおいては類似性の意味で用いられる。これもまた『大ニッデーサ』(大ニッデーサ 28)を指して述べられている。「渇愛と見解の様相によって」とは、見解の直接的な原因となる、同時に生じる、喜ばしい対象となる渇愛、そして常住などの様相に固執する誤った把握の様相によって、ということである。過去にすでに住した法を対象とする推測が意図されているため、ここで「pubba」という語は過去の時間を表し、色などの蘊から離れた推測の対象が存在しないため、「anta」という語は部分を表す、として**「過去の蘊の部分」**と述べた。そして**「推測して」**とは、その過去の極限において渇愛や固執を確立し、完成させることを意味する。「確立された」とは、その見解を捨てないこと。「関して」とは、対象として。その見解の対象は過去の極限である。対象であるからこそ、それがその見解の拠り所であり、所縁縁であると述べられている、**「拠り所として、縁として」**と。
Adhivacanapadānīti paññattipadāni. Dāsādīsu sirivaḍḍhakādi-saddā viya vacanamattameva adhikāraṃ katvā pavattiyā adhivacanaṃ paññatti. Atha vā adhi-saddo uparibhāve, vuccatīti vacanaṃ, upari vacanaṃ adhivacanaṃ, upādābhūtarūpādīnaṃ upari paññāpiyamānā upādāpaññattīti attho, tasmā paññattidīpakapadānīti attho daṭṭhabbo. Paññattimattañhetaṃ vuccati, yadidaṃ ‘‘attā, loko’’ti ca, na rūpavedanādayo viya paramattho. Adhikavuttitāya vā adhivuttiyoti diṭṭhiyo vuccanti. Adhikañhi sabhāvadhammesu sassatādiṃ pakatiādidabbādiṃ jīvādiṃ kāyādiñca abhūtamatthaṃ ajjhāropetvā diṭṭhiyo pavattantīti.
「adhivacanaの語」とは概念の語である。奴隷などにおいて「シリヴァッダカ」などの語のように、単なる呼称を主として用いられる概念がadhivacanaである。あるいは「adhi」という語は「上」の意味であり、「語られるもの」が「vacana」である。上に語られるものが「adhivacana」であり、執着の対象である色などの上に概念として設けられるものが「執着概念」という意味である。したがって、「概念を明らかにする語」という意味と理解されるべきである。「自我、世界」などと言われるのは、単なる概念にすぎず、色や受などといった究極の実体ではない。あるいは、過剰に語られるものとして見解が呼ばれる。見解は、固有の性質を持つ諸法において、常住など、根源的な実体など、生命など、身体などといった、存在しないものを過剰に付加して生じるからである。
30. Abhivadantīti ‘‘idameva saccaṃ, moghamañña’’nti (ma. ni. 2.187, 203, 427; ma. ni. 3.27, 29) abhinivisitvā vadanti ‘‘ayaṃ dhammo, nāyaṃ dhammo’’tiādinā vivadanti. Abhivadanakiriyāya ajjāpi avicchedabhāvadassanatthaṃ vattamānakālavacanaṃ. Diṭṭhi eva diṭṭhigataṃ ‘‘muttagataṃ, (ma. ni. 2.119; a. ni. 9.11) saṅkhāragata’’ntiādīsu (mahāni. 41) viya. Gantabbābhāvato vā diṭṭhiyā gatamattaṃ, diṭṭhiyā gahaṇamattanti attho. Diṭṭhippakāro vā diṭṭhigataṃ. Lokiyā hi vidhayuttagatapakāra-sadde samānatthe icchanti. Ekekasmiñca ‘‘attā’’ti, ‘‘loko’’ti ca gahaṇavisesaṃ upādāya paññāpanaṃ hotīti āha **‘‘rūpādīsu aññataraṃ attā ca loko cāti gahetvā’’**ti. Amaraṃ niccaṃ dhuvanti sassatavevacanāni. Maraṇābhāvena vā amaraṃ, uppādābhāvena sabbathāpi atthitāya niccaṃ, thiraṭṭhena vikārābhāvena dhuvaṃ. **‘‘Yathāhā’’**tiādinā yathāvuttamatthaṃ niddesapaṭisambhidāpāḷīhi vibhāveti. Ayañca attho ‘‘rūpaṃ attato samanupassati, vedanaṃ, saññaṃ, saṅkhāre, viññāṇaṃ attato samanupassatī’’ti imissā pañcavidhāya sakkāyadiṭṭhiyā vasena vutto. ‘‘Rūpavantaṃ attāna’’ntiādikāya pana pañcadasavidhāya sakkāyadiṭṭhiyā vasena cattāro cattāro khandhe ‘‘attā’’ti gahetvā tadaññaṃ ‘‘loko’’ti paññapentīti ayampi attho labbhati. Tathā ekaṃ khandhaṃ ’’attā’’ti gahetvā tadaññe attano upabhogabhūto lokoti, sasantatipatite vā khandhe ‘‘attā’’ti gahetvā tadaññe ‘‘loko’’ti paññapentīti evampettha attho daṭṭhabbo. Etthāha – sassato vādo etesanti kasmā vuttaṃ, nanu tesaṃ attā loko ca sassatoti adhippeto, na vādo ti? Saccametaṃ, sassatasahacaritatāya pana ‘‘vādo sassato’’ti vuttaṃ yathā ‘‘kuntā pacarantī’’ti. Sassato iti vādo etesanti vā iti-saddalopo daṭṭhabbo. Atha vā sassataṃ vadanti ‘‘idameva sacca’’nti abhinivissa voharantīti sassatavādā, sassatadiṭṭhinoti evampettha attho daṭṭhabbo.
30. 「公言する」とは、「これこそ真実であり、他は虚妄である」(中部 2.187, 203, 427; 中部 3.27, 29)と固執して主張し、「これは法であり、これは法ではない」などと言い争うことである。公言する行為が今日でも途切れることなく存在することを示すために現在時制の語が用いられている。「見解」それ自体が「見解に達したもの」であり、「解脱に達したもの」(中部 2.119; 増支部 9.11)、「行に達したもの」(大ニッデーサ 41)などと同様である。あるいは、到達すべきものがないことから見解が「達したもの」であり、見解の把握にすぎないという意味である。あるいは見解の様相が「見解に達したもの」である。世間では「方法」「適切」「達した」「様相」といった言葉を同じ意味で用いることを好むからである。それぞれにおいて「自我」と「世界」という把握の相違を根拠として概念を立てるのである、と**「色などの中のいずれかを自我であり世界であると捉えて」**と述べた。「不死である」「常住である」「不動である」は常住の同意語である。あるいは、死がないので不死であり、生がないことによって常に存在するので常住であり、堅固な状態と変化がないことによって不動である。**「述べたように」**などによって、述べられた意味を『ニッデーサ』や『パティサンビダー』のパーリ語聖典によって詳しく説明する。この意味は、「色を自我として見る、受を、想を、行を、識を自我として見る」という五種類の有身見の様相によって述べられている。しかし、「自我は色を持つ」などといった十五種類の有身見の様相によって、四つの蘊を「自我」と捉え、それ以外のものを「世界」と概念化する、という意味もまた得られる。同様に、一つの蘊を「自我」と捉え、それ以外のものを自己が享受する「世界」と概念化する、あるいは自身の連続体にある蘊を「自我」と捉え、それ以外のものを「世界」と概念化する、とここでの意味は理解されるべきである。ここで言う。「これらは常住説である」と何故述べたのか。彼らの自我と世界が常住であると意図されているのであって、説ではないのではないか?それは真実である。しかし、常住と密接に関連しているため、「説が常住である」と述べられたのである。「槍が動く」というように。あるいは、「これらは常住であるという説である」として「iti」という語の省略と理解されるべきである。あるいは、「これこそ真実である」と固執して常住を語るから常住論者であり、常住見を持つ者である、とここでの意味は理解されるべきである。
31. Ātāpanaṃ kilesānaṃ vibādhanaṃ pahānaṃ. Padahanaṃ kosajjapakkhe patituṃ adatvā cittassa ussahanaṃ. Anuyogo yathā samādhi visesabhāgiyataṃ pāpuṇāti, evaṃ vīriyassa bahulīkaraṇaṃ. Idha upacārappanācittaparidamanavīriyānaṃ adhippetattā āha **‘‘tippabhedaṃ vīriya’’**nti. Nappamajjati etenāti appamādo, asammoso. Sammā upāyena manasi karoti kammaṭṭhānaṃ etenāti sammāmanasikāro ñāṇanti āha **‘‘vīriyañca satiñca ñāṇañcā’’**ti. Etthāti ‘‘ātappa…pe… manasikāraṃ anvāyā’’ti imasmiṃ pāṭhe. Sīlavisuddhiyā saddhiṃ catunnaṃ rūpāvacarajjhānānaṃ adhigamanapaṭipadā vattabbā, sā pana visuddhimagge vitthārato vuttāti āha **‘‘saṅkhepattho’’**ti. **‘‘Tathārūpa’’**nti cuddasavidhehi cittadamanehi rūpāvacaracatutthajjhānassa damitataṃ vadati.
31. 「ātāpana(精勤)」とは、煩悩を妨げ、捨てることである。「padahana(奮励)」とは、怠惰に陥ることなく、心を励ますことである。「anuyoga(専念)」とは、禅定が特別なるものとなるように、精進を多くすることである。ここで、近行定、安止定、心鎮静の精進が意図されているため、**「三種類の精進」**と述べた。「これによって放逸しない」ゆえに「appamādo(不放逸)」であり、混乱しないことである。「これによって修行対象を正しく巧妙に心に留める」ゆえに「sammāmanasikāro(正思惟)」であり、それは智慧である、として**「精進と念と智慧と」**と述べた。「ここで」とは、「ātappa…等… manasikāraṃ anvāyā(精勤…等…思惟に従い)」というこの聖典の箇所において。戒の清浄とともに四つの色界禅を得るための道が語られるべきであるが、それは『清浄道論』に詳細に述べられているので、**「要約された意味」**と述べた。**「そのようなもの」**とは、十四種類の心を鎮静させる方法によって、色界第四禅が鎮静された状態を指す。
Samādhānādiaṭṭhaṅgasamannāgatarūpāvacaracatutthajjhānassa yogino samādhivijambhanabhūtā lokiyābhiññā **jhānānubhāvo. ‘‘Jhānādīna’’**nti idaṃ jhānalābhissa visesena jhānadhammā āpāthaṃ āgacchanti, taṃmukhena sesadhammāti imamatthaṃ sandhāya vuttaṃ. Janakabhāvaṃ paṭikkhipati. Sati hi janakabhāve rūpādidhammānaṃ viya sukhādidhammānaṃ viya, ca paccayāyattavuttitāya uppādavantatā viññāyati, uppāde ca sati avassambhāvī nirodhoti anavakāsāva niccatā siyāti. Kūṭaṭṭha-saddo vā loke accantanicce niruḷho daṭṭhabbo. **‘‘Esikaṭṭhāyiṭṭhito’’**ti etena yathā esikā vātappahārādīhi na calati, evaṃ na kenaci vikāraṃ āpajjatīti vikārābhāvamāha, **‘‘kūṭaṭṭho’’**ti iminā pana aniccatābhāvaṃ. Vikāropi vināsoyevāti āha, **‘‘ubhayenapi lokassa vināsābhāvaṃ dīpetī’’**ti. **‘‘Vijjamānamevā’’**ti etena kāraṇe phalassa atthibhāvadassanena abhibyattivādaṃ dīpeti. Nikkhamatīti ca abhibyattiṃ gacchatīti attho. Kathaṃ pana vijjamānoyeva pubbe anabhibyatto abhibyattiṃ gacchatīti? Yathā andhakārena paṭicchanno ghaṭo ālokena abhibyattiṃ gacchati.
八支にわたる禅定を具足した色界第四禅のヨーガ行者の集中力の広がりである世俗的な神通力は、禅定の力である。「禅定など」とは、禅定を得た者にとって、特に禅定の法が顕現し、それを通して他の法も現れるということを念頭に置いて述べられたものである。生成者の立場を否定する。もし生成者の立場があれば、色などの法や楽などの法のように、縁に依存して生起する性質を持つことから、生起があることが認識され、生起があれば必ず滅があるため、常住性には余地がなくなるだろう。「クーṭアṭṭハ(常住不変)」という語は、世間では絶対的な常住性を意味するものと見なされるべきである。「エシカッṭṭハーイッṭṭヒト(柱のように立つ)」という表現は、柱が風などの打撃によって動かないように、何によっても変異を起こさない、すなわち変異がないことを意味し、「クーṭアṭṭホー」という語によって無常性がないことを意味する。変異もまた滅であるから、「両方によって世間の非滅を示している」と説く。「ヴィッジャマーナメーヴァ(既に存在するもの)」という表現は、原因の中に結果の存在を示すことによって、表出説を示している。「ニッカマティ(現れる)」とは、表出に至るという意味である。しかし、以前は未表出であったものが、どのようにして既に存在するものとして表出に至るのか。それは、闇に覆われた甕が光によって表出に至るようなものである。
Idamettha vicāretabbaṃ – kiṃ karonto āloko ghaṭaṃ pakāsetīti vuccati, yadi ghaṭavisayaṃ buddhiṃ karonto, buddhiyā anuppannāya uppattidīpanato abhibyattivādo hāyati. Atha ghaṭabuddhiyā āvaraṇabhūtaṃ andhakāraṃ vidhamanto, evampi abhibyattivādo hāyatiyeva. Sati hi ghaṭabuddhiyā andhakāro kathaṃ tassā āvaraṇaṃ hotīti, yathā ghaṭassa abhibyatti na yujjati, evaṃ attanopi. Tatthāpi hi yadi indriyavisayādisannipātena anuppannāya buddhiyā uppatti, uppattivacaneneva abhibyattivādo hāyati, tathā sassatavādo. Atha buddhippavattiyā āvaraṇabhūtassa andhakāraṭṭhāniyassa mohassa vidhamanena. Sati buddhiyā kathaṃ moho āvaraṇanti, kiñci bhedasambhavato. Na hi abhibyañjanakānaṃ candasūriyamaṇipadīpādīnaṃ bhedena abhibyañjitabbānaṃ ghaṭādīnaṃ bhedo hoti, hoti ca visayabhedena buddhibhedoti bhiyyopi abhibyatti na yujjatiyeva, na cettha vuttikappanā yuttā vuttiyā vuttimato ca anaññathānujānanatoti. Te ca sattā sandhāvantīti ye idha manussabhāvena avaṭṭhitā, teyeva devabhāvādiupagamanena ito aññattha gacchanti, aññathā katassa kammassa vināso, akatassa ca abbhāgamo āpajjeyyāti adhippāyo.
ここで考察すべきは、光は甕をどのような状態にすると光を当てる、と称されるのか。もし甕に関する知を生成するならば、知が生じていないのに生起を示すことによって、表出説は損なわれる。また、甕の知を覆っている闇を払い除くならば、やはり表出説は損なわれる。なぜなら、甕の知があるならば、どうして闇がその覆いとなるのか、という疑問が生じるからである。甕の表出が不適当であるように、自己の表出も不適当である。そこにおいても、もし感官と対象との集合などによって、生じていない知が生起するならば、生起という言葉によって表出説は損なわれ、同時に常住論も損なわれる。また、知の作用を覆う闇に似た無明を払い除くことによってである。知があるならば、どうして無明が覆いとなるのかといえば、ある程度の区別が可能だからである。なぜなら、月、太陽、宝珠、灯火などの表出させるものと、甕などの表出されるものとの間に区別はない。しかし、対象の区別によって知の区別があるならば、やはり表出は不適当である。また、ここでは「存在」の概念は適当ではない。なぜなら、「存在」と「存在する者」とが異ならないと許容されないからである。そして、それらの衆生が「さまよう」とは、ここで人間として存在する者たちが、まさしく神々などの境涯に赴くことによって、ここから他所へと行く、という意味である。もしそうでないならば、為された業の消滅や、為されなかった業の生起という事態が生じる、というのが意図である。
Aparāparanti aparasmā bhavā aparaṃ bhavaṃ. Evaṃ saṅkhyaṃ gacchantīti attano niccasabhāvattā na cutūpapattiyo, sabbabyāpitāya nāpi sandhāvanasaṃsaraṇāni, dhammānaṃyeva pana pavattivisesena evaṃ saṅkhyaṃ gacchanti, evaṃ voharīyantīti adhippāyo. Etena avaṭṭhitasabhāvassa attano, dhammino ca dhammamattaṃ uppajjati ceva vinassati cāti imaṃ vipariṇāmavādaṃ dasseti. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ parato vakkhāma. Attano vādaṃ bhindatīti sandhāvanādivacanasiddhāya aniccatāya pubbe paṭiññātaṃ sassatavādaṃ bhindati, viddhaṃsetīti attho. Sassatisamanti vā etassa sassataṃ thāvaraṃ niccakālanti attho daṭṭhabbo.
「アパラパラ(次々と)」とは、ある存在から別の存在へ、という意味である。「このように計数される」とは、自己の常住な性質のために死も生も転生もなく、遍在性ゆえに輪廻も流転もない。ただ、法そのものの作用の特殊性によって、このように計数され、このように言われる、というのが意図である。これによって、安定した性質を持つ自己、すなわち法を持つ者の法そのものが生起し、また消滅するという変異説を示している。ここで述べるべきことは、後で述べるだろう。「自己の説を破壊する」とは、輪廻などの言葉によって確立された無常性によって、以前に主張された常住説を破壊し、滅ぼすという意味である。「常住性」または「サッサティサマ(常に等しい)」とは、それが常住で不動で永遠であるという意味と見なされるべきである。
Hetuṃ dassentoti yesaṃ ‘‘sassato’’ti attānañca lokañca paññapeti ayaṃ diṭṭhigatiko, tesaṃ hetuṃ dassentoti attho. Na hi attano diṭṭhiyā paccakkhakatamatthaṃ attanoyeva sādheti, attano pana paccakkhakatena atthena attano appaccakkhabhūtampi atthaṃ sādheti. Attanā hi yathānicchitaṃ parehi viññāpeti, na anicchitaṃ. **‘‘Hetuṃ dassento’’**ti ettha idaṃ hetudassanaṃ – etesu anekesu jātisatasahassesu ekovāyaṃ me attā, loko ca anussaraṇasabbhāvato. Yo hi yamatthaṃ anubhavati, so eva taṃ anussarati, na añño. Na hi aññena anubhūtamatthaṃ añño anussarituṃ sakkoti yathā taṃ buddharakkhitena anubhūtaṃ dhammarakkhito. Yathā cetāsu, evaṃ ito purimatarāsupi jātīsūti. Kasmā sassato me attā ca loko ca. Yathā ca me, evaṃ aññesampi sattānaṃ sassato attā ca loko cāti? Sassatavasena diṭṭhigahanaṃ pakkhando diṭṭhigatiko parepi tattha patiṭṭhapeti, pāḷiyaṃ pana ‘‘anekavihitāni adhivuttipadāni abhivadanti. So evaṃ āhā’’ti ca vacanato parānumānavasena idha hetudassanaṃ adhippetanti viññāyati. Kāraṇanti tividhaṃ kāraṇaṃ sampāpakaṃ nibbattakaṃ ñāpakanti. Tattha ariyamaggo nibbānassa sampāpakaṃ kāraṇaṃ, bījaṃ aṅkurassa nibbattakaṃ kāraṇaṃ, paccayuppannatādayo aniccatādīnaṃ ñāpakaṃ kāraṇaṃ, idhāpi ñāpakakāraṇameva adhippetaṃ. Ñāpako hi ñāpetabbatthavisayassa ñāṇassa hetubhāvato kāraṇanti. Tadāyattavuttitāya taṃ ñāṇaṃ tiṭṭhati tatthāti **‘‘ṭhāna’’**nti, vasati tattha pavattatīti **‘‘vatthū’’**ti ca vuccati. Tathā hi bhagavatā vatthu-saddena uddisitvāpi ṭhānasaddena niddiṭṭhanti.
「ヘートゥン ダッセーント(原因を示しながら)」とは、「常住」であると自己と世間を認知するこの見解に陥った者たちの原因を示すという意味である。自己の見解によって直接知覚された事柄だけを証明するのではなく、自己が直接知覚した事柄によって、自己が直接知覚しなかった事柄も証明する。自己は望むとおりに他者に理解させるのであり、望まないとおりではない。「ヘートゥン ダッセーント(原因を示しながら)」におけるこの原因の提示とは、これらの数え切れないほどの何百何千という生において、私にとってこの自己と世間は一つである、という追憶の性質によるものである。なぜなら、何かを経験した者だけがそれを追憶するのであり、他の者は追憶しない。ブッダラッキタが経験したことをダンマラッキタが追憶できないように、他の者が経験したことを他の者が追憶することはできない。これらの生においてそうであるように、これよりも以前の生においてもそうである。なぜ私にとって自己も世間も常住であるのか。私にとってそうであるように、他の衆生にとっても自己も世間も常住であるのか。常住という見方によって見解の密林に突入したこの見解に陥った者は、他者もそこにとどまらせる。しかしパーリ聖典では、「様々に名付けられた言葉を語る。彼はこのように言った」という言葉によって、ここでは他者の推論による原因の提示が意図されていると理解される。原因とは、達成させる原因、生起させる原因、知らしめる原因の三種類である。その中で、聖なる道はニルヴァーナを達成させる原因であり、種子は芽を生起させる原因であり、縁起などは無常などを知らしめる原因である。ここでも知らしめる原因のみが意図されている。なぜなら、知らしめるものとは、知られるべき対象に関する知識の原因であるから、原因なのである。その知識がそれに依存して存在するという意味で、「ṭhāna(拠り所)」と呼ばれ、そこに存在し作用するという意味で、「vatthu(基盤)」とも呼ばれる。このように世尊は、「vatthu」という言葉で指し示しながらも、「ṭhāna」という言葉で述べたのである。
32-33. Dutiyatatiyavādānaṃ paṭhamavādato natthi viseso ṭhapetvā kālavisesanti āha **‘‘upari vādadvayepi eseva nayo’’**ti. Yadi evaṃ kasmā sassatavādo catudhā vibhatto, nanu adhiccasamuppannikavādo viya duvidheneva vibhajitabbo siyāti āha **‘‘mandapañño hi titthiyo’’**tiādi.
32-33. 第二、第三の説は、第一の説とは時間的な違いを除いて何の差もないと述べ、「上の二つの説においても、この同じ理屈が当てはまる」と説く。もしそうであるなら、なぜ常住論が四つに分かれているのか。偶因論のように二つに分かれるべきではないのかと述べ、「異教徒は愚かである」と続く。
34. Takkayatīti ūhayati, sassatādiākārena tasmiṃ tasmiṃ ārammaṇe cittaṃ abhiniropetīti attho. Takkoti ākoṭanalakkhaṇo vinicchayalakkhaṇo vā diṭṭhiṭṭhānabhūto vitakko. Vīmaṃsā nāma vicāraṇā, sā panettha atthato paññāpatirūpako lobhasahagatacittuppādo, micchābhiniveso vā ayonisomanasikāro, pubbabhāge vā diṭṭhivipphanditanti daṭṭhabbā. Tenevāha **‘‘tulanā ruccanā khamanā’’**ti. Pariyāhananaṃ vitakkassa ārammaṇaūhanaṃ evāti āha **‘‘tena tena pakārena takketvā’’**ti. Anuvicaritanti vīmaṃsāya anupavattitaṃ, vīmaṃsānugatena vā vicārena anumajjitaṃ. Paṭi paṭi bhātīti paṭibhānaṃ, yathāsamihitākāravisesavibhāvako cittuppādo. Paṭibhānato jātaṃ paṭibhānaṃ, sayaṃ attano paṭibhānaṃ sayaṃ paṭibhānaṃ. Tenevāha **‘‘attano paṭibhānamattasañjāta’’**nti. Matta-saddena visesādhigamādayo nivatteti.
34. 「タクカヤティ(推論する)」とは「推理する」という意味であり、常住などの様式でその対象ごとに心を置く、という意味である。「タクカ(思惟)」とは、叩く特徴、あるいは判断の特徴を持つ、見解の基盤となる尋思(ヴィタッカ)である。「ヴィーマンサー(考察)」とは、「ヴィチャーラ(熟慮)」のことである。それはここでは、本質的には智慧に似た貪りに伴う心生、あるいは間違った執着、あるいは不正な作意であり、あるいは初期段階では見解の動揺と見なされるべきである。それゆえ、「比較、是認、容認」と説く。「パリヤーハナナ(追求)」とは、尋思の対象を推理することそのものである。それゆえ、「あの手この手で推論して」と説く。「アヌヴィチャリタン(考察された)」とは、考察によって継続されたもの、あるいは考察に従った思索によって吟味されたものである。「パティパティ バーティ(繰り返し輝く)」ゆえに「パティバーナ(自在の弁舌)」であり、望むがままの特殊な様態を顕現させる心生である。パティバーナから生じたパティバーナ、自己のパティバーナそのものが自己のパティバーナである。それゆえ、「自己の思惟のみから生じたもの」と説く。「マッタ(のみ)」という語によって、優位な証得などを除く。
‘‘Anāgatepi **evaṃ bhavissatī’’**ti idaṃ na idhādhippetatakkīvaseneva vuttaṃ, lābhītakkino evampi sambhavatīti sambhavadassanavasena vuttanti daṭṭhabbaṃ. Yaṃ kiñci attanā paṭiladdhaṃ rūpādi sukhādi ca idha labbhatīti lābho, na jhānādiviseso. **‘‘Evaṃ sati idaṃ hotī’’**ti aniccesu bhāvesu añño karoti, añño paṭisaṃvedetīti āpajjati, tathā ca sati katassa vināso, akatassa ca abbhāgamo siyā. Niccesu pana bhāvesu yo karoti, so paṭisaṃvedetīti na doso āpajjatīti takkikassa yuttigavesanākāraṃ dasseti.
「未来にもこのようになるだろう」とは、ここで意図された論理家という立場からのみ述べられたものではなく、何かを得た論理家にもこのように起こりうるという可能性を示す意図で述べられたものと理解すべきである。ここで「所得」とは、自らが得た色などのあらゆるものや、楽などのあらゆるものを指し、禅定などの特別なものではない。「これがあればこれは生じる」という場合、無常な存在においては、別の者が行為し、別の者が感受するという事態が生じる。もしそうなれば、為した行為の消滅や、為さざる行為の生起という事態が生じるだろう。しかし、常住の存在においては、行為した者が感受するということに過失は生じない。これは論理家が論拠を探求する様を示すものである。
Takkamattenevāti āgamādhigamādīnaṃ anussavādīnañca abhāvā suddhatakkeneva. Nanu ca visesalābhinopi sassatavādino attano visesādhigamahetu anekesu jātisatasahassesu dasasu saṃvaṭṭavivaṭṭesu cattālīsāya saṃvaṭṭavivaṭṭesu yathānubhūtaṃ attano santānaṃ tappaṭibaddhañca ‘‘attā, loko’’ti ca anussaritvā tato purimapurimatarāsupi jātīsu tathābhūtassa atthitānuvitakkanamukhena sabbesampi sattānaṃ tathābhāvānuvitakkanavaseneva sassatābhinivesino jātā, evañca sati sabbopi sassatavādī anussutijātissaratakkikā viya attano upaladdhavatthunibandhanena takkanena pavattavādattā takkīpakkheyeva tiṭṭheyya, avassañca vuttappakāraṃ takkanamicchitabbaṃ, aññathā visesalābhī sassatavādī ekaccasassatikapakkhaṃ, adhiccasamuppannikapakkhaṃ vā bhajeyyāti? Na kho panetaṃ evaṃ daṭṭhabbaṃ, yasmā visesalābhīnaṃ khandhasantānassa dīghadīghataradīghatamakālānussaraṇaṃ sassataggāhassa asādhāraṇakāraṇaṃ. Tathā hi ‘‘anekavihitaṃ pubbenivāsaṃ anussarāmi. Imināmahametaṃ jānāmī’’ti anussaraṇameva padhānakāraṇabhāvena dassitaṃ. Yaṃ pana tassa ‘‘imināmahametaṃ jānāmī’’ti pavattaṃ takkanaṃ, na taṃ idha padhānaṃ anussaraṇaṃ pati tassa appadhānabhūtattā. Yadi evaṃ anussavādīnampi padhānabhāvo āpajjatīti ce? Na, tesaṃ sacchikiriyāya abhāvena takkapadhānattā, padhānakāraṇena ca niddeso niruḷho sāsane loke ca yathā ‘‘cakkhuviññāṇaṃ, yavaṅkuro’’ti ca.
「思惟のみによって」とは、聖典の知識、特別な証得、伝承などがなく、純粋な思惟のみによって、という意味である。それでは、特別な証得を得た常住論者でさえ、自己の特別な証得のために、数え切れないほどの何百何千という生、十回の有為転変の劫、四十回の有為転変の劫において、自らが経験した自己の存在の流れとそれに結びついた「自己、世間」を追憶し、それよりもさらに以前の生においても、そのような存在であったことを推論することによって、そしてすべての衆生についてもそのような存在であると推論することによって、常住という執着が生じたのではないか。もしそうであるならば、すべての常住論者は、伝承や過去世を記憶する論理家のように、自己が認識した対象に基づいた思惟によって説を唱えているのであるから、論理家の部類にとどまるのではないか。そして、述べられたような推論は必ず必要とされるべきであり、そうでなければ特別な証得を得た常住論者は、部分的常住論者か偶因論者の部類に陥るのではないか。しかし、これはそのように見なされるべきではない。なぜなら、特別な証得を得た者が五蘊の連続を非常に長く、より長く、最も長く追憶することは、常住という執着に対する特別な原因ではないからである。このように、「様々な過去世を追憶する。これによって私はこのことを知る」と、追憶そのものが主たる原因として示されている。しかし、彼が「これによって私はこのことを知る」として行った推論は、追憶に対して副次的なものであるため、ここでは主たるものではない。もしそうであるなら、伝承による説を唱える者たちも主たるものとなるのではないか、と問うならば、そうではない。彼らには現証がないため、思惟が主たるものだからである。そして、「眼識」や「麦の芽」のように、教えの中においても世間においても、主たる原因によって名称が確立されているのである。
Atha vā visesādhigamanibandhanarahitassa takkanassa visuṃ sassataggāhe kāraṇabhāvadassanatthaṃ visesādhigamo visuṃ sassataggāhakāraṇaṃ vattabbo, so ca mandamajjhatikkhapaññāvasena tividhoti bhagavatā sabbatakkino takkībhāvasāmaññena ekajjhaṃ gahetvā catudhā vavatthāpito sassatavādo. Yadipi anussavādivasena takkikānaṃ viya mandapaññādīnampi hīnādivasena anekabhedasabbhāvato visesalābhīnampi bahudhā bhedo sambhavati, sabbe pana visesalābhino mandapaññādivasena tayo rāsī katvā tattha ukkaṭṭhavasena anekajātisatasahassadasasaṃvaṭṭavivaṭṭacattārīsasaṃvaṭṭavivaṭṭānussaraṇena ayaṃ vibhāgo vutto. Tīsupi rāsīsu ye hīnamajjhapaññā, te vuttaparicchedato ūnakameva anussaranti. Ye pana tattha ukkaṭṭhapaññā, te vuttaparicchedaṃ atikkamitvā nānussarantīti evaṃ panāyaṃ desanā. Tasmā aññatarabhedasaṅgahavaseneva bhagavatā cattāriṭṭhānāni vibhattānīti vavatthitā sassatavādīnaṃ catubbidhatā. Na hi idha sāvasesaṃ dhammaṃ deseti dhammarājā.
あるいは、特別な証得に拠らない思惟が、別個に常住という執着の原因であるということを示すために、特別な証得が別個に常住という執着の原因であると説かれるべきであり、それは愚・中・利の智慧によって三種であると、世尊はすべての論理家を「論理家」という共通性をもってひとまとめにし、常住論を四つに分類した。伝承による論理家たちのように、愚鈍な智慧の者たちにも劣位などによって多くの種類が存在するように、特別な証得を得た者たちにも多くの区別が生じうるとしても、すべての特別な証得を得た者たちは、愚・中・利の智慧によって三つの集団に分けられ、その中で、優位な程度によって何百何千という生、十回の有為転変の劫、四十回の有為転変の劫を追憶することによって、この分類が述べられた。三つの集団においても、劣位・中位の智慧の者たちは、述べられた範囲よりも少ない事柄を追憶する。しかし、その中で最優位の智慧の者たちは、述べられた範囲を超えて追憶しない、というのがこの教説である。したがって、世尊が四つの立場を分類したのは、何らかの分類を包括する形で、常住論者たちの四つの種類が確立されたのである。なぜなら、法王はここで余剰なく法を説くことはないからである。
35. **‘‘Aññatarenā’’**ti etassa atthaṃ dassetuṃ **‘‘ekenā’’**ti vuttaṃ. Vā-saddassa pana aniyamatthataṃ dassetuṃ **‘‘dvīhi vā tīhi vā’’**ti vuttaṃ. Tena catūsu ṭhānesu yathārahaṃ ekaccaṃ ekaccassa paññāpane sahakārīkāraṇanti dasseti. Kiṃ panetāni vatthūni abhinivesassa hetu, udāhu patiṭṭhāpanassa. Kiñcettha yadi tāva abhinivesassa, kasmā anussaraṇatakkanāniyeva gahitāni, na saññāvipallāsādayo. Tathāhi viparītasaññā ayonisomanasikāraasappurisūpanissayaasaddhammassavanādīni micchādiṭṭhiyā pavattanaṭṭhānāni. Atha patiṭṭhāpanassa adhigamayuttiyo viya āgamopi vatthubhāvena vattabbo, ubhayatthāpi ‘‘natthi ito bahiddhā’’ti vacanaṃ na yujjatīti? Na. Kasmā? Abhinivesapakkhe tāva ayaṃ diṭṭhigatiko asappurisūpanissayaasaddhammassavanehi ayoniso ummujjitvā vipallāsasañño rūpādidhammānaṃ khaṇe khaṇe bhijjanasabhāvassa anavabodhato dhammayuttiṃ atidhāvanto ekattanayaṃ micchā gahetvā yathāvuttānussaraṇatakkehi khandhesu ‘‘sassato attā ca loko cā’’ti (dī. ni. 1.31) abhinivesaṃ janesi. Iti āsannakāraṇattā, padhānakāraṇattā, taggahaṇeneva ca itaresampi gahitattā anussaraṇatakkanāniyeva idha gahitāni. Patiṭṭhāpanapakkhe pana āgamopi yuttipakkheyeva ṭhito visesato bāhirakānaṃ takkagāhibhāvatoti anussaraṇatakkanāniyeva diṭṭhiyā vatthubhāvena gahitāni. Kiñca bhiyyo duvidhaṃ lakkhaṇaṃ paramatthadhammānaṃ sabhāvalakkhaṇaṃ sāmaññalakkhaṇañcāti. Tattha sabhāvalakkhaṇāvabodho paccakkhañāṇaṃ, sāmaññalakkhaṇāvabodho anumānañāṇaṃ, āgamo ca sutamayāya paññāya sādhanato anumānañāṇameva āvahati, sutānaṃ pana dhammānaṃ ākāraparivitakkanena nijjhānakkhantiyaṃ ṭhito cintāmayaṃ paññaṃ nibbattetvā anukkamena bhāvanāya paccakkhañāṇaṃ adhigacchatīti evaṃ āgamopi takkavisayaṃ nātikkamatīti taggahaṇena gahitovāti veditabbo. So aṭṭhakathāyaṃ anussutitakkaggahaṇena vibhāvitoti yuttaṃ evidaṃ ‘‘natthi ito bahiddhā’’ti. ‘‘Anekavihitāni adhivuttipadāni abhivadanti, sassataṃ attānañca lokañca paññapentī’’ti (dī. ni. 1.30) ca vacanato patiṭṭhāpanavatthūni idhādhippetānīti daṭṭhabbaṃ.
「アニャタレーナ(いずれかによって)」とは、その意味を示すために「エーケーナ(一つによって)」と言われたのである。しかし、「ヴァー(あるいは)」という語の不確定性を示すために、「ドヴィーヒ・ヴァー・ティーヒ・ヴァー(二つあるいは三つによって)」と言われた。それによって、四つの立場において、それぞれ一部が一部を理解させるための助けとなる原因であると示される。では、これらの事柄は(見解への)執着の原因なのか、それとも(見解の)確立の原因なのか。もし執着の原因であるならば、なぜ記憶と思惟のみが挙げられ、知覚の顛倒などが挙げられないのか。というのは、顛倒した知覚、不適当な作意、悪友との交わり、悪法を聞くことなどは、邪見が発生する場所であるからだ。あるいは、確立のためであるならば、獲得の論拠のように、聖典も事柄として語られるべきではないか、両方の場合において「これより外にない」という言葉は適切ではないのではないか? いや、そうではない。なぜか? まず執着の立場では、この見解を持つ者は、悪友との交わりや悪法を聞くことによって、不適当に浮上し、顛倒した知覚を持ち、色などの諸法が刹那ごとに壊れるという性質を理解せず、法の道理を乗り越えて、一体という見方を誤って捉え、上述の記憶と思惟によって、諸蘊(五蘊)において「我と世間は常住である」(長部 1.31)という執着を生じさせた。このように、近い原因であること、主要な原因であること、そしてそれらを把握することによって他のものも把握されることから、ここで記憶と思惟のみが挙げられたのである。一方、確立の立場では、聖典も論理の側に位置づけられ、特に外道の者は思惟を重視するため、見解の根拠として記憶と思惟のみが挙げられたのである。さらに、究極の諸法には二つの特徴がある。すなわち、自性相と共通相である。その中で、自性相の理解は直接知覚(現量)であり、共通相の理解は推論知(比量)である。そして聖典(アガマ)は、聞くことによって生じる智慧によって証明されるので、推論知そのものをもたらす。しかし、聞かれた諸法を様々に考察し、熟考に堪える状態にある者は、思惟によって生じる智慧を生み出し、次第に修行によって直接知覚を得る。このように、聖典も思惟の領域を超えるものではないので、思惟を把握することによって聖典も把握されると理解されるべきである。それは注釈書において聞思(記憶と思惟)の把握によって説明されているので、「これより外にない」というのは適切である。また、「多くの種類の言説の道は、我と世間は常住であると説く」(長部 1.30)という言葉からも、確立の事柄がここで意図されていると見なされるべきである。
36. Diṭṭhiyeva diṭṭhiṭṭhānaṃ paramavajjatāya anekavihitānaṃ anatthānaṃ hetubhāvato. Yathāha ‘‘micchādiṭṭhiparamāhaṃ bhikkhave vajjaṃ vadāmī’’ti (a. ni. 1.310) **‘‘yathāhā’’**tiādinā paṭisambhidāpāḷiyā (paṭi. ma. 1.124) diṭṭhiyā ṭhānavibhāgaṃ dasseti. Tattha khandhāpi diṭṭhiṭṭhānaṃ ārammaṇaṭṭhena ‘‘rūpaṃ attato samanupassatī’’tiādi (saṃ. ni. 3.81, 345) vacanato. Avijjāpi diṭṭhiṭṭhānaṃ upanissayādibhāvena pavattanato. Yathāha ‘‘assutavā bhikkhave puthujjano ariyānaṃ adassāvī ariyadhammassa akovido’’tiādi (ma. ni. 1.2; paṭi. ma. 1.130). Phassopi diṭṭhiṭṭhānaṃ. Yathā cāha ‘‘tadapi phassapaccayā, (dī. ni. 1.118 ādayo) phussa phussa paṭisaṃvedentī’’ti (dī. ni. 1.144) ca. Saññāpi diṭṭhiṭṭhānaṃ. Vuttañcetaṃ ‘‘saññānidānā hi papañcasaṅkhā, (su. ni. 880; mahāni. 109) pathavito saññatvā’’ti (ma. ni. 1.2) ca ādi. Vitakkopi diṭṭhiṭṭhānaṃ. Vuttampi cetaṃ ‘‘takkañca diṭṭhīsu pakappayitvā, saccaṃ musāti dvayadhammamāhū’’ti (su. ni. 892) ‘‘takkī hoti vīmaṃsī’’ti (dī. ni. 1.34) ca ādi. Ayonisomanasikāropi diṭṭhiṭṭhānaṃ. Tenāha bhagavā ‘‘tassa evaṃ ayoniso manasi karoto channaṃ diṭṭhīnaṃ aññatarā diṭṭhi uppajjati. ‘Atthi me attā’ti vā assa saccato thetato diṭṭhi uppajjatī’’tiādi (ma. ni. 1.19). Samuṭṭhāti etenāti samuṭṭhānaṃ samuṭṭhānabhāvo samuṭṭhānaṭṭho. Pavattitāti parasantānesu uppāditā. Pariniṭṭhāpitāti abhinivesassa pariyosānaṃ matthakaṃ pāpitāti attho. **‘‘Ārammaṇavasenā’’**ti aṭṭhasu diṭṭhiṭṭhānesu khandhe sandhāyāha. Pavattanavasenāti avijjādayo. Āsevanavasenāti pāpamittaparatoghosādīnampi sevanaṃ labbhatiyeva. Atha vā evaṃgatikāti evaṃgamanā, evaṃniṭṭhāti attho. Idaṃ vuttaṃ hoti – ime diṭṭhisaṅkhātā diṭṭhiṭṭhānā evaṃ paramatthato asantaṃ attānaṃ sassatabhāvañcassa ajjhāropetvā gahitā, parāmaṭṭhā ca bālalapanā yāva paṇḍitā na samanuyuñjanti, tāva gacchanti pavattanti. Paṇḍitehi samanuyuñjiyamānā pana anavaṭṭhitavatthukā avimaddakkhamā sūriyuggamane ussāvabindū viya khajjopanakā viya ca bhijjanti vinassanti cāti.
見解そのものが、極めて悪いことであり、多種多様な不幸の原因であることから、見解の根拠となる。「比丘たちよ、我は邪見を最高の罪と言う」(増支部 1.310)と説かれたように、「説かれたように」などによって、パティサンビダー(無碍解)経典(無碍解道 1.124)は見解の根拠の区別を示す。その中で、諸蘊も対象という意味で見解の根拠となる。「色を我と見なす」など(相応部 3.81, 345)の言葉のように。無明も、強縁などとして生じるので、見解の根拠となる。「比丘たちよ、無聞の凡夫は聖者を見ず、聖者の法に熟練せず」など(中部 1.2;無碍解道 1.130)と説かれたように。触もまた見解の根拠となる。また「それもまた触を縁として生じる」(長部 1.118など)、「触れて触れて知覚する」(長部 1.144)と説かれたように。想もまた見解の根拠となる。「想を因として、妄想が広がる」(経集 880;大註 109)、「大地を想いとして」など(中部 1.2)と説かれたように。尋(思考)もまた見解の根拠となる。「そして見解に思惟を加え、真実か虚偽か二つの法を説く」(経集 892)、「彼は思索し、探究する者である」など(長部 1.34)と説かれたように。不適当な作意もまた見解の根拠となる。それゆえ世尊は「彼がこのように不適当に作意する時、六つの見解のいずれか一つが彼に生じる。『我は存在する』と、彼の見解は真実として、確固たるものとして生じる」など(中部 1.19)と説かれた。「これによって生起する」ゆえに「生起」(samuṭṭhāna)、生起すること、生起の理由となる。「展開された」とは、他者の心流に生じたということ。「完全に確立された」とは、執着の終焉、頂点に達したという意味である。「対象の側面から」とは、八つの見解の根拠の中で、諸蘊を指して言われた。「発生の側面から」とは、無明など。「習行の側面から」とは、悪友や他者の言葉などを実践することを含む。あるいは「このように進む者」とは、このように進み、このように終わりを告げるという意味である。これは次のように言われている。これらの見解と称される見解の根拠は、このように究極的には存在しない我と、その常住性を誤って当てはめて捉えられたものであり、執着された愚かなたわごとは、賢者が追及しない限り、進み続ける。しかし、賢者によって追及されると、それらは根拠のないものであり、揉み消すに耐えず、日の出の露の雫のように、あるいは蛍のように、壊れ、消滅するのである。
Tatthāyaṃ anuyuñjane saṅkhepakathā – yadi hi parena parikappito attā loko vā sassato siyā, tassa nibbikāratāya purimarūpāvijahanato kassaci visesādhānassa kātuṃ asakkuṇeyyatāya ahitato nivattanatthaṃ, hite ca paṭipattiatthaṃ upadeso eva nippayojano siyā sassatavādino, kathaṃ vā so upadeso pavattīyati vikārābhāvato, evañca attano ajaṭākāsassa viya dānādikiriyā hiṃsādikiriyā ca na sambhavati. Tathā sukhassa dukkhassa anubhavananibandho eva sassatavādino na yujjati kammabaddhābhāvato, jātiādīnañca asambhavato kuto vimokkho, atha pana dhammamattaṃ tassa uppajjati ceva vinassati ca, yassa vasenāyaṃ kiriyādivohāroti vadeyya, evampi purimarūpāvijahanena avaṭṭhitassa attano dhammamattanti na sakkā sambhāvetuṃ, te vā panassa dhammā avatthābhūtā aññe vā siyuṃ anaññe vā. Yadi aññe, na tāhi tassa uppannāhipi koci viseso atthi. Yāhi karoti paṭisaṃvedeti cavati upapajjati cāti icchitaṃ, tasmā tadavattho eva yathāvuttadoso. Kiñca dhammakappanāpi niratthikā siyā, athānaññe uppādavināsavantīhi avatthāhi anaññassa attano tāsaṃ viya uppādavināsasabbhāvato kuto niccatāvakāso, tāsampi vā attano viya niccatāti bandhavimokkhānaṃ asambhavo evāti na yujjatiyeva sassatavādo. Na cettha koci vādī dhammānaṃ sassatabhāve parisuddhaṃ yuttiṃ vattuṃ samattho, yuttirahitañca vacanaṃ na paṇḍitānaṃ cittaṃ ārādhetīti. Tena vuttaṃ ‘‘yāva paṇḍitā na samanuyuñjanti, tāva gacchanti pavattantī’’ti. Kammavasena abhimukho sampareti etthāti abhisamparāyo, paroloko.
ここでの追及に関する簡潔な話は次の通りである。もし他者が想定する我や世間が常住であるならば、その不変性ゆえに、以前の形を捨てずに何らかの特別な行為をなすことができないため、害悪から離れ、善行を行うための教えは、常住論者にとっては全く無用となるだろう。あるいは、その教えはどのようにして機能するのか、変化がないのだから。そうだとすれば、我自身の不活動な虚空のように、布施などの行為や殺生などの行為も不可能となる。同様に、楽や苦を経験するという束縛は、常住論者にとっては業に縛られるということがないため、成り立たない。生などが不可能であるならば、どうして解脱がありえようか。しかし、もし彼が「ただ法のみが生じ、また滅する。それによって行為などの言葉が成り立つ」と言うならば、そのように言っても、以前の形を捨てずに存在する我の「ただ法のみ」ということは想定できない。あるいは、その諸法が我の状態であるとするなら、それらは我とは異なるものなのか、異なるものではないのか。もし異なるものであるなら、それらが生じたとしても、彼にとって何ら特別なことはない。それによって彼が行為し、経験し、死んで、再び生まれるということが望まれるのに、それゆえ、上述の過ちは依然として同じである。さらに、法を想定することも無意味となるだろう。もし異なるものでないならば、生滅を伴う状態と異なるものでない我には、それらと同じように生滅が存在するのだから、どうして常住の余地がありえようか。あるいは、それらもまた我のように常住であるとするなら、束縛と解脱が不可能となるので、常住論は成り立たない。そして、ここでどの論者も、諸法が常住であるということに純粋な論理を述べることはできない。論理のない言葉は賢者の心を喜ばせるものではないからである。それゆえ、「賢者が追及しない限り、進み続ける」と言われたのである。業の働きによって(人が)そこへ向かい、到達するゆえに「来世」(abhisamparāyo)とは来世のことである。
**‘‘Sabbaññutaññāṇañcā’’**ti idaṃ idha sabbaññutaññāṇassa vibhajiyamānattā vuttaṃ, tasmiṃ vā vutte tadadhiṭṭhānato āsavakkhayañāṇaṃ, tadavinābhāvato sabbampi vā bhagavato dasabalādiñāṇaṃ gahitameva hotīti katvā. Pajānantopīti pi-saddo sambhāvane, tena **‘‘tañcā’’**ti ettha vuttaṃ ca-saddatthamāha. Idaṃ vuttaṃ hoti – taṃ diṭṭhigatato uttaritaraṃ sārabhūtaṃ sīlādiguṇavisesampi tathāgato nābhinivisati, ko pana vādo vaṭṭāmiseti. **‘‘Aha’’**nti diṭṭhivasena vā taṃ parāmasanākāramāha. Pajānāmīti ettha iti-saddo pakārattho, tena ‘‘mama’’nti taṇhāvasena parāmasanākāraṃ dasseti. Dhammasabhāvaṃ atikkamitvā parato āmasanaṃ parāmāso. Na hi taṃ atthi, khandhesu yaṃ ‘‘aha’’nti vā, ‘‘mama’’nti vā gahetabbaṃ siyā. Yo pana parāmāso taṇhādayova, te ca bhagavato bodhimūleyeva pahīnāti āha **‘‘parāmāsakilesāna’’**ntiādi. Aparāmāsatoti vā nibbutivedanassa hetuvacanaṃ, **‘‘viditā’’**ti idaṃ padaṃ apekkhitvā kattari sāmivacanaṃ, aparāmasanahetu parāmāsarahitāya paṭipattiyā tathāgatena sayameva asaṅkhatadhātu adhigatāti evaṃ vā ettha attho daṭṭhabbo.
「一切智」という言葉は、ここで一切智が区別されているために言われたものであり、また、一切智が説かれるとき、その根拠から漏尽智が、そしてそれと不可分であることから、世尊の十力などのすべての智慧もまた含まれると見なされるからである。「知りながらも」の「も」という語は、可能性(強調)を示す。それゆえ「タンチャー(そしてそれを)」とここで言われた「チャ」という語の意味を言う。これは次のように言われている。見解よりもさらに優れた本質的な戒などの特質ですら、如来は執着しない。ましてや輪廻の対象については言うまでもない。「我」とは、見解の側面から、それを執着する様相を言う。「知る」という箇所の「と」という語は、様態を示す。それによって「私のもの」と愛欲の側面から執着する様相を示す。法の本質を超えて、外から触れることが執着である。実は、諸蘊の中には「我」あるいは「私のもの」として捉えられるべきものは存在しない。しかし、執着とは愛欲などであり、それらは世尊によって菩提樹の根元においてすでに滅された、と「執着の煩悩」などと言われた。あるいは「執着しないことによって」とは、寂静の感覚の原因を言う。また「ヴィディター(知られた)」というこの語は、能動の意味で属格(主格)として用いられ、執着しないことを原因とし、執着のない実践によって、如来によって自ら無為の境地が体得された、とここでの意味は解釈されるべきである。
**‘‘Yāsu vedanāsū’’**tiādinā bhagavato desanāvilāsaṃ dasseti. Tathā hi khandhāyatanādivasena anekavidhāsu catusaccadesanāsu sambhavantīsupi ayaṃ tathāgatānaṃ desanāsu paṭipatti, yaṃ diṭṭhigatikā micchāpaṭipattiyā diṭṭhigahanaṃ pakkhandāti dassanatthaṃ vedanāyeva pariññāya bhūmidassanatthaṃ uddhaṭā. Kammaṭṭhānanti catusaccakammaṭṭhānaṃ. Yathābhūtaṃ viditvāti vipassanāpaññāya vedanāya samudayādīni ārammaṇapaṭivedhavasena maggapaññāya asammohapaṭivedhavasena jānitvā, paṭivijjhitvāti attho. Paccayasamudayaṭṭhenāti ‘‘imasmiṃ sati idaṃ hoti, imassuppādā idaṃ uppajjatī’’ti (ma. ni. 1.404; saṃ. ni. 2.21; udā. 1) vuttalakkhaṇena avijjādīnaṃ paccayānaṃ uppādena ceva maggena asamugghātena ca. Nibbattilakkhaṇanti uppādalakkhaṇaṃ, jātinti attho. Pañcannaṃ lakkhaṇānanti ettha catunnaṃ paccayānampi uppādalakkhaṇameva gahetvā vuttanti gahetabbaṃ, yasmā paccayalakkhaṇampi labbhatiyeva, tathā ceva saṃvaṇṇitaṃ. Paccayanirodhaṭṭhenāti etthāpi vuttanayānusārena attho veditabbo. Yanti yasmā, yaṃ vā sukhaṃ somanassaṃ. Paṭiccāti ārammaṇapaccayādibhūtaṃ vedanaṃ labhitvā. Ayanti sukhasomanassānaṃ paccayabhāvo, sukhasomanassameva vā, ‘‘assādo’’ti padaṃ pana apekkhitvā pulliṅganiddeso. Ayañhettha saṅkhepattho – purimuppannaṃ vedanaṃ ārabbha somanassuppattiyaṃ yo purimavedanāya assādetabbākāro somanassassādanākāro, ayaṃ assādoti. Kathaṃ pana vedanaṃ ārabbha sukhaṃ uppajjatīti? Cetasikasukhassa adhippetattā nāyaṃ doso. Visesanaṃ hettha somanassaggahaṇaṃ sukhaṃ somanassanti ‘‘rukkho siṃsapā’’ti yathā.
「いかなる受(感覚)において」などによって、世尊の説法の様式を示す。実際、諸蘊や六処などによって多種多様な四聖諦の説法があるにもかかわらず、如来たちの説法においては、見解を持つ者が邪な実践によって見解の密林に突入することを示すために、受(感覚)そのものが遍知の基礎として取り上げられた。「業処」とは、四聖諦の業処のこと。「あるがままに知って」とは、観智によって受の生起などを対象を洞察する側面から知り、道の智慧によって迷妄なく洞察する側面から知ること、すなわち見抜くことである。「縁の生起の側面から」とは、「これがあるとき、それが生じる。これの生起によって、それが生じる」(中部 1.404;相応部 2.21;自説 1)と説かれた特徴によって、無明などの諸縁の生起と道による根絶ではないことである。「生起の特徴」とは、発生の特徴、すなわち生起という意味である。「五つの特徴」とは、ここでは四つの縁についても生起の特徴のみを捉えて言われたと理解されるべきである。なぜなら、縁の特徴もまた得られるからであり、そのように説明されている。「縁の滅尽の側面から」とは、ここでも述べられた方法に従って意味が理解されるべきである。「何が」とは、なぜなら、あるいは楽や喜悦のことである。「縁って」とは、対象という縁などである受を得て。「これ」とは、楽と喜悦の原因、あるいは楽と喜悦そのもののこと。「アッサード(楽しみ)」という語は、男性名詞であることに基づいて指示されている。ここでの簡潔な意味はこうである。以前に生じた受を縁として喜悦が生じる場合に、以前の受を享受すべき様相、喜悦を享受する様相、これが楽しみである。では、受を縁として楽が生じるのはどうしてか? 心の楽が意図されているため、この誤りはない。ここでの「楽と喜悦」という場合の喜悦の把握は、「シムサパーの木」というように、楽の修飾語である。
**‘‘Aniccā’’**ti iminā saṅkhāradukkhatāvasena upekkhāvedanāya, sabbavedanāsuyeva vā ādīnavamāha, itarehi itaradukkhatāvasena yathākkamaṃ dukkhasukhavedanānaṃ, avisesena vā tīṇipi padāni sabbāsampi vedanānaṃ vasena yojetabbāni. Ayanti yo vedanāya hutvā abhāvaṭṭhena aniccabhāvo, udayabbayapaṭipīḷanaṭṭhena dukkhabhāvo, jarāya maraṇena cāti dvedhā vipariṇāmetabbabhāvo ca, ayaṃ vedanāya ādīnavo, yato vā ādīnaṃ paramakāruññaṃ vāti pavattatīti. Vedanāya nissaraṇanti ettha vedanāyāti nissakkavacanaṃ, yāva vedanāpaṭibaddhaṃ chandarāgaṃ na pajahati, tāvāyaṃ puriso vedanaṃ allīnoyeva hoti. Yadā pana taṃ chandarāgaṃ pajahati, tadāyaṃ puriso vedanāya nissaṭo visaṃyutto hotīti chandarāgappahānaṃ vedanāya nissaraṇaṃ vuttaṃ. Ettha ca vedanāggahaṇena vedanāya sahajātanissayārammaṇabhūtā ca rūpārūpadhammā gahitā eva hontīti pañcannampi upādānakkhandhānaṃ gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Vedanāsīsena pana desanā āgatā, tattha kāraṇaṃ vuttameva, lakkhaṇahāranayena vā ayamattho vibhāvetabbo. Tattha vedanāggahaṇena gahitā pañcupādānakkhandhā dukkhasaccaṃ, vedanānaṃ samudayaggahaṇena gahitā avijjādayo samudayasaccaṃ, atthaṅgamanissaraṇapariyāyehi nirodhasaccaṃ, ‘‘yathābhūtaṃ viditvā’’ti etena maggasaccanti evamettha cattāri saccāni veditabbāni. Kāmupādānamūlakattā sesupādānānaṃ, pahīne ca kāmupādāne upādānasesābhāvato **‘‘vigatachandarāgatāya anupādāno’’**ti vuttaṃ. Anupādāvimuttoti attano maggaphalappattiṃ bhagavā dasseti. ‘‘Vedanāna’’ntiādinā hi yassā dhammadhātuyā suppaṭividdhattā imaṃ diṭṭhigataṃ sakāraṇaṃ sagatikaṃ pabhedato vibhajituṃ samattho ahosi, tassa sabbaññutaññāṇassa saddhiṃ pubbabhāgapaṭipadāya uppattibhūmiṃ dasseti dhammarājā.
「無常である」とは、行苦の意味で、捨受に、あるいはすべての受に過患を述べる。他の苦受と楽受には、それぞれの壊苦・行苦の意味で(過患を述べる)。あるいは、区別なく、三つの語句すべてをすべての受の意味で解釈すべきである。この受にとって、存在しては消滅するという意味で無常であること、生滅によって苦しめられるという意味で苦であること、老と死によって二つの変容を受けるべきであること、これが受の過患である。あるいは「アディーン(Adeen)」とは究極の慈悲を意味するという。「受の出離」とは、ここで「受の」というのは「出離」の語句であり、受に結びついた欲貪を捨てるまでは、この人は受に固執しているのである。しかし、その欲貪を捨てたとき、この人は受から離れ、解脱した者となる。このように、欲貪の捨断が受の出離であると言われている。そして、ここでは「受」という把握によって、受と同時に生じ、受の依りどころとなり、受の対象となる色・無色の諸法もまた含まれると理解されるべきである。すなわち、五つの取蘊の把握である。しかし、説法は受を主要なものとしてなされている。その理由はすでに述べたとおりである。あるいは、標相と摂取の方法によってこの意味を明らかにすべきである。そこにおいて、受の把握によって含まれる五つの取蘊は苦諦であり、受の集の把握によって含まれる無明などは集諦であり、滅と出離の順序によって滅諦であり、「ありのままに知って」という言葉によって道諦である。このようにして、ここには四つの聖諦があると理解されるべきである。残りの諸取は欲の取を根源としているので、欲の取が滅すれば、残りの取は存在しない。ゆえに、「欲貪を離れることによって、取のない者となる」と言われている。「取を離れて解脱した者」とは、世尊が自らの道と果の達成を示すのである。「受の」などの言葉によって、世尊がこの見解を、その原因と結果、そして細部にわたって分析することができたのは、彼がいかに法界を完全に理解していたかを示し、その全智の智と前行道(準備の修行)の起源を示すのである、と法王(世尊)は述べられている。
Paṭhamabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第一誦の解説が終わった。
38. Sattesu saṅkhāresu ca ekaccaṃ sassataṃ etassāti ekaccasassato, ekaccasassatavādo. So etesaṃ atthīti ekaccasassatikā. Te pana yasmā ekaccasassato vādo diṭṭhi etesanti ekaccasassatavādā nāma honti, tasmā tamatthaṃ dassento āha **‘‘ekaccasassatavādā’’**ti. Iminā nayena ekaccaasassatikā dipadassapi attho veditabbo. Nanu ca ‘‘ekaccasassatikā’’ti vutte tadaññassa ekaccassa asassatatāsanniṭṭhānaṃ siddhameva hotīti? Saccaṃ siddhameva hoti atthato, na pana saddato. Tasmā supākaṭaṃ katvā dassetuṃ ‘‘ekaccaasassatikā’’ti vuttaṃ. Na hi idha sāvasesaṃ katvā dhammaṃ deseti dhammassāmī. Idhāti ‘‘ekaccasassatikā’’ti imasmiṃ pade. Gahitāti vuttā, tathā ceva attho dassito. Idhāti vā imissā desanāya. Tathā hi purimakā tayo vādā sattavasena, catuttho saṅkhāravasena vibhatto. **‘‘Saṅkhārekaccasassatikā’’**ti idaṃ tehi sassatabhāvena gayhamānānaṃ dhammānaṃ yāthāvasabhāvadassanavasena vuttaṃ, na panekaccasassatikamatadassanavasena. Tassa hi sassatābhimataṃ asaṅkhatamevāti laddhi. Tenevāha ‘‘cittanti vā…pe… ṭhassatī’’ti. Na hi yassa bhāvassa paccayehi abhisaṅkhatabhāvaṃ paṭijānāti, tasseva niccadhuvādibhāvo anummattakena sakkā paṭiññātuṃ. Etena ‘‘uppādavayadhuvatāyuttabhāvā siyā niccā, siyā aniccā siyā na vattabbā’’tiādinā pavattassa sattabhaṅgavādassa ayuttatā vibhāvitā hoti.
38. 衆生や諸行の一部が常住であるというので、それは部分常住論者、部分常住説である。それらのものにそれが存在するので、部分常住論者である。彼らは、部分常住という説、見解を有するので、部分常住論者と呼ばれる。ゆえに、その意味を示すために「部分常住論者」と述べた。この方法によって、「部分非常住論者」という二つの語句の意味も理解されるべきである。「部分常住論者」と言われたとき、そのほかの部分の非常住という確定もすでに成立するのではないか?確かに、意味としては成立するが、言葉としてはそうではない。ゆえに、それをより明確に示すために「部分非常住論者」と述べた。ここで法主は余りを残して法を説くのではない。「ここで」とは、「部分常住論者」というこの語句において。含まれていると述べられ、そのように意味が示されている。「ここで」とは、あるいはこの説法において。そのように、前の三つの論は衆生の観点から、第四の論は諸行の観点から分類されている。「諸行における部分常住論者」とは、彼らが常住であると捉えている諸法の真実の様相を示すために述べられたのであり、部分常住論者の見解を示すためではない。なぜなら、彼らの常住と見なすものは、まさしく無為であるという教義があるからである。ゆえに、「心、あるいは…そして…とどまる」と述べたのである。狂人でない者であれば、縁によって形成された存在(有為)であると自らが認めるものに対して、常住不動であると主張することはできない。これによって、「生滅と不動の状態が、ある時は常住であり、ある時は無常であり、ある時は語りえない」などと主張する七分論(syadvada)の不適切さが明らかにされる。
Tatthāyaṃ ayuttatāvibhāvanā – yadi ‘‘yena sabhāvena yo dhammo atthīti vuccati, teneva sabhāvena so dhammo natthī’’tiādinā vucceyya, siyā anekantavādo. Atha aññena, siyā na anekantavādo. Na cettha desantarādisambandhabhāvo yutto vattuṃ tassa sabbalokasiddhattā, vivādābhāvato. Ye pana vadanti ‘‘yathā suvaṇṇaghaṭena makuṭe kate ghaṭabhāvo nassati, makuṭabhāvo uppajjati, suvaṇṇabhāvo tiṭṭhatiyeva, evaṃ sabbabhāvānaṃ koci dhammo nassati, koci dhammo uppajjati, sabhāvo pana tiṭṭhatī’’ti. Te vattabbā ‘‘kiṃ taṃ suvaṇṇaṃ, yaṃ ghaṭe makuṭe ca avaṭṭhitaṃ, yadi rūpādi, so saddo viya anicco. Atha rūpādi samūho, samūho nāma sammutimattaṃ. Na tassa atthitā natthitā niccatā vā labbhatī’’ti anekantavādo na siyā. Dhammānañca dhammino aññathānaññathāsu doso vuttoyeva sassatavādavicāraṇāyaṃ. Tasmā so tattha vuttanayeneva veditabbo. Apica niccāniccanavattabbarūpo attā loko ca paramatthato vijjamānatāpaṭijānanato yathā niccādīnaṃ aññataraṃ rūpaṃ, yathā vā dīpādayo. Na hi dīpādīnaṃ udayabbayasabhāvānaṃ niccāniccanavattabbasabhāvatā sakkā viññātuṃ, jīvassa niccādīsu aññataraṃ rūpaṃ viyāti evaṃ sattabhaṅgassa viya sesabhaṅgānampi asambhavoyevāti sattabhaṅgavādassa ayuttatā veditabbā.
そこにおける不適切さの開示はこうである。「もし、ある性質によってある法が存在すると言われ、まさにその性質によってその法が存在しない」などと言われるならば、それは不定論(anekantavada)となる。もし他の性質によってそうであるならば、それは不定論とはならない。ここで異なる場所や時間の関係性を語ることは適切ではない。なぜなら、それは世間一般に認められており、論争の対象ではないからである。しかし、ある人々は言う。「ちょうど金でできた壺を王冠に作り変えると、壺という状態は消滅し、王冠という状態が生じるが、金の状態はそのまま残る。同じように、すべての存在において、ある性質は消滅し、ある性質は生じるが、本質は残る」と。彼らにはこう問いかけるべきである。「壺と王冠に共通して存在するというその金とは何か?もしそれが色などの要素であるなら、それは音のように無常である。もしそれが色などの集まりであるなら、集まりとはただの概念に過ぎない。その存在、非存在、あるいは常住性を認識することはできない」と。これでは不定論とはならないであろう。法と法を有するものの異なりと不異なりにおける過失は、常住論の考察ですでに述べられている。ゆえに、それはそこで述べられた方法によって理解されるべきである。さらに、常住でも無常でもなく、また語りえないという様相をもつ我や世間が、勝義として存在すると主張するならば、それは常住などの中のいずれかの形、あるいは灯火などと同様である。灯火などの生滅する性質を持つものに対して、常住でも無常でもなく、語りえないという性質を認識することはできない。生命が常住などの中のいずれかの形であると主張するように、七分論のように、残りの論も成立しえない。このように、七分論の不適切さが理解されるべきである。
Ettha ca ‘‘issaro nicco, aññe sattā aniccā’’ti evaṃ pavattavādā sattekaccasassatikā seyyathāpi issaravādā. ‘‘Paramāṇavo niccā dhuvā, aṇukādayo aniccā’’ti evaṃ pavattavādā saṅkhārekaccasassatikā seyyathāpi kāṇādā. Nanu ‘‘ekacce dhammā sassatā, ekacce asassatā’’ti etasmiṃ vāde cakkhādīnaṃ asassatatāsanniṭṭhānaṃ yathāsabhāvāvabodho eva, tayidaṃ kathaṃ micchādassananti, ko vā evamāha ‘‘cakkhādīnaṃ asassatabhāvasanniṭṭhānaṃ micchādassana’’nti? Asassatesuyeva pana kesañci dhammānaṃ sassatabhāvābhiniveso idha micchādassanaṃ. Tena pana ekavāre pavattamānena cakkhādīnaṃ asassatabhāvāvabodho vidūsito saṃsaṭṭhabhāvato visasaṃsaṭṭho viya sappimaṇḍo sakiccakaraṇāsamatthatāya sammādassanapakkhe ṭhapetabbataṃ nārahatīti. Asassatabhāvena nicchitāpi vā cakkhuādayo samāropitajīvasabhāvā eva diṭṭhigatikehi gayhantīti tadavabodhassa micchādassanabhāvo na sakkā nivāretuṃ. Tenevāha **‘‘cakkhuṃ itipi…pe… kāyo itipi ayaṃ me attā’’**tiādi. Evañca katvā asaṅkhatāya saṅkhatāya ca dhātuyā vasena yathākkamaṃ ‘‘ekacce dhammā sassatā, ekacce asassatā’’ti evaṃ pavatto vibhajjavādopi ekaccasassatavādo āpajjatīti evaṃpakārā codanā anavakāsā hoti aviparītadhammasabhāvasampaṭipattibhāvato.
ここにおいて、「自在神は常住であり、他の衆生は無常である」というように展開する論者は、衆生に関する部分常住論者である。例えば、自在神論者である。「極微は常住不動であり、微粒子などは無常である」というように展開する論者は、諸行に関する部分常住論者である。例えば、カナダ派(ヴァイシェーシカ派)である。「ある種の法は常住であり、ある種の法は無常である」というこの論において、眼などの無常性の確定は、まさにその真実の様相の把握である。それがどうして邪見であると言えようか?あるいは、誰が「眼などの無常性の確定は邪見である」と言うのか?しかし、無常なものに対して、ある種の法が常住であるという執着がここでの邪見なのである。しかし、そのような見解が一たび生じると、眼などの無常性の把握は、毒が混じったバターミルクのように、混じり合った状態になるため、その本来の機能を発揮できず、正見の側に置かれるべきではない。あるいは、無常であると確定された眼なども、見解を持つ者たちによって、重ねられた生命の性質として捉えられているため、その把握が邪見であるということを否定することはできない。ゆえに、「眼はこれである…(省略)…身体はこれである、これが私の我である」などと述べたのである。このようにして、無為界と有為界の区別に従って、「ある種の法は常住であり、ある種の法は無常である」というように展開する分析論(vibhajjavada)もまた部分常住論となるので、このような種類の問いは、真実の法性への同意という点から、成り立たない。
Kāmañcettha purimavādepi asassatānaṃ dhammānaṃ ‘‘sassatā’’ti gahaṇaṃ visesato micchādassanaṃ, sassatānaṃ pana ‘‘sassatā’’ti gāho na micchādassanaṃ yathāsabhāvaggahaṇabhāvato. Asassatesuyeva pana ‘‘kecideva dhammā sassatā, keci asassatā’’ti gahetabbadhammesu vibhāgappavattiyā imassa vādassa vādantaratā vuttā, na cettha ‘‘samudāyantogadhattā ekadesassa sappadesasassataggāho nippadesasassataggāhe samodhānaṃ gacchatī’’ti sakkā vattuṃ vādī tabbisayavisesavasena vādadvayassa pavattattā. Aññe eva hi diṭṭhigatikā ‘‘sabbe dhammā sassatā’’ti abhiniviṭṭhā, aññe ‘‘ekaccasassatā’’ti. Saṅkhārānaṃ anavasesapariyādānaṃ, ekadesapariggaho ca vādadvayassa paribyattoyeva. Kiñca bhiyyo anekavidhasamussaye ekavidhasamussaye ca khandhapabandhe abhinivesabhāvato. Catubbidhopi hi sassatavādī jātivisesavasena nānāvidharūpakāyasannissaye eva arūpadhammapuñje sassatābhinivesī jāto abhiññāṇena anussavādīhi ca rūpakāyabhedaggahaṇato. Tathā ca vuttaṃ ‘‘tato cuto amutra udapādi’’nti (dī. ni. 1.32) ‘‘cavanti upapajjantī’’ti ca ādi. Visesalābhī ekaccasassatiko anupadhāritabhedasamussayeva dhammapabandhe sassatākāraggahaṇena abhinivisanaṃ janesi ekabhavapariyāpannakhandhasantānavisayattā tadabhinivesassa. Tathā ca tīsupi vādesu ‘‘taṃ pubbenivāsaṃ anussarati, tato paraṃ nānussaratī’’ti ettakameva vuttaṃ, takkīnaṃ pana sassatekaccasassatavādīnaṃ sassatābhinivesaviseso rūpārūpadhammavisayatāya supākaṭoyevāti.
もちろん、ここでの前の論においても、無常な法を「常住である」と捉えることは特に邪見であるが、常住なものを「常住である」と捉えることは、その真実の様相を把握しているため、邪見ではない。しかし、無常なものの中に「ある種の法は常住であり、ある種の法は無常である」と捉えられるべき法があるという区別の発生によって、この論は別の論とされている。ここで「全体に含まれているため、一部の有領域常住把握は無領域常住把握に合流する」とは言えない。なぜなら、論者はそれぞれの対象の区別に応じて、二つの論を展開しているからである。実際、ある見解を持つ者たちは「すべての法は常住である」と執着し、また別の者たちは「ある種の法は常住である」と執着している。諸行のすべてを包括することと、一部を包括することとは、この二つの論において明確に区別されている。さらに、多様な集合体と単一の集合体における蘊の連続に対する執着の存在も理由である。実際、四種類の常住論者は、特定の生において、さまざまな色身の依りどころにある無色の法群に対して常住であるという執着を生じた。これは、神通力によって、あるいは伝聞の言葉によって色身の区別を把握したことによるものである。そのように「そこから死んで、あそこに生まれた」(長部 1.32)、「死んで、生まれる」などと述べられている。特別の恩恵を得た部分常住論者は、区別されていない複合体における法の連続において、常住であるという捉え方によって執着を生じさせた。なぜなら、その執着は一つの存在に包含される蘊の連続を対象とするからである。そして、三つの論においても「その過去の住処を思い出すが、それより以前のことは思い出さない」とこれだけが述べられている。しかし、思弁的な常住論者や部分常住論者の常住への執着の特異性は、色と無色の法を対象とすることによって非常に明白である。
39. Dīghassa kālassa atikkamenāti vivaṭṭavivaṭṭaṭṭhāyīnaṃ apagamena. Anekatthattā dhātūnaṃ saṃ-saddena yutto vaṭṭa-saddo vināsavācīti āha **‘‘vinassatī’’**ti, saṅkhayavasena vattatīti attho. Vipattikaramahāmeghasamuppattito paṭṭhāya hi yāva aṇusahagatopi saṅkhāro na hoti, tāva loko saṃvaṭṭatīti vuccati. Lokoti cettha pathavīādibhājanaloko adhippeto. Uparibrahmalokesūti parittasubhādīsu rūpībrahmalokesu. Agginā hi kappavuṭṭhānaṃ idhādhippetaṃ bahulaṃ pavattanato. Tenevāha bhagavā ‘‘ābhassarasaṃvattanikā hontī’’ti. Arūpesu vāti vā-saddena saṃvaṭṭamānalokadhātūhi aññalokadhātūsu vāti vikappanaṃ veditabbaṃ. Na hi ‘‘sabbe apāyasattā tadā rūpārūpabhavesu uppajjantī’’ti sakkā viññātuṃ apāyesu dīghatamāyukānaṃ manussalokūpattiyā asambhavato. Satipi sabbasattānaṃ abhisaṅkhāramanasā nibbattabhāve bāhirapaccayehi vinā manasāva nibbattattā ‘‘manomayā’’ti vuccanti rūpāvacarasattā. Yadi evaṃ kāmabhave opapātikasattānampi manomayabhāvo āpajjatīti? Nāpajjati adhicittabhūtena atisayamanasā nibbattasattesu manomayavohāratoti dassanto āha **‘‘jhānamanena nibbattattā manomayā’’**ti. Evaṃ arūpāvacarasattānampi manomayabhāvo āpajjatīti ce? Na, tattha bāhirapaccayehi nibbattetabbatāsaṅkāya eva abhāvato, ‘‘manasāva nibbattā’’ti avadhāraṇāsambhavato. Niruḷho vāyaṃ loke manomayavohāro rūpāvacarasattesu. Tathā hi ‘‘annamayo pānamayo manomayo ānandamayo viññāṇamayo’’ti pañcadhā attānaṃ vedavādino vadanti. Ucchedavādepi vakkhati ‘‘dibbo rūpī manomayo’’ti (dī. ni. 1.86). Sobhanā pabhā etesu santīti **subhā. ‘‘Ukkaṃsenā’’**ti ābhassaradeve sandhāyāha, parittābhā appamāṇābhā pana dve cattāro ca kappe tiṭṭhanti. Aṭṭhakappeti aṭṭha mahākappe.
39. 長い時間の経過によってとは、壊劫と成劫に存在するものが消滅することによってである。語根には多くの意味があるので、「saṃ-」という接頭辞を伴う「vaṭṭa」という言葉は破壊を意味すると言われ、「滅びる」とは、消滅によって続くという意味である。災いを引き起こす大雲の発生から、微塵すらも存在しないようになるまで、世間は壊滅すると言われる。ここで「世間」とは、地などの容器としての世間が意図されている。「上の梵天世界において」とは、少光天などの色界梵天世界においてである。なぜなら、ここでは主に火による劫の滅が意図されているからである。ゆえに世尊は「光音天に生まれる者となる」と述べた。「無色界にも」という「または」の語によって、壊滅する世界から他の世界へという選択が理解されるべきである。なぜなら、「すべての悪趣の衆生がそのとき色界や無色界に生まれる」と理解することはできない。悪趣において非常に長い寿命を持つ者が人間界に生まれることが不可能であるからである。すべての衆生が意図的な心によって生み出される存在であるとしても、色界の衆生は外的条件なしに心のみによって生み出されるので、「意生身(マノマヤ)」と呼ばれる。もしそうであるなら、欲界の化生衆生も意生身となるのではないか?いや、そうはならない、なぜなら、その超越した心(アディチッタ)によって、優れた心によって生み出された衆生に意生身という言葉が用いられることを示すために、「禅定の心によって生み出されるので意生身である」と述べたのである。そのように、無色界の衆生も意生身となるのではないか?いや、そうではない。そこには外的条件によって生み出されるという疑い自体が存在しないため、「心のみによって生み出される」という限定が不可能であるからである。この世では、意生身という言葉は色界の衆生に対して確立されているのである。そのようにヴェーダの論者たちは「食物よりなる我、息よりなる我、心よりなる我、歓喜よりなる我、識よりなる我」と、五種類に我を語る。断滅論においても「 दिव्य rūpī manomayo」と述べる(長部 1.86)。これらには美しい光があるので、「善光天(スブハー)」。優秀なとは光音天を指して言う。少光天と無量光天は二劫あるいは四劫存続する。「八劫に」とは八大劫である。
40. Saṇṭhātīti sampattikaramahāmeghasamuppattito paṭṭhāya pathavīsandhārakudakataṃsandhārakavāyumahāpathavīādīnaṃ samuppattivasena ṭhāti, ‘‘sambhavati’’ icceva vā attho anekatthattā dhātūnaṃ. Pakatiyāti sabhāvena, tassa ‘‘suñña’’nti iminā sambandho. Tattha kāraṇamāha **‘‘nibbattasattānaṃ natthitāyā’’**ti, anuppannattāti attho, tena yathā ekaccāni vimānāni tattha nibbattasattānaṃ cutattā suññāni honti, na evamidanti dasseti. Brahmapārisajjabrahmapurohitamahābrahmāno brahmakāyikā, tesaṃ nivāso bhūmipi **‘‘brahmakāyikā’’**ti vuttā. Kammaṃ upanissayavasena paccayo etissāti kammapaccayā. Atha vā tattha nibbattasattānaṃ vipaccanakakammassa sahakārīpaccayabhāvato, kammassa paccayāti kammapaccayā. Utu samuṭṭhānaṃ etissāti **utusamuṭṭhānā. ‘‘Kammapaccayautusamuṭṭhānā’’**ti vā pāṭho, kammasahāyo paccayo, kammassa vā sahāyabhūto paccayo kammapaccayo, sova utu kammapaccayautu, so samuṭṭhānaṃ etissāti yojetabbaṃ. Etthāti ‘‘brahmavimāna’’nti vuttāya brahmakāyikabhūmiyā. Kathaṃ paṇītāya dutiyajjhānabhūmiyaṃ ṭhitānaṃ hīnāya paṭhamajjhānabhūmiyā upapatti hotīti āha **‘‘atha sattāna’’**ntiādi. Otarantīti upapajjanavasena heṭṭhābhūmiṃ gacchanti.
40. 「サントハーティ(Saṇṭhāti)」とは、「達成を生じさせる大いなる雲の発生以来、大地を支える風、そして大いなる大地などの発生によって存在する」、あるいは語根が多くの意味を持つため「生じる」という意味である。「本来(Pakatiyā)」とは、「自性によって」という意味であり、それは「空虚」と関係する。そこに理由を述べたのが、「そこに生まれた衆生がいないため」という文であり、それは「生じていないため」という意味である。これによって、あたかも一部の宮殿がそこに生まれた衆生が死んでいなくなったために空虚であるのと同様に、これはそうではないということを示している。「梵衆天、梵輔天、大梵天」は梵天衆に属する。彼らの住む領域も「梵天衆に属する」と言われる。「業を強い近因とする縁」とは、業がそれに対する縁であるという意味である。あるいは、そこに生まれた衆生の報いを起こす業の協力的な縁であることから、「業の縁」である。気候がそれの起源であるから、「気候を起源とする」。「業を縁とする気候を起源とする」というのも読み方であり、「業の助けとなる縁」、あるいは「業の助けとなる縁」とは業の縁である。それ自体が気候であり、業を縁とする気候であり、それがそれの起源であると解釈されるべきである。ここでの「ブラフマヴィマーナ(梵天の宮殿)」とは、梵天衆の領域のことである。「どのようにして、優れた第二禅定地に住する者たちが、劣った第一禅定地に生まれ落ちることがあるのか」と問いかけ、「衆生たちは」等と答えている。「降りてくる」とは、「再生という様式によって下の領域に行く」という意味である。
Appāyuketi yaṃ uḷāraṃ puññakammaṃ kataṃ, tassa uppajjanārahavipākapabandhato appaparimāṇāyuke. Āyuppamāṇenevāti paramāyuppamāṇeneva. Kiṃ panetaṃ paramāyu nāma, kathaṃ vā taṃ paricchinnapamāṇanti? Vuccate – yo tesaṃ tesaṃ sattānaṃ tasmiṃ tasmiṃ bhavavisese purimasiddhabhavapatthanūpanissayavasena sarīrāvayavavaṇṇasaṇṭhānapamāṇādivisesā viya taṃtaṃgatinikāyādīsu yebhuyyena niyataparicchedo gabbhaseyyakakāmāvacaradevarūpāvacarasattānaṃ sukkasoṇitautubhojanādi utuādipaccayuppannapaccayūpatthambhito vipākapabandhassa ṭhitikālaniyamo, so yathāsakaṃ khaṇamattāvaṭṭhāyīnampi attano sahajātānaṃ rūpārūpadhammānaṃ ṭhapanākāravuttitāya pavattakāni rūpārūpajīvitindriyāni yasmā na kevalaṃ nesaṃ khaṇaṭhitiyā eva kāraṇabhāvena anupālakāni, atha kho yāva bhavaṅgupacchedā anupabandhassa avicchedahetubhāvenāpi, tasmā āyuhetukattā kāraṇūpacārena āyu, ukkaṃsaparicchedavasena paramāyūti ca vuccati. Taṃ pana devānaṃ nerayikānaṃ uttarakurukānañca niyataparicchedaṃ, uttarakurukānaṃ pana ekantaniyataparicchedameva, avasiṭṭhamanussapetatiracchānānaṃ pana ciraṭṭhitisaṃvattanikakammabahule kāle taṃkammasahitasantānajanitasukkasoṇitappaccayānaṃ taṃmūlakānañca candasūriyasamavisamaparivattanādijanitautuāhārādisamavisama paccayānaṃ vasena cirācirakālato aniyataparicchedaṃ, tassa ca yathā purimasiddhabhavapatthanāvasena taṃtaṃgatinikāyādīsu vaṇṇasaṇṭhānādivisesaniyamo siddho dassanānussavādīhi, tathā ādito gahaṇasiddhiyā. Evaṃ tāsu tāsu upapattīsu nibbattasattānaṃ yebhuyyena samappamāṇaṭṭhitikālaṃ dassanānussavehi labhitvā taṃ paramataṃ ajjhosāya pavattitabhavapatthanāvasena ādito paricchedaniyamo veditabbo. Yasmā pana kammaṃ tāsu tāsu upapattīsu yathā taṃtaṃupapattiniyatavaṇṇādinibbattane samatthaṃ, evaṃ niyatāyuparicchedāsu upapattīsu paricchedātikkamena vipākanibbattane samatthaṃ na hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘āyuppamāṇeneva cavantī’’**ti. Yasmā pana upatthambhakasahāyehi anupālakappaccayehi upādinnakakkhandhānaṃ pavattetabbākāro atthato paramāyu, tassa yathāvuttaparicchedānatikkamanato satipi kammāvasese ṭhānaṃ na sambhavati, tena vuttaṃ **‘‘attano puññabaleneva ṭhātuṃ na sakkotī’’**ti. Kappaṃ vāti asaṅkhyeyyakappaṃ vā tassa upaḍḍhaṃ vā upaḍḍhakappato ūnamadhikaṃ vāti vikappanattho vā-saddo.
短命であるとは、なされた優れた功徳の業の、生じさせるべき報いの連続性から、量が少ない寿命であるということである。「寿命の限りで」とは、最大寿命の限りで、ということである。では、この最大寿命とは何か、あるいはそれはどのようにして定められた量なのか。以下に述べる。それは、衆生たちがそれぞれの生において、以前に成就された存在への願いを強い近因として、身体の部位、色、形、大きさなどの特徴のように、それぞれの趣、集まりなどにおいて、概して定められた限界、すなわち、胎生、欲界の神々、色界の衆生における、精子、血液、季節、食事など、季節等から生じた縁によって支えられた報いの連続性の持続期間の定めである。それは、それぞれの瞬間だけ存在する者たちも、自己の共に生じた色法と無色法を保持する様式で作用する色法および無色法の命根であり、それは単に彼らの瞬間的な持続の唯一の原因として保護するだけでなく、生存の継続が途切れない原因である限り、それは寿命の原因であることから、原因を転じて「寿命」と呼び、最上の限界として「最大寿命」と呼ぶのである。それは天衆、地獄の衆生、そして北鬱単越の衆生にとっては定められた限界であり、北鬱単越の衆生にとっては絶対的に定められた限界である。残りの人間、餓鬼、畜生にとっては、長く持続する業が優勢な時に、その業を伴うサンタナから生じた精子や血液の縁、そしてそれを根源とする月や太陽の不規則な運行などから生じる気候や食事などの不規則な縁によって、長短の時間による不定の限界である。そして、見聞などによって、以前に成就された存在への願望によって、それぞれの趣、集まりなどにおいて、色や形などの特徴の定めが成就されたのと同様に、最初からの把握の成就によってである。このように、それらの生に生まれた衆生の、概ね同じ持続期間を、見聞によって知り、その最高の境地を確信して、生じた存在への願望によって、最初から限界の定めが知られるべきである。しかし、業はそれらの生において、それぞれの生に定められた色などを生じさせることに有能であるのと同様に、定められた寿命の限界を持つ生において、その限界を超えて報いを発生させることはできない。それゆえ、「寿命の限りで死に去る」と述べられたのである。しかし、支えとなり助けとなる、そして保護する縁によって、取られた蘊が持続する様式は、実質的には最大寿命であり、上述の限界を超えないことから、業の残りが存在しても、その機会は生じない。それゆえ、「自分の功徳の力だけでは留まることはできない」と述べられたのである。「劫」とは、無数劫、あるいはその半分、あるいは半劫より短いか長いか、という選択の意味の「vā(あるいは)」である。
41. Anabhiratīti ekavihārena anabhirati. Sā pana yasmā aññehi samāgamicchā hoti, tena vuttaṃ **‘‘aparassāpi sattassa āgamanapatthanā’’**ti. Piyavatthuvirahena piyavatthualābhena vā cittavighāto ukkaṇṭhitā, sā atthato domanassacittuppādo yevāti āha **‘‘paṭighasampayuttā’’**ti. Dīgharattaṃ jhānaratiyā ramamānassa vuttappakāraṃ anabhiratinimittaṃ uppannā ‘‘mama’’nti ca ‘‘aha’’nti ca gahaṇassa kāraṇabhūtā taṇhādiṭṭhiyo idha paritassanā. Tā pana cittassa purimāvatthāya calanaṃ kampananti āha **‘‘ubbijjanā phandanā’’**ti. Tenevāha **‘‘taṇhātassanāpi diṭṭhitassanāpi vaṭṭatī’’**ti. Yaṃ pana atthuddhāre ‘‘aho vata aññepi sattā itthattaṃ āgaccheyyunti ayaṃ taṇhātassanā nāmā’’ti vuttaṃ, taṃ diṭṭhitassanāya visuṃ udāharaṇaṃ dassentena taṇhātassanaṃyeva tato niddhāretvā vuttaṃ, na pana tattha diṭṭhitassanāya abhāvatoti daṭṭhabbaṃ. Tāsatassanā cittutrāso. Bhayānakanti bheravārammaṇanimittaṃ balavabhayaṃ. Tena sarīrassa thaddhabhāvo chambhitattaṃ bhayaṃ saṃveganti ettha bhayanti bhaṅgānupassanāya ciṇṇante sabbasaṅkhārato bhāyanavasena uppannaṃ bhayañāṇaṃ. Saṃveganti sahottappañāṇaṃ, ottappameva vā. Santāsanti ādīnavanibbidānupassanāhi saṅkhārehi santassanañāṇaṃ. Saha byāyati pavattati, dosaṃ vā chādetīti sahabyo, sahāyo, tassa bhāvaṃ sahabyataṃ.
41. 「アナビラティ(Anabhirati)」とは、一人でいることへの不楽である。しかし、それは他者との交際を望むことから生じるので、「他の衆生の到来を願うこと」と述べられている。愛する対象が欠けていること、あるいは愛する対象を得られないことによる心の不快を「退屈」といい、それは実質的には憂いの心所が生じることであると述べ、「嫌悪と相応する」と言っている。長い間禅定の楽しみを味わっている者に生じた、前述のような不楽の様相は、「私のもの」とか「私」とかいう執着の原因である渇愛と見解であり、ここでは「焦燥」を意味する。それらは心が以前の状態から動揺し、鼓動することであると述べ、「揺れ動くこと、鼓動すること」と言っている。それゆえ、「渇愛による焦燥も、見解による焦燥も適切である」と述べられている。しかし、意味の抽出において、「ああ、他の衆生もここに来ればよいのに、これが渇愛による焦燥である」と述べられた箇所は、見解による焦燥とは別の例を示すことによって、そこから渇愛による焦燥を特定して述べられたのであり、そこに必ずしも見解による焦燥が存在しないという意味ではないと理解されるべきである。「苦悩」とは、心の恐れである。「恐ろしいこと」とは、恐ろしい対象の様相、すなわち強い恐怖である。それによって身体が硬直し、震え、恐怖、戦慄である。ここでの「恐怖」とは、壊滅の随観を実践している者が、全ての形成されたものから恐れる様式によって生じる恐怖智である。「戦慄」とは、慚愧を伴う智、あるいは慚愧そのものである。「恐怖」とは、危険と厭離の随観によって、形成されたものに対する恐怖智である。共に広がり、進む、あるいは悪を覆い隠すから「共犯者」であり、「仲間」であり、その状態が「共犯性」である。
42. Abhibhavitvā ṭhito ime satteti adhippāyo. Yasmā pana so pāsaṃsabhāvena uttamabhāvena ca ‘‘te satte abhibhavitvā ṭhito’’ti attānaṃ maññati, tasmā vuttaṃ **‘‘jeṭṭhakohamasmī’’**ti. Aññadatthu dasoti dassane antarāyābhāvavacanena, ñeyyavisesapariggāhikabhāvena ca anāvaraṇadassāvitaṃ paṭijānātīti āha **‘‘sabbaṃ passāmīti attho’’**ti. Bhūtabhabyānanti ahesunti bhūtā, bhavanti bhavissantīti bhabyā, aṭṭhakathāyaṃ pana vattamānakālavaseneva bhabya-saddassa attho dassito. Paṭhamacittakkhaṇeti paṭisandhicittakkhaṇe. Kiñcāpi so brahmā anavaṭṭhitadassanattā puthujjanassa purimatarajātiparicitampi kammassakataññāṇaṃ vissajjetvā vikubbaniddhivasena cittuppattimattapaṭibaddhena sattanimmānena vipallaṭṭho ‘‘ahaṃ issaro kattā nimmātā’’tiādinā issarakuttadassanaṃ pakkhandamāno abhinivisanavaseneva patiṭṭhito, na patiṭṭhāpanavasena ‘‘tassa evaṃ hotī’’ti vuttattā, patiṭṭhāpanakkameneva pana tassa so abhiniveso jātoti dassanatthaṃ **‘‘kāraṇato sādhetukāmo’’**ti, **‘‘paṭiññaṃ katvā’’**ti ca vuttaṃ. Tenāha bhagavā ‘‘taṃ kissa hetū’’tiādi. Tattha manopaṇidhīti manasā eva patthanā, tathā cittappavattimattamevāti attho, itthabhāvanti idappakārataṃ. Yasmā pana itthanti brahmattabhāvo idhādhippeto, tasmā **‘‘brahmabhāvanti attho’’**ti vuttaṃ. Nanu ca devānaṃ upapattisamanantaraṃ ‘‘imissā nāma gatiyā cavitvā iminā nāma kammunā idhūpapannā’’ti paccavekkhaṇā hotīti? Saccaṃ hoti, sā pana purimajātīsu kammassakataññāṇe sammadeva niviṭṭhajjhāsayānaṃ. Ime pana sattā purimāsupi jātīsu issarakuttadassanavasena vinibandhābhinivesā ahesunti daṭṭhabbaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘iminā maya’’**ntiādi.
42. 「これらの衆生を圧倒して存在している」という意味である。しかし、彼は「賞賛されるべき状態と最上の状態によって、これらの衆生を圧倒して存在している」と自己を認識するので、「私は最長老である」と述べられている。「他に何も見ていない」とは、見ることへの障害がないという言葉によって、知るべき事柄の特殊性を把握する様式によって、覆いのない視力であると認めることであると述べ、「全てを見ているという意味である」と言っている。「過去と未来の」とは、存在していたのが過去、存在する、存在するであろうのが未来である。しかし注釈書では、現在形によってのみ「未来」という語の意味が示されている。「最初の心識の瞬間」とは、再生結生心識の瞬間である。たとえその梵天が、凡夫の不安定な見方であるために、以前の生で慣れ親しんだ業による所有の知識を捨て去り、変幻神通の様式によって、心識の発生にのみ限定された衆生の創造によって惑わされ、「私は自在者、作者、創造者である」などという自在説の見解に突入し、固執する様式によって確立されたのであり、「彼にこのように生じる」と述べられていることから、確立する様式によってではないとしても、彼にその固執が生じたのが確立の過程によってであるということを示すために、「原因によって成就させようと欲する」そして「主張をして」と述べられている。それゆえ世尊は「それは何故か」などと述べられたのである。ここでの「意の願望」とは、心による願望そのものであり、心の作用そのものであるという意味である。「このような状態」とは、この種の状態である。しかし、ここでの「このような」とは梵天の境地が意図されているので、「梵天の境地であるという意味である」と述べられている。「神々が生まれ落ちた直後、『私はこの趣から死に、この業によってここに生まれた』と省察があるのではないか」と問うならば、確かに省察はあるが、それは以前の生で業による所有の知識に正しく心を定めていた者たちにのみである。しかし、これらの衆生は以前の生においても、自在説の見解によって固執と執着があったと理解されるべきである。それゆえ、「これによって我々は」などと述べられている。
43. Īsatīti īso, abhibhūti attho. Mahā īso maheso, suppatiṭṭhamahesatāya pana parehi ‘‘maheso’’ti akkhātabbatāya mahesakkho, atisayena mahesakkho mahesakkhataroti vacanattho daṭṭhabbo. Yasmā pana so mahesakkhabhāvo ādhipateyyaparivārasampattiyā viññāyati, tasmā **‘‘issariyaparivāravasena mahāyasataro’’**ti vuttaṃ.
43. 「支配するから支配者」であり、「圧倒する」という意味である。「大いなる支配者だから大自在」であり、確立された大自在性によって、他者から「大自在」と呼ばれるべきであることから、「大自在力を持つ者」であり、非常に大自在力を持つ者だから「より大自在力を持つ者」と解釈されるべきである。しかし、その大自在力を持つという状態が、支配力と従属する者たちの豊かさによって知られるので、「支配力と従属する者たちという点で大いなる名声を持つ」と述べられている。
44. Idheva āgacchatīti imasmiṃ manussaloke eva paṭisandhivasena āgacchati. Yaṃ aññataro sattoti ettha yanti nipātamattaṃ, karaṇe vā paccattaniddeso, yena ṭhānenāti attho, kiriyāparāmasanaṃ vā. Itthattaṃ āgacchatīti ettha yadetaṃ itthattassa āgamanaṃ, etaṃ ṭhānaṃ vijjatīti attho. Esa nayo **‘‘pabbajati, cetosamādhiṃ phusati, pubbenivāsaṃ anussaratī’’**ti etesupi padesu. ‘‘Ṭhānaṃ kho panetaṃ bhikkhave vijjati, yaṃ aññataro satto’’ti imañhi padaṃ ‘‘pabbajatī’’tiādīhi padehi paccekaṃ yojetabbanti.
44. 「ここにやって来る」とは、この人間界に再生結生という様式によってやって来る。「ある衆生が」という箇所での「yaṃ」は単なる小辞であり、あるいは道具格の指示詞であり、「その場所によって」という意味であるか、あるいは行為への言及である。「この状態になる」という箇所での、「この状態への到来」とは、そのような状況が存在するという意味である。この方法は、「出家する」「心の統一に触れる」「過去世を追憶する」といった箇所においても同様である。「比丘たちよ、ある衆生が〜という状況は存在する」というこの語句を、「出家する」などの語句にそれぞれ結合すべきである。
45. Khiḍḍāya padussantīti khiḍḍāpadosino, khiḍḍāpadosino eva khiḍḍāpadosikā, khiḍḍāpadoso vā etesaṃ atthīti khiḍḍāpadosikā. Atikkantavelaṃ ativelaṃ, āhārūpabhogakālaṃ atikkamitvāti attho. Methunasampayogena uppajjanakasukhaṃ keḷihassasukhaṃ ratidhammo ratisabhāvo. Āhāranti ettha ko devānaṃ āhāro, kā āhāravelāti? Sabbesampi kāmāvacaradevānaṃ sudhā āhāro, sā heṭṭhimehi uparimānaṃ paṇītatamā hoti, taṃ yathāsakaṃ divasavasena divase divase bhuñjanti. Keci pana ‘‘biḷārapadappamāṇaṃ sudhāhāraṃ bhuñjanti, so jivhāya ṭhapitamatto yāva kesagganakhaggā kāyaṃ pharati, tesaṃyeva divasavasena sattadivase yāpanasamattho ca hotī’’ti vadanti. **‘‘Nirantaraṃ khādantā pivantā’’**ti idaṃ parikappanavasena vuttaṃ. Kammajatejassa balavabhāvo uḷārapuññanibbattattā, uḷāragarusiniddhasudhāhārajīraṇato ca. Karajakāyassa mandabhāvo mudusukhumālabhāvato. Teneva hi bhagavā indasālaguhāyaṃ pakatipathaviyaṃ saṇṭhātuṃ asakkontaṃ sakkaṃ devarājānaṃ ‘‘oḷārikaṃ kāyaṃ adhiṭṭhehī’’ti āha. Tesanti manussānaṃ. Vatthunti karajakāyaṃ. Kecīti abhayagirivāsino.
45. 「戯れによって害される者たち」とは、戯れに汚染された者たち、あるいは戯れに汚染された者たちである。あるいは、彼らが戯れに汚染されているから戯れに汚染された者たちである。「時を超えて」とは、「食事を摂取する時間を超えて」という意味である。性交によって生じる楽、遊戯や笑いの楽が、快楽の性質である。「食べ物」という箇所で、神々の食べ物とは何か、食事の時間とは何か。「欲界の神々」全員の食べ物は「甘露」であり、それは下の天より上の天ではより優良である。彼らは日ごとに、それぞれの方法でこれを食する。ある者たちは、「猫の足跡ほどの甘露の食べ物を食するが、それは舌に置かれただけで髪の毛の先から爪の先まで身体に広がり、彼ら自身の七日間生き長らえることができる」と述べる。「絶え間なく食べたり飲んだりする」というこれは、想定によって述べられたものである。業から生じる威力の強さとは、優れた功徳によって生じたため、そして優れた重く滑らかな甘露の食べ物が消化されるためである。肉体の脆弱さとは、柔らかく繊細な状態であるためである。それゆえ、世尊はインダサーラ石窟で、通常の地面に立つことができない帝釈天に「粗大な身体を現せ」と言ったのである。彼らとは人間である。「依り所」とは肉体である。「ある者たち」とはアバヤギリ派の住人である。
47. Manenāti issāpakatattā paduṭṭhena manasā. Usūyāvasena manasova padoso manopadoso, so etesaṃ atthi vināsahetubhūtoti manopadosikāti evaṃ vā ettha attho daṭṭhabbo. Akuddho rakkhatīti kuddhassa so kodho itarasmiṃ akujjhante anupādāno ekavārameva uppattiyā anāsevano cāvetuṃ na sakkoti udakantaṃ patvā aggi viya nibbāyati, tasmā akuddho taṃ cavanato rakkhati, ubhosu pana kuddhesu bhiyyo bhiyyo aññamaññamhi parivaḍḍhanavasena tikhiṇasamudācāro nissayadahanaraso kodho uppajjamāno hadayavatthuṃ nidahanto accantasukhumālakarajakāyaṃ vināseti, tato sakalopi attabhāvo antaradhāyati. Tenāha **‘‘ubhosu panā’’**tiādi. Tathā cāha bhagavā ‘‘aññamaññaṃ paduṭṭhacittā kilantakāyā…pe… cavantī’’ti. Dhammatāti dhammaniyāmo. So ca tesaṃ karajakāyassa mandatāya, tathāuppajjanakakodhassa ca balavatāya ṭhānaso cavanaṃ, tesaṃ rūpārūpadhammānaṃ sabhāvoti adhippāyo.
47. 「心によって」とは、嫉妬によって汚染された心によってである。嫉妬という点で心の汚染、すなわち心汚染であり、彼らがそれを持つことは滅びの原因であるから「心汚染者」であると、このようにここで意味が理解されるべきである。「怒らないことで守られる」とは、怒っている者のその怒りは、他者が怒らない限り、燃料がなく一度発生しただけで、持続することなく滅ぼすことはできない。それは水の端に達した火のように消える。それゆえ、怒らない者はその滅びから守られる。しかし、両者が怒り合う場合には、ますます互いに増大する様式で、激しい行為となり、依り所を焼き尽くす性質の怒りが生じ、心臓を燃やし尽くし、極めて繊細な肉体を破壊し、そこから全ての存在が消滅する。それゆえ「両者が〜」等と述べられている。同様に世尊は、「互いに心を汚し、疲弊した身体で…死に去る」と述べられた。法則とは、法の定めである。そしてそれは、彼らの肉体の脆弱さによって、また生じる怒りの強さによって、その場所からの死去、すなわち彼らの色法と無色法の自性であるという意味である。
49. Cakkhādīnaṃ bhedaṃ passatīti virodhipaccayasannipāte vikārāpattidassanato, ante ca adassanūpagamanato vināsaṃ passati oḷārikattā rūpadhammabhedassa. Paccayaṃ datvāti anantarapaccayādivasena paccayo hutvā. **‘‘Balavatara’’**nti cittassa lahutaraṃ bhedaṃ sandhāya vuttaṃ. Tathā hi ekasmiṃ rūpe dharanteyeva soḷasa cittāni bhijjanti. Bhedaṃ na passatīti khaṇe khaṇe bhijjantampi cittaṃ parassa anantarapaccayabhāveneva bhijjatīti purimacittassa abhāvaṃ paṭicchādetvā viya pacchimacittassa uppattito bhāvapakkho balavataro pākaṭo ca hoti, na abhāvapakkhoti cittassa vināsaṃ na passati, ayañca attho alātacakkadassanena supākaṭo viññāyati. Yasmā pana takkīvādī nānattanayassa dūrataratāya ekattanayassapi micchāgahitattā ‘‘yadevidaṃ viññāṇaṃ sabbadāpi ekarūpena pavattati, ayameva attā nicco’’tiādinā abhinivesaṃ janeti, tasmā vuttaṃ **‘‘so taṃ apassanto’’**tiādi.
49. 眼などの分裂、すなわち対立する縁が集合して変異を生じるのを見ることから、そして終わりには見えなくなることから、粗大な色法の崩壊によって滅びを見る。 「縁を与えて」とは、無間縁などの縁となって。 「より強い」とは、心のごくわずかな崩壊を指して言われた。実際、一つの色において、十六の心が存続しつつも崩壊する。「崩壊を見ない」とは、刹那ごとに崩壊する心も、他の無間縁となって崩壊するので、前の心の消滅を覆い隠すかのように後の心が生じることから、存在の側面がより強く、明白となり、非存在の側面ではないため、心の滅びを見ないのである。この意味は、火の輪の例で見事に理解される。ところが、推論論者は多様な見解から遠く離れ、一元的な見解を誤って把握しているため、「この識は常に一つの形で存在し、これこそが永遠の自我である」などと執着を生じさせる。それゆえ、「彼はそれを見ないで」などと言われたのである。
53. Antānantikāti ettha amati gacchati ettha sabhāvo osānanti anto, mariyādā. Tappaṭisedhena ananto, anto ca ananto ca antānanto ca nevantānānanto ca antānantā sāmaññaniddesena, ekasesena vā ‘‘nāmarūpapaccayā saḷāyatana’’ntiādīsu (ma. ni. 3.176; saṃ. ni. 2.1; udā. 1) viya. Kassa pana antānantoti? Lokīyati saṃsāranissaraṇatthikehi diṭṭhigatikehi, lokīyanti vā ettha tehi puññāpuññaṃ tabbipāko cāti lokoti saṅkhyaṃ gatassa attano. Tenāha bhagavā ‘‘antānantaṃ lokassa paññapentī’’ti. Ko pana eso attāti? Jhānavisayabhūtakasiṇanimittaṃ. Tattha hi ayaṃ diṭṭhigatiko lokasaññī. Tathā ca vuttaṃ ‘‘taṃ lokoti gahetvā’’ti. Keci pana ‘‘jhānaṃ taṃsampayuttadhammā ca idha ‘attā, loko’ti ca gahitā’’ti vadanti. Antānantasahacaritavādo antānanto, yathā ‘‘kuntā pacarantī’’ti antānantasannissayo vā yathā ‘‘mañcā ghosantī’’ti. So etesaṃ atthīti antānantikā. Te pana yasmā yathāvuttanayena antānanto vādo diṭṭhi etesanti **‘‘antānantavādā’’**ti vuccanti. Tasmā aṭṭhakathāyaṃ ‘‘antānantavādā’’ti vatvā ‘‘antaṃ vā’’tiādinā attho vibhatto.
53. 「有辺無辺論者」とは、ここにその性質が終わりに至る、という意味での「有辺」、すなわち限界があること。その否定として「無辺」。有辺と無辺、有辺無辺、そして有辺でも無辺でもない。これらが一般的な指示で、あるいは「名色を縁として六処が」などのように(マッジマ・ニカーヤ 3.176; サンユッタ・ニカーヤ 2.1; ウダーナ 1)、一括して「有辺無辺」と呼ばれる。では、誰にとって有辺で無辺なのか?それは輪廻からの解脱を求める見解を持つ者たちによって「世間」と称されるものであり、あるいは彼らによって善悪とその報いとして認識される自己が「世間」と称されるのである。それゆえ、世尊は「世間には有辺と無辺があると説く」と言われた。では、その「自己」とは何か?禅定の対象となるカシムナ相である。そこにおいて、この見解を持つ者は「世間」という認識を持つ。そのように「それを世間と捉えて」と言われている。ある者は、「禅定とその相応法は、ここでは『自我』や『世間』と捉えられている」と言う。「有辺無辺」とは、有辺と無辺に付随する説であり、「槍が行く」というような意味合いか、あるいは有辺と無辺を依りどころとする説であり、「台が叫ぶ」というような意味合いか。彼らにはそれが存在するので「有辺無辺論者」である。しかし、彼らは、述べられた方法によって有辺と無辺という見解を持つ者たちなので、「有辺無辺論者」と呼ばれる。それゆえ、註釈書では「有辺無辺論者」と言った後、「有辺か」などと意味を区別している。
Etthāha – yuttaṃ tāva purimānaṃ tiṇṇaṃ vādīnaṃ antattañca anantattañca antānantattañca ārabbha pavattavādattā antānantikattaṃ, pacchimassa pana tadubhayapaṭisedhanavasena pavattavādattā katha antānantikattanti? Tadubhayapaṭisedhanavasena pavattavādattā eva. Yasmā antānantapaṭisedhavādopi antānantavisayo eva taṃ ārabbha pavattattā. Etadatthaṃyeva hi sandhāya aṭṭhakathāyaṃ ‘‘ārabbha pavattavādā’’ti vuttaṃ. Atha vā yathā tatiyavāde desabhedavasena ekasseva antavantatā anantatā ca sambhavati, evaṃ takkīvādepi kālabhedavasena ubhayasambhavato aññamaññapaṭisedhena ubhayaññeva vuccati. Kathaṃ? Antavantatāpaṭisedhena hi anantatā vuccati, anantatāpaṭisedhena ca antavantatā, antānantānañca na tatiyavādabhāvo kālabhedassa adhippetattā. Idaṃ vuttaṃ hoti – yasmā ayaṃ lokasaññito attā adhigatavisesehi mahesīhi ananto kadāci sakkhidiṭṭhoti anusuyyati, tasmā nevantavā. Yasmā pana tehiyeva kadāci antavā sakkhidiṭṭhoti anusuyyati, tasmā na pana anantoti. Yathā ca anussutitakkīvasena, evaṃ jātissaratakkī ādīnañca vasena yathāsambhavaṃ yojetabbaṃ. Ayañhi takkiko avaḍḍhitabhāvapubbakattā paṭibhāganimittānaṃ vaḍḍhitabhāvassa vaḍḍhitakālavasena appaccakkhakāritāya anussavādimatte ṭhatvā ‘‘nevantavā’’ti paṭikkhipati. Avaḍḍhitakālavasena pana ‘‘na panānanto’’ti, na pana antatānantatānaṃ accantamabhāvena yathā taṃ ‘‘nevasaññināsaññī’’ti. Purimavādattayapaṭikkhepo ca attanā yathādhippetappakāravilakkhaṇatāya tesaṃ, avassañcetaṃ evaṃ viññātabbaṃ, aññathā vikkhepapakkhaṃyeva bhajeyya catutthavādo. Na hi antatāanantatātadubhayavinimutto attano pakāro atthi, takkīvādī ca yuttimaggako, kālabhedavasena ca tadubhayaṃ ekasmimpi na na yujjatīti.
ここで言う。「前三つの論師が有辺性、無辺性、有辺無辺性をめぐって展開する説であるから、彼らが有辺無辺論者であるのは当然である。しかし、最後の論師は、その両方を否定する形で説を展開するのであるから、なぜ有辺無辺論者なのであろうか?」その両方を否定する形で説を展開するからに他ならない。なぜなら、有辺無辺の否定論もまた、それらを対象として展開される説であるからである。註釈書で「それらをめぐって展開する説」と言われているのは、まさにこのことを指している。あるいは、第三の論のように、場所の差異によって一つのものに有辺性と無辺性が生じるのと同様に、推論論においても時間の差異によって両方が生じるので、互いに否定し合って両方が語られる。どうしてか?有辺性の否定によって無辺性が語られ、無辺性の否定によって有辺性が語られるからであり、有辺無辺論は時間の差異が意図されているため、第三の論の形ではない。これが意味することは次の通りである。この世間として認識される自我は、卓越した境地に至った偉大な聖者たちによって、ある時は無辺であると直接見られると伝えられているので、有辺ではない。しかし、彼らによってある時は有辺であると直接見られると伝えられているので、無辺ではない。そして、伝聞に基づく推論論者の場合と同様に、前世記憶を持つ推論論者などの場合についても、可能な限り適用して解釈すべきである。なぜなら、この推論者は、発展途上であった過去の性質と、表象する相が発展した状態の発展した時間においては、直接見ることができないため、伝聞などのみに基づいて「有辺ではない」と否定するからである。しかし、発展途上であった時間においては「無辺ではない」と否定する。それは、有辺性も無辺性も全くないという意味ではなく、「非想非非想」というのと同様である。そして、以前の三つの論の否定は、それらが自己によって意図された様相と異なるためである。これは必ずこのように理解されなければならない。さもなければ、第四の論は混乱の側面に陥るだろう。なぜなら、有辺性、無辺性、その両方から離れた自己の様相は存在せず、推論論者は理性的な道を行く者であり、時間の差異によってその両方が一つにおいて両立しないわけではないからである。
Keci pana yadi panāyaṃ attā antavā siyā, dūradese upapajjanānussaraṇādi kiccanipphatti na siyā. Atha ananto, idha ṭhitassa devalokanirayādīsu sukhadukkhānubhavanampi siyā. Sace pana antavā ca ananto ca, tadubhayadosasamāyogo. Tasmā ‘‘antavā, ananto’’ti ca abyākaraṇīyo attāti evaṃ takkanavasena catutthavādappavattiṃ vaṇṇenti. Evampi yuttaṃ tāva pacchimavādīdvayassa antānantikattaṃ antānantānaṃ vasena ubhayavisayattā tesaṃ vādassa. Purimavādīdvayassa pana kathaṃ visuṃ antānantikattanti? Upacāravuttiyā. Samuditesu hi antānantavādīsu pavattamāno antānantika-saddo tattha niruḷhatāya paccekampi antānantikavādīsu pavattati, yathā arūpajjhānesu paccekaṃ aṭṭhavimokkhapariyāyo, yathā ca loke sattāsayoti. Atha vā abhinivesato purimakālappavattivasena ayaṃ tattha vohāro kato. Tesañhi diṭṭhigatikānaṃ tathārūpacetosamādhisamadhigamato pubbakālaṃ ‘‘antavā nu ayaṃ loko, ananto nū’’ti ubhayākārāvalambino parivitakkassa vasena niruḷho antānantikabhāvo visesalābhena tattha uppannepi ekaṃsaggāhe purimasiddharuḷhiyā voharīyatīti.
ある者は言う。「もしこの自我が有辺であるならば、遠い場所での再生や前世記憶などの行為が成立しないだろう。もし無辺であるならば、ここにいる者が天界や地獄などで苦楽を経験することもあるだろう。もし有辺であり無辺であるならば、その両方の欠点が合わさることになる。それゆえ、『有辺でも無辺でもない』と、自我は不説であると推測し、第四の論の展開を説明するのである。」そのように解釈しても、後の二つの論師が有辺無辺論者であるのは、彼らの説が有辺と無辺の両方を対象としているため、当然である。しかし、前の二つの論師は、どうして個別に有辺無辺論者となるのか?比喩的な意味合いによってである。実際、有辺無辺論者全体に用いられる「有辺無辺論者」という言葉は、そこで定着しているために、個々の有辺無辺論者にも用いられる。ちょうど無色禅定において、個々に八解脱の範疇があるように、あるいは世間で衆生の依処というように。あるいは、執着によって、以前の時期から用いられてきたことによって、この用語がそこで使われるようになったのである。なぜなら、それらの見解を持つ者たちが、そのような心の統一を成就する以前の時期に、「この世間は有辺であろうか、それとも無辺であろうか」という両方の様相に依拠する思惟を通して定着した有辺無辺論者的性格が、特定の境地を得て、そこで絶対的な把握に至ったとしても、以前に確立された慣習によって呼ばれ続けるのである。
54-60. Vuttanayenāti ‘‘takkayatīti takkī’’tiādinā (dī. ni. aṭṭha. 1.34) saddato, ‘‘catubbidho takkī’’tiādinā (dī. ni. aṭṭha. 1.34) atthato ca sassatavāde vuttavidhinā. Diṭṭhapubbānusārenāti dassanabhūtena viññāṇena upaladdhapubbassa antavantādino anussaraṇena. Evañca katvā anussutitakkīsuddhatakkīnampi idha saṅgaho siddho hoti. Atha vā diṭṭhaggahaṇeneva ‘‘naccagītavāditavisūkadassanā’’tiādīsu (dī. ni. 10, 194) viya sutādīnampi gahitatā veditabbā. ‘‘Antavā’’tiādinā icchitassa attano sabbadā bhāvaparāmasanavaseneva imesaṃ vādānaṃ pavattanato sassatadiṭṭhisaṅgaho daṭṭhabbo. Tathā hi vakkhati ‘‘sesā sassatadiṭṭhiyo’’ti (dī. ni. aṭṭha. 97-98).
54-60. 「述べられた方法によって」とは、「推論する者ゆえに推論者である」などという言葉(長部註 1.34)によって、および「推論者は四種である」などという意味(長部註 1.34)によって、常住論で述べられた方法で。「以前に見たことに従って」とは、見ることによって生じた識によって、以前に認識された有辺性など(の記憶)によって。このようにして、伝聞に基づく推論者や純粋な推論者も、ここに包含されることが成り立つ。あるいは、「舞踊、歌唱、演奏、見世物の見物」など(長部 10, 194)における「見る」という言葉の把握と同様に、聞くことなども含まれると理解すべきである。「有辺である」などという形で、望ましい自己が常に存在するという観念に基づいているため、これらの説は常住見に分類されると見なすべきである。実際、「残りは常住見である」と(長部註 97-98)述べられるだろう。
61. Na maratīti na ucchijjati. ‘‘Evampi me no’’tiādinā vividho nānappakāro khepo parena paravādīnaṃ khipanaṃ vikkhepo. Amarāya diṭṭhiyā vācāya ca vikkhipantīti vā amarāvikkhepino. Amarāvikkhepino eva amarāvikkhepikā. Ito cito ca sandhāvati ekasmiṃ sabhāve anavaṭṭhānato. Amarā viya vikkhipantīti vā purimanayeneva saddattho daṭṭhabbo.
61. 「死なない」とは、断滅しないこと。「私にはそうではない」などという多様な、様々な揺らぎとは、他者によって他者の論を投げかける、つまり拡散させること。あるいは、不滅の(あるいは揺らぐ)見解と(あるいは)言葉で拡散させるので、不確定論者である。不確定論者は、まさに不確定論者である。彼らは、一つの状態に定まらないため、あちこちをさまよう。あるいは、「不滅のように拡散する」という言葉の意味は、以前の方法と同様に理解されるべきである。
62. Vikkhepavādino uttarimanussadhamme, akusaladhammepi sabhāvabhedavaseneva ñātuṃ ñāṇabalaṃ natthīti kusalākusalapadānaṃ kusalākusalakammapathavaseneva attho. Paṭhamanayavaseneva apariyantavikkhepatāya amarāvikkhepaṃ vibhāvetuṃ **‘‘evantipi me noti aniyamitavikkhepo’’**ti vuttaṃ. Tattha aniyamitavikkhepoti sassatādīsu ekasmimpi pakāre aṭṭhatvā vikkhepakaraṇaṃ, paravādinā yasmiṃ kismiñci pucchite pakāre tassa paṭikkhepoti attho. Dutiyanayavasena amarāsadisāya amarāya vikkhepaṃ dassetuṃ **‘‘idaṃ kusalanti vā puṭṭho’’**tiādimāha. Atha vā ‘‘evantipi me no’’tiādinā aniyamatova sassatekaccasassatucchedatakkīvādānaṃ paṭisedhanena taṃ taṃ vādaṃ paṭikkhipateva apariyantavikkhepavādattā amarāvikkhepino. Attanā pana anavaṭṭhitavādattā na kismiñci pakkhe avatiṭṭhatīti āha **‘‘sayaṃ pana…pe… byākarotī’’**ti. Idāni kusalādīnaṃ abyākaraṇena tameva anavaṭṭhānaṃ vibhāveti ‘‘idaṃ kusalanti vā puṭṭho’’tiādinā. Tenevāha **‘‘ekasmimpi pakkhe na tiṭṭhatī’’**ti.
62. 不確定論者には、超人的な法や不善の法についても、その本性の違いによって知る知恵の力がないため、「善」と「不善」という言葉は、善と不善の業道という意味で解釈される。最初の方法によって、無限の拡散という不確定性を明らかにするために、「私にはそうではない、と不確定な拡散である」と言われた。ここで、「不確定な拡散」とは、常住論などのいずれの様相にもとどまらずに拡散させること、つまり、論敵がどのような様相について尋ねても、それを否定する、という意味である。第二の方法によって、不滅に似た不滅の拡散を示すために、「これは善であるかと問われて」などと言われた。あるいは、「私にはそうではない」などという不定の言葉で、常住論、部分的常住論、断滅論、推論論などを否定し、それぞれの論を否定する不確定論者である。彼らは無限に拡散する説を持つ者だからである。しかし、自らは定まった説を持たないため、いかなる立場にもとどまらない、と「自らは…説を立てる」と言われる。ここで、善などについて説かないことで、その定まらない状態を「これは善であるかと問われて」などと明らかにしている。それゆえ、「いかなる立場にもとどまらない」と言われた。
63. Kusalākusalaṃ yathābhūtaṃ appajānantopi yesamahaṃ samayena kusalameva ‘‘kusala’’nti, akusalameva ca ‘‘akusala’’nti byākareyyaṃ, tesu tathā byākaraṇahetu ‘‘aho vata re paṇḍito’’ti sakkārasammānaṃ karontesu mama chando vā rāgo vā assāti evampettha attho sambhavati. Doso vā paṭigho vāti ettha vuttavipariyāyena yojetabbaṃ. Aṭṭhakathāyaṃ pana attano paṇḍitabhāvavisayānaṃ rāgādīnaṃ vasena yojanā katā. **‘‘Chandarāgadvayaṃ upādāna’’**nti abhidhammanayena vuttaṃ. Abhidhamme hi taṇhādiṭṭhiyova ‘‘upādāna’’nti āgatā, suttante pana dosopi ‘‘upādāna’’nti vutto ‘‘kodhupādānavinibandhā vighātaṃ āpajjantī’’tiādīsu. Tena vuttaṃ **‘‘ubhayampi vā daḷhaggahaṇavasena upādāna’’**nti. Daḷhaggahaṇaṃ amuñcanaṃ. Paṭighopi hi upanāhādivasena pavatto ārammaṇaṃ na muñcati. Vihananaṃ hiṃsanaṃ vibādhanaṃ. Rāgopi hi pariḷāhavasena sāraddhavuttitāya nissayaṃ vibādhatīti. Vināsetukāmatāya ārammaṇaṃ gaṇhātīti sambandho.
63. 善と不善をありのままに知らない者であっても、「私がその時、善を『善』と、不善を『不善』と説明したならば、そのように説明したという理由で、『ああ、なんと賢明な人だ』と称賛し尊敬する者たちに対して、私に好き嫌いや貪りが生じるだろう」というような意味が、ここでは可能である。「怒りや反発」という箇所では、述べられたことと反対の意味で解釈すべきである。しかし、註釈書では、自分の賢明さの対象となる貪りなどによって解釈がなされている。「欲と貪りの二つが取着である」とは、アビダンマ(論書)の立場から言われた。実際、アビダンマでは渇愛と見解のみが「取着」として挙げられているが、スッタ(経典)では、怒りも「取着」として「怒りの取着に縛られた者は苦しみを受ける」などと言われている。それゆえ、「両方もまた、しっかりと把握するという意味で取着である」と言われた。「しっかりと把握する」とは、離さないこと。反発もまた、怨恨などの形で生じて対象を離さないからである。「害する」とは、傷つけること、苦しめること。貪りもまた、熱情の形で激しく行動するために、依処を苦しめる。対象を破壊しようとする意志で把握する、という意味である。
64. Paṇḍiccenāti paññāya. Yena hi dhammena yutto ‘‘paṇḍito’’ti vuccati, so dhammo paṇḍiccaṃ, tena sutacintāmayaṃ paññaṃ dasseti, na pākatikakammanibbattaṃ sābhāvikapaññaṃ. Kata-saddassa kiriyāsāmaññavācakattā ‘‘katavijjo’’tiādīsu viya kata-saddo ñāṇānuyuttataṃ vadatīti āha **‘‘viññātaparappavādā’’**ti. Sattadhā bhinnassa vālaggassa aṃsukoṭivedhako **‘‘vālavedhī’’**ti adhippeto.
64. 「賢明さによって」とは、智慧によって。実際、「賢明な者」と呼ばれるその法が賢明さである。それによって、聞くことや考えることによって得られた智慧を示し、普通の行為によって生じた生得の智慧ではない。「カタ (kata)」という言葉は、行為全般を指すので、「知識を修得した」などにおける「カタ」という言葉は、知識に専念することを意味すると言う。それゆえ、「他者の説を知悉した」と言われた。七つに裂かれた毛先の先端を貫く者とは、「毛先を射抜く者」を意味する。
65-6. Ettha ca kiñcāpi purimānampi tiṇṇaṃ kusalādidhammasabhāvānavabodhato attheva mandabhāvo, tesaṃ pana attano kusalādidhammānavabodhassa avabodhaviseso atthi, tadabhāvā pacchimoyeva mandamomūhabhāvena vutto. Nanu ca pacchimassāpi ‘‘atthi paroloko’ti iti ce me assa, ‘atthi paroloko’ti iti te naṃ byākareyyaṃ, evantipi me no’’tiādi (dī. ni. 1.65) vacanato attano dhammānavabodhassa avabodho atthiyevāti? Kiñcāpi atthi, na tassa purimānaṃ viya apariññātadhammabyākaraṇanibandhanamusāvādādibhayaparijigucchanakāro atthi, atha kho mahāmūḷhoyeva. Atha vā ‘‘evantipi me no’’tiādinā pucchāya vikkhepakaraṇatthaṃ ‘‘atthi paroloko’ti iti ce maṃ pucchasī’’ti pucchāṭhapanameva tena dassīyati, na attano dhammānavabodhoti ayameva visesena ‘‘mando ceva momūho cā’’ti vutto. Teneva hi tathāvādinaṃ sañjayaṃ belaṭṭhaputtaṃ ārabbha ‘‘ayaṃ vā imesaṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ sabbamando sabbamūḷho’’ti (dī. ni. 1.181) vuttaṃ. Tattha ‘‘atthi paroloko’’ti sassatadassanavasena sammādiṭṭhivasena vā pucchā. ‘‘Natthi paroloko’’ti natthikadassanavasena sammādassanavasena vā pucchā. ‘‘Atthi ca natthi ca paroloko’’ti ucchedadassanavasena sammādiṭṭhivasena eva vā pucchā. ‘‘Neva atthi na natthi paroloko’’ti vuttappakārattayapaṭikkhepe sati pakārantarassa asambhavato atthitānatthitāhi navattabbākāro parolokoti vikkhepaññeva purekkhārena sammādiṭṭhivasena vā pucchā. Sesacatukkattayepi vuttanayānusārena attho veditabbo. Puññasaṅkhārattiko viya hi kāyasaṅkhārattikena purimacatukkasaṅgahito eva attho. Sesacatukkattayena attaparāmāsapuññādi phalatācodanānayena saṅgahitoti.
65-6. ここにおいて、先の三つの見解にも、善などの法の本質を理解しない点で愚鈍さがある。しかし彼らには、自分自身の善などの法を理解しないことを理解するという特殊な理解がある。それが欠けているため、最後の者だけが愚かで盲目であると述べられている。しかし、最後の者にも『彼岸は存在する』と私が考えたならば、『彼岸は存在する』と私はあなたに説明するだろう。しかし私にはそのような見解はない、などの(長部 1.65)引用句によって、自分自身の法に対する無理解を理解しているのではないか、と?たとえそうであっても、彼には、先の者たちのように、未だ理解していない法を説明することで虚言を語るなどの怖れを避けようとする行為はない。むしろ彼は甚だしい愚か者である。あるいは、『私にはそのような見解はない』などによって、質問を攪乱するために、『もしあなたが私に彼岸が存在するかと尋ねるならば』という質問の設定だけが彼によって示されており、彼自身の法に対する無理解ではない。これが特に『愚かで盲目である』と述べられる理由である。まさにそれゆえ、そのように語るサンジャヤ・ベーラッタプッタに関して、『この(サンジャヤ)はこれらの沙門・婆羅門の中で最も愚かで、最も盲目である』と(長部 1.181)述べられている。そこにおいて、『彼岸は存在する』というのは、常住の見解、あるいは正見の見解に基づく問いである。『彼岸は存在しない』というのは、断滅の見解、あるいは正見の見解に基づく問いである。『彼岸は存在することも、存在しないこともある』というのは、断滅の見解、あるいは正見の見解に基づく問いである。『彼岸は存在しないことも、存在しないこともない』というのは、既に述べた三種類の見解を否定した場合に、他の見解が存在しないことから、存在することと存在しないことでは語り尽くせない彼岸という攪乱だけを重視し、あるいは正見の見解に基づく問いである。残りの三つの四句も、述べられた方法に従って理解されるべきである。実に、身行三句のように、功徳の行三句は先の四句に包含される意味である。残りの三つの四句は、自らの見解を固執する功徳などの結果を誘発する見地によって包含されるのである。
Amarāvikkhepiko sassatādīnaṃ attano aruccanatāya sabbattha ‘‘evantipi me no’’tiādinā vikkhepaññeva karoti. Tattha ‘‘evantipi me no’’tiādi tattha tattha pucchitākārapaṭisedhanavasena vikkhipanākāradassanaṃ. Nanu ca vikkhepavādino vikkhepapakkhassa anujānanaṃ vikkhepapakkhe avaṭṭhānaṃ yuttarūpanti? Na, tatthāpi tassa sammūḷhattā, paṭikkhepavaseneva ca vikkhepavādassa pavattanato. Tathā hi sañcayo belaṭṭhaputto raññā ajātasattunā sandiṭṭhikaṃ sāmaññaphalaṃ puṭṭho paralokattikādīnaṃ paṭisedhanamukhena vikkhepaṃ byākāsi.
アマラーヴィックヘピカ(Amarāvikkhepiko:鰻のような懐疑論者)は、常住論などを自らが好まないため、あらゆる場所で『私にはそのような見解はない』などによって、ただ攪乱を行う。ここでの『私にはそのような見解はない』などとは、それぞれの場所で尋ねられた様態を否定することによって、攪乱の様態を示すことである。しかし、攪乱論者が攪乱の側を承認し、攪乱の側に留まることは理にかなっているのではないか?いや、その場合でも彼は混乱しているため、否定という形でしか攪乱論が進まないからである。そのように、サンジャヤ・ベーラッタプッタは、アジャータサットゥ王によって現世の沙門果について尋ねられた際、彼岸などの三つの見解を否定する形で攪乱を説明した。
Etthāha – nanu cāyaṃ sabbopi amarāvikkhepiko kusalādayo dhamme, paralokattikādīni ca yathābhūtaṃ anavabujjhamāno tattha tattha pañhaṃ puṭṭho pucchāya vikkhepanamattaṃ āpajjati, tassa kathaṃ diṭṭhigatikabhāvo. Na hi avattukāmassa viya pucchitamatthamajānantassa vikkhepakaraṇamattena diṭṭhigatikatā yuttāti? Vuccate – na heva kho pucchāya vikkhepakaraṇamattena tassa diṭṭhigatikatā, atha kho micchābhinivesavasena. Sassatābhinivesena micchābhiniviṭṭhoyeva hi puggalo mandabuddhitāya kusalādidhamme paralokattikādīni ca yāthāvato appaṭipajjamāno attanā aviññātassa atthassa paraṃ viññāpetuṃ asakkuṇeyyatāya musāvādādibhayena ca vikkhepaṃ āpajjatīti. Tathā hi vakkhati ‘‘yāsaṃ satteva ucchedadiṭṭhiyo, sesā sassatadiṭṭhiyo’’ti (dī. ni. aṭṭha. 1.97-98) atha vā puññapāpānaṃ tabbipākānañca anavabodhena asaddahanena ca tabbisayāya pucchāya vikkhepakaraṇaṃyeva sundaranti khantiṃ ruciṃ uppādetvā abhinivisantassa uppannā visuṃyevesā ekā diṭṭhi sattabhaṅgadiṭṭhi viyāti daṭṭhabbaṃ. Tathā ca vuttaṃ ‘‘pariyantarahitā diṭṭhigatikassa diṭṭhi ceva vācā cā’’ti (dī. ni. aṭṭha. 1.61). Kathaṃ panassā sassatadiṭṭhisaṅgaho? Ucchedavasena anabhinivesato. Natthi koci dhammānaṃ yathābhūtavedī vivādabahulattā lokassa, ‘‘evameva’’nti pana saddantarena ‘‘dhammanijjhānanā anādikālikā loke’’ti gāhavasena sassatalesopettha labbhatiyeva.
ここで尋ねられる――このアマラーヴィックヘピカの者たちは皆、善などの法や彼岸などの三つの見解を真実のままに理解せず、それぞれの場所で問題が尋ねられた際に、ただ質問を攪乱するだけである。どうして彼が邪見(diṭṭhigatika)を持つ者となるのか。話すことを望まない者、あるいは尋ねられた事柄を知らない者と同様に、質問を攪乱するだけで邪見を持つ者となるのは理にかなっていないのではないか、と?答える――彼の邪見を持つ者であることは、質問を攪乱するだけで生じるのではなく、むしろ誤った固執によるのである。常住論に誤って固執する者は、実に、愚かな知恵ゆえに、善などの法や彼岸などの三つの見解をありのままに理解せず、自らが理解していない事柄を他者に理解させることができないため、虚言などの怖れによって攪乱に陥るのである。そのように、次のように述べられるだろう。『七つの断滅見だけが、残りは常住見である』と(長部アッタカター 1.97-98)。あるいは、善悪とその果報を理解せず、信じないことによって、その事柄に関する質問を攪乱することこそが美しいと、忍耐と欲求を生じさせて固執する者に生じる、この独立した一つの見解は、七種の破滅見(sattabhaṅgadiṭṭhi)のようであると見なされるべきである。そのように、『邪見を持つ者の見解と発言は限りがない』と(長部アッタカター 1.61)述べられている。しかし、どうして彼の見解が常住見に集約されるのか?それは断滅の観点から固執しないからである。世の中には争いが多いため、法を真実のままに知る者はいない。しかし、『まさにそのように』と別の音によって、『法への省察は世において無始以来のものである』という執着の観点から、ここにも常住論の痕跡は得られるのである。
67. Adhicca yadicchakaṃ yaṃ kiñci kāraṇaṃ, kassaci vuddhipubbaṃ vā vinā samuppannoti attalokasaññitānaṃ khandhānaṃ adhiccuppattiākārārammaṇaṃ dassanaṃ tadākārasannissayena pavattito, tadākārasahacaritatāya ca ‘‘adhiccasamuppanna’’nti vuccati yathā ‘‘mañcā ghosanti, kuntā pacarantī’’ti ca imamatthaṃ dassento āha **‘‘adhiccasamuppanno attā ca loko cāti dassanaṃ adhiccasamuppanna’’**nti.
67. アドヒッチャとは、任意の、いかなる原因もなく、あるいは何らかの成長なしに生じることである。すなわち、自己と世の認識を持つ諸蘊が、無因偶発の様相を対象として見る見解は、その様相に依存して生じ、その様相と共存しているために、『アドヒッチャサムッパンナ(無因偶発)』と呼ばれる。あたかも『寝台が叫ぶ』、『槍が歩く』と言われるようにである。この意味を示して、彼は言う。**『無因偶発的に生じた自己と世であるという見解は、無因偶発の見解である』**と。
68-73. Desanāsīsanti desanāya jeṭṭhakabhāvena gahaṇaṃ, tena saññaṃyeva dhuraṃ katvā bhagavatā ayaṃ desanā katā, na pana tattha aññesaṃ arūpadhammānaṃ atthibhāvatoti dasseti. Tenevāha **‘‘acittuppādā’’**tiādi. Bhagavā hi yathā lokuttaradhammaṃ desento samādhiṃ paññaṃ vā dhuraṃ karoti, evaṃ lokiyadhammaṃ desento cittaṃ saññaṃ vā dhuraṃ karoti. Tattha ‘‘yasmiṃ samaye lokuttaraṃ jhānaṃ bhāveti (dha. sa. 277) pañcaṅgiko sammāsamādhi [dī. ni. 3.355 (kha)] pañcañāṇiko sammāsamādhi, [dī. ni. 3.355 (ja); vibha. 2.804] paññāya cassa disvā āsavā parikkhīṇā hontī’’ti (ma. ni. 1.271) tathā ‘‘yasmiṃ samaye kāmāvacaraṃ kusalaṃ cittaṃ uppannaṃ hoti, (dha. sa. 1) kiṃcitto tvaṃ bhikkhu (pārā. 146, 180) manopubbaṅgamā dhammā, (dha. pa. 1, 2; netti. 90; peṭako. 83) santi bhikkhave sattā nānattakāyā nānattasaññino, (dī. ni. 3.332, 342, 357; a. ni. 9.24; cūḷani. 83) na nevasaññānāsaññāyatana’’ntiādīni suttāni (dī. ni. 3.358) etassa atthassa sādhakāni daṭṭhabbāni. Titthāyataneti aññatitthiyasamaye. Titthiyā hi upapattivisese vimuttisaññino, saññāvirāgāvirāgesu ādīnavānisaṃsadassino vā hutvā asaññasamāpattiṃ nibbattetvā akkhaṇabhūmiyaṃ uppajjanti, na sāsanikā. Vāyokasiṇe parikammaṃ katvāti vāyokasiṇe paṭhamādīni tīṇi jhānāni nibbattetvā tatiyajjhāne ciṇṇavasī hutvā tato vuṭṭhāya catutthajjhānādhigamāya parikammaṃ katvā. Tenevāha **‘‘catutthajjhānaṃ nibbattetvā’’**ti.
68-73. 『説法の主軸(desanāsīsa)』とは、説法の主要な部分として捉えることである。それによって、世尊は認識(saññā)を主軸としてこの説法を行ったのであり、そこに他の無色法の存在があったからではないと示す。それゆえ彼は**『心が生じないから(acittuppādā)』**などと言う。世尊は、世俗を超越した法を説くときには、三昧や智慧を主軸とするように、世俗の法を説くときには、心や認識を主軸とする。そこにおいて、『世俗を超越した禅定を修める時(法集論 277)』、『五支の正定(長部 3.355 kha)』、『五つの智慧を持つ正定(長部 3.355 ja; 分別論 2.804)』、『智慧によって見て、煩悩は尽き果てる(中部 1.271)』と、また『欲界の善なる心が生じた時(法集論 1)』、『比丘よ、あなたはどのような心であるか(波羅夷 146, 180)』、『意を先行する諸法(法句経 1, 2; 義釈 90; ペータコーパデーサ 83)』、『比丘たちよ、身体も認識も異なる衆生が存在する(長部 3.332, 342, 357; 増支部 9.24; 小義釈 83)』、『非想非非想処(長部 3.358)』などの経典は、この意味の証明として見なされるべきである。ティッターヤタナ(Titthāyatana)とは、異教徒の教えにおいてである。異教徒は、特別な生存において解脱を認識し、認識の離欲と非離欲における危険と利益を見て、非想三昧を成就して、不遇の境遇に生まれるのであり、仏教徒ではない。風遍(vāyokasiṇa)において準備を行ったとは、風遍において最初の三つの禅定を成就し、第三禅定で熟練者となり、そこから起ち上がって第四禅定を達成するための準備を行ったのである。それゆえ彼は**『第四禅定を成就して』**と言う。
Kasmā panettha vāyokasiṇeyeva parikammaṃ vuttanti? Vuccate – yatheva hi rūpapaṭibhāgabhūtesu kasiṇavisesesu rūpavibhāvanena rūpavirāgabhāvanāsaṅkhāto arūpasamāpattiviseso sacchikarīyati, evaṃ aparibyattaviggahatāya arūpapaṭibhāgabhūte kasiṇavisese arūpavibhāvanena arūpavirāgabhāvanāsaṅkhāto rūpasamāpattiviseso adhigamīyatīti ettha ‘‘saññā rogo saññā gaṇḍo’’tiādinā (ma. ni. 3.24) ‘‘dhi cittaṃ, dhibbate taṃ citta’’ntiādinā ca nayena arūpappavattiyā ādīnavadassanena, tadabhāve ca santapaṇītabhāvasanniṭṭhānena rūpasamāpattiyā abhisaṅkharaṇaṃ, rūpavirāgabhāvanā pana saddhiṃ upacārena arūpasamāpattiyo, tatthāpi visesena paṭhamāruppajjhānaṃ. Yadi evaṃ ‘‘paricchinnākāsakasiṇepī’’ti vattabbaṃ. Tassāpi hi arūpapaṭibhāgatā labbhatīti? Icchitamevetaṃ kesañci avacanaṃ panettha pubbācariyehi aggahitabhāvena. Yathā hi rūpavirāgabhāvanā virajjanīyadhammabhāvamattena parinipphannā, virajjanīyadhammapaṭibhāgabhūte ca visayavisese pātubhavati, evaṃ arūpavirāgabhāvanāpīti vuccamāne na koci virodho, titthiyeheva pana tassā samāpattiyā paṭipajjitabbatāya, tesañca visayapathesupanibandhanasseva tassa jhānassa paṭipattito diṭṭhivantehi pubbācariyehi catuttheyeva bhūtakasiṇe arūpavirāgabhāvanāparikammaṃ vuttanti daṭṭhabbaṃ. Kiñca vaṇṇakasiṇesu viya purimabhūtakasiṇattayepi vaṇṇapaṭicchāyāva paṇṇatti ārammaṇaṃ jhānassa lokavohārānurodheneva pavattito. Evañca katvā visuddhimagge (visuddhi. 1.57) pathavīkasiṇassa ādāsacandamaṇḍalūpamāvacanañca samatthitaṃ hoti, catutthaṃ pana bhūtakasiṇaṃ bhūtappaṭicchāyameva jhānassa gocarabhāvaṃ gacchatīti tasseva arūpapaṭibhāgatā yuttāti vāyokasiṇeyeva parikammaṃ vuttanti veditabbaṃ.
どうしてここで風遍(vāyokasiṇa)においてのみ準備が述べられているのか?答える――実に、色(rūpa)に対応する遍(kasiṇa)の特殊な種類において、色を顕現することによって、色の離欲を修めるという無色三昧の特殊な種類が実現されるように、身体が不明確なため、無色に対応する遍の特殊な種類において、無色を顕現することによって、無色の離欲を修めるという色三昧の特殊な種類が達成される。ここにおいて、『認識は病である、認識は腫れ物である』など(中部 3.24)や、『心よ、嘆かわしい、その心よ、嘆かわしい』などという方法によって、無色の現象における危険性を示し、その欠如においては静穏で微細であるという結論によって、色三昧を形成する。色の離欲の修行は、近行定とともに無色三昧であり、その中でも特に初無色定である。もしそうであるならば、『限定された虚空遍(paricchinnākāsakasiṇa)においても』と言うべきではないか。それにも無色に対応する性質があるではないか、と?それは、過去の師たちがここで触れていないため、ある人々が言わないことは望ましいことである。実に、色の離欲の修行が、染着されるべき法であるという性質によって完成されるように、染着されるべき法に対応する特定の対象において現れるように、無色の離欲の修行もまたそうであると言うならば、矛盾はない。しかし、異教徒によってその三昧が実践されるべきであること、そして彼らが対象に執着するという、その禅定の実践から、見解を持つ過去の師たちによって、第四の地大遍(bhūtakasiṇa)においてのみ無色の離欲の修行が述べられていると理解されるべきである。さらに、色遍の場合のように、最初の三つの地大遍においても、色の影が認識の対象であり、禅定が世俗的な慣習に従って進む。このようにして、『清浄道論』(清浄道論 1.57)において、地遍が鏡や月輪に喩えられることも支持される。しかし、第四の地大遍は、そのものの影が禅定の対象となるのであり、その場合にのみ無色に対応する性質が適切であると、風遍においてのみ準備が述べられていると理解されるべきである。
Idhevāti pañcavokārabhaveyeva. Tatthāti asaññabhave. Yadi rūpakkhandhamattameva asaññabhave pātubhavati, kathamarūpasannissayena vinā tattha rūpaṃ pavattati, kathaṃ pana rūpasannissayena vinā arūpadhātuyaṃ arūpaṃ pavattati, idampi tena samānajātiyameva. Kasmā? Idheva adassanato. Yadi evaṃ kabaḷīkārāhārena vinā rūpadhātuyaṃ rūpena na pavattitabbaṃ, kiṃ kāraṇaṃ? Idheva adassanato. Api ca yathā yassa cittasantānassa nibbattikāraṇaṃ rūpe avigatataṇhaṃ, tassa saha rūpena sambhavato rūpaṃ nissāya pavatti, yassa pana nibbattikāraṇaṃ rūpe vigatataṇhaṃ, tassa vinā rūpena rūpanirapekkhatāya kāraṇassa, evaṃ yassa rūpappabandhassa nibbattikāraṇaṃ vigatataṇhaṃ arūpe, tassa vinā arūpena pavatti hotīti asaññabhave rūpakkhandhamattameva nibbattati. Kathaṃ pana tattha kevalo rūpappabandho paccuppannapaccayarahito cirakālaṃ pavattatīti paccetabbaṃ, kittakaṃ vā kālaṃ pavattatīti codanaṃ manasi katvā āha **‘‘yathā nāma jiyāvegukkhitto saro’’**tiādi, tena na kevalamāgamoyeva ayamettha yuttīti dasseti. Tattakameva kālanti ukkaṃsato pañca mahākappasatānipi tiṭṭhanti asaññasattā. Jhānavegeti asaññasamāpattiparikkhate kammavege. Antaradhāyatīti paccayanirodhena nirujjhati nappavattati.
『ここにおいて』とは、五蘊の世界においてのことである。『そこにおいて』とは、無想有情界(asaññabhava)においてのことである。もし無想有情界において色蘊(rūpakkhandha)のみが現れるならば、どうしてそこに無色を依拠とせずに色が存続するのか。しかし、どうして色を依拠とせずに無色界において無色が存続するのか。これもまた、それ(無想有情界)と同様の種類である。なぜか?ここにおいて見られないからである。もしそうであるならば、喫食によって供給される食物なしには、色界において色が存続しないはずであるが、その理由は何か?ここにおいて見られないからである。さらに、ある心の系列の生起原因が色に対して渇愛が尽きていない場合、それは色とともに生じるので、色に依存して存続する。しかし、その生起原因が色に対して渇愛が尽きている場合、その原因は色に無関心であるため、色なしに存続する。同様に、ある色の連続体の生起原因が無色に対して渇愛が尽きている場合、それは無色なしに存続するので、無想有情界においては色蘊のみが生起するのである。しかし、そこにおいて純粋な色の連続体が、現在の縁を欠きながら、どのようにして長期間存続するのかと考えるべきであり、またどのくらいの期間存続するのかという問いを心に留めて、彼は**『まるで弦から放たれた矢のように』**などと言う。それによって、ここにおいてこれが単に伝承だけでなく論理的にも説明されていることを示すのである。『それだけの期間』とは、最高の五百大劫も無想有情は存在する。禅定の勢いとは、無想三昧によって尽き果てた業の勢いのことである。『消滅する』とは、縁が滅することによって消滅し、存続しなくなることである。
Idhāti kāmabhave. Kathaṃ pana anekakappasatasamatikkamena ciraniruddhato viññāṇato idha viññāṇaṃ samuppajjati. Na hi niruddhe cakkhumhi cakkhuviññāṇamuppajjamānaṃ diṭṭhanti? Nayidamekantato daṭṭhabbaṃ. Ciraniruddhampi hi cittaṃ samānajātikassa antarānuppajjanato anantarapaccayamattaṃ hotiyeva, na bījaṃ, bījaṃ pana kammaṃ. Tasmā kammato bījabhūtato ārammaṇādīhi paccayehi asaññabhavato cutānaṃ kāmadhātuyā upapattiviññāṇaṃ hotiyeva. Tenāha **‘‘idha paṭisandhisaññā uppajjatī’’**ti. Ettha ca yathā nāma utuniyāmena pupphaggahaṇe niyatakālānaṃ rukkhānaṃ vekhe dinne vekhabalena na yathā niyāmatā hoti pupphaggahaṇassa, evameva pañcavokārabhave avippayogena vattamānesu rūpārūpadhammesu rūpārūpavirāgabhāvanāvekhe dinne tassa samāpattivekhabalassa anurūpato arūpabhave asaññābhave ca yathākkamaṃ rūparahitā arūparahitā ca khandhānaṃ pavatti hotīti veditabbaṃ. Nanu ettha jātisatasahassadasasaṃvaṭṭādīnaṃ matthake, abbhantarato vā pavattāya asaññūpavattiyā vasena lābhīadhiccasamuppannikavādo lābhīsassatavādo viya anekabhedo sambhavatīti? Saccaṃ sambhavati, anantarattā pana āpannāya asaññūpapattiyā vasena lābhīadhiccasamuppannikavādo nayadassanavasena ekova dassitoti daṭṭhabbaṃ. Atha vā sassatadiṭṭhisaṅgahato adhiccasamuppannikavādassa sassatavāde āgato sabbo desanānayo yathāsambhavaṃ adhiccasamuppannikavādepi gahetabboti imassa visesassa dassanatthaṃ bhagavatā lābhīadhiccasamuppannikavādo avibhajitvā desito. Avassañca sassatadiṭṭhisaṅgaho adhiccasamuppannikavādassa icchitabbo saṃkilesapakkhe sattānaṃ ajjhāsayassa duvidhattā. Tathā hi vuttaṃ aṭṭhakathāyaṃ ‘‘sassatucchedadiṭṭhi cā’’ti. Tathā ca vakkhati ‘‘yāsaṃ satteva ucchedadiṭṭhiyo, sesā sassatadiṭṭhiyo’’ti (dī. ni. aṭṭha. 1.97-98).
「ここ」とは欲界において。では、多くの百劫を越えて久しく滅した識から、この世で識が生じるのはどのようにか。滅した眼において眼識が生じないように、と見なされるのではないか?これは一面的に見るべきではない。久しく滅した心も、同類のものが間断なく生じることから、無間縁に過ぎない。それは種子ではなく、種子とは業である。それゆえ、種子たる業から、また対象などの縁によって、無想有から死んだ者たちの欲界における結生識は生じるのである。そこで「ここで結生という想が生じる」と言われたのである。ここで、あたかも季節の法則によって開花期が定まっている樹木に水を与えても、その水の力によって必ずしも開花しないように、五蘊有において離れることなく存在している色・無色法に対して、色・無色への厭離の瞑想という水を与えると、その禅定の水の力にふさわしく、無色有および無想有において、それぞれ色を伴わない、無色を伴わない蘊の活動が生じる、と知られるべきである。まさにここで、何十万もの生、または内部で起こる無想の生成によって、無因偶現論を得た者、常住論を得た者のように、多くの区別が生じないのか?確かに生じる。しかし、無間なる無想の生成を得た者によって、その無因偶現論は、見解の示し方においては一つであると見なされるべきである。あるいは、常住見の範疇に属することから、無因偶現論においては、常住論におけるすべての教説の様式が、可能な限り無因偶現論においても採用されるべきである、というこの特徴を示すために、世尊によって、無因偶現論を得た者が区別されずに説かれた。そして、汚染の側にいる衆生の性向が二種類であることから、無因偶現論には必ず常住見の範疇が望まれる。実際、注釈書には「常住論と断滅論と」と述べられている。また、「七つの断滅見があり、残りは常住見である」と説かれるだろう(長部注釈書 1.97-98)。
Nanu ca adhiccasamuppannikavādassa sassatadiṭṭhisaṅgaho na yutto. ‘‘Ahañhi pubbe nāhosi’’ntiādivasena pavattanato, apubbasattapātubhāvaggāhattā, attano lokassa ca sadābhāvagāhinī ca sassatadiṭṭhi ‘‘atthitveva sassatisama’’nti pavattanato? No na yutto anāgate koṭiadassanato. Yadipi hi ayaṃ vādo ‘‘somhi etarahi ahutvā santatāya pariṇato’’ti (dī. ni. 1.68) attano lokassa ca atītakoṭiparāmasanavasena pavatto, tathāpi vattamānakālato paṭṭhāya na tesaṃ katthaci anāgate pariyantaṃ passati, visesena ca paccuppannānāgatakālesu pariyantādassanapabhāvito sassatavādo. Yathāha ‘‘sassatisamaṃ tatheva ṭhassatī’’ti. Yadi evaṃ imassa vādassa, sassatavādādīnañca pubbantakappikesu saṅgaho na yutto anāgatakālaparāmasanavasena pavattattāti? Na, samudāgamassa atītakoṭṭhāsikattā. Tathā hi nesaṃ samuppatti atītaṃsapubbenivāsañāṇehi, tappaṭirūpakānussavādippabhāvitatakkanehi ca saṅgahitāti, tathā ceva saṃvaṇṇitaṃ. Atha vā sabbattha appaṭihatañāṇena vādivarena dhammassāminā niravasesato agatiñca gatiñca yathābhūtaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā paveditā etā diṭṭhiyo, tasmā yāvatikā diṭṭhiyo bhagavatā desitā, yathā ca desitā, tathā tathāva sanniṭṭhānato sampaṭicchitabbā, na ettha yuttivicāraṇā kātabbā buddhavisayattā. Acinteyyo hi buddhavisayoti.
無因偶現論が常住見の範疇に属するのは不適切ではないか。「私はかつていなかった」というふうに生じるため、そして以前には存在しなかった衆生の出現を主張するため、また、常住見は「常に同じく存在している」というふうに生じるので、自らの世界が常に存在していると主張するからではないか?いや、不適切ではない。未来の終端を考えれば。たとえこの論が「私は今、以前は存在しなかったのに、連続して存在している」というふうに(長部 1.68)、自分と世界が過去の終端を考慮して生じるものであったとしても、現在から未来のどこかにそれらの終端を見ることはなく、特に現在と未来において終端を見ないという点で常住論は強調される。例えば、「常に同じく、そのままであるだろう」と述べられるように。もしそうであるならば、この論と常住論などの先行終端論者たちが、未来の終端を考慮して生じることから、その範疇に属するのは不適切ではないのか?いや、起源が過去の部分に属するからである。実際、それらの生起は過去の側面である宿住智や、それに対応する伝聞などによって生じた推論によって包含されており、そのように説明されている。あるいは、すべての領域において無碍智を有する論師たる法主によって、これらの見解は、輪廻の行路と離脱の行路を余すところなく、あるがままに自ら証知し、説示されたものである。それゆえ、世尊が説かれた見解は、説かれた通りに、そのように結論として受け入れるべきであり、ここでは理由の考察をするべきではない。なぜなら、仏の領域は不可思議だからである。
Dutiyabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第二朗唱部の解説が完了した。
74. ‘‘Aparante ñāṇaṃ, aparantānudiṭṭhino’’tiādīsu viya apara-saddo idha anāgatakālavācakoti āha **‘‘anāgatakoṭṭhāsasaṅkhāta’’**nti. Aparantaṃ kappetvātiādīsu ‘‘pubbantaṃ kappetvā’’tiādīsu vuttanayena attho veditabbo. Visesamattameva vakkhāma.
74. 「後末端における知識、後末端を推察する者」などにおいて、「アパラ」という語はここで未来の時を意味すると述べている。したがって、「未来の側面と称されるもの」となる。「後末端を想定して」などにおいて、「前末端を想定して」などで述べられた方法に従って意味が理解されるべきである。我々はただその特徴だけを説明する。
75. Uddhamāghātanāti pavatto vādo uddhamāghātano, so etesaṃ atthīti uddhamāghātanikā. Yasmā pana te diṭṭhigatikā ‘‘uddhaṃ maraṇā attā nibbikāro’’ti vadanti, tasmā **‘‘uddhamāghātanā attānaṃ vadantīti uddhamāghātanikā’’**ti vuttaṃ. Saññīvādo etesaṃ atthīti saññīvādā ‘‘buddhaṃ assa atthīti buddho’’ti yathā. Atha vā saññīti pavatto vādo saññī sahacaraṇanayena, saññī vādo etesanti saññīvādā.
75. 「上方に打撃を加える」と生じた論は「上方打撃論」であり、それが彼らにとって存在するので「上方打撃論者」となる。しかし、彼ら見解論者たちは「死後、アートマンは変化しない」と述べるので、「死後にアートマンが打撃を受けると主張する者たちは、上方打撃論者である」と述べられている。彼らにとって有想論が存在するので「有想論者」である。例えば、「仏が彼にあるので仏」であるように。あるいは、「想」という語から生じた論は「有想」であり、共存の論法によって、「彼らにとって有想の論がある」ので「有想論者」となる。
76-77. Rūpī attāti ettha nanu rūpavinimuttena attanā bhavitabbaṃ saññāya viya rūpassapi attaniyattā. Na hi ‘‘saññī attā’’ti ettha saññā attā. Teneva hi **‘‘tattha pavattasaññañcassa saññāti gahetvā’’**ti vuttaṃ. Evaṃ sati kasmā kasiṇarūpaṃ ‘‘attā’’ti gahetvā vuttanti? Na kho panetaṃ evaṃ daṭṭhabbaṃ ‘‘rūpaṃ assa atthīti rūpī’’ti, atha kho ‘‘ruppanasīlo rūpī’’ti. Ruppanañcettha rūpasarikkhatāya kasiṇarūpassa vaḍḍhitāvaḍḍhitakālavasena visesāpatti, sā ca ‘‘natthī’’ti na sakkā vattuṃ parittavipulatādivisesasabbhāvato. Yadi evaṃ imassa vādassa sassatadiṭṭhisaṅgaho na yujjatīti? No na yujjati kāyabhedato uddhaṃ attano nibbikāratāya tena adhippetattā. Tathā hi vuttaṃ ‘‘arogo **paraṃ maraṇā’’**ti. Atha vā ‘‘rūpaṃ assa atthīti rūpī’’ti vuccamānepi na doso. Kappanāsiddhenapi hi bhedena abhedassāpi niddesadassanato, yathā ‘‘silāputtakassa sarīra’’nti. Ruppanaṃ vā rūpasabhāvo rūpaṃ, taṃ etassa atthīti rūpī, attā ‘‘rūpino dhammā’’tiādīsu (dha. sa. dukamātikā 11) viya. Evañca katvā rūpasabhāvattā attano ‘‘rūpī attā’’ti vacanaṃ ñāyāgatamevāti **‘‘kasiṇarūpaṃ ‘attā’ti gahetvā’’**ti vuttaṃ. Niyatavāditāya kammaphalapaṭikkhepato natthi ājīvakesu jhānasamāpattilābhoti āha **‘‘ājīvakādayo viya takkamatteneva vā rūpī attā’’**ti. Tathā hi kaṇhābhijātiādīsu chaḷābhijātīsu aññataraṃ attānaṃ ekacce ājīvakā paṭijānanti. Natthi etassa rogo bhaṅgoti arogoti aroga-saddassa niccapariyāyatā veditabbā, rogarahitatāsīsena vā nibbikāratāya niccataṃ paṭijānāti diṭṭhigatikoti āha **‘‘arogoti nicco’’**ti.
76-77. 「色を有するアートマン」において、想のように色もアートマンに属するのだから、色から離れたアートマンがあるべきではないか。実際、「想を有するアートマン」において、想はアートマンではない。それゆえ、「そこで生じた想をその想と見なして」と述べられたのである。そのようにであるならば、なぜカシナの対象を「アートマン」と見なして説かれたのか?しかし、これは「色を彼が有するので色を有する」と見なされるべきではなく、むしろ「崩壊する性質を持つので色を有する」と見なされるべきである。ここで「崩壊」とは、色の粗雑さによって、カシナの対象の増減の時期に応じて特殊な状態になることであり、それは「存在しない」とは言えない。なぜなら、わずかさや広大さなどの特殊な状態が存在するからである。もしそうであるならば、この論が常住見の範疇に属するのは不適切ではないか?いや、不適切ではない。肉体の崩壊後もアートマンが変化しないと彼が主張するからである。実際、「病なき者は死後」と述べられている。あるいは、「色を彼が有するので色を有する」と述べられても問題はない。実際、想像によって成立する区別によって、無区別をも示すことができるからである。例えば、「石の子の身体」のように。あるいは、崩壊する性質が色であり、それをアートマンが有するので色を有する。例えば、「色ある法」など(ダンマサンガニー ドゥカマティカー 11)においてのように。このようにして、アートマンが色の性質を持つことから、「色を有するアートマン」という言葉は当然のことであり、「カシナの対象を『アートマン』と見なして」と述べられている。宿命論者であるため、業の果報を否定することから、アージーヴァカ教徒には禅定の獲得がないので、「アージーヴァカ教徒などのように、ただ推論によって色を有するアートマンである」と述べている。実際、黒い生など六つの生のうちの一つを、一部のアージーヴァカ教徒はアートマンとして認める。「これに病や破壊がないので病なき者である」と。「病なき者」という語は「常恒」と同義であると理解されるべきであり、あるいは、病がないことによって、見解論者は変化がないことによって常恒性を主張すると述べている。「病なき者とは常恒である」と。
Kasiṇugghāṭimākāsapaṭhamāruppaviññāṇanatthibhāvaākiñcaññāyatanāni arūpasamāpattinimittaṃ nimbapaṇṇe tittakaraso viya sarīraparimāṇo arūpī attā tattha tiṭṭhatīti nigaṇṭhāti āha **‘‘nigaṇṭhādayo viyā’’**ti. Missakagāhavasenāti rūpārūpasamāpattīnaṃ nimittāni ekajjhaṃ katvā ‘‘eko attā’’ti, tattha pavattasaññañcassa ‘‘saññā’’ti gahaṇavasena. Ayañhi diṭṭhigatiko rūpārūpasamāpattilābhitāya tannimittaṃ rūpabhāvena arūpabhāvena ca attā upatiṭṭhati, tasmā ‘‘rūpī ca arūpī cā’’ti abhinivesaṃ janesi ajjhattavādino viya, takkamatteneva vā rūpārūpadhammānaṃ missakaggahaṇavasena ‘‘rūpī arūpī ca attā hotī’’ti.
カシナを取り払った虚空、最初の無色識、何も存在しないという領域は無色定の対象であり、ニームの葉の苦味のように、身体の大きさの無色のアートマンがそこに存在すると、ニガンダが言う。そこで、「ニガンダ教徒などのように」と述べられている。「混合して捉える」とは、色と無色の禅定の対象を一つにまとめ、「アートマンは一つである」とすることであり、そこで生じる想を「想」と捉えることによる。実際、この見解論者は、色と無色の禅定を得ているため、その対象は色としても無色としてもアートマンとして現れる。それゆえ、「色でもあり、無色でもある」という執着を、内部論者のように生じさせた。あるいは、ただ推論によって、色と無色という法を混合して捉えることで、「アートマンは色でもあり、無色でもある」となる。
Takkagāhenevāti saṅkhārāvasesasukhumabhāvappattadhammā viya accantasukhumabhāvappattiyā sakiccasādhanāsamatthatāya thambhakuṭṭahatthapādādisaṅghāto viya neva rūpī, rūpasabhāvānativattanato na arūpīti evaṃ pavattatakkagāhena. Atha vā antānantikacatukkavāde viya aññamaññapaṭikkhepavasena attho veditabbo. Kevalaṃ pana tattha desakālabhedavasena tatiyacatutthavādā dassitā, idha kālavatthubhedavasenāti ayameva visesoti. Kālabhedavasena cettha tatiyavādassa pavatti rūpārūpanimittānaṃ saha anupaṭṭhānato. Catutthavādassa pana vatthubhedavasena pavatti rūpārūpadhammānaṃ samūhato ‘‘eko attā’’ti takkanavasenāti tattha vuttanayānusārena veditabbaṃ.
「ただ推論によって捉える」とは、まるで極めて微細な状態に達した行に残された法のように、極めて微細な状態に達したことにより、その機能を果たすことができないため、柱や壁、手足などの集合体のように、色でもなく、色の性質から逸脱しないため、無色でもない、というふうに生じる推論によって捉えることである。あるいは、有辺無辺四句分別論のように、互いを否定することによって意味が理解されるべきである。しかし、そこでは場所と時間の区別によって第三、第四の論が示されたが、ここでは時間と対象の区別によって示されるという点が違いである。ここで時間による区別において第三の論が生じるのは、色と無色の対象が同時に現れないからである。しかし、第四の論が対象による区別において生じるのは、色と無色の法が群れをなして「アートマンは一つである」と推論することによるので、そこでのべられた方法に従って理解されるべきである。
Dutiyacatukke yaṃ vattabbaṃ, taṃ ‘‘amati gacchati ettha bhāvo osāna’’ntiādinā antānantikavāde vuttanayena veditabbaṃ.
第二の四句分別において述べられるべきことは、「ここでは存在が終極に至る」などによって、有辺無辺論で述べられた方法に従って理解されるべきである。
Yadipi aṭṭhasamāpattilābhino diṭṭhigatikassa vasena samāpattibhedena saññābhedasambhavato ‘‘nānattasaññī attā’’ti ayampi vādo samāpannakavasena labbhati. Tathāpi samāpattiyaṃ ekarūpeneva saññāya upaṭṭhānato samāpannakavasena **‘‘ekattasaññī’’**ti āha. Tenevettha samāpannakaggahaṇaṃ kataṃ. Ekasamāpattilābhino eva vā vasena attho veditabbo. Samāpattibhedena saññābhedasambhavepi bahiddhā puthuttārammaṇe saññānānattena oḷārikena nānattasaññitaṃ dassetuṃ **‘‘asamāpannakavasena nānattasaññī’’**ti vuttaṃ. **‘‘Parittakasiṇavasena parittasaññī’’**ti iminā satipi saññāvinimutte dhamme ‘‘saññāyeva attā’’ti vadatīti dassitaṃ hoti. Kasiṇaggahaṇañcettha saññāya visayadassanaṃ, evaṃ vipulakasiṇavasenāti etthāpi attho veditabbo. Evañca katvā antānantikavāde, idha ca antānantikacatukke paṭhamadutiyavādehi imesaṃ dvinnaṃ vādānaṃ viseso siddho hoti, aññathā vuttappakāresu vādesu pubbantāparantakappanabhedena satipi kehici visese kehici natthi yevāti. Atha vā ‘‘aṅguṭṭhappamāṇo attā, yavappamāṇo, aṇumatto vā attā’’ti ādidassanavasena paritto saññī cāti parittasaññī, kapilakaṇādādayo viya attano sabbagatabhāvapaṭijānanavasena appamāṇo saññī cāti appamāṇasaññīti evampettha attho daṭṭhabbo.
たとえ八定を得た見解論者において、禅定の区別によって想の区別が生じることから、「多様な想を有するアートマン」というこの論も、禅定に入った者の立場から受け入れられる。それでも、禅定においては想が唯一の形で現れることから、禅定に入った者の立場から「単一の想を有する者」と述べている。それゆえ、ここで「禅定に入った者」という捉え方がなされている。あるいは、ただ一つの禅定を得た者の立場から意味が理解されるべきである。禅定の区別によって想の区別が生じる可能性があっても、外部の多様な対象において、想の多様性によって、粗雑な意味での多様な想の状態を示すために、「禅定に入っていない者の立場からは多様な想を有する者」と述べられている。「わずかなカシナの対象を基盤として、わずかな想を有する者」というこれによって、想から離れた法が存在しても、「想こそがアートマンである」と主張していることが示されている。ここでのカシナという捉え方は、想の対象を示すものであり、同様に「広大なカシナを基盤として」という点においても意味が理解されるべきである。このようにして、有辺無辺論と、ここにおける有辺無辺四句分別において、最初の二つの論によって、これら二つの論の特殊性が証明される。さもなければ、述べられた種類の論においては、前末端と後末端の想定の区別があっても、いくつかの違いはあるが、全く違いがないものもあるだろう。あるいは、「アートマンは親指の大きさである、大麦の大きさである、あるいは微細なアートマンである」というなどの見方によって「わずかな想を有するアートマン」となるので「わずかな想を有する者」であり、カピラやカナダなどのように、自らの遍在性を認める見方によって「測り知れない想を有するアートマン」となるので「測り知れない想を有する者」である、というふうに、ここでの意味が理解されるべきである。
Dibbacakkhuparibhaṇḍatāya yathākammūpagañāṇassa dibbacakkhupabhāvajanitena yathākammūpagañāṇena dissamānāpi sattānaṃ sukhādisamaṅgitā dibbacakkhunāva diṭṭhā hotīti āha **‘‘dibbena cakkhunā’’**tiādi. Nanu ca ‘‘ekantasukhī attā’’tiādivādānaṃ aparantadiṭṭhibhāvato ‘‘nibbattamānaṃ disvā’’ti vacanaṃ anupannanti? Nānupapannaṃ, anāgatassa ekantasukhibhāvādikassa pakappanaṃ paccuppannāya nibbattiyā dassanena adhippetanti. Tenevāha ‘‘nibbattamānaṃ disvā ‘ekantasukhī’ti gaṇhātī’’ti. Ettha ca tassaṃ tassaṃ bhūmiyaṃ bahulaṃ sukhādisahitadhammappavattidassanena tesaṃ ‘‘ekantasukhī’’ti gāho daṭṭhabbo. Atha vā hatthidassakaandhā viya diṭṭhigatikā yaṃ yadeva passanti, taṃ tadeva abhinivissa voharantīti na ettha yutti maggitabbā.
