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雪子は二月の紀元節の日に関西へ来てから、三、四、五と、今度は殆《ほとん》ど四箇月も滞留するようなことになって、当人もいつ帰ろうと云う気もなくなったらしく、何となく蘆屋《あしや》に根が生えてしまった形であったが、六月に入ると間もなく、珍しいことに東京の姉から縁談を一つ知らせて来た。「珍しい」と云うのは、それが実に一昨年の三月、陣場夫人があの野村と云う人の話を持って来て以来のもの、―――二年三箇月目の縁談であると云う意味でもあるが、又、ここ数年来、雪子の縁談と云えばいつも幸子《さちこ》が聞き込んで東京の方へ知らせてやるのが恒例のようになっており、本家の夫婦は義兄が一度手を焼いてからついぞ積極的に心配しようとはしなかったのに、今度は義兄が先《ま》ず動いて姉に話し、姉から幸子へ知らせて来たと云う訳で、その意味に於《お》いても珍しいのであった。尤《もっと》も、幸子宛《あて》に来た姉の手紙を読むと、少し頼りないようなところもあって、飛び着く程の縁談とも云えないのであるが、ありようは、義兄の長姉が縁付いている大垣《おおがき》在の豪農に菅野《すがの》と云う家があり、その菅野家が昔から懇意にしている、名古屋の素封家に沢崎と云うのがある、この沢崎家は先代が多額納税議員をしていたくらいな、聞えた家柄なのだそうであるが、今度菅野の姉の斡旋《あっせん》で、その家の当主が雪子との見合いを望んでいるのであると云う。そう云えば、菅野の姉と云う人は、辰雄の兄や姉達の中では一番幸子たち姉妹をよく知っている関係にあった。幸子はたしか二十歳の時、辰雄や、鶴子や、雪子や、妙子たちと一緒に長良川《ながらがわ》の鵜飼《うかい》へ行った帰りに菅野家へ寄って一泊したことがあり、それから両三年後にも一度、矢張同じ顔触れで、茸狩《たけがり》に招かれたことがあった。彼女は大垣の町から自動車で二三十分も田舎道を行ったこと、ほんとうに淋《さび》しい村落の、県道らしい往還の道端から折れて奥深い生垣《いけがき》の径《こみち》を行った突きあたりに門構えのその家があったこと、近所にはほんの五六軒の佗《わ》びしい百姓家があるだけであったが、関ヶ原の役《えき》以来と云う菅野の家は宏荘《こうそう》な一郭を成していて、持仏堂の堂宇が、中庭を隔てて母屋と棟を並べていたこと、苔《こけ》蒸した泉石の彼方《かなた》に裏庭の菜園がつづいており、秋に行った時にはそこの栗《くり》の樹に栗が沢山実《な》っていたのを、小女《こおんな》たちが枝に登って落してくれたこと、御馳走《ごちそう》と云っては手料理の野菜が主であったけれども、それが大変おいしく、味噌汁《みそしる》の身に入れてあった小芋と、煮付けの蓮根《れんこん》が殊《こと》に美味であったこと、などを覚えているのであるが、義兄の姉に当るその家の女主人が、今では未亡人になっていて、気軽[#「気軽」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)では「気楽」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「氣樂」]な身分でもあるせいか、幸子の次の妹の雪子が未だに結婚もせずにいる噂《うわさ》を耳にし、何とか良い縁を見付けて上げたいと云っているのだと云うことは、かねがね聞いていないでもなかった。で、今度の話はその未亡人の世話好きから起ったことらしいのだけれども、いったい沢崎家の当主と云うのはどんな人なのか、それが雪子と見合いをしたいと云い出したのには、どう云ういきさつがあるのか、鶴子の手紙はその辺の書き方が簡単であった。ただ、菅野の姉さんの所から、沢崎氏を雪子さんに会わせたいから、兎《と》に角《かく》雪子さんを大垣まで寄越して貰《もら》いたいと云って来た、沢崎家は数千万円の資産家で、今日の蒔岡《まきおか》家とは格段の相違があり、不釣合《ふつりあい》過ぎて滑稽《こっけい》のようだけれども、先方は奥さんに死なれて、二度目のことでもあり、既に阪神間へ人を遣《や》って蒔岡家の家柄や雪子ちゃんの性質や容姿などを相当調べ、その上で会見を希望して来たらしいのであるから、満更の話ではないように思われる、何にしても菅野の姉さんが折角そう云って来てくれた好意を無にしては、兄さんの立ち場が困る、菅野では、さしあたり雪子さんを寄越してくれさえすればよいので、先方に関する委《くわ》しいことは後で知らせると云って来ているから、どう云う事情か分らないけれども、文句を云わずに会いに行かして欲しいのである、それには、雪子ちゃんも大分其方《そちら》の滞在が延びていることだし、一遍帰って来て貰いたいと思っていたところであるから、帰京の途中立ち寄ることにしたらどうであろう、別に誰が附いて来るようにとも云っていないし、兄さんは忙しいと云っているから、私が此方《こちら》から出向いてもよいが、済まないけれども幸子ちゃんが附いて行ってくれると都合が好いのだが、………どうせ儀式張ったことではなく、ちょっと会わせるだけなのだろうから、気軽に、遊びに行くつもりで連れ出して貰えないか知らん、と云うのであった。
そんな工合に、姉は無造作に云っているけれども、果して雪子ちゃんが「行く」と云うであろうか。―――幸子は先ずそう思ったので、最初にその手紙をそっと貞之助に示したが、貞之助も何か唐突過ぎるような、いつもの姉に似合わない非常識なところがあるような感を抱いた。なるほど、名古屋の沢崎と云えば大阪辺にも聞えている家で、何処《どこ》の馬の骨だか分らないと云うようなものではないが、それにしても、雪子に会いたがっていると云う当の相手がどんな人物か、全然調べても見ないで、向うの云うなりに雪子を差向けようと云うのは、軽率と云う批難を免れないばかりではなく、向うがそう云う身分違いの資産家であるだけに、此方が不見識のように見えはしないか。雪子はそれでなくても、今迄《まで》幾度も見合いをしては断ってばかりいるので、今後は見合いをする迄に十分先方を調べてくれるようにと云っており、本家の姉もそれはよく知っている筈《はず》なのである。貞之助は、どうもこの話は少しおかしい、と、翌日事務所から帰宅するとそう云ったが、彼はその日心あたりの方面へ二三問い合せて、沢崎家の当主のことを聞けるだけ聞いて来たのであった。そして、当主と云うのは早稲田《わせだ》の商科出の本年四十四五歳ぐらいの男であること、彼が妻を亡《な》くしたのは二三年前のことであり、その妻は某堂上華族の出であったこと、亡妻との間に二人か三人子供がある筈であること、貴族院議員をしていたのは当主の父親であるが、資産状態は今も決して悪くはなく、先ず名古屋附近で屈指の富豪の中に数えられるであろうこと、―――等々は大体分ったけれども、当主の人物や性行など、細かいことに就いては誰もはっきりした返事をしてくれなかった、と云い、何にしても華族と縁組をするくらいな千万長者が、二度目とは云いながら、没落した蒔岡家の娘を貰ってもよいと思っていると云うことが、腑《ふ》に落ちない、それが本当とすれば、何か知ら先方に対等の縁組が出来ないような欠点があるのかと[#「あるのかと」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「あるのかとも」]思えるけれども、まさか菅野の未亡人がそんな所へ雪子ちゃんを世話する積りでもあるまい、と云うのであった。それで、考えられることは、矢張器量好みと云うようなこと、―――純日本式の、昔の箱入娘風の感じの人をと云う注文で、金に飽かして捜さしていたところへ、たまたま雪子のことを聞き、では兎も角も会って見ようと云う好奇心を起したか、或は又、蘆屋《あしや》の家では母親以上に姪《めい》から慕われているそうだとか、いつも母親に代って姪の面倒を見てやっているのだとか、云うような評判が耳に這入《はい》って、そう云う人なら先妻の子供を可愛がってくれるであろう、子供との折合さえよければ他のことは敢《あえ》て問わないと云う、案外真面目《まじめ》な動機から雪子に目星を付けたのであるか、まあその辺より外にないのであるが、恐らくこの二つのうちの前者ではあるまいか。蒔岡家の娘はこれこれの器量であると聞いて、どんな顔つきだか見てやろうと云う程度の、軽い好奇心を湧《わ》かしたので、会って見ても損はあるまいと云った風な、冷やかし半分の気持ではないのかと思えるのであったが、本家がそれらの点を十分に突き止めもしないで、その申込みを雪子に受諾させようとするのは、察するところ、辰雄が菅野の姉に対して「いや」と云うことが云えないからであるらしかった。種田家の末子に生れて蒔岡家へ養子に来た辰雄は、今でも実家の兄達に頭が上らない様子なのであるが、兄弟じゅうでも一番年長である菅野の姉は、辰雄の眼からは殆《ほとん》ど母か叔母のように見え、彼女の云うことは彼には半ば命令的に響くのであろう。雪子ちゃんは定めし好い返事をしないであろうが、そこを曲げて承知するように、幸子ちゃんから説き付けてほしい、話が成立するしないは二の次として、兎に角行かしてだけくれないと兄さんが困る、と、手紙にはそう書いてあるのであった。そして、今度の話は余り途方もなさ過ぎて望みのないような気がするけれども、縁と云うものはそう云ったものでもないし、何かにつけて菅野家の好意を受けて置くことは、雪子ちゃんのために悪かろう筈のないことだから、とも附け加えてあるのであった。
と、この手紙に追いかけて、菅野からも手紙が来た。辰雄の方へ云ってやったら、雪子さんはそちらに行っておられるとのことだから、廻りくどい方法を取るよりもと思って、直接お打ち合せする。大体のことは鶴子さんからお聞きの通りであるが、実はそのことはそんなに重くお考えにならない方がよい。それよりは、あれきり皆さんにも久しくお会いしないから、幸子さん、雪子さん、妙子さん、それにまだお目に懸ったことのない悦子さんと云うお嬢さんもお連れになって、遊びにいらしって戴《いただ》きたい。田舎は十何年前と大して変ってもいないけれども、これから蛍狩《ほたるがり》の季節である。この辺は別に名所となっている訳ではないが、もう一週間も立つと、この近所の田圃《たんぼ》の中の名もない小川のほとりでも、闇《やみ》に飛び交《か》う蛍の景色が随分美しい。茸狩や紅葉狩《もみじがり》などと違って、これはきっとあなた方にはお珍しい見物《みもの》であろう。蛍は季節が短くて、今から一週間目ぐらいがちょうどよく、それを過ぎると駄目《だめ》になるのである。それに天候の工合もあって、余りお天気がつづいた時も宜《よろ》しくないし、雨天でもいけない、雨の降った明くる日あたりが最もよいのである。ついてはこの次の土曜日曜の二日をそれに当てておいて、土曜の夕刻までにおいで下さったらどうであろうか。そうすれば皆さんの御滞在中に、ちょっと雪子さんが時間を割いて沢崎氏と会われるように取り計らうであろう。今のところどう云う風な都合になるか分らないが、多分沢崎氏が此方へ訪ねて来てくれて、私の家で会う、と云うようなことになるだろうと思う。それも三十分か一時間で済むのであるし、そう云っても当日沢崎氏に差支えがあるかも知れないから、それはどうなっても構わないとして、蛍狩の方を主にしてお越し願いたいのであるが、―――と、未亡人はそう書いて来たが、恐らくこれは彼女からも直接すすめてくれるように、東京の方からも云ってやったものに違いなかった。幸子は、「余り途方もなさ過ぎて望みがない」などと云いながら、義兄も姉もお腹の中はそうでもなく、案外夢のようなことを本気で願っているのではないかとも考えられたが、そう云う彼女も、近頃雪子の縁談についてはひどく弱気になっているので、この話を無下《むげ》に斥《しりぞ》けてしまう勇気はなかった。尤も、四五年前にもこれによく似た身分違いの方面から雪子を望まれ、皆が飛び着いて調べて見ると、先方の家庭に不倫な事件のあることが知れて、愕然《がくぜん》としたことがあったので、貞之助は、今度もあれのようなのではなかろうかと疑い、菅野未亡人の好意は分るが、何だか少し人を馬鹿にしたようなところがある、順序も蹈《ふ》まないで、出し抜けに、会ってやるから出て来いなどと云うのは失敬ではないかと、憤慨したような口調で云ったが、でも、何と云っても今度の話は二年三箇月目の、久し振の縁談なのである。幸子は、二三年前迄は降る程あった申込みが急に跡絶《とだ》えるようになったことを思い、その原因が、昔の格式に囚《とら》われて不相応に高い望みを懸け、来る話来る話を片っ端から断ってしまったことにもあるが、一つには妙子の世評の悪いことが影響を及ぼしているのだと思うと、どうしても自分に責任の一半があるように感じられて、気が咎《とが》めていたのであったが、これはその矢先に持ち込まれた話なのである。一時は、もうすっかり世間の同情を失い、誰も縁談など持って来ないようになったのかとまで悲観していた彼女にして見れば、たとい望み薄な、アヤフヤなものであったにしても、これを頭から撥《は》ね付けるようなことをしては、又世間の反感を買いはしないか、と云う危惧《きぐ》があった。今度の話に応じて置けば、不成立に終ったとしてもこれを切掛《きっか》けに後《あと》の話が出て来そうだけれども、これを断ったら、又当分何処からも持って来なくなるかも知れない、まして今年は雪子が厄年《やくどし》なのではないか、と云う風に思えた。それに、義兄夫婦の腹の中を可笑《おか》しがる彼女にしても、あながちこの話を「夢のような」とばかり卑下するには当らない、と云う気も何処かにあった。夫は警戒した方がよいと云うのであるが、ほんとうにそんなものであろうか、その沢崎と云う家がどんなお金持か知れないが、二度目で、子供が二三人もある男に比べて、そんなに滑稽扱いするほど雪子ちゃんが見劣りするであろうか、蒔岡家だって由緒正しい家であるのに、と云う風にも彼女は云って見たかった。そして貞之助も、そう云う風に云われてしまうと、それには言葉を返し得ず、そう此方を安っぽく見ては泉下の養父に対しても相済まないし、雪子にも気の毒のように思えるのであった。
夫婦はまる一と晩考えて、兎に角雪子が何と云うか、雪子次第にするのが宜しかろうと云う結論になったが、翌日幸子から、二通の手紙の要領を話してそれとなく意向を尋ねると、これは思いの外にそう厭《いや》のような様子でもなかった。例の通りで、行くとも行かないともはっきりした返事はしないのだけれども、幸子には「ふん」とか「はあ」とか仄《ほの》かに受け答えするだけである雪子の言葉のはしばしに、何となく会得出来るものがあった。彼女は、この気位の高い妹も、矢張内々は焦躁《しょうそう》を感じており、一と頃のように「見合い」に対してそう気むずかしいことを云わないような心境になっているのかも知れない、と察した。それに、彼女は雪子にその話をするのに、自尊心を傷《きずつ》けそうなことは云わないように努めたので、雪子にして見れば、その縁談を不釣合とも滑稽とも感ぜず、まして冷やかし半分であろうなどとは思う筈もなかった。いつもなら、先妻の子供があるなどと聞くと、その子供達の出来不出来だの、年恰好《としかっこう》だのを、相当問題にしたがるのだけれども、今度はそう云うことにも余りこだわらず、どうせ一遍東京へ帰らなければならないのだから、皆で大垣まで送って来てくれるなら、蛍狩もいやではない、と云う風な口ぶりなので、やっぱり雪子ちゃんはお金持の所へ行きたいのかなと、貞之助は云った。で、幸子は菅野の未亡人に宛てて、それでは御好意に縋《すが》ってお招きを受けることにしたから万事宜しくお願いしたいこと、当人も快くそのお方にお目に懸ると云っていること、お伺いするのは私と、雪子と、妙子と、悦子の四人であること、但《ただ》し、勝手を申し上げて済まないけれども、悦子は長い間病気をし、この間床上げをしたところで、引き続き学校を休んでいるので、此方の都合は、今度の土曜日曜よりも、金曜土曜の方が好いこと、見合いのことは悦子には知らせないようにしたいので、何処迄も蛍狩と云うことにして置いて戴きたく、その点お含みを願いたいこと、等々を云ってやったが、日を一日繰り上げたのは、大垣から真っ直ぐ東京へ帰ると云う雪子を、三人が蒲郡《がまごおり》まで送って行こうと云うことになったので、金曜日に菅野方へ泊り、土曜日には常磐館《ときわかん》まで延《の》すことにしたからであった。そして、日曜の午後、蒲郡で東西に別れてその日のうちに帰宅し、悦子を来週の月曜から学校へ行かせる、と云う予定にしたのであった。
幸子は、夏の汽車は洋服にしたかったのだけれども、「見合い」の件があることを慮《おもんぱか》って、博多の袋帯に暑苦しさを怺《こら》えながら、悦子と大して変らないような子供っぽい簡単服を着ている妙子を羨《うらやま》しがった。雪子も、時節柄と云い、乗合客の眼を惹《ひ》くような身なりをするのは厭《いや》だったので、衣裳《いしょう》は別に鞄《かばん》に詰めて持って行きたかったのであるが、何分にも打ち合せがよく出来ていないので、ひょっとすると、向うへ着くともうその人が待っていると云うようなことがあるかも知れない、|旁《かたがた》支度をして行った方がよいであろうと云うことになって、これはひとしお着附に念が入っていた。出がけに大阪まで省線電車で一緒であった貞之助は、向う側にかけた雪子の姿をしげしげと見守りながら、
「若いなあ」
と、今更のように幸子の耳元で嘆声を発したが、ほんとうに、これを三十三の厄年《やくどし》の人と見る者はないであろう。細面の、淋《さび》しい目鼻立のようだけれども、厚化粧をすると実に引き立つ顔で、二尺に余る袖丈《そでたけ》の金紗《きんしゃ》とジョウゼットの間子織《あいのこおり》のような、単衣《ひとえ》と羅衣《うすもの》の間着《あいぎ》を着ているのが、こっくりした紫地に、思い切って大柄な籠目崩《かごめくず》しのところどころに、萩《はぎ》と、撫子《なでしこ》と、白抜きの波の模様のあるもので、彼女の持っている衣裳の中でも、分けて人柄に篏《は》まっているものであったが、これは今度のことが極まると同時に東京へ電話を懸け、態々《わざわざ》客車便で取り寄せたのであった。
「若いでっしゃろ」
と、幸子も鸚鵡《おうむ》返しに云って、
「―――雪子ちゃんの年で、あれだけ派手なもん着こなせる人はあれしませんで」
雪子は自分の「若さ」が話題にされつつあることを感づいているらしく俯向《うつむ》いていたが、ただ、難を云えば、あの眼の縁の翳《かげ》りが、この頃は殆《ほとん》ど始終消えないでいることであった。幸子は、たしか去年の八月であったか、ペータアの出帆を見送りに、悦子を連れて雪子が横浜へ立つと云う前の晩、久し振で彼女の顔にそれがうっすら現れたのを認めたのであったが、あれから此方、時々そのシミが濃くなったり薄くなったりすることはあるけれども、完全に消えてしまうことはないようになった。勿論《もちろん》薄くなっている時は、知らない者には分らない程度であるが、気にする者には非常に微《かす》かに痕《あと》が残っていることが分った。それに、以前は月の病の前後に濃くなる傾向があり、大体週期的に現れるようであったのに、近頃は全く不規則になって、どう云う時に濃くなるとも薄くなるとも予測が付かず、月のものとは関係がなくなったようにさえ見えるので、貞之助も気にして、注射が利《き》くならさせて見たらと云ったことがあり、幸子も誰か専門の人に診《み》せて見ましょうと、いつもそう云ってはいたのであった。が、先年阪大で診て貰《もら》った時に、注射は何回も続けなければ効果がありませんし、結婚なされば直るものですからそれには及ばないでしょうと云われたことがあり、見馴《みな》れてしまうとそう目障りになる程の欠陥とも感じられず、身内の者だけが気にするので、世間は格別問題にしていないようにも思え、それに何よりも、当人が一向神経に病んでいないところから、そのままにしていたのであったが、生憎《あいにく》今日のように厚化粧をすると、却《かえ》ってそれがお白粉《しろい》の地の下から浮き上って、斜めに透かした時に検温器の水銀のように際立つのであった。貞之助は今朝化粧部屋で彼女が拵《こしら》えをしていた時から心づいていたので、今も電車の中で見ると、確かにいつもよりもはっきりと分り、どう贔屓目《ひいきめ》に見ても人の注意を惹かずに済むとは考えられないのであったが、幸子も口には出さないで、夫が何を考えているのか大凡《おおよ》そ察していた。そして、最初から今度の見合いに熱意を抱き得なかった夫婦は、ひとしお希望が持てないような暗い気持がするのを、なるべく顔に出さないようにしながらも、互にそれを読み取っていたのであった。
悦子は今日の大垣行きが、蛍狩だけではないらしいことを早くも感じていた様子であったが、大阪で汽車に乗り換えると、
「お母ちゃんは何で洋服着て来なんだの」
と云った。
「ほんに、洋服にしたかってんけど、べべでなかったら失礼やないか思うたさかいに」
「ふうん、―――」
と云ったが、彼女はそれでも合点出来ない面持で、
「何で、お母ちゃん」
「何でて、―――田舎の年寄の人云うたら、そう云うことがやかましいさかいに、―――」
「今日何ぞあるのんと違う?」
「何でえな。―――今日は蛍狩に行くのやありませんか」
「そうかて、蛍狩にしたら、お母ちゃんも、姉ちゃんも、えらいおめかししてるやないの」
「悦ちゃん、蛍狩云うたらな、―――」
と、妙子が助け船を出した。
「ほら、よう絵に画いてあるやろ、―――お姫様が大勢腰元を連れはって、長い振袖のべべを着て、こう云う風に」
と、ちょっと手つきをして見せながら、
「―――団扇《うちわ》を持って、池の周りや土橋の上で蛍を追い駈《か》けてはるやないの。蛍狩云うたら、ああ云う風に友禅のべべを着て、しゃなりしゃなりして行かなんだら気分が出えへんねん」
「そしたら、こいちゃんは」
「こいちゃんは今時分に着る余所《よそ》行きのべべがないねんもん。今日は姉ちゃんがお姫様で、こいちゃんはモダーンガールの腰元や」
妙子はつい二三日前に、三七日《みなのか》のお詣《まい》りに岡山在まで行って来たところなのではあるが、もうあの不幸な出来事が格別の創痍《そうい》を心に留めていないらしく、元気になっていた。そして時々おどけたことを云って悦子や姉達を笑わせ、砂糖菓子だの掻《か》き餅《もち》だのの小さな缶《かん》を、手品のように次々に取り出してはこっそり口を動かしたり、皆に分けてやったりした。
「姉ちゃん、ほら、三上山《みかみやま》が見える。―――」
京都から東へめったに来たことのない悦子は、今度が二度目の近江路《おうみじ》の景色に見入りながら、去年の九月雪子と上京した時に、瀬田の長橋や、三上山や、安土《あづち》佐和山《さわやま》の城跡などを教えて貰ったことを思い出していたが、汽車が能登川《のとがわ》の駅を出て少し行った時分に、どかんと云って、妙な所で停車してしまった。乗客達は皆窓から首を出したが、畑の真ん中の、線路が少し彎曲《わんきょく》している土手の上で立ち往生したまま動かなくなっており、どう云う事故なのか、見たところちょっと分らなかった。機関車から従業員が一人二人降りて来て、車台の下を覗《のぞ》いて廻っているので、何ですか何ですかと皆が尋ねるのであるが、その人達にも原因が分らないのか、分っていても云わないのか、さあ、………と云うような曖昧《あいまい》な返事をして行ってしまう。五分か十分で済むものと思っていると、なかなか動き出さず、そのうちに後の列車が来て停る。その列車からも従業員が降りて来て覗いたり、能登川の駅の方へ駈けて行ったりしている。………
「どうしたんやろう、お母ちゃん」
「どうしたんやろう。………」
「何か轢《ひ》いたんと違うか知らん」
「そんな様子もないようやないか」
「早う動いたらええのんに」
「間が抜けた汽車やわ、こんな所で停るなんて、………」
幸子はさっき汽車が停った時、何よりも先《ま》ず、人が轢かれた、―――と思ってはっとしたのであったが、でもまあ、好い塩梅《あんばい》に、そんな縁起の悪いことではなかったけれども、………しかし片田舎の支線とか、私設線ででもあることか、こう云う主要な幹線の線路上で、汽車がこんなにも長く、三十分以上もの間原因不明の立ち往生をするなんて、よくあることなのかも知れないが、余り旅行の経験のない彼女には、何だか不思議な出来事であった。それも、誰の眼にも明かな事故の発生がなしに、だんだんに徐行し始めて、最後に、ひとりでに、どかんと停ってしまったのが、いかにも恍《とぼ》けたような、滑稽《こっけい》な感じで、恰《あたか》も汽車が今日の見合いを交ぜっ返してでもいるような、………それと云うのが、いつもいつも、雪子の縁談とか見合いの日とか云うと、不吉なことや変ったことに打《ぶ》つかる例が多いので、今度も実は何事もなければよいがと、この間から懸念《けねん》していたところであったのに、………そして、今日は仕合せに、滞りなく汽車にも乗り込めて、どうやら無事に済みそうであると、ほっとしかけていたのであったのに、………やっぱりこんな事が起きたかと思うと、幸子は自然自分の顔が曇って行くのが、自分にも分るような気がした。と、妙子が、
「何もそんなに急ぐことはあれへん。汽車が一服してる間に此方もお弁当使うたらええがな」
と、わざと冗談めかして云った。
「―――こない停っててくれた方が、御馳走《ごちそう》がゆっくり食べられまっせ」
「そやそや、今のうちに食べてしまおう」
と、幸子も気を引き立てて云った。
「―――この陽気やったら、早うせなんだら御馳走の味が変りまっせ」
彼女がそう云っている暇に、妙子はもう立ち上って網棚《あみだな》の上の籠《かご》だの風呂敷包だのを卸していた。
「こいさん、出し巻の玉子、どうもなってえへんやろか」
「それよりクラブサンドイッチが怪しいで。この方を先に開けよう」
「よう食べるなあ、こいさんは。さっきから口を動かし続けやないの」
雪子は姉と妹の、それとは云わぬ心づかいなど、とんと気に留めてもいないらしい口調であったが、汽車はそれから又十五六分過ぎて、迎えに来た機関車に牽引《けんいん》されて漸《ようや》くゴトゴト動き出した。
この前、この姉妹達が茸狩《たけがり》に招かれたのは、幸子が娘時代を送った最後の年の秋のことで、当時既に貞之助との婚約が調っており、その二三箇月後に式を挙げたのであったから、それは大正十四年で、今から十四年前、幸子が廿三、雪子が十九、妙子が十五の折であった。その頃はまだ未亡人の連れ合いが生きていて、この人の訛《なまり》が殊《こと》に著しく、この地方特有の、「たい」を「てゃあ」、「はい」を「ひゃあ」と云う風に発音するのが可笑《おか》しくて溜《たま》らず、老人の口からその音が出る度に三人眼を見合せて死ぬ苦しみをしているうちに[#「うちに」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「うち」]、「先祖のお位牌《いはい》」と云うのを「先祖のおいひゃあ」と云った途端にとうとう笑いを爆発させてしまい、義兄の辰雄に苦い顔をされたことを今も覚えているのであるが、辰雄は関ヶ原役の軍記物などにも名が出ていると云う郷士《ごうし》の菅野家を親戚《しんせき》に持っていることが、余程自慢であるらしく、機会があると此処《ここ》へ鶴子や義妹達を引っ張って来たがったものであった。そして附近の古戦場や不破《ふわ》の関趾《せきあと》などを得意になって案内するのであったが、最初に来た時は夏の盛りで、埃《ほこり》っぽい暑い田舎路《みち》をボロボロの自動車で彼方此方引き廻されてひどく草臥《くたび》れたことがあり、二度目に来た時も亦《また》その同じ場所へ連れて行かれ、もう面白くも何ともなくて閉口したことがあった。と云うのも、余人は知らず、「大阪生れ」と云うことに誇を抱いている幸子は、幼少の頃から豊太閤《ほうたいこう》と淀君《よどぎみ》が好きなので、関ヶ原の戦には興味が持てなかったせいでもあった。
その、二度目の時は、たしか離れ座敷が新築されたので、披露《ひろう》の意味をもかねて招かれたのであった。故老人が、時々昼寝をしたり、棋《き》を囲んだり、逗留《とうりゅう》客を泊めたりするのに建てたのだと云って「爛柯亭《らんかてい》」と名づけていたその一と棟は、八畳に六畳の次の間があって、母屋へは「く」の字なりに中途で一つ曲っている長い長い渡り廊下でつながっており、此処だけは多少数寄屋風《すきやふう》を取り入れた、洒落《しゃ》れた作りになっていたけれども、決して悪く華奢《きゃしゃ》にはならず、矢張何処《どこ》かに田舎の郷士の家らしい大まかな味のあるのが、何となく好もしい感じがしたが、今度も亦その爛柯亭へ通されて見ると、あれから十数年の時代の光沢《つや》を帯びたせいか、あの時よりも一層落ち着きのある、静かな部屋になっていた。
「まあ、ようおいでなされました。―――」
八畳の間で、庭の新緑に眼を遣《や》りながら四人が一と息入れているところへ、未亡人が|挨拶旁《あいさつかたがた》嫁や孫たちを引き合せに這入《はい》って来た。大垣の銀行に勤めている当主の連れ合いになる嫁は、幸子たちには初対面で、生れて間もないらしい乳呑《ちの》み児《ご》を抱えていたが、外にもう一人、六つぐらいになる男の児が彼女のうしろに含羞《はにか》みながら食っ着いていた。その嫁の名が常子、二人の孫の兄が惣助《そうすけ》、妹が勝子、………と、未亡人は一人々々紹介してから、暫《しばら》く久濶《きゅうかつ》を叙し合ったが、ここでも雪子を始め姉妹たちの「若さ」が問題にされた。未亡人はさっき自動車の停る音を聞き付けて門前まで出迎えた時、最初に妙子が車から降りたのを、あれが悦子と云うお嬢さんか知らと、………尤《もっと》もいくらか眼も悪いせいではあるが、そう思った。そしてその後から、雪子、幸子、と云う順に降りて来たのを、妙子、雪子、と云う風に思い、それにしては幸子さんが見えないがと思ったり、又もう一人小さなお嬢さんのいるのが変だと思ったりしたが、それでも自分の思い違いがまだはっきりと呑み込めず、今この離れへ挨拶に来、改めて四人に相対して話しているうちに、だんだん合点が行くようになった、と、云うのであった。嫁の常子も口を合せて、お目に懸るのは始めてだけれども、かねてから皆さんの噂《うわさ》を聞き、年恰好《かっこう》なども承《うけたまわ》っていたのに、自動車から降りて来られた時は私も誰方《どなた》が誰方やらさっぱり見当が付かなかった、と云い、雪子さんと仰《お》っしゃるお方は、失礼ながら私より一つか二つ上のように伺っておりましたが、………と云う尾について、常子は三十一なのですよ、と未亡人が云った。いかにも、数年前に嫁いで来て既に二人の子まで生んでいる嫁が、老《ふ》けて見えるのは当り前だけれども、そう云っても今日は一と通り身嗜《みだしな》みもしているらしいのに、雪子と比べるとまるで彼女は台が違うように見えた。未亡人は又、お若いと云えば妙子さんも実にお若い、始めて妙子さんが遊びに来られた時はこのお方(と、悦子を指して)よりちょっと大きいぐらいであったが、二度目に来られた時が大正十四年だったとすると、あの時分に十五六ぐらいにおなりだったであろうか、と云い、我が眼を疑うようにしばだたきながら、こうしておられる妙子さんを見ると、あれから今日までに十何年の星霜《せいそう》を経ていると云うことが信じられないで、不思議な気がする、さっき私が妙子さんを悦子さんと間違えたのは粗忽《そこつ》だけれども、今つくづくとお目に懸って見ても、あの時分に比べてそんなに年を取られたような様子はない、せいぜい取って一つか二つ、どう見ても十七八の少女としか思えない、などと云った。
お三時に、と云って冷麦の丼《どんぶり》が運び込まれたあとで、幸子だけが打ち合せのために母屋の方の一と間へ呼ばれて、未亡人と対坐《たいざ》したが、正直のところ、彼女は五分か十分も話を聞いているうちに、早くも今日の招待に応じたことを後悔する念が湧《わ》いた。未亡人の説明の中で彼女が最も意外の感を抱いたのは、この間から一番重要な疑問になっていた点、―――先方の人物性行について、未亡人が何も知らないばかりでなく、その沢崎家の当主なる人と、まだ会ったこともないのだ、と云うことであった。未亡人の言に依《よ》ると、沢崎家と菅野家とは昔から旧家同士の仁義を取り交しており、亡《な》くなった主人も、沢崎家の先代や当主と別懇にしていたようだけれども、主人の死後、忰《せがれ》は余り附き合っていない。従って、先代時分のことは知らず、当主の沢崎氏は、自分が覚えてからこの家へは一遍も来訪したことがないので、自分は彼とは面識がないし、今度のことがある迄《まで》は手紙の遣り取りもしたことはない。しかしそう云う関係で、両家に共通な縁者、知人、出入りの者等が少くないので、沢崎氏が両三年前に夫人に先立たれたこと、近頃後添いを捜しており、二つ三つ話もあったらしいけれども、纏《まと》まらなかった様子であること、沢崎氏は当人が既に四十歳を越えており、先妻の遺《わす》れ形見などがあるにも拘《かかわ》らず、後妻には初婚の、それもなるべく二十台の人を望んでいるらしいこと、等々の噂を聞くともなく聞かされる機会が多いにつけ、自分はいつも雪子さんのことが胸にあるところから、二十台と云う注文には外れるけれども、まあ話して見るだけのものはあろうと思って、申し入れて見たのである。尤も、それには然《しか》るべき人を立てるのが順序であったが、さてそうなると、好い加減な人間では行かず、誰か彼かと迷っているうちに日がたってしまうより、早い方がよいと考えたので、少し突飛のようだったけれども、直接自分から書面を以て、此方の親戚にこれこれの娘さんがあるが、一遍会って御覧になるお心持はないであろうか、と云ってやった。と、その後先方から何の挨拶も来なかったので、気がないものと思っていたところ、此方の書面に基づいて内々調査を進めていたものと見えて、それから二箇月程立って、先達《せんだって》返書が来た。―――未亡人はそう云って、これがその手紙なのですがと、出して見せたので、幸子が読むと、これも至って短文で、爛柯亭様御在世中は一方《ひとかた》ならぬ御高誼《こうぎ》に与《あずか》ったことであるが、貴女様には今日まで拝芝《はいし》の栄を得ず、失礼致しておる、然るところ先般は寔《まこと》に御親切なる御書面を戴《いただ》き、御懇情に対し御礼の言葉を知らない、早速御返事可申上筈《もうしあぐべきはず》の処、俗務繁多にて延引仕《つかまつ》り何とも申訳がないが、では折角の事であるから、そのお方にお目に懸らして戴こうと存ずる、当方は、両三日前にお申越し下されば、大体土曜日曜ならばいつにても都合がつく、猶《なお》詳細は電話を以てお打ち合せ下さっても結構である、と、巻紙に候文《そうろうぶん》で認《したた》めてあり、書体、文体等も型通りで、平凡の二字に尽きていたが、幸子はそれを読まされたあと、暫く唖然《あぜん》として開いた口が塞《ふさ》がらない思いであった。いったい、旧家と云うからには、沢崎家にしても菅野家にしても、普通以上にこう云う場合の習慣を重んじそうなものであるのに、これはどうしたことなのであろうか。殊《こと》に菅野の未亡人が、予《あらかじ》め蒔岡の方へ相談もせず、自分の一存を以て未見の人に書面で左様な申し入れをすると云うのは、年に似合わない乱暴な仕方ではないか。幸子はこの老婦人にそんな猪突《ちょとつ》的な一面があったことを今迄知らなかったのであるが、なるほど、そう云えば、年を取って尚更《なおさら》そうなったのかどうか、顔つきにも何処か権《けん》があって、一本気らしいところが見えるし、本家の義兄が特にこの姉を畏敬《いけい》していることなども思い合されるのであった。又沢崎氏がその申込みに応じたのは、これも非常識と云う外はないが、まだこの方は、菅野家に対して礼を失うまいと云う心づかいからであるとすれば、解釈出来ないこともなかった。
幸子が努めて不満の色を現わさないようにしていると、未亡人は、私は気短かで形式に囚《とら》われることが嫌《きら》いだものですから、………と、言訳とも付かないようなことを云って、そんな訳であるから、先《ま》ず双方を会わせてしまえば話は分る、外のことは後廻しでよいと考えたので、まだ何も先方のことは調べてないが、沢崎氏の人物についても家庭についても、格別今迄に悪い噂を耳にしたことがないのを見れば、まあこれと云う欠点はなさそうに思う、猶御不審の点は、直接打《ぶ》つかってお聞きになるのが却《かえ》って手っ取り早いであろう、などと云うのであったが、それにしても、沢崎氏の先妻の子供は二三人と云うのみで、二人なのか三人なのか、男子なのか女子なのかさえも聞き合せてない始末であった。が、未亡人は自分の計画が此処《ここ》まで進展したことに気をよくしているらしく、それで、幸子さんの御返事を戴くと直ぐ電話で打ち合せたのであるが、明朝十一時前後に沢崎氏の方から訪ねて来ることになっているので、此方は雪子さん、幸子さん、私の三人で会うことにして、別にお構いは出来ないけれども、常子の手料理でお昼御飯を差上げようと思う、ついては、蛍狩は今夜にして、明朝妙子さんと悦子さんとは、忰に案内させ、関ヶ原その他の古跡を見物に行かれるように取り計らおう、弁当持参で出掛けられて、二時頃迄に帰って来られれば、その間に此方も済むであろう、と、至極上機嫌《じょうきげん》の顔つきで云い、縁のものだから分らないけれども、私は実は、雪子さんが今年厄年《やくどし》になられると云うことばかり頭にあったので、あんなにお若く見えるとは思ってもいなかった、あれなら世間は廿四五で通るから、年齢の注文にも篏《は》まっているようなものではないか、などと云ったりするのであったが、幸子はこの場合、何とか巧《うま》い口実を見付けることが出来さえしたら、今度は蛍狩だけにして、見合いの件は一と先ず延期して貰《もら》うのに、―――と思わないではいられなかった。ありていに云うと、彼女が未亡人の手紙一本に引き寄せられて、雪子を連れて出て来たと云うのは、偏《ひとえ》に未亡人を信用し、此処まで事が運ぶのにはそれ相当の下準備が出来ているものと考えたからであったが、これでは雪子と云うものが、菅野家からも沢崎家からも、いかにも安く扱われた感じで、これを聞いたら、当人が気を悪くするのは素《もと》より、貞之助などもひとしお憤慨するであろうことは明かであった。そして、千万長者と云われる沢崎氏が、仲介人も立てないで書面で見合いを申し込んで来るような相手を、どんなに心中で軽蔑《けいべつ》しているであろうかは凡《およ》そ想像に難くなく、真面目《まじめ》で取り合っているのではあるまいとさえ、推量された。しかし彼女は、貞之助が一緒ででもあれば、見合いより先に身許《みもと》調べをして置きたいこと、見合いには矢張仲介人を立てて一と通りの形式を蹈《ふ》みたいことなど、誰に聞かれても尤もな道理を楯《たて》に、一往の日延べを乞う方法もあるが、女だてらに、折角乗り気になっている未亡人を前にして、なまじなことも云えず、東京の義兄の立ち場も考えてやらなければならないとすると、雪子には可哀《かわい》そうだけれども、結局未亡人に「宜《よろ》しくお願い」することにして、成り行きに任せるより外はなかった。
「雪子ちゃん、暑かったらそれ着替えなさい。あたしもこれを脱がして貰お。―――」
幸子は離れ座敷へ戻ると、今日ではないと云うことを眼顔で知らして、自分も袋帯を解きにかかったが、ついガッカリしたような溜息《ためいき》が出るのを、暑さのせいであるように胡麻化《ごまか》さなければならなかった。未亡人の話の中の不愉快な部分は、雪子ちゃんにも、こいさんにも、云わずに置こう。自分もそれを考えると気が塞ぐから、今日一日は努めて忘れるようにしよう。明日は明日の風が吹く。今日は蛍狩に興じればよいのだ。………こう云う時にくよくよしないのが幸子の癖で、直《す》ぐそんな風に気分転換を心がけるのであったが、それでも何も知らずにいる雪子を見ると、胸が痞《つか》えた。そして、それを紛らすために衣裳鞄《いしょうかばん》からポーラルの単衣《ひとえ》と単帯《ひとえおび》とを出して着替えたり、脱いだ衣裳を衣紋掛《えもんか》けに掛けたりしていると、
「その着物、蛍狩に着て行かへんのん」
と、悦子が不審そうに聞いたが、
「ちょっと汗ばんでるよってに、こないしとくねん」
と、云いながらそれを衣桁《いこう》に吊《つ》るした。
眠れないのは場所が変ったせいでもあるが、それより疲れ過ぎているのであろう。今朝はいつもより早く起きて、暑い中を汽車と自動車に半日揺られて、夜になってから又真っ暗な田圃路《たんぼみち》を子供達と一緒に元気に駈《か》けずり廻ったりして、一里以上も歩いたか知らん。………でも蛍狩《ほたるがり》と云うものは、後になってからの思い出の方がなつかしいような。………幸子は蛍狩と云えば、文楽座で見た朝顔日記の宇治《うじ》の場面、―――人形の深雪《みゆき》と駒沢《こまざわ》とが屋形船の中でささやきを交す情景を知っているだけで、妙子が云ったように友禅の振袖《ふりそで》などを着て、野面《のづら》の夕風に裾《すそ》や袂《たもと》を飜《ひるがえ》しながら、団扇《うちわ》で彼方此方と蛍を追うところに風情《ふぜい》があるのだと、何となく思い込んでいたのであったが、実際はそんなものではなく、暗い畦路《あぜみち》や叢《くさむら》の中などを行くのですから、お召物が汚れます、どうかこれにお着替えになってと云って出されたのは、今夜のために特に用意したものなのか、それともいつも貸浴衣《かしゆかた》代りに備えてあるのか、幸子、雪子、妙子、悦子にまで、それぞれちゃんと柄行きを見立てたモスリンの単衣であった。ほんまの蛍狩は絵のような訳には行かんねんなと、妙子は笑ったが、何しろ闇夜《やみよ》程よいと云うのであるから、着る物に都雅《みやび》を競う面白さはなかった。それでも家を出た時分には人顔がぼんやり見分けられる程度であったが、蛍が出ると云う小川のほとりへ行き着いた頃から急激に夜が落ちて来て、………小川と云っても、畑の中にある溝《みぞ》の少し大きいくらいな平凡な川がひとすじ流れ、両岸には一面に芒《すすき》のような草が長く生い茂っているのが、水が見えないくらい川面《かわも》に覆《おお》いかぶさっていて、最初は一丁程先に土橋のあるのだけが分っていたが、………蛍と云うものは人声や光るものを嫌《きら》うと云うことで、遠くから懐中電燈を照らさぬようにし、話声も立てぬようにして近づいたのであったが、直《す》ぐ川のほとりへ来てもそれらしいものが見えないので、今日は出ないのでしょうかとひそひそ声で囁《ささや》くと、いいえ、沢山出ています、此方へいらっしゃいと云われて、ずっと川の縁の叢の中へ這入《はい》り込んで見ると、ちょうどあたりが僅《わず》かに残る明るさから刻々と墨一色の暗さに移る微妙な時に、両岸の叢から蛍がすいすいと、すすきと同じような低い弧を描きつつ真ん中の川に向って飛ぶのが見えた。………見渡す限り、ひとすじの川の縁に沿うて、何処迄《どこまで》も何処迄も、果てしもなく両岸から飛び交わすのが見えた。………それが今迄見えなかったのは、草が丈高く伸びていたのと、その間から飛び立つ蛍が、上の方へ舞い上らずに、水を慕って低く揺曳《ようえい》するせいであった。………が、その、真の闇になる寸刻前、落ち凹《くぼ》んだ川面から濃い暗黒が這い上って来つつありながら、まだもやもやと近くの草の揺れ動くけはいが視覚に感じられる時に、遠く、遠く、川のつづく限り、幾筋とない線を引いて両側から入り乱れつつ点滅していた、幽鬼めいた蛍の火は、今も夢の中にまで尾を曳《ひ》いているようで、眼をつぶってもありありと見える。………ほんとうに、今夜じゅうで一番印象の深かったのはあの一刻であった。あれを味わっただけでも蛍狩に来た甲斐《かい》はあった。………なるほど蛍狩と云うものは、お花見のような絵画的なものではなくて、冥想《めいそう》的な、………とでも云ったらよいのであろうか。それでいてお伽噺《とぎばなし》の世界じみた、子供っぽいところもあるが。………あの世界は絵にするよりは音楽にすべきものかも知れない。お琴かピアノかに、あの感じを作曲したものがあってもよいが。………
彼女は、自分がこうして寝床の中で眼をつぶっているこの真夜中にも、あの小川のほとりではあれらの蛍が一と晩じゅう音もなく明滅し、数限りもなく飛び交うているのだと思うと、云いようもない浪漫的な心地に誘い込まれるのであった。何か、自分の魂があくがれ出して、あの蛍の群に交って、水の面を高く低く、揺られて行くような、………そう云えばあの小川は、蛍を追って行くと、随分長く、一直線に、何処迄もつづいている川であった。彼女達はところどころに架してある土橋をときどき彼方へ渡り此方へ渡りして、………川へ落ち込まないように警戒し合いながら、………眼が蛍のように光ると云う蛇《へび》を恐れながら行ったが、一緒に附いて来た菅野家の男の児、六つになる惣助《そうすけ》はこの辺の地理を熟知していて、一寸先も見えない暗中を素ばしこく走り廻った。惣助々々と、今夜の案内に立った父親の耕助、―――菅野家の当主が、心配して折々怒鳴った。その時分になると蛍があまり沢山いるので、誰も遠慮なく声を出したが、お互に、蛍に釣《つ》られてつい離れ離れになるので、始終呼び合っていないと、闇に取り残されてしまう心配があった。幸子はいつか雪子と二人だけになっていたが、向う岸でこいちゃんこいちゃんと云っている悦子の声と、それに答える妙子の声がとぎれとぎれに、………少し風が出て来たので、………聞えたり消えたりした。何と云っても子供っぽい遊びになると、三人のうちでは妙子が一番気も若いし、体も利《き》くので、こう云う時にはいつも彼女が悦子の相手をさせられる。………その、川の向うから風に伝わって来る声が、今も幸子の耳に聞える。………お母ちゃん、………お母ちゃん何処、………此処やわ、………姉ちゃんは?………姉ちゃんも此処やわ、………悦子蛍を二十匹獲ったよ、………川へ篏《は》まらんようにしなさいや。………耕助が路端《みちばた》の草を引き抜いて帚《ほうき》のような束を作って持っているのを何にするのかと思ったら、それに蛍を留まらせて捕えるのであった。蛍の名所と云えば江州《ごうしゅう》の守山《もりやま》辺にも、岐阜市の郊外などにもあるが、大概そう云う土地では名産の蛍を貴いあたりへ献上するので、捕獲することを禁じている、ここは名所ではない代りにいくら獲ってもやかましいことを云う者はいないと耕助は云ったが、一番沢山獲ったのは耕助で、次は惣助だったであろう。父子は勇敢に水際《みずぎわ》へ下りて行ったりして捕えた。耕助の手にある草の束が光の粒で玉帚《たまはばき》のようになった。幸子達は何処迄行ったら引っ返すのか、容易に耕助が帰ろうと云わないので、風が強うなって来ましたね、そろそろ帰りましょうかと云ったら、もう帰り路なんですよ、来た時と別な路を通ってるんですと云われたが、それでもなかなか帰り着かないので、知らないうちに随分遠くまで来ていることが分った。そして突然、さあ此処ですよと云われて見ると、いつの間にか菅野の家の裏門の前に戻っていた。………みんなが手に手に幾匹かの蛍をそれぞれの容器に入れて持ち、幸子と雪子とは袂の先に入れて握りながら。………
宵のそれらの出来事が、あとさきの順序もなく幸子の頭の中で蛍火のように入り乱れたが、自分は夢を見ていたのか知らん、そう思って眼を開くと、小さい電燈の燈《とも》っている頭の上の欄間に、昼間見覚えのある額が懸っていた。それは「爛柯亭」と記した奎堂伯《けいどうはく》の書で、「御賜鳩杖《おんしのはとのつえ》」の関防が捺《お》してあるのだが、「奎堂」が誰であるかも知らない幸子は、ただ「爛柯亭」の三字を読んだだけであった。と、暗い次の間の方で、何か光ったものが横に流れたけはいがしたので、首を擡《もた》げて見ると、何処からか迷い込んだ蛍が一匹、蚊遣《かやり》線香の煙に追われて逃げ場を求めているのであった。さっき、獲って来た蛍の大部分を前栽《せんざい》に放してやった時、家の中へも夥《おびただ》しく舞い込んで来たのを、寝る前、雨戸を締める時にすっかり庭へ掃き出したのであったが、何処かに残っていたのであろうか。蛍はふわりと五六尺の高さに舞い上ったが、もう舞う力がない程弱っており、部屋を斜めに横切って、片隅《かたすみ》の衣桁《いこう》に、まだあのまま吊《つ》るしてあった彼女の衣裳《いしょう》の上に留まった。そして友禅の模様の上を這《は》いながら袂の中に忍び込んだらしく、お納戸《なんど》のたけしぼの地を透かして仄《ほの》かに光っているのが見える。彼女は、蚊遣りの煙が余り籠《こも》ると咽喉《のど》を痛めそうなので、起きて、素焼の狸《たぬき》の容器に這入った線香の火を消した。それから、ついでにその蛍を掴《つか》まえて、―――手を這われると気味が悪いので、塵紙《ちりがみ》を円めてそうっと包んで、―――雨戸の無双窓の隙間《すきま》から外へ放したが、見ると、先刻植込みの間だの池の汀《みぎわ》だのにあんなに沢山きらめいていた蛍が、大方あの小川のほとりへ逃げ帰ったのでもあろうか、殆《ほとん》ど残らず飛び去って、庭は漆のような闇に復《かえ》っていた。彼女は再び寝床へ這入ったが、矢張工合よく寝付かれないので、彼方此方寝返りを打ちながら、すやすやと寝ているらしい三人の寝息に耳を澄ました。八畳の間の、床の間に沿うて幸子、その隣に妙子、二人の向う側に雪子と悦子、と云う風に、四人が頭を両方から向い合せて寝ているのであったが、ふと幸子は、誰かが微《かす》かな鼾《いびき》を掻《か》いているのに気づいて、なおよく耳を澄ますと、それは雪子であるらしかった。彼女はその、細い、仄《ほの》かな音を、こんなにも可愛い鼾があろうかと、感心しながら聞いていたが、その時寝ていると思った妙子が、
「中姉《なかあん》ちゃん、起きてるのん?………」
と、しずかに寝姿を崩《くず》さずに云った。
「ふん、………あたし、ちょっとも寝られへんねんわ」
「うちかて寝られへんねん」
「こいさん、さっきから起きてたのん?」
「ふん、………うち、場所が変ると寝られへん」
「雪子ちゃんはよう寝てるわな。鼾掻《か》いてるわ」
「雪姉《きあん》ちゃんの鼾、猫《ねこ》の鼾みたいやわ」
「ほんに、『鈴』があんな鼾掻くわな」
「呑気《のんき》やわ、明日見合いや云うのんに。………」
幸子は、「眠り」にかけては雪子よりも妙子の方が神経質であったことを思い出した。ちょっと考えると反対のようなのであるが、妙子は常から人一倍夜聡《よざと》く、些細《ささい》な故障にも直ぐ眼を覚ますたちであるのに、雪子は見かけに依《よ》らぬ呑気なところがあって、くたびれると汽車の中などでも、椅子に掛けたまま昏々《こんこん》と眠る、と云う風であった。
「明日、その人が此処へ来やはるのん?」
「ふん、十一時頃に来やはって、一緒にお昼御飯食べることになってるねん」
「うちはどないするのん」
「こいさんと悦ちゃんとは、耕助さんの案内で関ヶ原を見に行くねん。そして雪子ちゃんと、あたしと、菅野の姉さんと、三人で会うねん」
「それ、雪姉ちゃんに話してあるのん」
「さっき、ちょっと話しといたけど、………」
幸子は今日、悦子が側《そば》を離れないために雪子と明日の打ち合せをする暇がなかったので、さっき、蛍狩の路で二人きりになった機会に、雪子ちゃん、明日はお午《ひる》に会うのんやで、………と、耳打ちをしかけたのであった。が、雪子が、ふん、と云っただけで、あとを聞こうともせず、闇の中をしずかに附いて来るだけなので、幸子も接穂《つぎほ》がなく、黙ってしまったのであったが、妙子が云うように、この気楽そうな鼾を聞いては、明日の会見をそんなに気に懸けているようには思えないのであった。
「雪姉ちゃん見たいに何遍もしたら、見合いも平気になるもんか知らん」
「そうかも知れんわな。けど、張合いのない人やわ」
と、幸子は云った。
悦子は、お母ちゃんと大きい姉ちゃんとはたびたび関ヶ原へ行ったことがありますから待っています、こいさんは小さい時分に行ったきりなので、もう一度見たいそうですから、今日はこいさんと悦ちゃんが連れて行って戴《いただ》きなさい、―――と、云われると、やっぱり何かあるのだなと合点したらしく、いつもなら姉ちゃんも一緒でなければなどと駄々《だだ》を捏《こ》ねずには措《お》かないところを、大人しく承知して、耕助と、惣助と、妙子と、弁当持ちの爺《じい》やとの五人で、迎えに来た自動車に乗って出かけたが、それから程なく、爛柯亭《らんかてい》の六畳の間で、幸子が雪子の着附を手伝ってやっていると、
「只今《ただいま》お見えになりましたから」
と、常子が渡り廊下を渡って知らせに来た。通されたのは、母屋のずっと奥まったところにある、書院窓の附いた古風な十二畳の座敷であった。黒光りのする分厚い板の縁側の外には、此処《ここ》だけの別な前栽《せんざい》があって、その向うに、楓《かえで》の老樹の新緑を透かして持仏堂の甍《いらか》が見え、石榴《ざくろ》が花を着けている鉢前《はちまえ》のあたりから那智黒《なちぐろ》石を敷き詰めた汀《みぎわ》へかけて、夥《おびただ》しい木賊《とくさ》が生えているのを、こんな所にこんな庭や座敷があったのかと思って幸子は暫《しばら》く眺《なが》めていたが、そうしているうちに、遠い記憶がよみがえって来て、もう二十年も前、始めてこの家を訪れた時に通されたのがこの部屋ではなかったかと、だんだん心づくようになった。何でも最初に来た時はまだあの離れが建っていなかったので、姉夫婦に幸子達五人が広い座敷に枕《まくら》を並べて寝たのであったが、それがどうもこの部屋であったらしい。幸子は外のことは忘れてしまったが、妙なことに、鉢前の木賊を覚えていた。なぜと云って、その木賊はそこの縁先に非常に夥しく蕃殖《はんしょく》し、青い細い茎が雨の脚のように一面にすくすくと群生しているのがちょっと奇異な見物《みもの》なので、珍しいなあと思った当時の印象が、今も消えずにいたのであろう。二人が這入って行くと、客は未亡人と初対面の挨拶《あいさつ》を取り交しているところであったが、幸子達の紹介が済んだあとで、正面の床の間を背にして沢崎、側面の襖《ふすま》を背に、庭の明りを前にして幸子と雪子、末座の、沢崎と向い合う席に未亡人が坐《すわ》った。沢崎は席に就く前に、薄端《うすばた》に未生《みしょう》流らしい矯《た》め方をした葉蘭《はらん》が活《い》けてある床の間を向いて跪《ひざまず》き、掛軸の書を丹念に打ち眺めている様子であったが、幸子と雪子とはその隙《すき》に彼の後姿へ眼を遣《や》った。四十四五と云うことであったが、外見も先ずそのくらいで、痩《や》せた、小柄な、腺病質《せんびょうしつ》らしい血色をした紳士である。物の云い方、頭の下げ方、体の取りなし、等も尋常で、金持ぶっている風はなく、型は崩《くず》れていないけれども角々《かどかど》のやや擦《す》り切れた茶の背広服、たびたび水を潜ったものらしく黄色くなった富士絹のワイシャツ、縞《しま》模様の消えかかった絹の靴下、等々を身に着けているところは、幸子達の装いに比べて少しお粗末過ぎ、今日の見合いを如何《いか》に手軽に考えているかと云う証拠にもなるが、なかなか倹《つま》しい生活の人であることをも語っている。と、沢崎は、掛軸の詩が満足に読み下せたのかどうか、
「この星巌《せいがん》はまことに結構でございますな」
と云いながら座に直って、
「御当家には星巌の書が沢山おありなさるそうでございますな」
「ほほ」
と、未亡人はつつましく笑った。が、この老婦人にはこう云う種類のお世辞が最も効果を現わすらしく、急に顔じゅうを和やかにして、
「亡《な》くなりました主人の祖父になります人が、星巌先生に師事しておられましたとやらでございまして、………」
星巌の室紅蘭《こうらん》の書も、扇面や屏風《びょうぶ》など数点を蔵していること、山陽の女弟子として名高い江馬細香《えまさいこう》の筆蹟《ひっせき》も幾幅《ふく》かを所持していること、大垣《おおがき》藩の侍医をしていた細香の家と菅野家とは交際があったらしく、細香の父蘭斎《らんさい》の尺牘《せきとく》なども残っていることなどが話題になって、未亡人と沢崎との間に暫くその方面の閑談が弾み、細香と山陽との恋愛関係のこと、山陽が美濃《みの》に遊んだ当時のこと、「湘夢《しょうむ》遺稿」のことなど、沢崎はいろいろなことを持ち出してしゃべったが、未亡人も言葉少なに応酬しながら、満更そう云う消息に暗くないことを示した。
「亡くなりました主人は、細香の墨竹に賛を致しましたものを愛蔵致しておりまして、よくお客様にお見せしましては細香のことを語っておったものでございますから、つい私《わたくし》も聞き覚えてしまいまして、………」
「ああ左様で。………何しろ御先代は趣味のお広いお方でいらっしゃいましたからな。私も数回碁のお相手をさせて戴《いただ》いたことがございまして、いつも爛柯亭へ訪ねて来てくれるようにと仰《お》っしゃっておられましたので、一遍お邪魔して御蔵幅を拝見させて戴きますと、申し上げておったのでございましたが、………」
「実は本日は、その爛柯亭へ御案内申したかったのでございますが、生憎《あいにく》彼方《あちら》が塞《ふさ》がっておりまして、―――」
そう云って未亡人は、それまで手持無沙汰《ぶさた》にしていた幸子達の方へこなしながら、
「―――蒔岡さんの方々をお泊めしますのに、彼方を使っているものでございますから、―――」
「ほんとうに、此処のお座敷も結構でございますが」
と、幸子はようよう会話の仲間入りをさせて貰《もら》って、
「―――彼方は離れになっておりますせいか、実に閑静な、ええお座敷でございますわ。あそこに泊めて戴いておりましたら、どんな旅館の別館に泊りますよりも気分が宜《よろ》しゅうございます」
「ほほ」
と、未亡人は又笑って、
「そんなこともございますまいけれども、何卒《どうぞ》お気に召しましたら、幾日でも泊っていらしって、………主人も晩年には閑静なのが気に入りまして、もうずうっと爛柯亭にばかり引き籠《こも》っていたのでございます」
「そう云えば、爛柯亭の『爛柯』と申しますのはどう云う意味でございましょうか」
「さあ、それは私よりも沢崎さんに御説明を願った方が、………」
と、未亡人はちょっと試験するような口調で云ったが、沢崎はさっと顔の色を変え、
「さあ、―――」
と、急に取り済まして何とも云えぬ不愉快そうな眼つきをした。
「晋《しん》の王質と云う樵夫《きこり》が山の中で童子が碁を打っているのを見ていたら、その間に斧《おの》の柯《え》が爛《ただ》れた、とやら云うようなことではございませんでしたでしょうか」
「さあ、―――」
と、沢崎はいよいよ顔を曇らせて、眉根《まゆね》に深い皺《しわ》を寄せた。未亡人はもう追究するのを止《や》め、
「ほほ」
と笑っただけであったが、その笑い方が妙に意地悪く響いたので、俄《にわか》に座が白けたような風になった。
「それでは、何もございませぬけれども、―――」
と、常子がその時沢崎の膳《ぜん》の前に坐って、青九谷《あおくたに》の銚子《ちょうし》を取った。
今日は手料理と云うけれども、膳の上の色どりは、大垣あたりの仕出し屋から取り寄せたらしいものが大部分を占めていた。幸子は実は、暑い時分のことではあり、こう云う風な生物《なまもの》の多い、而《しか》も田舎の割烹店《かっぽうてん》で作るお定《さだ》まりの会席料理などよりは、この家の台所で拵《こしら》える新鮮な蔬菜《そさい》の煮付けの方が食べたかったのであるが、試みに鯛《たい》の刺身に箸《はし》を着けて見ると、果して口の中でぐにゃりとなるように身が柔かい。鯛について特別に神経質な彼女は、慌《あわ》ててそれを一杯の酒と一緒に飲み下して、それきり暫く箸を置いた。見渡したところ、彼女の食慾をそそるものは若鮎《わかあゆ》の塩焼だけであるが、これはさっき、未亡人が礼を云っていたところから察すると、沢崎が氷詰めにして土産に持って来たものを、この家で焼いて出したので、仕出し屋の料理とは違うらしい。
「雪子ちゃん、鮎を戴きなさいな」
幸子は自分が気の利《き》かない質問をしたのが因《もと》で、座を白けさせたことを思うと、何とか取り繕わなければならないのであったが、沢崎には寄り着きにくいので、仕方なく雪子に話しかけた。が、最初から一と言も物を云う機会がなくて、じっと俯向《うつむ》いてばかりいた雪子は、
「はあ、………」
と、纔《わず》かに頷《うなず》いただけであった。
「雪子さんは、鮎がお好きなのでございますか」
と、未亡人が云った。
「はあ、………」
と、雪子がもう一度頷いたあとを、幸子が受けて、
「鮎は私も大好物なのでございますが、妹は私以上に好きなのでございまして、………」
「まあ、それは宜しゅうございました。本日はほんとうに田舎料理で、何もお口に合うようなものがございませんので、当惑致しておりましたが、沢崎さんからこの鮎を戴きましたので、………」
「こんな田舎におりますと、こう云う見事な生きのよい鮎を戴くなんて云うことはめったにございません」
と、常子が口を挟《はさ》んだ。
「―――而も沢山氷詰めにしてお持ち下さいまして、さぞお荷物でございましたでしょう。これはどちらで獲れました鮎でございましょうか」
「これは長良川《ながらがわ》で、………」
と、沢崎はだんだん機嫌《きげん》を直して、
「昨夜電話で頼んで置きまして、先刻岐阜の駅で汽車まで届けさせたのでございます」
「それはまあ、お手数をお掛け下さいまして、………」
「お蔭で初物が戴けますわ」
と、未亡人の尾について幸子が云った。
そんなことから又少しずつ座談の縒《よ》りが戻って行って、岐阜県下の名所旧蹟の話、日本ライン、下呂《げろ》温泉、養老の滝の話、昨夜の蛍狩の話など、ぽつぽつと取り交されたが、どうもさっきのようには弾まず、お互にギゴチなさを忍びながら、座をつなぐために何か彼か話題を持ち出していると云う感じであった。幸子は自分が行ける口なので、こう云う時にもう少し酒間の斡旋《あっせん》をしてくれるとよいのだがと思ったりしたが、何分十二畳の広間に四人が相当離れ離れに席を占めていることではあり、男客と云っては一人だけであるから、常子ではそこまで気が廻らないのも無理はなかった。どうせ夏の昼間の酒で、勧められてもそうは過せもしないのであるが、未亡人と雪子の膳の上には最初の一杯が冷え切ったまま置いてあり、幸子はさっき鯛の身と一緒にそれを飲み干して、杯を空にしているのに、常子は沢崎にばかり酌《しゃく》をして、女達にはしないでもよいものと極めているらしい。だが沢崎も、気がすすまないのか、遠慮しているのか、それともほんとうに嗜《たしな》まないのか、三度に一度ぐらい受ける真似《まね》をするだけで、実際の量は二三杯しか過していない。そして、何卒お楽に、―――とたびたび云われながら、いえ、この方が勝手でございますとばかり、ズボンの膝《ひざ》をきちんと揃《そろ》えて畏《かしこ》まっているのであった。
「あのう、阪神地方へも時々お越しになることがおありなのでございましょうか」
「はい、神戸へはあまり参りませんけれども、大阪へは、年に一二回程は、―――」
幸子はどうしても、この「千万長者」と云われる相手が雪子との見合いを応諾した動機について、心中の疑惑を払い切れないものがあって、今日は最初から、何かこの男に欠陥があるのではないかと云う眼で観察しつづけているのであったが、今迄話して見た様子では、そう取り立てて異常な点があるようにも思えなかった。ただちょっと滑稽《こっけい》だったのは、彼が自分の知らないことを質問された時の態度である。知らなければ知らないと云えば済みそうなものを、あんな工合に不機嫌になると云うのは、そう云うところにお坊ちゃん育ちの地金が出るのでもあろうか。そう思って見ると、眉間《みけん》の少し下、鼻梁《びりょう》の両側に静脈が青く透いていたりして、いかにも癇癖《かんぺき》の強そうな相をしている。それに、気のせいかも知れないが、眼の使い方が女性的で、陰性で、オドオドしたようなところさえあって、何か秘密を持っている人、と云う感じがないこともない。が、幸子はそんなことよりも、この人物が雪子に対して余り興味を湧《わ》かしていないらしいことに、早くも心づいていた。彼女は沢崎が、さっき未亡人と閑談の最中に、頻《しき》りに雪子の容貌《ようぼう》の上へ探るような視線を投げつつあったのを見逃さなかったが、その陰性な冷たい眼は、それきり殆《ほとん》ど雪子の方には注がれなくなった。未亡人や常子が何かと話題を考えて、二人に言葉を交させるように苦心していることは分るが、そうされると沢崎は、義理に一と言二た言ぐらい話しかけて、直ぐ外の人の方へ転じてしまう。それは一つには、雪子が何を云われてもはあはあとばかりで張合いのないせいでもあろうが、明かに沢崎には雪子がお気に召さないのに違いなく、そして、その由《よ》って来《きた》る主な原因はと云えば、どうも雪子の左の眼の縁にあるのではないかと、推量された。と云うのは、雪子のその仄《ほの》かなシミは、昨日から幸子の胸を暗くしていたので、今日は幾分でも薄くなってくれますようにと念じていたのに、生憎《あいにく》昨日よりも濃くなっているのであった。そのくせ当人は例の如《ごと》く無関心で、今朝もいつもの厚化粧をしようとするので、雪子ちゃん、少し濃過ぎるようやないかと、拵えを手伝ってやりながらそれと云わずにお白粉《しろい》を薄くさせたり、頬紅《ほおべに》を眼の下の方へひろげさせたり、いろいろにして見たのだけれども、矢張どうしても巧《うま》い工合に胡麻化《ごまか》し切れないので、幸子はこの座敷へ這入った時からヒヤヒヤしていたのであった。未亡人や常子はそれに気が付いていたのかどうか、何も素振には現わさなかったが、運悪く又雪子の座席が、沢崎に対して始終左半面を晒《さら》すような角度になっており、眩《まぶし》いような初夏の庭の反射が、その顔の上に真正面《まとも》に照っていた。ただ雪子自身がそれを弱点と感じていないので、悪びれたり照れたりするようなけはいを示さず、極めて自然に振舞っているのが、幾らか場面を救ったことは事実だけれども、幸子は、昨日の朝省線電車で見た時よりもずっと目立っているように思い、長く雪子をこの席に置くのに堪えぬような気持にさせられていた。で、沢崎が食事を済ますと怱々《そうそう》に、
「甚《はなは》だ勝手でございますが、汽車の時間がございますから」
と、あっさり暇《いとま》を告げて座を立った時には、心からほっとしたのであった。
折角だからもう一と晩泊っていらしったら、………明日は日曜でもあるし、さっき話の出た養老へ案内させても宜《よろ》しいがと、未亡人が云うのを辞退して、悦子達が戻って来ると直ぐ支度をし、予定の三時九分の上りを掴《つか》まえることが出来たが、それだと蒲郡《がまごおり》へ五時半頃には着く筈《はず》であった。土曜日の午後だと云うのに二等車は空《す》いていたので、四人が工合よくさし向いの席を占めたが、腰掛けて見ると昨日からの疲れが出て、皆口をきく元気もなく、ぐったりしていた。もう入梅の気構えの空が鬱陶《うっとう》しく、車室の中がじっとりと生暖いので、幸子と雪子とはうしろに靠《もた》れかかったままとろとろとし始め、妙子と悦子とは週刊朝日とサンデー毎日とを仲好くひろげて読んでいたが、そのうちに妙子が、
「悦ちゃん、蛍《ほたる》が逃げてしまうわ」
と、窓際《まどぎわ》に吊《つ》るしてある蛍籠《ほたるかご》を取って、悦子の膝《ひざ》の上に載せた。それは昨夜、菅野家の爺《じい》やが悦子のために間に合せに拵《こしら》えてくれた、缶詰《かんづめ》の空缶の底を抜いて両側にガーゼを張った即席の蛍籠で、悦子はそれを大事そうに汽車の中まで持ち込んでいたのであったが、いつの間にかガーゼを括《くく》ってある紐《ひも》が緩み、その隙間《すきま》から蛍が一二匹這《は》い出していた。
「どれどれ、うちがしたげよう」
ブリキの缶がつるつる滑って、悦子では巧《うま》く括れないので、妙子が自分の膝へ取ったが、ガーゼの中の蛍は、昼間でも暗い蔭《かげ》に置かれると青く光っているのが見えた。妙子はガーゼの隙間から中を覗《のぞ》いていたが、
「あ、悦ちゃん、ちょっと見て御覧。―――」
と、又その缶を悦子の方へ差出しながら、
「―――[#「―――」は底本には記載なし。『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)による]何や知らん、蛍でないもんが沢山這入《はい》ってるらしい。………」
悦子も中を覗いて見て、
「蜘蛛《くも》やわ、こいちゃん」
「ほんに。………」
そう云っているうちに、米粒ほどな小さい可愛らしい蜘蛛が蛍のあとからぞろぞろつながって這い出して来た。
「あ、大変々々」
妙子が缶を腰掛に放り出して立ち上ると、悦子も立ち上り、幸子も雪子も眼を覚ました。
「何やねん、こいさん」
「蜘蛛々々、………」
小さい蜘蛛に交って物凄《ものすご》く大きいのも這い出して来たので、とうとう四人総立ちになった。
「こいさん、その缶何処《どこ》ぞへ放下《ほか》しなさい」
妙子が缶を摘《つま》み上げて床に投げ出すと、それに驚いたのか、蝗《ばった》が一匹飛び出した。そして床の上をピョンピョン跳ねながら、通路の向うの端まで飛んで行った。
「ああ惜しいわ、あの蛍、………」
と、悦子が缶を恨めしそうに眺《なが》めながら云った。
「どれ、蜘蛛を捕《と》って上げましょう」
斜交《はすか》いの席に、この出来事を笑いながら見ていた、この地方の人らしい五十恰好《かっこう》の和服の男が、そう云いながらその缶を取って、
「ちょっと毛ピンか何かをお貸し下さい」
と、幸子から毛ピンを借りた。そして、缶の中から一つ一つ蜘蛛を挟《はさ》み出しては床に捨て、丹念に下駄《げた》で蹈《ふ》み殺した。毛ピンの端には蜘蛛と一緒に草が絡《から》まって出て来たりしたが、好い塩梅《あんばい》に蛍はあまり逃げ出さなかった。
「お嬢さん、大分蛍が死んでいますよ」
男はガーゼを括り直すと、缶を左右に傾《かし》げて見て、
「―――洗面所へ持って行って、少し水を懸けておやりなさい」
「悦ちゃん、ついでによう手を洗うて来なさいや、蛍に触ったら毒やさかいに」
「蛍は臭いね、お母ちゃん」
と悦子は自分の手の匂《におい》を嗅《か》ぎながら、
「草のような臭《におい》がするね」
「お嬢さん、蛍の死んだのはお捨てになったらいけませんよ。取って置くと、薬になりますよ」
「何の薬になりますのん」
と、妙子が聞いた。
「乾して保存して置いて、火傷《やけど》や怪我をした時に、飯粒と一緒に練ってお着けになるんですな」
「利《き》きますか、ほんとうに」
「僕は試したことはありませんが、利くと云うことですな」
汽車はようよう尾張《おわり》一ノ宮を過ぎたばかりであった。幸子達は普通列車でこのあたりを通ったことがないので、記憶にないような小さな駅々を丁寧に停って行くのが溜《たま》らなく退屈で、岐阜から名古屋までの間がとても長いように感じられたが、程なく幸子と雪子とは又うとうとし始めた。名古屋よ、お母ちゃん、………お城が見えるよ、姉ちゃん、………と、悦子が起しにかかったのと、客がどやどや入り込んで来たのとで、二人ともちょっと眼を開くことは開いたが、名古屋を出ると直ぐ又たわいもなく眠った。大府《おおぶ》あたりから雨が降って来たのに、それも知らないで眠っているので、妙子が立って窓硝子《まどガラス》を締めてやったが、彼方此方で俄《にわか》に窓を締めたので、車室の中はひとしお蒸し暑い温気《うんき》が籠《こも》り、大部分の客がこくりこくりやっていた。と、幸子達の席から四側《よかわ》ばかり前方の、通路の反対側の席に後向きに掛けていた陸軍士官が、シューベルトのセレナーデを唄い出した。
しめやかに
闇《やみ》を縫う
歌のしらべ
静けさは
果てもなし………
士官は行儀よく席に掛けたまま身動きもしないで唄っているので、幸子達が眼を覚ました時、最初は誰が唄っているのか分らず、密閉された室内に唄声だけが瀰漫《びまん》しつつあって、何処かで蓄音器を懸けているように聞えた。幸子達の方からは、軍服の背中と、横顔の一部しか見えなかったが、まだ二十台の青年であることは明かで、少し含羞《はにか》むような様子で唄っていた。幸子達は、自分達が大垣駅で乗り込んだ時からこの士官がいたことは知っていたけれども、後姿を見ているだけで、顔つきなどは見ていなかったが、さっきの蛍の騒ぎの時に幸子達の存在は乗合客の注視を集めたので、士官の方では彼女達を見ていない筈はなかった。士官は多分徒然《つれづれ》の余りと、襲い来る睡魔を払うために唄い出したので、声に自信があるのであろうが、うしろでそれを聴いている花やかな人々のあることを感じ、そのために幾分固くなっているらしいのであった。唄ってしまうと、一層羞《はず》かしそうにさし俯向《うつむ》いていたが、暫《しばら》くしてから、又シューベルトの「野薔薇《のばら》」を唄い出した。