天眼の道具である業生智によって、天眼の力によって生じた業生智によって見られる衆生の幸福などの伴う状態は、天眼によってのみ見られると述べている。そこで「天眼によって」などと述べられている。「アートマンは絶対的に幸福である」などの論が後末端の見解であることから、「生じているのを見て」という言葉は不適切ではないのか?不適切ではない。未来における絶対的な幸福などの想定は、現在の生起を見ることで意図されるのである。それゆえ、「生じているのを見て『絶対的に幸福である』と捉える」と述べられている。ここで、それぞれの境地において、多くの幸福などを伴う法の生起を見ることで、彼らが「絶対的に幸福である」と捉えることが理解されるべきである。あるいは、象を見る盲人のように、見解論者は自分が見るものだけを執着して語るので、ここでは論理を追求すべきではない。
78-83. Asaññīvāde asaññabhave nibbattasattavasena paṭhamavādo, ‘‘saññaṃ attato samanupassatī’’ti ettha vuttanayena saññaṃyeva ‘‘attā’’ti gahetvā tassa kiñcanabhāvena ṭhitāya aññāya saññāya abhāvato ‘‘asaññī’’ti pavatto dutiyavādo, tathā saññāya saha rūpadhamme, sabbe eva vā rūpārūpadhamme ‘‘attā’’ti gahetvā pavatto tatiyavādo, takkagāhavaseneva catutthavādo pavatto. Tassa pubbe vuttanayeneva attho veditabbo. Dutiyacatukkepi kasiṇarūpassa asañjānanasabhāvatāya asaññīti katvā antānantikavāde vuttanayeneva cattāropi veditabbā. Tathā nevasaññīnāsaññīvādepi nevasaññīnāsaññībhave nibbattasattasseva cutipaṭisandhīsu, sabbattha vā paṭusaññākiccaṃ kātuṃ asamatthāya sukhumāya saññāya atthibhāvapaṭijānanavasena paṭhamavādo, asaññīvāde vuttanayena sukhumāya saññāya vasena, sañjānanasabhāvatāpaṭijānena ca dutiyavādādayo pavattāti evaṃ ekena pakārena satipi kāraṇapariyesanassa sambhave diṭṭhigatikavādānaṃ anādaraṇīyabhāvadassanatthaṃ **‘‘tattha na ekantena kāraṇaṃ pariyesitabba’’**nti vuttanti daṭṭhabbaṃ. Etesañca saññīasaññīnevasaññīnāsaññīvādānaṃ ‘‘arogo paraṃ maraṇā’’ti vacanato sassatadiṭṭhisaṅgaho pākaṭoyeva.
78-83. 無想論において、無想有に生まれた有情に関しての第一の説は、「想を我として観察する」とここで述べた方法によって、想それ自体を「我」と捉え、それが微細なものであるが故に存在する他の想がないために「無想」として生じた第二の説であり、同様に、想と共に色法を、あるいは全ての色法・非色法を「我」と捉えて生じた第三の説であり、憶測の把握によって第四の説が生じた。その意味は、以前に述べた方法と同様に理解されるべきである。第二の四つのグループにおいても、カシナの形を認識しない性質によって無想とみなされ、辺無辺論で述べられた方法と同様に四つ全てが理解されるべきである。同様に、非想非非想論においても、非想非非想有に生まれた有情の死と再生において、あるいはあらゆる場所で粗大な想の作用を行うことができない微細な想の存在を認めることによって第一の説が。無想論で述べられた方法によって、微細な想によって、また認識の性質を認めることによって、第二の説などが生じる。このように、一つの方法で原因の探求が可能であっても、見解に陥った説(見論)が尊重されるべきではないことを示すために、「そこでは原因を一方的に探求すべきではない」と述べられていると理解されるべきである。そして、これらの想、無想、非想非非想論が「死後病なく」という言葉によって常住論に含まれることは明白である。
84. Asato vināsāsambhavato atthibhāvanibandhano ucchedoti vuttaṃ **‘‘sato’’**ti. Yathā hetuphalabhāvena pavattamānānaṃ sabhāvadhammānaṃ satipi ekasantānapariyāpannānaṃ bhinnasantatipatitehi visese hetuphalānaṃ paramatthato bhinnasabhāvattā bhinnasantānapatitānaṃ viya accantabhedasanniṭṭhānena nānattanayassa micchāgahaṇaṃ ucchedābhinivesassa kāraṇaṃ, evaṃ hetuphalabhūtānaṃ dhammānaṃ vijjamānepi sabhāvabhede ekasantatipariyāpannatāya ekattanayena accantamabhedaggahaṇampi kāraṇaṃ evāti dassetuṃ ‘‘sattassā’’ti vuttaṃ pāḷiyaṃ. Santānavasena hi vattamānesu khandhesu ghanavinibbhogābhāvena sattagāho, sattassa ca atthibhāvagāhanibandhano ucchedagāho yāvāyaṃ attā na ucchijjati, tāvāyaṃ vijjatiyevāti gahaṇato, nirudayavināso vā idha ucchedoti adhippetoti āha **‘‘upaccheda’’**nti. Visesena nāso vināso, abhāvo. So pana maṃsacakkhupaññācakkhūnaṃ dassanapathātikkamoyeva hotīti āha **‘‘adassana’’**nti. Adassane hi nāsa-saddo loke niruḷhoti. Bhāvavigamanti sabhāvāpagamaṃ. Yo hi nirudayavināsavasena ucchijjati, na so attano sabhāvena tiṭṭhatīti. Lābhīti dibbacakkhuñāṇalābhī. Cutimattamevāti sekkhaputhujjanānampi cutimattameva. Na upapātanti pubbayogābhāvena, parikammākaraṇena vā upapātaṃ daṭṭhuṃ na sakkoti. **‘‘Alābhī ca ko paralokaṃ na jānātī’’**ti natthikavādavasena, mahāmūḷhabhāveneva vā ‘‘ito añño paraloko atthī’’ti anavabodhamāha. Ettakoyeva visayo, yo yaṃ indriyagocaroti. Attano dhītuyā hatthagaṇhanakarājādi viya kāmasukhagiddhatāya vā. **‘‘Na puna viruhantī’’**ti patitapaṇṇānaṃ vaṇṭena appaṭisandhikabhāvamāha. Evameva sattāti yathā paṇḍupalāso bandhanā pavutto na paṭisandhiyati, evaṃ sabbe sattā appaṭisandhikamaraṇameva nigacchantīti. Jalapubbūḷakūpamā hi sattāti tassa laddhi. Tathāti vuttappakārena. Lābhinopi cutito uddhaṃ adassaneneva imā diṭṭhiyo uppajjantīti āha **‘‘vikappetvā vā’’**ti.
84. 存在しないものの破壊は不可能であるため、存在するものの破滅に基づく断滅であると「存在するもの」と述べられる。原因と結果という関係で進行する、同一の連なりに含まれる自性法であっても、異なった連続に属するものと区別されるように、原因と結果が究極的には異なる性質を持つため、異なった連続に属するもののように完全に区別されると見なす多様性の捉え間違いが断滅論への執着の原因となる。同様に、原因と結果の関係にある法において、自性には違いがあっても、同一の連なりに含まれることにより、一体性として完全に区別されないと捉えることもまた原因である、ということを示すために、パーリ語で「有情の」と述べられている。実に、連なりとして進行する諸蘊において、密な分離の欠如によって有情という捉え方が生じる。そして、有情の存在把握に基づく断滅の把握は、「この我は破壊されない限り、存在し続ける」という捉え方によって、あるいは「生起を伴わない消滅」がここでの断滅であるという意味で、「滅尽」と述べられる。特別に、滅失、消滅、非存在。それは肉眼や智慧の目の視界を超えるものであるため、「見えないこと」と述べられる。見えないことにおいて、滅失という言葉は世間で慣用化している。存在の消滅とは、自性の離脱である。生起を伴わない消滅によって断滅するものは、自らの自性において存在しない。獲得者とは、天眼智の獲得者である。命終のみとは、有学者や凡夫にとっても命終のみである。再生はない、とは、過去の縁がないため、あるいは準備行為がなされなかったために再生を見ることができない。「獲得者ではない者は誰が他界を知るか」とは、虚無論の立場から、あるいは大いなる愚かさによって、「これ以外に他界がある」という理解の欠如を述べる。これがその対象であり、それは感覚器官の領域である。自分の娘の手を取る王などのように、あるいは欲楽に貪着しているため。「再び成長しない」とは、落ちた葉が枝につながらないように、再生がない状態を述べる。そのように有情たちは、まるで枯れ葉が枝から離れて再びつながらないように、全ての有情が再生なき死を迎えるという。有情は水泡のようなものであるというのが彼の教義である。そのように、述べられた種類によって。獲得者でさえも、命終の後には見えないことによってこれらの見解が生じるため、「あるいは推測して」と述べられる。
Etthāha – yathā amarāvikkhepikavādā ekantaalābhīvaseneva dassitā, yathā ca uddhamāghātanikasaññīvādacatukko ekantalābhīvaseneva, na evamayaṃ. Ayaṃ pana sassatekaccasassatavādādayo viya lābhīalābhīvasena pavatto. Tathā hi vuttaṃ **‘‘tattha dve janā’’**tiādi. Yadi evaṃ kasmā sassatavādādidesanāhi idha aññathā desanā pavattāti? Vuccate – desanāvilāsappattito. Desanāvilāsappattā hi buddhā bhagavanto, te veneyyajjhāsayānurūpaṃ vividhenākārena dhammaṃ desenti, aññathā idhāpi ca evaṃ bhagavā deseyya ‘‘idha bhikkhave ekacco samaṇo vā brāhmaṇo vā ātappamanvāya…pe… yathāsamāhite citte sattānaṃ cutūpapātañāṇāya cittaṃ abhininnāmeti, so dibbena cakkhunā visuddhena atikkantamānusakena arahato cuticittaṃ passati, puthūnaṃ vā parasattānaṃ, na heva kho taduddhaṃ upapattiṃ, so evamāha ‘yathā kho bho ayaṃ attā’’’ tiādinā visesalābhino, takkino ca visuṃ katvā, tasmā desanāvilāsena veneyyajjhāsayānurūpaṃ sassatavādādidesanāhi aññathāyaṃ desanā pavattāti daṭṭhabbaṃ.
ここで述べられる。不死不定論者が絶対的な獲得者ではない者としてのみ示され、上方傷害想論の四つの説が絶対的な獲得者としてのみ示されたように、これはそうではない。これは、常住論や一部常住論などのように、獲得者と非獲得者という立場から進行する。実際、「そこに二人の人がいる」などと述べられている。もしそうであるならば、なぜ常住論などの教説とここで異なった教説が進行するのか?答えは、教説の巧みさの到達による。実際、仏陀たる世尊たちは教説の巧みさに達しており、彼らは教化されるべき者の意図に合わせて様々な形で法を説かれる。もしそうでなければ、世尊はここでもこのように説かれたであろう。「比丘たちよ、ここに、ある沙門またはバラモンが熱心に修行し…(中略)…心が統一されたとき、有情の死と再生の知識のために心を向け、彼は清浄で人間を超えた天眼をもって阿羅漢の死の心を見るか、あるいは他の様々な有情の死の心を見るが、その後の再生を見ることはない。彼はこのように言う、『友よ、この我は…』」などと、特別な獲得者と推測者を区別して。したがって、教説の巧みさによって、教化されるべき者の意図に合わせて、常住論などの教説と異なってこの教説が進行すると理解されるべきである。
Atha vā ekaccasassatavādādīsu viya na idha takkīvādito visesalābhīvādo bhinnākāro, atha kho samānabhedatāya samānākāroyevāti imassa visesassa pakāsanatthaṃ bhagavatā ayamucchedavādo purimavādehi visiṭṭhākāro desito. Sambhavati hi takkinopi anussavādivasena adhigamavato viya idha abhiniveso. Atha vā na imā diṭṭhiyo bhagavatā anāgate evaṃ bhāvīvasena desitā, nāpi parikappavasena, atha kho yathā yathā diṭṭhigatikehi ‘‘idameva saccaṃ, moghamañña’’nti paññattā, tathā tathā yathābhuccaṃ sabbaññutaññāṇena paricchinditvā pakāsitā. Yehi gambhīrādippakārā aputhujjanagocarā buddhadhammā pakāsanti, yesañca parikittanena tathāgatā sammadeva thomitā honti. Ucchedavādīhi ca diṭṭhigatikehi yathā uttaruttarabhavadassīhi aparabhavadassīnaṃ tesaṃ vādapaṭisedhavasena sakasakavādā patiṭṭhāpitā, tathāyaṃ desanā pavattāti purimadesanāhi imissā desanāya pavattibhedo na codetabbo. Evañca katvā arūpabhavabhedavasena viya kāmarūpabhavabhedavasenāpi ucchedavādo vibhajitvā daṭṭhabbo. Atha vā paccekaṃ kāmarūpabhavabhedavasena viya arūpabhavavasenāpi na vibhajitvā vattabbo, evañca sati bhagavatā vuttasattakato bahutarabhedo, appatarabhedo vā ucchedavādo āpajjatīti evaṃ pakārāpi codanā anavakāsāvāti.
あるいは、一部常住論などにおいてのように、ここでは推測者の説から特別な獲得者の説が異なる形ではない。むしろ、同じ種類であるため同じ形であるという、この特殊性を示すために、世尊によってこの断滅論が以前の説よりも優れた形で説かれた。実に、推測者も伝聞などによって獲得者のようにここに執着することが可能である。あるいは、これらの見解は世尊によって将来このように存在するであろうとして説かれたのではなく、また仮説によってでもない。むしろ、見解に陥った者たちによって「これこそが真実であり、他は虚妄である」と制定された通りに、世尊は遍知の智慧によって真実を区別して明かしたのである。それらによって、凡夫の領域ではない深遠な種類の仏陀の法が明らかにされ、その賞賛によって如来は正しく賞賛されるのである。断滅論者である見解に陥った者たちによって、より上位の存在を見る者たちが下位の存在を見る者たちの説を否定する形で彼ら自身の説が確立されたように、この教説は進行するのであり、以前の教説とこの教説の進行の相違を非難すべきではない。このようにして、無色界の存在の区別によるように、欲界・色界の存在の区別によっても断滅論は分類されて理解されるべきである。あるいは、個々の欲界・色界の存在の区別によってのように、無色界の存在によっても分類して述べるべきではない。そうであるならば、世尊が述べた七つの説よりも多くの、あるいはより少ない種類の断滅論が生じるというような質問も機会がないことになる。
Etthāha – yuttaṃ tāva purimesu tīsu vādesu ‘‘kāyassa bhedā’’ti vuttaṃ pañcavokārabhavapariyāpannaṃ attabhāvaṃ ārabbha pavattattā tesaṃ vādānaṃ, catuvokārabhavapariyāpannaṃ pana attabhāvaṃ nissāya pavattesu catutthādīsu catūsu vādesu kasmā ‘‘kāyassa bhedā’’ti vuttaṃ. Na hi arūpīnaṃ kāyo vijjatīti? Saccametaṃ, rūpattabhāve pavattavohāreneva pana diṭṭhigatiko arūpattabhāvepi kāyavohāraṃ āropetvā āha ‘‘kāyassa bhedā’’ti. Yathā ca diṭṭhigatikā diṭṭhiyo paññāpenti, tathā ca bhagavā dassetīti, arūpakāyabhāvato vā phassādidhammasamūhabhūte arūpattabhāve kāyaniddeso daṭṭhabbo. Ettha ca kāmadevattabhāvādiniravasesavibhavapatiṭṭhāpakānaṃ dutiyavādādīnaṃ yutto aparantakappikabhāvo anāgataddhavisayattā tesaṃ vādānaṃ, na pana diṭṭhigatikapaccakkhabhūtamanussattabhāvasamucchedapatiṭṭhāpakassa paṭhamavādassa paccuppannavisayattā. Dutiyavādādīnañhi purimapurimavādasaṅgahitasseva attano taduttaruttaribhavopapannassa samucchedato yujjati aparantakappikatā, tathā ca ‘‘no ca kho bho ayaṃ attā ettāvatā sammā samucchinno hotī’’tiādi vuttaṃ, yaṃ pana tattha vuttaṃ ‘‘atthi kho bho añño attā’’ti, taṃ manussakāyavisesāpekkhāya vuttaṃ, na sabbathā aññabhāvatoti? No na yutto, idhalokapariyāpannattepi ca paṭhamavādavisayassa anāgatakālasseva tassa adhippetattā paṭhamavādinopi aparantakappikatāya na koci virodhoti.
ここで言う。以前の三つの説において「身体の破壊」と述べられているのは、五蘊の存在の領域に含まれる自我について展開されるものであるから適切である。しかし、四蘊の存在の領域に含まれる自我に基づいている第四の説以降の四つの説において、なぜ「身体の破壊」と述べられるのか。無色界の者には身体が存在しないではないか、と。それは真実である。しかし、見解に陥った者は色体の存在における慣用の言葉を用いて、無色体の存在においても「身体」という言葉を当てはめて「身体の破壊」と述べるのである。見解に陥った者が見解を制定するように、世尊はそれを示すのである。あるいは、触などの法が集まった状態である無色体の存在を無色体と見なして、「身体」という表現が用いられていると理解されるべきである。ここで、欲界の神などの存在の残りの全ての存在を確立する第二の説などにおいては、それらの説が未来世を対象とするため、後の未来について考える者という性質が適切である。しかし、見解に陥った者によって現実に知覚される人間存在の完全な断滅を確立する第一の説は、現在を対象とするため適切ではない、と。第二の説などにおいては、以前の説に含まれるもの自身が、その後のより上位の存在に生じるものの断滅から、後の未来について考える者ということが適切である。そして、「友よ、この我はこれだけでは正しく完全に断滅するのではない」などと述べられている。そこに「友よ、別の我がある」と述べられているのは、人間体という特定の意味合いで述べられているのであり、あらゆる点で別であるということではないのか?いや、適切ではない。この世に含まれるものであっても、第一の説の対象が未来世であると意図されているため、第一の説の者も後の未来について考える者であることに矛盾はない。
93. Diṭṭhadhammoti dassanabhūtena ñāṇena upaladdhadhammo. Tattha yo anindriyavisayo, sopi supākaṭabhāvena indriyavisayo viya hotīti āha **‘‘diṭṭhadhammoti paccakkhadhammo vuccatī’’**ti. Teneva ca **‘‘tattha tattha paṭiladdhattabhāvassetaṃ adhivacana’’**nti vuttaṃ.
93. 現法とは、見るという作用である智慧によって到達された法である。そこにおいて、感覚器官の対象ではないものも、非常に明白であることによって感覚器官の対象のようになるため、「現法とは直接知覚される法と呼ばれる」と述べる。それゆえに「そこかしこで獲得された状態の名称である」と述べられる。
95. Antonijjhāyanalakkhaṇoti ñātibhogarogasīladiṭṭhibyasanehi phuṭṭhassa cetaso anto abbhantaraṃ nijjhāyanaṃ socanaṃ antonijjhāyanaṃ, taṃ lakkhaṇaṃ etassāti antonijjhāyanalakkhaṇo. Tannissitalālappanalakkhaṇoti taṃ sokaṃ samuṭṭhānahetuṃ nissitaṃ tannissitaṃ, bhusaṃ vilāpanaṃ lālappanaṃ, tannissitañca lālappanañca tannissitalālappanaṃ, taṃ lakkhaṇaṃ etassāti tannissitalālappanalakkhaṇo. Ñātibyasanādinā phuṭṭhassa paridevenāpi asakkuṇantassa antogatasokasamuṭṭhito bhuso āyāso upāyāso. So pana yasmā cetaso appasannākāro hoti, tasmā **‘‘visādalakkhaṇo’’**ti vutto.
95. 内的に燃え尽きる特徴とは、親族、財産、病気、戒律、見解といった災難によって触れられた心の内部での燃え尽き、すなわち悲嘆が「内的に燃え尽きる」ことであり、それがその特徴であるため「内的に燃え尽きる特徴」という。それに依拠した嘆きの特徴とは、その悲嘆を起こす原因に依拠したものが「それに依拠した」であり、激しく嘆き悲しむことが「嘆き」であり、それに依拠した嘆きが「それに依拠した嘆き」であり、それがその特徴であるため「それに依拠した嘆きの特徴」という。親族の災難などによって触れられ、嘆くことすらできない者の心の内から生じる激しい苦悶が、苦痛である。それは心の晴れない状態であるため、「憂鬱な特徴」と述べられる。
96. Vitakkanaṃ vitakkitaṃ, taṃ pana abhiniropanasabhāvo vitakkoyevāti āha **‘‘abhi…pe… vitakko’’**ti. Esa nayo vicāritanti etthāpi. Khobhakarasabhāvattā vitakkavicārānaṃ taṃsahitaṃ jhānaṃ saubbilanaṃ viya hotīti vuttaṃ **‘‘sakaṇḍakaṃ viya khāyatī’’**ti.
96. 尋は尋であり、それは付着させる性質を持つ思惟であるため、「(中略)思惟」と述べられる。この方法は観についても同様である。尋と観は攪乱させる性質を持つため、それに伴う禅は揺らぐようなものであるとして、「まるで棘があるかのように感じられる」と述べられる。
97. Yāya ubbilāpanapītiyā uppannāya cittaṃ ‘‘ubbilāvita’’nti vuccati, sā pīti ubbilāvitattaṃ yasmā pana cittassa ubbilabhāvo tassā pītiyā sati hoti, nāsati, tasmā sā **‘‘ubbilabhāvakāraṇa’’**nti vuttā.
97. 高揚させる喜が生じたときに心は「高揚した」と言われるが、その喜が高揚した状態である。しかし、心の高揚は、その喜があるときに生じ、ないときには生じないため、それは「高揚の生起原因」と述べられる。
98. Ābhogoti vā cittassa ābhuggabhāvo, ārammaṇe oṇatabhāvoti attho. Sukhena hi cittaṃ ārammaṇe abhinataṃ hoti, na dukkhena viya apanataṃ, nāpi adukkhamasukhena viya anabhinataṃ anapanatañca. Tattha ‘‘khuppipāsādiabhibhūtassa viya manuññabhojanādīsu kāmehi viveciyamānassupādārammaṇapatthanā visesato abhivaḍḍhati, uḷārassa pana kāmarasassa yāvadatthaṃ tittassa manuññarasabhojanaṃ bhuttāvino viya suhitassa bhottukāmatā kāmesu pātabyatā na hoti, visayassāgiddhatāya visayehi dummociyehipi jalūkā viya sayameva muñcatī’’ti ca ayoniso ummujjitvā kāmaguṇasantappitatāya saṃsāradukkhavūpasamaṃ byākāsi paṭhamavādī. Kāmādīnaṃ ādīnavadassitāya, paṭhamādijjhānasukhassa santabhāvadassitāya ca paṭhamādijjhānasukhatittiyā saṃsāradukkhupacchedaṃ byākaṃsu dutiyādivādino, idhāpi ucchedavāde vuttappakāro vicāro yathāsambhavaṃ ānetvā vattabbo. Ayaṃ panettha viseso – ekasmiñhi attabhāve pañca vādā labbhanti. Teneva hi pāḷiyaṃ ‘‘añño attā’’ti aññaggahaṇaṃ na kataṃ. Kathaṃ panettha accantanibbānapaññāpakassa attano diṭṭhadhammanibbānavādassa sassatadiṭṭhiyā saṅgaho, na pana ucchedadiṭṭhiyāti? Taṃtaṃsukhavisesasamaṅgitāpaṭiladdhena bandhavimokkhena suddhassa attano sakarūpe avaṭṭhānadīpanato.
98. 傾倒とは、あるいは心の屈服状態であり、対象に傾く状態という意味である。実際、心は楽によって対象に傾き、苦によって退くようにではなく、また不苦不楽によって傾かず退かないようでもない。そこでは、「飢えや渇きなどに打ちひしがれた者が美味しい食べ物などを求めるように、欲から離れた者の対象への執着は特に増大する。しかし、最高の欲楽を十分に味わい満足した者は、美味しい食べ物を食べた満腹の者のように、欲に対する食事への渇望はない。対象に執着しないことによって、離れがたい対象からも蛭のように自ら離れる」などと、不適切な方法で浮上して、欲の対象を満足させることによって輪廻の苦しみが鎮まると第一の説の者は説明した。欲などの危険性を示すことによって、また初禅などの楽が静穏であることを示すことによって、初禅などの楽に満たされた状態によって輪廻の苦しみが断たれると第二の説などの者は説明した。ここでも断滅論で述べられた種類の考察は、可能な限り持ち出して述べるべきである。ここでの特殊性とは、一つの存在において五つの説が得られることである。それゆえ、パーリ語では「別の我」と別の捉え方がなされていない。ここで、究極の涅槃を説く自らの現法涅槃論が、なぜ常住論に包含され、断滅論には含まれないのか?それは、それぞれの特別な楽の具足によって得られる束縛からの解脱により、清浄な自我がその本来の姿に留まることを示すからである。
Sesāti sesā pañcapaññāsa diṭṭhiyo. Tāsu antānantikavādādīnaṃ sassatadiṭṭhibhāvo tattha tattha pakāsitoyeva.
残りとは、残りの五十五の見解である。それらの中で、辺無辺論などの常住論的性質は、それぞれの箇所で明らかにされている。
101-3. Kiṃ pana kāraṇaṃ pubbantāparantā eva diṭṭhābhinivesassa visayabhāvena dassitā, na pana tadubhayamekajjhanti? Asambhavato. Na hi pubbantāparantesu viya tadubhayavinimutte majjhante diṭṭhikappanā sambhavati ittarakālattā, atha pana paccuppannabhavo tadubhayavemajjhaṃ, evaṃ sati diṭṭhikappanakkhamo tassa ubhayasabhāvo pubbantāparantesuyeva antogadhoti kathamadassitaṃ. Atha vā pubbantāparantavantatāya ‘‘pubbantāparanto’’ti majjhanto vuccati, so ca ‘‘pubbantāparantakappikā vā pubbantāparantānudiṭṭhino’’ti vadantena pubbantāparantehi visuṃ katvā vuttoyevāti daṭṭhabbo. Aṭṭhakathāyampi ‘‘sabbepi te aparantakappike pubbantāparantakappike’’ti etena sāmaññaniddesena, ekasesena vā saṅgahitāti daṭṭhabbaṃ, aññathā saṅkaḍḍhitvā vuttavacanassa anatthakatā āpajjeyyāti. Ke pana te pubbantāparantakappikā? Ye antānantikā hutvā diṭṭhadhammanibbānavādāti evaṃ pakārā veditabbā.
101-3. では、なぜ見解への固執の対象として、過去(pubbanta)と未来(aparanta)のみが示され、その両者の中間(majjhanta)は示されていないのか? 不可能だからである。実際、過去と未来がそうであるように、その両者から独立した中間においては、それが一時的なものであるため、見解の構築は不可能である。だが、現在の存在はその両者の中間であり、その場合、見解の構築に適したその両者の性質は、過去と未来の中に含まれているのだから、なぜ(中間は)示されなかったのか。あるいは、中間は、過去と未来に帰属するという意味で「過去と未来」と呼ばれる。そして、『過去と未来を想定する者、あるいは過去と未来を追随する者』と言うことで、過去と未来とは別に述べられていると理解されるべきである。注釈書においても、『彼らすべては未来を想定する者、過去と未来を想定する者である』という共通の指定、あるいは単数残存によって、彼らが(この中に)含まれていると理解されるべきである。さもなければ、短縮されて述べられた言葉は意味をなさなくなるだろう。では、その過去と未来を想定する者とは誰か? 彼らは、有辺と無辺の見解を持ち、現世涅槃論者であるといった種類であると知られるべきである。
Ettha ca ‘‘sabbe te imeheva dvāsaṭṭhiyā vatthūhi, etesaṃ vā aññatarena, natthi ito bahiddhā’’ti vacanato, pubbantakappikādittayavinimuttassa ca kassaci diṭṭhigatikassa abhāvato yāni tāni sāmaññaphalādi (dī. ni. 1.166) suttantaresu vuttappakārāni akiriyāhetukanatthikavādādīni, yāni ca issarapajāpatipurisakālasabhāvaniyatiyadicchāvādādippabhedāni diṭṭhigatāni (visuddhi. ṭī. 2.563; vibha. anuṭī. 189 passitabbaṃ) bahiddhāpi dissamānāni, tesaṃ ettheva saṅgaho, antogadhatā ca veditabbā. Kathaṃ? Akiriyavādo tāva ‘‘vañjho kūṭaṭṭho’’tiādinā kiriyābhāvadīpanato sassatavāde antogadho, tathā ‘‘sattime kāyā’’tiādi (dī. ni. 1.174) nayappavatto pakudhavādo, ‘‘natthi hetu natthi paccayo sattānaṃ saṃkilesāyā’’tiādi (dī. ni. 1.168) vacanato ahetukavādo adhiccasamuppannikavāde antogadho. ‘‘Natthi paro loko’’tiādi (dī. ni. 1.171) vacanato natthikavādo ucchedavāde antogadho. Tathā hi tattha ‘‘kāyassa bhedā ucchijjatī’’tiādi (dī. ni. 1.86) vuttaṃ. Paṭhamena ādi-saddena nigaṇṭhavādādayo saṅgahitā.
そしてここで、『彼らは皆、これら六十二の事柄のいずれか、あるいはそれら以外の何ものも存在しない』という教示から、過去を想定する者などの三種類の見解から独立した、いかなる見解を持つ者もいないため、沙門果経などで述べられている不作為論、無因論、虚無論といった見解、また自在天・プラジャーパティ神・プルシャ・時間・自性・宿命・偶然を原因とする諸見解など、外道にも見られる見解も、すべてこの中に含まれていると知られるべきである。どのようにか? まず不作為論は、『不妊で不動』などという、行為の欠如を示すことから、常見論の中に含まれる。同様に、『これら七つの集積(身体)がある』などという方法で展開されるパクダ・カッチャーヤナの見解も(常見論に含まれる)。『衆生の煩悩には因も縁もない』などという(経典の)教示による無因論は、無縁偶発論の中に含まれる。『他に世界は存在しない』などという(経典の)教示による虚無論は、断見論の中に含まれる。実際、そこでは『身体が壊れると断滅する』などと述べられているからである。最初の『など』という語によって、尼乾子(ニガンタ)派などの見解も含まれる。
Yadipi pāḷiyaṃ nāṭaputtavāda (dī. ni. 1.178) bhāvena cātuyāmasaṃvaro āgato, tathāpi sattavatātikkamena vikkhepavāditāya nāṭaputtavādopi sañcayavādo viya amarāvikkhepavādesu antogadho. ‘‘Taṃ jīvaṃ taṃ sarīraṃ, aññaṃ jīvaṃ aññaṃ sarīra’’nti (dī. ni. 1.377; ma. ni. 2.122; saṃ. ni. 2.35) evaṃ pakārā vādā ‘‘rūpī attā hoti arogo paraṃ maraṇā’’tiādivādesu saṅgahaṃ gacchanti, ‘‘hoti tathāgato paraṃ maraṇā, ‘‘atthi sattā opapātikā’’ti evaṃ pakārā sassatavāde. ‘‘Na hoti tathāgato paraṃ maraṇā, natthi sattā opapātikā’’ti evaṃ pakārā ucchedavādena saṅgahitā. ‘‘Hoti ca na hoti ca tathāgato paraṃ maraṇā, atthi ca natthi ca sattā opapātikā’’ti evaṃ pakārā ekaccasassatavāde antogadhā. ‘‘Neva hoti na na hoti tathāgato paraṃ maraṇā, nevatthi na natthi sattā opapātikā’’ti ca evaṃ pakārā amarāvikkhepavāde antogadhā. Issarapajāpatipurisakālavādā ekaccasassatavāde antogadhā, tathā kaṇādavādo. Sabhāvaniyatiyadicchāvādā adhiccasamuppannikavādena saṅgahitā. Iminā nayena suttantaresu, bahiddhā ca dissamānānaṃ diṭṭhigatānaṃ imāsu dvāsaṭṭhiyā diṭṭhīsu antogadhatā veditabbā.
パーリ聖典においてナータプッタ(マハーヴィーラ)の教説の形で四戒が出現するとしても、それでも、堅固な誓いを守らないことによって、散乱を主張する性質があるため、ナータプッタの教説も、堆積論者のように、懐疑論者たちの見解の中に含まれる。「その生命はその身体であり、別の生命は別の身体である」といった種類の見解は、「身体のある我(アートマン)は死後に健康である」といった種類の見解の中に含まれる。「如来は死後に存在する、衆生は化生する」といった種類の見解は、常見論の中に含まれる。「如来は死後に存在しない、衆生は化生しない」といった種類の見解は、断見論によって含まれる。「如来は死後に存在し、かつ存在しない、衆生は化生し、かつ化生しない」といった種類の見解は、一部常見論の中に含まれる。「如来は死後に存在するでもなく、存在しないでもない、衆生は化生するでもなく、化生しないでもない」といった種類の見解は、懐疑論の中に含まれる。自在天・プラジャーパティ神・プルシャ・時間論は一部常見論の中に含まれる。同様にカナダの教説も。自性・宿命・偶然論は無縁偶発論によって含まれる。この方法によって、他の経典や外道に見られる見解は、これら六十二の見解の中に含まれていると知られるべきである。
Ajjhāsayanti diṭṭhijjhāsayaṃ. Sassatucchedadiṭṭhivasena hi sattānaṃ saṃkilesapakkhe duvidho ajjhāsayo, tañca bhagavā aparimāṇāsu lokadhātūsu aparimāṇānaṃ sattānaṃ aparimāṇe eva ñeyyavisese uppajjanavasena anekabhedabhinnānampi ‘‘cattāro janā sassatavādā’’tiādinā dvāsaṭṭhiyā pabhedehi saṅgaṇhanavasena sabbaññutaññāṇena paricchinditvā dassento pamāṇabhūtāya tulāya dhārayamāno viya hotīti āha **‘‘tulāya tulayanto viyā’’**ti. Tathā hi vakkhati ‘‘anto jālīkatā’’tiādi (dī. ni. 1.146). **‘‘Sinerupādato vālukaṃ uddharanto viyā’’**ti etena sabbaññutaññāṇato aññassa imissā desanāya asakkuṇeyyataṃ dasseti.
心性の傾きとは、見解の傾きのことであり、実際、常見論と断見論の立場によって、衆生の煩悩の側面には二種類の心性の傾きがある。そして世尊は、無限の世間界における無限の衆生の、無限に生起する知られるべき特質によって、多くの区別があるにもかかわらず、「四種類の常見論者がいる」などと六十二の分類で網羅するように、一切智の智慧によって定め、量る尺度を持つかのように示される、と言われる。**「あたかも秤で量るがごとく」**と。実際、彼は「内部で網状になった」などと言うだろう(『長部』1.146)。**「須弥山の麓から砂を拾い上げるがごとく」**という言葉によって、一切智の智慧以外の者には、この教えは不可能であることを示す。
Anusandhānaṃ anusandhi, pucchāya kato anusandhi pucchānusandhi. Atha vā anusandhayatīti anusandhi, pucchā anusandhi etassāti pucchānusandhi. Pucchāya anusandhiyatīti vā pucchānusandhi. Ajjhāsayānusandhimhipi eseva nayo. Yathānusandhīti ettha pana anusandhīyatīti anusandhi, yā yā anusandhi yathānusandhi, anusandhianurūpaṃ vā yathānusandhīti saddattho veditabbo, so ‘‘yena pana dhammena ādimhi desanā uṭṭhitā, tassa dhammassa anurūpadhammavasena vā paṭipakkhavasena vā yesu suttesu upari desanā āgacchati, tesaṃ vasena yathānusandhi veditabbo. Seyyathidaṃ? Ākaṅkheyyasutte (ma. ni. 1.64-69) heṭṭhā sīlena desanā uṭṭhitā, upari cha abhiññā āgatā…pe… kakacūpame (ma. ni. 1.222) heṭṭhā akkhantiyā uṭṭhitā, upari kakacūpamā āgatā’’tiādinā aṭṭhakathāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 1.100-104) vutto.
アヌサンダナ(追及)とは関連(anusandhi)のこと。問いによって作られた関連が問いの関連(pucchānusandhi)である。あるいは、関連づける(anusandhayati)ものが関連(anusandhi)であり、それが問いの関連(pucchā anusandhi)である。あるいは、問いによって関連づけられるので問いの関連。心性の傾きとの関連(ajjhāsayānusandhi)においても、同様の方法である。「適切なる関連(yathānusandhi)」という言葉では、関連づけられる(anusandhīyati)ものが関連(anusandhi)であり、いかなる関連も「適切なる関連(yathānusandhi)」であり、あるいは関連に相応しいものが「適切なる関連(yathānusandhi)」であると、その意味は理解されるべきである。それは「どのような法によって教えが最初に起こったとしても、その法に相応しい法、あるいは反対の法として、その上に教えが来る経典の立場から、適切なる関連が理解されるべきである」と。例えば、『願いの経』(中部1.64-69)では、下で戒によって教えが起こり、上で六神通が出現する……(中略)……『鋸喩経』(中部1.222)では、下で堪忍によって教えが起こり、上で鋸の譬えが出現するといった形で注釈書に述べられている。
Iti kirāti bhagavato yathādesitāya attasuññatāya attano aruccanabhāvadīpanaṃ. Bhoti dhammālapanaṃ. Anattakatānīti attanā na katāni, anattakehi vā khandhehi katāni. Kamattānaṃ phusissantīti asati attani khandhānañca khaṇikattā kammāni kaṃ attānaṃ attano phalena phusissanti, ko kammaphalaṃ paṭisaṃvedetīti attho. Avidvāti sutādivirahena ariyadhammassa akovidatāya na vidvā. Avijjāgatoti avijjāya upagato, ariyadhamme avinītatāya appahīnāvijjoti attho. Taṇhādhipateyyena cetasāti ‘‘yadi ahaṃ nāma koci natthi, mayā katassa kammassa ko phalaṃ paṭisaṃvedeti, sati pana tasmiṃ siyā phalūpabhogo’’ti taṇhādhipatito āgato taṇhādhipateyyo, tena. Attavādupādānasahagata cetasā. Atidhāvitabbanti khaṇikattepi saṅkhārānaṃ yasmiṃ santāne kammaṃ kataṃ, tattheva phaluppattito dhammapuñjamattasseva ca siddhe kammaphalasambandhe ekattanayaṃ micchā gahetvā ekena kārakavedakabhūtena bhavitabbaṃ, aññathā ‘‘kammaphalānaṃ sambandho na siyā’’ti attattaniyasuññatāpakāsanaṃ satthusāsanaṃ atikkamitabbaṃ maññeyyāti attho.
『こうして、実際(Iti kira)』とは、世尊が説かれた無我の教えが、自分にとって好ましくない状態であることを示す。『ボティ(Bhoti)』とは、法談のこと。『我によって作られたのではない(Anattakatāni)』とは、我によって作られたのではなく、無我である五蘊によって作られた、ということ。『どのような我に触れるのか?』とは、我が存在せず、五蘊も刹那的であるならば、業はどのような我にその果報を触れさせるのか、誰が業の果報を経験するのか、という意味である。『無知(Avidvā)』とは、聞法などの欠如によって、聖なる法に不慣れで、知者ではないということ。『無明に陥った(Avijjāgato)』とは、無明に陥った、聖なる法に訓練されておらず、無明が捨て去られていない、という意味である。『渇愛に支配された心によって(Taṇhādhipateyyena cetasā)』とは、「もし私というものが何もないなら、私がなした業の果報を誰が経験するのか、もしそれが存在するなら果報の享受があるだろう」という渇愛の支配から来る「渇愛に支配された」もので、それによって。これは我見への執着を伴う心による。『越えようとする(Atidhāvitabbaṃ)』とは、諸行が刹那的であるにもかかわらず、ある相続において業がなされたなら、そこに果報が生じるため、そして業と果報の関係は、ただの法の集積として成立するにもかかわらず、「行為者と受者という同一性」を誤って捉え、「一人の行為者・受者がいなければならない。さもなければ、業の果報の関係は成立しないだろう」と考えて、無我・無私を説く師の教えを越えようとする、という意味である。
**‘‘Upari cha abhiññā āgatā’’**ti anurūpadhammavasena yathānusandhiṃ dasseti, itarehi paṭipakkhavasena. Kilesenāti ‘‘lobho cittassa upakkileso’’tiādinā kilesavasena. Imasmimpīti pi-saddena yathā vuttasuttādīsu paṭipakkhavasena yathānusandhi, evaṃ imasmimpi sutteti dasseti. Tathā hi niccasārādipaññāpakānaṃ diṭṭhigatānaṃ vasena uṭṭhitā ayaṃ desanā niccasārādisuññatāpakāsanena niṭṭhāpitāti.
『上で六神通が出現する』とは、相応する法によって適切なる関連を示し、他の経典では反対の法によって示す。『煩悩によって(Kilesena)』とは、「貪欲は心の随煩悩である」などというように、煩悩の側面に立って。『これにおいても(Imasmiṃpi)』の「も」という語によって、先に述べた経典などでは反対の法によって適切なる関連が示されたように、この経典においてもそうであると示す。実際、この教えは、常住や本質などを説く見解によって起こったものであり、常住や本質などの空性を明らかにすることで完結するからである。
105-117. Mariyādavibhāgadassanatthanti sassatādidiṭṭhidassanassa sammādassanena saṅkarābhāvavibhāvanatthaṃ. Tadapi vedayitanti sambandho. Ajānataṃ apassatanti ‘‘sassato attā ca loko cā’’ti ‘‘idaṃ diṭṭhiṭṭhānaṃ evaṃgahikaṃ evaṃparāmaṭṭhaṃ evaṃgahitaṃ hoti evaṃabhisamparāya’’nti yathābhūtaṃ ajānantānaṃ apassantānaṃ. Tathā yasmiṃ vedayite avītataṇhatāya evaṃ diṭṭhigataṃ upādiyanti, taṃ vedayitaṃ samudayādito yathābhūtaṃ ajānantānaṃ apassantānaṃ, etena anāvaraṇañāṇasamantacakkhūhi yathā tathāgatānaṃ yathābhūtamettha ñāṇadassanaṃ, na evaṃ diṭṭhigatikānaṃ, atha kho taṇhādiṭṭhiparāmāsoyevāti dasseti. Teneva cāyaṃ desanā mariyādavibhāgadassanatthā jātā. Aṭṭhakathāyaṃ pana ‘‘yathābhūtaṃ dhammānaṃ sabhāvaṃ ajānantānaṃ apassantāna’’nti avisesena vuttaṃ. Na hi saṅkhatadhammasabhāvaṃ ajānanamattena micchā abhinivisantīti. Sāmaññajotanā visese avatiṭṭhatīti ayaṃ visesayojanā katā. Vedayitanti ‘‘sassato attā ca loko cā’’ti diṭṭhipaññāpanavasena pavattaṃ diṭṭhiyā anubhūtaṃ anubhavanaṃ. Taṇhāgatānanti taṇhāya gatānaṃ upagatānaṃ, pavattānaṃ vā. Tañca kho panetanti ca yathāvuttaṃ vedayitaṃ paccāmasati. Tañhi vaṭṭāmisabhūtaṃ diṭṭhitaṇhāsallānuviddhatāya saubbilattā cañcalaṃ, na maggaphalasukhaṃ viya ekarūpena avatiṭṭhatīti. Tenevāha **‘‘paritassitenā’’**tiādi.
105-117. 『境界の区別を示すため』とは、常見論などの見解と正見とが混同されないことを明らかにするためである。『それもまた受(vedayita)である』と関連づけられる。『知らない者、見ない者(Ajānataṃ apassataṃ)』とは、「我も世間も常住である」という、「この見解の立場は、このように執着され、このように固執され、このように捉えられ、このように(来世に)至る」ということをありのままに知らない者、見ない者のことである。同様に、渇愛が尽きていないため、そのような見解に執着するその受を、その起こりなどをありのままに知らない者、見ない者のことである。これによって、遮るもののない一切智の遍照眼を持つ如来が、ここで物事をありのままに知見するように、見解を持つ者たちはそうではなく、渇愛と見解への執着に過ぎないことを示す。それゆえ、この教えは境界の区別を示すためである。しかし注釈書では、「ありのままに諸法の自性を知らない者、見ない者」と区別なく述べられている。単に有為の法の自性を知らないだけでは、誤って執着することはないからである。共通の照示は特殊な点にとどまるので、この特殊な説明がなされた。『受(Vedayita)』とは、「我も世間も常住である」という見解を主張する方法で起こる、見解によって経験される感受のこと。『渇愛に陥った者たち(Taṇhāgatānaṃ)』とは、渇愛に陥った者たち、あるいは渇愛に駆られた者たちのこと。そして、この「またその(Tañca kho panetaṃ)」は、先に述べた受を指し示す。それは、輪廻の餌であり、見解と渇愛という矢に貫かれているため、騒がしく、不安定であり、道や果の安楽のように一様にとどまらないからである。それゆえ、**「苦悶によって」**などと言うのである。
Atha vā evaṃ visesakāraṇato dvāsaṭṭhi diṭṭhigatāni vibhajitvā idāni avisesakāraṇato tāni dassetuṃ **‘‘tatra bhikkhave’’**tiādikā desanā āraddhā. Sabbesañhi diṭṭhigatikānaṃ vedanā avijjā taṇhā ca avisiṭṭhakāranti. Tattha tadapīti ‘‘sassataṃ attānañca lokañca paññapenti’’ti ettha yadetaṃ ‘‘sassato attā ca loko cā’’ti paññāpanaṃ, tadapi. Sukhādibhedaṃ tividhavedayitaṃ yathākkamaṃ dukkhasallāniccato, avisesena samudayatthaṅgamassādādīnavanissaraṇato vā yathābhūtaṃ ajānantānaṃ apassantānaṃ, tato eva ca sukhādipatthanāsambhavato taṇhāya upagatattā taṇhāgatānaṃ taṇhāparitassitena diṭṭhivipphanditameva diṭṭhicalanameva, ‘‘asati attani ko vedanaṃ anubhavatī’’ti kāyavacīdvāresu diṭṭhiyā copanappattimattameva vā, na pana diṭṭhiyā paññāpetabbo sassato koci dhammo atthīti attho. Ekaccasassatavādādīsupi eseva nayo.
あるいは、このように特殊な理由によって六十二の見解を区別した後、今度は特殊ではない理由からそれらを示すために、**「比丘たちよ、そこで」**などという教えが始められたのである。実際、見解を持つ者たちすべてにとって、受、無明、渇愛は特殊な原因ではないからである。そこでは、『またそれも(Tadapi)』とは、「我も世間も常住であると主張する」という句の中で、「我も世間も常住である」という主張のこと、またそれも(受である)。楽などによって区別される三種類の受を、それぞれ苦の矢や無常として、あるいは、起こり、滅び、味、過患、出離をありのままに知らない者、見ない者にとっては、それゆえに楽などを求めることが不可能となり、渇愛に陥った者の渇愛に苦悶する見解の動揺そのものであり、見解の動揺そのものである。「我が存在しないならば、誰が感受を経験するのか」と、身口両門において見解が提出されるに過ぎず、見解によって主張されるべき常住なる法は存在しない、という意味である。一部常見論などにおいても、同様の方法である。
118. Yena taṇhāparitassitena etāni diṭṭhigatāni pavattanti, tassa vedayitaṃ paccayo, vedayitassāpi phasso paccayoti desanā diṭṭhiyā paccayaparamparaniddhāraṇanti āha **‘‘paramparapaccayadassanattha’’**nti, tena yathā paññāpanadhammo diṭṭhi, tappaccayadhammā ca yathāsakaṃ paccayavaseneva uppajjanti, na paccayehi vinā, evaṃ paññāpetabbā dhammāpi rūpavedanādayo, na ettha koci attā vā loko vā sassatoti ayamattho dassitoti daṭṭhabbaṃ.
118. 『渇愛に苦悶することによってこれらの見解が生じるが、その渇愛には受が縁であり、その受には触が縁である』という教えは、見解の縁の連鎖を確定することである、と言われる。**「縁の連鎖を示すため」**と。それによって、主張されるべき法である見解も、その縁となる法も、それぞれ縁の力によってのみ生じ、縁なしには生じないように、同様に、主張されるべき法である色や受なども(そうであり)、ここには我も世間も常住なものは何もない、という意味が示されていると理解されるべきである。
131. Tassa paccayassāti phassapaccayassa diṭṭhivedayiteti diṭṭhiyā paccayabhūte vedayite, phassapadhānehi attano paccayehi nipphādetabbeti attho. Vināpi cakkhādivatthūhi, sampayuttadhammehi ca kehici vedanā uppajjati, na pana kadāci phassena vināti phasso vedanāya balavakāraṇanti āha **‘‘balavabhāvadassanattha’’**nti. Sannihitopi hi visayo sace phusanākārarahito hoti cittuppādo, na tassa ārammaṇapaccayena paccayo hotīti phassova sampayuttadhammānaṃ visesapaccayo. Tathā hi bhagavatā cittuppādaṃ vibhajantena phassoyeva paṭhamaṃ uddhaṭo, vedanāya pana adhiṭṭhānameva.
131. 『その縁(Tassa paccayassa)』とは、触縁のこと、見解の受という見解の縁となる受において、触を主要因とするそれ自身の縁によって生み出されるべきである、という意味である。眼などの対象がなくても、またある随伴する法があっても、感受は生じることがあるが、触なしには決して生じないから、触は感受にとって強力な原因である、と言われる。**「強力な性質を示すため」**と。実際、対象が近接していても、もし心が触れる作用を欠くならば、その対象は所縁縁とはならないから、触こそが随伴する法にとって特殊な縁である。実際、世尊は心生(cittuppāda)を分析する際に、触を最初に挙げられたが、感受にとっては、それはただの根拠(adhiṭṭhāna)に過ぎない。
144. Heṭṭhā tīsupi vāresu adhikatattā, upari ca ‘‘paṭisaṃvedentī’’ti vakkhamānattā vedayitamettha padhānanti āha **‘‘sabbadiṭṭhivedayitāni sampiṇḍetī’’**ti. Sampiṇḍetīti ca ‘‘yepi te’’ti tattha tattha āgatassa pi-saddassa atthaṃ dasseti. Vedayitassa phasse pakkhipanaṃ phassapaccayatādassanameva ‘‘chahi ajjhattikāyatanehi chaḷārammaṇapaṭisaṃvedanaṃ ekantato chaphassahetukamevā’’ti. Sañjāyanti etthāti adhikaraṇattho sañjāti-saddoti āha **‘‘sañjātiṭṭhāne’’**ti. Evaṃ samosaraṇasaddopi daṭṭhabbo. Āyatati ettha phalaṃ tadāyattavuttitāya, āyabhūtaṃ vā attano phalaṃ tanoti pavattetīti āyatanaṃ, kāraṇaṃ. Rukkhagacchasamūhe araññavohāro araññameva araññāyatananti āha **‘‘paṇṇattimatte’’**ti. Atthattayepīti pi-saddena avuttatthasampiṇḍanaṃ daṭṭhabbaṃ, tena ākāranivāsādhiṭṭhānatthe saṅgaṇhāti. Hiraññāyatanaṃ suvaṇṇāyatanaṃ, vāsudevāyatanaṃ kammāyatananti ādīsu ākaranivāsādhiṭṭhānesu āyatanasaddo. Cakkhādīsu ca phassādayo ākiṇṇā, tāni ca nesaṃ nivāso, adhiṭṭhānañca nissayapaccayabhāvatoti. Tiṇṇampi visayindriyaviññāṇānaṃ saṅgatibhāvena gahetabbo phassoti **‘‘saṅgatī’’**ti vutto. Tathā hi so ‘‘sannipātapaccupaṭṭhāno’’ti vuccati. Iminā nayenāti vijjamānesupi aññesu sampayuttadhammesu yathā ‘‘cakkhuñca…pe… phasso’’ti (ma. ni. 1.204; ma. ni. 3.421, 425, 426; saṃ. ni. 2.43-45; saṃ. ni. 4.60; kathā. 465) etasmiṃ sutte vedanāya padhānakāraṇabhāvadassanatthaṃ phassasīsena desanā katā, evamidhāpi brahmajāle ‘‘phassapaccayā vedanā’’tiādinā phassaṃ ādiṃ katvā aparantapaṭiccasamuppādadīpanena paccayaparamparaṃ dassetuṃ ‘‘phassāyatanehi phussa phussā’’ti phassamukhena vuttaṃ.
144. 下の三つの事例においても優位であること、そして上では「感じ取る」と説かれることから、ここでは感じられたものが主要であると、**「一切の見解に伴う感受を包含する」**と説かれる。「包含する」という言葉は、それぞれの箇所に現れる「それらも」という「も」の語の意味を示す。感じられたものを触(phassa)の中に含めることは、触が縁となることを示すことであり、「六つの内なる処(ajjhattikāyatana)によって、六つの対象を感じ取ることは、あくまでも六触を原因とするものである」と言われる。何かがここで生じるという点で、処格の意味を持つ「sañjāti」(生じること)という語であるから、**「生起の場所」**と説かれる。このように「samosaraṇa」(集まり)という語も理解されるべきである。ここに果報が生じるのは、それに依存する存在であるためか、あるいは自らの果報となるべきものを生み出し、発生させることから「āyatana」(処、領域)という。それは原因である。木や草の群れは「arañña」(森)と呼ばれるが、その「arañña」そのものが「araññāyatana」(森という領域)であると、**「概念にすぎない」**と説かれる。三つの意味においても、『も』という語によって、語られていない意味が包含されると理解すべきであり、それによって源、住処、基盤という意味を包括している。金の源、ヴァースデーヴァの住処、業の基盤などにおいて、「āyatana」という語は、源、住処、基盤という意味で用いられる。眼などの感覚器官には、触などが密集しており、それらはそれらの住処であり、また依り処となることで基盤となる。三つの対象、感覚器官、識が結合するあり方として把握される触は、**「結合」**と説かれる。実に、それは「会合として現れる」と言われる。この方法によると、他の結合した諸法が存在するとしても、「眼と…(中略)…触」という(中部経典1.204;中部経典3.421, 425, 426;相応部経典2.43-45;相応部経典4.60;論事465)この経典において、受(vedanā)が主要な原因であることを示すために、触を冒頭に置いて説法がなされたように、ここブラフマジャーラにおいても、「触を縁として受が生じる」などと、触を冒頭に置いて、未来の縁起(aparantapaṭiccasamuppāda)の解説によって、原因の連鎖を示すために、「触処によって、触れ、触れて」と触を通して述べられている。
Phasso arūpadhammopi samāno ekadesena ārammaṇe anallīyamānopi phusanākārena pavattati phusanto viya hotīti āha **‘‘phassova taṃ taṃ ārammaṇaṃ phusatī’’**ti, yena so ‘‘phusanalakkhaṇo, saṅghaṭṭanaraso’’ti ca vuccati. ‘‘Phassāyatanehi phussa phussā’’ti aphusanakiccānipi āyatanāni ‘‘mañcā ghosantī’’tiādīsu viya nissitavohārena phusanakiccāni katvā dassitānīti āha **‘‘phasse upanikkhipitvā’’**ti, phassagatikāni katvā phassūpacāraṃ āropetvāti attho. Upacāro hi nāma vohāramattaṃ, na tena atthasiddhi hotīti āha **‘‘tasmā’’**tiādi.
触は、無色法であるにもかかわらず、その一部が対象に付着することなく、触れるような形で機能し、まるで触れているかのように存在すると説かれる。ゆえに、**「触こそがそれら個々の対象に触れるのである」**と言われる。これによって、触は「触れるという特徴を持ち、衝突するという機能を持つ」と言われる。「触処によって、触れ、触れて」と説かれる場合、それ自体では触れる機能を果たさない処(āyatana)も、「寝台が鳴いている」などのように、それに依存する表現(換喩)によって、触れる機能を果たすものとして示されていると、**「触に帰属させて」**と説かれる。つまり、それらを触に従うものとし、触という比喩を適用するということである。比喩とは、単なる慣用表現にすぎず、それによって実質的な意味が達成されるわけではないと、**「それゆえ」**などが説かれる。
Attano paccayabhūtānaṃ channaṃ phassānaṃ vasena cakkhusamphassajā yāva manosamphassajāti saṅkhepato chabbidhā vedanā, vitthārato pana aṭṭhasatapariyāyena aṭṭhasatabhedā. Rūpataṇhādibhedāyāti rūpataṇhā yāva dhammataṇhāti saṅkhepato chappabhedāya, vitthārato aṭṭhasatabhedāya. Upanissayakoṭiyāti upanissayasīsena. Kasmā panettha upanissayapaccayova uddhaṭo, nanu sukhā vedanā, adukkhamasukhā vedanā ca taṇhāya ārammaṇamattaārammaṇādhipatiārammaṇūpanissayapakatūpanissayavasena catudhā paccayo, dukkhā ca ārammaṇamattapakatūpanissayavasena dvidhāti? Saccametaṃ, upanissaye eva pana taṃ sabbaṃ antogadhaṃ. Yuttaṃ tāva ārammaṇūpanissayassa upanissayasāmaññato upanissayena saṅgaho, ārammaṇamattaārammaṇādhipatīnaṃ pana kathanti? Tesampi ārammaṇasāmaññato ārammaṇūpanissayena saṅgahova kato, na pakatūpanissayenāti daṭṭhabbaṃ. Etadatthamevettha **‘‘upanissayakoṭiyā’’**ti vuttaṃ, na ‘‘upanissayenā’’ti.
自らの原因となる六つの触によって、眼触から意触に至るまで、受(vedanā)は概して六種類あり、詳細には百八の様相によって百八種類に分かれる。色(rūpa)への渇愛などによって、色への渇愛から法(dhamma)への渇愛に至るまで、概して六種類に分かれ、詳細には百八種類に分かれる。「依止縁の範疇によって」とは、依止縁を主とするという意味である。なぜここで依止縁(upanissaya-paccaya)だけが取り上げられるのか。快受と不苦不楽受は、渇愛に対して、単なる対象、対象としての主宰、対象としての依止縁、自然な依止縁の四通りで縁となるのではないか、また苦受は、単なる対象、自然な依止縁の二通りで縁となるのではないか、と問われると。それは事実である。しかし、それら全ては依止縁の中に含まれる。対象としての依止縁が、依止縁と共通性があることから依止縁によって包含されるのは当然である。では、単なる対象と対象としての主宰についてはどうか。それらも対象と共通性があることから、対象としての依止縁によって包含されるのであり、自然な依止縁によってではないと理解すべきである。この目的のために、ここでは**「依止縁の範疇によって」**と説かれ、「依止縁によって」とは説かれていないのである。
Catubbidhassāti kāmupādānaṃ yāva attavādupādānanti catubbidhassa. Nanu ca taṇhāva kāmupādānanti? Saccametaṃ. Tattha dubbalā taṇhā taṇhāva, balavatī taṇhā kāmupādānaṃ. Atha vā appattavisayapatthanā taṇhā tamasi corānaṃ karapasāraṇaṃ viya. Sampattavisayaggahaṇaṃ upādānaṃ, corānaṃ karappattadhanaggahaṇaṃ viya. Appicchatāpaṭipakkhā taṇhā, santosapaṭipakkhā upādānaṃ. Pariyesanadukkhamūlaṃ taṇhā, ārakkhadukkhamūlaṃ upādānanti ayametesaṃ viseso. Upādānassāti asahajātassa upādānassa upanissayakoṭiyā, itarassa sahajātakoṭiyāti daṭṭhabbaṃ. Tattha anantarassa anantarasamanantaraanantarūpanissayanatthivigatāsevanapaccayehi, anānantarassa upanissayena, ārammaṇabhūtā pana ārammaṇādhipatiārammaṇūpanissayehi, ārammaṇamatteneva vāti taṃ sabbaṃ upanissayeneva gahetvā **‘‘upanissayakoṭiyā’’**ti vuttaṃ. Yasmā ca taṇhāya rūpādīni assādetvā kāmesu pātabyataṃ āpajjati, tasmā taṇhā kāmupādānassa upanissayo. Tathā rūpādibhedeva sammūḷho ‘‘natthi dinna’’ntiādinā (dī. ni. 1.171; ma. ni. 1.445; ma. ni. 2.94, 95, 225; ma. ni. 3.91, 116, 136; saṃ. ni. 3.210; dha. sa. 1221; vibha. 938) micchādassanaṃ, saṃsārato muccitukāmo asuddhimagge suddhimaggaparāmasanaṃ, khandhesu attattaniyagāhabhūtaṃ sakkāyadassanaṃ gaṇhāti, tasmā itaresampi taṇhā upanissayoti daṭṭhabbaṃ. Sahajātassa pana sahajātaaññamaññanissayasampayuttaatthiavigatahetuvasena taṇhā paccayo hoti. Taṃ sabbaṃ sandhāya **‘‘sahajātakoṭiyā’’**ti vuttaṃ.
「四種類の」とは、愛執(kāmupādāna)から我見(attavādupādāna)に至るまでの四種類のことである。渇愛(taṇhā)そのものが愛執ではないのか、と問われると。それは事実である。弱い渇愛は渇愛そのものであり、強い渇愛が愛執である。あるいは、未獲得の対象を欲求するのが渇愛であり、闇の中で盗人が手を伸ばすようなものである。獲得済みの対象を掴み取るのが愛執であり、盗人が手に入れた財物を奪い取るようなものである。少欲とは反対が渇愛であり、知足とは反対が愛執である。探索の苦の根源が渇愛であり、保持の苦の根源が愛執である、というのがそれらの違いである。愛執について言えば、同時ではない愛執(asahajāta upādāna)は依止縁(upanissaya)の範疇によって、もう一方(同時発生の愛執)は同時発生の範疇によってと理解すべきである。そこでは、すぐ前のものについては、無間、等無間、無間依止、無、離去、習行の縁によって、そうでないものについては依止縁によって、また対象であるものについては、対象、対象としての主宰、対象としての依止縁によって、あるいは単に対象によって、それら全てを依止縁として捉えて**「依止縁の範疇によって」**と説かれる。渇愛によって色などを味わい、欲(kāma)に陥ることから、渇愛は愛執の依止縁である。同様に、色などに関して迷妄に陥り、「与えられたものはない」などと(長部経典1.171;中部経典1.445など)いう邪見、輪廻から解脱を望みながら不浄な道で清浄な道を誤って触れること、あるいは五蘊に「自己」や「自己に属するもの」と執着する有身見(sakkāyadassana)を捉えることから、他の愛執に対しても渇愛が依止縁であると理解すべきである。しかし、同時発生するものについては、同時発生、相互、依止、相応、存在、不消失、原因の縁によって、渇愛が縁となる。それら全てを指して**「同時発生の範疇によって」**と説かれる。
Tathāti upanissayakoṭiyā ceva sahajātakoṭiyā cāti attho. Bhavassāti kammabhavassa ceva upapattibhavassa ca. Tattha cetanādisaṅkhā taṃ sabbaṃ bhavagāmikammaṃ kammabhavo, kāmabhavādiko navavidho upapattibhavo, tesaṃ upapattibhavassa catubbidhampi upādānaṃ upapattibhavakāraṇakammabhavakāraṇabhāvato, tassa ca sahāyabhāvūpagamanato pakatūpanissayavasena paccayo hoti. Kammārammaṇakaraṇakāle pana kammasahajātakāmupādānaṃ upapattibhavassa ārammaṇapaccayena paccayo hoti. Kammabhavassa pana sahajātassa sahajātaṃ upādānaṃ sahajātaaññamaññanissayasampayuttaatthiavigatavasena ceva hetumaggavasena ca anekadhā paccayo hoti, asahajātassa anantarasamanantaraanantarūpanissayanatthivigatāsevanavasena, itarassa pakatūpanissayavasena, sammasanādikālesu ārammaṇavasena ca paccayo hoti. Tattha anantarādike upanissayapaccaye, sahajātādike sahajātapaccaye pakkhipitvā vuttaṃ **‘‘upanissayakoṭiyā ceva sahajātakoṭiyā cā’’**ti.
「かくして」とは、依止縁(upanissaya)の範疇によって、そして同時発生(sahajāta)の範疇によってという意味である。「有(bhava)の」とは、業有(kammabhava)と生有(upapattibhava)のことである。そこで、意思などの諸行、つまり有へと導く全ての業が業有であり、欲有など九種類の生有がある。その生有に対する四種類の愛執は、生有の原因であり業有の原因であることから、また補助者となることから、自然な依止縁として縁となる。しかし、業を対象とする時、業と同時発生する愛執は、対象の縁(ārammaṇa-paccaya)によって生有の縁となる。業有に対しては、同時発生する愛執が、同時発生、相互、依止、相応、存在、不消失、原因の縁によって、また道としての縁によって多岐にわたって縁となる。同時ではないものについては、無間、等無間、無間依止、無、離去、習行の縁によって、もう一方のもの(時間的に隔たったもの)については自然な依止縁によって、思惟などを行う時には対象の縁によって縁となる。そこで、無間などの縁は依止縁(upanissaya-paccaya)に、同時発生などの縁は同時発生の縁(sahajāta-paccaya)に含めて、**「依止縁の範疇によって、そして同時発生の範疇によって」**と説かれる。
Bhavo jātiyāti ettha bhavoti kammabhavo adhippeto. So hi jātiyā paccayo, na upapattibhavo. Upapattibhavo hi paṭhamābhinibbattā khandhā jātiyeva. Tena vuttaṃ ‘‘jātīti panettha savikārā pañcakkhandhā daṭṭhabbā’’ti. Savikārāti ca nibbattivikārena savikārā, te ca atthato upapattibhavoyeva. Na hi tadeva tassa kāraṇaṃ bhavituṃ yuttanti. Kammabhavo ca upapattibhavassa kammapaccayena ceva upanissayapaccayena ca paccayo hotīti āha ‘‘bhavo jātiyā upanissayakoṭiyā paccayo’’ti.
「有(bhava)が生まれ(jāti)に」という場合、ここで有とは業有(kammabhava)が意図されている。なぜなら、それが生(jāti)の縁となるのであって、生有(upapattibhava)ではないからである。生有とは、まさに最初に生じた諸蘊(khandha)であり、それ自体が生である。ゆえに、「生とは、ここで変容を伴う五蘊(pañcakkhandha)と理解すべきである」と説かれる。変容を伴うとは、生起の変容を伴うということであり、それらは実質的には生有そのものである。それがそれ自身の原因となるのは適切ではない。業有は、業の縁(kamma-paccaya)によって、そして依止縁(upanissaya-paccaya)によって生有の縁となる、と**「有は生の依止縁の範疇によって縁となる」**と説かれる。
Yasmā ca sati jātiyā jarāmaraṇaṃ, jarāmaraṇādinā phuṭṭhassa bālassa sokādayo ca sambhavanti, nāsati, tasmā **‘‘jāti…pe… paccayo hotī’’**ti vuttaṃ. Sahajātūpanissayasīsena paccayavicāraṇāya dassitattā, aṅgavicāraṇāya ca anāmaṭṭhattā āha **‘‘ayamettha saṅkhepo’’**ti. Mahāvisayattā paṭiccasamuppādavicāraṇāya sā niravasesā kuto laddhabbāti āha **‘‘vitthārato’’**tiādi. Ekadesena cettha kathitassa paṭiccasamuppādassa tathā kathane saddhiṃ udāharaṇena kāraṇaṃ dassento **‘‘bhagavā hī’’**tiādimāha. Tattha koṭi na paññāyatīti asukassa nāma sammāsambuddhassa, cakkavattino vā kāle avijjā uppannā, na tato pubbeti avijjāya ādimariyādā appaṭihatassa mama sabbaññutaññāṇassāpi na paññāyati avijjamānattāyevāti attho. Ayaṃ paccayo idappaccayo, tasmā idappaccayā, imasmā kāraṇā āsavapaccayāti attho. Bhavataṇhāyāti bhavasaṃyojanabhūtāya taṇhāya. Bhavadiṭṭhiyāti sassatadiṭṭhiyā. **‘‘Ito ettha etto idhā’’**ti apariyantaṃ aparāparuppattiṃ dasseti.
生があるからこそ老死があり、老死などによって苦しめられる愚者には、悲しみなどが生じるのであり、生がなければ生じない。それゆえ、**「生が…(中略)…縁となる」**と説かれる。同時発生と依止縁を主とする縁の考察が示されたこと、そして要素の考察が触れられていないことから、**「ここでの要約である」**と説かれる。縁起の考察は広範な主題であるため、その全てを余すところなくどこから得られるのか、という問いに対して、**「詳細には」**などが説かれる。ここで部分的に説かれた縁起について、そのような説明がなされる理由を例を挙げて示すために、**「世尊は」**などが説かれる。そこで、その端緒が知られないとは、特定の正等覚者や転輪聖王の時代に無明が生じたのであり、それ以前には生じていなかったというような、無明の始原の限界が、私の障害なき一切智(sabbaññutaññāṇa)をもってしても知られない、なぜならそれが存在しないからである、という意味である。「この縁はこれに応じて生じる縁であり、それゆえこれに応じて生じる、この原因から煩悩(āsava)の縁となる」という意味である。「有への渇愛によって」とは、有を結縛する性質を持つ渇愛によってという意味である。「有の見解によって」とは、常住論(sassatadiṭṭhi)によってという意味である。**「ここから、ここで、ここから、ここに」**とは、際限ない再発生を示す。
145. ‘‘Vedanānaṃ samudaya’’ntiādipāḷi vedanākammaṭṭhānanti daṭṭhabbā. Tanti ‘‘phassasamudayā phassanirodhā’’ti vuttaphassaṭṭhānaṃ. Āhāroti kabaḷīkāro āhāro veditabbo. So hi ‘‘kabaḷīkāro āhāro imassa kāyassa āhārapaccayena paccayo’’ti (paṭṭhā. 1.paccayaniddesa 429) vacanato kammasamuṭṭhānānampi upatthambhakapaccayo hotiyeva. Yadipi sotāpannādayo yathābhūtaṃ pajānanti, ukkaṃsagativijānanavasena pana desanā arahattanikūṭena niṭṭhāpitā. Ettha ca ‘‘yato kho bhikkhave bhikkhu…pe… yathābhūtaṃ pajānātī’’ti etena dhammassa niyyānikabhāvena saddhiṃ saṅghassa suppaṭipattiṃ dasseti. Teneva hi aṭṭhakathāyamettha ‘‘ko evaṃ jānātīti? Khīṇāsavo jānāti, yāva āraddhavipassako jānātī’’ti paripuṇṇaṃ katvā bhikkhusaṅgho dassito, tena yaṃ vuttaṃ ‘‘bhikkhusaṅghavasenapi dīpetuṃ vaṭṭatī’’ti, (dī. ni. aṭṭha. 1.8) taṃ yathārutavaseneva dīpitaṃ hotīti daṭṭhabbaṃ.
145. 「受(vedanā)の生起」などというパーリ語は、受の瞑想対象(kammaṭṭhāna)と理解すべきである。それは「触の生起によって、触の滅尽によって」と説かれる触の立場である。「食(āhāra)」とは、段食(kabaḷīkāra-āhāra)と理解されるべきである。それは、「段食はこの身体に対して、食の縁(āhāra-paccaya)によって縁となる」(発趣論1.縁の解明429)という記述にあるように、業によって生じたものに対しても補助の縁となるのである。たとえ預流(sotāpanna)などが、ありのままを知るとしても、最高の境地を知るという点で、教えは阿羅漢果の頂点で締めくくられている。ここで「比丘たちよ、比丘が…(中略)…ありのままを知る時」という言葉によって、法が出離を導く性質であることとともに、僧伽(saṅgha)の善い実践を示す。ゆえに註釈書では、「誰がこのように知るのか。漏尽者(khīṇāsava)が知る、そして観を開始した者も知る」と完全に述べて、比丘僧伽が示されている。それゆえ、「比丘僧伽を介して説示することも適切である」と説かれたこと(長部経典註釈書1.8)は、文字通りの意味に従って説示されたものと理解すべきである。
146. Anto jālassāti antojālaṃ, antojāle katāti antojālīkatā. Apāyūpapattivasena adho osīdanaṃ, sampattibhavavasena uddhaṃ uggamanaṃ. Tathā parittabhūmimahaggatabhūmivasena, olīnatā’tidhāvanavasena, pubbantānudiṭṭhiaparantānudiṭṭhivasena ca yathākkamaṃ adho osīdanaṃ uddhaṃ uggamanaṃ yojetabbaṃ. **‘‘Dasasahassilokadhātū’’**ti jātikhettaṃ sandhāyāha.
146. 「網の内側にある」とは内網であり、「内網にされた」とは内網に閉じ込められたということである。悪趣(apāya)に生まれ変わることによって下へと沈み込み、善趣(sampattibhava)に生まれ変わることによって上へと上昇する。同様に、小領域と大領域によって、萎縮と過剰な努力によって、そして過去に関する見解(pubbantānudiṭṭhi)と未来に関する見解(aparantānudiṭṭhi)によって、それぞれ下へと沈み込み、上へと上昇すると結びつけて理解すべきである。**「十千世界」**とは、生起の領域を指して説かれる。
147. Apaṇṇattikabhāvanti dharamānakapaṇṇattiyā apaṇṇattikabhāvaṃ. Atītabhāvena pana tathā paṇṇatti yāva sāsanantaradhānā, tato uddhampi aññabuddhuppādesu vattati eva. Tathā hi vakkhati ‘‘vohāramattameva bhavissatī’’ti (dī. ni. aṭṭha. 1.147). Kāyoti attabhāvo, yo rūpārūpadhammasamūho. Evaṃ hissa ambarukkhasadisatā, tadavayavānañca rūpakkhandhacakkhādīnaṃ ambapakkasadisatā yujjatīti. Ettha ca vaṇṭacchede vaṇṭūpanibandhānaṃ ambapakkānaṃ ambarukkhato vicchedo viya bhavanettichede tadupanibandhānaṃ rūpakkhandhādīnaṃ santānato vicchedoti ettāvatā opammaṃ daṭṭhabbaṃ.
147. 「概念化されない状態」とは、現存する概念化が概念化されない状態のことである。しかし、過去のあり方においては、その概念化は教えが消滅するまで存在し、それ以降も他の仏陀の出現において存続する。まさに「それは単なる慣用表現にすぎないであろう」と説かれるであろう(長部経典註釈書1.147)。「体(kāya)」とは、個体としての存在であり、それは色(rūpa)と無色(arūpa)の諸法の集合である。このように、それはマンゴーの木に似ており、その構成要素である色蘊、眼などがマンゴーの果実に似ているのは適切である。そして、蔓が切断されると、蔓に付着しているマンゴーの果実がマンゴーの木から分離するように、有への渇愛が断たれると、それに付着している色蘊などが生命の連続性から分離する、という点でこの譬えは理解されるべきである。
148. Dhammapariyāyeti pāḷiyaṃ. Idhatthoti diṭṭhadhammahitaṃ. Paratthoti samparāyahitaṃ. Saṅgāmaṃ vijināti etenāti saṅgāmavijayo. Atthasampattiyā atthajālaṃ. Byañjanasampattiyā, sīlādianavajjadhammaniddesato ca dhammajālaṃ. Seṭṭhaṭṭhena brahmabhūtānaṃ maggaphalanibbānānaṃ vibhattattā brahmajālaṃ. Diṭṭhivivecanamukhena suññatāpakāsanena sammādiṭṭhiyā vibhāvitattā diṭṭhijālaṃ. Titthiyavādanimmaddanūpāyattā anuttaro saṅgāmavijayoti evampettha yojanā veditabbā.
148. 「法門において」とはパーリ聖典においてである。「ここでの利益とは」とは、現世の利益のことである。「彼世の利益とは」とは、来世の利益のことである。これで戦いを征服するから戦勝である。意味の充実によって義の網(atthajāla)である。表現の充実によって、また戒(sīla)などの非難されるべきでない法が説かれることから法の網(dhammajāla)である。最高の意味において梵(brahma)となった道(magga)、果(phala)、涅槃(nibbāna)が明示されることから梵網(brahmajāla)である。見解の分析と空性(suññatā)の開示を通じて正見(sammādiṭṭhi)が明らかにされることから見網(diṭṭhijāla)である。異端の説を打ち砕く手段であることから無上の戦勝であると、このようにここで解釈すべきである。
149. Attamanāti pītiyā gahitacittā. Tenevāha **‘‘buddhagatāyā’’**tiādi. Yathā pana anattamanā attano anatthacaratāya paramanā verimanā nāma honti. Yathāha ‘‘diso disa’’nti (dha. pa. 42; udā. 33) gāthā, na evaṃ attamanā. Ime pana attano atthacaratāya sakamanā hontīti āha **‘‘attamanāti sakamanā’’**ti. Atha vā attamanāti samattamanā, imāya desanāya paripuṇṇamanasaṅkappāti attho. Abhinandatīti taṇhāyatīti atthoti āha **‘‘taṇhāyampi āgato’’**ti. Anekatthattā dhātūnaṃ abhinandantīti upagacchanti sevantīti atthoti āha **‘‘upagamanepi āgato’’**ti. Tathā abhinandantīti sampaṭicchantīti atthoti āha **‘‘sampaṭicchanepi āgato’’**ti. **‘‘Abhinanditvā’’**ti iminā padena vuttoyeva attho **‘‘anumoditvā’’**ti iminā pakāsīyatīti abhinandanasaddo idha anumodanasaddatthoti āha **‘‘anumodanepi āgato’’**ti. ‘‘Katamañca taṃ bhikkhave’’tiādinā (dī. ni. 1.7) tattha tattha pavattāya kathetukamyatāpucchāya vissajjanavasena pavattattā idaṃ suttaṃ veyyākaraṇaṃ hoti. Yasmā pana pucchāvissajjanavasena pavattampi sagāthakaṃ suttaṃ geyyaṃ nāma hoti, niggāthakattameva pana aṅganti gāthārahitaṃ veyyākaraṇaṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘niggāthakattā hi idaṃ veyyākaraṇanti vutta’’**nti.
149. 「アッタマナーティ」とは、歓喜に心を捕らえられた状態である。それゆえ「仏に帰依した」などと言うのである。しかし、喜ばない人々が自らの害となる行いのために、最大の敵意を抱く人々であるように、「方々に、方々に」という(ダンマパダ42、ウダーナ33)詩句があるように、そのように喜ばない人々ではない。これらの人々は、自らの利益となる行いのために、自らの心を満たしている、それゆえ「アッタマナーティ」とは「サカマナーティ」であると言うのである。あるいは、「アッタマナーティ」とは「サマッタマナーティ」(完全に満足した心)であり、この教説によって心が完全に満たされた状態であるという意味である。「アビナンダティ」とは渇愛することであるという意味なので、「渇愛にも用いられる」と言うのである。語根が多義であるため、「アビナンダティ」とは近寄る、仕えるという意味なので、「近づくことにも用いられる」と言うのである。同様に、「アビナンダティ」とは受け入れるという意味なので、「受け入れることにも用いられる」と言うのである。「アビナンディットヴァー」という語によって述べられた意味は、「アヌモーディットヴァー」という語によって明らかにされるので、ここで「アビナンダナ」という語は「アヌモーダナ」という語の意味である、それゆえ「随喜にも用いられる」と言うのである。「比丘たちよ、それはいかなるものか」など(ディーガ・ニカーヤ1.7)と、随所で説かれることを望む問いに答える形で説かれているので、このスッタは「ヴェイヤーカーラナ」(散文説法)となる。しかし、問いと答えの形で説かれる詩句を含むスッタは「ゲーヤ」(韻文説法)と呼ばれるが、詩句がないことがその特徴である「ヴェイヤーカーラナ」においては、詩句がないこと自体が部分である。それゆえ「詩句がないから、これはヴェイヤーカーラナであると言われる」と述べられたのである。
Aparesupīti ettha pisaddena pāramiparicayampi saṅgaṇhāti. Vuttañhi buddhavaṃse –
「アパレースピ」とは、ここで「ピ」の語によって、波羅蜜の習熟も含まれる。仏伝には次のように述べられている。
‘‘Ime dhamme sammasato, sabhāvasarasalakkhaṇe;
「これら自性、本質、特相の法を熟考する者よ、」
Dhammatejena vasudhā, dasasahassī pakampathā’’ti. (bu. vaṃ. 2.166);
「法力によって大地、一万世界は揺れ動くであろう」と。(仏伝 2.166);
Vīriyabalenāti mahābhinikkhamane cakkavattisiripariccāgahetubhūtavīriyappabhāvena, bodhimaṇḍūpasaṅkamane ‘‘kāmaṃ taco ca nhāru ca, aṭṭhi ca avasissatū’’tiādinā (ma. ni. 2.184; saṃ. ni. 2.22; mahāni. 196) vuttacaturaṅgasamannāgatavīriyānubhāvena. Acchariyavegābhihatāti vimhayāvahakiriyānubhāvaghaṭṭitā. Paṃsukūladhovane keci ‘‘puññatejenā’’ti vadanti, acchariyavegābhihatāti yuttaṃ viya dissati, vessantarajātake pāramiparipūraṇapuññatejena anekakkhattuṃ kampitattā **‘‘akālakampanenā’’**ti vuttaṃ. Sādhukāradānavasena akampittha yathā taṃ dhammacakkappavattane (saṃ. ni. 5.1081; mahāva. 13; paṭi. ma. 2.30). Saṅgītikālādīsupi sādhukāradānavasena akampitthāti veditabbaṃ. Ayaṃ tāvettha aṭṭhakathāya līnatthavaṇṇanā.
「精進の力によって」とは、大出家において転輪聖王の栄光を捨てる原因となった精進の威光によって、また菩提樹の下に至った際に「皮と腱と骨が残るだけであろう」など(中部経典2.184、相応部経典2.22、大ニッデーサ196)と述べられた四支具足の精進の力によって、である。「アッチャリヤヴェーガービハターティ」(驚くべき激しさによって揺り動かされた)とは、驚嘆すべき行為の威光によって衝撃を受けた、ということである。糞掃衣を洗った際に、ある者は「福徳の力によって」と言うが、「アッチャリヤヴェーガービハターティ」の方が適切であるように思われる。ヴェッサンタラ本生譚では、波羅蜜を完成させる福徳の力によって何度も揺れ動いたことから「アーカーラカンパネーナ」(時ならぬ揺れ)と述べられている。それは、法輪転換の際に(相応部経典5.1081、大品13、無礙解道2.30)、賛嘆の声が献げられたことで揺れ動いたように。結集の時代などにおいても、賛嘆の声が献げられたことで揺れ動いたと知るべきである。これは注釈書における語義の解説である。
Ayaṃ pana pakaraṇanayena pāḷiyā atthavaṇṇanā – sā panāyaṃ atthavaṇṇanā yasmā desanāya samuṭṭhānappayojanabhājanesu piṇḍatthesu ca niddhāritesu sukarā hoti suviññeyyā ca, tasmā suttadesanāya samuṭṭhānādīni paṭhamaṃ niddhārayissāma. Tattha samuṭṭhānaṃ tāva vuttaṃ ‘‘vaṇṇāvaṇṇabhaṇana’’nti. Apica nindāpasaṃsāsu vineyyāghātānandādibhāvānāpatti, tattha ca ādīnavadassanaṃ samuṭṭhānaṃ. Tathā nindāpasaṃsāsu paṭipajjanakkamassa, pasaṃsāvisayassa khuddakādivasena anekavidhassa sīlassa, sabbaññutaññāṇassa sassatādidiṭṭhiṭṭhānesu tatuttari ca appaṭihatacāratāya, tathāgatassa ca katthaci apariyāpannatāya anavabodho samuṭṭhānaṃ.
これは論書の方法によるパーリ聖典の義の解説である。この義の解説は、教説の起源、目的、適応される人々、そして概要が明確にされている場合、容易に理解できるものであるため、まずスッタの教説の起源などを明確にする。その起源としては、「ヴァッナヴァッナバナナ」(称賛と非難の言動)が述べられている。また、非難や称賛において、制しがたい怒りや喜びなどの状態にならないこと、そしてそれらの悪徳を見ることが起源である。同様に、非難や称賛に対する対処の順序、称賛の対象である微細なものから多様な戒、遍知智の永恒論などの見解の立場、そしてその先における遮られることのない遍歴、如来のどこにも限定されないことの無理解が起源である。
Vuttavipariyāyena payojanaṃ veditabbaṃ. Vineyyāghātānandādibhāvāpatti ādikañhi imaṃ desanaṃ payojetīti. Tathā kuhanalapanādinānāvidhamicchājīvaviddhaṃsanaṃ, dvāsaṭṭhidiṭṭhijālaviniveṭhanaṃ, diṭṭhisīsena paccayākāravibhāvanaṃ, chaphassāyatanavasena catusaccakammaṭṭhānaniddeso, sabbadiṭṭhigatānaṃ anavasesapariyādānaṃ, attano anupādāparinibbānadīpanañca payojanāni.
述べられたことと反対の形で目的を知るべきである。制しがたい怒りや喜びなどの状態に至ることなく、この教説の目的を果たす。同様に、欺瞞や詐欺などの様々な不正な生活様式の破壊、六十二の見解の網からの解放、見解を基盤とした縁起の様相の解明、六触処による四聖諦の修行の指示、一切の見解の完全な排除、そして自らの無執着の涅槃の闡明も目的である。
Vaṇṇāvaṇṇanimittaṃ anurodhavirodhavantacittā kuhanādivividhamicchājīvaniratā sassatādidiṭṭhipaṅkaṃ nimuggā, sīlakkhandhādīsu aparipūrakāritāya anavabuddhaguṇavisesañāṇā vineyyā imissā dhammadesanāya bhājanaṃ.
称賛と非難の対象に対して、賛同と反対の心を持つ人々、欺瞞などの様々な不正な生活様式に耽る人々、常住論などの見解の泥沼に沈んだ人々、戒の集まりなどにおいて完全に行うことができないために、覚者の徳の特別な知識を持たない制すべき人々が、この法説の対象である。
Piṇḍatthā pana āghātādīnaṃ akaraṇīyatāvacanena paṭiññānurūpaṃ samaṇasaññāya niyojanaṃ, khantisoraccānuṭṭhānaṃ, brahmavihārabhāvanānuyogo, saddhāpaññāsamāyogo, satisampajaññādhiṭṭhānaṃ, paṭisaṅkhānabhāvanābalasiddhi, pariyuṭṭhānānusayappahānaṃ, ubhayahitapaṭipatti, lokadhammehi anupalepo ca dassitā honti. Tathā pāṇātipātādīhi paṭivirativacanena sīlavisuddhi dassitā, tāya ca hirottappasampatti, mettākaruṇāsamaṅgitā, vītikkamappahānaṃ, tadaṅgapahānaṃ, duccaritasaṃkilesappahānaṃ, viratittayasiddhi, piyamanāpagarubhāvanīyatānipphatti, lābhasakkārasilokasamudāgamo, samathavipassanānaṃ adhiṭṭhānabhāvo, akusalamūlatanukaraṇaṃ, kusalamūlaropanaṃ, ubhayānatthadūrīkaraṇaṃ, parisāsu visāradatā, appamādavihāro,parehi duppadhaṃsiyatā, avippaṭisārādisamaṅgitā ca dassitā honti.
概要としては、憎悪などをしないことの言明によって、誓願に応じた沙門の認識の適用、忍辱と温順の実行、梵住の修習の励行、信と慧の結合、念と正知の確立、省察の修習の力による成就、煩悩の潜在的傾向の放棄、両者の利益となる実践、そして世間的な法による汚れのなさなどが示されている。同様に、殺生などからの回避の言明によって戒の清浄が示され、それによって慚と愧の具足、慈悲の具足、過失の放棄、その部分の放棄、悪行による汚染の放棄、三種の離欲の成就、愛され尊敬されることの達成、利得、尊敬、名声の獲得、止と観の基盤となること、不善の根の希薄化、善の根の確立、両者の不利益の排除、衆中での自信、不放逸の境地、他人によって打ち破られないこと、後悔しないことなどが具足していることが示されている。
**‘‘Gambhīrā’’**tiādivacanehi gambhīradhammavibhāvanaṃ, alabbhaneyyapatiṭṭhatā, kappānaṃ asaṅkhyeyyenāpi dullabhapātubhāvatā, sukhumenapi ñāṇena paccakkhato paṭivijjhituṃ asakkuṇeyyatā, dhammanvayasaṅkhātena anumānañāṇenāpi duradhigamanīyatā, passaddhasabbadarathatā, santadhammavibhāvanaṃ, sobhanapariyosānatā, atittikarabhāvo, padhānabhāvappatti, yathābhūtañāṇagocaratā, sukhumasabhāvatā, mahāpaññāvibhāvanā ca dassitā honti. Diṭṭhidīpakapadehi samāsato sassatucchedadiṭṭhiyo pakāsitāti olīnatātidhāvanavibhāvanaṃ, upāyavinibaddhaniddeso, micchābhinivesakittanaṃ, kummaggapaṭipattiyā pakāsanā, vipariyesaggāhapaññāpanaṃ, parāmāsapariggaho, pubbantāparantānudiṭṭhipatiṭṭhāpanaṃ, bhavavibhavadiṭṭhivibhāgo, taṇhāvijjāpavatti, antavānantavādiṭṭhiniddeso, antadvayāvatāraṇaṃ, āsavoghayogakilesaganthasaṃyojanūpādānavisesavibhajjanañca dassitāni honti. Tathā **‘‘vedanānaṃ samudaya’’**ntiādivacanehi catunnaṃ ariyasaccānaṃ anubodhapaṭivedhasiddhi, vikkhambhanasamucchedappahānaṃ, taṇhāvijjāvigamo, saddhammaṭṭhitinimittapariggaho, āgamādhigamasampatti, ubhayahitapaṭipatti, tividhapaññāpariggaho, satisampajaññānuṭṭhānaṃ, saddhāpaññāsamāyogo, sammāvīriyasamathānuyojanaṃ, samathavipassanānipphatti ca dassitā honti.
「ガンブヒーラー」(深遠な)などという言葉によって、深遠な法の解明、得難い確立、無数の劫を経ても稀にしか現れないこと、微細な知識によっても直接に洞察することができないこと、法随順という推論の知識によっても到達し難いこと、あらゆる苦悩が鎮静されていること、静寂な法の解明、美しい結末、決して満足させない性質、主要な地位に達すること、如実知見の対象であること、微細な性質、そして大いなる智慧の解明などが示されている。見解を明らかにする言葉によって、永恒論と断滅論の見解が簡潔に示されているため、沈滞と過度の活動の解明、方便による束縛の指示、誤った執着の言及、誤った道の実践の開示、逆転した把握の宣言、執着による保持、過去と未来に関する見解の確立、有見と無有見の分類、渇愛と無明の継続、有限論と無限論の見解の指示、二つの極端への陥入、そして煩悩、暴流、軛、煩悩の結縛、結合、執着の様々な分類なども示されている。同様に、「感受の生起」などという言葉によって、四聖諦の覚知と洞察の成就、抑圧による滅と根絶による放棄、渇愛と無明の消滅、正法の確立の印の把握、聖典の理解と体験の達成、両者の利益となる実践、三種の智慧の把握、念と正知の実行、信と慧の結合、正精進と止の適用、止と観の完成なども示されている。
**‘‘Ajānataṃ apassata’’**nti avijjāsiddhi, ‘‘taṇhāgatānaṃ paritassitavipphanditanti taṇhāsiddhi, tadubhayena ca nīvaraṇasaṃyojanadvayasiddhi, anamataggasaṃsāravaṭṭānucchedo, pubbantāharaṇaaparantapaṭisandhānāni, atītapaccuppannakālavasena hetuvibhāgo, avijjātaṇhānaṃ aññamaññānativattanaṭṭhena aññamaññūpakāritā, paññāvimutticetovimuttīnaṃ paṭipakkhaniddeso ca dassitā honti. **‘‘Tadapi phassapaccayā’’**ti sassatādipaññāpanassa paccayādhīnavuttitākathanena dhammānaṃ niccatāpaṭisedho, aniccatāpatiṭṭhāpanaṃ, paramatthato kārakādipaṭikkhepo, evaṃdhammatādiniddeso, suññatāpakāsanaṃ, samattaniyāmapaccayalakkhaṇavibhāvanañca dassitāni honti.
「知らぬ者、見ぬ者」とは無明の成就であり、「渇愛する者たちのうめきとあがきのゆえ」とは渇愛の成就であり、その両者によって五蓋と十結の成就、始原の見えない輪廻の不滅、過去の取り出しと未来への再生、過去と現在の時における原因の分類、無明と渇愛が互いに超越しえないことによる相互作用、智慧による解脱と心による解脱の対立が示されている。「それもまた触を縁として」とは、常住論などを説くことの原因依存的な性質を述べることによって、諸法の常住性の否定、無常性の確立、究極の真理としての行為者などの否定、このような法の性質などの指示、空性の開示、そして完全な規則性のある縁起の特相の解明が示されている。
**‘‘Ucchinnabhavanettiko’’**tiādinā bhagavato pahānasampatti, vijjādhimutti, vasībhāvo, sikkhattayanipphatti, nibbānadhātudvayavibhāgo, caturadhiṭṭhānaparipūraṇaṃ, bhavayoniādīsu apariyāpannatā ca dassitā honti. Sakalena pana suttapadena iṭṭhāniṭṭhesu bhagavato tādibhāvo, tattha ca paresaṃ patiṭṭhāpanaṃ, kusaladhammānaṃ ādibhūtadhammadvayassa niddeso, sikkhattayūpadeso, attantapādipuggalacatukkasiddhi, kaṇhākaṇhavipākādikammacatukkavibhāgo, caturappamaññāvisayaniddeso, samudayādipañcakassa yathābhūtāvabodho, chasāraṇīyadhammavibhāvanā, dasanāthakaradhammapatiṭṭhāpanti evamādayo niddhāretabbā.
「存在の導きを断ち切った者」などによって、世尊の放棄の成就、明智による解脱、自在性、三学の完成、二種の涅槃界の分類、四つの基盤の完成、存在の源などにおいて限定されないことなどが示されている。しかし、スッタの全ての言葉によって、好ましいものと好ましくないものにおける世尊の不動性、そこにおける他者の確立、善なる法の根源である二種の法の指示、三学の教示、自己を苦しめるなどの四種の人の成就、黒い業と白い業の異熟などの四種の業の分類、四無量心の対象の指示、生起など五つのものの如実知見、六和敬法の解明、十種の帰依となる法の確立などが明確にされるべきである。
Tattha ‘‘attā, loko’’ti ca diṭṭhiyā adhiṭṭhānabhāvena, vedanāphassāyatanādimukhena ca gahitesu pañcasu upādānakkhandhesu taṇhāvajjā pañcupādānakkhandhā dukkhasaccaṃ. Taṇhā samudayasaccaṃ. Sā pana paritassanāggahaṇena ‘‘taṇhāgatāna’’nti, ‘‘vedanāpaccayā taṇhā’’ti ca sarūpeneva samudayaggahaṇena, bhavanettiggahaṇena ca pāḷiyaṃ gahitāva. Ayaṃ tāva suttantanayo. Abhidhammanayena pana āghātānandādivacanehi, ātappādipadehi, cittappadosavacanena, sabbadiṭṭhidīpakapadehi, kusalākusalaggahaṇena, bhavaggahaṇena, sokādiggahaṇena, tattha tattha samudayaggahaṇena cāti saṅkhepato sabbalokiyakusalākusaladhammavibhāvanapadehi gahitā kammakilesā samudayasaccaṃ. Ubhinnaṃ appavatti nirodhasaccaṃ. Tassa tattha tattha vedanānaṃ atthaṅgamanissaraṇapariyāyehi, paccattaṃ nibbutivacanena, anupādāvimuttivacanena ca pāḷiyaṃ gahaṇaṃ veditabbaṃ. Nirodhapajānanā paṭipadā maggasaccaṃ. Tassāpi tattha tattha vedanānaṃ samudayādiyathābhūtavedanāpadesena, channaṃ phassāyatanānaṃ samudayādiyathābhūtapajānanapariyāyena, bhavanettiyā ucchedapariyāyena ca gahaṇaṃ veditabbaṃ. Tattha samudayena assādo, dukkhena ādīnavo, magganirodhehi nissaraṇanti evaṃ catusaccavasena, yāni pāḷiyaṃ (netti. 9) sarūpeneva āgatāni assādādīnavanissaraṇāni, tesañca vasena idha assādādayo veditabbā. Vineyyānantādibhāvāpattiādikaṃ yathāvuttavibhāgaṃ payojanameva phalaṃ. Āghātādīnaṃ akaraṇīyatā, āghātādiphalassa ca anaññasantānabhāvitā, nindāpasaṃsāsu yathāsabhāvapaṭijānananibbeṭhanāti evaṃ taṃtaṃpayojanādhigamahetu upāyo. Āghātādīnaṃ karaṇapaṭisedhanādiapadesena dhammarājassa āṇatti veditabbāti ayaṃ desanāhāro.
その中で、「アートマー、世界」という見解の基盤として、また感受、触、六処などの側面から捉えられる五つの執着の構成要素において、渇愛を除く五つの執着の構成要素が苦諦である。渇愛は集諦である。しかし、その渇愛は、「渇愛する者たちのうめき」という形で、また「感受を縁として渇愛が生じる」という形で、それ自体が集諦として、そして「存在の導き」という形でパーリ聖典に捉えられている。これがスッタの方法である。アビダンマの方法では、憎悪や歓喜などの言葉、熱心さなどの言葉、心の汚れの言葉、あらゆる見解を明らかにする言葉、善悪の把握、存在の把握、悲嘆などの把握、そして随所の生起の把握など、簡潔に言えば、あらゆる世間的な善悪の法を解明する言葉によって捉えられる業と煩悩が集諦である。両者の停止が滅諦である。その滅諦は、随所で感受の消滅や離脱の様相、個人的な安穏という言葉、無執着の解脱という言葉によってパーリ聖典に捉えられていると知るべきである。滅の知恵が道諦である。その道諦もまた、随所で感受の生起などの如実知見の様相、六触処の生起などの如実知見の様相、存在の導きの切断の様相によって捉えられていると知るべきである。そこでは、生起によって楽しみ、苦によって悪影響、道と滅によって離脱という、このように四聖諦の様相であり、パーリ聖典(ネッティパカラナ9)にそれ自体として述べられている楽しみ、悪影響、離脱の様相に照らして、ここでも楽しみなどが知られるべきである。制すべき人々の無制限な状態に陥ることなどの、先に述べられた分類の目的が果実である。憎悪などをしないこと、憎悪などの結果が他の者の相続に帰属しないこと、非難や称賛において如実知見によって決着をつけること、というように、それぞれの目的を達成するための手段である。憎悪などを行うことを禁じるなどの表現によって、法王の命令が知られるべきである、これが教説の摂取である。
Kappanābhāvepi vohāravasena, anuvādavasena ca ‘‘mama’’nti vuttaṃ, niyamābhāvato vikappanatthaṃ vāggahaṇaṃ kataṃ, guṇasamaṅgitāya, abhimukhīkaraṇāya ca **‘‘bhikkhave’’**ti āmantanaṃ. Aññabhāvato, paṭiviruddhabhāvato ca **‘‘pare’’**ti vuttaṃ, vaṇṇapaṭipakkhato, avaṇṇanīyato ca ‘‘avaṇṇa’’nti vuttaṃ. Byattivasena, vitthāravasena ca ‘‘bhāseyyu’’nti vuttaṃ, dhāraṇabhāvato, adhammapaṭipakkhato ca ‘‘dhammassā’’ti vuttaṃ, diṭṭhisīlehi saṃhatabhāvato, kilesānaṃ saṅghātakaraṇato ca ‘‘saṅghassā’’ti vuttaṃ. Vuttapaṭiniddesato, vacanupanyāsanato ca ‘‘tatrā’’ti vuttaṃ, sammukhabhāvato, puthubhāvato ca ‘‘tumhehī’’ti vuttaṃ. Cittassa hananato, ārammaṇābhighātato ca ‘‘āghāto’’ti vuttaṃ, ārammaṇe saṅkocavuttiyā, atuṭṭhākāratāya ca ‘‘appaccayo’’ti vuttaṃ, ārammaṇacintanato, nissayato ca ‘‘cetaso’’ti vuttaṃ, atthāsādhanato, anu anu ‘‘anatthasādhanato’’ ca ‘‘anabhiraddhī’’ti vuttaṃ, kāraṇānarahattā, satthusāsane ṭhitehi kātuṃ asakkuṇeyyattā ca ‘‘na karaṇīyā’’ti vuttanti. Iminā nayena sabbapadesu vinicchayo kātabbo. Iti anupadavicayato vicayo hāro ativitthārabhayena, sakkā ca aṭṭhakathaṃ tassā līnatthavaṇṇanañca anugantvā ayamattho viññunā vibhāvetunti na vitthārayimha.
「私に」という語は、構想がなくても、慣習的・引用的な意味で用いられ、規定がないため区別のために採用された。また、「比丘たちよ」という呼びかけは、優れた資質を備えていること、および直接呼びかけるためである。「他人」という語は、他者であること、および対立的な存在であることから用いられた。「非難」という語は、称賛の反対であること、および非難されるべきであることから用いられた。「語るだろう」という語は明瞭であること、および詳細であることから用いられた。「法に」という語は、保持されるべきであること、および非道徳の反対であることから用いられた。「僧伽に」という語は、見解と戒律によって結ばれていること、および煩悩を滅ぼすことによって用いられた。「その場合」という語は、述べられたことを指し示すこと、および発言を提示することから用いられた。「あなた方によって」という語は、面前にいること、および多数であることから用いられた。「瞋恚」という語は、心を打ち砕くこと、および対象を攻撃することから用いられた。「不快」という語は、対象に対して心が縮こまること、および不満な状態であることから用いられた。「心の」という語は、対象を考察すること、およびその依りどころであることから用いられた。「不満」という語は、利益を達成しないこと、さらに不利を達成することから用いられた。「すべきではない」という語は、原因として不適切であること、および師の教えに住する者にとってはなすことができないことから用いられた。この方法で、すべての箇所において判断がなされるべきである。このように、語句分析による分析の方法は、あまりに詳細になりすぎるのを恐れて、また、註釈書とその隠された意味の解説に従って、この意味は知る者によって明らかにされることができるので、我々は詳述しなかった。
Sabbena sabbaṃ āghātādīnaṃ akaraṇaṃ tādibhāvāya saṃvattatīti yujjati iṭṭhāniṭṭhesu samappavattisabbhāvato. Yasmiṃ santāne āghātādayo uppannā, tannimittako antarāyo tasseva sampattivibandhāya saṃvattatīti yujjati. Kasmā? Santānantaresu asaṅkamanato. Cittaṃ abhibhavitvā uppannā āghātādayo subhāsitādisallakkhaṇepi asamatthatāya saṃvattantīti yujjati sakodhalobhānaṃ andhatamasabbhāvato. Pāṇātipātādidussīlyato veramaṇi sabbasattānaṃ pāmojjapāsaṃsabhāvāya saṃvattatīti yujjati. Sīlasampattiyā hi mahato kittisaddassa abbhuggamo hotīti. Gambhīratādivisesayuttena guṇena tathāgatassa vaṇṇanā ekadesabhūtāpi sakalasabbaññuguṇaggahaṇāya saṃvattatīti yujjati anaññasādhāraṇattā. Tajjāayonisomanasikāraparikkhatāni adhigamatakkanāni sassatavādādiabhinivesāya saṃvattantīti yujjati kappanājālassa asamugghāṭitattā. Vedanādīnavānavabodhena vedanāya taṇhā pavaḍḍhatīti yujjati assādānupassanāsabbhāvato. Sati ca vedayitarāge tattha attattaniyagāho, sassatādigāho ca vipariphandatīti yujjati kāraṇassa sannihitattā. Taṇhāpaccayā hi upādānaṃ sassatādivāde paññapentānaṃ, tadanucchavikaṃ vā vedanaṃ vedayantānaṃ phasso hetūti yujjati visayindriyaviññāṇasaṅgatiyā vinā tadabhāvato. Chaphassāyatananimittavaṭṭassa anupacchedoti yujjati tattha avijjātaṇhānaṃ appahīnattā. Channaṃ phassāyatanānaṃ samudayādipajānanā sabbadiṭṭhigatikasaññaṃ aticca tiṭṭhatīti yujjati catusaccapaṭivedhabhāvato. Imāheva dvāsaṭṭhiyā diṭṭhīhi sabbadiṭṭhigatānaṃ antojālīkatabhāvoti yujjati akiriyavādādīnaṃ issaravādādīnañca tadantogadhattā. Tathā ceva saṃvaṇṇitaṃ. Ucchinnabhavanettiko tathāgatassa kāyoti yujjati, yasmā bhagavā abhinīhārasampattiyā catūsu satipaṭṭhānesu patiṭṭhitacitto sattabojjhaṅgeyeva yathābhūtaṃ bhāvesi. Kāyassa bhedā parinibbutaṃ na dakkhantīti yujjati anupādisesanibbānappattiyaṃ rūpādīsu kassacipi anavasesatoti ayaṃ yuttihāro.
瞋恚などを全く行わないことは、好ましいことも好ましくないことも等しく動じることなく受け止める性質があることから、不動の境地に至ると説かれる。ある者の心相続に瞋恚などが生じた場合、それによって生じた障害は、まさにその者の幸福を妨げるものとなると説かれる。なぜかといえば、他の心相続へは移らないからである。心を圧倒して生じた瞋恚などは、善説などを識別することさえできない状態に至ると説かれる。なぜなら、怒りや貪欲には暗闇の性質があるからである。殺生などの悪戒からの離反は、すべての衆生にとって喜びと賞賛の対象となると説かれる。なぜなら、戒の具足によって、大いなる名声が高まるからである。深遠さなどの特質を伴う如来の徳の賛美は、たとえ一部分であっても、一切智のすべての徳を把握することに至ると説かれる。なぜなら、それは他者に共通するものではないからである。それから生じる不適切な作意によって損なわれた理解の推論は、常住論などの誤った見解への執着に至ると説かれる。なぜなら、思惟の網がまだ取り除かれていないからである。受の危険性を理解しないことによって、受に対する渇愛は増大すると説かれる。なぜなら、その中に味わいを観察する性質があるからである。そして、受に執着する貪欲がある場合、そこには「我のものである」という執着、および常住論などの執着が激しく動くと説かれる。なぜなら、その原因が存在するからである。渇愛を縁として生じる取は、常住論などを説く者たち、またはそれに相応する受を感じる者たちにとって、触が原因となると説かれる。なぜなら、対象と感覚器官と識の結合がなければ、それが存在しないからである。六触処を原因とする輪廻の連続は途切れないと説かれる。なぜなら、そこに無明と渇愛が捨て去られていないからである。六触処の生起などを知ることは、あらゆる見解の領域を超えて存在すると説かれる。なぜなら、それは四聖諦の洞察という性質があるからである。これらの六十二の見解によって、あらゆる見解が網の内に絡めとられていると説かれる。なぜなら、無為論などや自在神論などがそれらに含まれるからである。そのように説かれている。如来の身体は、存在の導き手(渇愛)が断ち切られていると説かれる。なぜなら、世尊は誓願の具足によって、四念処に心を確立し、七覚支においてありのままに修習されたからである。身体が壊れると、般涅槃に入った者を(人々は)見ることができないと説かれる。なぜなら、無余涅槃の獲得においては、色などのいずれも残らないからである。これが理法論の解説である。
Avaṇṇārahaavaṇṇānurūpasampattānādeyyavacanatādivipattīnaṃ padaṭṭhānaṃ. Vaṇṇārahavaṇṇānurūsampattasaddheyyavacanatādisampattīnaṃ padaṭṭhānaṃ. Tathā āghātādayo nirayādidukkhassa padaṭṭhānaṃ. Āghātādīnaṃ akaraṇaṃ saggasampattiādisabbasampattīnaṃ padaṭṭhānaṃ. Pāṇātipātādīhi paṭivirati ariyassa sīlakkhandhassa padaṭṭhānaṃ. Ariyo sīlakkhandho ariyassa samādhikkhandhassa padaṭṭhānaṃ. Ariyo samādhikkhandho ariyassa paññākkhandhassa padaṭṭhānaṃ. Gambhīratādivisesayuttaṃ bhagavato paṭivedhappakārañāṇaṃ desanāñāṇassa padaṭṭhānaṃ. Desanāñāṇaṃ vineyyānaṃ sakalavaṭṭadukkhanissaraṇassa padaṭṭhānaṃ. Sabbāpi diṭṭhi diṭṭhupādānti sā yathārahaṃ navavidhassāpi bhavassa padaṭṭhānaṃ. Bhavo jātiyā, jāti jarāmaraṇassa, sokādīnañca padaṭṭhānaṃ. Vedanānaṃ samudayādiyathābhūtavedanaṃ catunnaṃ ariyasaccānaṃ anubodhapaṭivedho. Tattha anubodho paṭivedhassa padaṭṭhānaṃ, paṭivedho catubbidhassa sāmaññaphalassa padaṭṭhānaṃ. ‘‘Ajānataṃ apassata’’nti avijjāgahaṇaṃ, tattha avijjā saṅkhārānaṃ padaṭṭhānti yāva vedanā taṇhāya padaṭṭhānti netabbaṃ. ‘‘Taṇhāgatānaṃ paritassitavipphandita’’nti ettha taṇhā upādānassa padaṭṭhānaṃ. ‘‘Tadapi phassapaccayā’’ti ettha sassatādipaññāpanaṃ paresaṃ micchābhinivesassa padaṭṭhānaṃ, micchābhiniveso saddhammassavanasappurisūpassayayonisomanasikāradhammānudhammapaṭipattīhi vimukhatāya, asaddhammassavanādīnañca padaṭṭhānaṃ, ‘‘aññatra phassā’’tiādīsu phasso vedanāya padaṭṭhānaṃ, cha phassāyatanāni phassassa, sakalavaṭṭadukkhassa ca padaṭṭhānaṃ, channaṃ phassāyatanānaṃ samudayādiyathābhūtappajānanaṃ nibbidāya padaṭṭhānaṃ, nibbidā virāgassāti yāva anupādāparinibbānaṃ netabbaṃ. Bhagavato bhavanettisamucchedo sabbaññutāya padaṭṭhānaṃ. Tathā anupādāparinibbānassāti ayaṃ padaṭṭhānahāro.
非難されるべきであり、非難に相応しい、採用されるべきでない言葉などの失敗は近因である。称賛されるべきであり、称賛に相応しい、信頼されるべき言葉などの成功は近因である。同様に、瞋恚などは地獄などの苦の近因である。瞋恚などを行わないことは、天界の幸福などのあらゆる幸福の近因である。殺生などからの離反は、聖者の戒蘊の近因である。聖者の戒蘊は、聖者の定蘊の近因である。聖者の定蘊は、聖者の慧蘊の近因である。深遠さなどの特質を伴う世尊の洞察の種類に関する智慧は、説法智の近因である。説法智は、調伏されるべき衆生のすべての輪廻の苦からの脱却の近因である。あらゆる見解は見解への執着であり、それは適切に応じて九種類の存在の近因である。存在は生の、生は老死と憂悲苦悩などの近因である。受の生起など、ありのままの受の認識は、四聖諦の覚知と洞察である。そこでの覚知は洞察の近因であり、洞察は四種類の沙門果の近因である。「知らない者たち、見ない者たち」とは無明の把握であり、そこでの無明は諸行の近因である、と受が渇愛の近因であるに至るまで導かれるべきである。「渇愛に捕らわれた者たちのあえぎと動揺」において、渇愛は取の近因である。「それもまた触を縁として」において、常住論などを説くことは他者の誤った執着の近因である。誤った執着は、正しい法の聴聞、善き人への帰依、適切な作意、法随法の修行から背を向けること、および不適切な法の聴聞などの近因である。「触によらず」などにおいて、触は受の近因である。六触処は触の、そしてすべての輪廻の苦の近因である。六触処の生起など、ありのままの認識は厭離の近因である。厭離は離貪の近因である、と無余涅槃に至るまで導かれるべきである。世尊の存在の導き手(渇愛)の根絶は、一切智の近因である。同様に、無余涅槃の近因である。これが近因論の解説である。
Āghātādiggahaṇena kodhupanāhamakkhapalāsaissāmacchariyasārambhaparavambhanādīnaṃ saṅgaho paṭighacittuppādapariyāpannatāya ekalakkhaṇattā. Ānandādiggahaṇena abhijjhāvisamalobhamānātimānamadappamādādīnaṃ saṅgaho lobhacittuppādapariyāpannatāya samānalakkhaṇattā. Tathā āghātaggahaṇena avasiṭṭhaganthanīvaraṇānaṃ saṅgaho kāyaganthanīvaraṇalakkhaṇena ekalakkhaṇattā. Ānandaggahaṇena phassādīnaṃ saṅgaho saṅkhārakkhandhalakkhaṇena ekalakkhaṇattā. Sīlaggahaṇena adhicittaadhipaññāsikkhānampi saṅgaho sikkhālakkhaṇena ekalakkhaṇattā. Idha pana sīlasseva indriyasaṃvarādikassa daṭṭhabbaṃ. Diṭṭhiggahaṇena avasiṭṭhaupādānānampi saṅgaho upādānalakkhaṇena ekalakkhaṇattā. ‘‘Vedanāna’’nti ettha vedanāggahaṇena avasiṭṭhaupādānakkhandhānampi saṅgaho khandhalakkhaṇena ekalakkhaṇattā. Tathā vedanāya dhammāyatanadhammadhātupariyāpannattā sammasanūpagānaṃ sabbesaṃ āyatanānaṃ dhātūnañca saṅgaho āyatanalakkhaṇena, dhātulakkhaṇena ca ekalakkhaṇattā. ‘‘Ajānataṃ apassata’’nti ettha avijjāggahaṇena hetuāsavoghayoganīvaraṇādisaṅgaho hetādilakkhaṇena ekalakkhaṇattā avijjāya, tathā ‘‘taṇhāgatānaṃ paritassitavipphandita’’nti ettha taṇhāggahaṇenāpi. ‘‘Tadapi phassapaccayā’’ti ettha phassaggahaṇena saññāsaṅkhāraviññāṇānaṃ saṅgaho vipallāsahetubhāvena, khandhalakkhaṇena ca ekalakkhaṇattā. Chaphassāyatanaggahaṇena khandhindriyadhātādīnaṃ saṅgaho phassuppattinimittatāya, sammasanasabhāvena ca ekalakkhaṇattā. Bhavanettiggahaṇena avijjādīnampi saṃkilesadhammānaṃ saṅgaho vaṭṭahetubhāvena ekalakkhaṇattāti ayaṃ lakkhaṇahāro.
瞋恚などの把握によって、怒り、嫌悪、隠匿、偽り、嫉妬、慳貪、競い合い、他者への誹謗などが包含される。これらがすべて反発の心所(paṭigha-cittuppāda)に属し、一つの特相を持つからである。歓喜などの把握によって、強欲、不正な貪欲、慢、過慢、驕り、放逸などが包含される。これらがすべて貪欲の心所(lobha-cittuppāda)に属し、共通の特相を持つからである。同様に、瞋恚の把握によって、残りの結(gantha)と蓋(nīvaraṇa)が包含される。身体の結(kāya-gantha)と蓋の特相によって一つの特相を持つからである。歓喜の把握によって、触(phassa)などが包含される。行蘊(saṅkhāra-khandha)の特相によって一つの特相を持つからである。戒の把握によって、増上心学(adhicitta-sikkhā)と増上慧学(adhipaññā-sikkhā)も包含される。戒学(sikkhā)の特相によって一つの特相を持つからである。しかし、ここでは戒そのものの、感覚器官の制御などを考慮すべきである。見解の把握によって、残りの取(upādāna)も包含される。取の特相によって一つの特相を持つからである。「受」という場合、受の把握によって、残りの取蘊(upādāna-khandha)も包含される。蘊の特相によって一つの特相を持つからである。同様に、受は法処(dhammāyatana)と法界(dhamma-dhātu)に属するため、考察の対象となるすべての処と界が、処の特相と界の特相によって一つの特相を持つことから包含される。「知らない者たち、見ない者たち」という場合、無明の把握によって、因(hetu)、漏(āsava)、軛(ogha)、結(yoga)、蓋(nīvaraṇa)などが包含される。無明の因などの特相によって一つの特相を持つからである。同様に、「渇愛に捕らわれた者たちのあえぎと動揺」において、渇愛の把握によっても(同じことが言える)。「それもまた触を縁として」という場合、触の把握によって、想(saññā)、行(saṅkhāra)、識(viññāṇa)が包含される。顛倒の原因となること、および蘊の特相によって一つの特相を持つからである。六触処の把握によって、蘊、根、界などが包含される。触の生起の原因となること、および考察の性質によって一つの特相を持つからである。存在の導き手(渇愛)の把握によって、無明などの煩悩の法も包含される。輪廻の原因となることによって一つの特相を持つからである。これが特相論の解説である。
Nindāpasaṃsāhi sammākampitacetasā micchājīvato anoratā sassatādimicchābhinivesino sīlādidhammakkhandhesu appatiṭṭhitatāya sammāsambuddhaguṇarasassādavimukhā veneyyā imissā desanāya nidānaṃ. Te yathāvuttadosavinimuttā kathaṃ nu kho sammāpaṭipattiyā ubhayahitaparā bhaveyyunti ayamettha bhagavato adhippāyo. Padanibbacanaṃ nirutti. Taṃ ‘‘eva’’ntiādinidānapadānaṃ, ‘‘mama’’ntiādipāḷipadānañca aṭṭhakathāvasena suviññeyyattā ativitthārabhayena na vitthārayimha. Padapadatthaniddesanikkhepasuttadesanāsandhivasena chabbidhā sandhi. Tattha padassa padantarena sambandho padasandhi. Tathā padatthassa padatthantarena sambandho padatthasandhi. Nānānusandhikassa suttassa taṃtaṃanusandhīhi sambandho, ekānusandhikassa ca pubbāparasambandho niddesasandhi, yā aṭṭhakathāyaṃ pucchānusandhiajjhāsayānusandhiyathānusandhivasena tividhā vibhattā, tā panetā tissopi sandhiyo aṭṭhakathāyaṃ vicāritā eva. Suttasandhi ca paṭhamaṃ nikkhepavasena amhehi pubbe dassitāyeva. Ekissā desanāya desanāntarena saddhiṃ saṃsandanaṃ desanāsandhi, sā evaṃ veditabbā – ‘‘mamaṃ vā bhikkhave…pe… na cetaso anabhiraddhi karaṇīyā’’ti ayaṃ desanā ‘‘ubhatodaṇḍakena cepi bhikkhave kakacena corā ocarakā aṅgamaṅgāni okkanteyyuṃ, tatrapi yo mano padūseyya, na me so tena sāsanakaro’’ti (ma. ni. 1.232) imāya desanāya saddhiṃ saṃsandati. ‘‘Tumhaṃ yevassa tena antarāyo’’ti ‘‘kammassakā māṇava sattā…pe… dāyādā bhavissantī’’ti (a. ni. 10.216) imāya desanāya saṃsandati. ‘‘Api tumhe…pe… ājāneyyāthā’’ti ‘‘kuddho atthaṃ…pe… sahate nara’’nti (a. ni. 7.64; mahāni. 5, 156, 195) imāya desanāya saṃsandati.
非難と称賛によって心を正しく動揺させることなく、邪な生活から離れず、常住論などの誤った見解に執着し、戒などの法蘊に確立せず、正等覚者の徳の味を味わうことに背を向けた、調伏されるべき人々が、この説法の原因である。世尊の意図は、彼らが上記のような欠陥から解放され、いかにして正しい修行によって両者の利益に専念する者となれるか、ということであった。語句の解釈は語源学である。その「かくのごとく」などの原因の語句や、「我に」などのパーリ語の語句は、註釈によって容易に理解できるので、詳述を避けて我々は述べなかった。語句、語義、説明、概要、経典、説法という六種類の連関がある。その中で、ある語句と他の語句との結合が語句の連関である。同様に、ある語義と他の語義との結合が語義の連関である。多岐にわたる連関を持つ経典の各々の連関との結合、および単一の連関を持つ経典の前後との結合が説明の連関であり、それは註釈において問いの連関、意図の連関、内容の連関という三つの種類に分けられているが、これらの三つの連関はすべて註釈において考察されている。経典の連関は、まず概要という形で我々によってすでに示されている。ある説法と他の説法との比較が説法の連関であり、それは次のように知られるべきである——「比丘たちよ、人々が私を…(中略)…心に不満を抱くべきではない」というこの説法は、「比丘たちよ、たとえ盗人や悪漢が二本歯の鋸で手足を切り裂いたとしても、その時心に怒りを抱く者は、私の教えに従う者ではない」(中部経典1.232)というこの説法と符合する。「それによってあなた方自身に障害が生じるだろう」という(文言)は、「青年よ、衆生は業を所有し…(中略)…相続人となるだろう」(増支部経典10.216)というこの説法と符合する。「あなた方は…(中略)…理解するだろうか」という(文言)は、「怒れる者は利益を…(中略)…破壊する」(増支部経典7.64; マハーニデーサ5, 156, 195)というこの説法と符合する。
‘‘Mamaṃ vā bhikkhave pare vaṇṇaṃ…pe… na cetaso ubbillāvitattaṃ karaṇīya’’nti ‘‘dhammāpi vo bhikkhave pahātabbā, pageva adhammā (ma. ni. 1.240). Kullūpamaṃ vo bhikkhave dhammaṃ desessāmi, nittharaṇatthāya, no gahaṇatthāyā’’ti (ma. ni. 1.240) imāya desanāya saṃsandati. ‘‘Tatra ce tumhehi…pe… ubbilāvitā, tumhaṃ yevassa tena antarāyo’’ti ‘‘luddhoatthaṃ…pe… sahate nara’’nti (itivu. 88; mahāni. 5.156, 195; cūḷani. 128) ‘‘kāmandhā jālasañchannā, taṇhāchadanachāditā’’ti (udā. 64; netti. 27, 90; peṭako. 14) imāhi desanāhi saṃsandati.
「比丘たちよ、人々が私を称賛し…(中略)…心に歓喜を抱くべきではない」という(説法)は、「比丘たちよ、法さえも捨て去られるべきである。まして不法においてはなおさらである。(中部経典1.240)比丘たちよ、私は筏の譬えとして法を説こう。渡るためであり、執着するためではないと」(中部経典1.240)というこの説法と符合する。「その場合、あなた方によって…(中略)…歓喜されたならば、それによってあなた方自身に障害が生じるだろう」という(文言)は、「貪欲な者は利益を…(中略)…破壊する」(如是語経88; マハーニデーサ5.156, 195; チューラニデーサ128)、「欲望に盲目となり、網に覆われ、渇愛の覆いに覆われた人々」(ウダーナ64; ネッティ27, 90; ペータコパデーサ14)というこれらの説法と符合する。
‘‘Appamattakaṃ…pe… sīlamattaka’’nti ‘‘paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Ayaṃ kho brāhmaṇa yañño purimehi yaññehi appaṭṭhataro ca appasamārambhataro ca mahapphalataro ca mahānisaṃsataro cā’’tiādikāya (dī. ni. 1.353) desanāya saṃsandati, paṭhamajjhānassa sīlato mahapphalamahānisaṃsatarabhāvavacanena jhānato sīlassa appabhāvadīpanato.
「わずかな…(中略)…戒にすぎない」という(文言)は、「彼は初禅に入って住する。バラモンよ、この供養は以前の供養よりも煩わしさが少なく、努力も少なく、大いなる結果と大いなる功徳をもたらす」というような(長部経典1.353)説法と符合する。初禅が戒よりも大いなる結果と大いなる功徳をもたらすと述べることによって、禅定に比べて戒の価値が小さいことが示されているからである。
‘‘Pāṇātipātaṃ pahāyā’’tiādi ‘‘samaṇo khalu bho gotamo sīlavā…pe… kusalasīlena samannāgato’’tiādikāhi (dī. ni. 1.304) desanāhi saṃsandati.
「殺生を捨てて」というような(文言)は、「世尊ゴータマは戒律を保ち…(中略)…善い戒律に具足している」というような(長部経典1.304)説法と符合する。
‘‘Aññeva dhammā gambhīrā’’tiādi ‘‘adhigato kho myāyaṃ dhammo gambhīro’’tiādi (dī. ni. 2.67; ma. ni. 1.281; 2.337; saṃ. ni. 1.172; mahāva. 7, 8) pāḷiyā saṃsandati. Gambhīratādivisesayuttadhammapaṭivedhena hi ñāṇassa gambhīrādibhāvo viññāyatīti.
「他の法は深遠である」というような(文言)は、「この法は実に私によって到達された深遠である」というような(長部経典2.67; 中部経典1.281; 2.337; 相応部経典1.172; 大品7, 8)パーリ語と符合する。なぜなら、深遠さなどの特質を伴う法の洞察によってこそ、智慧の深遠さなどが理解されるからである。
‘‘Santi bhikkhave eke samaṇabrāhmaṇā’’tiādi ‘‘santi bhikkhave eke samaṇabrāhmaṇā pubbantakappikā…pe… abhivadanti, sassato attā ca loko ca, idameva saccaṃ, moghamaññanti ittheke abhivadanti, asassato, sassato ca asassato ca, neva sassato ca nāsassato ca, antavā, anantavā, antavā ca anantavā ca, nevantavā nānantavā ca attā ca loko ca idameva saccaṃ, moghamaññanti ittheke abhivadantī’’tiādikāhi (ma. ni. 3.27) desanāhi saṃsandati.
「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは…」など、「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは過去に関して推論し…彼らは説く、我と世間は常住である、これこそが真実であり、他は虚妄であると。ある者たちは説く、無常であると。常住かつ無常であると。常住でもなく、無常でもないと。有限であると。無限であると。有限かつ無限であると。有限でもなく、無限でもない、我と世間、これこそが真実であり、他は虚妄であると、このようにある者たちは説く」といった(中部3.27)教説と一致する。
‘‘Santi bhikkhave eke samaṇabrāhmaṇā aparantakappikā’’tiādi ‘‘santi bhikkhave eke samaṇabrāhmaṇā aparantakappikā…pe… abhivadanti, saññī attā hoti arogo paraṃ maraṇā. Ittheke abhivadanti asaññī, nevasaññīnāsaññī ca attā hoti arogo paraṃ maraṇā. Ittheke abhivadanti sato vā pana sattassa ucchedaṃ vināsaṃ vibhavaṃ paññapenti, diṭṭhadhammanibbānaṃ vā paneke abhivadantī’’tiādikāhi (ma. ni. 3.21) desanāhi saṃsandati. ‘‘Vedanānaṃ…pe… tathāgato’’ti ‘‘tayidaṃ saṅkhataṃ oḷārikaṃ, atthi kho pana saṅkhārānaṃ nirodho, atthetanti iti viditvā tassa nissaraṇadassāvī tathāgato tadupātivatto’’tiādikāhi (ma. ni. 3.28) desanāhi saṃsandati.
「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは未来に関して推論し…」など、「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは未来に関して推論し…彼らは説く、死後、我は意識を持ち、病がないと。ある者たちは説く、意識がないと。意識も非意識も共にない、死後、我は病がないと。ある者たちは、存在する生き物の断滅、破滅、消滅を説く。またある者たちは、現世の涅槃を説く」といった(中部3.21)教説と一致する。「諸々の受…如来は」とは、「アナンダよ、この形成されたものは粗大である。しかしながら、諸々の行の滅がある。この滅があることを知って、その出離を見る如来は、それを超越する」といった(中部3.28)教説と一致する。
‘‘Tadapi tesaṃ…pe… vipphanditamevā’’ti idaṃ ‘‘tesaṃ bhavataṃ aññatreva chandāya aññatra ruciyā aññatra anussavā aññatra ākāraparivitakkā aññatra diṭṭhinijjhānakkhantiyā paccattaṃyeva ñāṇaṃ bhavissati parisuddhaṃ pariyodātanti netaṃ ṭhānaṃ vijjati. Paccattaṃ kho pana bhikkhave ñāṇe asati parisuddhe pariyodāte yadapi te bhonto samaṇabrāhmaṇā tattha ñāṇabhāgamattameva pariyodāpenti, tadapi tesaṃ bhavataṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ upādānamakkhāyatī’’tiādikāhi (ma. ni. 3.29) desanāhi saṃsandati.
「それは彼らの…動揺にすぎない」とは、「尊者たちが、欲望、嗜好、伝聞、思量による推測、見解に対する忍容とは別に、純粋で清らかな智を個人として持つということはあり得ない。比丘たちよ、純粋で清らかな個人としての智がないならば、たとえその沙門・バラモンたちがそこでの智の一部を清めたとしても、それもまた、その尊者たる沙門・バラモンたちの執着であると説かれる」といった(中部3.29)教説と一致する。
‘‘Tadapi phassapaccayā’’ti idañca ‘‘cakkhuñca paṭicca rūpe ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ, tiṇṇaṃ saṅgati phasso, phassapaccayā vedanā, vedanāpaccayā taṇhā, taṇhāpaccayā upādāna’’nti, (saṃ. ni. 2.44) ‘‘chandamūlakā ime āvuso dhammā manasikārasamuṭṭhānā phassasamodhānā vedanāsamosaraṇā’’ti (a. ni. 8.83) ca ādikāhi desanāhi saṃsandati.
「それもまた触を縁とする」とは、「眼と色とを縁として眼識が生じ、三つの和合が触であり、触を縁として受が生じ、受を縁として渇愛が生じ、渇愛を縁として取が生じる」(相応部2.44)、「友よ、これらの法は欲望を根源とし、作意を起源とし、触に帰結し、受に集まる」(増支部8.83)といった教説と一致する。
‘‘Yato kho bhikkhave bhikkhu channaṃ phassāyatanāna’’ntiādi ‘‘yato kho ānanda bhikkhu neva vedanaṃ attānaṃ samanupassati, na saññaṃ, na saṅkhāre, na viññāṇaṃ attānaṃ samanupassati, so evaṃ asamanupassanto na kiñci loke upādiyati, anupādiyaṃ na paritassati, aparitassaṃ paccattaṃyeva parinibbāyatī’’tiādikāhi desanāhi saṃsandati.
「比丘たちよ、六つの触処を…」など、「アナンダよ、比丘が受を我と見なさず、想を我と見なさず、行を我と見なさず、識を我と見なさないとき、このように見なさない彼は、世間において何ものにも執着しない。執着しない彼は動揺せず、動揺しない彼は自らまさに涅槃に至る」といった教説と一致する。
‘‘Sabbe te imeheva dvāsaṭṭhiyā vatthūhi antojālīkatā’’tiādi ‘‘ye hi keci bhikkhave…pe… abhivadanti, sabbe te imāneva pañca kāyāni abhivadanti etesaṃ vā aññatara’’ntiādikāhi (ma. ni. 3.26) desanāhi saṃsandati. ‘‘Kāyassa bhedā…pe… devamanussā’’ti –
「それら全ては、この六十二の見解によって網羅される」など、「比丘たちよ、誰であれ…彼らは説くが、彼ら全ては、これら五つの集まり(五蘊)を、あるいはそれらのいずれかを説くのである」といった(中部3.26)教説と一致する。「身体の破壊…神々や人々は」とは―。
‘‘Accī yathā vātavegena khittā, (upasivāti bhagavā)
「ウパーシーよ、譬えば風速によって投げられた炎が、
Atthaṃ paleti na upeti saṅkhaṃ;
消え去り、その数を数えられないように、
Evaṃ munī nāmakāyā vimutto,
そのように、名体から解脱した聖者もまた、
Atthaṃ paleti na upeti saṅkha’’nti. (su. ni. 1080; cūḷani. 43);
消え去り、その数を数えられない」と。(スッタニパータ1080;小義釈43)
Ādikāhi desanāhi saṃsandatīti ayaṃ cātubyūho hāro.
といった教説と一致すると、これが四重の配列(ハラ)である。
Āghātādīnaṃ akaraṇīyatāvacanena khantisoraccānuṭṭhānaṃ. Tattha khantiyā saddhāpaññāparāpakāradukkhasahagatānaṃ saṅgaho, soraccena sīlassa. Saddhādiggahaṇena ca saddhindriyādisakalabodhipakkhiyadhammā āvattanti. Sīlaggahaṇena avippaṭisārādayo sabbepi sīlānisaṃsadhammā āvattanti. Pāṇātipātādīhi paṭivirativacanena appamādavihāro, tena sakalaṃ sāsanabrahmacariyaṃ āvattati. Gambhīratādivisesayuttadhammaggahaṇena mahābodhipakittanaṃ. Anāvaraṇañāṇapadaṭṭhānañhi āsavakkhayañāṇaṃ, āsavakkhayañāṇapadaṭṭhānañca anāvaraṇañāṇaṃ mahābodhi, tena dasabalādayo sabbe buddhaguṇā āvattanti. Sassatādidiṭṭhiggahaṇena taṇhāvijjāya saṅgaho, tāhi anamataggasaṃsāravaṭṭaṃ āvattati. Vedanānaṃ samudayādiyathābhūtavedanena bhagavato pariññāttayavisuddhi, tāya paññāpāramimukhena sabbapāramiyo āvattanti. ‘‘Ajānataṃ apassata’’nti avijjāggahaṇena ayonisomanasikārapariggaho, tena ca ayonisomanasikāramūlakā dhammā āvattanti. ‘‘Taṇhāgatānaṃ paritassitavipphandita’’nti taṇhāggahaṇena nava taṇhāmūlakā dhammā āvattanti, ‘‘tadapi phassapaccayā’’tiādi sassatādipaññāpanassa paccayādhīnavuttidassanaṃ, tena aniccatādilakkhaṇattayaṃ āvattati. Channaṃ phassāyatanānaṃ yathābhūtaṃ pajānanena vimuttisampadāniddeso, tena sattapi visuddhiyo āvattanti. ‘‘Ucchinnabhavanettiko tathāgatassa kāyo’’ti taṇhāpahānaṃ, tena bhagavato sakalasaṃkilesappahānaṃ āvattatīti ayaṃ āvatto hāro.
怨恨などをしないこと(不作為)の言葉によって、忍耐と柔和が実践される。その中で、忍耐によって信、慧、他者の悪行による苦を共に耐え忍ぶことが集められ、柔和によって戒が集められる。また、信などを捉えることによって、信根などの全ての三十七道品が廻転する。戒を捉えることによって、後悔のなさなど、全ての戒の功徳の法が廻転する。殺生などからの回避の言葉によって、不放逸の境地となり、それによって全ての教えの清らかな行が廻転する。深さなどの特質を持つ法を捉えることによって、大いなる覚り(菩提)が賞揚される。なぜなら、無障智は漏尽智の近因であり、漏尽智の近因である無障智こそが大いなる覚りであるからである。それによって十力など、全ての仏の功徳が廻転する。常住論などの見解を捉えることによって、渇愛と無明が集められ、それらによって始まりのない輪廻の車輪が廻転する。諸々の受の集起などを如実に見ることによって、世尊の三種の偏知の清浄が達成され、それによって般若波羅蜜を筆頭に全ての波羅蜜が廻転する。「無知、無見」とは、無明を捉えることによって非如理作意が把握され、それによって非如理作意を根源とする法が廻転する。「渇愛に捕らわれた者の動揺」とは、渇愛を捉えることによって九種の渇愛を根源とする法が廻転し、「それもまた触を縁とする」など、常住論などの説が縁によって成り立つことを示すことによって、無常などの三相が廻転する。六つの触処を如実に知ることによって、解脱という成就が説かれ、それによって七つの清浄が廻転する。「如来の身体は存在の導き手(渇愛)を断ち切った」とは、渇愛の放棄であり、それによって世尊の全ての煩悩の放棄が廻転すると、これが廻転配列(アーヴァッタ・ハラ)である。
Āghātānandādayo akusalā dhammā, tesaṃ ayonisomanasikārādi padaṭṭhānaṃ. Yehi pana dhammehi āghātānandādīnaṃ akaraṇaṃ appavatti, te abyāpādādayo kusalā dhammā, tesaṃ yonisomanasikārādi padaṭṭhānaṃ. Tesu āghātādayo kāmāvacarāva, abyāpādādayo catubhūmakā. Tathā pāṇātipātādīhi paṭivirati kusalā vā abyākatā vā, tassā hirottappādayo dhammā padaṭṭhānaṃ. Tattha kusalā siyā kāmāvacarā, siyā lokuttarā, abyākatā lokuttarāva. ‘‘Atthi bhikkhave aññeva dhammā gambhīrā’’ti vuttadhammā siyā kusalā, siyā abyākatā, tattha kusalānaṃ vuṭṭhānagāminivipassanā padaṭṭhānaṃ. Abyākatānaṃ maggadhammā, vipassanā, āvajjanā vā padaṭṭhānaṃ. Tesu kusalā lokuttarā, abyākatā siyā kāmāvacarā, siyā lokuttarā, sabbāpi diṭṭhiyo akusalāva kāmāvacarāva, tāsaṃ avisesena micchābhinivese ayonisomanasikāro padaṭṭhānaṃ. Visesato pana santatighanavinibbhogābhāvato ekattanayassa micchāgāho atītajātianussaraṇatakkasahito sassatadiṭṭhiyā padaṭṭhānaṃ. Hetuphalabhāvena sambandhabhāvassa aggahaṇato nānattanayassa micchāgāho tajjāsamannāhārasahito ucchedadiṭṭhiyā padaṭṭhānaṃ. Evaṃ sesadiṭṭhīnampi yathāsambhavaṃ vattabbaṃ. ‘‘Vedanāna’’nti ettha vedanā siyā kusalā, siyā abyākatā, siyā kāmāvacarā, siyā rūpāvacarā, siyā arūpāvacarā, phasso tāsaṃ padaṭṭhānaṃ. Vedanānaṃ samudayādiyathābhūtavedanaṃ maggañāṇaṃ, anupādāvimutti phalaṃ, tesaṃ ‘‘aññeva dhammā gambhīrā’’ti ettha vuttanayena dhammādivibhāgo netabbo. ‘‘Ajānataṃ apassata’’ntiādīsu avijjā taṇhā akusalā kāmāvacarā, tāsu avijjāya āsavā, ayonisomanasikāro eva vā padaṭṭhānaṃ. Taṇhāya saṃyojaniyesu dhammesu assādadassanaṃ padaṭṭhānaṃ. ‘‘Tadapi phassapaccayā’’ti ettha phassassa vedanāya viya dhammādivibhāgo veditabbo. Iminā nayena phassāyatanādīnampi yathārahaṃ dhammādivibhāgo netabboti ayaṃ vibhattihāro.
怨恨や歓喜などは不善の法であり、それらの近因は非如理作意などである。しかし、怨恨や歓喜などを行わない法、つまり不害などの善の法は、それらの近因は如理作意などである。これらの中で、怨恨などは欲界に属し、不害などは四種の境地(欲界・色界・無色界・出世間)に属する。また、殺生などからの回避は善あるいは無記であり、その近因は慚愧などの法である。善は欲界に属することもあり、出世間に属することもあり、無記は出世間のみに属する。「比丘たちよ、他にも深遠な法がある」と述べられた法は、善であることも、無記であることもある。その中で、善の近因は現起に向かう観(ヴィパッサナー)である。無記の近因は道法、観、あるいは思惟である。これらの中で、善は出世間であり、無記は欲界に属することもあり、出世間に属することもある。全ての見解は不善であり、欲界に属するのみであり、それらのすべてにおいて、間違った思い込みに対する非如理作意が近因である。特に、連続性と密接な区別の欠如から、一体性の誤った把握が、過去の生を想起する思量と相まって常住論の近因となる。原因と結果の関連性の把握の欠如から、多体性の誤った把握が、それに対応する思量と相まって断滅論の近因となる。このように、残りの見解についても、それぞれの場合に応じて述べるべきである。「受」において、受は善であることも、無記であることも、欲界に属することもあり、色界に属することもあり、無色界に属することもあり、触がそれらの近因である。諸々の受の集起などを如実に知ることは道智であり、執着なき解脱は果であり、それらの「他にも深遠な法がある」と述べられた様式に従って、法などの区別を導くべきである。「無知、無見」などにおいて、無明と渇愛は不善の欲界の法であり、そのうち無明の近因は漏(煩悩)であり、あるいは非如理作意そのものである。渇愛の近因は束縛を生じる諸法における甘美さを見ることである。「それもまた触を縁とする」において、触については受の場合と同様に、法などの区別を知るべきである。この様式に従って、触処などについても、それぞれにふさわしい法などの区別を導くべきであると、これが分別配列(ヴィバッティ・ハラ)である。
Āghātādīnaṃ akaraṇaṃ khantisoraccāni anubrūhetvā paṭisaṅkhānabhāvanābalasiddhiyā ubhayahitapaṭipattiṃ āvahati. Āghātādayo pana pavattiyamānā dubbaṇṇataṃ dukkhaseyyaṃ bhogahāniṃ akittiṃ parehi durupasaṅkamanatañca nipphādentā nirayādīsu mahādukkhaṃ āvahanti. Pāṇātipātādīhi paṭivirati avippaṭisārādikalyāṇaṃ paramparaṃ āvahati. Pāṇātipātādi pana vippaṭisārādiakalyāṇaṃ paramparaṃ, gambhīratādivisesayuttaṃ ñāṇaṃ vineyyānaṃ yathārahaṃ vijjābhiññādiguṇavisesaṃ āvahati sabbañeyyaṃ yathāsabhāvāvabodhato. Tathā gambhīratādivisesarahitaṃ pana ñāṇaṃ ñeyyesu sāvaraṇato yathāvuttaguṇavisesaṃ nāvahati. Sabbāpi cetā diṭṭhiyo yathārahaṃ sassatucchedabhāvato antadvayabhūtā sakkāyatīraṃ nātivattanti aniyyānikasabhāvattā. Niyyānikasabhāvattā pana sammādiṭṭhi saparikkhārā majjhimapaṭipadābhūtā atikkamma sakkāyatīraṃ pāraṃ āgacchati. Vedanānaṃ samudayādiyathābhūtavedanaṃ anupādāvimuttiṃ āvahati maggabhāvato. Vedanānaṃ samudayādiasampaṭivedho saṃsāracārakāvarodhaṃ āvahati saṅkhārānaṃ paccayabhāvato. Vedayitasabhāvapaṭicchādako sammoho tadabhinandanaṃ āvahati. Yathābhūtāvabodho pana tattha nibbedaṃ virāgañca āvahati. Micchābhinivese ayonisomanasikārasahitā taṇhā anekavihitaṃ diṭṭhijālaṃ pasāreti. Yathāvuttataṇhāsamucchedo paṭhamamaggo taṃ diṭṭhijālaṃ saṅkoceti. Sassatavādādipaññāpanassa phasso paccayo hoti asati phasse tadabhāvato. Diṭṭhibandhanabandhānaṃ phassāyatanādīnaṃ anirodhena phassādianirodho saṃsāradukkhassa anivattiyeva, yāthāvato phassāyatanādipariññā sabbadiṭṭhidassanāni ativattati, phassāyatanādiapariññā taṃdiṭṭhigahanaṃ nātivattati, bhavanettisamucchedo āyatiṃ attabhāvassa anibbattiyā saṃvattati, asamucchinnāya bhavanettiyā anāgate bhavappabandho parivattatiyevāti ayaṃ parivatto hāro.
怨恨などをしないことは、忍耐と柔和を培い、熟慮と修習の力によって、双方にとって有益な実践をもたらす。しかし、怨恨などが生じた場合、それは醜さ、苦しい寝所、財産の損失、悪評、他者からの近づき難さを生み出し、地獄などにおいて大きな苦をもたらす。殺生などからの回避は、後悔のなさなどの善を連鎖的に生み出す。しかし、殺生などは、後悔などの不善を連鎖的に生み出す。深遠さなどの特質を持つ智は、全ての知るべきものを本来の姿のままに覚知することによって、教化されるべき人々に、それぞれに応じて神通や諸々の特殊な功徳をもたらす。同様に、深遠さなどの特質を欠く智は、知るべきものに障害があるため、前述のような特殊な功徳をもたらさない。これらの見解は全て、それぞれ常住論と断滅論という両極端に陥るため、出離の性質を持たないゆえに、我見の彼岸を越えることはできない。しかし、出離の性質を持つ正見は、その条件を伴った中道であるため、我見の彼岸を越えて彼岸に至る。諸々の受の集起などを如実に知ることは、道の性質を持つため、執着なき解脱をもたらす。諸々の受の集起などを理解しないことは、行の縁であるため、輪廻の束縛という障壁をもたらす。感受されるものの本質を覆い隠す愚かさは、それを喜ぶ心をもたらす。しかし、真実を如実に覚知することは、そこにおいて厭離と離貪をもたらす。邪な思い込みにおける非如理作意を伴う渇愛は、様々な種類の見解の網を広げる。前述の渇愛の断滅は、初めの一歩となる道がその見解の網を収束させる。常住論などの説の縁は触であり、触がなければそれらはない。見解の束縛に囚われた者にとって、触処などが滅しない限り、触などの滅がなく、輪廻の苦しみから抜け出すことはない。触処などを如実に完全に知ることは、全ての見解や見解の誤りを超越する。触処などを完全に知らなければ、その見解の深い森を越えることはできない。存在への導き手(渇愛)の断滅は、将来において自己の存在が再び生じないことにつながる。存在への導き手が断滅しない限り、未来において存在の連続が転回し続けると、これが転回配列(パリヴァッタ・ハラ)である。
‘‘Mama mayhaṃ me’’ti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Bhikkhave samaṇā tapassino’’ti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Pare aññe paṭiviruddhā’’ti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Avaṇṇaṃ akittiṃ ninda’’nti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Bhāseyyuṃ bhaṇeyyuṃ kareyyu’’nti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Dhammassa vinayassa satthusāsanassā’’ti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Saṅghassa samūhassa gaṇassā’’ti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Tatra tattha tesū’’ti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Tumhehi vo bhavantehī’’ti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Āghāto doso byāpādo’’ti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Appaccayo domanassaṃ cetasikadukkha’’nti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Cetaso anabhiraddhi cittassa byāpatti manopadoso’’ti pariyāyavacanaṃ. ‘‘Na karaṇīyā na uppādetabbā na pavattetabbā’’ti pariyāyavacanaṃ. Iti iminā nayena sabbapadesu vevacanaṃ vattabbanti ayaṃ vevacano hāro.
「ママ、マイハン、メー」は同義語である。「比丘たちよ、沙門たち、苦行者たち」は同義語である。「他者、異なる者、敵対する者」は同義語である。「不名誉、不評判、非難」は同義語である。「話す、語る、行う」は同義語である。「法、律、師の教え」は同義語である。「僧伽、集団、群れ」は同義語である。「あそこ、あそこ、彼らの中で」は同義語である。「あなた方によって、あなた方に、尊者たちによって」は同義語である。「怨恨、瞋恚、害意」は同義語である。「不快感、憂い、心的苦」は同義語である。「心の不満足、心の病、意の不満」は同義語である。「行うべきではない、生み出すべきではない、起こすべきではない」は同義語である。このように、あらゆる箇所において同義語が用いられるべきであると、これが同義語配列(ヴェヴァチャナ・ハラ)である。
Āghāto vatthuvasena dasavidhena ekūnavīsatividhena vā paññatto. Appaccayo upavicāravasena chadhā paññatto. Ānandopītiādivasena navadhā paññatto. Pīti sāmaññato khuddikādivasena pañcadhā paññattā. Somanassaṃ upavicāravasena chadhā paññattaṃ. Sīlaṃ vārittacārittādivasena anekadhā paññattaṃ. Gambhīratādivisesayuttaṃ ñāṇaṃ cittuppādavasena catudhā, dvādasavidhena vā, visayabhedato anekadhā ca paññattaṃ. Diṭṭhisassatādivasena dvāsaṭṭhiyā bhedehi, tadantogadhavibhāgena anekadhā ca paññattā. Vedanā chadhā aṭṭhasatadhā anekadhā ca paññattā. Tassā samudayo pañcadhā paññatto, tathā atthaṅgamo. Assādo duvidhena paññatto. Ādīnavo tividhena paññatto. Nissaraṇaṃ ekadhā catudhā ca paññattaṃ…pe… anupādāvimutti duvidhena paññattā.
怨恨は、対象の様式によって十種あるいは十九種に施設される。不快感は、観察の様式によって六種に施設される。歓喜は、喜悦などによって九種に施設される。喜悦は、一般に微小などによって五種に施設される。幸福は、観察の様式によって六種に施設される。戒は、禁戒や慣行などによって多種に施設される。深遠さなどの特質を持つ智は、心生起の様式によって四種に、あるいは十二種に、また対象の区別によって多種に施設される。見解は、常住論などによって六十二種に、その内訳によって多種に施設される。受は、六種に、百八種に、また多種に施設される。その集起は五種に施設され、同様に滅尽も五種に施設される。甘美さは二種に施設される。危険は三種に施設される。出離は一種あるいは四種に施設され…執着なき解脱は二種に施設される。
‘‘Ajānataṃ apassata’’nti vuttā avijjā visayabhedena catudhā aṭṭhadhā ca paññattā. ‘‘Taṇhāgatāna’’ntiādinā vuttā taṇhā chadhā aṭṭhasatadhā anekadhā ca paññattā. Phasso nissayavasena chadhā paññatto. Upādānaṃ catudhā paññattaṃ. Bhavo dvidhā anekadhā ca paññatto. Jāti vevacanavasena chadhā paññattā. Tathā jarā sattadhā paññattā. Maraṇaṃ aṭṭhadhā navadhā ca paññattaṃ. Soko pañcadhā paññatto. Paridevo chadhā paññatto. Dukkhaṃ catudhā paññattaṃ, tathā domanassaṃ. Upāyāso catudhā paññatto. ‘‘Samudayo hotī’’ti pabhavapaññatti, ‘‘yathābhūtaṃ pajānātī’’ti dukkhassa pariññāpaññatti, samudayassa pahānapaññatti, nirodhassa sacchikiriyāpaññatti, maggassa bhāvanāpaññatti.
「知らざる者、見ざる者」と言われる無明は、その対象の違いによって四種または八種に施設される。「渇愛に赴いた者たち」などと言われる渇愛は、六種、百八種、または無数に施設される。触は依処(根)に基づいて六種に施設される。取は四種に施設される。有は二種または無数に施設される。生は異名に基づいて六種に施設される。同様に、老は七種に施設される。死は八種または九種に施設される。憂は五種に施設される。悲は六種に施設される。苦は四種に施設され、同様に不快も。愁は四種に施設される。「集が起こる」とは発生の施設であり、「ありのままに知る」とは苦の遍知の施設、集の捨断の施設、滅の作証の施設、道の修習の施設である。
‘‘Antojālīkatā’’tiādi sabbadiṭṭhīnaṃ saṅgahapaññatti. ‘‘Ucchinnabhavanettiko’’tiādi duvidhena parinibbānapaññatti. Evaṃ āghātādīnaṃ akusalakusalādidhammānaṃ yathāpabhavapaññattiādivasena, tathā ‘‘āghāto’’ti byāpādassa vevacanapaññatti, ‘‘appaccayo’’ti domanassassa vevacanapaññattītiādinā nayena paññattibhedo vibhajitabboti ayaṃ paññattihāro.
「網の内にある」などとは、一切の見の摂受の施設である。「存在の綱を切断した者」などとは、二種の般涅槃の施設である。このように、悪意など、不善・善などの諸法は、それぞれ発生の施設などに基づいて、また「悪意」は瞋恚の異名の施設、「不快」は不快の異名の施設というやり方で、施設(paññatti)の区別が分類されるべきである。これが施設摂受である。
Āghātaggahaṇena saṅkhārakkhandhasaṅgaho, tathā anabhiraddhigahaṇena. Appaccayaggahaṇena vedanākkhandhasaṅgahoti idaṃ khandhamukhena otaraṇaṃ. Tathā āghātādiggahaṇena dhammāyatanaṃ dhammadhātu dukkhasaccaṃ samudayasaccaṃ vā gahitanti idaṃ āyatanamukhena dhātumukhena saccamukhena ca otaraṇaṃ. Tathā āghātādīnaṃ sahajātā avijjā hetusahajātaaññamaññanissayasampayuttaatthiavigatapaccayehi paccayo hoti, asahajātā pana anantarasamanantaraanantarūpanissayanatthivigatāsevanapaccayehi paccayo hoti, anantarā upanissayavaseneva paccayo hoti. Taṇhāupādānādīnaṃ, phassādīnampi tesaṃ sahajātānaṃ asahajātānañca yathārahaṃ paccayabhāvo vattabbo. Koci panettha adhipativasena, koci kammavasena, koci āhāravasena, koci indriyavasena, koci jhānavasena, koci maggavasenapi paccayo hotīti. Ayampi viseso veditabboti idaṃ paṭiccasamuppādamukhena otaraṇaṃ. Ānandādīnampi imināva nayena khandhādimukhena otaraṇaṃ vibhāvetabbaṃ.
悪意を取ることによって、行蘊が摂受される。同様に不満を取ることによっても。不快を取ることによって、受蘊が摂受される。これは蘊の門からの流入である。同様に、悪意などを取ることによって、法処、法界、苦諦、あるいは集諦が捉えられる。これは処の門、界の門、諦の門からの流入である。同様に、悪意などと俱生する無明は、原因、俱生、相互、依止、相応、有、離去の縁によって縁となる。しかし、俱生しない無明は、無間、等無間、無間後、無、離去、習行の縁によって縁となる。無間は強力な依止としてのみ縁となる。渇愛、取など、触などについても、それらと俱生する縁と俱生しない縁の、それぞれの縁となるあり方を述べるべきである。ここには、あるものは増上として、あるものは業として、あるものは食として、あるものは根として、あるものは禅として、あるものは道としてさえ縁となるものもある。この特殊性も知るべきである。これは縁起の門からの流入である。歓喜などについても、この方法で蘊などの門からの流入を詳述すべきである。
Tathā sīlaṃ pāṇātipātādīhi viraticetanā, abyāpādādicetasikadhammā ca, pāṇātipātādayo cetanāva, tesaṃ tadupakārakadhammānañca lajjādayādīnaṃ saṅkhārakkhandhadhammāyatanādisaṅgaho, purimanayeneva khandhādimukhena ca otaraṇaṃ vibhāvetabbaṃ. Esa nayo ñāṇadiṭṭhivedanāavijjātaṇhādiggahaṇesu. Nissaraṇaanupādāvimuttigahaṇesu asaṅkhatadhātuvasenapi dhātumukhena otaraṇaṃ vibhāvetabbaṃ. Tathā ‘‘vedanānaṃ…pe… anupādāvimutto’’ti etena bhagavato sīlādayo pañca dhammakkhandhā, satipaṭṭhānādayo ca bodhipakkhiyadhammā pakāsitā hontīti taṃ mukhenapi otaraṇaṃ veditabbaṃ. ‘‘Tadapi phassapaccayā’’ti diṭṭhipaññāpanassa paccayādhīnavuttitādīpanena aniccatāmukhena otaraṇaṃ, tathā evaṃdhammatāya paṭiccasamuppādamukhena otaraṇaṃ, aniccassa dukkhānattabhāvato appaṇihitamukhena suññatāmukhena ca otaraṇaṃ. Sesapadesupi eseva nayoti ayaṃ otaraṇo hāro.
同様に、戒とは殺生などからの離欲の思、無害などの心所法である。殺生などは思そのものである。それらとそれに役立つ慚などといった法は、行蘊や法処などに摂受され、前述の方法で蘊などの門からの流入が詳述されるべきである。この方法は、知、見、受、無明、渇愛などを捉える際にも同じである。出離や取ることのない解脱を捉える際には、無為界の観点から界の門からの流入が詳述されるべきである。同様に、「受について…(中略)…取ることなく解脱した」という言葉によって、世尊の戒などの五つの法蘊、および四念処などの三十七道品が示されるので、その門からも流入を知るべきである。「それもまた触を縁とする」という言葉は、見の施設が縁に依存して生起することを示すことによって、無常の門からの流入であり、同様に、そのような本性によって縁起の門からの流入であり、無常が苦であり無我であることから、無願の門、空の門からの流入である。残りの箇所についても同様の方法である。これが流入摂受である。
‘‘Mamaṃ vā…pe… bhāseyyu’’nti ārambho. ‘‘Dhammassa…pe… saṅghassa…pe… bhāseyyu’’nti padasuddhi, no ārambhasuddhi. ‘‘Tatra tumhehi…pe… karaṇīyā’’ti padasuddhi ceva ārambhasuddhi ca. Dutiyanayādīsupi eseva nayo. Tathā ‘‘appamattakaṃ kho paneta’’ntiādi ārambho. ‘‘Katama’’ntiādi pucchā. ‘‘Pāṇātipātaṃ pahāyā’’tiādi padasuddhi, no ārambhasuddhi, no ca pucchāsuddhi. ‘‘Idaṃ kho’’tiādi pucchāsuddhi ceva padasuddhi ca ārambhasuddhi ca.
「私のことを…(中略)…語るであろう」とは導入である。「法のこと…(中略)…僧のこと…(中略)…語るであろう」とは言葉の浄化であり、導入の浄化ではない。「そこであなた方によって…(中略)…なされるべきである」とは言葉の浄化であり、同時に導入の浄化である。第二の方法などについても同様である。同様に、「それは実に些細なものである」などとは導入である。「いかなるものか」などとは質問である。「殺生を捨てて」などとは言葉の浄化であり、導入の浄化でもなく、質問の浄化でもない。「これこそが」などとは質問の浄化であり、言葉の浄化であり、導入の浄化である。
Tathā ‘‘atthi bhikkhave’’tiādi ārambho. ‘‘Katame ca te’’tiādi pucchā. ‘‘Santi bhikkhave’’tiādi **ārambho. ‘‘Ki’’**ntiādi ārambha pucchā. ‘‘Yathāsamāhite’’tiādi padasuddhi, no ārambhasuddhi no ca pucchāsuddhi. ‘‘Ime kho te’’tiādi padasuddhi ceva pucchāsuddhi ca ārambhasuddhi ca. Iminā nayena sabbattha ārambhādayo veditabbāti. Ayaṃ sodhano hāro.
同様に、「比丘たちよ、存在する」などとは導入である。「それらはいかなるものか」などとは質問である。「比丘たちよ、存在する」などとは導入である。「何が」などとは導入の質問である。「よく定まった」などとは言葉の浄化であり、導入の浄化でもなく、質問の浄化でもない。「これらこそがそれらである」などとは言葉の浄化であり、同時に質問の浄化であり、導入の浄化である。この方法で、すべての箇所において導入などを知るべきである。これが浄化摂受である。
‘‘Avaṇṇa’’nti sāmaññato adhiṭṭhānaṃ taṃ, avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘mamaṃ vā dhammassa vā saṅghassa vā’’ti. Sukkapakkhepi eseva nayo.
「悪口」とは、一般的な確立であり、それを分けることなく「私について、あるいは法について、あるいは僧について」という特定の言葉がある。善の側についても同様である。
Tathā ‘‘sīla’’nti sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘pāṇātipātā paṭivirato’’tiādi.
同様に、「戒」とは一般的な確立であり、それを分けることなく「殺生から遠離した」などという特定の言葉がある。
‘‘Aññeva dhammā’’tiādi sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘tayidaṃ bhikkhave tathāgato pajānātī’’tiādi.
「他の法々」などとは、一般的な確立であり、それを分けることなく「比丘たちよ、これは如来が知るものである」などという特定の言葉がある。
Tathā ‘‘pubbantakappikā’’tiādi sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘sassatavādā’’tiādi. Iminā nayena sabbattha sāmaññaviseso niddhāretabboti ayaṃ adhiṭṭhāno hāro.
同様に、「過去の末を思惟する者たち」などとは、一般的な確立であり、それを分けることなく「常住論者たち」などという特定の言葉がある。この方法で、すべての箇所において一般と特殊を決定すべきである。これが確立摂受である。
Āghātādīnaṃ ‘‘anatthaṃ me acarī’’tiādīni (dha. sa. 1237; vibha. 909) ca ekūnavīsati āghātavatthūni hetu. Ānandādīnaṃ ārammaṇe abhisineho hetu. Sīlassa hiriottappaṃ appicchatādayo ca hetu. ‘‘Gambhīrā’’tiādinā vuttadhammassa sabbāpi pāramiyo hetu, visesena paññāpāramī. Diṭṭhīnaṃ asappurisūpassayo, asaddhammassavanaṃ, micchābhinivesena ayonisomanasikāro ca avisesena hetu, visesena pana sassatavādādīnaṃ atītajātianussaraṇādi hetu. Vedanānaṃ avijjātaṇhākammāni phasso ca hetu. Anupādāvimuttiyā ariyamaggo hetu. Paññāpanassa ayonisomanasikāro hetu. Taṇhāya saṃyojaniyesu assādānupassanā hetu. Phassassa chaḷāyatanāni, chaḷāyatanassa nāmarūpaṃ hetu. Bhavanettisamucchedassa visuddhibhāvanā hetūti ayaṃ parikkhāro hāro.
悪意などについては、「彼は私に不利益をなした」など(ダンマサンガニ1237、分別論909)の19の悪意の対象が原因である。歓喜などについては、対象に対する強い愛着が原因である。戒については、慚、愧、少欲などが原因である。「深遠な」などと言われる法については、すべての波羅蜜が原因であり、特に般若波羅蜜である。見については、悪友との交わり、不善法の聴聞、邪な執着による不適切な作意が一般的な原因であり、特に常住論などについては、過去世の追憶などが原因である。受については、無明、渇愛、業、触が原因である。取ることのない解脱については、聖なる道が原因である。施設の原因は不適切な作意である。渇愛については、結縛となるものに対する味覚の観察が原因である。触については六処が、六処については名色が原因である。存在の綱の切断については、清浄の修習が原因である。これが資具摂受である。
Āghātādīnaṃ akaraṇīyatāvacanena khantisampadā dassitā hoti. ‘‘Appamattakaṃ kho paneta’’ntiādinā soraccasampadā, ‘‘atthi bhikkhave’’tiādinā ñāṇasampadā, ‘‘aparāmasato cassa paccattaññeva nibbuti viditā’’ti, ‘‘vedanānaṃ…pe… yathābhūtaṃ viditvā anupādāvimutto’’ti etehi samādhisampadāya saddhiṃ vijjāvimuttivasībhāvasampadā dassitā hoti. Tattha khantisampadā paṭisaṅkhānabalasiddhito soraccasampadāya padaṭṭhānaṃ. Soraccasampadā pana atthato sīlameva, tathā pāṇātipātādīhi paṭivirativacanaṃ sīlassa pariyāyavibhāgadassanatthaṃ. Tattha sīlaṃ samādhissa padaṭṭhānaṃ, samādhi paññāya padaṭṭhānaṃ. Tesu sīlena vītikkamappahānaṃ duccaritasaṃkilesappahānañca sijjhati, samādhinā pariyuṭṭhānappahānaṃ, vikkhambhanappahānaṃ, taṇhāsaṃkilesappahānañca sijjhati. Paññāya diṭṭhisaṃkilesappahānaṃ, samucchedappahānaṃ, anusayappahānañca sijjhatīti sīlādīhi tīhi dhammakkhandhehi samathavipassanābhāvanāpāripūrī, pahānattayasiddhi cāti ayaṃ samāropano hāro.
悪意などをなすべきでないという言葉によって、忍辱の具足が示される。「それは実に些細なものである」などによって柔和の具足が、「比丘たちよ、存在する」などによって智の具足が、「それに触れないことで、彼自身の内奥に涅槃を知った」と、「受について…(中略)…ありのままに知って取ることなく解脱した」という言葉によって、定の具足とともに明知と解脱の制御の具足が示される。そこにおいて、忍辱の具足は熟考の力によって成就され、柔和の具足の基盤となる。柔和の具足は、本質的には戒そのものである。また、殺生などからの離欲という言葉は、戒の類別の差異を示すためである。そこにおいて、戒は定の基盤であり、定は慧の基盤である。これらの中で、戒によって越犯の捨断と悪行の煩悩の捨断が成就し、定によっては纏の捨断、鎮伏の捨断、渇愛の煩悩の捨断が成就する。慧によっては見の煩悩の捨断、根絶の捨断、随眠の捨断が成就する。このように、戒などの三つの法蘊によって止観の修習の円満と三種の捨断の成就がある。これが結合摂受である。
Soḷasahāravaṇṇanā niṭṭhitā.
十六摂受の解説が終わった。
Āghātādīnaṃ akaraṇavacanena taṇhāvijjāsaṅkoco dassito hoti. Sati hi attattaniyavatthūsu sinehe sammose ca ‘‘anatthaṃ me acarī’’tiādinā (dha. sa. 1237, vibha. 909) āghāto jāyatīti, tathā ‘‘pāṇātipātā paṭivirato’’tiādivacanehi, ‘‘paccattaññeva nibbuti viditā, anupādāvimutto, channaṃ phassāyatanānaṃ…pe… yathābhūtaṃ pajānātī’’tiādīhi vacanehi ca taṇhāvijjānaṃ accantappahānaṃ dassitaṃ hoti. Tāsaṃ pana pubbantakappikādipadehi ‘‘ajānataṃ apassata’’ntiādipadehi ca sarūpato dassitānaṃ taṇhāvijjānaṃ rūpadhammā arūpadhammā ca adhiṭṭhānaṃ. Yathākkamaṃ samatho ca vipassanā ca paṭipakkho. Tesaṃ cetovimutti paññāvimutti ca phalaṃ. Tattha taṇhā, taṇhāvijjā vā samudayasaccaṃ, tadadhiṭṭhānabhūtā rūpārūpadhammā dukkhasaccaṃ, tesaṃ appavatti nirodhasaccaṃ, nirodhapajānanā samathavipassanā maggasaccanti evaṃ catusaccayojanā veditabbā. Taṇhāggahaṇena cettha māyāsāṭheyyamānātimānamadappamādapāpicchatāpāpamittatāahirikānottappādivasena sabbo akusalapakkho netabbo. Tathā avijjāggahaṇena viparītamanasikārakodhupanāhamakkhapalāsaissāmacchariyasārambhadovacassatā- bhavadiṭṭhivibhavadiṭṭhādivasena akusalapakkho netabbo. Vuttavipariyāyena amāyāasāṭheyyādiaviparītamanasikārādivasena, tathā samathapakkhiyānaṃ saddhindriyādīnaṃ, vipassanāpakkhiyānañca aniccasaññādīnaṃ vasena kusalapakkho netabboti. Ayaṃ nandiyāvaṭṭassa nayassa bhūmi.
悪意などをなすべきでないという言葉によって、渇愛と無明の収縮が示される。もし、自己に属する、あるいは自己に属さない対象に対して愛着や錯乱があれば、「彼は私に不利益をなした」などによって悪意が生じるからである。同様に、「殺生から遠離した」などの言葉や、「彼自身の内奥に涅槃を知った、取ることなく解脱した、六つの触処について…(中略)…ありのままに知る」などの言葉によって、渇愛と無明の完全な捨断が示される。これら、過去の末を思惟する者たちなどという言葉や、「知らず、見ざる者」などという言葉によって、その本質が示される渇愛と無明の確立は、色法と無色法である。それぞれ、止と観がその対治である。それらの結果は心解脱と慧解脱である。そこにおいて、渇愛、あるいは渇愛と無明は集諦であり、それらの確立である色法と無色法は苦諦であり、それらの不生は滅諦であり、滅の智である止と観は道諦である。このように四諦の結合を知るべきである。ここで渇愛を取ることによって、欺瞞、傲慢、慢、過慢、放逸、怠慢、悪欲、悪友との交わり、無慚、無愧などによって、すべての不善の側面が導かれるべきである。同様に、無明を取ることによって、倒れた作意、怒り、恨み、覆蔵、誹謗、嫉妬、慳貪、荒々しさ、不和、有見、無有見などによって、不善の側面が導かれるべきである。述べられたことの反対、すなわち無欺瞞、無傲慢など、倒れない作意などによって、また止の側面である信根など、観の側面である無常の想などによって、善の側面が導かれるべきである。これが難提ヤーヴァッタの方法の領域である。
Āghātādīnaṃ akaraṇavacanena adosasiddhi, tathā pāṇātipātapharusavācāhi paṭivirativacanena. Ānandādīnaṃ akaraṇavacanena alobhasiddhi, tathā abrahmacariyato paṭivirativacanena. Adinnādānādīhi pana paṭivirativacanena ubhayasiddhi. ‘‘Tayidaṃ bhikkhave tathāgato pajānātī’’tiādinā amohasiddhi. Iti tīhi akusalamūlehi gahitehi tappaṭipakkhato, āghātādiakaraṇavacanena ca tīṇi kusalamūlāni siddhāniyeva honti. Tattha tīhi akusalamūlehi tividhaduccaritasaṃkilesamalavisamākusalasaññāvitakkāsaddhammādivasena sabbo akusalapakkho vitthāretabbo. Tathā tīhi kusalamūlehi tividhasucaritavodānasamakusalasaññāvitakkapaññāsaddhammasamādhi- vimokkhamukhavimokkhādivasena sabbo kusalapakkho vibhāvetabbo. Etthāpi ca saccayojanā veditabbā. Kathaṃ? Lobho sabbāni vā kusalākusalamūlāni samudayasaccaṃ, tehi pana nibbattā tesaṃ adhiṭṭhānagocarabhūtā upādānakkhandhā dukkhasaccantiādinā nayena saccayojanā veditabbāti ayaṃ tipukkhalassa nayassa bhūmi.
悪意などをなすべきでないという言葉によって、無瞋の成就があり、同様に殺生や粗語から遠離する言葉によっても。歓喜などをなすべきでないという言葉によって、無貪の成就があり、同様に不浄行から遠離する言葉によっても。しかし、盗みなどから遠離する言葉によって、両者(無瞋と無貪)の成就がある。「比丘たちよ、これは如来が知るものである」などによって、無痴の成就がある。このように、三つの不善根を捉えることの対治として、また悪意などをなすべきでないという言葉によって、三つの善根がまさに成就する。そこにおいて、三つの不善根によって、三種の悪行、煩悩、垢穢、不均衡、不善の想、尋、不善法などとして、すべての不善の側面が詳述されるべきである。同様に、三つの善根によって、三種の善行、清浄、平衡、善の想、尋、慧、善法、定、解脱の門、解脱などとして、すべての善の側面が詳述されるべきである。ここでもまた、諦の結合を知るべきである。どのようにか?貪、あるいはすべての善・不善根は集諦であり、しかしそれらから生じた、それらの確立と対象である取蘊は苦諦である、という方法で諦の結合を知るべきである。これが三福田の方法の領域である。
Āghātānandanādīnaṃ akaraṇavacanena satisiddhi. Satiyā hi sāvajjānavajje, tattha ca ādīnavānisaṃse sallakkhetvā sāvajjaṃ pahāya anavajjaṃ samādāya vattatīti. Tathā micchājīvā paṭivirativacanena vīriyasiddhi. Vīriyena hi kāmabyāpādavihiṃsāvitakke vinodeti, vīriyasādhanañca ājīvapārisuddhisīlanti. Pāṇātipātādīhi paṭivirativacanena satisiddhi. Satiyā hi sāvajjānavajje, tattha ca ādīnavānisaṃse sallakkhetvā sāvajjaṃ pahāya anavajjaṃ samādāya vattati. Tathā hi sā ‘‘visayābhimukhabhāvapaccupaṭṭhānā’’ti ca vuccati. ‘‘Tayidaṃ bhikkhave tathāgato pajānātī’’tiādinā samādhipaññāsiddhi. Paññāya hi yathābhūtāvabodho, samāhito ca yathābhūtaṃ pajānātīti. Tathā ‘‘nicco dhuvo’’tiādinā anicce ‘‘nicca’’nti vipallāso, ‘‘arogo paraṃ maraṇā, ekantasukhī attā diṭṭhadhammanibbānappatto’’ti ca evamādīhi asukhe ‘‘sukha’’nti vipallāso, ‘‘pañcahi kāmaguṇehi samappito’’tiādinā asubhe ‘‘subha’’nti vipallāso, sabbeheva ca diṭṭhidīpakapadehi anattani ‘‘attā’’ti vipallāsoti evamettha cattāro vipallāsā siddhā honti, tesaṃ paṭipakkhato cattāri satipaṭṭhānāni siddhāneva honti. Tattha catūhi indriyehi cattāro puggalā niddisitabbā.
「怒りや歓喜などを為さない」という言葉によって念が成就する。念によって、過失のあるものと過失のないものにおいて、その中に危険と利益を深く考察し、過失のあるものを捨てて過失のないものを修習して生きるからである。同様に、邪命から離れるという言葉によって精進が成就する。精進によって、欲、瞋恚、害の思惟を排除し、精進を成就させるのは生計の清浄戒だからである。殺生などから離れるという言葉によって念が成就する。念によって、過失のあるものと過失のないものにおいて、その中に危険と利益を深く考察し、過失のあるものを捨てて過失のないものを修習して生きるからである。そのように、それは「対象に直面する状態として現れる」とも言われる。「比丘たちよ、如来はこれを知る」などによって、定と慧が成就する。慧によってありのままを理解し、心が統一された者はありのままを知るからである。同様に、「常住不変」などによって、無常なるものに「常住」と顛倒し、「死後病なく、絶対的な幸福、現世涅槃に達した我」などによって、苦に「楽」と顛倒し、「五欲に満足している」などによって、不浄に「清浄」と顛倒し、あらゆる見を明らかにする語句によって、無我に「我」と顛倒するので、ここに四つの顛倒が成就する。それらの反対として、四つの念処が成就するのである。その中で、四つの根によって四人の人が示されるべきである。
Kathaṃ? Duvidho hi taṇhācarito mudindriyo ca tikkhindriyo cāti, tathā diṭṭhicarito. Tesu paṭhamo asubhe ‘‘subha’’nti vipallattadiṭṭhi satibalena yathābhūtaṃ kāyasabhāvaṃ sallakkhetvā sammattaniyāmaṃ okkamati. Dutiyo asukhe ‘‘sukha’’nti vipallattadiṭṭhi ‘‘uppannaṃ kāmavitakkaṃ nādhivāsetī’’tiādinā (ma. ni. 1.26; a. ni. 4.14; 6.58) vuttena vīriyasaṃvarasaṅkhātena vīriyabalena taṃ vipallāsaṃ vidhamati. Tatiyo anicce ‘‘nicca’’nti ayāthāvagāhī samathabalena samāhitabhāvato saṅkhārānaṃ khaṇikabhāvaṃ yathābhūtaṃ paṭivijjhati. Catuttho santatisamūhakiccārammaṇaghanavicittattā phassādidhammapuñjamatte anattani ‘‘attā’’ti micchābhinivesī catukoṭikasuññatāmanasikārena taṃ micchābhinivesaṃ viddhaṃseti. Catūhi cettha vipallāsehi caturāsavoghayogakāyaganthaagatitaṇhuppādupādānasattaviññāṇaṭṭhitiapariññādivasena sabbo akusalapakkho netabbo. Tathā catūhi satipaṭṭhānehi catubbidhajhānavihārādhiṭṭhānasukhabhāgiyadhammaappamaññāsammappadhānaiddhipādādivasena sabbo vodānapakkho netabboti ayaṃ sīhavikkīḷitassa nayassa bhūmi. Idhāpi subhasaññāsukhasaññāhi, catūhipi vā vipallāsehi samudayasaccaṃ, tesaṃ adhiṭṭhānārammaṇabhūtā pañcupādānakkhandhā dukkhasaccantiādinā saccayojanā veditabbā.
どのようにか。渇愛を本性とする者には鈍根と利根の二種があり、同様に見を本性とする者にも二種がある。それらのうち、第一の者(不浄なものに「清浄」と顛倒した見を持つ者)は、念の力によってありのままの身体の性質を深く考察し、正定の境地に入る。第二の者(苦に「楽」と顛倒した見を持つ者)は、「生じた欲の思惟を容認しない」など(MA 1.26; AN 4.14; 6.58)で述べられている精進の制止という精進の力によって、その顛倒を打ち払う。第三の者(無常なものに「常住」とありのままに把握しない者)は、止の力によって、心が統一された状態から行の刹那的な性質をありのままに見抜く。第四の者(連続、集合、作用、対象の密なる多様性から、触などの法蘊に過ぎない無我を「我」と邪見にとらわれている者)は、四句分別による空の作意によってその邪見を破壊する。ここで、これら四つの顛倒によって、四つの煩悩、四つの暴流、四つの結縛、四つの身繋、四つの趣、渇愛の生起、取、生存、識の住処、不遍知などとして、一切の不善の側面が示されるべきである。同様に、四つの念処によって、四種の禅の境地、住処、楽分法の無量、正精進、神通の基礎などとして、一切の清浄の側面が示されるべきである。これこそが獅子奮迅の説法の基盤である。ここでもまた、清浄の認識や楽の認識、あるいは四つの顛倒によって、集諦が、そしてそれらの依処であり対象である五取蘊が苦諦であるというように、真理の結びつけが知られるべきである。
Iti tiṇṇaṃ atthanayānaṃ siddhiyā vohāranayadvayampi siddhameva hoti. Tathā hi atthanayadisābhūtadhammānaṃ samālocanaṃ disālocanaṃ, tesaṃ samānayanaṃ aṅkusoti niyuttā pañca nayā.
このように三つの義の観点が成就すれば、二つの世俗の観点もまた成就する。すなわち、義の観点の方向にある存在の法を考察することが「方位を照らす観点」であり、それらを集約することが「鉤」と名付けられた五つの観点である。
Pañcavidhanayavaṇṇanā niṭṭhitā.
五種の観点の解説が完了した。
Idaṃ suttaṃ soḷasavidhe suttantapaṭṭhāne saṃkilesavāsanāsekkhabhāgiyaṃ, saṃkilesanibbedhāsekkhabhāgiyameva vā. Aṭṭhavīsatividhe pana suttantapaṭṭhāne lokiyalokuttaraṃ sattadhammādhiṭṭhānaṃ ñāṇañeyyadassanabhāvanaṃ sakavacanaparavacanaṃ vissajjanīyāvissajjanīyaṃ kusalākusalaṃ anuññātapaṭikkhittañcāti veditabbaṃ.
この経は、十六種の経典の基礎において、煩悩の残滓に属する学処であり、あるいは煩悩を断つ学処に属する。しかし二十八種の経典の基礎においては、世間的と出世間的、七つの法の依処、知るべきことと知ることの観照、自説と他説、答えるべきことと答えるべきでないこと、善と不善、許されたことと禁じられたこととして知られるべきである。
Pakaraṇanayavaṇṇanā niṭṭhitā.
論書の観点に関する解説が完了した。
Brahmajālasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
『梵網経』の解説が完了した。
150. Rājagaheti ettha duggajanapadaṭṭhānavisesasampadādiyogato padhānabhāvena rājūhi gahitanti rājagahanti āha ‘‘mandhātu…pe… vuccatī’’ti. Tattha mahāgovindena mahāsattena pariggahitaṃ reṇuādīhi rājūhi pariggahitameva hotīti mahāgovindaggahaṇaṃ. Mahāgovindoti mahānubhāvo eko purātano rājāti keci. Pariggahitattāti rājadhānībhāvena pariggahitattā. Pakāreti nagaramāpanena raññā kāritasabbagehattā rājagahaṃ, gijjhakūṭādīhi parikkhittattā pabbatarājehi parikkhittagehasadisantipi rājagahaṃ, sampannabhavanatāya rājamānaṃ gehanti pi rājagahaṃ, saṃvihitārakkhatāya anatthāvahabhāvena upagatānaṃ paṭirājūnaṃ gahaṃ gehabhūtantipi rājagahaṃ, rājūhi disvā sammā patiṭṭhāpitattā tesaṃ gahaṃ gehabhūtantipi rājagahaṃ, ārāmarāmaṇeyyakādīhi rājate, nivāsasukhatādinā sattehi mamattavasena gayhati, pariggayhatīti vā rājagahanti edise pakāre so padeso ṭhānavisesabhāvena uḷārasattaparibhogoti āha **‘‘taṃ paneta’’**ntiādi. Tesanti yakkhānaṃ. Vasanavananti āpānabhūmibhūtaṃ upavanaṃ.
150. ここで「ラージャガハ」とは、難攻不落な場所の特異性などの理由で、王たちによって主要な場所として捉えられたから「ラージャガハ(王の家)」と呼ばれた、と「マンダーチュ...等...と呼ばれる」と言われる。その中で、大菩薩マハーゴーヴィンダによって掌握された場所は、レヌーなどの王たちによっても掌握されたので、マハーゴーヴィンダに掌握されたと言われる。マハーゴーヴィンダとは、ある古代の強力な王のことだと一部の者は言う。「掌握された」とは、王都として掌握されたからである。様々には、王によって都市が建設され、すべてが家のように作られたからラージャガハと呼ばれ、グリッジャクータ山などに囲まれているため、山々の王に囲まれた家のように見えるのでラージャガハと呼ばれ、壮麗な建物群によって輝いている家であるからラージャガハと呼ばれ、整えられた守りによって、害をもたらそうと近づいてきた敵対する王たちにとって牢獄のような家であるからラージャガハと呼ばれ、王たちによって見出され、適切に確立されたので、彼らにとって家のような場所であるからラージャガハと呼ばれ、園林の美しさなどで輝き、住むことの快適さなどによって衆生に「私のもの」と執着され、あるいは掌握されるからラージャガハと呼ばれ、このような場所は特別な場所として優れた衆生によって享受されると、「その、しかしこれ」などで述べられている。「彼らの」とは、夜叉たちのことである。「住む森」とは、宴の場である庭園のことである。
Avisesenāti ‘‘pātimokkhasaṃvarasaṃvuto viharati’’ (ma. ni. 1.69; 3.75; vibha. 508), ‘‘paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati, (dī. ni. 1.226; saṃ. ni. 2.152; a. ni. 4.123; pārā. 11) ‘‘mettāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati’’, (dī. ni. 1.556; 3.308; ma. ni. 1.77, 459, 509; 2.309, 315, 451, 471; 3.230; vibha. 642) ‘‘sabbanimittānaṃ amanasikārā animittaṃ cetosamādhiṃ samāpajjitvā viharatī’’tiādīsu (ma. ni. 1.459) viya saddantarasannidhānasiddhena visesaparāmasanena vinā. Iriyāya kāyikakiriyāya pavattanūpāyabhāvato pathoti iriyāpatho. Ṭhānādīnañhi gatinivatti ādiavatthāhi vinā na kañci kāyikakiriyaṃ pavattetuṃ sakkā. Viharati pavattati etena, viharaṇañcāti vihāro, dibbabhāvāvaho vihāro dibbavihāro, mahaggatajjhānāni. Nettiyaṃ pana ‘‘catasso āruppasamāpattiyo āneñjā vihārā’’ti vuttaṃ. Taṃ tāsaṃ mettājhānādīnaṃ brahmavihāratā viya bhāvanāvisesabhāvaṃ sandhāya vuttaṃ. Aṭṭhakathāsu pana dibbabhāvāvahasāmaññato tāpi ‘‘dibbavihārā’’ tveva vuttā. Hitūpasaṃhārādivasena pavattiyā brahmabhūtā seṭṭhabhūtā vihārāti brahmavihārā, mettājhānādikā. Anaññasādhāraṇattā ariyānaṃ vihārāti ariyavihārā, catassopi phalasamāpattiyo. Samaṅgīparidīpananti samaṅgibhāvaparidīpanaṃ. Iriyāpathasamāyogaparidīpanaṃ itaravihārasamāyogaparidīpanassa visesavacanassa abhāvato, iriyāpathasamāyogaparidīpanassa ca atthasiddhattā. Viharatīti ettha vi-saddo vicchedatthajotano, haratīti neti, pavattetīti attho. Tattha kassa kena vicchindanaṃ, kathaṃ kassa pavattananti antolīnaṃ codanaṃ sandhāyāha **‘‘so hī’’**tiādi.
「特になく」とは、「波羅提木叉の摂戒を具足して住む」(MA 1.69; 3.75; Vibh 508)、「初禅に入って住む」(DN 1.226; SN 2.152; AN 4.123; Pārā 11)、「慈悲の心をもって一方を遍く満たして住む」(DN 1.556; 3.308; MA 1.77, 459, 509; 2.309, 315, 451, 471; 3.230; Vibh 642)、「一切の表象を作意せず、無相の心統一に入って住む」(MA 1.459)などのように、他の語の近接によって生じる特定的な参照なしに、という意味である。身体的な行いを進行させる手段としての姿態が「威儀」である。立つことなどの動きや止まることなどの状態なしには、いかなる身体的な行いも進行させることはできないからである。「これによって住む、進行する」という意味で「住処」であり、また「住むこと」も「住処」である。神的な状態をもたらす住処は「神境住」であり、それは大いなる禅定である。しかし『ネッティ』では、「四つの無色定は不動の住処である」と述べられている。それは、それらの慈悲の禅定などが梵天の住処であるように、特別な修行の状態を指して述べられたものである。しかし註釈書では、それらも神的な状態をもたらすという共通性から、「神境住」と呼ばれている。利益をもたらすことなどによって、梵天のように最高である住処が「梵住」であり、慈悲の禅定などである。他と共有されないことから、聖者の住処が「聖住」であり、それは四つの果定である。「具足の明示」とは、具足の状態を明示することである。「威儀の結合の明示」とは、他の住処の結合の明示という特定の言葉がないためであり、威儀の結合の明示が意味として確立されているからである。「住む」において、「vi」の語は離反の意味を明らかにし、「harati」は導く、進行させるという意味である。その中で、「誰が何によって離反するのか、どのように誰が進むのか」という内包された問いを意図して、「彼こそが」などと述べている。
Gocaragāmadassanatthaṃ ‘‘rājagahe’’ti vatvā buddhānaṃ anurūpanivāsanaṭṭhānadassanatthaṃ ‘‘ambavane’’ti vuttanti āha **‘‘idamassā’’**tiādi. Etanti etaṃ ‘‘rājagahe’’ti bhummavacanaṃ samīpatthe ‘‘gaṅgāya gāvo caranti, kūpe gaggakula’’nti ca yathā. Kumārena bhatoti kumārabhato, so eva komārabhacco yathā bhisaggameva bhesajjaṃ. Dosābhisannanti vātapittādivasena ussannadosaṃ. Virecetvāti dosapakopato vivecetvā.
托鉢の村を示すために「ラージャガハに」と言い、仏陀にふさわしい住処を示すために「アンバヴァナ(芒果林)に」と言ったと、「これらが彼の」などで述べている。この「ラージャガハに」という処格の言葉は、「ガンジス川で牛が草を食む、井戸でガンジスの家族が」というように、近接の意味である。「少年によって養われた」とは「クマーラバタ」であり、それは「コーマーラバッチャ(幼子の養育)」と同じである。医者が薬と同じであるように。「ドーサービサンナ(過剰な欠陥)」とは、風、胆汁などによって過剰になった欠陥のことである。「清めて」とは、欠陥の悪化から解放することである。
Aḍḍhateḷasahīti aḍḍhena terasahi aḍḍhaterasahi bhikkhusatehi. Tāni pana paññāsāya ūnāni terasabhikkhusatāni hontīti āha **‘‘aḍḍhasatenā’’**tiādi.
「十三半の」とは、十三百から五十人を減らした千二百五十人の比丘たちによってである、と「百半の」などで述べられている。
Rājatīti dibbati, sobhatīti attho. Rañjetīti rameti. Raññoti pitu bimbisārarañño. Sāsanaṭṭhena hiṃsanaṭṭhena sattu.
「輝く」とは、輝く、美しいという意味である。「喜ばせる」とは、楽しませるという意味である。「王の」とは、父であるビンビサーラ王のことである。「敵」とは、教えを害するという意味である。
Bhāriyeti garuke aññesaṃ asakkuṇeyye vā. Suvaṇṇasatthakenāti suvaṇṇamayena satthakena. Ayomayañhi rañño sarīraṃ upanetuṃ ayuttanti vadati. Suvaṇṇasatthakenāti vā suvaṇṇaparikkhatena satthakena bāhuṃ phālāpetvāti sirāvedhavasena bāhuṃ phalāpetvā udakena sambhinditvā pāyesi kevalassa lohitassa gabbhinitthiyā dujjīrabhāvato. Dhurāti dhurabhūtā, gaṇassa, dhorayhāti attho. Dhuraṃ nīharāmīti gaṇadhuraṃ gaṇabandhiyaṃ nibbattemi. **‘‘Pubbe kho’’**tiādi khandhakapāḷi eva.
「重荷の」とは、重い、あるいは他者にはできないような、という意味である。「金製の小刀で」とは、金でできた小刀で、という意味である。鉄製のものは王の身体に使うべきではない、と言われるからである。あるいは、「金製の小刀で腕を裂かせ」とは、血管を切開することによって腕を切り開かせ、純粋な血が妊婦には消化しにくいことから、水で混ぜて飲ませた、という意味である。「務め」とは、務めとなる、群れの、重荷を担う、という意味である。「私は務めを果たす」とは、群れの務め、群れの絆を成就させる、という意味である。「以前、実に」などは、その巻のパーリ語そのものである。
Potthaniyanti churikaṃ, yaṃ ‘‘nakhara’’ntipi [pothanikanti churikaṃ, yaṃ kharantipi (sārattha. ṭī. 3.339) pothanikanti churikaṃ, kharantipi (vi. vi. ṭī. 2.cūḷavaggavaṇṇanā 339)] vuccati. Divā divassāti divassapi divā, majjhanhikavelāyanti attho.
「ポットタニ」とは、小刀であり、「ナカラ」とも言われるものである。(Sārattha. ṭī. 3.339、Vi. vi. ṭī. 2. Cūḷavaggavaṇṇanā 339では、「ポータニカ」は小刀で、「カラ」とも言われる)「昼のうちの昼」とは、日中の、正午頃、という意味である。
Tassā sarīraṃ lehitvā yāpeti attūpakkamena maraṇaṃ na yuttanti. Na hi ariyasāvakā attānaṃ vinipātentīti. Maggaphalasukhenāti maggaphalasukhāvahena sotāpattimaggaphalasukhūpasañhitena caṅkamena yāpeti. Cetiyaṅgaṇeti gandhapupphādīhi pūjanaṭṭhānabhūte cetiyaṅgaṇe. Nisajjanatthāyāti bhikkhusaṅghanisīdanatthāya. Cātumahārājikadevaloke…pe… yakkho hutvā nibbatti tattha bahulaṃ nibbattapubbatāya ciraparicitanikantivasena.
彼女はその身を舐めて生きるべきであり、自殺は適切ではない。なぜなら聖なる弟子たちは自らを破滅させないからである。「道果の楽によって」とは、道果の楽をもたらす預流果の楽を伴う経行によって生きる、という意味である。「チャイティヤンガナ(塔の庭)に」とは、香や花などで供養する場所であるチャイティヤンガナ、という意味である。「座るために」とは、比丘僧伽が座るため、という意味である。四大王天界に…等…夜叉となって生まれ変わったのは、そこに多く生まれ育ったことによって、長く親しまれ愛着があったからである。
Khobhetvāti puttasinehassa balavabhāvato, sahajātapītivegassa ca savipphāratāya taṃsamuṭṭhānarūpadhammehi pharaṇavasena sakalasarīraṃ āloḷetvā. Tenāha **‘‘aṭṭhimiñjaṃ āhacca aṭṭhāsī’’**ti. Pituguṇanti pitu attani sinehaguṇaṃ. Muñcāpetvāti ettha iti-saddo pakārattho, tena ‘‘abhimārakapurisapesanādippakārenā’’ti vutte eva pakāre paccāmasati. Vitthārakathānayoti ajātasattupasādanādivasena vitthārato vattabbāya kathāya nayamattaṃ. Kasmā panettha vitthāranayā kathā na vuttāti āha **‘‘āgatattā pana sabbaṃ na vutta’’**nti.
「動揺させて」とは、息子への愛情が強かったこと、そして生まれつきの歓喜の衝動が全身に広がり、それから生じる色法によって全身を撹乱させたこと、という意味である。それゆえ、「骨髄に達して存在した」と述べられている。「父の徳」とは、父が彼に対して抱く愛情の徳のことである。「解放させて」という部分では、「iti」の語は様態の意味であり、それによって「暗殺者や使者を送るなどの様態で」と言われた場合、その様態を指すのである。「詳細な物語の観点」とは、アジャータサットゥを喜ばせたことなどによって詳細に語られるべき物語の方法にすぎない。ここで詳細な物語が語られなかったのはなぜかというと、「しかし、すべては既に述べられているため」と述べている。
Kosalaraññoti mahākosalarañño. Paṇḍitādhivacananti paṇḍitavevacanaṃ. Vidantīti jānanti. Vedena ñāṇena karaṇabhūtena īhati pavattatīti vedehi.
「コーサラ王の」とは、大コーサラ王のことである。「賢者の代名詞」とは、賢者の別名のことである。「知る」とは、知る、という意味である。「ヴェーダによって」とは、知識を手段として活動し、進行するからである。
Etthāti etasmiṃ divase. Anasanena vāti vā-saddo aniyamattho, tena ekaccamanoduccaritadussīlyādīni saṅgaṇhāti. Tathā hi gopālakūposatho abhijjhāsahagatacittassa vasena vutto, nigaṇṭhuposatho mosavajjādivasena. Yathāha ‘‘so tena abhijjhāsahagatena cetasā divasaṃ atināmetī’’ti (a. ni. 1.71), ‘‘iti yasmiṃ samaye sacce samādapetabbā, musāvāde tasmiṃ samaye samādapentī’’ti (a. ni. 1.71) ca ādi. Etthāti uposathasadde. Atthuddhāroti vattabbaatthānaṃ uddhāraṇaṃ.
「ここで」とは、この日、という意味である。「断食によって、あるいは」という「あるいは」の語は不定の意味であり、それによって一部の意悪行や悪しき戒などを包含する。そのように、牧童の斎戒は貪欲を伴う心によって述べられ、ニガンタの斎戒は妄語などによって述べられる。「彼は貪欲を伴う心をもってその日を過ごす」(AN 1.71)、「このように、真理へと導かれるべき時に、彼らは妄語へと導く」(AN 1.71)などと述べられているように。「ここで」とは、斎戒の語において、という意味である。「意味の抽出」とは、語られるべき意味の抽出である。
Nanu ca atthamattaṃ pati saddā abhinivisantīti na ekena saddena aneke atthā abhidhīyantīti? Saccametaṃ saddavisese apekkhite, tesaṃ pana atthānaṃ uposathasaddavacanīyatā sāmaññaṃ upādāya vuccamāno ayaṃ vicāro uposathasaddassa atthuddhāroti vutto. Heṭṭhā ‘‘evaṃ me suta’’ntiādīsu āgate atthuddhārepi eseva nayo. Kāmañca pātimokkhuddesādivisayopi uposathasaddo sāmaññarūpo eva visesasaddassa avācakabhāvato, tādisaṃ pana sāmaññaṃ anādiyitvā ayamattho vuttoti veditabbaṃ. Sīlasuddhivasena upetehi samaggehi vasīyati anuṭṭhīyatīti uposatho, pātimokkhuddeso. Samādānavasena adhiṭṭhānavasena vā upecca ariyavāsādiatthaṃ vasitabbato uposatho, sīlaṃ. Anasanādivasena upecca vasitabbato anuvasitabbato uposatho. Upavāsoti samādānaṃ. Uposathakulabhūtatāya navamahatthinikāyapariyāpanne hatthināge kiñci kiriyaṃ anapekkhitvā rūḷhivasena samaññāmattaṃ uposathoti āha **‘‘uposatho nāgarājātiādīsu paññattī’’**ti. Divase pana uposathasaddappavatti aṭṭhakathāyaṃ vuttā eva. Suddhassa ve sadā phaggūti ettha pana suddhassāti sabbaso kilesamalābhāvena suddhassa. Veti nipātamattaṃ. Veti vā byattanti attho. Sadā phaggūti niccakālampi phagguṇanakkhattameva. Yassa hi phagguṇamāse uttaraphagguṇadivase titthanhānaṃ karontassa saṃvaccharikapāpapavāhanaṃ hotīti laddhi, taṃ tato vivecetuṃ idaṃ bhagavatā vuttaṃ. Suddhassuposatho sadāti yathāvuttasuddhiyā suddhassa uposathaṅgāni vatasamādānāni ca asamādiyatopi niccaṃ uposatho, uposathavāso evāti attho. Pañcadasannaṃ tithīnaṃ pūraṇavasena pannaraso.
まさか、ただ意味だけに言葉が執着するものではないと言って、一つの言葉で多くの意味が語られることはない、とでも言うのか。言葉の特殊性を期待するならばそれは真実であるが、しかし、それらの意味において、『布薩(うぽさた)』という言葉の普遍的な用法を取って語られるこの考察は、『布薩』という言葉の意味の抽出である、と述べられている。下にある『かくのごとく我は聞けり』などに現れる意味の抽出においても、同様である。また、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)の誦説などを対象とする『布薩』という言葉も、特殊な意味を語らない普遍的な形であるにしても、そのような普遍性を考慮せずに、この意味が述べられていると知るべきである。戒の清浄によって具えられた、和合した人々によって行われ、維持されるがゆえに『布薩』と言い、それは波羅提木叉の誦説である。受持することによって、または決定することによって、聖なる住処などの意味において住まれるべきであるから『布薩』と言い、それは戒である。断食などによって、住まれるべきであるから、また住み続けられるべきであるから、『布薩』である。断食とは受持である。布薩の家柄に生まれたゆえに、九大象の種族に属する象王において、いかなる行為も考慮せず、慣用的に単に名称として『布薩』である、と述べられている。『象王布薩などにおける規定である』と。しかし、その日に『布薩』という言葉が使われることについては、注釈書に述べられている通りである。『清らかな者には常にファッグー』というここでの『清らかな者には』とは、一切の煩悩の汚れがない清らかな者には、である。『ヴェー』はただの助辞である。あるいは、『ヴェー』は『明確に』という意味である。『常にファッグー』とは、常にファルグナ星宿である、ということである。なぜなら、ファルグナ月(陰暦2-3月)のウッタラ・ファルグナの日に、聖地での入浴を行う者は、一年間の罪が洗い流されるという信仰があるが、それと区別するために、これは世尊によって述べられたのである。『清らかな者には常に布薩』とは、前述の清浄さを持つ者には、布薩の行や誓願を受持しなくても、常に布薩であり、布薩の住処である、という意味である。十五の周期を満たすゆえに、十五夜である。
Bahuso, atisayato vā kumudāni ettha santīti kumudavatī, tissaṃ kumudavatiyā. Catunnaṃ māsānaṃ pāripūribhūtāti cātumāsī. Sā eva pāḷiyaṃ cātumāsinīti vuttāti āha **‘‘idha pana cātumāsinīti vuccatī’’**ti. Tadā kattikamāsassa puṇṇatāya māsapuṇṇatā. Vassānassa utuno puṇṇatāya utupuṇṇatā. Kattikamāsalakkhitassa saṃvaccharassa puṇṇatāya saṃvaccharapuṇṇatā. ‘‘Mā’’ iti cando vuccati tassa gatiyā divasassa minitabbato. Ettha puṇṇoti etissā rattiyā sabbakalāpāripūriyā puṇṇo. Tadā hi cando sabbaso paripuṇṇo hutvā dissati. Ettha ca ‘‘tadahuposathe pannarase’’ti padāni divasavasena vuttāni, ‘‘komudiyā’’tiādīni rattivasena.
多くの、あるいは非常に多くの睡蓮がここにあるゆえに『拘牟陀婆底(こむだばてぃ)』と言い、その拘牟陀婆底において。四ヶ月が満了したゆえに『チャートゥマーシー(四ヶ月の祭り)』である。それがパーリ語では『チャートゥマーシニー』と述べられている、と語られている。『ここでは『チャートゥマーシニー』と言われる』と。その時、カッティカ月(陰暦10-11月)の満月ゆえに『月の満月』である。雨期の季節が満了したゆえに『季節の満了』である。カッティカ月に象徴される一年が満了したゆえに『年の満了』である。『マー』とは月を指す。その月の運行によって日が計られるからである。ここでの『満月』とは、この夜の全ての部分が満ちていることを指す。その時、月は完全に満ちて見えるからである。そして、ここでの『その布薩の日の十五夜』という語句は日として述べられており、『光輝く夜の』などは夜として述べられている。
Rājāmaccaparivutoti rājakulasamudāgatehi amaccehi parivuto. Atha vā anuyuttakarājūhi ceva amaccehi ca parivuto. Caturupakkilesāti abbhā mahikā dhūmarajo rāhūti imehi catūhi upakkilesehi. Sanniṭṭhānaṃ kataṃ aṭṭhakathāyaṃ.
『王とその家臣たちに囲まれて』とは、王族に属する家臣たちに囲まれて、である。あるいは、付随する王たちと家臣たちに囲まれて、である。『四つの障害』とは、雲、霧、煙、羅睺星というこれら四つの障害である。注釈書に決定がなされている。
Pītivacananti pītisamuṭṭhānaṃ vacanaṃ. Yañhi vacanaṃ paṭiggāhakanirapekkhaṃ kevalaṃ uḷārāya pītiyā vasena sarasato sahasāva mukhato niccharati, taṃ idha ‘‘udāna’’nti adhippetaṃ. Tenāha **‘‘yaṃ pītivacanaṃ hadayaṃ gahetuṃ na sakkotī’’**tiādi.
『喜びに満ちた言葉』とは、喜びから生じる言葉である。なぜなら、受け手を気にせず、ただ深い喜びによって、自然と突然、口から発せられる言葉は、ここでは『ウドーナ(自発語)』を意味するからである。それゆえ、『喜びに満ちた言葉は、心に触れることができない』などと述べられている。
Dosehi itā gatā apagatāti dosinā ta-kārassa na-kāraṃ katvā yathā ‘‘kilese jito vijitāvīti jino’’ti. Anīya-saddo kattuatthe veditabboti āha **‘‘manaṃ ramayatī’’ti ‘‘ramaṇīyā’’**ti yathā ‘‘niyyānikā dhammā’’ti. Juṇhavasena rattiyā surūpatāti āha **‘‘vuttadosavimuttāyā’’**tiādi. Tattha abbhādayo vuttadosā, tabbigameneva cassā dassanīyatā, tena, utusampattiyā ca pāsādikatā veditabbā. Lakkhaṇaṃ bhavituṃ yuttāti etissā rattiyā yutto divaso māso utu saṃvaccharoti evaṃ divasamāsautusaṃvaccharānaṃ sallakkhaṇaṃ bhavituṃ yuttā lakkhaññā, lakkhaṇīyāti attho.
『欠点から離れ去った』という意味で、『ドーシナー』は、『タ』の音を『ナ』の音に変えたものである。たとえば『煩悩に打ち勝った、勝利者ゆえにジーナ(勝者)』のように。『アニーヤ』という語は行為者の意味で知られるべきである、と述べられている。『心を喜ばせる』ゆえに『ラマニーヤー(快い)』と。ちょうど『ニッヤーニカー・ダンマー(涅槃に至る法)』のように。月光によって夜が美しい姿である、と述べられている。『述べられた欠点から解放された』などと。そこでは、雲などが述べられた欠点であり、それらがなくなることによってその夜の視覚的な美しさが、そして季節の豊かさによってその心地よさが知られるべきである。『特徴となるのにふさわしい』とは、この夜にふさわしい日、月、季節、年といった、日、月、季節、年を特徴付けるのにふさわしい、『特徴付けられるもの』、すなわち『特徴的なもの』という意味である。
‘‘Yaṃ no payirupāsato cittaṃ pasīdeyyā’’ti vuttattā ‘‘samaṇaṃ vā brāhmaṇaṃ vā’’ti ettha paramatthasamaṇo ca paramatthabrāhmaṇo ca adhippeto, na pabbajjāmattasamaṇo, na jātimattabrāhmaṇo cāti āha **‘‘samitapāpatāya samaṇaṃ. Bāhitapāpatāya brāhmaṇa’’**nti. Bahuvacane vattabbe ekavacanaṃ, ekavacane vā vattabbe bahuvacanaṃ vacanabyatayo. Aṭṭhakathāyaṃ pana ekavacanavaseneva byatayo dassito. Attani, garuṭṭhāniye ca ekasmimpi bahuvacanappayogo nirūḷhoti. Sabbenapīti ‘‘ramaṇīyā vatā’’tiādinā sabbena vacanena. Obhāsanimittakammanti obhāsabhūtanimittakammaṃ paribyattaṃ nimittakaraṇanti attho. Devadatto cāti. Ca-saddo attūpanayane, tena yathā rājā ajātasattu attano pitu ariyasāvakassa satthuupaṭṭhākassa ghātanena mahāparādho, evaṃ bhagavato mahāanatthakarassa devadattassa avassayabhāvena pīti imamatthaṃ upaneti. Tassa piṭṭhichāyāyāti tassa jīvakassa piṭṭhiapassayena, taṃ pamukhaṃ katvā taṃ apassāyāti attho. Vikkhepapacchedanatthanti bhāviniyā attano kathāya uppajjanakavikkhepanassa pacchindanatthaṃ, anuppattiatthanti adhippāyo. Tenāha **‘‘tassaṃ hī’’**tiādi.
『私たちが近侍することで心が清らかになるような』と述べられていることから、『沙門(しゃもん)か婆羅門(ばらもん)か』という箇所では、究極的な意味での沙門と究極的な意味での婆羅門が意図されており、ただ出家しただけの沙門でもなければ、ただ血統による婆羅門でもない、と述べられている。『悪を鎮めた者ゆえに沙門。悪を排除した者ゆえに婆羅門』と。複数形であるべきところに単数形が、あるいは単数形であるべきところに複数形があるのは、語形の転換である。しかし、注釈書では単数形の用法においてのみ転換が示されている。自分自身や尊敬すべき人物に対して、一つであっても複数形を使う用法が確立している。『全てで』とは、『ああ、なんと楽しい夜よ』などといった全ての言葉によって、である。『光を伴う前兆の行』とは、光を伴う前兆の行、すなわち明確な前兆の作成という意味である。『デーヴァダッタもまた』とあるが、『チャ』という語は自分自身に引き寄せて考えることであり、それゆえ、アジャータサットゥ王が自らの父、聖弟子であり師の侍者であった者を殺害したことで大罪を犯したように、世尊にとって大いなる災厄をもたらしたデーヴァダッタもまた、避けられない存在であったということを、喜びをもってこの意味に導くのである。『彼の背後を追って』とは、そのジーヴァカの背後を頼りにして、彼を先頭にして、彼を頼りにして、という意味である。『錯乱を断ち切るために』とは、将来起こりうる自らの話によって生じるであろう錯乱を断ち切るため、すなわち、錯乱を招かないため、という意味である。それゆえ、『その(話の)中には』などと述べられている。
151. **‘‘So kirā’’**tiādi porāṇaṭṭhakathāya āgatanayo. Eseva nayo parato makkhalipadanibbacanepi. Upasaṅkamantīti upagatā. Tadeva pabbajjaṃ aggahesīti tadeva naggarūpaṃ pabbajjaṃ katvā gaṇhi.
151. 『かの者、曰く』などは、古注釈書に由来する解釈である。後に続くマッカリの語源解釈においても同様である。『近寄る』とは、赴いた、である。『その出家を受持した』とは、その都市の姿で出家して、受持した、である。
Pabbajitasamūhasaṅkhāto saṅghoti pabbajitasamūhatāmattena saṅgho, na niyyānikadiṭṭhisuvisuddhasīlasāmaññavasena saṃhatattāti adhippāyo. Assa atthīti assa satthupaṭiññassa parivārabhūto atthi. Svevāti pabbajitasamūhasaṅkhātova. Keci pana ‘‘pabbajitasamūhavasena saṅghī, gahaṭṭhasamūhavasena **gaṇī’’**ti vadanti, taṃ tesaṃ matimattaṃ gaṇe eva loke saṅgha-saddassa nirūḷhattā. Ācārasikkhāpanavasenāti acelaka vatacariyādiācārasikkhāpanavasena. Pākaṭoti saṅghīādibhāvena pakāsito. ‘‘Appiccho’’ti vatvā tattha labbhamānaṃ appicchattaṃ dassetuṃ **‘‘appicchatāya vatthampi na nivāsetī’’**ti vuttaṃ. Na hi tasmiṃ sāsanike viya santaguṇanigūhaṇalakkhaṇā appicchatā labbhatīti. Yasoti kittisaddo. ‘‘Taranti etena saṃsārogha’’nti evaṃ sammatattā titthaṃ vuccati laddhīti āha **‘‘titthakaroti laddhikaro’’**ti. Sādhusammatoti ‘‘sādhū’’ti sammato, na sādhūhi sammatoti āha **‘‘ayaṃ sādhū’’**tiādi. ‘‘Imāni me vatasamādānāni ettakaṃ kālaṃ suciṇānī’’ti pabbajitato paṭṭhāya atikkantā bahū rattiyo jānātīti rattaññū. Tā panassa rattiyo cirakālabhūtāti katvā ciraṃ pabbajitassa assāti cirapabbajito. Tattha cirapabbajitatāgahaṇena buddhisīlataṃ dasseti, rattaññutāgahaṇena tattha sampajānataṃ. Addhānanti dīghakālaṃ. Kittako pana soti āha **‘‘dve tayo rājaparivaṭṭe’’**ti, dvinnaṃ tiṇṇaṃ rājūnaṃ rajjaṃ anusāsanapaṭipāṭiyoti attho. **‘‘Addhagato’’**ti vatvā kataṃ vayogahaṇaṃ osānavayāpekkhanti āha **‘‘pacchimavayaṃ anuppatto’’**ti. Ubhayanti ‘‘addhagato, vayoanuppatto’’ti padadvayaṃ.
『出家者の集まりとして結成された僧伽』とは、単に出家者の集まりとしての僧伽であり、解脱に至る正しい見解と非常に清らかな戒の普遍性によって和合しているという意味ではない。『彼にはある』とは、その自称の師には眷属が存在する、である。『彼こそが』とは、出家者の集まりとして結成された者である。しかしある者たちは、『出家者の集まりであるゆえにサンギー(僧伽の者)、在家者の集まりであるゆえにガニー(群衆の者)』と述べるが、それは彼らの単なる見解に過ぎず、『サンガ』という言葉は世間一般では『群衆』という意味で確立しているからである。『行為と教えを定めることによって』とは、裸行者や誓願実践などの行為と教えを定めることによって、である。『明らかである』とは、サンギーなどとして明らかにされた、である。『少欲』と述べられた上で、そこに得られる少欲の性質を示すために、『少欲ゆえに衣も着ない』と述べられている。なぜなら、彼においては、教えの中に見られるような、安らかな徳を隠す性質を持つ少欲は得られないからである。『ヤサ(名声)』とは、評判の言葉である。『これで輪廻の激流を渡る』と、このように認められていることから、『ティッタ(外道)』とは教義を指す、と述べられている。『ティッタカラ(外道師)とは、教義を確立した者』である。『善人に認められた』とは、『善し』と認められたのであり、善人たちによって認められたのではない、と述べられている。『これが善である』などと。『私のこれらの誓願と受持は、これだけの期間、よく行われてきた』と、出家以来、過ぎ去った多くの夜を知るゆえに『ラッタンニュー(長老)』である。しかし、その夜々は彼にとって長い期間のものであるから、長く出家した者であるゆえに『チラパッバジタ(長年出家した者)』である。そこでは、長年出家したことを捉えることで、知恵と戒の完成を示し、ラッタンニューであることを捉えることで、そこに明瞭な意識があることを示す。『長期間』とは、長い時、である。では、どれくらいの期間か、と述べられている。『二つ三つの王の統治交代』と。これは二、三代の王の統治の順番という意味である。『遠くへ行った者』と述べることで行われた年齢の捉え方は、晩年を期待するものである、と述べられている。『晩年に達した』と。『両方』とは、『遠くへ行った者、晩年に達した者』という二つの語句のことである。
Pubbe pitarā saddhiṃ satthu santikaṃ gantvā desanāya sutapubbataṃ sandhāyāha **‘‘jhānābhiññādi…pe… sotukāmo’’**ti. Dassanenāti na dassanamattaṃ, disvā pana tena saddhiṃ ālāpasallāpaṃ katvā tato akiriyavādaṃ sutvā tesaṃ anattamano ahosi. Guṇakathāyāti abhūtaguṇakathāya. Tenāha **‘‘suṭṭhutaraṃ anattamano hutvā’’**ti. Yadi anattamano, kasmā tuṇhī ahosīti āha **‘‘anattamano samānopī’’**tiādi.
以前に父と共に師のもとへ行き、教えを聞いた経験があることを念頭に置いて、『禅定や神通など…(中略)…聞きたいと願う』と述べられている。『見ることで』とは、ただ見ただけでなく、見てから彼らと会話を交わし、その後に彼らの不作為論(行為の結果を否定する説)を聞いて、彼らに不満を抱いたのである。『徳の話』とは、事実に基づかない徳の話である。それゆえ、『非常に不満を抱きながら』と述べられている。もし不満を抱いていたのなら、なぜ黙っていたのか、と述べている。『不満を抱きながらも』などと。
152. Gosālāyāti evaṃ nāmake gāme. Vassānakāle gunnaṃ tiṭṭhanasālāti eke.
152. 『ゴーサーラ』とは、そのような名前の村のことである。雨期に牛がとどまる小屋、とある者は言う。
153. Paṭikiṭṭhataranti nihīnataraṃ. Tantāvutānīti tante pasāretvā vītāni. **‘‘Sīte sīto’’**tiādinā chahākārehi tassa nihīnassa nihīnatarataṃ dasseti.
153. 『より劣った』とは、より卑しい、である。『糸で織られた』とは、織機に糸を張って織られたものである。『寒さの中に寒さ』などといった六つの様相で、その卑しいものの、より卑しいことを示す。
154. Vaccaṃ katvāpīti pi-saddena bhojanaṃ bhuñjitvāpi kenaci asucinā makkhito pīti imamatthaṃ sampiṇḍeti. Vālikathūpaṃ katvāti vattavasena vālikāya thūpaṃ katvā.
154. 『排泄をしてなお』とは、『ピ』という語によって、食事を摂ってなお、何か不浄なもので汚されている状態をも意味に含めている。『砂の塔を建てて』とは、丸く砂で塔を建てて、である。
156. Palibuddhanakilesoti saṃsāre palibuddhanakicco rāgādikileso khettavatthuputtadārādivisayo.
156. 『束縛する煩悩』とは、輪廻において束縛する役割を果たす、貪りなどの煩悩、田畑や住居、子や妻などを対象とするものである。
157. Na yathādhippāyaṃ vattatīti katvā vuttaṃ **‘‘anattho vata me’’**ti. Jīvakassa tuṇhībhāvo mama adhippāyassa maddanasadiso, tasmā taṃ pucchitvā kathāpanena mama adhippāyo pūretabboti ayamettha rañño ajjhāsayoti dassento **‘‘hatthimhi nu kho panā’’**tiādimāha. Kiṃ tuṇhīti kiṃ kāraṇā tuṇhī, kiṃ taṃ kāraṇaṃ, yena tuvaṃ tuṇhīti vuttaṃ hoti. Tenāha **‘‘kena kāraṇena tuṇhī’’**ti.
157. 思惑通りに進まないと考えたゆえに、『ああ、私にとって不利益である』と述べたのである。ジーヴァカが黙っていることは、私の思惑を打ち砕くようなものである。それゆえ、彼に尋ねさせて話させることで、私の思惑を遂げさせるべきである、というのがここでの王の意図である、と示すために、『象のことか、それとも』などと述べたのである。『なぜ黙っているのか』とは、なぜ黙っているのか、その原因は何なのか、それによってあなたが黙っていると言われた、ということである。それゆえ、『何の理由で黙っているのか』と述べたのである。
Kāmaṃ sabbāpi tathāgatassa paṭipatti anaññasādhāraṇā acchariyaabbhutarūpā ca, tathāpi gabbhokkanti- abhijātiabhinikkhamanaabhisambodhidhammacakkappavattana- yamakapāṭihāriyadevorohaṇāni sadevake loke ativiya supākaṭāni, na sakkā kenaci paṭibāhitunti tāniyevettha uddhaṭāni. Itthambhūtākhyānattheti itthaṃ evaṃ pakāro bhūto jātoti evaṃ kathanatthe. Upayogavacananti. ‘‘Abbhuggato’’ti ettha abhīti upasaggo itthambhūtākhyānatthajotako, tena yogato ‘‘taṃ kho pana bhagavanta’’nti idaṃ sāmiatthe upayogavacanaṃ, tenāha **‘‘tassa kho pana bhagavatoti attho’’**ti. Kalyāṇaguṇasamannāgatoti kalyāṇehi guṇehi yutto, taṃ nissito tabbisayatāyāti adhippāyo. Seṭṭhoti etthāpi eseva nayo. Kittetabbato kitti, sā eva saddanīyato saddoti āha **‘‘kittisaddoti kittiyevā’’**ti. Abhitthavanavasena pavatto saddo thutighoso. Anaññasādhāraṇaguṇe ārabbha pavattattā sadevakaṃ lokaṃ ajjhottharitvā abhibhavitvā uggato.
たしかに如来の全ての行為は、他に類を見ない、奇跡的で驚くべきものであるが、それでも、入胎、誕生、出家、正覚、初転法輪、双大神通、忉利天(とうりてん)からの降下は、神々を含む世において、とりわけ非常に明白であり、誰によっても否定できない。それゆえ、それらだけがここで取り上げられている。『そのような状態として述べる意味において』とは、このように、このような種類として存在し、生まれた、と述べる意味において、である。関係格の言葉とは。『Abbhuggato(顕著に現れた)』という語において、『abhī』という接頭辞は、そのような状態として述べる意味を示すものであり、それと関連して、『その世尊を』という語は、所有格における関係格の言葉である。それゆえ、『その世尊の』という意味である、と述べられている。『善き徳に満ちた』とは、善き徳を備えた者、それに依存し、それを対象とする、という意味である。『最勝の者』においても、ここでも同様である。称賛されるべきであるから『キッティ(名声)』であり、それが言葉として語られるべきであるから『サッダ(言葉)』である、と述べられている。『名声の言葉とは、名声そのもの』である。称賛の形で現れる言葉は、讃歌の声である。他に類を見ない徳を対象として現れたものであるから、神々を含む世を圧倒し、凌駕して現れたのである。
So bhagavāti yo so samatiṃ sapāramiyo pūretvā sabbakilese bhañjitvā anuttaraṃ sammāsambodhiṃ abhisambuddho devānaṃ atidevo sakkānaṃ atisakko brahmānaṃ atibrahmā lokanātho bhāgyavantatādīhi kāraṇehi sadevake loke ‘‘bhagavā’’ti sabbattha patthaṭakittisaddo, so bhagavā. **‘‘Bhagavā’’**ti ca idaṃ satthu nāmakittanaṃ. Tenāha āyasmā dhammasenāpati ‘‘bhagavāti netaṃ nāmaṃ mātarā kata’’ntiādi (mahāni. 84). Parato pana bhagavāti guṇakittanaṃ.
『その世尊』とは、あの者が三十波羅蜜(はらみつ)を完成し、一切の煩悩を打ち破り、無上の正等覚(しょうとうがく)を現等覚(げんとうがく)し、神々を超えた神、帝釈天(たいしゃくてん)を超えた帝釈天、梵天(ぼんてん)を超えた梵天、世間の主宰者であり、福徳者であるなどの理由によって、神々を含む世間において『世尊』としてあらゆる場所に広まった名声を持つ者、その世尊である。『世尊』とは、師の名の讃嘆である。それゆえ、尊者法将は『「世尊」とは、母がつけた名前ではない』などと述べている(Mahāniddesa 84)。しかし、後にある『世尊』とは、徳の讃嘆である。
Yathā kammaṭṭhānikena ‘‘araha’’ntiādīsu navaṭṭhānesu paccekaṃ iti-saddaṃ yojetvā buddhaguṇā anussarīyanti, evaṃ buddhaguṇasaṅkittakenāpīti dassento **‘‘itipi arahaṃ, itipi sammāsambuddho…pe… itipi bhagavā’’**ti āha. ‘‘Itipetaṃ abhūtaṃ, itipetaṃ ataccha’’ntiādīsu (dī. ni. 1.5) viya idha iti-saddo āsannapaccakkhakaraṇattho, pi-saddo sampiṇḍanattho, tena ca tesaṃ guṇānaṃ bahubhāvo dīpito. Tāni ca saṅkittentena viññunā cittassa sammukhībhūtāneva katvā saṅkittetabbānīti dassento **‘‘iminā ca iminā ca kāraṇenāti vuttaṃ hotī’’**ti āha. Evañhi nirūpetvā kittente yassa saṅkitteti, tassa bhagavati ativiya abhippasādo hoti. Ārakattāti suvidūrattā. Arīnanti kilesārīnaṃ. Arānanti saṃsāracakkassa arānaṃ. Hatattāti vihatattā. Paccayādīnanti cīvarādipaccayānañceva pūjāvisesānañca. Tatoti visuddhimaggato. Yathā ca visuddhimaggato, evaṃ taṃsaṃvaṇṇanatopi nesaṃ vitthāro gahetabbo.
瞑想修行者が「阿羅漢」などの九つの事柄において、それぞれ「このように」という言葉を組み合わせて仏陀の功徳を憶念するように、仏陀の功徳を簡潔に述べる者もまた(そうすべきである)と示すために、「彼もまた阿羅漢、彼もまた正等覚者である……等々……彼もまた世尊である」と述べた。「これもまた真実ではない、これもまた虚偽である」など(長部 1.5)のように、ここでの「iti」という言葉は、近い対象を直接的に示す意味であり、「pi」という言葉は包括の意味であり、それによってそれらの功徳の多数性が示される。そして、賢い者がそれらを簡潔に述べる際には、心に明確に現前させてから簡潔に述べるべきであると示すために、「この理由とこの理由によって(彼は世尊と呼ばれる)と言われるのである」と述べた。このようにして、分析し、誰かが称賛を簡潔に述べるとき、その人には世尊に対する甚だしい深い信が生じる。「アーラカッタ(遠離者)」とは、極めて遠く離れていること。「アリン(敵)」とは、煩悩という敵のこと。「アラン(輪の輻)」とは、輪廻の輪の輻のこと。「ハタッタ(破滅した)」とは、破滅していること。「パッチャヤーディナン(資具など)」とは、衣などの資具と特別な供養のこと。「そこから」とは、『清浄道論』から。そして、『清浄道論』からと同様に、その註釈書からも、それらの詳細が把握されるべきである。
Yasmā jīvako bahuso satthusantike buddhaguṇe sutvā ṭhito, diṭṭhasaccatāya ca satthusāsane vigatakathaṃkatho vesārajjappatto, tasmā āha **‘‘jīvako panā’’**tiādi. Pañcavaṇṇāyāti khuddikādivasena pañcappakārāya. Nirantaraṃ phuṭaṃ ahosi katādhikārabhāvato. Kammantarāyavasena hissa rañño guṇasarīraṃ khatupahataṃ ahosi.
ジーヴァカは何度も師のそばで仏陀の功徳を聞いてきたので、そして真理を現見し、師の教えにおいて疑いを払い、無畏の境地を得ていたので、それゆえ「ジーヴァカは、しかし」などと述べた。「五色の」とは、微小なものなど五種類の。絶えず広がっていたのは、彼が修行を積んでいたためである。なぜなら、彼の業の障害によって、王の功徳の身は損なわれていたからである。
158. ‘‘Uttama’’nti vatvā na kevalaṃ seṭṭhabhāvo evettha kāraṇaṃ, atha kho appasaddatāpi kāraṇanti dassetuṃ **‘‘assayānarathayānānī’’**tiādi vuttaṃ. Hatthiyānesu nibbisevanameva gaṇhanto hatthiniyova kappāpesi. Rañño āsaṅkānivattanatthaṃ āsannacārībhāvena tattha itthiyova nisajjāpitā. Rañño paresaṃ durupasaṅkamanabhāvadassanatthaṃ tā purisavesaṃ gāhāpetvā āvudhahatthā kāritā. Paṭivedesīti ñāpesi. Tadevāti gamanaṃ, agamanameva vā.
158. 「最勝の」と言われたのは、単に最上であることだけが理由なのではなく、静粛であることも理由であることを示すために、「馬車や戦車など」と述べられた。象車においては、人が近寄れないことのみを重視し、象そのものに工夫を凝らした。王の懸念を払拭するため、近侍としてそこに女性だけを座らせた。王が他人にとって近づきがたい存在であることを示すため、彼女たちに男装させ、武器を持たせた。「パーティヴェーデシー」とは、知らしめた、という意味。「それだけを」とは、行くこと、あるいは行かないことだけを。
159. Mahañcāti karaṇatthe paccattavacananti āha ‘‘mahatācā’’ti. Mahaccāti mahatiyā, liṅgavipallāsavasena vuttaṃ, mahantenāti vuttaṃ hoti. Tenāha **‘‘rājānubhāvenā’’**ti **‘‘dvinnaṃ mahāraṭṭhānaṃ issariyasirī’’**ti aṅgamagadharaṭṭhānaṃ ādhipaccamāha. Āsattakhaggānīti aṃse olambanavasena sannaddhaasīni. Kulabhogaissariyādivasena mahatī mattā etesanti mahāmattā, mahānubhāvā rājapurisā. Vijjādharataruṇā viyāti vijjādharakumārā viya. Raṭṭhiyaputtāti bhojaputtā. Hatthighaṭāti hatthisamūhā. Aññamaññasaṅghaṭṭanāti avicchedavasena gamanena aññamaññasambandhā.
159. 「マハンチャ(偉大なものを)」は具格の意味であり、ゆえに「マハターチャー(偉大なものによって)」と述べた。「マハッチャー」は「マハティヤー(偉大なものによって)」であり、性の転倒によって述べられており、「マハンテーナ(偉大なものによって)」と言われたことになる。それゆえ、「王の威光によって」と述べた。「二つの大王国たるアンガ国とマガダ国の支配権の栄誉」とは、その支配を指す。「アサッタカッガーニー(剣を携え)」とは、肩にぶら下げた、つまり刀を身につけた。地位や財産、権力などの点で非常に偉大な者たちが「マハーマッタ(大臣)」であり、それは偉大な力を持つ王の役人である。「ヴィッジャーダラ少年たちのように」とは、仙人(ヴィッジャーダラ)の王子たちのように。「ラッティヤプッタ(国の息子たち)」とは、ボージャ王の息子たちのこと。「ハッティガター(象の群れ)」とは、象の集団のこと。「アンニャマンニャサンガッタナー(互いに衝突し合う)」とは、途切れることなく進むことによって互いに結びついていること。
Cittutrāso sayaṃ bhāyanaṭṭhena bhayaṃ yathā tathā bhāyatīti katvā. Ñāṇaṃ bhāyitabbe eva vatthusmiṃ bhayato upaṭṭhite ‘‘bhāyitabbamida’’nti bhayato tīraṇato bhayaṃ. Tenevāha ‘‘bhayatupaṭṭhānañāṇaṃ pana bhāyati nabhāyatīti? Na bhāyati. Tañhi atītā saṅkhārā niruddhā, paccuppannā nirujjhanti, anāgatā nirujjhissantīti tīraṇamattameva hotī’’ti (visuddhi. 2.751). Ārammaṇaṃ bhāyati etasmāti bhayaṃ. Otappaṃ pāpato bhāyati etenāti bhayaṃ. Bhayānakanti bhāyanākāro. Bhayanti ñāṇabhayaṃ. Saṃveganti sahottappañāṇaṃ santāsanti sabbaso ubbijjanaṃ. Bhāyitabbaṭṭhena bhayaṃ bhīmabhāvena bheravanti bhayabheravaṃ, bhītabbavatthu. Tenāha **‘‘āgacchatī’’**ti.
「チットゥットラーサ(心の恐怖)」とは、自ら畏れるという意味での恐怖、そのように畏れるということから。「ニャーナ(智)」は、まさに畏れるべき対象において恐怖が生じたときに、「これは畏れるべきである」と恐怖によって判断することから「恐怖」と呼ばれる。それゆえ(『清浄道論』2.751)で述べられている。「しかし、畏れるべきことが現前する智は畏れるのか、畏れないのか? 畏れない。なぜなら、それは過ぎ去った諸行は滅し、現在の諸行は滅しつつあり、未来の諸行は滅するであろうという単なる判断にすぎないからである」と。「アーランマナン(対象)」がこれによって畏れるので「恐怖」。「オッタッパ(慚愧)」は悪行からこれによって畏れるので「恐怖」。「バヤーナカ(恐ろしい)」とは、畏れる様子。「バヤン(恐怖)」とは、智の恐怖。「サンヴェーガン(緊迫感)」とは、慚愧を伴う智。「サンターサン(戦慄)」とは、あらゆる点で戦慄すること。「畏れるべきものという意味での恐怖」とは、恐ろしい様相による「ベラヴァ(恐ろしい)」であり、「バヤベーラヴァン(恐怖と恐ろしいもの)」とは、畏れるべき対象のこと。それゆえ、「来る」と述べた。
Bhīruṃ pasaṃsantīti pāpato bhāyanato uttasanato bhīruṃ pasaṃsanti paṇḍitā. Na hi tattha sūranti tasmiṃ pāpakaraṇe sūraṃ pagabbhadhaṃsinaṃ na hi pasaṃsanti. Tenāha **‘‘bhayā hi santo na karonti pāpa’’**nti. Tattha bhayāti pāputrāsato, ottappahetūti attho. Sarīracalananti bhayavasenasarīrasaṃkampo. Eketi uttaravihāravāsino. **‘‘Rājagahe’’**tiādi tesaṃ adhippāyavivaraṇaṃ. Kāmaṃ vayatulyo ‘‘vayasso’’ti vuccati, rūḷhireso, yo koci pana sahāyo vayasso, tasmā vayassābhilāpoti sahāyābhilāpo. Na vippalambhesīti na visaṃvādesi. Vinasseyyāti cittavighātena vihaññeyya.
「臆病者を称賛する」とは、悪行を恐れ、戦慄する臆病者を賢者たちは称賛する。その悪行をなすことにおいて勇猛で大胆な者を、賢者たちは決して称賛しない。それゆえ、「聖者たちは恐怖ゆえに悪行をなさない」と述べた。ここでの「恐怖ゆえに」とは、悪行を恐れること、つまり慚愧を理由とする、という意味。「身体の震え」とは、恐怖による身体の震動。「ある者たち」とは、北ヴィハーラ(アヌラーダプラのマハーヴィハーラ)の住人たち。「ラージャガハ(王舎城)に」などとは、彼らの意図の解説。確かに、同年代の者を「友(ヴァヤッサ)」と呼ぶが、これは慣習的な用法であり、どんな仲間でも「友」である。それゆえ「友」という呼び方は「仲間」という呼び方である。「騙さなかった」とは、偽らなかった。「滅びるだろう」とは、心の苦痛によって苦しむだろう。
160. Bhagavato tejoti buddhānubhāvo. Rañño sarīraṃ phari yathā taṃ soṇadaṇḍassa brāhmaṇassa bhagavato santikaṃ gacchantassa antovanasaṇḍagatassa. Eketi uttaravihāravāsino.
160. 「世尊の輝き」とは、仏陀の威光である。王の身体に広がったのは、恰もショーナダンダ婆羅門が世尊のもとへ行く途中で森の中に入ったときのように。「ある者たち」とは、北ヴィハーラの住人たち。
161. Yena, tenāti ca bhummatthe karaṇavacananti āha **‘‘yattha bhagavā, tattha gato’’**ti. Tadā tasmiṃ bhikkhusaṅghe tuṇhībhāvassa anavasesato byāpibhāvaṃ dassetuṃ ‘‘tuṇhībhūtaṃ tuṇhībhūta’’nti vuttanti āha **‘‘yato yato…pe… mevāti attho’’**ti. Hatthassa kukatattā asaṃyamo asampajaññakiriyā hatthakukkuccanti veditabbo. Vā-saddo avuttavikappattho, tena tadañño asaṃyamabhāvo vibhāvitoti daṭṭhabbaṃ. Tattha pana cakkhuasaṃyamo sabbapaṭhamo, dunnivāro cāti tadabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘sabbālaṅkārapaṭimaṇḍita’’**ntiādi vuttaṃ. Kāyikavācasikena upasamena laddhena itaropi anumānato laddho eva hotīti āha **‘‘mānasikena cā’’**ti. Upasamanti saṃyamaṃ, ācārasampattinti attho. Pañcaparivaṭṭeti pañcapurisaparivaṭṭe. Pañcahākārehīti ‘‘iṭṭhāniṭṭhe tādī’’ti (mahāni. 38, 192) evaṃ ādinā āgatehi, pañcavidhaariyiddhisiddhehi ca pañcahi pakārehi. Tādilakkhaṇeti tādibhāve.
161. 「イェーナ(彼が)、テーナ(彼へ)」は処格の意味での具格であり、それゆえ「世尊がおわすところへ行った」と述べた。その時、比丘僧伽の中で静粛さが余すところなく行き渡っている様子を示すために、「静かであった、静かであった」と述べられたことについて、「どこからどこまで……同じである、という意味」と述べた。「ハッタクックッチャ(手の過ち)」とは、手がうまく動かせないことから来る、自制心の欠如や不分別な行為と理解されるべきである。「ヴァー」という言葉は述べられていない別の選択肢を示す意味であり、それによってそれ以外の自制心の欠如が示されていると見るべきである。しかし、その中で眼の自制心の欠如が最も最初で、かつ制止しがたいものである。その欠如がないことを示すために、「あらゆる装飾で飾られた」などと述べられた。身体的、言語的な平静によって他のものもまた推論によって得られるのであると述べたので、「心的にも」と述べた。「ウパサマン(平静)」とは、自制、つまり行為の成就、という意味。「五重の囲い」とは、五人の人々の囲い。「五つの様相によって」とは、「好ましいものと好ましくないものにおいて不動である」など(大註 38, 192)のように示された様相、そして五種類の聖なる神通力の成就による五つの様相によって。「不動の特性において」とは、不動の状態において。
162. Na me pañhavissajjane bhāro atthīti satthu sabbattha appaṭihatañāṇacāratādassanaṃ. Yadākaṅkhasīti na vadanti, kathaṃ pana vadantīti āha **‘‘sutvā vedissāmā’’**ti padesañāṇe ṭhitattā. Buddhā pana sabbaññupavāraṇaṃ pavārentīti sambandho. **‘‘Yakkhanarindadevasamaṇabrāhmaṇaparibbājakāna’’**nti idaṃ ‘‘pucchāvuso yadākaṅkhasī’’tiādīni (saṃ. ni. 1.237, 246; su. ni. āḷavakasutte) suttapadāni pucchantānaṃ yesaṃ puggalānaṃ vasena āgatāni, taṃ dassanatthaṃ. **‘‘Pucchāvuso yadākaṅkhasī’’**ti idaṃ āḷavakassa yakkhassa okāsakaraṇaṃ, sesāni narindādīnaṃ. Manasicchasīti manasā icchasi. Pucchavho, yaṃ kiñci manasicchathāti bāvarissa saṃsayaṃ manasā pucchavho. Tumhākaṃ pana sabbesaṃ yaṃ kiñci sabbasaṃsayaṃ manasā, aññathā ca, yathā icchatha, tathā pucchavhoti adhippāyo.
162. 「私に問題を解決する重荷はない」とは、師の智が至るところで妨げられないことを示す。「あなたが望むことを」とは言わず、ではどのように言うのかというと、「聞いて知るでしょう」と述べた。それは地域的な智に基づいているからである。しかし仏陀たちは一切知の招待をなす、という関連である。「ヤッカ、人々、神々、沙門、婆羅門、遍歴行者たち」というこの句は、「友よ、あなたが望むことを問いなさい」など(相応部 1.237, 246; 経集 アーラヴァカ経)の経句が、問う人々であるこれらの人々を指して現れていることを示すためである。「友よ、あなたが望むことを問いなさい」とは、アーラヴァカ夜叉に対する機会を与えるものであり、残りは王などに対するものである。「心に望む」とは、心で望む。「あなたが心に望むことなら何でも問いなさい」とは、バーヴァリーの疑念を心で問いなさい、という意味。しかし、あなた方すべての、心に抱いている、あるいはそうではない、あらゆる疑念を、あなたがたが望むように問いなさい、という意味である。
Sādhurūpāti sādhusabhāvā. Dhammoti paveṇīdhammo. Vuddhanti sīlādīhi buddhippattaṃ, garunti attho. Esa bhāroti esa saṃsayūpacchedanasaṅkhāto bhāro, āgato bhāro avassaṃ āvahitabboti adhippāyo. Ñatvā sayanti parūpadesena vinā sayameva ñatvā.
「善良な姿の者たち」とは、善良な本性を持つ者たち。「法」とは、伝統的な法。「ブッダ(成長した)」とは、戒などによって成長を遂げた者、つまり尊敬される者、という意味。「この重荷」とは、疑念を断ち切るという重荷のこと。来た重荷は必ず負わねばならない、という意味。「自ら知って」とは、他者の教えなしに自ら知って。
Suciratenāti evaṃ nāmakena brāhmaṇena. Tagghāti ekaṃsena. Yathāpi kusalo tathāti yathā sabbadhammakusalo sabbavidū jānāti katheti, tathā ahamakkhissaṃ. Rājā ca kho taṃ yadi kāhati vā na vāti yo taṃ idha pucchituṃ pesesi, so rājānaṃ tayā pucchitaṃ karotu vā mā vā, ahaṃ pana te akkhissaṃ akkhissāmi, ācikkhissāmīti attho.
「スチラタによって」とは、その名のバラモンによって。「きっと」とは、確実に。「賢者がそうであるように」とは、あらゆる事柄に熟達し、すべてを知る者が知り、語るように、私も語るだろう。「しかし王はそれをなすかどうか」とは、あなたをここに質問させるために派遣した王が、あなたが質問したことをなすか、なさないかに関わらず、私はあなたに語るだろう、つまり教えるだろう、という意味である。
163. Sippanaṭṭhena sikkhitabbatāya ca sippameva sippāyatanaṃ jīvikāya kāraṇabhāvato. Seyyathidanti nipāto, tassa te katameti attho. Puthu sippāyatanānīti hi sādhāraṇato sippāni uddisitvā upari taṃtaṃsippūpajīvino niddiṭṭhā puggalādhiṭṭhānakathāya papañcaṃ pariharituṃ. Aññathā yathādhippetāni tāva sippāyatanāni dassetvā puna taṃtaṃsippūpajīvīsu dassiyamānesu papañco siyāti. Tenāha **‘‘hatthārohā’’**tiādi.
163. 「技能という意味において」とは、習得すべきものであることから、技能そのものが生計の手段であること。「例えば」は助辞であり、「それらのうちどれか」という意味。「様々な技能の分野」とは、一般的に技能を挙げ、その上で、それぞれの技能によって生計を立てる人々が指示されている。これは、人格に基づいた説明において詳細さを避けるためである。さもなくば、意図された技能の分野を示し、再度それぞれの技能によって生計を立てる人々を示すならば、詳細になりすぎるだろうから。それゆえ、「象乗りたち」などと述べた。
Hatthiṃ ārohanti, ārohāpayanti cāti hatthārohā. Yehi payogehi puriso hatthino ārohanayoggo hoti, hatthissa taṃ payogaṃ vidhāyataṃ sabbesaṃ petesaṃ gahaṇaṃ. Tenāha **‘‘sabbepī’’**tiādi. Tattha hatthācariyā nāma ye hatthino hatthārohakānañca sikkhapakā. Hatthivejjā nāma hatthibhisakkā. Hatthimeṇḍā nāma hatthīnaṃ pādarakkhakā. Ādi-saddena hatthīnaṃ yavasadāyakādike saṅgaṇhāti. Assārohā rathikāti etthāpi eseva nayo. Rathe niyuttā rathikā. Ratharakkhā nāma rathassa āṇirakkhakā. Dhanuṃ gaṇhanti, gaṇhāpenti cāti dhanuggahā, issāsā dhanusippassa sikkhāpakā ca. Tenāha **‘‘dhanuācariyā issāsā’’**ti. Celena celapaṭākāya yuddhe akanti gacchantīti celakāti āha **‘‘ye yuddhe jayadhajaṃ gahetvā purato gacchantī’’**ti. Yathā tathā ṭhite senike byūhakaraṇavasena tato calayanti uccālentīti calakā. Sakuṇagghiādayo viya maṃsapiṇḍaṃ parasenāsamūhaṃ sāhasikamahāyodhatāya chetvā chetvā dayanti uppatitvā uppatitvā gacchantīti piṇḍadāyakā. Dutiyavikappe piṇḍe dayanti janasammadde uppatantā viya gacchantīti piṇḍadāyakāti attho veditabbo. Uggatuggatāti thāmajavaparakkamādivasena ativiya uggatā uggāti attho. Pakkhandantīti attano vīrasūrabhāvena asajjamānā parasenaṃ anupavisantīti attho. Thāmajavabalaparakkamādisampattiyā mahānāgā viya mahānāgā. Ekantasūrāti ekākisūrā attano sūrabhāveneva ekākino hutvā yujjhanakā. Sajālikāti savammikā. Saraparittāṇacammanti cammaparisibbitaṃ kheṭakaṃ, cammamayaṃ vā phalakaṃ. Gharadāsayodhāti antojātayodhā.
象に乗る者、乗らせる者、それらが「象乗り」。男が象に乗るのに適した技能、象にその技能を施すこと、これらすべてを把握する者たちが「ハッタロハ」である。それゆえ、「すべての人々もまた」などと述べた。その中で「象使いの教師」とは、象と象乗りを訓練する者たち。「象の医者」とは、象の医師。「象の番人」とは、象の足を守る者たち。「など」という言葉によって、象に飼料を与える者などが含まれる。「馬乗りたち、戦車兵たち」についても、ここでも同じ方法である。車輪に配置された者たちが「ラティカ(戦車兵)」。戦車の守護者とは、戦車の車軸を守る者たち。弓を握る者、握らせる者、それらが「ダヌッガハ(弓使い)」。イーッサースは弓術の訓練者でもある。それゆえ、「弓術教師、弓使い」と述べた。「旗手(チェラカ)」とは、旗や小旗を持って戦場を行く者たちであり、それゆえ「戦場で勝利の旗を持って先頭を行く者たち」と述べた。そのように配置された兵士たちを、陣形を組むことによってそこから動かし、鼓舞する者たちが「動員者(チャラカ)」。肉片を食べる鳥のように、敵軍の集団を勇敢な大戦士として切り裂き、切り裂き、飛び跳ねて、飛び跳ねて進む者たちが「ピンダダーヤカ(肉片を与える者)」。第二の解釈では、「ピンダ(塊)」、つまり群衆の中で飛び跳ねるように進む者たちが「ピンダダーヤカ」であると理解されるべきである。「ウッガトゥッガター(極めて勇敢な)」とは、力、速さ、勇気などの点で極めて卓越した者、という意味。「突き進む」とは、自らの勇猛さによってためらうことなく敵軍の中に入っていく、という意味。力、速さ、強さ、勇気などの資質を持つ「大象」のように、大象である。「極めて勇敢な者たち」とは、単独で勇敢な者、自らの勇敢さによって単独で戦う者。「サージャーリカ(網を持った者たち)」とは、鎧を着た者たち。「矢を防ぐ革」とは、革で縫われた盾、または革製の板。「家臣の戦士」とは、家の中で生まれた戦士。
Āḷāraṃ vuccati mahānasaṃ, tattha niyuttāti āḷārikā, bhattakārā. Pūvikāti pūvasampādakā, ye pūvameva nānappakārato sampādetvā vikkiṇantā jīvanti. Kesanakhalikhanādivasena manussānaṃ alaṅkāravidhiṃ kappenti saṃvidahantīti kappakā. Nhāpakāti cuṇṇavilepanādīhi malaharaṇavaṇṇasampādanavidhinā nhāpentīti nhāpakā. Navantādividhinā pavatto gaṇanagantho antarā chiddābhāvena acchiddakoti vuccati, taṃ gaṇanaṃ upanissāya jīvantā acchiddakapāṭhakā. Hatthena adhippāyaviññāpanaṃ hatthamuddā hattha-saddo cettha tadekadesesu aṅgulīsu daṭṭhabbo. ‘‘Na bhuñjamāno sabbaṃ hatthaṃ mukhe pakkhipissāmī’’tiādīsu viya, tasmā aṅgulisaṅkocanādinā gaṇanā hatthamuddāya gaṇanā. Cittakārādīnīti. Ādi-saddena bhamakārakoṭṭakalekhaka vilīvakārādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Diṭṭheva dhammeti imasmiṃyeva attabhāve. Sandiṭṭhikamevāti asamparāyikatāya sāmaṃ daṭṭhabbaṃ, sayaṃ anubhavitabbaṃ attapaccakkhaṃ diṭṭhadhammikanti attho. Sukhitanti sukhappattaṃ. Uparīti devaloke. So hi manussalokato uparimo. Kammassa katattā nibbattanato tassa phalaṃ tassa aggisikhā viya hoti, tañca uddhaṃ devaloketi āha **‘‘uddhaṃ aggaṃ assā atthīti uddhaggikā’’**ti. Saggaṃ arahatīti attano phalabhūtaṃ saggaṃ arahati, tattha sā nibbattanārahoti attho. Sukhavipākāti iṭṭhavipākavipaccanīkā. Suṭṭhu aggeti ativiya uttame uḷāre. Dakkhanti vaḍḍhanti etāyāti dakkhiṇā, pariccāgamayaṃ puññanti āha **‘‘dakkhiṇaṃ dāna’’**nti.
「アーラーラ」とは台所のことであり、そこに配属された者たちが「アーラーリカ」、つまり料理人。「プーヴィカ(菓子職人)」とは菓子を作る者たち、つまり様々な種類の菓子を作って売って生計を立てる者たち。髪や爪を切るなどによって人々の装飾法を整え、準備する者たちが「カッパカ(理髪師など)」。入浴係とは、粉や香油などによって汚れを取り除き、肌の輝きを整える方法で入浴させる者たち。ゼロから始まる方法で行われる算術書は、途中に欠落がないため「アッチッダカ(欠落なきもの)」と呼ばれる。その算術を頼りにして生計を立てる者たちが「アッチッダカパータカ(欠落なき読誦者、つまり計算士)」。手によって意図を伝えるのが「ハッタムッダー(手印)」。ここでの「手(ハッタ)」という言葉は、その一部である指として理解されるべきである。「食事中に手をすべて口に入れないだろう」などと同様に、それゆえ指を折り曲げるなどによる計算が「手印による計算」。「画家など」とは。「など」という言葉によって、大工、書記、籠細工師などが含まれると見るべきである。「この世において」とは、この現世において。「現世利益がある」とは、来世に関するものではなく、自ら見るべきもの、自ら経験すべきもの、自らの目撃する現世利益である、という意味。「安楽な」とは、安楽を得た。「上なる」とは、天界において。それは人間界よりも上にあるからである。業がなされることによって生じるその果報は、その人にとって燃え盛る炎の先のように上、つまり天界にある。それゆえ「先端が上にあるゆえにウッダッギカー(上向きの先端を持つ)」と述べた。「天に値する」とは、自らの果報である天に値する、そこに生じるに値する、という意味。「楽な結果をもたらす」とは、好ましい結果をもたらす(つまり苦しい結果の反対)。「非常に優れた」とは、非常に優れていて、高貴な。「ダッカ(成長する)」とは、これによって成長するので「ダッキーナー(布施)」であり、つまり「与えることによる功徳」であると述べたので、「ダッキーナン・ダーナ(布施の贈与)」と述べた。
Maggo sāmaññaṃ samitapāpasamaṇabhāvoti katvā. Yasmā ayaṃ rājā pabbajitānaṃ dāsakassakādīnaṃ lokato abhivādanādilābho sandiṭṭhikaṃ sāmaññaphalanti cintetvā ‘‘atthi nu kho koci samaṇo vā brāhmaṇo vā īdisamatthaṃ jānanto’’ti vīmaṃsanto pūraṇādike pucchitvā tesaṃ kathāya anārādhitacitto bhagavantampi tamatthaṃ pucchi, tasmā vuttaṃ **‘‘upari āgataṃ pana dāsakassakopamaṃ sandhāya pucchatī’’**ti.
道とは、悪を鎮めた沙門の状態である沙門行である、と。なぜなら、この王は、出家者、奴隷、農夫などの世間からの敬意などの利益が、沙門行の目に見える果報であると考え、「このような意味を知る沙門または婆羅門はいるだろうか」と探求し、プーラナなどに尋ねたが、彼らの話に心は満足せず、世尊にもその意味を尋ねたからである。それゆえ、「上にある奴隷と農夫の譬えに言及して尋ねる」と述べられている。
Kaṇhapakkhanti yathāpucchite atthe labbhamānaṃ diṭṭhigatūpasañhitaṃ saṃkilesapakkhaṃ. Sukkapakkhanti tabbidhuraṃ uparisuttāgataṃ vodānapakkhaṃ. Samaṇakolāhalanti samaṇakotūhalaṃ taṃtaṃsamaṇavādānaṃ aññamaññavirodhaṃ. Samaṇabhaṇḍananti teneva virodhena ‘‘evaṃvādīnaṃ tesaṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ ayaṃ doso, evaṃvādīnaṃ ayaṃ doso’’ti evaṃ taṃtaṃvādassa paribhāsanaṃ. Rañño bhāraṃ karonto attano desanākosallenāti adhippāyo.
「黒き側面」とは、尋ねられた意味において得られる、邪見に付随する煩悩の側面のことである。「白き側面」とは、その対極にある、上部の経典に示された清浄の側面のことである。「沙門の喧騒」とは、沙門の好奇心、すなわち様々な沙門の主張が互いに対立することである。「沙門の口論」とは、その対立ゆえに、「このように主張するそれらの沙門・婆羅門にはこの欠点がある、このように主張する者たちにはこの欠点がある」というように、それぞれの主張を非難することである。王に負担をかけることは、彼自身の説法の上手さによるものだというのが意図である。
164. Paṇḍitapatirūpakānanti āmaṃ viya pakkānaṃ paṇḍitābhāsānaṃ.
164. 「賢者の似非者」とは、生(なま)であるのに熟れているように見える、賢者のように見せかける者のことである。
165. Ekaṃ idāhanti ekāhaṃ. Idha-saddo cettha nipātamattaṃ, ekāhaṃ samayaṃ ticceva attho. Saritabbayuttanti anussaraṇānucchavikaṃ.
165. 「ある日」とは、一日を意味する。この場合、「イダハ」という語は単なる助辞であり、文字通り「ある時」という意味である。「記憶されるべき」とは、思い出すのにふさわしいことである。
166. Sahatthā karontassāti sahattheneva karontassa. Nissaggiyathāvarādayopi idha sahatthakaraṇeneva saṅgahitā. Hatthādīnīti hatthapādakaṇṇanāsādīni. Pacanaṃ dahanaṃ vibādhananti āha **‘‘daṇḍena uppīḷentassā’’**ti. Papañcasūdaniyaṃ ‘‘tajjentassa vā’’ti attho vutto, idha pana tajjanaṃ paribhāsanaṃ daṇḍeneva saṅgahetvā ‘‘daṇḍena uppīḷentassa’’ icceva vuttaṃ. Sokaṃ sayaṃ karontassāti parassa sokakāraṇaṃ sayaṃ karontassa, sokaṃ vā uppādentassa. Parehīti attano vacanakarehi. Sayampi phandatoti parassa vibādhanapayogena sayampi phandato. **‘‘Atipātāpayato’’**ti padaṃ suddhakattuatthe hetukattuatthe ca vattatīti āha **‘‘hanantassāpi hanāpentassāpī’’**ti. Kāraṇavasenāti kārāpanavasena.
166. 「自ら行う者」とは、自らの手でまさに行う者のことである。ニッサッギヤ(捨離の)不動産なども、ここでは自ら行うことによって含まれる。手などとは、手、足、耳、鼻などである。「煮る、焼く、苦しめる」について、「杖で圧迫する者」と述べている。『パパンチャスダニー』には「あるいは脅かす者」と意味が述べられているが、ここでは脅しや非難も杖によって包含され、「杖で圧迫する者」とだけ述べられている。「自ら悲しみを作る者」とは、他人に悲しみの原因を自ら作る者、あるいは悲しみを生じさせる者である。「他人によって」とは、自分の言葉に従う者たちによってである。「自分も苦しむ」とは、他人を苦しめる行為によって自分も苦しむことである。「殺害させる者」という言葉は、殺す者と殺させる者の両方に当てはまるので、「殺す者も殺させる者も」と述べている。「原因によって」とは、行為をさせることによってである。
Gharassa bhitti anto bahi ca sandhitā hutvā ṭhitā gharasandhi. Kiñcipi asesetvā niravaseso lopo nillopo. Ekāgāre niyutto vilopo ekāgāriko. Parito sabbaso panthe hananaṃ paripantho. Pāpaṃ na karīyati pubbe asaññato uppādetuṃ asakkuṇeyyattā, tasmā natthi pāpaṃ. Yadi evaṃ kathaṃ sattā pāpe paṭipajjantīti āha **‘‘sattā pana pāpaṃ karomāti evaṃ saññino hontī’’**ti. Evaṃ kirassa hoti – imesañhi sattānaṃ hiṃsādikiriyā na attānaṃ phusati tassa niccatāya nibbikārattā sarīraṃ pana acetanaṃ kaṭṭhakaliṅgarūpamaṃ, tasmiṃ vikopitepi na kiñci pāpanti. Khuranemināti nisitakhuramayaneminā.
家の壁が内側と外側で結合して立っているのが家屋破壊である。何も残さずに完全に消滅させるのが根絶である。一つの家に指定された盗賊は家屋荒らしである。周囲のあらゆる道で殺害することは道中の強奪である。「悪はなされない」とは、あらかじめ不注意では生み出しえないから、悪は存在しないということである。もしそうなら、なぜ人々は悪を行うのか、と彼は言う、「しかし人々は『私は悪を行う』という認識を持つ」と。彼の見解はこうである。これら生き物の殺傷などの行為は、その自性が常住で不変であるため、自己には触れない。しかし肉体は無生物であり、木切れや丸太のようなものであり、それを傷つけても何ら悪はない、と。剃刀の刃とは、鋭利な剃刀の刃のことである。
Gaṅgāya dakkhiṇā disā appatirūpadeso, uttarā disā patirūpadesoti adhippāyena‘‘dakkhiṇañca’’tiādi vuttanti āha **‘‘dakkhiṇatīre manussā kakkhaḷā’’**tiādi. Mahāyāganti mahāvijitayaññasadisaṃ mahāyāgaṃ. Uposathakammena vāti uposathakammena ca. Dama-saddo hi indriyasaṃvarassa uposathasīlassa ca vācako idhādhippeto. Keci pana ‘‘uposathakammenāti idaṃ indriyadamanassa visesanaṃ, tasmā ‘uposathakammabhūtena indriyadamanenā’’ti atthaṃ vadanti. Sīlasaṃyamenāti kāyikavācasikasaṃvarena. Saccavajjenāti saccavācāya, tassā visuṃ vacanaṃ loke garutarapuññasammatabhāvato. Yathā hi pāpadhammesu musāvādo garu, evaṃ puññadhammesu saccavācā. Tenāha bhagavā ‘‘ekaṃ dhammaṃ atītassā’’tiādi. Pavattīti yo ‘‘karotī’’ti vuccati, tassa santāne phaluppattipaccayabhāvena uppatti. Sabbathāti ‘‘karoto’’tiādinā vuttena sabbappakārena. Kiriyameva paṭikkhipati, na raññā puṭṭhaṃ sandiṭṭhikaṃ sāmaññaphalaṃ byākarotīti adhippāyo. Idaṃ avadhāraṇaṃ vipākapaṭikkhepanivattanatthaṃ. Yo hi kammaṃ paṭikkhipati, tena atthato vipākopi paṭikkhitto eva nāma hoti. Tathā hi vakkhati ‘‘kammaṃ paṭibāhantenāpī’’tiādi (dī. ni. aṭṭha. 1.170-172).
ガンガーの南側は不適切な場所であり、北側は適切な場所であるという意図で「南側も」などと述べられている、と彼は言う、「南岸の人々は粗暴である」などと。「大供犠」とは、大勝利の供犠に似た大供犠のことである。「布薩の行によっても」とは、布薩の行によってもである。ダマ(調御)という語は、ここでは感覚の抑制と布薩の戒律の両方を指す意図である。ある人々は、「布薩の行によって」は感覚の調御の形容詞であり、したがって「布薩の行となった感覚の調御によって」という意味であると言う。戒律と自制とは、身体的・言語的な自制のことである。真実の言葉によってとは、真実の言葉のことである。それが別に述べられるのは、世間で非常に重大な功徳と見なされているからである。ちょうど悪法においては妄語が重大であるように、功徳法においては真実の言葉が重大である。それゆえ世尊は「一つの法を越えた者には」などと述べられた。「行為」とは、「行う」と言われる者の存在において、果報が生じる原因として生じることである。「あらゆる方法で」とは、「行う者」などで述べられたあらゆる様式のことである。行為そのものを否定し、王が尋ねた沙門行の目に見える果報を説明しないというのが意図である。この強調は、果報の否定を撤回するためである。行為を否定する者は、実質的に果報も否定していることになる。実際、「業を拒絶する者も」などと述べるだろう(『ディーガニカーヤ註』1.170-172)。
Paṭirājūhi anabhibhavanīyabhāvena visesato jitanti vijitaṃ, āṇāpavattideso. ‘‘Mā mayhaṃ vijite vasathā’’ti apasādanā pabbajitassa viheṭhanā pabbājanāti katvā vuttaṃ **‘‘apasādetabbanti viheṭhetabba’’**nti. Uggaṇhanaṃ tena vuttassa atthassa ‘‘evameta’’nti upadhāraṇaṃ sallakkhaṇaṃ, nikujjanaṃ tassa addhaniyabhāvāpādanavasena cittena sandhāraṇaṃ. Tadubhayaṃ paṭikkhipanto āha **‘‘anuggaṇhanto anikujjanto’’**ti. Tenāha **‘‘sāravasena aggaṇhanto’’**tiādi.
「征服された」とは、敵対する王たちに打ち破られざる状態によって、特に勝利された場所、命令が通用する場所のことである。「私の支配地には住むな」という追放は、出家者にとっての苦しめ、放浪をさせることであると見なして、「追放されるべきとは、苦しめられるべきである」と述べられている。「把握」とは、彼によって語られた意味を「その通りである」と認識し、見定めることである。「心に留める」とは、それを長く心に保ち、忘れさせないことである。その両方を否定して、「把握せず、心に留めない」と彼は言う。それゆえ彼は、「本質として捉えない」などと述べる。
168. Ubhayenāti hetupaccayapaṭisedhanavacanena. Saṃkilesapaccayanti saṃkilissanassa malīnabhāvassa kāraṇaṃ. Visuddhipaccayanti saṅkikilesato visuddhiyā vodānassa kāraṇaṃ. Attakāroti tena tena sattena attanā kātabbakammaṃ attanā nipphādetabbapayogo. Parakāranti parassa vāhasā ijjhanakapayojanaṃ. Tenāha **‘‘yenā’’**tiādi. Mahāsattanti antimabhavikaṃ mahābodhisattaṃ, paccekabodhisattassapi ettheva saṅgaho veditabbo. Manussasobhagyatanti manussesu subhagabhāvaṃ. Evanti vuttappakārena. Kammavādassa kiriyavādassa paṭikkhipanena ‘‘atthi bhikkhave kammaṃ kaṇhaṃ kaṇhavipāka’’ntiādi (a. ni. 4.232) nayappavatte jinacakke pahāraṃ deti nāma. Natthi purisakāreti yathāvuttaattakāraparakārābhāvato eva sattānaṃ paccattapurisakāro nāma koci natthīti attho. Tenāha **‘‘yenā’’**tiādi. Natthi balanti sattānaṃ diṭṭhadhammikasamparāyikanibbānasampattiāvahaṃ balaṃ nāma kiñci natthi. Tenāha **‘‘yamhī’’**tiādi. Nidassanamattañcetaṃ, saṃkilesikampi cāyaṃ balaṃ paṭikkhipateva. Yadi vīriyādīni purisakāravevacanāni, kasmā visuṃ gahaṇanti āha **‘‘idaṃ no vīriyenā’’**tiādi. Saddatthato pana tassā tassā kiriyāya ussannaṭṭhena balaṃ. Sūravīrabhāvāvahaṭṭhena vīriyaṃ. Tadeva daḷhabhāvato, porisadhuraṃ vahantena pavattetabbato ca purisathāmo. Paraṃ paraṃ ṭhānaṃ akkamanappavattiyā purisaparakkamoti vuttoti veditabbaṃ.
168. 「両方によって」とは、原因と条件の否定の言葉によってである。「煩悩の条件」とは、汚れること、不浄になることの原因である。「清浄の条件」とは、煩悩から清浄になること、浄化の原因である。「自らの行為」とは、それぞれの衆生によって自らなされるべき行為、自ら完成されるべき努力のことである。「他者の行為」とは、他者の努力によって成就される目的のことである。それゆえ彼は、「それによって」などと述べる。「大衆生」とは、最後の存在である大菩薩のことである。独覚菩薩もここに包含されるべきである。「人間としての福徳」とは、人間の中での福徳な状態のことである。「このように」とは、述べられたような様式でである。業説、行為説を否定することによって、「比丘たちよ、黒い果報を持つ黒い業がある」など(『アングッタラニカーヤ』4.232)のように展開される勝者の輪に打撃を与えることになる、というのである。「人間の努力はない」とは、前述の自らの行為や他者の行為がないことから、衆生にとって個別の人間の努力というものは存在しない、という意味である。それゆえ彼は、「それによって」などと述べる。「力はない」とは、衆生を現世または来世の涅槃の成就に導く力は、何一つ存在しない、という意味である。それゆえ彼は、「それにおいて」などと述べる。これは単なる例示であり、彼は煩悩の力も否定する。もし精進などが人間の努力の同義語であるならば、なぜ別々に挙げられるのか、と彼は言う、「これは精進によってではない」などと。しかし語義的には、それぞれの行為が盛んであるという点で「力」である。勇敢で英雄的であるという点で「精進」である。それが堅固であるため、また人間としての重責を担う者によって行われるべきであるため「人間の強靭さ」である。次から次へと立場を進む働きによって「人間の努力」と述べられると知るべきである。
Sattayogato rūpādīsu sattavisattatāya sattā. Pāṇanato assasanapassasanavasena pavattiyā pāṇā. Te pana so ekindriyādivasena vibhajitvā vadatīti āha **‘‘ekindriyo’’**tiādi. Aṇḍakosādīsu bhavanato **‘‘bhūtā’’**ti vuccantīti āha **‘‘aṇḍakosa…pe… vadatī’’**ti. Jīvanato pāṇaṃ dhārentā viya vaḍḍhanato jīvā. Tenāha **‘‘sāliyavā’’**tiādi. Natthi etesaṃ saṃkilesavisuddhīsu vasoti avasā. Natthi nesaṃ balaṃ vīriyaṃ cāti abalā avīriyā. Niyatāti acchejjasuttāvutābhejjamaṇino viya niyatappavattitāya gatijātibandhāpavaggavasena niyāmo. Tattha tattha gamananti channaṃ abhijātīnaṃ tāsu tāsu gatīsu upagamanaṃ samavāyena samāgamo. Sabhāvoyevāti yathā kaṇṭakassa tikhiṇatā, kapitthaphalānaṃ parimaṇḍalatā, migapakkhīnaṃ vicittākāratā, evaṃ sabbassāpi lokassa hetupaccayena vinā tathā tathā pariṇāmo ayaṃ sabhāvo eva akittimoyeva. Tenāha **‘‘yena hī’’**tiādi. Chaḷābhijātiyo parato vitthārīyanti. **‘‘Sukhañca dukkhañca paṭisaṃvedentī’’**ti vadanto adukkhamasukhabhūmiṃ sabbena sabbaṃ na jānātīti ulliṅganto **‘‘aññā adukkhamasukhabhūmi natthīti dassetī’’**ti āha.
サッタ(衆生)とは、執着によって色などの対象に執着し、縛られているからである。プーナ(生命)とは、呼吸作用によって存在するからである。そして彼は、それらを単一感覚器などによって分類して説くので、「単一感覚器を持つ」などと言う。アーンダコーサ(卵嚢)などに存在することから「ブータ(存在物)」と呼ばれる、と彼は言う、「卵嚢…等…と語る」。ジーヴァ(命あるもの)とは、生命を保持するかのように成長するからである。それゆえ彼は、「稲、大麦」などと言う。アヴァサー(自力のない者)とは、これらの者には煩悩や清浄に関して支配力がないからである。アバラー・アヴィリヤー(力のない者、努力のない者)とは、彼らに力も精進もないからである。ニヤーター(定められた者)とは、切れない糸や打ち破れない宝石のように、定められた発生があることから、趣き、生まれ、束縛、解脱に応じて定められたものである。「あちらこちらへ行くこと」とは、六つの生まれの種類がそれぞれの趣きに入り、偶然によって出会うことである。サバーヴォーエーヴァ(それ自体が本性である)とは、棘が鋭利であること、カピッタン(象の林檎)の実が丸いこと、鹿や鳥が多様な姿であることのように、全世界のあらゆる変化が原因や条件なしに起こること、これは単にその作為なき本性である、ということである。それゆえ彼は、「なぜなら」などと述べる。六つの生まれの種類は後に詳しく説明されるだろう。「楽も苦も感受する」と言うことによって、彼が苦でも楽でもない境地を全く知らないことを示唆し、「苦でも楽でもない別の境地は存在しないことを示す」と彼は言う。
Pamukhayonīnanti manussatiracchānādīsu khattiyabrāhmaṇādisīhabyagghādivasena padhānayonīnaṃ. Saṭṭhisatānīti chasahassāni. ‘‘Pañca ca kammuno satānī’’ti padassa atthadassanaṃ **‘‘pañcakammasatāni cā’’**ti. **‘‘Eseva nayo’’**ti iminā ‘‘kevalaṃ takkamattakena niratthakaṃ diṭṭhiṃ dīpetī’’ti imamevatthaṃ atidisati. Ettha ca **‘‘takkamattakenā’’**ti iminā yasmā takkikā niraṅkusatāya parikappanassa yaṃ kiñci attano parikappitaṃ sārato maññamānā tatheva abhinivissa takkadiṭṭhigāhaṃ gaṇhanti, tasmā na tesaṃ diṭṭhivatthusmiṃ viññūhi vicāraṇā kātabbāti dasseti. Kecīti uttaravihāravāsino. Te hi ‘‘pañca kammānīti cakkhusotaghānajivhākāyā imāni pañcindriyāni ‘pañca kammānī’ti paññāpentī’’ti vadanti. Kammanti laddhīti oḷārikabhāvato paripuṇṇakammanti laddhi. Manokammaṃ anoḷārikattā upaḍḍhakammanti laddhīti yojanā. Dvaṭṭhipaṭipadāti ‘‘dvāsaṭṭhi paṭipadā’’ti vattabbe sabhāvaniruttiṃ ajānanto ‘‘dvaṭṭhipaṭipadā’’ti vadati. Ekasmiṃ kappeti ekasmiṃ mahākappe, tatthāpi ca vivaṭṭaṭṭhāyīsaññite ekasmiṃ asaṅkhyeyyekappe.
「主たる生類」とは、人間界や畜生界において、クシャトリヤ、バラモン、獅子、虎などといった主要な生類のことである。「六十と百」とは、六千のことである。「五百の業と」という句の意味を示すものが「そして五百の業」である。「この方法もまた」とは、これによって「単なる推論のみによって無意味な見解を示す」という同じ意味を指示している。ここで「単なる推論によって」とは、推論家たちが束縛なく憶測し、自分が憶測したものを本質と見なし、そのまま固執して推論的な見解を固執するため、賢者は彼らの見解の根拠を考察すべきではない、と示す。ある人々とは、ウッタラヴィハーラの住人である。彼らは「五つの業とは、眼、耳、鼻、舌、身の五つの感覚器官を『五つの業』と名付ける」と言う。「業」とは、その粗大性ゆえに「完全な業」という見解である。心業は粗大でないため「半分の業」という見解である、と解釈される。「六十二の道」と言うべきところを、彼は自然な語源を知らないため「六十八の道」と言う。一つの劫とは、一つの大劫のことであり、その中でも「発展し維持される」と呼ばれる一つの無数の劫のことである。
Urabbhe hanantīti orabbhikā. Evaṃ sūkarikādayo veditabbā. Luddāti aññepi ye keci māgavikanesādā. Te pāpakammapasutatāya **‘‘kaṇhābhijātīti vadati. Bhikkhū’’**ti buddhasāsane bhikkhū. Te kira ‘‘sachandarāgā paribhuñjantī’’ti adhippāyena **‘‘catūsu paccayesu kaṇṭake pakkhipitvā khādantī’’**ti vadati. Kasmāti ce? Yasmā ‘‘te paṇītapaṇīte paccaye paṭisevantī’’ti tassa micchāgāho, tasmā ñāyaladdhepi paccaye bhuñjamānā ājīvakasamayassa vilomagāhitāya paccayesu kaṇṭake pakkhipitvā khādanti nāmāti vadatīti apare. Eke pabbajitā, ye savisesaṃ attakilamathānuyogaṃ anuyuttā. Tathā hi te kaṇṭake vattantā viya hontīti **‘‘kaṇṭakavuttikā’’**ti vuttā. Ṭhatvā bhuñjananahānapaṭikkhepādivatasamāyogena paṇḍaratarā. **‘‘Acelakasāvakā’’**ti ājīvakasāvake vadati. Te kira ājīvakaladdhiyā visuddhacittatāya nigaṇṭhehipi paṇḍaratarā. Nandādayo hi tathārūpaṃ ājīvakapaṭipattiṃ ukkaṃsaṃ pāpetvā ṭhitā. Tasmā nigaṇṭhehi ājīvakasāvakehi ca paṇḍaratarā paramasukkābhijātīti ayaṃ tassa laddhi.
「羊を殺す者」とは羊殺しである。このように豚殺しなども理解されるべきである。「猟師たち」とは、他にも狩人や鳥刺しなどである。彼らは悪行に熱心であるため、「黒生まれ」と呼ぶ。比丘とは、仏教教団の比丘のことである。彼らは「欲望と執着を持って消費する」という意図で、「四つの資具に棘を投げ入れて食べる」と言う。なぜかと問うならば?「彼らは優れた資具を享受する」というのが彼の誤った見解であるため、正当に得られた資具を享受しているにもかかわらず、アーヂーヴァカの教義に反する態度で、資具に棘を投げ入れて食べるのだ、と他の人々は言う。ある出家者たちとは、特に自らを苦しめる行に専念する者たちである。したがって、彼らは棘の上を歩くようであるため、「棘の行者」と呼ばれる。立って食べることを拒否したり、沐浴を拒否したりするなどの戒律を実践することによって、より清らかである。「裸形の弟子たち」とは、アーヂーヴァカの弟子たちのことを指す。彼らは、アーヂーヴァカの教義によって心が清浄であるため、ニガンダ(ジャイナ教徒)よりも清らかであるという。実際、ナンダなどはそのようなアーヂーヴァカの修行を極致にまで高めた者である。したがって、ニガンダやアーヂーヴァカの弟子たちよりも清らかであり、最高の純粋な生まれであるというのが彼の見解である。
Purisabhūmiyoti padhānapuggalena niddeso. Itthīnampi tā bhūmiyo icchanteva. **‘‘Bhikkhu ca pannako’’**tiādi tesaṃ pāḷiyeva. Tattha pannakoti bhikkhāya vicaraṇako, tesaṃ vā paṭipattiyā paṭipannako. Jinoti jiṇṇo jarāvasena hīnadhātuko, attano vā paṭipattiyā paṭipakkhaṃ jinitvā ṭhito. So kira tathābhūto dhammampi kassaci na kathesi. Tenāha **‘‘na kiñci āhā’’**ti. Oṭṭhavadanādivippakāre katepi khamanavasena na kiñci vadatītipi vadanti. Alābhinti ‘‘so na kumbhimukhā paṭiggaṇhātī’’tiādinā (dī. ni. 1.394) nayena vuttaalābhahetusamāyogena alābhiṃ, tatoyeva jighacchādubbalaparetatāya sayanaparāyanaṃ **‘‘samaṇaṃ pannabhūmī’’**ti vadati.
「男性の境地」とは、主要な人物による名称である。女性もそれらの境地を望むのである。「比丘と行乞者」などは、彼らの経典そのものである。ここで「行乞者」とは、托鉢をして歩く者、あるいは彼らの実践を行じる者である。「衰退した者」とは、老いによって衰え、体力が低下した者、あるいは自身の実践によって敵対者を打ち破って立つ者である。そのような者は、誰にも法を説かなかったと言われる。それゆえ、「何も語らない」と彼は言う。口や顔の変形が生じても、耐え忍ぶことで何も語らない、と語る者もいる。「何も得ない者」とは、「彼は壺の口から受け取らない」など(『ディーガニカーヤ』1.394)のように述べられた、何も得ない原因の組み合わせによって、何も得ない者である。それゆえ、飢えと衰弱に打ちひしがれ、横たわることに頼る者を「地面に倒れた沙門」と呼ぶ。
Ājīvavuttisatānīti sattānaṃ ājīvabhūtāni jīvikāvuttisatāni. Pasuggahaṇena eḷakajāti gahitā, migaggahaṇena rurugavayādisabbamigajāti. Bahū devāti cātumahārājikādibrahmakāyikādivasena, tesaṃ antarabhedavasena bahū devā. Tattha cātumahārājikānaṃ ekaccabhedo mahāsamayasuttavasena (dī. ni. 2.331) dīpetabbo. Manussāpi anantāti dīpadesakulavaṃsājīvādivibhāgavasena manussāpi anantabhedā. Pisācā eva pesācā. Te aparapetādayo mahantamahantā. Chaddantadahamandākiniyo kuvāḷiyamucalindanāmena vadati.
「生業の百種」とは、衆生の生業である生活の百種のことをいう。「家畜」の把握によって羊種が捉えられ、「獣」の把握によってルル、ガヴァヤなどすべての獣種が(捉えられる)。「多くの神々」とは、四天王天から梵天に至るまで、彼らの内部の区別によって多くの神々が存在する。その中で、四天王天の一部の区別は『大集会経』(長部2.331)に従って説明されるべきである。「人間もまた無数」とは、島、国、家系、種族、生業などの区別によって、人間もまた無限の種類がある。「ピサーチャ」はペーサーチャである。彼らはアパラペータなどで、非常に大きい。チャッダンタ池、マンダーキニー池はクヴァーリヤ、ムチャリンダの名で言われる。
Pavuṭāti pabbagaṇṭhikā. Paṇḍitopi …pe… uddhaṃ na gacchati, kasmā? Sattānaṃ saṃsaraṇakālassa niyatabhāvato. Aparipakkaṃ saṃsaraṇanimittaṃ sīlādinā paripāceti nāma sīghaṃyeva visuddhippattiyā. Paripakkaṃ kammaṃ phussa phussa patvā patvā kālena paripakkabhāvānāpādanena byantiṃ karoti nāma.
「パヴッタ」とは結節のこと。賢者もまた …(略)…上へ行かない。なぜか?衆生の輪廻する期間が定められているためである。未熟な輪廻の因縁は、戒などによって成熟させる、とは速やかに清浄に到達させることである。成熟した業は、接触し接触し、到達し到達し、時間によって成熟した状態をもたらすことによって消滅させる、とはそのことである。
Suttaguḷeti suttavaṭṭiyaṃ. **‘‘Nibbeṭhiyamānameva paletī’’**ti upamāya sattānaṃ saṃsāro anukkamena khīyateva, na tassa vaḍḍhatīti dasseti paricchinnarūpattā.
「糸の玉」とは、糸巻きのことである。「解きほぐされるままに尽きていく」という譬えによって、衆生の輪廻は次第に尽きていき、決して増えることはない、と、その限られた性質を示す。
171. Dinnanti deyyadhammasīsena dānaṃ vuttanti āha **‘‘dinnassa phalābhāvaṃ vadatī’’**ti, dinnaṃ pana annādivatthuṃ kathaṃ paṭikkhipati. Eseva nayo yiṭṭhaṃ hutanti etthāpi. Mahāyāgoti sabbasādhāraṇaṃ mahādānaṃ. Pāhunakasakkāroti pāhunabhāvena kātabbasakkāro. Phalanti ānisaṃsaphalaṃ, nissandaphalañca. Vipākoti sadisaphalaṃ. Paraloke ṭhitassa ayaṃ loko natthīti paraloke ṭhitassa kammunā laddhabbo ayaṃ loko na hoti. Idhaloke ṭhitassāpi paraloko natthīti idhaloke ṭhitassa kammunā laddhabbo paraloko na hoti. Tattha kāraṇamāha ‘‘sabbe **tattha tattheva ucchijjantī’’**ti. Ime sattā yattha yattha bhave, yoniādīsu ca ṭhitā tattha tattheva ucchijjanti nirudayavināsavasena vinassanti. Phalābhāvavasenāti mātāpitūsu sammāpaṭipattimicchāpaṭipattīnaṃ phalassa abhāvavasena ‘‘natthi mātā, natthi pitā’’ti vadati, na mātāpitūnaṃ, nāpi tesu idāni kayiramānasakkārāsakkārānaṃ abhāvavasena tesaṃ lokapaccakkhattā. Pubbuḷakassa viya imesaṃ sattānaṃ uppādo nāma kevalo, na cavitvā āgamanapubbakoti dassanatthaṃ ‘‘natthi sattā opapātikā’’ti vuttanti āha **‘‘cavitvā upapajjanakasattā nāma natthīti vadatī’’**ti. Samaṇena nāma yāthāvato jānantena kassaci kiñci akathetvā saññatena bhavitabbaṃ, aññathā āhopurisikā nāma siyā. Kiñhi paro parassa karissati? Tathā ca attano sampādanassa kassaci avassayo eva na siyā tattha tattheva ucchijjanatoti āha **‘‘ye imañca…pe… pavedentī’’**ti.
171. 「与えられたもの」とは、与えるべき法という名目で布施が言われている、と説く。「与えられたものの果報がないと説く」とは、与えられた飲食などの物をどのように拒否するのか。ここでも「供犠、供物」についても同様の方法である。「大供犠」とは、すべてに共通する大布施のこと。「賓客への敬意」とは、賓客としてなされるべき敬意。「果報」とは、功徳の果報と流出の果報である。「異熟」とは、類似の果報。「来世に存在する者にはこの世がない」とは、来世に存在する者が業によって得るべきこの世はない。「この世に存在する者にも来世がない」とは、この世に存在する者が業によって得るべき来世はない。その理由を「すべては そこそこで滅びる」と説く。これらの衆生は、どこどこの存在、胎生などで存在するならば、そこそこで生起することなく滅び、消滅していく。「果報がないため」とは、父母に対する正しい行いや誤った行いの果報がないという意味で「母はいない、父はいない」と説くのであり、父母そのものがいない、あるいは現在彼らになされている敬意や軽蔑がないという意味ではない。彼らは世間では明白であるから。胞衣に包まれた胎児のように、これらの衆生の生起は単なるものであり、死んでから生まれてくるという先行する原因はない、と示すために「衆生は化生ではない」と説く、とは「死んでから生まれるという衆生はいないと説く」ことである。沙門とは、真実を認識する者であり、誰にも何も語らず、自制する者であるべきだ。さもなければ、偽りの人間となりうる。いったい他人は他人に何ができるだろうか?そして、自分の達成に対して誰にも依存すべきではない。そこそこで滅びるのであるから、と「これら…(略)…を宣べ伝える者たち」と説く。
Catūsu mahābhūtesu niyuttoti cātumahābhūtiko. Yathā pana mattikāya nibbattaṃ bhājanaṃ mattikāmayaṃ, evaṃ ayaṃ catūhi mahābhūtehi nibbattoti āha **‘‘catumahābhūtamayo’’**ti. Ajjhattikapathavīdhātūti sattasantānagatā pathavīdhātu. Bāhirapathavīdhātunti bahiddhā mahāpathaviṃ. Upagacchatīti bāhirapathavikāyato tadekadesabhūtā pathavī āgantvā ajjhattikabhāvappattiyā sattabhāvena saṇṭhitā idāni ghaṭādigatapathavī viya tameva bāhirapathavikāyaṃ upeti upagacchati sabbaso tena nibbisesataṃ ekībhāvameva gacchati. Āpādīsupi eseva nayoti ettha pajjunnena mahāsamuddato gahitaāpo viya vassodakabhāvena punapi mahāsamuddameva, sūriyarasmito gahitaṃ indaggisaṅkhātatejo viya puna sūriyarasmiṃ, mahāvāyukhandhato niggatamahāvāto viya tameva vāyukhandhaṃ upeti upagacchatīti diṭṭhigatikassa adhippāyo. Manacchaṭṭhāni indriyāni ākāsaṃ pakkhandanti tesaṃ visayābhāvāti vadanti. Visayigahaṇena hi visayāpi gahitā eva hontīti. Guṇāguṇapadānīti guṇadosakoṭṭhāsā. Sarīrameva padānīti adhippetaṃ sarīrena taṃtaṃkiriyāya pajjitabbato. Dabbanti muyhantīti dattū, mūḷhapuggalā. Tehi dattūhi bālamanussehi. ‘‘Paraloko atthī’’ti mati yesaṃ, te atthikā, tesaṃ vādoti atthikavādo, taṃ atthikavādaṃ.
「四大に配属される」とは、四大からなるものである。ちょうど土から作られた器が土製であるように、これも四大から作られている、と「四大でできている」と説く。「内なる地大」とは、衆生の相続の中に存在する地大。「外なる地大」とは、外にある大地。「そこに至る」とは、外の地体の一部である地が来て、内的な状態に達し、衆生の姿として確立していたものが、今や瓶などに入っている地のように、その外の地体へと戻り、完全にそれと区別なく一体化する。水などについても同様の方法である、とは、ここで雨神によって大海から取られた水が雨水となり再び大海に戻るように、太陽の光から取られたインドラの火と呼ばれる光明が再び太陽の光に戻るように、大風の塊から吹き出た大風が再びその風の塊に戻るように、と見解を持つ者の意図である。六番目の意を含む諸根は虚空に飛び込む、それらの対象がない、と彼らは説く。認識器官を捉えることで、対象もまた捉えられたことになるのである。「善悪の言葉」とは、善悪の部分。「身体が言葉である」とは、身体によってそれぞれの行為が行われるべきであるという意図。 「愚か者」とは、迷う者たち、すなわち愚かな人々。その愚かな者たち、 すなわち愚かな人々によって。「来世がある」という考えを持つ者、彼らが「有見論者」である。彼らの説が「有見論」であり、その有見論を。
Kammaṃ paṭibāhati akiriyavādibhāvato. Vipākaṃ paṭibāhati sabbena sabbaṃ āyatiṃ upapattiyā paṭikkhipanato. Ubhayaṃ paṭibāhati sabbaso hetupaṭibāhaneneva phalassapi paṭikkhittattā. Ubhayanti hi kammaṃ vipākañcāti ubhayaṃ. So hi ‘‘ahetū appaccayā sattā saṃkilissanti, visujjhanti cā’’ti (dī. ni. 1.168; ma. ni. 2.100, 227; saṃ. ni. 3.212) vadanto kammassa viya vipākassāpi saṃkilesavisuddhīnaṃ paccayattābhāvavacanato tadubhayaṃ paṭibāhati nāma. Vipāko paṭibāhito hoti asati kamme vipākābhāvato. Kammaṃ paṭibāhitaṃ hoti asati vipāke kammassa niratthakabhāvāpattito. Atthatoti sarūpena. Ubhayappaṭibāhakāti visuṃ visuṃ taṃtaṃdiṭṭhidīpakabhāvena pāḷiyaṃ āgatāpi paccekaṃ tividhadiṭṭhikā eva ubhayapaṭibāhakattā. Ubhayappaṭibāhakāti hi hetuvacanaṃ. **‘‘Ahetukavādā cevā’’**tiādi paṭiññāvacanaṃ. Yo hi vipākapaṭibāhanena natthikadiṭṭhiko ucchedavādī, so atthato kammapaṭibāhanena akiriyadiṭṭhiko, ubhayapaṭibāhanena ahetukadiṭṭhiko ca hoti. Sesadvayepi eseva nayo.
彼は行為を退ける、不作為論者であるため。 彼は異熟を退ける、まったく未来の生起を否定するから。彼は両方を退ける、まったく原因を退けることによって結果もまた否定されるから。「両方」とは、業と異熟の両方のことである。彼は「原因なく、縁なく、衆生は汚染され、清浄になる」と説く(長部1.168; 中部2.100, 227; 相応部3.212)ことによって、業と同様に異熟もまた、汚染と清浄の原因ではないと説くことから、その両方を退けるのである。異熟は退けられる、業がなければ異熟がないから。業は退けられる、異熟がなければ業が無意味になるから。「本質的には」とは、実体として。「両者を退ける者たち」とは個々にそれぞれの見解を示すものとしてパーリ語聖典に現れても、それぞれ三種類の見解を持つ者たちであり、両者を退ける者である。「両者を退ける者」とは、理由の言葉である。「そして無因論者である」などとは、宣言の言葉である。異熟を退けることによって虚無論者であり断滅論者である者は、本質的には業を退けることによって不作為論者であり、両者を退けることによって無因論者となる。残りの二つについても同様の方法である。
Sajjhāyantīti taṃ diṭṭhidīpakaṃ ganthaṃ uggahetvā paṭhanti. Vīmaṃsantīti tassa atthaṃ vicārenti. **‘‘Tesa’’**ntiādi vīmaṃsanākāradassanaṃ. Tasmiṃ ārammaṇeti yathāparikappitakammaphalābhāvādike ‘‘karoto na karīyati pāpa’’nti ādinayappavattāya laddhiyā ārammaṇe. Micchāsati santiṭṭhatīti ‘‘karoto na karīyati pāpa’’ntiādivasena anussavūpaladdhe atthe tadākāraparivitakkanehi saviggahe viya sarūpato cittassa paccupaṭṭhite cirakālaparicayena evametanti nijjhānakkhamabhāvūpagamanena nijjhānakkhantiyā tathāgahite punappunaṃ tatheva āsevantassa bahulīkarontassa micchāvitakkena samādiyamānā micchāvāyāmūpatthambhitā ataṃsabhāvaṃ ‘‘taṃsabhāva’’nti gaṇhantī micchāsatīti laddhanāmā taṃladdhisahagatā taṇhā santiṭṭhati. Cittaṃ ekaggaṃ hotīti yathāsakaṃ vitakkādipaccayalābhena tasmiṃ ārammaṇe avaṭṭhitatāya anekaggataṃ pahāya ekaggaṃ appitaṃ viya hoti. Cittasīsena micchāsamādhi eva vutto. Sopi hi paccayavisesehi laddhabhāvanābalo īdise ṭhāne samādhānapatirūpakiccakaroyeva, vāḷavijjhanādīsu viyāti daṭṭhabbaṃ. Javanāni javantīti anekakkhattuṃ tenākārena pubbabhāgiyesu javanavāresu pavattesu sabbapacchime javanavāre satta javanāni javanti. Paṭhame javane satekicchā honti. Tathā dutiyādīsūti dhammasabhāvadassanamattametaṃ, na pana tasmiṃ khaṇe tesaṃ tikicchā kenaci sakkā kātuṃ.
「暗唱する」とは、その見解を示す経典を習得して読むことである。「考察する」とは、その意味を考察することである。「彼らの」などとは、考察の様式を示す。「その対象において」とは、妄想された業の果報がないことなど、「なす者には悪は生じない」という類の流れで生じた見解の対象において。「邪なる念が確立する」とは、「なす者には悪は生じない」などの形で伝聞によって得られた意味において、その様式の思惟によって、あたかも実体を伴うかのように心に現前し、長年の経験によって「これはこのようである」と深く考察できる状態に至り、考察の忍耐によって そのように受け入れられたものを、繰り返し繰り返しそのように慣れ親しみ、多作することによって、邪なる尋思によって確立され、邪なる精進によって支えられ、その本質ではないものを「その本質である」と把握する邪なる念と名付けられた、その見解に伴う渇愛が確立することである。「心は一点に集中する」とは、それぞれの尋思などの因縁を得ることによって、その対象に定着し、散漫な状態を捨てて、一点に集中し、あたかも据え付けられたかのようになることである。心の主要な部分によって、邪なる三昧が説かれているのである。それもまた、特殊な因縁によって得られた修習の力により、このような場所では集中に似た働きをするだけであり、矢を射る場合などと同様であると見なされるべきである。「瞬発心が生じる」とは、その様式で多くの回数、前段階の瞬発の瞬間において生起した中で、最後の瞬発の瞬間において七つの瞬発心が生じる。 最初の瞬発心には治療の余地がある。二番目以降も同様である、とは、これは法自体の性質を示すだけのものであり、その瞬間において彼らを治療することは誰にも不可能である。
Tatthāti tesu tīsu micchādassanesu. Koci ekaṃ dassanaṃ okkamatīti yassa ekasmiṃyeva abhiniveso āsevanā ca pavattā, so ekameva dassanaṃ okkamati. Yassa pana dvīsu tīsupi vā abhiniveso āsevanā ca pavattā, so dve tīṇipi okkamati, etena yā pubbe ubhayapaṭibāhakatāmukhena dīpitā atthasiddhā sabbadiṭṭhikatā, sā pubbabhāgiyā. Yā pana micchattaniyāmokkantibhūtā, sā yathāsakaṃ paccayasamudāgamasiddhito bhinnārammaṇānaṃ viya visesādhigamānaṃ ekajjhaṃ anuppattiyā asaṅkiṇṇā evāti dasseti. **‘‘Ekasmiṃ okkantepī’’**tiādinā tissannampi diṭṭhīnaṃ samānabalataṃ samānaphalatañca dasseti. Tasmā tissopi cetā ekassa uppannā abbokiṇṇā eva, ekāya vipāke dinne itarā anubalappadāyikāyo honti. **‘‘Vaṭṭakhāṇu nāmesā’’**ti idaṃ vacanaṃ neyyatthaṃ, na nītatthaṃ. Tathā hi papañcasūdaniyaṃ ‘‘kiṃ panesa ekasmiṃyeva attabhāve niyato hoti, udāhu aññasmiṃ pīti? Ekasmiṃyeva niyato, āsevanavasena pana bhavantarepi taṃ taṃ diṭṭhiṃ roceti yevā’’ti (ma. ni. aṭṭha. 3.129) vuttaṃ. Akusalañhi nāmetaṃ abalaṃ dubbalaṃ, na kusalaṃ viya sabalaṃ mahābalaṃ. Tasmā ‘‘ekasmiṃyeva attabhāve niyato’’ti vuttaṃ. Aññathā sammattaniyāmo viya micchattaniyāmopi accantiko siyā, na ca accantiko. Yadi evaṃ vaṭṭakhāṇujotanā kathanti āha ‘‘āsevanavasena panā’’tiādi. Tasmā yathā ‘‘sakiṃ nimuggopi nimuggo eva bālo’’ti vuttaṃ, evaṃ vaṭṭakhāṇujotanā. Yādise hi paccaye paṭicca ayaṃ taṃ taṃ dassanaṃ okkanto puna kadāci tappaṭipakkhe paccaye paṭicca tato sīsukkhipanamassa na hotīti na vattabbaṃ, tasmā **‘‘yebhuyyena hi evarūpassa bhavato vuṭṭhānaṃ nāma natthī’’**ti vuttaṃ.
「そこにおいて」とは、それら三つの邪見において。「ある者は一つの見解に没入する」とは、一つの見解にのみ固執し、慣れ親しんでいる者は、その一つの見解にのみ没入する。しかし、二つあるいは三つの見解に固執し、慣れ親しんでいる者は、二つあるいは三つにも没入する。これによって、以前に両者を退けるという側面から示された、すべての見解に共通する意味合いは、前段階のものである。しかし、邪定に没入したものは、それぞれの原因の集合が確立することから、異なる対象を持つ者たちのように、特殊な認識の集積が同時に生じないため、混同しないことを示す。「一つの見解に没入したとしても」などによって、三つの見解すべてが同等の力と、同等の果報を持つことを示す。したがって、これらの三つが一つに生じたとしても、それらは混同されることはなく、一つが異熟を与えると、残りは補助的な力となる。 「これは輪廻の株である」というこの言葉は、解釈を要する意味であり、決定的な意味ではない。なぜなら、『パパンチャスダニー』には「それでは、これは一つの生存にのみ定まるのか、それとも他の生存においても定まるのか?一つの生存にのみ定まる。しかし、慣れ親しむことによって、他の生存においてもその見解を好む」と説かれているからである(中部注釈3.129)。不善とは、力弱く、弱いものであり、善のように力強く、大いなる力を持つものではない。したがって、「一つの生存にのみ定まる」と説かれているのである。さもなければ、正定のように邪定もまた絶対的なものとなるだろうが、それは絶対的ではない。もしそうであるなら、輪廻の株を明示することはどういうことか、と「しかし、慣れ親しむことによって」などと説く。したがって、「一度沈んだ愚者もまた沈んだ者である」と説かれているように、輪廻の株を明示するのである。なぜなら、このような因縁に依って、この者がその見解に没入した場合、再びいつか、その反対の因縁に依って、そこから頭をもたげることはないとは言えないからである。したがって、「大多数の場合、このような存在からは抜け出すことはない」と説かれているのである。
Tasmāti yasmā evaṃ saṃsārakhāṇubhāvassapi paccayo apaṇṇakajāto, tasmā. Bhūtikāmoti diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthānaṃ vasena attano guṇehi vaḍḍhikāmo.
「それゆえ」とは、このように輪廻の株となる原因もまた確かなものとなったから、それゆえ。「繁栄を求める者」とは、現世、来世、そして究極の真理という点で、自分の功徳によって繁栄を望む者。
174. Akatāti samena visamena vā kenaci hetunā na katā na vihitā. Katavidho karaṇavidhi natthi etesanti akatavidhānā. Padadvayenāpi loke kenaci hetupaccayena nesaṃ anibbattanabhāvaṃ dasseti. Iddhiyāpi na nimmitāti kassaci iddhimato cetovasippattassa devassa, issarādino vā iddhiyāpi na nimmitā. Animmāpitā kassaci animmāpitā. Vuttatthamevāti brahmajālavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 1.30) vuttatthameva. Vañjhāti vañjhapasuvañjhatālādayo viya aphalā, kassaci ajanakāti attho, etena pathavikāyādīnaṃ rūpādijanakabhāvaṃ paṭikkhipati. Rūpasaddādayo hi pathavikāyādīhi appaṭibaddhavuttikāti tassa laddhi. Pabbatakūṭaṃ viya ṭhitāti kūṭaṭṭhā, yathā pabbatakūṭaṃ kenaci anibbattitaṃ, kassaci ca anibbattakaṃ, evamete pīti adhippāyo. Yamidaṃ ‘‘bījato aṅkurādi jāyatī’’ti vuccati, taṃ vijjamānameva tato nikkhamati, na avijjamānaṃ, aññathā aññatopi aññassa upaladdhi siyāti adhippāyo. Ṭhitattāti nibbikārābhāvena ṭhitattā. Na calantīti vikāraṃ nāpajjanti. Vikārābhāvato hi tesaṃ sattannaṃ kāyānaṃ esikaṭṭhāyiṭṭhitatā. Aniñjanañca attano pakatiyā avaṭṭhānameva. Tenāha **‘‘na vipariṇamantī’’**ti. Avipariṇāmadhammattā eva hi te aññamaññaṃ na byābādhenti. Sati hi vikāraṃ āpādetabbatāya byābādhakatāpi siyā, tathā anuggahetabbatāya anuggāhakatāti tadabhāvaṃ dassetuṃ pāḷiyaṃ nālantiādi vuttaṃ. Pathavī eva kāyekadesattā pathavikāyo. Jīvasattamānaṃ kāyānaṃ niccatāya nibbikārabhāvato na hantabbatā, na ghātetabbatā cāti neva koci hantā vā ghātetā vā, tenevāha **‘‘sattannaṃ tveva kāyāna’’**ntiādi. Yadi koci hantā natthi, kathaṃ satthappahāroti āha **‘‘yathā muggarāsi ādīsū’’**tiādi. Kevalaṃ saññāmattameva hoti. Hananaghātanādi pana paramatthato nattheva kāyānaṃ avikopanīyabhāvatoti adhippāyo.
174. 「作られていない」とは、平等な、あるいは不平等な何らかの原因によって作られず、配置もされていない。 「なされた方法、なす方法がない」とは、これらにはなされた方法もなす方法もない、という意味で「作られていないもの」である。 この二つの語によって、世間において何らかの原因や縁によってそれらが生成しないことを示す。「神通力によっても作られていない」とは、ある神通力を持つ、心自在の神や、 あるいは自在神などの神通力によっても作られていない。「誰にも作られていない」とは、誰にも作られていない。「説かれた意味と同じ」とは、『梵網経』の注釈(長部注釈1.30)で説かれた意味と同じ。「不毛」とは、不毛の家畜や不毛のヤシなどと同じく、果報がない、誰にも生み出されないという意味である。これによって、地大などが色などを生み出す性質を否定する。形や音などは地大などとは無関係に生じる、というのが彼の見解である。「山頂のように立つ」とは、不動である、という意味である。ちょうど山頂が誰によっても作られず、誰の生み出すものでもないように、これらもまたそうである、という意図である。「種子から芽などが生じる」と言われるのは、存在するものからそこから出てくるのであって、存在しないものからは出ない。さもなければ、他のものからも他のものが得られることになるだろう、という意図である。「不動であること」とは、変化しない性質によって不動であること。「動かない」とは、変化しない。変化がないからこそ、それら七つの集合体は、堅固に不動である。そして、不動とは、その本性において定まっていることである。それゆえ「変化しない」と説く。変化しない性質であるからこそ、それらは互いに害し合わない。もし変化があるならば、変化をもたらすことによって害する性質も存在するだろうし、同様に助けることによって助ける性質も存在するだろう。その両方がないことを示すために、パーリ語聖典には「なすことができない」などが説かれている。地大は集合体の一部であるから、地体である。生命体と衆生の集合体は、常住であり変化しない性質であるから、殺されるべきでもなく、死なされるべきでもない。ゆえに、殺す者も死なせる者もいない、と説き、 「ただ七つの集合体である」などと説く。もし殺す者がいないならば、どうして武器による打撃があるのか、と「ちょうど棒の山などに」などと説く。それは単なる認識にすぎない。しかし、殺害や死なせることなどは、究極的には存在しない。なぜなら集合体は動揺しない性質を持つからである、というのが意図である。
177. Cattāro yāmā bhāgā catuyāmā, catuyāmā eva cātuyāmā, bhāgattho hi idha yāma-saddo yathā ‘‘rattiyā paṭhamo yāmo’’ti. So panettha bhāgo saṃvaralakkhaṇoti āha **‘‘cātuyāmasaṃvutoti catukoṭṭhāsena saṃvarena saṃvuto’’**ti. Paṭikkhittasabbasītodakoti paṭikkhittasabbasītodakaparibhogo. Sabbena pāpavāraṇena yuttoti sabbappakārena saṃvaralakkhaṇena samannāgato. Dhutapāpoti sabbena nijjaralakkhaṇena pāpavāraṇena vidhutapāpo. Phuṭṭhoti aṭṭhannampi kammānaṃ khepanena mokkhappattiyā kammakkhayalakkhaṇena sabbena pāpavāraṇena phuṭṭho taṃ patvā ṭhito. Koṭippattacittoti mokkhādhigameneva uttamamariyādappattacitto. Yatattoti kāyādīsu indriyesu saṃyametabbassa abhāvato saṃyatacitto. Suppatiṭṭhitacittoti nissesato suṭṭhu patiṭṭhitacitto. Sāsanānulomaṃ nāma pāpavāraṇena yuttatā. Tenāha ‘‘dhutapāpo’’tiādi. Asuddhaladdhitāyāti ‘‘atthi jīvo, so ca siyā nicco, siyā anicco’’ti evamādiasuddhaladdhitāya. Sabbāti kammapakativibhāgādivisayā sabbā nijjhānakkhantiyo. Diṭṭhiye vāti micchādiṭṭhiyo eva jātā.
177. 四つの夜間の期間、あるいは四つの時間割があるが故に「四夜間 (catuyāmā)」である。さらに「四夜間 (catuyāmā)」がそのまま「四夜間 (cātuyāmā)」である。というのは、ここでは「夜間 (yāma)」という語は「夜の最初の夜間 (rattiyā paṭhamo yāmo)」のように、部分という意味である。その部分とは「戒律の特相」であるとして、彼は言った。『「四夜間をもって守られている (cātuyāmasaṃvuto)」とは、四つの部分からなる戒律によって守られている』と。『すべての冷水を拒絶する (Paṭikkhittasabbasītodako)」とは、すべての冷水の使用を拒絶すること。『すべての悪行の防止と結合している (Sabbena pāpavāraṇena yutto)」とは、あらゆる種類の戒律の特相を備えていること。『悪行を払いのけた者 (Dhutapāpo)」とは、あらゆる(煩悩の)枯渇という特相によって悪行を払いのけた者。『到達した者 (Phuṭṭho)」とは、八つの業を滅尽し、解脱を得ることによって、業の滅尽という特相であるあらゆる悪行の防止に触れ、それに到達して安住している者。『最高の境地に達した心 (Koṭippattacitto)」とは、解脱の獲得によって最高の境地に達した心。『自制された者 (Yatatto)」とは、身などにおいて制御すべき感覚器官がないため、心が自制されていること。『よく確立された心 (Suppatiṭṭhitacitto)」とは、完全にしっかりと確立された心。教えにかなうとは、悪行の防止と結合している状態である。それゆえ彼は『悪行を払いのけた者』などと言った。『不純な見解のため (Asuddhaladdhitāya)」とは、『命はある、それは常住であるかもしれないし、無常であるかもしれない』というような不純な見解のためである。『すべて (Sabbā)」とは、業、本性、区別などに関するすべての熟考する忍耐のこと。『見解である (Diṭṭhiye vā)」とは、まさに邪見が生じたのである。
179-181. Amarāvikkhepe vuttanayo evāti brahmajāle amarāvikkhepavādasaṃvaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 1.61-63) vuttanayo eva vikkhepabyākaraṇabhāvato, tatheva cettha vikkhepavādassa āgatattā.
179-181. 「不死論争における言及された方法そのもの (Amarāvikkhepe vuttanayo eva)」とは、ブラフマジャーラ経の不死論争の注釈(長部注釈 1.61-63)において言及された方法そのものであって、それは逸脱した説明の性質によるものであり、ここにも同じく逸脱した説が言及されているからである。
183. Yathā te rucceyyāti idāni mayā pucchiyamāno attho yathā tava citte roceyya. Gharadāsiyā kucchismiṃ jāto antojāto. Dhanena kīto dhanakkīto. Bandhaggāhagahito karamarānīto. Sāmanti sayameva. Dāsabyanti dāsabhāvaṃ. Koci dāsopi samāno alaso kammaṃ akaronto ‘‘kammakāro’’ti na vuccatīti āha **‘‘analaso kammakaraṇasīloyevā’’**ti. Paṭhamamevāti āsannataraṭṭhānūpasaṅkamanato pageva puretarameva. Pacchāti sāmikassa nipajjāya pacchā. Sayanato avuṭṭhiteti rattiyā vibhāyanavelāya seyyato avuṭṭhite. Paccūsakālato paṭṭhāyāti atītāya rattiyā paccūsakālato paṭṭhāya. Yāva sāmino rattiṃ niddokkamananti aparāya padosavelāyaṃ yāva niddokkamanaṃ. Kiṃ kāranti kiṃ karaṇīyaṃ, kiṃkārabhāvato pucchitvā kātabbaveyyāvaccanti attho.
183. 「あなたの心に適するように (Yathā te rucceyya)」とは、今私が尋ねている事柄が、あなたの心に適するようにという意味。家庭の奴隷の胎から生まれた者は「胎生奴隷 (antojāto)」。財によって買われた者は「財買奴隷 (dhanakkīto)」。捕縛されて捕らえられた者は「捕縛奴隷 (bandhaggāhagahito)」。自分で主人となる者は「自ら主人」。奴隷の状態は「奴隷性 (dāsabyaṃ)」。怠惰で仕事をしない奴隷は「仕事をする者 (kammakāro)」とは呼ばれないと言って、彼は言った。『「怠惰でない者、仕事をすることを習慣とする者 (analaso kammakaraṇasīloyevā)」』と。「最初に (Paṭhamameva)」とは、より近い場所へ行くことによって、以前に、より早くという意味。「後に (Pacchā)」とは、主人が横になった後にという意味。「寝床から起き上がらずに (Sayanato avuṭṭhite)」とは、夜が明け始める時に寝床から起き上がらないこと。「夜明け前から始まって (Paccūsakālato paṭṭhāya)」とは、過ぎ去った夜の夜明け前から始まるという意味。「主人の夜間の眠りから覚めるまで (Yāva sāmino rattiṃ niddokkamanaṃ)」とは、次の夕暮れ時まで、つまり眠りから覚めるまでという意味。「何をすべきか (Kiṃ kāraṃ)」とは、何をなすべきか、つまり何をすべきかを尋ねて手伝うべきであるという意味。
Devo viyāti ādhipaccaparivārādisampattisamannāgato padhānadevo viya. So vatassāhanti so vata assaṃ ahaṃ. So rājā viya ahampi bhaveyyaṃ, kathaṃ puññāni kareyyaṃ, yadi puññāni uḷārāni kareyyanti yojanā. **‘‘So vatassa’ssa’’**nti pāṭhe so rājā assa ahaṃ assaṃ vata, yadi puññāni kareyyanti yojanā. Tenāha **‘‘ayamevattho’’**ti. Assanti uttamapurisappayoge ahaṃ-saddo appayuttopi payutto eva hoti. Yāvajīvaṃ na sakkhissāmi dātunti yāvajīvaṃ dānatthāya ussāhaṃ karontopi yaṃ rājā ekaṃ divasaṃ deti, tato satabhāgampi dātuṃ na sakkhissāmi. Tasmā pabbajissāmīti pabbajjāyaṃ ussāhaṃ katvāti yojanā.
「神のように (Devo viyā)」とは、支配権や従者などの豊かさを備えた主要な神のようにという意味。「私がそうなるだろう (So vatassāhaṃ)」とは、「私がそうなるだろう (so vata assaṃ ahaṃ)」という意味である。つまり「もし私が王のようになれるなら、どのように功徳を積むべきだろうか、もし私が優れた功徳を積むならば」というように解釈する。『「私がそうなるだろう (So vatassa'ssaṃ)」』という読み方の場合、「私が王になるだろう、私がそうなるだろう、もし私が功徳を積むならば」と解釈する。それゆえ彼は言った。『「これがその意味である (ayamevattho)」』と。「だろう (Assaṃ)」とは、一人称単数における「私 (ahaṃ)」という語が使われていなくても、使われているのと同様である。「生涯にわたって施しをすることはできない (Yāvajīvaṃ na sakkhissāmi dātuṃ)」とは、生涯にわたって施しをするために努力したとしても、王が一日で与えるものの百分の1も施すことはできないだろうという意味。それゆえ「私は出家するだろう (Tasmā pabbajissāmi)」とは、出家するために努力する、と解釈する。
Kāyena saṃvutoti kāyena saṃvaritabbaṃ kāyadvārena pavattanakaṃ pāpadhammaṃ saṃvaritvā vihareyyāti ayamettha atthoti āha **‘‘kāyena pihito hutvā’’**tiādi. Ghāsacchādanena paramatāyāti ghāsacchādanapariyesane sallekhavasena paramatāya, ukkaṭṭhabhāve saṇṭhito ghāsacchādanameva vā paramaṃ parā koṭi etassa, na tato paraṃ kiñci āmisajātaṃ pariyesati paccāsisati cāti ghāsacchādanaparamo, tabbhāvo ghāsacchādanaparamatā, tassā ghāsacchādanaparamatāya. Vivekaṭṭhakāyānanti gaṇasaṅgaṇikato pavivitte ṭhitakāyānaṃ. Nekkhammābhiratānanti jhānābhiratānaṃ. Tāya eva jhānābhiratiyā paramaṃ uttamaṃ vodānaṃ visuddhiṃ pattatāya paramavodānappattānaṃ. Kilesūpadhiabhisaṅkhārūpadhīnaṃ accantavigamena nirupadhīnaṃ. Visaṅkhāragatānanti adhigatanibbānānaṃ. Ettha ca paṭhamo viveko itarehi dvīhi vivekehi sahāpi pattabbo vināpi, tathā dutiyo. Tatiyo pana itarehi dvīhi saheva pattabbo, na vināti daṭṭhabbaṃ. Gaṇe janasamāgame sannipatanaṃ gaṇasaṅgaṇikā, taṃ pahāya eko viharati carati puggalavasena asahāyattā. Citte kilesānaṃ sannipatanaṃ cittakilesasaṅgaṇikā, taṃ pahāya eko viharati kilesavasena asahāyattā. Maggassa ekacittakkhaṇikattā, gotrabhuādīnañca ārammaṇamattattā na tesaṃ vasena sātisayā nibbutisukhasamphusanā, phalasamāpattinirodhasamāpattivasena sātisayāti āha **‘‘phalasamāpattiṃ vā nirodhasamāpattiṃ vā pavisitvā’’**ti. Phalapariyosāno hi nirodhoti.
「身によって守られた者 (Kāyena saṃvuto)」とは、身によって制御すべき、身体の門から生じる悪しき法を制御して住むべきである、というのがここでの意味であるとして、彼は言った。『「身によって閉ざされて (kāyena pihito hutvā)」』などと。「食と衣における最高性 (Ghāsacchādanena paramatāya)」とは、食と衣の追求において清貧を旨として最高であること、あるいは最高の状態に安住していること、あるいは食と衣こそが彼にとって最高であり、それ以上のいかなる財も求めず、期待もしない者、それが食と衣を最高とする者であり、その状態が食と衣における最高性であり、その食と衣における最高性のこと。「離れ住む身の者 (Vivekaṭṭhakāyānaṃ)」とは、群衆から離れて住む身の者。「出離を喜びとする者 (Nekkhammābhiratānaṃ)」とは、禅定を喜びとする者。その禅定を喜びとすることによって、最高の清浄である解脱を得たが故に「最高の清浄を得た者 (paramavodānappattānaṃ)」。煩悩という障礙、業の形成という障礙が完全に除去されたが故に「障礙なき者 (nirupadhīnaṃ)」。構成要素を離れた者 (Visaṅkhāragatānaṃ)」とは、涅槃を達成した者。そしてここでは、第一の離は他の二つの離とともに得られることも、なしに得られることもあり、第二の離も同様である。しかし第三の離は他の二つの離とともに得られるべきであり、なしに得られるべきではないと理解すべきである。群衆が集まることが群集雑踏であり、それを捨てて独りで住み、行動するのは個人の性質として孤独であるため。心に煩悩が集まることが心煩悩雑踏であり、それを捨てて独りで住むのは煩悩の性質として孤独であるため。道は一瞬の心にしか存在しないこと、また種姓転換の境地などは対象にすぎないことから、それらの状態においては特別に優れた涅槃の幸福を感じることはない。結果の等至(果定)や滅尽定の状態において特別に優れていると言って、彼は言った。『「果定に入るか、または滅尽定に入るか (phalasamāpattiṃ vā nirodhasamāpattiṃ vā pavisitvā)」』と。なぜなら、滅尽定は果に終わるからである。
184. Abhiharitvāti abhimukhībhāvena netvā. ‘‘Ahaṃ cīvarādīhi payojanaṃ sādhessāmī’’ti vacanaseso. Sappāyanti sabbagelaññapaharaṇavasena upakārāvahaṃ. Bhāvinā anatthato paripālanavasena gopanā rakkhāgutti. Paccuppannassa nisedhavasena āvaraṇagutti.
184. 「導き入れて (Abhiharitvā)」とは、向かい合うように連れてくるという意味。「私が衣などで目的を達成するだろう」という言葉の残りの部分。「適応する (Sappāyaṃ)」とは、あらゆる病気を除去することによって役立つこと。来るべき災難から保護することによって守ることは「隠蔽 (gopanā)」や「保護 (rakkhāgutti)」。現在のものに対する抑制によって覆い隠すことは「障壁 (āvaraṇagutti)」。
186. Kasatīti kasiṃ karoti. Gahapatikoti ettha ka-saddo appatthoti āha **‘‘ekagehamatte jeṭṭhako’’**ti, tena anekakulajeṭṭhakabhāvaṃ paṭikkhipati. Karaṃ karotīti karaṃ sampādeti. Vaḍḍhetīti uparūpari sampādanena vaḍḍheti. Evaṃ appampi pahāya pabbajituṃ dukkaranti ayamattho laṭukikopamasuttena (ma. ni. 2.151, 152) dīpetabbo. Tenāha ‘‘seyyathāpi, udāyi, puriso daliddo assako anāḷhiyo, tassassa ekaṃ agārakaṃ oluggaviluggaṃ kākātidāyiṃ naparamarūpa’’nti vitthāro. Yadi appampi bhogaṃ pahāya pabbajituṃ dukkaraṃ, kasmā dāsavāre bhogaggahaṇaṃ na katanti āha **‘‘dāsavāre panā’’**tiādi. Yathā ca dāsassa bhogāpi abhogā parāyattabhāvato, evaṃ ñātayo pīti dāsavāre ñātiparivaṭṭaggahaṇampi na katanti daṭṭhabbaṃ.
186. 「耕す (Kasati)」とは、耕作を行うこと。「家主 (Gahapatiko)」における「カ (ka)」の音は、少ないという意味であるとして、彼は言った。『「一つの家に限られた最長老 (ekagehamatte jeṭṭhako)」』と。それによって多くの家族の最長老であることを否定する。「貢物をなす (Karaṃ karoti)」とは、貢物を収めること。「増やす (Vaḍḍheti)」とは、次々と成就させることによって増やすこと。このように、わずかなものさえ捨てて出家することは難しい、というこの意味は、ラトゥキコパマ経(中部 2.151, 152)によって示されるべきである。それゆえ彼は言った、『「ウダ―イよ、たとえば貧しく、無一物で、財産のない人がいて、その彼にはかろうじてカラスが啼き、崩れかけた家が一つある」というように詳細に述べられている。』もしわずかな財産を捨てて出家することが難しいのであれば、なぜ奴隷の立場であった時に財産を受け取らなかったのか、と彼は言った。『「しかし奴隷の立場では (dāsavāre panā)」』などと。奴隷にとって財産もまた、他者に依存しているため無財であるように、親族もまた奴隷の立場では親族の存在を受け取ることはなかったと理解すべきである。
189. Evarūpāhīti yathāvuttadāsakassakūpamāsadisāhi upamāhi sāmaññaphalaṃ dīpetuṃ pahoti bhagavā sakalampi rattindivaṃ tato bhiyyopi anantapaṭibhānatāya vicittanayadesanabhāvato. Tathāpīti satipi desanāya uttaruttarādhikanānānayavicittabhāve.
189. 「このような (Evarūpāhi)」とは、前述の奴隷や農夫の譬えのような譬えによって沙門の利益を示すことができるのは、世尊が昼夜を通して、それ以上に無限の臨機応変な教えの多様な様式を持つからである。「それにもかかわらず (Tathāpi)」とは、教えに、ますます優れた多様な様式が存在するにもかかわらず。
Ekatthametaṃ padaṃ sādhusaddasseva ka-kārena vaḍḍhitvā vuttattā, teneva sādhuka-saddassa atthaṃ vadantena atthuddhāravasena sādhu-saddo udāhaṭo. Āyācaneti abhimukhayācane, abhipatthanāyanti attho. Sampaṭicchaneti paṭiggaṇhane. Sampahaṃsaneti saṃvijjamānaguṇavasena haṃsane tosane, udaggatākaraṇeti attho. Dhammarucīti puññakāmo. Paññāṇavāti paññavā. Addubbhoti adūsako, anupaghātakoti attho. Idhāpīti imasmiṃ sāmaññaphalepi. Ayaṃ sādhu-saddo. Daḷhīkammeti sakkacca kiriyāyaṃ. Āṇattiyanti āṇāpane. ‘‘Suṇohi sādhukaṃ manasi karohī’’ti hi vutte sādhuka-saddena savanamanasikārānaṃ sakkaccakiriyā viya tadāṇāpanampi jotitaṃ hoti, āyācanatthatā viya cassa āṇāpanatthatā veditabbā. Sundarepīti sundaratthepi. Idāni yathāvuttena sādhuka-saddassa atthattayena pakāsitaṃ visesaṃ dassetuṃ **‘‘daḷhīkammatthena hī’’**tiādi vuttaṃ.
734. この語は「サードゥ (sādhu)」という語に「カ (ka)」という音が加えられて述べられているので、一つの意味である。それゆえ「サードゥカ (sādhuka)」という語の意味を述べる際に、意味を取り出して「サードゥ (sādhu)」という語が引用されている。「嘆願 (Āyācaneti)」とは、直接の懇願、つまり懇願すること。「受諾 (Sampaṭicchane)」とは、受け入れること。「歓喜 (Sampahaṃsane)」とは、現存する功徳によって喜ばせ、満足させること、つまり歓喜させること。「法を好む者 (Dhammarucī)」とは、功徳を求める者。「智慧ある者 (Paññāṇavā)」とは、智慧ある者。「悪意なき者 (Addubbho)」とは、害をなさない者、つまり妨げない者。「ここにおいても (Idhāpi)」とは、この沙門の利益においても。この「サードゥ (sādhu)」という語。「強化 (Daḷhīkamme)」とは、真剣な行為。「命令 (Āṇattiyaṃ)」とは、命令すること。「『よく聞きなさい、心に留めなさい (Suṇohi sādhukaṃ manasi karohi)』と言われた際に、「サードゥカ (sādhuka)」という語によって、聞くことと心に留めることの真剣な行為が示されるように、その命令もまた示される。その命令の意味は嘆願の意味と同様に知られるべきである。「美しいものにおいても (Sundarepi)」とは、美しい意味においても。今、前述の「サードゥカ (sādhuka)」という語の三つの意味によって明らかにされた特徴を示すために、『「強化という意味において (daḷhīkammatthena hi)」』などが述べられている。
Manasi karohīti ettha manasikāro na ārammaṇapaṭipādanalakkhaṇo, atha kho vīthipaṭipādanajavanapaṭipādanamanasikārapubbakaṃ citte ṭhapanalakkhaṇoti dassento **‘‘āvajjā’’**tiādimāha. Sotindriyavikkhepavāraṇaṃ savane niyojanavasena kiriyantarapaṭisedhanabhāvato, sotaṃ odahāti attho. Manindriyavikkhepavāraṇaṃ aññacintāpaṭisedhanato. Byañjanavipallāsaggāhavāraṇaṃ ‘‘sādhuka’’nti visesetvā vuttattā. Pacchimassa atthavipallāsaggāhavāraṇepi eseva nayo. Dhāraṇūpaparikkhādīsūti ādi-saddena tulanatīraṇādike, diṭṭhiyā suppaṭividhe ca saṅgaṇhāti. Sabyañjanoti ettha yathādhippetamatthaṃ byañjayatīti byañjanaṃ, sabhāvanirutti. Saha byañjanenāti sabyañjano, byañjanasampannoti attho. Sātthoti araṇīyato upagantabbato anudhātabbato attho, catupārisuddhisīlādiko. Tena saha atthenāti sāttho, atthasampannoti attho. Dhammagambhīrotiādīsu dhammo nāma tanti. Desanā nāma tassā manasā vavatthāpitāya tantiyā desanā. Attho nāma tantiyā attho. Paṭivedho nāma tantiyā, tantiatthassa ca yathābhūtāvabodho. Yasmā cete dhammadesanā atthappaṭivedhā sasādīhi viya mahāsamuddo mandabuddhīhi dukkhogāhā, alabbhaneyyapatiṭṭhā ca, tasmā gambhīrā. Tena vuttaṃ **‘‘yasmā ayaṃ dhammo…pe… sādhukaṃ manasi karohī’’**ti. Ettha ca paṭivedhassa dukkarabhāvato dhammatthānaṃ, desanāñāṇassa dukkarabhāvato desanāya dukkhogāhatā, paṭivedhassa pana uppādetuṃ asakkuṇeyyatāya, ñāṇuppattiyā ca dukkarabhāvato dukkhogāhatā veditabbā. Desanaṃ nāma uddisanaṃ, tassa niddisanaṃ bhāsananti idhādhippetanti āha **‘‘vitthārato bhāsissāmī’’**ti. Paribyattaṃ kathanañhi bhāsanaṃ, tenāha **‘‘desessāmīti…pe… vitthāradīpana’’**nti.
「心に留めなさい (Manasi karohi)」において、この注意は対象を引き出す特徴ではなく、むしろ心の経路を確立し、認識の速やかな展開を確立する注意に先行する、心に定着させる特徴であると示すために、彼は『「覚知して (āvajjā)」』などと言った。耳の感覚器官の散乱を防ぐことは、聞くことに従事させることによって他の行為を妨げる性質があるため、「耳を傾ける (sotaṃ odahati)」という意味。意の感覚器官の散乱を防ぐことは、他の思考を妨げることによる。「サードゥカ (sādhuka)」と特定して述べられているため、文字の誤解を防ぐ。最後の意味の誤解を防ぐ場合も同じ要領である。保持、考察などにおいて、接頭辞「アディ (ādi)」は比較、決定などを意味し、見解の適切な理解も含む。「言葉通りの (Sabyañjano)」において、意図された意味を表現するものが「表現 (byañjana)」であり、本質的な語彙である。言葉とともに (Saha byañjanena)」とは「言葉通りの (sabyañjano)」であり、言葉に富むという意味である。「意味ある (Sāttho)」とは、為されるべき、近づかれるべき、追求されるべき意味、すなわち四清浄戒などである。それによって意味とともに (Tena saha atthena)」とは「意味ある (sāttho)」であり、意味に富むという意味である。「法が深遠である (Dhammagambhīro)」などにおいて、法とは教典を意味する。教説とは、その心に確立された教典の教説である。意味とは教典の意味である。究極の理解とは、教典と教典の意味をありのままに覚知することである。これらの法、教説、意味、究極の理解は、ササなどの生き物にとって大海が困難であるように、鈍い知性の者にとっては理解しがたく、安住を見出せないものであるため、深遠である。それゆえ、『「この法が…中略…心に留めなさい (yasmā ayaṃ dhammo…pe… sādhukaṃ manasi karohi)」』と述べられている。ここで、究極の理解が困難であるため法と意味は、教説の智慧が困難であるため教説は理解しがたいものとして、そして究極の理解が生み出せないこと、智慧の発生が困難であるため究極の理解は理解しがたいものとして知られるべきである。教説とは、示すことであり、それを詳細に説明することが説法である、というのがここで意図されていることであるとして、彼は言った。『「詳細に話すだろう (vitthārato bhāsissāmi)」』と。詳細な語りこそが説法である。それゆえ彼は言った『「私は説くだろう…中略…詳細に説明する (desessāmīti…pe… vitthāradīpana)」』と。」
Yathāvuttamatthaṃ suttapadena samatthetuṃ **‘‘tenāhā’’**tiādi vuttaṃ. Sāḷikāyiva nigghosoti sāḷikāya ālāpo viya madhuro kaṇṇasukho pemanīyo. Paṭibhānanti saddo. Udīrayīti uccārīyati, vuccati vā.
736. 前述の意味を経の言葉で結びつけるために、『「それゆえに彼は言った (tenāhā)」』などが述べられている。「九官鳥のような声 (Sāḷikāyiva nigghoso)」とは、九官鳥の鳴き声のように甘美で耳に心地よく、愛らしい声。「言論 (Paṭibhānaṃ)」とは言葉のこと。「発した (Udīrayi)」とは、発音された、あるいは語られたという意味。
Evaṃ vutte ussāhajātoti evaṃ ‘‘suṇohi sādhukaṃ manasi karohi bhāsissāmī’’ti vutte ‘‘na kira bhagavā saṅkhepeneva desessati, vitthārenapi bhāsissatī’’ti sañjātussāho haṭṭhatuṭṭho hutvā.
737. 「このように言われたので意欲が生じた (Evaṃ vutte ussāhajāto)」とは、「よく聞きなさい、心に留めなさい、私は話すだろう (suṇohi sādhukaṃ manasi karohi bhāsissāmi)」とこのように言われたので、「世尊は簡潔に説くだけでなく、詳細にも話されるだろう」と意欲が生じ、歓喜満足したという意味。
190. **‘‘Idhā’’**ti iminā vuccamānaṃ adhikaraṇaṃ tathāgatassa uppattiṭṭhānabhūtaṃ adhippetanti āha **‘‘desāpadese nipāto’’**ti. **‘‘Svāya’’**nti sāmaññato idhasaddamattaṃ gaṇhāti, na yathāvisesitabbaṃ idha-saddaṃ. Tathā hi vakkhati ‘‘katthaci padapūraṇamattamevā’’ti (dī. ni. aṭṭha. 1.190). Lokaṃ upādāya vuccati loka-saddena samānādhikaraṇabhāvena vuttattā. Sesapadadvaye pana padantarasannidhānamattena taṃ taṃ upādāya vuttatā daṭṭhabbā. Idha tathāgato loketi hi jātikhettaṃ, tatthāpi ayaṃ cakkavāḷo ‘‘loko’’ti adhippeto. Samaṇoti sotāpanno. Dutiyo samaṇoti sakadāgāmī. Vuttañhetaṃ ‘‘katamo ca bhikkhave samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā sotāpanno hotī’’tiādi (a. ni. 4.241). ‘‘Katamo ca bhikkhave dutiyo samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā rāgadosamohānaṃ tanuttā’’tiādi (a. ni. 4.241). Okāsanti kañci padesaṃ. Idheva tiṭṭhamānassāti imissā eva indasālaguhāyaṃ tiṭṭhamānassa.
190. 『「ここで (Idhā)」』によって言われる場所は、如来の誕生の地を意味すると彼は言った。『「場所を示す助詞 (desāpadese nipāto)」』と。『「それは (Svāyaṃ)」』は、「ここで (idha)」という言葉自体を一般的に指し、特別に特定される「ここで (idha)」という言葉ではない。なぜなら、彼は『「ある場合には単なる言葉の補充にすぎない (katthaci padapūraṇamattamevā)」』(長部注釈 1.190)と述べるだろうから。「世間を指して言われる (Lokaṃ upādāya vuccati)」とは、「世間 (loka)」という語と並列の関係で述べられているため。他の二つの言葉においては、他の言葉の存在によってそれらを指して述べられていると理解すべきである。「ここで如来は世間である (Idha tathāgato loke)」とは、誕生の領域、その中でもこの世界(輪)が「世間 (loko)」と意図されている。沙門とは預流者。第二の沙門とは一来者。これは述べられている、『「比丘たちよ、いかなる沙門か。比丘たちよ、ここで比丘は三つの束縛を滅尽して預流者となる」』などと(増支部 4.241)。『「比丘たちよ、いかなる第二の沙門か。比丘たちよ、ここで比丘は三つの束縛を滅尽し、貪瞋癡が薄くなることによって」』などと(増支部 4.241)。「場所 (Okāsaṃ)」とは、ある地域のこと。「まさにここに留まっている者にとって (Idheva tiṭṭhamānassāti)」とは、まさにこのインダサーラ窟に留まっている者にとって。
Padapūraṇamattameva okāsāpadisanassāpi asambhavato atthantarassa abodhanato. Arahanti ādayo saddā vitthāritāti yojanā. Atthato vitthāraṇaṃ saddamukheneva hotīti saddaggahaṇaṃ. Yasmā. ‘‘Aparehipi aṭṭhahi kāraṇehi bhagavā tathāgato’’tiādinā udānaṭṭhakathādīsu, (udā. aṭṭha. 18; itivu. aṭṭha. 38) arahanti ādayo visuddhimaggaṭīkāyaṃ aparehi pakārehi vitthāritā, tasmātesu vuttānayenapi so (visuddhi. ṭī. 1.129, 130) attho veditabbo. Tathāgatassa sattanikāyantogadhatāya ‘‘idha pana sattaloko adhippeto’’ti vatvā tatthāyaṃ yasmiṃ sattanikāye yasmiñca okāse uppajjati, taṃ dassetuṃ **‘‘sattaloke uppajjamānopi cā’’**tiādi vuttaṃ. **‘‘Tathāgato na devaloke uppajjatī’’**tiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ parato āgamissati. Sārappattāti kulabhogissariyādivasena sārabhūtā. Brāhmaṇagahapatikāti brahmāyupokkharasātiādibrāhmaṇā ceva anāthapiṇḍikādigahapatikā ca.
これは単なる文飾にすぎず、別の意味を理解させる余地もないため、その言葉の補完に過ぎない。「アラハン」などの言葉は詳述されている、という結合である。意味の詳述は言葉を通してのみ行われるので、言葉が取られている。なぜなら、「他の八つの理由によって、世尊は如来である」などと、『ウダーナ註釈』など(Uda. Attha. 18; Itivu. Attha. 38)において、「アラハン」などが『清浄道論註釈』において他の様式で詳述されているので、それらの述べられた様式によってもその意味(Visuddhi. T. 1.129, 130)を理解すべきである。如来が衆生界に含まれるゆえに、「ここでは衆生世間が意図されている」と述べ、彼がどの衆生界、どの場所に出現するかを示すために、「衆生世間に出現する場合でさえも」などと述べられている。「如来は天界に出現しない」などについて述べるべきことは、後ほど来るであろう。「真髄に達した者」とは、家柄、財産、権力などの点で本質的な者である。「バラモンと家主」とは、ブラフマーユ・ポッカラサーティなどのバラモン、およびアナータピンディカなどの家主を指す。
**‘‘Sujātāyā’’**tiādinā vuttesu catūsu vikappesu paṭhamo vikappo buddhabhāvāya āsannatarapaṭipattidassanavasena vutto. Āsannatarāya hi paṭipattiyā ṭhito ‘‘uppajjatīti’’ vuccati uppādassa ekantikattā, pageva paṭipattiyā matthake ṭhito. Dutiyo buddhabhāvāvahapabbajjato paṭṭhāya āsannapaṭipattidassanavasena, tatiyo buddhakaradhamma pāripūrito paṭṭhāya buddhabhāvāya paṭipattidassanavasena. Na hi mahāsattānaṃ uppatibhavūpapattito paṭṭhāya bodhisambhārasambharaṇaṃ nāma atthi. Catuttho buddhakaradhammasamārambhato paṭṭhāya. Bodhiyā niyatabhāvappattito pabhuti hi viññūhi ‘‘buddho uppajjatī’’ti vattuṃ sakkā uppādassa ekantikattā. Yathā pana sandanti nadiyoti sandanakiriyāya avicchedamupādāya vattamānappayogo, evaṃ uppādatthāya paṭipajjanakiriyāya avicchedamupādāya catūsu vikappesu ‘‘uppajjati nāmā’’ti vuttaṃ. Sabbapaṭhamaṃ uppannabhāvanti catūsu vikappesu sabbapaṭhamaṃ vuttaṃ tathāgatassa uppannatāsaṅkhātaṃ atthibhāvaṃ. Tenāha **‘‘uppanno hotīti ayañhettha attho’’**ti.
「スジャーターヤ」などと述べられている四つの選択肢のうち、最初の選択肢は仏性に至るためのより近い実践を示すものとして述べられている。なぜなら、より近い実践に立っている者は、「出現する」と言われる。その出現は必然的であり、実践の頂点に立っている者はなおさらであるからだ。二番目は仏性をもたらす出家以来の近い実践を示すものとして、三番目は仏となるべき法の完成以来の仏性に至る実践を示すものとしてである。なぜなら、菩薩が最初に出生した時以来、菩提資糧を積集することはないからである。四番目は仏となるべき法の開始以来である。菩提の必然性が達成されて以来、識者たちによって「仏が出現する」と言うことができる。なぜなら、その出現は必然的であるからである。川が流れるというように、絶え間なく流れ続けるという行為に基づいて現在形が用いられるのと同様に、出現のためへの継続的な実践行為に基づいて、四つの選択肢において「出現する」と述べられている。「最初に出現した状態」とは、四つの選択肢の中で最初に述べられた、如来の出現という存在状態のことである。ゆえに「出現した状態である、というのがここでの意味である」と述べられている。
So bhagavāti yo ‘‘tathāgato araha’’ntiādinā kittitaguṇo, so bhagavā. ‘‘Imaṃ loka’’nti nayidaṃ mahājanassa sammukhamattaṃ sandhāya vuttaṃ, atha kho anavasesaṃ pariyādāyāti dassetuṃ ‘‘sadevaka’’ntiādi vuttaṃ, tenāha **‘‘idāni vattabbaṃ nidassetī’’**ti. Pajātattāti yathāsakaṃ kammakilesehi nibbattattā. Pañcakāmāvacaradevaggahaṇaṃ pārisesañāyena itaresaṃ padantarehi saṅgahitattā. Sadevakanti ca avayavena viggaho samudāyo samāsattho. Chaṭṭhakāmāvacaradevaggahaṇaṃ paccāsattiñāyena. Tattha hi so jāto, taṃnivāsī ca. Brahmakāyikādibrahmaggahaṇanti etthāpi eseva nayo. Paccatthika …pe… samaṇabrāhmaṇaggahaṇanti nidassanamattametaṃ apaccatthikānaṃ, asamitābāhitapāpānañca samaṇabrāhmaṇānaṃ sassamaṇabrāhmaṇīvacanena gahitattā. Kāmaṃ ‘‘sadevaka’’ntiādi visesanānaṃ vasena sattavisayo lokasaddoti viññāyati tulyayogavisayattā tesaṃ, ‘‘salomako sapakkhako’’tiādīsu pana atulyayogepi ayaṃ samāso labbhatīti byabhicāradassanato pajāgahaṇanti āha **‘‘pajāvacanena sattalokaggahaṇa’’**nti.
「彼、世尊」とは、「如来、アラハン」などと賞賛された特質を持つ者、それが世尊である。「この世間」とは、これは単に大衆の面前を指して述べられたのではなく、残らず全てを含み尽くすことを示すために、「神々とともに」などと述べられている。ゆえに「今、述べるべきことを示す」とある。「衆生によって生み出された」とは、それぞれの業と煩悩によって生じたからである。五欲界の天を捉えるのは、残余の法理によって他の者が別の言葉で包含されているためである。「神々とともに」とは、部分によって分解し、集合して複合語の意味となる。六欲界の天を捉えるのは、近接の法理による。なぜなら、そこで彼は生まれ、そこに住む者であるからだ。梵天衆などの梵天を捉えるのは、ここでも同じ法理である。敵対者…等…沙門バラモンを捉えるのは、これは非敵対者であり、未だ罪悪を鎮めていない沙門バラモンが「沙門バラモンとともに」という言葉によって包含されていることを示す単なる例示である。もっとも、「神々とともに」などの形容詞によって、衆生界が「世間」という言葉の対象となることは、それらの均等な関連性によって理解される。しかし、「毛のある者、翼のある者」などの場合、均等でない関連性においてもこの複合語が得られるという逸脱が見られるため、「衆生」という言葉が取られている。ゆえに「衆生という言葉によって衆生世間が捉えられる」とある。
Arūpino sattā attano āneñjavihārena viharantā dibbantīti devāti imaṃ nibbacanaṃ labhantīti āha **‘‘sadevakaggahaṇena arūpāvacaraloko gahito’’**ti. Tenāha ‘‘ākāsānañcāyatanūpagānaṃ devānaṃ sahabyata’’nti (a. ni. 3.117). Samārakaggahaṇena chakāmāvacaradevaloko gahito tassa savisesaṃ mārassa vase vattanato. Rūpī brahmaloko gahito arūpībrahmalokassa visuṃ gahitattā. Catuparisavasenāti khattiyādicatuparisavasena, itarā pana catasso parisā samārakādiggahaṇena gahitā evāti. Avasesasabbasattaloko nāgagaruḷādibhedo.
「形なき衆生は、自らの不動の住居に住みながら輝くので、神と呼ばれる」という解釈を得る、と述べられている。ゆえに「『神々とともに』という言葉によって無色界世間が捉えられる」とある。ゆえに「空無辺処に至った神々の仲間入り」とある(A. Ni. 3.117)。「マーラとともに」という言葉によって六欲界の天界が捉えられる。なぜなら、その天界は特にマーラの支配下にあるからである。色界の梵天界が捉えられるのは、無色界の梵天界が別々に捉えられているためである。「四つの会衆の意味において」とは、クシャトリヤなどの四つの会衆の意味においてである。他の四つの会衆は、マーラとともに、などの言葉によって既に捉えられているのである。残りの全ての衆生世間は、ナーガやガルーダなどの区別がある。
Ettāvatā ca bhāgaso lokaṃ gahetvā yojanaṃ dassetvā idāni tena tena visesena abhāgaso lokaṃ gahetvā yojanaṃ dassetuṃ **‘‘api cetthā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ukkaṭṭhaparicchedatoti ukkaṃsagativijānanena. Pañcasu hi gatīsu devagatipariyāpannāva seṭṭhā, tatthāpi arūpino dūrasamussāritakilesadukkhatāya, santapaṇītaāneñjavihārasamaṅgitāya, atidīghāyukatāyāti evamādīhi visesehi ativiya ukkaṭṭhā. **‘‘Brahmā mahānubhāvo’’**tiādi dasasahassiyaṃ mahābrahmuno vasena vadati. ‘‘Ukkaṭṭhaparicchedato’’ti hi vuttaṃ. Anuttaranti seṭṭhaṃ nava lokuttaraṃ. Bhāvānukkamoti bhāvavasena paresaṃ ajjhāsayavasena ‘‘sadevaka’’ntiādīnaṃ padānaṃ anukkamo.
これによって、世間を部分的に捉えて結合を示した後、今度はその特質によって世間を部分的にではなく捉えて結合を示すために、「ここでもまた」などと述べられている。その中で「最高の究極」とは、至上の境涯を知ることによってである。なぜなら、五つの境涯の中で、天の境涯に含まれるものが最上であり、その中でも無色界の衆生は、煩悩の苦しみを遠く追いやっていること、静かで崇高な不動の住居を備えていること、非常に長寿であること、などの特質によって極めて優れているからである。「力ある大梵天」などという十千世界は、大梵天の立場から述べられている。「最高の究極」と述べられているからである。「無上」とは、最上の九つの出世間法である。「存在の順序」とは、存在に基づいて、他者の意図に基づいて、「神々とともに」などの言葉の順序のことである。
Tīhākārehīti devamārabrahmasahitatāsaṅkhātehi tīhi pakārehi. Tīsu padesūti ‘‘sadevaka’’ntiādīsu tīsu padesu. Tena tenākārenāti sadevakattādinā tena tena pakārena. Tedhātukameva pariyādinnanti porāṇā panāhūti yojanā.
「三つの様態によって」とは、神、マーラ、梵天とともにという三つの様式によってである。「三つの箇所において」とは、「神々とともに」などの三つの箇所においてである。「そのそれぞれの様態によって」とは、神々とともに、などのそのそれぞれの様式によってである。「三界が完全に含まれる」というのは、古老たちが述べたという結合である。
Abhiññāti ya-kāralopenāyaṃ niddeso, abhijānitvāti ayamettha atthoti āha **‘‘abhiññāya adhikena ñāṇena ñatvā’’**ti. Anumānādipaṭikkhepoti anumānaupamānaatthāpattiādipaṭikkhepo ekappamāṇattā. Sabbattha appaṭihatañāṇacāratāya hi sabbapaccakkhā buddhā bhagavanto.
「アビニャー(勝知)」とは、ヤ音の脱落による表現であり、「よく知って」がここでの意味である、と述べられている。ゆえに「勝知によって、より優れた智慧をもって知って」とある。「推論などの否定」とは、推論、比喩、情況証拠などの否定を意味する。なぜなら、それらが一つの証拠であるからだ。なぜなら、世尊である仏陀は、あらゆる場所において妨げられない智慧をもって行動するため、全てを直接知る者だからである。
Anuttaraṃ vivekasukhanti phalasamāpattisukhaṃ, tena ṭhitimissāpi [vīthimissāpi (sārattha. ṭī. 1.verañjakaṇḍavaṇṇanāyaṃ) dhitimissāpi (ka)] kadāci bhagavato dhammadesanā hotīti hitvāpīti pi-saddaggahaṇaṃ. Bhagavā hi dhammaṃ desento yasmiṃ khaṇe parisā sādhukāraṃ vā deti, yathāsutaṃ vā dhammaṃ paccavekkhati, taṃ khaṇaṃ pubbabhāgena paricchinditvā phalasamāpattiṃ samāpajjati, yathāparicchedañca samāpattito vuṭṭhāya ṭhitaṭṭhānato paṭṭhāya dhammaṃ deseti. Ugghaṭitaññussa vasena appaṃ vā vipañcitaññussa, neyyassa vā vasena bahuṃ vā desento. Dhammassa kalyāṇatā niyyānikatāya, niyyānikatā ca sabbaso anavajjabhāvenevāti āha **‘‘anavajjameva katvā’’**ti. Desakāyattena āṇādividhinā abhisajjanaṃ pabodhanaṃ desanāti sā pariyattidhammavasena veditabbāti āha **‘‘desanāya tāva catuppadikāyapi gāthāyā’’**tiādi. Nidānanigamanānipi satthuno desanāya anuvidhānato tadantogadhāni evāti āha **‘‘nidānamādi, idaṃ evocāti pariyosāna’’**nti.