童《わらべ》は見たり
野中の薔薇
きよらに咲ける
その色愛《め》でつ
あかず眺む
野中の薔薇………
これらの歌は独逸《ドイツ》映画「未完成交響楽」の中にあって、幸子達にも馴染《なじみ》の深いものであった。彼女達は、誰が唄い出すともなく、士官の唄うのにつれて口のうちで跡をつけていたが、だんだん声が大きくなって、士官の声に和し始めた。士官の顔が襟《えり》まで真《ま》っ赧《か》になったのが後《うしろ》からも認められたが、途端に彼の声も興奮したような顫《ふる》えを帯びて止めどもなく大きくなって行った。士官も彼女達も、席が相当離れていることがこの場合却《かえ》って都合よく、お互に制し切れないようになって唄いつづけたが、やがてその合唱が済むと、室内は物憂い静寂に復《かえ》った。士官もそれきり唄わないで、又羞かしそうに俯向いていたが、岡崎駅でこそこそと立って、逃げるように降りて行ってしまった。
「あの軍人さん、うち等《ら》に一遍も顔を見せはれへなんだ」
と、妙子が云った。
幸子達は、蒲郡に遊ぶのは初めてであったが、今度行く気になったのは、かねて貞之助からそこの常磐館《ときわかん》のことを聞かされていたからであった。毎月一二回名古屋へ出向く貞之助は、是非お前達を彼処《あそこ》へ連れて行ってやりたい、悦子などはきっと喜ぶであろうと云い云いして、今度こそは今度こそはと、二三度も約束したことがあったが、毎度お流れになってしまったので、今日の彼女達の蒲郡行きは、貞之助が思い付いたのであった。名古屋についでのある時と思っていたが、いつも用事が多いので附き合っている暇がないから、こう云う機会にお前達だけで行って見るがよい、少し忙《せわ》しないけれども、土曜の夕方から日曜の午後まではいられる、―――と、貞之助は云って、電話で常磐館へ交渉してくれたので、去年の東京行き以来夫と離れて旅行する経験を積んだ幸子は、昔と違って自分が大胆になったことに子供のような嬉《うれ》しさを覚えながら、出て来たと云う訳であった。が、彼女は旅館へ着いて見て、夫が自分達のためにこう云う日程を作ってくれたことを、改めて感謝しないではいられなかった。と云うのは、今日の見合いが如何《いか》にも後味《あとあじ》が悪かったので、もしあのまま雪子と大垣駅頭で別れたとしたら、云いようのない厭《いや》な気持がいつ迄《まで》も残ったであろうからであった。彼女としては、自分の不愉快は兎《と》に角《かく》として、雪子をあんな目に遭《あ》わせたままで、孤影悄然《しょうぜん》と東京へ立たせるのには忍びなかったのであるが、全く夫は素晴らしいことを思い付いてくれた。彼女は今日の菅野家のことを自分も努めて考えないようにしたのは勿論《もちろん》だけれども、何よりも雪子が、悦子や妙子と同様に、此処《ここ》の一夜を享楽しているらしいのを見て、救われたような気がしたのであった。なおその上に仕合せなことには、明くる朝は雨も止《や》んで、よい日曜になったのであった。そしてこの旅館のいろいろな設備、娯楽機関、海岸の景色、等々は、貞之助の思った通り悦子を少からず喜ばしたのであったが、それよりも幸子は、雪子が昨日の見合いのことなど最早や念頭にないかの如《ごと》く朗かにしているのが有難く、それ一つでも此処へ来た甲斐《かい》があったのを感じた。で、彼女達は、午後二時過ぎに蒲郡の駅へ行き、十四五分の間隔を置いて擦《す》れ違う上りと下りとへ乗って、東西に袂《たもと》を分つまで、すべて予定に従って行動することが出来た。
雪子は、上りの方が後であったので、三人を見送ってから暫く待って、東京行きの普通車に乗った。彼女はこんなに長い距離を普通車で行く退屈さが思いやられたが、旅館へ急行券の手配を頼んだり豊橋で乗り換えたりするのが煩《わずら》わしかったので、これで東京まで乗り通すことに極め、鞄《かばん》の中に入れて来たアナトール・フランスの短篇集を出して開いた。が、何となく気分が重々しく、読むものが頭へ這入らないので、間もなく止めて、ぼんやり窓の外を眺めた。彼女のその重々しい気分は、一昨日からの肉体的疲労に加えて、ついさっきまで皆と面白く打ち興じていた反動であることは知れていたが、一つには、これから又何箇月かの間東京で暮さなければならないと云う考が、胸に痞《つか》えているせいでもあった。殊《こと》に今度は蘆屋《あしや》の滞在が長かったために、もう東京へ帰らないでもよいような気持にさせられていたのと、旅先の見知らぬ停車場で急にひとりぼっちにさせられたのとで、佗《わ》びしさもひとしおなのであった。さっきも悦子が、姉ちゃん今日は東京へ行くのを止めて悦子を送って来なさいと、冗談のように云った時、又直きに出て来るよってにと、彼女は軽く受け流してしまったものの、正直を云えば、もう一遍蘆屋へ戻って日を改めて立つことにしようか、―――と、ふっと真面目《まじめ》にそんなことを考えたくらいであった。二等室は昨日以上に空いていたので、彼女は四人分の席を一人で占めて、腰掛の上に膝を折って坐り、うしろに靠《もた》れて眠る姿勢を取って見たけれども、左の肩が頸《くび》が廻らないほど凝って来たので、昨日のように巧く眠れず、少しとろとろとしかかっては直ぐ眼を覚まし覚まししたが、それも三四十分ほどの間で、弁天島を過ぎた頃にはすっかり眼が覚めていた。彼女はちょうどその少し前から、向う側の四五側《かわ》隔てた席に、此方を向いて腰掛けている男の顔があるのを知っていたが、実はその顔が自分の寝顔にまともな視線を注いでいるらしいのに気が付いて、それではっと眼を覚ましたのでもあった。男は、彼女が足を腰掛からおろして草履を穿《は》き、そっと居ずまいを直したのを見ると、自分も一往窓の方へ眼を外らしたが、それでも何か気になることがあるらしく、暫くすると又ジロジロと雪子を見据《みす》えた。雪子も最初はその無躾《ぶしつけ》な視線を不愉快に感じるのみであったが、やがて、男が何か訳があって自分を視詰《みつ》めているのではないか、と思うようになった。と云うのは、そうしているうちに、彼女もその男の顔を、何処かで見たことがあったような気がし出して来たからであった。男は四十歳前後でもあろうか。鼠地《ねずみじ》に白い立縞《たてじま》のある背広に開襟《かいきん》シャツを着た、色の黒い、頭髪を綺麗《きれい》に分けて撫《な》で着けた、何となく田舎紳士と云う感じのする、痩《や》せた小柄な人物で、膝の間に洋傘《ようがさ》を挟んでその上に両手を重ね、さっきはその上に頤《あご》を載せていたのが、今はうしろへ凭《よ》りかかっていて、頭の上の網棚《あみだな》に真っ白なパナマ帽を置いている。ハテ誰であったか知らん、どうしても思い出せないが、―――と云う面持で、男も彼女も、向うが見る時は此方が避《よ》け、此方が見る時は向うが避けして、お互に眼で探りを入れていたが、彼女はこの男が先刻豊橋から乗って来たのであることを思い、豊橋辺に知った人などはない筈だがと思っているうちに、ふと、今から十年以上も前、義兄の斡旋《あっせん》で見合いをしたことのある三枝《さいぐさ》と云う男ではなかったかと考えついた。たしかその時の話では、三枝と云うのは豊橋市の素封家だと云うことであったが、多分あの時の三枝がこの男に違いないのであった。あの時彼女はこの男の容貌《ようぼう》が如何《いか》にも田舎紳士臭く、知的なところが少しもないのが気に入らなかったので、義兄の親切な斡旋があったにも拘《かかわ》らず、我が儘《まま》を云って断ってしまったのであったが、あれから十余年の歳月を経た今見ても、矢張この人は田舎臭い顔をしている。特に醜男《ぶおとこ》と云う程でもないが、初めから老けて見える顔だちの男だったので、あの時分に比べてそう年を取ってはいないけれども、田舎臭さは前よりひどくなっていて、その特長の故《ゆえ》に彼女は今、おぼろげになった過去の数々の見合いの中の、数々の「顔」の記憶の中からこの顔が思い出せたのであった。男の方も、彼女がそれと分った頃には、うすうす見当が付いて来たらしく、俄にバツの悪い様子で横の方を向き始めたが、それでもなお、半ば疑うものの如く、此方の隙《すき》を窺《うかが》っては極めてこっそりと、繰り返し繰り返し流眄《ながしめ》を使っているのであった。もしこの男が三枝に違いないとすれば、あの頃この男は見合いの外にも一二度上本町の家へ訪ねて来て彼女に会ったことがあるのだし、彼女の器量に打ち込んで熱心に懇望したのであるから、彼女の方では忘れていたとしても、彼の方では彼女を覚えていてよい筈であるが、男は恐らく、彼女が老けてしまったために不審を抱いているのではなくて、彼女があの見合いの当時と大して変らない若さを保ち、今も令嬢風の装いをしている点を訝《いぶか》しんでいるのではないであろうか。彼女は男の執拗《しつよう》な眼づかいの理由が、前者でなくて後者であることを願ったが、それにしてもこう云う風にジロジロと見られることは、決して愉快なものではなかった。彼女は、自分がつい昨日も、あの時から引き続いて何回目かの見合いをしたところであり、今日はその帰途であることを思い、もしその事実をこの男が知ったらと思うと、自《おのずか》ら身が竦《すく》むような気がした。それに生憎と、今日は一昨日とは違って、余りぱっとしない色合の友禅を着、顔の拵《こしら》えも至って粗末にしているのであった。彼女は汽車旅行をすると人一倍容色が窶《やつ》れるたちであることを自分でも知っているので、何度か顔を直しに立ちたい衝動に駆られたが、でもこの場合、この男の前を通って洗面所へ行くことは勿論、そっとハンドバッグからコムパクトを取り出すことさえも、弱味を見せることになるのが厭であった。ただこの男が普通車に乗っているところから見て、東京まで行くのでないことが察せられ、何処で降りるか知らんと云うことが頻《しき》りに彼女の気に懸ったが、藤枝駅にさしかかると、男は立って網棚のパナマ帽を取って被《かぶ》り、去り際《ぎわ》にもう一度無遠慮な一瞥《いちべつ》を投げて降りて行った。
雪子はしかし、その男が去ってしまってからも、あの見合いをした前後のことを後から後からと、疲れた頭の中に止めどもなく想い浮べていた。自分があの男と見合いをしたのは昭和二年?………であったろうか、いや、三年であったろうか。………自分はあの時二十歳をようよう越えたぐらいで、あれが自分の経験した最初の見合いではなかったろうか。………だが、自分はなぜあの男を嫌《きら》ったのであろうか。………義兄はあの時大変な身の入れ方で、三枝と云えば豊橋市屈指の資産家であり、あの男はその家の嗣子《しし》なのであるから、雪子ちゃんとしても不足を云うところはない筈であるとか、現在の蒔岡家としては勿体《もったい》なさ過ぎる縁であるとか、ここまで話が進んで来て承諾してくれなかったら僕の立ち場がなくなるとか、手を換え品を換えて口説いたのであったが、………自分が何処迄も「否《いや》」で突っ張ってしまったのは、あの男の容貌に知的なものが欠けていると云うこと、―――それが唯一《ゆいいつ》の理由ではなかった。容貌ばかりでなく、あの男は中学時代に病気したので上の学校へ這入らなかったと云っていたが、実際は中学校の成績が芳《かんば》しくなかったことが分ったので、いよいよ厭気がさしたのであった。それに、………いくら資産家の夫人になれても、豊橋のような小都会で一生を燻《くすぶ》って暮すのは余りにも佗びしい、と云うこともあった。この理由には中姉《なかあね》が大いに同感してくれて、そんな田舎へ嫁にやっては雪子ちゃんが可哀そうだと、自分よりは中姉の方がより強硬に不服を唱えたくらいであったが、………でも、中姉も自分も、口に出しては云わなかったけれども、義兄に意地悪をしてやろうと云う意識があったことも確かだった。あれは父が亡《な》くなって間もない頃のことで、自分達は、それまで小さくなっていた義兄が急に威張り出したのに反感を持っていたところへ、兄の権力で無理にあの縁を押し着けようとし、圧迫すれば思い通りになる女だと云う風に甘く見てかかっている様子なのが、自分は勿論、中姉にも妙子にも癪《しゃく》に触って、三人が同盟した形で義兄を困らせたのであった。義兄がひどく怒ったのは、自分が「否」と云うことを早くはっきりと表示せず、いくら聞かれても曖昧《あいまい》な返事ばかりしていて、最後に退《の》っ引《ぴ》きならないところまで来てしまってから、強情を張り出した点であった。自分は義兄にその点を批難された時、若い娘と云うものは嗜《たしな》みとしてもそう云う返事を明瞭《めいりょう》に人前で云いはしない、自分に行く気があるかないかは大凡《おおよ》そ素振でも分りそうなものだのに、と云ったことであったが、ほんとうは、あの縁談には義兄の銀行の上役の人なども仲に這入っていることを知って、義兄を一層難儀な羽目に陥《おとしい》れるように、わざと返事を遷延《せんえん》させた傾きもないではなかった。………孰方《どちら》にしてもあの男とは縁がなかったのだけれども、たまたまそんな家庭的不和の中へ飛び込んで来て、兄妹喧嘩《げんか》の道具にされたのはあの男の不運であった。………自分はそれきりあの男のことなど念頭に浮かべたこともなく、噂《うわさ》に聞いたこともなかったが、あれから直きに誰かと結婚したことであろうし、今では子供の二三人もあることであろう。そして恐らくは三枝家の家督を継いで資産家の主人になっているでもあろう。………彼女はそこまで考えつづけて来て、自分が今頃あの田舎紳士の妻になっていたら、―――と思うと、負け惜しみでも何でもなく、決してその方が幸福であったと云う気はしないのであった。あんな工合に、東海道線の辺鄙《へんぴ》な駅と駅との間を、悠長《ゆうちょう》な普通列車に乗って往ったり来たりしつつ年月を送るのがあの男の生活だとすれば、そんな人に連れ添うて一生を終るのが何の仕合せなことがあろう。自分はやっぱりあんな所へ行かないでよかった、としか思えないのであった。
その晩、彼女は十時過ぎに道玄坂の家に帰ったが、その男との邂逅《かいこう》のことは義兄にも姉にも話さないでしまった。
その日幸子も、帰りの汽車の中でいろいろと考えさせられていた。彼女の頭の中には、一昨日の夜の蛍狩《ほたるがり》のこと、昨夜から今日の午前にかけての蒲郡《がまごおり》のことなど、楽しかった遊びの後味よりも、ついさっき別れて来た雪子の、ひとりプラットフォームに立ってしょんぼり此方を見送っていた姿、今日も眼の縁の翳《かげ》りが昨日ぐらいに目立っていた窶《やつ》れた顔、―――などがいつ迄《まで》もいつ迄も消えずにいたが、それにつれてあの苦々しかった見合いの印象が、又してもよみがえって来るのであった。彼女は今迄雪子の見合いに立ち会ったことは何度あるか知れないのだが、―――もう十年以来のことなので、今度のような略式のものまで数えれば五六回では利《き》かないような気がするのであるが、―――でも今度ほど、此方が引け目を感じたことはないのであった。今迄はいつも此方が上であると云う自信と誇りとを持って臨み、先方は只管《ひたすら》此方の許可を願っていると云う風であったが、―――いつも此方が「不許可」を称えて先方を「落第」させてばかりいたのであったが、―――今度は第一歩から此方が弱気にさせられていた。初め手紙が来た時に断ってしまえばよかったものを、先《ま》ず譲歩し、次に菅野家で未亡人の話を聞いた時にも、断って断れないことはなかったものを又譲歩した。それはまあ未亡人や義兄の顔を立てるためもあったとして、あの見合いの席での、戦々兢々《せんせんきょうきょう》とした、いじけた気持は、どうしたと云うのであろう。今迄は雪子と云うものを、何処《どこ》へ出しても耻《はず》かしくない妹として人に見せびらかす気味合いであったのに、昨日は沢崎の眼が雪子を見るたびに、此方は始終ビクビクしていたではないか。どう考えても昨日は此方が「受験者」で、沢崎が「試験官」だったではないか。彼女はそれを思っただけでも、自分や雪子が嘗《かつ》てない辱《はずかし》めを受けたと云う感がするのであったが、それにも優《ま》して、今は妹の容貌《ようぼう》に否《いな》みようのない瑕《きず》が出来たと云うこと、取るに足らない些細《ささい》なものであったにしても、兎《と》に角《かく》瑕に違いないのだと云うこと、―――その考が心に重く伸《の》しかかって来るのを払いようがなかった。どうせ今度の見合いの結果には期待を抱き得ないとして、これから先どうなるであろう。こうなっては何としてでもあれを治療することが先決問題であるけれども、果してあれが巧《うま》い工合に消えるであろうか。こんなことからいよいよ雪子は縁遠くなりはしないであろうか。………そう云っても、昨日はあれが特別に濃く出ていたのに加えて、光線だの位置だの角度だのが最悪の条件にあったからではないであろうか。………だが一つ確かなことは、もうこれからは今迄のような優越的態度を以て「見合い」することは出来ないのであった。………恐らくはこの次の機会にも、昨日のようにビクビクしながら相手の凝視に妹を晒《さら》さなければならないのであった。
妙子も、幸子が変に塞《ふさ》いでいるのが疲労のせいばかりでもなさそうなのを看《み》て取って、何か考え込んでいたが、悦子が蛍籠へ水を遣りに立って行った隙《すき》に、
「昨日はどんな工合やった?………」
と、こっそり聞いた。幸子は物を云うのも億劫《おっくう》そうにしていたが、一二分もたった時分に、
「昨日は、えらいあっさり済んでしもうてん」
と、思い出したようにぽつんと云った。
「どうやろか今度は」
「さあ、………何せ来る時に、汽車が立ち往生したりしたよってにな。………」
幸子がそう云って又黙り込んでしまったので、妙子もそれきり追究しなかった。その晩帰宅してからも、幸子は夫に昨日の様子を一と通りは報告したけれども、不愉快な目に遭《あ》わされた数々のことについては、話せばもう一度その不愉快を夫婦で味わうようになるのが辛《つら》いので、委《くわ》しくは云わないでしまった。貞之助は断られるに極まっているなら先手を打って此方から断ってやったらどうか、そんな相手に対しては此方も馬鹿にされないようにした方がよい、などとも云ったが、それもそう云って見るだけで、そう云うことは菅野家や本家に対しても出来る筈《はず》のものではなかったし、それに、何の彼のと云っても幸子はまだ、ひょっとしたら、―――と云う希望を一縷《いちる》腹の中に秘めていたのであった。が、夫婦が兎角の思案に耽《ふけ》る暇もなく、幸子の帰りを追い駈《か》けるようにして直《す》ぐに菅野未亡人から次のような手紙が来た、―――
一筆申上げ候《そうろう》、先日は遠路わざわざお越し下され候処田舎のこととて何の風情《ふぜい》も無之《これなく》まことに失礼仕《つかまつり》候何卒《なにとぞ》これにお懲《こ》りなく又この秋には皆様にて茸狩《たけがり》においで下されたくお待ち申上げ候
さて本日沢崎氏より別紙の如《ごと》く申越され候に付お目に懸け候折角お骨折り申上げ候甲斐《かい》もなくわたくしの微力にて斯様《かよう》なる結果と相成何ともお詑《わ》びの申上げようも無之幾重にもお赦《ゆる》し下されたく候尤《もっと》も過日忰《せがれ》より名古屋の知人へ聞合せを依頼致し置き候処昨日返事参り、それに依《よ》ればたとい先方にて懇望致され候とも其方様の思召《おぼしめし》如何《いかが》にやと存ぜられ候節も有之《これあり》格別惜しき縁談にては御座なく候ただ其許《そこもと》様始め皆々様に御足労相かけ候段何ともお気の毒様にて申訳も無之候末筆ながらくれぐれも雪子様へ宜《よろ》しく御伝言被下《くだされ》たくお願い申上げ候
かしく
六月十三日
菅野やす
蒔岡幸子様
御許へ
こう書いてあって、同封してあった沢崎の書面と云うのは、―――
拝啓
梅雨鬱陶《うっとう》しき折柄貴家皆々様|益《ますます》御隆盛之段奉大賀《たいがたてまつり》候
一昨日は色々と御世話様に相成且《かつ》御歓待に与《あずか》り厚く御礼申述候
陳者《のぶれば》蒔岡様之件その後協議申候処御縁無之《これなく》申候間何卒御先方様へその旨御伝願上候御都合も有之候事故《ゆえ》取急ぎ御返事申上候
種々御配慮を蒙《こうむ》り申候段重ねて厚く御礼申述候
拝具
六月十二日
沢崎 煕
菅野やす様
侍女
この、変に切り口上な二通の手紙は、いろいろの意味で夫婦をもう一度不愉快にさせないでは措《お》かなかった。その第一は、これが見合いの相手からはっきり「落第」を宣告された最初の経験であると云うこと、―――始めて此方が「敗者」の烙印《らくいん》を捺《お》される側に立たされたこと、―――にあるが、それは予《あらかじ》め覚悟していたことだとして、夫婦が甚《はなは》だ気を悪くしたのは、沢崎と菅野未亡人との手紙の書き方、―――この事件の取扱い方、であった。そう云うことを云って見ても始まらないけれども、沢崎の手紙は罫引《けいひ》きの書簡箋《せん》一枚へ(先日幸子が未亡人の許《もと》で見せられたのは巻紙へ毛筆でしたためてあったのに)一杯に収まるようにペン字で書いてあり、先ずそのことからして感じが悪く、文面に依《よ》ると「その後協議申候処」とあるけれども、実際はあの十日の日に腹を極めて帰ったに違いないので、直ぐにも断りを云うべきところを、遠慮して中一日置いたものと推量された。それにしても、これは直接此方へ宛《あ》てた手紙ではないのであるから、こんな風な切り口上でなしに、もう少し何とか未亡人を得心させるような断り方もあろうではないか。ただ「御縁無之」とばかりで何の理由も示さないのは、人を遠くから呼びつけて置きながら非道《ひど》いと云うことは別にしても、菅野家へ対して失礼ではないであろうか。それに又「御縁無之申候間」とある「申候間」と云うのは何であろう。その文句の上に「その後協議申候処」とあるのから見て、家の者や親類の者たちと相談いたしましたところ、皆が御縁が無いと申しますからと云う意味らしいが、成る程こんなところが千万長者の見識とでも云うのであろうか。何にしてもこの「申候間」なる文句は一層空々しくて不愉快である。一体こんな手紙をそのまま同封して寄越した菅野未亡人はどう云うつもりなのであろう。沢崎がどんなことを書こうと、知らなければそれ迄《まで》であるのに、此方へ宛てた手紙でもないものをわざわざ見せてくれるには及ばないではないか。未亡人はこの手紙の書き方を何とも感じないのか知らん。未亡人としてはこんなものは自分がそっと隠してしまい、何とか此方の感情を傷つけないような口実を構えて不成立の旨《むね》を知らして来るのが、年甲斐と云うものであろうに。「たとい先方にて懇望致され候とも其方様の思召如何にやと存ぜられ候節も有之格別惜しき縁談にては御座なく」などと、取ってつけたようなことを云って来ても、今更慰められるものではない。要するに、菅野未亡人と云う人は由緒ある地方の豪族の夫人には違いなかろうが、とても都会人の細かい心持などは分る筈のない、粗《あら》っぽい神経を持つ人であって、それを知らずに縁談の斡旋《あっせん》などを頼む方が悪かったのだ、と、夫婦はそう云う結論に達したが、そうなって来ると、自然責任は本家の義兄に帰するのであった。貞之助達にしてみれば、未亡人は兎も角も、本家の義兄が云うことであるからと、義兄を信じて乗り出したのであったが、未亡人の遣《や》り方をよく知っている筈の義兄として、こう云う問題に口を入れようとするならば、彼自身がもう少し事前に下調べなどをし、可能性の程度を打診すべきではなかったであろうか。姉の手紙では、菅野家の好意を無にしては義兄の立ち場が困るから、話が纏《まと》まる纏まらないは二の次として、会いに行くだけは行かして欲しい、と云うことであったが、そう云うことを云って来るからには、義兄としても雪子の立ち場を考えてくれて、調べが出来ているのかどうか予め未亡人に確かめて見るくらいな親切があってもよかったであろうに、単に取次をしただけと云うのは遣りっ放し過ぎるではないか。結局今度のことは、貞之助も幸子も雪子も、徒《いたずら》にいやな思いをさせられたと云う以外に何の得るところもなく、ただ自分達は義兄の顔を立てるために動いた、と云うだけに終った観があった。貞之助は、自分や幸子はそれでよいとしても、そんなことから又、義兄と雪子との折合いが悪くなるのではないかと云うことを密《ひそ》かに案じたが、でもたまたまこの二通の手紙が、本家へ宛てて送られないで幸子の方へ来たことは仕合せであった。幸子は夫の旨を受けて、それからわざと半月ばかり過ぎた時分に、姉に宛てて何となく書面をしたため、そう云えば菅野の姉さんからお便りを戴いたが、どうもあの話は巧く行かなかったらしいと、ちょっと用箋の端に書いた。そして、雪子ちゃんにも姉ちゃんからあんじょう話して置いてほしいが、云いにくかったら云わないで置いてもよいでしょう、とも附け加えて書いた。
それから又半月余りたって、七月の上旬に、貞之助が二三日上京したことがあったが、あれ以来雪子ちゃんがどんなにしているか多少気がかりだったので、半日ばかり暇が出来た日に渋谷へ行って見たと、帰って来てからそんな話をした。そして、兄さんには会わなかったが、姉さんも雪子ちゃんも至って機嫌《きげん》よくしていた、雪子ちゃんがアイスクリームを作ってくれると云って台所に出張っていた間、暫《しばら》く姉さんとも話したけれども、先日の見合いのことは全然話題に上らないでしまった、僕は実は、その後菅野の未亡人から、どうして雪子ちゃんが先方の気に入らなかったのか、ほんとうの事情を本家へ知らして来ていはしまいかと思ったのだが、何もそんなことは云って来なかったのか、来たのを隠しているのであるか、孰方だか分らないが成るべく姉さんはあのことに触れたがらない風に[#「風に」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「風が」]見えた、姉さんはそんなことよりも、今年はお母ちゃんの二十三年なので、再来月《さらいげつ》は皆で大阪へ行かなければならないと、頻《しき》りにそのことを話していたが、雪子ちゃんが案じた程でもなく機嫌よくしていたのは、多分その時に又関西へ来られることを当て込んでいるからなのであろう、などと云った。
姉は、母の祥月《しょうつき》命日は九月二十五日のところを一日繰り上げて、廿四日の日曜日に善慶寺で法事をすることにした、従って辰雄と私は土曜日に下阪しなければならないが、六人の子供を皆連れて行くのは厄介《やっかい》であるし、誰々を連れて行ったらよいか、総領の輝雄の外は、学校のある子は置いて行くとして、正雄と梅子だけは同伴しなければなるまいが、留守を誰に頼むとしようか、雪子ちゃんが残ってくれると都合が好いのだけれども、お母ちゃんの法事に出るなと云う訳には行かないし、と云って外に頼む人もないから、お久に預けて行くより外に仕方がないが、二三日のことだから大丈夫であろうか、だがそれにしても六人の同勢が何処《どこ》へ泊まることにしようか、一軒の家へ皆が泊まっては迷惑だろうから二軒に分宿するとして、あたしは多分蘆屋《あしや》へ泊めて貰《もら》うことになるであろう、などと云ったりして、まだ二た月以上も先のことを今から気を揉《も》んでいる風であった。と、貞之助は語ったが、幸子も実は、今年の二十三回忌はどうするつもりなのか、そのうち手紙で聞いて見ようかと思っていたところなのであった。と云うのは、この前、昭和十二年十二月の父の十三回忌の時に、辰雄は大阪へは出て来ないで、道玄坂の近所にある、善慶寺の法類に当る何とか云う浄土宗の寺で略式に法事を済ましてしまったことがあった。尤《もっと》もあの年は秋に本家が東京へ移住したばかりで、何かと取込んでいる際ではあり、又直《す》ぐ大勢で出て来るのも大変であると云うので、このたびは勝手ながら亡父の法要を東京で営むことにする、もし御上京のついでに出席して下さる方があれば有難いが、御多忙の折柄わざわざお出向き下さるには及ばないから、何卒当日は御銘々に善慶寺の方へ御参詣《さんけい》を願いたい、と云う挨拶《あいさつ》を添えて、春慶塗《しゅんけいぬり》の香盆を親戚《しんせき》一同へ配り物にしたのであったが、実際は、まあその理由もいくらかあったには違いないであろうが、義兄の本当の腹の中は、大阪で父の法事をすればどうしても華美になり、無駄《むだ》な費《つい》えが懸るのを恐れたのであろうと、幸子は察していた。何しろ父は芸人を贔屓《ひいき》にした人なので、三回忌の時迄は俳優や芸妓《げいぎ》などの参会者も相当にあり、心斎橋の播半《はりはん》での精進落ちの宴会は、春団治《はるだんじ》の落語などの余興もあって、なかなか盛大に、蒔岡家花やかなりし昔を偲《しの》ばせるものがあった。それで、辰雄はその時の負担に懲《こ》りて、去る昭和六年の七回忌には案内状などもずっと内輪にしたのだけれども、矢張年忌を忘れずにいたり、聞き伝えたりして来る人々が多かったために、予定したように地味にする訳に行かなくなり、最初は料理屋での宴会を止めてお寺で弁当を出すつもりにしていたのが、結局又播半へ持って行くことになってしまった。そう云っても仏さまは派手好きな人であったのだから、お父さんの法事だけは費用をお懸けになった方が親孝行になりますと云って、喜んでくれる人もあったが、しかしものは身分相応と云うことがある、昔と今とは蒔岡家の格式が違うのだから、今度の法事はもっと地味にすべきであった、お父さんだって、現在の僕の懐《ふところ》が苦しいことは草葉の蔭で見ておいでになるであろう、と、その時も辰雄はそう云ったくらいで、それやこれやがあるものだから、十三回忌にはわざと大阪の地を避けたのであるらしかった。親戚の老人の誰彼などは辰雄の遣り方を批難して、親の法事に東京から出て来るぐらいが何であろうとか、本家は近頃えらい締まり屋になりなさったそうだが、お金が出ると云ったって外のことと違うではないかとか、いろいろなことを云う者があり、鶴子が間に挟《はさ》まって困ったのであったが、十七回忌には大阪へ行って埋め合せをするからと云うのが、その折の辰雄の言訳であった。で、幸子はそう云う前例があるところから、今年の母の法要はどうするのであろうか、又東京で済ましてしまわれては親類の口がうるさいよりも、自分たちが治まらないような気がしていたのであった。
義兄の辰雄は母と云う人を全然知らないのであるから、何の感じも湧《わ》く筈《はず》はないが、幸子の母を思慕する情には、父に対するのとは又違った、一種特別なものがあった。大正十四年の十二月に五十四歳で脳溢血《のういっけつ》で斃《たお》れた父も短命と云えないことはないが、母は大正六年に三十七歳の若さで亡《な》くなったのであった、―――と、そう思って見て幸子は、自分が今年その母の歳になっているのだと心づき、本家の姉がもうあの時の母よりも二つ上であることに考え及んだが、彼女の記憶の中にある母その人は、現在の姉や彼女自身よりも格段に美しい清いものであった。尤もそれには、亡くなった時の周囲の状況や病気の状態などが大いに関係しているので、当時十五歳の少女であった幸子の眼には、母の姿が実際以上にすがすがしく映ったのでもあろう。肺病患者でも病勢が昂進《こうしん》して来ると醜く痩《や》せて顔色が悪くなるのが多いけれども、母はその病気でありながら、臨終の際《きわ》まで或る種のなまめかしさを失わなかった。顔色も白く透き徹《とお》るようになっただけで黝《くろ》ずんでは来なかったし、体も、痩せ細ってはいたものの手足にしまいまで艶々《つやつや》しさが残っていた。母が病身になったのは、妙子を生むと間もなくだったらしいのであるが、最初は浜寺に、それから須磨《すま》に出養生をし、最後に、海岸は却《かえ》ってよくないと云うことで、箕面《みのお》に小さな家を借りて移ったのであった。幸子は母の晩年には、月に一二度ぐらいしか会いに行くことを許されず、それもなるべく短時間で辞去するようにさせられたので、家に戻っても浜辺の佗《わ》びしい波の音や松のひびきと母の面影とが一つになって、いつまでも、頭にこびり着いていたものであったが、そんなことから母と云うものを理想化して考えるようになり、その映像が思慕の対象になったのであろう。でも、箕面の方に移ってからは、もうそう長くないことが分ったので、前よりは頻繁《ひんぱん》に見舞いに行くことを許されたが、臨終の日は朝早く電話が懸って来、幸子達が駈《か》け付けると間もなく息を引き取ったのであった。それは、その数日前から降りつづいた秋雨がなおも降り止まず、瀟々《しょうしょう》と病室の縁側の硝子《ガラス》障子に打ち煙っている日であった。障子の外にはささやかな庭があって、そこからだらだらと渓川《たにがわ》の縁へ下りられるようになっており、庭からその崖《がけ》へかけて咲いている萩《はぎ》がもう散りかかってしたたか雨に打たれていた。渓流の水嵩《みずかさ》が増したために山津浪《やまつなみ》がありはしないかと村の人々が騒いでいるような朝のことで、雨の音よりも凄《すさま》じい流れの音が耳を聾《ろう》するように聞え、時々川床の石と石と打《ぶ》つかるたびに、どどん、と云う地響きが家を揺するので、幸子達は水が上って来たらどうしようかと怯《おび》えながら、母の枕《まくら》もとに侍《はべ》っていたのであったが、そう云う中で白露が消えるように死んで行く母の、いかにもしずかな、雑念のない顔を見ると、恐《こわ》いことも忘れられて、すうっとした、洗い浄《きよ》められたような感情に惹《ひ》き入れられた。それは悲しみには違いなかったが、一つの美しいものが地上から去って行くのを惜しむような、云わば個人的関係を離れた、一方に音楽的な快さを伴う悲しみであった。幸子達は、母がどうせこの秋は持ち越せないものと覚悟していたのではあったけれども、あの死顔があんなに美しくなかったならば、あの折の悲しみももっと堪え難いものだったであろうし、引いてはもっと暗い思い出が長く心に残ったであろう。いったい父は早くから道楽で身が持てなかった人なので、当時としては割合に遅い二十九と云う歳に、自分より九つも若い母と結婚したのだそうであるが、親類の年寄などに聞くと、さしもの父もひとしきりはお茶屋へ足が遠のいた程、夫婦仲がよかったものであった、それに、父がぱっぱっとした豪快な気象であるのに反し、母は京都の町家の生れで、容貌《ようぼう》、挙措、進退、すべてが「京美人」の型に篏《は》まっており、互の性質に正反対なところのあるのが、いかにも好い取り合せで、端《はた》から見ても羨《うらやま》しい夫婦であったと云う。が、それは幸子などの記憶にない遠い昔のことで、彼女が覚えている父は、いつも家を外に遊び歩いていた父であり、母はそう云う夫に満足して何の不平もなく仕えていた町方の女房であった。そして母の出養生が始まってからは、父の遊び方が一層傍若無人に、「豪遊」と云う形式にまで発展して行ったのであったが、でも幸子は、父が大阪より京都の方でより多く遊んだこと、自分もしばしば祇園《ぎおん》の茶屋へ連れて行かれたことがあり、父が馴染《なじ》みにしていた芸妓を何人か知っていたこと、などを今から考えると、父はやっぱり京美人型が好きだったのではないであろうか、と思えるのであった。又、そう云えば、自分が同じ妹のうちでも妙子よりは雪子の方をより深く愛しているのは、他にもいろいろな理由があるけれども、この妹が四人の姉妹たちのうちで誰よりも母の面影を伝えているせいかも知れなかった。四人のうちで幸子と妙子とが父親似であり、鶴子と雪子とが母親似であることは前に書いたが、鶴子の方は背が高く、全体が大柄に出来ているので、顔の感じは京女であるけれども、母が持っていたような繊弱さ、たおやかさに欠けている。母は明治の女であるから、背も五尺に満たないくらいであったし、手や足なども可愛く、かぼそくて、指の形の華奢《きゃしゃ》で優雅だったことは、精巧な細工物のようであった。だから姉妹じゅうで一番背の低い妙子よりもまだ母の方が低かった訳で、妙子より五六分ばかり高い雪子は、母に比べれば大作りであることを免《まぬか》れないが、そう云っても彼女が誰よりも、母の性質と姿の中にあったよいものを伝えているに違いなく、母の身の周りに揺曳《ようえい》していた薫《かお》りのようなものが、仄《ほの》かながら彼女にも感じられるのであった。
幸子はその法事のことを間接に夫から聞いただけで、七八月中は姉からも雪子からも何の便りも受け取らなかったが、月が変って、九月の中旬に本家から正式の案内状が来た。しかし、彼女がちょっと意外に感じさせられたのは、亡母の二十三回忌と共に、亡父の十七回忌をも、二年繰り上げてこの機会に一緒に営むことになっているのであった。貞之助もそれは初耳で、東京で姉さんから話された時は、確かにお母さんの二十三回忌とだけ聞いた、お父さんの十七回忌のことは何も聞かなかった、と云うのであったが、姉は兎に角として、義兄は当時からその腹があったのに違いあるまい。尤も、両親の年忌を、一方を繰り上げて合併で執り行うのは間々ある例で、さして咎《とが》むべきことではないようなものの、義兄は先年養父の法事を粗略にすると云うことで批難を受けているのであるし、自分でも、十七回忌は立派にして埋め合せをすると云った手前がある筈である。でもあの時分と今とは時勢も違うし、こう云う時局下のことだから、と云うならそれも頷《うなず》けないことはないが、そうならそのように予《あらかじ》め親類の口やかましい方面へ相談をし、諒解《りょうかい》を求めるべきではなかったろうか。間際《まぎわ》になって、抜討ち的に決定してこう云って来るのは、穏便を欠きはしないであろうか。案内状の内容は、父の十七回忌と母の二十三回忌の法要を営むに付、来る九月廿四日の日曜日午前十時に下寺町《したでらまち》善慶寺へ御来臨願たく、と云う簡単な文面のものであるが、それが届いた数日後に姉は始めて電話を懸けて来て委《くわ》しい話をした。―――先日貞之助さんが見えた時には、そんなつもりはなかったのであるが、かねてから兄さんは、国民精神総動員などが叫ばれている今日、法事などに無駄な金を費す時代ではなくなったから、お父さんの年忌も今年一緒にやってしまったら、とは云っていたのであること、そう云ってもこの間迄は本当にそれを実行する気はなく、案内状もお母ちゃんの年忌だけのことにして書きかけたのだけれども、欧洲戦争が勃発《ぼっぱつ》してから又兄さんの考が変り、日本もいよいよ大変なことになるかも知れない、日華事変が三年越し片付かないところへ持って来て、悪くすると世界的動乱の渦《うず》の中へ捲《ま》き込まれるであろう、われわれも一層これからは緊縮しなければならない時だと云い出して、俄《にわか》にお父さんのを合併することにしたのであること、案内状も、今度は印刷にするほど大勢の人を招くのではないので、一々書くことにしたのであるが、そんな訳で中途で変更になったので、銀行の若い人達を頼んで大急ぎで書き換えて出したのであること、従って親類の誰彼に相談する暇もなかったけれども、今度はこの前のような叱言《こごと》を云う人もないであろうと思っていること、あたしも今度は進んで兄さんに賛成したのであること、―――等々、姉はひとくさり弁解やら釈明やらをした後で、あたしと雪子ちゃんは、正雄と梅子を連れて廿二日の「つばめ」で立って、そちらに泊めて貰うことにする、兄さんと輝雄は土曜日の夜立って日曜の朝着き、その日の夜行で直ぐ引き返すことにしたので、何処の厄介《やっかい》にもならないで済ませる、あたしは二年ぶりの大阪であるし、留守の方もお久どんがいてくれるからまあ安心だし、又いつ行けるやら分らないから四五日は泊っていたいけれども、遅くも廿六日には帰らなければ、と云うので、当日のお昼御飯はどうするのん? と尋ねると、さあそのことやが、と云って、お昼はお寺の座敷を借りて、高津《こうづ》の八百丹《やおたん》から仕出しを取ることにした、万事は電話で庄吉に云い付けたので、庄吉がやってくれている筈で、手落ちはないと思うけれども、なお一往幸子ちゃんから、お寺の方と八百丹の方を念を押して置いて貰いたい、人数は大体三十四五人の見込みであるが、料理は四十人前注文してある、お酒も一人あて一二合ぐらいは出ることになっている、お燗番《かんばん》は善慶寺の奥さんや娘さんに手伝って貰うつもりだけれども、お座敷の斡旋《あっせん》は専《もっぱ》らわれわれが勤めなければなるまいから、そのつもりで、―――と、めったに電話を懸けて来ない姉であるが、懸けると長話の癖を出して、もう一通話もう一通話と継ぎ足しながら、雪子ちゃんやこいさんにも出て貰うけれども、二人ながらまだああしているのが寔《まこと》に工合が悪い、と云うようなことから、親類の人々に持って行く土産物の相談まで始めるので、幸子の方から、
「そんなら、明後日《あさって》、―――」
と、好い加減なところで切り上げたのであった。
幸子は、姉が電話口で最後にちょっと洩《も》らしたこと、―――雪子や妙子にも出席して貰《もら》うとして、まだ売れ口の極まらない二人を多くの人々の前に曝《さら》すのが、姉の身として辛《つら》いと云うこと、―――それは恐らくは姉ばかりでなく、義兄としても余程胸に痞《つか》えているに違いなく、邪推をすればそんなことなども、義兄が法事を億劫《おっくう》がる理由の一つになっているのかも知れないと思えた。義兄夫婦にして見れば、せめて雪子一人だけでも、今年の年忌までに身を固めていて欲しかったであろう。三十三と云う年になって、今も人々から「娘《とう》ちゃん娘ちゃん」と呼ばれる雪子、―――年下の従妹《いとこ》達などが大概もう奥さんになって、中には子供まで連れて来るのがあるのに、今もなお恰好《かっこう》な縁が見付からない雪子、―――昭和六年の父の七回忌の時、彼女が二十五の折にも、人々が彼女の若さや「一向歳を取らないこと」に驚いてお世辞を云ったのを、義兄夫婦は耳に痛く聞いたらしかったが、今度は尚更《なおさら》そう云う思いをしなければなるまい。尤《もっと》も、雪子の若さはあの時に比べてそう変っているようには見えないし、彼女自身は親類の娘達に追い越されたからと云って、引け目を感じている様子もないが、それだけに又人々は彼女をいとおしがり、何処《どこ》と云って欠点のないこう云う「娘ちゃん」がいつまでも独《ひと》りでいるのを世にも怪しからぬことに思って、仏さま達が草葉の蔭《かげ》でどんなにか歎いておられるであろうと、それを全く本家の責任のように云い做《な》したがるのであった。そして、そうなって来ると幸子にしても、その責任の一半を私《ひそ》かに感じない訳には行かないので、義兄や姉の心中がひとしお察しられるのであったが、実を云うと、彼女は雪子のこととは別に気に懸っている問題があって、姉が久々で出て来ると聞くにつけても、当惑しているところなのであった。
―――と云うのは、最近に又、妙子の一身上に新しい変化が起りつつあったのである。―――
妙子は板倉に死なれた当座は、全く拍子抜けがした形で、何事にも興味を失ったようであったが、それもそんなに長い間ではなく、一二週間もすると立ち直ったように見えた。彼女としてはあらゆる方面の圧迫に抗しても思いを遂げようとした恋愛に、突然終止符を打たれたのであるから、暫《しばら》くは茫然《ぼうぜん》として途方に暮れたらしかったが、くよくよすることが嫌《きら》いな性分なので、自分から元気を引き立てて、いつの間にか又洋裁学院へ通い始めたりして、内心は兎《と》に角《かく》、見たところでは直きに平素の活動的な彼女に復《かえ》っていた。幸子もそれには感心して、今度ばかりはさしものこいさんも少からず参っているに違いないのだけれど、そう云う弱味を見せないのがえらい、さすがにこいさんはいろいろなことを仕出来《しでか》すだけあって、あたしなどには真似《まね》の出来ないところがあると、貞之助に云っていたのであるが、あれはたしか七月の中旬のことであった、或る日幸子は桑山夫人を案内して神戸の与兵へ昼御飯を食べに行った時、今しがた妙子から電話があって、晩の六時に二人分の席を予約したと云うことを聞いた。妙子はその朝家を出たきりなので、何処から電話を懸けたものとも分らなかったし、二人連れと云うのも見当が付かなかったが、この頃こいさんは二度ばかり男のお方とお見えになりましたと、与兵の若い者が云った。幸子は何と云う訳もなくはっとして、その連れの男の人体《にんてい》を問い質《ただ》して見たかったのであるが、桑山夫人の前があるので、ああそう、と、わざと軽く聞き流してしまった。ありていに云うと、彼女はその男が誰であるかを突き止めたくもあったけれども、突き止めるのが恐いような気もしたのであった。で、その日、与兵を出ると桑山夫人に別れを告げて、前に一度見たことのある「望郷」と云う仏蘭西《フランス》映画が新開地に懸っているのを見に行ったのであったが、五時半にその映画が済んで戸外《おもて》へ出た時、今から行って与兵の近所をうろついていれば、ちょうど妙子とその男とに行き合わす時間であるがと思いながらも、ことさらにその考を打ち消すようにして真っ直ぐ帰宅したのであった。すると、それから又一箇月過ぎて、八月の中旬に、菊五郎が神戸へ来たので、貞之助、幸子、悦子、お春の四人で松竹劇場へ出かけたことがあった。(妙子はその時分、幸子が映画や芝居見物に誘ってもめったに附き合ったことがなかった。自分も見に行くことは行くけれども今日は止《や》めると云って、別箇行動を取ることが多かった)四人は多聞通《たもんどおり》八丁目の電車道でタキシーを下り、新開地の交叉点《こうさてん》を聚楽館《しゅうらくかん》の側へ渡ろうとするところで、貞之助と悦子だけが先に渡り、幸子とお春とがストップを食って立ち止まっていると、二人の眼の前を、楠公前《なんこうまえ》の方から来てあっと云う間に通り過ぎた自動車があったが、中に乗っていたのが奥畑と妙子であったことは、夏の真っ昼間のことなので疑いようがなかった。但《ただ》し、中の二人は何か話し合っていて気が付かなかった様子であったが、
「お春どん、旦那さんにも悦子にも云うたらいかんよ」
と、幸子は直ぐに口止めをした。お春は幸子の顔色が急に変ったのを看《み》て取ると、自分もひどく真剣な表情をして、
「は」
と答えたきり俯向《うつむ》きながら歩いていたが、幸子は動悸《どうき》を静めるために、一丁程先を行く貞之助と悦子の後影に眼を遣《や》りながら、わざと歩調をゆるめつつ歩いた。そして、そう云う時によく指の先が冷えて来るので、知らず識らずお春の手を握っていたが、黙っていると余計息苦しくなるので、
「お春どん、あんた何か、こいさんのこと知らん?………こいさんこの頃、ちょっとも家《うち》に落ち着いてないようやけど、………」
と、云うと、お春は又、
「は」
と答えた。
「なあ、何ぞ知ってたら云うて欲しい。………今のあの人から電話懸って来るようなことあれへなんだ?………」
そう云うと、お春は、
「電話はどうか存じませんけど、………」
と、モジモジしていたが、やがて口の内で附け加えた。
「………実はわたくし、先日西宮《にしのみや》で二三遍お遇《あ》いしたことがございました」
「今のあの人に?」
「はあ、あの、………こいさんにも、………」
幸子は、その時はそれきりにしたが、一番目の野崎村《のざきむら》の後の幕間に、お春と用を足しに立って、廊下で又あとを聞いた。お春の云うところに依《よ》ると、彼女は先月の下旬に、尼崎《あまがさき》の父が痔《じ》の手術で西宮の某肛門《こうもん》病院に入院した時、二週間ばかり暇を貰って父に附き添っていたのであったが、その間大概日に一遍は食事や何かを運ぶために尼崎の家と病院とを往復した。病院は西宮の恵比須《えびす》神社の近くにあったので、いつも彼女は国道の札場筋《ふだばすじ》から尼崎までバスに乗って行ったが、その往復の道で三度奥畑に邂逅《かいこう》した。一度は彼女が乗ろうとするバスから降りて来て擦《す》れ違い、二度は停留場でバスを待つ間に出遇《であ》ったのであったが、奥畑は彼女と反対の方向、神戸行きにばかり乗って、野田行きに乗ったことは一度もなかった。で、バスを待つのに、彼女は国道を南から北へ横切って、山側の停留場に立つのであるが、奥畑は、その山側の停留場のうしろの方のマンボウから出て来て、国道を北から南へ横切って、浜側の停留場に立つのであった。(お春はマンボウと云う言葉を使ったが、これは現在関西の一部の人の間にしか通用しない古い方言である。意味はトンネルの短いようなものを指すので、今のガードなどと云う語がこれに当て篏《は》まる。もと和蘭陀《オランダ》語のマンプウから出たのだそうで、左様に発音する人もあるが、京阪地方では一般に訛《なま》って、お春が云ったように云う。阪神国道の西宮市札場筋附近の北側には、省線電車と鉄道の堤防が東西に走っており、その堤防に、ガードと云うよりは小さい穴のような、人が辛うじて立って歩けるくらいな隧道《すいどう》が一本穿《うが》ってあって、それがちょうどそのバスの停留場の所へ出るようになっている)お春は最初に顔が合った時、挨拶したものかどうかと思って躊躇《ちゅうちょ》していると、奥畑の方からニッコリして帽子を取ったので、此方もついお辞儀《じぎ》をした。二度目の時は、バスが孰方《どちら》もなかなか来ないで、長い間待たされているうちに、向う側に立っていた奥畑が何と思ったか線路を越えてノコノコ傍へやって来て、お春どん、よう君に遇いまんなあ、何ぞこの辺に用事でもありまんのんかと、声をかけたので、実はこれこれでございましてと、暫く立ち話をした。奥畑はひとりニコニコして、そうだっか、この近所に来てなさるのんか、そんなら一遍僕所《ぼくとこ》へ遊びに来給え、僕所はあのガードを越えた直きそこです、―――と云いながら、そのマンボウの入口を指して、―――君、一本松《いっぽんまつ》知ってなさるやろ、僕所はあの一本松の傍やよってに、直き分ります、是非やって来給え、と云って、まだ何か話したそうにしていたが、そこへ野田行きのバスが来たので、失礼いたしますと云って、お春はそれに乗ってしまった。(お春の癖で、こう云う話をする時は一々その人の口調を真似て、当時の会話を克明《こくめい》に再演して見せるのである)そんな訳で、奥畑に遇ったのは以上三度だけ、時刻はいつも夕刻の五時前後で、三度とも奥畑一人であったが、別に一度、妙子にその停留場で遇ったことがあった。それも矢張同じ時刻頃のことで、お春が停留場に立っていると、うしろから妙子が来て、お春どん、と云いながら肩を叩《たた》いたので、おや、何方《どちら》へいらっしゃいましたと、うっかり出てしまって、慌《あわ》てて口を噤《つぐ》んだが、不意にうしろから現れたところを見ると、どうもあのマンボウを潜《くぐ》って来たものらしく思えた。すると妙子は、お春どん、いつ戻って来るのん、………お父さんどんな工合やのん、………などと尋ねたあとで、あんた、啓ちゃんに遇うたんやてなあ、と云いながらニヤニヤした。そして、お春が不意を喰《くら》ってヘドモドしていると、早う戻って来なさいや、と云い捨てて向う側へ渡って、神戸行きのバスに乗って行ったが、あれから真っ直ぐ帰らはりましたやら、それとも何処ぞ、神戸へでも行かはりましたやら、………と云うのであった。
芝居の廊下での話はそれだけであったが、幸子はお春がまだ何か知っていそうな気がしたので、翌々日の朝、悦子のピアノの稽古《けいこ》日に、妙子が留守になるのを待って、今日は悦子にお照を附けて出して遣り、お春を応接間に呼び入れてあとを聞いた。と、お春は、もう外に存じませんけれど、………と云いながら又こんなことを話した。―――自分はあのお方は大阪の方に住んでいらっしゃるのだとばかり思っていたところ、西宮の一本松の傍に家があると云われたのが意外だったので、或る日、あのマンボウを通り抜けて、一本松の所まで行って見たら、成る程ほんとうにお宅があった。前が低い生垣《いけがき》になっている、赤瓦《あかがわら》に白壁の文化住宅式の小さな二階家で、ただ「奥畑」とだけ記した表札が上っていたが、表札の木が新しかったのを見ると、極く最近に移って来られたのであろう。自分が行ったのは夕方の六時半過ぎ、大分暗くなってからであったが、二階の窓がすっかり開け放してあって、白いレースのカーテンの中に明るい電燈が燈《とも》っており、蓄音器が鳴っていたので、暫く立ち止まって様子を窺《うかが》うと、たしかにあのお方ともう一人、―――女の方らしい人の声がしたけれども、レコードの音に妨げられてはっきりとは聞き取れなかった。(と、そう云ってお春は、そうそう、そのレコードはあれでございます、ほら、あの、ダニエル・ダリュウが「暁に帰る」の中で謡《うた》いました、あの唄でございます、と云ったりした)で、自分がその家を見に行ったのはその時だけである。時間があったらもう一遍行ってもっと様子を探ろうと思っていたのだけれど、それから二三日して父が退院し、自分も蘆屋へ戻って来てしまったので、とうとうその機会がなかった。そして、自分はこのことを御寮人様《ごりょうんさん》に申し上げた方がよいのかどうか、迷っていた次第であった。なぜと云って、あのお方にしても、こいさんにしても、停留場でお目に懸った時あんなことを仰《お》っしゃりながら、別段口止めもなさらなかったところを見ると、或《あるい》は御寮人様も御承知のことなのかも知れず、そうだとすれば、黙っていたら却《かえ》っておかしくはないかとも思えたからであった。でもまあ余計なおしゃべりはしないに越したことはないので、申し上げずにいたような訳であるが、恐らくこいさんはこの頃始終あの家に行っておられるのではないでしょうか。何なら近所の噂《うわさ》なども聞いて、もっと委《くわ》しく調べて参りますけれども、と云うのであった。
幸子はあの日、自動車の中の二人を見た時は余り突然だったので、びっくりさせられたのであったが、だんだん落ち着いて考えると、妙子は板倉の事件以来奥畑を見限ってはいたものの、全然手が切れていたのではないのであるし、まして板倉がいなくなった現在、二人がたまたま連れ立って歩いていたとしても、何もそんなに驚くには当らない訳であった。ただ、あれは板倉が亡くなってから十日程後であっただろうか、或る日幸子は新聞に奥畑の母の死亡広告が載ったのを見て、啓坊《けいぼん》のお母さん、死にやはったわなあ、と云って、そっと妙子の顔色を窺うと、妙子が、ふん、と、ひどく興味のない返辞をしたことがあった。長いこと患《わずろ》うてはったん?………と聞いても、さあ、………と云うので、この頃ちょっとも会うてやないのん? と云うと、又、ふん、と鼻の先で答えたきりであった。幸子はそれ以来、妙子が奥畑の噂をするのは余程厭《いや》なのであろうと察して、彼女の前で「啓坊」の「け」の字も云い出したことはないのであるが、さればと云って、彼と完全に絶交したと云う言葉は、妙子の口からまだ聞いていないのであった。それに幸子は、妙子が早晩第二の板倉のようなものを拵《こしら》えずには措《お》くまいと思って、懸念《けねん》していたのであるが、又しても感心しない相手が選ばれるくらいなら、奥畑との間に縒《よ》りが戻ってくれた方が、自然でもあるし、世間体もよいし、あらゆる点で望ましいことなのであった。尤も、お春の話を聞いただけで縒りが戻ったものと極めてしまうのも早計だけれども、恐らくそうなのではあるまいか。妙子は本家や幸子たちが奥畑との恋愛には理解があることを知っているので、よしんば事実であったとしても隠す必要はないようなものの、一時あんなに奥畑に愛憎《あいそ》を尽かしていた手前、自分から縒りが戻ったことを白状するのは極まりが悪いのではなかろうか。と云って、幸子などには知って置いて貰った方が都合の好いこともあるので、お春あたりの口から知れることを願っているのではあるまいか。―――幸子はそんな風に見当を付けたのであったが、それから数日後の朝、食堂で暫く二人きりになった折に、
「こいさん、この間、あたし等が菊五郎見に行った日、新開地のとこ自動車で通ったわな」
と、わざと何でもないように云うと、妙子は、
「ふん」
と、頷《うなず》いて見せた。
「与兵へも行ったんやて?」
「ふん」
「啓坊《けいぼん》、何で西宮へ家を持ちやはったん」
「兄さんに勘当されて、大阪の家にいられんようになってん」
「何で」
「何でか、はっきり云わへんねん」
「いつぞやお母さんが死にやはったんやったわなあ」
「ふん、そんなことと関係があるらしいねんわ」
それでも妙子は、その家が家賃四十五円の借家であること、奥畑はそこに、昔彼の乳母《うば》をしていた婆《ばあ》やと二人で暮らしているのであることなどを、ぽつぽつ洩《も》らした。
「こいさん、いつから又啓坊と附き合うようになったん」
「板倉の四十九日の日に遇うてん。―――」
妙子はずっと七日々々のお詣《まい》りを怠らず続けていたのであったが、先月の上旬、四十九日に朝早く岡山へ立って行ってお詣りを済ませ、帰りの汽車に乗ろうと思って駅へ戻ると、奥畑が正面入口に立っていて、僕は君がお詣りに来ることを知って、此処《ここ》で待ち受けていたのであると云った。それで仕方なく岡山から三宮まで一緒に帰ったのであるが、板倉の死後一時全く絶えていた交際がそれから復活し出したのである、と、彼女は語った。但し、そう云っても自分は啓ちゃんを見直すようになったのではない、啓ちゃんは母親に死なれて始めて世間と云うものが分ったとか、勘当されたので眼が覚めたとか、いろいろ殊勝らしいことを云っているけれども、自分はそんな言葉を真に受けてはいない、ただ啓ちゃんが独りぼっちで放り出されて、誰にも相手にされないのを見ると、自分としてはそう不人情な扱いも出来ないので、附き合ってやっているのである、自分の今の啓ちゃんに対する気持は、恋愛ではなくて憐愍《れんびん》である、―――と、彼女はそんな言訳もした。
妙子はその話については口が重く、あまり突っ込んで聞かれることを喜ばない風が見えたので、幸子はそれきりその問題を持ち出したことはなかったが、しかしそうと分って見ると、いろいろなことが改めて眼に付き始めた。この間じゅうから夜おそく帰る度数が多くなっていたこと、何処《どこ》でそんなに時間を潰《つぶ》すのか出先がはっきりしなかったこと、この家にいながら此処《ここ》の家族の一員ではないような観があったこと、等々の理由もそれで説明がつくとして、妙子は近頃、帰宅してから風呂へ這入《はい》らないことがしばしばあったが、そんな時の顔の色つやから判断すると、どうしても出先で入浴して来るのに違いなかった。彼女はいったい身嗜《みだしな》みに金を懸ける方であったのに、板倉とああ云う仲になってからは貯金の必要を感じ出すと共に吝嗇《りんしょく》になり、パアマネント一つかけるのにもなるべく廉《やす》い美容院へ行くと云う風だったのであるが、最近は又、化粧の仕方から衣裳《いしょう》持ち物の末に至るまで、際立《きわだ》って派手で贅沢《ぜいたく》になっていた。幸子は彼女の腕時計、指輪、ハンドバッグ、シガレットケース、ライタア等の品々が、この二た月程の間に一つ一つ新しいものに変って来たのに心づいた。妙子は、板倉が生前愛用していたライカ・キャメラを、―――いつぞや大阪三越の八階で奥畑が床へ叩《たた》き着けた、あの曰《いわ》く附きの写真機で、故人はあれを修理させて再び使っていたのである。―――故人の三十五日の後に岡山在の実家から形見分けにと云って送って来たのを、その当座持って歩いていたようであったが、近頃はそれに代る新しいクロームライカを持っていた。幸子は最初それらの事実を、恋人に死なれたことから急に妙子の人生観が一変し、金溜《かねた》め主義を放擲《ほうてき》してぱっぱっと使う気になったのであろうと、簡単に解釈していたのであったが、実際はそれだけのことではないらしくもあった。そう云えば、人形の製作なども久しく捨てて顧みないようになっていたのであるが、いつの間にか夙川《しゅくがわ》の仕事部屋と共に弟子に譲ってしまったと云っているし、洋裁学院の方も怠ける日が多いらしかった。で、さしあたり幸子は、この出来事を自分だけの胸に収めて遠くから眺《なが》めることにしたものの、そう云う風に妙子がおおびらで奥畑と交際し始め、二人で大胆に出歩いているとすれば、いつ貞之助の眼に触れない限りもない、と云うことも考えられ、奥畑をひどく嫌《きら》っている夫が、このことを知ったら必ず意見があるであろう、とも考えられたので、或《あ》る日夫に打ち明けてしまったのであった。すると夫は案の定不愉快そうな顔をして聞いていたが、それから二三日後の朝、書斎へ這入《はい》って来た幸子に、まあそこへ坐《すわ》れと云って、僕は啓坊の勘当された事情を或る所から聞いて来た、と云うのであった。そして、実はこの間の話の中で、勘当と云うことが不審だったので、手を廻して調べて見たところ、啓坊は奥畑商店の店員とグルになって、店の品物を持ち出したのだそうではないか、それも今度だけではない、前にもそんなことが一二遍あったのだけれども、その時分にはいつもお母さんが兄さんに詑《わ》びを入れて堪忍《かんにん》して貰《もら》っていたのだそうだ、しかし今度はお母さんがいないし、たびたびのことであると云うので、兄さんがえらく立腹して訴えると云ったのを、まあまあと宥《なだ》める者があって、お母さんの三十五日が済むのを待って勘当と云うことになったのだそうだ、―――と、そう貞之助は語り出した。
一体こいさんはそう云う事情を知っているのかどうなのか、そこは僕にもよく分らないが、―――と、貞之助は云うのであった。―――本家にしてもお前にしても、この事実が明かになって見れば、こいさんを啓坊に結び着けたいと云う考え方を改める必要がありはしまいか。殊《こと》に兄さんはああ云う人だから、そんなことを聞いたら必ず考が変るに違いない。今迄《まで》兄さんやお前たちが、こいさんと啓坊との交際を大目に見るような風があり、内心それを喜んでさえもいたようだったのは、二人が結婚してくれることが一番よいと云う腹があったからだが、その考を捨てるとすれば、ああして交際させて置くことは宜《よろ》しくないと思う。仮にお前や姉さんや雪子ちゃんなどが、それでも素姓の分らない変な相手に添わせるよりは、まだ啓ちゃんの方が望ましいと考えるとしても、きっと兄さんは承知しないであろう。少くとも兄さんは、啓坊が勘当を許された上で、奥畑家の承認を得、正式の結婚をするのでなければ「うん」と云う筈《はず》がない。かたがた今のような状態で交際させて置くのは、どちらにしても為めにならない。それに今迄は、奥畑家にもお母さんや兄さんと云うものがあって監督の眼が光っていたからよいけれども、勘当された啓坊は、小さいながらも一軒の家を構えて自由に振舞えるようになっただけに始末が悪い。恐らく勘当されるについては若干の涙金《なみだきん》を貰ったであろうが、当人は結局それをよいことにして、先のことも考えず、あるに任せて浪費しているのではなかろうか。そしてこいさんも、多少はそれに与《あずか》っていると云うようなことがありはしまいか。―――こいさんの啓坊に対する気持が恋愛でないのだとすれば、―――厭《いや》な想像はしたくないけれども、考えように依《よ》っては単なる憐愍《れんびん》とばかりは取れず、もっと随分悪い意味にも解釈出来る。―――こいさんにそう云うことをさせて置いて、やがてずるずるべったりに二人が同棲《どうせい》するようなことにでもなったら、何とするか。いや、そんなことにならないでも、こいさんがその西宮の家へ毎日入り浸《びた》っていることが啓坊の兄さんの方へ聞えただけでも、先方ではわれわれを何と思うだろうか。こいさんが不良のように云われるのは仕方がないとして、監督者たる僕たち迄が変な眼で見られるではないか。―――貞之助はそう云って、僕は前からこいさんの行動については傍観的態度を取って来たので、今度も積極的に干渉する気はないけれども、もしこいさんが今のような交際を止《や》めないのであったら、一往本家の耳へ入れて、兄さんや姉さんの許可を得るか、せめて黙認を得てからにして欲しい、でないと、今度こそ僕たちが本家に対して申訳のないことになろう、と云うのであったが、実は貞之助は近頃ゴルフをやり始めて、茨木《いばらき》の倶楽部《クラブ》で奥畑の長兄としばしば顔を合わすので、そんな時に工合が悪い、と云うこともあるのらしかった。
「そうかて、あんた、本家が黙認しますやろうか」
「それはまあ、有り得んことやな」
「そんなら、どうします」
「やっぱり交際を止めて貰わんならんかも知れんな」
「ほんとうに止めてくれたらええけど、内証で附き合うてたら、………」
「僕はこいさんが僕のほんとうの妹か娘やったら、云うことを聴かん場合には此方も勘当してしまうけど、………」
「そんなことしたら、尚更《なおさら》啓坊の所《とこ》へ逃げて行くやありませんか」
そう云う幸子の眼の中には早くも涙が潤《うる》んでいた。成る程、此方も妙子を見放したことにして、出入りを差止めてしまえば、世間や奥畑家に対する申訳は立つけれども、それでは夫の最も嫌っている結果を、好んで招くようなものではないか。夫に云わせると、こいさんは自活の腕を持った二十九歳の女なのだから、僕たちが自分の思うように動かそうと云うのが間違っている、まあどう云うことになるか、一遍放り出して見るのも好い、それで啓坊と同棲するようなことになったとしても、仕方があるまい、そこまで僕たちが心配したら際限がない、と云うのであったが、幸子にして見れば、何よりもそう云う風にして妙子に「勘当」の烙印《らくいん》を捺《お》してしまうことなどは、考えても可哀《かわい》そうであった。今迄自分が本家に対して事ある毎に庇《かば》ってやっていた妹を、ここへ来てそんなことぐらいで見放してよいものであろうか。夫は少しあの妹を悪く思い過ぎている。あれでこいさんは、何と云ってもお嬢さん育ちのところがあって、芯《しん》は気の弱い、人の好い女なのである。自分はあの妹が早く母に死に別れたのを不憫《ふびん》に思い、及ばずながら母に代って慈《いつく》しむようにして来たのに、母の法事の時になって家から追い出すなどと云うことが出来るものでない。―――
「僕かて何も、そうせないかん云うのんとは違うで」
と、貞之助は妻の眼の中を見ると、少し狼狽《うろた》え気味で云った。
「―――今のはこいさんが僕のほんとうの妹やったら、と云う仮定の話やで」
「あんた、このことはあたしに任しといて下さい。―――いずれ姉ちゃんが来やはったら、姉ちゃんにだけそっと話して、含んで置いて貰いますよってに。―――」
しかし幸子は、ほんとうに姉に話すかどうかはその時の工合にしよう、兎も角も廿四日の法事が滞りなく済む迄は云わずに置こう、と云う腹であったが、姉の一行が蘆屋へ着いた廿二日の晩に、雪子にだけ打ち明けて、彼女の判断を求めて見た。と、雪子は、縒りが戻ってくれた事は何にしても結構である、啓坊が勘当された事はそんなに重大に考えるには及ぶまい、品物を持ち出したと云っても、自分の店の物であって見れば、他人の物を胡麻化《ごまか》したのとは違う、まあ啓坊ならそのくらいな事はするかも知れない、勘当と云っても恐らく一時の懲《こ》らしめのためなので、直きに許されるのであろうから、余りおおびらに出歩かないようにして、内々で交際するのであったら、大目に見てもよいではないか、―――と、そう云って、ただ姉ちゃんには話さない方がよい、姉ちゃんに話すと、きっと兄さんに話すに違いないから、と云うのであった。
幸子は本家の遣り方に楯《たて》を突くようで悪いけれども、何か今度の法事には充たされないものを感じていたので、一つにはそれを満足さすため、一つには久々で迎える姉を慰労するためにもと、善慶寺の集りのあとで、自分たち姉妹だけでささやかな催しをすることを思い付いた。で、法事の翌々日、廿六日の昼に、亡き父母にゆかりのある播半《はりはん》の座敷を選び、貞之助にも遠慮して貰って、姉と自分たち三姉妹の外には富永の叔母とその娘の染子だけを招くことにした。そして余興には、菊岡検校《けんぎょう》と娘の徳子に来て貰い、徳子の地、妙子の舞で「袖香炉《そでごうろ》」、検校の三味線、幸子の琴で「残月」を出すことにして、急に半月ばかり前から、幸子は家で琴の練習を、妙子は大阪の作《さく》いね師匠の所へ通って舞の練習を続けていた。姉は廿二日に着くと、廿三日には朝早く起き、梅子だけを伴って買い物と挨拶《あいさつ》廻りに出かけ、晩の御飯を何処かで呼ばれて帰って来たが、廿四日の当日には、姉、正雄、梅子、貞之助夫婦、悦子、雪子、妙子の八人にお春が供をして、八時半に家を出た。女たちは皆、姉が黒羽二重、幸子以下の三姉妹はそれぞれ少しずつ違う紫系統の一越縮緬《ひとこしちりめん》、お春が古代紫の紬《つむぎ》、と云う紋服姿であった。途中、阪急の夙川駅から、半ズボンの下に毛脛《けずね》を見せた兄のキリレンコが乗って来て、車室の中の色彩にはっと眼を見張ったが、貞之助達の前へ来て吊《つ》り革にぶら下りながら、
「どちらへ」
と、小腰を屈《かが》めた。
「―――皆さん今日はお揃《そろ》いですね」
「今日は僕の家内のお母さんの亡くなった日で、皆でお寺詣《まい》りに行きます」
「おお、いつお母さん亡くなりました?」
「二十三年も前のことですねん」
と、妙子が云った。
「キリレンコさん、カタリナさんからお便りがありますか」
と、幸子が聞いた。
「そうそう、私忘れていました。この間の手紙にあなた方に宜《よろ》しくと書いてありました。カタリナ今英吉利《イギリス》です」
「もう伯林《ベルリン》ではないのんですの」
「伯林にはちょっといただけ。直き英吉利に行きました。そして娘に会うこと出来ました」
「それはようございましたわなあ。英吉利で何をしておられますの」
「倫敦《ロンドン》で保険会社に勤めています。社長の秘書をしています」
「では娘さんも一緒に暮しておられるんですか」
と、貞之助がきいた。
「いいえ、まだです。今娘を取返す訴訟をしています」
「そうですか、それはほんとうに、―――」
「今度手紙をお書きになる時、何卒《どうぞ》あたし等からも宜しくと仰《お》っしゃって、―――」
「けれど戦争になったよってに、手紙も時間が懸るようになるやろうな」
「ママさん、心配してはりますやろ」
と、妙子が云った。
「―――今に倫敦かて空襲されまっせ」
「しかし心配なことはないです、妹は大胆ですさかい、―――」
と、キリレンコも大阪弁を出して云った。
法事のあとの宴会は、播半の時の花やかさを覚えている者には佗びしいことであったけれども、善慶寺の庫裡《くり》の広間を三間打ち抜いて四十人ほどの人々が膳《ぜん》に就いたところは、そんなに寒々としたものでもなかった。親戚の外にも棟梁《とうりょう》の塚田や「音やん」の代理の庄吉など、出入りの者の顔が少しは見え、船場時代に奉公していた人達も二三人は出席した。酒間の斡旋《あっせん》は鶴子以下の姉妹が当る筈であったが、従姉妹《いとこ》たちやお春や庄吉の妻などが働いてくれたので、姉妹たちは殆《ほとん》ど動かないで済んだ。幸子は、前栽《せんざい》に丈高く伸びた紅白の萩《はぎ》が散りかかっているのを眺めながら、母が亡くなった時の、あの箕面《みのお》の家の庭の風情《ふぜい》を想い出していたが、男たちの多くは欧洲戦争のことを話題に上せた。女たちは例に依って「雪子娘《とう》さん」とこいさんの若さを褒《ほ》めたが、それも辰雄に当て付けがましく聞えないように、程々にした。ただ、昔の店員の一人である戸祭と云う男が酔っ払って、
「雪子娘さんはまだお独《ひと》りやそうですなあ、―――」
と、末座から胴間声を挙げて、
「いったい何でですねん」
と、無遠慮に畳みかけたので、ちょっと座が白けかかったが、
「うち等はな、どうせ後《おく》れついでですよってにな、―――」
と、妙子がことさら落ち着き払った口調で云った。
「―――ゆっくりとええ人を捜しまんねん」
「そうかて、ゆっくり過ぎますやないか」
「阿呆《あほ》らしい。『今からでも遅うない』云うことがありまんがな」
彼方此方で女たちが控え目な笑い声を洩《も》らした。雪子も黙ってニコニコしながら聞いていたが、辰雄は聞えない振りをしていた。と、国防服の上衣を脱いでワイシャツ一つになっている塚田が、
「戸祭君々々々」
と、向う側から呼びかけて、
「君は近頃、株で大層儲《もう》けはったそうやおまへんか」
と、真っ黒な顔に金歯を光らせながら云った。
「違いまんが。これから大いに儲けよう云うところだんが」
「何ぞええことがおまんのんか」
「僕、今月中に北支へ行きまんねん。実は妹が天津《テンシン》のダンスホールに出てましたら、軍部に見込まれてスパイになりましてん。―――」