「無上の離欲の楽」とは果定の楽である。それによって、たとえ静止を伴う場合であっても、世尊の説法が時にはある、ということを示す「放っておく」という語句の中の「も」という言葉が取られている。なぜなら、世尊は法を説くとき、会衆が称賛を捧げたり、聞いた法を省察するその瞬間を、前部で区切って果定に入り、その定められた区切りの後、果定から覚めて、止まった状態から法を説かれるからである。頓悟の者に対しては少し、分析的な知恵を持つ者や可訓の者に対しては多く説かれる。法の善良さとは出離をもたらすことによってであり、出離をもたらすこととは全く咎めがないことによってである。ゆえに「全く咎めなくして」とある。説く者の立場から、命令などの方法によって誘発し、覚醒させる説法とは、それは聖典の法として知られるべきである、と述べられている。ゆえに「説法においては、四句の詩でさえも」などとある。序説と結びもまた、師の説法に従うものであるため、その中に含まれるものである、と述べられている。ゆえに「序説が始まり、これが結論である」とある。
Sāsitabbapuggalagatena yathāparādhādisāsitabbabhāvena anusāsanaṃ tadaṅgavinayādivasena vinayanaṃ sāsananti taṃ paṭipattidhammavasena veditabbanti āha **‘‘sīlasamādhivipassanā’’**tiādi. Kusalānaṃ dhammānanti anavajjadhammānaṃ sīlassa, samathavipassanānañca sīladiṭṭhīnaṃ ādibhāvo taṃ mūlakattā uttarimanussadhammānaṃ. Ariyamaggassa antadvayavigamena majjhimapaṭipadābhāvo viya, sammāpaṭipattiyā ārabbhanipphattīnaṃ vemajjhattāpi majjhabhāvoti vuttaṃ. **‘‘Atthi bhikkhave…pe… majjhaṃ nāmā’’**ti. Phalaṃ pariyosānaṃ nāma saupādisesatāvasena, nibbānaṃ pariyosānaṃ nāma anupādisesatāvasena. Idāni tesaṃ dvinnampi sāsanassa pariyosānataṃ āgamena dassetuṃ **‘‘etadatthamida’’**ntiādi āha. Idha desanāya ādimajjhapariyosānaṃ adhippetaṃ ‘‘sabyañjana’’ntiādi vacanato. Tasmiṃ tasmiṃ atthe katāvadhisaddappabandho gāthāvasena, suttavasena ca vavatthito pariyattidhammo, yo idha ‘‘desanā’’ti vutto, tassa pana attho visesato sīlādi evāti āha **‘‘bhagavā hi dhammaṃ desento…pe… dassetī’’**ti. Tattha sīlaṃ dassetvāti sīlaggahaṇena sasambhāraṃ sīlaṃ gahitaṃ, tathā maggaggahaṇena sasambhāro maggoti tadubhayavasena anavasesato pariyatti atthaṃ pariyādiyati. Tenāti sīlādidassanena. Atthavasena hi idha desanāya ādikalyāṇādibhāvo adhippeto. Kathikasaṇṭhitīti kathikassa saṇṭhānaṃ kathanavasena samavaṭṭhānaṃ.
教えを受けるべき人々の状況に応じた、罪に応じた教えや、その要素としての戒律などによる統御が教えである。それは実践の法として知られるべきである、と述べられている。ゆえに「戒・定・慧」などとある。「善法」とは、罪なき法である戒、止と観の戒と見解が、それらが超人的な法の根源であるため、その始まりとなることである。聖道の二極端を離れて中道となることと同様に、正行の開始と完成の中間性においても中道であると述べられている。「比丘たちよ、…等…中道がある」と。ここでの「結果」という終わりは有余依涅槃の意味においてであり、「ニルヴァーナ」という終わりは無余依涅槃の意味においてである。今、これら二つの教えの終わりを聖典によって示すために、「これがその目的である」などと述べられている。ここでは説法の初め、中間、終わりが意図されている。「言葉を伴う」などという言葉の意味するところは、その文脈による。それぞれの意味において定められた言葉の連なりである詩句の形式、そして経典の形式で確立された聖典の法、それがここで「説法」と呼ばれているものであるが、その意味は特に戒などである、と述べられている。ゆえに「世尊は法を説き…等…示す」とある。その中で戒を示すこととは、戒を捉えることによって資糧を伴う戒が捉えられ、同様に道を捉えることによって資糧を伴う道が捉えられる。このようにして両者によって聖典の意味が残らず包含される。それは戒などを示すことによってである。なぜなら、意味の点から見れば、ここでの説法には初めが善良であることなどが意図されているからである。「説く者の安定」とは、説く者が説くことによって安定した状態にあることである。
Na so sātthaṃ deseti niyyānatthavirahato tassā desanāya. Ekabyañjanādiyuttā vāti sithilādibhedesu byañjanesu ekappakāremeva, dvipakāremeva vā byañjanena yuttā vā damiḷabhāsā viya. Vivaṭakaraṇatāya oṭṭhe aphusāpetvā uccāretabbato sabbaniroṭṭhabyañjanā vā kirātabhāsā viya. Sabbasseva [sabbattheva (sārattha. ṭī. 1.verañjakaṇḍavaṇṇanāyaṃ 1)] vissajjanīyayuttatāya sabbavissaṭṭhabyañjanā vā savarabhāsā [yavanabhāsā (sārattha. ṭī. 1.verañjakaṇḍavaṇṇanāyaṃ)] viya. Sabbasseva [sabbattheva (sārattha. ṭī. 1.verañjakaṇḍavaṇṇanāyaṃ)] sānusāratāya sabbaniggahitabyañjanā vā pārasikādimilakkhubhāsā viya. Sabbāpesā byañjanekadesavasena pavattiyā aparipuṇṇabyañjanāti katvā **‘‘abyañjanā’’**ti vuttā.
彼はその説法が出離という目的を欠いているため、実利のあるものを説かない。「一つの子音などを含む」とは、緩いなどの種類の子音の中で、一種類だけ、あるいは二種類のだけの子音を含む言語、例えばタミル語のように。あるいは、口を開いたままで唇を触れさせずに発音されるべきであるため、全てが無唇音の子音であるキラタ語のように。あるいは、全てが息音を伴うため、全て息音の子音であるサヴァラ語(あるいはヤヴァナ語)のように。あるいは、全て鼻音を伴うため、全て鼻音の子音であるペルシャ語などのミレッカ語のように。これら全ては子音の一部のみに基づいて機能するため、不完全な子音であるとして「子音を欠く」と述べられている。
Ṭhānakaraṇāni sithilāni katvā uccāretabbaṃ akkharaṃ pañcasu vaggesu paṭhamatatiyanti evamādi sithilaṃ. Tāni asithilāni katvā uccāretabbaṃ akkharaṃ vaggesu dutiyacatutthanti evamādi dhanitaṃ. Dvimattakālaṃ dīghaṃ. Ekamattakālaṃ rassaṃ tadeva lahukaṃ. Lahukameva saṃyogaparaṃ, dīghañca garukaṃ. Ṭhānakaraṇāni niggahetvā uccāretabbaṃ niggahitaṃ. Parena sambandhaṃ katvā uccāretabbaṃ sambandhaṃ. Tathā nasambandhaṃ vavatthitaṃ. Ṭhānakaraṇāni nissaṭṭhāni katvā uccāretabbaṃ vimuttaṃ. Dasadhāti evaṃ sithilādivasena byañjanabuddhiyā akkharuppādakacittassa sabbākārena pabhedo. Sabbāni hi akkharāni cittasamuṭṭhānāni yathādhippetatthaṃ byañjanato byañjanāni cāti.
発音器官を緩めて発音されるべき音は、五つの音群の第一音と第三音などであり、これは緩音である。それらを緩めずに発音されるべき音は、音群の第二音と第四音などであり、これは強音である。二拍の時間は長音である。一拍の時間は短音であり、それは軽音である。軽音も連結の後では、長音も重音となる。発音器官を抑えて発音されるべきは鼻音である。他と連結して発音されるべきは連結音である。同様に非連結音も確立されている。発音器官を解き放って発音されるべきは離音である。「十種類に」とは、このように緩音などの様式によって、子音に関する理解において、文字を生み出す心のあらゆる側面での分類のことである。なぜなら、全ての文字は心によって生じ、意図された意味を表現するため、それは子音であるからだ。
Amakkhetvāti amilecchetvā, avināsetvā, ahāpetvāti vā attho. Bhagavā yamatthaṃ ñāpetuṃ ekaṃ gāthaṃ, ekaṃ vākyaṃ vā deseti, tamatthaṃ tāya desanāya parimaṇḍalapadabyañjanāya eva desetīti āha **‘‘paripuṇṇabyañjanameva katvā dhammaṃ desetī’’**ti. Idha kevalasaddo anavasesavācako, na avomissakādivācakoti āha **‘‘sakalādhivacana’’**nti. Paripuṇṇanti sabbaso puṇṇaṃ, taṃ pana kenaci ūnaṃ, adhikaṃ vā na hotīti **‘‘anūnādhikavacana’’**nti vuttaṃ. Tattha yadatthaṃ desito, tassa sādhakattā anūnatā veditabbā, tabbidhurassa pana asādhakattā anadhikatā. Sakalanti sabbabhāgavantaṃ. Paripuṇṇanti sabbaso paripuṇṇameva, tenāha **‘‘ekadesanāpi aparipuṇṇā natthī’’**ti. Aparisuddhā desanā hoti taṇhāya saṃkiliṭṭhattā. Lokāmisaṃ cīvarādayo paccayā tattha agadhitacittatāya lokāmisanirapekkho. Hitapharaṇenāti hitūpasaṃhārena. Mettābhāvanāya karaṇabhūtāya muduhadayo. Ullumpanasabhāvasaṇṭhitenāti sakalasaṃkilesato, vaṭṭadukkhato ca uddharaṇākārāvaṭṭhitena cittena, kāruṇādhippāyenāti attho.
「汚すことなく」とは、不浄にせず、破壊せず、失わせないという意味である。世尊は、ある意味を伝えるために、一つの詩句や一つの文を説かれるが、その意味をその説法によって、完全な言葉と表現をもって説かれる、と述べられている。ゆえに「完全な言葉をもって法を説かれる」とある。ここで「のみ」という言葉は、残らず全てを意味するものであり、混じりけのないことなどを意味するものではない、と述べられている。ゆえに「全体を意味する」とある。「完全な」とは、全く満たされていることであり、それは何によっても不足したり、過剰であったりしない、と述べられている。ゆえに「不足も過剰もない言葉」とある。その中で、ある意味が説かれている場合、その意味を成就させるので不足がないと知るべきであり、その意味から外れるものを成就させないので過剰がないと知るべきである。「全体」とは、全ての部分を持つものである。「完全な」とは、全く完全に満たされていることである。ゆえに「一つの説法も不完全なものはない」とある。説法が不浄であるのは、渇愛によって汚染されているからである。「世間の誘惑に無頓着」とは、衣などの世間の誘惑となるものに対して、心が執着しないからである。「利益を広めることによって」とは、利益をもたらすことによってである。慈悲の修習を手段とする柔らかな心である。「救い上げる性質によって確立された」とは、全ての煩悩と輪廻の苦しみから救い上げる様態で確立された心、すなわち、慈悲の意図によって、という意味である。
‘‘Ito paṭṭhāya dassāmeva, evañca dassāmī’’ti samādātabbaṭṭhena vataṃ. Paṇḍitapaññattatāya seṭṭhaṭṭhena brahmaṃ brahmānaṃ vā cariyanti brahmacariyaṃ dānaṃ. Macchariyalobhādiniggaṇhanena suciṇṇassa. Iddhīti deviddhi. Jutīti pabhā, ānubhāvo vā. Balavīriyūpapattīti evaṃ mahatā balena ca vīriyena ca samannāgamo. Puññanti puññaphalaṃ. Veyyāvaccaṃ brahmacariyaṃ seṭṭhā cariyāti katvā. Esa nayo sesepi.
「これより施し続ける。このように施す」と受持すべき意味で誓い(vataṃ)である。賢者によって制定されたこと、優れた意味で、あるいは「梵行(brahmacariyaṃ)」とは施し、あるいは梵天の行いである。慳貪などの抑止によってよく行われたもの。「神通力(iddhī)」とは神の神通力である。「輝き(jutī)」とは光、あるいは威力である。「力と精進の備わり(balavīriyūpapattī)」とは、このように大いなる力と精進を備えることである。「福(puññaṃ)」とは福の果報である。奉仕(veyyāvaccaṃ)を梵行、最高の行いとして。残りのものについても同様である。
Tasmāti yasmā sikkhattayasaṅgahaṃ sakalaṃ sāsanaṃ idha ‘‘brahmacariya’’nti adhippetaṃ tasmā. ‘‘Brahmacariya’’nti iminā samānādhikaraṇāni sabbapadāni yojetvā atthaṃ dassento **‘‘so dhammaṃ deseti…pe… pakāsetīti evamettha attho daṭṭhabbo’’**ti āha.
それゆえ、三学を含む教え全体がここで「梵行」として意図されているからである。「梵行」という語と並列のすべての語を結びつけて意味を示すには、「彼は法を説く…等々…宣べ伝える」と、ここに意味を見るべきである、と述べている。
191. Vuttappakārasampadanti yathāvuttaṃ ādikalyāṇatādiguṇasampadaṃ, dūrasamussāritamānasseva sāsane sammāpaṭipatti sambhavati, na mānajātikassāti āha **‘‘nihatamānattā’’**ti. Ussannattāti bahulabhāvato. Bhogārogyādivatthukā madā suppaheyyā honti nimittassa anavatthānato, na tathā kulavijjāmadā, tasmā khattiyabrāhmaṇakulānaṃ pabbajitānampi jātivijjā nissāya mānajappanaṃ duppajahanti āha **‘‘yebhuyyena hi…pe… mānaṃ karontī’’**ti. Vijātitāyāti nihīnajātitāya. Patiṭṭhātuṃ na sakkontīti suvisuddhaṃ katvā sīlaṃ rakkhituṃ na sakkonti. Sīlavasena hi sāsane patiṭṭhā, patiṭṭhātunti vā saccapaṭivedhena lokuttarāya patiṭṭhāya patiṭṭhātuṃ. Sā hi nippariyāyato sāsane patiṭṭhā nāma, yebhuyyena ca upanissayasampannā sujātā eva honti, na dujjātā.
191. 述べられた種類の成就とは、前述の初めが善いなどの功徳の成就である。慢を遠く払い除けた者にのみ教えにおける正しい行いが可能であり、慢が生じる者には不可能であると、「慢を滅したから」と述べている。「多いこと」とは多量であることである。財産や健康などを原因とする慢は、その兆候が不安定であるため簡単に捨てられるが、家柄や学識による慢はそうではない。それゆえ、クシャトリヤやバラモンの家柄の出家者たちも、生まれや学識に依拠して慢を起こすことは捨てるのが難しいと、「おおよそ、かれらは…等々…慢を起こす」と述べている。「不浄な生まれゆえに」とは低い生まれゆえに。「確立できない」とは、清らかに戒律を守ることができない。戒律によってこそ教えに確立されるのであり、あるいは真理を悟ることによって出世間の確立に確立する。それは究極的に教えにおける確立であり、おおよそ、依拠を成就した者は良家の出であり、悪家の出ではない。
Parisuddhanti rāgādīnaṃ accantameva pahānadīpanato nirupakkilesatāya sabbaso parisuddhaṃ. Saddhaṃ paṭilabhatīti pothujjanikasaddhāvasena saddahati. Viññūjātikānañhi dhammasampattiggahaṇapubbikā saddhā siddhi dhammappamāṇadhammappasannabhāvato. ‘‘Sammāsambuddho vata so bhagavā, yo evaṃ svākkhātadhammo’’ti saddhaṃ paṭilabhati. Jāyampatikāti gharaṇīpatikā. Kāmaṃ ‘‘jāyampatikā’’ti vutte gharasāmikagharasāminīvasena dvinnaṃyeva gahaṇaṃ viññāyati. Yassa pana purisassa anekā pajāpatiyo, tattha kiṃ vattabbaṃ, ekāyāpi saṃvāso sambādhoti dassanatthaṃ **‘‘dve’’**ti vuttaṃ. Rāgādinā sakiñcanaṭṭhena, khettavatthu ādinā sapalibodhaṭṭhena rāgarajādīnaṃ āgamanapathatāpi uṭṭhānaṭṭhānatā evāti dvepi vaṇṇanā ekatthā, byañjanameva nānaṃ. Alagganaṭṭhenāti assajjanaṭṭhena appaṭibaddhabhāvena. Evaṃ akusalakusalappavattīnaṃ ṭhānabhāvena gharāvāsapabbajjānaṃ sambādhabbhokāsataṃ dassetvā idāni kusalappavattiyā eva aṭṭhānaṭṭhānabhāvena tesaṃ taṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ.
「清浄である」とは、貪欲などを完全に捨てることを示すことから、煩悩がないため完全に清浄である。「信仰を得る」とは、凡夫の信仰という意味で信じる。知者たちにとっての信仰の成就とは、法に満足し、法を尺度とすることから、法を獲得することを先とするものである。「まさに彼こそ正等覚者たる世尊であり、その法は善く説かれている」と信仰を得る。「妻と夫」とは主婦と主人である。たとえ「妻と夫」と言っても、家主と女主人の意味で二人のみを指すと理解される。しかし、もしある男に多くの妻がいる場合、何を言うべきか。一人の妻との同居でさえ障りとなることを示すために「二つの」と言われたのである。貪欲などによって執着のある状態であること、田畑や家屋などによって障りのある状態であることは、貪欲や煩悩などが生じる道、すなわち生起の場所である。したがって、これら二つの説明は同じ意味であり、表現が異なるだけである。「とらわれない意味で」とは、執着しない意味で、束縛されない状態である。このように、不善と善の行為が生じる場所として、在家生活と出家生活が障害や開放的な場所であることを示した上で、今や善の行為が生じない場所としてそれらを示すために、「また」などが述べられている。
Saṅkhepakathāti visuṃ visuṃ paduddhāraṃ akatvā samāsato atthavaṇṇanā. Ekampi divasanti ekadivasamattampi. Akhaṇḍaṃ katvāti dukkaṭamattassapi anāpajjanena akhaṇḍitaṃ katvā. Kilesamalena amalīnanti taṇhāsaṃkilesādinā asaṃkiliṭṭhaṃ katvā. Pariyodātaṭṭhena nimmalabhāvena saṅkhaṃ viya likhitaṃ dhotanti saṅkhalikhitanti āha **‘‘dhotasaṅkhasappaṭibhāga’’**nti. ‘‘Ajjhāvasatā’’ti padappayogena ‘‘agāra’’nti bhummatthe upayogavacananti āha **‘‘agāramajjhe’’**ti. Kasāyena rattāni vatthāni kāsāyānīti āha **‘‘kasāyarasapītatāyā’’**ti. Paridahitvāti nivāsetvā ceva pārupitvā ca. Agāravāso agāraṃ uttarapadalopena, tassa vaḍḍhiāvahaṃ agārassa hitaṃ.
「略説」とは、一つ一つの語を別々に取り出すことなく、要約して意味を説明することである。「一日たりとも」とは、一日だけでもである。「断たずに」とは、わずかな悪作すら犯さずに、欠けることなく保つことである。「煩悩の汚れで汚されていない」とは、渇愛などの煩悩によって汚されていないことである。清浄である意味、清らかである状態において、螺貝のように描かれ、洗われたものを「螺貝に描かれたような」と言うと、「洗われた螺貝に等しい」と述べている。「アッジャーヴァサター」という語の用法によって、「アガーラ」は地格の意味で用いられている語であると、「家の中」と述べている。袈裟で染められた衣は袈裟衣であると、「袈裟汁で染められているから」と述べている。「まとって」とは、着用して、そして覆うことである。在家生活は、後続の語が省略された「家」であり、その増長をもたらす、家にとって有益なものである。
192. Bhogakkhandhoti bhogasamudāyo. Ābandhanaṭṭhenāti ‘‘putto nattā’’tiādinā pemavasena saparicchedaṃ bandhanaṭṭhena. ‘‘Amhākamete’’ti ñāyantīti ñātī. Pitāmahapituputtādivasena parivattanaṭṭhena parivaṭṭo.
192. 「財産の集積」とは財産の集合体である。「結びつける意味で」とは、「子、孫」などによって愛情のゆえに区分けして結びつける意味でである。「これらは我らのものである」と知られるゆえに「親族」である。祖父、父、子などによって転変する意味で「循環」である。
193. Pātimokkhasaṃvarasaṃvutoti pātimokkhasaṃvarena pihitakāyavacīdvāro, tathābhūto ca yasmā tena saṃvarena upeto nāma hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘pātimokkhasaṃvarena samannāgato’’**ti. **‘‘Ācāragocarasampanno’’**tiādi tasseva pātimokkhasaṃvarasamannāgamassa paccayadassanaṃ. Appamattakesūti asañcicca āpannaanukhuddakesu ceva sahasā uppannaakusalacittuppādesu ca. Bhayadassāvīti bhayadassanasīlo. Sammā ādiyitvāti sakkaccaṃ yāvajīvaṃ avītikkamavasena ādiyitvā. Taṃ taṃ sikkhāpadanti taṃ taṃ sikkhākoṭṭhāsaṃ. Etthāti etasmiṃ ‘‘pātimokkhasaṃvarasaṃvuto’’ti pāṭhe. Saṅkhepoti saṅkhepavaṇṇanā. Vitthāro visuddhimagge (visuddhi. 1.14) vutto, tasmā so tattha, taṃsaṃvaṇṇanāya (visuddhi. ṭī. 1.14) ca vuttanayena veditabbo.
193. 「波羅提木叉の制戒によって制されている」とは、波羅提木叉の制戒によって身と口の門が閉じられていることであり、また、そのような状態は、その制戒を備えている者であるから、「波羅提木叉の制戒を具備している」と述べられている。「行儀と行処を具備している」などは、その波羅提木叉の制戒の具備の条件を示している。「わずかなことにも」とは、不注意によって犯した微細な悪作、および急に生じた不善なる心の生起においてである。「怖れを見る者」とは怖れを見る性癖の者である。「正しく受持して」とは、心を込めて生涯にわたり違反することなく受持してである。「それぞれの学処」とは、それぞれの学の部分である。「ここにおいて」とは、「波羅提木叉の制戒によって制されている」というこの文においてである。「略説」とは略式の説明である。詳細については清浄道論(Visuddhi. 1.14)に述べられているので、そこにおいて、そしてその注釈(Visuddhi. ṭī. 1.14)に述べられている方法によって理解されるべきである。
Ācāragocaraggahaṇenevāti ‘‘ācāragocarasampanno’’ti vacaneneva. Tenāha **‘‘kusale kāyakammavacīkamme gahitepī’’**ti. Adhikavacanaṃ aññamatthaṃ bodhetīti katvā tassa ājīvapārisuddhisīlassa uppattidvāradassanatthaṃ…pe… kusalenāti vuttaṃ, sabbaso anesanappahānena anavajjenāti attho. Yasmā ‘‘katame ca thapati kusalā sīlā kusalaṃ kāyakammaṃ kusalaṃ vacīkamma’’nti (ma. ni. 2.265) sīlassa kusalakāyavacībhāvaṃ dassetvā ‘‘ājīvaparisuddhampi kho ahaṃ thapati sīlasmiṃ vadāmī’’ti (ma. ni. 2.265) evaṃ pavattāya muṇḍikasuttadesanāya ‘‘kāyakammavacīkammena samannāgato kusalena, parisuddhājīvo’’ti ayaṃ desanā ekasaṅgahā aññadatthu saṃsandati sametīti dassento āha **‘‘muṇḍikasuttavasena vā evaṃ vutta’’**nti. Sīlasmiṃ vadāmīti ‘‘sīla’’nti vadāmi, ‘‘sīlasmiṃ antogadhaṃ pariyāpanna’’nti vadāmīti vā attho. Pariyādānatthanti pariggahatthaṃ.
「行儀と行処を含むことによって」とは、「行儀と行処を具備している」という言葉によってである。それゆえ、「善なる身業と語業が含まれているにもかかわらず」と述べている。付加的な言葉は別の意味を教えると見なして、その生計清浄戒の生起の門を示すために…等々…「善なる」と述べられているのは、すべての不正な生計を捨てて、非難されるべきでないという意味である。なぜなら、「タパティよ、いかなる戒が善なる戒か。いかなる身業が善なる身業か。いかなる語業が善なる語業か」(中部経典 2.265)と、戒が善なる身業と語業であること示し、「タパティよ、生計の清浄さもまた、私は戒の中に含むと説く」(中部経典 2.265)と述べられたムンディカ経の説示のように、「善なる身業と語業を具備し、生計が清浄である」というこの説示が、一つにまとめられ、他の教えと合致し、符合することを示すために、「あるいは、ムンディカ経の教えに従ってこのように述べられた」と述べている。「戒の中に含むと説く」とは、「戒」と説く、あるいは「戒の中に含まれ、包含される」と説くという意味である。「完全に包含する意味で」とは、摂取する意味である。
Tividhena sīlenāti cūḷasīlaṃ majjhimasīlaṃ mahāsīlanti evaṃ tividhena sīlena. Manacchaṭṭhesu indriyesu, na kāyapañcamesu. Yathālābhayathābalayathāsāruppappakāravasena tividhena santosena.
「三種の戒によって」とは、小戒、中戒、大戒という三種の戒によってである。六番目の意を含む諸根においてであり、身根を五番目とする諸根においてではない。得たものに応じて、力に応じて、適応に応じてという三種の満足によってである。
194-211. ‘‘Sīlasmi’’nti idaṃ niddhāraṇe bhummanti āha **‘‘ekaṃ sīlaṃ hotīti attho’’**ti. Ayameva atthoti paccattavacanattho eva. Brahmajāleti brahmajālavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 1.7).
194-211. 「戒において」というこの語は、限定の地格であると、「一つの戒があるという意味である」と述べている。これこそが意味であり、各々の語の意味そのものである。「梵網」とは梵網経の解説(長部経典注釈 1.7)においてである。
212. Attānuvādaparānuvādadaṇḍabhayādīni asaṃvaramūlakāni. Sīlassāsaṃvaratoti sīlassa asaṃvaraṇato, sīlasaṃvarābhāvatoti attho. Bhaveyyāti uppajjeyya. Yathāvidhānavihitenāti yathāvidhānasampāditena. Avippaṭisārādinimittaṃ uppannacetasikasukhasamuṭṭhānehi paṇītarūpehi phuṭṭhasarīrassa uḷāraṃ kāyikaṃ sukhaṃ bhavatīti āha **‘‘avippaṭisāra…pe… paṭisaṃvedetī’’**ti.
212. 自己非難、他者非難、刑罰の怖れなどは制戒の欠如を根源とする。「戒の不制戒ゆえに」とは、戒の制戒がなされないこと、戒の制戒がないことという意味である。「生じうる」とは、生じるであろうである。「定められた方法でなされた」とは、定められた方法で成就されたものである。後悔しないことなどを原因として生じた心所的な楽を根源とする崇高な形によって身体に触れられる大いなる身の楽が生じる、と「後悔しないこと…等々…感得する」と述べている。
213. Viseso kammatthāpekkhatāya sāmaññassa na tehi paricattoti āha **‘‘cakkhu-saddo katthaci buddhacakkhumhi vattatī’’**ti. Vijjamānameva hi abhidheyye visesatthaṃ visesantaranivattanavasena visesasaddo vibhāveti, na avijjamānaṃ. Sesapadesupi eseva nayo. Aññehi asādhāraṇaṃ buddhānaṃyeva cakkhudassananti buddhacakkhu, āsayānusayañāṇaṃ, indriyaparopariyattañāṇañca. Samantato sabbaso dassanaṭṭhena samantacakkhu, sabbaññutaññāṇaṃ. Ariyamaggattayapaññāti heṭṭhime ariyamaggattaye paññā. Idhāti ‘‘cakkhunā rūpa’’nti imasmiṃ pāṭhe. Ayaṃ cakkhu-saddo pasāda…pe… vattati nissayavohāre nissitassa vattabbato yathā. ‘‘Mañcā ukkuṭṭhiṃ karontī’’ti. Asammissanti kilesadukkhena avomissaṃ. Tenāha **‘‘parisuddha’’**nti. Sati hi suvisuddhe indriyasaṃvare, padhānabhūtapāpadhammavigamena adhicittānuyogo hatthagato evaṃ hotīti āha **‘‘adhicittasukhaṃ paṭisaṃvedetī’’**ti.
213. 特殊性は、その修行対象に期待されているため、共通性がそれらによって見捨てられるわけではないと、「『眼』という語は、ある場合には仏眼に用いられる」と述べている。実際に存在するものにおいてこそ、特殊な語は、異なる特殊性を排除する意味で特殊な意味を表すのであり、存在しないものを表すのではない。残りの箇所についても同様である。他には共通しない、仏陀のみが持つ眼の視覚を「仏眼」といい、衆生の性向と煩悩の潜伏に関する智慧、そして諸根の優劣に関する智慧である。すべての方向から完全に視る意味で「遍眼」といい、一切智智である。「聖なる三道の智慧」とは、下位の三つの聖道における智慧である。「ここにおいて」とは、「眼によって色を」というこの文脈においてである。この「眼」という語は、清らかな感官…等々…依存関係の言葉で、依存するものが語られるように用いられる。例えば「寝台が声をあげる」のように。「混じり気がない」とは、煩悩の苦しみと混じり合わないことである。それゆえ、「清浄である」と述べている。実に、非常に清浄な諸根の制戒があれば、主要な悪法が消滅することによって、増上心に対する修行が手中に収められることになる、と「増上心の楽を感得する」と述べている。
214. Samantato, pakaṭṭhaṃ vā savisesaṃ jānātīti sampajāno, sampajānassa bhāvo sampajaññaṃ, tathāpavattañāṇaṃ. Tassa vibhajanaṃ sampajaññabhājanīyaṃ, tasmiṃ sampajaññabhājanīyamhi. Abhikkamanaṃ abhikkantanti āha **‘‘abhikkantaṃ vuccati gamana’’**nti. Tathā paṭikkamanaṃ paṭikkantanti āha **‘‘paṭikkantaṃ nivattana’’**nti. Nivattananti ca nivattimattaṃ. Nivattitvā pana gamanaṃ gamanameva. Abhiharantoti gamanavasena kāyaṃ upanento. Ṭhānanisajjāsayanesu yo gamanavidhuro kāyassa purato abhihāro, so abhikkamo, pacchato apaharaṇaṃ paṭikkamoti dassento **‘‘ṭhānepī’’**tiādimāha. Āsanassāti pīṭhakādiāsanassa. Purimaaṅgābhimukhoti aṭanikādipurimāvayavābhimukho. Saṃsarantoti saṃsappanto. Paccāsaṃsarantoti paṭiāsappanto. **‘‘Eseva nayo’’**ti iminā nipannasseva abhimukhasaṃsappanapaṭiāsappanāni nidasseti.
214. 全てを、あるいは特に詳細に知るゆえに「正知ある者」であり、正知ある者の状態が「正知」であり、そのように生じる智慧である。その分類が正知の分類法であり、その正知の分類法においてである。「前進」とは「進む」ことであり、「アビッカマンタ」とは「行くこと」を指すと述べている。同様に「後退」とは「戻る」ことであり、「パティッカマンタ」とは「戻ること」を指すと述べている。「戻ること」とは、ただ戻ることである。しかし、戻った後に進むことは進むことである。「運びつつ」とは、行くことによって身体を差し出すことである。立ち、座り、横たわる姿勢において、行くことを伴う身体の前への動きが「前進」であり、後ろへの動きが「後退」であると示すために、「立ち姿勢においても」などと述べている。「座具の」とは、椅子などの座具の。「前の部分に向けて」とは、脚部などの前の部分に向けてである。「動き回る」とは、這い回る。「引き返す」とは、逆に這い回る。「同様である」という言葉によって、横たわった状態での前への這い回りと後ろへの這い回りが示されている。
Sammā pajānanaṃ sampajānaṃ, tena attanā kātabbakiccassa karaṇasīlo sampajānakārīti āha **‘‘sampajaññena sabbakiccakārī’’**ti. Sampajānasaddassa sampajaññapariyāyatā pubbe vuttā eva. Sampajaññaṃ karotevāti abhikkantādīsu asammohaṃ uppādeti eva. Sampajaññassa vā kāro etassa atthīti sampajānakārī. Dhammato vaḍḍhisaṅkhātena saha atthena vattatīti sātthakaṃ, abhikkantādi. Sātthakassa sampajānanaṃ sātthakasampajaññaṃ. Sappāyassa attano hitassa sampajānanaṃ sappāyasampajaññaṃ. Abhikkamādīsu bhikkhācāragocare, aññatthāpi ca pavattesu avijahite kammaṭṭhānasaṅkhāte gocare sampajaññaṃ gocarasampajaññaṃ. Abhikkamādīsu asammuyhanameva sampajaññaṃ asammohasampajaññaṃ. Pariggahetvāti tūletvā tīretvā paṭisaṅkhāyāti, attho. Saṅghadassaneneva uposathapavāraṇādiatthaṃ gamanaṃ saṅgahitaṃ. Asubhadassanādīti ādi-saddena kasiṇaparikammādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘cetiyaṃ vā bodhiṃ vā disvāpi hī’’**tiādi vuttaṃ. Arahattaṃ pāpuṇātīti ukkaṭṭhaniddeso eso. Samathavipassanuppādanampi hi bhikkhuno vaḍḍhiyeva. Kecīti abhayagirivāsino.
正しく知ることが正知であり、それによって自らなすべきことを行う性癖のある者が正知を行う者であると、「正知によってすべての行いを行う者」と述べている。「正知ある者」という語の「正知」と同義であることは、すでに以前に述べられている。「正知を行う」とは、前進などにおいて惑乱を生じさせることである。あるいは、正知の行いがこれにあるゆえに「正知を行う者」である。法にかなった増進という利益を伴うゆえに「有益な」という言葉が用いられ、前進などもそうである。有益なものについての正知が「有益正知」である。適応するもの、すなわち自分にとって有益なものについての正知が「適応正知」である。前進など、乞食行の行処において、また他の場所で行われる捨てられない修行対象という行処における正知が「行処正知」である。前進などにおいて惑乱しないこと自体が正知であり、「不惑正知」である。「把握して」とは、熟慮して、決定して、考察してという意味である。僧侶を見ること自体によって、布薩や自恣などの目的での行くことが包含される。不浄観などという「等」の語によって、カシナ遍処などの予備行が包含されると理解されるべきである。略して述べられた意味を詳しく説明するために、「塔や菩提樹を見ても」などが述べられている。「阿羅漢果に到達する」とは、これは最高の指示である。止観の発生もまた、実に比丘の増進である。「一部の者」とは、アバヤギリ派の人々である。
Tasmiṃ panāti sātthakasampajaññavasena pariggahitaatthe. ‘‘Atthoti dhammato vaḍḍhī’’ti yaṃ sātthakanti adhippetaṃ, taṃ sappāyaṃ evāti siyā kassaci āsaṅkāti tannivattanatthaṃ **‘‘cetiyadassanaṃ tāvā’’**tiādi āraddhaṃ. Cittakammarūpakāni viyāti cittakammakatā paṭimāyo viya, yantapayogena vā vicittakammā paṭimāyo viya. Asamapekkhanaṃ gehassita aññāṇupekkhāvasena ārammaṇassa ayoniso gahaṇaṃ. Yaṃ sandhāya vuttaṃ. ‘‘Cakkhunā rūpaṃ disvā uppajjati upekkhā bālassa mūḷhassa puthujjanassā’’tiādi (ma. ni. 3.308). Hatthiādisammaddena jīvitantarāyo. Visabhāgarūpadassanādinā brahmacariyantarāyo.
「その点については」とは、有益正知によって把握された意味においてである。「利益とは法による増進である」という有益なものとして意図されたものが、それ自体が適応するものであると誰かが疑うかもしれないので、その疑いを払拭するために、「まず塔の観照は」などが始められている。「絵画のような像」とは、彩色された仏像のように、あるいは機械仕掛けで複雑な細工が施された像のようにである。「顧みないこと」とは、在家に執着した無知の平静さによって、対象を不適切に捉えることである。それを指して、「眼によって色を見て、愚かで無知な凡夫に平静さが生じる」など(中部経典 3.308)と述べられている。象などの音による生命の危険。相応しくない姿を見ることなどによる梵行の妨げ。
Pabbajitadivasato paṭṭhāya bhikkhūnaṃ anuvattanakathā āciṇṇā, ananuvattanakathā pana tassā dutiyā nāma hotīti āha **‘‘dve kathā nāma na kathitapubbā’’**ti. Evanti ‘‘sace panā’’tiādikaṃ sabbampi vuttākāraṃ paccāmasati, na ‘‘purisassa mātugāmāsubha’’ntiādikaṃ vuccamānaṃ.
出家した日から比丘たちの順応の説話が慣行とされ、非順応の説話はそれにとって二番目のものとなる、と「二つの説話は以前に語られたことがない」と述べている。このように、「もしも、もし…」などと述べられたすべての様相を省察するが、「男にとっての女性の不浄さ」などと述べられるものは省察しない。
Yogakammassa pavattiṭṭhānatāya bhāvanāya ārammaṇaṃ ‘‘kammaṭṭhāna’’nti vuccatīti āha **‘‘kammaṭṭhānasaṅkhātaṃ gocara’’**nti. Uggahetvāti yathā uggahanimittaṃ uppajjati, evaṃ uggahakosallassa sampādanavasena uggahetvā.
「ヨーガの行の発生の場所であり、瞑想の対象であるゆえに『業処』と呼ばれる」と述べている**「業処と称される領域」**と。修得して、とは、把握の対象が生じるように、このように把握の巧みさを完成させる形で修得して。
Haratīti kammaṭṭhānaṃ pavatteti, yāva piṇḍapātapaṭikkamā anuyuñjatīti attho. Na paccāharatīti āhārūpayogato yāva divāṭhānupasaṅkamanā kammaṭṭhānaṃ na paṭineti. Sarīraparikammanti mukhadhovanādisarīrapaṭijagganaṃ. Dve tayo pallaṅketi dve tayo nisajjāvāre dve tīṇi uṇhāsanāni. Tenāha **‘‘usumaṃ gāhāpento’’**ti. Kammaṭṭhānasīsenevāti kammaṭṭhānamukheneva kammaṭṭhānaṃ avijahanto eva, tena ‘‘pattopi acetano’’tiādinā (dī. ni. aṭṭha. 1.214) vakkhamānaṃ kammaṭṭhānaṃ, yathāparihariyamānaṃ vā avijahitvāti dasseti. Tathevāti tikkhattumeva. Paribhogacetiyato sārīrikacetiyaṃ garutaranti katvā **‘‘cetiyaṃ vanditvā’’**ti pubbakālakiriyāya vasena vuttaṃ. Tathā hi aṭṭhakathāyaṃ ‘‘cetiyaṃ bādhayamānā bodhisākhā haritabbā’’ti vuttā. Buddhaguṇānussaraṇavaseneva bodhiyaṃ paṇipātakaraṇanti āha **‘‘buddhassa bhagavato sammukhā viya nipaccakāraṃ dassetvā’’**ti. Gāmasamīpeti gāmassa upacāraṭṭhāne. Janasaṅgahatthanti ‘‘mayi akathente etesaṃ ko kathessatī’’ti dhammānuggahena janasaṅgahatthaṃ. Tasmāti yasmā ‘‘dhammakathā nāma kathetabbā evā’’ti aṭṭhakathācariyā vadanti, yasmā ca dhammakathā kammaṭṭhānavinimuttā nāma natthi, tasmā. Kammaṭṭhānasīsenevāti attanā parihariyamānaṃ kammaṭṭhānaṃ avijahanto tadanuguṇaṃyeva dhammakathaṃ kathetvā. Anumodanaṃ vatvāti etthāpi ‘‘kammaṭṭhānasīsenevā’’ti ānetvā sambandhitabbaṃ.
励むとは、托鉢から引き上げるまで業処を実践し、常に用いることである。引き返さないとは、食事の利用から昼間の住居への移動まで、業処を中断しないことである。身体の手入れとは、洗顔などの身体の手入れを指す。二、三の坐禅とは、二、三の坐禅の回数、二、三の温かい座席を指す。それゆえに**「熱を与える」**と述べている。業処の頭としてのみとは、業処の面で、業処を捨てずに、それゆえ「鉢も無心である」など(ディーガニカーヤ註釈 1.214)で述べられる業処を、または、保持されているものを捨てないことであると示す。そのようにとは、三度だけである。利用の霊廟よりも遺骨の霊廟がより尊いとして**「霊廟を拝して」**と、過去の行為の形で述べられている。実際、注釈書では「霊廟を邪魔する菩提樹の枝は切り取るべきである」と述べられている。仏陀の徳を憶念する形で菩提樹に合掌することであると**「仏世尊の御前であるかのように敬意を示して」**と述べている。村の近くとは、村の境界の場所である。人々の集めのためとは、「私が語らなければ、彼らに誰が語るであろうか」と、法による利益のために人々を集めるためである。それゆえ、とは、「法話は語られるべきである」と注釈の師たちが述べ、また法話は業処と切り離されたものではないので、それゆえ。業処の頭としてのみとは、自分自身が保持している業処を捨てずに、それに沿った法話を語って。感謝を述べて、とは、ここでも「業処の頭としてのみ」と持ってきて結びつけるべきである。
Sampattaparicchedenevāti ‘‘paricito aparicito’’tiādi vibhāgaṃ akatvā sampattakoṭiyā eva, samāgamamattenevāti attho. Bhayeti paracakkādibhaye.
到着したものを区別するのみでとは、「知られたもの、知られていないもの」などの区別をせず、到達した極限のみで、単に集まっただけで、という意味である。恐怖とは、他国の軍隊などの恐怖である。
**‘‘Kammajatejo’’**ti gahaṇiṃ sandhāyāha. Kammaṭṭhānaṃ vīthiṃ nārohati khudāparissamena kilantakāyattā samādhānābhāvato. Avasesaṭṭhāneti yāguyā aggahitaṭṭhāne. Poṅkhānupoṅkhanti kammaṭṭhānupaṭṭhānassa avicchedadassanametaṃ, yathā poṅkhānupoṅkhaṃ pavattāya sarapaṭipātiyā anavicchedo, evametassapīti.
**「業から生じる火」**とは、消化器(腸)を指して述べている。業処は道に進まない、というのは、飢えと疲労で体が疲弊しているため、集中ができないからである。残りの場所とは、粥が受け取られなかった場所である。次から次へととは、業処が途切れないことを示すものであり、矢が次から次へと連続して放たれるように途切れないのと同じく、これもまた同様である、という意味である。
Nikkhittadhuro bhāvanānuyoge. Vattapaṭipattiyā apūraṇena sabbavattāni bhinditvā. ‘‘Kāmesu avītarāgo hoti, kāye avītarāgo, rūpe avītarāgo, yāvadatthaṃ udarāvadehakaṃ bhuñjitvā seyyasukhaṃ passasukhaṃ middhasukhaṃ anuyutto viharati, aññataraṃ devanikāyaṃ paṇidhāya brahmacariyaṃ caratī’’ti (dī. ni. 3.320; ma. ni. 1.186) evaṃ vuttapañcavidhacetokhilavinibandhacitto. Caritvāti pavattitvā.
瞑想の修行において重荷を投げ捨てた者。義務の遂行を満たさず、すべての義務を破って。「欲に執着し、身体に執着し、色に執着し、腹いっぱい食べて、寝る安楽、横たわる安楽、眠る安楽に耽溺し、ある天界に願いをかけて梵行を修する」と、このように述べられた五種の心障によって束縛された心を持つ者。行じてとは、実践して。
Gatapaccāgatikavattavasenāti bhāvanāsahitaṃyeva bhikkhāya gatapaccāgataṃ gamanapaccāgamanaṃ etassa atthīti gatapaccāgatikaṃ, tadeva vattaṃ, tassa vasena. Attakāmāti attano hitasukhaṃ icchantā, dhammacchandavantoti attho. Dhammo hi hitaṃ tannimittakañca sukhanti. Atha vā viññūnaṃ nibbisesattā, attabhāvapariyāpannattā ca attā nāma dhammo, taṃ kāmenti icchantīti attakāmā.
行き帰りという務めによってとは、瞑想を伴いながら托鉢のために行ったり来たりする行為が、彼にはあるので「gatapaccāgatikaṃ」(行き来する者)であり、それが務めである、その務めによって。自己を愛する者とは、自分自身の利益と幸福を願う者、すなわち法への欲求を持つ者である。法こそが利益であり、それを原因とする幸福であるから。あるいは、賢者にとって差がないことから、また自己の存在に含まれることから、自己とは法であり、それを欲する者、すなわち愛する者である。
Usabhaṃ nāma vīsati yaṭṭhiyo. Tāya saññāyāti tāya pāsāṇasaññāya, ettakaṃ ṭhānaṃ āgatāti jānantāti adhippāyo. Soyeva nayoti ‘‘ayaṃ bhikkhū’’tiādiko yo ṭhāne vutto, so eva nisajjāyapi nayo. Pacchato āgacchantānaṃ chinnabhattabhāvabhayenapi yonisomanasikāraṃ paribrūheti. Maddantāti dhaññakaraṇaṭṭhāne sālisīsāni maddantā.
ウサバとは二十本の杖のことである。その認識によってとは、その石の認識によって、これだけの場所に来たのだと知る、というのが意図である。同じ方法とは、「この比丘」などと場所で述べられた方法と同じ方法が、座る際にも適用される。後から来る者たちが食事を中断されるかもしれないという恐れによっても、如理作意を増進させる。踏みつける者とは、穀物を製粉する場所で稲穂を踏みつける者たちである。
Mahāpadhānaṃ pūjessāmīti amhākaṃ atthāya lokanāthena chavassāni kataṃ dukkaracariyamevāhaṃ yathāsatti pūjessāmīti. Paṭipattipūjā hi satthupūjā, na āmisapūjāti. **‘‘Ṭhānacaṅkamamevā’’**ti adhiṭṭhātabbairiyāpathavasena vuttaṃ, na bhojanādikālesu avassaṃ kattabbanisajjāya paṭikkhepavasena.
大精進を供養しようとは、私たちのために世の導師が六年間行った難行苦行を、私も力に応じて供養しようという意味である。実践の供養こそが師への供養であり、財物の供養ではないからである。**「立行のみ」**とは、心に定めるべき威儀の形で述べられたのであり、食事などの時に必ず行うべき坐を否定する意味ではない。
Vīthiṃ otaritvā ito cito ca anoloketvā paṭhamameva vīthiyo sallakkhetabbāti āha **‘‘vīthiyo sallakkhetvā’’**ti. Yaṃ sandhāya vuccati ‘‘pāsādikena abhikkantenā’’ti, taṃ dassetuṃ ‘‘tattha cā’’tiādi vuttaṃ. **‘‘Āhāre paṭikkūlasaññaṃ upaṭṭhapetvā’’**tiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ parato āgamissati. Aṭṭhaṅgasamannāgatanti ‘‘yāvadeva imassa kāyassa ṭhitiyā’’tiādinā (ma. ni. 1.23; a. ni. 6.58; mahāni. 206) vuttehi aṭṭhahi aṅgehi samannāgataṃ katvā. **‘‘Neva davāyā’’**tiādi paṭikkhepadassanaṃ.
道に入って、あちこちを見回さず、まず道を見極めるべきであると**「道を見極めて」**と述べている。「見事な歩みによって」と述べられるものを指して、「そしてそこに」などが述べられているのは、それを示すためである。**「食事において不浄の想いを確立して」**などにおいて述べるべきことは、後で来るであろう。八支具足とは、「この身体の維持のためである」など(中部 1.23; 増支部 6.58; 大釈論 206)で述べられている八つの要素を具足させて。**「戯れのためでもなく」**などは否定を示すものである。
Paccekabodhiṃ sacchikaroti, yadi upanissayasampanno hotīti sambandho. Evaṃ sabbattha ito paresupi. Tattha paccekabodhiyā upanissayasampadā kappānaṃ dve asaṅkhyeyyāni, satasahassañca tajjāpuññañāṇasambharaṇaṃ. Sāvakabodhiyā aggasāvakānaṃ asaṅkhyeyyaṃ, kappasatasahassañca, mahāsāvakānaṃ (theragā. aṭṭha. 2.1288) satasahassameva tajjāpuññañāṇasambharaṇaṃ. Itaresaṃ atītāsu jātīsu vivaṭṭasannissayavasena nibbattitaṃ nibbedhabhāgiyaṃ kusalaṃ. Bāhiyo dārucīriyoti bāhiyavisaye sañjātasaṃvaḍḍhatāya bāhiyo, dārucīrapariharaṇena dārucīriyoti ca samaññāto. So hi āyasmā ‘‘tasmātiha te, bāhiya, evaṃ sikkhitabbaṃ ‘diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati, sute, mute, viññāte viññātamattaṃ bhavissatī’ti, evañhi te bāhiya sikkhitabbaṃ. Yato kho te bāhiya diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati, sute, mute, viññāte viññātamattaṃ bhavissati, tato tvaṃ, bāhiya, na tena. Yato tvaṃ, bāhiya, na tena, tato tvaṃ, bāhiya, na tattha. Yato tvaṃ, bāhiya, na tattha, tato tvaṃ, bāhiya, nevidha na huraṃ na ubhayamantarena. Esevanto dukkhassā’’ti (udā. 10) ettakāya desanāya arahattaṃ sacchākāsi. Evaṃ sāriputtattherādīnaṃ mahāpaññatādidīpanāni suttapadāni vitthārato veditabbāni.
独覚菩提を実証する、もし依止縁を具備しているならば、と関係づけられる。このように他のすべてにおいても同様である。その独覚菩提の依止縁の具備は、二阿僧祇劫と十万劫の期間にわたる、それ相応の福徳と智慧の積み重ねである。声聞菩提では、上首の弟子には一阿僧祇劫と十万劫、大弟子には(長老偈註釈 2.1288)十万劫の期間にわたる、それ相応の福徳と智慧の積み重ねである。他の者たちには、過去世において輪廻を抜け出る依止縁として生じた、厭離に資する善業である。バーヒヤ・ダーニチーリヤとは、バーヒヤ地方で生まれ育ったのでバーヒヤ、木の皮の衣をまとっていたのでダーニチーリヤとして知られていた。彼は尊者であり、「それゆえ、バーヒヤよ、汝はかくのごとく学ぶべきである。『見たものには見たもののみがあるであろう、聞いたものには聞いたもののみ、感じたものには感じたもののみ、識知したものには識知したもののみがあるであろう』と。バーヒヤよ、かくのごとく汝は学ぶべきである。バーヒヤよ、汝が、見たものには見たもののみがあるとき、聞いたものには聞いたもののみ、感じたものには感じたもののみ、識知したものには識知したもののみがあるとき、バーヒヤよ、汝はそれによって(識別)しない。バーヒヤよ、汝がそれによって識別しないとき、バーヒヤよ、汝はそこにはない。バーヒヤよ、汝がそこにはないとき、バーヒヤよ、汝はここにも向こうにも、その両者の間にもない。これこそが苦の終わりである」と(自説経 10)というこの説法によって阿羅漢果を実証した。このようにサーリプッタ長老などの大智慧などを明らかにする経典の句は、詳細に知られるべきである。
Tanti asammuyhanaṃ evanti idāni vuccamānamākāreneva veditabbaṃ. **‘‘Attā abhikkamatī’’**ti iminā andhaputhujjanassa diṭṭhigāhavasena abhikkame sammuyhanaṃ dasseti, **‘‘ahaṃ abhikkamāmī’’**ti pana iminā mānagāhavasena. Tadubhayaṃ pana taṇhāya vinā na hotīti taṇhagāhavasenapi sammuyhanaṃ dassitameva hoti. ‘‘Tathā asammuyhanto’’ti vatvā taṃ asammuyhanaṃ yena ghanavinibbhogena hoti, taṃ dassento **‘‘abhikkamāmī’’**tiādimāha. Tattha yasmā vāyodhātuyā anugatā tejodhātu uddharaṇassa paccayo. Uddharaṇagatikā hi tejodhātūti. Uddharaṇe vāyodhātuyā tassā anugatabhāvo, tasmā imāsaṃ dvinnamettha sāmatthiyato adhimattatā, itarāsañca omattatāti dassento ‘‘ekekapāduddharaṇe…pe… balavatiyoti āha. Yasmā pana tejodhātuyā anugatā vāyodhātu atiharaṇavītiharaṇānaṃ paccayo. Tiriyagatikāya hi vāyodhātuyā atiharaṇavītiharaṇesu sātisayo byāpāroti. Tejodhātuyā tassā anugatabhāvo, tasmā imāsaṃ dvinnamettha sāmatthiyato adhimattatā, itarāsañca omattatāti dassento **‘‘tathā atiharaṇavītiharaṇesū’’**ti āha. Satipi anugamakaanugantabbatāvisese tejodhātuvāyodhātubhāvamattaṃ sandhāya tathā-saddaggahaṇaṃ,. Tattha akkantaṭṭhānato pādassa ukkhipanaṃ uddharaṇaṃ. Ṭhitaṭṭhānaṃ atikkamitvā purato haraṇaṃ atiharaṇaṃ, khāṇuādipariharaṇatthaṃ, patiṭṭhitapādaghaṭṭanapariharaṇatthaṃ vā passena haraṇaṃ vītiharaṇaṃ. Yāva patiṭṭhitapādo, tāva āharaṇaṃ atiharaṇaṃ, tato paraṃ haraṇaṃ vītiharaṇanti ayaṃ vā etesaṃ viseso.
そのように迷わないこと、とは、今述べられるあり方によって知るべきである。**「自己が進む」**とは、盲目的な凡夫が持見にとらわれて進むことに迷うことを示し、**「私が進む」**とは、慢見にとらわれることによる迷いを示す。しかしその両者は渇愛なしには生じないため、渇愛見によっても迷いが示されることになる。「そのように迷わない者」と言って、その迷わないことがどの程度に密に分化されるかを示すために**「私は進む」**などを述べている。そこで、風の要素に付随する火の要素が持ち上げる原因となるからである。火の要素は持ち上げる動きを特徴とするからである。持ち上げる際には、風の要素にそれが付随する状態であるから、これら二つがここでは能力において優勢であり、他の要素は劣勢であると示すために「一足を持ち上げる際に…等々…優勢である」と述べている。しかし、火の要素に付随する風の要素が、前方に運ぶことと横に運ぶことの原因となるからである。風の要素は横方向の動きを特徴とし、前方に運ぶことと横に運ぶことにおいて特に活動的であるからである。火の要素にそれが付随する状態であるから、これら二つがここでは能力において優勢であり、他の要素は劣勢であると示すために**「同様に前方に運ぶことと横に運ぶことにおいて」**と述べている。付随することと付随されることの特殊性があるとしても、火の要素と風の要素という側面だけを指して「同様に」という言葉が用いられている。そこで、踏みつけられた場所から足を持ち上げることを「uddharaṇaṃ」(持ち上げ)。止まっている場所を越えて前方に運ぶことを「atiharaṇaṃ」(前方に運ぶ)。切り株などを避けるため、または固定された足の接触を避けるために横に運ぶことを「vītiharaṇaṃ」(横に運ぶ)。固定された足がある限り運ぶことを「atiharaṇaṃ」、それ以降運ぶことを「vītiharaṇaṃ」とするか、これがこれらの違いである。
Yasmā pathavīdhātuyā anugatā āpodhātu vossajjanassa paccayo. Garutarasabhāvā hi āpodhātūti. Vossajjane pathavīdhātuyā tassā anugatabhāvo, tasmā tāsaṃ dvinnamettha sāmatthiyato adhimattatā, itarāsañca omattatāti dassento āha **‘‘vossajjane…pe… balavatiyo’’**ti. Yasmā pana āpodhātuyā anugatā pathavīdhātu sannikkhepanassa paccayo, patiṭṭhābhāve viya patiṭṭhāpanepi tassā sātisayakiccattā āpodhātuyā tassā anugatabhāvo, tathā ghaṭṭanakiriyāya pathavīdhātuyā vasena sannirujjhanassa sijjhanato tatthāpi pathavīdhātuyā āpodhātuanugatabhāvo, tasmā vuttaṃ **‘‘tathā sannikkhepanasannirujjhanesū’’**ti.
地の要素に付随する水の要素が、足を置くことの原因となるからである。水の要素は重い性質を持つからである。足を置く際には、地の要素にそれが付随する状態であるから、これら二つがここでは能力において優勢であり、他の要素は劣勢であると示すために**「足を置く際には…等々…優勢である」**と述べている。しかし、水の要素に付随する地の要素が、足を下ろすことの原因となるからである。固定された状態のように、固定させることにおいてもその水の要素が特に活動的であるため、水の要素にそれが付随する状態であるから、また、衝突する行為によって地の要素の力で密接に結びつくことが成就するため、そこでも地の要素に水の要素が付随する状態であるから、**「同様に足を下ろすことと密接に結びつくことにおいて」**と述べられている。
Tatthāti tasmiṃ abhikkamane, tesu vā vuttesu uddaraṇādīsu koṭṭhāsesu. Uddharaṇeti uddharaṇakkhaṇe. Rūpārūpadhammāti uddharaṇākārena pavattā rūpadhammā, taṃsamuṭṭhāpakā arūpadhammā ca. Atiharaṇaṃ na pāpuṇanti khaṇamattāvaṭṭhānato. Tattha tatthevāti yattha yattha uppannā, tattha tattheva. Na hi dhammānaṃ desantarasaṅkamanaṃ atthi. **‘‘Pabbaṃ pabba’’**tiādi uddharaṇādikoṭṭhāse sandhāya sabhāgasantativasena vuttanti veditabbaṃ. Atiittaro hi rūpadhammānampi pavattikkhaṇo, gamanassādīnaṃ, devaputtānaṃ heṭṭhupariyena paṭimukhaṃ dhāvantānaṃ sirasi pāde ca bandhakhuradhārā samāgamatopi sīghataro. Yathā tilānaṃ bhajjiyamānānaṃ paṭapaṭāyanena bhedo lakkhīyati, evaṃ saṅkhatadhammānaṃ uppādenāti dassanatthaṃ **‘‘paṭapaṭāyantā’’**ti vuttaṃ. Uppannā hi ekantato bhijjantīti. **‘‘Saddhiṃ rūpenā’’**ti idaṃ tassa tassa cittassa nirodhena saddhiṃ nirujjhanakarūpadhammānaṃ vasena vuttaṃ, yaṃ tato sattarasamacittassa uppādakkhaṇe uppannaṃ. Aññathā yadi rūpārūpadhammā samānakkhaṇā siyuṃ, ‘‘rūpaṃ garupariṇāmaṃ dandhanirodha’’ntiādivacanehi virodho siyā, tathā ‘‘nāhaṃ bhikkhave aññaṃ ekadhammampi samanupassāmi, yaṃ evaṃ lahuparivattaṃ, yathayidaṃ citta’’nti (a. ni. 1.48) evaṃ ādipāḷiyā. Cittacetasikā hi sārammaṇasabhāvā yathābalaṃ attano ārammaṇapaccayabhūtamatthaṃ vibhāvento eva uppajjantīti tesaṃ taṃsabhāvanipphattianantaraṃ nirodho. Rūpadhammā pana anārammaṇā pakāsetabbā, evaṃ tesaṃ pakāsetabbabhāvanipphatti soḷasahi cittehi hotīti taṅkhaṇāyukatā tesaṃ icchitā, lahuviññāṇavisayasaṅgatimattappaccayatāya tiṇṇaṃ khandhānaṃ, visayasaṅgatimattatāya ca viññāṇassa lahuparivattitā, dandhamahābhūtappaccayatāya rūpadhammānaṃ dandhaparivattitā. Nānādhātuyā yathābhūtañāṇaṃ kho pana tathāgatasseva, tena ca purejātapaccayo rūpadhammova vutto, pacchājātapaccayo ca tathevāti rūpārūpadhammānaṃ samānakkhaṇatā na yujjateva. Tasmā vuttanayenevettha attho veditabbo.
そこにおいてとは、その進むことにおいて、あるいは述べられた持ち上げる行為などの各部分において。持ち上げる際にとは、持ち上げる瞬間に。色と無色の諸法とは、持ち上げる形として生じる色法と、それを生起させる無色法である。前方に運ぶことには達しない、瞬間的な持続性であるから。そこかしこにとは、生じた場所で、その場所で。諸法には他の場所への移行はないからである。**「節目節目」**などとは、持ち上げるなどの部分を指して、同じ種類の連続性として述べられたと知るべきである。色法の生起の瞬間は非常に短い。行くことなどの、天子たちが上下逆さまに逆さまに走る際に、頭と足に巻きついたカミソリの刃が出会うよりもさらに速い。ゴマが焙煎されるときにパチパチと音を立てて砕けるのが認識されるように、行われた諸法の生起によってであると示すために**「パチパチと音を立てる」**と述べられている。生じたものは確かに砕けるからである。**「色とともに」**とは、そのそれぞれの心の滅尽とともに滅尽する色法の形で述べられたものであり、それはその後の十七番目の心の生起の瞬間に生じたものである。もしそうでなければ、もし色法と無色法が同じ瞬間であるならば、「色は重い性質を持ち、ゆっくり滅尽する」などの言葉と矛盾するであろう。また、「比丘たちよ、私は、この心のように、このように速く変化する他のいかなる一法をも見出すことはできない」と(増支部 1.48)というような初期の教えとも矛盾するであろう。心と心所は対象を有する性質を持ち、それぞれの能力に応じて自己の対象を原因とする事柄を明らかにしながら生じるのであり、それらのその性質の完成の直後に滅尽する。しかし色法は対象を持たず、明らかにされるべきものである。このようにそれらの明らかにされるべき性質の完成は十六の心によって生じるので、それらの瞬間的な持続性が望まれる。速い識別と対象との関連のみを原因として三つの蘊は、対象との関連のみを原因として識は速く変化し、ゆっくりとした大元素を原因として色法はゆっくり変化する。しかし、様々な要素に関する如実智は如来のみが持つものであり、それによって先行する原因は色法であると述べられ、後続する原因も同様であるので、色法と無色法が同じ瞬間であるとは適合しない。それゆえ、述べられた方法によってここで意味を理解すべきである。
Aññaṃ uppajjate cittaṃ, aññaṃ cittaṃ nirujjhatīti yaṃ purimuppannaṃ cittaṃ, taṃ aññaṃ, taṃ pana nirujjhantaṃ aparassa anantarādipaccayabhāveneva nirujjhatīti tathāladdhapaccayaṃ aññaṃ uppajjate cittaṃ. Yadi evaṃ tesaṃ antaro labbheyyāti? Noti āha **‘‘avīci manuppabandho’’**ti, yathā vīci antaro na labbhati, ‘‘tadeveta’’nti avisesavidū maññanti, evaṃ anu anu pabandho cittasantāno rūpasantāno ca nadīsotova nadiyaṃ udakappavāho viya vattati.
「ある心が生じ、ある心は滅する」とは、先に生じた心は別の心であり、それは滅するが、次の無間縁などの条件によって滅し、そのように得られた条件によって別の心が生じるということである。もしそうであるなら、それらの間に途切れが生じるのではないか。そうではない、と説く。「無間断の心の連続」と。波に間断がないように、「これこそそのものだ」と区別を知らない人々は思うが、このように連続的に心相続と色相続は、あたかも河の流れが絶えず続くように続いているのである。
Abhimukhaṃ lokitaṃ ālokitanti āha **‘‘purato pekkhana’’**nti. Yasmā yaṃdisābhimukho gacchati, tiṭṭhati, nisīdati vā tadabhimukhaṃ pekkhanaṃ ālokitaṃ, tasmā tadanugatavidisālokanaṃ vilokitanti āha **‘‘vilokitaṃ nāma anudisāpekkhana’’**nti. Sammajjanaparibhaṇḍādikaraṇe olokitassa, ullokaharaṇādīsu ullokitassa, pacchato āgacchantaparissayassa parivajjanādīsu apalokitassa siyā sambhavoti āha **‘‘iminā vā mukhena sabbānipi tāni gahitānevā’’**ti.
正面を見たものがアーロキタである、と説く、「前を向くこと」と。なぜなら、行く、立つ、座るなどのいずれの方向に向かっても、その方向を向くことがアーロキタであるから、それによって副次的な方向を見ることがヴィーロキタである、と説く、「ヴィーロキタとは副次的な方向を見ること」と。掃き掃除や道具の準備の際に下を見ること(オローキタ)、上を見上げること(ウッローキタ)、後方から来る危険を避ける際などに後ろを見ること(アパローキタ)が生じ得る、と説く。「この言葉によって、それらすべて(見方)も包含されているのである」と。
Kāyasakkhinti kāyena sacchikatavantaṃ, paccakkhakārinanti attho. So hi āyasmā vipassanākāle ‘‘yamevāhaṃ indriyesu aguttadvārataṃ nissāya sāsane anabhiratiādivippakāraṃ patto, tameva suṭṭhu niggahessāmī’’ti ussāhajāto balavahirottappo, tattha ca katādhikārattā indriyasaṃvare ukkaṃsapāramippatto, teneva naṃ satthā ‘‘etadaggaṃ bhikkhave mama sāvakānaṃ bhikkhūnaṃ indriyesu guttadvārānaṃ, yadidaṃ nando’’ti (a. ni. 1.235) etadagge ṭhapesi.
「身証」とは、身をもって証した者、すなわち、直接体験した者という意味である。その尊者(難陀)は、ヴィパッサナー修行の際に「まさに私は、諸根(六根)の門が守られていないことに依って、教えに対する嫌悪などの障害を受けた。それゆえ、その諸根をよく制止しよう」と奮起し、強い恥と畏れを抱いた。そして、その(諸根制止)において、過去の努力を積んでいたため、諸根の制御において最高の完成に達した。それゆえ、師(ブッダ)は彼を「比丘たちよ、私の弟子である比丘たちの中で、諸根の門をよく守る者たちの中では、難陀が最上である」と最上位に置いたのである。
Sātthakatā ca sappāyatā ca veditabbā ālokitavilokitassāti ānetvā sambandho. Tasmāti kammaṭṭhānāvijahanasseva gocarasampajaññabhāvatoti vuttamevatthaṃ hetubhāvena paccāmasati. Attano kammaṭṭhānavaseneva ālokanavilokanaṃ kātabbaṃ, khandhādikammaṭṭhānā añño upāyo na gavesitabboti adhippāyo. Ālokitādisamaññāpi yasmā dhammamattasseva pavattiviseso, tasmā tassa yāthāvato pajānanaṃ asammohasampajaññanti dassetuṃ **‘‘abbhantare’’**tiādi vuttaṃ. Cittakiriyavāyodhātuvipphāravasenāti kiriyamayacittasamuṭṭhānāya vāyodhātuyā calanākārappavattivasena. Adho sīdatīti adho gacchati. Uddhaṃ laṅghetīti laṅghaṃ viya upari gacchati.
「見る行為と顧みる行為は、目的を持ち、適切であると知られるべきである」と引き寄せて関係づける。「ゆえに」とは、瞑想対象を離れないことが、対象に関する正知(ゴーチャラ・サンパジャンニャ)であるという、すでに述べられた意味を理由として再確認しているのである。自分の瞑想対象に従って、見る行為と顧みる行為を行うべきであり、五蘊などの瞑想対象以外の方法を求めるべきではない、という意味である。見る行為などの名称も、単に法の活動の特異性であるから、その真の認識が無痴の正知(アサンモーハ・サンパジャンニャ)であると示すために、「内側に」などと述べられた。「心作用と風大の展開による」とは、心作用を原因とする風大が動きの形で生じることによる。「下へ沈む」とは、下へ行くことである。「上へ跳ね上がる」とは、跳躍するように上へ行くことである。
Aṅgakiccaṃ sādhayamānanti padhānabhūtaaṅgakiccaṃ nipphādentaṃ hutvāti attho. **‘‘Paṭhamajavanepi…pe… na hotī’’**ti idaṃ pañcadvāravīthiyaṃ ‘‘itthī puriso’’ti rajjanādīnaṃ abhāvaṃ sandhāya vuttaṃ. Tattha hi āvajjana voṭṭhabbapanānaṃ ayoniso āvajjanavoṭṭhabbanavasena iṭṭhe itthirūpādimhi lobhamattaṃ, aniṭṭhe ca paṭighamattaṃ uppajjati, manodvāre pana ‘‘itthī puriso’’ti rajjanādi hoti. Tassa pañcadvārajavanaṃ mūlaṃ, yathāvuttaṃ vā sabbaṃ bhavaṅgādi. Evaṃ manodvārajavanassa mūlavasena mūlapariññā vuttā. Āgantukatāvakālikatā pana pañcadvārajavanasseva apubbabhāvavasena, ittarabhāvavasena ca vuttā. **‘‘Heṭṭhupariyavasena bhijjitvā patitesū’’**ti heṭṭhimassa uparimassa ca aparāparaṃ bhaṅgappattimāha.
「機能的な作用を達成しつつある」とは、主要な機能的な作用を達成している、という意味である。「最初の速行心においても…(中略)…ない」というのは、五門路における「女だ、男だ」という執着などが存在しないことを指して述べられた。そこでは、注意と識別が不適切に働くことによって、好ましい女性の姿などには単なる貪りが生じ、好ましくないものには単なる怒りが生じるが、意門では「女だ、男だ」という執着などが生じる。その(意門の執着などの)根本は五門の速行心であり、あるいは述べられたすべての有分心などである。このように、意門の速行心の根本に基づいて、根本の遍知が述べられた。しかし、客来的であることと刹那的であることは、五門の速行心について、前例のない生起であることと短命であることに基づいて述べられた。「上下の順序で崩壊して落ちる」とは、下位のものと上位のものが次々と崩壊に至ることを言う。
Tanti javanaṃ, tassa ayuttanti sambandho. Āgantuko abbhāgato.
「それ」とは速行心のことであり、「不適切である」という関係である。「客来的」とは、訪問者のこと。
Udayabbayaparicchinno tāvatako kālo etesanti tāvakālikāni.
「生滅によって区切られたその程度の時間を持つ」とは、刹那的なもの(一時的なもの)である。
Etaṃ asammohasampajaññaṃ. Samavāyeti sāmaggiyaṃ. Tatthāti pañcakkhandhavasena ālokanavilokane paññāyamāne tabbinimutto ko eko āloketi, ko viloketi.
これは無痴の正知である。「集まり」とは、総体のこと。「そこで」とは、五蘊として現れる見る行為と顧みる行為において、それらから離れて、誰が一人で見るのか、誰が顧みるのか、ということである。
**‘‘Upanissayapaccayo’’**ti idaṃ suttantanayena pariyāyato vuttaṃ. Sahajātapaccayoti nidassanamattametaṃ aññamaññasampayuttaatthiavigatādipaccayānampi labbhanato.
「強依止縁」とは、これは経典の方法によって間接的に述べられたものである。「倶生縁」とは、これは単なる例示であり、相互作用、相応、存在、不離などの縁も含まれるためである。
Kāle samañchituṃ yuttakāle samañchantassa. Tathā pasārentassāti etthāpi. Maṇisappo nāma ekā sappajātīti vadanti. Laḷananti kampanaṃ, līḷākaraṇaṃ vā.
「時宜を得て縮める」とは、適切な時に縮める者についてである。同様に「伸ばす者」においてもそうである。「宝蛇」とは、一種の蛇の種類であると人々は言う。「揺らす」とは、振動させること、あるいは優雅な仕草をすることである。
Uṇhapakatiko pariḷāhabahulakāyo. Sīlavidūsanena ahitāvahattā **micchājīvavasena uppannaṃ asappāyaṃ. ‘‘Cīvarampi acetana’’**ntiādinā cīvarassa viya kāyopi acetanoti kāyassa attasuññatāvibhāvanena ‘‘abbhantare’’tiādinā vuttamevatthaṃ paridīpento itarītarasantosassa kāraṇaṃ dasseti, tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi.
「熱の性質を持つ」とは、非常に暑がりな体である。戒を汚すことによって不利益をもたらすため、「邪命によって生じた不適切なもの」と。「衣もまた無意識である」などによって、衣のように身体もまた無意識であると、身体の非我性を明らかにし、「内側に」などで述べられた意味を補足説明しながら、互いの満足の理由を示し、それゆえ「それゆえ」などと説く。
Catupañcagaṇṭhikāhatoti āhatacatupañcagaṇṭhiko, catupañcagaṇṭhikāhi vā āhato tathā.
「四、五の結び目で打たれた」とは、四、五の結び目で打たれた者、あるいは四、五の結び目によって打たれた者も同様である。
Aṭṭhavidhopi atthoti aṭṭhavidhopi payojanaviseso mahāsivattheravādavasena ‘‘imassa kāyassa ṭhitiyā’’tiādinā (ma. ni. 1.23, 422; ma. ni. 2.387; a. ni. 2.341; 8.9; dha. sa. 1355; vibha. 518; mahāni. 206) nayena vutto daṭṭhabbo. Imasmiṃ pakkhe ‘‘neva davāyātiādinā (ma. ni. 1.23, 422; ma. ni. 2.387; a. ni. 8.9; dha. sa. 1355; vibha. 518; mahāni. 206) **nayenā’’**ti pana paṭikkhepaṅgadassanamukhena desanāya āgatattā vuttanti daṭṭhabbaṃ.
「八種類の目的」とは、八種類の特定の目的が、マハーシーヴァ長老の説に基づいて、「この身体の維持のために」などと(中部1.23, 422; 中部2.387; 増支部2.341; 8.9; ダンマサンガニ1355; 分別518; マハーニデーサ206)の方法で述べられていると理解すべきである。この見地から、「遊興のためではなく」などと(中部1.23, 422; 中部2.387; 増支部8.9; ダンマサンガニ1355; 分別518; マハーニデーサ206)「方法によって」と述べられているのは、否定的な側面を示す方法によって説法がなされているためであると理解すべきである。
Pathavisandhārakajalassa taṃsandhārakavāyunā viya paribhuttassa āhārassa vāyodhātuyāva āsaye avaṭṭhānanti āha **‘‘vāyodhātuvaseneva tiṭṭhatī’’**ti. Atiharatīti yāva mukhā abhiharati. Vītiharatīti tato kucchiyaṃ vīmissaṃ karonto harati. Atiharatīti vā mukhadvāraṃ atikkāmento harati. Vītiharatīti kucchigataṃ passato harati, parivattetīti aparāparaṃ cāreti. Ettha ca āhārassa dhāraṇaparivattanasañcuṇṇanavisosanāni pathavīdhātusahitā eva vāyodhātu karoti, na kevalāti tāni pathavīdhātuyāpi kiccabhāvena vuttāni. Allattañca anupāletīti yathā vāyodhātu ādīhi aññehi visosanaṃ na hoti, tathā allattañca anupāleti. Tejodhātūti gahaṇīsaṅkhātā tejodhātu. Sā hi antopaviṭṭhaṃ āhāraṃ paripāceti. Añjaso hotīti āhārassa pavesanādīnaṃ maggo hoti. Ābhujatīti pariyesanavasena, ajjhoharaṇajiṇṇājiṇṇatādipaṭisaṃvedanavasena ca āvajjeti, vijānātīti attho. Taṃtaṃvijānanassa paccayabhūtoyeva hi payogo ‘‘sammāpayogo’’ti vutto. Yena hi payogena pariyesanādi nipphajjati, so tabbisayavijānanampi nipphādeti nāma tadavinābhāvato. Atha vā sammāpayogaṃ sammāpaṭipatti manvāya āgamma ābhujati samannāharati. Ābhogapubbako hi sabbopi viññāṇabyāpāroti tathā vuttaṃ.
大地を支える水を支える風のように、摂取された食物が風大によって胃に留まる、と説く。「風大によってのみとどまる」と。「アティハラティ(行き過ぎて運ぶ)」とは、口まで運ぶ。「ヴィーティハラティ(横切って運ぶ)」とは、そこから胃の中で混ぜながら運ぶ。あるいは「アティハラティ」とは、口の通路を越えて運ぶ。「ヴィーティハラティ」とは、胃に入ったものを下へと運ぶ。「パリヴァッテティ(回転させる)」とは、絶えず動かす。ここでは、食物の保持、回転、粉砕、乾燥は、風大が地大と共に行っており、風大だけが行うのではなく、それらも地大の作用として述べられている。「湿り気も維持する」とは、風大が他の要素によって乾燥しないように、湿り気も維持する。「火大」とは、消化器系の火大のことである。それは体内に入った食物を消化する。「アニャソ・ホーティ(通路となる)」とは、食物が入るなどの通路となる。「アーブジャティ(知る)」とは、探求の意図、摂取されたものの消化・未消化などを意識することによって、注意を向け、認識する、という意味である。各々の認識の原因となる行為が「正当な行為」と言われるのである。なぜなら、探求などがその行為によって達成されるとき、それはその対象の認識も達成するからである。それはそれら(行為と認識)が不可分であるためである。あるいは、正当な行為と正しい実践に従って、それらを原因として、認識し、実行する。すべての識の活動は、意図に先行するものである、とこのように説かれたのである。
Gamanatoti bhikkhācāravasena gocaragāmaṃ uddissa gamanato. Pariyesanatoti gocaragāme bhikkhatthaṃ āhiṇḍanato. Paribhogatoti āhārassa paribhuñjanato. Āsayatoti pittādiāsayato. Āsayati ettha ekajjhaṃ pavattamānopi kammaphalavavatthito hutvā mariyādavasena aññamaññaṃ asaṅkarato sayati tiṭṭhati pavattatīti āsayo, āmāsayassa upari tiṭṭhanako pittādiko. Mariyādattho hi ayamākāro. Nidhānanti yathābhutto āhāro nicito hutvā tiṭṭhati etthāti nidhānaṃ, āmāsayo. Tato nidhānato. Aparipakkatoti gahaṇīsaṅkhātena kammajatejena avipakkato. Paripakkatoti yathābhuttassa āhārasa vipakkabhāvato. Phalatoti nipphattito. Nissandatoti ito cito ca nissandanato. Sammakkhanatoti sabbaso makkhanato. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimaggasaṃvaṇṇanāya (visuddhi. ṭī. 1.294) gahetabbo.
「行くことから」とは、托鉢の習わしに従って、托鉢の村を目指して行くことから。「探求することから」とは、托鉢の村で托鉢のために歩き回ることから。「受用することから」とは、食物を摂取することから。「貯蔵所から」とは、胆汁などの貯蔵所から。ここでは、一つに集まって機能しているものであっても、業果によって定められ、限度に従って互いに混じり合わず、横たわり、留まり、機能するから貯蔵所(アーサヤ)という。胃の上にある胆汁などである。このあり方は、まさに限度の意味である。「貯蔵所」とは、摂取された食物が蓄えられてここに留まるから貯蔵所、すなわち胃である。その貯蔵所から。「未消化であることから」とは、消化器系の火大である業生熱によって消化されていないことから。「消化されていることから」とは、摂取された食物が消化された状態であることから。「生じることから」とは、結果として生じることから。「流れ出ること」とは、あちこちから流れ出ること。「全体に塗られること」とは、全体に塗られること。ここでの概要は以上であるが、詳細については清浄道論注解(清浄道論註1.294)から取るべきである。
Sarīrato sedā muccantīti vegasaṃdhāraṇena uppannapariḷāhato sarīrato sedā muccanti. Aññe ca rogā kaṇṇasūlabhagandarādayo. Aṭṭhāneti manussāmanussapariggahite ayuttaṭṭhāne khettadevāyatanādike. Kuddhā hi amanussā, manussāpi vā jīvitakkhayaṃ pāpenti. Nissaṭṭhattā neva attano, kassaci anissajjitattā, jigucchanīyattā ca na parassa. Udakatumbatoti veḷunāḷiādiudakabhājanato. Tanti chaḍḍitaudakaṃ.
「体から汗が出る」とは、衝動を抑えることによって生じる熱によって、体から汗が出る。その他の病気としては、耳痛や瘻孔などがある。「不適切な場所で」とは、人間や非人間が支配する不適切な場所、例えば畑や神聖な場所などで。非人間は怒ると、人間でさえ命を失うことになる。「捨てられたから」とは、自分のものでもなく、誰にも放棄されていないため、また嫌悪すべきものであるため、他人にも属さない。「水筒から」とは、竹筒などの水入れから。「それ」とは、捨てられた水である。
Addhānairiyāpathā ciratarappavattikā dīghakālikā iriyāpathā. Majjhimā bhikkhācaraṇādivasena pavattā. Cuṇṇiyairiyāpathā vihāre, aññatthāpi ito cito ca parivattanādivasena pavattāti vadanti. ‘‘Gateti gamane’’ti pubbe abhikkamapaṭikkamaggahaṇena gamanenapi purato pacchato ca kāyassa abhiharaṇaṃ vuttanti idha gamanameva gahitanti keci.
「長時間の威儀」とは、非常に長く続く、長期的な威儀である。「中間的なもの」とは、托鉢の行などの際に生じる威儀である。「微細な威儀」とは、精舎において、あるいは他の場所で、あちこちへ転じることなどによって生じるものである、と人々は言う。「行きに」とは「歩行において」と。以前に進むことや退くことを捉えることで、歩行によっても身体を前後へ運ぶことが述べられているため、ここでは歩行そのものが捉えられていると一部の者は言う。
Yasmā mahāsivattheravāde anantare anantare iriyāpathe pavattarūpārūpadhammānaṃ tattha tattheva nirodhadassanavasena sampajānakāritā gahitāti taṃ sampajaññavipassanācāravasena veditabbaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘tayidaṃ mahāsivattherena vuttaṃ asammohadhuraṃ mahāsatipaṭṭhānasutte adhippeta’’**nti. Imasmiṃ pana sāmaññaphale sabbampi catubbidhaṃ sampajaññaṃ labbhati yāvadeva sāmaññaphalavisesadassanaparattā imissā desanāya. **‘‘Satisampayuttassevā’’**ti idaṃ yathā sampajaññassa kiccato padhānatā gahitā, evaṃ satiyā pīti dassanatthaṃ vuttaṃ, na satiyā sabbhāvamattadassanatthaṃ. Na hi kadāci satirahitā ñāṇappavatti atthi. **‘‘Etassa hi padassa ayaṃ vitthāro’’**ti iminā satiyā ñāṇena samadhurataṃyeva vibhāveti. Etāni padānīti ‘‘abhikkante paṭikkante sampajānakārī hotī’’tiādīni padāni. Vibhattānevāti visuṃ katvā vibhattāniyeva, imināpi sampajaññassa viya satiyāpettha padhānatameva vibhāveti.
なぜなら、マハーシーヴァ長老の説によれば、連続する威儀において生じる色と非色の諸法が、その場その場で滅することを見るという観点から、正知の作用が捉えられているので、それは正知によるヴィパッサナーの行として理解されるべきだからである。それゆえ、説かれている。「これは、マハーシーヴァ長老によって説かれた無痴の要点が、大念処経で意図されているものである」と。しかし、この沙門果(経)においては、この説法が沙門果の特殊性を示すことに終始しているため、すべての四種類の正知が採用されている。「まさに念と結びついていること」とは、正知の機能が重要であると捉えられているように、念も重要であると示すために述べられたのであり、念の存在そのものを示すためではない。なぜなら、いかなる時も念を伴わない智の働きは存在しないからである。「まさにこの言葉の解説はこれである」とは、これによって念が智と同等に重要であることを明らかにしている。「これらの言葉」とは、「進むとき、退くときに正知を働かせる」などの言葉である。「分解されたものである」とは、個々に分解されたものである。これによっても、正知のように念もここで重要であることを明らかにしている。
Majjhimabhāṇakā pana bhaṇanti – eko bhikkhu gacchanto aññaṃ cintento aññaṃ vitakkento gacchati, eko kammaṭṭhānaṃ avissajjetvāva gacchati. Tathā eko tiṭṭhanto…pe… nisīdanto…pe… sayanto aññaṃ cintento aññaṃ vitakkento sayati, eko kammaṭṭhānaṃ avissajjetvāva sayati, ettakena pana na pākaṭaṃ hotīti caṅkamanena dīpenti. Yo hi bhikkhu caṅkamaṃ otaritvā ca caṅkamanakoṭiyaṃ ṭhito pariggaṇhāti ‘‘pācīnacaṅkamanakoṭiyaṃ pavattā rūpārūpadhammā pacchimacaṅkamanakoṭiṃ appatvā ettheva niruddhā, pacchimacaṅkamanakoṭiyaṃ pavattāpi pācīnacaṅkamanakoṭiṃ appatvā ettheva niruddhā, caṅkamanamajjhe pavattā ubho koṭiyo appatvā ettheva niruddhā, caṅkamane pavattā rūpārūpadhammā ṭhānaṃ appatvā ettheva niruddhā, ṭhāne pavattā nisajjaṃ appatvā ettheva niruddhā, nisajjāya pavattā sayanaṃ appatvā ettheva niruddhā’’ti evaṃ pariggaṇhanto pariggaṇhantoyeva bhavaṅgaṃ otarati. Uṭṭhahanto kammaṭṭhānaṃ gahetvāva uṭṭhahati, ayaṃ bhikkhu gatādīsu sampajānakārī nāma hotīti. Evampi na sotte kammaṭṭhānaṃ avibhūtaṃ hoti, tasmā bhikkhu yāva sakkoti, tāva caṅkamitvā ṭhatvā nisīditvā sayamāno evaṃ pariggahetvā sayati ‘‘kāyo acetano, mañco acetano, kāyo na jānāti ‘ahaṃ mañce sayito’ti, mañco na jānāti ‘mayi kāyo sayito’ti, acetano kāyo acetane mañce sayito’’ti evaṃ pariggaṇhanto eva cittaṃ bhavaṅge otāreti. Pabujjhanto kammaṭṭhānaṃ gahetvāva pabujjhati, ayaṃ sotte sampajānakārī nāma hoti. Kāyādīkiriyānibbattanena tammayattā, āvajjanakiriyā samuṭṭhitattā ca javanaṃ sabbampi vā chadvārappavattaṃ kiriyamayapavattaṃ nāma. Tasmiṃ sati jāgaritaṃ nāma hotīti pariggaṇhanto jāgarite sampajānakārī nāma. Api ca rattindivaṃ cha koṭṭhāse katvā pañca koṭṭhāse jaggantopi jāgarite sampajānakārī nāma hoti. Vimuttāyatanasīsena dhammaṃ desentopi battiṃsatiracchānakathaṃ pahāya dasakathāvatthunissitasappāyakathaṃ kathentopi bhāsite sampajānakārī nāma. Aṭṭhatiṃsāya ārammaṇesu cittaruciyaṃ manasikāraṃ pavattentopi dutiyaṃ jhānaṃ samāpannopi tuṇhībhāve sampajānakārī nāma. Dutiyañhi jhānaṃ vacīsaṅkhāravirahato visesato tuṇhībhāvo nāmāti. Evanti vuttappakārena, sattasupi ṭhānesu catudhāti attho.
中部の朗唱者は言う。ある比丘は、歩きながら他のことを考え、他のことを思い巡らせながら歩む。ある者は、観想の対象を手放さずに歩む。同様に、ある者は立ちながら…、座りながら…、横になりながら、他のことを考え、他のことを思い巡らせながら横になる。ある者は、観想の対象を手放さずに横になる。しかし、これだけでは明らかにならないので、経行によって示している。というのも、ある比丘が経行の場に下りて、経行の端に立って次のように把握する。「東の経行の端で生じた色と無色の諸法は、西の経行の端に到達することなく、まさにここで消滅した。西の経行の端で生じた諸法もまた、東の経行の端に到達することなく、まさにここで消滅した。経行の中央で生じた両端の諸法は、両端に到達することなく、まさにここで消滅した。経行において生じた色と無色の諸法は、立ち止まる場所に到達することなく、まさにここで消滅した。立ち止まる場所に生じた諸法は、座る場所に到達することなく、まさにここで消滅した。座る場所に生じた諸法は、横になる場所に到達することなく、まさにここで消滅した」と。このように把握する者こそが、把握しながら存在の深層意識に下りるのである。立ち上がるときには、観想の対象を把持して立ち上がる。このような比丘は、歩行などにおいて正知を持つ者と呼ばれる。そのようにしても、心の流れの中で観想の対象が失われることはない。ゆえに比丘は、できる限り、経行し、立ち、座り、横になりながら、次のように把握して横になる。「身体は意識がなく、寝台も意識がない。身体は『私は寝台に横たわっている』と知らず、寝台は『私のの上に身体が横たわっている』と知らず、意識のない身体が意識のない寝台に横たわっている」と。このように把握する者は、まさにその心で存在の深層意識に下りるのである。目覚めるときには、観想の対象を把持して目覚める。このような者は、心の流れの中で正知を持つ者と呼ばれる。身体などの行為によってそれが実現され、想起の行為によって生起する速行心、あるいは六門で生じる全ての過程は、行為に満ちた生起と呼ばれる。それがあるときに覚醒と呼ばれる。このように把握する者は、覚醒において正知を持つ者と呼ばれる。さらに、昼夜を六つの部分に分け、五つの部分において覚醒している者も、覚醒において正知を持つ者と呼ばれる。解脱処を主題として法を説く者、また三十二の卑俗な話を捨てて、十の対話の主題に基づく適切なたとえを語る者も、言葉において正知を持つ者と呼ばれる。三十八の対象において心の喜びを伴う思念を維持する者、また第二禅定に入っている者も、静寂において正知を持つ者と呼ばれる。というのも、第二禅定は、特に言語活動の止滅によって、静寂と呼ばれるからである。このように、述べられた種類の七つの場所において、四重の意味がある。
215. Yassa santosassa attani atthitāya bhikkhu ‘‘santuṭṭho’’ti vuccati, taṃ dassento **‘‘itarītarapaccayasantosena samannāgato’’**ti āha. Cīvarādi yattha katthaci paccaye santussanena samaṅgībhūtoti attho. Atha vā itaraṃ vuccati hīnaṃ paṇītato aññattā, tathā paṇītaṃ itaraṃ hīnato aññattā. Apekkhāsiddhā hi itaratāti. Iti yena dhammena hīnena vā paṇītena vā cīvarādipaccayena santussati, so tathā pavatto alobho itarītarapaccayasantoso, tena samannāgato. Yathālābhaṃ attano lābhānurūpaṃ santoso yathālābhasantoso. Sesadvayepi eseva nayo. Labbhatīti vā lābho, yo yo lābho yathālābhaṃ, tena santoso yathālābhasantoso. Balanti kāyabalaṃ. Sāruppanti pakatidubbalādīnaṃ anucchavikatā.
215. いかなる満足が自身に存在することによって比丘は『満足した者』と呼ばれるのかを、彼は示して『いかなる種類の資具であっても満足する状態に満たされている』と述べた。衣など、いかなる資具に対しても満足することに恵まれているという意味である。あるいは、『劣ったもの』とは、優れたものとは異なるゆえに言われる。同様に、『優れたもの』とは、劣ったものとは異なるゆえに言われる。『イタラ』とは、相対的な概念によって成立するからである。かくして、劣った資具であろうと優れた資具であろうと、いかなる法によって衣などの資具に満足するか、そのように現れる無貪が『いかなる種類の資具にも満足する状態』であり、それと共にあるのである。得たものに応じた、自身の利得にふさわしい満足が『得たものに応じた満足』である。残りの二つについても同様である。あるいは、『ラーバ(利得)』とは得られるもの、いかなる利得も『ヤターラーバ(得たものに応じて)』である。それに対する満足が『得たものに応じた満足』である。『バラ(力)』とは身体の力である。『サールッパ(適切性)』とは、元来病弱な者などにふさわしいことである。
Yathāladdhato aññassa apatthanā nāma siyā appicchatāyapi pavattiākāroti tato vinivattitameva santosassa sarūpaṃ dassento **‘‘labhantopi na gaṇhātī’’**ti āha. Taṃ parivattetvāti pakatidubbalādīnaṃ garucīvaraṃ na phāsubhāvāvahaṃ, sarīrakhedāvahañca hotīti payojanavasena, na atricchatādivasena taṃ parivattetvā. Lahukacīvaraparibhogo na santosavirodhīti āha **‘‘lahukena yāpentopi santuṭṭhova hotī’’**ti. Mahagghaṃ cīvaraṃ bahūni vā cīvarāni labhitvāpi tāni vissajjetvā tadaññassa gahaṇaṃ yathāsāruppanaye ṭhitattā na santosavirodhīti āha **‘‘tesaṃ…pe… dhārentopi santuṭṭhova hotī’’**ti. Evaṃ sesapaccayepi yathābalayathāsāruppaniddesesu api-saddaggahaṇe adhippāyo veditabbo.
得たもの以外のものを望まないことは、少欲の現れ方ともなりうる。それから離れた満足の本来の姿を示すために、『得たとしても受け取らない』と述べた。それを交換するということは、元来病弱な者などにとって重い衣は快適さをもたらさず、身体の苦痛を招くため、そのような目的のためであって、過剰な欲望などによるものではない。軽い衣を用いることは満足に反しないとして、『軽い衣で生活しても満足した者である』と述べた。高価な衣や多くの衣を得たとしても、それらを捨てて別の衣を受け取ることは、適切性の原則に則っているため満足に反しないとして、『それらを…着用しても満足した者である』と述べた。このように、残りの資具についても、『力に応じた』『適切性に応じた』という説明における『もまた』という語の採用の意味を理解すべきである。
Muttaharītakanti gomuttaparibhāvitaṃ, pūtibhāvena vā chaḍḍitaṃ harītakaṃ. Buddhādīhi vaṇṇitanti ‘‘pūtimuttabhesajjaṃ nissāya pabbajjā’’tiādinā (mahāva. 73, 128) sammāsambuddhādīhi pasatthaṃ. Appicchatāsantuṭṭhīsu bhikkhū niyojento paramasantuṭṭhova hoti paramena ukkaṃsagatena santosena samannāgatattā.
『ムッタハリータカ(尿によって処理されたハリタキ)』とは、牛の尿に漬けられた、あるいは腐敗によって捨てられたハリタキ(訶梨勒)のことである。仏陀などによって称賛されたとは、『腐敗した尿を薬として出家する』といった言葉(大品 73, 128)によって、正等覚者などによって賞賛されたことである。比丘を少欲と満足へと導く者は、最高の卓越した満足に恵まれているゆえに、最高の満足者である。
Kāyaṃ pariharanti posentīti kāyaparihārikā. Tathā kucchiparihārikā veditabbā. Kucchiparihārikatā ca ajjhoharaṇena sarīrassa ṭhitiyā upakārakatāvasena icchitāti bahiddhāva kāyassa upakārakatāvasena kāyaparihārikatā daṭṭhabbā.
身体を保持し、養うことが『身体を養うこと』である。同様に『腹を養うこと』も理解すべきである。『腹を養うこと』は、摂取によって身体の維持に役立つものとして望まれる。ゆえに、外部から身体に役立つものとして、『身体を養うこと』と見なすべきである。
Parikkhāramattāti parikkhāraggahaṇaṃ. Tatraṭṭhakapaccattharaṇanti attanā anadhiṭṭhahitvā tattheva tiṭṭhanakapaccattharaṇaṃ. Paccattharaṇādīnañcettha navamādibhāvo yathāvuttapaṭipāṭiyā daṭṭhabbo, na tesaṃ tathā patiniyatabhāvato. Kasmā? Tathā nadhāraṇato. Dupposabhāvena mahāgajā viyāti mahāgajā. Yadi itarepi appicchatādisabhāvā, kiṃ tesampi vasena ayaṃ desanā icchitāti? Noti āha **‘‘bhagavā panā’’**tiādi. Kāyaparihāro payojanaṃ etenāti kāyaparihārikaṃ. Tenāha **‘‘kāyaṃ pariharaṇamattakenā’’**ti.
『資具の量にのみ』とは、資具の受容のことである。『そこに置かれた敷物』とは、自ら定めず、その場に留め置かれた敷物のことである。ここで敷物などの『新しいものなど』という状態は、先に述べられた順序に従って理解すべきであり、それらが必ずしもそうであるというわけではない。なぜか? そのように定められていないからである。養い難いという意味で、『巨大な象のように』とは、巨大な象のことである。もし他の者も少欲などの性質を持つとすれば、彼らのためにこの説法が望まれたのか? いいえ、と彼は述べた、『しかし世尊は』などと。身体の保持が目的であるゆえに、『身体を養うもの』である。だから、『身体を保持することのみによって』と彼は述べた。
Catūsu disāsu sukhavihāratāya sukhavihāraṭṭhānabhūtā catasso disā etassāti catuddiso catuddiso eva cātuddiso. Tāsu eva katthaci satte vā saṅkhāre vā bhayena na paṭihanati, sayaṃ vā tena na paṭihaññatīti appaṭigho. Santussamāno itarītarenāti uccāvacena paccayena sakena, santena, samameva ca tussanako. Paricca sayanti, kāyacittāni parisayanti abhibhavantīti parissayā, sīhabyagghādayo, kāmacchandādayo ca, te parissaye adhivāsanakhantiyā vinayādīhi ca sahitā khantā, abhibhavitā ca. Thaddhabhāvakarabhayābhāvena achambhī. Eko careti ekākī hutvā carituṃ sakkuṇeyya. Khaggavisāṇakappoti tāya eva ekavihāritāya khaggamigasiṅgasamo.
四方において安楽に過ごすゆえに、四方が安楽な住処となる者が『四方の者(チャトゥッディソ)』、まさに『チャトゥッディソ』である。それらのどこにおいても、生き物や現象によって恐怖を感じず、あるいは自らがそれによって障害されないゆえに、『障害のない者(アッパティゴー)』である。『いかなる資具にも満足する』とは、自身の劣った資具、優れた資具、平等の資具に満足する者である。取り囲んで横たわり、身体と心を圧倒するものが『危険(パリッサヤ)』である。それは獅子や虎など、また欲愛などである。それらの危険を、耐え忍ぶ忍耐力や戒律などによって具備し、克服する者が『耐え忍ぶ者(カンター)』である。硬直させるような恐怖がないゆえに、『恐れない者(アチャンビー)』である。『一人で歩む』とは、独りとなって行動できることである。『犀の角に等しい』とは、まさにその独居のあり方によって、犀の角のように孤立していることである。
Asañjātavātābhighātehi siyā sakuṇo apakkhakoti **‘‘pakkhī sakuṇo’’**ti visesetvā vutto.
風の打撃が生じないために、もし翼のない鳥が存在したとしても、『翼のあるもの』とは呼ばれない。ゆえに『翼を持つ鳥』と区別して述べられたのである。
216. Vattabbataṃ āpajjatīti ‘‘asukassa bhikkhuno araññe tiracchānagatānaṃ viya, vanacarakānaṃ viya ca nivāsamattameva, na pana araññavāsānucchavikā kāci sammāpaṭipattī’’ti apavādavasena vattabbataṃ, āraññakehi vā tiracchānagatehi, vanacaravisabhāgajanehi vā saddhiṃ vippaṭipattivasena vattabbataṃ āpajjati. Kāḷakasadisattā kāḷakaṃ, thullavajjaṃ. Tilakasadisattā tilakaṃ, aṇumattavajjaṃ.
216. 『語られるべき状態に陥る』とは、『ある比丘が、森の中で畜生や森の住人のように住むだけであり、森に住む者としてふさわしい正しい実践が何もない』と、非難されるべき状況、あるいは森に住む者たちや畜生、森の住人とは異なる人々との間の対立によって語られるべき状態に陥ることである。黒い点に似ていることから『カーラカ(黒点)』とは、大きな過ちのことである。ゴマ粒に似ていることから『ティラカ(ゴマ点)』とは、わずかな過ちのことである。
Vivittanti janavivittaṃ. Tenāha **‘‘suñña’’**nti. Taṃ pana janasaddaghosābhāveneva veditabbaṃ saddakaṇṭakattā jhānassāti āha **‘‘appasaddaṃ appanigghosanti attho’’**ti. Etadevāti nissaddataṃyeva. Vihāro pākāraparicchinno sakalo āvāso. Aḍḍhayogoti dīghapāsādo, ‘‘garuḷasaṇṭhānapāsādo’’tipi vadanti. Pāsādoti caturassapāsādo. Hammiyaṃ muṇḍacchadanapāsādo. Aṭṭo paṭirājūnaṃ paṭibāhanayoggo catupañcabhūmako patissayaviseso. Māḷo ekakūṭasaṅgahito anekakoṇavanto patissayaviseso. Aparo nayo vihāro nāma dīghamukhapāsādo. Aḍḍhayogo ekapassacchadanakasenāsanaṃ. Tassa kira ekapasse bhitti uccatarā hoti, itarapasse nīcā, tena taṃ ekapassachadanakaṃ hoti. Pāsādo nāma āyatacaturassapāsādo. Hammiyaṃ muṇḍacchadanakaṃ candikaṅgaṇayuttaṃ. Guhā nāma kevalā pabbataguhā. Leṇaṃ dvārabaddhaṃ pabbhāraṃ. Sesaṃ vuttanayameva. Maṇḍapoti sākhāmaṇḍapo.
『ヴィヴィッタ(閑静)』とは、人々が少ないことである。ゆえに『スニャ(空虚)』と述べられた。しかしそれは、人々の話し声や騒音がないことによって知られるべきである。というのも、音は禅定にとっての棘であるから、『音が少なく、響きがないという意味である』と述べられた。まさにそれ、すなわち静寂さである。『ヴィハーラ(精舎)』とは、塀で囲まれた全ての住居である。『アッダヨーガ』とは、長い堂宇(パサーダ)であり、『ガルーダの形をした堂宇』とも言う。『パサーダ(堂宇)』とは、四角い堂宇である。『ハンミヤ』とは、平屋根の堂宇である。『アット(塔)』とは、敵対する王たちを退けるのに適した四、五階建ての特別な住居である。『マーラ(楼閣)』とは一つの尖塔を持ち、多くの角を持つ特別な住居である。別の見方では、『ヴィハーラ』とは長方形の正面を持つ堂宇である。『アッダヨーガ』とは、片側が屋根で覆われた座臥所である。それは、一方の壁が高く、他方の壁が低く、それによって片側だけが屋根で覆われているものである。『パサーダ』とは、長い四角い堂宇である。『ハンミヤ』とは、平屋根で、月光の中庭を持つものである。『グハー(窟)』とは、単なる山窟である。『レーナ(岩屋)』とは、扉で閉じられた突出した岩である。残りは述べられた通りである。『マンダパ(仮堂)』とは、木の枝で作られた仮堂である。
Vihārasenāsananti patissayabhūtaṃ senāsanaṃ. Mañcapīṭhasenāsananti mañcapīṭhañceva mañcapīṭhasambandhasenāsanañca. Cimilikādi santharitabbato santhatasenāsanaṃ. Abhisaṅkharaṇābhāvato sayanassa nisajjāya ca kevalaṃ okāsabhūtaṃ senāsanaṃ. ‘‘Vivittaṃ senāsana’’nti iminā senāsanaggahaṇena saṅgahitameva sāmaññajotanābhāvato.
『精舎の座臥所』とは住居としての座臥所である。『臥床と椅子のある座臥所』とは、臥床と椅子、および臥床と椅子に関連する座臥所のことである。チミリクなど敷くべきものであるから、『敷物の座臥所』である。準備されたものがないため、ただ横になったり座ったりするための空間である座臥所。『閑静な座臥所』というこの座臥所の把握によって、一般的な表現がないため、すでに包含されている。
Yadi evaṃ kasmā ‘‘arañña’’ntiādi vuttanti āha **‘‘ima panā’’**tiādi. **‘‘Bhikkhunīnaṃ vasena āgata’’**nti idaṃ vinaye tathā āgatataṃ sandhāya vuttaṃ, abhidhammepi pana ‘‘araññanti nikkhamitvā bahi indakhīlā, sabbametaṃ arañña’’nti (vibha. 529) āgatameva. Tattha hi yaṃ na gāmapadesantogadhaṃ, taṃ ‘‘arañña’’nti nippariyāyavasena tathā vuttaṃ. Dhutaṅganiddese (visuddhi. 1.31) yaṃ vuttaṃ, taṃ yuttaṃ,tasmā tattha vuttanayena gahetabbanti adhippāyo. Rukkhamūlanti rukkhasamīpaṃ. Vuttañhetaṃ ‘‘yāvatā majjhanhike kāle samantā chāyā pharati, nivāte paṇṇāni nipatanti, ettāvatā rukkhamūla’’nti. Sela-saddo avisesato pabbatapariyāyoti katvā vuttaṃ **‘‘pabbatanti sela’’**nti, na silāmayameva, paṃsumayādiko tividhopi pabbato evāti. Vivaranti dvinnaṃ pabbatānaṃ mitho āsannatare ṭhitānaṃ ovarakādisadisaṃ vivaraṃ, ekasmiṃyeva vā pabbate. Umaṅgasadisanti suduṅgāsadisaṃ. Manussānaṃ anupacāraṭṭhānanti pakatisañcāravasena manussehi na sañcaritabbaṭṭhānaṃ. Ādi-saddena ‘‘vanapatthanti vanasaṇṭhānametaṃ senāsanānaṃ adhivacanaṃ, vanapatthanti bhīsanakānametaṃ, vanapatthanti salomahaṃsānametaṃ, vanapatthanti pariyantānametaṃ, vanapatthanti na manussūpacārānametaṃ, vanapatthanti durabhisambhavānametaṃ senāsanānaṃ adhivacana’’nti (vibha. 531) imaṃ pāḷisesaṃ saṅgaṇhāti. Acchannanti kenaci chadanena antamaso rukkhasākhāyapi na chāditaṃ. Nikkaḍḍhitvāti nīharitvā. Pabbhāraleṇasadiseti pabbhārasadise leṇasadise ca.
もしそうであるなら、なぜ『森』などが述べられたのか? と彼は述べた、『しかしこれら』などと。『比丘尼のために述べられた』とは、律においてそのように述べられていることを指して言われた。しかし、アビダンマにおいても、『森とは、門柱の外に出て、この全てが森である』(Vibh. 529)と述べられている。そこでは、村の区域に含まれないものは、比喩ではなく文字通り『森』と述べられている。頭陀行の解説 (清浄道論 1.31) で述べられていることは適切である。ゆえに、そこに述べられている方法で理解すべきである、というのがその意図である。『樹下』とは、木のそばである。それは、『正午の時に、周囲に日陰が広がり、風のない場所で葉が落ちる範囲が、樹下である』と述べられている。『セーラ』という語は、特別に限定せず『山』の同義語であるとして、『山とはセーラである』と述べられた。石でできているものだけでなく、土などでできた三種類の山も同様に山である。『ヴィヴァラ(洞窟)』とは、互いに接近して存在する二つの山の間に、部屋のような形で開いている場所、あるいは一つの山の中にある洞窟である。『ウマンガに似たもの』とは、トンネルに似たものである。『人間が近づかない場所』とは、通常の通行において人間が行き来しない場所のことである。『など』という語によって、『ヴァナパッタ(森の中)』とは、座臥所の森の形状を指す言葉であり、『ヴァナパッタ』とは恐ろしいものであり、『ヴァナパッタ』とは身の毛もよだつものであり、『ヴァナパッタ』とは辺境のものであり、『ヴァナパッタ』とは人間が近づかないものであり、『ヴァナパッタ』とは到達困難な座臥所の総称である」(Vibh. 531)というこのパーリ語の残りの部分も包含する。『覆われていない』とは、いかなる覆いによっても、少なくとも木の枝によっても覆われていないことである。『引き出して』とは、運び出してという意味である。『突出した岩や岩屋に似たもの』とは、突出した岩や岩屋に似たものである。
Piṇḍapātapariyesanaṃ piṇḍapāto uttarapadalopenāti āha **‘‘piṇḍapātapariyesanato paṭikkanto’’**ti. Pallaṅkanti ettha parisaddo ‘‘samantato’’ti etassa atthe, tasmā vāmoruñca dakkhiṇoruñca samaṃ ṭhapetvā ubho pāde aññamaññaṃ sambandhitvā nisajjā pallaṅkanti āha **‘‘samantato ūrubaddhāsana’’**nti. Ūrūnaṃ bandhanavasena nisajjā pallaṅkaṃ. Ābhujitvāti ca yathā pallaṅkavasena nisajjā hoti, evaṃ ubho pāde ābhugge bhañjite katvā, taṃ pana ubhinnaṃ pādānaṃ tathā sambandhatākaraṇanti āha **‘‘bandhitvā’’**ti.
『托鉢の探求』が『托鉢』という後続語の省略によって言われているので、『托鉢の探求から退いた』と彼は述べた。『結跏趺坐(パッラッカ)』とは、ここでは『パリ』という接頭語が『あらゆる方向から』という意味を持つ。ゆえに、左の腿と右の腿を平等に置き、両足を互いに結びつけて座ることが『結跏趺坐』である。彼は『あらゆる方向から腿を結びつけた座法』と述べた。腿を結びつける形での座法が『結跏趺坐』である。『アーブジッタヴァー(曲げて)』とは、結跏趺坐のように座るために、両足を内側に曲げ、折りたたむことである。それは、両足をそのように結びつける行為であるとして、『縛って』と彼は述べた。
Heṭṭhimakāyassa ca anujukaṃ ṭhapanaṃ nisajjāvacaneneva bodhitanti ‘‘ujuṃ kāya’’nti ettha kāya-saddo uparimakāyavisayoti āha **‘‘uparimaṃ sarīraṃ ujuṃ ṭhapetvā’’**ti. Taṃ pana ujukaṭhapanaṃ sarūpato, payojanato ca dassetuṃ **‘‘aṭṭhārasā’’**tiādi vuttaṃ. Na paṇamantīti na onamanti. Na paripatatīti na vigacchati vīthiṃ na laṅgheti. Tato eva pubbenāparaṃ visesappattiyā kammaṭṭhānaṃ vuḍḍhiṃ phātiṃ vepullaṃ upagacchati. Parimukhanti ettha parisaddo abhi-saddena samānatthoti āha **‘‘kammaṭṭhānābhimukha’’**nti, bahiddhā puthuttārammaṇato nivāretvā kammaṭṭhānaṃyeva purakkhatvāti attho. Samīpattho vā parisaddoti dassento **‘‘mukhasamīpe vā katvā’’**ti āha. Ettha ca yathā ‘‘vivittaṃ senāsanaṃ bhajatī’’tiādinā bhāvanānurūpaṃ senāsanaṃ dassitaṃ, evaṃ ‘‘nisīdatī’’ti iminā alīnānuddhaccapakkhiyo santo iriyāpatho dassito. ‘‘Pallaṅkaṃ ābhujitvā’’ti iminā nisajjāya daḷhabhāvo, ‘‘parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā’’ti iminā ārammaṇapariggahūpāyo. Parīti pariggahaṭṭho ‘‘pariṇāyikā’’tiādīsu viya. Mukhanti niyyānaṭṭho ‘‘suññatavimokkhamukha’’ntiādīsu viya. Paṭipakkhato niggamanaṭṭho hi niyyānaṭṭho, tasmā pariggahitaniyyānanti sabbathā gahitāsammosaṃ paricattasammosaṃ satiṃ katvā, paramaṃ satinepakkaṃ upaṭṭhapetvāti attho.
「下半身が真っ直ぐでないことを、坐るという言葉だけで示しているので、「身体を真っ直ぐに」の「身体」という言葉は上半身を指す、と**「上半身を真っ直ぐに保って」**と言われている。そして、その真っ直ぐに保つことが、その本質において、またその目的において示されるために、**「十八通り」**などが説かれている。「頭を下げない」とは、うつむかないこと。「落ち込まない」とは、道から外れない、道を越えないこと。それゆえ、次々と特別の境地を得ることによって、業処(瞑想の対象)は増進し、隆盛し、充実する。「パリムカ(面前に)」とは、ここで「パリ」という言葉が「アビ(向かって)」という言葉と同じ意味であるから、 **「業処に向かって」**と言われているのであり、外側の様々な対象から遠ざけて、業処そのものを重視するという意味である。あるいは、「パリ」という言葉は「近く」という意味であると示すために、**「顔の近くに置いて」**と言われている。そして、ここには「閑静な場所を避けて」などによって、瞑想に適した座処が示されているように、この「坐る」によって、怠惰でもなく、軽躁でもない状態の行儀が示されている。「結跏趺坐して」によって、坐りの安定性が示され、「パリムカ(面前に)に念を確立して」によって、対象を把握する方便が示されている。「パリ」とは、「パリナーイカー(導き手)」などにあるように、「把握」という意味である。「ムカ」とは、「スニャタヴィモクカムカ(空解脱門)」などにあるように、「出離」という意味である。対立する者からの離反という意味が出離の意味である。それゆえ、「パリッガヒタニッヤーナ(把握された出離)」とは、いかなる場合にも確実で、混乱から離れた念をなすこと、最高の念の明敏さを確立するという意味である。
217. Abhijjhāyati gijjhati abhikaṅkhati etāyāti abhijjhā, lobho. Lujjanaṭṭhenāti bhijjanaṭṭhena, khaṇe khaṇe bhijjanaṭṭhenāti attho. Vikkhambhanavasenāti ettha vikkhambhanaṃ anuppādanaṃ appavattanaṃ, na paṭipakkhānaṃ suppahīnatā. **‘‘Pahīnattā’’**ti ca pahīnasadisataṃ sandhāya vuttaṃ jhānassa anadhigatattā. Tathāpi nayidaṃ cakkhuviññāṇaṃ viya sabhāvato vigatābhijjhaṃ, atha kho bhāvanāvasena, tenāha **‘‘na cakkhuviññāṇasadisenā’’**ti. Eseva nayoti yathā imassa cittassa bhāvanāya paribhāvitattā vigatābhijjhatā, evaṃ abyāpannaṃ vigatathinamiddhaṃ anuddhataṃ nibbicikicchañcāti attho. Purimapakatinti parisuddhapaṇḍarasabhāvaṃ. ‘‘Yā cittassa akalyatāti’’ādinā (dha. sa. 1162; vibha. 546) thinassa, ‘‘yā kāyassa akalyatā’’tiādinā (dha. sa. 1163; vibha. 546) ca middhassa abhidhamme niddiṭṭhattā vuttaṃ **‘‘thinaṃ cittagelaññaṃ, middhaṃ cetasikagelañña’’**nti. Satipi aññamaññaṃ avippayoge cittakāyalahutādīnaṃ viya cittacetasikānaṃ yathākammaṃ taṃ taṃ visesassa yā tesaṃ akalyatādīnaṃ visesappaccayatā, ayametesaṃ sabhāvoti daṭṭhabbaṃ. Ālokasaññīti ettha atisayatthavisiṭṭhaatthi atthāvabodhako ayamīkāroti dassento āha **‘‘rattimpi…pe… samannāgato’’**ti. Idaṃ ubhayanti satisampajaññamāha. Atikkamitvā vikkhambhanavasena pajahitvā. ‘‘Kathamida’’nti pavattiyā kathaṅkathā, vicikicchā. Sā etassa atthīti kathaṅkathī, na kathaṅkathīti akathaṃkathī, nibbicikiccho. Lakkhaṇādibhedatoti ettha ādi-saddena paccayapahānapahāyakādīnampi saṅgaho daṭṭhabbo. Tepi hi bhedato vattabbāti.
217. これによって貪り、渇望し、欲求するから「アビッジャー(貪欲)」とは、貪欲である。「ルッジャナッタ(崩壊する性質)」とは、壊れる性質、すなわち刹那ごとに壊れる性質という意味である。「ヴィッカンバナヴァセーナ(抑制によって)」とは、ここでは「ヴィッカンバナ」は生じさせないこと、発生させないことであり、対立するものの完全な根絶ではない。そして**「パーヒーナッタ(断じられたこと)」**とは、禅をまだ得ていないことから、断じられたものに等しいことを指して言われている。しかし、これは眼識のように本性的に貪欲から離れたものではなく、むしろ修習によってである。それゆえ**「眼識に等しくない」**と言われている。同様に、この心の修習によって修行されたがゆえに貪欲から離れているように、害意がなく、惛沈・睡眠から離れ、掉挙がなく、疑いがないという意味である。「プリマパカティ(以前の性状)」とは、清浄で純粋な状態を指す。「心の不健全さ」などによって(ダンマサンガニ1162; ヴィバンガ546)惛沈が、「身体の不健全さ」などによって(ダンマサンガニ1163; ヴィバンガ546)睡眠がアビダンマで規定されているため、 **「惛沈は心の病、睡眠は精神的な病」**と説かれている。心と心所の軽快さなどのように、それらが互いに離れない場合でも、心と心所のそれぞれの特性に対する、それらの不健全さなどの特性の原因が、これらの本質であると見なされるべきである。「アーローカサンニー(光明想)」とは、ここでは非常に意味深い「イー」という音節がその意味を理解させるものであると示すために、**「夜も…(中略)…備わる」**と言われている。この両方とは、念と正知を指す。乗り越えて、抑制によって捨てること。「これはいかに」とは、発生に関する疑い、すなわち疑惑である。それがある者は疑い深い者であり、疑いがない者は「アカタンカティ(疑いがない者)」、すなわち疑惑のない者である。「特徴などの区別」とは、ここでは「など」という言葉によって、原因の捨断、捨断する者なども含まれると見なされるべきである。それらもまた、区別して語られるべきだからである。
218. Tesanti iṇavasena gahitadhanānaṃ. Pariyantoti dātabbaseso. So balavapāmojjaṃ labhati ‘‘iṇapalibodhato muttomhī’’ti. Somanassaṃ adhigacchati ‘‘jīvikānimittaṃ atthī’’ti.
218. 「彼らの」とは、 借金によって得た財産についてである。「パイヤント(終わり)」とは、返済すべき残りの部分である。彼は「借金の束縛から解放された」と感じて、強い歓喜を得る。「生計の手段がある」と感じて、喜悦を得る。
219. Visabhāgavedanuppattiyāti dukkhavedanuppattiyā. Dukkhavedanā hi sukhavedanāya kusalavipākasantānassa virodhitāya visabhāgā. Catuiriyāpathaṃ chindantoti catubbidhampi iriyāpathappavattiṃ pacchindanto. Byādhiko hi yathā ṭhānagamanesu asamattho, evaṃ nisajjādīsupi asamattho hoti. Ābādhetīti pīḷeti. Vātādīnaṃ vikāro visamāvatthā byādhīti āha **‘‘taṃsamuṭṭhānena dukkhena dukkhito’’**ti. Dukkhavedanāya pana byādhibhāve mūlabyādhinā ābādhiko ādito bādhatīti katvā. Anubandhabyādhinā dukkhito aparāparaṃ sañjātadukkhoti katvā. Gilānoti dhātusaṅkhayena parikkhīṇasarīro. Appamattakaṃ vā balaṃ balamattā. Tadubhayanti pāmojjaṃ, somanassañca. Tattha labhetha pāmojjaṃ ‘‘rogato muttomhī’’ti. Adhigaccheyya somanassaṃ ‘‘atthi me kāye bala’’nti.
219. 「ヴィサバーガヴェーダヌッパッティヤー(不適合な受苦の発生によって)」とは、苦受の発生によってである。苦受は、楽受に対して善業報の連続に反するため、不適合である。「チャトゥイリヤーパタム・チンダーント(四つの行儀を断つ)」とは、 四種類の行儀の活動を断つことである。病人とは、立ち歩きができないように、坐るなどの行為もできないものである。「アーバーデーティ(悩ませる)」とは、苦しめることである。風などの異常な状態が病気であると**「それによって生じた苦痛によって苦しむ」**と言われている。しかし、苦受が病気である場合、根本的な病気によって、病人は最初から苦しめられる。連続する病気によって苦しむとは、次々と生じる苦痛によってである。「ギラノ(病人)」とは、身体の構成要素が衰えて消耗した身体を指す。「アッパマットタカム・ワ・バラン・バラマットター(わずかな力または力そのもの)」とはわずかな力である。この両方とは、歓喜と喜悦である。そこで、「病から解放された」と感じて歓喜を得る。「私の身体には力がある」と感じて喜悦を得る。
220. Sesanti ‘‘tassa hi ‘bandhanā muttomhī’ti āvajjayato tadubhayaṃ hoti. Tena vutta’’nti evamādi. Vuttanayenevāti paṭhamadutiyapadesu vuttanayeneva. Sabbapadesūti avasiṭṭhapadesu tatiyādīsu koṭṭhāsesu.
220. 「残り」とは、「彼が『私は束縛から解放された』と省察するとき、その両方が生じる。それゆえ、こう説かれている」などである。「説かれた方法によって」とは、最初と第二の箇所で説かれた方法によってである。「すべての箇所で」とは、残りの箇所、第三以降の部分においてである。
221-222. Na attani adhīnoti na attāyatto. Parādhīnoti parāyatto. Aparādhīnatāya bhujo viya attano kicce esitabboti bhujisso. Savasoti āha **‘‘attano santako’’**ti. Anudakatāya kaṃ pānīyaṃ tārenti etthāti kantāroti āha **‘‘nirudakaṃ dīghamagga’’**nti.
221-222. 「自分に属さない」とは、自分に依存しないこと。「パラディーノ(他人に属する)」とは、他人に依存すること。他人に依存しないことで、自由な人のように自分の仕事を探すべきであるから、「ブジッソ(自由な者)」である。「サヴァソー(自由)」とは、**「自分の所有物」**と言われている。水がないために、ここでは水を渡らせるという意味で「カンターロ(荒野)」であるから、**「水のない長い道」**と言われている。
223. Tatrāti tasmiṃ dassane. Ayanti idāni vuccamānā sadisatā. Yena iṇādīnaṃ upamābhāvo, kāmacchandādīnañca upameyyabhāvo hoti, so nesaṃ upamopameyyasambandho sadisatāti daṭṭhabbaṃ. Yo yamhi kāmacchandena rajjatīti yo puggalo yamhi kāmarāgassa vatthubhūte puggale kāmacchandavasena ratto hoti. Taṃ vatthuṃ gaṇhātīti taṃ taṇhāvatthuṃ ‘‘mameta’’nti gaṇhāti.
223. 「タトラーティ(その中で)」とは、 その見解においてである。「これとは」今述べられている類似性である。それによって、借金などが譬喩の対象となり、欲愛などが被譬喩の対象となる、それらの譬喩と被譬喩の関係性が、 類似性であると見なされるべきである。「誰が何に欲愛によって執着するか」とは、欲愛の対象となる人物に、欲愛によって執着する者である。「その対象を取る」とは、その渇愛の対象を「私のものだ」と取ることである。
Upaddavethāti upaddavaṃ karotha.
「ウッパダヴェーターティ(苦難を与える)」とは、 苦難を生じさせることである。
Nakkhattassāti mahassa. Muttoti bandhanato mutto.
「ナッカッタッサ(吉日)」とは、大いなるもののこと。「ムットー(解放された者)」とは、束縛から解放された者のこと。
Vinaye apakataññunāti vinayakkame akusalena. So hi kappiyākappiyaṃ yāthāvato na jānāti. Tenāha **‘‘kismiñcidevā’’**tiādi.
「ヴィナヤエ・アパカタニュナー(律において不熟練な)」とは、律の順序において不熟練であること。なぜなら、彼は許可されるべきものと不許可なものを正確に知らないからである。それゆえ、**「いずれにしても」**などが説かれている。
Gacchatipīti thokaṃ thokaṃ gacchatipi. Gacchanto pana tāya eva ussaṅkitaparisaṅkitatāya tattha tattha tiṭṭhatipi. Īdise kantāre gato ‘‘ko jānāti kiṃ bhavissatī’’ti nivattatipi, tasmā gataṭṭhānato agataṭṭhānameva bahutaraṃ hoti. Saddhāya gaṇhituṃ saddheyyaṃ vatthuṃ ‘‘idameva’’nti saddahituṃ na sakkoti. Atthi natthīti ‘‘atthi nu kho, natthi nu kho’’ti. Araññaṃ paviṭṭhassa ādimhi eva sappanaṃ āsappanaṃ. Pari parito, uparūpari vā sappanaṃ parisappanaṃ. Ubhayenapi tattheva paribbhamanaṃ vadati. Tenāha **‘‘apariyogāhana’’**nti. Chambhitattanti araññasaññāya uppannaṃ chambhitabhāvaṃ, utrāsanti attho.
「ガッチャティピーティ(進む)」とは、少しずつ進むこと。しかし、進む者は、疑いや心配があるために、あちこちで立ち止まる。このような荒野に進んだ者は、「何が起こるか誰が知っているだろうか」と言って引き返すこともある。それゆえ、進んだ場所よりも進んでいない場所の方がはるかに多い。信仰をもって把握すべき対象を「これこそ」と信じることができない。「アッティ・ナットティーティ(あるか、ないか)」とは、「あるのだろうか、ないのだろうか」ということ。森に入った者の最初の這い回りが「アサッパナ(這い回る)」である。「パリ・パリトー(周りを)」とは、周りを、あるいは何度も這い回るのが「パリサッパナ(這い回る)」である。どちらもその場でうろつくことを意味する。それゆえ**「アパリヨーガーハナ(立ち入ることができない)」**と言われている。「チャンビタッタ(恐れ)」とは、森の思いから生じた恐れ、すなわち恐怖という意味である。
224. Tatrāyaṃ sadisatāti etthāpi vuttanayānusārena sadisatā veditabbā. Yadaggena hi kāmacchandādayo iṇādisadisā, tadaggena tesaṃ pahānaṃ āṇaṇyādisadisaṃ abhāvoti katvā. Cha dhammeti asubhanimittassa uggaho, asubhabhāvanānuyogo, indriyesu guttadvāratā, bhojane mattaññutā, kalyāṇamittatā, sappāyakathāti ime cha dhamme. Bhāvetvāti brūhetvā. Mahāsatipaṭṭhāne (dī. ni. 2.372-374) vaṇṇayissāma tatthassa anuppannānuppādanauppannapahānādivibhāvanavasena savisesaṃ pāḷiyā āgatattā. Esa nayo byāpādādippahānakabhāvepi. Paravatthumhīti ārammaṇabhūte parasmiṃ vatthusmiṃ.
224. 「その中のこの類似性」とは、ここでも説かれた方法に従って類似性を知るべきである。欲愛などが借金などに類似しているその点において、それらの捨断は借金がないことなどに類似していると見なされるからである。六つの法とは、不浄の標相の把握、不浄の修習への専心、諸根における門の護持、食事における節度、善友、適切な説法、これら六つの法である。修習してとは、育成して。大念処経(ディーガニカーヤ2.372-374)において、まだ生じていないものを生じさせないこと、すでに生じたものを捨断することなどの特別な解説がパーリ語で述べられているので、そこで説明するであろう。この方法は、 瞋恚などの捨断の場合も同様である。「パラヴァットゥムヒ(他者の対象において)」とは、対象となる他者の事物においてである。
Anatthakaroti attano parassa ca anatthāvaho. Cha dhammeti mettānimittassa uggaho, mettābhāvanānuyogo, kammassakatā, paṭisaṅkhānabahulatā, kalyāṇamittatā, sappāyakathāti ime cha dhamme. Tatthevāti mahāsatipaṭṭhāneyeva (dī. ni. 2.372-374). Cārittasīlaṃ uddissa paññattasikkhāpadaṃ ācārapaṇṇatti.
「アナッタカロ(無益なこと)」とは、自分と他者の双方にとって無益であること。六つの法とは、慈悲の標相の把握、慈悲の修習への専心、業の自己所有、省察の多さ、善友、適切な説法、これら六つの法である。「タッテヴァ(そこで)」とは、大念処経(ディーガニカーヤ2.372-374)においてである。実践的な戒を目的として制定された学処が、行動の規定である。
Bandhanāgāraṃ pavesitattā aladdhanakkhattānubhavo puriso **‘‘nakkhattadivase bandhanāgāraṃ pavesito puriso’’**ti vutto, nakkhattadivase eva vā tadananubhavanatthaṃ tathā kato. Mahāanatthakaranti diṭṭhadhammikādiatthahāpanamukhena mahato anatthassa kārakaṃ. Cha dhammeti atibhojane nanimittaggāho, iriyāpathasamparivattanatā, ālokasaññāmanasikāro, abbhokāsavāso, kalyāṇamittatā, sappāyakathāti ime cha dhamme.
「監獄に入れられたために、吉日を経験できなかった者」とは、**「吉日に監獄に入れられた者」**と説かれているが、あるいは吉日を経験させないためにそのようにされた者である。「マハーアナッタカランティ(大いなる無益なこと)」とは、現世の利益などを失わせることで、大いなる無益の原因となること。六つの法とは、過食における標相の不把握、行儀の転換、光明想の作意、露地住、善友、適切な説法、これら六つの法である。
Uddhaccakukkucce mahāanatthakaranti parāyattatāpādanato vuttanayena mahato anatthassa kārakanti. Attho cha dhammeti bahussutatā, paripucchakatā, vinaye pakataññutā, vuḍḍhasevitā, kalyāṇamittatā, sappāyakathāti ime cha dhamme.
「掉挙と悪作は、大いなる無益なこと」とは、他者に依存させることから、説かれた方法によって、大いなる無益の原因となることである。六つの法とは、多聞、質問の多さ、律における熟練、長老への奉仕、善友、適切な説法、これら六つの法である。
Balavāti paccatthikavidhamanasamatthena balena balavā. Sajjāvudhoti sannaddhadhanuādiāvudho. Sūravīrasevakajanavasena saparivāro. Tanti yathāvuttaṃ purisaṃ. Balavantatāya, sajjāvudhatāya, saparivāratāya ca corā dūratova disvā palāyeyyuṃ. Anatthakārikāti sammāpaṭipattiyā vibandhakaraṇato vuttanayena anatthakārikā. Cha dhammeti bahussutatā, paripucchakatā, vinaye pakataññutā, adhimokkhabahulatā, kalyāṇamittatā, sappāyakathāti ime cha dhamme. Yathā bāhusaccādīni uddhaccakukkuccassa pahānāya saṃvattanti, evaṃ vicikicchāya pīti idhāpi bahussutatādayo gahitā. Kalyāṇamittatā sappāyakathā viya pañcannaṃ, tasmā tassa tassa anucchavikasevanatā veditabbā. Sammāpaṭipattiyā appaṭipattinimittatāmukhena vicikicchā micchāpaṭipattimeva paribrūhetīti tassā pahānaṃ duccaritavidhūnanūpāyoti āha **‘‘duccaritakantāraṃ nittharitvā’’**tiādi.
「力強い」とは、敵を打ち破る能力のある力によって力強いこと。「武装している」とは、弓などの武器で武装していること。勇敢な従者たちによって、取り巻きがいること。つまり、前述の人物のこと。力強く、武装し、取り巻きがいるので、盗賊たちは遠くから見て逃げ去るだろう。「アナッタカーリカーティ(無益なこと)」とは、正しい実践の妨げとなることで、説かれた方法によって無益なことである。六つの法とは、多聞、質問の多さ、律における熟練、深い決意、善友、適切な説法、 これら六つの法である。多聞などが掉挙と悪作の捨断につながるように、疑いの場合も、ここでも多聞などが採用されている。善友と適切な説法は五つのものであり、それゆえ、それぞれの適切な奉仕を知るべきである。正しい実践を行わない原因となる疑いは、まさに誤った実践を助長する。それゆえ、その捨断は悪行の荒野を乗り越える手段であるとして、**「悪行の荒野を渡り終えて」**などが説かれている。
225. Pāmojjaṃ nāma taruṇapīti, sā kathañcipi tuṭṭhāvatthāti āha **‘‘pāmojjaṃ jāyatīti tuṭṭhākāro jāyatī’’**ti. Tuṭṭhassāti okkantikabhāvappattāya pītiyā vasena tuṭṭhassa. Attano savipphārikatāya, attasamuṭṭhānapaṇītarūpuppattiyā ca sakalasarīraṃ khobhayamānā pharaṇalakkhaṇā pīti jāyati. Pītisahitaṃ pīti uttarapadalopena, kiṃ pana taṃ? Mano. Pīti mano etassāti pītimano, tassa pītimanassa. Tayidaṃ atthamattameva dassento **‘‘pītisampayuttacittassā’’**ti āha. Kāyoti idha arūpakalāpo adhippeto, na vedanādikkhandhattayamevāti āha **‘‘nāmakāyo passambhatī’’**ti, passaddhidvayassa pītivasenettha passambhanaṃ adhippetaṃ. Vigatadarathoti pahīnauddhaccādikilesadaratho. Vuttappakārāya pubbabhāgabhāvanāya vasena cetasikasukhaṃ paṭisaṃvedentoyeva taṃsamuṭṭhānapaṇītarūpaphuṭṭhasarīratāya kāyikampi sukhaṃ vedetīti āha **‘‘kāyikampi cetasikampi sukhaṃ vedayatī’’**ti. Imināti ‘‘sukhaṃ paṭisaṃvedetī’’ti evaṃ vuttena. Saṃkilesapakkhato nikkhantattā, paṭhamajjhānapakkhikattā ca nekkhammasukhena. Sukhitassāti sukhino.
225. 「パーモッジャ(歓喜)」とは、若々しい喜びであり、それは何らかの満足の状態であると**「歓喜が生じる、すなわち満足の状態が生じる」**と説かれている。「満足した者の」とは、浸透するような喜びを得た、満足した者のこと。自らの広がりによって、また自己から生じる優れた色形の発生によって、全身を揺り動かす遍満の特性を持つ喜びが生じる。喜びに満ちた喜びは、後部が省略されて、ではそれは何か?心である。その心に喜びがあるから「ピーティマノ(喜ばしい心)」であり、その喜ばしい心のこと。これがその意味だけを示していると**「喜びに結びついた心の」**と説かれている。「身体」とは、ここでは無色なまとまりを意味し、受などの三つの蘊を意味するのではないと**「名身は安らぐ」**と説かれている。喜びの働きによって、二つの安止がここで安らぐという意味である。「ヴィガタダラトー(恐怖のない)」とは、掉挙などの煩悩による恐怖が断じられたこと。前述のような前段階の修習によって、精神的な楽を感じながらも、それによって生じる優れた色形に満たされた身体であるため、身体的な楽も感じると**「身体的な楽も精神的な楽も感じる」**と説かれている。これによってとは、「楽を感じる」と説かれていることによってである。煩悩の側から離れ、初禅の側にあることで、出離の楽によってである。「สุขิตัสส(幸福な者の)」とは、幸福な者のこと。
226. ‘‘Cittaṃ samādhiyatī’’ti etena upacāravasenapi appanāvasenapi cittassa samādhānaṃ kathitaṃ. Evaṃ sante ‘‘so vivicceva kāmehī’’tiādikā desanā kimatthiyāti āha **‘‘so vivicceva kāmehi…pe… vutta’’**nti. Tattha uparivisesadassanatthanti paṭhamajjhānādiuparivattabbavisesadassanatthaṃ. Na hi upacārasamādhisamadhigamena vinā paṭhamajjhānādiviseso samadhigantuṃ sakkā. Pāmojjuppādādīhi kāraṇaparamparā dutiyajjhānādisamadhigamepi icchitabbāva paṭipadāñāṇadassanavisuddhi viya dutiyamaggādisamadhigameti daṭṭhabbaṃ. Tassa samādhinoti ‘‘sukhino cittaṃ samādhiyatī’’ti evaṃ sādhāraṇavasena vutto yo appanālakkhaṇo, tassa samādhino. Pabhedadassanatthanti dutiyajjhānādivibhāgassa ceva abhiññādivibhāgassa ca pabhedadassanatthaṃ. Karo vuccati pupphasambhavaṃ gabbhāsaye karīyatīti katvā, karato jāto kāyo karajakāyo, tadupasanissayo catusantatirūpasamudāyo. Kāmaṃ nāmakāyopi vivekajena pītisukhena tathāladdhupakāro, ‘‘abhisandetī’’tiādivacanato pana rūpakāyo idhādhippetoti āha **‘‘imaṃ karajakāya’’**nti. Abhisandetīti abhisandanaṃ karoti. Taṃ pana jhānamayena pītisukhena karajakāyassa tintabhāvāpādanaṃ, sabbatthakameva lūkhabhāvāpanayananti āha **‘‘temetī’’**tiādi, tayidaṃ abhisandanaṃ atthato yathāvuttapītisukhasamuṭṭhānehi paṇītarūpehi kāyassa parippharaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. **‘‘Parisandetī’’**tiādīsupi eseva nayo. Sabbaṃ etassa atthīti sabbavā, tassa sabbāvato. Avayavāvayavisambandhe avayavini sāmivacananti avayavīvisayo sabba-saddo, tasmā vuttaṃ **‘‘sabbakoṭṭhāsavato’’**ti. Aphuṭaṃ nāma na hoti yattha yattha kammajarūpaṃ, tattha tattha cittajarūpassa abhibyāpanato. Tenāha **‘‘upādinnakasantatī’’**tiādi.
226. 「心は定まる」というのは、仮現の様式によっても、安止の様式によっても、心の統一が説かれたのである。そうであるならば、「彼は欲から離れて」などの教説は何のためかといえば、「彼は欲から離れて…等…と説かれた」と述べる。そこでは、「さらに上位の特質を示すため」とは、初禅などの上位において述べられるべき特質を示すためである。実際、近行定の獲得なしには、初禅などの特質を獲得することはできない。歓喜の発生などから始まる一連の因果関係は、第二禅などの獲得においても望まれるべきものである。それは、道智見清浄が第二道などの獲得において望まれるのと同様であると理解されるべきである。「その定の」とは、「幸福な者の心は定まる」と、このように一般的な意味で説かれた安止相の定である。「区別を示すため」とは、第二禅などの区分と、神通などの区別の両方を示すためである。「カラ」とは、花によって胎内で作られることから呼ばれる。カラから生じた身体が「カラジャカーヤ」(肉体)であり、それに付随するものは四つの連続した色(ルーパ)の集合である。実際、名身も離れることによって生じる喜楽によって利益を得るが、「満たされる」などの言葉からは、ここでは色身が意図されていると述べるので、「このカラジャカーヤを」という。「満たされる」とは、満たされることである。それは、禅によって生じる喜楽によってカラジャカーヤを湿潤な状態にし、常に粗大さを除去することであると、「湿らせる」などと述べる。この満たされることは、実質的には、前述の喜楽に由来する優美な色によって身体が遍満することであると理解されるべきである。「遍満する」などにおいても、この道理と同じである。「すべて」とは、彼がすべてを持っていることから、彼がすべてを持っている者である。部分と全体の関係において、全体に属格が用いられる。したがって、「すべて」という言葉は全体を指し、だから「すべての部分を持つ」と説かれた。未遍満なものというものは存在しない。業生の色が存在するところには、必ず心生の色が遍満しているからである。だから、「執着された連続体」などと述べた。
227. Chekoti kusalo. Taṃ panassa kosallaṃ nhāniyacuṇṇānaṃ sannane piṇḍīkaraṇe ca samatthatāvasena veditabbanti āha **‘‘paṭibalo’’**tiādi. Kaṃsa-saddo ‘‘mahatiyā kaṃsapātiyā’’tiādīsu suvaṇṇe āgato.
227. 「チェーコ」とは巧みである。彼のその巧みさは、沐浴用の粉を混ぜて丸める能力によって知られるべきであると述べるので、「有能である」などという。「カンス」という言葉は、「大きなカンスの鉢」などの箇所では黄金の意味で用いられている。
‘‘Kaṃso upahato yathā’’tiādīsu (dha. pa. 134) kittimalohe, katthaci paṇṇattimatte ‘‘upakaṃso nāma rājāpi mahākaṃsassa atrajo’’tiādi, [jā. aṭṭha. 4.10 ghaṭapaṇḍitajātakavaṇṇanāyaṃ (atthato samānaṃ)] idha pana yattha katthaci loheti āha **‘‘yena kenaci lohena katabhājane’’**ti. Snehānugatāti udakasinehena anupavisanavasena gatā upagatā. Snehaparetāti udakasinehena parito gatā samantato phuṭṭhā, tato eva santarabāhirā phuṭṭhā sinehena, etena sabbaso udakena temitabhāvamāha. **‘‘Na ca paggharaṇī’’**ti etena tintassapi tassa ghanathaddhabhāvaṃ vadati. Tenāha **‘‘na ca binduṃ bindu’’**ntiādi.
「銅鑼が壊れているように」など(ダンマパダ 134)では、音を出す金属の意味で用いられ、ある箇所では「ウパカンサという名の王はマハーカンサの息子である」などのように、単なる表現として用いられているが、ここでは、どのような金属でもという意味で、「いかなる金属で作られた容器においても」と述べている。「油分に浸透する」とは、水の油分によって浸透するように入っていくことである。「油分に圧倒される」とは、水の油分によって周囲に広がり、全体に遍満すること、つまり内側も外側も油分によって遍満することであり、これによって全体が水によって湿らされた状態を述べている。「滴り落ちない」とは、それが湿っていても、その固く締まった状態を言う。だから、「一滴たりとも」などと述べた。
229. Tāhi tāhi udakasirāhi ubbhijjatīti ubbhidaṃ, ubbhidaṃ udakaṃ etassāti ubbhidodako. Ubbhinnaudakoti nadītīre khatakūpako viya ubbhijjanakaudako. Uggacchanakaudakoti dhārāvasena uṭṭhahanaudako. Kasmā panettha ubbhidodakova rahado gahito, na itaroti āha **‘‘heṭṭhā uggacchanaudakañhī’’**tiādi. Dhārānipātapubbuḷakehīti dhārānipātehi udakapubbuḷakehi ca, ‘‘pheṇapaṭalehi cā’’ti vattabbaṃ. Sannisinnamevāti aparikkhobhatāya niccalameva, suppasannamevāti adhippāyo. Sesanti ‘‘abhisandetī’’tiādikaṃ.
229. 「それぞれの水の脈から湧き出る」ので「ウッビダ」であり、水が湧き出るので「ウッビダオーダコ」(湧水)。「湧き出る水」とは、川岸に掘られた井戸のように、湧き出る水のこと。「上昇する水」とは、水の流れとして湧き上がる水のこと。なぜここで湧水が満たされた池が取られるのであって、他のものではないのかといえば、「下から湧き上がる水だから」などと述べる。「水流の泡によって」とは、水流によって生じる水の泡によって、そして「泡の塊によって」と述べるべきである。「静かに座る」とは、乱されないため、不動であること、すなわち非常に澄み切っていることを意味する。「残り」とは、「満たされる」などである。
231. Uppalānīti uppalagacchāni. Setarattanīlesūti uppalesu, setuppalarattuppalanīluppalesūti attho. Yaṃ kiñci uppalaṃ uppalameva sāmaññagahaṇato. Satapattanti ettha sata-saddo bahupariyāyo ‘‘satagghī’’tiādīsu viya, tena anekasatapattassapi saṅgaho siddho hoti. Loke pana ‘‘rattaṃ padumaṃ, setaṃ puṇḍarīka’’ntipi vuccati. Yāva aggā, yāva ca mūlā udakena abhisandanādisambhavadassanatthaṃ udakānuggataggahaṇaṃ. Idha uppalādīni viya karajakāyo, udakaṃ viya tatiyajjhānasukhaṃ.
231. 「睡蓮」とは、睡蓮の群生である。「白、赤、青」とは、睡蓮において、すなわち白睡蓮、赤睡蓮、青睡蓮の意味である。どんな睡蓮でも、一般的に睡蓮として捉えられる。「サタパッタ」(百枚の花びらを持つ)という言葉における「サタ」(百)は、「サタグギー」(百殺し)などのように多数を意味する形容詞であり、それによって多くの百枚の花びらを持つものも含まれることになる。しかし世間では、「赤いのはパドゥマ、白いのはプンダリーカ」とも言われる。先端から根元まで水によって満たされる可能性を示すために、水に覆われているという表現が用いられる。ここで、睡蓮などは肉体(カラジャカーヤ)のようであり、水は第三禅の幸福のようである。
233. Yasmā ‘‘parisuddhena cetasā’’ti catutthajjhānacittamāha, tañca rāgādiupakkilesāpagamanato nirupakkilesaṃ nimmalaṃ, tasmā āha **‘‘nirupakkilesaṭṭhena parisuddha’’**nti. Yasmā pana pārisuddhiyā eva paccayavisesena pavattiviseso pariyodātatā suvaṇṇassa nighaṃsanena pabhassaratā viya, tasmā āha **‘‘pabhassaraṭṭhena pariyodātanti veditabba’’**nti. Idanti odātavacanaṃ. Utupharaṇatthanti uṇhautuno pharaṇadassanatthaṃ. Utupharaṇaṃ na hoti savisesanti adhippāyo, tenāha **‘‘taṅkhaṇa…pe… balavaṃ hotī’’**ti. Vatthaṃ viya karajakāyoti yogino karajakāyo vatthaṃ viya daṭṭhabbo utupharaṇasadisena catutthajjhānasukhena pharitabbattā. Purisassa sarīraṃ viya catutthajjhānaṃ daṭṭhabbaṃ utupharaṇaṭṭhāniyassa sukhassa nissayabhāvato, tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Ettha ca ‘‘parisuddhena cetasā’’ti ceto gahaṇena jhānasukhaṃ vuttanti daṭṭhabbaṃ, tenāha **‘‘utupharaṇaṃ viya catutthajjhānasukha’’**nti. Nanu ca catutthajjhāne sukhameva natthīti? Saccaṃ natthi sātalakkhaṇasantasabhāvattā panettha upekkhā ‘‘sukha’’nti adhippetā. Tena vuttaṃ sammohavinodaniyaṃ ‘‘upekkhā pana santattā, sukhamicceva bhāsitā’’ti. (Vibha. aṭṭha. 232; visuddhi. 2.644; paṭi. ma. 105, mahāni. aṭṭha. 27)
233. 「清らかな心によって」と言うのは、第四禅の心を指す。それは、貪欲などの煩悩が除去されているため、煩悩がなく清浄である。だから、「煩悩がないという点で清らかである」と述べる。しかし、清浄さ自体が特殊な条件によって特別に現れる、つまり金を磨くことで輝きが増すように澄み渡るという理由で、「輝いているという点で澄み渡っていると理解されるべきである」と述べる。これは「白い」という言葉である。「季節の遍満のため」とは、暑い季節が遍満する様子を示すためである。季節の遍満は特別ではない、というのが意味するところであり、だから「その瞬間…等…強い」と述べる。「衣のような肉体」とは、行者の肉体は、季節の遍満のような第四禅の幸福によって遍満されるべきであるという点で、衣のように見なされるべきである。男の体のように第四禅が見なされるべきなのは、季節の遍満に当たる幸福の依り処となるからである。だから「それゆえ」などと述べる。そしてここでは、「清らかな心によって」という心の把握によって、禅の幸福が説かれていると理解されるべきである。だから、「季節の遍満のような第四禅の幸福」と述べる。しかし第四禅には幸福がないのではないか?確かに、悦楽の相を持つ安穏な状態としての幸福はないが、ここでは平静(ウペッカー)が「幸福」として意図されている。ゆえに『煩悩除去論』では、「平静は安穏であるから、幸福であると説かれた」と述べられている。
Na arūpajjhānalābhīti na veditabbo avinābhāvato, tenāha **‘‘na hī’’**tiādi. Tattha cuddasahākārehīti kasiṇānulomato, kasiṇapaṭilomato, kasiṇānulomapaṭilomato, jhānānulomato, jhānapaṭilomato, jhānānulomapaṭilomato, jhānukkantikato, kasiṇukkantikato, jhānakasiṇukkantikato, aṅgasaṅkantito, ārammaṇasaṅkantito, aṅgārammaṇasaṅkantito, aṅgavavatthānato, ārammaṇavavatthānatoti imehi cuddasahākārehi. Satipi jhānesu āvajjanādivasībhāve ayaṃ vasībhāvo abhiññānibbattane ekantena icchitabboti dassento āha **‘‘na hi…pe… hotī’’**ti. Svāyaṃ nayo arūpasamāpattīhi vinā na ijjhatīti tāyapettha avinābhāvo veditabbo. Yadi evaṃ kasmā pāḷiyaṃ na āruppajjhānāni āgatānīti? Visesato ca rūpāvacaracatutthajjhānapādakattā sabbābhiññānaṃ tadantogadhā katvā tāya desitā, na arūpāvacarajjhānānaṃ idha anupayogato, tenāha **‘‘arūpajjhānāni āharitvā kathetabbānī’’**ti.
無色界禅の体得者は、不可分であるから、それなしでは理解されるべきではない。だから「実際…ではない」などと述べる。そこでは、十四の様態によって。すなわち、カシナの順行、カシナの逆行、カシナの順行逆行、禅の順行、禅の逆行、禅の順行逆行、禅の跳躍、カシナの跳躍、禅とカシナの跳躍、構成要素の移行、対象の移行、構成要素と対象の移行、構成要素の識別、対象の識別、これらの十四の様態によって。禅における意欲などの自在があるとしても、この自在は神通を現出させるためには絶対的に望ましいものであると示すので、「実際…等…である」と述べる。この道理は無色定なしには成立しないので、それとの不可分性がここで理解されるべきである。もしそうならば、なぜパーリ語典には無色禅が出てこないのか?それは、すべての神通が色界の第四禅を基盤とするため、それらをその中に含めて説かれているからであり、無色界の禅はここでは不必要なためである。だから、「無色禅を持ち出して説かれるべきである」と述べる。
234. Sesanti ‘‘evaṃ samāhite citte’’tiādīsu vattabbaṃ. Ñeyyaṃ jānātīti ñāṇaṃ, taṃ pana ñeyyaṃ paccakkhaṃ katvā passatīti dassanaṃ, ñāṇameva dassananti ñāṇadassanaṃ. Tayidaṃ ñāṇadassanapadaṃ sāsane aññattha ñāṇavisese nirūḷhaṃ, taṃ sabbaṃ atthuddhāravasena dassento **‘‘ñāṇadassananti maggañāṇampi vuccatī’’**tiādimāha. Yasmā vipassanāñāṇaṃ tebhūmakasaṅkhāre aniccādito jānāti, bhaṅgānupassanato paṭṭhāya paccakkhato ca te passati tasmā āha **‘‘idha pana…pe… ñāṇadassananti vutta’’**nti.
234. 「残り」とは、「このように統一された心において」などで述べられるべきことである。「知るべきことを知る」のが「智」であり、その知るべきことを直接見て識るのが「見」である。智そのものが見であるから「智見」である。この「智見」という言葉は、教えの中の他の特殊な智にも当てはまる。そのすべてを意味の明確化を通して示すために、「智見とは道智も言われる」などと述べる。観智は三界の諸行を無常などとして識り、滅の随観などによってそれらを直接見るので、だから「しかしここでは…等…智見と説かれた」と述べる。
Abhinīharatīti vuttanayena aṭṭhaṅgasamannāgate tasmiṃ citte vipassanākkamena jāte vipassanābhimukhaṃ peseti, tenāha **‘‘vipassanā…pe… karotī’’**ti. Tadabhimukhabhāvo eva hissa tanninnatādikaratā. Vuttoyeva brahmajāle. Odanakummāsehi upacīyatīti odanakummāsūpacayo. Aniccadhammoti pabhaṅgutāya addhuvasabhāvo. Duggandhavighātatthāyāti sarīre duggandhassa vigamāya. Ucchādanadhammoti ucchādetabbatāsabhāvo. Ucchādanena hi sarīre sedagūthapittasemhādidhātukkhobhagarubhāvaduggandhānaṃ apagamo hoti. Mahāsambāhanaṃ mallādīnaṃ bāhuvaḍḍhanādiatthaṃ hotīti **‘‘khuddakasambāhanenā’’**ti vuttaṃ. Parimaddanadhammoti parimadditabbatāsabhāvo. Bhijjati ceva vikirati cāti aniccatāvasena bhijjati ca bhinnañca kiñci payojanaṃ asādhentaṃ vippakiṇṇañca hoti. Rūpīti attano paccayabhūtena utuāhāralakkhaṇena rūpavāti ayamettha attho icchitoti āha **‘‘chahi padehi samudayo kathito’’**ti. Saṃsagge hi ayamīkāro. Saṇṭhānasampādanampi tathārūparūpuppādaneneva hotīti ucchādanaparimaddanapadehipi samudayo kathitoti vuttaṃ. Evaṃ navahi yathārahaṃ kāye samudayavayadhammānupassitā dassitā. Nissitañca chaṭṭhavatthunissitattā vipassanāñāṇassa. Paṭibaddhañca tena vinā appavattanato, kāyasaññitānaṃ rūpadhammānaṃ ārammaṇakaraṇato ca.
「傾ける」とは、前述の方法で八支を具えたその心に、観の順序で生じたときに、観へと向かわせる。だから「観…等…する」と述べる。それへと向かう状態こそが、その傾きなどをもたらす。それは『梵網経』で説かれている。「飯と粥によって養われる」とは、飯と粥によって養われること。「無常の法」とは、崩壊する性質によって、不確実な状態のこと。「悪臭を除くため」とは、身体の悪臭を除去するためである。「洗い清めるべき法」とは、洗い清められるべき性質のこと。洗い清めることによって、身体の汗、糞便、胆汁、痰などの諸要素の乱れ、重さ、悪臭が除去される。大力士などの力増強などの目的のための大きなマッサージであるから、「小さなマッサージによって」と述べた。「マッサージされるべき法」とは、マッサージされるべき性質のこと。「壊れて散らばる」とは、無常性によって壊れ、壊れたものは何の役にも立たず、散らばってしまうこと。「色がある」とは、自身の縁となる季節と食物の特性によって色がある、というのがここでの意味として意図されている。だから「六つの語句によって集起が説かれた」と述べる。結合において、これは延長音である。形態の完成も、そのような色の生成によってのみ可能である。だから、洗い清めることとマッサージすることという語句によっても集起が説かれたと述べられた。このように、九つの(観)によって、身体における集起と滅尽の法を随観することが適切に示された。そして、第六の依り処に依存しているため、観智は依存している。また、それなしには生じないため、そして身体と名付けられた色法を対象とするため、結びついている。
235. Suṭṭhu bhāti obhāsatīti subho, pabhāsampattiyāpi maṇino bhaddatāti āha **‘‘subhoti sundaro’’**ti. Kuruvindajāti ādijātivisesopi maṇino ākaraparisuddhimūlako evāti āha **‘‘parisuddhākarasamuṭṭhito’’**ti dosanīharaṇavasena parikammanipphattīti āha **‘‘suṭṭhu kataparikammo apanītapāsāṇasakkharo’’**ti. Chaviyā saṇhabhāvenassa acchatā, na saṅghātassāti āha **‘‘acchoti tanucchavī’’**ti, tenāha **‘‘vippasanno’’**ti. Dhovanavedhanādīhīti catūsu pāsāṇesu dhovanena ceva kāḷakādiapaharaṇatthāya suttena āvunanatthāya ca vijjhanena. Tāpasaṇhakaraṇādīnaṃ saṅgaho ādi-saddena. Vaṇṇasampattinti suttassa vaṇṇasampattiṃ. Maṇi viya karajakāyo paccavekkhitabbato. Āvutasuttaṃ viya vipassanāñāṇaṃ anupavisitvā ṭhitattā. Cakkhumā puriso viya vipassanālābhī bhikkhu sammadeva dassanato. Tadārammaṇānanti rūpadhammārammaṇānaṃ. Phassapañcamakacittacetasikaggahaṇena gahitadhammāpi vipassanācittuppādapariyāpannā evāti veditabbaṃ. Evañhi tesaṃ vipassanāñāṇagatikattā ‘‘āvutasuttaṃ viya vipassanāñāṇa’’nti vacanaṃ avirodhitaṃ hoti. Kiṃ panete ñāṇassa āvi bhavanti, udāhu puggalassāti? Ñāṇassa. Tassa pana āvibhāvattā puggalassa āvibhūtā nāma honti. Ñāṇassāti ca paccavekkhaṇāñāṇassa.
235. 「よく輝き、照らす」ので「スボー」(清浄)、輝きを具えていることによって宝玉が美しいのである、と述べるので、「スボーとは美しいこと」という。「クルヴィンダ種」などの特殊な種類の宝玉も、鉱脈の清浄さに由来するものである、と述べるので、「清浄な鉱脈から生じた」という。不純物を取り除くという点で準備が整っている、と述べるので、「よく加工され、石や砂利が取り除かれた」という。その表面のきめ細かさによって透明であり、凝集ではない、と述べるので、「透明とは薄い表面である」という。だから「極めて清浄である」と述べた。「洗浄、穿孔などによって」とは、四つの石を洗浄すること、そして黒ずみなどを取り除くために糸で巻きつけ、穿孔することによって。「等」の語によって、加熱や研磨なども含まれる。「色彩の豊かさ」とは、糸の色彩の豊かさのこと。宝玉のように、肉体は観照されるべきである。結びつけられた糸のように、観智は浸透して存在している。目の良い人のように、観智を得た比丘はすべてを正しく見通す。「その対象の」とは、色法の対象のこと。触を五番目とする心と心所を捉えることによって捉えられた諸法も、観の心生に属すると理解されるべきである。このように、それらが観智の範疇に属するため、「結びつけられた糸のような観智」という言葉は矛盾しない。では、これらは智に現れるのか、それとも個人に現れるのか?智に現れる。しかし、それが現れることによって、個人にも現れることになる。「智の」とは、省察智のことである。
Maggañāṇassa anantaraṃ, tasmā lokiyābhiññānaṃ parato chaṭṭhābhiññāya purato vattabbaṃ vipassanāñāṇaṃ. Evaṃ santepīti yadipāyaṃ ñāṇānupubbī, evaṃ santepi. Etassa antarāvāro natthīti pañcasu lokiyābhiññāsu kathitāsu ākaṅkheyyasuttādīsu (ma. ni. 1.65) viya chaṭṭhābhiññā kathetabbāti etassa anabhiññālakkhaṇassa vipassanāñāṇassa tāsaṃ antarāvāro na hoti. Tasmā tattha avasarābhāvato idheva rūpāvacaracatutthajjhānānantarameva dassitaṃ vipassanāñāṇaṃ. Yasmā cāti ca-saddo samuccayattho, tena na kevalaṃ tadeva, atha kho idampi kāraṇaṃ vipassanāñāṇassa idheva dassaneti imamatthaṃ dīpeti. Dibbena cakkhunā bheravampi rūpaṃ passatoti ettha ‘‘iddhividhañāṇena bheravaṃ rūpaṃ nimminitvā cakkhunā passato’’tipi vattabbaṃ, evampi abhiññālābhino apariññātavatthukassa bhayaṃ santāso uppajjati. Uccāvālikavāsi mahānāgattherassa viya. Pāṭiyekkaṃ sandiṭṭhikaṃ sāmaññaphalaṃ. Tenāha bhagavā –
道智に続くため、世俗的な神通の後に第六神通の前に言われるべきものは観智である。このように存在するとも、もしこれが智の順序であるならば、そのように存在するとも。この間に区別はないとは、五つの世俗的な神通について述べられている『アーカンケイヤスッタ』など(中部経典1.65)のように、第六神通が説かれるべきであるとしても、この神通の相を持たない観智にとっては、それらとの間に区別はないのである。それゆえ、そこには機会がないため、ここで色界第四禅の直後に示されたのは観智である。ゆえに「かつ」という語は結合の意味であり、それによってそれだけでなく、これも観智がここで示される理由である、という意味を示す。神聖な眼によって恐ろしい姿をも見るとは、ここで「神通力によって恐ろしい姿を作り出し、眼によって見る」とも言われるべきである。そのようであっても、神通を得た者でさえ、理解されていない対象に対しては恐れや不安が生じる。ウッチャヴァーリカに住むマハーナーガ長老のように。個々に自ら見るべき沙門果。それゆえ世尊は言われた。
‘‘Yato yato sammasati, khandhānaṃ udayabbayaṃ;
「いずこにあっても、いずこにあっても熟考する、諸蘊の生滅を。」
Labhatī pītipāmojjaṃ, amataṃ taṃ vijānata’’ntiādi. (dha. pa. 374);
「歓喜と慶びを得る、それは知る者にとっての不死である。」など。(ダンマパダ 374)
236-7. Manena nibbattitanti abhiññāmanena nibbattitaṃ. Hatthapādādi aṅgehi ca kapparajaṇṇuādi paccaṅgehi ca. Saṇṭhānavasenāti kamaladalādisadisasaṇṭhānamattavasena, na rūpābhighātārahabhūtappasādiindriyavasena. Sabbākārehīti vaṇṇasaṇṭhānaavayavavisesādisabbākārehi. Tena iddhimatā. Sadisabhāvadassanatthamevāti saṇṭhānatopi vaṇṇatopi avayavavisesatopi sadisabhāvadassanatthameva. Sajātiyaṃ ṭhito, na nāgiddhiyā aññajātirūpo.
236-7. 「意によって生じた」とは、神通の意によって生じたのである。手や足などの部分と、肘や膝などの末梢部分とによって。姿の点からは、蓮の葉などに似た姿の点のみであり、物質的な攻撃を受けるべき色(物質)の清らかな感覚器官の点からではない。「すべての形態において」とは、色、形、特定の部分などのすべての形態において。それによって神通力を持つ者は。「類似性を示すためのみ」とは、形においても、色においても、特定の部分においても、類似性を示すためのみである。自らの種類に留まり、ナーガの神通のように他の種類の姿ではない。
239. Suparikammakatamattikādayo viya iddhividhañāṇaṃ vikubbanakiriyāya nissayabhāvato.
239. 丹念に練り上げられた粘土などのように、神通種々の智は変容行為の依り処となるからである。
241. Sukhanti akicchena, akasirenāti attho.
241. 「楽に」とは、骨を折らずに、苦労なく、という意味である。
243. Mando uttānaseyyakadārakopi ‘‘daharo’’ti vuccatīti tato visesanatthaṃ **‘‘yuvā’’**ti vuttaṃ. Yuvāpi koci anicchanako amaṇḍanajātiko hotīti tato visesanatthaṃ **‘‘maṇḍanakajātiko’’**tiādi vuttaṃ, tenāha **‘‘yuvāpīti’’**ādi. Kāḷatilappamāṇā bindavo kāḷatilakāni kāḷā vā kammāsā, tilappamāṇā bindavo tilakāni. Vaṅgaṃ nāma viyaṅgaṃ. Yobbanapīḷakādayo mukhadūsipīḷakā. Mukhagato doso mukhadoso, lakkhaṇavacanañcetaṃ mukhe adosassāpi pākaṭabhāvassa adhippetattā. Yathā vā mukhe doso, evaṃ mukhe adosopi mukhadoso saralopena. Mukhadoso ca mukhadoso ca mukhadosoti ekasesanayenapettha attho daṭṭhabbo. Evañhi ‘‘paresaṃ soḷasavidhaṃ cittaṃ pākaṭaṃ hotī’’ti vacanaṃ samatthitaṃ hoti.
243. 幼い、仰向けに寝る乳幼児も「幼い」と呼ばれるため、そこから区別するために「若者」と言われた。若者の中にも、飾りたがらない種類の者もいるため、そこから区別するために「飾りたがる種類の者」などと言われた。それゆえ「若者も」などと言われる。黒ゴマ大の斑点は黒子、あるいは黒い斑点、ゴマ大の斑点はそばかす。顔の傷跡は変形。青春期の吹き出物などは顔を汚す吹き出物。顔にある欠点は「顔の欠点」であり、これは表現上の言葉であり、顔に欠点がないことも明らかであるという意味が含まれているからである。あるいは、顔に欠点があるように、顔に欠点がないことも「顔の欠点」は簡略化された表現である。「顔の欠点と顔の欠点と顔の欠点」と、ここでは残余法の意味で理解されるべきである。このようにして「他者の十六種の心は明らかである」という言葉が成り立つのである。
245. Pubbenivāsañāṇūpamāyanti pubbenivāsañāṇassa dassitaupamāyaṃ. Taṃ divasaṃ katakiriyā nāma pākatikasattassapi yebhuyyena pākaṭā hotīti dassanatthaṃ taṃdivasa-ggahaṇaṃ kataṃ. Taṃdivasagatagāmattaya-ggahaṇeneva mahābhinīhārehi aññesampi pubbenivāsañāṇalābhīnaṃ tīsu bhavesu katakiriyā yebhuyyena pākaṭā hotīti dīpitanti daṭṭhabbaṃ.
245. 「過去生智のたとえによって」とは、過去生智に示されたたとえにおいてである。その日に行った行為は、通常の衆生にとっても大抵は明らかであるということを示すために、「その日」という語が用いられた。その日に行った三つの村の例を用いることによって、大いなる誓願を立てた者たちや、他の過去生智を得た者たちにとっても、三つの世において行われた行為が大抵明らかであると示されていると理解されるべきである。
247. Aparāparaṃ sañcaranteti taṃtaṃkiccavasena ito cito ca sañcarante. Yathāvuttapāsādoviya bhikkhuno karajakāyo daṭṭhabbo tattha patiṭṭhitassa daṭṭhabbadassanasiddhito. Cakkhumato hi dibbacakkhusamadhigamo. Yathāha ‘‘maṃsacakkhussa uppādo, maggo dibbassa cakkhuno’’ti (itivu. 61). Cakkhumā puriso viya ayameva dibbacakkhuṃ patvā ṭhito bhikkhu daṭṭhabbassa dassanato. Gehaṃ pavisantā viya etaṃ attabhāvagehaṃ okkamantā, upapajjantāti attho. Gehā nikkhamantā viya etasmā attabhāvagehato pakkantā, cavantāti attho. Evaṃ vā ettha attho daṭṭhabbo. Aparāparaṃ sañcaraṇakasattāti pana punappunaṃ saṃsāre paribbhamantā sattā. **‘‘Tattha tattha nibbattasattā’’**ti pana iminā tasmiṃ bhave jātasaṃvaddhe satte vadati. Nanu cāyaṃ dibbacakkhuñāṇakathā, ettha kasmā ‘‘tīsu bhavesū’’ti catuvokārabhavassāpi saṅgaho katoti āha **‘‘idañcā’’**tiādi. Tattha idanti ‘‘tīsu bhavesu nibbattasattāna’’nti idaṃ vacanaṃ. Desanāsukhatthamevāti kevalaṃ desanāsukhatthaṃ, na catuvokārabhave nibbattasattānaṃ dibbacakkhuno āvibhāvasabbhāvato. Na hi ‘‘ṭhapetvā arūpabhava’’nti vā ‘‘dvīsu bhavesū’’ti vā vuccamāne desanā sukhāvabodhā ca hotīti.
247. 「あちこち動き回る」とは、それぞれの用事に応じてこちらからあちらへ動き回ること。述べられた宮殿のように、比丘の肉体は、そこ(宮殿)に居る(比丘)が(対象を)見ることを成就するがゆえに、見るべきである。なぜなら、眼を持つ者には天眼の獲得があるからである。世尊が「肉眼が生じ、天眼への道」と述べられたように(Iti. 61)。眼を持つ人が、この天眼を得て立つ比丘が対象を見るのと同じである。家に入るように、この存在の家に入り、再生するという意味である。家から出るように、この存在の家から離れ、死に逝くという意味である。あるいは、ここでこのように意味が理解されるべきである。「あちこち動き回る衆生」とは、輪廻の中で繰り返しさまよう衆生のことである。しかし、「それぞれの場所で生まれた衆生」とは、その世で生まれ育った衆生を指す。さて、これは天眼智の物語であるが、なぜここで「三つの世において」と、四蘊の世も包含されているのかというと、「そしてこれらは」などと述べている。ここでの「これ」とは、「三つの世で生まれた衆生」という言葉である。説法の便宜のためのみ、とは、単に説法の便宜のためであり、四蘊の世で生まれた衆生に対して天眼が明らかになることはありえないからではない。なぜなら、「無色界を除いて」あるいは「二つの世において」と言われたとしても、説法は理解しやすくならないからである。
248. Vipassanāpādakanti vipassanāya padaṭṭhānabhūtaṃ. Vipassanā ca tividhā vipassakapuggalabhedena. Mahābodhisattānañhi paccekabodhisattānañca vipassanā cintāmayañāṇasaṃvaddhitā sayambhuñāṇabhūtā, itaresaṃ sutamayañāṇasaṃvaddhitā paropadesasambhūtā nāma. Sā ‘‘ṭhapetvā nevasaññānāsaññāyatanaṃ avasesarūpārūpajjhānānaṃ aññatarato vuṭṭhāyā’’tiādinā anekadhā, arūpamukhavasena catudhātuvavatthāne vuttānaṃ tesaṃ tesaṃ dhātupariggahamukhānañca aññataramukhavasena anekadhā ca visuddhimagge nānānayato vibhāvitā. Mahābodhisattānaṃ pana catuvīsatikoṭisatasahassamukhena pabhedagamanato nānānayaṃ sabbaññutañāṇasannissayassa ariyamaggañāṇassa adhiṭṭhānabhūtaṃ pubbabhāgañāṇagabbhaṃ gaṇhāpentaṃ pariṇataṃ gacchantaṃ paramagambhīraṃ saṇhasukhumataraṃ anaññasādhāraṇaṃ vipassanāñāṇaṃ hoti, yaṃ aṭṭhakathāsu ‘‘mahāvajirañāṇa’’nti vuccati. Yassa ca pavattivibhāgena catuvīsatikoṭisatasahassappabhedassa pādakabhāvena samāpajjiyamānā catuvīsatikoṭisatasahassasaṅkhyā devasikaṃ satthu vaḷañjanakasamāpattiyo vuccanti, svāyaṃ buddhānaṃ vipassanācāro paramatthamañjusāyaṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. ṭī. 1.216) uddesato dassito. Atthikehi tato gahetabbo, idha pana sāvakānaṃ vipassanā adhippetā.
248. 「観の足場」とは、観の拠り所となるもの。そして観は、観を行う者の区別によって三種類ある。大菩薩たちや独覚菩薩たちの観は、思惟によって育まれた自生智であり、他の者たちの観は、聞によって育まれた他者の教えから生じたものである。それは「非想非非想処を除いて、残りの色界および無色界の禅定のいずれかから出定して」などによって多岐にわたり、無色界の側面から四界の確立について述べられた、それらそれぞれの界を把握する側面についても、いずれかの側面から多岐にわたり、清浄道論において様々な方法で明らかにされている。しかし、大菩薩たちの観は、二千四百万憶の側面から分岐し、あらゆる方法で一切智智に依拠する聖道智の足場となる前段階の智を抱懐し、成熟し、極めて深く、より繊細で微細であり、他に類を見ない観智である。これは注釈書では「大金剛智」と呼ばれている。その活動の区別によって二千四百万憶に分岐する足場として、世尊が日々入る定が二千四百万憶回と呼ばれるのである。この仏たちの観の実践は、『至極の宝箱』の清浄道論の解説書(Visuddhimaggaṭīkā 1.216)において概説的に示されている。求める者はそこから得るべきであり、ここでは声聞たちの観が意図されている。
Āsavānaṃ khayañāṇāyāti āsavānaṃ khepanato samucchindanato āsavakkhayo, ariyamaggo, tattha ñāṇaṃ āsavānaṃ khayañāṇaṃ, tadatthaṃ tenāha **‘‘āsavānaṃ khayañāṇanibbattanatthāyā’’**ti. Āsavā ettha khīyantīti āsavānaṃ khayo nibbānaṃ. Khepeti pāpadhammeti khayo, maggo. So pana pāpakkhayo āsavakkhayena vinā natthīti ‘‘khaye ñāṇa’’nti ettha khayaggahaṇena āsavakkhayo vuttoti āha **‘‘khaye ñāṇa’’**ntiādi. Samitapāpo samaṇoti katvā āsavānaṃ khīṇattā samaṇo nāma hotīti āha **‘‘āsavānaṃ khayā samaṇo hotīti ettha phala’’**nti. Āsavavaḍḍhiyā saṅkhāre vaḍḍhento visaṅkhārato suvidūravidūroti ‘‘ārā so āsavakkhayā’’ti ettha āsavakkhayapadaṃ visaṅkhārādhivacananti āha **‘‘āsavakkhayāti ettha nibbānaṃ vutta’’**nti. Bhaṅgoti āsavānaṃ khaṇanirodho ‘‘āsavānaṃ khayo’’ti vuttoti yojanā.
「漏の滅尽智のために」とは、漏を滅し、根絶することによって漏尽、すなわち聖なる道であり、そこにおける智は漏尽智である。その目的のために、「漏尽智を生起させるため」と述べられている。漏がここで尽きるから漏尽、すなわち涅槃である。悪しき法を滅するから尽、すなわち道である。しかし、その悪の尽滅は漏尽なしには存在しないので、「尽における智」という言葉における「尽」の採用によって漏尽が述べられていると、「尽における智」などと述べられている。罪を鎮めた沙門であると見なされ、漏が尽きているがゆえに沙門となる、と「漏の尽滅によって沙門となる」という言葉において果(結果)について述べられている。漏が増加することによって行を増加させる者は、無作為からは遠く離れているので、「彼は漏尽から遠い」という言葉における漏尽という語は無作為の別名であると、「漏尽とはここで涅槃が述べられている」と述べている。破壊とは、漏の瞬間的な消滅が「漏尽」と述べられていると解釈される。
**‘‘Idaṃ dukkha’’**nti dukkhassa ariyasaccassa tadā bhikkhuno paccakkhato gahitabhāvadassanaṃ. **‘‘Ettakaṃ dukkha’’**nti tassa paricchijjaggahitabhāvadassanaṃ. **‘‘Na ito bhiyyo’’**ti tassa anavasesetvā gahitabhāvadassanaṃ. Tenāha **‘‘sabbampi dukkhasacca’’**ntiādi. Sarasalakkhaṇapaṭivedhenāti sabhāvasaṅkhātassa lakkhaṇassa asammohato paṭivijjhanena, asammohapaṭivedhoti ca. Yathā tasmiṃ ñāṇe pavatte pacchā dukkhasaccassa sarūpādiparicchede sammoho na hoti, tathā pavatti, tenāha **‘‘yathābhūtaṃ pajānātī’’**ti. Dukkhaṃ samudeti etasmāti dukkhasamudayo, taṇhāti āha **‘‘tassa cā’’**tiādi. Yaṃ ṭhānaṃ patvāti yaṃ nibbānaṃ maggassa ārammaṇapaccayaṭṭhena kāraṇabhūtaṃ āgamma, ‘‘patvā’’ti ca tadubhayavato puggalassa patti tadubhayassa patti viyāti katvā vuttaṃ. Patvāti vā pāpuṇanahetu. Appavattīti appavattinimittaṃ, te vā nappavattanti etthāti appavatti, nibbānaṃ. Tassāti dukkhanirodhassa. Sampāpakanti sacchikaraṇavasena sammadeva pāpakaṃ.
「これは苦である」とは、その時、比丘が苦という聖なる真理を直接把握したことを示す。「これだけの苦」とは、それを限定して把握したことを示す。「これ以上はない」とは、それを残さず把握したことを示す。それゆえ「すべての苦の真理」などと述べられている。本質的な特相の識見によってとは、本質とされる特相を迷いなく見抜くこと、すなわち迷いのない識見である。その智が生じた後、苦の真理の自性などの把握において迷いが生じないように生じるので、それゆえ「如実に知る」と述べられている。これによって苦が生起するから苦集であり、渇愛であると「そしてその」などと述べられている。ある境地に至る、とは、ある涅槃が道の対象原因として根拠となることを含めて、「至る」とはその両者を持つ人の獲得を、その両者の獲得であるかのようにして述べられたのである。あるいは、「至る」とは到達の原因である。不生起とは不生起のしるし、あるいはそれらがそこで生起しないので不生起、すなわち涅槃である。それの、とは苦の滅尽の。完全に到達させる、とは、実現する形で正しく到達させること。
Kilesavasenāti āsavasaṅkhātakilesavasena. Yasmā āsavānaṃ dukkhasaccapariyāyo tappariyāpannattā, sesasaccānañca taṃsamudayādipariyāyo atthi, tasmā vuttaṃ **‘‘pariyāyato’’**ti. Dassento saccānīti yojanā. Āsavānaṃyeva cettha gahaṇaṃ ‘‘āsavānaṃ khayañāṇāyā’’ti āraddhattā. Tathā hi ‘‘kāmāsavāpi cittaṃ vimuccatī’’tiādinā (dī. ni. 1.248; ma. ni. 1.433; ma. ni. 3.19) āsavavimuttisīseneva sabbakilesavimutti vuttā. ‘‘Idaṃ dukkhanti yathābhūtaṃ pajanātī’’tiādinā missakamaggo idha kathitoti **‘‘saha vipassanāya koṭippattaṃ maggaṃ kathesī’’**ti vuttaṃ. **‘‘Jānato passato’’**ti iminā pariññāsacchikiriyābhāvanābhisamayā vuttā. ‘‘Vimuccatī’’ti iminā pahānābhisamayo vuttoti āha **‘‘iminā maggakkhaṇaṃ dassetī’’**ti. **‘‘Jānato passato’’**ti vā hetuniddesoyaṃ. Jānanahetu dassanahetu kāmāsavāpi cittaṃ vimuccatīti yojanā. Dhammānañhi samānakālikānampi paccayappaccayuppannatā sahajātakoṭiyā labbhatīti. Bhavāsavaggahaṇena cettha bhavarāgassa viya bhavadiṭṭhiyāpi samavarodhoti diṭṭhāsavassāpi saṅgaho daṭṭhabbo. Khīṇā jātītiādīhi padehi. Tassāti paccavekkhaṇāñāṇassa. Bhūminti pavattiṭṭhānaṃ.
煩悩の観点からは、漏と呼ばれる煩悩の観点からである。漏は苦諦の範疇に含まれるので、また他の真理もそれらの集起などの範疇にあるので、それゆえ「間接的に」と述べられている。「真理を示す」と解釈される。ここで漏だけが取られているのは、「漏尽智のために」と始まったからである。実際に、「欲漏からも心は解脱する」など(長部経典1.248;中部経典1.433;中部経典3.19)によって、漏からの解脱という見出しで一切の煩悩からの解脱が述べられている。「これは苦であると如実に知る」などによって、混合した道がここで説かれているので、「観と共に頂点に達した道を説いた」と述べられている。「知り、見る」という言葉によって、遍知と作証と修習の証得が述べられている。「解脱する」という言葉によって、捨断の証得が述べられていると「これによって道の瞬間を示す」と述べている。「知り、見る」とは、あるいは原因の指示である。知る原因、見る原因によって、欲漏からも心は解脱すると解釈される。同じ時間における現象であっても、因縁と因縁から生じたものとの関係は、共生の種類によって得られるからである。ここで有漏を捉えることによって、有愛のように有見も同様に包含されるので、見漏も包含されていると見なされるべきである。「生は尽きた」などの言葉によって。それの、とは省察智の。境地とは生起の場所である。
Yenādhippāyena ‘‘katamā panassā’’tiādinā codanā katā, taṃ vivaranto **‘‘na tāvassā’’**tiādimāha. Tattha na tāvassa atītā jāti khīṇā maggabhāvanāyāti adhippāyo. Tattha kāraṇamāha **‘‘pubbeva khīṇattā’’**ti. Na anāgatā assa jāti khīṇāti yojanā. Na anāgatāti ca anāgatabhāvasāmaññaṃ gahetvā lesena codeti, tenāha **‘‘anāgate vāyāmābhāvato’’**ti. Anāgataviseso panettha adhippeto, tassa ca khepane vāyāmopi labbhateva, tenāha **‘‘yā pana maggassā’’**tiādi. Ekacatupañcavokārabhavesūti bhavattayaggahaṇaṃ vuttanayena anavasesato jātiyā khīṇabhāvadassanatthaṃ. Tanti yathāvuttaṃ jātiṃ. Soti khīṇāsavo bhikkhu.
「では、彼の何の」などという意図で問いがなされたのであるが、それを説明して「まず彼の」などと述べている。そこでは、彼の過去の生が道修習によって尽きたのではない、という意味である。そこでの理由として「すでに尽きているから」と述べている。彼の未来の生は尽きていない、と解釈される。そして「未来ではない」とは、未来という一般的状態を捉えて暗示的に問いを投げかけているので、それゆえ「未来において努力がないから」と述べている。ここで未来の特定の側面が意図されており、その滅尽には努力も必要とされるので、それゆえ「道において」などと述べている。単一、四、五蘊の世々においてとは、述べられた方法によって、残りのない形で生が尽きた状態を示すために三界を包含している。それは、述べられた生である。彼は漏を尽くした比丘である。
Brahmacariyavāso nāma ukkaṭṭhaniddesena maggabrahmacariyassa nibbattanaṃ evāti āha **‘‘parivuttha’’**nti. Sammādiṭṭhiyā catūsu saccesu pariññādikiccasādhanavasena pavattamānāya sammāsaṅkappādīnampi dukkhasacce pariññābhisamayānuguṇā pavatti, itarasaccesu ca nesaṃ pahānābhisamayādipavatti pākaṭā eva, tena vuttaṃ **‘‘catūsu saccesu catūhi maggehi pariññāpahānasacchikiriyābhāvanāvasenā’’**ti. Dukkhanirodhamaggesu pariññāsacchikiriyābhāvanā yāvadeva samudayappahānatthāyāti āha **‘‘tena tena maggena pahātabbakilesā pahīnā’’**ti. Itthattāyāti ime pakārā itthaṃ, tabbhāvo itthattaṃ, tadatthanti vuttaṃ hoti. Te pana pakārā ariyamaggabyāpārabhūtā pariññādayo idhādhippetāti āha **‘‘evaṃ soḷasakiccabhāvāyā’’**ti. Te hi maggaṃ paccavekkhato maggānubhāvena pākaṭā hutvā upaṭṭhahanti, pariññādīsu ca pahānameva padhānaṃ tadatthattā itaresanti āha **‘‘kilesakkhayabhāvāya vā’’**ti. Pahīnakilesapaccavekkhaṇavasena vā evaṃ vuttaṃ. Dutiyavikappe itthattāyāti nissakke sampadānavacananti āha **‘‘itthabhāvato’’**ti. Aparanti anāgataṃ. Ime pana carimakattabhāvasaṅkhātā pañcakkhandhā pariññātā tiṭṭhanti, etena tesaṃ appatiṭṭhataṃ dasseti. Apariññāmūlikā hi patiṭṭhā. Yathāha ‘‘kabaḷīkāre ce bhikkhave āhāre atthi rāgo atthi nandī atthi taṇhā, patiṭṭhitaṃ tattha viññāṇaṃ virūḷha’’ntiādi. (Saṃ. ni. 2.64; kathā. 296; mahāni. 7) tenevāha **‘‘chinnamūlakā rukkhā viyā’’**tiādi.
「梵行住とは、優れた教説によって道梵行が成就することである」と言って、「行われた」という。正見によって四諦における遍知などの行為が成就する様相で活動している場合、正思惟なども苦諦における遍知の覚悟に適した活動であり、他の諦においてもそれらの捨断の覚悟などの活動は明らかである。それゆえ、「四諦において四つの道によって遍知・捨断・体得・修習の様相によって」と言われた。苦滅道における遍知・体得・修習は、まさしく集の捨断のためである、と言って、「その道によって捨断すべき煩悩は捨断された」という。「itthattāyā」とは「これらの様相は、そのように、そのあり方は『itthattā』であり、その目的を意味する」と言われている。それらの様相、すなわち聖道の働きである遍知などは、ここで意図されている、と言って、「かくのごとく十六の行為の状態のために」という。それらは、道を省察する者には、道の威力によって明らかになって現れ、遍知などにおいては、捨断こそが主要なものであり、他のものはその目的のためである、と言って、「あるいは煩悩滅尽の状態のために」という。あるいは、捨断された煩悩を省察する様相でこのように言われた。第二の選択肢では、「itthattāyā」は与格である、と言って、「その状態ゆえに」という。「aparanti」とは「未生」である。これらの最後の存在の状態と呼ばれる五蘊は遍知され、それによってそれらの無基盤性を示す。遍知なきものが基盤であるからである。世尊が「比丘たちよ、食塊という食事に貪欲があり、喜びがあり、渇愛があるならば、識はそこに確立され、成長する」などと仰せになったように。それゆえ、「根を断たれた木々のように」などと言われた。
249. Pabbatamatthaketi pabbatasikhare. Tañhi yebhuyyena saṅkhittaṃ saṅkucitaṃ hotīti pāḷiyaṃ ‘‘pabbatasaṅkhepe’’ti vuttaṃ. Pabbatapariyāpanno vā padeso pabbatasaṅkhepo. Anāviloti akālusiyo, sā cassa anāvilatā kaddamābhāvena hotīti āha **‘‘nikkaddamo’’**ti. Sippiyoti suttiyo. Sambukāti saṅkhalikā. Ṭhitāsupi nisinnāsupi gāvīsu. Vijjamānāsūti labbhamānāsu, itarā ṭhitāpi nisinnāpi ‘‘carantī’’ti vuccanti sahacaraṇanayena. Tiṭṭhantameva, na pana kadācipi carantaṃ. Dvayanti sippisambukaṃ, macchagumbanti idaṃ ubhayaṃ. Tiṭṭhantanti vuttaṃ carantaṃ pīti adhippāyo. **‘‘Itarañca dvaya’’**nti ca yathāvuttameva sippisambukādidvayaṃ vadati. Tañhi caratīti. Kiṃ vā imāya sahacariyāya, yathālābhaggahaṇaṃ panettha daṭṭhabbaṃ. Sakkharakathalassa hi vasena tiṭṭhantanti. Sippisambukassa macchagumbassa ca vasena tiṭṭhantampi carantaṃ pīti yojanā kātabbā.
249. 「Pabbatamatthake」とは「山頂」のこと。それはほとんどの場合、縮められ、集められているからパーリ語では「Pabbatasaṅkhepe」と言われる。あるいは山に含まれる場所が「Pabbatasaṅkhepo」である。「Anāvilo」とは「濁りがない」こと。その濁りがない状態は泥がないことによって生じる、と言って、「泥なきもの」という。「Sippiyo」とは「真珠貝」。「Sambukā」とは「巻貝」。立っている牛にも、座っている牛にも。「Vijjamānāsu」とは「得られる状態にあるもの」。それ以外の立っているものも座っているものも、慣習に従って「歩いている」と言われる。ただ立っているだけで、決して歩いていないもの。「Dvaya」とは真珠貝と巻貝、魚の群れ、この二つ。「Tiṭṭhantaṃ」と言われたことは、「歩いている」ことも意図している。また「他の二つ」とは、上述の真珠貝や巻貝などの二つを指す。それは歩くからである。あるいは、この随伴とは何か。ここでは「得られたものを取る」と見なすべきである。それは小石の地面の状態ゆえに「立っている」のである。真珠貝や巻貝、そして魚の群れの状態ゆえに、「立っている」ものも「歩いている」ものも、と解釈すべきである。
Tesaṃ dasannaṃ ñāṇānaṃ. Tatthāti tasmiṃ ārammaṇavibhāge, tesu vā ñāṇesu. Bhūmibhedato, kālabhedato, santānabhedato cāti **sattavidhārammaṇaṃ vipassanāñāṇaṃ. ‘‘Rūpāyatanamattamevā’’**ti idaṃ tassa ñāṇassa abhinimmiyamāne manomaye kāye rūpāyatanamevārabbha pavattanato vuttaṃ, na tattha gandhāyataṃ ādīnaṃ abhāvato. Na hi rūpakalāpo gandhāyataṃ ādirahito atthi. Parinipphannameva nimmitarūpaṃ, tenāha **‘‘parittapaccuppannabahiddhārammaṇa’’**nti. Āsavakkhayañāṇaṃ nibbānārammaṇameva samānaṃ parittattikavasena appamāṇārammaṇaṃ, ajjhattattikavasena bahiddhārammaṇaṃ, atītattikavasena navattabbārammaṇañca hotīti āha **‘‘appamāṇabahiddhānavattabbārammaṇa’’**nti. Kūṭo viya kūṭāgārassa bhagavato desanāya arahattaṃ uttamaṅgabhūtanti āha **‘‘arahattanikūṭenā’’**ti. Desanaṃ niṭṭhāpesīti titthakaramataharavibhāviniṃ nānāvidhakuhanalapanādimicchājīvaviddhaṃsiniṃ tividhasīlālaṅkataṃ paramasallekhapaṭipattidīpaniṃ jhānābhiññādiuttarimanussadhammavibhūsitaṃ cuddasavidhamahāsāmaññaphalapaṭimaṇḍitaṃ anaññasādhāraṇaṃ desanaṃ niṭṭhāpesi.
それらの十の智慧について。「Tattha」とは、その対象の分類において、あるいはそれらの智慧において。地の区別、時の区別、相続の区別による、七種対象の観智。「ただ色処のみ」とあるのは、その智が、新しく創造された意生身において、色処だけを対象として生起することによって言われたのであり、そこに香処などが存在しないからではない。なぜなら、色塊が香処などを欠いていることはないからである。完全に成就されたものが化作された色である。それゆえ、「微小、現在、外部の対象」と言う。漏尽智は、涅槃を対象とするものであるが、微小の三要素の点で「無量対象」となり、内なる三要素の点で「外部対象」となり、過去の三要素の点で「表現不能対象」となる、と言って、「無量、外部、表現不能の対象」と言う。屋根の頂点のように、屋根のある家にとって、世尊の説法にとって阿羅漢果が最高の部分である、と言って、「阿羅漢果という最高の頂点をもって」という。説法を終えた、とは、ティートタカラ派の教説を破壊し、様々な詐欺的な言辞などの誤った生活様式を打ち砕き、三種の戒によって荘厳され、最高の清浄行を示し、禅定や神通などの勝れた人間法によって飾られ、十四種の大沙門果によって荘厳された、他には類を見ない説法を終えた。
250. Ādimajjhapariyosānanti ādiñca majjhañca pariyosānañca. Sakkaccaṃ sagāravaṃ. Āraddhaṃ dhammasaṅgāhakehi.
250. 「Ādimajjhapariyosānaṃ」とは、初めと、中間と、終わり。心を込めて、敬意をもって。法を結集する者たちによって始められた。
Abhikkantā vigatāti atthoti āha **‘‘khaye dissatī’’**ti. Tathā hi ‘‘nikkhanto paṭhamo yāmo’’ti upari vuttaṃ. Abhikkantataroti ativiya kantataro manoramo, tādiso ca sundaro bhaddako nāma hotīti āha **‘‘sundare dissatī’’**ti. Koti devanāgayakkhagandhabbādīsu ko katamo. Meti mama. Pādānīti pāde. Iddhiyāti imāya evarūpāya deviddhiyā. Yasasāti iminā edisena parivārena, parijanena ca. Jalanti vijjotamāno. Abhikkantenāti ativiya kantena kamanīyena abhirūpena. Vaṇṇenāti chavivaṇṇena sarīravaṇṇanibhāya. Sabbā obhāsayaṃ disāti dasapi disā pabhāsento cando viya, sūriyo viya ca ekobhāsaṃ ekālokaṃ karontoti gāthāya attho. Abhirūpeti uḷārarūpe sampannarūpe.
「Abhikkantā」は「過ぎ去った」という意味である、と言って、「滅尽に見える」という。実際、「最初の夜の時間帯は過ぎ去った」と上に言われたように。「Abhikkantataro」とは「非常に好ましく、魅力的である」ことであり、そのようなものは「美しい」「良い」ものと呼ばれる、と言って、「美しいものに見える」という。「Ko」とは天、龍、夜叉、ガンダルヴァなどのうちの誰か、どれか。「Me」とは「私の」。「Pādāni」とは「足」。「Iddhiyā」とは「このような神の神通力によって」。「Yasasā」とは「このような従者、眷属をもって」。「Jalanti」とは「輝く」。「Abhikkantena」とは「非常に好ましく、魅力的な姿で」。「Vaṇṇena」とは「肌の色、身体の色の輝きによって」。「Sabbā obhāsayaṃ disā」とは、十方を照らし、月のように、太陽のように、一つの輝き、一つの光を放つという意味である。「Abhirūpe」とは「優れた姿、完璧な姿」。
‘‘Coro coro, sappo sappo’’tiādīsu bhaye āmeḍitaṃ, ‘‘vijjha vijjha, pahara paharā’’tiādīsu kodhe, ‘‘sādhu sādhūtiādīsu (ma. ni. 1.327; saṃ. ni. 2.127; 3.35; 5.1005) pasaṃsāyaṃ, ‘‘gaccha gaccha, lunāhi lunāhī’’tiādīsu turite, ‘‘āgaccha āgacchā’’tiādīsu kotūhale, ‘‘buddho buddhoti cintento’’tiādīsu (bu. vaṃ. 44) acchare, ‘‘abhikkamathāyasmanto abhikkamathāyasmanto’’tiādīsu (dī. ni. 3.20; a. ni. 9.11) hāse, ‘‘kahaṃ ekaputtaka kahaṃ ekaputtakā’’tiādīsu (saṃ. ni. 2.63) soke, ‘‘aho sukhaṃ aho sukha’’ntiādīsu (udā. 20; dī. ni. 3.305; cūḷava. 332) pasāde. Ca-saddo avuttasamuccayattho, tena garahāasammānādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Tattha ‘‘pāpo pāpo’’tiādīsu garahāyaṃ, ‘‘abhirūpaka abhirūpakā’’tiādīsu asammāne daṭṭhabbaṃ.
「泥棒だ、泥棒だ」「蛇だ、蛇だ」などには恐怖における反復語、「撃て、撃て」「打て、打て」などには怒りにおける反復語、「善哉、善哉」などには称賛において、「行け、行け」「切れ、切れ」などには急がせるときに、「来い、来い」などには好奇心において、「ブッダ、ブッダと考えながら」などには驚きにおいて、「進め、尊者たちよ、進め、尊者たちよ」などには歓喜において、「私の唯一の子はどこだ、私の唯一の子はどこだ」などには悲嘆において、「ああ、幸福だ、ああ、幸福だ」などには清浄な心において用いられる。「Ca」という語は、述べられていないものを集める意味であり、それによって非難や軽蔑などが含まれると見なすべきである。そこで、「悪者だ、悪者だ」などには非難において、「美しい人よ、美しい人よ」などには軽蔑において見なすべきである。
Nayidaṃ āmeḍitavasena dvikkhattuṃ vuttaṃ, atha kho atthadvayavasenāti dassento **‘‘atha vā’’**tiādimāha ‘‘abhikkanta’’nti vacanaṃ apekkhitvā napuṃsakaliṅgavasena vuttaṃ. Taṃ pana bhagavato vacanaṃ dhammassa desanāti katvā tathā vuttaṃ. Atthamattadassanaṃ vā etaṃ, tasmā atthavasenettha liṅgavibhattipariṇāmo veditabbo. Dutiyapadepi eseva nayo. Dosanāsanatoti rāgādikilesavidhamanato. Guṇādhigamanatoti sīlādiguṇānaṃ sampādanato. Ye guṇe desanā adhigameti, tesu padhānabhūtā dassetabbāti te padhānabhūte tāva dassetuṃ **‘‘saddhājananato paññājananato’’**ti vuttaṃ. Saddhāpamukhā hi lokiyā guṇā paññāpamukhā lokuttarā. Sīlādiatthasampattiyā sātthato. Sabhāvaniruttisampattiyā sabyañjanato. Suviññeyyasaddapayogatāya uttānapadato. Saṇhasukhumabhāvena dubbiññeyyatthatāya gambhīratthato. Siniddhamudumadhurasaddapayogatāya kaṇṇasukhato. Vipulavisuddhapemanīyatthatāya hadayaṅgamato. Mānātimānavidhamanena anattukkaṃsanato. Thambhasārambhanimmaddanena aparavambhanato. Hitādhippāyappavattiyā, paresaṃ rāgapariḷāhādivūpagamanena ca karuṇāsītalato. Kilesandhakāravidhamanena paññāvadātato. Karavīkarutamañjutāya āpātharamaṇīyato. Pubbāparāviruddhasuvisuddhatāya vimaddakkhamato. Āpātharamaṇīyatāya eva suyyamānasukhato. Vimaddakkhamatāya, hitajjhāsayappavattitāya ca vīmaṃsiyamānahitato. Evamādīhīti ādi-saddena saṃsāracakkanivattanato saddhammacakkappavattanato, micchāvādaviddhaṃsanato sammāvādapatiṭṭhāpanato, akusalamūlasamuddharaṇato kusalamūlasaṃropanato, apāyadvārapidhānato saggamaggadvāravivaraṇato, pariyuṭṭhānavūpasamanato anusayasamugghāṭanatoti evamādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo.
これは反復語として二度言われたのではなく、二つの意味の様相によってである、と示すために「あるいは」などと言い、さらに「Abhikkanta」という語を考慮して中性名詞として言われた。しかし、それは世尊の言葉であり、法の説法であるとして、そのように言われた。あるいはこれは意味を示すに過ぎないため、意味によってここでの性や格の変化を理解すべきである。第二の語についても同じである。「Dosanāsanato」とは、貪欲などの煩悩を滅ぼすからである。「Guṇādhigamanato」とは、戒などの功徳を成就するからである。説法が成就する功徳のうち、主要なものを示すべきであるため、主要なものとしてまず「信を生じさせること、智慧を生じさせること」と言われた。世俗の功徳は信を主とし、出世間の功徳は智慧を主とするからである。戒などの意味の具足によって、有益である。本質的な表現の具足によって、明瞭である。よく理解される言葉遣いによって、平易な言葉である。細やかで微妙な性質によって、理解し難い意味であるため、深遠な意味である。滑らかで柔らかく甘い言葉遣いによって、耳に快い。広大で清浄で愛すべき意味によって、心に響く。慢や過慢を滅ぼすことによって、自らを褒めない。高慢や争いを粉砕することによって、他者を軽蔑しない。利益を意図する行動によって、また他者の貪欲や煩悩などの熱を鎮めることによって、慈悲深く涼しい。煩悩の闇を打ち破ることによって、智慧が清らかである。カラヴィーカ鳥の美しい声のように、一見して魅力的である。前後が矛盾せず、非常に清らかであるため、批判に耐えうる。一見して魅力的であるから、聞く者に快い。批判に耐えうるため、また利益を意図する行動によって、探究されると利益がある。「Evamādīhi」とは、「など」の語によって、輪廻の車を止め、正法の車を回し、邪見を打ち破り、正見を確立し、不善の根本を根絶し、善の根本を植え付け、悪趣の門を閉じ、天界の道の門を開き、随眠煩悩を鎮め、煩悩の潜在傾向を根こそぎにすること、などの包含を示すべきである。
Adhomukhaṭṭhapitanti kenaci adhomukhaṃ ṭhapitaṃ. Heṭṭhāmukhajātanti sabhāveneva heṭṭhāmukhaṃ jātaṃ. Ugghāṭeyyāti vivaṭaṃ kareyya. Hatthe gahetvā ‘‘puratthābhimukho, uttarābhimukho vā gacchā’’tiādīni avatvā hatthe gahetvā nissandehaṃ katvā. ‘‘Esa maggo, evaṃ gacchā’’ti dasseyya. Kāḷapakkhacātuddasīti kāḷapakkhe cātuddasī. Nikkujjitaṃ ādheyyassa anādhārabhūtaṃ bhājanaṃ ādhārabhāvāpādanavasena ukkujjeyya. Aññāṇassa abhimukhattā heṭṭhāmukhajātatāya saddhammavimukhaṃ adhomukhaṭṭhapitatāya asaddhamme patitanti evaṃ padadvayaṃ yathārahaṃ yojetabbaṃ, na yathāsaṅkhyaṃ. Kāmaṃ kāmacchandādayo paṭicchādakā nīvaraṇabhāvato, micchādiṭṭhi pana savisesaṃ paṭicchādikā satte micchābhinivesanavasenāti āha **‘‘micchādiṭṭhigahanapaṭicchanna’’**nti. Tenāha bhagavā ‘‘micchādiṭṭhiparamāhaṃ bhikkhave vajjaṃ vadāmī’’ti. Sabbo apāyagāmimaggo kummaggo kucchito maggoti katvā. Sammādiṭṭhiādīnaṃ ujupaṭipakkhatāya micchādiṭṭhiādayo aṭṭha micchattadhammā micchāmaggā. Teneva hi tadubhayapaṭipakkhataṃ sandhāya **‘‘saggamokkhamaggaṃ āvikarontenā’’**ti vuttaṃ. Sappiādisannissayo padīpo na tathā ujjalo, yathā telasannissayoti telapajjota-ggahaṇaṃ. Etehi pariyāyehīti etehi nikkujjitukkujjanapaṭicchannavivaraṇādiupamopamitabbappakārehi, etehi vā yathāvuttehi nānāvidhakuhanalapanādimicchājīvavividhamanādivibhāvanapariyāyehi. Tenāha **‘‘anekapariyāyena dhammo pakāsito’’**ti.
「Adhomukhaṭṭhapitaṃ」とは、誰かによって下向きに置かれたもの。「Heṭṭhāmukhajātaṃ」とは、本性として下向きに生じたもの。「Ugghāṭeyya」とは開く、開放する。手に取って、「東に向かって行け、北に向かって行け」などと言わず、手に取って疑いなくするように。「これが道だ、このように行け」と示すであろう。「Kāḷapakkhacātuddasī」とは、黒月の十四日。逆さまにされた、中身の容器となりえない器を、容器となるように上向きにする。無知に面しているゆえに下向きに生じたもの、正法に背いているゆえに下向きに置かれたもの、邪法に堕ちたもの、とこのように二つの語を適切に組み合わせるべきであり、順序通りではない。欲愛などは蓋(覆い)として五蓋となるが、邪見は特に衆生を誤った見解に陥らせる様相で蓋である、と言って、「邪見の密林によって覆われた」という。それゆえ世尊は「比丘たちよ、私は邪見を最大の過ちであると説く」と仰せになった。すべての悪趣へ向かう道は邪道であり、嫌悪すべき道であるとして。正見などに対してまっすぐに対立するゆえに、邪見などの八つの邪道法は邪道である。まさにそれゆえ、その両者に対立することを意図して、「天界と解脱の道を示すことによって」と言われた。ギーなどを燃料とする灯りは、油を燃料とする灯りのように明るくはないので、油の灯りが挙げられる。「これらの方法によって」とは、これらの逆さまにされたものを上向きにする、覆われたものを開くなどの喩えられた様々な方法によって、あるいは上述の様々な詐欺的な言辞などの誤った生活様式を打ち破るなどの説明の方法によって。それゆえ、「多くの方法によって法は説かれた」と述べられる。
Pasannakāranti pasannehi kātabbaṃ sakkāraṃ. Saraṇanti paṭisaraṇaṃ, tenāha **‘‘parāyaṇa’’**nti. Parāyaṇabhāvo ca anatthanisedhanena, atthasampaṭipādanena ca hotīti āha **‘‘aghassa tātā, hitassa ca vidhātā’’**ti. Aghassāti dukkhatoti vadanti, pāpatoti pana attho yutto, nissakke cetaṃ sāmivacanaṃ. Ettha ca nāyaṃ gamu-saddo nī-saddādayo viya dvikammako, tasmā yathā ‘‘ajaṃ gāmaṃ netī’’ti vuccati, evaṃ ‘‘bhagavantaṃ saraṇaṃ gacchāmī’’ti vattuṃ na sakkā, ‘‘saraṇanti gacchāmī’’ti pana vattabbaṃ. Iti-saddo cettha luttaniddiṭṭho. Tassa cāyamattho. Gamanañca tadadhippāyena bhajanaṃ jānanaṃ vāti dassento **‘‘iminā adhippāyenā’’**tiādimāha. Tattha **‘‘bhajāmī’’**tiādīsu purimassa purimassa pacchimaṃ pacchimaṃ atthavacanaṃ, bhajanaṃ vā saraṇādhippāyena upasaṅkamanaṃ, sevanaṃ santikāvacaratā, payirupāsanaṃ vattapaṭivattakaraṇena upaṭṭhānanti evaṃ sabbathāpi anaññasaraṇataṃyeva dīpeti. **‘‘Gacchāmī’’**ti padassa bujjhāmīti ayamattho kathaṃ labbhatīti āha **‘‘yesañhī’’**tiādi.
「Pasannakāra」とは、清らかなる者たちによってなされるべき尊敬。「Saraṇa」とは「避難所」、それゆえ「帰依処」と言う。帰依処となることは、害悪を防ぐことと、利益を成就することによって生じる、と言って、「父よ、災いから救い、利益をもたらす者」という。「Aghassa」は「苦」と言う者もいるが、「悪」という意味が適切であり、これは属格の所有格である。ここにおいて、「gamu」という語は「nī」などの語のように二つの目的語を取るものではない。したがって、「彼はヤギを村へ連れて行く」と言われるように、「世尊に帰依する」とは言えず、「帰依として行く」と言うべきである。そして「iti」という語はここで省略されている。その意味は次の通りである。「行く」とは、その意図をもって仕えること、知ることである、と示して、「この意図をもって」などと言う。そこで「仕える」などでは、前の語の次の語がその意味を説明している。仕えること、あるいは帰依の意図をもって近づくこと、仕えること、身近にいること、奉仕すること、定められた行いや反行を行うことによる奉仕、とこのように、あらゆる点で他のものに帰依しないことを示す。「行く」という語から「知る」という意味がどのように得られるのか、と言って、「なぜなら」などと言う。
**‘‘Adhigatamagge sacchikatanirodhe’’**ti padadvayenāpi phalaṭṭhā eva dassitā, na maggaṭṭhāti te dassento **‘‘yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjamāne cā’’**tiādimāha. Nanu ca kalyāṇaputhujjanopi ‘‘yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjatī’’ti vuccatīti? Kiñcāpi vuccati, nippariyāyena pana maggaṭṭhā eva tathā vattabbā, na itaro niyāmokkamanābhāvato. Tathā hi te eva vuttā **‘‘apāyesu apatamāne dhāretī’’**ti. Sammattaniyāmokkamanena hi apāyavinimuttasambhavo. Akkhāyatīti ettha iti-saddo ādiattho, pakārattho vā, tena ‘‘yāvatā bhikkhave dhammā saṅkhatā vā asaṅkhatā vā, virāgo tesaṃ aggaṃ akkhāyatī’’ti (itivu. 90; a. ni. 4.34) suttapadaṃ saṅgaṇhāti, **‘‘vitthāro’’**ti vā iminā. Ettha ca ariyamaggo niyyānikatāya, nibbānaṃ tassa tadatthasiddhihetutāyāti ubhayameva nippariyāyena ‘‘dhammo’’ti vutto. Nibbānañhi ārammaṇapaccayabhūtaṃ labhitvā ariyamaggassa tadatthasiddhi. Tathāpi yasmā ariyaphalānaṃ ‘‘tāya saddhāya avūpasantāyā’’tiādi vacanato maggena samucchinnānaṃ kilesānaṃ paṭipassaddhippahānakiccatāya, niyyānānuguṇatāya, niyyānapariyosānatāya ca, pariyattidhammassa pana ‘‘niyyānadhammassa samadhigamanahetutāyā’’ti iminā pariyāyena vuttanayena dhammabhāvo labbhati eva. Svāyamattho pāṭhārūḷho evāti dassento **‘‘na kevala’’**ntiādimāha.
「道を得、滅諦を証した」というこの二つの語によっても、道位にある者ではなく、果位にある者のみが示されていることを彼らに示すために、「教えられた通りに実践する者にも」などと述べた。善良な凡夫も「教えられた通りに実践する」と言われるのではないかと?そうは言われるとしても、真実の意味では道位にある者こそがそのように言われるべきであり、他の者は定められた道を歩むことがないゆえにそうではない。というのも、彼らこそが「悪趣に堕ちることなく保持する」と述べられているからである。正しい定まった道を歩むことによってこそ、悪趣からの解脱が可能となる。ここに「説かれる」という語における「iti」は、など、あるいは種類を表す意味である。それによって、「比丘たちよ、有為なものも無為なものも、すべての法の中で、離貪が最も優れたものと説かれる」(Itivu. 90; A.Ni. 4.34)という経典の句を包含し、「広範なものである」という言葉で(説明される)。ここにおいて、聖なる道は解脱へと導くものであるがゆえに、そして涅槃はその目的達成の要因であるゆえに、この両方が真実の意味で「法」と称される。涅槃は、対象となる条件となって、聖なる道のその目的達成となるのである。そうであっても、聖なる果報が「その揺るぎない信仰によって」などという理由により、道によって根絶された煩悩の鎮静化と除去の働き、解脱への適合性、そして解脱を究極とすることによって、また、教法は「解脱の法に達する原因である」という、この理由によって述べられた方法により、法としての性質を得るのである。この意味は、本文にすでに明らかなことであると示すために、「単に~ではない」などと述べた。
‘‘Kāmarāgo bhavarāgo’’ti evamādi bhedo sabbopi rāgo virajjati etenāti rāgavirāgoti maggo kathito. Ejāsaṅkhātāya taṇhāya, antonijjhānalakkhaṇassa sokassa ca taduppattiyaṃ sabbaso parikkhīṇattā anejaṃ asokanti phalaṃ kathitaṃ. Appaṭikūlanti avirodhadīpanato kenaci aviruddhaṃ, iṭṭhaṃ paṇītanti vā attho. Paguṇarūpena pavattitattā, pakaṭṭhaguṇavibhāvanato vā paguṇaṃ. Yathāha ‘‘vihiṃsasaññī paguṇaṃ na bhāsiṃ, dhammaṃ paṇītaṃ manujesu brahme’’ti. (Ma. ni. 1.283; ma. ni. 2.339; mahāva. 9) sabbadhammakkhandhā kathitāti yojanā.
「欲貪、有貪」などといった、すべての煩悩がこれによって離れるがゆえに、「離貪」として道(magga)が説かれた。動揺と呼ばれる渇愛と、内なる燃焼を特徴とする悲しみが、その生起において完全に滅尽されたがゆえに、「動揺なく、悲しみなく」として果(phala)が説かれた。「不厭離」とは、何ものとも対立しないこと、あるいは意にかなう優れたものであることを示す。習熟した状態として存在すること、あるいは卓越した特質が明らかにされていることによって「熟達した」という。例えば「私は害意を持つ思いで、熟達していないことを語らず、人々にとって優れた法を説いた、ブラフマーよ」と述べられているように。(Ma. Ni. 1.283; Ma. Ni. 2.339; Mahāva. 9) すべての法の集積が説かれている、と解釈される。
Diṭṭhisīlasaṅghātenāti ‘‘yāyaṃ diṭṭhi ariyā niyyānikā niyyāti takkarassa sammā dukkhakkhayāya, tathārūpāya diṭṭhiyā diṭṭhisāmaññagato viharatī’’ti (dī. ni. 3.324; ma. ni. 4.92; 3.54) evaṃ vuttāya diṭṭhiyā, ‘‘yāni tāni sīlāni akhaṇḍāni acchiddāni asabalāni akammāsāni bhujissāni viññuppasatthāni aparāmaṭṭhāni samādhisaṃvattanikāni, tathārūpehi sīlehi sīlasāmaññagato viharatī’’ti (dī. ni. 3.323; ma. ni. 1.492; 3.54; a. ni. 6.11; pari. 274) evaṃ vuttānaṃ sīlānañca saṃhatabhāvena, diṭṭhisīlasāmaññenāti attho. Saṃhatoti ghaṭito, sametoti attho. Ariyapuggalā hi yattha katthaci dūre ṭhitāpi attano guṇasāmaggiyā saṃhatā eva. Aṭṭha ca puggaladhammadasā teti te purisayugavasena cattāropi puggalavasena aṭṭheva ariyadhammassa paccakkhadassāvitāya dhammadasā. Tīṇi vatthūni ‘‘saraṇa’’nti gamanena, tikkhattuṃ gamanena ca tīṇi saraṇagamanāni. Paṭivedesīti attano hadayagataṃ vācāya pavedesi.
「見と戒の結合によって」とは、「この見、聖なる解脱に至るものであり、正しく苦の滅尽へと導くその者にとっては解脱に導くものであり、そのような見によって見を共有して住む」(Dī. Ni. 3.324; Ma. Ni. 4.92; 3.54)とこのように述べられた見と、「それらの戒、すなわち欠けることなく、綻びなく、斑なく、汚れなく、自由であり、識者によって賞賛され、執着されず、定に資するものである戒によって、そのような戒を共有して住む」(Dī. Ni. 3.323; Ma. Ni. 1.492; 3.54; A. Ni. 6.11; Pari. 274)とこのように述べられた戒との結合によって、すなわち見と戒の共有によってという意味である。「結合された」とは、結びついた、結合したという意味である。聖なる人々は、たとえどれほど遠くに離れていようとも、自分たちの徳の全体性によって結合しているのである。そして八人の個人、十の法の見者は、対(ペア)として四人、個人として八人の聖なる法を直接見る者であるため、法の見者である。「依所」と三度行くことで、三つの帰依がある。「パティヴェーデーシー」とは、心にあることを言葉で表現した。
Saraṇagamanassa visayappabhedaphalasaṃkilesabhedānaṃ viya kattu ca vibhāvanā tattha kosallāya hotīti **‘‘saraṇagamanesu kosallatthaṃ saraṇaṃ…pe… veditabbo’’**ti vuttaṃ tena vinā saraṇagamanasseva asambhavato. Kasmā panettha vodānaṃ na gahitaṃ, nanu vodānavibhāvanāpi tattha kosallāvahāti? Saccametaṃ, taṃ pana saṃkilesaggahaṇeneva atthato dīpitaṃ hotīti na gahitaṃ. Yāni hi nesaṃ saṃkilesakāraṇāni aññāṇādīni, tesaṃ sabbena sabbaṃ anuppannānaṃ anuppādanena, uppannānañca pahānena vodānaṃ hotīti. Hiṃsatthassa sara-saddassa vasenetaṃ padaṃ daṭṭhabbanti ‘‘hiṃsatīti saraṇa’’nti vatvā taṃ pana hiṃsanaṃ kesaṃ kathaṃ kassa vāti codanaṃ sodhento **‘‘saraṇagatāna’’**ntiādimāha. Tattha bhayanti vaṭṭabhayaṃ. Santāsanti cittutrāsaṃ teneva cetasikadukkhassa gahitattā. Dukkhanti kāyikadukkhaṃ. Duggatiparikilesanti duggatipariyāpannaṃ sabbampi dukkhaṃ, tayidaṃ sabbaṃ parato phalakathāyaṃ āvibhavissati. Etanti ‘‘saraṇa’’nti padaṃ.
帰依の対象、分類、結果、煩悩の分類のように、それを行うことの明確化も熟達のためになるゆえに、「帰依において熟達するためには、帰依は…(略)…理解されるべきである」と述べられた。なぜなら、それがなければ帰依そのものが不可能だからである。なぜここでは清浄が取り上げられていないのか、清浄の明確化も熟達を導くのではないか?それは真実であるが、それは煩悩を取り上げることで意味上示されるため、ここでは取り上げられていないのである。彼らの煩悩の原因である無知などが、まったく生じないようにすること、そして生じたものを捨てることによって清浄となるからである。「害する」という意味の「サラ」という言葉に基づいて、この語を見るべきである、と「害するから帰依である」と述べて、その「害すること」が誰をどのように、誰に対して害するのかという問いを解消するために、「帰依した者たちにとって」などと述べた。ここでの「怖れ」とは輪廻の怖れである。「戦慄」とは心の恐怖であり、それによって精神的な苦痛が含まれる。「苦しみ」とは身体的な苦痛である。「悪趣の煩悩」とは悪趣に含まれるすべての苦しみであり、これらすべては後に果報の解説で明らかになるだろう。これらが「帰依」という語である。
Evaṃ avisesato saraṇa-saddassa atthaṃ dassetvā idāni visesato dassetuṃ **‘‘atha vā’’**tiādi vuttaṃ. Hite pavattanenāti ‘‘sampannasīlā bhikkhave viharathā’’tiādinā (ma. ni. 1.64, 69) atthe niyojanena. Ahitā ca nivattanenāti. ‘‘Pāṇātipātassa kho pāpako vipāko, pāpakaṃ abhisamparāya’’ntiādinā ādīnavadassanādimukhena anatthato nivattanena. Bhayaṃ hiṃsatīti hitāhitesu appavattipavattihetukaṃ byasanaṃ appavattikaraṇena vināseti. Bhavakantārā uttāraṇena maggasaṅkhāto dhammo, itaro assāsadānena sattānaṃ bhayaṃ hiṃsatīti yojanā. Kārānanti dānavasena pūjāvasena ca upanītānaṃ sakkārānaṃ. Vipulaphalapaṭilābhakaraṇena sattānaṃ bhayaṃ hiṃsatīti yojanā, anuttaradakkhiṇeyyabhāvatoti adhippāyo. Imināpi pariyāyenāti imināpi vibhajitvā vuttena kāraṇena.
このように「帰依」という言葉の一般的な意味を示した後、今度は特定の意味を示すために「あるいは」などと述べられた。善に励むこととは、「比丘たちよ、戒を具して住みなさい」など(Ma. Ni. 1.64, 69)によって、善に専心させることである。そして悪から遠ざかることとは、「殺生には悪しき結果があり、来世においても悪しきものである」などと、その悪果を示すことなどによって、悪しきことから遠ざかることである。恐怖を害するとは、善悪において不活動または活動の原因となる災いを、不活動にすることによって滅ぼすという意味である。生存の荒野から救い出すことによって、道と称される法は、他者(聖者)は慰めを与えることによって衆生の恐怖を害する、と解釈される。「カーラーナン」とは、施しとして、また供養として差し出された尊敬の念である。広大な果報を得させることによって衆生の恐怖を害する、と解釈される。これは、無上の供養に値する存在である、という意味である。この方法によっても、とは、このように分類して述べられた理由によってという意味である。
‘‘Sammāsambuddho bhagavā, svākkhāto dhammo, suppaṭipanno saṅgho’’ti evaṃ pavatto tattha ratanattaye pasādo tappasādo, tadeva ratanattayaṃ garu etassāti taggaru tabbhāvo taggarutā, tappasādo ca taggarutā ca tappasādataggarutā, tāhi tappasādataggarutāhi. Vidhūtadiṭṭhivicikicchāsammohaassaddhiyāditāya vihatakileso. Tadeva ratanattayaṃ parāyaṇaṃ parāgati tāṇaṃ leṇanti evaṃ pavattiyā tapparāyaṇatākārappavatto cittuppādo saraṇagamanaṃ saraṇaṃ gacchati etenāti. Taṃsamaṅgīti tena yathāvuttacittuppādena samannāgato. Evaṃ upetīti bhajati sevati payirupāsati, evaṃ vā jānāti bujjhatīti evamattho veditabbo. Ettha ca pasāda-ggahaṇena lokiyasaraṇagamanamāha. Tañhi pasādappadhānaṃ. Garutāgahaṇena lokuttaraṃ. Ariyā hi ratanattayaṃ guṇābhiññatāya pāsāṇacchattaṃ viya garuṃ katvā passanti. Tasmā tappasādena vikkhambhanavasena vigatakileso, taggarutāya samucchedavasenāti yojetabbaṃ agāravakaraṇahetūnaṃ samucchindanato. Tapparāyaṇatā panettha taggatikatāti tāya catubbidhampi vakkhamānaṃ saraṇagamanaṃ gahitanti daṭṭhabbaṃ. Avisesena vā pasādagarutā jotitāti pasādaggahaṇena aveccappasādassa itarassa ca gahaṇaṃ, tathā garutāgahaṇenāti ubhayenāpi ubhayaṃ saraṇagamanaṃ yojetabbaṃ.
「世尊は正等覚者である、法は善く説かれている、僧伽は善く実践している」とこのように展開される、そこでの三宝に対する清信が「その清信」であり、その三宝を重んじるがゆえに「それを重んじる者」であり、その状態が「それを重んじること」である。「その清信」と「それを重んじること」が合わさって「その清信と重んじること」であり、それらの清信と重んじることによって。見や疑い、迷い、不信などが打ち払われたことによって煩悩が滅した者となる。その三宝を拠り所とし、最高の行き先とし、救いとし、避け所とする、とこのように展開される「その拠り所とする状態として生じる心作用」が「帰依」である。これによって「帰依へと赴く」のである。「これを具足する者」とは、先に述べた心作用を具足した者である。「このように近づく」とは、帰依し、奉仕し、敬う、あるいは、このように知り、理解する、とこのように意味を理解すべきである。ここにおいて、「清信」を取り上げることで世俗の帰依を説く。それは清信が主となるからである。「重んじること」を取り上げることで出世間の帰依を説く。なぜなら、聖者たちは三宝を、その徳を深く知るがゆえに、石の傘(堅固な避難所)のように重んじて見るからである。それゆえ、その清信によって遮断の仕方で煩悩が取り除かれ、重んじることによって根本的な断滅の仕方で(煩悩が滅する)、と解釈すべきである。これは不敬の原因を根絶するからである。ここでの「その拠り所とすること」とは「それに没頭すること」であるから、それによって後に述べる四種類の帰依も含まれると見るべきである。あるいは、差別なく清信と重んじることによって示される。清信を取り上げることで、確固たる清信とそれ以外の清信を包含し、同様に重んじることを取り上げることで、両方によって両方の帰依を解釈すべきである。
Maggakkhaṇe ijjhatīti yojanā. **‘‘Nibbānārammaṇaṃ hutvā’’**ti etena atthato catusaccādhigamo eva lokuttarasaraṇagamananti dasseti. Tattha hi nibbānadhammo sacchikiriyābhisamayavasena, maggadhammo bhāvanābhisamayavasena paṭivijjhiyamānoyeva saraṇagamanatthaṃ sādheti. Buddhaguṇā pana sāvakagocarabhūtā pariññābhisamayavasena, tathā ariyasaṅghaguṇā, tenāha **‘‘kiccato sakalepi ratanattaye ijjhatī’’**ti. Ijjhantañca saheva ijjhati, na lokiyaṃ viya patipāṭiyā asammohapaṭivedhena paṭividdhattāti adhippāyo. Ye pana vadanti ‘‘na saraṇagamanaṃ nibbānārammaṇaṃ hutvā pavattati. Maggassa adhigatattā pana adhigatameva hoti ekaccānaṃ tevijjādīnaṃ lokiyavijjādayo viyā’’ti, tesaṃ lokiyameva saraṇagamanaṃ siyā, na lokuttaraṃ, tañca ayuttaṃ duvidhassāpi icchitabbattā.
道(magga)の瞬間において成就する、と解釈される。「涅槃を対象として」とは、これによって、意味上、四聖諦の体得こそが出世間の帰依であると示される。そこでは、涅槃法は証得の観点から、道法は修習の観点から完全に通達されることによって、帰依の意味を成就するからである。しかし、仏陀の徳は、声聞の認識の対象となるものであるが、遍知の観点から、また聖なる僧伽の徳も同様である。それゆえ「機能の点からは、すべての三宝において成就する」と述べられた。そして、成就する際には、世俗のもののように順序を追ってではなく、同時に成就する。これは、無迷覚知によって完全に通達されるからである、というのが意味するところである。しかし、「帰依は涅槃を対象として起こるものではない。道が体得されたからといって、ある種の三明者などの世俗の知識のように、ただ体得されるだけである」と言う者たちがいるが、彼らにとっては世俗の帰依でしかなく、出世間の帰依とはならないだろう。それは適切ではない。両方の種類が望まれるべきだからである。
Tanti lokiyaṃ saraṇagamanaṃ. Saddhāpaṭilābho ‘‘sammāsambuddho bhagavā’’tiādinā. Saddhāmūlikāti yathāvuttasaddhāpubbaṅgamā sammādiṭṭhiti buddhasubuddhataṃ, dhammasudhammataṃ, saṅghasuppaṭipattiñca lokiyāvabodhavaseneva sammā ñāyena dassanato. **‘‘Saddhāmūlikā sammādiṭṭhī’’**ti etena saddhūpanissayā yathāvuttalakkhaṇā paññā lokiyasaraṇagamananti dasseti, tenāha **‘‘diṭṭhijukammanti vuccatī’’**ti. Diṭṭhi eva attano paccayehi uju karīyatīti katvā diṭṭhi vā uju karīyati etenāti diṭṭhijukammaṃ, tathā pavatto cittuppādo. Evañca katvā ‘‘tapparāyaṇatākārappavatto cittuppādo’’ti idaṃ vacanaṃ samatthitaṃ hoti. Saddhāpubbaṅgamasammādiṭṭhiggahaṇaṃ pana cittuppādassa tappadhānatāyāti daṭṭhabbaṃ. **‘‘Saddhāpaṭilābho’’**ti iminā mātādīhi ussāhitadārakādīnaṃ viya ñāṇavippayuttaṃ saraṇagamanaṃ dasseti, **‘‘sammādiṭṭhī’’**ti iminā ñāṇasampayuttaṃ saraṇagamanaṃ. Tayidaṃ lokiyaṃ saraṇagamanaṃ. Attā sanniyyātīyati appīyati pariccajīyati etenāti attasanniyyātanaṃ, yathāvuttaṃ diṭṭhijukammaṃ. Taṃ ratanattayaṃ parāyaṇaṃ paṭisaraṇaṃ etassāti tapparāyaṇo, puggalo, cittuppādo vā. Tassa bhāvo tapparāyaṇatā, yathāvuttaṃ diṭṭhijukammameva. ‘‘Saraṇa’’nti adhippāyena sissabhāvaṃ antevāsikabhāvaṃ upagacchati etenāti sissabhāvūpagamanaṃ. Saraṇagamanādhippāyeneva paṇipatati etenāti paṇipāto. Sabbattha yathāvuttadiṭṭhijukammavaseneva attho veditabbo.
それは世俗の帰依である。「正等覚者である世尊」などによる清信の獲得。清信を根本とするとは、先に述べた清信を先行する正見とは、仏陀の善覚性、法の善法性、僧伽の善行を、世俗的な理解において正しく見ることである。「清信を根本とする正見」とは、清信に依拠する先に述べた特徴を持つ智慧が世俗の帰依であることを示し、それゆえに「見を正直にする行為」と呼ばれるのである。見そのものが自身の縁によって正直にされるがゆえに、見を正直にする行為、あるいはこれによって見が正直にされるがゆえに、見を正直にする行為であり、そのように生じる心作用である。このようにして「その拠り所とする状態として生じる心作用」というこの言葉は意味が説明される。しかし、清信を先行する正見を取り上げることは、その心作用が優勢であると見るべきである。「清信の獲得」によって、母などによって励まされた子供などのように、知識を伴わない帰依を示す。「正見」によって、知識を伴う帰依を示す。これは世俗の帰依である。自分を委ねる、与える、捨てることによって「自己を委ねる」行為、すなわち先に述べた見を正直にする行為である。その三宝を拠り所、依所とするがゆえに「それを拠り所とする者」であり、個人、あるいは心作用である。その状態が「それを拠り所とすること」であり、先に述べた見を正直にする行為そのものである。「帰依」という意図によって、弟子としての状態、内弟子としての状態に至ることが「弟子としての状態に至ること」である。帰依の意図によって礼拝することが「礼拝」である。すべてにおいて、先に述べた見を正直にする行為に基づいて意味を理解すべきである。
Attapariccajananti saṃsāradukkhanittharaṇatthaṃ attano attabhāvassa pariccajanaṃ. Eseva nayo sesesupi. Buddhādīnaṃ yevāti avadhāraṇaṃ attasanniyyātanādīsupi tattha tattha vattabbaṃ. Evañhi tadaññanivattanaṃ kataṃ hoti.
「自己の放棄」とは、輪廻の苦しみから抜け出すために、自己の存在を放棄することである。他のものについても同様である。仏陀などにおいてのみ、という限定は、自己の委ねなどについても、それぞれの箇所で述べるべきである。このようにして、他のものを排除することが行われるのである。
Evaṃ attasanniyyātanādīni ekena pakārena dassetvā idāni aparehipi pakārehi dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi āraddhaṃ, tena pariyāyantarehipi attasanniyyātanādi katameva hoti atthassa abhinnattāti dasseti. Āḷavakādīnanti ādi-saddena sātāgirahemavatādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Nanu cete āḷavakādayo maggeneva āgatasaraṇagamanā, kathaṃ tesaṃ tapparāyaṇatāsaraṇagamanaṃ vuttanti? Maggenāgatasaraṇagamanehipi. ‘‘So ahaṃ vicarissāmi…pe… sudhammataṃ’’ (saṃ. ni. 1.246; su. ni. 194) ‘‘te mayaṃ vicarissāma, gāmā gāmaṃ nagā nagaṃ…pe… sudhammata’’nti, (su. ni. 182) tehi tapparāyaṇatākārassa paveditattā tathā vuttaṃ.
このように自己の委ねなどを一つの種類として示した後、今度は他の種類でも示すために「さらに」などと始められた。これによって、別の方法においても自己の委ねなどが行われたことになり、意味は同じであると示される。「アーラヴァカなど」とは、「など」という言葉によって、サーターギーラやヘーマヴァタなども含まれると見るべきである。これらのアーラヴァカらは、道によって帰依を得た者たちではないのか、なぜ彼らの「拠り所とする帰依」が説かれたのか?(という問いに対して)道によって帰依を得た者たちにも(当てはまる)。「私は遍歴するだろう…(略)…善法へと」 (Saṃ. Ni. 1.246; Su. Ni. 194) 「私たちは遍歴するだろう、村から村へ、山から山へ…(略)…善法へと」 (Su. Ni. 182) と彼らによってその拠り所とする状態が明らかにされているので、そのように述べられたのである。
So panesa ñāti…pe… vasenāti ettha ñātivasena, bhayavasena, ācariyavasena, dakkhiṇeyyavasenāti paccekaṃ yojetabbaṃ. Tattha ñātivasenāti ñātibhāvavasena. Evaṃ sesesupi. Dakkhiṇeyyapaṇipātenāti dakkhiṇeyyatāhetukena paṇipātena. Itarehīti ñātibhāvādivasappavattehi tīhi paṇipātehi. ‘‘Itarehī’’tiādinā saṅkhepato vuttamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘tasmā’’**tiādi vuttaṃ. Vandatīti paṇipātassa lakkhaṇavacanaṃ. Evarūpanti diṭṭhadhammikaṃ sandhāya vadati. Samparāyikañhi niyyānikaṃ vā anusāsaniṃ paccāsisanto dakkhiṇeyyapaṇipātameva karotīti adhippāyo.
「彼は親族によって…(略)…である」とは、ここにおいて、親族の理由で、恐怖の理由で、師の理由で、供養に値する理由で、とそれぞれ解釈すべきである。そこでの「親族の理由で」とは、親族であるという理由でという意味である。他についても同様である。「供養に値する礼拝」とは、供養に値する故の礼拝である。「他の者たちによって」とは、親族であることなどによる三つの礼拝である。「他の者たちによって」などによって、簡潔に述べられた意味を詳細に示すために「それゆえ」などと述べられた。「ヴァンダーティ」とは、礼拝の特徴を示す言葉である。このようなものは、現世に関するものを指して述べている。来世や解脱に導く教えを期待する者は、供養に値する礼拝のみを行う、というのが意味するところである。
Saraṇagamanappabhedoti saraṇagamanavibhāgo.
帰依の分類とは、帰依の分別である。
Ariyamaggo eva lokuttaraṃ saraṇagamananti **‘‘cattāri sāmaññaphalāni vipākaphala’’**nti vuttaṃ. Sabbadukkhakkhayoti sakalassa vaṭṭadukkhassa anuppādanirodho. Etanti ‘‘cattāri ariyasaccāni, sammappaññāya passatī’’ti evaṃ vuttaṃ ariyasaccassa dassanaṃ.
聖なる道こそが世を超えた帰依であるとは、「四沙門果は報いの果である」と説かれる。一切の苦の滅尽とは、全ての輪廻の苦が生じないように滅することである。これもまた、「四聖諦を正智によって見る」と説かれる聖諦の洞察である。
Niccādito anupagamanādivasenāti ‘‘nicca’’nti aggahaṇādivasena. Aṭṭhānanti hetupaṭikkhepo. Anavakāsoti paccayapaṭikkhepo. Ubhayenāpi kāraṇameva paṭikkhipati. Yanti yena kāraṇena. Diṭṭhisampannoti maggadiṭṭhiyā samannāgato sotāpanno. Kañci saṅkhāranti catubhūmakesu saṅkhatasaṅkhāresu ekasaṅkhārampi. Niccato upagaccheyyāti ‘‘nicco’’ti gaṇheyya. **‘‘Sukhato upagaccheyyā’’**ti. ‘‘Ekantasukhī attā hoti arogo paraṃ maraṇā’’ti (dī. ni. 1.76) evaṃ attadiṭṭhivasena sukhato gāhaṃ sandhāyetaṃ vuttaṃ. Diṭṭhivippayuttacittena pana ariyasāvako pariḷāhavūpasamanatthaṃ mattahatthiparittāsito viya cokkhabrāhmaṇo ukkārabhūmiṃ kañci saṅkhāraṃ sukhato upagacchati. Attavāre kasiṇādipaññattisaṅgahatthaṃ ‘‘saṅkhāra’’nti avatvā **‘‘kañci dhamma’’**nti vuttaṃ. Imesupi vāresu catubhūmakavaseneva paricchedo veditabbo, tebhūmakavaseneva vā. Yaṃ yañhi puthujjano gāhavasena gaṇhāti, tato tato ariyasāvako gāhaṃ viniveṭheti.
「常」などとして執着しないことなどについて、「常」などとして執着しないことを意味する。「あってはならないこと」とは、原因を否定すること。「機会がないこと」とは、条件を否定すること。両方とも原因を否定している。「によって」とは、その原因によって。「正見具足者」とは、道の見解を具備した預流者。「いかなる行も」とは、四界の有為なる行の中で、一つの行でさえも。「常として近づく」とは、「常である」と執着すること。「楽として近づく」とは。「死後には、我はまったく幸福で病がない」と(長部 1.76)のように、我見の故に楽として執着することを含んでこれを説かれたのである。しかし、見解から離れた心を持つ聖なる弟子は、熱を鎮めるために、酔った象に怯えた清らかなバラモンがゴミ捨て場を楽として受け入れるように、いかなる行も楽として受け入れる。我見の事例において、カシナなどの概念を包含するために、「行」と言わずに「いかなる法も」と説かれたのである。これらの事例においても、四界によって限定されるべきであるか、あるいは三界によって限定されるべきである。実に、凡夫が執着の故に執着するものは何であっても、聖なる弟子はその執着から離れるのである。
**‘‘Mātara’’**ntiādīsu janikā mātā, janako pitā, manussabhūto khīṇāsavo arahāti adhippeto. Kiṃ pana ariyasāvako aññaṃ jīvitā voropeyyāti? Etampi aṭṭhānaṃ, puthujjanabhāvassa pana mahāsāvajjabhāvadassanatthaṃ, ariyasāvakassa ca phaladassanatthaṃ evaṃ vuttaṃ. Duṭṭhacittoti vadhakacittena paduṭṭhacitto. Lohitaṃ uppādeyyāti jīvamānakasarīre khuddakamakkhikāya pivanamattampi lohitaṃ uppādeyya. Saṅghaṃ bhindeyyāti samānasaṃvāsakaṃ samānasīmāyaṃ ṭhitaṃ saṅghaṃ. ‘‘Kammena, uddesena, voharanto, anussāvanena, salākaggāhenā’’ti (pari. 458) evaṃ vuttehi pañcahi kāraṇehi bhindeyya. Aññaṃ satthāranti aññaṃ titthakaraṃ ‘‘ayaṃ me satthā’’ti evaṃ gaṇheyya, netaṃ ṭhānaṃ vijjatīti attho. Na te gamissanti apāyabhūminti te buddhaṃ saraṇaṃ gatā taṃnimittaṃ apāyaṃ na gamissanti, devakāyaṃ pana paripūressantīti attho.
「母を」などにおいて、生み出す母、生み出す父、人間として存在する漏尽の阿羅漢を意味する。しかし、聖なる弟子が他者の命を奪うことがありうるだろうか?それもまたあり得ないことだが、凡夫の状態の極めて大きな罪深さを示すため、そして聖なる弟子の結果を示すためにこのように説かれたのである。「悪意の心」とは、殺意の心によって汚された心。「血を出す」とは、生きている体から小さなハエが吸うほどの血でも出すこと。「僧伽を分裂させる」とは、同じ住処にいて同じ結界内にいる僧伽を。「業によって、目的によって、慣習によって、勧告によって、籤によって」(摂論 458)と説かれる五つの原因によって分裂させる。「他の師を」とは、他の異教徒の教祖を「この人が私の師である」として受け入れることだが、そのようなことはあり得ないという意味である。「彼らは悪趣には行かない」とは、彼らは仏に帰依した者として、その帰依の故に悪趣には行かず、むしろ天界を満たすであろうという意味である。
Dasahi ṭhānehīti dasahi kāraṇehi. Adhigaṇhantīti abhibhavanti. Velāmasuttādivasenāpīti ettha karīsassa catutthabhāgappamāṇānaṃ caturāsītisahassasaṅkhyānaṃ suvaṇṇapātirūpiyapātikaṃsapātīnaṃ yathākkamaṃ rūpiyasuvaṇṇahiraññapūrānaṃ, sabbālaṅkārapaṭimaṇḍitānaṃ caturāsītiyā hatthisahassānaṃ, caturāsītiyā assasahassānaṃ, caturāsītiyā rathasahassānaṃ, caturāsītiyā dhenusahassānaṃ, caturāsītiyā kaññāsahassānaṃ, caturāsītiyā pallaṅkasahassānaṃ, caturāsītiyā vatthakoṭisahassānaṃ, aparimāṇassa ca khajjabhojjādibhedassa āhārassa pariccajanavasena sattamāsādhikāni sattasaṃvaccharāni nirantaraṃ pavattavelāmamahādānato ekassa sotāpannassa dinnadānaṃ mahapphalataraṃ, tato sataṃ sotāpannānaṃ dinnadānato ekassa sakadāgāmino, tato ekassa anāgāmino, tato ekassa arahato, tato ekassa paccekabuddhassa, tato sammāsambuddhassa, tato buddhappamukhassa saṅghassa dinnadānaṃ mahapphalataraṃ, tato cātuddisasaṅghaṃ uddissa vihārakaraṇaṃ, tato saraṇagamanaṃ mahapphalataranti imamatthaṃ pakāsentassa velāmasuttassa (a. ni. 9.20) vasena. Vuttañhetaṃ ‘‘yaṃ gahapati velāmo brāhmaṇo dānaṃ adāsi mahādānaṃ, yo cekaṃ diṭṭhisampannaṃ bhojeyya, idaṃ tato mahapphalatara’’ntiādi (a. ni. 9.20). Velāmasuttādīti ādisaddena aggappasādasuttādīnaṃ (a. ni. 4.34; itivu. 90) saṅgaho daṭṭhabbo.
「十の理由によって」とは、十の原因によって。「勝る」とは、凌駕する。ヴェーラーマ経などによっても、ここで、肥沃な土地の四分の一の量の、八万四千個の金皿・銀皿・銅皿に、それぞれ銀・金・財宝を満たし、あらゆる装飾で飾られた八万四千頭の象、八万四千頭の馬、八万四千台の車、八万四千頭の雌牛、八万四千人の乙女、八万四千の寝台、八万四千の衣料品、そして無限の種類の食べ物や飲料を施す七年七ヶ月間続いたヴェーラーマ大施から施された一つの預流者への施しは、より大きな果報をもたらす。その百の預流者への施しよりも、一つの一来者への施しが、その一来者よりも一つの不還者への施しが、その不還者よりも一つの阿羅漢への施しが、その阿羅漢よりも一つの独覚仏への施しが、その独覚仏よりも正等覚者への施しが、その正等覚者よりも仏を先頭とする僧伽への施しが、より大きな果報をもたらす。その僧伽への施しよりも、四方僧伽のために精舎を建てることの方が、その精舎を建てることよりも、帰依することが、より大きな果報をもたらすというこの意味を説いているヴェーラーマ経(増支部 9.20)によっても。このように説かれている、「ヴェーラーマ居士バラモンが行った大施よりも、見解を具備した一人を供養する方が、これよりもはるかに大きな果報をもたらす」(増支部 9.20)と。「ヴェーラーマ経など」とは、「など」の語によって、最勝の信経など(増支部 4.34; 自説部 90)が包含されると理解すべきである。
Aññāṇaṃ vatthuttayassa guṇānaṃ ajānanaṃ, tattha sammoho. ‘‘Buddho nu kho, na nu kho’’tiādinā vicikicchā saṃsayo. Micchāñāṇaṃ tassa guṇānaṃ aguṇabhāvaparikappanena viparītaggāho. Ādi-saddena anādarāgāravādīnaṃ saṅgaho. Na mahājutikanti na ujjalaṃ, aparisuddhaṃ apariyodātanti attho. Na mahāvipphāranti anuḷāraṃ. Sāvajjoti taṇhādiṭṭhādivasena sadoso, lokiyasaraṇagamanaṃ sikkhāsamādānaṃ viya aggahitakālaparicchedaṃ jīvitapariyantameva hoti, tasmā tassa khandhabhedena bhedoti āha **‘‘anavajjo kālakiriyāyā’’**ti. Soti anavajjo saraṇagamanabhedo. Satipi anavajjatte iṭṭhaphalopi na hotīti āha **‘‘aphalo’’**ti. Kasmā? Avipākattā. Na hi taṃ akusalanti.
無知とは、三宝の功徳を知らないことであり、そこにおける迷妄。「仏であるのか、そうでないのか」などによる疑い、疑惑。邪智とは、その功徳を無功徳であると仮定することによる誤った執着。「など」の語によって、不敬・軽視などが包含される。「大いなる輝きではない」とは、輝いておらず、不純で清らかでないという意味である。「大いなる広がりではない」とは、微細であること。「罪を伴う」とは、渇愛や見解などによって過ちを伴うこと。世間の帰依は、戒を受けるように期限が定められておらず、生命の終わりに至るまでである。したがって、その帰依は身体の崩壊とともに壊れると説かれる、「死によって非難されることはない」と。それは非難されることのない帰依の崩壊である。非難されることはなくても、望ましい果報が生じることはないと説かれる、「果報がない」と。なぜか?果報を伴わないからである。それは不善ではないからである。
Ko upāsakoti sarūpapucchā, kiṃlakkhaṇo upāsakoti vuttaṃ hoti. Kasmāti hetupucchā, tena kena pavattinimittena upāsaka-saddo tasmiṃ puggale nirūḷhoti dasseti, tenāha **‘‘kasmā upāsakoti vuccatī’’**ti. Saddassa abhidheyye pavattinimittaṃ tadatthassa tabbhāvakāraṇaṃ. Kimassa sīlanti kīdisaṃ assa upāsakassa sīlaṃ, kittakena sīlenāyaṃ sīlasampanno nāma hotīti attho. Ko ājīvoti ko assa sammāājīvo, so pana micchājīvassa parivajjanena hotīti sopi vibhajīyati. Kā vipattīti kā assa sīlassa, ājīvassa vā vipatti. Anantarassa hi vidhi vā paṭisedho vā. Sampattīti etthāpi eseva nayo.
「優婆塞とは何か」とは、その本質を尋ねる問いであり、優婆塞とはどのような特徴を持つのかが説かれているのである。「なぜか」とは原因を尋ねる問いであり、優婆塞という言葉がその人物において、どのような根源的な原因によって確立されているかを示す。それゆえ、「なぜ優婆塞と呼ばれるのか」と説かれる。言葉の意味において、それがその意味となる原因が、その存在の理由である。「その戒とは何か」とは、この優婆塞の戒はどのようなものであり、どれだけの戒によって戒具足と呼ばれるのかという意味である。「その生計とは何か」とは、彼の正当な生計とは何か。それは邪な生計を避けることによって成立するので、それもまた分類される。「その過失とは何か」とは、その戒あるいは生計の過失とは何か。直後には、法または禁止があるからである。「成功」とは、ここでも同じ論理である。
Yo kocīti khattiyādīsu yo koci, tena saraṇagamanaṃ evaṃ kāraṇaṃ, na jāti ādivisesoti dasseti.
「いかなる人でも」とは、クシャトリヤなどの中でいかなる人でも、その帰依がそのような原因であり、生まれなどの特別なものではないことを示す。
Upāsanatoti teneva saraṇagamanena, tattha ca sakkaccakiriyāya ādara gāravabahumānādiyogena payirupāsanato.
「奉仕するがゆえに」とは、その帰依によって、そしてそこにおける丁寧な行為、敬意、尊重などの結合によって近づき奉仕するがゆえに。
Veramaṇiyoti veraṃ vuccati pāṇātipātādidussīlyaṃ, tassa maṇanato hananato vināsanato veramaṇiyo, pañca viratiyo viratipadhānattā tassa sīlassa, tenevāha **‘‘paṭivirato hotī’’**ti.
「離反」とは、ヴェーラとは殺生などの悪徳を指し、それを測ること、殺すこと、破壊することから離反である。五つの離反がその戒の主要な要素であるので、それゆえに「離反している」と説かれる。
Micchāvaṇijjāti na sammāvaṇijjā ayuttavaṇijjā asāruppavaṇijjā. Pahāyāti akaraṇeneva pajahitvā. Dhammenāti dhammato anapetena, tena aññampi adhammikaṃ jīvikaṃ paṭikkhipati. Samenāti avisamena, tena kāyavisaṃ ādiduccaritaṃ vajjetvā kāyasamādinā sucaritena jīvikaṃ dasseti. Satthavaṇijjāti āvudhabhaṇḍaṃ katvā vā kāretvā vā yathākataṃ vā paṭilabhitvā tassa vikkayo. Sattavaṇijjāti manussavikkayo. Maṃsavaṇijjāti sūnakārādayo viya migasūkarādike posetvā maṃsaṃ sampādetvā vikkayo. Majjavaṇijjāti yaṃ kiñci majjaṃ yojetvā tassa vikkayo. Visavaṇijjāti visaṃ yojetvā vā visaṃ gahetvā vā tassa vikkayo. Tattha satthavaṇijjā paroparodhanimittatāya akaraṇīyā vuttā sattavaṇijjā abhujissabhāvakaraṇato, maṃsavaṇijjā vadhahetuto, majjavaṇijjā pamādaṭṭhānato.
「邪な商売」とは、正しくない商売、不適切な商売、ふさわしくない商売。「捨てて」とは、それを行わないことによって捨てること。「法によって」とは、法から外れない手段によって。それによって、他の不法な生計も否定される。「等しく」とは、不平等でないことによって。それによって、身体的な毒などの悪行を避け、身体の統一による善行をもって生計を立てることを示す。「武器の商売」とは、武器を作り、作らせ、あるいはすでに作られたものを入手して販売すること。「生体の商売」とは、人間の売買。「肉の商売」とは、狩人などのように鹿や猪などを飼育して肉を用意し、販売すること。「酒の商売」とは、いかなる酒でも作って販売すること。「毒の商売」とは、毒を作り、あるいは毒を入手して販売すること。その中で、武器の商売は他者の害の原因となるため行ってはならないと説かれ、生体の商売は自由を奪う行為であるため、肉の商売は殺害の原因であるため、酒の商売は放逸の場所であるため。
Tassevāti pañcaveramaṇilakkhaṇassa sīlassa ceva pañcamicchāvaṇijjālakkhaṇassa ājīvassa ca. Vipattīti bhedo, pakopo ca. Yāyāti yāya paṭipattiyā. Caṇḍāloti upāsakacaṇḍālo. Malanti upāsakamalaṃ. Paṭikiṭṭhoti upāsakanihīno. Buddhādīsu kammakammaphalesu ca saddhāvipariyāyo assaddhiyaṃ micchādhimokkho, yathāvuttena assaddhiyena samannāgato assaddho. Yathāvuttasīlavipattiājīvavipattivasena dussīlo. ‘‘Iminā diṭṭhādinā idaṃ nāma maṅgalaṃ hotī’’ti evaṃ bālajanaparikappitakotūhalasaṅkhātena diṭṭhasutamutamaṅgalena samannāgato kotūhalamaṅgaliko. Maṅgalaṃ paccetīti diṭṭhamaṅgalādibhedaṃ maṅgalameva pattiyāyati. No kammanti kammassakataṃ no pattiyāyati. Ito ca bahiddhāti ito sabbaññubuddhasāsanato bahiddhā bāhirakasamaye. Dakkhiṇeyyaṃ pariyesatīti duppaṭipannaṃ dakkhiṇārahasaññī gavesati. Pubbakāraṃ karotīti dānamānaṃ ādikaṃ kusalakiriyaṃ paṭhamataraṃ karoti. Ettha ca dakkhiṇeyyapariyesanapubbakāre ekaṃ katvā pañca dhammā veditabbā.
「そのもの」とは、五つの離反を特徴とする戒と、五つの邪な商売を特徴とする生計の。「過失」とは、破壊と、汚染。「どのような」とは、どのような行いによって。「チャンダラ」とは、優婆塞チャンダラ。「垢」とは、優婆塞の垢。「忌み嫌われる」とは、劣悪な優婆塞。仏などにおける業と業の果報に対する信仰の逆転は不信であり、邪な確信である。前述の不信を具備する者は不信者である。前述の戒の過失と生計の過失によって破戒者である。「この見られたものなどによって、このような吉祥が生じる」と、愚かな人々が想像する好奇心によって見られ聞かれ考えられた吉祥を具備する者は、好奇心の吉祥を信じる者である。「吉祥を信じる」とは、見られた吉祥などの種類の吉祥そのものを信じる。「業ではなく」とは、業のなされたものを信じない。「これの外に」とは、この一切智の仏教の外にある、外道の時代において。「供養に値する者を探す」とは、正しく行わない者を供養に値する者と見なし、求める。「まず行いをする」とは、布施や尊敬などの善行をまず行う。ここでは、供養に値する者を探すこととまず行いを行うことを一つとして、五つの法として理解すべきである。
Vipattiyaṃ vuttavipariyāyena sampatti veditabbā. Ayaṃ pana viseso – catunnampi parisānaṃ ratijananaṭṭhena upāsakova ratanaṃ upāsakaratanaṃ. Guṇasobhākittisaddasugandhatāya upāsakova padumaṃ upāsakapadumaṃ. Tathā upāsakapuṇḍarīkaṃ.
過失において説かれた逆の方法によって成功を理解すべきである。しかし、ここには特別な点がある。四衆の喜びを生み出す場所であることによって、優婆塞は宝であり、優婆塞の宝である。功徳、美しさ、名声、香りによって、優婆塞は蓮であり、優婆塞の蓮である。同様に優婆塞の白蓮である。
Ādimhītiādiatthe. Koṭiyanti pariyantakoṭiyaṃ. Vihāraggenāti ovarakakoṭṭhāsena, ‘‘imasmiṃ gabbhe vasantānamidaṃ nāma panasaphalaṃ pāpuṇātī’’tiādinā taṃ taṃvasanaṭṭhānakoṭṭhāsenāti attho. Ajjatagganti vā ajjadagganti vā ajja icceva attho.
「初めにおいて」とは、初めという意味で。「先端において」とは、最後の先端において。「精舎の最上部」とは、部屋の区画によって。「この部屋に住む者たちには、このパラミツの果実が得られる」などによって、その住む場所の区画という意味である。「今日から」あるいは「今日を始まりとして」とは、今日のことを意味する。
‘‘Pāṇehi upeta’’nti iminā tassa saraṇagamanassa āpāṇakoṭikataṃ dassento ‘‘yāva me jīvitaṃ pavattatī’’tiādīni vatvā puna jīvitenāpi taṃ vatthuttayaṃ paṭipūjento ‘‘saraṇagamanaṃ rakkhāmī’’ti uppannaṃ tassa rañño adhippāyaṃ vibhāvento **‘‘ahañhī’’**tiādimāha. Pāṇehi upetanti hi yāva me pāṇā dharanti, tāva saraṇaṃ upetaṃ, upento ca na vācāmattena, na ekavāraṃ cittuppādamattena, atha kho pāṇānaṃ pariccajanavasena yāvajīvaṃ upetanti evamettha attho veditabbo.
「生命をもって具備する」とは、その帰依が生命の終わりまでであることを示すために、「私の命が続く限り」などを述べて、再び命をもってその三宝を供養し、「帰依を守る」というその王の生じた意図を明確にしながら、「私はまさに」などと説くのである。確かに、「生命をもって具備する」とは、私の命が続く限り、帰依は具備される。そして、帰依するとは、言葉だけで、一度の心の発動だけでではなく、生命を捨てることによって、一生涯にわたって帰依するという意味がここで理解されるべきである。
Accayanaṃ sādhumariyādaṃ madditvā vītikkamanaṃ accayoti āha **‘‘aparādho’’**ti. Acceti atikkamati etenāti vā accayo, vītikkamassa pavattanako akusaladhammo. So eva aparajjhati etenāti aparādho. So hi aparajjhantaṃ purisaṃ abhibhavitvā pavattati, tenāha **‘‘atikkamma abhibhavitvā pavatto’’**ti. Caratīti ācarati karoti. Dhammenevāti dhammato anapetena payogena. Paṭiggaṇhātūti adhivāsanavasena sampaṭicchatūti atthoti āha **‘‘khamatū’’**ti.
「違反」とは、善良な規律を踏みにじり、越えることを違反といい、「過ち」と説かれる。あるいは、これによって超過し、超越するので違反であり、超過を生じさせる不善の法である。それ自体が、これによって過ちを犯すので過ちである。それはまさに過ちを犯す人を凌駕して生じる。それゆえ、「超過して凌駕して生じた」と説かれる。「行う」とは、習慣的に行う、実行する。「法によって」とは、法から外れない手段によって。「受け入れよ」とは、許容する形で受け入れよという意味で、「許せ」と説かれる。
251. Sadevakena lokena ‘‘saraṇa’’nti araṇīyato ariyo, tathāgatoti āha **‘‘ariyassa vinaye buddhassa bhagavato sāsane’’**ti. Puggalādhiṭṭhānaṃ karontoti kāmaṃ ‘‘vuddhi hesā’’ti dhammādhiṭṭhānavasena vākyaṃ āraddhaṃ, tathāpi desanaṃ pana puggalādhiṭṭhānaṃ karonto saṃvaraṃ āpajjatīti āhāti yojanā.
251. 天人を含む世間において「拠り所」として尊敬されるがゆえに聖者であり、如来である。それゆえに「聖なる律において、仏陀世尊の教えにおいて」と説かれる。「個人に依拠して」とは、たとえ「これは増進である」と法に依拠して文が始められたとしても、しかし説法を個人に依拠して行うことで戒律を守る、と説かれるという意味である。
253. Imasmiṃyeva attabhāve nippajjanakānaṃ attano kusalamūlānaṃ khaṇanena khato, tesaṃyeva upahananena upahato. Ubhayenāpi tassa kammāparādhameva vadati. Patiṭṭhāti sammattaniyāmokkamanaṃ etāyāti patiṭṭhā, tassa upanissayasampadā. Sā kiriyāparādhena bhinnā vināsitā etenāti bhinnapatiṭṭho, tenāha **‘‘tathā’’**tiādi. Dhammesu cakkhunti catusaccadhammesu tesaṃ dassanaṭṭhena cakkhu. Aññesu ṭhānesūti aññesu suttapadesu. Muccissatīti saṭṭhi vassasahassāni paccitvā lohakumbhī narakato muccissati.
253. この生において生じるべき自分の善根を掘り崩すことによって傷つけられ、それらを破壊することによって損なわれた。両方とも彼の業の過ちを語る。「基礎」とは、これによって正定聚に至る基礎であり、彼の根本的な条件の具足である。その基礎は、行為の過ちによって破壊され、損なわれたので、基礎が破壊された者である。それゆえ「同様に」などと説かれる。「法における眼」とは、四聖諦の法において、それらを見る場所としての眼。「他の箇所において」とは、他の経典の箇所において。「解放される」とは、六万年間苦しみを受けた後、鉄鍋地獄から解放される。
Yadi anantare attabhāve narake paccati, imaṃ pana suttaṃ sutvā rañño ko ānisaṃso laddhoti āha **‘‘mahānisaṃso’’**tiādi. So pana ānisaṃso niddālābhasīsena vutto tadā kāyikacetasikadukkhāpagamo, tiṇṇaṃ ratanānaṃ mahāsakkārakiriyā, sātisayo pothujjanikasaddhāpaṭilābhoti evaṃpakāro diṭṭhadhammiko, samparāyiko pana aparāparesupi bhavesu aparimāṇo yevāti veditabbo.
もし直後の生で地獄で苦しむならば、この経を聞いて王はどのような利益を得たのか、と説かれる。「大いなる利益」などと。しかし、その利益は睡眠を得るという点から説かれたものであり、その時に身体的・精神的な苦痛が取り除かれ、三宝に対する大きな尊敬の行為、並外れた凡夫的な信仰の獲得といった現世的な利益であり、来世的な利益は、その後の幾多の生においても無限であると理解すべきである。
Etthāha – yadi rañño kammantarāyābhāve tasmiṃyeva āsane dhammacakkhu uppajjissati, kathaṃ anāgate paccekabuddho hutvā parinibbāyissati. Atha paccekabuddho hutvā parinibbāyissati, kathaṃ tadā dhammacakkhuṃ uppajjissati, nanu ime sāvakabodhipaccekabodhiupanissayā bhinnanissayāti? Nāyaṃ virodho ito parato evassa paccekabodhisambhārānaṃ sambharaṇīyato. Sāvakabodhiyā bujjhanakasattāpi hi asati tassā samavāye kālantare paccekabodhiyā bujjhissanti katābhinīhārasambhavato. Apare pana bhaṇanti ‘‘paccekabodhiyā yevāyaṃ katābhinīhāro. Katābhinīhārāpi hi tattha niyatiṃ appattā tassa ñāṇassa paripākaṃ anupagatattā satthu sammukhībhāve sāvakabodhiṃ pāpuṇissantīti bhagavā ‘sacāyaṃ bhikkhave rājā’tiādimāha. Mahābodhisattānameva ca ānantariyaparimutti, na itarabodhisattānaṃ. Tathā hi paccekabodhiyaṃ niyato samāno devadatto cirakālasambhūtena lokanāthe āghātena garutarāni ānantariyāni pasavi, tasmā kammantarāyenāyaṃ idāni asamavetadassanābhisamayo rājā paccekabodhiniyāmena anāgate paccekabuddho hutvā parinibbāyissatī’’ti daṭṭhabbaṃ.
ここで言われる。もし王に業による障害がなく、その座で法眼が生じるのであれば、どうして未来に辟支仏となって般涅槃するのだろうか。あるいは、辟支仏となって般涅槃するのであれば、どうしてその時に法眼が生じるのだろうか。これらは声聞覚と辟支覚の依り所(因縁)が異なるのではないか。これは矛盾ではない。これから先、彼自身の辟支覚のための資糧が積集されるべきであるからだ。実に声聞覚によって悟るべき衆生も、それが揃わない場合は、過去に誓願を立てた可能性があるため、時を経て辟支覚によって悟るであろう。しかし他の者はこう言う。『これは辟支覚に対する誓願を立てた者である。しかし、誓願を立てた者であっても、その智恵が円熟していないため、師の面前においては声聞覚を得るであろうと世尊は「比丘たちよ、もしこの王が」などと仰せになったのだ。』また、無間業を免れるのは大菩薩たちだけであり、他の菩薩たちではない。まさに辟支覚に定まった者であるデーヴァダッタは、長い間培われた世尊への怨みによって、極めて重い無間業を積んだのだ。それゆえ、業による障害のために、現在、直接的な見解を得ていないこの王は、辟支覚の定めに従って、未来に辟支仏となって般涅槃するであろうと理解すべきである。
Sāmaññaphalasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
沙門果経注釈の難解語解説。
254. Apubbapadavaṇṇanāti atthasaṃvaṇṇanāvasena heṭṭhā aggahitatāya apubbassa padassa vaṇṇanā atthavibhajanā. ‘‘Hitvā punappunāgatamattha’’nti (dī. ni. aṭṭha. 1.ganthārambhakathā) hi vuttaṃ. Janapadinoti janapadavanto, janapadassa vā issarā rājakumārā gottavasena kosalā nāma. Yadi eko janapado, kathaṃ bahuvacananti āha **‘‘rūḷhisaddenā’’**ti. Akkharacintakā hi īdisesu ṭhānesu yutte viya īdisaliṅgavacanāni icchanti, ayamettha rūḷhi yathā aññatthapi ‘‘kurūsu viharati, aṅgesu viharatī’’ti ca. Tabbisesanepi janapada-sadde jāti-sadde ekavacanameva. Porāṇā panāti pana-saddo visesatthajotano, tena puthuatthavisayatāya evañcetaṃ puthuvacananti vakkhamānavisesaṃ joteti. Bahuppabhedo hi so padeso tiyojanasataparimāṇatāya. Naṅgalānipi chaḍḍetvāti kammappahānavasena naṅgalānipi pahāya, nidassanamattañcetaṃ. Na kevalaṃ kassakā eva, atha kho aññepi manussā attano attano kiccaṃ pahāya tattha sannipatiṃsu. **‘‘So padeso’’**ti padesasāmaññato vuttaṃ, vacanavipallāsena vā, te padesāti attho. Kosalāti vuccati kusalā eva kosalāti katvā.
254. 未見の語の解説とは、意義の詳説として、以前に取り上げられなかった未見の語の解説、つまり意味の分析である。『繰り返し現れる意味を捨てて』(長部註1.緒言)と、まさに述べられている。ジャナパディンとは、地方を有する者、あるいは地方の支配者たる王族で、氏族名によってコーサラと呼ばれる人々を指す。もし一つの地方であれば、なぜ複数形なのかと問うならば、『慣用的な語であるため』と答えられる。文法家たちは、このような箇所では、適当なものとして、このような性や数を示す語を欲する。ここでの慣用とは、他の場所で『クル国に住む、アンガ国に住む』などと言われるのと同様である。その限定においても、『ジャナパダ』という語、『ジャーティ』という語は単数形である。古伝によれば、『パナ』という語は特別な意味を強調するものであり、それによって様々な意味の主題を持つがゆえに、このように複数形となるという、後に述べる特別な意味を示唆している。その地方は、実に百由旬の広がりを持つため、多くの種類に分かれているからである。『犂も捨てて』とは、業を放棄するという意味で、犂も放棄することであり、これは単なる例示である。農夫だけでなく、他の人々もそれぞれ自分の仕事を捨ててそこに集まったのである。『その地方』とは、地方一般に関して言われたか、あるいは語順の転倒によって、『それらの地方』という意味である。コーサラと呼ばれるのは、『クサラ』(巧み、賢い)な者がコーサラであるとしたからである。
Cārikanti caraṇaṃ, caraṇaṃ vā cāro, so eva cārikā. Tayidaṃ maggagamanaṃ idhādhippetaṃ, na cuṇṇikagamanamattanti āha **‘‘addhānagamanaṃ gacchanto’’**ti. Taṃ vibhāgena dassetuṃ **‘‘cārikā ca nāmesā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha dūrepīti nātidūrepi. Sahasā gamananti sīghagamanaṃ. Mahākassapapaccuggamanādiṃ ekadesena vatvā vanavāsītissasāmaṇerassa vatthuṃ vitthāretvā janapadacārikaṃ kathetuṃ **‘‘bhagavā hī’’**tiādi āraddhaṃ. Ākāsagāmīhi eva saddhiṃ gantukāmo **‘‘chaḷabhiññānaṃ ārocehī’’**ti āha.
『チャリカ』とは歩くこと、あるいは歩むことであり、それがチャリカである。これはここで意図されているのは道のりを旅することであり、単にぶらぶら歩くことではないと、『長旅をする者』と述べられている。それを部分的に示すために、『チャリカとはこのように』などと述べられている。そこでは『遠くにも』とは、それほど遠くない場所にも、という意味である。『急いで行くこと』とは、速やかに進むことである。マハーカッサパの出迎えなどの一部を述べ、森住ティッサ沙弥の物語を詳しく語り、地方への旅を説くために、『世尊は』などと始まったのである。空を行く者たちと共に往くことを望んで、『六神通を有する者たちに告げなさい』と述べられた。
Saṅghakammavasena sijjhamānāpi upasampadā satthu āṇāvaseneva sijjhanato **‘‘buddhadāyajjaṃ te dassāmī’’**ti vuttanti vadanti. Apare pana aparipuṇṇavīsativassasseva tassa upasampadaṃ anujānanto **‘‘dassāmī’’**ti avocāti vadanti. Upasampādetvāti dhammasenāpatinā upajjhāyena upasampādetvā.
サンガの作法によって成就する受戒も、究極的には師の命令によって成就するがゆえに、『私はあなたに仏陀の相続を与えるだろう』と人々は言う。しかし、他の人々は、まだ二十歳に満たないその者の受戒を許可するにあたって、『与えるだろう』と仰せになったのだと言う。『ウパサンパーデートヴァー』(受戒させて)とは、法将である和尚によって受戒させて、という意味である。
Navayojanasatikampi ṭhānaṃ majjhimadesapariyāpannameva, tato paraṃ nādhippetaṃ turitacārikāvasena agamanato. Samantāti gatagataṭṭhānassa catūsu passesu samantato. Aññenapi kāraṇenāti bhikkhūnaṃ samathavipassanātaruṇabhāvato aññenapi majjhimamaṇḍale veneyyānaṃ ñāṇaparipākādikāraṇena majjhimamaṇḍalaṃ osarati. **‘‘Sattahi vā’’**tiādi ‘‘ekamāsaṃ vā’’tiādinā vuttānukkamena yojetabbaṃ.
九百由旬の場所であっても、それは中部地方に含まれるものであり、それより先は、急いで旅をするという目的ではないから、意図されていない。『サマンタ』(周囲)とは、行ったり来たりした場所の四方にわたる全体である。『他の理由でも』とは、比丘たちの奢摩他(静慮)と毘鉢舎那(観)が未熟であることから、また中部地方の調伏すべき衆生の智恵が円熟するなどの他の理由によって、中部地方に留まるのである。『あるいは七日』などの語は、『あるいは一ヶ月』などと述べられた順序に従って解釈されるべきである。
Sarīraphāsukatthāyāti ekasmiṃyeva ṭhāne nibaddhavāsavasena ussannadhātukassa sarīrassa vicaraṇena phāsukatthāya. Aṭṭhuppattikālābhikaṅkhanatthāyāti aggikkhandhopamasutta (a. ni. 7.72) maghadevajātakādi (jā. 1.1.9) desanānaṃ viya dhammadesanāya aṭṭhuppattikālaṃ ākaṅkhamānena. Surāpānasikkhāpadapaññāpane (pāci. 328) viya sikkhāpadapaññāpanatthāya. Bodhaneyyasatte aṅgulimālādike (ma. ni. 2.347) bodhanatthāya. Kañci, katipaye vā puggale uddissa cārikā nibaddhacārikā. Tadaññā anibaddhacārikā.
『身体の安楽のため』とは、一箇所に定住することによって過剰になった身体の元素を、歩き回ることによって安楽にするためである。『時機の到来を待つため』とは、『火の譬えの経』(増支部7.72)や『マガデーヴァ本生経』(本生経1.1.9)などの教えのように、法を説く適切な時機を待つことである。『酒を飲むことの学処制定』(波羅夷328)のように、学処を制定するためである。アングリマーラなどの教化すべき衆生を教化するためである。特定のあるいは少数の個人を目的とする旅が、『定まった旅』である。それ以外のものは、『定まらない旅』である。
Dasasahassi lokadhātuyāti jātikhettabhūte dasasahassacakkavāḷe. Tattha hi satte paripakkindriye passituṃ buddhañāṇaṃ abhinīharitvā ṭhito bhagavā ñāṇajālaṃ pattharatīti vuccati. Sabbaññutaññāṇajālassa anto paviṭṭhoti tassa ñāṇassa gocarabhāvaṃ upagato. Bhagavā kira mahākaruṇāsamāpattiṃ samāpajjitvā tato vuṭṭhāya ‘‘ye sattā bhabbā paripākañāṇā ajja mayā vinetabbā, te mayhaṃ ñāṇassa upaṭṭhahantū’’ti cittaṃ adhiṭṭhāya samannāharati. Tassa saha samannāhārā eko vā dve vā bahū vā tadā vinayūpagā veneyyā ñāṇassa āpāthamāgacchanti ayamettha buddhānubhāvo. Evampi āpāthamāgatānaṃ pana nesaṃ upanissayaṃ pubbacariyaṃ pubbahetuṃ sampati vattamānañca paṭipattiṃ oloketi, tenāha **‘‘atha bhagavā’’**tiādi. Vādapaṭivādaṃ katvāti ‘‘evaṃ nu te ambaṭṭhā’’tiādinā mayā vuttavacanassa ‘‘ye ca kho te bho gotama muṇḍakā samaṇakā’’tiādinā paṭivacanaṃ katvā tikkhattuṃ ibbhavādanipātanavasena nānappakāraṃ asambhivākyaṃ sādhusabhāvāya vācāya vattuṃ ayuttavacanaṃ vakkhati. Nibbisevananti vigatatudanaṃ, mānadabbavasena apagataparipphandananti attho.
『十千世界』とは、誕生の場である一万の輪廻世界においてである。まさにそこにおいて、世尊は円熟した能力を持つ衆生を見るために、仏陀の智恵を引き出して立ち、智恵の網を広げると言われる。『一切智の網の中に入った』とは、その智恵の対象となった、という意味である。実に世尊は、大悲の等至に入り、そこから出られて、『今日私によって教化されるべき、成熟した智恵を持つ有能な衆生が、私の智恵の対象とならんことを』と心に定め、心を集めて観察される。その観察と共に、一人、二人、あるいは多数のその時教化されるべき人々が智恵の対象となるのが、ここでの仏陀の神力である。しかし、このように智恵の対象となった人々について、彼らの依り所、過去の行い、過去の因、そして現在行われている実践を観察される。それゆえ、『そして世尊は』などと述べられている。『論争を交わして』とは、『アンバッタよ、君はそうなのか』などと私に言われた言葉に対し、『実にゴータマ殿の剃髪した沙門たちは』などと応じ、三度侮辱的な言葉を投げつける形で、善い性質の言葉で言うべきではない様々な不当な言葉を言うだろう、という意味である。『ニッビセーヴァナン』(煩わされない)とは、刺激が取り除かれ、慢心によって動揺することがなくなった、という意味である。
Avasaritabbanti upagantabbaṃ. Icchānaṅgaleti idaṃ tadā bhagavato gocaragāmanidassanaṃ samīpatthe bhummanti katvā. **‘‘Icchānaṅgalavanasaṇḍe’’**ti nivāsanaṭṭhānadassanaṃ adhikaraṇe bhummanti. Tadubhayaṃ vivaranto **‘‘icchānaṅgalaṃ upanissāyā’’**tiādimāha. Dhammarājassa bhagavato sabbaso adhammaniggaṇhanaparā paṭipatti, sā ca sīlasamādhipaññāvasenāti taṃ dassetuṃ **‘‘sīlakhandhāvāra’’**ntiādi vuttaṃ. Yathābhirucitenāti dibbavihārādīsu yena yena attano abhirucitena vihārena.
『アヴァサリタブバン』(近づくべき)とは、近づくべき、という意味である。『イッチャナアンガラ』とは、当時世尊が訪れた村を示すもので、近接の意味で場所格であるとする。『イッチャナアンガラの森』とは、居住地を示すもので、場所格である。その両方を説明するために、『イッチャナアンガラに依って』などと述べられている。法王である世尊の、あらゆる悪法を完全に制圧する行いは、戒・定・慧によるものである。それを示すために、『戒の軍営』などと述べられている。『好きなように』とは、神々しい境地などで、自らが望む境地によってである。
255. Manteti irubbedādimantasatthe. Pokkhare kamale sayamāno nisīdīti pokkharasātī. Sāti vuccati samasaṇṭhānaṃ, pokkhare saṇṭhānāvayave jātoti **‘‘pokkharasātī’’**tipi vuccati. Setapokkharasadisoti setapadumavaṇṇo. Suvaṭṭitāti vaṭṭabhāvassa yuttaṭṭhāne suṭṭhu vaṭṭulā. Kāḷavaṅgatilakādīnaṃ abhāvena suparisuddhā.
255. 『マント』(呪文)とは、『リグヴェーダ』などの呪文の学問である。蓮華(ポッカラ)の上に横たわり坐ったゆえに、『ポッカラサーティ』という。『サーティ』とは均整の取れた形を言う。蓮華の形をした部分から生まれたゆえに、『ポッカラサーティ』とも言われる。『白い蓮華のよう』とは、白い蓮華の色をしている、という意味である。『美しく巻かれている』とは、巻かれるのに適切な箇所が非常に丸みを帯びている、という意味である。黒いシミなどがなく、非常に清らかである。
Imassa brāhmaṇassa kīdiso pubbayogo, yena naṃ bhagavā anuggaṇhituṃ taṃ ṭhānaṃ upagatoti āha **‘‘ayaṃ panā’’**tiādi. Padumagabbhe nibbatti tenāyaṃ saṃsedajo jāto. Na pupphatīti na vikasati. Rajatabimbakanti rūpiyamayaṃ rūpakaṃ.
このバラモンの過去にどのような因縁があったのか。それによって世尊が彼を助けるためにその場所に来られたのか、と問うならば、『実に彼は』などと述べられている。蓮華の胎に生まれたので、彼は湿生である。『咲かない』とは、開花しない、という意味である。『銀の像』とは、銀製の像である。
Ajjhāvasatīti ettha adhi-saddo issariyatthadīpano, āsaddo mariyādatthoti dassento **‘‘abhibhavitvā’’**tiādimāha. Tehi yuttattā hi ukkaṭṭhanti upayogavacanaṃ, tenāha **‘‘upasaggavasenā’’**tiādi. Yāya mariyādāyāti yāya avatthāya. Nagarassa vatthunti ‘‘ayaṃ khaṇo, sumuhuttaṃ mā atikkamī’’ti rattivibhāyanaṃ anurakkhantā rattiyaṃ ukkā ṭhapetvā ukkāsu jalamānāsu nagarassa vatthuṃ aggahesuṃ, tasmā ukkāsu ṭhitāti ukkaṭṭhā, ukkāsu vijjotayantīsu ṭhitā patiṭṭhitāti mūlavibhujādipakkhepena saddasiddhi veditabbā, niruttinayena vā ukkāsu ṭhitāsu ṭhitā āsīti ukkaṭṭhā. Apare pana bhaṇanti ‘‘bhūmibhāgasampattiyā, upakaraṇasampattiyā, manussasampattiyā ca taṃ nagaraṃ ukkaṭṭhaguṇayogato ukkaṭṭhāti nāmaṃ labhī’’ti. Tassāti ‘‘ukkaṭṭha’’nti upayogavasena vuttapadassa. Anupayogattāti visesanabhāvena anupayuttattā. Sesapadesūti ‘‘sattussada’’ntiādipadesu. Yathāvidhi hi anupayogo purimasmiṃ. Tatthāti ‘‘upasaggavasenā’’tiādinā vuttavidhāne. **‘‘Saddasatthato pariyesitabba’’**nti etena saddalakkhaṇānugato vāyaṃ saddappayogoti dasseti. Upaanuadhiāitievaṃpubbake vasanakiriyāṭhāne upayogavacanameva pāpuṇātīti saddavidū icchanti.
『アッジャーヴァサティ』(居住する)という語において、『アディ』という接頭辞は優位の意味を示し、『アー』という接頭辞は限定の意味を示すと述べて、『支配して』などと説明している。それらが適切であるゆえに、『ウッカンタ』は使用の語であり、それゆえに『接頭辞によって』などと述べられている。『どのような限定によって』とは、どのような状況によって、という意味である。『都の地』とは、『この瞬間は、わずかな時も過ぎてはならない』と夜の区切りを守りながら、夜に灯火を立て、灯火が燃えている間に都の地を確保した。それゆえ、灯火の上に立っていた、という意味で『ウッカッター』である。あるいは、灯火が輝く上に立っていた、確立されていた、と語根と接頭辞の省略によって語源を理解すべきである。あるいは、語源学の流儀によれば、灯火の上に立っていた者が立っていた、という意味で『ウッカッター』である。しかし、他の人々はこう言う。『土地の豊かさ、資材の豊かさ、人々の豊かさによって、その都は優れた性質を備えていたことから、「ウッカッター」という名前を得たのだ』と。『それの』とは、『ウッカッタ』という使用の形で述べられた語のことである。『不適切な用法』とは、形容詞としては不適切であるため。『残りの語句では』とは、『人々の集まる』などの語句では、という意味である。まさに先の箇所では、本来の用法ではない。『そこでは』とは、『接頭辞によって』などと述べられた方法においてである。『語彙学によって探求されるべき』とは、これによって語の法則に従ったこの語法であることを示している。『ウパ、アヌ、アディ、アー』などの接頭辞が付く「住む」という動詞の場所において、使用の語形が用いられるべきであると語彙学者は欲するのである。
Ussadatā nāmettha bahulatāti, taṃ bahulataṃ dassetuṃ **‘‘bahujana’’**ntiādi vuttaṃ. Gahetvā posetabbaṃ posāvaniyaṃ. Āvijjhitvāti parikkhipitvā.
『ウッサダター』(豊富さ)とは、ここでは多さという意味であり、その多さを示すために『多くの人々』などと述べられている。『ポサーヴァニヤン』(養うべきもの)とは、取り上げて養われるべきものである。『アーヴィッジヒットヴァー』(囲んで)とは、取り囲んで、という意味である。
Raññā viya bhuñjitabbanti vā rājabhoggaṃ. Rañño dāyabhūtanti kulaparamparāya yogyabhāvena rājato laddhadāyabhūtaṃ. Tenāha **‘‘dāyajjanti attho’’**ti. Rājanīhārena paribhuñjitabbato uddhaṃ paribhogalābhassa seṭṭhadeyyatā nāma natthīti āha **‘‘chattaṃ ussāpetvā rājasaṅkhepena bhuñjitabba’’**nti. **‘‘Sabbaṃ chejjabhejja’’**nti sarīradaṇḍadhanadaṇḍādi bhedaṃ sabbaṃ daṇḍamāha. Nadītitthapabbatādīsūti nadītitthapabbatapādagāmadvāraaṭavimukhādīsu. ‘‘Rājadāya’’nti imināva rañño dinnabhāve siddhe **‘‘raññā pasenadinā kosalena dinna’’**nti vacanaṃ kimatthiyanti āha **‘‘dāyakarājadīpanattha’’**ntiādi. Nissaṭṭhapariccattanti muttacāgavasena pariccattaṃ katvā. Evañhi taṃ seṭṭhadeyyaṃ uttamadeyyaṃ jātaṃ.
『ラージャボーッガン』(王の享楽)とは、王のように享受されるべきである、という意味である。『王の相続財産』とは、家系の伝統によって適切であるため、王から与えられた相続財産である。それゆえ、『相続物である、という意味である』と述べられている。王の流儀で享受されるべきであり、それ以上の享受の利益において最上の贈与というものはないと述べ、『傘を差し上げ、王にふさわしい形で享受されるべきである』とある。『一切の切断や破壊』とは、身体刑や財産刑などのあらゆる種類の刑罰を指す。『川の渡し場や山など』とは、川の渡し場、山、麓、村の入口、森の入口などである。『王の贈与』という言葉だけでも、王によって与えられたことが明らかであるのに、『コーサラ国のパセーナディ王によって与えられた』という言葉は何を意味するのか、と問うならば、『贈与者である王を明示するため』などと述べられている。『完全に放棄された』とは、自由な贈与として放棄された、という意味である。このようにして、それは最上の贈与、最高の贈与となったのである。
Upalabhīti savanavasena upalabhīti imamatthaṃ dassento **‘‘sotadvāra…pe… aññāsī’’**ti āha. Avadhāraṇaphalattā sabbampi vākyaṃ antogadhāvadhāraṇanti āha **‘‘padapūraṇamatte nipāto’’**ti. **‘‘Avadhāraṇatthe’’**ti pana iminā iṭṭhatovadhāraṇatthaṃ kho-saddaggahaṇanti dasseti. **‘‘Assosī’’**ti padaṃ kho-sadde gahite tena phullitamaṇḍitaṃ viya hontaṃ pūritaṃ nāma hoti, tena ca purimapacchimapadāni siliṭṭhāni honti, na tasmiṃ aggahiteti āha **‘‘padapūraṇena byañjanasiliṭṭhatāmattamevā’’**ti. Matta-saddo visesanivattiattho, tenassa anatthantaradīpanatā dassitā hoti, eva-saddena pana byañjanasiliṭṭhatāya ekantikatā.
『ウパラビー』(彼は得た)とは、耳によって得た、という意味であると示すために、『耳の門によって…そして彼は知った』と述べられている。強調の結果として、全ての文が強調を含んでいると言うならば、『単なる語の補足の助詞である』と述べられている。しかし『強調の意味で』とは、これで望ましい強調の意味で『コー』という語が取られることを示している。『アッソシー』(彼は聞いた)という語は、『コー』という語が取られると、あたかも満開に飾られたかのように満たされたものとなり、それによって前後の語が滑らかにつながる。それに取られないのではない、と言うならば、『単なる語の補足による句の滑らかさである』と述べられている。『マッタ』という語は限定の意味を否定するものであり、それによって意味の区別を示さないことが示されている。しかし、『エヴァ』という語によって、句の滑らかさが決定的なものであるとされている。
Samitapāpattāti accantaṃ anavasesato savāsanaṃ samitapāpattā. Evañhi bāhirakavirāgasekkhāsekkhapāpasamanato bhagavato pāpasamanaṃ visesitaṃ hoti, tenāha vuttañhetantiādi. Anekatthattā nipātānaṃ idha anussavattho adhippetoti āha **‘‘khalūti anussavatthe nipāto’’**ti. Ālapanamattanti piyālāpavacanamattaṃ. Piyasamudāhāro hete ‘‘bho’’ti vā ‘‘āvuso’’ti vā ‘‘devānaṃ piyā’’ti vā. Gottavasenāti ettha gaṃ tāyatīti gottaṃ. Gotamoti hi pavattamānaṃ vacanaṃ, buddhiñca tāyati ekaṃsikavisayatāya rakkhatīti gottaṃ. Yathā hi buddhi ārammaṇabhūtena atthena vinā na vattati, evaṃ abhidhānaṃ abhidheyyabhūtena, tasmā so gottasaṅkhāto attho tāni tāyati rakkhatīti vuccati. Ko pana soti? Aññakulaparamparāsādhāraṇaṃ tassa kulassa ādipurisasamudāgataṃ taṃkulapariyāpannasādhāraṇaṃ sāmaññarūpanti daṭṭhabbaṃ. Ettha ca **‘‘samaṇo’’**ti iminā sarikkhakajanehi bhagavato bahumatabhāvo dassito samitapāpatākittanato. **‘‘Gotamo’’**ti iminā lokiyajanehi uḷārakulasambhūtatādīpanato.
サミタパーパッターティは、全く残らず習気とともに悪を鎮めたという意味。このように、外道の離欲者、有学、無学の悪を鎮めることよりも、世尊の悪を鎮めることは特別である。それゆえ、「言われたことである」などと言われた。助詞は多くの意味を持つため、ここでは「伝聞」の意味が意図されていると述べられているので、「khalūtiは伝聞の意味の助詞である」と言った。アーラパナマッタンティは、親愛の言葉をかけること。「ボー」とか「アーヴソー」とか「デーヴァーナンピヤー」とかいうのは、親愛の言葉である。ゴッタヴァセーナーティにおいて、ガを護るのがゴッタである。ゴータマとは、まさに現れる言葉であり、知恵を一方向の対象性によって護り、保持するのがゴッタである。知恵が対象となるものなしには機能しないように、呼称も被呼称となるものなしには機能しない。それゆえ、そのゴッタと称される意味はそれらを護り、保持すると言われる。では、それは何か?他の家系では共通しない、その家系の始祖から受け継がれた、その家系に属する者たちに共通する一般的な特性と見なされるべきである。ここで、「沙門」という言葉によって、煩悩を鎮めたことが称えられ、世尊が同等の人々から高く評価されていることが示されている。「ゴータマ」という言葉によって、世俗の人々によって高貴な家系に生まれたことが示されている。
Uccākulaparidīpanaṃ uditoditavipulakhattiyakulavibhāvanato. Sabbakhattiyānañhi ādibhūtamahāsammatamahārājato paṭṭhāya asambhinnaṃ uḷāratamaṃ sakyarājakulaṃ. Kenaci pārijuññenāti ñātipārijuññabhogapārijuññādinā kenaci pārijuññena pārihāniyā. Anabhibhūto anajjhotthato. Tathā hi tassa kulassa na kiñci pārijuññaṃ lokanāthassa abhijātiyaṃ, atha kho vaḍḍhiyeva. Abhinikkhamane ca tatopi samiddhatamabhāvo loke pākaṭo paññāto. Iti **‘‘sakyakulā pabbajito’’**ti idaṃ vacanaṃ bhagavato saddhāpabbajitabhāvadīpanaṃ vuttaṃ mahantaṃ ñātiparivaṭṭaṃ, mahantañca bhogakkhandhaṃ pahāya pabbajitabhāvasiddhito. Sundaranti bhaddakaṃ. Bhaddakatā ca passantassa hitasukhāvahabhāvena veditabbāti āha atthāvahaṃ sukhāvahanti. Tattha atthāvahanti diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthasaṃhitahitāvahaṃ. Sukhāvahanti yathāvuttatividhasukhāvahaṃ. Tathārūpānanti tādisānaṃ. Yādisehi pana guṇehi bhagavā samannāgato, tehi catuppamāṇikassa lokassa sabbathāpi accantāya saddhāya pasādanīyo tesaṃ yathābhūtasabhāvattāti dassento yathārūpotiādimāha. Tattha yathābhūtaṃ…pe… arahatanti iminā dhammappamāṇānaṃ, lūkhappamāṇānañca sattānaṃ bhagavato pasādāvahataṃ dasseti. Taṃ dassaneneva ca itaresampi atthato pasādāvahatā dassitā hotīti daṭṭhabbaṃ tadavinābhāvato. Dassanamattampi sādhu hotīti ettha kosiyasakuṇavatthuṃ (ma. ni. aṭṭha. 1.144; khu. pā. aṭṭha. 10) kathetabbaṃ.
高貴な家系の宣明は、名高く繁栄した広大なクシャトリヤの家系を示すことによる。すべてのクシャトリヤの始祖であるマハー・サンマタ大王以来、途切れることなく最も高貴なシャキャの王族である。「ケナチ・パーリジュニャーティ」とは、親族の欠乏、財産の欠乏など、何らかの欠乏による損失。打ち負かされず、圧倒されなかった。実際、その家系には、世の主の誕生において何の欠乏もなく、むしろ繁栄だけがあった。そして、出家においても、それ以上に繁栄していることが世に知られ、認識されていた。このように、「シャキャ族から出家した」という言葉は、世尊が大きな親族の集まりと大きな財産を捨てて出家したことから、信仰によって出家した状態を示すものとして言われた。スンダランティは美しい、良いこと。そして、見る者にとって利益と幸福をもたらすこととして知られるべきであると述べられているので、「利益をもたらし、幸福をもたらす」と言った。そこでの「利益をもたらす」とは、現世、来世、そして究極的な意味において利益をもたらすこと。「幸福をもたらす」とは、前述の三種類の幸福をもたらすこと。タタールーパーナンティは、そのような人々のこと。しかし、世尊が具えている徳は、四種類の証拠(法の証拠、粗野な証拠)を持つ人々にとって、あらゆる点で究極の信仰によって喜ばれるべきものであると示し、それらの真の性質を考慮して、「そのような」などと言った。そこでの「真実の…等…阿羅漢」という言葉は、法の証拠を持つ人々、そして粗野な証拠を持つ人々にとって、世尊が信仰をもたらす存在であることを示す。その示し方によって、他の人々にとっても意味において信仰をもたらす存在であることが示されていると見なされるべきである、なぜならそれがそれと不可分だからである。「見るだけでも善である」という点においては、コーシヤ鳥の物語(中部、註1.144; 小部、註10)が語られるべきである。
256. Mante parivattetīti vede sajjhāyati, pariyāpuṇātīti attho. Mante dhāretīti yathāadhīte mante asammuṭṭhe katvā hadaye ṭhapeti oṭṭhapahatakaraṇavasena, na atthavibhāvanavasena.
256. 「マントをパリーヴァッテーティ」とは、ヴェーダを学習し、完全に習得する、という意味。「マントをダーレーティ」とは、習得したマントを忘れることなく心に留め、口に出して唱えることを意味し、意味を深く理解することではない。
Sanighaṇḍukeṭubhānanti ettha vacanīyavācakabhāvena atthaṃ saddañca nikhaḍati bhindati vibhajja dassetīti nikhaṇḍu, sā eva idha kha-kārassa gha-kāraṃ katvā ‘‘nighaṇḍū’’ti vutto. Kiṭayati gameti ñāpeti kiriyādivibhāgaṃ, taṃ vā anavasesapariyādānato gamento pūretīti keṭubhaṃ. Vevacanappakāsakanti pariyāyasaddadīpakaṃ, ekekassa atthassa anekapariyāyavacanavibhāvakanti attho. Nidassanamattañcetaṃ anekesampi atthānaṃ ekasaddavacanīyatāvibhāvanavasenapi tassa ganthassa pavattattā. Vacībhedādilakkhaṇā kiriyā kappīyati etenāti kiriyākappo, so pana vaṇṇapadasambandhapadatthādivibhāgato bahuvikappoti āha **‘‘kiriyākappavikappo’’**ti. Idañca mūlakiriyākappaganthaṃ sandhāya vuttaṃ. So hi satasahassaparimāṇo nayacariyādipakaraṇaṃ. Ṭhānakaraṇādivibhāgato, nibbacanavibhāgato ca akkharā pabhedīyanti etehīti akkharappabhedā, sikkhāniruttiyo. Etesanti vedānaṃ.
「サニガンドゥケートゥバーナンティ」において、ニカンドゥとは、語られるべきものと語るものの関係において、意味と音を掘り下げ、分解し、分けて示すもの。それがここでは「kha」音が「gha」音となって「ニガンドゥ」と言われている。ケートゥバとは、動詞などの分類をキタヤティ(行き渡らせる、知らせる)もの、あるいは全てを残さず把握することでそれを完成させるもの。「ヴェーヴァチャナッパカーサカンティ」は、同義語を明らかにするもの、すなわち、それぞれの意味に多くの同義語があることを示すもの、という意味。これは一例に過ぎず、多くの意味が単一の語で表現されることを示す方法も、その書物には含まれているからである。ヴァチーベーダ(音節の分割)などの特徴を持つ行為がこれによって定められるので、「クリヤーカッポ」と言われる。それは音節、語句の結合、語句の意味などの分類において多くの変形を持つので、「クリヤーカッパヴィカッポ」(行為の体系の分類)と言った。これは根本的なクリヤーカッパの書物に関して言われたことである。それは十万の量があり、導きの実践などの論文である。場所、動作などの分類、そして完成の分類によって、文字がこれらから派生するので、アクカラッパベーダ(文字の派生)、すなわちシッカーニルッティ(学習と語源)である。「エテーサンティ」はヴェーダのもの。
Te eva vede padaso kāyatīti padako. Taṃ taṃ saddaṃ tadatthañca byākaroti byācikkhati etenāti byākaraṇaṃ, saddasatthaṃ. Āyatiṃ hitaṃ tena loko na yatati na īhatīti lokāyataṃ. Tañhi ganthaṃ nissāya sattā puññakiriyāya cittampi na uppādenti.
それらヴェーダを語句ごとに歌う者がパダカ(句学者)である。その音と意味をこれによって説明し、詳述するので、「ヴィヤーカラナ」(文法、語学)である。将来に利益をもたらすものによって世間が努力せず、奮起しないので、「ローカーヤタ」(世間論)である。なぜなら、その書物によって人々は善行を行う心を起こさないからである。
Vayatīti vayo, ādimajjhapariyosānesu katthaci aparikilamanto avitthāyanto te ganthe sandhāreti pūretīti attho. Dve paṭisedhā pakatiṃ gamentīti dassento ‘‘avayo na hotī’’ti vatvā tattha avayaṃ dassetuṃ **‘‘avayo nāma…pe… na sakkotī’’**ti vuttaṃ. **‘‘Anuññāto’’**ti padassa kammasādhanavasena, ‘‘paṭiññāto’’ti pana padassa kattusādhanavasena attho veditabboti dassento **‘‘ācariyenā’’**tiādimāha. Ācariyaparamparābhataṃ ācariyakaṃ. Garūti bhāriyaṃ attānaṃ tato mocetvā gamanaṃ dukkaraṃ hoti. Anatthopi uppajjati nindābyārosaupārambhādi.
「ヴァヤティ」は「ヴァヨ」(磨耗)。始め、中間、終わりのいずれの場所でも疲弊することなく、広がることもなく、それらの書物を保持し、完成させる、という意味。二重否定が肯定を意味することを示し、「アヴァヨ・ナ・ホーティ」(磨耗ではない)と言って、そこでアヴァヤ(非磨耗)を示すために、「アヴァヨとは…等…できない」と言われた。「アヌニャート」という語は受動態の理由として、「パティニャート」という語は能動態の理由として意味が理解されるべきであると示して、「アーチャリイェーナ」(師によって)などと言った。師の系譜によって伝えられたものがアーチャリヤカ。「ガル」は重荷であり、そこから自分を解放して行くことは困難である。不利益も生じる、すなわち非難、怒り、責めなど。
257. ‘‘Abbhuggato’’ti ettha abhisaddayogena itthambhūtākhyānatthavaseneva upayogavacanaṃ.
257. 「アッブッガト」という言葉は、「abhi」という接頭辞が付くことで、そのような状態になったことを表す意味でのみ使用される。
258. Lakkhaṇānīti lakkhaṇadīpanāni mantapadāni. Antaradhāyantīti na kevalaṃ lakkhaṇamantāniyeva, atha kho aññānipi brāhmaṇānaṃ ñāṇabalābhāvena anukkamena antaradhāyanti. Tathā hi vadanti ‘‘ekasataṃ addhariyaṃ sākhā sahassavattako sāmā’’tiādi. Paṇidhi …pe… mahatoti ettha paṇidhimahato samādānamahatoti ādinā paccekaṃ mahanta-saddo yojetabbo. Paṇidhimahantatādi cassa buddhavaṃsacariyāpiṭakavaṇṇanādivasena veditabbo. Niṭṭhāti nipphattiyo. Bhavabhedeti bhavavisese. Ito ca etto ca byāpetvā ṭhitatā visaṭabhāvo.
258. 「ラッカナニ」とは、特徴を示すマントラ語句。「アンタラダーヤンティ」とは、特徴を示すマントラだけでなく、バラモンたちの智慧の力の欠如によって、他のものも次第に消滅すること。実際、彼らは言う、「一〇一のアッダリヤ派、千のサーマ派」などと。「パニディ…等…マハト」において、「パニディマハト」(願の偉大さ)や「サマーダーナマハト」(決意の偉大さ)のように、個々の「マハンタ」という言葉が結びつけられるべきである。願の偉大さなどは、仏陀の系譜、行状、ピタカの解説などに基づいて理解されるべきである。「ニッタ」は完成。「バヴァベーデ」は、特定の存在。こちらからあちらへと広がり、存在することは、拡散した状態。
Jātisāmaññatoti lakkhaṇajātiyā lakkhaṇabhāvamattena samānabhāvato. Yathā hi buddhānaṃ lakkhaṇāni suvisadāni, suparibyattāni, paripuṇṇāni ca honti, na evaṃ cakkavattīnaṃ, tenāha **‘‘na teheva buddho hotī’’**ti. Abhirūpatā, dīghāyukatā, appātaṅkatā, brāhmaṇādīnaṃ piyamanāpatāti imehi catūhi acchariyasabhāvehi. Dānaṃ, piyavacanaṃ, atthacariyā, samānattatāti imehi catūhi saṅgahavatthūhi. Rañjanatoti pītijananato. Cakkaṃ cakkaratanaṃ vatteti pavattetīti cakkavattī. Sampatticakkehi sayaṃ vattati, tehi ca paraṃ sattanikāyaṃ vatteti pavattetīti cakkavattī. Parahitāvaho iriyāpathacakkānaṃ vatto vattanaṃ etassa, etthāti vā cakkavattī. Appaṭihataṃ vā āṇāsaṅkhātaṃ cakkaṃ vattetīti cakkavattī. Khattiyamaṇḍalādisaññitaṃ cakkaṃ samūhaṃ attano vase vattetīti cakkavattī cakkavattivattasaṅkhātaṃ dhammaṃ carati, cakkavattivattasaṅkhāto dhammo etasmiṃ atthīti vā dhammiko. Dhammato anapetattā dhammo rañjanaṭṭhena rājāti dhammarājā. ‘‘Rājā hoti cakkavattī’’ti vuttattā **‘‘cāturanto’’**ti padaṃ catudīpissarataṃ vibhāvetīti āha **‘‘catusamuddaantāyā’’**tiādi. Tattha ‘‘catuddīpavibhūsitāyā’’ti avatvā ‘‘catubbidhā’’ti vidhaggahaṇaṃ taṃtaṃparittadīpānampi saṅgahatthanti daṭṭhabbaṃ. Kopādīti ādi-saddena kāmamohamānamadādike saṅgaṇhāti. Vijitāvīti vijitavā. Kenaci akampiyaṭṭhena janapade thāvariyappatto, daḷhabhattibhāvato vā, janapado thāvariyaṃ patto etthāti janapadatthāvariyappatto.
「ジャーティサーマンニャート」は、特徴の種類において特徴であるという点だけで共通していることによる。仏陀の特徴が非常に明瞭で、完璧に明白で、完全であるのに対し、転輪聖王のそれはそうではない。それゆえ、「それらの特徴だけでは仏陀にはならない」と言った。美しい姿、長寿、病気の少なさ、バラモンなどからの愛され好かれること、これら四つの驚くべき性質によって。布施、愛語、利行、同事という四つの摂事(善行)によって。「ランジャナート」は、喜びを生み出すこと。チャッカ(車輪、宝)を回す者、すなわちチャッカラタナ(宝の車輪)を巡らせる者がチャッカヴァッティ(転輪聖王)。自身の繁栄の車輪によって自ら転がり、それらによって他の衆生を転がし、導く者がチャッカヴァッティ。他者の利益をもたらす行動の車輪の循環が彼にある、あるいはそこにあるのでチャッカヴァッティ。あるいは、妨げられない命令という車輪を巡らせる者がチャッカヴァッティ。クシャトリヤの集団などと称される車輪(集まり)を自分の支配下に巡らせる者がチャッカヴァッティであり、チャッカヴァッティの行いと称される法を実践する者、あるいはチャッカヴァッティの行いと称される法が彼にあるので法にかなう者(ダンミカ)。法から離れないので法であり、人々を喜ばせるという意味で王であるので、法王(ダンマラーチャー)。「転輪聖王となる」と言われているので、「チャーチュラント」(四方の辺境を支配する者)という言葉は、四大洲の主であることを示唆していると述べられているので、「四つの海の果てまで」などと言った。そこでは、「四洲によって飾られた」と言わずに「四種の」と「種」の言葉を用いるのは、それぞれの小さな島々も含むことを意味すると見なされるべきである。「コーパーディ」とは、接尾辞の「ādi」によって、欲望、迷妄、慢心、放逸なども含める。「ヴィジターヴィー」は、勝利者。何者にも揺るがされないという意味で地方に安定を得た者、あるいは固い信仰心によって、その地方が安定を得ているので「地方に安定を得た者」(ジャナパダッタヴァリヤッパット)。
Cittīkatabhāvādināpi (khu. pā. aṭṭha. 3; dī. ni. aṭṭha. 2.33; su. ni. aṭṭha. 1.226; mahāni. aṭṭha. 50) cakkassa ratanaṭṭho veditabbo. Esa nayo sesesupi. Ratinimittatāya vā cittīkatādibhāvassa ratijananaṭṭhena ekasaṅgahatāya visuṃ aggahaṇaṃ. Imehi pana ratanehi rājā cakkavattī yaṃ yamatthaṃ paccanubhoti, taṃ taṃ dassetuṃ **‘‘imesu panā’’**tiādi vuttaṃ. Ajitaṃ jināti mahesakkhatāsaṃvattaniyakammanissandabhāvato. Vijite yathāsukhaṃ anuvicarati hatthiratanaṃ assaratanañca abhiruhitvā tesaṃ ānubhāvena antopātarāseyeva samuddapariyantaṃ pathaviṃ anusaṃyāyitvā rājadhānimeva paccāgamanato. Pariṇāyakaratanena vijitamanurakkhati tena tattha tattha kātabbakiccassa saṃvidhānato. Avasesehīti maṇiratanaitthiratanagahapatiratanehi. Tattha maṇiratanena yojanappamāṇe padese andhakāraṃ vidhamitvā ālokadassanādinā sukhamanubhavati, itthiratanena atikkantamānusakarūpasampattidassanādivasena, gahapatiratanena icchiticchitamaṇikanakarajatādidhanapaṭilābhavasena.
心に留められるべきであるという理由など(小部、註3; 長部、註2.33; スッタニパータ、註1.226; 大註釈書50)によっても、車輪が宝であるという意味が理解されるべきである。この方法は他のものにも当てはまる。あるいは、喜びの要因であるため、心に留められるべきであることなどが喜びを生み出すという意味で一つにまとめられ、個別に言及されていない。しかし、これらの宝によって転輪聖王が経験するそれぞれの利益を示すために、「これらのうち」などと言われた。未勝利のものを征服するとは、偉大な勢力をもたらす業の結実であることによる。征服された地を意のままに巡回するとは、象の宝と馬の宝に乗り、それらの威神力によって、朝食前でさえ海辺までの大地を巡り、王都に戻るからである。導師の宝によって、征服された地を守護するのは、それによって各地でなすべき務めが手配されるからである。「アヴァセーセーヒ」とは、宝珠の宝、女性の宝、家主の宝によって。そこでは、宝珠の宝によって、一ヨージャナの範囲の闇を払いのけ、光を見ることなどによって幸福を経験する。女性の宝によって、人間離れした容姿の美しさを見ることなどによって幸福を経験する。家主の宝によって、望むままの宝玉、金銀などの財産を得ることなどによって幸福を経験する。
Ussāhasattiyogo tena kenaci appaṭihatāṇācakkabhāvasiddhito pacchimenāti pariṇāyakaratanena. Tañhi sabbarājakiccesu kusalaṃ avirajjhanayogaṃ, tenāha **‘‘mantasattiyogo’’**ti. Hatthiassaratanānaṃ mahānubhāvatāya kosasampattiyāpi pabhāvasampattisiddhito **‘‘hatthi…pe… yogo’’**ti vuttaṃ. (Koso hi nāma sati ussāhasampattiyaṃ duggaṃ tejaṃ kusumoraṃ parakkamaṃ pabbatomukhaṃ amosapaharaṇaṃ) tividhasattiyogaphalaṃ paripuṇṇaṃ hotīti sambandho. Sesehīti sesehi pañcahi ratanehi.
努力の力との結合は、何者にも妨げられない命令の車輪の状態が成就することによって、最後のものである、すなわち導師の宝によって。なぜなら、それはすべての王の務めにおいて熟練しており、過ちのない方法の結合であるから、それゆえ「マンタサッティヨーゴ」(計略の力との結合)と言った。象と馬の宝の偉大な威神力によって、財宝の富も権力の富も成就することから、「象…等…の結合」と言われた。(財宝とは、努力の成功があれば、困難な場所、輝き、花、勇気、山の口、欺くことのない奪い取りである)三種類の力の結合の成果が完全になる、というのが関係である。「セーセーヒ」とは、残りの五つの宝によって。
Adosakusalamūlajanitakammānubhāvenāti adosasaṅkhātena kusalamūlena sahajātādipaccayavasena uppāditakammassa ānubhāvena sampajjanti sommatararatanajātikattā. Majjhimāni maṇiitthigahapatiratanāni. Alobha…pe… kammānubhāvena sampajjanti uḷārassa dhanassa, uḷāradhanapaṭilābhakāraṇassa ca pariccāgasampadāhetukattā. Pacchimanti pariṇāyakaratanaṃ. Tañhi amoha…pe… kammānubhāvena sampajjati mahāpaññeneva cakkavattirājakiccassa pariṇetabbattā. Upadeso nāma savisesaṃ sattannaṃ ratanānaṃ vicāraṇavasena pavatto kathābandho.
無憎悪という善根によって生じた業の威神力によって、非常に穏やかな宝物であるために成就する。中間のものは、宝珠、女性、家主の宝である。無貪…等…の業の威神力によって、偉大な財産と、偉大な財産を得る原因である布施の成就が原因であるため成就する。最後は導師の宝である。なぜなら、それは無癡…等…の業の威神力によって成就し、転輪聖王の務めが偉大な智慧によってのみ遂行されるべきだからである。「ウパデーソ」とは、七つの宝の詳細な考察に基づいて展開される物語の構成。
Saraṇato paṭipakkhavidhamanato sūrā, tenāha **‘‘abhīrukajātikā’’**ti. Asure vijinitvā ṭhitattā vīro, sakko devānaṃ indo. Tassa aṅgaṃ devaputto senaṅgabhāvatoti vuttaṃ **‘‘vīraṅgarūpāti devaputtasadisakāyā’’**ti. **‘‘Eke’’**ti sārasamāsācariyamāha. Sabhāvoti sabhāvabhūto attho. Vīrakāraṇanti vīrabhāvakāraṇaṃ. Vīriyamayasarīrā viyāti saviggahavīriyasadisā, saviggahaṃ ce vīriyaṃ siyā taṃsadisāti attho. Nanu rañño cakkavattissa paṭisenā nāma natthi, ya’massa puttā pamaddeyyuṃ, atha kasmā parasenappamaddanāti vuttanti codanaṃ sandhāyāha sacetiādi, tena parasenā hotu vā mā vā te pana evaṃ mahānubhāvāti dasseti. Dhammenāti katupacitena attano puññadhammena. Tena hi sañcoditā pathaviyaṃ sabbarājāno paccuggantvā ‘‘svāgataṃ te mahārājā’’ti ādiṃ vatvā attano rajjaṃ rañño cakkavattissa niyyātenti, tena vuttaṃ ‘‘so imaṃ…pe… ajjhāvasatī’’ti. Aṭṭhakathāyaṃ pana tassa yathāvuttassa dhammassa cirataraṃ vipaccituṃ paccayabhūtaṃ cakkavattivattasamudāgataṃ payogasampattisaṅkhātaṃ dhammaṃ dassetuṃ **‘‘pāṇo na hantabbotiādinā pañcasīladhammenā’’**ti vuttaṃ. Evañhi ‘‘adaṇḍena asatthenā’’ti idaṃ vacanaṃ suṭṭhutaraṃ samatthitaṃ hotīti. Yasmā rāgādayo pāpadhammā uppajjamānā sattasantānaṃ chādetvā pariyonandhitvā tiṭṭhanti kusalappavattiṃ nivārenti, tasmā te ‘‘chadanā, chadā’’ti ca vuttā. Vivaṭetvāti vigametvā. Pūjārahatā vuttā ‘‘arahatīti araha’’nti. Tassā pūjārahatāya. Yasmā sammāsambuddho, tasmā arahanti. Buddhattahetubhūtā vivaṭṭacchadatā vuttā savāsanasabbakilesappahānapubbakattā buddhabhāvassa.
避難所から敵を打ち破るので勇敢である。それゆえに「恐れを知らぬ性質である」と言われる。阿修羅に打ち勝って立っているために英雄であり、神々の主である帝釈天。彼の身体は天子の軍隊の部分であると言われている。「英雄的な姿、すなわち天子のような身体である」と。「ある者たちは」とは、主要な縮約の師が言う。「サバーヴォーティ」とは、本質的な意味である。「ヴィーラカーラナンティ」とは、英雄となる原因である。「ヴィーリヤマヤサリーラー・ヴィヤーティ」とは、肉体を持った勇気のようである、肉体を持った勇気があればそれに似ているという意味である。転輪王には、その息子たちが打ち破るべき敵軍というものは存在しないのではないか。それなのになぜ他人の軍勢を打ち破ると言われるのかという問いを念頭に置いて、「仮に」などと述べる。それによって、敵軍があろうとなかろうと、彼らがそれほど偉大な力を持つことを示す。「ダンメーナーティ」とは、自らが行い積み重ねた功徳の法によって。それによって促された地上のすべての王たちは、彼を迎えに出て「ようこそ大王よ」などと言い、自らの王国を転輪王に委譲する。それゆえに「彼はこの世に住む…」などと言われる。しかし注釈書では、先に述べられた法が長く成熟するための原因となる、転輪王の戒律の集積に由来する努力の成就という法を示すために、「生き物を殺してはならない」などの五戒の法によってと述べられている。このようにして、「棍棒を用いず、武器を用いず」という言葉がよりよく支持されるのである。貪欲などの悪しき法は、生じると衆生の心を覆い、包み込んでとどまり、善行の進行を妨げるので、それらは「覆い(チャダナー)、覆い(チャダー)」とも言われる。「ヴィヴァテーヴァーティ」とは、取り除くこと。供養を受けるに値すると言われるのは「阿羅漢は尊い」からである。その供養を受けるに値することによって。正等覚者であるから、阿羅漢である。仏陀となる原因である覆いを取り除くこと(ヴィヴァッタッチャダター)は、習気(ヴァーサナー)と一切の煩悩をすべて捨てることこそが仏陀となることの前提であるために述べられている。
Arahaṃ vaṭṭābhāvenāti phalena hetuanumānadassanaṃ. Sammāsambuddho chadanābhāvenāti hetunā phalānumānadassanaṃ. Hetudvayaṃ vuttaṃ ‘‘vivaṭṭo vicchado cā’’ti. Dutiyena vesārajjenāti ‘‘khīṇāsavassa te paṭijānato’’tiādinā vuttena vesārajjena. Purimasiddhīti purimassa padassa atthasiddhīti attho. Paṭhamenāti ‘‘sammāsambuddhassa te paṭijānato’’tiādinā (ma. ni. 1.150; a. ni. 4.8) vuttena vesārajjena. Dutiyasiddhīti dutiyassa padassa atthasiddhi, buddhatthasiddhīti attho. Tatiyacatutthehīti ‘‘ye kho pana te antarāyikā dhammā’’tiādinā, (ma. ni. 1.150; a. ni. 4.8) ‘‘yassa kho pana te atthāyā’’tiādinā (ma. ni. 1.150; a. ni. 4.8) ca vuttehi tatiyacatutthehi vesārajjehi. Tatiyasiddhīti vivaṭṭacchadanatāsiddhi yāthāvato antarāyikaniyyānikadhammāpadesena hi satthu vivaṭṭacchadanabhāvo loke pākaṭo ahosi. Purimaṃ dhammacakkhunti purimapadaṃ bhagavato dhammacakkhuṃ sādheti kilesārīnaṃ, saṃsāracakkassa ca arānaṃ hatabhāvadīpanato. Dutiyaṃ padaṃ buddhacakkhuṃ sādheti sammāsambuddhasseva taṃsabbhāvato. Tatiyaṃ padaṃ samantacakkhuṃ sādheti savāsanasabbakilesappahānadīpanato. ‘‘Sammāsambuddho’’ti hi vatvā ‘‘vivaṭṭacchado’’ti vacanaṃ buddhabhāvāvahameva sabbakilesappahānaṃ vibhāveti. **‘‘Sūrabhāva’’**nti lakkhaṇavibhāvane visadañāṇataṃ.
「阿羅漢は輪廻が存在しないがゆえに」とは、結果によって原因を推測することを示す。「正等覚者は覆いがないがゆえに」とは、原因によって結果を推測することを示す。二つの原因が「覆いがなく、障壁がない」と述べられる。第二の確信とは、「煩悩が尽きたと自ら宣言する」などと述べられた確信によってである。「最初の成就」とは、最初の語の意味の成就であるという意味。「最初の」とは、「正等覚者であることを自ら宣言する」などと述べられた確信によってである。「第二の成就」とは、第二の語の意味の成就、つまり仏陀としての意味の成就である。第三、第四の確信とは、「まさしく、妨げとなる法がある」など、そして「まさしく、その利益のために」などと述べられた第三、第四の確信によってである。第三の成就とは、覆いを取り除くことの成就であり、まさしく妨げとなる法と導きの法の教示によって、師の覆いを取り除く存在であることが世に明らかになったのである。「最初の法眼」とは最初の語が、煩悩という敵と輪廻の車輪の輻(や)が打ち破られた状態を示すことによって、世尊の法眼を成就させる。第二の語は、正等覚者のみがそのような存在であることから、仏眼を成就させる。第三の語は、習気(ヴァーサナー)と一切の煩悩をすべて捨てることを示すことによって、遍智眼を成就させる。「正等覚者」と言って、「覆いを取り除いた者」という言葉は、仏陀となることにつながるすべての煩悩を捨てることを明らかにしている。「英雄性」とは、特徴を明らかにする澄んだ智恵である。
259. Evaṃ bhoti ettha evanti vacanasampaṭicchane nipāto. Vacanasampaṭicchanañcettha ‘‘tathā mayaṃ taṃ bhavantaṃ gotamaṃ vedissāma, tvaṃ mantānaṃ paṭiggahetā’’ti ca evaṃ pavattassa pokkharasātino vacanassa sampaṭiggahoti āha. **‘‘Sopi tāyā’’**tiādi. Tattha tāyāti tāya yathāvuttāya samuttejanāya. Ayānabhūminti yānassa abhūmiṃ. Divāpadhānikāti divāpadhānānuyuñjanakā.
259. 「エーヴァンボーティ」とは、ここでは「エーヴァン」が言葉を受け入れる助詞である。ここでの言葉を受け入れることとは、「我々はそのゴータマ尊者を知るであろう、あなたは呪文を受け取る者である」と述べられたポッカラサーティの言葉を受け入れることであると説かれる。「彼もまた彼女によって」など。そこでの「彼女によって」とは、先に述べられた激励によってである。「アヤーナブーミンティ」とは、乗り物に適さない場所。「ディーヴァーパダーニカーティ」とは、昼間に精励に専念する者。
260. Yadipi pubbe ambaṭṭhakulaṃ appaññātaṃ, tadā pana paññāyatīti āha **‘‘tadā kirā’’**tiādi. Aturitoti avegāyanto.
260. 以前はアンバッタ族が知られていなかったとしても、その時には知られるようになったという意味で、「その時には確かに」などと説かれる。「アトゥリトートゥ」とは、急がないでいること。
261. Yathā khamanīyādīni pucchantoti yathā bhagavā ‘‘kacci vo māṇavā khamanīyaṃ, kacci yāpanīya’’ntiādinā khamanīyādīni pucchanto tehi māṇavehi saddhiṃ paṭhamaṃ pavattamodo ahosi pubbabhāsitāya tadanukaraṇena evaṃ tepi māṇavā bhagavatā saddhiṃ samappavattamodā ahesunti yojanā. Taṃ pana samappavattamodataṃ upamāya dassetuṃ **‘‘sītodakaṃ viyā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sammoditanti saṃsanditaṃ. Ekībhāvanti sammodanakiriyāya samānataṃ. Khamanīyanti ‘‘idaṃ catucakkaṃ navadvāraṃ sarīrayantaṃ dukkhabahulatāya sabhāvato dussahaṃ kacci khamituṃ sakkuṇeyya’’nti pucchanti, yāpanīyanti āhārādipaccayapaṭibaddhavuttikaṃ cirappabandhasaṅkhātāya yāpanāya kacci yāpetuṃ sakkuṇeyyaṃ. Sīsarogādiābādhābhāvena kacci appābādhaṃ, dukkhajīvikābhāvena kacci appātaṅkaṃ, taṃtaṃkiccakaraṇe uṭṭhānasukhatāya kacci lahuṭṭhānaṃ, tadanurūpabalayogato kacci balaṃ, sukhavihārasabbhāvena kacci phāsuvihāro atthīti sabbattha kacci-saddaṃ yojetvā attho veditabbo. Balappattā pīti pītiyeva. Taruṇapīti pāmojjaṃ. Sammodanaṃ janeti karotīti sammodanikaṃ tadeva sammodanīyaṃ. Sammoditabbato sammodanīyanti idaṃ pana atthaṃ dassetuṃ vuttaṃ **‘‘sammodituṃ yuttabhāvato’’**ti. Saritabbabhāvato anussaritabbabhāvato ‘‘saraṇīya’’nti vattabbe **‘‘sāraṇīya’’**nti dīghaṃ katvā vuttaṃ. **‘‘Suyyamānasukhato’’**ti āpāthamadhuratamāha, **‘‘anussariyamānasukhato’’**ti vimaddaramaṇīyataṃ. **‘‘Byañjanaparisuddhatāyā’’**ti sabhāvaniruttibhāvena tassā kathāya vacanacāturiyamāha, **‘‘atthaparisuddhatāyā’’**ti atthassa nirupakkilesataṃ. Anekehi pariyāyehīti anekehi kāraṇehi.
261. 「許容されるか」などを尋ねるようにとは、世尊が「若者たちよ、そなたたちの身体は許容されるか、生活は営まれているか」などと許容されるかなどを尋ね、彼ら若者たちと最初に喜びを交わしたように、以前話されたことに倣って、彼ら若者たちも世尊と共に同じように喜びを交わした、と解釈される。その同じように喜びを交わす状態を譬えで示すために、「冷水のように」などと述べられている。ここで「サンモーディタン」とは、混じり合ったものである。「エーキーバーヴァンティ」とは、喜びを交わす行為と同一であること。「許容されるか」とは、「この四つの輪と九つの門を持つ身体の機械は、苦しみに満ちているがゆえに、本性的に耐え難いものであるが、耐えることができるか」と尋ねることである。「営まれているか」とは、飲食などの条件に結びついた生活が、長い継続と呼ばれる営みによって、営むことができるか、と尋ねることである。頭痛などの病気がないために苦痛がないか、苦しい生活がないために不安がないか、それぞれの行為を行うのに容易に起き上がれるために活発であるか、それに見合った力の具備によって力があるか、安楽な生活があるために安楽な生活があるか、とすべての箇所に「カッチ」という語を連結させて意味を理解すべきである。「バラッパッター・ピーティ」とは、喜びそのものである。「タルナピーティ」とは、若々しい喜び、歓喜である。歓喜を生み出し、もたらすので「サンモーダニカ」であり、それ自体が「サンモーダニーヤ」である。「歓喜すべきであるため」と「サンモーダニーヤ」であるとは、この意味を示すために「歓喜するのに適切であるため」と述べられている。思い出されるべきであるため、「サラニーヤ」と言うべきところを、「サーラニーヤ」と長音にして述べられている。「聞かれる時に快い」とは、耳に心地よいことを述べ、「思い出される時に快い」とは、繰り返し楽しむに値することを述べる。「表現の清らかさ」とは、その話の、言葉の巧みさ、そのものの言葉遣いによって述べ、「意味の清らかさ」とは、意味に不浄がないこと。「多くの方法によって」とは、多くの理由によって。
Apasādessāmīti maṅkuṃ karissāmi. Kaṇṭhe olambetvāti ubhosu khandhesu sāṭakaṃ āsajjetvā kaṇṭhe olambitvā. Dussakaṇṇaṃ gahetvāti nivatthasāṭakassa dasākoṭiṃ ekena hatthena gahetvā. Caṅkamaṃ abhiruhitvāti caṅkamituṃ ārabhitvā. Dhātusamatāti rasādidhātūnaṃ samāvatthatā, arogatāti attho. Anācārabhāvasāraṇīyanti anācārabhāvena saraṇīyaṃ. ‘‘Anācāro vatāya’’nti saritabbakaṃ.
「アパサーデッサミーティ」とは、恥ずかしい思いをさせる。「カンテー・オランベートゥヴァーティ」とは、両肩に衣を掛け、首に垂らすこと。「ドゥッサカンナン・ガヘートゥヴァーティ」とは、着ている衣の端を片手でつかむこと。「チャンカマン・アビルヒットゥヴァーティ」とは、経行を始めること。「ダートゥサマターティ」とは、体液などの要素が均等な状態であること、すなわち健康であるという意味。「アナーカーラバーヴァサーラニーヤンティ」とは、不作法な振る舞いによって思い出されるべきこと。「ああ、これは不作法だ」と記憶されるべきこと。
262. **‘‘Bhavaggaṃ gahetukāmo viyā’’**tiādi asakkuṇeyyattā dukkaraṃ kiccaṃ ārabhatīti dassetuṃ vuttaṃ. Asakkuṇeyyañhetaṃ sadevakenāpi lokena, yadidaṃ bhagavato apasādanaṃ, tenāha **‘‘aṭṭhāne vāyamatī’’**ti. Ayaṃ bālo ‘‘mayi kiñci akathente mayā saddhiṃ kathetumpi na visahatī’’ti mānameva paggaṇhissati, kathente pana kathāpasaṅgenassa jātigotte vibhāvite mānaniggaho bhavissatīti bhagavā ‘‘evaṃ nu te’’tiādimāha. Tena vuttaṃ ‘‘atha kho bhagavā’’tiādi. Ācārasamācārasikkhāpanena ācariyā, tesaṃ pana ācariyānaṃ pakaṭṭhā ācariyāti pācariyā yathā papitāmahoti, tenāha **‘‘ācariyehi ca tesaṃ pācariyehi cā’’**ti.
262. 「有頂天を取ろうとしているように」などとは、不可能であるため、困難な行為を始めることを示すために述べられている。神々を含む世の人々にとっても不可能である、世尊を軽蔑することであるから、それゆえに「無駄な努力をしている」と説かれる。この愚か者は、「私が何も言わないと、私と話すことすらできない」と傲慢さを抱くだろう。しかし、話を進めて彼の生まれや氏族が明らかにされれば、その傲慢さは打ち砕かれるだろうと、世尊は「さて、そなたは」などと説かれた。それゆえに「さて、世尊は」などと述べられている。慣習と作法を教える者たちが教師であり、その教師たちの中で優れた教師がパチャーリヤ(上師)である。祖父のようなものである。それゆえに「教師たち、そして彼らの上師たちによって」と説かれる。
263. Tīsu iriyāpathesūti ṭhānagamananisajjāsu. Kathāpaḷāsanti kathāvasena yugaggāhaṃ. Sayānena ācariyena saddhiṃ sayānassa kathā nāma ācāro na hoti, taṃ itarehi sadisaṃ katvā kathanaṃ idha kathāpaḷāso.
263. 「三つの威儀作法において」とは、立つこと、歩くこと、座ることである。「カターパラーサンティ」とは、会話の形で相手を捕らえること。横たわっている師と共に横たわって話すことは、作法ではない。それを他の者たちと同じように話すことが、ここでの「カターパラーサ」である。
Tassa pana yaṃ anācārabhāvavibhāvanaṃ satthārā ambaṭṭhena saddhiṃ kathentena kataṃ, taṃ saṅgītianāruḷhaṃ paramparābhatanti upari pāḷiyā sambandhabhāvena dassento **‘‘tato kirā’’**tiādimāha. Muṇḍakā samaṇakāti ca garahāyaṃ ka-saddo, tenāha **‘‘hīḷento’’**ti. Ibhassa payogo ibho uttarapadalopena, taṃ ibhaṃ arahantīti ibbhā. Kiṃ vuttaṃ hoti? Yathā ibho hatthivāhanabhūto parassa vasena vattati, na attano, evaṃ etepi brāhmaṇānaṃ sussusakā suddā parassa vasena vattanti, na attano, tasmā ibhasadisapayogatāya ibbhāti. Te pana kuṭumbikatāya gharavāsino gharassāmikā hontīti āha **‘‘gahapatikā’’**ti. Kaṇhāti kaṇhajātikā. Dijā eva hi suddhajātikā, na itareti tassa adhippāyo, tenāha **‘‘kāḷakā’’**ti. Mukhato nikkhantāti brāhmaṇānaṃ pubbapurisā brahmuno mukhato nikkhantā, ayaṃ tesaṃ paṭhamuppattīti adhippāyo. Sesapadesupi eseva nayo. **‘‘Samaṇā piṭṭhipādato’’**ti idaṃ panassa ‘‘mukhato nikkhantā’’tiādivacanatopi ativiya asamavekkhitavacanaṃ catuvaṇṇapariyāpannasseva samaṇabhāvasambhavato. Aniyametvāti avisesetvā, anuddesikabhāvenāti attho.
しかし、師がアンバッタと共に語る中で行われたその不作法な振る舞いの指摘は、結集(サンギーティ)には含まれず、口伝によって伝えられてきたものであると、後のパーリ語との関連性を示すために「その時には確かに」などと説かれる。「頭を剃った修行者たちよ」という言葉の「カ」は軽蔑を表す接尾辞であり、それゆえに「軽蔑しながら」と説かれる。「イブハッサ」という語は、後部の音節が省略された「イブホ」であり、その「イブハ」に値する者が「イッバー(隷属者)」である。何を言おうとしているのか。象が象乗りによって操られるように、自分自身ではなく他者に従属して動くように、これらのバラモンもまた、仕える者、シュードラも他者に従属して動き、自分自身ではない。それゆえに、象に似た使われ方をされることから「イッバー」と呼ぶ。しかし彼らは、世帯主であることから家に住む者、すなわち家長であると説かれる。「ガハパティカーティ」。「カンハーティ」とは、黒い生まれの者。「再生族(ディジャー)こそが純粋な生まれであり、他の者はそうではない」というのが彼の意図であり、それゆえに「黒い者たち」と説かれる。「口から出た者たち」とは、バラモンたちの祖先がブラフマンの口から出た者たちであり、これが彼らの最初の発生であるという意味である。他の箇所でも同じ方法である。「修行者は足の裏から」という彼のこの言葉は、「口から出た者たち」などという言葉よりもはるかに無思慮な言葉である。なぜなら、修行者であることは四姓のどれに属していても可能だからである。「アニヤメートゥヴァーティ」とは、区別することなく、指示がない状態であるという意味である。
Mānussayavasena kathetīti mānussayaṃ avassāya attānaṃ ukkaṃsento, pare ca vambhento ‘‘muṇḍakā’’ti ādiṃ katheti. Jānāpemīti jātigottassa pamāṇaṃ yāthāvato vibhāvanena pamāṇaṃ jānāpemīti. Attho etassa atthīti atthikaṃ daṇḍikañāyena.
「人間性を基準にして語る」とは、人間性に依拠して自分を高め、他人を貶めながら、「頭を剃った者たちよ」などと語ることである。「知らしめる」とは、生まれと氏族の基準を、真実を明らかにすることによって、その基準を知らしめるという意味である。それには意味があるから「有益な」とは、棒を持つ者の比喩によってである。
**‘‘Yāyeva kho panatthāyā’’**ti itthiliṅgavasena vuttanti vadanti, taṃ parato ‘‘purisaliṅgavasenevā’’ti vakkhamānattā yuttaṃ. Yāya atthāyāti vā pulliṅgavaseneva tadatthe sampadānavacanaṃ, yassa atthassa atthāyāti attho. Assāti ambaṭṭhassa dassetvāti sambandho. Aññesanti aññesaṃ sādhurūpānaṃ. Santikaṃ āgatānanti guruṭṭhāniyānaṃ santikaṃ upagatānaṃ. Vattanti tehi caritabbaācāraṃ. Asikkhitoti ācāraṃ asikkhito. Tato eva appassuto. Bāhusaccañhi nāma yāvadeva upasamatthaṃ icchitabbaṃ, tadabhāvato ambaṭṭho appassuto asikkhito ‘‘avusito’’ti viññāyati, tenāha **‘‘etassa hī’’**tiādi.
「まさに、その目的のために」という言葉は女性形で述べられていると語られるが、それは後に「男性形で」と説明されることと矛盾する。あるいは「その目的のために」は、男性形で、その意味での与格の言葉であり、どのような目的のためかという意味である。「アッサ」とはアンバッタに見せる、という関連である。「他の人々へ」とは、他の善き人々へ。「近づいてきた人々へ」とは、師の地位にある人々のもとへ近づいてきた人々へ。彼らが実践すべき作法。「アシッキトートゥ」とは、作法を学んでいない。それゆえに学識が浅い。学識というものは、まさに心の静寂のために望まれるべきものであるが、それがないためにアンバッタは学識が浅く、作法を学んでおらず、「未熟者」と理解される。それゆえに「彼には」などと説かれる。
264. Kodhavasacittatāya asakamano. Mānanimmadanatthanti mānassa nimmadanatthaṃ. Uggiletvāti sinehapānena kilinnaṃ ubbamanaṃ katvā. Gottena gottanti tena vuttena purātanagottena idāni taṃ taṃ anavajjasaññitaṃ gottaṃ sāvajjato uṭṭhāpetvā uddharitvā. Sesapadesupi eseva nayo. Tattha gottaṃ ādipurisavasena, kulāpadoso, tadanvaye uppannaabhiññātapurisavasena veditabbo yathā ‘‘ādicco, maghadevo’’ti. Gottamūlassa gārayhatāya amānavatthubhāvapavedanato **‘‘mānaddhajaṃ mūle chetvā’’**ti vuttaṃ. Ghaṭṭentoti omasanto.
264. 怒りに支配された心であるため、落ち着かない。「慢を砕くために」とは、慢を打ち砕く目的で。「ウッギレートゥヴァーティ」とは、油を飲んで悪くなったものを吐き出すように。「氏族によって氏族を」とは、その述べられた古い氏族によって、今やその咎のない氏族を咎めのあるものとして持ち上げ、取り上げて。他の箇所でも同じ方法である。そこでは、氏族は最初の祖先を基準とし、家系の欠点、そしてその家系に生まれた著名な人物を基準として理解されるべきである。例えば「アーディッチャ(太陽神族)、マガーデーヴァ」のように。氏族の根源が非難に値するものであり、人間的な基盤ではないことを示すので、「慢の旗を根元から断ち切って」と述べられている。「触れる」とは、批判すること。
Yasmiṃ mānussayakodhussayā aññamaññūpatthaddhā, so ‘‘caṇḍo’’ti vuccatīti āha **‘‘caṇḍāti mānanissitakodhayuttā’’**ti. Kharāti cittena, vācāya ca kakkhaḷā. Lahukāti taruṇā. Bhassāti ‘‘sāhasikā’’ti keci vadanti, ‘‘sārambhakā’’ti apare. Samānāti hontā, bhavamānāti atthoti āha **‘‘santāti purimapadasseva vevacana’’**nti. Na sakkarontīti sakkāraṃ na karonti. Apacitikammanti paṇipātakamma nānulomanti attano jātiyā na anucchavikanti attho.
傲慢さと怒りが互いに支え合っている者を「チャンダ(激しい)」と呼ぶと説かれる。「チャンダ」とは慢に根差した怒りを持つ者。「カラ」とは、心と言葉が粗野な者。「ラフカ」とは、若々しい者。「バッサ」とは、「無謀な者」とある者は言い、「喧嘩好きな者」と別の者は言う。「サマーナ」とは、存在するもの、発生するものという意味であると説かれる。「サンティ」とは、前の語の同義語である。「ナ・サッカロンティ」とは、敬意を払わない。「敬意を払う行為」とは、五体投地の行為であり、自らの生まれにはふさわしくないという意味である。
265. Kāmaṃ sakyarājakule yo sabbesaṃ buddhataro samattho ca, so eva abhisekaṃ labhati, ekacco pana abhisitto samāno ‘‘idaṃ rajjaṃ nāma bahukiccaṃ bahubyāpāra’’nti tato nibbijja rajjaṃ vayasā anantarassa niyyāteti, kadāci sopi aññassāti tādise sandhāyāha **‘‘sakyāti abhisittarājāno’’**ti. Kulavaṃsaṃ jānantīti kaṇhāyanato paṭṭhāya paramparāgataṃ anussavavasena jānanti. Kulābhimānino hi yebhuyyena paresaṃ uccāvacaṃ kulaṃ tathā tathā udāharanti, attano ca kulavaṃsaṃ jānanti, evaṃ ambaṭṭhopi. Tathā hi so parato bhagavatā pucchito vajirapāṇibhayena yāthāvato kathesi.
265. シャーキヤ族の王家では、すべての者の中で最も賢明で有能な者が即位するが、中には即位した者が「この王国は多忙で多くの事柄がある」と嫌気がさして、自らの年令を考慮して直ちに国を譲り、時にはその者も他の者に譲るというような場合を念頭に置いて、「シャーキヤ族とは即位した王たちである」と述べられている。彼らは家系を知っているというのは、カンハーヤナから始まって代々伝えられたものを伝承として知っているのである。家系を誇る者たちは、概して他人の家系についてあれこれと語り、また自分の家系も知っている。アンバッタもそうであった。実際、彼は後に世尊に尋ねられたとき、金剛手(ヴァジラパーニ)の脅威を恐れて、真実を語ったのである。
266. Khettaleḍḍūnanti khette kasanavasena naṅgalena uṭṭhāpitaleḍḍūnaṃ. ‘‘Laṭukikā’’ icceva paññātā khuddakasakuṇikā laṭukikopamavaṇṇanāyaṃ ‘‘cātakasakuṇikā’’ti (ma. ni. aṭṭha. 3.150) vuttā. Kodhavasena laggitunti upanayhituṃ, āghātaṃ bandhitunti attho. **‘‘Amhe haṃsakoñcamorasame karotī’’**ti iminā ‘‘na taṃ koci haṃso vā’’tiādivacanaṃ saṅgītiṃ anāruḷhaṃ tadā bhagavatā vuttamevāti dasseti. ‘‘Evaṃ nu te’’tiādivacanaṃ, ‘‘avusitavāyevā’’tiādivacanañca mānavasena samaṇena gotamena vuttanti maññatīti adhippāyenāha **‘‘nimmāno dāni jātoti maññamāno’’**ti.
266. 「ケッタレッドゥーナン」とは、畑を耕すときに鋤で掘り起こされた土塊のことである。「ラトゥキカー」として知られる小さな鳥は、「ラトゥキカーの譬えの解説」において「チャータカという鳥」と述べられている(中部アッタカター3.150)。「コーダヴァセーナ・ラッギトゥン」とは、恨みを抱くこと、怨みを結ぶことである、という意味である。「我々をガチョウ、ツル、クジャクと同じにする」というこの言葉によって、「誰もお前をガチョウにする者はない」という類の言葉は、結集に採録されなかったが、当時世尊が述べたものであることを示している。「エヴァム・ヌ・テー」という類の言葉、「アヴシタヴァーイエーヴァー」という類の言葉は、驕慢な態度で沙門ゴータマが述べたものだとアンバッタが思っているという意図で、「今や彼は慢心から解放されたと思うかのように」と述べられている。
267. Nimmādetīti a-kārassa ā-kāraṃ katvā niddesoti āha **‘‘nimmadetī’’**ti. Kāmaṃ gottaṃ nāmetaṃ pitito laddhabbaṃ, na mātito na hi brāhmaṇānaṃ sagottāya āvāhavivāho icchito, gottanāmaṃ pana yasmā jātisiddhaṃ, na kittimaṃ, jāti ca ubhayasambandhinī, tasmā **‘‘mātāpettikanti mātāpitūnaṃ santaka’’**nti vuttaṃ. Nāmagottanti gottanāmaṃ, na kittimanāmaṃ, na guṇanāmaṃ vā. Tattha ‘‘kaṇhāyano’’ti niruḷhā yā nāmapaṇṇatti, taṃ sandhāyāha ‘‘paṇṇattivasena nāmanti. Taṃ pana kaṇhaisito paṭṭhāya tasmiṃ kulaparamparāvasena āgataṃ, na etasmiṃyeva niruḷhaṃ, tena vuttaṃ **‘‘paveṇīvasena gotta’’**nti. Gotta-padassa pana attho heṭṭhā vuttoyeva. Anussaratoti ettha na kevalaṃ anussaraṇaṃ adhippetaṃ, atha kho kulasuddhivīmaṃsanavasenāti āha **‘‘kulakoṭiṃ sodhentassā’’**ti. Ayyaputtāti ayyikaputtāti āha **‘‘sāmino puttā’’**ti. Disā okkākarañño antojātā dāsīti āha **‘‘gharadāsiyā putto’’**ti. Ettha ca yasmā ambaṭṭho jātiṃ nissāya mānatthaddho, na cassa yāthāvato jātiyā avibhāvitāya mānaniggaho hoti, mānaniggahe ca kate aparabhāge ratanattaye pasīdissati, na ‘‘dāsī’’ti vācā pharusavācā nāma hoti cittassa saṇhabhāvato. Abhayasuttañcettha (ma. ni. 2.83; a. ni. 4.184) nidassanaṃ. Keci ca sattā agginā viya lohādayo kakkhaḷāya vācāya mudubhāvaṃ gacchanti, tasmā bhagavā ambaṭṭhaṃ nibbisevanaṃ kātukāmo ‘‘ayyaputtā sakyā bhavanti, dāsiputto tvamasi sakyāna’’nti avoca.
267. 「ニンマーデーティ」とは、ア音をアー音にして指示しているとして、「ニンマデーティ」と述べている。血統名(ゴッタ)は父から受け継ぐべきものであり、母からではない。なぜなら、バラモンにおいては同血統(サゴッタ)との結婚は望ましくないからである。しかし、血統名(ゴッタナーマ)は生まれつきのものであり、人工的なものではない。そして生まれは両者に属するものなので、「マータペッティカンティ、母と父のものである」と述べられている。家系名(ナーマゴッタ)とは、血統名(ゴッタナーマ)であり、人工的な名前でもなければ、性質を表す名前でもない。その中で、「カンハーヤノ」という、確立された名前の表現を指して、「表現のゆえに名前」と述べている。それはカンハ仙から始まってその家系の伝統として伝えられたものであり、この人だけに確立されたものではない。ゆえに「パヴェーニのゆえに血統(ゴッタ)」と述べられている。「ゴッタ」という語の意味は下に述べられている通りである。「アヌッサラート」とは、単に思い出すことを意味するのではなく、家系の清浄さを吟味する意味であるとして、「家系の根源を浄化する者」と述べている。「アヤプッタ」とは、「アヤカプッタ」として「主人(サーミ)の子」と述べている。ディーサーはオッカーカ王によって生まれた奴隷なので、「奴隷女(ガラダーシー)の子」と述べている。この場合、アンバッタは生まれを頼りにして慢心に固執しており、その真実の生まれが明らかにされない限り彼の慢心は抑えられない。そして、慢心が抑えられれば、その後三宝に帰依するだろうから、「奴隷女」という言葉は、心がなめらかであることから、粗暴な言葉にはあたらない。ここにアバヤ経(中部経典2.83;増支部経典4.184)も例として挙げられる。また、ある人々は鉄などが火によって柔らかくなるように、粗暴な言葉によって柔らかくなるので、世尊はアンバッタの慢心を打ち砕きたいと思い、「良家の子はシャーキヤ族である。お前はシャーキヤ族の奴隷の子である」と述べられた。
Ṭhapentīti paññapenti, tenāha **‘‘okkāko’’**tiādi. Pabhā niccharati dantānaṃ ativiya pabhassarabhāvato.
「タペンティーティ」とは、制定する、という意味である。それゆえ、「オッカーコ」などと述べられている。歯の輝きが非常に強いため、光が放たれる。
Paṭhamakappikānanti paṭhamakappassa ādikāle nibbattānaṃ. Kira-saddo anussavatthe, tena yo vuccamānāya rājaparamparāya kesañci matibhedo, taṃ ulliṅgeti. Mahāsammatassāti ‘‘ayaṃ no rājā’’ti mahājanena sammannitvā ṭhapitattā ‘‘mahāsammato’’ti evaṃ sammatassa. Yaṃ sandhāya vadanti –
「パタマカッピカーナン」とは、最初の時代、つまり世界が始まって間もない頃に生まれた人々のことである。「キラ」という語は伝承の意味であり、それによって、語られている王統に関してある人々の間に意見の相違があることを示唆している。「マハーサンマタッサ」とは、「この者が我々の王である」と大衆によって合意され、立てられたことから、「マハーサンマタ(大衆によって選ばれた者)」とこのように合意された者のことである。これに言及して、彼らは次のように言う—
‘‘Ādiccakulasambhūto, suvisuddhaguṇākaro;
太陽族に生まれし者、清らかなる徳の宝庫。
Mahānubhāvo rājāsi, mahāsammatanāmako.
大いなる力を持つ王、マハーサンマタと名づけられし者。
Yo cakkhubhūto lokassa, guṇaraṃsisamujjalo;
世間の目のようであり、徳の光に輝く者。
Tamonudo virocittha, dutiyo viya bhāṇumā.
闇を追い払い、第二の太陽のごとく輝く。
Ṭhapitā yena mariyādā, loke lokahitesinā;
世間の益を願う者によって、世に定められた限界を、
Vavatthitā sakkuṇanti, na vilaṅghayituṃ janā.
人々はそれを超えることはできない、確立されたものを。
Yasassinaṃ tejassinaṃ, lokasīmānurakkhakaṃ;
名声高き、威光ある、世の秩序を守護する者。
Ādibhūtaṃ mahāvīraṃ, kathayanti ‘manū’ti ya’’nti.