「ほうお、―――」
「そして今では支那浪人の奥さんになりおって、えらい羽振りがようて、時々国元へ千円二千円と送って来まんねん。―――」
「ハテな、僕にもそう云う妹がないもんか知らん」
「―――その妹が、今頃内地でボヤボヤしてることあれへん、ボロい仕事が何《なッ》ぼでもあるよって天津へ来なはれ、云うてくれてまんねん」
「僕も一緒に連れて行っとくなはれ、都合で大工いつでも止めまっせ」
「僕、儲かることやったら何でもやったろうと思うてまんねん。おやま屋の親仁でも構《か》めしめへん」
「そうだそうだ、それぐらいの勇気がなかったらあきまへんで」
塚田はそれから、
「お春どん、そのお銚子《ちょうし》此方へおくなはれ」
と、お春を前に引き寄せて飲み始めた。この棟梁は蘆屋の家で一本付けて貰う時にも、お春のお酌《しゃく》で陶然となって、なあお春どん、あんた僕の奥さんになっとくなはれ、あんたが承知してくれはったら、今直ぐにでも内の奴《やつ》に出て貰いまっせ、いや、冗談と違いまっせ、ほんまだっせと、口説くのが常であったが、お春が愛想よくあしらいながら面白がって笑いこけるので、いつ迄も止めなかった。が、今日はお春はあまり杯を強《し》いられるので、程よいところで、
「熱いの持って来ましょう」
と、台所の方へ逃げて行った。彼女は塚田が、
「お春どんお春どん」
と、云いながら追って来るのを聞き捨てて、勝手口の土間へ降りて、裏庭の雑草の蔭に潜んだ。そして、黒繻子《くろじゅす》の帯の間からコンパクトを出して微醺《びくん》を帯びた顔の白粉《おしろい》を直してから、あたりをそっと見廻して、誰もいないのを確かめると、出入りの雑貨屋の番頭に内証で貰ったエナメルのシガレットケースを開けて、光を一本取り出したが、大急ぎで半分吸うと、火を揉《も》み消して、ケースに戻して、又庫裡《くり》の方へ帰って行った。
姉は、廿六日にはどうしても立たなければと云って、昼間の播半《はりはん》のお呼ばれを済ますと、蘆屋《あしや》へは帰らず、一時間ほど心斎橋筋の気分を味わってから、幸子たちに送られて真っ直ぐ梅田の駅へ行った。
「姉ちゃん、又当分来られへんやろなあ」
「それより幸子ちゃん東京へ来なさい。―――」
と、姉は三等室の窓から首を出して云った。彼女は、子供達がいては寝台を取っても寝られないし、二等も三等も同じことだからと、汽車を倹約したのであった。
「―――今月は菊五郎あれへなんだけど、来月はありまっせ」
「菊五郎は先月神戸の松竹へ来たよって見に行ったけど、東京や大阪で見るようなことあれへなんだ。保名《やすな》をやったけど、延寿太夫《えんじゅだゆう》も出えへんし、………」
「来月は菊五郎が舞台でほんまの鵜《う》を使うて、長良川《ながらがわ》の鵜飼いの芝居をやるねんて」
「そしたら、新作物やねんな。―――あたしはやっぱり舞が一番見たいわ」
「そう云えば、こいさんの舞、富永の叔母ちゃんがえらい褒《ほ》めてはりましたで。あんなに上手なことないやろう思うてた云うて」
「雪子姉ちゃんは乗らないの?」
と、正雄が東京のアクセントで云った。
「………」
見送る側の人になって幸子のうしろに立っていた雪子は、ニヤニヤしながら何か口のうちで云ったらしかったが、発車のベルが鳴り出したので誰も聞き取った者はなかった。が、姉と一緒に西下した彼女が、どうせ此方に居残る腹でいるだろうことは最初から読めていたので、姉も一緒に帰れとは云わず、当人も別段言訳もせず、自然に極まっていたのであった。
幸子は雪子の意見通り、妙子のことは全然姉に話さないでしまった訳であったが、妙子はあれきりそのことに就いて幸子が何も云い出さないのを、自分に都合が好いように解釈したらしく、その後日がたつに従って西宮通いがますます露骨になって行った。それも昼間だけならよいが、夕飯の席に加わらないことが余りつづくと、さすがに貞之助も顔色の冴《さ》えない折があるので、幸子は人知れず気を遣わねばならなかった。そう云う晩には、夫も、彼女も、雪子も、なるべく「こいさん」と云うことを口にしないようにしたが、お互にそう努めていることが分るだけに気まずかった。それに又、悦子に与える影響と云うことも案じられた。悦子は母や雪子から、こいさんの帰りの遅いのは近頃製作が忙しいからだと云われていたけれども、それを決して信じていないことは明かで、彼女も晩の食卓では誰に教えられるともなく妙子の噂《うわさ》をしないようになっていた。幸子は妙子に、せめて夫や悦子の眼に触れないような心づかいをしてくれるように、たびたび注意して見たけれども、ふん、ふん、と云って聞き流すだけで、そのあと二三日は早く帰るが、直《す》ぐ又もとの通りになった。
「お前、この間姉ちゃんに、こいさんのこと話しといてくれたか」
と、或る晩、夫はとうとう怺《こら》えかねたように云った。
「話そう思いましたけど、つい折がのうて、………」
「何で」
と、夫の声には例になく詰《なじ》るような調子があった。
「実は雪子ちゃんに相談したら、姉ちゃんには話さんと置いた方がええやろ云いますよってに、………」
「何で雪子ちゃんはそない云うねん」
「雪子ちゃんは啓坊の同情者ですよってにな、まあ大目に見て置いたら、云う考でっしゃろう」
「同情も事に依《よ》りけりや。そんなことして、それが雪子ちゃん自身の縁談にもどれぐらい邪魔するか知れへんやないか」
夫はひどく不機嫌《ふきげん》な顔つきで云ったが、それきり黙り込んでしまったので、幸子には夫が何を考えているものとも分らなかった。が、十月の中旬に、夫が又二三日上京したことがあったので、
「あんた、渋谷へ寄って来なさった?」
と、尋ねると、
「うん、あの話、姉ちゃんに云うといたで」
と、夫は云った。でも、姉ちゃんはよく考えて置きますと云っただけで、さしあたり何の意見も云わなかった、と云うことなので、幸子もそれ以上そのことに触れないようにしていたが、その月の終り頃になって、思いがけなくも姉から次のような手紙が届いた。―――
拝啓
先月は大勢で御厄介《ごやっかい》になりその上久振に播半で結構なおもてなしにあずかり、故郷のよさをしみじみ味わうことが出来て嬉《うれ》しゅうございました。帰ってから毎日忙しくてお礼状も上げないでいましたが、今日は又心ならずもいやな手紙を書かなければなりません。しかしどうしても幸子ちゃんに聞いて貰《もら》わなければならないことなので、よんどころなく筆を執るような次第です、と云うのは、こいさんのことですが、この間貞之助さんから始めていろいろなことを詳しく聞かされて、実に驚いてしまいました。貞之助さんは何から何まで皆云ってしまいますと云って、板倉と云う人のことから最近啓坊が勘当されたことまで、すっかり話してくれましたが、聞けば聞く程意外なことばかりです。今迄《まで》にもこいさんについて悪い噂をぼんやり耳にしたことはありましたけれども、よもやそんなふしだらなことはと思っていました。まさか幸子ちゃんが附いていて間違ったことはさせる筈《はず》がないと思っていたのが、私の思い違いでした。私はこいさんをそう云う不良にさせまいと思えばこそいろいろ心配したのですが、いつも干渉しようとすると、仲に立ってこいさんを庇《かば》ったのは幸子ちゃんではなかったでしょうか。私は自分の身内からそう云う妹を出したことを耻《はずか》しく思います。蒔岡家に取ってもこの上もない不名誉です。聞けば雪子ちゃん迄がこいさんの味方をして、今度のことも私達に知らせる必要はないと云ったとか。雪子ちゃんにしても、こいさんにしても、兄さんの顔を蹈《ふ》みつけにして本家の方へは少しも帰って来てくれず、今度のようなことをするのはどう云うつもりなのでしょうか。何だか私には幸子ちゃん達三人が兄さんを困らせようとして、わざと意地悪をしているように思われてなりません。それもこれも皆私達が至らないせいでしょうけれども、………
余りのことに筆が走り過ぎましたが、私も一遍は云わして貰いたかったのです、気に触ったら堪忍《かんにん》して下さい
さてこいさんの処置ですが、正直のところ、私達も出来れば啓坊と結婚させるのが一番よいと思っていたのですけれども、そう云う事情が分って見れば、もうそんなことは考えていません。仮に一歩も二歩も譲って、将来啓坊が勘当を許された場合には、又考え直すことがあるとしても、勘当中の啓坊の家に出入りすることは絶対に止めて貰わなければなりません。こいさんにしても、将来どうしても結婚したい気があるなら、尚更《なおさら》今の啓坊と交際することを止めなければ、奥畑家の心証を害するばかりだと思います。それで兄さんの考は、たといこいさんが交際を止めると云っても、それだけでは信用出来ないから、当分東京へ来ていて貰いたいと云うのです。御存知の通り此方は家が狭くもあり、幸子ちゃんの所とは生活程度も違うので、来て貰うのも気の毒ですけれども、今はそんなことを云っている場合ではありませんから、幸子ちゃんから訳を話して、是非寄越すようにして下さい、兄さんは、今迄家が狭いからと云って遠慮していたのが悪かった、窮屈なのはお互に辛抱するとして雪子ちゃんにも帰って来て貰いたいと云っています
幸子ちゃんも、何卒今度だけはこいさんに甘い顔を見せないで下さい。もしどうしてもこいさんが東京へ来るのを嫌《いや》だと云うなら、幸子ちゃんの家にも置かないで下さい。これは兄さんの意見ですが、私もそれに賛成です。兄さんは、今度こそ幸子ちゃんも私達の側に立って断然たる処置を取って欲しい、折角私達が決心したことだから、今度はぐずぐずにしてしまわないで、東京へ寄越すか、蒔岡家と絶縁を申し渡すか、今月中にどちらかにきめて報告してくれるようにと云っています。しかし申す迄もなく絶縁は望ましいことではありませんから、何卒円く治まるように幸子ちゃんと雪子ちゃんとでこいさんを説き付けて下さい。それでは御返事をお待ち申します
十月廿五日
鶴子
幸子様
おん許《もと》へ
「雪子ちゃん、姉ちゃんからこんなこと云うて来たで。まあ読んで御覧。―――」
と、幸子は眼の縁を紅くしながら、先《ま》ずそれを雪子に見せたものであった。
「姉ちゃんにしては珍しい強硬な手紙やで。雪子ちゃんも大分恨まれてるやないか」
「この手紙、兄さんが書かせてはるねんわ」
「それにしたかて、書かされる姉ちゃんも姉ちゃんやないの」
「兄さんの顔を蹈みつけにして本家の方へは少しも帰って来てくれず、―――と書いてあるけど、そんなこと、昔のことやわ。東京へ行ってからの兄さんは、本気であたし等を引き取ることなんか、考えてはれへなんだんや」
「雪子ちゃんは兎《と》に角《かく》、こいさんなんか来てくれたら迷惑や、云わんばかりやった癖に」
「第一あんな狭い家に引き取れるかいな」
「この手紙で見ると、何《なん》やこいさんを不良にしたのはあたしの責任見たいやけど、あたしは又、どうせこいさんは本家の云うことを聴く人やあれへん、せめてあたしが間へ立って監督してたら、ひどい脱線もせえへんやろう、云う考やった。姉ちゃんはこない云うけど、私が舵《かじ》を取ってなんだら、今迄にもっと脱線して、ほんまの不良になってたかも知れへんねん。あたしはあたしで、本家のためも思い、こいさんのためも思うて、孰方《どっち》にも瑕《きず》が付かんように苦心したつもりやってんわ」
「姉ちゃん等《ら》、不都合な妹やったら追い出してしもうたら事が済むと、簡単に考えてるのんやろか」
「しかしどうしょう。とてもこいさん東京へ行く気イないやろう思うけど」
「そんなこと、聞いて見る迄もあれへん」
「そんなら、どうしょう」
「もうちょっと放って置いたら、―――」
「今度はそんな訳に行けへん、貞之助兄さんも本家に賛成らしいよってに」
幸子は、兎に角云うて見るよって雪子ちゃんも立ち会うて、と云って、その明くる朝二階の妙子の居間を締め切って、三人の姉妹だけで話した。
「なあ、こいさん、長い間でのうても、暫《しばら》く東京へ行ってくれへん?」
そう云われると妙子は、子供のように首を振って「いやいや」をした。
「うち、本家と一緒に暮すぐらいなら死んだ方が優《ま》しや」
「そんなら、どない云うとこう」
「どないなと、云うといて欲しい」
「そうかて、今度は貞之助兄さん迄本家に附いてはるよって、有耶無耶《うやむや》にしとく訳に行かんねんわ」
「そんなら、当分独《ひと》りでアパート住まいでもするわ」
「こいさん、啓坊の所《とこ》へは行けへんの?」
「交際はするけど、一緒に住むのんは御免やわ」
「何で」
そう聞くと妙子は黙ってしまったが、結局、誤解されるのが厭だからであると云った。そしてその誤解と云う意味は、自分は啓ちゃんを憐《あわ》れんでいるに過ぎないのに、愛してでもいるように思われるのは心外であるから、と云うことらしいのであった。幸子たちにはそんなことは負け惜しみとしか受け取れなかったが、しかしこの場合、当座だけでも独身生活をしてくれるなら、同じ家出をするにしても体裁が好いに違いなかった。
「きっとやなあ、こいさん。―――きっとアパート住まいするなあ?」
と、幸子はほっとしたように云った。
「―――そんなら、気の毒やけど、暫くそないして貰おうか」
「アパートやったら、あたしが時々行ったげるわ」
と、雪子が云うと、幸子も、
「ほんまやで、こいさん。云わんかて分ってるやろけど、何もそんなにむずかしいに考えることないさかい、ちょっと都合でアパート生活してる、云うことにして、誰にも家出したなんて云わんと置きなさいや。貞之助兄さんと悦子にさえ見られんようにしたらええよって、来たかったら昼間やって来なさい。此方からも始終お春どんを遣《や》るさかいにな」
そう云っているうちに、幸子の眼も雪子の眼も濡《ぬ》れて来たが、妙子だけは冷静な、無表情な顔をして、
「荷物はどうしょう」
などと云った。
「洋服箪笥《だんす》や何か、眼につく物は持って行って貰わんと工合悪いけど、大事な物は置いときなさい。アパートは何処にするのん」
「まだ考えてえへん」
「松濤《しょうとう》アパートは?」
「夙川でない所《とこ》にしたいけど、これから行って、今日のうちに極めて来るわ」
二人の姉が出て行ったあとで、妙子はひとり肘掛窓《ひじかけまど》に腰掛けて晴れた晩秋の空を見上げていたが、いつの間にか彼女の頬《ほお》にも涙が糸を引き始めていた。
妙子が引き移ったアパートは、国道バスの本山村《もとやまむら》の停留場を北へ這入《はい》った所にある甲麓荘《こうろくそう》と云う家で、お春の話では、この間開業したばかりの新しい建物ではあるが、畑の中にぽつんと一軒建っている、まだ設備なども整っていない殺風景なアパートであると云うことであった。幸子は三日ばかり過ぎてから、昼飯にでも誘おうと思って、雪子と二人で神戸へ出て、電話を懸けて見たけれども、留守であった。お春に聞いても、朝早くでなければ大概お留守のようでございますと云った。それでも幸子は、そのうちに遣《や》って来るであろうと心待ちにしていたが、幾日たっても妙子は姿を現わさず、電話一つ懸けて来るではなかった。
貞之助は、妻や雪子がほんとうに妙子と「絶縁」したものと信じたか、蔭で連絡があることは已《や》むを得ないと諦《あきら》めていたか、孰方《どちら》とも分らないけれども、表面妙子を追い出したことで一往満足しているらしかった。悦子は、こいさんは今度甲麓荘と云う家に仕事部屋を借りたので、寝起きもそこでするようになったのであると云い聞かされて、疑いながらも納得していた。幸子と雪子とは、今迄《まで》にしても妙子の顔を見ないことが多かったのであるから、何もそんなに前と変ってはいないのである、と云う風に思うようにしたが、事実、家庭の中にぽかんと穴のあいたような感じがあったとすれば、それは前からのことなので、特に今度の出来事のためにそうなったと云う訳ではなかった。ただ、一人の妹が日蔭者になってしまったこと、―――それを考えると彼女達は佗《わ》びしかった。
その佗びしさを紛らすために二人は殆《ほとん》ど二日置きぐらいに連れ立って神戸へ出て、旧《ふる》い映画や新しい映画を漁《あさ》って見、どうかすれば日に二つも見て歩いた。ここ一箇月程の間に二人が見たものを数えても、「アリババ女の都へ行く」、「早春」、「美しき青春」、「ブルグ劇場」、「少年の町」、「スエズ」などがあった。そして、街を歩きながらもひょっと妙子に行き遇《あ》いはしないかと気を付けたが、ついぞ見かけたこともなかった。あまり音沙汰《おとさた》がなさ過ぎるので、或る朝お春を見に遣ると、今朝はまだお寝《やす》みになっていらっしゃいましたがお元気でした、御寮人様や雪子娘《とう》さんが心配なすっていらっしゃいますから一遍いらしって下さいませと申し上げましたら、そのうちに行くよって心配しやはらんように云うといてと仰《お》っしゃって、笑っていらっしゃいました、と云うことであった。その後十二月の或る週に、待ち焦《こが》れた仏蘭西《フランス》映画「格子《こうし》なき牢獄《ろうごく》」が懸ったので、二人はそれを見に行ったが、その日から幸子が風邪を引き込んだので、外出歩きは当分見合わすことになった。
妙子は、悦子の学校が明日から休暇になると云う二十三日の朝、殆ど二箇月ぶりにやって来て、正月の衣類を鞄《かばん》に詰め、一時間程話してから、松の内が過ぎたら年始を祝いに来ると云って帰ったが、正月十五日の朝に来て、小豆粥《あずきがゆ》を食べ、その日は少しゆっくりして午後に帰った。幸子は暮れに風邪を引いてから寒さに怯《おび》えて、ずっと引き籠《こも》ってばかりいたが、映画好きの雪子も、ひとりでは決してそう云う所へ出歩かなかった。いったい彼女はこの年になっても人みしりが強く、ちょっとした買い物に出かけるのにも誰かを連れて行くと云う風なので、幸子は彼女に稽古事《けいこごと》をさせるために、自分も附き合って習字や茶の湯の師匠の許《もと》へ通っていたが、そんな風でも困るからと云うので、三度に一度はひとりで行かせるようにした。それから、去年以来どうしても実行させようと思っていたこと、―――あの顔のシミを取るための注射を、隔日に一回受けに行かした。注射は阪大の皮膚科の意見に従って、女性ホルモン剤とヴィタミンC剤とを、櫛田《くしだ》医師の所へ行ってして貰《もら》うのであったが、そんなことと、週に二回悦子のピアノの稽古がある日に、あとでおさらいをしてやることとが、近頃の雪子の仕事であった。
幸子もひとりぼっちになると|屡《しばしば》ピアノに齧《かじ》り着いて時を過したが、それにも飽きると二階の八畳で手習いをしたり、お春を呼び入れて琴の稽古をしてやったりした。お春が最初手ほどきをして貰ったのは一昨年の秋のことで、幸子は大阪で七つ八つの幼い娘が入門の時に習う、「箱入りの、姫も出しけり雛祭《ひなまつり》」と云うあの唄や「四季の花」などから始めて、折々気が向くと教えてやったので、今では「黒髪」だの「万歳」だのが上っていたが、女学校が嫌《きら》いで女中奉公を志願した彼女も、芸事は好きであると見えて、今日は稽古をして上げると云われた日は急いで用事を片附けると云う風であった。そして、「雪」と「黒髪」とは妙子に振りを教えて貰って、舞の手も一と通りは心得ていた。彼女は今度は「鶴の声」を教えて貰うことになったが、
………|《うそ》か、ツンシャン、誠か、………
と云うところがどうしても呑《の》み込めず、唄の文句の「か」を琴で弾いてしまうので、二三日そこばかりを練習させられているうちに、悦子がすっかり覚えてしまって口真似《くちまね》をした。
「お春《はあ》どん、敵討《かたきう》ちやわ」
と、悦子は云ったが、彼女はいつもピアノの稽古で容易に弾きこなせないメロディーを、お春が先に失敬して口で謡《うた》うのが癪《しゃく》に触っていたのであった。
妙子はその月の末に又一度やって来た。或る日の朝、と云っても午に近い時分、幸子がひとり応接間でラジオを聴いているところへ這入って来て、
「雪姉《きあん》ちゃんは?」
と、自分も火の傍らへ椅子を引き寄せて掛けた。
「今櫛田さん所《とこ》へ出かけたわ」
「注射かいな」
「ふん、………」
幸子は、季節料理の放送を聴いていたのがいつの間にか謡曲に変ったので、
「こいさん、ラジオ止めてえな」
と云ったが、
「ちょっと、これ見て御覧。―――」
と、妙子は姉の足もとにいる鈴の方を頤《あご》で示した。
鈴もさっきから煖炉《だんろ》の前にやって来て蹲踞《うずく》まりながら、好い心持そうに眼をつぶってうとうとしていたのであるが、妙子に云われて気が付いて見ると、謡曲の鼓の音がぽんと鳴るたびに、鈴の耳がピンと動く。耳だけがその音響に反射的に動くので、猫《ねこ》自身は何も意識していないかのように見える。………
「何でやろ、この耳、………」
「けったいなわ、………」
二人は暫《しばら》く鼓の音と猫の耳の運動とを物珍しそうに眺《なが》めていた。そして、謡曲が終ってから妙子はラジオを切りに立ったが、
「注射どうなん? 少しは利《き》き目あるらしいのん?」
と、席に復《かえ》ると話を戻した。
「さあ、………ああ云うもんは根気よう続けんことにはな」
「何回ぐらいしたらええのん」
「何回したら利く云うことははっきり云われん、まあ気長にやって見るこッてすな、云われてるねん」
「やっぱり結婚する迄は直らんのんと違うか知らん」
「直らんこともないように、櫛田さんは云うてはるねんけど、………」
「注射であれが拭《ふ》き取ったように綺麗《きれい》に除《と》れる云うことはないやろ思うわ」
そう云って妙子は、
「そう云えばカタリナが結婚したよ」
と云った。
「ふうん、こいさんに手紙が来たん?」
「昨日元町でキリレンコに会うたら、妙子さん妙子さん云うて追いかけて来て、カタリナ結婚しましたよ、二三日前に便りがありました、云うねん」
「誰と結婚したん」
「自分が秘書をしていた保険会社の社長やて」
「とうとう掴《つか》まえたのんかいな」
「キリレンコの所《とこ》へ来た手紙には社長の家の写真が封入してあって、私等は今此処《ここ》に住んでる、お母さんも兄さんも私の夫が引き取って世話したげる云うてるよって、早う英国へやって来なさい、旅費はいつでも送ったげると書いてあるのやて。写真で見ると、その家云うのは大した邸宅で、お城のように立派なんやそうな」
「大物《おおもの》を掴まえたもんやわな。―――どうせよぼよぼのお爺《じい》さんやろうな」
「ところがそれが、三十五で初婚の人やて」
「ほんまかいな」
「欧羅巴《ヨーロッパ》へ行ったらあたしきっとお金持の男と結婚します、見てて下さい云うてたけど、とうとう目的を達したんやわ」
「いつやったか知らん、日本を立って行ったのは? まだ一年にもならへんやないの」
「そうやわ、去年の三月の末やったわ」
「そしたら、やっと十箇月にしかなってえへん」
「英吉利《イギリス》に渡ってからは半年ぐらいと違うか知らん」
「半年でそんな相手を見付けるなんて、えらいもんやわな。やっぱり美人は得やなあ」
「美人云うてもカタリナぐらいなのん何ぼでもいるやないの。英吉利云う所《とこ》は美人のいない所かいな」
「キリレンコさんやお婆《ばあ》ちゃん英吉利へ行かはるのん」
「行かんらしいわ。―――お婆ちゃんが、自分等見たいな見自目《みじめ》な暮ししてたもんが出かけて行ったら娘の耻《はじ》や、日本にいたら何も知られんで済む、云うてはるねんて」
「ふうん、西洋人でもそう云う気持あるねんな」
「そうそう、前の旦那《だんな》さんとの間に出来た娘な、あれはあんじょう話がついて、自分の方へ引き取ってる云うこッちゃけど、………」
妙子は別に用事があって来たのではなく、カタリナの事件がしゃべりたさにちょっと立ち寄ったのであろう、もう直ぐ雪子も戻るから、昼の食事をして行くようにすすめたけれども、何処《どこ》かで奥畑と落ち合う手筈《てはず》にでもなっているらしく、又来ると云って三十分程で帰って行った。そのあと暫く、幸子は再び火を視詰《みつ》めながらひとり考え込んでいた。なるほど、カタリナが結婚したと云うことは、妙子がわざわざそれを知らせに立ち寄るだけの価値はある。若いお金持の社長が新規に雇った女秘書と恋仲になって遂《つい》に彼女を妻に迎えるなんと云うことは、映画のストーリーにあるだけで、実世間にはめったにあるものではないと思っていたけれども、やっぱりそうでもないのだろうか。こいさんの云うように、何もそんなに飛び抜けた美人でもないし、凄腕《すごうで》がある訳でもないカタリナ程度の女でもそんな好運を掴むことが出来るとすると、西洋にはザラにあることなのだろうか。かりにも保険会社の社長で、大邸宅に住んでいる三十五歳と云う初婚の紳士が、つい半歳前に雇い入れたばかりの、身寄りもなければ氏も素姓も全然分らない渡り者の一女性と結婚するなんて、たといその女がどんな美人であったにしても、日本人の常識ではとても考えられないことだが、………英吉利人は保守的だと聞いていたけれども、結婚などについては自由な考を持っているのだろうか。お金持の男と結婚して見せると云ったカタリナの言葉を、世間を知らない若い女の夢のような望みとばかり思って、好い加減に聞いていたけれども、カタリナのつもりでは案外本気だったので、自分だけの美貌《びぼう》があればそう出来ると云う確信を持って日本を立って行ったのであろうか。………
亡命の白系露人の娘と、大阪の旧家の箱入娘とを比較するのは間違っているかも知れないが、でもまあカタリナのような女もあるのに、自分たち姉妹は何と云う意気地なしであろうか。自分たちの中では一番向う見ずで「変り種」とさえ云われている妙子でも、いざとなれば多少は世間を恐れる気があって、未だに好きな人と一緒になることも出来ずにいるのに、妙子よりも歳下な筈のカタリナは、母をも兄をも家をも捨てて、世界を股《また》にかけて歩いて、自分でさっさと自分の運命を開拓する。何もカタリナのようなのが羨《うらやま》しいと云うのではなく、あんなのよりは雪子ちゃんの方がどんなによいかと思うけれども、でも兄や姉が四人までも揃《そろ》っていながら、今以《もっ》て適当な聟《むこ》を見つけてやることが出来ないとは何と云う腑甲斐《ふがい》なさか。雪子ちゃんのような大人しい人に、決してカタリナの真似なんぞして貰いたくはないし、しろと云っても出来ないところが雪子ちゃんの値打ちだけれども、保護者としての責任のある本家やあたしたち夫婦はあの露西亜《ロシア》娘に対しても耻かしくはないか。あなた方が附いていてどうした事ですと、カタリナに笑われても仕方がないではないか。………幸子は、姉が去年大阪駅頭で別れる時に密《ひそ》かに彼女に囁《ささや》いた言葉、―――「あたしの今の気持では雪子ちゃんを貰ってくれる人さえあれば誰でもよい。又離縁になるにしても一遍は縁づけたい」と、溜息《ためいき》と一緒に洩《も》らしたのを思い出した。そして、間もなく表門のベルが鳴って、雪子が応接間へ這入って来るらしいけはいに、火照《ほて》った顔を燃えさかる炎の方へうつむけてそッと眼の縁の涙を拭《ぬぐ》った。
そんなことがあってから二三週間も後だったろうか、―――あの井谷の美容院へは、幸子も雪子も引きつづき出入りしていたので、井谷も絶えず雪子のことを念頭に置いていてくれるらしかったが、或《あ》る時行くと、「奥さんは大阪の丹生《にう》[#ルビの「にう」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)では「にゆう」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「にふ」]さんと云う方を御存じでいらっしゃいますか」と云う話が出た。「井谷さんはどうして丹生さんを御存じ?」と云うと、「わたくしは最近ちょっとお目に懸っただけなんでございますが」と云って、この間或る人の出征を祝う歓送会の席上で紹介されたので、話し合って見ると|偶《たまたま》その方が奥さんのお友達でいらっしゃることが分り、二人で暫《しばら》くあなた方のお噂《うわさ》をした。丹生さんの奥さんは、蒔岡《まきおか》さんの奥さんとは随分仲好しなんだけれども近頃は掛け違って長いことお目に懸らない、いつだったか二三人で蘆屋のお宅をお訪ねしたら黄疸《おうだん》で臥《ね》ておられたことがあった、それがもう余程前で、それから三四年になると仰《お》っしゃっていらっしゃいましたが、と云うので、幸子は成る程そんなこともあったのを思い出した。たしかその時は、下妻夫人と、名前は忘れたが東京の何とか云う凄《すご》いハイカラな気障《きざ》な奥さん―――亜米利加《アメリカ》帰りの、「何々であんすけど」と云う不思議な言葉づかいをする夫人―――が一緒で、病気を押して面会した幸子はいつになく無愛想にあしらい、怱々《そうそう》に帰してしまったのであったが、それに気を悪くしたのか、あれきり丹生夫人は訪ねて来たことがなかった。「ああそうそう、あの時は丹生さんにえらい失礼してしもうたんですが、何とか思うていらっしゃるんではないでしょうか」と云うと、「いいえ、そんなことよりか、雪子お嬢さんの噂をなすって、あの妹さんはどうなすったか知らん、まだお極まりにならないなら好《い》い人があるんだけどって仰っしゃるんですの。今雪子さんの話が出たんでふっと思いついたんだけれど、あの人にならきっと雪子さんが向きはしないか知らって仰っしゃって、―――」と、井谷はだんだんそう云う風に吹き込むのであった。私は何分丹生夫人とは初対面であるし、ましてその夫人の心当りの「好い人」と云うのがどんな方なのかも分らなかったけれども、奥さんと仲好しの夫人であるからには信用しても大丈夫と思ったので、是非お嬢さんのために一と肌《はだ》脱いでお上げになるようにお願いした。何でもその方と云うのは医学博士で、前の奥さんがお亡《な》くなりになり、十三四になる女の児が一人おありになるが外には何も係累がない、お医者さんが本職だけれども今は全然その方はなさらず、道修町《どしょうまち》の或る製薬会社の重役をしておいでになる、と、私の聞いたのはそれだけであるが、悪くなさそうな話なので、わたくしでお役に立ちますならお手伝いをさせて戴《いただ》きますから、何卒《どうぞ》その方をお世話して上げて下さいまし、蒔岡さんも以前のようなむずかしい注文はなさらない筈《はず》です、そう伺ったらちっとでも早い方がようございますと、その場で直《す》ぐに話をすすめた。で、それでは一往先方の意向をたしかめてみましてと、丹生夫人が云うのを、それもそうですが、大体のお打ち合せだけして置こうではありませんかと云うと、じゃあまあ、恐らく異議もないでしょうし、あっても私が否応《いやおう》なしに引っ張り出しますから、その人の方は大丈夫ですが、蒔岡さんの方はあなたが引き請《う》けて下さいますね、何処《どこ》か簡単な料理屋にでも落ち合って一緒に御飯を戴くと云うようなことにして、場所は大阪、日は二三日うちがようございますが、シカとしたことはいずれ電話で御相談しましょう、と云う訳であったので、ええ、ほんとうに結構でございますわ、蒔岡さんもきっとお喜びになるでしょうと、私もお引き請けしてしまった。別れる時にも、では必ずお待ちしておりますよと、くれぐれも念を押して置いたので、近いうちに電話があるに違いないと思っているが、その時は改めてお宅へお伺い致しますから、………と云うのであった。
幸子はその日はただ一と通りに聞いて帰って来たが、丹生夫人と云い井谷と云い、孰方も性急で且《かつ》実行力に富んでいる方なので、多分この話は立ち消えになることはあるまいと思っていると、果してそれから三日後の朝十時頃に井谷から懸って来た。この間の件のことで只今《ただいま》丹生さんから電話があり、今日の午後六時に嶋の内の「吉兆《きっちょう》」と云う日本料理屋まで、私にお嬢さんをお連れして来るようにと云うことですが、如何《いかが》でしょうか、もう簡単に、ちょっと夕飯を呼ばれに行くと云う軽いお気持で、と云っておられますが、なお丹生さんの意見として、なるべくお嬢さんお一人の方がいいけれども、誰方《どなた》かお附き添いになるのなら旦那様にして、奥様は止めて戴きたい。孔雀《くじゃく》が羽根をひろげたような方がいらっしゃると、お嬢さんの印象が稀薄《きはく》になるからと云うことで、これは私も同感ですから、どうかそうして戴くように願います、電話でこんな話を申上げるのは失礼ですが、先日あらかた御承知置きを願ってあることだし、何しろ急なことなので、………と、直ぐにも返事を聞きたそうに云うのであったが、まあ一二時間待って下さいと、幸子は一と先ず切って貰った。そして、雪子ちゃんはどう思う、今日聞いて今日なんて、私もああ云う急勝《せっかち》は寔《まこと》に性に合わないのだけれども、しかしあれから此方、始終雪子ちゃんのことを気に懸けていてくれる井谷さんの親切は感謝しなければならない、それに丹生さんも昨日や今日の附合いではないので、私等のことはよく分っているのであるから、まさか問題にもならない人を向けて来る筈もあるまいと思う、と云うと、でもこの間の話だけでは何だか余り頼りない、電話でもよいから、直接丹生さんの奥さんにもっと委《くわ》しく聞いて見て、と雪子が云うので、幸子は丹生夫人を呼び出して先方のことをあれこれと尋ねて見た。それで、その人は橋寺福三郎と云い、静岡県の出身で、兄が二人あり、その兄たちも皆医学博士であること、独逸《ドイツ》に留学したことがあること、住宅は大阪の天王寺区烏《からす》ヶ辻《つじ》に借家していて、現在は娘と二人で「ばあや」を使って暮していること、娘は夕陽丘《ゆうひがおか》女学校に通っているが、亡くなった夫人に似て器量の美しい、素直らしい児であること、そんな次第で兄弟たちが皆相当な者になっており、郷里での名家であるから、財産もいくらか分けて貰っていることと思うが、当人も東亜製薬の重役をしているので可なりの収入があるに違いなく、生活は派手に見えること、風采《ふうさい》も立派で、押出しが堂々としており、先ず美男子と云えば云える容貌《ようぼう》であること、等々のことが知れ、案外条件が好いのであったが、年齢を聞くと、多分四十五か六ぐらいの筈と云い、娘の歳はと云うと、たしか女学校の二年生ぐらいと云い、外に女の兄弟は? 弟や妹は? などと問うても要領を得ず、両親のあるなしでさえが、さあ、どうだったか知ら、と云うような答なので、だんだん聞くと、亡くなった夫人が丹生夫人の趣味の友達、―――|纈染《ろうけちぞ》めの講習会で親密になったと云うだけの関係で、あたし、お宅へは余り伺ったことがないのよ、だから旦那さんには奥さんの生前に一度と、お葬式と一周忌の時にお目に懸っただけじゃなかったか知ら、………今度のことで昨日お会いしたのが四度目ぐらいよ、と云うのであった。でもあたし、死んだ奥さんのことなんかいつ迄くよくよ考えていらしったって仕様がないじゃありませんか、あたしがとてもいいお嬢さんを御紹介しますから出ていらっしゃいって云ってやったら、それでは御一任しますから何分宜《よろ》しくって云うことなんですの、ですから蒔岡さんの方も是非「うん」と仰っしゃって下さらなけりゃ、―――と、相手次第で大阪弁と東京弁とを完全に使い分ける夫人であったのが、この頃は東京弁ばかりにしているのか、この前会った時もそうであったが、今日は一層早口な江戸っ児でまくし立てるのであった。
丹生さんひどいわ、―――と、幸子もいくらか東京弁に釣《つ》り込まれながら、―――だってあなた、あたしが附いて来たらいけないって仰っしゃったんだそうですね、と云うと、それは井谷さんが云ったのよ、あたしもそれに賛成したには違いないけど、云い出したのは井谷さんなんですから、怒るなら井谷さんに怒ってよ、と、丹生夫人はそう云ってから、そうそう、そう云えばこの間陣場さんの奥さんに会ったら、あなた方の噂をしていらっしゃったわ、陣場さんもお世話なすったことがあるんですってね、と云うのであった。幸子ははっとして、陣場さん何とか云うておられたでしょうか、と云うと、ええあの、………と、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》しながら、お世話したんだけれどはっきり断《ことわ》られちまったって云っていらしったわ。………陣場さんきっと怒っておられるのでしょうね、と云うと、さあ、そうかも知れないけど、そう云ったって縁がないものは仕方がないわ、そんなことで一々怒ってたら縁談の世話なんて出来やしないじゃありませんか、あたしは決して野暮は云いませんから、お会いになってお嫌《いや》だったら御遠慮なくお断りになったらいいわ、そんなにむずかしくお考えにならないで、気軽にいらしって戴けないか知ら、………ねえ、兎も角も会うだけ会って御覧になるように雪子さんに仰っしゃってよ、会いもしないでお断りになったら、それこそあたし怒ってよ。………そう云って丹生夫人は、自分の方は孰方にしても座敷を申込んだことであるから、定刻には橋寺氏を誘って約束の場所へ出かけて行くつもりなので、御返事のお電話を戴くには及ばない、大概お越しになるものと思ってお待ちしている、………と云うのであった。
幸子は、今日聞いて今日と云う、足元から鳥の立つような申込みに応ずることが余りにも軽々しいと云う気持はあるが、それにこだわりさえしなければ、今日雪子を出してやることに何の差支えもあるのではなかった。雪子が一人で行くことは嫌がるであろうが、今迄にも幸子の代りに貞之助が附添って行った例があるので、貞之助の都合さえよければ、その方はそれで済みそうに思えた。問題は何処までも、そんなに安っぽく臀《しり》を持ち上げたくないと云うこと、結局は申込みに応じたいのだが、今日のところは辞柄《じへい》を構えて二三日でも先へ延ばしたいと云うこと、要するに何となく勿体《もったい》を付けて見たいだけのことなのであるが、一方では又、あんなに意気込んでいてくれるのに、それを素直に受け入れないでは、先方の感情がどうであろうかと云う配慮もあった。彼女はたった今電話で聞いたこと、―――陣場夫人が怒っていると云うことが、何か知らぐんと胸に来たので、そのために今日はひとしお気が弱くなっていた。あの、一昨年の春野村と云う人の縁談を断った時、本家が承知してくれないからと云うことにして随分婉曲《えんきょく》にその意味を通じたつもりであったが、やっぱりあれが相当強くこたえたのであろうか。陣場夫人としてそれもまあ無理のないことかも知れず、幸子も内々、怒っているのではないだろうかと、気が咎《とが》めていたからこそ、そう聞かされて一層はっとしたのではあるが、それにしても丹生夫人は、何で突然あんなことを云い出したのだろうか。平素から口数の多い夫人ではあるが、不意に関係のない人の噂を持ち出して、聞かせないでもよいことまで聞かせたのは、いつもの単純なおしゃべりだけではなく、ひょっとすると威嚇《いかく》的の意味を含めていたのかも知れない。………
「どうする? 雪子ちゃん、―――」
「………」
「まあ行って見たら、………」
「中姉《なかあん》ちゃんは?」
「あたしは附いて行ったげたいけど、あない云やはるよって遠慮しとくわ。井谷さんと二人やったら嫌?」
「二人ではなあ、………」
「そんなら、貞之助兄さんに附いて行って貰おう。―――」
と、幸子は雪子の顔色を判じながら云った。
「―――用事さえなかったら行ってくれはるよって、電話かけて見ようか」
「ふん」
雪子が微《かす》かに頷いたのを看《み》て取って、幸子は大阪の事務所へ急報で申込んだ。
貞之助は、井谷と雪子とが別々に出て五時半に事務所で落ち合う手筈《てはず》であると聞いて、それで差支えないけれども、井谷は時間通りキッチリ来るに違いないから、雪子ちゃんもそれに遅れないように、―――井谷より二三十分早く着くくらいに来て欲しい、と、固く云って置いたのであったが、五時十五分過ぎになってもまだ見えそうな様子がないので、気が気でなかった。妻や雪子が時間を守らないのは毎度のことであるから、自分は馴《な》れっこになっているけれども、急勝《せっかち》な井谷を待たすことになっては此方も苛々《いらいら》させられるのが叶《かな》わないので、もう出たこととは思うものの、念のために蘆屋《あしや》へ電話を申込んだが、それが懸らないうちに事務室のドーアが開いて、井谷のあとから雪子も同時に這入《はい》って来た。
「やあ、一緒になってちょうどよかった。今電話を申込んだとこやったが、………」
「実はわたくし、お嬢さんをお誘いに上ってお連れして来たんですの」
と、井谷は云って、
「もう時間がございませんから、直《す》ぐに如何《いかが》でございましょうか。自動車を待たせてございますが」
貞之助は今日の会合のいきさつに就いて、妻から一と通りは聞かされていたけれども、さっきは電話のことであったし、それに丹生夫人と云う人も、名前は知っているけれども実際には会ったことがあったかなかったかハッキリせず、何となく五里霧中で引っ張り出された形であった。で、今日の相手がどう云う人で、井谷とどう云う関係にあるのか、途々《みちみち》車の中で聞いて見ると、わたくしもよくは存じませんから委《くわ》しいことは丹生さんにお聞きになって下さいまし、と云うのであったが、では丹生夫人とあなたとはどう云う御関係ですかと問うと、あの奥さんとは極く最近のお附合いなんでして、今日お目に懸りますのが二度目なんでございますの、と云う答に、いよいよ狐《きつね》につままれたような工合であった。そしてその料理屋、―――「吉兆」と云う家へ行って見ると、もうその夫人と橋寺と云う人とが先着しているのであったが、井谷は座敷へ通りながら、
「今日は。―――大分お待ちになって?」
と、今日が二度目の対面にしてはひどく懇意そうな口調で云った。
「いいえ、あたしたちもたった今」
と、丹生夫人も心やすそうにそれに応じて、
「―――でも感心ね、きっちり六時においでになったわ」
「わたくしは時間は正確なんですのよ、それでも今日はお嬢さんの方がどうかと思ったもんですから、来がけにお誘いして来たんですの」
「此処《ここ》の家《うち》、直きにお分りになったか知ら」
「ええ、あの、蒔岡さんが御存じだったもんですから、―――」
「やあ暫《しばら》く。一遍お目に懸ったことがございましたかな。―――」
と、貞之助は、この夫人ならいつぞや自宅の応接間で紹介されたことがあるのを思い出しながら云った。
「―――その後は御無沙汰《ごぶさた》いたしましたが、家内がいつも御厄介になっておりまして、………」
「いいえ、わたくし、奥さんにも長い間お目に懸っておりませんのよ。いつだったか黄疸《おうだん》で臥《ね》ていらしった時にお伺いしたっきりなんですの」
「あああの時に。―――じゃあもう三四年も前のことですな」
「ええ、そうなんですの。―――あの時はお友達と三人で押しかけてって、臥てらっしゃるのを無理に起しちゃったりして、女ギャングだとお思いになったかも知れないわ」
「全く女ギャングですよ」
と、さっきから紹介されるのを待ち構えながら、茶の背広服の両膝《ひざ》をついて腰を浮かしていた橋寺が、チラと夫人に横眼を使って微笑を浮かべながら云った。そして、
「や、わたくしは橋寺と申します、初めまして、………」
と、先《ま》ず貞之助に挨拶《あいさつ》をして、
「どうも全くこの奥さんは女ギャングでいらっしゃるんですよ。何でもかんでも附いて来なければいけないって云う訳で、今日はわたくし、何が何やら無我夢中で引っ張り出されて来ましたんで、………」
「まあ、橋寺さん、男らしくもない、出ていらしった以上はもうそんなこと仰《お》っしゃるもんじゃなくってよ」
「ほんとうですわ」
と、井谷も一緒になって云った。
「―――何もそんな言訳をなさらなくってもいいじゃございませんか。男と云うものは往生際《おうじょうぎわ》が肝腎《かんじん》ですわ。第一わたくしたちに対しても失礼じゃございません?」
「いやどうも、―――」
と、橋寺は頭を掻《か》き掻き、
「―――今日はいじめられるこッてすな」
「何を仰っしゃるのよ、いじめるどころか為めを思って上げてますのよ。橋寺さんのように亡くなった奥さんの写真ばかり眺《なが》めて暮らしていらしったんじゃ、体に毒だわ。たまには世間へ出て御覧になるものよ。世の中には先の奥さんにも劣らない美人の方もいらっしゃるッてことがお分りになるわ」
貞之助は雪子がどんな顔をするかとハラハラしたが、彼女もいつかこう云う場面には馴《な》れてしまったものらしく、ニコニコしながら聞いているのであった。
「さあさあ、文句を云わずに何卒《どうぞ》席へお就き下さい。橋寺さんは彼処《あそこ》よ、そこはあたしが坐《すわ》るのよ」
「さあさあ、女ギャングが二人おりますから、云うことをお聴きにならないと恐《こわ》ござんすよ」
多分橋寺も、貞之助たちが強引に引っ張り出されたのと同じようにして引っ張り出されたのであろう。彼自身では今急に再婚すると云う決心がついた訳ではなく、突然丹生夫人に、―――而《しか》も格別昵懇《じっこん》でもない夫人に、―――掴《つか》まって、考慮の時間も与えられずに臀を叩《たた》かれて出て来たものであるらしく、頻《しき》りに「困りましたなあ」とか「驚いたなあ」とか云っているのであるが、その当惑のしかたに愛嬌《あいきょう》があって、此方に不快を感じさせるような所はなかった。貞之助は暫く話しているうちに、この男がなかなか社交的に訓練された円みのある人物であることが分った。出された名刺を見ると、医学博士の肩書があって東亜製薬の専務取締役とあり、自分でも「医者はいたしておりません、薬屋の番頭をやっております」と云っているだけに、いかさま当りの柔かな、応対の如才ない実業家タイプで、医者らしいところは余り見えない。年齢は四十五六と聞いたが、顔から手頸《てくび》、指の先に至るまでむっちりと脂肪分の行き亘《わた》った色白な皮膚で、目鼻立ちの整った豊頬《ほうきょう》の好男子であるけれども、肥えているために軽薄には見えず、年相応に貫禄《かんろく》のついた紳士で、先ず今日迄の見合いで出遇《であ》った候補者の中では、この男の風采《ふうさい》が一等であるかも知れない。酒も貞之助程ではないが多少は行けて、差されれば敢《あえ》て辞退しなかった。で、本来ならば馴染《なじみ》のうすい寄り集りで、座が白けるところであるのに、二人の女ギャングが勇敢であるのとこの男が物馴れているのとで、席上の会話がすらすら運んだ。
「失礼ながら、わたくしは此処の家へはめったに来たことはないんですが、今日はなかなか品数が出ますな」
と、貞之助はいくらかぽうっと来たらしく、色つやのよい顔を光らせながら、
「どうも昨今は、酒も料理もだんだん窮屈になって来ましたが、此処の家はいつもこんなに御馳走《ごちそう》が出るんでしょうか」
「いいや、そうじゃあないでしょう」
と、橋寺が云った。
「今日のは丹生さんの奥さんのお顔で、特別の料理なんでしょう」
「そう云う訳でもないんですけれど、此処は宅の主人が贔屓《ひいき》にしているもんですから、割合に我が儘《まま》が利《き》くんですの。それに今日は、『吉兆』と云う名がおめでたいと思って、此処の家にしたんですの」
「今奥さんはキッチョウと仰っしゃいましたが、ほんとうは『吉兆』と書いてキッキョウと読むんじゃないんでしょうか」
と、貞之助が云った。
「―――これは多分、関東の方は御存知ない言葉だと思うんですが、大阪にキッキョウと云うものがあるのを、井谷さんは御存知ですか」
「さあ、わたくし存じませんけれど、………」
「キッキョウ?―――」
と、橋寺も首をかしげて、
「わたくしも存じませんな」
「あたし知ってるわ。―――」
と、丹生夫人が云った。
「―――キッキョウって、ほら、あれじゃないの。十日戎《とおかえびす》の日に西宮《にしのみや》や今宮で売ってる、笹《ささ》の枝に小判だの大福帳だの千両箱だのを結い着けた、あれのことじゃないの」
「ええ、そう、あれなんですよ」
「ああ、あの、繭玉《まゆだま》のようなもの?」
「ええ、そうなのよ、―――『十日戎の売物は』―――」
と、丹生夫人は口のうちで「十日戎」の唄を節をつけて云いながら、
「―――『風袋《かぜぶくろ》に、とりばち、銭叺《ぜにがます》、小判に、金箱《かねばこ》、立烏帽子《たてえぼし》、………』」
と、一つ一つ指を折って数えて、
「―――そんなものがいろいろ笹の枝に喰《く》っ着けてあるのよ。あれを大阪では、字で書けば『吉兆《きっちょう》』なんだけれど、訛《なま》ってキッキョウって云うんですの。そうでしょ、蒔岡さん」
「ええ、そう。―――しかし奥さんがキッキョウを知っていらしったとは意外ですな」
「人は見かけに依《よ》らないもんでしょ。あたしこう見えても大阪生れなんですのよ」
「へえ、奥さんが?」
「だからそのくらいなことは知ってますわよ。けど今時《いまどき》そんな旧弊な読み方をする人があるか知ら。此処の家の人もキッチョウって云ってるようだわ」
「じゃあもう一つ伺いますが、今の『十日戎』の唄の中にある『葩煎袋《はぜぶくろ》』と云うのは何の事ですか」
「『ハゼ袋』?―――『風袋』じゃないの? 『風袋に、とりばち、銭叺』………」
「それが違います、『葩煎袋』が正しいんですよ」
「『ハゼ袋』なんてものがあるか知ら」
「ハゼを入れた袋じゃないんですか。―――」
と、橋寺が口を挟《はさ》んだ。
「―――ハゼと云うのは、糯《もちごめ》を炒《い》ってふくらましたものを申しますな。どう云う字を書くか存じませんが、多分あれを炒る時に爆《は》ぜるからハゼと申すのでしょうか。関東の方では三月の節句にあれを使って豆炒りを拵《こしら》えますが、………」
「こりゃあ橋寺さんが一番委しい」
話題は暫く関東と関西との風俗や言葉の比較に移ったが、大阪で生れて、東京で育って、又大阪へ帰って来たと云う丹生夫人は、「あたしは両棲《りょうせい》動物よ」と云うだけあってそう云うことには誰よりも通《つう》であり、貞之助や井谷を相手に東京弁と大阪弁との鮮《あざ》やかな使い分けをして見せるのであった。それから、嘗《かつ》て美容術の研究に一年ばかり亜米利加《アメリカ》へ行って来たことのある井谷が「あちらの話」を持ち出すと、橋寺が独逸でバイエルの製薬会社を視察した時のことを云い出して、会社の規模が非常に大きいこと、そこの工場の構内には映画館でも道頓堀《どうとんぼり》の松竹座ぐらいのものが建っていること、などを語ったが、井谷が好い加減なところで話の撚《よ》りを戻すように努めて、橋寺の娘のことだの、国元の事情だのを尋ねたり、雪子と彼とが言葉を交し合うような切掛《きっか》けを作ったりし始めたので、いつか再び話題は彼の再婚問題に復《かえ》って行った。
「お嬢さんは何と仰っしゃっていらっしゃるの」
「娘は何と云いますか聞いたことはないんですが、娘よりもわたくし自身の考がまだ極まらないもんですから、………」
「だから極めておしまいなさいよ、どうせ貰《もら》わずにいらっしゃる訳には行かないじゃないの」
「ええ、まあ、それはそうなんですが、ただ何となく、………こう、………何ですな、………今直ぐ新家庭を作ろうと云うところまで、気分が動いて来ないんですな」
「それはどう云う訳なのよ」
「別にどうと云う訳があるんじゃあなくって、ただ漠然と蹈《ふ》ん切りの付かない気持ですな。ですから奥さんのような方に、傍から貰え貰えって云われて盛んに小突き廻されると、結局貰うようなことになっちまうかも知れませんな」
「じゃあ、あたし達にお任せになるのね」
「いや、そう仰っしゃられても困りますが、………」
「まあ、瓢箪鯰《ひょうたんなまず》ねえ、橋寺さんは。―――一日も早く新しい家庭をお持ちになった方が、先の奥さんだって本当は草葉の蔭でお喜びになるのよ」
「何もそんなに死んだ女房のことを気にかけている訳じゃないんですよ」
「ねえ、丹生さんの奥さん、こう云う方は、端《はた》の者がお膳《ぜん》を据《す》えて、箸《はし》を取るばかりにして上げなけりゃ駄目《だめ》なんですから、構うことはございません、あたし達でどしどし進行させちまおうじゃございませんか」
「ほんとにそれがいいことね、その場になって絶対にグズグズ云わせないことにしましょうよ」
貞之助と雪子とは、橋寺が二人の女ギャングに小突かれて揉《も》みくちゃにされる様子を、笑って見ているより外はなかった。今日のは全然見合いと云う心組でなく、云われた通り「軽い気持」で一夕の会食をしに来たのではあるが、それにしてもまだ心持の極まらない男を無理やりに連れて来て、自分達の眼の前でこんな詰め開きをして見せると云うのは、たしかに女ギャングでなければ出来ない芸当である。貞之助は、自分たちの置かれた立ち場を随分妙なものであると感じたが、そんなことよりも、この光景を格別当惑した風もなく笑って眺めていられるような度胸を、いつか雪子が身に着けているのが、不思議であった。それは勿論《もちろん》、悪びれたところを見せるよりは落ち着いてニコニコしていてくれる方が、この場の収まりはよいに極まっているけれども、恐らく昔の雪子であったら、こんな場合にいたたまれないで、真《ま》っ赧《か》になるか涙ぐむかして、或《あるい》は座を立ってしまうであろう。いくつになっても初心《おぼこ》娘の純真さを失わない彼女であった筈だけれども、たびたび見合いの場数《ばかず》を蹈むうちに、矢張一種の厚かましさ、心臓の強さ、と云ったようなものが出来てしまったのであろうか。そうでなくても、三十四と云う歳を考えれば当り前過ぎることだけれども、外貌の若々しさと、それに釣り合った令嬢風の服装をしているのに欺《あざむ》かれて、つい貞之助は今日まで彼女のそう云う変化を見落していたのであった。
が、それはそれとして、橋寺はどう云うつもりなのであろうか。これこれのお嬢さんを見せて上げますと云う丹生夫人の言葉に釣られて、見て置いても損はないぐらいな考で出て来たのであるにしても、口で云うほど「気持が動いていない」ものならば、出て来る筈もないのであるから、見せかけよりは「動いている」と見てよいのではなかろうか。さっきから頻りに困ったような様子をしているのは、幾分誇張的に振舞っているので、腹の中では雪子が彼の注文に篏《は》まるような女性であったら貰ってもよいと云う気があるに違いなく、全くの冷やかしで来たのであるとは思えないのであるが、何しろ彼の応対は丹生夫人が「瓢箪鯰」と云った通り、円転滑脱過ぎるので、今夜の雪子と云うものが彼にどう云う印象を与えつつあるのか、ちょっと外部からは窺《うかが》うことが出来にくいのであった。雪子を除く四人の者たちは、今夜は皆よく打ち解けてしゃべったけれども、雪子は最初から女ギャングの言動に胆《きも》を奪われた気味合いで、殆《ほとん》ど仲間入りをせず、たまたま橋寺と言葉を交す切掛けを渡されても、いつもの癖で容易にそれに乗ろうともしなかったし、橋寺の方も、専《もっぱ》ら女ギャングとの遣《や》り取りに忙殺されて、雪子に対してはおあいそに二三度話しかけたぐらいなことに過ぎなかった。そう云う訳で、相手の心持が読めないままに、貞之助は別れる時も、もうこれきり会わないのか、又改めて会うことになるのか、その辺のことがよく分らず、挨拶も程々にして置いたのであったが、井谷は阪急で一緒に帰って来る途々《みちみち》、この縁談は丹生さんの奥さんと私とできっと纏《まと》めて見せる、橋寺さんが彼処まで乗り出した以上否《いや》も応も云わせることではない、あの人だって内心雪子お嬢さんが気に入ったものと、私は睨《にら》んでいる、と云うようなことを、貞之助の耳の端《はた》へ口を寄せて繰り返し云いつづけたのであった。
その晩貞之助は幸子に橋寺の印象を語り、見たところでは先《ま》ず満点と云ってもよい人物であり、まことに好ましい相手ではあるが、目下当人は再婚問題を考慮中と云う程度で、丹生夫人や井谷が云うほど話が熟しているのではないらしいので、まあもう少し待って見るより仕方がない、うっかりあの人たちの云うことを信用すると、馬鹿を見ないとも限らない、―――と、縁談については去年以来臆病になって来ている夫婦なので、そんな風に話し合っていたのであったが、その翌日の夕方井谷が訪ねて来、今朝もう早速丹生さんの奥さんから電話があったので、そのことでちょっとお伺いした、と云い、昨夜のあの人をどう御覧になったか、雪子お嬢さんはどうお思いになったでしょうか、と云うようなことを尋ねた。幸子は夫にも云われていたので、結構なお方のように思うけれども、何分先方さんのお考がもう少しハッキリしないことには、と云うと、いいえ、それは御懸念《けねん》には及びませんの、と云って、ただあのお嬢さんは内気で陰気な性質のように思われるが、その点はどうか知らん、自分は花やかな、ぱっとした感じの人が好きなんだけれどって、今朝丹生さんの奥さんに電話でそんなお話があったそうですの、と云うのであった。そして、それでわたくし、そう申しましたのよ、誰でも雪子お嬢さんに初めてお会いになった方はそう云う風にお思いになるんだけれど、決して陰気な方じゃございませんから、橋寺さんによくそう仰《お》っしゃって下さいましって、―――正直に云って、内気と云うことは云えるかも知れませんけれど、陰気ではいらっしゃいませんわ、おしとやかでいらっしゃるから、一寸見《ちょっとみ》にはそうお見えになりますが、だんだんお附合いして行くと、思いの外、と申しては失礼かも知れませんが、趣味でも何でもほんとうに思いの外ハイカラで、モダーンで、明るい感じのするお方ですわ、ですからわたくし、あのお嬢さんは橋寺さんの理想通りの花やかなお方なんですから、|《うそ》だと思うならお附合いになって御覧なさい、第一音楽はピアノがお好き、召上り物は洋食がお好き、御覧になる物では西洋映画がお好き、語学は英語と仏蘭西《フランス》語をなさると伺っただけでも、明朗なお方だと云うことが分るじゃありませんか、お召物は和服がお好きのようだけれど、それでもああ云う花やかな袂《たもと》の長い友禅のお召がお似合いになると云うのは、やっぱり性質に派手なところがおありになるからです、そう云うことは附合って御覧になれば直きに分ります、いい所のお嬢さんで初対面からぺらぺらおしゃべりをするような方にロクな方はございませんて、わたくし電話を何通話もつないで、丹生さんの奥さんに散々申しましたのよ、―――と、そう井谷は云ってから、しかし雪子お嬢さんも、あんまり大人しくしていらっしゃると誤解されますから御損ですわ、今少し勇気をお出しになってお話しなすった方がようございますわ、近いうちにもう一遍あの方を引っ張り出しますから、何卒その時はそのおつもりで、なるべく明朗な印象をお与えになるようになすって下さい、と、そんな注文をして帰った。
幸子は内々気に懸けていたあの眼の縁の翳《かげ》りが、好い塩梅《あんばい》に今度はそれほど目立たなかったので、先ずほっとしながら、それにしても果して脈があるものかどうか、井谷の云うことを話半分に聞いていたのであったが、その翌日の午後三時頃に電話があって、わたくし只今《ただいま》大阪に参っているのですが、これから一時間ばかりしてから、丹生さんの奥さんと御一緒に橋寺さんをお連れしてお伺いさせて戴《いただ》きます、と云って来た。幸子は慌《あわ》てて、宅へおいで下さるのでしょうか、と云うと、はあ、そうですの、今日は余り時間がおありにならないそうで、ほんの二三十分と云うことなので、ほかに適当な会合の場所もございませんし、それにお宅の御様子も見せて戴きたいように仰っしゃっていらっしゃいますから、と、井谷は云って、宅へおいで下さるのは、あの、ちょっと、………と、幸子が渋りかけるのを皆まで聞かずに、いえ、今日は突然のことですし、ほんとに二三十分なんですから何も御構い下さらないで宜《よろ》しいんですのよ、折角橋寺さんのお心持が動いていらっしゃるのに、変更したために又拗《こじ》れてもいけませんから、是非そうさせて下さいましな、と、圧《お》っ被《かぶ》せて来るのであったが、雪子の気持を測りかねて、どうしょう? 雪子ちゃん、悦ちゃんはお春どんを附けて神戸へ行かしてもええけど、………と云うと、そないせんかてええわ、二人とももう気が付いてるらしいよってに、と、珍しく気さくに云うので、そうでございますか、そんならお待ち申し上げます、と、幸子はつい承諾してしまった。そして、直ぐそのあとで夫の事務所を呼び出して、貞之助にもなるべくその時刻に帰って来て貰《もら》うように頼んだ。
貞之助は客が来る前に帰宅して、実はあれから僕の方へも電話があった、橋寺氏は家庭の空気と云うものに飢《う》えているらしいから、今日はお宅の皆さんで会うて上げて下さいと[#「下さいと」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「下さい」]云うことやったが、しかし雪子ちゃんが、家で会うことをよう承知したなあ、と云い、僕は何よりも雪子ちゃんのそう云う心境の変化が嬉《うれ》しい、などと云ったりしていたが、間もなく三人が到着して、応接間の客になった。井谷は自分だけ廊下へ出て来て幸子を呼び、今日はこいさんはいらっしゃいませんの? と聞くので、幸子はぎくっとしながら、生憎《あいにく》妙子は出かけておりまして、と云うと、では悦子お嬢さんだけでもお出になって下さい、橋寺さんのお嬢さんもお連れして来たかったんですが、今日は急なことでしたので、この次にはきっとお連れしますわ、ちょうど悦子お嬢さんとお友達におなりになれますわ、と云ったりして、お嬢さん同士が先ず仲好しになってくれるのが一番よい、そうしたら橋寺も一層心が動くであろうし、必ず巧《うま》く行くと思う、と云うのであった。貞之助も、雪子ちゃんがそんな気持になってくれたのは幸いだから、悦子にも出て貰って彼女の観察を聞くのもよかろう、と云い出して、貞之助、幸子、雪子、悦子の四人で応対したが、その日も橋寺は矢張二人に引っ張り出されて来たと云う態度に変りはなく、どうもこの方々《かたがた》に遇《あ》っては叶《かな》いません、と云う風に云い、斯様《かよう》に突然押しかけて参るのは失礼だと思ったのですが、全く女ギャングに拉致《らち》されて来たのでありまして、わたくしの本意ではなかったのですから、と、頻《しき》りにそんな言訳をしたり、わたくしのような一介のサラリーマンが此方のお嬢さんをお貰いするなんて、実際身分違いなんでして、と、どう取ってよいか分らないようなことを云ったりした。
雪子も、以前のような気むずかしさはなくなったとは云うものの、生れつきの含羞《はにか》みやはそう急に直るものではないので、井谷の忠告があったにも拘《かかわ》らず、その日も特に勤めているらしい風は見えず、受け答えのはきはきしないことは相変らずであった。貞之助は気が付いて、毎年の京の花見の写真などが貼《は》ってあるアルバムを持って来させたが、説明役は主に幸子が負わされて、たまに雪子と悦子とが傍から遠慮がちに補足を入れた。幸子はこう云う時に妙子がいたら適当に諧謔《かいぎゃく》を弄《ろう》したりして座を浮き立たせてくれるのに、と思ったことであったが、同じ思いは恐らくほかの三人の胸にも潜んでいたであろう。そうこうするうち、二三十分と云ったのが一時間にもなった時分、橋寺が腕時計を見て、ではわたくしは、と、椅子を離れたので、丹生夫人も井谷も立ち上った。まあ、でも、あなた方はええやありませんか、と、幸子は二人の女客を引き留めにかかったが、井谷は忙しい人であることが分っているので、丹生さん、あなた久振やよってに残ってて下さい、何もお構いせえしませんけど、と云うと、そんならそうさせて戴こうか知ら、晩の御飯御馳走《ごちそう》して下さる?………ええ、その代りお茶漬やわ、………お茶漬で結構よ、と、夫人はずるずるに居残ることになった。
夕飯の席では雪子も悦子も遠慮させて、専《もっぱ》ら三人で話したが、今日橋寺と初対面をした幸子も、矢張彼から好い印象を受けたものと見え、夫婦は期せずして彼の人柄を褒《ほ》め、雪子の意見はまだ聞いて見ないけれどもあの人ならば恐らく厭《いや》ではないのであろう、何となくそうらしいところが見える、と云う点まで観察が一致した。そして、丹生夫人から収入やら家柄や性格などのことにつきその後の問合せの結果を聞かされるにつけても、出来ればこの縁談を物にしたいと云う気持が強まるばかりなのであったが、何分にも夫婦の眼には橋寺の方に大して熱がありそうにも見えないのが、心もとなかった。が、丹生夫人に云わせると、彼女たちが余り端《はた》からやいやい云うものだから、照れ隠しにああ云う様子をするのだけれども、お腹の中は大いに色気があるのである、ただ正直のことを云えば、亡くなった細君は恋女房だったので、今でもまだ多少仏への手前があり、その人の遺《わす》れ形見であるところの娘の思わく、と云うようなことにも気がねがあるらしい、それで再婚するにしても、なるべく受動的に、人にすすめられて余儀なくそうする、と云う形を取りたいのでもあろうし、又実際に、自分では蹈《ふ》ん切りが付かないので誰かに後から突き落して貰いたいのでもあろう、ほんとうに気がないものならいくら何でも二度も引っ張り出されて来る訳がないし、今日にしても、たった一遍会ったばかりのお嬢さんの家へ押しかけるなんて非常識な、と口では云いながら結局出かけて来てしまったのは、雪子さんに気がある証拠ではなかろうか、と云うのであって、成る程そう聞けばそうも思えないことはなかった。それで丹生夫人は、橋寺氏としては娘の思わくと云うことを重大に考えているに違いないから、娘に気に入る人であったら一も二もあるまい、ついてはこの次の機会に娘を雪子さんに会わせるように取り計らうから、その時は是非お宅の悦子さんも出席なすって、せいぜい仲好しになるようにして戴きたい、と云うような話をして帰った。幸子はそのあとで貞之助に、今迄に随分多くの縁談が持って来られたけれども、何と云っても今度のが一番である、此方の希望する条件が総《す》べて備わっていて、地位、身分、生活程度等も、馬鹿げて好過ぎたり悪過ぎたりすることもなく、ちょうど恰好《かっこう》のところで、―――これを逃がしたらもう今度こそ、二度と再びこう云う縁はないであろう、で、丹生夫人の云うように先方がわざと受け身の態度を取り、此方から働きかけられることを望んでいるのなら、此方はもっと積極的に出て見たらどうであろうか、と、何か良い智慧《ちえ》を出して貰いたそうに云ったが、貞之助も、積極的に出ることには賛成だけれども、それならと云ってどうしたらよいか、何しろ肝腎《かんじん》の雪子ちゃんがああ云う消極的な人なのだから、こんな時には寔《まこと》に困る、実際今夜あたりでももう少し如才なくしてくれるとよいのだが、………と云い、まあ何とか考えて見よう、と云ったきりで、別に名案も浮かばないでしまった。
翌日事務所へ出て行った貞之助は、道修町《どしょうまち》なら此処からそう遠くない所であるのを思い、何がな適当な口実があれば会社の方へ訪ねて行って縁をつないで置きたい気がしたが、そう云えば昨日の席上で薬の話が出、幸子が、自分の家ではいつも独逸《ドイツ》製のヴィタミンB剤とズルフォンアミド剤とを絶やしたことがないのだが、この頃戦争の影響でプロントジールの錠剤や注射液が時々切れて困ることがある、と云うと、自分の会社で作っているプレミールというズルフォンアミド剤の錠剤を是非お使いになって見て下さい、これは多くの国産品のような副作用が絶対になく、効力に於いてプロントジールと変りはないつもりです、それにヴィタミンB剤も会社で作ったのがありますから試して下さい、と橋寺が云って、早速小包でお届けしましょう、と云うことだったので、いいえ、お届け下さらないでも僕が毎日大阪へ出ますから、会社の方へ戴きに上ります、………何卒是非、いつでもお待ち申しますがちょっと電話を戴けば尚《なお》好都合で、………と云うような遣《や》り取りがあったのを思い出した。で、その時はそんなつもりもなく云ったのであるが、家内が昨日お話の薬を早速分けて戴きたいように申しますので、と云って訪ねて行く分には可笑《おか》しくあるまいと思案して、その日貞之助は少し早めに事務所を出て堺筋《さかいすじ》を歩いて行った。会社と云うのは、堺筋から西へ一丁程這入《はい》った道修町通りの北側に、土蔵造りの昔風な老舗《しにせ》が多く並んでいる中で、それ一軒だけ近代風な鉄筋コンクリートの建物であるのが直ぐ眼に付いたが、奥から出て来た橋寺は、用件を聞く迄もなく、挨拶を済ますと丁稚《でっち》を呼んで、これこれの薬とこれこれの薬を幾箱ずつ包んで提げられるようにして持って来るように、と云い付け、ここはお通しするような部屋もございませんから何処かその辺までお供致しましょう、ちょっとお待ちを、と、一旦奥に引っ込んで二三の店員に何事か命じて置いてから、外套《がいとう》も帽子も被《かぶ》らずに出て来た。貞之助はその間五分ばかり店先に待たされたが、店員たちにものを云う橋寺の様子、店員たちのそれに対する態度などから判断すると、重役と云うことではあったが彼がこの店での一番えらい人であるように思えた。そして、お入用《いりよう》の節は又いつでも、と云われて薬の包を渡されたものの、代金を取ってくれないのに当惑しながら、お忙しいところを何ですからこれで失礼いたしますと、一往は云って見たのであるが、いえ、忙しいことなんかないんです、まあその辺までお附合い下さいと云われると、何か話が出るかも知れないし、こう云う機会を利用しないのは損だと云う気がして、ついそのあとに附いて行った。が、多分その辺の喫茶店あたりへ案内されることと思っていると、狭い露地の中へ這入って行って、とある仕舞屋《しもたや》のような造りの小料理屋の二階へ上った。貞之助も大阪の街の地理には相当明るいつもりだけれども、こんな所にこんな露地や料理屋があることを知ったのは初めてで、一と間しかない二階座敷の四方には、建て詰まった人家の屋根と、ところどころに聳《そび》え立つビルディングばかりが見え、いかにも船場のどまんなかと云う感じがする。恐らく此処は道修町の商人たち、主として薬屋の主人や番頭が、客を連れて来て手軽な昼食を取ったり商談をしたりするための家なのであろう。こんな所で失礼ですが今日はちょっと帰りに用事がございますのでと、橋寺は言訳するのであったが、貞之助は夕飯のもてなしに与《あずか》ろうとは思いも寄らなかったので、そう云われると却《かえ》って恐縮した。
格別うまいと云うのでもないが、気の利《き》いた料理が五品ばかりに酒が二三本も出たであろうか。始めた時刻が早かったし、橋寺が多忙らしいのを察して貞之助もあっさり切り上げるようにしたので、食事が済んでしまっても障子の外にはまだ早春の空が暮れ残っていたくらいで、対坐した時間は二時間足らずだったであろう。橋寺は貞之助が密《ひそ》かに期待したような「話」があった訳ではなく、全く儀礼的な意味だったらしいので、漫然たる雑談を取り交したに過ぎず、ただその間に、貞之助の問いに答えて、元来自分は内科が専門であって、独逸では専ら胃鏡の使い方を研究したのであること、それが帰朝後ふとしたことから今の会社に関係するようになり、周囲の事情から遂《つい》に医者を止《や》めて薬屋さんに転業せざるを得なくなったのであること、今の会社は、社長は別にいるのだけれどもめったに出社せず、実際の仕事は殆ど自分一人でやっているようなものであること、地方へ新薬の売込などに行くと、相手が自分を医者と知らずにかかることがあるが、薬の説明をするうちにそれが分って来て狼狽《ろうばい》し出すのが滑稽《こっけい》であること、などを語った。貞之助は、此方がそう云う質問をするのに先方からは蒔岡家のことにも雪子のことにも一向触れてくれないので、何となく云い出しにくい思いをしながら、食後の果物が出た時分にようよう気を取り直して、義妹がああ見えても決して陰気な性質の女ではないことを洩《も》らしたが、それも、弁解がましく聞えないように、外の話の中へちょっとばかり織り込んだ程度であった。
その翌日丹生夫人から幸子に電話があり、昨日御主人が橋寺さんをお訪ねになったそうであるが、そう云う風に直接の交際が始まったのは結構である、何卒その呼吸で大いに親交を結んで貰《もら》いたい、従来あなた方は万事を兎角《とかく》人任せにしていたのが宜《よろ》しくない、それだからお高く留まっているの何のと云われる、此処《ここ》まで私たちが橋渡しをした以上、あとはあなた方の熱意と努力次第である、もう私達の役目は済んだのであるから、井谷さんも私も当分引込んでいることにしよう、大丈夫きっと巧《うま》く行くと思うから、しっかりやって御覧になるがよい、そして一日も早く好い結果を知らして貰いたい、と云って、おめでとう、とまで云ってくれたが、幸子夫婦の観測ではまだなかなか祝って貰えるところまで進行してはいなかった。と、ちょうどそのあとで、往診のついでにお宅の前を通りかかったからと云って櫛田《くしだ》医師が立ち寄り、この間御依頼を受けた人のことが分りました、と云うのであった。これは幸子が、卒業年度は違うけれども櫛田医師が同じ阪大の出身であることに心づき、橋寺のことを調べてくれるように、かねて頼んで置いたからであったが、いつも忙しい櫛田医師は、このまま失礼しますと外套《がいとう》を着たなりで応接間へ通り、椅子にも掛けず立ちながら要領を話し、あとは此処に書いてありますから御覧下さいと、ポッケットから紙きれを出して幸子に渡すと出て行った。その報告の内容は、幸い櫛田医師の同窓の親友に橋寺と昵懇《じっこん》な者があったとやらで、可なり行き届いていて、当人のことや国元のことは素より、娘の性質が柔順であることや女学校の評判も悪くないことまで一層よく分り、貞之助が今迄《まで》に聞き集めた事実を裏書するようなものであったが、櫛田医師も帰りがけに、この人物は僕も極力推奨しますと、一言附け加えたくらいであった。
今度こそ雪子ちゃんに運が向いて来たのだ、何とかしてこれを纏《まと》めなければ、―――貞之助はそう妻にも云って、少し非常識になるけれども、思い切って巻紙五六尺ばかりの手紙を書いた。―――こう云うことを書面を以て申上げる失礼は分っているけれども、義妹のことにつき是非とも貴下に聞いて戴《いただ》いて御考慮を願いたいことがあり、先日拝顔の節も口元まで出かかっていながら申しそびれてしまったので、無躾《ぶしつけ》をも顧みずこれをしたためるのである。と申すのは外のことでもないが、何故義妹がこの歳になるまで結婚しないでいたか、と云う理由につき、或は何か彼女の一身上に、―――でなければ健康上に、―――暗いことがあるのではないか、と云うような御疑念もあろうかと思うのだけれども、正直のところ、左様な事実は何一つないのである。義妹が今日迄結婚出来なかったのは、彼女を取り巻く一家一門の者共が、大した家柄でも何でもないのに格式とか由緒とか云うことを口にして、良い縁談を皆断ってしまったこと、それが原因であることは、多分丹生氏や井谷氏から申上げたことと思うが、全くただそれだけが原因なので、他に何の理由もあるのではない。実際馬鹿げているけれども、そんなことからだんだん世間の反感を買い、誰も進んで世話する者がないようになった、と云うのが偽りのない事情であるから、もし貴下の側に於いて十分御疑念の晴れるまで調べて下されば尚《なお》結構である。雪子を不幸にした責任は周囲の者にあるので、彼女の一身は完全に潔白であり、何の疚《やま》しいところもあるのではない。こう申しては身贔屓《みびいき》のようであるが、本人は、頭脳、学力、性行、芸能等、孰《いず》れも及第点を与えられてよい女性であると、申上げることが出来る。殊《こと》に小生が深く感激しているのは、彼女が幼い者を非常に可愛がってくれることである。本年十一歳になる小生の娘は母よりも彼女を慕っているくらいで、娘が学課やピアノの練習をする時に如何に彼女が懇切に教え導くか、又病気の時如何に親身に心を労して看護するか、等のことを思い合せれば、少女が彼女を慕うこと母以上であるのも当然であるが、何卒このこともついでにそちらでお調べになって、事実なりや否《いな》やを確かめて戴きたい。なお、彼女が陰気な性質ではないかと云う御懸念については、先日もちょっと申上げたように決してそうではないのであるから、その御心配も御無用になされたい。敢《あえ》て申上げることを許して戴くならば、小生は、彼女なら貴下の夫人となっても御期待に背《そむ》くようなことはあるまいと存ずる。少くとも、貴下のお嬢様を幸福にして上げることが出来ることだけは、間違いないと思う。小生は、身内の者のことをこんな風に書くことが、却って貴下に御不快を与えはしないかを恐れるものであるが、これも畢竟《ひっきょう》は彼女を娶《めと》って戴きたいと願う余りなのである。重ねて云うが斯様《かよう》な型破りの手紙を差上げる失礼を幾重にもお海容下されたい。―――と、貞之助はそう云う意味を、特に意を用いて鄭重《ていちょう》な候文《そうろうぶん》で書いた。彼は学生時代から作文には自信があるので、書きにくい文体で委曲を悉《つく》すように書き上げることはさほどむずかしいとも思わなかったが、書き過ぎると逆効果になる恐れがあるので、押し付けがましく聞えないように、かと云って遠慮し過ぎないように、程々に書くのに骨が折れた。そして、一度は文句が強過ぎるような気がして書き直し、二度目には弱過ぎるような気がして又書き直し、漸《ようや》く三度目に書いたものを投函《とうかん》したが、出してしまうと、出さない方がよかったのではないかと、直ぐ後悔する気になった。もし先方に結婚の意志がないものなら、今更あの手紙に依《よ》って飜意《ほんい》するとも思われないし、又その意志があったとしたら、あんな手紙を貰ったために却って厭気《いやけ》がささないとも限らない、矢張自然の成行きに任して置くのが一番賢明であったかも知れない。………
貞之助は、別にその手紙に返事を期待した訳ではなかったが、それでもその後二日たち三日たちして、先方から何の音沙汰《おとさた》もないと、じっとしていられないようになり、次の日曜日の朝、わざと幸子には目的を告げず、ちょっと散歩にと云って、家を出た。そして阪急で梅田に出、タキシーに乗ると「烏ヶ辻まで」と、ついそう命じてしまった。と云うのは、出がけに橋寺の家の番地を覚えて来たのではあるが、兎に角近所まで行って、どんな家に住んでいるのか、それとなく前を通って見よう、と云うぐらいな気持だったので、訪問しようとまで考えていたのではなかった。で、ここらあたりと思う辻で車を下りて一軒々々表札を読んで行くと、その日は今年になって初めての春らしい天気であったせいか、歩いていてもひとりでに足が弾み、何となしに幸先がよいような気がして来た。それに又、橋寺の家と云うのが、わりに新しい普請《ふしん》の、南を受けた明るい感じの家であった。借家だということは聞いていたが、そんなに貧弱な構えではなく、ちょっと妾宅《しょうたく》と云った風の、見越しの松に板塀《いたべい》の小ざっぱりした造りの二階家が三四軒並んでいるうちの一軒で、細君を亡くした中年の紳士が娘と二人で暮らすのにはこれでも広過ぎるくらいであろう。貞之助は暫《しばら》く門前に彳《たたず》んで、折柄の朝日に葉が一つ一つキラキラと光る松の葉越しに、硝子《ガラス》障子が半分ばかり開いている二階の欄干を見上げていたが、折角此処迄来たのにと思うと又気が変り、ふらふらと門内へ這入《はい》って行って玄関のベルを押してしまった。
取次に出た五十恰好《かっこう》のばあやが間もなく二階へ案内したが、階段の途中まで上りかけた時、
「やあ」
と下から声をかけられたので貞之助が振り返ると、上り口の所に橋寺が、寝間着の上にしゃれた八端の丹前を着て立っていた。
「―――失礼ですが只今《ただいま》参りますから少々お待ちを。………今朝は寝坊しちまいまして、………」
「何卒《どうぞ》々々、………何卒御ゆっくり、………僕こそ突然伺いまして、………」
貞之助は、橋寺が気軽にピョコンとお辞儀をして階下の奥の間の方へ消えたのを見ると、先ずほっとした。実はこの間の手紙をどう受け取ってくれたかが案じられて、何よりも顔色を見ないうちは安心出来なかったのであるが、今の応対の様子では、少くとも不快を感じていないことだけは確からしかった。彼はひとりで待たされている間に、ゆっくりと座敷の中を眺《なが》め廻した。ここは二階の表座敷で、この家での客間なのであろう。一間の床の間に違い棚《だな》の附いた八畳の間で、花こそ生けてないけれども、そんなに悪い趣味でない掛軸、置物、欄間の額、二枚折の屏風《びょうぶ》、花梨《かりん》の卓、卓上の煙草セット等が、型通りキチンと置いてあり、襖《ふすま》、畳等も汚れ目がなくて、殺風景な男鰥《おとこやもめ》所帯らしく見えないのは、主人の嗜《たしな》みもであるが、亡くなった細君の人柄も偲《しの》べるようである。さっき門前から見上げた時にもそう思ったことだけれども、中へ通って見ると、部屋の感じが想像したよりも一層明るい。白地に雲母《きら》の桐《きり》の紋のある襖が外の明りを一杯に反射しているので、室内に暗い隈《くま》が一つもなく、空気が隅々《すみずみ》まで透き徹《とお》っていて、貞之助のくゆらす煙草の煙がくっきりと一つ所に環《わ》を作っている。貞之助は取次のばあやに名刺を差出した時は何だか厚かましいようで気おくれがしたのであったけれども、やっぱり訪問してよかったと思った。こうしてこの家の客となって、主人の顔色を読むことが出来ただけでも、上首尾であったと云わなければならない。
「大変お待たせ致しまして」
と云って、十分ばかりたって上って来た橋寺は、折目の正しい紺の背広服に着換えていた。そして、此方の方が暖かですからと、往来に面した縁側の籐椅子《とういす》の方へ客を請じた。貞之助は、手紙の返事を聞きに来たように取られたくないので、会ったら直ぐに辞去するつもりだったのであるが、硝子戸越しに射し込む日光を浴びながら、主人の例の人を外《そ》らさぬ応対の相手をしていると、つい立ちそびれて一時間ばかりしゃべり込んでしまった。尤《もっと》も話は相変らず雑談ばかりで、先日は失礼な手紙を差上げましてと、貞之助がちょっと挨拶《あいさつ》したのに対して、いえ、御丁寧な御書面を戴きまして有難うございますと、橋寺もさりげなく答えたきり、あとは取りとめのない世間話をしたに過ぎない。そのうちに貞之助はやっと気が付いて立ち上りかけたが、まあお待ち下さい、今日はこれから娘を連れて朝日会館へ映画を見に行きますので、御用がおありにならないならそこまで御一緒に参りましょう、と云われ、実はその娘を余所《よそ》ながらでも見たいと思っていたところだったので、左様ですか、ではその辺まで、と、云わざるを得ないことになった。
もうその時分、街でタキシーを拾うのはむずかしくなって来ていたので、橋寺は電話で何処かのガレージからパッカードを呼んだ。そして中之嶋の朝日ビルの角まで来ると、如何です、阪急までお送りしても宜しいですが、お差支えなかったらちょっとお降りになりませんか、と云うのであった。ちょうど時分時《じぶんどき》なので、アラスカへ誘う気なのだと察した貞之助は、今日も亦《また》饗応《きょうおう》にあずかることは重ね重ねで心苦しいけれども、この機会に娘と親しんで見たくもあり、こう云う風にしてだんだん交情が深まるのは願ってもないことでもあるので、ままよと、招きに応じてしまった。で、それから又一時間ばかり、洋食のテーブルを囲みながら漫談を交した訳であったが、今度は娘が加わったので、映画の話、歌舞伎劇の話、亜米利加や日本の俳優の話、女学校の話等々、一層たわいのないことをしゃべっただけであった。娘は悦子より三つ年上の十四歳と云うことで、悦子に比べると物言いなどもずっと落ち着いて大人びていたが、それは一つには顔だちから来る感じのせいもあったろう。と云うのは、女学校の制服を着て、おしろい気のない顔をしているけれども、その輪郭は既に少女型でなく、面長の、鼻筋の通った、引き締まった成人型なのであった。そして橋寺に少しも似ていないところを見ると、母親似に相違なく、母が相当の美貌《びぼう》であったことも、橋寺がこの少女に依《よ》って今は亡《な》き恋女房の面影を偲びつつあることも、ほぼ想察することが出来た。
会計の時に、今日の勘定は僕に払わして下さいと云うと、それはいけません、僕がお誘いしたのですからと、橋寺が承知しないので、貞之助は透かさず、では今日は御馳走になりますが、それなら一度僕の方へもいらしって下さい、神戸へでも御案内しますから、この次の日曜に是非お嬢さんと御一緒に、と云ってそれを承諾させ、五階のエレベーターの所で別れたが、結局、次の日曜日の約束を持って帰ったことが何よりの土産であった。
その日、帰宅した夫から上々の首尾であったことを聞かされた幸子は、あなたもえらい心臓になりなさったと冷やかしながら、内心大いに喜んだことであったが、昔であったらなかなか喜ぶどころではなく、何ぼ何でも不見識なと、怒らずにはいなかったろうし、夫にしてもまさかそれ程厚かましくは振舞わなかったに違いないので、雪子の縁談のことについては我ながら変節したことに驚かれるのであった。で、これ以上働きかけるのは止めにして、次の日曜を待つことにしたが、その間に一遍丹生夫人から電話があった。その後御主人が令嬢ともお会い下さったそうで、だんだん有望になって行くのは慶賀に堪えない、又今度の日曜には橋寺氏父子《おやこ》を御招待になったそうであるが、どうか皆さんで十分に款待《かんたい》して上げて下さい、分けて雪子さんは、最初に与えた「陰気」と云う印象を拭《ぬぐ》うように努めて戴きたく、これが一番心配であるから特に申し添えて置く、と云うのであったが、これで見ると、橋寺はその後の進展の模様を一々夫人に報告しているのであって、彼の方でも決してこの問題に冷淡ではないらしいのであった。
約束の日曜日には、朝の十時に父子で蘆屋へ来、一二時間家で遊んでから、主人側の四人と都合六人でハイアを神戸まで飛ばして、花隈《はなくま》の菊水へ行った。今日の食事の場所については、支那料理、オリエンタルのグリル、しっぽく料理の宝家、等々の案も出たことだけれども、神戸見物と云う意味では菊水が一番珍しかろう、と云うことになった訳であった。おそい昼食を二時頃から始めて四時頃に終え、帰りは元町から三宮町まで散歩してユーハイムで一と休みし、阪急に乗る父子を見送ってから、四人は阪急会館へ亜米利加《アメリカ》映画の「コンドル」を見に這入《はい》ったりしたが、その日は双方の家族が顔つなぎをしたと云う程度で、そう一遍に打ち解けると云うところまでは行かなかった。
と、その翌日の午後であった、雪子がひとり二階で習字をしているところへお春が上って来て、
「お電話でございます」
と云った。
「誰に」
「雪子娘《とう》さんに出て戴きたいと仰《お》っしゃっていらっしゃいます」
「誰から」
「橋寺さんでございます」
そう聞くと雪子は慌《あわ》てた。筆を擱《お》いて立ち上ったものの、直《す》ぐ電話に出ようとはせず、顔を赧《あか》くしながら階段の下り口でウロウロした。
「中姉《なかあん》ちゃんは?」
「その辺までお出かけになったようでございますが、………」
「何処《どこ》へ?」
「さ、郵便を入れにいらしったのと違いますやろか。今お出になったとこでございますが、お呼びして参りましょうか」
「早う! 早う呼んで来て!」
「は」
お春は急いで飛んで出た。いつも幸子は運動がてら自分でポストへ入れに行って、それからずっと堤防の方を散歩する癖があるので、お春は曲り角を一つ曲った所で訳なく彼女を発見した。
「御寮人《ごりょうん》さん! 雪子娘さんがお呼びになっていらっしゃいます」
お春が息を切らしているので、幸子は何事かと訝《いぶか》しみながら、
「何やねん」
「橋寺さんからお電話でございます」
「橋寺さんから?―――」
思いがけないことだったので、幸子もはっとした。
「あたしに?」
「いいえ、雪子娘さんに懸ってますねんけど、御寮人さんを呼んで来て欲しい仰っしゃっていらっしゃいますねん」
「雪子ちゃん出えへんの?」
「さあ、どうでございますやろ、私《わたくし》が出て参ります時はウロウロしていらっしゃいましたが、………」
「何で自分で出えへんのやろ、可笑《おか》しな人やわ雪子ちゃんは」
幸子はまずいことになったと思った。雪子の電話嫌いは一族の間では有名になっているので、めったに彼女に懸って来ることはなく、懸って来ても大概誰かに代って貰って、余程のことでなければ自分で出ず、又今迄はそれで済んでいたのであるが、今日はいつもと場合が違う。どう云う用件か知らないが、橋寺が特に彼女に懸けて来たのに、取り敢《あ》えず当人が出ないと云う法はない。幸子が代りに出たのでは却って変なものになろう。十七八の小娘ではあるまいし、………羞《はず》かしいとか極まりが悪いとか云うことは、雪子の性質をよく知っている姉妹たちにだけ分ることで、世間には通らない。もし橋寺が侮辱されたと思わなかったら幸いである。それにしても、雪子は結局渋々ながらも出てくれたであろうか。が、待たせた揚句いやいやながら出て、例のはきはきしない応対をしたのでは、―――電話の時は一層そうなる人なのであるから、―――それも事毀《ことこわ》しで、そのくらいなら出ないでくれた方が優《ま》しかも知れない。それとも又、妙に強情なところのある人だから、どうしても出ないで、幸子の助け船を待っているだろうか。でも、これから幸子が駈《か》け着けて行っても恐らくそれ迄には切れてしまうであろうし、切れていなかったとしても、代りに出てどんな詑言《わびごと》が云えるであろう。兎に角今日は雪子が自分で出なければ、―――それも直ぐ飛んで出なければいけない場合なのである。幸子は虫が知らすと云うのか、この小さな事件が原因で、折角此処まで運んで来たものが駄目になってしまうのではないかと、ふっとそんな予感もしたが、しかし橋寺はああ云う如才ない愛想のよい人物であるから、まさか一遍そんなことがあったぐらいで話を打ち毀《こわ》すの何のと云うこともあるまい、と思えた。それにしても自分が家にいる時であったら、無理にでも即座に雪子を電話口へ出さずには措《お》かなかったものを、ほんの五六分家を空けた隙《すき》に懸って来たと云うのは、考えれば考える程まずいことであった。
幸子は急ぎ足で戻ると電話のある台所の方へ行って見たが、もう電話は切れていて、雪子はそこにいなかった。
「雪子ちゃんは?」
と、彼女はお三時の支度にメリケン粉を捏《こ》ねている下働きのお秋に聞いた。
「あちらへ入らっしゃいましたけど、………二階ではございませんでしょうか」
「雪子ちゃん、電話に出やはったん?」
「はあ、お出になりました」
「直ぐ出やはったん?」
「いいえ、あのう、………御寮人さんをお待ちになっていらっしゃいましたけど、お帰りにならないもんですから、………」
「長いことしゃべってはったん?」
「ほんちょっとの間《ま》、………一分間ぐらいでございます」
「いつ切れたん?」
「たった今でございます」
幸子が二階へ上って行くと、雪子はひとり習字の机に凭《よ》りかかってお手本の折本を手に取ったまま、それを見るような恰好《かっこう》をしてうつむいていた。
「橋寺さんの電話、何やったん」
「今日四時半に阪急の梅田でお待ちしてるよって、お出かけになりませんか云やはるねん」
「ふうん、二人で散歩でもしよう云やはるのんやろか」
「心斎橋でもぶらついて、何処ぞで御飯たべたい思いますが、附合うてくれませんか、云やはるねんけど、………」
「雪子ちゃんどない云うた?」
「………」
「行く云うたん?」
「いいや」
と、曖昧《あいまい》に、唾吐《つばき》を呑《の》み込みながら口の内で云った。
「何で?」
「………」
「行ったげたらええやないの」
結婚の話の進行中に、その相手の男、―――而《しか》も二三度しか会ったことのない男と、二人きりで町を散歩するなんと云うことを、日頃の雪子が承知する筈《はず》のないことは、彼女と云うものを底の底まで知り抜いている姉の身には最初から分っていることで、雪子の性分として無理もないことに思えるのであるが、それでいて幸子は腹が立ってならなかった。ロクに知らない男なんぞと外を歩いたり料理屋へ行ったりすることは如何にも厭《いや》であろうけれども、それでは幸子には兎も角も貞之助に済むまいではないか。貞之助や幸子にしても今度は随分極まりの悪い思いをしたり節を屈したりしていることを考えてくれたら、少しは当人も勤める気があってもよいではないか。まして橋寺がそんな電話を懸けて来たと云うのは、あの人として大奮発したのであろうに、それをそっけなくあしらわれてはどんなにか落胆したことであろう。
「そんなら、断ってしもたん?」
「ちょっと差支えがございますので[#「ございますので」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)では「ございますもので」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「ございますので」]、云うといたけど、………」
断るにしても尤《もっと》もらしい口実を構えて言葉上手に断ったのならまだしもであるが、どうせそんな芸当の出来る人ではないので、さぞ不細工に、取って附けたような挨拶をしたことと思うと、幸子は何がなしに口惜《くや》し涙が溢《あふ》れて来た。そして、眼の前に雪子を見ていると一途《いちず》に腹が立って来るので、ぷいと階下へ下りて行って、テラスから庭へ出た。
折返して雪子に電話を懸けさせ、無礼を詑《わ》びさせて、今夕大阪へ行かせるようにする。―――それがこの失錯を取り返す一番良い方法であることは知れているけれども、どんなに説き付けて見たところで決して雪子が「うん」と云う筈のないことなので、それを強行しようとすれば、徒《いたずら》にお互が不愉快を募らせ、喧嘩《けんか》別れになるのが落ちである。かと云って、今日はどうしても差支えがあって行かれないのであると云う訳を、幸子が代って巧《うま》い工合に拵《こしら》えて云うとしても、本当に先方が納得するように云えるであろうか。では明日は如何ですと云われたら何と答えるか。雪子が厭なのは今日だけではないのである。もっとお互に懇親を重ねて気心が分るようになってからでなければ、厭であるに極まっているのである。とすると、今日のところはこのままにして置いて、明日でも幸子が丹生夫人の所へ出向き、雪子の性格を委《くわ》しく説明して、決して当人は橋寺を疎《うと》んじているのでも、一緒に歩くのを嫌《きら》っているのでもないのであること、ただ今迄が余りお嬢さん過ぎたので、ああ云う場合についドギマギして臀込《しりご》みしてしまうのであるが、それだけ純なところもあること、等々を橋寺に伝えて貰う、と云うようにでもしたらば、多分橋寺も諒解《りょうかい》してくれはしないであろうか。………
幸子が庭を歩きながらこんな思案に耽《ふけ》っている時、台所の方で又電話のベルが鳴り出したようであったが、お春がテラスへ駈けて来て、
「電話でございます」
と、庭の方へ怒鳴った。
「―――丹生さんの奥さんからでございます」
幸子はぎょっとして台所へ走ったが、ふと心づいて電話を夫の書斎の方へ切り替えさせた。
「ああ幸子さん、―――今橋寺さんから電話があって、大変憤慨してらっしゃるようなんだけど、―――」
そう云う丹生夫人の声の調子にもただならぬものがあった。歯切れのよい東京弁の人なのが、興奮しているので一層テキパキした口調になって、何だか知れないが橋寺さんがひどく怒っている、僕はあんな因循姑息《いんじゅんこそく》なお嬢さんは嫌いです、あなた方はあの人を花やかだなんて云われるけれども、何処に花やかなところがあるんです、僕はこの縁談はキッパリお断りしますから今直ぐ先方へその旨《むね》をお伝え下さいと云っている、何でそんなに怒っているのかよく分らないけれども、二人きりでゆっくり話し合って見ようと思って、今日の夕方から一緒に散歩に行くように誘って見た、すると最初に女中が出たので、雪子さんがいらしったら出て下さいと云うと、いますと云って引っこんだきり、どう云う訳かなかなか雪子さんが出て来ない、散々待たして漸《ようよ》う出たには出たけれども、御都合は如何《いかが》ですと云っても、はいあのう、はいあのうを繰り返すばかりで、イエスだかノーだかさっぱり分らない、問い詰めると聴き取れないような細い声で、ちょっと差支えがございますので、………と、やっとそれだけ云って、あとは一と言も云わない、僕も癪《しゃく》に触ったからそれきりプツリ切ってしまった、橋寺さんはそう云って、いったいあのお嬢さんは人を何と思ってるんです、余り馬鹿にしてるじゃありませんかと、かんかんになっている。―――丹生夫人はここまで一気にしゃべって来て、
「そう云う訳ですから、残念ですけれどこの話は駄目《だめ》になったと思って頂戴《ちょうだい》」
と云うのであった。
「ほんまに、ほんまに、あなたにえらい御迷惑かけてしもうて、………あたしがいたらまさかそんな失礼なことさせはしませなんだのに、生憎《あいにく》ちょっと門《かど》へ出てたもんですよって、………」
「だって、………あなたはいらっしゃらなくったって、雪子さんはいらしったんじゃないの」
「ええ、ええ、それはそうなんですけど、………ほんまに申訳のないことで、………こないなったらもう取り成して戴くことも出来ませんでしょうし、………」
「ええ勿論《もちろん》よ、………」
幸子は穴へも這入りたい心地でシドロモドロの受け答えをしながら聞いていたが、
「それじゃ幸子さん、電話でこんな話をして済みませんけれど、今更お目に懸っても始まらないから、お伺いしないことにしますわ、何卒悪《あ》しからず、―――」
と、そう云って電話を切りそうにするので、
「ほんまに、ほんまに、………いずれお詑《わ》びにお伺いしますけど、………お怒りになるのもちょっとも無理やあれしませんけど、………」
と、自分でも何を云っているのやら訳の分らない挨拶をしかけると、
「いいのよ、幸子さん、そんなに仰っしゃって下さらないでも。いらしってなんぞ戴いちゃ恐縮だわ」
と、聞くのもうるさいと云わんばかりに云って、幸子がオドオドしている隙《すき》に、
「左様なら」
と、切ってしまった。
受話器を置くと、そのまま卓上電話のある夫の机に凭《よ》りかかって頬杖《ほおづえ》をつきながら、幸子は暫《しばら》くじっとすわっていた。今に夫が戻ったら厭でもこのことは耳に入れなければならないのだけれども、………今日は云うのを止めて、明日にでも気持が落ち着いてからのことにしようか。………夫がどんなにガッカリするかは想像に余りあるが、それよりも、こんなことから夫が雪子に愛憎《あいそ》を尽かすようにならねばよいが。………従来夫は妙子を嫌う傾きがあったが、雪子には同情を寄せていたのに、とうとう妹たちが二人ながら嫌われてしまうのだろうか。妙子はそれでも頼る人があるからよいが、雪子は今貞之助に見放されたらどうなるであろう。………今迄幸子は、妙子のことで我慢のならないことがあると雪子に訴え、雪子のことは妙子に訴えしていたので、平素はさほどでもないけれども、こう云う時に妙子が家にいないのは、この上もなく淋《さび》しくもあり不便でもあった。
「お母ちゃん」
と、悦子が書斎の襖《ふすま》を開けて、閾際《しきいぎわ》に立ちながら、怪訝《けげん》そうな眼つきで母親の顔を覗《のぞ》き込んだ。今しがた学校から帰った彼女は、家の中が妙にひっそりしているので、何事かあったのを感じたのであろう。
「お母ちゃん、何してるの」
と云いながら這入って来て、母のうしろからもう一度顔を覗き込んだ。
「ねえ、何してるのよ、お母ちゃん、………お母ちゃん、………」
「姉ちゃんは?」
「姉ちゃん二階で本読んではるわ。………ねえお母ちゃん、どうしたの。………」
「どうもせえしません。………姉ちゃん所《とこ》へ行ってなさい」
「お母ちゃんもいらっしゃい」
そう云って、悦子が手を取って引っ張ったので、
「ふん、行きましょう」
と、幸子は気を変えて立ち上った。そして一緒に母屋へ戻ると、悦子だけを二階へ遣《や》って、自分は応接間へ這入って行き、ピアノの前に腰掛けて鍵盤《けんばん》の蓋《ふた》を開けた。
貞之助が帰宅したのはそれから一時間ばかり後であったが、それまでピアノを鳴らしつづけていた彼女は、表のベルの音を聞くと玄関へ迎えに出、夫が書類入りの鞄《かばん》を抱えて一往書斎へ這入るのを、追うようにして自分もあとから這入って行った。
「ちょっと! 折角あんさんに骨折って貰いましたけど、えらいことになってしまいましてんわ。―――」
今日話そうか明日にしようかと、さっきまで迷っていた彼女は、夫の顔を見た途端に黙っていられないようになったのであるが、それでも夫は、一瞬間さっと顔色を変えはしたものの、微《かす》かに溜息《ためいき》を洩《も》らしただけで、そう不愉快を露骨に現わすこともなく、しまいまで物静かに聞いた。夫の落ち着いているのを見ると、幸子の方が又もう一度口惜しくて溜らなくなり、こんなに私等に心配させて置いて何と云う人だろうと、ついぞないことに雪子を激しく批難したりした。ほんとうに、今更云って見ても追っ付かないことだけれども、やっぱり橋寺氏には結婚の意志があったのである。口では煮え切らないことを云っていたけれども、内心は雪子ちゃんに気があったのに違いない。それなればこそ今日のような誘いをかけて来たのではないか。そうと分って見れば見るほど、尚更《なおさら》今日の電話の失錯は残念で残念で、地団駄蹈《ふ》んで泣きたいような気がするが、もう泣いても仕様がない。機会は永久に去ってしまった。なぜその時に自分は家にいなかったのだろうか。自分がいたら先方の申込みを応諾させることは出来ない迄も、せめて人並な挨拶ぐらいはさせたに違いないものを。………そうしたら恐らくこの縁談は順潮に運んだであろうものを。………そして近い将来には婚約が整ったかも知れないのに。………それは必ずしも夢のようなことではなかったのだ。普通に行けば十中八九そうなったことなのだ。それにしても、ほんの五六分自分が家を空けた間にその電話が懸って来たとは! 人間の運と云うものは、実に実に偶然の詰まらないことで極まってしまうのであることよ。………幸子は諦《あきら》めようとしても諦め切れず、その時自分がいなかったことが恰《あたか》も自分の越度《おちど》であるかのように悔まれ、選《よ》りに選ってその五六分の隙間《すきま》に電話が懸ったと云うことが、雪子の不運であるようにさえ考えられて来るのであった。
「―――そない思うたら、腹も立つけど、雪子ちゃんが可哀《かわい》そうになって来て、………」
「しかし、それは雪子ちゃんの性格から来る悲劇やさかい、電話の時にお前が居合《いあわ》せたにしたところで、結果は同じことになるのと違うか」
貞之助は、却って自分が妻を慰撫《いぶ》する側に立たされたせいもあって、そんな風に云うのであった。たといお前が居合せたにしても、雪子ちゃんには上手な応対が出来る筈がない、それに又、快く先方の申込みに応じて一緒に散歩することを承知するのでなかったら、どのみち相手に不満を抱かせることは避け難いのではないか、とすれば今日の出来事は雪子ちゃんの性格に基因していることで、お前が傍にいてもいないでも、それは大した関係はない、今日のところは何とか巧く切り抜け得たとしても、今後もこれに似た事件は何遍でも起る可能性があるから、結局この縁談は成立しない運命にあったのだ、雪子ちゃんが生れ変って来ない限り、こうなることは雪子ちゃんの宿命であるかも知れない。―――
「あんたのように云いなさったら、雪子ちゃんはお嫁に行けん、云うことになってしまいますやないの」
「そうやないねん、僕の云うのんは、ああ云う風な引っ込み思案の、電話も満足によう懸けんような女性にも亦自《おのずか》らなるよさがある。それを一概に時代後《おく》れ、因循姑息と云う風に見んと、そう云う人柄の中にある女らしさ、奥床しさ云うもんを認めてくれる男性もあるやろうと思う。それが分るような男でなければ、雪子ちゃんの夫になる資格はないねんな」
幸子は、自分の方があべこべに宥《なだ》められて見ると、夫に済まないと云う気持がひとしお強く湧《わ》いて来たのと、なるべく雪子を可哀そうと思うように努めたのとで、腹立たしさをだんだん抑えることが出来たが、母屋へ戻って、応接間へ這入って見ると、いつの間にか二階から降りてソオファに掛けている雪子が、『鈴』を膝《ひざ》の上に抱いてあやしながら余りにもケロリとした様子をしているので、つい又忿懣《ふんまん》が萌《きざ》して来た。彼女はそれを怺《こら》えようとして真《ま》っ紅《か》に顔を上気させながら、
「雪子ちゃん」
と、呼んだ。そして、
「さっき丹生さんの奥さんから電話で、橋寺さんがえらい怒ってはるよってもう縁談はあかんようになった、云うて来やはってん」
と、雪子の前へ叩《たた》き着けるように云った。
「ふん」
と雪子は、例の調子で無関心らしく云って、いくらか照れ隠しもあるか知れぬが、ゴロゴロ云っている猫を一層喜ばすために手をその頤《あご》の下へ入れた。
「橋寺さんだけやあれへん、丹生さんの奥さんかて、貞之助兄さんかて、あたしかて怒ってるわ」
と、幸子は直ぐあとに続けてその言葉を叩き着けたかったのを、さすがにぐっと嚥《の》み下してしまったが、それにしてもこの妹は果して今日の失錯を「失錯」と感じているのであろうか、それならそのように、「済まなかった」と云う一言を夫の前で云ってくれるとよいのであるが、こう云う時に気が付いていても決してそれを云わない人であることを思うと、又しても面憎《つらにく》くなって来るのであった。
橋寺が腹を立てた事情は、翌日井谷が訪ねて来て委《くわ》しく幸子に話したので、一層明瞭《めいりょう》になった。
井谷が云うには[#「云うには」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「云ふのには」]、聞けば昨日橋寺氏から丹生夫人の所にも電話があったそうであるが、私の所にも懸って来た、何しろあの温厚な紳士らしい人がひどく怒って、あのお嬢さんは失敬じゃありませんかと、私にまで喰《く》ってかかる始末なので、これはただごとでないと感じて、直《す》ぐ大阪へ飛んで行って、橋寺氏にも丹生夫人にも会ったが、なるほど、よく聞いて見ると、橋寺氏の怒るのも尤《もっと》もである、と云うのは、事件は昨日だけでなく、一昨日《おととい》から萌《きざ》していたのである、一昨日、橋寺氏父子《おやこ》はあなた方に招かれて神戸の菊水で会食されたと云うことであるが、その帰りに皆さんで元町を散歩された時、偶然橋寺氏と雪子お嬢さんとが二人だけになったことがあった、それは出征軍人を送る街頭行進か何かがあって、二人だけが長い行列に遮《さえぎ》られて外の人達と離れてしまったのであったが、その時橋寺氏は、とある雑貨店の飾窓が眼に付いたので、僕、靴下《くつした》を買いたいんですが、一緒に行って見てくれませんかと、雪子さんに云った、すると雪子さんは、はあ、と云ったきりモジモジして、半丁ばかり後になった奥さん達の方を、救いを求めるかのように何度も振り返って見たりして、困ったような顔つきで衝《つ》っ立っているばかりなので、橋寺氏は憤然として、独《ひと》りでその店へ這入《はい》って行って買物を済ました、これは十五分か二十分間の出来事で、外の人は知らないのであるが、橋寺氏としてはその時も相当不愉快であった、でもその時は、あれはああ云う風な性質なので、別に自分を嫌《きら》っているのではないであろうと、強《し》いて善意に解釈して機嫌《きげん》を直した、しかしやっぱりそのことが気になったので、果して自分は嫌われているのかどうか、もう一遍試して見ようと考えていたところ、昨日はちょうど天気も好し、会社の方も暇だったので、早速思い付いてあの電話を懸けた次第であった、然《しか》るに結果は御承知の通りで、橋寺氏は重ね重ね耻《はじ》を掻《か》かされた、一昨日の時は、でもまあ極まりが悪いのであろうと思っても見たが、一度ならず二度までもああ云う扱いを受けては、よくよく嫌われているものと取るより外はない、あの断り方は、わたしがあなたを嫌っていることがまだ分らないかと云わんばかりの、積極的な表示である、そうでなかったらいくら何でももう少し如才ない云い方があろう、察するところあのお嬢さんは、周囲の人々が何とかして纏《まと》めようと骨折っているものを故意に打ち毀《こわ》しにかかっているのである、と、橋寺氏はそう云って、丹生夫人や、井谷氏や、蒔岡家の兄上や姉上の御好意はよく分るけれども、あれではその御好意を受けようにも受けられない、僕はこの縁談を自分の方から断ったのでなく、断られたのだと感じている、と云うのであるが、昨日井谷が会った時は、橋寺氏より丹生夫人の方が怒っていた。あたしも実は雪子さんの男性に対する態度が宜《よろ》しくない、あれでは「陰気」と云われるのも当然と思ったから、努めて明朗な印象を与えるようにして下さいと忠告したのに、雪子さんは一向云うことを聴いてくれるらしい様子がなかった、あたしは雪子さんよりも、雪子さんにああ云う態度を取らして置く幸子さんの気持が分らない、今時華族のお姫様だって、宮様だって、あんなでよいと云う法はないのに、いったい幸子さんは自分の妹を何と思っているのだろうかと、丹生夫人は云っていた。と、井谷はいくらか自分自身の鬱憤《うっぷん》を丹生夫人に托《たく》して洩《も》らす気味もあって、相当手厳しい口吻《こうふん》であったが、何と云われても幸子は返す言葉もなかった。それでも井谷は男のような気象であるから云うだけ云うと胸がすうっとしたらしく、あとはさらりと打ち解けて世間話をし、幸子が萎《しょ》げているのを見ると、そんなに悲観なさらないでもよい、丹生夫人は兎《と》に角《かく》、私は今後もお世話するつもりでおりますなどと云ってくれたが、なお余談として例の眼の縁が話題に出、橋寺氏は雪子お嬢さんに前後三回会っているのに、お顔のあれには全然気が付かなかったらしい、ただ娘さんが、あの人の顔にはシミがあると、帰って来てからお父さんに云ったので、へえ、そうかね、僕はちっとも知らなかったと、橋寺氏は云ったそうである、と、そんな話をして、だからあのシミだって御心配なさる程のことはない、少しも問題にならない場合もあるのですから、と云ってくれたりした。
この、前の日に神戸の元町でも橋寺を怒らしたと云う事実、―――幸子はこのことは遂《つい》に貞之助に云わないでしまった。云ったところで仕様のないことだし、言えば尚更《なおさら》雪子に対する夫の感情を悪くする恐れがあったからであるが、貞之助は貞之助で、妻には云わずに、自分の一存でその後橋寺に手紙を書いた。―――事態が既にこうなってから何を申上げることもないし、未練がましいようだけれども、小生として一言貴下に釈明させて戴《いただ》かなければ立つ瀬がない。貴下は或《あるい》は、小生等夫婦が妹の心中を十分確かめても見ずにこの縁談を進めたようにお考えかも知れないが、事実は、あの妹は決して貴下を嫌っていなかったのみならず、寧《むし》ろその反対であったと信じる。それでは先日来の貴下に対するあの消極的な曖昧《あいまい》な態度、電話での応対などを如何に説明するかと仰せられるでもあろうが、あれは持ち前の異性に対する怯懦《きょうだ》と羞耻心《しゅうちしん》とがさせたことで、貴下を嫌っていた証拠にはならない。三十を越した女がそんな馬鹿らしいことが、と、他人は誰しもそう思うところだけれども、彼女の平生をよく知っている肉身の者たちには不思議でも何でもなく、ああ云う場合に彼女としてああ云う風になるのが常で、あれでも昔よりは幾分か人みしりをしなくなったのである。が、こんなことを云っても世間に通る筈《はず》がないので、何の言訳にもならないことは小生等も存じており、殊《こと》に先日の電話の件については、何とお詑《わ》びを申上げてよいやら言葉もない。小生は彼女の性質を陰気にあらずとし、却《かえ》って内部に花やかさを蔵しているとさえ申上げたことがあり、今でもその言が誤りでないことを信じる者であるが、しかし女があの歳になって満足な挨拶《あいさつ》一つ出来ないと云うことは、何としてもふつつかの至りで、貴下が御立腹になるのも御尤も千万であり、この一点を以てしても自分の妻とするに足らざる者とお断じになったとすれば、寔《まこと》に已《や》むを得ないことである。残念ながら小生は、彼女が落第したことをハッキリと認めざるを得ない者で、もはやこの問題について貴下の御再考を懇願する鉄面皮は持ち合せない。要するに、あの妹をああ云う時代後《おく》れの女に育てたのは家庭の躾方《しつけかた》が悪かったので、これと申すも、母を早く失い、若くして父にも別れた境遇のせいであるけれども、小生等にも一半の責任が存することは勿論《もちろん》である。ただ、小生等は、あの妹を知らず識らず身贔屓《みびいき》して実際以上に買い被《かぶ》っていたかも知れないが、しかしこの縁談を無理に纏めようとして貴下に対し虚偽を申上げた覚えはないので、そのことだけは御諒解《りょうかい》なすって戴きたい。小生は、貴下がよき配偶者を得られ、雪子も亦《また》良縁を得て、お互にこの不愉快な出来事を忘れ去る日が早く到来することを祈る者であるが、その暁は何卒《なにとぞ》又改めて御交際を願いたい。折角貴下のような方とお近づきになったのを喜んでいたのに、こんな詰まらぬことからお附合いが出来なくなってはこの上もない損失であるから。―――と、そう書いて出したのであったが、橋寺は直ぐ鄭重《ていちょう》な返事を寄越した。―――御懇篤な御書面に接して恐縮している。貴下は御令妹のことを時代後れのふつつか者であると仰せられたが、それは御謙遜《けんそん》であって、御令妹がいくつになられても当世風に馴染《なじ》まれず、飽く迄《まで》も生娘の純真さを保っておられるのは寔に貴いことである。蓋《けだ》しそう云う女性の夫たるべき者は、その純真さを高く評価し、その貴さを損わないように大切に庇護《ひご》して行く義務があり、それには何よりも深い理解と繊細なる心づかいとが必要であるので、小生の如《ごと》き田舎生れの野人には全然その資格がない。小生はかく考え、双方のために幸福でないと信じたるが故《ゆえ》に御辞退申上げたのであって、御令妹に関し、何か失礼な批評を加えたようにお取りになっては心外である。猶々《なおなお》先般来小生の如き者に寄せられたる御家族一同の御好意の数々は感激に堪えない。貴下の御家庭の和気藹々《あいあい》たる情景は、世にも羨《うらやま》しい限りであって、ああ云う御家庭なればこそ御令妹の珠のような性格が完成されたのであろうと存ずる云々《うんぬん》。―――と、貞之助と同じく巻紙に毛筆で、「候文《そうろうぶん》」ではないけれどもよく行き届いたソツのない書き方がしてあった。
尚又、幸子はあの日、神戸を散歩した折に橋寺の娘を連れて元町の洋品店へ這入り、彼女のためにブラウスを見立ててイニシャルを入れるように注文して置いたところ、破談になった数日後にその刺繍《ぬい》が出来たので、贈らないのも却って変であると考え、井谷を通じて先方へ届けるようにして貰《もら》った。と、それから半月ばかり過ぎて、或る日幸子が井谷の美容院へ行くと、橋寺さんから奥さんにこれを送って来られましたのでお預かりして置きましたと云って、ハトロン紙に包んだ箱を渡されたので、帰宅してから開けて見ると、中は京都のゑり万製の紋羽二重《はぶたえ》の胴着であったが、そう云っても幸子らしい柄が選んであったのは、丹生夫人あたりが頼まれて調えたものでもあろうか。何にしても幸子たちは、それが先日のブラウスのお返しのつもりであろうと察して、そんなところにも橋寺の行き届いていることを感じたのであった。
雪子はどんな気持でいるのか、うわべは別にガッカリしたような様子もなければ、貞之助や幸子に気の毒をしたと思っているらしくもなかった。中姉夫婦の親切は分っているけれども、自分の性分としてあれ以上勤めることは出来ないのであるから、それで纏まらなかった縁なら惜しくはない、―――と、多少は負け惜しみもあって虚勢を張っているのかも知れないが、―――いかにもそう思っているかのように振舞っていた。幸子はとうとう雪子に向って露骨に不満を爆発させる機会を失い、ついぐずぐずに仲直りをしてしまったものの、まだ何か胸に燻《くすぶ》っているものがあって釈然とはしなかったので、妙子が来たら一遍聞いて貰おうと心待ちにしていたのであったが、生憎とこのところ二十日間ばかり、―――ちょうど三月上旬の火曜日、あの「運命の電話」があった翌日の朝早くちょっと立ち寄って、「今度も亦あかなんだ」と云う一と言を聞くとひどくガッカリした様子で帰って行ったきり、ふっつり姿を見せないのであった。ありていに云うと、幸子はこの間から丹生夫人や井谷から妙子のことを問われる度に、この人達は事情を知りつつ空惚《そらとぼ》けて探りを入れているのではないかと云う警戒心から、いつも当らず触らずの答をしていたのであったが、それと云うのは、妙子が別居していることはなるべく知られたくないけれども、万一奥畑との関係が問題化した場合には、あの妹は縁を切ってありますと、世間に向って云えるだけの用意をして置きたかったからなのであった。が、そう云ういろいろの心づかいも水の泡《あわ》に帰してしまった今、彼女は急に妙子の顔が見たくなったので、こいさんどないかしたのやろうか、電話かけて見ようかと、或る朝食堂で語り合っていた折のことであった、悦子を学校へ送って行ったお春が、なかなか帰って来ず、三時間もたって戻って、食堂をそっと覗《のぞ》いて見、幸子と雪子だけしかいないのを確かめると、そのまま這入って二人の傍へ忍びやかに寄って来て、
「こいさんが御病気でございます」
と、小声で云った。
「へえ、何の病気、―――」
「大腸カタルか赤痢らしゅうございます」
「電話でも懸って来たん」
「はい」
「あんた、行って来たんか」
「はい」
「こいさん、アパートで臥《ね》てるのん」
と、雪子が聞くと、
「いいえ」
と云って、お春は下を向いて黙った。
彼女の云うところはこうであった。―――実は今朝早く「お春どんに電話」と云って起されたので出て見ると、奥畑の声で、こいさんが、一昨日僕の家に来ていて急に発病した、それが夜の十時頃であったし、熱が四十度近くもあり、悪寒《おかん》戦慄《せんりつ》を伴ってもいたので、アパートへ帰って臥ると云ったのを引き留めて、僕の家で臥かせた、ところが容態がますます悪く、昨日近所の医師を呼んで診《み》て貰ったら、最初の時はよく分らず、流感か、事に依《よ》るとチブスではないかと云っていたが、昨夜の夜中から激しい下痢が始まり、腹が絞り出したので、大腸カタルか赤痢であろうと云うことになった、もし赤痢と決定すれば何処《どこ》かの病院へ入れなければなるまいが、何にしても看護の手が必要であるからアパートへ帰す訳に行かず、目下僕の家に置いて手当てしているので、このことを内々でお春どんに迄知らせて置く、当人は苦しがっているけれども今のところ別に心配なことはないから、引き続き僕の所で治療を加えても差支えない、急変があればお知らせするが、万々そんなことはあるまいと思う、と云うことだったので、お春は兎も角も自分が様子を見て来た上でと考え、今朝悦子を学校へ送った帰りに西宮へ廻ったのであった。ところが、行って見ると電話で想像したよりも大分悪い。昨夜からもう二三十回も下痢したそうであるが、余り頻繁《ひんぱん》なので、起きて、椅子に掴《つか》まって、御虎子《おまる》の上へ跨《また》がったきりであった。尤もこれは、そんな恰好《かっこう》をしていては宜しくない、安静に横臥《おうが》して挿込《さしこみ》便器を用いなければならぬと云う医師の忠告があったそうで、お春が行ってから、彼女と奥畑とで無理に説きつけて、ようよう臥かすことが出来たが、お春がいた間にも何回となく催した。しかし絞り腹と云う奴《やつ》なので、催す毎に少量の便通しかなく、そのためになお苦しいのであった。熱も依然として高く、さっき測った時は九度程あった。腸カタルであるか赤痢であるかはまだ不明であるが、阪大に菌の検査を頼んでもあるし、ここ一両日経過を見たら分るであろうと云うことであった。お春は妙子に、櫛田《くしだ》先生に診てお貰いになった方がよくはございますまいか、と云ったが、此処《ここ》の家で臥ていることが櫛田さんに知れては面白くないから、止《や》めた方がよい、心配するといけないから中姉《なかあん》ちゃんにも黙っててほしい、と、病人はそう云っていた。それで、お春は御寮人様に申上げるとも申上げないとも何とも云わず、今日又あとで伺いますと云って、一と先ず帰って来たのであった。
「看護婦は来てないのん」
「はい、長びくようなら頼まんならん云うてらっしゃいましたけど、………」
「誰が看病してはるのん」
「氷を割ったりするのんは若旦那さん(と、お春は始めて奥畑のことをそう呼んだ)がしていらっしゃいましたけど、便器の消毒やお臀《いど》を拭《ふ》いたげたりするのんは、わたくしが致しました」
「あんたがいなかったら誰がしやはるやろう」
「さあ、………婆《ばあ》やさんがしやはりますやろう。若旦那さんの乳母《うば》してはったお方やそうで、ええ人でございます」
「その婆やさん、台所の用してる人やないの」
「そうでございます」
「もし赤痢やったら、そんな人に便器扱わしたら危険やないの」
「どうしよう。………あたしがちょっと行って見ようか」
と、雪子は云ったが、
「今少し様子を[#「様子を」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)では「様子」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「樣子」]見てからにしたら」
と、幸子は云った。
もし赤痢と云うことに極まったら何とか処置を考えなければならないけれども、簡単な腸カタルで、二三日で直ると云うこともあるから、今のところそう慌《あわ》てるにも及ぶまい。さしあたりお春を看病に遣《や》るより外はないとして、貞之助と悦子には、お春は尼崎《あまがさき》の実家の方に急用が出来、二三日暇を貰って帰ったと云うことにして置こうではないか、と、幸子は云って、
「お医者さんはどんな人にかかってるのん」
「どんなお方か、わたくしはまだお目に懸りません。近所の知らない先生で、始めてお頼みになったお方や云うことでございますけど、………」
「櫛田さんに診て貰うた方がええけどなあ」
と、雪子が云った。
「ほんになあ」
と、幸子も云って、
「―――アパートやったらよかったのんに、啓坊《けいぼん》の所《とこ》やったら、やっぱり呼ばん方がええやろな」
幸子には、あれで案外気の弱いところのある妙子が、中姉ちゃんに黙っててほしいなどと口の先ではえらがりを云っても、本当の気持はその反対であることがよく分るので、こう云う時にはきっと家庭の有難みを身に沁《し》みて想い出しているであろうし、自分や雪子が側にいてくれないことをどんなにか心細く感じているであろうと察した。
お春はやがて仕度をして、早お昼を済ますとそこそこに、では二三日帰らして戴《いただ》きます、と云って出かけたが、出がけに応接間へ呼び入れられて、くれぐれも平素の物臭《ものぐさ》な癖を出さないように、病人の体に触れたあとでは消毒を怠ってはならないこと、病人が排便した時はそのつど便器にリゾールを滴《た》らすこと、等々の注意をこまごまと与えられた。尚《なお》又、病人の容態は精々頻繁《ひんぱん》に知らせてほしいのであるが、奥畑方には電話がなく、此方の電話も、貞之助や悦子のいる時は工合が悪いので、毎日少くとも一回午前中に懸けて来てほしいこと、それには近所の店屋《みせや》の電話を借りる便宜があったとしても、なるべくそれを避けて公衆電話を使うようにすること、等をも云い含められて行った。
幸子たちは、お春の出かけたのが午後だったので、その日一日は電話が懸って来る筈《はず》もなく、ひとしお容態が案じられて、明くる朝が待ち遠であったが、懸って来たのは翌朝の十時過ぎであった。幸子は夫の書斎の方へ切り換えて聞いたが、電話が遠く、話中にたびたび切れるので、僅《わず》かなことを聞き取るにも骨が折れた。しかし結局、病人の工合は大体昨日と変りはない、ただ昨日よりも下痢が一層頻繁になり、一時間に十回ぐらいも催すようになった、熱も引き続いて下る様子がない、と云うことらしいので、赤痢の疑いはどうなったか、そうらしいのか、そうでないらしいのか、と云うと、さあ、まだはっきりしないようでございますと云う。検便の結果は? と云うと、まだ阪大から何とも云って参りませんそうで、と云うので、どんな大便をするのん、血が交っていないのん、と云うと、少し交っているようでございます、血の外には鼻汁のようなどろどろした白い粘っこい物が出るばかりでございます、と云う。あんた、何処から懸けてるのん、と云うと、公衆電話懸けてるのでございますが、近い所にございませんので、えらい不便なのでございます、それに人が二三人も前に待ってはりましたので、遅うなってしまいました、あとでもう一遍お懸けしよう思いますけど、もし今日のうちにお懸けすることが出来ませなんだら、明日の朝にいたします、と、そう云ってお春は電話を切った。
「血便が出るのんやったら、赤痢やないの」
と、傍で聞いていた雪子が云った。
「ほんに。………そうやろ思うけどなあ」
「大腸加答児《カタル》で便に血が交る云うことあるやろか」
「まあ、ないやろなあ」
「一時間に十回も下痢するのんやったら、きっと赤痢に違いないわ」
「お医者が頼りないのんと違うか知らん。………」
幸子は大体赤痢と思って間違いはないものと覚悟をし、その場合のことをぽつぽつ思案していたが、その日はとうとう心待ちにした二度目の電話が懸って来ず、翌朝も、十一時過ぎまで音沙汰《おとさた》がないので、何してるのやろうと、雪子と二人で苛々《いらいら》していると、昼近くにお春がひょっこり勝手口から這入《はい》って来た。
「どない?―――」
二人はお春の硬張《こわば》った顔つきを見るなり、黙って応接間へ引き入れて聞いた。
「やっぱり赤痢らしゅうございます。―――」
実はまだ検便の結果は明かでないのであるが、医者は昨夜と今朝と見に来て、どうも赤痢のようであるから、そのつもりで方法を講じなければならない、と云い出した。で、国道筋にある木村病院、あそこには隔離室の設備があるから、彼処《あそこ》へ入院なさるように話して上げよう、と云うので、そうすることに極まりかけたが、たまたま勝手口へ来た出入りの八百屋が、あの病院は止《よ》した方がよいとお春に口をすべらしたので、近所で聞いて見ると、なるほど余り評判がよくない。何でも院長は耳が遠くて、聴診が十分に出来ず、よく誤診をする。阪大出身であるが、学校時代は成績が悪く、博士論文も或る同級生に書いて貰《もら》ったとやらで、その同級生も今はこの近くに開業していて、あれは僕が書いてやったのだと、云っていると云う。お春はそのことを奥畑に告げたので、奥畑も不安になって他の病院を当って見たが、隔離室の設備のあるのがこの近所には外にない。それで、表面大腸加答児と云うことにして、宅で治療しては? と云うと、何分伝染病のことですからと、医者はよい返事をしない。でも奥畑は、赤痢ぐらいで一々入院することはない、みんな自宅で直しているやないか、と云ったりして、構うことはないからそれに極めて、医者には何とか納得して貰おう、それとも蘆屋の姉さんの考を聞いてみようかと、お春に相談があったので、そんなら何と仰《お》っしゃいますか伺って参りましょうと、電話では埒《らち》が明かないと思ったので、大急ぎで戻って参りました、と、そう云うのであった。
その医者と云うのはどんな人か、と聞くと、矢張阪大出の斎藤と云う人で、櫛田医師より二つ三つ若く見える。父の代からこの町に開業していて、老先生と云われる人もまだ生きており、父子ともそう評判は悪くないが、お春の観察では櫛田医師のようにテキパキしたところがない。診断などもひどく慎重を期すると云う風で、容易にはっきりしたことを云ってくれない。今度の診断がおくれたのも、一つはそのせいなのであるが、一つには、赤痢にしては熱が高く、それに最初の一日は便通がなく、下痢が始まったのは発病してから二十四時間後の一昨々日《さきおととい》の夜であった。そんな訳で、むしろチブスの疑いがあったくらいなので、万事の処置が手後れになって、一層病勢を悪化させたのであった。
「何処で移って来たのんやろう。何ぞ悪いもん食べたのか知らん」
「はあ、鯖鮨《さばずし》をお上りになった云うことでございます」
「何処《どこ》で食べたん」
「発病なさった日の夕方、若旦那さんと神戸へ散歩においでになって、『喜助』云う家《うち》でお上りになったのやそうで、………」
「そんな家、聞いたことないな、雪子ちゃん」
「聞いたことないな」
「何でも福原の遊郭の中やそうで。………そこのお鮨がえらいおいしい云うことなので、一遍行って見よう思うてはりましたのんで、新開地へ映画見に行かはりました帰りにお寄りになったのやそうでございます」
「啓坊《けいぼん》はどないもないのん」
「はあ、若旦那さんは鯖がお嫌《きら》いで、お上りにならなんだそうで。………こいさんだけお上りになりましたのんで、やっぱりあの鯖に違いない仰っしゃっていらっしゃいます。………けど、そんなにたんとお上りになったのと違いますそうで、………それに、ちょっとも古いことなかった、ほんまに生きの好《え》え新しい鯖やったそうでございますが、………」
「鯖は恐いわ、新しいても中《あた》ることがあるよって」
「血合《ちあい》のとこが一番危険や云うことでございますが、それを二つ三つお上りになったそうでございます」
「あたしと雪子ちゃんは、鯖は決して食べたことないねん。あれ食べるのんこいさんだけやわ」
「一体こいさんは、あんまり外《そと》でいろいろなもん食べるよってにな」
「ほんにそうやわ、先《せん》からあの人、めったに家で晩の御飯食べたことあれへん。いッつも料理屋の御飯ばっかり食べ歩くさかいに、そんなことになるねん」
発病以来の啓坊の態度はどうか。表面は取り繕っているけれども、内心伝染病の患者などを引き受けるのは迷惑なのではないか。最初は軽い腸加答児ぐらいに考えていたのが、そうでないと分って見れば手に負えなくなって来たので、なるべく蘆屋の方へ引き取って貰いたいのではないか。―――幸子たちは、一昨年《おととし》の水の時の仕打ちを思い出して、そんなことも気に懸ったが、それもお春の観察に依《よ》れば、格別そう云う風にも見えない。あの水の時は、平素お洒落《しゃれ》の人なので、ズボンを濡《ぬ》らすのが厭《いや》だったのであるが、伝染病の方はそう恐がってはいないらしい。或はあの水の時の仕打ちが、妙子に愛憎《あいそ》を尽かされる原因の一つになったので、今度は努めて実意のあるところを示そうとしているのかも知れないが、手元に置いて治療させようなどと云うことも、満更口先のお上手のみではないらしく見える。それになかなか細かいことに気が付くたちで、何かとお春や看護婦に注意を与えたり、時には氷嚢《ひょうのう》の詰め換えや便器の消毒までも手伝ってくれたりする。と云ったような風であると云う。
「あたしこれからお春どんと一緒に行って見るわ、あたしやったら構《か》めへんやろさかいに」
と、雪子は云った。まさか赤痢で死ぬことはあるまいから、啓坊がそう云ってくれるなら、ほかに病人の身柄を移す適当な場所もないことではあるし、そのまま彼処《あすこ》に臥かして置くのも悪くはないが、看護を先方に任せきりにして、放って置くと云う訳には行くまい。本家や貞之助兄さんは何と云うか知れないけれども、あたし等としてそれは出来ない。兎に角あたしが自分の一存で行く分には差支えあるまい。櫛田さんでも行ってくれているのなら、まだいくらか安心だけれども、初めての医者や看護婦では心もとない。今日からお春どんの代りに私《あたし》が泊り込むことにして、お春どんは連絡係になって貰おう。電話では様子がよく分らないので、却《かえ》って余計気が揉《も》めるし、啓坊一人の男所帯でいろいろ足らない物もあろうし、きっとお春どんに日に何回も往復して貰う必要が起ろう。と、そう云って雪子は身支度をし、簡単にお茶漬を掻《か》っ込むと、姉に迷惑をかけまいと云う心づかいからか、幸子の許可も求めないで出かけて行ったが、幸子も全く同感の気持だったので、敢《あえ》て引き止めようともしないでしまった。
悦子が帰って来て、姉ちゃんは? と聞いたのには、注射から神戸へ買い物に廻ったと、さりげなく答えて置いたものの、夕方夫が帰って来た時は、どうで云わなければ済まないことなので、二三日前からの出来事と、雪子が勝手に出かけて行ったこととを、幸子は包まず打ち明けてしまった。夫は渋い顔をして無言で聞き終ると、良いとも悪いとも云わなかったが、黙許の形で捨てて置くより仕方がなかったからなのであろう。悦子が晩の食事の時に又聞いたので、姉ちゃんはこいさんの病気を看護に行ったのだと、今度はちょっぴり事実を洩《も》らすと、こいさん何処で臥てるのん、何処が悪いのん、と云う工合に畳みかけて来て、根掘り葉掘り聞こうとする。こいさんアパートで臥てるねん、たった独《ひと》りで不便やさかいに姉ちゃんが行ったげてるねん、大した病気やあれへんさかいに子供が心配せんかてええ、と、叱《しか》りつけるように云うと、それきり黙ってしまったけれども、母の言葉を果してその通りに受け取ったかどうか、貞之助と幸子が何とか紛らそうとして別のこと[#「別のこと」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「別なこと」]を話しかけても、浮かぬ面持《おももち》で生返事をして、箸《はし》を運びながら時々そっと両親の顔を上眼で覗《のぞ》き込んでばかりいた。この児は去年の暮以来姿を見せぬ妙子のことを、仕事が忙しいのであろうと云う風に聞かされて来たのであるが、それでもお春から事情をあらまし知らされていたし、又或る程度は知っていてくれる方が母にも都合の好いことがあった。彼女はそれから二三日の間、お春だけが頻繁に往ったり来たりして、雪子がちょっとも戻って来ないのを見ると、いよいよ不安で溜《たま》らなくなったらしく、お春のあとを追いかけてはその後の容態を尋ねていたが、しまいには母を掴《つか》まえて、
「こいちゃん何で家《うち》へ連れて来《け》えへんの。早う引き取ったげなさいな!」
と云い出すようになった。その、あべこべに母を叱りつけるような剣幕《けんまく》には幸子も呆《あき》れて、
「悦ちゃん、こいさんのことはお母ちゃんや姉ちゃんが附いてるよって、悦ちゃんは安心してなさい。子供がそんなことに口出しするもんやありません」
と、宥《なだ》めにかかると、
「そんな所《とこ》に臥かしといて、こいちゃんが可哀《かわい》そうやないの! こいちゃん死んでしまうわ!」
と、興奮し切った声で怒鳴ったりした。
そして実際、経過は決して順潮ではなく、だんだん面白くない方へ向いつつあった。雪子が枕頭に附き切っているので、看護にソツのある筈はないのだけれども、お春の持って来る情報では、日増しに衰弱する一方であると云うことであった。一週間後には検便の結果も明かになったが、赤痢菌の中でも最も悪性な志賀菌が発見されたのであった。それに、どう云うものか今以て一日のうちに熱の差し退きが何回となくある。高い時は九度六分から四十度近くになり、激しい悪寒《おかん》と戦慄《せんりつ》が伴う。それは一つには、下痢を催すと下腹が痛んで苦しがるので、下痢止めを飲ませるせいなので、下痢を止めると身ぶるいが来て熱が上る。反対に通じをつけると熱は下るが、徒《いたずら》に腹が痛んで、出るものは水のようなものばかりなのである。病人は昨今めっきり元気がないようになり、医者も心臓が少し弱って来たようだと云っているので、雪子は気が気でなく、一体こんなことをしていて直るのだろうか、ただの赤痢ではないようにも見えるが、何か余病でも出たのではないか、と云い、そろそろリンゲルかヴィタカムフルの注射でもしてくれたらと、医者にそう云って見るのだけれども、まだそれには及びますまいと云って、してくれないのであると云う。こう云う時に櫛田さんならきっとジャンジャン注射してくれるのに、と雪子は云うのであるが、看護婦に聞くと、斎藤医師の父子は父親の老先生が注射ぎらいなので、若先生もその感化を受けて、余程の場合でなければ注射しないのであると云う。で、もうこうなったら世間体や何かを構ってもいられないから、いっそ櫛田先生を呼んだ方がよいと思うが、何にしても中姉《なかあん》ちゃんに一遍様子を見に来て貰いたい、と、雪子娘《とう》さんは仰《お》っしゃっていらっしゃいます、と云うのであった。お春はそれに附け加えて、ここ五六日の間でございますけれど、こいさんは痩《や》せて痩せてえらいお変りになりました、御寮人様が御覧になったらほんとにびっくりなさいます、と云ったりした。
幸子は伝染病が恐いのと、夫への気がねとで、つい躊躇《ためら》っていたのであったが、今はじっとしていられず、夫には何も云わないで、朝のうちにお春に案内させて行って見ることにした。が、出がけに思い付いて櫛田医師を電話口に呼び、妙子が西宮の或る知人の家で発病したこと、事情があってそのままその家に臥かしてあること、その近所の斎藤と云う医師にかかっていること、その後の経過がかくかくであること、等を掻い摘んで話して意見を聞くと、そんな時にはリンゲルやヴィタカムフルをどんどん注射しなければいけません、放って置いては衰弱するばかりです、手後れにならないように早くお医者さんにそう云って、してお貰いなさいと云うので、事に依ったら先生に診《み》て戴《いただ》きたいのですが、と云うと、斎藤君なら知らない顔ではありませんから、予《あらかじ》め諒解《りょうかい》を得て下さればいつでもお伺い致しますと、例に依って気さくな挨拶である。幸子は電話を切ってから、門前に来て待っていた自動車に乗り、国道を東へ走らしたが、業平《なりひら》橋を渡って数丁行くと、とある山側の邸《やしき》の塀《へい》から枝をさし出した一本の桜が、早くも見事な花を着けているのに心づいた。
「まあ、綺麗《きれい》な、………」
と、お春が口をすべらしたので、幸子も、
「ほんに、あの家の桜は毎年一番早う咲くわな」
と、そう云って、コンクリートの路面ながら陽炎《かげろう》が燃えそうに日が当っている舗道を眺《なが》めた。この間から妙子のことでゴタゴタして、ついうっかりしていたけれども、いつの間にかもう四月に這入っているので、あと十日もすれば花見の陽気になるのである。でも、今年は例年のように姉妹揃《そろ》って京都へ行くことが出来るであろうか。出来たらどんなに嬉《うれ》しいか知れないけれども、幸い妙子が快方に赴いたとしても、そんなに早く出歩けるようになれるであろうか。嵯峨《さが》、嵐山《あらしやま》、平安神宮は駄目《だめ》だとしても、せめて御室《おむろ》の花にでも間に合ってくれないか知らん。………そう云えば去年、悦子が猩紅熱《しょうこうねつ》に罹《かか》ったのも今月であった。あれはお花見の後だったので、京都行きには差支えなかったものの、あのお蔭で菊五郎の道成寺を見損ってしまったのであったが、今年の今月も菊五郎が大阪に来ている。今度の所作は藤娘なので、今年は是非と思っていたけれど、又しても見損うのではないか知らん。………幸子はそんなことを考えながら、遠くの空に甲山《かぶとやま》が霞《かす》んでいる夙川《しゅくがわ》の堤防の上を走らして行った。
病室は二階であると云うことであったが、幸子が玄関の土間へ這入《はい》ると、奥畑と雪子が自動車の停ったのを聞き付けて、直《す》ぐ取っ附きの階段を降りて来た。そして、
「ちょっと、………」
と、奥畑が眼顔で知らせて、
「………御挨拶《あいさつ》は後にしまして、早速ですが御相談せんならんことがありまして、………」
と、階下の奥の間の方へ連れて行った。
実はたった今、斎藤医師が診察に来て帰って行ったところであるが、帰りがけに奥畑が送って出ると、医師は小首を傾けて、どうも容態が面白くありません、心臓が大分弱って来たようです、と云う話である。そして、今のところその兆候がはっきり現れている訳ではないので、或《あるい》は自分の思い過しかも知れないが、どうも触って見た工合では肝臓が腫《は》れているような気がするので、ひょっとすると肝臓膿瘍《のうよう》を起しているのではあるまいか、と云うのであった。それはどう云う病気かと云うと、肝臓に膿《うみ》を持つ病気である。ああ云う風に高い熱の差し退きが激しく、寒気《さむけ》がして顫《ふる》いが来ると云うのは、恐らく赤痢だけでなく、肝臓膿瘍を併発したとしか考えられない。しかし自分の一存では何とも断言しかねるので、一度阪大の然《しか》るべき専門家に来診を乞うた方が安心だと思うが如何《いかが》であろう、と云うことであった。なお聞いて見ると、その病気は他の膿瘍中の黴菌《ばいきん》が取付くので、しばしば赤痢から来るのである、そして、膿を持った腫物が一箇所なら直り易《やす》いが、多発性と云って、多くの膿瘍が肝臓内のあちらこちらに出来ると相当面倒である。膿が腸と癒着《ゆちゃく》した箇所が破れてくれるとよいけれども、肋膜《ろくまく》や、気管や、腹膜の方へ破れると、大抵助からない。―――と、斎藤医師はそう云って、明言を避けてはいるけれども、殆《ほとん》どそれに疑いないものと極めているらしい口吻であったと云う。
「ま、兎《と》も角《かく》も病人に会うてから、―――」
幸子は奥畑と雪子とが|交《こもごも》語るのを聞き終ると、取り敢《あ》えず二階へ上らして貰《もら》った。病室は南向きの六畳の間で、外にちょっとした露台のようなものが附いてい、出入り口がドーアになっており、畳敷きではあるけれども、床の間はなく、天井までも白壁になっていて、一方に押入があるのを除けば、大体洋間の感じである。飾り付けと云っては一隅の三角棚《だな》に、西洋の骨董品《こっとうひん》らしい、きたならしく蝋涙《ろうるい》のこびり着いた燭台《しょくだい》と、その他二三の蚤市《のみいち》からでも買って来たらしいガラクタと、もう余程前の旧作らしい色の褪《さ》めた妙子の仏蘭西《フランス》人形などが載せてあり、壁に小出楢重《こいでならしげ》の小さな硝子絵《ガラスえ》が一枚懸けてあるだけで、本来は殺風景な部屋に違いないのであるが、病人の着せられている臙脂色《えんじいろ》に白い粗い市松模様を置いた、クレプ・ド・シンの嵩高《かさだか》な羽根布団《はねぶとん》が思いきり派手なのと、露台への出口が一間の引き違いの硝子戸になっていて、そこから射し込む日光がその布団の上一杯に照っているのが、ぱっと花が咲いたような明るさを齎《もたら》しているのであった。病人は今少し熱が引いたところだと云うことで、心臓を上にして横向きに、幸子の姿が現れるのを待ち受けていたらしく、じっと瞳《ひとみ》を入口の方に注いでいた。幸子はかねてお春から聞かされていたので、眼と眼と相会う最初の衝撃を恐れていたのであったが、でも幸いに、予《あらかじ》め覚悟をしていたせいか、変り果てたとは云うものの、その窶《やつ》れ方は密《ひそ》かに想像していた程ひどくはなかった。ただ円顔であったのが面長に、浅黒かった肌《はだ》が一層黒ずんで、眼だけが異常に大きくなったように見えた。
しかしそんなことよりも、外に幸子の注意を惹《ひ》いたものがあった。と云うのは、長い間風呂に入らないので、全身が垢《あか》じみて汚れているのは当然だとして、それとは別に、病人の体には或る種の不潔な感じがあった。まあ云って見れば、日頃の不品行な行為の結果が、平素は巧みな化粧法で隠されているのだけれども、こう云う時に肉体の衰えに乗じて、一種の暗い、淫猥《いんわい》とも云えば云えるような陰翳《いんえい》になって顔や襟頸《えりくび》や手頸などを隈取《くまど》っているのであった。幸子はそれをそうはっきりと感じたのではないが、でもぐったりと寝床の上に腕を投げ出している病人は、病苦のための窶ればかりではなしに、数年来の無軌道な生活に疲れ切ったと云う恰好《かっこう》で、行路病者の如《ごと》く倒れているのであった。いったい妙子ぐらいの年齢の女が長の患《わずら》いで寝付いたりすると、十三四歳の少女のように可憐《かれん》に小さく縮まって、時には清浄な、神々しいような姿にさえなるものだけれども、妙子は反対に、いつもの若々しさを失って実際の歳を剥《む》き出しに、―――と云うよりも、実際以上に老《ふ》けてしまっていた。それに、奇異なことは、あの近代娘らしいところが全然なくなって、茶屋か料理屋の、―――而《しか》も余り上等でない曖昧《あいまい》茶屋か何かの仲居《なかい》、と云ったようなところが出ていた。かねがねこの妹だけは、姉妹たちの中で一人飛び離れて品の悪いところがあったには違いないが、そう云ってもさすが何処《どこ》かにお嬢さんらしさがあることは争えなかったのに、その、どんよりと底濁りのした、たるんだ顔の皮膚は、花柳病か何かの病毒が潜んでいるような色をしていて、何となく堕落した階級の女の肌を連想させた。それは一つには、上に懸けてある羽根布団のけばけばしさに対照されて、病人の複雑な不健康さが一層際立《きわだ》ってもいたのであろう。が、そう云えば従来からも雪子だけは妙子の持っているこの「不健康さ」に気が付いていたと見えて、それと云わずに警戒している風があった。たとえば雪子は、妙子が入浴した後では決して風呂に入らなかったし、幸子の肌に触れた物なら下着類なども平気で借りて着る癖に、妙子の物は借りようとしなかった。妙子はこのことを感づいていたかどうか知らないが、幸子はそれをうすうす感づいていたばかりでなく、雪子がそんな風になったのは、奥畑が慢性の淋疾《りんしつ》に罹《かか》っていると云う話を、ふっと耳にした時以来であるらしいことにも、心づいていたのであった。ありていに云うと、幸子は妙子が口癖のように板倉や奥畑との肉体的関係を否定して「清い交際」をしているだけだと云っていたのを、そのまま信じていたのでもないけれども、努めて深くその疑問を突き止めないようにして来たのであったが、雪子はじっと黙っていながら、余程前から妙子に対して無言の批難と軽蔑《けいべつ》とを示していたのであった。