最初の偉大な英雄を、人々は「マヌ」と呼ぶ。
Tassa ca puttapaputtaparamparaṃ sandhāya –
そして、その子々孫々の系譜に言及して—
‘‘Tassa putto mahātejo, rojo nāma mahīpati;
その子は大いなる威光を持つ、ロージャという名の王。
Tassa putto vararojo, pavaro rājamaṇḍale.
その子ヴァラロージャ、王たちの間で最も優れた者。
Tassāsi kalyāṇaguṇo, kalyāṇo nāma atrajo;
彼には吉き徳を持つ、カリヤーナという名の息子がいた。
Rājā tassāsi tanayo, varakalyāṇanāmako.
その子にはヴァラカリヤーナという名の王がいた。
Tassa putto mahāvīro, mandhātā kāmabhoginaṃ;
その子は大いなる英雄マンダータ、欲楽を享受する者たちの。
Aggabhūto mahindena, aḍḍharajjena pūjito.
インドラ神によって半分の王国を与えられ、最高の者として崇拝された。
Tassa sūnu mahātejo, varamandhātunāmako;
その息子は大いなる威光を持つ、ヴァラマンダータという名。
‘Uposatho’ti nāmena, tassa putto mahāyaso.
「ウポーサタ」という名で、その子は大いなる名声を持つ。
Varo nāma mahātejo, tassa putto mahāvaro;
ヴァラという名の大いなる威光を持つ、その子は大いなるヴァラ。
Tassāsi upavaroti, putto rājā mahābalo.
彼にはウパヴァラという息子がいた、大いなる力を持つ王。
Tassa putto maghadevo, devatulyo mahīpati;
その子マガデーヴァ、神に等しき王。
Caturāsītisahassāni, tassa puttaparamparā.
八万四千人、その子孫の系譜。
Tesaṃ pacchimako rājā, ‘okkāko’ iti vissuto;
その最後の王は「オッカーカ」として知られた。
Mahāyaso mahātejo, akhuddo rājamaṇḍale’’ti.
大いなる名声、大いなる威光を持ち、王たちの間で卑しくない者。
Ādi tesaṃ pacchatoti tesaṃ maghadeva paramparabhūtānaṃ kaḷārajanakapariyosānānaṃ anekasatasahassānaṃ rājūnaṃ aparabhāge okkāko nāma rājā ahosi, tassa paramparābhūtānaṃ anekasatasahassānaṃ rājūnaṃ aparabhāge aparo okkāko nāma rājā ahosi, tassa paramparabhūtānaṃ anekasatasahassānaṃ rājūnaṃ aparabhāge punāparo okkāko nāma rājā ahosi, taṃ sandhāyāha **‘‘tayo okkākavaṃsā ahesuṃ. Tesu tatiyaokkākassā’’**tiādi.
「アーディ・テーサン・パッチャトー」とは、それらのマガデーヴァ王の系譜に属する、カーラーラジャナカに至る数万の王たちの後に、オッカーカという名の王がいた。その系譜に属する数万の王たちの後に、別のオッカーカという名の王がいた。その系譜に属する数万の王たちの後に、さらに別のオッカーカという名の王がいた。それを指して、「三つのオッカーカの血統があった。それらの中で第三のオッカーカの」などと述べられている。
Sahasā varaṃ adāsinti puttadassanena somanassappatto sahasā avīmaṃsitvā tuṭṭhiyā vasena varaṃ adāsiṃ, ‘‘yaṃ icchasi, taṃ gaṇhā’’ti. Rajjaṃ pariṇāmetuṃ icchatīti sā jantukumārassa mātā mama taṃ varadānaṃ antaraṃ katvā imaṃ rajjaṃ pariṇāmetuṃ icchatīti.
「サハサー・ヴァラン・アダーシン」とは、息子を見て歓喜に満たされ、急いで熟慮することなく、喜びのままに「望むものを取れ」と恩寵を与えた、という意味である。「国を継承したいと願う」とは、ジャンタクマーラ王子の母が、私のその恩寵を妨害して、この王国を継承させたいと願う、という意味である。
Nappasaheyyāti na pariyatto bhaveyya.
「ナッパサヘイヤーティ」とは、十分ではないだろう、という意味である。
Nikkhammāti gharāvāsato, kāmehi ca nikkhamitvā. Heṭṭhā cāti ca-saddena ‘‘asītihatthe’’ti idaṃ anukaḍḍhati. Tehīti migasūkarehi, maṇḍūkamūsikehi ca. Teti sīhabyagghādayo, sappabiḷārā ca.
「ニッカマンマーティ」とは、家を出て、欲から離れて、という意味である。「ヘッター・チャーティ」とは、「チャ」の語によって「アシティーハッテ」を指す。それらとは、鹿や猪、カエルやネズミのことである。それらとは、獅子や虎など、蛇や猫のことである。
Avasesāhi attano attano kaniṭṭhāhi.
残りの者は、それぞれ自分の妹たちと。
Vaḍḍhamānānanti anādare sāmivacanaṃ. Kuṭṭharogo nāma sāsamasūrīrogā viya yebhuyyena saṅkamanasabhāvoti vuttaṃ **‘‘ayaṃ rogo saṅkamatīti cintetvā’’**ti.
「ヴァッダマーナーナン」は、軽視の対象格である。ハンセン病は、芥子痘のような病気と同様に、概して感染する性質を持つので、「この病気は伝染すると考えて」と述べられている。
Migasūkarādīnanti ādi-saddena vanacarasoṇādike saṅgaṇhāti.
「ミガスーカラディーナン」の「など」という語は、森に住む犬などを包含する。
Tasmiṃ nisinneti sambandho. Khattiyamāyārocanena attano khattiyabhāvaṃ jānāpetvā.
「そこに座って」と関係づけられる。クシャトリヤの偽装によって自分のクシャトリヤの身分を知らせて。
Nagaraṃ māpehīti sāhāraṃ nagaraṃ māpehīti adhippāyo.
「ナガラン・マーペーヒ」とは、砦のある都市を建設せよ、という意味である。
Kesaggahaṇanti kesaveṇibandhanaṃ. Dussaggahaṇanti vatthassa nivāsanākāro.
「ケーサッガハナン」とは、髪を結ぶことである。「ドゥッサッガハナン」とは、衣をまとう方法である。
268. Attano upārambhamocanatthāyāti ācariyena ambaṭṭhena ca attano attano upari pāpetabbaupavādassa apanayanatthaṃ. Asmiṃ vacaneti ‘‘cattārome bho gotama vaṇṇā’’tiādinā attanā vutte, bhotā ca gotamena vutte ‘‘jātivāde’’ti imasmiṃ yathādhikate vacane. Tattha pana yasmā vede vuttavidhināva tena paṭimantetabbaṃ hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘vedattayavacane’’**ti, **‘‘etasmiṃ vā dāsiputtavacane’’**ti ca.
268. 「アッタノー・ウパーランバモーチャナットターヤ」とは、師とアンバッタが、それぞれ自分に向けられるべき非難を払いのけるためである。この言葉については、「ゴータマよ、これら四つの階級があります」などと自ら述べたこと、およびゴータマ尊者によって述べられた「生まれについて」というこの上記の言葉においてである。しかし、そこではヴェーダに述べられた方法で彼に対抗すべきであるので、「三ヴェーダの言葉において」および「あるいはこの奴隷の子の言葉において」と述べられている。
270. Dhammo nāma kāraṇaṃ ‘‘dhammapaṭisambhidā’’tiādīsu (vibha. 718) viya, saha dhammenāti sahadhammo, sahadhammo eva sahadhammikoti āha **‘‘sahetuko’’**ti.
270. 「ダンモ」とは、原因のことであり、「ダンマパティサンビダー」など(分別論718)のように、サハ・ダンメーナとはサハダンモであり、サハダンモそのものがサハダンミカであるとして、「原因を持つもの」と述べている。
271. Tasmā tadā paṭiññātattā. Tāsetvā pañhaṃ vissajjāpessāmīti āgato yathā taṃ saccakasamāgame. ‘‘Bhagavā ceva passati ambaṭṭho cā’’ti ettha itaresaṃ adassane kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘yadi hī’’**tiādi vuttaṃ. Āvāhetvāti mantabalena ānetvā. Tassāti ambaṭṭhassa. Vādasaṅghaṭṭeti vācāsaṅghaṭṭe.
271. それゆえ、当時承認されたからである。「問題を威嚇して解決させよう」と思ってやって来たのは、恰もサッチャカとの会見のようである。「世尊とアンバッタだけが見る」というこの箇所で、他の者には見えない理由を示すために、「もしも」などと述べられている。「アーヴァーヘートヴァー」とは、呪文の力で招き寄せて、という意味である。「タッサーティ」とはアンバッタのことである。「ヴァーダサンガッタ」とは、議論を戦わせる、という意味である。
272. Tāṇanti gavesamānoti, ‘‘ayameva samaṇo gotamo ito bhayato mama tāyako’’ti bhagavantaṃyeva ‘‘tāṇa’’nti pariyesanto upagacchanto. Sesapadadvayepi eseva nayo. Tāyatīti yathāupaṭṭhitabhayato pāleti, tenāha **‘‘rakkhatī’’**ti, etena tāṇa-saddassa kattusādhanatamāha. Yathupaṭṭhitena bhayena upadduto nilīyati etthāti leṇaṃ, upalayanaṃ, etena leṇa-saddassa adhikaraṇasādhanatamāha. **‘‘Saratī’’**ti etena saraṇa-saddassa kattusādhanatamāha.
272. 「ターナンティ・ガヴェーサマーノ」とは、「この沙門ゴータマこそが、この恐れから私を守る者である」と、世尊を「頼るべきもの(ターナ)」として探し求める、近寄る、という意味である。残りの二つの語句についても同様である。「ターヤティーティ」とは、目の前に現れた恐れから守る、という意味である。それゆえ「守護する」と述べており、このことによって「ターナ(守護)」という語が能動主格の最上級であることを示している。現れた恐れによって苦しめられた者が隠れる場所、それが「レーナ(隠れ家)」、すなわち「近づき refuge」である。このことによって「レーナ」という語が場所を表す能格の最上級であることを示している。「サラティー」とは、このことによって「サラナ(依処)」という語が能動主格の最上級であることを示している。
274. Gaṅgāya dakkhiṇatoti gaṅgāya nadiyā dakkhiṇadisāya. Āvudhaṃ na parivattatīti saraṃ vāsattiādiṃ vā parassa upari khipitukāmassa hatthaṃ na parivattati, hatthe pana aparivattente kuto āvudhaparivattananti āha **‘‘āvudhaṃ na parivattatī’’**ti. So kira ‘‘kathaṃ nāmāhaṃ disāya dāsiyā kucchimhi nibbatto’’ti taṃ hīnaṃ jātiṃ jigucchanto ‘‘handāhaṃ yathā tathā imaṃ jātiṃ sodhessāmī’’ti niggato, tenāha **‘‘idāni me manorathaṃ pūressāmī’’**tiādi. Vijjābalena rājānaṃ tāsetvā tassa dhītuyā laddhakālato paṭṭhāya myāyaṃ jātisodhitā bhavissatīti tassa adhippāyo. Ambaṭṭhaṃ nāma vijjanti sattānaṃ sarīre abbhaṅgaṃ ṭhapetīti ambaṭṭhāti evaṃ laddhanāmaṃ vijjaṃ, mantanti attho. Yato ambaṭṭhā etasmiṃ atthīti ambaṭṭhoti kaṇho isi paññāyittha, taṃbaṃsajātatāya ayaṃ māṇavo ‘‘ambaṭṭho’’ti voharīyati.
274. 「ガンガーヤ・ダッキナート」とは、ガンジス川の南側である。「武器が回転しない」とは、弓矢などを他人に投げようとする者の手が回転しない、という意味である。手が回転しなければ、どうして武器が回転するだろうか、という意図で、「武器が回転しない」と述べられている。彼は、「どうして私がディーサーという奴隷女の胎に生まれたのだろうか」と、その卑しい生まれを嫌悪し、「さて、私は何とかしてこの生まれを清めよう」と出て行った。それゆえ、「今こそ私の願いを成就しよう」などと述べられている。呪術の力で王を脅かし、その娘を得た時から、私のこの生まれは清められるだろうというのが彼の意図である。「アンバッタ」という呪文は、生き物の体に油を塗るという意味で「アンバッタ」と名付けられた呪文、すなわち真言である。なぜなら、その中にアンバッタ(油塗りの要素)があるから「アンバッタ」として、カンハ仙が知られるようになった。その血統に生まれたことから、この青年は「アンバッタ」と呼ばれている。
Seṭṭhamante vedamanteti adhippāyo. Mantānubhāvena rañño bāhukkhambhamattaṃ jātaṃ tena panassa bāhukkhambhena rājā, ‘‘ko jānāti, kiṃ bhavissatī’’ti bhīto ussaṅkī utrāso ahosi, tenāha **‘‘bhayena vedhamāno aṭṭhāsī’’**ti. Sotthi bhaddanteti ādivacanaṃ avocuṃ. ‘‘Ayaṃ mahānubhāvo isī’’ti maññamānā.
「セッタマンテ・ヴェーダマンテーティ」という意図である。呪文の威力によって王の腕が棒のように固まった。その腕の固まりによって王は、「誰が知ろうか、何が起こるか」と恐れ、疑いを抱き、怯えた。それゆえ、「恐怖に震えながら立った」と述べられている。「安らかであれ、尊者よ」などという言葉を彼らは言った。「この方は偉大な力を持つ仙人だ」と思って。
Undriyissatīti vippakiriyissati, tenāha **‘‘bhijjissatī’’**ti. Mante parivattiteti bāhukkhambhakamantassa paṭippassambhakavijjāsaṅkhāte mante **‘‘saro otaratū’’**ti parivattite. Evarūpānañhi mantānaṃ ekaṃseneva paṭippassambhakavijjā hontiyeva yathā taṃ kusumārakavijjānaṃ. Attano dhītu apavādamocanatthaṃ tassa bhujissakaraṇaṃ. Tassānurūpe issariye ṭhapanatthaṃ uḷāre ca naṃ ṭhāne ṭhapesi.
「ウンドリヤシティーティ」とは、散らばる、という意味である。それゆえ「砕けるだろう」と述べられている。「マンテ・パリヴァッティテ」とは、腕を固める呪文を解除する呪術としての呪文「矢が下りてくるように」と切り替えた時である。このような呪文には、クスマラカの呪術のように、必ず解除の呪術があるからである。自分の娘への非難を解消するために、彼を自由の身とした。そして、彼をその身分にふさわしい地位、つまり高貴な地位に就かせた。
275. Samassāsanatthamāha karuṇāyanto, na kulīnabhāvadassanatthaṃ, tenāha **‘‘atha kho bhagavā’’**tiādi. Brāhmaṇesūti brāhmaṇānaṃ samīpe, tato brāhmaṇehi laddhabbaṃ āsanādiṃ sandhāya **‘‘brāhmaṇānaṃ antare’’**ti vuttaṃ. Kevalaṃ saddhāya kātabbaṃ saddhaṃ, paralokagate sandhāya na tato kiñci apatthentena kātabbanti attho, tenāha **‘‘matake uddissa katabhatte’’**ti. Maṅgalādibhatteti ādi-saddena ussavadevatārādhanādiṃ saṅgaṇhāti. Yaññabhatteti pāpasaññamādivasena katabhatte. Pāhunakānanti atithīnaṃ. Khattiyabhāvaṃ appatto ubhato sujātatābhāvato, tenāha **‘‘aparisuddhoti attho’’**ti.
275. 「サマッサーサナットタマーハ」とは、慈悲の心から慰めるために述べたのであり、高貴な生まれを示すためではない。それゆえ、「そこで世尊は」などと述べられている。「ブラーフマネスーティ」とは、バラモンたちの近くに、つまりバラモンたちによって受け取られるべき座席などを指して、「バラモンたちの間に」と述べられている。単に信仰によって行われるべき供養とは、来世に行った者たちを対象とし、そこから何も期待せずに為されるべきものであるという意味である。それゆえ「死者のために行われる食事において」と述べられている。「マンガラディバッテ」とは、「など」という語によって、祭りや神々への祈願などを包含する。「ヤンニャバッテ」とは、罪の意識などを理由として行われる食事のことである。「パーフナカーナン」とは、客人のことである。クシャトリヤの地位に達していないのは、両親ともに高貴な生まれではないからである。それゆえ「不浄であるという意味である」と述べられている。
276. Itthiṃ karitvāti ettha karaṇaṃ kiriyāsāmaññavisayanti āha **‘‘itthiṃ pariyesitvā’’**ti. Brāhmaṇakaññaṃ itthiṃ khattiyakumārassa bhariyābhūtaṃ gahetvāpi khattiyāva seṭṭhā, hīnā brāhmaṇāti yojanā. Purisena vā purisaṃ karitvāti etthāpi eseva nayo. Pakaraṇeti rāgādivasena paduṭṭhe pakkhalite kāraṇe, tenāha **‘‘dose’’**ti. Bhassati niratthakabhāvena khipīyatīti bhassaṃ, chārikā.
276. 「イッティン・カリットヴァーティ」とは、ここで「カラナン」が一般的な動詞であるとして、「女性を探し求めて」と述べている。バラモンの娘をクシャトリヤの王子の妻として得たとしても、クシャトリヤの方が優れており、バラモンは劣るというのがその解釈である。「男性によって、あるいは男性を作って」というここでも同様である。「パカラネーティ」とは、貪欲などによって汚れた、落ち度のある状況、原因のことである。それゆえ「過失において」と述べている。「バッサティ」とは、無意味なものとして捨て去られる、という意味で、灰のことである。
277. Janitasminti kammakilesehi nibbatte. Jane etasminti vā janetasmiṃ, manussesūti attho, tenāha **‘‘gottapaṭisārino’’**ti. Saṃsanditvāti ghaṭetvā, aviruddhaṃ katvāti attho.
277. 「ジャニタスミンティ(生じたものにおいて)」とは、業の煩悩によって生じたことにおいて。「この人々において、あるいは生成されたものにおいて」とは、人々という意味である。それゆえ「姓を頼りとする者たち」と述べられた。「サンサンディットヴァーティ」とは、調和させて、矛盾なくするという意味である。
Paṭhamabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第一読誦部の解説終わり。
278. Idaṃ vaṭṭatīti idaṃ ajjhenādi kattuṃ labbhati. Jātivādavinibaddhāti jātisannissitavāde vinibaddhā. Brāhmaṇasseva ajjhenajjhāpanayajanayājanādayoti evaṃ ye attukkaṃsanaparavambhanavasena pavattā, tato eva te mānavādapaṭibaddhā ca honti. Ye pana āvāhavivāhavinibaddhā, te eva sambandhattayavasena ‘‘arahasi vā maṃ tvaṃ, na vā maṃ tvaṃ arahasī’’ti evaṃ pavattanakā.
278. 「イダン ヴァッタティーティ(これは適切である)」とは、この学修などを為すことが許される(という意味)。「ジャティヴァーダヴィニバッダーティ(生まれたという説に縛られている)」とは、生まれに基づく説に縛られている(という意味)。「バラモンのみが学修、教授、供犠、供犠をさせるなど」とは、このように自己を賛美し他人を蔑むことでなされるものであり、それゆえ彼らは慢の説に縛られるのである。結婚や離婚に縛られている者たちは、関係の三つの側面によって「あなたは私にふさわしい、あるいはあなたは私にふさわしくない」と動く者たちである。
Yatthāti yassaṃ vijjācaraṇasampattiyaṃ. Laggissāmāti olaggā antogadhā bhavissāmāti cintayimha. Paramatthato avijjācaraṇāniyeva ‘‘vijjācaraṇānī’’ti gahetvā ṭhito paramatthato vijjācaraṇesu vibhajiyamānesu so tato dūrato apanīto nāma hotīti āha **‘‘dūrameva avakkhipī’’**ti. Samudāgamato pabhutītiādisamuṭṭhānato paṭṭhāya.
「ヤッターティ(そこで)」とは、どの明行足の成就において(か)。「ラッギッサーマーティ(執着するだろう)」とは、執着し、内に入り込むだろうと考えた。「究極的に無明行足こそ『明行足』であると捉えていた者が、究極的に明行足から区別されるとき、彼はそれから遠く離されることになる」と述べて、「遠くへ投げ捨てた」と言ったのである。「サムダーガマト パブティーティアーディ(生起から始まり)」とは、原因からの生起から始まる。
279. Tividhaṃ sīlanti khuddakādibhedaṃ tividhaṃ sīlaṃ. Sīlavasenevāti sīlapariyāyeneva. Kiñci kiñcīti ahiṃsanādiyamaniyamalakkhaṇaṃ kiñci kiñci sīlaṃ atthi. Tattha tattheva laggeyyāti tasmiṃ tasmiṃyeva brāhmaṇasamayasiddhe sīlamatte ‘‘caraṇa’’nti laggeyya. Aṭṭhapi samāpattiyo caraṇanti niyyātitā honti rūpāvacaracatutthajjhānaniddeseneva arūpajjhānānampi niddiṭṭhabhāvāpattito niyyātitā nidassitā.
279. 「三種戒」とは、小などによって分けられた三種の戒。「戒の側面によって」とは、戒の順序によって(のみ)。「何か」とは、非暴力などの規律や制約の特徴を持つ何らかの戒が存在する。「その都度執着するだろう」とは、それぞれのバラモン教の教義で確立された戒のみを「行」として執着するだろう。八つの等至も「行」として示されており、色界第四禅の指示によって、無色界禅も指示された状態になることから、示され、例示された。
280. Asampāpuṇantoti ārabhitvā sampattuṃ asakkonto. Avisahamānoti ārabhitumeva asakkonto. Khārinti parikkhāraṃ. Taṃ pana vibhajitvā dassetuṃ **‘‘araṇī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha araṇīti aggidhamanakaṃ araṇīdvayaṃ. Sujāti dabbi. Ādi-saddena tidaṇḍatighaṭikādiṃ saṅgaṇhāti khāribharitanti khārīhi puṇṇaṃ. Nanu upasampannassa bhikkhuno sāsanikopi yo koci anupasampanno atthato paricārakova, kiṃ aṅgaṃ pana bāhirakapabbajiteti tattha visesaṃ dassetuṃ **‘‘kāmañcā’’**tiādi vuttaṃ. Vuttanayenāti ‘‘kappiyakaraṇa…pe… vattakaraṇavasenā’’ti evaṃ vuttena nayena. Paricārako hoti upasampannabhāvassa visiṭṭhabhāvato. ‘‘Navakoṭisahassānī’’tiādinā (visuddhi. 1.20; paṭi. ma. aṭṭha. 37) vuttappabhedānaṃ anekasahassānaṃ saṃvaravinayānaṃ samādiyitvā vattanena uparibhūtā aggabhūtā sampadāti hi ‘‘upasampadā’’ti vuccatīti. Guṇādhikopīti guṇehi ukkaṭṭhopi. Ayaṃ panāti vuttalakkhaṇo tāpaso.
280. 「アサンパープナントーティ(到達できない者)」とは、始めても到達できない者。「アヴィサハマーノーティ(耐えられない者)」とは、始めることさえできない者。「ハーリンティ」とは、道具類。それを分けて示すために、「火起こし棒」などが述べられた。ここで「火起こし棒」とは、火を吹くための二本の火起こし棒。「スジャーティ」は匙。「など」の語によって、三本の杖、水甕などが含まれる。「ハーリバリタンティ(ハーリで満たされた)」とは、ハーリ(道具類)で満たされた。「具足戒を受けた比丘にとって、教団に属する具足戒を受けていない者であっても、実質的に従者ではないか。ましてや部外の出家者はどうだろうか」という問いに対し、そこでの区別を示すために「しかしながら」などが述べられた。「ヴッタナーイェーナーティ(述べられた方法によって)」とは、「適切に行うこと…(以下省略)…規則に従って行うこと」というこのように述べられた方法によって。具足戒を受けた状態が優れているため、従者となる。「九千万」など(清浄道論1.20;パティ・マ・アッタ37)によって述べられた種類である無数の防護と律を厳守して実践することによって、最上であり最高の成就であるから、「具足戒」と呼ばれるのである。「グナディコーピ」とは、徳において優れた者でも。「アヤン パナーティ」とは、述べられた特徴を持つ苦行者。
Tāpasā nāma kammavādikiriyāvādino, na sāsanassa paṭāṇībhūtā, yato nesaṃ pabbajituṃ āgatānaṃ titthiyaparivāsena vināva pabbajjā anuññātāti katvā **‘‘kasmā panā’’**ti codanaṃ samuṭṭhapeti codako. Ācariyo **‘‘yasmā’’**tiādinā codanaṃ pariharati. ‘‘Osakkissatī’’ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘imasmiñhī’’**tiādi vuttaṃ. Khuradhārūpamanti khuradhārānaṃ matthakeneva akkamitvā gamanūpamaṃ. Aññeti aññe bhikkhū. Aggisālanti aggihuttasālaṃ. Nānādārūhīti palāsadaṇḍādinānāvidhasamidhādārūhi.
苦行者たちは業論者・行為論者であり、教団にとって支えとなる者ではない。なぜなら、彼らが(教団に)出家しに来た場合、異教徒期間なしに出家が許されるからであるとして、「なぜか」という疑問を質問者が提起する。師は「なぜなら」などでその疑問を解消する。「後退するだろう」と簡潔に述べられた意味を明らかにするために、「まさしくこれにおいて」などが述べられた。「クラーダールーパーマンティ(剃刀の刃のような)」とは、剃刀の刃の上を歩くような喩え。「他の」とは、他の比丘たち。「火の家」とは、火供の家。「様々な薪で」とは、パラサの棒などの様々な燃料の薪で。
Idanti ‘‘catudvāraṃ āgāraṃ katvā’’tiādinā vuttaṃ. Assāti assa catutthassa puggalassa. Paṭipattimukhanti kohaññapaṭipattiyā mukhamattaṃ. So hi nānāvidhena kohaññena lokaṃ vimhāpento tattha acchati, tenāha **‘‘iminā hi mukhena so evaṃ paṭipajjatī’’**ti.
「これ」とは、「四つの門のある家を建てて」などで述べられたこと。「彼の」とは、その第四の人(のこと)。「実践の口」とは、欺瞞的な実践の入り口に過ぎない。彼は様々な欺瞞によって世間を惑わしながらそこにいるので、それゆえ「彼はまさしくこの口(手段)によって、このように実践する」と述べた。
Khalādīsu manussānaṃ santike upatiṭṭhitvā vīhimuggatilamāsādīni bhikkhācariyāniyāmena saṅkaḍḍhitvā uñchanaṃ uñchā, sā eva cariyā vutti etesanti uñchācariyā. Aggipakkena jīvantīti aggipakkikā, na aggipakkikā anaggipakkikā. Uñchācariyā hi khalesu gantvā khalaggaṃ nāma manussehi diyyamānaṃ dhaññaṃ gaṇhanti, taṃ ime na gaṇhantīti anaggipakkikā nāma jātā. Asāmapākāti asayaṃpācakā. Asmamuṭṭhinā muṭṭhipāsāṇena vattantīti asmamuṭṭhikā. Dantena uppāṭitaṃ vakkalaṃ rukkhattaco dantavakkalaṃ, tena vattantīti dantavakkalikā. Pavattaṃ rukkhādito pātitaṃ phalaṃ bhuñjantīti pavattaphalabhojino. Jiṇṇapakkatāya paṇḍubhūtaṃ palāsaṃ, taṃsadisañca paṇḍupalāsaṃ, tena vattantīti paṇḍupalāsikā, sayaṃpatitapupphaphalapattabhojino.
脱穀場などで人々のそばに立ち、米、ムン豆、ゴマ、ウルド豆などを托鉢の規則に従って集めることを「うんちゃな」と言う。「うんちゃ」とは、その行いを生活とする者たちを「うんちゃーチャリヤー(うんちゃ行者)」と呼ぶ。「火で調理されたもので生活する者」はアッギパッキカー(火食者)。アッギパッキカーではない者がアナッギパッキカー(非火食者)。うんちゃ行者たちは脱穀場に行って、人々によって与えられる「脱穀場の頂点」という穀物を受け取るが、これらの者はそれを受け取らないので、アナッギパッキカーと呼ばれる。「自ら調理しない者」とは、自ら調理しない者。「石の拳で生活する者」とは、拳の石で生活する者。「歯で剥がされた樹皮」とは、木の皮であるダントヴァッカラ。それによって生活する者はダントヴァッカリカー。「木などから落ちた果物を食べる者」はパヴァッタパラボージノー(落ちた果物を食べる者)。朽ちて熟したために黄色くなった葉、それに似たパンデュパラサ。それによって生活する者はパンデュパラースィカー(黄葉食者)、自ら落ちた花、果物、葉を食べる者。
Idāni te aṭṭhavidhepi sarūpato dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Saṅkaḍḍhitvāti bhikkhācariyāvasena laddhadhaññaṃ ekajjhaṃ katvā.
今、それら八種類すべてをその本質において示すために、「その中で」などが述べられた。「集めて」とは、托鉢によって得た穀物を一箇所に集めて。
Pariyeṭṭhi nāma dukkhāti paresaṃ gehato gehaṃ gantvā pariyeṭṭhi nāma dīnavuttibhāvena dukkhā. Pāsāṇassa pariggaho dukkho pabbajitassāti vā danteheva uppāṭetvā khādanti.
「探求は苦である」とは、他人の家から家へと行って探求することは、みじめな生き方であるゆえに苦である。「石の保持は出家者にとっては苦である」とも、あるいは歯で剥がして食べるのである。
Imāhi catūhiyevāti ‘‘khārividhaṃ ādāyā’’tiādinā vuttāhi catūhi eva tāpasapabbajjāhīti.
「これら四つによってのみ」とは、「道具類を持ち運び」などで述べられた四つの苦行者の出家によってのみ。
282. Apāye vināse niyutto āpāyiko. Tabbhāvaṃ paripūretuṃ asakkonto tena aparipuṇṇo aparipūramāno, karaṇe cetaṃ paccattavacanaṃ, tenāha **‘‘āpāyikenāpi aparipūramānenā’’**ti.
282. 「悪趣に定められた者」はアーパーイカ(悪趣の者)。その状態を完成させることができず、それによって不完全な者、満たされない者。そしてこれは行為における自己帰属の言葉であり、それゆえ「悪趣の者でありながら満たされない者によって」と述べた。
283. Dīyatīti datti, dattiyeva dattikanti āha **‘‘dinnaka’’**nti. Yadi brāhmaṇassa sammukhībhāvo rañño na dātabbo, kasmāssa upasaṅkamanaṃ na paṭikkhittanti āha **‘‘yasmā panā’’**tiādi. Khettavijjāyāti nītisatthe. Payātanti saddhaṃ, sassatikaṃ vā, tenāha **‘‘abhiharitvā dinna’’**nti. Kasmā bhagavā ‘‘rañño pasenadissa kosalassa dattikaṃ bhuñjatī’’tiādinā brāhmaṇassa mammavacanaṃ avocāti tattha kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘idaṃ pana kāraṇa’’**ntiādi vuttaṃ.
283. 「与えられるもの」はダッティ。ダッティこそダッティカであると述べて、「与えられたもの」と言った。もしバラモンが王の面前に出ることは許されないならば、なぜ彼への接近は禁じられなかったのか、という問いに対して、「なぜなら」などが述べられた。「畑の知識において」とは、倫理学において。「進んだ」とは、信仰、あるいは永続的なもの。それゆえ「提供して与えられたもの」と述べた。なぜ世尊は「コーサラ国のパセーナディ王から与えられたものを食す」などとバラモンに核心的な言葉を述べたのか、その理由を示すために、「この理由」などが述べられた。
284. Rathūpatthareti rathassa upari attharitapadese. Pākaṭamantananti pakāsabhūtaṃ mantanaṃ. Tañhi suddādīhi ñāyatīti na rahassamantanaṃ. Bhaṇatīti api nu bhaṇati.
284. 「車上に敷かれた」とは、車の上の敷かれた場所。「公の諮問」とは、公然の諮問。それはシュードラなどによって知られるので、秘密の諮問ではない。「語る」とは、まさしく語るのか(という疑問)。
285. Pavattāroti pāvacanabhāvena vattāro, yasmā te tesaṃ mantānaṃ pavattakā, tasmā āha **‘‘pavattayitāro’’**ti. Sudde bahi katvā raho bhāsitabbaṭṭhena mantā eva, taṃtaṃatthapaṭipattihetutāya padanti mantapadaṃ, anupanītāsādhāraṇatāya vā rahassabhāvena vattabbaṃ hitakiriyāya adhigamupāyaṃ. Sajjhāyitanti gāyanavasena sajjhāyitaṃ, taṃ pana udattānudattādīnaṃ sarānaṃ sampādanavaseneva icchitanti āha **‘‘sarasampattivasenā’’**ti. Aññesaṃ vuttanti pāvacanabhāvena aññesaṃ vuttaṃ. Samupabyūḷhanti saṅgahetvā uparūpari saññūḷhaṃ. Rāsikatanti iruvedayajuvedasāmavedādivasena, tatthāpi paccekaṃ mantabrahmādivasena, ajjhāyānuvākādivasena ca rāsikataṃ.
285. 「推進者たち」とは、教説の側面から語る者たち。彼らはそれらのマントラの推進者であるので、それゆえ「推進者たち」と述べた。シュードラを除外して秘密裡に語られるべきであるという意味でマントラであり、それぞれの目的達成の原因であるという意味で「マントラの語句」であり、あるいは不浄な者には共有されない秘密の形で語られるべき利益のための達成手段である。「誦習された」とは、歌う形で誦習された。それはウダッタ(高音)やアヌダッタ(低音)などの音を整える方法によって望まれるので、「音の完成によって」と述べた。「他の者に述べられた」とは、教説として他の者に述べられた。「積み重ねられた」とは、集めて積み重ねられた。「集積された」とは、リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダなどによってであり、そこでも個々にマントラ・ブラフマなどによって、およびアディヤーヤ(章)やアヌヴァーカ(節)などによって集積された。
Tesanti mantānaṃ kattūnaṃ. Dibbena cakkhunā oloketvāti dibbacakkhuparibhaṇḍena yathākammūpagañāṇena sattānaṃ kammassakatādiṃ paccakkhato dassanaṭṭhena dibbacakkhusadisena pubbenivāsañāṇena atītakappe brāhmaṇānaṃ mantajjhenavidhiñca oloketvā. Pāvacanena saha saṃsanditvāti kassapasammāsambuddhassa yaṃ vacanaṃ vaṭṭasannissitaṃ, tena saha aviruddhaṃ katvā. Na hi tesaṃ vivaṭṭasannissito attho paccakkho hoti. Aparāpare panāti aṭṭhakādīhi aparā pare pacchimā okkākarājakālādīsu uppannā. Pakkhipitvāti aṭṭhakādīhi ganthitamantapadesu kilesasannissitapadānaṃ tattha tattha pade pakkhipanaṃ katvā. Viruddhe akaṃsūti brāhmaṇadhammikasuttādīsu āgatanayena saṃkilesikatthadīpanato paccanīkabhūte akaṃsu. Idhāti ‘‘tyāhaṃ mante adhīyāmī’’ti etasmiṃ ṭhāne. Paṭiññaṃ aggahetvāti ‘‘taṃ kiṃ maññasī’’ti evaṃ paṭiññaṃ aggahetvāva.
「それらの」とは、マントラの作者たちの。「天眼によって見て」とは、天眼の道具である業応報智によって、衆生の業の所有などの直接的な見え方という意味で、天眼に似た宿命通によって、過去世におけるバラモンたちのマントラ学修の作法も見て。「教説と照合して」とは、カッサパ正等覚者の言説、すなわち輪廻に基づいた言説と矛盾なくさせて。彼らにとっては、解脱に基づいた意味は直接的なものではないからである。「後の者たちは」とは、アッタカなどによって、後の時代のオッカーカラージャ王などの時代に生じた者たち。「挿入して」とは、アッタカなどによって編纂されたマントラの語句に、煩悩に基づいた語句をそこかしこの語句に挿入することをして。「矛盾させた」とはバラモン教の教義の経典などに述べられた方法で、煩悩的な意味を明らかにすることによって、それらに敵対するようなことをした。「ここで」とは、「私はそれらのマントラを学修する」というこの箇所において。「承諾を得ずに」とは、「あなたはどう思うか」というように承諾を得ずに(のこと)。
286. Nirāmagandhāti kilesāsucivasena vissagandharahitā. Anitthigandhāti itthīnaṃ gandhamattassapi avisahanena itthigandharahitā. Ettha ca **‘‘nirāmagandhā’’**ti etena tesaṃ porāṇānaṃ brāhmaṇānaṃ vikkhambhitakilesataṃ dasseti, **‘‘anitthigandhā brahmacārino’’**ti etena ekavihāritaṃ, **‘‘rajojalladharā’’**ti etena maṇḍanavibhūsanānuyogābhāvaṃ, **‘‘araññāyatane pabbatapādesu vasiṃsū’’**ti etena manussūpacāraṃ pahāya vivittavāsaṃ, **‘‘vanamūlaphalāhārā vasiṃsū’’**ti etena sālimaṃsodanādipaṇītāhārapaṭikkhepaṃ, **‘‘yadā’’**tiādinā yānavāhanapaṭikkhepaṃ, **‘‘sabbadisāsū’’**tiādinā rakkhāvaraṇapaṭikkhepaṃ, evañca vadanto micchāpaṭipadāpakkhikaṃ sācariyassa ambaṭṭhassa vuttiṃ upādāya sammāpaṭipadāpakkhikāpi tesaṃ brāhmaṇānaṃ vutti ariyavinaye sammāpaṭipattiṃ upādāya micchāpaṭipadāyeva. Kutassa sallekhapaṭipattiyuttatāti. ‘‘Evaṃ sute’’tiādinā bhagavā ambaṭṭhaṃ santajjento niggaṇhātīti dasseti.
286. 「生臭い匂いがない」とは、煩悩という不浄なものがないという意味で、生臭い匂いがない。「女性の匂いがない」とは、女性の匂いさえ耐えられないという意味で、女性の匂いがない。ここで「生臭い匂いがない」という言葉は、それら古のバラモンたちの煩悩が鎮静化されていたことを示し、「女性の匂いがない梵行者」という言葉は、孤独な生活を示し、「垢をまとい」という言葉は、装飾や着飾ることに従事しないことを示し、「林野や山麓に住んでいた」という言葉は、人里離れた生活、すなわち人間との交流を避けた生活を示し、「森の根や果物を食べて生活していた」という言葉は、米、肉、飯などの上等な食物を拒否していたことを示し、「いつ」などという言葉は、乗り物や運搬具を拒否していたことを示し、「あらゆる方向に」などという言葉は、保護や防護を拒否していたことを示している。そしてこのように述べる者は、自分の師であるアンバッタの邪な実践側の生き方を前提として、それらのバラモンたちの生き方もまた、聖者の律においては正しい実践を前提として、邪な実践に過ぎないことを示すのである。彼にいかに質素な実践が適切であろうか、と。「このように聞かれる」などという言葉によって、世尊がアンバッタを叱責し、抑えつけていることを示す。
Veṭhakehīti veṭhakapaṭṭakāhi. Samantānagaranti nagarassa samantato. Katasudhākammaṃ pākārassa adhobhāge ṭhānaṃ vuccatīti adhippāyo.
「帯によって」とは、巻き布、帯によって。「都市の周りに」とは、都市の周りに。漆喰塗りの作業は城壁の下部に位置することを意味すると考えられる。
287. Na sakkotisaṅkucite iriyāpathe anavasesato tesaṃ dubbibhāvanato. Gavesīti ñāṇena pariyesanamakāsi. Samānayīti ñāṇena saṅkalento sammā ānayi samāhari. **‘‘Kaṅkhatī’’**ti padassa ākaṅkhatīti ayamatthoti āha **‘‘aho vata passeyyanti patthanaṃ uppādetī’’**ti. Kicchatīti kilamati. **‘‘Kaṅkhatī’’**ti padassa pubbe āsisanatthataṃ vatvā idānissa saṃsayatthatameva vikappantaravasena dassento **‘‘kaṅkhāya vā dubbalā vimati vuttā’’**ti āha. Tīhi dhammehīti tippakārehi saṃsayadhammehi. Kālusiyabhāvoti appasannatāya hetubhūto āvilabhāvo.
287. 縮こまった姿勢では、それらを完全に区別することができないからである。「探求した」とは、智慧によって探求した。「もたらした」とは、智慧によって集め、正しくもたらし、収集した。「疑う」という語は「切望する」という意味であると述べて、「ああ、もし見ることができれば」という願望を生じさせた。「苦しむ」とは、疲労する。「疑う」という語について、以前は願望の意味であると述べたが、今度はその語が疑いの意味であることを別の解釈によって示し、「疑いによって弱められた迷いが述べられた」と述べた。「三つの法によって」とは、三種類の疑いの法によって。「濁った状態」とは、不信の原因となる濁りの状態。
Yasmā bhagavato kosohitaṃ sabbabuddhānaṃ āveṇikaṃ aññehi asādhāraṇaṃ vatthaguyhaṃ suvisuddhakañcanamaṇḍalasannikāsaṃ, attano saṇṭhānasannivesasundaratāya ājāneyyagandhahatthino varaṅgaparamacārubhāvaṃ, vikasamānatapaniyāravindasamujjalakesarāvattavilāsaṃ, sañjhāpabhānurañjitajalavanantarābhilakkhitasampuṇṇacandamaṇḍalasobhañca attano siriyā abhibhuyya virājati, yaṃ bāhirabbhantaramalehi anupakkiliṭṭhatāya, cirakālaṃ suparicitabrahmacariyādhikāratāya, susaṇṭhitasaṇṭhānasampattiyā ca, kopīnampi santaṃ akopīnameva, tasmā vuttaṃ **‘‘bhagavato hī’’**tiādi. Pahūtabhāvanti puthulabhāvaṃ. Ettheva hi tassa saṃsayo, tanumudusukumāratādīsu panassa guṇesu vicāraṇā eva nāhosi.
なぜなら、世尊の鞘に隠された、すべてのブッダに固有で他の者には共有されない陰部は、極めて清浄な金環のように輝き、その形や配置の美しさにおいて、高貴な香象の最上かつ究極の美しさを持ち、開いた黄金色の蓮の雄しべの旋回の優雅さを持ち、夕焼けの光に彩られた水中の森の中に望まれる満月のような輝きを持ち、自らの威厳によって他のものを圧倒して輝いているからである。それは外的および内的な汚れによって汚されず、長期間にわたってよく修習された梵行の修行によるものであり、またよく整えられた形状の成就によるものであるため、ふんどしさえもふんどしではなくなるのである。それゆえ「世尊のまさしく」などが述べられた。「多大であること」とは、広大であること。まさしくこの点に彼の疑いがあったのであり、彼の身体の痩せ細り、柔らかさ、繊細さなどの特徴については、まったく考慮しなかったのである。
288. Hirikaraṇokāsanti hiriyitabbaṭṭhānaṃ. Chāyanti paṭibimbaṃ. Kathaṃ kīdisanti āha **‘‘iddhiyā’’**tiādi. Chāyārūpakamattanti bhagavato paṭibimbarūpaṃ. Tañca kho buddhasantānato vinimuttattā rūpakamattaṃ bhagavato sarīravaṇṇasaṇṭhānāvayavaṃ iddhimayaṃ bimbakamattaṃ. Taṃ pana rūpakamattaṃ dassento bhagavā yathā attano buddharūpaṃ na dissati, tathā katvā dasseti. Ninnetvāti nīharitvā. Kallosīti pucchāvissajjane kusalo cheko asi. Tathākaraṇenāti kathinasūciṃ viya karaṇena. Etthāti pahūtajivhāya. Mudubhāvo pakāsito amuduno ghanasukhumabhāvāpādanatthaṃ asakkuṇeyyattā dīghabhāvo, tanubhāvo cāti daṭṭhabbaṃ.
288. 「ヒリカランオカーサンティ」とは、恥ずべき場所のこと。「チャーヤンティ」とは、反映を意味する。世尊が「神通力によって」などと仰せになったのは、「どのようなものか」ということについてである。「チャーヤー・ルーパカマッタンティ」とは、世尊の姿を写し取ったものである。それは仏陀の系譜から離れているため、世尊の身体の色、形、構成要素を神通力で作られた像にすぎない。世尊は、自身の仏陀としての姿が見えないようにして、その像を示される。「ニンネトヴァーティ」とは「引き出して」の意味。「カッローシーティ」とは、質問に答えるのが巧みな賢者であること。「タターカラネーナーティ」とは、まるで固い針のようにすることによって。「エッタ」とは、豊かな舌をもって。柔軟性が示されているのは、硬いものが密で微細な状態を生み出すことができないため、長く、そして細い状態であると理解すべきである。
291. **‘‘Atthacarakenā’’**ti iminā byatirekamukhena anatthacarakataṃyeva vibhāveti. Na aññatrāti na aññasmiṃ sugatiyanti attho. Upanetvā upanetvāti taṃ taṃ dosaṃ upanetvā upanetvā, tenāha **‘‘suṭṭhudāsādibhāvaṃ āropetvā’’**ti. Pātesīti pavaṭṭanavasena pātesi.
291. 「アッタチャラケーナー」とは、この対立する言葉によって、不利益な行いのみを明確にする。「ナ・アンニャートラーティ」とは、他の善趣にはないという意味である。「ウパネトヴァー・ウパネトヴァー」とは、その欠点、その欠点を繰り返し挙げて、「しっかりと召使いなどの身分に引き下げて」と言う。「パーテスィーティ」とは、堕落させる方法で堕落させた。
293-6. Āgamā nūti āgato nu. Khoti nipātamattaṃ. Idhāti ettha, tumhākaṃ santikanti attho. Adhivāsetūti sādiyatu, taṃ pana sādiyanaṃ manasā sampaṭiggaho hotīti āha **‘‘sampaṭicchatū’’**ti.
293-6. 「アーガマー・ヌーティ」とは「来られたのか」という意味。「コーティ」は単なる強調語である。「イダーティ」とは「ここに」、つまり「あなた方の近くに」という意味である。「アディヴァーセートゥ」とは「受け入れよ」という意味であり、その受け入れは「心で同意すること」であるとして、「受け入れよ」と言う。
297. Yāvadatthanti yāva attho, tāva bhojanena tadā katanti attho. Oṇittanti āmisāpanayanena sucikataṃ, tenāha **‘‘hatthe ca pattañca dhovitvā’’**ti.
297. 「ヤーヴァダッタンティ」とは、必要なだけ、その食事をその時行ったという意味である。「オーニットタンティ」とは、食べ残しを取り除いて清潔にすることであり、それゆえに「手と鉢を洗って」と言う。
298. Anupubbiṃ kathanti anupubbaṃ kathetabbakathaṃ, tenāha **‘‘anupaṭipāṭikatha’’**nti. Kā pana sā? Dānādikathāti āha **‘‘dānānantaraṃ sīla’’**ntiādi. Tena dānakathā tāva pacurajanesupi pavattiyā sabbasādhāraṇattā, sukarattā, sīle patiṭṭhānassa upāyabhāvato ca ādito kathetabbā. Pariccāgasīlo hi puggalo pariggahitavatthūsu nissaṅgabhāvato sukheneva sīlāni samādiyati, tattha ca suppatiṭṭhito hoti. Sīlena dāyakapaṭiggāhakasuddhito parānuggahaṃ vatvā parapīḷānivattivacanato, kiriyadhammaṃ vatvā akiriyadhammavacanato, bhogasampattihetuṃ vatvā bhavasampattihetuvacanato ca dānakathānantaraṃ sīlakathā kathetabbā, tañce dānasīlaṃ vaṭṭanissitaṃ, ayaṃ bhavasampatti tassa phalanti dassanatthaṃ imehi ca dānasīlamayehi paṇītapaṇītatarādibhedabhinnehi puññakiriyavatthūhi etā cātumahārājikādīsu paṇītapaṇītatarādibhedabhinnā aparimeyyā dibbabhogasampattiyo laddhabbāti dassanatthaṃ tadanantaraṃ saggakathā. Svāyaṃ saggo rāgādīhi upakkiliṭṭho, sabbathānupakkiliṭṭho ariyamaggoti dassanatthaṃ saggānantaraṃ maggo kathetabbo. Maggañca kathentena tadadhigamupāyasandassanatthaṃ saggapariyāpannāpi, pageva itare sabbepi kāmā nāma bahvādīnavā aniccā addhuvā vipariṇāmadhammāti kāmānaṃ ādīnavo, hīnā gammā pothujjanikā anariyā anatthasañhitāti tesaṃ okāro lāmakabhāvo, sabbepi bhavā kilesānaṃ vatthubhūtāti tattha saṃkileso, sabbasaṃkilesavippamuttaṃ nibbānanti nekkhamme ānisaṃso ca kathetabboti ayamattho bodhitoti veditabbo. Maggoti cettha iti-saddena ādiatthadīpanato ‘‘kāmānaṃ ādīnavo’’ti evamādīnaṃ saṅgahoti evamayaṃ atthavaṇṇanā katāti veditabbā. ‘‘Tassa uppattiākāradassanattha’’nti kasmā vuttaṃ, nanu maggañāṇaṃ asaṅkhatadhammārammaṇaṃ, na saṅkhatadhammārammaṇanti codanaṃ sandhāyāha **‘‘tañhī’’**tiādi. Tattha paṭivijjhantanti asammohapaṭivedhavasena paṭivijjhantaṃ, tenāha **‘‘kiccavasenā’’**ti.
298. 「アヌプッビン・カタンティ」とは、順序立てて語るべき話のことであり、それゆえに「アヌパティパーティカタ」と言う。それはどのような話か?布施などの話であると述べ、「布施の後に戒」などと言う。それゆえ、布施の話は、多くの人々の間で行われる普遍的なものであること、簡単であること、そして戒の基礎を築く手段であることから、まず最初に語られるべきである。実際、布施の行いのある人は、執着する対象に対する無執着のゆえに、容易に戒を守り、その戒においてよく確立される。戒によって、施し手と受け手の両方が清らかになり、他人を助けることが説かれ、他人を害することがやめられることが説かれ、行為の教えを説いて不行為の教えが説かれ、財産の幸福の原因を説いて存在の幸福の原因が説かれることから、布施の話の後に戒の話が語られるべきである。そして、もしその布施と戒が輪廻に基づいているならば、この存在の幸福がその果報であると示すため、また、これらの布施と戒による、優れており、さらに優れたものなどの区別を持つ善行の行為によって、四天王天などの、優れており、さらに優れたものなどの区別を持つ限りない天上の幸福が得られることを示すために、その後に天界の話が語られる。この天界は、貪欲などによって汚されており、一切の点で汚されていない聖なる道であると示すために、天界の後に道(真理)が語られるべきである。道(真理)を説く際には、その到達手段を示すために、天界に含まれるものだけでなく、ましてや他のあらゆる欲望は多くの危険を伴い、無常で不確実であり、変化する性質のものであると説くことで、欲望の危険性を説く。卑しく、世俗的で、凡夫的で、聖なるものではなく、不利益なものであると説くことで、それらの劣悪な状態を説く。あらゆる存在は煩悩の対象であると説くことで、そこにある汚染を説く。あらゆる汚染から解放されたニルヴァーナであると説くことで、出離の功徳を説くべきである。この意味が理解されるべきである。ここで「道」と言うとき、「など」という言葉によって「欲望の危険性」などが含まれることを示しており、このように意味の説明がなされていると理解すべきである。「その発生の様式を示すため」と、なぜ言われたのか。道智は無為法を対象とするものであり、有為法を対象とするものではないのではないかという異議を念頭に置いて、「なぜなら」などと答えている。そこにおいて「パティヴィッジャント」とは、迷いのない徹見の様式で徹見することであり、それゆえに「機能の点から」と言う。
299. Ettha ca **‘‘diṭṭhadhammo’’**tiādi pāḷiyaṃ dassanaṃ nāma ñāṇadassanato aññampi atthi, tannivattanatthaṃ ‘‘pattadhammo’’ti vuttaṃ. Patti ca ñāṇasampattito aññampi vijjatīti tato visesadassanatthaṃ ‘‘viditadhammo’’ti vuttaṃ. Sā panesā viditadhammatā ekadesatopi hotīti nippadesato viditabhāvaṃ dassetuṃ ‘‘pariyogāḷhadhammo’’ti vuttaṃ. Tenassa saccābhisambodhaṃyeva dīpeti. Maggañāṇañhi ekābhisamayavasena pariññādikiccaṃ sādhentaṃ nippadesena catusaccadhammaṃ samantato ogāḷhaṃ nāma hoti, tenāha **‘‘diṭṭho ariyasaccadhammo etenāti diṭṭhadhammo’’**ti. Tiṇṇā vicikicchāti sappaṭibhayakantārasadisā soḷasavatthukā, aṭṭhavatthukā ca tiṇṇā vitiṇṇā vicikicchā. Vigatā kathaṅkathāti pavattiādīsu. ‘‘Evaṃ nu kho, na nu kho’’ti evaṃ pavattikā vigatā samucchinnā kathaṅkathā. Vesārajjappattoti sārajjakarānaṃ pāpadhammānaṃ pahīnattā, tappaṭipakkhesu ca sīlādiguṇesu suppatiṭṭhitattā vesārajjaṃ visāradabhāvaṃ veyyattiyaṃ patto adhigato. Sāyaṃ vesārajjappatti suppatiṭṭhitabhāvoti katvā āha **‘‘satthusāsane’’**ti. Attanā paccakkhato diṭṭhattā adhigatattā na paraṃ pacceti, na tassa paro paccetabbo atthīti aparappaccayo. Yaṃ panettha vattabbaṃ avuttaṃ, taṃ parato āgamissati. Sesaṃ suviññeyyameva.
299. ここで「ディッタダンモ」などというパーリ語では、「見る」とは智による見解以外にもあるため、それを区別するために「パッタダンモ」(到達した法)と言われる。到達も智の成就以外にも存在するため、そこからさらに区別を示すために「ヴィディタダンモ」(知られた法)と言われる。しかし、この「知られた法」という状態は一部だけであることもあるため、全体的に知られている状態を示すために「パリヨーガーラハダンモ」(深く浸透した法)と言われる。これによって、彼は真理を完全に悟ったことを示す。道智は、一回の悟りによって遍知などの機能(キッチャ)を果たす際、全体的に四聖諦の法に完全に浸透しているものとなる。それゆえに「この人によって聖なる真理の法が見られたから、ディッタダンモ(見られた法の人である)」と言う。「ティンナー・ヴィチキッチャー」とは、恐ろしい荒野のような十六の対象、あるいは八つの対象に関する疑いが渡り切られ、完全に晴らされたという意味である。「ヴィガター・カタムカター」とは、存在などに関する疑いが消え去ったという意味。「そうであろうか、そうではないだろうか」というような、そのような疑いがなくなり、断ち切られた。「ヴェーサーラッジャッパット」とは、怖れを生じさせる悪しき法が滅び、その反対の戒などの功徳によく確立されているため、勇敢さ、明敏さ、熟練さを得た、あるいは体得したという意味である。この勇敢さの獲得は、よく確立された状態であるため、「師の教えにおいて」と言う。自身で直接見て体得したため、他人を信じる必要がなく、彼には他人が信じるべきものがないということから「アパラッパッチャヨー」(他によるのではない)となる。ここで言うべきで、まだ言われていないことは、後から来るであろう。残りは容易に理解できる。
Ambaṭṭhasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
アンバッタ経の記述における難解な意味の解説。
300. Sundarabhāvena sātisayāni aṅgāni etesaṃ atthīti aṅgā, rājakumārāti āha **‘‘aṅgā nāma aṅgapāsādikatāyā’’**tiādi. Idhāpi adhippetā, na ambaṭṭhasutte eva. Āgantuṃ na dassantīti āgamane ādīnavaṃ dassetvā paṭikkhipanavasena āgantuṃ na dassanti, nānujānissantīti adhippāyo. Nīlāsokakaṇikārakoviḷārakundarājarukkhehi sammissatāya taṃ campakavanaṃ **‘‘nīlādipañcavaṇṇakusumapaṭimaṇḍita’’**nti daṭṭhabbaṃ. Na campakarukkhānaṃyeva nīlādipañcakusumatāyāti vadanti. **‘‘Bhagavā kusumagandhasugandhe campakavane viharatī’’**ti iminā na māpanakāle eva tasmiṃ nagare campakarukkhā ussannā, atha kho aparabhāge pīti dasseti. Māpanakāle hi campakānaṃ ussannatāya sā nagarī ‘‘campā’’ti nāmaṃ labhi. Issarattāti adhipatibhāvato. Senā etassa atthīti seniko, seniko eva seniyo, atthitā cettha bahubhāvavisiṭṭhāti vuttaṃ **‘‘mahatiyā senāya samannāgatattā’’**ti.
300. 美しい状態によって、彼らには優れた要素(アṅガ)があるからアṅガであり、王子である。「アṅガとはアṅガパサーディカター(優れた身体の持ち主)である」などと言う。ここでもその意味であり、アンバッタ経に限ったことではない。「来させることを許さない」とは、来ることに伴う危険性を示して拒否する形で、来ることを許さない、すなわち認めないという意味である。青いアソカ、カニカーラ、コヴィラーラ、クンダ、ラージャルッカの木々が混在していることから、そのチャンパカ林は「青など五色の花で飾られている」と理解すべきである。それはチャンパカの木々だけが五色の花を持つという意味ではないと言う。「世尊は花の香りで満ちたチャンパカ林に住まわれる」というこの言葉によって、その都市にチャンパカの木々が建てられた時に多くあったのではなく、後にそうであったことを示す。実際、建てられた時にはチャンパカが多くあったので、その都市は「チャンパー」という名前を得た。「イッサラッティ」とは支配権を持っているため。「セーナー・エタッサ・アッティーティ」とは、軍隊を持つ者だから軍人、軍人そのものが「セーニヨ」であり、ここでの存在は多くの軍隊を持つ点で優れているとして、「大軍を伴っているため」と言う。
301-2. Saṃhatāti sannipatitā, ‘‘saṅghino’’ti vattabbe **‘‘saṅghī’’**ti puthutthe ekavacanaṃ brāhmaṇagahapatikānaṃ adhippetattā, tenāha **‘‘etesa’’**nti. Rājarājaññādīnaṃ bhaṇḍadharā purisā khatā, nesaṃ tāyanato khattā. So hi yehi yattha pesito, tattha tesaṃ dosaṃ pariharanto yuttapattavasena pucchitamatthaṃ katheti, tenāha **‘‘pucchitapañhe byākaraṇasamattho’’**ti. Kulāpadesādinā mahatī mattā etassāti mahāmatto.
301-2. 「サンハターティ」とは集まった、という意味。「サンギーノー」と言うべきところで「サンギー」と単数形が使われているのは、バラモンと家主を意味しているためであり、それゆえに「これらの」と言う。王侯貴族などの財産を管理する人々は傷つけられず、彼らを保護する者なので「カッター」である。彼は、派遣された場所で、彼らの欠点を回避しつつ、適切な方法で尋ねられた事柄を語る。それゆえ「尋ねられた問いを説明する能力がある」と言う。家柄などによって大きな威厳を持つ者なので「マハーマットー」(大臣)である。
303. Visiṭṭhaṃ rajjaṃ virajjaṃ, virajjameva verajjaṃ yathā ‘‘vekataṃ vesaya’’nti, nānāvidhaṃ verajjaṃ nānāverajjaṃ, tattha jātātiādinā sabbaṃ vuttanayeneva veditabbaṃ. Uttamabrāhmaṇoti abhijanasampattiyā vittasampattiyā vijjāsampattiyā uggatataro, uḷāro vā brāhmaṇo. Asannipātoti lābhamaccharena nippīḷitatāya asannipāto viya bhavissati.
303. 優れた王国を「ヴィラッジャ」といい、この「ヴィラッジャ」が「ヴェーラッジャ」となるのは「ヴェーカタム・ヴェーサヤ」と同じである。様々な種類の「ヴェーラッジャ」を「ナーナーヴェーラッジャ」といい、そこに生まれたなど、すべては述べられた方法で理解されるべきである。「ウッタマ・ブラーフマノ」(最上のバラモン)とは、家柄の豊かさ、財産の豊かさ、学問の豊かさにおいて非常に優れている、あるいは高貴なバラモンである。「アサンニパート」とは、利益に対する貪欲によって苦しめられているため、集まりに来ないようなものである。
‘‘Aṅgeti gameti ñāpetīti aṅgaṃ, hetūti āha **‘‘imināpi kāraṇenā’’**ti. ‘‘Ubhato sujāto’’ti ettake vutte yehi kehici dvīhi bhāgehi sujātatā viññāyeyya. Sujāta-saddo ca ‘‘sujāto cārudassano’’tiādīsu (theragā. 818) ārohasampattipariyāyoti jātivaseneva sujātataṃ vibhāvetuṃ **‘‘mātito ca pitito cā’’**ti vuttaṃ. Anorasaputtavasenāpi loke mātupitusamaññā dissati, idha panassa orasaputtavaseneva icchitāti dassetuṃ **‘‘saṃsuddhagahaṇiko’’**ti vuttaṃ. Gabbhaṃ gaṇhāti dhāretīti gahaṇī, gabbhāsayasaññito mātukucchippadeso. Yathābhuttassa āhārassa vipācanavasena gaṇhanato achaḍḍanato gahaṇī, kammajatejodhātu.
「アṅゲティ」とは、導き、知らせることから「アṅガ」(要素)であり、理由であるとして「この理由によっても」と言う。「ウバト・スジャート」(両方からよく生まれし者)とこれだけ言われた場合、何らかの二つの側面からよく生まれたことが理解されうる。また、「スジャータ」という言葉は「スジャートー・チャールダッサノー」(よく生まれ、美しく見える)などの箇所(テーラガータ 818)では、身体的特徴の完成を意味する比喩として使われているため、出生の側面からのみ「よく生まれた」ことを明確にするために、「母方からも父方からも」と言われる。世間では、血縁のない息子に対しても父母という呼称が見られるが、ここでは真の血縁関係にある息子として望まれていることを示すために「サンスッダガハニーコ」(純粋な子宮から生まれた者)と言われる。胎児を宿し、保持することから「ガハニー」であり、それは子宮と呼ばれる母の腹部である。また、摂取された食物を消化する能力を持ち、排出しないことから「ガハニー」(消化力)であり、それは業から生じた熱の要素である。
Pitā ca mātā ca pitaro, pitūnaṃ pitaro pitāmahā, tesaṃ yugo dvando pitāmahayugo, tasmā, yāva sattamā pitāmahayugā pitāmahadvandāti evamettha attho daṭṭhabbo. Evañhi pitāmahaggahaṇeneva mātāmahopi gahitoti. So aṭṭhakathāyaṃ visuṃ na uddhaṭo. Yuga-saddo cettha ekasesanayena daṭṭhabbo ‘‘yugo ca yugo ca yugā’’ti. Evañhi tattha tattha dvandaṃ gahitameva hoti, tenāha **‘‘tato uddhaṃ sabbepi pubbapurisā pitāmahaggahaṇeneva gahitā’’**ti. Purisaggahaṇañcettha ukkaṭṭhaniddesavasena katanti daṭṭhabbaṃ. Evañhi ‘‘mātito’’ti pāḷivacanaṃ samatthitaṃ hoti. Akkhittoti appattakhepo. Anavakkhittoti saddhathālipākādīsu na avakkhitto na chaḍḍito. Jātivādenāti hetumhi karaṇavacananti dassetuṃ **‘‘kena kāraṇenā’’**tiādi vuttaṃ. Ettha ca **‘‘ubhato…pe… pitāmahayugā’’**ti etena brāhmaṇassa yonidosābhāvo dassito saṃsuddhagahaṇikabhāvakittanato, **‘‘akkhitto’’**ti iminā kiriyāparādhābhāvo. Kiriyāparādhena hi sattā khepaṃ pāpuṇanti. **‘‘Anupakkuṭṭho’’**ti iminā ayuttasaṃsaggābhāvo. Ayuttasaṃsaggampi hi paṭicca sattā akkosaṃ labhanti.
父と母を「ピタロー」といい、父の父を「ピターマハー」(祖父)といい、彼らの対(つがい)を「ピターマハユガ」(祖父母の対)という。それゆえ、七代にわたる祖父母の対(ピターマハユガ)とは、祖父母の対(ピターマハドヴァンダ)のことであるとここで意味を理解すべきである。このように、「祖父」という言葉で母方の祖父も含まれる。それはアッタカター(注釈書)では特に取り上げられていない。ここで「ユガ」(対)という言葉は、一余格(エーカーセーサ・ナヤ)で理解されるべきである、「ユガとユガがユガーである」と。このように、そこかしこで「対」が意味されている。それゆえ「それより上は、すべての先祖が祖父という言葉で含まれる」と言う。ここで「男性」という言葉が、優れた表現として使われていると理解すべきである。このようにして、「母方から」というパーリ語の記述が正当化される。「アッキットー」とは、非難されるべきでないこと。「アナヴァッキットー」とは、信心深い人々への施しなどにおいて非難されず、捨てられないこと。「ジャーティヴァーデーナーティ」とは、理由を表す具格(カラナヴァチャナ)であることを示すために、「どのような理由によってか」などと言われる。ここで「両方から…祖父母の代まで」という言葉によって、バラモンの出生の欠陥がないことが、「純粋な子宮から生まれた者である」と称賛されることから示されている。「アッキットー」という言葉によって、行為上の過失がないことが示されている。実際、行為上の過失によって人々は非難を受けるからである。「アヌパックットー」という言葉によって、不適切な関係がないことが示されている。実際、不適切な関係によっても人々は非難を受けるからである。
Issaroti ādhipateyyasaṃvattaniyakammabalena īsanasīlo, sā panassa issaratā vibhavasampattipaccayā pākaṭā jātāti aḍḍhatāpariyāyabhāveneva vadanto **‘‘aḍḍhoti issaro’’**ti āha. Mahantaṃ dhanaṃ assa bhūmigatañceva vehāsaṭṭhañcāti mahaddhano. Tassāti tassa tassa. Vadanti ‘‘anvayato, byatirekato ca anupasaṅkamanakāraṇaṃ kittemā’’ti.
「イッサロー」(支配者)とは、支配権を確立する業の力によって支配する性質を持つ者であり、彼のその支配権は繁栄の成就を原因として顕現したため、「アッドホー」(富裕者)の同義語として、「アッドホー・ティ・イッサロー」(富裕者が支配者である)と言う。彼には地中にある財産も空にある財産も豊富にあるため、「マハッドハノー」(大富豪)である。「タッサ」とは、その、その、という意味。「順接と逆接によって、訪れない理由を述べる」と言う。
Adhikarūpoti visiṭṭharūpo uttamasarīro. Dassanaṃ arahatīti dassanīyo, tenāha **‘‘dassanayoggo’’**ti. Pasādaṃ āvahatīti pāsādiko, tenāha **‘‘cittappasādajananato’’**ti. Vaṇṇassāti vaṇṇadhātuyā. Sarīranti sannivesavisiṭṭhaṃ karacaraṇagīvāsīsādiavayavasamudāyaṃ, so ca saṇṭhānamukhena gayhatīti **‘‘paramāya vaṇṇapokkharatāyāti…pe… sampattiyā cā’’**ti vuttaṃ. Sabbavaṇṇesu suvaṇṇavaṇṇova uttamoti vuttaṃ **‘‘seṭṭhena suvaṇṇavaṇṇena samannāgato’’**ti. Tathā hi buddhā, cakkavattino ca suvaṇṇavaṇṇāva honti. Brahmavacchasīti uttamasarīrābho, suvaṇṇābho icceva attho. Imameva hi atthaṃ sandhāya **‘‘mahābrahmuno sarīrasadiseneva sarīrena samannāgato’’**ti vuttaṃ, na brahmujugattataṃ. Akhuddāvakāso dassanāyāti ārohapariṇāhasampattiyā, avayavapāripūriyā ca dassanāya okāso na khuddako, tenāha **‘‘sabbānevā’’**tiādi.
「アディカルーポ」とは、優れた姿、最上の身体を持つ者。「ダッサナン・アラハティ」とは、見るに値する者、すなわち「見るにふさわしい」と彼が言う。喜ばしさを招くので「パーサーディコ」(喜ばしい)であり、それゆえ「心に清浄さを生じさせるから」と言う。「ヴァンナッサ」とは、色という要素について。身体とは、手足、首、頭などの構成要素が特徴的に配置された集合体であり、それが形によって把握されるので、「最高の肌色と…成就によって」などと言われる。あらゆる色の中で金色が最上であると言われるので、「最上の金色を具備している」と言う。実際、仏陀や転輪聖王は金色である。「ブラフマヴァッチャシー」(梵天のような輝きを持つ)とは、最上の身体の輝き、すなわち金色の輝きという意味である。まさにこの意味を念頭に置いて、「大梵天の身体に似た身体を具備している」と言われるのであり、梵天に生まれたということではない。「アックッドダーヴァカーソー・ダッサナーヤーティ」(見るのに小さな隙がない)とは、身長と体格の成就、そして身体の各部位の完全さによって、見るのに小さな隙がないという意味であり、それゆえに「すべてを」などと言う。
Yamaniyamalakkhaṇaṃ sīlamassa atthīti sīlavā. Taṃ panassa rattaññutāya vuddhaṃ vaḍḍhitaṃ atthīti vuddhasīlī. Tena ca sabbadā sammāyogato vuddhasīlena samannāgato. Sabbametaṃ pañcasīlamattameva sandhāya vadanti tato paraṃ sīlassa tattha abhāvato, tesañca ajānanato.
禁戒と規範の特質である戒を彼が持っているため「シーラヴァー」(戒行者)である。その戒が、彼の中で長い経験によって成長し、増大しているため「ヴッダシーリー」(老練な戒行者)である。それゆえ、彼は常に正しい努力によって老練な戒行者である。これらすべては、五戒のみを指して言われている。なぜなら、それ以上の戒がそこになく、また彼らがそれを知らないからである。
Ṭhānakaraṇasampattiyā, sikkhāsampattiyā ca katthacipi anūnatāya parimaṇḍalapadāni byañjanāni akkharāni etissāti parimaṇḍalapadabyañjanā. Atha vā pajjati attho etenāti padaṃ, nāmādi. Yathādhippetamatthaṃ byañjetīti byañjanaṃ, vākyaṃ. Tesaṃ paripuṇṇatāya parimaṇḍalapadabyañjanā. Atthañāpane sādhanatāya vācāva karaṇanti vākkaraṇaṃ, udāhāraghoso. Guṇaparipuṇṇabhāvena tassa brāhmaṇassa, tena vā bhāsitabbaatthassa. Pūre puṇṇabhāve. Pūreti ca purimasmiṃ atthe ādhāre bhummaṃ, dutiyasmiṃ visaye. **‘‘Sukhumālattanenā’’**ti iminā tassā vācāya mudusaṇhabhāvamāha. Apalibuddhāya pittasemhādīhi. Sandiṭṭhaṃ sabbaṃ dassetvā viya ekadesaṃ kathanaṃ. Vilambitaṃ saṇikaṃ cirāyitvā kathanaṃ. ‘‘Sandiddhavilambitādī’’ti vā pāṭho. Tattha sandiddhaṃ sandehajanakaṃ. Ādi-saddena dukkhalitānukaḍḍhitādiṃ saṅgaṇhāti. **‘‘Ādimajjhapariyosānaṃ pākaṭaṃ katvā’’**ti iminā tassā vācāya atthapāripūriṃ vadanti.
ターナカラナサンパッティヤー、シッカーサンパッティヤー・チャ・カッタチピ・アヌーナターヤ・パリマンダラパダーニ・ビャンジャナーニ・アッカラニ・エティッサーティ・パリマンダラパダビャンジャナー。あるいは、このことによって意味が生じるから「パダ」とは、名詞などを指す。意図された意味を表明するから「ビャンジャナ」とは、文章を指す。それらが円満であるから「パリマンダラパダビャンジャナー」という。意味を知らせる手段として言葉が道具であるから「ヴァッカラナ」とは、朗詠のこと。そのバラモンが持つ功徳が円満であるか、あるいは彼が語るべき意味が円満であるから。完全に満たされている状態において。「プーレティ」とは、最初の意味では依処としての地面を指し、二番目の意味では対象を指す。‘‘スクマーラッタネーナー’’という言葉によって、その言葉の柔らかく繊細な状態を述べる。胆汁や痰などによって汚染されていない状態。すべてを見せるかのように、一部を語ることを「サンディッタ」という。ゆっくりと、時間をかけて語ることを「ヴィランビタ」という。「サンディッダヴィランビターディー」という読み方もある。そこでの「サンディッダ」は疑念を生じさせるもの。「アーディ」という言葉によって、苦しんだり、引きずったりするなどの状態を包含する。‘‘アーディマッジャパリヨーサーナン・パーカタム・カトヴァー’’という言葉によって、その言葉の意味の完全さを述べる。
**‘‘Jiṇṇo’’**tiādīni padāni suviññeyyāni, heṭṭhā vuttatthāni ca. Dutiyanaye pana jiṇṇoti nāyaṃ jiṇṇatā vayomattena, atha kho kulaparivaṭṭena purāṇatāti āha **‘‘jiṇṇoti porāṇo’’**tiādi, tena tassa brāhmaṇassa kulavasena uditoditabhāvamāha. Jātivuddhiyā ‘‘vayoanuppatto’’ti vakkhamānattā, guṇavuddhiyā tato sātisayattā ca **‘‘vuddhoti sīlācārādiguṇavuddhiyā yutto’’**ti āha. Tathā jātimahallakatāya vakkhamānattā **‘‘mahallako’’**ti padena vibhavamahattatā yojitā. Maggapaṭipannoti brāhmaṇānaṃ paṭipattivīthiṃ upagato taṃ avokkamma caraṇato. Antimavayanti pacchimavayaṃ.
‘‘ジンノー’’などの言葉は容易に理解できるものであり、以前に述べられた意味を持つ。しかし、第二の解釈によれば、「ジンノー」とは年齢による老いではなく、家系の継続による古さであると述べ、「‘‘ジンノーとは古き者’’」などという。それによって、そのバラモンが家系によって代々栄えてきた状態を述べる。生まれによる成長については「ヴァヨーアヌッパットー」と後で述べられるが、功徳による成長がそれ以上に優れているため、‘‘ヴッドーとは戒と行儀などの功徳に恵まれた者’’と述べる。同様に、生まれによる高齢については後で述べられるため、‘‘マハッラコー’’という言葉によって、富と偉大さが関連付けられる。「マッガパティパンノー」とは、バラモンの実践の道を外れることなく進んでいる者のこと。「アンティマヴァヤン」とは、最晩年のこと。
304. Tādisehi mahānubhāvehi saddhiṃ yugaggāhavasenapi dahanaṃ na mādisānaṃ anucchavikaṃ, kuto pana ukkaṃsananti idaṃ brāhmaṇassa na yuttarūpanti dassento āha **‘‘na kho pana metaṃ yutta’’**ntiādi. Sadisāti ekadesena sadisā. Na hi buddhānaṃ guṇehi sabbathā sadisā kecipi guṇā aññesu labbhanti. Itareti attano guṇehi asadisaguṇe. Idanti idaṃ atthajātaṃ. Gopadakanti gāviyā pade ṭhitaudakaṃ.
304. そのような偉大な力を持つ人々と同じ時代を生きるだけでも、私のような者にはふさわしくない、ましてや彼らを称賛するなどと、これはバラモンにとってふさわしくないと示して、‘‘これは私にはふさわしくない’’などと述べた。「サディサーティ」とは、一部において似ていること。仏陀の功徳と全く同じ功徳は、他の誰にも見られないからである。「イタレーティ」とは、自分の功徳とは似ても似つかない功徳のこと。「イダンティ」とは、この事柄のこと。「ゴパダカンティ」とは、牛の足跡に残った水のこと。
Saṭṭhikulasatasahassanti saṭṭhisahassādhikaṃ kulasatasahassaṃ kulapariyāyenāti suddhodanamahārājassa kulānukkamena āgataṃ. Tesupīti tesupi catūsu nidhīsu. Gahitagahitanti gahitaṃ gahitaṃ ṭhānaṃ pūratiyeva dhanena paṭipākatikameva hoti. Aparimāṇoyevāti ‘‘ettako eso’’ti kenaci paricchindituṃ asakkuṇeyyatāya aparicchinno eva.
サッティクラサタサハッサティとは、スッドーダナ大王の家系に代々伝わる、六万を超える十万の家系のこと。テースピーティとは、それらの四つの財宝の中にも。ガヒタガヒタンティとは、取られるたびに、その場所は財宝で満たされ、元の状態に戻るかのようである。「アパリマーノイェーヴァーティ」とは、「これほどである」と誰にも測り知ることができないため、限りないということである。
Tatthāti mañcake. Sīhaseyyaṃ kappesīti yathā rāhu asurindo āyāmato, vitthārato ubbedhato ca bhagavato rūpakāyassa paricchedaṃ gahetuṃ na sakkoti, tathā rūpaṃ iddhābhisaṅkhāraṃ abhisaṅkharonto sīhaseyyaṃ kappesi.
タッターティとは寝台の上。シーハセイヤン・カッペシーティとは、羅睺アスラ王が世尊の肉体の長さ、幅、高さといった限界を測ることができないのと同様に、そのような姿の神通力を成就しつつ、獅子座を組んだのである。
Kilesehi ārakattā parisuddhaṭṭhena ariyanti āha **‘‘ariyaṃ uttamaṃ parisuddha’’**nti. Anavajjaṭṭhena kusalaṃ, na sukhavipākaṭṭhena. Katthaci caturāsītipāṇasahassāni, katthaci aparimāṇāpi devamanussā yasmā catuvīsatiyā ṭhānesu asaṅkhyeyyā aparimeyyā devamanussā maggaphalāmataṃ piviṃsu, koṭisatasahassādiparimāṇenapi bahū eva, tasmā anuttarācārasikkhāpanavasena bhagavā bahūnaṃ ācariyo. Teti kāmarāgato aññe bhagavato pahīnakilese. Keḷanāti keḷāyanā dhanāyanā.
煩悩から離れているため清浄であるという意味で、「聖者である、最も優れた清浄な者である」と述べた。非難されるべき点がないという意味で善いのであり、楽な結果という意味ではない。ある場所では八万四千の衆生が、またある場所では無数の神々や人間が、二十四の場所で無数の神々や人間が道と果の甘露を飲んだので、何億もの数に及ぶ多くの衆生がいたので、無上の行いを教えるという意味で、世尊は多くの者の師である。「テーティ」とは、世尊が欲愛以外の煩悩を滅ぼした者たちを指す。「ケラナーティ」とは、遊びや財を望むこと。
Apāpapurekkhāroti apāpe pure karoti, na vā pāpaṃ purato karotītipi apāpapurekkhāroti imamatthaṃ dassetuṃ **‘‘apāpe navalokuttaradhamme’’**tiādi vuttaṃ. Tattha apāpeti pāpapaṭipakkhe, pāparahite ca. Brahmani seṭṭhe buddhe bhagavati bhavā tassa dhammadesanāvasena ariyāya jātiyā jātattā, brahmuno vā bhagavato hitā garukaraṇādinā, yathānusiṭṭhapaṭipattiyā ca, brahmaṃ vā seṭṭhaṃ ariyamaggaṃ jānātīti brahmaññā, ariyasāvakasaṅkhātā pajā, tenāha **‘‘sāriputtā’’**tiādi. Pakatibrāhmaṇajātivasenāpi ‘‘brahmaññāya pajāyā’’ti padassa attho veditabboti dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ.
「アパーパプレッカート」とは、悪を前にしない、あるいは悪を先行させないという意味で、この意味を示すために‘‘悪のない九種の世間を超えた法’’などが述べられた。そこで「アパーペティ」とは、悪の反対、すなわち悪のない状態を指す。最高の梵天である仏世尊の法説によって聖なる生まれを得たから、あるいは梵天である世尊への敬意などを通じて、その教えに従った実践によって、あるいは梵天である最高の聖なる道を識るから「ブラフマンニャー」とは、聖なる弟子である衆生を指し、それゆえ‘‘シャーリプッタよ’’などと述べた。また、通常のバラモン出身であるという意味でも「ブラフマンニャーヤ・パジャーヤー」という言葉の意味を理解すべきであると示すために、‘‘さらに’’などが述べられた。
Tiroraṭṭhā tirojanapadāti ettha rajjaṃ raṭṭhaṃ, rājanti rājāno etenāti, tadekadesabhūtā padesā pana **janapado,**janā pajjanti ettha sukhajīvikaṃ pāpuṇantīti. Pucchāya vā dosaṃ sallakkhetvāti sambandho. Asamatthatanti attano asamatthataṃ. Bhagavā vissajjeti tesaṃ upanissayasampattiṃ, ñāṇaparipākaṃ, cittācārañca ñatvāti adhippāyo.
「ティロラッター・ティロジャナパダーティ」とは、この場合、領域は国を指し、王たちがそれによって統治するからである。その一部を成す地方は「ジャナパダ(地方)」であり、人々がそこで快適な生活を送るからである。あるいは、疑問の欠点を考慮して関連付けられる。「アサマットタタンティ」とは、自分の無能さのこと。世尊は彼らの潜在能力、智慧の成熟度、心の働きを理解した上で答える、というのがその意味である。
‘‘Ehi **svāgatavādī’’**ti iminā sukhasambhāsapubbakaṃ piyavāditaṃ dasseti, **‘‘sakhilo’’**ti iminā saṇhavācataṃ, **‘‘sammodako’’**ti iminā paṭisandhārakusalataṃ, **‘‘abhākuṭiko’’**ti iminā sabbattheva vippasannamukhataṃ, **‘‘uttānamukho’’**ti iminā sukhālāpataṃ, **‘‘pubbabhāsī’’**ti iminā dhammānuggahassa okāsakaraṇato hitajjhāsayataṃ bhagavato vibhāveti.
‘‘エーヒ・スヴァーガタヴァーディー’’という言葉によって、喜んで話しかけることのできる親愛なる言葉遣いを示す。‘‘サキロ’’という言葉によって、柔らかい言葉遣いを示す。‘‘サンモダコー’’という言葉によって、親しい言葉を交わす熟練さを示す。‘‘アバークティコー’’という言葉によって、常に明るい顔であることを示す。‘‘ウッターナムコー’’という言葉によって、楽しい会話ができることを示す。‘‘プッババーシー’’という言葉によって、法を助ける機会を作ることから、世尊の慈悲深い意図を示す。
Yattha kirāti kira-saddo arucisūcanattho, tena bhagavatā adhivutthapadese na devatānubhāvena manussānaṃ anupaddavatā, atha kho buddhānubhāvenāti dasseti. Tenāha ‘‘apicā’’tiādi.
「ヤッタ・キラ」という「キラ」の語は、不快感を暗示する意味であり、それによって、世尊が滞在された地域では、神々の力によって人々が災難を免れたのではなく、仏陀の力によってであったと示す。それゆえ「さらに」などと述べた。
Anusāsitabboti vineyyajanasamūho gayhatīti nibbattitaṃ ariyasaṅghameva dassetuṃ **‘‘sayaṃ vā’’**tiādi vuttaṃ, anantarassa vidhi paṭisedho vāti katvā. **‘‘Tādisovā’’**ti iminā ‘‘sayaṃ vā’’tiādinā vuttavikappo eva paccāmaṭṭhoti. ‘‘Purimapadasseva vā’’ti vikappantaraggahaṇaṃ. Bahūnaṃ titthakarānanti pūraṇādīnaṃ anekesaṃ titthakarānaṃ, niddhāraṇe cetaṃ sāmivacanaṃ. Kāraṇenāti appicchasantuṭṭhatādisamāropanalakkhaṇena kāraṇena. Āgantukā navakāti abhinavā āgantukā abbhāgatā. Pariyāpuṇāmīti paricchindituṃ jānāmi sakkomi, tenāha **‘‘jānāmī’’**ti. **‘‘Kappampi ce aññamabhāsamāno’’**ti abhūtaparikappanavacanametaṃ tathā bhāsamānassa abhāvato.
教えられるべき「ヴィネイヤジャナサムーホー(調伏されるべき衆生集団)」が受け入れられ、聖なるサンガが生み出されたことを示すために、‘‘自ら、あるいは’’などが述べられ、その後の行為が許容されるか否かを定めている。‘‘そのように’’という言葉によって、「自ら、あるいは」などで述べられた選択肢が再び示される。「あるいは最初の語句のみ」という別の選択肢が示される。多くの外道師たちとは、プーラナなどの多数の外道師たちのことであり、これは限定の属格である。理由によってとは、少しの欲で満足するなどという、対象を当てはめるような特徴の理由によって。来訪者である新人とは、新たな来訪者、賓客のこと。「パリヤープナミィティ」とは、限定して知り、理解すること、それゆえ‘‘私は知っている’’と述べた。‘‘もしも一劫もの間、何も話さなければ’’とは、そのようなことを話す者がいないことから、ありえない仮定の言葉である。
305. Alaṃ-saddo arahattopi hoti ‘‘alameva nibbinditu’’ntiādīsu (saṃ. ni. 1.124) viyāti āha **‘‘alamevāti yuttamevā’’**ti. Puṭena netvā asitabbato paribhuñjitabbato puṭosaṃ vuccati pātheyyaṃ. Puṭaṃsena purisena.
305. 「アラム」という言葉は、例えば「アラーメーヴァ・ニッビンダトゥー」など(相応部1.124)に見られるように、阿羅漢の状態を指すこともあるので、‘‘アラメーヴァとは、適切である’’と述べた。「プテナ・ネトヴァー・アスティバットー・パリブジャンギタットー・プトゥーサン」とは、食料を指す。包みに入れたものとして、あるいは食べられるものとして、あるいは食べるものとして。プタンセーナとは、男によって。
307. Ubhatopakkhikāti micchādiṭṭhisammādiṭṭhīnaṃ vasena ubhayapakkhikā. Kerāṭikāti saṭhā.
307. 「ウバタパッヒカーティ」とは、邪見と正見の両側面から、両側に属する者のこと。「ケーラーティカーティ」とは、詐欺師のこと。
309. Vighātanti cittadukkhaṃ.
309. 「ヴィガータンティ」とは、心の苦しみのこと。
311-3. Sujanti homadabbiṃ paggaṇhantesūti juhanatthaṃ gaṇhanakesu, irubbijjesūti attho. Paṭhamo vāti tattha sannipatitesu yajanakiriyāyaṃ sabbapadhāno vā. Dutiyo vāti tadanantaro vā. **‘‘Suja’’**nti karaṇe etaṃ upayogavacananti āha **‘‘sujāyā’’**ti. Aggihuttapamukhatāya yaññassa yaññe diyyamānaṃ sujāmukhena dīyatīti āha **‘‘sujāya diyyamāna’’**nti. Porāṇāti aṭṭhakathācariyā. Visesatoti vijjācaraṇavisesato, na brāhmaṇehi icchitavijjācaraṇamattato. Uttamabrāhmaṇassāti anuttaradakkhiṇeyyatāya ukkaṭṭhabrāhmaṇassa. Brāhmaṇasamayanti brāhmaṇasiddhantaṃ. Mā bhindi mā vināsesi.
311-3. 「スジャンティ」とは、供物を捧げる器を掴む者たちのこと、つまり供物を捧げるために取る者たち、イルビッジェースーティの意味。「パタモ・ヴァーティ」とは、そこに集まった者たちの中で、供儀の行為において最も重要な者、あるいはその次である。「スジャ」とは、道具の意味で、活用語であるので、「スジャーヤー」と述べる。火供を主要なものとする供儀において、供物に捧げられるものはスジャーの口を通して与えられるので、「スジャーヤ・ディヤマーナン」と述べる。「ポーラーナーティ」とは、注釈書を著した師たちのこと。「ヴィセーサトティ」とは、智慧と行いの特異性からであり、バラモンが望む智慧と行いの程度だけではない。「ウッタマブラーフマナッサティ」とは、無上の施しを受けるに値する、優れたバラモンのこと。「ブラーフマナサマヤンティ」とはバラモンの教義のこと。「マー・ビンディ・マー・ヴィナーセーシ」とは、破壊するな、滅ぼすなの意。
316. Samasamoti samoyeva hutvā samo. Hīnopamavasenapi samatā vuccatīti taṃ nivattento **‘‘ṭhapetvā ekadesasamatta’’**ntiādimāha. Kulakoṭiparidīpananti kulaādiparidīpanaṃ athāpi siyāti athāpi tumhākaṃ evaṃ parivitakko siyā. Brāhmaṇabhāvaṃ sādheti vaṇṇo. Mantajātīsupi eseva nayo. Sīlameva sādhessati brāhmaṇabhāvaṃ. Kasmāti ce? Āha **‘‘tasmiñhissā’’**tiādi. Sammohamattaṃ vaṇṇādayoti vaṇṇamantajātiyo hi brāhmaṇabhāvassa aṅganti sammohamattametaṃ asamavekkhitābhimānabhāvato.
316. 「サマサモーティ」とは、同等でありながらも同等であること。劣った例えによっても同等性が語られるので、それを打ち消すために‘‘一部の同等性を除いて’’などが述べられた。「クラーコーティパリディーパナンティ」とは、家系などの明示、あるいは「そのような思索があなた方にも起こるかもしれない」という意味である。「バラモンたることを証明するのは階級である」。マントラの階級においても同じである。戒こそがバラモンたることを証明するだろう。なぜか?と問えば、‘‘その中にこそ’’などと述べる。階級などは単なる誤解である。なぜなら、階級やマントラや生まれはバラモンたることの要素であるということが、よく考えられない慢心であるからである。
317. Kathito brāhmaṇena pañhoti ‘‘sīlavā ca hotī’’tiādinā dvinnameva aṅgānaṃ vasena yathāpucchito pañho yāthāvato vissajjito etthāti etasmiṃ yathāvissajjite atthe. Tassāti soṇadaṇḍassa. Sīlaparisuddhāti sīlasampattiyā sabbaso suddhā anupakkiliṭṭhā. Kuto dussīle paññā asamāhitattā tassa. Jaḷe eḷamūge kuto sīlanti jaḷe eḷamūge duppaññe kuto sīlaṃ sīlavibhāgassa, sīlaparisodhanūpāyassa ca ajānanato. Pakaṭṭhaṃ ukkaṭṭhaṃ ñāṇaṃ paññāṇanti, pākatikaṃ ñāṇaṃ nivattetuṃ ‘‘paññāṇa’’nti vuttanti tayidaṃ pakārehi jānanato paññāvāti āha **‘‘paññāṇanti paññā yevā’’**ti.
317. バラモンによって問われた問いとは、「戒律を守り、また」などの二つの要素に関して、尋ねられた問いが正確に答えられたこの意味においてである。タッサーティとはソーナダンダのこと。「シーラパリシュッドダーティ」とは、戒の完成によって全く清浄であり、汚染されていないこと。悪戒の者には智慧がない、なぜなら心が集中していないからである。愚かな、口のきけない者にはなぜ戒があるのか?愚かで口のきけない、智慧のない者には、戒の区別や戒を清める方法を知らないのだから、なぜ戒があるのか。優れた、最高の知識を「パンニャーナ」という。通常の知識を打ち消すために「パンニャーナ」と述べたというのは、これが様々な方法で知ることから智慧であるという意味で、‘‘パンニャーナとは智慧そのものである’’と述べた。
Sīlenadhotāti samādhipadaṭṭhānena sīlena sakalasaṃkilesamalavisuddhiyā dhotā visuddhā, tenāha **‘‘kathaṃ panā’’**tiādi. Tattha dhovatīti sujjhati. Mahāsaṭṭhivassatthero viyāti saṭṭhivassamahāthero viya. Vedanāpariggahamattampīti ettha vedanāpariggaho nāma yathāuppannaṃ vedanaṃ sabhāvarasato upadhāretvā ‘‘ayaṃ vedanā phassaṃ paṭicca, so phasso anicco dukkho vipariṇāmadhammo’’ti lakkhaṇattayaṃ āropetvā pavattitavipassanā. Evaṃ vipassantena ‘‘sukhena sakkā sā vedanā adhivāsetuṃ ‘‘vedanā eva vediyatī’’ti. Vedanaṃ vikkhambhetvāti yathāuppannaṃ dukkhaṃ vedanaṃ ananuvattitvā vipassanaṃ ārabhitvā vīthiṃ paṭipannāya vipassanāya taṃ vinodetvā. Saṃsumārapatitenāti kumbhīlena viya bhūmiyaṃ urena nipajjanena. Paññāya sīlaṃ dhovitvāti akhaṇḍādibhāvāpādanena sīlaṃ ādimajjhapariyosānesu paññāya suvisodhitaṃ katvā.
「シーレナドータティ」とは、三昧の基盤である戒によって、すべての煩悩の汚れが洗い流されて清浄であること、それゆえ‘‘なぜならば’’などと述べた。そこで「ドヴァーティ」とは清浄になること。マハーサッティヴァッサ長老のようにとは、六十歳のマハーテーラのように。「ヴェーダナーパリッガハムッタピィティ」とは、ここでの「ヴェーダナーパリッガハ」とは、生じた受をその本質と味によって考察し、「この受は触によって生じ、その触は無常であり、苦であり、変化する性質を持つ」という三つの特徴を当てはめて進められるヴィパッサナーのことである。このようにヴィパッサナーを実践することで「受は楽によって耐え忍ぶことができる、受こそが感じられる」と。受を揺るがすとは、生じた苦しい受に追従せず、ヴィパッサナーを開始し、道を歩むヴィパッサナーによってそれを滅ぼすこと。「サムスマラパティテーナーティ」とは、ワニが腹ばいになるように、地面に胸を伏せること。智慧によって戒を清めることとは、不破などの状態をもたらすことによって、戒を始めから終わりまで智慧によってよく清めること。
318. **‘‘Kasmā āhā’’**ti uparidesanāya kāraṇaṃ pucchati. Lajjā nāma ‘‘sīlassa jātiyā ca guṇadosapakāsanena samaṇena gotamena pucchitapañhaṃ vissajjesī’’ti parisāya paññātatā. Ettakaparamāti ettakaukkaṃsakoṭikā pañca sīlāni, vedattayavibhāvanaṃ paññañca lakkhaṇādito niddhāretvā jānanaṃ natthi, kevalaṃ tattha vacīparamā mayanti dassetīti āha **‘‘sīlapaññāṇanti vacanameva paramaṃ amhāka’’**nti. **‘‘Ayaṃ pana viseso’’**ti idaṃ niyyātanāpekkhaṃ sīlaniddese, tenāha **‘‘sīlamicceva niyyātita’’**nti. Sāmaññaphale pana ‘‘sāmaññaphala’’ micceva niyyātitaṃ, paññāniddese pana jhānapaññaṃ adhiṭṭhānaṃ katvā vipassanāpaññāvaseneva paññāniyyātanaṃ kataṃ, tenāha **‘‘paṭhamajjhānādīnī’’**ti.
318. ‘‘なぜそう言ったのか’’と、後の教えの理由を尋ねる。「恥」とは、「ゴータマ沙門が尋ねた戒と生まれと功徳と過失を明らかにする問いに、会議で答えた」という恥である。「エッタカパラマーティ」とは、五戒のような最高の極致、三つのヴェーダを解説すること、また智慧を特徴などから判断して知ることはなく、ただ私たちは言葉だけが最高であると示すために、‘‘戒と智慧とは、私たちにとって言葉こそが最高である’’と述べる。‘‘この違いは’’とは、これは戒の解説における、与えられたものであることを期待する表現であり、それゆえ‘‘戒としてのみ与えられた’’と述べた。「沙門果経」では「沙門果」としてのみ与えられ、智慧の解説では禅の智慧を土台として、ヴィパッサナーの智慧を通してのみ智慧が与えられたので、‘‘初禅などである’’と述べた。
321-2. Nattāti puttaputto. Agāravaṃ nāma natthi, na cāyaṃ bhagavati agāravena ‘‘ahañceva kho panā’’tiādimāha, atha kho attalābhaparihānibhayena. Ayañhi yathā tathā attano mahājanassa sambhāvanaṃ uppādetvā kohaññena pare vimhāpetvā lābhuppādaṃ nijigisanto vicarati, tasmā tathā avoca, tenāha **‘‘iminā kirā’’**tiādi.
321-2. 「ナッターティ」とは孫のこと。「不敬」というものはなく、これは世尊に対する不敬によって「私だけが」などと述べたのではなく、自分の利益が失われることへの恐れからであった。彼という者は、人々からの評価を様々に高め、虚偽によって他人を欺き、利益を得ようと巡っていたのである。それゆえ、そのように述べたのである。‘‘この者によって’’などと述べた。
Taṅkhaṇānurūpāyāti yādisī tadā tassa ajjhāsayappavatti, tadanurūpāyāti attho. Tassa tadā tādisassa vivaṭṭasannissitassa ñāṇassa paripākassa abhāvato kevalaṃ abbhudayanissito eva attho dassitoti āha **‘‘diṭṭhadhammikasamparāyikamatthaṃ sandassetvā’’**ti, paccakkhato vibhāvetvāti attho. Kusale dhammeti tebhūmake kusale dhamme, ‘‘catubhūmake’’tipi vattuṃ vaṭṭatiyeva, tenevāha ‘‘āyatiṃ nibbānatthāya vāsanābhāgiyā vā’’ti. Tatthāti kusaladhamme yathā samādapite. Nanti brāhmaṇaṃ samuttejetvāti sammadeva uparūpari nisānetvā puññakiriyāya tikkhavisadabhāvaṃ āpādetvā. Taṃ pana atthato tattha ussāhajananaṃ hotīti āha **‘‘saussāhaṃ katvā’’**ti. Evaṃ puññakiriyāya saussāhatā, evarūpaṃ guṇasamaṅgitā ca niyamato diṭṭhadhammikā atthasampādanīti evaṃ saussāhatāya, aññehi ca tasmiṃ vijjamānaguṇehi sampahaṃsetvā sammadeva haṭṭhatuṭṭhabhāvaṃ āpādetvā.
「その瞬間に相応しい」とは、その時の彼の志向の発露がどのようなものであるかということであり、それに相応しいという意味である。その時、そのような輪廻からの離脱に基づいた知恵の円熟が彼になかったため、ただ単に現在の幸福を伴うという意味だけを示すと述べた、と**「現世と来世の利益を示して」**と言った。直接的に明らかにすることという意味である。「善なる法」とは、三界における善なる法のことである。「四界において」とも言うべきである。それゆえ「将来、ニルヴァーナのための潜在的な条件となる」と述べた。「そこにおいて」とは、善なる法に励ませるように、という意味である。その婆羅門を鼓舞したとは、適切に繰り返し研ぎ澄まし、功徳の行いが鋭く清らかになるようにした、という意味である。それは、実質的にはそこでの熱意の喚起である、と**「意気込みを持たせて」**と述べた。このように功徳の行いに対する熱意、このような徳を備えていることは、必然的に現世の利益をもたらすものである。このように熱意と、その他彼に備わる諸々の徳によって、適切に彼を歓喜させ、非常に満足させたのである。
Yadi bhagavā dhammaratanavassaṃ vassi, atha kasmā so visesaṃ nādhigacchatīti āha **‘‘brāhmaṇo panā’’**tiādi. Yadi evaṃ kasmā bhagavā tassa tathā dhammaratanavassaṃ vassīti āha **‘‘kevalamassā’’**tiādi. Na hi bhagavato niratthakā desanā hotīti.
もし世尊が法宝の雨を降らせたのなら、なぜ彼は特別な境地を得なかったのか、と**「しかし婆羅門は」**などと言った。もしそうであるなら、なぜ世尊は彼のためにそのような法宝の雨を降らせたのか、と**「ただ彼の」**などと言った。世尊の説法は無意味ではありえないからである。
Soṇadaṇḍasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
ソーナダンダ経の注釈における深義の開示。
323. Purimasuttadvayeti ambaṭṭhasoṇadaṇḍasuttadvaye. Vuttanayamevāti yaṃ tattha āgatasadisaṃ idhāgataṃ taṃ atthavaṇṇanato vuttanayameva, tattha vuttanayeneva veditabbanti attho. ‘‘Taruṇo ambarukkho ambalaṭṭhikā’’ti (dī. ni. aṭṭha. 1.2) brahmajālasuttavaṇṇanāyaṃ vuttanti āha **‘‘ambalaṭṭhikā brahmajāle vuttasadisāvā’’**ti.
323. 「以前の二つの経典において」とは、アンバッタ経とソーナダンダ経の二つにおいて、という意味である。「述べられた方法と同じ」とは、そこにあるものと同じように、ここにあるものも意味の解釈において述べられた方法と同じであり、そこにおいて述べられた方法と同じように知るべきであるという意味である。「若いマンゴーの木、アンバラッティカー」(長部経典注釈 1.2)とブラフマジャーラ経の注釈に述べられていると、**「アンバラッティカーはブラフマジャーラ経に述べられているのと同じである」**と述べた。
Yaññāvāṭaṃ sampādetvā mahāyaññaṃ uddissa saviññāṇakāni, aviññāṇakāni ca yaññūpakaraṇāni upaṭṭhapitānīti vuttaṃ pāḷiyaṃ ‘‘mahāyañño upakkhaṭo’’ti, taṃ upakkharaṇaṃ tesaṃ tathāsajjananti āha **‘‘upakkhaṭoti sajjito’’**ti. Vacchatarasatānīti yuvabhāvappattāni balavavacchasatāni, te pana vacchā eva honti, na dammā balibaddā cāti āha **‘‘vacchasatānī’’**ti. Eteti usabhādayo urabbhapariyosānā. Anekesanti anekajātikānaṃ. Saṅkhyāvasena anekatā sattasataggahaṇeneva paricchinnā. Migapakkhīnanti mahiṃsarurupasadakuruṅgagokaṇṇamigānañceva morakapiñjaratittirakapotādipakkhīnañca.
祭場を整え、大いなる祭りのために、有情および無情の祭具が準備されたとパーリ語で「大いなる祭りが準備された」と述べられているが、その準備とはそれらの物の準備のことである、と**「ウパッカトーとは準備された」**と述べた。「百頭の子牛」とは、青年期に達した力強い百頭の子牛のことであり、それらは子牛であって、去勢された雄牛や牛ではない、と**「百頭の子牛」**と述べた。これらとは、雄牛などから羊に至るまでである。「多くの」とは、多くの種類の、という意味である。数的な「多く」は、七百という数によって限定されている。「獣と鳥」とは、水牛、カモシカ、鹿、クーラン、コカササギのシカ、そして孔雀、キジ、ウズラ、ハトなどの鳥類のことである。
328. Yaññasaṅkhātassa puññassa yo saṃkileso, tassa nivāraṇato nisedhanato vidhā vuccanti vippaṭisāravinodanā. Tato eva tā taṃ puññābhisandaṃ avicchinditvā ṭhapentīti **‘‘ṭhapanā’’**ti vuttā. Tāsaṃ pana yaññassa ādimajjhapariyosānavasena tīsu kālesu pavattiyā yañño tiṭṭhapanoti āha **‘‘tiṭṭhapananti attho’’**ti. Parikkharonti abhisaṅkharontīti parikkhārā, parivārāti vuttaṃ. **‘‘Soḷasaparikkhāranti soḷasaparivāra’’**nti.
328. 祭祀という名の功徳における汚染を、それ(後悔)を取り除くこと、すなわち禁止することによって、「後悔の除去」という方法が言われる。それゆえ、それら(除去)は功徳の流れを途絶えさせることなく維持するので、**「維持」**と言われる。それらは祭祀の初め、中間、終わりの三つの時期に行われることによって、祭祀を維持するので、「ティッタパナ」とは維持という意味であると述べた。「パリッカラー」とは、装飾する、準備するものを意味し、従者、付随物と言われる。**「十六種のパリッカラーとは、十六種の付随物」**である。
336. Pubbacaritanti attano purimajātisambhūtaṃ bodhisambhārabhūtaṃ puññacariyaṃ. Tathā hissa anugāminova nidhissa thāvaro nidhi nidassito. Aḍḍhatā nāma vibhavasampannatā, sā taṃ taṃ upādāyupādāya vuccatīti āha **‘‘yo koci attano santakena vibhavena aḍḍho hotī’’**ti. Tathā mahaddhanatāpīti taṃ ukkaṃsagataṃ dassetuṃ **‘‘mahatā aparimāṇasaṅkhyena dhanena samannāgato’’**ti vuttaṃ. Bhuñjitabbato paribhuñjitabbato visesato kāmā bhogo nāmāti āha **‘‘pañcakāmaguṇavasenā’’**ti. Piṇḍapiṇḍavasenāti bhājanālaṅkārādivibhāgaṃ ahutvā kevalaṃ khaṇḍakhaṇḍavasena.
336. 「以前の行い」とは、自己の前世において生じた、菩提の資糧となる功徳の行いのことである。そのように、彼にとって永久不変の宝が示されているのは、後に続く宝だからである。「裕福であること」とは財産に恵まれていることであり、それはそれぞれの状況に応じて言われるので、**「誰であれ、自己の財産によって裕福である」**と述べた。同様に「大いなる富を持つこと」も、その最高の状態を示すために**「無限の財産に恵まれている」**と述べられた。享受されるべきもの、特に享受されるべき欲が「富」と呼ばれるので、**「五欲の対象に関して」**と述べた。「団塊の塊として」とは、器や装飾品などの区別なく、ただ断片的に、という意味である。
Māsakādīti ādi-saddena thālakādiṃ saṅgaṇhāti. Bhājanādīti ādi-saddena vatthaseyyāvasathādiṃ saṅgaṇhāti. Suvaṇṇarajatamaṇimuttāveḷuriyavajirapavāḷāni **‘‘sattaratanānī’’**ti vadanti. Sālivīhiādi pubbaṇṇaṃ purakkhataṃsassaphalanti katvā. Tabbipariyāyato muggamāsādi aparaṇṇaṃ. Devasikaṃ…pe… vasenāti divase divase paribhuñjitabbadātabbavaḍḍhetabbādividhinā parivattanakadhanadhaññavasena.
「マースカなど」の「など」という言葉は、ターラカなどを指す。「器など」の「など」という言葉は、衣類、寝具、住居などを指す。金、銀、宝珠、真珠、瑠璃、金剛、珊瑚を**「七宝」**と呼ぶ。サリ米やヴィーヒ米などを「主要な穀物」とすることで、前作物を指す。その反対に、ムッガ豆やマーサ豆などは「副次的な穀物」である。「毎日...などによって」とは、日々消費され、与えられ、増やされるべきといった方法で、流通する金銭や穀物を指す。
Koṭṭhaṃ vuccati dhaññassa āṭhapanaṭṭhānaṃ, koṭṭhabhūtaṃ agāraṃ koṭṭhāgāraṃ tenāha **‘‘dhaññena…pe… gāro cā’’**ti. Evaṃ sāragabbhaṃ ‘‘koso’’ti, dhaññassa āṭhapanaṭṭhānañca ‘‘koṭṭhāgāra’’nti dassetvā idāni tato aññathā taṃ dassetuṃ **‘‘atha vā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yathā asino tikkhabhāvaparihārato paricchado ‘‘koso’’ti vuccati, evaṃ rañño tikkhabhāvapariharaṇattā caturaṅginī senā ‘‘koso’’ti āha **‘‘catubbidho koso hatthī assā rathā pattī’’**ti. ‘‘Vatthakoṭṭhāgāraggahaṇeneva sabbassāpi bhaṇḍaṭṭhapanaṭṭhānassa gahitattā tividhaṃ koṭṭhāgāranti vuttaṃ. **‘‘Idaṃ evaṃ bahu’’**ntiādi rājā tamatthaṃ jānantova bhaṇḍāgārikena kathāpetvā parisāya nissaddabhāvāpādanatthañca āha evaṃ me pakatikkhobho na bhavissatīti.
「コッタ」とは穀物を貯蔵する場所のことであり、コッタである家が「コッターガーラ」である。それゆえ**「穀物…など…倉庫も」**と述べた。このように、実質的に「コーサ」とは、穀物の貯蔵場所である「コッターガーラ」を示すだけでなく、今やそれとは別の意味を示すために**「あるいは」**などと述べられている。そこでは、剣の鋭さを損なわないための鞘が「コーサ」と呼ばれるように、王の鋭さを損なわないため、四軍の兵も「コーサ」である、と**「四種のコーサとは、象、馬、車、歩兵」**と述べた。「衣類倉庫」の言及だけで、全ての物品貯蔵場所が包含されるので、「三種のコッターガーラ」と言われる。**「これは非常に多い」**などと、王はその意味を知りながらも、倉庫番に話させて、集会を静かにさせるため、そして「こうすれば私の自然な動揺がなくなるだろう」と言った。
337-8. Brāhmaṇo cintesi janapadassa anupaddavatthañceva yaññassa ca cirānupavattanatthañca, tenāha **‘‘ayaṃ rājā’’**tiādi.
337-8. 婆羅門は、民衆に災厄がないように、そして祭祀が長く継続するようにと考えた。それゆえ**「この王は」**などと言った。
Sattānaṃ hitassa sukhassa ca vidūsanato ahitassa dukkhassa ca āvahanato corā eva kaṇṭakā, tehi corakaṇṭakehi. Yathā gāmavāsīnaṃ ghātā gāmaghātā, evaṃ panthikānaṃ duhanā vibādhanā panthaduhanā. Adhammakārīti dhammato apetassa ayuttassa karaṇasīlo, attano vijite janapadādīnaṃ tato anatthato tāyanena khattiyo yo khattadhammo, tassa vā akaraṇasīloti attho. Dassavo eva khīlasadisattā dassukhīlaṃ. Yathā hi khette khīlaṃ kasanādīnaṃ sukhappavattiṃ, mūlasantānena sassassa buddhiñca vibandhati, evaṃ dassavo rajje rājāṇāya sukhappavattiṃ, mūlaviruḷhiyā janapadānaṃ paribuddhiñca vibandhanti. Tena vuttaṃ ‘‘dassavo eva khīlasadisattā dassukhīla’’nti. Vadha-saddo hiṃsanatthopi hotīti vuttaṃ **‘‘māraṇena vā koṭṭanena vā’’**ti. Addubandhanādināti ādi-saddena rajjubandhanasaṅkhalikabandhanādiṃ saṅgaṇhāti. Jāniyāti dhanajāniyā, tenāha **‘‘sataṃ gaṇhathā’’**tiādi. Pañcasikhamuṇḍakaraṇanti kākapakkhakaraṇaṃ. Gomayasiñcananti sīse chakaṇodakāvasecanaṃ. Kudaṇḍakabandhananti gaddulabandhanaṃ. Evamādīnīti ādi-saddena khuramuṇḍaṃ karitvā bhasmapuṭapothanādiṃ saṅgaṇhāti. Ūhanissāmīti uddharissāmi, apanessāmīti attho. Ussahantīti pubbe tattha kataparicayatāya ussāhaṃ kātuṃ sakkonti. Anuppadetūti anu anu padetu, tenāha **‘‘dinne appahonte’’**tiādi. Sakkhikaraṇapaṇṇāropanāni vaḍḍhiyā saha vā vinā vā puna gahetukāmassa, idha pana taṃ natthīti āha **‘‘sakkhiṃ akatvā’’**tiādi, tenāha **‘‘mūlacchejjavasenā’’**ti. Pakārato bhaṇḍāni ābharati sambharati paricayati etenāti pābhataṃ, bhaṇḍamūlaṃ.
衆生の利益と幸福を損ない、不利益と苦しみをもたらすので、盗賊こそがまさに茨(障害)である。その盗賊という茨によって。村人への危害が「村の危害」であるように、旅人への危害や妨害が「道の妨害」である。「不正を行う者」とは、法に背き、不当なことを行う習慣のある者、あるいは、自己の領地において民衆などを害悪から守ることによってクシャトリヤの法とされるものを、行わない習慣のある者という意味である。盗賊はまさに杭に似ているので「盗賊の杭」である。畑の杭が耕作などの円滑な進行を、そして根から作物の成長を妨げるように、盗賊は王国における王の命令の円滑な実行を、民衆の根源的な繁栄を妨げる。それゆえ「盗賊はまさに杭に似ているので盗賊の杭である」と述べられた。「殺害」という言葉は、害するという意味もあるので、**「殺すことによって、あるいは打ち砕くことによって」**と述べた。「鎖で縛るなど」の「など」という言葉は、縄で縛る、手かせ足かせで縛るなどを指す。「損失」とは財産の損失であり、それゆえ**「百を取れ」**などと言った。五つの髻を切ることとは、カラスの翼のようにすることである。牛糞を注ぐこととは、頭に糞水をかけることである。棒で縛ることとは、犬のように縛ることである。「これらなど」の「など」という言葉は、剃髪して灰をまぶすことなどを指す。「取り除くだろう」とは、取り除く、除去する、という意味である。「励む」とは、以前からそこで慣れていたので、励むことができるという意味である。「与えよ」とは、繰り返し与えよ、という意味であり、それゆえ**「与えられたものが不十分な場合」**などと言った。証人による証明書の発行は、利息をつけて、あるいはつけずに再び受け取ろうとする者に対するものであるが、ここではそれがなく、**「証人を立てずに」**などと言った。それゆえ**「根こそぎにする形で」**と述べた。品物を集め、蓄え、それによって維持される種類のものが「パーバタ」であり、物品の元手である。
Divase divase dātabbabhattaṃ devasikabhattaṃ. ‘‘Anumāsaṃ, anuposatha’’ntiādinā dātabbaṃ vetanaṃ māsikādiparibbayaṃ. Tassa tassa kulānurūpena kammānurūpena sūrabhāvānurūpenāti paccekaṃ anurūpa-saddo yojetabbo. Senāpaccādi ṭhānantaraṃ. Sakakammapasutattā, anupaddavattā ca dhanadhaññānaṃ rāsiko rāsikārabhūto. Khemena ṭhitāti anupaddavena pavattā, tenāha **‘‘abhayā’’**ti, kutocipi bhayarahitāti attho.
日々与えられるべき食事が日給である。「毎月、毎布薩」などによって与えられるべき俸給は、月ごとの費用などである。そのそれぞれの家柄に応じて、仕事に応じて、勇敢さに応じて、と「に応じて」という言葉はそれぞれに接続されるべきである。将軍などの地位である。それぞれの仕事に精励し、災厄がないため、金銭や穀物は堆積し、堆積したもののようになる。「安穏に存在する」とは、災厄なく存続するという意味であり、それゆえ**「恐れなく」**と言った。何からも恐れがないという意味である。
339. Tasmiṃ tasmiṃ kicce anuyanti anuvattantīti anuyantā, anuyantā eva ānuyantā yathā ‘‘anubhāvo eva ānubhāvo’’ti. Assāti rañño. Teti ānuyantakhattiyādayo. Attamanā na bhavissanti ‘‘amhe ettha bahi karotī’’ti. Nibandhavipulāgamo gāmo nigamo, vivaḍḍhitamahāāyo mahāgāmoti attho. Janapada-saddo heṭṭhā vuttattho eva. Channaṃ pakatīnaṃ vasena rañño hitasukhābhibuddhi, tadekadesā ca ānuyantādayoti vuttaṃ **‘‘yaṃ tumhākaṃ anujānanaṃ mama bhaveyya dīgharattaṃ hitāya sukhāyā’’**ti.
339. 「それぞれの行為において従い、追従する」のでアヌヤンター(従者)である。アヌヤンターこそアーヌヤンターであり、「威光こそ威光」であるように。「彼の」とは王の、という意味である。「彼らは」とは、その従者であるクシャトリヤなどである。「彼はここで私たちを排除する」と、彼らは喜ばないだろう。「定住して広大な村」はニガマ(町)であり、増大した大いなる収入のある大きな村という意味である。「地方」という言葉は、すでに下で述べられた意味と同じである。六つの要因によって王の利益と幸福が向上する。その一部である従者などについて、**「あなた方の許可が、私にとって長く利益と幸福となるように」**と述べられた。
Amā saha bhavanti kiccesūti amaccā, rajjakiccavosāsanakā. Te pana rañño piyā, sahapavattanakā ca hontīti āha **‘‘piyasahāyakā’’**ti. Rañño parisati bhavāti pārisajjā, te pana keti āha **‘‘sesā āṇattikarā’’**ti, yathāvuttaānuyantakhattiyādī hi avasesā rañño āṇākarāti attho. Satipi deyyadhamme ānubhāvasampattiyā, parivārasampattiyā ca abhāve tādisaṃ dātuṃ na sakkā, vuḍḍhakāle ca tādisānampi rājūnaṃ tadubhayaṃ hāyatevāti āha **‘‘mahallakakāle…pe… na sakkā’’**ti. Anumatiyāti anujānanena, pakkhāti sapakkhā yaññassa aṅgabhūtā. Parikkharontīti parikkhārā, sambhārā. Ime tassa yaññassa aṅgabhūtā parivārā viya hontīti āha **‘‘parivārā bhavantī’’**ti.
「行為において共にいる」のでアマッチャ(大臣)であり、それは王国の事を解決する者である。彼らは王にとって親しく、共に事を運ぶ者であるので、**「親しい友」**と述べた。王の集会にいるのでパーリサッジャー(廷臣)である。彼らは誰か、と**「残りの者は命令に従う者」**と述べた。これは、先に述べられた従者であるクシャトリヤなど以外の者は、王の命令に従う者であるという意味である。供物となるものが存在しても、威光の達成や従者の達成がなければ、そのような供養をすることはできない。老齢期には、そのような王であっても、その両方(威光と従者)は衰える、と**「老齢期には…など…できない」**と述べた。「許可によって」とは、承認によって、という意味である。「味方」とは、祭祀の一部をなす協力者である。「パリッカラ」とは、準備するものであり、資材である。これらはその祭祀の一部となる従者のようである、と**「従者となる」**と述べた。
340. Yasasāti ānubhāvena, tenāha **‘‘āṇāṭhapanasamatthatāyā’’**ti. Saddahatīti ‘‘dātā dānassa phalaṃ paccanubhotī’’ti pattiyāyati. Dāne sūroti dānasūro deyyadhamme īsakampi saṅgaṃ akatvā muttacāgo. Svāyamattho kammassakataññāṇassa tikkhavisadabhāvena veditabbo, tenāha **‘‘na saddhāmattakenevā’’**tiādi. Yassa hi kammassakatā paccakkhato viya upaṭṭhāti, so evaṃ vutto. Yaṃ dānaṃ detīti yaṃ deyyadhammaṃ parassa deti. Tassa pati hutvāti tabbisayaṃ lobhaṃ suṭṭhu abhibhavanto tassa adhipati hutvā deti anadhibhavanīyattā. ‘‘Na dāso, na sahāyo’’ti vatvā tadubhayaṃ anvayato, byatirekato ca dassetuṃ **‘‘yo hī’’**tiādi vuttaṃ. Dāso hutvā deti taṇhāya dānassa dāsabyataṃ upagatattā. Sahāyo hutvā deti tassa piyabhāvānissajjanato. Sāmī hutvā deti tattha taṇhādāsabyato attānaṃ mocetvā abhibhuyya pavattanato. Sāmiparibhogasadisā hetassāyaṃ pavattatīti.
340. 「名声によって」とは威光によって、という意味であり、それゆえ**「命令を確立する能力によって」**と述べた。「信じる」とは、「施主は施しの結果を経験する」と確信する。「施しに勇ましい」とは、施しに勇猛であり、供物に少しの執着も持たず、惜しみなく与える。この意味は、業は自己のものという知識が鋭く明瞭であることによって知られるべきであり、それゆえ**「ただ信仰だけによってではない」**などと述べた。業は自己のものであるということが、あたかも直接に見るかのように現れる者こそ、このように言われる。「供養を与える」とは、他者に供物を与えることである。「その主人となって」とは、その対象に対する貪りを完全に克服し、その支配者となって与える。それは克服されるべきものではないからである。「奴隷でもなく、友でもない」と言って、その両方を順方向と逆方向から示すために**「実に」**などと述べられた。奴隷となって与えるとは、渇愛によって施しの奴隷状態に陥っているからである。友となって与えるとは、彼への親愛の情を捨てないからである。主人となって与えるとは、渇愛の奴隷状態から自己を解放し、それを克服して振る舞うからである。この振る舞いは、あたかも主人の享楽のようである。
Samitapāpā samaṇā, bāhitapāpā brāhmaṇā ukkaṭṭhaniddesena, pabbajjāmattasamaṇā jātimattabrāhmaṇā pana kapaṇādiggahaṇenevettha gahitāti adhippāyo. Duggatāti dukkarajīvikaṃ upagatā kasiravuttikā, tenāha **‘‘daliddamanussā’’**ti. Addhikāti addhānamaggagāmino. Vaṇibbakāti dāyakānaṃ guṇakittanavasena, kammaphalakittanamukhena ca yācanakā seyyathāpi naggacariyādayo, tenāha **‘‘iṭṭhaṃ dinna’’**ntiādi. **‘‘Pasatamatta’’**nti vīhitaṇḍulādivasena vuttaṃ, **‘‘sarāvamatta’’**nti yāgubhattādivasena. Opānaṃ vuccati ogāhetvā pātabbato naditaḷākādīnaṃ sabbasādhāraṇatitthaṃ opānaṃ viya bhūtoti opānabhūto, tenāha **‘‘udapānabhūto’’**tiādi. Sutameva sutajātanti jāta-saddassa anatthantaravācakatamāha yathā ‘‘kosajāta’’nti.
悪を鎮めたサマナ、悪を遠ざけた婆羅門は最上の指示によるものであるが、ここでは出家したばかりのサマナや生まれつきの婆羅門は、貧者などとして捉えられている、という意味である。「困窮者」とは、困難な生活を送る者、生活が苦しい者であり、それゆえ**「貧しい人々」**と述べた。「旅人」とは、道を歩む者である。「乞食」とは、施主の徳を称賛したり、業の報いを説くことで請う者であり、裸行者などである。それゆえ**「望ましいものが与えられた」**などと言った。**「一パサタの量」**とはヴィーヒ米などに関して述べられ、**「一サーラヴァの量」**とは粥や飯などに関して述べられた。「オパーナ」とは、入って飲むことができる川や池などの共有の水場のことである。オパーナのようであるからオパーナブータである。それゆえ**「井戸のようである」**などと言った。「聞いたもの、聞いたものとして生じた」とは、「ジャータ」という言葉が「コーサジャータ」のように、異なった意味を持たないことを言っている。
Atītādiatthacintanasamatthatā nāmassa rañño anumānavasena, itikattabbatāvasena ca veditabbā, na buddhānaṃ viya tattha paccakkhadassitāyāti dassetuṃ **‘‘atīte’’**tiādi vuttaṃ. Aḍḍhatādayo tāva yaññassa parikkhārā hontu tehi vinā tassa asijjhanato, sujātatā surūpatā pana kathanti āha **‘‘etehi kirā’’**tiādi. Ettha ca keci ‘‘yathā aḍḍhatādayo yaññassa ekaṃsato aṅgāni, na evamabhijātatā, abhirūpatā cāti dassetuṃ kirasaddaggahaṇa’’nti vadanti ‘‘ayaṃ dujjāto’’tiādi vacanassa anekantikataṃ maññamānā, tayidaṃ asāraṃ, sabbasādhāraṇavasena hesa yaññārambho tattha siyā kesañci tathāparivitakkoti tassāpi avakāsābhāvādassanatthaṃ tathā vuttattā. Kira-saddo pana tadā brāhmaṇena cintitākārasūcanattho daṭṭhabbo. Evamādīnīti ādi-saddena ‘‘ayaṃ virūpo daliddo appesakkho assaddho appassuto anatthaññū na medhāvī’’ti etesaṃ saṅgaho daṭṭhabbo.
「過ぎ去ったことなどを考察する能力」とは、その王について、推測によって、また「こうすべきである」という方法によって知られるべきであり、仏陀たちのようにそこに直接的な見識があるわけではない、ということを示すために、「アティーテ(過去に)」などと述べられたのである。財産の豊かさなどは、供犠の資材であり、それらがなければ供犠は成就しない。しかし、良好な出生と美しい容姿についてはどうなのか、と説くのが「これらによって、きら(まさしく)」などである。ここで、ある人々は、「財産の豊かさなどが供犠の絶対的な要素であるように、良好な出生や美しい容姿はそうではない、ということを示すために『きら』という言葉が用いられた」と言う。これは「彼は悪しき出自である」などの言葉が不定であると考えてのことだが、それは無意味である。なぜなら、普遍的な方法で供犠が開始される際には、ある人々はそのように考えることがあるが、それには機会がないことを示すために、そのように述べられているからである。「きら」という言葉は、その時バラモンによって考えられた状況を示すものと見なされるべきである。「かくのごとく」という言葉によって、「彼は醜い貧者で、権力も無く、信仰も無く、学識も無く、意味を知らず、聡明でもない」というこれらの集まりが理解されるべきである。
341. **‘‘Sujaṃ paggaṇhantāna’’**nti purohitassa sayameva kaṭacchuggahaṇajotanena evaṃ sahatthā, sakkaccañca dāne yuttatā icchitabbāti dasseti. Evaṃ dujjātassāti etthāpi heṭṭhā vuttanayeneva attho veditabbo.
341. 「善く掴む者たち」とは、祭司が自ら匙を手に取ることを示唆しており、このように自らの手で、また敬意をもって布施を施すことが望ましいことを示す。このように、「悪しき出自の者」についても、下で述べられたのと同じ方法で意味が理解されるべきである。
342. Tiṇṇaṃ ṭhānānanti dānassa ādimajjhapariyosānabhūtāsu tīsu bhūmīsu, avatthāsūti attho. Calantīti kampanti purimākārena na tiṭṭhanti. Karaṇattheti tatiyāvibhattiatthe. Kattari hetaṃ sāmivacanaṃ karaṇīyasaddāpekkhāya. ‘‘Paccānutāpo na kattabbo’’ti vatvā tassa akaraṇūpāyaṃ dassetuṃ **‘‘pubbacetanā pana acalā patiṭṭhapetabbā’’**ti vuttaṃ. Tattha acalāti daḷhā kenaci asaṃhīrā. Patiṭṭhapetabbāti supatiṭṭhitā kātabbā. Evaṃ karaṇena hi yathā taṃ dānaṃ sampati yathādhippāyaṃ nippajjati, evaṃ āyatimpi vipulaphalatāyāti āha **‘‘evañhi dānaṃ mahapphalaṃ hotīti dassetī’’**ti, vippaṭisārena anupakkiliṭṭhabhāvato. Muñcacetanāti pariccāgacetanā. Tassā niccalabhāvo nāma muttacāgatā pubbābhisaṅkhāravasena uḷārabhāvo, samanussaraṇacetanāya pana niccalabhāvo ‘‘aho mayā dānaṃ dinnaṃ sādhu suṭṭhū’’ti tassa sakkaccaṃ paccavekkhaṇāvasena veditabbo. Tathā akarontassāti muñcacetanaṃ, tattha paccāsamanussaraṇacetanañca vuttanayena niccalaṃ akarontassa vippaṭisāraṃ uppādentassa. Khettavisese pariccāgassa katattā laddhesupi uḷāresu bhogesu cittaṃ nāpi namati. Yathā kathanti āha **‘‘mahāroruvaṃ upapannassa seṭṭhigahapatino viyā’’**ti.
342. 「三つの段階」とは、布施の最初、中間、最後の三つの段階、つまり三つの状況という意味である。「揺れ動く」とは、以前の状態にとどまらず、動揺することである。「~によって」とは、第三格の接尾辞の意味である。これは「なされるべき」という言葉に関連する、主語の所有格である。「後悔はなされるべきではない」と述べた後、その行わない方法を示すために、「しかし、事前の意思は不動に確立されるべきである」と述べられた。そこで「不動」とは、何によっても崩されない堅固な状態を意味する。「確立されるべき」とは、しっかりと確立されるべきである。このように行うことによって、その布施が意図通りに成就するように、将来も大きな果報をもたらすであろうと、「このように布施は大きな果報をもたらすことを示す」と説く。これは後悔によって汚されない状態にあるからである。「放棄の意思」とは、与え与える意思である。その不動な状態とは、過去の準備によって惜しみなく与えることによる寛大さである。一方、想起の意思の不動な状態とは、「ああ、私は素晴らしい布施をした」と、それを真剣に顧みる方法によって理解されるべきである。そのようにしない者とは、放棄の意思、そしてそこで述べられたように想起の意思を不動にしないことによって後悔を生じさせる者のことである。特定の畑(受施者)への布施がなされた結果、たとえ大きな富を得ても、心はそれに傾かない。それはどのようなことかというと、「大叫喚地獄に堕ちた商人の家主のように」と説く。
So kira tagarasikhiṃ paccekabuddhaṃ attano gehadvāre piṇḍāya ṭhitaṃ disvā ‘‘imassa samaṇassa piṇḍapātaṃ dehī’’ti bhariyaṃ āṇāpetvā rājupaṭṭhānatthaṃ pakkāmi. Seṭṭhibhariyā sappaññajātikā, sā cintesi ‘‘mayā ettakena kālena ‘imassa dethā’ti vacanamattaṃ pissa na sutapubbaṃ, ayañca maññe ahosi paccekasambuddho, yathā tathā adatvā paṇītaṃ piṇḍapātaṃ dassāmī’’ti upagantvā paccekasambuddhaṃ pañcapatiṭṭhitena vanditvā pattaṃ ādāya antonivesane paññattāsane nisīdāpetvā parisuddhehi sālitaṇḍulehi bhattaṃ sampādetvā tadanurūpaṃ khādanīyaṃ, byañjanaṃ, sūpeyyañca abhisaṅkharitvā bahi gandhehi alaṅkaritvā paccekasambuddhassa hatthesu patiṭṭhapetvā vandi. Paccekabuddho ‘‘aññesampi paccekabuddhānaṃ saṅgahaṃ karissāmī’’ti aparibhuñjitvāva anumodanaṃ katvā pakkāmi. Sopi kho seṭṭhi rājupaṭṭhānaṃ katvā āgacchanto paccekabuddhaṃ disvā ahaṃ ‘‘tumhākaṃ piṇḍapātaṃ dethā’’ti vatvā pakkanto, api vo laddho piṇḍapātoti. Āma seṭṭhi laddhoti. ‘‘Passāmā’’ti gīvaṃ ukkhipitvā olokesi. Athassa piṇḍapātagandho uṭṭhahitvā nāsapuṭaṃ pūresi. So ‘‘mahā vata me dhanabyayo jāto’’ti cittaṃ sandhāretuṃ asakkonto pacchā vippaṭisārī ahosi. Vippaṭisārassa pana uppannākāro ‘‘varameta’’ntiādinā (saṃ. ni. 1.131) pāḷiyaṃ āgatoyeva. Bhātu panāyaṃ ekaṃ puttakaṃ sāpateyyakāraṇā jīvitā voropesi, tena mahāroruvaṃ upapanno. Piṇḍapātadānena panesa sattakkhattuṃ suggatiṃ saggaṃ lokaṃ upapanno, sattakkhattumeva ca seṭṭhikule nibbatto, na cāssa uḷāresu bhogesu cittaṃ nami, tena vuttaṃ ‘‘nāpi uḷāresu bhogesu cittaṃ namatī’’ti.
彼はある時、タガラシキーという独覚仏が自分の家の門前で托鉢のために立っているのを見て、「この沙門に托鉢の食事を与えなさい」と妻に命じ、王への奉仕のために出かけて行った。商人の妻は賢明な家柄の者であった。彼女は考えた。「私はこれまでの間、夫から『これを与えなさい』という言葉を聞いたことがなかった。この方は独覚仏であるに違いない。適当に与えるのではなく、上等の托鉢の食事を与えよう」と。彼女は独覚仏に近づき、五体投地して礼拝し、鉢を受け取って家の中に設けられた座に独覚仏を座らせ、清浄な米でご飯を用意し、それに合う食べ物、おかず、スープを作り、外側を香で飾り付け、独覚仏の手に置いて礼拝した。独覚仏は「他の独覚仏たちにも施しをしよう」と考え、食事をせずに祝福の言葉を述べて去って行った。その商人自身も、王への奉仕を終えて帰ってくる途中、独覚仏を見て、「私はあなた方に托鉢の食事を与えなさいと言って出かけたが、托鉢の食事は得られましたか?」と尋ねた。「はい、商人殿、得られました」と。彼は「見てみよう」と言って首を伸ばして見上げた。すると、托鉢の食事の香りが立ち上り、彼の鼻腔を満たした。彼は「ああ、私の財産が大変無駄になった」と心を抑えることができず、後に後悔した。後悔が生じた様子は、「これは勝れている」など(相応部ニカーヤ1.131)のパーリ語聖典に述べられている通りである。この者は、兄弟の一人の幼子を財産のために殺害したため、大叫喚地獄に堕ちた。しかし、托鉢の食事を施したことで、彼は七度も善趣、天界に生まれ、七度も商人の家に生まれた。そして、彼は豊かな財産に心を傾けることはなかった。そのため、「豊かな財産にも心は傾かない」と述べられているのである。
343. Ākaroti attano anurūpatāya samariyādaṃ saparicchedaṃ phalaṃ nibbattetīti ākāro, kāraṇanti āha **‘‘dasahi ākārehīti dasahi kāraṇehī’’**ti. Paṭiggāhakato vāti balavataro hutvā uppajjamāno paṭiggāhakatova uppajjati, itaro pana deyyadhammato, parivārajanatopi uppajjeyyeva. Uppajjituṃ yuttanti uppajjanārahaṃ. Tesaṃyeva pāṇātipātīnaṃ. Yajanaṃ nāmettha dānaṃ adhippetaṃ, na aggijuhananti āha ‘‘yajataṃ bhavanti **detu bhava’’**nti. Vissajjatūti muttacāgavasena vissajjatu. Abbhantaranti ajjhattaṃ, sakasantāneti attho.
343. 「様相」とは、自分に相応しい、制約のある、限定された果報を生み出すことである。それゆえ、「十の様相とは十の理由である」と説く。受ける側から、あるいはさらに強力となって生じるものが、受ける側から生じる。他のものは、与えられるべき法から、あるいは周囲の人々からも生じるであろう。「生じるべき」とは、生じるに値すること。まさにそれらの殺生者たちの。「供犠」とは、ここでは布施を意味し、火に供物を捧げることではない、と説く。「彼らが供犠を行うように、あなたも与えなさい」。手放すとは、惜しみなく与えることによって手放すこと。内側とは、自己の内、つまり自分の相続財産という意味である。
344. Heṭṭhā soḷasa parikkhārā vuttā yaññassa te vatthuṃ katvā, idha pana sandassanādivasena anumodanāya āraddhattā vuttaṃ **‘‘soḷasahi ākārehī’’**ti. Dassetvā attano desanānubhāvena paccakkhato viya phalaṃ dassetvā, anekavāraṃ pana kathanato ca āmeḍitavacanaṃ. Tamatthanti yathāvuttaṃ dānaphalavasena kammaphalasambandhaṃ. Samādapetvāti sutamattameva akatvā yathā rājā tamatthaṃ sammadeva ādiyati citte karonto suggahitaṃ katvā gaṇhāti, tathā sakkaccaṃ ādāpetvā. Āmeḍitakāraṇaṃ heṭṭhā vuttameva.
344. 下では、供犠の十六の資具が、それらを基盤として述べられたが、ここでは、観想などによって随喜が始められたため、「十六の様相によって」と述べられた。自らの説法の力によって、まるで直接見るかのように果報を示し、何度も語ることで言葉を強調している。その意味とは、述べられた通りの布施の果報としての業の果報との関連である。理解させるとは、ただ聞くだけでなく、王がその意味を心に留め、正しく受け入れ、しっかりと把握するように、注意深く受け入れさせることである。強調の理由は、下で述べられた通りである。
**‘‘Vippaṭisāravinodanenā’’**ti idaṃ nidassanamattaṃ lobhadosamohaissāmacchariyamānādayopi hi dānacittassa upakkilesā, tesaṃ vinodanenapi taṃ samuttejitaṃ nāma hoti tikkhavisadabhāvappattito. Āsannatarabhāvato vā vippaṭisārassa tabbinodanameva gahitaṃ, pavattitepi hi dāne tassa sambhavato. Yāthāvato vijjamānehi guṇehi tuṭṭhapahaṭṭhabhāvāpādanaṃ sampahaṃsananti āha **‘‘sundaraṃ te…pe… thutiṃ katvā kathesī’’**ti. Dhammatoti saccato. Saccañhi dhammato anapetattā dhammaṃ, upasamacariyābhāvato samaṃ, yuttabhāvena kāraṇanti ca vuccatīti.
「後悔の除去によって」というこの言葉は、貪欲、憎悪、無知、嫉妬、慳貪、慢心などもまた、布施の心にとっての汚れであるため、それらを除去することによっても、それは鋭く清浄な状態になることによって、刺激されたことになる。あるいは、後悔がより近い関係にあるため、その除去のみが取り上げられた。なぜなら、布施が行われた後でもそれが生じ得るからである。存在する徳によって真に満足し、喜びの状態にさせることを「賞賛」という、と説く。「あなたの見事な…(以下略)…称賛をして語った」と。法とは、真実からである。真実とは、法から離れないことによって法であり、寂静の行いのために平静であり、適切であることによって理由とも呼ばれるのである。
345. Tasmiṃ yaññe rukkhatiṇacchedopi nāma nāhosi, kuto pāṇavadhoti pāṇavadhābhāvasseva daḷhīkaraṇatthaṃ sabbaso viparītagāhāvidūsitañcassa dassetuṃ pāḷiyaṃ ‘‘neva gāvo haññiṃsū’’ti ādiṃ vatvāpi ‘‘na rukkhā chijjiṃsū’’tiādi vuttaṃ, tenāha **‘‘kiṃ pana gāvo’’**tiādi. Barihisatthāyāti paricchedanatthāya. Vanamālāsaṅkhepenāti vanapupphehi ganthitamālāniyāmena. Bhūmiyaṃ vā pattharantīti vedibhūmiṃ parikkhipantā tattha pantharanti. Antogehadāsādayoti antojātadhanakkītakaramarānītasayaṃdāsā. Pubbamevāti bhatikaraṇato pageva. Gahetvā karontīti divase divase gahetvā karonti. Tajjitāti gajjitā. Piyasamudācārenevāti iṭṭhavacaneneva. Phāṇitena cevāti ettha ca-saddo avuttasamuccayattho, tena paṇītapaṇītānaṃ nānappakārānaṃ khādanīyabhojanīyādīnañceva vatthamālāgandhavilepanayānaseyyādīnañca saṅgaho daṭṭhabbo, tenāha **‘‘paṇītehi sappitelādisammissehevā’’**tiādi.
345. その供犠においては、木々や草の伐採さえもなかった。ましてや生命の殺害などあろうはずがない。生命殺害の不在をさらに強固にするため、そして(その供犠が)あらゆる点で誤った見解によって汚されていないことを示すために、パーリ語聖典では「牛は殺されなかった」などと述べた後、「木々は伐採されなかった」などと述べられている。それゆえ、「ましてや牛は?」などと説く。バリスのためにとは、敷き詰めるためである。森の蔓の束とは、森の花で編んだ花輪の規則によって。あるいは地面に広げるというのは、祭壇の敷地を囲んでそこに広げるのである。家の中の奴隷などとは、家で生まれた者、金で買われた者、盗賊から捕らえられた者、自ら奴隷となった者たちである。以前からとは、賃金を支払う前から。取って行うとは、日々取って行うことである。脅かされたとは、怒鳴られたということである。優しい言葉遣いとは、好ましい言葉でということである。砂糖と、という句の「と」という言葉は、言及されていないものの集積を意味する。それゆえ、極めて優れた様々な種類の食べ物や飲み物など、そして衣類、花輪、香、塗油、乗り物、臥具なども含まれると理解されるべきである。それゆえ、「上等なバターオイルなどと混ぜられたもので」などと説く。
346. Saṃ nāma dhanaṃ, tassa patīti sapati, dhanavā. Diṭṭhadhammikasamparāyikahitāvahattā tassa hitanti sāpateyyaṃ, tadeva dhanaṃ. Tenāha **‘‘pahūtaṃ sāpateyyaṃ ādāyāti bahuṃ dhanaṃ gahetvā’’**ti. Gāmabhāgenāti saṅkittanavasena gāme vā gahetabbabhāgena.
346. 「サン」とは財産のことであり、その主であるから「サパティ」、つまり富裕な者である。現世と来世の利益をもたらすため、その利益となるものが「サーパテーヤ(財産)」であり、それが財産である。それゆえ、「多くの財産を取って」とは「多くの財産を得て」という意味である。「村の部分で」とは、簡潔に言えば、村で得られるべき部分のことである。
347. **‘‘Yāguṃ pivitvā’’**ti yāgusīsena pātarāsabhojanamāha. Puratthimena yaññavāṭassāti rañño dānasālāya nātidūre puratthimadisābhāgeti attho, yato tattha pātarāsaṃ bhuñjitvā akilantarūpāyeva sāyanhe sālaṃ pāpuṇanti **‘‘dakkhiṇena yaññavāṭassā’’**ti ādīsupi eseva nayo.
347. 「粥を飲んで」とは、粥を主食として朝食を摂ることを言う。「供犠場の東側で」とは、王の布施の広間のすぐ近くの東の方向という意味である。なぜなら、そこで朝食を摂った後、疲れを知らない様子で夕方には広間に到着するからである。「供犠場の南側で」などについても、この説明が当てはまる。
348. Parihārenāti bhagavantaṃ garuṃ katvā agāravaparihārena.
348. 「待遇によって」とは、世尊を尊敬し、不敬の待遇をすることによってである。
349. Uṭṭhāya samuṭṭhāyāti dāne uṭṭhānavīriyaṃ sakkaccaṃ katvā. Appasambhārataroti ativiya parittasambhāro. Samārabhīyati yañño etehīti samārambhā, sambhārasambharaṇavasena pavattasattapīḷā. Appaṭṭhataroti pana ativiya appakiccoti attho. Vipākasaññitaṃ atisayena mahantaṃ sadisaphalaṃ etassāti mahapphalataro. Udayasaññitaṃ atisayena mahantaṃ nissandādiphalaṃ etassāti mahānisaṃsataro. Dhuvadānānīti dhuvāni thirāni acchinnāni katvā dātabbadānāni. Anukulayaññānīti anukulaṃ kulānukkamaṃ upādāya dātabbadānāni, tenāha **‘‘amhāka’’**ntiādi. Nibaddhadānānīti nibandhetvā niyametvā paveṇīvasena pavattitadānāni.
349. 「立ち上がり、奮起して」とは、布施において、努力と勤勉をもって真剣に行うことである。「より少ない資材で」とは、極めてわずかな資材のことである。それらによって供犠が開始されるので「開始するもの」、つまり資材を集めることによって生じる生きとし生けるものへの苦痛のことである。「より少ない目的で」とは、極めて少ない労力でという意味である。「異熟として極めて大きな同様の果報をもたらすので」とは、より大きな果報をもたらすということである。「生起として極めて大きな随伴などの果報をもたらすので」とは、より大きな功徳をもたらすということである。「常住の布施」とは、常なる、堅固なる、途切れることのない布施のことである。「相応の供犠」とは、家系の慣習に則って与えられるべき布施のことであり、それゆえ「我々の」などと説く。「固定された布施」とは、定められて、規則として、伝統的に行われる布施のことである。
Hatthidantena pavattitā dantamayasalākā, yattha dāyakānaṃ nāmaṃ aṅkanti. Raññoti setavāhanarañño.
象牙で作られた象牙の籤で、そこに施主の名前が刻まれる。王とは、セータヴァーハナ王のことである。
Ādīnīti ādi-saddena ‘‘seno viya maṃsapesiṃ kasmā okkhanditvā gaṇhāsī’’ti evamādīnaṃ saṅgaho. Pubbacetanāmuñcacetanāaparacetanāsampattiyā dāyakassa vasena tīṇi aṅgāni, vītarāgatāvītadosatāvītamohatāpaṭipattiyā dakkhiṇeyyassa vasena tīṇīti evaṃ chaḷaṅgasamannāgatāya dakkhiṇāya. Aparāparaṃ uppajjanakacetanāvasena mahānadī viya, mahogho viya ca ito cito ca abhisanditvā okkhanditvā pavattiyā puññameva puññābhisando.
「など」とは、「なぜ鷲のように肉片に飛びかかって奪い取るのか」といった類のものを含む。「事前の意思、捨施の意思、事後の意思」という布施主の三つの要素の具足によって、また「離貪、離瞋、離痴」という受施者の三つの修行によって、このように六つの要素を備えた布施である。次々に生じる意思の働きによって、大河や大洪水のようにあちらこちらから溢れ出し、流れ込んでいくことによって生じる功徳こそが功徳の連続である。
350. Kiccapariyosānaṃ natthi divase divase dāyakassa byāpārāpajjanato, tenāha **‘‘ekenā’’**tiādi. Kiccapariyosānaṃ atthi yathāraddhassa āvāsassa katipayenāpi kālena parisamāpetabbato, tenāha **‘‘paṇṇasāla’’**ntiādi. Suttantapariyāyenāti suttantapāḷinayena. (Ma. ni. 1.12, 13; a. ni. 2.58) nava ānisaṃsāti sītapaṭighātādayo paṭisallānārāmapariyosānā nava udayā. Appamattatāya cete vuttā.
350. 「一つのものによって」などと説くのは、日々の布施主の行為が発生するため、行為の終わりがないからである。しかし、作り始めた住居がわずかな期間で完成されるべきであるため、行為の終わりはある。「葉の小屋」などと説く。経典の様式とは、経典のパーリ語の様式によってである。(中部ニカーヤ1.12、13;増支部ニカーヤ2.58)「九つの利益」とは、寒さからの防御など、独居の安楽で終わる九つの生起である。これらは不放逸(精進)のために述べられたものである。
Yasmā āvāsaṃ dentena nāma sabbampi paccayajātaṃ dinnameva hoti. Dve tayo gāme piṇḍāya caritvā kiñci aladdhā āgatassapi chāyūdakasampannaṃ ārāmaṃ pavisitvā nhāyitvā patissaye muhuttaṃ nipajjitvā vuṭṭhāya nisinnassa kāye balaṃ āharitvā pakkhittaṃ viya hoti. Bahi vicarantassa ca kāye vaṇṇadhātu vātātapehi kilamati, patissayaṃ pavisitvā dvāraṃ pidhāya muhuttaṃ nipannassa visabhāgasantati vūpasammati, sabhāgasantati patiṭṭhāti, vaṇṇadhātu āharitvā pakkhittā viya hoti. Bahi vicarantassa ca pāde kaṇṭako vijjhati, khāṇu paharati, sarīsapādiparissayā ceva corabhayañca uppajjati, patissayaṃ pavisitvā dvāraṃ pidhāya nipannassa sabbe te parissayā na honti, sajjhāyantassa dhammapītisukhaṃ, kammaṭṭhānaṃ manasi karontassa upasamasukhañca uppajjati bahiddhā vikkhepābhāvato. Bahi vicarantassa ca kāye sedā muccanti, akkhīni phandanti, senāsanaṃ pavisanakkhaṇe mañcapīṭhādīni na paññāyanti, muhuttaṃ nisinnassa pana akkhīnaṃ pasādo āharitvā pakkhitto viya hoti, dvāravātapānamañcapīṭhādīni paññāyanti. Etasmiñca āvāse vasantaṃ disvā manussā catūhi paccayehi sakkaccaṃ upaṭṭhahanti. Tena vuttaṃ ‘‘āvāsaṃ dentena nāma sabbampi paccayajātaṃ dinnameva hotī’’ti, tasmā ete yathāvuttā sabbepi ānisaṃsā veditabbā. Tena vuttaṃ ‘‘appamattatāya cete vuttā’’ti.
住居を提供するということは、あらゆる必需品を提供することと同じである。托鉢のために二、三の村を巡って何も得られずに戻ってきた者も、日陰と水が豊富な精舎に入り、入浴し、休息所にしばらく横たわり、起きて座ると、あたかも体に力が戻ったかのように感じる。外を歩き回る者の体は、風や日光によってその外観が損なわれるが、休息所に入って扉を閉め、しばらく横たわると、不調な感覚は鎮まり、調和の取れた感覚が確立され、あたかも外観が戻ったかのように感じられる。外を歩き回る者の足には棘が刺さり、切り株にぶつかり、爬虫類などの危険や盗賊の恐怖が生じるが、休息所に入って扉を閉めて横たわると、それらすべての危険はなくなる。経典を唱える者には法の歓喜の幸福が、瞑想の対象を心に留める者には寂静の幸福が生じる、外的な散漫がないからである。外を歩き回る者の体からは汗が流れ、目がかすみ、住居に入る瞬間には寝台や椅子などが見分けられないが、しばらく座ると、あたかも目の澄明さが戻ったかのように、戸や窓、寝台や椅子などが見分けられるようになる。また、この住居に住む者を見て、人々は四つの必需品によって敬意をもって供養する。それゆえ、「住居を提供するということは、あらゆる必需品を提供することと同じである」と述べられている。したがって、述べられたこれらのあらゆる利益は知るべきである。それゆえ、「これらは不放逸ゆえに述べられた」と述べられている。
Sītanti ajjhattaṃ dhātukkhobhavasena vā bahiddhā utuvipariṇāmavasena vā uppajjanakasītaṃ. Uṇhanti aggisantāpaṃ, tassa vanaḍāhādīsu (vanadāhādīsu vā sārattha. ṭī. cūḷavagga 3.295) sambhavo veditabbo. Paṭihantīti paṭibāhati, yathā tadubhayavasena kāyacittānaṃ bādhanaṃ na hoti, evaṃ karoti. Sītuṇhabbhāhate hi sarīre vikkhittacitto bhikkhu yoniso padahituṃ na sakkoti. Vāḷamigānīti sīhabyagghādicaṇḍamige. Guttasenāsanañhi āraññakampi pavisitvā dvāraṃ pidhāya nisinnassa te parissayā na hontīti. Sarīsapeti ye keci sarante gacchante dīghajātike sappādike. Makaseti nidassanamattametaṃ, ḍaṃsādīnampi etesveva (etaneva sārattha. ṭī. cūḷavagga 3.295) saṅgaho daṭṭhabbo. Sisireti sisirakālavasena, sattāhavaddalikādivasena ca uppanne sisirasamphasse. Vuṭṭhiyoti yadā tadā uppannā vassavuṭṭhiyo paṭihanatīti yojanā.
「寒さ」とは、内的に元素の擾乱によって、あるいは外的に季節の変化によって生じる寒さを指す。「熱さ」とは、火の熱さであり、それは森の火事などによって生じることが知られている。「Paṭihanti(防ぐ)」とは、退ける、つまり体と心の苦痛がそれら二つの原因によって生じないようにすることである。実際、暑さや寒さによって悩まされると、心は乱れ、比丘は適切に努力することができない。「猛獣」とは、ライオンや虎などの凶暴な獣を指す。保護された住居は、森のものであっても、扉を閉めて座っていれば、それらの危険は生じない。「爬虫類」とは、這い歩くあらゆる長い生物、例えば蛇などを指す。これは単なる例示であり、虻などもこれらに含まれると見なされるべきである。「シシラ(寒気)」とは、冬の季節によって、あるいは一週間の豪雨などによって生じる寒気のこと。「雨」とは、いついかなる時に降る雨でも防ぐ、という意味である。
Vātātapo ghoroti rukkhagacchādīnaṃ ummūlabhañjanādivasena pavattiyā ghoro sarajaarajādibhedo vāto ceva gimhapariḷāhasamayesu uppattiyā ghoro sūriyātapo ca. Paṭihaññatīti paṭibāhīyati. Leṇatthanti nānārammaṇato cittaṃ nivattetvā paṭisallānārāmatthaṃ. Sukhatthanti vuttaparissayābhāvena phāsuvihāratthaṃ. Jhāyitunti aṭṭhatiṃsāya ārammaṇesu yattha katthaci cittaṃ upanibandhitvā upanijjhāyituṃ. Vipassitunti aniccādito saṅkhāre sammasituṃ.
「激しい風雨」とは、木々や低木を根こそぎにするような形で吹き荒れる激しい風、あるいは塵や埃を伴う風、また夏の暑い時期に発生する激しい日差しを指す。「Paṭihaññatīti(防がれる)」とは、退けられること。「Leṇatthaṃ(隠遁のため)」とは、様々な対象から心を引き戻し、独居を好むため。「Sukhatthaṃ(幸福のため)」とは、述べられた危険がないことによって、安楽に過ごすため。「Jhāyituṃ(禅定するため)」とは、三十八の対象のいずれかに心を集中して深く瞑想するため。「Vipassituṃ(観照するため)」とは、無常などとして諸行を観察するため。
Vihāreti patissaye. Kārayeti kārāpeyya. Rammeti manorame nivāsasukhe. Vāsayettha bahussuteti kāretvā pana ettha vihāresu bahussute sīlavante kalyāṇadhamme nivāseyya, te nivāsento pana tesaṃ bahussutānaṃ yathā paccayehi kilamatho na hoti, evaṃ annañca pānañca vatthasenāsanāni ca dadeyya ujubhūtesu ajjhāsayasampannesu kammakammaphalānaṃ, ratanattayaguṇānañca saddahanena vippasannena cetasā.
「住む」とは、休息所に住むこと。「Kārayeti(造らせる)」とは、造らせるべきである。「Rammeti(楽しむ)」とは、快適な住居の安楽を楽しむこと。「Vāsayettha bahussute(ここに多聞なる者を住まわせよ)」とは、これら住居に、多聞にして戒律を守り、善い法を持つ者を住まわせるべきである。そして、これらの多聞なる者を住まわせる際には、彼らが必需品によって苦しまないように、正直な心を持ち、意図が完全であり、業とその結果、そして三宝の功徳を信じて清らかな心で、食べ物、飲み物、衣服、住居などを与えるべきである。
Idāni gahaṭṭhapabbajitānaṃ aññamaññūpakāritaṃ dassetuṃ **‘‘te tassā’’**ti gāthamāha. Tattha teti bahussutā. Tassāti upāsakassa. Dhammaṃ desentīti sakalavaṭṭadukkhapanūdanaṃ saddhammaṃ desenti. Yaṃ so dhammaṃ idhaññāyāti so upāsako yaṃ saddhammaṃ imasmiṃ sāsane sammāpaṭipajjanena jānitvā aggamaggādhigamena anāsavo hutvā parinibbāti ekādasaggivūpasamena sīti bhavati.
今、在家者と出家者の相互の助け合いを示すために、「Te tassā(彼らはその人に)」という詩が述べられている。ここで「Te(彼ら)」とは多聞なる人々を指す。「Tassā(その人に)」とは優婆塞(在家の信者)を指す。「Dhammaṃ desenti(法を説く)」とは、輪廻の苦しみを全て取り除く善き法を説くこと。「Yaṃ so dhammaṃ idhaññāya(彼がここでその法を知ることによって)」とは、その優婆塞がこの教えにおいて正しく実践することによって、その善き法を知り、最上の道を得ることによって煩悩を滅し、十一の火を鎮めることによって平安となり、般涅槃に至ることである。
Sītapaṭighātādayo vipassanāvasānā terasa, annādilābho, dhammassavanaṃ, dhammāvabodho, parinibbānanti evaṃ sattarasa.
寒さを防ぐことなど、観照の終わりまでの十三、食べ物などの利益、法の聴聞、法の理解、そして般涅槃、このように合わせて十七である。
351. Attano santakāti attaniyā. Duppariccajanaṃ lobhaṃ niggaṇhituṃ asakkontassa. Saṅghassa vā gaṇassa vā santiketi yojanā. Tatthāti yathāgahite saraṇe. Natthi punappunaṃ kattabbatā viññūjātikassāti adhippāyo. **‘‘Jīvitapariccāgamayaṃ puñña’’**nti ‘‘sace tvaṃ na yathāgahitaṃ saraṇaṃ bhindissati, evāhaṃ taṃ māremī’’ti yadipi koci tiṇhena satthena jīvitā voropeyya, tathāpi ‘‘nevāhaṃ buddhaṃ na buddhoti, dhammaṃ na dhammoti, saṅghaṃ na saṅghoti vadāmī’’ti daḷhataraṃ katvā gahitasaraṇassa vasena vuttaṃ.
351. 「Attano santakā(自分のもの)」とは、自分の財産である。それは、捨てるのが難しい貪欲を抑えられない者のためである。あるいは、「サンガ(僧伽)または団体のものである」と解釈されるべきである。「Tattha(その中に)」とは、受け入れられた帰依の中である。これは、賢明な者にとっては繰り返し行うべき行為がないという意味である。「Jīvitapariccāgamayaṃ puñña(命を捧げる功徳)」とは、「もしあなたが受け入れられた帰依を破棄しないなら、私はあなたを鋭い武器で殺そう」と誰かが脅しても、「私はブッダをブッダではないと言わず、ダンマをダンマではないと言わず、サンガをサンガではないと言わない」と固く誓って帰依を守ることを指している。
352. Saraṇaṃ upagatena kāyavācācittehi sakkaccaṃ vatthuttayapūjā kātabbā, tattha ca saṃkileso parihanitabbo, sikkhāpadāni pana samādānamattaṃ, sampattavatthuto viramaṇamattañcāti saraṇagamanato sīlassa appaṭṭhataratā, appasamārambhataratā ca veditabbā. Sabbesaṃ sattānaṃ jīvitadānādinā daṇḍanidhānato, sakalalokiyalokuttaraguṇādhiṭṭhānato cassa mahapphalamahānisaṃsataratā daṭṭhabbā.
352. 帰依した者は、身、口、意によって三宝を敬虔に供養すべきであり、そこで煩悩を減じるべきである。しかし、戒律(Sikkhāpada)は単に受持すること、つまり接触した対象からの離反に過ぎないため、帰依に比べて戒律は重要度が低い、あるいは開始の努力が少ないと理解されるべきである。すべての衆生に命を与えることなどによって杖を置くこと、そしてあらゆる世俗的・出世間の功徳の基盤となることによって、その大きな果報と大いなる利益は理解されるべきである。
Vakkhamānanayena ca verahetutāya veraṃ vuccati pāṇātipātādipāpadhammo, taṃ maṇati ‘‘mayi idha ṭhitāya kathaṃ āgacchasī’’ti tajjentī viya nīharatīti veramaṇī, tato vā pāpadhammato viramati etāyāti ‘‘viramaṇī’’ti vattabbe niruttinayena ikārassa ekāraṃ katvā **‘‘veramaṇī’’**ti vuttā. Asamādinnasīlassa sampattato yathāupaṭṭhitavītikkamitabbavatthuto virati sampattavirati. Samādānavasena uppannā virati samādānavirati. Setu vuccati ariyamaggo, tappariyāpannā hutvā pāpadhammānaṃ samucchedavasena ghātanavirati setughātavirati. Idāni tisso viratiyo sarūpato dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Pariharatīti avītikkamavasena parivajjeti. Na hanāmīti ettha iti-saddo ādiattho, tena ‘‘adinnaṃ nādiyāmī’’ti evaṃ ādīnaṃ saṅgaho, vā-saddena vā, tenāha **‘‘sikkhāpadāni gaṇhantassā’’**ti.
また、後に述べる方法によれば、敵意の原因ゆえに「敵意(veraṃ)」とは殺生などの悪法を指す。それを「私(戒め)がここにいるのに、どうして来るのか」と脅すかのように引き離すので「Veramaṇī(遠離)」と言う。あるいは、その悪法からこれによって遠離するので、「Viramaṇī」と言うべきところを、語源学的な理由でi音をe音に変えて「Veramaṇī」と言われた。戒律を受持していない者の場合、その場で現れた犯すべき行為からの遠離を「sampattavirati(機会的遠離)」という。受持することによって生じる遠離を「samādānavirati(受持による遠離)」という。橋(setu)とは聖なる道を指し、それに含まれて悪法を根絶する形で破壊する遠離を「setughātavirati(橋を破壊する遠離)」という。今、これら三つの遠離をその本質において示すために「Tatthā(その中で)」などが述べられている。「Pariharati(避ける)」とは、違反しないことによって避けること。「Na hanāmīti(殺さない)」という箇所の「iti」という語は「など」の意味であり、それによって「与えられていないものを取らない」などのものが含まれる。あるいは、「vā」という語によって、それゆえに「sikkhāpadāni gaṇhantassā(戒律を受持する者の)」と述べられている。
Maggasampayuttāti sammādiṭṭhiyādimaggasampayuttā. Idāni tāsaṃ viratīnaṃ ārammaṇato vibhāgaṃ dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Purimā dveti sampattasamādānaviratiyo. Pacchimāti setughātavirati. Sabbānipi bhinnāni honti ekajjhaṃ samādinnattā. Tadeva bhijjati visuṃ visuṃ samādinnattā. Gahaṭṭhavasena cetaṃ vuttaṃ. Bhedo nāma natthi paṭipakkhasamucchindanena akuppasabhāvattā, tenāha **‘‘bhavantarepī’’**ti. Yonisiddhanti manussatiracchānānaṃ uddhaṃ tiriyameva dīghatā viya jātisiddhanti attho. Bodhisatte kucchigate bodhisattamātusīlaṃ viya dhammatāya sabhāveneva siddhaṃ dhammatāsiddhaṃ, maggadhammatāya vā ariyamaggānubhāvena siddhaṃ dhammatāsiddhaṃ. Diṭṭhiujukaraṇaṃ nāma bhāriyaṃ dukkhaṃ, tasmā saraṇagamanaṃ sikkhāpadasamādānato mahaṭṭhatarameva, na appaṭṭhataranti adhippāyo. Yathā tathā vā gaṇhantassāpīti ādaragāravaṃ akatvā samādiyantassāpi. Sādhukaṃ gaṇhantassāpīti sakkaccaṃ sīlāni samādiyantassāpi, na diguṇaṃ, tiguṇaṃ vā ussāho karaṇīyo.
「道と結びついている」とは、正見などの道と結びついていること。今、これらの遠離を対象によって区別するために、「Tatthā(その中で)」などが述べられている。初めの二つとは、機会的遠離と受持による遠離である。最後とは、橋を破壊する遠離である。すべてが分かれているのは、一度に受持するからである。別々に受持されると、それ自体が破られる。これは在家者の場合について述べられている。対立物を根絶することによって不動の本質であるため、区別というものは存在しない。それゆえ、「来世においても」と述べられている。「Yonisiddha(本質的に確立された)」とは、人間や動物が縦横に長いように、生まれつき確立されているという意味である。菩薩が胎内にいるときの菩薩の母の戒のように、法として自然に確立されているのが「dhammatāsiddha(法の確立)」である。あるいは、道の法として、聖なる道の力によって確立されているのが「dhammatāsiddha」である。見解を正すことは、困難な苦しみである。それゆえ、帰依は戒律の受持よりもはるかに重要であり、決して重要度が低いわけではない、というのが意図である。どのように受け取る者であっても、つまり敬意を払わずに受持する者であっても。よく受け取る者であっても、つまり敬虔に戒律を受持する者であっても、二倍、三倍の努力をする必要はない。
Abhayadānatāya sīlassa dānabhāvo, anavasesaṃ vā sattanikāyaṃ dayati tena rakkhatīti dānaṃ, sīlaṃ. ‘‘Aggānī’’ti ñātattā aggaññāni. Cirarattatāya ñātattā rattaññāni. ‘‘Ariyānaṃ sādhūnaṃ vaṃsānī’’ti ñātattā vaṃsaññāni. **‘‘Porāṇānī’’**tiādīsu purimānaṃ etāni porāṇāni. Sabbaso kenacipi pakārena sādhūhi na kiṇṇāni na khittāni na chaḍḍitānīti asaṅkiṇṇāni. Ayañca nayo nesaṃ yathā atīte, evaṃ etarahi, anāgate cāti āha **‘‘asaṅkiṇṇapubbāni na saṅkiyanti na saṅkiyissantī’’**ti. Tato eva appapikuṭṭhāni na paṭikkhittāni. Na hi kadācipi viññū samaṇabrāhmaṇā hiṃsādipāpadhammaṃ anujānanti. Aparimāṇānaṃ sattānaṃ abhayaṃ detīti sabbesu bhūtesu nihitadaṇḍattā sakalassapi sattanikāyassa bhayābhāvaṃ deti. Na hi ariyasāvakato kassaci bhayaṃ hoti. Averanti verābhāvaṃ. Abyāpajjhanti niddukkhataṃ.
無畏の施与であるという点で戒律は布施の性質を持つ。あるいは、すべての衆生を慈しみ、それによって守るので「ダーナ(布施)」、すなわち戒律である。「Aggānī(最も優れた)」と知られているので、aggaññāni(最高の)である。長きにわたって知られているので、rattaññāni(永続的な)である。「聖なる善人の家系」と知られているので、vaṃsaññāni(家系の)である。「Porāṇānī(古来の)」などにおいては、それ以前の人々のものなので古来の、という意味である。いかなる意味においても善人によって汚されることも、捨てられることも、放棄されることもない、という意味で「汚されていない(asaṅkiṇṇāni)」である。そして、その流儀は過去においても、現在においても、未来においても同様である、と述べられているのは、「asaṅkiṇṇapubbāni na saṅkiyanti na saṅkiyissantī(かつて汚されることがなく、汚されることもなく、未来にも汚されることはない)」からである。それゆえ、少しも非難されることもなく、拒否されることもない。実際、賢明な沙門やバラモンは、決して殺生などの悪法を容認しないからである。限りない衆生に無畏を与える、とは、すべての生物に対して杖を置かないことによって、すべての衆生に恐れのない状態を与えることである。実際、聖なる弟子から誰かに恐れが生じることはないからである。「Averaṃ(敵意がない)」とは、敵意のない状態。「Abyāpajjaṃ(苦痛がない)」とは、苦痛のない状態。
Nanu ca pañcasīlaṃ sabbakālikaṃ, na ca ekantato vimuttāyatanaṃ, saraṇagamanaṃ pana buddhuppādahetukaṃ, ekantavimuttāyatanañca, tattha kathaṃ saraṇāgamanato pañcasīlassa mahapphalatāti āha **‘‘kiñcāpī’’**tiādi. Jeṭṭhakanti uttamaṃ. **‘‘Saraṇagamaneyeva patiṭṭhāyā’’**ti iminā tassa sīlassa saraṇagamanena abhisaṅkhatatamāha.
さて、五戒は常に守られるべきものであり、絶対的な解脱の根源ではないが、帰依は仏の出現に起因し、絶対的な解脱の根源である。それなのに、なぜ五戒が帰依よりも大きな果報を持つのか、という問いに対して、「kiñcāpī(たとえそうであっても)」などと述べられている。「Jeṭṭhakaṃ(最上の)」とは、最も優れたものを指す。「Saraṇagamaneyeva patiṭṭhāya(帰依に立脚して)」とは、この戒が帰依によって構成されていることを指している。
353. Īdisamevāti evaṃ saṃkilesaṃ paṭipakkhameva hutvā. Heṭṭhā vuttehi guṇehīti ettha heṭṭhā vuttaguṇā nāma saraṇagamanaṃ, sīlasampadā, indriyesu guttadvāratāti evaṃ ādayo. Paṭhamajjhānaṃ nibbattento na kilamatīti yojanā. Tānīti paṭhamajjhānādīni. **‘‘Paṭhamajjhāna’’**nti ukkaṭṭhaniddeso ayanti āha **‘‘ekaṃ kappa’’**nti, ekaṃ mahākappanti attho. Hīnaṃ pana paṭhamajjhānaṃ, majjhimañca asaṅkhyeyyakappassa tatiyaṃ bhāgaṃ, upaḍḍhakappañca **āyuṃ deti. ‘‘Dutiyaṃ aṭṭhakappe’’**ti ādīsupi iminā nayena attho veditabbo, mahākappavaseneva ca gahetabbaṃ. Yasmā vā paṇītāniyevettha jhānāni adhippetāni mahapphalatarabhāvadassanaparattā desanāya, tasmā **‘‘paṭhamajjhānaṃ ekaṃ kappa’’**ntiādi vuttaṃ. Tadevāti catutthajjhānameva. Yadi evaṃ kathaṃ āruppatāti āha **‘‘ākāsānañcāyatanādī’’**tiādi.
353. 「Īdisameva(そのように)」とは、このように煩悩に逆らうものである。この「Heṭṭhā vuttehi guṇehi(下に述べられた功徳によって)」において、下に述べられた功徳とは、帰依、戒の成就、諸根における門の守護などである。初禅を生成する者は疲弊しない、と解釈されるべきである。「Tāni(それら)」とは、初禅などを指す。「Paṭhamajjhānaṃ(初禅)」とは、これは最も優れたものの記述である、と述べられているのは、「ekaṃ kappaṃ(一劫)」、つまり一大劫であるという意味である。しかし、劣った初禅は、無数劫の三分の一、中間の初禅は半劫の寿命を与える。「Dutiyaṃ aṭṭhakappe(第二の八劫)」などにおいても、この方法で意味が理解されるべきであり、一大劫によって捉えられるべきである。あるいは、この教説が大きな果報を示すことを目的としているため、ここでは優れた禅定のみが意図されているので、「初禅は一劫」などと述べられている。それとは、第四禅である。もしそうであるなら、どのように無色定になるのか、という問いに対して、「ākāsānañcāyatanādī(空無辺処など)」と述べられている。
Sammadeva niccasaññādipaṭipakkhavidhamanavasena pavattamānā pubbabhāgiye eva bodhipakkhiyadhamme sammānentī vipassanā vipassakassa anappakaṃ pītisomanassaṃ samāvahatīti āha **‘‘vipassanā…pe… abhāvā’’**ti. Tenāha bhagavā –
「vipassanā…pe… abhāvā(観照…欠如)」と述べられているのは、常住の想いなどの対立物を正しく打破する形で進行し、まさに前段階の三十七の菩提分法を正しく集める観照が、観照行者にとって少なからぬ喜びと歓喜をもたらすからである。それゆえに世尊は説かれた。
‘‘Yato yato sammasati, khandhānaṃ udayabbayaṃ;
「いかなる時も、諸行の生滅を観ずる者は」
Labhatī pītipāmojjaṃ, amataṃ taṃ vijānata’’nti. (dha. pa. 374);
「喜びと歓喜を得る。それを不死と知るべし。」(ダンマパダ 374)
Yasmā ayaṃ desanā iminā anukkamena imāni ñāṇāni nibbattentassa vasena pavattitā, tasmā **‘‘vipassanāñāṇe patiṭṭhāya nibbattento’’**ti heṭṭhimaṃ heṭṭhimaṃ uparimassa uparimassa patiṭṭhābhūtaṃ katvā vuttaṃ. Samānarūpanimmānaṃ nāma manomayiddhiyā aññehi asādhāraṇakiccanti āha **‘‘attano…pe… mahapphalā’’**ti. Vikubbanadassanasamatthatāyāti hatthiassādivividharūpakaraṇaṃ vikubbanaṃ, tassa dassanasamatthabhāvena. Icchiticchitaṭṭhānaṃ nāma purimajātīsu icchiticchito khandhappadeso. Samāpentoti pariyosāpento.