「こいさん、どない?―――えらい痩《や》せた云うことやったけど、そないでもないわな」
と、幸子は出来るだけ平生と変らない口調で云った。
「今日は何回ぐらい下痢があったん」
「今朝から三回あったわ」
と、妙子は例の無表情な顔をして、低い、しかしはっきりした声で答えた。
「―――けど、絞るばかりでなんにも出えへん」
「それがこの病気の特長やわ、裏急後重《りきゅうこうじゅう》云うやないか」
「ふん」
と云ってから妙子は、
「もう鯖鮨には懲《こ》りたわ」
と、始めて微《かす》かに笑って見せた。
「ほんに、もう今度から鯖は決して食べるこッちゃないな」
そう云って、幸子はちょっと改まって、
「こいさん、何も心配することはないねんで。けど斎藤先生が、大事を取るに越したことはないさかい、念のために誰かもう一人相談相手になる先生を呼んでほしい云うてはるよって、櫛田さんに来て貰おう思うてるねん」
幸子が突然そう云い出したのは、蔭で三人がこそこそ相談し合ったりして、まだ重態であることを自覚していないらしい病人の神経を刺戟《しげき》するより、こう云う風に直接打《ぶ》つかってしまった方がよいであろうこと、阪大の偉い先生の来診を仰いだらと云う斎藤医師の提議もさることながら、それも下手をすれば病人に気を廻させる恐れがあるので、先ず櫛田医師を招いて、その意見を徴してからでも遅くはないであろうこと、等を慮《おもんぱか》ったからであった。妙子は幸子がしゃべっている間、放心したような眼を、ぼんやりと、つい鼻の先の畳の上に落して聴いていたが、
「なあ、こいさん、それでええわな?」
と、幸子が促すと、
「うち、櫛田さんにこんな所《とこ》へ来て貰いとうないわ。………」
と、何と思ったか急にきっぱりした語気で云った。いつの間にかその眼には涙が一杯浮かんでいた。
「………うち、こんな所《とこ》にいること、櫛田さんに知れたら耻《はず》かしいわ。………」
看護婦が気を利《き》かして、すうっと座を立って行ったあとに、幸子と、雪子と、奥畑とが、はっとした顔つきで、病人の頬《ほお》を流れ出した涙を見ていた。
「ま、その話は、僕がゆっくりこいさんに聞いて見ますよって、………」
病人を中に置いて幸子たちの向う側に、寝足りない、脹《は》れぼったい顔をして、フランネルの寝間着の上に藍鼠《あいねずみ》の絹のナイトガウンを着て坐《すわ》っていた奥畑が、狼狽《ろうばい》の色を包みきれない様子でそう云いながら、幸子の方へ訴えるような眼差をちらッと向けた。
「ええわ、こいさん、悪かったら止めにするよってに、………もうそんなこと、気にせんと置いて。………」
病人を興奮させないことが第一なので、幸子は宥《なだ》めるように云った。それにしてもまずいことになったと思わないではいられなかったが、何のために妙子が不意にそんな工合に云い出したのか、奥畑には何か分っていることがあるらしいけれども、彼女には想像も付かなかった。
彼女はその日は、夫に無断で出て来たことではあり、昼食の時間も迫っているので、一時間ばかり病室にい、好い塩梅《あんばい》に病人が平静に復したのを見届けると、一と先ず引き取ることにした。帰りは札場筋《ふだばすじ》から電車かバスに乗るつもりで、例のマンボウのある近道を国道へ歩いて行ったが、雪子は途中まで送って来、お春を少し後の方から附いて来させて、姉と並んで歩きながら、
「実は昨夜、けったいなことがあってんわ。―――」
と、そんな風に語り出した。そして云うのには、昨夜の夜中、二時頃であったと思う、自分が病室の廊下を隔てた反対側の部屋に看護婦と二人で寝ていると、(夜は大概自分か看護婦かが交代で病室に詰めるのだけれども、昨夜は病人の容態が最初いくらか良さそうに見え、十二時頃から安眠したようだったので、今夜は僕が代りましょう、あなた方は一遍ゆっくりお休みなさいと啓坊《けいぼん》が云うのに任せて、二人は隣室に寝、病室には啓坊が、病人の枕元《まくらもと》でごろ寝していたらしかった)うーん、うーん、と云う声が聞えて来たので、病人が苦しみ出したのか、それとも魘《うな》されてでもいるのか、啓坊が附いている筈《はず》だのに、と思いながら、急いで起きて、病室のドーアを半分ばかり開けかけた時であった、「こいさん、こいさん」と、頻《しき》りに呼び起している啓坊の声に交って、こいさんが一と声、「米《よね》やん!」と、呼ぶのが聞えた。こいさんが叫んだのは一度だけで、それきり夢が覚めたらしかったが、でもその声はたしかに「米やん」と云ったに違いなかった。自分はこいさんが正気に復《かえ》った様子だったので、又そうっとドーアを締めて、寝床に這入ったが、病室の方もそのあと直ぐにひっそりとしてしまったから、多分何事もなかったのであろうと、その時はそう思った。自分は安心すると同時に数日来の疲れが出て、それから二三時間もとろとろとしていたが、明け方の四時過ぎ頃に、いつもの腹痛と下痢が始まって、こいさんがえらい苦しがり出して、一人では手に負えなくなったので、啓坊が起しに来た。自分はその時からずっと起きてしまったのであるが、今朝になって考えると、あの「米やん」と云ったのは板倉のことに違いなく、昨夜こいさんは死んだあの男の夢を見て魘《うな》されていたのである。そう云えば、たしか板倉の死んだのは去年の五月であったから、そろそろ一周忌が廻って来る時分ではなかろうか。こいさんは、あの男の死に方が尋常でなかったので、それが余程気に懸っているらしく、未だに毎月岡山の田舎まで墓参りに行くのも、一つはそのためなのであろうと察しられるが、ちょうど折も折、あの男の一周忌が近づいた時に重い病気に取り憑《つ》かれて、而もあの男の恋敵であった啓坊の家で寝付くようになったと云うことは、神経に病まない筈はあるまい。こいさんはああ云う風な底に底のある性格であるから、お腹の中は何を考えているのやら容易に窺《うかが》えないけれども、きっとこの間からそのことが胸にあったので、何かそれに関係のある夢を見たのであろう。尤《もっと》もこれは全く自分の想像であるから、当っているかどうかは分らない。何しろ当《とう》のこいさんは、今朝から肉体的な苦痛の方が激しいので精神的苦痛を顧みる暇はなかったし、ようよう苦痛が鎮《しず》まってからも、気落ちしたようにガッカリしてしまっているのである。啓坊も亦《また》、お体裁を作ることにかけてはこいさん以上なので、表面の素振には何も変ったところは見せない。が、自分でさえこんな風に思うのであるから、啓坊があれを気に留めていない筈はない。―――と、雪子は云って、さっきこいさんが突然あんなことを云い出したのも、やっぱりそれがあるからなので、これこそほんとうに自分の臆測に過ぎないけれども、こいさんは昨夜板倉の亡霊に魘されてから、啓坊の家で臥ていることを気にしているのではあるまいか。啓坊の家で臥ている限り、この病気は良くならない、だんだん悪くこじれて行って、最後には死ぬかも知れない、と、そんな風に感じ出したのではないであろうか。それで、さっきのあの言葉は、櫛田医師を忌避する意味ではなくて、此処にいるのが厭《いや》であること、出来れば何処かへ移して貰いたいと云うことの、意志表示なのではあるまいか。―――
「成る程な、ひょっとしたらそんなことかも知れんな」
「なおよう聞いて見ることは見るけど、何せ啓坊がべったり附いてはるよってに、………」
「あたし、ふっと思い付いたんやけど、………もしこいさんを何処かへ移すのんやったら、蒲原《かんばら》病院はどうやろう。………あすこやったら、訳話したらきっと引き請《う》けてくれはるやろう思うねん。………」
「ふん、ふん、………けど、蒲原さんが赤痢診《み》てくれはるやろうか」
「そんでな、病室さえ貸してくれたら、櫛田さんに往診して貰うねん」
蒲原病院と云うのは、阪神の御影《みかげ》町にある外科の病院なのであったが、そこの院長の蒲原博士は、阪大の学生時代から船場の店や上本町の宅に出入りして、蒔岡家の姉妹たちとは娘の頃からの馴染《なじみ》なのであった。それと云うのが、亡《な》くなった父が、当時秀才と云う評判のあった蒲原が学費に窮していることを聞き、人を介して援助の手をさし伸べたのが始まりで、父は蒲原が独逸《ドイツ》へ留学する時にも、帰朝して今の病院を開業する時にも、費用の一部を負担したことがあった。蒲原は一種名人肌の外科医で、手術にかけては大なる自信があっただけに、病院は忽《たちま》ち繁昌するようになり、数年ならずして蒔岡家から補助して貰った金の全額を、耳を揃《そろ》えて一時に返却して来たが、その後も蒔岡家の家族や船場の店の店員たちが治療を受けに行くと、治療代を法外に割引して、何と云ってもそれ以上は受け取らなかった。それは苦学生時代の恩義に報いるためであったことは云う迄もないが、もともと上総《かずさ》の木更津《きさらづ》の生れである彼は、関東者らしい熱血漢で、親分肌の、情誼《じょうぎ》に厚いところのある、一風変った性格の持主なのであった。で、この蒲原に事情を打ち明けて、彼の病院へ然るべき名目で妙子を入院させてくれるように頼んだならば、日頃の彼の気象として「いや」と云わないであろうことは明かであった。尤も外科の病院であるから、治療は櫛田医師を煩わすことにして、病院まで往診に行って貰う。それには幸い、蒲原医師も櫛田医師とは同窓で、懇意な間柄なのであった。―――
幸子は、マンボウの南の出口まで送って来た雪子に、これから帰って蒲原医師と櫛田医師とに当って見るつもりであること、何としても、病人の容態が斯様《かよう》に悪化した以上、殊《こと》に斎藤医師の云うように万一の場合まで予想しなければならないのだとすると、病人自身が望むと望まないとに拘《かかわ》らず、もはや啓坊の家に預けて置く訳には行かないこと、そう云ううちにも油断はならないので、雪子は取り敢《あ》えず、斎藤医師を無理にも説き付けて、至急にリンゲルやカムフルの注射をして貰うようにすること、雪子で駄目《だめ》なら啓坊に掛け合って貰うべきであること、などを云い置いて別れたが、帰宅してから蒲原医師を呼び出して頼んで見ると、案の如く蒲原は直ぐ承知して、特別室を用意しておくからいつでも連れていらっしゃいと云う返辞であった。が、つづいて櫛田医師に懸けると、この方は忙しい人なのでなかなか掴《つか》まらず、患家先をそれからそれへと問い合せて漸《ようや》く連絡がつき、その承諾が得られたのは夕方の六時過ぎであった。幸子は一刻も早い方がとは思ったけれども、そうなればそのようにいろいろ打ち合せもしなければならず、それと云わずに内々憂慮しているらしい貞之助にも、こうなって来たいきさつを話して費用なども出して貰う必要があるので、身柄を移すのは明日の朝の予定にした。で、そのことを西宮へ知らせにやったのが七時過ぎであったが、お春は十二時頃に帰って来て雪子の伝言を告げ、あれから後に又さまざまな事件があったことを語った。先ず病人の容態については、あれから幸子が辞去すると間もなく寒気がすると云ってガタガタ顫《ふる》え出し、熱が一時は四十度以上に昇ったが、晩方になってもまだ八度内外はあった。リンゲルの注射は、奥畑が電話口に出て斎藤医師にうるさくせがんだので、では兎も角もやって見ましょうと云うことになったが、やがて駈《か》け付けたのはいつもの若先生ではなく、老先生の方で、来は来たものの、診察して見てちょっと考え、まだリンゲルをするには及びませんと云って、折角看護婦が用意しかけたのを中止させ、さっさと注射器を鞄《かばん》に収めて帰ってしまった。雪子はそんな有様を見るにつけても、いよいよ医者を取り変える必要を感じ、病人が少し落ち着いた折を待って、どうしても櫛田先生に来て貰うのがよいと思うが、と云う話を持ち出して、もう一度よく聞いて見ると、矢張推量した通りで、理由は云わないのだけれども、此処の家にいつ迄も臥《ね》ていたくない、病院でも甲麓荘《こうろくそう》の部屋でもよいから、別な所へ移して欲しい、その上でなら櫛田先生に診て貰うが、此処へ来られるのが嫌《いや》なのである、―――と、奥畑が枕元にじっと息を詰めているので、それに気がねしつつ云うのであるが、結局のところはそう云うことらしいのであった。奥畑は病人の言葉にひどくイライラして、こいさん、そない云わんと僕所《ぼくとこ》にいなさい、何もそんなに気イ使うことないやないか、と、頻りに思い直させようとするのであったが、病人はそれが全く聞えないような顔をして、雪子にばかり物を云うので、とうとう奥畑は青筋を立て、何でこいさん僕所が嫌になったん、と、ちょっと声の調子を上げた。雪子はその場の様子から、昨夜の妙子の譫語《うわごと》が原因で二人の間に感情の縺《もつ》れがあるらしいことを察したが、それには触れずに、病人に食って懸ろうとする奥畑を宥め、御好意は寔《まこと》に有難いけれども、自分たちとしてもそう長い間病気の妹をお預けして置く訳にも行きかねるし、蘆屋の姉もこう云って来たので、と、蒲原病院へ入院させる手筈が整ったことを話して、纔《わず》かに奥畑を得心させたのであった。
明くる日の朝、妙子は八時に廻された寝台自動車で運び出されたが、その時にも亦《また》ちょっとした悶着《もんちゃく》があった。と云うのは、僕も今迄《まで》お世話した行掛り上、無事に病院へ引渡す迄は責任があるから、是非同車して附添って行きたい、と、しきりに奥畑が云い張るのを、それも御尤《もっと》もではあるが今日のところはあたし等姉妹に任して欲しい、何もあたし等はこれきりこいさんをあなたに会わせないと云うのではないが、そう云ってもあなたとこいさんとの仲は公認されていないことだし、病人も世間体と云うことを気にしている風でもあるから、暫《しばら》くあたし等に病人の体を預けて、遠ざかっていて欲しい、急変等があれば勿論《もちろん》、そうでなくても電話を懸けて下されば日々の容態はお知らせするから、―――と、幸子と雪子とで代る代る拝まんばかりにして説き伏せ、電話はなるべく朝のうちに蘆屋《あしや》の方へ懸けて幸子かお春を呼び出すようにして欲しいこと、直接病院へ懸けるのは差控えて貰《もら》いたいこと、等々までも納得させるのに、一と汗掻《か》いたのであった。幸子は又、斎藤医師にも事情を述べてこの間じゅうの骨折《ほねおり》を謝したが、この方はよく諒解《りょうかい》して、自身蒲原病院へ附添って行くこと、先方で待ち受けている筈《はず》の櫛田医師に引渡す迄の任務を担当することを、進んで申し出てくれたのであった。
雪子は斎藤医師と一緒に病人に附添って行き、幸子とお春とが跡片附けのために残って病室に使われた二階の六畳の掃除をし、看護婦や「ばあやさん」にそれぞれの心づけをしてから夙川《しゅくがわ》のハイアを呼び、一時間ばかり後《おく》れて病人の自動車のあとを追った。幸子は、近親者が入院する時の、あの何とも云えない厭《いや》な感じ、………もうこれっきり帰って来ないのではないかと云うような不吉な予感がする気持を前に経験したことがあるので、今日もその気持に襲われるのを恐れていたのであったが、国道筋へ出てみると沿道の春光は僅《わず》か一日の差で昨日よりも一段と濃く、六甲の山々にはひとしお深い霞《かすみ》が罩《こ》め、ところどころの家々に白木蓮《はくもくれん》や連翹《れんぎょう》の花が咲いていたりして、平生ならばいかにも心が浮き立つような景色[#「景色」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)では「景気」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「景色」]でありながら、矢張何となく重い気分に惹《ひ》き込まれるのを防ぎようがなかった。それと云うのが、昨日と今日とでは病人の様子がひどく変っていることを発見したからで、ありていに云うと、昨日までは斎藤医師にあんな風なことを云われても、話半分に聞いて、まさか最悪の場合なんてことがある訳はない、あれは医者の嚇《おど》かしに過ぎないと、高をくくってもいられたのであったが、今朝の工合では、これはひょっとすると………と、云う風に思えて来たのであった。幸子が第一に気が付いたことは、昨日と違って今朝は病人の眼が据《す》わっていた。平素から表情の顕著な人ではないが、今朝は全く感覚を失ったような茫然《ぼうぜん》たる顔つきになって、異様に大きく見開かれた瞳《ひとみ》が、じっと空間の一点に釘付《くぎづ》けになっていた。それはどうしても死期が近づいた相のように思えて、見ていると恐くなって来るのであったが、昨日はまだあんな風に涙を浮かべて物を云ったりする元気があったのに、今日はさっきも奥畑と姉達が、附いて行く、いや止《や》めてくれ、………で、外の廊下で揉《も》み合っている間じゅう、当人は何も関《かか》わりがないかのように空《うつ》ろな眼を据えているばかりであった。
昨日の電話で、蒲原院長は特別室を用意して置くと云うことであったが、妙子が入れられた部屋と云うのは、病院とは廊下で繋《つな》がって別棟になっている、金のかかった純日本建築の座敷であった。もとこの一と棟は院長の住宅として建てられたのであるが、去年蒲原はここから十丁あまり離れた住吉村観音林《かんのんばやし》に、某実業家の邸宅が売りに出たのを買い取ってその方へ住居を移し、この建物を折々の休憩用に当てていたのを、今度妙子を預かるについて一つは隔離の目的にもかなうところから、超特別室として提供してくれたと云う訳で、客間にしていた廻り縁附の八畳に四畳半の二た間続きを病室に当てて、附添人の便宜のために台所や風呂場までも自由にお使い下さいと云ってくれたのであった。幸子は去年悦子の猩紅熱《しょうこうねつ》の時に雇ったあの「水戸ちゃん」に、出来れば今度も来て貰うように昨日看護婦会へ申込んで置いたところ、好い塩梅《あんばい》に都合を附けて、今朝から「水戸ちゃん」は来てくれていたが、売れっ児の櫛田医師はいつもの伝で、堅く時間を云って置いたのに、幸子が着いてからもなかなか見えず、電話で方々へ問い合せるやら、二三度も催促するやら、えらく手数を懸けさせるのであった。その間斎藤医師は時々腕時計を見ながらも別段厭《いや》な顔もせず、おとなしく待っていてくれて、やっとのことで現れた櫛田医師に引継ぎを終えると帰って行ったが、二人の医師の独逸《ドイツ》語交りの談話の内容は、端《はた》の者にはどう云うことか窺《うかが》い知るべくもなかった。が、櫛田医師の診察の結果は、斎藤医師とは大分違っていて、僕には肝臓が脹《は》れているようには思われない、従って肝臓膿瘍《のうよう》などと云うことは考えられない、熱の差し退きや悪寒《おかん》戦慄《せんりつ》を伴ったりするのは、悪質の赤痢には有り得ることで、異常と云う程のことではなく、大体に於いて順潮の経過を辿《たど》りつつあるものと考えられる、と、そう云うので、ただ何分にも衰弱がひどいからと、その場でリンゲルとヴィタカムフルの注射をし、後刻プロントジールの注射もするように「水戸ちゃん」に命じた。そして、では又明日伺います、そう御心配なさることもないでしょうと、事もなげに云うのであったが、幸子は矢張安心がなりかねて、玄関まで送って出ながら、先生、ほんとうに大丈夫でっしゃろかと、涙の溜《たま》った眼を向けると、大丈夫です大丈夫ですと、いかにも確信ありげなのであった。誰か、阪大の先生あたりに診《み》て戴《いただ》かないでも、………と、云うと、さあ、斎藤君はあんなことを云うけれども、あれは少し大事を取り過ぎますな、もしその必要があるようになれば云いますが、今のところ僕に任して置いてくれても大丈夫ですよ。………けど、素人眼《しろうとめ》でも、昨日まではあんなではあれしませなんだのに、今日は何や人相まで変ってしもうてて、[#「しもうてて、」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「しまうてゝ」(読点無し)]………あの顔つきは死期が近づいた人みたいに見えるやありませんか、と云うと、それは思い過しですよ、衰弱すれば誰でも一時あんな風になりますよ、と、櫛田医師はてんでそんなことは問題にしないのであった。
幸子は、櫛田医師を送り出してから自分も一旦帰宅することにして、院長室の蒲原医師に挨拶《あいさつ》を済ますと蘆屋《あしや》の家へ戻って行ったが、夫も、悦子も、雪子も、お春もいない、変にひっそりした西洋間の椅子にひとり腰掛けてぼんやりしていると、又しても忌《い》まわしい場合が考えられて来るのであった。彼女にして見れば、長年自分たち姉妹の体を手がけている櫛田医師がああ云うのであるし、その人は嘗《かつ》て今迄に見立て違いをしたことがないのであるから、一往その言葉を信じてよいような気はするものの、―――斎藤医師の意見などよりこの人の意見の方を重んじたいのは山々であるものの、―――今度に限って、今朝の病人のあの顔つきを見てからは、何か、骨肉の者だけにしか分らないような予覚が感じられてならないのであった。で、彼女はさしあたり、その予覚に従って本家の姉に知らせるだけは知らせて置く方がよいように思い、その厄介《やっかい》な手紙の筆を執るために戻って来たのでもあるが、それを書くにはあれ以後妙子を見放していたことから始めて、今度病気になったと云う通知を受けて引き取らなければならなくなったいきさつ迄を、多少は事柄に修飾を加えて述べる必要があるとすると、優に二三時間はかかる仕事なので、ちょっとは机に向う気になれず、ようよう重い腰を擡《もた》げて二階の部屋に閉じ籠《こも》ったのは昼の食事を済ましてからであった。彼女は姉妹じゅうで最も筆蹟《ひっせき》がすぐれていて、仮名書きを得意にし、文才にも秀《ひい》でているところから、手紙を書くのをそんなに億劫《おっくう》がらない方で、本家の姉のように下書きなどはせず、好んで巻紙へ毛筆で、肉のたっぷりした大きい文字で打《ぶ》っ付け書きにするのであるが、今日はいつものようにすらすらとは行かず、二三度書き直しをしたりして次のような文を綴《つづ》った。―――
暫く御ぶさたしていました間にいつか今年も好季節になり六甲の山に日々霞が棚引《たなび》くようになりました。阪神間は今が一番麗《うるわ》しい時で、毎年のことですけれども、今時分になると私はいつも家の中にじっとしていられないようになります。長らくおたよりも差上げませんでしたが皆々様御きげんようお暮しですか、こちらは家内一同相変らず元気にしております
さて又いやなことなので、筆がすすみません。実はこいさんが悪性の赤痢にかかり目下重態になっていますに付、兎《と》に角《かく》お知らせしておきます
こいさんのことはいつぞやお手紙もありましたから、気の毒ながらこの家を出て貰い今後絶対に出入りしてくれぬように申し渡しましたことは、あの時御報告した通りです。でもこいさんは案じたように啓坊と同棲《どうせい》することはせず、本山村の甲麓荘と云うアパートで独身生活をすることになったことも、あの時お知らせした筈ですが、その後どんな風にして暮しているのやら、気にかかりながらつい此方《こちら》から尋ねても見ず、先方からも何のたよりもありませんでした。ただお春が時々そっと訪ねるらしく、今もそのアパートに住んでいること、啓坊とは内々交際しているけれども先方の家へ泊り込むようなことはしないらしいと云うことを聞いて、まあまあそれならと、いくらか安心していたような訳でした。ところが先月の末突然啓坊からお春に電話が懸り、こいさんの病気のことを知らせて来ました。まことに都合の悪いことには、啓坊の家に遊びに行っていて発病しましたので、動かすこともならず、そのままそこに寝かせてあると云うことでしたが、最初は病名もよく分らず、そう重大にも考えられなかったので、知らない体《てい》にしていましたところ、その後だんだん赤痢の徴候が明かになりました。しかしもう絶縁したのですし、啓坊の家で世話になっているものを、引取ってよいものかどうか迷ったのですが、お春がえらく心配して、赤痢も悪性の赤痢だし、お医者さんも近所のたよりない人に見て貰ってるだけ、手当も十分には行き届かず、それに高熱と下痢とで日々の苦痛が激しく、大変衰弱して別人のように痩《や》せ細っておられますと云う話。そう聞いても私は放っておいたのですが、雪子ちゃんが私に無断で飛び出して泊り込みで看病に行きましたので、私も捨てておけなくなり、見舞いに行って見てびっくりしました。お医者さんの話では肝臓膿瘍《のうよう》と云う病気を併発しているようで、それであったら事に依《よ》ると助からない、自分だけでは心もとないから誰か専門の大家を呼んで下さいと云うのですが、こいさんも私の顔を見ると涙をぽろぽろとこぼして、此処《ここ》で寝ているのはいやだから何処《どこ》か外の場所へ移してほしいと云うのです。それがどうやら啓坊の家で死ぬのは嫌《いや》だと云うようにも聞えるのです。これは雪子ちゃんの想像ですが、あの板倉と云う写真師の一周忌が近づいて来ているので、こいさんは何かあの男のたたりと云うようなものを恐れているのではないかとのこと。この間も夢でうなされていたらしいとのこと。ほんにそんなこともあるかも知れません。又啓坊の家で死んだら姉ちゃんや私等が迷惑すると云うことを考えているのかも知れません。何にしてもあの我慢強いこいさんが気が弱くなっているのはただごとではありません。顔つきなども昨日あたりから死相が現れたとでも云うのでしょうか、眼がすわって、顔面筋肉がじっと動かないようになってて、見るとぞっとするようで気味が悪いのです。それで私も病人の気持を酌《く》んでやらなければと思い、啓坊には一切出入りして貰わないことにして急に此方へ引取ることに決め、今日寝台自動車で蒲原病院へ運び込みました。実は伝染病の設備のある病院が満員なので、蒲原さんに訳を話して、内証で彼処《あそこ》へ入院させて貰ったのです。お医者さんは姉ちゃんも御存知の櫛田先生が見てくれています
ざっとこう云う事情なのですが、今度の処置は万已《や》むを得なかったことで、兄さんは兎に角、姉ちゃんだけは諒解して下さることと存じます。貞之助も今度は仕方がないと思っているらしく、内々心配もしていてくれるようですが、まだ今のところ自身見舞いに行くようなことはしてくれません。しかし、よもやとは思いますけれども、万一危篤《きとく》の場合には電報でお知らせしますから、何卒姉ちゃんも、そんなことが絶無ではないと云うことを覚悟していらしって下さい。尤《もっと》も櫛田先生の意見では肝臓膿瘍ではなさそうだと云うことで、必ずしも危険な状態ではない、大体順当な経過であると云っておられるのですが、どうも私は、いやなことを云うようですが今度に限って櫛田先生の診察が間違っていはしないかと思えてなりません。どうも今度は、こいさんのあの様子と云い、あの顔つきと云い、不吉な予感がしてならないのです。何卒それが当らないでくれることを祈りますけれども。………
何や彼やあとさきになりましたが、取敢《とりあ》えず今日までのところをお知らせ申します。私はこれから又病院へ行って見ます。この騒ぎで外のことは手に着きませんが、私なんかより雪子ちゃんは、この間から連日連夜殆《ほとん》ど夜の眼も寝ずに看病していてくれますので、こんな時にはどんなに心強いか知れません
では又後便にて
四月四日
幸子
姉上様
おん許《もと》へ
彼女は単純で人の好い姉を、あまり驚かしてはと気づかいながらも、なるたけ妙子に憐愍《れんびん》が注がれるようにと願う結果、つい幾分か病気の状態を大袈裟《おおげさ》に述べた傾きはあるが、それでも大体自分の実感を偽らず書いたには違いなかった。そして、それを書き終えると直《す》ぐ、―――悦子が帰らないうちにと思って、急いで病院へ引き返して行った。
病人の容態は、病院へ移した二三日後から眼に見えて快方に赴いて行った。あの日の気味の悪い死相などは、不思議なことに僅《わず》か一日だけの現象に過ぎなかったものと見えて、もう入院した翌日には、あの顔に漂っていた不吉な幻影のようなものはさっぱりと消え去っていた。幸子は怪しい悪夢から覚めたような気がするにつけても、この間櫛田医師が「大丈夫です大丈夫です」と力強く云った言葉を思い出して、彼の診断の確かなことに改めて感心させられた次第であった。そして、東京の姉があの手紙を見て、どんなにか心配しているであろうと、追っかけて第二の報道を送ってやったが、姉はその知らせが余程嬉《うれ》しかったらしく、いつもの悠長《ゆうちょう》にも似ず、中一日置いて次のような速達便の返事を寄越した。
拝復
先日はまことに思いがけないお手紙を拝見して、どうしたらよいか途方に暮れ、あれから毎日そのことでばかり頭を悩ましつつつい御返事も上げずにいましたところ、只今《ただいま》二度目のおたよりを戴《いただ》いて、ほんとうにほっと安心しました。当人のよろこびは勿論《もちろん》として、私等に取ってもこんな嬉しいことはありません
実は今だから申しますが、私は先日のお手紙で多分こいさんは助からないものと思っていました。それもまあ、当人は今迄《まで》さんざん人に苦労をかけ、好き勝手なことをして来た罰が当ったようなものですから、そう云っては可哀そうですけれども、今死んでも仕方がないようなものですが、もしそんなことがあったら、一体誰が引き取って何処《どこ》から葬式を出すことになるのか。兄さんは恐らく嫌《いや》だと云うでしょうし、幸子ちゃんの所から出す筋合は尚更《なおさら》ないし、と云ってまさか蒲原病院から出す訳にも行かないし、私はそれを考えると胸が痛くなって来て、………こいさんと云う人は何処まで私等に迷惑をかける人だろうかと思っていたのでした
でもまあ良くなってくれて本当に私等も助かります。これも幸子ちゃんや雪子ちゃんの並々ならぬ丹精のお蔭でしょうが、当人には幸子ちゃんたちの心づくしが分っているのでしょうか。分っているなら、これを機会に啓坊との関係を清算して生活を建て直してくれるとよいのですが、そんな気になってくれないものでしょうか
蒲原先生や櫛田先生にも随分お世話になったことと存じますが、姉の身として公然お礼を述べることが出来ない辛《つら》さを察して下さい
四月六日
鶴子
幸子様
侍女
幸子はこの手紙を受け取った日に、それを雪子に読ませるためにわざわざ病院へ持って行き、帰りしなに雪子が病室の外へ送って来た隙《すき》を捉《とら》えて、
「こんな手紙が来たで。―――」
と云いながら、そっとハンドバッグから取り出して、
「此処《ここ》で読み」
と、玄関の上り口で立ち読みをさせた。雪子は一と言、「姉ちゃんらしいわ」と洩《も》らしただけで戻って行ったので、どう云う意味で云ったこととも分らなかったけれども、幸子は何かその手紙から余り好い感じを受けなかった。率直に云うと、姉はその手紙で、自分が最早や妙子に対しては殆《ほとん》ど愛情を持っていないこと、寧《むし》ろ妙子が捲《ま》き起す災厄《さいやく》から自分たち一家を守ることにのみ汲々《きゅうきゅう》としていることを、不用意のうちに曝露《ばくろ》しているのであって、それも一往尤《もっと》もではあるが、しかしそう云う風に云われては、妙子にも不憫《ふびん》が懸るのであった。成る程今度の病気なども、「罰が当ったようなもの」だと云って云えなくはないけれども、乙女時代から好んで波瀾《はらん》重畳の生き方をした妹であるだけに、或《あ》る時は水害で死に損なったり、或る時は地位も名誉も捨ててかかった恋の相手に死なれてしまったり、全く彼女一人だけが、平穏無事な姉たちの夢にも知らない苦労の数々をし抜いて来ているので、もう今迄に罰は十分受けているとも云えるのである。幸子は自分や雪子であったら、とてもこれだけの苦労には堪えられないであろうと思うと、この妹の冒険的生活に感心する気にもなるのであったが、それにしても、最初の報知に接した時の姉の狼狽《ろうばい》した有様や、二度目の報知でほっと胸を撫《な》でおろした様子が眼に見えるようなので、そう云う姉が可笑《おか》しくもなって来るのであった。
奥畑は妙子の入院の翌日の朝、蘆屋へ電話を懸けて来たので、幸子が出て、早くも今朝から持ち直したことや櫛田医師の診断の模様などを委《くわ》しく話し、恢復《かいふく》の方へ一道の曙光《しょこう》を認めるようになったことを告げると、それきり二三日は何とも云って来なかったが、四日目の夕方、幸子が午後から三時頃まで詰めていて帰って行ったあとで、雪子と「水戸ちゃん」とが枕元《まくらもと》にい、お春が次の間の電気火鉢《ひばち》で重湯《おもゆ》を煮ている時であった、只今誰方《どなた》かお宅のお方らしいお人がいらっしゃいました、お名前を仰《お》っしゃらないんですが、蒔岡さんの旦那様かも知れません、と、この日本館の留守番をしている爺《じい》やが取次に来て云った。へえ、貞之助兄さんか知ら? そんなことはないやろ思うけど、………と、雪子が云ってお春と顔を見合せていると、不意に庭の方で靴《くつ》の音がして、萩《はぎ》の袖垣《そでがき》の向うから、派手な茄子紺《なすこん》の両前の背広を着て、金縁の濃い色眼鏡を掛けて、(彼は眼は悪くないのであるが、いつ頃からか折々伊達《だて》に色眼鏡を掛ける癖が附いていた)あの秦皮《とねりこ》のステッキを衝《つ》いた姿がぬっと現れた。この日本館には病院とは別な玄関が設けられているのだけれども、始めて来る人はそれを知らないで、大概病院の玄関の方から案内を乞うのに、奥畑はどうして知ったのか、此方へ訪ねて来、爺やが取次に来ている間に、勝手に玄関から庭の方へ廻ったのであった。(後で分ったことであるが、奥畑はいきなり爺やに「蒔岡妙子の病室は此方ですか」と尋ね、爺やが誰方さんですかと二度聞いたのに対して、「僕だと云って下されば分ります」とばかり答えた。彼が如何にしてこの別館に妙子の病室があることを嗅《か》ぎ付け、如何にして玄関から庭伝いに病室の方へ廻れることを知ったかについては、最初お春が大分疑われたのであったが、多分誰から聞いたのでもなく、自分で根気よく探索したのであるらしい。彼は板倉の事件以来、妙子の行動に対しては変に探偵的興味を抱くようになっていたので、今度も彼女が入院してから時々この病院の周囲を徘徊《はいかい》していたらしいのである)庭は廻り縁に沿うて鍵《かぎ》の手に、東から南へ延びていたが、彼は折柄満開の雪柳の花を揺がしながら奥の八畳の縁側の方へやって来、ちょうど病人の顔の見える位置に来て、少し開いていた硝子《ガラス》障子を外から手をかけて開けひろげ、ちょっとこの辺についでがありましたよってに、と、言訳とも付かずに云って、色眼鏡を外してニコニコした。雪子は紅茶を飲みながら新聞を読んでいたところであったが、見知らぬ男が闖入《ちんにゅう》して来たので吃驚《びっくり》している「水戸ちゃん」を安堵《あんど》させるために、さあらぬ体にもてなして、自身縁側へ出かけて行って挨拶《あいさつ》をし、それから、沓脱石《くつぬぎいし》の上に立ってモジモジしているのを、座敷へ上らせないように、急いで座布団《ざぶとん》を持って来てそこの縁端《えんはな》に席を設けた。そして、奥畑が何か話しかけたそうにするのを避けて次の間へ行き、お春が煮かけていた重湯の土鍋《どなべ》をおろして銀瓶《ぎんびん》を掛け、それが沸くのを待って茶を入れた。彼女はそのお茶をお春に持って行かせようとしたが、愛想のよいお春が掴《つか》まると面倒であることに気付いて、「お春どん、あとはあたしがやるよって、あんたもう帰り」と云い、自分で茶を持って出て、直ぐ又次の間へ引っ込んでしまった。
その日は花曇りのした生暖かい日のことで、座敷の障子が開け放してあったので、庭の方を向いて臥《ね》ていた病人は、面前に奥畑の姿が見え出してからそれが縁側に腰かける迄の動作を見ていた訳であるが、例の無表情な物静かな瞳《ひとみ》を客の方へ注いでいるだけであった。奥畑は雪子に逃げられて、ちょっと照れ臭さそうにしたが、やがてシガレットケースを出して、煙草に火を付けた。そして、だんだん灰が溜《たま》って来たのを足もとに捨てようとして躊躇《ちゅうちょ》し、座敷の中をキョロキョロ見廻して、済みませんが、灰皿おまへんやろかと、誰に云うともなく云ったが、「水戸ちゃん」が気を利《き》かして、有り合う紅茶々碗《こうちゃぢゃわん》の皿を持って行った。
「こいさん、えらい良《え》えのやそうやな」
奥畑はそう云いながら、片脚をすっかり縁側の閾《しきい》に載せて、真っ直ぐに伸ばして、開《あ》け切った硝子障子の縁を踵《かかと》で押さえ、新調の靴が妙子の方へよく見えるようにした。
「―――今やさかい云うけど、こいさん危なかったんやで」
「ふん。―――分ってたわ、そんなこと」
と、妙子がわりに力のある声で応じた。
「―――地獄の一丁目まで行って来たわ」
「いつ頃起きられるようになるやろう? 今年のお花見フイにしてしまうで」
「うち、お花見より菊五郎が見たいわ」
「そんな元気があるのんやったら、もう大丈夫や」
そう云って奥畑は、
「どうですやろ、今月中に出歩けるようになりまっしゃろか」
と、「水戸ちゃん」の顔を見たが、
「さあ、………」
と云ったきり、「水戸ちゃん」も相手にならなかった。
「僕昨夜、坂口楼で菊五郎と一緒やった」
「誰が菊五郎呼びやはったん?」
「柴本君が呼んでん」
「あの人、えらい六代目贔屓《びいき》やてな」
「この間から一遍六代目と飯食うさかい来給え云われててんけど、六代目の奴《やつ》、なかなか来おれへなんでん。―――」
生れつき急勝《せっかち》で、注意力が散漫で、じっと一つ事に身を入れることの出来ない奥畑は、見る物と云ってはせいぜい映画ぐらいなところで、芝居などは辛気臭《しんきくさ》がってめったに覗《のぞ》かないのであるが、それでいて俳優と交際することを好み、以前金廻りの好かった時代には、しばしば彼等を茶屋や料理屋へ招いたものであった。そんなことから、水谷八重子、夏川静江、花柳章太郎などとは、懇意な仲になっていて、そう云う連中が大阪へ来ると、舞台はロクに見もしない癖に必ず楽屋を訪問することを忘れなかったが、六代目なども、芸を愛すると云うのではなしに、ただ訳もなく人気役者と知合いになりたいところから、一度誰かに紹介して貰《もら》いたがっていたのであった。
妙子がいろいろと尋ねるので、奥畑は得意になって昨夜の坂口楼の座敷の模様を語りつづけ、六代目の口の利き方や冗談の云いっ振などを真似《まね》て見せるのであったが、恐らく彼は病人の前でこの話を披露《ひろう》したさに訪ねて来たのに違いなかった。雪子と二人で次の間に控えていたお春は、こう云う話を聞くことが何よりも好きなので、「早う帰り」と二度も雪子に云われながら、そのつど「はい」「はい」と返辞ばかりして密《ひそ》かに聴き耳を立てていたが、「お春どん、もう五時になるで」と、又云われると、仕方なしに立ち上った。彼女は大概毎日午後病院へやって来て、ひとしきり食事の世話や洗濯などをして、夕飯の時刻までに蘆屋へ帰って行くのであるが、ああして奥畑の若旦那はいつ迄しゃべっているのであろう、病院へ来てはならない筈だったのに、御寮人《ごりょうん》さんがお聞きになったらきっと吃驚《びっくり》なさるであろう、好い加減に帰ってくれなかったら、雪子娘《とう》さんはどうなさるか知ら? それでは約束が違いますから何卒お帰りになって下さい、と、娘《とう》さんではよう仰《お》っしゃるまいが………と、お春は途々《みちみち》そう思いながら、新国道の柳の川の停留場へ出て、いつものようにそこから電車へ乗ろうとすると、折よく蘆屋川の顔見知りの運転手が、神戸の方から空のタキシーを飛ばして来たので、ちょっと! 帰りやったら乗せて行ってんかと、往来の此方側から声をかけて自分の傍へ車を着けさせ、わざわざ廻り道をさせて蘆屋の家の曲り角まで運んで貰った。彼女は勝手口から息を弾ませて上って行き、台所で玉子の薄焼を作っているお秋に、御寮人さん何処《どこ》にいやはる? 旦那さんまだお帰りになれへんやろうな? えらいこッちゃねん、奥畑の若旦那さんが病院へやって来やはってん、と、通りがけにさも大事件らしく口走って、廊下から洋間を覗《のぞ》き込み、好い塩梅《あんばい》に幸子がひとり長椅子に臥ころんでいるのを見付けると、御寮人さん、今若旦那さんが病院に見えてはりますねん、と、ひそひそ声で云いながら這入《はい》って行った。
「え」
と云って、幸子も途端に顔色を変えて起き上ったが、事件よりも仰山そうなお春の声に驚かされた形であった。
「いつ来やはったん」
「さっき、御寮人さんがお帰りになると直ぐでございました」
「まだいやはるのん」
「はあ、わたくしが出て参りました時迄はいらっしゃいました。………」
「何ぞ用でもあったんか知ら」
「この辺についでがあったよって見舞いに来た仰っしゃって、取次も待たんと、不意に庭の方から這入っていらしって、………雪子娘《とう》さんは次の間へ逃げておしまいになりまして、こいさんと話してらっしゃいました」
「こいさん、怒らへなんだかいな」
「いいえ、機嫌《きげん》ようお話しになっていらっしゃいましたようでしたけど、………」
幸子は取り敢《あ》えずお春をそこに残して置いて、自分ひとり離れ座敷の夫の書斎へ行き、卓上電話に雪子を呼び出して(電話嫌《ぎら》いの雪子は最初「水戸ちゃん」を代りに出したが、済まないが雪子ちゃんに出て貰ってほしいと云うと、不承々々に自分が出た)聞いて見ると、まだ啓坊はいると云う返辞であった。最初は縁側に腰かけていたのが、だんだん日が暮れて寒くなって来たので、上れとも云わないのに勝手に中へ這入って硝子障子を締め、枕もとに坐《すわ》って話し込んでいる、それにこいさんが又どう云う訳か厭《いや》な顔もせず相手になっている、あたしは次の間に引っ込んでいたのだけれど、いつ迄そうしてもいられないので、座敷に出て、二人がしゃべるのを傍観している、さっきから帰って貰おうと思って、お茶を入れ替えて出して見たり、暗いのにわざと電燈を点《とも》さずに置いたり、いろいろにしているのだけれど、素知らぬ顔でいつ迄も下らないおしゃべりをしている、と云う。あの人は何処かそう云う風なずうずうしいところのある人だから、黙っているとこれから始終やって来るようになるかも知れない、なかなか帰らないようなら、あたしが行って上げようかと云うと、でももう夕飯時であるし、今中姉《なかあん》ちゃんから私《わたし》に電話が懸ったことも分っているから、そのうちには帰るであろう、わざわざ今から来てくれるにも及ぶまい、と云う。幸子は、そうこうするうち夫が帰宅する時間ではあり、悦子が又、今時分から何しに行くのかとうるさく聞きたがるであろうことを顧慮して、ではまあ雪子ちゃんに任せるよって、あんじょう云うて帰って貰いなさい、と、そう云って電話を切ったものの、雪子では結局何も云い出さないでしまうことが分っているので、あれからどうなったであろうかと、一と晩じゅう気になりながら、ついそれなりに、電話を懸ける折も得られずに夜を更《ふ》かしてしまったが、十一時頃に夫のあとから二階の寝室へ上ろうとすると、お春がそっと寄って来て、
「あれから一時間程してお帰りになったそうでございます」
と、耳打ちをした。
「あんた、電話懸けたん?」
と云うと、
「はあ、さっき公衆電話へ行って懸けて参りました」
と、お春が云った。
明くる日病院へ行って聞くと、あれからまだなかなか帰りそうにもないので[#「ないので」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「しないので」]、雪子は又次の間へ引っ込んでしまって、それきり一遍も顔を出さずにいた。しかしだんだん本当に暗くなって来たので、仕方なく電燈をつけた。そして、病人の夕飯の時間が過ぎてしまうので、「水戸ちゃん」を呼んで、重湯を持って行かせた。奥畑はそれでも平気で、食慾があるかとか、いつからお粥《かゆ》が[#「お粥が」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)では「お粥を」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「お粥が」]食べられるかとか、僕も腹が減って来たが何か取って貰《もら》えないかとか、この辺では何処《どこ》がおいしいだろうかとか、そんなことまで云い出したが、しまいに「水戸ちゃん」までが次の間へ逃げ込んで、病人と二人きりにさせて置いたところ、そのうち実際空腹になって来たと見えて、「では失礼いたします、えらい長いことお邪魔しました」と、次の間の方へ声をかけて、又縁側から庭へ降りて帰って行った。その声をかけた時にも、雪子は襖《ふすま》の間から顔だけ出して挨拶《あいさつ》をし、わざと送っても出なかった。そんなことで、多分四時頃から六時頃まで、二時間ばかり上り込んでいたように思うが、それにしても一体こいさんが、「帰ってほしい」と云うことを一と言ぐらい云ってくれてもよかったではないか、あんな人が突然庭から這入《はい》って来て、いやに威張った口を利《き》いたりして、(雪子は前から、中姉ちゃんのいる時といない時では啓坊の態度が大変違う、と云っていたが、昨日は特に横柄《おうへい》であったと云う)「水戸ちゃん」だって随分けったいに思ったであろうし、あたし等がどんなに迷惑しているか分っていたであろうに、こいさんなら「帰れ」と云うことを云える人でもあり、云うのが当り前ではないか、と、そう雪子は云うのであったが、でもその不平を面と向って妙子には云わず、蔭で幸子に訴えるのであった。
幸子は、そんな風では又二三日うちに来るかも知れないと思うにつけて、この際此方から訪ねて行って、今後病院へは二度と来てくれないように頼み込むことが必要であると感じたが、そう云えば、どちらにしても一遍奥畑へ挨拶に行くべき場合なのであった。と云うのは、先月末の斎藤医師の勘定なども、多分奥畑が払ってくれているのであろうし、妙子が臥《ね》ていた十日ばかりの間の薬餌《やくじ》を始め附添人の食い雑用《ぞうよう》などでも、随分厄介《やっかい》を掛けている筈《はず》で、細かいことを云えば、医者の送り迎えをした自動車代、運転手への心付け、日々の氷の代金などを考えても、相当の金額を立替えて貰っているのであったが、実はあれ以来それらの義理を済ましていないのであった。が、今更金で持って行っても受け取ってはくれないであろうし、………それも、斎藤医師の分ぐらいは是非受け取って貰うとして、あとは品物にするより仕方がないが、どのくらいに見積って、どんなものを持って行ったらよいであろうか、幸子にはその辺のことが分らないので、なあ、こいさん、どんなものやろうか、と妙子に聞くと、そんなこと、うちが味善《あんじょ》うするよって放《ほ》っといて、と、妙子は云って、今度の費用は、奥畑方で病臥《びょうが》中の分も、入院してから以後の分も、当然自分が支払うべきものだけれども、病中は貯金を引き出すことが出来ないので、一時啓ちゃんや中姉ちゃんに立替えて貰っているのである、いずれ全快した上で自分がすっかり清算するから、中姉ちゃんはそんな心配をしないでほしい、と云うのであった。しかし妙子のいない所で雪子の意見を聞くと、こいさんはああ云うけれども、アパート生活をし始めてから半年近くにもなるのだし、もう大分貯金を使い減らしているであろうから、口では立派なことを云っても、恐らくお金なんか返しはしないであろう、それでもこいさんと啓坊の仲なら差支えないであろうが、あたし等が間に這入っていてそんな訳には行かないから、お金ででも、品物ででも、早く返してしまう方がよい、と云い、なお附け加えて、中姉《なかあん》ちゃんは今でも啓坊をお金持のように考えているかも知れないけれど、あたしはこの間じゅうあの家に泊っていて、思いの外内証が苦しいのだなと心付いたことがいろいろあった、たとえば御飯のお数なども驚くほど質素で、晩の食卓にもお吸物の外には野菜の煮《た》き合せのようなものが一品附くだけで、啓坊も看護婦もあたしも皆同じものを食べたのである、お春どんが時々見かねて、西宮の市場から天ぷらだの蒲鉾《かまぼこ》だの大和煮《やまとに》の缶詰《かんづめ》だのを買って来てくれることがあったが、そんな時には啓坊もお相伴《しょうばん》に与《あずか》っていた、斎藤先生の運転手に遣《や》る祝儀なども、なるべく私が気を付けて出すようにしたが、しまいにはいつも私に払わせて知らん顔をしていた、でも啓坊は男だけに細かいことには無頓着《むとんじゃく》な風を装っていたが、何となく油断がならない気がしたのはあの婆《ばあ》やさんと云う人であった、あの人は啓坊思いの忠義者で、気だても優しく、こいさんのためにも随分親切に手を尽してくれたけれども、一方台所の経済は一切自分が切り盛りしていて、一銭二銭のことも無駄《むだ》がないように始末した、と云い、どうも私の見るところでは、あの婆やさんはうわべは実に愛想がよいが、内心ではあたし等の一家、殊《こと》にこいさんには余り好感を持っていないのではないかと思う、と云って何も私に対してそんな様子を見せたのではないが、どうも私はそう云う風に直感した、その辺のことをもっと委《くわ》しく知りたかったら、お春どんはあの婆やさんと始終話し合っていたようであるから、お春どんに聞いたらきっと何か分ることがあるに違いない、何にしてもあの婆やさんがいるのでは、なおさら一文の借金も残して置いてはならない、と云うのであった。
そう聞くと幸子も、だんだん気に懸ることがあるので、帰宅してからお春を呼び入れて、あの婆やさんはあたし等をどう云う風な眼で見ていたか、何かあの婆やさんから聞いていることはないか、あるならみんな云ってほしい、と云うと、お春は眼を白黒させて、ひどく深刻そうな顔つきをして考えていたが、申しましても構いませんでございましょうか、と念を押してから、恐る恐る次のようなことを語り出した。―――
実はこのことは、折があったら一遍御寮人さんのお耳へ入れて置く方がよいのではないかと存じていたのでございました、と、そうお春は前置きをして云うのであったが、彼女は先月の下旬、奥畑の家に出入りしていた間にすっかりあの婆やと懇意になった。しかし妙子があの家に病臥していた期間中は、お互にいろいろ用事が多かったので、ついぞゆっくり話し合ったことはなかったが、妙子が入院した翌日の朝、荷物がまだ少し残っていたのを取り纏《まと》めに行った時のことであった。その日は奥畑が外出中で、婆やがひとり留守をしていて、まあお茶でも飲んで行ってくれろとすすめるままに、暫《しばら》く上り込んでおしゃべりをしたが、婆やはその時頻《しき》りに幸子や雪子のことを褒《ほ》めちぎり、お宅のこいさんはよい姉さんたちを持って仕合せだ、それに引き換えうちの若旦那は、自分にも悪いところがあるには違いないけれども、お家《いえ》さん(先代の夫人)が亡《な》くなってからは、兄弟にも見放されたようになってしまい、そうなると又世間の者も相手にしない有様なので、ほんとうに気の毒でならない、それにつけても、今ではただお宅のこいさん一人を頼りにしておられるらしいので、どうかこいさんが奥様になって上げて下さるとよいのですが、と、涙ぐみながらそう云って、是非この縁が纏まるようにあなたも力を添えて上げてくれろと、お春に頼むのであった。それから、少し云いにくそうにして、若旦那はこの十年来こいさんのためにあらゆる犠牲を払って来ている、と云い、奥畑が長兄から勘当され、出入りを差止められるようなことを仕出来《しでか》したのも、原因は妙子にあると云う意味を、非常に婉曲《えんきょく》にではあったが、だんだん仄《ほの》めかすようにした。婆やが話したことの中でお春が一番意外に感じたのは、ここ数年来、妙子は大部分奥畑の経済的支持に依《よ》って生活していたと云う事実で、分けても去年の秋から此方、甲麓荘でアパート暮しをするようになってから以後は、殆《ほとん》ど毎日、朝早くから、と云うのはつまり朝飯を食べる前から、奥畑方へ遊びに来、三度の食事を西宮の家で済まして、夜おそく、ただ寝泊りをするためにだけアパートへ帰った、だから独力で自炊生活をしていたなどと云うものの、実際は奥畑の家に寄食していたと同様で、洗濯物のようなもの迄も皆運んで来て婆やに洗わせるか、此方からクリーニングに出すようにした、二人が外でさまざまな娯楽に費したお金は、孰方《どちら》が負担したかよく分らないけれども、いつも奥畑の紙入には百円か二百円這入っていたものが、妙子と出かけて帰って来ると、一と晩で空っぽになっていたところを見ると、これも大概彼が奢《おご》っていたものと推定される、従って妙子が月々自分の貯金から払っていたものがあるとすれば、甲麓荘の部屋代ぐらいなものであろう、と云うのであったが、そう云われてもお春が何だか合点しかねる顔つきをしているので、こんな話が出たついでだから、と、婆やはここ一年ばかりの間のいろいろな請求書や領収証などを奥から持って来た。そして、妙子が寄食するようになってからと、それ以前とでは、いかに毎月の経費に夥《おびただ》しい相違があるかを説明するのであったが、なるほど、瓦斯《ガス》代、電気代、自動車代等から始めて八百屋魚屋等の払いに至るまで、去年の十一月以後は急に驚くほど勘定が嵩《かさ》んでおり、妙子がこの家でどんなにしたい三昧《ざんまい》の贅沢《ぜいたく》をしていたかが想像出来るのであった。のみならず、百貨店、化粧品店、洋品店等の書付を見ると、妙子の買い物が大部分を占めているのであったが、お春は図らずも、去年の十二月に妙子が神戸のトーアロードのロン・シン婦人洋服店で拵《こしら》えた駱駝《らくだ》のオーバーコートと、今年の三月頃に同じ店で拵えたヴィエラのアフタヌンドレスの勘定書があるのを見付けた。駱駝の方は、表と裏と色の違う織り方になっている、厚くて而《しか》も大変軽い地質のもので、表は茶、裏は非常に花やかな赤であったが、当時妙子は、この外套《がいとう》は三百五十円かかった、仕方がないから派手で着られなくなった着物を二三枚処分して払った、と云って、得意そうに姉たちやお春に見せびらかしたものであった。お春はその頃蘆屋の家を追い出されて自活するようになった妙子が、それにしてもそんな贅沢をしてよいのかと思ったことを今も忘れないのであるが、ほんとうは奥畑に作って貰ったのだとすれば、いかにも合点が行くのであった。
婆やは、私がこんな話をするのも、決してこいさんを悪く云うつもりなのではない、ただ若旦那がこいさんの機嫌《きげん》を取るためにはどんなに一生懸命であるかと云うことを、申しているのである、お耻《はずか》しい話をするようだけれども、もともと若旦那は奥畑家の坊々《ぼんぼん》だと云っても三男坊のことであるから、そんなにお金が自由になる身分ではない、それもお家さんの存生中はまだどうにかなったけれども、今では全く水の手が切れてしまった、去年勘当された時に母屋《おもや》の旦那(長兄のこと)から僅《わず》かな涙金を貰ったのが唯一《ゆいいつ》の財源で、その元金を片端から少しずつ崩《くず》して行ってようよう今日まで凌《しの》ぎを付けて来たのであるが、こいさんを喜ばすことで夢中になっている若旦那は、後先見ずに濫費《らんぴ》するので、それももう長くは続きそうもない、そうなったらなった時で、どうにかなると云う考が若旦那にはあるのだろうけれども、それならそのように、心を入れ替えて真人間になったと云うところを見せるのでなければ、親戚《しんせき》の人達の同情が集まらない、私もそれを心配して、今のように毎日ぶらぶらしていないで、早く勤め口でも見付けて、たとい百円の月給でも稼《かせ》ぐようになさいませ、と云うのであるが、何としてもこいさんのことで頭が一杯になっているので、とても外のことには気が向かない有様である、ついては私が考えるのに、若旦那を正道に引き戻すにはこいさんを奥さんに持たして上げるより外に方法はない、この問題はもう今から十年前、あの新聞の事件以来の懸案で、お家さんや母屋の旦那はあの当時不承知であったし、私も不賛成を唱えた一人だったけれども、今から思うと、あれはやっぱり許して上げた方がよかったのだ、そうしたら若旦那だって脱線なさらず、今頃は幸福な家庭を持って真面目《まじめ》に働いていたであろう、と、そう云うのであった。そして、母屋の旦那はどう云う訳かこいさんと云うものを余程悪く取っているので、今でも若旦那がこいさんと結婚することを喜びはしないであろうが、どうせ勘当の身の上なのだから、そんなことに遠慮しないで、構わず結婚してしまったら、そういつ迄も反対し切れるものではないし、却《かえ》って新しい道が開けるであろう、と云い、今では実際の難関は、母屋の意志よりも寧《むし》ろこいさんの方にある、なぜなら、私の見るところでは、今日のこいさんはすっかり心変りしていて、最早や若旦那と結婚する気がないらしいからである、と云うのであった。
こう云うと又こいさんを批難するように聞えるかも知れないが、そんなつもりではないのだからと、婆やは何度も言訳しながら言葉を継いで、蒔岡さんのお宅では若旦那をどう云う風に思っておられるか、―――それはまあ、世間知らずの坊々であるから、欠点を拾えばいろいろあるには違いないが、―――少くともこいさんに対して今も昔に変らない純真な感情を持っていることだけは私が保証する、尤も、十七八の歳から茶屋酒の味を覚えたので、その頃は品行も悪かったようであるし、一時こいさんと引き離されていた時代にも乱行に耽《ふけ》ったことがあるようだけれども、それも好きな人と添えないために焼けを起したのであるから、その心持は察して上げてほしいのである、しかしこいさんは若旦那とは段違いに賢いお嬢さんで、料簡《りょうけん》もシッカリしてい、女に似げない技能を身に付けておられるのだから、若旦那のような甲斐性《かいしょう》なしでは物足りなくなったのかも知れないし、それも無理でないところもあるが、十年来の並々ならぬ間柄を考えたらそう簡単に捨てられる筈のものでもあるまいし、若旦那の一途な胸の中も少しは可哀そうと思って戴《いただ》きたいのである、それに、どうせ若旦那と添う気がないのなら、あの米吉どんの事件があった時に、きっぱり別れてしまってくれたら、若旦那としてもまだ諦《あきら》めようがあったろうに、あの時も米吉どんと結婚するようなしないような、若旦那に対しても愛着があるような無いような、曖昧《あいまい》な態度だったので、つい若旦那も引き擦《ず》られて来たのであるが、米吉どんが死んだ今日になっても矢張相変らずの態度で、切れようともせず、かと云ってはっきり同棲《どうせい》しようともしないのはどう云う訳か、あれでは若旦那を経済的に利用出来るだけする気なのだ、と云われても仕方がなくはないか、―――と、そんな風に云うのであった。お春は少し腑《ふ》に落ちないので、婆やさんはそう云われるが、板倉さんの事件の時にあたし等が聞いたのでは、こいさんは何とかして板倉さんと結婚したかったのだけれども、若旦那が邪魔をするので思うように行かない、それと一つには、雪子娘《とう》さんの縁が極まるのを待っているのだ、と云う風に云っておられた、と云うと、雪子娘さんのことは兎に角、若旦那が邪魔をしたと云うのは可笑《おか》しい、あの時分でもこいさんは、若旦那に内証で米吉どんに逢っていた一面、米吉どんに内証で若旦那にも逢っていた、それもこいさんの方から電話で若旦那を呼び出したりすることが始終であったのを、私は知っている、つまりこいさんは若旦那と米吉どんとを巧《うま》い工合に操っていたような形なので、本心は米吉どんが好きだったのかも知れないが、或る必要から、若旦那とも出来るだけ長く縁をつないでいたのだと思える、と云い、その時分から妙子は既に慾得ずくで奥畑を釣《つ》っていたのだ、と云わんばかりなのであった。でも、こいさんは婆やさんも知っての通り、あの時分にはまだ人形の製作をしておられたので、その方の収入で結構食べて行けた上に貯金までもしていたくらいで、何も若旦那のお世話になる「必要」なんかなかった筈である、と、お春が云うと、それはそう云う風にこいさんは云っておられたのであろうし、お春どんにしても、お宅の奥さんや雪子娘《とう》さんにしても、それを真に受けておられたのであろうけれども、凡《およ》そ考えて見ても分ることは、こいさんがいくら働きがあると云っても、女の腕で、而《しか》もお嬢さんの遊び半分にする片手間仕事の収入で、衣食住にあんな贅沢を尽しながら一方では貯金をするなんて云うことが、ほんとうに出来たであろうか、何しろ立派な仕事場を持っておられたそうであるし、西洋人のお弟子まであったと云うし、米吉どんに製作品の写真を撮らしたりして宣伝が派手であったから、お宅の方々がつい身贔屓《みびいき》でこいさんの実力を買い被《かぶ》られたのも無理はないが、恐らくそんなに大した稼ぎがあったのではあるまい、貯金も通帳を見たのでないから何とも云えないが、多分高の知れたものだったであったろう、もしそうでなく、沢山預けていたとすれば、蓄《た》め込むために若旦那から搾《しぼ》っていたと云うことにもなる、と、婆やは云って、事に依ると、こいさんにそう云うことをさせた黒幕は、案外米吉どんであったかも知れない、米吉どんにすれば精々こいさんが若旦那の支援を受けていてくれる方が、自分の負担がそれだけ軽くなる訳であるから、内々若旦那と逢っていることも分っていながら、見て見ないふりをしていたのかも知れない、とさえ云い出すのであった。
お春は一つ一つ聞かされることが心外で溜《たま》らず、妙子のために多少は弁護して見たけれども、婆やの方にはれっきとした根拠があって、しかしこうこう云うことが、と、いくらでも例証を挙げるのであった。お春もさすがにそれらをそのまま幸子に聞かせる勇気がなく、あまりひどいことばかりですよって、よう申しません、と云うのであったが、でも一つ二つ洩《も》らしたのを記すと、婆やは妙子が宝石を何箇持っていて、それらの石は何々であるかと云うことをよく知っていた。(妙子は事変が始まって人々が指輪を篏《は》めるのを遠慮するようになってから、それらの石を宝石函《ばこ》に収めて命よりも大切にし、アパートへは持って来ないで幸子に保管を依頼していた)それと云うのが、それらの石は皆奥畑商店の商品であったのを、奥畑がそっと持ち出して与えたもので、それが発覚する度毎にお家さんが臀拭《しりぬぐ》いさせられていたのを、婆やは何度も見たことがあると云うのである。婆やの話では、宝石のままで与えたのもあれば、金に換えて与えたのもある、或は妙子が与えられた宝石を、密《ひそ》かに他へ売り飛ばしたのが、廻り廻って奥畑商店へ戻って来たこともある、尤《もっと》も奥畑が兄の店から胡麻化《ごまか》した商品の悉《ことごと》くが、妙子の所へ運び去られた訳ではなく、奥畑自身の小遣いに化けたものもあるが、大部分が妙子の手に渡ったことは確かと見てよく、妙子はそれらを情《じょう》を知って受け取ったのみならず、自分の方から特に孰《ど》の指輪がほしいと云ってねだったこともあるらしいと云う。(指輪の外に、腕時計、ブローチ、コムパクト、頸飾《くびかざり》等々があったことは勿論《もちろん》である)兎に角、何十年も奥畑家に奉公して、奥畑を赤子《あかご》の時から育てている婆やのことであるから、細かいことをよく知っていて、そう云う風に例を引き出すと縷々《るる》として際限がないのであったが、しかし婆やは、自分でも云う通り、妙子を恨んだり憎んだりしているのではなく、いかに奥畑が妙子のために献身的であったかと云うことを立証しようとしている訳なので、お宅の皆さんはほんとうの事情を御存知ないところから、うちの若旦那を大層悪く取っておられ、それで結婚にも反対しておられるように思われるので、一と通りお話するのである、若旦那が勘当されるようになった原因が何処にあるかを考えて下すったら、よもやお宅さんで結婚を許さぬなどと云うことは仰っしゃるまいと思う、と云い、わたしはこいさんを善いの悪いのと云うのではない、若旦那がそれほど打ち込んでおられるお嬢さんなら、わたしに取っても大切なお方であると思っている、ついては何卒《なにとぞ》こいさんが気持を直して若旦那と一緒になって下さるように、皆さんのお力で仕向けて戴きたい、聞けばこいさんは、近頃又好きな人が出来たとやらで、そのためになお若旦那を袖《そで》にする傾きがあるらしいとのことだけれども、それがほんとうなら、若旦那の懐中がそろそろ淋《さび》しくなりかけて来たので、見切りを付けようとしておられるのかも知れない、などとも云った。
婆やの話が意外な方へ発展したので、お春はぎょっとして、「又好きな人が出来た」と云うのは誰から聞き込まれたのか、私は今日が初耳ですが、と云うと、それは私も確かなことは云えないけれども、この頃若旦那とこいさんとはよく痴話喧嘩《げんか》をする、そんな時に若旦那が「三好」と云う名を口にして嫌味《いやみ》を云っておられるのを、たびたび聞いた、何でも神戸の人間らしいが、何処に住んで何をしている男なのかは明かでない、ただ若旦那が「バアテン」とか、「あのバアテンの男」とか云うことをよく云っておられるが、「バアテン」とは何のことだろう、と云うので、その男が神戸の何処かの酒場に勤めるバアテンダアであるらしいことは見当が付いたけれども、それ以上のことは婆やも全然知らないと云うので、深くは追究せずにしまった、と、そうお春は云うのであったが、その話のついでに分ったことは、妙子が相当な大酒飲みであることであった。彼女はいつも幸子たちの前ではせいぜい過しても一二合ぐらいなのであるが、婆やの話だと、西宮の家で奥畑と飲む時は日本酒なら七八合、ウィスキーなら角罎《かくびん》の三分の一は平気で空ける、なかなか強くてめったに醜態は演じないけれども、たまに何処で飲んで来るのか、ぐでんぐでんに泥酔して奥畑に介抱されながら帰って来ることがあり、それが最近はだんだん頻繁《ひんぱん》になって来ていたと云うことです、と云うのであった。
お春の話を幸子が此処《ここ》まで聞き終るのには、多大の忍耐を要したことは云う迄《まで》もない。話の途中で彼女はしばしば自分の顔が赧《あか》くなるのを感じ、はっとして我と我が耳を掩《おお》いたくなったり、お春どん、もう止《や》めて! と、覚えず手を挙げて制したくなったりした。そして、まだまだ聞けばいくらでもあとがありそうなのを、
「もう好《え》え、彼方へ行ってて」
と、やっと一段落ついたところでお春を部屋の外へ追いやり、そのままテーブルに突っ俯《ぷ》して心の衝撃の静まるのを待った。
………さてはやっぱりそうだったのか、………やっぱり恐れていたことが本当だったのか。………誰にも身贔屓《みびいき》と云うものはあるから、婆《ばあ》やの眼には啓坊《けいぼん》と云うものが純真の青年のように映るのであろうけれども、実際は決してそんなにこいさんに対して生一本な愛を捧《ささ》げていたのではあるまい。彼を軽薄な極道息子であると見る夫やこいさんの観察の方が、多分当っているのでもあろう。が、だからと云って、こいさんを一種のヴァンパイアのように云う婆やの言葉迄を、虚言であるとすることは出来ない。ちょうど婆やが啓坊を買い被《かぶ》っているように、私たちもこいさんと云うものをいろいろの点で買い被っていたのである。………幸子は、従来とても妙子の指に新しい宝石が光っているのを見る度毎に、忌《い》まわしい疑念を抱かないでもなかったのであるが、………しかし妙子は、さも自分の働きで買った品物のように云って自慢したものなので、その得意そうな様子を見ては、そう云う疑念も立ちどころに消え失せるのが常であった。それに、何と云っても当時妙子はアトリエを構えて製作していたことではあり、その作品が相当な高価で捌《さば》けて行くのを幸子も目撃して知っていたし、個展の時などは帳合いや計算を手伝ったりしたこともあるので、つい妙子の云うことを信じさせられていた訳であった。その後妙子はだんだん人形の製作から遠ざかって洋裁の方に転じ、自然収入の道が跡絶《とだ》えるようになったけれども、猶《なお》且《かつ》洋行の準備とか、洋裁店開業のためなどに貯蓄した金があるとのことで、生活には困らないように云っていたのであった。幸子はそれでも、貯金をなし崩《くず》しに費消しているのでは心細いであろうと察して、小遣い取りに悦子の服を縫わせてやったり、近所の知人の家庭から洋裁の注文を貰って来てやったりしたので、今度はその方の収入があるようになり、それだけでもどうやら食べて行く分には差支えない程度になっていた。だから幸子は、妙子の生活の内幕についてたまたま疑惑を感じることがあっても、いつもこれらの理由を思って心の中で打ち消し打ち消しして来たのであったが、………親兄弟の力も借らず、まして他人の支持などには頼らず、女の腕一つで独立独行していると云う妙子の言葉を、努めてその通りに受け取っていたのであったが、………それがやっぱり身贔屓と云うものであったのか。………でも、妙子は始終奥畑のことを何と云っていたか。まるで経済的無能力者のように云い、世話になるどころか、将来自分が養ってやらねばならぬ人間のように云っていたではないか。啓ちゃんの金などは一銭一厘もあてにしない、啓ちゃん自身にも、なるべくそれには手を着けさせないようにする、などとも云ったことがあるではないか。あんな立派な口を利《き》いたのが、みんな世間や姉たちを欺《あざむ》く方便だったと云うのであろうか。………
が、責められるべきは妙子よりも、むしろ彼女に巧《うま》く円められていた、余りと云えば世間知らずの、甘いおめでたい姉たちの方であるかも知れない。幸子は今になって見ると、お嬢さんの片手間仕事であんな贅沢《ぜいたく》が出来る筈《はず》はないと云う婆やの言葉を、尤《もっと》もと思わないではいられなかった。幸子としてもあの当時そう云う風にしばしば考えたのであるが、その考を突き詰めることを回避した傾きがあったので、そう云う点は、おめでたいのでなくて狡《ずる》いのだと云われても仕方がないのであった。ただ何処までも、自分の肉身の妹をそんな不良な女であると思いたくなかったこと、―――それが間違いのもとだったのであるが、恐らく世間の人たち、分けても奥畑の本家の人々や婆やなどは、幸子たちの心事をそうは取っていなかったであろうと思うと、幸子は又しても顔が赧くなって来るのであった。いったい、彼女は奥畑の母や兄が奥畑と妙子との結婚に飽くまで反対していると聞いて、ひそかに不快の念を禁じ難かったのであるが、なるほど、彼等が反対した理由も今になれば頷《うなず》けるのであった。彼等の眼には妙子が一箇のヴァンパイアとして映ったばかりでなく、妙子の背後にある家庭までが不健全なものに映ったのであろう。妹にああ云うことをさせて置く兄たちや姉たちの気が知れない、―――定めし彼等はそう感じたに違いないのであった。彼女はそこまで考えて来ると、妙子に義絶を申し渡した辰雄の処置が、結局正しかったことを認めるより外はなかった。彼女は又貞之助が、妙子の問題にはなるべく関係したがらなかったことを思い出した。夫は彼女が訳を詰《なじ》ると、こいさんは性格が複雑で、僕には腹が読めないから、と云っていたが、夫には妙子の暗黒面が大体分っていたからなのであろう。そして、さすがに遠慮して、婉曲《えんきょく》な云い方でそのことを諷《ふう》していたのであろうが、そのくらいならもっとはっきりと注意してくれたらよかったのであった。
幸子はその日、もう西宮へ行くのも止めにしてしまい、少し頭が重いからと、ピラミドンを飲んで二階の部屋に閉じ籠《こも》ったきり、打ち拉《ひし》がれたようになって、夫にも悦子にも顔を合わせないようにして暮したが、その明くる朝も、夫を送り出してしまうと、又寝室へ上って行って横になった。妙子が入院してからと云うもの、大概毎日見舞いに行くことにしていたので、午後にでもちょっと行って見ようか、とも思ったが、何だか妙子と云うものが急に今迄とは別箇のもの、―――自分とは遠く掛け離れた、薄気味の悪い存在になったような気がして、逢いに行くのが恐いようにも感ぜられた。と、午後の二時頃にお春が上って来て、今日は病院はどうなさいますか、只今雪子娘《とう》さんから電話で、「レベッカ」と云う小説があったら持って来てほしい、と仰《お》っしゃっていらっしゃいますが、と云うので、あたしは今日は止めにする、あんた持って行ったげ、六畳の間の本棚《ほんだな》にあるよってに、………と、幸子は矢張寝たままで命じた。が、ふと思いついて、お春を呼び止めて、もうこいさんも手エ懸らんようになったことやし、雪子ちゃんに一遍骨休めに帰って来るように云いなさい、と、そう云い付けて出してやった。
雪子は、先月の末奥畑の家へ駈《か》け着けてから、そのままずっと病院の方へ附き添って行き、今日で十日余りの間一度も帰らずにいたのであったが、お春が幸子の言葉を伝えると、その晩久振に帰って来て、家族と食卓を共にした。幸子も夕方から起きて、努めて何事もなかったように食堂に出たが、貞之助は雪子の労をねぎらう意味で、もうその頃は貴重品になっていたバアガンディーの白葡萄酒《しろぶどうしゅ》を、乏しくなりかけた貯蔵の中から特に一本選んで来、自分で罎《びん》の埃《ほこり》を払い、気持のよい音をさせて栓《せん》を抜きながら、
「雪子ちゃん、もうこいさんはええのんか」
と、聞いたりした。
「はあ、もう心配あれしません。何《なん》せ衰弱してますのんで、もとのように回復する迄にはなかなかですやろけど。………」
「痩《や》せてるか、そんなに?」
「はあ、あの円い顔が長うなって、頬《ほお》の骨が飛び出てますねん」
「悦子、見舞いに行きたいなあ。―――」
と、悦子が云った。
「行ったらいかん? お父ちゃん」
「うん、………」
と云って、貞之助はちょっと眉《まゆ》を曇らしたが、でも直ぐ晴れやかな顔をして、
「行ってもええけど、伝染病やよってに、………お医者さんの許可がある迄はいかん」
貞之助が、悦子の前でこんな工合に妙子の噂《うわさ》を持ち出したり、悦子が妙子に会うことを必ずしも禁じないかの如《ごと》き口ぶりを見せると云うのは、今日は特別に機嫌《きげん》が良いせいなのでもあろうが、それにしても全く予想の外のことで、何かしら妙子の扱い方について考え直すところがあったのではないかと、幸子たちには思えた。
「お医者さんと云えば、櫛田先生が診《み》てくれてはるのやてな」
と、貞之助は又雪子に聞いた。
「はあ、………けどこの頃は、もう大丈夫や云やはって、さっぱり来てくれはれしません。何せ忙しいお医者さんですよってに、少し病人がようなった思うたら、いつもあれですねんわ」
「雪子ちゃんももう行かんかてええのんやろう」
「はあ、もう構《か》めしません」
と、幸子が云った。
「―――『水戸ちゃん』が附いててくれますし、お春どんが毎日手伝いに行ってますよってに。―――」
「菊五郎いつにする、お父ちゃん」
と、悦子が云った。
「いつでもええ、姉ちゃんが帰って来やはるのん待ってたんや」
「そんなら、今度の土曜日にする?」
「けど、お花見の方が先やな、菊五郎は今月一杯あるさかいに」
「そんなら、お花見、きっとやな、お父ちゃん」
「ふん、ふん、今度の土曜日曜を外したら、もう花はおそいよってにな」
「お母ちゃんも、姉ちゃんも、きっとやな」
「ふん、………」
幸子は、今年だけ妙子が一人欠けるのも淋《さび》しいことなので、もし貞之助が許してくれそうな様子なら、なるべく月末まで待って見て、病人の回復の程度に依《よ》っては、皆で御室《おむろ》へでも行って見たい気がしたのであったが、さすがにそう迄は云い出し得なかった。
「なあ、お母ちゃん、何考えてるのん。………お花見いややのん?」
「待って見たところで、こいさんはとてもあかんことないか」
と、貞之助は妻の心持を察して云った。
「まあ八重にでも間に合うたら、又その時のことにして、一遍われわれで行こうやないか」
「こいさんは、今月末にやっと部屋の中を歩けるぐらいでっしゃろな」
と、雪子が云った。
雪子は貞之助と悦子が浮き浮きしているのに比べて、幸子の気勢が上らないのに早くも心づいていたのであったが、翌朝父子《おやこ》が出かけてから、
「そう云えば、啓坊のとこへ行って来たん?」
と、聞くと、
「いいや」
と云って、
「そのことで話があるねん。―――」
と、幸子は雪子を促して二階へ上り、八畳の間の襖《ふすま》を締め切って、昨日お春に聞いたことの総《す》べてを告げた。
「なあ、雪子ちゃんはどう思う、婆やさんの云やはること本当やろうか」
「中姉《なかあん》ちゃんはどう思う」
「やっぱり本当と違うやろうか」
「あたしかてそう思うわ」
「みんなあたしが悪かったんやわ、………あんまりこいさんを信用し過ぎたのんが。………」
「そうかて、信用するのんが当り前やないの。………」
雪子は幸子が泣き出したので、自分も眼をうるませながら云った。
「………何も中姉ちゃんが悪いことあれへん。………」
「あたし、本家の兄さんや姉ちゃんにどない云うて言訳したらええやろう。………」
「貞之助兄さんに話したん?」
「何も云わへん。………こんなみっともないこと云えるかいな」
「貞之助兄さん、もっとこいさんを寛大に扱うた方がええ、云う考にならはったんと違うか知らん」
「昨夜の工合やったら、そうらしいわな」
「貞之助兄さんはこいさんがどんなことしてるか云うこと、誰にも聞かはらんかて大凡《おおよ》そ察しはったんやわ。ああ云う人を勘当したまま放《ほ》っといたら、一層われわれが耻《はじ》掻《か》かんならん、云うとこに気イ付きはったんやわ」
「折角貞之助兄さんが考え直してくれはったんやったら、こいさんかて改めてくれたらええのんに」
「あの人は小さい時からああ云う傾向あったよってにな」
「もう云うて見てもあかんやろか」
「あかんわ、こいさんは。………今迄かて何遍も云うたやないの」
「やっぱり婆やさんの云やはるように啓坊と一緒にすることやわな、啓坊のためにも、こいさんのためにも」
「それより外に二人を救う道はないやろ[#「道はないやろ」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「道ないやろ」]思うけど。………」
「こいさん、そんなに啓坊を嫌《きろ》うてるのやろか」
幸子も雪子も、三好とか云うバアテンダアの男のことが気になっていたには違いなかったが、その名を口にすることさえも不愉快だったので、殊更《ことさら》そんな存在を無視するようにして話した。
「嫌うてるのやら、そうでもないのやら、あたしにも分らへん。こないだあんなに彼処の家にいてるのん厭《いや》がってた癖に、一昨日は啓坊に『帰れ』とも云わんと、いつまででも相手になったりして、………」
「あたし等《ら》には嫌うてると見せかけて、ほんまはそうでもないのんか知らん」
「そうならええけど、………帰って貰いとうても『帰れ』と云えん義理があるのんと違うやろか」
雪子はその日ちょっと病院へ戻って行き、「レベッカ」を持って直ぐ帰って来て、それから二三日はその本を読んだり、神戸へ映画を見に行ったりして、専《もっぱ》ら骨休めをした。そして、次の土曜日には貞之助の発議に従って、夫婦、悦子、雪子の四人で一と晩泊りで京都へ行き、兎も角も吉例の花見をしたことであったが、今年は時局への遠慮で花見酒に浮かれる客の少いのが、花を見るには却《かえ》って好都合で、平安神宮の紅枝垂《べにしだれ》の美しさがこんなにしみじみと眺《なが》められたことはなく、人々が皆物静かに、衣裳《いしょう》なども努めて着飾らぬようにして、足音を忍ばせながら花下を徘徊《はいかい》する光景は、それこそほんとうに風雅な観桜の気分であった。
そのお花見が済んでから二三日して、幸子はお春を代理として西宮の奥畑の家に遣わし、さしあたり妙子が発病して以来の立替金だけを払って来させた。
奥畑はその数日後に果して又病院へやって来た。その日は「水戸ちゃん」の外にお春が居合せただけで、どない致しましょうと、電話で問い合せて来たのに対して、こないだみたいに虐待《ぎゃくたい》せんと、どうぞお上り下さい云うて気持よう扱うたげなさい、と幸子は命じたが、夕方に又お春から、只今《ただいま》お帰りになりました、今日は三時間ばかり話していらっしゃいました、と知らせて来た。と、それから中二日置いて、又同じ時刻にやって来て、その日は六時過ぎになっても帰らないので、お春の一存で国道の菱富《ひしとみ》から料理を取り寄せ、お銚子《ちょうし》まで一本添えて出すと、すっかり嬉《うれ》しがってしまって、九時になってもまだ話している始末であったが、ようよう帰って行ったあとで、お春どん、あんな余計なことせんかてええのんに、と、妙子がえらく機嫌《きげん》を悪くした。あの人、ちょっとでも優しい顔見せたら何《なん》ぼでも図に乗るよってにな、と云うのであったが、でも、そう云う妙子がたった今まで愛想よくあしらっていた後だったので、自分が何で叱《しか》られたのやら、お春にはさっぱり呑《の》み込めなかった。
妙子が予想した通り、思いの外の優待に味を占めた奥畑は、二三日すると又訪ねて来、夕飯に菱富の料理を食べ、十時になっても帰ろうとせず、しまいに泊って行くと云い出したので、一往電話で幸子の許可を得た上で、窮屈だけれども八畳の間に、病人の床と「水戸ちゃん」の床に並べて、この間じゅう雪子が寝ていた床を敷いて泊め、特にその晩はお春も居残って、これは有り合せの座布団《ざぶとん》に毛布を被《かぶ》って次の間で寝た。翌朝お春は先日妙子に怒られたので、パンでもあるとよいのでございますが、生憎《あいにく》切らしましたのでと、わざと紅茶と果物だけを出すと、奥畑は悠々《ゆうゆう》とそれを食べて出て行ったが、その数日後に妙子は退院して甲麓荘《こうろくそう》の部屋に帰った。尤《もっと》も、まだ暫《しばら》くは安静を要するとのことだったので、その当座はお春が毎日蘆屋から通い、朝早くから夜遅くまで詰め切って食事その他の世話を焼いたが、そうこうするうちに花と云う花は一重も八重も残らず散り、菊五郎は大阪を打ち上げて行ってしまった。妙子がほんとうに出歩けるようになったのは五月の下旬からであったが、幸いなことにいつからともなく貞之助の態度が軟化して、公然「許す」と迄《まで》は云わなかったけれども、彼女が出入りすることに最早や異議を挟《さしはさ》まない意向であることを明かにしたので、妙子は六月中殆《ほとん》ど日に一度は蘆屋へ来て食事をし、せいぜい滋養分を摂取して回復を早めることに努めた。
そんな間に、欧洲《おうしゅう》の戦争は驚天動地の発展を遂げて、五月には独軍が、和蘭陀《オランダ》、白耳義《ベルギー》、ルクセンブルグ等に進撃してダンケルクの悲劇を生み、六月には仏蘭西《フランス》が降伏してコンピエーニュで休戦協定が成立すると云う有様であった。それにつけても、シュトルツ一家の人々はどうしているであろう。ヒットラーなら万事を巧《うま》く処理するから多分戦争にはならないであろうと云っていたあの夫人の予言は悉《ことごと》く外れて、このような大動乱の世の中が出現したのを、夫人は今頃いかに感じているであろう。あの長男のペータアも、もうヒットラーユーゲントに加わっている年頃ではなかろうか。事に依《よ》ると父親のシュトルツ氏なども召集を受けているのではあるまいか。でもあの人達は、夫人やローゼマリー迄が、祖国の輝かしい戦果に酔うて一時の家庭の寂寥《せきりょう》などは意に介していないでもあろうか。―――などと、幸子たちは始終そんな噂《うわさ》をした。欧洲の大陸から切り離された英国が、いつ独軍の大空襲の餌食《えじき》になるかも知れない形勢になったについては、倫敦《ロンドン》の郊外にいると云うカタリナのことも話題に上った。ほんとうに、人の運命ほど測り難いものはない。ついこの間まで玩具《おもちゃ》のような矮小《わいしょう》[#「矮小」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)では「矯小」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「矮小」]な家に住んでいた亡命露西亜《ロシア》人の娘が、忽《たちま》ち英国に渡って大会社の社長殿の夫人に出世し、お城のような邸宅で人も羨《うらや》む栄華な暮しをするようになったかと思えば、それも束の間で、今や英国民全体の上に未曾有《みぞう》の惨事《さんじ》が降りかかろうとしているのである。独軍の空襲は、分けても倫敦周辺の地区に於いて苛烈《かれつ》を極めるであろうから、あの豪壮なカタリナの邸宅なども一朝にして灰燼《かいじん》に帰するであろう。いや、それくらいで済めばよいが、悪くすれば食うに食なく纏《まと》うに衣なき境涯《きょうがい》にまで落ちねばなるまい。恐らく英国の人々は、いつから空襲が始まることかと生きた心地もないであろうが、今となって見ればカタリナも、遠い日本の空に憧《あこが》れてはいないであろうか。あの夙川《しゅくがわ》の貧しい家に住む母や兄の上に思いを馳《は》せて、自分もあの家にいた方がよかったと、後悔しているのではなかろうか。………
「こいさん、一遍カタリナのとこへ手紙出して見たら、………」
「ふん、今度キリレンコの兄さんに遇《お》うたらアドレッス聞いて見るわ」
「シュトルツさんの所へも出したいねんけど、誰か手紙を独逸語に訳してくれる人ないやろかなあ」
「又ヘニングさんに頼んだらええやないの」
そんな話があってから間もなく、幸子はいつぞやのヘニング夫人に飜訳《ほんやく》を頼むつもりで、シュトルツ夫人に宛《あ》てて一年半ぶりに長文の書信を書いた。そして、独逸の花々しい戦績は親交国民のわれわれとしても同慶の至りに堪えないこと、新聞で欧洲の戦争の記事を読む毎にあなた方御一家の安否を思っていろいろの噂をしていること、われわれの方は相変らず元気に暮しているが、日本も中国との紛争が収まらないので、だんだん本式の戦争に引き込まれる憂いがあること、あなた方と隣人同士で朝夕往来しつつあったあの時代に比べると、僅《わず》かな間に何と世の中が変ったことかと驚くのであるが、又いつの日にああ云う時代が来るであろうかと懐旧の情に駆られていること、あなた方はあの物凄《ものすご》い洪水《こうずい》に遭《あ》われたりしたので、日本について或《あるい》は厭《いや》な印象を受けられたかと思うのであるが、ああ云うことは何処《どこ》の国にも稀《まれ》にしか起らない災厄《さいやく》であるから、何卒《なにとぞ》あれにお懲《こ》りなく、平和になったら再び日本へ来て戴《いただ》きたいこと、私たちも一生に一度は欧羅巴《ヨーロッパ》の地を蹈《ふ》みたい念願が切であるから、いつかはハンブルクのお宅をお訪ねする日があるかも知れないこと、殊《こと》に娘にはピアノをみっちり仕込みたいので、事情が許せば他日独逸へ音楽修行に行かしてやりたいと思っていること、等々を記し、なお別便でローゼマリーに絹と扇とを送る旨《むね》を追白に書いた。彼女はその草稿を持って翌日ヘニング夫人を訪ねて飜訳を依頼し、又数日後に大阪へついでがあったので、心斎橋筋の「みのや」へ行って舞扇を買い、それをクレプ・ド・シンの生地と一緒に小包便でハンブルクへ出した。
六月上旬の土曜日曜に、貞之助は留守を雪子に頼み、悦子をも彼女に預けて、幸子と二人だけで奈良の新緑を見に出かけた。これは去年から今年にかけ、二人の妹の身の上に関する事件が代る代る起って来て、神経を休める暇もなかった妻を慰労するためでもあったが、それよりは、久振にほんとうに夫婦水入らずになって見たかったからであった。で、土曜の晩は奈良ホテルに泊り、翌日春日《かすが》神社から三月堂、大仏殿を経て西の京へ廻ったが、幸子は午《ひる》頃から耳の附け根の裏側のところが紅く脹《は》れて痒《かゆ》みを覚え、鬢《びん》の毛が触るとその痒さがひとしおであるのに悩んだ。それは蕁麻疹《じんましん》のような痒さであったが、今朝から春日山の若葉の間をくぐり抜けたり、ライカを持ち歩いている貞之助のために五六回も木の下に立ってポーズしたりしたので、そんな時に蚋《ぶと》のようなものに螫《さ》されたのかも知れなかった。彼女は、こう云う季節に山路《やまみち》を行くには何か虫避《むしよ》けに頭から被れるものを携帯すべきであったと思い、ショールを持って来なかったことを悔いたが、晩にホテルへ帰って町の薬屋までカルボールリニメントを買いにやると、そんな薬はございませんと云って、モスキトンを買って来た。が、モスキトンでは利《き》き目がないかして、夜に入ってからいよいよ痒く、一晩じゅう眠れなかったので、翌朝ホテルを立つ前にもう一度町へ使をやって亜鉛化オレーフを買って来させ、それを塗ってから出かけたが、上本町で真っ直ぐに事務所へ行く夫と別れて、ひとり蘆屋へ帰った幸子は、漸《ようや》くその日の夕方に痒みが癒《い》えて来たのを感じた。と、夫はいつもの時刻に帰宅して、何と思ったか、ちょっと耳をお見せと云って、幸子をテラスの明るい所へ引っ張り出して疾患部を仔細《しさい》に見、ふん、これは蚋やないで、南京虫《ナンキンむし》やで、と云うのであった。へえ、何処で南京虫にやられましたやろ、と云うと、奈良のホテル[#「奈良のホテル」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「奈良ホテル」]の寝台や、僕かて今朝はここが痒いと思うたら、ほら、と云って夫は二の腕をまくって見せ、これ、たしかに南京虫の痕《あと》や、お前の耳にかてこれが二箇所もあるやないか、と云うので、合せ鏡をして見ると、成る程それに紛れもなかった。
「ほんに、そうやわ。―――あのホテル、ちょっとも親切なことないし、サアヴィスなんかも成ってない思うたら、南京虫がいるなんて、何と云うひどいホテルやろ」
幸子は折角の二日の行楽が南京虫のために滅茶々々にされたことを思うと、いつ迄も奈良ホテルが恨めしく、腹が立って仕方がなかった。
貞之助は、ではそのうちにもう一遍旅行し直そうと云っていたが、六月七月はその折もなくて過ぎていたところ、八月の下旬に東京へ行く用が出来たのを機会に、何処か東海道の沿線では、と云い出したので、幸子はかねてから考えていた富士五湖めぐりを所望した。で、貞之助が先に上京し、幸子は二日後から行って浜屋で落ち合い、新宿から立って帰途は御殿場《ごてんば》へ出ることにした。彼女は大阪を立つ時に、夏は三等寝台に限る、暑苦しいカーテンのようなものがなく、風がすうすう吹き通すから二等よりは却って涼しい、と云う夫の意見に従って、三等寝台の下段に乗ったが、その日の昼に防空訓練があり、生れて始めてバケツのリレーに駆り出されたので、その疲れが残っていたせいか、とろとろしながら頻《しき》りに防空訓練の夢を見ては覚め見ては覚めした。何でも蘆屋の家の台所らしいのであるが、実際のよりはずっとハイカラな亜米利加《アメリカ》式の台所で、そこらじゅうがタイルや白ペンキでピカピカ光っている中に、研《みが》き立てた磁器やガラスの食器類が夥《おびただ》しく並んでいて、それらが、防空サイレンが鳴ると、突然パチャン、パチャン、と云う音を立ててひとりでに破裂するのである。そしてキラキラした細かい破片があたり一面に散乱するので、雪子ちゃん、悦ちゃん、お春どん、危い危い、此方へ来なさいと云って、食堂へ逃げ込むと、又そこの食器棚《だな》の珈琲茶碗《コーヒーぢゃわん》や、ビールのコップや、ワイングラスや、葡萄酒《ぶどうしゅ》やウィスキーの罎《びん》がパチャン、パチャンと破裂する。此処《ここ》も危い危いと云って二階へ上ると、今度は電球と云う電球がパチャンパチャン割れる。しまいに彼女は家族を連れて木製の器具ばかりしかない部屋へ逃げ込んで、ようようほっとしたと思うと眼が覚める。………そんな夢を何度か繰り返して見ているうちに夜が明けたが、朝がた誰かが窓を開けた拍子に、石炭殻が彼女の右の眼に這入《はい》って、どうしても取り除かれず、涙が出て仕方がなかった。九時には浜屋へ着いたけれども、貞之助は早朝から用足しに出かけたと云うことなので、昨夜の寝不足を補うために床を敷かせて横になって見たが、矢張眼瞼《まぶた》の中に引っかかる物があって、瞬《まばた》きすると眼球が痛く、その度毎に涙が出る。眼を洗ったり点眼水を挿《さ》したりしても良くならないので、宿の番頭に近所の眼医者へ案内して貰《もら》い、眼の中の物を除いて貰ったが、医者は今日一日だけこれを外さないようにと云って、右の眼に眼帯をさせ、明日もう一度いらっしゃいと云うのであった。貞之助は午に帰って来て妻が眼帯をしているのを見、それ、どないしたんや、と云うので、あなたのお蔭でえらい目エに遭いましてん、もう三等寝台は懲り懲りやわ、と云うと、どうも僕等の旧婚旅行は奈良以来ケチが附いたようや、と云って笑ったが、これから又出かけて来る、今日じゅうに用を片附けて、明日の朝早う立つようにしたいけど、いつ迄そんなもんしてるのや、と云う。眼帯は今日一日だけでええそうですけど、大事にせなんだら眼球に傷が行くよって、明日もう一遍見せに来なさい云われてますねん、朝早いのやったらどないしましょう、と云うと、眼エにゴミが這入ったぐらい何やねん、医者は銭取主義やよって大層そうに云うねん、そんなもん今日のうちに直ってしまうがな、と云って出かけた。
幸子は夫の留守の間にと思って、渋谷へ電話をかけて姉を呼び出し、実はこれこれで今朝此方へ出て来たけれども、今日一日の滞在ではあり、眼帯をしていて鬱陶《うっとう》しくもあるので、勝手ながらそちらから出て来て下されば、………と云うと、会いたいけれども私《あたし》もちょっと手が放せない、と姉も云って、妙子のその後の様子などを聞くので、もう本当にもと通りになったこと、そう厳格に「勘当」して置くのもどうかと思うことがあったので、公然とではないけれども出入りだけは許していること、などを語り、委《くわ》しいことは電話では云えないが、近いうちに又出て来るであろうから、………と、そう云って切った。それでもあまり退屈なので、街路に日蔭が出来るのを待って銀座方面へ散歩に出かけ、前に一度見たことのある「歴史は夜作られる」と云う映画が懸っているのを見付けて、ふと這入る気になったが、片眼で見るせいかシャルル・ボワイエの顔がはっきりせず、あの魅力のある眼がいつものように美しく感じられないので、途中から眼帯を外してしまった。と、いつの間にか眼は殆ど直っていて、涙も何も出て来ないので、ほんに、云やはる通りやったわ、もうちゃんと良うなってるのんに、お医者さんはみんなあんなこと云うて、一日でも長う引っ張ろうとしますねんな、と、晩に幸子は夫に云った。
その翌日と翌々日の二日間、夫婦は河口湖畔のフジ・ヴィウ・ホテルに泊ったのであったが、このたびの旧婚旅行は奈良での失敗を償うて余りあるものであった。二人は暑い東京から逃れて来て、爽《さわ》やかな山麓《さんろく》の秋の空気を深々と吸い、ときどき湖のほとりの路を逍遥《しょうよう》したり、二階の部屋のベッドの上に身を横たえつつ富士の姿を窓越しに眺《なが》めたりするだけで、既に十分満足であった。幸子のように上方に生れて関東の地を蹈むことの稀な者が富士山に寄せる好奇心は、外国人がフジヤマを憧憬《どうけい》するのにも似て、東京人の想像も及ばないものがあるので、彼女が特にこのホテルを選んだのも、フジ・ヴィウと云う名に惹《ひ》かされた訳であったが、いかさま、此処へ来て見ると、富士はこのホテルの正面玄関と相対して、眉《まゆ》を圧するばかりの距離に迫っていた。幸子は今度のように富士山の傍近くへ来、朝に夕に、時々刻々に変化するその相貌《そうぼう》に心ゆくまで親しむことが出来たのは始めてであった。ホテルは建物が白木の御殿造りである点が奈良ホテルに似ているけれども、外の点では何一つ奈良に似ているところはなかった。奈良の建物は白木と云っても年代が古く、うす汚れしていて、暗く陰鬱《いんうつ》な感じがしたが、ここは壁や柱の隅々《すみずみ》までが真新しく、清々《すがすが》しかった。それは普請《ふしん》してからそう年数がたっていないせいもあろうが、一つにはこの山間の空気の類なく清澄なせいなのである。幸子は着いた翌日の午後、昼の食事のあとで、暫くベッドへ仰向けに臥《ね》てじっと天井を視詰《みつ》めていたが、そうしていても、一方の窓からは富士の頂が、他の一方の窓からは湖水を囲繞《いにょう》する山々の起伏が、彼女の視野に這入って来た。彼女は何と云うこともなく、まだ行ったこともない瑞西《スイス》あたりの湖畔の景色を空想したり、バイロン卿《きょう》の「シロンの囚人」の詩を思い浮べたりした。そして、何処か日本の国でない遠い所へ来たような気がしたが、それは眼に訴える山の形や水の色が変っているからと云うよりは、むしろ触覚に訴える空気の肌《はだ》ざわりのせいであった。彼女は清冽《せいれつ》な湖水の底にでもいるように感じ、炭酸水を喫するような心持であたりの空気を胸一杯吸った。空には雲のきれぎれが絶えず流れているらしく、折々日が翳《かげ》ってはぱっと照ることがあったが、そう云う時の室内の白壁の明るさは、何か頭の中までが冴《さ》え冴《ざ》えと透き徹《とお》るように思えた。それに、この間までは相当避暑客で賑《にぎ》わっていたのが、二十日過ぎから急に閑散になったとやらで、今は泊り客が多くはいず、広いホテルがひっそりとしていて、耳を澄ましても何の物音もしないのである。その静かさの中にあって、その光線の、明るくなったり翳《かげ》ったりが何回となく繰り返されるのを見ていると、彼女は「時間」と云うものがあることをも忘れた。
「あんた、………」
夫も彼女と同じ思いに浸っていたのであろう、隣りのベッドに臥そべって四辺を領する静寂を味わいながら、長い間黙然と天井を睨《にら》んでいたが、今しがた起きて富士の見える窓際《まどぎわ》の方へ歩いて行ったところなのであった。
「あんた、………面白いことがあるねんわ、………ちょっと、これ見て御覧。………」
「何やねん」
貞之助が振り返って見ると、幸子はベッドの上に上半身を起して、枕元《まくらもと》の卓上にある、側《がわ》がニッケルで出来ている魔法罎の表面を眺めているのであった。
「………ちょっと、まあ此処へ来て御覧。………この表面に映ってるのんを見たら、まるでこの部屋が広大な宮殿みたいに見えますねん」
「へえ、………どれどれ」
魔法罎の外側のつやつやとしているのが凸《とつ》面鏡の作用をなして、明るい室内にあるものが、微細な物まで玲瓏《れいろう》と影を落しているのであるが、それらが一つ一つ恐ろしく屈曲して映っているので、ちょうどこの部屋が無限に天井の高い大広間のように見え、ベッドの上にいる幸子の映像は、無限に小さく、遠くの方に見えるのであった。
「ほら、此処にいるあたしを見て頂戴《ちょうだい》。………」
幸子がそう云って、首を振ったり手を挙げたりすると、凸面鏡の中の彼女も遥《はる》かな所で首を振ったり手を挙げたりする。その映像で見ると、彼女は水晶の珠の中に棲《す》む妖精《ようせい》か、竜宮の姫君か、王宮の王妃のようにも見えるのであった。
貞之助は妻のそう云う子供じみた所作に何年ぶりかで接した気がしたが、夫婦は云わず語らずのうちに、もう十何年前になる新婚旅行当時の気分に復っていた。そう云えばあの時は宮の下のフジヤホテルに泊り、翌日蘆《あし》の湖畔《こはん》をドライヴしたりしたので、環境の類似が自《おのずか》ら二人を昔の世界へ呼び戻したのであったかも知れない。
「これから時々こんな旅行しましょうな」
と、その晩幸子は夫の耳に囁《ささや》いたが、貞之助もそれに異存はなかった。でも、寝物語の末には現実の世界にも触れ、娘や妹たちの噂も出たが、幸子は夫のこんなにも機嫌のよい折を逸してはと思い、妙子の話をそっと持ち出して、一遍あなたも会うてやってくれるように、と云うと、ふん、それは僕かて分っている、と、夫は直ぐ承知して、僕はこいさんに少し強う当り過ぎた、ああ云う人はあまり厳しゅう扱うと、却って余計グレるようになるので、結局僕等が一層迷惑しなければならない、矢張これからは、なるたけ雪子ちゃんと差別待遇せん方がええやろな、と云ったりした。
その、旧婚旅行の夜の話合いが実現されて、貞之助が暫《しばら》くぶりで妙子に会ったのは、九月に這入《はい》ってからであった。それまでの彼女は出入りは許されていたけれども、貞之助の眼には触れないようにしていたのであったが、その日は晴れて夕飯の席に連なり、夫婦、親子、姉妹の五人が打ち解けて食卓を囲んだ。幸子と雪子とは、いつぞやお春から聞かされた奥畑の婆《ばあ》やの話が胸にあるので、妙子に対してまだほんとうは釈然としないところもあったが、でも二人ながらもうあの不愉快な問題は忘れることに極めていた。あんなことは貞之助の耳にも入れず、妙子にもそれを持ち出して難詰するようなことはしまい、それよりは自分達にも一半の責任があることを思い、出来るだけ温かい愛情を以て、この変り種の妹の心を和げるようにして行こう、と、別に話し合った訳ではないが、二人の気持が自然とそこへ来ていたので、食堂の空気も至ってなごやかに、近来兎角《とかく》しめりがちであった家の中に一陽来復した感があり、大人達は皆いつもより酒の量を過した。と、こいちゃん今夜は泊って行きなさい、と悦子が云い出し、その尾について貞之助達も勧めるので、とうとう泊ることになったが、悦子の喜び方は非常で、こいちゃん今夜は悦子の部屋で姉ちゃんと悦子と三人で寝なさいと、こう云う時の癖で、ひどく興奮して燥《はしゃ》いだりした。
妙子はもう、以前の彼女が持っていた性的魅力を完全に取り返していた。あの病気の時に幸子が見た、廃頽《はいたい》した、疲れ切ったような感じ、―――どす黝《ぐろ》く濁った、花柳病でもありそうな血色、―――ああ云う風に皮膚が一遍たるんでしまっては、もうもとの溌剌《はつらつ》さに立ち復《かえ》ることは出来まいかと思えたのに、いつの間にか又活《い》き活《い》きとした、頬《ほお》の豊かな近代娘になっていた。でも貞之助が本家の手前を考えて、当分別居だけはしていた方がよい、と云うことだったので、矢張甲麓荘に寝起きしつつ、毎日大概半日は蘆屋で暮すようにしていた。そして、前に彼女が使っていた二階の六畳が再び彼女に与えられたので、近頃は折々その部屋に閉じ籠《こも》って、日あたりのよい窓の下で一生懸命ミシンをかけていることがあった。それは幸子が取って来てくれる注文の仕事をするのであったが、もともと洋裁は好きなので、やり出すとなかなか熱心に続け、夕食もそこそこにして又二階へ上ったりした。幸子はなるべく奥畑に妙子のことで金銭上の迷惑を掛けないようにと思うところから、それと云わずに始終注文を貰って来てやるのであったが、そう云う風に精出して働いている妙子を見ると、又いとしくもなって来るのであった。ほんとうに、この妹にはこう云う仕事好きな一面もあったのだ、活動的で、じっとしていられない性分であるから、グレ出したら悪い方へもどんどんグレて行くけれども、導きようで良い方へも伸びる人なのだ、才能があって、手先が器用で、僅《わず》かな間に何事でもモノにしてしまう妙子、………舞を舞わしても上手であるし、人形を作らしても立派なものだし、洋服を縫わせれば又この通りだし、………全く、まだ三十になるやならずの女の身で、こんなにもいろいろの技術を備えている者があるだろうか。………
「こいさん、よう根《こん》が続くわなあ」
と、幸子は、夜の八九時頃までミシンの音が聞えていると、二階へ上って来てよくそんな風に云った。
「悦子が寝られへんよって、ええ加減にしなさい、あんまり精出したら肩凝らすで」
「ふん、………今日じゅうに仕上げよう思うててんけど、………」
「明日にしいな、そない稼《かせ》がんかてええやないか」
「うふふ」
と、妙子は鼻の奥で笑って、
「実はちょっとお金の欲しいことがあるねん」
「お金ならあたしに云いなさい。………なあ、こいさん、………あたしかてお小遣いぐらい上げられるがな」
幸子は、夫が昨今或る軍需会社に関係し出してから彼女も懐《ふところ》工合がよく、家計の方も大分ゆとりが出来るようになっていたので、雪子の世話など殆《ほとん》ど本家の仕送りを受けず、此方で負担していたのであったが、雪子の面倒を見るからには妙子にもしてやった方が、と、かねて夫から云われていたくらいなのであった。で、折があるとそんな工合に云うのであったが、妙子はいつも何となく受け流して、決してその好意に縋《すが》ろうとはせず、謂《い》われなく人の合力《ごうりき》を求めるのは嫌《いや》であると云う、矜恃《きょうじ》を持っているかに見えた。
奥畑との交際がその後どうなっているかについては、幸子にも雪子にもさっぱり様子が分らなかった。大方毎日欠かさずに蘆屋へ来ることは来るが、夕方から来て晩までいるか、朝から来て夕方ぷいと出て行ってしまうか、その孰《いず》れかでない日はないので、半日は必ず何処《どこ》かで過すらしいのであるが、その間に啓坊と逢っているのだろうか、それとも相手は啓坊ではないのであろうか。―――と、二人の姉たちは内々で気を揉《も》みながら、直接ぶつかって聞いて見ることはしなかった。姉たちの願うところは奥畑の婆やと同様で、こうなったからには矢張啓坊と一緒になって欲しいのであったが、短兵急に攻め立てるのは上策でないことを知っているので、そのうちには妙子の心境が変化してくれるであろうことを祈っていたのであった。と、ちょうどその時分、と云うのは十月の初め頃、或る日妙子が、奥畑が満洲《まんしゅう》へ行くかも知れないと云う噂《うわさ》を持って来たことがあった。
「へえ、満洲へ?」
と、幸子と雪子とが同音に聞くと、
「それが可笑《おか》しいねんわ」
と云って、妙子は笑いながら話すのであった。―――自分もよくは知らないのだが、実は今度、満洲国の役人が日本へ来て、満洲国皇帝のお附になる日本人を二三十人募集している。お附と云っても式部官だの侍従だのと云う高級官吏ではなく、単に皇帝の側近に仕えて身の周りの世話をするボーイのようなものであるから、智能や学問はどうでもよい。ただ素姓のはっきりしている者、ブルジョア育ちの、容貌《ようぼう》が端正で儀礼や身嗜《みだしな》みの心得のある者、と云うことなので、つまりお上品な坊々《ぼんぼん》でさえあれば頭は少しぐらい低能でもよい、と云うのであるから、全く啓ちゃんに持って来いの口なのである。それで啓ちゃんの兄さんたちも、そんな口があるなら是非その募集に応じて満洲へ行け、皇帝のお附なら人聞きもよいし、仕事は何もむずかしいことはないのだろうから、啓三郎には実に向いている、啓三郎がその気になって満洲へ行くなら、門出の祝いに勘当を許してやろう、と、そう云っているのであると云う。
「ほんまに結構な話やけど、………でもまあ啓坊がよう決心しやはったわな」
「まだ決心がついた訳やないねん。端《はた》の者は総掛りですすめてるねんけど、当人はなかなか行こうと云うことを云わへんねん」
「そら無理もないわなあ、船場生れの坊々が満洲落ちをしやはるのやよってに」
「けど啓ちゃんも、今ではえらいお金に困ってて、もうあの家にも住んでられんほど生活に窮してるねんわ。そうか云うて、大阪では雇うてくれる人もあれへんし、あんまり身を落す訳にも行かんし、こんなええ口は又とあれへんねん」
「そう云えばそうやわな。―――そう云う役は誰にでも勤まる云うもんやあれへん。啓坊でなけりゃならん役やわ」
「そうやねん、そやよってに給料かて相当出すらしいのんで、うちも極力すすめてるねんわ。まあ長いことでのうてもええ、一二年でもそないしてたら、兄さんかて機嫌《きげん》直しやはるし、世間の信用も附くやろうし、どうでも一と奮発しなさい云うて。―――」
「一人やったら心細いやろさかいに、婆やさんでも附いてったげたら?」
「附いて行ったげたい云うてはるねんけど、あの人も息子や孫があって、満洲まではよう行かはらんらしいねん」
「こいさん附いて行ったげえな」
と、雪子が云った。
「啓坊を更生さすためやったら、それぐらいのことしたげてもええやないの」
「ふん、………」
と云って、妙子は急に厭《いや》な顔をした。
「たとい半年ほどでもええ、暫く向うに居着く迄《まで》でも、こいさんが附いて行ったげる、云うたらその気になりはるかも知れん。人一人助ける場合やよってに、こいさんからしてその気にならなあかん思うわ」
「ほんまに、そないしたげたらどう。―――」
と、幸子も云った。
「そうしたらきっと、啓坊の兄さんかてこいさんに感謝しやはるわ」
「うち、今が啓ちゃんと別れる好《え》え機会や思うねん」
と、妙子は低い声だったけれどもきっぱりと云った。
「ああしてられたら、いつになっても今迄の関係清算する云う訳に行かんさかいに、一人で満洲へ行ってくれるのんが一番ええねん。そやよってにうちは極力勧めてるねんけど、啓ちゃんは又それがあるさかいに、どうしてもよう行かんのやわ」
「なあ、こいさん、―――」
と、幸子が云った。
「あたし等何も、無理にこいさんを啓坊と結婚さそう云うのやあれへんで。今も云うように、この際兎も角も附いて行ったげて、半年でも一年でも一緒に暮らして、真面目《まじめ》に勤めてはるとこを見届けてから、厭やったらこいさんだけ帰って来たかて構《か》めへんやないか」
「満洲くんだりまで附いて行ったりしたら、なおのこと別れられへんようになるわ」
「そやけど、よう因果を含めて見て、それでも分ってくれはれへなんだら、その時逃げて帰って来たかてええやないの」
「そんなことしたら、勤めも何も放っといて跡追うて来るに極まったある」
「そらまあそうかも知れんけど、今迄の義理考えたら、別れるなら別れるで、ちゃんと尽すだけのことは尽さんといかんやろ、思うよってに。―――」
「うち、何も啓ちゃんにそないせんならん義理あれへん」
幸子は、これ以上云うと勢い口論になりそうなので、あとを控えてしまったが、
「義理がないと云えるやろか」
と、雪子が云った。
「こいさんと啓ちゃんとは、世間の人が誰でも知ってるほど旧《ふる》い旧い関係やないの」
「うちは疾《と》うからその関係を断ちたい思うてたのんやわ。向うが執拗《ひつこ》うて、勝手に附き纏《まと》うてたんやもん、義理どころやあれへん、迷惑してるぐらいやわ」
「こいさん、経済的にもいろいろ啓坊に厄介《やっかい》かけてることがあるのんと違う?―――こう云うたら何やけど、お金のことでも世話になってるのんと違う?」
「阿呆《あほ》らしい、そんなこと絶対にないわ」
「ほんまかいな」
「うち、そんなことせんかて自分の稼ぎでやって行けたし、貯金もしてたと云うこと、雪姉《きあん》ちゃん知ってるやないの」
「こいさんはそない云うけど、世間ではそう思うてえへん人もあるねんわ。あたしかて、ついぞ一遍もこいさんの貯金帳や小遣帳見せてもろたこともないし、どれぐらい収入あるのんか、ほんまのことは知らなんだし、………」
「第一啓ちゃんにそんな働きがある思うてるのんが間違いやわ。うちはあべこべに、今に啓ちゃん養うて行かんならん思うてたぐらいやねん」
「そんなら聞くけど、―――」
と、雪子はなるべく妙子の方を見ないようにしているらしく、テーブルの上の、菊の花の挿《さ》さったガラスの一輪挿を両手で弄《もてあそ》びながら続けたが、しかし少しも興奮している様子はなく、声の調子は平生の通りで、一輪挿を持っている細い指先も顫えを帯びてはいなかった。
「―――こいさん去年の冬ロン・シンで拵《こしら》えた駱駝《らくだ》のオーバーコートな、あれは啓坊が拵えてくれはったんと違うか」
「あれはあの時云うたやないの、あの勘定が三百五十円懸ったのんを、薔薇《ばら》の羽織と、立枠《たてわく》と花丸の衣裳《いしょう》を売って払うたんやわ」
「けど啓坊の婆やさんは、あれは啓坊が払うたげたんや云やはって、ちゃんとロン・シンの受取まで見せてはるねんで」
「………」
「それからあの、ヴィエラのアフタヌンドレスな、あれかてそうやてな」
「あんな人の云うこと、信用せんと置いて欲しいわ」
「信用しとうはないねんけど、婆やさんの方には一々証拠の書付が取ってあって、それに基づいて云やはるねんもん。こいさん、それ|《うそ》や云うのんやったら、何かそれに対抗する帳簿のようなもの見せてくれたらどうやねん」
妙子も同じように平然として、例の顔色一つ変えるではなかったが、でもそう云われると、無言でじっと雪子の顔を見据《みす》えているばかりであった。
「婆やさんの話やと、そんなんはもう何年も前からのことで、洋服だけやあれへん、あの時のあの指環もそうや、コムパクトもそうや、ブローチもそうやと、一つ一つ品物を覚えてはって云やはるねんわ。啓坊が勘当されたのも、こいさんのために店の宝石を胡麻化《ごまか》したのが原因や、云やはるねん」
「………」
「こいさん、そんなに啓坊との関係断ちたい思うてたのんやったら、今迄にかて何ぼでも断てたやないの。板倉の時かて好《え》え機会やったのんに。………」
「そうかてあの時分、縁切ることに賛成してくれはれへなんだやないの。………」
「あたし等は啓坊と結婚させたい思うたよってに、賛成せえへなんだけど、一方では板倉とあんな仲になってながら、一方では啓坊を経済的に利用してる云うことが分ってたんやったら、考えようもあってんわ」
幸子は雪子の云っていることに心から同感で、妙子に対しこのくらいなことは云ってやってもよいと思わずにはいられなかったが、でも自分には到底此処までは云えそうもないので、雪子がよくこう云えるものだと、驚きながら傍で黙って聞いていた。そう云えば、もう五六年も前になろうか、一度彼女は雪子が義兄の辰雄を掴《つか》まえてこんな工合に攻め立てるのを見たことがあったが、内気な人はどうかした拍子に途方もなく強くなるものであろうか、たしかその時も、日頃の因循な雪子に似合わず、理路整然と詰め寄って行き、辰雄がギュウギュウ云わされたのであった。
「成る程、啓ちゃんは働きがないかも知れんけど、その働きのない人に店の品物まで取るようなことさせといて、今になって義理がないなんて云えるやろか。………でも、こいさん誤解せんように云うとくけど、婆やさんは何もこいさんを恨んではるのんやないねんで。そない迄して啓坊はこいさんのために尽してはるねんよってに、何卒《どうぞ》こいさん奥様になったげて下さい云うてはるねん。………あたし等かてそう云う事情が分って見れば、勿論《もちろん》そうなって欲しいねんわ。………」
「………」
「利用出来るうちは先途《せんど》利用しといて、もう利用価値ないようになった云うて、低能の坊々《ぼんぼん》に好え口があるやたら、一人で満洲へ行ってしまえやたら、ようそんなことが云えたもんや思うわ。………」
申し開きの道がないのか、あっても無駄《むだ》だと観念したのか、もう妙子は何を云われても答えなかった。ただ雪子のくどくどと繰言のように繰り返す言葉ばかりが長々と続いた。雪子の口調は何処まで行っても同じように物静かであったが、妙子の眼にはいつの間にか涙が潸然《さんぜん》と浮かんでいた。それでも妙子は、相変らず無表情な顔つきをして、頬を流れる涙を意識していないかの如くであったが、やがて、突然立ち上ると、バタン! と、部屋じゅうが震動するほど荒々しくドーアを締めて廊下へ出て行った。それからもう一度、表の玄関のドーアをバタン! と云わせる音が聞えた。
この珍しい諍《いさか》いがあったのは、昼食《ちゅうじき》の時刻の直前で、貞之助も、悦子も知らず、お春も折柄使いに出ていた間のことであった。それに、始めから終りまで孰方《どちら》も大きな声を立てず、鎖《とざ》された食堂の中で普通の声で云い合っていたので、台所の女中たちも気が付かなかったくらいであったが、今のバタンと云う響がただごとでなかったので、お秋がびっくりして廊下へ飛んで出た。と、廊下には誰もいないので、食堂のドーアを細目に開けて覗《のぞ》いて見ると、今までいた筈《はず》の妙子が見えず、幸子と雪子とが食器棚《だな》の抽出《ひきだし》からテーブルクロースを出したり、一輪挿《いちりんざし》を片附けたりしていた。そして幸子が、
「何」
と聞いたので、
「いいえ、何でも………」
と、うろたえながらお秋が首を引っ込めようとすると、
「こいさんは今帰ったよって、御飯は御寮人《ごりょうん》さんとあたしだけやわ」
と、雪子が云った。
雪子は、
「あのくらいなこと、たまには云うといた方がええねん」
と、あとで幸子にそう云っただけで、もうその話は忘れたようにしていたので、とうとうその朝の出来事は、悦子にも貞之助にも感づかれないでしまった。ただその明くる日、終日妙子が姿を見せなかったので、今日はこいちゃん、どないしたんやろ、………風邪でもお引きになったんでしょうか、と、悦子とお春が不思議がった。こいさん今日は珍しく欠勤かいな、と、幸子もさあらぬ体で云い、ひょっとするとこれから当分来ないようになるのではないかと、密《ひそ》かに案じたが、その明くる日の朝になると、妙子は何事もなかったようにケロリとしてやって来た。そして少しもこだわらずに雪子とも口を利《き》き、雪子も機嫌《きげん》よくそれに応じた。奥畑のことについては、満洲行きは止めにしたらしいわ、と、妙子が云い、そうか、と雪子が答えただけで、それ以後そのことは孰方からも云い出さなかった。
それから数日後のことであったが、幸子と雪子は元町の街頭で偶然井谷に行き遇《あ》って、思いがけない話を聞かされて帰って来た。と云うのは、近々井谷は美容院を人に譲り、自分は最新式の美容術を研究するため第二回目の渡米をする。井谷の友人の中には、今は世界的動乱の最中でもあり、亜米利加《アメリカ》と日本との間にも事が起りそうな懸念《けねん》があるから、もう少し時機を待ったらどうか、と云ってくれる人もあるけれども、いつ迄《まで》待ったらその懸念がなくなると云うものでもないし、仮りに事が起るとしても、今直《す》ぐではなさそうであるから、その前に大急ぎで行って来る。昨今は旅行免状もなかなか貰《もら》えないそうだけれども、自分は特別の便宜があってその方の手配も済んでいる。期間は大体半年乃至《ないし》一年の予定である。そんな短い期間なら折角の店を何も譲って行かないでものことであるが、実は自分は、年来東京へ進出することを念願としていたので、これを機会に神戸の地を去り、帰朝後は東京で開業するつもりである。と云うのであった。この話は幸子たちも全然初耳なのではなく、長い間中風を患《わずら》っていた井谷の夫が去年亡《な》くなった時にも、そんな計画があることを聞いたような気はするのであるが、既に亡夫の一周忌も済んだ今日、いよいよそれを実行に移す決心をしたのであろう。そして、そうなると、いつもの伝で着々と事を処理し、早急に此処《ここ》を引き揚げようとしているらしく、もう跡を引き受ける人も極まり、譲渡の手続も完了し、船室の予約までしてあるらしいのであった。で、定めしこの事が知人の間に知れ渡ったら、送別会だの何だのと仰《お》っしゃって下さる方々があろうけれども、時節柄そう云うことは遠慮したいし、それに急なことなので、とても皆さんの御好意をお受けしている時間もない。勝手ながら御挨拶《あいさつ》廻りさえ失礼させて戴《いただ》こうと思っているような始末である。と、井谷はそう云っているのであった。
幸子は、井谷自身は何と云おうとも、神戸では相当鳴らした美容院のことではあり、顔の売れている人のことでもあるから、誰かが発起人になって何かの催しをしないと云うことはあるまい、分けても自分たちは雪子のことでいろいろ世話になっているので、もし一般の送別会の催しがないようなら、自分たちだけでなりと一席設けなければなるまい、と、その晩貞之助とも話し合っていたのであったが、翌朝早くも活版刷りの通知状が届いたのを見ると、それにも送別会等の儀は堅く御辞退致します云々《うんぬん》と記してあり、而《しか》も明日の夜行で立って東京へ行き、出帆迄は帝国ホテルに滞在の予定とあるので、もう何処へ招待する暇もないのであった。それで、姉妹三人で何か進物でも持って今日明日のうちに挨拶に行くより仕方がない、と云うことになったが、その進物の選定がむずかしいので、ついその日は行きそびれてしまった翌日の朝、貞之助が出て行ったあとで、又何にしようかと雪子と二人で評定していると、そこへ井谷が訪ねて来た。まあ、お忙しいところをようこそ、実は今日三人でお伺いしようと申していたのでしたが、と云うと、いいえ、何卒もうそんな御心配はなさらないで戴きます、折角お越し下さいましても、店は明け渡してしまいましたし、岡本の宅の方も、今度弟の夫婦が這入《はい》ることになりまして、今日から移って参りますので、ゴタゴタ致して引っくり覆《かえ》しておりますから、………と云って、その代り私《わたくし》の方からお暇乞《いとまご》いに上りました、何しろ時間がございませんので、孰方様へも上らないことに致しているのでございますが、お宅様だけは何だかそれでは気が済みませんし、ちょっと申上げたいお話もございまして、………と、そう云うので、兎《と》に角《かく》お上り下さいと云うと、チラリと腕時計を覗いてから、では十分か二十分ばかり、と云い云い応接間へ通った。
なあに、亜米利加は長いことではございませんから、直きに帰って参りますけれども、神戸はこれがお別れだと思うと、ほんとうにお名残惜しゅうございます、殊《こと》にお宅様は、奥様にしろ、雪子お嬢様にしろ、こいさんにしろ、こう申しては失礼でございますけれども、私の大好きな方々でしたのに、………と、井谷は例の早口で、短い時間に必要な事柄を洩《も》れなく云ってしまおうとするところから、自分ひとりでまくしたてて、そう云っても蒔岡家の三人は、めいめい特色がおありになり、似ているようでそれぞれ個性がはっきりしておられ、揃《そろ》いも揃って良い姉妹であられること、正直のところ、神戸の土地にはそれ程の未練はないのであるが、末長くお附合いさせて戴こうと思っていた蒔岡さんの方々と、今迄のように親しく願うことが出来なくなるのが、何にも優《ま》して遺憾《いかん》であること、今日お二人にお目に懸れたのは嬉《うれ》しいが、こいさんにお会い出来ないのが心残りであること、などを云った。こいさんならもうすぐ参る筈ですが、只今《ただいま》電話を懸けて見ましょう、と、そう云って幸子が立ちかけると、いいえいいえと云いながら腰を浮かして、残念でございますけれども、何卒こいさんには宜《よろ》しく仰っしゃって下さいまし、と云ってから、あの、もう神戸ではお目に懸れませんけれども、出帆迄にはまだ十日程ございますので、もし御都合がおつきになりましたら、お三人で東京まで入らしって下さいませんでしょうか、と云い出すのであった。そして、いいえ、何もお見送り戴かなくっても宜しいのでございますけれども、実は東京で皆さんに御紹介申上げたい方があるのでございます、………と云う話なのであった。
井谷は、そこでちょっと言葉に句切りを附けてから、下のようなことを語った。―――ここに、御当人の御嬢様が聞いておいでになる前で、斯様《かよう》な慌《あわただ》しい際に斯様な話を持ち出すのも如何《いかが》であるけれども、自分が神戸を去るに方《あた》って一番心懸りなのは、何とかして自分の力でと思っていた雪子お嬢さんの御縁を、遂《つい》に纏《まと》めて上げることが出来ず、このままお別れするような羽目になったことである。ほんとうに、自分はお世辞でも何でもなく、こんな結構な御姉妹《ごきょうだい》を持った良いお嬢さんはいらっしゃらないと思うにつけても、何か自分に課せられた責任を果たさずに行くような気がしてならず、この際になっても出来るものならお嬢さんの縁談に目鼻をつけ、心懸りの種を除いて行きたい念願が切なのであるが、それについて一つあなた方に提議したいことがある。と云うのは、あなた方も名前は御存知であろうが、維新の際に功労のあった公卿《くげ》華族で御牧《みまき》と云う子爵《ししゃく》がある。尤《もっと》も、国事に奔走した人は先代の広実《ひろざね》で、当主広親《ひろちか》はその子であるが、この人も既に余程の高齢に達しており、嘗《かつ》ては貴族院の研究会に属して政界に活躍した経歴の持主だけれども、今では祖先の地である京都の別邸に隠棲《いんせい》して閑日月を送っている。ところで、自分はふとした縁で御牧家の庶子の実《みのる》と云う人を知っている。この人は、学習院を出て東大の理科に在学したこともあるそうであるが、中途退学して仏蘭西《フランス》へ行き、巴里《パリ》で暫《しばら》く絵を習っていたとやら、仏蘭西料理の研究をしたとやら、いろいろのことを云うけれども、要するに、孰《いず》れも長く続かないで亜米利加へ渡り、何処《どこ》だか余り有名でない、州立の大学へ這入って航空学を修め、兎も角もそこを卒業したのであることは確かである。が、卒業後も日本へは帰らず、亜米利加の彼方此方を流浪して歩き、メキシコや南米へも行ったりした。その間には一時国許《くにもと》からの送金が絶え、生活に困ってホテルのコックやボーイまでやったことがあり、その外にも、又油絵に戻って見たり、建築の設計に手を出して見たり、生来の器用と移り気に任せて実にさまざまのことをやったが、専門の航空学の方は、学校を出てから全然放棄してしまった。そして今から八九年前に帰朝してからも、これと云った定職はなくぶらぶら遊んでいたのであるが、数年前から折々道楽半分に、友人が家を建てる時にその設計をしてやっていたところ、それが案外評判がよく、追い追いその方面の才能を認める人が出て来るようになった。それで当人も気をよくして、最近では西銀座の或るビルの一角に事務所を設け、本職の建築屋さんになりかけていたのであったが、何分御牧氏の設計は西洋近代趣味の横溢《おういつ》したものであるだけに、贅沢《ぜいたく》で金のかかるものなので、事変の影響下にだんだん注文が少くなり、仕事が全く閑散になってしまったために、僅《わず》か二年足らずで折角の事務所を閉鎖するの已《や》むなきに至り、現在では又遊んでいると云うのが事実である。ま、ざっとそう云う経歴の人であるが、この人が近頃細君を捜している、と云うよりは、彼の周囲の人々が彼のために心配して、是非御牧氏に細君を持たせたいと云っているのである。自分が聞いたところでは、氏は本年四十五歳だそうであるが、外国生活が長かったのと、帰朝後も独身生活の気やすさに馴《な》れて家庭を作ろうとしなかったので、今日まで奥さん乃至《ないし》奥さんらしいものを持ったことがない。勿論《もちろん》西洋ではどんなことがあったかも知れないし、帰朝してからも大分新橋赤坂あたりで遊んでおり、放蕩《ほうとう》の味は知っているらしいのであるが、それも去年ぐらい迄で、今日ではもうそんなことをする経済的能力がなくなったらしい。それと云うのが、氏には若い時代に父子爵から分けて貰った財産があったので、その金で半生の放浪生活を続けて来たのであるが、浪費するばかりで殖やすことを知らない人なので、最早や大部分を遣い果たして、剰《あま》すところ幾何《いくばく》もない有様なのである。だから建築屋になろうとしたのも、遅蒔《おそまき》ながらその方で自活の道を立てようと云う意図があった訳なので、それもこの時局でさえなかったら巧《うま》く行きそうだったのであるが、不幸にして目下のところ一頓挫《とんざ》を来たしているのである。でも、華冑《かちゅう》の子弟によくある型の、交際上手な、話の面白い、趣味の広い人で、自ら芸術家を以て任じている天成の呑気屋《のんきや》さんであるから、当人は一向そんなことを苦に病んでいない。今度この人に細君を持たせようと云うのも、当人が余り呑気なので、端の者が気を揉《も》んで、ああして置いては宜しくないから何とかして身を固めさせよう、と云い出した次第なのである。―――
なお井谷の云うところに依《よ》ると、井谷がこの人を知ったのは、去年目白を卒業して雑誌「女性日本」の記者になった娘光代の紹介なのであるが、御牧氏は同社の社長国嶋権蔵氏に大変可愛がられているのである。それは国嶋氏が嘗て御牧氏の設計で赤坂南町に住宅を建てたのが、非常に彼の気に入ったのが始まりで、そんな縁故から御牧氏は国嶋氏の家庭へも出入し、夫人にもひどく重宝がられるようになった。まだ御牧氏が建築事務所を持っていた時代には、女性日本社が同じ西銀座のつい近くにあるので、殆《ほとん》ど毎日遊びに来、社員の総《す》べてと馴染《なじみ》になってしまったのであるが、井谷の娘とは特に仲が好くて「光ちゃん光ちゃん」と呼んでいた。と云うのは、井谷の娘も亦《また》社長夫婦に可愛がられ、家族同様にして貰っている関係もあるからなので、井谷は或る時上京のついでに、娘に案内させて社長の邸《やしき》へ御機嫌《ごきげん》伺いに出ると、そこに御牧氏が来合せていたのであったが、初対面から人を笑わせるような冗談を云う人なので、一遍で直ぐ懇意になったのであった。いったい井谷はそう東京には用がないのだけれども、娘が特別国嶋氏に眼をかけて貰っているために、去年以来三度ばかり上京して国嶋邸へ挨拶に行ったが、そのうち二度は御牧氏に行き遇った。娘光代の話では、国嶋氏夫婦は勝負事が好きで、しばしば徹夜で、花合せ、ブリッジ、麻雀《マージャン》等をすることがあり、そのお相手を仰せ付かるのが、御牧氏と光代なのだと云う。井谷は、親の口から申しますのも可笑《おか》しゅうございますがと、言訳しながら語るのであるが、彼女の娘はなかなかスマートな性質であって、年に似合わず博奕《ばくち》の才があり、おまけに、勝気で辛抱強くて、一晩や二晩徹夜をしても昼間は平気で社へ出勤し、人一倍活躍すると云う風なので、そんなところが社長夫婦に気に入られる原因になったのであるらしい。で、井谷は今度の準備のためにこの間から二三回上京し、国嶋氏にも旅行免状その他のことで何かと斡旋《あっせん》を乞うたのであるが、そう云うことから又御牧氏にも再三面接する機会があった。而も最近国嶋邸に於いて、「御牧君に細君を持たせる話」が、当人を囲んで大いに弾んでいるところへ、毎々行き合せた。それと云うのも、国嶋氏夫妻が一番熱心な首唱者だからなのであるが、国嶋氏は御牧氏の父の子爵とも面識があるので、もし御牧氏が然《しか》るべき人と結婚する気になってくれさえすれば、自分から父子爵を説き、ここで又新たに多少のものは分けて貰い、さしあたり新夫婦が所帯を持って生計を立てて行けるように取り計らおう、と云っているのである。そして国嶋氏は、たまたま来合せた井谷を掴《つか》まえて、誰か好い人はありませんか、あったら是非世話して下さい、などと云ったりしている。と云うのであった。
ここ迄一と息にしゃべって来た井谷は、そこで又チラリと腕時計を見て、もう時間がございませんから大急ぎで申しますわ、と云いながら言葉を継いだ。―――自分はその話を聞いた時に直ぐそう思った、これは蒔岡さんのお嬢さんに持って来いの縁であるが、残念なことには折が悪い、自分が日本にいる時でさえあったら、それには寔《まこと》に良いお嬢さんがあります、私がきっとお世話致します、と、その場で請合《うけあ》い、早速橋渡しをするのであるが、何を云うにも洋行の期日が迫っているのでは仕様がない、と思ったので、つい口元まで出かかったのを怺《こら》えてしまったのであったが、神戸へ帰って来てからも、つくづく惜しい縁なので、何とかならないものだろうかと、そのことばかり気に懸っていた。それで、御参考までに御牧氏のことをもうすこし申上げて置くが、歳は先刻も申したように四十五歳と云うのであるから、たしか此方の御主人様より一つか二つ若い筈である。容貌《ようぼう》は、長く西洋にいた人にあるように頭が禿《は》げていて、色が黒く、所謂《いわゆる》好男子ではないが、流石《さすが》に育ちのよいところが窺《うかが》われる立派な顔だちであるとは云える。体格は頑丈《がんじょう》で、孰方《どちら》かと云えば肥満している方であり、未だ嘗《かつ》て病気らしい病気をしたことがなく、どんな無理でも続くと云うのを誇りにしている、逞《たくま》しい健康の持主である。次に一番大切なことは資産であるが、これは、学生時代に分家をして十数万円を譲られたのであったけれども、今日残っているものは殆どないと云った方がよい。尤もその後も数回父子爵に泣き付いたことがあって、一度か二度は何程かを出して貰ったそうだけれども、それも勿論残っていよう筈はない。何しろ持っていれば金放れがよく、ぱっぱっと費消して、明日は忽《たちま》ち素寒貧《すかんぴん》になると云う風なので、父子爵も、あれにはいくら金を遣っても無駄《むだ》だと云っており、その点では頗《すこぶ》る信用がないのだと云う。だから国嶋氏も云うのであるが、四十五歳にもなってアパート生活をし、無為徒食をしていることが何よりも宜しくない。それでは父子爵を始め世間が信用しないのも当然であるから、先ずこの辺で身を固めて、たとい僅かな額にもせよ、月給取にでも何にでもなって、自分の力で一定の収入を得ることである。そうすれば子爵も安心して、幾分のことはしてくれるであろう。但《ただ》しそれも、もう度々のことであるから、真に「幾分のこと」でよいので、そんなに沢山出して貰う必要はない。私《わたし》(国嶋氏)の見るところを以てすれば、御牧氏は気の利いた、洒落《しゃれ》た住宅を設計させると、実に優れた天分を発揮する人で、将来住宅建築家として立派に立って行けると思うし、及ばずながら私も極力後援を惜しまないつもりである。ただ現在は時期が悪いために生活に窮しているのであって、それは一時のことであるから決して悲観することはない。そこで、私から父子爵に話をし、結婚の費用を持って貰うこと、新夫婦が住む家を買って貰うこと、ここ二三年間の生計を補助して貰うこと、この三つを承諾してくれるように説得しようと思うが、多分これは成功するであろう、と、そう国嶋氏は云っている。ざっとそんなような訳で、多少御不満の点もおありになろうけれども、しかし兎も角も初婚であると云うこと、庶子ではあるが藤原氏の血を引く名門の出であり、親戚《しんせき》も皆知名の方々ばかりであること、扶養しなければならない係累が一人もないこと、―――申し忘れたが、氏の生母、即ち子爵の側室であった人は、氏を生んで間もなく死去したとやらで、氏は全然記憶がないそうである。―――趣味が豊かで仏蘭西や亜米利加の言語風俗に通じていること、等々は、何と云っても御牧氏の強味であって、此方《こちら》様の御注文にもそっくり当て篏《は》まると思うのであるが如何であろうか。自分は交際が浅いので、猶《なお》よく此方様で調べて御覧になる方がよいが、今迄附き合って見たところでは、いかにも当りの柔かい、愛想のよい人で、別にこれと云う欠点がありそうにも思われない。ただ非常な酒豪であるとやらで、自分も二三度御機嫌のところを見たことはあるが、酔うと一層面白くなって人を笑わせてばかりいる。………で、自分としてはこの縁を逃がしてしまうのが返す返すも惜しい気がして諦《あきら》めが付かず、誰か自分の代りに橋渡しの役を勤める者はないであろうかと、いろいろ考えて見たのであるが、橋渡しと云っても先方がそう云う交際上手であるから、何も手数が懸ることはない。最初の紹介が済めば、あとは国嶋氏夫婦がいるから、然るべく双方を取り持って、これは順潮に運びそうだと看《み》て取れば運ばしてくれるであろう、それに又、娘の光代もお手伝いぐらいは出来るのである、あれは年は若いけれどもコマシャクレた生意気な娘なので、こう云うことには向いているから、連絡係りにお使い下されば相当役に立つであろう。―――
そう云って又井谷は腕時計を見て、
「あ、大変々々」
と云いながら立ち上って、
「十五分ばかりお邪魔するつもりでしたのに、………もうほんとうに失礼しなければ、………」
と云い云い猶も続けるのであった。―――これでもう申上げたいことはすっかり申上げてあるので、あとは此方様でお考えになって戴きたい。ついては、東京で国嶋氏が自分のために小宴を催してくれることになっているので、もしお思召《ぼしめし》がおありになったら、神戸側を代表すると云うことにして、奥様と、雪子お嬢さんと、―――御姉妹がお揃いになった方がよいから、なるべくならこいさんも都合して下さって、―――皆さんで出席して下さらないであろうか。そうすれば御牧氏にも出席して貰って、自分がお引き合せだけはする。ま、話を進める進めないはそれからのことにして、この際はただ自分を見送りにおいで下さるお積りで、一遍会って御覧になったらどうであろう。この御返事は、いずれ東京へ行った上で、明日でも電話でお伺いする。送別会の日や時間もその時申上げるであろう。と、そう云い終ると挨拶もそこそこに飛ぶようにして出て行ってしまった。
幸子はさっき、井谷が余りセカセカするので、今夜何時の汽車で立つのかを聞き洩《も》らしたことに心付き、岡本の宅へ電話を懸けたが、本人は留守で代理の者が出、お見送りは御辞退するそうでございますから、………と、時間を云ってくれないので、夕方に又懸けて本人の帰宅したところを掴《つか》まえ、先刻のお話もございますよって、是非もう一遍お会いしとうて、………と、そう云って、漸《ようや》く三宮を九時半発の急行であることを教えて貰《もら》った。見送りには三姉妹に貞之助も悦子も加わり、一家総出と云うことになったが、斯様《かよう》に三人の姉妹たちがそれぞれの装いを凝らして、貞之助に引率されて外出すると云うことは、長い間見られなかったことで、去年の秋の両親の法事以来なのであった。
「こいちゃん今日は洋服やないの?」
すっかり支度が出来上ったところで、一同夜の食卓に就いたが、悦子は妙子が珍しくも、緑の地色に白い大輪の椿《つばき》の花を絵羽附《えばづ》けにした日本服の盛装でいるのを、じろじろ見守りながら云った。彼女は明かに、母や二人の叔母たちのきらきらしい姿を眼の前にして、毎年の花見の時に似た興奮を覚えているのであった。
「どう、悦ちゃん、和服似合う?」
「やっぱりこいちゃんは、洋服の方がええなあ」
「和服やったら余計太って見えるわ」
と、幸子が云った。
妙子は近頃は、常にも和服を着ていることが多いのであった。彼女は脚の線が綺麗《きれい》なので、洋服でいると、却《かえ》って少女じみた可愛らしさが感じられるのであったが、和服だと脚の長所が隠されるので、変にずんぐりむっくりしていた。それは一つには、病後あんまり慾張って滋養分を取り過ぎたため、病気以前より太ったせいでもあるらしかったが、でも当人に云わせると、自分は元来足が熱するたちであったのに、あの大病をしてからは、どう云うものか洋服を着ると足が冷えてかなわない、と云うのであった。
「いや、日本の女は若いうちは何ぼハイカラがっても、年を取って来たら結局洋服はよう着んようになるねんで。こいさんなんかももうお婆《ばあ》さんになった証拠や」
貞之助はそう云って、
「井谷さんなんかでも、亜米利加《アメリカ》で修行して来た人やし、商売柄洋服着んならんとこやけど、いつも和服着てるやないか」
「ほんに、井谷さんいつも和服やわ。―――あの人こそもうお婆さんですよってにな」
幸子はそう云って、
「それはそうと、さっきの話、今夜井谷さんにどない云いましょう」
「そのことやが、僕はこう思うねん。―――この際あまり縁談のことには触れんとおいて、兎も角も井谷さんの送別会に出席するために東京へ行ったらええやないか。ぜんたい縁談のことがのうても、それぐらいなことはせんならんねんよってに」
「ほんになあ、そうですわ」
「僕かて行くのが本当かも知れんけど、生憎《あいにく》ここのところ用事があってよう行かんさかい、お前と雪子ちゃんだけなと行くねんな、こいさんも行ったらなおええけど。………」
「うちかて行かして貰いますわ」
と、妙子が云った。
「ちょうど陽気もええよって、見送り|旁《かたがた》久振に東京見て来ますわ。今年はお花見に外れたさかい、その埋め合せさして貰わんと、………」
いったい妙子は、ほかの二人ほど井谷に義理があるのではなかった。彼女も井谷の美容院の常得意ではあったけれども、井谷の店は料金が高いので、時々余所《よそ》の店へ行ったこともあった。そして雪子こそ縁談のことでたびたび厄介《やっかい》をかけているけれども、妙子は何もそう云う負い目を感じていないのであったが、それでも彼女は、井谷のさっぱりした、物にこだわらない気象と、任侠《にんきょう》に富む男のような性質とに、日頃から好意以上のものを寄せていたのではあった。彼女は殊《こと》に去年以来、蒔岡の家を勘当された形になってから、何となく世間が狭くなったように思え、心なしか今迄懇意にしていた人々が急に自分を妙な眼で見始めたような気がしてならなかったのに、井谷は終始一貫して、いつも変らぬ親身な態度で遇してくれた。そのくせ彼女の不品行の数々は、そう云う噂《うわさ》の伝播《でんぱ》し易《やす》い美容院の主人である井谷の耳には、最も早く這入《はい》っていた筈《はず》であり、裏の裏まで知り抜いていたに違いないのに、井谷は妙子のそう云う暗い方面は見ようとせず、良い面ばかりを認めてくれているらしかった。妙子は平素からそれが嬉《うれ》しかったところへ持って来て、その井谷が今朝わざわざ暇乞《いとまご》いに来、特に「こいさんに会いたい」と云い、是非東京へも一緒に来るようにとまで云ってくれたと聞いては、ひとしお感激の念を禁じ得ないものがあった。妙子としては、兎角雪子の縁談が持ち上る度に、何となく自分が邪魔者にされ、日蔭者扱いされる傾きがあるのに、井谷がそんな風に云ってくれたのは、何も蒔岡家はこの妹の存在を不名誉がるには当らない、それより妙子の特色を認めてやって、こう云う妹がありますと云って堂々と世間へ押し出すがよいではないか、と云うことを、暗に諷《ふう》してくれているようにも思えて、その心づくしに対しても、今度の東京行きに参加しなければ済まなく感じられたのであった。
「そんならこいさんも行って来なさい。こう云うことは、なるべく大勢で賑《にぎや》かな程ええさかいに」
「ところが肝腎《かんじん》の雪子ちゃんが、………」
と、幸子は、黙ってニヤニヤしている雪子を顧みながら云った。
「………あんまり進んでえしませんねん」
「何で」
「三人で出かけてしもたら、悦子一人になるさかいに、云うてますねんけど、………」
「そうかてお前、誰よりも雪子ちゃんが行ってくれなんだら、あかんやないか。どうせ二三日の間やさかい、悦子かてよう留守番するやろうが」
「姉ちゃん、東京へ行って来なさい」
と、悦子が大人めいた口調で云った。彼女は近頃、だんだん呑《の》み込みがよくなって来ているのであった。
「悦子よう留守番するよ。お春どんがいるさかいに、ちっとも淋《さび》しいことあれへん」
「あのなあ、雪子ちゃんの東京行きには、一つ条件がありますねん」
「へえ、どんなことや」
「ふ、ふ」
と雪子は、矢張笑っているだけなので、幸子が云った。
「井谷さんに悪いさかい、行かんならんとは思うてるけど、行ったら結局、自分だけが渋谷へ残されるようになりそうやよって、それが厭《いや》や云いますねん」
「成る程な」
「渋谷へ寄らんと置いたらええが」
と、妙子は云ったが、貞之助は反対した。
「それはいかんな、顔出しだけはした方がええな、知れた時に面倒やさかいに」
「そやよってに、いずれゆっくり出直して来させますけど、今度は一遍連れて帰ります云うて、あたしから味善《あんじょ》う云うて欲しい、それ引請《ひきう》けてくれたら行く、云うてますねん」
「雪姉《きあん》ちゃん、そんなに東京嫌《きら》いやったら、今度の話も先ず望みない思う方がええねんな」
「悦子もきっとあかん思うわ」
と、妙子の尾について悦子が云った。
「悦子、姉ちゃんがお嫁に行くのんは仕方ないけど、東京やったら止めた方がええ思うねん」
「悦ちゃんにそんなこと分るのんか」
「そうかて、東京みたいな所《とこ》に行かしたら、姉ちゃんが可哀そうやわ。なあ姉ちゃん」
「まあ、あんたは黙ってなさい」
と、幸子は悦子を制しながら、
「あたしはこない思うねんわ。―――その御牧さん云う人はお公卿《くげ》さんの子やさかいに、血統から云うたら京都人やし、東京は今のところ、アパート住まいしてはるだけやよってに、事に依ったら、関西に住みやはってもええのんと違うか知らん」
「ふん、そう云うことにならんもんでもないやろうな。もしわれわれで大阪あたりに就職口を見付けて上げれば、此方に住んでもええ云うことになるかも知れん。ま、少くともその人の体には、京都人の血が通うてることは確かやな」
「関西人云うても、京都人は大阪人と大分肌合《はだあい》が違いまっせ。京都の人は、女はええけど、男はあんまりええことあれへん」
「おい、おい、そうお前からケチを附けたらあかんやないか」
「そんでもその人、自分は東京生れかも知れへんし、仏蘭西や亜米利加に長い間いたはったのやったら、普通の京都人とは違いますやろうな」
「東京の土地は厭やけど、人は東京人の方がええことないか知らん」
と、雪子が云った。