この教えは、この順序でこれらの智を生成する者について述べられているので、それゆえ、「vipassanāñāṇe patiṭṭhāya nibbattento(観照智に立脚して生成する)」とは、下位の智が上位の智の基盤となるように述べられたものである。「類似の姿を創造する」ことは、意生身の神通力によって他にはない行為である、と「attano…pe… mahapphalā(自身の…大きな果報)」と述べられている。「変身を示す能力によって」とは、象や馬などの様々な姿に変えることを「変身」といい、それを示す能力によって。「望む場所」とは、過去の生涯において望んだ肉体の場所を指す。「Samāpento(終える)」とは、完了させること。
354-8. Sabbe te pāṇayoti ‘‘satta ca usabhasatānī’’tiādinā vutte sabbe pāṇino. Ākulabhāvoti bhagavato santike dhammassa sutattā pāṇīsu anuddayaṃ upaṭṭhapetvā ṭhitassa ‘‘kathañhi nāma mayā tāva bahū pāṇino māraṇatthāya bandhāpitā’’ti citte paribyākulabhāvo udapādi. Sutvāti ‘‘bandhanato mocitā’’ti sutvā. Kāmacchandavigamena kallacittatā arogacittatā, byāpādavigamena mettāvasena muducittatā akathinacittatā, uddhaccakukkuccappahānena vikkhepavigamanato vinīvaraṇacittatā tehi na pihitacittatā, thinamiddhavigamena udaggacittatā saṃpaggaṇhanavasena alīnacittatā, vicikicchāvigamena sammāpaṭipattiyā adhimuttatāya pasannacittatā ca hotīti āha **‘‘kallacittantiādi anupubbikathānubhāvena vikkhambhitanīvaraṇataṃ sandhāya vutta’’**nti. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.
354-8. 「それらすべての衆生」とは、「七百頭の雄牛」などと言われたすべての生き物である。「困惑した状態」とは、世尊の御前で法を聞き、生き物への慈悲の念を抱いて立っていた者が、「ああ、何と多くの生き物を、私は殺すために縛らせてしまったことか」と心の中で非常に困惑した状態が生じたことである。「聞いて」とは、「束縛から解放された」と聞いて。欲愛がなくなって心が健康になること、悪意がなくなって慈しみによって心が柔らかく、硬直しない心になること、掉挙と悪作を捨てて心が散乱せず、蓋障によって覆われていない心になること、惛沈と睡眠がなくなって心が活発になり、高揚することによって萎縮しない心になること、疑いがなくなって正しい行いに帰依することによって心が清らかになる、ということである。ゆえに、「「穏やかな心」などとは、順を追った説法の影響によって蓋障が抑えられた状態を指して言われた」とある。この箇所で意味が分けられていないものは、容易に理解できる。
Kūṭadantasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
クータダンタ経釈義における隠された意味の開示。
359. Punappunaṃ visālībhāvūpagamanatoti pubbe kira puttadhītuvasena dve dve hutvā soḷasakkhattuṃ jātānaṃ licchavīrājakumārānaṃ saparivārānaṃ anukkameneva vaḍḍhantānaṃ nivāsanaṭṭhānārāmuyyānapokkharaṇīādīnaṃ patiṭṭhānassa appahonakatāya nagaraṃ tikkhattuṃ gāvutantarena gāvutantarena parikkhipiṃsu, tenassa punappunaṃ visālībhāvaṃ gatattā ‘‘vesālī’’ tveva nāmaṃ jātaṃ, tena vuttaṃ **‘‘punappunaṃ visālībhāvūpagamanato vesālīti laddhanāmake nagare’’**ti. Sayaṃjātanti sayameva jātaṃ aropimaṃ. Mahantabhāvenevāti rukkhagacchānaṃ, ṭhitokāsassa ca mahantabhāvena, tenāha **‘‘himavantena saddhiṃ ekābaddhaṃ hutvā’’**ti. Kūṭāgārasālāsaṅkhepenāti haṃsavaṭṭakacchannena kūṭāgārasālāniyāmena. Kosalesu jātā, bhavā vā, taṃ vā raṭṭhaṃ nivāso etesanti kosalakā. Evaṃ māgadhakā veditabbā. Yassa akaraṇe puggalo mahājāniyo hoti, taṃ karaṇaṃ arahatīti karaṇīyaṃ tena karaṇīyena, tenāha **‘‘avassaṃ kattabbakammenā’’**ti. Taṃ kiccanti vuccati sati samavāye kātabbato.
359. 「何度も拡張された状態になったため」とは、以前に、リッチャヴィの王子たちが子女として二人ずつ十六回生まれ、その眷属が次々と増えていき、居住地や公園、庭園、池などの施設が足りなくなったため、町を三度、牛一頭分ずつの土地を囲って拡張した。それによって何度も拡張された状態になったので「ヴァイシャーリー」という名前になったのである。ゆえに、「「何度も拡張された状態になったのでヴァイシャーリーという名を得た町に」」と述べられている。「自然に生じた」とは、自ら生じたもので植えられたものではない。「広大な状態であるから」とは、木や草、そしてその場所が広大であるためである。ゆえに、「「ヒマラヤ山脈と一体となって」」と述べられている。「寄棟造りの集会所の縮小によって」とは、鵞鳥が旋回するような屋根で覆われた寄棟造りの集会所の方式によって。「コーサラ人」とは、コーサラ国で生まれた者、あるいは住んでいる者、あるいはその国を住処とする者たちである。同様にマーガダ人も知るべきである。人がそれをしないことで大きな損失を被る場合、それを行うことは「なすべきこと」(karaṇīya)である。その「なすべきこと」によって。ゆえに、「「必ずなすべき行いによって」」と述べられている。「なすべきこと」とは、機会があればなすべきであるから言われる。
360. Yā buddhānaṃ uppajjanārahā nānattasaññā, tāsaṃ vasena nānārammaṇācārato. Sambhavantasseva paṭisedho. Paṭikkammāti nivattitvā tathā cittaṃ anuppādetvā. Sallīnoti jhānasamāpattiyā ekattārammaṇaṃ allīno.
360. 「諸仏に生じ得る多様な想」とは、それらに応じた様々な対象の行いによる。生じ得るものだけを禁止する。「退いて」とは、引き下がって、そのように心を生じさせないで。「密着した」とは、禅定の成就によって一つの対象に密着した。
361. Addhoṭṭhatāyāti tassa kira uttaroṭṭhaṃ appakatāya tiriyaṃ phāletvā apanītaddhaṃ viya khāyati cattāro dante, dve ca dāṭhā na chādeti, tena naṃ **‘‘oṭṭhaddho’’**ti voharanti. Ayaṃ kira upāsako saddho pasanno dāyako dānapati buddhamāmako dhammamāmako saṅghamāmako, tenāha purebhattantiādi.
361. 「半唇であるから」とは、彼の上の唇が不完全であるため、横に裂けて半分が取り除かれたように見え、四本の歯と二本の犬歯を覆わない。ゆえに、人々は彼を「半唇」と呼んだのである。この優婆塞は、信仰深く、清らかな心を持ち、施しをする者、大施主であり、仏を愛し、法を愛し、僧伽を愛する者であった。ゆえに、「食前に」などが述べられる。
362. Sāsane yuttapayuttoti bhāvanaṃ anuyutto. Sabbattha sīhasamānavuttinopi bhagavato parisāya mahante sati tadajjhāsayānurūpaṃ pavattiyamānāya dhammadesanāya viseso hotīti āha **‘‘mahantena ussāhena dhammaṃ desessatī’’**ti.
362. 「教えに携わり励む」とは、修行に精励する。常に獅子のように振る舞う世尊であっても、聴衆が多数いる場合には、その意向に沿って行われる法説には特別なものがあるのである。ゆえに、「「大いなる熱意をもって法を説くだろう」」と述べられている。
**‘‘Vissāsiko’’**ti vatvā tamassa vissāsikabhāvaṃ vibhāvetuṃ **‘‘ayañhī’’**tiādi vuttaṃ. Therassa khīṇā savassasato ālasiyabhāvo ‘‘appahīno’’ti na vattabbo, vāsanālesaṃ pana upādāyāha **‘‘īsakaṃ appahīno viya hotī’’**ti. Na hi sāvakānaṃ savāsanā kilesā pahīyanti.
「「信頼できる者」」と述べた後、彼の信頼できる状態を示すために、「「彼は」」などが述べられた。煩悩を滅尽した長老の怠惰な状態は「捨てられていない」と述べるべきではないが、習気(vāsanā)の痕跡を考慮して、「「わずかに捨てられていないかのようである」」と述べられている。なぜなら、声聞の習気(vāsanā)を伴う煩悩は滅尽されるわけではないからである。
363. Vineyyajanānurodhena buddhānaṃ pāṭihāriyavijambhanaṃ hotīti vuttaṃ **‘‘atha kho bhagavā’’**tiādi, tenevāha **‘‘saṃsūcitanikkhamano’’**ti. Gandhakuṭito nikkhamanavelāyañhi chabbaṇṇā buddharasmiyo āveḷāveḷāyamalāyamalā hutvā savisesā pabhassarā vinicchariṃsu.
363. 「調伏すべき人々のため、諸仏の神通力が現れる」と「「そこで世尊は」」などと述べられている。それゆえに、「「出発を暗示する者」」と述べられている。というのは、香室から出る時に、六色の仏光が何重にも、何十にもなって、特別に輝かしく放たれたからである。
364. Tato paranti ‘‘hiyyo’’ti vuttadivasato anantaraṃ paraṃ purimataraṃ atisayena purimattā. Iti imesu dvīsu vavatthito yathākkamaṃ purimapurimatarabhāvo. Evaṃ santepi yadettha ‘‘purimatara’’nti vuttaṃ, tato pabhuti yaṃ yaṃ oraṃ, taṃ taṃ purimaṃ, yaṃ yaṃ paraṃ, taṃ taṃ purimataraṃ, orapārabhāvassa viya purimapurimatarabhāvassa ca apekkhāsiddhito, tenāha **‘‘tato paṭṭhāyā’’**tiādi. Mūladivasato paṭṭhāyātiādidivasato paṭṭhāya. Agganti paṭhamaṃ. Taṃ panettha parā atītā koṭi hotīti āha **‘‘parakoṭiṃ katvā’’**ti. Yaṃ-saddayogena cāyaṃ ‘‘viharāmī’’ti vattamānappayogo, attho pana atītakālavaseneva veditabbo, tenāha **‘‘vihāsinti vuttaṃ hotī’’**ti. Paṭhamavikappe ‘‘viharāmī’’ti padassa ‘‘yadagge’’ti iminā ujukaṃ sambandho dassito, dutiyavikappe pana ‘‘tīṇi vassānī’’ti imināpi.
364. 「それ以降」とは、「昨日」と言われた日よりも後に、より以前に、そして非常に以前に。このように、これら二つの区別において、それぞれ以前とより以前の状態が確立される。たとえそうであっても、ここで「より以前に」と述べられているのは、それ以来、より近いものは以前であり、より遠いものはより以前である。それは、こちらと向こうの関係のように、以前とより以前の関係が相対的に成り立つからである。ゆえに、「「それ以来」」などが述べられている。「初めの日以来」とは、最初の日以来。「始め」とは、第一の。この文脈ではそれが過去の極限であるから、「「最も遠い過去として」」と述べられる。「やん」(yaṃ)という言葉が用いられているので、「私は住んでいる」(viharāmī)は現在形であるが、意味は過去時として理解されるべきである。ゆえに、「「住んでいた」と言われたのである」とある。最初の解釈では、「私は住んでいる」(viharāmī)という言葉と「いつから」という言葉が直接的に結び付けられている。第二の解釈では、「三年」という言葉もそれに結び付けられている。
Piyajātikānīti iṭṭhasabhāvāni. Sātajātikānīti madhurasabhāvāni. Madhuraṃ viyāti hi ‘‘madhura’’nti vuccati manoramaṃ yaṃ kiñci. Kāmūpasañhitānīti ārammaṇaṃ karontena kāmena upasaṃhitāni, kāmanīyānīti attho, tenāha **‘‘kāmassādayuttānī’’**ti, kāmassādassa yuttāni yogyānīti attho. Sarīrasaṇṭhāneti sarīrabimbe, ādhāre cetaṃ bhummaṃ. Tasmā saddenāti taṃ nissāya tato uppannena saddenāti attho. Madhurenāti iṭṭhena. Ettāvatāti dibbasotañāṇassa parikammākathanamattena. ‘‘Attanā ñātampi na katheti, kimassa sāsane adhiṭṭhānenā’’ti kujjhanto āghātaṃ bandhitvā saha kujjhaneneva jhānābhiññāhi parihāyi. Cintesīti ‘‘kasmā nu kho mayhaṃ taṃ parikammaṃ na kathesī’’ti parivitakkento ayoniso ummujjanavasena cintesi. Anukkamenāti pāthikasutte āgatanayena taṃ taṃ ayuttameva cintento, bhāsanto, karonto ca anukkamena. Bhagavati baddhāghātatāya sāsane patiṭṭhaṃ alabhanto gihibhāvaṃ patvā.
「愛らしいもの」とは、好ましい性質を持つもの。「楽しいもの」とは、甘美な性質を持つもの。「甘い」とは、何であれ心惹かれるものを「甘い」と呼ぶのである。「欲望を伴うもの」とは、対象とする欲望を伴うものであり、欲すべきものであるという意味である。ゆえに、「「欲望の味覚に適したもの」」と述べる。欲望の味覚に適した、ふさわしい、という意味である。「身体の構成において」とは、身体の像においてであり、これは依拠する場所を表す。「その音によって」とは、それを依拠として、そこから生じた音によってという意味である。「甘美な」とは、好ましい。「これほどまで」とは、天耳通の予備修行を語らなかったことによって。「自分自身が知っていることでさえ話さない者が、どうして教えに立つことができようか」と怒り、悪意を抱いて、その怒りとともに禅定と神通を失った。「考えた」とは、「なぜ彼は私にその予備修行を話さなかったのか」と思案し、不適切に浮上するように考えた。「次第に」とは、パーティカ経典に出てくる方法で、不適切なことを考え、話し、行い、次第に。世尊に対して悪意を抱き、教えに安住を得られず、在家者になった。
366-371. Ekaṃsāyāti tadattheyeva catutthī, tasmā ekaṃsatthanti attho. Aṃsa-saddo cettha koṭṭhāsapariyāyo, so ca adhikārato dibbarūpadassanadibbasaddassavanavasena veditabboti āha **‘‘ekakoṭṭhāsāyā’’**tiādi. Anudisāyāti puratthimadakkhiṇādibhedāya catubbidhāya anudisāya. Ubhayakoṭṭhāsāyāti dibbarūpadassanatthāya, dibbasaddassavanatthāya ca. Bhāvitoti yathā dibbacakkhuñāṇaṃ, dibbasotañāṇañca samadhigataṃ hoti, evaṃ bhāvito. Tayidaṃ visuṃ visuṃ parikammakaraṇena ijjhantīsu vattabbaṃ natthi, ekajjhaṃ ijjhantīsupi kameneva kiccasiddhi ekajjhaṃ kiccasiddhiyā asambhavato. Pāḷiyampi ekassa ubhayasamatthatāsandassanatthameva ‘‘dibbānañca rūpānaṃ dassanāya, dibbānañca saddānaṃ savanāyā’’ti vuttaṃ, na ekajjhaṃ kiccasiddhisambhavato. **‘‘Ekaṃsabhāvito samādhihetū’’**ti iminā sunakkhatto dibbacakkhuñāṇāya eva parikammassa katattā vijjamānampi dibbasaddaṃ nāssossīti dasseti. Apaṇṇakanti avirajjhanakaṃ, anavajjanti vā attho.
366-371. 「一つの側面のために」(ekaṃsāya)とは、この箇所では四格(与格)であり、ゆえに「一つの目的のために」という意味である。「アムサ」(aṃsa)という語は、ここでは「部分」の同義語であり、それは文脈上、天眼の視覚と天耳の聴覚の点で理解されるべきである。ゆえに、「「一つの部分のために」」などと述べられている。「副方位のために」(anudisāya)とは、東南など四種類の副方位のために。「両方の部分のために」とは、天眼で形を見るためと、天耳で音を聞くためである。「修行された」とは、天眼通と天耳通が完全に習得されるように修行された、ということである。これらが別々に準備をすることで成就されることについては言うまでもないが、一斉に成就される場合でも、一斉に成果が得られることはありえないため、次第に成果が得られるのである。パーリ経典でも、一人の者が両方の能力を持つことを示すために「天界の形を見るため、天界の音を聞くため」と述べられているのであって、一斉に成果が得られる可能性があるからではない。「「一面的に修行された三昧を原因として」」という言葉によって、スナッカッタが天眼通のためにのみ予備修行を行ったため、存在していた天界の音を聞かなかったことが示される。「確実な」とは、誤りのないこと、あるいは非難されるべきでないこと、という意味である。
372. ‘‘Samādhi eva’’ bhāvetabbaṭṭhena samādhibhāvanā. ‘‘Dibbasotañāṇaṃ seṭṭha’’nti maññamānenāpi mahālinā dibbacakkhuñāṇampi tena saha gahetvā ‘‘etāsaṃ nūna bhante’’tiādinā pucchitanti **‘‘ubhayaṃsabhāvitānaṃ samādhīnanti attho’’**ti vuttaṃ. Bāhirā etā samādhibhāvanā aniyyānikattā. Tā hi ito bāhirakānampi ijjhanti. Na ajjhattikā bhagavato sāmukkaṃsikabhāvena appaveditattā. Yadatthanti yesaṃ atthāya. Teti te ariyaphaladhamme. Te hi sacchikātabbāti.
372. 「三昧それ自体」とは、修行すべきものであるという意味で三昧の修行である。「天耳通が最上である」と考えたマハーリによって、天眼通もそれとともに含めて「尊者よ、これら(三昧)のために」などと質問されたので、「「両方の側面で修行された三昧」という意味である」と述べられている。これらの三昧の修行は、解脱に至らないため、外的なものである。なぜなら、それらは外部の者にも成就されるからである。世尊が特に説かれた内的なものではないからである。「何の目的で」とは、それらの目的のために。「それら」とは、それらの聖なる果の法である。それらは実現されるべきであるから。
373. Tasmāti vaṭṭadukkhe saṃyojanato. **‘‘Maggasotaṃ āpanno’’**ti phalaṭṭhassa vasena vuttaṃ. Maggaṭṭho hi maggasotaṃ āpajjati. Tenevāha ‘‘sotāpanne’’ti, ‘‘sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipanne’’ti (ma. ni. 3.379) ca. Apatanadhammoti anuppajjana- (ma. ni. 3.379) sabhāvo. Dhammaniyāmenāti maggadhammaniyāmena. Heṭṭhimantato sattamabhavato upari anuppajjanadhammatāya vā niyato. Paraṃ ayanaṃ parāgati.
373. 「それゆえに」とは、輪廻の苦しみに繋がれていることから。「「道の流れに入った者」」とは、結果の観点から述べられた。なぜなら、道の位にある者が道の流れに入るからである。それゆえに、「預流者」と、また「預流果の実現に向けて実践する者」(中部経典3.379)と述べられている。「堕落しない性質」とは、生じない(中部経典3.379)性質である。「法の定めによって」とは、道の法の定めによって。あるいは、最下限の第七の生存以降は生じない性質によって定まっている。「向こう岸への道」とは、究極の境地である。
Tanuttaṃ nāma pavattiyā mandatā, viraḷatā cāti āha **‘‘tanuttā’’**tiādi. Heṭṭhābhāgiyānanti heṭṭhābhāgassa kāmabhavassapaccayabhāvena hitānaṃ. Opapātikoti upapātiko upapatane sādhukārīti katvā. Vimuccatīti vimutti, cittameva vimutti cetovimuttīti āha **‘‘sabbakilesa…pe… adhivacana’’**nti. Cittasīsena cettha samādhi gahito ‘‘cittaṃ paññañca bhāvaya’’nti. Ādīsu (saṃ. ni. 1.23; peṭako. 22; mi. pa. 2.9) viya. Paññāvimuttīti etthāpi eseva nayo, tenāha **‘‘paññāva paññāvimuttī’’**ti. Sāmanti attanāva, aparappaccayenāti attho. Abhiññāti ya-kāralopena niddesoti āha **‘‘abhijānitvā’’**ti.
「稀薄であること」とは、行いの不活発さ、そして希薄さである。ゆえに、「「稀薄さ」」などと述べられている。「下層に属するもの」とは、下層である欲界の存在の条件によって存在するもののこと。「化生する」とは、化生によって優れた行為をなす者であると見なして。「解脱する」とは解脱であり、心そのものが解脱、すなわち心解脱である。ゆえに、「「一切の煩悩…等…の名称」」と述べられている。ここでは、「心」という言葉によって三昧が捉えられている。「「心と智慧を修行せよ」」など(相応部経典1.23; ペータコーパデーサ22; ミリンダパンハ2.9)にあるように。智慧解脱(paññāvimutti)についても同様である。ゆえに、「「智慧こそ智慧解脱である」」と述べられている。「自ら」とは、自分自身で、他者の助けによらない、という意味である。「アビニャー」(abhiññā)とは、ヤ(ya)が脱落した形で示されており、「「よく知りて」」と述べられている。
374-5. Ariyasāvako nibbānaṃ, ariyaphalañca paṭipajjati etāyāti paṭipadā, sā ca tassa pubbabhāgo evāti idha **‘‘pubbabhāgapaṭipadāyā’’**ti ariyamaggamāha. ‘‘Aṭṭha aṅgāni assā’’ti aññapadatthasamāsaṃ akatvā aṭṭhaṅgāni assa santīti aṭṭhaṅgikoti padasiddhi daṭṭhabbā.
374-5. 「聖なる弟子が涅槃と聖なる果を達成する道」であるから「道(paṭipadā)」であり、それはその準備段階であるから、ここでは「「準備段階の道」」として聖なる道(ariyāmagga)を指す。「八つの要素を持つ」とは、他の語の意味を複合するのではなく、「彼には八つの要素がある」という意味で「八支を持つ」(aṭṭhaṅgika)という語が成立すると見るべきである。
Sammā aviparītaṃ yāthāvato catunnaṃ ariyasaccānaṃ paccakkhato dassanasabhāvā sammā dassanalakkhaṇā. Sammadeva nibbānārammaṇe cittassa abhiniropanasabhāvo sammā abhiniropanalakkhaṇo. Caturaṅgasamannāgatā vācā janaṃ saṅgaṇhātīti tabbipakkhaviratisabhāvā sammāvācā bhedakaramicchāvācāpahānena jane sampayutte ca pariggaṇhanakiccavatī hotīti sammā pariggahaṇalakkhaṇā. Yathā cīvarakammādiko kammanto ekaṃ kātabbaṃ samuṭṭhāpeti, taṃ taṃ kiriyānipphādako vā cetanāsaṅkhāto kammanto hatthapādacalanādikaṃ kiriyaṃ samuṭṭhāpeti, evaṃ sāvajjakattabbakiriyāsamuṭṭhāpakamicchākammantappahānena sammākammanto niravajjasamuṭṭhāpanakiccavā hoti, sampayutte ca samuṭṭhāpento eva pavattatīti sammā samuṭṭhāpanalakkhaṇo sammākammanto. Kāyavācānaṃ, khandhasantānassa ca saṃkilesabhūtamicchājīvappahānena sammā vodāpanalakkhaṇo sammāājīvo. Kosajjapakkhato patituṃ adatvā sampayuttadhammānaṃ paggaṇhanasabhāvoti sammā paggāhalakkhaṇo sammāvāyāmo. Sammadeva upaṭṭhānasabhāvāti sammā upaṭṭhānalakkhaṇā sammāsati. Vikkhepaviddhaṃsanena sammadeva cittassa samādahanasabhāvoti sammā samādhānalakkhaṇo sammāsamādhi.
正しく、誤りなく、ありのままに四つの聖なる真理を直接的に見る性質が、正見の特徴である。まさに涅槃を対象として心を確立する性質が、正思惟の特徴である。四つの要素を具備した言葉が人々を引きつけるという意味で、その対極を避ける性質が正語である。それは、対立をもたらす邪な言葉を捨てることによって、人々が協力し合い、擁護する働きを持つので、正しく擁護する特徴を持つ。例えば、衣を縫うなどの行いが一つのなすべきことを生じさせるように、あるいは、意志と呼ばれる行いが手足の動きなどの行動を生じさせるように、非難されるべき行いを起こさせる邪な行いを捨てることによって、正業は非難されるべきでない行いを起こさせる働きを持つ。そして、関連するものを生じさせつつ進行するという意味で、正しく生じさせる特徴が正業である。身と口の行い、そして五蘊の流れを汚すものである邪な生計を捨てることによって、正しく清める特徴が正命である。怠惰の側面へと堕落させずに、関連する法を支持する性質が、正しく支持する特徴を持つ正精進である。まさに正しく確立する性質が、正しく確立する特徴を持つ正念である。散乱を打ち破り、まさに心を集中させる性質が、正しく集中させる特徴を持つ正定である。
Attano paccanīkakilesā diṭṭhekaṭṭhā avijjādayo. Passatīti pakāseti kiccapaṭivedhena paṭivijjhati, tenāha **‘‘tappaṭicchādaka…pe… asammohato’’**ti. Teneva hi sammādiṭṭhisaṅkhātena aṅgena tattha paccavekkhaṇā pavattatīti tathevāti attano paccanīkakilesehi saddhinti attho.
自身の敵対者である煩悩は、現存する無明などである。「見る」とは、明らかにすること、そしてなすべきことを通じて洞察することである。ゆえに、「「それを覆い隠す…等…迷妄なきこと」」と述べられている。なぜなら、正見という要素によって、そこで省察が行われるからである。したがって、「そのように」とは、自身の敵対者である煩悩とともに、という意味である。
Kiccatoti pubbabhāgehi dukkhādiñāṇehi kātabbassa kiccassa idha sātisayaṃ nipphattito imasseva vā ñāṇassa dukkhādippakāsanakiccato. Cattāri nāmāni labhati catūsu saccesu kātabbakiccanipphattito. Tīṇi nāmāni labhati kāmasaṅkappādippahānakiccanipphattito. Sikkhāpadavibhaṅge (vibha. 703) ‘‘viraticetanā, sabbe sampayuttadhammā ca sikkhāpadānī’’ti vuccantīti tattha padhānānaṃ viraticetanānaṃ vasena ‘‘viratiyopi **honti cetanāyopī’’**ti āha. Musāvādādīhi viramaṇakāle vā viratiyo, subhāsitādivācābhāsanādikāle ca cetanāyo yojetabbā. Maggakkhaṇe viratiyova cetanānaṃ amaggaṅgattā ekassa ñāṇassa dukkhādiñāṇatā viya, ekāya viratiyā musāvādādiviratibhāvo viya ca ekāya cetanāya sammāvācādikiccattayasādhanasabhāvābhāvā sammāvācādibhāvāsiddhito, taṃsiddhiyañca aṅgattayattāsiddhito ca. Sammappadhānasatipaṭṭhānavasenāti catusammappadhānacatusatipaṭṭhānabhāvavasena.
なすべきこととは、前半の苦などの知識によってなされるべき行が、ここでは特に達成されるから、あるいは、この知識そのものが苦などを明らかにする働きをするからである。四つの真理においてなされるべき行が成就されるので、四つの名前を得る。欲尋などの排除の行が成就されるので、三つの名前を得る。戒律分別(vibha. 703)で、「離欲思、およびすべての相応法が戒律である」と言われているので、そこで主要な離欲思の立場から、「離欲もまた **思もまたである**」と言ったのである。嘘などの言葉を避けるときには離欲であり、善言などの言葉を発するときには思が適用されるべきである。道の刹那においては、離欲のみが(ある)。思は道の要素ではないから。一つの知識が苦などを知る知識であるかのように、一つの離欲が嘘などを避ける離欲であるかのように、一つの思が正語などの三つの行を達成する性質を持たないため、正語などが成立しない。そして、それが成立しても、三つの要素(道支)にはならないからである。正精進と四念処の立場とは、 四つの正精進と四つの念処の存在の立場からである。
Pubbabhāgepi maggakkhaṇepi sammāsamādhiyevāti. Yadipi samādhiupakārakānaṃ abhiniropanānumajjanasampiyāyanabrūhanasantasukhānaṃ vitakkādīnaṃ vasena catūhi jhānehi sammāsamādhi vibhatto, tathāpi vāyāmo viya anuppannākusalānuppādanādicatuvāyāmakiccaṃ, sati viya ca asubhāsukhāniccānattesu kāyādīsu subhādisaññāpahānacatusatikiccaṃ eko samādhi catukkajjhānasamādhikiccaṃ na sādhetīti pubbabhāgepi paṭhamajjhānasamādhi paṭhamajjhānasamādhi eva maggakkhaṇepi, tathā pubbabhāgepi catutthajjhānasamādhi catutthajjhānasamādhi eva maggakkhaṇepīti attho.
前半の部分においても、道の刹那においても、それは正定である。たとえ、正定が、定の助けとなる観察、探求、愛着、増長、静かな楽である尋などによって四つの禅に分けられているとしても、それでも、精進が未生不善の不生などの四種の精進の働きであるかのように、また念が、不浄・苦・無常・無我である身などにおける浄などの想の排除である四種の念の働きであるかのように、一つの定が四つの禅の定の働きを成就するわけではない。したがって、前半の部分においても第一禅定は第一禅定であり、道の刹那においても同様である。また、前半の部分においても第四禅定は第四禅定であり、道の刹那においても同様である、という意味である。
Tasmāti paññāpajjotattā avijjandhakāraṃ vidhamitvā paññāsatthattā kilesacore ghātento. Bahukārattāti yvāyaṃ anādimati saṃsāre iminā kadācipi asamugghāṭitapubbo kilesagaṇo tassa samugghāṭako ariyamaggo. Tattha cāyaṃ sammādiṭṭhi pariññābhisamayādivasena pavattiyā pubbaṅgamā hotīti bahukārā, tasmā bahukārattā.
したがって、 智慧の光明であるから無明の闇を打ち破り、智慧の剣であるから煩悩の盗賊を滅ぼす。非常に有益であるとは、この始めのない輪廻において、これまで一度も根絶されたことのない煩悩の集まりを根絶する聖道のことである 。その中でこの正見は、遍知の証悟などによって、行いの先駆者となるので、非常に有益である。それゆえ、非常に有益であるからである。
Tassāti sammādiṭṭhiyā. ‘‘Bahukāro’’ti vatvā taṃ bahukārataṃ upamāya vibhāvetuṃ ‘‘yathā hī’’tiādi vuttaṃ. ‘‘Ayaṃ’’ tambakaṃsādimayattā kūṭo. Ayaṃ samasāratāya mahāsāratāya cheko. Evanti yathā heraññikassa cakkhunā disvā kahāpaṇavibhāgajānane karaṇantaraṃ bahukāraṃ yadidaṃ hattho, evaṃ yogāvacarassa paññāya oloketvā dhammavibhāgajānane dhammantaraṃ bahukāraṃ yadidaṃ vitakko vitakketvā tadavabodhato, tasmā sammāsaṅkappo sammādiṭṭhiyā bahukāroti adhippāyo. Dutiyaupamāyaṃ evanti yathā tacchako parena parivattetvā parivattetvā dinnaṃ dabbasambhāraṃ vāsiyā tacchetvā gehakaraṇakamme upaneti, evaṃ yogāvacaro vitakkena lakkhaṇādito vitakketvā dinnadhamme yāthāvato paricchinditvā pariññābhisamayādikamme upanetīti yojanā. Vacībhedassa upakārako vitakko sāvajjānavajjavacībhedanivattanapavattanakarāya sammāvācāyapi upakārako evāti **‘‘svāya’’**ntiādi vuttaṃ.
それとは正見のことである。「非常に有益である」と言って、その有益さを譬えによって説明するために、「たとえば」などが語られた。「これ」とは、銅や青銅などでできているから偽造貨幣である。これは純粋であるから、非常に純粋であるから、熟練している(賢い)のである。このように、金細工師が目で見て貨幣を識別する上で、手という他の手段が非常に有益であるように、修行者は智慧で観察して法を識別する上で、尋という他の手段が、尋によってそれを理解するから、非常に有益である。したがって、正思惟は正見にとって非常に有益である、という意味である。第二の譬えにおいて、このように、大工が他人によって繰り返し回されて与えられた材木を、斧で削って家を建てる仕事に用いるように、修行者は尋によって、特徴などから尋求して与えられた法を、ありのままに区別して、遍知の証悟などの仕事に用いる、と結びつける。言葉の区別を助ける尋は、罪悪な言葉と無罪な言葉の区別の停止と発生を起こさせる正語をも助けるのである、という意味で「**これ**」などが語られた。
Vacībhedassa niyāmikā vācā kāyikakiriyāniyāmakassa kammantassa upakārikā. Tadubhayānantaranti duccaritadvayapahāyakassa sucaritadvayapāripūrihetubhūtassa sammāvācāsammākammantadvayassa anantaraṃ. Idaṃ vīriyanti catubbidhaṃ sammappadhānavīriyaṃ. Indriyasamatādayo samādhissa upakāradhammā. Tabbipariyāyato apakāradhammā veditabbā. Gatiyoti nipphattiyo, kiccādisabhāve vā. Samannesitvāti upadhāretvā.
言葉の区別の 制御者である言葉は、身体的行為の制御者である業を助ける。その両者の後とは、二つの悪行を排除し、二つの善行を完成させる原因である正語と正業の二つの後に、という意味である。この精進とは、四種の正精進のことである。諸根の平衡などは定を助ける法である。その反対である害となる法も 知られるべきである。「行」とは成就であり、あるいは作用などの性質である。「よく調べた」とは、検討した、という意味である。
376-7. **‘‘Kasmā āraddha’’**nti anusandhikāraṇaṃ pucchitvā taṃ vibhāvetuṃ **‘‘ayaṃ kirā’’**tiādi vuttaṃ, tena ajjhāsayānusandhivasena upari desanā pavattāti dasseti. Tenāti tathāladdhikattā. Assāti licchavīrañño. Desanāyāti saṇhasukhumāyaṃ suññatapaṭisaṃyuttāyaṃ yathādesitadesanāyaṃ. Nādhimuccatīti na saddahati na pasīdati. Tantidhammaṃ nāma kathentoti yesaṃ atthāya dhammo kathīyati, tasmiṃ tesaṃ asatipi maggapaṭivedhe kevalaṃ sāsane tantidhammaṃ katvā kathento. Evarūpassāti sammāsambuddhattā aviparītadhammadesanatāya evaṃpākaṭadhammakāyassa satthu. Yuttaṃ nu kho etaṃ assāti assa paṭhamajjhānādisamadhigamena samāhitacittassa kulaputtassa etaṃ ‘‘taṃ jīva’’ntiādinā ucchedādigāhagahaṇaṃ api nu yuttanti pucchati. Laddhiyā pana jhānādhigamamattena na tāva vivecitattā **‘‘tehi yutta’’**nti vuttaṃ taṃ vādaṃ paṭikkhipitvāti jhānalābhinopi taṃ gahaṇaṃ ‘‘ayuttamevā’’ti taṃ ucchedavādaṃ sassatavādaṃ vā paṭikkhipitvā. Attamanā ahesunti yasmā khīṇāsavo vigatasammoho tiṇṇavicikiccho, ‘‘tasmā tassa tathā vattuṃ na yutta’’nti uppannanicchayatāya taṃ mama vacanaṃ sutvā attamanā ahesunti attho. Sopi licchavī rājā te viya sañjātanicchayattā attamano ahosi. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.
376-7. 「**なぜ始められたのか**」と原因を尋ね、それを説明するために「**これは実際**」などが語られた。それによって、意図と関連付けて、上に教えが説かれることを示す。「それゆえ」とは、そのような見解を持つからである。「彼の」とはリッチャヴィ族の王の。「教えに」とは、微細で精妙な、空に結びついた、説かれたとおりの教えに。「信じない」とは、信頼しない、満足しない。「教義を説く」とは、彼らのために法が説かれるのに、彼らに道の証悟がないにもかかわらず、ただ教団における教義として法を説くことである。「そのような方」とは、正等覚者であることから、誤りのない法を説き、このように明確な法身を持つ師のことである。「これは彼にふさわしいのか 」とは、彼、すなわち初禅などの修得によって心が集中している良家の子息に、「それは生命、それは身体」などといった断見などの見解を持つことが果たしてふさわしいのか、と尋ねている。しかし、見解としては、禅の修得だけではまだ十分に区別されていないので、「**彼らにふさわしい**」と言われた。その見解を否定するとは、禅修得者であってもその見解を持つことは「不適切である」として、その断見あるいは常住論を否定することである。「彼らは喜んだ」とは、煩悩が尽き、迷いがなく、疑いを断った者であるから、「したがって、彼がそのように言うのは適切ではない」という確信が生まれたため、私のその言葉を聞いて彼らは喜んだ、という意味である。そのリッチャヴィ族の王も、彼らと同じように確信が生まれたので、喜んだ。ここで意味上区別されていないものは、容易に理解できる。
Mahālisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
マハーリスッタの解説における隠れた意味の解明。
378. ‘‘Ghositena seṭṭhinā kate ārāme’’ti vatvā tattha koyaṃ ghositaseṭṭhi nāma, kathañcānena ārāmo kārito, kathaṃ vā tattha bhagavā vihāsīti taṃ sabbaṃ samudāgamato paṭṭhāya saṅkhepatova dassetuṃ **‘‘pubbe kirā’’**tiādi vuttaṃ. Tatoti allakapparaṭṭhato. Tadāti tesaṃ taṃ gāmaṃ paviṭṭhadivase. Balavapāyāsanti garutaraṃ bahupāyāsaṃ. Asannihiteti gehato bahi gate. Bhussatīti ravati. Ghosakadevaputtotveva nāmaṃ ahosi saraghosasampattiyā. Veyyattiyenāti paññāveyyattiyena. Ghositaseṭṭhi nāma jāto tāya eva cassa sarasampattiyā ghositanāmatā.
378. 「ゴーシタ 長者が造った精舎に」と言って、そのゴーシタ長者とは誰か、彼はいかにして精舎を造ったのか、あるいはそこに世尊はいかにして滞在したのか、そのすべてを起源から簡潔に示すために、「**昔、実際には**」などが語られた。「そこ」とは、アルラカッパ国から。「その時」とは、彼らがその村に入った日に。「強い労苦」とは、非常に重い多くの労苦。「いないとき」とは、家から外に出たとき。「吠える」とは、鳴く。ゴーサカ天子という名前は、その声の響きに富んでいたことから付いた。「熟練によって」とは、智慧の熟練によって。ゴーシタ長者という名前は、その声の響きによってゴーシタという名になったのである。
Sarīrasantappanatthanti himavante phalamūlāhāratāya kilantasarīrā loṇambilasevanena tassa santappanatthaṃ pīnanatthaṃ. Tasitāti pipāsitā. Kilantāti parissantakāyā. Te kira taṃ vaṭarukkhaṃ patvā tassa sobhāsampattiṃ disvā mahānubhāvā maññe ettha adhivatthā devatā, ‘‘sādhu vatāyaṃ devatā amhākaṃ addhānaparissamaṃ vinodeyyā’’ti cintesuṃ, tena vuttaṃ **‘‘tattha adhivatthā…pe… nisīdiṃsū’’**ti. Soti anāthapiṇḍiko gahapati. Bhatakānanti bhatiyā veyyāvaccaṃ karontānaṃ dāsapesakammakarānaṃ. Pakatibhattavetananti pakatiyā dātabbabhattavetanaṃ, tadā uposathikattā kammaṃ akarontānampi kammakaraṇadivasena dātabbabhattavetanamevāti attho. Kañcīti kañcipi bhatakaṃ.
身体を養うためとは、ヒマラヤで果物や根を食べ、疲労した身体を塩辛い酸っぱいものを摂ることによって養い、肥え太らせるためである。「喉が渇いた」とは、渇望している。「疲れた」とは、身体が疲労している。彼らはそのバータ樹に着いて、その美しさを見て、「おそらく偉大な神通力を持つ神がここに住んでいるのだろう。『この神が我々の旅の疲れを癒してくれるだろう』」と考えた。それゆえ「**そこに住んでいた…等…座った**」と語られた。「彼」とは、アナータピンディカ居士のことである。「雇人たちの」とは、賃金で雑務を行う奴隷、召使い、労働者のことである。「通常の食事と賃金」とは、通常与えられるべき食事と賃金である。その時、布薩戒を守っていた 働いていない者たちにも、働いた日として与えられるべき食事と賃金である、という意味である。「誰一人として」とは、誰の雇人も。
Upecca parassa vācāya ārambhanaṃ bādhanaṃ upārambho, dosadassanavasena ghaṭṭananti attho, tenāha **‘‘upārambhādhippāyena vādaṃ āropetukāmā hutvā’’**ti. Vadanti nindanavasena kathenti etenāti hi vādo, doso. Taṃ āropetukāmā, patiṭṭhāpetukāmā hutvāti attho. **‘‘Taṃ jīvaṃ taṃ sarīra’’**nti, idha yaṃ vatthuṃ jīvasaññitaṃ, tadeva sarīrasaññitanti ‘‘rūpaṃ attato samanupassatī’’ti vādaṃ gahetvā vadanti. Rūpañca attānañca advayaṃ katvā samanupassanavasena ‘‘satto’’ti vā bāhirakaparikappitaṃ attānaṃ sandhāya vadanti. Bhijjatīti nirudayavināsavasena vinassati. Tena jīvasarīrānaṃ anaññattānujānanato, sarīrassa ca bhedadassanato. Na hettha yathā bhedavatā sarīrato anaññattā adiṭṭhopi jīvassa bhedo vutto, evaṃ adiṭṭhabhedato anaññattā sarīrassāpi abhedoti sakkā viññātuṃ tassa bhedassa paccakkhasiddhattā, bhūtupādāyarūpavinimuttassa ca sarīrassa abhāvatoti āha **‘‘ucchedavādo hotī’’**ti.
「近づいて、他人の言葉を攻撃し、妨害することが『非難』である。それは欠点を見つけるために衝突する、という意味である」と。それゆえ「**非難する意図をもって議論を提起しようとして**」と言われた。「言う」とは、非難する形で述べること、これによって議論や欠点となる。それを提起したい、確立したい、という意味である。「**それは生命、それは身体**」とは、ここで生命と称されるものが、それ自体が身体と称されるものだと、「色を我と見なす」 という見解をとって言うのである。色と我を 別のものではないものとして見る見方で「生命」と言ったり、あるいは外道が想定する我を指して言うのである。「壊れる」とは、生起せず滅びる形で滅失する。それゆえ、生命と身体が異なるものではないことを認め、身体の破壊が見られるからである。ここでは、身体が壊れることによって、生命と身体が異なるものではないことから、見られない生命の破壊が語られているように、見られない破壊から、身体もまた異なるものではないと理解することはできない。なぜなら、身体の破壊は直接的に知られており、大種によって構成された色と分離した身体は存在しないからである。それゆえ「**断見となる**」と言ったのである。
**‘‘Aññaṃ jīvaṃ aññaṃ sarīra’’**nti aññadeva vatthuṃ jīvasaññitaṃ, aññaṃ vatthuṃ sarīrasaññitanti ‘‘rūpavantaṃ attānaṃ samanupassatī’’tiādinayappavattaṃ vādaṃ gahetvā vadanti. Rūpe bhedassa diṭṭhattā, attani ca tadabhāvato attā niccoti āpannamevāti āha **‘‘tumhākaṃ…pe… āpajjatī’’**ti.
「**生命は別、身体は別**」とは、生命と称されるものは別の実体であり、身体と称されるものは別の実体であると、「我は色を具えるものと見なす」といった風に進む 見解をとって言うのである。色においては破壊が見られるが、我においてはそれがなく、我は常住であると帰結するからである。それゆえ「**あなた方には…等…陥る**」と言ったのである。
379-380. Tayidaṃ nesaṃ vañjhāsutassa dīgharassatāparikappanasadisanti katvā ṭhapanīyoyaṃ pañhoti tattha rājanimīlanaṃ katvā satthā upari nesaṃ ‘‘tena hāvuso suṇāthā’’tiādinā dhammadesanaṃ ārabhīti āha **‘‘atha bhagavā’’**tiādi. Tassā yevāti majjhimāya paṭipadāya.
379-380. 「彼らの、その不毛な議論は、長短の想定に似ている」と言って、この問題は保留すべきであるとした。そこで、王に目配せをして、師は彼らに「では友よ、聞きなさい」などと法を説き始めた、と「**そこで世尊は**」などが語られた。「それの」とは、中道のことである。
Saddhāpabbajitassāti saddhāya pabbajitassa ‘‘evamahaṃ ito vaṭṭadukkhato nissarissāmī’’ti evaṃ pabbajjaṃ upagatassa tadanurūpañca sīlaṃ pūretvā paṭhamajjhānena samāhitacittassa. Etaṃ vattunti etaṃ kilesavaṭṭaparibuddhidīpanaṃ ‘‘taṃ jīvaṃ taṃ sarīra’’ntiādikaṃ diṭṭhisaṃkilesanissitaṃ vacanaṃ vattunti attho. Nibbicikiccho na hotīti dhammesu tiṇṇavicikiccho na hoti, tattha tattha āsappanaparisappanavasena pavattatīti attho.
信によって出家した者とは、信仰によって出家し、「私はこのように輪廻の苦しみから抜け出すだろう」と出家し、それにふさわしい戒律を完備し、初禅によって心が集中した者のことである。この言葉を言うとは、煩悩の輪の増長を示す、「それは生命、それは身体」などといった見解の汚染に根ざした言葉を言う、という意味である。「疑いを断たない」とは、法において疑いを断たず、あちこちにさまよい続ける、という意味である。
Etamevaṃ jānāmīti yena so bhikkhu paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati, etaṃ sasampayuttadhammaṃ cittanti evaṃ jānāmi. No ca evaṃ vadāmīti yathā diṭṭhigatikā taṃ dhammajātaṃ sanissayaṃ abhedato gaṇhantā ‘‘taṃ jīvaṃ taṃ sarīra’’nti vā tadubhayaṃ bhedato gaṇhantā ‘‘aññaṃ jīvaṃ aññaṃ sarīra’’nti vā attano micchāgāhaṃ pavedenti, ahaṃ pana na evaṃ vadāmi tassa dhammassa supariññātattā, tenāha **‘‘atha kho’’**tiādi. Bāhirakā yebhuyyena kasiṇajjhānāni eva nibbattentīti āha **‘‘kasiṇaparikammaṃ bhāvantessā’’**ti. Yasmā bhāvanānubhāvena jhānādhigamo, bhāvanā ca pathavīkasiṇādisañjānanamukhena hotīti saññāsīsena niddisīyati, tasmā āha **‘‘saññābalena uppanna’’**nti. Tenāha – ‘‘pathavīkasiṇameko sañjānātī’’tiādi. **‘‘Na kallaṃ tasseta’’**nti idaṃ yasmā bhagavatā tattha tattha ‘‘atha ca panāhaṃ na vadāmī’’ti vuttaṃ, tasmā na vattabbaṃ kiretaṃ kevalinā uttamapurisenāti adhippāyenāha, tena vuttaṃ **‘‘maññamānā vadantī’’**ti. Sesaṃ sabbattha suviññeyyameva.
「私はこれをこのように知っている」とは、その比丘が初禅に入って住する、その相応する法を持つ心をこのように知っている、という意味である。「しかし私はそのようには言わない」とは、外道がその法全体を、依存関係にある別のものではないものとして捉え、「それは生命、それは身体」と言うか、あるいはその両方を別々のものとして捉え、「生命は別、身体は別」と言うかして、自らの誤った見解を表明するが、私はその法がよく知られているのでそのようには言わない。それゆえ「**しかしながら**」などが語られた 。外道はほとんどの場合、カシナの禅を 生じさせる、と。それゆえ「**カシナの準備を行う**」と言われた。禅の修得は修習の力によって得られ、修習は地カシナなどを認識することを通じて行われるので、認識を主軸として 示される。それゆえ「**認識の力によって生じた**」と言ったのである。それゆえ「ある者は地カシナを認識する」などと述べた。「**それは彼にふさわしくない**」とは、世尊が随所で「しかし私は言わない」と述べられたので、このことは完璧な者、至高の人物が言うべきことではない、という意味で言われた。それゆえ「**そうだと信じて語る**」と言われた。残りのすべてはどこでも容易に理解できる。
Jāliyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
ジャーリヤスッタの解説における隠れた意味の解明。
381. Yasmiṃ raṭṭhe taṃ nagaraṃ, tassa raṭṭhassapi yasmiṃ nagare tadā bhagavā vihāsi, tassa nagarassapi etadeva nāmaṃ, tasmā uruññāyanti uruññājanapade uruññāsaṅkhāte nagareti attho. Ramaṇīyoti manoharabhūmibhāgatāya chāyūdakasampattiyā, janavivittatāya ca manoramo. Nāmanti gottanāmaṃ. Tapanaṃ santapanaṃ kāyassa khedanaṃ tapo, so etassa atthīti tapassī, taṃ tapassiṃ. Yasmā tathābhūto tapaṃ nissito, tapo vā taṃ nissito, tasmā āha **‘‘tapanissitaka’’**nti. Lūkhaṃ vā pharusaṃ sādhusammatācāravirahato napasādanīyaṃ ājīvati vattatīti lūkhājīvī, taṃ lūkhājīviṃ. Muttācārādīti ādi-saddena parato pāḷiyaṃ (dī. ni. 1.397) āgatā hatthāpalekhanādayo saṅgahitā. Uppaṇḍetīti uhasanavasena paribhāsati. Upavadatīti avaññāpubbakaṃ apavadati, tenāha **‘‘hīḷeti vambhetī’’**ti. Dhammassa ca anudhammaṃti ettha dhammo nāma hetu ‘‘hetumhi ñāṇaṃ dhammapaṭisambhidā’’tiādīsu (vibha. 720) viyāti āha **‘‘kāraṇassa anukāraṇa’’**nti. Kāraṇanti cettha tathāpavattassa saddassa attho adhippeto tassa pavattihetubhāvato. Atthappayutto hi saddappayogo. Anukāraṇanti ca so eva parehi tathā vuccamāno. Parehīti ‘‘ye te’’ti vuttasattehi parehi. Vuttakāraṇenāti yathā tehi vuttaṃ, tathā ce tumhehi na vuttaṃ, evaṃ sati tehi vuttakāraṇena sakāraṇo hutvā tumhākaṃ vādo vā tato paraṃ tassa anuvādo koci appamattakopi viññūhi garahitabbaṃ ṭhānaṃ kāraṇaṃ nāgaccheyya, kimevaṃ nāgacchatīti yojanā. **‘‘Idaṃ vuttaṃ hotī’’**tiādinā tamevatthaṃ saṅkhepato dasseti.
381. その都市が存在する国において、世尊が当時滞在された国も都市も同じ名前である。ゆえに、「ウルニャー」とは、ウルニャー地方にあるウルニャーという名の都市である、という意味である。「ラマニーヤ(Ramaṇīya)」(心楽しい)とは、魅力的な土地の景観、木陰と水の豊富さ、そして人里離れていることから、心楽しい(manorama)という意味である。「ナーマ(Nāma)」とは姓(gottanāma)のこと。「タパナ(tapana)」(熱すること)、苦行(santapana)とは身体を疲弊させる苦行(tapo)である。それが彼にあるので「タパッシー(tapassī)」(苦行者)、その苦行者を(指す)。そのような彼は苦行に依拠している、あるいは苦行が彼に依拠しているから、「苦行に依拠する者」(tapanissitaka)と言われたのである。粗野な、あるいは荒々しく、善人によって承認される行いがないために好ましくない生き方をするので、「粗野な生活者」(lūkhājīvī)、その粗野な生活者を(指す)。「ムッターチャーラなど」(muttācārādi)とは、「など」という言葉によって、後にパーリ語聖典(長部 1.397)に出てくる「手舐め」などが含まれる。「ウッパンデーティ(Uppaṇḍeti)」(嘲笑する)とは、笑うような形で罵る。「ウパヴァダティ(Upavadati)」(非難する)とは、軽蔑して非難する、ゆえに「嘲り、侮辱する」(hīḷeti vambheti)と言われる。「ダンマッサ・チャ・アヌダンマン(Dhammassa ca anudhammaṃ)」とは、ここでの「ダンマ」(dhamma)とは「原因」(hetu)のこと、「原因における知は法無碍解である」など(分析論 720)においてのように、「原因に対する付随的な原因」(kāraṇassa anukāraṇaṃ)と言われたのである。ここで「原因」(kāraṇaṃ)とは、そのように生じる言葉の意味が意図されており、その言葉が生じる原因であるからである。言葉の使用は、意味のために用いられる。そして「付随的な原因」(anukāraṇaṃ)とは、他者によってそのように語られること自体である。「他者によって」(parehi)とは、「それらの者たち」(ye te)と述べられた存在たちによる、である。「述べられた原因によって」(vuttakāraṇena)とは、もし彼らが述べたようにあなたがたが述べないのであれば、その場合、彼らが述べた原因によって、あなたの議論やそれに対するわずかな付随的な議論でさえも、賢者たちによって非難されるべき事柄や原因とはならないであろう。なぜそのようなことにならないのか、という解釈である。「これは述べられたことである」(Idaṃ vuttaṃ hotī)などによって、同じ意味が簡潔に示されている。
382. Idāni yaṃ vibhajjavādaṃ sandhāya bhagavatā ‘‘na me te vuttavādino’’ti saṅkhepato vatvā taṃ vibhajitvā dassetuṃ ‘‘idhāhaṃ kassapā’’tiādi vuttaṃ, taṃ vibhāgena dassento **‘‘idhekacco’’**tiādimāha. Bhagavā hi niratthakaṃ anupasamasaṃvattanikaṃ kāyakilamathaṃ ‘‘attakilamathānuyogo dukkho anariyo anatthasaṃhito’’tiādinā (saṃ. ni. 3.1081; mahāva. 13; paṭi. ma. 2.30) garahati. Sātthakaṃ pana upasamasaṃvattanikaṃ ‘‘āraññiko hoti, paṃsukūliko hotī’’tiādinā vaṇṇeti. Appapuññatāyāti apuññatāya. Tīṇi duccaritāni pūretvāti micchādiṭṭhibhāvato kammaphalaṃ paṭikkhipanto ‘‘natthi dinna’’ntiādinā (dī. ni. 1.171; ma. ni. 1.445; 2.94, 95, 225; 3.91, 115; saṃ. ni. 3.210; dha. sa. 1221; vibha. 938) micchādiṭṭhiṃ purakkhatvā tathā tathā tīṇi duccaritāni pūretvā. Anesanavasenāti kohaññe ṭhatvā asantaguṇasambhāvanicchāya micchājīvavasena. Ime dveti ‘‘appapuñño puññavā’’ti ca vutte duccaritakārino dve puggale sandhāya.
382. さて、世尊が分析説(vibhajjavāda)に関して「彼らは私の説を説く者ではない」と簡潔に述べられた後、それを分析して示すために「カッサパよ、ここに私は」などと述べられ、それを分析的に示しながら「ここに、ある者は」などと言われたのである。世尊は、無意味で静寂に至らない身体的苦行について、「自己苦行への専念は苦であり、高貴でなく、無益である」など(相応部 3.1081; 大品 13; 無碍解道 2.30)と非難される。しかし、有益で静寂に至るものについては、「林住者となる、糞掃衣をまとう者となる」などと称賛される。「福なきことによって」(appapuññatāya)とは、福がないことによって、である。「三つの悪行を完遂して」(tīṇi duccaritāni pūretvā)とは、間違った見解(micchādiṭṭhi)によって業の果報を否定し、「施与はない」など(長部 1.171; 中部 1.445; 2.94, 95, 225; 3.91, 115; 相応部 3.210; 法集論 1221; 分析論 938)によって間違った見解を先行させ、そのように三つの悪行を完遂して、である。「不正な求めによって」(anesanavasena)とは、欺瞞的な態度を取り、存在しない徳が認められることを願って、不正な生活(micchājīva)を送ることによって、である。「この二人」(ime dve)とは、「福なき者、福ある者」と述べられた場合、悪行を行う二人を指して、である。
‘‘Ime **dve sandhāyā’’**ti ettha pana dutiyanaye ‘‘appapuñño, puññavā’’ti ca vutte sucaritakārinoti ādinā yojetabbaṃ. Kammakiriyavādino hi ime dve puggalā. Iti paṭhamadutiyanayesu vuttanayeneva tatiyacatutthanayesu yojanā veditabbā.
「この二人を指して」(ime dve sandhāya)とは、第二の方法においては、「福なき者、福ある者」と述べられた場合、善行を行う者たちを指して解釈されるべきである。これら二人の人々は行為説者(kammakiriyavādino)である。このように、第一と第二の方法で述べられたのと同様の方法で、第三と第四の方法においても解釈されるべきであると知られる。
Bāhirakācārayutto titthiyācārayutto, na vimuttācāro. Attānaṃ sukhetvāti adhammikena sukhena attānaṃ sukhetvā, tenāha **‘‘duccaritāni pūretvā’’**ti. **‘‘Na dāni mayā sadiso atthī’’**tiādinā tissannaṃ maññanānaṃ vasena duccaritapūraṇamāha. Micchādiṭṭhivasenāti ‘‘natthi kāmesu doso’’ti evaṃ pavattamicchādiṭṭhivasena. Paribbājikāyāti pabbajjaṃ upagatāya tāpasadārikāya. Daharāyāti taruṇāya. Mudukāyāti sukhumālāya. Lomasāyāti tanutambalomatāya appalomāya. Kāmesūti vatthukāmesu. Pātabyatanti paribhuñjitabbaṃ, pātabyatanti vā paribhuñjanakataṃ. Āpajjantoti upagacchanto. Paribhogattho hi ayaṃ pā-saddo, kattusādhano ca tabba-saddo, yathāruci paribhuñjantoti attho. Kilesakāmopi hi assādiyamāno vatthukāmantogadhoyeva.
外部の行いを備えた者、つまり異教徒の行いを備えた者であり、解脱の行いではない。「自己を楽しましめて」(attānaṃ sukhetvā)とは、不法な楽によって自己を楽しましめる、ゆえに「悪行を完遂して」と言われる。「今や私に匹敵する者はいない」(Na dāni mayā sadiso atthī)などによって、三種類の慢(maññanā)によって悪行の完遂が語られる。「間違った見解によって」(micchādiṭṭhivasena)とは、「性欲には過ちがない」というように生じる間違った見解によって、である。「パリッバージカー」(paribbājikā)とは、出家した行者の娘のこと。「ダハラー」(daharā)とは、若い(taruṇā)こと。「ムドゥカー」(mudukā)とは、繊細な(sukhumālā)こと。「ローマサー」(lomasā)とは、細くまばらな毛を持つ、ほとんど毛のない(appalomā)こと。「カーメス」(kāmesu)とは、物質的な欲望(vatthukāmesu)のこと。「パートッバヤッタ」(pātabyatatta)とは、享受されるべきもの、あるいは享受された行為である。「アーパッジャント」(āpajjanto)とは、近づくこと。この「パー」という語は享受の意味であり、「タッバ」という語は行為者を示すので、思いのままに享受する、という意味である。煩悩欲(kilesakāma)でさえも、味わわれるときには物質欲(vatthukāma)の中に含まれるのである。
Idanti yathāvuttaṃ atthappabhedaṃ vibhajjanaṃ. Titthiyavasena āgataṃ aṭṭhakathāyaṃ tathā vibhattattā. Sāsanepīti imasmiṃ sāsanepi.
これとは、述べられた意味の区別、すなわち分析のことである。異教徒の観点から来ているため、注釈書ではそのように区別されているのである。「サーサネピ」(sāsane pi)とは、この教えの中においても、である。
Arahattaṃ vā attani asantaṃ ‘‘atthī’’ti vippaṭijānitvā. Sāmantajappanaṃ, paccayapaṭisevanaṃ, iriyāpathanissitanti imāni tīṇi vā kuhanavatthūni. Tādiso vāti dhutaṅga- (mi. pa. 4.2; visuddhi. 1.22) samādānavasena lūkhājīvī eva. Dullabhasukho bhavissāmi duggatīsu upapattiyāti adhippāyo.
あるいは、自分の中に存在しない阿羅漢果を「ある」と偽って主張すること。呪文を唱えること、資具を受けること、威儀作法に頼ること、これら三つ、あるいは(これらは)欺瞞の手段である。そのような者とは、頭陀行(ミリンダ王の問い 4.2; 清浄道論 1.22)を受持することによって、まさに粗野な生活を送る者である。「私は苦界に生まれ、得がたい楽(苦)を経験するであろう」という意味である。
383. Asukaṭṭhānatoti asukabhavato. Āgatāti nibbattanavasena idhāgatā. Idāni gantabbaṭṭhānanti āyatiṃ nibbattanaṭṭhānaṃ. Puna upapattinti āyatiṃ anantarabhavato tatiyaṃ upapattiṃ, puna upapattīti punappunaṃ nibbatti. Kena kāraṇenāti yathābhūtaṃ ajānanto hi icchādosavasena yaṃ kiñci garaheyya, ahaṃ pana yathābhūtaṃ jānanto sabbaṃ taṃ kena kāraṇena garahissāmi, taṃ kāraṇaṃ natthīti adhippāyo, tenāha **‘‘garahitabbamevā’’**tiādi. Tamatthanti garahitabbasseva garahaṇaṃ, pasaṃsitabbassa ca pasaṃsanaṃ.
383. 「そのような場所から」(asukaṭṭhānato)とは、そのような存在から、である。「来たりし者」(āgatā)とは、生まれ変わりによってここに来たりし者、である。「今行かれるべき場所」(idāni gantabbaṭṭhānaṃ)とは、未来に生まれるべき場所、である。「再びの生」(puna upapatti)とは、未来の次の存在から三度目の生、再びの生とは、繰り返し生まれること、である。「何の理由でか」(kena kāraṇena)とは、実相を知らない者は、欲や憎悪によって何かを非難するであろう。しかし私は、実相を知っているので、そのすべてを何の理由で非難するであろうか。そのような理由はない、という意味である。ゆえに「非難されるべきものをのみ」(garahitabbamevā)などと言われるのである。「その意味」(tamatthana)とは、非難されるべきもののみを非難し、称賛されるべきものを称賛すること、である。
Na koci ‘‘na sādhū’’ti vadati diṭṭhadhammikassa, samparāyikassa ca atthassa sādhanavaseneva pavattiyā bhaddakattā. Pañcavidhaṃ veranti pāṇātipātādipañcavidhaṃ veraṃ. Tañhi pañcavidhassa sīlassa paṭisattubhāvato, sattānaṃ verahetutāya ca ‘‘vera’’nti vuccati. Tato eva taṃ na koci ‘‘sādhū’’ti vadati, tathā diṭṭhadhammikādiatthānaṃ asādhanato, sattānaṃ sādhubhāvassa ca dūsanato. Na nirundhitabbanti rūpaggahaṇe na nivāretabbaṃ. Dassanīyadassanattho hi cakkhupaṭilābhoti tesaṃ adhippāyo. Yadaggena tesaṃ pañcadvāre asaṃvaro sādhu, tadaggena tattha saṃvaro na sādhūti āha **‘‘puna yaṃ te ekaccanti pañcadvāre saṃvara’’**nti.
現世の利益と来世の利益を成就するがゆえに行いが善であるため、「善くない」と言う者は誰もいない。「五重の敵意」(pañcavidhaṃ vera)とは、殺生などに始まる五種類の敵意である。それは五戒に敵対するものであること、そして衆生の敵意の原因であることから、「敵意」(vera)と呼ばれる。それゆえ、現世などの利益を成就しないこと、そして衆生の善性を害することから、誰もそれを「善い」とは言わない。「遮断されるべきではない」(na nirundhitabbaṃ)とは、色(rūpa)を取る際に止められるべきではない、である。彼らの意図するところは、眼を得るのは見るべきものを見るためである、ということである。彼らにとって、五根門での不制約(asaṃvaro)が善である限り、それと同じだけ、そこでの制約(saṃvaro)は善くない、ゆえに「再び、彼らのある者が五根門での制約と呼ぶものを」(puna yaṃ te ekaccanti pañcadvāre saṃvaraṃ)と言われる。
Atha vā yaṃ te ekaccaṃ vadanti ‘‘sādhū’’ti te ‘‘eke samaṇabrāhmaṇā’’ti vuttā titthiyā yaṃ attakilamathānuyogādiṃ ‘‘sādhū’’ti vadanti, mayaṃ taṃ na ‘‘sādhū’’ti vadāma. Yaṃ te ekaccaṃ vadanti ‘‘na sādhū’’ti yaṃ pana te anavajjapaccayaparibhogaṃ, sunivatthasupārupanādisammāpaṭipattiñca ‘‘na sādhū’’ti vadanti, taṃ mayaṃ ‘‘sādhū’’ti vadāmāti evaṃ pettha attho veditabbo.
あるいは、彼らのある者が「善い」と言うもの、つまり「ある沙門や婆羅門」と言われる異教徒たちが、自己苦行への専念などを「善い」と言うものを、我々は「善い」とは言わない。彼らのある者が「善くない」と言うもの、つまり、彼らが無過失な資具の享受や、適切に衣を着用するなどの正しい行いを「善くない」と言うものを、我々は「善い」と言うのである。このように、ここでの意味は理解されるべきである。
Evaṃ yaṃ paravādamūlakaṃ catukkaṃ dassitaṃ, tadeva puna sakavādamūlakaṃ katvā dassitanti pakāsento **‘‘eva’’**ntiādimāha. Yañhi kiñci kenaci samānaṃ, tenapi taṃ samānameva, tathā asamānaṃ pīti. Samānāsamānatanti samānāsamānatāmattaṃ. Anavasesato hi pahātabbānaṃ dhammānaṃ pahānaṃ sakavāde dissati, na paravāde. Tathā paripuṇṇameva ca upasampādetabbadhammānaṃ upasampādanaṃ sakavāde, na paravāde. Tena vuttaṃ ‘‘tyāha’’ntiādi.
このように、他説に基づいた四つの(教えが)示されたが、それ自体が再び自説に基づいたものとして示された、と明らかにしながら「このように」(evaṃ)などと言われる。何かあるものが誰かによって類似しているならば、それによってもそれは類似している。同様に、異なっている場合もそうである。「類似と非類似」(samānāsamānatā)とは、単に類似と非類似であるにすぎない。捨てるべき法が余すところなく捨てられることは、自説において見られるのであり、他説においては見られない。同様に、実践すべき法が完全に実践されることも、自説において見られるのであり、他説においては見られない。それゆえ「私たちが」(tyāhaṃ)などと言われる。
385. Laddhiṃ pucchantoti ‘‘kiṃ samaṇo gotamo saṃkilesadhamme anavasesaṃ pahāya vattati, udāhu pare gaṇācariyā. Ettha tāva attano laddhiṃ vadā’’ti laddhiṃ pucchanto. Kāraṇaṃ pucchantoti ‘‘samaṇo gotamo saṃkilesadhamme anavasesaṃ pahāya vattatī’’ti vutte ‘‘kena kāraṇena evamatthaṃ gāhayā’’ti kāraṇaṃ pucchanto. Ubhayaṃ pucchantoti ‘‘idaṃ nāmettha kāraṇa’’nti kāraṇaṃ vatvā paṭiññāte atthe sādhiyamāne anvayato, byatirekato ca kāraṇaṃ samatthetuṃ sadisāsadisabhedaṃ upamodāharaṇadvayaṃ pucchanto, ubhayaṃ pucchanto kāraṇassa ca tilakkhaṇasampattiyā yathāpaṭiññāte atthe sādhite sammadeva anupacchā bhāsanto nigamento samanubhāsati nāma. Upasaṃharitvāti upanetvā. **‘‘Kiṃ te’’**tiādi upasaṃharaṇākāradassanaṃ. Dutiyapadeti ‘‘saṅghena vā saṅgha’’nti imasmiṃ pade.
385. 「見解を問う者」(laddhiṃ pucchanto)とは、「沙門ゴータマは煩悩の法を余すところなく捨てて住むのか、それとも他の教団の指導者たちか。まずここで自分の見解を述べよ」と見解を問うことである。「理由を問う者」(kāraṇaṃ pucchanto)とは、「沙門ゴータマは煩悩の法を余すところなく捨てて住む」と述べられたとき、「何の理由でその意味を主張するのか」と理由を問うことである。「両方を問う者」(ubhayaṃ pucchanto)とは、「これこそがここでの理由である」と理由を述べ、主張された意味が確立されたとき、肯定と否定によって理由を裏付けるために、類似と非類似という二つの例を問う者、である。両方を問う者とは、理由が三相(tilakkhaṇa)を備えることによって、主張された意味が確立された場合に、中断なく適切に語り、結論付けることによって、正しく問い詰めて議論すること(samanubhāsati)を言うのである。「ウパサンハリッタ」(upasaṃharitvā)とは、「持ち出して」という意味である。「何があなたのものであるか」(Kiṃ te)などとは、取りまとめる様を示すものである。第二の句においてとは、「あるいは僧伽によって僧伽を」というこの句において、である。
Tamatthanti taṃ pahātabbadhammānaṃ anavasesaṃ pahāya vattanasaṅkhātañca samādātabbadhammānaṃ anavasesaṃ samādāya vattanasaṅkhātañca atthaṃ. Yojetvāti akusalādipadehi yojetvā. Akosallasambhūtaṭṭhena akusalā ceva tatoyeva akusalāti ca saṅkhaṃ gatāti saṅkhātā tattha purimapadena ekantākusale vadati, dutiyapadena taṃsahagate, taṃpakkhiye ca, tenāha **‘‘koṭṭhāsaṃ vā katvā ṭhapitā’’**ti, akusalapakkhiyabhāvena vavatthāpitāti attho. Avajjaṭṭho dosaṭṭho gārayhapariyāyattāti āha **‘‘sāvajjāti sadosā’’**ti. Ariyā nāma niddosā, ime pana katthacipi niddosā na hontīti niddosaṭṭhena ariyā bhavituṃ nālaṃ asamatthā.
「その意味」(tamatthana)とは、捨てるべき法を余すところなく捨てて住むことと、実践すべき法を余すところなく実践して住むこと、という意味である。「ヨーチェトヴァー」(yojetvā)とは、「不善」(akusala)などの言葉と結合させて、である。「アクーサラ」(akusalā)とは、不巧から生じるがゆえに不善であり、その理由で不善と呼ばれるものであるとされており、そこでは、最初の言葉は純粋な不善を言い、第二の言葉はそれに付随するもの、その側に属するものを言う。それゆえ「あるいは区分として置かれたもの」(koṭṭhāsaṃ vā katvā ṭhapitā)と言われる。不善の側に属するものとして定められた、という意味である。「過ちの場所」(avajjaṭṭho)とは、欠点の場所、非難の同義語であるから、「サヴァッジャ(sāvajjā)」(過ちのある)とは「サドーサ(sadosā)」(欠点のある)と述べられる。聖者(ariyā)とは過ちがない者であるが、これら(法)はどこにも過ちがないとはならないので、過ちがないという意味において聖者とはなり得ず、無力なのである。
386-392. Yanti kāraṇe etaṃ paccattavacananti āha **‘‘yena viññū’’**ti. Yaṃ vā panāti ‘‘yaṃ pana kiñcī’’ti asambhāvanavacanametanti āha **‘‘yaṃ vā taṃ vā appamattaka’’**nti. Gaṇācariyā pūraṇādayo. Satthuppabhavattā saṅghassa saṅghasampattiyāpi satthusampatti vibhāvīyatīti āha **‘‘saṅghapasaṃsāyapi satthuyeva pasaṃsāsiddhito’’**ti. Sā pana pasaṃsā pasādahetukāti pasādamukhena taṃ dassetuṃ **‘‘pasīdamānāpi hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha pi-saddena yathā anvayato pasaṃsā samuccīyati, evaṃ satthuvippaṭipattiyā sāvakesu, sāvakavippaṭipattiyā ca satthari appasādo samuccīyatīti daṭṭhabbaṃ. Sarīrasampattinti rūpasampattiṃ, rūpakāyapāripūrinti attho. Bhavanti vattāro rūpappamāṇā, ghosadhammappamāṇā ca. Puna bhavanti vattāroti dhammappamāṇavaseneva yojetabbaṃ. Yā saṅghassa pasaṃsāti ānetvā sambandho.
386-392. 「どの」(yaṃ)とは、原因に関するこの一人称の言葉である、ゆえに「賢者たちによって」(yena viññū)と言われる。「ヤン・ヴァー・パナ」(yaṃ vā pana)とは、「何かどんな些細なものでも」(yaṃ pana kiñcī)という不可能を示す言葉である、ゆえに「どんな些細なものでも」(yaṃ vā taṃ vā appamattakaṃ)と言われる。教団の指導者とは、プーラナなどである。サンガは師から生じるものであるから、サンガの完成によって師の完成も明らかにされる、ゆえに「サンガへの称賛においても、師への称賛が成就される」(saṅghapasaṃsāyapi satthuyeva pasaṃsāsiddhito)と言われる。しかしその称賛は信仰を原因とするものであるから、信仰を介してそれを示すために「信仰する者たちもまた」(pasīdamānāpi hī)などと述べられる。そこでの「もまた」(pi)という言葉によって、称賛が直接的に集積されるのと同様に、師の誤りによって弟子たちに、そして弟子たちの誤りによって師に不信が蓄積されると理解されるべきである。「身体の完成」(sarīrasampatti)とは、容姿の完成、すなわち肉体の完全性という意味である。語る者は、形によって判断する者たち、そして声と法によって判断する者たちとなる。再び語る者は、法によって判断するという方法のみで解釈されるべきである。「サンガへの称賛とは」と引き出して連結する。
Tattha yā buddhānaṃ, buddhasāvakānaṃyeva ca pāsaṃsatā, aññesañca tadabhāvo jotito, taṃ viratippahānasaṃvaruddesavasena nīharitvā dassetuṃ **‘‘ayamadhippāyo’’**tiādi vuttaṃ. Tattha setughātavirati nāma ariyamaggavirati. Vipassanāmattavasenāti ‘‘anicca’’nti vā ‘‘dukkha’’nti vā vividhaṃ dassanamattavasena, na pana nāmarūpavavatthānapaccayapariggaṇhanapubbakaṃ lakkhaṇattayaṃ āropetvā saṅkhārānaṃ sammasanavasena. Itarānīti samucchedapaṭippassaddhinissaraṇappahānāni. **‘‘Sesa’’**nti pañcasīlato añño sabbo sīlasaṃvaro, ‘‘khamo hotī’’tiādinā (ma. ni. 1.24; 3.159; a. ni. 4.114) vutto suparisuddho khantisaṃvaro, ‘‘paññāyete pidhiyyare’’ti (su. ni. 1041; cūḷani. 60) evaṃ vutto kilesānaṃ samucchedako maggañāṇasaṅkhāto ñāṇasaṃvaro, manacchaṭṭhānaṃ indriyānaṃ pidahanavasena pavatto parisuddho indriyasaṃvaro, ‘‘anuppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāyā’’tiādinā (dī. ni. 2.402; ma. ni. 1.135; saṃ. ni. 5.8; vibha. 205) vutto sammappadhānasaṅkhāto vīriyasaṃvaroti imaṃ saṃvarapañcakaṃ sandhāyāha. Pañca kho panime pātimokkhuddesātiādi sāsane sīlassa bahubhāvaṃ dassetvā tadekadese eva paresaṃ avaṭṭhānadassanatthaṃ yathāvuttasīlasaṃvarasseva puna gahaṇaṃ.
そこでは、諸仏と仏弟子たちの称賛、そして他の者たちにはそれが存在しないことが明らかにされる。それを止滅、捨断、制約の意図によって引き出して示すために、「これがその意図である」(ayamadhippāyo)などと述べられる。そこでの「橋を壊すことの止滅」(setughātavirati)とは、聖なる道の止滅のことである。「ただヴィパッサナーによって」(vipassanāmattavasena)とは、「無常である」あるいは「苦である」と様々な形でただ見ることによってであり、名色(nāmarūpa)を確立し、縁起を把握した上で、三相(lakkaṇa)を当てはめて諸行を考察する方法ではない。「他のもの」(itarāni)とは、根絶による捨断、静止による捨断、出離による捨断のことである。「残りのもの」(sesa)とは、五戒以外の全ての戒律による制約、「寛容となる」(khamo hotī)など(中部 1.24; 3.159; 増支部 4.114)と述べられる完全に清浄な忍耐による制約、「智慧によって隠される」(paññāyete pidhiyyare)など(経集 1041; 小義釈 60)と述べられる煩悩を根絶する道智と呼ばれる智慧による制約、六根門を閉じることによって生じる完全に清浄な根による制約、「まだ生じていない悪しき不善の法が生じないように」(anuppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāyā)など(長部 2.402; 中部 1.135; 相応部 5.8; 分析論 205)と述べられる正精進と呼ばれる努力による制約、この五つの制約を指して述べられる。「パティモッカの五つの誓いとは」などと教えにおける戒律の豊富さを示した後、再び述べられた戒律による制約を挙げるのは、他者たちがその一部にのみ留まることを示すためである。
393. Sīhanādanti seṭṭhanādaṃ, abhītanādaṃ kenaci appaṭivattiyanādanti attho. ‘‘Ayaṃ yathāvutto mama vādo aviparīto, tassa aviparītabhāvo imaṃ maggaṃ paṭipajjitvā aparappaccayato jānitabbo’’ti evaṃ **aviparītabhāvāvabodhanatthaṃ. ‘‘Atthi kassapā’’**tiādīsu yaṃ maggaṃ paṭipanno samaṇo gotamo vadanto yuttapattakāle, tathabhāvato bhūtaṃ, ekaṃsato hitāvihabhāvena atthaṃ, dhammato anapetattā dhammaṃ, vinayayogato paresaṃ vinayanato ca vinayaṃ vadatīti sāmaṃyeva attapaccakkhatova jānissati, so mayā sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedito sakalavaṭṭadukkhanissaraṇabhūto atthi kassapa maggo, tassa ca adhigamūpāyabhūtā pubbabhāgapaṭipadāti ayamettha yojanā. Tena ‘‘samaṇo gotamo ime dhamme’’tiādinayappavatto vādo kenaci asaṃkampiyo yathābhūtasīhanādoti dasseti.
393. 獅子吼とは、最高の声であり、何ものにも揺るがされない恐れを知らぬ声である、という意味である。「この私の説いたことは真実であり、その真実性は、この道(修行)を実践することによって、他の者の教えによらず自ら知られるべきである」と、このように真実性を理解させるためである。「カッサパよ、ある」などにおいて、沙門ゴータマが語る道は、適切な時に成就するものであり、真実である故に実在し、唯一、利益と非利益という観点から意義があり、ダルマから逸脱しない故に法であり、律に合致し他者を律する故に律であると、彼自身が自ら直観によって知るであろう。私が自ら勝れた知恵によって実現し説いた、輪廻の全ての苦しみからの解脱の根本であるカッサパよ、道は存在し、その道を成就する手段である初期段階の行もまた存在する、というのがここでの解釈である。それゆえ、「沙門ゴータマはこれらの法を」といった類の流れの説法は、何者にも動かされない、真実の獅子吼であると示す。
‘‘Evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya passatī’’tiādīsu (a. ni. 3.134) viya **maggañca paṭipadañca ekato katvā dassento. ‘‘Ayamevā’’**ti vacanaṃ maggassa puthubhāvapaṭikkhepanatthaṃ, sabbaariyasādhāraṇabhāvadassanatthaṃ, sāsane pākaṭabhāvadassanatthañca. Tenāha ‘‘ekāyano ayaṃ bhikkhave maggo’’ti, (dī. ni. 2.373; ma. ni. 1.106; saṃ. ni. 5.367, 384, 409)‘‘eseva maggo natthañño dassanassa visuddhiyā’’ti (dha. pa. 274),
「このように真実を正しく智慧によって見る」など(A.N.3.134)のように、道と行とを一つにして示す。「これのみが」という言葉は、道が多岐にわたることを否定し、全ての聖者に共通であることを示し、教えの中でそれが明瞭であることを示すためである。それゆえ、「比丘たちよ、この道は唯一のものである」(D.N.2.373; M.N.1.106; S.N.5.367, 384, 409)と語り、「この道こそが、見解の清浄のための唯一の道であり、他に道はない」(Dh.p.274)と語られた。
‘‘Ekāyanaṃ jātikhayantadassī,
唯一の道を、生滅の終わりを見る者が、
Maggaṃ pajānāti hitānukampī;
慈悲深く道を理解する。
Etena maggena tariṃsu pubbe,
この道によって、過去の者たちは渡り、
Tarissanti ye ca taranti ogha’’nti. (saṃ. ni. 5.384, 409; mahāni. 191; cūḷani. 107, 121; netti. 170);
今渡る者も、未来に渡る者も、流れ(迷い)を渡るであろう。(S.N.5.384, 409; Mahāni. 191; Cūḷani. 107, 121; Netti. 170)
Sabbesu suttapadesesu abhidhammapadesesu ca ekovāyaṃ maggo pākaṭo paññāto āgato cāti.
全ての経典の箇所、アビダルマの箇所においても、この道は唯一のものであり、明示され、認識され、説かれているのである。
394. Tapoyeva upakkamitabbato ārabhitabbato tapopakkamoti āha **‘‘tapārambhā’’**ti. Ārambhanañcettha karaṇamevāti āha ‘‘tapokammānīti **attho’’**ti. Samaṇakammasaṅkhātāti samaṇehi kattabbakammasaññitā. Niccoloti nissaṭṭhacelo sabbena sabbaṃ paṭikkhittacelo. Naggiyavatasamādānena **naggo. ‘‘Ṭhitakova uccāraṃ karotī’’**tiādi nidassanamattaṃ, vamitvā mukhavikkhālanādiācārassapi tena vissaṭṭhattā. Jivhāya hatthaṃ apalikhati apalihati udakena adhovanato. Dutiyavikappepi eseva nayo. ‘‘Ehi bhaddante’’ti vutte upagamanasaṅkhāto vidhi ehibhaddanto, taṃ caratīti ehibhaddantiko, tappaṭikkhepena na ehibhaddantiko. Na karoti samaṇena nāma parassa vacanakarena na bhavitabbanti adhippāyena. Puretaranti taṃ ṭhānaṃ attano upagamanato puretaraṃ. Taṃ kira so ‘‘bhikkhunā nāma yādicchakī eva bhikkhā gahetabbā’’ti adhippāyena na gaṇhāti. Uddissakataṃ ‘‘mama nimittabhāvena bahū khuddakā pāṇā saṅghātaṃ āpāditā’’ti na gaṇhāti. Nimantanaṃ na sādiyati ‘‘evaṃ tesaṃ vacanaṃ kataṃ bhavissatī’’ti. Kumbhīādīsupi so sattasaññīti āha **‘‘kumbhīkaḷopiyo’’**tiādi.
394. 苦行だけが実践されるべきであり、始められるべきであるから、苦行の行(tapopakkama)と言う、ゆえに「苦行の始まり」と述べる。ここでの始まりは実践そのものであるから、「苦行の業である」という意味である、と述べる。沙門の業と称されるとは、沙門によってなされるべき業と認識される、ということである。裸形とは、衣服を捨て去り、一切の衣服を拒否した者である。裸行の誓願を実践することで裸形となる。「立ったまま排泄する」などは単なる例示である。吐いた後に口をすすがないなどの行いもそれによって放棄されるからである。舌で手を舐めるのは、水で洗わないからである。第二の選択肢においても、これと同じ方式である。「友よ、来なさい」と言われたとき、赴くことと称される作法が「エヒバッダンタ」(友よ、来なさい)である。それを実践する者が「エヒバッダンティカ」であり、それを拒否する者は「非エヒバッダンティカ」である。(他人の)言葉に従うべきではないという意図で、沙門はそれをしない。早く行くとは、その場所へ自分が行くよりも早く行くことである。彼(苦行者)は、「比丘とは、望むままの托鉢を受けるべきである」という意図で、それ(請われた食事など)を受け取らない。(自分の)ために用意されたもの(食事など)は、「私のために多くの小さな生き物が殺された」として受け取らない。招待は「このように彼らの言葉を受け入れることになる」として、受け入れない。壺などにおいても、彼は生き物とみなす、それゆえ「壺や籠の(食物を避ける者)」と述べる。
Kabaḷantarāyoti kabaḷassa antarāyo hotīti. Gāmasabhāgādivasena saṅgamma kittenti etissāti saṅkitti, tathā saṃhaṭataṇḍulādisañcayo. Manussāti veyyāvaccakaramanussā.
一口の間隔とは、一口(食べるごとに)間隔がある、ということである。村や集落などで集まって、そのために話をするのが「サーンキッティ」(噂)であり、また、集められた米粒などの貯蔵のことである。人々とは、世話をする人々である。
Surāpānamevāti majjalakkhaṇappattāya surāya pānameva surāggahaṇena cettha merayampi saṅgahitaṃ. Ekāgārameva uñchatīti ekāgāriko. Ekālopeneva vattatīti ekālopiko. Dīyati etāyāti datti, dvattiālopamattagāhi khuddakaṃ bhikkhādānabhājanaṃ, tenāha **‘‘khuddakapātī’’**ti. Abhuñjanavasena eko aho etassa atthīti ekāhiko, āhāro. Taṃ ekāhikaṃ, so pana atthato ekadivasalaṅghakoti āha **‘‘ekadivasantarika’’**nti. **‘‘Dvīhika’’**ntiādīsupi eseva nayo. Ekāhaṃ abhuñjitvā ekāhaṃ bhuñjanaṃ ekāhavāro, taṃ ekāhikameva atthato. Dvīhaṃ abhuñjitvā dvīhaṃ bhuñjanaṃ dvīhavāro. Sesadvayepi eseva nayo. Ukkaṭṭho pana pariyāyabhattabhojaniko dvīhaṃ abhuñjitvā ekāhameva bhuñjati. Sesadvayepi eseva nayo.
酒を飲むこととは、麻酔性のある特徴を持つ酒を飲むことであり、ここでの「酒」の受け止め方としては、美酒も含まれる。一軒の家からのみ施しを受けるとは、一軒家(のみを乞食の場所とする)者である。一口の食物だけで生活するとは、一口(のみの)食物(で生活する)者である。それによって与えられるものは「ダッティ」(与えられたもの)であり、二、三口の量だけを受け取る小さな托鉢の器のことである。それゆえ「小さな器」と述べる。食さない日が一日に一つあるとは、一日おきの食事である。それは一日おきであり、その意味では一日を飛ばすことであるから、「一日おき」と述べる。「二日おき」などにおいても、これと同じ方式である。一日食べずに一日食べるのが一日おきの食事であり、それは本質的には一日おきである。二日食べずに二日食べるのが二日おきの食事である。残りの二つもこれと同じ方式である。しかし、最も厳しい段階の、順に食事をする者は、二日食べずに一日だけ食べる。残りの二つもこれと同じ方式である。
395. Kuṇḍakanti tanutaraṃ taṇḍulasakalaṃ.
395. クンダカ(糠)とは、より細かな米の砕片のことである。
396. Saṇehi saṇavākehi nibbattavatthāni sāṇāni. Missasāṇāni masāṇāni, na bhaṅgāni. Erakatiṇādīnīti ādi-saddena akkamakacikadalīvākādīnaṃ saṅgaho. Erakādīhi katāni hi chavāni lāmakāni dussānīti vattabbataṃ labhanti.
396. サンエー(麻)とは、麻の繊維で作られた衣類のことである。混合麻とは、マサーナ(麻製の衣)であり、麻の茎から作られたものではない。エラカ草などとは、「など」の言葉によって、アッカ、マカチカ、バナナの樹皮などが包含される。エラカ草などから作られた衣類は、粗末で劣った布と称される。
Micchāvāyāmavaseneva ukkuṭikavatānuyogoti āha **‘‘ukkuṭikavīriyaṃ anuyutto’’**ti. Thaṇḍilanti vā samā pakatibhūmi vuccati ‘‘patthaṇḍile pāturahosī’’tiādīsu (ma. ni. 4.10) viya, tasmā thaṇḍilaseyyanti anantarahitāya pakatibhūmiyaṃ seyyanti vuttaṃ hoti. Laddhaṃ āsananti nisīdituṃ yathāladdhaṃ āsanaṃ. Akopetvāti aññattha anupagantvā, tenāha **‘‘tattheva nisīdanasīlo’’**ti. So hi taṃ achaḍḍento apariccajanto akopento nāma hoti. Vikaṭanti gūthaṃ vuccati āsayavasena virūpaṃ jātanti katvā.
邪な精進の手段として、うずくまる行を実践することである、それゆえ「うずくまる精進を実践する者」と述べる。あるいは、平らな自然の土地を「タンドゥラ」(Thañḍila)と言う。「平らな土地に現れた」など(M.N.4.10)のように。それゆえ、地べたに寝るとは、何も隔てない自然の土地に寝る、と言われたのである。得た座るとは、座るために得た座席のことである。動かさずにとは、他の場所へ行かずに、という意味である。それゆえ「同じ場所に座り続ける習慣を持つ者」と述べる。彼(苦行者)は、それを捨て去らず、放棄せず、動かさない者である。不浄とは、排泄物のことである。それは意図に応じて醜い姿になった、ということである。
Ettha ca ‘‘acelako hotī’’tiādīni vatapadāni yāva ‘‘na thusodakaṃ pivatī’’ti etāni ekavārāni. ‘‘Ekāgāriko vā’’tiādīni nānāvārāni, nānākālikāni vā. Tathā ‘‘sākabhakkho vā’’tiādīni, ‘‘sāṇānipi dhāretī’’tiādīni ca. Tathā hettha vā-saddaggahaṇaṃ, pi-saddaggahaṇañca kataṃ. Pi-saddopi vikappattho eva daṭṭhabbo. Purimesu pana na kataṃ. Evañca katvā ‘‘acelako hotī’’ti vatvā ‘‘sāṇānipi dhāretī’’tiādi vacanassa, ‘‘rajojalladharo hotī’’ti vatvā ‘‘udakorohanānuyogaṃ anuyutto’’ti vacanassa ca avirodho siddho hoti. Atha vā kimettha avirodhacintāya. Ummattakapacchisadiso hi titthiyavādo. Atha vā ‘‘acelako hotī’’ti ārabhitvā tappasaṅgena sabbampi attakilamathānuyogaṃ dassentena ‘‘sāṇānipi dhāretī’’tiādi vuttanti daṭṭhabbaṃ.
ここにおいて、「裸形となる」などから「籾殻の水を飲まない」までの一連の誓いの言葉は、一度限りのものである。「一軒家(からのみ受ける)か」などは、様々な繰り返し、あるいは様々な時期のものである。同様に、「野菜を食べるか」など、「麻の衣も身につける」などもそうである。同様に、ここには「vā」(あるいは)という語、そして「pi」(もまた)という語が使われている。「pi」の語もまた、選択の意味であると見なされるべきである。しかし、前のものにはそれがない。このようにして、「裸形となる」と言いつつ「麻の衣も身につける」などと語ること、また「塵と垢をまとう者となる」と言いつつ「水浴の行を実践する」と語ることの矛盾がないことが成立する。あるいは、なぜここで矛盾を考えるのか。異教徒の説は、狂った者の発言に似ている。あるいは、「裸形となる」というところから始めて、それに付随して一切の自己苦行の行を示すために、「麻の衣も身につける」などと語られたと見るべきである。
397. Sīlasampadādīhi vināti sīlasampadā, samādhisampadā, paññāsampadāti imāhi lokuttarāhi sampadāhi vinā na kadāci sāmaññaṃ vā brahmaññaṃ vā sambhavati, yasmā ca tadevaṃ, tasmā tesaṃ tapopakkamānaṃ niratthakataṃ dassentoti yojanā. **‘‘Dosaveravirahita’’**nti idaṃ dosassa mettāya ujupaṭipakkhatāya vuttaṃ. Dosa-ggahaṇena vā sabbepi jhānapaṭipakkhā saṃkilesadhammā gahitā, vera-ggahaṇena paccatthikabhūtā sattā. Yadaggena hi dosarahitaṃ, tadaggena verarahitanti.
397. 戒の成就などなくしてとは、戒の成就、三昧の成就、智慧の成就というこれらの世間を超越した成就なくしては、決して沙門性も梵行も成立しない。そして、それらがそうであるから、それらの苦行の行の無益さを示す、というのがここでの解釈である。「嫌悪と怨恨なき」とは、嫌悪が慈悲と正しく対立する意味で言われた。あるいは、「嫌悪」の受け止め方としては、禅定に敵対するあらゆる煩悩の法が包含され、「怨恨」の受け止め方としては、敵対する衆生が包含される。嫌悪がないところには、怨恨もないのである。
398. Pākaṭabhāvena kāyati gametīti pakati, lokasiddhavādo, tenāha **‘‘pakati kho esāti pakatikathā esā’’**ti. Mattāyāti mattā-saddo ‘‘mattā sukhapariccāgā’’tiādīsu (dha. pa. 290) viya appatthaṃ antonītaṃ katvā pamāṇavācakoti āha **‘‘iminā pamāṇena evaṃ parittakenā’’**ti. Tena pana pamāṇena pahātabbo pakaraṇappatto paṭipattikkamoti āha **‘‘paṭipattikkamenā’’**ti. Sabbatthāti sabbavāresu.
398. 明瞭であることによって、実践され、到達されるのが「パカティ」(pakati、常識・慣習)であり、世間で確立された説である。それゆえ「これは常識である、すなわちこれは常識的な話である」と述べる。「マッターヤー」(mattāya、量)とは、「幸福の放棄の量」など(Dhp. 290)のように、少ない意味を含意し、量を表す言葉である。それゆえ「この量によって、このようにわずかな」と述べる。しかし、その量によって捨てるべきものは、文脈にふさわしい行の段階である。それゆえ「行の段階によって」と述べる。全ての場所とは、全ての機会においてである。
399. Aññathā vadathāti yadi acelakabhāvādinā sāmaññaṃ vā brahmaññaṃ vā abhavissa, suvijānova samaṇo suvijāno brāhmaṇo. Yasmā pana tumhe ito aññathāva sāmaññaṃ brahmaññañca vadatha, tasmā dujjānova samaṇo dujjāno brāhmaṇo, tenāha **‘‘idaṃ sandhāyāhā’’**ti. Taṃ pakativādaṃ paṭikkhipitvāti pubbe yaṃ pākatikaṃ sāmaññaṃ brahmaññañca hadaye ṭhapetvā tena ‘‘dukkara’’ntiādi vuttaṃ, tameva sandhāya bhagavatāpi ‘‘pakati kho esā’’tiādi vuttaṃ. Idha pana taṃ pakativādaṃ pākatikasamaṇabrāhmaṇavisayaṃ kathaṃ paṭikkhipitvā paṭisaṃharitvā sabhāvatova paramatthatova samaṇassa brāhmaṇassa ca dujjānabhāvaṃ āvikaronto pakāsento. Tatrāpīti samaṇabrāhmaṇavādepi vuttanayeneva.
399. 異なったことを語るとは、もし裸形であることなどによって、沙門性または梵行が存在するならば、沙門は容易に知られ、バラモンも容易に知られるであろう。しかし、あなた方がこれとは異なる沙門性と梵行を語るゆえに、沙門は認識しがたく、バラモンも認識しがたい。それゆえ「これを意図して言われた」と述べる。その常識的な説を否定してとは、以前、心に置かれていた常識的な沙門性や梵行に関して、「困難である」などと語られた。それを意図して、世尊もまた「これは常識である」などと語られた。しかし、ここでは、その常識的な説、すなわち常識的な沙門やバラモンに関する説明を、どのように否定し、引き戻し、そして沙門とバラモンの認識しがたい性質を、その本性から、究極的な真理から明らかにし、示すのか。そこにおいてもとは、沙門とバラモンに関する説においても、すでに述べられた方式と同じである。
400-1. Paṇḍitoti hetusampattisiddhena paṇḍiccena samannāgato, kathaṃ uggahesi paripakkañāṇattā ghaṭe padīpena viya abbhantare samujjalantena paññāveyyattiyena tattha tattha bhagavatā desitamatthaṃ pariggaṇhanto tampi desanaṃ upadhāresi. Tassa cāti yo acelako hoti yāva udakorohanānuyogaṃ anuyutto viharati, tassa ca. Tā sampattiyo pucchāmi, yāhi samaṇo ca hotīti adhippāyo. Sīlasampadāyāti iti-saddo ādiattho, tena ‘‘cittasampadāya paññāsampadāyā’’ti padadvayaṃ saṅgaṇhāti asekkhasīlādikhandhattayasaṅgahitañhi arahattaṃ, tenāha **‘‘arahattaphalameva sandhāya vutta’’**ntiādi. Tattha idanti idaṃ vacanaṃ.
400-1. 賢者とは、原因の成就によって得られた賢さを持つ者である。彼はどのようにして理解したかというと、熟達した智慧によって、あたかも壺の中の灯火のように内側に輝く智慧の巧みさによって、世尊が各所で説かれた意味を把握し、その教えをも保持したのである。彼の、とは、裸形であり、水浴の行を実践して過ごす彼の、ということである。私はその成就について尋ねる。それらによって沙門となるのである、というのが意図である。戒の成就などとは、「など」という言葉が初めを意味し、それによって「心の成就、智慧の成就」という二つの語を包含する。なぜなら、無学の戒など三つのカテゴリーにまとめられたものが阿羅漢果であるから、それゆえ「阿羅漢果そのものを意図して言われた」などと述べる。そこにおいて、これとはこの言葉である。
402. Anaññasādhāraṇatāya, anaññasādhāraṇatthavisayatāya ca anuttaraṃ buddhasīhanādaṃ nadanto. Ativiya accantavisuddhatāya paramavisuddhaṃ. Paramanti ukkaṭṭhaṃ, tenāha **‘‘uttama’’**nti. Sīlameva lokiyasīlattā. Yathā anaññasādhāraṇaṃ bhagavato lokuttarasīlaṃ savāsanaṃ paṭipakkhaviddhaṃsanato, evaṃ lokiyasīlampi tassa anucchavikabhāvena sambhūtattā, samena samanti samasamanti ayamettha atthoti āha **‘‘mama sīlasamena sīlena mayā sama’’**nti. **‘‘Yadidaṃ adhisīla’’**nti lokiyaṃ, lokuttarañcāti duvidhampi buddhasīlaṃ ekajjhaṃ katvā vuttaṃ. Tenāha ‘‘sīlepī’’ti. Iti imanti evaṃ imaṃ sīlavisayaṃ. Paṭhamaṃ pavattattā paṭhamaṃ.
402. 他に類を見ないこと、そして他に類を見ない意義を主題とすることによって、無上の仏の獅子吼を発する。極めて絶対的な清浄さによって、究極的に清浄である。最高とは、優れていることである。それゆえ「最上」と述べる。戒そのものは世間的な戒であるから。世尊の世間を超越した戒が、残存する煩悩を破壊するがゆえに他に類を見ないように、世間的な戒もまた、それにふさわしい形で生起するから、「等しいものをもって等しい」とは「等しく等しい」という意味である。それゆえ「私の戒に等しい戒をもって、私と等しい」と述べる。「この増上戒とは」とは、世間的な戒と世間を超越した戒の両方の仏陀の戒を一つにまとめて述べられた。それゆえ「戒においても」と述べる。このように、この戒の主題を。最初に説かれたから、最初である。
Tapatīti santappati, vidhamatīti attho. Jigucchatīti hīḷeti lāmakato ṭhapeti. Niddosattā ariyā ārakā kilesehīti. Maggaphalasampayuttā vīriyasaṅkhātā tapojigucchāti ānetvā sambandho. Paramā nāma sabbukkaṭṭhabhāvato. Yathā yuvino bhāvo yobbanaṃ, evaṃ jigucchino bhāvo jegucchaṃ. Kilesānaṃ samucchindanapaṭippassambhanāni samucchedapaṭipassaddhivimuttiyo. Nissaraṇavimutti nibbānaṃ. Atha vā sammāvācādīnaṃ adhisīlaggahaṇena, sammāvāyāmassa adhijegucchaggahaṇena, sammādiṭṭhiyā adhipaññāggahaṇena gahitattā aggahitaggahaṇena sammāsaṅkappasatisamādhayo maggaphalapariyāpannā samucchedapaṭipassaddhivimuttiyo daṭṭhabbā. Nissaraṇavimutti pana nibbānameva.
焼くとは、熱し、打ち砕くという意味である。嫌悪するとは、軽蔑し、劣ったものと見なす。煩悩から遠く離れているがゆえに、聖者は無過失である。道果と結びついた精進と呼ばれる苦行と嫌悪を導いて関係づける。最高とは、あらゆる点で最も優れている状態のことである。若者の状態が青春であるように、嫌悪する者の状態が「ジェグッチャ」(嫌悪の状態)である。煩悩を根絶し鎮静させることは、根絶と鎮静による解脱である。出離の解脱は涅槃である。あるいは、正語などが増上戒として、正精進が増上嫌悪として、正見が増上慧として捉えられているから、捉えられていないものとして、正思惟、正念、正定が道果に含まれる根絶と鎮静による解脱として見なされるべきである。出離の解脱は、まさしく涅槃である。
403. Yaṃ kiñci janavivittaṃ ṭhānaṃ idha **‘‘suññāgāra’’**nti adhippetaṃ. Tattha nadantena vinā nādo natthīti āha **‘‘ekatova nisīditvā’’**ti. Aṭṭhasu parisāsūti khattiyaparisā, brāhmaṇaparisā, gahapatiparisā, samaṇaparisā, cātumahārājikaparisā, tāvatiṃsaparisā, māraparisā, brahmaparisāti imāsu aṭṭhasu parisāsu.
403. いかなる人里離れた場所も、ここでは「空閑の家」を意図している。そこには、発声する者なしには声はない。それゆえ「独り座って」と述べる。八つの集会とは、クシャトリヤの集会、バラモンの集会、家長の集会、沙門の集会、四天王天の集会、三十三天の集会、魔の集会、梵天の集会という、これらの八つの集会である。
Vesārajjānīti visāradabhāvā ñāṇappahānasampadānimittaṃ kutoci asantassanabhāvā nibbhayabhāvāti attho. Āsabhaṃ ṭhānanti seṭṭhaṃ ṭhānaṃ, uttamaṃ ṭhānanti attho. Āsabhā vā pubbabuddhā, tesaṃ ṭhānanti attho.
無畏とは、無畏の状態であり、智慧と捨の成就を原因として、何者にも怯えることのない状態、すなわち恐れを知らない状態という意味である。雄牛の場所とは、最高の場所、最上の場所という意味である。あるいは、雄牛とは過去仏であり、彼らの場所という意味である。
Apica usabhassa idanti āsabhaṃ, āsabhaṃ viyāti āsabhaṃ. Yathā hi nisabhasaṅkhāto usabho attano usabhabalena catūhi pādehi pathaviṃ uppīḷetvā acalaṭṭhānena tiṭṭhati, evaṃ tathāgatopi dasahi tathāgatabalehi samannāgato catūhi vesārajjapādehi aṭṭhaparisāpathaviṃ uppīḷetvā sadevake loke kenaci paccatthikena akampiyo acalena ṭhānena tiṭṭhati. Evaṃ tiṭṭhamānova taṃ āsabhaṃ ṭhānaṃ paṭijānāti upagacchati na paccakkhāti attani āropeti. Tena vuttaṃ ‘‘āsabhaṃ ṭhānaṃ paṭijānātī’’ti.
さらに、これは雄牛(usabha)のものであるから、アサーバ(āsabhaṃ)である。アサーバは雄牛のようである、という意味でアサーバである。ちょうど「ニサバ」と呼ばれる雄牛が、その雄牛の力で四本の足で大地を踏みしめ、不動の姿勢で立つように、世尊もまた十の如来の力(十力)を備え、四つの無畏の足(四無畏)をもって八つの会衆の大地を踏みしめ、天界と人間界において、いかなる敵によっても揺るがされることのない不動の地位に立つ。このように立って、彼はその優れた(アサーバ)地位を認識し、それに到達し、拒否せず、自らに引き受ける。それゆえ、「優れた地位を認識する」と言われるのである。
Sīhanādaṃ nadatīti yathā migarājā parissayānaṃ sahanato, vanamahiṃsamattavāraṇādīnaṃ hananato ca ‘‘sīho’’ti vuccati, evaṃ tathāgato lokadhammānaṃ sahanato, parappavādānaṃ hananato ca ‘‘sīho’’ti vuccati. Evaṃ vuttassa sīhassa nādaṃ sīhanādaṃ. Tattha yathā sīho sīhabalena samannāgato sabbattha visārado vigatalomahaṃso sīhanādaṃ nadati, evaṃ tathāgatasīhopi dasahi tathāgatabalehi samannāgato aṭṭhasu parisāsu visārado vigatalomahaṃso ‘‘iti rūpa’’ntiādinā (saṃ. ni. 3.78; a. ni. 8.2) nayena nānāvilāsasampannaṃ sīhanādaṃ nadati.
師子吼(ししこう)をなすとは、あたかも獣の王が危険に耐え、森の野牛や狂暴な象などを打ち破ることから「獅子」と呼ばれるように、世尊もまた世間的な事柄(八風など)に耐え、異説を打ち破ることから「獅子」と呼ばれるのである。このように呼ばれる獅子の声が師子吼である。そこにおいて、あたかも獅子が獅子の力を備え、いたるところで自信に満ち、身の毛もよだつこと(恐怖)なく師子吼をなすように、如来という獅子もまた十の如来の力(十力)を備え、八つの会衆において自信に満ち、身の毛もよだつこと(恐怖)なく、「これが色である」(相応部 3.78; 増支部 8.2)などに始まる方法で、様々な表現に満ちた師子吼をなすのである。
Pañhaṃ abhisaṅkharitvāti ñātuṃ icchitamatthaṃ attano ñāṇabalānurūpaṃ abhiracitvā taṅkhaṇaṃyevāti pucchitakkhaṇeyeva ṭhānuppattikapaṭibhānena vissajjeti. Cittaṃ paritosetiyeva ajjhāsayānurūpaṃ vissajjanato. Sotabbañcassa maññanti aṭṭhakkhaṇavajjitena navamena khaṇena labbhamānattā. ‘‘Yaṃ no satthā bhāsati, taṃ no sossāmā’’ti ādaragāravajātā mahantena ussāhena sotabbaṃ sampaṭicchitabbaṃ maññanti. Suppasannā pasādābhibuddhiyā vigatupakkilesatāya kallacittā muducittā honti. Pasannakāranti pasannehi kātabbasakkāraṃ, dhammāmisapūjanti attho. Tattha āmisapūjaṃ dassento **‘‘paṇītānī’’**tiādimāha. Dhammapūjā pana **‘‘tathattāyā’’**ti iminā dassitā. Tathābhāvāyāti yathattāya yassa vaṭṭadukkhanissaraṇatthāya dhammo desito, tathābhāvāya, tenāha **‘‘dhammānudhammapaṭipattipūraṇatthāyā’’**ti. Sā ca dhammānudhammapaṭipatti yāya anupubbiyā paṭipajjitabbā, paṭipajjantānañca sati ajjhattikaṅgasamavāye ekaṃsikā tassā pāripūrīti taṃ anupubbiṃ dassetuṃ **‘‘keci saraṇesū’’**tiādi vuttaṃ.
「問いを構成し終えて」とは、知りたい事柄を自身の知力の強さに応じて作り上げ、「その瞬間」とは、問われたその瞬間、即座の閃きで答える、という意味である。意図に沿って答えることにより、心を満足させるのである。そして、彼らはそれを聞く価値があると思う。なぜなら、八つの不都合な時(八難)を免れた第九の時(閑暇の時)に得られるからである。「師が語ることを、私たちは聞くであろう」と思い、尊敬と畏敬の念に満ちて、彼らはそれを大いなる熱意をもって聞くべき、受け入れるべきものと考える。深く清らかになり、煩悩から離れて心が健やかで柔らかになる。「清浄なる者たちのなす尊敬」とは、清浄なる者たちによってなされるべき尊敬を意味し、法と供物の供養を意味する。そこにおいて、供物の供養を示すために、「優れたもの」などで始まる言葉を述べた。しかしながら、法の供養は「その実状のために」という言葉によって示された。「その実状のために」とは、正しく、輪廻の苦しみからの解脱のために法が説かれたような、その実状のために、という意味である。それゆえ、「法に随順した行いの完成のために」と述べる。そして、その法に随順した行いとは、段階的な道によって実践されるべきものであり、またそれを実践する人々が、内的な要素が調和していれば、その完全な成就は確実である。その段階的な道を示すために、「ある者は三宝に帰依し」などと述べられたのである。
Imasmiṃ panokāse ṭhatvāti ‘‘paṭipannā ca ārādhentī’’ti etasmiṃ sīhanādakiccapāripūridīpane pāḷipadese ṭhatvā. Samodhānetabbāti saṅkalitabbā. Eko sīhanādo asādhāraṇo aññehi appaṭivattiyo seṭṭhanādo abhītanādoti katvā. Esa nayo sesesupi. Purimānaṃ dasannantiādito paṭṭhāya yāva ‘‘vimuttiyā mayhaṃ sadiso natthī’’ti etesaṃ purimānaṃ dasannaṃ sīhanādānaṃ, niddhāraṇe cettha sāmivacanaṃ, tenāha **‘‘ekekassā’’**ti. **‘‘Parisāsu ca nadatī’’**ti ādayo parivārā ‘‘ekaccaṃ tapassiṃ niraye nibbattaṃ passāmī’’ti sīhanādaṃ nadanto bhagavā parisāyaṃ nadati visārado nadati yāva ‘‘paṭipannā ārādhentī’’ti atthayojanāya sambhavato. Tathā sesesupi navasu.
「この文脈に立って」とは、「実践する者は成就する」という師子吼の成就の示唆である、このパーリ語の箇所に立って、という意味である。「結合されるべきである」とは、集められるべきである、という意味である。一つの師子吼は、他に類を見ないものであり、他者によって覆されることのない、最高の吼え声であり、恐れを知らぬ吼え声である、とする。この方法は残りのものにも当てはまる。「先の十の」とは、「解脱において私に等しい者はいない」というところに至るまでの先の十の師子吼を指し、ここでの属格は限定を意味するため、「それぞれの」と述べる。「また会衆で吼える」などに始まる付属の言葉は、「ある修行者が地獄に生まれ変わるのを見る」という師子吼を吼える世尊が、会衆において吼え、恐れることなく吼える、という意味に解釈される可能性があり、それは「実践する者は成就する」というところまで続く。同様に、残りの九つについても同じである。
**‘‘Eva’’**ntiādi yathāvuttānaṃ tesaṃ saṅkaletvā dassanaṃ. Te dasāti te ‘‘parisāsu ca nadatī’’ti ādayo sīhanādā. Purimānaṃ dasannanti yathāvuttānaṃ purimānaṃ dasannaṃ. Parivāravasenāti paccekaṃ parivāravasena yojiyamānā sataṃ sīhanādā. Purimā ca dasāti tathā ayojiyamānā purimā ca dasāti evaṃ dasādhikaṃ sīhanādasataṃ hoti. Evaṃ vādīnaṃ vādanti evaṃ pavattavādānaṃ titthiyānaṃ vādaṃ. Paṭisedhetvāti tathābhāvābhāvadassanena paṭikkhipitvā. Yaṃ bhagavā udumbarikasutte ‘‘idha nigrodha tapassī’’tiādinā (dī. ni. 3.33) upakkilesavibhāgaṃ, pārisuddhivibhāgañca dassento saparisassa nigrodhassa paribbājakassa purato sīhanādaṃ nadi, taṃ dassetuṃ **‘‘idāni parisati naditapubbaṃ sīhanādaṃ dassento’’**tiādi vuttaṃ.
「このように」などとは、先に述べたそれらをまとめて示すことである。その十とは、「また会衆で吼える」などに始まる師子吼である。「先の十の」とは、先に述べられた先の十のものを指す。「付属として」とは、それぞれが付属として結合されると、百の師子吼となる、という意味である。そして、そのように結合されない先の十は、先の十であり、このようにして百十の師子吼となる。「そのような説を唱える者たちの説」とは、そのような説を唱える異教徒たちの説を指す。「論破して」とは、そのような状態がないことを示すことで反駁した、という意味である。世尊がウドゥンバリカ経において、「ここにニグローダよ、修行者が」などに始まる言葉で(長部 3.33)、煩悩の分類と清浄の分類を示しながら、修行者ニグローダとその会衆の前で師子吼をなされたことを示すために、「今、会衆においてかつて吼えられた師子吼を示す」などと述べられたのである。
404. Idanti ‘‘rājagahe gijjhakūṭe pabbate viharantaṃ maṃ…pe… pañhaṃ pucchī’’ti idaṃ vacanaṃ. Kāmaṃ yadā nigrodho pañhaṃ pucchi, bhagavā cassa vissajjesi, na tadā gijjhakūṭe pabbate viharati, rājagahasamīpe pana viharatīti katvā **‘‘rājagahe gijjhakūṭe pabbate viharantaṃ ma’’**nti vuttaṃ, gijjhakūṭe viharaṇañcassa tadā avicchinnanti, tenāha **‘‘yaṃ taṃ bhagavā’’**tiādi. Yogeti naye, dukkhanissaraṇūpāyeti attho.
404. 「これ」とは、「ラージャガハのグリッジャクータ山に住んでいた私に…彼が問いを尋ねた」という言葉を指す。ニグローダが問いを尋ね、世尊がそれに答えた時、世尊はグリッジャクータ山に住んでいたわけではなく、ラージャガハの近くに住んでいたのだが、その時のグリッジャクータでの滞在は中断していなかったため、「ラージャガハのグリッジャクータ山に住んでいた私に」と述べられている。それゆえに、「あの世尊が」などと述べたのである。「ヨーガ(yoge)」とは方法のことであり、苦からの解脱の手段を意味する。
405. Yaṃ parivāsaṃ sāmaṇerabhūmiyaṃ ṭhito parivasatīti yojanā. Yasmā sāmaṇerabhūmiyaṃ ṭhitena parivasitabbaṃ, na gihibhūtena, tasmā aparivasitvāyeva pabbajjaṃ labhati. Ākaṅkhati pabbajjaṃ, ākaṅkhati upasampadanti ettha pana pabbajjā-ggahaṇaṃ vacanasiliṭṭhatāvaseneva ‘‘dirattatirattaṃ sahaseyya’’nti (pāci. 50) ettha dirattaggahaṇaṃ viya. Gāmappavesanādīnīti ādi-saddena vesiyāvidhavāthullakumāripaṇḍakabhikkhunigocaratā, sabrahmacārīnaṃ uccāvacesu kiṃkaraṇīyesu dakkhānalasāditā, uddesaparipucchādīsu tibbachandatā, yassa titthāyatanato idhāgato, tassa avaṇṇe, ratanattayassa ca vaṇṇe anattamanatā, tadubhayaṃ yathākkamaṃ vaṇṇe ca avaṇṇe ca attamanatāti imesaṃ saṅgaho veditabbo, tenāha **‘‘aṭṭha vattāni pūrentenā’’**ti. Ghaṃsitvā koṭṭetvāti ajjhāsayassa vīmaṃsanavasena suvaṇṇaṃ viya ghaṃsitvā koṭṭetvā.
405. 「仮居」とは、沙弥(見習い僧)の地位にいる者が仮居する、という意味である。沙弥の地位にある者として仮居しなければならず、在家者としてではないため、仮居せずに得度を授かるのである。「出家を望み、具足を望む」という箇所の「出家」という語の取り方は、「二晩または三晩耐え忍ぶべきである」(波逸提 50)という箇所の「二晩」という語の取り方と同じく、言葉の簡潔さのためである。「村への入場など」の「など」という語は、遊女、寡婦、成熟した未婚女性、去勢者、比丘尼との交わり、梵行を共にする者たちの様々な仕事において怠惰で不器用であること、暗唱や質問において強い欲求を持つこと、自分が来た異教の教えを誹謗し、三宝を賛嘆することに不満を抱くこと、そして逆に、賛嘆と誹謗にそれぞれ満足すること、これらが含まれると理解されるべきである。それゆえ、「八つの実践を完成させる者によって」と述べた。「擦り潰して」とは、意図を吟味するために、金のように擦り潰す、という意味である。
Gaṇamajjhe nisīditvāti upasampadākammassa gaṇappahonakānaṃ bhikkhūnaṃ majjhe saṅghatthero viya tassa anuggahatthaṃ nisīditvā. Vūpakaṭṭhoti vivitto. Tādisassa sīlavisodhane appamādo avuttasiddhoti āha **‘‘kammaṭṭhāne satiṃ avijahanto’’**ti. Pesitacittoti nibbānaṃ pati pesitacitto taṃninno tappoṇo tappabbhāro. Jātikulaputtāpi ācārasampannā eva arahattādhigamāya pabbajjāpekkhā hontīti tepi tehi ekasaṅgahe karonto āha **‘‘kulaputtāti ācārakulaputtā’’**ti, tenāha **‘‘sammadevāti hetunāva kāraṇenevā’’**ti. ‘‘Otiṇṇomhi jātiyā’’tiādinā nayena hi saṃvegapubbikaṃ yathānusiṭṭhaṃ pabbajjaṃ sandhāya idha ‘‘sammadevā’’ti vuttaṃ. Hetunāti ñāyena. Pāpuṇitvāti patvā adhigantvā. Sampādetvāti asekkhā sīlasamādhipaññā nipphādetvā, paripūretvā vāti attho.
「会衆の真ん中に座って」とは、具足戒の儀式を授けるのに十分な比丘たちの真ん中に、長老比丘のように、その者の利益のために座って、という意味である。「ヴーパカットー(vūpakaṭṭho)」とは、離隔した状態を意味する。そのような者の戒の清浄さにおける不放逸は、言わずとも明らかであるため、「瞑想の対象への気づきを捨てずに」と述べる。「心を向けた」とは、涅槃へと心を向け、それに傾倒し、それに引き寄せられ、それに委ねる、という意味である。家柄の良い息子たちもまた、もし善行を備えているならば、阿羅漢果の達成のために出家を望む。彼らを同じ範疇に含めて、「良家の子息」とは「行儀作法の良い良家の子息」を意味すると述べた。それゆえ、「正しく」とは「理由によって、原因によって」と述べたのである。なぜなら、ここでは「正しく」とは、「私は生によって圧倒されている」などに始まる方法に従って、切迫感に先行する、教えられた通りの出家を指して述べられているからである。「理由によって」とは、道理によって、という意味である。「到達して」とは、到達し、成就して、という意味である。「完成して」とは、無学の戒、定、慧を完成させること、またはそれらを成就すること、という意味である。
Niṭṭhāpetunti nigamanavasena pariyosāpetuṃ. ‘‘Brahmacariyapariyosānaṃ…pe… vihāsī’’ti iminā eva hi arahattanikūṭena desanā pariyosāpitā. Taṃ pana nigamento **‘‘aññataro kho panā…pe… ahosī’’**ti vuttaṃ dhammasaṅgāhakehi. Yaṃ panettha atthato na vibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.
「終結させる」とは、要約によって完結させることである。実際、説法は「梵行の終焉…彼は住した」という阿羅漢果の頂点で完結されたのである。しかし、法を編纂した者たちは、それを締めくくるにあたり、「そしてある者は…となった」と述べた。ここで意味によって区別されていないものは、容易に理解されるであろう。
Mahāsīhanādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
大師子吼経の解説における隠れた意味の解明。
406. Sāvatthiyanti samīpatthe bhummanti āha **‘‘sāvatthiṃ upanissāyā’’**ti. Jetassa kumārassa vaneti jetena nāma rājakumārena ropite upavane. Nivāsaphāsutādinā pabbajitā āramanti etthāti ārāmo, vihāro. Phoṭo pādesu jātoti poṭṭhapādo. Vatthacchāyāchādanapabbajūpagatattā channaparibbājako. Brāhmaṇamahāsāloti mahāvibhavatāya mahāsāratāpatto brāhmaṇo. Samayanti sāmaññaniddeso, taṃ taṃ samayanti attho. Pavadantīti pakārato vadanti, attanā attanā uggahitaniyāmena yathā tathā samayaṃ vadantīti attho. **‘‘Pabhutayo’’**ti iminā todeyyajāṇusoṇīsoṇadaṇḍādike saṅgaṇhāti, paribbājakādayoti ādi-saddena channaparibbājakādike. Tindukācīramettha atthīti tindukācīro, ārāmo. Tathā ekā sālā etthāti ekasālako, tasmiṃ tindukācīre ekasālake.
406. 「サーヴァッティーに」とは、近接を意味する処格であるから、「サーヴァッティーの近くに」と述べる。「ジェータ王子の森に」とは、ジェータという名の王子によって植えられた遊園に、という意味である。「アラーマ(庭園)」または「ヴィハーラ(精舎)」とは、住居の快適さなどによって出家者たちが喜ぶ場所である。「ポッタパーダ(足に水ぶくれのある者)」とは、足に水ぶくれができた者、という意味である。彼は「チャンナ遍歴行者」と呼ばれる。なぜなら、彼は布でできた日よけを身につけて出家した者だからである。「大富豪バラモン」とは、大いなる富によって大いなる本質を得たバラモン、という意味である。「サマヤ(見解)」は一般的な呼称であり、それは「これこれの見解」を意味する。「彼らは説く」とは、様々に説くこと、つまり、それぞれが自らの受け入れた方法で、見解を説く、という意味である。「など」という言葉で、トデッヤ、ジャーヌッソーニ、ソーナダンダなどを包含し、「遍歴行者など」の「など」という言葉で、チャンナ遍歴行者などを包含する。「ティンドゥカーチーラ」とは、そこにティンドゥカの木があることから、遊園のことである。同様に、「エーカサーラカ(一つ堂のあるところ)」とは、そこに一つ堂があることを意味し、そのティンドゥカーチーラにある、その一つ堂の中である。
Anekākārānavasesañeyyatthavibhāvanato, aparāparuppattito ca bhagavato ñāṇaṃ tattha patthaṭaṃ viya hotīti vuttaṃ **‘‘sabbaññutaññāṇaṃ pattharitvā’’**ti, yato tassa ñāṇajālatā vuccati, veneyyānaṃ tadantogadhatā heṭṭhā vuttāyeva. Veneyyasattapariggaṇhanatthaṃ samannāhāre kate paṭhamaṃ nesaṃ veneyyabhāveneva upaṭṭhānaṃ hoti, atha saraṇagamanādivasena kiccanipphatti vīmaṃsīyatīti āha **‘‘kiṃ nu kho bhavissatīti upaparikkhanto’’**ti. Nirodhanti saññānirodhaṃ. Nirodhā vuṭṭhānanti tato nirodhato vuṭṭhānaṃ saññuppattiṃ. Sabbabuddhānaṃ ñāṇena saṃsanditvāti yathā te nirodhaṃ, nirodhato vuṭṭhānañca byākariṃsu, byākarissanti ca, tathā byākaraṇavasena saṃsanditvā. Hatthisāriputtoti hatthisārino putto. **‘‘Yugandharapabbataṃ parikkhipitvā’’**ti idaṃ parikappavacanaṃ ‘‘tādisaṃ atthi ce, taṃ viyā’’ti. Meghavaṇṇanti rattameghavaṇṇaṃ, sañjhāppabhānurañjitameghasaṅkāsanti attho. Paccagghanti abhinavaṃ ādito tathāladdhavohārena, anaññaparibhogatāya, tathā vā satthu adhiṭṭhānena so patto sabbakālaṃ ‘‘paccagghaṃ’’ tveva vuccati, silādivuttaratanalakkhaṇūpapattiyā vā so patto **‘‘paccaggha’’**nti vuccati.
様々な形で尽きることのない知るべき事柄を顕現し、また繰り返し生じることから、世尊の智慧はそこに広がるかのようであると言われる。それゆえ「一切知智を広げて」と述べる。なぜなら、それは彼の智慧の網と呼ばれ、調伏すべき衆生がその中に含まれることはすでに下に述べられているからである。調伏すべき衆生を摂取するにあたり、まず彼らの調伏されるべき性質が現れ、その後、帰依などによる課題の達成が吟味される、という意味である。それゆえ、「何が起こるだろうかと考察しながら」と述べる。「滅尽(ニローダ)」とは、想の滅尽を意味する。「滅尽からの出起」とは、その滅尽からの出起、すなわち想の生起を意味する。「すべての仏陀の智慧と照らし合わせて」とは、彼ら(すべての仏陀)が滅尽と滅尽からの出起を説いたように、また説くであろうように、説くことによって照らし合わせる、という意味である。「ハッティサーリプッタ」とは、ハッティサーリの息子である。「ユガンダラ山を取り囲んで」とは、「もしそのようなものがあれば、そのように」という仮定の言葉である。「雲の色」とは、赤雲の色、つまり夕焼けの光に染まった雲のようである、という意味である。「高価な」とは、最初からそのような呼称を得ている新鮮なものであり、他者が使用していないことからそう呼ばれる。あるいは、師の決意によって、その鉢は常に「高価なもの」と呼ばれ、あるいは、その鉢は石などの宝石に似た優れた特徴を持つことから「高価なもの」と呼ばれるのである。
407. Attano rucivasena saddhammaṭṭhitijjhāsayavasena, na parena ussāhitoti adhippāyo. **‘‘Atippagabhāvameva disvā’’**ti idaṃ bhūtakathanaṃ na tāva bhikkhācāravelā sampattāti dassanatthaṃ. Bhagavā hi tadā kālasseva vihārato nikkhanto ‘‘vāsanābhāgiyāya dhammadesanāya poṭṭhapādaṃ anuggaṇhissāmī’’ti. Yannūnāhanti aññattha saṃsayaparidīpano, idha pana saṃsayaparidīpano viya. Kasmāti āha **‘‘buddhāna’’**ntiādi. Saṃsayo nāma natthi bodhimūle eva samugghāṭitattā. Parivitakkapubbabhāgoti adhippetakiccassa pubbabhāgaparivitakko eva. Buddhānaṃ labbhatīti ‘‘karissāma, na karissāmā’’tiādiko esa cittacāro buddhānaṃ labbhati sambhavati vicāraṇavasena pavattanato, na pana saṃsayavasena. Tenāhāti yena buddhānampi labbhati, tenevāha bhagavā **‘‘yannūnāha’’**nti. Parikappane vāyaṃ nipāto. ‘‘Upasaṅkameyya’’nti kiriyāpadena vuccamāno eva hi attho ‘‘yannūnā’’ti nipātapadena jotīyati. Ahaṃ yannūna upasaṅkameyyanti yojanā. Yadi panāti idampi tena samānatthanti āha **‘‘yadi panāhanti attho’’**ti.
407. 他者に促されたのではなく、彼自身の意向と正法の確立への願望によってであった、というのがその意図である。「あまりにも早いことを見て」とは、まだ托鉢の時間が来ていなかったことを示すための、事実の陳述である。なぜなら、世尊はその時、早くから精舎を出て、「傾向から解脱へと導く法をポッタパーダに説いて助けよう」と考えていたからである。「ヤンヌーナーハン(もし私が~ならば)」は、別の場所では疑いを表すが、ここでは疑いを表すかのようである。なぜか?「仏陀たちの」などで始まる言葉を述べた。疑いというものは存在しない。なぜなら、それは菩提樹の根本で根絶されているからである。「先行する考察」とは、意図された行為の先行する考察にすぎない。「仏陀たちに見られる」とは、「我々はするだろうか、しないだろうか」などに始まるこのような心の動きが、仏陀たちに見られ、それは熟慮によって生じるものであり、疑いによるものではない、という意味である。それゆえ、仏陀たちにも見られるから、世尊は「ヤンヌーナーハン」と述べたのである。この助詞(yaṃ)は仮定のためである。実際、「近づくべきである」という動詞によって表現される意味は、「ヤンヌーナー」という助詞によって示される。その構成は、「もし私が近づくべきならば」である。「しかしもし」とは、それと同じ意味であるから、「意味は『しかしもし私が』である」と述べる。
408. Yathā unnatappāyo saddo unnādo, evaṃ vipulabhāvena uparūpari pavattopi unnādoti tadubhayaṃ ekajjhaṃ katvā pāḷiyaṃ ‘‘unnādiniyā’’ti vatvā puna vibhāgena dassetuṃ ‘‘uccāsaddamahāsaddāyā’’ti vuttanti tamatthaṃ vivaranto **‘‘uccaṃ nadamānāyā’’**tiādimāha. Assāti parisāya. Uddhaṃgamanavasenāti unnatabahulatāya uggantvā uggantvā pavattanavasena. Disāsu patthaṭavasenāti vipulabhāvena bhūtaparamparāya sabbadisāsu pattharaṇavasena. Idāni paribbājakaparisāya uccāsaddamahāsaddatāya kāraṇaṃ, tassa ca pavattiākāraṃ dassento **‘‘tesañhī’’**tiādimāha. Kāmassādo nāma kāmaguṇassādo. Kāmabhavādigato assādo bhavassādo.
408. 高まった音(unnatasadda)が「ウナーダ(大音響)」であるように、広大な形で次々と生じる音もまた「ウナーダ」である。この両者を一つにして、パーリ語では「ウナーディニヤー(大音響で)」と述べ、さらにそれを詳細に示すために「ウッチャサッダマハーサッダーヤー(高音かつ大音響で)」と述べられていると、その意味を解釈しながら、「高く響き渡る」などと述べた。「それの」とは、会衆のことである。「上昇する形で」とは、非常に高く、次々と盛り上がって生じる、という意味である。「諸方に広がる形で」とは、広大な形で、次々と続いて、すべての方向に広がる、という意味である。今、遍歴行者たちの会衆の高音で大音響である理由と、その発生の仕方を説明しながら、「実際、彼らは」などと述べた。「カーマの味」とは、欲の対象の味覚のことである。欲界の存在などに達した味覚が、存在の味覚である。
409. Saṇṭhapesīti saṃyamanavasena sammadeva ṭhapesi, saṇṭhapanañcettha tiracchānakathāya aññamaññasmiṃ agāravassa jahāpanavasena ācārassa sikkhāpanaṃ, yathāvuttadosassa nigūhanañca hotīti āha **‘‘sikkhāpesī’’**tiādi. Appasaddanti nissaddaṃ, uccāsaddamahāsaddābhāvanti adhippāyo. Nappamajjantīti na agāravaṃ karonti.
409. 「確立した」とは、抑制するという意味で、完全に確立したこと。ここで「確立する」とは、下賤な話によって互いへの無敬意を捨て去るという意味で、行儀作法を教え、また先に述べた過ちを隠蔽することであると「教え導いた」などと説く。「静かに」とは、音がないこと、すなわち大声や騒がしい声がないという意味である。「怠らない」とは、軽んじないということ。
410. No āgate ānandoti bhagavati āgate no amhākaṃ ānando pīti hoti. Piyasamudācārāti piyālāpā. ‘‘Paccuggamanaṃ akāsī’’ti vatvā na kevalamayameva, atha kho aññepi pabbajitā yebhuyyena bhagavato apacitiṃ karontevāti dassetuṃ ‘‘bhagavantañhī’’tiādiṃ vatvā, tattha kāraṇamāha **‘‘uccākulīnatāyā’’**ti, tena sāsane appasannāpi kulagāravena bhagavati apacitiṃ karonte vāti dasseti. Etasmiṃ antare kā nāma kathāti etasmiṃ yathāvuttaparicchedabbhantare kathā kā nāma. Vippakatā āraddhā hutvā apariyositā. ‘‘Kā kathā vippakatā’’ti vadanto atthato tassā pariyosāpanaṃ paṭijānāti nāma. ‘‘Kā kathā’’ti ca avisesacodanāti yassā tassā sabbassāpi kathāya pariyosāpanaṃ paṭiññātañca hoti, tañca paresaṃ asabbaññūnaṃ avisayanti āha **‘‘pariyantaṃ netvā demīti sabbaññupavāraṇaṃ pavāresī’’**ti.
410. 「彼が来たことによる喜びはない」とは、世尊が来られても我々には喜びや歓喜はない、ということ。「親愛なる言葉」とは、好意的な言葉。「出迎えた」と言って、彼らだけでなく他の多くの出家者たちも世尊に敬意を払っていたことを示すために、「世尊には」などと言い、その理由を「高貴な家系であることから」と述べる。これによって、教えに不信心な者たちでさえも、家系の尊さゆえに世尊に敬意を払っていたことを示す。「この間に何の話しがあったか」とは、先に述べたこの部分の間に何の話しがあったか。未完成で、始められて終わっていないこと。「何の話しが未完成であったか」と言うことで、本質的にその話しを完了させることを約束するものである。また「何の話し」とは特定の質問ではないので、どのような話しであれ、そのすべてを完了させることを約束したことになるが、それは他者、すなわち一切知者ではない者たちにとっては認識できないことであるので、「最後に導いて差し上げましょう」と言って一切知の招請をなされた、と説く。
411. Sukāraṇanti sundaraṃ atthāvahaṃ hitāvahaṃ kāraṇaṃ. Nānātitthesu nānāladdhīsu niyuttāti nānātitthikā, te eva nānātitthiyā ka-kārassa ya-kāraṃ katvā. Kutūhalamettha atthīti kotūhalā, sā eva sālāti kotūhalasālā, tenāha **‘‘kotūhaluppattiṭṭhānato’’**ti. Saññānirodheti saññāsīsenāyaṃ desanā, tasmā saññāsahagatā sabbepi dhammā saṅgayhanti, tattha pana cittaṃ padhānanti āha **‘‘cittanirodhe’’**ti. Accantanirodhassa pana tehi anadhippetattā, avisayattā ca **‘‘khaṇikanirodhe’’**ti āha. Kāmaṃ sopi tesaṃ avisayova, atthato pana nirodhakathā vuccamānā tattheva tiṭṭhatīti tathā vuttaṃ. Kittighosoti ‘‘aho buddhānubhāvo bhavantarapaṭicchannaṃ kāraṇaṃ evaṃ hatthāmalakaṃ viya paccakkhato dasseti, sāvake ca edise saṃvarasamādāne patiṭṭhāpetī’’ti thutighoso yāva bhavaggā pattharati. Paṭibhāgakiriyanti paḷāsavasena paṭibhāgabhūtaṃ payogaṃ karonto. Bhavantarasamayanti tatra tatra vuṭṭhanasamayaṃ abhūtaparikappitaṃ kiñci uppādiyaṃ vatthuṃ attano samayaṃ katvā. Kiñcideva sikkhāpadanti ‘‘elamūgena bhavitabbaṃ, ettakaṃ, velaṃ ekasmiṃyeva ṭhāne nisīditabba’’nti evamādikaṃ kiñcideva kāraṇaṃ sikkhākoṭṭhāsaṃ katvā paññapenti. Nirodhakathanti nirodhasamāpattikathaṃ.
411. 「善いこと」とは、美しく、意義があり、有益なこと。「様々な宗派に属する」とは、様々な宗派、様々な学説に配属された、すなわち様々な宗派に属する人々。そしてそれらがまさに様々な宗派の信者であり、か行音がや行音に変わったものである。ここに好奇心があるので「好奇心のある者たち」、それがまさに広間なので「好奇心の広間」、それゆえ「好奇心が生じる場所」と説く。「想の滅尽」とは、これは想を主とする説法であるから、想に伴うすべての法が含まれる。しかし、そこでは心が主要であるので「心の滅尽」と説く。しかし彼らによって究極的な滅尽が意図されておらず、認識の対象外であるため、「瞬間的な滅尽」と説く。それもまた彼らにとって認識の対象外であるかもしれないが、本質的に滅尽の話しが語られるとき、それはまさにそこに存立するので、そのように述べられた。「名声の声」とは、「ああ、仏陀の威力よ! 存在の間に隠された事柄を、手の平のミロバラン(果実)を見るように直接に示し、弟子たちをかくも戒律の受持に確立させる」という称賛の声が、有頂天まで広がる。「比較する行為」とは、葉の比喩を用いて比較的な応用を行うこと。「存在の間の見解」とは、そこかしこで立ち上がる時期に、実体のない想像によって何かを生じさせる対象物を、自らの見解とすること。「何らかの学処」とは、「聾唖者であるべし、これだけの期間、同じ場所に座るべし」などといった何らかの事柄を学処の一部として規定すること。「滅尽の話し」とは、滅尽定の話し。
Tesūti kotūhalasālāyaṃ sannipatitesu titthiyasamaṇabrāhmaṇesu. Ekacceti eke. Purimoti ‘‘ahetū appaccayā’’ti evaṃvādī. Yvāyaṃ idha uppajjatīti yojanā. Samāpattinti asaññabhāvāvahaṃ samāpattiṃ. Nirodheti saññānirodhe. Hetuṃ apassantoti yena hetunā asaññabhave saññāya nirodho sabbaso anuppādo, yena ca tato cutassa idha pañcavokārabhave tassā uppādo, taṃ avisayatāya apassanto.
「彼らにおいて」とは、好奇心の広間に集まった異教の行者やバラモンたちにおいて。「ある者」とは、ある人々。「最初の者」とは、「原因なく、縁なく」と説く者。「これがここで生じる」と解釈される。「等至」とは、想なき状態をもたらす等至。「滅尽」とは、想の滅尽。「原因を見ない」とは、想なき状態において想が完全に生じなくなり、そしてそこから死没した者が、ここで五蘊の世界において想が生じる、その原因を認識の対象外であるために見ないこと。
Nanti paṭhamavādiṃ. Nisedhetvāti ‘‘na kho nāmetaṃ bho evaṃ bhavissatī’’ti evaṃ paṭikkhipitvā. Asaññikabhāvanti muñchāpattiyā kiriyamayasaññāvasena vigatasaññibhāvaṃ. Vakkhati hi ‘‘visaññī hutvā’’ti. Vikkhambhanavasena kilesānaṃ santāpanena attantapo. Ghoratapoti dukkaratāya bhīmatapo. Parimāritindriyoti nibbisevanabhāvāpādanena sabbaso milāpitacakkhādindriyo. Bhaggoti bhañjitakusalajjhāsayo. Evamāhāti ‘‘evaṃ saññā hi bho purisassa attā’’tiādiākārena saññānirodhamāha. Iminā nayena ito paresu dvīsu ṭhānesu yathārahaṃ yojanā veditabbā.
「彼を」とは、最初の論者。「否定して」とは、「おお友よ、それは決してそのようにはならないだろう」と、このように反論して。「無想の状態」とは、意識を失うことで、作用的な想によって想が失われた状態。実際「想を失って」と説かれるだろう。煩悩を一時的に鎮めることによって、煩悩を焼き尽くすことで、自らを苦しめる。「恐ろしい苦行者」とは、なすこと困難であるために恐ろしい苦行者。「感覚器官を枯らし尽くした者」とは、一切の享受がない状態をもたらすことで、眼などの感覚器官を完全に枯らした者。「打ち砕かれた」とは、善なる志向を打ち砕かれた者。「このように説く」とは、「おお友よ、このように想こそが人の自我である」などという形で想の滅尽を説く。この方法で、ここから他の二つの箇所においても、適切に解釈されるべきである。
Āthabbaṇapayoganti āthabbaṇavedavihitaṃ āthabbaṇikānaṃ visaññibhāvāpādanapayogaṃ. Āthabbaṇaṃ payojetvāti āthabbaṇavede āgataaggijuhanapubbakaṃ mantajappanaṃ payojetvā sīsacchinnatādidassanena saññānirodhamāha. Tassāti yassa sīsacchinnatādi dassitaṃ, tassa.
「アタルヴァンの応用」とは、アタルヴァンのヴェーダに定められた、アタルヴァンの信者たちが想なき状態に至るための応用。「アタルヴァンを応用して」とは、アタルヴァンのヴェーダに説かれる火への供儀を先行させたマントラの詠唱を応用して、首を切られた状態などを示すことで想の滅尽を説く。「それの」とは、首を切られた状態などが示されたそのものについて。
Yakkhadāsīnanti devadāsīnaṃ, yā ‘‘devatābhatiyotipi’’ vuccanti. Madaniddanti surāmadanimittakaṃ supanaṃ devatūpahāranti naccanagāyanādinā devatānaṃ pūjaṃ. Surāpātinti pātipuṇṇaṃ suraṃ. Divāti atidivā ussūre.
「夜叉の女奴隷」とは、神殿の女奴隷、すなわち「神に仕える者たち」とも呼ばれる者たち。「酩酊状態」とは、酒によって引き起こされる眠り。「神々への供物」とは、舞踊や歌唱などによる神々への供養。「酒を飲む」とは、満たされた酒を飲む。「日中に」とは、真昼過ぎに、日が昇りきった時に。
Elamūgakathā viyāti imesaṃ paṇḍitamānīnaṃ kathā andhabālakathāsadisī. Cattāro nirodheti aññamaññavidhure cattāro nirodhe ete paññapenti. Na ca aññamaññaviruddhanānāsabhāvena tena bhavitabbaṃ, atha kho ekasabhāvena, tenāha **‘‘iminā cā’’**tiādi. Aññenevāti imehi vuttākārato aññākāreneva **bhavitabbaṃ. ‘‘Ayaṃ nirodho, ayaṃ nirodho’’**ti āmeḍitavacanaṃ satthā attano desanāvilāsena anekākāravokāraṃ nirodhaṃ vibhāvessatīti dassanatthaṃ kataṃ aho nūnāti ettha ahoti acchariye, nūnāti anussaraṇe nipāto. Tasmā aho nūna bhagavā anaññasādhāraṇadesanattā nirodhampi aho acchariyaṃ katvā katheyya maññeti adhippāyo. **‘‘Aho nūna sugato’’**ti etthāpi eseva nayo. Acchariyavibhāvanato eva cettha dvikkhattuṃ vacanaṃ, acchariyatthopi cettha aho-saddo. So yasmā anussaraṇamukheneva tena gahito, tasmā vuttaṃ **‘‘aho nūnāti anussaraṇatthe’’**ti. Kālapuggalādivibhāgena bahubhedattā imesaṃ nirodhadhammānanti bahuvacanaṃ, kusala-saddayogena sāmivacanaṃ bhummatthe daṭṭhabbaṃ. Ciṇṇavasitāyāti nirodhasamāpattiyaṃ vasībhāvassa ciṇṇattā. Sabhāvaṃ jānātīti nirodhassa sabhāvaṃ yāthāvato jānāti.
「聾唖者の物語のように」とは、これらの自称賢者たちの物語は、盲目の子供たちの物語に似ている。「四つの滅尽」とは、互いに異なる四つの滅尽を彼らは説く。そして、それは互いに矛盾する多様な本性を持つべきではなく、一つの本性を持つべきである。それゆえ「これによってまた」などと説く。「他によって」とは、彼らによって述べられた形とは異なる形で存在すべきである。「これが滅尽である、これが滅尽である」という反復された言葉は、師が自らの説法の妙味によって、様々な形態の滅尽を明らかにすることを示すために述べられた。「ああ、まさしく」という箇所では、「ああ」は驚きを、「まさしく」は回想の助詞である。それゆえ、世尊は他の誰にも共通しない説法の仕方によって、滅尽についても驚くべきものとして説くだろう、という意味であると考える。「ああ、まさしく善逝」という箇所でも同様である。ここでは驚きを明らかにすることから、二度言葉が繰り返され、「ああ」という言葉も驚きの意味である。それは回想の口調によって彼によって捉えられたものであるため、「ああ、まさしく」は回想の意味であると述べられた。時や人などの区別によって多様であるため、これらの滅尽法という複数形が用いられ、「善なる」という言葉を伴う属格は、場所の意味で理解されるべきである。「慣れ親しんだ熟練によって」とは、滅尽定における熟練が積まれていることから。「本性を知る」とは、滅尽の本性をありのままに知る。
412. Gharamajjheyeva pakkhalitāti gharato bahi gantukāmā purisā maggaṃ anotaritvā gharājirena samatale vivaṭaṅgaṇe eva pakkhalanaṃ pattā, evaṃ sampadamidanti attho. Asādhāraṇo hetu, sādhāraṇo paccayoti evamādi vibhāgena idha payojanaṃ natthi saññāya akāraṇabhāvapaṭikkhepattā codanāyāti vuttaṃ **‘‘kāraṇasseva nāma’’**nti.
412. 「家の真ん中でつまずいた」とは、家から外に出ようとした人々が、道を下りずに家の前庭の平らな開けた場所でつまずいた。このことはこのように完全である、という意味である。「不共通な原因、共通な縁」というような区別は、ここでは目的がない。想の無因性を否定する質問であるため、「原因のみ」と述べられた。
Pāḷiyaṃ ‘‘uppajjantipi nirujjhantipī’’ti vuttaṃ, tattha ‘‘sahetū sappaccayā saññā uppajjanti, uppannā pana nirujjhantiyeva, na tiṭṭhantī’’ti dassanatthaṃ ‘‘nirujjhantī’’ti vacanaṃ, na nirodhassa sahetusappaccayabhāvadassanatthaṃ. Uppādo hi sahetuko, na nirodho. Yadi hi nirodhopi sahetuko siyā, tassa nirodhenāpi bhavitabbaṃ aṅkurādīnaṃ viya, na ca tassa nirodho atthi. Tasmā vuttanayeneva pāḷiyā attho veditabbo. Ayañca nayo khaṇanirodhavasena vutto. Yo pana yathāparicchinnakālavasena sabbasova anuppādanirodho, so ‘‘sahetuko’’ti veditabbo tathārūpāya paṭipattiyā vinā abhāvato. Tenāha bhagavā ‘‘sikkhā ekā saññā nirujjhatī’’ti. (Dī. ni. 1.412) tato eva ca idhāpi vuttaṃ ‘‘saññāya sahetukaṃ uppādanirodhaṃ dīpetu’’nti.
聖典には「生じもするし、滅しもしする」と述べられているが、そこでは「原因と縁によって想は生じ、生じたものは滅するだけであり、存続しない」ことを示すために「滅する」という言葉が用いられており、滅尽が原因と縁を持つ状態であることを示すためではない。生起は原因を伴うが、滅尽はそうではない。もし滅尽も原因を伴うものであったなら、新芽などと同様にそれにも滅尽があるべきだが、滅尽には滅尽がない。それゆえ、述べられた方法によって聖典の意味は理解されるべきである。この方法は瞬間的な滅尽に関して述べられたものである。しかし、特定の期間において全く生起しない滅尽は、そのような実践がなければ存在しないため、「原因を伴う」と理解されるべきである。それゆえ世尊は「学びの一つによって想は滅する」と説いた。(Dī. ni. 1.412) そしてここでも「想の原因を伴う生滅を明らかにするために」と述べられた。
Sikkhā ekāti ettha sikkhāti karaṇe paccattavacanaṃ, eka-saddo aññapariyāyo ‘‘ittheke abhivadanti sato vā pana sattassā’’tiādīsu (dī. ni. 1.85 ādayo; ma. ni. 3.21) viya, na saṅkhyāvācīti āha ‘‘sikkhā ekā saññā uppajjantīti **sikkhāya ekaccā saññā jāyantī’’**ti. Sesapadesupi eseva nayo.
「学び一つ」という箇所では、「学び」は手段の絶対格であり、「一つ」という言葉は、「このようにある者たちは、あるいは存在するものについては、存在について説く」など(長部1.85以下、中部3.21)のように「他の」という意味を持つ同意語であり、数を表す言葉ではない。それゆえ「学び一つによって想が生じる」とは「学びによってある想が生じる」という意味であると説く。他の箇所でも同様である。
413. Tatthāti tassaṃ uparidesanāyaṃ. Sammādiṭṭhisammāsaṅkappavasena pariyāpannattā āgatāti sabhāvato upakārato ca paññākkhandhe pariyāpannattā saṅgahitattā tatiyā adhipaññāsikkhā sammādiṭṭhisammāsaṅkappavasena āgatā. Tathā hi vuttaṃ ‘‘yā cāvuso visākha sammādiṭṭhi, yo ca sammāsaṅkappo, ime dhammā paññākkhandhe saṅgahitā’’ti (ma. ni. 1.462) kāmañcettha vuttanayena tissopi sikkhā āgatā eva, tathāpi adhicittasikkhāya eva abhisaññānirodho dassito, itarā tassa sambhārabhāvena ānītā.
413. 「その中で」とは、その上記の説法において。「正見と正思惟の形で含まれて現れる」とは、本性からしても助けとなる点からしても、慧の集まりに含まれ、包含されるため、第三の増上慧の学びは正見と正思惟の形で現れる。実際、このように述べられている。「友よヴィサーカよ、正見と正思惟とは、これらの法は慧の集まりに含まれる」と。(中部1.462) 確かに、ここでは述べられた方法によって三つの学びすべてが現れているが、それでも増上心の学びにおいてのみ勝想滅が示されており、他の学びはその構成要素として導き出されている。
Pañcakāmaguṇikarāgoti pañcakāmakoṭṭhāse ārabbha uppajjanakarāgo. Asamuppannakāmacāroti vattamānuppannatāvasena asamuppanno yo koci kāmacāro yā kāci lobhuppatti. Purimo visayavasena niyamitattā kāmaguṇārammaṇova lobho daṭṭhabbo, itaro pana jhānanikantibhavarāgādippabhedo sabbopi lobhacāro kāmanaṭṭhena kāmesu pavattanato. Sabbepi hi tebhūmakā dhammā kāmanīyaṭṭhena kāmāti. Ubhayesampi kāmasaññātināmatā sahacaraṇañāyenāti ‘‘kāmasaññā’’ti paduddhāraṃ katvā tadubhayaṃ niddiṭṭhaṃ.
「五欲の対象への貪欲」とは、五つの欲の対象を縁として生じる貪欲。「未生じの欲行」とは、現時点において生じていないという意味で、まだ生じていない一切の欲行、あらゆる貪欲の生起。前者は対象によって限定されているため、五欲の対象を対象とする貪欲と見なされるべきである。後者は、禅への執着、存在への貪欲などの種類を持つ、すべての貪欲の行であり、欲するところによって欲界において生じるものである。実際、三界のすべての法は、欲される対象であるという意味で「欲」である。両者とも欲の想と名付けられるのは、共存の認識によるものである。それゆえ「欲の想」という言葉を抽出して、その両方が示された。
**‘‘Tatthā’’**tiādi asamuppannakāmacārato pañcakāmaguṇikarāgassa visesadassanaṃ. Kāmaṃ pañcakāmaguṇikarāgopi asamuppanno eva maggena samugghāṭīyati, tasmiṃ pana samugghāṭitepi na sabbo rāgo samugghāṭaṃ gacchati, tasmā pañcakāmaguṇikarāgaggahaṇena na itarassa sabbassa rāgassa gahaṇaṃ hotīti ubhayasādhāraṇena pariyāyena ubhayaṃ saṅgahetvā dassetuṃ pāḷiyaṃ kāmasaññāggahaṇaṃ katanti tadubhayaṃ sarūpato visesato ca dassetvā sabbasaṅgāhikabhāvato ‘‘asamuppannakāmacāro **pana imasmiṃ ṭhāne vaṭṭatī’’**ti vuttaṃ.
「その中で」などとは、未生じの欲行から五欲の対象への貪欲を区別して示すこと。確かに五欲の対象への貪欲も道によって完全に根絶されるが、それが根絶されてもすべての貪欲が根絶されるわけではない。それゆえ五欲の対象への貪欲の摂取によって、他のすべての貪欲が摂取されるわけではない。したがって、両者に共通する表現によって両者を包含して示すために、聖典において欲の想が摂取され、その両者を本性から、そして区別して示し、すべてを包含する状態から「未生じの欲行は、この箇所において適切である」と述べられた。
Sadisattāti kāmasaññādibhāvena samānattā, etena pāḷiyaṃ ‘‘purimā’’ti sadisakappanāvasena vuttanti dasseti. Anāgatā hi idha ‘‘nirujjhatī’’ti vuttā anuppādassa adhippetattā, tenāha **‘‘anuppannāva nuppajjatī’’**ti.
「同等であること」とは、欲の想などという点で同じであること。これによって聖典で「以前の」と述べられているのは、同等の想定によって述べられていることを示す。未来の想は、ここでは「滅する」と述べられているが、それは生起しないことが意図されているためである。それゆえ「生じていないものは生じない」と説く。
Nīvaraṇavivekato jātattā vivekajehi paṭhamajjhānapītisukhehi saha akkhātabbā, taṃkoṭṭhāsikā vāti vivekajaṃ pītisukhasaṅkhātā. Nānattasaññāpaṭighasaññāhi nipuṇatāya sukhumabhūtatāya sukhumasaññā bhūtā sukhumabhāvena, paramatthabhāvena aviparītasabhāvā. Jhānaṃ taṃsampayuttadhammānaṃ bhāvanāsiddhā saṇhasukhumatā nīvaraṇavikkhambhanavasena viññāyatīti āha **‘‘kāmacchandādioḷārikaṅgappahānavasena sukhumā’’**ti. Bhūtatāyāti vijjamānatāya. Sabbatthāti sabbavāresu.
蓋の遠離から生じたものであるため、遠離によって生じる初禅の喜と楽と共に説かれるべきである。すなわち、その一部であるため、遠離によって生じる喜と楽と名付けられる。多様性の想や嫌悪の想と比べて、巧みさによって微細な本性を持つため、微細な想は微細な状態であり、究極的な本性において歪みのない本性を持つ。禅は、それに伴う法々の修行によって成就された、緻密で微細な状態である。蓋の一時的な鎮静によって認識されるので、「欲愛などの粗大な要素を捨てることによって微細である」と説く。「本性によって」とは、存在することによって。「すべてにおいて」とは、すべての機会において。
Samāpajjanādhiṭṭhānāni viya vuṭṭhānaṃ jhāne pariyāpannampi hoti yathā taṃ dhammānaṃ bhaṅgakkhaṇo dhammesu, na āvajjanapaccavekkhaṇānīti **‘‘paṭhamajjhānaṃ samāpajjanto adhiṭṭhahanto vuṭṭhahanto ca sikkhatī’’**ti vuttaṃ, na ‘‘āvajjanto paccavekkhanto’’ti. Tanti paṭhamajjhānaṃ. Tenāti hetumhi karaṇavacanaṃ, tasmā paṭhamajjhānena hetubhūtenāti attho. Hetubhāvo cettha jhānassa yathāvuttasaññāya uppattiyā sahajātādipaccayabhāvo kāmasaññāya nirodhassa upanissayatāva, tañca kho suttantapariyāyena. Tathā ceva saṃvaṇṇitaṃ ‘‘tathārūpāya paṭipattiyā vinā abhāvato’’ti. Etenupāyenāti yvāyaṃ paṭhamajjhānatappaṭipakkhasaññāvasena ‘‘sikkhā ekā saññā uppajjati, sikkhā ekā saññā nirujjhatī’’ti ettha attho vutto, etena nayena. Sabbatthāti sabbavāresu.
入定、決意、出定と同様に、出定も禅に含まれる。それは法々の崩壊の瞬間が法々にあるように、意向や省察ではない。それゆえ「初禅に入定し、決意し、出定する者は学ぶ」と述べられ、「意向し、省察する者は」とは述べられていない。それとは初禅である。「それによって」とは、原因における具格である。それゆえ初禅を原因として、という意味である。ここで禅が原因であるとは、先に述べた想の生起における共生などの縁としての状態であり、欲の想の滅尽の強い依処である。そしてそれはまさに経典の表現によるものである。同様に「そのような実践がなければ存在しない」と解説されている。「この方法によって」とは、初禅とそれに対立する想の観点から「学び一つによって想が生じ、学び一つによって想は滅する」という箇所の意味が、この方法によって述べられたこと。「すべてにおいて」とは、すべての機会において。
414. Yasmā panettha samāpattivasena taṃtaṃsaññānaṃ uppādanirodhe vuccamāne aṅgavasena so vuttoti āha **‘‘yasmā panā’’**tiādi. **‘‘Aṅgato sammasana’’**nti anupadadhammavipassanāya lakkhaṇavacanaṃ. Anupadadhammavipassanañhi karonto samāpattiṃ patvā aṅgato sammasanaṃ karoti, na ca saññā samāpattiyā kiñci aṅgaṃ hoti. Vuttañca **‘‘idañca saññā saññāti evaṃ aṅgato sammasanaṃ uddhaṭa’’**nti. Aṅgatoti vā avayavatoti attho, anupadadhammatoti vuttaṃ hoti. Tadevāti ākiñcaññāyatanameva.
414. ここで、その様々な想の生滅について、入定の仕方によって説かれる際に、それが部分として説かれるのは、「なぜなら」などと言われているからである。「要素として観察すること」とは、アヌパダダンマヴィパッサナー(次々に法を観ずるヴィパッサナー)の特徴的な言葉である。なぜなら、アヌパダダンマヴィパッサナーを行う者は、入定に達して、要素として観察するが、想は入定のいかなる要素でもないからである。そして、「この想、想とは、このように要素として観察されることである」と述べられている。「要素として」とは、あるいは「部分として」という意味であり、「アヌパダダンマとして」と言われているのである。それはまさに、無所有処である。
Yato khoti paccatte nissakkavacananti āha **‘‘yo nāmā’’**ti yathā ‘‘ādimhī’’ti etasmiṃ atthe ‘‘ādito’’ti vuccati itaravibhattitopi to-saddassa labbhanato. Sakasmiṃ attanā adhigate saññā sakasaññā, sā etassa atthīti sakasaññī, tenāha **‘‘attano paṭhamajjhānasaññāya saññavā’’**ti. Sakasaññīti cettha upari vuccamānanirodhapādakatāya sātisayāya jhānasaññāya atthibhāvajotako ī-kāro daṭṭhabbo, tenevāha **‘‘anupubbena saññaggaṃ phusatī’’**tiādi. Tasmā tattha tattha sakasaññitāggahaṇena tasmiṃ tasmiṃ jhāne sabbaso suciṇṇavasībhāvo dīpitoti veditabbaṃ.
「ヤト」とは、所属格の離格を意味する言葉であり、「誰が何と」と述べられているように、「初めに」という意味で「初めから」と言われるように、他の格変化からも「ト」の語が得られるからである。自分自身で達成された想は「自想」であり、それが彼に存在するから「自想者」となる。それゆえ、「自身の初禅の想によって想を持つ者」と述べられている。ここで「自想者」という言葉における「イー」の長音は、上に述べられる滅を発生させる、優れた禅の想の存在を示すものである。それゆえ、「次第に想の頂点に触れる」などと述べられている。したがって、それぞれの場所で「自想者」と捉えることによって、そのそれぞれの禅において完全に習熟した自在性が示されていると理解されるべきである。
Lokiyānanti niddhāraṇe sāmivacanaṃ, sāmiatthe eva vā. Yadaggena hi taṃ tesu seṭṭhaṃ, tadaggena tesampi seṭṭhanti. ‘‘Lokiyāna’’nti visesanaṃ lokuttarasamāpattīhi tassa aseṭṭhabhāvato. **‘‘Kiccakārakasamāpattīna’’**nti visesanaṃ akiccakārakasamāpattito tassa aseṭṭhabhāvato. Akiccakārakatā cassā paṭusaññākiccābhāvavacanato viññāyati. Yatheva hi tattha saññā, evaṃ phassādayo pīti. Yadaggena hi tattha saṅkhārāvasesasukhumabhāvappattiyā pakativipassakānaṃ sammasituṃ asakkuṇeyyarūpena ṭhitā, tadaggena heṭṭhimasamāpattidhammā viya paṭukiccakaraṇasamatthāpi na hontīti. Svāyamattho paramatthamañjusāyaṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ āruppakathāyaṃ (visuddhi. ṭī. 1.286) savisesaṃ vutto, tasmā tattha vuttanayena veditabbo. Keci pana ‘‘yathā heṭṭhimā heṭṭhimā samāpattiyo uparimānaṃ uparimānaṃ adhiṭṭhānakiccaṃ sādhenti, na evaṃ nevasaññānāsaññāyatanasamāpatti kassacipi adhiṭṭhānakiccaṃ sādheti, tasmā sā akiccakārikā, itarā kiccakārikā vuttā’’ti vadanti, tadayuttaṃ tassāpi vipassanācittaparidamanādīnaṃ adhiṭṭhānakiccasādhanato. Tasmā purimoyeva attho yutto.
「世間のものの中で」とは、限定を示す属格であり、あるいは所有格の意味でもある。なぜなら、それが彼らの中で最高である限りにおいて、彼らの中では最高であるからである。「世間のものの中で」という形容は、それが世出世間の入定よりも優れていないという理由からである。「作用をなす入定の中で」という形容は、それが作用をなさない入定よりも優れていないという理由からである。その作用をなさないことは、その想の作用が鈍いという言葉から理解される。なぜなら、そこに想があるように、触などもまたあるからである。なぜなら、そこに諸行の残りが微細な状態に達していることによって、通常のヴィパッサナー行者には観察できない形で存在している限りにおいて、下位の入定の諸法のように、鋭い作用をなす能力もまたないのである。この意味は、『パラマッタマンジューサー(究極義宝函)』の『清浄道論注解』のアールッパ(無色界)の章(清浄道論注釈1.286)に詳しく述べられているので、そこで述べられた方法によって理解されるべきである。しかし、ある人々は「下位の入定が上位の入定の基礎となる作用をなすように、不非想非非想処定は誰の基礎となる作用もなさない。それゆえそれは作用をなさないものであり、他のものは作用をなすものと説かれる」と言うが、それは不適切である。なぜなら、それもヴィパッサナーの心の完成などの基礎となる作用をなすからである。したがって、先の意味が適切である。
Pakappetīti saṃvidahati. Jhānaṃ samāpajjanto hi jhānasukhaṃ attani saṃvidahati nāma. Abhisaṅkharotīti āyūhati, sampiṇḍetīti attho. Sampiṇḍanattho hi samudayaṭṭho. Yasmā nikantivasena cetanākiccassa matthakappatti, tasmā phalūpacārena kāraṇaṃ dassento **‘‘nikantiṃ kurumāno abhisaṅkharoti nāmā’’**ti vuttaṃ. Imā idāni me labbhamānā ākiñcaññāyatanasaññā nirujjheyyuṃ taṃsamatikkameneva uparijhānatthāya cetanābhisaṅkharaṇasambhavato. Aññāti ākiñcaññāyatanasaññāhi aññā. Tato thūlatarabhāvato oḷārikā. Kā pana tāti āha **‘‘bhavaṅgasaññā’’**ti. Ākiñcaññāyatanato vuṭṭhāya eva hi uparijhānatthāya cetanābhisaṅkharaṇāni bhaveyyuṃ, vuṭṭhānañca bhavaṅgavasena hoti. Yāva ca upari jhānasamāpajjanaṃ, tāva antarantarā bhavaṅgappavattīti āha **‘‘bhavaṅgasaññā uppajjeyyu’’**nti.
「企てる」とは、準備する、という意味である。なぜなら、禅定に入る者は、禅の楽しみを自分の中に準備するからである。「形成する」とは、努力する、集める、という意味である。集めるという意味は、集積するという意味である。なぜなら、欲求によって意思の作用が完成されるから、結果の比喩によって原因を示し、「欲求をなす者は形成する」と述べられている。今、私に得られているこれらの無所有処の想は滅し、それを乗り越えることによって、上位の禅のために意思による形成が生じ得るからである。「他のもの」とは、無所有処の想とは別のもの。それよりも粗大な状態であるから粗大である。ではそれらは何かというと、「有分想」である。なぜなら、無所有処から出起してこそ、上位の禅のための意思による形成が生じ得るからであり、出起は有分(bhavaṅga)として起こるからである。そして、上位の禅定に入るまでは、途中で有分が起こるから、「有分想が生じ得る」と述べられている。
Cetentovāti nevasaññānāsaññāyatanajjhānaṃ ekaṃ dve cittavāre samāpajjanto eva. Na ceteti tathā heṭṭhimajjhānesu viya vā pubbābhogābhāvato pubbābhogavasena hi jhānaṃ pakappento idha ‘‘cetetī’’ti vutto. Yasmā ‘‘ahametaṃ jhānaṃ nibbattemi upasampādemi samāpajjāmī’’ti evaṃ abhisaṅkharaṇaṃ tattha sālayasseva hoti, na anālayassa, tasmā ekaṃ cittakkhaṇikampi jhānaṃ pavattento tattha appahīnanikantikatāya abhisaṅkharonto evāti attho. Yasmā panassa tathā heṭṭhimajjhānesu viya vā tattha pubbābhogo natthi, tasmā **‘‘na abhisaṅkharotī’’**ti vuttaṃ. **‘‘Imassa bhikkhuno’’**tiādi vuttassevatthassa vivaraṇaṃ. **‘‘Svāyamattho’’**tiādinā tamevatthaṃ upamāya paṭipādeti.
「意図する」とは、不非想非非想処禅に一、二の心刹那の間入定するに過ぎない、という意味である。下位の禅定のように意図しないのは、事前の準備がないからである。なぜなら、事前の準備の仕方で禅定を企てる者は、ここで「意図する」と称されるからである。「私はこの禅定を生み出し、達成し、入定する」というように、そこに執着のある者だけが形成を行うのであり、執着のない者は行わない。したがって、たとえ一刹那の禅定を起こす者であっても、そこに捨て去られていない欲求があるため、形成を行っている、という意味である。しかし、彼には下位の禅定のように事前の準備がないため、「形成しない」と述べられている。「この比丘の」などは、述べられた意味の説明である。「この意味は」などによって、その意味を譬喩によって説明する。
Pacchābhāgeti pitugharassa pacchābhāge. Tato puttagharato. Laddhagharamevāti yato anena bhikkhā laddhā, tameva gharaṃ puttagehameva. Āsanasālā viya ākiñcaññāyatanasamāpatti tato pitugharaputtagharaṭṭhāniyānaṃ nevasaññānāsaññāyatananirodhasamāpattīnaṃ upagantabbato. Pitugharaṃ amanasikaritvāti pavisitvā samatikkantampi pitugharaṃ na manasi katvā. Puttagharasseva ācikkhanaṃ viya ekaṃ dve cittavāre samāpajjitabbampi nevasaññānāsaññāyatanaṃ na manasi katvā parato nirodhasamāpattiatthāya eva manasikāro. Evaṃ amanasikārasāmaññena, manasikārasāmaññena ca upamupameyyatā veditabbā ācikkhanenapi manasikārasseva jotitattā. Na hi manasikārena vinā ācikkhanaṃ sambhavati.
「裏手」とは、父親の家の裏手である。そこから息子(嫁)の家へ。「得られた家」とは、彼が托鉢を得た家、すなわち息子(嫁)の家である。休息所のように、無所有処定から、父親の家と息子(嫁)の家に例えられる不非想非非想処と滅尽定へ向かうべきであるからである。「父親の家を念慮せず」とは、通り過ぎて入り込んだ父親の家を念慮しない、という意味である。息子(嫁)の家を教えるように、一、二の心刹那の間入定すべき不非想非非想処をも念慮せず、その後滅尽定のためにのみ念慮するのである。このように、念慮しないことの共通性、念慮することの共通性によって、譬喩と譬喩されるべきものが理解されるべきである。なぜなら、教えることによっても念慮が示されているからである。なぜなら、念慮なしには教えることは不可能だからである。
Tā jhānasaññāti tā ekaṃ dve cittavāre pavattā nevasaññānāsaññāyatanasaññā. Nirujjhantīti padeseneva nirujjhanti, pubbābhisaṅkhāravasena pana upari anuppādo. Yathā ca jhānasaññānaṃ, evaṃ itarasaññānaṃ pīti āha **‘‘aññā ca oḷārikā bhavaṅgasaññā nuppajjantī’’**ti, yathāparicchinnakālanti adhippāyo. So evaṃ paṭipanno bhikkhūti so evaṃ yathāvutte saññāgge ṭhito arahatte, anāgāmiphale vā patiṭṭhito bhikkhu dvīhi phalehi samannāgamo, tiṇṇaṃ saṅkhārānaṃ paṭippassaddhi, soḷasavidhā ñāṇacariyā, navavidhā samādhicariyāti imesaṃ vasena nirodhapaṭipādanapaṭipattiṃ paṭipanno. Phusatīti ettha phusanaṃ nāma vindanaṃ paṭiladdhīti āha **‘‘vindati paṭilabhatī’’**ti. Atthato pana yathāparicchinnakālaṃ cittacetasikānaṃ sabbaso appavatti eva.
「それらの禅の想」とは、一、二の心刹那の間生起した不非想非非想処の想である。「滅する」とは、その場で滅するのであり、事前の形成によってその後は生じない。禅の想がそうであるように、他の想もそうであると述べられている。「他の粗大な有分想は生じない」とは、定められた期間という意味である。「そのように修行した比丘」とは、そのように述べられた想の頂点に達し、阿羅漢果、あるいは不還果に安住した比丘は、二つの果を具備し、三つの諸行の安止、十六種の智慧の行、九種の三昧の行というこれらによって、滅尽の成就への実践を修行した者である。「触れる」とは、ここで触れることは得ることであり、獲得することである。それゆえ、「得る、獲得する」と述べられている。しかし、意味としては、定められた期間、心と心所が完全に生起しないことである。
Abhīti upasaggamattaṃ niratthakaṃ, tasmā ‘‘saññā’’ icceva attho. Nirodhapadena anantarikaṃ katvā samāpattipade vattabbe tesaṃ dvinnaṃ antare sampajānapadaṃ ṭhapitanti āha **‘‘nirodhapadena anantarikaṃ katvā vutta’’**nti, tenāha **‘‘anupaṭi…pe… attho’’**ti. Tatrāpīti tasmimpi tathā padānupubbiṭhapanepi ayaṃ visesatthoti yojanā. Sampajānantassāti taṃ taṃ samāpattiṃ samāpajjitvā vuṭṭhāya tattha tattha saṅkhārānaṃ sammasanavasena pajānantassa. Anteti yathāvuttāya nirodhapaṭipattiyā pariyosāne. Dutiyavikappe sampajānantassāti sampajānakārinoti attho, tena nirodhasamāpajjanakassa bhikkhuno ādito paṭṭhāya sabbapāṭihārikapaññāya saddhiṃ atthasādhikā paññā kiccato dassitā hoti, tenāha **‘‘paṇḍitassa bhikkhuno’’**ti.