井谷へ贈る記念品は、東京の送別会迄に極めればよいことになったので、今夜は取敢《とりあ》えず花束にでもしようかと貞之助が云い出して、そんな買物をするために、食事を済ますと五人は早めに神戸へ出た。そして、元町で花を買ったが、それを井谷にプラットフォームで渡す役は悦子が勤めた。停車場では、本来ならば相当多数の見送人が賑わってよい筈であるのを、わざと時間を秘したので、割合に淋しい出立であったが、それでも彼女の二人の弟、―――大阪で開業している村上医学博士の夫妻と、国分商店の店員である房次郎夫妻を始め、二三十人はいたであろうか。折角着飾って来た蒔岡家の三姉妹は、あたりの空気に遠慮してコートを脱がずにしまったが、幸子が傍へ寄って行って、今朝は有難う存じました、主人に相談致しましたところ、御洋行の間際《まぎわ》になるまで妹のことをお心にお懸け下さる御親切に対しては、何とお礼を申上げてよいやら言葉もない、そう伺えば尚更やけれども、たといそう云うお話がのうても、是非三人で送別会へ出席せないかんところやと申しますので、………と、そう云うあとから貞之助が又重ね重ね礼を述べると、まあ嬉しい、皆さんでお出で下さるなんて、と、井谷はえらい喜びようで、ではきっとお待ちしておりますよ、委《くわ》しいことは明日必ずお電話しますから、………などと云って、動き出した汽車の窓から挨拶《あいさつ》する時にも、又そのことを繰り返した。
電話は明くる日の夜、約束通り帝国ホテルから懸って来た。そして、送別会は明後々日《しあさって》の午後五時からと決定したこと、会場は帝国ホテル内のこと、出席者は井谷と娘の光代、国嶋権蔵氏夫妻と同令嬢、御牧氏、それに神戸側の代表としてあなた方お三人が御出席下さるとすると、都合九人は確実であること、等を知らせて来、なおあなた方は東京は何処《どこ》へお泊りになるのであろうか、御本家がおありになることだから多分あちらへお泊りのことかとも思うが、お互の連絡に便利であるから、いっそ帝国ホテルに泊られたら如何であろうか、今月から来月へかけて東京は二千六百年祭その他で、殆《ほとん》ど全部の旅館が詰まっているが、幸い国嶋氏の親戚の方が此処《ここ》のホテルの一室を取っておられるので、それをあなた方の方へ廻し、その方は国嶋邸へ泊ってもよいと云っておられるが、………と云う問合せなので、どうせ今度は、妙子が一緒であるし、雪子もあんなことを云っているので、出来れば本家へ内密にしたいくらいな際であるから、幸子は咄嗟《とっさ》に思案して、そう云う訳なら勝手ながら是非その方に左様にお願いして戴《いただ》きたいこと、出立は明日の夜行か明後日朝の急行にすること、出帆の日まで滞在して横浜までお供したいのであるが、そう長く三人が家を空ける訳にも行かないので、不本意ながら送別会だけで失礼させて戴くこと、それで、明後日とその翌日の、会のある晩と、二晩泊れば済むのであるが、ついでに歌舞伎座を見て帰りたいと云う希望があるので、或《あるい》はそのためにもう一と晩泊るようになるかも知れないこと、等々を答えると、では歌舞伎座の切符もお取りして置きましょうか、と、直ぐそう云って、事に依ったら私たちもお供をさせて戴きますから、と云うのであった。
その明くる日は、巧《うま》い工合に大阪発の夜の寝台が取れたので、三人は一日じゅう支度に追われた。幸子と雪子は今日のうちにパアマネントを懸けなければと思いながら、井谷の美容院がなくなったとなると何処へ行ってよいか分らず、妙子が来たら彼女の知っている店と云うのへ案内して貰おうと心待ちにして、それにしてもこいさん今朝は遅いなあ、と云い云い朝を過してしまったが、そう云うことに手廻しのよい妙子は、ひとりでさっさと行って来たらしく、午後二時頃にちゃんと頭を拵《こしら》えてやって来た。何やいな、あたし等も連れて行って貰おうと思うてたのんに、と云うと、東京で懸けたらええがな、帝国ホテルに美容院あるやろう、と、ケロリとした顔で云うので、ほんに、そうやったわな、と云うことになったが、それからぽつぽつ着換えの衣裳《いしょう》の詮議《せんぎ》に取りかかり、大小二箇のスーツケースとボストンバッグに荷物を詰め、夕飯を済まして身拵えをすると、もう時間がキチキチであった。
「失礼でございますが、蒔岡さんでいらっしゃいますか」
翌朝、三人が東京駅のプラットフォームへ降りた途端に、洋装の小柄な娘がチョコチョコと駈《か》け寄って、幸子に絡《から》み着くようにしながら声を掛けた。
「あたくし、光代でございますが、―――」
「ああ、井谷さんの、―――」
「どうも暫《しばら》くでございました。―――母がお迎えに出ます筈《はず》なのですが、何や彼やと忙しいものでございますから、代理にあたくしが、………」
そう云って光代は、三人が持ち扱っている荷物に眼をつけて、
「赤帽を呼んで参りましょうか」
と、直《す》ぐ又パタパタと駈けて行って、赤帽を掴《つか》まえて来た。
「ああ、雪子お嬢さんにこいさんでいらっしゃいますね。あたくし光代でございます。ほんとうにまあ、何年ぶりでございましょう、母がいつもいつも御厄介になっておりまして、………それに今度はお三人お揃《そろ》いでわざわざお出まし下さいまして、ほんとうに痛み入りますわ。昨夜も母がそのことを申しまして大変な喜びようでございまして、………」
そして、大きい物を赤帽に預けたあとで、風呂敷包やら化粧鞄《かばん》やらコマコマした物がまだ二つ三つ残っているのを、
「これはあたくしが持ちます。―――いえいえ、あたくしに持たして下さいまし、あたくしに、―――」
と、三人の手から無理に奪い取ると、雑沓《ざっとう》の間を敏捷《びんしょう》に潜《くぐ》り抜けながら先に立って歩き出した。
幸子たちは、この娘がまだ神戸の県立第一高女に通っていた時分に、一二度見かけているくらいであろうか。何にしても大して顔馴染《かおなじみ》ではないのであるが、その頃から見るとすっかり垢抜《あかぬ》けがしているので、先方から名のってくれなかったら、ちょっと分りそうもなかった。但《ただ》し、母の井谷は痩《や》せてはいるものの背の高い女であるのに、この娘は昔から小柄で、身長が低かったのであるが、今も少しも伸びていない。昔はそれでも色の黒い円顔の、太り気味の体つきであったのが、色が白くなった代りに顔も体も逆に小さく引き締まって、手などは十三四の子供のそれのような大きさしかない。現に三姉妹のうちで一番低い妙子に比べてもなお五六分は低く見えるが、和服の上にコートを着ている妙子は、低くても大々《だいだい》として豊満に見えるけれども、光代の方はいかにも母親が云う通りコマシャクレて貧弱に見える。それが又、物云いだけは可笑《おか》しいほど井谷に似ていて、早口にぺらぺらとまくし立てる工合は、マセた子供の感じなのであるが、雪子は自分より十も年下の小娘から、「雪子お嬢さん雪子お嬢さん」と呼ばれるのが、擽《くすぐ》ったくもあり気持悪くもあった。
「ほんとうに、光代さんだってお忙しゅういらっしゃるのでしょうに、お出迎え恐れ入りましたわ」
「いいえ、どう致しまして。―――でも正直を申しますと、今月は二千六百年祭でいろいろの催しがございますので、雑誌の方も相当忙しゅうございますの。そこへ持って来て母の用事をさせられるものでございますから、………」
「この間は観艦式がございましたんですね」
「観艦式の明くる日が、大政翼賛会の発会式、それに靖国《やすくに》神社の大祭も始まっておりますし、廿一日には観兵式もございますし、今月の東京は大変なんでございますのよ。宿屋なんか何処《どこ》も超満員で、………あ、そうそう、そんな訳なのでホテルも申込が殺到しておりますもんですから、お取りしてはございますけれども、余りいいお部屋じゃございませんのよ」
「ええ、ええ、どんなとこでも結構でございますわ」
「狭い部屋なのは仕方がないとして、シングルベッドが二つしか入れてございませんでしたので、それじゃ困るからって、やっと一つだけダブルに替えて貰《もら》いましたの」
途々《みちみち》光代は自動車の中でそんな風に話しながら、何分そう云う事情であるから、歌舞伎の切符なども、出来れば今日の分をでもと思ったのであるが、十日ぐらい先のでもなかなか普通の方法では手に入らないのであること、それでも雑誌社の方の関係でようよう明後日の分が取れる筈になっていること、なお当日は自分たち母子《おやこ》と、先日母からちょっと申上げた筈の御牧氏とがお附合いさせて戴《いただ》くようになるであろうこと、尤《もっと》も席は六人が一つ所と云う訳には行かないであろうこと、などを語った。
「どうもこんな御窮屈な所で、………おまけに此方側は日当りが悪くって不都合なんでございますが、これで御辛抱下さいますように。………」
光代は三人を部屋まで送って来て、預かった荷物をそこらへ置くと、直ぐもう出口の方へ行きながら、
「母は只今《ただいま》出かけておりますが、間もなく帰ります筈で、帰り次第お伺いすると申しておりました。………ではあたくし、これから社へ出て参りまして、又後程伺いますが、何ぞ銀座にお買物の御用でもございませんでしょうか。もしも御用がおありでしたら、何卒《どうぞ》いつでもお電話下さいまし。………」
と、そう云って、
「電話はここでございますから」
と、寸の短い小さな手の、それでも人並《ひとなみ》に爪《つめ》を真《ま》っ紅《か》に染めてある指で、ハンドバッグから名刺を出した。
幸子は、髪のことが気になっていて、今日のうちに済まして置きたいと思ったのであるが、自分も雪子も夜汽車で疲れていることを考えると、今日は余り無理をしないで、体を休めた方がよいような気がした。いずれ間もなく井谷が現れそうなので、まさか今から寝直す訳にも行かないけれども、帯でも解いて暫くくつろいでいる方がよくはないか。―――彼女は、自分はどうでも、雪子のことが案じられた。と云うのは、ずっとあれから続けている注射が利《き》いて来たのでもあろうか、このところ好い塩梅《あんばい》に眼の縁の翳《かげ》りが、完全に消えたとは云えないけれども大分薄くなっているのであるが、多分もう月の病が近づいている頃でもあるし、汽車旅行の窶《やつ》れで冴《さ》えない顔色をしているのを見ると、こう云う時によくあのシミが濃くなることを思い合せて、何よりこの場合雪子を疲れさせないことが第一であると考えられた。
「どうしょう、雪子ちゃん。明日にした方がええやろうな、くたびれているよって。―――」
「今日でもええけど」
「会は夕方五時からやよって、明日でも時間ないことはないねん。―――今日はまあ、一と休みして、銀座へでも行って見よう、いろいろ買物もせんならんし。………」
「うち、ちょっと横にさせて貰うわ」
妙子はさっき、この部屋へ這入ると「い」の一番に掛け心地のよさそうな安楽椅子を無遠慮に占拠して、ぐったりと横っ倒しに靠《もた》れかかっていたのであったが、姉たちがしゃべっている間に羽織を脱ぎ帯を解きして伊達巻《だてまき》姿になり、さっさとダブルベッドの上に臥《ね》ころがった。以前の彼女はこんな場合に少しぐらい疲れていても参ったような顔をせず、二人の姉を放って置いても元気よくそこらへ飛び出すと云う風であったのに、近頃だんだん昔のような溌剌《はつらつ》さがなくなり、ややともすると所構わず足を投げ出したり、肘枕《ひじまくら》をしたり、溜息《ためいき》をついたり、持ち前の行儀悪さが一層ひどくなったのは、まだ健康が本当に回復していないのかも知れないが、反動的に太り過ぎたので、何をするにも大儀なのであるらしく思えた。
「雪子ちゃんも、少し横になりなさいな」
と、幸子は云ったが、雪子は、
「ふん」
と云いながら、今迄妙子が占拠していた、脱ぎっ放しの羽織がふわりと懸けてある安楽椅子へ、その羽織をそっと取り除《の》けて、これはきちんと帯も解かずに腰をおろした。この部屋にはベッドが二つしかないのであるから、夜はダブルの方へ妙子と二人で寝るより仕方がないけれども、ダブルと云っても正式のより小型のものなので、さしあたり妙子の傍へ這《は》い上って行く気にはなれず、かと云ってもう一つの方は幸子のために遠慮したつもりなのであったが、横になっている妙子よりも、彼女の方がいつかとろとろと寝入ってしまった。
幸子は雪子の心づかいが分ったのかどうか、やがて空いている方の寝台に上って見たが、雪子がひとり椅子に掛けたまま寝入っていて、彼女も妙子も寝られないので、
「こいさん、今の間にバスに這入ろう」
と、妙子と代る代る風呂に漬かった。それでも雪子が寝ているのを、起して風呂を使わせたり、昼の食堂に出たりしたけれども、心待ちにしていた井谷がなかなか現れそうもないので、午後からは三人で銀座へ出かけた。そして、懸案になっている井谷への餞別《せんべつ》の品を、何は措《お》いても調《ととの》えてしまわなければと、彼方此方の飾窓を覗《のぞ》いて歩きながら、洋行する人にハイカラな物は気が利かないし、何か日本の特産品で彼方の人に喜ばれそうな物はと頭を捻《ひね》った末、ふと服部《はっとり》の地下室で螺鈿《らでん》の手筥《てばこ》を見付けたので、それを幸子からの進物とすることにきめ、別に御木本《みきもと》で真珠入りの鼈甲《べっこう》のブローチ兼用のクリップを買って、それを雪子と妙子との連名で贈ることにした。三人はもうそれだけで好い加減くたびれてしまい、コロンバンで一と休みすると、まだ買物が残っているのに、
「もう帰ろうな帰ろうな」
と、妙子が先に立って云うので、四時半頃にホテルに帰ったが、部屋に這入ると、卓上に蘭《らん》の花を活《い》けた花瓶《かびん》が置いてあり、「お帰りになったらお知らせ下さい、御一緒にお茶を戴くつもりでお待ちしております」と記した井谷の名刺が添えてあった。
「又お茶かいな、今飲んで来たとこやがな。―――」
妙子は再び安楽椅子を占拠して、挺子《てこ》でも動きそうもない様子であったが、外の二人も一と息入れたいところなので、ベッドの端に乗ったりして伸びていると、ものの十分とたたないうちに電話のベルが鳴り響いた。
「井谷さんやで」
そう云って幸子が受話器を取ると、―――今朝から外出しておりまして大変失礼いたしました、先程帰って参りましたが、只今からお茶を用意致させますから、皆さんでロビーまでお越し下さい。―――と、案の定井谷の催促であった。
「はあ、はあ、今此方からお懸けしようと思うておりましたとこで。………はあ、はあ、直ぐに参りますわ。………」
「うちは止めさして貰いまっさ。中姉《なかあん》ちゃんと雪姉《きあん》ちゃんで呼ばれて来なさい」
と、妙子は云ったが、それでは井谷さんに悪いよって、こいさんも来なさい、あたし等かて疲れてるねんけど、………と、幸子は億劫《おっくう》がる妙子を無理に誘って、又三人でロビーまで出かけた。
井谷は一と通りの挨拶《あいさつ》が済むと、今しがたプレイガイドの某氏から明後日の芝居の席が確かに取れたと云う知らせがあったが、あなた方お三人だけが番号のつづいた所で、あとは二枚と一枚と云う風になり、自分と光代は一緒に見られるが御牧氏は一人だけ離れ島になる、と云うようなことから始めて、お茶の間に要領よく御牧の件を織り込んで行くのであった。幸子たちは何となく雑談を交す気持でいるうちに、井谷が既に雪子のことを国嶋夫妻や御牧に話したばかりでなく、かねて手許《てもと》に預かっていた雪子の見合い写真までも示したこと、写真の評判が非常によいこと、昨夜も国嶋邸で、雪子がとてもそんな歳とは見えないと云う説が専《もっぱ》らであったこと、御牧は実物にお目に懸る迄《まで》もなくこの写真なら結構であると云い、蒔岡側に故障のない限り、自分では早くも雪子を貰《もら》う算段をしていること、井谷は仲人口《なこうどぐち》は利きたくないので、蒔岡の家庭の事情、―――渋谷の本家と蘆屋の分家との関係、義兄辰雄と雪子や妙子との折合のよくないことやその理由などに就いて、知っている限り隠さずに云って置いたこと、でも御牧と云う人はそんなことを聞いても一向平気で、結婚の意志を変えるなんと云う様子はないこと、彼は昔放蕩《ほうとう》した経験があるので、そう云う点は非常に分りがよいと云うのか、超越してしまっていると云うのか、甚《はなは》だ恬淡《てんたん》に出来ていること、等々を、いつの間にか知らされた次第であった。雪子と妙子とは、話がだんだんそっちの方へ深入りしそうなけはいを察して、お茶が終ると怱々《そうそう》に席を外して引取って行ったが、井谷は二人が立ち去ると直ぐ、遠のいて行く雪子の後影に眼を遣《や》りながら、
「わたくし、実はお顔のシミのことも申しましたのよ」
と、一段と声をひそめて云った。
「―――後で発見されますよりはと存じましたので、何も彼も申しましたんですの」
「そうして戴《いただ》きました方がようございますわ、こちらも気が楽でございますし。………尤《もっと》も、あれから治療を続けておりますので、御覧の通り余り目立たないようになって参りましたし、結婚すればもっとすっくり直ると云うことなので、それもどうか御説明願いたいのでございますが」
「はあ、はあ、それも申しましたわ。―――そうですか、結婚してからそのシミがだんだん消えて行く工合を見るのが楽しみですな、なんて仰《お》っしゃっておられますの」
「まあ」
「それからあの、こいさんのことでございますが、―――奥さんはどう思召《おぼしめ》していらっしゃいますか存じませんけれども、―――まあいろいろと、世間では申しておりますが、仮にその噂《うわさ》が全部事実としましたところで、これはわたくし、何もそんなに気になさることはないだろうと存じますの。何処《どこ》の家にも変った方が一人ぐらいはおありになるものですし、又あった方がよいくらいなものではございませんか知ら。御牧さんも、妹さんはどうだって構いませんよ、僕は妹さんを貰うんじゃないんだからって、―――」
「ま、そう云うように捌《さば》けておいでになる方が少いものでございますから、―――」
「やっぱり一度道楽をなすった方は、何処か悟り済ましたようなところがおありになるんですね。妹さんのことは僕には関係がないんだから、どんな事実でも隠さず仰っしゃって下さるのは結構だけれども、仰っしゃりたくなかったら聞かして下さるには及びませんてね」
井谷は、幸子のほっとしたような顔つきを看《み》て取ると、透かさず云った。
「それより雪子お嬢さんは、どんなお気持でいらっしゃいますか知ら?」
「はあ、あの、………実はまだ………」
ありていに云うと、幸子は今の井谷の話で始めて心が動き出したところなのであって、今度の上京の目的は、何処迄も送別会に出ることが主眼なのであった。縁談のことも頭に置いていなくはなかったが、それは努めて二次的に考え、まあ会って見た工合、―――と云う風な、微温的な態度以上になれなかったのは、又しても身を入れ過ぎて後で落胆することを恐れる気持が、どうしても除かれなかったからであった。従ってまだ、雪子に当って見るところ迄は運んでいなかった訳であるが、さしあたり、他の諸条件が皆好望《こうぼう》であったとして、この縁談の難点は、先日もちょっとその話が出たように、縁づく先が東京であると云うことで、これは当人が逡巡《しゅんじゅん》するであろうことはほぼ間違いがないのであった。いや、もっと正直のことを云うなら、今更雪子にそんな我《わ》が儘《まま》を云わせては置けないし、又云えもしない筈《はず》だけれども、寧《むし》ろそう云う幸子自身が、何となくこの妹を東京へはやりたくない、出来れば京阪神の間に住まわせてやりたい、と云う密《ひそ》かな願望を抱いているのであった。で、御牧さんは将来何処でお住まいになるのでしょうか、京都のお父様が家を買ってお上げになるとか承《うけたまわ》りましたが、何処へお買いになるのでしょうか、決してそれを条件にすると申すのではございませんが、東京でなければいけないのか、就職口さえあれば関西でも差支えないのか、そう云うことも参考迄に伺って置きたいのですが、と云うと、宜《よろ》しゅうございます、そのことはつい伺っておりませんけれども、早速お尋ねして見ましょう、と、井谷は云ってから、しかし恐らく東京だろうと存じますけれども、東京ではお厭《いや》でしょうか、と聞き返すので、いいえ、別段、………と、幸子は慌《あわ》てて、そう云う訳ではございませんが、………と、そこのところは言葉を濁した。
では又後程、………晩の食事が済みましてから、………事に依《よ》ると、今夜光代が御牧さんをお連れして来るかと存じますから、その節は何卒私の部屋までお遊びに、………と、そう云うことでその時は一旦別れたが、果して八時過ぎに電話で、お疲れでございましょうけれども、只今《ただいま》お見えになっていらっしゃいますから、是非お三人お揃いで、………と云って来た。幸子はスーツケースから幾組もの畳紙《たとう》を出させて、それらを二つの寝台の上へ一杯にひろげさせ、雪子の着換えを手伝ってやってから、自分と妙子とが着換えをしたが、その間にもう一度催促の電話が懸った。
「さあさあお這入り遊ばして、………」
扉を叩《たた》くと、光代がそう云って中から開けた。
「この通り取り散らかしておりまして、失礼なのでございますが」
事実、部屋の中は大小五六箇のトランクや、洋服入りのボール箱の数々や、諸方面から贈られた餞別《せんべつ》の包や、亜米利加行きの用意の品々で一杯になっていた。御牧は三姉妹の姿を見ると、急いで椅子から立ち上ったが、紹介が済んでも椅子には戻らず、
「わたくしは此処《ここ》で結構でございます、何卒こちらへ」
と、自分はスチーマートランクに腰をおろした。椅子はいろいろな形のを合せて四つしかないので、それに三姉妹と井谷とが掛け、光代は寝台の端を選んだ。
「如何《いかが》です、井谷さん、お客様もおいでになったし、―――」
と、何かの話の続きと見えて、御牧が云った。
「―――見物人が大勢になったところで、是非一つお見せになりませんか」
「御牧さんにはどうしてもお見せ致しませんわ」
「そんなことを仰っしゃったって、どうせ僕は船までお見送りするんですから、いやでも見せて戴きますよ」
「ところがわたくし、出帆の時も和服のつもりなんですの」
「へーえ、船でもずっと?―――」
「ずっとと云う訳にも参りますまいけれども、なるべく洋服は着ないようにして、―――」
「そいつは悪い料簡《りょうけん》ですな。じゃあ何のために服をお拵えになったんだか。―――」
そう云って御牧は、幸子たちの方へ話しかけた。
「ええ、ちょっとお伺い致しますが、実は只今井谷さんの洋服と云うことが問題になっておりますんですが、いかがでございますか、あなた方は井谷さんが服をお召しになったところを御覧になったことがおありになりますか」
「いいえ」
と、幸子が答えた。
「―――見せて戴いたことがございませんの。それで私《わたくし》たちも、どうなさるのか知らん、申していたのでございます」
「東京の連中もみんなそう云っておりますのでね。光ちゃんまで見た覚えがないって云われますんで、一つ是非とも見せて戴こうって訳なんでございますがね」
御牧は又井谷の方へ向き直って、
「いかがです、井谷さん、一度皆さんの見ておられるところで、テストして御覧になる必要がありゃしませんか」
「何仰っしゃるのよ、今ここで裸体になれますか」
「何卒《どうぞ》々々、―――その間われわれは廊下へ出ておりますよ」
「そんなことどうだっていいじゃないの、御牧さん」
と、光代が助け船を出した。
「そんなにママをおいじめになるもんじゃなくってよ」
「そう云えばこいさんも、この頃はよく和服をお召しになりますのね」
と、井谷は辛うじて身をかわした。
「狡《ずる》いな、胡麻化《ごまか》しちまっちゃあ」
「はあ、近頃はこいさんも、洋服よりは和服を着る方が多くなって参りましたの」
「うちもだんだんお婆さんになった証拠や、云われてますねん」
と、幸子のあとから妙子が、無雑作に大阪弁で云った。
「でもそう云っては失礼だけれど、―――」
と、光代は妙子の絢爛《けんらん》な装いを見上げ見おろしながら、
「こいさんはきっと洋服の方がお似合いになるんじゃないか知ら、和服だって決してお似合いにならない訳じゃないけれども。―――」
「光代さん、お話の最中ですが、こちらのお嬢さんは妙子さんと仰っしゃるんだと伺いましたが、『こいさん』と仰っしゃいますのは?―――」
「まあ、御牧さんは京都人の癖に『こいさん』を御存知ないんですか」
「『こいさん』と云う言葉は、大阪だけのようでございますね。京都ではあんまり使わないようでございますが」
と、幸子が云った。
井谷が「いかがでございます」と、これも何処かからの贈物らしいチョコレート菓子の缶《かん》を出したが、一同お腹が出来ているので、誰も手を出す者がなく、番茶ばかりがよく売れた。と、光代が、御牧さんにサーヴィスなさいよと、母にすすめて、ウィスキーを部屋に取り寄せたので、御牧は遠慮する風もなく、ボーイさん、これごと置いてってくれ給えと、角罎《かくびん》を傍へ引き寄せて、チビリチビリやりながらしゃべった。会話は井谷が巧い工合に引き出すので、ソツがなく運んで行ったが、御牧さんは家をお持ちになるとして、東京でなければいけませんの? と云う風な質問が緒《いとぐち》になって、御牧は自分の身の上のことや将来の計画などについて、いろいろな事実を洩《も》らした。―――今光代さんは自分のことを京都人であると云われたが、御牧の家は祖父の代から東京小石川に本邸を移したので、自分は東京生れであること、自分の父の代までは純粋の京都人であるが、母であった人は深川の生れだったと云うことであるから、自分の体には京都人の血と江戸っ児の血とが半々に流れていること、左様な次第で、自分は若い時分には京都の土地に何等の興味をも感ぜず、寧ろ欧米の生活に憧《あこが》れを寄せていたのであったが、近頃になって祖先の地に対するノスタルジアのようなものが萌《きざ》しつつあるのを覚えること、そう云えば自分の父なども、老年に及んでから京都を恋しがるようになり、遂《つい》に小石川の本邸を捨てて嵯峨《さが》に隠棲《いんせい》してしまったのであるが、それを思うと、自分も何か宿命的なものを感じること、趣味の上にもその傾向が現れて来て、自分はだんだん古い日本の建築のよさが分るようになって来たこと、で、自分は将来時機を待って再び建築屋になるつもりであるが、それまでに出来るだけ日本固有の建築を研究して置き、今後の設計には日本的なものを大いに取り入れたいのであること、自分はそれやこれやを考え、事に依ったら京阪地方に職を求めて彼方《あちら》で暫《しばら》く生活した方が、研究のために便利ではないかと思っていること、そればかりでなく、他日自分が建ててみたい住宅の様式は、東京よりも阪神地方の環境に調和するような気がするので、大袈裟《おおげさ》に云えば、自分の将来は関西にあるとさえ思っていること、―――そして御牧は、もし京都に家を持つとすれば何処を選ぶべきであろうかと尋ねるので、幸子がそれについて意見を述べ、嵯峨のお父様の御別邸と云うのはどの辺におありになるのでしょうか、と云うようなことから、京都に住むなら嵯峨辺か、南禅寺、岡崎、鹿《しし》ヶ谷《たに》方面に限ると云うような話になり、つい夜が更《ふ》ける迄しゃべりつづけた。その間に御牧はウィスキーの角罎をひとりで三分の一程平げて猶《なお》自若たる有様であったが、それでも酔いが循《まわ》るにつれて剽軽《ひょうきん》になり、時々奇抜な警句を吐いて皆を笑わせた。殊《こと》に光代とは好い相棒であるらしく、盛んに辛辣《しんらつ》な舌戦を交えるのが、まるで漫才を聞いているようなので、幸子たちは昼の疲れをも忘れ、すっかり睡気《ねむけ》を覚まされてしまったが、あ、大変だ、電車がなくなる、と、慌てて御牧が立ち上るのに続いて、あたしも一緒に、と、光代が連れ立って帰って行ったのはもう十一時近くであった。
幸子たちはその晩が遅かったので、明くる朝は九時半頃まで寝過してしまったが、幸子は昼の食堂の開くのを待っていられず、部屋で簡単にトーストを食べると、雪子を促して資生堂の美容室へ出かけた。それと云うのは、ここのホテルの地階にも美容室はあるけれども、資生堂ではパアマネントを懸けるのに、ゾートスと云う薬液を使う新しい遣り方をしている、それだと電気器具などを頭へ取り附ける面倒がなくて楽であるから、彼処でやってお貰いなさいと、昨夜光代に教えられたからであったが、行って見ると、十二三人もの先客が控えており、これでは何時間待たされるかも分らない形勢であった。神戸の井谷の店であると、こう云う場合に顔を利かして我が儘《まま》を云い、順番を胡麻化《ごまか》して貰う手があったが、ここではそう云う手を使う余地がなく、待合室に待っている間も、周囲がいずれも見も知らぬ純東京の奥様や令嬢ばかりで、誰一人話しかけてくれる者もいない。二人は小声で語り合うのさえ、上方訛《かみがたなまり》を聞かれることが気が引けるので、さながら敵地にいる心地で身をすくめながら、あたりでぺちゃくちゃ取り交される東京弁の会話に、こっそり耳を傾けているより外はなかったが、今日は大変込むんだわね、と、一人が云うと、そりゃそうよ、今日は大安だもんだから御婚礼がとても多いのよ、美容院は何処も大繁昌よと、一人が云っている。幸子は、成る程そうだったのか、それでは井谷が送別会を今日にしたのも、雪子のために縁起を祝ってくれたのかも知れない、と心付いたが、そう云ううちにも客が後から後からと詰めかけて来、済まないけれどあたし時間の約束があるんで、………と、例の手を使って二人も三人も先に這入って行くのであった。幸子たちは十二時前に此処へ来たのに、やがて二時になってしまい、五時と云う今夜の会に間に合うかどうか心もとなく、二度と再び資生堂なんかへ来るものではないと、腹立たしさを怺《こら》えながら苛々《いらいら》していたが、出がけにトーストを食べただけなのが今になると答えて、たまらなく腹が減って来た。分けても雪子は、平素から「あたしは普通の人よりも胃袋が小さい」と云っており、一遍に取る食物の量が僅少《きんしょう》なのであるが、そのために又普通の人より早く腹を空かせる癖があって、ややともすれば脳貧血を起しそうになるので、その癖を知っている幸子は、これでパアマネントを懸けても大丈夫であろうかと、自分よりも雪子の方が心配になり、黙って寒そうな様子をしている彼女の顔を覗《のぞ》き込んでばかりいた。で、ようよう二時過ぎに順番が廻って来、雪子から先にやらせて、幸子が済んだのは四時五十分頃であったが、帰りしなに、蒔岡さんと云うお方にお電話でございます、と云われて出て見ると、中姉《なかあん》ちゃん、まだかいな、もう五時になるやないの、と、妙子がさすがに気を揉《も》んでホテルから懸けて来たのであった。ふん、分ってる、今済んだとこやねん、直ぐに帰るわ、………と、つい電話口で大阪弁を出してしまって、二人は慌てて戸外へ出たが、
「雪子ちゃん、よう覚えとき。―――大安の日なんかに知らない美容院へ行くもんやないで」
と、幸子は口惜《くや》しそうに云った。
その晩、彼女はホテルの宴会場へ急ぐ廊下で、さっき資生堂で見た顔の婦人が五人迄も式服を着て通るのに行き合せたが、送別会の会場で井谷に言訳をする時にも、
「えらい遅刻いたしまして。………忘れても大安の日なんかに知らない美容院へ行くものではありませんわ」
と、又そのセリフを繰り返した。
彼女たちの滞京最後の日、第三日目の朝から午後へかけての間は、例に依《よ》って頗《すこぶ》る忙しい半日であった。
幸子の最初の予定では、今日は一日観劇のために空けて置こう、そして明日の午前中に道玄坂を訪《と》い、午後に土産物などを買って夜行で立とうと云うつもりであったが、夜汽車は来る時に懲《こ》り懲《ご》りした、睡眠不足が溜《たま》っているから、早く帰って自分の寝室で足腰を伸ばさして欲しい、と、先《ま》ず妙子が云い出したのに、雪子も賛成した。彼女たちの本当の腹は、疲れていることもあるであろうが、それよりも、本家を訪問する時間を出来るだけ短く切り詰めたい、―――つまり、明日の朝の「つばめ」で立つことにして、今日午前中に買物を済まし、午後歌舞伎座へ行く前の僅《わず》かな時間に、自動車を門前に待たせて置いて五六分間立ち寄るくらいな程度にしたい、と云うことにあるらしかったが、妹たちのその気持は幸子にも理解出来ないではなかった。妙子が本家を嫌《きら》うのは云う迄《まで》もないとして、雪子にしても、既に一年以上も本家に戻っていないのであったが、実を云えば去年の十月、本家が妙子に、東京へ来るか、でなければ蒔岡家と絶縁するか、二つに一つを選べと云って来た時に、雪子に対してもほぼ同様のことを云って来ていたのであった。ただ雪子には退《の》っ引きならぬようには云わず、ぼんやり申し越したに過ぎなかったので、何処《どこ》まで本気で云っているのか分らない、と云う風に雪子は取り、全くそれを無視する行動に出たのであったが、本家の方でもそれきり雪子の身柄については処置を促して来るではなかった。それは雪子の取扱いに手を焼いている義兄が、彼女を刺戟《しげき》することを避けて暫《しばら》くなすがままに任しているのか、或《あるい》は雪子が命令通りにしないのをよいことに、彼女をも妙子同様、暗黙のうちに義絶したつもりであるのか、孰方《どちら》かであろうと思えるにつけても、今度本家へ訪ねて行けば姉から何かしらそれに関連した話が出そうなところなので、本人の雪子は勿論《もちろん》、幸子にしても道玄坂へは何となく足が向かないのであった。ありていに云うと、幸子は先々月、富士五湖めぐりのついでに上京した時にも、姉と電話で話しただけであったのは、眼を患《わずら》っていたからでもあったが、一つには、姉が義兄の意を伝えて雪子を返せと云い出しでもして、雪子が肯《がえん》じなかった場合に、板挟《いたばさ》みになるのを恐れたからであった。のみならず、これらの事情を別にしても、幸子には又幸子として、本家の姉を疎《うと》んずる感情があった。それは彼女自身でも意識していないような潜在的なものではあったが、今年の四月、妙子の病気を知らしてやった時に、姉から寄越した返事の文《ふみ》を読んで以来、何か彼女は姉に対して不快の念を抱くようになっていた。で、それらの理由がいろいろと積っているので、今度は全然顔出しをせず、こっそり帰って来たい気持もあったのであるが、知れた時に面倒だからと云う貞之助の意見もあるし、それに、雪子の縁談が、今度はひょっとすると、と思うと、矢張この機会に多少はそのことを本家の耳へ吹き込んで置く必要があった。と云うのは、一昨日迄は幸子はそんなに今度の話に望みを懸けてはいなかったのであるが、一昨日の晩始めて御牧と云う人物に遇《あ》い、又昨夜の会で、この縁談の媒妁人《ばいしゃくにん》を買って出ている国嶋夫妻等に紹介され、それらの人々の人柄や、彼等に依って醸《かも》し出される雰囲気《ふんいき》がどんなものであるかを知るに及んで、うっかり深入りしてはと云う警戒心が急に緩んで来たのであった。幸子の受けた印象では、昨夜の会は工《たく》まずして自然に見合いをしたことになり、その結果は双方に取り上々の首尾であったと思えた。何より彼女が嬉《うれ》しかったのは、御牧や国嶋が妙子を遇するにそれとなく意を用い、|交《こもごも》彼女に胸襟《きょうきん》を開いて話しかけてくれたことであった。それは先方が、此方の弱点を弱点と認めず、暗々裡《あんあんり》にいたわり慰めてくれているものと取れたが、而《しか》も先方のその仕向け方が少しもわざとらしくないので、妙子も素直に打ち解けることが出来、得意の警句や物真似《ものまね》などを出し惜しみせずに連発して、皆を笑わせると云う風であった。幸子には又、妙子のそう云う遣り方が、雪子のために自分がせいぜい三枚目所に廻って、座を取り持ってやろうと云う情愛から発しているらしくも感ぜられ、何かしら眼頭《めがしら》が熱くなるのを覚えたのであったが、妙子のそれと云わぬ心づくしは、雪子にも分ったと見えて、彼女にしては珍しくその晩は打ち興じて、割合によくしゃべりもし、笑いもした。御牧はその席上でも、僕は京都か大阪に家を持ちます、と云う言葉を再三繰り返したのであったが、幸子は雪子がこのような人々の仲介で、このような人を夫に持つのなら、居住地などは関西であろうと東京であろうと、問題でないようにさえ思ったのであった。
そんな訳で、彼女は今朝、義兄が勤めに出かけた頃を見計らって渋谷の姉に電話を懸け、井谷が今度これこれなので、その送別会に出席するために三人で出て来たこと、明日の朝の特急で帰る予定であるから、今日だけしか時間がないのであるが、午後は井谷と歌舞伎座へ行く約束があるので、その前にちょっとだけ訪ねるつもりであること、それから、まだそんなに進んではいないのだけれども、井谷の送別会に絡《から》んで、雪子の縁談も持ち上っているのであること、などを匂《にお》わして置いたのであったが、朝から銀座を歩き廻って尾張町《おわりちょう》の交叉点《こうさてん》を三四回も彼方へ渡り此方へ渡りしてから、浜作《はまさく》で昼飯を食べて、西銀座の阿波屋《あわや》の前から道玄坂へタキシーを飛ばした。妙子はその日も、絶えずしんどいとか疲れたとか云いながら附いて来、浜作の座敷では座布団《ざぶとん》を枕《まくら》にして足を投げ出したりしていたが、二人の姉がタキシーへ乗る時に、自分は行くことを差控えたい、本家は自分を勘当したことになっているから、訪ねて行っては姉ちゃんが挨拶に困るであろうし、自分もそんな所へ行きたくない、と云い出した。幸子は、そう云えばそうであろうけれども、妙子だけ顔を見せないのも角が立つし、義兄は兎に角、姉は勘当と云うようなことにこだわる筈《はず》はなく、会いに行けばなつかしがるに極まっている、殊に妙子がああ云う大病をした後であるから、そう云っても顔を見たがるであろうことは知れているので、そない云わんと一緒に来なさい、とすすめて見たが、行くのは大儀であるから止める、自分は何処かで珈琲《コーヒー》でも飲んで、先に歌舞伎座へ行っている、と云うので、それならと、幸子も強《し》いては誘わず、雪子と二人だけで出かけた。
待つのは堪忍《かんにん》して貰いたいと運転手が云うのを、そう云わないで待っていてほしい、ほんの十五分か二十分の間である、待ち賃はよいだけ払うからと、拝むようにして頼み込んで車を格子《こうし》先に停めて置き、二人は二階の八畳の間に上って、あの朱塗の八足台の卓《しょく》や、頼春水《らいしゅんすい》の額や、蒔絵《まきえ》の棚《たな》や、その棚の上の置時計等が、相も変らず飾ってあるのを眺《なが》めながら姉と対坐《たいざ》したことであったが、今年六つになる梅子を除いて、上の子供たちは皆学校へ行く年頃になっているので、家の中は昔のように騒がしくはなかった。
「まあ、それにしたかて、一遍自動車帰って貰《もろ》うたらどうやねん」
「帰りの車、この辺で直き掴《つか》まるやろうか」
「以前は道玄坂まで出たら何ぼでも通ったけど、………それより地下鉄で行きなさいな、尾張町から歩いたかて知れたある」
「又この次にゆっくりさせて貰いますわ、………どうせ近いうちに出て来んならんようになるねん」
「歌舞伎座、今月は何やってたか知らん」
と、ふっと鶴子は、そんなことを聞いた。
「茨木と、菊畑と、それから外に何やったか………」
雪子は、梅子が二階へ上って来たのをしおに、梅子ちゃん、下へ行こうと、その手を取って降りて行ったが、
「こいさんは?」
と、二人になると鶴子は云った。
「こいさんはさっき迄一緒やってんけど、うちは遠慮しといた方がええことないやろうか云うて、………」
「何でやねん。………来てくれたらええのんに」
「あたしもそない云うてんけど。………ほんまのとこは、この二三日忙しいことが続いたよって、体がえらいらしいねんわ、何と云うても、まだ本当でないねんな」
幸子は、姉と向い合って座に就いた瞬間から、この数箇月来抱いていた淡い反感のようなものが次第に消えて行くのを覚えた。遠く離れて考えていた間こそ、快からぬ感情も湧《わ》いたけれども、こうして差向いになって見れば、姉はやっぱり昔の姉で、何処も変ってはいないのであった。そして今、歌舞伎の狂言のことを聞かれて見ると、たまたま四人の姉妹が東京に落ち合いながら、ひとりこの姉を除《の》け者にして芝居に誘わなかったことが、何だか意地悪をしたようで、済まなく感ぜられて来るのであった。姉はそれをどう云う風に取っているか、おおどかな彼女の性質として、別に何とも感じていなければよいけれども、いくつになっても娘心を失わない人のことであるから、芝居と聞けば一緒に行きたいところであろう。それに近頃は、本家が虎《とら》の子のようにしていた動産の大部分が、株の値下りで殆《ほとん》ど無価値に等しくなったと云うことなので、家計はますます苦しくなっているに違いなく、たまにこう云う折ででもなければ、芝居見物に行くことなどもないのではあるまいか。そう思うと幸子は、姉の心を外《そ》らすために、せいぜい雪子の縁談のことを誇張して話して、先方はもうその気であるから、此方さえ承諾すれば纏《まと》まるに極まっているので、今度は多分兄さんや姉ちゃんに喜んで貰えるであろう、いずれ貞之助に会って見て貰った上で、改めて相談に出るつもりであるから、と云ったりしてから、
「今日の歌舞伎座もその御牧さんや井谷さんの母子が一緒やねん」
と、そう云いながら腰を浮かして、
「そんなら、出直して来ますよってに、………」
と、挨拶するともう立って行った。姉は幸子のあとに附いて階段を降りながら、
「雪子ちゃんも、もうちょっと朗らかになって、おあいその一つも云うようにせなあきませんな」
「それが今度はいつもと違うて、如才がのうて、ようしゃべるねんわ。あんなんやったら、どうやらこの話は出来そうに思うねんけど」
「どうでもそうなって欲しいもんやわ。来年は三十五になるやないの」
「左様なら、―――そしたら又」
階段の下で待っていた雪子は、玄関で姉にそう云うと、幸子より先に逃げるように戸外へ出た。
「左様なら。こいさんに宜《よろ》しく」
姉も往来へ送って出て、車の傍に立ち添いながらしゃべりつづけた。
「井谷さん洋行しやはるのんやったら、あたしもちょっと挨拶に出んと悪いか知らん」
「そないせんかてええやないの、姉ちゃんは会うたことないねんさかい」
「けど、東京に来てはることが分ってて、顔出しせえへんのんもどうやろうか。………出帆は何日やのん」
「廿三日と聞いてるけど、派手なことが嫌いで、見送りは一切辞退する云うてはるねん」
「ホテル迄でも行って来ようか」
「それには及ばんと思うけど、………」
幸子は、運転手がエンジンをかけている間、姉と車の窓を隔ててこんな会話の遣り取りをしたが、姉がその時しゃべりながら涙をぽろぽろこぼしているのに心付いた。幸子には井谷の話がこの涙とどう云う関係があるのだか、奇異な感じがするのみであったが、姉の眼からは自動車が動き出す迄、しきりなしに涙が流れつづけていた。
「姉ちゃん、泣いてはったわな」
と、道玄坂を過ぎた時分に、雪子が云った。
「何でやろう、不思議やわ、井谷さんのことで泣くなんて」
「何か、外のことやわきっと。井谷さんの話は照れ隠しやわ」
「芝居に誘うて欲しかったんと違うか知らん」
「そうや、芝居が見たかったんやわ」
幸子は姉が、芝居が見られないで泣くなどと云う子供らしさを内心耻《はず》かしく思いながら、最初のうちは一生懸命に怺《こら》えていて、しまいに怺えきれなくなって泣いたのであると云うことが、今になるとはっきり分って来たのであった。
「姉ちゃん、あたしに帰るように云うてはれへなんだ?」
「ええ塩梅《あんばい》に、その話は出えへなんだ。芝居のことで胸が一杯やったらしいわ」
「そうか」
と、雪子は心からほっとしたように云った。
歌舞伎座ではお互の席が離れているために懇親を深める機会はなかったが、それでも食堂では一緒であったし、五分か十分の幕間にも、どうです、廊下へお出になりませんかと、御牧がわざわざ連れ出しに来ると云う風であった。そして、ハイカラなことにかけては趣味の広い彼であるが、歌舞伎の知識は皆無です、と自分で白状している通り、旧劇のことは一向不知案内らしく、長唄と清元の区別さえ付かないことを曝露《ばくろ》して、光代に冷やかされたりした。
井谷は幸子たちが明日の朝の急行を選んだと聞いて、今夜がいよいよお名残でございますね、わたくしもよい置土産が出来て嬉しゅうございます、いろいろお打合せして置きたいこともございますが、いずれ光代が蘆屋の方へ御連絡申上げることと存じます、と云っていたが、芝居が跳《は》ねると、その辺まで歩こうじゃありませんか、と御牧が云い出して、尾張町の方へ六人がつながって行く途々《みちみち》、幸子と二人少し離れて歩きながら、御牧氏がすっかり乗り気になっていることは御覧の通りであるが、国嶋氏夫妻も昨夜お嬢さんにお会いしてから、御牧氏以上に惚《ほ》れ込んでいること、ついては、なるべく来月中に、御牧氏が西下して先ず蘆屋のお宅を訪い、御主人にお目に懸るつもりであること、そしてお宅様の御内諾が得られれば、国嶋氏から御牧氏の父子爵《ししゃく》に話して貰う段取りになるであろうこと、などを手短かに語った。六人はそれからコロンバンで一と休みして、御牧と光代は、それでは明朝お見送りいたしますから、と西銀座で別れ、あとの四人は又ホテルまで歩いてしまった。
部屋まで送って来てくれた井谷が一とくさりおしゃべりをして、「お休みなさい」を云って出て行ってから、幸子が先に入浴し、入れ代って雪子が入浴している時であった。バスルームから出て来た幸子は、妙子が観劇の衣裳《いしょう》のままで羽織も脱がずに、絨毯《じゅうたん》の上に新聞紙を敷いて横倒しにすわったなり安楽椅子に靠《もた》れかかっているのを見、皆の附合いで帰り路《みち》を歩かせられたのが答えたのであろうと察しはしたが、それにしても、そのくたびれ切ったような姿勢が尋常でない気がしたので、
「こいさん、まだ体が本当でないのんやろうけど[#「やろうけど」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「やろけど」]、何処《どこ》ぞ外にも悪いとこあるのんと違うやろか。帰ったら一遍櫛田《くしだ》さんに診《み》て貰うことやな」
と云うと、
「ふん」
と、云ったきり、矢張大儀そうにしながら、
「診て貰わんかて分ってるねん」
と云うのであった。
「そんなら、何処ぞ悪いとこあるのん」
幸子がそう云うと、妙子は安楽椅子の腕の上に横顔を載せ、どろんとした眼を幸子に注いで、
「うち、多分三四箇月らしいねん」
と、いつもの落ち着いた口調で云った。
「え?………」
途端に息を詰めて、穴の開くほど妙子の顔を視据《みす》えていた幸子は、やや暫く間を置いて、ようよう次の言葉を云うことが出来た。
「………啓坊の子かいな?………」
「三好と云う人のこと、中姉《なかあん》ちゃん婆やさんから聞いてるやろ」
「バアテンダアしてる人かいな」
妙子は黙って点頭《てんとう》して見せてから、
「お医者さんに診て貰うたことはないけど、きっとそうやろ思うねん」
「こいさん、生む気やのん」
「生んで欲しい云うねん。………そないせえへなんだら、啓ちゃんが諦《あきら》めてくれへんねんわ」
不意に大きな驚きに襲われた時のいつもの癖で、幸子は見る見る手足の先から血が退《ひ》いて行き、体が激しくふるえて来るのが意識せられた。何よりも彼女は、動悸《どうき》がこれ以上強まらないようにすることが急務だと感じて、それきり妙子とは物を云わず、天井の明りを消すためによろめきながら壁際《かべぎわ》へ行ってスイッチを切ってから、枕元のスタンドをつけてベッドにもぐり込んでしまった。雪子が風呂から出て来た時は、彼女は眼を閉じて寝たふりをしていたが、それから妙子は悠々《ゆうゆう》と身を起して、バスルームへ行ったらしかった。
何も知らない雪子が真っ先に、妙子もやがて寝入ってしまったらしいのに、幸子はひとりまんじりとせず、ときどき眼の中に溜《たま》って来る涙を毛布の端で擦《こす》り擦り一と晩じゅう考えつづけていた。鞄《かばん》の中にはアダリンもあるし、ブランデーもあるのだけれども、今夜のように興奮していては利《き》き目がないことが分っているので、そんなものを飲んで見ようともしなかった。………
いったい、東京へ来る度に何かしらこう云う目に遇《あ》うのは、どう云う因縁なのであろうか。あたしはよくよく東京が性に合わないせいであろうか。一昨年の秋、新婚旅行以来九年ぶりに東京へ来た時にも、こいさんと板倉との恋愛を素っ葉抜いた啓坊の手紙に驚かされて、全く今夜と同じような眠られない一と夜を過したのであったが、去年の初夏、二度目に来た時にも、―――直接自分に関係したことではなかったけれども、―――ちょうど歌舞伎座観劇中に呼び出されて、板倉の重態を知らされたのであった。それでなくても、雪子ちゃんの縁談と云うと何か不吉な前兆に遇うことがしばしばであるのに、たまたま今度の見合いの場所が東京と云う廻り合せになったので、何となく幸先《さいさき》が悪いような気がし、東京では又ロクでもないことが起るのではないか、二度あることは三度である、と云うような予感がしないではなかったのであるが、でも今年の八月に三度目の上京を無事に済ましているのであるし、而《しか》もその時は久振に夫と愉快な旅行をして上々の首尾だったのであるから、最早や「東京行き」に纏《まつ》わる悪因縁は絶たれたのである、と云う風に、努めて考えていたのであった。それに本当のことを云えば、どうせ今度の縁談も巧《うま》くは行くまいと云ったような、捨て鉢《ばち》的気分が最初にあったので、そんな縁起を担《かつ》ぐ必要を感じていなかったのでもあった。………が、今になって見れば、やっぱり東京は鬼門だった。そしてやっぱり、今度もこれが躓《つまず》きになって、雪子ちゃんの縁談は破れるのだ。………こう云う良い縁に行き遇いながら、所もあろうに舞台を東京に選ばなければならなかったのは、やっぱり雪子ちゃんに運がないのだ。………幸子はそう思うと雪子が可哀そうで溜らなくなり、妙子がひとしお憎らしくなって来て、その両方の感情から涙が溢《あふ》れて来るのであった。
ああ、又しても、………ほんとうに又しても、………この妹に煮え湯を呑《の》まされた。………そして今度も、責められるべきは妹でなくて、監督すべき地位にあったあたし等なのであろうか。………「三四箇月」と云うのであるから、事実があったのはこの六月頃、あの大病から起ち直った後のことであろうが、そうだとすれば悪阻《つわり》を隠していた時期もあっただろうに、そんなことをも見過していたのはあたし等の迂濶《うかつ》と云うべきであろうか。現にあたしは、この二三日この妹が箸《はし》の上げ下ろしをも億劫《おっくう》がり、些細《ささい》な動作にもだるいだるいと云いつづけて自分の体を持ち扱うのを眼前に見ながら、妊娠なんて夢にも想像しなかったのは、何処《どこ》までも自分の鈍間《のろま》と云うものであろうか。………そう云えばこの間じゅうから、洋服を止めて和服を着るようにしていたのにも理由があったのだ。………きっとこいさんのような人から見たら、あたし等はこの上もないおめでたい人間に見えるであろうが、それでこいさんの良心は何の咎《とが》めも受けないのだろうか。………さっきのこいさんの口ぶりから察しると、物のはずみで妊娠したと云うようなことではなくて、それは予《あらかじ》め三好とやら云う男と談合して、計画的に仕組んだ妊娠ではないか。既定の事実を作って置いて、否応《いやおう》なしに啓坊に自分との縁を諦《あきら》めさせ、又あたし等に三好との結合を認めさせる、その手段として妊娠を選んだのではないか。………それはこいさんとして賢い手段であったかも知れない。こいさんの身になって見たら、良いにも悪いにもそれより外に策の施しようがなかったのだと云うかも知れない。………けれどもそんなことが許されてよいものだろうか。こいさんは、あたしや、あたしの夫や、雪子ちゃんたちが、本家の厳しい云い付けに背き、数々の犠牲を払って迄も庇《かば》ってやった好意を無にして、あたし等を何処へも顔向け出来ないような羽目に追い込んだら、痛快だとでも云うのだろうか。………それもまあよい、あたし等夫婦が世間へ対して面目玉《めんぼくだま》を潰《つぶ》すだけならまだしも、雪子ちゃんの将来を滅茶々々にしてやろうとでも云うのだろうか。………実際、この妹はどうしてこんなに二重にも三重にもあたし等姉妹を苦しめなければ済まないのだろう。………今年の春の大病の時にだって、どんなに雪子ちゃんが献身的に看護に努めたか。雪子ちゃんのお蔭で助かったようなものだと云うことが分っていないのであろうか。あたしは又、さすがこいさんもあの時のことなどが身に沁《し》みていればこそ、その恩返しをするつもりで昨日の会に座を取り持ってくれたのだろうと思っていたけれど、そんなことは買い被《かぶ》りだったのだ。昨夜あんなに燥《はしゃ》いだのは、ただ訳もなく酔っ払っていただけなのだ。………この妹は自分のことより外に何も考えない人なのだ。………
幸子が憤慨に堪えないのは、こう云う風に幸子の立腹することも、貞之助の機嫌を再び損ずるようになることも、雪子が殆ど測り知れない災難を蒙《こう》むることも、何も彼も計算に入れて見た上で、それでも結局非常手段を取る方が自分のために得策であると考えた、いつもの妙子の冷静な判断と心臓の強さであった。が、それも手段そのものは、背に腹は換えられなかったのであろうし、妙子流の人生観では已《や》むを得なかったのでもあろうが、選りに選ってこう云う時に、―――雪子の運命を決する大切な時に、―――そんな事件を起してくれなくてもよかったではないか。尤《もっと》も妙子の妊娠が雪子の見合いと時を同じゅうするようになったのは偶然の結果で、故意にたくらんだ訳ではないに極まっているが、雪姉《きあん》ちゃんが結婚する迄は自分の方も差控えるとか、雪姉ちゃんに飛ばっちりが行かないように気を付けるとか、そんなことを云っていたのが本心であるなら、せめて雪子の身が固まるのを待ってから、どう云う手段でも取るべきではなかったか。だがまあ、それもよいとしよう。………が、そう云うただならぬ体であることが分っているなら、なぜ東京へ附いて来るのを遠慮してくれなかったのか。彼女にして見れば、久振に蒔岡家の三姉妹の一人として、晴れて世間へ顔を出せることが嬉《うれ》しくもあったし、そう云う機会を与えてくれた井谷に感謝する気持もあって、つい疲れ易《やす》い状態にあることをも忘れ、なあに、少しぐらい無理をしたって大したことは、と云う持ち前の図太さから、のこのこ附いて来たのでもあろうが、………そしてとうとう大儀で溜らなくなったのと、よい切掛《きっか》けを得たのとで、事実を告白してしまったのでもあろうが、………それにしても、身内の者は却《かえ》って思い及ばなかったけれども、三四箇月のお腹と云えば炯眼《けいがん》な人には随分感づかれる恐れがあるのに、宴会だの観劇だのと云う衆人環視の場所へ姿を曝《さら》して平気でいるとは、何たる大胆さであろうか。第一、今が最も乗物を警戒すべき時期であるのに、長時間汽車に揺られたりして、もしものことがあったらばどうするのであろうか。自分はそれでもよいとして、幸子たちがどんなに慌《あわ》てたり耻《はじ》を掻《か》いたりしなければならないか。幸子はそれを考えただけでも胸がヒヤリとするのであったが、事に依るともう、昨夜の会あたりで誰かに感づかれてしまったような気もして、知らないうちに自分たちは耻を掻かされているようにも思えた。………
それもこれも、何も彼も、出来てしまったことであるなら仕方がないとして、今度も此方が馬鹿であったと云うことにしてもよいけれども、どうせ今迄あたしに隠していたのであったら、せめて告白するのにも、もう少し適当な時と所とを選んでくれることは出来なかっただろうか。こんな旅先の、取り散らかしたホテルの一室で、此方が疲れ切って寝ようとしている時、心に何の用意も出来ていない時に、いきなりドカンと、大袈裟《おおげさ》に云えば天地が引っくり覆《かえ》るような事実を聞かすとは、あんまり残酷ではないか。まだしもあたしが脳貧血を起さなかったのは仕合せだけれど、何と云ういたわりのない、心なしの遣《や》り方だろう。外のこととは違い、隠して隠し切れるものではないから、いずれ一度は告白しなければならないであろうが、―――それも一日も早い方がよいではあろうが、今夜のように人が全く油断し切っている時、而も深夜の部屋の中に三人で置かれて、泣くことも、怒ることも、逃げ出すことも出来ない時に、こんなことを聞かすと云うことがあるだろうか。………及ばずながら長の年月尽して来た姉の親切に対する、これが妹の道なのだろうか。………普通の思いやりがあるなら、旅行中は何があろうとも辛抱をし、家に帰って精神的にも肉体的にもあたしが平素の落ち着きを取り返した頃を見計らって、徐《おもむ》ろに打ち明ける、と云う風にすべきではないか。………あたしは今のこいさんに何をして貰おうとも思いはしないが、せめてそれぐらいなことを望むのは無理だろうか。………幸子は、いつの間にか朝の電車の軋《きし》り出した音を聞き、カーテンの隙間《すきま》が明るくなったのに心付いたが、何処か頭の芯《しん》の方がくたびれていながら、眼は反対に冴《さ》えるばかりで、なおそのことを考えつづけた。………さしあたり、もう直ぐ人目につく状態になるのであるから、至急に何とか処置しなければならないとして、さて何としたらよいであろう。………誰にもこのことを知らせずに、闇《やみ》から闇へ葬ってしまう方法が一つあるけれども、それはさっきの口ぶりでは、妙子が承知しないであろう。………この際妙子の自分勝手な遣り方を責めて彼女に自分の非を認めさせ、蒔岡家の名誉のため、雪子の運命を切り開くために、お腹の子を犠牲にするように説きさとす、そして、否応云わせずに無理にでもそれを実行させる、と云う方法もないことはないが、幸子のような気の弱い者にはとても妙子をそんな工合に動かすことなんか出来る筈《はず》はない。それに、二三年前までは何処の医者でも訳なく手術を引請《ひきう》けてくれたものだけれども、近頃は追い追いそう云うことをやかましく云う社会状勢になって来たので、今日ではたとい妙子が納得しても、そう簡単に実行出来ることではない。とすると、外に考えられる方法は、何処か人目に付かない所へ当分の間身を隠させ、その地で分娩《ぶんべん》させること、―――その期間中は絶対に男との交通を禁止し、一切此方の費用と監督の下に置くこと、そうして置いて一方では今度の雪子の縁談を急速に進行させ、結婚式まで運んでしまうこと。―――しかし幸子は、これを実行するのには夫に事情を打ち明けて、彼の力を借りるのでなければ、自分一人の計らいで出来ることではないと思うと、早くも気が重くなって来るのであった。実際、いくら自分を信じてくれ、愛してくれている夫であるからと云って、幸子は自分の肉身の者の度重なる不行跡《ふぎょうせき》を何として耻を感ずることなしに打ち明けることが出来ようぞ。夫にして見れば雪子や妙子は義理の妹であるに過ぎず、本家の兄とは自《おのずか》ら立ち場が違うので、そう格別に面倒を見る筋合はないのに、親身の兄も及ばぬくらいに二人の世話を焼いてくれているのは、そう云っては己惚《うぬぼ》れかも知れないが、つまるところは妻への深い愛情がさせる業《わざ》であろうと、幸子は内心得意にも、有難くも感じているのだけれども、さすがの夫も、妙子には毎々不快な目に遇《あ》わされるので、外のことでは何一つ風波の起らない家庭の内部にも、妙子のことが原因で稀《まれ》に意見の衝突が生じることがあり、妻の身としてそれを夫に済まなく思ったことも一再ではなかった。それが最近、好い塩梅に漸《ようや》く夫の機嫌《きげん》が直り、公然と妙子の出入りを許すようになっていたのに、―――おまけに今度は雪子の縁談と云う何よりの土産を持って帰って、喜んで貰おうとしていたのに、―――何として又こんな厭《いや》な話を聞かされようぞ。夫はああ云う人であるから、妹のことで妻や雪子に屈辱を感じさせないように、却って此方を慰めてくれるであろうけれども、そうされればされるで、幸子は矢張辛《つら》いのであった。そして夫が、口では何でもないように云いながら、心中の不快を怺《こら》えているのがよく分るだけに、気の毒でならないのであった。
だが、トドのつまりは夫の理解と義侠心《ぎきょうしん》とに縋《すが》るより外はないとして、幸子の一番大きな心配は、どんな風にして見たところで、結局今度もこの事件のために雪子の好運が逃げて行ってしまうであろう、と云うことであった。いつでも話が最初のうちは順潮に運び、今一歩と云う瀬戸際へ来て、故障が起って破れるのである。今度にしても、仮りに妙子を何処かの遠い温泉地あたりへ行かせたにしても、それで世間の眼を避けると云う訳には行かず、やがて真相が御牧の側へ知れ渡るのではないであろうか。早い話が、今後両家の交渉が頻繁《ひんぱん》になり、招いたり招かれたりする機会が多くなるのに、妙子の姿がこれきり消えてしまうとすれば、それをどんなに糊塗《こと》したところで、御牧側が不審を抱かずにいるであろうか。………それに、予期せぬ妨害が奥畑の方からも起りはしないか。彼にして見れば妙子にこそ恨みはあっても、幸子や雪子を恨む筋はないようなものの、出し抜かれた口惜《くや》し紛れに蒔岡家全部を敵視して、報復手段を取るようなこともないとは云えず、たまたま雪子の縁談を耳にすれば、御牧の方へ聞えるようにどう云う曝露《ばくろ》戦術を取るかも知れない。そんな場合を考えると、いっそ正直に事実を打ち明けて、諒解《りょうかい》を乞う方がよいのではあるまいか。妙子のことは問題でないと云ってくれているのであるから、そうした方が、下手隠しにして後でバレたりするよりも安全であるし、案外何の事もなく済みはしないか。………いやいや、御牧自身は妙子についてどんな醜悪な事実があっても意に介しないであろうけれども、彼の周囲の人々、父の子爵や国嶋夫妻などが顰蹙《ひんしゅく》せずにいるであろうか。殊に子爵や子爵家の親戚《しんせき》たちが、そう云うみだらな娘を出したような家庭と婚姻関係を結ぶことを許すであろうか。………
ああ、やっぱり今度も、………この話は駄目《だめ》になるのだ、………雪子ちゃんには可哀そうだけれども。………
幸子はほっと溜息《ためいき》をついて寝返りを打った。そしてぱっちり眼を開けて見ると、いつの間にか部屋の中がすっかり明るくなっていた。隣りの寝台では雪子と妙子が、幼い折にしばしばそうしていたように互に背中を着け合って寝ていたが、ちょうど此方へ体を向けてすやすや眠っているらしい雪子の、ほんのりと白い寝顔を、どんな夢を見ているやらと思いながら幸子はいつ迄もまじまじと打ち眺めていた。
貞之助が妻の口から妙子の妊娠の件を打ち明けられたのは、彼女たちが東京から帰って来た夜のことであった。幸子は夫の顔を見ると、一刻も胸に収めて置くことが出来ず、(彼女は雪子には、既にその朝ホテルの部屋で、妙子が二三分いなかった隙《すき》に話してしまっていた)夕飯の食卓に就く前に、ちょっと! と夫に合図をして二階へ上って貰《もら》い、雪子の見合いの件から始めて妙子のことを一と思いにしゃべってしまったのであった。
「折角ええ話持って帰って、喜んで貰おう思うてましたのんに、………又こんなことで、心配かけるようになってしもて、………」
貞之助は、そう云って泣く幸子を宥《なだ》めて、雪子ちゃんのおめでたい話がある矢先に、困ったことではあるけれども、まさかこのために縁談が駄目《だめ》になりもしまい、何とか僕が始末をつけて上げる、そんなに気を揉《も》むことはないから僕に任して置くがよい、と云い、二三日考えさせて貰おう、と、その日はそう云っただけであったが、数日後に幸子を書斎へ呼び入れて、次のような処置を取ったらどうか、と云った。―――
先《ま》ず、妊娠三四箇月と云うことに誤りはないであろうけれども、矢張専門医に診《み》て貰って事実を確かめ、予《あらかじ》め分娩の時期を知っておくことである。そして転地をさせるのであるが、これは有馬温泉あたりが何と云っても便利であろう。都合のよいことに、妙子は今もアパート住まいをしているのであるから、今後は絶対に出入りを差止め、夜間にアパートから自動車に乗せて有馬まで運ばせる。附添には、何かと難はあるけれどもお春にくれぐれも注意を与えて、附いて行かせることにしよう。云う迄《まで》もなく有馬の旅館では蒔岡《まきおか》の姓を隠して、何処《どこ》かの夫人が療養に来ている体裁で宿泊するのである。そう云う風にして臨月まで滞在して、有馬でお産をしてもよいし、或《あるい》は、人に発見される恐れさえなければ、少し前から神戸の然《しか》るべき病院に入院してもよいが、それはその時分の情況次第にしたらよかろう。これを実行するのには、妙子と、相手の三好とか云う男との承諾を得ることが必要であるが、これは貞之助が、妙子にも、三好にも、自分で会って納得が行くように話をしよう。貞之助の考としては、こうなった以上妙子と三好とは早晩結婚すべきであると思うので、自分もそのことには反対しない。然しさしあたり、妙子が父兄の許可なくして三好と云う男と関係を結び、身重になったと云うことが、世間へ知れては工合の悪い事情があるので、当分の間、二人は交通しないで貰いたい。その代り妙子の体は責任を以て貞之助夫婦が預かり、滞りなくお産を済ますように計らうであろう。そして他日適当な時に、妙子母子を三好の方へ引き渡すのは勿論《もちろん》のこと、二人の結婚も承認しようし、本家の方の諒解《りょうかい》が得られるように尽力もしよう。それもそんなに長い間の辛抱を強《し》いるのではない。大体今度の雪子の縁談が孰方《どちら》かに極まる迄の間、と思ってくれて差支えない。―――凡《およ》そそう云う趣意を以て二人を説き付けて、暫《しばら》く妙子を世間の眼から遠ざけ、妊娠の事実をなるたけ誰にも知られないようにしよう。妙子の語るところに依《よ》ると、今日までに事実を知っているか嗅《か》ぎつけているのは、自分たち二人と奥畑だけであると云うから、外には貞之助夫婦と、雪子と、それからお春以下の女中たちが知るようになるのは防ぎ得ないとして、厳重にそれ以外にひろがらないようにしよう。―――
なお貞之助は、奥畑が何かいたずらをしはしないか、と云うことを幸子が心配しているので、それも至急に僕が会って話をつけよう、と云うのであった。幸子の恐れるのは、もし奥畑が彼自身の名誉を捨ててかかる気になれば、この際どんなことでも出来る、たとえば刃傷沙汰《にんじょうざた》のような事件を起して、自分から新聞種を提供し、蒔岡家にケチを附けるようなことも、しようと思えば出来なくはない、と云うことにあったが、貞之助はそれを一笑に附して、そんなことはお前の杞憂《きゆう》に過ぎない、いくら奥畑が不良青年的傾向があると云っても、そこはお上品な坊々《ぼんぼん》育ちであるから、まさか無頼漢じみた真似《まね》なんか出来ないであろうし、したいと思っても刃物など振り廻す勇気はあるまい。それに、もともと彼と妙子との関係は、孰方の家でも嘗《かつ》て一度も認めたことはなかったのではないか。そうして見れば彼はそれについて何を主張する権利もないのである。まして妙子が彼に対して徹頭徹尾愛情がなく、三好と云う情人の種をさえ宿してしまった今日では、奥畑としてきれいさっぱり手を引くより仕方のないところであるから、お気の毒ではあるが諦《あきら》めてくれるようにと、懇々と諭《さと》して見たら、いやと云うことは云える筈《はず》がないし、恐らく聴き分けてくれるであろう、と云うのであった。
貞之助は、この計画に従ってその明くる日から行動を起した。先ず妙子を甲麓荘《こうろくそう》に訪ねて話をし、次に神戸の湊川《みなとがわ》の某アパートに宿泊している三好を訪ねて、この方も話をつけて来たが、幸子がどんな風な男であったかと聞くと、案外感じのよい青年であった、と、貞之助は答えた。一時間足らずの会見であったから、細かい観察は出来なかったけれども、板倉よりはこの青年の方が真面目《まじめ》で、誠実味のある人間のように、僕の眼には映った。僕は三好を詰《なじ》るような語句は用いなかったけれども、彼はこのような結果になったについては、自分にも一半の責めがあることを認め、丁寧な言葉で罪を謝したが、彼の口占《くちうら》から察すると、二人がそんなことになったのは、どうも三好の方からしかけたのではなく、妙子が三好を誘惑したのであるらしい。三好は、こんなことを云うと卑怯《ひきょう》のように聞えますけれども、と言訳しながら、僕も意志が弱かったのが悪いですが、しかし決して自分の方から積極的に出たのではありません、前後の事情、まことに已《や》むを得ない羽目になってつい間違いを仕出来《しでか》したのですから、それだけはどうか御推察になって下さい、こいさんに聞いて下されば僕の云うのが|《うそ》でないことがお分りになります、と云っていたが、多分それが事実であろう。何にしても、そう云う訳なので、彼は此方の申出を承諾したばかりでなく、僕の心持も諒解して、感激していたようであった。そして、僕はこいさんを妻に持つような資格のある人間でないことは、自分でも承知していますが、しかし将来結婚をお許し下さるなら、誓ってこいさんを幸福にして上げるつもりです、実は内々責任を感じておりましたので、お許しが得られた場合のことも考えて、僅《わず》かながら貯金もしております、僕はそうなりましたら、たとい小さくとも一軒独立した店を構えて、あまり品の悪くない西洋人向のバアでも経営しようと思っておりますが、こいさんもゆくゆく洋裁の方で身を立てて、夫婦共稼《ともかせ》ぎをしようと云っておられますので、経済上のことについてもお宅の御迷惑になるようなことはいたしません、などとも云っていた。と、そう貞之助は妻に語った。
その翌日、妙子は兵庫の産婦人科の船越病院と云うのへ行き、妊娠は五箇月足らず、予定日は来年四月上旬と云う診断を受けて来た。そうこうするうち、追い追い人目につきそうな状態となって来たので、幸子は夫の指図のままに、十月末の或る日の夕方、お春を附けてそっと有馬へ立たせてやったが、その道すがらも、わざと顔見知りのガレージを避けて、省線の本山駅から自動車を招き、神戸へ出て又外の車に乗り換え、山越しをして有馬へ行かせると云う用心深さであった。お春は幸子から、妙子が阿部と云う偽名で今後当分、恐らく五六箇月間、温泉旅館「花の坊」に滞在するのであること、滞在中は妙子のことを「奥様」と呼び、「こいさん」と呼んではならないこと、蘆屋との連絡にはお春が来るか此方から誰かが行くかして、電話は懸けぬようにすること、妙子と三好と云う男との交通は禁止してあり、三好には妙子の転地先を教えてない筈だと云うことを、お春も承知していてくれること、万一怪しい手紙が来たり、電話が懸ったり、訪問客があったりしたら気を付けること、等の条々を云い含められたが、幸子はお春が、今だから申上げますけれども、わたし等は皆さんが東京へいらっしゃいます前から、こいさんのお腹が大きいことを存じていたのでございます、と云うのを聞いて、ひどく驚いたのであった。あんた、何で分ったん、と、幸子が聞くと、お照どんが最初に感づきまして、何やこいさんの様子がけったいや、そうと違うやろか、云い出したのでございますが、でも私等だけでそない申しておりましたので、誰にもしゃべったことはございません、とお春は云った。