「アビー」という接頭辞は無意味であり、したがって「想」という意味である。「滅尽」という語の直後に「入定」という語を置くべきところ、その二つの間に「正知」という語が置かれていると述べられている。「滅尽という語の直後に述べられている」と。それゆえ、「アヌパティ...中略...意味である」と述べられている。そこにおいても、そのように語の順序が置かれているにもかかわらず、この特別な意味がある、と解釈される。「正知する者」とは、そのそれぞれの入定に入定し、出起して、それぞれの諸行を観察する形で知る者のことである。「終わる」とは、述べられた滅尽の修行の終結において。第二の選択肢における「正知する者」とは、正知を行う者という意味である。それによって、滅尽定に入る比丘には、最初からあらゆる奇跡的な智慧とともに、実益を生む智慧がその機能として示されている。それゆえ、「賢者の比丘の」と述べられている。
Sabbākārenāti ‘‘samāpattiyā sarūpaviseso, samāpajjanako, samāpajjanassa ṭhānaṃ, kāraṇaṃ, samāpajjanākāro’’ti evamādi sabbappakārena. Tatthāti visuddhimagge. (Visuddhī. 2.867) kathitatovāti kathitaṭṭhānato eva gahetabbā, na idha taṃ vadāma punaruttibhāvatoti adhippāyo.
「あらゆる点で」とは、「入定の特異な本質、入定者、入定の場所、原因、入定の仕方」など、あらゆる種類の意味でである。「そこで」とは、清浄道論においてである。(清浄道論 2.867)述べられている場所から取るべきであり、ここでそれを語るのは繰り返しになるからである、という意味である。
Evaṃ kho ahanti ettha ākārattho evaṃ-saddo uggahitākāradassananti katvā. Evaṃ poṭṭhapādāti ettha pana sampaṭicchanattho, tenāha **‘‘suuggahitaṃ tayāti anujānanto’’**ti.
「かくして私は」という箇所の「かくして」という語は、学習した状態を示す意味を持つと考える。しかし、「かくして、ポータパーダよ」という箇所では、それは承認の意味を持つ。それゆえ、「あなたはよく理解したと承認する」と述べられている。
415. Saññā aggā etthāti saññāggaṃ, ākiñcaññāyatanaṃ. Aṭṭhasu samāpattīsupi saññāggaṃ atthi upalabbhatīti cintetvā. ‘‘Puthū’’ti pāḷiyaṃ liṅgavipallāsaṃ dassento āha ‘‘bahūnipī’’ti. **‘‘Yathā’’**ti iminā pakāraviseso karaṇappakāro gahito, na pakārasāmaññanti āha **‘‘yena yena kasiṇenā’’**ti, **pathavīkasiṇena karaṇabhūtenā’’**ti ca. Jhānaṃ tāva yutto karaṇabhāvo saññānirodhaphusanassa sādhakatamabhāvato, kathaṃ kasiṇānanti? Tesampi so yutto eva. Yadaggena hi jhānānaṃ nirodhaphusanassa sādhakataṃ abhāvo, tadaggena kasiṇānampi tadavinābhāvato. Anekakaraṇāpi kiriyā hotiyeva yathā ‘‘assena yānena dīpikāya gacchatī’’ti.
415. 想がここで最上であるから想の頂点、すなわち無所有処である。八つの入定においても想の頂点が存在し、見出されると考えた上で。パーリ語の「プトゥー」(多数の)という語の性別転換を示すために、「多数の」と述べられている。「〜のように」という言葉によって、種類の特殊性、すなわち手段の種類が捉えられているのであり、種類の一般性ではないと述べられている。「どのようなカシマでも」「地のカシマを手段として」と。禅定が想の滅尽に触れることの最も効果的な手段であるならば、手段としての役割は適切である。カシマはどうなのかと問うと、それらについても同様に適切である。なぜなら、禅定が滅尽に触れることの最も効果的な手段である限りにおいて、カシマもまたそれと不可分である限りにおいて、そうであるからである。「馬で、車で、松明で進む」と言われるように、一つの行為に複数の手段があることもまたある。
Ekavāranti sakiṃ. Purimasaññānirodhanti kāmasaññādipurimasaññāya nirodhaṃ, na nirodhasamāpattisaññitaṃ saññānirodhaṃ. Ekaṃ saññāgganti ekaṃ saññābhūtaṃ aggaṃ seṭṭhanti attho heṭṭhimasaññāya ukkaṭṭhabhāvato. Saññā ca sā aggañcāti saññāggaṃ, na saññāsu agganti. Dve vāreti dvikkhattuṃ. Sesakasiṇesūti kasiṇānaṃyeva gahaṇaṃ nirodhakathāya adhikatattā. Tato eva cettha jhānaggahaṇena kasiṇajjhānāni eva gahitānīti veditabbaṃ. **‘‘Paṭhamajjhānena karaṇabhūtenā’’**ti ārammaṇaṃ anāmasitvā vadati yathā ‘‘yena yena kasiṇenā’’ti ettha jhānaṃ anāmasitvā vuttaṃ. **‘‘Itī’’**tiādinā vuttamevatthaṃ saṅgahetvā nigamanavasena vadati. Sabbampīti sabbaṃ ekavāraṃ samāpannajhānaṃ. Saṅgahetvāti sañjānanalakkhaṇena taṃsabhāvāvisesato ekajjhaṃ saṅgahetvā. Aparāparanti punappunaṃ.
「一度」とは、一回である。「以前の想の滅尽」とは、欲の想など以前の想の滅尽であり、滅尽定と呼ばれる想の滅尽ではない。「一つの想の頂点」とは、一つの想たる最上、すなわち下位の想よりも優れているという意味である。想であり、かつ最上であるから想の頂点であり、想の中の最上ではない。「二度」とは、二回である。「残りのカシマにおいて」とは、滅尽の説話において、カシマが優位であるため、カシマのみを捉えるのである。したがって、ここで禅定を捉えることによって、カシマ禅定が捉えられていると理解されるべきである。「初禅を手段として」とは、対象に触れずに述べるのである。ちょうど「どのようなカシマでも」という箇所で禅定に触れずに述べられているように。「かくして」などによって、述べられた意味を要約し、結論として述べる。「すべて」とは、一度入定したすべての禅定である。「要約する」とは、認識という特徴によって、その本質の特殊性から、一つにまとめて要約する、という意味である。「次々に」とは、繰り返しである。
416. Jhānapadaṭṭhānaṃ vipassanaṃ vaḍḍhentassa puggalassa vasena saññāñāṇāni dassitāni paṭhamanaye. Dutiyanaye pana yasmā vipassanaṃ ussukkāpetvā maggena ghaṭentassa maggañāṇaṃ uppajjati, tasmā vipassanāmaggavasena saññāñāṇāni dassitāni. Yasmā pana paṭhamanayo lokiyattā oḷāriko, dutiyanayo missako tasmā tadubhayaṃ asambhāvetvā accantasukhumaṃ subhaṃ thiraṃ nibbattitalokuttarameva dassetuṃ maggaphalavasena saññāñāṇāni dassitāni tatiyanaye. Tayopete nayā maggasodhanavasena dassitā.
416. 第一の方法では、禅定を基礎としてヴィパッサナーを増進する個人の側から、想と智とが示されている。しかし第二の方法では、ヴィパッサナーを励起させ、道によって結合する者に道智が生じるので、ヴィパッサナー道という側面から想と智とが示されている。しかし第一の方法は世間的であるため粗大であり、第二の方法は混合であるため、その両方を考慮せず、極めて微細で清らかで堅固な世出世間的なもののみを示すために、第三の方法では道と果という側面から想と智とが示されている。これら三つの方法もまた、道における清浄化という側面から示されている。
‘‘Ayaṃ panettha sāro’’ti vibhāvetuṃ tipiṭakamahāsivattheravādo ābhato. Nirodhaṃ pucchitvā tasmiṃ kathite tadanantaraṃ saññāñāṇuppattiṃ pucchanto atthato nirodhato vuṭṭhānaṃ pucchati nāma, nirodhato ca vuṭṭhānaṃ arahattaphaluppattiyā vā siyā anāgāmiphaluppattiyā vā, tattha saññā padhānā, tadanantarañca paccavekkhaṇañāṇanti tadubhayaṃ niddhārento thero **‘‘kiṃ ime bhikkhū bhaṇantī’’**tiādimāha. Tattha **‘‘kiṃ ime bhikkhū bhaṇantī’’**ti tadā dīghanikāyatantiṃ parivattante imaṃ ṭhānaṃ patvā yathāvuttena paṭipāṭiyā tayo naye kathente bhikkhū sandhāya vadati.
「これがその要点である」と明確にするために、三蔵大シヴァ長老の説が引用されている。滅尽について尋ね、それが語られた後、想と智の生起について尋ねる者は、実質的に滅尽からの出起について尋ねるのである。滅尽からの出起は、阿羅漢果の生起、あるいは不還果の生起によって起こり得る。そこでは想が主要であり、その後に省察智が続く。その両者を確定しながら、長老は「この比丘たちは何を言っているのか」などと述べた。ここで「この比丘たちは何を言っているのか」とは、当時長部経典の講義を行っていた際に、この箇所に達して、述べられた順序に従って三つの方法を説いていた比丘たちを指して述べている。
Yassa yathā maggavīthiyaṃ maggaphalañāṇesu uppannesu niyamato maggaphalapaccavekkhaṇañāṇāni honti, evaṃ phalasamāpattiyaṃ phalapaccavekkhaṇañāṇanti āha **‘‘pacchā paccavekkhaṇañāṇa’’**nti. **‘‘Idaṃ arahattaphala’’**nti idaṃ paccavekkhaṇañāṇassa pavattiākāradassanaṃ. Phalasamādhisaññāpaccayāti phalasamādhisahagatasaññāpaccayā. Kira-saddo anussaraṇattho. Yathādhigatadhammānussaraṇapakkhiyā hi paccavekkhaṇā. Samādhisīsena cettha sabbaṃ arahattaphalaṃ gahitaṃ sahacaraṇañāyena, tasmiṃ asati paccavekkhaṇāya asambhavo evāti āha **‘‘idappaccayā’’**ti.
彼の道心路において、道智と果智が生起すると、必ず道果の省察智が生じるように、果定においても果の省察智が生じる。それゆえ、「後に省察智」と述べられている。「これが阿羅漢果である」とは、これは省察智の生起様式を示すものである。「果三昧の想を縁として」とは、果三昧に伴う想を縁とする、という意味である。「キラ」という語は想起の意味である。なぜなら、省察は、得られた法を想起することに属するからである。ここで「三昧」という見出しによって、すべての阿羅漢果が随伴の原理によって捉えられている。それがなければ省察は不可能である。それゆえ、「これを縁として」と述べられている。
417. Desanāya saṇhabhāvena sārambhamakkhissādimalavisodhanato sutamayañāṇaṃ nhāpitaṃ viya, sukhumabhāvena tanulepanavilittaṃ viya, tilakkhaṇabbhāhatatāya kuṇḍalādialaṅkāravibhūsitaṃ viya ca hoti, tadanupasevato ñāṇassa ca tathābhāvo taṃsamaṅgino puggalassa tathābhāvāpatti, nirodhakathāya nivesanañcassa sirisayanappavesanasadisanti āha **‘‘saṇhasukhuma…pe… āropitopī’’**ti. Tatthāti tassaṃ nirodhakathāyaṃ. Sukhaṃ avindanto mandabuddhitāya alabhanto. Malavidūsitatāya gūthaṭṭhānasadisaṃ. Attano laddhiṃ attadiṭṭhiṃ. Anumatiṃ gahetvāti anuññaṃ gahetvā ‘‘ediso me attā’’ti anujānāpetvā, attano laddhiyaṃ patiṭṭhapetvāti attho. Kaṃ panāti oḷāriko, manomayo, arūpīti tiṇṇaṃ attavādānaṃ vasena tividhesu katamanti attho. Pariharantoti viddhaṃsanato pariharanto, nigūhantoti adhippāyo. Yasmā catusantatirūpappabandhaṃ ekattavasena gahetvā rūpībhāvato ‘‘oḷāriko attā’’ti pacceti attavādī, annapānopadhānatañcassa parikappetvā ‘‘sassato’’ti maññati, rūpībhāvato eva ca saññāya aññattaṃ ñāyāgatameva, yaṃ vedavādino ‘‘annamayo, pānamayo’’ti ca dvidhā voharanti, tasmā paribbājako taṃ sandhāyā **‘‘oḷārikaṃ kho’’**ti āha.
417. 説法は、その優しさによって欲望や煩悩の汚れを清めることから、聞慧の知が沐浴したかのようであり、微細さによって、体に油を塗ったかのようであり、三相(無常・苦・無我)によって貫かれていることによって、耳飾りなどの装身具で飾られているかのようである。それを修習することによって知にその状態が生じ、その知を備えた人にもその状態が成就する。滅についての説法への彼の没頭は、吉祥の寝台に入るようなものだ、と「柔らかく微細な…(略)…置かれたものであっても」と言われた。「そこに」とは、その滅についての説法において。楽を得ない者は、愚かさによって得られない。汚れに穢れているため、糞の場所のようである。「自分の見解」とは、我見。「同意を得て」とは、「私というものはこのようなものである」と許容させ、自分の見解に確立させるという意味である。「どれをか」とは、粗大な我、意所成の我、無形の我という三種の我論のうち、いずれをかという意味である。「避ける者」とは、破壊から避ける者、すなわち隠す者という意味である。我論者は、四つの継続する物質の連鎖を一体として捉え、物質性があることから「粗大な我」と認め、また、飲食物に依存すると想定して「常住である」と考える。物質性があることから、認識とは異なると理解されるのは当然であり、ヴェーダ論者はこれを「食から成る」「飲から成る」と二通りに呼ぶ。それゆえ、遊行者はそれを念頭に置いて「粗大なもの」と言ったのである。
Tattha yadi attā rūpī, na saññī, saññāya arūpabhāvattā, rūpadhammānañca asañjānanasabhāvattā, rūpī ca samāno yadi tava matena nicco, saññā aparāparaṃ pavattanato tattha tattha bhijjatīti bhedasabbhāvato aniccā, evampi ‘‘aññā saññā, añño attā’’ti saññāya abhāvato acetanoti na kammassa kārako, phalassa ca na upabhuñjakoti āpannameva, tenāha **‘‘oḷāriko ca hi te’’**tiādi. Paccāgacchatoti paccāgacchantassa, jānatoti attho. ‘‘Aññā ca saññā uppajjanti, aññā ca saññā nirujjhantī’’ti kasmā vuttaṃ, nanu uppādapubbako nirodho, na ca uppannaṃ anirujjhakaṃ nāma atthīti codanaṃ sandhāyāha **‘‘catunnañca khandhāna’’**ntiādi.
そこにおいて、もし我に物質性があり、認識作用がないとすれば、認識は無形であり、物質は認識しない性質を持つため、物質性のある我がおまえの考えで常住であるとしても、認識は次々と生じては滅し、あちこちで分断されるという変化があるため、無常である。このように、「認識と我とは別である」という認識の不在によって、それは無意識であり、行為の行為者でもなく、結果の享受者でもないということになるのは当然である。それゆえ、「粗大なものとは、まさにおまえのものである」等と言われた。「戻ってくる」とは、戻ってくる者、すなわち知る者という意味である。「またある認識が生じ、またある認識が滅する」と、なぜ言われたのか? 生起に先立つ滅ではないのか? そして生じたものの中に滅しないものはないのではないか? という反論を念頭に置いて、「四つの蘊(五蘊)」等と言われたのである。
418-420. Manomayanti jhānamanaso vasena manomayaṃ. Yo hi bāhirapaccayanirapekkho, so manasāva nibbattoti manomayo. Rūpaloke nibbattasarīraṃ sandhāya vadati, yaṃ vedavādino ānandamayo, viññāṇamayoti ca dvidhā voharanti. Tatrāpīti ‘‘manomayo attā’’ti imasmimpi pakkhe. Dose dinneti ‘‘aññāva saññā bhavissatī’’tiādinā dose dinne. Idhāpi purimavāde vuttanayeneva dosadassanaṃ veditabbaṃ. Ayaṃ pana viseso – yadi attā manomayo, sabbaṅgapaccaṅgī, ahīnindriyo ca bhaveyya, evaṃ sati ‘‘rūpaṃ attā siyā, na ca saññī’’ti pubbe viya vattabbaṃ. Tenāha – ‘‘manomayo ca hi te’’tiādi. Kasmā panāyaṃ paribbājako paṭhamaṃ oḷārikaṃ attānaṃ paṭijānitvā taṃ laddhiṃ vissajjetvā puna manomayaṃ attānaṃ paṭijānāti, tañca vissajjetvā arūpiṃ attānaṃ paṭijānātīti? Kāmañcettha kāraṇaṃ heṭṭhā vuttameva, tathāpi ime titthiyā nāma anavaṭṭhitacittā thusarāsimhi nikhātakhāṇuko viya cañcalāti dassetuṃ **‘‘yathā nāma ummattako’’**tiādi vuttaṃ. Tattha saññāyāti pakatisaññāya. Uppādanirodhaṃ icchati aparāparaṃ pavattāya saññāya udayavayadassanato. Tathāpi ‘‘saññā saññā’’ti pavattasamaññaṃ ‘‘attā’’ti gahetvā tassa ca avicchedaṃ parikappento sassataṃ maññati, tenāha **‘‘attānaṃ pana sassataṃ maññatī’’**ti.
418-420. 「意所成」とは、禅定の心によって意所成である。外的な条件に依存せず、心によってのみ生じるものなので、意所成である。色界に生じる身体を指して言われたもので、ヴェーダ論者はそれを「歓喜から成る」「認識から成る」と二通りに呼ぶ。「そこにおいても」とは、「我は意所成である」というこの立場においても。過失が与えられたとは、「認識は他と異なるものとなるであろう」等によって過失が与えられたのである。ここでも、以前の説で述べられた方法と同様に、過失が示されていると理解すべきである。しかし、この違いは次のとおりである。もし我に意所成性があり、全身を備え、欠けたる器官がないとすれば、その場合、「物質が我となるであろう、そして認識作用がない」と以前のように言うべきである。それゆえ、「意所成とは、まさにおまえのものである」等と言われた。それにしても、なぜこの遊行者は、まず粗大な我を主張し、その見解を捨てて、再び意所成の我を主張し、それを捨てて、無形の我を主張するのか? 確かにその理由は下に述べられているが、これら異端者は心が安定せず、籾殻の山に突き刺さった杭のように揺れ動くことを示すために、「まるで狂人のように」等と言われたのである。「そこで認識によって」とは、通常の認識によって。次々と生起する認識の生滅を見て、彼は生滅を望む。それでも「認識、認識」と続く概念を「我」と捉え、その断絶がないと想定して、常住であると考える。それゆえ、「我を常住であると考える」と言われた。
Tathevāti yathā ‘‘rūpī attā’’ti, ‘‘manomayo attā’’ti ca vādadvaye saññāya attato aññatā, tathā cassa acetanatādidosappasaṅgo dunnivāro, tatheva imasmiṃ vāde doso. Tenāha **‘‘tathevassa dosaṃ dassento’’**ti. Micchādassanenāti attadiṭṭhisaṅkhātena micchābhinivesena. Abhibhūtattāti anādikālabhāvitabhāvena ajjhotthaṭattā nivāritañāṇacārattā. Taṃ nānattaṃ ajānantoti yena santatighanena, samūhaghanena ca vañcito bālo pabandhavasena pavattamānaṃ dhammasamūhaṃ micchāgāhavasena ‘‘attā’’ti, ‘‘nicco’’ti ca abhinivissa voharati, taṃ ekattasaññitaṃ ghanaggahaṇaṃ vinibhujja yāthāvato jānanaṃ ghanavinibbhogo, sabbena sabbaṃ titthiyānaṃ so natthīti ayampi paribbājako tādisassa ñāṇassa paripākassa abhāvato vuccamānampi nāññāsi. Tena vuttaṃ **‘‘bhagavatā vuccamānampi taṃ nānattaṃ ajānanto’’**ti. Saññā nāmāyaṃ nānārammaṇā nānākkhaṇe uppajjati, veti cāti saññāya uppādanirodhaṃ passantopi saññāmayaṃ saññābhūtaṃ attānaṃ parikappetvā yathāvuttaghanavinibbhogābhāvato niccameva katvā maññati diṭṭhimaññanāya. Tathābhūtassa ca tassa saṇhasukhumaparamagambhīradhammatā na ñāyatevāti vuttaṃ **‘‘dujjānaṃ kho’’**tiādi.
「同様に」とは、あたかも「我は物質性である」と「我は意所成である」という二つの主張において、認識と我とは別であるように、そのように彼の無意識であるなどの過失の可能性は避けがたい。同様にこの説にも過失がある。それゆえ、「同様に彼に過失を示す」と言われた。「誤った見解によって」とは、我見という誤った執着によって。圧倒されているとは、無始以来培われてきた性質によって覆い尽くされ、知の作用が妨げられているためである。その相違を知らないとは、愚かな者は、継続の稠密さや集積の稠密さによって欺かれ、連続として現れる諸法の集まりを、「我」とか「常住」とか誤った執着によって語る。その一体と見なされた稠密な捉え方を分析し、真実のままに知ることが稠密性の分析である。異端者には決してそれがないので、この遊行者もそのような知の円熟がないため、説かれても理解できなかった。それゆえ、「世尊によって説かれても、彼はその相違を知らなかった」と言われた。この認識は、様々な対象に対して様々な瞬間に生じ、また滅するのであるから、認識の生滅を見ても、認識で構成され、認識である我を想定し、先に述べた稠密性の分析がないため、常住であると思い込み、見解によって信じる。そのような者の、微細で究極的に深遠な法の本質は理解されないと言われたのである、「実に理解しがたい」等と。
Diṭṭhiādīsu ‘‘evameta’’nti dassanaṃ abhinivisanaṃ diṭṭhi. Tassā eva pubbabhāgabhūtaṃ ‘‘evameta’’nti nijjhānavasena khamanaṃ khanti. Tathā rocanaṃ **ruci. ‘‘Aññathā’’**tiādi tesaṃ diṭṭhiādīnaṃ vibhajitvā dassanaṃ. Tattha aññathāti yathā ariyavinaye antadvayaṃ anupaggamma majjhimā paṭipadāvasena dassanaṃ hoti, tato aññathāyeva. Aññadevāti yaṃ paramatthato vijjati khandhāyatanādi, tassa ca aniccatādi, tato aññadeva paramatthato avijjamānaṃ attānaṃ sassatādi te khamati ceva ruccati ca. Āyuñjanaṃ anuyuñjanaṃ āyogo, tenāha **‘‘yuttapayuttatā’’**ti. Paṭipattiyāti paramattacintanādiparibbājakapaṭipattiyā. Dujjānametaṃ dhammataṃ tvaṃ ‘‘ayaṃ paramattho, ayaṃ sammutī’’ti imassa vibhāgassa dubbibhāgattā. ‘‘Yadi etaṃ dujjānaṃ, taṃ tāva tiṭṭhatu, imaṃ panatthaṃ bhagavantaṃ pucchissāmī’’ti cintetvā yathā paṭipajji, taṃ dassetuṃ **‘‘atha paribbājako’’**tiādi vuttaṃ. Añño vā saññatoti saññāsabhāvato añño sabhāvo vā attā hotūti attho. Assāti attano.
「見(diṭṭhi)等において」とは、「これこそ真実である」と見解すること、執着することが見である。その見の先行部分である「これこそ真実である」と洞察によって許容することが忍(khanti)である。同様に、好むことが趣(ruci)である。「別様である」等とは、それらの見等について分析して見ることである。「そこで別様である」とは、聖者の戒律において両極端に陥らず、中道として見られるのとは、まさに別様である。真実には蘊や処などがあるが、それは無常である。それとは別に、真実には存在しない我を常住であるなどと彼らは許容し、好むのである。「専心すること、反復して専心することが専念(āyoga)である」。それゆえ、「専心と勤勉」と言われた。実践とは、勝義(paramattha)を考察するなどの遊行者の実践である。「この法の本質は理解しがたい」とは、それが「これこそ勝義である、これこそ世俗である」という区別が困難なためである。「もしこれが理解しがたいのなら、それはさておき、このことについては世尊に尋ねてみよう」と考えて、彼がどのように実践したかを示すために、「そこで遊行者は」等と言われた。「あるいは認識する者と別である」とは、認識の性質とは別の本質である我であるという意味である。「彼の」とは、自分の。
Lokīyati dissati ettha puññapāpaṃ, tabbipāko cāti loko, attā. So hissa kārako, vedako cāti icchito. Diṭṭhigatanti ‘‘sassato attā ca loko cā’’tiādi (dī. ni. 1.31; udā. 55) nayappavattaṃ diṭṭhigataṃ. Na hesa diṭṭhābhiniveso diṭṭhadhammikādiatthanissito tadasaṃvattanato. Yo hi tadāvaho, so taṃnissitoti vattabbataṃ labheyya yathā taṃ puññañāṇasambhāro. Eteneva tassa na dhammanissitatāpi saṃvaṇṇitā daṭṭhabbā. Ādibrahmacariyassāti ādibrahmacariyaṃ, tadeva ādibrahmacariyakaṃ yathā ‘‘vinayo eva venayiko’’ti, (pārā. aṭṭha. 21) tenāha **‘‘sikkhattayasaṅkhātassā’’**tiādi. Diṭṭhābhinivesassa saṃsāravaṭṭe nibbidāvirāganirodhupasamāsaṃvattanaṃ vaṭṭantogadhattā, tassa vaṭṭasambandhanato ca. Tathā abhiññāsambodhanibbānāsaṃvattanañca daṭṭhabbaṃ. Abhijānanāyāti ñātapariññāvasena abhijānanatthāya. Sambujjhanatthāyāti tīraṇapahānapariññāvasena sambodhanatthāyāti vadanti. Abhijānanāyāti abhiññāpaññāvasena jānanāya, taṃ pana vaṭṭassa paccakkhakaraṇameva hotīti āha **‘‘paccakkhakiriyāyā’’**ti. Sambujjhanatthāyāti pariññābhisamayavasena paṭivedhāya.
「世間において」とは、ここで善悪とそれらの報いが見られるので世間、我である。それは彼の行為者であり、受ける者であると望まれる。「見解」とは、「我と世間は常住である」などという方法で展開される見解である。これは現世の利益などに依存する執着ではない、なぜならそれはそれをもたらさないからである。それをもたらすものは、それ(現世の利益など)に依存すると言えるであろう、あたかも福徳と知恵の備蓄のように。これによって、彼が法に依存しないことも説明されていると見なすべきである。「根本梵行」とは、根本梵行そのものである。まるで「律は律蔵である」というように、根本梵行そのものである。それゆえ、「三学によって構成される」などと言われた。執着は輪廻のサイクルにおいて厭離、離欲、滅尽、寂静をもたらさない。なぜなら、それは輪廻に陥る性質であり、輪廻と結びついているからである。同様に、神通、正覚、涅槃をもたらさないと見なすべきである。「完全に知るために」とは、知るべきものの完全な理解によって完全に知るためである。「正覚するために」とは、識別と捨断の完全な理解によって正覚するためであると彼らは言う。「完全に知るために」とは、神通と智慧によって知るためであり、それはまさしく輪廻を直接に見ることになるので、「直接の行為のため」と言われた。「正覚するために」とは、完全な理解と証悟によって達するためである。
Kāmaṃ taṇhāpi dukkhasabhāvā, tassā pana samudayabhāvena visuṃ gahitattā **‘‘taṇhaṃ ṭhapetvā’’**ti vuttaṃ. Pabhāvanato uppādanato. Dukkhaṃ pabhāventīpi taṇhā avijjādipaccayantarasahitā eva pabhāveti, na kevalāti āha **‘‘sappaccayā’’**ti. Ubhinnaṃ appavattīti ubhinnaṃ appavattinimittaṃ, nappavattanti ettha dukkhasamudayā etasmiṃ vā adhigateti appavatti. Dukkhanirodhaṃ nibbānaṃ gacchati adhigacchati, tadatthaṃ paṭipadā cāti dukkhanirodhagāminīpaṭipadā. Maggapātubhāvoti aggamaggasamuppādo. Phalasacchikiriyāti asekkhaphalādhigamo. Ākāranti taṃ gamanaliṅgaṃ.
確かに渇愛も苦の性質を持つが、それは集起の性質として個別に捉えられているので、「渇愛を除いて」と言われた。生じさせることから、すなわち発生させることから。苦を生じさせる渇愛も、無明などの他の条件を伴ってのみ生じさせるのであり、単独ではないので、「条件を伴う」と言われた。「両者の不生」とは、両者の不生の因、すなわちここにおいて苦の集起が生じないか、あるいはこれを成就することが不生である。苦の滅、すなわち涅槃に達する、成就する。そのための道とは、苦の滅に至る道である。「道の顕現」とは、最高の道の生起である。「果の証得」とは、無学の果の成就である。「相」とは、その到達の標識である。
421. Samantato niggaṇhanavasena todanaṃ vijjhanaṃ sannitodakaṃ, vācāyāti ca paccatte karaṇavacananti āha **‘‘vacanapatodenā’’**ti. Sajjhabbharitanti samantato bhusaṃ aritaṃ akaṃsūti satamattehi tuttakehi viya tiṃsasatamattā paribbājakā vācāpatodanehi tudiṃsu sabhāvato vijjamānanti paramatthasabhāvato upalabbhamānaṃ, napakatiādi viya anupalabbhamānaṃ. Tacchanti saccaṃ. Tathanti aviparītaṃ lokuttaradhammesūti visaye bhummaṃ te dhamme visayaṃ katvā. Ṭhitasabhāvanti avaṭṭhitasabhāvaṃ, taduppādakanti attho. Lokuttaradhammaniyāmatanti lokuttaradhammasampāpananiyāmena niyataṃ, tenāha **‘‘buddhānañhī’’**tiādi. Edisāti ‘‘dhammaṭṭhitata’’ntiādinā vuttappakārā.
421. 「あらゆる方向から押さえつけるような突き刺し、貫きが、言葉による突き刺しである」。「言葉によって」とは、行為を表す副詞なので、「言葉の棒によって」と言った。「あらゆる方向から満たされた」とは、百匹の蟻のように三十万人の遊行者が言葉の棒で突き刺した。存在するものとは、勝義の性質として得られるものであり、非存在などとは異なり、得られないものではない。「真実」とは、真理。そのようにとは、変転しない。出世間の法において、すなわち、対象としてその法を対象として。堅固な性質とは、安定した性質、すなわちそれを生じさせるものという意味である。「出世間の法の定法」とは、出世間の法を成就する定則によって定まったものである。それゆえ、「仏陀たちには」等と言われた。「そのような」とは、「法の確立」などによって述べられた種類である。
422. Sukhumesu atthantaresūti khandhāyatanādīsu sukhumañāṇagocaresu dhammesu. Kusaloti pubbe buddhasāsane kataparicayatāya cheko ahosi. Gihibhāve ānisaṃsakathāya kathitattā sīlavantassa bhikkhuno tathā kathanena vibbhamane niyojitattā idāni sayampi sīlavā eva hutvā cha vāre (dha. pa. aṭṭha. 37; jā. aṭṭha. 1.1.69) vibbhami. Kammasarikkhakena hi phalena bhavitabbaṃ. Mahāsāvakassa kathiteti mahāsāvakassa mahākoṭṭhikattherassa apasādanakathitanimittaṃ. Patiṭṭhātuṃ asakkontoti sāsane patiṭṭhaṃ laddhuṃ asakkonto.
422. 「微細な別の事柄において」とは、蘊や処などの、微細な知の対象となる法において。「熟練した者」とは、以前に仏教において経験を積んだため、熟練していた。在家の状態において、戒律を保つ比丘の利益について語ったことによって、そのように語ることで迷わせることを意図していたため、今や自分自身も戒律を保つ者となり、六度(Dhp.A. 37; Jā.A. 1.1.69)も迷った。業に相応しい結果が生じるべきだからである。「大弟子に語られた」とは、大弟子マハコッティカ長老を批判するために語られたのである。「確立できない者」とは、教えにおいて確立を得られない者。
423. Paññācakkhuno natthitāyāti suvuttaduruttasamavisamadassanasamatthapaññācakkhuno abhāvena. Cakkhumāti ettha yādisena cakkhunā puriso ‘‘cakkhumā’’ti vutto, taṃ dassetuṃ **‘‘subhāsitā’’**tiādi vuttaṃ. Ekakoṭṭhāsāti ekantikā, nibbānāvahabhāvena nicchitāti adhippāyo. Ṭhapitāti vavatthāpitā. Na ekakoṭṭhāsā na ekantikā, na nibbānāvahabhāvena nicchitā vaṭṭantogadhabhāvatoti adhippāyo.
423. 「智慧の眼がないため」とは、善説悪説、平等不平等を識別する能力のある智慧の眼がないためである。「眼のある者」とは、ここでどのような眼によって人が「眼のある者」と呼ばれるのかを示すために、「善く説かれた」等と言われた。「一方的である」とは、唯一絶対である、涅槃をもたらす性質として確定されているという意味である。「定められている」とは、確立されている。「一方的でない」とは、唯一絶対でない、涅槃をもたらす性質として確定されていない、なぜなら輪廻に陥る性質であるからという意味である。
425. ‘‘Kasmā ārabhī’’ti kāraṇaṃ pucchitvā **‘‘aniyyānikabhāvadassanattha’’**nti payojanaṃ vissajjitaṃ. Sati hi phalasiddhiyaṃ hetusiddhoyeva hotīti. Paññāpitaniṭṭhāyāti paveditavimuttimaggassa, vaṭṭadukkhapariyosānaṃ gacchati etāyāti ‘‘niṭṭhā’’ti vimutti vuttā. Niṭṭhāmaggo hi idha uttarapadalopena ‘‘niṭṭhā’’ti vutto. Tassa hi aniyyānikatā, niyyānikatā ca vuccati, na niṭṭhāya. Niyyānaṃ vā niggamanaṃ nissaraṇaṃ, vaṭṭadukkhassa vupasamoti attho. Niyyānameva niyyānikaṃ, na niyyānikaṃ aniyyānikaṃ, so eva bhāvo aniyyānikabhāvo, tassa dassanatthanti yojetabbaṃ. **‘‘Eva’’**nti ‘‘nibbānaṃ nibbāna’’nti vacanamattasāmaññaṃ gahetvā vadati, na pana paramatthato tesaṃ samaye nibbānapaññāpanassa labbhanato, tena vuttaṃ **‘‘sā ca na niyyānikā’’**tiādi. Lokathūpikādivasenāti ettha ādi-saddena ‘‘añño puriso, aññā pakatī’’ti pakatipurisantarāvabodho mokkho, buddhiādiguṇavinimuttassa attano sakattani avaṭṭhānaṃ mokkho, kāyapavattigatijātibandhānaṃ appamajjanavasena appavatto mokkho, yaññehi jutena parena purisena salokatā mokkho, samīpatā mokkho, sahayogo mokkhoti evamādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Yathāpaññattāti paññattappakārā hutvā na niyyāti, yenākārena ‘‘niṭṭhā pāpuṇīyatī’’ti tehi paveditā, tenākārena tassā appattabbato na niyyāti. Paṇḍitehi paṭikkhittāti ‘‘nāyaṃ niṭṭhā paṭipadā vaṭṭassa anatikkamanato’’ti buddhādīhi paṇḍitehi paṭikkhittā. Nivattatīti paṭikkhepassa kāraṇavacanaṃ, tasmā tehi paññattā niṭṭhā paṭipadā na niyyāti, aññadatthu taṃsamaṅginaṃ puggalaṃ saṃsāre eva paribbhamāpentī nivattati.
425. 「なぜ始めたのか」と理由を尋ねると、「非導出性を示すため」と目的が答えられた。なぜなら、結果が成就すれば原因も成就するからである。確立された終極とは、示された解脱の道であり、輪廻の苦しみの終わりがこれによって到達されるから「終極」と呼ばれて解脱が説かれたのである。ここでは、「終極の道」は後部が省略されて「終極」と呼ばれている。その非導出性や導出性とは、終極そのものではなく、終極の道について言われるのである。あるいは「導出」とは、出ること、脱出すること、輪廻の苦しみの静止を意味する。導出そのものが「導出的」であり、「導出的ではない」が「非導出的」であり、その状態が「非導出性」であり、それを示すためであると解釈すべきである。「かくのごとし」とは、「涅槃、涅槃」という言葉だけの共通性をとって言うのであり、彼らの時代には究極的な意味での涅槃の教説が得られなかったからではない。それゆえ「それは導出的なものではない」などと言われたのである。「世間的な塔などとして」という箇所では、「など」の語によって「別の人間、別の本性」という、人間と本性との間の認識による解脱、知性などの属性から解放された自己の自己における確立が解脱、身体の動き、業の相続、生まれ、束縛からの不放逸な非発生が解脱、供犠によって輝く最高の人間との同等の世界に住むことが解脱、親近が解脱、結びつきが解脱、といった類のものが含まれると見るべきである。「説かれたとおり」とは、説かれた様態であるならば、導出されない。彼らが「終極に至る」と示された様態では、それが到達し得ないから導出されないのである。「賢者たちに拒否された」とは、「これは輪廻を超える道ではない」と仏陀などの賢者たちによって拒否されたのである。「戻ってしまう」とは、その拒否の理由を述べる言葉である。それゆえ、彼らが説いた終極の道は導出されるものではなく、むしろそれに属する人を輪廻の中をさまよわせ、戻してしまうのである。
Padhānaṃ jānanaṃ nāma paccakkhato jānanaṃ tassa pamāṇajeṭṭhabhāvato, itarassa saṃsayānubaddhattāti vuttaṃ **‘‘jānaṃ passa’’**nti. Tenettha dassanena jānanaṃ viseseti. Idaṃ vuttaṃ hoti – tumhākaṃ ekantasukhe loke paccakkhato ñāṇadassanaṃ atthīti. Jānanti vā tassa lokassa anumānavisayataṃ pucchati, passanti paccakkhato gocarataṃ. Ayañhettha attho – api tumhākaṃ loko paccakkhato ñāto, udāhu anumānatoti.
「主要な知るとは、直接知ることである。それが最高の認識であるからであり、他は疑念を伴うからである」と「知り、見よ」と説かれた。それゆえ、ここで「見ること」によって「知ること」を区別している。これは、次のように述べられている。「あなた方の絶対的幸福の世界において、直接的な智見があるのか」。「知る」とは、その世界が推論の対象であるかどうかを問うのであり、「見る」とは、直接的な認識の対象であるかどうかを問うのである。ここでの意味は、「あなた方の世界は直接知られているのか、それとも推論によるものか」ということである。
Yasmā loke paccakkhabhūto attho indriyagocarabhāvena pākaṭo, tasmā vuttaṃ **‘‘diṭṭhapubbānī’’**tiādi. Diṭṭhapubbānīti diṭṭhavā, dassanabhūtena, tadanugatena ca ñāṇena gahitapubbānīti attho. Evañca katvā **‘‘sarīrasaṇṭhānādīnī’’**ti vacanaṃ samatthitaṃ hoti. **‘‘Appāṭihīraka ta’’**nti anunāsikalopaṃ katvā niddesoti āha **‘‘appāṭihīrakaṃ ta’’**nti ‘‘appāṭihīraṃ kata’’nti evamettha vaṇṇenti. Paṭipakkhaharaṇato paṭihāriyaṃ, tadeva pāṭihāriyaṃ, uttaravirahitaṃ vacanaṃ. Pāṭihāriyamevettha ‘‘pāṭihīraka’’nti vā vuttaṃ. Na pāṭihīrakaṃ appāṭihīrakaṃ parehi vuccamānauttarehi sauttarattā, tenāha **‘‘paṭiharaṇavirahita’’**nti. Sauttarañhi vacanaṃ tena uttarena paṭihārīyati ativiparivattīyati. Tato eva niyyānassa paṭiharaṇamaggassa abhāvato **‘‘aniyyānika’’**nti vattabbataṃ labhati.
世間において直接的な意味は感覚の対象として明らかであるから、「過去に見られたもの」などと説かれている。「過去に見られたもの」とは、見られ、視覚的なものとして、それに対応する知識によって過去に把握されたという意味である。このようにして、「身体の形状など」という言葉が正当化される。「Appāṭihīraka ta」とは、鼻音の脱落が起こって指定されている、と「appāṭihīrakaṃ ta」と言い、「appāṭihīraṃ kata」とここで説明する。敵対するものを除去することから「パティハーリヤ」(奇跡)、それ自体が「パーティハーリヤ」(奇跡)であり、超越的な言葉がないこと。ここでは「パーティハーリヤ」が「パーティヒーラカ」とも言われている。「パーティヒーラカではない」とは「アッパーティヒーラカ」であり、他者によって述べられる回答を伴うがゆえに、「打ち消す言葉がない」と説かれている。なぜなら、回答を伴う言葉は、その回答によって打ち消され、完全に転換されるからである。そのため、導出のための反駁の道がないことから、「非導出的」と言われるのである。
426. Vilāso līḷā. Ākappo kesabandhavatthaggahaṇaṃ ādiākāraviseso, vesasaṃvidhānaṃ vā. Ādi-saddena bhāvādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. **‘‘Bhāvo’’**ti ca cāturiyaṃ veditabbaṃ.
426. 「ヴィラーサ」とは「リラー」(優美なふるまい、あでやかさ)のことである。「アークッパ」とは、髪を結び、衣服を身につけるなどの特有の態度のこと、あるいは服装を整えることである。「など」の語によって、ふるまいなどが含まれると見るべきである。そして「バーヴァ」とは、巧みさ(巧みに振る舞うこと)と知るべきである。
428. Āhito ahaṃ māno etthāti attā, attabhāvoti āha **‘‘attapaṭilābhoti attabhāvapaṭilābho’’**ti. Kāmabhavaṃ dasseti tassa itaradvayattabhāvato oḷārikattā. Rūpabhavaṃ dasseti jhānamanena nibbattaṃ hutvā rūpībhāvena upalabbhanato. Saṃkilesikā dhammā nāma dvādasa akusalacittuppādā tadabhāve kassaci saṃkilesassāpi asambhavato. Vodāniyā dhammā nāma samathavipassanā tāsaṃ vasena sabbaso cittavodānassa sijjhanato.
428. 「我」という思いがここにあるから「アッタ」(自己)であり、「自己存在」である、と「自己獲得とは自己存在の獲得である」と説かれている。欲界の存在を示すのは、他の二つの自己存在に比べてそれが粗大であるからである。色界の存在を示すのは、禅によって生じ、色のあるものとして認識されるからである。「煩悩を伴う法」とは、十二の不善心生であり、それらがなければいかなる煩悩も生じないからである。「清浄な法」とは、止と観であり、それらによって完全に心の清浄が成就するからである。
429. Paṭipakkhadhammānaṃ asamucchede pana na kadācipi anavajjadhammānaṃ pāripūrī, vepullaṃ vā sambhavati, samucchede pana sati eva sambhavatīti maggapaññāphalapaññā-ggahaṇaṃ. Tā hi sakiṃ paripuṇṇā paripuṇṇā eva aparihānadhammattā. Taruṇapītīti uppannamattā aladdhāsevanā dubbalā pīti. Balavatuṭṭhīti punappunaṃ uppattiyā laddhāsevanā uparivisesādhigamassa paccayabhūtā thiratarā pīti. **‘‘Yaṃ avocumhā’’**tiādīsu ayaṃ saṅkhepattho – yaṃ vohāraṃ ‘‘saṃkilesikavodāniyadhammānaṃ pahānābhivuddhiniṭṭhaṃ paññāya pāripūrivepullabhūtaṃ imasmiṃyeva attabhāve aparappaccayena ñāṇena paccakkhato sampādetvā viharissatī’’ti kathayimha. Tattha tasmiṃ vihāre tassa mama ovādakarassa bhikkhuno evaṃ vuttappakārena viharaṇanimittaṃ pamodappabhāvitā pīti ca bhavissati, tassā ca paccayabhūtaṃ passaddhidvayaṃ sammadeva upaṭṭhitā sati ca ukkaṃsagataṃ ñāṇañca tathābhūto ca so vihāro. Santapaṇītatāya atappako anaññasādhāraṇo sukhavihāroti vattabbataṃ arahatīti.
429. 対立する法が絶たれなければ、決して無過失の法の完成や増大はあり得ず、断ち切られたときに初めてそれが可能となる。それゆえ、道智と果智が把握される。なぜなら、それら(道智と果智)は一度完成すれば、決して失われることのない性質を持つからである。「若い喜悦」とは、生じたばかりで慣れ親しんでいない、弱い喜悦のことである。「力強い満足」とは、繰り返し生起することで慣れ親しみ、より優れた特別な境地への到達の原因となる、より堅固な喜悦のことである。「我らが語ったこと」などについての要約された意味は次のとおりである。「煩悩を伴う法と清浄な法との捨断と増大が、智慧によって完全に増大し、この自己存在において、他者の助けによらず直接的な知識によって完成させて住むであろう」と我々が語った。その境地において、私に教えを乞う比丘は、このように述べられた様態で住むことによって、歓喜によって生じた喜悦が生じるであろう。その原因となるのは、正しく確立された平静と、最高の知識、そしてその境地である。静かで優れているがゆえに、熱することなく、他に類を見ない安楽な住処として称賛されるに値するのである。
Paṭhamajjhāne paṭiladdhamatte hīnabhāvato pīti dubbalā pāmojjapakkhikā, suvibhāvite pana tasmiṃ paguṇe sā paṇītā balavabhāvato paripuṇṇakiccā pītīti vuttaṃ **‘‘paṭhamajjhāne pāmojjādayo chapi dhammā labbhantī’’**ti. **‘‘Sukho vihāro’’**ti iminā samādhi gahito. Sukhaṃ gahitanti apare, tesaṃ matena santasukhatāya upekkhā catutthajjhāne ‘‘sukha’’nti icchitā, tenāha **‘‘tathā catutthe’’**tiādi. Pāmojjaṃ nivattatīti dubbalapītisaṅkhātaṃ pāmojjaṃ chasu dhammesu nivattati hāyati. Vitakkavicārakkhobhavirahena dutiyajjhāne sabbadā pīti balavatī eva hoti, na paṭhamajjhāne viya kadāci dubbalā. Suddhavipassanā pādakajjhānamevāti upari maggaṃ akathetvā kevalaṃ vipassanāpādakajjhānaṃ kathitaṃ. Catūhi maggehi saddhiṃ vipassanā kathitāti vipassanāya pādakabhāvena jhānāni kathetvā tato paraṃ vipassanāpubbakā cattāropi maggā kathitāti attho. Catutthajjhānikaphalasamāpatti kathitāti paṭhamajjhānikādikā phalasamāpattiyo akathetvā catutthajjhānikā eva phalasamāpatti kathitā. Pītivevacanameva katvāti dvinnaṃ pītīnaṃ ekasmiṃ cittuppāde anuppajjanato pāmojjaṃ pītivevacanameva katvā. Pītisukhānaṃ apariccattattā, **‘‘sukho ca vihāro’’**ti sātisayassa sukhavihārassa gahitattā ca dutiyajjhānikaphalasamāpatti nāma kathitā. Kāmaṃ paṭhamajjhānepi pītisukhāni labbhanti, tāni pana vitakkavicārakkhobhena na santapaṇītāni, santapaṇītāni ca idhādhippetāni.
初禅を獲得したばかりでは、喜悦は劣位であるため弱く、歓喜の仲間である。しかし、その初禅がよく修習され熟練すると、それは優れて力強く、完全にその機能を果たす喜悦となる。それゆえ「初禅では、歓喜など六つの法が得られる」と説かれている。「安楽な住処」とは、これによって三昧が捉えられているのである。他の者たちは「安楽が捉えられている」と言う。彼らの見解によれば、第四禅における平静は、静寂な安楽ゆえに「安楽」と望まれる。それゆえ「同様に第四禅においても」などと説かれている。「歓喜が止む」とは、弱い喜悦と称される歓喜が六つの法の中で止み、減退することである。尋(vitakka)と伺(vicāra)による擾乱がないため、第二禅では常に喜悦は力強く、初禅のように時に弱まることはない。「純粋なヴィパッサナーは基礎となる禅のみである」とは、それ以上の道を説かずに、ただヴィパッサナーの基礎となる禅が説かれているのである。「四つの道とともにヴィパッサナーが説かれている」とは、ヴィパッサナーの基礎として禅が説かれ、その後にはヴィパッサナーを先行とする四つの道も説かれている、という意味である。「第四禅の果三昧が説かれている」とは、初禅などの果三昧を説かずに、第四禅の果三昧だけが説かれているのである。「喜悦の同義語として」とは、二種の喜悦が一つの心生に同時に生じないため、歓喜を喜悦の同義語として扱っているのである。喜悦と安楽がまだ完全に捨てられておらず、「安楽な住処」という卓越した安楽な住処が捉えられているため、第二禅の果三昧が説かれているのである。たしかに初禅においても喜悦と安楽は得られるが、それらは尋と伺の擾乱によって静かで優れていない。ここで意図されているのは、静かで優れたものである。
432-437. Vibhāvanatthoti pakāsanattho sarūpato nirūpanattho, tenāha **‘‘ayaṃ so’’**tiādi. Nanti oḷārikaṃ attapaṭilābhaṃ. Sappaṭiharaṇanti parena coditavacanena saparihāraṃ sauttaraṃ. Tucchoti musā abhūto. Svevāti so eva attapaṭilābho. Tasmiṃ samaye hotīti tasmiṃ paccuppannasamaye vijjamāno hoti. Attapaṭilābhotveva niyyātesi, na naṃ sarūpato nīharitvā dassesi. Rūpādayo cettha dhammāti rūpavedanādayo eva ettha loke sabhāvadhammā. Attapaṭilābhoti pana te rūpādike pañcakkhandhe upādāya paññatti, tenāha **‘‘nāmamattameta’’**nti. Nāmapaṇṇattivasenāti nāmabhūtapaññattimattatāvasena.
432-437. 「明確にする目的」とは、明らかにすること、その本質を詳細に説明する目的である。それゆえ「これこそが」などと説かれている。「これ」とは、粗大な自己獲得である。「反駁を伴う」とは、他者によって促された言葉に対して、弁明と回答を伴うことである。「虚しい」とは、偽りであり、実在しないことである。「それこそが」とは、まさにその自己獲得のことである。「その時に存在する」とは、その現在において存在することである。自己獲得そのものを導出したのであり、その本質を具体的に示してはいない。「そして色などとは法である」とは、この世においては色、受などこそが自性のある法である。しかし自己獲得とは、それら色などの五蘊を依りどころとして名づけられた概念である。それゆえ「これは名前だけのものだ」と説かれている。「名称概念として」とは、名前である概念に過ぎないという意味である。
438. Evañca pana vatvāti ‘‘attapaṭilābhoti rūpādike upādāya paññattimatta’’nti imamatthaṃ ‘‘yasmiṃ citta samaye’’tiādinā vatvā. Paṭipucchitvā vinayanatthanti yathā pare puccheyyuṃ, tenākārena kālavibhāgato paṭipadāni pucchitvā tassa atthassa ñāpanavasena vinayanatthaṃ. Tasmiṃ samaye sacco ahosīti tasmiṃ atītasamaye upādānassa vijjamānatāya saccabhūto vijjamāno viya vattabbo ahosi, na pana anāgato idāni paccuppanno vā attapaṭilābho tadupādānassa tadā avijjamānattā. Ye te atītā dhammā atītasamaye atītattapaṭilābhassa upādānabhūtā rūpādayo. Te etarahi natthi niruddhattā. Tato eva ahesunti saṅkhyaṃ gatā. Tasmāti tasmiṃyeva samaye labbhanato. Sopi tadupādāno me attapaṭilābho tasmiṃyeva atītasamaye sacco bhūto vijjamāno viya ahosi. Anāgatapaccuppannānanti anāgatānañceva paccuppannānañca rūpadhammānaṃ upādānabhūtānaṃ tadā tasmiṃ atītasamaye abhāvā tadupādāno anāgato paccuppanno ca attapaṭilābho tasmiṃ atītasamaye mogho tuccho musā natthīti attho. Nāmamattamevāti samaññāmattameva. Attapaṭilābhaṃ paṭijānāti paramatthato anupalabbhamānattā.
438. そして、このように「自己獲得とは色などを依りどころとする概念に過ぎない」という意味を、「いかなる時においても」などと述べて。尋ね返して律する目的とは、他者が質問するように、そのようにして時間の区別から実践道を尋ねて、その意味を知らせることによって律する目的である。「その時に真実であった」とは、その過去の時において、執着が存在していたがゆえに、真実であるかのように存在していたと言われるべきであったのであり、当時、その執着が存在していなかったため、未来や現在の自己獲得はそうではなかったのである。その過去の法とは、過去の自己獲得の原因となった色などのことである。それらは現在、消滅しているため存在しない。それゆえ「存在した」という概念になったのである。それゆえ、その時に得られたからである。その執着を伴う私の自己獲得も、その過去の時に真実であるかのように存在していた。「未来および現在のものたち」とは、未来および現在の色法、すなわち執着の原因となるものが、当時その過去の時に存在しなかったため、その執着を伴う未来および現在の自己獲得は、その過去の時に空虚で、虚しく、偽りであり、存在しない、という意味である。「名前だけのもの」とは、単なる共通の呼称に過ぎない。自己獲得を否定するのは、究極的な意味でそれが認識されないからである。
**‘‘Eseva nayo’’**ti iminā ye te anāgatā dhammā, te etarahi natthi, ‘‘bhavissantī’’ti pana saṅkhyaṃ gamissanti, tasmā sopi me attapaṭilābho tasmiṃyeva samaye sacco bhavissati. Atītapaccuppannānaṃ pana dhammānaṃ tadā abhāvā tasmiṃ samaye mogho atīto mogho paccuppanno. Ye ime paccuppannā dhammā, te etarahi atthi, tasmā yoyaṃ me attapaṭilābho, so idāni sacco. Atītānāgatānaṃ pana dhammānaṃ idāni abhāvā tasmiṃ samaye mogho atīto mogho anāgatoti evaṃ atthato nāmamattameva attapaṭilābhaṃ paṭijānātīti imamatthaṃ atidisati.
「同様の理である」とは、これによって「未来の法は現在存在しないが、『存在するであろう』という概念になるであろう。それゆえ、私のその自己獲得もその時に真実となるであろう。」「しかし、過去と現在の法が当時存在しなかったため、その時、過去は空虚であり、現在は空虚である。」「現在存在するこれらの法は、現在存在する。それゆえ、私のこの自己獲得は現在真実である。」「しかし、過去と未来の法が現在存在しないため、その時、過去は空虚であり、未来は空虚である」と、このように意味としては名前だけの自己獲得を否定する、というこの意味を当てはめている。
439-443. Saṃsanditunti samānetuṃ. Yasmiṃ samaye khīraṃ hotīti yasmiṃ kāle bhūtupādāyasaññitaṃ upādānavisesaṃ upādāya khīrapaññatti hoti. Na tasmiṃ…pe… gacchati khīrapaññattiupādānassa dadhiādipaññattiyā anupādānato. Paṭiniyatavatthukā hi ekā lokasamaññā, tenāha **‘‘ye dhamme upādāyā’’**tiādi. Tattha saṅkhāyati etāyāti saṅkhā, paññatti. Niddhāretvā vacanti vadanti etāyāti nirutti. Namanti etenāti nāmaṃ. Voharanti etenāti vohāro, paññattiyeva. Esa nayo sabbatthāti ‘‘yasmiṃ samaye’’tiādinā khīre vuttanayaṃ dadhiādīsu atidisati.
439-443. 「比較する」とは、一致させること。「いかなる時に乳があるか」とは、その時において、過去の執着を指す特定の執着を依りどころとして乳という概念が生じる。その時、乳の概念の執着が凝乳などの概念の執着ではないから、…という風に進む。なぜなら、世間の呼び名は一つで、特定の対象に基づいているからである。それゆえ「いかなる法を依りどころとして」などと説かれている。そこでは、これによって計算されるから「サンカー」(数え、計算)、概念である。これによって確定されて言われるから「ニルッティ」(語源、表現)である。これによって傾く(指定される)から「ナーマ」(名前)である。これによって用いられるから「ヴォハーラ」(慣用句、表現)、概念である。この理はすべてにおいて同様である。すなわち「いかなる時に」などと乳について述べられた方法を、凝乳などにも当てはめている。
Samanujānanamattakānīti ‘‘idaṃ khīraṃ, idaṃ dadhī’’tiādinā tādise bhūtupādāyarūpavisese loke paramparābhataṃ paññattiṃ appaṭikkhipitvā samanujānanaṃ viya paccayavisesavisiṭṭhaṃ rūpādikhandhasamūhaṃ upādāya ‘‘oḷāriko attapaṭilābho’’ti ca ‘‘manomayo attapaṭilābho’’ti ca ‘‘arūpo attapaṭilābho’’ti ca tathā tathā samanujānanamattakāni, na ca tabbinimutto upādānato añño koci attho atthīti attho. Niruttimattakānīti saddaniruttiyā gahaṇūpāyamattakāni. ‘‘Satto phassoti hi saddaggahaṇuttarakālaṃ tadanuviddhapaṇṇattiggahaṇamukheneva tadatthāvabodho. Vacanapathamattakānīti tasseva vevacanaṃ. Vohāramattakānīti tathā tathā vohāramattakāni. Nāmapaṇṇattimattakānīti tasseva vevacanaṃ, taṃtaṃnāmapaññāpanamattakāni. Sabbametanti ‘‘attapaṭilābho’’ti vā ‘‘satto’’ti vā ‘‘poso’’ti vā sabbametaṃ vohāramattakaṃ paramatthato anupalabbhanato, tenāha **‘‘yasmā paramatthato satto nāma natthī’’**tiādi.
「承認するだけのもの」とは、「これは乳、これは凝乳」などと、そのような過去の執着による特定の色の形において、世間に伝わる概念を否定せず、承認するように、特定の原因によって特徴づけられた色などの蘊の集まりを依りどころとして、「粗大な自己獲得」、「意生身(精神で作られた自己獲得)」、「無形(形のない)自己獲得」と、それぞれ承認するだけのもの、という意味であり、執着から離れて他に意味はない。「表現に過ぎない」とは、言葉の表現によって把握する手段に過ぎない。「衆生は触である」とは、言葉を把握した後、それに伴う概念を把握することによってのみその意味が理解されるのである。「言葉の経路に過ぎない」とは、それの同義語である。「慣用句に過ぎない」とは、それぞれ慣用句に過ぎない。「名称概念に過ぎない」とは、それの同義語であり、それぞれの名称を設けるだけのもの。「これらすべて」とは、「自己獲得」であれ、「衆生」であれ、「人」であれ、これらすべては慣用句に過ぎない。究極的な意味で認識されないからである。それゆえ「究極的な意味では衆生というものは存在しないから」などと説かれている。
Yadi evaṃ kasmā taṃ buddhehipi vuccatīti āha **‘‘buddhānaṃ pana dve kathā’’**tiādi. Sammutiyā vohārassa kathanaṃ sammutikathā. Paramatthassa sabhāvadhammassa kathanaṃ paramatthakathā. Aniccādikathāpi paramatthasannissitakathā paramatthakathāti katvā paramatthakathā. Paramatthadhammo hi ‘‘anicco, dukkho, anattā’’ti ca vuccati, na sammutidhammo. Kasmā panevaṃ duvidhā buddhānaṃ kathāpavattīti tattha kāraṇamāha **‘‘tattha yo’’**tiādinā. Yasmā paramatthakathāya saccasampaṭivedho, ariyasaccakathā ca sikhāppattā desanā, tasmā vineyyapuggalavasena sammutikathaṃ kathentopi bhagavā paramatthakathaṃyeva kathetīti āha **‘‘tassa bhagavā āditova…pe… kathetī’’**ti, tenāha **‘‘tathā’’**tiādi, tenassa katthaci sammutikathāpubbikā paramatthakathā hoti puggalajjhāsayavasena, katthaci paramatthakathāpubbikā sammutikathā. Iti vineyyadamanakusalassa satthu vineyyajjhāsayavasena tathā tathā desanāpavattīti dasseti. Sabbattha pana bhagavā dhammataṃ avijahanto eva sammutiṃ anuvattati, sammutiṃ apariccajantoyeva dhammataṃ vibhāveti, na tattha abhinivesātidhāvanāni. Vuttañhetaṃ ‘‘janapadaniruttiṃ nābhiniviseyya, samaññaṃ nātidhāveyyā’’ti.
「もしそうであるなら、なぜそれは仏陀たちによっても語られるのか」と説かれているのは「仏陀には二つの説法がある」などである。世俗的な言葉遣いを説くのが世俗説法(sammutikathā)である。最高の意味、すなわち実体的な法(sabhāvadhammo)を説くのが勝義説法(paramatthakathā)である。無常などの説法もまた勝義に依拠した説法であり、勝義説法であるとみなして勝義説法である。最高の真理の法(paramatthadhammo)は「無常であり、苦であり、無我である」とも言われるのであり、世俗の法(sammutidhammo)ではない。なぜこのように仏陀には二種類の説法が生じるのか、その理由を「その中で誰が」などという言葉で説かれている。勝義説法によって真理の徹底的な認識(saccasampaṭivedho)があり、聖なる真理の説法(ariyasaccakathā)は到達点に達した教えであるため、調伏されるべき人々の状況に応じて世俗説法を説くときでも、世尊は勝義説法のみを説く、と「世尊は最初から……そして……説く」と説かれている。それゆえ「このように」などと説かれ、それゆえ、ある場合には世俗説法が先行し、その後に勝義説法となるのは、人々の傾向(puggalajjhāsayavasena)による。またある場合には勝義説法が先行し、その後に世俗説法となる。このように、調伏に熟達した師(satthu)は、調伏されるべき人々の傾向に応じて、様々な形で教えを説くことを示している。しかし、世尊は常に真理(dhammataṃ)を捨てることなく世俗的な慣習に従い、世俗的な慣習を放棄することなく真理を明らかにするのであり、そこには固執(abhinivesā)や行き過ぎ(atidhāvanāni)はない。「世俗の言葉に固執せず、慣習に執着しすぎないように」と述べられているからである。
Paṭhamaṃ sammutiṃ katvā kathanaṃ pana veneyyavasena yebhuyyena buddhānaṃ āciṇṇanti taṃ kāraṇena saddhiṃ dassento **‘‘pakatiyā panā’’**tiādimāha. Nanu ca sammuti nāma paramatthato avijjamānattā abhūtā, taṃ kathaṃ buddhā kathentīti āha **‘‘sammutikathaṃ kathentāpī’’**tiādi. Saccamevāti tathameva. Sabhāvamevāti sammutibhāvena taṃsabhāvameva, tenāha **‘‘amusāvā’’**ti. Paramatthassa pana saccādibhāve vattabbameva natthi.
まず世俗的な言葉を用いて説くことは、教化されるべき人々の便宜のために、仏陀たちが一般的に行ってきたことであると、その理由と共に示すために「しかし、本来は」などと説かれている。「世俗的なものは、勝義の立場から見れば実在しないため、真実ではないのではないか。それをどうして仏陀は説くのか」と言う問いに対し、「世俗説法を説く時でも」などと説かれている。「まさに真実である」とは、その通りである。「実体である」とは、世俗的なあり方においてその実体である、それゆえ「偽りではない」と説かれている。最高の真理(paramattha)においては、真実であるなどというべきことは何もないのである。
Imesaṃ pana sammutiparamatthānaṃ ko viseso? Yasmiṃ bhinne, buddhiyā vā avayavavinibbhoge kate na taṃsaññā, so ghaṭapaṭādippabhedo sammuti, tabbipariyāyato paramattho. Na hi kakkhaḷaphusanādisabhāve ayaṃ nayo labbhati. Evaṃ santepi vuttanayena sammutipi saccasabhāvā evāti āha **‘‘duve saccāni akkhāsī’’**tiādi.
しかし、この世俗と勝義にはどのような違いがあるのか?分解されたり、あるいは知性によってその構成部分が分析されたりしても、それがそのものとしての認識を失わないもの、例えば壺や衣類などの区別は世俗的なものである。その逆が勝義である。例えば、堅い触感などの実体にはこの理屈は当てはまらない。たとえそうであっても、述べられた方法によって世俗的なものもまた真実の実体であると、「二つの真理を説いた」などと説かれている。
Idāni nesaṃ saccasabhāvaṃ kāraṇena dassento ‘‘saṅketavacanaṃ saccanti gāthamāha. Tattha saṅketavacanaṃ saccaṃ visaṃvādanābhāvato. Tattha hetumāha **‘‘lokasammutikāraṇa’’**nti. Lokasiddhā hi sammuti saṅketavacanassa avisaṃvādanatāya kāraṇaṃ. Paramo uttamo attho paramattho, dhammānaṃ yathābhūtasabhāvo. Tassa vacanaṃ saccaṃ yāthāvato avisaṃvādanavasena ca pavattanato. Tattha kāraṇamāha **‘‘dhammānaṃ bhūtalakkhaṇa’’**nti, sabhāvadhammānaṃ yo bhūto aviparīto sabhāvo, tassa lakkhaṇaṃ aṅganaṃ ñāpananti katvā.
今、それらの真実の性質を理由とともに示しつつ、「世俗的な言葉は真実である」という詩句を説かれている。そこにおいて、指示的な言葉(saṅketavacanaṃ)が真実であるのは、それが矛盾しないからである。その理由を「世俗の慣習が原因である」と説かれている。世間に確立された慣習は、指示的な言葉が矛盾しないことの原因である。最高の意味(paramo attho)が勝義(paramattho)であり、それは法(dhamma)のありのままの性質である。それを言葉で表すことは真実である。それはありのままに矛盾なく生じるからである。その理由を「法(dhamma)の真実の特相」と説かれているのは、実体的な法(sabhāvadhammā)の真実で誤りなき本質(sabhāvo)の特相、すなわち特徴、表示であるとみなしてである。
Yadi tathāgato paramatthasaccaṃ sammadeva abhisambujjhitvā ṭhitopi lokasamaññaṃ gahetvāva vadati, ko ettha lokiyamahājanehi visesoti āha. **‘‘Yāhi tathāgato voharati aparāmāsa’’**ntiādi. Lokiyamahājano appahīnaparāmāsattā ‘‘etaṃ mamā’’tiādinā parāmasanto voharati, tathāgato pana sabbaso pahīnaparāmāsattā aparāmasanto yasmā lokasamaññāhi vinā lokiyo attho loke kenaci duviññeyyo, tasmā tāhi taṃ voharati. Tathā voharanto eva ca attano desanāvilāsena veneyyasatte paramatthasacce patiṭṭhapeti. Desanaṃ vinivaṭṭetvāti heṭṭhā pavattitakathāya vinivaṭṭetvā vivecetvā desanaṃ ‘‘aparāmāsa’’nti taṇhāmānaparāmāsappahānakittanena arahattanikūṭena niṭṭhāpesi. Yaṃ yaṃ panettha atthato na vibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.
もし如来(tathāgato)が最高の真理(paramatthasaccaṃ)を完全に悟り、その境地にありながらも、世俗的な呼称(lokasamaññaṃ)を用いて話すのであれば、世間の人々との間に何の区別があるのか、と問われているのは、「如来は執着することなく用いる」などである。世間の人々は、執着(parāmāsa)を断ち切っていないため、「これは私のものだ」などと執着しながら話す。しかし如来は、執着を完全に断ち切っているため、執着することなく話す。なぜなら、世俗的な呼称なしには、世俗的な意味は世間の誰にも理解されにくいからである。それゆえ、如来はそれらの呼称を用いて話すのである。そして、そのように話すことによって、自らの教えの巧みさ(desanāvilāsena)をもって、教化されるべき衆生を最高の真理に確立させるのである。「教えを転じて」とは、下で展開された説法を転じて、それを分析し、「執着なく」とは、渇愛(taṇhā)と慢(māna)という執着(parāmāsa)を捨てることを説くことによって、阿羅漢果という高みに到達させて結びつけたのである。ここで意味的に分解されていないものは、すべて容易に理解できるはずである。
Poṭṭhapādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
ポッタパーダ経注釈における難解な語句の解説。
444. **‘‘Aciraparinibbute’’**ti satthu parinibbutabhāvassa cirakālatāpaṭikkhepena āsannatā dassitā, kālaparicchedo na dassitoti taṃ paricchedato dassetuṃ **‘‘parinibbānato uddhaṃ māsamatte kāle’’**ti vuttaṃ. Tattha matta-ggahaṇena kālassa asampuṇṇataṃ joteti. Tudisaññito gāmo nivāso etassāti todeyyo. Taṃ panesa yasmā soṇadaṇḍo viya campaṃ, kūṭadanto viya ca khāṇumataṃ ajjhāvasati, tasmā vuttaṃ **‘‘tassa adhipatittā’’**ti issarabhāvatoti attho. Samāhāranti sannicayaṃ. Paṇḍito gharamāvaseti yasmā appatarappatarepi vayamāne bhogā khiyanti, appatarappatarepi sañciyamāne vaḍḍhanti, tasmā viññujātiko kiñci vayaṃ akatvā āyameva uppādento gharāvāsaṃ anutiṭṭheyyāti lobhādesitaṃ paṭipattiṃ upadisati.
444. 「『亡くなって間もない頃(Aciraparinibbute)』とは、師の般涅槃から長い時間が経過していないことを否定し、近しい時期であることを示しており、時間の区切りが示されていないため、その区切りを示すために『般涅槃から約一ヶ月の時』と述べられている。ここで「約(matta)」を用いることで、時間が完全ではないことを示している。トディという村を住居とする者、ゆえにトーデーヤである。しかし、彼がソーナダンダーのようにチャンパーに住み、クータダンターのようにカーヌマタに住んでいることから、『彼が支配者であるため』とは、主宰者であるという意味である。『サマーハーラ(集積)』とは、積み重ねることである。『賢者が家庭に住む』とは、財産が少しずつ費やされて減っていくのに対し、少しずつ蓄積されれば増えていくものであるから、賢い人は一切の費用をかけずに収入だけを得て家庭に住むべきであると、貪欲に導かれた実践を勧めているのである。
Adānameva sikkhāpetvā lobhābhibhūtatāya tasmiṃyeva ghare sunakho hutvā nibbatti. Lobhavasikassa hi duggati pāṭikaṅkhā. Ativiya piyāyati pubbaparicayena. Piṇḍāya pāvisi subhaṃ māṇavaṃ anuggaṇhitukāmo. Niraye nibbattissasi katokāsassa kammassa paṭibāhituṃ asakkuṇeyyabhāvato.
施しを与えないことを教え、貪欲に打ち負かされたがゆえに、その同じ家で犬として生まれ変わった。貪欲に支配された者には、悪しき境涯が期待されるからである。彼は以前からの縁によって非常に可愛がられていた。スバという若者を助けたいと思い、托鉢に入った。「あなたは地獄に生まれるだろう。機会が与えられた行為を妨げることはできないからである」。
Brāhmaṇacārittassa bhāvitataṃ sandhāya, tathā pitaraṃ ukkaṃsento ca **‘‘brahmaloke nibbatto’’**ti āha. Taṃ pavattiṃ pucchīti sutametaṃ mayā ‘‘mayhaṃ pitā sunakho hutvā nibbatto’’ti tumhehi vuttaṃ, kimidaṃ saccanti pucchi. Tatheva vatvāti yathā pubbe sunakhassa vuttaṃ, tatheva vatvā. Avisaṃvādanatthanti saccāpanatthaṃ ‘‘todeyyabrāhmaṇo sunakho hutvā nibbatto’’ti attano vacanassa avisaṃvādanatthaṃ avisaṃvādabhāvassa dassanatthanti attho. Sabbaṃ dassesīti buddhānubhāvena so sunakho taṃ sabbaṃ netvā dassesi, na jātissaratāya. Bhagavantaṃ disvā bhukkaraṇaṃ pana purimajātisiddhavāsanāvasena. Cuddasa pañhe pucchitvāti ‘‘dissanti hi bho gotama manussā appāyukā, dissanti dīghāyukā. Dissanti bavhābādhā, dissanti appābādhā. Dissanti dubbaṇṇā, dissanti vaṇṇavanto. Dissanti appesakkhā, dissanti mahesakkhā. Dissanti appabhogā, dissanti mahābhogā. Dissanti nīcakulīnā, dissanti uccākulīnā. Dissanti duppaññā, dissanti paññāvanto’’ti (ma. ni. 3.289). Ime cuddasa pañhe pucchitvā, aṅgasubhatāya kiresa **‘‘subho’’**ti nāmaṃ labhi.
バラモンの行いを修めたことに言及し、また父を讃えつつ「梵天界に生まれ変わった」と述べた。「その出来事を尋ねた」とは、「私の父は犬として生まれ変わったとあなたがたは言われたが、これは本当のことか」と尋ねたという意味である。「そのように言って」とは、以前犬に語ったように、そのように言ってである。「偽りでないことを示すため」とは、「トーデーヤ・バラモンは犬として生まれ変わった」という自らの言葉が偽りでないことを示し、矛盾がないことを示すためという意味である。「全てを見せた」とは、仏陀の神力によって、その犬がそれら全てを連れてきて見せたのであり、宿命通によってではない。世尊を見て吠えるのは、前世で得た習性によるものである。「十四の問いを尋ねて」とは、「ゴータマよ、人々は短命であると見られる者もいれば、長命であると見られる者もいます。多く病気であると見られる者もいれば、病気が少ないと見られる者もいます。醜いと見られる者もいれば、美しいと見られる者もいます。権力がないと見られる者もいれば、大いなる権力があると見られる者もいます。財産が少ないと見られる者もいれば、大いなる財産があると見られる者もいます。低い家柄であると見られる者もいれば、高い家柄であると見られる者もいます。智慧がないと見られる者もいれば、智慧があると見られる者もいます」(中部経典 3.289)といった十四の問いを尋ねたことで、彼の身体の美しさゆえに、彼は「スバ」という名を得たのである。
445. **‘‘Ekā ca me kaṅkhā atthī’’**ti iminā upari pucchiyamānassa pañhassa pageva tena abhisaṅkhatabhāvaṃ dasseti. Visabhāgavedanāti dukkhavedanā. Sā hi kusalakammanibbatte attabhāve uppajjanakasukhavedanāpaṭipakkhabhāvato ‘‘visabhāgavedanā’’ti. Kāyaṃ gāḷhā hutvā bādhati pīḷetīti ‘‘ābādho’’ti ca vuccati. Ekadese uppajjitvāti sarīrassa ekadese uṭṭhitāpi ayapaṭṭena ābandhitvā viya gaṇhāti aparivattabhāvakaraṇato, etena balavarogo ābādho nāmāti dasseti. Kicchajīvitakaroti asukhajīvitāvaho, etena dubbalo appamattako rogo ātaṅkoti dasseti. Uṭṭhānanti sayananisajjādito uṭṭhahanaṃ, tena yathā tathā aparāparaṃ sarīrassa parivattanaṃ vadati. Garukanti bhāriyaṃ kicchasiddhikaṃ. Kāye balaṃ na hotīti etthāpi ‘‘gilānassevā’’ti padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Heṭṭhā catūhi padehi aphāsuvihārābhāvaṃ pucchitvā idāni phāsuvihārasabbhāvaṃ pucchati, tena saviseso phāsuvihāro pucchitoti daṭṭhabbo, asatipi atisayatthajotane sadde atisayatthassa labbhanato yathā ‘‘abhirūpāya deyyaṃ dātabba’’nti.
445. 「『私には一つの疑いがある』とは、この言葉によって、これから問われる問いが、彼によって既に準備されていたことを示している。「異種の受(Visabhāgavedanā)」とは、苦痛の受(dukkhavedanā)である。なぜなら、それは善業によって生じた自己において生じる楽受とは対立するものであるため、「異種の受」と呼ばれる。身体を強く捉え、害し、苦しめるので、「アーバーダ(病気)」とも呼ばれる。「一部分に生じて」とは、身体の一部に生じたものであっても、鉄の帯で縛られたように動かせない状態にするためである。これにより、重い病気が「アーバーダ」と呼ばれることを示している。「苦しい生活をもたらす」とは、不快な生活をもたらすことを意味し、これにより、弱くわずかな病気が「アータンカ(病)」と呼ばれることを示している。「ウッターナ(起き上がること)」とは、横になったり座ったりする状態から起き上がることである。それによって、身体を繰り返し自由に動かすことを意味する。「ガルカ(重い)」とは、困難を伴う、という意味である。「身体に力がない」という箇所にも、「病人のように」という語句を補って関連付けなければならない。下の四つの語句で不快な生活状態の有無を尋ねた後、今度は快適な生活状態の有無を尋ねている。それゆえ、特別な快適な生活状態が尋ねられていると理解すべきである。なぜなら、強調を示す語句がなくても、「美しい人に与えるべきである」というように、強調された意味が読み取られるからである。
447. Kālañca samayañca upādāyāti. Ettha kālo nāma upasaṅkamanassa yuttapattakālo. Samayo nāma tasseva paccayasāmaggī, atthato tajjaṃ sarīrabalañceva tappaccayaparissayābhāvo ca. Upādānaṃ nāma ñāṇena tesaṃ gahaṇaṃ sallakkhaṇanti dassetuṃ **‘‘kālañcā’’**tiādi vuttaṃ. Pharissatīti vaḍḍhissati.
447. 「時と状況に応じて(Kālañca samayañca upādāya)」とは。ここでの「時(kālo)」とは、近づくのに適切な時である。「状況(samayo)」とは、それに関する因縁の総体であり、実質的にはそれに適した身体の力と、その因縁によって生じる障害がないことである。「ウパーダーナ(執取)」とは、智慧によってそれらを把握し、よく観察することを示すために、「時と」などと述べられている。「フアリッサティ(増えるであろう)」とは、増大するであろうという意味である。
448. Cetiyaraṭṭheti cetiraṭṭhe. Ya-kārena hi padaṃ vaḍḍhetvā vuttaṃ. Cetiraṭṭhato aññaṃ visuṃyevekaṃ raṭṭhanti ca vadanti. Maraṇapaṭisaṃyuttanti maraṇaṃ nāma tādisānaṃ roga vaseneva hotīti yena rogena taṃ jātaṃ, tassa sarūpapucchā, kāraṇapucchā, maraṇahetukacittasantāpapucchā, tassa ca santāpassa sabbalokasādhāraṇatā, tathā maraṇassa ca appatikāratāti evaṃ ādinā maraṇapaṭisaṃyuttaṃ sammodanīyaṃ kathaṃ kathesīti dassetuṃ **‘‘bho ānandā’’**tiādi vuttaṃ. Na randhagavesī māro viya, na vīmaṃsanādhippāyo uttaramāṇavo viyāti adhippāyo. Yesu dhammesūti vimokkhupāyesu niyyānadhammesu. Dharantīti tiṭṭhanti, pavattantīti attho.
448. 「チェーティヤラッタにおいて(Cetiyaraṭṭheti)」とは、チェーティ国においてである。「ヤ(ya)」の音によって語が拡張されて述べられている。チェーティ国とは別の、独立した国であるとも言われる。「死に関連すること(Maraṇapaṭisaṃyuttaṃ)」とは、死とはそのような病気の原因によって生じるものであるから、その病気の性質、原因、死によって生じる心の苦悩、その苦悩が全世界に共通であること、そして死が避けられないこと、といった事柄に関連する「アーナンダよ」などと述べられているのは、死に関連した歓喜の説法を語ったことを示すためである。これは、マーラのように欠点を探す者ではなく、ウッタラ・マーナヴァのように調査しようとする意図ではないという意味である。「ヤ・ス・ダンメ・スー(これらの法において)」とは、解脱の手段である出離の法においてである。「ダランティ(存続する)」とは、存在するという意味であり、進行するという意味である。
449. Atthappayuttatāya saddapayogassa saddappabandhalakkhaṇāni tīṇi piṭakāni tadatthabhūtehi sīlādīhi dhammakkhandhehi saṅgayhantīti vuttaṃ **‘‘tīṇi piṭakāni tīhi khandhehi saṅgahetvā’’**ti. Saṅkhittena kathitanti ‘‘tiṇṇaṃ khandhāna’’nti evaṃ gahaṇato sāmaññato cāti saṅkhepeneva kathitaṃ. **‘‘Katamesaṃ tiṇṇa’’**nti ayaṃ adiṭṭhajotanā pucchā, na kathetukamyatā pucchāti vuttaṃ **‘‘vitthārato pucchissāmī ‘ti cintetvā ‘katamesaṃ tiṇṇa’nti āhā’’**ti. Kathetukamyatābhāve panassa therassa vacanatā siyā.
449. 「意味の用い方によって、言葉の表現、すなわち言葉の構成を特徴とする三つのピタカは、その意味の根底にある戒などといった法(dhamma)の集積によって包括される」と述べられているのは、「三つのピタカを三つの集積に集約して」である。「簡潔に説かれた」とは、「三つの集積」というように、一般的な捉え方として簡潔に説かれたのである。「これらの三つのうち、どれか(Katamesaṃ tiṇṇa)」とは、これはまだ見えていない事柄を照らし出す問いであり、話したいという意図からの問いではないと、「詳しく尋ねようと考え、『これらの三つのうち、どれか』と言った」と述べられている。もし話したいという意図がなければ、それは長老の言葉であったであろう。
450-453. Sīlakkhandhassāti ettha iti-saddo ādiattho, pakārattho vā, tena ‘‘ariyassa samādhikkhandhassa…pe… patiṭṭhāpesī’’ti ayaṃ ettako pāṭho dassitoti daṭṭhabbaṃ tenāha **‘‘tesu dassitesū’’**ti, uddesavasenāti adhippāyo. Bhagavatā vuttanayenevāti sāmaññaphaladesanādīsu bhagavatā desitanayeneva, tenassa suttassa satthubhāsitabhāvaṃ jinavacanabhāvaṃ dasseti. Sāsane na sīlameva sāroti ariyamaggasāre bhagavato sāsane yathā dassitaṃ sīlaṃ sāro eva na hoti sāravato mahato rukkhassa papaṭikaṭṭhāniyattā. Yadi evaṃ kasmā idha gahitanti āha **‘‘kevalañhetaṃ patiṭṭhāmattakamevā’’**ti. Jhānādiuttarimanussadhamme adhigantukāmassa adhiṭṭhānamattaṃ tattha appatiṭṭhitassa tesaṃ asambhavato. Atha vā na sīlameva sāroti kāmañcettha sāsane ‘‘maggasīlaṃ, phalasīla’’nti idaṃ lokuttarasīlampi sārameva, tathāpi na sīlakkhandho eva sāro atha kho samādhikkhandhopi paññākkhandhopi sāro evāti evamettha attho daṭṭhabbo. Purimo eva sāro, tenāha **‘‘ito uttarī’’**tiādi.
450-453. 「シーラッカンダッサ(戒蘊の)」とは、ここで「イティ(iti)」という語は「など」を意味するか、あるいは「様式」を意味する。それゆえ、「聖なる定蘊の……そして……確立した」というこれだけの語句が示されていると理解すべきである。それゆえ、「それら示されたものの中で」と説かれているのは、概略的な意味である。世尊が説かれた方法とは、沙門果の教えなどで世尊が説かれた方法そのものである。それゆえ、その経典が師(satthu)によって語られたものであること、すなわち聖者(jina)の言葉であることを示している。教えにおいて戒(sīla)のみが本質ではないとは、聖なる道の核心である世尊の教えにおいて示された戒は、大きな木の本質(sāro)が外皮のようなものであるように、本質そのものではない。もしそうであるなら、なぜここで取り上げられたのかというと、「これは単なる基盤にすぎない」と説かれている。禅定などの超人間的な法(uttarimanussadhammā)を得たいと願う者にとって、それは単なる基盤であり、そこに確立されていなければそれらは不可能であるからである。あるいは、戒のみが本質ではないとは、この教えの中には「道の戒、果の戒」という世間を超越した戒もまた本質であるとはいえ、戒蘊のみが本質なのではなく、定蘊も智慧蘊もまた本質であると、このようにここで意味を理解すべきである。前者こそが本質である。それゆえ、「これより先へ」などと説かれている。
454. Kasmā panettha thero samādhikkhandhaṃ puṭṭho indriyasaṃvarādike vissajjesi, nanu evaṃ sante aññaṃ puṭṭho aññaṃ byākaronto ambaṃ puṭṭho labujaṃ byākaronto viya hotīti īdisī codanā idha anokāsāti dassento ‘‘kathañca māṇava bhikkhu…pe… samādhikkhandhaṃ dassetukāmo **ārabhī’’**ti āha, tenettha indriyasaṃvarādayopi samādhiupakārataṃ upādāya samādhikkhandhapakkhikāni uddiṭṭhānīti dasseti rūpajjhānāneva āgatāni, na arūpajjhānāni rūpāvacaracatutthajjhānadesanānantaraṃ abhiññādesanāya avasaroti katvā. Rūpāvacaracatutthajjhānapādikā hi saparibhaṇḍā chapi abhiññāyo. Lokiyā abhiññā pana sijjhamānā yasmā aṭṭhasu samāpattīsu cuddasavidhena cittaparidamanena vinā na ijjhanti, tasmā abhiññāsu desiyamānāsu arūpajjhānānipi desitāneva honti nānantariyabhāvato, tenāha **‘‘ānetvā pana dīpetabbānī’’**ti. Vuttanayena desitāneva katvā saṃvaṇṇakehi pakāsetabbānīti attho. Aṭṭhakathāyaṃ pana ‘‘catutthajjhānaṃ upasampajja viharatī’’ti imināva arūpajjhānampi saṅgahitanti dassetuṃ **‘‘catutthajjhānena hī’’**tiādi vuttaṃ. Catutthajjhānañhi rūpavirāgabhāvanāvasena pavattaṃ ‘‘arūpajjhāna’’nti vuccatīti.
454. ここで長老は定蘊について尋ねられたのに、なぜ諸根の制御などを説明したのか。もしそうであるならば、別のことを尋ねられて別のことを答えるのは、マンゴーを尋ねられてパンノキを答えるようなものではないか、というような非難はここでは場違いであることを示すために、「比丘よ、バラモンよ、どのようにして…(略)…定蘊を示そうとして **始めたのか**」と言われた。それゆえ、ここにおいて諸根の制御なども、定の助けとなるがゆえに、定蘊に属するものとして挙げられていることを示し、色界第四禅の説示の後には神通の説示の機会があるとして、色界禅のみが来ているのであって、無色界禅は来ていない。実に、色界第四禅を基盤とするのは、付帯する六神通である。しかし、世俗の神通は、 八解脱における十四種の方法による心の制御なしには成就しないので、神通を説示する際には、必然的に無色界禅もまた説示されることになるから、「**持ってきた上で明らかにするべきである**」と言われた。述べられた方法で説示されたものとして注釈者によって明らかにされるべきである、という意味である。しかし、アッタカターにおいては、「第四禅に入って住する」というこの言葉によって、無色界禅もまた包含されていることを示すために、「**第四禅によってこそ**」などと述べられている。実に、第四禅は色への離欲の修行として行われる「無色界禅」と呼ばれるのである。
471-480. Na cittekaggatāmattakenevāti ettha heṭṭhā vuttanayānusārena attho veditabbo. Lokiyassa samādhikkhandhassa adhippetattā **‘‘na citte…pe… atthī’’**ti vuttaṃ. Ariya-saddo cettha suddhapariyāyo, na lokuttarapariyāyo. Tathā heṭṭhāpi lokiyābhiññāpaṭisambhidāhi vināva arahatte adhigate nattheva uttariṃkaraṇīyanti sakkā vattuṃ yadatthaṃ bhagavati brahmacariyaṃ vussati, tassa siddhattā. Idha pana lokiyābhiññāpi āgatā eva. Sesaṃ suviññeyyameva.
471-480. 「単なる心の一点集中だけではない」というここで、以前に述べられた方法に従って意味を理解すべきである。世俗の定蘊が意図されているため、「**心に…(略)…ない**」と述べられている。ここでの「聖」という言葉は、単なる純粋さの同義語であり、出世間の同義語ではない。同様に、以下においても、世俗の神通や弁舌がなくても阿羅漢果に到達すれば、それ以上なすべきことはないと述べることができる。なぜなら、世尊のもとで梵行が営まれる目的は達成されているからである。しかし、ここでは世俗の神通もまた含まれている。残りは容易に理解できるであろう。
Subhasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
スバスッタ(美に関する経)の注釈における隠された意味の解明。
481. Pāvārikambavaneti pāvārikaseṭṭhino ambabahule upavane. Taṃ kira so seṭṭhī bhagavato anucchavikaṃ gandhakuṭiṃ, bhikkhusaṅghassa ca rattiṭṭhānadivāṭṭhānakuṭimaṇḍapādīni sampādetvā pākāraparikkhittaṃ dvārakoṭṭhakasampannaṃ katvā buddhappamukhassa saṅghassa niyyātesi, purimavohārena pana ‘‘pāvārikambavana’’nti vuccati, tasmiṃ pāvārikambavane. Kevaṭṭoti idaṃ tassa nāmaṃ kevaṭṭehi saṃrakkhitattā, tesaṃ vā santike saṃvaḍḍhitattāti keci. ‘‘Gahapatiputtassā’’ti ettha kāmaṃ tadā so gahapatiṭṭhāne ṭhito, pitu panassa acirakālaṃkatatāya purimasamaññāya ‘‘gahapatiputto’’ tveva voharīyati, tenāha **‘‘gahapati mahāsālo’’**ti. Mahāvibhavatāya mahāsāro, gahapatīti attho ra-kārassa la-kāraṃ katvā ‘‘mahāsālo sukhumālo aha’’ntiādīsu (a. ni. 3.39) viya. Saddhāsampannoti pothujjanikāya saddhāya vasena saddhā samannāgato.
481. 「パーヴァーリカのマンゴー園にて」とは、 パーヴァーリカ長者のマンゴーが豊かな小園のことである。聞くところによると、その長者は、世尊にふさわしい香室と、比丘僧団のための夜間の滞在場所や日中の滞在場所となる小屋や堂などを備え、塀で囲み門を設けて、仏陀を初めとする僧団に寄進した。しかし、以前の通称によって「パーヴァーリカのマンゴー園」と呼ばれていた、そのパーヴァーリカのマンゴー園で、という意味である。「ケーヴァッタ」とは彼の名前であり、漁師たちによって守られていたから、あるいは彼らのもとで育ったから、と言う者もいる。「長者の息子」というここで、たとえその時彼が長者の地位にあったとしても、父親が最近亡くなったために、以前の呼称で「長者の息子」と呼ばれていたのである。それゆえ、「**大財主の長者**」と言われた。大いなる富を持つゆえに大財主であり、長者という意味である。「マハーサーロ・スクマーロー・アハン」(大財主で裕福な私)など(増支部3.39)のように、ラ行をラ行に変えて。「信心深く」とは、凡夫の信によって信心を備えている、ということである。
Samiddhāti sammadeva iddhā, iddhiyā vibhavasampattiyā vepullappattāti attho. ‘‘Ehi tvaṃ bhikkhu anvaddhamāsaṃ, anumāsaṃ, anusaṃvaccharaṃ vā manussānaṃ pasādāya iddhipāṭihāriyaṃ karohī’’ti ekassa bhikkhuno āṇāpanaṃ tasmiṃ ṭhāne tassa ṭhapanaṃ nāma hotīti āha **‘‘ṭhānantare ṭhapetū’’**ti. Uttarimanussānaṃ dhammatoti uttarimanussānaṃ buddhādīnaṃ adhigamadhammato. Niddhāraṇe cetaṃ nissakkaṃ. Iddhipāṭihāriyañhi tato niddhāreti. Manussadhammato uttarīti pakatimanussadhammato upari. Pajjalitapadīpoti pajjalanto padīpo.
「サミッダー」(繁栄した)とは、まさに繁栄しており、成功や富の豊かさを得た、という意味である。「比丘よ、来なさい。半月、または月ごと、あるいは年ごとに、人々の信仰のために神通の奇跡を行いなさい」と一人の比丘に命じることは、その地位に彼を任命することである、という意味で「**その地位に任命し**」と言われた。 「優れた人々の法とは」とは、仏陀などの優れた人々の悟りの法から、という意味である。そしてこれは、限定における奪格である。神通の奇跡は、そこから限定される。「人々の法を超越した」とは、通常の人間的な法を超越した、という意味である。「輝く灯火」とは、燃えている灯火である。
482. Na dhaṃsemīti guṇasampattito na cāvemi, tenāha **‘‘sīlabheda’’**ntiādi. Vissāsaṃ vaḍḍhetvā bhagavati attano vissatthabhāvaṃ brūhetvā vibhūtaṃ pākaṭaṃ katvā.
482. 「私は破壊しない」とは、徳の完成から離反させない、という意味である。それゆえ、「**戒の破戒**」などと言われた。信頼を深め、世尊に対する自身の親密な状態を表現し、明白にした上で。
483-4. Ādīnavanti dosaṃ. Gandhārīti cūḷagandhārī, mahāgandhārīti dve gandhārīvijjā. Tattha cūḷagandhārī nāma tivassato oraṃ matānaṃ sattānaṃ upapannaṭṭhānajānanavijjā. Mahāgandhārī tampi jānāti tato uttaripi iddhividhañāṇakappaṃ yebhuyyena iddhividhakiccaṃ sādheti. Tassā kira vijjāya sādhako puggalo tādise desakāle mantaṃ parijappitvā bahudhāpi attānaṃ dasseti, hatthiādīnipi dasseti, dassanīyopi hoti, aggithambhampi karoti, jalathambhampi karoti, ākāsepi attānaṃ dasseti. Sabbaṃ indajālasadisaṃ daṭṭhabbaṃ. Aṭṭoti dukkhito bādhito, tenāha **‘‘pīḷito’’**ti.
483-4. 「欠点」とは、 罪過のことである。「ガンダリー」とは、小ガンダリーと大ガンダリーの二つのガンダリーの術である。そのうち小ガンダリーとは、死んでから三年以内の衆生が転生した場所を知る術である。大ガンダリーはそれも知り、それ以上に神通の種類に関する知識と、おおよそ神通の行を成就させる。聞くところによると、その術の修行者は、そのような場所と時に真言を唱えることによって、自分自身を多種多様な姿で見せたり、象などを見せたり、魅力的になったり、火の柱を作ったり、水の柱を作ったり、空中にも自分自身を見せる。全ては幻術のようなものと見るべきである。「苦しむ」とは、苦痛を受けた、妨げられた、という意味である。それゆえ、「**苦しめられた**」と言われた。
485. Kāmaṃ **‘‘cetasika’’**nti padaṃ ye cetasi niyuttā cittena sampayuttā, tesaṃ sādhāraṇavacanaṃ, sādhāraṇe pana gahite cittaviseso gahitova hoti, sāmaññajotanā ca visese avatiṭṭhatīti cetasikaggahaṇassa adhippāyaṃ vivaranto **‘‘somanassadomanassaṃ adhippeta’’**nti āha. Somanassaggahaṇena cettha tadekaṭṭhā rāgādayo, saddhādayo ca dassitā honti, domanassaggahaṇena dosādayo. Vitakkavicārā pana sarūpeneva dassitā. Evaṃ tava manoti iminā ākārena tava mano pavattoti attho. Kena pakārena pavattoti āha **‘‘somanassito vā’’**tiādi. **‘‘Evaṃ tava mano’’**ti idaṃ pana somanassitatādimattadassanaṃ, na pana yena yena somanassito vā domanassito vā, taṃ taṃ dassanaṃ. Dutiyanti ‘‘itthampi te mano’’ti idaṃ. Itipīti ettha iti-saddo nidassanattho ‘‘atthīti kho, kaccāna, ayameko anto’’tiādīsu (saṃ. ni. 2.15; 3.90) viya, tenāha **‘‘imañca imañca atthaṃ cintayamāna’’**nti pi-saddo vuttatthasampiṇḍanattho. Parassa cintaṃ manati jānāti etenāti cintāmaṇi. Tassā kira vijjāya sādhako puggalo tādise desakāle mantaṃ parijappitvā yassa cittaṃ jānitukāmo, tassa diṭṭhasutādivisesasañjānanamukhena cittācāraṃ anuminanto kathetīti keci. Apare ‘‘vācaṃ niccharāpetvā tattha akkharasallakkhaṇavasenā’’ti vadanti.
485. たとえ「**心所**」という言葉が心に結びつき、心と相応するものの共通の言葉であるとしても、共通のものがとらえられれば、心の特別な状態もまたとらえられることになり、一般的な表現は特別な状態に適用される、という心所の把握の意図を説明して、「**喜と憂が意図されている**」と言われた。ここで喜の把握によって、それに伴う貪などの煩悩や信などの善法が示され、憂の把握によって瞋などが示される。尋(vitakka)と伺(vicāra)は、そのままの形で示されている。「このようにあなたの心は」とは、このような形であなたの心が動いている、という意味である 。どのような形で動いているのかを、「**喜んだり**」などと言われた。「**このようにあなたの心は**」というこれは、喜んだりすること自体を示すものであり、喜んだり憂いたりする具体的な対象を示すものではない。二つ目は「ここにおいてもあなたの心は」というこれである。「また」というここで「かくの如し」という言葉は、「カッチャーナよ、存在する、というこれこそ一つの極端である」など(相応部2.15; 3.90)のように、例示の意味である。それゆえ、「**これとこれの意味を思惟している**」と言われた。「ピ」という言葉は、述べられた意味をまとめる意味である。他人の心を知る、すなわちそれによって知るのが「チンターマニ」(如意宝珠)である。聞くところによると、その術の修行者は、そのような場所と時に真言を唱え、その心を知りたい相手が、見たり聞いたりしたことなどの特別な認識を通して、心の動きを 推測して語る、と言う者もいる。他の者たちは、「言葉を発させて、その中の文字を認識することによって」と言う。
486. Pavattentāti pavattanakā hutvā, pavattanavasenāti attho. **‘‘Eva’’**nti hi padaṃ yathānusiṭṭhāya anusāsaniyā vidhivasena, paṭisedhavasena ca pavattiākāraparāmasanaṃ, sā ca sammāvitakkānaṃ micchāvitakkānañca pavattiākāradassanavasena pavattati tattha ānisaṃsassa ādīnavassa ca vibhāvanatthaṃ. Aniccasaññameva na niccasaññanti attho. Paṭiyogīnivattanatthañhi eva-kāraggahaṇaṃ. Idhāpi evaṃ saddaggahaṇassa attho, payojanañca vuttanayeneva veditabbaṃ. Idaṃgahaṇepi eseva nayo. Pañcakāmaguṇikarāganti nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ, tadaññarāgassa, dosādīnañca pahānassa icchitattā, tappahānassa ca tadaññarāgādikhepanassa upāyabhāvato tathā vuttaṃ duṭṭhalohitavimocanassa pubbaduṭṭhamaṃsakhepanūpāyatā viya. Lokuttaradhammamevāti avadhāraṇaṃ paṭipakkhabhāvato sāvajjadhammanivattanaparaṃ daṭṭhabbaṃ tassādhigamūpāyānisaṃsabhūtānaṃ tadaññesaṃ anavajjadhammānaṃ nānantariyabhāvato. Iddhividhaṃ iddhipāṭihāriyanti dasseti iddhidassanena parasantāne pasādādīnaṃ paṭipakkhassa haraṇato. Iminā nayena sesapadadvayepi attho veditabbo. Satataṃ dhammadesanāti sabbakālaṃ desetabbadhammadesanā.
486. 「生じさせる」とは、生じさせる者となって、生じさせる方法で、という意味である。「**のみ**」という言葉は、教えられた 教戒の規定の方法と、禁止の方法における発生の様相を示すものである。そしてそれは、正思惟と邪思惟の発生の様相を示すことによって、その中に利益と欠点を明らかにすることによって行われる。「無常の認識のみであり、常住の認識ではない」という意味である。対立物を排除するために、「のみ」という言葉が取られている。ここでも「のみ」という言葉の意義と目的は、述べられた方法によって理解されるべきである。この「これ」という言葉の把握においても同じ方法である。「五欲に関する貪欲」とは、単なる例示と見るべきである。なぜなら、それ以外の貪欲や瞋などをも放棄することが望ましく、その放棄が、それ以外の貪欲などを排除する手段となるからである。それは、悪い血を排出することが、以前の悪い肉を排除する手段となるようなものである 。「出世間の法のみ」という限定は、対立する有罪の法を排除することを目的としていると見るべきである。なぜなら、その悟りの手段であり利益となる、それ以外の無罪の法が必然的に伴うからである。「種々の神通」とは神通の奇跡を示す。神通を示すことによって、他者の心の中の信仰などの対立物を除去するからである。この方法によって、残りの二つの言葉の意味も理解されるべきである。「常に法を説くこと」とは、常に説かれるべき法を説くことである。
Iddhipāṭihāriyenāti sahayoge karaṇavacanaṃ, iddhipāṭihāriyena saddhinti attho. Ādesanāpāṭihāriyenāti etthāpi eseva nayo. Dhammasenāpatissa āciṇṇanti yojanā. **‘‘Cittācāraṃ ñatvā’’**ti iminā ādesanāpāṭihāriyaṃ dasseti. **‘‘Dhammaṃ desesī’’**ti iminā anusāsanīpāṭihāriyaṃ **‘‘buddhānaṃ satataṃ dhammadesanā’’**ti anusāsanīpāṭihāriyassa tattha sātisayatāya vuttaṃ. Saupārambhāni patirūpena upārambhitabbato. Sadosāni dosasamucchindanassa anupāyabhāvato. Sadosattā eva addhānaṃ na tiṭṭhanti cirakālaṭṭhāyīni na honti. Addhānaṃ atiṭṭhanato na niyyantīti phalena hetuno anumānaṃ. Aniyyānikatāya hi tāni anaddhaniyāni. Anusāsanīpāṭihāriyaṃ anupārambhaṃ visuddhippabhavato, visuddhinissayato ca. Tato eva niddosaṃ. Na hi tattha pubbāparavirodhādidosasambhavo. Niddosattā eva addhānaṃ tiṭṭhati paravādavātehi, kilesavātehi ca anupahantabbato. Tasmāti yathāvuttakāraṇato, tena saupārambhādiṃ, anupārambhādiṃ cāti ubhayaṃ ubhayattha yathākkamaṃ gārayhapāsaṃsabhāvānaṃ hetubhāvena paccāmasati.
「神通の奇跡によって」とは、共同における具格表現であり、神通の奇跡を伴って、という意味である。他心智の奇跡によっても、ここでも同様である。法将軍(サーリプッタ)の慣習である、という解釈である。「**心の動きを知って**」というこの言葉によって、他心智の奇跡を示す。「**法を説いた**」というこの言葉によって教戒の奇跡を示す。「**仏陀の常に法を説くこと**」とは、教戒の奇跡がその中で最も優れているため、そのように述べられた。「批判を伴う」とは、ふさわしい形で批判されるべきであるから。「欠点を持つ」とは、煩悩を根絶する手段ではないから。欠点を持つがゆえに、長くは続かず、長期間持続しない。長く続かないことから、解脱に導かないというのは、結果から原因への推論である。なぜなら、それらは解脱に導かないがゆえに、長続きしないからである。教戒の奇跡は、純粋さから生じ、純粋さに依拠しているがゆえに、 批判を伴わない。そのゆえに欠点がない。そこには前後の矛盾などの欠点が存在しないからである。欠点がないがゆえに、外道の論争の風や煩悩の風によって害されることがないから、長く続く。それゆえに、述べられた理由から、批判を伴うものなどと批判を伴わないものなどと、両者をそれぞれ非難すべき状態と称賛すべき状態の原因として示している。
487. Aniyyānikabhāvadassanatthanti yasmā mahābhūtapariyesako bhikkhu purimesu dvīsu pāṭihāriyesu vasippatto kusalopi samāno mahābhūtānaṃ aparisesanirodhasaṅkhātaṃ nibbānaṃ nāvabujjhi, tasmā tāni niyyānāvahatābhāvato aniyyānikānīti tesaṃ aniyyānikabhāvadassanatthaṃ. Tatiyaṃ pana takkarassa ekantato niyyānāvahanti tasseva niyyānikabhāvadassanatthaṃ.
487. 「解脱に導かない性質を示すため」とは、 諸大元素を究明する比丘が、以前の二つの奇跡において自在を得て巧みであったにもかかわらず、諸大元素の残余なき消滅であるニルヴァーナを理解しなかったがゆえに 、それらが解脱に導く性質を持たない、すなわち解脱に導かないものであるという、それらの解脱に導かない性質を示すためである。しかし、第三の教戒の奇跡は、それを行う者にとって確実に解脱に導くものである。その解脱に導く性質を示すためである。
Evametissā desanāya mukhyapayojanaṃ dassetvā idāni anusaṅgikampi dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi āraddhaṃ. Mahābhūte pariyesantoti aparisesaṃ nirujjhanavasena mahābhūte gavesanto, tesaṃ anavasesanirodhaṃ vīmaṃsantoti attho. Vicaritvāti dhammatāya codiyamāno vicaritvā. Dhammatāsiddhaṃ kiretaṃ, yadidaṃ tassa bhikkhuno tathā vicaraṇaṃ, yathā abhijātiyaṃ mahāpathavikampādi. Mahantabhāvappakāsanatthanti sadevake loke anaññasādhāraṇassa buddhānaṃ mahantabhāvassa mahānubhāvatāya dīpanatthaṃ. Idañca kāraṇanti sabbesampi buddhānaṃ sāsane īdiso eko bhikkhu tadānubhāvappakāsano hotīti idampi kāraṇaṃ dassento.
この説法の主要な目的をこのように示した後、今度は付随的な目的も示すために、「**また**」などが開始された。「諸大元素を究明する」とは、残余なく消滅する形で諸大元素を求めること、それらの残余なき消滅を考察する、という意味である。「遍歴して」とは、法によって促されて遍歴して、という意味である。聞くところによると、その比丘がそのように遍歴することは、大地動乱などが生まれることと同様に、法によって確立されている。「偉大さを示すため」とは、神々を含む世において、他には類を見ない仏陀たちの偉大さ、すなわち大威力を示すためである。「これもまた理由である」とは、すべての仏陀の教えにおいて、そのような一人の比丘がその威力を示すことは、これもまた理由である、ということを示しながら。
Katthāti nimitte bhummaṃ, tasmā katthāti kismiṃ ṭhāne kāraṇabhūte. Kiṃ āgammāti kiṃ ārammaṇaṃ paccayabhūtaṃ adhigantvā, tenāha **‘‘kiṃ pattassā’’**ti. Teti mahābhūtā. Appavattivasenāti anuppajjanavasena. Sabbākārenāti vacanatthalakkhaṇādisamuṭṭhānakalāpacuṇṇanānattekattavinibbhogāvinibbhoga- sabhāgavisabhāgaajjhattikabāhirasaṅgahapaccayasamannāhārapaccayavibhāgākārato, sasambhārasaṅkhepasasambhāravibhattisalakkhaṇasaṅkhepasalakkhaṇavibhattiākārato cāti sabbena ākārena.
「何処に」とは、場所における処格であり、それゆえ「何処に」とは、原因となるどのような場所に、という意味である。「何を基として」とは、どのような対象を原因として理解して、という意味である。それゆえ、「**何を得た者の**」と言われた。それらは諸大元素である。「不活動の形で」とは、生じない形で、という意味である。「あらゆる形で」とは、言葉の意味や特徴など、生起する集合体、粉砕、多様性と不可分性、同類と異類、内的なものと外的なものの摂受、縁起の摂受と縁の区別の形から、そして資材の概要、資材の分類、特徴の概要、特徴の分類の形から、すなわちあらゆる形で、という意味である。
488. Dibbanti ettha pañcahi kāmaguṇehi samaṅgībhūtā hutvā vicaranti, kīḷanti, jotanti cāti devo, devaloko. Taṃ yanti upagacchanti etenāti devayāniyo. Vasaṃ vattentoti ettha vasavattanaṃ nāma yathicchitaṭṭhānagamanaṃ. Cattāro mahārājāno etesaṃ issarāti cātumahārājikā yā devatā maggaphalalābhino tā tamatthaṃ ekadesena jāneyyuṃ buddhavisayo panāyaṃ pañhoti cintetvā ‘‘na jānāmā’’ti āhaṃsu, tenāha **‘‘buddhavisaye’’**tiādi. Ajjhottharaṇaṃ nāmettha nippīḷananti āha **‘‘punappunaṃ pucchatī’’**ti. Abhikkantatarāti rūpasampattiyā ceva paññāpaṭibhānādiguṇehi ca amhe abhibhuyya paresaṃ kāmanīyatarā. Paṇītatarāti uḷāratarā, tenāha **‘‘uttamatarā’’**ti.
488. ここで「神聖な」とは、五つの欲の対象によって豊かになり、さまよい、遊び、輝いているという意味で、天、天界のことである。それに行き、それに近づくもの、それが天道(devayāniyo)である。ここで「意のままになる」とは、望む場所へ行くことである。四大王がこれらの主である四天王天の神々は、道と果の利益を得た者であり、その意味の一部を知っているが、これは仏の領域の問いであると考え、「私たちは知りません」と答えた。それゆえ「仏の領域において」などと説かれている。ここで「覆い尽くす」とは、圧迫する、という意味で、「繰り返し尋ねる」と説かれている。「より優れている」とは、容姿の美しさ、知恵や洞察力などの点で私たちを凌駕し、他人からより望まれる、ということである。「より殊勝である」とは、より崇高であるという意味で、「最も優れている」と説かれている。
491-3. Devayāniyasadiso iddhividhañāṇasseva adhippetattā. **‘‘Devayāniyamaggoti vā …pe… sabbametaṃ iddhividhañāṇasseva nāma’’**nti idaṃ pāḷiyaṃ aṭṭhakathāsu ca tattha tattha āgataruḷhivasena vuttaṃ.
491-3. 天道に似たものは、神変智にのみ意図されているからである。「あるいは天道の道は…中略…これらすべては神変智の名である」というこの文言は、パーリ聖典や注釈書において、その都度現れる慣習によって述べられている。
494. Āgamanapubbabhāge nimittanti brahmuno āgamanassa pubbabhāge uppajjananimittaṃ. Pāturahosīti āvi bhavi. Pākaṭo ahosīti pakāso ahosi.
494.「到来の前の徴候」とは、梵天の到来の前に現れる徴候のことである。「出現した」とは、顕現したという意味である。「明らかになった」とは、公になったという意味である。
497. Padesenāti ekadesena, upādinnakavasena, sattasantānapariyāpannenāti attho. Anupādinnakepīti anindriyabaddhepi. Nippadesato anavasesato. Pucchāmūḷhassāti pucchituṃ ajānantassa. Pucchāya dosaṃ dassetvāti tena katapucchāya pucchitākāre dosaṃ vibhāvetvā. Yasmā vissajjanaṃ nāma pucchānurūpaṃ pucchāsabhāgena vissajjetabbato, na ca tathāgatā virajjhitvā katapucchānurūpaṃ vissajjenti, atthasabhāgatāya ca vissajjanassa pucchakā tadatthaṃ anavabujjhantā sammuyhanti, tasmā pucchāya sikkhāpanaṃ buddhāciṇṇaṃ, tenāha **‘‘pucchaṃ sikkhāpetvā’’**tiādi.
497.「部分的に」とは、一部によって、受取られたものとして、つまり衆生の心身の流れに属する、という意味である。「受取られないものにおいても」とは、感覚器官に縛られないものにおいても、である。「部分なく」とは、残さず、である。「問いに迷う者」とは、問うことを知らない者、である。「問いの欠点を示す」とは、彼がなした問いの問う様式の欠点を明らかにする、である。なぜなら、返答とは問いに応じたものであり、問いの性質に従って返答されるべきであるからだが、如来は誤ってなされた問いに応じて返答することはなく、また、返答がその意味の性質を持つため、尋ねる者がその意味を理解せず、迷ってしまうので、問いを教え諭すことは仏たちの慣習である。それゆえ、「問いを教え諭して」などと説かれている。
498. Appatiṭṭhāti appaccayā, sabbaso samucchinnakāraṇāti attho. Upādinnaṃ yevāti indriyabaddhameva. Yasmā ekadisābhimukhaṃ santānavasena saṇṭhite rūpappabandhe dīghasamaññā taṃ upādāya tato appake rassasamaññā tadubhayañca visesato rūpaggahaṇamukhena gayhati, tasmā āha **‘‘dīghañca rassañcāti saṇṭhānavasena upādārūpaṃ vutta’’**nti. Appaparimāṇe rūpasaṅghāte aṇusamaññā, taṃ upādāya tato mahati thūlasamaññā. Idampi dvayaṃ visesato rūpaggahaṇamukhena gayhati, tenāha **‘‘imināpī’’**tiādi. Pi-saddena cettha ‘‘saṇṭhānavasena upādārūpaṃ vutta’’nti etthāpi vaṇṇamattameva kathitanti imamatthaṃ samuccinatīti vadanti. Subhanti sundaraṃ, iṭṭhanti attho. Asubhanti asundaraṃ, aniṭṭhanti vuttaṃ hoti. Tenevāha **‘‘iṭṭhāniṭṭhārammaṇaṃ panevaṃ kathita’’**nti. Dīghaṃ rassaṃ, aṇuṃ thūlaṃ, subhāsubhanti tīsu ṭhānesu upādārūpasseva gahaṇaṃ, bhūtarūpānaṃ visuṃ gahitattā. Nāmanti vedanādikkhandhacatukkaṃ tañhi ārammaṇābhimukhaṃ namanato, nāmakaraṇato ca ‘‘nāma’’nti vuccati. Heṭṭhā ‘‘dīghaṃ rassa’’ntiādinā vuttameva idha ruppanaṭṭhena ‘‘rūpa’’nti gahitanti āha **‘‘dīghādibhedaṃ rūpañcā’’**ti. Dīghādīti ca ādi-saddena āpādīnañca saṅgaho daṭṭhabbo. Yasmā vā dīghādisamaññā na rūpāyatanavatthukāva, atha kho bhūtarūpavatthukāpi. Tathā hi saṇṭhānaṃ phusanamukhenapi gayhati, tasmā dīgharassādiggahaṇena bhūtarūpampi gayhatevāti ‘‘dīghādibhedaṃ rūpa’’micceva vuttaṃ. Kiṃ āgammāti kiṃ adhigantvā kissa adhigamahetu. **‘‘Uparujjhatī’’**ti idaṃ anuppādanirodhaṃ sandhāya vuttaṃ, na khaṇanirodhanti āha **‘‘asesametaṃ nappavattatī’’**ti.
498.「依拠するところがない」とは、条件がない、原因がすべて断ち切られている、という意味である。「受取られたもののみ」とは、感覚器官に縛られたもののみ、である。なぜなら、ある方向に向かって連続して存在する物質の連なりにおいて、「長い」という概念はそれを根拠とし、それよりも少ないものには「短い」という概念があるが、その両方は特に物質の把握という観点から捉えられるからである。それゆえ「長いと短いとは、形態の観点から取られた受取られた物質を述べたものである」と説かれている。少量で無限の物質の集合体には「微細な」という概念があり、それを根拠としてそれより大きなものには「粗大な」という概念がある。この二つもまた、特に物質の把握という観点から捉えられる。それゆえ「これによっても」などと説かれている。ここで「pi」という言葉によって「形態の観点から取られた受取られた物質を述べた」という箇所でも、色のみが述べられているというこの意味を網羅している、と人々は言う。「美しい」とは、良い、望ましいという意味である。「醜い」とは、良くない、望ましくない、という意味である。それゆえ「このように、望ましい対象と望ましくない対象とが述べられている」と説かれている。長い、短い、微細な、粗大な、美しい、醜い、という三つの箇所では、受取られた物質のみが把握されており、四大要素の物質は別に把握されているからである。「名」とは受などの四つの蘊であり、それらは対象に向かって傾くことから、また命名されることから「名」と呼ばれる。下に「長い、短い」などとして述べられたものと同じものが、ここでは壊れるという意味で「色」と捉えられていると説き、「長いなどの区別のある色もまた」と述べている。「長いなど」の「など」の語によって、水なども含むと理解すべきである。なぜなら、長いなどの概念は、ただ色処を根拠とするだけでなく、四大要素を根拠とすることもあるからである。そのように、形は接触という観点からも捉えられるため、長い短いなどを捉えることによって、四大要素の物質もまた捉えられるから、「長いなどの区別のある色」と述べられているのである。「何に基づいて」とは、何に到達して、何の到達が原因で、という意味である。「止滅する」というこれは、不生不滅を指して述べられており、刹那滅ではないと説き、「これらすべては完全に生起しない」と述べている。
499. Viññātabbanti visiṭṭhena ñātabbaṃ, ñāṇuttamena ariyamaggañāṇena paccakkhato jānitabbanti attho, tenāha **‘‘nibbānassetaṃ nāma’’**nti. Nidissatīti nidassanaṃ, cakkhuviññeyyaṃ. Na nidassanaṃ anidassanaṃ, acakkhuviññeyyanti etamatthaṃ vadanti. Nidassanaṃ vā upamā, taṃ etassa natthīti anidassanaṃ. Na hi nibbānassa niccassa ekassa accantasantapaṇītasabhāvassa sadisaṃ nidassanaṃ kutoci labbhatīti. Yaṃ ahutvā sambhoti, hutvā paṭiveti taṃ saṅkhataṃ udayavayantehi saantaṃ, asaṅkhatassa pana nibbānassa niccassa te ubhopi antā na santi, tato eva navabhāvāpagamasaṅkhāto jarantopi tassa natthīti āha **‘‘uppādanto…pe… ananta’’**nti. ‘‘Titthassa nāma’’nti vatvā tattha nibbacanaṃ dassetuṃ **‘‘papanti etthāti papa’’**nti vuttaṃ. Ettha hi papanti pānatitthaṃ. Bha-kāro kato niruttinayena. Visuddhaṭṭhena vā sabbatopabhaṃ, kenaci anupakkiliṭṭhatāya samantato pabhassaranti attho. Yena nibbānaṃ adhigataṃ, taṃ santatipariyāpannānaṃyeva idha anuppādanirodho adhippetoti vuttaṃ **‘‘upādinnakadhammajātaṃ nirujjhati appavattaṃ hotī’’**ti.
499.「識知されるべきもの」とは、特別な智慧によって知られるべきもの、最高の智慧である聖道智によって直接知られるべきもの、という意味である。それゆえ「これはニルヴァーナの名である」と説かれている。「示される」とは、示すもの、眼識によって知覚されるもの。示されないものとは、眼識によって知覚されないもの、とこの意味を人々は言う。あるいは、示されるものとは比喩であり、それがこのニルヴァーナにはない、ゆえに「無示現」である。実際、常であり、唯一であり、極めて安穏で殊勝な本性を持つニルヴァーナに似た例はどこからも得られないからである。存在せずして生じ、存在して消滅するものは「有為」であり、生滅の終りを持つ。しかし、無為なるニルヴァーナは常であるから、それら両方の終りはなく、それゆえ新しい状態から離れることとして数えられる老いることもまた、それにはないと説き、「生じること…中略…無限」と述べている。「堤の名」と述べて、その語源を示すために、「ここで飲まれるゆえに堤である」と述べられている。ここで「papanti」とは、飲用の堤である。「bha」音は語源学の規則によって作られている。あるいは、清浄であるという意味で、あらゆる面で輝かしく、何によっても汚されないため、あらゆる方向で光り輝く、という意味である。ニルヴァーナが到達されたことによって、ここでは連続体に属するもののみが不生不滅となることが意図されているため、「取られた法は滅し、生起しなくなる」と述べられている。
Tatthāti ‘‘viññāṇassa nirodhenā’’ti yaṃ padaṃ vuttaṃ, tasmiṃ. **‘‘Viññāṇa’’**nti viññāṇaṃ uddharati vibhattabbattā etthetaṃ uparujjhatīti etasmiṃ nibbāne etaṃ nāmarūpaṃ carimakaviññāṇanirodhena anuppādavasena nirujjhati anupādisesāya nibbānadhātuyā, tenāha **‘‘vijjhātadīpasikhā viya apaṇṇattikabhāvaṃ yātī’’**ti. ‘‘Carimakaviññāṇa’’nti hi arahato cuticittaṃ adhippetaṃ. **‘‘Abhisaṅkhāraviññāṇassāpī’’**tiādināpi saupādisesanibbānamukhena anupādisesanibbānameva vadati nāmarūpassa anavasesato uparujjhanassa adhippetattā, tenāha **‘‘anuppādavasena uparujjhatī’’**ti. Sotāpattimaggañāṇenāti kattari, karaṇe vā karaṇavacanaṃ. Nirodhenāti pana hetumhi. Etthāti etasmiṃ nibbāne. Sesamettha yaṃ atthato na vibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.
「そこで」とは、「識の滅によって」と述べられた語の、その箇所において。「識」とは識を挙げる。別々に説明されているので、ここで止滅する。このニルヴァーナにおいて、この名色は最後の識の滅によって、生起しないという形で、無余涅槃の界において滅する。それゆえ「消えた燈火の炎のように、概念の対象でなくなる」と説かれている。実際、「最後の識」とは阿羅漢の死の心を意図している。「行作識もまた」などによっても、有余涅槃を入り口として無余涅槃を述べている。なぜなら、名色が残さず止滅することが意図されているため、それゆえ「不生という形で止滅する」と説かれている。「預流道智によって」とは、主体(主格)として、あるいは手段(具格)として、具格の語である。「滅によって」とは、原因において。「そこで」とは、このニルヴァーナにおいて。ここで意味において分けられていない残りの部分は、容易に理解できる。
Kevaṭṭasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
ケヴァッタ経註釈における隠れた意味の解明。
501. Sālavatikāti itthiliṅgavasena tassa gāmassa nāmaṃ. Gāmaṇikābhāvenāti keci. Lohito nāma tassa kule pubbapuriso, tassa vasena lohiccoti tassa brāhmaṇassa gottato āgataṃ nāmaṃ.
501.「サーラヴァティカー」とは、女性名詞としてその村の名である。ある人々は「村の指導者がいないので」と言う。ロヒタという名の先祖がその家系にいて、その人にちなんで「ロヒッチャ」と、その婆羅門の姓から来ている名である。
502. ‘‘Diṭṭhigata’’nti laddhimattaṃ adhippetanti āha **‘‘na pana ucchedasassatānaṃ aññatara’’**nti. Na hi ucchedasassatagāhavinimutto koci diṭṭhigāho atthi. **‘‘Bhāsati yevā’’**ti tassā laddhiyā loke pākaṭabhāvaṃ dasseti. Attato añño paroti yathā anusāsakato anusāsitabbo paro, evaṃ anusāsitabbatopi anusāsako paroti vuttaṃ **‘‘paro parassāti paro yo’’**tiādi. Kiṃ-saddāpekkhāya cettha **‘‘karissatī’’**ti anāgatakālavacanaṃ, anāgatepi vā tena tassa kātabbaṃ natthīti dassanatthaṃ. Kusalaṃ dhammanti anavajjadhammaṃ nikkilesadhammaṃ vimokkhadhammanti attho. ‘‘Paresaṃ dhammaṃ kathessāmī’’ti tehi attānaṃ parivārāpetvā vicaraṇaṃ kiṃ atthiyaṃ āsayabuddhassāpi anurodhena vinā taṃ na hotīti tasmā attanā paṭiladdhaṃ…pe… vihātabbanti vadati. Tenāha ‘‘evaṃ sampadamidaṃ pāpakaṃ lobhadhammaṃ vadāmī’’ti.
502.「見解」とは、単なる学説を意図していると説き、「断見や常住見のいずれでもない」と述べている。実際、断見や常住見の執着から解放されたいかなる見解の執着も存在しない。「説くばかりである」とは、その学説が世に広く知られていることを示す。「自分とは異なる他人」とは、指導者にとって指導されるべき他人がいるように、指導されるべき者にとっても指導者が他人であるという意味で、「他人にとっての他人とは、他人であるところの者」などと説かれている。ここで「何」という語の期待に対して「行うだろう」とは未来時制の言葉であり、あるいは未来においても彼にとってなされるべきことがないことを示すためである。「善い法」とは、非難されるべきでない法、煩悩のない法、解脱の法、という意味である。「人々に法を説こう」といって、彼らによって自分を取り囲ませて歩き回ることは、意図の賢い者でさえも、それに従わなければそのようなことにはならないので、それゆえ自分が得たものを…中略…住すべきである、と説く。それゆえ「このように、この悪しき貪りの法を私は説く」と述べられている。
504. Soti lohicco brāhmaṇo.
504.「彼」とは、ロヒッチャ婆羅門のことである。
508. Kathāphāsukatthanti kathāsukhatthaṃ, sukhena kathaṃ kathetuñceva sotuñcāti attho. Appeva nāma siyāti ettha pītivasena āmeḍitaṃ daṭṭhabbaṃ. Tathā hi taṃ ‘‘buddhagajjita’’nti vuccati. Bhagavā hi īdisesu ṭhānesu visesato pītisomanassajāto hoti. Tenāha **‘‘ayaṃ kirettha adhippāyo’’**tiādi.
508.「談話の便宜のため」とは、談話が容易になること、容易に話したり聞いたりできる、という意味である。「まさしくそうであろう」とは、ここで喜びを込めて繰り返されたものと理解すべきである。そのように、それは「仏の獅子吼」と呼ばれる。実際、世尊はこのような場所で特に喜びと歓喜を生じる。それゆえ「これがここでは意図されている」などと説かれている。
509. Samudayasañjātīti āyuppādo. Anupubbo kampī-saddo ākaṅkhanattho hotīti **‘‘icchatīti attho’’**ti vuttaṃ. Sātisayena vā hitena anukampako anuggaṇhanako hitānukampī. Sampajjatīti āsevanalābhena nippajjati balavatī hoti, avaggahāti attho, tenāha **‘‘niyatā hotī’’**ti. Niraye nibbattati micchādiṭṭhiko.
509.「生起、発生」とは、寿命の発生のことである。「順序だてて振動する」という言葉は、希求する意味であるので、「望むという意味である」と述べられている。あるいは、格別に利益によって憐れみ、助け導く者が「利益をもって憐れむ者」である。「達成される」とは、習い得ることによって成就し、強固になる、確立されるという意味である。それゆえ「定まる」と説かれている。邪見者は地獄に生まれる。
510-11. Dutiyaṃ upapattinti ‘‘nanu rājā pasenadī kosalo’’tiādinā dutiyaṃ upapattiṃ sādhanayuttiṃ. Kāraṇañhi bhagavā upamāmukhena dasseti. Ye cimeti ye ca ime kulaputtā dibbā gabbhā paripācentīti yojanā. Asakkuṇantā upanissayasampattiyā, ñāṇaparipākassa vā abhāvena. Ye pana ‘‘paripaccantī’’ti paṭhanti, tesaṃ ‘‘dibbe gabbhe’’ti vacanavipallāsena payojanaṃ natthi. Attho ca dutiyavikappe vuttanayena veditabbo. Ahitānukampitā ca taṃsamaṅgisattavasena. Divi bhavāti dibbā. Gabbhenti paripaccanavasena santānaṃ pabandhentīti gabbhā. ‘‘Channaṃ devalokāna’’nti nidassanavacanametaṃ. Brahmalokassāpi hi dibbagabbhabhāvo labbhateva dibbavihārahetukattā. Evañca katvā ‘‘bhāvanaṃ bhāvayamānā’’ti idampi vacanaṃ samatthitaṃ hoti. Bhavanti ettha yathāruci sukhasamappitāti bhavā, vimānāni. Devabhāvāvahattā dibbā. Vuttanayeneva gabbhā. Dānādayo devalokasaṃvattaniyapuññavisesā. Dibbā bhavāti devalokapariyāpannā upapattibhavā. Tadāvaho hi kammabhavo pubbe gahito.
510-11.「第二の論証」とは、「コーサラ国のパセーナディ王ではないか」などによって、第二の論証の論理である。実際、世尊は比喩を介して原因を示す。「そしてこれらは」とは、「そしてこれら貴族の子らは、天界の胎に成熟させる」と連結する。依処具足ができないため、あるいは智慧の成熟がないためである。しかし、「成熟する」と読む者たちにとっては、「天界の胎において」という語順の変更には意味がない。意味は第二の選択肢で述べられた方法で理解されるべきである。また、不利益をもって憐れむこととは、それらを具備した衆生による。天界に生じるゆえに「天界の」である。成熟させることによって連続体を結びつけるゆえに「胎」である。「六つの天界の」とは、例証の言葉である。実際、梵天界もまた、天界の住処が原因であるため、天界の胎であると得られる。そしてこのように、「修習を修習する」というこの言葉もまた裏付けられている。ここで意のままに安楽が与えられるゆえに「生」であり、宮殿である。神の状態をもたらすゆえに「天界の」である。述べられた方法によって「胎」である。施しなどは、天界に導く特定の功徳である。「天界の生」とは、天界に属する再生の生である。実際、それをもたらす業の生は以前に取られたものである。
513. Aniyamitenevāti aniyameneva ‘‘tvaṃ evaṃdiṭṭhiko evaṃ sattānaṃ anatthassa kārako’’ti evaṃ anuddesikeneva. Mānanti ‘‘ahametaṃ jānāmi, ahametaṃ passāmī’’ti evaṃ paṇḍitamānaṃ. Bhinditvāti vidhametvā, jahāpetvāti attho. Tayo satthāreti asampāditaattahito anovādakarasāvako, asampāditaattahito ovādakarasāvako, sampāditaattahito anovādakarasāvakoti ime tayo satthāre. Catuttho pana sammāsambuddho na codanāraho hotīti ‘‘tena pucchite eva kathessāmī’’ti codanārahe tayo satthāre paṭhamaṃ dassesi, pacchā catutthaṃsatthāraṃ. Kāmañcettha catuttho satthā eko adutiyo anaññasādhāraṇo, tathāpi so yesaṃ uttarimanussadhammānaṃ vasena ‘‘dhammamayo kāyo’’ti vuccati, tesaṃ samudāyabhūtopi te guṇāvayave satthuṭṭhāniye katvā dassento bhagavā ‘‘ayampi kho, lohicca, satthā’’ti abhāsi.
513.「限定されないまま」とは、限定されないままで、「汝はそのような見解を持ち、そのような衆生の不幸の原因である」というように、特定されずに、である。「慢」とは、「私はこれを知る、私はこれを見る」というような賢い者としての慢である。「打ち破って」とは、打破して、放棄させて、という意味である。三人の師とは、自己の利益を成就していない助言しない弟子、自己の利益を成就していない助言する弟子、自己の利益を成就した助言しない弟子、これら三人の師である。しかし第四の正等覚者は叱責されるべきではないので、「彼が尋ねたら教えよう」といって、まず叱責されるべき三人の師を示し、後から第四の師を示した。確かに、ここでは第四の師は唯一無二であり、他の者と共通しない。しかし、彼が「法身」と呼ばれるのは、彼が持つ超越的な人間の法々によってであり、それらの集合体であるとしても、世尊はそれらの属性(部分)を師の立場にあるものとして示しながら、「ロヒッチャよ、この者もまた師である」と語ったのである。
Aññāti ya-kāralopena niddeso ‘‘sayaṃ abhiññā’’ti ādīsu (dī. ni. 1.28, 37, 52; ma. ni. 1.284; 2.341; a. ni. 2.5; 10.11; mahāva. 11; dha. pa. 353; kathā. 405) viya. Aññāyāti ca tadatthiye sampadānavacananti āha **‘‘ājānanatthāyā’’**ti. Sāvakattaṃ paṭijānitvā ṭhitattā ekadesenassa sāsanaṃ karontīti āha **‘‘nirantaraṃ tassa sāsanaṃ akatvā’’**ti. Ukkamitvā vattantīti yathicchitaṃ karontīti attho. Paṭikkamantiyāti anabhiratiyā agāravena apagacchantiyā, tenāha **‘‘anicchantiyā’’**tiādi. Ekāyāti ekāya itthiyā. Eko iccheyyāti eko puriso tāya anicchantiyā sampayogaṃ kāmeyya. Osakkanādimukhena itthipurisasambandhanidassanaṃ gehasitaapekkhāvasena tassa satthuno sāvakesu paṭipattīti dasseti. Ativiya virattabhāvato daṭṭhumpi anicchamānaṃ. Lobhenāti parivāravasena uppajjanakalābhasakkāralobhena. Tattha sampādehīti tasmiṃ paṭipattidhamme patiṭṭhitaṃ katvā sampādehi. Ujuṃ karohi kāyavaṅkādivigamena.
「アニャーティ」とは、「サヤン・アビニャー」(長部1.28, 37, 52; 中部1.284; 2.341; 増支部2.5; 10.11; 大品11; 法句経353; 施設論405)などのように、ヤ・カーラ音の脱落によって示される。また、「アニャーヤーティ」とは、その意味において与格の語であると、「アーヤーナナッターヤー」と言う。比丘としての立場を認めながら存在するために、その教えの一部を行うと、「たえず彼の教えを行わないで」と言う。「ウッカミトヴァ・ヴァッタンティーティ」とは、望むように行うという意味である。「パティッカマンティヤー」とは、不快感と不敬をもって遠ざかることであり、それゆえ「望まないで」などと言う。「エーカーヤー」とは、一人の女性によってである。「エーコー・イッチェイヤー」とは、一人の男性がその望まない女性との関係を望むだろう。オスッカナーディムケーナ は、世俗的な執着によって、その師の弟子たちに対する態度が、男女の関係を示すものだと示す。非常に嫌悪している状態なので、見ることも望まない。「ローベーナ」とは、眷属として生じる利益と尊敬への貪欲さである。「タッタ・サンパーデーヒー」とは、その修行の法において確立させて、完成させよ。「ウジュン・カローヒ」とは、身体の歪みなどをなくして、まっすぐにせよ。
515. Evaṃ codanaṃ arahatīti evaṃ vuttanayena sāvakesu appossukkabhāvāpādane niyojanavasena codanaṃ arahati, na paṭhamo viya ‘‘evarūpo tava lobhadhammo’’tiādinā, na ca dutiyo viya ‘‘attānameva tāva tattha sampādehī’’tiādinā. Kasmā? Sampāditaattahitatāya tatiyassa.
515. このように叱責に値すると、このように述べられた方法で、弟子たちに怠惰な状態を引き起こさせる任命の点で叱責に値するのであり、最初の「このようなあなたの貪欲の法である」などというようではなく、また第二の「まず自分自身をそこにおいて完成させよ」などというようでもない。なぜか?第三の者は自己の利益を達成しているからである。
516. ‘‘Na codanāraho’’ti ettha yasmā codanārahatā nāma satthuvippaṭipattiyā vā sāvakavippaṭipattiyā vā ubhayavippaṭipattiyā vā, tayidaṃ sabbampi imasmiṃ satthari natthi, tasmā na codanārahoti imamatthaṃ dassetuṃ **‘‘ayañhī’’**tiādi vuttaṃ.
516. 「叱責に値しない」という点において、叱責に値するということは、師の過ち、あるいは弟子の過ち、あるいは両方の過ちによるものであるが、このすべてがこの師には存在しないので、叱責に値しないというこの意味を示すために、「この者は実に」などが述べられた。
517. Mayā gahitāya diṭṭhiyāti sabbaso anavajje sammāpaṭipanne paresaṃ sammadeva sammāpaṭipattiṃ dessente satthari abhūtadosāropanavasena micchāgahitāya nirayagāminiyā pāpadiṭṭhiyā. Narakapapātanti narakasaṅkhātaṃ mahāpapātaṃ. Papatanti tatthāti hi papāto. Saggamaggathaleti saggagāmimaggabhūte puññadhammathale. Sesaṃ suviññeyyameva.
517. 私によって抱かれた見解とは、完全に非難されるべきでなく、正しく修行する者に対し、他者の正しい修行を妬む師に、存在しない過ちを押し付けることによって、誤って抱かれ、地獄に至る悪しき見解のことである。「ナラカパパータン」とは、地獄と呼ばれる大きな堕落を意味する。そこに落ち込むゆえに「パパータ」である。「サッガマッガタレー」とは、天界に至る道である福徳の地のことを指す。残りは容易に理解できる。
Lohiccasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
ローヒッチャ経の解釈における隠された意味の開示。
518. Uttarenāti ettha ena-saddo disāvācīsaddato pañcamīantato adūrattho icchito, tasmā uttarena-saddena adūratthajotanaṃ dassento **‘‘adūre uttarapasse’’**ti āha. Akkharacintakā pana ena-saddayoge avadhivācini pade upayogavacanaṃ icchanti. Attho pana sāmivaseneva icchitoti idha sāmivacanavaseneva vuttaṃ.
518. 「ウッタレーナ」という語において、「エーナ」という接尾辞は、方角を表す語の奪格から、遠くない意味として意図されている。それゆえ、「ウッタレーナ」という語によって遠くない意味を示すために、「北のすぐ近くに」と言う。しかし、語形論者は「エーナ」という接尾辞が伴う場合、限定を表す語に具格を望む。しかし、意味は所有格として意図されているので、ここでは所有格として述べられている。
519. Kulacārittādīti ādi-saddena mantajjhenābhirūpatādisampattiṃ saṅgaṇhāti. Mantasajjhāyakaraṇatthanti āthabbaṇamantānaṃ sajjhāyakaraṇatthaṃ, tenāha **‘‘aññesaṃ bahūnaṃ pavesanaṃ nivāretvā’’**ti.
519. 「家柄と伝統など」において、「など」という語は、呪文の学習や立派な姿などの成就を含む。「マントサッジャーヤカラナットタン」とは、アタルヴァの呪文を学習することであり、それゆえ「他の多くの者の侵入を阻止して」と言う。
520. **‘‘Jaṅghacāra’’**nti caṅkamato ito cito ca caraṇamāha. So hi jaṅghāsu kilamathavinodanattho cāroti tathā vutto. Tenāha ‘‘anucaṅkamantānaṃ anuvicarantāna’’nti. Tenāti ubhosupi anucaṅkamanānuvicāraṇānaṃ labbhanato. Sahāyā hi te aññamañña sabhāgavuttikā. ‘‘Maggo’’ti icchitaṭṭhānaṃ ujukaṃ maggati upagacchati etenāti maggo, ujumaggo. Tadañño amaggo, tasmiṃ magge ca amagge ca. Paṭipadanti brahmalokagāmimaggassa pubbabhāgapaṭipadaṃ.
520. 「ジャンガーチャーラ」とは、行道する者がここかしこを行くことを言う。それは、脚の疲労を解消するための行道であると、そのように言われる。それゆえ「歩き回る者たち、巡り歩く者たち」と言う。それゆえ、両方とも、歩き回ることと巡り歩くことが得られるからである。彼らは互いに同じ振る舞いをする仲間である。「マッゴー」とは、望む場所へまっすぐに進み、到達する手段であるから道であり、まっすぐな道である。それ以外のものは非道であり、その道と非道においてである。「パティパダン」とは、梵天界に至る道の初期の行道を指す。
Niyyātīti niyyānīyo, so eva **‘‘niyyāniko’’**ti vuttoti āha **‘‘niyyāyanto’’**ti. Yasmā niyyātapuggalavasenassa niyyānikabhāvo, tasmā ‘‘niyyāyanto’’ti puggalassa yoniso paṭipajjanavasena niyyāyanto maggo **‘‘niyyātī’’**ti vutto. Karotīti attano santāne uppādeti. Uppādentoyeva hi tattha paṭipajjati nāma. Saha byeti vattatīti sahabyo, sahavattanako. Tassa bhāvo sahabyatāti āha **‘‘sahabhāvāyā’’**tiādi. Sahabhāvoti ca salokatā, samīpatā vā veditabbā, tenāha **‘‘ekaṭṭhāne pātubhāvāyā’’**ti. Sakameva ācariyavādanti attano ācariyena pokkharasātinā kathitameva ācariyavādaṃ. Thometvā paggaṇhitvā ‘‘ayameva ujumaggo ayamañjasāyano’’ti pasaṃsitvā ukkaṃsitvā. Bhāradvājopi sakamevāti bhāradvājopi māṇavo attano ācariyena tārukkhena kathitameva ācariyavādaṃ thometvā paggaṇhitvā vicaratīti yojanā. Tena vuttanti tena yathā tathā vā abhiniviṭṭhabhāvena vuttaṃ pāḷiyaṃ.
「ニッヤーティ」とは、出離させるものであり、それゆえ「ニッヤーニコ」と言われると、「出離する」と言う。出離した人々の側面から出離の性質があるので、それゆえ「出離する」とは、人が適切に実践することによって出離する道が「ニッヤーティ」と言われる。「カローティ」とは、自らの存在において生じさせることである。生じさせる者だけが、そこで実践すると言われる。「サハ・ビエティ・ヴァッタティ」とは、共に行動すること、共に存在することである。その状態が「サハッビヤター」であると、「共存のために」などと言う。共存とは、同じ世界にいること、あるいは近い状態であると知られるべきであり、それゆえ「同じ場所に出現するために」と言う。「サカメーヴァ・アチャリヤヴァーダン」とは、自らの師であるポッカラサーティによって説かれた師の教えのことである。「トメトヴァ・パッガニットヴァ」とは、「これこそがまっすぐな道であり、これこそが真実の道である」と称賛し、賞賛してである。またバーラドヴァージャも 自らの、とは、バーラドヴァージャの青年も、自らの師であるタールッカによって説かれた師の教えを称賛し、賞賛して、行動する、という連結である。「テーナ・ヴッタン」とは、彼によって、あるいはそのように固執した状態によってパーリ聖典に述べられたことである。
521-2. Aniyyānikā vāti appāṭihāriyāva aññamaññassa vāde dosaṃ dassetvā aviparītatthadassanatthaṃ uttararahitā eva. Aññamaññassa vādassa ādito viruddhaggahaṇaṃ viggaho, sveva vivadanavasena aparāparaṃ uppanno vivādoti āha **‘‘pubbuppattiko viggaho aparabhāge vivādo’’**ti. Duvidhopi eso viggaho, vivādoti dvidhā vuttopi virodho. Nānāācariyānaṃ vādatoti nānārucikānaṃ ācariyānaṃ vādabhāvato. Nānāvādo nānāvidho vādoti katvā.
521-2. 出離を導かないとは、奇跡的な力がなく、互いの主張の欠点を示し、真実の意味を示すための答えがないことである。互いの主張に対して最初から反対を抱くことが争いであり、それこそが議論によって次々と生じる論争であると、「最初から生じる争いは、後の段階での論争である」と言う。この争いは二種類であり、論争も二通りに述べられる対立である。様々な師の主張とは、様々な好みの師たちの主張であることによる。様々な主張とは、様々な種類の主張であると見なしてである。
523. Ekassāpīti tumhesu dvīsu ekassāpi. Ekasminti sakavādaparavādesu ekasmimpi. Saṃsayo natthīti ‘‘maggo nu kho, na maggo nu kho’’ti saṃsayo vicikicchā natthi. Añjasāyanabhāve pana saṃsayo. Tenāha ‘‘esa kirā’’tiādi. Bhagavā pana yadi sabbattha maggasaññino, evaṃ sati ‘‘kismiṃ vo viggaho’’ti pucchati.
523. 「エーカッサピー」とは、あなたがた二人の中の一人についてもである。「エーカスミン」とは、自説と他説のどちらについてもである。「サンサヨー・ナットティー」とは、「道なのか、道ではないのか」という疑いや躊躇はない。しかし、真実の道であるかについては疑いがある。それゆえ、「これはまさに」などと言う。しかし、もし世尊がすべての点で道を認識しているならば、その場合、「あなた方の争いは何についてか」と尋ねる。
524. ‘‘Icchitaṭṭhānaṃ ujukaṃ maggati upagacchati etenāti maggo, ujumaggo. Tadañño amaggo’’ti vutto vāyamattho. Sabbe teti sabbepi te nānāācariyehi vuttamaggā.
524. 「望む場所へまっすぐに進み、到達する手段であるから道であり、まっすぐな道である。それ以外のものは非道である」と述べられたこの意味は。それらすべてとは、様々な師たちによって説かれたすべての道である。
Ye pāḷiyaṃ ‘‘addhariyā brāhmaṇā’’tiādinā vuttā. Addharo nāma yaññaviseso, tadupayogibhāvato ‘‘addhariyā’’ tveva vuccanti yajūni, tāni sajjhāyantīti addhariyā, yajubbedino. Ye ca tittiriisinā kate mante sajjhāyanti, te tittiriyā, yajubbedino eva. Yajubbedasākhā hesā, yadidaṃ tittiraṃ. Chando vuccati visesato sāmavedo, taṃ sarena kāyantīti chandokā, sāmavedino. **‘‘Chandogā’’**tipi paṭhanti, so evattho. Bahavo irayo etthāti bavhāri, irubbedo. Taṃ adhīyantīti bavhārijjhā.
パーリ語聖典に「アッダリヤー・ブラーフマナー」などで述べられている者たち。アッダラとは特別な供犠のことであり、それに用いられるものであることから「アッダリヤー」と呼ばれるのはヤジュであり、それらを学習する者がアッダリヤー、すなわちヤジュルヴェーダを学ぶ者である。また、ティッティリ仙によって作られたマントラを学習する者は、ティッティリヤー、すなわちヤジュルヴェーダを学ぶ者である。このティッティリとはヤジュルヴェーダの一派である。「チャンドー」とは特にサーマヴェーダを指し、それを声に出して歌う者がチャンドーカー、すなわちサーマヴェーダを学ぶ者である。「チャンドガー」とも読むが、同じ意味である。多くのイレヤ(知識)があることから「バヴァーリ」、すなわちイルヴェーダである。それを学ぶ者がバヴァーリッジャーである。
‘‘Bahūnī’’ti etthāyaṃ upamāsaṃsandanā – yathā te nānāmaggā ekaṃsato tassa gāmassa vā nigamassa vā pavesāya honti, evaṃ brāhmaṇehi paññāpiyamānāpi nānāmaggā brahmalokūpagamanāya brahmunā sahabyatāya ekaṃseneva hontīti.
「バフーニー」という言葉の比較は—それらの様々な道が、その村や町の入口へと確実に導くように、バラモンたちによって示される様々な道も、梵天界へ至り、梵天と共存するために、確実に役立つであろう、というものである。
527-529. Va-kāro āgamasandhimattanti anatthako va-kāro, tena vaṇṇāgamena padantarasandhimattaṃ katanti attho. Andhapaveṇīti andhapanti. **‘‘Paññāsasaṭṭhi andhā’’**ti idaṃ tassā andhapaveṇiyā mahato gacchagumbassa anuparigamanayogyatādassanaṃ. Evañhi te ‘‘suciraṃ velaṃ maggaṃ gacchāmā’’ti evaṃ saññino honti. Nāmakaṃyevāti atthābhāvato nāmamattaṃyeva, taṃ pana bhāsitaṃ tehi sārasaññitampi nāmamattatāya asārabhāvato nihīnamevāti āha **‘‘lāmakaṃyevā’’**ti.
527-529. 「ヴァ・カーロ・アーガマサンディマットタン」とは、意味のない「ヴァ」の音であり、それによって音韻の変化によって語間の連結がなされたという意味である。「アンダパヴェーニー」とは、盲人の列である。「五十人、六十人の盲人」とは、その盲人の列が大きな茂みの中を進むのに適していることを示す。このようにして彼らは「長い間、道を歩こう」と認識する。「ナーマカンイェーヴァ」とは、実体がないので単なる名前だけであり、彼らによって本質があると考えられたその言葉も、単なる名前であるために本質がないので、劣ったものであると、「劣ったものである」と言う。
530. Yatoti bhummatthe nissakkavacanaṃ, sāmaññajotanā ca visese avatiṭṭhatīti āha **‘‘yasmiṃ kāle’’**ti. Āyācantīti patthenti. Uggamanaṃ lokassa bahukārabhāvato tathā thomanāti. Ayaṃ kira brāhmaṇānaṃ laddhi ‘‘brāhmaṇānaṃ āyācanāya candimasūriyā gantvā loke obhāsaṃ karontī’’ti.
530. 「ヤトー」とは、場所を表す奪格の語であり、一般性を強調し、特定の状況に当てはまることを示すので、「その時」と言う。「アーヤーチャンティー」とは、彼らが懇願することである。「ウッガマナン」とは、世にとって多大な利益があることによって、そのように称賛されることである。これはバラモンたちの教義であり、「バラモンたちの懇願によって、月と太陽は昇り、世を照らす」とされている。
532. Idha pana kiṃ vattabbanti imasmiṃ pana appaccakkhabhūtassa brahmuno sahabyatāya maggadesane tevijjānaṃ kiṃ vattabbaṃ atthi, ye paccakkhabhūtānampi candimasūriyānaṃ sahabyatāya maggaṃ desetuṃ na sakkontīti adhippāyo. **‘‘Yatthā’’**ti ‘‘idha panā’’ti vuttamevatthaṃ paccāmasati.
532. しかし、ここでは何を言うべきかといえば、この目に見えない梵天との共存への道を説く点で、三明のバラモンたちには何を言うべきことがあるだろうか。彼らは、目に見える月と太陽との共存への道さえ示すことができない、というのが趣旨である。「ヤッター」とは、「しかしここでは」と述べられた意味を指す。
542. Samabharitāti sampuṇṇā. Tato eva kākapeyyā. Pārāti paratīraṃ. Apāranti orimatīraṃ. Ehīti āgaccha.
542. 「サマバリター」とは、満ちている。それゆえ、烏が飲めるほどである。「パーラー」とは、向こう岸。「アパーランティ」とは、こちら岸。「エーヒ」とは、来なさい。
544. Pañcasīla…pe… veditabbā yamaniyamādibrāhmaṇadhammānaṃ tadantogadhabhāvato. Tabbiparītāti pañcasīlādiviparītā pañca verādayo. ‘‘Punapī’’ti vatvā **‘‘aparampī’’**ti vacanaṃ itarāyapi nadi upamāya saṅgaṇhanatthaṃ.
544. 五戒…など…ヤマ、ニヤマなどのバラモンの法がその中に入ることから知られるべきである。それと反対とは、五戒などに反対する五つの怨敵などである。「再び」と言って「さらに」と言うのは、もう一つの川を比喩として含めるためである。
546. Kāmayitabbaṭṭhenāti kāmanīyabhāvena. Bandhanaṭṭhenāti teneva kāmetabbabhāvena sattānaṃ cittassa ābandhanabhāvena. Kāmañcāyaṃ guṇa-saddo atthantaresupi diṭṭhappayogo, tesaṃ panettha asambhavato pārisesañāyena bandhanaṭṭheyeva yuttoti dassetuṃ **‘‘anujānāmī’’**tiādinā atthuddhāro āraddho, esevāti bandhanaṭṭho eva. Na hi rūpādīnaṃ kāmetabbabhāve vuccamāne paṭalaṭṭho yujjati tathā kāmetabbatāya anadhippetattā. Rāsaṭṭhaānisaṃsaṭṭhesupi eseva nayo tathāpi kāmetabbatāya anadhippetattā. Pārisesato pana bandhanaṭṭho gahito. Yadaggena hi nesaṃ kāmetabbatā, tadaggena bandhanabhāvo cāti.
546. 「カーマイタッバッテーナ」とは、欲望の対象である状態によってである。「バンダナッテーナ」とは、それによって欲望の対象である状態によって、衆生の心が束縛される状態である。この「グナ」という語は他の意味でも使われることが見られるが、ここではそれらが不可能であるため、残余の推論によって、束縛の意味が適切であると示すために、「許す」などという形で意味の抽出が開始された。それこそが束縛の意味である。なぜなら、色などの欲望の対象である状態について語られるとき、階層の意味は適切ではないからである。なぜなら、そのように欲望の対象であることは意図されていないからである。また、集合や利益の意味においても同じ方法であるが、やはり欲望の対象であることは意図されていない。残余の推論によって、束縛の意味が採用された。なぜなら、それらが欲望の対象である限りにおいて、束縛の状態でもあるからである。
Koṭṭhāsaṭṭhopi tesu yujjateva cakkhuviññeyyādikoṭṭhāsabhāvena nesaṃ kāmetabbato. Koṭṭhāse ca guṇa-saddo dissati ‘‘diguṇaṃ vaḍḍhetabba’’ntiādīsu, sampadāṭṭhopi –
「コッタアサッタ」の意味も、それらの中で、眼識の対象となる部分であることによって、それらが欲望の対象となるので、適切である。「コッタアサ」という語は「ディグナム・ヴァッデーダッバム(二倍に増やすべき)」などの例にも見られる。また、「サンパダーッタ」の意味も –
‘‘Asaṅkhyeyyāni nāmāni, saguṇena mahesino;
「計り知れない多くの名前があり、偉大な聖者は徳を伴う;」
Guṇena nāmamuddheyyaṃ, api nāmasahassato’’ti. (dha. sa. aṭṭha. 1313; udā. aṭṭha. 53; paṭi. ma. aṭṭha. 76);
「徳によって名前が挙げられるべきであり、千もの名前があっても」と。(ダンマサンガニー義註 1313; ウダーナ義註 53; パティサンビダーマッガ義註 76)
Ādīsu sopi idha na yujjatīti anuddhaṭo.
などにおいては、それもここでは適切でないので、引用されていない。
Cakkhuviññeyyāti cakkhuviññāṇena vijānitabbā, tena pana vijānanaṃ dassanamevāti āha **‘‘passitabbā’’**ti. ‘‘Sotaviññāṇena sotabbā’’ti evamādi etenupāyenāti atidisati. Gavesitampi ‘‘iṭṭha’’nti vuccati, taṃ idha nādhippetanti āha **‘‘pariyiṭṭhā vā hontu mā vā’’**ti. Iṭṭhārammaṇabhūtāti sukhārammaṇabhūtā. Kāmanīyāti kāmetabbā. Iṭṭhabhāvena manaṃ appāyantīti manāpā. Piyajātikāti piyasabhāvā.
「チャックヴィンニェーヤー」とは、眼識によって知られるべきであり、しかしその知ることは見ることにほかならないので、「見られるべきである」と言う。「ソータヴィンニャーネーナ・ソータッバー」(耳識によって聞かれるべき)など、この方法で類推される。求められたものも「望ましい」と言われるが、それはここでは意図されていないので、「探されたものであろうとなかろうと」と言う。「イッターランマナブーター」とは、快い対象である。「カーマニーヤー」とは、欲望の対象である。望ましい状態で心を喜ばせるので「マナーパー」である。「ピヤジャーティカー」とは、愛すべき性質である。
Gedhenāti lobhena abhibhūtā hutvā pañcakāmaguṇe paribhuñjantīti yojanā. Mucchākāranti mohanākāraṃ. Adhiosannāti adhiggayha ajjhosāya avasannā, tenāha **‘‘ogāḷhā’’**ti. Pariniṭṭhānappattāti gilitvā pariniṭṭhāpanavasena pariniṭṭhānaṃ upagatā. Ādīnavanti kāmaparibhoge sampati, āyatiñca dosaṃ apassantā. Ghāsacchādanādisambhoganimittasaṃkilesato nissaranti apagacchanti etenāti nissaraṇaṃ, yoniso paccavekkhitvā tesaṃ paribhogapaññā. Tadabhāvato anissaraṇapaññāti imamatthaṃ dassento **‘‘idametthā’’**tiādimāha.
「ゲーデーナ」とは、貪欲に圧倒されて五つの欲望の対象を享受するという連結である。「ムッチャーカーラン」とは、昏迷の状態である。「アディオーサンナー」とは、しっかりと握りしめて執着し、陥没していることであり、それゆえ「深く沈んでいる」と言う。「パリニッターナッパッター」とは、飲み込んで完了するという意味で完了に達している。「アーディーナヴァンティ」とは、欲望の享受において、現在と未来の過失を見ないことである。「ガーサッチャーダナーディサンボーガニミッタサンキレーサトー・ニッサランティ」とは、食べ物や衣服などの享受によって生じる煩悩から離れることであり、それゆえ「ニッサラナン」(出離)とは、適切に観察してそれらを享受する智慧である。それがなければ「アニッサラナパンニャー」(出離しない智慧)であるというこの意味を示すために、「ここにこれがある」などと言う。
548-9. Āvarantīti kusalappavattiṃ āditova nivārenti. Nivārentīti niravasesato vārayanti. Onandhantīti ogāhantā viya chādenti. Pariyonandhantīti sabbaso chādenti. Āvaraṇādīnaṃ vasenāti āvaraṇādiatthānaṃ vasena. Te hi āsevanabalavatāya purimapurimehi pacchimapacchimā daḷhataratamādibhāvappattā vuttā.
548-9. 「アーヴァランティー」とは、善行の進行を最初から阻止する。ニヴァーレンティーとは、完全に妨げる。オナンダンティーとは、覆い隠すように遮る。パリヨナンデンティーとは、完全に覆い隠す。障害などの意味によってとは、障害などの意味によってである。それらは、繰り返し行われることの強力さによって、前のものよりも後のものが、より強固な状態になっていると述べられている。
550. Itthipariggahe sati purisassa pañcakāmaguṇapariggaho paripuṇṇo eva hotīti vuttaṃ **‘‘sapariggahoti itthipariggahena sapariggaho’’**ti. **‘‘Itthipariggahena apariggaho’’**ti ca idaṃ tevijjabrāhmaṇesu dissamānapariggahānaṃ duṭṭhullatamapariggahābhāvadassanaṃ. Evaṃbhūtānaṃ tevijjānaṃ brāhmaṇānaṃ kā brahmunā saṃsandanā, brahmā pana sabbena sabbaṃ apariggahoti. Veracittena avero, kuto etassa verappayogoti adhippāyo. Cittagelaññasaṅkhātenāti cittuppādagelaññasaññitena, tenassa sabbarūpakāyagelaññabhāvo vutto hoti. Byāpajjhenāti dukkhena. Uddhaccakukkuccādīhīti ādi-saddena tadekaṭṭhā saṃkilesadhammā saṅgayhanti. Appaṭipattihetubhūtāya vicikicchāya sati na kadāci cittaṃ purisassa vase vattati, pahīnāya pana siyā vasavattananti āha **‘‘vicikicchāya abhāvato cittaṃ vase vattetī’’**ti. Cittagatikāti cittavasikā, tenāha **cittassa vase vattantī’’**ti. Na tādisoti brāhmaṇā viya cittavasiko na hoti, atha kho vasībhūtajjhānābhiññatāya cittaṃ attano vase vattetīti vasavattī.
550. 「女性を所有している場合、人は五欲を完全に所有している」と言われるのは、「所有するものがあるとは、女性の所有によって所有がある」ということを意味する。そして「女性の所有によって所有がない」というのは、三明のバラモンたちに見られる所有のうち、最も粗雑な所有がないことを示すものである。そのような三明のバラモンたちが、ブラフマー神とどう比較されようか。ブラフマー神は全く何も所有していないのである。悪意ある心によって憎しみがない。どうして彼に憎しみの行いがあろうか、というのが意図である。「心の病というものは」とは、心の生起の病と名付けられたものであり、それによって彼の全ての肉体の病の状態が語られる。「苦しみによって」とは、苦しみである。「掉挙や悪作などによって」とは、その等しい位置にある煩悩の諸法が「など」という言葉によって含まれる。実践の妨げとなる疑いがある場合、人の心は決して自身の支配下に入らない。しかしそれが断たれると支配下に入り得る、というのが「疑いがないために、心は自身の支配下に入る」と言われることである。「心の流れとは」とは、心に支配されることであり、それゆえ「心に支配される」と言われる。彼はそのようではないとは、バラモンたちのように心に支配されるのではなく、むしろ熟達した禅と神通によって心を自身の支配下に置くので、彼が支配者である、ということである。
552. Brahmalokamaggeti brahmalokagāmimagge paṭipajjitabbe, paññapetabbe vā, taṃ paññapentāti adhippāyo. Upagantvāti amaggameva ‘‘maggo’’ti micchāpaṭipajjanena upagantvā, paṭijānitvā vā. Paṅkaṃ otiṇṇā viyāti matthake ekaṅgulaṃ vā upaḍḍhaṅgulaṃ vā sukkhatāya ‘‘samatala’’nti saññāya anekaporisaṃ mahāpaṅkaṃ otiṇṇā viya. Anuppavisantīti apāyamaggaṃ brahmalokamaggasaññāya ogāhayanti. Tato eva saṃsīditvā visādaṃ pāpuṇanti. Evanti ‘‘samatala’’ntiādinā vuttanayena. Saṃsīditvāti nimmujjitvā. Sukkhataraṇaṃ maññe tarantīti sukkhanaditaraṇaṃ taranti maññe. Tasmāti yasmā tevijjā amaggameva ‘‘maggo’’ti upagantvā saṃsīdanti, tasmā. Yathā teti yathā te ‘‘samatala’’nti saññāya paṅkaṃ otiṇṇā. Idheva cāti imasmiñca attabhāve. Sukhaṃ vā sātaṃ vā na labhantīti jhānasukhaṃ vā vipassanāsātaṃ vā na labhanti, kuto maggasukhaṃ vā nibbānasātaṃ vāti adhippāyo. Maggadīpakanti maggadīpakābhimataṃ. **‘‘Iriṇa’’**nti araññāniyā idaṃ adhivacananti āha **‘‘agāmakaṃ mahārañña’’**nti. Migaruruādīnampi anupabhogarukkhehi. Parivattitumpi na sakkā honti mahākaṇṭakatāya. Ñātīnaṃ byasanaṃ vināso ñātibyasanaṃ. Evaṃ bhogasīlabyasanāni veditabbāni. Rogo eva byasati vibādhatīti rogabyasanaṃ. Evaṃ diṭṭhibyasanampi daṭṭhabbaṃ.
552. ブラフマーの世界への道とは、ブラフマーの世界へ向かうべき道、あるいは説かれるべき道を説く、という意味である。「到達して」とは、道でないものを「道である」と誤って実践することによって到達し、あるいは認めるといった意味である。「泥に沈んだかのように」とは、頭のてっぺんから一指または半指ほど乾いているために「平らな地」と認識して、何人もの背丈ほどある深い泥に沈んだかのようである。「入っていく」とは、不幸の道をブラフマーの世界への道と錯覚して入り込んでいくのである。それによって、彼らは沈んで絶望に陥る。「このように」とは、「平らな地」などと述べた方法によって。「沈んで」とは、溺れて。「乾いた場所を渡ると思っている」とは、乾いた川を渡ると思っている、といった意味である。それゆえ、三明のバラモンたちは道でないものを「道」と誤認して沈んでいくので、である。彼らが「平らな地」と認識して泥に沈んだように。この世において、あるいはこの生において。「楽も安楽も得ない」とは、禅定の楽も観の安楽も得ない。どうして道の楽や涅槃の安楽が得られようか、というのが意図である。「道の導き手」とは、道の導き手とみなされるもの。「イリナ」とは荒野の別名である、というので「人の住まない大森林」と言われる。鹿やルーラなどの木々も利用できないほど、大きな茨があるため、向きを変えることすらできない。親族の災難、崩壊が親族の災難である。このように、財産や戒律に関する災難も理解されるべきである。病気こそが苦しめ、悩ませるという意味で、病の災難である。このように見解の災難も理解されるべきである。
554. Jātasaṃvaḍḍhoti jāto hutvā saṃvaḍḍhito. Na sabbaso paccakkhā honti paricayābhāvato. Ciranikkhantoti nikkhanto hutvā cirakālo. Dandhāyitattanti vissajjane mandattaṃ saṇikavutti, taṃ pana saṃsayavasena cirāyanaṃ nāma hotīti āha **‘‘kaṅkhāvasena cirāyitatta’’**nti. Vitthāyitattanti sārajjitattaṃ. Aṭṭhakathāyaṃ pana vitthāyitattaṃ nāma chambhitattanti adhippāyena **‘‘thaddhabhāvaggahaṇa’’**nti vuttaṃ.
554. 生まれ育ったとは、生まれて育ったということ。完全には直接認識できないのは、慣れ親しむことがないためである。長らく出家したとは、出家してから長い時間が経過したということ。「ためらい」とは、放棄する際の遅鈍さやゆっくりとした動きを指し、それは疑いによって遅延することである、というので、「疑いのために遅延すること」と言われる。「ためらい」とは、執着すること。しかし注釈書では、「ためらい」とは恐れを意味するという意図で、「堅固な状態を受け入れること」と述べられている。
555. U-iti upasaggayoge lumpa-saddo uddharaṇattho hotīti **‘‘ullumpatū’’**ti padassa uddharatūti atthamāha. Upasaggavasena hi dhātu-saddā atthavisesavuttino honti yathā ‘‘uddharatū’’ti.
555. 「U」という接頭辞が結合すると「lumpa」という語は「取り除く」という意味になるため、「ullumpatu」という語は「取り除かれよ」という意味である、と言う。接頭辞の結合によって、動詞の語は「uddharatu」のように意味を特定する表現となるからである。
556. Yassa atisayena balaṃ atthi, so **‘‘balavā’’**ti vuttoti āha **‘‘balasampanno’’**ti. Saṅkhaṃ dhamayatīti saṅkhadhamako, taṃ dhamayitvā tato saddapavattako. Appanāva vaṭṭati paṭipakkhato sammadeva cetaso vimuttibhāvato.
556. 非常に力がある者が「力強い」と言われるので、「力に満ちた」と言う。法螺貝を吹く者は法螺貝吹きであり、それを吹いて音を出す者である。敵対する立場から心が完全に解脱している状態であるから、確立された境地が適切である。
Pamāṇakataṃ kammaṃ nāma kāmāvacaraṃ pamāṇakarānaṃ saṃkilesadhammānaṃ avikkhambhanato. Tathā hi taṃ brahmavihārapubbabhāgabhūtaṃ pamāṇaṃ atikkamitvā odissakaanodissakadisāpharaṇavasena vaḍḍhetuṃ na sakkā. Vuttavipariyāyato pana appamāṇakataṃ kammaṃ nāma rūpārūpāvacaraṃ, tenāha **‘‘tañhī’’**tiādi. Tattha arūpāvacare odissakānodissakavasena pharaṇaṃ na labbhati, tathā disāpharaṇaṃ.
有量業とは、欲界のものであり、煩悩の諸法が妨げられない。したがって、それは梵住の前段階に過ぎず、特定の対象や不特定の対象に向けて方向を広げることによって増大させることはできない。しかし、その逆で、無量業とは色界や無色界のものである、と「それは」などで言う。そこでは、無色界において、特定の対象や不特定の対象に向けて広げることは許されず、同様に方向を広げることも許されない。
Keci pana taṃ āgamanavasena labbhatīti vadanti, tadayuttaṃ. Na hi brahmavihāranissando āruppaṃ, atha kho kasiṇanissando, tasmā yaṃ suvibhāvitaṃ vasībhāvaṃ pāpitaṃ āruppaṃ, taṃ **‘‘appamāṇakata’’**nti vuttanti daṭṭhabbaṃ. Yaṃ vā sātisayaṃ brahmavihārabhāvanāya abhisaṅkhatena santānena nibbattitaṃ, yañca brahmavihārasamāpattito vuṭṭhāya samāpannaṃ arūpāvacarajjhānaṃ, taṃ iminā pariyāyena pharaṇappamāṇavasena appamāṇakatanti vattuṃ vaṭṭatīti apare. Vīmaṃsitvā gahetabbaṃ.
しかし、ある人々はそれが到来することによって得られると言うが、それは適切ではない。なぜなら、梵住から生じるものが無色界ではないからである。むしろ、それはカシナから生じるものなので、よく開発され、熟練に達した無色界は「無量業」と述べられると見なすべきである。あるいは、非常に優れた梵住の修行によって形成された連続体から生じたもの、そして梵住の等至から立ち上がって入った無色界の禅定は、この方法によって広がりと量に関して無量業と呼ぶことができる、と他の人々は言う。よく調べて受け入れるべきである。
Rūpāvacarārūpāvacarakammeti rūpāvacarakamme, arūpāvacarakamme ca sati. Na ohīyati na tiṭṭhatīti katūpacitampi kāmāvacarakammaṃ yathādhigate mahaggatajjhāne aparihīne taṃ abhibhavitvā paṭibāhitvā sayaṃ ohīyakaṃ hutvā paṭisandhiṃ dātuṃ samatthabhāve na tiṭṭhati. Laggitunti āvarituṃ nisedhetuṃ. Ṭhātunti paṭibalo hutvā ṭhātuṃ. Pharitvāti paṭippharitvā. Pariyādiyitvāti tassa sāmatthiyaṃ khepetvā. Kammassa pariyādiyanaṃ nāma tassa vipākuppādanaṃ nisedhetvā attano vipākuppādananti āha **‘‘tassa vipākaṃ paṭibāhitvā’’**tiādi. Evaṃ mettādivihārīti evaṃ vuttānaṃ mettādīnaṃ brahmavihārānaṃ vasena mettādivihārī.
色界と無色界の業とは、色界の業と無色界の業があるということ。後退しない、止まらないとは、積んで行われた欲界の業も、得られた崇高な禅定が損なわれていない限り、それを圧倒し、妨げ、自ら後退して、再生を与える能力にとどまらない、ということである。「妨げるとは」とは、遮断し、禁止すること。「とどまるとは」とは、有力となってとどまること。「満たして」とは、遍く満たして。「尽くして」とは、その力を使い果たして。業を尽くすとは、その結果の生起を妨げて、自分の結果を生起させることである、というので「その結果を妨げて」などと言う。このように慈悲などの行者とは、このように述べられた慈悲などの梵住によって慈悲などの行者である。
559. Aggaññasutte…pe… alatthunti aggaññasutte āgatanayena upasampadañceva arahattañca alatthuṃ paṭilabhiṃsu. Sesaṃ suviññeyyameva.
559. 『アッガンニャ経』において…など…得たとは、『アッガンニャ経』に示された方法で、具足戒と阿羅漢果の両方を得た、達成したということ。残りは容易に理解できる。
Tevijjasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
三明経の解説における隠れた意味の明示。
Niṭṭhitā ca terasasuttapaṭimaṇḍitassa sīlakkhandhavaggassa atthavaṇṇanāya
そして十三の経典によって飾られた戒蘊品の意味の解説が終わった。
Līnatthappakāsanāti.
隠れた意味の明示。
Sīlakkhandhavaggaṭīkā niṭṭhitā.
戒蘊品註釈が終了した。