妙子とお春とを有馬へ立たせてしまってから、或る日貞之助は今日奥畑を訪問したと云って帰って来、妻に次のようなことを話した。―――奥畑の家はかねて西宮の一本松の傍だと云うことであったから、彼処《あそこ》へ行って見たけれども、もうあの辺には住んでいなかった。近所で聞くと、今月の初めに家を畳んで、たしか夙川《しゅくがわ》のパインクレスト・ホテルへ移ったと云うことなので、パインクレストへ問い合せると、一週間程滞在しておられましたが、直きにお変りになりまして、何でも香櫨園《こうろえん》の方の永楽アパートとか云う所に行かれたそうです、と云うのであった。で、漸《ようや》くその宿にいることを突き止めて会うことが出来たが、この方も、そうスラスラとは行かなかったけれども、大体予想したような解決を見た。貞之助は、妙子のような不品行な妹を持ったのは全くわれわれの不面目であって、君が彼女に係り合われたのは災難と申すより外はなく、御同情に堪えないけれども、………と云う風に持って行ったのであったが、奥畑は、最初はひどく分りのよいような顔をして貞之助を安心させ、それでこいさんは何処におられるのですか、とか、お春どんでも附添っているのですか、とか、何気ないような口調で云いながら、頻《しき》りに妙子の居所を嗅ぎ出そうとする様子であったので、いや、どうかそれは聞かないで下さい、妙子が目下何処にいるかは三好にも隠してあるのです、と云うと、そうですか、と云って考え込んでいた。貞之助が、君はもう妙子が何処で何をしていようと、自分には関係のないことだと云う風に思って貰えないでしょうか、と云うと、それから機嫌《きげん》が悪くなって、孰方にしても僕は諦めますけれども、お宅ではこいさんとあんな人間との結婚をお許しになるのでしょうか、あの男は今の店に勤める前に外国汽船のバアテンダアをしていたとか云っていますけれども、全然経歴が明瞭《めいりょう》でない男です、板倉はあれでも出所が分っていましたが、三好にはどんな親兄弟があるか聞いたことがありません、何しろ船乗りなんかしていたんですから、どう云う過去を持っているか知れたものではありません、などと云ったが、御忠告は有難う、その点は私達もよく考えます、と、貞之助はあまり逆らわないようにして、ついては、この上虫のよいお願いはしにくいのであるが、成る程妙子は憎むべきであっても、彼女の姉たちには何の罪もないのであるから、何卒《なにとぞ》彼女たちのため、蒔岡家のためを考えて下すって、妙子の妊娠した件は内聞に願えないであろうか、万一このことが世間に知れると、一番迷惑を蒙《こう》むるのはまだ売れ口の極まらない雪子であるから、と云い、その点は如何《いかが》でしょうか、他言しないと云う約束をして下さるでしょうか、と云うと、そんな御念には及びません、僕はこいさんを憎む気持なんか露程もないんですから、まして姉妹の方々を困らせようなんて思ってもいません、と、いくらか不承々々にではあったが、そうはっきりと云った。まあそんなことで、簡単に落着した形になったので、貞之助はほっとして、その足で大阪の事務所へ出たのであったが、間もなく奥畑から電話が懸って来た。先刻のことについて僕の方にもお願いしたいことがあるので、今一度会って戴《いただ》きたい、お差支えなければこれからお伺いしたいのですが、と云うことなので、お待ちしています、と云うと、直《す》ぐにやって来て応接間に通った。そして、貞之助と向い合うと、暫くもじもじしていたが、急に哀れっぽい顔をして、今朝のお話を伺ってはもうきっぱりと断念するより仕方がないと思いますが、ただ、十年来の恋人であった人と別れなければならないのは、云うに云われない淋《さび》しさであることを察して戴きたいのです、おまけに僕は、多分御承知かと思いますが、こいさんのことが原因で、兄や親戚《しんせき》から見放されてしもうて、この間迄はそれでもささやかな借家住まいをしていたのですが、今ではあなたも御覧の通りの汚いアパートに独身生活をしているような始末です、これでこいさんにも捨てられるとなると、僕は今日から天にも地にも本当の独《ひと》りぼっちになるのです、と、いかにも芝居じみた口調で云い、今度はニヤニヤ薄笑いを浮かべながら、それで、こんなことは申し上げたくないんですけれども、実は僕、日々の小遣いにも差支えているような次第なんで、まことに申しにくいんですが、前にこいさんに少しばかり用立てたものがありますのを、この際返して戴く訳には行かんでしょうか、と、そう云いながらさすがに赧《あか》い顔をして、いや、返して戴くなんと云うつもりで御用立てしたのではありませんし、困っていなければこんなお願いはしないのですが、と云うのであった。さあ、そう云うものがありますなら、お返しするのが当然ですが、どのくらいの額でしょうか、と云うと、それがはっきりいくらと云う風には云えないのでして、こいさんに聞いて下されば分りますが、と云って、まあ二千円も戴ければ、と云うので、貞之助は一遍妙子にたしかめて見てから、とも思ったものの、手切れ金と口止め料にそれだけ払うのだと思えば高くはない、却《かえ》って後がさっぱりすると考え、それでは只今《ただいま》差上げましょうと、その場で小切手を書いて渡して、何卒お願いしました件、妙子の妊娠を極秘にして置いて戴く件は宜《よろ》しくお含みを、と云うと、それは分っていますから決して御心配なく、と云って帰って行った。と云うような訳で、どうにかこうにか収まりが付いたのであった。
井谷の娘の光代のところから幸子に宛てて手紙が来たのは、ちょうど夫婦が妙子の処分問題で忙しがっている最中であった。光代は、三人の姉妹が遠い所を送別会に出て来てくれた礼をかねて、母が機嫌よく出帆したこと、御牧氏が十一月の中旬頃に西下すると云っていること、そして蘆屋へお訪ねすると云っているから、是非御主人がお会いになって人物を見て戴きたいこと、国嶋氏夫妻からも特に宜しくと云っていること、などを知らして来たのであったが、それから一週間ばかり過ぎて、渋谷の鶴子からも手紙が来た。いつもよくよくの用事でなければ文《ふみ》を寄越さない人なので、幸子は何事かと思って封を切ったが、中は珍しくもたわいのないことが取り止めもなく書き連ねてあるに過ぎなかった。―――
先日は久振にゆっくりお目に懸れることと思いましたら、時間がなくて残り惜しいことでした。歌舞伎座は面白かったことでしょうね、この次は是非あたしも誘って下さい
御牧さんの話、その後どうなったでしょうか、まだ兄さんに話すのは早いと思って、何も云わずにありますけれども、今度こそうまく行ってくれますようにと祈っています。先は名の知れた方の御子息ですから、そんなことをする迄もないでしょうけれども、身許《みもと》調べをしてよいのなら私等の方でも調べますから、云って来て下さい。ほんとうに、毎度ながら何も彼も貞之助さんや幸子ちゃんに任せきりにしておいて、済まなく思っているのですが
あたしもこの頃は子供が皆大きくなって、手が放れましたので、手紙を書いたりする暇が出来るようになりました。それで時々お習字をしていますが、幸子ちゃんや雪子ちゃんは今でも習字の先生の所へ通っているのでしょうか。実はお手本がなくて困っているのですが、もしあなた方の書きつぶしたお草紙があるなら送って下さい。なるべく先生の朱の入ったのがほしいのです
それから、無心ついでにお願いしますが、肌襦袢《はだじゅばん》や何か下着類の古いので不用なのがあったら、廻してくれませんか。幸子ちゃんがもう着ないようになったものでも、何とかして繕って役に立てますから、捨てるようなものや女中さんに上げるようなもので結構です。幸子ちゃんのでなくても、雪子ちゃんのでもこいさんのでも、下着類なら何に依らず、ブルーマーなんかでも戴きます。子供が成人するにつれて手は放れますけれどもお金のかかることはだんだん多くなるばかりなので、倹約の上にも倹約をして行かねばならず、貧乏所帯の遣《や》り繰りのむずかしさ、いつになったら楽な暮しが出来ることやらと思います
今日は何となく手紙が書いて見たくなって書いたのですが、つい愚痴になりましたからもう止《や》めます。そのうちきっとおめでたい話の相談があることと思いたのしみにして待っています。末筆ながら貞之助さん、悦ちゃん、雪子ちゃんによろしく
十一月五日
鶴子
幸子様
おん許へ
幸子はこれを読んで行くうちに、先日道玄坂の家の門前で、自動車の窓を隔てて別れの挨拶《あいさつ》を交した姉の、涙をぽろぽろ零《こぼ》していた顔を思い浮かべた。姉は何となく書きたくなったので書いたと云っているけれども、―――そしていろいろの物の無心をする用もあったのであろうけれども、―――矢張あの時芝居に誘って貰えなかったことが忘れられないで、その恨みを婉曲《えんきょく》に述べているのかも知れなかった。今迄姉の手紙と云うと、此方を妹扱いにして意見するような書き方をしたのが多く、幸子はいつも、訪ねて行けば優しい姉に、文の面では叱《しか》られてばかりいたような気がするのであるが、そう云う姉がこんなことを云って来たのは、ちょっと不思議であったので、取り敢えず注文の品々を小包便で送り出したきり、直ぐには返事をしたためようともせずにいた。
ヘニング夫人の娘フリーデルが、今度父に伴われて伯林《ベルリン》へ行くことになったと云って、或る日夫人が訪ねて来たのは、十一月の中旬であった。夫人は、戦争中の欧羅巴《ヨーロッパ》へ娘を旅立たせることは躊躇《ちゅうちょ》したのであるけれども、娘は舞踊研究のためにどうしても行くと云って聴かないし、夫も、そんなに行きたがるのなら連れて行こうと云い出したので、仕方なく許してやることにした、幸い他にも同行者が得られたので、道中の心配はないであろうと思っている、ついては、きっとハンブルクのシュトルツ一家をも訪ねるであろうから、何か御伝言でもあれば娘にお托《たく》しになってはどうか、と云うのであった。幸子は、この六月に夫人に頼んで独逸《ドイツ》語の手紙を書いて貰い、それと一緒に舞扇と白生地とをハンブルクへ郵送したのに、シュトルツ家から何の返事も来ないことが気になっていた折柄だったので、この機会に何か品物をことづけることにし、ではお嬢さんが御出発になります迄にお宅へお届け致しますからと、そう云って夫人を帰したが、その数日後に、ローゼマリーへの贈物として真珠の指輪を見立て、シュトルツ夫人に宛てた書簡を添えて、それをヘニング家へ持って行った。
御牧は光代から予告があった通り、その月の二十日近くに、或る夜嵯峨《さが》の子爵《ししゃく》邸から電話で、昨日東京から此方へ着き、二三日滞在しているつもりであるが、一遍御主人御在宅の折に参上したいと云って来たので、夕刻からなら、いつでも御都合のよろしい日にと云うと、それでは明日伺いますと云って、その日の四時頃に見えた。早めに帰宅していた貞之助は、応接間で三四十分余人を交えずに会談してから、幸子と雪子と悦子を加えて神戸に出、オリエンタルホテルのグリルで食事をして、新京阪で嵯峨へ帰る御牧を阪急まで送って行って別れた。御牧の態度は東京の時と少しも変らず、初対面の貞之助の前でも、磊落《らいらく》で、話上手で、肌触《はだざわ》りのよいところを発揮したが、酒はこの前よりも多量に飲み、食後も盛んにウィスキーのグラスを傾けつつ諧謔《かいぎゃく》を弄《ろう》して倦《う》むことを知らないので、誰よりも先ず悦子が喜んでしまい、帰りに街を歩いた時は、親しい叔父にでも甘えるように御牧に手を曳《ひ》かれて行くと云う有様で、姉ちゃん御牧さんをお婿《むこ》さんにしやはったらええと、幸子に耳こすりしたくらいであった。が、貞之助は、あんた、どない思いなさる、と、妻に聞かれると、暫く考えて、会って見ての感じは勿論悪くないし、人に好印象を与えると云う点では申分がないので、僕も大いに気に入ったことは入ったけれども、ああ云う風な、馬鹿に肌触りのよい人は、気むずかし屋の半面を持っていて、細君などには辛《つら》く当るような例が多い、殊《こと》に華族の坊ちゃんなどにはよくそう云うのがあるようだから、そう頭から惚《ほ》れ込んでしまう訳には行かない、と云い、身許を調べる必要はないにしても、あの人自身の素行とか、性質とか、又、今迄結婚せずにいた理由とか、云うようなことは一往調べた方がよいだろうな、と、多少警戒的な口調で云った。
御牧は専《もっぱ》ら貞之助に人物試験をされに来たので、自分では縁談のことには触れず、建築の話や絵画の話から、京都の名園や古刹《こさつ》の話、嵯峨《さが》の父子爵《ししゃく》邸の林泉や風致の話、父広親《ひろちか》が祖父の広実《ひろざね》から聞いたと云う明治天皇や昭憲皇太后《しょうけんこうたいごう》の話、洋食の話、洋酒の話、等々、話題の豊富なところを見せて帰っただけであったが、それから十日ばかり過ぎた日曜日の朝に、何の前触れもなくヒョッコリ光代が這入《はい》って来た。社用で大阪へ来たのであるが、ついでにお宅へお寄りして「テストに及第」したかどうかを伺って来るようにと、社長からも御牧さんからも申付かって参りました、と云うので、実は貞之助の意見もあって、只今《ただいま》先方さんのことを調べさせて貰《もら》っているが、十二月には貞之助が上京するので、その節本家とも相談をし、何分の御挨拶《あいさつ》に出るつもりである、と云うと、御不審の点は何々でしょうか、最近では私なんかが御牧さんと一番親しくお附合いしていまして、欠点でも美点でも大概知っておりますから、何なりとお尋ね下さればありのままに申上げます、その方が余所《よそ》でお調べ下さるよりも手っ取り早いと存じますから、是非仰《お》っしゃって下さいまし、と、母親に似て短兵急に攻め立てるので、幸子ではあしらい切れず、貞之助に出て貰ったが、光代がそんな風なので、自然貞之助も、いろいろなことを忌憚《きたん》なく尋ねた。その結果明かになったことは、大体に於いてあの人はああ云う風な洒脱《しゃだつ》な紳士型であるけれども、あれで案外気分屋で、時に依《よ》っては機嫌《きげん》の悪いこともあること、子爵家にはあの人の腹違いの兄に当る、嫡男《ちゃくなん》の正広と云う人があるが、その人とは分けても仲が悪くて、よく喧嘩《けんか》をすること、光代自身は見ていないが、激して来ると兄貴を殴ったりもしかねないと云う話であること、多少酒の上が悪い方で、酔うと随分乱暴をしたものであること、但《ただ》し近来は流石《さすが》に年を取って来たので、泥酔する程飲むようなことはめったになく、従って乱暴もしなくなったこと、尤《もっと》もあの人は亜米利加《アメリカ》仕込みであるから、レディーに対しては礼儀に厚い方で、昔からどんなに酔っ払っても婦人に手を上げたりしたことはないので、その点は安心であること、等々であるが、なお一つ二つあの人の欠点を云えば、何事にも理解が早くて趣味が広い代りに、気紛れで、一つ事に熱中する根気がないこと、人を御馳走《ごちそう》したり、世話したりすることが大好きで、金を散ずることは上手であるが、作ることは下手であること、等々であると、光代は貞之助が尋ねないこと迄も、進んで答えたのであった。貞之助は、それだけ伺えば大凡《おおよ》そ御牧氏の人となりは分ったようなものの、遠慮のないところを云うと、当方として一番心配に思うのは、結婚してから後の生活問題である、こう云っては失礼であるが、お話に依ると、氏は今日まで親譲りの財産があったから気儘《きまま》に暮して来られたので、氏自身では、種々のことに手を染められたに拘《かかわ》らず、これと云って成し遂げられたものはないのではあるまいか、とすると、たとい国嶋氏の後援で建築家になられたとしても、果してそれが物になるかどうか不安なきを得ない、仮りにその点は大丈夫だとしても、今の日本はそう云う種類の建築屋さんなんぞの立って行けない時代にあって、この状勢は今後三年や四年では解消しないであろうと思うが、その間はどうして凌《しの》いで行かれるか、国嶋氏の斡旋《あっせん》で、父子爵に応分の補助を仰ぐと云うことであったが、この先この状勢が五年も六年も、或は十年もつづくようなことがあったら、そういつ迄も補助して貰えるものではないし、又、そんなことでは結局一生子爵家の厄介者《やっかいもの》で終ることになるし、それではどうも心細いので、その辺を何とかもう少し、安心出来るようにして貰えないものであろうか、いろいろ勝手なことを云って相済まないが、正直のところ自分達もこの縁談には大いに気乗りしているので、大体貰って戴くことに腹は極めているのであるが、兎《と》も角《かく》も来月上京して国嶋氏にお目に懸り、今云った点を確かめて見たいと思っているので、………と、云うような挨拶をしたのであったが、なるほど、よく分りました、そう云う御不安がおありになるのは御尤もです、と、光代は云って、私の一存ではお答え致しかねることもありますから、帰りまして社長にその旨《むね》を伝え、将来の保証について必ず御納得が行くような方法を講じましょう、それでは来月お待ちしております、と、そう云うと、折角ですが今夜の夜行で立ちますからと、晩の御飯でもと云うのを断って辞去した。
幸子は十二月の上旬に雪子を誘って京都の清水寺へ行き、妙子のために安産の祈祷《きとう》をして、お札を貰って帰って来たが、ちょうど申し合せたように、三好からも貞之助の事務所へ宛《あ》てて、これをこいさんにお上げになって下さいと云って、中山寺《なかやまでら》の安産のお守りを封入して来た。この二つのお札は、お春が折よく使いに来たので、ついでに持たして帰したが、暫《しばら》く妙子に会わずにいる幸子たちは、その時のお春の話で、妙子が朝夕規則的に散歩に出る外は終日部屋に閉じ籠《こも》って神妙にしていること、その散歩も、なるべく街の方を避けて、人通りの少い山路《やまみち》を歩くようにしていること、部屋にいる時は小説を読んだり、久振に人形の製作をして見たり、赤ん坊の産衣《うぶぎ》を縫ったりしているが、誰からも一通の手紙も来なければ、怪しい電話なども懸って来ないこと、などを知ったのであった。お春は又、
「そう云えば私、今日キリレンコさんにお目に懸りました」
と云って、次のような話をした。―――さっき有馬から神有電車に乗って来たら、神戸の終点の改札口を出た所で、兄のキリレンコが立っているのに行き遇《あ》った。お春は彼には二三度会っただけであるが、向うで覚えていてニッコリしたので、お春が会釈を返したら、あなた、一人ですか、と云って尋ねた。はい、一人でございます、ちょっと鈴蘭台《すずらんだい》まで行って参りました、と云うと、蒔岡さんの所の皆さん、お元気ですか、妙子さん、どうしていますか、と云うので、はあ、誰方《どなた》もお変りありません、皆さんお元気にしていらっしゃいます、と云ったら、そうですか、大変御無沙汰《ごぶさた》しています、宜《よろ》しく云って下さい、と云って、僕、これから有馬へ行きます、と、改札口を這入《はい》りかけたが、カタリナさんからお便りがございますか、こんな戦争になってしまって、倫敦《ロンドン》は独軍の空爆でえらいことでございますね、カタリナさんはどうしていらっしゃるだろうって、いつも皆さん心配しておいでになります、と云うと、おお、そう、有難うございます、けれども何も心配なことなんかないんです、カタリナから九月に出した手紙が先日来ましたが、自分の家は倫敦の郊外で、独逸《ドイツ》の飛行機が飛んで来る通路に当っているので、毎日毎晩爆撃機の編隊が通り、盛んに爆弾を落すけれども、非常に深い完備した防空壕《ぼうくうごう》があるので、そこに電燈をカンカンつけて、ダンスレコードをジャンジャン鳴らして、コクテルを飲んではダンスしている、戦争なんてとても愉快で、恐いことなんかちっともないって云って来ました、だから皆さんに心配しないように云って下さい、と、そう仰っしゃって笑って行っておしまいになりました、と云うのであった。幸子はいかにもカタリナらしい話として、それは面白く聞いたけれども、おしゃべりのお春が何か口外しなかったであろうかと気に懸って、キリレンコさん、何ぞこいさんのこと聞かはれへなんだ、と云うと、いいえ、何も、………と云うので、ほんまかいな、お春どん、ほんまに何も余計なこと云うてやないねんやろうな、と念を押して、それにしても、何かこいさんのこと知ってはるらしい様子見えへなんだ? と、聞いて見たが、何も知っておいでのようやございませなんだ、と、はっきり否定するので、どうやらほっとしたものの、それにつけても出入りに人に見付からぬように気を付けて欲しいこと、一人の時はまだよいが、妙子と散歩などに出る時には、いつ、誰に見られないとも限らないので、用心の上にも用心して欲しいことなど、くれぐれも云い含めて帰したのであった。
貞之助は、十二月も押し詰まった二十二日に外の用事をかねて東京へ出かけた。それ迄の間に彼は二三の手蔓《てづる》を求めて、御牧の性行その他のこと、父子爵や腹違いの兄弟たちとの関係のことなど、一通りは調べて見、光代の云ったことが事実に違いないことを確かめ得たのであったが、一番肝腎《かんじん》な将来の生活の件については、国嶋を訪《と》うて質《ただ》して見ても、そう具体的にどうと云う保証は得られなかった。要するに、これから父子爵に話すのであるから、今から明言出来ないけれども、新夫婦の住む住宅を買って貰うことと、ここ当分の間の生活費として多少のことをして貰うこと、そしてその金は無意味に費消しないように自分が預かって、月々若干ずつ仕送ること、ぐらいはお約束出来ると思う、と云うのであったが、しかしそれから後のことも、必ず困るようにはしないから、自分を信じて、一任して戴けないであろうか、自分は御牧氏の建築設計家としての才能を大いに認めている者で、時勢が直れば是非後援して再起させて上げる、それは人々の見ようだけれども、こんな時代がそんなに長く続くものとは信じられないし、仮りに相当続いたとしたところで、その間の食いつなぎぐらい、何とでもなろうではないか、と、そう国嶋は云って、及ばずながら僕が附いていますからと、云わんばかりなのであった。貞之助は、御牧が設計したと云う国嶋の邸宅を隅々《すみずみ》まで見せて貰ったりしたけれども、もともと建築の方の知識には疎《うと》いので、果して御牧にどれ程の才能があるものやら分らなかったが、でも国嶋のような社会的地位のある有力者が、それほど迄に彼に惚《ほ》れ込み、且《かつ》将来を引請《ひきう》けると云うからには、それを信ずるより外はなかったし、それに、ありていに云えば、妻の幸子が、国嶋以上に熱心にこの縁談の成立を望んでいることも明瞭《めいりょう》であった。貞之助はまだそうはっきりと妻の口から聞いてはいなかったが、幸子にして見れば、御牧その人の人柄に魅了されたこともあろうし、何と云っても華冑《かちゅう》の子弟を縁者に持つと云うことが内心嬉《うれ》しいに違いないので、もしこの話を貞之助が破談にして帰ったりすれば、落胆の程度は思いやられるのであった。のみならず、貞之助にしても、もうここいらが望み得る最上の縁であるかも知れない、と云う心持が萌《きざ》していたことも事実であった。で、そう云うことなら万事あなたを御信頼申上げて、貰って戴きますけれども、順序として本家の承諾を求め、又当人にも、これは異存のないことは分っておりますが、なおよく確かめて見ますまで、暫時御猶予《ゆうよ》を願います、この御返事は、一旦蘆屋へ帰りまして、正月早々書面を以て申上げることにしますが、しかしこれは形式的のことで、大体今日を以て纏まったものとお考え下すって結構です、と云うと、それでは御返事があり次第子爵の方へ取次ぎますから、と云うようなことだったので、貞之助は暇《いとま》を告げるとその足で道玄坂へ廻って、鶴子に委《くわ》しい報告をし、義兄の意見を至急に知らしてくれるように頼んで来たのであった。
と、年が改まって正月の三日に、光代が又蘆屋へ使いに来た。彼女は三箇日の休みに阪急岡本の叔父の所へ遊びに来たのであるが、そのついでに社長から伝言を托《たく》された、社長は大阪に用があって昨二日に下阪した筈《はず》であるが、今日の午後には京都へ来、ミヤコホテルに泊ることになっている、それで、過日の御返事をこの機会に聞かして戴ければ、滞在中に御牧子爵を訪うて話をし、その上で一遍皆さんに嵯峨の子爵邸までお越しを願うようなことにしたいと思うが、如何であろうか、予《あらかじ》めその辺の御都合を伺って来るようにと云うことで、その御返事を出来れば明四日じゅうに聞かして戴いて、ミヤコホテルへ連絡するように命ぜられているのである、どうも大変お急《せ》き立てするようで恐縮であるが、社長が云うには、御本家や御本人の御承諾を求めると云っても、それは形式的のことに過ぎないようであるから、多分私が伺いさえすれば今日にも聞かして戴けるであろう、と云うことだったので参上した、と云うのであった。貞之助は、正月早々に返事をするとは云って置いたものの、七草でも過ぎてからのことと考えていたし、それに渋谷からもまだ何とも云って来ていないのであった。が、姉はあの時大層な喜び方で、では雪子ちゃんも今度こそお嫁に行けるであろう、妹がそう云うお家柄のところへ嫁げば、あたしも辰雄の実家に対して肩身が広いし、辰雄も鼻が高いと云うもので、長い間待っただけの甲斐《かい》があった、それもこれも貞之助さんのお骨折のお蔭であると云っていたくらいで、今更義兄が不賛成を唱える筈はなく、返事がないのは年末の雑務に追われていたためで、正月には何とか云って寄越すであろうし、それはもう聞かないでも分っていることなので、今の場合自分の一存で運んでしまっても差支えないように思えた。ただ、こう云う時に、雪子の気持は問う迄もないと云って専断で計らうのは危険であった。見す見す分っていることでも、矢張正式に当人の承諾を求めてからでないと、雪子は自分が軽く扱われたように感じて機嫌を悪くすることがあるので、面倒でもそれだけの手順を経るために、今日一日だけ待って貰う必要があった。で、約束の返事が遅れていた言訳をして、今夜東京へ電話をかけて兄の意向を聞くことにするから、御足労ながら明朝もう一度お越しを願いたい、必ず明朝は何分の御挨拶をするから、と、そう云って光代に一日の延期を乞うた。尤も「東京へ電話」と云ったのは口実に過ぎなかったのだけれども、ちょうど時間があることなので、その晩渋谷を申込んで見ると、姉が出て来て、辰雄は麻布へ年始に行って留守であると云い、兄さんは返事を出してくれたであろうかと、貞之助が尋ねると、暮はゴタゴタしていたので出したような様子はないが、話は私からよくして置いた、と云うのであった。では兄は何と云っていたか、何か意見があっただろうか、と云うと、さあ、………と姉は口籠《くちごも》りながら、身分や家柄は申分ないが、定職を持っておられないのが不安心だとは云っていた、しかしここいらで纏《まと》めなければ、贅沢《ぜいたく》を云ったらキリがないと私が云ったので、それもそうだと云うようなことで、大体承知したような口ぶりであったけれども、………と、云うのであった。そうですか、実は今日国嶋さんから使が見えてこれこれなのですが、そう云う訳なら先ず御異存はないものとして僕が適当に返事をし、進行させることにしますから、姉さんが含んでいらしって下さい、しかしこれから先の進行には、是非兄さんの直接の御意見を伺って置かないと困ることが出来ますから、矢張手紙は大至急に寄越して戴きたいと仰《お》っしゃって下さい、と、そう云って貞之助は電話を切った。
雪子の方は、要するに本人の意志を尊重している、と云うところを示しさえすれば気の済むことと考えたので、その晩幸子に当って見させると、予期したように簡単には「うん」と云わず、いつ迄に返答をすればよいのか、と云うので、明朝光代さんが聞きに来ることになっているから、と云うと、では貞之助兄さんは一と晩できめろと云っておられるのだろうか、と、不満らしい口調で云ったりした。それでもあたしは雪子ちゃんが厭《いや》ではないらしい様子だったので、承知してくれるものと思っていた、と、幸子が云うと、それはあたしも、貞之助兄さんや中姉《なかあん》ちゃんが行けと云われるなら行くつもりでいるけれども、人間一生の大事であるから、せめて二三日の間、心に用意が出来るまで待ってほしかったのに、………と、お腹の中ではちゃんと覚悟していることを、そんな風に云うのであった。そして翌朝、ぐずぐずに納得してはしまったものの、貞之助兄さんが一と晩で決心せえと云やはるよってに、と、又しても恨めしそうに云い、微塵《みじん》も嬉しそうな顔などはせず、ましてこれ迄に運んでくれた人の親切を感謝するような言葉などは、間違っても洩《も》らすことではなかった。
光代は四日の朝に来て返事を聞いて帰ったが、中一日置いて六日の夕方にもう一度訪ねて来た。自分は四日に此方の御返事をミヤコホテルへ電話で知らせて、その晩の汽車で帰京する予定にしていたところ、この縁談の橋渡しであるお母さんの代理として、君の介在することが必要であるから、と云う社長の命令で、二三日帰京を延ばすことになった、それで、今日又社長から電話があり、御牧子爵との会談が滞りなく済んだことを此方へお伝えするようにとのことであったが、なお、御牧側の方々に雪子お嬢さんを始め皆さんをお引合せしたいので、お差支えなかったら、明後八日の午後三時頃に嵯峨《さが》までお越しを願いたいのである、此方は子爵と、当日までに駈《か》け着けることになっている御牧氏と、社長と、私と、それから多分京阪在住の御牧家の親戚《しんせき》の方が一人二人参加されるであろう、何分にも、今少し余日があるとよいのだけれども、社長が忙しい体なので、一遍に用を片附けようとするところから、こう云う急な話になったことを悪《あ》しからず御諒承《りょうしょう》願いたい、そして何卒《どうぞ》、こいさんも、悦子お嬢さんも、なるべく皆さんがお揃《そろ》いでお出で下さるように、と云う口上なのであったが、折角ながら妙子だけは、左様な席へ出すことを本家が許可しない事情にあるので、と云って断り、悦子は学校を早退《はやび》きさせることにして、四人が招かれることになった。
当日、貞之助たちは新京阪の桂《かつら》で乗り替えて嵐山《あらしやま》の終点で降り、中之島を徒歩で横ぎって渡月橋のほとりに出た。毎年の春の花見に馴染《なじみ》の深い場所であったが、今は極寒の季節であるのに加えて、京都の冬は格別なので、大堰川《おおいがわ》の水の色を見ても何かしんしんとしたものが骨身に沁《し》みるようであった。川に沿うて三軒家の前を西に行き、小督局《こごうのつぼね》の墓所を右に見て、あの遊覧船の発着所の前を過ぎ、天竜寺の南門の方へ曲ったところに「聴雨庵《あん》」と云う額の懸った門のあるのがそれであると教えられていたので、直ぐに分ったが、貞之助たちはこんな所にこんな別荘があることを始めて知ったのであった。家は葛屋葺《くずやぶき》の平家建てで、そう広そうにも思えなかったが、座敷の正面に嵐山を取り入れた泉石の眺《なが》めは素晴らしかった。国嶋の紹介で主人側の人々との挨拶が済んだあとで、寒いけれども風がないから少しお歩きになりませんか、庭を御覧下さると親父が喜びますから、と、御牧がそこらを案内して廻ったが、ここから見ると、嵐山は庭つづきになっていて、間に道路や大堰川が挟《はさ》まっているようには思われない、そして花時の雑沓《ざっとう》の折にも、ここばかりは人里離れた仙境のように閑寂であり、外の群衆の騒音などは何処《どこ》にあるかと訝《あや》しまれるばかりである、と云うのが親父の自慢であって、庭内にはわざと一本の桜樹をも植えず、四月ともなればあの峰の上の花の雲を、心静かに賞美しようと云う趣向なのである、と御牧は云って、今年のお花見には是非お立ち寄りになるんですな、ここで弁当をお開きになって、あの座敷から遠山桜を御覧になることですな、それこそ親父がどんなに喜ぶか知れませんよ、などと云った。やがて、そろそろお支度が出来ましたから、と云うことで、最初に茶席へ導かれ、御牧の妹に当るとか云う、大阪の紳商園村家に嫁いでいる夫人の手前でお茶があり、広間へ移って晩餐《ばんさん》の席に就いたのは日が暮れてからであったが、料理は特に心づくしの籠《こも》ったもので、柿伝《かきでん》あたりの仕出しであろうと、京都の食味のことに委《くわ》しい幸子は推した。子爵の広親老人は、いかにも公卿《くげ》の血を引いている、衣冠束帯の似合いそうな風貌《ふうぼう》の持主で、痩《や》せた、面長の、象牙《ぞうげ》のような血色をした、ちょっと能役者と云った感じの人で、見たところ、円顔で色の黒い忰《せがれ》の御牧とは少しも似ていないようであるが、それでもじっと見比べると、眼つきと鼻の恰好《かっこう》に何処やら共通した点がないでもなかった。が、顔よりも寧《むし》ろ肌合が忰とは全く反対で、忰の実《みのる》は陽気で濶達《かったつ》な方であるが、父の広親は陰性の、謹厳と云う方の人であるらしく、つまり典型的な「京都人」なのであった。老人は、私は御免を蒙《こう》むってと、鼠《ねずみ》の絹の襟巻《えりまき》をし、電気ストーブを背中に当てたり、電気布団を敷いたりして、風邪を引かぬ用心をしながら、物静かに、ぽつぽつ口を利《き》くのであったが、七十を越えた高齢の割にはしっかりしていて、国嶋に対し、貞之助たちに対し、可なり勤めているところが見えた。初めのうちはこの老人に遠慮する気味合いであった一座の空気も、酒が廻るに従って解《ほぐ》れて来、父の隣に席を占めた御牧が、如何でございますか皆さん、この親子はちっとも似ていないと云う評判があるんですが、………と、冗談交りに親父の顔と自分の顔の棚《たな》おろしを始めた頃から、彼方此方に笑声が起った。貞之助は立って老人の前に行って献酬をし、それから国嶋の前に行って、御高話拝聴と云う恰好《かっこう》で長いこと坐《すわ》っていた。悦子を除く女たちが皆和服でいる中に、ひとり洋装をして、靴下《くつした》の脚を寒そうに曲げて坐っていた光代は、流石《さすが》に今日は慎しんでいるようであったが、光ちゃん、いやに大人しいねと、御牧に盛んに杯をさされて、今日はそんなにいじめないでよ、と云いつつもだんだん酔って行って、いつもの早口を発揮し出した。しまいに御牧は、白葡萄酒《しろぶどうしゅ》がなくて残念ですがお手並はよく存じていますよと、銚子《ちょうし》を持って幸子と雪子の前に現れたが、彼女たちもさされれば敢《あえ》て辞退せず、殊《こと》に雪子は、しゃんと体を固くして坐りながらよく飲んだ。そして相変らず黙ってニコニコほほ笑んでいるばかりであったが、それでも幸子は、この妹の眼が例になく興奮に輝いているのを看《み》て取ったのであった。御牧は悦子が大人たちの中に交ってぼんやりしているのにも心を遣って、時々愛想を云いに来たが、その実悦子はそんなに手持無沙汰《ぶさた》ではなかった。神経質な少女の癖で、こう云う時にいつも彼女は、何喰《く》わぬ顔をしながら並み居る大人たちの一人々々のしぐさや、物云いや、表情や、衣裳《いしょう》持物などを、こまごまと観察したり研究したりしていたのであった。
八時頃に宴が終ると、貞之助たちが一番先に暇《いとま》を告げたが、帰りは広親老人の計らいで七条駅まで自動車で直行した。それならあたしもと、岡本の叔父の所へ帰る光代も一緒に乗って行ったが、御牧も駅までお送りしましょうと、貞之助たちが止めるのも聴かずに、運転手台に乗った。車は三条通りを東に、烏丸《からすま》通りを真っ直ぐ南へ下ったが、その間御牧はひどく上機嫌で、車の中に葉巻の匂《におい》を籠らせながらしゃべりつづけた。悦子はいつか御牧のことを小父ちゃんと呼ぶようになっていて、ねえ、小父ちゃん、小父ちゃんの名前が御牧で、うちの名前が蒔岡で、孰方《どちら》もマキの字が付くんやわねえ、と、突然そんなことを云い出したので、此奴《こいつ》ぁいいことを云ってくれた、悦ちゃん、君は中々利口だと、御牧はすっかり嬉しがり、だからやっぱり悦ちゃんの家と僕の家とは最初から縁があったんだよ、と云うと、ほんとうにね、と、光代が傍から合槌《あいづち》を打って、雪子お嬢さんもスーツケースやハンカチのイニシャルをお書き変えになる必要がないなんて、第一便利じゃございませんか、と云ったのには、雪子も声を挙げて笑った。
明くる日ミヤコホテルの国嶋から電話で、昨夜はまことに好結果に行き、双方満足の御様子であったのは欣快《きんかい》に堪えない、と云い、自分は今夜御牧氏と同道帰京するが、結納《ゆいのう》その他のことについては、追って井谷嬢を以て連絡申上げるであろう、なお昨夜の広親子《ひろちかし》の話では、阪神の甲子園に園村氏所有の恰好《かっこう》な家作《かさく》があり、売ってもよいと云うことであるから、それを子爵家が買い取って新夫婦に贈ることになろう、御牧氏は近々大阪か神戸に職を求めることになろうし、彼処なら蘆屋も近いことであるから、万事に都合がよいであろう、ただ、目下その家は借家人が住んでいるので、至急に出て貰うように交渉するとのことであった、と云って来た。貞之助はそれにつけても、渋谷の義兄から未だに返事が来ないのが気に懸ったが、本家の態度が妙にはっきりしないのは、雪子の件で義兄が矢張面白くなく思っていることもあり、外にも理由があるかも知れないと察せられたので、或る日此方から辰雄に宛《あ》てて次のような趣旨の書面を出して見た。―――今回の縁談については姉上から詳細お聴き取りのことであろうが、小生も決してこれを最上のものと申すのではない。しかし当方にも余り多くを望み得ない弱味があることを考え、国嶋氏の言に信頼して、ここいらで纏めるより外はないかと存ずるのである。それで先日電話でお断りして置いた通り、去る八日御牧家の招きに応じて広親子との顔合せを済ませ、近々結納と云うところまで運んだのであるが、本家を差措《さしお》き、小生等夫婦の計らいを以て話を進めてしまったことについて、或は気持を悪くしておられるのではないかと思う。それにつき、今更遅蒔《おそまき》ではあるが、小生としてお詑《わ》びしなければならないのは、昨年以来、いや、実はそのずっと前から、雪子ちゃんを本家へ返すようにと云う度々のお言葉があったにも拘《かかわ》らず、遂《つい》にそれを実行し得ずして今日に至ったことである。これにはいろいろな事情があって、小生は決してそのお言葉をないがしろにした訳ではなく、いつもそのことを不本意に思っていたのであるが、ありていに云えば雪子ちゃんが、東京へ行くことを甚《はなはだ》しく厭《いと》い、幸子も幾分それに同情する気味があったので、余程強硬な手段に訴えるにあらざれば、実行することが出来なかったのであった。しかし何と云っても、一半の責任が小生にあることは申す迄もない。小生はその責任を感ずるが故《ゆえ》に、雪子ちゃんの縁談についても及ばずながら奔走しつつあったような次第であった。実際、兄上の命令に服しない妹を、兄上として世話なさることが出来ないのは当然であって、今日ではむしろ小生の方でこそ面倒を見る義務があるのではなかろうか。それも兄上が余計なお切匙《せっかい》だと云われるなら引き退《さが》るより外はないが、小生は疾《と》うからこう云う心持で行動して来たので、今度の話に許可をお与え下さるなら、それに伴う費用等は小生に於いて負担すべきものと考えているのである。但《ただ》し、誤解のないように申添えるが、何も斯様《かよう》に申したからとて、小生は雪子ちゃんを小生の家から嫁に行かせようと申すのではない。勿論《もちろん》このことはわれわれだけの内輪話であって、何処《どこ》までも雪子ちゃんは本家の娘として嫁入りすることに変りはないのである。で、以上のことに対し御承諾が得られれば大変有難いのであるが、如何であろうか。何分にも小生の云い方が、[#「云い方が、」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「云ひ方が」(読点無し)]下手であるけれども、意のあるところをお酌《く》み下すって御意見をお聞かせ下されば幸甚《こうじん》である。猶《なお》又、勝手ながら時期が迫って来ているので至急にお願いしたいのである。―――と、そう云ってやったのであったが、辰雄は他意なくそれを読んだと見え、それから四五日後に訳の分った回答を寄せた。―――御丁寧なお手紙を拝誦《はいしょう》してお心持はよく諒承《りょうしょう》した。数年以来兎角《とかく》義妹たちが小生を疎《うと》んじ、貴君や幸子ちゃんを慕うところから、当方も捨てて置くつもりではなかったのであるがつい不行届きになり、何かにつけてそちらにばかり御迷惑をかけることになって申訳がない。雪子のことについて御返事がおくれていたのは、別に意味があったのではなく、いつもいつもこの事で貴君たちの御厄介《やっかい》になるのが余り心苦しくて、手紙の書きように困っていただけのことである。小生は雪子が当方へ戻って来てくれなかったことについて、貴君に責任があるなどと思ったことは一遍もないし、従って、雪子を結婚させるのは貴君の義務だなどと思いもしない。強《し》いて云うならば、それは小生自身の不徳の致す所、と云うべきであるかも知れないが、今更そんなことで誰を責めても仕方があるまい。それで今度の縁談であるが、先方は名門の子弟である上に、国嶋氏の如《ごと》き知名の士が仲介の労を取って下さるのであり、且《かつ》貴君がそれほど迄に云われるのであれば、小生としてもかれこれ云うべき所ではないと存ずるので、今後共貴君のお計らいに一任するから、結納のことその他万端然《しか》るべく取極めて下すって結構である。結婚費用のことについては、小生も自分に出来るだけのことはするつもりであるが、昨今当方不如意の折柄、折角御親切なお申出に接したことでもあるから、貴君にそれを負担させるのが当然であると云うような意味でなしになら、或は御助力を仰ぎたいとも思うけれども、猶このことは後日お目に懸った際に御相談することにしよう。―――と、大体そんな風な文面であった。貞之助はそれでほっとしたものの、一方に妙子のこともあるし、奥畑が又、ああは云っていても形勢次第で何を云い出すかも知れないような気がするので、邪魔が這入《はい》らないうちに急速に此方を成立させてしまいたく、結納だけでも早く済ませたいのであったが、その後光代からの情報に依ると、生憎な時に国嶋夫人が悪性感冒から肺炎になり、相当重態の模様であるから、ここ暫く延期して戴くより仕方がないと云うことで、国嶋からも書面で鄭重《ていちょう》にその事情を述べて来た。但し、甲子園の家は既に子爵家が買い取って御牧へ譲渡し、登記の手続も完了した。借家人はまだ立ち退かないが、遠からず退くと云っているから、空き次第御牧が一遍西下してその家を検分し、そちらの姉上にも、雪子さんにも見て戴くつもりである、そして結婚が済む迄は留守番を置くことになるが、それには聴雨庵から女中を一人貸してくれる筈《はず》で、その女中は結婚後もずっと使ってよいことになろう、と、これは御牧が自身で知らせて来た。
国嶋夫人の容態は、一時危篤《きとく》と云うところまで行ったのが幸いにして持ち直し、二月の下旬に床上げをして、それから二週間ばかり熱海に転地療養したが、夫人は結納のことを気にして病中も譫語《うわごと》に云いつづけていたとやらで、三月の中旬に、光代がその打合せのために蘆屋へ来た。第一に結納と挙式とを東京で執《と》り行うか京都でするかと云うことであるが、国嶋の意見としては、御牧氏も小石川に子爵家の本邸があるのだし、蒔岡氏の方も渋谷に本家があられるのだから、東京でするのが本当と思うこと、結納の日取は三月二十五日としたいこと、挙式は四月中に執り行いたいこと、等々の相談があって、貞之助たちもそれに異議はなく、渋谷の方へ電話でその旨《むね》を知らせてやったが、渋谷では子供たちが家を散々住み荒らして、豚《ぶた》小屋のようにむさくろしくしているので、慌《あわ》てて障子の貼《は》り替えやら畳がえやら壁の塗り直しまでもすると云う騒ぎであった。
幸子は東京になったと聞いて何となく気が進まなかったが、これと云う理由もないのに不賛成も唱えられず、三月二十三日に、貞之助は忙しいと云うので、彼女が雪子に附添って立った。そして、二十五日に結納を終え、ロスアンジェルスにいる井谷の許《もと》へ国嶋からその旨を打電したのであったが、雪子は暇乞《いとまご》い|旁《かたがた》暫く本家に留まることになって、二十七日の朝幸子だけ帰って来た。と、ちょうど十時頃のことで、貞之助も悦子も出かけてしまったあとなので、彼女はひとりゆっくりと足腰を休めるために二階の寝室へ上って行ったが、ふと机の上を見ると、西比利亜《シベリア》経由の外国郵便が二通、封を切ったまま置いてあり、その傍に夫の手で、
シュトルツ夫人とヘニング嬢から珍しい便りが来た。悦子が早く内容を知りたがるので封を切ったら、シュトルツ夫人のは独逸《ドイツ》語で書いてあった。依《よ》って小生大阪へ持って行き、知人に飜訳《ほんやく》して貰ったもの別紙の通り
と、紙片に走り書きをして、原稿用紙七枚程になる飜訳文が添えてあった。―――
一九四一年二月九日 ハンブルクにて
おなつかしき蒔岡《まきおか》の奥様
あなた様にはとうに詳しいお手紙を差上げる筈《はず》でございました。私共はあなた様やお可愛らしいエツコさんのことをいつも思い出しております。エツコサンはもうさぞ大きくおなりなされたことと存じます。しかし私共はペンを執る時間が殆《ほとん》どないのでございます。御承知のことと存じますが、独逸では人手が不足しておりますので、アマを雇うのもなかなかむずかしゅうございます。私共では昨年の五月から一週に三度、家の掃除に朝だけの女中が参ることになりました。その他のこと、炊事、買物、繕い物、縫い物等はオクサン自ら気を遣わなくてはなりません。こんな仕事を致しまして、夜になると漸《ようや》く体があくと云う訳でございます。それも以前なら手紙を書く時間でございましたのに、只今《ただいま》は子供たちの大きな穴や小さな穴のあいた靴下《くつした》の這入《はい》った籠《かご》を持ち出して来て、それにかかりきりの始末でございます。昔ならば穿《は》きふるした破れものなど捨ててしまったものでございましたが、この頃では諸事節約を旨《むね》と致しております。私共は勝ち抜くために協力し、そのために僅《わず》かばかりの力を捧《ささ》げ尽そうと倹約しているのでございます。日本でも万事が大そう質素になったと聞き及んでおります。私共の懇意な方がちょうど休暇で当地に来られまして、いろいろと日本の変ったことを話して下さいました。このことは向上に努める若々しい民族が負わねばならぬ共通の運命とでも申すべきでございましょうが、日向《ひなた》に一つの席を占めると云うことは、そうたやすく出来ることではございません。とは申せ、私共はこの席を占めることが出来ると、固く固く信じております。―――昨年六月のあなた様のお手紙は独逸語でお書き下さいましたので、取り分けうれしく拝見いたしました。この点身に沁《し》みて有難く、心から御礼申上げます。どなたかお心やすいお友達がこの手紙を日本語に飜訳して下さることでございましょうが、どうかその方に私の筆蹟が読めればいいと思います。読みにくいようでございましたら、この次の手紙はタイプライターで打つことに致しましょう。絹と日本の扇子の小包が届かなかったことは大変残念でございますが、その代り奥様、あなた様は私共のローゼマリーを立派な指輪で大そう喜ばして下さいました。ヘニング様はローゼマリーへ指輪をお持ち下さいました由、この間お手紙を下さいまして、ハンブルクへはいつお越しになられるか今のところまだはっきりしないとのことでございましたが、私共の知合いの方が先日伯林《ベルリン》でヘニング様にお会いになり、指輪は持って来て下さいました。お品は大そう結構なものでございます。ローゼマリーに代りまして私から厚く御礼申上げます。けれども当分篏《は》めさせないで、彼女がもう少し大きくなるまで仕舞って置きたいと存じます。つきましては、私共の日本で知合いの方が四月に又日本にお帰りになりますので、エツコサンにほんのつまらぬ装身具ではございますが持って行って戴くつもりでおります。そう致しますと、それを二人の娘はお互の友情と愛情のしるしとして、身に附けることが出来る訳でございます。もし戦争が輝かしい勝利に終り、そして何もかも又もと通りにちゃんとなりましたら、その節にはあなた様は独逸にお出かけになりますかしら。きっとエツコサンは一度新しい独逸を知りたいと思っておいでのことと存じます。もしあなた方をわが家の大切なお客様として暫くお泊め申すことが出来ましたら、どんなにか嬉《うれ》しいことでございましょう
さてあなた様は私共の子供のことを知りたいとお思いでございましょう。どの子も昔とちょっとも変らず元気でおります。ペータアは十一月以来上部バイエルンにクラスの方々と参っておりますが、彼地《かのち》が大そう気に入っているようでございます。ローゼマリーは十月以来ピアノのお稽古《けいこ》を致しておりまして、大変上手になりました。フリッツはヴァイオリンをとても上手に弾きますが、この子は皆の中で一番大きくなりました。なかなか愉快な坊やです。学校でも皆について結構やっております。一年生の頃は学校のことなどもまだほんの遊び半分に考えていましたが、近頃はよく馴《な》れて参りました。最近はこの子供達も勿論家でお手伝いをしなくてはならなくなりました。どの子もそれぞれちょっとした役目を持っております。フリッツは夕方家内じゅうの靴《くつ》を磨《みが》かなくてはなりませんし、ローゼマリーは食器を乾かしたりナイフを磨いたり致します。皆とても一生懸命にやってくれます。ペータアは今日ちょうど長い手紙を寄越しましたが、あの子たちは寮でもやはり磨き仕事や繕い仕事があって、自分の洋服や靴下はめいめいで整理するのだそうでございます。このような事は若い者には本当によい修業だと存じます。でも家に帰りますと、又母親まかせになるのではないかと心配致しております。―――主人は或る輸入の商館を引受けまして、この頃では仕事の方にも馴れて参りました。中国や日本からも輸入致しておりますが、戦争の間は制限されているのでございます。この冬は随分と長うございましたが、寒さは昨年程厳しくございませんでした。当地では陽《ひ》のさす日が寔《まこと》に少く、太陽は十一月以来顔を見せてくれませぬが、もう近いうちに早春が訪れて来るでございましょう。それにつけても、日本におりました頃はいつも何と気持よく暖かなことでございましたか。私共は始終素晴らしい日本の気候に憧《あこが》れております
ところで、又あなた様方の御消息を伺うことが出来ましたら、大そう嬉しいことと存じます。どうぞそちらの御様子をたんとお聞かせ下さいませ。写真をお送りすることが許されませんのは、何としましても残念でございます。ローゼマリーは近いうちにエツコサンにお手紙を書きます。この子は普通の日は学校の宿題がどっさりありますので、お手紙を書くのにもいつも日曜の来るまで待たなくてはなりません。ペータアは上部バイエルンから差上げることと存じます。あの子達はあちらで素晴らしい自然を楽しみ、室にひっこんでいる時間など余りないかと思っております。これもこれで結構だと存じます。当地のような大都会では何と申しましても穴籠《あなごも》り生活になってしまいますから
では、エツコサンに私共や取り分け子供達からよろしくとお伝え下さいませ。蒔岡の奥様、あなた様と御主人様には心から御挨拶を申上げ、あなた様がおやさしく私達のことをお心におかけ下さいましたことに対して、重ねて御礼申上げます
あなたのヒルダ・シュトルツ
ヘニング嬢のは分りやすい英文でしたためてあるので、これは幸子にもどうやら原文を読むことが出来た。―――
一九四一年二月二日 伯林にて
親愛なる蒔岡夫人!
あなたにもっと早く手紙を差上げなかったことを赦《ゆる》して下さい。私は住居を見付けるためにとても忙しかったので、全く物を書くことが出来なかっただけなのです。でもとうとう私たちは或《あ》る年老いた知人の家に住み着くようになりました。私達はその人の息子さんと日本で懇意にしていたのですが、その老人は六十三歳になり、広いアパートにひとりぼっちで暮していて、いつも非常に淋《さび》しさを感じていたところから、私たちに一緒に住んではどうかと云ってくれたのでした。私達は素敵に巧《うま》い工合に行って、実に喜んでいるのです!
私達は、長いけれども愉快であった航海の後、正月五日に独逸に着きました。露西亜《ロシア》国境に於ける検疫《けんえき》禁足期間は勿論あまり愉快なものではありませんでしたが、それでも露西亜人が彼等の最善を尽していたことは確かだと云えます。食事は恐るべきもので、毎日私達は黒パンと、チーズと、バタと、「ボルシュ」と称する野菜スープを貰《もら》ったに過ぎません。私達は日がな一日骨牌《カルタ》やチェスをして過し、クリスマスイーヴには蝋燭《ろうそく》をつけて、平日通りパンとバタとを食べました。私がどんなに母や弟たちのいる日本の家を恋しがったか、あなたには想像も及びますまい。しかし私達は六日間の期間が過ぎて、私達の列車のある所へ案内されました。父と私は私達だけの大きな新しい二人掛けの席に掛けましたが、次の席には日本訪問から帰朝の途にあるヒットラーユーゲントの少年たちが乗っていました。私は彼等といろいろ面白い話をしながら行きましたので、道中の長さを忘れました
当地伯林に於いては、私達は殆《ほとん》ど全く戦争のあることを感じません。劇場もカフェエも一杯客が詰まっており、食物は十分で且《かつ》美味であります。事実私達はホテルやレストラントで食事する場合、食べる物が多過ぎて食べきれないのが普通であります。気候の変化が私に異常な食慾をもたらしましたので、私は太り過ぎないように始終気を附けていなければなりません。昨今私達の眼を驚かす唯一《ゆいいつ》のものは、街上に於ける夥《おびただ》しい兵士たちと将校たちでありますが、軍服を着た彼等の姿態は見るからにスマートであります!
私は今月から露西亜バレーの学校に入学しましたが、その学校は私の家から僅か十分の所にあります。先生はペテルスブルクで修業したマダム・グスウスキーと云う、親切な婦人であります。彼女は始終自分でマチネエを興行していますので、私は毎日午前十一時から十二時半迄と、午後三時から四時半迄と稽古《けいこ》して貰っていますが、何卒《なにとぞ》一日も早く上達するように望んでいます。グスウスキーバレー団は年を取った上手な弟子達から成り立っていまして、最近ルーマニアへの親善旅行から帰ったばかりのところですが、直ぐ又ノールウェーとポーランドへ出かけることになっています。多分二三年もしましたら、私も亦《また》その一行に加わることが出来るであろうと願っております
最後に私は、あのローゼマリーへの真珠の指輪を届けることが出来ました。私は途中紛失することを恐れて、あれを郵便に托することを躊躇《ちゅうちょ》していましたところ、二三日前に父の友人がハンブルクから訪ねて来ましたので、あなたの贈物を直かに手渡ししてくれるように、彼に頼んだのであります。本日シュトルツ夫人から、あなたの美しい指輪を受取った旨《むね》の端書が来ましたが、ローゼマリーは非常に感謝していると書いてあります。ここにその端書を同封して置きます
今日までは非常に寒い気候でしたが、これからだんだん暖かになりそうです。正月は零下十八度だったのですから想像して下さい。でも屋内はスティームの煖房《だんぼう》がありますので、快く、暖かであります。独逸の家屋は二重窓になっているので、日本のよりもずっと頑丈《がんじょう》です。従って隙間風《すきまかぜ》などは這入って来ません
さて、お稽古に行く時間が来ましたから、これで失礼いたします。何卒《どうぞ》あなたからもお便りを願います
敬具
フリーデル・ヘニング
そしてこの中に、ハンブルクのシュトルツ夫人から伯林マイエルオットー街のヘニング嬢に宛《あ》てた、指輪を受領したことを報じた絵端書が、丁寧にも封入されていたのであった。
三月一杯を渋谷の姉夫婦の許《もと》で暮した雪子は、結婚の日までそのまま滞留していてもよいのであったが、矢張長くはいる気になれず、それよりは蘆屋《あしや》の家族たちとこそゆっくり名残を惜しみたいので、月が変るとさっさと此方へ戻って来てしまった。そして、国嶋からの伝言として、挙式を二十九日の天長節にすること、披露《ひろう》は帝国ホテルで行うこと、御牧側では、子爵《ししゃく》は老体のことであるから、嗣子《しし》の正広夫妻が代理を勤めるであろうこと、等々の話をした。猶《なお》御牧家の希望として、華美な催しは避けるべきであるけれども、披露だけは家の格式にふさわしいものにしたいと云う申入れがあり、その趣旨の下に案内状が発せられることになったので、当日御牧側は、東京の親戚《しんせき》知友は勿論《もちろん》、関西方面からの出席者も相当の数に達する見込であったが、そうなると自然蒔岡側も、大阪の親戚を始め、名古屋の辰雄の実家種田家の人々なども、あの大垣《おおがき》の菅野未亡人までが出席すると云い出す有様で、近頃派手な披露宴になることが予想された。ちょうどその時分、甲子園の家が漸《ようや》く明け渡されたので、一日御牧も西下して蘆屋を訪い、幸子と雪子とを誘ってその家を検分に行ったが、それは阪神電車の北側数丁の所にある、わりに新しい平屋建てで、夫婦が女中一人を置いて暮すには手頃の広さであり、殊に百坪に余る庭の附いているのが何よりであった。御牧は部屋の飾り付けやら箪笥《たんす》鏡台の置き場所やらについて幸子たちと相談するついでに、新婚旅行のプランを打ち明け、結婚の当夜は帝国ホテルに一泊して翌朝京都に出発するつもりであること、京都では父の御機嫌伺いをするだけで、その日のうちに奈良へ行き、二三日間春の大和路《やまとじ》を経廻《へめぐ》りたいと思っていること、但《ただ》しこれは自分だけの考なので、雪子さんには奈良なんぞ珍しくないのであったら、箱根熱海方面に変更してもよいのであること、などを語ったが、幸子は雪子に聞いて見る迄もなく、関東方面は結構ですから奈良にお連れになって下さい、あたし等は近くにいながら案外大和の名所古蹟《こせき》には不案内で、妹などは法隆寺の壁画さえ見ていないのです、と云い、奈良の旅館は純日本式の家にしたいと云う御牧の注文に、それでなくてもホテルの南京虫《ナンキンむし》に懲《こ》りている彼女は、月日亭《つきひてい》を推挙したりした。御牧は又、今度尼崎《あまがさき》市の郊外に工場が出来る東亜飛行機製作所に、国嶋氏の斡旋《あっせん》で就職することに極まったこと、それは自分が嘗《かつ》て亜米利加《アメリカ》の大学で航空学を修めたことがあるので、その卒業証書を持っているのが物を云った訳なのであるが、その実自分は卒業後その方面に関係したことがなく、航空機のことにかけては全然しろうと同然なので、どんな仕事を与えられるのか不安であること、而《しか》も国嶋氏の顔で比較的高給を以て抱えられるので、一層心配なのであるが、この時局下を切り抜けるためには何とかしてその位置に齧《かじ》りついているより仕方がないこと、などを語り、新婚旅行から帰り次第、直ちにサラリーマン生活に這入《はい》るのであるが、でもその余暇には関西地方の古建築等を研究して、他日の再起に備えるつもりである、などとも云った。
幸子は御牧から、こいさんはどうしておられます、と聞かれてぎっくりし、今日は見えませぬけれども元気でおります、と、さあらぬ体で答えると、御牧は事情を知っているのかどうか、それ以上は尋ねず、半日の滞在で去ってしまったのであったが、妙子はその頃、予定日が近づいたので、お春を連れて密《ひそ》かに有馬から神戸へ来、船越病院の一室に移っていた。が、幸子は世間の眼を恐れて自分達は決して病院に近づかず、見舞の電話一つ懸けるのではなかったが、入院の翌日、夜更《よふ》けにそっとお春が来て、胎児が逆児《さかご》になっている旨《むね》を告げた。院長の話だと、去年有馬へ行く前に診察した時は確かに正常の位置にあったのに、それから後、多分自動車で山越えなどをしたために倒さになったものと察せられる、それも今少し早く分れば正常の位置に戻せたのであるが、最早や分娩《ぶんべん》期が迫って胎児が骨盤に下りて来ている今日では、いかんともし難い、と云うことなのであるが、でも院長先生は、お産は必ず無事にさせて上げますから安心していらっしゃい仰《お》っしゃって、請合《うけお》うておいでになりますよって、心配なことはなさそうでございます、と、そう云ってお春は帰ったが、四月上旬と云う予定日が過ぎてもまだ何の知らせもなく、初産のことなので多少延引することは免れないらしいのであった。そうこうするうち、桜の花も散りかけて来るので、貞之助たちはあと半月で雪子が嫁いで行くことを思い、慌《あわただ》しい春の一日々々が惜しまれてならず、何がな記念の行楽をでも、と考えたのであったが、今年は去年よりも物事が一層むずかしくなっていた。現に雪子の色直しの衣裳《いしょう》なども、七・七禁令に引っ懸って新たに染めることが出来ず、小槌《こづち》屋に頼んで出物を捜させたような始末で、今月からはお米も通帳制度になったのであった。それに今年は菊五郎も来ず、花見は去年でさえ人目を憚《はばか》ったくらいなので、尚更《なおさら》遠慮しなければならなかった。でも、毎年の行事だけはと云うので、思い切り地味な作りをして、十三日の日曜に日帰りで京都へ行き、瓢亭《ひょうてい》などは抜きにして平安神宮から嵯峨《さが》方面を申訳に一巡したが、今年も亦《また》妙子がいず、四人が大沢の池のほとりの花の下でつつましやかに弁当を開き、塗盃《ぬりさかずき》に冷めたい酒をしめやかに飲み廻しただけで、何を見たやら分らない気持で帰って来た。
貞之助たちがこのお花見に行った明くる日に、かねてからお腹の大きかった鈴がお産をした。この牝猫《めすねこ》はもう十二三歳になる老猫なので、去年妊娠した時にも自分の力で生むことが出来ず、注射で陣痛を促進してようよう生んだのであったが、今年も前の晩から産気づきながら容易に分娩しないので、階下の六畳の押入に産所を作って、獣医を呼んで注射して貰い、辛《かろ》うじて口元まで出かかった胎児を、幸子と雪子とで代る代る引っ張り出した。二人は云[#「云」は、『谷崎潤一郎全集 第二十巻』(中央公論新社2015年7月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「言」]わず語らずのうちに、妙子のために幸先よかれと祈る心から、何とかして鈴のお産を無事に済ませてやりたくて、一生懸命手伝った訳であったが、悦子がときどき便所に降りて来た風をして廊下から覗《のぞ》き込もうとするのを、悦ちゃん彼方《あっち》へ行ってらっしゃい、子供が見るものやありませんと叱《しか》りながら、とうとう明け方の四時迄かかって三匹の仔《こ》を首尾よく分娩させたのであった。そして、二人が血腥《ちなまぐさ》い手をアルコールで消毒し、臭《におい》のついた着物を脱いで寝間着に着換え、これから寝床へ這入ろうとしている時であった。不意に電話のベルが鳴ったので、はっとして幸子が受話器を取ると、果してお春の声であった。どないしたん? もう済んだん? と云うと、いいえ、まだでございます、お産がえらい重いらしいて、二十時間も前から苦しがっていらっしゃいます、と、お春は云って、院長先生の話では陣痛微弱と云うことで、促進剤の注射もしてくれたのであるけれども、昨今は独逸製の良い薬が払底しているとかで、国産品を用いるせいか、あまり利《き》き目が現れない、こいさんはずっと呻《うな》りつづけに呻って身を悶《もだ》えておられて、昨日から全然物が食べられず、変などす黝《ぐろ》い青いものを嘔《は》いてばかりおられ、こう苦しくてはとても助からない、今度こそ死ぬのだと云って、泣いておられる、先生は大丈夫のように云っておられるけれども、看護婦さんは心臓が保《も》たないかも知れないと云っておられるし、しろうと眼にも可なり危険な状態のように見受けられるので、電話を懸けてはならない約束であったけれどもお懸けした、と云うのであった。幸子は、お春の話だけでは様子がはっきりしないけれども、独逸製の陣痛促進剤が得られないために産婦が弱っているのであるなら、何とでもして手に入れる道はあるであろうし、大概の産婦人科病院には、特別の患者のために多少の品が秘蔵されている筈《はず》なので、自分が行って院長に巧《うま》く泣き付けば出させることが出来そうに思えたのであったが、傍から雪子も、もう此処《ここ》まで来て何も世間へ気がねすることはないではないか、と云い、頻《しき》りに見舞いに行くようにすすめるのであった。やがて貞之助も起きて来たが、これも雪子と同意見で、僕は三好に、こいさんの体とお腹の児は当方が責任を以て預かると云った手前がある、だからそう云う事情を聞いては捨てて置く訳に行かない、と云い、早速幸子を行かせるようにしたばかりでなく、三好にも通知して、直ぐ病院へ行って貰うような処置を取った。
神戸の船越病院と云うのは、そこの院長が徳望のある熟練家だと云う定評があったので、幸子は去年妙子に推挙したのであったが、彼女自身は別に院長と面識のある間柄ではなかった。彼女は何かの場合にと思って、自家の秘蔵薬の中から、今ではいずれも貴重品になっているコラミンと、プロントジールと、ベタキシン等の注射液を持って出かけたが、病室にはもう彼女より先に三好が来ていた。去年の秋以来半年ぶりで相見た妙子は、中姉《なかあん》ちゃん、よう来てくれたわな、………と云いながら涙を浮かべ、うち、今度はあかんやろ思うわ、と、そう云っては又泣くのであったが、そんな間にも手足を|《もが》いて苦しがるやら、何かえたいの分らぬものを嘔吐《おうと》するやらした。それは物凄《ものすご》く汚いどろどろのかたまりのようなもので、三好が看護婦から聞いたのでは、胎児の毒素が口の方へ出るのだと云うことであったが、幸子が見ると、赤ん坊が分娩後に始めて排泄《はいせつ》するあの蟹屎《かにくそ》と云うものに似ていた。幸子は時を移さず院長室へ駈《か》け込んで貞之助の名刺を示し、持って来た注射液を全部差出して、先生、あたしはやっとこれだけの薬を都合して来たのですが、どうしても独逸の陣痛促進剤が手に入りません、………どんなに値段が高うても構いませんから神戸じゅうを捜して下さい、………何処かに誰か持っている人は、………と、わざと甲高い声を出して半狂乱のように云い、人の好い院長を泣き落すことに成功したが、実は此処の病院にもたった一つ取って置きのがあるだけです、ほんとうにこれ一つしかないのです、と、院長はそう云って、やっと渋々出して来た。而も、何と驚いたことには、その薬を注射して五分の後に、忽《たちま》ち陣痛が起り始め、独逸の製品が国産品に比べていかに優秀であるかと云うことを、幸子たちは眼前に見せられたのであった。それから妙子は分娩室へ運ばれて行き、幸子と三好とお春とは外の廊下のベンチに掛けて待っていたが、妙子の呻きが二声ばかり聞えたかと思うと、中から院長が赤ん坊を提げて非常な勢で走って出、手術室に飛んで這入った。そして三十分ぐらいの間、繰り返し繰り返し実に根気よく平手でピタピタ叩《たた》く音が聞えたが、赤ん坊は遂《つい》に泣き声を立てないのであった。
妙子が再び自分の病室に運び込まれたので、幸子たち三人も妙子の寝台の周囲に戻って息を詰めていたけれども、いつ迄たってもピタピタと云う音ばかりが聞えて来、院長の空しい努力を続けつつある光景が想像された。と、暫くして看護婦が、お気の毒でございますが、赤ちゃんはお生れになる間際《まぎわ》まで生きておいでになったのですが、分娩の時にお亡《な》くなりになりました、何とかして蘇生《そせい》なさいますようにと、あらん限りの手を尽しまして、お宅からお持ちになったコラミンの注射も致して見ましたが、遺憾《いかん》ながら蘇生なさいませんでした、委《くわ》しいことは只今院長が話されると存じますが、せめて赤ちゃんの御遺骸《いがい》に、お母様がお拵《こしら》えになったお召物を着せて上げたいと存じまして、と云って、妙子が有馬で縫い上げた産衣《うぶぎ》を受け取って出て行ったが、間もなく院長が死んだ児を抱えて這入って来た。―――何とも申訳ありませんが、私は大失敗をしました、赤ちゃんは逆児であられたので、私が手を添えて引き出したのですが、こんなことはめったにないのに、引き出す時に手が滑ったのです、そのために赤ちゃんは窒息なすったのです、ほんとうに、大丈夫お請合《うけあ》いしますと、あんなに申上げて置きながら、何と云う失敗をしたものか、お詑《わ》びの言葉もありません、と、汗をびっしょり掻《か》いて云うのであった。幸子は院長が率直に失敗を告白し、しないでも済む陳謝までしてひどく恐縮しているのを見ると、その公明な態度に好感を抱かせられるばかりであったが、院長は両手に抱いている赤ん坊を示して、お生れになったのはお嬢さんですが、この綺麗《きれい》な顔を見て上げて下さい、私は随分沢山の赤ちゃんを手がけていますが、決してお世辞でも何でもなく、こんな可愛らしい、綺麗な赤ちゃんは見たことがありません、生きておられたらどんなに美しい方になられたであろうと思うと、一層残念でなりません、と、そう云って又詑びるのであった。赤ん坊は髪の毛をつややかに撫《な》でつけられ、さっきの産衣を着せられているのであったが、その髪は濃く黒く、顔の色は白く、頬《ほお》が紅潮を呈していて、誰が見ても一と眼であっと嘆声を挙げたくなるような児であった。三人は次々にその赤ん坊を抱き取って見たが、突然妙子が激しく泣き出したのにつられて、幸子も泣き、お春も泣き、三好も泣いた。まあ、まるで市松人形《いちま》のような、………と、幸子は云ったが、その蝋色《ろういろ》に透き徹《とお》った、なまめかしい迄に美しい顔を視詰《みつ》めていると、板倉だの奥畑だのの恨みが取り憑《つ》いているようにも思えて、ぞっと寒気がして来るのであった。
妙子はそれから一週間後に退院したが、余りおおびらに出歩かなければ差支えあるまいと云う貞之助の意見に従って、三好の許へ引き取られることになり、兵庫の方に二階借りをして、その日から夫婦暮しを始めた。そして、四月廿五日の晩に、貞之助たちや雪子に暇乞《いとまご》い|旁《かたがた》、手廻りの物を運ぶために忍んで蘆屋へ訪ねて来たが、以前彼女の部屋であった二階の六畳に上って見ると、そこには雪子の嫁入道具万端がきらびやかに飾られて、床の間には大阪の親戚その他から祝って来た進物の山が出来ていた。が、雪子より先に妙子が新所帯を持ったことは、誰あって知ろう筈もないので、彼女はこの家に預けて置いた荷物の中から、当座の物をひとりでこそこそと取り纏《まと》め、唐草《からくさ》の風呂敷包に括《くく》って、三十分ばかり皆と話してから兵庫の家へ帰って行った。
お春は妙子の退院と同時に蘆屋へ戻ったのであったが、これも内々尼崎の親たちの方に見合いの話があるらしく、雪子娘《とう》さんのお輿入《こしいれ》が済みましたら、二三日お暇を下さいますように、と云っているのであった。
幸子は、そんな工合に急に此処へ来て人々の運命が定《さだ》まり、もう近々にこの家の中が淋《さび》しくなることを考えると、娘を嫁にやる母の心もこうではないかと云う気がして、ややもすると感慨に沈みがちであったが、雪子はひとしお、貞之助夫婦に連れられて廿六日の夜行で上京することに極まってからは、その日その日の過ぎて行くのが悲しまれた。それにどうしたことなのか数日前から腹工合が悪く、毎日五六回も下痢するので、ワカマツやアルシリン錠を飲んで見たが、余り利きめが現れず、下痢が止まらないうちに廿六日が来てしまった。と、その日の朝に間に合うように、大阪の岡米に誂《あつら》えて置いた鬘《かつら》が出来て来たので、彼女はちょっと合わせて見てそのまま床の間に飾って置いたが、学校から帰って来た悦子が忽《たちま》ちそれを見付け、姉ちゃんの頭は小さいなあと云いながら被《かぶ》って、わざわざ台所へ見せに行ったりして女中たちを可笑《おか》しがらせた。小槌屋に仕立てを頼んで置いた色直しの衣裳も、同じ日に出来て届けられたが、雪子はそんなものを見ても、これが婚礼の衣裳でなかったら、と、呟《つぶや》きたくなるのであった。そう云えば、昔幸子が貞之助に嫁ぐ時にも、ちっとも楽しそうな様子なんかせず、妹たちに聞かれても、嬉《うれ》しいことも何ともないと云って、けふもまた衣えらびに日は暮れぬ嫁ぎゆく身のそゞろ悲しき、と云う歌を書いて示したことがあったのを、図らずも思い浮かべていたが、下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた。
底本:「細雪(下)」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年10月30日発行
2011(平成23)年3月20日96刷改版
2015(平成27)年1月30日99刷
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十五卷」中央公論社
1968(昭和43)年1月25日発行
初出:「婦人公論 第三十一巻第三号~第三十四巻第十号」
1947(昭和22)年3月1日~1948(昭和23)年10月1日
※「肝臓が腫《は》れ」と「肝臓が脹《は》れ」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「細雪《ささめゆき》 下巻」となっています。
※誤植を疑った箇所に、底本の親本の表記が入力者により併記されています。また、「谷崎潤一郎全集 第二十巻」(中央公論新社2015年7月10日初版発行)は601頁に自筆原稿、初出掲載誌、初刊本と校合したとありますので、「谷崎潤一郎全集 第二十巻」(中央公論新社2015年7月10日初版発行)の表記も入力者により併記されています。
※底本巻末の編者による注解は省略しました。
入力:砂場清隆
校正:いとうおちゃ
2021年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
●図書カード